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「青木氏の伝統 20」-「商業組合」の発展 


[No.338] Re:「青木氏の伝統 20」-「商業組合」の発展 
投稿者:福管理人 投稿日:2016/02/09(Tue) 09:17:21


:「青木氏の伝統 19」の末尾


> 他には「武力的な援護」、「政治的な援護」と成るのだが、「青木氏の氏是」に依って「歯止め」が掛かっていて、直接の「武力的な援護」は無く、「経済的援護」の他に、「青木氏」が持つ「シンジケートに関わる援護」が多い傾向である。
> この「シンジケートの援護」であるが、「直接的な武力衝突」では無く、平穏時は「家族の身辺警護や食料の安全輸送」等に関わっていた模様である。
> 「一揆」を先ず根絶やしするには、為政者側の採る最初の作戦は、先ずは、「補給食料の断絶」や「家族への脅迫」や「調略作戦」から始まり、「武力に依る掃討作戦」は最後の手段であった。
> その前のこの作戦に「援護の対応していた役目」は、「郷士頭の家に遺る手紙」の資料から読み取ると、「青木氏」からの指示に基づき、その役目が危険であった事からこの「シンジケート」が手足と成って大いに働いていた様である。
>
> 「政治的な援護」の関りでは、「シンジケート」と関係していて、“「一揆後の立て直し援護」”と云った「援護の関り具合」に徹していた事が判る。
> 特に、「江戸期末期のシンジケート」は、時代と共に変化して「抑止力」と云うよりは「職能集団」と云った様変わりした「重要な役目柄」を演じていた事が判って居て、支配下に置いていた「伊勢水軍」の「職能集団」は、「海上輸送」で働き、各地域に配置していた武装集団は、「陸送輸送と警備担当」で働き、「大工等の職能部」は、神明社等を江戸幕府に引き渡した後は幕府から「関連企業」として受注を受けてこれを修理管理する事に働いていた。
>
> そして、明治期中期には、伊勢に於ける「青木氏のシンジケート」は、これら全てを解散して「企業」として独立させる手段を採った。
> 伊勢以外にも、例えば、「讃岐青木氏」の様に、本体は「商い部門」を瀬戸内に遺しながらも、「廻船業」として「新規航路」を作り、最終、蝦夷地にも支店を置いて大いに栄え、昭和20年まで続いていた。
>
> この様な例の様に、時代と共に体質変化させて生き延びていて、「青木氏の15地域」では、「伊勢、信濃,讃岐」は、勿論の事、有名な処では「新潟」や「富山」や「鳥取」等、多くは少なくとも昭和の初め頃まで「商業組合と提携商人」と共に存続した事が判っている。
>
> 要するに、江戸期末期に成っても依然として「賜姓族」として頑なに「地域の住民」を「賜姓五役」の「殖産や興業」に導いて、「商業組合と提携商人」は「本来の一揆の意味合い」としての貢献をしている。
>
> これらは前段の「伝統シリーズ」でも「関わり具合」を論じてはいるが、本論は「商業組合と提携商人」としての「15地域の青木氏の生き様」を「伊勢の例」を下に焦点を当てて論じた。
> これらの事は、決して、伊勢域だけの事では無く、「15地域」では、「商業組合と提携商人の組織」を形成する以上は、ほぼ同じ様な事が起こっていたのである。
> それを前提にご理解頂きたい。
>
> 次段は、矢張り、伊勢を以って、この「提携型商人」の「射和商人」に付いて例として詳しく論じる。




「伝統シリーズ-20」


そこで、江戸初期からの関係として、前段から論じている「青木氏と郷士衆と門徒衆との関係」で成立したのは「松阪商人と射和商人の商業組合」の経緯である。
この様な関係の経緯が時代毎に形を変えて上記の「一揆」には背後に必ずあった。

つまり、そこには上記の「関り具合」とは「別の媒体」としては、「青木氏の定住地」から発祥した有名な地域の「・・・商人」があった。
そもそも、「射和」(いわ)とは、現在では、「伊勢松阪の南域」に位置し、「玉城地域」との川を隔てた北側の処にある「古い町並みの地域」の事である。
この地域は、従って、この“「力の背景」”を得て「歴史の荒波」を得ても消失する事も無く、江戸期を経ても何と現存しているのである。
(当初の「古い街並み」そのものも遺っている。)
改めて、その「商業組合の拠点」となった「伊勢松阪」は、奈良期の古来よりの「伊勢青木氏の定住地」であった。
然し、戦乱後の室町期末期には、「秀吉の許可」を得て「蒲生氏郷の本領安堵策」で旧領も含めて認められた為に幸いに「安堵の経過」を経た。
これが「青木氏が関わる地域」の「伝統」を維持出来た大きな要素の一つであった。

「郷士衆や民」との「心のつながり」が悠久の時からのものとして維持出来たのである。
それは、前段で論じた「紀州伊勢で起こった一揆の関係」で証明できる。
この「心のつながり」が霧消して居れば、「青木氏」に「経済的背景と成る力」が在ったとしても、「一揆」までの援護をしていたかは大いに疑問である。
恐らくは、この事(本領安堵)が無ければ心は霧消していたと観られる。
その“「遺った心」”が此れから論じる“「商業組合と御師制度」”を結び付けて維持する事に成功したと考えられる。
唯、「松阪の氏郷の商業策」として「城郭整備」の為に移動し、「伊勢松阪の屋敷町」の9番地から11番地の「広大な3地域」を与えられ、そこを「青木氏の商業拠点」としたと伝えられている。

「蒲生氏郷」は、この1588年に飯高郡矢川庄四五百森(よいほのもり)で松阪城建築に伴い特別な「楽市楽座」と呼ばれる概念で「町の縄張り」も行った。
この時、「氏郷」は、寺社などの商業に関わらないものは町の外側に配置した。
そこで、戦乱を前提に町筋を直線ではなく“町角”を要所に造り“道幅”を変えて一度に多くの“敵兵”が攻め込めないようにした。
そして、「伊勢郷氏」や「伊勢郷士衆」や「伊勢商人」を強制的に移住させて「特殊な城下町」(湊町)を作り上げた。

(注釈 近江より「近江商人 日野町」を呼び寄せてまで「商人の町造り」をした。これが下記に論じる問題を起こした.)

そもそも、「伊勢松阪」は「伊勢神宮のお膝元」である事から、古来より「不入不倫の権」で護られ、城等を建築する事を「朝廷政権」、所謂、「西の政権」が室町期まで禁じていたが、「信長」に依ってこの慣例は破られていた。
現在で云う“「商業テナント」”を「街の中心」に据え、その周囲に近江より呼び寄せた「家臣集団」や伊勢の「主だった郷氏や郷士衆」や「主だった町衆」に敷地を与え「商業都市域の住宅街」を築き、当時としては画期的な“「特殊な城下町」”の基礎を構築したのである。

(注釈 唯、江戸期に入り「紀州藩の飛び地領」と成った事から、この「庶民の町屋構造」(西十町東九町)が不便と成り廃棄し廃藩をした。
その後、条理性のある「紀州藩武士の屋敷町構造」(殿町)に造り換えられた。この「屋敷町」には紀州藩支藩の田辺藩の家臣が赴任した。)

「青木氏」には、この「特殊な城下町」に与えられた3区画も、依然として紀州藩より安堵とされた。
そこで引き続き、与えられた区画のここを「商業組合の拠点」としても使われる様に成ったのである。
「紀州藩の安堵目的」には、事前の「談合の結果」(2度)として、「荒廃した伊勢の発展」の為に、「状況証拠と商業記録」だけで確定した記録が遺されてはいないが、「商業拠点」(青木氏提案)とする事があったと観られる。
そして、その「提案」に基づき、そこを、主に「伊賀和紙を扱う総合商社の紙屋」の下屋敷(拠点)にしたと考えられる。

注釈として、この時、「紀州藩」は不便な角部のある「幅狭の街並み」を態々と変えている。
この意味する処は何であったのかが問題である。
「何らかの目的」があってこそ「改善」をしたのである。
「金銭」をつぎ込んでここに新たに別に「西棟10戸 東棟9戸の家臣、即ち、紀州藩家老田所氏の家臣の武家屋敷町 一戸 間口5間 奥行5間」に編成し直した。
「青木氏の一区画300坪」とされているが、何と武士屋敷比35倍 「福家の一部住居」にも成っていた。

これは、明らかに「青木氏の提案」、即ち「商業組合の実現」を企画しての変更であったと観られる。
それでなくては、こんな「家臣の武家屋敷町」の真ん中に「強大な敷地の屋敷」を幾ら「旧来の郷氏」であったとしても与える事は無いであろう。

前段でも論じたが、「二足の草鞋策」で、「伊賀和紙」(伊勢和紙とも云う)を奈良期から殖産し興業化して作り始め、正式には925年頃に「商い」を営み、更に1025年頃には「総合商社の豪商」となり、歴史にも出て来る位の「商い」を松阪で営んでいた。(前段で論じた。)
そして、江戸期には、「紀州徳川藩」の「勘定方」を指導し、「吉宗」に同行して「享保の改革」(青木六兵衛)にも参加して、その「商法」を活かしていた。
江戸時代には、従って、地元の“「伊勢」“は「紀州藩飛び地領」として、特に力を入れ「松阪商人と射和商人などの伊勢商人」を多く輩出させた地域でもある。

ここまで「紀州徳川氏との関係」を成すには、根本に「何らかの特別な話し合い」が無くては無し得る事では無い。
この関係が「家康との談合時」の「商業組合の提案」にあったと観ている。
「西の大阪」に対して、「家康」と「青木氏」の両者は、「荒廃する伊勢」を立て直すには、「伊勢」には「試験的な自由な商業都市の実現」を目指したと観られる。
この事が次ぎに明らかに成る。

実は、前段の「商業組合」と共に、“「御師制度」”と云う「職能集団の組織制度」を「江戸幕府組織」に「吉宗」は持ち込み採用したが、この事に付いて特段で論じる必要がある。
そもそも、この“「御師制度」”とは、元は奈良期からの「伊勢神宮の職能集団の制度」であった。
そして、「伊勢神宮の皇祖神」の「子神の祖先神」(青木氏の守護神)の「神明社の神職」(青木氏族と佐々木氏族)などがこの「御師」(おし)に選ばれていた。
ところが、「御師の首魁の青木氏」は、この「御師制度」を「青木氏」の中にも持ち込んで、「二足の草鞋策」の維持に活用していたのである。
当然に、この「商業組合」の組織等にもこの「御師制度」を適用したのである。

前段で論じた(イ)(ロ)(ハ)の{身分・格式・職種」等の不必要な垣根を取り除いた”「自由な組織体」”にこの「御師制度」を適用したのである。
一見して矛盾する制度であるが、然し、その矛盾すると観られていた「御師制度」は、この「商業組合」に生きたのである。

では、”これは何故なのか”である。
それは、”「自由」”であるが故に、”完全に放置すれば飛散する”はこの世の条理である。
何処かで“飛散を止める仕組み”が必要であって、それは「内部の飛散」では無く、外側、況や、“「外郭の飛散」を留める仕組み”が必要であった。
「職能別」にまとめて放置すると、初期の段階では纏まるが、暫くすると“喉元過ぎれば熱さ知らず”の例えの通り、ある一つの職能別集団に何時かは「独立の機運」が蔓延して他の職能別集団との連携が上手く採れなくなる。
こうなると「全体の商業組合の効果」は半減低下し、何時かは離散するが条理であり、これが「自由を前提とする組織の欠点」でもある。
だとすると、“外に離散する事”を先ずは防げばよいと云う事に成る。
そうすれば、「外郭の範囲」の中で多少の「自由」は阻害されたとしても纏まる事が出来る。これがこの世の習いの条理である。
つまり、突き詰めれば、その「疎外のリスク」が「全体の享受メリット」に比して極小であれば組織は成り立つ。

「離散防止の役目」=「疎外のリスク」<「全体の享受メリット」=「御師制度」

この世は以上の数式論が成り立つ。

この「離散防止の役目」を果たしたのが「御師制度」であった。

この「単なる御師制度」では駄目であった様である工夫が成されている。
そもそも、この「商業組合」に持ち込んだ「御師制度」は、資料から読み取るに、可成り初期段階に持ち込まれていたと観られる。

幾ら「自由」の「商業組合」とは云え、「社会の自由」は「封建制度と氏家制度」とで出来ている限りふ「個人の概念」”は制限される範囲に在ったし、現在の様にそもそも体質的にそう「自由な発想の概念」を持ち合わせていなかった筈で、「社会全般の概念」がそうであった筈である。
むしろ、どちらかと云うと、「古式豊かな概念」の中に、他の者達より「新しい自由な概念」をより多く持ち合わせていたと云う事であろう。
この「新しい自由な概念」なるものは、現在の発想する「自由な概念」と云うものでは無く、「商業」と云うものから発展した概念であったと観られる。

伊勢には、昔から、”「近江泥棒に伊勢乞食」”と言う言葉が遺されている。
つまり、「近江商人」は“「がめつい商法」”、に対して「伊勢商人」は、「質素倹約の商法」の意味で呼ばれていた。
元より、この「質素倹約の商法」の“「商い」”をより豊かにするには、「質素倹約」の「固定概念」に捉われていては「商い」は成り立たない。
“「商い」”と云うものは、そもそもその「自由の原点」から発想されているものである。
この「質素倹約の商法」の「商いの概念」の中で発育した範囲からの“「自由概念」”であったと観られる。

当に、奈良期から行われていた「外国との貿易」はこの概念の範囲からのものであった筈である。

「質素倹約商法」+「自由」=「伊勢商法」+「商業組合」

以上の関係式が成り立つ商法であった。

遺された手紙の中の一節を読み取ると、「質素倹約の商法」の中での「商業組合」は、丁度、現在で云えば、”「産業別と職能別の共同連合会」の形式”に似ていると考えられる。
これに適合させた「御師制度」が、「単なる御師制度」では無かったと云う事の“もう一つの策”で有ったと観られる。

「質素倹約の商法」+「自由」=「伊勢商法」+「商業組合」+「御師制度」

この会、即ち、「御師制度」が「自由」から起こる“外郭の飛散を留める仕組み”を果たしていたと云う事に成る。

では、“一体、「商業組合と御師制度の関係」がどの様な仕組みに成っていたのか“と云う事である。
これが、”「単なる御師制度」では無かった“とする他の”もう一つの策“とは、「産業別と職能別の共同の連合会の様な類似形式の上に、この「個々の組織の頭」に”伊勢紀州の「郷士衆」を置いた”と云う事であった。

「質素倹約商法」+「自由」+「郷士衆」=「伊勢商法」+「商業組合」+「御師制度」

「個々の職能の組織の職人」をその「共同連合会の様な形式」と成っていた会の「会頭」に置くのでは無く、その「職能の責任者(差配頭)」としてその「地域の郷士」を置いて、その「組織」を纏めさせ「全体の生産工程」をも差配させていた模様である。

そしてこの「郷士の家人」がこの「事務的な実務」を担っていた事が判って居る。
この「郷士家人」とは、その「職能者の家筋の者」であった様である。
そして、身分格式を問わず「職能者全員」は「下級武士を含む農工の民」の広い範囲で構成されていたのである。
ここで「職能集団がまとまる糸筋」なるものを作り上げていた事に成る。

この「伊勢紀州の郷士」には、前段で論じた様に、“「郷士頭」”があって、「商業組合」とは別に、「青木氏との関係」で繋がっていた。
この事から、この“「郷士頭」”は、「青木氏四家との関係」と「職能集団の差配頭の郷士との関係」と「20近くあった青木氏部の頭」と「門徒衆との関係の頭」としての“「五つの責任」”を負っていた事に成る。

この様に前段でも論じたが、この「下部組織の長」と観られる“「郷士頭」”は実に重責な位置を維持していた事に成る。
この「郷士頭」は、資料の中では“「郷士頭」”と書かれているが、普通の呼称は、単に“「・・の長」等”と氏名を着けて「敬愛の意味」を込めて呼ばれていた模様である。
故に、現存する幾つかの「郷士頭の家筋」には、現在までも「青木氏の生き様」を証明し得る重要な手紙などの資料と成るものが保存されていたのである。

(注釈 筆者幼少の頃には南勢と南紀のこの何軒かの「郷士頭の家:縁者」に何日も泊まる旅をした事を覚えている。
中には現在でも南紀の老舗大旅館を営んでいる。)

これらの資料によると、年に「二度の全体会議(戦略会議)」と成る集会があり、上記の「五つの責任」の「組織」のそれぞれの部門集会は「四度の会議(営業会議)」が催され、それぞれの「職能部門の会議(工程会議)」は「毎月」に行われていた事に成っている。

ところが年に一度、秋の頃に「祭りの様な集会」が、「伊勢松阪青木氏の福家の屋敷と菩提寺」であって、「土産物」を貰って帰る等の催しの祭事で、職能者の作業者全員(組合員)が参加した様で、「遠祖地のある南紀」からも「伊勢松阪」までも二日掛けても参加している。
要するに、「伊勢運動会」であり、「二つある菩提寺」は「てんてこ舞い」であったと記されている。

この事は,「五つの責任」に加えて次ぎの「六つの組織」で構成されていた。
「青木氏の四家組織」(A)
「商業組合の組織」(B)
「御師制度の組織」(C)
「紀州伊勢郷士衆の組織」(D)と、
「郷士頭」が世話をしていた「門徒衆との組織」(E)

更には、次ぎの組織が加えられる。
「神明社の連携」と「伊勢信濃シンジケート組織」(F)

以上が有機的に関係を維持し動いていたと云う事を示している。

これが「商業組合」を効果的に存続させていた事の大きな要因であった。

当然に、この「六つの組織」で「15地域との関係」にも連携が取れ易かったのである。
「15地域」にもこれとほぼ似た組織形態を採っていた事が「越後青木氏」や「越前青木氏」の資料からも判っている。
この「15地域との関係」は「伊勢青木氏四家」が責任を持って維持していたのである。
「伊勢青木氏四家」が持つ組織を更に活用した「重層的な組織」を作り上げていた。
この「情報のやり取り」は「神明社」が行い、「連絡と搬送と護衛」は「伊勢信濃シンジケート」が行っていたのである。

そこで、「江戸幕府の組織」にこの“「御師制度」”を敷いたのには、次ぎの複雑な経緯の事があった。
若い時に伊勢で見聞きして経験していた「吉宗」が持ち込んだのには、ただ単に官僚が管轄する「職能集団の統括」と云う事の目的だけでは無く、「インフレ策」と「デフレ策」の中間とする「リフレーション」を目標とする「享保改革」には、“欠かせない制度“であったのだ。

そもそも、既に、開幕後100年近くも経っていて、官僚が管轄する幕府の職能集団の統括手段は前からもあって、遜色なくそれなりに機能していた。
それなのに新たに、この「御師制度」を態々、採用しているのには、「改革」である以上はそれを押しのけて“採用しなければならない必然性”があった事に成る。
むしろ、上記した様に、“「鷹司信子や天英院等の期待」“を背負って、“「商業組合の功績」を背景に世の中を変えられる”と云う事で「将軍」に成った以上は、“是が非でも”実行せねばならない「施策の一つ」でもあった。

それは概して、次ぎの関係式が成り立っていた。

「質素倹約商法」+「自由」+「郷士衆」=「伊勢商法」+「商業組合」+「御師制度」

以上の基本関係式の上に次ぎの数式論を展開させたのである。

「リフレーション策」=「享保改革」=「商業組合」=「御師制度の関係」

以上の「完全な二つの数式」と云っても過言では無かった。

それは「吉宗」に同行した「青木氏」が、前段で論じた「15地域」に採用している「商業組合」なる「改革的組織」を幕府の中に持ち込んで、“「リフレーション」で改革を進めようとする”には、上記した様に是非に必要とする「政策手段」であったのである。
要するに、伊勢紀州から始めて「15地域」に広めて成功した「商業組合と御師制度」を持ち込み、それを「リフレーション政策の基軸」に据えたのである。

その証拠には、「将軍」に成る為に行列をして江戸に向けて移動する隊とは別に、記録によると“「青木氏の別動隊」”として同行した中に、「御師制度の郷士頭」が数名参加している。
そこで疑問は、”何で「御師制度の郷士頭」が参加しているのか”である。

本来なら必要無い筈であるが、初めからその心算であった事を物語っている。
つまり、「上記の関係式」を描いての事であった事に成る。

況や、「将軍」に成る前提(鷹司信子や天英院等の期待)として据えていた事に成る。
確かに説得に納得した「鷹司信子や天英院等の期待」もあったが、筆者は、“宗家外からの将軍”と云う事に捉われて反対する「幕閣」を、ある理屈で「抑え込む手段」でもあったとも観ている。

(注釈 この内の「郷士頭」の1名が「隅切り角桔梗紋の職能青木氏」(「青木氏部」)を名乗って江戸に子孫を遺している。
明らかに「伊勢の職能集団」が同行していた証拠である。)

江戸初期1600年頃に松阪に「商業組合の拠点」を構え、「商業組合と提携商人の改革」を始めて、頼宣入城(1619年)を経て「商業組合」が「15地域」で成功しての成長期から、1716年までには約100年の「改革の熟成期間」があって、既に、この「システム」は確立して「15地域」を結ぶ「一つの商業圏」を構成して隆盛期に入っていた時期でもあった。
(1603年に家康は「征夷大将軍」に成る。)
ところが、この時期の享保期の前の「元禄期から宝永期」までは、「天変地異の飢饉」などが異常なまでに多発し、この為に経済が疲弊し庶民は飢餓していた。
合わせて、政治は次ぎの様に「失政」を重ねていた。

そこで「享保の前までの幕府」は,成熟していない”「三貨制度」”の下で「貨幣の鋳造比率」を変える等で逃げようとした。
然し、ところがこれが「逆効果]と成り、「15地域の経済圏」を除く他の地域の経済は、極めて疲弊し最悪の状況下であった。
むしろ、「幕府]はどうしていいか判らないと云う状況下に陥っていた。
ところが、「15地域」は違っていた。
従って、この「15地域の経済圏」は、隆盛を極め周囲から「譫妄の的」であって、周囲は「一揆」とは成らずとも「騒動」が各地で多発していた。
当然に、御三家の紀州藩は「吉宗」を盛り立てて「青木氏の勘定方指導」で経済も然ること乍ら「民の心」も平癒に成っていたのであった。

(注釈 どの程度の紀州藩の「善政」かと云うと、何と前政の「幕府からの借財10万両の返済」を一挙に成し遂げたのである。)

前段で論じた様に、「1619年頼宣入城」までは「紀州」は周囲と異なり「錯乱に近い状況」であったのに、この「商業組合の改革」で「殖産事業」が進み「豊潤な改革」で発展を遂げていたのである。
(前段で論じた下記の「一揆年譜」参照)

幕府の一部(鷹司信子と天英院)には、これを観て、「解決し得る次ぎの為政者]と成る「将軍」には、この「善政を成している伊勢紀州」から、又、「15地域を改革して成功裏に収めていた青木氏」が「親代わり」に成っている「吉宗」を適任として「周囲の反対」を押し切ってでも「将軍」に押し出したと思われる。

注釈として、公説の一説では、「家康との世代的近さ」や「綱吉の家系被弱」により「将軍」に成ったとされているが、真因は決まっていない。
社会はそんな説の様な生易しい状況では無かった。

市場では「後継者の決め方」では「幕府」は潰れるとさえ思われていて、ある「東西の二つの大大名」が「不穏な動き」を現実にしていたのである。
確かに「綱吉から綱継」まで続いて「三代急逝」が続いて偶然に起こったのであるが、そうであるとしたら、「御三家」と云う範囲の事では無くても他の「近親の松平氏」でも成り得る。
(筆者は[不穏な動き]を察知した幕閣による暗殺と観ている。)

そもそも、渦中の「尾張藩」は、元々は「紀州藩」と「水戸藩」を差し置いて「御三家の筆頭格」と位置付けられていた家柄で正式に格式も上位であった。
且つ、「将軍宗家」より次々と「養子」を入れて、「宗家血縁の筆頭家柄」として存続されていたものである。
尚又、「尾張藩」はこの務めを果たすべく“「御連枝族」”という特別の「分家族」を置き、「尾張藩の宗家」に「世継ぎ」が欠けた場合は、この「御連枝族」から充足する仕組みに成っていた。
且つ、「将軍家]から「庸氏族]が次ぎつから次へと「養子」が入る慣習に従っていた事から、その後に「将軍家」に戻すと云う組織が出来上がっていたのである。
絶対に「将軍家宗家の血筋」を男系女系に関わらず引き継ぐ事の出来る体制にあったのである。

これでは、「御三家」と云えども「水戸藩」と「紀州藩」は、実質は一種の「飾りの様な立場」にあった。
その為に、取り分け、「水戸藩」は事前に「初代遺訓」として、初めから「御意見番の立場」を護る事を云い伝えられていたのである。
又、その「尾張藩」では、「水戸藩」と同じ様に、「初代遺訓(「一族秘訓)」があって、“「王命に依って催さるる事」”とされていた。
これを護っていた「家臣団」には、“初代の家系からは将軍をだせない”と云う不満が強く、「維新の戦い」の際は官軍側に付いた「謂れの結果」となったのである。
「紀州藩」にしても、前段で論じた様に、「将軍家」から「紀州藩初代頼宣」が「謀反人の家」と云うレッテルを張られてしまった経緯があって、“尾張藩の様に将軍家との血縁のつながり”を持つ事が出来なかった。
「尾張藩の家臣団の不満」と同じ様に、「紀州藩の家臣団」と成った「藤原秀郷一門(伊勢藤氏等)」から成る伊勢紀州の「郷士衆の家臣団」にも只ならぬ警戒心が強かったのである。

この事から、この「掟」とも成っていた「慣習の基元」にある「尾張藩」を跳ね除けて「紀州藩」と成ったのである。
「尾張藩の継友」や家系には「将軍」に成るに決定的な欠陥があった訳でも何でもない。
むしろ、「三代急逝の偶然」があった後であり、この時にこそ「家康の遺訓」に従い“存在する藩”であって「成るべくして成れる立場」にあった。
ところが、これらの条件を覆して「古い慣習掟」を崩してまでも、「紀州藩」に「将軍が廻る事等の要素」は上記する以外にはこの段階では全くは無かったのである。
どちらかと云うと、「当然に成るべき立場」にあって、「尾張藩」に執っては当に「晴天の霹靂」と云える出来事ではあった。

これでは、普通に考えても、藩主側は兎も角も、元からの「家臣団」には更に「強い遺恨」が残るのは必定で、遺らない方が氏家制度の中では無気力と批判されても仕方がない諸行であろう。
現実には、「尾張藩」には幕末まで将軍を出す事は無かった。

「吉宗」が行う「享保の改革」に、上記した様に真っ向から反対した「尾張藩の姿勢」は、この「経緯の事」から来ていると考えられる。
従って、この「二つの説」では、この「幕府」としても、況して、“「宗家」”と云う意味を持つ「家系の形式」を採っている「徳川氏」である限りは、この上記する「重要な慣習・掟」をも完全に無視した説にも成っている。
況して、「家康の遺訓」では、それまでは嫡子は子供の誰でも選んで据えても良い事に成っていて、要するに、原則、“「宗家」で「嫡男」は「長男」と云う慣習“を決めたのは家康そのものであった。

「お万の方」がこの「家康]に「世継ぎ」で”「争い」になっている事“を相談した時に「家康」がこの原則を始めて作った人物である。
それ以後、これに従って、大名格を始として「武士の家」の「世継ぎ争い」を避ける為にこの「原則の慣習」を護り始めた事に成ったのである。
従って、「徳川宗家」は「尾張藩」に「純然とした初代の尾張藩血筋」を継承するのでは無く、「将軍家の血筋」を「養子」として事前に何度も入れて、万が一の場合に「将軍家に戻す仕来り」を作って置いたのである。

(注釈 「伊勢青木氏」と1600年の初め頃に二度に渡り「家康と談合」を重ねたが、この時に「青木氏」の「四家制度」を知って「御三家の制度」にして模擬したと観ている。
その「将軍家」が「福家」とし、「御三家」が残りの「三家」とし、「尾張藩」には「将軍家血筋の養子家」、即ち、前段で論じた様に、「青木氏」の「孫域」までを「福家の世継ぎ」の「“子供”の仕来り」を類似させて、「徳川氏の仕来り」を作り上げたと観ている。)

この経緯から,「長男」であるかは別として、“「宗家」”と云う「本血筋を護り通す本家の家筋」を定めたのであるから、「徳川氏」が絶対に護らなければならない「家康遺訓」にも反する事に成っているのである。
この事からこの「二つの説」は実に付け焼刃の具体性に欠ける説と成る。
もっと云い換えれば、これらの「二つの説」では“誰でも良かった”と云う事に成り得る。
そんな生易しい世継ぎの事では無かった。

あるとすれば、「綱吉(五代)」が行う当時の「幕府の政治状況」、取り分け、「経済状況」と「幕府の財政状況」は「瀕死の床」に在った。

(注釈 四代綱家は、多くの学者を登用して「政治的には多くの令制」を敷いて安定したが経済は全く疲弊していた。
「五代目の綱吉」は人物が良すぎて周囲に左右されてこの「政治」さえも低下させてしまった。)

そもそも、「吉宗」が、“「幕府中興の祖」”と云われている限りは、この「二つの説の論説」とは一致せず、この「将軍擁立説」は兎も角もおかしい。
唯、共通する事としては、「二つの説」は、「吉宗」が”紀州藩財政を立て直した“と云う事には否定はしていない。

上記する様に、「吉宗」は伊勢に育ち「青木氏と加納氏」が「親代わり」に成って22歳まで育てられて、「青木氏の商業活動」などの事に関わって見聞して経験を拡げて来た。
大変真面目で、論理性が強く、「経済の成り立ち」や「社会構造の成り立ち」や「歴史」などにも強く興味を持った「堅実な人物]で、「頭の回転の速い機敏な性格」であったと「青木氏」には伝えられている。
ところが、この「紀州藩」でも藩主と成るべき者が、これまた父、兄、次兄と不思議に三代続いて急逝して、成るべき立場に無かった身分の低い「吉宗」(嫡子外)に「藩主の座」が廻って来る運命にあって、「時代」が「吉宗」を「将軍」まで押し上げるべく動いた事では事実である。
この為に、他の兄弟と共に、態々、紀州の膝元に置かず、殆ど付き人となった下級家臣の実家先の「伊勢加納氏(祖先は伊勢秀郷一門の郷士衆)」と「二つの伊勢青木氏」に隠す様に預けた経緯を持っていたのである。
確かにこんな「二度の急逝の偶然」は考え難い。
設えたにしても起こり得ない“「偶然」”でもある。(今回は真因説は不問)
幾ら何でもこの“「二つの偶然」”が、“「将軍」にする”と云う事だけでは現実の世の中では起こらない。
この“「二つの偶然」”を利用して、それなりの「根拠」と「財力」とを以って「人」が動けば成し得るものである。
決してこの“「単なる偶然」”だけでは成し得ない。

この図式には、古来より次ぎの数式が成り立つ。

「偶然(運)」+「根拠(実績)」+「財力(背景)」+「地域力(基盤)」+「人(知力)」=「目的」(将軍)

以上の数式論が必ず働いている。例外はない。

但し、この“「二つの偶然」”を「動かす力」が必要なのである。
「動かす力」には上記の「六つの要素」が働く。

この「六つの要素」が大きければ大きい程に「目的」を「叶える力」は大きく成り成就する。
要するに、「吉宗」にはこの「六つの要素」が極めて高かった事を示している。

要素-1 「偶然(運)」=「二度の急逝」
要素-2 「根拠(実績)」=「15地域の商業組合策」
要素-3 「財力(背景)」=「青木氏の500万両の経済力」
要素-4 「地域力(基盤)」=「御三家」
要素-5 「人(知力)」=「郷士衆と御師制度」
要素-6 「目的」(将軍)=「改革の理想」

「全国の青木氏」はこの「二つの偶然」等の「六つ要素」の高さを観て、「総力」を挙げて“「吉宗」を「将軍」に”と「尾張藩の慣習・掟のある事の経緯」を知りながらも、現実には八方手を尽くして押し出した。
この時、“紀州藩から将軍に“と云う事があったのかと云う事で持つ意味が違うが、この記録は未だ見つからない。

筆者は、「頼宣謀反の経緯」があって、未だ、「紀州藩主四代の吉宗」(三代四代は急逝で実質三代 年数では100年間 実質は頼宣1671年-光貞1705年 10年間程度の経過期間)までである。
従って、この「遺恨」は全く消えていないと観ていて、「水戸藩」と同じく、この段階では「尾張藩の慣習・掟のある事の経緯」を知っていれば、“紀州藩から将軍を”と云う発想は、先ずは官僚からは普通では起こらないだろうと観ている。

「吉宗の意志」では、「将軍」に成ろうとするは「意志と行動」は,「吉宗の発言や行状の記録」から無かった様である。

「吉宗と官僚」からは無かったとすると、“「周囲の人」”と成って来る。
そうすると、「青木氏等の郷士衆」と「伊勢藤氏の青木氏を含む秀郷一門」であった事に成る。

依って、上記の数式論から、「要素-2345」と成り、この「4/6の事」は「周囲の要素」で占めている事に成る。

「紀州藩の家臣団の官僚」が、「4/6の事」から “将軍に押し出すと云う事”は無理と云う判断と成り得て先ず無い事は判る。

「吉宗が持つ要素」は、「要素-1と6」と成る。

ところが、次ぎの様に働く筈である。

「要素-4」では、「地域力(基盤)」=「御三家」では、次ぎの様に成る。
「家臣団の賛同」が得られない事(基盤)
「尾張藩の慣習・掟のある事の経緯」の事(御三家)、

「要素-6」では、次ぎの様に成る。
「目的と成る改革」を実行するには、これを「支える周囲」を含む「地域の力」(青木氏)の事

以上の「三つの事」から、「吉宗自身」には幾らかのものはあったと考えられるが充分には備わっていない。

結局は、「要素-6」が「決めて」と成るが、この「要素-6」はそもそも「個人」でそもそも成し得ない。
「家臣団、青木氏、郷士衆」、も含めて、“「周囲の力」”で「具体的」に作り上げられるものである。
とすると、「吉宗の持つ要素」は「要素-1」だけと成るが、実際はそうでは無かった。

確かに、「吉宗」には、記録によると、上記の通りの「器」としての資質では、人より「行動的」で、「判断力」が良く、「調整力」を持ち、「理解力」は特段優れ、「公平性」のある「持ち主」で、「人の話をよく聞く事」にあったと成る。
つまり、「人」を動かす「大きな組織集団の頭目資質」があったと云う事に成る。

故に、「要素-1」の「偶然」と、この「持って生まれた性格」が一致したのではないかと観られる。
ところが、唯、この「継友」にもこの「要素-1」の「偶然」が「吉宗」と同じく尾張藩に起こっているのである。

矢張り、兄の四代、甥の五代がこれも不思議に急逝していて、「部屋住み」であった「継友」に廻って来て第六代藩主と成った経緯を持っている。

「違っている点」が決定的に在った。
それは、混乱期に「将軍として成り得るの資質」にあった。
「継友」は異常なまでも「ケチで短慮」あって、尾張でも”「切干大根」”のあだ名があって有名な事であった。
この事があって、その質にあらずとして不満を持つ「在来の家臣団と重臣」は「遺訓」を理由にして、上記した様に「筆頭の将軍継承藩」であり乍ら、就任運動を全くしなかった。

何と「不文律な行動]も多く在り、その「資質」から家臣と庶民から信望が無かったのであり、その為に母方は公家で在りながらも「官位の申請(大納言)」もしなかった為に「将軍に成り得る資格」を失って仕舞ったのである。
家臣と重臣から全く反抗されていたのである。
つまり、「要素-6」は無かったとされている。

しかし、反面、一部擁立派はこの批判に抗する為に、「綱吉の放漫財政」を質す事無く、尾張藩では逆にこれを補う為に家臣の俸給と強引な人員整理を実行し出費を抑えて黒字を残した。
しかし、家臣からは完全に賛同と支持を失った。

「家人」や「家臣」が犠牲に成るこの強引な「財政立直し」であって、「市場の経済的改革」を経て市場から得た税の獲得では無かった。
ただ一人(異母弟)の「将軍擁立派」が誉めそやした「名古屋と云う局部的で一時的な実績」であって、況や「ケチと短気」から来る単なる「緊縮財政」を採っただけであった。
これで、「市場の力」を温存した為に、名古屋だけには緊縮財政での金が落ちて確かに名古屋は発展し人口も増えたし、「吉宗の享保の改革」で圧迫を受けた「江戸商人」の「三井家の越後屋」も後に名古屋で「インフレ策」を採る「継友」に協力をした。
ここは、「江戸商人」の「三井家の越後屋」で一見して「要素-3」には成るが、あくまでも、「経済的利益での結び付き」であり、決して「親代わりの立場」と「吉宗の資質」と「家臣の賛同と支持」を得てでの「強い結びつき」では無かった。


その「資質」を「周囲の者」(「要素-6」 青木氏等)が見抜いて、先ずは押し出したと成る。
この「性格的な資質」は、「吉宗」の「生みの親の母(湯殿女)」からのものであった。
先天的には母親の郷の「紀州巨勢氏」と、後天的には伊勢の「育ての親」の「青木氏と加納氏」から形成されたものであろう。

(注釈 「秀郷一門の伊勢郷士」であった「付人の加納氏」も「二足の草鞋策」で「加納屋」を営む。)

そこで、「継友」と「吉宗」には、「尾張藩」と「紀州藩」とには、“一体何が違ったのか”と云う疑問が出る。
上記の「六つの要素」で比較して観ると、結局はその違いは次ぎの結果と成り得る。

要素-1 「偶然(運)」=「二度の急逝」
要素-2 「根拠(実績)」=「15地域の商業組合策」
要素-3 「財力(背景)」=「青木氏の500万両の経済力」
要素-4 「地域力(基盤)」=「御三家」
要素-5 「人(知力)」=「郷士衆と御師制度」
要素-6 「目的」(将軍)=「改革の理想」

「吉宗」  「継友」
要素-1 「吉宗」<「継友」
要素-2 「吉宗」>「継友」
要素-3 「吉宗」>「継友」
要素-4 「吉宗」<「継友」
要素-5 「吉宗」>「継友」
要素-6 「吉宗」=「継友」

そこで、「吉宗側」では「要素-5」、「継友側」では「要素-4」は比べ物にならない程に相互に差違がある。
確かに、「要素-1」の「偶然(運)」では、吉宗には「紀州藩での三代急逝」があったが、これは吉宗が藩主に成れたと云う事に外ならない。(継友にもあった。)

従って、この「六つの要素」の比較に入れたと云う事であって「将軍」に直接的な要因とはならない。

吉宗自身としては別として、「吉宗側の周囲(要素-6)」に執っては「要素-1」は大きく働くと観た筈である。
そうすると、「継友側」に「要素-4」の上記した経緯がある事に依り、「要素-1」は「継友側」に有利に働く事に成る。
結局、「吉宗側」に「要素-2」と「要素-3」が有利と成る。

但し、「要素-5」は「要素-2」と「要素-3」に連動している。
従って、「要素-5」と「要素-4」の差違は、「要素-5」の「吉宗側」に有利に働く事に成る。
これは「吉宗の周囲要素」と成る事から、「要素-6」に連動する事に成る。

(「要素-2」+「要素-3」)←(「要素-5」+「要素-6」)

以上の数式論が起こって、「鷹司信子と天英院」は「説得」に応じたのであろう。
「幕閣」は「要素-4」だけでは「ごり押し」は無理と考え、「抵抗」をこの数式論から緩め、遂には、「鷹司信子と天英院の説得劇」で、「将来の事」から不利と観て、最終的に“黙った”と云う事に成る。

その「押し出す根拠」は、「青木氏等が行う経済改革」を経験していて「親代わり」に成って紀州藩(勘定方指導)を,そして、周囲も、遂には“幕府を”と成って、世間や経済に弱い筈の「鷹司信子や天英院」の幕政から遠く離れた女性陣に、この現状の世間の最悪の経済状況を説き知らしめ、改善し改革するには、「上記の実績」を説き「経済説論」を強力に陰から訴えたのであろう。

故に、そうで無ければ、常に「保守性の強い宗家論」に引きずられる幕府を変える事等は先ず考え難い。
両説の二説であるなら、「綱吉の後の処」でも良かった筈である。

偶然にも、五、六、七代と宗家には三代続いて不思議に急逝すると云う事が起こった。
一時的には幕府には決定する嗣子が無く成り、「世継ぎの決定者」は「遺族の女性陣と幕閣」と云う事に成る。
そうすると「幕閣」は、持論の「宗家論」が難しいと云う事に成れば、必然的に「将軍継承者」は、上記した様に遺訓に依り「ご意見番」に徹する「水戸家」は兎も角も「尾張家」から持ってこようとするは必然である。
決して「謀反の嫌疑」を掛けられた「紀州藩」と成る事は無い。

この時に、「幕閣」は、「尾張藩(継友)」を押し出す以上は、上記の「偶然(運)」+「根拠(実績)」+「財力(背景)」+「地域力(基盤)」+「人(知力)」=「目的」(将軍)の図式の比較が必然的に行われる事に成る。
然し、「吉宗」が持つこれに優越する「継承対象者」が尾張藩に無ければ、「要素-4」の「家康の遺訓」と成る“「御三家論」の展開”では、最早、難しく成ったのである。

その前に、この侭では「世間の不満」を背景に「北と南の雄藩」が動き「戦乱」に戻り、“「江戸幕府」が危ない”とも観たのではないかと思われる。(現実に動きが在った。)

結局、それには「幕府」や「幕閣」も、“現状を打破し脱し改革に至るまでの道筋の状態”に出来る事が「最大の対策」と成る。
果たして、「幕府」や「幕閣」の持論の「御三家論・宗家論」では「世継ぎ」が叶ったとしても“現状を打破し脱し改革に至るまでの道筋の状態”にするには誰が考えても無理である事は明明白白の状況と成っていた。
況して、「継友」には「将軍」としての“資質・器に欠けると云う批判”が高ぶる以上は、これを無理押しする事には、「北と南の雄藩」を抑えきれないと観たのであろう。

上記の図式から観て、「吉宗の優れる処」と「吉宗の背後の力」を認めて「宗家外の吉宗」を敢えて「将軍」にする事を渋々認めたのである。
結果としては、「御三家論(継友)」<「周囲論(吉宗)」が、“現状を打破し脱し改革に至るまでの道筋の状態”にする事が出来ると観たのである。

「次の課題」は、「世間に疎い女性の遺族」をどの様に説くかの難題で、それを誰がするかの問題もあった。
取り分け、「御三家論(継友)」には確固たる現状を打破し得る「経済政策論」が無かった。
確かに、「吉宗のリフレーション策」に対抗して、「継友」は「インフレーション策」を展開して「享保の改革」を批判した。
然し、「15地域の様な実績」は無かったし、「信長秀吉」が招いた「伊勢紀州の混乱」(門徒衆)を鎮めただけでは無く、他藩では出来ていなかった難題を事も無げに「青木氏の勘定方指導」で「紀州藩の財政の立て直し」にも成功させ、「商業組合と提携商人」で「15地域の地域経済」までも発展させると云う「離れ業」をも成し遂げた。

これを観ていた「北と南の雄藩」も矛先を納めるしか無かった。
当然に、「北と南の雄藩」は納まるとしたら、最後は“「次の課題」”と成る。
この手順を間違わずに踏めば納まり、“現状を打破し脱し改革に至るまでの道筋の状態”を論じられる「吉宗論」に傾く。
「紀州藩の重臣」と「全国の青木氏」がこれを担う事に成るだろう。

これを支えるのが拠点と成っている「商業組合と提携商人」と殖産を推し進める職能の「御師制度の伊勢紀州の郷士衆」である。
上段でも論じたが、これを担ったのが実績をベースに「財力と説得力」を持つ「二つの伊勢青木氏」にしかない。
何と「二つの伊勢青木氏」は押し出した。
そして、“世間や経済に弱い筈の「鷹司信子や天英院」の「幕政から遠く離れた大奥女性陣」”の説得に成功させたのである。
これで、「抵抗勢力」は「継友」だけと成り得て、「将軍資質」に欠け「家臣の信頼」を失っている藩主は「ただの人」に成り得る。

ここまで進むと「後の課題」は、「将軍にする為の吉宗側の段取り」に在った。
「経済改革の基幹」と成る「商業組合と提携商人」は「15地域」で「100年の実績」で出来ている。
後は、「御師制度の職能部門」を“「幕政仕様」”にどう仕立てるかその“「下準備」”に在った。

そこで、“「幕政仕様」”にする為の理解として「御師制度の職能制度」に付いてもう一度論じて置く。
そもそも、これは全国に配置された500社にも成る「神明社」に関わるあらゆる職能で成り立つ「大職能組織」は、この「職能」を「円滑に運営する方法」として古来から次ぎの(a)と(b)と(c)と(d)が採用されていた。

「指揮命令系統」(a)
「職能者養育」(b)
「情報伝達」(c)
「資材調達」(d)

以上を明確にした制度であった。

然し、室町期にはこれに付随させて次ぎの事(e)(f)を制度に組み込んだ。

「情報獲得源の組織」(e)
「シンジケートとの連携」(f)

以上としても活躍させていた。

「青木氏」は「伊勢神宮」を始めとする「神明社系」のその「御師の首魁」の位置にあった。
前段で論じた様に、自らも次ぎの「六つの組織」を奈良期から持っていた。
“「五家五流の青木氏の連携」(イ)“には、“「神明社等」(ロ)“を建設する“「青木氏部」(ハ)“と云う“「職能集団」(ニ)”、これらを保護すると「シンジケート(ホ)」との以上の「五つの組織」が存在していた。

ところが、「二足の草鞋策」を本格的に稼働させた時期の925年頃からの平安期には、次ぎの事が加えられた。
“「和紙殖産」を担う「職能集団」(ヘ)“もこの「青木氏部」に加わった。
そして、江戸期には本論の“「商業組合の組織」(ト)”に「御師制度」(チ)が加えられた。

「五家五流の青木氏の連携」(イ)
「神明社等」(ロ)
「青木氏部」(ハ)
「職能集団」(ニ)、
「シンジケート(ホ)」
「和紙殖産」を担う「職能集団」(ヘ)
「商業組合の組織」(ト)
「御師制度」(チ)

ところが(イ)に付いて平安中期には「近江と美濃」の「青木氏部」が「地域の抗争」が激化して、これに影響を受けて内部でも抗争が起こり衰退を興したのである。
唯、これを観た朝廷は、「朝廷の政治と経済」に大きく関わっていた「皇親族」としてのこの「青木氏の組織」を補完する事から、「皇親族青木氏の母方」であった事から「藤原秀郷一門」に青木氏と官位官職の一切を同格として名乗る事を命じたのである。
結局、残る勢力は「伊勢」と「信濃」と「甲斐」と成ったが、室町期に入ると、複雑な内部抗争が起こり、「甲斐の御師制度と殖産」は弱体して「伊勢と信濃の二流」と成ってしまった。

「青木氏の御師制度」には、次ぎの様な三つの御師があった。

「伊勢神宮の御師」(A)
「青木氏部の御師」(B)
「商業組合の御師」(C)

以上を務めていた事に成る。

この“「3つの御師の組織」“を「江戸幕府の職能集団」(1)に適用して「享保の改革の組織改革」(2)を実行したのである。

「江戸幕府の職能集団」にこの制度を必要だからと云う事で持ち込むにはそれなりの理由があった。

それは、「江戸幕府の職能集団」には「江戸商人との関係」を大きく維持していた。
ところが、この江戸組織は、前段でも論じた様に、(イ)(ロ)(ハ)をベースとする「商業組合の商人」では無かった。
むしろ、「保守的抵抗勢力」であった。

この「江戸幕府の官僚集団」がこの「江戸幕府の職能集団」の組織と繋がっている事は、「(イ)(ロ)(ハ)をベースとする商業組合」の「政策的な効果」は出る事は先ず無い。

この事から、先ず潰される事は必定で、況してや、「御師制度」と成れば尚の事である。
そうすると、「保守的抵抗勢力」の「職能部の官僚機構」と「江戸商人」を潰す事は経済には効果的では無く、混乱を招くだけで、むしろ今以上に「強烈な抵抗勢力」と成り得る。
それには、「懐柔策」を採る必要が戦略的には必要であって、何にしても「保守的抵抗勢力」の「江戸商人」を変える事は直接的に換える事は難しい。
従って、これは別にして、先ずは「職能部の官僚機構」を変える事で、必然的に問題と成る「江戸職人との関係」を軽減させて行くことが出来る。
そして、この過程で、伊勢紀州からこの専門家を呼び寄せて人事で入れて、その官僚の「職能部門を管理する長に据えて掛からせれば、次第に問題の「官僚機構」は変化を起こし、結果として職人との仲介役と成っている“「江戸商人」”は換わらざるを得ない結果と成り得る。
(三井家の越後屋名古屋に出店等)

では、“職能管理部門の長だけを変えれば換わるか“と云うとそんな簡単な事では無い。
当然にこの「長」は、“職能に熟知している事”は勿論の事として、その下に働く者も熟知し、上記する「御師制度」は勿論の事、「商業組合の経済機構の組織」の事も合わせて熟知している者ではならない。
だとすると、必然的に、「紀州藩の職能部門の家臣」と、これと連携して働いていた「郷士衆か郷士頭」を呼び寄せて「陪臣」にして、要所々に配置して働かせる事が必要である事に成る。

上記した様に、先ず「青木氏の別動隊」に「郷士頭」が同行していたのは、この為の先行隊であった事に成り、「吉宗の政治の履歴」を観ると、途中で「大量の紀州家臣団200人」を呼び寄せている。
この事で、元からいた「幕臣の反対(抵抗)運動」が起こっていて、それを押し切る形で大量に呼び寄せている。
彼の有名な大岡越前守等はその典型的な人事であった。

当然に、この「組織改革」には“「反抗勢力」”があり、その形の表れとして“「訴訟」”が起こるであろう。
現実に、記録を観ると、民間では無く「紀州藩」を相手に「幕府」が訴訟を多く起こしている。

それも、「御三家の紀州藩」に対してである。
その多くは、「寺社の領地」、「紀州藩の領地]、「紀州藩重臣の領地」や「伊勢紀州の郷氏の地権」や、挙句は紀州藩が管理する「天領地」の「地権争い」で主に争われている。

伊勢紀州は古来より「不入不倫の権」で護られていた事から、「遷宮地」でもあり旧来からの「天領地」や「青木氏や伊勢藤氏」等の「郷氏領地の地権」や「天皇家に由来する神社仏閣の領地」「熊野神社等の広大な社領」が戦乱に巻き込まれずに存続し、それが「紀州藩の管理」の下に置かれていた。
実質は「藩領」としては大きくなかったが、逆にこの事からこれらに対する管理費を投入せずとも「莫大な地権料」は紀州藩に固定的に安定して入る仕組みに成っていた。
「幕府」はこれを崩す事で“紀州藩を根底から弱める事が出来る”として抵抗して来たのであろう。

その一角の訴訟を「大岡」は、下記する様に、“「一切松阪有利の慣例」”の慣例を破ってでも、幕府側に裁定を下したのである。
有名な事である。
恐らくは、この「抵抗勢力」を弱めるために採った策であったと観られる。

“「一切松阪有利の慣例」”の慣例に従えば、上記の「訴訟の対象」と成った「地権問題」は紀州藩側に下る事に成り、益々、「幕府の抵抗勢力」は「反抗」を示す事に成り得る。
ところが、「吉宗」は、この「才知の効いた裁き」を”「大岡裁定」”を高く評価した。

「人」は変化に対して「不安」を持つ。
この「不安」を乗り越えてこそ進歩とその後に「改革」は起こる。
然し、不安其の侭では進歩は無いが、その不安を除こうとして「人」は「訴え」を起こす。
その「不安」を払拭させる事で乗り越えられるが、それには、「不安の訴えの声」を裁くには、この“「才知」”が事態を変化させて「改革」には「必須の必要条件」であるとして「大岡」を見込んだと観られる。
この事は、「大岡等の紀州家臣団」は、“「一切松阪有利の慣例」”の「裏側の実態」を熟知しているからこそ成し得た裁定である事に成る。

その証拠に、この“「一切松阪有利の慣例」”に従わず「見事な裁定」を下した殆どは、「天領地」や「青木氏」や「伊勢藤氏」等の平安期の古からの「郷氏領地の地権」や「天皇家に由来する神社仏閣の領地」と「遷宮地領」の四領地に対してであり、全て減額している。
明らかに、多くは「二つの青木氏が関わる地権の減額」とその「管理代行地」に成っている。

「幕府の抵抗勢力」の「反抗」を弱める手段として、「青木氏等の了解」の下で裁定を下したと観られる。
この事の詳細は、「青木氏」の全ての経緯を書いた「忘備録」は消失して無く成っている為に、残るのは「商業記録」であるが故に詳細は判らないが、不思議に極めて単純に記されているだけである。
これらの「地権消失」は「青木氏の経済と商業」に大きく左右する事でもあって、当然に「殖産地」と成っている「地領」である事から「商業組合」にも大きく影響を及ぼすものであった。
然し、この“「単純」”と云うのは「了解した」からこそ「単純」に書き記したと考えられる。

注釈として 唯、「青木氏の口伝」では、「明治期の地租改正」と共に「2度の地権放棄」で半分に成ったと伝えられているが、これは明らかに“「不満」”であったと観られる。
そもそも「二つの青木氏」を含む「伊勢紀州の郷氏郷士衆団(家臣含み)」等が主導する新しい商業の「吉宗の改革」である以上は我慢したと観られる。
この時には「氏郷」や「家康」の{本領安堵策の南紀南勢」の「本領の地権」は殆ど手放したと伝えられている。
結局は、「二つの青木氏」は北勢域領と成った。

明治期には「地租改正」でこの残された「北勢域領の地権」も半減した。
この時、「郷士衆の地権」もその「所有の権利範囲」を限定して、聞くところでは最大で「一畝内=300坪=990m.m」と定められた模様であった。
一般の「郷士で家臣」であった者の地権範囲は、5間・5間=81m.m=「3LDKに小庭付き」と成った。

この「幕府の激しさ」を物語るものとしては、紀州藩の筆頭家老の田辺藩の田所氏の藩領と所領にも手を伸ばし,その激しさは尋常では無かった。
この時の根拠では、伊勢と紀州は「伊勢神宮の膝元」で全国でも「遷宮地」で「遷宮寺社」が最も多いし、従って、「天皇家の天領地」が多く、松阪も代表的な天領地であったが、江戸初期に紀州藩に吸収させて「飛び地領」とした。
ところが「幕府」はこれらの「遷宮寺社」の全てを「幕府資産」として「幕領」として接収し様とした。
これに「関連する地領」は当然に幕領と成るとして、「紀州藩領の田辺域」も「天領地」として扱われるとする言い分で訴訟の対象とされた。
これに依って伊勢紀州に「幕領」を増やす事で「紀州藩」を弱めようとしたのである。
田辺域は相当量が接収され「大きな犠牲」を負った事は事実であった。

要するに「大岡裁き」はこれに導き実行したのである。
然し、「大岡裁きの才知」は、上記の様に、この「地権」を”「細分化」して「均一化」した事”で「幕領分」に接収される範囲を小さく抑えたのである。

注釈の通り、“「一切松阪有利の慣例」”を崩し、且つ、「幕領の言い分」にも配慮し、「郷士衆の地権」にも配慮したこの「才知」と「調整力」が優れていると観たのである。
この上で、この様に「大岡才知」の様に、更に、これを“「改革」“に向けて熟知する者が裁いて行く事が必要で、それでなくては”「改革の的」“が外れる。
つまり、改革の戦略上、“「最大のまとめ役」”と成り得るのである。
それだけに、「大岡裁きの才知」で、“歴史上に出て来る人物”と成り得たのである。
(結果は、吉宗が将軍と成った事で紀州藩領とする範囲は回復した。)

上記する才知無く、唯「法」を以ってして実直に裁くのであれば、「幕臣の官僚」でも無し得る。
(後に「公事方御定書」の「判例集」を作って「訴訟と審判」の「改革」へと進む「方向性」を定めた。)

前段でも論じた様に、「伊勢紀州の郷士衆」を紀州藩の「家臣の大半」に据えている「紀州藩士」の熟知する「大岡忠相」が必要であったのだ。

注釈として、因みに、「大岡忠助」は江戸に生まれる。
旗本無役(1702年)から出世、元禄地震の「復旧奉行」に、1708年には合わせて「目付」にも成る。
この後、実家先(祖先は「伊勢藤氏の伊勢郷士衆」)の紀州の「伊勢奉行」に任地就任、1714年まで紀州伊勢の職能部に最も関係する「寺社奉行」も経験している。
前段と上記でも論じたが、この時期には、“「紀州藩と幕府との間で係争(幕領の故意的な係争)」”が非常に多発しこれを裁く。
この時まで、奈良期の古来より「不入不倫の権」で「伊勢松阪」は護られていたが、その為にその詔勅令に従って古来より“「一切松阪有利の慣例」”があった。

ところが、この「慣例」を覆して裁定を下したので、「松阪」で育った「吉宗」は驚き、むしろ、その「心魂と才知」を信じて改革に必要として逆に「吉宗」に見出される。
この「裁定」で、「伊勢の二つの青木氏」は「大きく本領地権の影響」を受けた事の「商記録」が遺されている。
「吉宗」が「将軍」と成るに従って江戸に同行。
江戸赴任後、当に、「職能の長」として“「普請奉行」”と成る。
「寺社や武家屋敷の職能部門」を専門に指揮し「経済改革」を進めた。

江戸期には、「寺社」に関する事が現在のゼネコンに当たり、全ての職能に関わるメイン事業であった。
其れだけに、「普請奉行、寺社奉行」は国土交通省大臣の責に当たる。
「江戸の三代奉行の筆頭格」で「将軍直属の奉行」として改革をした。
「大岡」の「普請奉行、寺社奉行」と、「青木氏の布衣着用」の「勘定方指導役」を担っている事は「改革の双頭」を担っている事に成る。
これらの人事を観ると、「享保の改革」は、1716年から1746年(実質 院政は1751年 改革は1788年まで)とすると、約20人が担当し、「大岡」は第16番目で1739年から1751年と最も「改革の成果」が質される重要な期間の中ほどから担当し、何と「享保の改革」を6年も超えて勤めたのである。

更には、恐らくは、本来は「大名格の奏者番」を務めた上で「三大奉行」と成るが、ただ一人、例外的に「政治の柵」に左右されない様に「奏者番(現在の官房長官」」を勤めさせず、最終は「1万石の大名格」にし「破格の官位」も与え、「改革」を継続させる意味で吉宗隠居後も「寺社奉行」を務めさせたのである。
そして、「大岡}を除き19人は最大でも9年、平均でも2年間と云うのが多い中、15年と云う段突の期間を勤めたのである。

これらの事を観ても、「大岡」を以って周囲に「改革の模範」として見せつけた「政治的配慮」であったと観られる。
ただ、この為に「裁定」に偏りが起こらない様に「改革の後期」には「改革の方向性」を示す為に「公事方御定書」(現在の判例書)を定めて「改革の統一性」を図った。

江戸初期に「青木氏」は談合にて、「神明社」は、「伊勢神宮の皇祖神の子神」である事から「500社」に上る「全国の神明社」とその「社領及び資産」を幕府に引き渡した。
主要な「遷宮」に伴う各地に配置した「公的な神社の社領と資産」、並びに「公的な寺に関する寺領と資産」も幕府は接収したのである。

ところが、接収したものの江戸初期には全国的に天変地変が多発し、この為に経済が疲弊し、且つ、政治が稚政であった事からも、「伝統」の拠点とも成る「ゼネコンの基」と成る「寺社」は荒廃した。
この為に慌てた「幕府」は、各藩に「修理令」を出すが、各藩もこれを修理する能力は全く無く荒廃の一途を辿ったのである。
そこで、政権を引き継いだ「吉宗」は、要するに「ゼネコンの基」と成る「寺社」を復興させ、「商業組合」との連動政策を図った。
これを維持させる為に、これらの「寺社」には「様々な特権」を与える政策を採った。

それの一つが、”「寺請制度」”であって、”「商業組合」”の基と成る政策を実行した。

それには、先ず、この「社寺」を“民衆管理に任せる令”を作り、この「寺社」には“民間の檀家筆頭の補償”を要求した。
この事を「届制」にして義務化したのである。
そして、これを「寺社奉行の管轄下」に置いた。
その上で、この「寺社奉行」には、更には「幕領」を超えて「他藩の領内」までの「訴訟」までも担当させて「改革の障害と成る火種」を消す「大権限」を与えたのである。

従って、それまでは幕閣下にあった「寺社奉行」は、他藩の不満を押える意味で、「将軍直轄制」にしたのである。
「寺社領」以外にも、この「制度の効果」を観て、「関東域の民間の領地」までの「訴訟と審判と施工管理の確認」の末端行政までを任せたのである。

要するに、広大な権限を与えて「訴訟審判の行方」を「施工管理の確認」で徹底的に調べて疎かにしない様に監視したのである。

この事に依って、「藩領」と「幕領」と「民間域の地権」に広げる事で、「寺社関係の勢い]は再び息を吹き返して、「商業」は活発化して「商業組合の組織」は進んだのである。
要するに、「幕領と藩領」は当然の事として、「広大な寺社領の管理と運営と維持」を民間化させる事で「寺社」から出る修理や建設などの職能仕事は格段に増え続け、この事でそれを受けて「民間の商業の連合化」を促したのである。

これだけでは「商業組合の改革」は充分では無く、遂には、加速させる為に「民間の富豪町民」、「寺社富豪領民」、その他の「宗教団体の地権」までに「寺社奉行の権限」を拡げさせたのである。

しかし、この「見返り」として、「寺社」には、“民間の檀家筆頭の補償”に依って運営させて、「庶民の戸籍管理(人別帳)」と「訴訟と審判の権限」を一部与えて、これに依る「訴訟手数料」などの「金銭報酬力」を持たせたのである。
これに依って高まった「寺社の管理維持力」で「修理費などの経済的な捻出力」を持たせて、この「修理捻出力」から職能部門を活発化させたのである。

これを活発化させる為にも、これらを納めていた「名主制度の権限」が分散していたが、この内の「町名主制度」だけを廃止して、“民間の檀家筆頭らに依って「庶民の戸籍管理(人別帳)」と「訴訟と審判の権限」を「寺社」の中に置いて集中させる仕組み(況や、「寺請制度」)を組み立てたのである。

この事で、「幕府」が行うべき「司法」と「通産」の業務の莫大な事務費を省く事も出来たのである。
世間には「質素倹約」等を呼びかけ、「税」を「六公四民」を「五公五民」と増税する代わりに「幕府財政の健全化」もこの様に促した。
挙句は、「結婚、離婚の届け出」や「搬入搬出の届け出制」や「建設修理の届け出制」やこれに伴う「訴訟や審判や施工管理の確認」なども任せて「寺社の持久力」を高めさせて、そこから生まれる「職能の商業」を活発化させたのである。
これを「寺社奉行が見守る体制(監視体制)」を採ったのである。

(注釈 大訴訟や難審や長期の訴訟等は奉行が引き取って行った。)

この事に依って、全ての「民間の民」は、戸籍に関わる事から、他の地に移動するとか旅するとか婚姻で他の地に移動するなどの庶民生活の一切の繁多事務を寺社は担ったのである。
一種の現在の「簡易裁判所の役」「調停裁判所の役」を担わしたのである。
この事で全ての庶民は、必ず、何処かの寺社の管理下に入る必要が出て、要するに“「檀家方式」「氏子方式」が生まれたのである。
この時から、「武士」を除く「庶民」には今までになかった「墓などの慣習」がこの時から起こり、職能は比較に成らない程に拡大した。

今までは、「1割程度の武士階級の慣習(400万人)」が、結局は全体の残りの9割(3600万人)の慣習と成ったのである。
全ての民がこの”「慣習」”を持ったことに成るのであるから、「寺の収入」と此れから起こる「職能の産業と商業」は9倍と成った事に成る。
「慣習」を「特定の武士階級]のものにするのでは無く、平等にして自由に持たせると云う商業組合の概念に合わせたのである。
この事で、市場は反応して活性化したのである。

恐らくはこの慣習が、封建社会と云う考え方に拘泥して「武士階級」のものだけのものとしていた場合は、「市場」の中にこの「商業組合]の持つ「自由とする原理」が馴染まなかったであろう。
全て民が「同じ慣習」とする事に依って活性化したとのである。
「賢明な吉宗」は「伊勢」での生活の中で経験し、この事を見抜いていたのである。
故に、この「皆同じ慣習」にする為に、「奉行と寺社と檀家]の改革を手掛けたのである。
これは全て「リフレーション政策」を敷く為の「商業組合と云う概念」に従っての事であった。

これに関連して、「享保の幕府」には「経費の節減」と「地権料」と「税としての手数料」の「莫大な収入」が入った。
この「収入」を「寺社や河川」などの「維持管理費」や「新規や修理工事費用」に捻出した。
「一公の負荷税分」では、普通では一揆や騒動が起こる程度であった。
然し、次第に「周囲の環境」が良く成る方向に変化して行く事に納得して、「農民・庶民」は大きく反発を起こさなかった。
取り分け、これを不満の大きく成る筈の「紀州藩」の様に「武士階級」にも「地権の細分化と均一化」を起こしたのであるから、「姓の枝葉化(分家化)」が起こり、「400万人」は990/81でこの10倍の「職能の産業と商業」が新たに興した事に成る。
この事で納まったのである。

この「商業組合」と共に”「経済の復興」”は目覚ましいものがあって、「上級の武士階級」には「地権の減少」で多少の不満があったが懐事情は等しい結果と成って納まった。
「紀州藩家臣団」の大半は、元は「伊勢紀州の郷士衆」と「伊勢藤氏の郷氏衆」で構成されていた事からも収まったのである。

この「享保の改革」に結び付けた「驚くべき才知」等を、「吉宗」はこれを他藩にも全国的に見せて「行政指導」で行わせたのである。
資料の記録では、疲弊していた藩は、「幕府への借財]で何とか急場を凌いでいたが、行政指導に素直に載らない藩には厳しくあった事が判っている。

各藩は当に疲弊して“窮鼠猫を噛む“の状況下に於いて、”この様にすれば改善するよ”と見本を示した戦略であった。
現実に「賢臣の居る各藩」は模倣して改善を果たしたが、そうで無い藩は一揆が多発し、遂には、「廃藩や主君廃嫡の憂き目」を受けた。

この”「寺請制度」”などの”「寺社制度」”で起こる10倍近い全ての職能に関わる事業は、爆発的に活発化した。
然し、この効果を保ち安定させるには、「一つの職能」の“「まとめ役の制度」”が必要と成る。

上記した様に、「享保の改革のリフレーション政策」には、「偏り」、即ち「格差」が生まれては成り立たない。

「リフレーション」は「デフレ」と「インフレ」の中間政策である以上は、全てに「平均化を促す政策」が必要に成る。
そこで、採ったのが、内郭部は「商業組合」で、外郭部は「御師制度」で纏めようとしたのである。

全ての“職能に関わる集団”ごとに「組合」を作り、その「組合」に「取りまとめ役」として「御師」を置いて外郭にはみ出て「偏り」「格差」を生み出す行為の無い様に監視し調整し懲罰する役目を各段階(「御師 「寺社」に相当」)を置いた。
最終は、“「御師頭」(「寺社奉行」に相当)”で纏めさせる制度であった。

上記した「寺社の組織」と全く同じ事で、「寺社」のこの組織(”「寺請制度」”などの”「寺社制度」”)は、況や、この「御師制度」をそっくりと真似ての制度であった。

「ゼネコンの寺社組織(基幹部)」→「商業組合(内郭部)」+「御師制度組織(外郭部)」←「幕府内の御師制度」

「寺社組織」から生まれる「商業」は、「(イ)(ロ)(ハ)の商業組合」で、その「経済活動」から起こる「殖産の職能活動」は「御師制度の組織」であった。
(下記の「越後騒動」で「殖産商人」として出て来る。)
そして、これらを更に「幕府内の職能部の御師制度」で「監視する組織」を確立して“「偏りのない格式の産まない改革」“を押し進めたのである。

概要としてはまとめると、次の「四つの改革」が推し進められたのである。

「幕府の職能部」から建設と修理の職能の「公共事業」が出て来る事
「寺社」から建設と修理の職能の「半民間事業」が出て来る事
「商業組合」から建設と修理の職能の「完全民間事業」が出て来る事
上記三つから生まれる職能の「殖産企業」から「職能者の雇用」が出て来る事

注目するべきは、「四番目の殖産企業」であった。
これも前段で論じた様に、「商業組合」とは別に、「青木氏からの提案」(御師制度)に依るものであった。

「享保の改革」では、先ずは疲弊していた「既存産業」を“拡大させる事”のみならず、「新規産業」の「殖産」に関わる「興業」が重要な事であった。
これが、下記する「越後騒動」に「騒ぎ」として出て来たのである。

特に、江戸時代には、この「伊勢松阪」は「吉宗」が育った土地であり、「青木氏」と「加納氏」が「吉宗のバック」と成って幼子の時から養育し「将軍」に育て上げた。
江戸時代には、「青木氏の紙屋」と「加納氏の加納屋等」の豪商がより大きく成長し、その元下に育てられた「松阪商人」を多く排出した。

この「松阪商人」は「江戸幕府」とはその意味で無縁では無かった。
それは、実は、この「御師制度」と「松阪商人」の「商業組合」と云う「二つのキーワード」で繋がっていたのである。
これは別個に存在して居た組織では無かった。
先ず、「商業組合」は前段で論じた様に、(イ)(ロ)(ハ)を前提として“「あらゆる職種」“で構成されていた。
この“「あらゆる職種」“をまとめあげるには、「何かの制御の組織制度」が無ければ、幾ら「自由」としても「組合」としては成立は出来ない。
唯、そこには「ある要領(秘訣)」が在って、“無制限に制御すればよい”と云う事では無く、その「ある要領(秘訣)」は“「外郭部」を制御する事”に在る。
この「範囲」で制御すれば、“「人」が納得する自由”は保たれる。
これは、「密教の浄土宗」が説くこの世の条理である。
むしろ「自由」であるからこそ「外郭部」を覆って外には飛び出さない様にしなければ成らない。
その中での「自由の原則」である。
“「人」が納得する「自由」”とは、「人時場所の三相」に依って保たれる。

「人の相」は、江戸時代の人の持つ概念

「封建社会」では、「身分格式」のある「社会」を当たり前としていた中での“「人の自由」”は左右されて、その「自由の制限度」は大きい。
「青木氏」の「般若心経の密教論」で判り易く論じると、「人の自由」と「人の不満」の関係は「相対の関係」にあると説いている。
依って、仮に「完全自由」があるとすると、それを10とし、この「自由」に対する不満を爆発させるポイント(一揆-5>暴動-4>騒動-3>騒ぎ-2>事件-1)を5とし、全く自由がない社会を0ポイントとする。

そうすると、この「享保初期」は「騒動 -4」は、「起こるか起こらないかの位置」に在り、「自由の制限度」は6でもぎりぎり納得する「自由の概念」を持っていたと云う事に成る。。 

「時の相」は、戦乱から安定期に入ったその時期

享保期は、「人の相」では「6の位置」にあるとすると、「時の相」としては、戦乱期は上記の相関論から「一揆」より激しい「人の生存」に直接に関わる期であった事に成り、だから、3であった事に成る。
「3の戦乱」が終わる事で4と成り、それが、未だやや弱い「5の一揆」が多発する時期であった事に成る。
これが、「享保の改革」で前期の後始末の政策を打ち出した「初期の段階」では、上記した様に「5の一揆」が納まり、「5の位置」から「6の位置」に格上げされた時期であった事に成る。

「場所の相」は、疲弊から繁栄に向かおうとする場所

「各藩の配置」が目まぐるしく変化して、当然に、その「藩主・藩政」も変化して、その「地の領民」に執っては未だ安心した安定した地域では無く、「15地域」の様に、「大きな地域差」が生まれていた時期でもあった。
取り分け、「幕府」も含めて「各藩の悪政稚政」が目立っていた。
「人と時の相」と共に、「悪政」で「一揆」の起こっている場所=5、「圧政」で飢餓に苦しむ場所=4(騒動-3)、「稚政」で喘ぐ領民の場所=6(暴動-4)である事から、4~6の位置に在った。

これを「享保の改革」で 「前期の後始末の政策」を打ち出した「初期の段階」では、「商業改革と御師制度と幕府改革(寺社奉行等)」で乗り切ろうとした。
上記した様に、「越後騒動」の様に「各藩政」は「政治の的」を得て、これを真似て改善に向かう事と成った。
要するに、「場所」としての藩は4~6から6~7に向かったのである。

この様に、「自由の制限範囲」は、6~7のポイントを維持すれば「民の不満」も無く、「外郭部位」を「抑制する政策」を採れば成り立つ事が判る。
即ち、その“「あらゆる職種」“に、ある意味で「自由の抑制策」とも成る”「御師制度」“を持ち込めば、「社会と組織」の「まとまり」が着くと云うことが判る。

その個々の「まとまり」を「御師衆(御師頭)」でまとめて行けば、「郷士衆」(郷士頭)等の調整が出来る事に成る。
むしろ、「人間社会」では人の「意志」「発露」「尊厳」「思考」「能力」等の「差違」、即ち、況や、「エゴイズム」が在る限りは「完全自由10」はあり得ない。
当に「争いの世界」か「極楽の世界」に成る。
依って、現実には「9までの自由」とすると、現実の「6~7のポイント」で“「御師制度」“を敷く原理には無理は無い事に成る。
むしろ「必然性」に当たる。

筆者は「8の自由」はあると考えるが、「諸行無常」の世の中で「9の自由」は現実にはあり得るだろうか。
「般若心経の解釈」を基本とした「青木氏の密教の浄土宗」の「家訓10訓」などに反映している解説にあるこの論法からすると、“「無い」“と考える。

その「纏める情報」は、「御師衆の情報源」で採れ、この事で「組合員」が「高い高度な情報」で行動が執れる。
販売に対する「質・量の調整」、「競争相手への手立て」等もこの「二つの関係」で組み立てられる。

そもそも「享保改革」とは、在任期間の1716年から1745年の年号に由来するが、宗家以外の「御三家」の「紀州徳川家」から「将軍」に就任した「吉宗」は、先ず、「“先例格式”に捉われない改革」 を実行したのである。

前段で論じた「商業組合」を「頼宣入城1619年」の安定期から観ると、丁度100年、初期施行期から観ると、120年と成る。
上記で、丁度、67年間は社会は安定したと論じた。
その後、“「宗教」”が介在して難題の「一揆」が多発したと論じた。
この「一揆」の援護が出来る程に「商業組合と提携商人でのシステム」は維持されていた事に成る。

ところが、「享保の改革」以降は、下記の通り「青木氏」が関わった「一揆」は「天保騒動」まで100年間近くに発生していないのである。
「青木氏」が関わった可能性のある「一揆」では、80年間、関係の無い「一揆」では45年間は間違いなく起こっていない。
明らかにこれは「リフレーション政策」を誘導する「商業組合に依る改革」の「享保の改革の成果」が全国的に出た事を示している。

さて、ところが、唯一、問題と思える事があった。
唯、これは、「享保期前の社会的経済的な疲弊の影響」で起こった事か、「商業組合の改革」の」金融面での施策」の遅れなのかは判らないが、初期の段階で「農民」たちは「農地」を「質」に入れて凌いだ。
然し、質に入れるは何時の世の事でもあるが、この状況の問題は「質流れの農地」が多発した事にあった。

これは当時の武家社会や封建社会の根幹を揺るがす問題であったので困る事になった。
この「質流れ」が「他藩」や“「商人」”に移る事は、「江戸の社会構造」が崩れる原因と成り、好ましくないとして「農民」を保護する為に「質流れの移動」を禁止した。
つまり、”「緊急策」としての「質流地禁止令」”(詳細下記)を発行したのである。

そもそも、この「令」は吉宗の江戸幕府が1721年に発布した法令である。(享保の改革開始は1716年)
元禄期(1688~1704)以降、経済が著しく低迷し衰退し「農地」は放棄され荒廃したが,この時、幕府は一定の条件下で「田畑の質流れ」を公認していた。

そもそも、この施策は、元々は、“「江戸町方の屋敷地」”についての「質地の令」であった。
にも拘らず、これを享保期には「田畑」にまで適用したものであった。

ところが,越後などの米どころの地域では、この「令」に付いて誤解で「大騒動」が起こり、批判が高まり1年後に撤回したものである。
以後、兎も角も、「農地の荒廃」を防止する為に「田畑の質流れ」をも一切禁止するが、その場合は「質地取扱いの方針」を次ぎの様に定めた。

その内容は参考として概要は次ぎの通りであった。

(A)「質流れ禁止の方針」に基づき「質地手形」の書き直しを行っう事。
(B)「質地の小作料」の上限を「貸金」の一割半の「利積り」とし、超過分は「損金」とする事。

「滞納時の小作料」は、滞納額を一割半の「利積り」で「元金」に加え、「無利子の済崩」の形とし、「元利金の返済」の次第で「質地」を戻させる事。

(C)1717年以後の「質流の土地」は、先ず「元金」を返済し、「請戻願書」を提出すると、「質流の土地」が「質屋の手元」にある場合に限り請け戻させる事。
(D)今後、「田畑」を「質入れ」しての「借用金額」は、「田畑値段の2割引」とする事。

この法令の様に法令規準を変えて厳しくして抑え込もうとした。

然し乍ら、この「法令」は、昔の幕府の「田畑永代売買禁止令」(1695年)が元に成っていたのである。
ここに問題があって、基本的に目的とするところは、“「江戸町方の屋敷地」”の「質流れ禁止令」であった。
これを「農地」にも適用したのが誤りであり、「農地」と「町方」の「土地の価値や慣習」が異なる事から法令に「無理の問題」が起こった。

そもそも、経済が疲弊して農地が荒廃した中で、生活を護ろうとしても「令」により「農地の売買」が出来ないと成ると、遺される「苦肉の策」は「質」に入れる事しか無く成っていたのが享保期前の現状であった。
ところが、この「経済」が回復しない享保前は「質流れ」が多発して収拾が着かない事が起こる様に成って仕舞ったのである。
「農地」に関わらず「町方の土地」さえも連動して同じ現象が起こっていたのである。

そこで「享保の改革」では,「根幹の土地」に関わる事である為に”「前の失政」”を懸命に防ごうとした。

「吉宗の幕府」に執っては、とりあえず、この「質流れ」によって有名無実化するのを防ごうとするものであった。
ところが各地で起こる「1722年の越後騒動」等の混乱が生じたため1723年に直ぐに問題がある事に気付き撤回された。

ところが、「享保の改革」が進み「改善状況」を観て、今度は幕府は、改めて打つ手を変えて1741年に「質流れの売買禁止令」を基から緩和したのである。

何故ならば、この時の「商人」には、”「殖産を興す商人」”が多く介在をしていた。
「経済理論に賢い吉宗」は”「本来の解決策」”はここにあるとしてここに目を付けたのである。

何故ならば、「15地域の主要地の越後」では、「商業組合」と「提携商人」による「経済発展」から、「殖産」を興そうとする「既存の商人」には、その「殖産」を興す為には「新たな土地(「新地))」が必要であった。
そこで、「質流地禁止令」が出た以上は、そうするとところが、この「殖産商人」は「天領(藩領 天領)の農地」には手を付けられない。

この為に「幕府勘定方指導を務める青木氏」は、越後の「商業組合と御師制度の組織」を活用して「幕府策」として「前政の悪政の解消」の為に動いた。

これを納める為に、「農地」を利用する「越後」の「商業組合」の「殖産商人(越後青木氏と諏訪青木氏)」に「質流れの土地」を買い取る様に進めた。
ところが、越後の住民の1/3に当たる「理解力」の無くした「過激な農民」が誤解して暴動を起こして仕舞ったのである。
越後の「殖産商人(青木氏)」も説得に掛かったが、勢いづいた収拾の着かなくなった「一揆」は、捕縛を恐れて周囲の「他藩]に逃げ込んだのである。
周囲の各藩では、“同じ事の一揆が起こると拙い”として、遂には幕府の指示もあり捕縛をしてしまった。

所謂、「殖産商人」が「質地」を買い取る事で、「殖産農地」と成って「農民」も」土地」も現状を図られ生きて行ける事に成る筈であった。
然し、その様に受け取らなかった農民が居て民衆に向かって煽ったのである。

つまり、貧しさから「農地」を手放し放棄した「無宿者」と成る「農民」も「殖産農民」としてで生きられるとした「幕府の苦肉の対策」であった。
「地権者」であった「越後青木氏等」は、懸命に「地権主では無い土地の農民」を救おうとして幕府と協力して動いたのである。
ところが、これを充分な説明を「藩」そのものがしなかった事や、「現地に派遣されていた幕僚」が「過剰な説明(殖産農地の理解が低かった。)」をした事から、その「解釈」を間違えた「農民衆」が暴動を起こし、何と”「質屋」”を襲撃したのである。

結局は130日目に、再度、「幕府」が直接に「江戸の幕僚」が出向いて充分な説明が成され納まった事件であつた。
この事から、本来目的の「殖産商人の介在」でほぼ1年後(1623年)にこの令を直ちに廃止した。

この事でも判る様に、「享保の改革」の初期は、先ずは「前政の影響の始末政治」であって、基盤と成る「農民の保護」を主体として政治を進めた事が良く判る事例の特殊な「一揆」であった。

この事からより一層に”「農民保護」”の為に、上記の通り、”「寺社政治」”を実行して「組織固め」をした事が判る事例で有って、「税負荷」から来るものでは決して無かった。

「15地域の主要青木氏定住地」で起こった最も関係のあったこの“「越後騒動」”であるが、「享保の改革」を善く物語る典型的な事例である。
これは「農民の社会的、政治的、経済的な不満」からのものでは決して無かった。

「他藩の稚政の悪影響」で起こったものでは、「・1726年津山暴動」や「・1729年岩代農民暴動」や「・1739年元文一揆」の三件があった。
これも「享保の改革」の「前政治の影響(綱吉)」で起こったものであり、「藩内事情」での「藩政政治の低さからくる失敗」に依る事件であった。

この“「前政権のツケ」”である「四つの事件」を除けば、何れも1800年代までとして観れば、矢張り100年以上は納まっていると観る事が出来る。

前段でも論じた「一揆の年譜」から観ても次ぎの様に成っている。

関わった一揆
・1677年郡上一揆
・1722年越後騒動
・1761年上田騒動・1768年新潟騒動
・1836年天保騒動(郡内騒動、甲斐一国騒動)・1814年北越騒動
・1842年近江天保一揆

関わった可能性のある一揆
(殆どは重税による農民一揆)
・1652年小浜一揆・1686年加助騒動・1690年坪谷一揆
・1726年津山暴動・1729年岩代農民暴動
・1761年伝馬騒動
・1781年絹一揆・・1786年宿毛一揆
・1842年山城谷一揆

その他の一揆
・1739年元文一揆
・1753年摺騒動
・1771年虹の松原一揆・1771年虹の松原一揆
・1771年大原騒動1793年武左衛門一揆
・1804年牛久助郷一揆・1825年赤蓑騒動・1831年長州藩天保一揆
・1838年佐渡一国一揆・1847年三閉伊一揆・1856年渋染一揆

つまり、この100年の期間を維持させられたのは、この「御師制度」がこの「商業組合」に組み込んだ事からなのである。

一方で、「紀州藩」では、「青木氏」が手掛ける「伊勢和紙」だけでは無く、前段で論じた様に、「伊勢青木氏」の指導の下で、伊勢松阪地区から玉城地区に掛けて「伊勢の土地柄」を生かした「殖産」と「興業」を強力に押し進めた。
そもそも、注釈として、「享保の改革時」は、紀州の“「地元の藩政」”が上手く行かないのでは「改革の名分」が着かず、立場は無く成る。
これは最も大事な戦略で、上記に論じた様に「15地域の商業組合の実績」など説得材料として「将軍」に成り得たが、「紀州藩財政の立て直し」の為にも「殖産・興業」で「紀州藩勘定方」を懸命に指導した。

実は、この時には、奈良期から納めていた「先祖伝来の本領とその地権」を自ら放出すると云う「激痛」もあったし、「不入不倫の権」も実質は破棄されてしまった事にも成った。
実質は何の利益も無かった完全に足元を掬われた形であった。

この時の「四家の福家」は苦しい立場であった事は判るし、南勢の遠縁の縁家に遺された資料によれば、矢張り意見が分かれた事が書かれている。
ところが、唯、多くの資料が遺されていた「郷士頭の家の資料」では、“意気込みさえ感じる事”が読み取れる内容であった。

“これは一体何なのか”を、この時の関係者の末孫に「関係する口伝等」が在るかも知れないとして意見を聞いて観た。
まぁ、口伝等を含めて総合すると、伊勢紀州の「旧領地の郷士衆」に執ってみれば、紀州藩の家臣、将又、江戸向行に伴って、“世に出て働ける”と云う武士の気概もあった。
確かに、「郷士の地権」は減らされた家筋もあるが、「御師制度の頭」と[郷士頭」が調整(金銭に依る地権差額調整)した事が原因していると云う事であった。
「訴訟の差配」が「標準平均化の前提」に成っていたと観られ、殆どは現状より増えた家筋の方が多いと云う事もあって、結局は「損益の差」は「旧領地の郷士」の中でも“青木氏と血縁を結んだ縁者関係に多く出ていた”と云う事の結論に成った。

と云う事は、「訴訟の差配」の裏では、表は“「一切松阪有利の慣例」”を破った事にして大義を世間に示し、「金銭に依る地権の差額調整」をして収めたと云う事に成る。
では、“その財源は何処から出たのか”と云う事に成るが、口伝と資料から読み取ると、“「御師様」と「氏上様」”と云う言葉が出て来る事や、「損益の差」は“青木氏と血縁を結んだ縁者関係に出た。”と云う事なので、これも「青木氏」が負担した事に成る。
「自らの土地の地権」を放棄した上で、「調整金」も自ら拠出した事に成る。

しかし、上記した様に、「青木氏の遠縁関係」でも江戸中期から明治初期に掛けて「旅館」を営んだり、「松阪商人」「射和商人」と呼ばれたり、与えられた「農地」を生かした「殖産の商人(前段で論じた養蚕・紙加工・米加工等)」に成る等と云う事があって、“却って豊かに成った”とする結論に落ち着いた。
確かに「本論の射和商人」はその「典型的な現象」である事は事実である。
「紀州藩の藩財政」が立ち直ったのも多くは、この「伊勢紀州の郷士衆」の「射和商人」に語られる様に、「郷士衆の不満」は確かに無かった事は頷ける。

それでなくては、「享保の改革の基盤」と成った位であるから“「藩財政」が立ち直った”とは云わないであろう。

ところが、筆者は唯一部納得出来ない事があった。
1716年に「吉宗江戸向行」と成ると、約1年前の1714年にこの「松阪裁定」が下されたとすると、1715年では「将軍擁立運動」は既に行われていた事に成る。
「青木氏と紀州藩」では、その為の「準備計画」が成されている筈である事から、「郷士衆の江戸同行」(「紀州藩の同行組」と「青木氏の同行組」)に付いて検討されていた事に成る。
「紀州藩士」は藩命である事から問題ないとして、「青木氏の同行組(別働隊)」の「御師制度の郷士衆」の賛同を得ておく必要がある。
この為の「納得」を容易にする「下準備の手立て」であった事と考えられる。

だとすると、上記の通りに「地元の郷士衆や農民」は、兎も角も、「江戸同行組の郷士」は、“その後にどうなったのか”である。
調べた結果では、「郷士の家」では「郷士家族の家」の全体で江戸に移動した訳ではない事は判って居る。
「一族の者」を差し向けた事は判っていて、その子孫が江戸に遺って子孫を拡大している事も判って居る。
判る範囲では、7割近くが地元に戻っている。
「残りの3割」は、「紀州藩の江戸詰め」で残った事に成っている。
結局は、「青木氏の別動隊(18の郷士衆と青木氏部)」は伊勢に戻った事に成っている。

そこで、この「享保の改革」に貢献した「7割の郷士達の帰還組」は果たしてどう成ったのかであって、ところがこの部分に於いては、「紀州藩士」では無かった事から「完全な資料」と成るものが無く良く判っていない。
(青木氏側では記録消失)
唯、「郷士家の口伝と一部の資料」に依ると、「紀州藩の家臣」と成って、「熊野、田辺、名張、伊勢三領(松坂・田丸・白子)」の“「六地域」“に配置された事が読み取れる。

これが事実とすると、伊勢紀州と江戸での“豊富な政治経験を有する者”である事から、“何故、ここに配置したか”の理由がある筈である。

この「六地域」には一つ共通点がある。
恐らくはこの「共通点」が原因していると観られる。

・「熊野」は、江戸期には日本一有名な「熊野檜の名産地」で「港町」で貿易港
・「田辺」は、江戸期には「日本最大の遠洋漁業」の拠点で「港町」で貿易港
・「名張」は、大和国と伊勢の国境域の位置しで「青木氏の旧領地」で、古来より伊勢和紙(伊賀和紙)の名産地であった。
次ぎの「松阪や白子域」を更に発展させるべき「和紙生産の拠点」であった。
・「松阪」は、本論の「商業の町」で港町で貿易港
・「田丸」は、玉城地区で「射和商人」が住む「商業組合」の元と成る「殖産と商い」の拠点で、「河川と港」を有する便利な地域である。「軍略的要衝地」でもあった。
・「白子」は、鈴鹿の南東部に位置し、「伊勢湾の港町」であり、且つ、「伊勢和紙」を利用した「伊勢型紙」で「有名な殖産地域」で、「松阪と田丸」と共に、特別に「藩の保護」を受けて発展した「伝統工芸の町」と「紡績の町」でもあった。

この「比較対象」として、そこで、何故、紀州の最も大きな良好な大港町である「下津港」と、本城のある「若山港」に配置しなかったのかと云う疑問が湧く。
この「疑問の答え」が、「江戸戻りの郷士」の「配置された理由」と成る。

それは、次の通りである。
・「下津」は、「港」としては大きいが、此処は「蜜柑の里」で、直ぐに三方が山岳地で周囲は山に囲まれる山岳部で、平地が少ない事に成っていて、それが「地形の所以」で「段々畑の蜜柑の郷」と成っている所以なのである。
一つ山を越えた隣には、「有田川の大洲域」があるが、浅瀬で湾口としては向かない。
「殖産と商業」の経済を発展させ得る地形では無い。

・「若山」は、港、地形、経済圏、何れも遜色ない要衝地で、紀川大洲の広大な平地を持ち、古来より伊勢に決まる前は「遷宮地」でもあった位に「歴史」にしても寺社仏閣等の数にしても何れの点に執っても伊勢松阪に匹敵する全てに類似の地である。
依って、古来より製鉄所を有し、鉄砲などの工業生産も盛んで、且つ、堺に隣接し、殖産と商業の経済を発展させ得る最大の地形地域でもある。
恐らくは、ここに配置しなかった理由は、既に、ここは発展している地域であって、藩のお膝元である事から「人材は豊富」であって、江戸での「彼らの知識と経験」を活かしての「発展」を期待するには既に充分地域であった。

“「更なる発展」”は、“「紀州藩飛地領」を開発する事が必要“であった事を、この「二つの地域」から比較対象として浮き上がる事が「答え」であった筈である。
故に、「上記の六領」に配置した事に成ったと観られる。

この結果を示すデータが在る。
当初、蒲生氏郷前は「8万石」、蒲生氏期は「12万石」、徳川氏吉宗期は「18万石」、その後の「江戸戻り組」が配置された宝暦から明和期は「22万石」と成っている。
この「8-12-18-22」/150の「変化の数字}は、伊勢の「紀州藩飛地領」の前段から論じている「商業組合」に依る“「商業と殖産」“に依る”「成果の変化」“を指し示している事に成る。

何と150年程度で、「紀州藩飛地領(六地域)」では、“「14万石の改革」”が起こったのである。

では、因みに、この「飛地領の14万石差」とは、“どの程度のものであるか“と云うと次ぎの様に成る。
「江戸期の大名石高」と比較して観ると、全国186国中の27番目に相当し、伊勢域の大名の石高では、長島は2万石、亀山は6万石、桑名は11万石、津は32.3万石であるから、「飛地領の14万石差」は「驚くべき発展」である。
伊勢全体の石高は、約55万石と云われていて、(14/55)・100≒25%と成る。

「飛地領の14万石差 25%」の「商業組合とその殖産」と、これを「まとめる事」の「御師制度の総合効果」はどんなものであったかは、最早、説明を必要としない。
何と27番目/186の国が一国出来た事に成るのである。

「享保の改革」の時期中にしても「10万石」(100年)も増やしている事は、前期した様に「他藩の手本」と充分に成り得ていた事に成る。
これを他藩が観ていたとして、「15地域外」の「真似しない藩」がもし居たとしたら、それは当に“「稚政藩」”であって、この“「稚政藩」(幕閣の抵抗勢力の藩)”を観ると確かに「真似」をしていない。

この事から、「江戸戻り組」は、その「享保の知識と経験」を活かして、「商業と殖産の地」を更に生かして発展させるには、“「貿易の出来る地域」”を選び、そこで“「海外貿易」”をさせる事の為に明らかに配置したと観られる。
「飛地領の14万石差」の“「貿易の出来る地域」”は、「販売する商業」とその「商品を生産する殖産」の二つがあるからこそ成し得る手段である。
そして、その“「貿易」”は「安定した生産」を要求されるが、これは“「御師制度」”で管理して行くことで成り立つ。

この事から、むしろ、「江戸戻り組の郷士」は、「自発的意思」では無く、「紀州藩」として、紀州藩士に関係する「郷士衆」は、兎も角も、「青木氏の別動隊」の「御師制度の郷士衆」には、是非に、「探しても紀州藩には必要な人材」であった。
「帰還」は喉から手の出る程の者であって、依って、江戸に掛け合ってでも命じて返したと判断するのが正しいと考えられる。
故に、「吉宗一族」が「徳川氏の宗家」となる「保科氏」として継承する以上は、10割は難しく、交渉の結果の7割であると観られる。


その結果、前記の殖産の養蚕や米改良に加え、新たに「和紙に依る紙箱などの紙製品」や「伊勢焼きの陶器」や「白粉等の産物」や「伊勢木綿の生産」を作り出し、「青木氏の紙問屋(総合商社)」からこれらを全国展開して販売し、初代頼宣から第四代藩主と成った「吉宗の頃」には、危機に陥っていた「紀州藩の財政」の立て直しに成功したのである。

特に「初代頼宣」から引き継いだ「吉宗」は、前期した様に、「青木氏」と共にこの「殖産事業と興業」に力を注ぎ、この育てた「松坂商人(射和商人等)」を江戸に店を構えさせるなどの便宜を図り育て上げたのである。

因みに、「伊勢の店」以外に、この時の結果として、“「江戸店」”として、主な商人は、「江戸の伊勢屋」(伊勢青木氏の「伊勢の紙屋」)、後に殖産による「松阪木綿」の「越後屋」(近江の人 1679年)、近江から「丹波屋」(近江の人)、「小津屋」(近江の人)の「伊勢商人」が有名である。
前段と上記した様に、「吉宗」が「商業組合」を江戸に持ち込んだ結果から、歴史に残る大豪商が生まれた。

そもそも、注釈として、 この“「江戸の伊勢屋」”は、“江戸の名物 犬の糞と伊勢屋” と呼ばれていた程に、江戸時代中期前後の日本で一番多い「商人の屋号」であった。
享保期初期の「江戸の伊勢屋」は、「伊勢青木氏」(「伊勢の紙屋」)で明和期までの商業記録が完全に遺る。
「忠臣蔵伝」にも登場する「商人」であった。
その後の安永期以降には、一度に全国的にこの「屋号」が更に拡がるが「青木氏」とは無関係である。

しかし、この様に“「江戸の伊勢屋」の屋号”が一番に拡がると云う事は、如何に享保期の「青木氏の商い」が、「15地域」にも広がりを見せ、且つ、“「疲弊」”から脱しさせた「享保の改革」を認めていた事を示す事に成る。
つまり、これを目の当たりに見た庶民は、“「江戸の伊勢屋」”をその代名詞の様に扱っていたと云う事にも成る。
「幕府の職能部の御師制度」と「青木氏の御師制度」と「商業組合の発達での御師制度」、「寺社関係の御師制度」等の広範囲に社会に広がった“「商業組合と御師制度」”が、「江戸」のみならず全国の「庶民」にどれだけのインパクトを与えていたかが判るパラメータの「屋号」である。

この「伊勢屋の屋号」の中には、伊勢紀州域と同じ様に「吉宗」の呼びかけで「15地域」から「江戸店」を出した「青木氏」の判る範囲では4店もあった。

「伊勢、信濃(総合商・貿易商)」は別として次ぎの4店である。

「越前、若狭」(皇親族賜姓青木氏)
「越後、駿河」(秀郷流賜姓青木氏)

以上の2氏―4地域店の「商業組合」が参加した。

この「伊勢屋」が、後に子孫に依って次ぎの様に広げられた。
「越前屋」(酒屋・呉服屋)
「若狭屋」(海産物屋・小間物屋)
「越後屋」(穀物屋・小物屋)
「駿河屋」(粉屋・菓子屋)

以上の「屋号」と「職種」も拡げたのである。

ここから「江戸の豪商」が出ているが、この豪商の単独の出店では無く、「原材料の生産」は別として、この「加工職種に関わる職能者」も江戸に同行して「一種のコンビナート」を形成しての「江戸店の出店」であった。

この「江戸出店」が「商業組合(コンビナート)」であったからこそ未だ成り立つ「商い」であった。

そもそも、「運輸手段」も発達していないし、社会も疲弊し運送に危険性も大きく、この享保初期の時期に一切を「商品」(加工品)にして遠方から搬送して売り捌くには「経費と危険」が伴い、「大商い」は到底困難であった。
故に、“「商業組合」“としての行動でなくては成り立たない「商い」であった。

この結果が江戸に多くのあらゆる職種の職人が集まる社会が構築されたのであって、下記に論じる「庶民経済」の「銭屋と質屋の金融業」が発達した所以でもある。

(注釈 「江戸の職人」と呼ばれる中には「伊勢紀州の出自の姓名」が多い。「享保の改革」の「商業組合の影響」と観られる。)

ここには、是非に追記しておかなければならない歴史的に表に出て来ない「影と成っている職能集団」が在った。

それは、”「運輸の安全」を担う「職能集団」”であった。
これ無くして絶対に「江戸出店」は無し得ない事であった。

それは、「シンジケート」であった。
この「シンジケート」を独自に持ち得ない「大商い」は決して成り立たなかったのである。
前段でも論じた事ではあるが、「荷駄を護る武力集団」である。
搬送中は「荷駄と搬送人」を周囲を取り囲むように「旅人」を装って護り、少し離れた場所からも移動しながらも「擁護する形体」を採っていて,国境(シンジケートの勢力圏境)では、「隣のシンジケート」との「渡り交渉」(金銭授受)を着けての搬送であった。
恐らくは、この「シンジケート」を持っていない「15地域の中の商業組合」は「江戸出店」は不可能であったと考えられる。

(注釈 従って、地域的な形で「京出店の原因」の一つとも成ったが、つまり、「江戸の伊勢屋」が、この「護衛集団を補完させられる地域」までは「江戸出店」は可能であったと観られる。
然し、「関西以西」は現実的に不可能であったと観られる。
伊勢は「摂津堺店」があって「伊勢水軍」を管轄していたし、「讃岐 伊予」や「安芸 米子」も「廻船問屋」を主体としていて「水運」は強く、「淀川」や「日本海」を経しての運搬が可能で有ったが、「陸運」は無理であった事も、京に動いた原因でもあった。)

以上の「2氏―4地域」の店の「商業組合」の主催者(青木氏)は、「有名なシンジケート」を古来より確かにこれを持ち得ていたのである。
唯、筆者の観る処では、最大は「伊勢 信濃」の明治期までその機能が遺った「二つのシンジケート」ではあったが、それと同じ様に「2氏―4地域」の「シンジケート」が,「江戸まで護衛力」を成し得る程に充分では無かった。

この事から、「伊勢 信濃」の「二つのシンジケート」が連携してこれを補完していたと観ている。

何故ならば、「伊勢 信濃」は「本職としてのシンジケート」としての働きが「地元の商業組合」でも有ったことから、この「シンジケート」を勢力拡大させて「専門の護衛集団」(職能集団)を形成していたのである。

(注釈 「総合商 貿易商 金融商の伊勢屋」が成し得る護衛集団であった。)

(注釈 江戸の1760年代後半の頃には、「護衛」のみならず「荷駄の搬送全体」を受け持つ「一種の運送集団」として「商業組合」の中で本格的に位置づけられる様に変化して行った。)

「江戸の伊勢屋」がこの「裏方の護衛」を差配していた事が判って居る。
資料では、この「護衛」の事を、未だ「享保期初期の頃」であった事から、「古い概念」が残っていて「裏の影の職能集団」を表に出す事の「弊害」を懸念してか“「護衛」”と云う表現を採っていなかった模様である。
資料の中には,「去る人(サル 忍者)」と隠語を使って表現されている。


話しを戻して、ところが、そして、享保後の「宝暦明和期頃」からの後期の「伊勢屋」では、「江戸の伊勢屋」では無く「庶民の屋号(質屋)」と成っている。
明和期に享保の改革が成功して伊勢より江戸出店して豪商と成った数人の者等が、「利益を追求する金融業」を始めた「質屋の伊勢屋」であった。(次段で詳細に論じる。)

これは、(イ)(ロ)(ハ)の「商業組合」の所以であって、“「組合」“と云う中での「同屋号の広がり」を見せたものとして解釈できる。

その意味からしても、この「4店の職種」から観ても、「伊勢屋の総合商」は「質屋の金融業」の様に、全て「元の職種」の「発展先の職種」で店を出している傾向にある。
「発展先の職種の店」に付いては、その「何らかの子孫」か「関係者の出店・暖簾分け」であるかまでは充分な“確認”が取れていない。
然し、「享保の改革」で江戸に拡がった「商業組合」としては、享保期から宝暦明和期までの間の「江戸店」の「同屋号の出店」は、「青木氏の子孫の出店」(「暖簾分け制度」である。)では無い。

それは、(イ)(ロ)(ハ)の「商業組合」とすると“「子孫の出店」”は、「自由」とする「発想外の事」と成り得て、兎も角も、全てとは言い難いが、「出店」として可能な「時代期間」と「江戸地区」を限定して考察すれば、「関係者の出店・暖簾分け」であった可能性が強く、現在で云う“「チェーンストア」”であった可能性が強い。

(注釈 現実に「青木氏として氏名に関わる事」は、「享保の改革」を主導している理由から表に出せなかった。
江戸に同行した「江戸の青木六兵衛」とその子供二代に渡りが「吉宗」に仕えたが、この「佐々木氏の資料」からこの事の注意が読み取れる。)

特に「総合商社」から発展した”「伊勢屋の質屋」”が多いと云う事は、“「江戸の名物」”と云われた位に多いのはこの事を証明する。
上記した「越後騒動の原因」と成ったのには、「質流地禁止令」が「江戸の金融問題」で出したのではあるが、「商業組合」として多く「江戸店」を出している越後国にも波及して、この「所以の事」から来ているものとも観ている。
「伊勢屋の質屋」は[享保の改革」を「商いや利益」と云うよりは金融面から支えた「金融システムの構築]に目的があった。


「青木氏の伝統 21に続く。 
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