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青木氏と守護神(神明社)-2

青木氏と守護神(神明社)-2

  「国難」
1「蘇我一族の横暴」「天皇家を脅かすほどの脅威」と「天皇家の無力化」
2「国の漫然化」 国を豊かにし、国の安寧を計る国策の無さ 「民の疲弊」が起こる
3「民族氏間の争い」「7つの民族」が40程度の「民族氏」に拡大し「民族間抗争」が起こる。
4「朝廷内の抗争」 蘇我氏一族と反蘇我氏一族の抗争が起こる
5「後漢の民の動向」 その勢力は朝廷を凌ぎ日本の半分は支配下 「独立国の懸念」が起こる。


  「国難2」
次ぎに国難2に付いては、国難3「民族間抗争」と国難4「朝廷内の抗争」と共に共通項がありより立体的に論じることが出来ると考えますので、国難2を口火として論じて行きます。

先ず国体をどのようにして豊かにして行ったのか、その考え方と行動施策を論じる必要があります。
時期を同じくして大化期に阿多倍王に率いられた200万人が第1期、第2期の難民として渡来しましたが、入国来、働く彼ら「後漢の技能集団」の「物造りの効果貢献」を観て、「大和の民」を引き付け、著しい経済的な効果を生み出します。
豊かさを享受した民が自ら進んで彼等の支配下に入り無戦でその支配地域を拡大して行きます。
その進んだ技能集団を観た朝廷は「物造りの国策」を全面に押し出し推進する事になります。
つまり「部制度」を定めて部方式の「経済の確立」を促す政策を採用したのです。
国を「物造り」で豊かにする事が出来、且つ「民の安寧」を確保する事が出来るとする教訓と、その手法がある事を彼等から具に学んだのです。それを具体化し「国策制度」として採り入れる事をこれも直に彼等から教わります。
「物造りの技能」のみならず「政治への取り入れ方」、挙句は国体の「政治手法」も彼らの官僚から学んだのです。日本書紀によると”官僚の6-7割近くは彼等の集団であった”と書かれています。
この為に天武天皇は”民より優秀な者を選び学ばせよ”と命じたと記録されています。
その政治に関する知識を持っていた「部の集団」は「史部」(ふみべ)、「文部」と呼ばれ、「阿多倍王」の父の「阿智使王」が率いる集団であったのです。「阿智使王」は自らがこの政治を主導する史部の首魁として、「文直」(ふみのあたい:官僚)として働いたのです。そして、この「阿智使王」は自らも武力集団(漢部)をも率いて軍事面での政治主導をも首魁として働いていたのです。

  「乙巳の変」の経緯(改新劇)
後にこの軍事集団は「民族氏」の「漢氏」(あやし)と呼ばれ、その末裔は「阿智使王」の末裔「東漢氏」(やまとのあや)と呼ばれる様になります。
この「漢氏」は職業軍事集団として「蘇我氏」に雇われていたのです。これが「蘇我氏」の軍事的な背景であり、「蘇我氏」が裏表の軍事武力行動は全て彼等の集団が行ったのです。これらは記録として残っています。
その顕著な例として、「中大兄皇子」が「蘇我氏」を倒すことが出来るか否かは、この「漢氏」、つまり「阿多倍」の父「阿智使王」の出方如何であったのです。結局、「漢氏」の首魁「阿智使王」は「蘇我氏」の大屋敷から「漢氏」に引き上げを命じたのです。「中大兄皇子」に対して”我等は元より雇い軍である。攻める意思なし。一両日中に岡より引き上げる”と伝えて来たのです。本来、家臣である「蘇我氏」が宮殿より上の土地に館を構えるは法度でありながらも「宮廷」より遥かに大きい館を構え周囲を防御柵で覆うものであったのです。
戦略上、「中大兄皇子」にいかなる強力な軍隊が構えていても三方の岡よりくだり攻められた場合は全滅です。元より「中大兄皇子」には「蘇我入鹿」を倒しても軍事的に戦略的にも勝ち目は無かったのです。
しかし、「阿智使王」は命令を下さず事件後直ちに伝令を飛ばしてたちどころに伝え消えたと記録されています。一定期間その所在は不明であったとあり、後に出てきて「史部」「文部」の首魁、「漢部」の首魁として朝廷の官僚として働きます。そして後には朝廷軍は「阿多倍軍と阿智使王軍」の編成軍として作り上げ日本全土を制圧したのです。(阿倍比羅夫・坂上田村麻呂の軍)
この様な予備知識を下に「民族氏」の代表の阿多倍一族一門を比較対象に青木氏を「融合氏」の代表として下記に論じて行きます。(詳細は「日本書紀と青木氏」に詳細参照)

当時180もの「品部」が生み出す物を一度「朝廷に納品」させ、「必要な量の物」を「税」として郡毎の「正倉」に収納し、残りを市場に「適度な量」を放出して安定した経済にする方式で、それまでに無かった「準市場経済」の「統制仕組み」を創設しました。
それまでは「品部」を支配下に置いていた「蘇我氏」等の「一部の豪族」に「利益」が吸収されていて経済を想うままに支配されていました。これでは「氏融合」の発展の経済的基盤が整いません。
そこで彼等の指導によりそれまでの「物々交換」の経済からそれを一挙に統制された「市場経済」(貨幣経済:和銅開宝 「鋳銭司」[すせんじ]が各地の主要駅舎で発見されている)に近い方式に変更する事で平均して「氏が融合できる体制」を確立したのです。
そして、それをより効果的に可能にするには、当然にそれまで頻繁に起こっていた「物品の争奪」や偏った「利権の確保」や「民族間の争い」を無くす事に集中する必然性が出てきます。

 参考記録 (「物造り」に積極的な例)
「物造り」を推進して経済的発展を促して「融合性」を進めようとする為に、これには積極的に天皇自らが新しいより良い品を作る提案や準備をする等の行動を採ったのです。
例えば記録によると日常よく使う「墨や硯石や筆」や「貨幣の材料:銅」などを探す努力や提案、その匠(墨では方氏)の派遣を中国に直接頼む等の努力をした事が数多く記録として遺されています。

(例 和歌山県海南市下津町に「方」と云う地名が現在もあり、ここに墨を造る職能集団が定住:日本最古藤白墨の生産地 熊野古道沿い 天皇が探し当てた それまでは中国から全て輸入)

この様に中には天皇が直接旅をして「材料探し」をした等が記録として遺されています。それ程に「物造り」政策が根幹であるとして積極的に力を入れていた事を物語ります。(研究室にレポート済み)

この事は「物造り」を平衡して国策として進めれば「経済的な潤い」が生まれ、争いの基と成る奪い合いは無くなり、その基盤に依って「民族氏」から混血を進める「融合氏」にする事で争いを抑えられます。
また、優秀な「後漢の民」との融合を図る事で、彼等の「独立」を防ぎ、「日本の民」を巻き込んだ「職能集団」の「経済力」の活用をも図り得ます。
「7つの民族」が定住する国土の中で「民族氏」の構成では蘇我氏の例に観られるように”「民族間の争い」が起こり「国の安寧と安定」を図ることが出来ない”と考えた天皇はこれ等を融合させて一つにする事が肝要と悟ったのです。この為に必然的に「天皇家」自らが模範として進んで「融合氏」を計る事が必要に成りました。そして其の為にも先ずは朝廷の大きな経済的な負担と成っていた「皇族数」を下野させて減らし、且つ融合を進め、それまでの「民族氏」形態から「融合氏」形態への推進の為にも、その融合の弊害の根本と成っている「皇位継承制度の改革」を全般的に果敢に断行します。 
「皇族数」を減らし経済的な負担軽減を率先して行い「物造り」を併用して経済的な潤いを発生させて「融合策」を天皇家が進んで率先したのです。これに依って「民の合意と賛同」を得ようとしたのです。
天皇家の第5世族以下(1000家程度 5000人/代)が下野する事で「民との接近」が生まれ「融合」は進み「民族氏」の数(20-40)に比べて「融合氏」は一挙に増えると考えたのです。
これに皇族と母方姻戚関係を得た藤原氏の「融合氏」を加えると「民族氏」に匹敵する融合氏の数と成ったのです。(現実に増えた 荘園制で弊害の問題が起こる)
これに依って、第7世族を含む「皇族系の融合氏」が各地に広がりを示し、そこに建立して行けば「民の心の拠りどころ」として定めた「皇祖神」の「神明社」(「伊勢神宮」)の各地への普及が図られると考えたのです。つまり、根本の政策戦略としては「物造り」-「融合氏」-「神明社」の関係が成り立つのです。

その「融合策」の目玉として次ぎの様な施策を実行したのです。
先ず、第5世族以下の皇族系臣下・下野の長として第4世族内の朝臣族の「第6位皇子」を「臣下」させ「賜姓」して「融合氏(侍)」を「発祥源」とさせる事を押し進めたのです。
これに身分と経済的裏づけ(官位・官職・爵位・賜田・功田・位田・俸禄田)を与え天皇と天領地を護る近衛府軍を創設し、その責任者に任じます。
(「侍」「さぶろう」の古語 ”真人族に寄り添って護る”の意 「国、院、家」の3侍を定める)

皇位継承者を第4世族までとして真人族・朝臣族の「王」と改め、それまでの第6世族以下を改めて臣下・下野させます。(第5世族は政治の官職に就く・貴族公家)第6・7世族は坂東の護りとして「ひら族」を賜姓して夫々「8つの融合氏」として配置します。(坂東八平氏:ひら族)

「平安期以降の融合経緯」(1期から5期の融合)
この「臣下策」と「賜姓策」が平安末期までの丁度550年間継続されるのです。

「第1期融合」は、「民族氏」から「融合氏」の「初期的融合」は900年頃に政策的にも終る。
「第2期融合」は、「自然の摂理の現象」で室町期初期頃までには必然的に更に「濃厚な氏融合」へと進みます。この時から「民族氏」傾向の強かった「部民」の殆どに「職能集団」を生かして生き残りの「姓氏形成と融合」が起こります。
「第3期融合」は、完成した「濃厚な氏融合」は室町期末期頃までには今度は「自然の摂理の現象」で「氏の潰しあい」へと変化します。
「第4期融合」は、「氏の潰しあい」は終り、江戸初期には氏を形成出来ていなかった「下級武士階級」が氏を競って形成します。
「第5期融合」は、主に第4期までの全武士階級の「氏間の融合」と、封建社会に阻まれて「氏の形を採る融合」を採れずに居た庶民が「明治期の苗字令」により国民の9割が氏姓を形成します。

つまり、先ず正式で初めての「融合氏の発祥源」として、「皇族賜姓青木氏」(真人族 国侍の氏)の施策を関西域に行い、続けて「皇族7世族」(家侍の氏)の「坂東八平氏」」の発祥政策を関東域に行ったのです。
(奈良期は近江、伊勢域 平安期は美濃、信濃、甲斐域 4世王族は19地域に「融合氏の発祥源」として配置した その象徴(シンボル)として本論の「神明社」を建立した)

九州を含む関西以西域は「阿多倍一族」とその「職能集団」の配下域にあり「民族氏」の傾向が強くなかなか「融合氏の政策」を「朝廷」が率先して先に行うには難しい政治的な状況にあったのです。
何はともあれ、彼等は軍事、経済、政治共に優れ、むしろ彼等から学ぶ立場にあって、「融合氏政策」とその象徴(シンボル)の「神明社」の普及は到底「立場の優位性」から見て難しかったと考えられます。
又、関東より以北はまだ「朝廷の力」が完全に及ぶ制圧域にあらず、関西以東関東域までの施策とせざる得なかったのです。それ故に、この域には「神明社」の建立は果たし得なかったのです。
恐らく、以西と以北の地域では、これは「民族氏」の傾向が強い事から「融合氏」の「神明社」(「祖先神」)と云う「宗教観の概念」との違いが大きくあったと考えられます。

(「物造り策」-「氏融合策」-「神明社布教策」は相互関係にて連動していると云う史実観)

まだ蘇我氏と物部氏が争った「仏教観」と「神道観」が起こって60年程度しか経っていない時期でもあり、尚且つ「仏教化」が進んでいる時でもありますから「神道」の「融合氏」と「神明社」(「祖先神」)とを連動させて政策を実行するには奈良期の初期の段階では無理があったと考えられます。
そこに、阿多倍の配下の職能集団が「司馬達等」を先頭に「仏教」を崇拝していた私布教の環境下では、尚更、難しさがあったと考えられます。
(司馬達等は私伝で仏教を職能集団に普及させ最初に伝えた人物)

  「宗教観」
「氏融合」と「神明信仰」を連動させての政策は先ずは限定された範囲の中にあり、しかし、反面では「氏の融合」を推し進めないと「国の安寧と発展」は無いし、「首魁阿多倍」とその「職能集団」を「九州独立」から遠ざけるには「根本的な政策」としては他には無かったのです。
史実から観て、この「氏融合」と「神明信仰」の政策を推し進めながらも、終局は「独立」から「帰化」と成りはしたものの、未だこの問題の解決は完結出来ずにいたのです。

史実から、観ると次ぎの事件が起こっていて難しさが判ります。
A 7世紀始めに朝廷は南西諸島と九州域を制圧し服属させたが、その後直ぐに九州地域は阿多倍軍に  制覇された。
B 713年に朝廷は薩摩国から日向4郡を割いて大隈国を半国割譲して何とか「独立」と云うことを避ける  為に妥協した。しかし、律令政策の浸透は九州域では無理と成った。
C 720年には遂には「朝廷の軍」を送りこの大隈の首魁に対して大征討を試みるが挟撃を受ける事を恐  れて軍を引き上げた。
D 結局、その後、阿多倍の職能集団の配下に入った九州の民の賛同が得られず放棄。
E 800年に数々の妥協策によりやっと朝廷の律令の内、農政の部曲に対する「口分田」だけが施行出   来る程度に成った。

ただ、ここで大きな疑問があります。
「関係する歴史的経緯」
645年に阿智使王と阿多倍王17県民と共に九州地方無戦制覇後に帰化する。
648年頃に阿多倍は准大臣に任じられる。
650年頃には阿多倍に伊勢の国から「伊勢北部伊賀地方」を半国割譲して住まわせる。
670年頃には阿多倍は敏達天皇孫芽淳王の女と婚姻(第6世族)する。
698年阿には阿多倍一族一門の阿倍比羅夫が蝦夷を征討します。
690年頃に子3人に賜姓(坂上、大蔵、内蔵)を受け朝廷の軍事権、経済運営権、政治権を任す。
713年には阿多倍に薩摩の国から「大隈の国」を半国割譲します。
720年には国策に従わない事を理由に朝廷軍は大隈国を攻めています。
730年頃には阿多倍孫娘(高野新笠)と天皇家(光仁天皇)と直接血縁する。
758年頃には朝廷軍の主力を「阿多倍軍(坂上氏)]と「阿智使王軍(東漢氏)」で編成する。
764年には朝廷軍として阿多倍末裔二人(阿倍氏等)が以北征夷を攻め「征夷大将軍」に任ずる。
769年には和気清麻呂は大隈国に配流される。(大分の九州最大神社の宇佐八幡宮神託事件)
790年頃には九州北部と南部大隈国に騒ぎが起こり朝廷の全ての政策に反抗して従いません。
800年には朝廷政策の内の「班田収授法」の「部曲」に支給する田畑(口分田)だけに従います。
806年には阿多倍の子坂上氏は蝦夷地の異民族アテルイを以北制圧して絶大な勢力を確保する。
820年頃にも九州地方特に大隈国は末裔肝付氏が勢力拡大し国の「律令政策」に従っていません。
833年には太宰の大蔵横凧は「宿禰族」になります。
938年には太宰の大蔵春實は「錦の御旗」を受け「藤原純友」を追捕する。
940年頃には阿多倍末裔の国香-貞盛は「将門の乱」を鎮め「功績」を上げる。維衡、正盛、忠盛-清盛
950年頃には「太宰大貫主」と成り初めて「半自治形態」を採る。
1018年には大蔵種材は「遠の朝廷」「錦の御旗」を受け「太宰大監」に成り九州を「完全自治」する。

この様に、関連史実を時系列で並べるとこの阿多倍一族一門には何か大きな「氏融合の生き様」が観えて来ます。

720年には以西では国の政策に従わず攻められています。そして以北では698年と802年に朝廷の命で蝦夷を攻めています。この時、関西では軍事と3政治機構の内、大蔵、内蔵を占有し「国の政策」を立案推進しています。
以西以北では全く逆でこの様に阿多倍一族一門の地域に依って異なる行動を採り矛盾が起こっています。

この事は何を意味するのか。「氏融合」の過程で大きな政治的な戦略が観えて来ます。

結論から述べますと、「九州基地」と「伊勢基地」との間で「両立2面作戦」の戦略を展開しています。
それは先ず、「氏融合、農政、物造り」の史実から観て、戦略的に「3つの基地」を展開しています。
1 大隈国を基地として「九州南部地域の基地」
2 大宰府を基地として「九州北部地域の基地」
3 伊勢伊賀を基地として「関西中国地域の基地」

阿多倍側からの考察
「九州南部地域」は国政に対して従わず入国以来「物造り」と「農政」には「自治」を継続。
「九州北部地域」は国政に対して「物造り」に従い「農政」には不従政策 「半自治」を継続
「関西中国地域」は国政に対して「物造り」「農政」共に従い、政策を主導
800年までこの態勢を維持した。


朝廷側からの考察
入国来、無戦征圧32/66国を征圧した彼等一団が「帰化」か「独立」で来るかで朝廷は悩む。
結果は「帰化」で来た。しかし、武力制圧して「帰化」に成った訳ではない。
争いを避ける事である。”完全に従う”という事ではないと判断して朝廷は悩む。
そこで「首魁阿多倍」を都に呼び寄せ「伊勢」に勲功を理由に懐柔策に出た。
要するに「首魁不在」の「九州南部基地」を空にする作戦に出て九州南北の基地の勢力を弱める作戦に出た。
そこで妥協策として、勲功とは別に朝廷の力が及ぶ所に定住させる作戦に出た。
関西以西中国地方の影響力に限定する戦略である。その為に阿多倍に「伊勢北部伊賀割譲」をして留めた。
しかし、九州2基地は依然折れて来ず、国策に従わない。これでは「独立」と成ると焦る。止む無く次ぎの手を考えた。
そこでこの「都定住策」に加え、取り合えず、阿多倍王と「間接血縁」させて一度目の「天皇家との繋がり」を作り恐れている「独立」の「回避策」に出た。
ここで天皇家と間接的にも結び付けば「子孫繁栄」の生活圏を築かせて置く事で縛りつけられると考えた。中国関西基地は何とか折れて国策に従い始めた。
それで九州の北部基地はやや折れてきたが南部基地は依然として国策に従う様子なしと観て、更に懐柔策として「大隈国割譲」で様子見守った。
矢張り動かないので今度は阿多倍の子に異例の賜姓をしてお膝元の九州南部基地を従わせる様に試みた。(坂上氏、大蔵氏、内蔵氏)
朝廷は妥協して阿多倍賜姓族に「軍事、経済、政治」の政策実務を任せて自らの首魁が行う政策であるので九州南北の基地が国策に従うだろうと考え誘導した。
これでも従わないので、そこで遂に軍事で解決しよう決断を下した。
当初の作戦通りに空した「九州南部基地」の本拠地を攻めて彼等の「分断作戦」に出た。
首魁らが行う政策に従わない事を理由に一族の粛清と見せて挙動したのである。
これが恐ろしく強い「彼等の戦力」に押されて失敗して慌てて船で逃げ帰る。
これで「立場と信頼」は完全に消失したと考えた。
「本拠地」大隈を突かれて「関西中国地域の基地」では阿多倍一族は驚いた。極度に警戒を強めて来た。
最早、動かし難い「伊勢伊賀基地」の今にも「独立」の気配の態度硬化を観て、軍事的にも解決は無理と観た。
後は「天皇の権力」しか無く成る。つまり「冠位と血縁の策」しか無く成った。
朝廷内も政治、軍事、経済の実務を握られている。「蘇我氏の専横」のレベルでは到底ないと感じる。
第1期の青木氏等が主導する「皇親政治」では天皇家の中で「何の改新か」との批判高まる。
遺された道は只一つ阿多倍の孫娘と2度目の天皇家と「直接血縁」で逃げる又もや懐柔策に出た。
朝廷は「仏教政治」の弊害で乱れている。「称徳天皇」の道鏡に振り回されて政治は混乱し朝廷はますます弱腰になる。
そこで、皇親政治族の賜姓青木氏や藤原氏に無理やりに押されて例外の天皇に成った優秀な光仁天皇は「仏教政治」を廃止し「皇親政治」に戻して朝廷内を先ず一新し、そして阿多倍一族から妻を向えて以西の問題を先ず収束させた。
朝廷の政治を主導し律令国家体制に整えた。しかし、3権を殆ど牛耳る程の彼等の勢力と成っては逆に打つ手なしと判断した。
「桓武天皇」が率いる賛成派は阿多倍の末裔を賜姓策で引き上げて又もや更なる「血縁融合策」に出た。そこで、先ず朝廷軍を「阿多倍軍と阿智使軍」を主力とした編成にし信用させて、九州の南北の2基地を攻める意思の無い事を示し、「政治、経済、軍事」の「3権」を任して「究極の独立回避策」に出た。
さすれば九州は国策に従うと観たが南部基地の「強行派肝付氏」が勢力を増して依然従わない。
そこで、以西を突けば「民族性」の強く「融合」に従わない「異民族」の「以北勢力」を逆に南下させると見て、まず「以北の憂い」を無くす事から始めた。
優秀な妻方の連合軍を編成して強力な「阿多倍軍+阿智使軍」を使って取り合えずは先ず以北の征圧策に出る。成功する。後は彼等の以西を国策に従わせるのみと成る。
阿多倍の子を「征夷大将軍」に任じて最終「軍事の最高権威」も与えて動きを誘導して3権で九州南部基地を従わせる様に仕組んだ。
戦っても身内同士の戦いになるし戦力の差がある。間違いなく国策に従うと観た。
ところが”強力な身内の「伊勢伊賀本部」の「首魁宗家」と争う事を避けるだろう”として考えた。朝廷は命じた。そこで「九州北部基地」に地盤を置く「大蔵氏」は国策に従う様に条件付の「柔軟な姿勢」を採ったが、逆に「九州南部基地」では騒ぎが大きくなり依然として国策に従わない。
しかし、「伊勢伊賀本部」からの指令で止む無く妥協策として農政の「口分田」のみに従うとする態度を示す。
ところが、強硬派の「九州南部基地」では異変が起こり、阿多倍末裔の超強硬派肝付氏が台頭し主導権の勢力図が変わり「律令政治」そのものに従わない態度を示す。
最早、打つ手なしとして、今度は朝廷内では「最悪の独立」を避ける為に「九州2基地」の「半自治政策」に傾く。
そこで、暫時策を打ち出す。九州阿多倍末裔の最大勢力の大蔵氏に焦点を当てる策に出た。
先ず、彼等を完全に引き入れる為に一族の大蔵氏に天皇家の流を汲む身分の「宿禰族」を与えて「身分家柄」を高める策に出た。
次ぎに、暫くして大蔵氏の本拠地「九州北部基地」に対して前代未聞の「錦の御旗」「太宰大貫主」を与え「冠位と身分」の妥協策で朝廷側に引き込むお膳立てを構ずる。完全に成功する。
依然、更に国策に従わない「九州南部基地」を横目に、「九州北部基地」に配置して「半自治」を認める「懐柔策」を展開した。
つまり「九州北部基地」の大蔵氏をして「九州南部基地」を凋落させる戦略である。
それでも、まだ不安があり解決が出来ない。そこで本家筋の大蔵氏に従わない肝付氏との間に険悪な状況が起こった。「九州南部」と「九州北部」の「基地間の争い」(同族争い)が起こる可能性が出た。
「関西中国基地」と「伊勢北部伊賀指令本部」は焦った。朝廷が狙う共倒れが起こる。
「関西中国基地」等3基地の全権を握る「伊勢基地の司令部」は慌てた。最早、「人物策」しかないと考えた。
天皇に働きかけをして一族の中でもこれを解決できる「人物」は日本全国で唯一とされる万来の「人物」に白羽の矢を当てた。
大蔵氏の優秀な政治、経済、軍事で有能で万能な逸材の「大蔵種材」に任す事を提案する。
超強硬派の肝付氏も”種材ならば”とこれに従うと判断。それには前提条件がある。
朝廷は、彼等の「共倒れ」で「乱」を選ぶか、「国策」を守らせ全国共通して律令下で「氏融合策」を採るか選択を迫られる。
そこで、前提条件を認める事に成る。九州全域には多少の「国策律令の不順」は妥協しても「運用権」を認める戦略に出た。
止む無く彼等の末裔の主力大蔵氏に「運用権」の範囲で「九州全域の政治」を任す「完全自治国」とする事で「乱の国難」を避けた。九州南部基地は従い大成功する。そして矢張り九州南北の基地では政治、経済、軍事で安定に向かう。
この時、丁度、「物造りの本拠地」でもある九州全域の安定化に伴ない「品部の物造り生産力」の向上とは裏腹に、逆に、特に全国的に「班田収授法」等の「農政政策」を定めたものの、各地で「凶作や天災、飢饉、動乱、政権不安定等の原因で、全国的に「農産物の被害」が続出し、「重税や労役の負担」で「部曲の不満」が頂点に達し「農民反乱」が各地で起こっていた。
これに呼応した豪族等が叛乱を起こし、これを潰そうとして朝廷は戦いを起こしたり挙句の果てには朝廷内で「農政による政争」が起こった。
この様な環境の中で、「部曲の農産力」が限界に至り、「難民移民」などの受け入れが国策上限界と成っていた。
特に北部地域に頻発していて、武装難民等の入国を阻止する為には九州南北基地の彼らの力が必要な環境下に入った時でもあった。
ここで「九州南北基地の戦い」が起これば、依然不安定な武力制圧で納めたがその末裔が息を吹き返してきた以北、一応は「運用権で納めた九州南北」、膝元の「中央の政権の乱れ」、「各地の農政による不満の反乱」、これに呼応した「豪族の反乱」、これでは国が立ち行かなくなると朝廷は悩んでいた。
そこで、危急存亡の「秘策の提案」を採用する事になる。
九州南北の問題を「運用権」より進めて「自治」を宣言させる方策で任して置いて、他方の「以北の憂い」を解決する為に源義家の「征夷大将軍」と藤原秀郷一門の「鎮守府将軍」に任じて、彼等の氏力で片方の「以北の完全鎮圧」に当る方策に切り替えたのである。成功する。
しかし、義家は荘園制で大きくなり過ぎて却って問題が出た。義家を潰しに掛かる。成功する。以北はほぼ解決した。
次ぎは九州全域の問題だ。彼等の狙いは実質は「独立」だか、朝廷はその「大義名分」として「遠の朝廷」として権威を与えそれを証明する「錦の御旗」で繕う事で「独立の形」を避けて「自治の国」を認める決断を下した。これが1018年の事である。成功する。
以西と以北は解決する。
しかし、この結果、「融合氏」の勢力が必要以上に増し、荘園制が行き過ぎ土地私有化へと勝手に進み始めた。朝廷は観てみぬ振りをする。
しかし、これを憂いていた天皇が立ち上がった。後三条天皇。融合の弊害に成る荘園の私有化に歯止めを掛けた。「荘園整理令」を出す。
身に危険が迫る。白河天皇は更に勇敢に「荘園公領制」に踏み切った。融合氏は正常な形で進み始めた。
融合氏推進を国策とする天皇側と、民族氏の阿多倍一族一問との駆け引きの問題に一応休戦状態となった。
これで、全国統一して「律令国家」の前提が、九州に「自治の国」は存在するにしても、一応は出来上がったのです。阿多倍側と天皇側とには両者共に主張点は確保して後は妥協策で解決する方向へと進み始めた。

時系列で観た融合に関するこれが平安期の経緯と考えられます。

  「律令と造作」
これで「氏融合」「物造り」「神明社」の「3つの国策」は一挙に進むことになります。
その解決への弟1の変曲点ピークは桓武天皇期にあり、この「3つの国策」を成した天皇として、彼を「律令と造作の天皇」と呼ばれた所以なのです。
明確な”「造作」”の名称が着いた事は「氏融合政策」には「物造り政策」が連動していなければ成らない国策状況であったことを物語ります。
彼の「物造り」(造作)は資料記録から観ると、大事の「都造り」から始まり「河川道路造り」「寺造り」「神社造り」末端の「物造り増産と開発」などに率先して働きこれ等は広範囲に渡ります。
つまり、「高負担の税と労役」を課しながら「公共工事による税の還元」や「朝廷に入る部制度による物造りの利益」に依って「税と労役分」を民に戻し潤いを与えて、「農政不満の解消」を図り国の安定を計ったのです。
「物造り」政策の「増産」とそれに伴なって起こる「開発」を基盤として、自然災害の「農政問題」を補完した政策を採ったのです。
そして其処に「民の心の安寧と安定」を図る為に「神社仏閣の建設」も積極的に並行する相乗効果を狙ったのです。
これらの考え方(「氏融合」-「物造り」-「神明社」)は平安期の代々の天皇に引き継がれて行ったのです。これは真に融合氏の発祥源「青木氏」、青木氏の「守護神・祖先神」、青木氏の古代和紙・殖産「2足の草鞋策」に一致し、そのものの考え方です。これで天皇家と青木氏は連動して行くのです。(後述する)

  「運用の基盤差」
上記した連動した国策(「氏融合」、「物造り」、「神明社」)は「九州南部基地」と「九州北部基地」とでは若干の導入に関する温度差はあったと想われますが、筆者は、自らの首魁等が決めた国策には概ね従っていたと考えていて、それを実行する「完全な拘束力」に対して「柔軟な運用権」を主張していたのではないかと観ているのです。”全く国策を撥ね付けていた”とは考え難いのです。
その根拠はその「土地柄」「民族柄」を未だ強く遺されていて一概に国策の「律令制度」には馴染めない環境が強く遺されていたと考えているのです。
だから、それを解決する手段としては「柔軟な運用」以外に無い筈です。彼等は「氏融合」策に付いては論理的には”「国の安寧の根幹」を示す事である”とは充分に認識していて、「否定的」ではなく「総論賛成 各論反対」の態度を採ったのであって、其処には3基地の受け入れの「温度差」があったと考えているのです。特に後の末裔「たいら族」(平族)の根拠地になった「関西中国基地」では”都に近い”と言う「地理的要素」があり国策をある程度呑む以外には無かったと観るのです。
九州の「2つの基地」に付いては、恐らくは「地理的要素」が強く遺されていた事からこの様な経緯を辿ったと考えます。とりわけ、「土地柄」「民族柄」を基本としていますが、決定的な要素が此処にあるのです。それは本文の論説の一つのなのです。

つまり、彼等は「中国人」それも最も「優秀な民族」と評されている「後漢の人」なのです。
彼等の思考の原理は「儒教の教え」から来る「石は薬」「法より人」の「生まれつきの概念」があるからなのです。今も彼等には色濃く遺されている概念です。
この「石は薬」「法より人」の「生まれつきの概念」がある限り、「律令」よりも「人」と云う理屈が生まれてくるのは必然です。ましてや、「古代の時代」「日本も始めての律令」の環境下にあったのです。遺伝的に持つ彼等の概念「柔軟な運用権」は「人」の思考を優先する彼等には「自然の思考」であったと考えます。
優に摩擦が生まれて自然にこの様な経緯を辿ったのです。
日本人の「7つの民族」から来る「集団性癖」から観ると、「集約する思考」が存在しない限りは成り立たない「融合単一民族」であり、つまり、「常識」が「法」としたとの考えがあり、「最低の常識」つまり「法」が優先されるべきと考えるが「自然の思考」と成ります。
少なくとも「人」は最低は「法」の概念を守るべきと成るでしょう。ここが彼等とは全く逆なのです。
ここが、日本の「氏融合」と「物造り」と「神明社」の概念が中国に差をつけて大きく進んだ所以と考えます。

  「青木氏の功績」「妥協と争い」
兎も角も、奈良期、平安期の時代には、現在にも未だ大きく遺されて問題事件と成っている「人類の課題」が、この時期に大きくのさばっていた事を物語る「融合氏の生き様」であったのです。
恐らくは現在でも起こる中国ロシアとの摩擦どころの話では無いと考えます。
それをこの様な「経緯」を280年間の間に解決して共通認識の「氏融合」は成されたのです。
「国策経緯」=「氏融合」=280年間
日本の歴史上最も見本とするべき経緯です。
恐らく、諸外国が「民族性」から脱し得ず「氏融合の単一民族化」していない原因は「妥協」を選ばず「争い」で決着する方法を選んだ事だと考えます。
日本人の「妥協的思考原理」とすると、それから観れば彼等の遺伝子的に持つものは極端な「合理的思考原理」とも成りそれに起因するものと成ります。
「争い」も「自然摂理」から観ても必ずしも否定するものではないとは考えます。
「争い」の手段は「解決」と云うよりは「決着」と考えるのが日本人なのかも知れません。
この世の「物事の解決」には分析すると「幾つかのプロセス」が存在している筈です。
一挙に右から左と「問題発生-解決」と云うシナリオを経験した事はありません。
この間には「決着」を始めとする「2、3のプロセス」が必ず介在しています。
「決着」は「解決」と云う目標の一つ手前のプロセスである筈です。
とすると、「争い」には大小あると思いますが少なくとも人間が考え出した「本能」に近いもので「決着の手段」の一つと認識されるでしょう。
「人」が「人間」である限りは現代も全く変わっていないと考えます。
  「長は理想と現実の理解者 青木氏の教え-1」
現に、この1018年以降は今度は下記の「三相の理」が崩れて「氏融合の弊害」の「生存競争」が起こり、「争い」という「自然の神」が織り成す解決手段で「下克上」「戦国時代」へと突入して行くのです。
恐らくは現代あるこの社会でも、国内外の問題を問わず「神の力」を除きこの様な事が起こればその「流れ」の中では、矢張りその解決手段は「争い」以外には無いと考えられます。
これだけ「大きなエネルギーを押さえ込む力」は「神の力」以外に何人にも無い筈です。神でも不可能かも知れない。
「神」も時には「争い」を以って解決を示します。つまり、「理想論」では行かないのがこの世の摂理です。
そもそも、少なくとも「理想」とは「人間の知恵」の「発露の発展」が成した「論理的な究極の思考」と定義付けられるでしょう。他の動物に観られない無い思考なのです。
と云う事は「厄介な思考」とも取れます。「理想」は「争い」があるからその反意として「理想」と云う形を「人間の知恵」は形作っているのであって、現実の中に容易に存在するものではない筈です。
それを恰も現実中に存在するものとして、「理想通り」に物事を進める事は「集団の長の思考」とはとても考えられないものと成ります。
歴史上の史実から観て確かにその様な人物は一部存在しますが、考察すると一時は事は成したとしても、むしろ周囲には必ず「弊害や滅亡」を生んでいます。
しかし、世の中、”「長」が理想論者であるべきだ”とする説があるのは「論理的な究極の思考」に酔っている姿の説であり、良く見掛ける”耳障りの良い事を言い立て自己を満足させる”と云う事に執着している「人間の性(さが)」(癖)の一つと筆者は観ているのです。仏教でもこの説を採っています。つまり、仏教の説法にもあるのだからこのタイプの人間が多いと言うことです。
例えば、「人を観て法を説け」「縁無き衆生動し難し」”現実から大きく離れ「理想」「無関心」などに拘り過ぎ「色即是空の説法」を聞き入れない者は捨て置きなさい”そして裏意では”行き詰まり救いを求めた時に手を差し伸べなさい”と説いています。
筆者は個人の範囲で「理想論」を思考する事が「知恵の性」である限りは否定はしませんが、”長はそれに酔って物事を云々する事”を否定するものなのです。
「理想世界」の中では、「人間の妄想」と位置付けられ「人間の性」「人間の煩悩」が無くならない限りは、現世に「矛盾差」が生まれ、その世界があっても、その中では人間は生きられない筈です。つまり、生きるには「理想の世界」は「人が生きられない世界」と考えているのです。むしろ「仏説」の説く処の「地獄」だと考えているのです。
”「理想世界」が「極楽」で、「現世(うつせ)」が「地獄」ではない””「理想世界」が「地獄」で「現世」が「極楽」である”と。これが「般若心経の教え」であり、青木氏家訓10訓の真意であると考えています。
「理想世界」は「人間の思考」の成せる業であり「神」の成せる業ではないのです。「現世」が「極楽」とする場合、「無条件」ではなくこれには「適切な条件」が伴っている筈です。
上記の「経緯」の如く歴史的に事を正しく納めた「長」にはこの理想思考タイプの人物は見当たりません。
「理想」とは、突き詰めればそもそも「個人の産物」に過ぎないのです。
「理想」は、団体では「民族性」、個人では「人生経験度」に依って異なります。
故に、「長」は「妥協」の「プロセス」として「現実」を直視すれば、「民族性」(民族氏)から脱して、より小さい集合体の「氏性」(融合氏)に終結させる事が必要である事に成ります。
1つ2つの民族ではなく、「7つもの民族」が存在している現状の中では、「自然の摂理」として「民族氏」の「民族性」が強く存在する限り、”「争い」と云う現象が起こりより良い現実の「安寧」は獲得出来ない”と考える事が「長」に求められる筈です。
この「氏融合 280年間」の「国策の山」を越させた「長」の人物「嵯峨天皇」までの「濃い血縁」で繋がる「我等全青木氏の祖」は、「長」としてぶれる事無く、この事を理解していた事を意味します。
(「我等全青木氏」は下記「血縁と絆」からの「4つの青木氏」を意味する)

  「適切な条件」=「手段の使い方」と「三相の理」
「家訓10訓」の青木氏の教え-2」
ただ、問題はその「手段の使い方」によるものでしょう。「妥協」もその使い方如何では「争い」以上の悲惨さを生む事は「神と仏教の教え」でもあります。
即ち、「手段の使い方」とは「人時場所」の「三相の理」であります。
この解決策と成った「妥協」は、この「三相の理」(人、時、場所)に叶っていた事を意味するもので、即ち、「7つの民族」の「集団性」から来た「日本人の特技」であり「癖」でもあるからです。

「奈良平安期の天皇と後漢の帰化」の「人」
「上記280年経緯」の「経時」
「3つの基地と都」の「場所」
以上の「3つの理」が叶っていたと云う事に成ります。

では、この「三相の理」を一つにして適える「使い方の手段」とは「律令」「格式」であります。
「律」は刑法、「令」は民法、「格」は追加法令、「式」は雑則規定類
この4つを「現世」に於いて「極楽」と成す条件であり、これにより「現世」の「人の性(さが)」による「弊害」を最小限に押さえ込む事が出来るとするものです。
「律令」「格式」により「地獄」から「極楽」に変換するものです。
ただ、これでは「絵に描いた餅」、要は「長」のそれの「手段の使い方」、つまり、「運用」と成ります。「絵に描いた餅」「環境問題(人、時、場所の環境変化)」は刻々変化します。
それに適合する「運用」(妥協)が「長」に相応しい「資質」として求められるのです。
これが上記した経緯「律令国家体制への道筋」なのです。(現在でも通じる事)

「適切な条件」=「手段の使い方」=「三相の理」=「律令」「格式」・・・「極楽」>「地獄」

この「三相の理」を理解していた「皇親政治側」の青木氏等の偉大な為政者には私事を捨て「大変な苦労」であった事が絵に描くように判ります。現代の為政者を評価する時、大いにその評価基準と成り得ます。
故にこの思考は、この時代を「皇親政治のリード役青木氏」の全ての「始祖施基皇子」の「善事選集」司の処から発している事を強調する点なのです。
「飛鳥浄御原律令」、「大宝律令(養老律令)」等と「上記した国策」であり、その究極は「氏融合」とそれに連動する「物造り」であったのです。
日本書紀にも書かれている記録であるのですが、この大元は全国を歩き回って集めた行動指針として活用を始めた施基皇子編集の「善事選集」から発しているのです。
(「善事選集」:各地の豪族たちが国を運用する時に決められた賞罰、慣習法の良いものを集め「律令格式」の下地にした。 後に整備された「律令格式」以外にも独自に「国例」即ち、慣習法として国ごとに定めた残った。 現在の「国政令」と「地方条令」の仕組みの下に成った)
これを上記した「長」としての資質を持ち天皇に代わって先ず執行したのが青木氏の始祖であるのです。この当時としては現在の「2つの仕組み」になるほどのものを考えた事は驚きで卓見そのものです。
これが青木氏にとっては本文の目的とする「伝統とするべき認識」なのです。
「3つの発祥源」である青木氏はこの様な「やり取りの渦中」に居た事を物語るものです。
これは取りも直さず、故に「青木氏の家訓10訓」の大いに示す所でもあります。
大化期では施基皇子が「天地、天武天皇」の「皇親政治の相談役」として主導している事は日本書紀にもよく出てくる事でなのです。(研究室にレポート有)
まして、「光仁天皇」は「施基皇子」の子供で女系天皇が続いた為に皇位継承者が無く押されて天皇に成った人物です。
(女系天皇が続きその精神的負担から逃れるために「仏教のお告げ政治」を敢行し、国は乱れ疲弊してしまった危機状況であった。 これを解決するために民衆と藤原氏は皇位継承権外の第5世族次席者第6位皇子の家柄に白羽の矢を立てた。)
青木氏の始祖末裔で、「阿多倍の孫娘 高野新笠 血縁の妥協策」の苦しい時期の為政者であって、正に青木氏の「皇親政治」の真ん中に居たのです。つまり、「青木氏の孤立的な苦悩」でもあったのです。
「280年の経緯」全体から見ればこの時期は「最も重要な良悪の分かれ目」になるポイントであったと観られます。青木氏は正しい判断を問われて親族として具申した事は明らかに予想が出来ます。
日本書紀の伊勢国を「国司三宅連岩床」に任せて「天皇の補佐役」をしていた「施基皇子の優秀さと立場」から判断すると、間違いなく「皇親政治の立役者」の「青木氏の具申」と考えられます。
まして「桓武天皇」は「青木氏の第3始祖」とも考えられる人物です。大いに具申はあったと考えるのが自然ではないかと思うのです。
(青木氏と直系血縁天皇: 天智天皇-施基皇子-光仁天皇-桓武天皇-嵯峨天皇)
筆者は、青木氏は「3つの発祥源」である訳ですから、「皇親政治」を標榜する天皇は青木氏の考え方、提案を聞かない訳には行かなかったと考えています。
 重要参考
光仁天皇の妻 高野新笠の実子の桓武天皇は父方(皇親政治)、母方(阿多倍政治)の「苦しい選択」に迫られて「母方重視の策」を止む無く採った。故に「律令政治」に成り「第1期の皇親政治」は終わり、何と青木氏出目の天皇に依って青木氏は一時衰退させられる憂き目を負う事に成る。
(ここで5家5流青木氏は和紙を扱う「2足の草鞋策」に入るのです。)
2代後「激しい政争」の末に嵯峨天皇期では再び第2期の「皇親政治」は「賜姓青木氏」から「賜姓源氏」に復活するのです。
ここより「賜姓源氏」に変名するのですが、「賜姓源氏」も「阿多倍伊勢一族」の直系子孫(平清盛)の台頭を抑えきれずに憂き目を引き継ぐのです。
国策「融合氏」から発祥した「賜姓青木氏」「賜姓源氏」と、「民族氏」から発展した「阿多倍一門の融合氏」の対照的な2種氏の勢力関係の競合は、依然として1275年頃にやっと起こった九州北部基地の大蔵氏と、九州南部基地の肝付氏と、藤原秀郷流青木氏と秀郷一門永嶋氏との血縁までのその時期まで続くのです。
これらの関係は次ぎの融合数式により成り立ったのです。
A 「賜姓青木氏」+「賜姓源氏」><阿多倍一族一門
B 「秀郷流青木氏」+「秀郷流永嶋氏」><阿多倍一族一門

C 「賜姓青木氏」+「賜姓源氏」=「絆」=阿多倍一族一門(関西中国基地 伊勢基地本部)
D 「秀郷流青木氏」+「秀郷流永嶋氏」=「血縁」=阿多倍一族一門(九州南北基地の2氏)

「融合氏」の「賜姓青木氏5家」にしてみれば宗家が「伊勢北部南部の隣の地理的関係」から、また「5大和紙と云う経済的関係」からの関係からも、「民族氏」の彼等との血筋は無いにしても「絆」と云う点では多少なりともあった事になります。
所謂、判りやすく云えば、日本人ノーベル賞の有機物の不可能な結合を成した「カップリング現象の結合」で相反する氏は融合したのです。「絆」を触媒として。

(1180年の「源平合戦 以仁王の乱」にて賜姓青木氏の伊勢青木氏の跡目に入った京綱が助けられ、賜姓清和源氏頼光系頼政末孫3名がこの「絆」で日向で日向青木氏として助けられる。)
最終の結末は「争い」と云う手段で解決しなくてはならない方向に動きます。
5年後には「2軍の将相立たず」の教えの通り「絆」で結び付いていても「解決」と云うものに向って「決着」と云うプロセスを踏まなくては成らないのがこの「世の条理」です。
「関西中国基地 伊勢基地本部」は滅亡するのです。

E (「賜姓青木氏」+「賜姓源氏」)>×(阿多倍一族一門:関西中国基地 伊勢基地本部)=0

しかし、「解決」には影で動かす勢力も必ず存在するのもこの世の摂理条理です。
上記の数式の影で「第7世族 坂東八平氏」が再び「融合氏」として成長して来ていたのです。
「決着」の「争い」で弱体化した「賜姓源氏」は影の氏に依って葬りさられるのです。

F 「第7世族 坂東八平氏」×「阿多倍一門一族 伊勢基地本部」=0
G 「第7世族 坂東八平氏」>「賜姓源氏」=0

結局、上記のAからGまでの数式から差し引くと

「賜姓青木氏」+「秀郷流青木氏」

 「九州南北基地の阿多倍一族一門」
結局、「融合氏」の「3つの発祥源」の青木氏が無傷で残る事になります。
これは上記で論じてきた事柄
a 「三相の理」や「理想と現実」を弁えて「家訓の戒め」を良く守った。
b 「2足の草鞋策(物造り)」と「絆」で結ばれた「絆結合の青木氏の支え」があった。
c 「神明社で団結」の4つの条件が整っていた事があった。
以上の3つがあったからこそ「融合氏の3つの発祥源の青木氏」として生き延びられたのです。

今から観れば、”これ以外には無い”と考えられる素晴らしいこの様な経緯を辿ったのです。
恐らくは3地域を率いる阿多倍一族一門側も、青木氏等と藤原氏等を始めとする「皇親政治」を主導している朝廷側(天皇家)との駆け引きには、上記する経緯に「裏腹の相似する態度と思考」を持っていたと考えられます。
それはその上記した大化の国策に始まった「融合政策」と関連する「物造り」等の国策は取りも直さず彼等の立案と実行に掛かっていた事なのです。
彼等にとって大きく反動する事は「自らの政治立案」と矛盾する事になり、政治は成り立たなくなり「皇親政治側」の反発を招き危険な筋道を辿る事は必定です。
其処に両者には難しい上記する手綱捌きが起こったのです。
この青木氏を始めとする「皇親政治側」の「苦悩と生き様」は研究室のレポートに詳細にしている通りであり、これ等との知識と連動させると立体的な奈良時代から平安末期までの「生き様」が観えて来ます。

この「氏融合」「物造り」「神明社」とするには研究室レポートと他面の阿多倍側の「苦悩と生き様」も描き明確にする事が必要で一挙に大論文に入っているのです。


次ぎは「青木氏と守護神(神明社)-3」に続く


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