青木[アオキ] 名字 苗字 家系 家紋 ルーツ 由来

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:青木氏の分布と子孫力-9


[No.313] Re:青木氏の分布と子孫力-9
投稿者:福管理人 投稿日:2014/05/24(Sat) 07:43:10


> 青木氏の分布と子孫力-8の末尾

> 事ほど左様に、大阪に集まる「青木氏」は次ぎの様に成る。
>
> 「伊勢青木氏」と「伊勢秀郷流青木氏」を始めとして、
> 「香川青木氏」、「高知青木氏」、「徳島青木氏」、
> 「福井青木氏」、「長野青木氏」、
> 「愛知青木氏」、「岐阜青木氏」、
> 「近江青木氏」、「兵庫青木氏」、「滋賀青木氏」、「鳥取青木氏」、
> その他地域の青木氏
>
> 以上の地域に、「大阪の14」が分散して「子孫力」として各地域に加算される。
> 全体の20%程度が大阪に集まっているのだが、上記の14地域から、1地域に「パラメータは1」を配分できる。
>
> 比較対象として、「都会」の「東京18」は「武蔵国」で「秀郷一門の定住地」であるので、「パラメータ」の持つ意味は若干異なる。
> 「大阪の14」は、その意味で、「伝統の継承」は、「東京の18」に比べて、関西域は、これからは低く成る事を物語る。
>
> その事から、「伊勢青木氏」の「遺された伝統」の意味は実に大きい。
>
>
> そもそも、「伝統」とは、その「伝統」を維持している「氏の思考の基準」となるものである。
> 「氏の思考基準から外れた考え方」はその氏は排除する。
> 要するに、「伝統」=「思考基準」(行動規範)である。
> 況して、「氏の独善の宗教」=「密教」であるとすれば、「宗教的な作法」の「伝統」は”自らの氏が決めた作法”である。
> 「氏の思考基準」である。
> 次ぎの”「青木氏だけの伝統」”は、”「青木氏の思考基準」”となる。
> 「青木氏」は、”この様なものの考え方をしていた”と云う事で理解するべきである。




青木氏の分布と子孫力-9


・「東京の18の内訳」
「東京の18」には「江戸時代の六左兵衛門ルーツ」(吉宗に同行 享保改革)として1が見込まれるので、伊勢のパラメータは総合12と成る。
筆者の縁者が東京に「昭和の移動」として既に4家族移動しているので、更に、その子孫力は12以上に伸びると考えられる。
東京は関東域と北陸東北域と中部域からの移動として算出する。
東京は大阪に比べて「ルーツ情報」は無くなっている可能性が高く、在ったとしても、且つ、政治の場であった事から、一層、情報は錯綜し搾取偏纂され矛盾に満ちた情報と成っている。
家紋分析などいろいろ駆使したがまとめられなかった。
「浄土宗」なのに「日蓮宗」、「菩提寺」が何処かにある筈なのに「檀家寺」、「氏」であるべきなのに姓名等の矛盾が多すぎる。
「東京」に定住移動し易い地域となれば次の通り、関東域を中心として定住移動すると見込まれる。
青木氏の定住している地域を区切るとした場合、次の様な地域から移動が起こる。

「埼玉、千葉」、「栃木、群馬、山梨」、
「新潟、秋田、青森」、「岩手、福島、宮城」、
「山形、群馬、茨木」、「神奈川、静岡」、
「信濃、富山、石川」、その他

「大阪」の「都会移動」の出来得る「6定住地域」:

「高知香川徳島」 「和歌山三重愛知」
「兵庫岡山広島」 「福井長野岐阜」
「滋賀鳥取島根」「その他」

・「滋賀」
この「滋賀」であるが、一見して「近江青木氏」と考えがちであるが、実は違うのである。
「滋賀」に付いて、ここには少し歴史的に違った経緯を持っている。
ここには確かに、「青木氏」は平安期から存在する。
ところが、ここで思いもよらない事件が起こった。
「嵯峨期の詔勅」の禁令を破ったのである。

先ず、「近江青木氏」は、そもそも「5家5流の皇族賜姓族」の一つである。
ところが、この「近江」には、「天智天皇」の「第7位皇子」の「川島皇子」の定住地でもあった。
この「川島皇子」は、「第4世族」であったが、賜姓を受けられる「第6位皇子」では無かった。
そこで、”その勲功が高い”として、特別に「近江佐々木」の地名を採って「近江佐々木氏」を賜姓した。
この「近江佐々木」は「第6位皇子の施基皇子」(伊勢の青木氏の賜姓を受ける)の弟ではあって、近江一帯の守護に任じられた。
(日本書紀にもよく出て来る人物である)
ところが、その後、「文武天皇期」に「第4世族の皇子」に対して「近江青木氏」を賜姓した。
この「近江」には「賜姓族」が2氏発祥した。
ところが、この2氏が「慣習掟」を破って平安期初期に勢力争いをした。
そこで、「近江青木氏」は争いを避ける為に、滋賀地域に一族一門が揃って移動して引き下がった。
「全青木氏」は、族毎に棲み分けを基本としていた。
ところが、この「近江」には同族血縁による仕来りから、「賜姓族佐々木氏」と血縁した「近江青木氏」との「佐々木氏系青木氏」が発祥していた。
(始祖川島皇子の佐々木氏の方が永代で二段上位)
結局、「佐々木氏系青木氏」はこの「近江」に残ったが、「近江青木氏」は、「滋賀」で平安末期頃まで定住していた。
しかし、「滋賀」での政治的な混乱を避ける為に、再び、元の「近江」に戻った。
この時、この「滋賀」に家を断絶してしまった「娘一人の家」と成った支流家がただ一つ残った。
(青木氏側の記録では娘も無くなったとされてい「完全断絶」と成っている。)
そこに、伊勢北部上田郷から農兵として出て来ていた者が、「滋賀」で力を着けて山賊の様な形で周囲を圧迫していた。
ところが、この者がこの「支流の娘」を取り込み強引に「近江青木氏」を名乗った。
ところが、この者は能力に優れ多くの配下(山賊・軍事力)を従える事と成った。
この「青木の娘」を前面に押し出して「正規の賜姓族青木氏」として朝廷に入り込み、その結果、11の守護代に10の役職を務めて信頼を勝ち得た。
ところが、逆にこの「近江青木氏」の方は役職から遠のくように成ってしまった。
そこで、この「近江青木氏」は「賜姓族の禁令」を破って、この「近江青木氏」を実質上乗っ取った「上田氏」と戦ったが敗退した。
この勝利した上田氏は「滋賀青木氏」として拡大し続け、その後、「滋賀」で「氏族」として完全定住し子孫を大きく拡大させた。
その後、鎌倉期には、この「末裔子孫」の内の一族が失職して、静岡ー千葉と流れて行き、遂に、下総にまで移動して落ち着いた。
下総には、平安中期から「秀郷流青木氏の定住地」でもあった。
この「下総青木氏」と千葉に辿り着いた「上田氏の嗣子」の「滋賀青木氏」を名乗るこの一族との間に血縁族が生まれた。
遂には、上田氏の搾取の「滋賀青木氏」が信頼されて「下総青木氏」と同化してしまった。
挙句は徳川氏の家臣とも成ってしまった。(「家興要領」)
一方で、戦いに敗れて一門が失墜してしまった事で、「近江」には居られなくなり、結局は、「兵庫」にこの正当な「近江青木氏」は一族全ては移動した。
そして、ここに定住していた「清和源氏の宗家」の「頼光系の源氏」に助けられた。
再び、新たに「兵庫の青木氏」としてある程度の勢力を持ち得た。
「伊勢ー信濃ー甲斐の青木氏」が行う「古代和紙の殖産と販売」の「二足の草鞋策」の指導の支援を受けた。
その内、財力を高めて「衰退していた近江青木氏」を遂には「兵庫摂津」で元の勢力に戻した。
ところが、ここで「源平の戦い」が始まり、世話を受けた「清和源氏」に対して恩義を果たすために「嵯峨期の禁令」を破って合力した。
そして、「近江佐々木氏」と「佐々木氏系青木氏」ら共に、「源氏」に合力して共に敗退して、再び、「美濃青木氏」を頼って移動した。
この「美濃」も「古代和紙」での財力を背景に「源氏」に味方して、「近江青木氏」と「美濃青木氏」は一族一門末裔に至るまで厳しい平家の掃討作戦で完全に滅亡した。
この時、近江源氏」、「美濃源氏」、「駿河源氏」、「木曽源氏」等の周囲の「源氏一統」は完全に絶えた。
ただ、この中の「近江青木氏」の「末端末裔」が、何とか「越前福井の逃避地」に逃げ込んで保護を受けて生き残った。
この「支流末裔の者」が、越前福井で「伊勢青木氏と信濃青木氏」らの「影の支援(和紙の生産)」の下に「近江青木氏」を兵庫で遺した。

従って、この「兵庫の3」は、「皇族賜姓族の5家5流」の一つであるにも関わらず、「近江青木氏」である。
そして、この「越前福井の末裔」である。
この為に「伊勢青木氏 12」や、「信濃青木氏 9」の様に、「全国平均4のパラメータ」を得ていないのである。

従って、この「滋賀の1」は上記した様に、「皇族賜姓族」ではない「第三の青木氏」の上田氏の「滋賀青木氏」である。
その「第三の青木氏」のパラメータに出た「唯一の青木氏」である。
上記した様に、この「滋賀青木氏」は、平安期では勢力を持ったが、鎌倉期に成って失職し土地を奪われ、完全に衰退した。
千葉下総の「滋賀青木氏」が「千葉青木氏の融合族」と成って生き残っている。
この千葉下総の「滋賀青木氏」は「宗派と家紋で判別」できる。
「千葉の11」の1程度であろうから、合わせて「滋賀青木氏」の「第三の青木氏」は結局は2と成る。

結局は、「滋賀青木氏」のパラメータは「2」と成る。

(そもそも、「第三の青木氏」は、元よりその「ルーツの系統性の概念」が元より無かった事から、「青木氏」としてのデータが採り難いのである。
この「滋賀青木氏」にしても、青木氏とは成ったとが、滋賀のみの系統性しか確認できず、その後の確実なデータは、流れとしては確認できるが、確定できない。)


・「第三の青木氏」
そこで、この「「第三の青木氏」に付いて追記して置く。
そもそも、この「寛政の史書」にも記載されている様に、確かに「第三の青木氏」は4期に発生している。

その4期とは次の通りである。
平安末期  上田氏の「滋賀の青木氏」で「近江青木氏の末裔」を名乗った。
室町末期  下剋上で「主家の青木氏」を名乗った。主に「美濃青木氏」、「甲斐青木氏」を名乗った。
江戸初期  立身出世には家柄身分を必要として社会と成った。「郷氏や郷士の名義札」の売買が行われ、合法的に青木氏をなのった。「女系の青木氏」を名乗る事も起こった。
明治初期  苗字令に基づき「全国24地域の藤原秀郷流青木氏」と、「伊勢青木氏」、「信濃青木氏」、「甲斐青木氏」、「近江青木氏」を名乗った。

「嵯峨期詔勅」に基づく禁令であった為に、「明治初期」を除き、「平安末期」と「室町末期」と「江戸期」は、それなりに「理由づけした青木氏」である。
「流れ」としての内容は把握できる。
しかし、「明治初期の第三の青木氏」は、先祖の「過去帳」を持たない事と、「年期」が無い事の為に、パラメータに出て来ない。
「家紋分析」などでも「家紋の系統性と正統性」が無い為に、明治期前の「ルーツの内容」が残念ながら捉えられないのである。
恐らくは、これからも、よほどの事が無い限りは、その宗派の作法からも、「姓としての系統性」が依然として無い為に難しいと観られる。
明治期以降の「自己の家の管理」にしか方法はない。
その意味で、「過去帳」と「年期」の「二つの条件」を持った平安期の「上田氏の滋賀青木氏」のみがパラメータを持った事に成った。
従って、この鎌倉期ー室町期中期頃までの資料は遺されている。

「室町末期の甲斐青木氏」(武田氏系青木氏:皇族青木氏)の中に、この血縁性の無い「第三の青木氏」が発祥した。
「賜姓族」ではない「皇族青木氏」は、「清和源氏の傍系支流」である事を前面に押し出して名乗り、それを理由に「青木氏」を名乗った。
(「嵯峨期の詔勅」に「第4世族の皇族出出自者」は、下族する際に「青木氏」を名乗れる。)

ところが、この「甲斐の皇族青木氏」には、「一族争い」が起こり、この時、この「分家側」が、”跡目が得られない”として初期より家臣からの「貰子」を「養子」にし、「分家の跡目」を継がした。
しかし、その後に「妾子」の子供ができ、その子供が「分家の跡目」を継いで、「2つの青木氏」が出来て仕舞ってた。
親子の「主家の争い」を起こして「同族争い」が起こった。
ところが、この親が「貰子ー養子」を「分家の跡目」として頑固に立てた。
妾子の「3人の子供」らは、怒って反旗を親に対して翻した。
遂には、その「親の行動」は、本家に対して無断で「宗派変え」の異常行動にでた。
貰子ー養子」の立場が、「曹洞宗」であった事から、本家の”本筋を通す様に”の圧力に反発したのである。
結局、本家筋は、この「貰子-養子」を「安岐の武田氏」に移動させた。
ところが、この「貰子-養子」は力を発揮して、安岐で財力を蓄えて、甲斐に戻って来た。
この「本家-分家争い」から共に衰退し、一族の自らの菩提寺も衰退させてしまって放置の状態と成っていた。
そこに、この貰子-養子」の青木氏は、その財力を使ってこの「青木氏の立て直し」を図った。
結局は、「妾子の青木氏」は、武田氏から排斥されて、甲斐の山奥山間部の巨摩郡に追いやられ、その日暮らしの生活を送っていた。
結局は、この争いは「4派」に分かれて、この様に、同族の「跡目騒動」の争いが続いた。
ところが、経済的に優れて、且つ、武力等の面で優れていた「貰子」の「養子の青木氏」が、各地に転戦して勢力を付けて「子孫拡大」をさせたのである。
最終は、この血縁の無い「養子の青木氏」が、本家の衰退していた「菩提寺の常光寺」を復興させたのである。
そして、その後にこの同族4氏が話し合ったが、話は就かなかった。
(甲斐には奈良期より「甲斐賜姓族青木氏」が別に存在して居た。)

しかし、この「貰子ー養子」のこのルーツの「過去帳」が、「曹洞宗」であったので、寺では「人別帳」である事から、「年期」があってもパラメータが採れないのである。
ところが、結局は、”復興した常光寺”も「曹洞宗」に改宗してしまった為に、ある室町期の中期の時期までのルーツは確認できるが、それ以後は判らない。
「明治期の苗字令」で「青木氏」から、「表記変更」か「家紋掟」に依って元の「別姓」に変更した可能性の証拠が観られる。

「秀郷流一門の24地域」や「近江と兵庫と甲斐」等には色々な「青樹氏、葵木氏、蒼樹氏、仰木氏、青城氏」があるのはこの事による。
中には「ウォーキ」と呼称するものもある。
「藤原利仁流の青樹氏」のみならず、一夫多妻から妾子には、「甲斐の皇族青木氏」の様に、「青木氏の呼称」の跡目は取らさずにこの呼称を用いたのも原因の一つである。
明治期の呼称では、遠慮なく「青木氏」を名乗る者もあり、憚って、上記の「青木氏」を名乗った者もあった。
これはその「地元の青木氏」との「関わり具合」や「地元の青木氏」の「考え方」にも左右された。
ただ、「伊勢青木氏」や「信濃青木氏」の様な場合は、一族の血縁制度(「養子縁組の絆制度」)により、その絆の関係の「長」には、女系での「青木氏」を当初から制度として用いてた。
この為に、この「あおき」の各種の呼称の「姓名」は生まれなかった。

(この「絆青木氏」の「長」から更にはその配下へと養子や女系などで血縁を進めて「青木氏」を護っていた。
明治期にはそれでも、紀州では、無縁ではないが、「第三の青木氏」が生まれた。)

因みに、実は、強ち、「ウォーキ」の呼称の仕方は間違いではないのだ。
「守護神の神明社」では「青木氏」を「ウォーキ」と古来から呼称する慣習があった。
恐らくは、上記の様な状況に陥っていた「養子の青木氏族」の多くは、この「ウォーキ・あおき」の呼称を室町期か明治期に憚って使った呼称の一つである。
(江戸初期にもこれらの「ウォーキ・あおき」は、「青木氏の権威性」を社会に誇張する為に、恣意的に「幕府」によって「青木氏」に変更する様に命じられた経緯がある。)

この事と、「家紋」と「宗派」と「守護神」が相当しない為にパラメータに成る為の数値が低くなる事が原因である。上記した90~150年が限界点であるので、各地でそろそろパラメータが採れる時期に来ている。


・「京都」
「京都の5」は3流の「近江の青木氏」の総合である。
この3流の「近江青木氏」は、鎌倉幕府の「2度の本領安堵策」で近江に戻った。
頼朝はこれらの同族と賜姓族の「本領安堵策」を優先した。
しかし、この事に依って頼朝は、北条氏に身の危険が迫るほどに反対反発された。
しかし、これを押し切って2度も土地以外にも色々な安堵策を実行した。
この為に頼朝は”トリカブトで毒殺”される始末と成った。

この兵庫の「近江青木氏」の一部(1)と、近江の「佐々木氏系青木氏」(2)と「佐々木氏」が、源平合戦後に逃げ延びた。
この為に、「日向青木氏」の様に、逃亡の為に「佐々木氏」から「青木氏」に名乗り替えした「青木氏」(3)である。

この「3流の青木氏」は、その後、平家の追手を逃れる為に、越前福井から「神明社の神職」として「伊勢青木氏と信濃青木氏の支援」で各地に「神職」として配置移動した。

(「佐々木氏」も同じ神職として以北の「神明社の神職」と成っていて、各地、取り分け、東北地方に「佐々木氏の神職」が多いのはこの事に依る。)

「佐々木氏系青木氏」は、隣の越前福井に逃げ込んだ末裔が、「伊勢青木氏や信濃青木氏の支援」(古代和紙の殖産)を受けて、再び「青木氏」を盛り返し、平家滅亡で鎌倉幕府から「本領安堵策」で何れも元の近江に戻った「近江佐々木氏系青木氏」である。
そして、「嵯峨期の詔勅」を利用して「青木氏の不入不倫の権」で名乗り替えした。
「神明社の神職」はこの意味で保護された。
「越前福井の逃避地」とは別に、「神明社の神職」に成る事は同じ「皇族賜姓族の慣習」として周囲から認められていた。

「越前福井」
この様に、「青木氏の逃避地の越前福井」は「青木氏存続」に大きく貢献していた事が良く判る。
そこで、この「越前福井」の逃避地の「子孫力」が果たしてどの程度であったのかを論じてみる。
当然に、「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」が主導して、それが原因しているのであるが、その効果の基に成っていたのは「二足の草鞋策」である。
「保護」や「情報の収集」や「生活の糧の準備の手伝い」をするのが「伊勢と信濃のシンジケート」で、それを匿うのは「神明社」であった。
上記の様に、「近江青木氏」等が絶滅に瀕している時に、情報を集めて救いだし保護して越前に運び、そこで「近江青木氏」等の世話する事は相当の力を必要とする。
平家などは掃討作戦を厳しく実施した事は有名で、それを救い出す事は並大抵の事ではない。
幾ら、「不入不倫の権」で保護されているとしても、それを護るかどうかは相手次第である。
公然と出来る事では決してない。少なくとも、”文句のつけようのないある範囲”までは持ち込む必要がある。
”それ以上に攻撃すると「朝敵」となる”までは、”隠密裏に救出を進める事”が肝心だ。
その”安全な領域に持ち込む限界点”は、まさに”神明社”にあったと考えられる。

「安全の限界点=神明社」

以上の数式が最低に成り立っていたのである。

其の上で、次ぎの数式が成り立っていた。

「神明社」=「青木氏」=「皇族賜姓族」 

以上の「2つの数式」が世の中の人々に「仕来り」として成りたっていたのである。

この「守護神の神明社」は、古来3世紀より「自然神ー皇祖神ー祖先神」の流れの中にあった。
「不入不倫の権」で護られた”「青木氏」を犯す事”の前に、この”「神明社」を犯す事”が何人も出来なかった事に成る。
要するに、「神明社の神通力」であった。
その社会の認識の構図は次ぎの様であった。

「神通力」=「2つの数式」

以上として認識されていたのであって、それが”「御師様、氏上様」”と呼ばれていた所以であった。

ところが、この「神明社の神通力」に頼る事は無かった。
のみならず、「軍事戦略的」として「神明社」をある戦略的な領域に配置して「テリトリー」を作った。
その「テリトリー」の中に入れば、「神明社の力」で排除できる様に成って居た。
要するに、”袋のねずみ”に成る様にもしていた事が「神明社の分布」でも判る。
では、「神明社」に”「軍事的な構え」を備えていたのか”を調べたが違った。
「シンジケート」が敵を”袋の中の鼠”にして、これを殲滅できる様にしていたのである。
「伊勢ー信濃シンジケート」と他のシンジケートとの「経済力」を使った連携であった。
更には、「神明社」の信心する周囲の民の”「氏子衆」”もがこれを補完的に護ったのである。

要するに、不用意に入り込めば、どこから攻めて来るのか、誰が敵なのかは分らない「見えない敵」との「ゲリラ戦」と成る。
つまり、ここに入れば”袋の中の鼠”に成るよと云う認識が「青木氏の抑止力」と成って、殺傷力を使わずして入り口で留めるものであった。
これは、上記の数式の認識が、「悠久の歴史」の中で培われていたのであって、それが社会全体にも浸透していたのである。
その代名詞が、”御師様”であって、”氏上様”の呼称で呼ばれていたのである。
全国に、”500社にも及ぶ神明社”の「青木氏の神職」は、”御師様”と呼ばれていて、室町期の資料からも読み取れる事として次ぎの様な役目を持っていた。
それは、次ぎの事柄が書かれている。

1 「情報能力」     政治、経済、軍事の領域までもの「情報収集」の内容であった。
2 「医術能力」     当時の医術の「漢方医の知識」を持ち合わせていた。
3 「薬師」        当然に、2に付随して「漢方薬」の「薬師の役」も担っていた。
4 「歴史学」      1の事から氏の菩提寺とも伴って情報がまとめられて過去の「歴史収集源」であった。 

全国の主要地に存在する「神明社の情報連絡網」が相互間に出来上がっていて、氏子などの活躍もあって、相当な情報収集能力を持っていた事が伺える。
更には、これには、3の事が大きく働いていて、全国に氏子と共に、「薬草の捜索や収集」で全国を探索した事が書かれている。
この時に、得られた情報を「神明社」に集めていたと観られる。
その「御師の副業」として、「薬師」として「薬」を手広く販売していた事も書かれている。
この「薬師の役割」は、その1の「情報収集力」も含めて、「青木氏の二足の草鞋策」の「商い」に大きく貢献していたのである。
当時、未だ医療組織が出来ていない社会の中では、「薬師の役目」は「薬」のみならず、当時の「医術の担い手」でもあったのである。
当然に、これらを4つを一つにまとめ上げて整理すれば、「歴史学」は生まれる。
江戸時代は識字率は低かったが、江戸の寺子屋と同じく、室町期から寺と共に社殿を使っての氏子等の教育にも関わっていたのである。
一種のコミニュケイションの場の役目も果たしていたのである。
中でも「薬師の役目」は、1、2、4と共に大きかった事が多くの資料に観られる。
即ち、「御師」は「薬師」とも云える活躍であったのであろう。
これは「青木氏の神職」より多くの医師が生まれた所以でもある。

筆者は、次の様に考えている。
社会組織が未だ未完成な古代の時代には、誰がこの役目を担っていたのであろうか。
間違いなく「伊勢神宮」から発祥した「御師」にあって、その「呼称の根源」はここにあったと考えている。
故に、「御」であって、「師」であったのではないかと観ている。
そもそも、「伊勢青木氏」の「御師頭」から観ても、「伊勢神宮」の「自然神」から来る「鬼道」-「神道」は、そもそも「神の職」のみならず、この「4つの役目」も担っていたと観ている。
「巫女の占い」を始めとして「五穀豊穣」と、「命を有り様」(家内安全)を占いと祈願する行為は、2と3に関わる事でもある。
それらを維持する「情報と識力」(1と4)を高めてこそ、2と3は生きて来る。
元よりこの「4つの役目」を当初からその呼称の根源は来ていて、その「4つの役目」を担っていたと考えている。
故に、それを「伊勢神宮」の「皇祖神」の役目のみならず、”「子神」”の「祖先神=神明社」にもその役目を担わしたのであろう。
恣意的に「神明社」が、この「4つの役目」を突然に持ったと云う事より、元より、「神明社の主務」であったのである。
「神明社」が、1、2、3、4の力を持てば、上記した数式論は、自然発生的に起こるは常道である。
民衆から、「青木氏」を「御師様」や「氏上様」と呼称され、崇め慕われる立場にあったのは、この事に依る。
「祖先神」+「神明社」=「4つの役目」
依って以上の数式は充分には頷ける。

「皇族賜姓族」で「3つの発祥源」の氏が、公然と武力を使う事は出来ない。
その事からすると、1から4の役目を担う事で、「神明社」のみならず周囲からの防御が働き自然的に「抑止力」は働く。
よくも考えたものだと思われる。故に、「神明社」は氏の守護神」であり「匿う場所」のみならず「安全の限界点」であった。
この様に「神明社」は、”神を祭祀する形式的な場所”のなみならず、”実質的な護りの場所”であったのである。

従って、故意的に「越前福井」に「守護神の神明社」を多く集めたのである。
その相互間で連携をすることが必要であった。
「越前福井」に限らず、「隣国2国」と、この前提にある全国の500社ある「神明社の緊密な連携」と成ろう。

その最も分布させている地域が、「富山ー石川ー福井」の日本海の沿岸上にあった事に成る。

当然に、この”「3つの地域の子孫力」がどの様であったのか”が問題になる。
ここには世話をする「神明社の神職」(青木氏)や、逃避地した一族の統一した「菩提寺の住職」(青木氏)もあったので、「商いなどの指導をする者」も必ず定住していた事に成る。
それを実行する「子孫力」は少なくとも「パラメータの1」は必要であろう。
それが「富山1」「石川2」「福井1」と成っている。
この「3つの地域」には、平均的な全く妥当な「パラメータ 4」が得られている。
この「越前福井」に逃避した「青木氏」は、全て「商い」をしていた事が判っている。
「賜姓族の武家」ではなく「商人」を選んでいた。「子孫力」と云うよりは「生きる為」であった。
ここには意味があった。
「伊勢ー信濃の古代和紙の殖産と販売」(末期には総合産業)が背景にあった。
従って、「子孫力」を高めて「子孫拡大」に至るまでの勢いは無かった筈で目的でも無かった。
この事から、パラーメータは「平均の4」を決して超えるものでは無かった事に成る。
故に、「富山1ー石川2ー福井1」と成り得ているのである。
上記の「1、2、3、4の神明社の護り」が在ったからこそ「バラメータ 4」で済んだのである。
それだけに、ここ「越前福井」では、「三つの条件」や「時代性」の影響を受けずに、「自然な子孫力」を保った事が判る。
それの割には「家紋分析論」や「守護神論」から観て、「伝統」の「家紋」と云う点では、「虚偽家紋」などはここには少ない。

これには、「二つの条件」があった。
他の賜姓族の「厳しい戒律や伝統」に縛られた「賜姓族の子孫力」では無かったのである。

「石川の2」は、福井の北域の越前よりに拠点があった事から、その後の分布は石川よりに成った。
後の「加賀」と「越前」と「美濃」と「飛騨」の「四国の国境」に分布していた。

「富山の1」は、「岐阜と富山と信濃と新潟」の「3つの国境」の三角体は「足利氏系青木氏の定住地」であった。
その定住地の岐阜の国境沿いに分布していた。要するに、越中ー飛騨の国境である。

「福井の1」は、越前と美濃の国境の美濃側に国境沿いがへこんだ地帯に沿って分布していた。
要するに、この「3つの定住地」は”「北陸道」の国境沿いに繋がって一線条”にあった。

以上3国は、極めて「機動的な位置」を確保していた事に成る。

上記の「匿う場所」を補完する”うーん”と唸る程の「理想的な分布域」と成っていた。

この地域の「青木氏」の「子孫拡大」は、兎も角としても「子孫力」を現在まで維持し続けられた事は、この「地形の好条件」から「商い」をベースとしている限り頷ける。
又、”「商い」でなくてはならなかったのではないか”と考えられる。
それは、「賜姓族」として集中していれば、また”政治的に利用される危険性”があった。
下手をすれば滅亡と成り得た筈である。現実に、豊臣秀吉に利用された史実がある。
従って、「商い」を中心に据える限りは声高に子孫拡大の策は採り得ない。
それは、「個人」ではなく一つの「集団」としての「掟」であった。
それを「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」が、「商い」と「神明社」を通じて統制していた事に成る。
依って、”「子孫拡大」”と云うよりは、”維持した”と考えられ、「パラメータ4」を超さない範囲で維持していた事に成る。
「伊勢青木氏」や「信濃青木氏」等が、持っていた「慣習仕来り掟」と云う戒律は、適用しなかったと考えられる。
その最たるものとしての「血縁」は、”本家筋を除いて適用せずに「青木氏」外に子孫を横に広げて ”「拡大」ではなく「維持」としたのである。
これは「商人」と云う事であったからこそ出来得た事である。
元来、「青木氏」では「家紋」とするものは「象徴紋」としての考え方であった。
この「3つの地域」の「青木氏」には、「笹竜胆紋」以外の青木氏は極めて少ないのはこの事から来ている。

恐らくは、継承する家紋があったとすると、それは「商標」として扱われていたことが判る。
この地域では、恣意的に「笹竜胆紋」は表には出ずに「総紋」としての扱いであった事が伺える。
秀吉の家臣と成って家康に除封された青木伊豆守と青木伊賀守の福井での青木氏末裔は、現在も「笹竜胆紋」を継承しているが、「本家の総紋」としている事でも判る。


・> 青木氏の分布と子孫力
>
> [地域別分布力]
> 「地域別」では「青木氏」は次の様な「分布力」になっている。
> 全国平均(全国単位 % 表ー1)
> 地域      異変の県        分布力
> 九州地方   長崎、大分       5%
> 四国地方   高知           2.5% 
> 中国地方   山口、岡山       2.5%
> 関西地方   三重(筆者ルーツ)  14%
> 東北地方   秋田           7%
> 中部地方                 15%
> 関東地方                 45%
> 北海道・沖縄               6%
> その他                   3%
>
> 地域平均(地域単位 /県 パラメータ 表ー2)
> 九州地方  1.3
> 四国地方  1.3
> 中国地方  1.3
> 関西地方  4.7
> 中部地方  4.3
> 関東地方  11.3
> 東北地方  2.0
> その他   11.0

> 「青木氏」は現在も以上の様に分布している。
>
> 修正地域(表ー3)
> 長崎 4 宮崎 6 岡山 4 香川 8 徳島 1-7 三重 12 福井 4 愛知 13-7
> 秋田 1
>
> 「青木氏の分布力図と伝統力図」(表ー4)
> 九州地方(5%) 中国地方(2.5%)四国地方(2.5%)関西地方(14%)中部地方(15%)
> 福岡  2      山口  0   愛媛  3     兵庫   3    三重  1
> 長崎  0      島根  2   香川  1     大阪  14    石川  2
> 佐賀  1     広島  3   高知  0     京都   5    福井  1
> 大分  0     岡山  0   徳島  1     奈良   1    岐阜  3
> 熊本  4                        和歌山 4     愛知  13   
> 宮崎  2                        滋賀   1    長野  9
> 鹿児島 1                                   山梨  1

> 域平均 1.25  平均 1.25  平均 1.25    平均 4.7     平均  4.3        

> 関東地方(45%) 東北北陸地方(7%) 沖縄、北海道地方(17.5%)
> 静岡   5   青森  1      沖縄   1
> 神奈川 21   山形  2      北海道 11
> 東京  18    岩手  1
> 埼玉  17    新潟  4
> 群馬   6   秋田  0
> 千葉  11   福島  4
> 茨木   4   宮城  2
> 栃木   8                                     

> 域平均 11.3   平均  2.0      平均  11.0  

>  青木氏の分布と子孫力-10に続く。



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