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藤原秀郷主要5氏と家紋の研究-史料 8/10-1(時代の変化に対する対応)

Re: 藤原秀郷主要5氏と家紋の研究-史料 8/10-1(時代の変化に対する対応)
投稿者:福管理人 投稿日:2009/01/23(Fri) 20:11:09



史料8/10-1

この史料は主要5氏の”時代に対してどの様に血縁状況を適応させていたのか”を統計的に家紋を分析して、その姿を今に再現しようとするものである。
そこで、その内容を次ぎの2つに絞った。

(これ等は青木氏と4氏と関係の「本文の考察」の基史料と成る。)


この史料1(時代の変化に対しての推移)と、史料2(時代の変化に対して5氏の繋がり具合)に付いて、「時代性」から観た青木氏と他の4氏との「共通血縁性」を統計分類したデータである。

(作成要領と注意は史料7/10と同じ)
(史料1-5/10を基本に統計分類しデータ収集 参照)

平安(H)、鎌倉(K)、室町(M)、桃山(A)、江戸(E)の夫々の時代で、秀郷一門の「共通血縁族」(2氏から5氏)がどの様に、且つ、どの程度出来上がって行ったかを考察する。

このデータは他に「一門の有様」の「色々な状況」を発見するのに使う事が出来る。
今回は特に上記の2つの内容に絞ることで、秀郷一門の出来上がり具合(氏力の推移)を浮き出させる事にする。

先ず、史料1(時代の変化に対しての推移)から考察する。

「共通血縁族」
史料1-1

3氏合計の場合       4氏合計の場合         5氏合計の場合
H:09  11%      H:13  11%        H:20  06%
K:03  04%      K:04  04%        K:24  07%
M:35  41%      M:45  38%        M:126  39%
A:20  24%      A:27  23%        A:82  25%
E:18  21%      E:28  24%        E:75  23%

2氏合計の場合       全体の平均
H:03  08%      H:36  09%
K:07  18%      K:33  08% 
M:13  33%      M:151  38%  
A:09  23%      A:95  24% 
E:08  20%      E:88  22%

(時代の家紋数/全家紋数)=X%
(但し、例えば3氏(4、5)とは青木氏と他主要4氏の何れか2氏(3、4)との合計を意味する。)


史料の考察
史料1に付いて。
平安期に於いて
主要5氏の「共通血縁族」は「5氏の場合」のレベル(6%)は意外に低い。
これは平安期の「氏数」(40)が大きく育っていない為に少ない事が先ず云える。
尚且つ、その中で「血縁相手」が幾ら各地での「血縁戦略」とは云え、土地の土豪程度であった。
従って、「氏家制度」から藤原秀郷流主要5氏と他氏との「血縁の吊りあい」の取れる相手が少なかった事が云える。この2つ等が主な理由として挙げられる。
特に、5氏の中で、青木氏だけは「第2の宗家」としての立場から難しかったのではないかと考えられる。その為に数字を下げていると観られる。
更に、平安期での後発族の2氏(永嶋氏、長谷川氏)の血縁力はまだ拡げるに必要とする「氏力」が低かった事も誘引しているだろう。
しかし、「3氏、4氏の場合」共に「共通血縁族」の数字は11%と一割を占めている処から観るとこの時代としては5氏の6%は妥当なレベルと考えられる。
これは、上記の4つの理由からすると6%が妥当であるとするならば、赴任地24地方の相当な豪族との血縁を青木氏は進めていた事にも成る。
それは他の4氏と異なり「移動性」が高かった事によるだろう。特に、「全体の平均」(詳細事例確認:9%)(11%と6%)から観て上記4つの原因と合わせて、次ぎの事柄で「5氏共通性」が低い数字(伸悩み原因)と成ったと考えられる。

伸悩み原因
1 青木氏の「第2の宗家」としての立場
2 発祥の先発後発の関係
3 地理的な関係
4 立場、役目の違い
5 由来の違い
6 移動性
7 平家と競合(末期)

1-7により夫々の氏の「血縁戦略」は異なるだろうから5氏全てを以って評価するには問題がある。特に、2の「発祥期のズレ」が大きく原因しているだろう。これで考えると、秀郷が一門を構えてから、間隔は最大で240年、最低で130年はある。当時としては、平均寿命から4代から7代の代替わりがあった筈で「発祥期のズレ」(4-7)は史料とほぼ一致する。
この秀郷一門は、この期間のほぼ中間に居る「進藤氏」を中心にして、
1 青木氏と長沼氏の「先発組」、
2 進藤氏の「中間組」、
3 長谷川氏と永嶋氏の「後発組」、
この3つの組にはっきりと分けられる。
この間には、「進藤氏」を中心に左右2つに分けると、その片側の巾は平均90{(60-120)/2}年と成るので、この事から、盛んに血縁を進めていた3氏、4氏の「共通血縁族」の11%からすると(上記の理由(1-7)があるとすると)、左右に分けた1/2(先発組分)のその6%と同じに成る。
故に、「5氏の場合」のレベル(6%)は「妥当」な数字6%なのである。特別に低い数字では無かったと考えられる。
何か特別な原因が作用してでは無く、普通の結果(氏家制度の中で)に依って得られた低い数字である。
更に2氏(8%)と、より「共通血縁性」が高い3氏、4氏も含めての評価とすると、5氏は妥当な「時代性ある血縁」と見なされる。
それなりに”しがらみ(1-7)”の多い5氏ならではの数字(努力)である。
つまり、平安時代には、別の見方をすれば、主要5氏の「共通血縁族」は200年程度経ってやっと一割を占めていたと言う事である。
平安期では、「氏」には広がりが出てはいるが、「氏力」即ち「一門結集勢力」(共通血縁力)としては、この意味としては「氏力」の一割は既に出来上がっていた事に成るし、秀郷一門の「絆」は1割であるので固まり始めていた事にも成る。
しかし、一門に末裔の広がりを見せても、必ずしも「結束(絆)」が固まるとは限らない。
史実を観ると、むしろ「結束(絆)」は恣意的に成し得て、且つ、維持をさせて始めて成し得るものであろう事を教えている。
「嫁取り」すれば「兄弟は他人の始まり」とも云う。それが世の現実であろう。
まして、「主家、分家」等「主従関係」の厳しい「氏家制度」の社会の中では「結束(絆)」は別であり尚更であろう。
従って、全く他人が入る「嫁取り」では無く、秀郷一門間を「血縁関係」で固める事は、ここでは「結束(絆)」と成ると観ている。
その上で、「第2の宗家」の物心両面の一門への「思いやり」が「結束(絆)」を高めるものと成ろう。故に、このデータの「血縁」+「思いやり」は「結束(絆)」となると観た。
つまり、数式論で言えば、次ぎの様に成る。
「血縁」+「思いやり」=「結束(絆)」=1割
「氏力」(「一門結集勢力」:共通血縁力)=1割
故に、「共通血縁力」=「氏力」=「血縁」+「思いやり」=「結束(絆)」=1割 と成る。

更に、この論理ですると、言い換えれば、青木氏の「第2の宗家」としての「指導力」は全体の平均から観ても一門の1割を固めるだけの力を発揮していた事にも成る。

平安期
時代の状況:「貴族の社会」「氏家制度」
秀郷一門の状況:藤原氏の赴任地豪族との「血縁戦略」=「7つの確認事例」

鎌倉期について
ところが、鎌倉時代(K)に入り、矢張り一族に「失職離散」が起こり、政治体制も「武士の時代」と成り、秀郷一門の「貴族」の下に「侍集団」が構成されていた時代とでは大きく異なり、又、「豪族集団」もその「氏種」が異なった事もあり、そのレベル(4%)は平安期6%よりも低く成っている。
多分、この時代は「血縁」と言うよりは「当面の生残策」に翻弄されていた時代であったろう事を物語る数字である。
従って、この時代の血縁は、「同族内の血縁」を主体として固めていたのではないか。
その証拠にKの5氏の「共通血縁」が7%と高い。青木氏を中心として翻弄されながらも「横の関係」を必死に整えていたの事を示すものであろう。
しかし、ところが主要4氏と共通血縁性が低い青木氏と他の1氏(2氏の場合)の場合が18%と段突である。これは平安期では地方24赴任地での青木氏と土豪との「血縁戦略」があったが、まだ、主要4氏との「横の関係」の血縁までの発展には至っていなかった事を物語る数字でもある。
この18%(単独の血縁数字)は青木氏が先頭に立って進めている「血縁戦略」(平安期8%)が次第に延びて来ている証拠の数字でもある。
「氏力」には未だ至ってはいないが、全体の26%まで延びてきているのは、”「当面の生残策」に翻弄されながら、「横の関係」を必死に確実に進める努力をしていた”と成る。

この「単独血縁」と「横の関係」が次ぎの室町期の混乱期の時代に大きく支えに成ったのである。
この時期、同時に「青木氏の単独血縁」の努力と合わせて、後発の永嶋氏や長谷川氏らが構成する5氏の6%(平安期)から7%(鎌倉期)と+傾向に成り、全体13%の数字が示す様に、やっと力を付けて延び始めた時期でもある。

鎌倉期
時代状況: 「失職離散」「武士の時代に変化」「氏種が変化(豪族集団)」
秀郷一門の対応:「当面の生残策」(横の関係)「同族内の血縁」「青木氏単独血縁」「長谷川氏永嶋氏の台頭」

室町期に付いて
そして、室町時代ではなんとその努力が実り、丁度、高率の40%を占めている。
この「地道な努力」の「冬の時代」から一挙にその努力が花を開いたことを意味する。
況や、秀郷一門の鎌倉期の対応が正しかった事を示す数字と成っている。

一門全体の「同族内の血縁」による「氏力」の半分がこの時代の混乱期に出来上がったことを示す。
この時代の背景、即ち、「下克上、戦国時代」の攻撃を受けながらも、これだけの「氏力」(40%)を形成したのは、藤原秀郷一門は青木氏の「第2の宗家」を中心に一致協力して、「下克上」の攻撃には「受け」に入らず「攻め」の体制を採ったからであり、この数字はそれを物語るものである。

普通は、「下級武士の台頭」を中心とした「下克上」「戦国時代」では、「伝統」を主体としてた氏は「受け」に入り衰退するのが現実の理屈であった。また普通はその様に予想するであろう。
ところが、秀郷一門の現実の史実は、一門は「焼き討ち等の憂き目」を受けているが、「子孫」「血縁」と云うテーマで観た場合は、データの通り違うのである。
つまり、この40%は「時代の生様」を具現化する見逃しては成らないデータである。
果たしてこれは何を意味するのか。深く考察に価するテーマであろう。

そこで、敢えて検証を進める。
一体どの様な戦略で対応したのであろうか。そして、その「生き様」(経緯)はどの様であったのだろうか。
「焼き討ち等の憂き目」が在ったためにそれを「警鐘」として受け止め、一門がそれまで創り上げていた「氏力」15%で先ず「横の関係」を図り、身を鎧の様に固め、24地方の一門は青木氏を中心に据え「一致結束」して「戦い、排除」しながらも、「24地方の血縁族土豪集団」をひとり立ちできるように「育成」してたのでは無いかと観ている。
その為に、「下克上」の下級武士等の不満は、同じ立場に居た「24地方血縁族土豪集団」を「潰す」と云うところまで処せられなかったと観ている。

現に、それには次ぎの証拠があるのである。
それは家紋分類の史料(3/10)をもう一度参照されたい。
ここに隠れた証拠が潜んでいたのである。それはある種の「集団防衛」システムである。
各地の秀郷一門の土豪集団は、このシステムで動乱期に臨んだのである。
後の安土桃山時代にはこれ等は一種のシンジケート化した集団として遺したのである。
このシンジケートが、又、次の時代の生き抜く重要な力と成った。
つまり、「下克上、戦国時代」の「焼き討ち等の憂き目」の混乱に誘引されて「跡後」に訪れるそれは世の「必然の流れ」では無かったかと観られる。

しかし、ここで、この対応策の「集団防衛」は「精神論」だけでは成り立たない。
当然に「経済的裏打ち」が取れていてこそシステムなのである。
既にお気づきと思うが、秀郷一門の「第2の宗家」青木氏の「2足の草鞋策」で「裏打ち」されていたのである。
恐らく、青木氏はこの「裏打ち」の為に、「第2の宗家」として一門を支える為に採った「必然の策」であっただろう。
「氏家制度」による「手弁当の掟」から観ても、「領地から得られる税収入」を以って一門を支えこの動乱期を乗り切るだけ力は無かった筈で、秀郷一門にはどの様に見積っても到底その財力は出て来ない。有史来、史実の中で「世中の動乱の動き」(必然の流れ)を押し返すだけの「氏力」の持った氏は何処にも無かった。
たとえ、頼朝、尊氏、秀吉、家康にしてもその時代の「世中の動乱の動き」(必然の流れ)に上手く乗っただけである。自分の「氏力」のやり方で押し返したのではない。
まして、24地方の赴任地に戦略として「血縁族」を作っている。室町期まで上記の通り育ててきたこれ等の「血縁族」に生き残らせる為に「軍事的支援」のみならず「経済的支援」を必要とする。まして、動乱期(有史来「世中の動乱の動き」:必然の流れ)である。尋常の「経済的支援」では済まないであろう。
これ等の育ちかけた「抹消の血縁族」を生残らせ、尚更に、育てるには尋常を超えていると観られる。
と成ると、「人の心」は、必然的にその財源を求めようとする。
しかし、その「財源」は他氏を攻め落として領地を増やして得られる収入の範囲ではない。
それに頼れば「犠牲」も多く成り、育てている「抹消の血縁族」は疲労し潰れ離れて行く事は世の必然である。
だとすると、「人の心」に生まれる知恵は「地の利と理」と「役職の利」を先ず考える。
税としての物資を裁くは「役職の利」そのものである。当然、それを「守る武力」も役職である。裁く「商いの繋がり」も一門の縁故を使える。
この様に「2足の草鞋策」の「商い」の条件は整っていると成ると、むしろ、これだけの条件を使わない方がおかしい。「人の心」はその方向に間違いなく動く。これが「必然の動き」である。
それは「24地方の血縁族」の力も使えるし、その24土地の「生活物資や生活用品」を一手に扱い動かせば商いは成り立つ。まして動乱期である。
「動乱の戦い」のその「軍需物資」を扱う事が出来れば大商いは成り立つ。当時では、食料は当然の事、鉄や銅や金などの「鉱物資源」と成ろう。

参考
自然の摂理で、太平洋プレート、ユーラシャプレート、フィリピンプレートの3つのプレートが重なる地域には地殻の動きで比重の重いものが集まるのが冶金学的な特長である。
信濃と上野と甲斐の境界点付近の3合流を基点に能登佐渡との中間を結ぶ線上帯に鉱物資源は集まる。

さて、ここで、本文の進藤氏のレポートを思い起こしてもらいたい。
大変な藤原秀郷一門の戦略が観得るのである。
再度、概容として、進藤氏は秀郷一門が発祥であった。ところがこの秀郷一門の進藤氏は「秀世」のところで男系跡目に苦労した。そして、利仁流の「藤原為輔」と出羽国で出合った。そして、この進藤氏を為輔は引き継いだ。この進藤氏を「接着剤的役割」でリードした青木氏は利仁流との血縁関係を戦略上で持とうとした。
この利仁流は北陸道7国を代々の勢力圏としている。何故、この北陸道に目を就けたのか。
一つは、確かに藤原秀郷一門の「氏力」の「血縁戦略上の強化」であったであろう。しかし、それだけでは無いと観る。それは上記の資源帯のこの北陸道一帯に存在する鉱物資源である。

既に、頼朝に潰された秀郷一門の「平泉三代」の栄華はこの鉱物資源(金)の確保から来ている。
又、信長、秀吉の経済力もこの北陸道地域を抑えた事から全国を平定した。
当然、この知識を知っていたであろう。同じ秀郷一門宗家が知らないはずが無い。
(史実は足利氏、信長、秀吉、家康も先ずこに最も信頼できる人物を差し向けている。)
「武力」だけではない「経済力の裏打ち」が必要であると、間違いなくこの事を知っていた筈で天下を取ろうとする者がこのことを知らない方がおかしい。
だとすると、喉から手が出るほどに「経済的な裏打ち」を望んでいた筈。これを一門を維持するには戦略上見逃す筈が無い。
しかし、直接、「武力」でこれを抑えるには室町期では藤原氏の「50%の氏力」では無理であろう。
だとすると、「血縁戦略」以外に無い。まして、土地には藤原北家一門利仁流が土地に根付いている。直接支配は室町幕府の直轄であるが、現場の支配は利仁流一門が担っている。これを「商い」として結び付けば、相当の「経済的効果」は挙げられる。
これに目を付けて進めた血縁戦略ではあった筈で、利仁流一門からしても当時とすれば3倍以上の程度の「氏力」を保持している秀郷一門からのこの「力」を借りて「経済的裏づけ」を持ちたいと云う立場にあった筈である。藤原北家一門でその恩恵を分かち合える事が出来る。
秀郷宗家としては、貴族であり「武力」と「商い」は法度であるとすると、「第2の宗家」の青木氏としては、24土地の「生活物資や生活用品」を一手に扱い動かせる「大商い」と、「軍需物資」を扱う事が出来る「大商い」の2つを見逃す事は無い。
これが、青木氏の藤原秀郷一門の戦略であった。
この「必然的な流」の中でのその知恵が青木氏に働かせたのである。

その「必然の流」(A-B-C)とは次ぎの様にまとめられるのではないか。
(A)「下級武士の不満」「下克上、戦国時代」の「焼き討ち等の憂き目」の混乱
(B)「縦から横の関係」「一致結束」「24地方の血縁族土豪集団化」「2足の草鞋策の裏打ち」
(C)「秀郷一門の集団防衛化」

(A)が起こり、混乱から逃れ生きる為に「味方を呼び集め」、一心に「身を固め」、他に「生活の糧」を得んとして、必然的に人の心に(B)の「自然の流」が起こり進み、結果として(C)の生き延びられる「形」が生まれた。とする。

この「必然の流れ」の中で青木氏は、それを(B)を得心し、一門をリードし、自ら「糧」を生み出しす役目を果たしたのである。

一門の「2足の草鞋策」は史料から観てみると、年代は不詳だが由来書や系譜説明等の内容の経緯から、丁度、この時期(末期)から実行されている。

史料から他氏の時期を記述する事には問題があるので、因みに筆者伊勢青木氏の紙問屋紙屋の青木長兵衛の事に例を挙げて記する。
丁度、この頃、同じ苦境にあった青木長兵衛は「土地の利と理」(伊賀紙)と「守護の立場」を生かして1325-40年頃(鎌倉-室町期)に「2足の草鞋策」に挑んだのである。史実は秀郷一門の青木氏も同様の時期に「2足の草鞋策」を各地で採っている。(詳細下記)
逆に、動乱期に於いては「2足の草鞋策」にも「経営と物資運搬」の防衛の為にシンジケートが必要である。この必然的な「相互依存の環境」にあった事がこの「システム完成」を助長した。
「下克上、戦国時代」後の安定期には、これ等がシンジケート化して現存したのである。
「比叡山などの寺社集団」や「2足の草鞋のシンジケート」のこれに苦しんだ信長以後の主導者の秀吉、家康は「戦わずして勝つ」と云う戦略上で挑み、史実上、逆にこの2つを味方に引き入れて利用し勝利した事に成る。
つまり、2人はこの藤原氏一門の「戦い方の史実」としてこの各地の「防衛集団」種を充分に認識し承知していた事を示すものでもあろう。そのために戦いに有利としてこのシステムを持つ藤原一門はこの2人に大いに雇われ仕官したのである。
その決定的な事例の「典型的事件」がこの時期に起こっている。それは「南北朝の戦い」で楠木政重(菊水紋)と北条氏10万の戦いであろう。

この特長データから考察すると、各地に満遍なく、且つ、大変な量の集団が形成されていたかが判る。これでは、「下克上、戦国時代」では「勢いのある焼き討ち集団等の敵」に対して、何とか抗する事が出来たのではないかと容易に想像出来る。

史料(3/10)の特長として、「一門の集団性」がある。つまり、「2つの種類の集団」が秀郷一門の家紋類に大きく存在するのである。

「2つの種類の集団」
1つは、地域に根ざした「土豪の集団防衛」である。
2つは、地域の氏子の「寺社の集団防衛」である。

この「血縁族」をまとめた「集団防衛」は他にレポートした「伊勢の青木長兵衛」のそれをはるかに超えた大きいものである。

史料1-2(一門の集団性)

主な秀郷一門「土豪の集団防衛」群
中国地方では、亀甲族集団(8党)、鷹羽党(3党)
関東地方では、武蔵族(7党)、関東屋形族(4党)、坂東族(8党)、矢車族(2党 荒川党)、大島族(2党)、根笹族(4党)、駿河族(3党)
中部地方では、伊川津族(7党)、諏訪族(2党)、真田族(2党)、伊勢族(2党)
関西地方では、河内摂津族(7党)、紀州一党(雑賀族、根来族、巨勢族、葛城族、紀族、平群族)、熊野神職族(5党)、上山党(2党)、伊賀族(2党)、菊水党(2党)
四国地方では、讃岐族(讃岐籐氏4党)、阿波族(阿波藤氏2党)

(注)史実上、秀郷一門の何らかの「流」を汲むもので、以上は動乱期前後までに何族、何党、何衆と呼ばれた共闘集団を構成したものを記述した。
(注)史料3/10では枝葉氏の家紋まで記述していない。

主な秀郷一門「寺社の集団防衛」群
出雲大社氏子集団(亀甲紋神紋:美作、安芸、出雲の氏子)
阿蘇大社氏子集団(鷹の羽神紋:氏子が中国地方に移動 菊地氏、浅野氏)
伊勢大社氏子集団(柏紋神紋:久志本氏)
熱田大社氏子集団(柏紋神紋:千秋氏)
宗像大社氏子集団(柏紋神紋:宗像氏)
吉田大社氏子集団(柏紋神紋:吉田氏、ト部氏)
吉備大社氏子集団(柏紋神紋:大守氏)
春日大社氏子集団(下がり藤紋:藤原一門)
菅原大社氏子集団(梅鉢紋神紋:菅原氏系)
天台宗檀家集団(摩多羅神の神紋寺紋:抱き茗荷紋:二宮氏系)
加茂大社氏子集団(立ち葵紋神紋:西田氏系 丹波、信濃、三河)
柊明神社氏子集団(抱き柊紋神紋:丹治氏、大関氏)
諏訪大社氏子集団(立ち梶の葉神紋:諏訪氏)
熊野大社氏子集団(やた烏紋神紋:熊野5氏)

(注)史実上、秀郷一門の何らかの流を汲むもので、血縁関係が認められる集団で、以上は動乱期に共闘集団を構成したものを記述した。更にこの期間では、完成した「防衛共闘集団」になりかけのものも含まれている。以上、2つの「防衛共闘集団」に更に夫々小さい土豪の集団が枝葉する。
(注)柏紋の大社神紋は主に三つ柏紋8種に分類される。

これだけの「2種の大集団」を一つにしてシンジケート化すれば、「表の勢力」に比較できない程の「裏の勢力」が働く事は間違いない。「裏の勢力」であるが故に、室町政権から直接睨まれる事は無く、又大儀明文が無い為に出来ないであろう。

上記の経緯から、この時代の期間では、「他の氏の入れ替わり」が起こったにも拘らず、全体としての一門の「氏力」の推移は、平安期10%の「氏力」(基礎力)から苦難の中で鎌倉期では15%と維持し、その努力が生きて室町期(39)では全体では55%と拡大に繋がったものである。
これは平安期の藤原氏の赴任地豪族との「血縁戦略」が、時代の変化にも拘らず鎌倉期の群雄割拠の侍時代(土豪達)に、効を相して血縁族が台頭したものである。
それが室町期では、この台頭の血縁した土豪、地侍等が「勢力争い」に勝ち抜き一門が「氏力」を広げたと成る。
勿論、この土豪、地侍に秀郷一門が積極的に「武力と経済」で「裏打ち」したのは紛れもない事実であるが、終局、彼等の集団は「共通血縁族の主要8氏」と大豪族と成り得たのである。
この終局の室町期は「共通血縁族の主要8氏」がこの数字を作り得たものである。

その室町期の「氏力」の出来上がり具合は次のように成る。
2氏で59% 3氏で56% 4氏で53% 5氏で52%
この数字から観ると、5氏だけに拘らず青木氏と1氏までも50%台であり、”一門と血縁族全体が均一に「氏力」を固めた”と云う事であり、”取り残しは無い”事に成る。
”赴任地24地方の血縁族が全て生残り、尚且つ勢力を拡大した”と云う事は、如何に秀郷一門が強かったかを物語る。
この強さは当然に一門を指揮したからこそ強いのであるから、これは当然に青木氏の指揮如何に関わる事である。指揮のない「烏合集団」はやがて衰退するがこの「世の常道」である。
つまり、秀郷一門は「烏合集団」では無かった事を証明する。
これは後の時代に遺す「一門の絆」の強さを示すものである。
青木氏と他4氏との関わり具合が均一である事は、明らかに「血縁戦略」即ち「青木氏の指揮」が徹底していた証拠にも成る。
これでは、秀郷一門が時代に取り残されずに生抜けた事がこのデーターでも明確に解る。

安土桃山期に付いて
そして、その「氏力」が安土桃山時代ではその勢いが続き25%と氏力を維持させた。
多分、室町期の40%が無ければ、この高い「氏力形成25%」は無かったであろう。

この時代は「群雄割拠の時代」から「選別の時代」へと変化して行った時代である。
その中で「選別された豪族」(「共通血縁族の主要8氏」等)との血縁が結ばれ、主要5氏が時代に即応した「氏力」を培ったと言う事に成る。この事は主に「分家筋」との血縁を優先させた事が頷けるし、その証明に成る。
「共通血縁族の主要8氏」からそれを主軸として、更には「選別」により駆逐されてこれ等「枝葉の末裔末孫」の「横の血縁」を拡げたに他ならない。つまりは、鎌倉期に勢いのあった2氏(18%)のところまで主要4氏との血縁は進んだことを意味する。

普通、この時代は時代のめまぐるしい変化に即応出来ずに古い氏は全て衰退し消えて行った時代でもある。その中で生残れたのは、「時代の変化」に拘らず、これもH、K、M(55%)と「氏力」を即応させた結果による。
しかし、生き残れはしたが、秀吉には、史実上に記録されている氏として、豪族クラスでは、四国の讃岐藤氏一門、阿波の藤氏一門、伊勢の秀郷一門の青木氏、永嶋氏、伊藤氏、常陸の結城氏、小山氏、陸奥の結城氏等が多くの秀郷一門が潰された。数えられない程である。逆に、徳川叙封禄に記載されているもので、江戸初期には家康に依って潰された青木氏等の秀郷一門も多い。
多少の戦いはあったとしても、殆ど「選別」に類する衰退である。
(機会あれば何時か衰退した青木氏等のレポートもしたい)

安土桃山期に付いては上記した室町期から桃山期初期の秀郷一門の「生残りシステム」が効かなかったことに成る。
何故ならば、彼等二人はこの一門の「生残りシステム」を熟知し、真似をし、利用し、駆使したに過ぎない。
同じ「生残りの戦略」で対抗されれば、「時の勢い」の持ったものが勝つのが常道である。
違うものを持った同士の戦いであれば、「群雄割拠」であり、殺戮の少ない同じシステムの戦いであれば「選別」であろう。

しかし、ここで、特記する事は、秀郷一門の生き方の数式論である。
「生残りシステム」から「選別」が起こると差し引き残るものがある。
{秀郷一門}=「生残りシステム」-「選別」={時代の趨勢}
1 「生残りシステム」=「血縁戦略」+「経済(2足の草鞋策)」であった。
2 「生残りシステム」-「選別」=「経済(2足の草鞋策)」と成る。
3 「経済(2足の草鞋策)」は無傷である。
4 そうすると、「全秀郷一門」-「選別」=「選別された遺豪族」と成る。
5 故に、「経済(2足の草鞋策)」+「選別された遺豪族」と成る。
6 そこで、「経済(2足の草鞋策)」+「選別された遺豪族」=「共通血縁族の主要8氏」と成る。
結論は、”{力の着いた「共通血縁族の主要8氏」}が一門を支えた”と云う事になる。

しかし、これが選別後の江戸初期以降では、時代に即応して、6の数式論が大きく左右して末裔を遺し得たのである。

因みに、再び、筆者の伊勢青木氏を例に挙げると、この典型的な数式論が成立しているのである。
「伊勢攻め」即ち「天正伊賀の乱」と「伊勢永嶋の戦い」で、信長、秀吉と戦った。
この時、青木氏は名張城、青木山城、柏原城など3つの城と平城の松阪館から戦いを挑んだ。
信長は伊勢の入り口に丸山城を築く為に信長の次男信雄と滝川一益を差し向けた。
この時、伊勢の500年歴史を持つ豪商紙問屋青木長兵衛が陰で建築物資を抑えて高騰させ物資不足を作り出し伊勢シンジケートを動かしてゲリラ作戦を展開した。そして、高額築城費と長期間を費やさせやっと出来たその日にシンジケートに天守閣を爆破させて消失させた。信長は烈火の如く怒り、信雄を蟄居させる事になった。有名な史実である。一方この時、名張の城では、別の顔を持つ青木民部尉信定は無傷、紙問屋長兵衛の店も無傷で、次ぎの「伊賀攻め」に備えた。
その後、秀吉を先ず伊勢永嶋攻めに差し向けた。青木氏の手の内を知る秀吉は青木氏の陰の手口を封じて、材木を兵が切り裁き筏を組んで流したりして伊勢永嶋を攻めて北畠氏を潰した。次ぎにこの伊勢の背景を知る秀吉は、戦わずして勝つ戦法を使ってきた。藤原一門で清和源氏血筋も持つ蒲生高卿の子の歌人で軍師の蒲生氏郷を差し向けた。伊勢青木氏とは遠縁関係にあり縁故を使った。青木氏の背景を知る抜いている。戦うと両者ともに「シンジケート戦」で大きな犠牲を払う事に成る。青木長兵衛を説いた。条件を飲んだ。一端新宮に青木氏は引き上げた。
氏郷は有史来松阪に城を築いた。1年後に屋敷町に2区画を与えて青木氏を戻し松阪の一部と玉城町を与えた。そして、その経済力とシンジケートを氏郷は潰さずに利用した。
伊勢は発展した。その後、家康は関が原の戦いにその「経済力」と「シンジケートの力」を利用して合力した青木氏を氏郷と同様に無傷で青木氏を遺した。

この史実は、秀郷一門と同様に、上記の方程式の「必然の条理」の上にあった。
これはこの世の「必然の条理」に従った最高の戦略ではないか。秀郷一門はこの戦略に到達したからこそ子孫を大きく遺し得たのである。何をか況や、青木氏の指揮の下の所以である。

時代の状況:「群雄割拠の時代」から「選別の時代」
秀郷一門の状況:「共通血縁族の主要8氏」成長と「選別された遺豪族」「横の血縁}(分家筋)

江戸期に付いて
江戸時代に成ると、そして、その「必然の条理」の下に、江戸時代の藤原秀郷一門の主要5氏は多くはその背景を持つ事を重用されて大名、御家人、旗本に成った。
この時代は「戦国時代の終焉」を経て「江戸の安定期」に入ったが、逆に「氏と家紋」は爆発的に増加した。
(参考 氏数変化は家紋200選を参照 N40-H200-K800-M400-A1000-E2000-m8000)

この中には「家柄や身分」などが「出世や羽振り」等に必要と成り、こぞって自分のルーツの故古を持って名乗りを挙げた。この中には疑問のものも多いが20%台を維持して血縁関係を維持したのはこのブームの影響もあった。
つまり、室町期まで培った「正味の努力」の血縁で拡げたものとは異なるレベルである。所謂、江戸の「安定期」に起こる過去の「家柄の誇示」に過ぎない。
「安定期」のこの時代にはある意味では「戦略的血縁」を必要としている訳では無かった。
むしろ、「社会的必要性」(家柄)からの血縁ではあった。
しかし、ここで秀郷一門の「戦略的血縁」を必要としないからと云って、レベルが低く成っていた場合は、現在の青木氏等の主要5氏は無かったのではと考える。
「戦略的血縁」ではその勢いは息切れしたであろうし、一種の「接着剤的働き」をしていたと考えられる。この血縁は現在の青木氏を始めとして藤原一門の存続に大きく影響させた時代でもあった。
秀郷一門にとってはその「社会的必要性」(家柄)を元より踏襲する必要が無かった事によるもので、江戸の時代の「軽い風潮」に振り回されることが無かった事が幸いしたものであろう。
むしろ、「羨望の目」が向けられたし、この家柄が安定した「氏力」を保持していると評価されて認識されて、幕府や大名に仕官し、平安期と同じく再び高い位置を得た要因の一つと成り得たのである。

世間の中級以上の武士は、この安定期では、衰退した朝廷に媚入り金品を支払い、誰しもが一代限りの名前だけの官職や爵位を貰い獲得し名乗ると云う風潮がはびこった時代でもある。しかし、藤原氏はこの必要が無く元より永代の官職を保持している事から、鎌倉期の失職離散の憂き目や室町期の下克上での敵対視された時代と異なり、今度は逆に一門の末裔である事が効果的に働き続けた時代でもあった。このために末裔はその一門の「氏力」を期待されて、多くの新興勢力の大名に逆に抱えられて出世した時代でもあった。
これは、青木氏を中心に的確に「時代の先取り」を間違える事無く一門を指揮した為に、平安期から室町期までの上記した「血縁戦略」がやっと働いた事に成る。データはそれを物語っている。

そのA、Eでは、共に3氏4氏5氏の青木氏との「共通血縁」が同じ数字20%台と成っているが、青木氏から観ると、総じて”5氏間は70%台以上が同じ血縁族で占められていた”と言う事であり、平安期から江戸期まで次第に相互間の血縁を深めて行った事に成る。
普通ならば、「安定期」では、世間と同様に5%台程度の数字を示すのが当り前であったが、何れも20%台と言う高く巾のある「5氏の血縁力」(絆:結束力:氏力)を維持していた。
「家柄の誇示」等の「社会的必要性」(室町期から江戸にかけての風潮)と、地道な「秀郷一門の血縁戦略」に支えられた「氏力」が世間に受け入れらマッチングして2つの「相乗効果」を発揮したものであろう。
その典型的な時代は室町期の数字の通りであり、且つ「混乱期」にありながらより「5氏の血縁力」(絆:結束力:氏力:40%)を高めていたその時代性(難行苦行の努力)にあり、この事を物語る。
これは青木氏の一門に対する「指揮力」が在ったからこそ成し得たものであった。
そして、その「指揮力」は「5氏の血縁力」(絆:結束力:氏力)の裏づけにあった。
統一した指揮指導がなければ40%の「氏力」のこの様な数字は残せない。普通は5%台なのであるから。
「5氏の血縁力」(絆:結束力:氏力)とは云え、結束は緩むものであるのが世の常である。ましてや「安定期」である。しかし、25%程度の「血縁力」を生み出し、決して”緩んでいない”のである。誰かが中心に成ってリードしてこそのこの結果であろう。
私はそれが、「第2の宗家」の青木氏であると説いている。つまりは青木氏を中心として秀郷一門は「混乱期の余裕の不足」と「安定期の気の緩み」に2つに依って緩みかねない中で「氏家制度」を厳然と護っていた事の証しである。

そして、この90%にも達した(2氏3氏4氏5氏共に)「氏力」が突然ある磐が崩れる如く崩壊したのである。今度は、「2足の草鞋策」も全く効果がなく明治末期頃までに崩れ去ったのである。

その後の時代の経緯として、この結束は明治前夜の動乱に依って、「武士の体制」が壊れ、西欧化した「政治体制」が敷かれて、その基盤の「氏家制度」は崩壊して最早「血縁戦略」の意味が無くなり始めて一門は完全に離散したのである。その後、明治以降昭和20年頃までは、そう強くは無かったが、「社会慣習」として「家柄」だけは重んじられていた。その契機は終戦による「アメリカナイズ」により完全に社会から消え去ったのである。
むしろ昭和は「日本的伝統」さえも「自由主義」と「共産主義」とで社会に「罪悪感」がはびこり否定された時代であった。平成に入り世界第2位の経済力を確保して人の気持に余裕が生まれて「自然の確保」とそれに伴なってあらゆる「伝統」が見直される時代へと変化してきた。
最早、平成では、藤原一門の「景」は完全に消え去ったのである。
明治から100年を経ているが、後世から見た藤原秀郷一門の生き様はどの様に理解され検証されるのであろうか。多分、藤原秀郷一門青木氏などの歴史的史実は霧消しているだろう。

そこで、現在の社会体制の中では「家柄」「伝統」が大した経済的意味を持たないが、「心の伝統」(誇り)の持つ事の意味は「7つの民族」で構成される「融合単一民族」の日本社会にはあると信じている。
「7つの民族」「融合単一民族」=「伝統」と成る。これが「日本人」なのである。
故に「日本人」=あらゆる「伝統」である。
とすると、「三段論法」が是とするならば、故に、「日本人」-「伝統」=0であり、「日本人」から「伝統」を差し引けば何が残るだろう。
そして、もし「伝統」が認められるなら、「伝統」=「先祖」=「自分」=「尊厳 感謝」=「日本人の心」へと進化する。
もし、日本人を「骨抜き」にする事を目論むなら、数式から「伝統」をことごとく否定する事により潰せる事に成る。これが左傾主義者の「目論み」であろう。行く末「伝統」の破壊は「革命」であろう。故に我々「日本人」であり続けるためには、「伝統」の啓示にある。

その「伝統の啓示」は最早、今の時代のみしか無く成っている。次世代では史料もさることながら「心の伝統」も蘇させる事は無理であろう。「時代の動きとウネリ」は計り知れないほど大きい。せめて、筆者は青木氏の子孫の一部にでも遺したいと考えていてこの史料関係の提供と成っている。

(参考 子孫は血液型が同じであれば、遺伝子的には85-95%が同じなのである。故に、自分*0.85=子供 の数式が成立する。故に、先祖=自分=子孫 の数式が成立する。)

さて、次ぎは秀郷主要5氏に関わる「共通血縁族」の比率である。
青木氏とどの主要4氏がどの様に一番関わっていたのかの検証史料である。
関連記事
 

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