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「青木氏の伝統 55」-「青木氏の歴史観-28」
> 「青木氏の伝統 54」-「青木氏の歴史観-27」の末尾
> (注釈 当初、「近江」と「伊勢」は前段でも論じたが、「川島皇子」と「施基皇子」の異母兄弟の時代は女系での血縁は完全な同族血縁の一族であったほどに相互に行き来していた。
> 中の良い関係を続けていた。
> 然し、「嵯峨天皇の源氏化が起こる事」に依って「決定的な溝」がうまれ、疎遠と成ったのである。
> 余談であるが、「川島皇子の裔」系の「近江佐々木氏」に引きずられた縁戚の「二つの青木氏」は「真砂不毛の地」で「財力の無さ」と「天武期の「反抗行動」から「朝廷の中」で立場を失って行った。
> その為に源氏化で生き残ろうとした。)
>
>
> 敢えて、追加して上記を論じた様に、「信濃」は「伊勢」と共に「女系」で「青木氏族の体制」を確立していた為に、これには是非に「美濃の源氏化」を進めない様にする事が戦略的に必要であった。
> この為にも「信濃」には同族並みに充分であった為に「伊勢の一色での格式」は必要が無かった事に成る。
>
> 然し、「美濃」にこの「生命線を壊す事」が起こって仕舞ったのだ。
> 恐らくは、この時までは“「伊勢と美濃と信濃のライン(神明社で繋がる族)」”は、戦略的に「青木氏族の生命線」と判断していたと観ての事であったと考えられる。
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> それには二つあった。(前段でも論じている。)
> 第一段の「皇子」を引き入れる事に依る「源氏化」が多少起こっていたのである。
> 第二段がその「源氏化」が引き起こした「姓族勃興」の危険性で既にあったのである。
> この二つにより「神明社の情報と物流の遮断化(本論)」が齎す危険性であった。
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「青木氏の伝統 55」-「青木氏の歴史観-28」
さて、前段から「信濃」には「一色の格式」は必要無かったと云う結論に成る。
そうするとここで先に論じて置かなくてはならないのは“「近江の事」”である。
その前にもう一度、お浚いをして置く。
前段でも何度も論じたが「近江」には、抑々、何度も論じているが「近江青木氏」と「近江佐々木氏系青木氏」に「近江佐々木氏」の三氏が「同族の血縁族」として存在していた。
最初は始祖の川島皇子の裔の近江佐々木氏が発祥し、そこから皇子族が近江に移り「伊勢の施基皇子の賜姓」に倣って「青木氏」を名乗り「近江青木氏」が発祥した。
そして、この両氏が血縁して「近江佐々木氏系青木氏」が発祥した。
「近江佐々木氏」は「青木氏族の一員」としても考えられる。
「近江佐々木氏」もその様に考えていたし、異母兄弟の「伊勢の施基皇子」の裔と相互血縁した様に「奈良末期の血縁」では間違いなくそうなる。
(注釈 「近江佐々木氏」の「青木氏の研究記録」に詳細に記されている。)
そもそも、「近江青木氏」はその所以を以て発祥している。
概要は次の通りである。
前段でも「血縁弊害の処」で論じている様に、奈良期の「伊勢青木氏からの血縁」で嗣子の一人に「近江の青木氏」を興させた。
これが「近江青木氏」で、この「近江青木氏」と「近江佐々木氏」との重血縁で「近江佐々木氏系青木氏」が発祥して子孫を拡大させた。
この三つは「近江佐々木氏」が主縁(リード)と成っている。
「近江三氏族」と云われていた。
この「三つの族」は地理的要因でその存続の「経済的な裏付け」が弱く、従って、「伊勢」は「額田部氏や穂積氏」を投入して「干拓灌漑の工事」をして「和紙の殖産」を促した。
ところが、史実としてこれが「逆の効果」を生んだ。
「近江佐々木氏」にリードされた和紙で経済力が着いた所以を以て「二つの青木氏族」は「伊勢と信濃」から離れて「甲斐」と同様に「自立の道」を選んだ。
「近江佐々木氏」にリードされた事から「伊勢」とは疎遠と成って仕舞った。
ところが、更に「嵯峨期」に入っても「縛り」の外れた「嵯峨源氏」が当に近江の地元で起こった。
当然に、その傾向にあった「三つの族」は更に「源氏化」が極端に進んだ。
「近江佐々木氏」に全て引っ張られていたと云う事である。
これが経緯である。
「近江」には源氏化で最早当然に「伊勢の権威と支援」は必要なかった。
要するに「近江族」には、「信濃」と「甲斐」と共に“「一色の格式」”に付いて「別の意味」を持っていた。
「近江佐々木氏」にも「源氏化」が起こった事に依って相反する意味を持つ「一色」を拒絶するそれを「他の近江二氏」と共に成し得ていたのである。
これが「近江」に「一色の地名」の無い所以である。
従って、この「三つの青木氏族」は「経緯と云う過程」で「一色の地名」に於ける「権威」は必要とはしなかったのである。
況や、近江族に執っては当に論外であった。
(注釈 近江でこの「一色」を必要としなく成った事が「神明社の情報紋の遮断の主原因」と成ったのである。
近江は「佐々木氏と経済力」が主因であった。)
「一色の論」から「美濃の論」の元に戻して。
然し、「美濃」は要するに、これ等の事と比較すれば、前段でも詳細に論じた様に主因は次の為の事であった事が判る。
前段で論じた事を「別の視点」からこれを観て観る。
「面白い経緯」が見えて来る来るのだ。
第一段は「皇子」を引き入れる事に依る「源氏化」が起こったのである。
第二段がその「源氏化」が引き起こした「姓族勃興」の「神明社の情報と物流の遮断化」であった。
「第二段の事」はそもそも「青木氏」である限りは「神明社族」であり、然しながら「源氏化」に依って「八幡社族」と成って仕舞った。
結局は「神明社」と「八幡社」は「密教と顕教の差」にあり、その「教義」は相反するものと成ったのである。
故に、「神明社の存在否定する結果」と成ったと云う事である。
(注釈 「密教と顕教の差」は前段で論じた。
「9つの縛り」と「原理主義の白旗派・律宗」の意味する差である。
端的に判り易く云えば「水と油」であるだろう。)
これが「美濃域」には「神明社」が少なく成った所以であって、それが「源氏化と姓化」に合って、それが「源平戦」と成って「神明社」が無くなり、上記した“「第一段の遮断」”が起こったのである。
これが当然に「伊勢と信濃」に大きく影響した。
「源平戦」で敗戦し生き遺った「一色族」は前段でも論じた様に「信濃までの山間部」に逃げ込んだと云う形である。
然し、此処で彼らの一部は「生遺路線」を選択して「源氏族」から逃れ「一色の青木氏」を旗印に「伊勢信濃のシンジケート」と成ったと云う経緯である。
この時、「青木氏の財力」を使って彼等を保護し「美濃-信濃間域」に「神明社の再興・情報網(第1期)」を成し遂げた。
(注釈 この時の「神明社再興」には“「神明造祠社」”が多かった事が「桑名の資料」には記されているし、現在も「桑名と美濃の西地域一帯」にはこの「神明造の祠社の神明社」は遺されている。
管理は「青木氏神官族」で成されていたが、「社」というよりは寧ろ此処に「青木一族」が集合して「情報交換・中継点形式」をしていた事が記され、その内容が判っている。
「室町期の御師制度」の「情報交換の中継拠点化」と成っていた事をも示す。
「全国から集めた情報」をこの「桑名域に集めていた事」にも成る。
つまり、「桑名殿」が「情報交換の係」を担当していた事にも成る。
これは「商いの情報」と「戦況の情報」であった事にも成る。
「美濃伊豆の戦況」も然る事乍ら「商い」も大きく成っていた所以であろう。
これは前段でも論じた様に「伊勢」では「桑名」に全て「神明社・9社」が一括集中させていた事でも判る。
それ故に、前段の「御師」から集めた情報から「移動時期」を見据えて「伊勢の裔系の集団移動」はここに辿り着けば安全であって、元より「桑名殿の裔系」であった事にも依る。
此処に美濃の「伊勢の裔系」の「二つ目の清光院」と「二つ目の清光寺」を木曽川長良川を隔てて戦略的意味合いで右に隣接する様に建立しているのである。
前段でも論じた様に「額田端浪の一色」から現在のR19で全く直線的に最短で移動した事に成る。)
前段で論じた「移動経緯」から水路では一時それなりに回復する「第2期」が起こった。「伊勢-渥美-駿河-伊豆」と繋がった事に成ったのである。
次はこれを起点に「国衆の南下策」を促進させる為に「陸路」の縦の「伊勢-三河-美濃-信濃の情報網」を造る事にあった。
ところが室町幕府との「白旗派の浄土宗承認」や「伊勢神宮信仰」に合わせた「神明社の庶民信仰」等の「政治的策謀」や「御師制度」等の策で「空白地」「空白期」では「伊勢-美濃-信濃の情報網・R19」で一時的に繋がったかに見えた。
然し、これも「15年程度の短期間」で「空白地」「空白期」は崩れたのである。
これで再び、「室町期の戦乱」で「信長勢力」に依って恣意的に「神明社の情報網・中継点形式」が遮断される結果と成ったのである。
要するにこれが「第3期」である。
これで再び「伊豆との連絡網の遮断」と成った。
然し、「平安末期の伊豆の結論」は、それぞれ違う経緯で「近江と美濃と甲斐」が敗退したのである。
その「時系列の経緯」は、この事から上記の通り「1159年」から「伊豆入り」し、「1221年の直前」までの「約60年間程度」でそれなりに「神明社の情報網・中継点形式」は回復させた事(第3期)が「人と神明社の構え」から判る。
いよいよ「国衆の南下策」を急いで動かそうとしていたその時に、然し、再び、記録から観てみると“「鎌倉時代」の「伊豆内部の混乱」”で「第3期の神明社焼失」の事と成っている。
要するに今度は「鎌倉幕府の滅亡の混乱」に巻き込まれて「伊豆の神明社の焼失」が起こって仕舞ったのである。
滅亡寸前であった事に成る。
これらの「室町期前期」の「3期の経緯」を経て、結論は「1540年以降の室町期後期」に再度、前段で論じた様に「国衆の南下策」で回復させた事(第4期の経緯)に成っている。
そこで、この時「3期の経緯」は、「室町幕府」が「法然浄土宗14派中」の「最小派」の「白旗派の密教浄土宗・原理主義」を「本貫本宗」として強引な決定を下した。
同時に「原理主義一体」のものとして「神明社(青木氏の守護神)」も認める等の決定を下し「青木氏」を擁護した。
これがこの際の「幕府と青木氏の政治的策謀」であったと観ている。
これで、「神明社の情報網・中継点形式・水路」は「藤枝・富士宮・三島と駿河」までの再建立(第3期)が成し遂げられたのである。
「浄土宗」が「白旗派の原理主義の律宗族」と成った以上は、つまり、「伊勢と信濃の青木氏」の「政治的立場」が公に認められたも同然と成った。
これで「1560年期の松平氏・三河で独立」が「三河国衆」として認めより「国衆の南下策」が容易と成ったと考えられる。
当然に「国衆」に成るには南下策だけでは成立しない。
「足利氏との政治的策謀・裏工作」と同様に「松平氏との政治的策謀・裏工作」は否定できない。
(注釈 この第4期の「藤枝の四つの神明社」にはその「第4期なりの特徴」が出ているのである。
それは「神明社の構え」であるのだが、この中に「特徴」を顕著に表している「神明社」がある。
それは「呼称」の一つだけに表れているその「社名の構え」が“「伊勢神明社」”と云う「神明社の情報網・中継点形式」を適格に表現しているものであるのだ。
実はこの「伊勢神明社の命名」は「信濃と美濃」にもあるのだ。
敢えて、「第4期」の混乱期であるが故に、「足利氏背景」と「律宗族・遺された皇族系族」であるとする「其れなりの意味・誇示」を持たして名付けたと考えられる。)
「伊勢と云う呼称」のその背後に「伊勢の抑止力」を「伊豆」にも宛がえたと観られる。
将又、同時に「仏教の象徴族」の「律宗族」であって、且つ、明らかに全国庶民信仰と成った「神明社」の「神明社族」であるとしてその族の「神明社の情報網・中継点形式」の「拠点である事」をも周囲に誇示している事に成る。
これは同時に、「神明社」を分散させるのではなく「伊豆」から離して「藤枝、三島地域、富士宮地域」の三カ所と隣の「駿河市東町」の「一地域」に集中させているのだ。
本来であれば「庶民信仰」であれば平等に「分散」させるのが常道である筈だ。
ところが極めて一か所に集中させているのだ。
明らかに「伊勢の呼称」と共に「ある種の目的」があっての事である。
この上記の「計四ケ所の神明社の創建期」と「伊豆内部の神明社の創建期・平安期」が現地調査に依ればその「構えの内容・平安期の様式変化」から判断して大きくずれていて前者が「室町期初期」である事が判る。
「伊勢-美濃-三河-駿河-伊豆」の経路を再興して「伊豆」を護ろうとした場合は、「伊豆の人」が先ず移動してそこに「守護神社・神明社」を建てると云う経緯を辿るだろう。
「室町幕府の擁護」もあってそれなりに補完出来た「第4期」でこれを実行したと云う事に成る。
それ故に、「伊勢の呼称」は「室町幕府の擁護」があった事も相まってあってその「格式」を誇示しての事もその一つであったであろう。
「室町幕府の擁護・白旗原理主義」が「全国の神明社」をも護った事もあったと考えられる。
つまり、普通ではあり得ない「菩提寺」が「守護神」を護ったと云う事である。
これは、特定される「律宗の氏族」であるが故であろう。
この様に「室町幕府の権威」が失墜し始めた室町期末期までは兎にも角にも「神明社の情報網・中継点形式」は何とか維持出来た。
これが上記した様に「特別な変化」である。
(注釈 そもそも「神明社の建設」は、「社格」は「官幣社」で在り乍らも「賜姓五役・令外官」であるとしてその「財源と建設と維持管理」は「青木氏部」で江戸初期まで行われていた。)
さて、これで「伊豆側」の「神明社の情報網・中継点形式」は回復した様に観えた。
唯、ところが「伊勢-美濃-三河-駿河-伊豆」の経路は、「伊勢-美濃-三河」の間で上記した様に再び断絶したのである。
「戦乱期の信長」で「尾張域の神明社」は再び「神明社の情報網・中継点形式」の「神明社」が今度は「信長勢」に敵視され遮断される結果と成ったのである。
「室町期中期」には遂には「情報交換・中継点形式」は、又もや「伊豆」には届かなく成って仕舞ったのである。
今度は「青木氏の対処」は違った。
再び、渥美への裔系の移動は前段の通り成功した。
そして次の段階として「1540年頃」から「ある行動」に移したが、今度はその戦略は氏是を破り「戦闘的」であった。
そもそも、この行為は奈良期からの「青木氏の氏是」に反する。
然し、何故この「青木氏の氏是」に反する行為を執ったかである。
その理由は実は「伊勢から伊豆」までの「情報交換(中継点形式)」には「大きな欠点」を持っていた。
この「欠点」が「戦乱と云う状況」の中で「氏全体の致命傷」に成る欠点であったからである。
それまでは問題では無かった。
「伊勢-美濃-三河-駿河-伊豆」の経路を観ればすぐ判る。
それが「-三河-駿河-」には「青木氏」は存在しない。
要するに「定住地」では無いのだ。
然し、それでもそれまでは「人間の血管」に当たる“「神明社」”と云うものがあって生きて行く事が出来た。
(注釈 歴史的にはこの域を支配する「今井神社系のシンジケートの連携」で何とか助けられて繋がっていた。)
ところが「戦乱と云う状況」では“これを絶たれると云う事”が起こった。
“「人間の血管」だけでは駄目”に成ったと云う事である。
要するに「体」を造らなくては成らなく成った。
その「体」が「氏の人」のものであって、其処に置かなければ効果は出ないと云う事である。
「神明社」が「血管」であって「心」であり「体」と一体にしなければ成らなくなったと云う事である。
この「-三河-駿河-伊豆」の間に何らかな方法で「体」を置かねばならない。
そして、それだけでは無かった。
「伊勢-美濃-信濃」が「信長」に壊されようとしていたのである。
現実に「体のあった美濃」が小さく成って「山間部」に逃げ込んだ事で空いた隙間を見事に壊された。
「神明社の血管の破壊」と「美濃氏の体の破壊」も興り形が無い事に成って仕舞ったのである。
「伊勢-(美濃)-信濃」でも「信濃シンジケートと云う形」で繋いでいたが無理と成っていた。
それは「伊豆」が成り立たなく成っていた事を示すものであった。
この「空いた隙間」を埋めていた「伊勢秀郷流青木氏族」も補完して「美濃」まで張り出していたが、その「頼みの勢力」の一つと成っていた「永嶋氏」も衰退し「結城」に引き始めていたのである。
そこで「伊勢と信濃」は「戦闘的復興戦略」(下段で論じる)を採った。
つまり、此処に「陸路と水路」の「神明社に依る情報交換点(中継点形式)」を構築しなければ「廃墟と復興の第5期」が必ず起こる。
「伊豆の背後」の「頼みの綱」の「秀郷流青木氏」に「助太刀」を頼むとしても「神明社に依る情報交換点(中継点形式)」が欠けていれば「即戦力」には成らず間に合わなく成っていた。
では、どうするかであった。
簡単な事である。
「美濃」をもう一度興して「美濃」から「三河の湾岸域」に引き出して「青木氏の拠点を新たに作る事」と、破壊された「神明社に依る情報交換点(中継点形式)」を造りなおす事以外に無い筈である。
これで「血管と体と心」が「伊勢-美濃-信濃」と「-三河-駿河-伊豆」を造る事が出来る。
「伊勢-美濃-信濃-三河-駿河-伊豆」(駿河には第4期で構築した)は完成する。
これで「伊豆」は護れる。
前段でも論じた様に、問題は上記の“「美濃・額田一色」を「三河」に下ろして来る事が出来るか”である。
つまり、「信濃シンジケート」と成っている「美濃の額田青木氏」を「シンジケート」では無い「三河の青木氏」にする事である。
これは「山岳民」を「湾岸民」にする事に成る。
これは「人,時、場所」の「三要素」が揃わなくては成り立つ戦略では無い。
それには「陸路と水路の両面のルート」を構築しなければならない。
「縦の陸路」は“「美濃」を「三河」に下ろして来る事で出来る。
そうして、これが出来れば「三河の港」を確保すれば伊勢と三河までの「水路」は「伊勢水軍」で成り立つ。
「水路」は「伊勢-(美濃-信濃)-三河-駿河-伊豆」の上記で論じた様に「駿河」には「第4期」で構築したので「駿河・駿河湾」と「内浦湾」では出来ている。
後は「三河と駿河間の水路の構築」にあった。
そもそも、「水路」はその「圏域・海域権」が「水運組合と海運奉行」に依って昔から決められていて変わっていない。
要するに「伊勢水軍」が勝手に入る事は出来ないのである。
ではどうするかであった。
「伊勢の尾鷲」の「伊勢水軍の差配」の家に資料が遺されていて、この一節にこの事に付いての「行」がある。
要約すると、「摂津会所の・・・駿河殿の件の御差配に付いて承知致し候故に御安堵下される様に・・・御手配お頼み申し候・・・」とある。
恐らくは「福家からの指示」があって「水軍」が何かをしたと考えられる。
この時期は準備段階に入った5年後の「1545年」と成っている。
同時に前段でも論じたが、伊勢が「千石船の大船」を更に一艘を持ち、「熊野水軍」と「摂津の寄合組合」に「海路の水利権」を申し出て獲得している。
「商記録」にもこの「支払添書」の一行事があり一致している。
これは恐らく「組合員の会員権の取得費」であろう。
「摂津」までの四艘目の「海路の水利権」を持った事が判る。
さて、そこで、「駿河水軍の事」ではあるが、「駿河水軍」には「平家水軍」に対抗する為に「駿河源氏」に頼まれて参戦するが滅亡する。
この「駿河水軍」と「伊勢青木氏」と「伊勢水軍」は相互に血縁関係を持っていた事を前段で論じたがこの「源平戦」で「美濃族」等と共に滅亡する。
この「駿河水軍」は其の後も「海路の水利権」だけは持っていたと考えられる。
筆者の分析では、「伊勢の福家」はこの時の「差配」を「伊勢水軍の差配頭」に考えを述べたのでは無いかと観ていて、上記の資料はその時の打診であったと観ている。
そして、「1540年の準備段階」の五年後から「伊勢水軍」に「駿河水軍の支流末裔の者(血縁族の駿河青木氏滅亡)」を呼び出して訓練し、其の後に「伊勢」が建造した「船一艘」を与えて、「血縁族の駿河水軍」を復興させようとする考え方を述べたのでは無いかと考える。
その為に取り敢えず、経済的に成り立ちさせる為に「摂津会所(堺)」に先ずは「海路水利権」を申し込んだのでは無いかと観ている。
「駿河水軍」としての申請では無く「伊勢の申請」として扱った。
「伊勢の仕事」を彼らに与え「摂津支店」までの「荷駄の搬送」に従事させて経験を着けさせたと観ている。
この事を「血縁族」でもあった「伊勢水軍の差配頭」にこの事を相談し伝えて了解を得たという事ではないかと観ている。
さて、その後の事ではある。
「駿河域の会所(府中)」に「駿河水軍」が組み入れられるかであろう。
唯、「組合の株券」は保持している筈である。
「源平戦」で負けただけで既に幕府は室町期にあるとすれば、「出自を証明」できれば「復権」は出来る筈で、後は「商人」である以上は「組合の株券」を買うと云う名目の裏の手で解決は可能である。
この「証拠」と成るものは無いが、「状況証拠」である。
(注釈 この「状況証拠」に付いて現実に「其の後の事」ではあるが、「駿河湾」と「内浦湾」に「伊勢からの荷駄・商記録に四か所の記載有」が入り「藤枝、三島」を始めとする「地域・八カ所の青木氏」の「青木氏の商い」が復活しているし、「下田」と「稲取」にもである。
当然に、「神明社に依る情報交換点(中継点形式)」を構築も復活しているのである。
これが何よりの証拠である。)
先ずそうすれば「水路」では「三河・渥美湾」から「伊豆・駿河湾」まで成り立つ。
後は「陸路の創設」が「戦い」を伴ったもので大変であった事が「松平氏の戦記等」の複数の記録で詳細に判っている。
この様な「多くの死者」を出した「実戦事」は「伊勢」と「信濃」の「青木氏の歴史」の中では初めてである。
それまでは全て「抑止力」で済んでいる。
ところがこの時の記録に依れば「額田青木氏の差配頭」等が「激しい銃弾戦」で戦死しているのである。
尚、注釈として、「伊豆の現地調査」の印象の一つは「イ地域からリ地域」までの「青木の地名」の「青木氏」には現在も「何らかの商い」を営む「青木さん」が実に多い事であった。
この事に意味があって、1159年に「伊豆」に入ったが当然に其れまでには「伊豆の土地への繋がり」は全く無かった。
「伊豆」は実質は「頼政の所領地の守護の警備」としてではなく、「山岳地の伊豆」を豊かにする「管理人的な目的」で「頼政」に頼まれて入った経緯である。(清盛の圧力)
従って、「伊勢や信濃」の様に「土地の郷士との繋がり」で「氏族」を形成していた訳では全く無かった。
「伊勢信濃の融合族」として「管理人的な目的」では「商い」が主体で管理するだろう。
「頼政」は遙任であって実質の格式は「守護代」である。
「地域の治安」と「地域を豊かにする事」の「二つが目的」であって「武力的に統治する形態」ではそもそもなかった。
故に、「伊勢や信濃との繋がり」の中で「殖産を含む商い・伊豆楮や海産物」を興して統治する事が主眼であった。
伊勢に送っていた形態であった事が記録に遺る。
それだけに、「伊豆の商い」は「独自路線での伊豆」では無く、飽く迄も「伊勢や信濃との繋がり」が切れれば滅亡するのである。
当然に「伊勢や信濃」はこの「命の繋がり・血管」を切る事は見殺しに成る事は充分に承知の上である。
必死に成って「神明社に依る情報交換点(中継点形式)」を構築してこれを護ろうとしたのである。
「管理人」として入った当初は「土地との繋がり」の無い地域である。
故に「国友」を「信濃青木国友」として入って管理している者等に配慮し、且つ、「地元の者」には実は「頼政の孫」を隠して「信濃の青木国友の事」を誇示して上手くバランスを保ったとも考えられている。
その経緯が現在に成っても“「何らかの商い」を営む「青木さん」”の形に成って表れていると考えられるのだ。
(注釈 実は、前段でも論じたが、「伊勢」に、この時、「伊勢秀郷流青木氏」の出自元の「秀郷流蒲生氏郷」が入り、「近江商人」を呼び寄せて「管理方式」で「国を富ませ統治」に替えるとする考え方を採用した。
この方式が平安末期から鎌倉期芽を吹きだしていた。
「清盛」も同様の形式で九州の北部域太宰府などを統治しようとした。)
当の「青木氏」から観れば約300年後の「宿敵の信長」も「楽市楽座・自由市場」の方針を示している。
つまり、「伊豆」は既に1159年にはその考え方を実行したその「先駆け」であった筈である。
「伊豆」に執つては300年経ってもこの環境下にあってこれまで上記した様に「四度の復興」で生き延びて来た。
この「管理方式の立場にあった事」が「一種の欠点」でもあったのだ。
「伊勢と信濃」は「商いをしている事」からもこの「一種の欠点」を「神明社に依る情報交換点(中継点形式)」で必死に補い救おうとした構図と考えられる。
然し、それが「四度の再興」で何とか逃げ延びられたが今度は簡単では無く成ったのである。
それが皮肉にも同じ考え方を持ちもっと進んだ考えの「信長」であったのだ。
唯、「彼の考え方」には「伊勢信濃の律宗族」に執っては「相容れない勢力」があった。
それが「青木氏」が「補完の手段」としている「神明社に依る情報交換点・シンジケート」の「寺や神社などの勢力」も含む「影の勢力」であった。
「伊勢」でも「影の勢力」として観られ、同時期(1568年~1576年)の8年間に渡って「信長勢力(秀吉含む)」とも争っているのである。
然し、緊迫していたのは「伊豆」だけではなかったのだ。
当然に「伊勢」も対象として観られていたが、「伊勢シンジケート」で対処して「伊勢の五つの戦い」で勝っているのだ。
ところが不思議な事にこの「勝った背景」には、前段でも論じたが「信長」から派遣されていた「血縁族である信長の家臣の蒲生氏郷」があったからだ。
彼は「伊勢秀郷流青木氏の出自元・氏郷の曾祖父の兄弟」であり、故に彼は上手く立ち回ったのである。
それ故に「伊勢の背景」が出来た事から早期でも「美濃」に手を出す事が出来たのである。
前段でも論じたが、一説には、“「1540年頃」には動き出した”とする記録があり、これには「美濃」で起こった「斉藤氏等の争い(美濃尾張を制する)」に「シンジケート」が多少は何らかの形で関わったとする説では無いかと観る事も出来る。
然し、上記の時期では「伊勢」では「駿河水軍」を興す為に「船の調達」に関わる「伊勢水軍」との「やり取り」が「1545年頃」であった。
そうすると、この説ではこの5年間で並行して何か既に「美濃域」で動いていたのでは無いかとも考えられる。
実際には「初期の戦闘行動」があったのは「1545年~1575年代」であったので、この間の「30年程度」は時系列的に“準備期間であった”と云う事にも成る。
準備期間は当然に斉藤氏に疑われる。
然し、記録から斎藤氏との間での争いに関するものは発見できない。
先ず、南下の為の「三河の松平氏との調整」の前に、手順としては現場でのこの「斎藤氏との調整」を果たさなければならないであろう。
斉藤氏は「1432年」から始まり1542年の最盛期を経て最終は「1573年以降」は衰退し、そして江戸期には「米沢藩の平侍」までに落ちる事に成るが、「国衆」が南下して「一言坂の戦いの1年前」と成る。
そうすると、少なくとも南下に入り「三河松平氏の国衆」と成った時期の「1560年以前」では美濃では未だ「斎藤氏の影響・1567年」を受けていた時期である事は間違いは無い。
「超近代銃の集団」を訓練しているのに何も無かった訳では無いだろう。
その為には二つ考えられる。
一つ目の策は、一時的に「美濃国衆(斉藤氏の国衆)」に入っていた事
二つ目の策は、斎藤氏に「裏の策(金策)」を使った事
この「美濃国衆(斉藤氏の国衆)」は公的な記録に遺されているので現実である。
国衆として「美濃」を離れて「三河国衆」として南下するには斉藤氏に対してそれなりの策を講じる必要がある。
無事に南下するにはそれが「二つ目の策」であった筈である。
故に経過としては南下出来たと考えられる。
「1567年」に「稲葉城」を「信長」に依って滅ぼされ「1573年」に逃亡した。
(注釈 この「時系列の結果」から観ても、犬猿の仲の「信長が入る前の時期」に「上記二つの策」で南下している事(1560年説)の資料は間違いはない事に成る。)
「本戦の戦闘行動」は前段でも詳しく論じた様に「一言坂の戦い(1572年)」で、続いて「三方ヶ原(1573年)」であった。
実はここまでは関わったのである。
実はこの時期は上記した様に「伊勢」でも「激しい戦い(1568年~1576年 実質は1578年)」に成っていた。
ところが、記録を観ると、「ある事(詳細は後段)」で「其れ成りの目的」を完成してか「1574年以降」は「三河」から手を引いている形に成っているのだ。
唯、この「資料説」が史実とすると、“「1540年~1560年の行動(準備期間)・(準備戦)」と「1568年~1578年の戦い・(本戦)」がどんなものであったのか”は「詳細」は判らないが気になる事である。
後者は前段で論じた様に、記録の通り当に「戦い」のそのものであった。
問題は「前者の期間の行動」である。
“「ある事(詳細は後段)」”が「伊豆」に関わる事であるとすると、この「シンジケートの元」が「第4期の再興の事」と成り得る。
然し、この時の少し後には、既に「美濃」では「神明社の情報網」は切れていたので、「戦闘的復興戦略の作戦行動」の本戦とは別に、要するに“「初期作戦」”が取られていた可能性は否定できない。
伊勢(前半はゲリラ作戦・後半は本戦)でも戦っている時期である。
この環境の中で「後者の戦い」にいきなり突入する事は無いと考えられる。
そうすると、「前半と後半」とには「8年間の差の期間」があるが、「1560年~1568年」の「準備期間の後半」である。
この期間が“「初期作戦」”説としは正しい事に成る。
では「どんな作戦」で「戦い」は繰り広げられたのかではある。
ところがこれには詳しい記録はない。
そこでこれを読み解くには「戦闘的な復興戦略の作戦行動」には何が考えられるのかである。
つまり、「シンジケートの額田青木氏」を「国衆」として「蒲郡」まで引き出して「土壌」を作るには「美濃」と三河」にどのような行動を取らす必要があるのかである。
それを一応、次の様に考えて観た。
イ 「準備の財源」には問題は無い事を保障している事。
ロ 「伊勢と信濃」が説得に掛かっている事。
ハ 「一族の生活保障」を約束している事。
ではこの「三つの事」に就いてどの様に手配するかであろう。
0 シンジケートの目的と説得 (神明社復興 伊豆救出)
1 シンジケートの内部の意思統一 (「a族とb族」の利害統一)
2 シンジケートの「差配頭」をどうするか (美濃青木氏の末裔)
3 この「組織」をどの様に分けるかの決定 (「a族とb族」の二つに分けた)
4 その「組織の形」を何にするか (「国衆」として結束)
5 「戦略の提示」とその「作戦会議」 (最大の課題)
6 「軍師の決定」 (伊勢秀郷流青木氏)
7 「作戦実行」を何時に開始するか (美濃を出る時期)
8 「合力相手との関係性」の決定 (松平氏)
9 「松平氏(国衆)」との調整 (伊勢が担当)
10 「戦略実行後の処置」 (伊勢信濃が補完)
11 「土地の郷士との説得」 (国衆として入る地元説得 蒲郡と吉田)
12 「駿河青木氏」の復興 (駿河水軍の再興)
13 「駿河水軍と美濃族との関係性」の復活 (平安末期決別 水陸の経済的繋がり)
14 「渥美湾の利権」の取得 (美濃の陸運と水運の融合)
15 「駿河水軍」との結合 (伊勢湾-渥美湾-駿河湾の航路)
16 「神明社」の建設開始 (桑名-渥美-駿河-伊豆)
筆者ならば少なくともこれだけの事は事前に決めて係る必要があると考える。
その「問題の決め手」は「戦い」を前提とすれば主要な事は「5と6の事」であろう。
これを“1590年程度で「最終目的・南下定着」に到達させる”とすると長くは無い。
何せ「伊勢」も「戦い」に入っているのだ。
「伊勢と信濃」が「実戦力」を持っていないと成れば、「伊勢のシンジケート」の「抑止力」をフルに使って牽制して、且つ、「財力」で抑え込む以外には無い。
前段でも論じたが、現実に「伊勢の松ヶ島戦い」の「二戦」では幾つかの記録には完全にこの「伊勢のシンジケート」の「抑止力」だけで勝利して「最小限の負担」に軽減している。
これに「秀吉の長島の戦い」を入れれば「伊勢五戦」である。
全てこの策で伊勢はとりあえず勝利している。
後は、「三河」に全力を投入すると云う事に成る。
現実には作戦通りに「伊勢信濃が出来る事」は、上記の通り見事に「伊勢のシンジケート」の「抑止力」を派遣してフルに使って牽制して、且つ、「財力」で抑え込んだ事に成った。
片方の伊勢で戦い、片方の美濃では国衆南下をさせたのである。
実戦に近い「伊勢シンジケート」を使って先ず「三河の山間部」を獲得する事であった。
「戦略物資の輸送路の遮断」
「戦闘物資や食料調達の買い占め」
「周辺域のゲリラ作戦の展開」
「伊勢」と全く同じ作戦」を「三河」にも採った事が「商記録の添書・商取引・時系列」で読み取れる。
これが“「初期作戦」”説の根拠に成っている。
「1560年~1568年」の「準備期間の後半」の事である。
その「国衆南下のルート」は「本庄の額田」から「蒲郡」までの「真南に60k」の「圷と山間部の境目」を降りて来る事に成る。
この“「初期作戦」”の目的は改めて次の二つにあった。
「国衆」と成って南下して「渥美湾域」を抑え此処に「陸路水路の拠点」を築く事
「伊勢の信長勢力」に絡み乍ら「三河」での「信長勢力への牽制」である事
この「初期作戦の二つの目的の達成」であった。
この「二つの目的達成」は「信長」に執って「戦略上好ましくない事」であったと考えられる。
然し、「松平氏」にはやっと「三河」を「今川」から取れたもので、これを「信長」に取られる危険性はあって、それを三河に執っては「国衆の立場」から側面から牽制してくれるのには都合はよかった。
誰も入手できない超近代銃を持つ事で「単なる国衆」とは見ていなかったのであろう。
それは「歴史的な史実」として「雑賀衆」に入手を断られそれだけに困難さは知られていた筈である。
(注釈 「雑賀衆と根来三千の銃傭兵」で取り敢えず解決した史実が在る。
そこで「信長の松平氏への牽制」は、歴史的にもこれは「現実の事」として激しく動いていた事はこれは史実である。)
何しろ「ゲリラ作戦の国衆」で、且つ、“「超近代銃300丁(下記)」”で「武装する国衆」であり、後ろに「財力の青木氏」が控えていると成るとうっかり手は出せない。
既に少し前に「伊勢の事(伊勢五戦)」で「痛い目」にあっている。
抑々、「額田青木氏」と云えど「普通の国衆」では無い。
何せ背後に「伊勢」と「秀郷一門」が控えている。
信長に執つては直近に「武田氏との決戦」を控えている中では「三河の国衆側」から動かなければ取り敢えずは「黙視」が常套手段であろう。
現実に松平氏は国衆を使って西には動かなかった。
「戦い」も無く「蒲郡域と吉田域」を「今川氏衰退(1560年・岡崎城敗退)」のすれすれ(「1560年~1568年」の「準備期間の後半」の記載)に手に入れる事が出来たのは、この「強力な背景」があった事に間違いはない。
恐らくは、この「信長」は「岡崎城奪取のチャンス」を狙っていたと考えられる。
単独での「蒲郡と吉田の奪取」は目立ちすぎる事から得策ではない筈で、従って「松平国衆」として「蒲郡と吉田の奪取」であれば、「信長」を含む「衆目の理解」が得られた筈であった。
これ等の好機に付いては次の「裏の段取り」が在ったと考えられる。
「地元と松平氏への裏の交渉・情報の取得など」が在った事に依るだろう。
「地元の土豪郷士」に執っても安全は保たれる事にも成る。
これは「地元の郷士と松平氏と額田青木氏」の「三方両得の策」であっただろう。
(注釈 「伊勢青木氏」から「軍資金等の協力金名目」での「三河」に対してそれなりの処置は在ったと考えられる。
何故か「名目」を替えての其れらしきものがこの期間内には「商記録」には見つけられない。)
つまり、「水路の戦略(1540年~1545年)・第1期」と「陸路(1560年~1568年)・第2期」とは「ある期間・15年・第1期の準備と第2期の南下の重複」を置いて同時並行して続行していた事になるのだ。
それでも「戦闘的な復興戦略」を実行した。
(注釈 この「戦闘的な復興戦略」を「後段の伝統 56-1」で詳細に論じる。
「三河と伊勢」に「青木氏に関わる多くの資料と記録」が遺るので詳細に再現してみる。)
その前に、「予備知識」を次の段に論じて置く。
「青木氏の伝統 56-1」-「青木氏の歴史観-29-1」に続く。
名前 名字 苗字 由来 ルーツ 家系 家紋 歴史ブログ⇒
> (注釈 当初、「近江」と「伊勢」は前段でも論じたが、「川島皇子」と「施基皇子」の異母兄弟の時代は女系での血縁は完全な同族血縁の一族であったほどに相互に行き来していた。
> 中の良い関係を続けていた。
> 然し、「嵯峨天皇の源氏化が起こる事」に依って「決定的な溝」がうまれ、疎遠と成ったのである。
> 余談であるが、「川島皇子の裔」系の「近江佐々木氏」に引きずられた縁戚の「二つの青木氏」は「真砂不毛の地」で「財力の無さ」と「天武期の「反抗行動」から「朝廷の中」で立場を失って行った。
> その為に源氏化で生き残ろうとした。)
>
>
> 敢えて、追加して上記を論じた様に、「信濃」は「伊勢」と共に「女系」で「青木氏族の体制」を確立していた為に、これには是非に「美濃の源氏化」を進めない様にする事が戦略的に必要であった。
> この為にも「信濃」には同族並みに充分であった為に「伊勢の一色での格式」は必要が無かった事に成る。
>
> 然し、「美濃」にこの「生命線を壊す事」が起こって仕舞ったのだ。
> 恐らくは、この時までは“「伊勢と美濃と信濃のライン(神明社で繋がる族)」”は、戦略的に「青木氏族の生命線」と判断していたと観ての事であったと考えられる。
>
> それには二つあった。(前段でも論じている。)
> 第一段の「皇子」を引き入れる事に依る「源氏化」が多少起こっていたのである。
> 第二段がその「源氏化」が引き起こした「姓族勃興」の危険性で既にあったのである。
> この二つにより「神明社の情報と物流の遮断化(本論)」が齎す危険性であった。
>
「青木氏の伝統 55」-「青木氏の歴史観-28」
さて、前段から「信濃」には「一色の格式」は必要無かったと云う結論に成る。
そうするとここで先に論じて置かなくてはならないのは“「近江の事」”である。
その前にもう一度、お浚いをして置く。
前段でも何度も論じたが「近江」には、抑々、何度も論じているが「近江青木氏」と「近江佐々木氏系青木氏」に「近江佐々木氏」の三氏が「同族の血縁族」として存在していた。
最初は始祖の川島皇子の裔の近江佐々木氏が発祥し、そこから皇子族が近江に移り「伊勢の施基皇子の賜姓」に倣って「青木氏」を名乗り「近江青木氏」が発祥した。
そして、この両氏が血縁して「近江佐々木氏系青木氏」が発祥した。
「近江佐々木氏」は「青木氏族の一員」としても考えられる。
「近江佐々木氏」もその様に考えていたし、異母兄弟の「伊勢の施基皇子」の裔と相互血縁した様に「奈良末期の血縁」では間違いなくそうなる。
(注釈 「近江佐々木氏」の「青木氏の研究記録」に詳細に記されている。)
そもそも、「近江青木氏」はその所以を以て発祥している。
概要は次の通りである。
前段でも「血縁弊害の処」で論じている様に、奈良期の「伊勢青木氏からの血縁」で嗣子の一人に「近江の青木氏」を興させた。
これが「近江青木氏」で、この「近江青木氏」と「近江佐々木氏」との重血縁で「近江佐々木氏系青木氏」が発祥して子孫を拡大させた。
この三つは「近江佐々木氏」が主縁(リード)と成っている。
「近江三氏族」と云われていた。
この「三つの族」は地理的要因でその存続の「経済的な裏付け」が弱く、従って、「伊勢」は「額田部氏や穂積氏」を投入して「干拓灌漑の工事」をして「和紙の殖産」を促した。
ところが、史実としてこれが「逆の効果」を生んだ。
「近江佐々木氏」にリードされた和紙で経済力が着いた所以を以て「二つの青木氏族」は「伊勢と信濃」から離れて「甲斐」と同様に「自立の道」を選んだ。
「近江佐々木氏」にリードされた事から「伊勢」とは疎遠と成って仕舞った。
ところが、更に「嵯峨期」に入っても「縛り」の外れた「嵯峨源氏」が当に近江の地元で起こった。
当然に、その傾向にあった「三つの族」は更に「源氏化」が極端に進んだ。
「近江佐々木氏」に全て引っ張られていたと云う事である。
これが経緯である。
「近江」には源氏化で最早当然に「伊勢の権威と支援」は必要なかった。
要するに「近江族」には、「信濃」と「甲斐」と共に“「一色の格式」”に付いて「別の意味」を持っていた。
「近江佐々木氏」にも「源氏化」が起こった事に依って相反する意味を持つ「一色」を拒絶するそれを「他の近江二氏」と共に成し得ていたのである。
これが「近江」に「一色の地名」の無い所以である。
従って、この「三つの青木氏族」は「経緯と云う過程」で「一色の地名」に於ける「権威」は必要とはしなかったのである。
況や、近江族に執っては当に論外であった。
(注釈 近江でこの「一色」を必要としなく成った事が「神明社の情報紋の遮断の主原因」と成ったのである。
近江は「佐々木氏と経済力」が主因であった。)
「一色の論」から「美濃の論」の元に戻して。
然し、「美濃」は要するに、これ等の事と比較すれば、前段でも詳細に論じた様に主因は次の為の事であった事が判る。
前段で論じた事を「別の視点」からこれを観て観る。
「面白い経緯」が見えて来る来るのだ。
第一段は「皇子」を引き入れる事に依る「源氏化」が起こったのである。
第二段がその「源氏化」が引き起こした「姓族勃興」の「神明社の情報と物流の遮断化」であった。
「第二段の事」はそもそも「青木氏」である限りは「神明社族」であり、然しながら「源氏化」に依って「八幡社族」と成って仕舞った。
結局は「神明社」と「八幡社」は「密教と顕教の差」にあり、その「教義」は相反するものと成ったのである。
故に、「神明社の存在否定する結果」と成ったと云う事である。
(注釈 「密教と顕教の差」は前段で論じた。
「9つの縛り」と「原理主義の白旗派・律宗」の意味する差である。
端的に判り易く云えば「水と油」であるだろう。)
これが「美濃域」には「神明社」が少なく成った所以であって、それが「源氏化と姓化」に合って、それが「源平戦」と成って「神明社」が無くなり、上記した“「第一段の遮断」”が起こったのである。
これが当然に「伊勢と信濃」に大きく影響した。
「源平戦」で敗戦し生き遺った「一色族」は前段でも論じた様に「信濃までの山間部」に逃げ込んだと云う形である。
然し、此処で彼らの一部は「生遺路線」を選択して「源氏族」から逃れ「一色の青木氏」を旗印に「伊勢信濃のシンジケート」と成ったと云う経緯である。
この時、「青木氏の財力」を使って彼等を保護し「美濃-信濃間域」に「神明社の再興・情報網(第1期)」を成し遂げた。
(注釈 この時の「神明社再興」には“「神明造祠社」”が多かった事が「桑名の資料」には記されているし、現在も「桑名と美濃の西地域一帯」にはこの「神明造の祠社の神明社」は遺されている。
管理は「青木氏神官族」で成されていたが、「社」というよりは寧ろ此処に「青木一族」が集合して「情報交換・中継点形式」をしていた事が記され、その内容が判っている。
「室町期の御師制度」の「情報交換の中継拠点化」と成っていた事をも示す。
「全国から集めた情報」をこの「桑名域に集めていた事」にも成る。
つまり、「桑名殿」が「情報交換の係」を担当していた事にも成る。
これは「商いの情報」と「戦況の情報」であった事にも成る。
「美濃伊豆の戦況」も然る事乍ら「商い」も大きく成っていた所以であろう。
これは前段でも論じた様に「伊勢」では「桑名」に全て「神明社・9社」が一括集中させていた事でも判る。
それ故に、前段の「御師」から集めた情報から「移動時期」を見据えて「伊勢の裔系の集団移動」はここに辿り着けば安全であって、元より「桑名殿の裔系」であった事にも依る。
此処に美濃の「伊勢の裔系」の「二つ目の清光院」と「二つ目の清光寺」を木曽川長良川を隔てて戦略的意味合いで右に隣接する様に建立しているのである。
前段でも論じた様に「額田端浪の一色」から現在のR19で全く直線的に最短で移動した事に成る。)
前段で論じた「移動経緯」から水路では一時それなりに回復する「第2期」が起こった。「伊勢-渥美-駿河-伊豆」と繋がった事に成ったのである。
次はこれを起点に「国衆の南下策」を促進させる為に「陸路」の縦の「伊勢-三河-美濃-信濃の情報網」を造る事にあった。
ところが室町幕府との「白旗派の浄土宗承認」や「伊勢神宮信仰」に合わせた「神明社の庶民信仰」等の「政治的策謀」や「御師制度」等の策で「空白地」「空白期」では「伊勢-美濃-信濃の情報網・R19」で一時的に繋がったかに見えた。
然し、これも「15年程度の短期間」で「空白地」「空白期」は崩れたのである。
これで再び、「室町期の戦乱」で「信長勢力」に依って恣意的に「神明社の情報網・中継点形式」が遮断される結果と成ったのである。
要するにこれが「第3期」である。
これで再び「伊豆との連絡網の遮断」と成った。
然し、「平安末期の伊豆の結論」は、それぞれ違う経緯で「近江と美濃と甲斐」が敗退したのである。
その「時系列の経緯」は、この事から上記の通り「1159年」から「伊豆入り」し、「1221年の直前」までの「約60年間程度」でそれなりに「神明社の情報網・中継点形式」は回復させた事(第3期)が「人と神明社の構え」から判る。
いよいよ「国衆の南下策」を急いで動かそうとしていたその時に、然し、再び、記録から観てみると“「鎌倉時代」の「伊豆内部の混乱」”で「第3期の神明社焼失」の事と成っている。
要するに今度は「鎌倉幕府の滅亡の混乱」に巻き込まれて「伊豆の神明社の焼失」が起こって仕舞ったのである。
滅亡寸前であった事に成る。
これらの「室町期前期」の「3期の経緯」を経て、結論は「1540年以降の室町期後期」に再度、前段で論じた様に「国衆の南下策」で回復させた事(第4期の経緯)に成っている。
そこで、この時「3期の経緯」は、「室町幕府」が「法然浄土宗14派中」の「最小派」の「白旗派の密教浄土宗・原理主義」を「本貫本宗」として強引な決定を下した。
同時に「原理主義一体」のものとして「神明社(青木氏の守護神)」も認める等の決定を下し「青木氏」を擁護した。
これがこの際の「幕府と青木氏の政治的策謀」であったと観ている。
これで、「神明社の情報網・中継点形式・水路」は「藤枝・富士宮・三島と駿河」までの再建立(第3期)が成し遂げられたのである。
「浄土宗」が「白旗派の原理主義の律宗族」と成った以上は、つまり、「伊勢と信濃の青木氏」の「政治的立場」が公に認められたも同然と成った。
これで「1560年期の松平氏・三河で独立」が「三河国衆」として認めより「国衆の南下策」が容易と成ったと考えられる。
当然に「国衆」に成るには南下策だけでは成立しない。
「足利氏との政治的策謀・裏工作」と同様に「松平氏との政治的策謀・裏工作」は否定できない。
(注釈 この第4期の「藤枝の四つの神明社」にはその「第4期なりの特徴」が出ているのである。
それは「神明社の構え」であるのだが、この中に「特徴」を顕著に表している「神明社」がある。
それは「呼称」の一つだけに表れているその「社名の構え」が“「伊勢神明社」”と云う「神明社の情報網・中継点形式」を適格に表現しているものであるのだ。
実はこの「伊勢神明社の命名」は「信濃と美濃」にもあるのだ。
敢えて、「第4期」の混乱期であるが故に、「足利氏背景」と「律宗族・遺された皇族系族」であるとする「其れなりの意味・誇示」を持たして名付けたと考えられる。)
「伊勢と云う呼称」のその背後に「伊勢の抑止力」を「伊豆」にも宛がえたと観られる。
将又、同時に「仏教の象徴族」の「律宗族」であって、且つ、明らかに全国庶民信仰と成った「神明社」の「神明社族」であるとしてその族の「神明社の情報網・中継点形式」の「拠点である事」をも周囲に誇示している事に成る。
これは同時に、「神明社」を分散させるのではなく「伊豆」から離して「藤枝、三島地域、富士宮地域」の三カ所と隣の「駿河市東町」の「一地域」に集中させているのだ。
本来であれば「庶民信仰」であれば平等に「分散」させるのが常道である筈だ。
ところが極めて一か所に集中させているのだ。
明らかに「伊勢の呼称」と共に「ある種の目的」があっての事である。
この上記の「計四ケ所の神明社の創建期」と「伊豆内部の神明社の創建期・平安期」が現地調査に依ればその「構えの内容・平安期の様式変化」から判断して大きくずれていて前者が「室町期初期」である事が判る。
「伊勢-美濃-三河-駿河-伊豆」の経路を再興して「伊豆」を護ろうとした場合は、「伊豆の人」が先ず移動してそこに「守護神社・神明社」を建てると云う経緯を辿るだろう。
「室町幕府の擁護」もあってそれなりに補完出来た「第4期」でこれを実行したと云う事に成る。
それ故に、「伊勢の呼称」は「室町幕府の擁護」があった事も相まってあってその「格式」を誇示しての事もその一つであったであろう。
「室町幕府の擁護・白旗原理主義」が「全国の神明社」をも護った事もあったと考えられる。
つまり、普通ではあり得ない「菩提寺」が「守護神」を護ったと云う事である。
これは、特定される「律宗の氏族」であるが故であろう。
この様に「室町幕府の権威」が失墜し始めた室町期末期までは兎にも角にも「神明社の情報網・中継点形式」は何とか維持出来た。
これが上記した様に「特別な変化」である。
(注釈 そもそも「神明社の建設」は、「社格」は「官幣社」で在り乍らも「賜姓五役・令外官」であるとしてその「財源と建設と維持管理」は「青木氏部」で江戸初期まで行われていた。)
さて、これで「伊豆側」の「神明社の情報網・中継点形式」は回復した様に観えた。
唯、ところが「伊勢-美濃-三河-駿河-伊豆」の経路は、「伊勢-美濃-三河」の間で上記した様に再び断絶したのである。
「戦乱期の信長」で「尾張域の神明社」は再び「神明社の情報網・中継点形式」の「神明社」が今度は「信長勢」に敵視され遮断される結果と成ったのである。
「室町期中期」には遂には「情報交換・中継点形式」は、又もや「伊豆」には届かなく成って仕舞ったのである。
今度は「青木氏の対処」は違った。
再び、渥美への裔系の移動は前段の通り成功した。
そして次の段階として「1540年頃」から「ある行動」に移したが、今度はその戦略は氏是を破り「戦闘的」であった。
そもそも、この行為は奈良期からの「青木氏の氏是」に反する。
然し、何故この「青木氏の氏是」に反する行為を執ったかである。
その理由は実は「伊勢から伊豆」までの「情報交換(中継点形式)」には「大きな欠点」を持っていた。
この「欠点」が「戦乱と云う状況」の中で「氏全体の致命傷」に成る欠点であったからである。
それまでは問題では無かった。
「伊勢-美濃-三河-駿河-伊豆」の経路を観ればすぐ判る。
それが「-三河-駿河-」には「青木氏」は存在しない。
要するに「定住地」では無いのだ。
然し、それでもそれまでは「人間の血管」に当たる“「神明社」”と云うものがあって生きて行く事が出来た。
(注釈 歴史的にはこの域を支配する「今井神社系のシンジケートの連携」で何とか助けられて繋がっていた。)
ところが「戦乱と云う状況」では“これを絶たれると云う事”が起こった。
“「人間の血管」だけでは駄目”に成ったと云う事である。
要するに「体」を造らなくては成らなく成った。
その「体」が「氏の人」のものであって、其処に置かなければ効果は出ないと云う事である。
「神明社」が「血管」であって「心」であり「体」と一体にしなければ成らなくなったと云う事である。
この「-三河-駿河-伊豆」の間に何らかな方法で「体」を置かねばならない。
そして、それだけでは無かった。
「伊勢-美濃-信濃」が「信長」に壊されようとしていたのである。
現実に「体のあった美濃」が小さく成って「山間部」に逃げ込んだ事で空いた隙間を見事に壊された。
「神明社の血管の破壊」と「美濃氏の体の破壊」も興り形が無い事に成って仕舞ったのである。
「伊勢-(美濃)-信濃」でも「信濃シンジケートと云う形」で繋いでいたが無理と成っていた。
それは「伊豆」が成り立たなく成っていた事を示すものであった。
この「空いた隙間」を埋めていた「伊勢秀郷流青木氏族」も補完して「美濃」まで張り出していたが、その「頼みの勢力」の一つと成っていた「永嶋氏」も衰退し「結城」に引き始めていたのである。
そこで「伊勢と信濃」は「戦闘的復興戦略」(下段で論じる)を採った。
つまり、此処に「陸路と水路」の「神明社に依る情報交換点(中継点形式)」を構築しなければ「廃墟と復興の第5期」が必ず起こる。
「伊豆の背後」の「頼みの綱」の「秀郷流青木氏」に「助太刀」を頼むとしても「神明社に依る情報交換点(中継点形式)」が欠けていれば「即戦力」には成らず間に合わなく成っていた。
では、どうするかであった。
簡単な事である。
「美濃」をもう一度興して「美濃」から「三河の湾岸域」に引き出して「青木氏の拠点を新たに作る事」と、破壊された「神明社に依る情報交換点(中継点形式)」を造りなおす事以外に無い筈である。
これで「血管と体と心」が「伊勢-美濃-信濃」と「-三河-駿河-伊豆」を造る事が出来る。
「伊勢-美濃-信濃-三河-駿河-伊豆」(駿河には第4期で構築した)は完成する。
これで「伊豆」は護れる。
前段でも論じた様に、問題は上記の“「美濃・額田一色」を「三河」に下ろして来る事が出来るか”である。
つまり、「信濃シンジケート」と成っている「美濃の額田青木氏」を「シンジケート」では無い「三河の青木氏」にする事である。
これは「山岳民」を「湾岸民」にする事に成る。
これは「人,時、場所」の「三要素」が揃わなくては成り立つ戦略では無い。
それには「陸路と水路の両面のルート」を構築しなければならない。
「縦の陸路」は“「美濃」を「三河」に下ろして来る事で出来る。
そうして、これが出来れば「三河の港」を確保すれば伊勢と三河までの「水路」は「伊勢水軍」で成り立つ。
「水路」は「伊勢-(美濃-信濃)-三河-駿河-伊豆」の上記で論じた様に「駿河」には「第4期」で構築したので「駿河・駿河湾」と「内浦湾」では出来ている。
後は「三河と駿河間の水路の構築」にあった。
そもそも、「水路」はその「圏域・海域権」が「水運組合と海運奉行」に依って昔から決められていて変わっていない。
要するに「伊勢水軍」が勝手に入る事は出来ないのである。
ではどうするかであった。
「伊勢の尾鷲」の「伊勢水軍の差配」の家に資料が遺されていて、この一節にこの事に付いての「行」がある。
要約すると、「摂津会所の・・・駿河殿の件の御差配に付いて承知致し候故に御安堵下される様に・・・御手配お頼み申し候・・・」とある。
恐らくは「福家からの指示」があって「水軍」が何かをしたと考えられる。
この時期は準備段階に入った5年後の「1545年」と成っている。
同時に前段でも論じたが、伊勢が「千石船の大船」を更に一艘を持ち、「熊野水軍」と「摂津の寄合組合」に「海路の水利権」を申し出て獲得している。
「商記録」にもこの「支払添書」の一行事があり一致している。
これは恐らく「組合員の会員権の取得費」であろう。
「摂津」までの四艘目の「海路の水利権」を持った事が判る。
さて、そこで、「駿河水軍の事」ではあるが、「駿河水軍」には「平家水軍」に対抗する為に「駿河源氏」に頼まれて参戦するが滅亡する。
この「駿河水軍」と「伊勢青木氏」と「伊勢水軍」は相互に血縁関係を持っていた事を前段で論じたがこの「源平戦」で「美濃族」等と共に滅亡する。
この「駿河水軍」は其の後も「海路の水利権」だけは持っていたと考えられる。
筆者の分析では、「伊勢の福家」はこの時の「差配」を「伊勢水軍の差配頭」に考えを述べたのでは無いかと観ていて、上記の資料はその時の打診であったと観ている。
そして、「1540年の準備段階」の五年後から「伊勢水軍」に「駿河水軍の支流末裔の者(血縁族の駿河青木氏滅亡)」を呼び出して訓練し、其の後に「伊勢」が建造した「船一艘」を与えて、「血縁族の駿河水軍」を復興させようとする考え方を述べたのでは無いかと考える。
その為に取り敢えず、経済的に成り立ちさせる為に「摂津会所(堺)」に先ずは「海路水利権」を申し込んだのでは無いかと観ている。
「駿河水軍」としての申請では無く「伊勢の申請」として扱った。
「伊勢の仕事」を彼らに与え「摂津支店」までの「荷駄の搬送」に従事させて経験を着けさせたと観ている。
この事を「血縁族」でもあった「伊勢水軍の差配頭」にこの事を相談し伝えて了解を得たという事ではないかと観ている。
さて、その後の事ではある。
「駿河域の会所(府中)」に「駿河水軍」が組み入れられるかであろう。
唯、「組合の株券」は保持している筈である。
「源平戦」で負けただけで既に幕府は室町期にあるとすれば、「出自を証明」できれば「復権」は出来る筈で、後は「商人」である以上は「組合の株券」を買うと云う名目の裏の手で解決は可能である。
この「証拠」と成るものは無いが、「状況証拠」である。
(注釈 この「状況証拠」に付いて現実に「其の後の事」ではあるが、「駿河湾」と「内浦湾」に「伊勢からの荷駄・商記録に四か所の記載有」が入り「藤枝、三島」を始めとする「地域・八カ所の青木氏」の「青木氏の商い」が復活しているし、「下田」と「稲取」にもである。
当然に、「神明社に依る情報交換点(中継点形式)」を構築も復活しているのである。
これが何よりの証拠である。)
先ずそうすれば「水路」では「三河・渥美湾」から「伊豆・駿河湾」まで成り立つ。
後は「陸路の創設」が「戦い」を伴ったもので大変であった事が「松平氏の戦記等」の複数の記録で詳細に判っている。
この様な「多くの死者」を出した「実戦事」は「伊勢」と「信濃」の「青木氏の歴史」の中では初めてである。
それまでは全て「抑止力」で済んでいる。
ところがこの時の記録に依れば「額田青木氏の差配頭」等が「激しい銃弾戦」で戦死しているのである。
尚、注釈として、「伊豆の現地調査」の印象の一つは「イ地域からリ地域」までの「青木の地名」の「青木氏」には現在も「何らかの商い」を営む「青木さん」が実に多い事であった。
この事に意味があって、1159年に「伊豆」に入ったが当然に其れまでには「伊豆の土地への繋がり」は全く無かった。
「伊豆」は実質は「頼政の所領地の守護の警備」としてではなく、「山岳地の伊豆」を豊かにする「管理人的な目的」で「頼政」に頼まれて入った経緯である。(清盛の圧力)
従って、「伊勢や信濃」の様に「土地の郷士との繋がり」で「氏族」を形成していた訳では全く無かった。
「伊勢信濃の融合族」として「管理人的な目的」では「商い」が主体で管理するだろう。
「頼政」は遙任であって実質の格式は「守護代」である。
「地域の治安」と「地域を豊かにする事」の「二つが目的」であって「武力的に統治する形態」ではそもそもなかった。
故に、「伊勢や信濃との繋がり」の中で「殖産を含む商い・伊豆楮や海産物」を興して統治する事が主眼であった。
伊勢に送っていた形態であった事が記録に遺る。
それだけに、「伊豆の商い」は「独自路線での伊豆」では無く、飽く迄も「伊勢や信濃との繋がり」が切れれば滅亡するのである。
当然に「伊勢や信濃」はこの「命の繋がり・血管」を切る事は見殺しに成る事は充分に承知の上である。
必死に成って「神明社に依る情報交換点(中継点形式)」を構築してこれを護ろうとしたのである。
「管理人」として入った当初は「土地との繋がり」の無い地域である。
故に「国友」を「信濃青木国友」として入って管理している者等に配慮し、且つ、「地元の者」には実は「頼政の孫」を隠して「信濃の青木国友の事」を誇示して上手くバランスを保ったとも考えられている。
その経緯が現在に成っても“「何らかの商い」を営む「青木さん」”の形に成って表れていると考えられるのだ。
(注釈 実は、前段でも論じたが、「伊勢」に、この時、「伊勢秀郷流青木氏」の出自元の「秀郷流蒲生氏郷」が入り、「近江商人」を呼び寄せて「管理方式」で「国を富ませ統治」に替えるとする考え方を採用した。
この方式が平安末期から鎌倉期芽を吹きだしていた。
「清盛」も同様の形式で九州の北部域太宰府などを統治しようとした。)
当の「青木氏」から観れば約300年後の「宿敵の信長」も「楽市楽座・自由市場」の方針を示している。
つまり、「伊豆」は既に1159年にはその考え方を実行したその「先駆け」であった筈である。
「伊豆」に執つては300年経ってもこの環境下にあってこれまで上記した様に「四度の復興」で生き延びて来た。
この「管理方式の立場にあった事」が「一種の欠点」でもあったのだ。
「伊勢と信濃」は「商いをしている事」からもこの「一種の欠点」を「神明社に依る情報交換点(中継点形式)」で必死に補い救おうとした構図と考えられる。
然し、それが「四度の再興」で何とか逃げ延びられたが今度は簡単では無く成ったのである。
それが皮肉にも同じ考え方を持ちもっと進んだ考えの「信長」であったのだ。
唯、「彼の考え方」には「伊勢信濃の律宗族」に執っては「相容れない勢力」があった。
それが「青木氏」が「補完の手段」としている「神明社に依る情報交換点・シンジケート」の「寺や神社などの勢力」も含む「影の勢力」であった。
「伊勢」でも「影の勢力」として観られ、同時期(1568年~1576年)の8年間に渡って「信長勢力(秀吉含む)」とも争っているのである。
然し、緊迫していたのは「伊豆」だけではなかったのだ。
当然に「伊勢」も対象として観られていたが、「伊勢シンジケート」で対処して「伊勢の五つの戦い」で勝っているのだ。
ところが不思議な事にこの「勝った背景」には、前段でも論じたが「信長」から派遣されていた「血縁族である信長の家臣の蒲生氏郷」があったからだ。
彼は「伊勢秀郷流青木氏の出自元・氏郷の曾祖父の兄弟」であり、故に彼は上手く立ち回ったのである。
それ故に「伊勢の背景」が出来た事から早期でも「美濃」に手を出す事が出来たのである。
前段でも論じたが、一説には、“「1540年頃」には動き出した”とする記録があり、これには「美濃」で起こった「斉藤氏等の争い(美濃尾張を制する)」に「シンジケート」が多少は何らかの形で関わったとする説では無いかと観る事も出来る。
然し、上記の時期では「伊勢」では「駿河水軍」を興す為に「船の調達」に関わる「伊勢水軍」との「やり取り」が「1545年頃」であった。
そうすると、この説ではこの5年間で並行して何か既に「美濃域」で動いていたのでは無いかとも考えられる。
実際には「初期の戦闘行動」があったのは「1545年~1575年代」であったので、この間の「30年程度」は時系列的に“準備期間であった”と云う事にも成る。
準備期間は当然に斉藤氏に疑われる。
然し、記録から斎藤氏との間での争いに関するものは発見できない。
先ず、南下の為の「三河の松平氏との調整」の前に、手順としては現場でのこの「斎藤氏との調整」を果たさなければならないであろう。
斉藤氏は「1432年」から始まり1542年の最盛期を経て最終は「1573年以降」は衰退し、そして江戸期には「米沢藩の平侍」までに落ちる事に成るが、「国衆」が南下して「一言坂の戦いの1年前」と成る。
そうすると、少なくとも南下に入り「三河松平氏の国衆」と成った時期の「1560年以前」では美濃では未だ「斎藤氏の影響・1567年」を受けていた時期である事は間違いは無い。
「超近代銃の集団」を訓練しているのに何も無かった訳では無いだろう。
その為には二つ考えられる。
一つ目の策は、一時的に「美濃国衆(斉藤氏の国衆)」に入っていた事
二つ目の策は、斎藤氏に「裏の策(金策)」を使った事
この「美濃国衆(斉藤氏の国衆)」は公的な記録に遺されているので現実である。
国衆として「美濃」を離れて「三河国衆」として南下するには斉藤氏に対してそれなりの策を講じる必要がある。
無事に南下するにはそれが「二つ目の策」であった筈である。
故に経過としては南下出来たと考えられる。
「1567年」に「稲葉城」を「信長」に依って滅ぼされ「1573年」に逃亡した。
(注釈 この「時系列の結果」から観ても、犬猿の仲の「信長が入る前の時期」に「上記二つの策」で南下している事(1560年説)の資料は間違いはない事に成る。)
「本戦の戦闘行動」は前段でも詳しく論じた様に「一言坂の戦い(1572年)」で、続いて「三方ヶ原(1573年)」であった。
実はここまでは関わったのである。
実はこの時期は上記した様に「伊勢」でも「激しい戦い(1568年~1576年 実質は1578年)」に成っていた。
ところが、記録を観ると、「ある事(詳細は後段)」で「其れ成りの目的」を完成してか「1574年以降」は「三河」から手を引いている形に成っているのだ。
唯、この「資料説」が史実とすると、“「1540年~1560年の行動(準備期間)・(準備戦)」と「1568年~1578年の戦い・(本戦)」がどんなものであったのか”は「詳細」は判らないが気になる事である。
後者は前段で論じた様に、記録の通り当に「戦い」のそのものであった。
問題は「前者の期間の行動」である。
“「ある事(詳細は後段)」”が「伊豆」に関わる事であるとすると、この「シンジケートの元」が「第4期の再興の事」と成り得る。
然し、この時の少し後には、既に「美濃」では「神明社の情報網」は切れていたので、「戦闘的復興戦略の作戦行動」の本戦とは別に、要するに“「初期作戦」”が取られていた可能性は否定できない。
伊勢(前半はゲリラ作戦・後半は本戦)でも戦っている時期である。
この環境の中で「後者の戦い」にいきなり突入する事は無いと考えられる。
そうすると、「前半と後半」とには「8年間の差の期間」があるが、「1560年~1568年」の「準備期間の後半」である。
この期間が“「初期作戦」”説としは正しい事に成る。
では「どんな作戦」で「戦い」は繰り広げられたのかではある。
ところがこれには詳しい記録はない。
そこでこれを読み解くには「戦闘的な復興戦略の作戦行動」には何が考えられるのかである。
つまり、「シンジケートの額田青木氏」を「国衆」として「蒲郡」まで引き出して「土壌」を作るには「美濃」と三河」にどのような行動を取らす必要があるのかである。
それを一応、次の様に考えて観た。
イ 「準備の財源」には問題は無い事を保障している事。
ロ 「伊勢と信濃」が説得に掛かっている事。
ハ 「一族の生活保障」を約束している事。
ではこの「三つの事」に就いてどの様に手配するかであろう。
0 シンジケートの目的と説得 (神明社復興 伊豆救出)
1 シンジケートの内部の意思統一 (「a族とb族」の利害統一)
2 シンジケートの「差配頭」をどうするか (美濃青木氏の末裔)
3 この「組織」をどの様に分けるかの決定 (「a族とb族」の二つに分けた)
4 その「組織の形」を何にするか (「国衆」として結束)
5 「戦略の提示」とその「作戦会議」 (最大の課題)
6 「軍師の決定」 (伊勢秀郷流青木氏)
7 「作戦実行」を何時に開始するか (美濃を出る時期)
8 「合力相手との関係性」の決定 (松平氏)
9 「松平氏(国衆)」との調整 (伊勢が担当)
10 「戦略実行後の処置」 (伊勢信濃が補完)
11 「土地の郷士との説得」 (国衆として入る地元説得 蒲郡と吉田)
12 「駿河青木氏」の復興 (駿河水軍の再興)
13 「駿河水軍と美濃族との関係性」の復活 (平安末期決別 水陸の経済的繋がり)
14 「渥美湾の利権」の取得 (美濃の陸運と水運の融合)
15 「駿河水軍」との結合 (伊勢湾-渥美湾-駿河湾の航路)
16 「神明社」の建設開始 (桑名-渥美-駿河-伊豆)
筆者ならば少なくともこれだけの事は事前に決めて係る必要があると考える。
その「問題の決め手」は「戦い」を前提とすれば主要な事は「5と6の事」であろう。
これを“1590年程度で「最終目的・南下定着」に到達させる”とすると長くは無い。
何せ「伊勢」も「戦い」に入っているのだ。
「伊勢と信濃」が「実戦力」を持っていないと成れば、「伊勢のシンジケート」の「抑止力」をフルに使って牽制して、且つ、「財力」で抑え込む以外には無い。
前段でも論じたが、現実に「伊勢の松ヶ島戦い」の「二戦」では幾つかの記録には完全にこの「伊勢のシンジケート」の「抑止力」だけで勝利して「最小限の負担」に軽減している。
これに「秀吉の長島の戦い」を入れれば「伊勢五戦」である。
全てこの策で伊勢はとりあえず勝利している。
後は、「三河」に全力を投入すると云う事に成る。
現実には作戦通りに「伊勢信濃が出来る事」は、上記の通り見事に「伊勢のシンジケート」の「抑止力」を派遣してフルに使って牽制して、且つ、「財力」で抑え込んだ事に成った。
片方の伊勢で戦い、片方の美濃では国衆南下をさせたのである。
実戦に近い「伊勢シンジケート」を使って先ず「三河の山間部」を獲得する事であった。
「戦略物資の輸送路の遮断」
「戦闘物資や食料調達の買い占め」
「周辺域のゲリラ作戦の展開」
「伊勢」と全く同じ作戦」を「三河」にも採った事が「商記録の添書・商取引・時系列」で読み取れる。
これが“「初期作戦」”説の根拠に成っている。
「1560年~1568年」の「準備期間の後半」の事である。
その「国衆南下のルート」は「本庄の額田」から「蒲郡」までの「真南に60k」の「圷と山間部の境目」を降りて来る事に成る。
この“「初期作戦」”の目的は改めて次の二つにあった。
「国衆」と成って南下して「渥美湾域」を抑え此処に「陸路水路の拠点」を築く事
「伊勢の信長勢力」に絡み乍ら「三河」での「信長勢力への牽制」である事
この「初期作戦の二つの目的の達成」であった。
この「二つの目的達成」は「信長」に執って「戦略上好ましくない事」であったと考えられる。
然し、「松平氏」にはやっと「三河」を「今川」から取れたもので、これを「信長」に取られる危険性はあって、それを三河に執っては「国衆の立場」から側面から牽制してくれるのには都合はよかった。
誰も入手できない超近代銃を持つ事で「単なる国衆」とは見ていなかったのであろう。
それは「歴史的な史実」として「雑賀衆」に入手を断られそれだけに困難さは知られていた筈である。
(注釈 「雑賀衆と根来三千の銃傭兵」で取り敢えず解決した史実が在る。
そこで「信長の松平氏への牽制」は、歴史的にもこれは「現実の事」として激しく動いていた事はこれは史実である。)
何しろ「ゲリラ作戦の国衆」で、且つ、“「超近代銃300丁(下記)」”で「武装する国衆」であり、後ろに「財力の青木氏」が控えていると成るとうっかり手は出せない。
既に少し前に「伊勢の事(伊勢五戦)」で「痛い目」にあっている。
抑々、「額田青木氏」と云えど「普通の国衆」では無い。
何せ背後に「伊勢」と「秀郷一門」が控えている。
信長に執つては直近に「武田氏との決戦」を控えている中では「三河の国衆側」から動かなければ取り敢えずは「黙視」が常套手段であろう。
現実に松平氏は国衆を使って西には動かなかった。
「戦い」も無く「蒲郡域と吉田域」を「今川氏衰退(1560年・岡崎城敗退)」のすれすれ(「1560年~1568年」の「準備期間の後半」の記載)に手に入れる事が出来たのは、この「強力な背景」があった事に間違いはない。
恐らくは、この「信長」は「岡崎城奪取のチャンス」を狙っていたと考えられる。
単独での「蒲郡と吉田の奪取」は目立ちすぎる事から得策ではない筈で、従って「松平国衆」として「蒲郡と吉田の奪取」であれば、「信長」を含む「衆目の理解」が得られた筈であった。
これ等の好機に付いては次の「裏の段取り」が在ったと考えられる。
「地元と松平氏への裏の交渉・情報の取得など」が在った事に依るだろう。
「地元の土豪郷士」に執っても安全は保たれる事にも成る。
これは「地元の郷士と松平氏と額田青木氏」の「三方両得の策」であっただろう。
(注釈 「伊勢青木氏」から「軍資金等の協力金名目」での「三河」に対してそれなりの処置は在ったと考えられる。
何故か「名目」を替えての其れらしきものがこの期間内には「商記録」には見つけられない。)
つまり、「水路の戦略(1540年~1545年)・第1期」と「陸路(1560年~1568年)・第2期」とは「ある期間・15年・第1期の準備と第2期の南下の重複」を置いて同時並行して続行していた事になるのだ。
それでも「戦闘的な復興戦略」を実行した。
(注釈 この「戦闘的な復興戦略」を「後段の伝統 56-1」で詳細に論じる。
「三河と伊勢」に「青木氏に関わる多くの資料と記録」が遺るので詳細に再現してみる。)
その前に、「予備知識」を次の段に論じて置く。
「青木氏の伝統 56-1」-「青木氏の歴史観-29-1」に続く。
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