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:「青木氏の伝統 24」-「享保後の課題」 


[No.342] Re:「青木氏の伝統 24」-「享保後の課題」 
投稿者:福管理人 投稿日:2016/07/02(Sat) 14:20:14


>伝統シリーズ23の末尾

> 「殖産」を興してそれを「システム化」して「経済」に結び付けて「藩政」が潤っていたのに、これを抑え込んで仕舞った事から、この影響を受けた「下級武士」は、「飢え」に喘いで仕舞った。
> その事から、田畑を耕し農業で産物を密かに売ると云う事で生き延びた。
>
> 「郷士の武士」も「仕官の武士」も「郷士」に真似て生きる事しか無く成り同じに成って仕舞った。
> むしろ、「殖産」を興した「郷士の方」が遥かに潤っていた事が記録されている。
>
> そして、今度は、享保期の「質流地禁止令」では、対象者が「仕官している下級武士」であった事から、幕府としては充分な対応は出来なくなっていたのである。
>
> ところが、「武士の農産物等の販売」には、各職能の「組合の壁」と云うものがあって、「自由」が利かず、結局、「農民の寄合」に入れて貰う等の事や、「農民の名義」を借りる等の事で対応した。
>
> 「幕府」のこの逆に跳ね返って来た思いも依らぬ「失政」に付いて、「藩」もただ観て見ぬ振りして黙認するのみであった。
> しかし、「紀州藩」の様に密かに裏で奨励した藩もあった位であった。
>
> この事から、「職能から販売までの商業組合」も「寄合組織」に変更して、自らも救い、地域の「下級武士や農民」らも救う事で「絆を基本とする寄合組織」に変更して生き延びた。
>
> 唯、この「寄合組織」では「発展」は望めないが「維持」は可能であった。
> それには、上記の「新-1から9までの副効果」までは幕府は潰しに掛かれなかった。
> 「新-2、3、5、7、9」は流石に「株権」を保障の前提としていた事もあって低迷した。
>
> 所謂、「新-1から9」の基本に成った幾つかの制度と組み合わせた「親商法」が、享保―宝暦―明和時代に掛けて「伊勢の紙屋」と「江戸の伊勢屋」の「青木氏」が興した「商業組合」の「新しい改革商法」(1716年から1788年まで)へと繋がったのである。
>
> この経緯は、「伊勢の紙屋」が「伊勢の商業組合」を興してからは明和期(1788年頃)までの「185年間の悪戦苦闘の歴史」に成る。
>
> これ等の事は、「青木氏」だけの「重要な知っておくべき青木氏の歴史観」である。


「伝統シリーズ」-24に続く


注釈として、次ぎの内情であった。
紀州藩主では、吉宗後は全く縁の薄い6代「宗直」が藩主に成る。
享保飢饉で紀州藩55万石の半分を損出している。
この時、「幕府借料2万両」(計10万両の幕府借財)で一時凌いだが、その後の「借料」と共に「返済財政」で藩主13代まで続く。
「江戸の活況」と「紀州藩財政」は逆の状況に在った。

(注釈 四代藩主の吉宗時は、「伊勢の商業組合の活況」で今までの「借財10万両」を完済した。その後五代目は借財を続ける。)

(注釈 この為に「14代の幕末時」に請われて再び「青木氏は紀州藩勘定方指導」に入り立て直した。)

この状況の中で「紀州藩」を頼りにする事が出来ず、「紀州藩」としては少しでも生産量を高めなければならない状況下にもあった。
従って、民を動かす事の「紀州郷士」の「徒対策」を了解するかはかなり難しい状況の中にあった。
且つ、「紀州郷士の生活」も「疲弊の境」にあって難しい事であった。

(注釈 吉宗没後は、「青木氏の勘定方指導の役」も解けて「幕府の力」を借りられる状況には1765年前後は最早無かった。)

つまり、これをどう見るかに依るもので、むしろ、“「経済を活性化させる起爆剤」”とする議論と,この“「疲弊の状況」を更に悪化させる“とする議論が、対立したと資料の一部から読み取れる。
従って、「紀州郷士の徒対策」の課題は、「紀州藩から了解されたとする記録」は、どうしても発見されない。

この事から、この伊勢での「課題の解決」の「談合」は、資料の一端では“議論百出”であったとしている。
この表現から考えて、結局、記録が無い事から、江戸への“「充分な搬送対策」”は伊勢と紀州では取れなかったと観られる。

ところが「各種の関係する資料」から考察すると、この「対策」として使われたと観られる“ある変化”が一つこの時期にあった。
それは、前段でも論じたが、「伊勢青木氏」と「付き合い」の深かった瀬戸内を制していた「讃岐青木氏の大廻船業」が、古来の「日本海周りの廻船」(「北前船の西廻り」)に加えて、江戸初期には「太平洋周りの廻船」(「東廻りの航路」)を申請して新許可が出ている。

これは、大間から釜石より江戸を経由し、松阪に寄港して堺摂津を経て瀬戸内に入る帆船航路は,「江戸の経済」が活性化して「人の往来」も活発に成ると、「陸路」よりも「水路」の方が短期間で移動出来るとして、享保期には「便利な航路」として認可されたのである。

何にせよ「江戸の活性化」を高めるには根幹と成る「運輸の面」では、伊勢側では”「対策なし」”では成り立たない話である事から、この「太平洋周りの廻船」(「東廻りの航路」 荷物以外に人も運ぶ)の「航路の廻船」を敢えて使ったと観られる。
然し、これには難題があった。

と云うのは、当時は、「廻船」には「過当競争に依る廃船」を避ける為に「積み荷に対して幕府の条件」が付けられていたのである。
つまり、「統制令」(下記)があって「自由」では無かったのである。
「伊勢青木氏」の「伊勢の紙屋」が使いたいとしても、少量であれば問題も無いだろうが船全体を使う量の「積み荷」では許可は出ない。
「量」のみならず積荷の「質」と「種」も制限されていたのである。

恐らくは、「伊勢の青木氏」は、「伊勢の紙屋」を代表して、「青木氏」としては「話し」を通して“「讃岐青木氏」に「話」を付けた”と観られる。
この「海運の課題」は「享保の改革」と「15地域の商業組合」の浮沈に関わる事であり、「氏浮沈」に繋がる等の事が「状況証拠的」(下記)に考えられる。

何故ならば,当時の「海運」は、「幕府の監視」の「強い統制下」にあって、「荷積み」が過剰に成ると「船主側」から自動的に「排除される権限」を与えられる「仕組み」に成っていた。
この様な事では、「水運」は不安定に成り好ましくない事から、「伊勢青木氏」としては「話」を通す以外には無かった。
「伊勢の紙屋」としてでは「商いの範囲」で処理されるが、「同族の氏としての話」として持ち込んですれば、「讃岐の青木氏」の廻船業は無下に処理する事は出来ないと観たと考えられる。
つまり、「伊勢の氏存亡の危機」と受け取る事に成る。

「荷積みの種類」までも下記の様に、原則的に“「届け出通り」”に統制されていたのである。
従って、追加して認可を得るには、「荷主と荷種と荷量と荷先」が特定して固定している事が条件であった事から、これを「幕府」が認証するに足りるかの「裁定審査」が必要であった。

当然の結果として、「享保の改革」(1765年前頃)に期する事の内容であった事と、「吉宗」と「勘定方指導の青木氏」と「江戸の伊勢屋」であった事から、「荷主と荷種と荷量と荷先」は完全に補償された。
尚且つ、その「廻船主」は「同族の讃岐青木氏」と成れば「無条件」での通常の「荷積み」として扱われる様に「特別許可」されたと観られる。

実は、それには「特別の優遇と成る条件」が歴史的に「伊勢」にはあったのである。
これは「青木氏の歴史観」として重要な事である。

それは、次ぎの事である。
家康が1603年に青木氏に対して次ぎの裁定を下している。
「伊勢神宮の警備・遷宮の監督」
「特別に伊勢国幕府領の支配」
「伊勢鳥羽港、並びに関西圏の監視」

以上の「三つの役」を目的として次ぎの裁定を下した。
幕府の“「伊勢奉行所」(山田奉行所)”を特別に設置する事。

以上で全国に先駆けて幕府が未だ開かれていない時に、既に、「伊勢」には特別に設置の裁定を下した。

この1603年は、家康が「正二位内大臣兼右大臣」に叙任され、「征夷大将軍」に任じられた年であって、「実質の開幕」は、「260余りの武家大名と主従関係」を結び統率するに至った時期である。
家康没後の「1600年代の後半」に確立された。

この“「伊勢奉行所」(山田奉行所)”が中部以西を管轄する様に成ったが、後にこれを観て、“「遠国奉行所」”と呼ばれる「13カ所」(伊勢含む)を設置する様に成った。
全国の「統率」に至った「1600年代後半」に定められたものである。
依って、「家康」が特別に設置した「伊勢奉行所(山田奉行所 1603年)」は、唯一の「特別の権威」を持った“「特別の奉行所」(下記)“であったのである。
後に、「伊勢奉行所(山田奉行所)」は、“「遠国奉行所」”に組み入れられたが、その「権威」と「権限」は遥かに上格に位置づけられていた。

実は、これには「青木氏と特別な関係」があった。
江戸初期の「青木氏と家康の談合(1603年と1605年)」時に設置が決まったもので、「伊勢青木氏」より「今後の商いの拡大」を予測して設置を要望したのではないかと考えられる。

その証拠としては、次ぎの事が挙げられる。
・「遠国奉行所」としては、最も早く設置した事。(後に遠国奉行所に成る。)
・伊勢以外の「遠国奉行所」は「幕府直轄領」の範囲を前提としていた事。
・「伊勢奉行所」は「湾港の奉行総括権」も兼ねていたものである事。
・他の奉行所とは異なり「幕府」と云うよりは「家康」が定めた唯一の「特別奉行所」であった事。
・この名称として、特別に“「山田奉行所」”と正式に呼称された事。
・直轄領名の「伊勢奉行所」(後の俗称)”とは未だ成っていなかった事。

「遠国の奉行所」として、「幕府(征夷大将軍)の特権」を与え、「行政の特別総括権」を以てして当たって設置されていたのである。
その中でも“「伊勢奉行所」(山田奉行所)”は、特別に他の奉行所には無い“「海運権のを総括権」”を持っていたのである。
(大阪、京都、駿府、長崎、堺、新潟等の12地域の設置理由は以上であった。)

依って、この「青木氏からの念願」(「紀州郷士の徒の対策」の課題)の“「運輸の特別許可」”は直ぐに認可されたのである。
要するに、“「伊勢奉行所」(山田奉行所)”の“「お墨付き」”である。
従って、後の時期に設置された「12地域」の「遠国奉行所」は、この「お墨付き」に従う立場にあった。
況して、「海運に関する許可書」であれば、問答無用であった。

筆者の観る処では、上記の「享保の談合」で対策を採れなかった事を観て、所縁のある「伊勢奉行所」が「調停」に乗り出したのではないかと思われる。
それを得て“「讃岐青木氏」に「伊勢の青木氏」が了解を取る事に動いた”と考えている。

「談合の記録」しかないところを観ると、当初は「伊勢の商業組合」として何とか「解決策」を見出そうとして動いたが、「運輸の対策」が結局は取れなかったのであろう。
そこで、この問題は放置される事では無いので、「伊勢の紙屋」から「伊勢青木氏」が引き取って「行政上の問題」として対策を取る事に動いた。
「伊勢奉行所」に「対案」を持ち込んで「行政上」で結論を導き出したと考えられるのである。

それは、次ぎの理由に依る。
確実な折衝した資料が見つからないが、「商記録」から「船の動き」に変化がある。
「享保の談合後」に「堺摂津店」が「松阪」に態々船を帰港させている。
その船が再び摂津を経由して瀬戸内に向かっている。
これは「荷積み」も考えられるが、それならば「摂津」を経由するかの疑問がある。
「普通の荷積み」であれば、松阪からの「定期便」に使われている「常用の松阪用二艘」や「常用の伊勢水軍の船」を使う筈である。
態々、「堺摂津用の船」を呼び寄せる事は先ずは無い。

「堺摂津用の船」を呼び寄せる理由が発生した事が考えられる。
その「船」が一度、「摂津」に戻り、再び「瀬戸内」に出航しているのは変である。
「松阪」からの「荷積み」ならば「陸送」で摂津に向かい、そこから「瀬戸内」に向かう事が都合は良くて済む。
何故ならば、紀伊半島を一周しなければならない実に「地形上の不都合」が「松阪」にはあった。
故に、堺摂津港を「自前船の帰港先」と成っている所以の一つである。

つまり、「瀬戸内」の「讃岐廻船問屋の者」を伴い、「堺摂津店の者」を呼び寄せ、松阪で協議、奉行所とも協議、幕府とも協議、「一連の手続き」を経て、「お墨付き」を受ける事に成功、その足で関係者代表全員が讃岐に出向いて「最終調印」に漕ぎ着けた。
以上とする経緯と観るのが妥当であろう。

注釈として、重要で、江戸初期の「船の運航」には「幕府」が定める “「原則7ケ条の御定書」”と云うものがあって、「手続き」や「船の運航」には厳しく定められていた。
この上に“「奉行所の掟」”が課せられていた。
取り分け、この「定めの手続き」を怠ると刑罰が科せられた。
従って、「充分な証明と手続き」を「初期の段階」から行う事が義務付けられていた。
“書類を出して済”と云う事では無かったのである。
況して、「東廻り航路」には厳しかったのである。

その為には、この様な“関係者全員が出頭すると云う形式”が採られていたのである。
むしろ、「大口の積み荷主側」には「大きな義務」であった。
この為に、「大勢の関係者」が一度に陸で旅するよりは現実的である。

因みに、江戸初期の「江戸-大阪間」は、最速の帆船は、積荷無で最速3日、積荷有で最速12日、最遅で27日、平均で15日であったと記されている。
(注釈 徒歩では15日-20日-500キロ)

「江戸初期の帆船」で「紀州廻り」で「松阪から讃岐」までで、「丁度、699<=700キロ」であった。
「積荷無」で最速で4.5日、「徒歩」で最短22日と成る。

上記の仕事を熟すには、「不定期な充分な時間」が必要と成り、その為には「大勢の関係者」を「一度に最速最短で移動搬送すると云う条件」には、1/5で済む「調達船」の「船の搬送」以外には無い事に成る。
これが、堺摂津港から「特別に調達船」を廻した理由と考えられる。

これは「享保の改革」の「成否に関わる問題」である事から、他の「遠国奉行所」は「口出し無用」と成っていたと観られる。

それが「伊勢の商業組合組織」が、「荷積み」に対して“一部廻船を独占する事が充分に起こる事”から、これに対する“「特別許可」”の要る厳しい「東廻り廻船対策」であった。

当然に、“一部廻船を独占する事が充分に起こる事”は「讃岐青木氏の了解」も必要であった。
つまり、「青木氏の判断」だけでは出来ない関係者が充分に協議を必要とする“「政治的解決策」”であったのである。
故に、「海運奉行権」を持つ“「伊勢奉行所の調停」”が無い事では成し得ない解決であったからと観ている。

下記するが、何と「紀伊水軍」や「熊野水軍」を緊急時に「太平洋周りの廻船」(「東廻りの航路」)に廻す事等の対策を取るまでには、上記の「令」もある事も然ること乍ら、充分に関係者全員が協議する必要性は絶対にあった。
これらを最速で一度にまとめて移動させるには、「紀州周り」の「調達船」以外には無かったと観られる。

(注釈 「瀬戸内域」には「湾港の海運権」を持つ“「遠国奉行所」”はそもそも無かった。
この事から「伊勢奉行所」、即ち「山田奉行所の許可」を得る事で済んだ。)

そもそも、江戸時代には、それを物語る事があって、メインの「北前船の西廻り」と「東廻りの航路」があって、他にその内容別に「北国廻船」や「浦廻船」が在った。
以上、主に「四つの廻船航路」があった。

中でも、他に上記の「荷物の内容」で分離した「大阪―江戸間の廻船」としては、「菱垣廻船と墫廻船」とに分けられていた。
これを加えると「六つの廻船航路」と成る。

ところが、「荷物の内容別」にすると「経営の波」が起こる事から、途中からはこの「決まり」は護られなかった。
「幕府の7ケ条御定書」は形骸化したのである。
結局は、「激しい競合」が起こって常態化して仕舞った。
取り分け、1730年に関西から江戸に「灘酒だけを運ぶ墫廻船」が生まれたが、それだけでは成り立たない事が起こり、その後に「墫廻船」は酒以外も運んだ。
ところが、1770年には、「幕府」は、これを見兼ねて「過当競争」に依って「廻船」そのものが無く成る事を避ける為に、これを「排除の観点」から、これを見兼ねて再び厳しく「積荷の分離」が定められた。

再び、「樽廻船」は「酒だけ」と成って、「菱垣廻船」は「関西の綿糸」と、後には上記した「伊勢の白子湊木綿」などの「その他」と改めて決められる事に成った。

ところが、幕末近くの「天保期」に成って、「競合」から「両廻りの廻船」は「経営難」に陥り、幕府の裁定で「菱垣廻船」の方を押えて「株仲間」(組合株)から外されて廃止が決まった。
これは、天保期には、既に、この「江戸の活況」は低下していた事を物語るものである。

この「天保期」までは、この「大阪―江戸間」の「便利な菱垣廻船」の「廻船の荷積」が満載と成ると、「紀州からの配船」(熊野/紀伊水軍)をして運営する事を特別に許可されていた。
依って、「使う側」からは便宜が効いて享保期から明和期までは「便利な菱垣廻船」として繁栄を来した。(天保期には廃止)
これは、「海運奉行権」を持つ“「伊勢奉行所の調停」の「緊急対応策」であった。

この時期の荷には、「便利な菱垣廻船」は1765年代頃から“「伊勢木綿」と「伊勢菜種油」と「地酒」と「豆粉」”等を主に運んだとされる記録がある。
「伊勢の紙屋」は、この「菱垣廻船」を1765年に江戸に出店した「商人グループ近江」(松阪派)が使う様に手配したが、そして1843年までの期間を使用したがその後は経済も疲弊して廻船は無く成った。(伊勢屋は江戸を引き払った。)
そして、この「菱垣廻船」には、「開始から天保期(1843年)の廃止」に至るまでの「120年の間」は,廃止に成るまで臨時的に補助的に、“「紀州からの配船」(紀伊水軍と熊野水軍)”を「特別許可」を得て暫くは使われた模様である。

これは傍には「摂津水軍も瀬戸内水軍」も在りながら、態々、「紀伊水軍」等を指名して廻す事を許可しているのは、「紀伊と伊勢の積荷の産物」(「伊勢木綿」と「伊勢菜種油」等の殖産品)を運ぶ目的があった事から来ている。

(注釈 「紀伊水軍」を「積荷過剰」と成った時点で廻す権利を「太平洋廻船」に特別許可をしていた。)

この様に「地域限定している事」からも,明らかに「享保期(吉宗)」から「明和期(家治 吉宗の孫)」までの間に、「吉宗の経済改革」(実質1781年まで「享保の改革」)は継承され推進した事の証に成る。
そして、これは「吉宗後の血縁族の将軍」(家重 家治) の幕府(家重)が背後で配慮した処置であったとも充分に考えられる。

(注釈 1788年からの「水戸藩養子系の幕府」の「寛政の改革」は失敗した。)

これは明らかに次ぎの事が云える。
「伊勢のcの組」の分は許可の要らない「便利な菱垣廻船」を単独に使ったと観られる。
「伊勢のaの組」の分は「讃岐青木氏」の「東廻りの航路」を「特別許可」で使ったのである。

(注釈 元禄期の「浅野家断絶時の「家財買い取り」と「家臣の分配金」は「伊勢青木氏の紙屋」が行ったが、この時に「千石船三隻」を摂津から廻したが、「瀬戸内」を支配していた「讃岐青木氏の協力(船と金銭と交渉)」を得ている記録がある。)

この様に「商い」を興そうとすると、解決しなければならない「土地、資材、店、雇用、生活、運搬」の「業務と資金」の課題は、単独では到底解決し得ない柵があって、これに依って上記した様に解決したのである。
況や、「生活と土地」と「店と雇用」と「資材と運搬」の課題であり、「「生活と土地」は「伊勢の紙屋と江戸の伊勢屋」の連携で「小伝馬町」に、「店と雇用」は、「江戸の伊勢屋」の「名義借り」にて「内店組」として、「資材と運搬」は「伊勢の青木氏」と「山田奉行所」と「讃岐青木氏」の調整で、「青木氏の殖産品」を「商人グループ近江(松阪派」」の「知恵と努力」で「江戸」で売り捌く事が出来たのである。

上記した様に、その後の「短編の報告書」には、「江戸の伊勢屋の質」の「町方の質」には、先ずは、初期の「立ち上げ段階」は、“「伊勢者」の「信用貸付」(「商業組合人」)”が主体と成っていた様で、その後に「利潤」が出た処で“「手形貸付」”にし、「商い」が活況した時期には物の「担保貸付」に切り換えた事が書かれている。

1740年代前半から、江戸にやっと「本格的な活況」が生まれ、「店子」とは別に「一般の町方」もこの「商業組合」に参加して「伊勢屋の質屋」で「融資と指導等」を受ける事が起こった模様である。

この“「町方」”と云う表現には、「完全な町方」と云う意味が在るかは釈然としないが、「商業組合」に務めた「江戸の者」が、「一人前」に成り、改めて「組合員」に成り、「暖簾分け制度」で独立して行く者に対する「融資と指導等」であったと判断される。
これを“「町方」”と表現したと観られる。

その「担保貸付」で「7割の割賦 下記」を返して行く事で、「願株の組合員」に有能で頑張れば成れたのである。

(注釈 普通は、”「願株」”や”「御免株」”を持つ組合員の「名義借り」や「架空名義」で組合員に成る。)

実は、この“「町方」”の表現には、重要な意味合いが潜んでいる。
「青木氏の歴史観」には、この「重要な意味合い」が“「町方との関り」”には潜んでいるのである。

それは次ぎの事で判るのである。
この“「町方」”の「組合員」に成った者に対しては、中には、「店の現物」の“「商品担保」(現物担保)”もあった様で、何とか頑張らせようとする「知恵」を絞った興味深い「商い戦術」が伊勢に遺された資料から観える。
「全体の利益」に「担保利率」を総合的に負荷するのでは無く、「担保」に成っている「商品」が売れれば売れる程に「担保」が少なく成って行く原理を使った様で、一つの商品に「担保の利率の適度な返金分」を当てて、“頑張れば自動的に担保が減ると云う仕組み“を考えたのである。
担保が無い町方の者に「暖簾分け」で「店」を持たせ、「伊勢商法」で「一人前」にして行くには「完全な信用貸付」もあったが、「信用」を前提として、売れた商品の利益の中から一品ごとに形だけの利率分を引く事で、担保は自然と消えて行くと云う「安心感」を利用して「やる気」を引き出していたのである。

「店」を新たに持つ者に執っては「担保」と云うものがどれだけ気に成るものであるかを知った上でのシステムである事が判る。
返して云えば、当初は確かに「暖簾分け」の人物であると云う事から「完全な信用貸付」であったが、これでは「担保」と云うものに対する意識が無く成り、「緊張感」が低下して成功に導く事がなかなか難しかったらしく、苦労していたのである。
そこで考えられた手法であった。

これは、「伊勢屋の質屋」(江戸の伊勢屋)が考えたのだが、“「やる気」”を起こさせる事に主眼が置かれていた事が判る「仕組み」である。
「利潤」を「伊勢屋の質屋」が求めるのでは無く、先ずは、“「商い」を発展させる事”に主眼が置かれていた事がこの事でも判るのである。
この「担保方式のシステム」は、上記の「AからFの特徴」をより効果的にさせられる事に気づいた事であったと観られる。
「単なる品を売り買いする商人」では無く、「一つの経済的哲学を持った商人」を創りたかったのである。
それが「長続きする商業組合」と成るからである。
“「享保の改革」が本物と成る事を期待していた“のであって、「伊勢商法」とも云える「伊勢商業組合の確立」にあったのである。

この「伊勢商法」とも云える「伊勢商業組合」では、“「機関車(先導車)の商人」が頑張れば、必然的に「殖産の職能部門」も活性化して行き安定し潤う“と云う「商業概念」を確立させていたのである。

この「商業概念を確立」の為に、次ぎのシステムが敷かれていた。
この上記の「商人の仕組み」に合わせて、「殖産の職能部門」が「商人の生産要求」に応えられる様に、「一つの仕組み」が設けられていた様である。

それは、「商人」が直接に「殖産の職能部門」に「生産量」(注文量)を要求するのでは無く、その「扱い」として「手続き」として、その「商品の組合」に「注文量(仕入量)」を先ず申し込む。
これを「組合」が、その「商品」を扱う他の商店の「注文量(仕入量)」と合わせて、「合算量」を「江戸の伊勢屋」(総本店)に連絡をする。
「江戸の伊勢屋」は、この「合算量」の上に「加算量」を加えた上で「職能集団の組合」に発注する。
「職能集団の組合」は、規模に応じた量を「組合員」に伝達して個々の「職人の生産量」は決まる事に成る。

つまり、“「江戸の伊勢屋」が発注すると云う形“を採り、”その責任を「江戸の伊勢屋」が負う“と云うシステムに成る。
”その責任を「江戸の伊勢屋」が負う“と云う「システム」である限り「伊勢屋の質屋」は「信用貸付」が「当然の事」にも成る理屈に成る。
百々の詰まりは「責任を負うところ」は「江戸の伊勢屋」であった。

この結果、「江戸の伊勢屋」は、結果的に「全ての商業組合」の「全ての商品」を扱う事に成り、「総合商社」と成り、「売り上げ情報」が確実に掴め、その「大商い」が構築される。
これで、「商業組合」の「全ての状況」を「把握する事」が出来て、情報では「弱い組合」には「梃入れ」をすると云う事も可能に成り、それで「金融先」を見極めて「組合の業界」を誘導する事(AからF)に成って、「伊勢屋の質屋」が動く事に成る。
この結果、AからFの「伊勢屋の質屋」が「2800」も数多く出来た所以なのである。

この「梃入れ」が、それぞれの「経営状況」に合わす事に成る事から、上記の様に、(A)から(F)の「取り組み」が起こる事に成るのである。

「江戸の伊勢屋」がこれに依って“総合商社化する”と、当然に「江戸の伊勢屋本体」も「一つの商店」として「利益」を挙げる必要性から、“「貿易」と云う手段に出る事“に成る。
「商業組合からの薄利」を求めるのではなく、“「貿易」”と云う大きな手段で「利益」を挙げ、「商業組合の補償」としたのである。

この“「貿易」”は、「国内経済」(商業組合)に左右されないで、「生産量」を安定して「商業組合」に出す事が可能に成る。
強いては、「量」のみならず、「質」も経営が安定して向上させる事にも成り、「質」だけではなく、「人を育てる事の仕組み」も充実する事にも繋がるのである。

これで、「享保の改革」はこのシステムに依って全体的に回り始めたのである。

(注釈 逆に云えば、これが弱点と成る。つまり、「江戸の伊勢屋」の「貿易」が何らかの原因で縮小するか無く成るかに依って、「江戸」のみの「市場能力の範囲」と成り、次第に「活況」は低下する論理と成る。
「将軍吉宗」と「青木氏」と「伊勢の紙屋」や「江戸の伊勢屋」はこれに賭けたと観られる。)

ところが上記した様に、1781年から露に出て来た幕府の「商業組合の抑制策」に依って「江戸の引き上げ」を開始して「伊勢」等で行う様に成った事で、「江戸の活況」は低下し「インフレ不況」に進んだのである。

そこで、前段でも論じたが、そもそも、この「総合商社化」は、「伊勢」で既に平安期の1025年頃に始めていて、「宗貿易」を始めている。
「江戸」に出て始めた事ではそもそも無い。“貿易”のパイを江戸様に拡げたと云う事に成る。
「伊勢」で、「和紙と紙製品」を中心に始めたのであって、この時には既に「伊勢」には「商業組合」の様な「原型の組織」が出来ていた事に成る。
それでなくては「大量の和紙製品」をまとめて販売する事は出来ない。
この時は未だ、「自由市場」では無く、職能を部単位で組織し、朝廷を主にして一部で公家勢力が自らこの「部組織」を持っていて、この「部(べ)」で出来た商品を朝廷に収め、朝廷より「余剰品」が下げ降ろされた余剰品の物を市場に掛ける仕組みであった。

「青木氏」は「自らの青木氏部の職能集団」を持つ事が許された唯一の賜姓族で皇親族であった。
江戸期にも「青木氏」はまだこの「職能集団」を形を変えて持っていた。(青木氏部)
それが、前段でも論じたが、江戸初期までは“「青木氏部」”と呼ばれていたのだが、これが、江戸期初期からは、「神明社」等を幕府に収納する等の事が起こってから、「青木氏部」の「大勢の職能者」が「神明社」から外れた。
そして、先ずは「青木氏部」が「伊勢の紙屋」の中で、「幕府」などから神明社修復に対する「受注を受ける仕組み」が起こり、これが土台と成って「青木氏部」の「幕府-青木氏」間の「職能別に商業組合化」へと変化したのである。

(注釈 然し、「神明社」に関わっていた神職を始めとして「職能部の人々」は、江戸幕府が困窮を極めた為に影響を受けて、「社殿修復」は愚か生活も侭ならない様に成った。
この為、「商業組合」で「互助組織」を作り、「神明社外の仕事(造船・造形・大工・人形)」も熟したと記録されている。
中には「神職」は、元より「伊勢シンジケート」に関わっていた事から諜報業や搬送業に関わっている。)

この「伊勢シンジケートの組織」や「伊勢水軍等」も含めた「青木氏部の組織」が、更には、江戸期初期には独立をさせて「組合」を組織(御免株の株権化した組織)して、「伊勢の紙屋」が「7割の株」を持つ「株権組織」(「御免株))が出来上がったのである。

(注釈 前段で論じた様に、「家康との二度の談合」とは、この一連の話し合いであって、「青木氏の提案」により、「家康」は、「青木氏部の解体」とそれを「新しく組織化する提案」に対して、これを潰さずにむしろ推進させる事に認可したのである。
この時に「神明社」などは幕府に移転させたのである。)

(注釈 最終的には、明治初期に「地権」を含む「地租改正等の資産に関する法令」により、「伊勢青木氏」と「伊勢の紙屋」は、これらの「商業組合の株権」を全て廃棄して完全独立する事に至った。後記)

この江戸期初期の「独立した組織」が、前段で論じた“「商業組合」”と云う形にして、更に、「(イ)(ロ)(ハ)の自由性」を担保させて、新たに「伊勢から紀州の関係する郷士衆」もこれに加わり、これに「御師制度」を組み込んで組織化を成したと云う事である。

これを「伊勢」に主体を置いて、この組織を一部移して江戸に移動させたのである。
この時、拠点と成る「伊勢の紙屋」の代わりに、「江戸の伊勢屋」としたと云う事に成る。
ただ、ここで大きく違ったのが、「伊勢屋の質屋」(AからF)であった。
この事から来る苦労が伴ったのである。

そもそも「伊勢」は元より奈良期からの本来の「質の基盤」(「仏施の質」)が出来上がっていたが、「江戸」には無かったのである。

重要な注釈として、 重複するが、本来、「質」とは、元は6世紀頃に中国の仏教寺が困窮を極める信徒に対して食事を与え、職を与えて、人として導き施しを行う行為の事を呼ばれていた。
我が国では「青木氏等の皇族賜姓臣下族」に依って奈良期から行われていた「密教浄土宗の仏教行事」を指す。
これを「青木氏独自の催事」として長く「仕来り」として「伊勢の民」に成して来たものなのである。

ところが時代が進み、「青木氏の仕来り」とは別に、その使い方に変化が起こり、この事から「質の意」が”「元の意味」”を成す言葉」と成り、その後には更には”「成り立ちを表す言葉」”にも成り語源と「異なる言葉」へと変化して行った。
そもそも、「伊勢屋の質屋」が江戸で「質行為」を行うまでは主に”「土倉」”と呼ばれていた。

従って、伊勢だけで行う「質」は「青木氏だけの仏施の古式伝統」と成り得たのである。

この時に、「江戸」で発せられたのが、「江戸の町方」に出した「質流れ禁止令」(土倉・銭屋)であるが、これは、実は、幕府に執っては、前政権の“「質取扱い覚」”の「令」での「質流れの緩和策」で社会問題を起こしていた。
これが「享保の改革の進捗」の一つの阻害要因に成っていた。
この事に困った事からでもあるが、そこで、享保期には上記の全国に発した「農地」を対象としたものにも「質流地禁止令」も合わせて出したのであった。

上記する様に、当時、「質」と云うものに対する概念が、「享保期の為政者の概念」と「前政権までの為政者の概念」とは根本的に異なっていたと云う事であった。

「享保期の為政者の概念」=江戸の伊勢屋の質屋が行う仏教的発想の質行為
「前政権までの為政者の概念」=土倉が取る代替担保や銭屋が金融の担保行為

然し、上記した様に、AからFの「伊勢屋の質屋」は、「享保前の経済低迷の質屋(土倉)」から、「享保後の経済活況の質屋」に変わっていたのであったから、実質的には「AからFの令」は余り意味が無く、「町方」にも出した「質流れ禁止令」は、上記の事もあるが、主には江戸での「伊豆相模との争い」を避ける要領であった事が良く判る。

実は、この”「伊豆相模との争い」”とは、金融に関する土倉銭屋行為の既存経済と、享保期の商業組合による伊勢屋質屋の新経済との混在する江戸社会の中で、如何にもその代表戦の様相を呈する様に成って仕舞った。
「伊豆相模等に代表された勢力」と、「江戸の商業組合の伊勢屋勢力」との「二つの勢力争い」が起こっていたのである。

この「二つの勢力争い」があったと云う事は、「AからFを行う質屋」では、つまり、「商業組合」の中での「組合員」に成った「暖簾分け」の者の中では、「質取扱い覚」”の「令」や「質流れ禁止令」や「質流地禁止令」があって「既存経済のシステム」に頼る事が出来ない為に、職能から販売までの一切の工程は「伊勢」から持ち込んだ「独自の殖産システム」で運営されていた。
取り分け、その「発注と販売の責任」は「伊勢屋」が総括して持ち、一つの市場の中の組合員同士の「市場の奪い合い」は避けていた。
その為に必要な市場のその代替は「海外に広く販路」(伊勢屋・貿易)を設けた。
つまり、「富のシステム」で工程は出来上がっていた。

この過当競争の無い「富のモシステム」とするならば、「伊豆相模」が行う「既存の経済システム」とその「銭屋の金融」に持つ市場に「障害と弊害」は起こらないし、新たに「江戸の伊勢屋の商業組合」が入ったとしても「市場の許す最低限の範囲」であった事に成る。

“それなのに、何故、「伊豆相模」は必要以上に騒いだのか”である。
(伊勢側から観ると騒いだと成る。)
その“騒いだ”の答えは、“「恐怖感」”であったと観られる。
「伊勢と紀州での商業組合の実績」が、「伊豆相模」を除いた「14地域の実績」が脳裏に在り、それが「余りの凄さ」に戸惑い、“江戸に来れば”と云う思いがあり、結果として「恐怖感」に結び付いたと考えられる。
確かに、この「恐怖感に結び付く原因」を持っていた事は否めない事に成る。

(注釈 その頃の「伊豆相模」は「銭屋」や「土倉」に代表されるこれを基本とする室町期からの既存の商慣習の古い経済体制を敷いていた事が原因している。)

然し、この程度では幾ら何でも三つもの「令」は出さないであろう。
少なくとも“形式上でも「令」を出すだけの事“が起こっていた事を示すものである。

これは、「情報」が入っている「伊豆相模」だけでは無く、情報の持たない「江戸の既存経済の商人達」も同様に「恐怖感」は図り知れないものがあって、当に「パニック」に陥ち至っていた事が判る。
取り分け、「銭屋」と「土倉」だけには相当な実質の影響が風潮に依って一時的にあったと考えられる。

誰が考えても、上記した様に、「伊勢の14万石の経済増加」と「紀州藩の10万両返済」と「14地域の活性化」を聞けば、その経済勢力に「恐怖感」を抱かない方がおかしい。
恐らくは、「江戸の伊勢屋」「伊勢屋の質屋」には、「嫌がらせ」や「デマ風潮」や「邪魔行為」が横行していたと観られる。

(注釈 佐々木氏の資料の中に、この時の風潮が風刺的に如実に描かれている。)

現に、この「騒ぎ」を見兼ねて出された「質流地禁止令」が誤解された。
何と江戸組の「越後の国」の何と「武士を含む半分の民」が反対運動を起こし「大騒動」に参加した事に成っている。
従って、この江戸での「嫌がらせ」や「デマ風潮」や「邪魔行為」が「越後」には伝わって居た事が判る。

この「大騒動」には、“誤解に依るものである事”が判っているので、他の普通の一揆や騒動と違って、騒動解決の為の「説得の役人」が江戸から態々派遣されているのである。
ところが、越前藩や幕府現地役人や幕府からも派遣されたが、“「役人の説得」に直ぐに応じなかった”と成っているので、「江戸の伊勢屋」「伊勢屋の質屋」に対する「嫌がらせ」や「デマ風潮」や「邪魔行為」が想像を絶していた事が判る。

ここまでの騒ぎに成るには「特定の煽動行為」が無くてはなら無い筈で、既存の「江戸商人の影の抵抗」があった事が云える。
其れも「15地域」であって、且つ、騒動の起こる事が最も低い「伊勢」に次ぐ「越後」である。
良し悪しに関わらず、「二つの伊勢屋の動き」を抑え込む為のもので、裏で「反対勢力」(「江戸商人の影の抵抗」)が効果的な場所を狙ったとしか思えないのである。

(注釈 前段で論じた様に、「保守的な官僚」を含めた「商業組合の進出」に対する「反対勢力」が動いた事が資料からの分析で判っている。)

現実に、吉宗没後の1760年代には「執政田沼の冥加金に依る抑制策」、1780年代には「執政水野の禁止令」と「反対勢力」は勢いを吹き返した。

そもそも、この「令」は、元の目的は「伊豆相模」の勢力等を宥めるのみならず、「江戸商人の騒ぎ」を納める為の令でもあったのであるから充分に考えられる。

このややこしい「三つの令」は、結局は、1年後と5年後に廃止に成り、元の1695年に出された「田畑売買の禁令」も緩和する事で1731年頃までで完全に納まったくらいである。
この間、何と15年間であった。

「土倉や銭屋」で出た担保物件が、金銭の持つ「商業組合の商人」に渡る事で「土地と市場」が寡占状態に成らない無い様に配慮した令の目的であった。

「江戸の伊勢屋の質」は「商業組合」の中で、「暖簾分け制度に依る融資」であって「庶民生活の融資」はしなかったし、「暖簾分け」での実質担保は採らなかった。
この「質」が危険視された。
出された「令」は、「商業組合」が「質」に依ってこれらの土地を含む担保の売買を禁止しているのである。
庶民に執って「担保を買う事」を奨励するのであればいざ知らず、禁止しているのである。

これを心配した庶民を保護した法令の目的であったのに、「丹波域三国」と「越後域三国」で逆に騒がれたのである。


然し、この事が元で、伊勢と伊豆の双方の感情の行き違いが起こり、互いの「信用」を失い「伊勢と伊豆」は、平安期から全くの同族縁籍でありながらも、明治期まで「完全な絶縁状態」と成って仕舞っていた。
(神明社の「御師、祐筆」が両者を取り持って解決し、「青木氏の奈良期からの賜物の護り本尊」の「大日如来坐像」を一時預かりして貰ている。)

(注釈 この事に付いて「青木氏四家の口伝」に遺る。
これは取りも直さず伊勢側から観れば「伊豆相模」が裏で煽ったと解釈した事を意味する。)

そもそも、“「伊勢屋の質屋」”が有名な「江戸の名物」として、“「江戸の犬の糞に伊勢屋の質屋」”に例えられている様に風刺する目的から、この時に生まれた模様である。
逆に観れば、風刺が出る程に「伊勢屋の本店」の「資金融資」に依り、「商品の商い」に限らず「質屋」の「質の事態」も「暖簾分けの各店舗」も大きく運営されていた事が判る風刺である。


注釈として、 話は逸れるが、この頃の「江戸の伊勢屋」を示す物が先祖遺品の中にあったので、当時の“「江戸の伊勢屋の理解」“を深める為にも、少しこの事に触れて置きたい。

それは、“「古今雛の京雛人形」”に、”「江戸の享保雛人形」”と云う風に呼ばれて、これも当時の世評を反映する様に有名であった。

この「江戸の享保雛人形」、通称、“「享保雛」”とは、「伊勢の紙屋」が「紙の殖産」として「京雛の習慣」を「江戸仕様」に改造して、「伊勢松阪」から持ち込んで「江戸で職能集団」で拡げた事からこの様に呼ばれる様に成った。

現在の「雛祭り」の「雛段」は、この時から興った「江戸の享保の慣習」なのである。

その意味で、”「箱雛」の「京雛」”に対して、“「雛壇」の「享保雛」”は、一つのこの時の「江戸の商業組合」を物語るものなのである。

現在は、何処でも“「雛壇」の「享保雛」”が一般的であるが、筆者の家では、この時の「享保雛」の「人形」が保存されていたが、明治35年に松阪大火で焼失した。
然し、「雛祭り」と云えば違っていた。

可成り大きい「三尺雛」(90センチ)と呼ばれるほどの「箱雛」の「京雛」は現在も遺されている。
この「箱雛」は「単体の雛人形」で「御雛と女雛の二体」から成り立っている。
それが「装飾された雛箱」に入っている事から「箱雛」と呼ばれていた。

この様な祭祀をする「専用の飾床」があって、中央に先祖を祭祀する「仏間」と、先祖の遺品などを飾る「床間」が右にあって、左にこの雛箱に毛氈の掛物を掛けてその上に「御雛と女雛の二体」が飾られ、高い「対の燈篭」と、高脚の「着いた梵燈」が設けられ、高瓶に菱餅と甘酒を捧げ、右の大花瓶には「桃花」を生ける。中央には祭り専用の「黒檀火鉢」が備わる。
この「黒檀火鉢」で香木を焚いて、人は集まる。
嫁ぎ先親族の人々が遣って来ては、一月間に入れ代わり立ち代わり香木を焚く事が起こり、隣の仏間に線香と蝋燭が灯される事か続く。

「飾床」の敷居には、「注連縄」が飾られ「象徴紋」の入った「紫色の幔幕」が張られ、祭りの初期は「甘酒」(弥生雛)が振舞われ、後半には「抹茶」(五月雛)が振舞われた。
そして、「仏間」の前の右に「毘沙門天像」と左右に「対の高燭台」が設けられる。
仏間の左には元より「対の高燭台」ともに「大日如来坐像」が安置されている。
全てが「床」には無く「机上の高さ」にあり、「祖先神の親神」の「皇祖神の主神」の「自然神の祭祀方法」の手順に一切沿っていると考えられる。

江戸の当時の庶民が、持てる「雛人形の箱雛」では未だ無かった様であるし、この祭祀もこの様に現在の様ではなかった。
これが「青木氏の習慣仕来り掟」に古くから遺されて「一つの祭祀の二つの催事」を維持されていたものである。
これを、“三月に一ケ月間も飾る習慣”であって、「女子の節句祭り(庶民化)」と云う事では無く、娘の「婚家一族」を中心に「四家一族」も「福家」に呼び寄せて、“「一族繁栄円満の祭り」”として、その際の「格式象徴物」として「雛人形の箱雛」は用いられて行われていた様である。

前段でも論じたが、「四家制度」の”孫域までを「子供」として一同に育てる「仕来り」”に沿ったもので、「女子」と云うよりは元より“「女系祭祀」”と云う目的が元々強かったものである。

(注釈 「青木氏」には、前段でも論じたが「青木氏家訓10訓」にもある様に「女系意識の概念」が強い。)

この全国の「青木氏」等が行っていた古式豊かなこの「弥生雛祭り」が、享保期には「吉宗と青木氏と伊勢屋」が江戸に広げ、それが世間に拡がりこの「上記の祭祀」が簡略化し庶民化し変化して華やかに「雛壇」に成り、「祭り」が「女子の祭り」と成ったと観られる。
(吉宗は伊勢で育っていたのでこの「青木氏の催事」を良く知っている。)

何をともあれ、「伊勢和紙加工に於ける殖産」を広める為に「弥生雛祭り」に託けて江戸に持ち込んだものが、「享保雛」と云う形で普及させて広まったものである。

この「弥生雛祭り」の古式豊かな「正式な祭祀」は、「全国青木氏」では、「伊勢」「京」「近江」の三地域のみならず、大正14年まで正式に行われていた記録が遺されているが、その後は衰退し一族の孫域まで呼び寄せた“「子供孫祭り」”の様な「子供の成長を祝う目的」の「小規模な単なる「お祝い事」に変化したものであった。
この「お祝い事」は昭和半ばまで続いた。

この昭和の時は、「享保雛の影響」を逆に受けて「京雛の箱雛」を用いた「雛壇の無い状態」ではあったが、「弥生雛祭り」(女子)と「五月雛祭り」(男子)の「二つの祝事」に成り、且つ、分割していたのである。

同じ「儀式の祭事」が「伊勢秀郷流青木氏」や「近江佐々木氏系青木氏」でも行われていた事が記録として遺されているが、ただ「箱雛に依る催事」は遺されていたかまでは不明である。

更に、この「雛祭り」は、上記の三月の祭りに加えて五月には、同じ「箱雛」で、江戸期には「義経と弁慶(侍と臣)」(モデル化)で、室町期では「毘沙門天像」を模写したと観られる大きな「二体の武者人形」を同じように飾り、「四家一族」と「婚家一族」に加えて、家人郎党全員を集めての「儀式の祭事」(“「五月雛祭り」”)が行われていた。
この時の祭事は、同様に「四家制度」に沿ったもので「一族発展の祭り」(男子の子孫存続)として「三月の祭り」(“「弥生雛祭り」”)に続けて行われていた様である。
「祭祀の期間」は同じ一ケ月間であり、この間は「弥生雛祭り」の「雛人形」なども飾り続けて仕舞わない仕来りである。
そもそも、「伊勢青木氏の口伝」によれば、“「弥生雛祭り」と「五月雛祭り」”の「箱雛の人形」を飾る目的が何であったかと云うと、本来は、“ある事を「擬人化したもの(格式の象徴物化)」”であって、「五月雛祭り」に付いては「四家制度」の思想から来る「健全な子や孫」(「男子や女子」)を表すものとして祀られていた事が判る。
然し、“「弥生雛祭り」に付いては、”ある事を「擬人化したもの(格式の象徴物化)」“と云う事が口伝ではっきりしている。

然し乍ら、この“「弥生雛祭り」と「五月雛祭り」”との間には筆者には何か釈然としないものがあった。

実は、筆者の「口伝」の記憶では、「三月祭り」(「弥生雛祭り」)から「五月祭り」(「五月雛祭り」)まで連続して行われていたとの「口伝記憶」(先祖の言い伝え)がある。
これは「二つの催事」では無く、「一つの祭祀の二つの催事」としての口伝による記憶が強い。
これは「旧暦の弥生」は新暦の3月下旬-5月初旬と成る事から、奈良期の古来の「弥生雛祭り」が元々の「祭りの期間」であったと考えられる。
これが新暦に成った事でより三月と五月の「二つの催事感覚」に何時しか勝手に成って仕舞ったと観られる。

二つの「三月祭り」(弥生雛祭り)から「五月祭り」(五月雛祭り)は、“ある事を「擬人化したもの(格式の象徴物化)」である”事の「古い催事」である。
この限りは、元々継続した「一つの祭り」であった筈で、その目的から考えて「弥生雛祭り」が原型であったと考えられる。
「青木氏」は、古くから独自にこの「古の伝統」を維持していた事に成る。

「二つの催事感覚」、取り分け、その中でも「五月祭り(五月雛祭り)」がはっきりと分離したのは、享保期の「伊勢殖産」に依って「享保雛」が出来た事から独立させて販路を拡大させようとした。
この事から、二つに恣意的に分けられたと観られる。
それが明治以降の新暦で、伊勢でも分離しての催事感覚に疑問を持たれない侭に当然の様に「二つの催事感覚」に成ったと観られる。

(注釈 然し「口伝」による元来のこの「催事の目的」からすると「二つの祭祀感覚」はおかしい。
これが釈然としない事であったが、「青木氏」が行う「弥生雛祭り」の目的と、その内容が、「絵」とで行う様な「祝事」ではそもそも無く、先祖への「尊敬の念」を認識させる「祭祀の催事」である。)

従って、「享保雛」の「雛段」に依る「庶民の二つに成った祝事」は、「青木氏の祭祀」(「弥生雛祭り」)とは異なっているのである。
つまり、その「異なり」とは、そもそも、「祭祀」と「祝事」に依る違いである。

(注釈 現在でも「京と近江」と、取り分け、伊勢域の「老舗での雛祭り」では、「青木氏」の「一つの祭祀の二つの催事」と似ているところがある。
これも矢張り、一ケ月間行う慣習で、「雛壇」の様なものが無く、”「供物」や「幔幕」や「注連縄」”もあって、この期間はこの「三つ」を降ろさない「仕来り」で、現在でも異なっている事が判っている。)

この「青木氏の二つの催事」は、即ち、「三月祭り(弥生雛祭り)」と「五月祭り(五月雛祭り)」は、何れも昭和半ばまで小規模ながら続けられていた。

然し、この上記の “ある事”とは、次ぎの事である。
「四家制度」の前提と成る「皇族賜姓臣下族」としての「賜姓五役」を忘れさせない為の「格式象徴物」を擬人化させての「青木氏独自の古来催事」であった。
以上と「口伝」で伝えられていて、又、その「催事の内容(祭祀)」からも筆者も理解している。
従って、根本は、「祝事」では無く、「祭祀」なのであった。

これが室町期の「室町文化」、即ち、“「紙文化」”と云われる位に栄えた事から「500万石」と云う「巨万の富」を獲得したが、これを同じ「二足の草鞋策」を敷く「青木氏」の「伊勢の紙屋」としての「仕来り」として捉えて、京や伊勢や近江の藤原氏系や佐々木氏系の「二足の草鞋の老舗の商家の習慣」としても採用され拡がったものであろう。
それが、江戸には「青木氏の殖産」で享保期に拡がったと云う事であろう。
唯、この時は「塑像」では無く、「雛人形」で広めたと云う事であろう。
それが当然の結果として、庶民に広げる限りは「祭祀」では無く「祝事」となり、「三月祭り(弥生雛祭り)」と「五月祭り(五月雛祭り)」の「二つの祝事」に変化したと考えられる。

江戸では、これに依り「新しい祝い事」として「二つの祭り」を作り出し、「享保雛」と「雛壇」と云う二つの新しい「雛人形」の形体を作り出したのである。

これも「青木氏の慣習」が「伊勢和紙加工の殖産」(射和衆 室町期の紙文化)を通じて江戸に広がったからである。

注釈として、そして、この「三月祭り(弥生雛祭り)」と「五月祭り(五月雛祭り)」の「青木氏の慣習」が、この時に、「商業組合」の「職能部門」も「融資と指導等」を受けて「暖簾分け制度」、所謂、「伊勢屋の質」で拡大して行ったのである。
この江戸に広まった「伊勢屋の質」が、同時に「伊勢和紙加工の殖産」(射和衆)に連動しているのである。
況や、「江戸の伊勢屋の質」(「享保雛」)も、「伊勢の紙屋の質」も、何れにも「伊勢和紙加工の殖産」が介在していたのである。
そして、それには奈良期からの「青木氏の慣習」が、「江戸の経済」の“「拡がりの媒体」”と成っていたと説いている。

「慣習も奈良期」、「和紙も奈良期」であり、「享保の文化」は、この二つを取り入れた「天皇家の様相を模写した雛人形」と云う事に成ったのである。

そもそも,「雛人形の歴史」には,次の様な歴史を持っていた。
下記の事を理解していないと、この「像の事」は好く理解しえない。

・「形代」(かたしろ)と云うものがあって,その「人形」(ひとがた)に「災い」を担ってもらって災難をさけると云う風習で、古来の祈願はこれが主体であった。

・「天児」(男子 あまがつ)・「這子」(女子 (ほうこ)と云う祈願方法は、「人形の原型」と云われ、その人形(ひとがた)に対して「願い」を込める方法である。
これが発展してより「ひとがた」に近い形が表現されて、平安期頃には「人形(にんぎょう)」と呼ばれる様に成った。

・「立雛(紙雛・たちびな)」と云う「色紙」で細工表現した「人形(にんぎょう)」から発展した「親王人形」を作り、それに「ある目的」を持たせて「祭祀人形」や「祝事人形」というものを創った。
この「ある目的」をより真実に近づけ「擬人化偶像」を成して慣習化を果たした。
然し、「祭祀人形」は、特定階級に催され「天児系・あまがつ」の「擬人化偶像の流れ」に、「祝事人形」は有る範囲の庶民に催され「形代系」の「人形(にんぎょう)」へと進んだ。
況や、「人形(ひとがた)」から「人形(にんぎょう)」へ変化したが、更には、目的を持たせ装飾させた「雛形(ひながた)」への分岐時代であった。

・「内裏雛(室町雛・だいりひな)」として「ある目的」が固定化して「親王人形」(しんのうにんぎょう)と呼ばれる現象が起こり、これが形式化して「立雛(たちびな)」が創造化された。
且つ、この「立雛」が「親王の雛人形」が複数化して飾られる様に成った。
「室町文化の紙文化」が、飛躍的に発展して「庶民化」に依って「祝事の人形化」がより進んだ。
ここで、初めて室町期末期頃には正式に「雛人形(ひなにんぎょう)」と呼ばれる様に成った。

・「寛永雛」とあるが、そもそも、これは「内裏雛」に含まれ、「立雛」では無く「座雛・すわりびな」で作られたものである。
「内裏雛」までは関西での文化であったが、開幕に依って江戸に向けて「江戸十組問屋」等の多くの「関西商人」が江戸に移住し「関西文化」を持ち込んだ。

その時、この「内裏雛」が持ち込まれ、やや「江戸風」に仕上げられた事から、「寛永雛・かんえいびな」と呼ばれる様に成り、「京文化や近江文化や伊勢文化」を思い出す「祝事の専用雛」として扱われた。
参勤交代で江戸に集まる「武士階級」からも、又、広くこの慣習を真似た「商人などの庶民階級」にまで催された。
この時に使われたものを「寛政雛」と呼んでいた。

唯、この「寛政雛」には、「人形・にんぎょう」としての装飾などには大きな変化は無く、「関西の風習」が「江戸の風習」にも成りつつあって広がった事の意味から「寛政雛」と呼ばれた。
最早、「人形・ひとがた」の慣習の影は無かった。
「雛人形」に対して特別の「幕府の締め付け」があって、且つ、国政も極貧状態で質素が求められた時代であって、大きな発展は起こらなかった。

従って、分類上では次ぎの「享保雛」で扱われている。

・「享保雛」は「内裏雛」(親王雛)が華やかに成り、「寛政雛」とは比べものにならない程に独特の「江戸庶民文化の花」を咲かせた。
「内裏雛」の「雛人形」は複数化し、大型化し、雛壇化し、装飾具化し、更には、幾つかの「親王雛」では無い「女官雛」等の「有職雛」が生まれる等に発展した。
全く異なる「内裏雛」の「雛人形」が生まれ、それが更に進化を遂げたのである。

この余りの進化は、逆に関西に流れ着き、何時しかその「享保の雛人形」を使った「祝事」は華やかで庶民的であった事から、「関西の内裏雛」に取って代わられたのである。
従って、幕末の「関西内裏雛」には「関東内裏雛」と混在する期間が続き、「青木氏等の慣習」として維持されていた「立雛」は、「特定の階級と地域」にのみ維持されるものと成った。

(注釈 これ以後、明治期まで、遂には朝廷の官位官職の「有職雛」や「古今雛」が追加されて華やかさが拡大し、関西にも逆波及し定着して仕舞ったのである。
幕府は懸命に成って、質素に祝う様に「御触れ」を出すが最早止まらなかった。
現在では、この逆波及の本論の「享保雛」が定着し、元の「内裏雛」さえも完全に忘れ去られているし、「立雛」等は存在さえ「文化の記憶外」に成っている。)

「京雛」と「近江雛」と「伊勢雛」の少しづつ異なる「立雛」は、勿論の事、形代(かたしろ)、「天児」(男子 あまがつ)や「這子」(女子 (ほうこ)の「祭祀や祝事の祈願方法」の「人形と雛の歴史」は学問的にも消えかかっている。
この事は、実に「青木氏の歴史観」として大事な事であり、「享保の改革」に執っては関連して前期した事を認識して置く必要である。

つまり、「祭祀人形」は特定階級に催され「天児系(あまがつ)」の「擬人化偶像の流れ」に、又、「祝事人形」は有る範囲の庶民に催され「形代系(かたしろ)」の「人形(にんぎょう)」へと進んだ。
この様に「人形(ひとがた)」から「人形(にんぎょう)」へと変化したが、更には、「祝事の目的」を持たせた事に依って装飾させた「雛形(ひながた)」へと進んだ分岐時代でもあった。

つまり、「青木氏の祭祀」は、「立雛」とは呼称するものの「雛」では無く、その真の姿は「人形(にんぎょう)」で、「祭祀人形」は特定階級に催され、何時しか「天児系」の「擬人化偶像の流れ」に居た「古式豊かな青木氏だけの慣習仕来り」に成っていたのである。
この「三月祭り(弥生雛祭り)」と「五月祭り(五月雛祭り)」の「青木氏」の「一つの祭祀に二つの催事」の慣習は、「弥生雛祭り」の「御雛と女雛」(正しくは親王人形)と呼ばれていたが、実は「人形(にんぎょう)」に依って作り上げられていたのである。

(注釈 「雛」の呼称の原因は、室町期頃の「立雛への進化の影響」と考えられる。
当初は「弥生祭り」と「五月祭り」と呼ばれていた様であり、室町期末期から江戸期初期に入ってから「雛」が着く呼称と成ったと口伝と資料の一端からと伺える。)

当然に「五月祭り(五月雛祭り)」の「毘沙門天像」は、「雛」では無い事は当然の事として、奈良期には「木彫像」の「擬人化偶像」(鞍作部止利作)での祭祀であった。
然し、室町期には「時代性」を強く反映して「塑像の特徴」を活かした「擬人化偶像」で祭祀されていたのである。

この「時代性」とは、「下剋上と戦乱期の乱世」で、且つ、この時期は乱世でありながらも「伊勢」は「不入不倫の権」で護られていた事や、室町文化で「巨万の富」を得た事から、「二つの青木氏の子孫拡大」(四家制度)は大きかった。

従って、最早、権威ある「木彫像」では「鞍作部の衰退」もあり、無理とも成る。
当然に拡大する「枝葉の子孫」の数に合わせるにも「子孫に与える像」は、「木彫像」では間に合わなく成り、「塑像」でなくては出来なかったと考えられる。
「乱世による損傷」も充分に考えられ、修理や量産の効く「塑像」に換えたと考えられる。

この古式豊かなこの「祭祀の慣習」は調べた範囲では、これに近い状態を「青木氏」と共に、「京」「近江」「伊勢」の藤原氏や佐々木氏等を祖とする数える程の“「老舗の商家」”のみで、昭和の時代まで維持していたと云う事である。

(注釈 伊勢では特定地域でも現在も遺されているが大半は元は老舗商家だったと云う。)

「老舗の商家」しかこの「古式の慣習」が文書にさえも遺されていない。
これは恐らくは、「立雛」さえも確認できない事から考慮すると、江戸期には、最早、「氏族」が其処まで衰退した事からだと観られる。

(注釈 「姓族」が主体を占めた。この「姓族」を以って「武士と云う環境」に成った。その為に擬人化像や偶像は衰退し「氏族の古式伝統」は消えた。)

何はともあれ、この典型的な現象は、それまでこの「古式慣習の文化」を維持していた階級であったのに、室町期末期に近江、京の関西域、伊勢、美濃域の中部域、土佐、讃岐、伊予、阿波の四国域、周防、安芸、伯耆の中国域に“「武家貴族」”が生まれて「貴族公家の勢力」を盛り返した。
然し、50-80年程度でこれらも短命で「姓族」に圧せられて、完全消滅して逆に共倒れして、「伝統」を保持していた可能性のある「郷士衆数」までも減らして仕舞ったのである。

この“消滅して数を減らした”と云う事が、多少なりとも痕跡を遺す筈であるが、「古式の慣習の痕跡」さえも無くす事に成って仕舞ったと考えられる。

それも、この「四つの地域」は、そもそも「古式の慣習」を維持していた「氏族の枝葉末裔の生存域」(家紋分析)であって、そこにこの「武家貴族」が安易に浸食し、安易に「貴族や公家」が「武家」としての力を持つ事が出来たのである。
この原因は、平安期末期から鎌倉期初期の「荘園制の弊害」であって、他の血気盛んな「新興姓族」の中に浸食する事は極めて危険であった事から、「西の政権」の「朝廷力」を吹き返す為に採った「安易な苦肉の手段」であった。


(注釈 これらの「武家貴族」と呼ばれる者の貴族や公家衆等は、「平安期の荘園制の名義貸主」であったが、それを根拠に貴族や公家衆等が室町の戦乱期で失職した武士を雇い、自ら「武家貴族」を名乗り、その勢力を使って過去の「名義貸し」を根拠に土地を奪い取った現象が各地で起こったものである。)

と云う事は、この現象が原因して、この「四つ地域の地元勢力、即ち、郷士勢力」さえも滅亡すると云う事に成り、当然に「古式の慣習」(祭祀の慣習)そのものが消え去る事と成ったのである。

(注釈 「弥生祭り」「五月祭り」は、「天児」(男子 あまがつ)・「這子」(女子 (ほうこ)と云う「祈願方法」に起因していて、奈良期、或は平安期からの「郷士衆」である場合は、この「祭祀の伝統」を保持していた。
この時代の「郷士衆」は、全て藤原氏、佐々木氏、源氏、平氏、青木氏等の「賜姓臣下族」で拡がった「母方族系」も含む枝葉の傍系支流族の末裔であった。
この「四つ地域」に、前段で論じている様に、それぞれの「荘園制等の名義貸し」や「血縁の定着理由」が在って主に分布していたのである。)

唯、この中でも、前段でも論じたが、数少ない「伊勢郷士衆」は、その元を質せば「母方の武家貴族」にも類し、「郷氏」でもある地元の「伊勢秀郷流青木氏」と「伊勢藤氏一門」は、「武家貴族の浸食」に耐え抜いた。

伊勢は、「京の北畠氏」が「武家貴族」と成り、一時、奈良、伊勢、美濃域、果てには西関東に浸食し、一時は、”「御所」”と呼ばれる程に勢力を持ったが、遂には平家の傍系末裔の尾張の織田氏に押し返され潰された。
然し,前段で論じた様に、「皇族賜姓臣下族の伊勢青木氏」の「不入不倫の権の笠」に入り、「縁者関係」を理由に「伊勢秀郷流青木氏」と「伊勢藤氏一門」には手が出せないと云う事が発生し生き残った。
そして、その結果、”「青木氏の古式の慣習」”は何とか遺ったのである。

(注釈 「皇族臣下族青木氏」の補完役を「円融天皇」時に「藤原秀郷」は命じられ、且つ、「青木氏の母方系」である事を理由に「同等の格式身分」を補償して、一族の第三子(千国)に永代継承する事を認め「青木氏の賜姓」を授けた。
これが「24地域-116氏」に拡がり、秀郷一門の「第二の宗家」と呼ばれて拡大する。)

中でも「伊勢秀郷流青木氏」は、「皇族臣下族青木氏の補完役」の中心に居て深い血縁関係にあり、秀郷一門にも「独自の古い慣習」が在りながらも「皇族臣下族青木氏」の「古式の慣習」をも保持していた。
取り分け、中でも「皇族臣下族青木氏」の「四日市殿」は、江戸時代には「最高の格式」を持つ「融合族青木氏」であった。

そこで、「青木氏」の「四家制度」の前提と成っている「皇族賜姓臣下族」としての「賜姓五役」を忘れさせない為に「格式象徴物」を作り「擬人化偶像」させて祭祀した。
それを「特定の期間」に祭祀する「青木氏独自の古来催事」であるとする前提には、「三月祭り(弥生雛祭り)」と「五月祭り(五月雛祭り)」との間には「重要な独特の繋がり」が「五月祭り(五月雛祭り)」側に在った事に成るのである。

では、その“「重要な独特の繋がり」とは一体何であるのか“と云う事に成る。

そこで、そもそも、「五月祭り(五月雛祭り)」には、口伝によると、室町期には何故か「毘沙門天像」であったが、これが「五月祭り(五月雛祭り)」の祭祀目的と成っている。
これが“「重要な独特の繋がり」である事に成る。
その“何故か”の「毘沙門天の根拠」が判れば、「一つの祭祀の二つの催事」であった事が判るし、次ぎの様に伝えられている「口伝」も納得のいく処である。

そもそも、別論でも論じたが、日本では「四天王の一尊」として扱われた場合は、“「多聞天」”で、「独尊像」として扱われた場合は、“「毘沙門天」”であり、「武神」としての「臣下族」の「守護神」として祀られていた。

(注釈 「三つの発祥源」として、「青木氏」がこの「武神の祭祀役」を唯一に持つ「特有の氏族」である。前段等で論じた事が大きく歴史観として出て来る。)

「賜姓族五家五流の青木氏」では、この「一つの祭祀の二つの催事」の中の「偶像擬人化物」として「毘沙門天像」が位置している。

(注釈 「藤原秀郷流青木氏」では、上記注釈でも記述したが「皇族賜姓臣下族」ではあるが、守護神は「春日神社」、主菩提寺は「西光寺」、始祖は「藤原鎌足」、家紋は「下がり藤紋」、「賜姓五家五流青木氏」の「補完族」で「母方族」である。
この事から「毘沙門天」は「武神」「戎神」「尚武神」の「守護神」では本来無い。
但し、「四日市殿」と「秀郷流伊勢青木氏」は「青木氏融合族」である事から両方の慣習を持つ。)

つまり、「一つの祭祀の二つの催事」の形体を観ると、「三月祭り(弥生雛祭り)」の目的は、次ぎの通りであった。
「皇族賜姓臣下族」としての役である「賜姓五役」を忘れさせない為に、それを与えてくれた始祖を擬人化させた「格式象徴物」の「偶像」を作り、一族にそれを「青木氏始祖」として崇めさせる掟である。
青木氏末裔に長く崇めさせるに至っては、又、守護させる為には、その「青木氏の意志」を最大限に具現化し、偶像化したものを「格式象徴物の偶像」に添える事で必要であって、それを「定期的な祭祀の形」で慣習化して遺す事にあった。

その「崇め護る意志」を表したのが「独尊像の毘沙門天像」であって、これを「格式象徴物の偶像」の横に配置した形態に成っていた。

(注釈 筆者が知る口伝範囲では、実際は、仏間の前面左に「大日如来坐像」、全面左に対の形で「毘沙門天像」が配置されていた様に聞き及んでいた。
然し、ところが資料に依れば「格式象徴物の偶像」の右横と成っている。
室町期末期の「秀吉に依る門徒衆狩り」で、人々は「青木氏の菩提寺と屋敷」に逃げ込めば秀吉は手出しはしないだろうとして列を成して逃げ込んで来た事が伊勢の記録で判っている。
この時、秀吉は武力を使えず「青木氏の菩提寺と屋敷」に「火付け」で応じた。
この時、「伊勢シンジケート」は「青木氏の菩提寺と屋敷」とを取り囲み人々を護ったとあり、「秀吉軍(門徒衆狩り)」は近寄れず、結局は全面破壊に至らず「青木氏の菩提寺と屋敷」は一部損傷で終わった事が記録されている。)

この注釈の様に、護る「伊勢シンジケート」の間で武力沙汰になれば朝廷を擁護する秀吉に執っては、“松阪殿にお構いなし“の「不入不倫の権」を犯した事に成り腹立たしくも好ましい事では無かった。

但し、この「松阪の災禍」で「格式象徴物の偶像」と、「大日如来坐像」と、「毘沙門天像」を屋敷の外に一度救い出したが、口伝に依れば、「毘沙門天像」だけは「塑像」であって重い事もあって損傷し、再び「災禍の中」に放り込んだと伝えられている。

この後の江戸初期前後に、この事が理由と成って反省して「塑像」では無く、「毘沙門天像」は「義経像(武者像)」をモデルにした様な現存の「武者偶像人形」(三尺像)にした事が伝えられている。

ところが、現在は「格式象徴物の偶像」の右横に「武者偶像人形」が配置される習慣と成っている。
これは、この祭祀が終われば、この「二つの偶像」は安全を期して土蔵に仕舞う仕来りであった事からこの配置に変更したと考えられる。

「大日如来坐像」は仏間に常設して祭祀している事から、口伝よりも資料が「正しい仕来り」であった事が解る。
これは「二つの祭祀に一つの催事」に合して「古式仕来り」を江戸期に修正した事に成る。

「大日如来坐像」は「格式象徴物の偶像」よりも上格である事から、「毘沙門天像」を仏間に対に配置したと云う事であろう。
そもそも「大日如来坐像」も「毘沙門天像」も「仏像」であり、「格式象徴物の偶像」と「武者偶像人形」は擬人化の「偶像」であり、「仏像」では無い。
つまりは、この概念に”伝統を変更した”と云う事である。

注釈として、「武者偶像人形」に変更した根拠には、「二つの青木氏」は「皇族賜姓臣下族」ではあるが、平安末期の「以仁王の乱」の直前1182年頃、「源頼政の第三氏孫京綱」が跡目に入るし、「信濃青木氏」にも同時期に「源光国の子の源実国」が跡目に入った事で、「青木氏と源氏の同族融合族」と成った。

この事で、「武者偶像人形」に換える事には、「江戸初期の青木氏第23代目頃の青木氏末裔」は「問題無し」としたと考えられる。

これを未来永劫に「氏の生きる目的」として忘れさせない為の「一つの祭祀の二つの催事」であった。

唯、問題は「毘沙門天像」の「三つの格式」をどう見たのかと云う事が気に成る。
それが下記に論じる「三つの格式」を持たしているのである。

そもそも、「毘沙門天」を詳しく探れば解る。
「毘沙門信仰の発祥」は、平安時代の鞍馬寺で、鞍馬は北陸の若狭と山陰の丹波と京都とを結ぶ交通の要衝でもあり、古くから市場が栄え庶民の間でも、「武神」に依らずとも「毘沙門天」の神格である「財福の神」という面も強まった。
更に、本来の「武神」と「財福神」以外にも、九世紀頃からは「正月のお祓い行事」として、「疫病を祓う役」と「無病息災の神」という一面が加わった。
平安時代末期には「商いの神」の「戎神」ともされ、「武神の甲冑の毘沙門天」は主流であるが、この姿の「戎神」の古い形態も起った。
「財福の神」としての「毘沙門天」は、室町期中期には「大黒神」にならぶ人気を誇るようになった。
室町期末期には、インド伝来の「武神の毘沙門天」は、「日本独自の信仰」として「七福神の一尊」ともされ、江戸時代以降は「尚武様」として特に「尚武(勝負)神」にも崇められた。

この様に「庶民の仏教の信仰」も加わり、「武神」、「財福神」、「無病息災の神」、「戎神」、「七福神」、「尚武神」とも崇められる事は「青木氏」に執っても得策であった。

この事から、「青木氏」は「五月祭り(五月雛祭り)」には、「毘沙門天像の塑像」を「三つの発祥源」として「武神」に、「二足の草鞋策」から「戎神」に、「土地の氏上御師」として「尚武神」に崇めて、「格式象徴物」を護る為にも配置して祭祀していた事が解る。
これは当に「格式象徴物」に対して「賜姓五役」を果たす為に護侍している「青木氏の姿」を表現している事にも成る。

この「毘沙門天像」には、基本的に「七像型」があり、右手には法棒、左手には宝塔を持つ基本像があるが、どの像であったかは現在は判っていない。
唯、「賜姓五役」を司る事から「武神」「戎神」「尚武神」の「三表現の毘沙門天塑像」と成ると、右に「法棒」(イ)と、左に「宝塔」(ロ)と、光背に「操舵輪」(ハ)と、足元に「邪鬼」(ニ)で、立姿は鎧姿(ホ)の塑像と成る筈である。

現在、全国に遺されている「毘沙門天像」には、「七像型」の範囲で初期には、「60程度の造形」(型式に拘らなければ絵まで入れると江戸期までのものを入れると数万像ある)があるが、当時はその「氏族」の「七像型の範囲」で主張をして造形を鞍作部に依頼する習慣が許された。
その為にも「依頼主の主張の自由性」が効く「塑像」が主体と成っていた。

室町期までは少なくとも上記の「三月祭り(弥生雛祭り)」を基本に「五月祭り(五月雛祭り)」が「青木氏」の「二つの祭祀に一つの催事」であったとすると、(イ)から(ホ)の条件が備わっていた筈である。
現在は室町期の類焼で正確な立像姿は判らない。

イロハニホで描かれた「曼荼羅絵の毘沙門天像」が「近江の寺」にあるが、これに近いものであったと考えられる。
口伝によると、奈良期の「青木氏」の賜姓を受け臣下族と成った時の「大日如来坐像」と「笹竜胆文様の象徴紋」と「氏神木の青木の樹」と共に、「鞍作部止利作の木彫り」の「毘沙門天像の賜物」と伝えられていた。

「青木氏」には、元より「鞍作部止利作」の「黒檀に依る大木像造」の「賜物の大日如来坐像」が現在も保有している事から、この時に合わせて受けた「毘沙門天像の木彫賜物」であったと観られる。
その「室町期の模擬像」の「塑像」として保有していたと伝えられていた。

(注釈 「原型の毘沙門天像」の「木彫像の賜物」は、原因は不詳であるが、鎌倉末期に損傷し類焼したと伝えられている。
「近江」と「美濃」にも「塑像」はあった筈で、「青木氏の氏是」に反して「源平合戦」の近江と富士川の戦いで滅亡した事で消滅した。
「甲斐の塑像」(源源光系)も衰退した事で消滅している可能性は高い。

「信濃青木氏」が所有した「毘沙門天像の塑像」の如何は現在も掴めていないが、下剋上と戦乱で損失したと観られる。
その後、「塑像」を作りしが「不入不倫の権」に護られていた事から「伊勢青木氏」の四家が共有していたのではとも考えられる。
然し、これは「室町期初期に再現された塑像の模擬像」であって、その「塑像の模擬像」も「伊勢三乱」でも焼失している。
この時に「信濃青木氏の毘沙門天像」は類焼したと考えられる。

その後は、この「塑像」は、遂には、江戸期初期の「武者偶像人形」(義経像)と、それを護侍する「弁慶像の雛型人形」に変化している。

(注釈 「弁慶像の雛型人形」の「武者偶像人形」は「江戸期の後付」と観られる。
恐らくは、これは江戸歌舞伎の勧進帳十七番で有名と成り、「五月雛人形」として作られる様に成った。
ただ、「「武者偶像人形」(義経像)」とは「造り」が異なる。

「義経像モデルの「武者偶像人形」は「箱雛」としてあったが、その後に、明治期に「弁慶像の雛型人形」は、「後付のガラス箱」に収め直されている。
この事から、「特注特大の雛人形」の三尺物、普通は一尺半以下として作られている様である事から、時期が同じでは無く兎に角は「後付」であろう。

「義経像モデルの「武者偶像人形」は、「箱雛」では、「毘沙門天像」に比べて「三格神」の意味合いが薄く成る。
この事から、その「意味合い」を強める思惑から、当時、「八幡大菩薩」が「姓族の武士」の「護り本尊」として崇められていたので、「弁慶像」を添える事で「武神と尚武神」の「三格神」を強化したと観られる。

そもそも、取り分け、11の「賜姓臣下族」の中でも、「清和源氏」と「桓武平氏」は、この「八幡大菩薩」を「武神格」として崇め、その「義経像」を江戸期には「八幡神」の「武神格」に祭り上げた。
元々、この「八幡神」は、「天皇家」の「始祖応神天皇の神霊」であって、「皇祖神の伊勢神宮」に準じる神格を以って守護神の宇佐神社と石清水神社に与えたものである。

従って、「神仏融合」の「八幡と菩薩」は準ずる神格として、「武神の毘沙門天」に継ぐ「日本固有姓族の武神格」として新たに造り上げたのである。

そこで「皇祖神の子神の祖先神」を守護神とする「青木氏」としては、この認識の上に立って「毘沙門天」に換わって、「武者偶像人形」を「武神」とする事に踏み切ったと考えられる。

(注釈 そもそも「塑像」は、同じ物を幾つも造る時に用いる手法で藁や木枠を基本に粘土で塗り固め外側を色付けする手法であり、又、模擬像や修復が容易である。
「毘沙門天像」等の複雑な像に良く用いられるし、金属像にする時の鋳型にもする多様性の手法でもある。)

室町期初期からの「下剋上と戦乱」を反映して、「青木氏」では「氏の安寧」を祈願して護る「守護神像」を偶像擬人化した「大きな雛人形」であったと口伝されている。
その「偶像擬人化像」のモデルと成ったのは、実在の「大蔵種材」だと伝えられている説もあるが、「青木氏」との間の直接的な関連性は無い事からこの説は疑問視されている。

ところが、別の一説には、「坂之上田村麿像」であるとする説もあり、「施基皇子」の四男の「白壁王の光仁天皇」の妻の「高野新笠」の叔父に当たり、「山部王の桓武天皇」の母方の曾祖父に当たる事から、この説が「青木氏と関連性」があり、経緯から一部納得は出来るが確定は出来ない。

口伝に依れば、上記した様に、江戸期初期には「義経像のモデル」の「武者偶像人形」を模写し、「弁慶像」を付帯させて模写したものと変化していたと伝えられている。
これには理由があって、平安末期(1182年)の「摂津源氏四家の源頼政」の三男京綱が「伊勢青木氏の跡目」に入った事から、「河内源氏」の「源頼信系の義経」をモデルにして「氏の護り本尊」として「偶像化した」ものを創ったとも伝えられている。

江戸期には社会が安定期と成った事から「毘沙門天像」から変えたとする説もあり、現在は、この義経に似せた「義経像」(モデル武者偶像人形)と成っている。
「義経像」(モデル武者偶像人形)とするには、この「大きな雛人形」の横には「弁慶像」が付添させている事からその様な説に成っている。
(但し、「弁慶像」は後から付け添えたものかも知れない。)
尚、「毘沙門天像」から「義経像」(武家侍のモデルした像)の「武者偶像人形」に変わった原因、書き記されたものが無い処から「伝統」を変えた原因は焼失かも知れないが本当の処は判らない。
理窟としては、上記の認識に執って換えたと云う事と観られる。

唯、当初は、「三月祭り(弥生雛祭り)」が原型で「一つの祭祀」であった事から、「弥生雛の御雛」は「天智天皇」とその妻の「越道郎女」を「女雛」に模写して擬人化した像を「箱雛」にしている。

念の為に、但し、「雛」との呼称は、明治前後の呼称の様で、「御雛女雛」は「御祖様」(おしさま)と呼称していた様である。
この「御祖様」は四家の中で使われる呼称で、「御師様(おしさま)」との違いは、「青木側」では「御師様」は呼ばれる側としてはあり得ず使わない。
唯、「青木氏の神格」として、「社職の物事の発声方法」は古来より異なっていて、例えば、「あおき」の場合は「うぉーきぃ」と云う風に韻に籠って発声する“「韻法と云う発声」”を「古来の慣習」として祭祀に関する言葉には用いていた。
つまり、「古代の神」に接する際の発声は、つまり、「神明神社の詔」等は、この「母音四音のアオウエ」と「父韻八韻のチイキミシリヒニ」の組合せで「子音三十二韻法」で言葉が作り上げられる「古代の発声法」である。
主に「父韻」の後に「母音」を着ける発声が行われていたが、祭祀に関わる名等の場合はこの逆の発声にも成る。

この「御祖様」は、「うおーしウさま」、或は、「うおーそオさま」と発声される事から、「おしウさま」か、又は、「おそオさま」に聞き取れたもので、「そ」>「し」で聞き取りに依っては「そ」<「し」に取れる事にも成っていた。

(注釈 伊勢では、「祖」は「始の意」を持つ事から「そ」<「し」であった様である。
恐らくは、「祖先神」の「御師様(おしさま)」があった事から、「字」の使い方で「始」では無く、「祖」を使っての発音は「韻法」で用いていたと考えられる。)

従って、「御師様」とは呼称は異なっていた。
「全国の青木氏」は、守護神を「祖先神」としている事から、この御師の頭で「神職の禰宜」であった事から、況や、これも「祭祀用語」であった事から、恐らくは、平安期には「うおーしウさま」と呼称されていた筈である。


その箱雛の「御雛女雛」、即ち「御祖様(おしさま)」の二体に侍する「毘沙門天像」(「義経像」)であった事から、「毘沙門天像(仏像)」より「義経像」に似した「武者偶像人形」の方が「皇族賜姓臣下族」を表す意味からも正しい。

従って、室町期に本来あった筈の「毘沙門天像二体(一体は信濃青木氏分の所蔵)」は、伊勢三乱の松阪焼失で無くし、江戸初期前後頃まで其の侭にし、上記の認識に依り「義経像モデル」の「武者偶像人形」に造り変えたとする説が理解できる。

「雛人形」は、顔と姿が時代の変化を受けて異なっているので、その事からこの「義経像」に似した「武者偶像人形」は納得出来る。
(江戸初期の福家が認識して変えた。)
それから以後に、「三月祭り(弥生雛祭り)」と「五月祭り(五月雛祭り)」の「一つの祭祀に二つの催事」が、「四家とその一族郎党」と「血縁関係の伊勢郷士衆」等が執り行う“「二つの祝事」”の形に変化して行ったと考えられる。

この時から「雛の呼称」が使われた可能性が有るが、「四家の福家」ではあくまでも「一つの祭祀に二つの催事」であった様である。
「青木氏」に関わる全ての関係者を取りまとめる手段として利用したと考えられる。

恐らくは、江戸初期頃は、その意味でも「厳しい環境」に置かれていた事が、上段でも論じている様に、「伊勢の結束」を優先したのであり、その為にも「祭祀の偶像」も替え、「祭祀目的」も緩め呼称までも変える戦術に出た。
そして、「享保の改革」へと進む「戦略の筋道」を付けたと考えられる。
江戸初期の事で前段でも論じた様に、「第23代の信定」とそれを支える「秀郷流青木氏」の「忠元」の働きがあったのだ。

それには、上記の「三格式」は、上記した様に、最早、「武神」のみを以って良しとしたと考えられる。

そもそも、「戎神」は「二足の草鞋策」の所以であって、「伊勢の紙屋」の範疇として割り切り、「青木氏の祭祀の目的」から除外して「伊勢の紙屋の祭祀目的」だけに切り換えたと考えられる。

実は、何と、この「祭祀目的に切り換え」には手を打っているのである。
それは、この時、「青木信定」は、この「切り換え」時に「稲荷神」を「伊勢の紙屋」に採用しているのである。

この稲荷神の事は「伝統―5」で詳細を論じているが、その歴史的な一部を次ぎに重複させる。

「稲荷信仰体」
この「稲荷信仰体」は、自然の生活の中から生まれて来たもので、仏教の様に、概念の論理化された中での作法ものではない。
依って、「3世紀の卑弥呼の時代」から既に存在して居たと筆者はみている。
出雲から出た「弥生信仰の作法」では無く、それは「縄文信仰に近い作法」であるからだ。
つまり、土壌から這い出て来た「庶民信仰」と云うか「農民信仰」があった。
それは、「古代仏教」より少し前の古来より受け継がれて来た「古い信仰体」で、後に「伊勢神宮の外宮」の「豊受大御神」に影響をもたらし受け継がれてきた「民の信仰体」であるからだ。
むしろ、この「古い信仰体」は時代性から観て、「豊受大御神」よりやや早い時期に発祥している。

実は、この事に付いて書かれた「豊受大御神の定説」によれば、次ぎの様に成っている。

「雄略天皇」の時に、天皇の夢に「天照大御神(内宮祭神)」が現れ、”「自分一人では食事が安らかにできない。”
その夢の中で、”丹波国の「等由気大神(とようけのおおかみ)」を近くに呼び寄せるように”と神託した”とある。
そこで、同年、”内宮に近い山田の地に「豊受大御神」を迎えた。”とある。
つまり、現在の外宮である。

そもそも、この説は”神代の時代の話”で「後付」の話である事は判る。
ただ、ここで、矛盾が一つある。
そもそも、伏見の神社系の「稲荷信仰」は、「豊宇気毘売命(とようけびめ)」等の五主神格としている。
この「稲荷の豊宇気毘売命」と「稲荷の等由気大神」とは同神である。
依って「等由気大神」を勧請したのであるから、「稲荷神」の方が先と成る。

以上の様に、「稲荷信仰」は飛鳥期からの庶民の「農工商の営み」の神であり、大淀の地に生まれた何と「伊勢神宮の外宮」以前の神格なのである。
この認識を持っていた「福家の信定」と「伊勢藤氏の忠元」は、「印-中」と経由して来た仏神の「毘沙門天の三神格」の「戎神」に代えて、“「日本古来」”の「皇祖神の子神」の「祖先神」と共に、「豊受大御神」の祖神の「豊宇気毘売命(とようけびめ)」を祭祀したと云う事に成る。

上記で論じている様に、「信定と忠元」は「二つの青木氏の慣習」を統一して全てを“「日本古来」”と云う認識に立って、上記した「古式の習慣」の「青木氏の伝統」を思い切って切り換えて、「伊勢衆の結束」を図る事が必要だと考えた事に成る。


以上、当時の「青木氏の歴史観」を深めた処で、話しを元に戻して、「江戸の伊勢屋」の「質に関する事」に戻る。

「江戸の伊勢屋」は上記の様な「古式慣習の伝統」を持って江戸に臨み、「商業組合」を通じて“「職能部の質」”として普及させようとしたのである。
それが上記する「箱雛の慣習」から「庶民の享保雛」へと作り直して華やかにして、簡単に作れる職業を普及させて、庶民に「質」を広める事に依りそこから生まれる「職」を「江戸の民」に与えたのである。
あくまでも「青木氏の質」(仏施の質)であった。
この「伊勢屋の質」は、「金融」のみならずむしろこの「質」に重点を置いていた。

唯、ところが、これらの事が書かれた報告書の様な商業記録の“「伊勢の資料」”には、1731年頃には“「質業の利潤」“が生まれていたと云う風な行は不思議に無い。
これは「江戸の伊勢屋の質」(「享保雛」等)に依って、「利潤の元」を作り出そうとして懸命に広げられたものである事が判る。
本来であれば、「質素倹約」を旨とする「伊勢型商い」であれば、兎も角も「+」であろうが「-」の「利潤」であろうが、“書かれていない”と云う事は疑問である。

つまり、これは当初から、この時期の「享保の改革」(改革期間は1716-1788年頃まで)の中程まで少なくとも「-利潤」を覚悟した営業であった事を物語るものでは無いかと考えられる。
即ち、その意味で「質」は「享保の改革を成功させる先行投資」と考えられる。

(注釈 前段で論じた様に、此処で云う「質」とは、現在の「質の意」では無く、中国の古代の仏教寺が行った「仏施の質」の語源にある。)

本来は、「伊勢屋の質業」のこれは「江戸の商業組合」の「商い」を活発化させる為の「戦略的な手立て」であって、活発化させる事で「原資」は獲得できると考えていたのか、云える事は未だ「享保の改革」の中程では「投資的段階」であって、未だ「自発的活況」を得ていなかったと云う事であろう。

(注釈 但し、上記した様に、「貿易」に依って「江戸の伊勢屋」の収支は取れていたと観られる。
従って、「江戸の活況の収支」は、初期段階(1731年頃まで)は「先行投資」であったらしく、そこから次第に伸び始め1741年頃からの改革中期では「収支バランス」は取れ始めたと考えられる。
それ以後は、活況(1741年-1765年頃)を呈した事はあらゆる資料からも判る。

況や、「伊勢」から持ち込んだ「職能部の活躍」に依って「伊勢屋の質」が成功したことを示す。
前段でも論じたが、「伊勢」から「商業組合」が江戸に移動する時、各種の「商人集団」は当然の事として、紀州伊勢の郷士衆の「職能部の集団の百余人」と記している資料を観て、この伊勢屋の数に一時不思議さを感じた。
“「職能」を江戸に拡げる事”は良く判るが、然し、その意味で、“この何故この数なのか”と云う「不思議さ」を良く考察すると次ぎの資料の行が観られる。
南勢の「青木氏の旧領地」の「郷士頭の家」で見つかった「取り纏めの依頼と説得の手紙」からその「本質」が読み取れる。

「極貧の経済」から「江戸の経済」を高める「事の本質」は、突き詰めると「商人の活躍」と云うよりは、“「職能部の質」”にあると説いている。

つまり、“「職能」をどの様に広めるか”、その“江戸の庶民に対しての広め方“に掛かっていると観ていた事を示すものであった。
そもそも、「江戸の庶民」と云うものに対する評価を「紀州伊勢の者」等は、“異質で難しい”と受け取っていた証であろう。
“どの様に難しいのか”と云う事であるが、紀州伊勢域の様に長い歴史の年月の中で、血縁や主従や同族や仲間などの「何らかの絆」で固く結ばれていて、「事を成す時」はその「絆」で成せる容易さがあるし、「事の成就」が比較的に容易であった。
然し、「江戸」にはこれが無く比較的に「絆」は希薄である。

むしろ「良し悪し」は別として、開幕に依って各地から集まって来た地域である事から“「個人性」が尊重される環境にある”と認識していた事であろう。
「商いを広める」、或は、「自由な商業組合を広める」と云う面では、“逆に都合が良い環境である”と観ていた様である。
ところが然し乍ら、“「職能」”と云う面では、「技能伝承の徒弟制度」の等の事があって、この「個人性の環境」では難しいと理解していたと云う事であろう。

前段でも論じた「イロハの自由性を持つ商業組合」に於いてでさえもなかなか理解されず、「職能の広がり」には何らかの工夫が絶対的に必要と理解していた事である。

其処に、前段でも論じた様に、「商い」には室町期からの「古い貸付売り」で、新しい「店舗販売」は遅れていたし、「職能」も全国から商品を仕入れてそれを売ると云う形態であった事から、希薄で「独自の殖産」の定着は無かった。
享保前の江戸には、”「殖産に依る職能」”と云う概念は未だ広まっていなかった。

何はともあれは、「商人」は享保の直前に「江戸十組問屋」等を形成している様に、「地方」、取り分け、関西や中国地域からの者であったとすると、必然的に課題は、「職能の伝達方法」である事に成り、「難しい課題」と成るは必定であった。
然し、その「殖産の職能」を広めないと、「単なる商い」ではそれはそれで良いが、「江戸の享保の改革」ともなれば「組織的な職能の伝達方法の制度」を持ち込まなければ成し得ない。
それも難しい「江戸庶民と云う曲者」を相手にする事である。

そこで、考え出されたのが、「伊勢」で奈良期から「青木氏の浄土密教」が行っていた”「仏施の質」”にあり、これと連動させて「伊勢の殖産と興業」に用いていて、大いに成果を上げていた。
この制度を「仏施」そのものでは無く、「商業組合の質」(伊勢屋の質)にする事にあると考えていたのである。

(注釈 手紙は、その為には「伊勢の殖産の職能力」を落とさずに、「江戸庶民への広め方」を成し得るには「派遣する人材の選出」にあり、「数の事」もあるので「取り纏め」に付いて宜しく頼むと云う行であった。
伊勢の各地の郷士頭に事前にこの旨の事を説得していたと考えられる。)

上記した様に、この様に「古式豊かな伊勢の独特の慣習」が「享保の改革」に繋がっていたのである。

注釈として、この為からもその前に「青木氏だけの慣習」、「伊勢紙屋の慣習」から脱皮して「伊勢衆」に理解される「二つの祭祀」、或は、「二つの祝事」に換える必要があった。
「伊勢衆の結束」を図り「改革」に繋げて行くには、その「伊勢衆と云う集団」の「格式象徴物」が必要と成る。
即ち、「伊勢衆の心の御旗」としたのが、上記した「大日如来像」「格式象徴物の擬人化偶像」と「武者偶像」の「三つの偶像」であったのであろう。

この「享保期の頃」までは「商人」と云えども出自は、「郷士の武士」であり、取り分け、「伊勢」は奈良期からの「何らかの絆」で結ばれた数少ない「氏族に繋がる格式ある郷士衆」であって、他の地域の「姓族郷士」とは異なっていた。
それだけに「三つの偶像」が、彼等には「伊勢衆の心の御旗」は絶対に必要であった。
「伊勢商人」に成ったとしても、「職能部の頭」に成ったとしても、「伊勢郷士」であると云う「誇り」を忘れない為にも、自らの「三つの偶像」は必要であったのである。
取り分け、「江戸」に出るともなれば尚更の事であったと考えられる。

故に「江戸引き揚げ」の時も「商人」として残る事無く「伊勢」にきっぱりと引き上げているのである。

前段でも論じた様に、「伊勢」では「庶民の出自」の「商人の出現」は、1750年頃以降の「小津屋」からである。
他の地域の「姓族郷士の商人」は、1760年代と成ろうが、多くは1765年頃が殆どである。

実は、上記の「南勢の郷士頭の手紙」の一節の行には、文脈を要約すると、“・・・我ら伊勢者の誇りとして「如来様」の下に「源六様(吉宗)」を支え申そうでは無いか。・・と訴えている。
「伊勢」では、「頼方や吉宗」では無く、預けられた時の「源六の幼名」で呼ばれていた事が判る。

以上の事から、次ぎの様な経緯の数式論が成立していた事に成る。
最早、「伊勢文化の応用」に外ならない。

「古式豊かな伊勢の独特の慣習」*「伊勢屋の質」=「享保の改革」
「古式豊かな伊勢の独特の習慣」+「郷士衆の職能部」=「享保の庶民文化」

以上の図式が描かれていると云っても過言では無い。

この「伊勢屋の質」(伊勢屋の仏施」)についての初期段階の収支バランスを物語る明確な資料があったとは考えられるが、江戸より1781年頃に引き揚げた事もあって、「江戸の資料」は「伊勢」では流石に見つからない。

では、“「自発的活況の状態」に入ったのは何時頃であったのか”と云うと、「江戸の伊勢屋の質」の「金融対策」で、活況が本格的に成ったのは、結局は,「土地を含む担保の質流れ売買禁止令」(農村と町方に出された二つの禁止令)の“「緩和策」”を打ち出された10年後の矢張り1741年頃であった事に成る。

「資料の内容」から1731年頃より10年後と成り、改革開始から25年後と成る。
「享保の改革」の開始の1716年から、改革が続けられた1788年まで72年間、上向き始めてから57年間、自発的活況が47年間、欠損期間は6年間、準備期間は2年間、計画立案期間は10年間、合わせて、82年間と成り、「商業組合の開始」からは182年間と成る。

この「伊勢屋の質」の「中間報告の資料」から、「享保の経済」が上向き始めた時期(1731年頃)を見計らって、”今は「-利潤」ではあるが、必ず「質の屋」(金融業・コンサルタント)として成り立つ”との事の行の「報告内容」であったのである。

現実に、「182年間」のこの「読み」は流石に当たっていたのである。

“時代を大きく動かした”と云う点では、“「稀に見る氏」”であった事に成る。
この事で、「青木氏の氏是」と「改革の戦略的理由」に依り「青木氏」を表には出さなかった。
然し、現実には、江戸期中程には、「青木氏」が、最早、“「氏族」”としても“「稀に見る氏」”とも成っていた事にも成る。

「大化期647年発祥からの使命」は、あくまでも持ち続け、「楮和紙の開発」から始まって「古式豊かな伊勢の独特の慣習」*「伊勢屋の質」=「享保の改革」で、遂に1731年には「商業組合」と云う「改革の花」を再び咲かせたのである。

これまで上記した様に、「青木氏」は「新しい花」(和紙開発)を手掛けての連続であった。

実に“可憐でシンプルな花”と云うイメージを持つ。
「花と樹」で例えれば、云うまでも無く「象徴紋」にも成っている“「竜胆の花」”と「青木の樹」である。

前段でも論じたが、この“「竜胆の花」の様であれ、「青木の樹」の様であれ“として「賜語」を遺し「賜姓」したのは「天智天皇」である。
その「竜胆の花の印象」と「咲く環境の持つ印象」と「青木の樹の様な力強さ」が、「青木氏の氏是」とも成っているのである。
「二つの青木氏」はこれを護り続けて来たのである。

因みに、参考として、大化期から江戸期までの間には、次ぎの様な「改革」を成し遂げている。
全てではないが、思いつくままに拾い出してみる。

「自然神の継承」、「祖先神の創設と継承」、「神明社の創設と継承」、「浄土宗密教の創設と開始」、「侍の創設と開始」、「武家の創設と開始」、「国策氏の創設と開始」、「賜姓族の開始」、「氏族の開始」、「皇親族の開始」、「貿易の開始」、「総合商の開始」、「和紙、硯墨の開発」、「商業の開始」、「殖産・興業の開始」、「米・早場米の開発」、「養蚕の普及」、「紙加工の開発」、「商業組合の開始」、「徒弟制度の開始」、「暖簾分け制度の開始」、「質屋の創設と開始」、「職能部の開始」、「海陸の運輸業と護衛業の創設」等の全て「創始者」であった。

(文化面で「青木氏の慣習や仕来りや掟」が世に出て催事に成った事等は、「伝統シリーズ」でその都度、機会に触れて記述しているがその数知れない。)

この様に“「歴史に遺せる多くの大改革」”を成した。

これら一々に独特の「青木氏の文化」が生まれ、それを「伊勢青木氏」等や「郷士の職能部」が其の文化を「庶民用」に改良して、「殖産」にして、「仏施の質」として世の中に出す。
この行為を江戸で一機に咲かせたのである。
その複合の「仏施の質」が「享保雛」であったと説いている。

上記の様に、日本で最初に起こった「大火改新」で産まれた「青木氏」は、「二つの青木氏」の「命運」を掛けて「社会」の為に「江戸期の経済改革」の最後の「享保改革」(「リフレーション政策の創設」)に取り組んだのである。
これは、何をか況や、「青木氏の氏是」と「家訓10訓」のベースにも成っている「青木氏の浄土宗密教」の「般若心経の教え」を護っていた事からの発起である。


> 以下 「伝統シリーズー25」に続く。

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