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青木氏の分布と子孫力-2
> 「青木氏の分布と伝統力」-2
・「長崎の考察」
この「長崎」の「青木氏」は、ここは「太宰大監」として自治を認められた地域であって、元々「大蔵氏族の居住地」で直接に勢力範囲の届く地域であって、藤原氏が大きく入り込む余地はなかった。
(この時は平家の影で藤原氏は衰退していた)
従って、鎌倉末期後の「元寇の役」の「鎌倉期ー室町期」の赴任による定住地である。
そこで「青木村」を形成している事から「平安末期の子孫」とも考えられるが、上記する様に本来の形の定住地でなかった事から、恐らくは、この時の「青木村」は、後からの秀郷宗家一族の赴任に依って、それに護衛団として同行した「秀郷流青木氏」が、その時に「青木村」を形成して定住したと観られる。
「青木村」を形成する以上はそれなりの期間を必要とする。赴任だけでは成し得ない事に成る。
では、形成できた時期となると、「元寇の役」の時の「進藤氏の仲介」で「大蔵氏と青木氏の血縁関係」がなされた時期と成る。
恐らくは、この時の子孫がこの「青木村」を形成したが、「青木氏の氏環境」からこの「青木村」を留守居か、放棄して武蔵入間に一族全員が引き揚げた事に成る。
そこに、再び、鎌倉期に秀郷宗家が赴任して、この時に護衛同行した「青木氏」が、この「青木村」に再び住み着き、その後に「護衛役」を入れ替わった別の家紋の異なる「青木氏」がこの「青木村」の近隣に住んだと観られる。
その証拠に青木村外の近隣に住んでいた家紋の異なる「青木氏」もいた事が史実の記録から読み取れる。そして、ここに「赴任先」とされた事もあり、この地域の事が差配出来る「縁故の理由」として、この「青木村の存在」が左右した事が考えられる。
しかし、記録的には確実に定住移動しているのにパラメータでは0と成っている。
(ルーツ掲示板では長崎からの投稿が多い)
数字的に観ても、「赴任定住の青木村」がある事から、この「長崎」は全国平均の4のパラメータはにあり得る。
(「日向青木氏」から観れば、「青木村」を形成している事から観れば、6までのパラメータは実質得られる。)
「ルーツ掲示板」(1000件)から観て、「長崎」に定住か先祖が「長崎の青木氏」からの関係するお便りは全体の凡そ2割に成る。
「青木氏族外」からのお便りもある事からこれらを差し引きするとパラメータとして直せば、5ー6と成る。
「家紋分析」から観ても、パラメータとして直すことは難しいが、116氏の家紋中に占める「長崎」の青木村付近の家紋群数の%は4.6%であった。これから観ると、子孫は大きく拡大していない事と成る。
「家紋掟」により家紋が増える事は「跡目養子」が多かった事が云え、「子孫拡大」が増えている事にも成るが、「藤原氏秀郷一門の361氏」から観ると、「子孫拡大」は低い方にある。
これは周辺に大豪族が分布していて伸びるチャンスも難しかった事が考えられるが、多くは「神職系」と「大蔵氏系」と云う事に制約されて、「関東の青木氏」として入り込むことは難しかったのではと考えられる。
赴任である以上、戦いに依って周囲の土豪を切従えて土地を獲得する事は出来なかったし、治安を維持する事を任務としている以上は江戸期末期まで出来なかった事に成る。
仮に「子孫拡大」とすると成れば、「赴任地の経済力」だけでは無理であり、「入間宗家の経済的支援」に頼る以外に無かった筈である。これは無理な事で、”それならば帰って来い”と成る。
それは「過去からの伝統」として、”武蔵に帰る”と云う風評が左右したと観られるし、「長谷川氏」や「永嶋氏」の様に、大蔵氏系の中に組み込まれてしまう事も「青木氏の戒律」から避けたのではないかと考えられる。
つまり、「血縁の利点」が青木氏側に九州では無かった事を意味する。
依って、「パラメータは4」であろう。これを超える力は先ずないだろう。
従って、「長崎」の「子孫拡大」は0と観るよりは6以下と観た方が適切である。
九州の地域平均の1.3%と全国平均の5%から観て、関西以北を原則定住地としている中で、殆ど「青木氏疎遠の地」として考えても、「長崎備前青木氏」の4-5と「宮崎日向青木氏」の6はよく「子孫拡大」を果たしたと考えられる。
「高知」
次ぎは、四国地方の「高知青木氏」(土佐青木氏)は、「甲斐の武田氏系青木氏」が、当初、「讃岐青木氏」(香川)に保護されて「庇護地の讃岐」から土佐に移動して定住したものである。
この「高知青木氏」の「子孫拡大」も「讃岐青木氏」の保護の下で「逃亡移動先」で「青木村」を形成して拡大しているくらいでもある。
現在も定住の確認が出来るが、パラメータは0であるが「子孫繁栄」は他の地域で起こしている可能性がある。滅亡した事はない。
それは「讃岐青木氏」(香川)に保護されながら「高知」にその勢力を伸ばして領地を確保してここを「永住の地」として「青木村」を形成したのである。
記録から観ても、「子孫拡大」の「三つの条件」の内、「経済的背景」と「武力的背景」は確保出来ていた。
この「三つの条件」(「政治的背景」 「経済的背景」 「武力的背景」)の経緯順は
一 「讃岐青木氏」のみならず「讃岐藤氏の背景」の「武力的背景」を(1)とした。
二 その「武力的背景」をベースに領地を確保して「経済的背景」を(2)とした。
「讃岐青木氏」の背景とその庇護が無くてはこの「青木氏疎遠の地」「高知土佐」では「子孫拡大」は無かった。
「政治的背景」は「皆無」として伸長した珍しい「皇族の武田氏系青木氏」である。
この「政治的背景」は「讃岐藤氏と讃岐青木氏」が前面に出ていた事から「皇族系族」としての「政治的背景」は必要でなかった。
その代り表に出ていなかった事から「厳しい皇族系族の戒律」に縛られていなかった事、「不入不倫の権」に守られない環境の中では柵が無く「自由」であった事が云える。
それだけに「三つの条件」の欠如があったにせよ、「子孫拡大」は比較的伸びやすかったのではないかと考えられ、その為か研究では半面で比較的に「伝統」は消えている。
調査研究では、家紋や宗派や守護神などの「伝統」は消えていて「青木氏」自らも「ルーツの如何」の認識も薄かった。「甲斐武田氏系青木氏」の家紋に関しても消えている。当然に宗派は別であるし、「守護神の神明社」も少ない。
どちらかと云うと、「讃岐藤氏の藤原氏族の青木氏族」の認識が強かった。
現在、投稿が少ないのもこの影響ではないかとも考えられる。
東側の「阿波青木氏」(徳島)に比べて西域に限り「子孫拡大」、或は「勢力拡大」をさせた事がその原因と成っていて隔離的な形に成っていたと考えられる。
(徳島の青木村 阿南市見能材町青木村 板野郡藍住町青木村)
従って、その意味から、明治後に移動が自由になった事から、その自由さから大阪に移動して行った事が考えられる。
(「ブラジル移植」もあった。土佐には紀州の漁民が「カタカタ漁」を広める為に多く移動した。この為にブラジルにも紀州と高知の漁村の全体が入植した。この時にも入植していると観られる。)
「青木村」があったにも関わらずその「伝統」を守れていないのは、この「都会移動」と「入植移動」を明治後に大きく起こしたと考えられる。
そこで、この「青木氏」の「家紋」は、本来は「家紋掟」から「賜姓族」であるなら「笹竜胆紋」である筈ではあるが、「武田花菱紋」である。「武田氏系青木氏」と成っている。
この事から「本家筋」が消えている事を意味するし、他にありえない一般の家紋も観られる。
要するに、”「武田花菱紋」が残っている”と観られる事は、「家紋掟」はあまりに庶民化して守られていなかった事を物語る。
従って、明治初期の「苗字令と督促令」があったが、”「青木氏の氏名」はどの様に維持してきたのか”と云う疑問がある。
それは「江戸期の間の環境」に左右されていた筈で、「血縁が自由」が決めてでは無かったかと考えられる。これを解明する資料は見つからないが、「青木氏」を遺すには最低でも「身分」が「郷士」であった事になる。
それは、”青木氏でない氏の資料”で証明している。
・「郷氏名義札」
四国と云えば、「紀州」まで「子孫拡大」を起こしていた有名な氏がある。それは「高知の坂本氏」である。
有名な「坂本竜馬」の家で、その坂本氏は高知ー徳島ー和歌山の紀州に子孫を遺していて、紀州では「坂本氏屋敷跡」を「歴史遺跡」として認定されていて、史跡の土地に家を建てる時には、建設前に先ず調査が義務付けられているくらいである。
「坂本竜馬の実家」はこの「坂本氏」の「郷士名義札」を買い取り、商家から「坂本の氏」を名乗った事は有名である。この様な事は江戸期には可能であった。
「青木氏」の様な氏は、この「郷士名義札」のトップ対象の中にあり、経済的に氏を維持できなくなった本家筋が最後の手段としてこの「郷士名義売り」を行った。
ただ、「賜姓族と特別賜姓族の青木氏」は行っていない。
特にこの現象が盛んに行われた時期は次ぎの4期に盛んに起こった。
第1期 下剋上で立身出世した者がこの名義買いを行った室町期末期
第2期 江戸初期に徳川氏の家臣と成り「氏姓」を持たない下級武士の名義買い
第3期 江戸中期末期に起こった豪商などが「商い」をより拡大する為に「郷氏」の家柄の名義買い
第4期 最後には明治期初期の苗字令の名義買い
この「名義札を買った青木氏」は、これを「青木氏の場合」は、「第三の青木氏」と呼ばれた。(寛政の歴史書にこの「第三の氏」として記されている。)
「高知」では、その「青木氏の地域性の低さ」からこの様な現象が起こった。
届けて審査されて認可される正式な仕組みであった。高地では第3期と第4期が主である。
(国や地域により認めていない地域もあった。主に地域の経済的な理由にあった。)
「山内藩の発祥由緒」からも「高知」ではこれを認めていた。
つまり、この「高知青木氏」にも「青木村」がある様に「郷氏」扱いで売却が起こったと考えられる。
その証拠に、「須崎市青木町」と 、「高岡市青木町」の「二つの青木村」があった。
「二つの青木村」を持つほどにその勢力、即ち、「子孫拡大力」は元々持ち得ていなく、然も、その意識に欠けていた事から、「二つの青木村」は通常ではあり得ない。
「秀郷一門の青木氏」であっても「一地域一青木村」であるのにおかしい事である。
それにはこの様に成る理由が一つあった。
それは上記した「郷氏の名義札の制度」である。
一方の「青木村」が「元々の青木氏」で、他方の「青木村」が「名義買いの青木氏」であった事に成る。
「氏名村」を形成している以上はかなり古い時期からの「名義札」である。
恐らくは新しい方は江戸中期頃と観られる。
そもそも、この「名義札の売却」の中には、いくつかのパターンがあった。
1 「嫁取り」を基本にする方式
2 「氏名と財産売却」を基本にする方式
3 「単純名義札売り」を基本とする方式
4 「一族一門の跡目断絶」を基本とする方式
5 「1から4の複用」を基本とする方式
1 「完全女系」となった「本家筋の青木氏」から「嫁取り」をし、その時に「結納金」とは別に、その「嫁側の名義買い」も行って「縁続きの形」で「氏名」を作った形式が多かった。
要するに「家紋掟外の行為」である。
2 中には「名義」だけではなく、その「財産」の一切も合わせてその金額の中で買い取ったものもある。
この方式によれば親族や縁者からの反発を避ける事が出来たのである。
(本来では「家紋掟」でも「嫁入り」では「氏名と家紋」は変わらない)
分家筋がこれを行う時は、親族中でも「本家筋の承諾」が必要であった。
3 単純に「名義」の使用を選定とする「名義買い」があった。「名義」を売った方は名義が消滅する。
農民や漁民や商人に転身した。
4 一族が完全に跡目が断絶し、その「氏名の使用」だけを売却する方式もあった。
「跡目」とは別に「借金の肩代わり」に「名義売り」に成る場合もあった。
これら全ては、その「郷士や郷氏」の「経済的な背景」が左右していた。
「娘」(女子)が無かった場合は、形式上、縁者や他氏から求めて「養女」を仕立てて、この形に持ち込んだものもある。この方式は最も有利であったからで、「1の方式」に持ち込む事が出来ない場合には2から3と変えて行ったものもあった。
「青木氏の戒律」に縛られないで、「地域性」に左右されて経済的に低かった「高知青木氏」には、「郷士の坂本氏」でも起こっている程から、よりこの現象が起こった可能性が高い。
恐らくは、「本家筋」の範囲ではこの方式で「高知青木氏」を保もたれていた事も考えられる。
依って、その「氏の衰退」と「名義売り」をしてしまった事からも、自由になった明治後の「都会移動」と「入植移動」が起こったと考えられ、それと共に老齢化していた事が考えられるのである。
故に「青木村」を形成しながらパラメータが0と成り得ているのであろう。
つまり、「二つの青木村」に成っている事から、「本家筋の名義売り」になった事に成る。
一方で「青木村」が残り、二つ目の「青木村」を形成した事に成っているので、「1の場合」に限定される。故に「二つの青木村」が形成されたのである。
この場合であると、家紋も何もかも一切「札の条件」に成って居る事から判別が出来ないのである。
この様に、上記した様に「日向青木氏」の様に、現在でも子孫拡大が進んでいる「青木氏」もあれば、「高知青木氏」の様に衰退している地域もある。
況や、この「栄枯盛衰」は「伝統」の「継承有無の如何」に関わっている。
今後、伝統の継承のより強い意識が無ければ、この「高知の青木氏」の「伝統」のみならず「青木氏」も残念ながら消える見込みであろう。
・「徳島の青木村考察」
ところが、この四国に於いて、「二つの青木村」を持っている県がもう一つ珍しくある。それは徳島である。
ここは「高知」とは全く違うのである。
平安期初期からの北家筋の赴任定住地である。藤原秀郷流一門と同じ北家筋の利仁流一門の赴任地である。
ここには「護衛同行団の秀郷流青木氏」が定住の形式を一応採った地域であり特異な地域でもある。
その「子孫拡大」の「高知青木氏」の方向は、「徳島」の南側から西に向かって伸ばしたが、西に伸ばさなければならない理由があった事に成る。東には隆盛を極めたこの「秀郷流青木氏」が定住していたからである。
この東には上記する様に「剣片喰族の秀郷流青木氏」が定住していた。その定住には特異さがあった。パラメータは1である。
しかし、この1は単純な1ではない。高知で上記した様な衰退の様な現象が起こっていた事が思えるが、ところが隣接する東では全く別であった。(下記)
高知から観れば、隣国であった事から東にも青木氏が存在する事は、東にも「青木村」が2か所もあって、この事は高知では、長い間の歴史の中で風評として承知していた筈である。
その「高知青木氏の経済的背景」の経緯は次ぎの様な現象であった。
特に、「日向青木氏」の様に無人の山岳部や沿岸部を開墾して「生活の糧」とした訳ではなく、一族逃避時からその力を使って「讃岐青木氏の援護」を受けて領地を拡大した戦乱の室町期の「子孫拡大」であった。「讃岐藤氏」にとっては「背後の憂い」をなくす意味でも都合が良かった。
ところが「高知の青木村」が隣接する東側の地域の阿波徳島一帯には、愛知から来た「剣片喰族」の「秀郷流青木氏」が赴任して土地に絶大な勢力を張っていた。
東には憂いが無かった事が「高知青木氏」(土佐)にも成し得た勢力で「子孫拡大」は成し得た。
しかし、この「子孫拡大」は室町期末期までのもので、「山内氏の領地」となった「江戸期の安定期」と、「明治期の地租改正」などで「生活の基盤」と成る土地は力に頼った「子孫力」であった事から霧消した筈である。
その背景と成っていた「讃岐藤氏」も「四国の勢力争い」の「戦乱の苦境」の中にあっての「高知青木氏」は「讃岐青木氏の庇護」は無くなったと考えられる。
筆者は上記の「高知の名義札問題」は、この時に起こったと考えている。
「高知」では財政的に子孫存続が難しくなった「名義売りの青木氏の方」は衰退し、「名義買いの方」は逆にその財政力を使って隆盛して、この「名義買いの方」の青木氏が残った可能性がある。
多くは「名義買いの方」は「坂本氏の例」に観る様に「商家」であった。
とすると、「一方の青木村」は当然に消滅する筈である。
しかし、残っていると成ると、”一体どのような事が起こっていたのか”と云う問題がある。
だから、上記の2や3や4ではなく1である事に成る。
つまり、「娘」を娶り、「名義買い」もして、「財産」も買い上げて、「家柄」を「郷氏」に一段上に上げて、後に子孫が生まれれば、その一人を元の「名義売りの家」を興し直す事で可能に成る。
こうする事に依って、「名義買いの方」は名実ともに「青木氏と縁続き」と成る。
更に、そこで更に子供が出来れば、完全に「名義買いの方」の「血筋」の「青木氏」に特化してしまうのである。この経緯が本来の目的である。
「商家」が「武家」に特化する身分変更の奥の手であった。
財政的に優位にある「商家」は挙ってこの手を使った。「氏族」に成ると同時に「商い」にも有利と云う事が起こる。「商家 商家」と蔑げすまれる事は無くなる。
「室町期中期からの豪商」と呼ばれる者は殆どが「二足の草鞋策」(室町文化 殖産業)で、「江戸期の豪商」は逆に商家が「郷士や郷氏の札」を買う事で「二足の草鞋策」(元禄文化 販売業)に成った。
従って、4、3、2より1に持ち込もうとして、「名義売りの方」に娘が無くてもどこから女子を連れてきて先ず「養女」にしてこの取引を両者の合意で行った。
要するに、「血筋」と云うよりは「家柄」を重視した。これは「商い」にも役立つ利得からの選択であった。幕府や藩の「認可の便宜」と「公共事業の受注」にあった。今とあまり変わらない。
「弘前藩の事件」もこの「太平洋周りの廻船」の認可と「海産物の殖産海運」が物語っている。
恐らくは「商家の武家への特化」この事が起こったと観られる。
突き詰めれば、「札の買い手」の「家の継承」と云うよりは「利得のための特化現象」である。
故に、「二つの青木村」が残ったのである。
結局は、「名義札」にする側の青木氏は存続が出来なくなった事によって1から4の事が起こったのである。
終局は、断絶か滅亡の憂き目に成る運命であるから、「売る側」も「買う側」にもそれなりの利点があった。それ以外には無理である。
通常の「氏名継承」の「男系継承」の逆の事を起こしたのであり、元に戻す手段としても当時は認められていない「女系継承」が起こった事に成る。それを「正常な形にする手段」として「名義札制度」があったのである。
「氏家制度」が、”下剋上と戦乱の下級武士の勃興”で「社会の組織形態」が崩れて、室町期末期頃から「崩壊の憂き目」が起こった。
そこで考え出されたのがこの「名義札制度」であった。
この制度は江戸期の中期に入る前には「お家を護る」と云う大義名分の名目で盛んに行われた。
全くの他人の子供を「養子や養女」に迎えて家を継がせると云う事が頻繁に行われ、旗本や御家人の家柄を断絶から護ったのである。
当初は武士間だけであったが、それのみにあらず「庶民ー武家」からも「名義札」で取引して「養子や養女」を迎えて「家」を護ったのである。この「慣習の継承の裏」には、必ず「名義札」が動いた。
この「名義札」も社会的に認められたものであっても、「利得」より「家柄」と云うものに重点を置くと、江戸期または室町期に於いても「士農工商の縛り」がある以上は”「商家」が「武家」に”と蔑まれるは必定で、その為には、「名義札」も表にはなかなか出しにくい行為で制度である。
子供が出来るまでの少しの時間をかければ「売り手」の元の家に「再興の子供」を仕立てる事で名実共に「青木氏」には成れるが、そこに「商いの利得」が絡んでいれば密やかに「名義札の売買」は行われなくてはならない柵がある。
これは「武士」もより上の家柄にする事に限らず、「商家」もこれに参画して「武家の家柄」を獲得したのである。
・「高知の山内氏の考察」
この背景と成っていた「讃岐青木氏」は瀬戸内を通じて北に延ばした事から、「高知の青木氏」は「三つの条件」の全てを連鎖的になくして行った事が云える。
尚、合わせて江戸期の四国は大きく勢力図は変わった。
つまり、「姓族の時代」と成って、「氏家制度」の中で「高知の土佐青木氏」は生き延びるための基盤を失った事に成る。
恐らくは、「下級武士」から家を興した「山内氏」は愛知から家臣団を連れての「高知への転封」で、「土地の豪族」や「郷士、郷氏」等の勢力との激しい反発を受けた「有名な転封藩主」であった。
事件では、「話し合い」を前提として城内に入った「郷士団」「土豪団」と「山内氏」との間で城門を閉ざして城内で全滅に至るまで激戦を繰り広げた。この「激しい反乱」(有名な反乱)の末に解決した経緯があり、この「怨念と警戒」があって、「地元の勢力」、「土豪団」取り分け「郷士団」や「郷氏」には、山内氏は警戒していて「厳しい政策」を幕末までを採った事でも特に有名である。
(この事件でも郷氏が少なく成り「子孫力」が低い原因になった。)
その政策は「江戸末期の土佐藩」にもよく出ていて、「坂本龍馬」もこの事が原因で許可なく国元を離れた経緯がある位で、一部懐柔策としてこれらを家臣に加えたが「郷士や郷氏」には特に厳しい軋轢を加えた事でも有名である。
依って、「高知青木氏」も例外ではなく、通称歴史上では「名義買い」で称される上記した様な事が起こり「農民か漁民」(入植移動)に転身して生き延びた事が云える。
その事から土地に居づらい元青木氏は、後に特に明治期の「都会移動」「入植移動」の原因となった。
筆者の研究からも、この地域の「武家の青木氏の強い息遣い」は観られなかった。
「ルーツ掲示板」にも同じく観られない。「ルーツ掲示板」の比率に表現できない数字である。
しかし、「墓所の家紋分析」と「守護神の調査」の研究からまだ存在は確認できる。
数字的には1あるいは2以下のパラメータが得られる程度と考えられる。
しかし、記帳とルーツ掲示板にも無いと云う事は、その原因として「名義買いの青木氏」にも「高知在住の青木氏の老齢化」も起こっているのではないだろか。
下記に示す大阪や東京などの都会に、つまり、パラメータが多過ぎる地域に「移動定住」している事を示すが、外の四国3県のパラメータにはそれなりに妥当なものとして考えられる事から、この3県には高知からの移動の原因は考えられない。
「山内氏事件」「名義札」「入植移動」「都会移動」「戦乱期衰退」が原因して「武田氏系青木氏」の「高知青木氏」はパラメータが得られなかったと観られる。
「徳島」
そこで、比較対象として上記した様に隣接する「徳島の1」に付いて「特異性」があるので論じて置く。
その証拠には「徳島の1」である。(このパラメータの1には意味がある)
「徳島」は上記した様に、「剣片喰族」の「秀郷流青木氏」が愛知より移動して赴任定住していた。この期間は平安期から室町期中期まで赴任している。
この定住には、初期には「秀郷流一門」、その後に「藤原利仁流の藤原氏」も越後から赴任している。
ここには「秀郷流青木氏」が鎌倉期まで赴任していて定住していた事から、「秀郷一門」と「利仁一門」は一族系列である事から深い親交があって、その後に「阿波の秀郷流青木氏」は警護をしている。
(利仁と秀郷の関係 「秀郷」の祖祖父の「藤成」の兄弟の「鷲取」の5代目が「利仁」、「藤成」から4代目が秀郷 従兄弟としての関係程度であった事が記録から観られる。「陸奥の鎮守府将軍」としても「利仁流」も務めているくらいで相互に親交があった。両者を取り持ったのは「進藤氏」で仲介していた。「利仁流進藤氏」が越後と岩代の中間の東北地域には発祥している。)
この為に、「阿波徳島青木氏」はパラメータ1に関わらず江戸期末期まで「郷氏」として生き延びて子孫を確実に拡大させている。
この「パラメータの1」は徳島の南北に「青木村」を「二か所」も形成している事から観ると、”低い”と判断できるが、「高知青木氏」と違い、この”低い”のにはそれなりの理由があった。
この「剣片喰族」は愛知から静岡の沿岸部に分布していて江戸期まで青木氏外にも「片喰族」として大勢力を維持していた。
室町期末期の天正末期まで一門の永嶋氏が、伊勢域まで勢力を拡大させたが、これには「片喰族」と「剣片喰族」が加勢して勢力を維持させた。その為に、「四国阿波青木氏」も勢力を維持させた。
何故ならば、この「剣片喰族」は阿波に定住地二か所を設けながらも、固定定住するのではなく「愛知ー静岡」の地域から”「交代制」で維持する”という制度を採用していた。
本来の「入間帰還」の「青木氏の制度」と違い、これに従い「片喰族」として「子孫拡大」を分散させない様に確実なシステムを独自に敷いていた。
武蔵の前哨地として採用していた為に、本来は武蔵の国に復帰するが、この「片喰族」だけは「愛知ー静岡」に復帰していたのである。
この為に、「阿波」にはその勢力が固定されて、江戸期でも「郷氏」になったとしても「氏力」は保たれたのである。一族の相互間の連携を採っていた事が「家紋分析」でもこの事が裏付けられる。
故に、江戸期でも安定した勢力を保持した為に秀郷一門の主要家紋8氏の一つと成っていた。
高知の青木村の二か所は、「須崎市青木町」ー「高岡市青木町」の隣接市にある。
徳島の青木村の二か所は、「南端域の阿南市青木町」と「北端域の板野郡青木村」に完全に分離している。
つまり、「徳島の青木村」は上記したその制度にあった。
これは、利仁流一門の護衛の時は、「板野郡」に、秀郷一門の時は「阿南市」に分けて赴任住まいしていた事が判る。
両方には留守居を置いていたが、この「二つの青木村」の態勢は「利仁流と秀郷流の距離感」を保っていた事が考えられる。阿波国は紀伊水道に沿って南北に長い土地柄である。
利仁と秀郷の二門の護衛となると「青木村」一つで務める事は、幾ら親交があったとしても問題が生まれる。阿南と板野の中間に置いたとしても縦に長い地形から距離が生まれ初動に時間が掛かる。
そこで別々に「青木村」を置いた。
家紋が別の青木氏であれば「二か所の青木村」も考えられるが、「秀郷流青木氏」としては全国に支障なく護衛の軍団を配置するとなると、阿波の一国に「二つの青木軍団」を置く余裕はなかった。
長崎のところでも論じた様に、定住策を採りながらも入間を防御に支障を来さないためにもに帰還させる体制を採っていた。
特に阿波は秀郷一門ではなく、「北家利仁流一門」も赴任していると云う事から考えると、家紋別の青木氏を配置する事は無理であり、「北家利仁流一門」にも越後からの赴任と成ると、最低限の多少の護衛団を引き連れて来る事に成る。この「二つの北家護衛軍団」が一つのところと云う事は不可能で、「北家利仁流一門」には賜姓族でない為に「青木村の様な村の権利」は許されていない。
護衛団を駐留する場所の確保には土地の豪族との関係もあり難しく、「最小限の軍団」と成る。
「村の形成」は先ず「軍団駐留」と「守護の生活」を維持する「土地確保の許可」と、そこに必要な「農民などの職能集団」を置かなければならない事と成ると簡単には不可能である。
阿波には、平安期で確認できるところで10回程度で年数は3から5年(原則4年)で凡そ交互に務めている。この状況からも、一か所は無理である。
そして、この交代制が出来る条件が阿波にもっとも近い「秀郷流青木氏」でなくてはならないし、越後域からでは無理である。まさに江戸時代の苦痛の参勤交代の様に成ってしまう。
参勤交代の様に成れば「氏力」は低下してしまう。そうなると、秀郷一門の勢力圏の最西域は完全に限定される。
・「愛知の考察」
「愛知から静岡」に勢力を張る「片喰族の青木氏」と成り、その中でも、愛知側の「剣片喰族」と限定される。だから、最も合理的な「年期制度の交代制」を採る事が出来たのである。
これを本来の「帰還先の入間」と成ると問題が生まれる。
通常では116氏の本家筋は全て入間の護衛に当たるのが「秀郷一門の掟」であり、その例外として「剣片喰族」は許されていて関東にはこの家紋は少ないのはこの事による。
そもそも、「片喰族の分家」の「剣片喰族」の方が勢力が大きかった事が判っていて、そこで、「片喰族」一門としては「本家筋」の片喰族が「入間護衛」に回った事に成っている。
従って、「徳島の1」のパラメータは1で良いのであって、大きい事はあり得ないのである。
それ故に、「愛知ー静岡」域のパラメータは、「愛知の13」、「静岡の5」として大きいのであって、特に、「愛知の13」は一見して入間本領の17から比較すると”大き過ぎる”と見えるが大きくないのである。
「愛知の13」では本領域に近いパラメータと成るが、愛知は確かに勢力はあったが本領並の勢力下にあった事はなかった。
恐らくは、平均以上である事は否めないが、せいぜい本領の半分以下であった筈で、「秀郷一門の「第二の宗家」として勤めていた「秀郷流青木氏」としては統制下の中にあっての事で、「子孫拡大」の「三つの条件」を13にして置くことはあり得ない。
その必要性があるのならば、その元の「三つの条件」を入間に充てる事とする筈で、それほどに無策ではなかったし、余裕は無かった筈である。
「全国24地域」にそれなりの「三つの条件」を配置しなければならないだけではなく、「利仁流一門」にも加勢していた史実から、依って、愛知の実態は13ではなく7であった事が考えられる。
「愛知13ー7」は13から7への変動地であった事に成る。
特に、「経済的背景」に支障を来す事に成った筈で、この残り分は「徳島の1」に充てられた。
従って、「徳島の1」は7になり1に成りする「流動性のあるパラメータ」なのであって、そのパラメータの元は愛知の13の中にあって、全ての青木氏の中では特異な徳島と成る。
逆に、愛知は13に成り7に成りする「分布力」であった。
結局は、現在、愛知が13と成っている事から江戸期末期頃には徳島から多くは愛知に戻った事を示すものである。
どれだけ「徳島の青木氏」が「蜂須賀藩の家臣」に成ったかは不明ではあるが、成ったとしても徳島の本家筋が家臣になった事程度であって、地元の民間所蔵の資料から観ても、家紋分析の内容からも「高知の青木氏」と同じ様に「徳島の青木氏」の多くは「郷氏」に成った事が判っている。
その元主であった「郷氏」と「漁民」が組んで「蜂須賀藩」との間でも「揉め事」を起こした事が書かれている。「徳島」の「郷氏ー漁民団」の場合は、資料では「船を使った戦法」を採ったところがその技術技能の無い蜂須賀藩には堪えたと観られ、彼らに「船の交易の特典」を与えた。この特典を活かして昭和20年代まで「阿波水軍」で有名を馳せた。この事が「徳島青木氏」の「子孫力」を遺した背景でもある。
ただ、「山内氏ー高知青木氏」(甲斐武田氏系青木氏)と「蜂須賀藩ー徳島青木氏」(藤原秀郷流青木氏)のその「元の基盤」が異なっていた事に成る。
この様に、「子孫力」を遺せるかどうかは「生き様の経緯」で決まる。
そして、その「生き様の経緯の流れ」には何人も”人は抗する事は出来ない”のである。
この「徳島ー愛知の現象」は少なくとも「室町末期ー江戸初期」まで続いていた事が、この事は「結城青木氏」の資料の記録の中でも凡その姿が書かれていて判る。
恐らくは、”世に憚る事無かれ”は、上記の「生き様の経緯の流れ」にうまく乗る事の「究極の秘訣」であって、その「身の処し方」はの意は、”必要以上に表に憚る事無く、一歩下がった処に身を置くことの大事さ”を示唆している。そして、その時、「心の持ち様」の意は、”「萎縮」する事無く「卑屈」に成らない事”とある。それを資料の語意から読み取れる。
これが「秀郷流青木氏」が「第二の宗家」として主導する「秀郷一門の掟」と成っていたと考えられる。
これは元々、「皇族賜姓族青木氏の生き方」でもあった。その証拠に「青木氏の掟」 ”世に晒す事無かれ、何れに利無し。”から来ている筈である。現在もこの「訓戒」は伝えられている。
これこそが、「全ての「青木氏の子孫力の根幹」に成っているのだ。
この様に「秀郷一門の青木氏」は、”生き残る為に巧みに処世を読み高望みせずに、丁度良い位置に身柄を置き江戸末期まで泳ぎ切った”のである。
(北家秀郷一門をリードする「第二の宗家」の「青木氏」の伝統的な生き方)
秀郷一門の「定住地域の24地域」の殆どは、これを護って大きな事件を起こさずに江戸期に入ったのである。(意に反して流れの中で巻き込まれて事件と成った事もあった。)
この゜生き様」は、「秀郷一門北家筋9氏」が家紋として用いている「下り藤紋」をはじめとする「主要8家紋の動向」の家紋分析でも判る。
そもそも、”下がる”を忌み嫌い「上る」を由として「上り藤紋」に多くの北家筋は伝統ある家紋を変えたが、敢えて、「秀郷一門の9氏」のみがこの「下がり藤紋」を変えなかった。
何故ならば、人が抗する事の出来ない「生き様の経緯の流れ」に対応するのには、「”世に憚る事無かれ”」の「究極の考え方」であるとしていたからである。
・「藤原秀郷一門の生き様」
その後の江戸初期前後の秀郷一門は、「皇族賜姓族青木氏」を除く、「丹治氏系青木氏」を含む「関東の青木氏」は「幕府または徳川氏の旗本家臣団」に加わり、「江戸幕府の本領安堵策」によりその勢力を保持した。
(例1 大名に充分に成り得る「土地持ちの御家人」でありながら、大名になったのは361氏の中で何とたった1氏の「内藤氏」だけである)
(例2 「丹治彦王の配流孫」の末裔「皇族青木氏」の「丹治氏系青木氏」は当初、豊臣側に着き奈良の地域を拝領する事を約束されていたが、「家康の調略」により徳川方に着き、その勲功で摂津4万石の大名に成った唯一の例がある。)
(例3 豊臣秀吉が家柄をよく見せる為に、豊臣家の「虚偽の系譜」に書き記して「縁者、親族」であるとして利用された「青木紀伊守」は越前北の庄八万石、「青木伊賀守」は越前丸岡四万六千石と成った「伝統ある青木氏の戒律」を破った経緯があるが、何れも徳川家康に依って、結局は除封されて越前福井に逃げ込んで「子孫力」を著しく弱めた。)
・「子孫力」「生き様の形」を作る秀郷一門の戦略
それは、そもそも、その「青木氏」は室町期末期から江戸初期に掛けての「生き様の形」は、「秀吉と家康の駆け引き」の流れの中にもあった。
そこでこの子孫を護る「生き様の形」の端的に物語る歴史上の有名な事件があった。
「秀吉」より「家康」が関東に国換えを命じられ時、即応した家康は、この「藤原氏」の各関東を中心とした各地にある”秀郷一門の絶大な勢力”を取り込むことで、豊臣以上の勢力が確保できる事を目論んだからであった。
「本領安堵」を前提として、最初に旗本の家臣団の傘下に入る事の交渉に入った事は歴史上の有名な史実であった。
「青木氏」を含む「秀郷一門」はそっくり徳川氏の中で「土地付きの上級武士団」(御家人)を形成したが、「大名」は敢えて好まず「青木氏」を含む一族一門は「御家人と旗本」を目指した。
この「子孫力」の「生き様の形」は、平安の時代が終わりの鎌倉時代と成った時も、「秀郷一門の行く末」を決める時も、「秀郷宗家の朝光」が採った戦略と全く同じ戦略を採ったのである。
頼朝はこれを認めた。(「本領安堵」ー「一族の家臣化」ー否大名化」)
又、別の例として、陸奥で秀吉に敵対しながらも「青木氏族」の秀郷流結城永嶋氏の領国 愛知は「関東屋形」として呼ばれていながらも江戸初期まで愛知まで勢力圏を補完した。
徳川氏に対して充分に大名に成り得る勲功を挙げている「永嶋氏」であっていながら、且つ「大名」としては充分な勢力を補完していながら、”絶対に大名と成らない事”で徳川氏との軋轢を避けた事にもあった。
「生き様の形」「生き延びる事」、「子孫力の保全確保」の為に採った一門の歴史的な「究極の選択方針」であった。この考え方が「子孫力」に大きく影響した。何も大名に成る事が「子孫力」を高めると云う前提ではない事を一族一門はよく承知していた。
大名と同じ勢力を保持している事であれば、憚って大名に成る必要性はないとしたのである。
(その「1/361」は、その一門の究極の生き様の掟は完全に守られていたとしても過言ではない。)
つまりは、其の儘では、「秀吉の調略」に乗せられて「徳川氏の基盤」を”江戸の周囲から突き崩す戦略”に”巻き込まれる事の経緯の流れ”を避けたのである。
秀吉は”関東を与える事”の先の事を読み込んでいたのである。
それは「藤原氏」を調略して、最終は「藤原氏の勢力」を使って周囲からせめて潰す計画にあった。
これを読んだ「家康ー関東藤原氏」は、「本領安堵」と「御家人家臣団」として「上級武士団」で解決した。(これに依って却って秀吉は逆に徳川氏を潰す事が難しくなった。)
江戸幕府の上級武士の中に「下り藤紋の藤原氏」が多いのはこの事による。
秀郷一門を家臣団に納めた事で、家康は秀吉との関係で、”鳴く迄待とう不如帰”の家康は、この奈良期から生き残って来た「北家藤原氏」の中でも「秀郷一門」の「生き様の形」、「生き延びる事」、「子孫力」の「究極の選択方針」(”世に憚る事なかれ”)を見習ったのでは無いかと考えられる。
・「江戸時代の秀郷一門の大名」
全北家筋で江戸時代に大名に成ったのは、凡そ280藩中で次ぎの5氏にすぎない。
その5氏も殆どは「内藤氏」である。「下り藤紋」(秀郷一門:361氏)
1 陸奥 湯長谷藩 内藤氏
2 越後 村上藩 内藤氏
3 駿河 高遠藩 内藤氏
4 日向 延岡藩 内藤氏
5 近江 水口藩 加藤氏
(北家筋の9家がこの家紋を使った。殆どは「上り藤紋」に変えた。)
これでも「究極の選択方針」を貫いた事が判る。
家康は、これと同時に、更にこの藤原氏が抱えていた「神職系の神社集団」と「浄土宗系集団」を取り込むために、幕府開幕前後から、直ちに、全国全ての「神明社(青木氏)」は幕府、徳川氏の管轄下に置き、浄土宗の信者集団も管轄下にして開幕後に直ちに「浄土宗督奨令とその法令」を発した。
そして、「青木氏の守護神」の全国500社にも及ぶ「神明社の全国修復の令」をも同時に発したのである。
これに依って、「皇祖神の子神の祖先神の勢力集団」が徳川氏に入った事で「他の神社集団」もこれに倣ったのである。
(この時点で「青木氏による神明社」と主な「浄土宗寺」は幕府ー維新政府の一級の管理の下に引き継がれた。これも「青木氏の巧みな生き様」である。)
(因みに、限定された歴史の史実であるので例として記述して置くと、筆者の伊勢の「青木氏の菩提寺」も接収されて「紀州徳川氏の菩提寺」と成り、寺も改めて菩提寺後のすぐ横に建て替えられた。そして、そこに「青木氏の墓所の権利」を与えられ、「寺名」も青木氏の時の同じものとなった。
「伊勢青木氏」が管轄していた「神明社」は全て「紀州徳川氏」に「修復前提」として引き渡した事が記録され、且つ、この時の様子を口伝にて伝わっている。)
更に、余談とも成るが、「伝統」云う事では意味があるので、敢えてその時の様子を短く記述する。
この時の伊勢松坂で紀州徳川氏との交渉が行われた事が記録されていて、会談に入った時に、我が家「当主長兵衛」と「徳川頼宣」との座る位置について問題が先ず起こった。
(身分家柄は古来より「青木氏」の方が上 「永代浄大1位」)
”どちらが上座に座るか”の問題で、家臣との談合が行われたが結論が出なかった。
そこで、「徳川頼宣」と青木氏当主の直接の決着で解決する事に成り、その場で自発的に「頼宣」は下座した。
困った当主長兵衛も礼儀から下座したので、結局、上座で同座となった。
しかし、ここでまた問題が起こった。当主長兵衛が座布団を敷かなかったところ頼宣も敷かず、家臣は平伏したままであった。そこで当主長兵衛は敷くと全て平伏を解いた。
この期にこの交渉に入った事が伝えられ、神明社と菩提寺の放棄の変わりの名目で、この時に、青木氏の土地の所有権(地主)を認められた。「吉宗の養父方の親交」、「享保改革の財政方」や、「幕末期の紀州藩の財政悪化をも指導」をして救った。この事が伝えられている。この後、祖父の代の大正14年まで深い親交があった。
”世に晒す事無かれ 一利無し”を護って世の記録としては遺されているが大館で出て来ない。
「二つの賜姓青木氏」は、この様に、表には出ずに”常に裏方に回る「子孫力」”を発揮した。
「子孫力」を作り上げる「青木氏の家訓10訓」はこの考え方にあった。
「岡山」
次ぎは、中国地方の「岡山」である。
この岡山(備前)は、「讃岐青木氏」の活動分布域に匹敵するほどの活動地域であり、更には、藤原氏北家筋からも鎌倉期と室町期に赴任して定住しているが「秀郷流青木氏」に関わりはない。
「瀬戸内」を経由して「讃岐青木氏」の活動領域である。ここには別の京都などの北家筋藤原氏の赴任地でもあった。紀州等もこの藤原氏(脩種ー脩行系の藤原氏)の赴任地であるが、この備前(岡山)の内の美作や備後にはこの系列の藤原氏が赴任している。
しかし、この「讃岐青木氏」が関わる「岡山の地域の沿岸部」の中では「備前ー備中の瀬戸内沿岸部」に定住していた。
況して、その「子孫拡大」の勢いは、この「岡山」を経由して北の宍道湖西域まで貫いて移動定住しているくらいである。
「島根のパラメータ2」はここに移動定住した末裔の「子孫拡大」によるものである。
この「移動定住」は本業の「廻船業」と、それを利用した「瀬戸内海産物の殖産販売」にて支店を開店して住み着いたもので、その末裔の子孫拡大である。
依って、「岡山」と「島根」とは同じ「讃岐青木氏」と同じ「廻船業関連の背景」にて「子孫拡大」に繋がったものである。「岡山の0」は最低でも「岡山の1」が認められる。
この「讃岐青木氏」の「香川」の「パラメータは1」ではあるが、「愛媛のパラメータの3」も「讃岐青木氏」であり、「讃岐」として地域を限定しているが、「愛媛の3」は「讃岐青木氏の横の分布領域」である。
(讃岐や日向など国を限定しての呼称と成っているが必ずしも限定する分布域ではなく、発祥起点を呼称していて、分布域=発祥域とはならないし、現実に限定の呼称は無理である。)
・「讃岐青木氏」
従って、この「愛媛」には「青木氏の歴史的縁故」は全くない。”無い”と云うよりはここの豪族が毛利系に保護されたの公家系西園寺氏とその配下の隅切り角紋族の土地柄(四国の豪族)であった事が原因していた。
戦国時代は「讃岐藤氏」が横に支配勢力を伸ばす事に制約があったし、「瀬戸内」を制していたとしても、南西域から「長曾我部一族」に侵攻される危険があって、沿岸沿いに西に伸ばすのがいっぱいであった。
従って、「香川」よりの「愛媛の3」のパラメータは「讃岐青木氏の3」であるので、「讃岐青木氏」は四国側では、次ぎの様に成る。
合わせて「パラメータは4」と成る。
中国側では「広島の3」、「島根の2」、「鳥取の2」と「岡山 0から1」を合わせての小計は「パラメータは8」と成る。
これら全て「瀬戸内沿岸部」を制していた「讃岐藤氏」の「讃岐青木氏」であり、四国と中国を合わせると合計「パラメータは12」と成る。
この「讃岐青木氏」の瀬戸内沿岸部の「小計パラメータ12」が、昭和20年代まで維持されていた事である。
(この「讃岐青木氏」の瀬戸内の「小計パラメータ12」は、昭和20年頃に北海道に入植移動定住していて、この内のパラメータは北海道のパラメータ11の中に入っているので、「讃岐青木氏」の「瀬戸内の子孫力」の総計はより大きくなる。下記 総計 パラメータ17)
・「入植地 北海道の関係考察」
これに、入植先の北海道の11の一部(下記 5/11が見込まれる)を加えると、「讃岐青木氏」の総合で「合計パラメータは17」と成る。
これは、「武蔵の秀郷一門の入間の本領地の17」と同等と成り、秀郷一門でありながら、且つ、「藤原氏北家筋」でありながら、「瀬戸内の財産」(経済的背景)を背景、根拠に「独立性」を高めていた所以である。
この事を考えると納得できる「讃岐青木氏の総合子孫力」は「パラメータの17」であった事に成る。
従って、「岡山の0」は讃岐地域に匹敵する地域ではあるが、パラメータが採れなかったし、10年間の間に「記帳」や「ルーツ掲示板」からデータが採れなかったのが不思議中の不思議であったが調査で判った。
「瀬戸内」で「子孫拡大」が成された事から、岡山=香川とすると、上記の通り「岡山」は0から1に修正される。
全国に分布する事からパラメータが、「三つの条件」で成り立ち、そこから「岡山」は2以上を超える事はなく、「瀬戸内」の中では「三つの条件」が同一である香川と同等と見込まれる。
>
> [地域別分布力]
> 「地域別」では「青木氏」は次の様な「分布力」になっている。
> 全国平均(全国単位 % 表ー1)
> 地域 異変の県 分布力
> 九州地方 長崎、大分 5%
> 四国地方 高知 2.5%
> 中国地方 山口、岡山 2.5%
> 関西地方 三重(筆者ルーツ) 14%
> 東北地方 秋田 7%
> 中部地方 15%
> 関東地方 45%
> 北海道・沖縄 6%
> その他 3%
>
> 地域平均(地域単位 /県 パラメータ 表ー2)
> 九州地方 1.3
> 四国地方 1.3
> 中国地方 1.3
> 関西地方 4.7
> 中部地方 4.3
> 関東地方 11.3
> 東北地方 2.0
> その他 11.0
>
> 「青木氏」は現在も以上の様に分布している。
>
> 修正地域(表ー3)
> 長崎 4 宮崎 6 岡山 4 香川 8 徳島 1-7 三重 12 福井 4 愛知 13-7
> 秋田 1
>
> 「青木氏の分布力図と伝統力図」(表ー4)
> 九州地方(5%) 中国地方(2.5%)四国地方(2.5%)関西地方(14%)中部地方(15%)
> 福岡 2 山口 0 愛媛 3 兵庫 3 三重 1
> 長崎 0 島根 2 香川 1 大阪 14 石川 2
> 佐賀 1 広島 3 高知 0 京都 5 福井 1
> 大分 0 岡山 0 徳島 1 奈良 1 岐阜 3
> 熊本 4 和歌山 4 愛知 13
> 宮崎 2 滋賀 1 長野 9
> 鹿児島 1 山梨 1
>
> 域平均 1.25 平均 1.25 平均 1.25 平均 4.7 平均 4.3
>
> 関東地方(45%)東北北陸地方(7%)沖縄、北海道地方(17.5%)
> 静岡 5 青森 1 沖縄 1
> 神奈川 21 山形 2 北海道 11
> 東京 18 岩手 1
> 埼玉 17 新潟 4
> 群馬 6 秋田 0
> 千葉 11 福島 4
> 茨木 4 宮城 2
> 栃木 8
>
> 域平均 11.3 平均 2.0 平均 11.0
>
>・「香川と岡山」の原因に続く。
名前 名字 苗字 由来 ルーツ 家系 家紋 歴史ブログ⇒
・「長崎の考察」
この「長崎」の「青木氏」は、ここは「太宰大監」として自治を認められた地域であって、元々「大蔵氏族の居住地」で直接に勢力範囲の届く地域であって、藤原氏が大きく入り込む余地はなかった。
(この時は平家の影で藤原氏は衰退していた)
従って、鎌倉末期後の「元寇の役」の「鎌倉期ー室町期」の赴任による定住地である。
そこで「青木村」を形成している事から「平安末期の子孫」とも考えられるが、上記する様に本来の形の定住地でなかった事から、恐らくは、この時の「青木村」は、後からの秀郷宗家一族の赴任に依って、それに護衛団として同行した「秀郷流青木氏」が、その時に「青木村」を形成して定住したと観られる。
「青木村」を形成する以上はそれなりの期間を必要とする。赴任だけでは成し得ない事に成る。
では、形成できた時期となると、「元寇の役」の時の「進藤氏の仲介」で「大蔵氏と青木氏の血縁関係」がなされた時期と成る。
恐らくは、この時の子孫がこの「青木村」を形成したが、「青木氏の氏環境」からこの「青木村」を留守居か、放棄して武蔵入間に一族全員が引き揚げた事に成る。
そこに、再び、鎌倉期に秀郷宗家が赴任して、この時に護衛同行した「青木氏」が、この「青木村」に再び住み着き、その後に「護衛役」を入れ替わった別の家紋の異なる「青木氏」がこの「青木村」の近隣に住んだと観られる。
その証拠に青木村外の近隣に住んでいた家紋の異なる「青木氏」もいた事が史実の記録から読み取れる。そして、ここに「赴任先」とされた事もあり、この地域の事が差配出来る「縁故の理由」として、この「青木村の存在」が左右した事が考えられる。
しかし、記録的には確実に定住移動しているのにパラメータでは0と成っている。
(ルーツ掲示板では長崎からの投稿が多い)
数字的に観ても、「赴任定住の青木村」がある事から、この「長崎」は全国平均の4のパラメータはにあり得る。
(「日向青木氏」から観れば、「青木村」を形成している事から観れば、6までのパラメータは実質得られる。)
「ルーツ掲示板」(1000件)から観て、「長崎」に定住か先祖が「長崎の青木氏」からの関係するお便りは全体の凡そ2割に成る。
「青木氏族外」からのお便りもある事からこれらを差し引きするとパラメータとして直せば、5ー6と成る。
「家紋分析」から観ても、パラメータとして直すことは難しいが、116氏の家紋中に占める「長崎」の青木村付近の家紋群数の%は4.6%であった。これから観ると、子孫は大きく拡大していない事と成る。
「家紋掟」により家紋が増える事は「跡目養子」が多かった事が云え、「子孫拡大」が増えている事にも成るが、「藤原氏秀郷一門の361氏」から観ると、「子孫拡大」は低い方にある。
これは周辺に大豪族が分布していて伸びるチャンスも難しかった事が考えられるが、多くは「神職系」と「大蔵氏系」と云う事に制約されて、「関東の青木氏」として入り込むことは難しかったのではと考えられる。
赴任である以上、戦いに依って周囲の土豪を切従えて土地を獲得する事は出来なかったし、治安を維持する事を任務としている以上は江戸期末期まで出来なかった事に成る。
仮に「子孫拡大」とすると成れば、「赴任地の経済力」だけでは無理であり、「入間宗家の経済的支援」に頼る以外に無かった筈である。これは無理な事で、”それならば帰って来い”と成る。
それは「過去からの伝統」として、”武蔵に帰る”と云う風評が左右したと観られるし、「長谷川氏」や「永嶋氏」の様に、大蔵氏系の中に組み込まれてしまう事も「青木氏の戒律」から避けたのではないかと考えられる。
つまり、「血縁の利点」が青木氏側に九州では無かった事を意味する。
依って、「パラメータは4」であろう。これを超える力は先ずないだろう。
従って、「長崎」の「子孫拡大」は0と観るよりは6以下と観た方が適切である。
九州の地域平均の1.3%と全国平均の5%から観て、関西以北を原則定住地としている中で、殆ど「青木氏疎遠の地」として考えても、「長崎備前青木氏」の4-5と「宮崎日向青木氏」の6はよく「子孫拡大」を果たしたと考えられる。
「高知」
次ぎは、四国地方の「高知青木氏」(土佐青木氏)は、「甲斐の武田氏系青木氏」が、当初、「讃岐青木氏」(香川)に保護されて「庇護地の讃岐」から土佐に移動して定住したものである。
この「高知青木氏」の「子孫拡大」も「讃岐青木氏」の保護の下で「逃亡移動先」で「青木村」を形成して拡大しているくらいでもある。
現在も定住の確認が出来るが、パラメータは0であるが「子孫繁栄」は他の地域で起こしている可能性がある。滅亡した事はない。
それは「讃岐青木氏」(香川)に保護されながら「高知」にその勢力を伸ばして領地を確保してここを「永住の地」として「青木村」を形成したのである。
記録から観ても、「子孫拡大」の「三つの条件」の内、「経済的背景」と「武力的背景」は確保出来ていた。
この「三つの条件」(「政治的背景」 「経済的背景」 「武力的背景」)の経緯順は
一 「讃岐青木氏」のみならず「讃岐藤氏の背景」の「武力的背景」を(1)とした。
二 その「武力的背景」をベースに領地を確保して「経済的背景」を(2)とした。
「讃岐青木氏」の背景とその庇護が無くてはこの「青木氏疎遠の地」「高知土佐」では「子孫拡大」は無かった。
「政治的背景」は「皆無」として伸長した珍しい「皇族の武田氏系青木氏」である。
この「政治的背景」は「讃岐藤氏と讃岐青木氏」が前面に出ていた事から「皇族系族」としての「政治的背景」は必要でなかった。
その代り表に出ていなかった事から「厳しい皇族系族の戒律」に縛られていなかった事、「不入不倫の権」に守られない環境の中では柵が無く「自由」であった事が云える。
それだけに「三つの条件」の欠如があったにせよ、「子孫拡大」は比較的伸びやすかったのではないかと考えられ、その為か研究では半面で比較的に「伝統」は消えている。
調査研究では、家紋や宗派や守護神などの「伝統」は消えていて「青木氏」自らも「ルーツの如何」の認識も薄かった。「甲斐武田氏系青木氏」の家紋に関しても消えている。当然に宗派は別であるし、「守護神の神明社」も少ない。
どちらかと云うと、「讃岐藤氏の藤原氏族の青木氏族」の認識が強かった。
現在、投稿が少ないのもこの影響ではないかとも考えられる。
東側の「阿波青木氏」(徳島)に比べて西域に限り「子孫拡大」、或は「勢力拡大」をさせた事がその原因と成っていて隔離的な形に成っていたと考えられる。
(徳島の青木村 阿南市見能材町青木村 板野郡藍住町青木村)
従って、その意味から、明治後に移動が自由になった事から、その自由さから大阪に移動して行った事が考えられる。
(「ブラジル移植」もあった。土佐には紀州の漁民が「カタカタ漁」を広める為に多く移動した。この為にブラジルにも紀州と高知の漁村の全体が入植した。この時にも入植していると観られる。)
「青木村」があったにも関わらずその「伝統」を守れていないのは、この「都会移動」と「入植移動」を明治後に大きく起こしたと考えられる。
そこで、この「青木氏」の「家紋」は、本来は「家紋掟」から「賜姓族」であるなら「笹竜胆紋」である筈ではあるが、「武田花菱紋」である。「武田氏系青木氏」と成っている。
この事から「本家筋」が消えている事を意味するし、他にありえない一般の家紋も観られる。
要するに、”「武田花菱紋」が残っている”と観られる事は、「家紋掟」はあまりに庶民化して守られていなかった事を物語る。
従って、明治初期の「苗字令と督促令」があったが、”「青木氏の氏名」はどの様に維持してきたのか”と云う疑問がある。
それは「江戸期の間の環境」に左右されていた筈で、「血縁が自由」が決めてでは無かったかと考えられる。これを解明する資料は見つからないが、「青木氏」を遺すには最低でも「身分」が「郷士」であった事になる。
それは、”青木氏でない氏の資料”で証明している。
・「郷氏名義札」
四国と云えば、「紀州」まで「子孫拡大」を起こしていた有名な氏がある。それは「高知の坂本氏」である。
有名な「坂本竜馬」の家で、その坂本氏は高知ー徳島ー和歌山の紀州に子孫を遺していて、紀州では「坂本氏屋敷跡」を「歴史遺跡」として認定されていて、史跡の土地に家を建てる時には、建設前に先ず調査が義務付けられているくらいである。
「坂本竜馬の実家」はこの「坂本氏」の「郷士名義札」を買い取り、商家から「坂本の氏」を名乗った事は有名である。この様な事は江戸期には可能であった。
「青木氏」の様な氏は、この「郷士名義札」のトップ対象の中にあり、経済的に氏を維持できなくなった本家筋が最後の手段としてこの「郷士名義売り」を行った。
ただ、「賜姓族と特別賜姓族の青木氏」は行っていない。
特にこの現象が盛んに行われた時期は次ぎの4期に盛んに起こった。
第1期 下剋上で立身出世した者がこの名義買いを行った室町期末期
第2期 江戸初期に徳川氏の家臣と成り「氏姓」を持たない下級武士の名義買い
第3期 江戸中期末期に起こった豪商などが「商い」をより拡大する為に「郷氏」の家柄の名義買い
第4期 最後には明治期初期の苗字令の名義買い
この「名義札を買った青木氏」は、これを「青木氏の場合」は、「第三の青木氏」と呼ばれた。(寛政の歴史書にこの「第三の氏」として記されている。)
「高知」では、その「青木氏の地域性の低さ」からこの様な現象が起こった。
届けて審査されて認可される正式な仕組みであった。高地では第3期と第4期が主である。
(国や地域により認めていない地域もあった。主に地域の経済的な理由にあった。)
「山内藩の発祥由緒」からも「高知」ではこれを認めていた。
つまり、この「高知青木氏」にも「青木村」がある様に「郷氏」扱いで売却が起こったと考えられる。
その証拠に、「須崎市青木町」と 、「高岡市青木町」の「二つの青木村」があった。
「二つの青木村」を持つほどにその勢力、即ち、「子孫拡大力」は元々持ち得ていなく、然も、その意識に欠けていた事から、「二つの青木村」は通常ではあり得ない。
「秀郷一門の青木氏」であっても「一地域一青木村」であるのにおかしい事である。
それにはこの様に成る理由が一つあった。
それは上記した「郷氏の名義札の制度」である。
一方の「青木村」が「元々の青木氏」で、他方の「青木村」が「名義買いの青木氏」であった事に成る。
「氏名村」を形成している以上はかなり古い時期からの「名義札」である。
恐らくは新しい方は江戸中期頃と観られる。
そもそも、この「名義札の売却」の中には、いくつかのパターンがあった。
1 「嫁取り」を基本にする方式
2 「氏名と財産売却」を基本にする方式
3 「単純名義札売り」を基本とする方式
4 「一族一門の跡目断絶」を基本とする方式
5 「1から4の複用」を基本とする方式
1 「完全女系」となった「本家筋の青木氏」から「嫁取り」をし、その時に「結納金」とは別に、その「嫁側の名義買い」も行って「縁続きの形」で「氏名」を作った形式が多かった。
要するに「家紋掟外の行為」である。
2 中には「名義」だけではなく、その「財産」の一切も合わせてその金額の中で買い取ったものもある。
この方式によれば親族や縁者からの反発を避ける事が出来たのである。
(本来では「家紋掟」でも「嫁入り」では「氏名と家紋」は変わらない)
分家筋がこれを行う時は、親族中でも「本家筋の承諾」が必要であった。
3 単純に「名義」の使用を選定とする「名義買い」があった。「名義」を売った方は名義が消滅する。
農民や漁民や商人に転身した。
4 一族が完全に跡目が断絶し、その「氏名の使用」だけを売却する方式もあった。
「跡目」とは別に「借金の肩代わり」に「名義売り」に成る場合もあった。
これら全ては、その「郷士や郷氏」の「経済的な背景」が左右していた。
「娘」(女子)が無かった場合は、形式上、縁者や他氏から求めて「養女」を仕立てて、この形に持ち込んだものもある。この方式は最も有利であったからで、「1の方式」に持ち込む事が出来ない場合には2から3と変えて行ったものもあった。
「青木氏の戒律」に縛られないで、「地域性」に左右されて経済的に低かった「高知青木氏」には、「郷士の坂本氏」でも起こっている程から、よりこの現象が起こった可能性が高い。
恐らくは、「本家筋」の範囲ではこの方式で「高知青木氏」を保もたれていた事も考えられる。
依って、その「氏の衰退」と「名義売り」をしてしまった事からも、自由になった明治後の「都会移動」と「入植移動」が起こったと考えられ、それと共に老齢化していた事が考えられるのである。
故に「青木村」を形成しながらパラメータが0と成り得ているのであろう。
つまり、「二つの青木村」に成っている事から、「本家筋の名義売り」になった事に成る。
一方で「青木村」が残り、二つ目の「青木村」を形成した事に成っているので、「1の場合」に限定される。故に「二つの青木村」が形成されたのである。
この場合であると、家紋も何もかも一切「札の条件」に成って居る事から判別が出来ないのである。
この様に、上記した様に「日向青木氏」の様に、現在でも子孫拡大が進んでいる「青木氏」もあれば、「高知青木氏」の様に衰退している地域もある。
況や、この「栄枯盛衰」は「伝統」の「継承有無の如何」に関わっている。
今後、伝統の継承のより強い意識が無ければ、この「高知の青木氏」の「伝統」のみならず「青木氏」も残念ながら消える見込みであろう。
・「徳島の青木村考察」
ところが、この四国に於いて、「二つの青木村」を持っている県がもう一つ珍しくある。それは徳島である。
ここは「高知」とは全く違うのである。
平安期初期からの北家筋の赴任定住地である。藤原秀郷流一門と同じ北家筋の利仁流一門の赴任地である。
ここには「護衛同行団の秀郷流青木氏」が定住の形式を一応採った地域であり特異な地域でもある。
その「子孫拡大」の「高知青木氏」の方向は、「徳島」の南側から西に向かって伸ばしたが、西に伸ばさなければならない理由があった事に成る。東には隆盛を極めたこの「秀郷流青木氏」が定住していたからである。
この東には上記する様に「剣片喰族の秀郷流青木氏」が定住していた。その定住には特異さがあった。パラメータは1である。
しかし、この1は単純な1ではない。高知で上記した様な衰退の様な現象が起こっていた事が思えるが、ところが隣接する東では全く別であった。(下記)
高知から観れば、隣国であった事から東にも青木氏が存在する事は、東にも「青木村」が2か所もあって、この事は高知では、長い間の歴史の中で風評として承知していた筈である。
その「高知青木氏の経済的背景」の経緯は次ぎの様な現象であった。
特に、「日向青木氏」の様に無人の山岳部や沿岸部を開墾して「生活の糧」とした訳ではなく、一族逃避時からその力を使って「讃岐青木氏の援護」を受けて領地を拡大した戦乱の室町期の「子孫拡大」であった。「讃岐藤氏」にとっては「背後の憂い」をなくす意味でも都合が良かった。
ところが「高知の青木村」が隣接する東側の地域の阿波徳島一帯には、愛知から来た「剣片喰族」の「秀郷流青木氏」が赴任して土地に絶大な勢力を張っていた。
東には憂いが無かった事が「高知青木氏」(土佐)にも成し得た勢力で「子孫拡大」は成し得た。
しかし、この「子孫拡大」は室町期末期までのもので、「山内氏の領地」となった「江戸期の安定期」と、「明治期の地租改正」などで「生活の基盤」と成る土地は力に頼った「子孫力」であった事から霧消した筈である。
その背景と成っていた「讃岐藤氏」も「四国の勢力争い」の「戦乱の苦境」の中にあっての「高知青木氏」は「讃岐青木氏の庇護」は無くなったと考えられる。
筆者は上記の「高知の名義札問題」は、この時に起こったと考えている。
「高知」では財政的に子孫存続が難しくなった「名義売りの青木氏の方」は衰退し、「名義買いの方」は逆にその財政力を使って隆盛して、この「名義買いの方」の青木氏が残った可能性がある。
多くは「名義買いの方」は「坂本氏の例」に観る様に「商家」であった。
とすると、「一方の青木村」は当然に消滅する筈である。
しかし、残っていると成ると、”一体どのような事が起こっていたのか”と云う問題がある。
だから、上記の2や3や4ではなく1である事に成る。
つまり、「娘」を娶り、「名義買い」もして、「財産」も買い上げて、「家柄」を「郷氏」に一段上に上げて、後に子孫が生まれれば、その一人を元の「名義売りの家」を興し直す事で可能に成る。
こうする事に依って、「名義買いの方」は名実ともに「青木氏と縁続き」と成る。
更に、そこで更に子供が出来れば、完全に「名義買いの方」の「血筋」の「青木氏」に特化してしまうのである。この経緯が本来の目的である。
「商家」が「武家」に特化する身分変更の奥の手であった。
財政的に優位にある「商家」は挙ってこの手を使った。「氏族」に成ると同時に「商い」にも有利と云う事が起こる。「商家 商家」と蔑げすまれる事は無くなる。
「室町期中期からの豪商」と呼ばれる者は殆どが「二足の草鞋策」(室町文化 殖産業)で、「江戸期の豪商」は逆に商家が「郷士や郷氏の札」を買う事で「二足の草鞋策」(元禄文化 販売業)に成った。
従って、4、3、2より1に持ち込もうとして、「名義売りの方」に娘が無くてもどこから女子を連れてきて先ず「養女」にしてこの取引を両者の合意で行った。
要するに、「血筋」と云うよりは「家柄」を重視した。これは「商い」にも役立つ利得からの選択であった。幕府や藩の「認可の便宜」と「公共事業の受注」にあった。今とあまり変わらない。
「弘前藩の事件」もこの「太平洋周りの廻船」の認可と「海産物の殖産海運」が物語っている。
恐らくは「商家の武家への特化」この事が起こったと観られる。
突き詰めれば、「札の買い手」の「家の継承」と云うよりは「利得のための特化現象」である。
故に、「二つの青木村」が残ったのである。
結局は、「名義札」にする側の青木氏は存続が出来なくなった事によって1から4の事が起こったのである。
終局は、断絶か滅亡の憂き目に成る運命であるから、「売る側」も「買う側」にもそれなりの利点があった。それ以外には無理である。
通常の「氏名継承」の「男系継承」の逆の事を起こしたのであり、元に戻す手段としても当時は認められていない「女系継承」が起こった事に成る。それを「正常な形にする手段」として「名義札制度」があったのである。
「氏家制度」が、”下剋上と戦乱の下級武士の勃興”で「社会の組織形態」が崩れて、室町期末期頃から「崩壊の憂き目」が起こった。
そこで考え出されたのがこの「名義札制度」であった。
この制度は江戸期の中期に入る前には「お家を護る」と云う大義名分の名目で盛んに行われた。
全くの他人の子供を「養子や養女」に迎えて家を継がせると云う事が頻繁に行われ、旗本や御家人の家柄を断絶から護ったのである。
当初は武士間だけであったが、それのみにあらず「庶民ー武家」からも「名義札」で取引して「養子や養女」を迎えて「家」を護ったのである。この「慣習の継承の裏」には、必ず「名義札」が動いた。
この「名義札」も社会的に認められたものであっても、「利得」より「家柄」と云うものに重点を置くと、江戸期または室町期に於いても「士農工商の縛り」がある以上は”「商家」が「武家」に”と蔑まれるは必定で、その為には、「名義札」も表にはなかなか出しにくい行為で制度である。
子供が出来るまでの少しの時間をかければ「売り手」の元の家に「再興の子供」を仕立てる事で名実共に「青木氏」には成れるが、そこに「商いの利得」が絡んでいれば密やかに「名義札の売買」は行われなくてはならない柵がある。
これは「武士」もより上の家柄にする事に限らず、「商家」もこれに参画して「武家の家柄」を獲得したのである。
・「高知の山内氏の考察」
この背景と成っていた「讃岐青木氏」は瀬戸内を通じて北に延ばした事から、「高知の青木氏」は「三つの条件」の全てを連鎖的になくして行った事が云える。
尚、合わせて江戸期の四国は大きく勢力図は変わった。
つまり、「姓族の時代」と成って、「氏家制度」の中で「高知の土佐青木氏」は生き延びるための基盤を失った事に成る。
恐らくは、「下級武士」から家を興した「山内氏」は愛知から家臣団を連れての「高知への転封」で、「土地の豪族」や「郷士、郷氏」等の勢力との激しい反発を受けた「有名な転封藩主」であった。
事件では、「話し合い」を前提として城内に入った「郷士団」「土豪団」と「山内氏」との間で城門を閉ざして城内で全滅に至るまで激戦を繰り広げた。この「激しい反乱」(有名な反乱)の末に解決した経緯があり、この「怨念と警戒」があって、「地元の勢力」、「土豪団」取り分け「郷士団」や「郷氏」には、山内氏は警戒していて「厳しい政策」を幕末までを採った事でも特に有名である。
(この事件でも郷氏が少なく成り「子孫力」が低い原因になった。)
その政策は「江戸末期の土佐藩」にもよく出ていて、「坂本龍馬」もこの事が原因で許可なく国元を離れた経緯がある位で、一部懐柔策としてこれらを家臣に加えたが「郷士や郷氏」には特に厳しい軋轢を加えた事でも有名である。
依って、「高知青木氏」も例外ではなく、通称歴史上では「名義買い」で称される上記した様な事が起こり「農民か漁民」(入植移動)に転身して生き延びた事が云える。
その事から土地に居づらい元青木氏は、後に特に明治期の「都会移動」「入植移動」の原因となった。
筆者の研究からも、この地域の「武家の青木氏の強い息遣い」は観られなかった。
「ルーツ掲示板」にも同じく観られない。「ルーツ掲示板」の比率に表現できない数字である。
しかし、「墓所の家紋分析」と「守護神の調査」の研究からまだ存在は確認できる。
数字的には1あるいは2以下のパラメータが得られる程度と考えられる。
しかし、記帳とルーツ掲示板にも無いと云う事は、その原因として「名義買いの青木氏」にも「高知在住の青木氏の老齢化」も起こっているのではないだろか。
下記に示す大阪や東京などの都会に、つまり、パラメータが多過ぎる地域に「移動定住」している事を示すが、外の四国3県のパラメータにはそれなりに妥当なものとして考えられる事から、この3県には高知からの移動の原因は考えられない。
「山内氏事件」「名義札」「入植移動」「都会移動」「戦乱期衰退」が原因して「武田氏系青木氏」の「高知青木氏」はパラメータが得られなかったと観られる。
「徳島」
そこで、比較対象として上記した様に隣接する「徳島の1」に付いて「特異性」があるので論じて置く。
その証拠には「徳島の1」である。(このパラメータの1には意味がある)
「徳島」は上記した様に、「剣片喰族」の「秀郷流青木氏」が愛知より移動して赴任定住していた。この期間は平安期から室町期中期まで赴任している。
この定住には、初期には「秀郷流一門」、その後に「藤原利仁流の藤原氏」も越後から赴任している。
ここには「秀郷流青木氏」が鎌倉期まで赴任していて定住していた事から、「秀郷一門」と「利仁一門」は一族系列である事から深い親交があって、その後に「阿波の秀郷流青木氏」は警護をしている。
(利仁と秀郷の関係 「秀郷」の祖祖父の「藤成」の兄弟の「鷲取」の5代目が「利仁」、「藤成」から4代目が秀郷 従兄弟としての関係程度であった事が記録から観られる。「陸奥の鎮守府将軍」としても「利仁流」も務めているくらいで相互に親交があった。両者を取り持ったのは「進藤氏」で仲介していた。「利仁流進藤氏」が越後と岩代の中間の東北地域には発祥している。)
この為に、「阿波徳島青木氏」はパラメータ1に関わらず江戸期末期まで「郷氏」として生き延びて子孫を確実に拡大させている。
この「パラメータの1」は徳島の南北に「青木村」を「二か所」も形成している事から観ると、”低い”と判断できるが、「高知青木氏」と違い、この”低い”のにはそれなりの理由があった。
この「剣片喰族」は愛知から静岡の沿岸部に分布していて江戸期まで青木氏外にも「片喰族」として大勢力を維持していた。
室町期末期の天正末期まで一門の永嶋氏が、伊勢域まで勢力を拡大させたが、これには「片喰族」と「剣片喰族」が加勢して勢力を維持させた。その為に、「四国阿波青木氏」も勢力を維持させた。
何故ならば、この「剣片喰族」は阿波に定住地二か所を設けながらも、固定定住するのではなく「愛知ー静岡」の地域から”「交代制」で維持する”という制度を採用していた。
本来の「入間帰還」の「青木氏の制度」と違い、これに従い「片喰族」として「子孫拡大」を分散させない様に確実なシステムを独自に敷いていた。
武蔵の前哨地として採用していた為に、本来は武蔵の国に復帰するが、この「片喰族」だけは「愛知ー静岡」に復帰していたのである。
この為に、「阿波」にはその勢力が固定されて、江戸期でも「郷氏」になったとしても「氏力」は保たれたのである。一族の相互間の連携を採っていた事が「家紋分析」でもこの事が裏付けられる。
故に、江戸期でも安定した勢力を保持した為に秀郷一門の主要家紋8氏の一つと成っていた。
高知の青木村の二か所は、「須崎市青木町」ー「高岡市青木町」の隣接市にある。
徳島の青木村の二か所は、「南端域の阿南市青木町」と「北端域の板野郡青木村」に完全に分離している。
つまり、「徳島の青木村」は上記したその制度にあった。
これは、利仁流一門の護衛の時は、「板野郡」に、秀郷一門の時は「阿南市」に分けて赴任住まいしていた事が判る。
両方には留守居を置いていたが、この「二つの青木村」の態勢は「利仁流と秀郷流の距離感」を保っていた事が考えられる。阿波国は紀伊水道に沿って南北に長い土地柄である。
利仁と秀郷の二門の護衛となると「青木村」一つで務める事は、幾ら親交があったとしても問題が生まれる。阿南と板野の中間に置いたとしても縦に長い地形から距離が生まれ初動に時間が掛かる。
そこで別々に「青木村」を置いた。
家紋が別の青木氏であれば「二か所の青木村」も考えられるが、「秀郷流青木氏」としては全国に支障なく護衛の軍団を配置するとなると、阿波の一国に「二つの青木軍団」を置く余裕はなかった。
長崎のところでも論じた様に、定住策を採りながらも入間を防御に支障を来さないためにもに帰還させる体制を採っていた。
特に阿波は秀郷一門ではなく、「北家利仁流一門」も赴任していると云う事から考えると、家紋別の青木氏を配置する事は無理であり、「北家利仁流一門」にも越後からの赴任と成ると、最低限の多少の護衛団を引き連れて来る事に成る。この「二つの北家護衛軍団」が一つのところと云う事は不可能で、「北家利仁流一門」には賜姓族でない為に「青木村の様な村の権利」は許されていない。
護衛団を駐留する場所の確保には土地の豪族との関係もあり難しく、「最小限の軍団」と成る。
「村の形成」は先ず「軍団駐留」と「守護の生活」を維持する「土地確保の許可」と、そこに必要な「農民などの職能集団」を置かなければならない事と成ると簡単には不可能である。
阿波には、平安期で確認できるところで10回程度で年数は3から5年(原則4年)で凡そ交互に務めている。この状況からも、一か所は無理である。
そして、この交代制が出来る条件が阿波にもっとも近い「秀郷流青木氏」でなくてはならないし、越後域からでは無理である。まさに江戸時代の苦痛の参勤交代の様に成ってしまう。
参勤交代の様に成れば「氏力」は低下してしまう。そうなると、秀郷一門の勢力圏の最西域は完全に限定される。
・「愛知の考察」
「愛知から静岡」に勢力を張る「片喰族の青木氏」と成り、その中でも、愛知側の「剣片喰族」と限定される。だから、最も合理的な「年期制度の交代制」を採る事が出来たのである。
これを本来の「帰還先の入間」と成ると問題が生まれる。
通常では116氏の本家筋は全て入間の護衛に当たるのが「秀郷一門の掟」であり、その例外として「剣片喰族」は許されていて関東にはこの家紋は少ないのはこの事による。
そもそも、「片喰族の分家」の「剣片喰族」の方が勢力が大きかった事が判っていて、そこで、「片喰族」一門としては「本家筋」の片喰族が「入間護衛」に回った事に成っている。
従って、「徳島の1」のパラメータは1で良いのであって、大きい事はあり得ないのである。
それ故に、「愛知ー静岡」域のパラメータは、「愛知の13」、「静岡の5」として大きいのであって、特に、「愛知の13」は一見して入間本領の17から比較すると”大き過ぎる”と見えるが大きくないのである。
「愛知の13」では本領域に近いパラメータと成るが、愛知は確かに勢力はあったが本領並の勢力下にあった事はなかった。
恐らくは、平均以上である事は否めないが、せいぜい本領の半分以下であった筈で、「秀郷一門の「第二の宗家」として勤めていた「秀郷流青木氏」としては統制下の中にあっての事で、「子孫拡大」の「三つの条件」を13にして置くことはあり得ない。
その必要性があるのならば、その元の「三つの条件」を入間に充てる事とする筈で、それほどに無策ではなかったし、余裕は無かった筈である。
「全国24地域」にそれなりの「三つの条件」を配置しなければならないだけではなく、「利仁流一門」にも加勢していた史実から、依って、愛知の実態は13ではなく7であった事が考えられる。
「愛知13ー7」は13から7への変動地であった事に成る。
特に、「経済的背景」に支障を来す事に成った筈で、この残り分は「徳島の1」に充てられた。
従って、「徳島の1」は7になり1に成りする「流動性のあるパラメータ」なのであって、そのパラメータの元は愛知の13の中にあって、全ての青木氏の中では特異な徳島と成る。
逆に、愛知は13に成り7に成りする「分布力」であった。
結局は、現在、愛知が13と成っている事から江戸期末期頃には徳島から多くは愛知に戻った事を示すものである。
どれだけ「徳島の青木氏」が「蜂須賀藩の家臣」に成ったかは不明ではあるが、成ったとしても徳島の本家筋が家臣になった事程度であって、地元の民間所蔵の資料から観ても、家紋分析の内容からも「高知の青木氏」と同じ様に「徳島の青木氏」の多くは「郷氏」に成った事が判っている。
その元主であった「郷氏」と「漁民」が組んで「蜂須賀藩」との間でも「揉め事」を起こした事が書かれている。「徳島」の「郷氏ー漁民団」の場合は、資料では「船を使った戦法」を採ったところがその技術技能の無い蜂須賀藩には堪えたと観られ、彼らに「船の交易の特典」を与えた。この特典を活かして昭和20年代まで「阿波水軍」で有名を馳せた。この事が「徳島青木氏」の「子孫力」を遺した背景でもある。
ただ、「山内氏ー高知青木氏」(甲斐武田氏系青木氏)と「蜂須賀藩ー徳島青木氏」(藤原秀郷流青木氏)のその「元の基盤」が異なっていた事に成る。
この様に、「子孫力」を遺せるかどうかは「生き様の経緯」で決まる。
そして、その「生き様の経緯の流れ」には何人も”人は抗する事は出来ない”のである。
この「徳島ー愛知の現象」は少なくとも「室町末期ー江戸初期」まで続いていた事が、この事は「結城青木氏」の資料の記録の中でも凡その姿が書かれていて判る。
恐らくは、”世に憚る事無かれ”は、上記の「生き様の経緯の流れ」にうまく乗る事の「究極の秘訣」であって、その「身の処し方」はの意は、”必要以上に表に憚る事無く、一歩下がった処に身を置くことの大事さ”を示唆している。そして、その時、「心の持ち様」の意は、”「萎縮」する事無く「卑屈」に成らない事”とある。それを資料の語意から読み取れる。
これが「秀郷流青木氏」が「第二の宗家」として主導する「秀郷一門の掟」と成っていたと考えられる。
これは元々、「皇族賜姓族青木氏の生き方」でもあった。その証拠に「青木氏の掟」 ”世に晒す事無かれ、何れに利無し。”から来ている筈である。現在もこの「訓戒」は伝えられている。
これこそが、「全ての「青木氏の子孫力の根幹」に成っているのだ。
この様に「秀郷一門の青木氏」は、”生き残る為に巧みに処世を読み高望みせずに、丁度良い位置に身柄を置き江戸末期まで泳ぎ切った”のである。
(北家秀郷一門をリードする「第二の宗家」の「青木氏」の伝統的な生き方)
秀郷一門の「定住地域の24地域」の殆どは、これを護って大きな事件を起こさずに江戸期に入ったのである。(意に反して流れの中で巻き込まれて事件と成った事もあった。)
この゜生き様」は、「秀郷一門北家筋9氏」が家紋として用いている「下り藤紋」をはじめとする「主要8家紋の動向」の家紋分析でも判る。
そもそも、”下がる”を忌み嫌い「上る」を由として「上り藤紋」に多くの北家筋は伝統ある家紋を変えたが、敢えて、「秀郷一門の9氏」のみがこの「下がり藤紋」を変えなかった。
何故ならば、人が抗する事の出来ない「生き様の経緯の流れ」に対応するのには、「”世に憚る事無かれ”」の「究極の考え方」であるとしていたからである。
・「藤原秀郷一門の生き様」
その後の江戸初期前後の秀郷一門は、「皇族賜姓族青木氏」を除く、「丹治氏系青木氏」を含む「関東の青木氏」は「幕府または徳川氏の旗本家臣団」に加わり、「江戸幕府の本領安堵策」によりその勢力を保持した。
(例1 大名に充分に成り得る「土地持ちの御家人」でありながら、大名になったのは361氏の中で何とたった1氏の「内藤氏」だけである)
(例2 「丹治彦王の配流孫」の末裔「皇族青木氏」の「丹治氏系青木氏」は当初、豊臣側に着き奈良の地域を拝領する事を約束されていたが、「家康の調略」により徳川方に着き、その勲功で摂津4万石の大名に成った唯一の例がある。)
(例3 豊臣秀吉が家柄をよく見せる為に、豊臣家の「虚偽の系譜」に書き記して「縁者、親族」であるとして利用された「青木紀伊守」は越前北の庄八万石、「青木伊賀守」は越前丸岡四万六千石と成った「伝統ある青木氏の戒律」を破った経緯があるが、何れも徳川家康に依って、結局は除封されて越前福井に逃げ込んで「子孫力」を著しく弱めた。)
・「子孫力」「生き様の形」を作る秀郷一門の戦略
それは、そもそも、その「青木氏」は室町期末期から江戸初期に掛けての「生き様の形」は、「秀吉と家康の駆け引き」の流れの中にもあった。
そこでこの子孫を護る「生き様の形」の端的に物語る歴史上の有名な事件があった。
「秀吉」より「家康」が関東に国換えを命じられ時、即応した家康は、この「藤原氏」の各関東を中心とした各地にある”秀郷一門の絶大な勢力”を取り込むことで、豊臣以上の勢力が確保できる事を目論んだからであった。
「本領安堵」を前提として、最初に旗本の家臣団の傘下に入る事の交渉に入った事は歴史上の有名な史実であった。
「青木氏」を含む「秀郷一門」はそっくり徳川氏の中で「土地付きの上級武士団」(御家人)を形成したが、「大名」は敢えて好まず「青木氏」を含む一族一門は「御家人と旗本」を目指した。
この「子孫力」の「生き様の形」は、平安の時代が終わりの鎌倉時代と成った時も、「秀郷一門の行く末」を決める時も、「秀郷宗家の朝光」が採った戦略と全く同じ戦略を採ったのである。
頼朝はこれを認めた。(「本領安堵」ー「一族の家臣化」ー否大名化」)
又、別の例として、陸奥で秀吉に敵対しながらも「青木氏族」の秀郷流結城永嶋氏の領国 愛知は「関東屋形」として呼ばれていながらも江戸初期まで愛知まで勢力圏を補完した。
徳川氏に対して充分に大名に成り得る勲功を挙げている「永嶋氏」であっていながら、且つ「大名」としては充分な勢力を補完していながら、”絶対に大名と成らない事”で徳川氏との軋轢を避けた事にもあった。
「生き様の形」「生き延びる事」、「子孫力の保全確保」の為に採った一門の歴史的な「究極の選択方針」であった。この考え方が「子孫力」に大きく影響した。何も大名に成る事が「子孫力」を高めると云う前提ではない事を一族一門はよく承知していた。
大名と同じ勢力を保持している事であれば、憚って大名に成る必要性はないとしたのである。
(その「1/361」は、その一門の究極の生き様の掟は完全に守られていたとしても過言ではない。)
つまりは、其の儘では、「秀吉の調略」に乗せられて「徳川氏の基盤」を”江戸の周囲から突き崩す戦略”に”巻き込まれる事の経緯の流れ”を避けたのである。
秀吉は”関東を与える事”の先の事を読み込んでいたのである。
それは「藤原氏」を調略して、最終は「藤原氏の勢力」を使って周囲からせめて潰す計画にあった。
これを読んだ「家康ー関東藤原氏」は、「本領安堵」と「御家人家臣団」として「上級武士団」で解決した。(これに依って却って秀吉は逆に徳川氏を潰す事が難しくなった。)
江戸幕府の上級武士の中に「下り藤紋の藤原氏」が多いのはこの事による。
秀郷一門を家臣団に納めた事で、家康は秀吉との関係で、”鳴く迄待とう不如帰”の家康は、この奈良期から生き残って来た「北家藤原氏」の中でも「秀郷一門」の「生き様の形」、「生き延びる事」、「子孫力」の「究極の選択方針」(”世に憚る事なかれ”)を見習ったのでは無いかと考えられる。
・「江戸時代の秀郷一門の大名」
全北家筋で江戸時代に大名に成ったのは、凡そ280藩中で次ぎの5氏にすぎない。
その5氏も殆どは「内藤氏」である。「下り藤紋」(秀郷一門:361氏)
1 陸奥 湯長谷藩 内藤氏
2 越後 村上藩 内藤氏
3 駿河 高遠藩 内藤氏
4 日向 延岡藩 内藤氏
5 近江 水口藩 加藤氏
(北家筋の9家がこの家紋を使った。殆どは「上り藤紋」に変えた。)
これでも「究極の選択方針」を貫いた事が判る。
家康は、これと同時に、更にこの藤原氏が抱えていた「神職系の神社集団」と「浄土宗系集団」を取り込むために、幕府開幕前後から、直ちに、全国全ての「神明社(青木氏)」は幕府、徳川氏の管轄下に置き、浄土宗の信者集団も管轄下にして開幕後に直ちに「浄土宗督奨令とその法令」を発した。
そして、「青木氏の守護神」の全国500社にも及ぶ「神明社の全国修復の令」をも同時に発したのである。
これに依って、「皇祖神の子神の祖先神の勢力集団」が徳川氏に入った事で「他の神社集団」もこれに倣ったのである。
(この時点で「青木氏による神明社」と主な「浄土宗寺」は幕府ー維新政府の一級の管理の下に引き継がれた。これも「青木氏の巧みな生き様」である。)
(因みに、限定された歴史の史実であるので例として記述して置くと、筆者の伊勢の「青木氏の菩提寺」も接収されて「紀州徳川氏の菩提寺」と成り、寺も改めて菩提寺後のすぐ横に建て替えられた。そして、そこに「青木氏の墓所の権利」を与えられ、「寺名」も青木氏の時の同じものとなった。
「伊勢青木氏」が管轄していた「神明社」は全て「紀州徳川氏」に「修復前提」として引き渡した事が記録され、且つ、この時の様子を口伝にて伝わっている。)
更に、余談とも成るが、「伝統」云う事では意味があるので、敢えてその時の様子を短く記述する。
この時の伊勢松坂で紀州徳川氏との交渉が行われた事が記録されていて、会談に入った時に、我が家「当主長兵衛」と「徳川頼宣」との座る位置について問題が先ず起こった。
(身分家柄は古来より「青木氏」の方が上 「永代浄大1位」)
”どちらが上座に座るか”の問題で、家臣との談合が行われたが結論が出なかった。
そこで、「徳川頼宣」と青木氏当主の直接の決着で解決する事に成り、その場で自発的に「頼宣」は下座した。
困った当主長兵衛も礼儀から下座したので、結局、上座で同座となった。
しかし、ここでまた問題が起こった。当主長兵衛が座布団を敷かなかったところ頼宣も敷かず、家臣は平伏したままであった。そこで当主長兵衛は敷くと全て平伏を解いた。
この期にこの交渉に入った事が伝えられ、神明社と菩提寺の放棄の変わりの名目で、この時に、青木氏の土地の所有権(地主)を認められた。「吉宗の養父方の親交」、「享保改革の財政方」や、「幕末期の紀州藩の財政悪化をも指導」をして救った。この事が伝えられている。この後、祖父の代の大正14年まで深い親交があった。
”世に晒す事無かれ 一利無し”を護って世の記録としては遺されているが大館で出て来ない。
「二つの賜姓青木氏」は、この様に、表には出ずに”常に裏方に回る「子孫力」”を発揮した。
「子孫力」を作り上げる「青木氏の家訓10訓」はこの考え方にあった。
「岡山」
次ぎは、中国地方の「岡山」である。
この岡山(備前)は、「讃岐青木氏」の活動分布域に匹敵するほどの活動地域であり、更には、藤原氏北家筋からも鎌倉期と室町期に赴任して定住しているが「秀郷流青木氏」に関わりはない。
「瀬戸内」を経由して「讃岐青木氏」の活動領域である。ここには別の京都などの北家筋藤原氏の赴任地でもあった。紀州等もこの藤原氏(脩種ー脩行系の藤原氏)の赴任地であるが、この備前(岡山)の内の美作や備後にはこの系列の藤原氏が赴任している。
しかし、この「讃岐青木氏」が関わる「岡山の地域の沿岸部」の中では「備前ー備中の瀬戸内沿岸部」に定住していた。
況して、その「子孫拡大」の勢いは、この「岡山」を経由して北の宍道湖西域まで貫いて移動定住しているくらいである。
「島根のパラメータ2」はここに移動定住した末裔の「子孫拡大」によるものである。
この「移動定住」は本業の「廻船業」と、それを利用した「瀬戸内海産物の殖産販売」にて支店を開店して住み着いたもので、その末裔の子孫拡大である。
依って、「岡山」と「島根」とは同じ「讃岐青木氏」と同じ「廻船業関連の背景」にて「子孫拡大」に繋がったものである。「岡山の0」は最低でも「岡山の1」が認められる。
この「讃岐青木氏」の「香川」の「パラメータは1」ではあるが、「愛媛のパラメータの3」も「讃岐青木氏」であり、「讃岐」として地域を限定しているが、「愛媛の3」は「讃岐青木氏の横の分布領域」である。
(讃岐や日向など国を限定しての呼称と成っているが必ずしも限定する分布域ではなく、発祥起点を呼称していて、分布域=発祥域とはならないし、現実に限定の呼称は無理である。)
・「讃岐青木氏」
従って、この「愛媛」には「青木氏の歴史的縁故」は全くない。”無い”と云うよりはここの豪族が毛利系に保護されたの公家系西園寺氏とその配下の隅切り角紋族の土地柄(四国の豪族)であった事が原因していた。
戦国時代は「讃岐藤氏」が横に支配勢力を伸ばす事に制約があったし、「瀬戸内」を制していたとしても、南西域から「長曾我部一族」に侵攻される危険があって、沿岸沿いに西に伸ばすのがいっぱいであった。
従って、「香川」よりの「愛媛の3」のパラメータは「讃岐青木氏の3」であるので、「讃岐青木氏」は四国側では、次ぎの様に成る。
合わせて「パラメータは4」と成る。
中国側では「広島の3」、「島根の2」、「鳥取の2」と「岡山 0から1」を合わせての小計は「パラメータは8」と成る。
これら全て「瀬戸内沿岸部」を制していた「讃岐藤氏」の「讃岐青木氏」であり、四国と中国を合わせると合計「パラメータは12」と成る。
この「讃岐青木氏」の瀬戸内沿岸部の「小計パラメータ12」が、昭和20年代まで維持されていた事である。
(この「讃岐青木氏」の瀬戸内の「小計パラメータ12」は、昭和20年頃に北海道に入植移動定住していて、この内のパラメータは北海道のパラメータ11の中に入っているので、「讃岐青木氏」の「瀬戸内の子孫力」の総計はより大きくなる。下記 総計 パラメータ17)
・「入植地 北海道の関係考察」
これに、入植先の北海道の11の一部(下記 5/11が見込まれる)を加えると、「讃岐青木氏」の総合で「合計パラメータは17」と成る。
これは、「武蔵の秀郷一門の入間の本領地の17」と同等と成り、秀郷一門でありながら、且つ、「藤原氏北家筋」でありながら、「瀬戸内の財産」(経済的背景)を背景、根拠に「独立性」を高めていた所以である。
この事を考えると納得できる「讃岐青木氏の総合子孫力」は「パラメータの17」であった事に成る。
従って、「岡山の0」は讃岐地域に匹敵する地域ではあるが、パラメータが採れなかったし、10年間の間に「記帳」や「ルーツ掲示板」からデータが採れなかったのが不思議中の不思議であったが調査で判った。
「瀬戸内」で「子孫拡大」が成された事から、岡山=香川とすると、上記の通り「岡山」は0から1に修正される。
全国に分布する事からパラメータが、「三つの条件」で成り立ち、そこから「岡山」は2以上を超える事はなく、「瀬戸内」の中では「三つの条件」が同一である香川と同等と見込まれる。
>
> [地域別分布力]
> 「地域別」では「青木氏」は次の様な「分布力」になっている。
> 全国平均(全国単位 % 表ー1)
> 地域 異変の県 分布力
> 九州地方 長崎、大分 5%
> 四国地方 高知 2.5%
> 中国地方 山口、岡山 2.5%
> 関西地方 三重(筆者ルーツ) 14%
> 東北地方 秋田 7%
> 中部地方 15%
> 関東地方 45%
> 北海道・沖縄 6%
> その他 3%
>
> 地域平均(地域単位 /県 パラメータ 表ー2)
> 九州地方 1.3
> 四国地方 1.3
> 中国地方 1.3
> 関西地方 4.7
> 中部地方 4.3
> 関東地方 11.3
> 東北地方 2.0
> その他 11.0
>
> 「青木氏」は現在も以上の様に分布している。
>
> 修正地域(表ー3)
> 長崎 4 宮崎 6 岡山 4 香川 8 徳島 1-7 三重 12 福井 4 愛知 13-7
> 秋田 1
>
> 「青木氏の分布力図と伝統力図」(表ー4)
> 九州地方(5%) 中国地方(2.5%)四国地方(2.5%)関西地方(14%)中部地方(15%)
> 福岡 2 山口 0 愛媛 3 兵庫 3 三重 1
> 長崎 0 島根 2 香川 1 大阪 14 石川 2
> 佐賀 1 広島 3 高知 0 京都 5 福井 1
> 大分 0 岡山 0 徳島 1 奈良 1 岐阜 3
> 熊本 4 和歌山 4 愛知 13
> 宮崎 2 滋賀 1 長野 9
> 鹿児島 1 山梨 1
>
> 域平均 1.25 平均 1.25 平均 1.25 平均 4.7 平均 4.3
>
> 関東地方(45%)東北北陸地方(7%)沖縄、北海道地方(17.5%)
> 静岡 5 青森 1 沖縄 1
> 神奈川 21 山形 2 北海道 11
> 東京 18 岩手 1
> 埼玉 17 新潟 4
> 群馬 6 秋田 0
> 千葉 11 福島 4
> 茨木 4 宮城 2
> 栃木 8
>
> 域平均 11.3 平均 2.0 平均 11.0
>
>・「香川と岡山」の原因に続く。
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青木氏の分布と子孫力-1
「青木氏の分布と伝統力」
序
「伝統」とは、”そもそも何なのか”と云う事に気が進む。
「伝統」の”原動力”と云うものに着目すると判るかも知れない。
その「原動力」を維持させるものは、その「伝統」を持っている「集団の存在」と、その「集団の動向」に左右されている筈だ。
その「集団」が消えればその「集団」が持つ「伝統」も消えるが常道である。
「集団の如何」に左右されるは必定である。
「伝統」のシリーズを進めて「青木氏」を更に解明するには、先ずはこの「集団の如何」を解明しなければならない。そこで、問題はどの様に解明するかである。
それをこれまでの論文を基本として、それに対比する「集団の如何」の「現在の動向」を論じれば可能に成る筈である。
そこで、次ぎのデータを使いそれをパラメータにする事で「伝統」の”何なのか”が判ると考えた。
主に次ぎの三つのデータを使った。
当初、それを試みる為に、「家紋分析」を使って家紋を分類化してその数を地域ごとに把握する方式を採った。この「家紋の分類化」は「青木氏の家紋群」は別の目的の研究で判っているので、その「家紋群」が各県毎にどの程度の数を持っているかを調べた。
先に「青木氏の歴史上の分布域」が判っているのでそこを調べて、その隣接する地域にも拡大分布していると判断して広げていった。
凡そは掴めたが問題が出た。その問題は予想はしていたが、「虚偽に家紋」を使っている事でデータの信頼度が低くなる事であった。
虚偽の家紋は平安末期、室町期末期、江戸初期、江戸末期、明治初期に行われた。
夫々、状況が違った形で使われた。平安末期から特定の氏に使われ始め、当初は「象徴紋」としてであったが、その後に武士の台頭で家紋化していった。
特に、「荘園制」で「名義貸しの行為」からその内には「家紋」も勝手に使われるようになった。
室町末期は下剋上の終末で勃興した家臣が主の家紋を盗用する事が起こった。
江戸初期は旗本御家人が競って家柄を誇張する目的からすべての家臣は家紋を持つ様に成った。
この時も元主の「家紋」を偽って使った。
明治初期は「苗字令」に基づくもので全て「家紋」に関係の無かった9割の庶民は「家紋」を持ったが、「家紋」を考える余裕が無かったことから便宜的に周囲の気が付いた家紋を使用した。
何れの時期も「類似家紋]か[丸付き紋]を使うのが良心的行為ではあった。
殆どは「虚偽の家柄」を誇張する目的から使った「家紋」が多かった。
これは「家紋」は「氏と姓」、「宗派」、「地域」などと関連している為に矛盾が出てすぐに判別できるが、結局は”矛盾の持ったデータ”が出来上がってしまった。
結局、「家紋分析」から最後にこの「虚偽の洗い出し」をしたが、矢張り信頼度が低下した。
最も多かったのは「宗派の判別」の虚偽、次ぎは「氏姓ー族の判別」の虚偽、次ぎは「地域、国別の判別」の虚偽、等であった。
江戸期を含む以前は、原則「国抜け制度」で「自由移動定住」が「斬罪の禁令」であったにも関わらず、現代風の「自由移動」に考えて、それの「過去の慣習の知識」を忘れて他県、他氏、他家の家紋を使っている虚偽であった。
そもそも江戸期前の「氏家制度」では、「慣習と仕来りと掟」に依って成り立っているものであるにも関わらず、これを無視した様なこの様な「搾取による虚偽」が横行していた。
この状況は完全に見抜けるのだが、無視して使っている。
筆者は、この「虚偽」は明治後のかなり後の時期にその末裔が書き改めたものが多かったと観ている。
殆ど、この「慣習仕来り掟」の「縛り」が民衆の中に消え去った後の書き改めによるものである。
特に「家譜」などはほとんどが「虚偽」である。
第一、「家譜」をどの様にして作るのかと考えればすぐに判る筈だ。
家譜を作るには、その記録の保管と継承が必要で、そもそも江戸期前には下級武士以下の者にはこの”先祖を手繰る慣習”と概念もなかったし、それを行うのは「密教の菩提寺」で行われていた。
菩提寺を持つ事が出来る氏であれば可能であるが「姓族」にはこの習慣は元々無かった。
にも拘らず、「系譜」を作り上げている。
先祖が一人ひとり死ぬごとに書き足していったのか、書き足していったとするとそのようなシステムを敷いているくらいの「相当な家」(守護や大名クラス)であったのか、歴史家でもないのにそのデーターをどこで調べたのか、殆どが同じ筆跡で書いていると云う事は誰か一人が作ったのであって、そのデータをどこから持ってきたのか、唯一、江戸期以前は全て氏の運営する「菩提寺」で”限定された身分の氏”が管理されていたのである。「檀家寺」はあったとしても「人別帳」で代々の累計はない。一代限りである。その「菩提寺」も判らないし「過去帳」もない状況でどの様にして作ったのか甚だ疑問である。
江戸期初期に「家康の宗教改革」では、「浄土宗」は「密教」であった事から、その慣習は厳しく、これを改めたのが「家康の浄土宗督奨令」であって、特定の「上級武士」だけに認められた「菩提寺」であった。
それも「密教」では無く、「一氏一寺」のでは無く、全て「檀家方式」による「浄土宗寺」でもあった。
この様な慣習などがあったにも関わらず「家譜」を堂々と前面にして家柄を誇張する「姓名」が多い。
「家譜」と連動して「家紋分析」にも、最もこの「虚偽」のものが多いのだ。
注記
(注記 筆者は「姓族」が全体の9割を占める状況の中で、室町期以前に「家譜」を持つ事は100%あり得ないと考えていて、それなのにそれを公然と「家譜」として公表するなどの行為は納得できず殆ど信用していない。
もし、これらの「家譜」を「家譜」として認めたら日本は古来から9割の人が武士で武家であった事に成ってしまう。そんな論調はわざわざ採り得ない。
そもそも、参考の為に、江戸時代には「武士」を「武家」と呼称しているが、学問的には「武家」とは「公家」に対して朝廷が認めた呼称であって、原則は僅かに認可された「48氏」がこれに相当した。広げたとして鎌倉期に准認可の形式を採っている「180氏」の範囲に留まる。
その筆頭が奈良期に賜姓族が「三つの発祥源」として認められて最初に臣下した「青木氏」が、「武家」と呼称する事を許された最初のもので、この後に「48氏」が認められている。
この「48氏」の多くは、「藤原氏北家一門」(公家)から武家に成った「氏族」と、阿多倍一族の「氏族」が大半であり、この根源から出自した180氏に成る。
「源平藤橘」の他の族は多くは滅亡している。
そもそも日本は「二つの族」に分けられる。
「姓族」(かばね 姓名:せいめい)と「氏族」(うじ 氏名:しめい)とに分けられているし、日本語もその様に分けられてこの「二つの言葉」が未だ遺されている。この事を考えれば自分がこの二つの内のどちらの族であったかは判る筈である。搾取・偏纂・虚偽しても判る筈なのに判らない人にだけ騙す行為である。
そもそも「氏族」と「姓族」とは同じ系譜等を持つ事は絶対にないのだ。
「姓族」は最初に発祥したのは、瀬戸内の某寺の記録に出て来る範囲では、室町期末期の”「海部族」”と”「塩飽族」”であり、その多くは瀬戸内から出ている。
その後に室町期の勃興で立身出世した者が「姓」を名乗ったのが最初である。
この「姓族」には「職能集団の姓族」と「立身出世の姓族」(農民)との2流がある。
「姓族の姓名」を持つ家が「氏族の氏名」のルーツを持つ事は原則無いのである。
よく搾取・偏纂・虚偽として用いられているのは、端的なのは「源氏」であろう。
判り易い例は、「姓名の家」が「氏名の源氏」では絶対に無いと云う事だ。
筆者は歴史を論じる時、この編のところを明確に正確にする事に務めているので、他氏の事は兎も角もそのつもりで「青木氏論」をお読みいただきたい。
(下記「馳走の説」等でも世に論じる事を憚れる事を当時の「生の慣習」として用いられていたので、「歴史の真の意」として論じたのもこの為にある。違うと思うのであれば放念放棄されたい。)
データ採取
そこで、「守護神の神明社の研究」の存在分布と歴史的経緯の記録データを使ってこれを補正した。
しかし、確かに信頼度は向上したが、論文にするには問題があるとして、別の方法を用いて補正する事を考えてデータを集めた。
疑問や問題が出た時は、現地の歴史等のマニア仲間に依頼して調べた。約10年かけた。それが次ぎのデータであった。
このデータを統計学でパラメータ化してエラーとバイアスを抑える事に務めた。(CP=1程度)
(末尾 参照)
この様に「来場記帳」のデータと、「ルーツ掲示板」のデータに記録されているデータと、筆者が過去に研究した古い時代の青木氏の「定住地論」と「守護神論」や「家紋分析論」等を基本にして比較勘案して分析する事にした。(投稿済)
何と結局、「分布図」、「伝統力」、「子孫力」「子孫拡大力」としての論文に30年かかった事に成る。
出来て仕舞うと、大した論文ではない気もするが、「青木氏の伝統の解明」では一つのやるべき研究が出来た気がする。
その結果、次ぎの様な結果が出た。本論末尾に記載する。
結論から云うと、明治以降では、基本的に ”青木氏はあまり移動していない。”が云える。
では、”何故、他氏と同じ様に自由に拡大分布しないのか”が疑問と成る。
筆者は、「清和源氏頼信系の源の義経」の家来と成って、全国津々浦々に子孫を拡大させ、日本一の氏となっている「鈴木氏」を研究した事があり、研究室にも論文を載せている。
その「分布状況の原理」とは大きく異なっている事が判る。
それは「分布の範囲」と「分布の仕方」に違いが出ている。
そこで、主にこの「二つの事」(「分布の範囲」と「分布の仕方」)に焦点を当てて、「青木氏」を炙りだ出す事にする。
そこから、「青木氏の伝統」の”「土台」と成っている「物事」が何であるか”が観えて来る筈だ。
そこで、”青木氏の子孫の分布力”に、先ず、”変わった事”が起こっているので、判り易くする為にそれを先に論じる事とする。
それは次ぎの事である。
”パラメータが妥当に取れなかった地域が存在する事”である。
「青木氏」が歴史的に見て存在し得ない地域にはデータは採れないのは当然だ。しかし、”存在し得ていた地域にも関わらずデータが採れない”と云う現象はおかしいのである。
つまり、”何かがあった”から採れなかった訳であるから、”それが何であるか”を浮き出させる必要がある。
本題の「分布図」、或は「子孫力」「伝統力」「子孫拡大力」云う意味で重要である。
「三つの現象」
それは次ぎの「三つの現象」に分けられる。
A 歴史的に確実に存在している筈であるのに確認できない地域
B 存在しなかった地域に存在している地域
C 存在しても多すぎるか又は少なすぎる地域
この「三つの現象」を先ず分析すれば、「青木氏」の全体の「子孫力」「子孫拡大」の状況が把握できる。
この「子孫拡大の状況」とは、「分布図」「分布力」「伝統力」に絞って論じる。
これらの分析に用いる情報は、「研究室」「ルーツ掲示板」「家紋掲示板」「地名地形データベース」等の殆どの論文に記載しているものを用いる。
既に、これを読んで頂いている場合はよりこの論文の理解が深まると確信している。
それを前提にしている。依って、若干、これらの情報は本論では改めて理解を深める為に各所で重複するところがある。
詳細は、これらを参照して頂く事とする。
それではABCに付いて論じる。
このABCは連携している。何らかの原因があったからABCが生まれているのだから、Aを中心にBとCを関連付けて論じる事とする。
A パラメータが採れなかった地域
筆者の研究データやルーツ掲示板や家紋分析等では、「青木氏の分布」は確認出来るが、10年間でのデータ採集では不思議に採れなかった県である。
「現在の状況」を「来場記帳」と「ルーツ掲示板」の二つの内容と「家紋分析」等を用いて数値化(パラメータ)したもので、表したものであり、「来場記帳」は10年間の「200件」、「ルーツ掲示板」で10年間での「1千件」のデーターを使用している。
これに「家紋分析や守護神や定住地論」等で調整する。
では、次ぎの県からの直接の記帳はない事である。
「他の地域」から観て、「下記の地域」のルーツとしてのデータはあるが、地元からのデータは確認できない地域である。
しかし、「過去の状況」は「定住地論」や「守護神論」や「家紋分析」などで数値化を出来るものでは、”確認できない”と云う事ではない。「現在の状況」である。
この「パラメータの有無」は、”存在しない”と云う必ずしも前提ではなく、「過去の状況」に比べて、「有無」を含めた”何かの異変がある”と云う事である。
[地域別分布力]
「地域別」では「青木氏」は次の様な「分布力」になっている。
全国平均(全国単位 % 表ー1)
地域 異変の県 分布力
九州地方 長崎、大分 5%
四国地方 高知 2.5%
中国地方 山口、岡山 2.5%
関西地方 三重(筆者ルーツ) 14%
東北地方 秋田 7%
中部地方 15%
関東地方 45%
北海道・沖縄 6%
その他 3%
地域平均(地域単位 /県 パラメータ 表ー2)
九州地方 1.3
四国地方 1.3
中国地方 1.3
関西地方 4.7
中部地方 4.3
関東地方 11.3
東北地方 2.0
その他 11.0
「青木氏」は現在も以上の様に分布している。
修正地域(表ー3)
長崎 4 宮崎 6 岡山 4 香川 8 徳島 1-7 三重 12 福井 4 愛知 13-7
秋田 1
「青木氏の分布力図と伝統力図」(表ー4)
九州地方(5%) 中国地方(2.5%)四国地方(2.5%)関西地方(14%)中部地方(15%)
福岡 2 山口 0 愛媛 3 兵庫 3 三重 1
長崎 0 島根 2 香川 1 大阪 14 石川 2
佐賀 1 広島 3 高知 0 京都 5 福井 1
大分 0 岡山 0 徳島 1 奈良 1 岐阜 3
熊本 4 和歌山 4 愛知 13
宮崎 2 滋賀 1 長野 9
鹿児島 1 山梨 1
域平均 1.25 平均 1.25 平均 1.25 平均 4.7 平均 4.3
関東地方(45%)東北北陸地方(7%)沖縄、北海道地方(17.5%)
静岡 5 青森 1 沖縄 1
神奈川 21 山形 2 北海道 11
東京 18 岩手 1
埼玉 17 新潟 4
群馬 6 秋田 0
千葉 11 福島 4
茨木 4 宮城 2
栃木 8
域平均 11.3 平均 2.0 平均 11.0
ところが、この「異変の県」Aの7県は意外な県ばかりである。
「長崎」
先ず、「長崎」は「藤原秀郷流青木氏」で、鎌倉期に赴任後に定住して「青木村」を形成する程の「子孫拡大地」である。「家紋分析」から「116氏ー24地方」もの「子孫拡大」である。
この勢いは現在も確認できる。この「異変の県」は「116氏ー24地方」の一つである。
絶対に0と云う事ではない。九州地方は全体で5%で、九州地方のAVE1.5であるとすると、少なくとも「九州と云う地域性」から観て、パラメータは2-5の中にあり、これに「定住地論」と「守護神論」や「家紋分析論」等から勘案すると、6は超えない。
恐らくは「青木村の形成力」から観て「長崎」はパラメータは本来は5であろう。
しかし、異変は0を示している。(下記)
そこで、この異変の県「長崎」のパラメータを推測するには、九州の他の歴史的な繋がりのある地域のパラメータを先ず吟味する必要がある。
「大分」「山口」
次ぎはBに属する「大分」と「山口」である。
確かに歴史上は何れも「青木氏」としては直接関係のある地域ではない事は確かである。
しかし、この2県には「藤原秀郷流青木氏」が鎌倉期と室町中期に一部に移動している史実があるが、「子孫拡大」がされていない事が云える。
特に、「山口」は「2つの青木氏」にとっては移動しにくい条件が鎌倉期ー室町期中期までにあった。
ここは藤原氏北家外の「皇族系の公家衆」が逃げ込んだ地域でもある事から、平安初期から観て「青木氏」の「皇族賜姓族」としての立場上では難しい地域であった。ここは毛利の前は室町期は「陶氏」が中国全土を抑えていた。
この「陶氏」は、後漢帰化人の阿多倍王の首魁が引き連れて来た職能集団で、その中でも勢力を持った「姓族」であり、「朝廷の官僚族」を牛耳っていた一門でもあり、平安期の平族の支配下にあって平族が滅亡した後も勢力を伸張させた。
「賜姓族青木氏」からするとこの勢力範囲は「親地域」では無かった。
依って、官僚の「公家の逃避地域」でもあったことから、今も然ることながら室町期まで定住分布に至る状況は観られなかった。パラメータが0である事には問題ではない。
むしろ、「分布できない地域」であったのである方がおかしい地域である。
特に、ところが一方「大分」は特別賜姓族の「藤原秀郷流青木氏」との関係が深く、「大分の豪族」が関係強化の為に室町期に武蔵と常陸にまで往来して関係を保っていたほどの地域でもある。
直接、「青木氏」が定住移動した記録はないが、関東に大分の「佐伯氏」が存在している等から観ても、ここに室町期の豪族の支流末裔の「青木氏」が無かった事は考え難い。
逆に、関東の酒井氏(青木氏族永嶋氏)が大分に存在する事からも「青木氏」が存在していた筈である。
(九州進藤氏も極少数ではあるが永嶋氏と同じ分布力があった。)
この大分の分布が「九州の地域性」から観て、「大分」と同じ状況であった「佐賀の1」に相当していて、結局は小で支流化して「氏か姓」として維持できなかった事に成る。
即ち、青木氏の子孫を遺せなかった可能性が大である。
そもそも、北九州としては、鎌倉期末期に藤原秀郷一門の「青木氏」と「長谷川氏」や「永嶋氏」等と、北九州と云うよりは九州全体を支配下に置いていた元「太宰大監」として自治を認められていた「大蔵氏族」との血縁を結んでいる記録がある。
その末裔が現存している事から、「菊池氏」や「酒井氏」や「宗像氏」等との支流族が確実に生まれていた。
この事は「家紋分析」からも「神職一族」との血縁が生まれていた事が確認できる。
しかし、「長谷川氏」や「永嶋氏」が子孫を大きく残しているにも関わらず、「秀郷流青木氏」との末裔は遺されていない。
この「秀郷流青木氏」は絶えた又は子孫を遺せなかったのでは無く、「武蔵の本領地」に戻った可能性が高い。「家紋分析」に表れて来ないのである。
それは「秀郷流青木氏」には「秀郷一門の護衛」と云う職務と、「本領の守護」の責務もあり、「朝廷の護衛」との官職の守らなければならない「三つの役職」があった。
更には、「皇族賜姓族青木氏」と「特別賜姓族青木氏」との連携による定住関係地に「守護神の神明社の建立」と「青木氏族菩提寺の建立」の役職もあった。
従って、この為には、「子孫」と「血縁関係族」を絶対的に増やす必要があったにせよ、「子孫」を必要以上に拡散させる事が出来なかった絡みがあった。
これは一面では、秀郷一門の「赴任地の子孫定住の戒律方針」と矛盾するところがあったが、九州域に「青木氏」を定着させて子孫を増やしたとしても、維持費にばかり経費が掛かり役目を果たす上での利点が少なかった事が云える。
特に、上記の表でも、関西以北の定住地に比べ、九州地域は「疎遠の地」でもあった事から「長谷川氏」や「永嶋氏」などと異なり、必要以上に「護衛力として残す必要性」はなかったと考えられる。
それは、「大蔵氏」と云う九州全土を有形無形に「支配する背景力」が厳然としてあって、それに頼ったと云う向きも大きかったのである。
むしろ、筆者は、「青木氏」と「進藤氏」は積極的に戦略的に”引いた”とする判断をしている。
何故ならば、この「大蔵氏」と「秀郷一門」との間の血縁を取り持った「進藤氏」も北九州では血縁をしながら引き揚げているのである。
この「進藤氏」は家譜や添書などから観ても「子孫拡大力」が非常に弱く、「一門の仲介役」を担っていた為に各地に分散させるより関東以北の拠点を固める必要があった。
これは一門の「第二の宗家」と呼ばれた「青木氏との連携」による結果であった事が判る。
両氏が共にその「氏の持っている事情」から引き揚げた事が判る。
九州に子孫を遺さなかったのである。
注釈
(進藤氏は鎌倉期末期とは別に「定住の時代性」は不詳ながら僅かに北九州の東域に確認できるが、室町末期か明治初期の「第三の進藤氏」である可能性が高い。
そもそも、「青木氏族」の「秀郷流進藤氏」は関東以北に支流一族を拡大させている。
あるとしても「阿波国」に赴任していた「北家藤原利仁流進藤氏」であるかも知れない。)
この様に、九州には血縁しても「一族末孫」に至るまで一切本領に戻さなければならない「秀郷流青木氏族」には厳しい内なる「環境条件」があったのである。
尚、この「内の環境条件」のみならず、更には「外の環境条件」にも厳しい「一族の賜姓族の戒律」で縛られていた。
「青木氏と進藤氏」は、共に”「大蔵氏との強い背景」”が無ければ「疎遠の地」として子孫存続に関わる「三つの条件」が成立せず、生き延びる事が出来なかった。
この「強い背景」とは、”「大蔵氏」の中に溶け込む事”を意味する。
つまり、端的には”「大蔵氏系永嶋氏」に成る事”である。
「秀郷流青木氏」は皇族系に絡む「賜姓族」である以上、その立場上の絡みから、「大蔵氏系青木氏」は元来成り立たなかったのである。
「氏家制度」の中で「身分、家柄、官職、官位」から「青木氏系大蔵氏」は成り立つにしても「青木氏の戒律」からこれを許される事ではなかった。
その根拠は、南北に大きく子孫を拡大させた「九州大蔵氏系永嶋氏」の「生き様の経緯」が物語る。(ルーツ掲示板参照)
この背景から、しかし、ここ「大分」には「青木村」はない事から数字的に観て、0或は1であろう。
パラメータの0はこの様な由来はあったにせよ納得できるものである。
「宮崎」
ところが、因みに、その由来として、近隣には、「宮崎の2」については次ぎの様な経緯がある。
理解を深める為に特記する。(上記「長崎」を評価するには大変に重要)
「宮崎の廻村」から「鹿児島の大口市」にかけて「清和源氏」の「宗家頼光系四家」の「頼政の孫(仲綱の子)」で、「宗綱」と「有綱」、それに叔父の「高綱」が「以仁王の乱」(源の頼政首謀)で「伊勢青木氏の助命嘆願」で許されて、特例を以って「宮崎廻村」に配流となった。
この時、世話を受けた土豪の「廻氏」との血縁による「配流孫」が生まれ、この土地の豪族の廻氏と周辺の土豪勢力等を使って、再び、北九州を守護していた「日向平軍団」を攻めた。
しかし、敗戦して懸命にこの「配流孫」を護って「薩摩大口村」まで何とか辿り着いたが、ここも攻められた時、大口村の住職の忠告でこの「配流孫」は、「嵯峨期詔勅」に基づいて、伊勢の「青木氏」の末孫を名乗った。
「伊勢青木氏」は「不入不倫の権」で護られていた為に、この時「配流孫」は一命を取り留めた。
ここには許される訳があった。
実は「頼光」の孫(「仲綱」の子)の三男で、乱に参加していなかった「京綱」は「伊勢青木氏の跡目」に入っていた。「清和源氏の四家」を「源平の戦い」で絶やさない為にも、事前に仕来りに従い同族跡目に入っていた。
(頼政の領国の伊豆国は「伊勢青木氏」を中心に「信濃青木氏」も加わり護っていた。頼光の経済的背景はこの伊勢と信濃の「二足の草鞋策」があった。)
上記の「助命嘆願」もこの「伊勢青木氏」からであった。その理由は、「伊勢北部伊賀地方」を「半国割譲」して「平族の領国」としていた「伊勢平衆」と、「伊勢青木氏」とは「伊賀和紙の殖産」を通じて隣国外にも繋がって強い親交があった。)
この経緯で「平族」は手が出せず「伊勢青木氏系日向末孫」として生き残った。
(不入不倫の権で保護する義務もあった。)
この「伊勢青木氏の配流孫」は、その後、「大口村」を山岳地を開墾しながら「黒田藩の傭兵の農兵」として働き、勲功を立て「苗字帯刀」、「五七桐紋の家紋」と「布衣着用」と「登城の権利」と「墓所の許可」を与えられ、「郷士の身分」(政治的背景)を獲得して、「三つの条件」の「経済的背景」(傭兵・開墾地)を得て明治期まで子孫を大いに拡大させた。
これが「日向青木氏」である。
この「日向青木氏」の「子孫拡大」は、「パラメータ2」に相当する程度に九州に初めて正規に「青木氏」を定住させた。これが「日向青木氏」であるが超有名人も現存している。
この九州に、独自に初めから「日向青木氏」の2のパラメータの「分布力」で発祥させた事から勘案すると、「大分、山口」のパラメータ0としても、上記する「日向青木氏」の経緯から見て、その「分布力の根拠」はないのでパラメータ0であろう。
逆に、「日向青木氏」のパラメータから観れば、「長崎」は現在はパラメータが0ではあるが、「長崎の推定 0-5」は妥当であろう。
さて、そうすると、上記の経緯から観て、「日向青木氏の2のパラメタ」は妥当なのかと云う疑問がある。これを確定させれば、上記の「長崎」はこの推定パラメータを確定できる。
そこで、確定させるには九州地域にはもう一つCの異変があるのだ。
「熊本」
それは、「熊本の4」のパラメータは「大分、山口」以上に全く「青木氏の根拠」がない地域である。Bである。
従って、この「日向青木氏の2」と「熊本の4」とを分離して考察することには問題がある。
恐らくは、この「日向青木氏の子孫拡大の方向」は「熊本域の横方向」にも広がったのではないか。
「熊本の4」は、ここには「青木氏の歴史」は全くない。
それにも関わらず全国平均の4のパラメータを確保している。
「パラメータの4」を得るには「歴史的な発祥根拠の定住」があって得られるものである。
元々、九州全土は、”何れの青木氏”に於いても「青木氏の歴史的発祥根拠」が本来は無い地域である。
あるとしても、上記した様に「日向青木氏」だけであり、「長崎」は「藤原秀郷一門の赴任」による「青木氏の護衛同行」が原因としての鎌倉末期から室町期初期の「移動定住」である。
「子孫拡大」には、現在と違い放って置いても単純に拡大すると云う生易しいものではない。
戦乱に近い状況の中では、主にその「経済的背景」(三つの条件)があってこそ拡大する。
要するに、「子孫拡大」=「経済的背景」+「武力的背景」+「政治的背景」にある。
この「三つの条件」のどれを主体にして「子孫拡大」を図るかにある。
その「氏」のこの「三つの条件」をどの様に生かすかによるが、「藤原秀郷流青木氏」(116氏)の様に、この「三つの条件」を平均的に高いレベルを保持して「子孫拡大」を果たした氏もある。
では「皇族賜姓青木氏」はどうであろうか。
1に「経済的背景」、2に「政治的背景」、3に「武力的背景」で「経済的背景」(1 「二足の草鞋策」)を基に「シンジケート力」(3)が補完していた。
「政治的背景」(2)は「皇族賜姓族」と云う保護された優位な背景があった事は他氏に比べると有利であったが、それなりにその立場を生活の中で生かさなければならないと云う責務と苦悩があった筈で、一概には有利とは云えない。
特に「子孫拡大」と云う点では制約が働いていた。
他氏と比べて著しい「慣習仕来り掟」の「厳しい戒律」に縛られていたのである。
特に「子孫拡大」に於いてこの「慣習仕来り掟」の「戒律」は大きな障害に成っていた筈である。
その為には「家訓10訓」等で「一族の行動」を制約されていた。
特に「血縁」を”「純潔」の「古来から戒律」(無形の伝統)”があった中では、”「一族の子孫拡大」がなされなければ「純潔の子孫拡大」はない”と云う何とも理解できない矛盾する条理に縛られていた。
兎に角は、依って、「子孫拡大」はこの「三つの条件」を何れにしても全て大なり小なりに持ち得ていなければ成し得ない事になる。
従って、「ねずみ算」の様に「子孫拡大」は望めない事が判るし、それ故に、「福井越前などの保護地」などの政策を採ったのである。
しかし、この「日向青木氏」には「伊勢青木氏族」とは云え、この「厳しい縛り」は全く無かったが、逆に、「発祥の基盤」(子孫を生み出す慣習)も何一つも無かったのである。
この「熊本の4」の「青木氏」には「三つの条件」を保持している歴史的経緯は全くない。
従って、「熊本の子孫拡大」は4であろうが何であろうが、本来は成し得ない筈である。
しかし、パラメータは「全国平均の4」である。
急に拡大して得られるパラメータではなく無視できない地域であるとすると、では、何なのかである。
「定住地論」や「守護神論」や「家紋分析論」をベースに考察吟味して勘案すると、答えは確実に出る。特に「家紋分析論」が大きく判定を加速させる。
その前に、上記に論じた様に、「氏族」の「上級武士」の「子孫拡大」は「子孫を生み出す慣習」の如何に左右される。この事に付いて先に論じて置く。
・「子孫を生み出す慣習」
この九州では「青木氏の歴史的経緯」の無いところから、「子孫を生み出す慣習」は「厳しい戒律」に縛られた「賜姓族」としては、唯一、血縁外に「子孫力」を高める手段として社会的に認められたものがあった。それは下記の慣習であった。
つまり、「現地の土豪」からの嫁取り等の「傍系支流の末孫」である。
「子孫を生み出す慣習」として、平安期末期から起こった「皇族などの氏族」にはそもそも許された「戦地妻の制度」があった。
赴いた地方の「現地の土豪」に「支流末孫」を故意的に作り上げて一族一門の勢力を拡大させる手段である。
この手段の「婚姻外」で現地の土豪の娘(娘が無ければ縁者の娘 更になければ家臣の娘で子供が出来れば「養女」として迎える。)、或は、中には妻を宛がってその氏族に子供を作らせ「現地の末孫」を作り、認知してイザと云う時には一族として”馳せ参じる”事とし、その勢力を維持する「正式な制度」であった。
この時、現地妻に「末裔」が出来れば、その傘下に正式に組み入れられる仕組みである。
俗に云う「馳走」の語源は、一般的には、「馳せ」は、”「馬の状態」を云い「馬」を駆けずり走りまわして食材を集めて食事する事”となっている。
しかし、これだけの意味だけではなく、語源の平安期の時期から観て元々この慣習から来ていると云われている。
食事からこの行為までの”遇し”を古来では”「馳走」”として常識化していた。
「馬の食事説」では、平安期では”お相伴に與かる”と成っていて、”馳走に與かる”とは異なっていたが、その内に明治期に社会制度が変わった事から「馬の食事説」に成ってしまった。
高い身分家柄の者が土地の土豪勢力などの”遇し”には、必ずと言ってもよいほどに慣習事として採用されていた。特に、平安末期から室町期中期まで採用されていた。
況や、「荘園制」との絡みの中で積極的に用いられた。
これは、現在からすると、”不道徳”と見なされる行為であるが、社会制度の異なる「氏家制度」の中では、「氏の構成」を”最高目的とする社会”では異常と見なされる事ではなく、「氏の構成」を目的とする限りに於いて当然の範囲の行為であった。
「氏の構成」即ち「子孫拡大と存続」は「最大の命題」であったし、その為の「一夫多妻の環境」の中の「習慣」では当然の行為であり、両者が進んでこの行為を容認していた社会であった。
ある「勢力の傘下」に入って「氏」を護らねば生きてゆけない社会であったからこそ認められた行為であった。
つまり、「御相伴」と「御馳走」とは持つ意味が違っていたのである。
そもそも、”走り”の深意(裔から族に至るまでの経緯を”走”とした意)と、”馳せ参じて”の”傘下に入る”の意味なのである。
これを清和源氏などが主に「荘園制度」を通じて積極的に用いた「戦地妻の制度」で、要するに、この「二つの制度」を通じて生まれた族が「未勘氏族」である。
現地の大小の土豪の荘園開発主に、この「戦地妻の制度」で子供が生まれなくても「名義借り」をして「源氏族」などを名乗った。
”源氏、源氏”と騒いで書き記して誇張する系譜は、殆どが「姓族」でありながら「氏族」ではないのに偽っているものである。多くはこの「戦地妻の制度」にて生まれたこの「未勘氏族」である。(荘園制度にもこの制度を併用した)
特に「藤原秀郷一門」はこの制度を「24の地域」に掟として積極的に採用した。
上記「長崎」もこの「赴任地発祥」の「24の地域」の一つである。
「藤原秀郷流青木氏116氏」の「24の地域」には、全てに「青木村」を形成していないが、「長崎」には「青木村」、「日向青木氏」にも「青木村」があり、この「青木村」がある事は「戦地妻の制度」よりも、別の方法として「赴任地」に「嫡子外の嗣子」(妾子扱い)を残して、「土豪との血縁」を進めた地域である事を示す。(「戦地妻の嗣子」の場合は「青木村」は形成出来ない。)
この「赴任地の嗣子制度」は「藤原氏の男系継承」を前提として子孫を遺した事を意味する正式な慣習であった。
「子孫を生み出す慣習」にはこの「二つの慣習」(戦地妻 赴任地)が多く利用された。
しかし、この「熊本の4」はこの何れにも適合した履歴はない。
つまり、そうすると「長崎」か「日向」からの「拡大分布」による事に成る。
そうなると、既に「長崎の青木村」を形成している以上は藤原秀郷一門では無くなる。
・「青木村」と「五七の桐紋」
その理由は、そもそも、”「氏名」を使った村名”は、「朝廷の許可」を得て「賜姓族」にしか許されていなかった。同じ「賜姓族」でも許されなかった氏もある。
例えば、「天智天皇」の「第6位皇子の施基皇子(青木氏)」の弟の「第7位皇子」の「川島皇子」も特別に賜姓を受けていながら地名の佐々木から近江の「佐々木氏」の賜姓を受けた。
「嵯峨期詔勅」では、更にこれの使用を禁じて正式に強化した。
従って、故に「青木村の存在」は一つの「青木氏の判断材料」と成る。
「地名」から「氏名」や「姓名」としたものはあるが、「賜姓の氏名」からの「村名」は青木氏外に無い。
この様に「青木村」が存在すると云う事はルーツの大きな決め手になるのだ。
それは「家紋分析」と「家柄身分」と「宗派」と「職能」で判断できる。
そこで、この「熊本の青木氏」の家紋を調べると、多くは「五七の桐紋」である。
後は、中には”「丸付き紋」”の明治期の家紋もあり、「墓所」には、この家紋を入れた墓所もある。これは明治以後に使用されるように成った花崗岩(ミカゲ石)が墓石である。(それ以前は仏説にて砂岩が仕来り)
「丸付き紋と花崗岩」のこの慣習事は「子孫拡大」が大きく起こっていた事を示すものである。
そもそも、「桐紋」は「天皇家の式紋」であって、「丸付き紋」共に禁令紋であったが、それに「丸付き紋」を付けた事は、独自に「丸付き紋」にしなければならない「子孫拡大」があった事を示す。
江戸期前に、この禁令を当時まだ破る事は出来ない筈で、資料としては出来て確認していない事から「桐紋の丸付き紋」の使用の物語るものは、元来「子孫拡大の多様性」があった事に成る。
そもそも、「象徴紋」系には「丸付き紋」は用いない。武家が用いる「本家分家の慣習」もない事から、当然に「丸付き紋の慣習」もなかった。
つまり、その慣習の無かった中で、この様に「禁紋の家紋」の「多様性」”があった事は、”「子孫拡大」が大きかった”事を示す。
「青木村」に集中する墓所のこの様な「家紋状況」を観る事で、その一族の子孫拡大の状況は掴める。
本来の「墓所の石」は古来の仏説により「砂岩」を”土に帰る”を基に由としていた。
しかし、それを砂岩から花崗岩にした事は、明治期の行為であって、その氏の「子孫拡大の証」に成る。
・「熊本」「宮崎」の吟味
先ず、「熊本の4」では次の事が判断要素となる。
一つ目は「墓所の桐紋」が使用されている。
二つ目は「青木村」は形成されていない。
三つ目は宗派は日蓮宗が多い。
四つ目は明治以後の履歴と過去帳は持たない。
五つ目は黒田藩の農民か傭兵の農兵である。
六つ目は「熊本の4」の発祥地域が南の鹿児島よりの熊本の「球磨郡」領域である。
考察すると、「熊本の八代郡」を境にして北部の阿蘇郡と菊池郡には分布は無い。
地理的条件と豪族が間に存在していた事から、そこを貫いて北九州側に出る事は出来なかった。
貫いていたら「戦いの渦」に巻き込まれ4のパラメータが得られない。
先ず、この阿蘇郡や菊池郡などの豪族には大蔵氏との血縁をしている。
その大蔵氏の背景を貫く力は無かった筈で、この地域に限定していた事に成る。
この事から”縦の南端の大口村”を起点として、そこから「山岳部の西」に真直ぐに拡大した事が判る。
北部には「大蔵氏」をはじめとして「菊池氏」「宗像市」「酒井氏」などの「神職系の大豪族」があって壁を作り、北部には伸びる事は絶対に出来なかったと観られる。
従って、「農兵や傭兵」として上記した様に伸びる為の「三つの条件」が何であったのかと云う問題であるが、この何れにも無く、それは次ぎの二つにあった。
一つは「山岳部の開墾」で「移動定住」
二つは「傭兵」にて「移動定着」
以上この二つにある。
(何れの領主にも属さない民は、「山岳部の開墾」で生き延びた。「源平の戦い」で敗れた平氏はこの「山岳部の開墾」で生き延びた。俗に云う「山族」である。)
さて、ここで問題なのは四つの国と神職系の豪族の壁がありながら、”「黒田藩との関わり」は何処で起こったのか”と云う事に成る。
「日向青木氏」が「傭兵」として働いた黒田藩は筑前福岡である。
「日向」にしても、「肥後」にしても間には豊後、筑後、肥前、豊前の「四つの国」が存在している。自然発生的に関係保持の「子孫拡大」は到底に無理である。
従って、明らかにこの「藤原氏北家の条件」に合致しない。
依って、上記の様に全て「日向青木氏の経緯」に合致する事から、「日向青木氏」が鎌倉期以降に「宮崎廻村ー鹿児島大口村」の「日向灘の縦方向の拡大」と、横に分布して行った事を示す。
それは「山岳地開墾」を行った事により、「傭兵、農兵」として横にも移動していった事を示す。
つまり、「山岳開墾」はこれを積極的に行ったのは「黒田藩」であるが、”黒田藩の傭兵と農兵をしていて保護された「日向青木氏」”と成る。
記録では「黒田藩の農兵」とする意味の事が記されている
しかし、この「四つの国」が介在して西に伸長したとしても、”北域の黒田藩の「傭兵や農兵」は成り立つのか”と云う疑問が起こる。
・「桐紋の考察」
それを解く鍵があるのだ。
一つは、「墓所の五七桐紋」である。
(一部に間違って明治後に書き込まれたと思われる「五三の桐紋」(花崗岩)が使われているが、これは間違いである。
「五三の桐紋」は「天皇家の正式な式紋」で天皇家が室町期に財政難に陥らされた時に太閤秀吉に対して、妥協してこの「五三の桐紋の式紋」の変紋の「五七の桐紋」の使用を渋々認めて財政難を救った経緯である。
これを豊臣秀吉は、更にこの「五七の桐紋」を勲功のあった家臣に使用を勝手に許した。
この「五七の桐紋」は与えられた藩主が、更には、特に”勲功のあった限られた家臣”にも与えたものである。その一藩が豊臣秀吉の最大の信頼を置いた軍師の「黒田藩」である。
この「黒田藩」も同じ手口で、積極的に勲功のあった「家臣や傭兵」に与えた記録がある。
この家紋の使用と共に併用して「特別扱いの権利」も認可した。
「日向青木氏」がこの「家紋の使用」と「特別扱いの権利」を与えられた事は記録から史実であるから、間に「四つの国」が存在していても「傭兵」として黒田藩に参加出来た事を意味する。
問題はこの「傭兵の有り様」である。
「農兵」とも伝えられているが、「戦いの下働き」をする「農兵」は四つ国を越えての行為は「国抜けの斬罪」の適用を受ける事からこれを超える事は不可能である。
しかし、国を持たない「私的軍事集団」の「傭兵」は自由に動くことができる為に可能である。
「国境の山岳地の開墾」で「糧」を得ながら、時には「傭兵」に成る「軍事集団」で、四つ国を越えてこれを採用していた「黒田藩」で勲功を挙げたのである。
況して、この「黒田藩」は、”兵庫の姫路の頃の薬売り”から出世した小寺氏の頃から、この「傭兵」を盛んに用いた事は有名である。
「傭兵」を戦いに初めて積極的に用いた織田信長と共に有名な氏である。
(黒田氏はこの「織田氏の戦い方」を研究し踏襲した。)
「織田信長」は「紀州雑賀氏」と「紀州根来氏」の「傭兵集団」の「鉄砲技能集団」を用いて「浅井ー朝倉」の連合軍を攻め落とした事は有名で、これを習って豊臣秀吉と共に黒田藩は「傭兵」を盛んに用いた記録がある。
(「雑賀氏」は「鉄砲鍛冶の技能集団」でもあり、「紀伊水道の海族」で、更に「諜報活動」を職務とする「雑賀忍者」でもあった。)
(源の義経が平氏の船団を先頭に立って打ち破ったのはこの雑賀氏の海族である。「根来衆」は根来神社の僧兵軍団で「忍者系の軍団」である。この様に各地にある「傭兵集団」には夫々「専門職の職能」を以て合戦等に傭兵として合力する。)
この「傭兵」が九州では「日向青木氏」であった事が、墓所にこの黒田藩との繋がりで「桐紋」の変紋を用いている事で判る。
どの様な職能を専門とする「傭兵」であったかと云う事であるが、「日向青木氏」に黒田藩から与えられた上記した特典から観て、まさに「戦う兵の軍団」であった事に成る。
限定した「傭兵」の「職能集団」には、この「歴史上の記録」からも雇側はこの特典を与えていない事で判る。
後に「徳川氏に傭兵」となった「雑賀氏、根来氏」にはこの特典はない事からも判る。
「柳生氏」は最終は家臣と成ったが「諜報軍団」を専門としていて徳川氏の軍師の家臣と成った事からも判る。
紀州真田軍団は諜報と実戦の軍団で、豊臣側の家臣団と成って味方して家康を窮地に追い込んだ事で有名で、”実際に戦う軍団”に上記する様な特典を与えている。
そこで、農民のみならず庶民が「墓所の使用」と、それにこの墓所の「墓石に家紋」を用いる事は法度であったが、「郷士扱い」の「墓所 苗字帯刀、登城、布衣着用」などのこれら「特権」を黒田藩から明治前に許されていた事はこれを証明する。
「登城権」と「布衣着用」までを許されたとする事は「相当の扱い」で普通ではない。
「登城権」は「家臣扱い」で、「布衣着用」は殿様に会え意見を述べられる権利で、「上級武士」が持つ権利である。「日向青木氏」はこれに「布衣に家紋の使用」を合わせて認めている。
「傭兵」としては考えられない「破格の扱い」である。
この扱いは「傭兵の勲功」とは別に「日向青木氏」のルーツにあったと考えられる。
「郷士」ではなく江戸期に与えられた「青木氏」などの「特別の氏」の「郷氏」と観られていた事を示す。
黒田藩の間に介在する四つ国には「日向青木氏の記録」は発見できない。
この事から、「日向青木氏」は次ぎの行動を採った事が判る。
”縦の北の発祥地の廻村から大口村の子孫拡大”
”大口村を起点に西の横に山岳部の球磨郡へ子孫拡大”
以上を起こした事に成る。
それは「傭兵」てして、「日向灘の沿岸部」と「球磨郡への山岳部」の開墾で土地を確保して糧として生き残った事に成る。
その起点と成っている地域の大口村の山岳付近に「青木村」がある事からここに定住している「青木氏の本家」が現存する事も考えると、「沿岸部の日向青木氏」は「兵や物資」を輸送する「日向灘の沿岸部の総戦術・軍船」で活躍し、「山岳部の日向青木氏」は球磨郡の山岳技能を使って「陸送」を中心とする軍団と、何れでも実戦を伴う「戦闘軍団」をも形成して傭兵と成っていたと観られる。
これを指揮していたのは大口市の「薩摩の青木村」からであったと観られる。
依って、「熊本の4」と「宮崎の2」と合わせて「日向青木氏」は「6のパラメータ」を持ち合わせていた事に成る。
・「パラメータ 6」の吟味
では、このパラメータの6は妥当なのかと云う問題である。吟味して観る。
「以仁王の乱」から約500年間で、全国平均以上の「パラメータの6」の子孫拡大を図った事に成る。
「皇族賜姓族青木氏」は別格としても、「他の秀郷流青木氏の歴史期間」平安中期960年からの1000年間から観ても、500/1000で約半分とすると、関東地域の平均11.3のパラメータの丁度半分5.6であり、「日向青木氏」の「パラメータの6」は充分に納得出来る。
むしろ、上記の経緯から「パラメータの6」でなくては成らない筈である。
相当に「日向青木氏」は上記した様な背景から「子孫拡大力」は大きかった事を物語る。
ただ、この「日向青木氏」には「子孫拡大力」の「分布力」に比例する”「伝統力」は必ずしもあるか”と云う事であるが、残念ながら「傭兵」と云う事もあって、殆ど消失しているので必ずしもそうではない。
「伊勢青木氏族日向青木氏」と成るが、「伊勢青木氏」の様に戒律に縛られる事なく、「子孫拡大」が吐かれた結果である。
そこで、「日向青木氏」のパラメータは6とすると、そうなると、上記「長崎」は同程度の0から6としていた上記の推論は当たる。
上記の「長崎」は6以下であろう。「日向青木氏」から観れば6は超えない。
長崎に続く
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序
「伝統」とは、”そもそも何なのか”と云う事に気が進む。
「伝統」の”原動力”と云うものに着目すると判るかも知れない。
その「原動力」を維持させるものは、その「伝統」を持っている「集団の存在」と、その「集団の動向」に左右されている筈だ。
その「集団」が消えればその「集団」が持つ「伝統」も消えるが常道である。
「集団の如何」に左右されるは必定である。
「伝統」のシリーズを進めて「青木氏」を更に解明するには、先ずはこの「集団の如何」を解明しなければならない。そこで、問題はどの様に解明するかである。
それをこれまでの論文を基本として、それに対比する「集団の如何」の「現在の動向」を論じれば可能に成る筈である。
そこで、次ぎのデータを使いそれをパラメータにする事で「伝統」の”何なのか”が判ると考えた。
主に次ぎの三つのデータを使った。
当初、それを試みる為に、「家紋分析」を使って家紋を分類化してその数を地域ごとに把握する方式を採った。この「家紋の分類化」は「青木氏の家紋群」は別の目的の研究で判っているので、その「家紋群」が各県毎にどの程度の数を持っているかを調べた。
先に「青木氏の歴史上の分布域」が判っているのでそこを調べて、その隣接する地域にも拡大分布していると判断して広げていった。
凡そは掴めたが問題が出た。その問題は予想はしていたが、「虚偽に家紋」を使っている事でデータの信頼度が低くなる事であった。
虚偽の家紋は平安末期、室町期末期、江戸初期、江戸末期、明治初期に行われた。
夫々、状況が違った形で使われた。平安末期から特定の氏に使われ始め、当初は「象徴紋」としてであったが、その後に武士の台頭で家紋化していった。
特に、「荘園制」で「名義貸しの行為」からその内には「家紋」も勝手に使われるようになった。
室町末期は下剋上の終末で勃興した家臣が主の家紋を盗用する事が起こった。
江戸初期は旗本御家人が競って家柄を誇張する目的からすべての家臣は家紋を持つ様に成った。
この時も元主の「家紋」を偽って使った。
明治初期は「苗字令」に基づくもので全て「家紋」に関係の無かった9割の庶民は「家紋」を持ったが、「家紋」を考える余裕が無かったことから便宜的に周囲の気が付いた家紋を使用した。
何れの時期も「類似家紋]か[丸付き紋]を使うのが良心的行為ではあった。
殆どは「虚偽の家柄」を誇張する目的から使った「家紋」が多かった。
これは「家紋」は「氏と姓」、「宗派」、「地域」などと関連している為に矛盾が出てすぐに判別できるが、結局は”矛盾の持ったデータ”が出来上がってしまった。
結局、「家紋分析」から最後にこの「虚偽の洗い出し」をしたが、矢張り信頼度が低下した。
最も多かったのは「宗派の判別」の虚偽、次ぎは「氏姓ー族の判別」の虚偽、次ぎは「地域、国別の判別」の虚偽、等であった。
江戸期を含む以前は、原則「国抜け制度」で「自由移動定住」が「斬罪の禁令」であったにも関わらず、現代風の「自由移動」に考えて、それの「過去の慣習の知識」を忘れて他県、他氏、他家の家紋を使っている虚偽であった。
そもそも江戸期前の「氏家制度」では、「慣習と仕来りと掟」に依って成り立っているものであるにも関わらず、これを無視した様なこの様な「搾取による虚偽」が横行していた。
この状況は完全に見抜けるのだが、無視して使っている。
筆者は、この「虚偽」は明治後のかなり後の時期にその末裔が書き改めたものが多かったと観ている。
殆ど、この「慣習仕来り掟」の「縛り」が民衆の中に消え去った後の書き改めによるものである。
特に「家譜」などはほとんどが「虚偽」である。
第一、「家譜」をどの様にして作るのかと考えればすぐに判る筈だ。
家譜を作るには、その記録の保管と継承が必要で、そもそも江戸期前には下級武士以下の者にはこの”先祖を手繰る慣習”と概念もなかったし、それを行うのは「密教の菩提寺」で行われていた。
菩提寺を持つ事が出来る氏であれば可能であるが「姓族」にはこの習慣は元々無かった。
にも拘らず、「系譜」を作り上げている。
先祖が一人ひとり死ぬごとに書き足していったのか、書き足していったとするとそのようなシステムを敷いているくらいの「相当な家」(守護や大名クラス)であったのか、歴史家でもないのにそのデーターをどこで調べたのか、殆どが同じ筆跡で書いていると云う事は誰か一人が作ったのであって、そのデータをどこから持ってきたのか、唯一、江戸期以前は全て氏の運営する「菩提寺」で”限定された身分の氏”が管理されていたのである。「檀家寺」はあったとしても「人別帳」で代々の累計はない。一代限りである。その「菩提寺」も判らないし「過去帳」もない状況でどの様にして作ったのか甚だ疑問である。
江戸期初期に「家康の宗教改革」では、「浄土宗」は「密教」であった事から、その慣習は厳しく、これを改めたのが「家康の浄土宗督奨令」であって、特定の「上級武士」だけに認められた「菩提寺」であった。
それも「密教」では無く、「一氏一寺」のでは無く、全て「檀家方式」による「浄土宗寺」でもあった。
この様な慣習などがあったにも関わらず「家譜」を堂々と前面にして家柄を誇張する「姓名」が多い。
「家譜」と連動して「家紋分析」にも、最もこの「虚偽」のものが多いのだ。
注記
(注記 筆者は「姓族」が全体の9割を占める状況の中で、室町期以前に「家譜」を持つ事は100%あり得ないと考えていて、それなのにそれを公然と「家譜」として公表するなどの行為は納得できず殆ど信用していない。
もし、これらの「家譜」を「家譜」として認めたら日本は古来から9割の人が武士で武家であった事に成ってしまう。そんな論調はわざわざ採り得ない。
そもそも、参考の為に、江戸時代には「武士」を「武家」と呼称しているが、学問的には「武家」とは「公家」に対して朝廷が認めた呼称であって、原則は僅かに認可された「48氏」がこれに相当した。広げたとして鎌倉期に准認可の形式を採っている「180氏」の範囲に留まる。
その筆頭が奈良期に賜姓族が「三つの発祥源」として認められて最初に臣下した「青木氏」が、「武家」と呼称する事を許された最初のもので、この後に「48氏」が認められている。
この「48氏」の多くは、「藤原氏北家一門」(公家)から武家に成った「氏族」と、阿多倍一族の「氏族」が大半であり、この根源から出自した180氏に成る。
「源平藤橘」の他の族は多くは滅亡している。
そもそも日本は「二つの族」に分けられる。
「姓族」(かばね 姓名:せいめい)と「氏族」(うじ 氏名:しめい)とに分けられているし、日本語もその様に分けられてこの「二つの言葉」が未だ遺されている。この事を考えれば自分がこの二つの内のどちらの族であったかは判る筈である。搾取・偏纂・虚偽しても判る筈なのに判らない人にだけ騙す行為である。
そもそも「氏族」と「姓族」とは同じ系譜等を持つ事は絶対にないのだ。
「姓族」は最初に発祥したのは、瀬戸内の某寺の記録に出て来る範囲では、室町期末期の”「海部族」”と”「塩飽族」”であり、その多くは瀬戸内から出ている。
その後に室町期の勃興で立身出世した者が「姓」を名乗ったのが最初である。
この「姓族」には「職能集団の姓族」と「立身出世の姓族」(農民)との2流がある。
「姓族の姓名」を持つ家が「氏族の氏名」のルーツを持つ事は原則無いのである。
よく搾取・偏纂・虚偽として用いられているのは、端的なのは「源氏」であろう。
判り易い例は、「姓名の家」が「氏名の源氏」では絶対に無いと云う事だ。
筆者は歴史を論じる時、この編のところを明確に正確にする事に務めているので、他氏の事は兎も角もそのつもりで「青木氏論」をお読みいただきたい。
(下記「馳走の説」等でも世に論じる事を憚れる事を当時の「生の慣習」として用いられていたので、「歴史の真の意」として論じたのもこの為にある。違うと思うのであれば放念放棄されたい。)
データ採取
そこで、「守護神の神明社の研究」の存在分布と歴史的経緯の記録データを使ってこれを補正した。
しかし、確かに信頼度は向上したが、論文にするには問題があるとして、別の方法を用いて補正する事を考えてデータを集めた。
疑問や問題が出た時は、現地の歴史等のマニア仲間に依頼して調べた。約10年かけた。それが次ぎのデータであった。
このデータを統計学でパラメータ化してエラーとバイアスを抑える事に務めた。(CP=1程度)
(末尾 参照)
この様に「来場記帳」のデータと、「ルーツ掲示板」のデータに記録されているデータと、筆者が過去に研究した古い時代の青木氏の「定住地論」と「守護神論」や「家紋分析論」等を基本にして比較勘案して分析する事にした。(投稿済)
何と結局、「分布図」、「伝統力」、「子孫力」「子孫拡大力」としての論文に30年かかった事に成る。
出来て仕舞うと、大した論文ではない気もするが、「青木氏の伝統の解明」では一つのやるべき研究が出来た気がする。
その結果、次ぎの様な結果が出た。本論末尾に記載する。
結論から云うと、明治以降では、基本的に ”青木氏はあまり移動していない。”が云える。
では、”何故、他氏と同じ様に自由に拡大分布しないのか”が疑問と成る。
筆者は、「清和源氏頼信系の源の義経」の家来と成って、全国津々浦々に子孫を拡大させ、日本一の氏となっている「鈴木氏」を研究した事があり、研究室にも論文を載せている。
その「分布状況の原理」とは大きく異なっている事が判る。
それは「分布の範囲」と「分布の仕方」に違いが出ている。
そこで、主にこの「二つの事」(「分布の範囲」と「分布の仕方」)に焦点を当てて、「青木氏」を炙りだ出す事にする。
そこから、「青木氏の伝統」の”「土台」と成っている「物事」が何であるか”が観えて来る筈だ。
そこで、”青木氏の子孫の分布力”に、先ず、”変わった事”が起こっているので、判り易くする為にそれを先に論じる事とする。
それは次ぎの事である。
”パラメータが妥当に取れなかった地域が存在する事”である。
「青木氏」が歴史的に見て存在し得ない地域にはデータは採れないのは当然だ。しかし、”存在し得ていた地域にも関わらずデータが採れない”と云う現象はおかしいのである。
つまり、”何かがあった”から採れなかった訳であるから、”それが何であるか”を浮き出させる必要がある。
本題の「分布図」、或は「子孫力」「伝統力」「子孫拡大力」云う意味で重要である。
「三つの現象」
それは次ぎの「三つの現象」に分けられる。
A 歴史的に確実に存在している筈であるのに確認できない地域
B 存在しなかった地域に存在している地域
C 存在しても多すぎるか又は少なすぎる地域
この「三つの現象」を先ず分析すれば、「青木氏」の全体の「子孫力」「子孫拡大」の状況が把握できる。
この「子孫拡大の状況」とは、「分布図」「分布力」「伝統力」に絞って論じる。
これらの分析に用いる情報は、「研究室」「ルーツ掲示板」「家紋掲示板」「地名地形データベース」等の殆どの論文に記載しているものを用いる。
既に、これを読んで頂いている場合はよりこの論文の理解が深まると確信している。
それを前提にしている。依って、若干、これらの情報は本論では改めて理解を深める為に各所で重複するところがある。
詳細は、これらを参照して頂く事とする。
それではABCに付いて論じる。
このABCは連携している。何らかの原因があったからABCが生まれているのだから、Aを中心にBとCを関連付けて論じる事とする。
A パラメータが採れなかった地域
筆者の研究データやルーツ掲示板や家紋分析等では、「青木氏の分布」は確認出来るが、10年間でのデータ採集では不思議に採れなかった県である。
「現在の状況」を「来場記帳」と「ルーツ掲示板」の二つの内容と「家紋分析」等を用いて数値化(パラメータ)したもので、表したものであり、「来場記帳」は10年間の「200件」、「ルーツ掲示板」で10年間での「1千件」のデーターを使用している。
これに「家紋分析や守護神や定住地論」等で調整する。
では、次ぎの県からの直接の記帳はない事である。
「他の地域」から観て、「下記の地域」のルーツとしてのデータはあるが、地元からのデータは確認できない地域である。
しかし、「過去の状況」は「定住地論」や「守護神論」や「家紋分析」などで数値化を出来るものでは、”確認できない”と云う事ではない。「現在の状況」である。
この「パラメータの有無」は、”存在しない”と云う必ずしも前提ではなく、「過去の状況」に比べて、「有無」を含めた”何かの異変がある”と云う事である。
[地域別分布力]
「地域別」では「青木氏」は次の様な「分布力」になっている。
全国平均(全国単位 % 表ー1)
地域 異変の県 分布力
九州地方 長崎、大分 5%
四国地方 高知 2.5%
中国地方 山口、岡山 2.5%
関西地方 三重(筆者ルーツ) 14%
東北地方 秋田 7%
中部地方 15%
関東地方 45%
北海道・沖縄 6%
その他 3%
地域平均(地域単位 /県 パラメータ 表ー2)
九州地方 1.3
四国地方 1.3
中国地方 1.3
関西地方 4.7
中部地方 4.3
関東地方 11.3
東北地方 2.0
その他 11.0
「青木氏」は現在も以上の様に分布している。
修正地域(表ー3)
長崎 4 宮崎 6 岡山 4 香川 8 徳島 1-7 三重 12 福井 4 愛知 13-7
秋田 1
「青木氏の分布力図と伝統力図」(表ー4)
九州地方(5%) 中国地方(2.5%)四国地方(2.5%)関西地方(14%)中部地方(15%)
福岡 2 山口 0 愛媛 3 兵庫 3 三重 1
長崎 0 島根 2 香川 1 大阪 14 石川 2
佐賀 1 広島 3 高知 0 京都 5 福井 1
大分 0 岡山 0 徳島 1 奈良 1 岐阜 3
熊本 4 和歌山 4 愛知 13
宮崎 2 滋賀 1 長野 9
鹿児島 1 山梨 1
域平均 1.25 平均 1.25 平均 1.25 平均 4.7 平均 4.3
関東地方(45%)東北北陸地方(7%)沖縄、北海道地方(17.5%)
静岡 5 青森 1 沖縄 1
神奈川 21 山形 2 北海道 11
東京 18 岩手 1
埼玉 17 新潟 4
群馬 6 秋田 0
千葉 11 福島 4
茨木 4 宮城 2
栃木 8
域平均 11.3 平均 2.0 平均 11.0
ところが、この「異変の県」Aの7県は意外な県ばかりである。
「長崎」
先ず、「長崎」は「藤原秀郷流青木氏」で、鎌倉期に赴任後に定住して「青木村」を形成する程の「子孫拡大地」である。「家紋分析」から「116氏ー24地方」もの「子孫拡大」である。
この勢いは現在も確認できる。この「異変の県」は「116氏ー24地方」の一つである。
絶対に0と云う事ではない。九州地方は全体で5%で、九州地方のAVE1.5であるとすると、少なくとも「九州と云う地域性」から観て、パラメータは2-5の中にあり、これに「定住地論」と「守護神論」や「家紋分析論」等から勘案すると、6は超えない。
恐らくは「青木村の形成力」から観て「長崎」はパラメータは本来は5であろう。
しかし、異変は0を示している。(下記)
そこで、この異変の県「長崎」のパラメータを推測するには、九州の他の歴史的な繋がりのある地域のパラメータを先ず吟味する必要がある。
「大分」「山口」
次ぎはBに属する「大分」と「山口」である。
確かに歴史上は何れも「青木氏」としては直接関係のある地域ではない事は確かである。
しかし、この2県には「藤原秀郷流青木氏」が鎌倉期と室町中期に一部に移動している史実があるが、「子孫拡大」がされていない事が云える。
特に、「山口」は「2つの青木氏」にとっては移動しにくい条件が鎌倉期ー室町期中期までにあった。
ここは藤原氏北家外の「皇族系の公家衆」が逃げ込んだ地域でもある事から、平安初期から観て「青木氏」の「皇族賜姓族」としての立場上では難しい地域であった。ここは毛利の前は室町期は「陶氏」が中国全土を抑えていた。
この「陶氏」は、後漢帰化人の阿多倍王の首魁が引き連れて来た職能集団で、その中でも勢力を持った「姓族」であり、「朝廷の官僚族」を牛耳っていた一門でもあり、平安期の平族の支配下にあって平族が滅亡した後も勢力を伸張させた。
「賜姓族青木氏」からするとこの勢力範囲は「親地域」では無かった。
依って、官僚の「公家の逃避地域」でもあったことから、今も然ることながら室町期まで定住分布に至る状況は観られなかった。パラメータが0である事には問題ではない。
むしろ、「分布できない地域」であったのである方がおかしい地域である。
特に、ところが一方「大分」は特別賜姓族の「藤原秀郷流青木氏」との関係が深く、「大分の豪族」が関係強化の為に室町期に武蔵と常陸にまで往来して関係を保っていたほどの地域でもある。
直接、「青木氏」が定住移動した記録はないが、関東に大分の「佐伯氏」が存在している等から観ても、ここに室町期の豪族の支流末裔の「青木氏」が無かった事は考え難い。
逆に、関東の酒井氏(青木氏族永嶋氏)が大分に存在する事からも「青木氏」が存在していた筈である。
(九州進藤氏も極少数ではあるが永嶋氏と同じ分布力があった。)
この大分の分布が「九州の地域性」から観て、「大分」と同じ状況であった「佐賀の1」に相当していて、結局は小で支流化して「氏か姓」として維持できなかった事に成る。
即ち、青木氏の子孫を遺せなかった可能性が大である。
そもそも、北九州としては、鎌倉期末期に藤原秀郷一門の「青木氏」と「長谷川氏」や「永嶋氏」等と、北九州と云うよりは九州全体を支配下に置いていた元「太宰大監」として自治を認められていた「大蔵氏族」との血縁を結んでいる記録がある。
その末裔が現存している事から、「菊池氏」や「酒井氏」や「宗像氏」等との支流族が確実に生まれていた。
この事は「家紋分析」からも「神職一族」との血縁が生まれていた事が確認できる。
しかし、「長谷川氏」や「永嶋氏」が子孫を大きく残しているにも関わらず、「秀郷流青木氏」との末裔は遺されていない。
この「秀郷流青木氏」は絶えた又は子孫を遺せなかったのでは無く、「武蔵の本領地」に戻った可能性が高い。「家紋分析」に表れて来ないのである。
それは「秀郷流青木氏」には「秀郷一門の護衛」と云う職務と、「本領の守護」の責務もあり、「朝廷の護衛」との官職の守らなければならない「三つの役職」があった。
更には、「皇族賜姓族青木氏」と「特別賜姓族青木氏」との連携による定住関係地に「守護神の神明社の建立」と「青木氏族菩提寺の建立」の役職もあった。
従って、この為には、「子孫」と「血縁関係族」を絶対的に増やす必要があったにせよ、「子孫」を必要以上に拡散させる事が出来なかった絡みがあった。
これは一面では、秀郷一門の「赴任地の子孫定住の戒律方針」と矛盾するところがあったが、九州域に「青木氏」を定着させて子孫を増やしたとしても、維持費にばかり経費が掛かり役目を果たす上での利点が少なかった事が云える。
特に、上記の表でも、関西以北の定住地に比べ、九州地域は「疎遠の地」でもあった事から「長谷川氏」や「永嶋氏」などと異なり、必要以上に「護衛力として残す必要性」はなかったと考えられる。
それは、「大蔵氏」と云う九州全土を有形無形に「支配する背景力」が厳然としてあって、それに頼ったと云う向きも大きかったのである。
むしろ、筆者は、「青木氏」と「進藤氏」は積極的に戦略的に”引いた”とする判断をしている。
何故ならば、この「大蔵氏」と「秀郷一門」との間の血縁を取り持った「進藤氏」も北九州では血縁をしながら引き揚げているのである。
この「進藤氏」は家譜や添書などから観ても「子孫拡大力」が非常に弱く、「一門の仲介役」を担っていた為に各地に分散させるより関東以北の拠点を固める必要があった。
これは一門の「第二の宗家」と呼ばれた「青木氏との連携」による結果であった事が判る。
両氏が共にその「氏の持っている事情」から引き揚げた事が判る。
九州に子孫を遺さなかったのである。
注釈
(進藤氏は鎌倉期末期とは別に「定住の時代性」は不詳ながら僅かに北九州の東域に確認できるが、室町末期か明治初期の「第三の進藤氏」である可能性が高い。
そもそも、「青木氏族」の「秀郷流進藤氏」は関東以北に支流一族を拡大させている。
あるとしても「阿波国」に赴任していた「北家藤原利仁流進藤氏」であるかも知れない。)
この様に、九州には血縁しても「一族末孫」に至るまで一切本領に戻さなければならない「秀郷流青木氏族」には厳しい内なる「環境条件」があったのである。
尚、この「内の環境条件」のみならず、更には「外の環境条件」にも厳しい「一族の賜姓族の戒律」で縛られていた。
「青木氏と進藤氏」は、共に”「大蔵氏との強い背景」”が無ければ「疎遠の地」として子孫存続に関わる「三つの条件」が成立せず、生き延びる事が出来なかった。
この「強い背景」とは、”「大蔵氏」の中に溶け込む事”を意味する。
つまり、端的には”「大蔵氏系永嶋氏」に成る事”である。
「秀郷流青木氏」は皇族系に絡む「賜姓族」である以上、その立場上の絡みから、「大蔵氏系青木氏」は元来成り立たなかったのである。
「氏家制度」の中で「身分、家柄、官職、官位」から「青木氏系大蔵氏」は成り立つにしても「青木氏の戒律」からこれを許される事ではなかった。
その根拠は、南北に大きく子孫を拡大させた「九州大蔵氏系永嶋氏」の「生き様の経緯」が物語る。(ルーツ掲示板参照)
この背景から、しかし、ここ「大分」には「青木村」はない事から数字的に観て、0或は1であろう。
パラメータの0はこの様な由来はあったにせよ納得できるものである。
「宮崎」
ところが、因みに、その由来として、近隣には、「宮崎の2」については次ぎの様な経緯がある。
理解を深める為に特記する。(上記「長崎」を評価するには大変に重要)
「宮崎の廻村」から「鹿児島の大口市」にかけて「清和源氏」の「宗家頼光系四家」の「頼政の孫(仲綱の子)」で、「宗綱」と「有綱」、それに叔父の「高綱」が「以仁王の乱」(源の頼政首謀)で「伊勢青木氏の助命嘆願」で許されて、特例を以って「宮崎廻村」に配流となった。
この時、世話を受けた土豪の「廻氏」との血縁による「配流孫」が生まれ、この土地の豪族の廻氏と周辺の土豪勢力等を使って、再び、北九州を守護していた「日向平軍団」を攻めた。
しかし、敗戦して懸命にこの「配流孫」を護って「薩摩大口村」まで何とか辿り着いたが、ここも攻められた時、大口村の住職の忠告でこの「配流孫」は、「嵯峨期詔勅」に基づいて、伊勢の「青木氏」の末孫を名乗った。
「伊勢青木氏」は「不入不倫の権」で護られていた為に、この時「配流孫」は一命を取り留めた。
ここには許される訳があった。
実は「頼光」の孫(「仲綱」の子)の三男で、乱に参加していなかった「京綱」は「伊勢青木氏の跡目」に入っていた。「清和源氏の四家」を「源平の戦い」で絶やさない為にも、事前に仕来りに従い同族跡目に入っていた。
(頼政の領国の伊豆国は「伊勢青木氏」を中心に「信濃青木氏」も加わり護っていた。頼光の経済的背景はこの伊勢と信濃の「二足の草鞋策」があった。)
上記の「助命嘆願」もこの「伊勢青木氏」からであった。その理由は、「伊勢北部伊賀地方」を「半国割譲」して「平族の領国」としていた「伊勢平衆」と、「伊勢青木氏」とは「伊賀和紙の殖産」を通じて隣国外にも繋がって強い親交があった。)
この経緯で「平族」は手が出せず「伊勢青木氏系日向末孫」として生き残った。
(不入不倫の権で保護する義務もあった。)
この「伊勢青木氏の配流孫」は、その後、「大口村」を山岳地を開墾しながら「黒田藩の傭兵の農兵」として働き、勲功を立て「苗字帯刀」、「五七桐紋の家紋」と「布衣着用」と「登城の権利」と「墓所の許可」を与えられ、「郷士の身分」(政治的背景)を獲得して、「三つの条件」の「経済的背景」(傭兵・開墾地)を得て明治期まで子孫を大いに拡大させた。
これが「日向青木氏」である。
この「日向青木氏」の「子孫拡大」は、「パラメータ2」に相当する程度に九州に初めて正規に「青木氏」を定住させた。これが「日向青木氏」であるが超有名人も現存している。
この九州に、独自に初めから「日向青木氏」の2のパラメータの「分布力」で発祥させた事から勘案すると、「大分、山口」のパラメータ0としても、上記する「日向青木氏」の経緯から見て、その「分布力の根拠」はないのでパラメータ0であろう。
逆に、「日向青木氏」のパラメータから観れば、「長崎」は現在はパラメータが0ではあるが、「長崎の推定 0-5」は妥当であろう。
さて、そうすると、上記の経緯から観て、「日向青木氏の2のパラメタ」は妥当なのかと云う疑問がある。これを確定させれば、上記の「長崎」はこの推定パラメータを確定できる。
そこで、確定させるには九州地域にはもう一つCの異変があるのだ。
「熊本」
それは、「熊本の4」のパラメータは「大分、山口」以上に全く「青木氏の根拠」がない地域である。Bである。
従って、この「日向青木氏の2」と「熊本の4」とを分離して考察することには問題がある。
恐らくは、この「日向青木氏の子孫拡大の方向」は「熊本域の横方向」にも広がったのではないか。
「熊本の4」は、ここには「青木氏の歴史」は全くない。
それにも関わらず全国平均の4のパラメータを確保している。
「パラメータの4」を得るには「歴史的な発祥根拠の定住」があって得られるものである。
元々、九州全土は、”何れの青木氏”に於いても「青木氏の歴史的発祥根拠」が本来は無い地域である。
あるとしても、上記した様に「日向青木氏」だけであり、「長崎」は「藤原秀郷一門の赴任」による「青木氏の護衛同行」が原因としての鎌倉末期から室町期初期の「移動定住」である。
「子孫拡大」には、現在と違い放って置いても単純に拡大すると云う生易しいものではない。
戦乱に近い状況の中では、主にその「経済的背景」(三つの条件)があってこそ拡大する。
要するに、「子孫拡大」=「経済的背景」+「武力的背景」+「政治的背景」にある。
この「三つの条件」のどれを主体にして「子孫拡大」を図るかにある。
その「氏」のこの「三つの条件」をどの様に生かすかによるが、「藤原秀郷流青木氏」(116氏)の様に、この「三つの条件」を平均的に高いレベルを保持して「子孫拡大」を果たした氏もある。
では「皇族賜姓青木氏」はどうであろうか。
1に「経済的背景」、2に「政治的背景」、3に「武力的背景」で「経済的背景」(1 「二足の草鞋策」)を基に「シンジケート力」(3)が補完していた。
「政治的背景」(2)は「皇族賜姓族」と云う保護された優位な背景があった事は他氏に比べると有利であったが、それなりにその立場を生活の中で生かさなければならないと云う責務と苦悩があった筈で、一概には有利とは云えない。
特に「子孫拡大」と云う点では制約が働いていた。
他氏と比べて著しい「慣習仕来り掟」の「厳しい戒律」に縛られていたのである。
特に「子孫拡大」に於いてこの「慣習仕来り掟」の「戒律」は大きな障害に成っていた筈である。
その為には「家訓10訓」等で「一族の行動」を制約されていた。
特に「血縁」を”「純潔」の「古来から戒律」(無形の伝統)”があった中では、”「一族の子孫拡大」がなされなければ「純潔の子孫拡大」はない”と云う何とも理解できない矛盾する条理に縛られていた。
兎に角は、依って、「子孫拡大」はこの「三つの条件」を何れにしても全て大なり小なりに持ち得ていなければ成し得ない事になる。
従って、「ねずみ算」の様に「子孫拡大」は望めない事が判るし、それ故に、「福井越前などの保護地」などの政策を採ったのである。
しかし、この「日向青木氏」には「伊勢青木氏族」とは云え、この「厳しい縛り」は全く無かったが、逆に、「発祥の基盤」(子孫を生み出す慣習)も何一つも無かったのである。
この「熊本の4」の「青木氏」には「三つの条件」を保持している歴史的経緯は全くない。
従って、「熊本の子孫拡大」は4であろうが何であろうが、本来は成し得ない筈である。
しかし、パラメータは「全国平均の4」である。
急に拡大して得られるパラメータではなく無視できない地域であるとすると、では、何なのかである。
「定住地論」や「守護神論」や「家紋分析論」をベースに考察吟味して勘案すると、答えは確実に出る。特に「家紋分析論」が大きく判定を加速させる。
その前に、上記に論じた様に、「氏族」の「上級武士」の「子孫拡大」は「子孫を生み出す慣習」の如何に左右される。この事に付いて先に論じて置く。
・「子孫を生み出す慣習」
この九州では「青木氏の歴史的経緯」の無いところから、「子孫を生み出す慣習」は「厳しい戒律」に縛られた「賜姓族」としては、唯一、血縁外に「子孫力」を高める手段として社会的に認められたものがあった。それは下記の慣習であった。
つまり、「現地の土豪」からの嫁取り等の「傍系支流の末孫」である。
「子孫を生み出す慣習」として、平安期末期から起こった「皇族などの氏族」にはそもそも許された「戦地妻の制度」があった。
赴いた地方の「現地の土豪」に「支流末孫」を故意的に作り上げて一族一門の勢力を拡大させる手段である。
この手段の「婚姻外」で現地の土豪の娘(娘が無ければ縁者の娘 更になければ家臣の娘で子供が出来れば「養女」として迎える。)、或は、中には妻を宛がってその氏族に子供を作らせ「現地の末孫」を作り、認知してイザと云う時には一族として”馳せ参じる”事とし、その勢力を維持する「正式な制度」であった。
この時、現地妻に「末裔」が出来れば、その傘下に正式に組み入れられる仕組みである。
俗に云う「馳走」の語源は、一般的には、「馳せ」は、”「馬の状態」を云い「馬」を駆けずり走りまわして食材を集めて食事する事”となっている。
しかし、これだけの意味だけではなく、語源の平安期の時期から観て元々この慣習から来ていると云われている。
食事からこの行為までの”遇し”を古来では”「馳走」”として常識化していた。
「馬の食事説」では、平安期では”お相伴に與かる”と成っていて、”馳走に與かる”とは異なっていたが、その内に明治期に社会制度が変わった事から「馬の食事説」に成ってしまった。
高い身分家柄の者が土地の土豪勢力などの”遇し”には、必ずと言ってもよいほどに慣習事として採用されていた。特に、平安末期から室町期中期まで採用されていた。
況や、「荘園制」との絡みの中で積極的に用いられた。
これは、現在からすると、”不道徳”と見なされる行為であるが、社会制度の異なる「氏家制度」の中では、「氏の構成」を”最高目的とする社会”では異常と見なされる事ではなく、「氏の構成」を目的とする限りに於いて当然の範囲の行為であった。
「氏の構成」即ち「子孫拡大と存続」は「最大の命題」であったし、その為の「一夫多妻の環境」の中の「習慣」では当然の行為であり、両者が進んでこの行為を容認していた社会であった。
ある「勢力の傘下」に入って「氏」を護らねば生きてゆけない社会であったからこそ認められた行為であった。
つまり、「御相伴」と「御馳走」とは持つ意味が違っていたのである。
そもそも、”走り”の深意(裔から族に至るまでの経緯を”走”とした意)と、”馳せ参じて”の”傘下に入る”の意味なのである。
これを清和源氏などが主に「荘園制度」を通じて積極的に用いた「戦地妻の制度」で、要するに、この「二つの制度」を通じて生まれた族が「未勘氏族」である。
現地の大小の土豪の荘園開発主に、この「戦地妻の制度」で子供が生まれなくても「名義借り」をして「源氏族」などを名乗った。
”源氏、源氏”と騒いで書き記して誇張する系譜は、殆どが「姓族」でありながら「氏族」ではないのに偽っているものである。多くはこの「戦地妻の制度」にて生まれたこの「未勘氏族」である。(荘園制度にもこの制度を併用した)
特に「藤原秀郷一門」はこの制度を「24の地域」に掟として積極的に採用した。
上記「長崎」もこの「赴任地発祥」の「24の地域」の一つである。
「藤原秀郷流青木氏116氏」の「24の地域」には、全てに「青木村」を形成していないが、「長崎」には「青木村」、「日向青木氏」にも「青木村」があり、この「青木村」がある事は「戦地妻の制度」よりも、別の方法として「赴任地」に「嫡子外の嗣子」(妾子扱い)を残して、「土豪との血縁」を進めた地域である事を示す。(「戦地妻の嗣子」の場合は「青木村」は形成出来ない。)
この「赴任地の嗣子制度」は「藤原氏の男系継承」を前提として子孫を遺した事を意味する正式な慣習であった。
「子孫を生み出す慣習」にはこの「二つの慣習」(戦地妻 赴任地)が多く利用された。
しかし、この「熊本の4」はこの何れにも適合した履歴はない。
つまり、そうすると「長崎」か「日向」からの「拡大分布」による事に成る。
そうなると、既に「長崎の青木村」を形成している以上は藤原秀郷一門では無くなる。
・「青木村」と「五七の桐紋」
その理由は、そもそも、”「氏名」を使った村名”は、「朝廷の許可」を得て「賜姓族」にしか許されていなかった。同じ「賜姓族」でも許されなかった氏もある。
例えば、「天智天皇」の「第6位皇子の施基皇子(青木氏)」の弟の「第7位皇子」の「川島皇子」も特別に賜姓を受けていながら地名の佐々木から近江の「佐々木氏」の賜姓を受けた。
「嵯峨期詔勅」では、更にこれの使用を禁じて正式に強化した。
従って、故に「青木村の存在」は一つの「青木氏の判断材料」と成る。
「地名」から「氏名」や「姓名」としたものはあるが、「賜姓の氏名」からの「村名」は青木氏外に無い。
この様に「青木村」が存在すると云う事はルーツの大きな決め手になるのだ。
それは「家紋分析」と「家柄身分」と「宗派」と「職能」で判断できる。
そこで、この「熊本の青木氏」の家紋を調べると、多くは「五七の桐紋」である。
後は、中には”「丸付き紋」”の明治期の家紋もあり、「墓所」には、この家紋を入れた墓所もある。これは明治以後に使用されるように成った花崗岩(ミカゲ石)が墓石である。(それ以前は仏説にて砂岩が仕来り)
「丸付き紋と花崗岩」のこの慣習事は「子孫拡大」が大きく起こっていた事を示すものである。
そもそも、「桐紋」は「天皇家の式紋」であって、「丸付き紋」共に禁令紋であったが、それに「丸付き紋」を付けた事は、独自に「丸付き紋」にしなければならない「子孫拡大」があった事を示す。
江戸期前に、この禁令を当時まだ破る事は出来ない筈で、資料としては出来て確認していない事から「桐紋の丸付き紋」の使用の物語るものは、元来「子孫拡大の多様性」があった事に成る。
そもそも、「象徴紋」系には「丸付き紋」は用いない。武家が用いる「本家分家の慣習」もない事から、当然に「丸付き紋の慣習」もなかった。
つまり、その慣習の無かった中で、この様に「禁紋の家紋」の「多様性」”があった事は、”「子孫拡大」が大きかった”事を示す。
「青木村」に集中する墓所のこの様な「家紋状況」を観る事で、その一族の子孫拡大の状況は掴める。
本来の「墓所の石」は古来の仏説により「砂岩」を”土に帰る”を基に由としていた。
しかし、それを砂岩から花崗岩にした事は、明治期の行為であって、その氏の「子孫拡大の証」に成る。
・「熊本」「宮崎」の吟味
先ず、「熊本の4」では次の事が判断要素となる。
一つ目は「墓所の桐紋」が使用されている。
二つ目は「青木村」は形成されていない。
三つ目は宗派は日蓮宗が多い。
四つ目は明治以後の履歴と過去帳は持たない。
五つ目は黒田藩の農民か傭兵の農兵である。
六つ目は「熊本の4」の発祥地域が南の鹿児島よりの熊本の「球磨郡」領域である。
考察すると、「熊本の八代郡」を境にして北部の阿蘇郡と菊池郡には分布は無い。
地理的条件と豪族が間に存在していた事から、そこを貫いて北九州側に出る事は出来なかった。
貫いていたら「戦いの渦」に巻き込まれ4のパラメータが得られない。
先ず、この阿蘇郡や菊池郡などの豪族には大蔵氏との血縁をしている。
その大蔵氏の背景を貫く力は無かった筈で、この地域に限定していた事に成る。
この事から”縦の南端の大口村”を起点として、そこから「山岳部の西」に真直ぐに拡大した事が判る。
北部には「大蔵氏」をはじめとして「菊池氏」「宗像市」「酒井氏」などの「神職系の大豪族」があって壁を作り、北部には伸びる事は絶対に出来なかったと観られる。
従って、「農兵や傭兵」として上記した様に伸びる為の「三つの条件」が何であったのかと云う問題であるが、この何れにも無く、それは次ぎの二つにあった。
一つは「山岳部の開墾」で「移動定住」
二つは「傭兵」にて「移動定着」
以上この二つにある。
(何れの領主にも属さない民は、「山岳部の開墾」で生き延びた。「源平の戦い」で敗れた平氏はこの「山岳部の開墾」で生き延びた。俗に云う「山族」である。)
さて、ここで問題なのは四つの国と神職系の豪族の壁がありながら、”「黒田藩との関わり」は何処で起こったのか”と云う事に成る。
「日向青木氏」が「傭兵」として働いた黒田藩は筑前福岡である。
「日向」にしても、「肥後」にしても間には豊後、筑後、肥前、豊前の「四つの国」が存在している。自然発生的に関係保持の「子孫拡大」は到底に無理である。
従って、明らかにこの「藤原氏北家の条件」に合致しない。
依って、上記の様に全て「日向青木氏の経緯」に合致する事から、「日向青木氏」が鎌倉期以降に「宮崎廻村ー鹿児島大口村」の「日向灘の縦方向の拡大」と、横に分布して行った事を示す。
それは「山岳地開墾」を行った事により、「傭兵、農兵」として横にも移動していった事を示す。
つまり、「山岳開墾」はこれを積極的に行ったのは「黒田藩」であるが、”黒田藩の傭兵と農兵をしていて保護された「日向青木氏」”と成る。
記録では「黒田藩の農兵」とする意味の事が記されている
しかし、この「四つの国」が介在して西に伸長したとしても、”北域の黒田藩の「傭兵や農兵」は成り立つのか”と云う疑問が起こる。
・「桐紋の考察」
それを解く鍵があるのだ。
一つは、「墓所の五七桐紋」である。
(一部に間違って明治後に書き込まれたと思われる「五三の桐紋」(花崗岩)が使われているが、これは間違いである。
「五三の桐紋」は「天皇家の正式な式紋」で天皇家が室町期に財政難に陥らされた時に太閤秀吉に対して、妥協してこの「五三の桐紋の式紋」の変紋の「五七の桐紋」の使用を渋々認めて財政難を救った経緯である。
これを豊臣秀吉は、更にこの「五七の桐紋」を勲功のあった家臣に使用を勝手に許した。
この「五七の桐紋」は与えられた藩主が、更には、特に”勲功のあった限られた家臣”にも与えたものである。その一藩が豊臣秀吉の最大の信頼を置いた軍師の「黒田藩」である。
この「黒田藩」も同じ手口で、積極的に勲功のあった「家臣や傭兵」に与えた記録がある。
この家紋の使用と共に併用して「特別扱いの権利」も認可した。
「日向青木氏」がこの「家紋の使用」と「特別扱いの権利」を与えられた事は記録から史実であるから、間に「四つの国」が存在していても「傭兵」として黒田藩に参加出来た事を意味する。
問題はこの「傭兵の有り様」である。
「農兵」とも伝えられているが、「戦いの下働き」をする「農兵」は四つ国を越えての行為は「国抜けの斬罪」の適用を受ける事からこれを超える事は不可能である。
しかし、国を持たない「私的軍事集団」の「傭兵」は自由に動くことができる為に可能である。
「国境の山岳地の開墾」で「糧」を得ながら、時には「傭兵」に成る「軍事集団」で、四つ国を越えてこれを採用していた「黒田藩」で勲功を挙げたのである。
況して、この「黒田藩」は、”兵庫の姫路の頃の薬売り”から出世した小寺氏の頃から、この「傭兵」を盛んに用いた事は有名である。
「傭兵」を戦いに初めて積極的に用いた織田信長と共に有名な氏である。
(黒田氏はこの「織田氏の戦い方」を研究し踏襲した。)
「織田信長」は「紀州雑賀氏」と「紀州根来氏」の「傭兵集団」の「鉄砲技能集団」を用いて「浅井ー朝倉」の連合軍を攻め落とした事は有名で、これを習って豊臣秀吉と共に黒田藩は「傭兵」を盛んに用いた記録がある。
(「雑賀氏」は「鉄砲鍛冶の技能集団」でもあり、「紀伊水道の海族」で、更に「諜報活動」を職務とする「雑賀忍者」でもあった。)
(源の義経が平氏の船団を先頭に立って打ち破ったのはこの雑賀氏の海族である。「根来衆」は根来神社の僧兵軍団で「忍者系の軍団」である。この様に各地にある「傭兵集団」には夫々「専門職の職能」を以て合戦等に傭兵として合力する。)
この「傭兵」が九州では「日向青木氏」であった事が、墓所にこの黒田藩との繋がりで「桐紋」の変紋を用いている事で判る。
どの様な職能を専門とする「傭兵」であったかと云う事であるが、「日向青木氏」に黒田藩から与えられた上記した特典から観て、まさに「戦う兵の軍団」であった事に成る。
限定した「傭兵」の「職能集団」には、この「歴史上の記録」からも雇側はこの特典を与えていない事で判る。
後に「徳川氏に傭兵」となった「雑賀氏、根来氏」にはこの特典はない事からも判る。
「柳生氏」は最終は家臣と成ったが「諜報軍団」を専門としていて徳川氏の軍師の家臣と成った事からも判る。
紀州真田軍団は諜報と実戦の軍団で、豊臣側の家臣団と成って味方して家康を窮地に追い込んだ事で有名で、”実際に戦う軍団”に上記する様な特典を与えている。
そこで、農民のみならず庶民が「墓所の使用」と、それにこの墓所の「墓石に家紋」を用いる事は法度であったが、「郷士扱い」の「墓所 苗字帯刀、登城、布衣着用」などのこれら「特権」を黒田藩から明治前に許されていた事はこれを証明する。
「登城権」と「布衣着用」までを許されたとする事は「相当の扱い」で普通ではない。
「登城権」は「家臣扱い」で、「布衣着用」は殿様に会え意見を述べられる権利で、「上級武士」が持つ権利である。「日向青木氏」はこれに「布衣に家紋の使用」を合わせて認めている。
「傭兵」としては考えられない「破格の扱い」である。
この扱いは「傭兵の勲功」とは別に「日向青木氏」のルーツにあったと考えられる。
「郷士」ではなく江戸期に与えられた「青木氏」などの「特別の氏」の「郷氏」と観られていた事を示す。
黒田藩の間に介在する四つ国には「日向青木氏の記録」は発見できない。
この事から、「日向青木氏」は次ぎの行動を採った事が判る。
”縦の北の発祥地の廻村から大口村の子孫拡大”
”大口村を起点に西の横に山岳部の球磨郡へ子孫拡大”
以上を起こした事に成る。
それは「傭兵」てして、「日向灘の沿岸部」と「球磨郡への山岳部」の開墾で土地を確保して糧として生き残った事に成る。
その起点と成っている地域の大口村の山岳付近に「青木村」がある事からここに定住している「青木氏の本家」が現存する事も考えると、「沿岸部の日向青木氏」は「兵や物資」を輸送する「日向灘の沿岸部の総戦術・軍船」で活躍し、「山岳部の日向青木氏」は球磨郡の山岳技能を使って「陸送」を中心とする軍団と、何れでも実戦を伴う「戦闘軍団」をも形成して傭兵と成っていたと観られる。
これを指揮していたのは大口市の「薩摩の青木村」からであったと観られる。
依って、「熊本の4」と「宮崎の2」と合わせて「日向青木氏」は「6のパラメータ」を持ち合わせていた事に成る。
・「パラメータ 6」の吟味
では、このパラメータの6は妥当なのかと云う問題である。吟味して観る。
「以仁王の乱」から約500年間で、全国平均以上の「パラメータの6」の子孫拡大を図った事に成る。
「皇族賜姓族青木氏」は別格としても、「他の秀郷流青木氏の歴史期間」平安中期960年からの1000年間から観ても、500/1000で約半分とすると、関東地域の平均11.3のパラメータの丁度半分5.6であり、「日向青木氏」の「パラメータの6」は充分に納得出来る。
むしろ、上記の経緯から「パラメータの6」でなくては成らない筈である。
相当に「日向青木氏」は上記した様な背景から「子孫拡大力」は大きかった事を物語る。
ただ、この「日向青木氏」には「子孫拡大力」の「分布力」に比例する”「伝統力」は必ずしもあるか”と云う事であるが、残念ながら「傭兵」と云う事もあって、殆ど消失しているので必ずしもそうではない。
「伊勢青木氏族日向青木氏」と成るが、「伊勢青木氏」の様に戒律に縛られる事なく、「子孫拡大」が吐かれた結果である。
そこで、「日向青木氏」のパラメータは6とすると、そうなると、上記「長崎」は同程度の0から6としていた上記の推論は当たる。
上記の「長崎」は6以下であろう。「日向青木氏」から観れば6は超えない。
長崎に続く
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