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:「青木氏の伝統 26」-「伊勢と古式伝統」


[No.345] Re:「青木氏の伝統 26」-「伊勢と古式伝統」 
投稿者:福管理人 投稿日:2016/09/11(Sun) 08:13:16




> 「伝統シリーズ-25」の末尾。
>
>
> 注釈として、この「伊勢郷士衆」との血縁では、現在の研究では、「青木氏」からの「娘嫁ぎ先」と「家人跡目先」としては「五氏」(・印)が確認できる。
>
> 「青木氏へ嫁入り先」は、確実には全て確認が取れないが、ほぼ同じ程度の「六氏」で,大正末期までの「長い付き合い」(親交)のあった「伊勢郷士」は血縁の有無は別として「五氏」が確認できている。
> (恐らくは血縁はしている。江戸期中期で計11氏)
> 然し、更に資料が見つかれば、少なくとも「伊賀郷士衆等11氏(18氏)」とは、清蓮寺などの資料からと、その前後の経緯から観て何らかの関係があった事が頷ける。
> (室町期からでは計29氏)
>
> (注釈 平安期と鎌倉期の状態は度重なる消失で資料が見つからないので状況証拠以外には掴み切れない。)
>
> 伊勢の「櫛田川」を挟んで、「射和」の南側の玉城村(現在の玉城市)の全域は、「伊勢青木氏」が大地主(地権者)で、「伊勢紙屋の蔵群」と「松坂組の職人の職場と長屋群」と「射和組の職人の職場と長屋群」として成り立っていた。
> この状態は、「農地」では無かったことから、上記で論じた様に、「資産・地権」として筆者祖父の代の明治35年(38年頃)まで続いた。
>
> 実は、「伊勢松阪」は、江戸期から明治期まで、「数十件以上の大火」として扱われる「火災」は何と「6度の大火」に見舞われた。
> 従って、縁籍関係のこの種の資料は特段に遺らないし何らかの方法で追跡が困難に成っているのである。
>
> (注釈 これは上記した中央構造線の「地形上の吹き降ろしの影響」で大火が起こり易い。
> この内の1件は「青木氏の伊勢紙屋」からの松阪の出火元に成る。)
>
> (注釈 この為に「古来の資料」が残念ながら多く消失しているが、「商記録」は別であった事と「菩提寺」や関係する「郷士衆の家」には「末梢の記録」が細かく遺されている事から、「充分な読み込み」をすれば「青木氏の歴史観」と繋ぎ合わせての経緯が生まれる。)
>
> 江戸末期にも2度の「大火」に見舞われ、「室町期末期の戦乱」に依る「焼き討ち」からも「大火」に依る「伊勢庶民の感覚」は、大火には特別なものがあり大変なものであった。
> それだけに、商家界隈の何度も繰り返される「災難」には、そこから何とか立ち直ろうとする気概が強く、「伊勢四衆」の「生き残りの二氏」(二つの血縁青木氏)が立ち上がったのである。
> (伊藤氏一族と伊賀氏一族は衰退)
>
> 江戸期までに生き残った「氏族」の「伊勢秀郷流青木氏」は、「紀州藩の官僚」として、「伊勢青木氏」は「郷氏の地主」として、「豪商」として、「殖産」を新たに興し立て直らせようとした。
> 其れには、上記した「室町期末期の殺戮」と「度重なる大火」で「伊勢衆」は、上記の様に激減して仕舞ったのである。
>
> “「紀州藩の記録」”に依れば、この「伊勢衆」が他国に比べて特に少ない事を理由に、「伊勢の二つの青木氏」との「談合」を再三にしていた事があり、“「青木氏の年譜」”にもこの事が一部記載されている。
>
> 注釈として、「伊勢」の生き残りの「郷士衆」は、同じ時期の「土佐郷士数」の「全階級500」に比べて、50程度である。
> 何と1/50に過ぎない。
>
> 「伊勢三乱」に参加した「郷士数」は、記録から凡そ「35程度」で、それが、最終は20以下に成っている。
> 「伊賀の乱」に参加した「郷士衆35」が、前段でも論じた様に、清蓮寺城からの「青木氏に依る救出劇」で生き残ったのは何と最終11氏(18説)と記録されている。
> (殆どは何らかの縁者関係にあった。)
>
> (注釈 普通は、その地域の「歴史的な経緯」も左右するが、原則の平安期からの「四六の原則」により「一国五郡制」であるので、一郡に興せる「郷士数」はせいぜい「25から30程度」が生存競争により限界と成る。
> そうすると、藩主と成った者は、これでは元より「規定の家臣数」では賄えない事から、一国に「郷士数」は150程度に拡がりこれが限界数と成る。
> これでは、藩主に課せられた「責任兵数」では足りない事に成る。
> そこで、既定の格式を下げた“「準下士」”として「農民から傭兵方式」を採用する事に成るのである。
> これでこの約3倍が用意される事に成る。
> ただ、これには、「人様」を用意するに当たり “「ある仕来り」”が有って、「傭兵と成る者」(“「準下士」”)、つまり、主に「農民」には、“「元郷士」”であったとする証明が必要であった。
> これを扱う「専門の仲介人」の「斡旋職業」が存在した。
> これらが、この“「証明」”を作り上げて藩主に届けられたが、殆どは搾取であった。
> 藩主もこの事は充分に承知していて「暗黙の了解」であった。
> そこで始めから、紀州伊勢地域にはこの様な「傭兵軍団」が各地に編成していたのであった。
>
> 有名なのは「関西域」では、大きい「傭兵軍団」を職としているものとしては、次ぎの通りである。
> 伊賀軍団、甲賀軍団、雑賀軍団、根来軍団、柳生軍団、河内軍団、十津川軍団、龍神軍団、橋本軍団、日高軍団、北山軍団と、「熊野六軍団」等
> 以上の各地の“「郷士衆」”から成る「17軍団」があった。
> 紀州伊勢はこの様な背景から実に傭兵軍団の多い地域である事が判る。
> (臨時的に農民を集めた炊事などの雑務を担当する農兵の「農兵軍団」は除く。)
>
> 他に、「伊勢紀州域」では、重要な水軍による「傭兵の軍団」が次ぎの様にあった。
> 熊野水軍、伊勢水軍、紀伊水軍、摂津水軍、堺水軍、と別格で駿河水軍
> 以上の「水軍の傭兵軍団」の「五軍団」が在った。
>
> (注釈 「鎌倉期、室町期の戦い」までは、戦略上、「水軍の軍団」が無ければ、“戦いは負ける”と云われていた程に「重要な戦力」であった。
> 「駿河水軍」は、関東域の水軍と成るが、資料から「平安期からの戦歴」を観ると、「関西域の戦い」に参加している傾向にあり、これはこの「駿河水軍」は「源氏方水軍」と云われ、「青木氏」(伊勢水軍と摂津水軍)とは、「青木氏の平安末期の跡目」に入った「摂津源氏の源京綱」との繋がりから大いに関係のあった水軍である。
> 伊勢青木氏の同族一門の伊豆青木氏との血縁関係もあって、その勢力は「青木氏」を平安期から伝統的に補完していたのである。)
>
> 恐らくは、天皇自ら出向いて来る事は無かったと観られるが、代行の「縁籍筋の公家族」がこの“「権益」”を演じたと観られる。
>
> (注釈 "朝廷の「権益(ごんえき)」"の「代行役」は、何度も縁籍筋と成っている京の「叶氏筋」では無かったかと考えられる。
> その証拠に筆者の祖母は、「京の公家族」の末裔の「叶氏の出自」である。)
>
> 恐らくは、江戸幕府は「嵯峨期の詔勅と禁令」を破って、“「家康」”が「青木氏等の賜姓臣下族の慣習や仕来り」を“「権威造り」”の為に利用して「幕府権威造り」の為に真似たとも考えられる。
>
> (注釈 徳川幕府は開幕以来一貫して権威造りの政策を実行した経緯がある。
> 例えば、「三河の勃興姓族」でありながら強引に「藤原姓を名乗る」、「源氏姓を名乗る」、「征夷大将軍の頭領の称号事件」など数多くある。)
>
> ”「姓族の武士家」が行う「偏諱の催事」“としても「権威造りの制度」としたのである。
> この事(「姓族の通名」)が、結果として、広く他の大名などにも受け入れられて引き継がれる様に成ったものである。
>
> 江戸幕府は、「朝廷との関係」が上手く行っていなかった事から、この「偏諱 (へんき)」を「吉宗の偏諱」を通じて利用して、「幕府自らの権威」を造り上げ高め、「朝廷の権威」に頼る事の無い様にした政策の一つである。
> 「大名の跡目」などの時にも、この「武士様の偏諱」の「偏諱 (へんき)」に近い事をして「権威付け」をしたと観られる。
>
> これには、江戸幕府には、“「ある目的」”があって、無暗に与えるのでは無く、「幕府の意向」に沿って実現した者に、この「武士様の偏諱の儀式」を行って、その「見返り」に「幕府の権威名」を貰ったと云う事にして、従わせて行く政策を展開したのである。
> 実に安価安易で行えて貰った大名側は、一種の「幕府のお墨付き」を貰ったとして「勢いづく事」に成る政策と成ったのである。
>
> 筆者は、この“「ある目的」“のこの「表の目的」は、上記した様に、「幕府の権威造り」に利用された事もあるが、「裏の目的」は、「紀州藩」への「幕府の意向」を”「ある決断」“で実行させた事への「信任状の意味」もあったと観ている。
> 幕府主導でこれを表裏一体として連動させたと云う事であろう。




「伝統シリーズ-26」に続く。

この様に、「偏諱(へんき)」を知る事で、「偏諱(へんき)」で「吉宗」が「幕府(綱吉)」からどの様に観られていたか、扱われていたかが良く判る催事であった事が判るのである。

そこで、「偏諱(へんき)」の持つ意味から考えると、「紀州藩の世継ぎ」に付いて“「家臣団のある決断」”にも可成り影響した事は確かであった。

実は、この「偏諱(へんき)」(1705年10月)で、歴史的に「青木氏の歴史観」が変わる事が起こるのである。
「吉宗 頼方・源六」は、1705年10月に「偏諱(へんき)」を受けたのだが、そうすると、ところが、歴史的に、この「偏諱(へんき)」で「吉宗 頼方・源六」は江戸に居たとする説に成るのだ。
そうすると、この「江戸滞在の説」に成ると、「紀州藩の世継ぎ」の“「ある決断」”の意味合いが変わって来る。
つまり、「吉宗(頼方・源六)」が、“紀州か伊勢に居なかった”と云う事に成る。
“「ある決断」”の実行時には、現地の紀州に居ると云う事は戦略上、先ずあり得ない。
戦略上では、「伊勢滞在」で無くてはならない。
ところが、1705年の8月と9月に後継の二人の兄弟が急逝しているとすると、この直後(3月後)の1706年1月には、慣例に従わずに早くも幕府から「偏諱 へんき」を受けている。
そして、「吉宗」は、その直後に「親王家の伏見宮家」から正室(1710年の死別)を迎えている。

つまり、この経緯から「偏諱(へんき)」を受けた直後には、江戸から飛んで返して「婚儀の準備」の為に紀州か伊勢に居た事に成る。
この事から、「喪中開け(1706年10月)」の直後に、「伊勢神宮」にて式典を行った事から紀州では無く「伊勢」に戻って居た事にも成る。
兎も角も、慣例に従わず何事も矢継ぎ早である。

そうすると、「紀州藩主」としての承認を受ける「黒印状授与」と、「権威付け」の「偏諱(へんき)」の前(1705年6月)と後(1706年10月)には「伊勢」に居た事に成る。
この「伊勢」に居れば、“「紀州殿談合」(1705年6月)”の「伊勢青木氏の商記録年譜」から考えても非公式でも“「参加」“はしている事になるだろう。
問題はその「参加の形」であろう。
然し乍ら、“「ある決断」”の実行時は、書類の形式上では、“既に江戸に居た”と云う事に成っている。
(形式上の書類の記録では「江戸滞在の形」を偏纂した。)
しかし、「藩主」に成る者として、「ある決断の実行」を知らないと云う訳には行かないであろう。
“「知らない」”は形式上では「家臣の謀反」と成り得る。
「家臣の謀反」の形は、「幕府」に執って見逃し固い。例え御三家と云えども「取潰し」である
従って、ただ、“「知る範囲」“で良いだけで、「実行の参加」は必要が無く、むしろ「現場」にいない事の方が「アリバイ」が求められ戦略上は良い事に成る。
如何なる理由や原因があろうとも、記録的、書類的には「三者共に病気原因」で済ませる事に成る。

注釈としては、「ある決断」の実行時から「4年以上も時間」を置いた「吉宗入城」は1710年である。
この「長さ」は「黒印状授与」と「偏諱 へんき」を受けた藩主としては「尋常な期間 (4年)」では無い。
先ず普通はあり得ないだろう。
これを理由に騒ぎ立てる御三家も居たのである。
前段でも論じたが紀州藩は、この時期は「財政上の破綻」に近く、この環境の時が時だけに藩主が入城しないのはおかしい。
其れも上記した様に矢継ぎ早に慣例を無視して短期間で藩主に成っているのである。
“「ある思惑」“が働き、紀州には居たくない、或は、居ない方が良いとする戦略が働いたと観られる。

そこで、この“「家臣団のある決断」”とは、「三代藩主(1705年」と四代目の継承者の廃嫡)」であったと考えられる。
この決断に至ったのは、「紀州殿談合」での中での参加者の意見から、前段で論じた「紀州藩の困窮」を救うには、「藩主の判断力」とその「政治的背景」を改善する以外には、最早、「25/55万石の困窮破綻」の状況下では方法は無い。
これを解決するには、“「廃嫡」以外には無い”として、「伊勢藤氏」等を交えた家臣団の中で談合後に決断したともとれる。
問題は、“「廃嫡の形」をどの様にして遺すか“であろう。

(注釈 上記の「郷士頭の遺留手紙」から 一部の文章の行からこの事を匂わしていたと推測される。
事の内容である事から秘匿を旨とする事であるので、“間接的な匂わし”で書いたと考えられる。)

「25/55万石の困窮破綻」の紀州藩の「財政破綻」ともなれば、「吉宗育ての親の青木氏」が「吉宗・頼方源六の背景」と成っている以上では、且つ,家臣の彼らが「伊勢藤氏の同族」である以上では、先ず何はともあれやる事は、「青木氏」と「伊勢の紙屋」の「財力と地域力」に先ず頼る以外には方法は無い筈である。
(「青木氏の紙屋」以外には「25/55万石の破綻」を救える商人は100%居ない。)

そこで、「ある決断の実行」までの「応急策」として、「伊勢の紙屋」から「3年分6万両の借財」の契約を取り付ける事にあり、これを受けて、且つ、「優秀な吉宗」の「跡目の継承」を成し遂げる事と、「財力と地域力」の「青木氏」に依る紀州藩の「勘定方の指導」のこの「二策」を引き入れようとしたと考えられる。(現実に引き入れている。)
其れには、当然に能力の無い「公家族系の二人の兄弟の存在が問題」に成り、“「廃嫡」“と余儀なく成るのは、当然の成行きである。(上記の「病気説と疲労説」は疑問)
むしろ、考えない方が、実行しない方が「愚者の家臣団」であっておかしい事である。

そもそも、江戸の当時としては、混乱後の「藩の安定」を図る上で、この様な「藩主の廃嫡」は珍しい事では無く、この「厳しい時期」には各藩で最も盛んに起こっていた。
現実には、上記した様に、この時期には特に多くの「藩主廃嫡」が起こっていて「御三家の尾張藩や水戸藩」でも起こっている位の事である。

例えば、次ぎの様に「御三家の尾張藩や水戸藩」を除いて、主だったところで「藩主の廃嫡」が起こっている。

注釈として、大藩としては次ぎの通りである。

尾張藩と水戸藩
黒田藩(1655年)、
西條藩(1705年)、
岩代藩(1708年、1665年)、
島津藩(1704年)
以上等の様に大藩でもこの時期に集中して起こっており、矢張り、「経済的な行き詰まり」から「藩主の能力」に疑問があって家臣団が裏で合作している。

取り分け、関西域では、小藩としてでも次ぎの通りである。
「和歌山藩」「岸和田藩」
「淀藩」「膳所藩」「彦根藩」
「大和郡山藩」「明石藩」
「姫路藩」「篠山藩」
以上等にも起こっている。

当時は、藩主の死亡原因の多くは、「病気」などの理由にされているが、後勘の研究で資料などが見つかり全て「厳しい廃嫡」であった事が判って居る。
少ないが見本の様な「尾張藩」の様に「蟄居や隠居」で丸く納めて済ました事件もある。
そもそも「紀州藩」だけは、「御三家の尾張藩や水戸藩」と同じ様な事が現実に起こっていて、後勘として公的に記録されているのに、紀州藩だけは公的な「後勘の評価」を受けていない。

これは何故かである。
これには、上記の様に、「幕府の偏諱」や「吉宗の廃嫡前後の配慮」等があって、記録が少ない事が云える。
上記の廃嫡が起こった藩と異なる処は、実行した「紀州藩の伊勢藤氏の家臣団と伊勢青木氏」が居た処にあり、従って、流れから「後処理」をした事に依るのであろう。

然し、「青木氏」等の家臣では無い関わりの強かった「関係者の遺料」には間接表現ではあるが遺されている。
「伊勢藤氏の家臣団」は、事と次第に依っては「氏の名誉」にも関わる事であり、“遺料を遺す事を極力避けた”と観られる。
と云う事は、この“「ある決断」”は、家老の重臣などを除いた「伊勢藤氏の家臣団」の上位の一部で行われた可能性が有るからだ。
と云う事は、重臣が反対する可能性があった事が考えられ、それは二人の継承者に執っては「役柄の権益」に左右する事柄であった。
その証拠に「嫡外子扱い」であった「吉宗藩主」と成った後には、これらの支藩の藩主と成っていた家臣の重臣等には「お役御免」が起こっている。
「青木氏の勘定方指導」として入り、且つ、「借財」を受けた以上は重臣に執っては「施政方針」に従えない事もあり、退く以外には無い事に追い込まれるだろう事は判る。

(注釈 中には「御屋敷族」から「御長屋族」に成った重臣も居る位である。ある支藩では立て続けに3人の支藩藩主が変わると云う事も起こっている。
これは人事上の事が起こっていた証拠である。
「吉宗」が江戸に将軍と成って下向した直後に、「青木氏」から指導を受けていた「勘定奉行」が突然に反発して勝手な事を発言して問題と成る等の事が起こっている。)

上記の「二つの談合」に「二つの青木氏」が介在しての末に「善後策」を講じて密かに行われたと観られる。
何時か「御三家の尾張藩や水戸藩」の様に、「尾張藩」は明明白白の行動を採り、藩主の経緯からも隠し切れない事であったが、取り分け、紀州藩と同じ様な経緯を辿りながら水戸藩の様に後勘で解明される事もあろう。
此処では「青木氏の歴史観」の中で検証して置く。

(注釈 前段でも論じたが、「光貞没後(1705年没)」の「四ケ月の間」にこの「三人」は続けて死亡している。
死亡の原因説は疑問であり、これは恐らくは「廃嫡の後始末策の説」であろう。)

故に、その後の「光貞没後5年」を経過しての宝永7年(1710年)の4月に「紀州入城」を果たした「吉宗」は、談合の「予定の善後策の計画」の通りに実際に直ちに「藩政改革」に着手した。
これは「事前準備」が無ければ成せる事では無い。
そもそも、上記した様に、「紀州藩の土台」が直ぐに改革を成せる状況の中には無かった。

況して、合わせて次ぎの事が起こっていたのである。
注釈として重複するが、1707年の宝永地震(南海トラフトの連動の地震災害)、宝永噴火、宝永富士噴火、長門地震、1708年にも「宝永地震」の余震と連続して1年間に5個の地震に依って伊勢紀州に大被害をもたらした災害があった。
こんな場合は、本来なら藩主自ら出向いて積極的に指揮を執る事が常道である。
それでこそ、「藩主としての信認」が得られる。
この“不思議”と成るのは、この様に「災害後の3年後」まで直ぐには紀州に戻っていない事である。
普通なら間違いなく非常時であるから戻るであろう。何故なのかである。
これなら領民からも不満が出るであろう。
注釈として、果たして不満が出ていたのかである。その事で意味合いが違ってくる。
ところが、不思議に8年程度の間は不満は出なかった。
この時、前段でも論じたが、紀州藩は伊勢から先ずは「2万両の借財」で被害対策は打った。
そして、「青木氏の勘定方指導」の下で「殖産事業の強化」と「農民の税の強化と質素倹約を奨励」で凌いだ事もあり、少し遅れて問題の「1716年山中一揆」が起こった。

(注釈 この「一揆」にはこの時期の「紀州藩の為政の状況」を示すある特徴があった。下記)

その前に注釈として、この時の「災害の被害」は、何と25万石/55万石の被害であった。
国の財政の半分の被害に成った。
伊勢からの「借財2万両」では当座は凌げるが“焼け石に水”であった。
当時は「災害と飢饉」(実態は施政の財政難も基本にあった。)であったので、 この時の少し後の「享保改革」で吉宗は、「経済の規準」が変動する「米の価格」であった事から、これを「統制された価格相場」にする為に「米相場制」を先ずは難波大阪に「相場施設」を造り始めて敷いた。
当時は「災害と飢饉」の中での「米相場」が確定する様に成ったので、 この時の「米相場制の状況」を用いて換算が出来るので、経済換算の計算では、次ぎの様に成る。
1石-5円、 被害は125万円、 1両-6万円相当 被害額は、小判21万両と成る。
つまり、「当座の借財」の比は、2/21万両で 「当座の借財」は被害額に対して1/10である。
これを三回に分けての計6万両では、1/4対策費である。
残りの15万両は、結局は「殖産と増税と節約」でやり繰りする事に成った。 

これが8年で完済したのであるが、この時の勘定奉行の自信に満ちた「有名な問題発言」が遺されている。
それは、“農民と油菜は絞れば絞る程に出る“と発言し、批判を受けた有名な紀州事件であった。

これは「後世の為政者」には語り継がれた「有名な神尾発言」と呼ばれるものである。
残りの15万両は、「和紙の増産」と「油菜の殖産(紀州藩の殖産主体)」が4割、「増税は3割」、「節約は3割」としたと書かれている。
それには、「増税策」は、「災害と飢饉」の為に“「微税」”としたと書かれている。
「油菜殖産策」は、この頃から稲などの農産物に壊滅的な「害虫被害」が多発した。
前段でも論じたが、紀州では偶然に、これにはある事がきっかけで「油菜の散布」が効く事が判り、その為に増産を奨励して各国に販売した経緯と重なった。
この「油菜の販売と散布」は、「紀州藩財政立て直し」にも大効果をもたらし、「害虫被害」では、関西圏と山陽圏では大効果を発揮した事が記録で判っている。

暫くは、この対策で凌げたが、矢張り、増税は微税ではあったが、飢饉の最中の増税であった事からも不満が蓄積していた。
従って、「吉宗」が将軍に成って江戸(1716年)に出た後に堰を切った様に「紀州での一揆」(1716年)は起こった。
この「一揆・騒動」が起こった事からこれは明らかに「不満蓄積」はあった事に成る。
しかし、この「不満」に対しても、事前に「青木氏や紀州伊勢の郷士衆等」が不満を抑えるべく紀州にも「殖産策」を講じてはいた。
ところが、「青木氏や紀州伊勢の郷士衆等」が吉宗に同行し、「勘定方指導」も引き上げた事もあって、「伊勢」は別として「紀州での殖産策の対策」はどうしても手薄に成った。

(実は、上記の疑問としては、「青木氏」が勘定方指導していた「勘定奉行の神尾の発言記録」と「青木氏の商年譜の記録」に依れば、確かに「和紙と楮の増産」と「菜種油の殖産」が記録されている。)

(注釈 紀州はリアス式で山間部が多く耕作地が少なく記録に載らない争いや騒ぎや騒動や暴動や一揆が多発した地域で、且つ、この様な事に郷士衆や農民の反発心が強い地域で、地域の郷土史にはこれらの口伝が伝えられていて表に出て来ないものが多い。
田畑の細目の争いや池の水争いや堰の管理の仕方等から藩や役所の扱い方や政治のやり方まで起こっていた。
本件も藩政に文句を付けたものであるので、資料では定義に従って「一揆」と書き記されているが、実態は「騒動」である。
1716年頃のものは「一揆」と云うよりは「不満の騒ぎ」である。
但し、地名から「山中一揆」と書き記したが、広島の同名の「日本最大の一揆」と同名と成るので変更する。)

これに依って「増税分」を賄える様に工夫していた事に成る。
この時の「増税の不満」は、次第に“「藩の政治姿勢」を改めてほしい“とのスローガンに代わって、これを藩は素直に聞き入れて「山中一揆」は解決した。
それは「勘定奉行の神尾発言」の影響に対しての事であった。
それは、吉宗の「紀州の改革政策」は、前段で論じた様に、「リフレーション政策」であったが、次ぎの藩主(第六代徳川宗直で、「吉宗従弟」、支藩西条藩)は、「災害と飢饉」の復興中でありながらも、この「神尾発言」にも観られる様に「インフレーション政策」に転じた事もあって、その政策に対して農民に大きな影響を与える事も起こって来た。
それで、「一揆・騒動」は、“「吉宗のリフレーション政策」を継承する様に”と「一揆・騒動」の「スローガン」を突然に換えたのである。
つまり、紀州で手薄に成った「殖産と節約の政策」に戻す様に要求したのである。

(注釈 この「神尾発言」には、意味が在って、「増税と油菜の効果」の発言は、「リフレーション策」での施策前提であったのに、そうでは無く、“「インフレーション策」だ”と無知識に云っている。
「神尾発言」は、要は「吉宗と青木氏批判」をしたと解釈できる。
周囲から“自分の実績だ”と主張している事と解釈されていた。
吉宗の後に入った「藩主」もこれを容認し「インフレーション策」を推進した。)

この「一揆(騒動)」は、「インフレーション策」としての政策に対する不満で当初は議論されたが、この「神尾発言」から「一揆(騒動)」は「紀州藩の為政方針の批判」に変わった。
そもそも、紀州は地形的な関係から「米策」を基本とする事では元の状態に戻るので、「吉宗ー青木氏」等が行った「殖産を基本とする政策」を変えないでほしいとの訴状で、要するに”「吉宗時の政策」を続けてほしい”との訴状に変わった。
紀州には、「三大河川流域の平野部」と「紀伊山脈の山間部」とでは「根本的な考え方」が違う事から、「山間部の流域」からこの「騒ぎ」が起こった。
この「山間部の流域」では「殖産」に適していた事から「殖産政策」を護ってほしいとの訴えが強かった。
この「殖産」を行えるには「青木氏の支援」が絶対必須で、「青木氏」が「勘定方指導から引き揚げた後の事」に心配が及び、且つ、「享保の改革」に総力を向ければ「伊勢紀州への支援」は手薄に成るとの心配があった。
更には、「不当な神尾発言」と「交代した藩主への実績の無さ」への「不信感」が募り、四つの事が重なり「一揆・騒ぎ」は広まって仕舞ったのである。

以上の様な地理的環境を持っていた事から、「吉宗入城」の前から体質的なものとして「不満」は燻っていた。
(秀吉の「紀州狩り」の時の令にある様に、この時は「紀州門徒衆」を中心としたが、基より土壌的、或は体質的に直接この不満を訴える癖を持っていた。)
従って、「将軍」に成る為に江戸下向の後には、山間部の各地で上記のこの「四つの事の落差」から「一揆・騒動」の「不満爆発」は充分に予測できた。

1705年10月には、「藩主」には、上記の通り、取りあえず「跡目継承手続き上」(黒印状と偏諱)から成ったが、この「不満の爆発」の矛先に成る事を避ける為に、直ぐに恣意的に「和歌山」に入る事を避けたと観られる。
そして、この間に上記の「殖産策」の二手を打った事に成る。
この不満が同時に下記の疑念に火が着く事を避けた事にも成る。

それには一つには、「廃嫡を実行した家臣団を引き付ける目論見」があったと観られる。
二つには、「廃嫡」に関わって「同時三人逝去の疑念払拭」を図ったとも一般的には考えられる。
然し、この「二つの思惑」だけで“「吉宗の入城」をいつまでも押し留める事”は、この場合は論理的に不可能である。

事は「非常事態」であり、「決済」は「家老」に任せば何とかなるとしても、何にしても先立つものは先ず無い。
先ずは「藩主」と成った以上は、「打つべき手」は「借財の算段」である。
これには、上記した様に、「応急策」として「伊勢の紙屋」から「3年分6万両の借財」の契約を受けた事に成って、その内の「2万両の借財」が着いた。

然し、それにしてもおかしい。「青木氏の商年譜」によると、“その直前の1706年初期頃(3月頃)に一度入ろうとした形跡”が観られる。(婚姻の前)

「光貞」からすれば「裳に服する期間」の2月前、四代目からすると6ケ月前であるから、「入城の為の諸々の準備」に入ったとも考えられる。
ところが、丁度、裳が明けた時から1年後には、上記の「宝永の大災害」(1707年10月)が起こって仕舞って「大混乱」が起こり、「入城処の話」では無く成って中止に成ったと先ずは考えられる。
そこで大筋では「吉宗」は、「入城」を先送りして、とりあえず「青木氏からの借財」を先ずは成立させてから、そこで家臣団に委ね「入城時期」を見計らったと考えられる。

「吉宗入城を遅らす事」に対して、これには大きくは「青木氏等の戦略」(家臣団も含む)が間違いなくあったと観られる。
「吉宗入城」を単に4年も遅らす事は、家臣団も黙っている事は無い筈で、それが可能に成ったのには“何かの妥当な理由”があったからこそ成し得た事である。

戦略上は、「青木氏」に執ってこの事は、“「借財」だけで事は済むのか”と云う話である。
「藩主」に成った以上は、「吉宗育ての親」としても、「借財貸手」としても、「地域力を持つ郷氏」としても、「地域の安定」を保つ意味としても、「経済対策」としても絶対に放置できない問題であった。
「青木氏」として「本格的な戦略」を立てて臨む必要に迫られていた事は確実である。
簡単に云えば、“吉宗の紀州藩の藩主に代わって財政的に再生の差配する必要に迫られていた”のである。

ところが、それはなかなか難しい問題でもあった。
この時期は、内では、上記で論じた様に、「15地域の商業組合」を広めている最中でもあった。
“何かの妥当な理由”としては、“吉宗の紀州藩の藩主に代わって財政的に再生の差配をする必要か、「15地域の商業組合」の推進かの選択の判断に迫られていて、「伊勢」を離れる事は暫くは出来なかったと云う事であった筈である。
本格的には、「4年後の入城」の後の事として、その前に、「2万両」で「応急の手立て」をし伊勢から差配する事に成ったと観られる。
この為に「青木氏」としても「財政的」にも「陣容的」としても恐らくは限界にあって、余裕は無く「育ての親」としても「吉宗の入城」を「取り仕切る余裕」は先ず無かったと観られる。
そこで、取りあえずは、「財政的な支援」として「借財6万両の内の2万両」を貸与だけは「手立て」をした。

ところがそこで、災害中に先ずこの”「2万両の搬入」(a)”をどの様にして紀州藩に運ぶかに在る。

(注釈 上記した様に、「青木氏」への「借財の返済」は、「吉宗」の「江戸入城後の2年後」までに完了している。
「紀州藩の勘定方指導」で「紀州藩財政立て直し」に入って8年後である。)

然し、これは当然に、”「吉宗の入城」(b)”と共に、セットでやらなければ成らない。
取り分け、”「勘定方指導の役」(c)”は完全なセットでもある。
だとすると、そこまでの「勘定方指導の役」(c)の余裕は「青木氏」には無かったと考えられる。

そこで、これらの意味合い(a)(b)(c)を示す「資料の探索」をした。
直接に関連する内容ではないが、これらを物語る「二つの資料」が見つかった。
先ず一つは、「青木氏の商年譜」には、1706年3月頃に「摂津堺店」の船一艘が「堺摂津港」から出て「和歌山港」に入港している。
これに付いては、先ずは考えられる事は、「2万両借財」を紀州藩に運び手続きを済ます事(1)であったと観られる。

それだけでは無かったと考えられる。
この「入港」が「吉宗の入城」の準備(2)なのか、「元禄大地震」(1703年11月)の影響で「支援物資の搬送」(3)なのか、将又、「入城に付いての今後の打ち合わせ」(4)かは良く判らないが、何か慌ただしい。

答は状況証拠から観て「4つの事」(1)(2)(3)(4)の全てであったと考えられる。
大きく分ければ、(1)(3)-(2)(4)で二つに分けられる。

それを示す事としては、「伊勢」では無く“「摂津堺店」が動いている事”である。
(1)と(4)は直ぐに対策を講じて実行に移さなくてはならない事である。
そうなれば、「堺」は低い一山の山越で和歌山に近く、港にすれば隣港し、船を持ち支援調達し、その日の内に行動を移せるとすれば、誰が考えても「摂津堺店」であり、元より「伊勢」では無かった。

当時の状況を考えれば、「青木氏」が採るべき行動としては、「妥当な事」で確実に関連している資料である。

もう一つは、「南紀の旧領地」の「郷士衆頭」の家の資料には、「伊勢シンジケート」が、「山伝い」に「西の和歌山の隣の河内」と、「南紀州の串本」(紀伊半島南端)に動いている。
この「二つの動き」から、恐らくは、「伊勢シンジケート」が「支援物資」を「伊勢」から山伝いに「津波の被害」の大きい河内に届け、最も地震の被害を直接受けた串本(青木氏の遠祖地)にも「支援物資」を届けたと観られる。

(注釈 前段で論じた様に、「河内シンジケート」は「伊勢シンジケート」とは連携していた。)

何故ならば、「河内シンジケート」(紀伊水軍と繋がる)に、先ず伊勢路伝いに「支援物資」を届けて、そこから彼等の「海の勢力」で「海伝い」に和歌山に運ぶ算段であったと観られる。
それには、「伊勢」から直接に「和歌山ルート」は、「山越え」があり震災後で危険が多く非常時には無理困難が多い事があった。

況や、これで(1)(3)-(2)(4)の中でも(1)(3)であった事が判る。

この(1)(3)-(2)(4)を物語る「二つの資料」から観ても、つまり、「伊勢」では「15地域の商業組合」の仕事に、“「入城準備」と「支援物資」”とが重なり、到底、「勘定方指導」までは手配に入れなかった事が良く判る。

「船の動き」では、「吉宗」と「青木氏」と「伊勢の紙屋」と「伊勢郷士衆」等の関係者も山伝いに「和歌山」に入り、この「入城準備」に入った和歌山港に集まり、家臣団と共に「談合の末」に延期を決めたと観られる。

何故、“「摂津堺店」の船一艘なのか“と云う事であるが、緊急時の為に「摂津堺店」に応援を求めていて、がけ崩れや道路寸断などで危険で、山伝いの関係者の陸の至急の移動が困難であった。(上記通り5災害が連続した状況)
「伊勢」より山一つ越えた隣の「堺」からの方が都合が良かったので、全ての差配を「摂津堺店」に任したと観られる。
従って、「和歌山港の入港」は「吉宗入城の準備」の(2)と(4)であったと考えられる。

結局は、(4)の中で(2)が検討される事に成り、(2)が無いと成ると、(4)に付いての「今後の戦略」を立てなければならない事に成る。
当然に、「青木氏と紙屋と伊勢郷士衆」等の「伊勢側の者」が執るべき事は、先ずは「殖産に向けての準備」(4-1)である。
この「殖産の準備の談合」に参加していた「紀州殿」の採るべき事(4-2)は只一つである。

そこで、この「二つの行動」(4-1)(4-2)が合致して「紀州藩救済」の事は成立する事に成る。
それが、「紀州殿のある決断」に繋がる事と成った。
そこで、この「二つの事」(4-1)(4-2)が合致した事を確認した上で、「伊勢の紙屋」がそれに応えて“毅然と動いた”と云う事であろう。

(注釈 この談合の「吉宗の参加」は「非公式の参加」であったと観ている。
「公式」にしろ「非公式」の参加のどちらにしても「苦渋の容認」あった筈で、「紀州殿のある決断」は、「談合の結果」の「終末の唯一の判断」ではあったと考えられる。
況や、“それしか無かった”と云う事であったろう。
「吉宗決断」はそれを予測しての「暗黙の了解」であった事に成る。)

この様な状況で「伊勢の紙屋と青木氏」は動かない方が変で、「吉宗」も「青木氏」を頼るしか無かった筈である。

(注釈 本来は「福家」には祖父の話では「詳細な資料」が在ったとされているが焼失している。
「口伝」では「南紀の旧領地の郷士の家(水軍の家筋)」に「大筋の話」で遺されている。
この「口伝」では「伊勢水軍」と「紀伊水軍」は、「二つの震災」で幕府の指示で、公に成った資料に依れば、「東回り廻船の緊急配船」に廻ったと伝えられている。)

(注釈 前段でも論じたが、「水軍の配船」は、「廻船の緊急時」には対策として幕府の事前の承認が在った。
つまりは、「伊勢の山田奉行所」の「七箇条のお墨付き」があった。)

この注釈から考えると、と云う事は、“「動かせる船」は限られる”と云う事に成り、「摂津堺店」の船が「堺港」から動いたと成る証拠でもある。

確かに、兎も角も、全国的にも「郷士の力」は、「戦乱後と経済の疲弊」が原因して非常に少なく成り、弱体化した「伊勢衆の力」をこの「殖産」で興す必要があった。
一挙両得であった。

そこで、何故、紀州藩は、「本領の紀州」に対して「殖産」を積極的に呼びかけずに、「飛び地領の伊勢」に対して呼びかけたのかと云う疑問がある。

それは次ぎの事に依る。
一つ目の理由は、「青木氏の総合的な地域力」の大きさに在ったからである。
二つ目の理由は、「藩主」と成った「吉宗の育ての親」であったからである。
三つ目の理由は、「家臣団の郷で縁籍筋」である。
四つ目の理由は、「苦肉の策の廃嫡」である。
五つ目の理由は、「殖産の適切地域」である。(リアス式地形から平野部に対して山間部の比率が大きい)
六つ目の理由は、「青木氏は郷氏」である。(紀州には「氏族の郷氏」は無い。)

(注釈 他に「紀州豪商」が在ったとしても「氏族の郷氏」では無い事から、民間が紀州藩を救う事等の「義務」は無い。
そもそも、「氏族の郷氏」は、地域の「奈良平安期の王」の「古来の主」でもあり、その「地域を救う義務」は藩主に次いであった。
況して、所謂、「武士の社会」に成ったとしても、朝廷から「賜姓五役」として永代に努めなければならない「賜姓族」でもあって、その自負は持ち続けていた。

(注釈 朝廷の「西の政権」が続く以上は永代の役目である。
江戸時代もその「西の政権」としての「権役」は朝廷業務に限られるが、幕府より役人が派遣されて正式には「西の政権」と云う呼称で存続はしていた。
室町期から江戸期にかけて朝廷の「西の政権」は弱体化したが、制度としては“「西の政権」(朝廷の政権)”として存在し続け、特定の範囲での政治を行い幕府から監視役が派遣されていた。
唯、幕府推薦にて官位官職の権威付けの授与程度の事であり現実には困窮の環境下にはあった。
そもそも、前段でも論じている様に“「賜姓族」”としては、その意味で「臣下」したのであって、この“衰退した「西の政権」”とは云え続く限りは、又、「青木氏」に与えられた゜賜姓族」に伴う官位官職格式が永代とされている以上は、「青木氏としての考え方」では、その内容は兎も角も、少なくとも「特定地域の伊勢」では“「賜姓五役」”は続く事に成る。
従って、時の政権が「東の幕府」に成ったとしても密かに続けていたし、この「青木氏の西の政権への影行動」を鎌倉と室町と江戸の三つの幕府は黙認していた。

重要な注釈として 「青木氏」の「西の政権への影行動」に対して「青木氏への圧政の記録」は見つからない。
仮に時の政権からの「圧政」があれば「青木氏」は現在までの氏存続は無いだろう。
「500万石」と云われる程の「二足の草鞋策」を敷きながら、これを「皇祖神の子神」の「祖先神の神明社500社」に上る建設と維持費等に使用しながらも、「西の政権への影行動」を含む“「「賜姓五役の財源」”としても用いた。
然、これが「公然の役として行う立場」にあって、それを「青木氏の氏是」として守り続け、出過ぎずに「影行動」として維持する姿勢であったからこそ幕府は黙認した。
そして、「西の政権の息根」を必要以上に止める事無く維持出来得れば、「幕府」に執っては政治的に経済的にも逆に都合が良かった筈である。
故に、三つの幕府からの「青木氏への圧政」は無かったのである。

(注釈 「青木氏の影行動」の「献納金」の経理上の記録は松阪の大火で焼失して記録は無いが、「影行動の有無」の行の一節はある。
上記の数式論の通りで、「西の政権への献納金」と「紀州藩への貸付金」との両方で抑えて置けば「青木氏への圧政」は無い。)

これには「青木氏」が採った姿勢として“「公然の役として行う立場」”が大きく左右していた。
その「立場」は、100年程度の立場では無く、江戸期で観れば「1000年を超える立場」であった。
この「立場」を否定でき得る政権は無かった筈である。
最早、これ「1000年を超える立場」は、朝廷の様な「政治的権威」では無かったが「完全な歴史的権威」であった。
この「1000年を超える立場」の「権威」を否定すれば、「幕府の自らの立場の短さ」から「自らの権威」を無くす結果とも成り兼ねなかったからである。
所謂、社会が認める大見栄をきって”「影行動を行える大義」”が其処に存在したからである。

そもそも、例えば「後鳥羽上皇」が「朝廷の権威」を再び高める為に「不満の御家人」を集めて「承久の乱」を興したが、果たして“この「戦いの財源」は何処から出たのか”と云う事から考えても、どこかからかこの「相当な戦いの財源」が出ていたからこそ「乱」が起こせたのである。
では「不満の御家人」がその「戦いの財源」を出し得たか、そもそも「財源と成る物」を幕府から与えられなかったからこそ「不満の根源」と成っているのである。
つまり、何れかから出ていた事に成る。では何処から出ていたのか。
「政権奪還の戦い」に失敗すれば、「上皇の朝廷」は生きて行く財源が枯渇する。
それこそ霧消するのにその心配なく実行した。
現実に「幕府の圧政」が加えながらも生き延びて存続している。
何処かから「影の財源」が流れていたからである。
これが少なくとも「伊勢青木氏の財源」であったと説いている。
幕府が「西の政権の息根」を完全に止めようとすれば、「青木氏の影行動」を止めさせれば良かった筈である。

然し、「三つの幕府」ともにそれを敢えてしなかった。何故かである。

その概念から云えば、「朝廷=権威」の概念である。
その「権威の朝廷」を崩せば、自らの「幕府の権威」付けるものが無く成る。
そうするとその「権威付け」は「恐怖の武力」以外にはない。
自らの「幕府の権威」を貯めて支配性を維持させるとすれば、幕府より「高い権威性」を持つ「朝廷」を崩す事は先ず得策では無い。
かと言って高める事も得策では無い。
況や、数式論にすれば次ぎの様に成る。

「朝廷」>「氏族の賜姓源氏と執権」>「源氏傍系支流族足利氏」>「権威性の無い姓族の徳川氏」>「姓族」

以上と成り、「朝廷の権威性」をより必要とした。

この「朝廷の権威性」は、何も施政上はより強力なもので無くても「象徴的な権威性」で良い筈である。
自らがその「象徴的な権威性」を領して「幕府」と云う「軍事的な権威性」で補完出来る。
「象徴的な権威性」を利用でき得ればその範囲で存在して居れば「為政」は元来成り立つ。
後は、「軍事的な権威性」に補足する「習慣仕来り掟等の権威性」を「朝廷」やそれに類する「賜姓族」から獲得すれば、次ぎの数式論は成立する。

「象徴的な権威性」=「軍事的な権威性」+「習慣仕来り掟等の権威性」

以上の数式論の概念が成り立つとすれば、「最低限の朝廷の存続」と補完的な「青木氏等の影行動」が必要に成る。

さて、これが上記の“「三つの幕府」ともにそれを敢えてしなかった。
これが”何故かである。”の答えに成る。

だから、「徳川氏」は、”「青木氏の偏諱」”に代表する「慣習仕来り掟の採用」を「幕府仕様」に換えて行ったと云う事である。
ただ、一人この概念を持たなかった人物が居た。それは「織田信長」であった。
「軍事的な権威性」だけに頼った。
要するに「軍事的な権威性」だけに頼った「共和制の国家体制」であった。
だから「青木氏の存立」に影響した「伊勢三乱」が起こったのである。
然し、多少の「朝廷の権威性」の感覚は持っていた証拠もある。
それは「北勢の北畠氏の乗っ取り」である。

「朝廷の学問処」を務める「北畠氏」は、永代に「不入不倫の権」で護られていた無防備な伊勢に武力で簡単に浸食し、「朝廷の権威」を笠に「御所」等と呼称して館を造り、「公家武家の権威」を披歴した。
これを「織田信長」は、手っ取り早く「伊勢」を統括する為に利用したが、伝統高い特異な伊勢では、取り分け、突然に侵入して来た地元に「絆の薄い北畠氏」では、”「織田の思惑」”は上手く行かなかった
結局は「伊勢三乱」と成ったのだが、前段でも論じた様に、「青木氏」は、初めてこの時に「氏の危険性」を感じて「二度の武力」で応じた所以でもある。

その意味でも、「皇族賜姓臣下族」としての「悠久の権威性」を持つ「青木氏の氏是」は納得出来る。
「氏是」を無視し表に出る行動を採れば、上記の幕府や信長の様にこれを利用する者が現れ、必然的に「影行動」は表に出る事は必定で、そうなれば「影行動」では最早無く成り、「幕府黙認」は成立しなくなる危険を孕んでいる。
これを「公然の役として行う立場」であった平安期が終わり、鎌倉期と室町期と江戸期に成っても続けて来たのである。

上記の様な経緯を持っている事を前提に基の話に戻して、これだけの理由が整えば、誰が考えても「吉宗の居所」は「伊勢滞在」と成るだろう。
「紀州」、「江戸」、「京」に居るよりも「伊勢」に居る事の方が全ての戦略の上では得策である事は明白である。
「伊勢と紀州」は、「戦乱後の混乱状態」からやっと脱した時期でもあり、且つ、上記した様に、紀州では「10万両の借財 55万石の1/2の財政」=「廃藩寸前の財政」の状況下に陥っていれば無理である。
この「頼みの綱」は、結局は,誰が考えても「飛び地領」の“「青木氏の地域力(500万石程度)」”と云う事に成る。

(注釈 前段で詳しく論じたが、誰が考えても困窮して人に頼らなくてはならない時に、傍に金に成る樹の「豪商」が居れば誰もが利用する。
又、利用しない方がおかしい。況してや「育ての親」である。)

そこで、この「伊勢の特異な環境」に「本腰」を入れたのが、そもそも、前段でも論じたが、最初に取り組んだのは「初代頼宣」(家康)であって、次には「五代目吉宗」と成ったのである。
何れも成功している。
前段で論じた様にこの様な殖産で繋がる「協調の経緯」を歴然と持っている。
そして、紀州藩の「二人の藩主」が取り組んだのは、それが,「青木氏」と共に”「殖産」”のみならず、“「有機的に動く新しい殖産」を興す事”であった。

それは、つまり、個々の「青木氏の殖産」を、平安期から築いてきた「総合商」と結び着けた前段で論じた”(イ)(ロ)(ハ)の「商業組合方式」”であったのだ。
それを「特定地域の伊勢」から“「紀州域にも波及させる」“と云う事であって、異なる所は、その「波及手段」としては”「紀州藩勘定方指導」”と成った事であろう。
それ以外には、「紀州への波及手段」はない。

注釈として、重要な事は「単なる波及手段」と云う事には成らない。
そこで、これらの「殖産」を進化させて「御師制度」等や「提携商人」や「金融制度」や「運搬と護衛」等の制度等を加えて紀州で使える様にする必要があって、それを「一つの制度」として組み立てる必要があったのである。
ところがこれには、悠久の時を得た「絆のある伊勢」では無い事もあって、”「相当な容力」”が要求された。
当然に、その「準備期間」が充分に必要であって、それには先ずは「伊勢の絆力」を使って「紀州」に「繋ぎの土壌」を作らなければならない。

総じて、「郷士衆の勢力圏」で細かく構成している当時の社会体制で出来ている以上は簡単では無い。
当時の社会は、藩主や家臣から農民に直接に繋がっていた訳ではない。
その間には、「郷氏」が在れば「郷氏」に、無ければ「郷士」が介在して農民との連携社会が出来ていた。
「紀州」は「伊勢」では無い事から「郷氏」は無い。
それに代わるものとしてあるとすれば「熊野宮司族六氏」くらいである。(紀州は「門徒衆の勢い」も江戸期以前より強く秀吉も施政の邪魔として「紀州狩り」を実行して手を焼いた位である。)
この下に「紀州郷士」が介在した構造を持っていたが、「熊野宮司族六氏」の下の「郷士」は発言権の問題で殖産には使えない。
だとすると、「熊野宮司族六氏」の一つ「日高氏」の勢力北限域は熊野神社第一藤白神社の鳥居地区までこの社領勢力圏であるが、凡そ日高地区から外れた有田地域以北と云う事に成る。

つまり、その「繋ぎの土壌」と成り得るのには、伊勢側も紀州側も土地に根付く「郷士衆」であった。
その上で、それには「青木氏の紙屋の商記録」と「郷士衆の家の遺手紙」から観て、「伊勢郷士衆」と「紀州郷士衆」の「連携の話し合い」が持たれていた様である。
この「青木氏側からの資料」である為に「紀州藩の関り具合」が良く判らない。
「紀州藩での資格」の参加は、兎も角も、家臣団とも成っている「伊勢藤氏の介在」はあり得たのではないか。
恐らくは、上記の「手紙の存在とその内容」から判断して、「南勢の旧領地の郷士頭」が「紀州の郷士頭」に「談合話し」を持ち込んだ様である。

問題は「南勢の旧領地の郷士頭」がどの様な経路を通じて「紀州の郷士衆頭」に話しを通したのかは、調査したが資料的なものは見つからない。
確かに、この「南勢」は地理的に紀州に最も近い。
「伊勢」との間には紀伊山脈が憚っていて「南勢」が地理的に近い事に成る。
然し、この間には「熊野神社宮司勢力の六氏」が日高地域当たりまで伸長している。
その「神職勢力」を飛び越えて、そこから、「南紀」から「紀北」に掛けての「紀州郷士衆の勢力」に「繋がり」を持つとすると、山伝いに「伊勢シンジケート」しかない。
然し、実際は「南勢の旧領地の郷士衆頭」が動いている。
確かに「殖産の談合」としては「伊勢シンジケート」では無理であろう。
前段でも論じたが、「北山郷士衆団」や「戸津川郷士衆団」や「熊野六郷士団」や「熊野水軍」や「伊勢水軍」等があるが、「殖産」としてはこれらは全て「山間部の勢力」であり、既に「和紙楮の殖産」は南紀までの域で敷いているし、現実的には新たな殖産を大々的に進めるのは地形的に地理的に無理である。

最も、考えやすいのは、「紀北まで勢力」を持ち「地元郷士への支配力」を持つのは「熊野神社の広大な社領域」を持っていた「日高氏」ではあるが、然し、所詮は「熊野宮司族」である。
「殖産」には縁は無く、「自らの経済力」で生きられる。
「紀州藩云々の話」には載って来る事は先ずない。

後は、「近江秀郷流の脩行系青木氏」の紀州残存の中紀から紀北域に分布する「末裔の郷士族」か、「秀吉の紀紀州門徒狩り」で「青木氏」が何とか救ったが、この紀北から南紀に分布する「門徒衆の郷士衆」(紀州は門徒衆が多い)等がある。

前段でも論じたが、この「紀州門徒衆」の過激な一部は、「伊勢の射和地域」に保護して「仏施の質」で「商い」に導いたが、恐らくは、「南勢の旧領地の郷士衆頭」は、この「宗教の繋がり」で「門徒衆との繋がり」を持ったのではないかと観ている。

その根拠は、上記した様に、「吉宗江戸下向」の直後に起こった「郷士と農民の騒動・暴動(4日)」がある。
(紀州は公の記録に載らない「騒ぎや騒動や暴動」は頻発していた地域。)
注釈して、そもそも、紀州藩は吉宗の跡に新しい引き継ぎの考え方の違う藩主(支藩の二代目の従弟)が就き、逆に「青木氏」がこの紀州から手を引くと云う前提であった。
前段でも論じたが、この「伊勢の郷士衆」を引き連れての「吉宗江戸同行」である限り、「紀州での殖産事業」から手を引く事は必定で、困った「紀州の郷士衆」等は「吉宗の施策の継続」を願って居た。
ところが新しい違う事をする新藩主に不満をぶつけた事件の様な事件であった。
この「郷士衆と農民の騒動・暴動」の「最初の不満」は、多くは「税に対する不満」であったが、騒動・暴動の最後には「吉宗施策の継続」を「訴え」としたものに成った。
新藩主はこれを便宜的に認めて宥め終わらせたが、実際は「継続」はしなかったどころか「先導者の郷士衆」を捉えて斬罪した。
これで「紀州郷士衆」からは更に信用を失ったし、そして、紀州藩の新藩主は、大口を叩きながら、又、恒常的な「借財の財政」に戻って仕舞ったのである。

(注釈 その後、「青木氏」が引き上げた「紀州藩の殖産」は、「青木氏」が引き上げてからでも、「菜種」は蜜柑畑で作れるが、これを集めて搾り菜種油や肥料などにし、それを堺店を通じて販売ルーツに載せる事には財力が必要で殖産は大きく後退したと記されている。)

(注釈 「堺店」には青木氏等が投資し経営していたとする「搾油工場と肥料工場と販売拠点」があった。
その後、この「堺店」が引き継ぎ1765年代には、別の伊勢商人に販売権利を移した事が判っている。
その後、国内向けに継承し主に江戸に運んだ事が記録されている。
これを境に室町期末期(1669年文献 テンプラ 輸入品)頃から使用が起こったが、上記の殖産で国内産で大量に使える様に成った事で「江戸文化」では享保の前後から「天ぷらの食文化 1720年頃」が進んだ。)

(注釈 この「紀州藩借財」は幕末まで引きずり、結局は上記した様に、再び「青木氏」が「勘定方指導」に入る始末である。
「享保の改革」で1780年に江戸より引き上げて、丁度、100年後の事である。
この辺からは、「青木氏と紀州藩との関係」は詳細に記録でも口伝でも判り、「頼宣以来の親密な関係」に戻る。)

これは「門徒衆との繋がり」を示すもので、続く「騒動・暴動」は明らかに「門徒衆の郷士集団と農民集団」であった事から判る。

この様に、「紀州を救う殖産」には「絆のある伊勢」と違い紆余曲折の時期が在った。
そもそも、有機的に動く”「新しい殖産」を興す事”と、それを“「進化させた制度」“に「仕上げた時期」と、その「実行のキッカケの時期」は、4年後のこの時(上記した「吉宗入城」を果たした時)であったと考えている。

つまり、紀州殖産には「四年間の準備」が掛かった事に成る。
この「吉宗入城の2年前頃」から、「南勢の郷士衆頭の家の記録」で観ると「紀州殖産」は始まっていた様で、恐らくは、「吉宗入城時」を「記録上の起点」にしたと考えられる。
つまり、「紀州殖産品」は、「青木氏の販売ルート」に載せる必要がある事から、この殖産品を貯蔵し、販路を造り、正式な拡販に持ち込むには時間が掛かって「吉宗入城時期」と重なったと観られる。
恐らくは、この事から「紀州殖産品」は主に「中国への輸出」であった事が判り、その為には「殖産品」(油菜)を先ず大量に確保する必要があった。
貯蔵の蔵倉が必要に成った。堺摂津店の記録に観ると、「貯蔵庫の造営費」としての細目の記載はないが「殖産準備金」の大枠での合切の形で記録が2年前に観られる。
この間、前段でも論じたが、“「青木氏の殖産」”であったことから「殖産品への対価手立て」は「青木氏」が負っていて、後は「輸出品の実績」(菜種油と記録 人気商品の大量輸出の記録)に関わった。

「吉宗入城後」は、輸出以外にも関西域の国内にも販売し、「農薬散布材」としてもトップ商品に成っていた事からも記録上はこの時期を選んだと観られる。

前段でも論じたが、当初、油菜の薬剤散布の使用は、幕府は麦作に影響するとして関東では1880年頃まで禁止していた。
唯、関西域と中国域では、当時、大被害を興していた「害虫被害の散布材」に効くとして黙認した事と、江戸初期頃から中国料理が広まり国産需要が高まった事とで、何をともあれこれを見越して御三家の「紀州藩生き残り策の殖産策」に用いられた事である。
それまでは需要も無く中国からの輸入に頼っていたが、ところが「青木氏」はこれを殖産にして、逆に中国に輸出するとする戦略に換えて勝負に出たのである。
先ず「害虫被害策の散布済」がきっかけで、そこに「食文化の変化」が起こり、「青木氏の読み」は見事に当たった。

(注釈 「油の食文化」は「青木氏」が宣伝とプレゼンで恣意的に興したのでは無いかと考えられる。
それでなくてはマスコミや宣伝媒体がそれほど発達していない中でこれほどに短期間で起こる事は先ず無いであろう。現在でも難し程である。)

国内的にも「享保から正徳」(7-8年程度)に掛けて国内でも超爆発的に成ったのである。
(実質は伝わる期間としては3ー5年以内程度である。)
唯、享保に入る前は、「薬剤散布の使用」を黙認させたと云え「幕府の禁止令」が在って、「青木氏」は「紀州郷士衆」と談合して、この「苦肉の対策」を採った。
それは、何故解るかと云うと、「害虫被害」を受けている「ミカン畑」にそれまでは肥料として天草(寒天に使う)を撒いていたが、この海草の「天草」が、前段でも論じた様に「寒天」として爆発的に商品と成り、記録から観ると止む無くこの代わりにこの「油菜」を撒いた事が判っていてこのから来ている。
これであれば、幕府禁令に抵触しない。
そこで、幕府黙認する中で、この「油菜」(1)と「菜種油」(2)を殖産した。
そして、その記録に観ると、「搾粕」を蜜柑畑に捨てたところ害虫は死滅したのである。

ところが「青木氏」はこの事に抜かりは無かった。
これを喧伝して「害虫被害散布材」(3)として関西で販売して解決させこれでも大当たりした。
「菜種油」(2)は良品質に改良して、中国に逆輸出し、国内需要にも対応したのである。
幕府は黙認どころかむしろその才に驚き「吉宗」に注目し始めたのである。

直ぐに幕府は、紀州に見習ってミカン産地の静岡地域にもこの禁令を解き、形式的には全国的には1785年に正式に解いた。
「油菜の搾油技術」を開発し、その工場を伊勢と大阪(堺)に建設して本格的に稼働させたのである。
この時期が4年後であった。

(伊予、讃岐、安芸まで「天草寒天」と「蜜柑畑」と「油菜搾粕」と「菜種油」の環境条件が一致していた為に瞬く間に広まった記録されている。)

そもそも、「伊勢藤氏の青木氏族」が家臣と成っている「紀州藩」を救うには、「頼みの綱」の「青木氏」が、「伊勢の殖産」のみならず、これを更に確実に「15地域」に広げて、その「パイ」を大きくして、戦略的に「成功要素」を先ずは確実のものとする事であった。

その「紀州の4年の成功体験」を元にもっと大きいもの(享保改革)を救う為にも、先ず紀州藩を「伊勢の殖産」で救い、更に、6年後には、これを1716年に江戸に持ち込んだと云う事(「享保の改革」)である。
つまりは、この「紀州の4年の成功体験」は、元より「享保の改革」までの「政治的な概念」を「吉宗」は当初から伊勢で「経済学的な概念」として既に持ち得ていたのでは無いかと考えられる。
(故に青木氏は育ての親としても賛同し後押ししたと考えられる。)
この「政治的で経済学的な概念」を実現するには、先ずはその基と成るのは「abcのイロハの商業組合」の「経済論」であって、この「経済論」を「リフレーション政策」に置いていたと云う事である。
その「リフレーション策」は、前段でも論じた「仏施の質の策」で「経済の基本」を興す事に在った。
(幕府はこの「吉宗の様子」を伺っていたと云う事であろうし、それが基で「将軍職の話」が出たのである。)
それはつまり、「江戸様の殖産」であり、吉宗に「江戸様の殖産」をやらせようと考えたのである。故に将軍劇が全く例外中の紀州から以って来る将軍劇が起こった。それでなくては「綱吉とのお目見え」や「偏諱」などの例外を起こす理由にはならない。

そもそも、伊勢や紀州等と違い郷士衆などの殖産を興す”核部分に成り得る「中核」”は全く江戸には無い。
そこで、その「中核」と成る「核」を「商業組合」と「仏施の質」で興し、「伊勢の殖産」に相当するものとしたと云う事である。

「伊勢の殖産」=「改革」=「江戸の仏施の質」
「郷士衆」=「殖産の担手」=「庶民」
「地場産」=「殖産の核」=「商い」
「青木氏」=「殖産の資」=「質の担保」

以上の数式の位置づけに成る概念なのである。
伊勢で教育を密かに受けこの概念を作り上げていた事に成る。

唯、以上の様に江戸には「殖産の基」に成る物が無かった。

恐らくは、この様に江戸には「殖産の基」に成る物が無いところから、この「数式に基づく経済論」を既に構築していたと云う事は、相当に当初より「吉宗と青木氏」は、事前に「論理的な経済論」を練って持っていた事を示すだろう。

返して云えば、「将軍論」、又は「幕府立直し論」は「御三家としての吉宗」は持っていた事に成る。
その証拠に「将軍」と成って直ぐに”「経済の基本」”と成っていた「米価値」を「相場制」に変革したが、この時の苦労話が詳細に記録されている。
この記録から観て、確固たる経済論は持っていた事が判る。

「経済の基本」を「米相場」の改革をし、それを「中核」と成る「核」を「商業組合」と「仏施の質」に置いたと云う事である。
これは一部の市場を特定のものに任すのではなく、ニーズに応じた市場に任し、それを幕府がある程度に監視管理して米価値をある範囲に留める基本政策である。
これは「インフレ策」と「デフレ策」の間の「リフレ策」に外ならないのである。
これに「中核」と成る「核」を「商業組合」と「仏施の質」に置いて誘導すると云う政策であった。
中々に「難しい専門的な経済論」であってこれを理解する者は青木氏以外には吉宗の周囲には少なかった。

ところが、この「リフレ策」を進める中で、「米相場改革」しても「米に依る藩の財政」を圧迫している「障害」と成る事がここにあった。
その一つは「参勤交代制」が「藩財政」に大きく圧し掛かっていて、この「米相場制」が当初機能しなかった。
そこで、「吉宗ー青木氏」はこの「リフレ策の政策矛盾」を次ぎの方法で解決した。

1 それは先ず「障害」と成っていた参勤の交代期間を短縮する代わりに、一万石に付き米100石を幕府に献納する条件を付けた。
2 次に、「交代の者」の内容等も緩和する事にして、その代わりに「献納米(換算の献納金)」を幕府に俱納する条件を付けた。
3 「米と貨幣の関係」を「藩負担の軽減」で「相場制」の中で一定に成る様にした。

以上の「三つの条件」を付けて享保の幕府が藩財政を誘導した。

この様に、「経済の根幹」を「リフレーション経済論」に変える為に採った「米の相場制」に観られる様に、それが、この「10年程度の経緯」を観ても、この様な「論理的な経済論」は持ち得ていた事が判る。
然し乍ら、「論理的な経済論」を持っていたから全て積極的かなと思われていたが、ところが発見された「遺資料の行」の一節に愚痴の様に書かれている事を鑑みても、以外に“青木氏には余裕が無かったとする説”は間違いなく成り立つ。

「青木氏の末裔」としての見方は、「吉宗と云う人物に関わった宿命」から責任を感じて「賜姓五役の範囲」から離れていても“走りに走った”と云う言葉に成る。
「賜姓五役の責任」を「青木氏が負う範囲」は、伊勢域に及ぶ殖産興業の範囲であると考えられる。

(注釈 江戸期には「皇祖神の子神」の「祖先神の神明社」の建設と維持等は江戸幕府に引き渡したので、その役目は地域としては「伊勢域の範囲」に留まる。
従って、「紀州藩の改革」までは良しとしても、「江戸の改革」は論外であり、「吉宗との関り」からの事に成る。)

前段で論じたその「吉宗との関わり」でありながらも、「1780年以降の幕府の仕打ち」から江戸を引き上げたが、「青木氏」は憔悴していた事は事実であった。
ただ、その後、「幕末の紀州藩の勘定方指導」を再び受けた事は、この範囲までが限界範囲と考えていた事が判る。
ここでも他一名の伊勢出身の江戸豪商と共に、紀州藩立て直しへの貸付金2万両はまたもや不当りに成る。

末裔として後勘は、先祖の「愚痴の行」は理解できるし、筆者も「享保の改革」までの事を論じているが、実は釈然としないのである。
そもそも、末裔の後勘としては納得出来ない事がある。
あれほど青木氏の氏是を頑なに護り通しておきながら、この時の福家はここにきて”何故、氏是を護らなかったのか”である。
「青木氏の氏是」からすると、「享保の改革」は確実に「青木氏の氏是」から逸脱している。
「青木氏の氏是」に逸脱してるからこそ「世の条理」で「幕府の仕打ち」や「貸付不当り」が起こると云う事に成ったのである。
釈然としないが果たして、この事を「後勘」でどの様に考えるかにある。

「青木氏の氏是」を曲解したか。
「青木氏の氏是」を無視したか。

諸範の事情により、1000年以上の長い間の「青木氏の氏是」であり「福家」に選ばれた賢者でもある事から「曲解」は無いだろう。
後は「無視」である。
この「無視」には色々の「無視」がある。
「無視」をしなくてはならない状況に「戦略上の流れ」に落至った事が挙げられる。
何せ「最大の憲法一条」である。
この「憲法一条」<「戦略上の流れ」と云う事に成ったと云う事に成る。

何か証拠と成る資料か文章の行が無いか研究したが、答えは祖父の明治期まで福家はこれを検証していない。
祖父は父の口伝からこれを是認している様であり、「未完成の忘備緑(仮称)」にも「否定の行」は無い。
筆者は、”「吉宗の養育」が「戦略上の流れ」を変えた”と観ている。

末尾に「戦略上の流れ」に対して、”走りに走り過ぎた”と「後勘の評価」しているが、要するに、”無視して走り過ぎた”のである。
其の大きな走り過ぎた失敗は、前段でも論じたが、「仏施の質」にあって、「江戸様の仏施の質(2800店舗)」が原因していると観ている。
この「失敗」にあって、”「江戸様」は無かった”と考えている。

注釈として 唯、名誉の為に云うが、「商い」の為に 「青木氏」が「吉宗」を「将軍」にし積極的に「享保の改革」まで走ったと云う事では決して無い。それは「青木氏の仏施の質」が全てを物語る。やる以上は事を構えるが「青木氏の掟」であり、「青木氏の氏是」の範囲を頑なに護ったと云う姿勢であった事は否めない。
「伊勢」は「伊勢」で歴然と構え、“江戸に伊勢屋を出した”と云う姿勢と云う


風に考えた様である。この言い分は納得出来る。
然し、では「青木氏」は“幕府政治に関わったのはどうなのか”である。
明らかに間違いなく「布衣着用の政治的身分」である。
これが「青木氏の氏是」に反する。
それも、「六地域の青木氏」を「江戸の商業組合の商い」までに呼び込んでいる事は納得出来るが、「勘定方指導の補助役」に引き込んでいるのは「青木氏の氏是」に反する。

そもそも、更に注釈として、「伊勢」は、江戸期末期には2度の大火に見舞われていたが、明治期に入ると一番の大火は「明治26年の大火」もある。
ところが、更に、その9年後の明治35年には「青木氏の元締めの紙屋の家」から失火して、「松阪の大火」に成って仕舞ったのである。
末裔としては、“走りに走った上に未ださらに走った”と云う感じがする。
そして、「世の条理の洗礼」を見事に受けている。

「末裔の後勘」としては、「青木氏の氏是」の範囲を護っていれば、受けなくても良い「洗礼」で在った様に感じられる。

と云うのも、「青木氏の氏是」と共に、「青木氏密教」(古代浄土宗)から来るある「青木氏」ならではの「ある掟」が有った。

それは、次ぎの「青木氏の重要な掟」である。
「青木氏の心魂の概念」を根底から作り上げていた奈良期からの「悠久の概念」である。

“「善悪の条理相対の理」”

以上の「密教の掟」と云うものがある。

「人生の精神の有り様」を説いている「掟」である。
「賜姓臣下族の有り様」を厳しく戒めていた「密教浄土宗」から来る「掟」である。
前段でも論じた「嵯峨期の詔勅の禁令」に「青木氏の慣習仕来り掟」(全50程度)を民は真似てはならないとする禁令であるが、その中の一つにこの「難しい掟」が有る。

この説を判り易く租借すると次ぎの様に成るだろう。
「人」には無限に「善と悪」が備わっている訳ではない。
「人」が受ける「善と悪」は「有限の範囲」にあって、「相対の関係」にある。
つまり、「人」は「善」を成せばその分「悪」は減る。
同様に、「人」は「悪」を成せばその分「善」は減る。
「人」は「善」を多く成すと、何時しか「如来」はその「善量」に見合う「幸」を与え、「悪量」を減らし、「人」は「悪」を多く成せば、何時しか「如来」はその「悪量」に見合う「不幸」を与え、「善量」は減る。
「人」は個々に異なる「性の質」を持ち得る事から、その「人」の「幸と不幸」の「咎」は「如来」が決める。
その「性の質」はその「人の前世(先祖)」のものを引き継ぐ。
「如来」はこの「二つの世界」のその「人の善悪」を陵駕している。
その上の「如来の差配」として享受しなければならない。
況や、「人」の自らの「現世の善悪の行為」のみならず「前世の善悪の行為」を「如来」より授かる。

「仏教」ではこれを「因果応報」と説いている事であろう。
(「因果応報論」は「禅宗」が興る頃に確立した概念である。)
唯、「青木氏」では「賜姓五役」を務める「賜姓族」として、況や「四家の者」としてあるにはより徹底した「行動の規範の概念」に置かねばならないとした。
依って、来世の者の「善悪の相対」は「幸と不幸」に左右するが故に、「人」は斯くあるべきでこの「掟」に努めなければならない。

難しい文章を筆者なりに租借すれば、以上の様な事であると考えられる。

「皇族賜姓臣下族」、「賜姓五役」、「氏上」、「御師頭差配」、「郷氏」、「四家制度」、「福家」、「商業組合]、等、「青木氏」に課せられた立場は全て「組織の長」である。
この「組織の長」のあるべき姿は、「人の信頼」を勝ち得る事に「一義」がある。
この「一義」を成し得ない者は「組織の長」に成り得ない。
「青木氏」である限りはこの宿命から逃れ得ない。
この「組織の長」に成り得るには、“「善悪の条理相対の理」”に務めなくてはならない。
取り分け、「皇族賜姓臣下族、賜姓五役」を成す者は“「善悪の条理相対の理」”の「人」であらねばならない。
“「善悪の条理相対の理」”を会得する者は自ずと「人の真の信頼」を勝ち得る。

簡単に云えば、低俗な「我欲」を張り通し、「人」に嫌な思いをさせ続ける者は、その分「自らの善」を失い、何時しか「如来」が其の者に病気等の「不幸」を招き入れる。
この為には、“「人としての悟り」を得よ”と云う事であろう。

前段でも論じた事であるが、「青木氏」は「浄土宗密教」であって、自らの氏から住職を出し、「達親」で運営して氏人を導く。
然し、この「掟」を更に発展させる為に、「曹洞宗との関係」も深く持っていた。
これは、この「掟の厳しさ」に「人」を到達させるには、別の方法として、それには”「座禅」にある”として「禅宗」に寄与して居た事が判っている。
永平寺の高僧が長期に逗留し、悟りの得たとされるものの「書画や彫刻」など特に「家宝」として遺されている。
そもそも、筆者の代まで家には“「禅僧の高僧」が長逗留すると云う形式“の慣習を室町期から採っていた。

(注釈 この為に永平寺の高僧が逗留中に「禅僧の書画の遺品」が多く遺されている。)

「青木氏」の「四家」の中で、この様な“「善悪の条理相対の理」”を始めとして「慣習仕来り掟」を会得させる為に「福家」で共同生活で育てられるが、この「掟」に依って育てられた「四家の一員」に成り得なかった者が現実に居た様で、これらの者は郷士衆等の養子に入るという事が起こったのはこの「掟の処置」であったのではないかと考えられる。
そして、その「戒め」として「青木氏の系譜上」に表れない者として厳しい「掟の処置」を受けたらしい。
唯、逆に、この者が何らかの縁を得てその子孫に「優れた者」が現れた場合には、その縁筋で「四家」とは別に「青木氏」を興させて、その上で「四家」に入れて育てられると云う事の救済策もあったらしい。

さて、ここまでの末裔の後勘として、“「善悪の条理相対の理」”の「青木氏の密教掟」があって、その「掟の概念」が「青木氏の氏是」を超えて「享保の改革」と云う道にまで「青木氏」を導いた原因はこれだと考えていて、ではその結果はと云うと、「如来の意志」は、明治期の初めまでに下記注釈の様な事も含めて「氏」に執って「幸」を授かったかと云うとそうでは無かった。
「伊勢」に於いては「殖産」を通じて「伊勢の民」の為にこの「青木氏の密教掟」を護り働いた。
そして、その「民の心」として「氏上様、御師様」と呼ばれて崇められた。
「皇族賜姓臣下族」や「賜姓五役族」であるかどうかは別として、当に「伊勢の郷氏」であった事が云える。
当然に「如来の意志」により「幸」を授かり、「伊勢三乱」も乗り越える事が出来て「氏の発展」は目覚ましいものであった。
1716年まで何一つ氏としての「不幸」は無く、「如来の意志」は「悪量」を減らしたものであった。

ところが、長い期間の考察の後勘としてでは、「吉宗没後の10年程度」を経て1760年頃からは「掟を破る事」が無いにしても、前段でも論じたが、この「掟の基本」とも成る“「仏施の質」”を敷いていたにも関わらず「如来の意志」は厳しいものに傾いた。
「青木氏の後勘」とするには、何か「如来の意志」に反する「悪行の至り」はあったのかと疑問を持ち納得の行かないところである。
後勘としても、公的記録でも「享保の改革」を成し遂げて「江戸の民」を「幸せ」に導いた筈で、「江戸向行」には「掟」を破る事は無かったと結論付けられる。

尚、第38代の祖父の代(昭和20年没)までは力は低下しながらも、この「青木氏の密教掟」を頑なに護ったが、続けて世の中に先駆けて「明治維新の地権放棄」をして「民」に尽くした。
そして、前段で論じた様に、「維新時の殖産」では別に”「徳宗家」”とも呼ばれていた位であった。
然し、”「如来の意志は厳しかった」”と「青木氏の後勘としての評価」としている。

(注釈、余計な事ではあるが、最早、父の代よりこの「青木氏の密教掟」は明確に無い。
“無い”と云うよりは、明治期の「如来の意志」に従いその力をも失った。
唯、この悠久の時を得たこの「青木氏の密教掟の概念」をそれなりに父に教えられ、筆者も “「善悪の条理相対の理」”の個人の「小さい人生観」として信じて未だ持ち得ている。
依って、「氏」としての「青木氏の後勘の評価」は、別として、「人」として、子孫を残し健康で普通の幸で居られるは「如来の意志」であるだろうし、後世に悪量を遺す事無く幸いに居られている。)

(注釈 昭和までの記録を観ると、伊勢は凡そ10年から20年に一回程度に大火に見舞われている。
これは「特異な地域」、況や、中央構造線の中部山脈から真正面に吹き降ろす事に依る「フェーン現象」なのではある。
左右の山脈の裂け目の中央の地形から北から吹き降ろしの強い乾燥風が吹く位置にある。
この時、折しも風が強く、その「風向きの影響」でこの川沿いの間近まで一筋に累焼したと記録されている。
この事も「地形」と捉えて仕舞えばそれまでで、「地形」から来る被害は「備え方」に依っても異なる筈である。
要は「人の心の持ち様」で被害は変わる。
この世の事は何事も斯くの如しの様であろう。)

だとすれば、この「被害」は、「青木氏と云う立場」であればこそ、「青木氏の密教掟」に従い「如来の意志」と云う事に成る。
上下の注釈の全ては事ほど左様である。

(注釈 「明治26年の伊勢大火」の後の「明治35年の松阪大火」は、局地的にダメージが大きく、「櫛田川」を隔てて北側の「射和地区」は、寸前でこの火災から免れた。
しかし、この為に現在も「古い商家の街並み」(殖産品売買を担う商人群)が遺されているのである。
結局、「松阪の北側」は一部地域が消失したので、「松阪の家の街並み」や、「歴史的な商家群」は消えて仕舞った。
櫛田川南域の玉城地区の職能群家屋は遺された。)

この「射和地区」も含めて、「伊勢青木氏」は、「地租改正」で「本領安堵地の5万石」(地権)に相当する「農地の下げ渡し」を行った。
その後の「弱体期」でもあったが、しかし、「松阪の火災の被害」に対して火元として”全財産(地権)を投げ売って賠償した”と記録されている。
明治期にも襲った「最後の決め手の衰退期」であった。
”火災は貰い損”としているが、この事からすると「最後の決め手の衰退期」であったにせよ、「如来の意志」であったにせよ、「氏」としての「青木氏の後勘の評価」は落としてはいない。
「賠償の決断」は、後世への“「善悪の条理相対の理” (青木氏の密教掟)の概念」を護った事に成る。

(注釈 念の為に前段でも論じたが、「江戸幕府期の青木氏」、即ち、「伊勢郷氏」としての「本領安堵地」が、「伊勢域の農地5万石」で紀州藩55万石の内37万石が紀州域、28万石は伊勢域、伊勢域全体が55万石で、この28万石の内5万石が「地権」として「青木氏の農地」と「楮や桑の畑地」であった。
「農地外の地権域」は「3000石程度の地権」であったとされている。
「紀州藩」からすると「支藩並の地権」(5万3千石)を持っていた事に成る。
この様な「支藩並みの地権」(5万3千石)を持っていた「郷氏」は、日本全国でも江戸期では「公家族の藤原一族」と「藤原秀郷一門の青木氏や工藤氏や結城氏や斉藤氏や進藤氏や長谷川氏や永嶋氏や長沼氏」、や「近江佐々木氏系一族」等、少ない。
これらの「氏族の郷氏」は全ては奈良期や平安期からの「氏族の郷氏10氏」にも満たない。
この「賠償の決断」は、上記の立場よりも「後世への配慮」を優先した事に成り、既に、明治35年は「賜姓五役の立場」も終わりに成っていた。)

(注釈 前段でも何度も論じているが、尚、鎌倉期末期にはこの「氏族」は、「80氏の氏族」が存在した。
室町期末期には下剋上と戦乱でと20氏以下程度に激減している。
江戸期初期直前では11氏で、明治期には5氏程度に激減している。
「皇親族の青木氏族」では「神職の青木氏」と「神職の佐々木氏」が「社領」として持っていた。)

その為に「福家筋の商い」(長兵衛)は、次ぎの影響を受けた。

「江戸の伊勢屋解散」(a)、
「江戸の引き上げ」(b)
「江戸末期の組合解散令」(c)
「伊勢商業組合の解散」(d)、
明治初期の「地租改正」(e)、
「農地の地権放出」(f)、
「松阪失火元」(g)、
「地主3000石の地権」も「売却賠償」(h)、

以上、ここで「如来の意志」に従い「伊勢の紙屋と青木氏」は完全に「倒産 福家(明治35年10月)」をした。

然りながら、これだけの「伊勢青木氏」に避ける事が出来ない「負の災禍」が一度に伴えば、奈良期から続いた「商い」は流石に耐えきれなかった。
大阪にも堺と摂津等にも店が在り、遺されていた「船等の資産」や「一部の株」を売却して、それを元に、ここを拠点として再び「四家(分家筋)の商い」(高右衛門一家と作左衛門一家)は出直したと記されている。

又、「江戸出店に応じた六地域」や後半に「江戸出店に応じた讃岐青木氏」の「青木氏」に付いては、口伝により明治20年頃を境に衰退に向いたと伝えられている。
「商い」だけで応じた訳では無い筈で、前段の「イロハの商業組合」に加入したと云う事から考えても、この「青木氏の密教掟の概念」に従った事も充分に考えられる。

果たして、後勘から観て、1760年以降の「如来の意志」は何だったのであろうか。
恐らくは、“「善悪の条理相対の理」”に勝る何かが発生したしか考えられない。

(注釈 「伊勢藤氏の伊勢青木氏の一族一門」は、「紀州藩の解体」で浪々の身に成りながら、その後、「資産」を活かして江戸期に興した「殖産の企業」を継承し、「企業家」として立ち直ったと口伝で伝わる。「賜姓長野青木氏」も同様である事が確認出来た。
然し、概ね後勘として、「青木氏」を研究する中で、記録や資料や口伝等の遺産の状況を考察すると、全ての「青木氏」に云える事は、明治20年から30年頃から衰退期が顕著に開始し、昭和20年頃に「地域力」は無く成り、「独特の慣習仕来り掟等」の「古式伝統」は失われ、「普通の氏」の範囲に戻っている事が云える。
現在では、記録や資料や口伝等の遺産さえ無く成り、「ルーツの如何」さえ喪失している現状である。)

(注釈 江戸の「享保の改革」に参加した「四つの地域の青木氏」は、1785年以降の「商業組合に対する軋轢」と「政治的失敗で経済的失速」が起こって大打撃を受けたのだが、その後の動向が記録的に気に成る。
「讃岐青木氏」は江戸と京都から引き揚げ北海道の開拓に手を出し昭和20年期に遂に倒産した。
「賜姓甲斐青木氏」は農業に戻り、「伊豆青木氏」と「相模青木氏」は小さいながらも商業を続けている。
「賜姓越前青木氏」に付いては「酒造業の蔵元」に、「秀郷流越後青木氏」は江戸の店を引き上げて「大米農家等」に戻った事が確認出来ている。)

(注釈 116氏にも成った「秀郷流青木氏の存在」は、24地域での現存は確認出来ているが、その後の子孫の行方は不明で、従って、「悠久の伝統」(資料、口伝、慣習、仕来り、掟等)は完全に消失している。)

(注釈 ただ、この時、この“「松阪の商業組合組織」”は、その“責任を果たす為に一度解体した“と記されている。
伊勢のこの組織は、「青木氏7割株の株権」を放出して商家、運輸業、廻船業、金融業等にそれぞれ独立した。
つまり、この意味は、「松阪組」と「射和組」は、“グループ化して居た事”を意味している事に成る。
現在の形で云えば、「青木ホールディング」として成り立っていて、その「元締め」の「紙屋の資産力」が「松阪組の商家賠償」(一部玉城区の資産等は残った)で無く成った事と、失火元の責任を執って、一度、「福家筋」は解体した事に成ったが、「四家筋」は現在も神戸と大阪に遺る。
前段で論じた様に、その「地域力」は「明治維新の地権放出」と「藩貸付不当り」と「伊勢騒動の援助」等で史上の最悪状態に成っていた。)

(注釈 明治35年倒産から一代置いて宗家筋の福家筋は、筆者で40代目である。
祖父の代に一時、筆者の叔母の家に本家の籍を移したが叔母の筋目は直ぐに絶えて祖父の処に戻る。)

注釈として、江戸期では主に下記の(a)(b)(c)、明治期では、(A)(B)(C)の殖産を興している。
「青木氏の四家(分家)筋」が、次ぎの事を興している。

信濃から導入した「養蚕の殖産の興業化」ー(A)
「紀州湯浅」から持ち込んだ「醤油の醸造化」ー(B)
明治文化の発展で奈良期からの「和紙の殖産」で「紙箱の殖産興業」ー(C)

収穫を高める「早場米の更なる開発」ー(a)
越前より迎えた杜氏に依り杜氏を育て「本格的酒造米の開発」ー(b)
越前から持ち込んだ「酒造の興業化」ー(c)

以上二つの殖産を拡げ更に成功に導いた。

これらの「殖産」を続けた大正期でも、依然として伊勢には「青木村」という「テリトリー地区」があって、この「殖産」で人々は潤い賑わったと伝わる。
この事が「地域の歴史書」にも遺されている次第である。

(注釈 前段で何度も論じて来たが、「青木氏」は「賜姓族の慣習仕来り掟」から奈良期より「分家」とは呼ばず「四家」と呼び「本家」は「福家」と呼んでいた。
「家紋」も「家紋」と呼ばずに「象徴紋」と呼んだ。
「賜姓五家五流青木氏」は、「笹竜胆紋」で変紋せず、「賜姓秀郷流青木氏」は「下り藤紋」が「総紋」で「副紋形式」を採用した。
多くは「下り藤紋」の中に「副紋」を埋める「中入り紋」を使った。
この全国の「藤氏の青木氏」は、御三家を含む全て徳川氏の家臣・御家人・旗本に成っているが、明治後は御三家が「職業紹介所」成る事業を興し、家臣の就職に活躍し、御三家筋が興した自己の事業の社員にも成っているが多くは倒産の憂き目を受けている。)

以上は「伊勢に戻った青木氏」である

これらの事から検証すると、後勘として、「如来の意志」にはこの上記の疑問に対して次ぎの様な答を出している。

果たして、後勘から観て、1760年以降の「如来の意志」は何だったのであろうか。
恐らくは、“「善悪の条理相対の理」”に勝る何かが発生したと考えられる。

そもそも「青木氏」が伝統として引き継いでいる「青木氏の慣習仕来り掟」の類は、「祖先神から来る概念」と古代仏教の「浄土密教」から来る概念」であって、この「掟」も当然に「青木氏だけに存在する概念」である。
この「青木氏の概念」が受け入れられる土壌に何か変化を興したと云う事に成る。
つまり、“「善悪の条理相対の理」”の「青木氏の密教掟」の「如来の意志」が、正統に果たされる「社会構造」が変化したと云う事であろう。

上記の注釈の中にその答と成る「共通の傾向」が潜んでいる。

では、“「善悪の条理相対の理」”の「青木氏の密教掟」が,況や「如来の意志」が正統に働く社会とはどの様な社会であろうか。
それは、より深く繋がる“「絆社会」”である筈である。
“「絆社会」”であるからこそ「青木氏の密教掟」を護り、「人の上に立つ者」は「人」に「善」を尽くす、「力量等のある者」は「下の者」に「施し」を成す。
これに対して「下の者」は「上の者」に「信頼と尊敬の念」で返す。
「上の者」は、この「信頼と尊敬」を得てこれで「組織や役」を果たす事が出来る。
この「相乗関係」が成立して社会は成り立つ。
故に、それには「青木氏の密教掟」を護ろうとして自らを律する。
自らを律する為に「青木氏の密教掟」の類を護る。
自らを律しない者には、「人」は“「善悪の条理相対の理」”の中で“「信頼と尊敬」”を獲得は出来得ない。
「下の者」と「上の者」共に“「絆」”と云う“「信頼と尊敬」”の上に成り立ち、その“「絆」”は“「個々の利」”では無く、“「組織と云う利」”に叶う事で“「個々の利」”を得ようとする社会である事に成る。
最低限に於いて、この社会は、「組織の利」>「個々の利」の関係が成立している事に成る。
これを観て“「善悪の条理相対の理」”による「如来の意志」は定まる。
つまり、これには「個々の意志」をより尊重する「より強い自由社会」には成り立ちにくい条理にある。
従って、「組織の利」<「個々の利」の関係が進むと「如来の意志」は変わる。

では、上記の通り「如来の意志」が変化し出した「享保の改革」の後半は、「イロハの商業組合」で改革を進めた。
況や、これは“「絆社会」”が減退している中での、更に「江戸の社会」の「自由の先取り」である。
「江戸の民」は「青木氏」等が行う「仏施の質」に対しても「伊勢の仏施の質」では最早なく、そこに「生まれる絆」は云わずとも減退していた。
その「江戸の絆」は、「組織の利」<「個々の利」の関係にあったからこそ成り立っていたのである。
密かに「自由の先取り」が進んでいた事に成る。

「自由の先取り」=「組織の利」=<「個々の利」の関係=「江戸の絆」

この関係をより江戸で成したのは皮肉にも「青木氏」である事に成る。
故に、「如来の意志」は「青木氏」に働いたのである。

この進化と観られる“「自由の先取り」”が、幕末に掛け江戸から全国に伝播し、享保期より「自由の先取り」はより進んで次ぎの様な関係が拡がったのである。
「自由の先取り」=「組織の利」<「個々の利」の関係=「江戸の絆」

故に、「組織の利」>「個々の利」の関係にて成り立つ「江戸幕府」は弱体化して、遂には、「自由の先取り」を政治方針とする「維新政府」と成り得たのである。
「自由の先取り」を政治方針とする「維新政府」が進むと、必然的に「絆社会」は減退する。

後勘として検証して見るならば、明治初期から明治9年に掛けて維新政府に対して「伊勢動乱」(裏で青木氏は経済的支援)で反動したが、その後、逆に「地権放棄」に観られる様に「青木氏」自らもこの方針に積極的に賛同した。
明治初期の青木氏の「地権放棄」は、当に、農民の「個々の利」を認める行為である。
それを自らが「伊勢動乱の経済的支援」をすると云う事は「自由の先取り」を進めた事に成り、「組織の利」>「個々の利」の関係を保ちながら、「矛盾」を進めた事に成る。

当然の結果として、「自由の先取り」=「組織の利」<「個々の利」の関係が進んで、「如来の意志」は正統に反映しなくなったと後勘としては解釈できる。
これは「青木氏」自らが興した、或は、招いた現象とも云える。

故に、「西洋文化の概念」が益々導入され、その為にその傾向が強く成った明治20年頃から「衰退」が起こったと云う事であったと考えられる。
そして、どんどん進む“「自由の先取り」=「組織の利」<「個々の利」の関係”は、戦後、更に昭和20年の敗戦と占領下で「欧米の自由文化」が入り進み、遂には、「福家」は「倒産」の憂き目を受けた。

“「自由の先取り」=「組織の利」<「個々の利」の関係”が進む中では別の道を選択するべきであった事が考えられる。
つまり、享保期では「仏施の質」にあり、明治期には「伊勢動乱」(裏で青木氏は経済的支援)の「対応」が間違えていた事に成る。

上記の様に、「二足の草鞋」で商いをする多くの「全国の青木氏」には、この昭和20年頃を境に「如来の意志」は、“「善悪の条理相対の理の概念」”を果たすも正統に享受され得なく成ったと「後勘の評価」はできる。

“「自由の先取り」=「組織の利」>「個々の利」の関係” - A
“「善悪の条理相対の理」”の概念“ - B

この「ABの二つの関係」は崩れ、Aは変化してBだけが残る結果と成ったと考えられ、そのBも「組織の概念」では無く、「個人の概念」の範囲に留まったと成る。
つまり、「Bにまつわる伝統の一つ」は消えたのである。
そもそも「古式伝統」が消える過程とはこの様なものである。
従って、「祖父の代」までを以って「氏としての掟」(多くの「伝統」。即ち、奈良期からの慣習仕来り掟)は霧消に期した。

後勘として「享保期後半」からの「伊勢と信濃と甲斐と讃岐の状況」の「青木氏」を以って論じたが、多くの「全国の青木氏」は、「賜姓族」として置かれている「悠久の伝統ある環境や立場」などがほぼ同じであった事から、これに類する様な「憂き目」を受けていた事が間違いは無い事が云える。
故に、後勘の現在で観れば、多くの「青木氏にあるべき古式伝統」が上記で論じた同様の過程を経て完全に近い程に霧消しているのである。

その中で「伊勢と信濃と伊豆の青木氏」には、「伝統の形跡」が記録としても何とか遺されていたのである。

(注釈 本サイトに何とか「伝統の記録」を投稿し論じて遺しているが、「自由の先取り」=「組織の利」<「個々の利」の関係が、ますます進み「青木氏の密教掟」(古式伝統)も無く成る。
従って、「如来の意志」も働かず「伊勢」も含めてこれからは「全国の個々の青木氏」には「伝統維持と習慣仕来り掟の解明」は相当に難しい事が判る。)

その「古式伝統」の「維持管理の難点」の一つは、その「伝統」が「周囲の伝統」と比べて「違和感」を感ずるほどに「古式豊かである事」が難点である。
この「難点」を克服し維持するには、「それ相当の経済力」と「勇気やる気」を必要とする。
先ず、その特異な「古式伝統」を継承し得る「環境・場所」が確保し得ないであろう。
この「周囲の伝統」と違う為に、周囲からは気宇の目で見られ「伝統の特異性の周囲の理解」が得にくい。
筆者もこの二点に苦労した。

この状況は現在に於いても変わる事は無く益々難しく成るであろうが、筆者は内家で行っていても家の者にも理解が得にくい事がある。
合理的に考えて「周囲の伝統」と違う為に何でそこまでやらなくてはと云う疑問もあるらしい。
そもそも「伝統」とは「合理的に」とはいかないところがあるのだが。
良い悪いは別として、最早、“悠久の歴史を持つ日本でも「数少ない氏族の青木氏」である“と云う感覚は、明治から戦後の昭和の混乱期の間に親族には消えているのである。
「口伝」さえも受け付けない。「時代」と云うものはそう云うものであろう。
故に、中々読んで貰えないが「文書」に遺して何時しか「子孫にロマンを与える事」としている。

幸いサイトのカウンターで観れば、現在では、“年間で全国の5割近い青木さん”に読んでもらえている事には成る。
ヤフーHPとサイトHPで観ると、延べ「約老若220万人の青木さん」に読んでもらっていた事に成る。
これは「全国の青木さん」には充分に洩れなく読んでもらえている事に成る数字だろう。

「伝統維持」は難しく成るも、「ロマンとしての青木氏歴史観」には、なんと「青木氏」のみならず読者は「青木氏族」にまでに広がっている。


> 「伝統シリーズ」-27に続く




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