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日本書紀と青木氏 5/10

前節と本節には、関連性がある為、左メニューの「最近の記事」から、前節(1/10-4/10)を順次選択して先にお読み下さい。
それを念頭に「本節 5」をお読み頂きたい。

レポートリンク
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検証する青木氏に関わる内容は次の通りである。
検証項目
活躍 第1節 「白雉の年号」
活躍 第2節 「伊勢王の薨去」
活躍 第3節 「伊勢国の重要度」
活躍 第4節 「諸国の巡行」

活躍 第5節 「紫の袴着用の許可」
活躍 第6節 「天皇の名代」
活躍 第7節 「天武天皇の葬儀」
活躍 第8節 「善行説話の編集」
活躍 第9節 「伊勢行幸」
活躍 第10節 「大隈の首魁(阿多倍)」


本書記録
活躍 第5節 「紫の袴着用の許可」(最高位の身分扱い)
天武”14年12月30日の翌年の1月20日を朱鳥元年とし、その前の1月2日 大極殿で諸王を召して、宴を行い、詔を発した。””王たちに無端事を尋ねる”と言われ、”答を得ると賜物を授ける。”とあり、戯にしてこれまでの勲功に対して2人に論功行賞を行った。

壬申の乱と政務などで天武天皇を助け最も活動した勲功者として、二人に論功行賞をした。
”高市皇子に秦擦の御衣(ハンの木の実で編んだ染め衣)を三揃い、錦の袴を二揃い、絹20匹、糸50斤、綿百斤、布百反を賜った。”とあり、次に、”「伊勢王」も答が当り、黒色の御衣三揃い、紫の袴二揃い、絹7匹、糸20斤、綿40斤、布40反を賜った。”と記録されている。

天武”14年7月26日 勅して、明位以下進位以上の者の朝廷服の色を定めた。
浄位以上は朱花(はねず)、正位は深紫 直位は浅紫 勤位は深緑 務位は浅緑 追位は深葡萄 進位は浅葡萄 と定めた”とある。
(注 「伊勢王」は「朱花」色である。前節レポートにもあるが、衣は「黒擦」袴は「紫」の最高職を許されている。) 


検証
天武”14年9月24日 天皇は病気に成られた。”とある。”朱鳥元年の9月9日 正宮で崩御した。”とある。
病気に成って、丁度1年後である。多分、信濃から螻蛄の胃薬を取り寄せたとある事から、胃がんで有ったのであろう。死期を悟り、最も、自分の御世に貢献してくれた「伊勢王」と高市皇子の2人に、特別に感謝を込めて賜物を授けたのであろう事が判る。

それを、感謝だけを以って正式な形としては出来難い事もあり、高市皇子と「伊勢王」の2人に特別に論功行賞の宴を催し行ったのである。50人もの諸王が居るにも拘らず、このたった2人にである。如何にこの二人だけに信頼されていたかが判る。

壬申の乱では殆ど「高市皇子」と「伊勢王」(施基皇子)の働きで天皇に即位できたし、その後の政務の2人の働きは段突である。この節では活躍 第1節-4節のそれをはっきりと記録しているものである。

特に、「伊勢王」の紫の袴は最高位の者(皇太子)が着用を許される色袴である。
高市皇子の錦の袴は天皇以外に着用を許されていないものである。
(平安後期では紫は僧位の最高位の者が許可されて着用を許された。)
そして、「伊勢王」は黒色の御衣の着用を許された。これは、政務官僚の長としての式服である。
皇太子が即位する時に着る冠位束帯の「黒染(くりそめ)御衣の法服」である。つまり、身分は第6位皇子、4位(5位)の王位、浄大3位(この時)であるが、皇太子扱い以上を意味しているのである。
どんな爵位を与えられてもこれ程の名誉は無いし、50人中の皇族の中にはこれ以上の者は他に居ない。

因みに、草壁皇子の皇太子の爵位は浄広1位で1階級下である。それ以上の身分扱いとなる。
(最高位の爵位は明大1位 2位 次は浄位1-4で大広に分ける 全48階級)
この2人には朝廷内外にその最高位の勲功があった事を発表したものである。
その有能さに付いてはこれ以上の説明は必要は無い。
伊勢王は、最終浄大1位に成る。

朝廷服の実務服は壬申の乱の従軍者への取立ての一環で、朝廷に上がる役人として登朝時に着る服でその勲功の印としたのであろう。

身分制度を明確にし、その実力に応じた勲功と身分を与えて、「皇親政治」のピラミッドの基礎が着々と進められていることが判る。

その例として、その朝廷方針として、今後の「律令制定計画」として「官僚体制」を確立する為に、上節記述の様に「官吏」を臣連はもとより、民間からも「優秀な者」の採用を積極的に行っている。
第6位皇子の「伊勢王」や「高市皇子」の二人は、空洞化していた皇太子身分より下でありながらも、爵位と実質身分が「伊勢王」等の方がはるかに高い事でも判る。
この辺に身分は前提になるが、その中でも「実力主義」である事が判断出来る。皇太子より他の皇子らは低い。

実力といえば、施基皇子を始めとして、大津皇子と高市皇子の3人は確別である。
しかし、大津皇子は実質は天皇に代わり政務を取っていたが、余り、彼だけが何故か昇進の記録が少ない(疑問1 上節の草壁皇子の猜疑心から来る反対である。追記)
その後、天武天皇崩御20日後に皇位継承第3位の大津皇子の謀反の事件が発生した。
(持統天皇崩御3年前に大津皇子没後に爵位昇格を与えている)

追記
大津皇子に対しての編者舎人皇子の評価は実に良い。

余談だが、記録から、次のような記録がある。
”朱鳥元年10月3日に、訳語田の舎で死を賜った”とある。
”24歳であった。妃の山辺皇女は髪を乱し、裸足で走り出した。見る者みなすすり泣いた。

”大津皇子は天武天皇の第3位皇子で、威義備わり、言語明朗で、特に、叔父の天智天皇にその才能を認められて可愛がられていた。成長されるに及び有能で才学に富み、特に、文筆を愛された。この頃の詩賦の興隆は大津皇子にある”と本書は記録し断言している。

その証拠に、”この謀反に関連したとされる人物は30余人(皆天武期の大物の朝臣族 僧侶も多く含まれる。)である。罰は軽くした”とある。この記録がある。

又、”伊勢神宮の斎王の大来皇女が同母弟の大津の謀反で任を解かれて都に帰った”とある。

大津皇子のその身分は皇太子より低い事への不満があり、余り実力の無い皇太子に天武天皇崩御直後に謀反したとも考えられるが、既に没した天武天皇にではない。まだ誰が権威者になるかは判らない時である。
そんな時に謀反するかとの疑問が湧く。有る程度天智天皇の時の壬申の乱のように大友皇子が成ると決まっていて、乱が起った事であれば判るが、この場合は、皇太子が天皇に成るとは限っていなかった。皇太子本人は思っていた。
この天智天武期では、最も純血血縁度の高い者がなる掟であった。従って、天智の時は大海人皇子か大友皇子と成るが、本来は大海人皇子である。兄弟優先と決まっていた。

この場合は天武の皇位継承者は草壁皇子か大津皇子かの問題が出る。
順序では皇太子であるので草壁皇子ともなるが、それには実務、実力、権威、信頼、経験、性格に関わるであろうから、優先的には大津皇子となる。
大友皇子の時も、この性格人格が左右して、人心がついて行かなかったのである。
しかし、その条件中の性格は、大津皇子は温厚で文学的な素養を持ち人徳ある人物と特筆されていることからも充分である。

事件の記録されている中では、処罰された者の中には高僧も多いのである。これ等の処罰者は全て軽い刑に終わっている。
この大津皇子の事件の真因は、実刑実罪が見つから無かった事から、草壁皇子は他を罰する事に躊躇したのであろう。
この事件からも覗える事であるが、厳しい身分制度を確立しながら、ある身分の範囲では、実力主義であり、つまり、この後で起こった謀反説が、逆にこの時期に実力主義の考え方が常識化していたことを意味する。多分、上記した条件も含めて、時代の混乱期としては、大津皇子への周囲のラブコールが大きく起こっていたのではないか。
そして、そのラブコールをした人物を30人として罰したのであろう。
だから、ラブコールだから、高僧が多かったのではないか。謀反では高僧は入らないであろう。
しかし、狭量な凡庸な猜疑心の強い病的な草壁皇子には、謀反と捉えたのではないか。
だから賢く政治力の持つ母親は、心情的には草壁であろうが、息子に譲位しなかつたのである。

この事件が、この「皇親政治」が「実力主義」で無かった場合は、この事件は起こらなかったと考えられる。つまり、草壁皇子に政務を執らせ、爵位も高くして今までの「御座成り」の体制を敷いていた場合、「病的な猜疑壁」が頭をもたげなかったとも考えられる。
立場、仕事、身分、能力等何を採っても、本来は皇太子が上である事になる天智前の時代システムが覆させられているのである。そして、「皇太子」と成っている矛盾では、「強い猜疑心」が湧くのは草壁皇子ならずとも、「人の性(さが)」から観ても必然とも思える。
同じ「猜疑心」での「大友皇子事件」、つまり「壬申の乱」は相互に「猜疑心」を持った事から起こったのであるから、若干、天皇になる慣習システム(純血順)が異なってはいたが、何れも「猜疑」と言うキーワードでは同じではないか。この乱は条件的なもの、例えば純血、勢力バランス等が均衡していた事で、相互に出せる立場にあったので、「大津皇子事件」と違い、勅書を遣わずに、「戦い」と言う手段で解決した事に成ろう。

中大兄皇子との「有間皇子事件」は、燻る孝徳天皇派との軋轢が左右した事もあり、「争い」が表沙汰に無くて、「暗殺」と言う事で解決したが、「戦い」と「猜疑」との何れもが使えなかった事件ではないだろうか。
この事からすると、3つの要素の「暗殺」「戦い」「猜疑」から逃れられて、「伊勢王」はあらゆる危機を乗り越え、真に「壬申」ならぬ「人心」に評価されてその幸運に恵まれている事を物語る。

現在でも、同じで実力があっても昇進しないということは同じでは無いか。この3つの何れかで昇進しても潰されることが世の常である。
これは真に「伊勢王の人徳」と言うものであろう。
況や、我々青木氏の末裔は、遺伝子的にこの始祖の人徳を引き継いで持っているのである。

参考
爵位の朝廷で着る実務服は、浄位では朱色である。
袴では、全体として最高位は錦と紫である。儀式では黒の御衣である。
「八色の姓の制」の八色とは元は7色の定めであったが、八色に変更したがこの色からきている。
真人、朝臣、宿禰、忌寸、道師、臣、連、稲置(684)である。宿禰までが皇族系

紫の色の高位性は、大化3年12月 「7種13階の冠位」を制定した。
第1は、服の色は冠と揃い深紫 第3は、冠は紫、服は浅紫とある。
僧衣も以後これに準じた。

次は、活躍 第6節 「天皇の名代」である。

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