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:「青木氏の伝統 7」-「仏舎と仏壇」


[No.324] Re:「青木氏の伝統 7」-「仏舎と仏壇」
投稿者:福管理人 投稿日:2014/10/22(Wed) 09:08:52


> 前回の末尾

>この様に「内仏舎の原型様式」や「外仏舎の原型の石墓様式」も「インド墓」の流れの「円古墳」を汲んでいたのである。
>それが、日本式に「環境や仕来り」(「和魂荒魂」と「古代仏教」)に合して改良した事に成る。
>丁度、「灯篭の形」に成っている。
>そして、はっきりとした記録に観ると、平安期800年過ぎ頃から石墓の「灯篭型外仏舎」に蝋燭を灯して先祖を導く行燈とした。
>「木製外仏舎」には「天武天皇の詔勅」が出た直ぐ後の690年頃から使われた模様である。
>現在の「庭灯篭」はこの「外仏舎型石墓」(灯篭型石墓)が変化したものと考えられている。
>この「庭灯篭」の汎用は1360年頃から絵画にも観られる様に成った。
>実は、この「庭灯篭」が、更に「密教の内仏舎」の上記の”「迎え行燈」の役目”に発展を成していたらしい。

>”灯を点灯して、先祖を迎え入れる”と云う行為は、「古代仏教の概念」としては強いものがあり、「仏舎の時代変化」は、調べると「蝋燭の時代変化」にも合致している。



・「仏舎の時代変化」
「仏舎型の木製墓」は、”684年から790年頃まで”の約100年間は保たれていた事に成る。
仏舎の箱の空間部位に、”「蝋燭と線香」を点灯する仕来り”と成って行った。

注釈
(「線香」は紀元前から使われていた。日本には「仏教伝来」と共に大量に持ち込まれた。
「焼香」として使われていた。「香木」(沈丁花の古木)として「日本古来」にもあった事から、「祭祀や占い等」にも用いられた模様で、これが「線香」に成って行った。
この「線香」と同じく「蝋燭」も良く似た経緯を持つ。日本古来には「蜜蝋」「松蝋」が使われていた。
飛鳥の「和魂荒魂の宗教概念」の時代にも蝋燭や香は使われていた。
香の習慣からの「香・線香の時代経緯」と、「蝋燭」の時代経緯]と、「仏舎の経緯」とは一致する。)

(仏舎木製墓・内仏舎)  「線香と蝋燭」 684年(520年)
   ・・       ・・・
(仏舎型石墓) 「蝋燭」の点灯 石質に   790年頃 
(箱型仏舎石墓)「蝋燭」を箱型の部位に点灯 895年頃
(角柱型仏舎石墓)「持仏堂型仏壇」が出現と共に大量に使用 950年頃
(灯篭型外仏舎)「蝋燭」が国産化に成功して普及  1000年
(角柱型石墓) 「蝋燭立て」が別に設けられて祭祀 1350年

そもそも、この灯篭の蝋は、次ぎの様な歴史を持っている。
・「蝋燭の時代変化」
648年に中国晋にて本格生産、
747年に大和に輸入
894年に国産を検討(量産化・実用化に至らず)
1000年に国産化品成功、(ハゼ実、松脂製で成功 特定階級に出まわる。紀州や奈良で生産されていた。)
1350年に補充(中国製・一般階級でも使用)

747年頃には特定階級の上層部で使われた。
「灯篭型外仏舎」への「蝋燭」は、”894年頃に国産品”と合わせて使われる様に成り,大量使用の引き金に成った.
しかし、「庭灯篭」を始めとして、国産品の量産と輸入品の量で広範囲に使われる様に成るには、蝋は1350年頃から用いられた。
900年頃から、中には、余裕から「蝋燭」で飯を炊く等の事が一部で優雅な遊びとして使われる程度になった。

”810年から850年頃前”には、「持仏堂型仏壇」が上級階層に採用された。
そうすると、この頃の墓所は、「仏舎型」の「天武天皇の詔勅」に示す「木製の墓」であった事は考え難い。
「青木氏の古代和紙」に観られる上記した「7つの変遷」(重複)比較すると良く判る。

A  和紙の良質な生産開始に50年   (730年頃 正倉院 紙屋院 白鳳文化 記録)
B  和紙の殖産を始めて余剰品を作り出すには50年    (770年頃 平城消費文化)
C1 商い態勢に50年   (810年頃 平安初期文化 摂関文化初期)
C2 販売能力に50年   (890年頃 平安中期文化 摂関文化中期 記録)
D  興業として50年   (950年頃 国風文化前期 摂関文化後期 記録)

丁度、「仏舎型石墓」(790年)は、Bの時期か、C1の「商い態勢」の時期に出来上がっていた事に成る。

更に、「持仏堂型仏壇」(810-850年)は、C1の「商い態勢」の時期に出来上がっていた事に成る。

つまり、C1の「商い態勢」期に「仏の祭祀方法」も整えられた事に成る。
Sの時期の頃は、684-690年の「内仏舎」

C1の「初期の頃」は、「外仏舎」の「仏舎型石墓」
C1の「後期の頃」は、「持仏堂型仏壇」

青木氏は、”商いの態勢確立の変遷”で苦労していて、何とかその芽が出て来た時にも、「仏舎の問題の解決」に当たっていた事に成る。
「商いの7つの変遷」「蝋燭の経緯」「古代和紙の経緯」「仏舎の経緯」等と「青木氏の変遷」が不思議に時代性が一致している。
「青木氏」が文化に大きく影響を受けて変遷して居た事を物語る。
何故そうなるかは、発祥期から「古代和紙」と共に生きた事が原因していると考える。
そして、その流れに逆らう事無く、「密教の慣習」に従ったからである。
その「密教の慣習」は「仏舎」と云うものに注ぎ込まれた。
そして、「仏舎」が「商い」ともに形が出来上がって来た「変遷時期」であった事が判る。
つまり、何れにもこの期間には、”「和紙」”が連動していた事が判る。
平安期までの「青木氏」を数式論で表現するならば次ぎの様に成るだろう。

810年>「商い」=「古代和紙」=「仏舎」>684年

そこで、平安初期の上級階層の万葉歌人の墓所を調べると全て何らかの形で「砂岩の墓石」である事が判った。
但し、後付で観光名物化の為に、原型を留めず現在風にアレンジして「平安期の墓石」としているものも多く、これを除くと、810年頃の平安遷都期前後と成る。

「仏舎墓石型」に成った上限は810年頃と成る。

さて、下限はどの位の年代かに成る。
そもそも、「青木氏」は、「国策氏」として、「国政」の最先端を何にしても走らねばならない宿命がある。
従って、他氏の状況を調べて、”「青木氏の事」”を読み込むのは無理に成る事が多い。
苦労する点である。
本論も、全てこの宿命に左右されている。

故に、「天武天皇の詔勅 684年」に率先して、”「氏墓」”として”「仏舎」”を屋内外に作った筈である。
その時は未だ詔勅に従って「木製」であった筈である。
しかし、この「木製墓」の「外仏舎」は、風雨に晒されれば、幾ら良い材質を作ったとしても20年もすれば風化して朽ちる。
とすると、「700年」頃に「石質の仏舎」にする必要に一度迫られた事に成るが、「天武天皇の詔勅」が出て間が無い時期である事から、無理であった事が考えられる。
700年以降と成れば、「天武、持統天皇没後」である事から、この柵は消えている。
しかし、未だ、発案者の施基皇子は存命である事から、716年没期に契機も訪れるし、次ぎの修理期も訪れる。
この期に「石墓」を選んだ可能性がある。
まして、始祖は後付「春日宮天皇陵」、元祖の二代目「白壁王」は「光仁天皇陵」として、石室の墳墓で祭祀されている。
と成れば、つまり「公式墓」は「石質の仏舎型の円墳」と成れば、この「二人の先祖の氏墓」は必然的に「石質」の「仏舎型墓」と成るだろう。
そうしなければ、周りが「石墓」にしているのに、後から遅れて「石墓」とは、その「賜姓氏」や「国策氏」の立場は成り立たない。
あくまでも”率先して範”としなければ成らなかった筈である。
結局は、686年に、叔父の「天武天皇」 698年に妹の「持統天皇」 甥の「文武天皇」の707年期は、未だ「施基皇子」は長生きして存命中である。
その716年、息子の「白壁王」の「光仁天皇」は781年の「年代経緯」を以てして、率先して「石墓」にするには、次ぎの経緯が働く。
つまり、684+木質寿命20年=704年となり、持統天皇の698年を超え、且つ、直ぐに文武天皇の707年以降と成る。
この707年は、「仏教の仕来り」上から「上位の裳」に服する必要から賜姓族としては避けねばならない。
だとすると、上記の経緯年数では710年には裳が明ける。
しかし、この時、未だ、始祖の施基皇子は存命中であるから、石墓にするにはこの716年のみしか無く成る。
「春日宮陵」は「後造り」であるので、問題は無い。
「光仁天皇の781年」は喪主身内であり、これまでに「仏舎石墓」にしている事に成る。

「仏舎型石墓」は、716年が下限域と成る。

仏舎石墓の下限716年ー上限810年と成る。


ここで、再度、上限の810年に付いて検証する。
光仁天皇の子供の桓武天皇は施基皇子の孫に当たる。
しかし、この様な一切の政治的柵を排除する為に、平安遷都をし、「皇親政治族」を排除し、「青木氏の賜姓」を中止し、阿多倍の「平族」を賜姓して、「青木氏」を政治の場から排除した。
「青木氏」は、「賜姓族」でありながらもこの時期に一時著しく衰退した時期でもある。
「国策氏」としての「宿命と義務」は、一時抑えられた時期でもあって、勝手な事は出来なかった。
従って、810年以上の上限はあり得ない。
この後は、「持仏堂型仏壇」に成った為に、一切の古来密教性は低下したので、尚あり得ない。

従って、「施基皇子」の息子「白壁王」の「光仁天皇期」が最高の隆盛域であった。
(桓武天皇は施基皇子の孫)
「白壁王」が皇位継承した770年頃が上限と成り、恐らく、この716年から770年に施基皇子の墓を「仏舎石墓」の墓にした事に成る。
上級階層は「平安遷都」で「墓」どころの話では無い筈で、遷都すれば墓も移す事に成るし、「青木氏」が一切の事を最早、請け負う事は無く成る。

「仏舎石墓」は「770年前」までと決められる。

この年以外には無い。
実は、この裏付けと成る理由がある。
「伊勢青木氏」の始祖「施基皇子」の嫡男の「白壁王」は全くの皇位継承外である。
第四世族内でも無く、「第四位皇子」でもない。
確かに、大化期では、父が「第四世族」で「第六位皇子」ではあったが、「皇位継承権」のある「真人族」でも無く、典型的な継承外の「朝臣族」であった。
しかし、ところが両者共に「天皇」と成った。
「施基皇子」はその勲功から、子供の「光仁天皇」が父を「春日宮天皇」として「後付した」のである。
これは、その前に、奈良期末期には男系継承者が無く、「女系天皇」が四代続いた事から更に皇室には子孫が発生せず、「皇位継承者」が無く成ってしまったのである。
そこで、困ったので、無理やりに請われて「伊勢青木氏」の「二代目の第六子の白壁王 66歳」を引っ張り出し天皇にしたのである。
この為に、天皇家の女系の末孫皇女(井上内親王 36歳)を「白壁王」に嫁がせた。
むしろ、女性の「孝謙天皇」の「女の戦い」から逃れる様に、”逃げた 嫁いだ”と云う事の方が適切であろう。
この皇女に、結局、嫡子が生まれるが(天武天皇系の女系親王の誕生)、それを理由に父の「白壁王」が「光仁天皇」として即位した。
その後、皇后と成った「井上内親王」とその子皇太子は毒殺される。
結局、「阿多倍王(高尊王 平望王)」の孫の「高野笠人の嬪」に子供が生まれて、これが後に「桓武天皇」と成った。
その為に、光仁天皇期は青木氏等の「皇親政治」を敷き絶大な権限を持ち政治を断行した。
ところが、その身内の「桓武天皇」は、反転して、「律令政治の断行」を理由に「皇親族」を排除したのである。
この事に反発して、政治抗争が起こりして、その抗争を制し潰した「嵯峨天皇」は、逆転して、政治を「第二期皇親政治」を断行した。
これが、「賜姓源氏」であり、「嵯峨期詔勅」に至った理由なのである。
しかし、この”賜姓した源氏”には、「賜姓族の身分」と「国策氏の役目」を与えず保護もしなかった。
「青木氏」は、約30年で、ここで再び息を吹き返した事に成る。

この背景から、この「仏舎石墓」等の改革の実行は、”710年から760年”の50年間を於いて行われた事に成る。
この「慣習仕来り掟」を重視する「上級階層」では、この時にしかないと考えられ、裏付けられるのである。

つまり、これが大化期の「簡素な仏壇化」をした最初の「詔勅による仕来り」である。
「簡単な家の形をした仏の舎」を家の中に治めた事に成る。

これは「上級階層の詔勅の仕来り」のみであったが、その階層の程度に依っては、次ぎの現象が更に起こった。
それは、次ぎの内容であった。
「仏舎」の中に安置される「本尊の仏像」より前は、「毘沙門天像」などや「釈迦立像」やその「曼荼羅絵の掛け軸」を「仏舎」の中央奥に掛けたものであった。

ところが、これは、平安期の「三大密教の考え方」に左右した。
特に、この考え方は「天台密教」と「浄土密教」の2宗に限られた。
平安期中期前(900年頃前)には、この”「違い」を殊更に披瀝するのは拙い”と考え、敢えて「上級階層の氏」が「建立した寺院」には、「密教宗派」を限定せず、両派の社殿を建立配置する現象が起こったのである。
この為に、「内部の本尊」の造像では、「仏像」や「三昧耶形」だけでは、その「宗派の特徴」を充分に表現できないと考え、「仏画」でその「密教性」を強く表現しようとした。
この流れで、「本尊」は「仏画」とする現象が上級階層に広く起こった。
中でも、「嵯峨期の嵯峨源氏」の別荘として建立された「平等院」は、その典型的なもので、院内には数多くの殿、堂、塔、蔵、所が建てられたが、これらの中には、「仏画」を以てその「二つの密教性」を競う様に表現している。
これは当時の「和魂荒魂」の「古来の宗教」と「伝来の密教」の融合、或は「習合過程の状況」を物語る現象である。
特に、「古来の宗教」(和魂荒魂)を堅持しながらも、「三つの発祥源」と「国策氏の立場」から「青木氏の密教浄土宗」の「受け入れ状況」は、この傾向が強かった筈である。
それを最も引き継いだのは、後に庶民から判り易いと信頼され台頭して来たその系列の「顕教の浄土真宗」であった。
この「顕教の浄土真宗」は「仕来り」として、「仏画」を「本尊」として、厳しくその「仏画の内容」を定めて、各地に建てられる寺には ”仏画を本山から手渡す仕組み”を採っていた程であった。
この傾向は室町期中期まで長く続き、現在でも地域によっては、この仏画を本尊としているところがある。
一般の「武家階級」には、この「天武天皇の詔勅」による「仕来り・慣習」は未だ無かった。
810年から850年頃に掛けて「持仏堂型仏壇」が一般化してから移行の普及であった。
この平安末期頃までは、公家と上級官吏と上級技能官吏(青木氏)の範囲に留まった。

「青木氏の仏舎」
そこで、上記した様に、「青木氏」は何時頃からこの「仏舎」で祭祀し始めたかと云う問題である。
「青木氏」は、最初に「仏」となった先祖の始祖は、「天智天皇第6位皇子」の「施基皇子」であり、その最初に正式祭祀したのは716年である。
この時に、理屈上では、少なくとも「最初の仏舎」を持った事に成る筈である。
但し、この時前には、賜仏の「大日如来坐像」と「毘沙門天像」と「大蛙像」等のこれに付随する”「三昧耶形」の仏具”があって、祭祀されていた。
しかし、「仏舎」としてのものは、正式にはこの時に設けられた事に成る。
従って、「釈迦立像の本尊」はこの「仏舎設置」の少し前か直前のものと成る。
そして、恐らくは、上記した様には、「天武天皇の詔勅の仕来り」で、「密教浄土宗」では、既に「仏画」が「本尊」としていた事にも成っているので、「青木氏」が持っていた「二つの仏画」がこの時のものであった事に成る。
この「二つの仏画」が、「釈迦立像」と同時期か、その前の「大日如来坐像」「毘沙門天像」の信仰の祭祀時に使用されていたものかである。
この間、長くて50年程度差のものと成る。
何れの祭祀に使われていたかは確定は困難であるが、家内の事であるので検証出来ない事は無い。
要するに、兎も角も、上記の「青木氏」が持つ「二つの仏画」はこの時期50年時のものであった事に成る。
それから押し出せば判る筈である。

丁度、その直前に「古代仏教」が伝来していた。私伝で522年 公伝で552年である。
「青木氏」が発祥したのは647年であるので、最大で100年前と云う事に成る。
「仏舎の天武天皇の詔勅」が出たのは684年で、「皇祖神の伊勢神宮の遷宮」では、「天智天皇」が伊勢に定め、正式に定めたのは、詔勅の1年後の天武期685年である。
そして、初回式年宮は690年の「持統天皇」のその時であった。

そうすると、「青木氏」が、最初に「仏舎」を持ったのは、論理的には式年宮後の26年後の716年と成る。
この時は、未だ、現在で”「仏壇」”と云われるものは、古来の「和魂荒魂の祭祀方法」であって、「天武天皇の詔勅」に基づく「仏舎」であった事に成る。
当然に、この「仏舎」には、既に「密教」は伝来していた事に成るので、その影響を強く受けていた事に成る。
この時の「密教の青木氏」には、「大日如来坐像」、「毘沙門天像」、「大蛙像」、「釈迦立像」と「三昧耶形の仏具」や「仏画」等の一切の「密教具」はあった事に成る。

つまり、後に、”「仏壇」(持仏堂型仏壇)”と成るが、この時は、「仏舎」の「中央の本尊」には、「釈迦立像」が安置されていた事に成る。

さて、そこで「施基皇子没716年」に正式な「仏舎」が設けられたとする年以前には、既には、「青木氏」には上記の「密教仏具」一切は備わっていた可能性がないのかと云う疑問である。
普通は仏があって「仏舎」があると云う慣習に成る事は高い。
しかし、”当時の慣習仕来りはそうであったのか”と云う疑問が先に来る。
筆者は、”「仏の有無」如何に関わらず「仏舎」と云うものを備えた”と考えている。

例えば、この当時の円墳等を観ると、”死後の円墳建立”では無く、事前工事に入っていて前もって作って置くと云う形式を採っていた事が判っている。
天武天皇の「仏舎の詔勅文」から観ても、”死後に作れ”とは勅令していない。
下記でも詳しく論じるが、次ぎの様な概念であった。
平安期に出て来た「持仏堂型の仏壇」は、”「衆生の意志を繋ぐ場」”が概念である。
奈良期の詔勅の「仏舎」は、”「先祖と会する場」”が概念である。
「仏壇」は「仏の墳」であるの比して、「仏舎]は「仏の家」であった。
この概念から、我々は”人が没しての仏壇”の感覚に支配されているが、当時の平安期までの「仏舎」に対する感覚は、”「先祖と会する場」”としての感覚が強かった。
そもそも、現在感覚に引き継がれている”没してからの「仏壇」”でなく、且つ、”「先祖の意志繋ぐ場」”ではなかった事に成る。

依って、「仏の有無」如何に関わらず、”先祖を祭祀する場、” ”先祖の尊厳を伝える場”であった事に成る。

従って、この考え方から、「天武天皇の詔勅」が発せられた時に、直ちに「仏舎」を建立した事が判る。

(「施基皇子墓」は「高円山」の東に「後附け」の「春日宮天皇陵」がある)

つまり、「天武天皇の詔勅期684年の詔勅」に合わせて先に準備していたと観られる。

何故ならば、「大日如来坐像」や「毘沙門天像」などの「密教具等」を祭祀する前から用意され、「和魂荒魂信仰」と「神明社信仰」をしていたのである。
依って、敢えて”準備せよ”と命令が出ているのに、”仏が無いから”として、”「仏舎」だけは別にする”と云うことは「賜姓族の慣習」としては考え難い。

そもそも、この詔勅の「政策発案者」は、最も信頼されていた「施基皇子」本人である。

(注釈 仏舎への保釈: それまでの中国の律令の模擬では無く、”独自の律令を作る事”を目途として、天皇に代って全国を飛び回った経験から、全国の実情に合った事柄を規範に、勅命に従い全国にある善い「習慣仕来り掟」等を取りまとめ集めて「善事撰集」を偏纂して「持統天皇」に報告奏上した。これが「仏舎」や後の平安期の「律令政治」の根幹と成った。)

「草壁皇太子」に代わって施政を採っていたのは、「日本書紀」にも書かれている「青木氏始祖」である事を忘れてはいけない。
”詔勅を発する”と云う事は、その前に「仏教の影響」を受けて、王族の円墳墓等には、一部でこの「仏舎方式」の基礎的な方法で祭祀が行われていた。
この事から、全体にこの祭祀を早く及ぼす為に、「仏舎の命令」を詔勅を使って発した事に成る。
その一部とは、王族とは別に、「上級階層」では、「仏教伝来 522年」に応じて、いち早く取り入れたのは「青木氏」であった筈である。
何故ならば、「青木氏」はそもそも「三つの発祥源」で「国策氏」である。
民によりも、務めとして最も早く率先して採用する必要に迫られていた筈である。
上記した様に、率先して「神仏」を習合させて、「密教」も取り入れたのも「賜姓青木氏」である。
其れなのに「仏舎」だけは”「別だ」”と云うのはどう考えてもおかしい。
「仏」や「先祖」の有無に関わらず、先ず、国政上、「青木氏」が範を示さねばならない立場にあった。
位の一番に、大化期の賜姓時の当初は,まだ「菩提寺形式の慣習仕来り」は、未だ社会の中(720年頃建立完成)には無かった。
依って、居宅に安置されていた「大日如来坐像」と「毘沙門天像」の横の部屋に「内仏舎」を設けた筈である。

(菩提寺完成後に「大日如来坐像」は菩提寺に安置された。「毘沙門天像」と「大蛙像」は居宅の「内仏舎」に安置する形式を採った。 下記の「釈迦立像」で論じる。)

果たして、「青木氏」が「内仏舎」「外仏舎」の両方を同時に設けたかの疑問であるが、「天武期の詔勅」は、先ずは「外仏舎」から念頭に於いて述べている事から、「外仏舎」と「内仏舎」を同時に設けたと観ている。
「外仏舎」は、「墓」と変化して、終局、その「墓」を祭祀する「菩提寺」へと「一対の形式」に発展したが、この時点での「外仏舎」は「寺形式の建立と完成」までに至っていなかった。
この時点では、「天武天皇の詔勅」に従った「簡素な仏舎」で、その周囲にはこの「外仏舎」を保護する様に「仮屋社」の様なものを建設して、周囲を樹木で覆う「墳丘」の様なものにしていたと観られる。
その後、「施基皇子」没後(716年)頃には、「外仏舎墳丘形式」から「墓所」(下記)に合わせた「菩提寺形式」に仕上げ直したと考えられる。
これも「外仏舎」の”見本的な最終的な完成行為”であったと考えられる。
恐らくは、「内仏舎」も「釈迦立像」を本尊に、左右には「脇侍」の造像を安置し、側面には「密教仏画」を配置した「一連の造形」(下記)を作り上げて見本的なものとしたと考えられる。

あくまでも、「賜姓族」である為に、この時点では、「内仏舎」も「外仏舎」も青木氏がその見本的なのを示しす事に目的があった。

「外仏舎」では、「仏舎形ー墓ー菩提寺」
「内仏舎」では、「仏舎形ー本尊ー脇侍造像ー仏画」
以上の一連の形式と作法の見本を示したのである。

それは上記の青木氏の「二つの仏像の祭祀」が既にあり、「釈迦立像」と「二つの仏画」がある処を考え合わせると、同時でなければならない事に成る。

そもそも、「内仏舎」と成っているが、この形は ”庇を持つ小さい家の形”であった。
これを「大日如来坐像」と「毘沙門天像」の右隣に設けると成ると、”付け足しの建て増し”と云う事には成り、”周囲の目線”からも「模範」とするには無理であったと考えられる。
建てる以上は、目立つ様にもする為にも、”専用の「大きな仏間殿」(仏舎殿)を設える事に成った”と考えられる。
何しろ、周囲に追随して建てるのでは無く、”恣意的にも大々的にも目立つ様に、”これぞ青木氏の仏舎殿”を建設したと考えられる。
明治期の消失の家と現在の古家の仏間内容からも、小規模成れど「仏舎殿」の形を遺しているので、これ以上の形式を持っていたと考えられる。
当に、伊勢の松阪町の9番から11番までの「侍屋敷」(後に本領安堵で蒲生氏郷より与えられた。)に、平等院の様な「仏舎殿」(菩提寺の原型)を建設したと考えられる。
この頃(850年頃まで)の「仏舎」は、「持仏堂型仏壇」(下記)の様に量産されて定型的なものでは無く、都度、”依頼主の意向で外形と内部の装飾まで建設する仕様”であった事が記録から読み取れる。(その証拠が二つ遺っている。 下記)
「青木氏」に類じて上級階層は、競争する様に、”誇示する意向”も大いに働いたと考えられる。
その様に仕向けた事が考えられる。
それ故に、その「氏の密教性」も働き、より普及させる為にも、「内外の仏舎」は「自由仕様型」であった事に成る。

「持仏堂型仏壇」
それに比して、現在の「仏壇」となるものは、寺の中の「持仏堂」をそっくり模擬したもので、この手本と成った「持仏堂」が現れたのは嵯峨期頃である。
その後、少なくとも850年頃前後に、現在の「仏壇化」がうまれ、1000年に向けて次第に中流階級にも一般化したものである。それまでは、上記の「庇付きの仏舎」であった。

その前に、念の為に「仏・舎」が「仏・壇」と成ったには、一つの経緯があった。
仏教の発祥地の「インドの記録」では、次ぎの様に書かれている。
上記の事は ”インドの仏の壇の経緯”をみると頷ける。

”土の上に枠を組み、丸く盛土して、そこに仏を埋め、その上に仏具を載せて祭祀した。とあり、
その後、この土が雨風で流される事から、上に”「箱」”を被せたとある。
円墳の原型と成ったのであるが、”土の上に枠を組み”は「仏舎」の形に発展し、”仏具を載せ・・箱を被せた”は「寺社」と「杜」に発展した考えられている。

この事から、平安期以後の「持仏堂型仏壇」には、土辺の「壇」と云う字を用いる様に成った。
「仏・舎」から「仏・壇」となった所以である。
これが、上記した日本の「円古墳の原型」であるとされている。

「仏舎」と「仏壇」の違いが出ている事は、”「舎」と「壇」の違い”と成る。
そもそも、「舎」は”木の「家」”、「壇」は”土の「墳」”と云う事に成る。
「家」は ”人の居る場”、「墳」は ”死者の埋する場” と云う事に成る。

故に、「青木氏」は、「和魂荒魂の概念」と「密教の概念」の「神仏習合」から ”先祖と会する場”の概念が強いのである。 
つまり、「持仏堂型仏壇」の”死者の埋する場”と云う概念は無いのである。
この点が大きく違うのである。
これが「青木氏の伝統」の「根幹」なのである。

・「釈迦立像」と「二つの仏画」
そこで、「仏壇」には「仏像」は、本来は必要無い訳であるから、この遺された「釈迦立像」は、上記の事から ”「仏舎」”の中央に安置されていた「本尊」であった事が判った。
しかし、上記した様に、「曼荼羅絵等」を含めて、「釈迦天女像」などもあった事が記録に遺されている。上記した「二つの仏画」である。

では、”この「二つの仏画」が、何故、「持仏堂型仏壇」に掲げられていたのか”
この疑問を解く鍵がある。
最早、”平等院の持仏堂”の中をそっくり模擬しているから、一切の仏教が説く仏具は小型にして揃っていて、敢えて他に飾り立てる必要性が無い事に成る。
況して、”死者の埋する場”には必要が無い。
なのに、”何故、「二つの仏画」を飾り立てたのか”である。
当然に、ある「宗教的意味」があるから敢えて飾った事に成る。
特に、「密教浄土宗」と「顕教浄土真宗」が拘ったのかである。
拘らなくてはならない「大きな理由」があったからである。

それは、上記に論じた「壇」に関する「意味合い」である。
イ 一つは、「死者の埋する場」の意味(墳の意味)
ロ 二つは、「量産仕様」の仏壇の意味(持仏堂模擬型)

宗派に関係なく量産的に「持仏堂型仏壇」が出来て仕舞えば、宗派が主張する「宗教概念」は薄らぐ事に成り拙い。
宗派を表現しなかった「平等院の持仏堂」を模擬したのであれば尚更である。
古くからあった「公家衆」を信者とした「天台宗密教」や、古代密教仏教をベースとして上級階層の武家宗を信者とした「浄土宗密教」にとってみれば、「持仏堂型仏壇」は更に一般化して信者を増やす事に繋がるとして歓迎された。
しかし、反面、「量産仕様」は、「宗派概念」や「独自の密教性」が、強く仏壇に表せない事には問題があった。
そこで、再び脚光を浴びたのは、「仏舎」に使われた上記の「仏画本尊」であった。
この「仏舎」の「仏画本尊」を「持仏堂型仏壇」に掲げる事であった。
これで、先ず上記の二つ目(ロ)の問題は解決した。

ところが、もう一つの問題であった。
「死者を埋する場」或は、「死者を祭祀する場」に対する考え方である。
「先祖と会する場」とは異なる。

「仏壇の概念」
「持仏堂型仏壇」には、「墳」とする問題があった。
この「仏壇」には、「密教性の基本概念」である仏舎の”先祖と会する場”は無く、単に、”「仏先祖」との間を取り持つ「道具=仏具」”とする考え方が強かった。
つまり、「インド仏教」の「外来的な原型概念」が「壇」と成って、「持仏堂型仏壇の構え」と成っている。
そもそも、この「仏壇」には中央に釈迦像があり、その左右にその弟子たちが居並び、その前には天上を表現する「仏具」(三昧耶形)が揃えられている。
つまり、「天上」にいる「仏」に対して、その「現世にいる導師」が”「衆生の意志」を繋ぐ”と云う、洗練され簡素化された”新しい仏教概念”が構築されていたのであった。

「衆生の意志を繋ぐ場」≠「先祖と会する場」
「仏の墳」≠「仏の家」

「仏舎の概念」として「仏舎」の字が表す様に、「仏の家」とは根底から違っていた。
「仏壇」: ”先祖が天上でお釈迦様に導かれて成仏して、「仏」と成り現世と彼世を往来する。”
「仏舎」: ”現世に、その来世の為の空間を造り、そこに「本尊」を置き、その本尊に仏の先祖が下りて来て会話する。”
と云う二つの概念の差である。

上記で論じた様に、「仏舎」と云う「密教概念」は覆される事に成ったのである。

この二つは根底から異なる概念である。

そこで、困った「浄土宗密教」は、「密教概念」を表す事が出来る「仏画」を描き記して、「持仏堂型仏壇」の左右に掲げた。
その事で、”概念の中和が起こる”と考えたのである。
鎌倉期初期には、この対策を更に強く主張したのが「親鸞の浄土真宗」(親鸞の孫覚如)であった。
最早、「真宗」は「持仏堂型仏壇」そのものを取り除き「本来の仏舎」の形に近い形に戻したのである。
(この為に、路線争いからこの浄土真宗は三派に分離する事に成った。)

結局、そこで、鎌倉時代初期からこの「持仏堂型仏壇」は、宗派毎に「仏壇」そのものの「形式」を変える様に成った。
特に、「密教浄土宗」は”「浄土宗仏壇」”と呼ばれる「仏舎」を表現した融合型の「持仏堂形式の仏壇」を作った。
従って、「青木氏」には、この「浄土宗仏壇」をどの様な形で保有しているかが5家5流で違っていた。

主に採った方法は次ぎの方法であった。
1 位牌の形を「庇付き仏舎型」にする。
2 別台座を設けて「本尊の釈迦如来の仏像」を中央に据える。
3 仏壇の上部を「庇付き仏舎型」にする。

以上三つの方法を組した方法や単独で用いた方法等様々であるが、地域によってほぼ統一されている。
恐らくは、「時代の変化」に左右され、「伝統の継承性」の低下が起こり、「密教性の強弱」が異なる、「持仏堂型仏壇」に対する拒絶度の差違等によるものと考えられる。
筆者の家は、この「三つの複合型」であった。立場上の所以ではないかと考えられる。
(この様な伝統を一つでも維持して行くことはなかなか簡単な様で難しいのだ。)

一方、「法然浄土宗系」の「親鸞の浄土真宗」は、先ず「密教の概念」を外し、更に「本造像」は使わず、「三昧耶形」として”「仏画」”を特に厳格に用いた。

「衆生の意志を繋ぐ場」≠「先祖と会する場」
「仏の墳」≠「仏の家」

上記の”「持仏堂型仏壇」の概念”が根底から違うとして徹底的に排除したのである。
更に、密教も排除したのである。

その為に、民衆や下級武士等は、「密教の独特な概念」や「面倒な作法」に縛られる事なく、高価な「持仏堂型仏壇」を持たなくても入信出来るとして真宗は信者を多く獲得した。

(親鸞は、この「3つの差違」が起こり、この事で「師匠 法然」を裏切るとして悩んで、「浄土宗」を憚って名乗らず”真宗”と呼称した。
しかし、法然に疎遠の親鸞の弟子たちは、それでも強硬に「浄土真宗」と呼称した。)

結局、浄土宗は「法然派」と「親鸞派」の二つに分かれ、更に、この二つは法然派は、密教派と顕教派の浄土宗に、親鸞派は顕教として三派に分離してしまったのである。

以上の事が記録から判っているが、現在でも、この「伝統」を頑なに護っている宗派と地域があるのは、上記の”「仏舎」と「仏壇」の違い”がこの現象に成って表れたのである。

「皇族賜姓青木氏5家5流」は、「古来宗教ー古代密教ー密教浄土宗」とし、「仏舎」を維持して来てこの「作法」を堅持して来た。
ここに「伝統の差」が維持されて来たのである。

「衆生の意志を繋ぐ場」≠「先祖と会する場」
「仏の墳」≠「仏の家」

しかし、「特別賜姓族秀郷流青木氏」は、960年平安期の発祥とする為に、「持仏堂型仏壇」の時代の作法に従った。主に顕教浄土宗に成った。
しかし、「仏壇」は然ることながら、立場上は「密教浄土宗の概念」を職務としていた「藤原秀郷流青木氏」の地方に定住した「末孫の青木氏」等は、密教概念を堅持した事から、この「仏画の伝統」を護った事が判っている。
その根拠に成ったのは、そこで、「秀郷宗家」が地方に赴任する「青木氏」に対し、「浄土宗」が無い地域が殆どであった事から、秀郷宗家の場合は、その都度、「赴任者」に「仏画」を渡した事が記録されている。
この宗家から渡された「仏画」を以て「本尊」として、仏舎を建て一時的にも「浄土宗の信心」を続けさせる事を考えて渡したのである。
恐らくは、これをしなかった場合は一門の宗派の統一が出来ないと判断した事に依るものと考えられる。一門の「宗派統一」が成され無い事は、”一門の統一は乱れる”と考えたからに過ぎない。
特に、秀郷一門は、「第二の宗家」と呼ばれる「青木氏」を中心に厳しくこの辺を取り締まった氏である。
中でも「皇族賜姓族」と同格として補佐する立場にあった事から、「秀郷流青木氏」は、「密教性概念」を強く求められた事が所以している。
そこで「仏像」であれば、大量に生産して一門に渡す事の困難さや、搬送には嵩張る事や損傷の危険が高かったので、「仏画」を渡したのである。その上で、真宗を仮宗派とする事を認めたのである。
ところが、上記した様に、一方で、「浄土真宗」もこの「仏画」を「本尊」とする事を「宗派概念を判り易く表現できる事の本願」として推し進めていた。
この「両者の考え方」が一致した事で、相互に「協力体制」を採った。
「秀郷流青木氏116氏」の中で、赴任し地元に残った「青木氏」が「浄土真宗」を宗派としている家筋があるのは、この事に依る。
従って、この「一族の青木氏」には、「古い仏画の掛け軸」が遺されている事に成る。
確かに、「仏画」としてそれまで「本尊」として使われていたが、「持仏堂型仏壇」が、上級階層に使わられる様に成った嵯峨期頃(810年頃)に採用される様に成って、「伊勢青木氏」には、「持仏堂型仏壇」の側面に飾られて遺されてたと考えられる。

「ステイタスの絵」
そもそも、”何故、「仏画」に成って行ったのか”その経緯が問題で解明しなければならない。

「皇族伊勢青木氏」は、その後に損傷の激しくなった仏画を保存したとあるが、これは、その後の「復画」である可能性があり、現在の「仏画」も「三度目の復画」であるとの口伝がある。
その口伝から、古来よりの「密教から来る作法」として、代々 ”絵を描く”と云う事は、その”賜姓氏のステイタスでもあった”と伝えられている。
(累代の全ての先祖は、「技術官吏」で「紙屋」でもあった事から、「絵の心得」をステイタスとして会得していた。)
これも、上記の「仏舎の本尊」として「仏画」を用いた事から来ているのである。
むしろ、この「賜姓族の教養」として求められたものが、先ずは「ステイタス」と成り、その「ステイタス」が、結局は「密教の作法」と成り、それが更に ”「仏舎」の「本尊の仏画」へと発展した”と考えられる。
恐らくは、「天武期の詔勅」に依って作った「仏舎」の初期に、先祖がこの「ステイタス」を以って仏画を描いた。
そして、それを「仏舎」に掲げたところ「上級階層」から”絶大な賛美”を受け、それが、率先して「仏舎」を普及させる立場にあった為に、遂には、”周囲はこの「仏画」をも「詔勅の仏舎」の「取り決め」と解釈されたのではないか”と考えている。
そして、それが平安初期には、遂には”密教である事の影響”を強く受けて、「仏像の本尊」より上記した真宗の動きが重なり、「仏画の本尊」へと考え方が発展して行ったと考えられる。
それは、終局は、一寸した青木氏のステイタスを用いた発想が、より”その「密教性」をより表現できる”としたところと一致した事に繋がった事に意味があった事に依る。
況して、「浄土宗系宗派」だけが、この影響が強かったのも、”「賜姓族青木氏」が「密教浄土宗」であった事に依る”と考えていて、故に、「天台宗」と「真言宗」は、「仏舎の仏画」にあまり反応しなかった所以と判断している。
ただ、後発の密教真言宗は、この「仏画」には、特定の反応を示した。
それは、「両界曼荼羅絵」を信者に積極的に与えたのは、この後発の「密教真言宗」であるからだ。
現在も、積極的に「真言宗信者」のみならず「浄土宗信者」にも与えている。
ただ、「天台宗」は、「独特の立場」と「独特の密教性」と、その「世界観」を築いた為に、信者も特定者が多く、結局、”独自で仏画を与えている”と観られるし、”本尊化”は無かったのもこの事に依る。
これも「天台宗密教の作法」であったらしい。

そもそも、何故、「伊勢青木氏」の先祖代々のその「福家」の全ての長は、”絵を描く事”の教養を持っていた事の不思議さがあった。
それは、当初は、広域の伊勢国で、伊勢古代和紙(伊賀和紙)の殖産を地元に求め、税として集め、それを販売していた。
ところが、平安期初期から徐々に殖産を強め、「税の換金」の為に販売強化し、1025年頃には、「余剰品」を正式に「二足の草鞋策」として「本格的な商い」に発展させた。
この事により、「紙」に関わっていたから、”「仏画」を描いていた”と考えていた。
それでは「趣味の範囲」で留まり”代々必ず”と云う事には成らない筈である。
ところが、趣味では無く違ったのである。

平安初期以前の相当以前にも、先祖は絵を描いていた証拠が一族一門の資料から数多く発見された。突き詰めると、「天武期の詔勅(684年)」後の700年から750年までの「絵画の遺品」と、それを物語る遺品の仏具や絵具が発見されたのである。
更に、「青木氏菩提寺」に、消失する以前のものが、遺されていて、菩提寺の青木氏住職を含めて類型的に整理してみると、代々の青木氏に洩れなく、矢張り、「何らかの絵」を相当な能力で描いていた事が判ったのである。
明らかに”「教養」”として、”「ステイタス」”として「絵を描く事」を長や住職は求められていた事を物語り、間違いなく”趣味の領域の事”では無い事が判った。
当時としては、”「絵を描くこと」”が、”最大の賜姓族としてのステイタスを表す手段”であった事が判る。

実は、江戸期に成って、先祖代々が「賜姓族ステイタス」として「絵の才」を会得したのは、”「朝廷画派」であった「土佐派」(大和絵)に師事していた事”による事が判ったのである。
そして、筆者の直前まで「曾祖父」と「祖父」と「父」は、「賜姓族」であった過去からの関係で、続けて「朝廷絵師」の「土佐光信」に師事して、遂には、二人は本職として独立して一世を風靡した。
更には、遡って、調べ上げて判った範囲では、”12代前までの累代の先祖”が、”「巨勢派」の「大和絵」”の「藤原氏朝」等の「朝廷絵師」から代々師事していた事が判った。
この室町期まで「累代の先祖」が、描いた「先祖の絵」が一族一門の中に何らかの形で遺されている。

「土佐派大和絵」
そもそも、上記の師事した師匠は、次ぎの通りである。
A 平安期には、「巨勢派」の「巨勢公望」に師事したとある。
B 鎌倉期には、「巨勢派」の門人「春日基光」に師事したとある。
C 室町期初期には「巨勢派」の「大和絵」”の「朝廷絵師」の「藤原氏朝」等に師事したとある。
D 南北朝時代の頃には、「巨勢派」の「師匠」として、「朝廷絵師」として「藤原行光」に師事し  たとある。
E 江戸期には、「巨勢派」の別派の「土佐派」が「大和絵」を復興させるのに貢献し師事したとあ  る。
F 江戸末期には、大和絵の「土佐光信」に師事したとある。

この「巨勢派」は「大和絵」として「朝廷の絵」を専門に描いた流派である。
この関係から「青木氏」は代々この派に師事した。
「青木氏」等が、この「流派の画家」を後援し、この関係から「朝廷」からも強く支持された。
「大和絵の巨勢派」は、室町時代から200年間を、正式な「朝廷の絵所」(朝廷絵師)を世襲した。しかし、室町時代末期には、一時、朝廷の「絵所領職」を失った。
その理由は、室町幕府衰退と、一時、戦乱期で朝廷も衰退した為に、更には、この流派の後継者が次々と戦乱で死するなどして「大和絵の流派」は全く途絶えたのである。
この後に、この「巨勢派」は、別流派として江戸期に成って、「土佐派」」を創設して、純日本的な「大和絵の伝法」を再び樹立した。
江戸末期には、「末裔の土佐光信」は、宮廷や将軍家と密接な関係を再び持ち、再び最盛期を築いた。
「伊勢青木氏」は、続けてこの「土佐光信」にも、「曾祖父」、「祖父」、「父」と師事した。

我が家の遺品から観れば、一族一門、更には、「信濃青木氏」や「近江青木氏等」や「近江佐々木氏」までを調べれば、又、更には、それらの家や菩提寺までのものも調べれば、その繋がりから、”奈良期までの遺品”に辿り着けると考えられる。
既に、「近江佐々木氏」の研究論文からも読み取れる様に、書画から「賜姓青木氏」の事にもかなり辿り着けると考えられるが、現在は最早難しい。
この事から、”「ステイタス」”であった事は確かであるので、上記の奈良期での「仏画の推論」は上記した様に、「大和絵の巨勢派」に師事していた事が、何よりの証拠であり、当たっていると考えている。
平安期以降からの「仏画の状況」は遺品から充分に説明出来る。
「平安期の状況」と「奈良期の状況」が全く違うと云うシナリオは考え難い。
平安初期の「桓武天皇期」には、確かに状況変化を一時的に起こした。
しかし、「嵯峨天皇期」で、又元の「皇親族」の状態に戻した。
確かに「仏舎」は、「仏壇」に成ったが、逆に上記した様に、「仏画の本尊化」は逆に進んでいるので、一時に低迷はしたが、平安期後にも仏画に関して盛り返したと考えるのが、相当と考えられる。

奈良期のものとして遺されている「二つの仏画」の検証では、次ぎの様な違いが出て来る。
「古さ」  日光の紫外線や風化で材質の劣化レベルでの判断
「絵構図」 密教の初期の為に、筆運が異なる。
「絵具」  岩絵具は中国製の良質で劣化具合が異なる。
「表具」  表具は中国の影響が顕著に出て異なる。
「糊」   表具糊が悪いと茶色く変化して絵は観えなくなる。

専門的に「絵の下地」は「特殊な糊」を使う。絵の保存関係はこの表具の下地に使う「糊」の如何によって決まる。
この「糊」は何年も掛けて醸したものでなくては、絵具の下地になる為に最終絵が剥がれ朽ちて遺す事は出来なくなるのである。又、絵が「茶化」して観えなくなるのである。
専門的には絵構図以外は専門性の判断力が左右するが、他は、材質論に左右する。
平安期直前の絵と室町期後期の絵には、「材質の差」が出る。
以上から遺されている「二つの仏画」は「原図」であろうと観ている。

しかし、確認できるのは、筆者が観て「復画」らしい遺品は、祖父の「2つ目の復画」である。
祖父は35歳までは「伊勢の紙問屋」の後継として働いていたが、「松阪大火」で紙問屋は倒産し、その時の「絵の能力」を以てそれまでの師匠に改めて弟子入りして本職とした事が判っている。
この時に、保存していた傷んだ原画を”「復画した」”と考えられる。
それともう一つ「現在の仏画」と観る復画は、「2つ目の復画」は「父の復画」である。
この違いは、絵具には膠を使うがこれには問題はない。
問題は、「表具」取り分け「表具の糊」による。これで「時代の見分け」が就く。
この見分けの方法には別の方法がある。

「氏の象徴印」
奈良期からの上級階層には、その「氏の印」が定められていた。
「家紋」と成る「氏」を示す象徴文様がこの階層にあった。
殆ど食器の類から牛車の類までにこの象徴文様を記した。
当然に、書類や絵画や書にも、この現在では「実印」に当たる「氏の印」の「烙印」や「落款」があった。
当然に、これらの「仏画」等には、「青木氏」が”書いた、或は、発行した”とする「烙印」や「落款」が押印している事に成る。其れを確認すれば証明できる事に成る。

これは「青木氏」が代々使っていた ”先祖の落款”(「5Cm角の黄玉」で出来ている落款。)は保有していて判っている。
当時の「上級階層の落款」は、”氏を象徴するもの”であるので、その印は、”「黄玉」”と云う超宝石と云われる中国でしか出土が無く、稀に出土されるのでダイヤモンドより遥かに高価な宝石である。
掘り尽くされて現在では稀である。
この「黄玉」を使う仕来りであった。
江戸時代でも、大名でも、超大名か将軍家位の身分の者が持てる「黄玉印」である。
高価で持てる持てないでは無く、持つ事を禁じられていた「黄玉印」であった。
印を押す押さないとは関係なく見せるだけでその立場が判るものであった。
「伊勢青木氏」の「福家」はこれを持っていた。

この事からも、この事を少なくとも物語っている。
「原図」の「落款」は、この「黄玉の落款」を使っている筈であるが、かなり古く成っていて判りにくいが、まず間違いない。
落款から検証すると、”奈良期の先祖の仏画”である事に成る。
この落款で一族一門の家の遺品、守護神神明社や菩提寺の遺品、を調査する際にはこの落款での検証と成った。
この結果、殆ど、「青木氏の落款」を押印していた。
”何らかのシステム”を作って、「福家」に持って来て押印していた事に成る。
この事は、平安初期の「仏画や書」には、上記した事を物語るもので、「上級階層の依頼」に対して、丁寧に対応していた事を示すものである。

平安期前では ”「賜姓族青木氏」”と云うものを証明していた事を示している事。
”福家”が受けた「依頼」に対して、”福家”から手渡すと云う契約を護った事になる事。

数は少ないが、もう一つ落款があった。
この落款は何なのかは何時のものなのかは判らない。

そもそも、筆者の家には、古来から「紙に関わる家」であった事から、昔から全国のあらゆる画家が家に逗留していた事が在って、多くの「画家の絵」が遺されている。
「画家」のみならずあらゆる芸術家や僧侶達が、宿屋の様に無償で長く逗留して居た事が判っている。その様な別宅があった程で、中には、生活苦で長逗留して勉強する芸術家もいて、生活支援しながら画家を育てていたらしい。
江戸時代の有名な美人画の画家が長逗留して居た事も判っている。
その為に、室町期からの凄い量の絵画が遺されている。
中には有名に成った芸術家の若い頃の絵が遺されている。
これらは全て「逗留者」が謝礼として遺して行った絵との事である。
絵は表具されずに原図の侭に一か所に保管されていた。
口伝では、この画家を育てる事は、”大昔からの当たり前の事 ”であった事らしい。
その大昔とは、”何時の時代を指すのか”を本論に大きく関わる事であるので調べると、鎌倉期末期の頃の「僧侶の絵」が多くあった。
「書」に関しては、平安期末期の矢張り有名な「寺の僧侶」の書がある。
何とか奈良期か平安期初期までに到達しないかを調べたが、この頃に成ると画家や書家の氏名が著名な人しか先ず判らない事、専門的に「落款の相関」が判らなく成る事、落款資料が無い事等で確定が難しく成る。
平安期初期は、画家は僧侶や神職が多く、治外法権的な領域に入るので菩提寺か守護神の領域しか判らない。

「支援と技量の習得」
この調査で「奈良期」にまで到達すれば、上記で論じた様に、「上級階層の賛美」で依頼を受けて、「青木氏の神職や住職」が「神格像や仏画」を描いたと判っている。
では、”その絵の技量は何処で習得したのか”と云う事を判明させる必要がある。
「平安期の巨勢派」から「江戸期の土佐派」までの「大和絵の一派」を「朝廷絵師」であった事から「朝廷」に代って「賜姓族」として、「紙問屋」として幅広く「生活支援」をし、且つ、絵に付いても師事していた。
上記した様に、遺された数多くの絵や書、それに伴う一族一門資料や菩提寺守護神の遺された資料から、この事に深く「福家」が関わっていた事は明確に判っている。
恐らくは、この「青木氏の神職住職」等は、この「大和絵の一派」に「福家」と共に師事していた事は間違いはないと考えられる。
「室町期の書画」が「福家」以外にも多く遺されている事から、「平安期前」も同様であったと考えられる。
「福家」の「絵」に関わる「紙問屋」としての「生活支援」のみならず、各地の多くの「青木氏の神職や住職」も「大和絵」を習う事でも「巨勢派の画家」の「生活支援」をしていたと考えられる。
そもそも、鎌倉期以降は、朝廷も彼等を「朝廷絵師」としての ”「絵所領職」”だけでは一派を維持させられる事は絶対に出来なかった筈で、況してや、「朝廷」自らの生活も侭ならなかった時期に、無理であった。
従って、”「大和絵」”を遺す上でも、この立場上、「賜姓族」としても「青木氏」は、「福家と神職住職」共に「生活支援」を積極的にしていた事が判る。
それは、上記で論じた様に、多くの画家を逗留させて「絵の修業」をさせていた事、「紙問屋」でありながら「総合商社」でもあった事から、”大和絵の画家の絵”を上級階層に積極的に斡旋して居た事も判る。
上記した様に、遺された”「画家の表具されない多くの絵」”が保存されている中には、「大和絵師」の絵も多く遺されている。

注釈
(「特別な絵箪笥」があって、その箪笥は「絵箪笥」として専用に何段にも作られ、「油紙」を敷いた「桐の子引出し」があって、それに扉が付いて、それを全体の引き出しで保存する様に成っている。更に、この引き出しの外側に二重に扉があって、外側は黒檀で出来ている。実に密閉度が良く、扉と引き出しを開くとオルガンの様に音がする「絵箪笥」で、代々大事に使われて来たものであることが判る。・・小さい頃はこのオルガンの様に音がするので開いて閉めての繰り返しで音楽を引くようにして遊んでは叱られた思い出がある。・・
実に密閉度が良く、湿度は桐の材質で吸収され調節されて、中のものは全く傷んでいないし、変色も無い。ここには、表具されたものは別の絵箪笥があって入っていない。)

この様な”原図そのものの「専用の絵箪笥」”があると云う事は、「販売目的」では無く、「生活支援」の為に、”引き取った絵”も多くあった事を示すものである。
上記した様に、「逗留画家の謝礼」としての「絵」もこの中に入っていた。
室町期から江戸幕末までには、何としても、「日本古来の大和絵」を絶やさない為にも、「若い画家」を無償で受け入れ育て、世に出し、生活が成り立つ様に、「原図」を買い取り保存し、何時しか「表具」して、「販売斡旋」して、「紙問屋」として「生活支援」していたのである。

上記した様に、これは、上記検証の通り、平安期前には、「賜姓族青木氏」として「初期の朝廷絵師」(「絵所領職」)を務めた事を縁に、「大和絵巨勢派」から、その流れを継承した幕末の「大和絵土佐派」への「青木氏の支援」であった。


その前に青木氏は、平安初期には「桓武天皇」から「皇親族として排除」をうけて30年の衰退期があった事、中期以降は「源平の争い」が起こって受け入れ態勢が出来なかった事から、この期間の絵画や書などは、「先祖の絵」(一族一門と関係族で調べられた)を除いて少なかった。
少なくとも、”賜姓族としての青木氏の経済力”は、「二足の草鞋策」を営みだした950年頃前後以降の事に成る筈で、その意味で、鎌倉期から再び出て来るのは妥当であろう。
鎌倉期から室町期は、戦乱期でありながらも、徐々に「紙文化」と呼ばれる文化が進み、遂には、有名な「室町文化」が起こって、これを機に、再び「巨万の富」を得たので、ここからは書画骨董は多く成っているのは納得出来る。

筆者は、平安期前は、福井の逃避地で賜姓族を保護する事に精一杯で余裕は無く、”画家などを逗留させる”と云う事は、未だ客人的な範囲に留まり少なかったと考える。
室町期の様に「別宅」を構えて支援する体制までには至っていなかった。
その「組織的な態勢」が、「賜姓青木氏」には、上記した様に「巨勢派」に対する「支援体制」に総力を注ぎ、未だ「全般的な支援体制」は出来ていなかったと考えられる。
それよりも、「5家5流賜姓族」の菩提寺や、全国の「神明社の守護神」で、多くの「青木氏住職」の「仏画」、多くの「青木氏の神職」の「神格像画」が主に描かれた事と考える。
筆者の家も「賜姓族の役」からの「ステイタス」として描いていた事は、当然ではあるが、これだけでは「仏画の本尊化」は、センセーションの的には成ったにしても、起こせなかったと考えられる。

「上級階層の賛美」が起こっても、”では誰に描いてもらうか”は問題と成る。
「賜姓族の青木氏」の「福家の役」は「上層階級の賛美」だけで良かった筈である。
「賜姓族の青木氏」の「福家の長」が「頼み」に応じて全てを書くと云う事には成らないだろう。

そもそも、その当時は、古代仏教の伝来時の「密教」であった事から、未だ描ける者は、阿多倍の渡来人職能集団の「舎人部」か「史部」以外には少ない筈で、「密教画」として知識を持ち、それを正しく描ける者は、未だこの時期には無い筈である。
「賜姓族青木氏」の「職能集団の民部(かきべ)・曲部(まがり部)」の中に、「青木部」と称する仏画を描く「絵師の部集団」を構築しようとして、先ずは、「密教の知識」を持つ「青木氏の神職住職」が、既に持つ「書の才」をベースに、その「仏画の能力」を付させようとした。
その為には、その基礎力を「巨勢派」に求め、上記の様に、「大和絵の巨勢派」を引き出して育成にも総力を注いでいた事に成る。
「神職や住職の描く仏画」は、最終的には、これらの「青木部の絵師」が指示に従い分担作業で書き上げたと観ている。
何故ならば、「青木氏の守護神の神明社」でも論じたが、神明社や菩提寺の建立と共にここに安置する像もこれらの「青木部」が行っていた。
「天武天皇の詔勅」の「仏舎の建立」では、筆者は問題は無かったと観ている。
何故ならば、「青木部」の「大舎人部」(詔勅の仏舎等を建築する職能集団)がその技量を充分に持ち得ていた。
従って、「神職や住職の者」が、先ず、「青木氏の密教」のその「仏画の技量」を獲得して、「青木部」にも「仏画の作成能力」も整えようと働いた筈である。

「賜姓青木氏」の「職能集団」を総称して、氏名を採って「青木部」と称した。
この「仏画」は、単なる仏画では無い。「青木氏の密教の仏画」である。
その「青木氏の密教」は、「和魂荒魂の古来宗教概念」と「古代伝来仏教」との「神仏習合の密教」である。
従って、根本的にこの「青木氏の密教概念」と「青木氏の守護神と菩提寺の様な組織」と「青木部を有する職能集団」を持たない他氏では到底描けるものではそもそも無かった。

そもそも、上記した様に、「密教」は何事にも初代は「青木氏」なのであるから、「青木氏」に頼るしか無かった筈である。
又、その「国策氏」と「賜姓族」と云う立場もあり、他に進んで受ける氏は無かった事に成る。
周囲の上級階層もこの事に付いては成す術がない”と云った処であったと観られる。
筆者は、周囲の上級階層は、「天武天皇の詔勅」の「仏舎」等に関する「勅令」にも、「勅令」が出たものの充分に対応出来なかったと観ている。
だとすると、頼まれたものを断る事は立場上、出来なかったと成れば、況して、金銭に糸目をつけない力だけは持っていた「上級階層」(下記)である。

当時の上級階層の氏族に付いて書いた記録がある。
それには、次ぎの様に書かれている。要約する。
・・・殆どの「氏族」は、多数の「部民」を「隷属民」として支配していた。・・この「部民」は農村に家を成し、農耕の傍ら主家の氏族の要求に応じて、世襲的に同一の産業的労務やその他の労働に従事させた。・・「氏族」とは別に住み、血縁関係は一切無く、部民間にも血縁関係は持たなかった。
”個々に浮浪する民”を集めて編成したものが殆どであった。
・・「農耕」にのみ従事させる隷民であった。
(朝廷の直属の農民以外は原則私有民は認めていなかった)
その「氏族の氏名」を「部の名称」とする「特技の技能」を持った「部組織」を持つ「氏族」は少なかった。・・・その殆どは政策上、「特定の氏族」を除き、主に朝廷に所属させた。・・
と記録されている。

以上の記録の通り、「上級階層」は、「青木氏」の様に「青木部」を持つ事を許されていなかった事に成る。この「特定の氏族」とは、「三つの発祥源」と「国策氏」の立場を持つ「5家5流の賜姓青木氏」に許された「特権の事」であって、後は、”朝廷の管轄下に置かれていた”事を示す。

依って、「天武天皇の詔勅」が出た以上は、これを断れば反発を招くし、「密教の詔勅」の「仏舎の翻意」は果たせない事に成る。
そもそも、その「詔勅の案件」は「施基皇子」が奏上したものである。
奏上する以上は責任を果たさねば成らなくなる。

「賜姓族青木氏」には、残す手立ては、一族の青木氏の神職(500社)と住職(15寺)に指示する事に成った筈であり、可成り、「仏画構築」に急いでいたと考えられる。
この能力を以てすれば十分に対応できたと考えられる。しかし、ここで問題が生まれた。
それは、元々、「神職 住職」は「書」への高い技量を持っていた。
しかし、「絵画への技量」は無い。
そこで、「賜姓族の青木氏」は、その「絵画の技量の基礎」を会得しなければならない。
「仏画」と成れば、「中国画」が主体を占めていたが、「青木氏の密教仏画」を表現すると成れば、古来からあった”「大和絵」”から”「青木氏の密教仏画」”を新たに創造する必要性に迫られた事に成る。



以下は伝統 8に続く


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