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甲斐青木氏の研究(花菱紋) 前編

甲斐青木氏の研究(花菱紋) 前編

甲斐武田氏系青木氏

花菱紋
武田菱紋
武田割菱紋
丸に花菱紋

「始めに」
日本全国の中でも甲斐には氏を別とする青木氏が大勢居るところで、昔は村を形成していました。
青木氏発祥には夫々の氏の特徴を持っています。
ところが、千年以上経ちながらもまだ歴史的な事柄について余りにも解明されていない事が多いのです。
特に甲斐では疑問点が多く時代と共に解消されないままに史実が消え去っています。
最早、その史実を引き出し疑問点を解明する事すら出来ない状況に成っています。
そこで、本サイトとでは何とか甲斐青木氏に関する事柄をまとめ、疑問点を解き明かし、後世に遺そうとしています。
そこで、サイトの「青木氏氏 研究室」と「青木ルーツ掲示板」等に個別に関係資料レポートを保存していますが、これ等のデータを改めて引き出して、「甲斐の青木氏」を総括的に記述して判りやすくし一つの「研究記録」として遺したいと考えました。
そうする事により、まだ本サイトとのレポートを読まれていない全国に散在されている青木さんに歴史認識を高めて頂きたいと企画いたしました。

「論文方法」
先ず、本題に入る前に青木氏の「基礎知識」を高めて頂きます。
そして、その基礎知識を基に甲斐青木氏の研究論文を読んでいただければより深いご理解が得られると思います。その理由はこの甲斐の青木氏には大変入り組んだ歴史と複雑な系譜と事件を持っています。これ等を理解するには過去の歴史の知識を前提に成ります。そうすると当然にその経緯を一度に文章化が出来難い事が起こります。
そこで、論調は重要な研究部分を何度も重複しながらほぐれた紐を解くようにして更に深層を探り進めて行きます。
その裏付と成る史料、史実、各氏系譜、添書、時代背景を絡まさせて論調を形成します。
では、先にこの甲斐青木氏に持つ疑問点を列記しますので、概略を念頭にして本題をお読みください。そうする事でより深くその総括的な意味合いがご理解されると考えます。

注 本文は甲斐青木氏に関係する所有する古系譜と古添書と古史料を先ず前提に論文を進めます。
よって、インターネットなどで一般公開されているものと異なるところがあります。
注 本文は甲斐武田氏系青木氏(時光系)に限定します。
注 寛政史書、寛永青木氏第3の系図等の青木氏は含みません。
注 甲斐皇族賜姓青木氏と甲斐武田氏系青木氏(源光系)の詳細な検証は含まみません。


甲斐武田氏には今だ解明されない疑問点が以下の様にあります。
「疑問点」(順不同)
1 甲斐武田氏系(皇族系)源時光花菱紋元祖が浄土宗をどの様にしたのか。
2 何故青木氏を名乗ったのか。
3 何故花菱紋にしたのか。
4 何故甲斐の常光寺に11代分のみ祭祀していないのか。
5 何故一条氏を名乗ったのか。一条氏呼称の根拠は何か。
6 何故真言宗に中興開基し改宗したのか。
7 何故1ケ所に墓を列したのか。
8 何故12代目13代目の墓が不詳なのか。
9 時光は何処に祭祀されているのか。
10 何故曹洞宗に中興開基し改宗したのか。
11 柳沢氏は誰が興したのか、何処で繋がるのか。
12 柳沢郡の青木氏は誰が継いだのか。
13 巨摩郡の青木氏は誰が継いだのか。
14 真言宗派はどの様に成ったのか。
15 浄土宗派と曹洞宗派はどの様に成ったのか。
16 花菱紋は誰が継いだのか。
17 丸に花菱紋はどの様にして興ったのか、誰が継いだのか。
18 3派の宗派対立は何故起こったのか。
19 曹洞宗改宗事に浄土宗派はどの様な行動を採り寺を建てたのか。
20 誰が甲斐武田氏系青木氏を救ったのか。
21 柳沢氏がどの様にして甲斐武田氏を立て直したか。  
22 第3氏と未勘氏の発祥理由は何なのか。
23 明治の廃仏稀釈はどの様に影響を甲斐青木氏に与えたのか。
24 花菱紋のステイタス仏像等の歴史遺産は何処にあるのか。
25 100年以上も続いた「天保騒動」はどの様にして興ったのか。
26 「天保騒動」が青木氏に与えた影響は何か。
27 何故「丸に花菱紋」は各種の家紋集に記載無いのか。(「個人家紋」)
28 武田氏系青木氏は源光系か時光系なのか。その違いは。
29 誰が花菱紋の前に割菱紋を引き継いだのか。割菱紋と花菱紋の関係は。
30 何故国府が3つもあるのか。(青木村、氏神、氏寺の移動)
31 割菱紋の柳沢氏は存在するのか。(花菱紋の元は何処から。)
32 何故甲斐国府の経緯に異変が存在するのか。
33 武田皇族青木氏は源光説か時光説か。
34 武田氏の前身はあるのか。
35 何故家臣団位置付けの低下が起こったのか。
36 武田氏系青木氏の3系譜の3疑問(差違)の答えは何か
37 其の他(系譜上の問題点と疑問点)

以上、武田氏系青木氏を研究すると如何に疑問が多くて解明されていない事に気付きます。
それは、時代の進歩と共に起こる歴史認識の低下による影響ですが、最早、それを解明するのは今しか有りません。そこでこれ等に付いて研究を試みました。
内容は、絡み合って複雑な為に解明できる事から進めて次第に繋がるように試みました。よって順不同に成っています。疑問点の解明検証文は複雑に絡む為にこの理由から「行」を定めて限定していません。先ず疑問点の洗い出しから研究作業を行いました。
これだけ疑問が多いと整理が着きませんが、一応は全疑問点は網羅しているつもりでいますので全体を通してご理解ください。文中で他の疑問点も出てきますがこれは其の他としています。
依って、不明点等有りましたら、「青木ルーツ掲示板」から何なりとお尋ねください。
では、武田氏系青木氏を理解する為に先ずその「基本的な事」を先に説明します。

基本事項
[青木氏の系統]
まず、青木氏には大別すると、3つのルーツがあります。
1 皇族賜姓青木氏(5家5流皇族賜姓青木氏と皇族青木氏 計29氏)
2 藤原秀郷流青木氏(直系1氏、直流4氏、支流4氏 計116氏)
3 室町末期、江戸初期、明治初期の3混乱期に禁令を破り各地(主に上記2つの青木氏の土地)で発祥した青木氏(「未勘氏 第3青木氏」と呼称する)
以上の青木氏の3つに成ります。

これ等のことに付いて詳しくは「青木氏氏 研究室」の皇族賜姓青木氏関連、藤原秀郷流青木氏関連のレポートをお読みください。
「藤原秀郷主要5氏と家紋の研究」にも詳しく歴史的な史実に基づき研究レポートしています。

随分、長いレポートですので、ゆっくりと楽しんで少しづつお読みください。
また、お読みになっているときに、順不同の為にご不明な点、ご質問等有りましたらサイトにご遠慮なくお尋ねください。

では、上記1に付いて、甲斐の皇族賜姓青木氏系には次の氏があります
1 甲斐国府(初期の位置 現在地名 笛吹市春日居町寺本)に、「皇族賜姓青木氏」1氏、
2 甲斐北部に「諏訪族武田氏系青木氏」1氏(山梨北部)、
3 現甲府付近に定住する信濃から一部移動した「諏訪族青木氏」1氏(甲府地域)
4 巨摩郡青木村と柳沢郡青木村に「武田氏系青木氏」の3氏6家、(皇族系 後述)
以上4つの皇族系と皇族賜姓系の青木氏5氏が存在します。

これ等は「国府」の存在が大きく左右します。つまり、国府は政治の中心でした。そこからまず青木氏が発祥し、その周辺に豪族などが集まります。当然、其処に血縁関係と歴史の史実の集中が起こります。その史実を集めて、考察するのが歴史研究のポイントです。
ですから、この血縁の元の族種を知ることが必要なのです。

何れも、4番(花菱紋系2氏の青木氏)を除き、皇族賜姓青木氏の末裔で、土地の豪族の武田氏、諏訪族との血縁による一族です。
「皇族賜姓青木氏」詳細に付いては後述しますが、甲斐に朝廷より配置された第6位皇子の「甲斐王」の末裔子孫です。
「笹竜胆紋」を綜紋とする「甲斐皇族賜姓青木氏」は、男系跡目が適わず武田氏の養子側の系列に入り、家紋を変紋した一族です。(後述 「家紋掟」を参照)
「皇族系青木氏」詳細については後述しますが、嵯峨期の詔(弘仁の詔)により「青木氏」を名乗った氏です。

武田氏系青木氏には、詳細後述しますが次ぎの通りです。
1 「源の源光系青木氏」の 「武田菱紋」の氏と「武田割菱紋」の氏の2氏があります。
2 「源の時光系青木氏」の「花菱紋」及び「丸に花菱紋」には「嵯峨天皇期の詔」に基づく「皇族青木氏」1氏があります。
以上3氏(6家)があります。

(重要な研究結果)
以後の内容は重要です。(概容を把握要 後述詳細)
注 花菱紋は割菱紋から分離した家紋氏です。
注 割菱紋は副紋を「葉菱紋」を使います。本家と分家の2氏に分離しています。
注 花菱紋2氏派は本家割菱紋からと分家割菱紋からと出ています。
注 分家割菱紋から出た花菱紋は後に「丸に花菱紋」に変紋します。
注 柳沢氏花菱紋は本家割菱紋より分離しています。
注 花菱紋の本家は元来別家して発祥分離しました。(後本家と成ります。)
注 分家割菱紋から出た花菱紋は柳沢郡青木氏と成ります。
注 柳沢郡青木氏は養子より発祥 連続他氏からの養子で繋がれます。(血縁性なし)

注 源の時光と源の源光は兄弟 清和源氏分家三男頼信系の源氏(本家は嫡子頼光)(詳細後述)
注 皇族賜姓青木氏(5代)と皇族賜姓源氏(11代)とは同族(第6位皇子系)です
注 16代の天皇の第6位皇子の朝臣族で臣下族(詳細後述)です。
注 皇族青木氏は「嵯峨期の弘仁の詔」による発祥氏(詳細後述)です。


武田氏家紋群8つは次ぎの通りです。
(大別家紋 6家紋)
1 武田菱紋、
2 割菱紋(4つ割菱紋)、
3 花菱紋、丸に花菱紋、
4 地抜き武田菱紋、
5 陰武田菱紋、丸に陰武田菱紋
6 丸に出武田菱紋、
以上6分類8家紋です。

注 上記123から武田氏系青木氏が発祥しています。
注 1-6は家柄順です。

ここでは、武田氏系青木氏3氏6家の内、この「花菱紋の青木氏」と「丸に花菱紋の青木氏」に付いて重点を置き、この2氏の歴史と由来を中心に述べます。
それはこの2つの青木氏に付いては、今まで特異な歴史を持ちながら余り詳しくその「ルーツと経緯」が解明されずに居ました。
この様な事(紹介、研究されていない事)から、ここでは消失を防ぐ為に研究して解明し特別に世に紹介しておく必要があると考えました。

この武田氏系青木氏3氏は次ぎの通りです。(6家は下記)
1 武田菱紋の青木氏で武田氏本家と甲斐皇族賜姓青木氏との血縁による「賜姓青木氏」
2 武田割菱紋の青木氏で武田氏分家と甲斐皇族賜姓青木氏との血縁による「賜姓青木氏」
3 武田花菱紋の青木氏で武田氏主家の跡目に入った清和源氏の朝臣族の「皇族青木氏」
以上が武田氏系青木氏の3氏です。

注 「賜姓」とは天皇が自らの子供の第6位皇子(第6番目の皇子)に氏を与え臣下させる事で、その役目は天皇を守る親衛隊である事。この制度は天智天皇より始まります。 
「賜姓族」(詳細後述)
注 「賜姓族」は「賜姓青木氏」5氏「賜姓源氏」11氏 16代の天皇の第6位皇子(詳細後述)

このレポートは3番目の清和源氏の「皇族青木氏」の2家に付いてその歴史的な経緯を紹介します。
先ずこの氏が発祥する根拠に付いて知っておく必要があります。

[発祥根拠]
蘇我氏の専横政治を倒して「中大兄皇子」は「大化改新」によりその一つ「皇位継承の制度」を大きく見直しました。
その改革の中で、次ぎの事を断行しました。
1 第4世までを皇子王とし各地の守護王として配置しました。(それまでは第6世王)その内、「第4位皇子」までは「皇位継承権」を与え、その「第6位皇子」は臣下し賜姓して天皇を護衛する親衛隊としました。
2 「第7位皇子」以下は比叡山の僧や門跡寺院に入りました。
3 「第7世族」(6世含む)以降は「ひら族」として坂東の守護隊として配置しました。
4 「第5位皇子」と「第5世族」はその中間として皇族者の者が少なくなった場合に戻る位置としました。
5 647年頃に発祥した「天智天皇(中大兄皇子)」の「第6位皇子」の「施基皇子」が皇族賜姓の「伊勢青木氏」と成って「伊勢王」として赴任しました。これが初代です。

注 伊勢の守護王施基皇子は三宅連岩床を国司として派遣 伊勢王は天智天武の天皇を補佐した人物。日本書紀に頻繁に出て来ます。 (「日本書紀と青木氏」のレポートを参照)
この後、文武天皇以後、皇位継承者が少なく、女系天皇が続きましたが、次の5代の天皇は第6位皇子を5つの国に配置しました。

[青木氏を賜姓した天皇]
賜姓した天皇は天智、天武、文武、聖武、光仁の5代天皇

[青木氏を配置した守護国]
配置国は伊勢、近江、美濃、信濃、甲斐の5国です。

ところが、この賜姓システムを「光仁天皇」の子供「桓武天皇」と孫の「平城天皇」は2代続いて継承しませんでした。

[賜姓の不継続の経緯]
その理由は、中国後漢国からの帰化人「阿多倍王」の一族の子孫(「たいら族」)で「桓武天皇」の母(高野新笠:阿多倍王の孫娘)の一族が賜姓を受けました。
後の「京平家、桓武平氏、伊勢平氏」と呼ばれる一族で、末裔は太政大臣平清盛です。
(詳細は「青木氏氏 研究室」の関連レポート参照)

注 阿多倍一家はの概略は薩摩の国の半国割譲(薩摩の首魁)と伊勢北部伊賀地方の半国割譲(伊勢衆)を受けました。
注 敏達天皇の孫芽淳王の娘を娶り、3男子を産む、准大臣に任じられます。
注 朝廷の官僚組織と人の6割を占める勢力を持ちます。
注 現在の第1次産業の基礎を築きました。
注 日本初の律令国家体制を完成させました。
注 日本書紀の完成チームの8割を占めました。
注 彼等の勢力日本全国66国中関西西部地域から九州薩摩まで32国を勢力圏としました。
注 日本書紀に何度も出来ます。

「たいら族」の系譜
国香、貞盛、惟盛、定盛、忠盛、清盛
阿多倍王一門から「たいら族」としては以上5代を経て最終の太政大臣にまで上り詰めます。

注 桓武天皇の「たいら族」(780年頃)とは、「第6位皇子の賜姓」の慣例を破る事に成る為に、坂東に配置した第7世族(坂東八平氏:ひら族)にあやかり皇族系と見せる必要がありこの名を授けました。呼び名は”たいらの清盛”と一方は”へい氏の梶原の景時”の様に呼称させました。

[賜姓をしなかった理由]
慣例を破り皇族からの賜姓は5代で途絶えました。
「桓武天皇」は日本の「律令国家」の政治体制を完成させた天皇として位置付けられます。
「桓武天皇」前は「皇親政治」とする天皇とその一族が政治を執り行う政治体制でした。
1 相反する政治体制である為にそれまでの「皇親」の賜姓青木氏一族等の政治発言力を排除する必要があった事、
2 更には、その律令国家体制の天皇と官僚機構の政治体制を創り上げ、日本の第1次産業を飛躍的に発展させた一族(後漢の帰化人阿多倍王が率いる200万人の技能集団)を引き上げる必要があった事。
3 母方一族らの信頼と背景に政治を推し進める必要があった事。
(朝廷軍も長男の賜姓阪上氏が統括する。 天皇親衛隊は賜姓青木氏が統括する)
以上主に集約するとこの三つに成ります。

「その他技能集団の勢力」
官僚機構の6割はこの一団で占めた事。
1奈良平安期の政治機構の3蔵(斎蔵、大蔵、内蔵)の内、2つ(大蔵、内蔵)を掌握した事。
2軍事(朝廷軍)の実権を握った事。(天皇の軍は青木氏)
3天皇家と血縁し准大臣と成った事。
4桓武天皇の母はこの集団の首魁の孫娘(高野新笠)である事。
5阿多倍の支配技能集団「部制度」で国内の第一次産業の基礎を築き経済的な支配権を保持した事

この事から「第6位皇子」を賜姓をせず、青木氏に各地守護職(国司藤原藤成等を2度派遣)を実質外し圧力を加えた。(官僚国司の派遣と権限強化)

[嵯峨天皇の賜姓族]
桓武天皇の子供の嵯峨天皇はこれに反発し戻します。
天智天武期に実行した「皇位継承制度」が厳しい事になり、皇位継承者が絶えるなどの事が続いたことから、更に「皇位継承制度」を緩めました。
この時、第6位皇子の賜姓青木氏を変名して賜姓源氏としました。
青木氏は皇族者(真人族、朝臣族、宿禰族)が下俗(下族)する際の氏名として定め、「弘仁の詔」を発して他の者が青木氏を使用する事を禁じました。(不入不倫の権を与える)
この後、賜姓源氏は11代の天皇に引き継がれます。賜姓青木氏5代とあわせて実質16代と成ります。
この事に対して、賜姓源氏16代とする説もありますが、12代以降は徳川氏等の搾取偏纂の結果で5代が追加され16代と成りますが、実質、賜姓源氏としての意味は花山天皇の11代目で終わっています。

この間、嵯峨期より「皇族系の青木氏」を名乗れる皇族者は合わせて18人いましたが、実質に青木氏を名乗り子孫を遺せたのは5氏であります。最終3人が子孫を遺しました。後は清和源氏系の2氏です。
「皇族系青木氏」
1多治彦王配流孫青木氏
2島王配流孫青木氏
3清和源氏頼政の日向配流孫青木氏
4橘氏系宿禰族青木氏
5甲斐武田氏系青木氏です。
以上5氏です
後は史実に基づかない「未勘氏」です。

この様な「賜姓青木氏」と「賜姓源氏」の両方の賜姓族が出て来る事や、阿多倍一門の平族(たいら族)に振り回される2つの賜姓族が、この甲斐の国とそこに発祥する武田氏系青木氏との時代に翻弄された氏の関係です。
この武田氏系青木氏が、江戸時代まで時代に翻弄され続け、終局、その史実さえも消え去ろうしている時に、又、その存在の確認も取れていない時に、甲斐の花菱紋の青木氏の調査の結果、完全に検証が採れました。

これにより次ぎのことが主に検証できました。
A 花菱紋の皇族系青木の存在が確認された事。
B その一族の元来、慣例よりあり得ない皇族系青木氏「丸付きの花菱紋」の存在の確認された事。
以上の2つの氏のルーツが史料から確認される事となったのです。
(2つの花菱紋の氏は室町末期、江戸初期、明治初期の第3青木氏の可能性があった事によります)
(寛政史書では第三青木氏と記載されている)

注 系譜上から「丸に花菱紋」と成った青木氏を「第三氏」とします。系譜を有しない青木氏を「第3氏」として記述します。(寛政史書に「寛永青木氏第三の系図」とありますのでこれを使います)

では、先ず次ぎの事柄から入ります。
実は系譜を調べて判った事ですが。甲斐には分けると、次ぎの様に成ります。
1 皇族賜姓青木氏
2 武田氏系青木氏(武田菱、武田割菱=1との血縁族)
3 武田氏系青木氏1(花菱紋)
4 武田氏系青木氏2(2と3の血縁族)
5 武田氏系青木氏3(3の巨摩郡の青木氏と3の柳沢郡の青木氏との血縁族)
6 武田氏系青木氏4(3の柳沢郡の青木氏と1の皇族賜姓青木氏との血縁族)
7 武田氏系柳沢氏 (時光15代正定と豊定のところで兄弟 3の花菱紋) 
以上がある事が系譜の添書と史実から観えます。

問題は、1、2、3の3氏の家紋は判明するが、4、6は判断が付かなかったのです。
5は花菱紋、丸に花菱紋の何れかであると考察されていました。

本来、武田氏主要6家は、原則、丸付き紋は主要6家紋には使用しないものとされていました。
(注 賜姓青木氏、賜姓源氏は丸付き紋を原則使用しない。源光系も使用していない。特別除く)
その中で、「丸に花菱紋」は家紋200選には無く、全国8000の家紋群にも無い家紋ですが、系譜よりその発祥はある経緯(後述)により確認出来ました。

[武田氏の家紋事件簿]
上記6家紋(詳細後述)により成り立っています。
ただ、ここで”花菱紋の丸付き紋が何故存在するのか”ですが、どの権威ある専門家紋書にも記載無いのは「個人家紋」である事に成ります。
(家紋書籍に記載無い疑問 個人家紋の経緯 丸付き紋の疑問)
「個人家紋」と歴史は判断した事に成ります。そうすると”何故「個人家紋」と考えられたか”と云う疑問に変わります。「個人家紋」とは枝葉子孫を拡げられなかった氏と成ります。
しかし、史実にはこの武田氏系の「丸に花菱紋」が出て来ます。
「個人家紋扱い」になった特別な理由がある事に成ります。
武田氏の中ではこの一つの家紋だけが異端児扱いです。
「個人家紋」扱いになるとすると、系譜上に何らかな事件があった事を意味します。
その事件を探す事で判明します。
そうなりますと、系譜とそれに纏わる事を添書として必ず書いている事に成ります。
氏家制度の中で伝統ある「ステイタス」の家紋が「丸付き」に変わると云う「大事件」が起こったのですから、武田氏の系譜添書を徹底検証して考察すれば発見できる事に成ります。
「氏家制度」の「家紋掟」から考えると、当時としては身分家柄を下げることを意味します。
其れでなくても武田氏系青木氏には一条氏を無理に誇張するほどに家柄身分を意識している氏です。丸付き紋に成る事は「晴天霹靂」でしょう。
時代は1570-1585頃までの期間で起こっている事に成ります。つまり、武田氏の変貌期です。過敏に意識する事に成ります。
そこで、その先ず系譜から考察する事にします。

[清和源氏の時光系に至る系譜]
経基王-満仲-頼信(三男 分家)-頼義-義光-義清-信義-信光-信長-信経-時信-「時光」-経光(常光)-時忠

満仲-頼光(長男 本家)

注 時信は甲斐守(甲斐国守 時光の父)-信時は尾張守(時信より11代目 時光より10代目)

甲斐武田氏系青木氏(武田菱紋、武田割菱紋の2氏3家)
(時信)-源光(弟)-信高-信行

甲斐武田氏系青木氏(武田花菱紋1氏3家)
(時信)-時光(兄)-常光2-時忠3-..-信時10-信安11-信就(12養子 割菱紋)..

時光1-....-信時10-信生(11養子 割菱紋)-信正12-信定13-正定(14 花菱紋)

注 信安は真言宗常光寺に祭祀される最後の人物
注 信安と信生は義兄弟です。
注 武田氏系青木氏の系譜には3つがある。これらを対比させると3つの疑問(不明点)が出る。
注 ここでは以下は信生-信正-信定の説に従う。(信正-信定-信生の説もある。後述)


「重要人物」
信生は清左衛門 武田氏家臣落合常陸守信資の子 信時に養われる 養子と成る
この信生より花菱紋正定が出ている。時光11代目信安の義弟信生11が割菱紋引き継いでいます。
元は落合氏からの養子です。
疑問の一つとして、この養子の人物(信生)が割菱紋を引き継いだ事に成ります。
系譜から花菱紋の「正定ルーツ」では「信生」が割菱紋を引き継いだ人物です。
その子の信正-信定と3代続いた事になり、花菱紋が発祥した事に成ります。
以上の様に関係する系譜と添書が取れました。
この系譜には「添書」が沢山ありますが、現存する子孫に対して個人情報に関わりますので不掲載とします。この系譜の中に何かがある事に成ります。

この花菱紋の清和源氏は源時光が名乗った青木氏です。
本来、この武田氏系青木氏は源源光の「青木別当蔵人」とある様に明らかにその祖とされていました。(源光と時光とは兄弟)
しかし、歴史上の史実を正確に検証すると、この源時光も甲斐の武田氏系青木氏3氏6家の内、花菱紋を持つ一族がこの時光の子孫であることが確認出来ます。(源光説ではない事)
しかし、一部には時光系青木氏は無いとする説もあり、源光系とする説もあります。
この疑問も解決する事が必要です。
先に、答えは系譜から観るとどちらの説も正しい事に成ります。
そこで、次の通り検証しました。

[甲斐武田氏系青木氏の2流]
この青木氏は次ぎの通りです。
1 源光の甲斐皇族賜姓青木氏と、武田氏との血縁で発祥した源光系青木氏
(武田菱紋、武田割菱紋家紋としています)
2 嵯峨期の詔を使って名乗った時光系青木氏
(割菱紋-花菱紋を家紋としています。)

1に付いての経緯は、次ぎの通りです。
武田氏系青木氏2氏は甲斐王の皇族賜姓青木氏との血縁にて生まれた青木氏で、平氏に圧迫されて源の源光が清和源氏の子孫を遺す為に同族の賜姓青木氏に跡目に入れた青木氏です。
2代続きの跡目が養子であった事から「家紋掟」により養子元の武田氏系と成りました。
「笹竜胆紋」から「武田氏系菱紋」と「武田氏系割菱紋」に変紋した2つの賜姓青木氏です。

[時光系の花菱紋青木氏の発祥経緯]
時光より12代目信正と13代目信定は武田氏割菱紋です。(11代目信生は養子)
信定の嫡男正定が別家花菱紋青木氏を興します。
本家(割菱紋)は三男豊勝が継ぎます。途中絶えて別家より跡を継ぎます。
詳細後述します。

[丸に花菱紋の存在と発祥経緯]
時光より13代信定が高尾氏より養子を迎えて柳沢郡青木氏を継承させます。
他氏より養子縁組続きで花菱紋柳沢郡青木氏を継承します。(柳沢青木氏の疑問)
本家と別家より異議が出て、丸に花菱紋に変更します。(詳細後述)。
結論として、次ぎの様に成ります。
割菱紋は源光の血縁族ですから、「家紋」から観ると「割菱紋」の「源光系」と成ります。
「系譜」から観ると「時光」の子孫ですので「時光系」と成ります。
つまり、「時光系12代目信正」以前の系譜の中に、「源光系の割菱紋」との血縁がありその人物が割菱紋を継承した者が居る事を意味します。(源光説と時光説の疑問)
以上の結果から、「青木信生11」が落合氏から養子に入り「割菱紋」を引継ぎ、「信正12」、「信定13」と継承したのです。

先ず、この二つのその後の歴史的経緯と由来に付いて述べます。

[花菱紋定住地]
この青木氏は次ぎの二つの所に定住しています。
1巨摩郡青木村の青木氏(花菱紋)
2柳沢郡青木村の青木氏(後に丸付き花菱紋に成る)
以上2つの定住地です。

先ず、巨摩郡青木村の青木氏(韮崎市清哲の青木町)から述べます。
この青木氏は花菱紋の青木氏です。
現「韮崎市の清哲青木」(巨摩郡)にはこの花菱紋の菩提寺の「常光寺」が在ります。
この寺に祭祀されている青木氏は皇族青木氏の宗家筋です。(嵯峨期の詔で発祥:現存確認)
この甲斐の韮崎の「常光寺」は韮崎市が特定する有名な青木氏のみの「菩提寺」です。

古来、賜姓青木氏の5家5流の土地には独自の「青木村」と守護神の「氏神社」と「氏寺」を持っています。この3つをもつ事が当時の皇族系の仕来りです。
この甲斐の「青木村」には、ところが、この「菩提寺」と「氏神社」が3つもあるのです。
そして、この青木氏菩提寺と言われる「常光寺」には大きな問題を持っているのです。
では”何故三つなのか”と云う疑問です。
それを解き明かします。

[甲斐の皇族賜姓青木氏の定住地]
(発掘済で、定住地は未確認でありましたが、09年確認)
現在の「笛吹市春日居町寺本」(笛吹市庁舎南横)です。

先ず一つは、甲斐の守護王の末裔の「皇族賜姓青木氏」が甲斐国国府に村を形成して政治を行っていました。皇族賜姓5家5流の守護王の青木氏は国府を置き其処に青木村を形成し守護神と菩提寺を建立しています。
その「国府所在地」とその政治を直接行う「政庁」と「菩提寺」と「神社」がある筈ですが、甲斐では特定出来ていませんでした。
当時の政治慣習として、この上記「3つの建物」が揃っていて初めて政治が行えるのです。
「国府の3つの建物」
氏村のある所を政庁として住居とする。(現在の官邸)
氏神社は国の祭祀を行う所とし氏神とする。(現在の護国神社)
氏寺社は国の宣教を行う所とし氏寺とする。(現在の護国寺社)

このシステムは奈良、平安、鎌倉、室町、安土、江戸時代まで続けられ、これ等が一つに成って政治を行っていました。明治から現在間では多少変化をして来ていますが今だ類似する体制を持っています。ただ、これがはっきりとしていたのです。
現在の笛吹市の御坂にその国府があったとされていて、そこが甲斐の皇族賜姓青木氏の村のところであるとも考えられていました。
笛吹市の現在の市庁の南横が政庁であり、その近くに「古代寺院」と「甲斐奈神社」がある事が確認されました。これが「国府の条件」です。
国府の位置を見つける事は皇族賜姓青木氏の村を見つける事に成り、その氏との関係した血縁族の内容を網羅させる事が出来るのです。
甲斐の場合はこの賜姓族と武田氏との履歴を引き出す基に成ります。
ところが甲斐にはこの国府が3つ以上もあるのです。
つまり、平安期までは賜姓族は守護です。鎌倉期にはこれが一変しました。賜姓族から土地の豪族(武田氏)へと政権が移動していく事を意味します。
その「経緯」を調べれば偏纂されている可能性のある「系譜と添書と史料」を正しく判断する時の資料と成ります。偏纂系譜はこの矛盾と疑問と問題点が推理から浮き彫りに成ります。
歴史を調べる時は鵜呑みにするのでは無くこの事が大事なのです。

[守護王の青木氏の国府定住地]
平安期の初期は定住する処の国府には、先ず青木氏の菩提寺を建立し、守護神を建立してそこを政庁とするシステムでした。そこで甲斐の国府跡を見つける事がその皇族賜姓青木氏の存在全てを明らかにする事が出来ます。他の4国と違って甲斐は消失して記録も定かではありませんでした。
ところが、山梨県では09年4月に発掘調査が完了し、笛吹市の役所の位置(寺本)がその7世紀頃からの国府であった事が確認され、その南横には古代寺院の政庁寺があったことが確認されました。
そして守護神の「甲斐奈神社」があった事が確認されました。
ここが、甲斐の皇族賜姓青木氏の国府定住地であります。
先ず、一つの青木氏の定住地が確認されました。

ここで、政治的安定を狙って土地の豪族間との政略血縁が起こっている筈です。それがどの様なものなのかを調べ上げればよい事に成ります。基資料として「人と時と場所」の関係を掴む事に成ります。

(移動説の実証)
ところが、この国府が平安後期には寺社ともに「甲斐国八代郡国衛(笛吹市)」に移動しています
何故移動したかの原因が問題に成ります。
主に甲斐の武田には土豪小田氏(藤原秀郷一門の血縁族の陸奥小田氏 土豪武田氏を名乗る)が勢力を伸ばしていました。ここに源氏の跡目(義清-初代信義)が入り勢力と発言力が更に拡大して、政庁(寺社神社共に)を源氏系武田氏が定住する「山城郡(八代)国衛在」に移動させた事に成ります。3つの条件を持ち存在した形跡史実が確認されます。

更に、この後、武田氏が長篠の戦いに敗れて織田氏、徳川氏、今川氏から三方を囲まれ為に立て直しの為に勝頼は国府を「韮崎」(韮崎市)に移して「新府城」を構築して移動させて根拠地を固める作戦に出たとする史実があります。3つの条件が確認出来ます。(国府の疑問)
この建設経費が武田氏家臣の負担となり不満続出して離散が始まるのです
以上「3つの国府跡」がある事に成ります。

この事を「人、時、場所」を前提に分析を進めます。搾取偏纂の史料(系譜等)はこの前提のどれかを欠けています。搾取偏纂史料は其処まで史実を掴んでいないことが殆どです。
ですから上記した基本知識が必要なのです。

この寺本の賜姓族青木村は、甲斐の守護王の皇族賜姓青木氏の菩提寺で、上記の諏訪族2つの青木氏を除く宗家の菩提寺があったのです。
そして、この国府の甲斐の皇族賜姓青木氏には平安中期に清和源氏の源源光からの跡目が入ります。
ところがこれとは別に、清和源氏の分家源頼信より4代目の義清が武田冠者となり、6代目信義は甲斐の土豪武田氏(陸奥小田氏)に跡目として入ります。(武田氏の前身説)
武田氏(藤原秀郷血縁族陸奥小田氏が地名を採り土豪武田氏)はこれより清和源氏系の武田氏となり、信義が初代の清和源氏系武田氏を改めて発祥させました。つまり、前身は藤原秀郷系小田氏です。裏には藤原秀郷流青木氏が「第2の宗家」として主導する藤原秀郷一門勢力が源氏武田氏に関わっている事を念頭に検証すると深層の史実を掴むことが出来る事に成ります。

経緯
0 藤原秀郷系陸奥小田氏が甲斐に移動し地名から土豪武田氏を名乗ります。
1 義清(武田冠者 頼信4代目)が武田冠者の役目に成ります。
2 信義(武田太郎 頼信6代目)が清和源氏系武田氏を発祥させます。
3 源光(青木別当蔵人 頼信11代目)が寺本の国府に定住の皇族賜姓青木氏の跡目に入ります。
4 時光(頼信11代目)が甲斐武田氏系青木氏を発祥させます。(嵯峨期詔の青木氏)

上記した賜姓青木氏や賜姓源氏の知識が無ければ”この時光の青木氏は何処から来たの”と成ります。
その後、清和源氏系の武田氏6代目として兄の源時光は、甲斐武田氏系青木氏を発祥させます。
更に、その時光より2代目(武田氏7代目)の源常光が韮崎市にある浄土宗寺(寺名不明)を中興開基して「常光寺」とし甲斐皇族青木氏(時光系)の菩提寺とします。

「土豪小田氏から源氏系の武田氏に」
義清は乱暴で横暴な人物として甲斐に移されたとされます。そこで土豪小田氏(武田氏前身)との因縁が生まれて甲斐清和源氏系の武田氏が生まれたとされます。
清和源氏の宗家兄頼光に続いて守護代を譲り受けた頼信系が、甲斐に勢力を伸ばすにはこの様な人物でなくては務まらなかったのではと考えられます。
信濃足利氏と同じ様に、これは甲斐に勢力を張り其処に子孫を遺すと云う目的事が生易しいものではなく、清和源氏の勢力圏(子孫を遺す)を伸ばさなくては成らない切羽詰った背景(平家清盛からの圧迫)があった事によると観られます。
現に、元は兄頼光が甲斐守護を勤めていたにも関わらず土豪との血縁族を作っていません。
この事から土豪小田氏の勢力が大きく、又、なかなか一筋縄では出来ない相手であった事を示しています。それと背後に藤原秀郷一門が控えていた事も大きな障害に成っていた事と観られます。
それを打ち破るには破天荒の人物が適任と考えたのではないでしょうか。
普通ならば、この様に人物がいると平家と諍いを起こして清盛から難癖をつけられて大変な事になって居た筈です。そこを源氏は「武田冠者」と役職を付けて「京」から遠ざけて且つ一筋縄ではいかない相手に上手く合わしたという事だと考えます。
つまり、土豪武田氏(小田氏)もその様なところがあって「類が類を呼ぶが如く」で意気投合したのではないでしょうか。そして、自分が武田氏を興すのではなく、土豪との血縁者の孫息子の信義に引き継がせた事になるでしょう。
そうする事で、藤原秀郷一門を納得させたと観られます。
その証拠に信濃足利氏も秀郷血縁族の陸奥花房氏が信濃の土豪と成り足利氏を名乗り、秀郷一門がこの云う事を聞かなかった土豪足利氏(花房氏)の本家を廃嫡して追い出し、絶えた分家に秀郷一門を入れて分家足利氏を作りそれを本家にしてしまうことが起こっているのです。
当然に、この信濃にも清和源氏の跡目が直ぐに入り源氏系足利氏(藤原系)が興るのです。
恐らく、この場合は秀郷一門と源氏との結合である事に成りますので話が付いたのであろうと考えます。
だとすると、場合によっては、甲斐も信濃と同じ経過に成っていた事だと思います。そこを乱暴者の義清を宛がい上手く治めた事に成りますし、土豪武田氏(小田氏)は信濃を観て秀郷一門の手が伸びないうちに得策では無いと判断して血縁に踏み切ったと観られます。
何故秀郷一門が信濃と甲斐に執拗に発言力を高めようとしたかは、藤原氏も源氏と同様に清盛から猛烈な圧迫を受けていたからで、摂関家の立場も危なく成っていたのです。
そこで源氏と藤原氏と青木氏の3者同盟が起こっていたのです。
その荒波に頼光派は、本来部屋住みの無冠の頼信派(後に藤原道長に仕える)に信濃甲斐の守護職(守護代)の立場を譲り勢力を付けさせて関東に伸びようと考えたのです。
関東は藤原秀郷一門の勢力圏内です。其処に一部陣取る平家軍を一掃して中部域と関東域を源氏秀郷ラインを築く戦略が働いていたと考えます。
現実この戦略が働き清盛一門は関東に伸びることが出来ずに撤退して行ったのです。
それだけに団結を成すこの血縁戦略は大変な意味を持ち、信濃や甲斐の土豪を強引に抑えに入ったのです。そして、頼光派は関西に集中的に基盤を築き上げる機会を覗ったのです。
そこで頼光派の関西は、伊勢の青木氏、近江青木氏と佐々木氏、滋賀の佐々木氏、美濃の土岐氏に防御網の血縁関係を築いたのです。
清盛は結局、関西以西(兵庫が最前線)に留まる事になったのです。
ですから、兵庫に全源氏一族の氏寺と守護神の神社が在るのもこの一つの表れです。
この様な時代背景の中で甲斐の土豪武田氏から源氏武田氏へと変化して行ったのです。
しかし、後に信濃足利氏と甲斐武田氏は何れも清和源氏の跡目が入る支流ですが、同じ清和源氏の分家頼信本流の頼朝(坂東八平氏)に圧迫されて一時衰退します。
そしてその背景は更に続いたのです。

注 信義以後、武田氏5代目までは菩提寺を浄土宗明楽寺を開基し、その後、大井荘南条の宝林寺と変名します。
注 武田氏2代目信義次男忠頼(一条郷の一条氏を名乗る)は同族頼信系の鎌倉幕府将軍の源頼朝に謀殺されますが、後に一族(弟の時宗等)はこの寺を尼寺にし、一蓮寺と変名します。
注 宝林寺を甲斐武田氏の時光等一族郎党までの菩提寺としていました。
注 宝林寺は甲斐国守護の一人武田時信(信義より5代目)までの歴代の墓です。

その武田信義5代目時信(甲斐守守護)までは比較的平穏でありましたが武田信満の頃から変動し始めます。
そこで、信時(尾張守)の子の時光(信義より6代目)は青木氏を発祥させた為に、「氏」が異なる為に菩提寺を別にする必要が出てきました。(何故青木氏を発祥させたかの疑問 詳細後述)
この時、時光の死後、子の常光(信義より7代目)が突然に自分の名を採って「真言宗常光寺」と「改宗変名」をして中興開基したのです。ここで、一つ疑問が出ます。
その疑問は次ぎの事です。
”何故中興開基し改宗したのか”の疑問が起こります。
”親の浄土宗を宗派としていた親の時光は何処に祭祀されていたのか”(疑問)と云う事にも成ります。
(一説では時光は摂津国の地頭をしていた関係から、摂津国浄土宗善法寺だとする説があります)

この寺「常光寺」には、現在、時光より11代信安(後述)間での墓が一列に並べられて祀られています。
という事は、時光の宗派は浄土宗です。常光は真言宗です。
一人宗派が違います。(時光の祭祀場所の疑問 11代墓所の疑問)
ここ浄土宗宝林寺境内に安置されている5代目までの武田氏歴代の墓が在ります。
しかし、6代目青木時光より7代目常光は菩提寺として「武隆山常光寺」を「真言宗」の寺として中興開山しましたから、この時、真言宗常光寺境内に安置されている11代の青木氏歴代の墓は真言宗と成ります。、しかし、時光だけの墓は浄土宗信者です。
常光以降の10代の墓は真言宗として納得できます。
浄土宗信者の時光の墓が真言宗の寺にあると云う事に成ります。これは慣例よりおかしいです。
普通はこの場合、墓は浄土宗の墓所に移すことが慣例です。
しかし、真言宗の常光寺の境内に並べられてあるのです。
摂津浄土宗善法寺説がこの点から考えると納得できる説と成ります。多分この疑問を盾に採っているのではと考えます。しかし、現実には真言宗常光寺にもあるのです。
常光寺は史実から「中興開基と開山」と記録していますから、その前身は浄土宗(寺名は不詳)である事に成ります。
ここで「中興」を前提に推理が立ちます。
先ず、時光が「武田氏」から「青木氏」を発祥させましたから、武田氏の菩提寺「明楽寺」から出る必要があり、直ぐに独自の浄土宗寺を作る必要が出て来て建立します。その「直後前後」に没しています。
そこで、子供の常光は”この寺を常光寺とし、自分の信心する真言宗に改宗した”とすれば父が建てた以上は「中興開基開山」と云う形に成りますので理屈が合います。

そこで、「摂津善法寺説」の検証です。
時光の清和源氏は3男頼信系の河内源氏系です。
摂津は嫡男頼光の摂津源氏です。河内は元は嫡男兄頼光の領地で河内源氏としていましたが、頼光は頼信に河内領地と甲斐の守護代国司を史実として譲ったのです。
鎌倉幕府時代に源氏の地を治めるには源氏の者を地頭として配置したのです。よって善法寺があるのです。
現在も摂津には源氏一党の神社がありますし、同族の摂津賜姓近江青木氏が定住する地です。
清和源氏頼信系の時光も頼光系の寺で合わせて祀られている事は充分にありますが、しかし、本所は甲斐ですので、子供常光は親の時光が青木氏菩提寺として建てたこの寺に時光を先ずは納めたのではと考えられます。
そこで、改宗「真言宗」は別の問題と考えるのが普通の行動とみます。(一条氏説等後述)
実は、その後に、信義6代目時光から13代目信定が更に「曹洞宗」に改宗すると言う事件が再び起こっているのです。
更に、連動して「浄土宗源空寺」と「浄土宗光沢寺」を作るという一連の事件が起こっているのです。
改宗は別の行為での事と見るのが正しいと見ます。これは明らかに宗教性が甲斐に吹いていた事を示すものです。(後述詳細)
常光寺の境内には、史実として判る範囲で祀られている人物としては次ぎの人物等が祭祀されています。

[甲斐武田氏系青木氏の花菱紋の人物]
藤原秀郷と血縁した陸奥小田氏は地元の地名から初期武田氏を発祥させます。
その後、清和源氏系より信義が跡目が入り清和源氏武田氏が発祥させます。
「武田氏系譜」
初代の信義-信光-信長-信経-信時-時光(青木氏発祥)として子孫を遺します。
その後、清和源氏系の信時の子時光が以後割菱紋の甲斐青木氏(嵯峨期の詔)を発祥させます。

[甲斐時光系青木氏の系譜]
信義-信光-信長-信経-信時-時光(元祖青木氏発祥 6代)


以下11代が真言宗常光寺に祭祀
時光1-常光2-信連3-貞義4-義遠5-安遠6-義虎7-満懸8-信親9-信時10-信安11(11代)
以後、信就(同族山寺氏の三男)と続く。(時光系割菱紋本家)

時光系割菱紋分家(信生-信正-信定の説)
信生11(信安義弟 落合氏の子 養子)-信正12-信定13-正定14-豊勝15-豊信16(一時絶える 昌輝継承)(正定14は別家花菱紋青木氏を興す。)

豊信16-昌輝17-正寛18-正教19-教豊20-昌邦21-長国22-満眞23-某(熊之助)24

正定-昌輝(大井氏に養子後、戻り割菱紋分家の豊信の跡を継ぐ 大井氏は信虎の妻の実家先)

「時光源光の子孫」
時光-常光-時忠
源光-信高-信行

信生11は養子で分家であるので(義兄の信安までは真言宗常光寺に際されている)常光寺に祭祀されなかった事も一つの条件です。(11代の疑問の理由の一つ)

「真言宗常光寺」は以上時光より11代にわたる青木氏の墓と成っています。
注 信時-信安(割菱紋本家)と信時-信生(割菱紋分家 落合氏の子 養子婿)が出ていますが、これが後に大きな事件に発展するのです。(詳細後述)

伊勢を始めとしてその青木氏独自の菩提寺は「..光寺」と命名している寺が多いのですが、この常光寺は県が指定する甲斐青木氏の史跡寺です。
これで、伊勢を始めとして、長い荒波の中で5家5流の全て宗家筋が現在までも途切れずに存在している事が判った事になります。しかし、ここで更に家紋の疑問が出ます。

問題の家紋は「笹竜胆紋」の綜紋の保持氏で、且つ浄土宗の菩提寺の筈でありながら、この時光系の青木氏は2代目の常光からは真言宗常光寺として改宗し家紋を花菱紋としている説もありますが、系譜と添書から明らかに割菱紋であり、花菱紋は別家を興した際に変紋した事に成りますが、これが正定14からと成ります。同時に浄土宗源空寺を建立します。
(何故青木氏にしたのか疑問 賜姓青木氏の弟源光に対して皇族青木氏の兄時光の青木氏を興した)
(何故花菱紋に成るのか疑問 添書から正定から花菱紋が判明)
(何故11代だけなのか疑問 理由1は養子と割菱紋分家が判明)
更に他に理由と背景として無いかを考察します。
その鍵は真言宗であると考えます。
そこで真言宗に付いて考察します。

[真言宗改宗の根拠]
その根拠はこの清和源氏(母方)に藤原北家摂関家の公家より母を迎えいれた事から一条氏を名乗ったとされているのです。(書物では「一条時光」と呼称されている)
朝臣族の賜姓源氏、皇族青木氏の皇族の身分家柄がありながら、わざわざ何故一条氏を名乗ったのか疑問です。(詳細後述)
よって、一条氏の公家宗派は弘法大師空海の真言宗であるところから改宗したとされます。
時光のときは浄土宗寺であったのですが、2代目常光は自らの名前を採り常光寺と解明して更に中興開山し真言宗武隆山としたのです。
それでは今度は何故真言宗に改宗したのか疑問は一条氏にあります。
(詳細後述)
勿論、時光までは浄土宗ですが、跡目の関係で変紋が起こっている可能性もありますが、この場合は意識的な行為です。
「青木氏氏 研究室」の皇族賜姓青木氏の関連レポートをお読みください。

この常光寺は甲斐青木氏の菩提寺として上記11代まで祀られています。
その11代は常光寺に一箇所に列にして墓石が在ります。
本家は信安11-信就..と続きます。

更に割菱紋の分家 その1は次の様に成ります。
信生11-信正12-定信13-正定14-豊勝15-豊信16(一時断絶 正定の子供が継ぐ)と続いています。
11代目からは何処に祭祀されているのかも疑問です(詳細後述)

不思議に青木氏菩提寺であればその間必要性がありませんが、敢えて一列に何故1箇所に列したのかも疑問です。何かある筈です。(詳細後述)
この常光寺には、他にも多くの青木氏の墓所がありますが、その後(11、12、13)の歴代の墓所は不詳に成っていますのでありません。
とすると、この青木氏菩提寺の常光寺には他の者の何故墓所は無いのか疑問です。(詳細後述)
歴史を趣味としている人なら誰でもが知っている青木氏のお寺ですが、ここではこの様に異質の慣習が起こっています。普通は同じ墓所を多少の理由があっても代々何代も菩提寺にするのが普通です。
そして、この皇族青木氏の「花菱紋」の分家と見られる「丸付きの花菱紋」が存在しますが、本来、この皇族系(皇族賜姓族含む)の青木氏は丸付き紋を使用していないために、「丸に花菱紋」は「第3氏」か「未勘氏」なのかの疑問も残ります。(詳細後述)
何故丸に花菱紋が存在するのか疑問の疑問が出てきます。(詳細後述)
この様に次から次えと不思議なほどに矛盾を持っています。
ここまでこの8つの疑問程のものを詳細に研究して解決する必要があります。

この疑問解決には先ず信用できる範囲で更に突っ込んで系譜と史料をつき合わせてどのように成っているのかを調べる必要があります。
参考「正統な系譜の見分け方」
この系譜と添書は人物や時代性や発祥地などに矛盾が見当たりません。

普通、搾取偏纂した系譜には特長があり、前の系譜人物と後の系譜人物との間に何れにも属さない不明の人物が一人介在し、その人物と繋ぎ合わせて正統に見せる工夫があります。そこに時代のズレが生まれ、場所の不透明さが出てくるのです。系譜は代々の人が書残して継ぎ足して作るのではなく、何れかの時代に誰かがまとめて作る事に成ります。しかし、その人は歴史に専門でない所から専門の系譜屋に頼みます。系譜屋は系譜を良く見せて客を嬉しがらせ金品を高く要求しますのでこの事を必要とします。そうすると当然に上記の様な搾取偏纂が起こります。特に第3氏や未勘氏の場合は必要と成ります。江戸時代に造られて多くの系譜史書を観て作る事になるのです。
例として、九州のある氏と四国のある氏を繋ぎ合わせて繋ぎあわせる部分に一人人物を入れて系譜がさも良い家柄かの様に偏纂していました。四国の依頼者にはある遠方の土地の縁者と観られる人が居る事が判りそれと結び付いたと大変喜びその系譜を信頼してしまいます。その搾取偏纂の系譜は遠方の人が持っていた系譜でした。ところが四国地元のある土豪(乙部氏)の家にその本当の系譜が存在しているにも関わらず作られた系譜が偽であるにも関わらず知らないで信じ込んでしまいました。こうなるとどうしようも有りません。
系譜にはこの様なトリックがあるのです。

[甲斐青木氏の系譜]
「直系青木氏」
「割菱紋青木氏本家」
時光(信義より6代目)-常光-信連-貞義ー義遠ー安遠-義虎-信種-信親-信時-信安(常光寺に墓所16代目)-信就-信幸-信峯-信祐-信任-信*-信考(22代目 割菱紋系 本家)
系譜を繋いで調べ挙げると以上の様に成ります。

注 信生は信安の義弟 落合氏の子 養子婿 信時の養子となる
この中で、添書から先ず、柳沢氏への疑問事と信生(前述)の事が出てきました。

「割菱紋分家の柳沢氏」
割菱紋本家から柳沢氏に跡目を入れた形に成っています。

ところが、本来は割菱紋から分離した花菱紋の柳沢氏が豊定より発祥しています。

史料によると、「柳沢」の事が出て来るのが1433年頃に「柳沢衆」とあり、特に氏を名乗ったという形では有りません。武田一族の「柳沢の衆」と呼称する「古来の慣習」と観られます。

添書によると、割菱紋系列の安遠-信興(時光7代目 義虎の弟)が”柳沢氏を称する”とあります。
この系譜では割菱紋青木氏より7代目に初代柳沢氏が発祥しています。

問題はこの7代目がどの様な人物でどの時代になるかの問題です。
柳沢氏は後述しますが、先ず系譜では豊定14を元祖としています。
最も栄えた時期は柳沢吉保です。豊定より5代目です
とすると、この時光7代目のところで柳沢氏が発祥したのか、豊定後の事かの検証が必要ですので、関わりはあります。しかし、青木氏系譜の柳沢氏の史料には豊定が元祖とあります。
系譜と添書を繋ぐと次ぎの様に成ります。

「豊定の柳沢氏系譜」(割菱紋-花菱紋)
 別系譜では信生(割菱紋)-信正(割菱紋)-信定(割菱紋)-「豊定」(花菱紋)*-信立(花菱紋)*-信俊(花菱紋)-安忠(花菱紋)-吉保(花菱紋)-吉里(花菱紋)

「信興の柳沢氏系譜」(割菱紋  副紋は葉菱紋)
安遠-「信興」-貞興-信房-信兼-信俊-安忠-信花

この2つの柳沢氏の系譜には次ぎの違いがあります。
割菱紋を家紋とする(信生)-信正系で、信種の親の義虎系(信興の兄)で「信種」と異腹と観られる「信正」系譜から発祥しています。
信正は妾腹である為に家紋は「割菱紋に副紋葉菱紋」から「割菱紋」と成り、豊定のところで「花菱紋」に変紋します。

信種は本流の為に家紋は「割菱紋に副紋葉菱紋」です。
(信正と信種等に付いての関係は不明点があり後述します)

更に、「信立」なる人物が介在します。
この人物は系譜上からは存在しません。ただし、系譜添書では信種の子供の信親ではないかと書かれています。添書表現では”信親或いは信立”書き込まれています。
信種、信親、信正、信定、信時、信生の人物関係が他説が多くあり不詳部分です。(後述解明)

もう一つは系譜が示す「信生-信正」のルーツ説で信生は信時の子供信安と義兄弟です。
信生は落合氏の子供で信時の育てられたと添書にありますので、信正との間に系譜のズレらしきものが見られます。(とりあえずこのルーツで検証しています。)

一方「信興」(義虎の弟)は割菱紋に副紋葉菱紋です。

時光より7代目から11代目までが武田氏系青木氏の系譜の不詳部分で人物が判明しているが問題疑問の多い代です。この繋ぐ詳細な史料と系譜がこの研究課題です(後編 後述)。

本節の初期の前提で検証しますと次ぎの様に成ります。
前とすると、青木(武田)信興から途中で耐えた可能性があります。
後とすると、別の柳沢氏が発祥した事に成ります。重要な問題です

調査の結果、史料(武田氏)とこの上記系譜添書との突合せで判明しました。

時光系の本流の「割菱紋 葉菱紋」から上記1433年の「青木氏の柳沢衆」の絶えた跡目に本流から正式に「柳沢氏」を1525年頃に発祥させた事に成ります。
つまり、「柳沢衆」から「「柳沢氏」の変化です。
「信興」が「割菱紋 葉菱紋」を家紋とする「柳沢氏」を発祥させた事を意味します。

時光系の分流の割菱紋から「信正-信定」系で「豊定」が花菱紋の1567年頃に「柳沢氏」を発祥させた事を意味します。

武田氏滅亡後(1582)、大久保長安事件で、この武田信興は伊豆大島に長期流罪になり、柳沢吉保の口利きと保護の下で免罪となり一度吉保のところで保護されますが、その後、甲斐の天保動乱の中鎮める意味でも幕府の計らいで旗本に成ります。そして、甲斐八代郡500石で戻る事に成った人物がこの武田信興であります。
甲斐の戻った後に、系譜から「割菱紋」の柳沢氏を一時期(1690年頃)に名乗った事(子孫不明)が判明しました。
一代限りと見られます。 一族の柳沢氏に感謝を込めてたか天保争乱中の身の安全確保為か名乗ったと見られます。


この様に、「4つの経緯」から「系譜と添書と古史料と家紋」の「4検証むから「7代目から11代目」の前後共に起こった柳沢氏(柳沢衆)の呼称を代表とする「生き様」があった事を意味します。

結論
4つの柳沢氏の発祥経緯
1 「時光系本流家」の「割菱紋 葉菱紋」の「柳沢衆」(1433)
2 「信興」の「割菱紋 葉菱紋」の柳沢氏(1525)
3 「豊定」の「花菱紋」の柳沢氏(1567)
4 「武田信興」の柳沢氏を一時呼称(1735)


注 この「武田信興」なる人物は本家筋を担い武田氏滅亡後で大久保長安事件で流罪になった人物です。(武田信興は武田信道の子)
注 ほぼ同時期に「青木信興」なる人物が居て、時光より7代目に有り、柳沢氏を名乗るとあります。
注 「武田信興」(1690)と「青木信興」(1525)と同一人物かは判明できない。
注 「武田信興」は大変長寿であったと記録があるが年代が異なります。
注 一般公開されている史料の柳沢氏(青木氏)は系譜や添書や家紋等の検証が成されていないのです。

柳沢氏の家紋と云われているものには次ぎの4つがあります。
1 花菱紋(豊定系柳沢氏 甲斐甲府藩)
2 4つ花菱紋(吉里系柳沢氏 大和郡山藩)
3 割菱紋(信興系柳沢氏 本流本家筋)
4 葉菱紋(信興系柳沢氏 本流分家筋)

  
1 花菱紋は兄正定の青木氏の花菱紋と弟豊定の柳沢氏の花菱紋があり、地域は巨摩郡の北域に多く分布します。何れも別家を興した氏ですので父親信定の割菱紋を使えません。
吉保の甲府藩主の時代までに使用した家紋です。

2 4つ花菱紋は4つの花菱紋を組み合わせて菱形に割って配置している家紋です。
信定の割菱紋に類似させて花菱紋を図案化したものです。
これは柳沢吉保跡の吉里が大和郡山藩主に移封された時に家紋化したものです。
大和郡山柳沢氏の家紋です。

3 割菱紋は信興の本流の家紋で1433年頃からの武川筋の青木氏の伝統家紋で副紋を葉菱紋としていました。1525年ごろからの武川衆に成った時に使用した本流の本家筋の家紋として使用したものです。
巨摩郡南域から柳沢郡域にまたがって分布する家紋です。

4 信興系は割菱紋 葉菱紋を使用している本流ですが、この分家筋が副紋の葉菱紋を家紋としたものです。柳沢葉菱紋として有名です。柳沢郡域に分布する家紋です。

注 現在の家紋分布は4つ花菱紋を除き徳川氏仕官と武川筋の代替地で多くは中部東から関東全域に移動しています。
注 信興や義虎-信種らの割菱紋 葉菱紋の本流派は、皇族賜姓青木氏の源光系の菱紋と割菱紋の宗家との違いを出す所から時光系の本流は副紋を「葉菱紋」として使ったものです。
注 信正-信定の妾子分流派はこれに対して葉菱紋の副紋を外し割菱紋のみとしたのです。何か意味合いが感じられます。

この様に家紋に依って何処の氏の柳沢氏かを判別する事が出来ます。
インターネット等の一般公開の史料はこれらの総合的判断による分類が出来ていません。
この様に、家紋に代表されるように青木一族の柳沢氏には青木氏を物語る意味合いを多く持っているのです。


「割菱紋の柳沢氏の意味」
柳沢氏の発祥経緯は記録から観ると、次ぎの様に成ります。
1433年頃に柳沢の呼称が出てきますが、この時代の「柳沢」は当時の呼称としての慣習から地名を採り「武田一族」の中で「柳沢の何者」と呼称していたと見られ氏としての発祥という経緯では無いと観られます。
次ぎに観られるのは、1521年に柳沢氏を記録として名乗っているものが有ります。
多分、年代からこの人物が「青木信興」であると観られます。
当然に、系譜から青木義虎の弟であるので「割菱紋 副紋葉菱紋」と成ります。
しかし、この「青木信興」の柳沢氏は大永年間の武田一族の争いで絶えます。

つまり、豊定の前と成りますので、系譜の割菱紋青木(武田)信興の柳沢氏が一時一代程度で発祥した事に成ります。「割菱紋柳沢氏」が発祥した事に成ります。
(この割り菱紋子孫が存在する事に成りますが不明です。)
つまり、豊定の花菱紋の柳沢氏では無く、信定までの割菱紋の柳沢氏を本筋として発祥させた事を意味します。割菱紋の武田氏の中での家柄と正当性の意味するところが判ります。
その前に信定の(信之)養子事件が起こっていた事に成ります。(後述)
とすると、それだけにこの割菱紋の「柳沢郡」(武田氏一門にとっての柳沢氏と血縁性の無い青木氏との関係が目立ちます)の存在価値を意識していたことを意味します。

後に、柳沢吉保(1688年頃 100年前史実)の上記の結論のこの事は承知していて系譜の一部偏纂(信立等の系譜の疑問)した事の可能性があります。
「信立の人物」の件や「信俊-安忠」の共通系譜の件を組み込んで立身出世にあわせて「4つの柳沢氏」の「統一系譜」を創り上げて「一条氏家柄拡大」の事も含めて世間に喧伝したと考えられます。

7-11代の同時期に生きた「信定」は、この信興に割菱紋の柳沢氏を別に立てさせるのでは無く、他人の柳沢郡青木氏をつくり出して、本流の信興柳沢氏を無視した形で、敢えて柳沢郡は柳沢氏(豊定)の花菱紋と柳沢郡青木氏(信之)の花菱紋のものであると誇示したのではないでしょうか。

柳沢吉保は、「信定」の取った処置が愚策で合ったと認識していた事と見られ末裔に影響を与えていた事に成ります。それだけに「柳沢氏の系譜偏纂」やこの「丸付き紋の変紋事件」や末裔信政の下記の系譜編集時の「否定細工」に繋がったのではと考察しています。

次ぎに進めて、そこで、前述の信生の割菱紋から4代目に花菱紋(正定と豊定)が出ている事に成りましたのでその分家筋を更に調べます。

「割菱紋分家」
割菱紋分家 その2が系譜から確認出来ました。(柳沢郡青木氏の疑問)
信生(16代目養子)-某(信正)-信定-信之(養子)-信茂(養子)ー信也-信考(養子)-信並-信*(割菱紋系 分家)

この分家の系譜もあります
注 信生は信安の弟 信生は信時に養われる 信生は武田氏家臣落合常陸守信資の子
信安は常光寺の最後の時光より11代目の祭祀の人。

この系譜添書には故意的と観られる全て+100年の年代誤差があります。
この系譜は”信政が作る”と添書にあります。
この信政は正定の別家の花菱紋分家(本来は本家 正定が別家を興した事による。詳細後述)の寛政時代の人物です。
別家の添書と系譜とこの系譜のその2を信政(正重系)が意味を持って割菱紋分家の系譜を改めて完成させた事が判りました。江戸の末期寛政に作った事が判りました。
寛政期には寛政史書が出来ています。この中に「寛永青木氏第三の系図」としての事が書かれています。
別家を興した花菱紋の末裔以外に、もう一つの信生の末裔で信定の時に信之を突然養子にし柳沢郡青木氏を継承させると云う事件が起こります。
この別家の末裔がこの柳沢郡青木氏の正当性を疑問視して故意的に,年代のズラシと信正を某とするなど偏纂した事に成ります。調べれば直ぐに判る偏纂です。
又、この氏の信之(実家和泉守)が義父信定の妻の実家の桜井氏(安芸守)を頼って安芸に出かけた事も添書にこっそりと書き添えて違いを見せています。
柳沢郡青木氏の系譜の序文に毛利氏に仕官した経歴や墓の有無までを詳細に明記しています。

「花菱紋青木氏本家1」
信生16-信正17-信定18-正定(19代目 花菱紋青木氏の元祖)-豊勝-豊信-(花菱紋は断絶-花菱紋系に引き継ぐ)-昌輝が継ぐ

「花菱紋柳沢氏本家」
信生16-信正17-信定18-豊定(19代目 柳沢氏継承 花菱紋柳沢氏の元祖)-(後述)

「花菱紋青木氏別家 (正重系系譜)」
信生-信正-信定-正定-正重-信久-信知-信秋(青木市郎の次男より養子になる)-信富-信保-正満(石川氏4男養子)-信政(花菱紋分家1-後述 系譜編集者)

「花菱紋青木氏本家2 本家1継承 昌輝分家で継承(昌輝系譜)」
信生-信正-定信-正定-昌輝(大井氏に養子後、豊信の青木氏本家に戻る)-正寛(大井氏次男 青木氏本家を引き継ぐ)-正教-教豊(養子)-昌那-長国-満眞-(割菱紋から-花菱紋に変紋)

「花菱紋柳沢郡青木氏本家」
信生-某(信定)-信定-信之(養子 高尾伝九郎久治の三男)-信茂(養子 多田新八郎の三男)-信也-信考(婿養子 小野朝右衛門高騰の次男)-信並-信*

この「系譜」と「添書」と「他の史料」の詳しく研究し検証した結果から判った事が次ぎの11点であります。
1 武田氏の第2勢力を誇る割菱紋の一族は本家筋の末裔「信生」から分家が出ている事。
2 この割菱紋本家筋は正定の孫の豊信のところで末裔無しにより断絶した事。
3 この断絶した花菱紋本家を正定(花菱紋青木氏元祖)の子昌輝が一度大井氏に養子に入り、再び断絶した花菱紋の父の実家(断絶)に戻った事。
4 引き継いだ「花菱紋分家」筋は昌輝より「花菱紋本家」となります。
つまり、正定の本家花菱紋は正定の分家花菱紋に引き継がれている事に成ります。
5 花菱紋の青木氏は正定より発祥した事に成ります。
6 正定には長男豊勝(実は正定の弟)と次男昌輝と三男正重と3人子供がいた事に成ります。
7 嫡子豊勝(実は正定の弟 養子)の本家を次男昌輝(正式に子正寛継承)が本家を継ぎ直した事に成ります。
8 青木昌輝が大井氏の養子となりますが、昌輝の子嫡男には大井氏を継がせ、父昌輝は断絶した実家本家に戻る事に成ります。そして、次男大井正寛はこの実家の花菱紋本家青木氏を引き継ぎます。
(青木昌輝-大井昌輝-青木昌輝 大井正寛-青木正寛)
9 柳沢氏は正定(19代目)の弟の豊定が花菱紋柳沢氏を発祥させている事に成ります。
10 割菱紋青木氏本家より割菱紋柳沢氏を武田信興(信義12代目)が称する。
11 以降信義19代目豊定で花菱紋柳沢氏を発祥させます。
12 時光系青木氏から出た柳沢氏は割紋菱と花菱紋の柳沢氏(現在の本家筋と成っている)が2氏が存在する事に成ります。(割菱紋柳沢氏の存在が未確認 花菱紋に変紋統一)

注 武田信興(時光より7代目)は柳沢吉保の口利きで流罪伊豆大島より戻り吉保の下で生活するが、その後幕府の許可を得て八代郡500石として旗本となる。この時、割菱紋の柳沢氏を称する。
系譜と史料とで花菱紋柳沢氏と割菱紋柳沢氏の2流がある事に成ります。これがどの様に絡んでくるのかは現在不明です。
兎も角も、柳沢郡青木氏は武田氏滅亡前に”信定の妻の実家に移る”とあり、これが後に「丸に花菱紋」と「曹洞宗改宗」の事件の鍵を握ります。(詳細後述)

[甲斐の異質慣習]
先ず、甲斐の皇族賜姓青木氏は発掘によりその定住跡と菩提寺跡と守護神が寺本に確認できましたが現存する皇族賜姓青木氏の本家は笹竜胆紋で浄土宗を護っています。

この甲斐武田氏系の青木氏は「嵯峨期の詔」(第6位皇子の源氏系であるので朝臣族)に基づき青木氏を名乗りましたが、当然に時光のときは「浄土宗」寺でした。嵯峨期の詔を使えば当然に「笹竜胆紋」と成る筈です。しかし、この割菱紋です。綜紋笹竜胆紋を使えない理由がある筈です。
其れは、武田氏の出自に拠ります。
家柄と身分での違いです。武田氏は清和源氏と大々的に甲斐源氏の名乗っていますが、系譜からは明らかに清和源氏分家頼信系で河内源氏の支流の傍系です。これも系譜からは次ぎの一条氏の名乗りと同じく誇張領域です。つまり、義経頼朝の本流に対して傍系ですので明らかに笹竜胆紋は使えません。

初代の武田氏の武田信義が浄土宗明楽寺を開基します。
2代目武田氏の次男の武田忠頼の時に浄土宗宝林寺を中興開基します。
忠頼は甲斐一条氏を名乗る。(武田忠頼は一条郷の出身です。)
一条氏を忠頼は名乗った事により氏が異なることから「浄土宗明楽寺」から独立して「浄土宗宝林寺」を開山する必要に迫られた事に成ります。(一条氏は後述)
源の時光(6代目)より青木氏を発祥させた事により氏が異なる事で「浄土宗明楽寺」から離れ新たに皇族青木氏2代目常光の時に自分の名を採用して青木氏の氏寺の真言宗常光寺を中興開山し事に成ります。ここで、改宗していることに成ります。
しかし、この間、元祖時光の菩提は「中興開山」である以上は元の浄土宗の寺名は何であったのかは不明です。又は明楽寺に一時祭祀されていた事も考えられます。

時光は浄土宗であり青木氏を発祥させた事から甲斐の全青木氏(源光系賜姓族含む)の浄土宗菩提寺を計画します。
時光2代目常光は青木氏でありながら一条氏を名乗っていることから時光の計画に乗れなく成ります。そこで常光はこの計画が完成する前後に時光が没しましたので、一条氏の真言宗の寺に改宗し寺名に自分の名をつけた事に成ります。
これでは他の青木氏(菱紋と割菱紋の源光系)はこの寺を菩提寺にする訳にはいかなく成ります。
一条氏系青木常光は親青木時光を祭祀する寺が無い事に成りますし、元の計画者でもあり放置できない親であり真言宗常光寺に無理やりに祭祀する以外になくなります。
この様な背景の中で、青木氏でありながら家柄誇張の為に筋違いの一条氏を更に名乗り、その宗派を真言宗に中興開基したのです。
これと同じ事が、時光より11代後(時光より11代目)にも再び起こります。
時光より13代目信定が、この常光寺を3度目に中興開基して今度は「曹洞宗」に改宗してしまいます。
この様に、「繁栄衰退の栄枯盛衰」も含めて「宗派対立の因果応報」の繰り返しがこの甲斐の武田氏に降りかかっているのです。

[改宗経緯]
1 信義より6代目時光まで浄土宗明楽寺(後に浄土宗宝林寺に中興開山)を菩提寺とする。
2 信義より2代目忠頼謀殺で後に宝林寺は一蓮寺の尼寺として中興開基します。 
3 信義より7代目常光から真言宗常光寺を中興開基します。16代目信安まで。常光寺に墓所あり
4 信義より18代目信定は曹洞宗常光寺と開山します。
5 信義より19代目正定は浄土宗源空寺を開山します。(花菱紋青木氏発祥)
6 信義より19代目豊定は浄土宗光沢寺を開山します。(花菱紋柳沢氏発祥)
7 柳沢郡青木村の青木氏は真言宗常光寺を再興します。(丸に花菱紋を継承 後述)
8 明治の廃仏毀釈で浄土宗源空寺は廃寺と成ります。
9 柳沢氏の浄土宗光沢寺は郡山に転封で永慶寺(岩窪)-大泉寺(廃仏毀釈で廃寺 護国神社)
10 浄土宗源空寺の花菱紋の氏は浄土宗派と真言宗派と曹洞宗派とに分かれる。
11 現在の花菱紋の曹洞宗派の青木氏の一部は曹洞宗南明寺に入信した可能性あり。(不詳)
(浄土宗派花菱紋の青木氏、真言宗花菱紋の青木氏は武田氏滅亡で関東に移動したので現在未確認)
12 天正期の時、曹洞宗派は武田氏滅亡で衰退した元の常光寺を再興、別に常光寺曹洞宗派を引き継ぐ。(丸に花菱紋を寺紋と成っている)
13 青木常光の改宗で、明治まで真言宗派と浄土宗派と曹洞宗派に分かれる事に成ります。
14 信義より19代目豊定は柳沢氏を発祥させる。
15 柳沢氏菩提寺の浄土宗光沢寺を開山する。(信定の子正定と豊定は兄弟)
16 19代目信之に柳沢郡青木村青木氏を発祥させる(後に丸に花菱紋が出る 曹洞宗常光寺再興)
17 信生(信安の義弟)から信正-信定(曹洞宗)-正定の浄土宗系譜が出来る。

以後、以上の経過を経て花菱紋青木氏は明治の廃仏稀釈まで代々祭祀します。

[武田氏の発祥経緯]
花菱紋は武田氏の家紋で、時光系で発祥。(嵯峨期詔青木氏 朝臣族と宿禰族皇子)
武田菱紋と割菱紋は武田氏の家紋で、源光系で発祥、甲斐皇族賜姓青木氏との血縁で発祥。(皇族賜姓族 皇族賜姓族は天智期詔青木氏 第6位皇子)

当時は「氏家制度」の中、血縁は身分制度(甲斐の皇族賜姓青木氏は光仁天皇第6位皇子、朝臣族、浄広1-2位を持つ天皇に継ぐ最高身分家柄です)の吊りあいによって行われる慣習でした。
そこで、当時、最大勢力を誇った武田氏ですが、元は陸奥の豪族であり、陸奥の鎮守府将軍として赴任中の藤原秀郷一門と血縁をした小田氏が在りました。秀郷一門が甲斐に赴任替えに成った時に護衛として藤原秀郷流青木氏と共に同行した小田氏の一部が甲斐に定住した氏です。
その後、勢力を持ち甲斐の最大豪族と成り上がった氏で、武田の地名を採り土豪武田氏を名乗ったのです。
そこに、清和源氏の義清が武田冠者として赴任し、小田氏の武田氏と血縁し、清和源氏の血筋を引く武田氏が発祥しました、この初代が信義です。
この小田氏の一部は、その後、再び秀郷一門の国に同行して常陸に移り、「関東屋形」と呼ばれる日本最大の豪族の有名な3氏の一つと成りました。甲斐の武田氏と常陸の小田氏は親族です。

この清和源氏系となった武田氏と、甲斐の守護王であった皇族賜姓青木氏との間で血縁を結んだが源光系の武田系青木氏(賜姓族)です。
当然、武田氏より身分は数段青木氏の方が上です。先ず、賜姓青木氏は天皇以外に上に来る身分は無いのです。
ところが、本来は、天皇より皇族賜姓青木氏に与えられた綜紋の笹竜胆紋ですが、武田氏と血縁をした際に、皇族賜姓青木氏の本家筋の方に男系跡目が出来ずに居ました。
先ず、政治的に土豪との結びつきを良くする為に、武田氏から養子を迎えたのです。ところが、この養子婿との間に嫡男に恵まれず、一時、家紋は氏家制度の「家紋掟」により養子婿先の菱紋に変紋を余儀なくされました。次ぎに再び養子を迎えましたが、この時も嫡男に恵まれずに、最終この賜姓青木氏の一部が女系となり「笹竜胆紋」に戻る事は出来ませんでした。
つまり、賜姓族でありながらも、「氏家制度」では「男系」で言いますので武田氏系の方に系譜がなると云う事です。これが、甲斐の皇族賜姓青木氏の武田氏系青木氏です。
同じ事が割り菱紋との血縁もした事に成ります。この賜姓族も同じ事が起こってしまった事を意味します。甲斐の皇族賜姓青木氏本家は存在して、本家筋の嫡子外の分家筋が武田氏との血縁に成った事を意味します。
しかし、武田氏の一門に入りましたが武田氏の家来では有りません。
あくまでも、甲斐の皇族賜姓青木氏の一門です。
これが、時光の弟の源光系の武田菱紋、武田割菱紋の青木氏です。
時光系と源光系の間には身分家柄の違いが歴然として起こっています。
この皇族賜姓青木氏の「青木氏氏 研究室」の関連レポートに詳細があります。
「藤原秀郷一門の生き方」や「藤原秀郷主要5氏と家紋の研究」等にも甲斐の皇族賜姓青木氏との関係も詳しく記録しています。
しかし、この武田氏も遠くは藤原秀郷一門の血筋(藤原鎌足より8代目-11代目くらいの北家一門の血筋)も引く名門です。

[皇族賜姓青木氏の経緯と身分家柄]
皇族賜姓青木氏は天智天皇の「大化改新」で天皇を凌ぐ専横を極めた応仁期の渡来系の蘇我(入鹿)氏を中臣鎌足と共に倒して、政権を取り戻しましたが、その時の反省から、天智天皇(中大兄皇子)は”自分の身は身内で守る”ことを決意して、皇位継承の制度を変更しました。
その制度の概要としては、皇子の内、第6位の皇子を臣下させて、賜姓(天皇自ら子供に氏を与える事)して「青木氏」とし、象徴権威紋の「笹竜胆紋」と、天皇家ステイタスとして「仏像(鞍造部止利の作 大日像坐像)」を与え、その神木として青木の木を定めました。(象徴三物)
そして、その官職を天皇を守る「親衛隊」としその官職を...左衛門佐尉、右衛門佐尉とし、又民部佐尉の官職名を名乗らせました。身分は真人族(第4位皇位継承皇子まで)に続く朝臣族(第6位皇子)としたのです。
それの初代が、日本書紀にも出てきます中大兄皇子の施基皇子(最終は「浄大1位」の身分)で、天領地で守護神伊勢神宮の伊勢の守護王と成りました。伊勢青木氏には「永代不入不倫の権」を与えました。

注 左衛門佐尉、右衛門佐尉は宮廷の三門を護る官位で「佐」は上下2段、一階級下の「尉」も上下2段で構成されています。周辺警備隊の「民部」も同様の階級で構成されています。
注 「浄大1位」は身分制度の最高、これ以上は天皇、皇族の皇太子は一段下の浄広1位-2位、皇子は浄広3位です。
注 「永代不入不倫の権」は永代に如何なる理由があろうとこの地と氏には侵入したり攻めたりする行為一切をしては成らないと云う詔です。
信長と秀吉による「天正伊賀の乱」(3度)までこの詔は伊勢では破られる事は有りませんでした。

施基皇子は天皇の補佐役として働いていましたので、朝廷は三宅岩床を国司として派遣しました。
これらの詳細は日本書紀に書かれています。
「日本書紀と青木氏の関係レポート」を詳細参照して下さい。
これが伊勢の皇族賜姓青木氏です。
この制度が、その後、天武、文武、聖武、光仁天皇の第6位皇子が、天領地で防衛主要国の近江、美濃、信濃、甲斐の国の守護王となって赴任し引き継がれて行きました。

「源氏発祥の経緯」
光仁天皇(伊勢施基皇子の長男)の子供の桓武天皇はこのシステムを嫌い自分の母方の渡来系阿多倍一族に賜姓をしました。これが「たいら族」で後に太政大臣に成る平清盛です。
これを嫌った桓武天皇の子供の嵯峨天皇が制度を元に戻しました。
この時、第6位皇子は賜姓「青木氏」ではなく、賜姓「源氏」として賜姓する事にしました。
そして、賜姓青木氏は、皇族の者が下俗する際に使用する氏とする事を「弘仁の詔」を発して決め青木を一般に使用する事を禁じました。明治3年まで原則的に守られました。
当時、女系天皇が3代も続き、男系の皇位継承者が居なくて止む無く第6位皇子の子孫である伊勢王の施基皇子の子供が皇位(光仁天皇)を継いだのです。伊勢青木氏より出た事に成ります。
したがって、賜姓伊勢青木氏と賜姓甲斐青木氏は従兄弟の同族と成ります。
賜姓源氏は11代続きました。この中でも、清和源氏とこの賜姓5家5流との同族血縁をしました。
清和源氏とは義経や頼朝ですが、三男頼信の分家子孫です。
伊勢は長男頼光系との同族血縁、甲斐は頼信系との同族血縁をしました。
当時は純血を守る為に皇族系では同族血縁の習慣が主流であったのです。

「武田氏栄枯盛衰」
武田氏発祥後は「4度の衰退と復興」の歴史を持っている。
1184年、2代目武田忠頼が頼朝に謀殺されて鎌倉幕府の圧力で衰退し盛り返す
1417年、室町幕府により武田信満が天目山木賊村で討死し衰退(家臣裏切り)
1582年、武田勝頼か天目山田野村で討死し衰退(家臣裏切り)
1688年、武田氏柳沢吉保が甲斐三郡の領主に返り咲き成る。
1690年頃、武田信興が吉保の口利きで流罪放免し八代郡500石に戻る。
1709年、武田氏柳沢吉保が奈良郡山の領主に移封と成る。

頼朝に忠頼が謀殺され衰退し、盛り返して今度は信長に潰され、武田氏系青木氏は藤原秀郷一門の勢力圏の横浜、神奈川に藤原秀郷流一門青木氏を頼って逃げ延びました。そこで、再び花菱紋の時光系の皇族青木氏が子孫を広げます。

甲斐青木時光は摂津の地頭として働きました。
その子孫(時光より2代目常光)が、常光寺を当初菩提寺にし、その後に花菱紋を甲斐で維持している氏があるとすると、柳沢氏が甲斐三郡の領主になり、その時に甲斐に戻ったと観られその横浜神奈川域に逃亡した甲斐青木氏本家筋に当ると見られます。しかし、果たして、1575(1582)-1688年113年間も経過して戻られるかの疑問も残ります。私が持つ系譜で見るとこの期間内では本家筋は戻っていない事に成ります。
当然、この後、直ぐに柳沢氏が奈良郡山に移封された時には同行する事に成りますので残るとすると浪人となる以外にありません。この時期、甲斐では天保騒動112年間続いています。
この中で浪人までして生きるか死ぬかの中で個人ではいざ知らず氏家制度の中で武士をして氏の保護のない所では先ず無理と観られます。出来たとして特例で多くの家臣を抱えての本家筋が先ず出来ることでは有りません。

同じ、武田氏系青木氏でもなかなか、この花菱紋と青木氏菩提寺の二つの条件を維持して行くのは長い歴史の中では困難です。多くは、菩提寺や家紋を変更せざるを得ないのです。
しかし、この系譜の末裔が調査の結果、二つの条件を現在維持していると観られるのは、その皇族青木氏と相当に本家筋に近い一族である事です。
簡単なようですが、本家の目的義務を長い期間を維持する事は普通では出来ない大変な努力が必要です。大抵は分家は伝統を無くしその家の宗派や家紋すら忘れ去られているのです。

[青木村の形成]
青木氏は”何処にでもある青木”と思われているところがあります。
ところが、大化の天智天皇より、唯一独自の村を形成したのは先ず青木氏なのです。
と云うよりは「青木村」を形成が認められたのは皇族の賜姓族の青木氏だけなのです。
当時の習慣で、地名から氏名にした氏名が全てでしたが、中大兄皇子が初めて賜姓をしたのが、伊勢王の施基皇子の青木氏で、それを村名にしたのが始まりでした。
その伊勢には、桑名、員弁、四日市、名張、松阪のその「青木村」が有り、現在も存在しています。
これ等”しき”と言う地名では、以下の通りです。
桑名京町、松阪京町、四日市京町、伊勢市一色町、津市一色町、四日市一色町、河芸一色町、久古一色町、施基、磯城、...10程あります。
全て”しき”と読みますがこの名が多いのです。(一色をいっしきと呼称するのは室町末期から)
当時、奈良時代では施基皇子の個人名を特別に地名とする事を朝廷から許されたのです。
ですから、「氏名」を地名にする習慣が無かったのです。
もっと云うと、「氏名」そのものを持つと云う習慣がなかったのです。ですから、”何処の土地の何々者だ”と云うように成っていました。
中大兄皇子が第6位皇子に青木氏を賜姓をし、住んだ伊勢の地名が「特別な氏」であるところから「青木村」と名付ける様になったのです。
「氏名」を地名にするのは「特別な氏」(青木氏)しか習慣として認められていなかったのです。
そして、ですから、その「氏名と地名」の「青木」の使用は嵯峨天皇が「弘仁の詔」を発して一般に使う事を正式に禁止したのです。
ですから、「青木村」は氏名から地名となったもので、賜姓青木氏と皇族青木氏が住んでいた5つの守護国の国府に「青木村」が必ずあるのです。これが歴史的な所以なのです。
明治以降詔が解けて青木村が多く出来たのは「第3氏」「未勘氏」の結果です。
天智天皇は第7位皇子(川島皇子)に特別賜姓しましたが、天皇はこの原則を護り、川島皇子が住んでいた土地の地名を採り近江佐々木氏を賜姓すると云う経緯があるのです。
但し、朝廷は藤原秀郷流青木氏には督励で認めましたので藤原秀郷一門の青木村があるのです。
赴任地24地方には藤原秀郷流青木氏の始祖「千国」等の地名もあるのです。
藤原氏北家でも藤原の地名は少ないのです。あるとしても、明治以降に名付けられたものと観ます。

ですから、甲斐の青木村の二つはその習慣から賜姓青木氏系であり、武田氏としては当初は賜姓青木氏と繋がる割菱紋から出た花菱紋ですので巨摩郡青木村と柳沢郡青木村があり、「第3氏」「未勘氏」の青木氏の村では無い事に成ります。
「地名地形データーベース」を参照して下さい。

[嵯峨詔で認められた氏」
念のために、この習慣を認められた氏が他に2つあります。
一つは、皇族賜姓佐々木氏です。
上記した中大兄皇子の第7番目の皇子(施基皇子の弟)の「川島皇子」です。
特別に第7位皇子にもその功績を認めて近江佐々木村の地名を採って「佐々木氏」を中大兄皇子は賜姓したのです。
地名から氏名を賜姓された最初の賜姓佐々木氏です。
この後、青木氏と共に、佐々木氏も宇多天皇が第6位皇子に佐々木氏を賜姓して滋賀の守護王として賜姓しました。
これが「近江佐々木氏」と「滋賀の佐々木氏」です。
有名な剣豪の佐々木小次郎はこの近江賜姓佐々木氏の末裔です。

もう一つは、鎌足の子孫の藤原氏です。
藤原氏は四家(北家、式家、南家、京家)と言って4つの一族家がありましたが、勢力争いがおこり「北家」が勝ち他は絶滅に近く衰退しました。
この中でも藤原秀郷一門が最大勢力を広げました。この一族には主要5氏(青木、永嶋、長沼、長谷川、進藤)が在りますが、中でも、藤原秀郷流青木氏が最大勢力を持ち、「第2の宗家」と呼ばれていました。
この青木氏は母方で5家5流の皇族賜姓青木氏で繋がっています。
藤原秀郷は朝廷に青木氏を使用する事を願い出ました。許されて958年頃秀郷の第3子の千国が始祖として貴族の身分から臣下して藤原氏を護る護衛隊としての役割を担いました。
そこで、天皇を護る親衛隊の青木氏と血縁と役目で同じであることから朝廷はこれを特別に許したのです。
これが藤原秀郷流青木氏です。116氏に広がっています。
特別の氏名を地名として使用を許されたのはこの2氏です。
ですから各地には青木村が多いのです。
これ等の土地は皇族賜姓青木氏6家6流29氏と藤原秀郷流青木氏116氏に関わった土地柄が殆どです。
地名に付いてのデータは「地名地形データベース」のメニューを参照して下さい。

[青木氏の由来]
そもそもその「青木氏」の氏名の由来は、次ぎのことから来ています。
中大兄皇子が施基皇子に与えた「青木」の理由は、常緑樹「青木」と云う木があります。
この木は奈良期より「榊」と共に「神木」として使われていて、その木の性質から真っ赤な1センチ程度の実を着け、木と葉は共に緑で枯れずに成長が早く枝を真っ直ぐ伸ばす性質がある木です。
その実の赤は血を表し、常緑の緑は体を表すもので、全ての命の根源として扱われていました。
つまり、この第6位皇子は天皇の皇子、「民の象徴」の皇子として、この木の「青木」の名から与えたのものなです。
これ等のことは詳細に、「皇族賜姓青木氏関連のレポート」と家紋の笹竜胆紋のところにも写真つきで記載しています。
甲斐の国府のあったところの県庁所在地ですが、武田氏系青木氏の韮崎の周辺は青木村が有ったところで現在も清哲青木町があります。「地名地形データベース参照」

「藤原秀郷主要5氏と家紋の研究」の青木氏29氏の所のレポート観てください。

[青木氏墓石の慣習]
さて、甲斐の青木氏の花菱紋に関わる出来事があります。墓石のことです。
昔、室町末期、江戸初期、明治初期頃にこの様なステイタスに関わるものが盗まれると云う事件が各地で起きました。
この原因の一つには、明治政府の失策「廃仏毀釈」です。
これにより、「伝統」が壊れる事が起こりましたので、民は反発をして「一族の伝統」を隠す行為をしたのです。また、逆に、その伝統を盗み自らの出自を証明するものとして盗みの行為をしたのです。
(明治政府はこの「伝統」が政策実行に対して邪魔に成った事は否めません。江戸幕府はむしろこの「伝統」を遵守して強化したので300年という封建社会を維持したのです。逆に終末、この「伝統」を重んじ過ぎて大勢を疲弊腐敗させる原因とも成りました。平安時代も同じで鎌倉幕府の樹立につながりました。何時の時代も伝統-腐敗-維新のサイクルが起こります)

そこで、現在の使用されている墓石は、正しくは明治初期から使われている花崗岩、つまり大理石の墓石は江戸時代は使用していませんでした。
実は、昔の墓石は、泥岩や砂岩の石を使っていました。
これは、”魂と体は「自然に帰る」”と云う仏教的教えによるもので、そのために、”川原に帰る”を意味するところから川原にある石を使用したものなのです。
江戸中期以前の当時は、武士以上、庶民の裕福な者、農民の庄屋、名主等の身分のものが砂岩、泥岩等で墓石を作り墓所を設けていたのです。
庶民は、適当な川原の石を選んできて積み上げた川原に簡単な墓を作ったのです。ですから土葬でした。(この作業をする者を昔は「川原者」と呼んだのです。)
今でも”死して路傍の石になる”という言葉を使いますが、この「路傍の石」の言葉の由来はここから来ています。
どんな大名でも当時はこの石を使用していました。ですから、歴史探訪で墓石が大理石では虚偽となります。明治になって墓を綺麗に長持ちさせることを狙いに花崗岩の石にしたのです。
砂岩などは苔がつきやすく風雨で崩れやすいのです。昔は”自然に帰る”としてこれでよかったのです。

韮崎青木の常光寺にある11代の青木氏ばかりの古いお墓はこの石で出来ています。
墓石は塔(五輪の塔)のように積み上げていますか゛、これは50年経ったご先祖にはこの塔にするのです。それまでは、角墓石です。このお寺のお墓はこの泥岩砂岩で出来ています。
一条氏などの公家は真言宗高野山には歴史上有名な人物の墓石が在りますが、全てこの砂岩や泥岩の石で出来ています。ですから苔が生しています。”土に返る”はこの事なのですが、だから泥岩砂岩を使用したのです。
ただ、これ等の青木氏の墓石には、特長があります。
浄土宗の仕来りとして皇族賜姓青木氏、皇族青木氏の宗家、本家、主家の墓には習慣として「女墓」と「男墓」の2つがあります。
まず、「男墓」は全体を祀る墓です。そして、「女墓」は代々の妻及び子孫拡大に寄与した人物の「俗名」と「戒名」を書いた大きな平石の墓石があります。この様に別に更に特別に祀ります。
この様な事から「青木氏」は奈良時代から明治まではその青木氏の家柄から衆知の姓でしたので、それで各地の青木氏の墓が、「第3氏」や「未勘氏」を名乗る人たちや一般の人たちからよく各地で盗まれたのです。
特に女墓は戒名が書いていますので、証拠になるところから良く盗まれたのです。
ですから、「女墓」は廃れてしまったのです。今では多分5家5流の本家だけで女墓の持つ家は無いと思います。
甲斐の花菱紋の一族でもこの事は起こっている筈ですが、多分、逃亡の移動で女墓も無く成っていると思います。まして、甲斐の花菱紋の青木氏では特異に5回も改宗などの事件が起こっているのですから、男墓と女墓も消失しているでしょう。
さらにその上に浄土宗、真言宗、曹洞宗などの宗派争いが発生している事からも当然の事と思います。むしろ、起こらない方が不自然です。史実から観ても、武士が起さなくても寺側が起すことがあります。
この様に青木氏には伝統に支えられた細かい習慣があり、本家筋はこの「伝統」である「習慣」と「遺品」と「記録」を懸命に護っています。勿論、宗派もその一つです。
ですから、「伝統」の差が起こり、「夫々の伝統」を護ろうとして宗派間対立が生まれるのです。

甲斐一揆などは確かに政治に対する不満が大儀明文でしょうが、その殆どは宗派対立です。
その証拠に甲斐で起こった「天保騒動」(1724-1835)云う大変な騒乱が112年も続いて起こったのです。
この宗派争いの中で、花菱紋本家筋かその上の宗家には女墓か或いは子孫を生み遺した女性の戒名と俗名を書いた何物かが仏壇などに遺しているかも知れませんが現在確認されていません。
これはこの宗派対立を巻き込んだ騒乱が原因で現在でも墓、仏像、寺そのものが消失しているのです。

[家柄身分の考察]
その証拠には常光寺の菩提寺には11代の青木氏の墓がありますが、その周囲には個人墓も祭祀されています。
これ等の史実から、根拠の薄い矛盾を伴なう「一条氏」を名乗るほどに、家柄身分を誇張する傾向の強い甲斐の青木氏とも思えますので、特別の家柄として観て比叡山か高野山か清水寺などの浄土宗本山にも本家筋の墓所がある筈です。
これ等の事で筆者の家などにも口伝が多く遺されています。
余談を一つ披露しますと、徳川家康の3男の子供で紀州の徳川頼宣と伊勢で青木氏先祖と対面した時の出来事です。客殿座敷に殿様が座る上段の席が在ります。そこを降りて上席の上座を譲ったと伝えられ、祖父の代までの大正14年まで代々付き合いがあり、紀州徳川氏はこの仕来りを護ったと祖父から聞かされ伝えられています。
昔、歌舞伎でも、”おのれ、このわしが甲斐の山猿めらに上座を譲らねば成らないとは口惜しい”と将軍が怒鳴ると言う場面がありました。この”甲斐の山猿”は甲斐の皇族賜姓青木氏であったのです。
江戸初期のことで、甲斐の青木氏と将軍と対面する場面で、青木氏との仕来りを護らない将軍に対し挨拶もせずその場で立ったままにしているところ、家臣が将軍に仕来りを教える場面でした。
これも史実に基づいた事ですが。
更に、史実として、信長が、甲斐を打ち破った後、甲斐の豪族達と対面する時に、甲斐の青木氏の末裔は下馬せずに白装束の古来の正装で乗馬のままに挨拶をしなかったとして、刀の鞘で徹底的に打ちのめし半死の大怪我をさせると云う有名な事件がありました。
信長はその歴史的なことを知らなかったのです。
この二つの史実は甲斐での出来事です。当時の青木氏の習慣を知る事が出来る事件です。
余談ですが、普通とは少し変わった青木氏だけの古い習慣や口伝があります。都度雑学として知る事も良いのでは。そして、それを子供達に知らしていく事もよく、先祖を敬う口伝としても伝わってゆくのではと思います。

これ等の歴史的な事柄は次ぎのレポートを参照して下さい。
1 「青木氏の綜紋」関係
2 「皇族賜姓青木氏の背景」関係
3 「賜姓青木氏の弱体」関係
4 「青木氏の地名の発祥源」関係
5 「青木姓の発祥源」関係
6 「青木氏と血縁族」(家紋)の菱紋
7 「大化改新」関係
8 「天智、天武天皇の皇子皇女系譜」関係
9 「日本書紀と青木氏」関係
10 「青木氏と官位、官職、職位の研究」
11 「藤原秀郷主要5氏と家紋の研究」の4/10
12 左メニューの「地名/地形データベース」の山梨関係の2つ(地図を左クリック)

先ずはこのレポートとあわせて以上のレポートをお読みください。(左クリックで文章が出ます)
注意点
以上のレポートは無駄と理解の間違いを無くす為に論文方式で記述しています。
なれない文面でしょうから、暫くは難しいかもしれませんが我慢して読んでいきますと慣れます。
(読んでいる間に、ご質問、ご不明点が有りましたら、お尋ねください。)

そこで、”「花菱紋」の青木氏は「未勘清和源氏の武田氏系青木氏 尾張」”と書いていますが、研究では花菱紋が存在することは史実で検証出来ているのです。
今回の研究で系譜や添書や史料などから花菱紋の末裔が現存することが確認出来ました。
現在では、史実が消えてしまい個人情報保護で確認する事は不可能に成り、更に室町末期から以後の史料は「搾取偏纂」が殆どで信用できないのです。
ですから、現実に、”史実に合う確認が取れる”という事はこれは大変な出来事なのです。

[青木姓の由来]
そこで、既にレポートしていますが、改めて「青木の木」に付いて述べます。
余りそこらにある木では有りません。
賜姓青木氏の「象徴3物」というものがあります。
1笹竜胆の綜紋、
2大日像坐像、
3青木の木の神木
以上の一つの「象徴木」を末裔の人に、「先祖を敬う心」を根づかせる為に、何時しか末裔の誰かが知ってもらえるとして、言葉よりも「心の木」を植えたのが天智天皇です。
これ以後、多くの貴族などの氏は独自の木などを定め、それがシンボル化して何時しか家紋と成っていたのです。当然甲斐青木氏の花菱紋青木氏には浄土宗源空寺を開基した際には、そのステイタスとして、護り本尊として「仏像」を保持していた事が覗えますが、明治の廃仏毀釈で由緒在る源空寺は廃寺となりました。
恐らくは、明治期には真言宗常光寺から曹洞宗常光寺とめまぐるしく中興開基したことから、浄土宗源空寺の歴史的存在の理由を消却されて末寺として処理されてしまったのではと考えます。
浄土宗源空寺は曹洞宗常光寺以上に歴史的価値の在る皇族青木氏の菩提寺浄土寺です。
現在、その寺社跡があり、僅かに石燈や釣鐘や墓石などが遺されています。
又、天正2年ころから明治までその寺を皇族青木氏花菱紋の浄土宗菩提寺として護ってきた武田氏滅亡後、仕官先からの花菱紋一族と近隣の檀家が、その1500年以降の過去帳などが保存されています。
源空寺は武田氏滅亡で菩提寺を氏で護れなくなり広く浄土宗信徒(江戸の浄土宗督奨令で中級武士が入信)に門戸を開きました。これが近隣の檀家と成ります。多くは1688年頃の柳沢吉保の甲斐三郡の領主と成った時の家臣団の檀家と観られます。
その過去帳の戒名からもその末裔で在る事の証しを確認する事が出来ます。(戒名の証しは下記)
源空寺にはこれ等の檀家の過去帳等は廃寺の際には事務手続き上しかるべきところに保存されていると観られます。1575年から青木氏だけの氏寺ではなくなりましたので檀家総代は保存の義務を負っていると考えられます。

[戒名の意味]
この花菱紋の青木氏には、源空寺に開山当時からの何処にか「過去帳」が遺されていて「系譜と添書」と「史料」が出来上がっています。寛政の史書(1800)にもあるくらいですので、廃寺に成る明治まで後68年と成ります。そして、その史書の有無からそれが関東にある事を意味しています。
且つ、その系譜等の伝統を護ってきた本家末裔も関東である事に成ります。
花菱紋本家の青木信政が系譜編集に関わった事が添書から判明しています事からの裏付けられます。
この菩提寺過去帳の存在とその戒名の内容からその花菱紋青木氏の証しと成ります。

そこで戒名に付いて基礎知識として記述します。
戒名はその「家柄と身分と生様」を物語る物です。
現在はやや多く成りましたが、戒名の形の「院殿居士」をお持ちの氏は少ないと思います。
平安期からの戒名「院殿居士」は相当の家柄身分で無いと付けていません。
一つのステイタスなのです。
その「院殿居士」に付いて説明します。
一つはその人が「現世で行った功徳」を表現します。これが「院」で、より詳しくすると「殿」でも表現します。
次にその人の「人徳」または「人格」(性格)を表現します。法名などがこれに当ります。
漢文に成っています。
3つ目はその人の現世での俗名の二文字を戒名のどこかに組み込みます。
昔の戒名にはこの3つの意味合いが含まれているのです。特に浄土宗には。
この様に戒名を観ると、その人の現世での生きた大まかな生き方がわかるようにしていたのです。
明治以降はそのことが変化して無関係により聞こえよくする傾向が強く成りました。
寺と依頼する側の意向が働いているのです。

では、このような戒名を「院殿居士」(いんでんこじ)と云います。
先ず、観られない戒名です。現在に於いても。
昔、皇族系の者で花菱紋の様な皇族青木氏と菱紋や割菱紋の賜姓青木氏、賜姓源氏等の朝臣族と真人族や宿禰族等の者が皇位継承から外れた場合(第7位皇子第6世皇子)は門跡院を造って僧に成り入るか、比叡山の僧になって入るかの選択をします。皇女の場合は、「斎王」と云って伊勢神宮や天皇系の神社の「斎王」と成って入ります。そこで一生を終えます。
又、天皇を経験した人なども門跡院の仏門に入り天皇家とその一族の御魂を弔います。
この時に、「...院」としてその人を呼ぶ事に成りました。
つまり、俗世から離れた時(剃髪して仏門に入ったとき)に付ける「院殿」てす。
この慣習が特別な宗教(浄土宗、天台宗)で皇族、貴族、公家が入信する宗派で用いられる様に成りました。
この習慣が鎌倉期以降は少し上級武士にも用いられる事に成りました。
室町期ではたくさんの宗派が出来ましたので、寺の経済的な運営のことから、他の宗派でも用いるように成ったのです。
明治初期の頃までは中級武士でも用いられる様に成りました。
明治になっても、相当な資産家などが高額金品を寺側に渡して付けてもらう事になってしまったのです。
次に、「殿」も同じ経緯を辿りましたが、「法名」(仏法に基づく名)がつけられます。
昔は、同じ様に皇族系や貴族、公家、上級武士でなくては「法名」も持ちません。
これらの身分の者以外は戒名すらありませんし、墓もありません。川原に埋めるのが普通です。
「法名」がある事に成ると彼世の住まいとして「殿」が必要です。
つまり、彼世での法名、彼世での住まいの「殿」が必要と成りますので、「殿」が付けられるのです。
「住」では無くて立派な「殿」です。それが、今は現世でもその習慣が「...様」の「...殿」(どの)に成って使われているのです。
例えば、奈良に在る平等院の中にはたくさんの「...殿」が在るように「院」と「殿」を一つにして使う場合が多いのですが、「...院..殿」とする場合もあります。
次も、「居士」も同じですが、その「仏法」の位が高いことを示す階級です。
「居士」を付けない場合は「信女」とか「信士」とかを付けるか、全くな無しで、「俗名」を後ろにつけるのが普通です。現在もこの「居士」は特別な者しか用いません。
以上3つのその身分を示す表す方法として用いられたのです。
この3つを付けてくれと寺側に頼んでも昔はその身分に無い者には付けてもらえません。
誰でもつけるとその値打ちが無くなり寺側としての権威と経済的な裏づけはなくなりますので絶対に受け付けませんでした。
特に、浄土宗では厳格に護られました。江戸時代初期まで。ところが、檀家が少なくなって浄土宗は運営が出来なくなったのです。困った徳川幕府は「督奨令」を出して、武士以上の者に進めたのです。
浄土宗はこれ等の身分(皇族、貴族、公家)に支えられて権威と経済力で特定宗派として維持できていたのです。入信したくても出来ない宗派でした。江戸初期までは。然し、それでも駄目でしたが明治の苗字令で政府の援助もあり。廃仏毀釈の目的でもあり、増えたのです。
今でも多くはありません。
源空寺が廃寺の一つの原因です。
源空寺を支える人達の財力が低下した事にもよります。
だから、明治の廃仏毀釈で殆どの人は甲斐では元々常光寺「曹洞宗」と云う事もあり宗派変えの事も考えられます。

この「院殿居士」の意味は戒名の意味だけでは無く、改宗の原因でもあるのです。
現在でも、この「院殿居士」を付けてもらえるには、大変なお礼金額を出さないと付けてもらえません。多分、1割も無いでしょう。ですから、これだけでも、直ぐに判るのです。

花菱紋青木氏のことはこの「院殿居士」と曹洞宗「改宗」が繋がっているのです。
第3氏や未勘氏がどんなに繕っても絶対にごまかせないのです。歴史の慣習を知っていると。
甲斐全体でも現在でも4寺しか有りません。大変少ない県です(宗派別データを後述)
この4寺中での「院殿居士」ですから大変です。
花菱紋の過去帳(系譜編集)の存在があり、尚且つ「院殿居士」だけでもこの慣習が働いていた時代(明治以前)として確実な証明に成ります。
この様に「源空寺」は歴史の知る者にとっては大変な価値を持っているのです。

そこで話を戻します。
甲斐青木氏の存在の当時の立場がどの程度のものかを知ってもらうために余談を致しましたが、さて、甲斐の源時光(一条系と呼称している)の常光寺の青木氏菩提寺が在りますが、その藤原摂関家四家一条氏系を名乗る初代信義より2代目次男の源忠頼なる人物がありすが、この忠頼(一条忠頼を名乗る)にはある事件が起こります。
これは武田氏がどれほどの立場を占めていたかを物語る事件なのです。
武田氏系青木氏に関わる事件です。
武田源氏の初代信義の次男(嫡子)忠頼の居住した所は大きく変貌する青木氏の菩提寺と関係を持ちます。
大きい事として有名な事件ですか忠頼が頼朝に謀殺された真相です。
(吾妻鏡、源平盛衰記に小説的に記載)
平安中期960年頃に陸奥より藤原秀郷一門との血縁をした小田氏が秀郷一門の赴任地替えで甲斐に藤原秀郷流青木氏と共に護衛団として同行しました。
この事は前で記述しましたが、その後、勢力を増して清和源氏の満仲三男の分家頼信系で、頼信より4代目義清が、甲斐の武田で豪族となった小田氏系武田氏と血縁し土地の地名から清和源氏系武田氏(小田氏)が発祥します。これよりは正式には初代が孫の武田信義と成ります。
その経緯は、源満仲の嫡子の本家頼光が青木氏の守護の国司職として甲斐に赴任します。
しかし、摂津源氏の頼光は弟三男頼信(河内源氏)を出世させるために、この国司役を頼光の上司の摂関家の藤原氏の許可を貰って(朝廷の許可)頼信に譲ります。
そこを足場にして分家の頼信は関東に勢力を伸ばし、第2の拠点を兄頼光本家筋の領地伊豆に賜姓伊勢青木氏の護衛の下で勢力を得て築きます。これが、河内清和源氏の頼信系の勢力拡大に繋がります。
当然、これが土地の豪族となっていた小田氏(地名より武田氏を名乗る)と有名な暴れ者の義清の血縁と成ります。
これが甲斐の源氏としての流を作ります。これが謀殺の大きな原因に成ります。
その義清の孫の信義の子次男忠頼はその居城を国府(八代郡)に起きます。
そして、明楽寺を開基します。
その居住地は大井荘南条に起きます。現在の宝林寺と云われています。
そこに政治の場として甲府城を築きます。
しかし、頼朝の鎌倉幕府樹立するまでにこの武田氏は勢力を最大に伸ばしていましたが、忠頼は同じ清和源氏(頼信系)の分家本流(本家は頼光系)頼朝に謀殺されます。

この謀殺の経緯は、次ぎの通りです。
頼朝は北条氏の援護の下に鎌倉政治を行いました。
しかし、その実態は大変複雑でした。
頼朝は幕府樹立後には、身内の源氏一族が極めて衰退していました。
つまり、これでは孤立無援の将軍であり、自分の身内の援護がありませんので、樹立後、直ぐに北条氏らの反対を強引に押し切って、衰退してしまっている自分の血縁関係にある源氏一族と、母方であり跡目を入れている北家藤原氏(朝廷が衰退して失職離散)の復興を狙って「本領安堵策」(土地を旧来の持ち主に戻す策)を強引に2度行い自分の背景勢力を戻して築こうとしました。
更に駄目押しとして「平家没官僚策」(平家の土地を含む財産を分ける策)も実行しました。
しかし、このことが切っ掛けで、北条氏の基盤の「坂東八平氏」は猛反発します。
「坂東八平氏」は頼朝も含めてこれ等の2つの勢力の一掃にかかりました。
幕府の実権の確保と、頼信の関東制覇と藤原秀郷一門の勢力拡大で坂東八平氏は取られた土地を取り戻す為に動きました。
更には、他の源氏を担ぎ出して、別の幕府を作り、鎌倉幕府に対抗して来る可能性が朝廷にありました。頼朝弟の義経もその自前の軍1万2千を持ち平家を一人で潰してしま程に勢力を持っていました。「坂東八平氏」の敵対したい人物その1人ですが、他にもう2人居ました。
それが甲斐の一条系源忠頼です。

もう一人は、大島源氏です。
義経に壇ノ浦で負けた平家水軍が最終決戦として再結成して鎌倉幕府の弱点(坂東八平氏は水軍を持っていないし、兵は全て各地に出払っている)の三浦湾を襲い逆転を狙いました。
水軍の持たない裸同然の鎌倉に平家水軍が上陸する寸前に、この作戦を知った大島群島の為朝配流孫の落種の大島源氏が大島水軍を黒潮を3日で渡り三浦湾に到着し平家水軍と激戦しこれを打ち破りました。
平家の知らない隠し源氏の大島源氏です。最大の勲功を挙げました。清和源氏頼信系(源の為朝の子)です。彼は義経と同じ考え(幕府は源氏一族で)を持っていました。
北条氏を始めとする「坂東八平氏」はこの「大島氏」と「義経」も「忠頼」と同じく宿舎で謀殺にかかりました。何れも難を察知して逃げ延びます。
大島氏は戦えば義経軍(駿河水軍と伊勢水軍と熊野水軍と紀伊水軍)共に背後から平泉藤原氏軍で挟めば必ず勝つ事は出来るのですが戦わず水軍を大島に引き上げます。
この3人を潰せば「坂東八平氏」は朝廷の封じ込め(別に朝廷側の源氏幕府を開く動き)が出来て安泰です。結局、大島氏を残して2人を潰しました。
そして、各地の源氏一族(義経の件も含む)も、各地(24)の土地の豪族と成っていた藤原秀郷一門(平泉藤原氏の秀郷一門)を尽く潰しにかかったのです。
戦略的には、義経が、その時意見を頼朝が聞き入れることをしなかった場合は、一度京に戻り、関西と中部の源氏と中部以西の幕府樹立で失職離散した藤原一門を味方に引き入れて、関東の藤原氏と坂東八平氏を敵に廻しても勝てることは充分でした。
忠頼は元より武田氏系青木氏を含む関西系青木氏一門と、残存する清和源氏や村上源氏などが味方する軍力と、関西に集中する青木氏や藤原氏の軍と経済力でははるかに義経側が上でした。
史実、紀州源氏の叔父である新宮太郎は繋ぎ役としてこれを必至に説きましたがこれも謀殺により潰されてしまいます。
坂東八平氏は藤原一門に周囲を囲まれていて旧来より抑えられています。更には「平泉の軍と金の経済力」が在れば「袋のネズミ」だったのです。そうする事で源氏一族は子孫を遺す事が出来た筈です。海陸共に抑えられていたのですから、坂東八平氏は窮地にあった筈で戦うと負けるので、3人と頼朝一族を会議の場で緊急で謀殺としたのです。
しかし、義経の性格がこの機会を逃したのです。逃げるという手段に出た事によります。

この北条氏の母体「坂東八平氏」は、元はと云えば、天智天皇の「大化改新」で、皇族第7世以降は「平民」にして皇族から外し、侍として坂東の固めに配置しました元皇族系の一族です。
そして、第四世までを皇族として「守護王」の身分として「大化改新」の経済的負担もあり急いで第一の改革しました。
この時に、皇子も今までは第6世までの皇子を、第4世までの皇子でその第4番目(第4位)までを皇位継承権を与え身分を「真人族」としてました。
そして、第4世までの第6番目の皇子は臣下して侍とし、賜姓して天皇を護る親衛隊しました。
これが初代施基皇子の伊勢王の皇族賜姓青木氏です。この一族の身分を「朝臣族」としました。
(皇子数のにより第5世はこの中間としました。)
この時、当然、第6世以降は天皇が代わる度に第7世になって行きます。
これが「坂東八平氏」なのです。この一族を「ひら族」と呼ばれました。
ここで、大きな違いが起こったのです。
第4世の皇族賜姓青木氏の侍の親衛隊で守護王、一方、第7世の「ひら族」の坂東守備隊、
元は同じ皇族王であった者が、大きく変化したのです。

そこえ、この不満の「坂東八平氏」に追い討ちが起こりました。
藤原秀郷がこの坂東の地域の領主として入り込んできました。
当然、摂関家を背景とした北家藤原氏に圧迫を受けます。土地は尽く奪われます。
第7世の「坂東八平氏」は完全に衰退します。
この状況で皇族賜姓5家5流の青木氏はその親衛隊として、皇族朝臣族として、その政治と武力で最大に発言力を持ちます。
合わせて、鎌足よりの摂関家の藤原氏との血縁関係で藤原氏も勢力を持ちます。
「賜姓青木氏」、「北家藤原氏」、「坂東八平氏」の3つ巴の関係が出来上がります。何れも血縁関係はあります。そして先ず「坂東八平氏」が勢力を失います。

ところが、この勢力関係を好まない天皇が出ました。桓武天皇です。
日本の律令国家体制を完成させた天皇です。天智天皇から仕来りとして詔に従い、第6位皇子を青木氏を賜姓して臣下させる事を嫌いました。
そこで、伊勢青木氏の施基皇子の子供の光仁天皇、その子供の桓武天皇は、自分の母方の渡来人の後漢の阿多倍王の孫娘の「高野新笠」を母に持ちます。この母方を引き上げます。
阿多倍王一族は全国66国中32国を征圧します。そして、伊勢の北部伊賀地方を青木氏から割譲します、また、朝廷は薩摩国の大隈も半国割譲して与えました。
そして、賜姓をするに必要となる皇族者の根拠を坂東の第7世族(ひら族)に求めます。
この一族であるかのようにして、名を「ひら族」に対して「たいら族」としました。
これが、桓武平氏(京平氏 伊勢平氏とも呼ばれる)です。
そして、この勢力は大化期より敏達天皇の孫の芽淳王の娘を娶り子を成し准大臣に成ります。
そして、三人の子供の長男は征夷代将軍になり、坂上氏の賜姓を受け、次男は朝廷の財務担当で賜姓大蔵氏、三男は天皇家の財務担当で内蔵氏となり、朝廷の官僚の6割はこの一族末孫と連れてきた渡来系政治部の者達で占めれたのです。
このすざましい勢いで拡大し、遂には。国香、貞盛より5代で太政大臣「平清盛」に上り詰めます。約200年で朝廷の3政治機構の内2つを握り3政権(政治軍事経済)を末端の官僚の事務員まで一族で固めてしまいます。ただ一つ斎蔵は藤原氏が、天皇の親衛隊は賜姓青木氏だけと成りました。
その最後が清盛の”平家にあらずんば人にあらず”の時代でした。

上記の3つ巴にもう一つ加わったのですが、この桓武天皇のやり方を嫌った子供の嵯峨天皇は青木氏の賜姓に戻そうとしましたが、抵抗が生まれて賜姓源氏として第6位皇子が臣下させました。
これが11代続いた源氏で終局3つの源氏(清和源氏、村上源氏、嵯峨源氏)だけが生き残りました。中でも、清和源氏が北家藤原氏と組んだ為に最大勢力を持ちました。

第7世族の「坂東八平氏」は、頼朝を前面に推しながらも、この清和源氏の北家摂関家の藤原氏の一条家の血筋を持つ甲斐の武田氏を、他のところは潰したので、清和源氏の血筋を持つ武田忠頼(信義の子供)を潰しにかかったのです。
頼朝は、幕府3年後(1195)にトリカブトを食わされて毒殺され、2人の子孫も有名な事件として鎌倉八幡宮と伊豆修繕寺で暗殺されてしまいます。
藤原秀郷一門、義経、各地の清和源氏を根絶やし(1184-1185)にします。
ここで、三つ巴の一つ皇族賜姓青木氏5家5流一門24氏(皇族系宿禰族青木氏は除く)を抹殺する事は天皇家に逆らう事を意味するところから世の反発を受けて好ましくないとして生残るのです。

この様な背景から、藤原北家一条氏の血筋を引く小田氏の血筋を持つ支流の甲斐の源氏 源忠頼は謀殺(1184)されたのです。
この時、弟の時宗は居城であった甲府城を、忠頼の妻子の尼寺として一蓮寺とします。
その後、甲斐の武田氏は勢力を盛り返し信義から5代目の甲斐の国守武田時信(一条系源時信)は子供の時光と源光に甲斐の皇族賜姓青木氏と更に重複跡目血縁して北条氏からの追求を逃れる為に(子孫を遺す為に)引き継がせます。
既に、武田菱紋と割菱紋の青木氏との血縁は出来ています。

本来、源の源光が青木別当蔵人で青木氏の祖です。官職もその通りです。
これが甲斐の皇族賜姓青木氏の跡目には入ってこの武田氏2氏との血縁関係は出来ました。
その兄弟の源の時光と更にこの武田氏(小田氏)との血縁で生まれたのが、もう一つ武田氏の花菱紋でこちらもこの青木氏を名乗ったのが時光だとされていてこれが有力説です。
1180年代の源の頼政を首謀とする「以仁王の乱」の「源平の争い」が始まる前後と見られます。

因みに、伊勢青木氏にも同じ事が起こりました。この時、頼光の4代目頼政(仲綱の子)の孫の三男京綱が跡目に入っています。
(ほぼ同時期に近江、美濃、信濃の賜姓青木氏にも同じ事が起こりました。)
乱の敗戦後、嫡男次男は日向に配流されます。
(配流先での末裔は日向青木氏です。)

つまり、時代的に考察すると、1180年の5-6年前後に武田氏の忠頼から始まった初期の存亡の時に危険として皇族甲斐の賜姓青木氏に6代目に跡目(源光2、時光1)を入れている事に成ります。
(同時期に各地でも朝臣族血筋を持つ者は青木氏を名乗り難を逃れている)
この時信の子供の時光が(これ等のことを明らかにするために)青木氏菩提寺の常光寺に初代の時光系の源氏武田系青木氏としての11代の墓石を列ねる事にしたのではないかと観られています。
この寺の周囲には全体に他の多くの賜姓青木氏と観られる小さい墓石があります。
この寺は、本来、甲斐青木氏(源光系)の菩提寺でもあったのでは無いかと推測されます。
そこに、流を異なる兄の時光系武田氏系青木氏により2代目の常光の時に変名しています。
名を執り常光寺としました。元の名は不明でする
源光の武田氏系青木氏(武田菱紋と武田割り菱紋)の墓所が明確ではないのはこの原因ではとも思います。しかし、この研究で光福寺と尊たい寺が有力と成りました。
この時、兄の時光派(一条氏を名乗る)弟の源光派(一条氏を名乗っていない)の間で常光寺(前名は不明)の処遇で争いがあったと推測が出来ます。
(時光の墓は摂津の地頭であった事から、摂津浄土宗善法寺にあるとする説もあります)

[一条氏を名乗る疑問]
甲斐の一条氏は山梨郡一条郷として名乗る事と成ります。
この一条郷には室町末期に一条氏が住んだとされる由来からです。
そこで、甲斐清和源氏系の武田信義の次男忠頼がこの一条氏を名乗ったとさされるものです。
信義の長男武田信光は武田氏を、次男は忠頼は母方の一条氏を名乗ったと成ります。
京の公家藤原北家摂関家四家の一つ一条氏が甲斐のこの地に逃げ延びたという史実の確証は取れません。各地でこの時期一条氏が逃げ込んで子孫を発祥させたとする説は大変多いのですが、甲斐も一条郷とするだけにその一つと見られています。未勘一条氏と観られます。
しかし、忠頼は兎も角も、6代目以降の時光等が一条氏を名乗る根拠が系譜史実から薄いのです。

先ず、兄弟で一条氏を名乗る者と名乗らないものが出た事に疑問です。

「時光7人兄弟」
信一、義行、貞連、宗景、貞家、時光、源光、信源
以上の内では誰も名乗っていないのです。

その前には名乗っている人物を確認すると次ぎの人物と成ります。
時信の弟宗信(時光の叔父)
時信の叔父宗長
時信の祖父信長
以上の3人です。
この3人の内、武田氏に関わった人物は祖父信長だけです。
信長は武田六郎です。
信長は信光の4人の子で実質4男です。
信長は忠頼の甥に当ります。
時光は信長の曾孫に当ります。
時光その者は十郎です。

つまり、系譜から観ると、時光が一条氏を名乗るとすると、自分と父からの筋では無く、祖祖父の親(信光)の兄弟(異母弟忠頼)の母方家筋を名乗った事に成ります。つまり、祖祖母です。
そして、この一条氏を叔父の宗長一族が正式に引き継いでいるのです。
この様な事は現実にはありません。
お爺さんの親の異母弟の母方の実家を名乗った事に成ります。

この様に、一条氏の名乗りそのものが問題ですが、多分、この兄弟の矛盾は当時はなかったものと推測され、ある時期から家柄を誇張する為に採った手段であろうと見られます。
もしこの様なことを行えば本人は世間の笑いものに成るでしょう。それも”笑いもの”の反対の”よく見せようとする目的”で名乗るのです。あり得ません。
賜姓源氏で最も栄えた清和源氏の血筋を引いているのに、敢えて無理に一条氏を名乗る事は賜姓源氏の名をわざわざ否定する事に成ります。
賜姓源氏は皇族系の朝臣族、一条氏の公家は藤原氏で身分と家柄は2段下と成ります。
何も低い方を名乗ることは、「氏家制度」の家柄身分を誇示する社会の中であり得ません。
そうすると、賜姓源氏以上に更に上乗せて家柄身分を誇張しなくてはならない現実があったことに成ります。
その「誇張した人物」と、その「誇張の背景」があって強引にこの叔父と祖父の系列の筋違いの一条氏を名乗る必要があり、平気で名乗れる環境があった時期と成ります。
それをこの武田氏系一族の中からこの二つの環境条件を引き出せればその証明の一つと出来ます。
まず、その時光等が叔父の家の一条氏を名乗るには嘘を世間が認めないでしょう。逆効果も甚だしいものと成ります。
一条忠頼が、一条氏がこの地に来たとする証拠の有無は兎も角としても、発祥元としている事は先ずはあり得ることですが、また、各地に多く逃げ込むほどに、それ程一条氏はその時に子孫が多かったのかの疑問もあります。
更に云えばばらばらにして何故逃げ込んだとする疑問もありますし、山口や四国の様にそ一条氏の人物が明確であればよいのですが、甲斐の場合は風説です。

頼朝に謀殺された忠頼の筋ではなくて甥(信光の子供)の信長の姓であるのです。
これも疑問ですので、ですからその時代に生きている人間には一条氏を語ることは先ずあり得ません。
時光から墓を源氏として11代列ねたとすると、この間その必要性がなかった事にも成ります。
ただ、常光が真言宗に改宗する根拠は「一条氏」が一つ根拠として必要です。
しかし、有力ですが、真言宗に改宗したのがこの「一条氏」を理由としたのではない事も考えられます。時光が一条氏の筋では明らかに無いからです。
謀殺された忠頼の子孫では納得できますが、常光が理由にするには根拠が低いと考えます。
つまり、真言宗改宗は、信定の曹洞宗改宗と同じ事件が、時光から2代目の常光の時にも起こったのではないでしょうか。「第1の呼称説」の2つの原因説です。

仮に、この前提で考察すると、次ぎの様に成ります。
「第2の呼称説」
その人物は、つまり誇張するに必要として世に出た人物は柳沢氏であり、柳沢一族が出世した人物と時は「柳沢吉保」であり1680年頃と成ります。
その柳沢氏は次ぎの系譜と成ります。

「青木氏系譜」
12代信生-信定-正定-豊勝-豊信-(嗣なし家絶える 分家跡を継ぐ)..青木氏系譜 花菱紋

「柳沢氏系譜」
12代信生-信定-豊定-信立-信俊-安忠-吉保-吉里 柳沢氏系譜 花菱紋
吉保は1688年です。

豊定は武田氏が天正3年に滅びその後直ぐに家康に仕えます。 家禄は吉保までは250石程度の下級武士でした。大番などの役目であったと記されています。
吉保の出世で甲斐国15万石 柳沢郡、八代郡、甲府郡の三郡を知領しましたが、吉保失脚後、吉里は奈良郡山に同等の石高で移封と成りました。
もともと250石程度では誇張する必要は無く、甲斐の地元の三郡を治めた時期が最もこれを誇張するに必要とします。
丁度、柳沢氏発祥から100年経過した頃です。3代前と成ります。
時光より18代後です。この頃に矛盾の多い本筋ではない一条氏を無理に持ってきたのではないでしょうか。後付の家柄誇張と謂う説です。
源氏では、甲斐源氏とは云え本流ではなく下の家柄の支流の跡目筋ですのでその迫力は当時ではなかったのではと推測します。
多分、甲斐源氏もさほどこの当時は甲斐では意識が無く、むしろ土着の小山氏筋の方に意識が強かったのでは無いでしょうか。跡目が入ったとしても意識の変化はタイムラグを起すのが世の常です。
それだけに甲斐源氏とも矛盾の誇張をしたでは無いかと考察されます。(甲斐の人には悪いですが誇張癖が強い民)
本流は兎も角も支流の源氏の家紋も違い、陸奥花房氏の足利氏と同じく、元は陸奥小田氏の武田氏であるのですから。どの確実な学術史料にもこの一条氏は出て来ません。あくまでも源氏の跡目一族です。
インターネットなどの史料はこの搾取偏纂を元にしてのものですので確実性は疑問です。
この辺の史実の検証が出来ていなくて常にこの時代の資料には鵜呑みには注意が必要なのです。
 
話を戻します。
氏家制度の社会の中で家柄身分の低い時光系にとってコンプレックスを抱き、その結果「氏争い」や「宗派争い」が起こった。時光の「甲斐全部の青木氏」(3氏6家)の菩提寺としての目的を排除して「皇族青木氏」だけのものとする事に賭けた。そして、宗派争いでは時光側が勝った(正しくは常光が勝った)。そして、建立完成前後に時光が死去し、その後、素早く殊更に1条氏を誇張し「真言宗改宗」と、他の青木氏のプライドを傷つける「寺名」(自名)の変更をするために「中興開山」せざるを得なくなった事に成ります。(一条氏の疑問、中興開山の疑問)
そして、常光は妥協条件として源光側に対して花菱紋の時光系の墓を墓全体とするのでは無く一箇所に墓所を固めて列ねる事と云う事にしたと観られます。(1列の疑問)

源氏の名乗りにしても、青木氏の名乗りにしても、家柄象徴の家紋にしても、一条氏の名乗りの理由にしても、宗派の違いにしても、武田氏の中でも菱紋では無く割菱紋で更にその分家の分流と成ると、少なくとも、賜姓青木氏と賜姓源氏は皇族同族である事とはせよ、皇族賜姓青木氏5家5流と区別した武田氏系青木氏(3氏家6家あり)その内の(割菱紋-花菱紋)の1氏を故意に喧伝する行為に出た事に成ります。
皇族賜姓青木氏、皇族賜姓源氏と区別する為に、下の身分家柄の武田氏の跡目系武田氏であるところから、低い武田氏ではなく、時光の代からはより高い身分家柄の嵯峨期の詔に基づく朝臣族の皇族青木氏を名乗ったと見られます。(青木氏の疑問)それを2代目常光は更に菩提寺を分離させる喧伝行為に出たと考えられます。
(職位官職など一切の諸事はこの強い氏家制度の身分家柄社会の中では必然の行為です。)
武田氏、一条氏は皇族系でも無く、又朝臣族でも無い身分家柄で無いのに一条氏を名乗ることはあり得ないのです。皇族青木氏に名乗り替えをしているのに、わざわざ下の氏を重複して名乗る必要性はありません。
参考に、同じ甲斐の武田氏系諏訪族青木氏は、信濃諏訪族と皇族賜姓青木氏と血縁した諏訪族青木氏が武田氏と更に血縁した一族で常光寺隣りにはその守護神の諏訪神社もありますが、秀郷流青木氏と他の4氏、それと隣りの信濃足利系青木氏はこの様な態度は採っていないのです。

では、皇族賜姓青木氏、皇族賜姓源氏と皇族青木氏、一条氏の身分家柄の違いはどの程度かを示しますと、
更に、武田氏と因縁を持った信濃諏訪族青木氏は源氏、武田氏、小田氏、藤原秀郷氏の血筋が入っていない日本書紀にも出て来るほどの純粋な賜姓青木氏です。
天皇と謁見できる身分では無かったのですが、信濃王青木氏の後見として特別に許したのです。
そして、年貢の納件に対する具申まですると云う態度を採ったとして天皇はその力量を褒めたのです。これ程に賜姓青木氏とその血縁族の身分家柄のレベルは当時としては破格の立場であったのです。
天皇に謁見拝聴できる身分は従三位の身分である必要があります。京一条氏を初めとして摂関家四家の公家でもこの立場にあるものは数人程度です。
5家5流の賜姓族青木氏は朝臣族で浄広1位-3位で従三位です。因みに、藤原氏秀郷一門は従4-5位下です。皇族青木氏は朝臣族だけですので謁見等は有りません。まして跡目支流の分家筋清和源氏では他の源氏とは格段の身分家柄の差があった事に成ります。
その中の不詳甲斐一条氏です。
(諏訪族は日本書紀にも出て来る渡来人後漢阿多倍王の末裔支流子孫集団(馬部)です。)

次に続きます。
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