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:「青木氏の伝統 13」- 「青木氏の四家訓戒 2」


[No.330] Re:「青木氏の伝統 13」- 「青木氏の四家訓戒 2」
投稿者:福管理人 投稿日:2015/04/16(Thu) 05:37:57


「伝統 13」


>前回の末尾
>
> しかし、ここで大きな”「救い」”が一つあった。
> この事を戦前に察知し熟知していた「摂津頼光系四家の福家の頼政」は、「以仁王の乱」の直前に、「子孫の一人(京綱)」を「伊勢青木氏の跡目」に入れて最悪を避けるべく策を講じていた。
> これは、「同族である青木氏」が、「不入不倫の権」に護られながらも、「賜姓族の氏是」を頑なに護り、それに基づき、且つ、「四家方式」に依って、「源平の戦い」でも、”必ず「子孫」を累代まで遺す”と理解しての配慮の事であった。
> 故に、”「跡目」”であった為に、「源氏」が「青木氏」の中に流れている事に成る。
> 「信濃青木氏」にも、”戦い”の直前に、「跡目」か「跡目」に類する形で「青木氏」に入れている。
>
> 「信濃青木氏」には「源光国-血縁」と「源実国-跡目」を、滅亡した「土岐青木氏」には、「源光国」の子の「源光信-跡目」を、「甲斐青木氏」には、「源源光-跡目」を跡目等に入れている。
> 甲斐武田氏系青木氏には、「源源光」の兄の「源時光」が跡目に入っている。
>
> 故に、”源氏11家”は、完全な「滅亡の憂き目」を辿ったのであるが、「清和源氏宗家の四家」からだけ、「血筋」としては、「青木氏」の中に遺した事に成る。
>
> 取り分け、”滅亡した源氏”そのものは、当然に滅亡する”宿命のシステム”を敷いていた事に成る。


「嵯峨期の詔勅・禁令の影響」
筆者は、この”「訓戒」”は、”「嵯峨天皇の嵯峨期の詔勅」”に表れていると観ている。

「嵯峨期の詔勅」を全体の当時の状況や環境を加味して要約すると、次ぎの様に成る。

「賜姓族青木氏」の様に、今後、天皇が保護し、役柄を付与し、領地を与え、税を免除する事はしない。ただ、「臣下」しても「朝臣族」だけの身分を与える。
後は”自らの粛清”に依って子孫を確保し、「賜姓族」としての名誉を保て。
これは、天皇家の財政が万民に負担を掛けない様にするための配慮である。

以上の様な意味合いの「詔勅」を態々発した上で、更には次ぎの発言を追加している。

この「賜姓」に依って、”「民の負担」”を軽減させる為にも、決して ”「一切の民」は、この”「賜姓族の慣習仕来り掟」”を不必要に真似てはならない。”

以上の意を込めて、この事を付随して、”「賜姓族」”としての「慣習仕来り掟」等の細かい「禁令」を発布したのである。

「嵯峨天皇」は、この「詔勅」に依って、それまでの「天智期」から進めて5代続いた”賜姓する氏名”の”「青木氏」”を、「別の皇族身分の賜姓」の氏名にし、上記の「詔勅と禁令」の内容の様に、”「賜姓の扱い」”を下げて、”賜姓する事”に改めた。
そこで、これを”「源氏」”と変名させたのである。
その代わり、「青木氏」は、「別の皇族身分の者(門跡僧を含む全ての皇族系出身者)」が、”何らかの理由で下族、還俗する場合に於いて、名乗る氏名”と定めた「嵯峨期禁令」を発して万民の使用を禁じたのである。

(注釈 ”経済的背景のない「賜姓源氏」”は、「荘園制」を利用して「名義貸し制度」を作って、「経済的背景」を構築した。”「皇族の権威」”を各地の豪族が成っている「荘園主」に与えて、”「荘園権威付け」”をさせた上で、「税の軽減」を発生させて、その見返りに「莫大な対価」を獲得した。
更に、”「源氏名」”までをその「姓氏」に貸し与えて、”「疑似同族」として名乗る事”を認めて、更に「名義料」として「莫大な対価」を獲得した。
これが原因で、全国に朝廷の許可を得ずに ”「源氏」”と勝手に名乗るの疑似の「姓族の源氏」が出た。
これを「未勘氏族」と云うが、結局は「賜姓族の権威」が低下した。
朝廷は、これに強烈に反発して、この「荘園手法」を盛んに行った頼宣系義家らの一族を、”朝廷の云う事を聞かず勝手な事をした事”を理由に、蟄居させて厳罰に罰して衰退させた。
この為、朝廷に執って”権威低下”を招く不都合な”「社会的弊害悪外」”が出た事を理由に、遂に、「後三条天皇」が発案し「白河天皇」「堀河天皇」「鳥羽天皇」まで四代続いて行い、「院政政治」と云われる時代まで、この「荘園制」を1068年頃から始まって、遂に、凡そ100年かけて廃止して弊害を無くしたのである。


これで、”「賜姓族」は、”「規律」”を失い、且つ、その”「立場」”を低下させて失い、更には ”「経済的背景を失った源氏」”は滅亡へと急速に走ったのである。)

この禁令も、全て、「詔勅の趣旨」の範囲で、「源氏と青木氏」の「二つの方法の賜姓」には、”民への経済的負担の軽減”を前提にしている。
従って、一切、”天智期からの「第六位皇子の賜姓」時の「不入不倫の権」を授与して保護する事”はせずに、あくまでも、「二つの賜姓」には、”保障の無い身分の「朝臣」を与える”のみで、”臣下させる”としたのである。

この[嵯峨天皇の心]を護ったのが、「嵯峨源氏」、「村上源氏」、「宇多源氏」、「多田源氏」で在ったが、「清和源氏の暴走」で引き込まれて結局は滅亡した。
この4氏は、「賜姓族青木氏」を模範として、同じ規律を作り、室町期まで生き延びる事が出来た。

(この三氏の末裔としている「氏」があるが、室町期中期からの全て歴史的な矛盾の多い「未勘氏」であると考えられる。)

以上が、「賜姓源氏」が、「子孫存続の規律」を失い、それに依って、”「賜姓族としての伝統」”を消失したその背景の経緯である。
つまり、”「伝統」”を作り上げられる「組織体制」を確立したかの如何である事が、上記の「賜姓源氏」の経緯で判る。

話を戻して、従って、「子」「孫」「曾孫」「遠縁」の「同族血縁」の「上記する弊害」は、この「賜姓源氏」等が採用した「四段階の妻」のシステムからでは”「妻方の血」”がより多く入り、つまり、「同じ血縁」と云う事の範囲では、実質上は、”「同族血縁の弊害」”は生まれ難い事に成る。
しかし、「四段階の妻方式」では、確かに子孫は増え、その子孫の「血縁障害」は興しにくく成るが、「組織間の心絆」、「組織間の繋がり」は低下し、「慣習仕来り掟」の「規律」も護られなくなり、「氏是」は希薄に成り、猪突猛進型の氏が出来上がって仕舞うのである。

鎌倉期から室町期までは、「四家方式」と共に、「二段階の妻(嫁)」(正妻 側室)としていた。
(実質は、平安期から継承していた事が判る。)
特に、”戦い”をしない事を”「氏是」(前提)”とした事から、”戦いに依る子の減少問題”は軽減して、「平安期の方式」は採用されていなかったのである。

(注釈 むしろ、「四段階」の場合は、逆に、「四段階]には当然に「身分格式」が起こり、その立場から、「順位の感覚」が強く成った。
その結果、”不必要な争い”が起こり、”良質な子孫”を遺す事の弊害と成って、”一族全ての「孫域」までを平等に「子」とする”とする範囲の定義は成り立たなかったと観られる。
その意味で、「賜姓族の立場」としては、「純潔保全の目的]から、形式上は朝廷より公的に認められてはいたが、実質は採用されていなかったと考えられる。)

話を戻して、そして、成人後には 今度は”嫁”として変身し、「氏の家」の”「我家の嗣子」”に嫁がせる手段を採る為に、”実娘”の子と同じ感情、感覚が親側に生まれるので、結果として、実娘に成り得るのである。
ここに、この考え方の「慣習仕来り掟」に対して無理は生まれなく成っている。
従って、この「考え方」は、早ければ早い程に良い事に成る。
”生まれた時点で、養女は決まる”と云うよりは、”生まれる前からその宿命は決まっている事”に成る。この仕組みとして臣下の中から選ばれて「母親代わり」の「乳母制度」が敷かれる。

つまり、”孫域までの子供”の「男子」の場合は、”区別のない「嗣子」”と成り得る。
合わせて、”孫域までの子供”の「女子」の場合は、”娘”として他氏に嫁がせる事に成る。
この場合は、”同族間での血縁”も「一族の結束」を固める為にあるが、”純血性の弊害”を無くす為に、”家柄、身分のつり合いの取れた他氏に嫁がせる事”が優先して多用される。
この場合は、「適時適切」を旨とされる。

この場合、上記した要領で、”「嫁ぎ先」で生まれた子供”は、”「実家先」の「嗣子」”と成り得て、”「跡目」”が可能に成る。
この場合は、”嫁ぎ先の跡目の事情”を考慮して、”嗣子の嫡子の位”を決めて、実行される場合が起こる。
「青木氏」では、”承認を得た氏”の「武家の立場」として、朝廷に届けて「権威付け」して ”「第三子」を原則とする”と定められている。
この事から、この「血縁のシステム」そのものが、「賜姓族の権威」を裏付ける為に、公的に認められたシステムと成っている事を物語る。
それだけに、「第三子跡目継承の定義」は、”「純血性を保全する宿命」”を作り上げて、その”厳しい責務”を負っている事に成る。

但し、「他氏の血筋」を入れる場合に於いては、「下位の家柄」との血縁と成り得る事から、「第一子」と成り得る事も起こる。
「下位の家柄」に執っては、”「上位の嫁の実家先」”の家を継承する事に成り、自らの勢力圏を拡げる事に成り得る事から、つまり、”血縁による利得”と成り得るからである。
”「下位の家筋」”は、その流れの中で、積極的に、この”「第一子の決まり」”を実行しようと働きかけれる事に成る。
又、要するに上記した一族の範囲内に於いてでも、どうしても「跡目の嗣子」が無い場合は、「孫娘」までの嫁ぎ先の範囲での”「遠縁の他氏」”から「養子」を迎える事に成る。
要するに、この”「孫娘]”と”「実娘」”は、”子の定義”の中にある為に、区別はなく、”他氏からの養子(遠縁)”は、正規の”娘の養子”として扱われる。
従って、「跡目」は、「養子」の”男子の子供(孫娘と実娘が生んだ子)”も「正規の跡目」としての「嗣子」に扱われる。
”本家分家”に関わらず、”氏”の中に生まれた”「子」”は、「氏の全体の子」として捉えられ、分家の”「子」”も、”「本家の跡目」を継承する”と云う事にも成るのである。
又、当然に逆の事も起こる。


この”「跡目の継承」”としては、”「嫡子」”は、この”「子」”の中から、その任に見合った者を選ぶ仕組みである。上記する「子の範囲」の中では順位の差は本来は無い。
これを宗家筋が、その順位をその能力を見定めて決定し、行う仕組みなのである。
結局、「孫」に位置する者が、「子」に位置する者を飛び越えて、「嫡子」に選ばれる事が起こるのである。
つまり、「賜姓族の氏」を絶対条件として維持して行く為に、”より良い嫡子”を遺す為に採られる仕組みである。
時には、この事に依って、必然的に人間の性から、其処に”「争いの種」”が必ず起こる。
これを乗り越えてこその”「氏家制度」の「嫡子」”であり、”一族一門の「頭領」”と成り得るのである。
「嫡子」としての「絶対条件」として、乗り越えなければ、それは「嫡子]では無い事に成る。
それには、「嗣子」と「嫡子」の”「子」”は、お付きの良い家臣を持つ事が必要に成るのである。

何故、この様な「慣習仕来り掟」に成るかと云うと、これは”「賜姓族」とする特別な立場”にあったのである。
”「賜姓族」”である限りは、「賜姓族」を護り続ける為には、”「純血」”を保ち、如何なる事が在っても、永代に「氏の保全(象徴紋の維持)」を保つ責務、宿命を負っていたのである。
況や、”「子孫」無くして伝統は護れず、「伝統」無くして子孫は護れず”の例えより、故に、「青木氏」では、本論の”「伝統」”を護っていたのである。

この”「争い」”を無くす為に、家康は、江戸初期に、”長男を嫡子”とする様に改めて、”争い”の無い様に決めた。
「一般武士」もこれに従ったが、しかし、現実には、「高位の武家」では、”「伝統」”と云う物を消してまでも、”「長男は嫡子」の制定”にはあまり護られなかった。
それは、「悠久の歴史」の持つ”「伝統」”の”「賜姓族」と云う「氏の存続」”そのものをも危うくして仕舞う恐れが高かったからである。
(江戸幕府は黙認した為に、数少ない”「武家とする氏族」”は、”「存続」”が可能と成り、少なくとも対面を維持出来る範囲で、江戸幕府末期まで「武家とする氏族」を遺し生きる事が出来た。)

しかし、この上記する「武家とする氏族」の跡目の継承の「慣習仕来り掟」は、「一般武士様」に形を簡素化して、伝承される事に成った。
それは、”「純血の血縁」”を前提とする歯止めを排除して、むしろ”「混血の血縁」”を重視する方向へと進んだ。
「純血の血縁」には、そもそも、「凡庸愚子武烈の危険性」(弊害)があり、「優劣の差」が極端に表れる。
これを取捨選択して「嫡子嗣子」を定める事でより子孫を遺せて、「悪しき癖質」の血を排除できる。
反面、「混血の血縁」には、「雑種融合の利点」の「優劣の差」が無く成る特質が生まれるが、「悪しき壁質」の混入(障害)で、「子孫」にその「壁質」を永遠に引き継いで仕舞うとする問題は排除出来ない。
前者は、戦乱期の「氏存続の危険性」の高い時代には、特段に優秀な子孫を取捨選択して、”存続の為の有利性”を求められる。平安期から室町期には求められる血縁方式であった。
一方、後者は、安定期の時代には、「氏存続の危険性」は低下するも、「優秀性」は兎も角も、平均化した子孫で、より「安定安全な子孫存続」は図れる有利性が求められる。
江戸期から明治期に求められた血縁方式であったと云える。
その意味で、両者ともに”適時適切な血縁方式”であって、何れにしても、「弊害と障害との問題」を持つが、ただ、本論の”「伝統」”とする点では、前者が、”より良く高質な伝統”を継承できるとする利点があったし、”「伝統の継承」の可能性”は高まる事も利点としてある。

これは、この「純血血縁の弊害」を排除し、「混血血縁の障害」を収得して、”「跡目」に於いて血縁を進める時代”と成り、「一般武士の時代」と成った事に所以由来する。
つまり、「子供の範囲」は排除され、「子は子、孫は孫」として定め、「本家分家の格式差」を明確にし、「養子養女」は”「子」”の範囲外として扱い、「血縁の有無]は問わずして積極的に迎えた。

この時より、”「一般武士」の家”では、僅かに伝播された慣習も含めて、上記する「慣習仕来り掟」に依る感覚は、必然的に薄れ、又は無く成った。
この結果、”「青木氏」等の世間からの「賜姓族の名跡」”の”言葉と認識”は、庶民の口から少しずつ消えて行った。

(参考 明治20年頃位を境に、「賜姓族の存在」も余り知られなくなった。
これに連れて、明治31年頃を最後に、「青木氏」としても、「同族血縁の慣習」は全く無く成った。
例えば、筆者の祖母(京都の公家の末裔の叶氏)までを最後と成る。
しかし、「賜姓族の家柄」としての「高位との付き合い」では、大正14年で終わっている。
「財産的」には、明治35年から始まり、昭和十年頃を境に極端に低下した。
「伝統の遺品」の関係では、未だ何とか保全しているが、先は短い可能性が有る。)





武家の跡目継承の良い例がある。
例えば、徳川吉宗は、地元郷士の「紀州巨勢氏」の娘の子で,「湯殿女」の身分の子供である。
「妾子」より更に、下の身分の子供で、本来は継承権は無かった。
継承に問題と成る特段の子である事から、他の嗣子からの”抹殺の憂き目の危険”もあってその命さえも危なかった。
そこで、藩主は伊勢の青木氏に養育依頼して家臣を付けて隠した。
しかし、吉宗はその素質を発揮してその頭領としての器に育てた事から、他の公家の子供らの「嗣子」を押しのけて紀州藩主になり、遂には将軍に成ったのである。
この吉宗を密かに育て、政治や経済の専門教育を施して器にしたのは、「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」と「伊勢加納氏」である。
(紀州藩下級家臣でお付き家臣 後に「二足の草鞋策」を「青木氏」から受けて「加納屋を営み経済力をつけて嗣子に対抗できる様に勢力を蓄えた。歴史的に有名な「伊勢の加納屋」である。)
何れも「二足草鞋の豪商」でした。この二つの財力で藩主ー将軍に押し上げたのです。
「伊勢青木氏」は「伊勢加納家」と共に江戸に出て、「青木氏」は幕府勘定方に、「加納氏」は将軍側用人と成って吉宗を支えた。
この様な妾子外の更に妾子の例がある様に、この「跡目の継承手段」の領域の中では、江戸期の武家には、血縁の有無如何に関わらず、拘らず、「賜姓族の決まり」とは違って、「大きな手段」として有効的に「養子,養女」は、「最大の手段」として扱われたのである。

特に、違いとしては、「賜姓族」では、「女子」の場合は、他氏に嫁いだ「実娘」の「子」 つまり「外孫」までは「子供」として扱われる事に成る。
「江戸期の上級武家」では、相当な困窮な場合を除いてはこの概念は原則無かった。
女子の外孫までを引き取り「子」として育て、後に「養子」を縁者から採って「跡目」とする概念は無かった。
この様に、”嫁ぎ先での子供”までを「跡目」とするには、「男子」だけでは、「四家方式の範囲」では、「平均寿命」と「跡目争い」などによって継承しきれない事が起こるからである。
(互いに「跡目争い」の「戦い」も起こり、命を落とす事も多発した。)
それと、次ぎの”「浄土宗の密教概念」”に従っている事に依る影響が大きい。
それは、本来、”「人]は「女性」によって引き継がれる”とする「密教概念」から来ている。

(現実に「人遺伝子」は「女性」に依って引き継がれているが、奈良期から「家」=[子孫存続の為の生理的能力」と云う範囲に於いて、この生理学的な「女性の本質能力」を見抜いての「概念の形成」であった。 この概念は「家訓」に明確に伝えられている。)

この「二つの理由」から、”本来は「娘の子」が「実子」である”とする考え方を、「意識の根底」に”「氏の概念」”として強く持っていたのである。
これが室町期から「武家社会の生存に関する闘争意識」(子孫存続)が強く成った事から、「男性化」にますます成っただけの事なのである。

(因みに余計ではあるが、筆者もこの範囲での合理的な概念としては賛成している。「青木氏の家訓」は「世の理」を得ていると信じている。「青木氏の家訓10訓」参照)

つまり、実家一門に「男子の跡目」が無く成った時、「外孫]の[孫息子」と[孫娘」までを「氏の子供」として跡目を継げる事に成る。
今で云えば、従兄弟は、「氏の子供」で「嗣子」に成り得て、「分家本家」を問わず「跡目」にする事が出来るのである。
故に、「曾孫」は、従って「対象外]で、仮に迎える場合は、仕来り上は「養女形式」を採る以外にないのである。
この場合は、”従兄弟の範囲”では、”「養女」”としての扱いでは形式上は採用しない事に成る。
これは、”「孫」”までを”「氏の子供」”としているからである。
この何とか”血筋のある者”としての”「曾孫」”の”「養女」”ですあるから、”「養子]”を他氏から迎える事に成るのが殆どで有る。
しかし、中には、上記の従兄弟までの「嗣子」に、この”「養女」”を嫁がせる事にも成る。
「他氏の血筋」を入れて、”「同族血縁の弊害」”を無くしたのである。
態々この様な事をしてでも、幼少の頃から先に積極的に家にこの「養女」を採る事をしたのである。
全く、血縁関係の無い家筋からは、一般武士と異なり、養女として採る事はまずはありません。
これは「純潔」を守る事を前提にしていて、紋が変わる事を極力避けたのです。

(特に青木氏や秀郷一門は「賜姓族」と云う立場であった事から、この立場を止める事は氏の最大の命題として出来なかった。)

「縁者・遠縁の養子」は、「三世内の濃い血縁」と成るので、出来る限りは「他氏の血」を入れる事が必要であるが、この場合は、逆に[家紋」が、「氏の系列」が変わると云う懸念を持つ事に成る。

この様に、「家保全の安全策」として、「嗣子」に幼女のころから他家から”「養女」”として、先ず入れて、後に嫁(娘)にすると云う事も盛んに行われた。
そうする事で、[家紋・系列の懸念」を何とか外そうとしたのである。

但し、この関係は、”上位の家筋からの発想”に従う事に成る。

(注釈 江戸初期からは、「一般武士の家」では、異なる「慣習仕来り掟」の「青木氏」と違う事から、「子」は「子」であり、「孫」は「孫」であり、「養子養女」は、”血縁性の無い考え方”となった。「賜姓族」としての柵が無い事から、”純血性を画する血縁”では無く、”より異なる血筋を画する血縁”とする考え方を採用したのである。)

この「仕来り」より外れた場合は、”「曾孫」”からは、”「子供の定義」の「仕来り」”を外れるので、男女に関係なく”「養子・養女」としての扱いに成ります。
特に、女子の「養女」とする場合は、取り分け、”直系から外れた支流族や縁者族や遠縁族からの迎え入れ”には、明らかに「子供の定義」から外れる事に成るので、”「養女」”と成る。
この「養女方法」が青木氏では積極的に行われたのである。
この場合、”迎え入れた「養女」”の「嫁」は、[嫁」としてでは無く、「実娘」に相当する「娘」として組み入れられる。

この”「養女」の「嫁」”は、元は「養女」で迎え入れての事なので、上記した「慣習仕来り掟」から、長い間には両者ともに心情的にも繋がり、”「実子の子供」の扱い”に成る。
そこで、この”「娘の定義」”から考えて、上記の「青木氏の子供定義」が成り立つのである。


つまり、この「仕来り」より外れた場合は、”「曾孫」”からは、”「子供の定義」の「仕来り」”を外れるので、男女に関係なく”「養子・養女」としての扱いに成る。
特に、女子の「養女」とする場合は、取り分け、”直系から外れた支流族や縁者族や遠縁族からの迎え入れ”には、明らかに「子供の定義」から外れる事に成るので、”「養女」”と成る。
この「養女方法」が青木氏では積極的に行われたのである。
この場合、”迎え入れた「養女」”から成った「嫁」は、”[嫁」”としてでは無く、「実娘」に相当する「娘」として組み入れられる。

この”「養女」の「嫁」”は、元は「養女」で迎え入れての事なので、上記した「慣習仕来り掟」から、長い間には、「養親と養女」の両者共には、心情的にも繋がり、”「実子の子供」の扱い”に成る。
そこで、この”「娘の定義」”から考えて、上記の「青木氏の子供定義」が成り立つのである。

しかし、「養子」に付いては、積極的では無かった様で、これにはある「青木氏としての特別な事情」があった。
それは、「青木氏」には、「悠久の歴史」を持つ、(ア)「賜姓族の権威」と、(イ)「二足の草鞋策」としての「商い」の「経済的な魅力」とが在った。


>
>
>
「伝統 14」に続く。

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