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:「青木氏の伝統 14」- 「青木氏の四家」


[No.331] Re:「青木氏の伝統 14」- 「青木氏の四家」
投稿者:福管理人 投稿日:2015/05/16(Sat) 10:29:15


:「青木氏の伝統 14」- 「青木氏の四家」




前回の末尾
>つまり、この「仕来り」より外れた場合は、”「曾孫」”からは、”「子供の定義」の「仕来り」”を外れるので、男女に関係なく”「養子・養女」としての扱いに成る。
>特に、女子の「養女」とする場合は、取り分け、”直系から外れた支流族や縁者族や遠縁族からの迎え入れ”には、明らかに「子供の定義」から外れる事に成るので、”「養女」”と成る。
>この「養女方法」が青木氏では積極的に行われたのである。
>この場合、”迎え入れた「養女」”から成った「嫁」は、”[嫁」”としてでは無く、「実娘」に相当する「娘」として組み入れられる。

>この”「養女」の「嫁」”は、元は「養女」で迎え入れての事なので、上記した「慣習仕来り掟」から、長い間には、「養親と養女」の両者共には、心情的にも繋がり、”「実子の子供」の扱い”に成る。
>そこで、この”「娘の定義」”から考えて、上記の「青木氏の子供定義」が成り立つのである。

>しかし、「養子」に付いては、積極的では無かった様で、これにはある「青木氏としての特別な事情」があった。
>それは、「青木氏」には、「悠久の歴史」を持つ、(ア)「賜姓族の権威」と、(イ)「二足の草鞋策」としての「商い」の「経済的な魅力」とが在った。



「四家の発祥源」
ここで、上記のアとイの事を理解するには、この“「四家」”とは、一体どの様な下で生まれたのかを説明して置く必要がある。
そもそも、奈良期の「天智天皇」の皇子で、「第四世族内の第六位皇子」が「天皇の命」に従い「皇族」から外れて「臣下族」(侍)に成り、「賜姓」を受けて「氏と家」を創設して独立し、「賜姓五役」を担う一つの「一族の在り方」を歴史上で「最初に構築した形」を云う。


・「賜姓の背景」
この「賜姓」が実行されるには、次ぎの様な背景が在った。
「大化改新」を実行した際に、概ね次ぎの様な事の問題を抱えていた事から「四家青木氏」は興ったのである。
(958年頃、特別に賜姓を受けた「秀郷流青木氏」が加わる。)
奈良期には「天皇家の財政」が、「皇位継承」に必要とする人数に対して、余りにも「皇子数」が多すぎて、「皇子家を維持する負担」で、内蔵を大きく圧迫していた事。この事に依って天皇家を弱体化させていた事があった。
更には、「皇位継承者」に成り得る資格が、それまでは「第六世族」までの出自と母方の身分に依る「皇位順」に沿っていたが、この事に依って「皇位継承争い」などの問題が多発する等の事があり、それが更に拍車を掛けて「天皇家の弱体化」を招き、それを防止し明確にする為の「身分制度」が決まっていなかった事。
「天皇家の防備」と「朝廷の軍の有り様」に問題があって、「武力」を持つ者等に依ってその「天皇の地位」が度々脅かされる事が起こった。
「自らの族」が「自らを守る」事の「本来の目的」が出来ていなかった事に反省して、身内に依る独自の「近衛軍の創設」と「朝廷軍の創設」を実行する必要性が増していた事。
「施政実行」に際して、それを主務として担当する「皇族の者」が無く、官僚に大きく委ね切っていた為に、「皇親政治の基盤」が作り上げられなかった。
「官僚基盤の勢力」が強過ぎて朝廷内にこれらの「勢力争い」が起こり、「施政」を敷くには大きな欠陥と成っていた事。
「国策」を定めてもそれを強力に推進実行する役目を豪族方等に任され、時には阻止されて、「国策効果」が低迷し低下していた。
依って、民に不満が噴出していた。
況や、「国策の主導者」、所謂、「天皇の意」を介する「国策氏」とその「執政者」が専門に無かった事から、「改新」が進み難かった事。
「朝廷と天皇家」の「財政の根幹」を成す「天領地の開発と経営」と、更には、その「安全保護」に問題があって、そこを豪族に付け入られて弱体化していた事。
それまでは、「第六世族」まで全てを「皇子身分」にし「皇子家」とする仕組みであって、「皇子家」には「特段の役目」が無かった。
その為に「皇子能力」に問題が起こり、「退廃的な環境」が皇族内に蔓延し起こり、そこを豪族に付け入られて「勢力争い」の基にも成っていた事。
等々があった。

(詳細は「大化改新」の論文参照)

上記のこれらの「欠点」を「大火改新」に依って換えて、夫々の「皇子に役目」を与え、それに見合った「身分」と「家柄」と「官位」と「官職」の対策を講じたのである。
そこで、改新に関わる中で、「四家」に関わる事として、先ず、上記の問題を「総合的に解決し得る対策手段」としての「最も意味の持つ対策」が打ち出された。
それが「皇族」の中で「第四世族内 朝臣族 第六位皇子」に当たる者が、この「役目の主務」に任ずると定めた事であった。
これが“「四家の賜姓族」”である。
この「賜姓族」が、「上記の事柄」を「主務」として、「身分と権威」(「三つの発祥源」 「国策氏」)を与えられて、その職務を“「賜姓五役」”と定めて、これに当たる事に成ったのである。

・「三つの発祥源と五つの役務」
そこで、「大化期の皇子順位」の「第六位皇子」には問題があって、「第七位皇子」であったが「第六位皇子」に位置していた「施基皇子」が、先ず、これに当たる事に成った。
そして、「皇族」から「朝臣族」にして、「臣下 (侍 1)」させてこれに当たらせた。

そして、その者に「天智天皇」は、「賜姓を授ける仕組み」を作り「青木氏」と賜姓した。
更に「主要な守護地の五国」を定め、その「皇位継承から外れた真人族と朝臣族の皇子」を配置し、夫々に「青木氏」を賜姓して「皇族系賜姓族」の「五家五流の青木氏」を発祥させる事に成った。
この「賜姓族」には、[公家]に習って「武家 (氏家 2)」を始めて創設させた。

「累代の天皇」が「この仕来り」に則り、「青木氏」を賜姓する事を定めて「主要守護地の五国(4)」に配置して護らせる事と成った。

更に、「改新」が進むに連れて起こる「反対勢力からの攻撃」に対処する為に、安全を期して「皇宮の三門守備と天皇警備(5)」を申し渡した。

これが後の平安期には「北面武士」と呼ばれたものである。
しかし、この時から、「賜姓族青木氏の四家の苦境」は始まったのである。

・「青木氏の象徴と権威」(1-5)(イ-ホ)(a-q)
更に、「改新の態勢」が整えられた上で、「天皇の政治補佐」を任じて、「近江、伊勢、美濃、信濃、甲斐」の夫々の「主要守護国」には、信頼する「国司」や「守護代」を送り、これらの「賜姓族」を傍に置いて、天皇自らは「天皇補佐役の政治体制」の所謂、「皇親政治」を実行した。
この時、この「政治補佐」として、その主務を「賜姓五役(国策氏 3)」と定めたのである。

その「賜姓族」には、国策実行の為には“「権威」“が必要であり、「権威の象徴」として「三つの発祥源」(1と2と3)その「役務(4と5)」の位置にある事を宣下した。

その「宣下の証」として、次ぎのものを下げ渡し「権威の象徴」とした。

その「象徴物」として、次ぎのものを定めた。
「象徴の密教権威」として、「大日如来坐像(イ)」
「象徴の神木」として、「あおきの樹(ロ)」
「象徴の文様」として、「笹竜胆文様(ハ)」
「象徴の三宝神」として、「毘沙門天像(ニ)」
「象徴の守護神」として、「祖先神(ホ)」

以上を賜姓に伴って授けた。

これが「青木氏」では、“「賜姓五物」”と呼ばれるものである。

そして、その「五主要守護国」には、「皇祖神の子神」を「祖先神 (a)」と定め、その「祖先神の神明社(b)」を創建し、「賜姓族青木氏の守護神(c)」にする事を定めた。
これらを全国の大和朝廷が統治する地域に「創建して行く事(d)」を命じた。

(注釈 この奈良期から平安期に掛けては、この様な「国家的な創建事業」は、朝廷自らが行うと云うよりは、「豪族が担う事」に成っていて、それを受ける事がその「氏の名誉」と成すもので、それを実行したときは、それの「勲功」に見合って「官位・官職・領地」が授けられると云う名誉が在った。
その為に「寺や神社の創建修理」や「河川工事の改修」を命じられて行った。)

「賜姓青木氏」は「神明社の創建」を、「賜姓源氏や賜姓平家や藤原氏」が「寺社の修理」や「河川工事の改修」を命じられ請け負っている記録等がある。
特に、「賜姓源氏の宗家頼光系四家」は度重なる工事で悲鳴を上げていて、「播磨の寺の修理」を命じられたが財政難で暫く放置していたが督促されて渋々修理をした事が書かれている。
この様に、朝廷に執っては「主要豪族」に対しては「荘園制から得る利益」を吐かせて「ぎりぎりの状態」を保たせる狙いがあった。
その意味で、「五家五流賜姓族青木氏」と「特別賜姓族青木氏」は「二足の草鞋策」を執り、これを「賜姓五役の一つの務め」として処理していたのである。

「賜姓平家」は、「宋貿易」と「荘園制」と「武力による領土の獲得」から上がる利益を確保して対応したが、「商い」をせず「賜姓源氏」の殆どは「荘園制」に頼る以外にこの対応力が無かった。
それ故に、「武力」で「弱小豪族」を潰して「領地」を確保して荘園に注ぎ込み「財力」を高めるしかなかったのである。

「伊勢」には、「天智天皇」は、その「皇祖神の伊勢大社」を遷宮して安置したが、そこを護る「主役(e)」を「伊勢王」の「施基皇子の青木氏」に任じた。
代々発生する「皇位継承外」と成った「第四世族内の真人族と朝臣族の皇子」は、この「主要五守護国」の「青木氏の跡目(f)」を継承する事を定めた.
且つ、その中でも「第六位皇子」は、優先的に「青木氏」の「主家の跡目(g)」を継承する事を定めた。
尚、代々「皇位継承外」と成って発生する「第六世族以上」は、全て「坂東の地」に配置して開拓させて臣下することを定めた。

(但し、付帯して、「第五世族」は、“何れの位置にも属する”として、「皇子数の数」により処置を換えるとした。)

但し、この時、「天智天皇」は、「第四世族内の第八位皇子(実質 「第七位皇子」)」であった「執政補佐役」の「川島皇子」には、「近江佐々木」の地名を採り、「佐々木氏」を特別に賜姓して「朝臣族」で臣下させた。
そして、「施基皇子の補佐(h)」を務めさせた上で、「青木氏」と同じく代々皇族外(第五世族)と成った皇子が「跡目(i)に入る事」を定めた。
その「身分と家柄」は「青木氏と同位(j)」として配置した。
又、「王位」はそれまでの「第六位皇子族」までとしていた「仕組み」から、大化期からは「第四世族(k)」までとして、それ以降の皇子は除籍して「王位」を外し、各地に臣下させて配置した。
しかし、この全ての「臣下族」は「三つ発祥源(123)の青木氏」の「配下(l)」に従うと定めた。
この時、「遷宮地伊勢」と「伊勢青木氏」には、「不入不倫の権(m)」の「絶対権」を永代に与え保護した。
そして、他の「四主要守護国の青木氏」にもこれに准ずる扱いとすると定められた。
そこで、「施基皇子」は「伊勢王(n)」として、国司「三宅連岩床」を伊勢に配置した。
晩年には「伊勢」に戻り、「七人の子供」を設けた。

即ち、次ぎの通りである。

「湯原王」、「榎井王」、「春日王」、[白壁王]、「海上女王」、「坂合部女王」、「難波女王」

以上の「四王子、三王女」を設けた。

彼らは「有名な万葉歌人」として才能を発揮した。

この「王女」には「伊勢神宮の斎王(o)」として、期間を定めて永代にその任に準じる事を定めた。
本来、「朝臣族で第四世族内の第六位皇子」ではあるが、「臣下族」である事から、「王位継承の権利」は「伊勢青木氏」には本来は無い。
しかし、「施基皇子」は「天地、天武、持統の三天皇」に「執政(浄大一位)」として務めた事から、その「家柄」から特別視されていて、その末裔には「王位(p)」を特別に名乗る事が許されていた。

(注釈 「青木氏の口伝」に依ると、「四家発祥期」には王位を叙位任官しなかったと成っている。
しかし、「白壁王」が即位してから孫まで叙位されたが、男子二人[湯原、榎井]は「政争」に巻き込まれ「四家」が潰れる事を恐れて「叙位」を拒んだ。
しかし、「形上の記録」では叙位した事に成っている。
他男子二人[春日、白壁]は、その血流から叙位を拒む事が出来なかった。)

奈良期末期の時、「女系天皇」が続き、「皇位継承族」の中に女系も含め「男系の継承者」が全く無く成って仕舞った。(「孝謙天皇期」)
そこで、「天皇家」に無ければ、“次ぎに準ずる継承者(q)”と定められていた事に従い、「川島皇子」([浄大三位])の「近江佐々木氏」を含む「五家五流青木氏」に焦点が当てられた。
その中でも、「三代の天皇」に仕え最も近親者であった「第四世族内第六位皇子」であった「施基皇子」([浄大一位] :天皇に継ぐ最高身分 「草壁皇太子」より二階級上)の「臣下族末裔」の「青木氏族の王」に「白羽の矢」が立った。

そこで、「第六子の白壁王」が、その血流から「天皇位」に即位して「光仁天皇」とは成ったが、この直前には、「四人の王」(四家)は、次ぎの様な態度を採った。
奈良末期は、「天皇家の皇位継承」で大荒れに荒れていて、「施基皇子」の「伊勢青木氏」は「臣下族」でありながらも「王位」も名乗る事が特別に出来きて、「皇位に準ずる位置」の「微妙な「特別の位」にあった。

(「特別位」とは、上記する(a)から(q)の位の事)

この事から、「皇位継承問題」に巻き込まれる事を恐れて、「青木氏の七人の王」は、「歌人」として振る舞い「愚人」を装ったと「青木氏口伝」ではされている。

(資料から観て明らかに装っている。)

この時の事が、「青木氏の四家の氏是」の基と成ったとする説も言い伝えられている。

「青木氏の氏是」の一節 
「世に晒す事無かれ、何れ一利無し。然れども、世に憚る事無かれ 何れ一利無し。」

この時の時代状況が良く物語っている。
自らが表に出る事に成って「天皇」に成っても何も氏にとっては好い事など無く、「賜姓族」であっても、むしろ「臣下族」だとして苦々しい事ばかり、かと云って、卑屈に成っても好い事などは無い。
最早、政争の明け暮れの始末である。
故に、決して、自ら進んで「猪突」に「利」を求めて「氏」を世に晒してはならない。
しかし、かと云って、縮み込んで「卑屈」に成っても良い事も無いから、毅然として、「誇り」を以って「賜姓族」(賜姓五役)と「臣下族」(三つの発祥源)の「立場」を「知略」で以って護り通さなくてはならない。
其れが「氏」に執って最も好い「利」に繋がる。

“「特別の位(a)-(q)」にある事の難しさ“を、以上として諭しているのである。

・「氏是の背景」
ところが、これを「四家の青木氏の氏是」として遺した人物は、“誰なのか”と云う事に成る。
それは次ぎの三人の誰かである。

その三人は、「施基皇子」か、「湯原王」か、「白壁王」かであるが、いまだ研究中であるが判らない。
「施基皇子」が「三人の天皇」に仕え「有能な執政」として「政争」の中で生きた。
その人物がその経験の中から「氏のあるべき姿」を書き記したとも考えられる。
又は、長兄であった有能な「湯原王」が、「王位継承問題」で揺れる中で、「四家青木氏」を護る中で、“「天皇家」と云うものに関わる事への懸念“が、「臣下族」であるとしても、この時に受けた「青木氏の氏存続」の「危険性の問題」に子孫に「戒め」として遺そうとしたとも取れる。

「賜姓族」であると云う事には変わらないのであるから、何時か、利用され引き出されて渦中の中に引き込まれる危険性があるのだから、“常に戒めよ“と諭したと観られる。

更には、結局は、「白壁王」が天皇に引き出され、「醜い政争」に明け暮れする経験の中で、殆どの子供を「政争の犠牲」にしてしまった。
その反省から「実家の青木氏」の者に「云い添えたもの」とも考えられる。

(注釈 「白壁王」の「9人の子供」は、父が天皇に即位した時に、「政争」に巻き込まれる事を恐れて「皇子」と成る「立太子」の儀式を拒んだが、無理であった。)

しかし、結局は、“「事の次第の流れ」“に巻き込まれ、「臣下族の青木氏」の「施基皇子の七人の子」が、「政情の場」に止む無く引き出され、“天皇家を男系に戻す事の目的”から、「男子末子」の「第六子の白壁王」が引き出されて天皇に成った。
成る時にも大変な醜い周囲の「政争の経緯」が在った。
この時までは、「皇位継承外と成った皇子族」は、本来は「門跡」に入る仕組みであったが、「伊勢の青木氏」は、「三つの発祥源」と「賜姓五役」の「臣下族」と「国策氏」であった事から、この「仕来り」を採らず、次ぎの「仕来り」を敷いた。

それが、上記する「特別の位(a)-(q)」持つ「生きる難しさ」から敷いた制度、況や、ここで論じる“「四家制度」”なのである。

「四家の創設者」
「施基皇子」の「四人の男子」は、750年頃以降 次ぎの「四家」を敷いた。

長男の松坂の「湯原王の家」 (松阪殿)- 3人の子
次男の名張の「榎井王の家」、(名張殿)- 2人の子
三男の員弁の「春日王の家」、(員弁殿)- 3人の子
四男の桑名の「白壁王の家」、(桑名殿)- 9人の子

以上の「四家」を創設して安定した「子孫拡大(約60年間)」を図っていた。

しかし、ここで予想外の事が青木氏に降りかかって来たのである。

・「白壁王即位の影響(空家)」
「施基皇子(716年没)」が没して、ほぼ10年後に「嗣子の四人の子供たち」が育ち、「青木氏の四家」(726年頃-734年頃)を夫々が興したとある。
この間 25年間程度は「四家」を継承していたが、突然、「桑名殿」の「白壁王」が54歳で即位した770年以降は「桑名殿」は「空家」と成って仕舞ったのである。
この事に付いて、青木氏では、次ぎの二つの説がある。
暫く「桑名殿」を除く「三家」が続いたとする説、所謂、“「空家説」”である。
「桑名殿」の「白壁王」が即位して、その「9人の王」が「天皇家の「継承外親王」と成った。

「白壁王」の子の「山部王」「早良王」と「稗田王」(31歳没)が、譲位後の781年に「桑名殿の再跡目」に戻ったとする説、所謂、「再興説」がある。

(注釈 「山部王」(母 高野新笠)は、781年に「桓武天皇」に成る。「早良王」(750年生 母 高野新笠)は、その後に早死の「政争没785年」と成る。)

平安中期には、“「四家」”は「四日市殿」を加えて「四家」が構成されていた事は確実なので、「空家説」が正しいとする考え方もある。
しかし、「継承外親王」に成った「白壁王」の「三人の王」(山部王 早良王 稗田王)は、「光仁天皇崩御後」は、「仕来り」に依って、「第五世族王」外は臣下する事には成るので、再び「青木氏」に戻れる事に成る事から、「再興説」も納得出来る。

(注釈 「継承外内親王」(能登王女752年生 母 高野新笠)も、崩御後に「四家」から「近江佐々木氏」の「市原王」に嫁している事から考察すると、「三人の親王」は明らかに戻っている事に成る。)

つまり、従って、後に四家の「四日市殿」と呼ばれていた。この事からすると五家に成る。これをどの様に考えるかに関わっている。
筆者は「再興説」を採っていて、その根拠は、“平安末期の先祖が「四家」の”「主役」“と、”「副役」“の違いに間違いを起こしていた”とも考える事が出来る。
つまり、「主役の位置」(四家)では、「四家」が継承されていて、下部の「副役の位置」(16家)で「松阪殿」の別れが「四日市殿」を創設した。その「四日市殿」が「秀郷流青木氏との融合族」であり、その「繋がり」もあり、「政治的に大きな働き」をした事に依り、“「四家並」”に扱われていた事に依るのではと考えている。

(注釈 奈良期781年までの12年間と、平安初期(806年)までの24年間の計37年間後には“「空家」”は収まっていたが、そこを間違って、“平安中期まで空家の侭”(200年間)であったとして、「鎌倉期初期の伊勢青木氏」の「四家の先祖(A)」が観ていた。
その理由は、ここに「四日市殿」が、“「有能で青木氏に大きく貢献していた」“処を観て、間違えて「主役の四家」として“「四日市殿」”を当て嵌めて“「四家」“として「由来書添書」に書き添えて仕舞ったと云う事に成る。
その「副役の四家」である事の間違いに気付いた「四代後の先祖(B」」が、鎌倉期の末期に”「由来書添書」を訂正したと云う事“ではないかと観られる。
つまり、「主役と副役の取り違え」が起こった事に成る。)

筆者は、先祖(A)の「取り違え」では無く、その「四家に対する勲功の大きさ」を伝えたかった事の表現方法に問題があって、其れに気づいた先祖(B)が「添書」を訂正したと云う事であった事と考えている。 
ただ、「桑名殿」は、確かに「皇族の仕来り」に縛られて、「光仁天皇崩御」の781年までの約12年間は「仕来り」により確かに「空家」であった事があり、崩御後は、「継承外親王」は「臣下する仕組み」であり、「青木氏」に入る「仕来り」である事から、間違いなく放って置いても「青木氏」に戻る事が出来る。
これが「12年間の空家説」と成ったと観ている。

現実には、「山部王」は、「桓武天皇(在位781年-806年)」に成っているので、「山部王」を除き、二人は、一度、「仕来り」に従い「桑名殿の青木氏」に戻ったものの、直後に「政争の犠牲」に成って没している。
しかし、「青木氏の口伝」では、「稗田王」(751年-782年)は「政争」から何とか生き残って、2年間、「早良王」は「政争没」に成る間の5年間は、一時的に「青木氏四家」を継承したと伝えられている。

「外部記録」では、更に、その後の2年後に「原因不詳」で没している「稗田王」は、2年後に「政争没」、「早良王」は、5年後に罪を着せられて「徳島の配流先」で「政争没」と成り、結局は、“「桑名殿」の「空家」(37年間)“は明らかに考えられる。
ただ、ここで、「青木氏口伝」からとの差が起こっている。筆者は次ぎの様に観ている。

「四家」の中で、「四家の仕来り」に従い「空家」を補ったと考えられる。他の「三家からの配置」か、或は、「四家四流青木氏からの配置」かの「何がしかの動き」が先ずはあったと考えられる。
しかし、何れの「青木氏からの配置」も、激しい「政争」に巻き込まれている最中であり、公的にするには難しかった筈である。
依って、「賜姓時の仕来り」に従い、2年後の「政争没の稗田王没」後の「空家」、又は、5年後の「早良王」の「空家」も、直ちには、「四家の仕来り」により伊勢外の“「四家四流青木氏から配置」が在ったのではないか“と普通は考えられる。
しかし、筆者は無かったと観ている。
”無かった“と云うよりは、”結局は取りやめた“とした方が適切な処置ではなかったかと考えている。

その根拠は、次ぎの様に成る
「青木氏」をルーツの実家とする「山部王」が、「桓武天皇」に成って、「五家五流全体」の「皇親族の青木氏」に圧力を掛けた事-(1)

「桑名殿の空家」を補う権利は、「四家の福家」にあるとしても、「政争没」で潰されんばかりの激しい軋轢」を掛けられている。
当に「火の油」と成る事-(2)

その[張本人]の「山部王の本人の意向」を聞く事は、「潰されようとしている四家の立場」としては先ずは不可能である事-(3)

「山部王の本人」は、“「天皇としての権威の低下」“が起こる事の懸念から軋轢を掛けている実家先を興す事の意志は無い事(-4)


以上「4つの事情」から鑑みて、「伊勢青木氏側」は、敢えて「四家の仕来り」を選ばずに、「稗田王の政争没(2年後)」の状況の展開を観て、暫くして「青木氏」を護る為に“「空家策」”を故意的に選んだ事に成ったと考えられる。
それでも、未だ、「早良王」が罪を着せられて「政争没(3年後 3年後に徳島配流処置後 正味5年後)」にされている。

“青木氏を潰す事“を目的に徹底していた事が明らかに判る。
「他の伊勢の三家」も罪を着せられない様に慎重にしていた事が判る。
信濃を始めとする「四家四流の賜姓族青木氏」も同じ状況であった事が判る。

(注釈 「商い」で常時移動するなどで身を隠したと観られる。)

「桓武天皇」は、806年没であるが、「阿多倍王」の長子の「征夷大将軍」の「坂上田村麿」(母は伊賀「阿多倍王」の孫「高野新笠」の父)とは、叔父に当たり兄弟の様にしていた事が記録にある。
陸奥域を制圧(805年)して、その地に「桓武天皇」が自ら指揮して「神明社」を25年の間に「20社」も「青木氏」に代わって建立している。
この事から、「神明社建立」は[青木氏の専業」であり、資材調達やその職能部は「青木氏」に委ねられている。
故に「商いの領域」で生活する分には、政治には無関係と成る事から軋轢を加えなかった事に成る。
「万葉歌人の愚人説」も外部記録にはあるが、「歌人」では同じで逃れる術には成らない。
生き残った「四家の二人」は、この「商人」に徹したと観られる。
この時期に集中してこの「陸奥域」に「20社-25年」も建立出来ているのは、この事(青木氏商人説)から来ていると判断できる。
むしろ、「四家の二人」を潰せば「神明社建立は不可能」に成るし、「叙位を拒んだ事」、「商人に成り切った事」などから、この「二人の叔父」を潰せなかったと観られる。
これが“「青木氏の商人説」”の「伝来の根拠」である。
これが上記した“「青木氏の氏是」”を護る為の“「知略を使う事」”に従ったと云う事である。
そうで無ければ、この「四家の二人」は、“「青木氏の氏是」を護らなかった事“に成る。

(注釈 とすると、口伝等で「遺された商人説」から鑑みれば、この「青木氏の氏是」は、“「施基皇子」が遺した言葉”であった事に成る。符合一致する。)

(注釈 「桓武天皇」{737年-806年 即位781年}も、「祖父の施基皇子{716没}」の「青木氏の氏是」は承知していた筈である。
この範囲であれば、幾らか「律令政治」に邪魔で有ったとしても、潰す事は出来なかった筈である。
要するに、“「政治」に「青木氏」が絡まなければ良い訳である“から、先祖の云う「商人説」は納得出る。
”「神明社建立」で25年間耐えた“と云う事であろう。
現実に、この「四家の二人」は長寿で直前まで生きている。)

依って、「四家の青木氏」では、一時(37年間)の「空家説」に成ったと考えられる。
つまり、「770年-781年間の在位中の12年間」は、「白壁王の桑名殿」は、敢えて、「実家先」であるとしても、“天皇に成った以上は「郷を創る事」は好ましくない“として、恣意的にその「天皇の権威」を護る事から「空家扱い」としたと考えられる。
更には、「山部王」の「桓武天皇期の軋轢期間25年間」は、「実家先」に軋轢を掛けられている以上は逆らう事は出来ず、合わせて「37年間」は「空家扱い」とせざるを得なかった事に成る。
この事から“「37年の空家説」”が生まれたと考えられる。

「山部王」の「桓武天皇」期では、未だ「皇族方」から「四家の青木氏」へ送り込む程の「継承外者」の「跡目」は無かった。
確かに「9人の皇子皇女と妾子」が在ったが、「伊勢青木氏の実家先」の「空家の跡目」を補うほどの「皇子皇女族」は無かった。
しかし、「嵯峨天皇期」からは、「詔勅」で、その「仕来り」は一変した。

・「嵯峨期詔勅の影響」
「桓武天皇期の軋轢」と、「嵯峨期の詔勅禁令」で、賜姓の無い“「皇族青木氏」”が別に発祥した為に、「青木氏への跡目継承」はないものと考えられるが、現実には行われている。
むしろ、「嵯峨天皇」から「花山天皇」までの「累代の天皇」は、「皇位継承外者」の「青木氏跡目への送り込み」を政治的に目論んでいた。

そもそも、「嵯峨天皇」は、”何で,「賜姓を青木氏」から突然に「賜姓族の源氏」に変更したのか、そして、態々、「詔勅」迄を発したのか。”疑問が残る。
これは、結論から云えば、上記で論じた”「軋轢と政争」”とから「青木氏」を護る事にあった事による”と考えられる。
それは、この「詔勅」に合わせて、其れも態々と「青木氏」に関する「賜姓族」としての「慣習仕来り掟」の「使用禁令の令」にある。
「青木氏の弱体化」に依って、そこに付け入り「他の皇族系氏族」がこれを真似て、この「賜姓族らしき族」が生まれる事に危惧を感じたからであろう。
それは、皇族の者の「跡目先」の「格式の低下」と「血縁性の低下」を身内として認める訳には行かなかったし、皇親政治を構築する上で好ましく無かった事によると考えられる。

現実に、その「政争の渦中」から救う為に「賜姓」を「源氏」にした事で、その代わり、「青木氏」を「正規に認定した皇族出自者」の「下族時の氏名」とした事でも判る。
そして、この「賜姓の源氏」には、「賜姓族の青木氏」と同じ[財産と権利と格式と特権」を一切与えなかった事でも判る。
それを態々、詔勅に書いた事でも判る。
何も書かなくてもその様にすれば良いだけの事でもあるのに、書いたのである。
この”書いた事に意味”を持たしたのである。
その証拠に、賜姓源氏から青木氏に跡目に入っているが、「賜姓青木氏」から賜姓源氏には入っていない。
況してや、「下族者の青木氏」からは何れも入っていないのである。
現実に、この「青木氏」は、男女合わせて「25人の対象者」が正規に居たが、「青木氏」として名乗ったのは記録から確認できる「青木氏]は二人で,記録の保障が無い「疑義の青木氏」は二氏に終わって居る。
「源氏」から[青木氏」を名乗ったのは正規に確認できるただ一氏である。
この事から、これは、「形式上の賜姓」である事に成る。要するに「賜姓青木氏」を護る為てある。


(注釈 取り分け、「嵯峨天皇」は、上記(a)から(q)の「役目の難しさ」からと、「桓武天皇の軋轢」からも、考え合わせて、五代続いた「天智期の仕来り」を敢えて換えたと観られる。)

故に、「詔勅」では、「第六位皇子の賜姓」には、「源氏」としても、この「源氏賜姓」には、「朝臣族」を認めるも「無位無官」と「一切の官位」と「財の贈与」と「不入不倫の権」等の特典は与えなかったし、「皇族還俗者」に「青木氏」を名乗る事を認めても「一切の特典権」も与えなかった。
“成りたければ成れ、しかし、一切は面倒を看ない。自分で切り開け。責任は採らない。”
簡単に云えば、この通りであった。

その上に、“「皇族者下族の祖を持つ」“とする「皇族者」を証明する「認知状書」だけで済ませたが、現実には、この「認知状書」は「有名無実の状況」で搾取が横行した。
其れだけでは無く、「搾取横行」の原因も関係して、「天智期」からの「賜姓族青木氏」が持つ「慣習仕来り掟の一切使用」と「青木氏呼称の使用」をも禁令で禁じて仕舞った。

(注釈 「五家五流青木氏」の「搾取偏纂」では、「青木氏」とは異なる「別姓の4つの姓」が子孫であると主張している。
しかし、「賜姓族青木氏」は「嵯峨期禁令」の通り「青木氏外の姓名」の「仕来り」は禁じていた為に採用していない。)

そもそも、「氏族」であって「姓族」では無い。
これらの「4つの姓」は、平安期の朝廷に届けられている「氏族」には無い。
又、これらの「4つの姓」は「浄土宗」では無い。
まして「密教」でも無い。
この「仕来り」の知らない甚だしい「搾取偏纂」である。
「四家制度」の「二つの絆青木氏」からも発祥させていない。

これでは、「何の身分保障」も「経済的裏付け」も「皇子の権威」も無いのでは、“独立して賜姓を受けて臣籍降下する者”は無く成る。
そうすれば、「五家五流青木氏」か「佐々木氏」の「受け入れ口」に事は流れ、「皇族の経済的負担」と「皇族者を利用した悪行の社会不安」は無く成るし安心である。
そして、”「賜姓リスク」は解消して、「天皇家、並びに朝廷」の「権威」は保たれる”と目論んだ。

・「嵯峨天皇の目論見の狂い」
ただ、この「目論見」は、次ぎの事で「多少の狂い」が起こったのである。

(注釈 経緯、ところが、「天皇の思惑」より外れて、「賜姓祖族の源氏」と「賜姓族でない源氏」に「成る者」が続々と出てしまった。その原因は「荘園制」にあった。
この「読み違え」をしていたのである。)

各地で「力の持った豪族」などが山などを切り開き「土地開拓」が始まっていた。
ところがこの「開拓の土地」に「税金」が掛かる。
「荘園主」は、これを軽減する方法として、「皇族者」、或は、「公家族」「源氏や平氏の賜姓族」から「名義」を借りる事で「税」が免れる。
そして、その「名義貸し料」を支払って利益を挙げた。
ところが次第に、「名義貸し」だけでは無く、荘園で力を得た「荘園主」は、次ぎには「名義主の氏名」の使用までも許可を得て獲得し、「名義使用料」を支払って「荘園防御の抑止力」も獲得した。
この為に「嵯峨期詔勅の賜姓族」は自立する事が可能に成った。
その財を以って「禁じ手」の「武力」をも獲得した。
その「武力」で各地の「弱小荘園」や「豪族の土地」を奪い取ったのである。
これが肥大化して「清和源氏」が生まれたのである。
その「清和源氏の分家の頼宣系」がこの方式を使って拡大した。
政界にも発言力を持った。
その結果、潰した豪族の「敗残兵」等を「奴隷」にし、「名義先の荘園」に送り込むなどして働き手にする等の社会問題が起こった。
(陸奥の安倍氏等はこの大きな犠牲に成った。)
この「伸長」を嫌った天皇は、「清和源氏の頼宣系の武家集団」を潰しに掛かった。
そして、最後に、「摂関家の藤原氏」をルーツに持たない「後三条天皇」から「後白河院政」まで、身の危険性を跳ね除けてこの「荘園制」そのものを「禁止」し、「源氏全体」の「武家集団」を弱体化させて、結局、「嵯峨天皇の思惑」まで戻す事が出来たのである。

(イ)「賜姓青木氏の跡目」がこれで一挙に埋まった事で、皇族からの「跡目の受け入れ」が過飽和と成って仕舞った事、
(ロ)皇子皇女は増える割合よりは、「四階制度」から生まれる「正規の継承者」よりも、「皇族の妾子制度」の「無位無官の嗣子」が多く発生して仕舞った事、
(ハ)一時、男系の「皇位継承者の激減」の反動が起こり、逆に、「継承者の純血性の低下」が起こって、「皇位継承者」の不足が起こって仕舞った事、

以上の(イ)(ロ)(ハ)の事から、当然に、「血流の保全」から「青木氏への跡目」の対象者も無く成ったのである。

・「詔勅禁令の目的」
では、果たして、“「嵯峨天皇」は何を目的としてこの「詔勅禁令」を発したか”云う事である。
「嵯峨天皇」は、以後の「賜姓」に関しては、“一切関知せずの立場”を採っていた事が、その「目的の翻意」であった。つまり、「天智天皇」から五代続いた「賜姓族青木氏」と「賜姓族佐々木氏」に、「皇族者の下族者」が「跡目」に入る事の[天智期からのシステム]を、「皇族」に執っては“「良いシステム」”として認識していて保護したのである。
これからも増える「皇族者」が、“「嵯峨期の青木氏」を名乗る事を選ぶ事“ よりは、”「天智期の賜姓族青木氏の跡目」に入る事“ の方が何もかも保証されているのであるから、「生きる術も知らない皇族者」が、なんの保障も無い”「嵯峨期の青木氏」を誰も名乗る事“は先ず無い筈と観ていたのである。

(注釈 結局は無かった。全て真偽の程は別として、“「配流孫」の「現地末裔」である”と主張しての四氏である。)

それは奈良期から、「青木氏を含む皇族者」が「何かあった時の事」として、「越前の逃避地」に「避難するシステム」が、「賜姓青木氏」に依って構築されていた。
この「青木氏」に依って運営されている事を承知していた「嵯峨天皇」は、これを“「皇位継承者の受け入れ先」としても使える”と読んでいたからである。
それは父の「桓武天皇の山部王の実家先 33年間在籍」でもあり、「自分のルーツ実家先」でもあった事により、その効能を充分知り得ていたからである。
「桓武天皇の律令政治」対「嵯峨天皇の皇親政治」の「政争」で勝ち取った以上は、「律令政治の持つリスク」を解決してこそ、その「天皇の主義」の「立場と権威」は保たれる。
依って、是非にも達成しなければならない「重要な政治課題」であった。
依って、「五家五流の賜姓青木氏」を護る事で、“今後の事態はより良好に成る”と読み込んでいたのである。更に、仮に「賜姓源氏」を名乗ったとしても、その「生計や権威や財力や武力」が無ければ、たとえ“「賜姓」“だけが有っても、「生きて行く事」は「権威」だけでは無理である。
故に、源氏族の生き様は何時かは崩壊する。
その時には、「皇族朝臣族」である事を最低限に認知しているだろうから、この事を「青木氏」に入る事を理由にするであろう。
(現実に源氏から青木氏に多く入っている。)

“「賜姓源氏」は「同位」であるから“として、「天智期からの五家五流の賜姓青木氏」の「跡目」に、「立場家柄の問題」が無い事から、簡単に入るであろうと「嵯峨天皇」は考えた。
その為には、「受け入れの経済的基盤」の「二足の草鞋策」を、「青木氏」に対して、“暗黙の内で容認して置く事”が必要であった筈である。

・「和紙の商いの意味」
其れには、中国から輸入していた「悪質の紙」を、「国産化」して、「量産化」する「良質の和紙」にして、これを社会に遍く行き渡らせる事で、“「国内の経済」は潤う事が出来る”と目論んでいたのである。
この事は「実家先の事」であるからその実情は承知の上であった。

(注釈 この時、「和紙」のみならず、「墨と硯」の「開発と殖産」も指示した模様である。「嵯峨天皇」自らが、信濃方面に足を運んで探究すると云う積極ぶりで有った。「後漢帰化人の職能部」の「墨作部と硯部」を自ら指揮して送り込んで、「大和、福井、丹波、越前、信濃」に出向いたりした記録がある。
そして、暫くは、この時に大和で採れる国産開発した「松根油」から取った「質の悪い墨」(粗目で墨色悪く掠れる)の侭で続いて放置されていた。

しかし、遂には、1320年頃に“「嵯峨天皇の意志」(政治方針)“を引き継いだ「後醍醐天皇」は、「熊野野詣」を理由に33回も調査を行うなどした。
この結果、「紀州熊野道」の「熊野神社の社領」の「第一神社」「藤白神社」の周辺域で、「墨の原材料」と成る「姥目樫の木から良質の墨の煤」が採れる事を自らが発見した事が記録されている。
この地域は、“奈良期からの「炭の生産地(墨屋谷」」(後の備長炭)”で有った。
其れに、“目を付けた”と云う事で、試行錯誤したとある。
この時、中国より「方氏と云う職能部」の「専門職人」の五人呼び寄せたと記録されている。

(注釈 この「墨の成功」での事で、宿泊先の「藤白神社」の「神職日高氏」より、「紀州」の紀北の「浜の宮」から紀南の「日高地方」には、古来より「良質で高級な砥石(紫石)」が採れると聞かされた。
それを「硯」にする事で「硯部」を紀州に呼び返して生産させたと記録されている。

更に、平安初期には「伊勢北部伊賀地方域から紀州南域の紀伊山脈」には、「良質な和紙の原材料」に適すると観られる“「紀州楮」”があることを発見した。
そして、平安中期には「賜姓青木氏の紙屋院」に依って「開発と殖産」にも入っていた。
「伊勢青木氏」と「信濃青木氏]が持つ「青木氏部」を配置した。

そこで、 「後醍醐天皇」は、「嵯峨天皇後の470年間」も放置されていたものを、わざわざ、“何故、これほどまでに「墨と硯」に拘ったのか”と云う疑問である。

「楮に依る和紙」は、開発されて「良質な和紙」として、既に生産し殖産し販売され、市場は「紙文化の始まりの直前期」であった。

恐らくは、「紙文化」への「需要の高まり」が顕著に成って来て、近くでも「良質な楮」の生産に適する地域を発見しようとしていた。
近隣で「青木氏の遠祖地の地」にその「良質和紙の楮」が発見され、これで “「青木氏を助ける事(「嵯峨天皇の目論見」)」が出来る“と考えていたとの推測が出来る。
其れと共に、この時期は「墨と硯」がこの「紙文化」に火が着いて、消費が伸びれば「開発途上の段階」では、「輸入品」である事には「財政的な問題」が出る。
この事から政策的に適切では無かった事から、これを「和紙」と共に「青木氏」に殖産させ「国内産」にして、「紙文化の前兆期」を利用して ”「青木氏」に売り捌かせようとした“と考えられる。
1320年頃の鎌倉期末期頃である。
その証拠に、奈良期から鎌倉期末期までは「和紙と墨と硯」は、“「西の公家政権」の「朝廷の専売品」”で、「部の市場制度」に依って、一度朝廷に納入しその上で、必要な物を確保した上で、市場に放出すると云う経済方式を採用していた。
「墨と紫石硯」も明治初期まで「専売品」であった。
室町期から「室町幕府と江戸幕府の専売品」に変わった。

重要な注釈
(”「西の公家政権」”とは、鎌倉期から室町期まで「正式な行政区画」は、「東の鎌倉政権」に対して「京の公家政権」としてその政権を一部を委ね、これに対して「東の武士政権」から「行政監」が派遣されていた。
この状態は室町幕府迄続いたが、実質は無力化して「有名無実」の状態と成っていた。
江戸幕府も正式には、この状態を認めていたが、要するに「公家諸法度」などを作り無力化させていた。
この「西の公家政権下」での管理品であった。
最終、江戸期初期には「徳川氏の専売品」と成って「朝廷の力」、況や、「西の公家政権」の力を削いだ。)

(注釈 「専売品」にする事がそれだけに「利益」が大きいと云う事である。)

鎌倉期は、「需要な注釈」の通り、「紙と墨と硯」の殖産は、“「西の公家政権」の財源”で有ったし、一部は室町期末期まで「西の公家政権」の「専売品」ともなっていた。
「武家政権」に成った鎌倉期には、この為に「二足の草鞋策」を敷く「皇族の受け入れ先の青木氏等」に、これらの「殖産」を認可して援護する目的もあったと観られる。
つまり、「後醍醐天皇」は、「西の公家政権の財源」と「皇族受け入れ先強化」を狙ったと観られる。
上記した様に、鎌倉期以降は、関東に「武家政権」が樹立した際には、西には「公家政権」を一応は置いて関西域を任した「二元体制の形」を採った。
しかし、丹波に「幕府支所」を置き「関東の西への発言権」を増して、「有名無実の状況」と成っていて、後の江戸幕府までも「公家諸法度」で縛ってこの状態が続いた。
この為に、鎌倉末期までは、「西の公家政権」は、「公家を含む皇族方」等の「財源確保」や「安定化策」の為に躍起と成っていた。
「関西の伊勢青木氏」の「二足の草鞋策」からの「税と援助」がその財源の一つの基と成っていた経緯から来ている。

この「後醍醐天皇の底入れの御蔭」で、「青木氏の二足の草鞋策」は、室町期は「紙文化の花」が咲き、「巨万の富」を得た。
この「青木氏」から上がる「専売品の税」が、所謂、「西の公家政権」と呼ばれた「強力な財源」に成っていたと観られる。
1025年頃から「本格商社」に成り、この時を契機に、益々、1320年頃に「総合商社化」へと進んだと観られる。

「賜姓族の五家五流青木氏」に執って関わった天皇は次ぎの様に成る。
1 「賜姓族の発祥」は、「天智天皇」  「賜姓族」で「皇親政治」を確立
2 「賜姓族の発展」は、「天武天皇」  甥の「施基皇子」を「執政」として重用
3 「賜姓族の拡大」は、「持統天皇」  兄を重用し「武家の青木氏」を確立
4 「青木氏の四家発展」は、「光仁天皇」 「実家先の青木氏の基盤(和紙)」の強化
5 「二足草鞋策の青木氏」は、「桓武天皇」  律令体制で軋轢衰退 「糧に二足の草鞋策」
6 「和紙商化の完成」は、「嵯峨天皇」  「青木氏の重用」と「二足の草鞋策の強化」
7 「青木氏の補強」は、「円融天皇」  「賜姓五役」拡大で「青木氏 補完策」(特別賜姓族)
8 「総合商社化の完成」は、「後醍醐天皇」  「商い策」の強化で「皇室安定と財源確保」

以上が主に「青木氏の発展」に大きな影響を与えたと観ている。

”「青木氏の商い」”に大きく関わった後半の「恩人の二人の天皇」は、“「嵯峨天皇」と「後醍醐天皇」”と「青木氏の口伝」で伝えられている。
筆者の家には、この時の「和紙と墨と紫硯」が、大事に「悠久の時」を経て「重要な遺産」として遺されている。
(HP左メニュー写真掲示板に一部掲載)
後には、この様に、“「後醍醐天皇の青木氏に関わる事」“が在ったが、その為にも、先ずは、「平安初期の嵯峨天皇」は、「朝廷内部」に、「使用販路」を広げて、丹波域に「紙屋院」等の「和紙の試験所」を設置し、「木簡から和紙への変換」に対して「朝廷内部の改革」を実行したのである。
「公家貴族」や「官僚族」や「社寺社会」から、その利害関係から「猛烈な抵抗」を受ける中、「青木氏」を側面から援護した。

この経緯は、詳細は 「青木氏の伝統 4と8」 参照の事として、次の様に成る。

(注釈 記録では、「興業」としての「商い」は、「青木氏の記録」では「古代和紙の販売」は、950年頃と成っている。
(正規の生産開始は730年頃)

とすると、「殖産」を始めてから”300年”と成っているが、「青木氏の基盤」を造ったのは、次ぎの「経過」を辿ったと考えられる。

・「和紙の経過」
A 「和紙の良質な生産開始」に50年  (730年頃 正倉院 紙屋院 白鳳文化 記録)
B 「和紙殖産」を始めて余剰品までを作り出すには50年  (770年頃 平城消費文化)
C1「商い態勢」に50年   810年頃 平安初期文化 摂関文化初期 記録)
C2「和紙販売能力」に50年  (890年頃 平安中期文化 摂関文化中期 記録)
D 「和紙興業能力」に50年  (850年頃 国風文化前期 摂関文化後期 記録)

E 「本格商い開始」- 50年- 「950年」
F 「完成期の総合商社」として75年 (1025年 国風文化後期」 記録)

以上として観れば成り立つ。

「初期の段階」では「原材料の調査」、「生産する農民」の養成、適切な「耕作面積の獲得」、
それを「和紙」にする「技量の習得」と「職人の養成」等で、思考錯誤しながら基盤を作った。
とすると、次ぎの様に成る。
以上には、“一期毎に50年程度の相当な期間が掛かった”と考えられる。

(註釈 この期間に関しては、「紙」は「文化のパラメ-タ」である。

以上の様に、この「古代和紙」の「紙」を日本最初に作る事に挑戦したのが、「5家5流皇族賜姓青木氏」なのである。
日本のこの「紙文化」には必ず「宗教文化」が伴っている。
従って、青木氏の一面の”「紙屋」の歴史の変遷”は、この「紙文化」に左右されている事に成るのである。
そして、その紙の多くを消費していた「宗教文化」にも左右されていたのである。
下記に詳しく論じるその「宗教文化」の「仏舎」の「仏画」の歴史も、この「青木氏の紙の変遷」が大きく関わっているのである。
当然に、次ぎに論じる「節会」もこの「宗教文化」と「紙文化」に左右されているのである。

「宗教文化」→「節会」←「紙文化」

その「文化のパラメ-タ」の「紙の使用」が、Aの様に、「東大寺の写経会」に観られる。
この様に、初期の「紙文化」として遺されている「文化資産」は、「経典」と「仏画」の類が殆どである。

しかし、「後期の紙文化」としては、「鎌倉文化と室町文化」は、初期の「経典仏画」類に関わらず、全ての書籍等の「紙材」に利用されている。

中には、Bの様に、未だ一般に「紙市場」が無かったにも関わらず、「平城京」で起こった「消費経済」で「紙」が初めて大きく「消費される現象」が起こったのである。
一般の市場にも「余剰品」が消費される環境が出来て来たのである。

そして、遂に、遷都に依って、[紙の使用」は庶民の中にも浸透し始めた初期の現象が起こった。
要するに、上記した[西の公家文化」と「東の武家文化」の開始で「紙」が盛んに使われ始めた。
特に、世に“「摂関家の文化」“とも云われる文化であった

最早、「余剰品の販売」の領域を超え始めたのである。

本格的な「販売体制」に入らなくてはならなくなった。(C1)

結局、「初期の販売体制」は、区切る事無く続き、本格的な全国的な販売体制が必要に成った。
そして、「輸送」と「安全」に関わる「全国的な組織体制の確立」の必要性に迫られた。

「輸送」には、大量に運ぶには「船」「陸送」が使われるが、これらを安全に輸送できる全国的な「護衛組織の確立」(シンジケ-ト)が要求された。(C2)

「C1+C2=D」の数式が完成した事から、今度はこの組織を使って「紙屋の商い」の組織と「賜姓族」の組織とを分離した。

そして、本格的な「二足の草鞋策」が始まった。

・上記した様に、「嵯峨天皇期」には、C1からC2に移行する時期、つまり、「商い態勢」に到達していた。

100年の「抵抗期間」からやっと脱出し、「木簡から和紙」への「最終の移行期間」に入っていた時期であった。
どうしても、「律令体制」が完成した時期でもあり、到底に木簡では間に合わず、是非にも「和紙」に切り換えなければならなくなった時期でもあった。

更には、つまり、「一般市場」に「和紙」を浸透させる為にも、先導して「朝廷内の和紙の使用量」を一層に高める手段に入るべき重要な時期でもあった。

「嵯峨天皇」は、「青木氏」のこの“「和紙」の「商い態勢」”が進むように、「朝廷内の改革」(和紙の使用)を始めたのである。
其れが、当然に「目論見の根幹」を成していたからである。

この為には、「律令の官僚政治」に任すより、「皇親による国策氏」(青木氏)を作り上げ事が必要であった。
そうする事で、「皇族方の継承や生計の安定」が図られ、「子孫存続」は保障される。
つまり、上記した天智期に反省した「皇族の欠点」の解決、況や、“「大火改新の目的」”は、確実に果たす事が出来ると見込んだのである。

「律令体制の改革」だけでは、「政治課題解決」と「更なる皇族の発展が成されなければ、「真の改革」には成らないとする「父桓武天皇との政争」でもあった。
其れには、矢張り、“天智期に敷いた「皇親政治(大化改新)」に戻さなくてはならない。”とし、“抵抗が少なく信頼でき「皇親政治」を敷かなければならない。”とする戦略で有った。
況や、「三つの発祥源 賜姓五役 国策氏」である。
尚且つ、「ルーツ実家先」(曾祖父 始祖 施基皇子没90年)では、“「四家制度」”を敷いていた絶好の「皇親族の賜姓族青木氏」がある。
この環境を政治的に使わない手は無い。
況して、「25年間と云う衰退期」を経ていて政争に巻き込まれていた「ルーツ実家先」(青木氏)を当然にも引き上げて戻さなければならない。

「政治」「経済」「軍事」、「親族」、「皇族」等の如何なる面から観ても、何れに執っても、「青木氏」を使わなくてはならない。
「政争」に打ち勝つだけの「有能な嵯峨天皇」なのである。先ず使わない手は無いだろう。

この事を読み込んだ上での「嵯峨期詔勅であり附則禁令」であったのである。

・「臣籍降下の証明」
その証拠は次ぎの事で証明できる。
これ以後、「嵯峨天皇」は、「6人の皇子と3人の皇女」、 その後の累代に、「17人の皇子と15人の皇女」が「朝臣族」で「臣籍降下」している。
合わせて、「23人の皇子」と「18人の皇女」には賜姓なく臣籍降下させている。

しかし、現実には、「嵯峨期詔勅」の賜姓の無い「皇族青木氏」の「名乗り」は僅か「4氏」である。
内訳は「皇族から二人」 「賜姓源氏から二人」である。

「賜姓源氏」は、「嵯峨天皇期」から「花山天皇期」まで「11家11流」が発祥した。
しかし、この「11家11流」から「賜姓」の「五家五流青木氏と佐々木氏」には、合わせて13人が跡目に入っている。
この「賜姓源氏」からの13人と、残りの「23人の皇子」と「18人の皇女」は、奈良期の「天智天皇の仕来り」に従い、「賜姓青木氏の五家五流青木氏」の「四家(20家×5)」の何れかの「空籍」に「跡目」として入った事に成っている。

この間の「高位の門跡僧」、或は、「低位の僧籍者」は、「比叡山」か「善光寺」か「平等院」等に入籍する「仕来り」もあった。
しかし、「僧籍数の確認」ができない為に、「佐々木氏」も含めて、全て何れかの「青木氏の四家跡目」等(平安期末期からでは確認できる)に入ったものと考えられる。
恐らくは記録に載らない「僧籍からの還俗者」を加えると、殆ど、「臣籍下族者」は男女合わせて「男50人,女25人」程度は受け入れている事に成る。

「青木氏」は、「四家制度」を敷いている為に、上記した様に、「女25人」は同族である事から、縁者として「女子」も上記した「養女の形」で入るか、「嫁」として直接入るかの形式を採ったと観られる。

しかし、この苦境から考え出された「青木氏」の”「四家制度」”に依って、殆どは、この“「嫁」”も、一度は「四家制度」の“「養女の形」”を採った上で、「跡目」を「四家一族」から迎え入れて一族化している事に成る。

“「直接の嫁」”は、相当上位の「皇族者」、つまり、「天皇の皇女」「内親王」と成るので、結局は“「直接の嫁」“は無かったと考えられる。
この「四家制度」は、「直接の嫁」は原則は採らない。
従って、下記に論じている様に、「継承外」の「内親王」(三人)と成った場合は、記録からの例で観ると、一度、除籍した上で、「佐々木氏」や「青木氏」に養女に成った上で嫁している。
又は、「斎王」と成った上でも、その後に役目が終わり次第、「還俗」して「養女」で入る場合が多く観られる。
「斎王」の「還俗」は、位階が無い為に「政争」に巻き込まれないからで、現実には「青木氏の入籍」には、この「二つの方式」が採られているのである。
この「二つの方式」は世の中の事を知らない「皇位継承外者」に「養女の過程」を課した上で嫁す事には、「賜姓臣下族の青木氏」に先ず馴染ませ「現実の生活」を知らしめる事の義務を課した事にあった。
しかし、[継承者]の「内親王」の場合は、「血流と継承権」を保持している為に、「還俗」できずに、そのままで嫁す「仕来り」を採っている。
仮に、継承権のある「内親王」を「養女化」すると、「天皇家」より「青木氏」の方が「上位」にある事に成り出来ない。
そこで、この場合は、「政争」に巻き込まれる事に成り得て、「青木氏の氏是」に反する事に成り、充分に警戒が必要と成る。
従って、「青木氏」は極力避けた事が系譜からも判る。
どうしても「政治的圧力」に抗する事は出来ない場合は、「四家の養女方式」は採用できず、其の侭で嫁しさせた上で、正式に「青木氏の福家からの処置」として、その「子供」には、“「王位」を申請せずに「無位無官」にして「叙位任官」を受けない”とする様に計らっている。
恐らくは、これが「跡目」を受入れる際の“「暗黙の条件」“であったと観られる。
「青木氏」自らが、「内親王」を「嫁」にと懇願する事は、「青木氏の氏是」から無い訳であるから、「天皇家側」からの「受け入れの臣籍降下」が前提であるので、この「嫁の権威」、即ち、「天皇家の権威」を護りつつも、「青木氏の氏是」を護ると云う「両立の仕組み」を考え出した事に成る。
現実に、天智期から江戸期までに、「四度の実績」がある。

因みに、「施基皇子」の子供の「春日王の母」は、「天武天皇の皇女」で「多紀皇女」である。
この皇女は一度、「伊勢神宮の斎王」に成った上で、還俗して「施基皇子」に嫁している。
「斎王」に成る事で「臣籍降下」して「下位の青木氏」に嫁した事に成る。
これで「天皇家との仕来り」は保たれた事に成っている。
従って、あくまでも「血流」としての「皇位継承権」を女系で持っている「多紀皇女」の子供の「春日王」と、その「三人の孫」には「皇位に準ずる継承権」を持っていた事に成る。
他にも、「聖武天皇」から「井上内親王」、「光仁天皇」から「能登内親王 弥努摩内親王」 等ある。
南北朝の時にも、「時代状況」を反映してか「五家五流青木氏」に二人が入っている。
「湯原王と榎井王の母」も皇族系の「内親王」であった模様である。

注釈として、 しかし、「叙位任官」の申請をしていない。現実には「王位」も除籍申請しているが「政争」から逃れる事に目的があった。
「春日王」も同じ行動を採ったが、「白壁王の即位」で、許されなかった。
「四家の誰」も「叙位任官」をしないと成れば、「白壁王の光仁天皇」に傷がつく事を問題視された。
然し、結果として、止む無く「施基皇子の孫」の全てに「王位の叙位」と「親王の任官」が義務付けられた。

口伝に依れば、「氏是」から「770年の即位」までは、「特別の位」にあった事から、「王位叙任の立場」にあったが「王位」は付けていなかったと伝えられている。
結果として、「白壁王と春日王の2人」と「皇孫王の全員17人」が叙位任官した事に成る。

更に注釈として、 「安貴王 高田王 香久王」には、その「祖母の位階」から「準ずる継承権」が成立していた。
依って、「春日王」本人と、子供の「三人の王」は政争に巻き込まれ、次男の「高田王」を遺して「早死」の「政争没」に成っている。

注釈 「白壁王」の時に「井上内親王」の侭で嫁している。
その後に、政争から逃れる為に嫁した「井上内親王の思惑」と違って、「天皇家」に「聖武天皇の血流直系者」として引き出されて、「元の皇后」と成った。
そして、それに伴い「白壁王」も天皇に祭り上げられて、政争の末に「皇后 井上内親王」は「政争没」している。

「皇族者」が「僧籍」に入る傾向は、現実には少なく、「僧籍」に入っても殆どは「還俗」し、「全国行脚」等をした後に、結局は、「青木氏」に「跡目入籍する傾向」が在った。

この「僧籍」-「還俗」-「跡目」の方法は、“「政争」から逃れられる一つの方法”として「皇族者」に良く用いられた。

この背景は、「青木氏に入籍する事」は、その「皇子に等しい立場の保全」と「経済的な裏付け」があり、この傾向は下記にも論じるが長く続けられた。

「伊勢青木氏」や「信濃青木氏」や「甲斐青木氏」や、平安中期からの母方族の「伊勢秀郷流青木氏」等には、かなりの数が皇子皇女に限らず室町期まで入っている。
一度、「賜姓の無い源氏」を名乗り、その後に「青木氏」を名乗って跡目に入っている「源氏系青木氏」も確認できるところでも「4氏」もある。
「戦乱や政争」などで「皇族系の者」が逃避する際の保護地があった。

即ち、次ぎのシステムであった。
前段で論じた「越前の逃避システム」(ア)
上記する「皇族の継承外者の受入先システム」(イ)

以上の二つとしても、「賜姓五役」の“「青木氏の四家」“は働いていたのである。

「嵯峨天皇」は、上記の(ア)(イ)を認めていたからこそ、「律令制度」の中でも、「第二期の皇親政治の制度」を採用した事は有名なのである。

況や、「避難システム」(ア)と「受入システム」(イ)が、「青木氏四家」を強く頑丈に構築させて行ったのである。

従って、それが故に、「白壁王期-光仁天皇期」の25年間には、「五家五流の青木氏四家」は一時、「皇族内部」の激しい「政争の殺戮」に巻き込まれて、「五家五流の青木一族」は、命を落とし「氏存亡の危機」に晒され続けた。
そして、更に、「桓武天皇期」の「青木氏軋轢の25年間」と合わせての「50年間」を除き、以上の「青木氏保護政策」で「嵯峨期」から、再び、「四家」は拡大して行く事に成ったのである。

・「四家の詳細」
青木氏内部の詳細は次ぎの通りである。

先ず、「施基皇子の生誕」は不詳と成っているが、これを明確にしておく必要がある。
「青木氏の資料」から演算すると、83歳位の高齢であったと成っている。
従って、生誕は632年頃 没年は716年と成る。

(余談 「伊勢青木氏の過去帳」を観ると、不思議に先祖は、「82歳前後2歳」の中で没している。
筆者の直前の先祖の享年を観てもこの条件の中にある。「遺伝的な特徴」があると観られる。
判る範囲で親族を調べると、「突然変異のAB型」で、中に隔世遺伝から0型が2代前に居た事から、AB型から分離したBとA型が出ている。)

傾向として、上記の余談から観て、この様に「伊勢青木氏」は、「過去帳」より観ると、多くの先祖が[高齢長寿]である。
その確率は高く、81歳から84歳で没している。
(当時の平均寿命50歳から観て極めて長寿である)
これは「伊勢青木氏」の中では「伝統的な事」として云われている。
恐らくは、これは「施基皇子」からの遺伝であろうか。
遺伝の傾向が高いとすれば、長い歴史の間、三つの発祥源として、その役目柄から”「純血性」”を護って来た事から確率高く、この評価は出来る。

・「湯原王」(松阪殿)の「福家」には、「二人の王と一人の王女」があり、「壱志濃王」と「市志王」は家を構成した。
王女の「尾張王女」は叔父の「光仁天皇後宮」と成る。
「推定生没」は「青木氏の資料・口伝」から読み取れば、「推定の最低生年」は706年頃とされる。
万葉集には、成人として扱われて、730年に「歌の記載」があり、その第1子の「壱志濃王」は733年に生まれている。
この事から、「推定の最低生年」は706年頃に成る。
「推定の最高没年」は789年頃とされる。
依って、この事から「資料・口伝」は、相当と見做される。

・「榎井王」(名張殿)には、「二人の王」があり、「神王」と「榎本王」は家を構成した。
「推定生没」は「青木氏の資料・口伝」から読み取れば、「推定の最低生年」は707年頃とされる。
737年に「万葉の歌会」で集まったとする記録があり、第1子の「神王」は737年に生まれている。
この事から、成年は、母は不明であるが、「湯原王」との母は違っている事から、次男とされる事から707年頃と成る。
そうすると「推定の最高没年」は790年頃とされる。

「外部記録」から、この「湯原王と榎井王」の二人は、「不詳 770年前没」と成っているが、これは政争没」があった事で推定したと観られる。
しかし、「伊勢青木氏」では、「光仁天皇の782年」から観れば、「施基皇子の始祖長寿」と合わせて、「推定の最高没年」は「789年」と「790年」は相当である。

・「春日王」(員弁殿)には、「三人の王」があり、「青木氏の口伝」では、「桑名殿」の「白壁王」の王より「員弁殿の跡目」に「開成王」が入ったとされている。
「春日王の母」は「皇位継承者」の「多紀皇女」である。
「推定生没」は「青木氏の資料・口伝」から読み取れば、「推定の最低生年」は706年頃とされる。
723年に叙位を受けている事から、第二子の「高岡王」は735年没であり、父「春日王」も「没年」は745年で早死である。
母が皇位継承権を持っている事から、「女系の皇位継承権」を持つ「春日王」と成る。
「他の皇位継承外」の「皇孫王」と成った者の殆どは「政争没」である。
この事から間違いなく「政争没」の可能性が極めて高い。
「春日王」の「政争没」によって、「跡目に問題」が出て、依って、王位の無い「開成」が跡目に入って「政争」から逃れて「四家」を護ったとされている。

(注釈 「開成王」は王位を得られていないとする説もある。その原因は「母方の身分」と観られる。
「湯原王」の「尾張王女」、つまり、「光仁天皇の後宮の子」とする説もある。

筆者は口伝を信じてこの二つ説を採っている。
故に、「後宮」と成るも、実家先の「春日王の四家」(員弁殿)に、「子の定義の仕来り」に従って入れたと観られる。
「政争」から逃れる為に子の「王位」を外して、実家の「員弁殿」の中に入れて子の命を護る為に敢えて「尾張王女」は除籍の方法を採った。
「安貴王」「高田王」「香久王」と、「開成王」は「副役の四家」を興した。

・「白壁王」(桑名殿 709-782 770年に即位 781年に譲位)には、「四人の王と二人の王女」がある。
その「光仁天皇」と成った事から、結局、一時、四家は「空家」となる。
「白壁王の母」は「紀氏の紀橡姫」 紀州の豪族 王女に「紀宮子」がある。
子供の「開成王」は、「春日王」の「員弁殿の跡目」に直に入った。
「桑名殿の白壁王」は、後に、再び、「稗田王」(751年生 母 高野新人、或は、「尾張内親王」は「四家の桑名殿の青木家」を再興した。
しかし、770年には、この「早良王」と「山部王」稗田王」の「三人」は、一応は「継承外親王」と成り、形式上は「青木氏」より外れる。

しかし、「天皇譲位後」(781年)は、「仕来り」に従い、再び、臣下して「稗田王」(31歳没)は「青木氏」に戻るが、2年後に「政争没」に成る。

(注釈 この三人は、譲位後に「青木氏」に戻ったと考えられ、その後にも、依然と「政争」に巻き込まれる。
遂に「早良王」は罪を着せられて配流先で「政争没 785年」と成った。)

ただ、「山部王」は、「青木氏」の「継承外親王」であったが、政争に勝利して依って「桓武天皇」に成った。
純然として「皇位継承者」の「他戸王」(771年生)と「酒人王女」(761年生)は、「皇后の井上内親王」(政争没)の子である。
依って、「聖武天皇家の血流」を持ち、唯一の「男系皇位継承者」と成り、正式に「青木氏」より完全に外れる。

その後に、「他戸親王」は「男系皇位継承者」であった事から「政争没」、 「酒人内親王」は「女系皇位継承者」と成るが、矢張り「政争没」と成る。

(注釈 「能登王女」(752年生 母 高野新笠)は、「継承外内親王」と成り、除籍を願い出て「市原王」(近江川島皇子の曾孫)に嫁し、政争から逃れられて「親族結婚」と成る。 )

他に、「弥努摩内親王」(母 「井上内親王」)は「皇位継承者」であったが 崩御後、除籍して「伊勢青木氏」に戻り、叔父の「榎井王」(名張殿)の子の従兄弟「神王」に嫁した。
この事から、政争から逃れられ、「四家の仕来り」に従い「同族結婚」と成り、「名張殿の子孫」を拡げる。

(注釈 「白壁王」の時、「采女」(県犬養男耳)との子で、「王位」は無く、「妾子」として生きる者が居た。
即位後、この「王位の無い者」であった事から「広根氏」の賜姓を「光仁天皇」から態々受けた。
これが”「広根諸勝」”とされるが詳細は不詳である。その後に、「広根氏」として子孫を遺した事が判っている。
この「広根氏」から上記の4氏の内の3氏は、この末裔ではないかと観られているが不詳である。)

夫々、「四家」は「松阪殿、名張殿、員弁殿、桑名殿 (四日市殿)」と呼ばれていて、「三つの発祥源の役」と「賜姓五役の任」を担当分けして任されていた。
「松阪殿」が“「福家」”と呼ばれて「氏全体の統率役」を任されて運営していた。
この「仕組み」を“「四家」”と呼ばれていた。

しかし、この「主役(賜姓五役等)」を実行する何れの「四家」にも、その「経済的裏付け」が「守護地の知行」では不足していた。
そこに、「平安初期の桓武天皇」の「律令政治の国家体制の確立」から、一時身を置いた「出自先・実家先」の「皇親族の青木氏の存在」が弊害と成り、「政治的な圧力」を掛けられて衰退した。
この時、「桓武天皇派」と、後の子供の「嵯峨天皇派」の間で、激しい「意見対立の政治的闘争」が起こった。
結局は、「嵯峨天皇側」が勝利を治め、再び、「青木氏」は「皇親族」の「国策氏」として命じられた。
(上記)
そこで、「国の経済立直し」をも含めて、「和紙生産とその殖産事業」を“「裏の副務」”として「松阪殿」を中心に「四家の青木氏」が、その「開発」(紙屋院)を手掛ける事に成った。
そして、「平安期の中頃」には、正式には「二足の草鞋策」の態勢(925年)までに持ち込んだのである。
これに依って、「三つの発祥源、賜姓五役、国策氏」と「福井逃避地」「下族者受け入れ役」の役務を遂行するに必要とする力が付居た。
この「四家」を護る「シンジケート態勢」も充実して、“「四家」”は何とか持ち堪えられ、且つ、ここに“「四家制度」”は確立を観たのである。

他の「主要守護地」の「四家四流の青木氏」も「同じ仕来り」に従って、「四家制度」を敷いていたが、矢張り同じ問題を抱えて苦しんでいた。
これを救う為に「伊勢青木氏」が「先導役」として他の「四家四流青木氏」にも、この「和紙の生産と殖産」に関わりさせて、再び、引っ張り上げた。

(上記した「嵯峨天皇の目論見」の後押しもあった。)

「奈良期末期の直前」では、この“「四家」”には、代々「皇位継承外」と成った「真人族、朝臣族の皇子」が、「他の四守護地青木氏」と共に「跡目」に入る仕組みに成っていた。
しかし、この時期には、上記の様に、「天皇家」そのものに「皇位継承の跡目」による「存亡の危機」が起こっていたのである。
然し、「五家五流青木氏」への「跡目継承者」は無かった。
それどころか「逆の現象」と成っていたのである。

(注釈 然りながら、「臣下族の施基皇子」の「第六子」の「光仁天皇」の子の「桓武天皇」(四家桑名殿の山部王)は、上記の様に、「天智天皇」が定めた「第四世族内第六位皇子」の「賜姓の仕来り」を全く破棄して、「四家制度」をも否定し、母方(伊賀住人の「高尊王の末裔」 「高野新笠」 「京平家の祖」)の氏族に「たいら氏 京平家」を賜姓した。
そして、「伊勢青木氏」が領する「伊勢北部伊賀地方」を「半国割譲」して与えて引き上げた。
依って、「五家五流青木氏」は平安初期の26年間程度は衰退した。)

(注釈 その後、「皇親族」を無視するこの「政治体制」に反発した「嵯峨天皇」が、再び、「天智天皇」が決めた「賜姓方式」とその「賜姓族の四家制度」を復活させた。)

この時、この「賜姓方式」は、「賜姓名」を改めて「源氏」とし、「皇族の臣下族」、又は、「下族する皇子族」に対しても「青木氏」を名乗る方式に変えたのである。
但し、この「賜姓源氏」と、賜姓ではない「皇族系青木氏」に対しては、「光仁天皇まで続いた賜姓青木氏」が持つ様な一切の同じ「利権」、「財産」、「主務」、「官位官職」、「権威」等を全く与えないとする「嵯峨期詔勅」を発した。
合わせて「賜姓青木氏の慣習仕来り掟」の一般の「使用の禁令」を発したのである。
(明治3年まで護られた。)
「五家五流青木氏」以外に、「百姓の民」が「青木氏」を名乗る事と、その「習慣仕来り掟の使用」を禁止して、「賜姓青木氏」を特別保護したのである。

(この「百姓」とは、元来、公家と武家を除く全ての民の事を表現した言葉で、室町期まで使われていたが、江戸期に成って、「士農工商」の身分制度に依り、「百姓」とは、「農民」を指す言葉に変化した。)






> 「伝統 15」に続く。

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