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伊勢青木氏 家訓6

タイトル : 伊勢青木家 家訓6
投稿日 : 12/29-06:48
投稿者 : 福管理人

伊勢青木氏家訓10訓

家訓1 夫は夫足れども、妻は妻にして足れ。(親子にして同じ)
家訓2 父は賢なりて、その子必ずしも賢ならず。母は賢なりて、その子賢なり。
家訓3 主は正しき行為を導きく為、「三相」を得て成せ。(人、時、場)
家訓4 自らの「深層」の心理を悟るべし。(性の定)
家訓5 自らは「人」を見て「実相」を知るべし。(人を見て法を説け)
家訓6 自らの「教養」を培かうべし。(教の育 教の養)
家訓7 自らの「執着」を捨てるべし。(色即是空 空即是色)
家訓8 全てに於いて「創造」を忘れべからず。(技の術 技の能)
家訓9 自らの「煩悩」に勝るべし。(4つの煩)
家訓10 人生は子孫を遺す事に一義あり、「喜怒哀楽」に有らず


家訓6 自らの「教養」を培かうべし。(教の育 教の養)

家訓6までの戒めは次ぎの通りである。
家訓1は「夫婦の戒め」
家訓2は「親子の戒め」
家訓3は「行動の戒め」
家訓4は「性(さが)の戒め」
家訓5は「対人の戒め」
以上であった。

家訓6は「人間形成の戒め」(長の戒め)である。
この教訓6はそもそも「教育」と「教養」とは違うという事を意味し、その区別を受けて培えと云う事として伝えられている。
この事が両親から子供の頃から最も頻繁に教えられた事である。
それは何故なのかと云う事である。この事は人を無意味な差別化を無意識にさせてしまう思考を培ってしまう事を誡めているのである。
この家訓の持つ意味に付いて、成人して結婚に至った時に初めてこの家訓の意味を知ったのだが、家族を持った事で”子孫存続に大きく関わる事だからである”と判ったのである。

それに付いてこの家訓6には添書で細かく解説されている。
それには、まとめるとまず最初に次ぎの様な事柄が書いている。
「教養」「教育」は社会を維持する時に必要とする「上下関係の差違」を意味するものではない事は明らかである。「社会」は「組織に類するもの」と「家庭に類するもの」とに分類出来る。
そこで、その「社会」の中での「組織」や「家庭」で必要とする差違、例えば、上下の関係は「契約」であり、元より「差別」では無く「差違」であり、「組織」又は「家庭」を円満で効果的に維持する上で必要とする「相互の了解」の上での「契約」である。
組織は「命令する者」と「命令される者」の契約を伴なう事であるが、この「命令」が上下の感覚を生み出してしまうのである。
家庭はもとより親と子の関係はあるが上下ではなく、家訓1又は家訓2にある様に「導く者」と「導びかれる者」の差異が主流となり契約が成立する。
「組織」=「命令する者」、「命令される者」=「契約」
「家庭」=「導く者」、「導かれる者」=「契約」

更に、進めて、そもそも、人は「人間的な程度」(人間力)を上げることを目的として「教育」を受けさせる。しかし、この「教育」は「知識」の習得を前提として「人間的な程度」(人間力)を上げる事に第一義があり、決して「心の持ち様」を上げての「人間的な程度」(人間力)の向上を成し得るものではない。
その「人間的な程度」(人間力)とは2つの要素に依って構成される。
それは、ここで云う「教養」であり、「教育}である。

この世に於いて「諸事」を解決するに必要とする「人間力」は様々なところで発揮される。それに依ってその「人の力量」が試される。この「力量」を「人間力」と言うが、「解決成し得る力」のその程度に依ってその「人間力」は測られる。
それは、「心の豊かさ」を培った「教養」だけでは成し得ない。人間は他の動物と違う所は「知恵」に依って得た「知識」で「人間」としての存在がある。
従って、その本来の「知恵」の根拠とする処の「知識」を得て初めてこの世の諸事に対することが出来る。その「諸事の解決」の「成果」を高めるのはこの「心の豊かさ」を培う「教養」である。
この「諸事の解決」には仏教で云う「三相」(人、時、場所)を必要としている。
この「三相」のこの「3つの相」に卓越する事が「人間力」を高める事に成るのである。
その「卓越」は、例えば、「人」を捉えた場合「人」を動するには「知識」と「心の豊かさ」の量が試される。決して、「知識」だけでは成し得ない。
人は「心の動物」と云われる様に、其処には「心の豊かさ」の「教養」が無ければ人を動する事は出来ない。
況や、”人とは何ぞや”と成った場合には、「人の如何」を知る必要がある。これは「先人の知恵」に学ぶ以外には無い。それは「知恵」即ち「知識」である。
つまり、この「2つの知識」と「心の豊かさ」の量の大小の如何に関わることを意味する。
当然に、「知識」を会得する場合にそれに伴ない幾らかの「心の豊かさ」も会得できるであろうし、「心の豊かさ」を会得するにも幾らかの「知識」も会得する事に成るだろう。
しかし、その比は同率では無い。故に、2つの「低い所」を補ってこそ「諸事を成し得る力量」が会得できるのである。
この家訓6では「人の力量」をより他に比して高めるにはこの低い部分を補うことであり、且つ”「教養」と「教育」とは異なる”としているのであり、故に本家訓6ではこの”二つの事を培え”としているのである。
「力量」=「教養」+「教育」=「人間力」=「三相の獲得(人、時、場所)」
「教養」=「心」=「心の豊かさ」
「教育」=「知識」=「知恵」=「先人の知恵」

ところで、この家訓が生まれた頃は氏家制度の盛重期であり、家柄身分が社会を構成する基準と成っていた。その中で、青木氏の家訓では上下の身分は「社会を構成する為の契約」であるとしている。決して本来存在する階級では無いとしているのである。当時としては、口外できる考え方ではなかったのであろうが、それを家訓6としてその意味合い(社会を構成する契約)を遺したものと考えられる。それが、青木氏一族一門の「長」としての「秘たる心根」「人間的な戒め」としていたのであろう。これらは添書から覗える事である。
家柄身分が低いから高いからとして「長」として、差配すれば恐らくは「人」は充分に動かず子孫を遺し得なかったのではないだろか。その良い例がある。

そもそも伊勢青木氏はそれまで日本書紀にも記述されている様に伊勢王施基皇子から発祥し、その活動では皇親政治の中心に居た青木氏は、桓武天皇の律令国家の完成期から始まり、1125年頃から[律令による国家運営」と「皇親政治による国家運営」とに矛盾を生じた為に皇親政治側に居た青木氏は阻害された。
この桓武天皇は母方(高野新笠 阿多倍の孫娘)子孫の賜姓族の「たいら族」(「京平氏」「桓武平氏」「伊勢平氏」)と呼ばれる一族をして青木氏を阻害させたものである。況や、彼の有名な後漢の阿多倍王の末裔帰化人、5代目末裔「平清盛」の全盛時代の始まりの中である。
桓武天皇は、第5位までに皇位継承者が無く次ぎの第6位皇子の身分(浄大1位)の伊勢王施基皇子の一族の長男が天皇と成ったが、その光仁天皇のその子供である。
要するに伊勢青木氏とは親族同族であると云う事だが、その親族同族の伊勢青木氏を圧迫し、300年程度後にはその引き上げた「平族」(たいら族)の台頭に依って、賜姓青木氏は一族の源氏と同様に一族存亡に関わる事態にまで落ち至ったのである。
その衰退の立場に於いて、同じ第6位皇子の末裔子孫の賜姓源氏も11家11流存在していたが衰退滅亡して3家3流に成り清和源氏主流と成った。
賜姓源氏は賜姓青木氏と同様に身の振り方を変えればそれなりの存亡もあったであろうが、この時、伊勢青木氏がわざわざ「2足の草鞋策」を採った。そして生残れた。
賜姓清和源氏の頼信(分家)子孫の頼朝は義経の提言にも関わらず無視弾圧して、皇族としての立場を依然として維持し、「坂東八平氏」の北条氏を「武力的背景」として「政治的存立」に掛けたが、結局70年後には滅ぶ結果と成った。
この事を考えると、賜姓5家5流の青木氏も源氏の滅亡を考えると如何にその立場が窮していたかがよく判る。
70年後の1195年頃には同族5家5流の賜姓青木氏だけが生き残り、賜姓源氏11家11流が全て滅亡したのはこの「2足の草鞋策」から生まれた家訓6を守った事によるものと評価するべき点である。それはどう云う事かと云うと次ぎの様に成るだろう。

つまり、桓武天皇は先ず800年頃にこの青木氏の勢力を殺ぐことを目的として伊勢の国守護等の実権を藤原氏北家筋(藤成 秀郷の曾祖父、平安末期には基景)の国司に委ねた。
それにより賜姓青木氏は次第に衰退し、続いて平氏の台頭が起きた事から生きる為に過去の実力を使い、「経済的安定」を一族一門の目標として、1125年頃(この時は基景が国司)に「2足の草鞋策」を展開したのである。
この時から、一面では摂津港にも店を持つ豪商の松阪商人として、一面では土地の松阪、名張、員弁、桑名、四日市一帯の3つの城を持つ豪族として一族の生き残りを図ったのである。
(美濃、信濃の青木氏と連携をしていた事が口伝や信濃伊勢町などの地名などから判断出来る)
恐らくは、この時から伊勢青木氏は一族一門を束ねて行かねば成らない苦しい試練と経験が起こり、それを通して生まれたのがこの家訓6では無いかと考えられる。
それまでは、皇族賜姓族として、「皇親政治」の主流一族としての立場からそれはそれなりに維持出来ていたのであろう。しかし、この立場を失した状況下では止む無き事となり、一族一門一統を束ねるべき「資質」が大いに求められたのではないかと想像出来る。
何処でも起こる事だが、当然の様に「路線争い」で内部でも内紛の様な事が起こったであろう事からこの家訓が生まれたのであろう。
その時の苦悩の結論からその一族の「長」としての「資質」がこの家訓6と成って代々遺されたものであろう。

この家訓6は賜姓族の侍の家の家訓と言うよりは、むしろ「商家的な色合い」が強く感じる。
「賜姓侍」としては「氏家制度」の中では生まれながらにして「家柄身分」が決められていればこの様な家訓は必要がない筈である。むしろ「武運長久」の家訓らしきものが主と成り得る筈であろう。
しかし、標記の家訓10訓は全て「人」の本質を求めている。
これは伊勢松阪青木氏は伊勢神宮の膝元で「不入不倫の権」で守られていた事から、外から侵害し攻められる脅威が低かった事にもよる。だから「武運長久」の家訓らしきものが無かったからにも依るだろう。
しかし、1130年代頃からその脅威は次第に増したのである。それは「武力的の脅威」と云うよりは衰退に依る「経済的な脅威」が増していたのであろう。
しかし、鎌倉時代に同じ立場に居た全ての同族賜姓源氏が滅んだことから「武力的な脅威」が増し始めたと考えられる。続いて、室町時代には「下克上、戦国時代」が起こり「不入不倫の権」で守られる保証は無く成ったのであろう。そして、遂には、「武力的な脅威」は”「天下布武」を標榜し比叡山等の古代社会権威を破壊すべし”とする信長の登場で現実の問題と成り、遂にはこの伊勢にも「天正の乱」の「3つ戦い」が起こった。
この様に歴史の経緯を観ると、賜姓源氏はこの「経済的な脅威」に対処していなかった為に滅んだと云える。
この時、この「2つの脅威」に対処していた青木氏はこの家訓を遺したのであろう。
しかし、それだけに一層に難しい存続の運営を任された一族一門一統の「長」としての「資質」、「力量」のあるべき姿の根本を問われていた事に成る。

関西以西32/66国を従え、技能集団を抱えての「宋貿易」を自ら行うなど「武力と経済力」を持っていたこの大勢力を誇る「平氏の脅威」に対しては、たった5国だけの5家5流の青木氏は一致団結と成って対処しなければ少なくとも存続が危ぶまれる状況下であった筈である。
5家5流は「経済力での繋がり」と「5つの小さい武力」の一族同盟の終結で対処した事に成る。
そこで、「小さい武力」しか持たない青木氏にとっては、平氏と同様に「経済的な力」を持つ事を考えたのは当然であろう。
むしろ、平氏の”「一門の経営を真似た」”のではないだろうか。それがこの「2足の草鞋策」であったと考えている。
平氏はもとより後漢の技能集団を率いていて「経済的な力」は帰化当時の始めから持っていたものである。恐らくは氏家制度の中で、阿多倍よりその5-7代で政権に上り詰めた「その実力」を観ていたのではないか。
その真因が「武力」では無く「経済力」に真因があると理解していたのであろう。
その証拠に、朝廷は奈良期末にはその始祖の大隈の首魁の阿多倍に、伊勢青木氏の守護地であった伊勢北部伊賀地方を割譲したのである。(薩摩の国の大隈も割譲した)
そして、伊勢青木氏は「経済力」を高める為に、その隣の阿多倍一門(京平氏、伊勢平氏)の和紙を作る技能に目を付けていたのであろう。これを販売する職業を最初に営んだ点である。
”商をする”をすると云っても並大抵の事ではない。まして、天領地の皇族である。
”血を吐く”思いで営んだと観られる。部門であれば組織であるから上記した様に「命令」で動くが「商」と成れば「命令」では動かない。それだけにこの「家訓6の重み」が血の滲む思いにあったのであろう。その「商」を保証する武力は他の四家の青木氏を束ねて一つの力として発揮するのであるから、その「束ねる力」も「命令」では動かないであろう。
当時の「商」は治安が悪く「武力」を背景としなくては販売と運搬は侭成らなかったのである。
当然、台頭する勢力の種を潰すのが上に立つ平家の戦略でありその妨害や脅威もあった筈であろう。
故に「商」にしても「武力」にしてもこの家訓6が大きく左右する事になった筈である。
同じく、信濃青木氏も日本書紀にも出て来る程に、阿多倍らが引き連れて来た「馬部」が信濃のこの地を開墾して信濃王の賜姓青木氏と血縁関係(諏訪族系青木氏)が起こっている。
美濃には小さい氏の「伊川津青木氏」があるが、未確認で証拠は無いが、この氏が細々と生き残った美濃賜姓青木氏の末裔(土岐氏系青木氏がある)ではと見ていて、それもこの「商」の経済的な裏打ちがあったからであろう。その先祖はこの付近の海幸を扱う技能集団の末裔の磯部氏等の血縁の末裔ではと考える。この様に何れもが阿多倍の技能集団との関係が其れなりに出来ている。
これ等の事が存続に大きく作用したと観ているが、反面では「平氏の圧迫や妨害や脅威」もあった不思議な関係にあった筈である。
歴史上は伊勢と信濃での繋がりは明確であるのだが、伊勢青木氏や信濃青木氏もこの阿多倍一門との関わりを持っていたのである。
この様に「経済的な形」ではシンジケートを形成して繋がっていた事に成るが、その阿多倍末裔の一門に「政治的な圧力」を加えられたのであるから不思議な因果関係である。

しかし、次ぎの様な助けられた経緯の事もあるのだ。
衰退した賜姓源氏の中で清和源氏の宗家頼光の末裔の頼政がただ一人平家の中で生き残り朝廷の中で苦労して三位まで上り詰めたのは、私はこの同族賜姓伊勢青木氏と隣の阿多倍一門との付き合いがあった事から生残れたと観ている。
この頼政が遺した「辞世の句」があるので紹介する。

うもれ木の 花は咲く事も 無かりしに 身のなる果てど かなしかりける

源氏を潰さない為にも何とかして平家に迎合して歯を食いしばって生き残りを図り、なかなか源氏を蘇がえさせられなく、出世の出来ない平家の中で生きる辛さを辞世の句として遺したのである。
その心情が良く判る。源氏の衰退に対してそのキツカケを作ろうとした「真情」が良く出ている。

実は確証は無いが、この家訓6を遺したのは頼政の孫の伊勢青木氏の跡目京綱では無いかと考えている。当然、父の仲綱と共に果てた祖父の頼政のこの句は「子孫存続」と云う意味合いを強く表していることから、京綱はこの句を理解して1125年頃から1180年の「以仁王の乱」までの60年程の青木氏の苦しみを承知している筈である。それ以後、身を以って乱を起した事で、伊勢青木氏には更に圧迫が加えられ苦しみ抜いたと考えられる事から、子孫を遺す戒めとして、考えた末にこの家訓6の意味合いを遺したのでは無いかと観ている。

兎も角も、1180年にこの頼政は源氏再興を狙って立ち上がったのであるが、敗戦後頼政の孫の3人の内、清盛の母や一族の執り成しで惨罪にならず、許されてこの2人だけは生残れて日向廻村に配流(日向青木氏)と成った。恐らくは、伊勢北部伊賀地方に定住する彼等の子孫との繋がりや伊賀和紙の商いでの深い付き合いから、京綱の伊勢青木氏は「除名嘆願の運動」を伊賀を通して起したのではないだろうか。幾ら一族の執り成しでもこの様な特別な理由が無い限り謀反の張本人の孫の依頼でも無理であっただろう。
(後にこの2人は平氏に対して廻氏と共に再び反乱を起し失敗する 子孫は逃亡し薩摩大口で青木氏を名乗り子孫を遺す 廻氏系青木氏は現存する)
また、上記したように末の孫京綱が伊勢青木氏の跡目に入っている事から許されて難を逃れたのである。
これは伊勢青木氏と伊賀の伊勢平氏(阿多倍子孫)との和紙の商いによる付き合い関係からであろう。

更に、例を付け加えると、後の「天正の乱」3乱の内の「伊賀の乱」の時、伊勢青木氏の紙屋青木長兵衛が伊勢シンジケートを使って食料や物資運搬などの妨害活動などをして時間を稼ぎ、伊賀氏はゲリラ作戦に出た。しかし、落城寸前で青木氏の軍は突然に名張城から織田軍の側面を突き出て後退させ伊賀一族を救い守った。これ等は、過去の恩義によるものであろう。それでなくては時の織田氏に敵対する事はないであろう。
これ等の「人間的心情」に悖る「歴史的経緯」は、この「2足の草鞋策」を基にした家訓6からの所以で、この様な「生き残りの経緯」を辿れたのではと観ている。
それは一族の「家訓6による人間形成」が平氏らの信頼を得た事からの結果であろう。本来なら完全に滅亡の憂き目を受けている筈である。

これらの家訓6が「賜姓源氏の滅亡」との「分れ目」であったと観ている。
現に、清和源氏主家の源三位頼政が「以仁王の乱」(1187年)を起こす時、頼政の嫡男仲綱の子供で三男の京綱を、子孫を遺す為に同族の伊勢青木氏に跡目として入れた後に、源氏再興の平氏討伐に立ち上がったのであるが、この伊勢青木氏に跡目を入れると云う事は、恐らくはまだ源氏は”平氏に勝てない”と判断したことを意味するが、源氏立ち上がりの「契機」に成ると信じての行動であった。この時、この「不入不倫の権」に護られた伊勢松阪に向けての逃亡を起し再起を待つ事を目論だが、遂には「宇治の平等院」で自害したのであろう。
この時、伊勢青木氏は「2足の草鞋策」を採って60年くらいは経っていた筈で経済的なその裏打ちも有って、源の頼政は源氏宗家の生き残りが果たせると考えて伊勢青木氏の跡目に入れたと想像出来る。源氏の中でもただ一人平氏に妥協して朝廷に残った遠謀術策の人物でもある。
この様に、「2足の草鞋策」が家訓を遺し、それが子孫を遺せたのである。

この後にも、この家訓で生残れた同じ事が起こっているが、この「2足の草鞋策」の家訓6で培われた末裔は、判断を間違えずに子孫を遺した。
それは、信長の「天正の乱」の伊勢3乱の伊勢丸山城の戦いである。(3戦に全て合力)
名張に城を構える青木民部尉信定、即ち、伊勢松阪の豪商紙屋青木長兵衛がこの信長の次男信雄に丸山城構築で攻められた。伊勢青木氏は商人として伊勢シンジケートを使い、築城の木材の買占めとシンジケートの築城大工の派遣とシンジケートの妨害策で食料などの調達不能を裏工作で実行した。
名張城からの牽制で時間を稼ぎ、長い年月の末に出来た丸山城が、大工が”火をつける”という作戦で消失し打ち勝った有名な乱である。信長のただ一つの敗戦である。
そして、後に伊賀一族等も助けたのである。
後に、この時の将の織田信雄と滝川一益は家臣面前で罵倒叱責され遂には蟄居を命じられて疎まれた事件は歴史上有名である。

これも、その差配する青木長兵衛の家訓6の得た「力量、資質」が、恐ろしい信長に反発してでも、配下とシンジケートを動かしたのであり、この家訓6が左右して生残れたのである。
この家訓6の「教養」とそれを裏付ける「知識」の如何が、人を動かし大群を相手に戦いの戦略の成功に結び付けたのである。
この知識は天正の乱では物価高騰の「経済学」の原理知識と諸葛孔明如きの「権謀術策」の知識と築城学の知識が事を運ばせ、それの手足と成る人を「教養」で信望を集めた結果の所以である。

では、この家訓6を深く考察すると、この「教養」とは”一体何を以って得たのであろうか”という疑問が湧く。
そこで、調べたところ、代々主に共通するものは「絵」と「漢詩」であった。
「絵」は「南画」である。所謂「墨絵」である。「漢詩」は「書道」に通ずるものである。
二つを通して考察するに、「紙屋長兵衛」即ち「伊賀和紙」を扱う問屋である。つまり、「紙」である。「南画」、「漢詩」は紙が必需品であるから大いに納得できるもので、ではそのレベルはどの程度のものなのかを更に調べた所、プロでは無いが、江戸時代の歴史を観ると、紀州徳川氏の代々藩主にこの「南画」と「漢詩」を指導していたと言う記録が残っている。これ以外にも短歌や和歌等でも相手をしたと記録されている。
これは、初代紀州藩主で家康の子供の徳川頼宣が伊勢松阪の「飛び地領」の視察での面会の時からの経緯であり、大正14年まで続いたと記録されている。私の祖父の代までである。
これ以外には、「知識」として「経済学」を指導していたとある。
特筆するには「松阪商人」としての知識を藩主と家臣に経理指導していたと記録されていて、その証拠に8代将軍吉宗は若き頃に家老職の伊勢加納氏に長く預けられていたが、この時、伊勢青木氏と加納氏とは代々深い血縁関係にあり、吉宗にも指導していたとされる。このことが縁で、請われて江戸に付き従い、伊勢の松阪商人の知識を「享保改革」で実行し推し進めたと記録されている。
将軍に直接発言できる「布衣着用を許される権限:大名格」を与えられていたとある。初代は江戸に付き従ったのは伊勢の分家の青木六左衛門とある。その後、紀州徳川家にも代々「納戸役」(経理)として奉仕したと記録されている。
この記録の様に、「時の指導者」徳川氏を「教養」で指導し、「教育」の「知識」で導いたのである。
本来であれば、家康に潰されていてもおかしくない。秀吉に潰されかけ新宮に逃げ延びたが、伊勢を任された武勇と学問で有名な蒲生氏郷との「教養」での付き合いが働いて、1年後に伊勢松阪に戻されて侍屋敷(9、19番地)の2区画も与えられる立場を得たのである。つまり、生残れたのである。
これ等は青木氏一族一門の存続に「青木氏の長」としての「教養と教育」の形を変えた貢献でもある。平安の時代より家訓として護られてきた家訓6(教養)の所以であろう。

この家訓6には特に添書に長く解説なるものがありそれを解釈すると次ぎの様になるであろう。
家訓6ではこの事が理解されていないとその「教養」と「教育」の諸事への効果なるものは出ない、又は意味しないとまで断じている。
当時の背景から考えると次ぎの様に成るであろう。
学校と言う形式のものは無かった。従って、「知識」は自らの範囲で書物に依ってのみ得られる事が通常で、学校らしきものは江戸の中期頃からの事であろう。それも「基本的な知識」であり、その専門的な事は「個人の努力」の如何に関わっていたと成る。
まして、其処では、「教養」となると尚更であっただろう。
古来の「教養」を会得する場合はその師匠となる人に付き学び、多くは「盗観」によるものであった事から、その「盗観の会得」する能力が無ければ成し得ないだろう。又、その「極意の会得」は尚更個人の能力の如何に関わるものである。
従って、この「2つの能力」(盗観 極意の会得の能力)を獲得出来るとするには誰でもと云う事では無くなる。能力の無い者は挑戦しないであろうし、してもその会得する極意のレベルは低く「人力」を高めるに足りないであろう。丁度、伝えられる茶道の秀吉如きのものであったであろう。
対比して古来の「教育」を会得する場合はその師匠とする人が少なく「知識」を前提としている為に「盗観」の会得は出来ないし、「極意」の会得は「盗観」が出来ない事から成し得ない。
これは「書籍」による「個人の理解能力」による何物でもない。当然に「教養」以上の会得の困難さを物語るであろう。まして、その書籍からより進めて「知識」を会得出来る事は少ないし困難である。
この様な事から「教養、教育」の会得はある「経済的な力」を獲得している人が得られるチャンスとなる。

と成ると、添書の書いている意味合いは次ぎの様に成る。
「教養」の本質を分析すると、「質的な探求」であり、数を多くした「量的な探求」ではその「極意」は得られないであろう。しかし、「教育」の本質は「量的な探求」であり、「知識」の会得である事からその「会得の数」を繋ぎ合わせての応用であり、「質的な探求」はその研究的なものと成るのでその研究的な知識を以って諸事を成し得るものではないであろう。
「教育」に依って得られる多くの「知識」はそれを繋ぎ活用する事で一つの「知恵」が生まれる。
これは「人間本来の姿」であり、それを多く探求し極める事がより高い「人間形成」の一端と成り得るのである。その「人間形成」の成し得た「知識」から得られたものが「教育」から得られる「教養」と成ると説いている。そして、教養も同じだと説いている。
「教養」もその高い「質的探求」に依って「心の豊かさ」が生まれ其処に「人間形成の姿」が出来てそれを極める事でも「教養」から得られる「知識」が会得出来るのだと諭している。
「教養」で得られる「心の豊かさ」は「心」で、「教育」の「知識と知恵」は「頭」で会得する。
そして、この二つは「心」と「頭」で安定に連動してこそ「効果」を発揮するものだと諭している。
これを現代風に云えば、俗ではあるが、「教養」は「前頭葉」で、「教育」は「左脳」で、そしてそれを連動させるのは「右脳」だと成る。
真に、古代に書かれたこの「説諭論」は論理的にも科学的にも間違ってはいない。驚きである。

「教養」=「質的な探求」=「心」
「教育」=「量的な探求」=「頭」
「教養」=「心の豊かさ」=「人間形成」
「教育」=「知識の応用」=「知恵」=「人間形成」
 故に「教養」(心の知識)+「教育」(頭の知識)=「人間形成」
「心の豊かさ」=「心の知識」

更に、次ぎの様にも書かれている。
「教養」は「人」を成し得るものであり、「教育」は「時」を成し得るものであると断じている。
つまり、「教養」の「質的な探求」に依って獲得した「極意」はこの世の「時」の関わる諸事には作用せず、「人」の心を通じ「質的に動じさせるもの」であるとしている。
反面、「教育」即ち「知識」は「時」の関わる諸事に作用しより効果的に動くものであるとしている。それはより多くの「知識量」がもたらす効果であるとするのある。
「教養」=「人に動じる」 「教育」=「時に作用する」

そして、「教養」の「質=人」と「教育」の「量=時」を会得した時に一族一門の長と成り得るものであるとしているのである。
ただ、ここで特筆する事は「教養」は「心」で会得するもので、その「質」が問われる以上その「質」を上げた事で「人」である限り「慢心」が起こるだろう。この「慢心」はその「教養」の効能を無くす事に成ると警告している。
対比して「教育」は「記憶」で会得するもので、その「量」が問われるが「人」にあらず「時」にあるので「慢心」はあったとしてもそれは「得意」とするものであり、むしろ「量を高める源」であるとして、その「知識」の効能は無く成るとはならないとしている。
では、誰しもその人の「性」(さが)として起こる「慢心」をどの様にするべきなのかに付いての方法は「自覚」以外に無いとしている。しかし、常にその「慢心」を抑えようとする努力が「質を高める源」であると説いていて「一体」であると説いている。
そして、その基となるその「自覚」は「仏教の教えの悟り」で成し得ると銘記している。
「仏教の教えの悟り」とは特記されていないが、筆者独自の考えだが「色即是空 空即是色」「色不異空」「空不異色」の解釈では無いかと思う。

「教養」=「心」=「極意」=「質」=「人」=「慢心の抑制」(-の方向)=「質を高める源」
「教育」=「知識」=「記憶」=「量」=「時」=「慢心ー得意」(+の方向)=「量を高める源」

以上が添え書きの解釈とするべきでは無いかと考えている。
この家訓は時代が異なり「教養」も「教育」も講座や学校とする学ぶ機関が存在する故に、若干「教養」は「教育」と等しいと判断されるが、そこで得られる領域では上記した様に、それは「教育」の「知識」の末端のところで得られる「教養」の範囲であろう。つまり、「知識的教養」と定義づける。
ここで云う「教養」とは「個人の努力」による「高い修練」の「結果」を意味していると考える。
当然に、現在では、「知識的な教養」の上に「個人の努力=高い修練」が成されれば、「心的な教養」は会得出来るだろう。
依って「教養」には「個人の努力」による「心的な教養」と「講座」による「知識的な教養」があることを意味する。
この家訓は”「個人の努力」が「心を鍛え質を高める」”としているのである。

筆者はこの家訓6の「教養」には届かないが、この教えを守り物理系技術者として「教育」の知識の方からの貢献を社会にして来たものであり、それを補う形で「知識的な教養」として「写真」や「竹細工」や「庭造り」なるものに傾注している。

幸い家訓6をそれなりに守りしている為か何かしら「心爽やか」である。
意外に、家訓6の先祖の言い分は、「教養」の極意はこの「心爽やか」の辺に合ったのではと勝手に思うのである。
近代科学的に分析すると、”「心爽やか」が事に処する時、脳を開放し、「拘泥」や「拘り」から開放されて、豊かな判断力が高まり、諸事を正しい方向に向ける力と成り得る”としているのかも知れないと、最近は思えている。
この「教養」は、上記した様に、仏教の般若経の一節「色即是空 空即是色」「空不異色 色不異空」を理解し会得する「糸口」になる事を先祖は暗示しているのではないだろうか。
この事に付いては大事と見て次ぎの家訓7で更に追求している。

兎も角も、この家訓6を筆者は次ぎの様に解している。
「教養」=「心爽やか」=「仏教の極意」>「入り口、糸口」<「長の心得」=「諸事万端良」=「資質、力量」=「教育(知識)」

なかなか難解な家訓6ではあるが、「人間形成」の基となる家訓であると考える。
家訓6=「人間形成の戒め」
次ぎの家訓7はこの家訓6を更に強調したものであるので”続く”としたい。

次ぎは家訓7に続く。



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