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中国列車事故に関してレポート(潜在的欠陥)

中国列車事故に関してレポート
福管理人
2011/07/28 13:59 - パソコン
  中国の新幹線脱線事故
(潜在的欠陥)

序文
現在、以前より強気の発言が話題に成っていましたが、中国の表向きの威信を掛けての事だっただけに衝撃的な問題と成っています。筆者は当初よりこの問題には危険なものが潜んでいると技術者として疑念を抱いていました。図らずも中国が何と”日本に進んだ新幹線の技術供与をしますよ”と虚勢と威しを掛けてきたその直ぐ後にこの事件が起こりました。真実味の無い無知な国民を騙す共産党の国威高揚が招いた事件です。恐らくは真因をぼやかした原因説を出す事は判っていますので、そこで筆者の前からの疑念を敢えてこの際に披露しようと考えました。なかなか特別な領域の技術問題ですのでこの様な真因を判断出来る技術情報を把握している人は少ないと考えて投稿します。
多少、専門的内容を記述せさることに成りますが「潜在的欠陥」をより詳しく網羅させる必要からとご理解ください。
本件は今投稿中の「青木氏と神明社」のレポートに記述した「物造り」に真に関係する内容の決定的な例としても取り上げられるものですので敢えて論じます。
実はこの問題は歴史的な専門的立場からも観ると、明らかに「石は薬」「法より人」の中国の思考規準に影響した「潜在的な事故発生要因」が大きく潜んでいるのです。

「事故の相関性」
そもそも車や列車の高速化は常時ブレーキの制動力と相関していて命です。
後のパーツは常時の直結の人命の事故には繋がる可能性は有りません。せいぜい複合要因にての結果と成るでしょう。しかし、この事故は明らかに高速化=ブレーキ制動力=命の関係にあります。
それだけにこの事故には幾つかの要因がある中で、主に中国の「潜在的欠陥」の体質が働いた「ブレーキ制動力の事故」と云ってよいものです。
従って、真因を解析して判断するにはかなり専門的な工学領域の高度な幅広い綜合技術知識が必要と成ります。それも開発担当域の限られた技術者のノウハウの領域と成ります。
つまり、技術的に政治的に真因が解明され難い事故ともなり、且つ中国の置かれている立場と国民性が更に左右してしまう事故と成ります。

そこで、「青木氏と神明社」の論文に「物造り」の事として記述している事が真に一つの事例として現れてしまいましたが、当初より何か起こると気にしていた事なのです。

「高速化制御システム」
さて、上記した様に、それは高速化を制御する「列車管理システム」と「高速列車のブレーキ制動力」との相関問題にあるのです。中国はこの領域までの知識は到底ないと考えますが、全体として外国技術を習得し切れていない「付け焼刃的な現状」にあると考えられます。
中国はこの高速列車を主にドイツ、カナダ、日本の3国の列車技術の殆どの部分で導入しています。
外国技術は高度であり、且つ寄せ集めの先端技術である為に余計に複雑化して充分に短期間(4年)では習得は出来ていないと考えられます。列車の操作力は勿論の事、列車生産に関わる3国の異なる技術的ノウハウ等の取得は皆無に等しいと考えられます。そもそも教える方もこの短期間では困難です。
それだけの基礎力が元々無かったのですから、この短期間で扱いこなすにはこの複雑化した現場では習得し難いものと成り得ている筈です。「四苦八苦」が正しいのではないでしょうか。
中でも本文の「列車管理システム」のノウハウと「ブレーキ制動力」のノウハウの2つは最も命に関わる事でありながら、それだけに理解し習得に至るまでには最高度の難しいノウハウと成る筈です。
先ず無理であろう事が判ります。
中国当局がどんなに「虚勢」を張って国内向けに発言しても我々技術部門に直接携わった者から見れば「空虚」そのものであります。
先ずは、中国の「列車管理システム」はヨーロッパ統一の「ETC管理システム」を導入していますが、日本の列車(川崎重工)は異なる「ATC管理システム」で出来ています。
何れも「自国製」と発言していますが、この「虚偽の発言」そのものが無形の「潜在的欠陥」ではないでしょうか。

「高速化ブレーキ制動システム」
次ぎに、事故の追突された列車はカナダ製です。後ろの追突列車は日本の川崎重工の列車です。
ここでこの2つの列車には運用具合に依っては決定的な命に関わる違いがあるのです。
それはカナダ製のブレーキの制動力は山形制動の方式です。日本の列車は全て楔鍵形制動です。( 〕印を左横に倒した楔形の制御)
同じ線路上で、同じ列車管理システム上で、2つの列車の高速時のブレーキ制動力が著しく異なり、且つ、その制動方式も全く異なるシステムと云う極めて危険な運行状況です。考え難い組み合わせと成ります。
今だヨーロッパも日本も開発しきれていない相当な極めて最先端の「列車管理システム」でなくては安全運行は出来ないのではないでしょうか。
まして、この「2つの方式」の制動力の持つ中で、且つ外国から購入したこの混成列車の中国では、それまでは列車の管理は殆ど人為的に行われていたのですから、この複雑な条件をこなすシステムの開発は到底無理である事は云うまでもありません。

そもそも、つまり高速に成るほどブレーキは制動力が落ちますが、「2つの方式」の制動力が同じと言うことで有れば問題ありませんが、諸外国製のブレーキは高速に於いてはそもそも効き(制動力)が悪いのです。その為によほど手前からスピードを落としながら制動しないと停車位置に止まらないのです。
次第に速度を上げ最高速度に到達すると今度は次第に問題の起こらない速度まで落としてブレーキを制動して停める山形制動です。
日本はすぐに速度をピークに上げてそのままに維持し停車直前でブレーキを制動して定位置に停める楔鍵型です。(くさびかぎ形)
これは「方式」が違う、「制動力」が違うの話では無く、「技術力の差」なのです。
これはブレーキの技術力の開発差から来ています。つまり、殆どは金属冶金工学の技術力の差で日本は段突に進んでいます。

「摩擦熱400度と350K/Hの関係」
そこで上記した「問題の起こらない制動ポイント」とは、技術的に「摩擦熱が400度」のところを限界としています。これは大変に重要な要素なのです。
高速での制動は摩擦熱などによりかなり高温(日本は400度限界)に成りますので、普通の冶金学と機械工学の範疇では本来はブレーキそのものが造れないのです。ところが日本のブレーキはこれを解決していてこの相当な企業秘密ノウハウを占めています。
ところでこの「400度と云う温度」が金属にとって非常に厄介で問題の多い温度域で、金属の結晶に大きく質的変化を与える温度域なのです。
更に高速でブレーキを制動するとしますと当然に低速のものより摩擦熱が数倍に上がりますので、その400度の薄赤くなった金属には、溶接やボルト締め等の普通の機械的な処置が強度的に低下してしまい、使えないし加工は出来ない事になります。
ではどの様にしてブレーキの「焼結パット」を取り付けるか、又列車本体に取り付け固定するか普通の既存の技術的な方法では通用出来ない範囲なのです。
金属が温度が上がれば柔らかくなるのは当り前ですから普通の固定方式では成り立ちません。
この400度と云う温度は、鉄系の金属にとっては金属の性質(特性)が変わる限界点で、これ以上高く成ると金属の結晶構造が変わるので、普通の金属では機械的強度は絶えられません
鉄系の金属では500-650度の範囲までは「特性温度域(再結晶温度域)」と呼ばれ鉄系の中に含まれる炭素と融合(溶融結合)して「結晶構造」も変わり、それに伴ない更に別の性質(特性)に変わって行きます。この中間温度域(特性温度域)はそれなりに熱処理として多くの使い道があるのですが、ブレーキには柔らかくなる事も然りながら、絶対的に好ましくない「臨界的な温度域」であります。
逆説的に云えば、「摩擦熱」などにより上昇するこの直前の「400度と云う温度」が「ブレーキ構造方式の限界域」で、これ以上に摩擦熱が上がりますと「臨界的温度域」(特性温度域)に達する為に、リニヤーなどの列車の走行方式等の別の方式に変えなければならない温度域と云う事に成ります。
この「400度と云う温度」に達する速度とすれば350K/Hを限界としているのです。
これ以上の速度でブレーキ制動するとブレーキは破壊する温度域なのです。たとえ350K/H以上出せたとしてもです。400度=320K/Hを順守する必要があるのです。
ですから世界の先進国はより高速制動にする為には500K/Hのリニヤーの開発と成っているのです。

「400度の問題点と解決技術」
そこで開発の限界点とも云える高速350K/H以上の列車を開発するのは摩擦熱が上昇し著しい欠陥が露出する為に物理的(冶金学的)に困難ですが、この限界の手前の400度の温度域(高速320K/H以下)でブレーキ構造方式とするには次ぎの特別な解決手法の開発が必要となります。
解決手法
主に4つの部品に研究を加えなくては成りません。焼結金属のパッド、パッドを取り付けるプレート、このプレートを摺動移動させる案内プレート、この案内板を固定するプレートです。
この「焼結金属の組成配合」と「3つのプレート」に「400度」の上下の熱影響を繰り返し受ける事に成りますので、この「4つの部品」を先ずはどの様にして固定するかとなります。「固定の問題」です。
それと「金属的に、組成的に、機械的」にも解決する必要が出て来ます。
溶接やボルト締めでは熱で軟らかくなり使えないと共に、且つ繰り返しの「高温の熱疲労」で直ぐに金属疲労破壊してしまう欠点を持っています。
まして「400度」なので最も厄介な難問の「低温の脆性破壊」も起こります。
(脆性の怖さ)
鉄系の金属の脆性破壊には次ぎの3種類があります。
A:-20~-80℃の「臨界域脆性」、B:300~400℃の「低温脆性」、C:850~900℃の「高温脆性」
Aは寒冷地で起こります。Bは本論 Cはこの温度域で加工して常温、低温域に戻した時に起こります。
Cは「鍛造」や「鋳造」や「熱処理」や「圧延」の加工の時に起こります。
Cはこの脆性をなくす為に上記した「特性温度域」(再結晶温度域)で熱処理を施してなくす事が出来ます。

A~Cは常温と発生温度域を繰り返し上下すると著しく脆性現象が強くなります。
従って、「熱の繰り返し疲労破壊」と「脆性破壊」が同時にダブル発生してしまうのです。
高速列車の「ブレーキ部品」はこの「3つの脆性域」に関わっているのです。(Cは処理済)

「取り付け方」と「熱の繰り返し疲労破壊」と「低温域の脆性破壊」(A、B)の「3つの問題点」が露出して来ますのでこれを解決しなくては成りません。

(「3つの問題点」と「3つの脆性域」)
この「低温脆性」の温度の上限が400度(下限300度)ですが、制動していない時の低温の温度域が何度に成るのかは列車の「操作のノウハウ」に大きく関わることなのです。
当然に操作が未熟であれば400度を超える場合が有ります。この温度を超えると云う事、「操作が未熟」と云う事はそれは単純な話ではありません。
何度か走行中に常習的に繰り返すと上記の「3つの問題点」が露出して即「ブレーキ制動力の低下」のみならず「ブレーキ破壊」へと繋がるのです。
今回この事が確実に起こっていて大事故と成った事も考えられます。
例えば、「未熟」とは車で長い下り坂道でブレーキを踏み続けると熱を持ちブレーキが効かなく成ります。その為に上手くエンジンブレーキを加えながらスピードを落としてカバーします。この概してこの操作ノウハウと同じ理屈です。
中国は未だこの「未熟の領域」にあると考えられます。
場合に依っては「中国の国民性」が影響してここにも「潜在的な欠陥」とも成り得ている可能性も有り得ます。筆者はこの説を採っています。

「3つの問題点」と「速度超過」
当然に上記「3つの問題点」と同じ現象を示す「320K/H以上の速度」を超えての操作を繰り返し摩擦熱が400度以上を超えて上昇し過ぎた事でも起こる訳ですから、この「操作の未熟さ」と「限界速度オーバー」は同時に起こる事に成りますので両方から痛めつけられて「極めて危険な状態」が起こっていた事に成ります。
(この「3つの問題点」は専門的な立場からすると金属面に特徴ある破面が出ていますので比較的簡単に目視でも解析できます。誰でも判る事では有りませんが専門の「破面工学」を取得した技術者であれば観れば直ぐに判ります。)
中国は”常速 350K/H以上で走行する世界一の新幹線”と虚勢を張りと鼓舞していましたから列車のブレーキに「3つの問題点」のダメージを確実に与えていた事に成ります。証拠の事実です。
中国のこの発言は、専門的に見ると”何時大事故が起こっても不思議でない状況である”と発言している事と同じなのです。

「寒冷地仕様の欠陥」
この摩擦熱の400度に加えもう一つ問題があるのです。
それは自然環境です。中国は冬は極寒の地(-50度)がありますので、この400度との「温度差域」が500度以上に成ると技術的に耐えられない領域と成る特性問題を持っています。
勿論、極寒温度でも上記したAの問題でもこの「温度差500」と並行してがダブルで起こる事に成ります。
金属の組成上からの臨界点(-80度)に近くなり、この「熱差」と「繰り返し」による「金属疲労の発生率」が極めて高く成るのです。先ず本件の対策を加えないと全く使えないのが普通です。
ところが全く鉄系の金属は、ある限界の範囲で「特殊金属」を加えないと使えないのですが、この特殊金属の添加が逆効果になるのがこの「寒冷地仕様」なのです。極めて難解なのです。先ず”諦める”が常識です。今は未だ発生していませんが、日本の環境とは違うために中国国内では事故の発生率は明らかに高い筈です。(日本では高速化の東北地域は-20前後ですから一応の対策は可能)
この問題(高速化寒冷地仕様)も中国では到底解決していませんし、その開発手法と能力は中国には基よりないのですから確実な「潜在的な欠陥」と成っています。
まして日本でさえも何ともし難い技術問題の「潜在的欠陥」が潜んでいるくらいなのです。
日本では輸出用には自動車や生産機械でも「寒冷地仕様」として開発していますが、精度問題は別として、高速列車では中国では現在この「寒冷地仕様」の問題は未だ起こっていませんが、必ず冬には起こる筈です。その証拠に自動車は必ず起こっている現状なのです。
この「寒冷地仕様」では、高速のみならず「ブレーキ制動前の時の寒冷地温度」から「ブレーキ制動後の温度差」が「500度差域」に成ると、鉄系金属では金属内の結晶構造が変化する為に応力差が生まれる為に、更に重複して避けられない欠陥に成るのです。
車のブレーキの制動でも起こりますが、これと異なり高速列車の場合は温度差が余りにも大きくなるので必ず起こる問題なのです。
そこに「未熟度のエラー」が加わると「寒冷地の欠陥」のみならず通常の「500温度差域による欠陥」も重複して平行して起こりますので事故に繋がる事は必定と成ります。

(日本側は所定の期間1年の講習を要求したがたった10日間で打ち切ってしまったと発言していますので、習熟度は先ず「無い」事に成ります。つまり「未熟度エラー」は確実に起こっている事を意味します。)

依って、詳記した「500温度差欠陥」、「400℃欠陥」、「350K/H欠陥」、「寒冷地欠陥」、「脆性欠陥」、「3つの問題点」「高速化ブレーキ制動システム」「サージ欠陥」等の充分な習得はまず無い筈ですからこれらの欠陥は必ず起こっている事は間違いありません。
これに「高速化の習熟度によるエラー」が加わりますので疑う余地はありません。

高速化に依って高温差化するとこれを繰り返すと「熱疲労と脆性の疲労破壊」が避けられないほどに極めて高くなるのです(逆に熱暑地仕様もあるが中国では問題ない)。
自動車の領域で起こる問題と比べられない程に極めて危険な問題となるのです。
因みにロシアの自動車が、あれだけ進んだロケットや人工衛星など高度なものを造れる国が自動車がまともに開発製造販売が出来ていないのです。
中古を含む日本車90%に頼っている現状ですから、それは「寒冷地仕様」の対策が極めて高度な技術力を駆使しなければ成らないからで、それを充分に解決し得るノウハウの開発が出来ていないからなのです。「寒冷地仕様」は基より物理的に難しいのです。
中国も奥地はこの「寒冷地仕様」に準じます。
高速列車の「寒冷地仕様」は、今までに輸出と云う形態までに至っていなかった事から中国に輸出する分に対しては、日本での寒冷地仕様の範囲である筈で、明らかに「未開発の部分」では無いかと考えられます。やろうとすれば日本の輸出自動車は完全に「寒冷地仕様」は完成していますので直ぐに応用する事は可能ですが、中国用のものには未だ開発し適用していないと考えられます。

(開発メーカーは列車メーカーではないし、開発と試験が難解で短期間である為に現在では困難)

この「寒冷地仕様」が施されていない高速列車では冶金・金属工学上から観てブレーキ関係は云うまでも無く、本体そのものの鉄系車軸や伝道軸や鋳物や鍛造等の熱処理部品に対して上記の「3つの問題点」が顕著に現れることは必定です。少なくとも軸が折れるか変形する等の問題が出てくる筈です。
これからは寒冷地の「潜在的欠陥」の露出として出てくる事が考えられます。
より「潜在的欠陥」に対して厳しさが増します。
この「寒冷地の欠陥」は冬場に部品に破壊が起こり潜在して、これを過ぎて気温が高く成る直前で事故に繋がる欠陥が露出して来る傾向があります。
高速ブレーキ制動の分野に限らず全体で起こると考えられます。つまりこれも恐ろしい中国の「潜在的欠陥」であります。
恐らくは、日本の寒冷地仕様より-30度程に厳しい環境にある事を承知していますから、日本側は何らかの条件を付加して「列車運行の条件」として伝えている可能性が考えられます。
問題はそれを理解して護るかによると考えられ、国民性や国威高揚などの政治状況から観て疑問を感じます。
しかし、もとよりこの「寒冷地仕様」によって起こる欠陥を見抜き解析して対策まで持ち込むノウハウが中国にあるかは大いに疑問です。
確かに”日本の東北で走る列車仕様の前形式を技術移転した”と伝えられていますから、ある程度の寒冷地仕様が施されていた仕様になっているかも知れません。
ただ問題は上記した「未熟操作」が更に「3つの問題点」の危険性を著しく高めますので安心できる範囲ではありません。
又、何れにしても寒冷地による「脆性疲労破壊」がブレーキは元より列車本体までにも働く可能性が有りますので、それがブレーキ制動力にどれだけの影響力を与えるかの問題もあるのです。
恐らくはこの現象は「激しい振動」と云う形で露見してくる筈で、それがブレーキの制動力とその部品構造に特化されてくる筈です。
現象としては、主に「振動疲労」による「ミクロクラック」が発生して、最後には「疲労破壊」に繋がることが考えられるのです。
(この欠陥は特長ある破壊破面を呈し目視でも確認出来る。日本の専門家に見せれば一目瞭然で判定できるので見せないでしょう。)
それを防ぐ「高速化の管理保全」が出来ているかによりますが、短期間の間に成せる保全問題ではありませんから無いと考えます。

「寒冷地の現象と欠陥」
寒冷地は金属の分子運動が止まるか緩やかに成る為に金属の弾性力が低下して破壊に直接繋がるのです。最も怖い欠陥で、幾つかの技術的な方法が専門的にはあるのですが、何せ分子運動が止まるとなる事は金属の仮死状態を意味しますので、処置の施し様が暖めると云う方法以外に有効的な方法は無い事を意味します。

(過剰にすると逆に成りますが、ニッケルを加えて結晶を細分化する方法や、500度から650度で熱処理を施して結晶を均一にして細かくする方法で加工して使う方法もありますが、完璧な方法とは云えず暖めて400温度差に保つ事が最も簡単で効果的なのです)

この対策が中国に於いて成されているかは問題で先ず無いと考えられます。
そもそも特に上記の高速の対策として用いた「特殊金属」は寒冷地に対しては金属の仮死状態が起こって「弾性力の低下」が起こりますので、「特殊金属の弾性力の低下」と合わさって逆の現象を引き起こすのです。従って高速列車のブレーキ制動力に主眼を置いているので「寒冷地仕様」は完全ではない筈です。
日本に於いては寒冷地対策は車、列車、工作機械、等には施されています。東北新幹線と山陽新幹線の走っている列車が混在させずに異なるのはこの事から来ているのです。
日本などでは一定率の「列車管理システム」を保つ為に「寒冷地の列車」には充分な仕様で設計されて管理されているのです。

「部品の固定方式の開発」
兎も角も、寒冷地に於いてでさえもブレーキ制動ではその最たる影響を受けますが、先ずは日本環境の範囲として「普通仕様」で考察すると、そうすると後は機械的、物理的に考えられるのは「圧入方式」か「焼バメ方式」ですが、「焼バメ方式」はもとより同じ400度ですので締まらず使えません。
(温度差は500度以内が仕様限界)
残るは「圧入方式」だけですが400度の温度に上がっては圧入は緩み効きません。
この2つの加工技術の使用温度がこの400度であるのはこの領域を超えて加工すると金属の組成上(パーライト)の強度的問題が冶金学上で出るからなのです。
この制動で発生する摩擦熱も偶然にも400度です。従って、高速350K/H以上でのブレーキの掛け方如何ではこの400℃は更に上がりますので、限界の制動領域を超え開発能力以上の限界を超えますので、著しい制動欠陥を露出する事に成ります。
果たして中国の「未修得の操作能力」が低い場合はここでも「潜在的欠陥」を潜んでいるのです。
実質1年程度のトレーニングという事で計画されていたすのですが、それを”10日程度で切り上げた”との情報を考えると、此処暫くは「未修得」が「潜在的欠陥」と成り得ます。
(350K/Hの意味)
日本の新幹線は350K/Hの下の320K/Hとしている一つの根拠はここにあるのです。
何も350K/H以上を出せないとする訳ではなく、ブレーキ制動の限界点だからなのです。
”350K/H以上の高速で走った”として自慢下に誇示していましたが、この事の技術問題を知らない事を自ら露呈したのです。全体のノウハウの未熟度を自ら認めた見苦しい虚勢です。
確かこの限界を超えた速度で走行して本体が耐えられない激しい振動に見舞われ列車に亀裂が入りなどして指定の速度に下げたとしているのです。
まだまだ上記した「潜在的欠陥」が露出してくる事は間違いは有りません。日本からの早期に技術指導を受けない限りは大事故と成るでしょう。
恐らくはこの振動の原因の一つはブレーキの制動を超えたところで摩擦熱が400度を超えて限界温度500度に達してブレーキ制動が空効きになり、その振動のパラセーションがタイヤ(車輪)に加わり車体本体を激しく刺激したと考えられます。
恐らく、この時、摩擦熱500度以上に達して後続のブレーキ制動力が破壊するか等を起し効かなく成っていた可能性があります。
謳い文句の350K/Hを取り下げてその高速をその事故の為に運行走行速度を250-300K/Hに下げたとしています。ブレーキ制動における設計限界である事を知らずに。とりあえずは一時的速度では欠陥を出さずに成った事に成りますがブレーキ制動のノウハウの未修得で起こる問題は解決していません。
これは上記する高度な基本設計の冶金的知識の習得は先ず無く、感覚的に激しい振動が何かを引き起こすと考えたものと観られ、変更を余儀なくされたものであろう事が判ります。
この行動は真に知識の底を露呈した愚かな醜態に他なりません。

速度を上げれば何でも上げられると云う「石は薬」「法より人」の感覚から出た中国人らしい論理性のない発想です。
恐らく、日本人から観ればこの雑な感覚は、直ぐには直らず今後も続くだろう事から、これからもこの様な国民性に潜む「潜在的な欠陥」の醜態を示す事に成ると観られます。
兎も角も、ですから「潜在的欠陥」に関しては中国は「事故の情報」のそのものを隠す以外に方法が無い事を物語ります。

「技術開発点」
そこで、中国の怠惰な実情を気にかけながらも、兎も角も日本の技術開発の努力とその経緯から考察して観ます。
中国に日本の次のような開発努力を知るまともな技術者が少ないのかも知れないけれど居た筈です。
(筆者も冶金に関する実習留学生を承知しているが、小さい力のために基本の技術習得が無視され「政治力」が優先されたのではないか)

上記する「3つの問題点」を解決するには次のような開発をしたのです。
日本の開発はそれはこの400度の限界を超えない範囲で要は温度がどんなに上がっても緩まずむしろ締まるようになり、且つ金属に関する疲労、脆性等の問題を起こさない様にしなくては成りません。
上記する金属的に起こる問題を色々な「特殊金属」(下記)を組成に加えて特殊金属板を造り熱に対する欠点を解決して、且つその加えた「特殊金属」によって逆に熱が掛かると一定以上の圧入力(取付力)が増加する様にしなくては成りません。この領域は真に自然物理の矛盾です。
「特殊金属」の「種類とその配合率」と、「圧入代」と、「熱膨張係数の差」と、「耐熱性の向上」とこれ等処置による「組成上の競合欠陥の防止」を解決して、丁度良いポイントの探求が必要に成ります。途方も無い総合知識の研究です。
その難しさはこの「競合欠陥」です。
「特殊金属」はある種の特性を引き出す手段によく用いますが、この金属を加える事に依って「鉄系金属」には、同時に逆の事も起こる特質を持っています。
この「鉄系金属」にはこの種の「特殊金属」は「人間の拒絶反応」と同じ現象を起す性質を持っていて、ある一定の範囲までしか受け付けないのです。一定を超えるとあらゆる機械的な強度や特性の低下を引き起すのです。

(「特殊金属」とはマンガン、モリブデン、クローム、コバルト、マグネシューム、タングステン等でこれに対応してニッケルを補填して「特殊金属」の弊害を少なくする為に同時に適量を加えます。
例えば、18-8ステンレスにクロームを加えて強く錆びなくしていますが、これに対してニッケルを加えて弊害を抑えているのはこの為です。この特殊金属は夫々特徴を持っているのです。)

この「特殊金属」を適材適量に加えるだけでは解決しません。
実はこの世の全ての物質には温度を上げ再び下げて来ると「スパークーリング現象」と云う特殊な現象を起す特質を持っています。同じ上昇したライン上を温度を下げると別のライン上で下がって来るのです。
その為に「ズレ」が2ポイント発生します。この2つのポイントの一定の温度間隔域に金属の組成を納められれば下記の「研究課題」を解決する事が出来る事に成ります。

(現象の発生メカニズム)
この現象は”何故起こるのか”と云うと次ぎの様に成ります。
温度が上昇するとある温度域で結晶構造が変化します。この為にその変化のために必要とするエネルギーが奪われて一時温度が下がります(ポイントA)。 そして変化が終わると又上昇します。
今度は上昇したラインに沿って温度が下がって来ると元の上昇して変化した「ポイントA」で同じ現象が起こる筈ですが、ところが起こらずある温度範囲がズレて「ポイントB」で変化が起こるのです。
そしてその変化が終わると再び元の上昇のラインに沿って下がって来ます。
このポイントAとポイントBには一定の温度差域が出来ます。この温度差の領域を上手く使えば温度上昇に依って緩むものが締まる事にも成ります。
本来は論理的にポイントA=ポイントBである筈ですが、このポイントが物質に依って顕著に出るものとそうで無いものがあります。
且つ、この温度域にも大小のものがあります。特に金属には顕著に表れるのですが、この特性に着目してその「温度域の巾」を大きくすれば使えることに成ります。
特殊金属(ニッケル等)を投入して結晶を微細化させるとそれが顕著に表れるように成りますので、そのポイント域(A-B)を上手く使えば上記した研究課題が成功するのです。(現場ではノックピン方式と呼称)
このポイント域(A-B)では、上記した別の変化、つまり、その「金属の特性変化」でも「結晶の中間域」(特性の中間域)が発生しますので、金属は安定し変質化しないのです。
この「ポイント域(A-B)」即ち「中間域」では上記した特殊金属の特性が効果的に働きます。そして「拒絶反応的な事」が起こり難いのです。
つまり、「ブレーキ制動」に依って摩擦熱で温度が上昇し、又下降すると云う現象を繰り返しますので、この「スーパークーリング現象」が常に起こる事に成ります。
鉄系で云えば普通はポイントAは500度付近で起こります。そしてポイントBは400度にズレます。
ところが上記の特殊金属等を入れますとこのポイントが変わるのです。
この特殊金属は鉄より溶融点が高い事等の理由の為にポイントAが下に下がり合わせてポイントBも下がります。
そうするとポイントAを400度にし、ポイントBが300度の付近に持ち込めばこの研究課題は成功する基本に成ります。
この熱エネルギーの「温度の変化の中間域B」と共に、上記した結晶構造が変化する過程でも「特性の変化の中間域A」が起こります。
この「中間域A」でも特性変化する為に多少変化のタイムラグ域が起こります。このタイムラグ域も含めて「2つの中間域A,B」はほぼ同様の温度域で起こりますのでポイントAとポイントBを解決する事で「2つの中間域の活用」は解決する事に成ります。
以上の様にかなり特域の専門的な冶金金属の技術です。

(現在では、この「中間域A、B」の領域の特性を精密機器の部品によく用いられる様に成っていますが、「特殊合金鋼」として当時は未だ開発に依って「企業内規格化」される程度でしたが、現在は細分化して一般規格化されています。 故に、これによりブレーキに限らず今やこの合金鋼板を使って日本の全ての精密機器や工作機械は超高精度の品質や高速化や寒冷地の対策用として作り出せるのです。)

(中国の国家戦略)
何時、中国がこの「技術ノウハウ」等を盗み出して獲得できるかに掛かっています。
つまり、自ら研究する事では無く他国のノウハウの盗作で日本や先進国に追いつこうとしている「中国の国家戦略」と成っているのです。
真に「自国製」と言われるものは今だ少なく、列車やジェット機を始めとする超高度な綜合先端技術のものは事ごとく失敗をしている中で、本論の「新幹線」は盗用の成功例と思ったのではないか。 その意味での挫折は”又か”で大きかったのではないか。”いざ”と成って見れば原因追求の技術さえも無い事を知り焦った行為であったと観られます。
要は「中国の狙い」は、この総合力の研究では、現在は未だ中国では明らかに無理でありますが、高速-制動力の関係を知っていて何時かノウハウを盗み出し自国の物にする事にあり、そのためにも故に優れている日本を代表する川崎重工のこの「制動ノウハウ」のある列車が中国には絶対に国家戦略上必要なのです。
ところが、共産国には「貿易管理令」により「高度な電子部品機器」や「高度な精密機器」の輸出は禁止されていて、悪質と観られる様な裏ルートの方法で機器を入手して分解してノウハウを盗み出そうとしているのです。分解して解析して何かを見つけ把握しようとする為にも国家的課題としてもこの列車は国家戦略上で代表的なものとして必要なのです。
その為には、中には日本の中小企業の倒産先からスクラップとして精密機器を頻繁に入手して持ち帰り研究しているとの情報もあり、又、中国に生産拠点を移転した中小企業が契約期間が過ぎると別の場所に移転させて生産設備を強引に奪い取り、言う事を聞かない時は移転先を認めないと云う荒手の裏手を使うと云う事まで起こっているのです。(経験談) ニュースに成っている”中古の空母をベースに自国製の空母を製作している”との情報もある位に、 「石は薬」「法より人」の思考規準に沿って、”何事何物も利用した者が勝ち”、”模倣や盗用はした者が勝ち”の考え方が徹底しているのです。
これ程に況や”喉から手が出るほど”の中国の「国家戦略」は実行されているのです。
先進国に追いつこうとすれば、韓国が日本のプラント輸出を受け、後に激しい労働争議で追い出し日本の三菱の車や家電製品のノウハウを盗み出したと同じ様にです。
韓国には、同じ儒教でありながら、違うところは「石は薬」「法より人」の思考規準が無い事です。
だから韓国の手法は成功しているのです。

「研究課題」
戦後から始まった新たな日本の成長は中国の「石は薬」「法より人」の思考規準と異なり「雑種の優秀性」を基に「研究開発」から始まった「物造り」であります。
当初戦後10年程度は「安かろう 悪かろう」でありましたが「模倣」をベースにしてはいなかったのです。。
「模倣」の裏には必ず「研究」が伴なっていたのです。ここが中国と異なる処です。
それは、日本の「国民性」が大きく働いたこの金属の「質的変化と機械的な処置の探求」(2つのノウハウ)であり、「3つの問題点」(「3つの新たな研究課題」)を解決する事に動いた結果であり、本論を理解する上ではその認識が必要であります。
これ等の「研究開発の積み重ね」の結果で掴んだ「最先端の総合的技術力の駆使」が必要であったのです。
この開発経緯は、丁度戦後20年後から始まったものでその5年後には何と成功しているのです。
戦後の「安かろう 悪かろう」の時代が10年間で、残りの10年間は「自国製」の開発研究段階に入っていた事に成ります。
ブレーキに関してはアメリカのベンディクスがトップメーカーでありましたが、戦後25年後には早くもベンディクスを追い越して日本のメーカーの方が品質的に優れていた事に成ります。
この時期20年後に高難易度の新幹線ブレーキの開発に入っていた事に成るのです。
当時はブレーキ部品に使う鉄鋼板には特殊金属を組み込んだ規格品は未だ少なく、新幹線ブレーキに耐えられる上記に記する規格品は無かったのです。

この高度な研究開発は列車のみならず自動車や他の高精度の生産機器などにも使える研究開発だっただけに「新幹線」の国家プロジェクトとして鉄鋼メーカの積極的な協力を得て進め成功裏に納めたのです。
これ以後、この研究成果は専用鋼板として準規格化され、後半には順次細分化されて規格化されましたが、この開発の効果は瞬く間に他の産業にも広がりを見せこの開発の特長を生かした日本の高精度の高能力の製品が生み出されて行きました。
(開発技術とその加工技術)
中国は現在 ”どの鋼板をどの様に使えば良いか”の上記した専門的技術が無い為に規格品の選定の判断までにも至っていないのが現状では無いかと判断されます。
選定できれば専用鋼板としてだけは日本から輸入で入手する事が可能です。しかし、現実に適切な鋼板を選べばそれで済む簡単な話ではありません。
この鋼板を加工する技術(プレス技術や熱処理技術や生産加工技術)等のノウハウは中国にはありません。
そもそも特殊金属が含有する鋼板は普通の加工技術では難易度が高く「加工ノウハウ」も大きく伴なうのです。
概して云うと、含有する上記した特殊金属は加工する刃物先よりそれ以上の硬さや強靭性を有しているか、或いは同じ程度の硬さ程度である為に加工の刃物先が耐えられないのです。まともな品質では加工出来ないのです。(全ての刃物先にはこの同じ特殊金属の「タングステン」が焼き付けられている)
依って、研究は次ぎに刃先角度や加工速度や加工温度を研究して見つけ出して、量産できるものに開発したのです。この開発にはトップ技術を駆使したのです。
又、難加工の精度を上げるにはそれを0.01ミクロンまで測定出来て、且つ、加工面の画像解析出来る超高度の「三次元測定機」を使い加工面を画像にして解析して特長のある部分を特定し修正する技術も必要とするのです。
この「三次元測定機」は日本の独断場で、よく違反問題になっている物で「貿易管理令」に触れて共産国は入手出来無いのです。
鋼板を選定でき輸入する事が出来ても、この多くの「加工ノウハウ」はブレーキメーカー側のノウハウですので入手する事は不可能です。つまり「中国の戦略方式」では要するに不可能なのです。
依って、知らない人や庶民を相手に虚勢発言を張っていますが、厳密に云えば「中国製のアセンブリー列車」の域を越えないのです。
手芸品等の類似品や模倣品を作る事が出来ても、工業品を越えない範囲では類似品や模倣品は中国では未だ不可能なのです。まして、「高速化や寒冷地」などの難易度の高いものは「技術ノウハウ」と「加工ノウハウ」の2つのノウハウから類似品や模倣品は無理であります。

重要参考 此処には「加工ノウハウ」等の上記「2つのノウハウ」とは別に、決定的な冶金技術のもう一つの無理があるのです。
それは自動車(高速列車等にも)に使用する鋼板は「自動車専用薄板鋼板」(ラミネーション)と云って世界の自動車に使用されていますが、この「ラミネーション」は日本の独断場で外国では現在でも造れないのです。
それは精錬過程で鋼板を圧延で薄くすると、鋼板の板圧の中央部分に「不純物の帯」即ち「バンドストラクチャー」と呼ばれる「ゴースト」現象が必ず出来るのです。
それは鋼板に含まれる極少ない分散した不純物や攪拌され難かった炭素やイオウやリンやシリコンが薄板にする為に圧延しますが、この圧延の振動エネルギー(リミングアクション)で板圧の中央部に帯状と成って必ず集まる現象なのです。
日本の自動車の発達や高精度の精密機器や列車の高速化等の必要性に迫られて苦労して同時に他のプロジェクトがこれを解決したのです。
普通の材料として使う分には問題はありませんが、上記した本論の「高速化や寒冷地」などの仕様では破壊に繋がる振動や加速度のエネルギーが大きい為に影響してしまうのです。
これが存在するとこの破壊エネルギーが欠陥となって働き始め、突然に自動車の鋼板が2枚に「剥離分解」して破壊したり、部分的に起こる「局所疲労破壊」に繋がる亀裂が多数発生するのです。
(当然に高速列車でも使用されているので起こる)
特には箱型の車体などでは別として、プレス加工の多い「流線型の形状」の自動車などに現れて「高速化や寒冷地」では大事故に成ります。(曲げたり絞ったりしたコーナー部分に出現する)
この欠陥を解決したのが世界に冠たる日本の冶金技術なのです。
このゴースト現象は精錬中に炭酸ガスなどを入れて溶融した金属の攪拌を行うのですが、この攪拌不良が主な原因で中にある炭素との反応で連動して起こります。大変に難しい精錬技術です。
外国鋼板では自動車や高速列車に使用する薄板のものにはこの欠陥の無い鋼板を作り出す事が必要があるのですが、今だ難しくて出来ないのです。(日本製を使っている)
一部では自動車や高速列車の「車体内部の鋼板」にもプレス加工して利用されています。
ブレーキ部品も車体内部にも使用されている事で、もし欠陥と成って出た場合にはブレーキ部品にもその影響が出てくることにも成りますので、車体や外板にもこの日本のラミネーションを使う以外には本来はないのです。しかし、中国のものはこれを使っているかは技術知識が無い為に疑問であります。

情報によれば”車体に「大きな振動」と共に「大きな亀裂」が発生した”と伝えられていますので、上記したブレーキ制動の欠陥が露出して起こったと考えますが、このラミネーションを使わなかった事から起こっていることも考えられます。兎角起こりがちな現象ですが、両方が「競合欠陥」を引き起こしたかも知れません。(破面工学で判定が出来る)

(「2つのノウハウ」)
この参考例でも、これで「日本の技術力」がどれほどのものであるか判り、逆に「中国の虚勢の発言」の意味合いがどの程度の虚勢かがよく判ります。
勿論、中国の基礎技術力の無さの程度もこの発言や情報からも判るものです。
これは日本の冶金金属工学の優れている程度の証とも成ります。
これは決して「技術ノウハウ」のみならず日本の「加工ノウハウ」も同時解決して「高速化の列車ブレーキ制動」は始めて可能に成るのです。この「2つのノウハウ」は連動しているのです。
兎角、「技術ノウハウ」だけで論じられている様ですが、中国が模倣するとしても「2つのノウハウ」を解決しなければ物にはならないのです。中国の事毎くの「模倣の失敗」は此処に原因があるのです。
「2つのノウハウ」が絡む高速列車やジェットや自動車の様な高度なものには基礎力の無いままに簡単な期間や設備では元々が無理なのです。
”普通列車の延長が高速列車である”とする認識はそもそも間違いなのです。
ここには論じている高い「2つのノウハウ」の溝が厳然として存在しているのです。
高速列車は同じではなく別物なのです。
高速列車は「レール」と「莫大な重量物」によって比較にならない「莫大な加速度」が働くからなのです。
この加速度は”重量に対して2乗に比例する”のです。例えば50Kの物が加速度が働くと2500Kのダメージを受ける計算に成ります。

列車の車体重量を考えてください。これに高速が働きますので、考えられないエネルギーであり、このエネルギーが悪い方向に働けば「一点のミスや欠点」も「時間の間隔」なしに瞬時に「拡大破壊」を起す要素を持っているのです。「破壊」ではない「爆発」に近いと云えるでしょう。
ですから上記した金属や冶金的な欠陥が少しでも潜んでいると破壊・爆発に成ってしまうのです。
高速300K/Hは本当は怖いのです。
日本は「怖い」は「品質の良さ」に裏打ちされて安心して乗っています。中国は「怖い」は「知らない」で裏打ちされて安心して乗っています。これそのものが「潜在的国家欠陥」では。
「知らない」「知らせない」は本来あるべき姿ではありません。中国は「知らない」「知らせない」は「品質の良さ」に特化させるべきです。
この事無くして中国の高速新幹線はまた大事故を招きます。本論の危険性を悟ら無ければ今その上記した欠陥が進んで行く事になります

そもそも自動車の場合は、普通であり高速であり一帯で一連化していますが、しかし、現実にはありませんが自動車もレールの上を走り連結すると同じ事が起こるのです。
中国にはこの自動車の延長・普通列車の延長の認識にあったと考えられます。
そこにこれまた「認識不足」の中国の「潜在的欠陥」が存在するのです。
つまり、「国家戦略の政治ミス」(政治環境)が事故を誘発させているのです。

「開発技術の姿勢と方針」
これ等の認識の基に、正しい政治環境下の基で、これを解決する為に柔軟な発想と思考が確保されて、次のような学問的に「極めの発想と思考判断」での技術が確保されたのです。これは日本ならではの仕事なのです。(中国では現政治体制下では無理であり模倣も困難と成ります。)

日本のブレーキは急速に速度が上がり停車位置のかなり直前で高速で制動しても停車ポイントに5ミリとずれないのです。良く効くと云う事なのです。約400度くらいに成りますのでどんな機械的なブレーキの取り付け構造にしてもこの温度には耐えられません。
これを日本はこだまの初期の新幹線開発の時にこれを金属的に冶金学的に解決したのです。(開発経験)この「特殊金属」には夫々特徴を持っていてそれを如何に使いこなすか、先ずその特長を作り出す金属の結晶の組成形状をどの様にするかの研究と、中に入れる特長を持っている「特殊金属」の選定とその配合割合をどの様にするかの研究で、この400度と云う難しい難題を解決したのです。
因みにとりわけこの温度域には低温脆性現象(ステッドブリットネス)と云う厄介な問題が発生するのです。
金属が中に含まれる僅かな不純物(セグレゲーション)とP(リン)やS(イオウ)と結合してそれに依って脆く成ると云う温度域なのです。

これ等は普通の発想では出て来ないものでありますし、それを実現しょうとする気力も芽生えない筈です。

(300度以下では分子運動、結晶運動が低い為にその変化するエネルギーが無く起こらない)
この状態のものにブレーキを掛けるとその「繰り返しの動作」で「脆性破壊」と「熱疲労破壊」が顕著に発生します。先ず機械的な取り付け方法とは別にこの必ず起こる欠点を上の2つの研究で克服する必要があるのです。)
(未熟な操作技術で劣悪な線路状態では不定期振動とそれによる加熱現象が倍加する為にこの物理的な破壊現象は数倍と言う形で起こる危険性が潜んでいます。最終、破壊して”ブレーキが効かない”と云う現象と成ります。恐らくはこの極めて危険であるとする知識もないと考えられます。)

「技術課題の難問と国民性」
上記の”金属や冶金的な欠陥が少しでも潜んでいる”とする「怖い事」を続けます。
最大の難関はこの欠点と研究課題は相反する矛盾する特質を持っているのです。
つまり対策を講ずれば反対のこの欠点が増幅するというジレンマにあるのです。
普通で考えれば「絶対無理」の答えなのですが、その何れにも入らない中間のところを見つけると云う根気のいる研究開発です。
どんな金属にも必ずこの特性域の中に「中間域」の発生する「小さい域」(ポケットゾーン)を持っています。上記した「スパークーリング現象」の2ポイントと共にこれを見つけ出す事なのです。恐らくは共に自然現象の為に同じ「小さい領域」付近に出て来る事に成ります。
これは日本人ならではの根気の要る研究です。脆くなれば逆にブレーキどころの話でなくなりますから、欧米は合理的思考が強いので危険性から観て”この領域に入らない方がベストだ”とする考えに到達するのです。納得出来るし一理はあります。
要は上記した様にブレーキ制動の限界に立ち居るか否かの問題です。
しかし、これは上記した中国人の国民性と異なる日本人のかなしきかな国民性のさが(性)です。
この性の違いで何から起こるかは「青木氏と神明社」の中で詳しく論じている事です。
本来、「物造り」の技術とその精神は6世紀始め頃から6世紀中頃に掛けて後漢の漢民の阿多倍王等の技能集団がもたらしたものでありながら、今やその立場は逆転しているのです。
「石は薬」「法より人」の思考規準とそれを構築した「民族性結合」の継続の所以がこの差と成って現れているのです。

「開発の判断可否」
現在はこのブレーキ制動は当初の新幹線はMAX250K/HであったものがMAX320K/Hに常時制動できる様になっていますから、更に超限界に挑戦して改善され、技術開発されて完全に確立して無事故の35年は経過していますが、まだ諸外国は高度な総合力の為にこれに全く追いついていません。
ョーロッパ諸国では多分無理でその内に問題を起こすのではないかと考えていた節があります。
しかし、限界のブレーキ制動と高速化の2つを連動させて成功したのです。
と云うのも、この時フランスは高速化のギリギリのところの500のK/H試験走行を成功させたと発表したのです。もちろん、ブレーキは普通の制動力の範囲です。ですから、高速後100K/H程度にスピードを落としての山形方式の制動です。
この事から考えると、むしろ35年の経過でも、この領域の高速化の制動技術を合理的な判断として採用しないとしている可能性も確かにあります。それ程に難題なのです。判断の分かれる技術開発だったのです。
当然にその根拠は列車や自動車はブレーキ制動力が命ですから、高速になれば成るほどに危険は増します。しかし列車が”1時間程度遅れても何の問題もない、安全であれば問題なし”とするヨーロッパ系の国民性からすれば”そんなに急いで何処へ行く。 その間、速いのだから問題なし”と成るでしょう。
これの探究心は「良悪の問題」、「優劣の問題」から離れた日本人の「融合単一民族」の「雑種の優秀性」とその「性」から起こる「国民性」から来ているものであります。「究極を求める性」であります。
ヨーロッパ諸国の列車の運用については「判断の違い」であると観ていますが、では中国人は何れにある国民性なのでしょうか。それに依ってもこの「潜在的欠陥」がどのような形で顕著に出てくるかはこれから見るべき問題です。
筆者はこれまでの史実に基づかない中国の虚勢と国威高揚の発言から観ても、又伝統の思考規準の「石は薬」「法より人」からしても「潜在的欠陥」に成るとみているのです。

因みに韓国は日本人の全体の3割を占めている縁戚の民族ですから、儒教の宗教観は異なりますが、全体として酷似していますから、この「ノウハウ」を吸収する方式で克服したと見られます。
中国も韓国と同じく「ノウハウの吸収と克服」は可能と観ているのでしょうか。観ていると考えます。
そして、その時期を”この新幹線で出来た”と見ていてそこで一挙に喜び勇んで「虚勢」を張り世界に「鼓舞」した節があります。それが脆くも崩れたのです。”そんなに甘くは無かった”と反省しているのでは。
今回の事故の原因の出し方で判断できます。
「雷と信号」で逃げれば原因究明どころか対策もままならない立場にあることを知り、”韓国の様には行かない”と悟った事の発言と成ります。この「雷と信号」の根拠を明らかにしないままに終わると観られます。
だとすると、中国はこれを機会に多くの上記する「有形無形の潜在的欠陥」を持って居る事に成りその事に気が着き始めたのかも知れません。
しかし、「中国の国民性と政治体制とその体質」がどの様に作用するかが疑問です

そもそも韓国は日本の三菱グループから「製造プラント輸出」して獲得したものでありますが、このブレーキは列車メーカーではなくブレーキメーカーの領域ですので、韓国始めとして中国には当然にこのノウハウは渡っていませんし、中国自身この間これほどに難しい総合技術力の把握と操作技術は専門的に観て開発とそのノウハウの取得は到底に無理と成ります。そもそも部品調達のアセンブリー生産しかないのです。
これは高速列車を走らせるという事とを考えると、ブレーキと云う事からするとそれは恐ろしい事になり、特に日本の高速列車を走らせるという事は「潜在的な欠陥」と成り、「基礎的な技術力不足」と成り得ます。
ヨーロッパの形式も別の意味ではそれなりにブレーキ制動域のノウハウもそれなりに難しいことに成ります。この異なる二つの技術の習得は専門的な立場から見ても短期間で成し得るものでは決してありません。

「人為的操作の必然性」
さて、そうするとこの様な「劣悪な未熟の環境」の中であるとすると、戻して事故を検証すると、本来前方を走るべき列車が後方を走る管理システムはどこから生まれたのかと言う疑問が生まれます。
実はこれが上記するブレーキ制動力に起因しているのです。
全くの制動力の精度の違う高速の列車を走らせると成ると、何処かの駅のポイントでその違いを吸収させる為に、混成の為にかなり複雑な「入れ違い」を列車管理上で「人為的」に頻繁に起させる必要性が起こります。
混成であるが為に完成された追加管理ソフトが改良されて持っているとは考えらず、ヨーロッパ方式でもヨーロッパでは充分に出来ていないという現状を考えると、多くは中国人の「人為的な操作」に委ねている事である筈です。
本来前に走るべき川崎重工の列車が前を高速で走ると後ろのカナダの制動力の悪い列車との間に大きな間隔が発生してしまい、列車管理システムに大きな「タイムラグ」が起こりすぎて、追突の危険で運用できません。
そこで、この危険な間隔を解決させる為にある駅の手前で後続の列車がスピードを落として次ぎの駅に向かいます。後ろにした制動力のよい高速の川崎重工の列車をこの駅でやり過ごしますと管理は可能に成ります。
(日本の在来線に特急列車が走ると普通列車は最寄の駅で停車して「やり過ごし」をします。ブレーキ制動力による走行の速度変化の差ですが大まかにはこれと同じです)
前方にいた列車はより正しく早く次ぎの切り替え駅まで到達しておく必要が起こりますが、何らかの理由で(雷か人為操作ミス)低速40キロであったとしていますから追突の危険性は最大に成った事に成ります。
この直前で事故が起こった事に成ります。恐らくこの時にブレーキ制動の限界を超える「未熟な操作」が重なっていた可能性があります。

「混成システムの矛盾欠陥」
ところが、更に問題が生まれます。ここでETCヨーロッパシステムは「制動力の悪い列車群」と「異なる形式の各国列車」を一定としてこれを前提としていますので、川崎重工の制動力のよい列車が介在する事はこの「やり過ごし」方式には矛盾が生じることに成ります。
事故が起こったとして後方にブレーキをかけますが、後ろは制動力のよい川崎重工の列車です。管理システムで後方に制動をかけても最早間に合いません。その管理システムの速度管理では走っていないのですから。この矛盾を避けるべき手立てとしての其処に「やり過ごし」現象のポイントが差し掛かったのです。二重の矛盾点が重なるべきポイントと成ります。

「雷、サージ対策の欠陥」
更に、3重の自然災害がここに加わったのです。雷です。雷により停止する可能性もある為に前方を走るカナダの列車は制動力が悪いので速度を落とす事になってしまったのです。
ところが後ろは制動力のよい川崎の列車ですので、然程に速度は落とさずに走っていた事に成りますのでより追突の危険性が余計に増したことなります。
更に雷対策(サージ対策)も諸外国に比べて日本は段突に良く出来ていますので速度を落とさずに走らせます。ところが、ここでも技術力の差が出たのです。

実は日本製の列車は「サージテスト」と云う大変厳しいテストを課せられているのです。
気象変動の多い環境のために外国列車と段違いのテストを通過させなければ成りません。
これに更にメーカー独自の「過酷テスト」(パーチェイステスト)が掛けられますので、まず、サージつまり雷では信号や制御に問題は起こらなくなっているのです。
”雷で事故が起こる事は考えられない”との日本側の関係者の発言は此処から来ています。
相当なサージに対するノウハウなのです。先ず回路上のノウハウですから中国では真似は困難でしょう。
ただその分CPU回路等を強くする為に安全回路を幾つもの回路ラインに組み込む事に成りますので値段が多少高く成ります。
半導体の耐力アップや、コンデンサーCの追加と、抵抗Rと、電磁コアーやサージチップ等の組み込みを行います。
ところがヨーロッパの列車と列車管理システムは平地の多い比較的環境の良い所を走りますので、サージテストには比較的緩いのです。
サージテストでは普通の弱いサージ対策なら列車には管理CPUソフト基盤が入っていますのでこれがやられてしまう懸念があるのですが、ところがこれでは基盤そのものが壊れてしまいますので制御回路が無くなりそれこそ列車は暴走しますので大変な事に成ります。
そのためにサージ対策は主にこの回路入口にセットして内部の回路の中に入らなくするように設計しますし、仮に入っても内部にもサージチップ等の対策を施して最悪の状態が起こらないように基本的な設計がなされます。故に内部までサージのカレントの電流が入る事は有りませんが、仮に中に入ると回路が壊される前に基盤そのものがサージの電流が強い為に焼けてしまいます。
事故を起こったものを見れば一目瞭然で基盤を観ればすくに判ります。そもそも基盤がバーンアウトする事の事態がおかしいのですから、中国はそれを見せる事さえもしない筈です。
サージ対策とは主な方法としては、カレント電流を上記のサージ対策部品で主に電磁コアーを通して熱に変えてしまう仕組みに成っています。要するに判りやすく説明すると電子レンジの原理と同じなのです。
サージが鍋と考えればよい事に成ります。磁場の中に電流を含む異物が入ろうとするそれを拒む形で異物に誘導起電流が流れて熱に代わる原理です。
雷は電流ですのでこれを熱に変えるか、途中でコンデンサーに溜めてしまうか、別の非難回路に流してしまうか3つの方法の何れかを採れば問題はなく成ります。
この原理を回路の色々なポイントに問題が起こらないようにセットする事なのです。この3つの方法の使用は回路の内容に依っても異なります。

ですから、そもそもサージに依って信号が赤から青になるなどの内部の回路の変化の問題ではないのです。
先ずCPU回路の入り口の問題で厳しいサージであれば殆ど手前の電源回路でOFFさせる事に成ります。当然にこのサージ対策にも高度なノウハウが伴なっているのです。何故ならばサージ対策をする事に依って逆にその弊害(バグ)が起こるので、セットする場所やその部品の選択などの極めて高度な電気設計のノウハウが必要なのです。
中国がこの高度のトップクラスの設計能力をもった技術者が先ずいないと考えられます。
中国としても仮にこれが原因であったとしても何ともし難いことに成ります。
サージテストする専用の高度なテスター設備が必要なのです。このテスターに基のプリント基板を覚えさせ対策した回路をセットすると其処に問題点が検出させそれを解析しながら進めて行くのです。そしてそのテストをする専門の試験環境室チャンバーが必要と成ります。
中国にそれがあるかの問題ですし、そのチャンバーとテスターの専門メーカーは日本が独占的に段突なのです。
(高速化は始めて間もない時期ですからこのサージテストの高度なチェックシステムとノウハウは無い筈です。)
そもそも大抵は電磁コアーかサージチップで熱に変えられますので問題は起こる事はありません。
日本の全てのものはこの国の規格テストに合格していますので全く考えられないのです。
(参考 4K程度から14K程度の差 外国のものは確定は出来ませんが4-6K程度か 日本は8K-12K程度)

雷の中で前方のカナダの列車は「横ハシリの雷」のこのかなりきついサージに耐えられなかったとも考えられますが、しかし、サージ説はこれ以外にも考え難い事があるのです。つまり仮に入り口で耐えられなかったとしたら、当然に前方のカナダ製列車のCPUと列車内の搭載管理システムのCPUが破壊された事が考えられるのですが、ところが、しかし、列車は避雷針を保持し、且つ電線と線路の両方に上下並行に避雷針に成り得る伝導体が走っている構造と成っていますので、元々ヨーロッパの管理システムの回路でも殆どカレントの過電流を抑える事が出来る構造に成っています。
仮にカレント電流が流れても上記のサージに対するある程度の保護回路があればこれをブロックする事に成りますのでヨーロッパのものにしろ日本のATCのCPUは破壊しません。
諸外国のものも線路と電線ケーブルと列車は元々耐えられる構造ですが、中国が勝手に変えてしまったとすると別問題で耐えられるかのきわどい危険性が高まります。
ところが回路上の変更はプリント基板で出来ていますので回路変更はまず出来ないと考えます。
変更するとなると、上記のサージテストを繰り返して変更によるバクの問題が出ないか調べなくては成りませんし、プリント基板の回路内部まで把握できるかの問題が出ます。
量産システムでプリント基盤は造られ手作りではありませんので変更は先ず無理です。中国が部品調達していることから考えると回路変更は無理であります。
先ず、変更が出来得るハード回路ではありませんので、先ずその基盤の設計者程度の技術者でなくては専門的に観て無理です。依って変更は先ずは無理と判断できます。

この3重の技術的矛盾が引き起こした事故と成ります。
サージにたいするソフトに組み込む高い技術力も到底中国には無いと考えられますので、恐らくは中国で出来る範囲としては色々なCPUとCPUの間をソフトに依って繋ぐ回路程度の基盤程度と成ります。
これを「中継基盤」といいますがこの程度でしょう。
恐らくは、この少なくとも前記2つの矛盾は各所に必然的に起こる筈です。避けられない必然性のあるシステムと成ります。
少なくとも異なる制動力とスペックの川崎重工の列車が2つのメーカーの列車の中で走る限りに於いて起こる事に成ります。
現在の混成列車を編成する選択を採った中国に於いてこの4つの矛盾を解決するほどの技術力は専門的に観て有り得ない事でありますので潜在的に持つ欠陥と成ります。
ましてヨーロッパでも日本並のものが出来ていないのですから。
結論的には対策は「混成の列車システム」である限りは無い事を意味します。
日本を除いて世界の技術力ましてや中国に於いては「無い」と成ります。

ですから、終局は「雷」に原因を押し付けて対策が出来ない欠陥列車システムであるので慌てて証拠隠滅のために「埋める」と云う行動に出てしまったのです。と云う事は自らその原因究明と対策立案の能力が無い事を暗に認めている事に成ります。しかし、かといって日本などにその協力を求める事は虚勢を張っている以上は求める事は立場上出来ない事を物語ります。
まして証拠が出る事がこの「4つの潜在的欠陥」が露出する事に成り、外国のメーカーに「おんぶに抱っこ」の何も出来ない姿を露見させてしまいますので、虚勢を張っている手前それこそ中国にとっては「恥じの上塗り」の国難で有ります。
技術問題の解決というよりは最早一連の経緯から政治的な問題としての重要度がましている事に成っています。日本とヨーロッパの力を借りない限り「原因追求と対策」をも出来ない立場にあることが判ります。

「真因対策の解決策の検証」
そこで、では、本気で解決しようとすれば、中国に方法が無いのかと言う事ですが、論理的には問題の優秀な川崎重工の列車をラインから外す事で解決する可能性があり、列車種を統一する事で論理的に危険率は低くなる筈です。
ヨーロッパの列車管理システムの良悪の中で起こる事故の可能性の範囲で留まりますが、しかし、このヨーロッパ(EU)の混成式の列車管理システムはヨーロッパでは現実に不完全なシステムとして上記した様にまだ管理しきれない混成の欠点が出て現実にはあまり採用されていないのです。

そこで、では”川崎重工の列車を外す事が出来るか”の問題です。
出来ない筈です。この性能の良い列車を以って高速としての中国の”鼻息ばかりの謳い文句”にしているからです。国威高揚の為に。
川崎重工の列車を走らせるには本来は列車管理システムを日本のATCにする事と、列車主体を川崎重工を始めとする日本製の列車にする事で事故の起こる確率は極めて低くなり、制動力の悪い列車は早い日本製の列車を「やり過ごし」の方式でプールするソウトを日本製で組めばクリヤーする事が出来ます。

第1は制動力の悪い諸外国の列車を主体とするから良い列車が原因してシステムに矛盾が生まれるのです。
第2は制動力の悪い列車は時間帯に応じてある駅で「やり過ごし」の方式でカバーできますが、この逆は論理的に困難です。そもそもこの世の構成は第2の構成で成り立っています。この世に限らず分子構造の中までこの第1の構成で成り立っていますからこれは最早この世の自然の摂理です。
第1と第2を混在させるから問題が起こるのです。
第1を導入する以上は第1を主体として行えばそれはそれで第2と成る事に成りますから問題は無く成る筈なのですが、第1も第2も混成の主体は何れにも着かず問題を起すのです。
中国の大きな判断ミスでありこれを続ける限り「潜在的欠陥」に結びつくものです。

「時刻表のタイムラグ欠陥」
ここで、更に問題が出てくるのです。列車の制動力の良悪の問題ですが、制動力が良いと云う事は「時刻表」をより正しく守れることを意味します。
停車位置も定位置で停車する事が可能となりそれだけに「事故の確率」は低く成ります。
ヨーロッパの列車の制動力であれば山形∧ですのでかなり手前から速度を落としてブレーキを掛けながら停車位置に止まろうとしますから「時間ロス」が起こり「時刻表」が正確に守れなくなります。
これが走っている幾つかの列車群に起こりますので其処に起こる「時間のズレ」が重なると最悪「衝突と接近の危険性」が高まる事に成ります。
(ヨーロッパのようにゆったりとした大きい「時間ロス」が発生してもそれを吸収し得る余裕ある「時間表」を作ればよいことに成ります。)
更に其処に制動力の良い日本の列車が介在すると余計に「衝突と接近の危険性」は高く成ります。
この現象が各区間で起こる事に成ります。依って、「時刻表」にも列車の前後が逆になるなどの問題が起こってくる事に成るのです。其処に過密が重なれば「衝突と接近の危険性」は更に増します。
そうすると列車管理システムの信号の精度良い管理ソフトが必要に成りますが、これは混成システムですので、確実にしようとすれば列車の「完全な固体認識」が必要と成ります。
しかし、先ず相当にこの「固体認識」はソフトと機械的に困難です。
依って中国の現場では此処の部分を「人為的操作」で逃げる以外に有りまんので「衝突と接近の危険性」のズレが常に発生していたと考えられます。「人為的な潜在的欠陥」となります。
依って、この技術力が無いがためにもともと人為的にする為により早く「やり過ごし」のポイントまで行かせる為に「青信号」であったのであって、「固体認識」の無さと「サージ対策」で赤に変え得るノウハウが無かった事を意味しますので、上記した「衝突と接近の危険性」の矛盾から衝突が起こったのです。

日本の新幹線の様にくさび鍵形〔印の制動能力であると、直前でブレーキを掛けて停車できる同じ制動力と同じ速度と同じ時間帯が守られて初めて高速鉄道は維持出来るのです。高速化=ブレーキ制動の前提に於いて。
この事も加えると中国の混成列車システムであると最終4重の矛盾を持つ事に成りますから、衝突を含む事故は”必ず起こるシステム”と云えるのです。
ところがこの4重の矛盾の解消策は、中国では上記のこの解決案を実行する事は政治的に国民高揚を図る目的があり、且つと技術的に低く混成である限り無理であります。

因みに、ところが、韓国の高速列車もフランスの方式ですので混生システムではない為にこの様な3つの矛盾の事故は起こらないのですが、もとより列車管理システムと制動力はヨーロッパ方式で走らせている限りは「時間のロス」と「小さい事故」は現在も起こっています。これを証明しています。
ところが、これを補う為に韓国は三菱系の新幹線の列車を別に三菱OEM方式で製造して韓国製として輸出しようとしているのです。日本の三菱の製造単価を下げる目的です。
何時か韓国は日本のシステムに変わる事を意味しています。車や家電の三菱プラント生産方式で日本のノウハウを模倣で獲得した時と同じ様に、又、三菱系のものを韓国製とするでしょう。
因みに台湾は全て日本の新幹線ですので問題は起こっていません。
しかし、この様に中国がどの様な列車を自国の物として喧伝しても絶対的に技術的に造り出す事が出来ないのです。

「アセンブリー生産の弱みと欠陥」
上記した様に現在技術力が進んだヨーロッパ諸国でも日本のシステムと金属関係の2つの技術力には追いついていないのです。ましてや中国にはこれを実行できる全てを賄えるだけの総合の基礎力の技術力と生産力はないのですから、部品は全て外国から買取調達する事に成ります。要するにアセンブリー生産です。
その意味で列車一つを売るよりは部品単位で売却する方が欧米と日本のメーカーはより利益率は上がります。ですから、日本を含む先進技術の諸外国は損はしないのです。
戦略的にも政治的な問題が起これば部品の供給をとめる事で「首根っ子」を抑える戦略が採れることに成ります。
日本を含む諸外国は当初からこの「潜在的欠陥」を承知していて戦略的優位がある為に落ち着いて今回の問題に対処出来ます。
この事は政治的に承知している中国は、つまり、国威高揚の切迫条件に迫られて慌てる余り中国は言葉で国民向けに大きなことを言っていますが、実は「首根っ子」を抑えられているのです。
これを外国に輸出するも日本に執っては部品売却益が増える事を意味します。問題が起これば解決する能力の無いままに中国が責任を負う事に成ります。
責任はまともには負えないでしょう。上記した様に対策力がそもそも無いのですから。中国の事ですから政治的にどの様な難癖を付けて来るかの危険はありますが、「首根っ子」の事から”事を荒立てる事”は決して出来ない筈です。
専門的に観ればこれだけの決定的潜在欠陥を持っていれば導入する国は限られてきます。
価格を落としての販売と成りますが、部品が先進技術国から購入する生産体制そのものが変わらなければ大きく価格を下げる事は困難です。況して売却先にこの欠陥システムの列車を運用する能力がある事が疑問視されます。あくまで「国威高揚の道具」に使う目的でしょうが、今回はその問題点をさらけ出してしまった事から難しく成ったと考えられます。
そこで、中国らしく「雷」と「埋める」で「臭い物には蓋」で逃げようとしたのです。
技術問題点を解明してもこの4つの矛盾をさらけ出す事に成り余計に中国としては問題を大きく広げてしまう事に成ります。
仮に技術的問題として原因が解明されても中国では解決で出来ないのですから。下手をすると拗れて購入先と政治問題化して「部品の供給」が止まる事も充分に予想できます。それこそ中国にとっては基も子もありません。

「過去の開発失敗の経緯」
そもそも中国は国威高揚の為に1990年頃から10年間ほど独自の列車を開発し始めたのですが、結局、無理である事が判り4年間で今回の外国から購入しての混成システムと成ったのです。
この事からでも潜在的な問題がある事が判ります
ロシアの技術導入を基本にロケットや戦闘機開発も行いましたが全て失敗に終わっているのです。
話題に成ったジェツト戦闘機はロシア式のもので19機作りましたが上空で激しい振動を起こして飛んでいられない有様で即時開発は中止したのです。表向きは成功したように国民に見せていますが。
人工衛星のロケットもロシアのものを基本にして2段目を類似の自己開発をしたのですがこれも2段目爆発で失敗に終わっています。それだけにこの高速列車は後に引けない国威のものと成っていて何とか混成でもよいから成功したかに受け取り、喜び勇んで必要以上の虚勢を張り国民に鼓舞したのですが1月もしない内に上気する「潜在的欠陥」から決定的な失敗を招いてしまったのです。
幸いに国民にはこの「潜在的欠陥」を見抜くだけの知識と理解力の不足と情報の不足があるから技術問題として発展しない事が伺えますし、補償と関係者への不満だけに収まると考えられます。
まして、一般の中国人の「石は薬」「法より人」の思考規準から真因追究の要求までに発展しないと考えられます。
上記の通り中国当局は真の原因追求は政治的に戦略的にもとより技術的に外国の力を借りない限り出来ない筈で見せ掛けの行為に終わると見られます。
現に、そもそもこの様な列車事故の矛盾を指摘し解明できる国民が居ないことそのものが問題なのです。ここでもその技術力の無さが露見しているのです。日本では何もかも考えられない事です。
日本では国民がメーカーと相当する以上に技術力を保持しているのです。それだからこの様な優秀な制動力とATCとが生み出されているのです。専門的な立場から見て中国にはこの「潜在的欠陥」の改善は急激に成される技術力ではありません。
混生システムのアセンブリー列車です。原因が判っても対策を採る能力が備わっているかは疑問で、結局は原因究明は関係国の協力なしでは現実には無理と成る筈です。
依って中国は戦略的に原因を雷説か信号説にする事以外に無い事に成ります。
「サージテスト」の事実を無視して。しかし、混成システムは4つの矛盾を潜ませたままで。

「今後の中国」
現実問題として政治的に国民の知識力を高める事は現体制の共産党の言論統制や格差等に対する批判に繋がり、政府の不安定さに繋がっていく事に成り痛し痒しの問題となります。
韓国の様に技術力を吸収して経済力につなげる事は喉から手が出るほどでしょう。しかし、急激に経済力を上げる事は「民度」が上がり国民意識も高く成りますので政府の倒壊にも繋がるのです。
だからある意味で戦略的に混成にする必要に迫られた事も有り得ます。
日本製の物に統一させる事は国家防衛に対する戦略的な意味で日本に技術支配される事にも成りますので、せめて数カ国にその支配性を分散させる事も必要です。この判断のミスが招いた事故といえます。
何にしても他国の基本をベースにして自国製として見せつけ国威を高揚させねば成らない国情に至っているのです。今後も著作権の盗用問題に見られる様にこの様な状態が続くと見られます。
しかし、それでもロシアの戦闘機や人工衛星を始めとしてベースにしてでも失敗している技術力の無さですから、その基礎力の範囲は見えています。
故に原因追求はおろか対策までも成し得ず、たとえ成し得たとしても仕様内容が異なっていますので部品へのフィードバックは論理的に不可能ですし、また、下手をすれば部品の停止ともなれば国難と成ります。
先ずは、専門家でなくては判らない「雷か信号」でお茶を濁す事の程度で真因の証拠を見せずに終わらせるつもりで有ろう事がよく判ります。
その様な列車に乗らなくてはならない中国の人々の心境はいかばかりか。同情に耐えません。
実情や真因を”知らない知らせない”の中ではその怖さも半分では何か矛盾を感じ割り切れないものがあります。
共産主義の一党独裁の計画的市場経済の「潜在的欠陥」の一端を露見した事に成ります。
本事故の一連の列車計画もバブル破綻経済を恣意的に起こしている延長線上にあるのです。
中国経済全体がそうであるようにオリンピック以降の経済は「恣意的バブル経済」にして維持しています。
政治も何もかもが共産党の一党独裁が「潜在的矛盾」を引き伸ばしている事に過ぎない事に気が付きます。

兎にも角にも、それらを解決するには中国は先進国を見習ながら国民の民度を上げなくては成りません。これは中国の伝統的な思考規準の「石は薬」「法より人」の考え方が無く成るかに掛かっています。
どの様に無くすのでしょうか。「知らない知らせない」の範囲では中国国民には事の問題意識も無いかも知れません。
つまり、中国の「他民族性の国情」から日本の様な「融合民族性」の国情により近づく事、近づかせる事が「雑種の優秀性」を発揮させ、「石は薬」「法より人」の考え方が変える事に成ります。そしてそれが世界に通ずる認識力と物造りの国が生まれるものと考えます。
しかし、反面それは現体制の崩壊に繋がる最大要因とも成り得ます。このシーソウの原理の中にある事が判ります。
これからも「この種の事故」と「事故の処理」と「中国の国民への虚勢」がしばらく続く事が予想できます。
要するに技術も然ることながらこの国情も「潜在的欠陥」を持っている事に成ります。
今回の処置もこの思考規準と国情が根底にありそれが大きく左右されていると観られます。


(中国の技術的な物造りの現状のレポートは「青木氏と神明社」の関連レポートとしてそれに基づき詳細を記述していますので不明なところは「青木氏と神明社」を参照してください。)

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青木氏と守護神(神明社)-7

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  「皇族賜姓族の生活圏範囲」
勿論、皇族賜姓青木氏5家5流一族はその皇族と云う立場(3つの発祥源)からこの「未勘氏」を発祥させて勢力拡大を図ろうとする行動が制約されていたのです。且つ、従って行動そのものが限定した伊勢と云う領域の範囲に留め、限定した「氏と民」を指定し、同族の賜姓源氏の様な権威を背景とした広域的な勢力拡大(荘園制の集団化)を図らなかったのです。
勢力圏域は5家5流とその一族が定住する「生活圏の範囲」に留めたのです。
藤原秀郷流青木氏も24地方域に限定し「未勘氏拡大」や「荘園制の集団化」の策は「母方族 有品の位:第4位」としても藤原秀郷一族一門の中に於いてもその行動の範囲を厳格に守ったのです。
そもそも荘園に属する未勘氏の多くは、旧来の「姓名」を持ちながらも「名義料」とその「労役の責任」を果たした上でその代償として名義主の「氏名」を名乗ったのです。そして、その主な義務と労役は「兵の提供」と「兵糧の提供」と戦いとなると「合力」する事でした。

「4つの青木氏」は「国」よりも「郡と村」と云う小域に限定した事が、その「生活圏」で結束する「絆」を強めたのです。小さいながらもそれに見合った戦略を採用して結束して戦った事によります。
それと、この「生活」と云う「絆」を強めるために採った経済策「2足の草鞋策」(物造り)を古くから採っていた事が共に生き延びられた原因なのです。
更に云えば、「賜姓族青木氏」にとっては母方で繋がる「血縁性の結合」である「秀郷流青木氏」の存在が色濃くあったでしょう。
その「秀郷流青木氏」には藤原氏の「第2の宗家」と云う確固たる立場があり、彼等の強大な護衛軍を擁していた事が賜姓青木氏に採っては大きな願っても無い「抑止力」となり「安全」を保障されていたからであります。
そして、「賜姓青木氏」が「不入不倫の権」で護られていたとは云えど、「賜姓青木氏」が存在する地理的範囲の周囲には必ず「藤原秀郷流青木氏」が定住赴任していると云う環境も見逃すことが出来ないのです。
恐らくは国策の「融合氏」「3つの発祥源」の元を潰す事は出来ないとした「天皇家の採った戦略」であったと観られます。
平安期に「賜姓青木氏」に与えられた「不入不倫の権」とは別に、安全保障の意味からも「秀郷流青木氏の抑止力」を明らかに大策として採ったものと考えられます。
「嵯峨期の詔勅」に依って皇族関係者は青木氏を名乗るとして民に「使用の禁令」を発したのですが、藤原氏北家の秀郷第3子の千国にはこれを特別に許し、「母方族」として「特別に賜姓」して「青木氏」を名乗ることを許し、更にはその”「官職」と「有品の位」は皇族賜姓青木氏と同じとする”と定めました。
これは明らかに「単純な許可」では無く、「単純」であれば何も官職と有品を賜姓族と同じとする必要性はありませんし、賜姓する必要も無い筈です。青木氏を名乗る事のみ許す事でも充分です。
「賜姓青木氏」と同じ様に「家柄と身分と役職と官職」を藤原氏北家自身が求めていないのに全く同じにした事は「藤原秀郷一門の勢力」を「賜姓青木氏」に「抑止力」として着けて護る目的であったのは明らかです。
つまり、同じ青木氏を名乗らせ同じ仕事をさせる事によって”同族だ”と思わせてその威力を見せ付けて融合氏の発祥源賜姓族に手を出させない事を目論んだのです。
又、天皇家にとっても「親衛隊の威力」を示威する狙いがあります。
この時期は960年頃ですので「荘園の行き過ぎ」に依って起こっていた諸問題が佳境に入った時期でもあります。
後60年至もすれば阿多倍族の九州自治の問題、外国からの難民流入、賎民問題、安部氏等の動向、各地での動乱、天皇の身辺もそろそろ危なくなってきた時期でもあり、「融合氏」の5家5流の賜姓族の安全保護を図るべき環境でもあったのです。
兎に角にも、朝廷内外に問題を多く抱えながら摂関政治の最盛期でもあり、その中でも「平将門の乱」を鎮めた唯一信頼できる当時の大勢力と成った藤原氏北家筋で周囲(賜姓族)を固める必要もあったのです。 
「不入不倫の権」
しかし、これも充分に「抑止力」として発揮したのは平安期の事であり、「武家政治」「武家社会」を中心とする鎌倉期から室町期にかけては周囲が皆武家であり力を持った為にそうも行かなくなりました。
本来であれば、最も「3つの発祥源」の「融合氏」としての充分な「氏拡大」を図るには、「皇族」と云う立場から考えてその「行動範囲」は極めて制約されていた筈で難しく、むしろ同じ「武家の社会」の中でこの立場(3つの発祥源」)に頼っていた場合は滅びるのは速かったと考えられます。
それだけに「融合氏」やそれに連なる「姓氏」の急激な台頭が起こったと云う事でもあり、「融合氏」が増えたら増えたでその環境は別の意味で難しく成って行ったのです。
そうすれば当然に、それまでに無かった「武家の目」が起こり、鎌倉-室町期には賜姓青木氏一門に向けられる目は、藤原秀郷流青木氏の「後ろ盾」がある事そのものが、他の豪族たちには「畏敬の念」と云うか「専横の目」と云うか”ちらついていた”ものであったと観られのです。
しかし、「武」を以って成り立つ「武家」である以上、例え青木氏に「不入不倫の権」があるとしても潰そうとすれば潰せたと考えられます。それはあくまでも「公家社会の掟」としては成り立つ「物言い」であり、何の「武」による罰則の様な拘束力も有りません。武家にとっては"片腹痛い"と成ります。
但し、その場合、ある意味で「朝敵の汚名」は覚悟する必要がありますが、それは汚名の範囲であり周囲の武家が乱世にてこの範囲を超えていればその汚名も関係は無く成ります。
現に室町期の「下克上」と「戦国時代」には殆どの武家は信長の様に「空虚な権威」として何の躊躇もしなかったのです。
信長だけではなく殆どの豪族は「不入不倫の権」は余り念頭に無かった筈で、言われれば”あっそうか”程度のものであったろうと考えられます。
まして、鎌倉期以降は社会は前記した様に「融合氏」の数では無く「姓氏」の数が主体であり、歴史と伝統のある「融合氏」ではいざ知らず、賜姓族の「不入不倫の権」は左程の「拘束力」は無かったと考えられます。
まして室町期の「下克上」の乱世の中では、5家5流の賜姓族に与えられた永代の「不入不倫の権」を気にしていては「下克上」は論理的に起こらない筈で、「下克上」とは「上の権威」の理屈が通らなくなった社会なのですから、「絵に描いた餅」程度のものとしてしか扱われなかったと考えられます。
其れだけに平安期は兎も角も「朝廷又はむしろ天皇の力」には、鎌倉以降は青木氏を支える力が無く衰退して行ったのですが、この様な社会の中では「3つの発祥源」の青木氏に執って生き残るには秀郷流青木氏一門の「抑止力による武力」と、「自力・自立の経済力」以外には無く、その意味で「2足の草鞋策」の判断が大きく効を奏したと云えます。

「秀郷流青木氏一門の抑止力による武力」+「2足の草鞋策の自力・自力の経済力」+「影の力のシンジケート」
これら「3つの策」は互いに連携した関係を保持し「相乗効果」を生み出していたのです。

「平家の様な生き方」
平清盛も「宗貿易」を試みたのも阿多倍一族一門の「民族氏」の宗家「たいら族存続」を「栄枯盛衰」のたとえの通り強く意識していたのではないかと考えられるのです。
恐らくは「伊勢の隣人」であり「古代伊賀和紙」の殖産で伊勢青木氏と繋がっていた事を考えると、伊勢青木氏が特に「2つの陰の力」と表に見える「自力・自立」で生き延びようとする姿勢を見て「武家・武門」でありながら「武」では無くむしろ「商家」に行き先を強く求めていたのではないだろうか。
その証拠に平家滅亡後、実は各地に飛散し土地を無くした平家族は各地の阿多倍一族一門を頼る事なくその飛散地で「殖産」と「家具・陶磁器等の生産」に大きく関って生き延びているのです。それは家紋から判るのです。
”平家がどの様な生き方をしたのか”を検証する事で融合氏の「4つの青木氏」と同じく生き延びられた原因の本質が観えて来ると思えるのです。
後漢の阿多倍王の6(7)代目末裔平清盛が確実に子孫の為に採った生き残り策「殖産と商い」が滅亡後に生かされていたのかを「織田氏」を通じて検証してみたいと考えます。
同じ激動の時代を生きた青木氏と共通する何かが其処にある筈です。
それがこの時代に必要とした「共通する生き残れた条件」であって真実が見えて来る筈です。

「共通する生き残れた条件」
ここからは少し「たいら族」の生き様を論じたいと考えます。
そもそも「たいら族」は滅亡後、資料と家紋考証から紀州、四国、北九州、岐阜愛知等の山間部に逃げ延び、その地にはこの「殖産と家具・陶磁器等」の名産地が多く遺されていて、その職人家のルーツを家紋と資料で調べると「平家落人」が大変多いのです。
逆に言えば大勢での落人先はこの4地域に成っていて「殖産と家具・陶磁器等」で生き延び逃げ延び通したのです。
例えば、そこでその一つの氏に注目をしたいのです。
この「織田氏」は筆者は「美濃平氏」として観ていますが、「平氏遺族だ」と名乗っている「織田氏」としてその主張している「家紋」(五つ木瓜紋 揚羽蝶紋)を正しいとして検証すると、次ぎの様に成るだろうと考えます。
しかし、「織田氏」には諸説紛々であるので、ここでは先ず「織田氏系譜」の以前のルーツとして「たいら族」として家紋考証で検証します。
その「たいら族の生き様」に青木氏に共通する何かがあると観ているのです。更に、驚くべきか何とこの織田氏が青木氏と深い関わりを持っていたのです。
その意味でもこの織田氏を徹底的に検証してみたいと考えます。

誤解のないようにする為に先に言っておく必要があるのは、諸説をまとめると彼等織田氏の主張は「搾取偏纂」の典型であると云う事です。ところが家紋考証と時代考証ではただ1つの矛盾の無い筋が観えて来るのです。
織田氏の主張
それは次ぎの3つの氏に成ります。
1 先ず最初に尾張で土豪守護代として勢力を高めた時期に名乗った氏は「藤原氏」
2 次ぎに頂点に躍り出た時期に訂正したのは「たいら族」(桓武平氏)
3 現在の各種の調査資料から判明したのは「斯波氏の家臣」

1と2は完全な搾取偏算の典型的な「搾取偏纂の方式」(「貼付方式」「継足方式」「遺子方式」「某方式」「混迷方式」など)を駆使して系譜の中に使用して作り上げているのです。
下記にも証明しますがこの説を少し歴史を勉強したものであれば信じる者は居ないでしょう。

3が正しいところですが、家柄の出世状況をよく見せる為に、後に室町期の系譜には「遺子方式」と「某方式」で搾取偏纂して付け足していて系譜は信用できないのですが、「斯波氏の家臣」であったことだけは最近発見された史実で「下克上」にて伸し上った姓氏である事が判明確定しました。

ところが、これら123の系譜に書かれていない「平安期と鎌倉期末期のルーツ」はすべて不明と成っているのです。
家紋考証から織田氏の行動の節目の年代が観えて来るのです。

例えば”斯波氏の家臣で守護代に成った(1339)”と云う事が正式に解明されたところから色々なことが判明して来ます。この時期は「1339年」と先ず特定出来るのですが、これ等の節目の時期を確定して時代を遡れば平安期と鎌倉末期の事が判明する筈です。
恐らくは平家滅亡の1185年-最終決戦の1190年以降、室町期初期の系譜にあるところまでは少なくとも職人であったと考えられます。(下記)
家紋の考証から割り出しますと共通するキーワードは下記の様に成ります。
織田氏は「五つ木瓜紋」である事は間違いない唯一のところです。

それは現在から考証してこの「五つ木瓜文様」の氏のルーツの傾向が「職人あるいは殖産農業」の従事者の傾向を持っています。又、この木瓜紋の95文様の中の一つの氏には「農兵」であった事も資料と家紋から判っていますので、「五つ木瓜文様」には先ず農兵でもあった事が判ります。
という事はこの家紋の「五つ木瓜文様」は元は武士の可能性が大であった事が云えます。
平安期後、直ぐに足利氏系斯波氏家臣であれば寺の過去帳等のルーツに関するに類するものが存在する筈ですが現在見付かっていないので、直ぐに家臣ではなかった事は確実です。
足利氏の斯波氏が未だ然程大きい豪族では無かったのですから、斯波氏が鎌倉時代を通して次第に力を着けて居た事は事実ですが、北条氏の圧力から未だ自由に家臣を求められる状況では有りませんでした。
この事から家臣になった時期の算定が斯波氏の経歴を調べると出て来ます。
それは(「1280-1300年の間」)下記に考証考証します。
この様な家紋考証・考察を進めて行きますと、元のルーツのところの色々な出自等を探り出せます。
そこで、ただ一つ信頼に値する可能性のある「家紋の考証」から「たいら族」として検証を進めますと、そうすると上記した123の主張と基本が一致する経緯が観えて来ます。

  「家紋からの考証」
先ず、美濃-信濃域の山間部に落延びたグループであるとして(下記証明)、このグループで云えばこの生業にて生き延びたのは「たいら族支流」(下記 美濃平氏 通盛系)ですが、その家紋の「五つ木瓜(織田木瓜)紋」の五瓜がこれを物語るのです。
つまり、判っている史実の越前国織田郷の土豪(織田姓氏家 下記証明)をどの様に観るかに依って歴史評価は異なってくるのですが、上記の1、2は次ぎの「家紋考証」からそれなりの理屈は成り立つのです。
ただそれには根拠とするものには「五つ木瓜」の文様しか無いと云う事に成ります。
結局は問題は室町期のこの文様(「家紋」)の証拠力に関わりますが、かなりの事が判ります。

その主張している家紋は変えようと思えば変えられますが、変えるには全ての縁者や親族の家紋を変えると云う面倒な事が起こりますし、織田姓氏家一党の不明期の鎌倉期の段階では「五つ木瓜紋」の文様(家紋)としては無かったか有ったとしても「口伝状況」程度の筈です。
つまり、滅亡し衰退し隠遁生活の一族一党が生活の糧として「職人あるいは殖産農業」(家紋考証)に携わっている状況の中では、家紋とすべき文様的なものは、最早、「伝統的遺産」に過ぎず、丁度、仕官まで150年の経過期間(下記)を経ていますので、織田本家が「口伝」として遺してきたものに過ぎなくなっている筈です。
そこで、力を取り戻し土豪と成り表に出られる時期は、鎌倉幕府の勢力が低下し、平家一門(下記証明)としても最早、「討伐対象」とは成らなくなった時期は、室町初期の「下克上」のチャンス到来期(1280-1300)と成ります。この時初めて「家紋」と云う「伝統遺産」を表に出せる事に成ります。(下記証明)
では、その表に出られる経緯ですが、平家一門の様な場合は、通常は「職人あるいは殖産農業」に関わっていた場合は次ぎのように成ります。
先ず、「下克上」や戦国時代にはその土地の守護、この場合は尾張の斯波氏(室町期の11国の守護大名・足利氏系 各地に守護代を置く その一つが尾張)と成りますが、家臣は出陣と成りますと、一騎に対して普通は50人程度の兵を宛がわれその騎将は近隣の村から兵農の村民を徴収して来ます。この時、一人または一族一統の単位で「前金何両・・後金何両・・首何両・・手弁当・・」等を契約して揃えます。この事を専門にする斡旋業もいました。
その時、参戦して著しい戦功を挙げた一族一党の農兵には騎馬将や領主守護の信頼を得ます。この事繰り返す事で仕官という道が開かれて来ます。一族一党統等で参加した農兵はその首領が仕官しその首領の下に兵として一族の若者が孫仕官するという形が出来ます。
「美濃平氏」(下記)とも成れば元は武士で戦い慣れたものですから領主側からすれば願ってもない領民であり、守護領主が大きくなれば当然にこの様な優れた一族一党統は召抱えるが常道です。
これが織田郷の「隠遁美濃平氏」(下記証明)であったのであり、通常の農兵もこの一族の配下に仕官して兵の形態が生まれて行くのですが、一族を揃えての実力がありますから直ぐに伸し上がります。
これが尾張守護斯波氏の守護代(織田氏:ある史実の経緯がある)と成ったのがこの織田郷に辿りつきそこで土豪の織田姓氏を名乗った事を意味します。(下記)
その織田氏は次ぎの経緯を持っています。

 「織田氏の経歴の考証」
この「五つ木瓜紋」を家紋としている氏から観ると次ぎのような事が判ります。
先ず、織田氏が守護代になった時期は1339年です。
この事から鎌倉幕府が滅亡する直前の1290-1300年頃に斯波氏に仕官したと見られます。
この時1300年前半に、丁度、越前朝倉氏や今川氏や浅井氏などが斯波氏の守護代に成っています。織田氏はこの間仕官40年で他の守護代と違い度々斯波氏に従って出陣した史実の記録を持っています。この事から斯波氏は織田氏を信頼し可愛がっています。
1339年頃に尾張は「応永の乱」で幸運にも斯波氏は一度に2国(尾張と駿府)が手に入り斯波氏の領地と成り、この時に可愛がっていた織田氏は一挙に守護代に据えられます。
ところが斯波氏の中で「応仁の乱」を境に1467年頃から下克上が起こります。
駿府で今川氏、越前で朝倉氏が謀反します。しかし織田氏は謀反に加担をしません。
斯波氏の守護代の中では下克上を起こさず最も長く255年間も斯波氏を支えます。
しかしその織田氏は1554年を境に下克上を起こします。
斯波氏は領国11国を失い1561年滅亡します。
逆に斯波氏を背景にして織田信長の時に勢力拡大します。
経緯
1185-90年に最終的に三浦半島で平氏滅亡し、離散隠遁後120(150)年程度で斯波氏に仕官し織田氏名乗る。
織田氏の姓氏は越前織田郷より名乗ります。
朝倉氏が1300年頃に守護代になるが織田氏は未だ下級家臣です。
40年間の間に織田氏は記録から戦積を挙げるべく出陣回数が最も多く斯波氏に可愛がられる。
斯波氏は尾張等の2国領地となり急激に勢力拡大(11国になる)を図り家臣が追い付かない。
織田氏を1339年に尾張の守護代に大抜擢する。
鎌倉幕府滅亡し南北朝で国乱れる。1400年頃まで織田氏は斯波氏の中で出陣重なる記録あり。
室町幕府で一族の足利氏系の斯波氏は政治の中心として勢力拡大。 織田氏は力を付ける。
1467年前後から11国の守護代は次々と下克上で謀反 斯波氏は織田氏を使って奪回作戦失敗
斯波氏衰退し1550年頃から1561年まで織田氏は斯波氏を匿う。
織田氏250年以上斯波氏に最も長く仕えた家臣です。ところが戦国大名と成った元家臣と5年間密かに同盟。織田氏1554年斯波氏を名目上追放し尾張の戦国大名と成る。
1561年斯波氏の残所領は織田氏に流れ、斯波氏系の他の戦国大名を凌ぐ。
織田氏は同盟と斯波氏保護を前面に勢力を温存。1561年に2つの同盟を解消し旧斯波氏の家臣の戦国大名の朝倉氏や今川氏を全て潰します。

「120年程度の放浪生活」と「270年程度の家臣の歴史」を持ち、ほぼ「平家滅亡から400年の経緯」を有したことに成ります。

これらの予備知識を背景にして、家紋考証に話を戻して、この時、当然に、守護代とも成れば家紋を必要とされますので、「伝統遺産」として持っていた家紋を引き出して口伝・由来書を持出しある種の手を加えて類似する家紋を作り上げたのです。

この家紋の作り上げる経緯が次ぎの事から起こります。
「120年程度の放浪生活」の中で「家系不明の部分」に上記の1と2の経緯の宛がえが起こったのです。

そこで更に少し織田家に拘ってみます。意外にこの1と2の関りが出て来るのです。
そこで、織田氏の通説を述べて置きますと、次ぎの様に成ります。
"1300年前の1と2は全くの搾取偏纂 1300年の後は越前織田郷の土豪が斯波氏の尾張守護代に(1339)" の通説と成っているのです。
この事から割り出すと、斯波氏の家臣(1300)になるまでの経緯として観て見ると1185年の平氏滅亡離散から凡そ120年の間は不明に成っているのです。
この120年間は家紋考証から観て「殖産-職業人」で糧とし生きて、滅亡より100年位経った鎌倉幕府が衰退始めた頃から一族は農兵をしながら各地に仕官口を探しながら生き延びたと判断出来るのです。
この120年前の滅亡前は次ぎのルーツを持つ氏であったとしているのです。

「通説 滅亡前の織田氏系譜の主張」
1の藤原説は越前越後の藤原利仁-昌仁
2の平氏説は平重盛-資盛-親実
だと云っているのです。

1の藤原説
鎌倉期から室町期までは藤原氏は一時失職離散があったが本領安堵でその後勢力を「関東屋形」や「武蔵7党」等で勢力を持ち直しているのです。
まして、織田氏が云う120年間も一族一門が不明に成ると云う事は氏家制度の中で藤原秀郷一門は古来より融合氏であり藤原氏の独自の菩提寺や春日大社等の氏神で一族一門は詳細に管理されているので不明は全くおかしいし、足利氏(斯波氏)とは陸奥と信濃で秀郷一門は血縁関係にあり家臣になる事もおかしいのです。藤原氏系の足利氏に藤原氏が仕官は矛盾ですし、藤原氏北家であれば仕官の主家側にありますし、利仁流は秀郷流と並んで北家の2代勢力を室町末期まで維持したのです。
第一に利仁流にはこの様な人物は存在しないのです。
又、更に織田氏の時代考証がこの人物では120年位大きくずれています。
更に、越前(権守)に関わった人物は「利仁」の子供や末裔の中での長男の「大束」だけです。
利仁の9人の子供や孫・祖父等にはこの様な人物は存在しないので全くの搾取偏纂です。
要するに酷い主張の論外説です。
この程度の主張でもこの室町期はこれで通ったのです。周囲が皆立身出世の搾取偏纂の主張なのですから”赤信号皆で通れば怖くない”です。織田氏には限らないのですがこれで十分に済んだのです。
この時代の客観的立場から書かれたまともな資料には”後勘に問う”と最後に記述されています。
藤原氏北家筋としたのは「下記の経緯」から織田氏の当時の「考証力の不足」から間違いを起こしたと観られます。間違いではなく分からなかったが正しいと考えます。
そもそも木瓜紋は藤原北家筋の徳大寺氏の文様です。(下記)

2の平氏説は確かにこの人物は存在します。
しかし、親実はも資盛の子説と経盛の子説の2通り併記しているが先祖とするに自信がなく迷った形跡が観えます。これに関わる過去帳や菩提寺、氏歴の産土神か氏神または鎮守神の神社に存在するこのルーツに繋がる根拠は全く存在しないのです。
ただ、上記した「織田氏の経歴の考証と経緯」から藤原氏では全くない事と、この様な上記した「経歴と経緯」を持つ事は「平氏の末裔」以外にあり得ません。
そもそも急に斯波氏の守護代までに成れる実力は平安期に於いて組織的な実力の平家以外にはありません。
ただ藤原説としてあり得ない事が発覚し、口伝の経歴や経緯から平氏説が高いとしたがその特定の人物設定に考証力不足から搾取偏纂をしたのでしょう。
そこで、恐らくは「家紋考証」と「織田氏の経歴の考証と経緯」から”藤原氏では矛盾が大きい為にどうも平氏である”と観て訂正したと観られます。

「平親実」とは、「斎部親実」であり、斎部親澄と富田三郎基度の孫娘(あるいは蒲生親長の娘)との間の子とされます。
この人物は貞永2年(1233年)越前国丹生郡織田荘の織田神社(劔神社)神主。正嘉2年(1258年)出家し、覚性と号した。平姓は跡付けです。
この越前織田郷の「斎部覚性」「織田覚性」(或いは「津田親実」)を捉えて、この「覚性」を平資盛のこの「平覚盛」と重ねて同一人物として「平親実」として搾取偏纂したものである事は後に判明しているのです。
故に、「斎部覚性」「織田覚性」(或いは「津田親実」)は織田氏の祖である事に疑問があるのです。
「覚性」(かくせい)と「「覚盛」(かくもり)の音読みを使って同一人物と見せたのです。

実は、これには大きな史実が遺されているのです。
それは「美濃平氏」なのです。
この美濃には「美濃源氏」と、それに「美濃平氏」が居て元より混在地域でした。小競り合いがありながらもある程度安定した地域でバランスが取れていたのです。「たいら族」の本拠地の伊勢平氏と賜姓伊勢青木氏と同じ様に相反する立場にありながらも隣人付き合いをしてバランスを採っていた様に、美濃も歴史上有名な源平混在の安定地域でした。
そこに前記した常陸、上総、下総から追い出された国香・貞盛の末裔の「たいら族」(関東平氏)が1100年頃に美濃まで引き下がりここに定住したのです。
ところがこの事により「美濃平氏」(現地では「美濃平家」と呼称)とが混在していた美濃地域が勢力バランスが崩れ争いが起こり始めました。
以後、この「美濃源氏(土岐氏系)」と「美濃平氏」(通盛系)は常に勢力争いが絶えない有名な地域となりました。
そこで遂に「美濃平氏」と「美濃源氏」には、次の様な有名な争いの経緯が起こります。
「美濃源氏」は「尾張源氏」に加勢を頼み組んで「美濃平氏」を追い出しに掛かります。
有名な1180年10月「富士川の戦い」に於いて平氏は敗北して一度帰京します。
その直後の11月に「源頼朝、源信義追討の宣旨」が改めて出され、再度の源氏追討使派遣が検討され、その際、「平時忠」が「美濃源氏」を味方につける策で安定化の和睦策を進言しますがこれは容れられなかったのです。するとこれに11月に尾張・美濃の源氏が勢いついて更に蜂起したのです。
その後、「反平氏」の挙兵は畿内にも波及し、10月に「近江源氏」が挙兵します。
しかし、反撃に転じた平氏の軍事行動により先ず近江源氏の反乱勢力は制圧されます。
敗れた「近江源氏」の武将らは美濃へ逃亡して「美濃源氏」と合流します。
「美濃源氏」は「近江源氏」を迎え入れて平氏に対する抵抗を続けます。
1181年1月 平氏は美濃へ攻撃を開始します。
末裔の居る美濃に向けて「平通盛」が「蒲倉城」を落として「美濃源氏」「近江源氏」を制圧し「美濃平氏」を救います。(後にこの城が「美濃平氏」(織田氏)とって重要な拠点となる)
この様な経緯を経て通盛の流れを汲む「美濃平氏」の末裔が再び美濃を制圧したのです。
この有名な激しい戦いで両軍共に多数の戦死者を出しました。
一時は「美濃源氏」の中心人物である源行家を制圧し支流源光長(土岐光長)も討ちとられ梟首されたとの有名な歴史夜話の噂が流布。「美濃奪回・攻略」に成功した平氏は次に尾張制圧を続けます。
この直後に平清盛の死去 出陣は停止延期されますが、しかし、1181年3月に有名な「墨俣川の戦い」を迎えるのです。
この時に「美濃平氏」を救った「平通盛」の守護兵とその末裔はその後も美濃を守り続けますが、遂に1190年この「美濃平氏」は離散する経緯を辿ります。

この時期前、越前は始めは「平重盛」が国主でありましたがこれに代わって「平通盛」は国司で務めていました。しかし重盛死後1176年に通盛が越前守に成ります。
(ここで織田氏が主張する説の間違いを起こしている)
その後、朝廷内の政争ある事件が起こり1179年に平通盛は一時失職しますが、清盛がこれを解決して数ヶ月して戻ります。
その直後に上記1180年の反乱が起こり通盛は越前より美濃源氏制圧に動きます。
1181年の3月に制圧し、以後平家滅亡までの1187年まで越前と制圧した美濃平氏だけに成った美濃を合わせて平通盛が統治します。
この間、下記に示す1150-60年頃から美濃に教盛-通盛の末裔を置き、1176年から越前国司・守護を務めながら1187年までの約40~30年間程度は美濃に関わっているこ事に成ります。

上記の平通盛の経緯から観ても2の説の「重盛-資盛-親実の説」は確かに越前国主でありましたが京に定住していて、越前との関係は1176年では既に終わっていて、その前から平通盛が国司の実質の管理下にあったので間違っているのです。
越前-美濃の関係からは平通盛が実質の関係者なのです。
まして、もし重盛ルーツであるとすると織田氏は越前の土地の者と云う事に成り「越前平氏」なる一族がいた事になり新たな平氏説が生まれますし、平家滅亡後、鎌倉幕府の掃討も受けずに逃亡もせずに住み付きその土地に穏やかに居た事にも成ります。(越前は知行国で平氏領国ではない)
そして斯波氏にすんなりと仕官した事に成りますが、だとしたら「150年の過去の消失」は起こり得ませんし、織田氏の姓名も生まれない事に成ります。
とそう成ると当然に織田氏の神社、寺社も残っている事に成りますから「150年の過去」を消失する事はあり得ません。
そもそも各地の平氏掃討はそんな生易しいものではありませんでした。殆ど追手を逃れて都から遠く離れた人里離れた山間部を切り開き密かに隠れて住んでいたので生き残れたのです。(「隠れ里」と言う言葉がある位なのです)
紀州の資料に残る平家の村も四国の平家の村と云われる所等(平家の里)はこの様なところです。
”越前に居て越前に”などあり得ないのです。
現実に越前では平通盛は越前国人の全てから長い間反抗されていて”命令を聞かない”と清盛に愚痴手紙を送っている位にこの地の国府の平家役人の政治は上手く行っていなかったのです。
もし、2の説であるのなら平家の部族が居て武力で押さえ込んでいた筈です。
だから後白河法王は越前守を平家一門から外す事件が起きたくらいなのです。数ヶ月後に有名な政変事件を起こして平清盛が圧力を掛けて元に戻させたのです。
そもそも越前は平氏の「知行国」であって末裔子孫が定住する「領国」ではないのです。
知行の為に一定の軍を引き連れての赴任国でそこに赴任したからと云って、”子孫だ”と云うには矛盾であり、普通は知行国は政治的な知行能力があれば一人で幾つもの国を持つ事があり、重盛や教盛などは清盛の傍に居て補佐役で政権を維持する必要から代わりに「国司」を送るのが普通でなのです。
国司とは本来その役目なのです。越前も長い間「知行地行政」を平通盛が代行していたのです。
「たいら族」の平家は中部より以北地域は一時の関東を除き知行地でした。
本論6までのところに記述した様に美濃より以西地域が平氏を含む「たいら族」の領国であったのです。美濃がその最前線です。
「たいら族」の関東に押領使等で赴任しながらも一部には「関東平氏」の地域を作り出していた事も有りますが、その地域の「常陸-上総-下総」には「平将門の乱」はこの地域を領国として作り上げた上で近隣を制覇して更に進めて「独立国」を造ろうと考えた事件なのです。ここには元は一部は藤原秀郷の領国もあったのです。
この様に知行国と領国とでは社会慣習やルーツ的な事も含めて根本的に色々な事が異なる判断が起こるのです。この事を織田氏は系譜を作る時に既に400年前の祖先のルーツを伝え切れていなくなっていた事を示しています。微妙なところですが「たいら族」は承知していたと観られますが、「越前-美濃」と「清盛-重盛」と「教盛-通盛」の違いを間違えてしまったのです。
口伝で「清盛」(きよもり)と「教盛」(きよもり)の違いを間違えたために矛盾が生まれてしまったのでは無いかと観ています。

先ずはこのおだしが主張している2つの説はどこから考察しても矛盾があり、鎌倉幕府の地頭が居た越前から足利氏の斯波氏に越前は変わったのにその間何をしていたというのでしょうか。
重盛ルーツ説は搾取偏纂の疑問矛盾だらけですから通説でもどの様な根拠か不明ですが否定されているのです。
(参考 清盛-重盛 教盛-通盛 教盛は清盛の弟)
しかし、本論の「平通盛」の「美濃平氏」説では無理が生まれません。

「美濃検証」
更に詳しく家紋考証から「美濃検証」を進めます。
本来「たいら族」は「阿多倍-国香-貞盛」から始まり「伊勢平氏」(維衡が伊勢半国司に任じられる)と呼ばれる頃から本拠地の伊賀地方に居て、その勢力は北部に向かいその隣には後に「美濃平氏」の通盛支流末裔が定住し、1100年頃には「関東平氏」は常陸、上総、下総から美濃に引き上げて来ます。「美濃平氏」は「美濃源氏」本流と「土岐源氏」を凌ぐ勢力拡大を図ります。

ここで「美濃平氏」と「美濃秀郷流青木氏」との深い付き合いが浮き彫りに成るのです。
この時期に「美濃平氏」と「藤原秀郷北家一門」との血縁関係が盛んに行われます。
(北家秀郷一門の主要5氏の内3氏の13家13流が発祥します。)
最終、「美濃源氏:行家」の本流は滅亡し「土岐源氏」も圧迫され衰退し、宗家源の頼政の「以仁王の乱」を切っ掛けに最初に攻め落とされた「近江源氏」と合力して最後の決戦を挑むのですが、敗退し遂に遺された3源氏も「近江源氏」と「美濃源氏」と「尾張源氏」は滅亡するのです。
この「美濃平氏」は凡そ美濃には170年間位定住していて、この内1160年の後半50-30年が「平氏の拡大期」でもあり「美濃の拡大期」でもあったのです。
この期間が下記に示す「50-30年」の期間で、この間に藤原氏北家筋とも家紋考証でも見られるように盛んに血縁をしているのです。

「家紋が生まれ使われた時期は何時」
そこで、先ず家紋考証するに際して参考として、そもそもこの文様は御簾の周囲に施した刺繍の布巾「帽額」(もこう)に付けられた文様が独立したもので、木瓜や胡瓜をせん断した模様の切り口とされていますがこれは間違いで、そもそも歴史は中国で「果紋」と呼ばれ、唐の時代に官服として袖口に刺繍してその職位をあらわす文様でした。
これが奈良時代に使用された衣服や車紋や家財道具などに見られる物で、特に保元・平治の頃に多く利用されたのものなのです。資料からこの文様が最初に使われた時期は1156年に観られ「公家徳大寺氏」(藤原氏北家)の車紋に使われたとされています。
とすると、家紋として使われた時期は徳大寺氏の1180年-85年代であります。
この時期は綜紋「揚羽蝶紋」の平家一族が「美濃平氏」(織田氏)の支流まで家紋が定まっていたかは検証する必要があります。
これは象徴紋から家紋として発生した経緯と年代と氏数から明らかに成る筈です。(下記)
そうなると、この家紋が生まれた時期は何時になるのか””この文様を使った時期は何時になるのか”という疑問が湧きます。
当然に「美濃平氏」の末裔が本格的に使った時期は「平家滅亡」後の各地に姓氏が多く発祥した時期と成ります。(平家滅亡前には織田木瓜紋は使用されておらず「五つ木瓜紋」は使用していた事が証明出来ます。)
「織田木瓜紋」としてのその時期は室町期の「下克上」の頃が適切で1300年頃前後からと成ります。

次ぎに資料から越前朝倉氏が1335年頃後半にこの「菱木瓜家紋(3文様)」を正式に使用した記録がありますのでこれから考えると、少なくとも上記の1300年が妥当な時期と成ります。
この間、このグループの「美濃平氏」、つまり、「美濃守備隊の平氏」と「美濃に居た通盛系の平氏(後の織田氏)」等は、「越前-美濃-尾張-伊勢東」のライン域の山岳部(家紋分布)に先ず逃げ延びて、後世から観てこの家紋に関る何らかの職業(殖産と陶器家具等)に関り一致結束して隠れて生き延びた。
ほとぼりの冷めた頃、再び元の武士の力を盛り返して来て農兵をしながら仕官口を探して各地を農兵として転戦して行くうちに、一部の「美濃平氏」は織田(斯波氏)に仕官口が見付かり、その後土地の土豪として定着し農兵から武士に戻ったと観られます。
この時が室町期初期(南北朝期前後)で、仕官口が当時の足利氏であって勢力を拡大していた斯波氏に見出され「美濃平氏」の一族は家臣と成ります。
これは斯波氏の経歴と一致します。
ところで室町期初期から斯波氏は各地に勢力を広めましたが、足利氏系斯波氏の領国間運営は「守護代方式」を11国に採用したのです。
拠って足利氏の急激に増える領国の家臣が大量に必要に成ります。
(斯波氏11国 越前、若狭、越中、山城、能登、遠江、信濃、尾張、加賀、安房、佐渡)
それも陸奥から始まり九州までに及んできますので1農兵の単位では間に合いません。
(斯波氏は陸奥斯波の地名から名乗った)
そうなると、「即戦力」として平家滅亡の各地に飛散隠遁している平氏に目を付けることに成ります。
この事が「斯波氏の思惑」と「美濃平氏の思惑」が一致していたのです。
「美濃平氏側」からすれば、”斯波氏が兵をどこそこで求めている”と云う噂を聞きつけます。そうすると農兵をしていた美濃の一族は挙って集まります。丁度、その土地が斯波氏の越前で求めていてそこに駆けつけて一族が農兵と成って大活躍をし、その元武士の実力の「即戦力」から「斯波氏の信頼」を一挙に得たということに成ります。
現実に斯波氏の記録から、斯波氏は戦力の中でも「美濃平氏」のこの一団に対して目を付けて便利に各地に連れ行った記録が残っています。つまり、「即戦力」に成ったからです。
その為に守護代になるのが遅かったのです。普通ならそれだけに「即戦力」の実力があったのなら朝倉氏の様にもっと早く1310-20年頃には守護代に成っていた筈です。
しかし、斯波氏にとっては「信頼でき即戦力」となれば勢力拡大著しい時期の斯波氏にとっては喉から手が出る程に必要としていて、守護代として固定させる訳には行かなかったのでしょう。
しかし、斯波氏はその代わり40年後に越前などに比べて尾張の温暖で主要な穀倉地の守護にします。

当時、この様な農兵を集める仕事をする専門の斡旋業が横行していて、「斯波氏」や「美濃平氏」双方からこの斡旋業に繋ぎを求めていた可能性があります。
筆者は考えるには、1300年頃に越前で朝倉氏等が斯波氏の守護代に成っていますが、1250年頃に「美濃平氏」の別働隊(美濃守備隊か通盛末裔隊-3集団の第2集団)が鎌倉幕府が傾き始めた時期の早期に動いて先に仕官口を得たのではないかと推測しているのです。
それは、諸説ある朝倉氏等の家紋がこの木瓜紋類(菱木瓜、三つ盛木瓜、一つ木瓜 :四つ木瓜紋は疑問)であるからなのです。同じ文様である事は見逃すわけにはいかない要素です。
そこで織田郷の「美濃平氏」の土豪一族は家紋として関った職業と口伝から「徳大寺木瓜紋」(四つ木瓜文様)から「何らかの経緯-血縁」を経て、案じて「織田木瓜紋」(五つ木瓜文様)に成り、それを使用したと考えられますがその検証が必要ですし、又”案じたのか始めからなのか”も家紋考証で見てみますとこの2つの答えが出て来ます。

「何故木瓜紋にの経緯と理由」
ここで先ず、先に問題は”何故木瓜紋にしたか”の経緯と理由です。
この紋には実はそれなりの確実な経緯と理由があるのです。

その前に本論とは外れますが、参考として次ぎの事を知って置くと更に深い興味が湧いてきます。
「美濃平氏」(織田氏)と因縁浅からず越前朝倉氏も浅井氏も織田氏と同じ木瓜文様類を使用している事です。その「ルーツと経緯」が実に酷似している事なのです。
同じ斯波氏の越前から始まった守護代であった両氏には因縁何かあるのかも知れません。
この朝倉氏は諸説紛々で現在のところ定まっていません。
殆どは上記した様に織田氏と同じで搾取偏纂で織田氏より酷い状態ですが、その諸説の共通点を纏めますと次ぎの様に成ります。
「朝倉氏のルーツと経緯」
大化期頃の帰化人・九州出自・神官は共通の通説で、阿多倍が引き連れてきた北朝鮮系後漢の職能集団の「祀部の末裔」と成り、平安期は九州-伊勢伊賀-美濃域の神官であった。 後に「たいら族」の支配下にあった経緯を持つ事。平安末期は美濃に居た事。 鎌倉期に武士に転身した事。 前身は日下部氏ら3氏(伴氏、紀氏 飛鳥期からの5大氏 3氏とも後付の木瓜紋類 伴氏は九州の弁済使)の枝葉説である事。
この朝倉氏の事を背景に考察すると、少なくとも織田氏は阿多倍一族一門の「たいら族」かその配下の技能集団の出自である事が頷けます。
但し、家紋を「五つ木瓜紋」として考証すると「たいら族」の末裔と成りますが疑問が多いのです。
しかし、考証の前提とする物は家紋しかないのです。
朝倉氏は天皇末裔説と阿多倍一族一門の技能集団の祭祀を司る「祀部」の末裔説の2つに分かれます。主張する家紋3種(菱木瓜、三つ盛木瓜、一つ木瓜)から観るとこの家紋は室町期の家紋類ですので織田氏の「五つ木瓜紋」類とは時期が異なります。
朝倉氏はこの矛盾を隠す為に唐突に「四つ木瓜紋」(徳大寺氏家紋)を持ち出しているのですが、阿多倍の技能集団の祀部である事は共通の通説、即ち学説ですから直の「四つ木瓜紋」は室町期中期までは有り得ない家紋と成りますのて搾取偏纂は明らかです。
結局、木瓜紋から観ると、「藤原氏北家の徳大寺氏の末裔」か「藤原秀郷流青木氏」との血縁しかありえませんので、ルーツとしての家紋を観ると、斯波氏の家臣に成った1250年代の朝倉氏の家紋の時代考証が不明不祥なのです。
この考証から見ると家柄は織田氏の方が上である事に成りますが、ドラマや通説などでは数段に朝倉氏の方が上と成っていますが、これは殆ど信用できない天皇説を独自で主張しているからで間違いない祭祀部から観れば(共通説から観れば)織田氏側の方が主君側に成ります。
織田氏と朝倉氏の戦いでは朝倉氏は虚勢を張って肩を怒らし家柄をよく見せての織田氏への態度は、信長がこの事を知っていれば”片腹痛い”と成ります。信長は同格程度に見ていたのでは無いかと観ています。
後勘から云えば家紋考証では”織田氏の方が家柄は上、斯波氏家臣では40年の朝倉氏の先輩””出自経緯からは”織田氏は朝倉氏の主家”と成ります。

朝倉氏の方が配下と云う立場から鎌倉幕府との”しがらみ”が無い為に数段に仕官運動を早めにできた事に成り、50年遅い織田氏は「美濃平氏」の立場を補完する様に遅くなった事が頷けます。
家紋を考慮しないで観てみれば、両氏は斯波氏の経緯から観て”美濃平氏の配下”か”たいら族の配下”と成るでしょう。家紋考証が大きく左右しています。

兎も角も朝倉氏は青木氏とは無関係であるので研究を進めると面白いですが此処までとして、織田氏は青木氏と関係する氏族であり、同じ時代を同じ糧で生き様も似て、生きた氏族で助け合いの絆もあった氏としてこれからも研究を進めます。

話を戻します。
「五つ瓜桔梗紋」の位置付け
この文様が大きな決め手に成るのです。
そもそもこの「五つ木瓜紋」には「7つの酷似文様]があるのですが、それとは別に放置できない極めて又似ている「五つ木瓜紋」が一つあるのです。これが大きな決め手に成るのです。
それは「五つ瓜桔梗紋」です。
桔梗紋は上記した「美濃平氏]と1181年に戦って滅びた「美濃源氏」系支流の「土岐氏」の家紋です。
つまり、既に滅びる前に「美濃源氏」の土岐氏と、上記した北家秀郷一門の3氏の何れかと血縁して「五つ瓜に桔梗紋」が平安期に出来ていた事を示します。
当然に秀郷流青木氏か秀郷流長谷川氏かですが、美濃は青木氏の領域ですので美濃土岐氏とでは地理的に青木氏の方が極めて可能性が高いことに成ります。
そもそも長谷川氏には五つ木瓜紋の単独の家紋はありません。織田木瓜紋のみですのでこの場合は対象外と成ります。また美濃の秀郷流青木氏は特別賜姓族でありますので家柄と有品の位から観て吊り合いは青木氏と成ります。

「美濃の秀郷流青木氏と美濃源氏土岐氏」、「秀郷流青木氏と美濃平氏の通盛系平氏」の2つの関係が「美濃の秀郷流青木氏」を仲介して血縁して互いに血縁により上記した「勢力バランス」を維持していた事を示します。
上記した様にこの様な事が家紋考証から観ると美濃秀郷流青木氏を介して三角形の形でこの美濃の勢力バランスが取れていた原因なのです。

その「五つ瓜桔梗紋」に成る経緯に付いて追記しておきますと、つまり、「五つ木瓜紋」の青木氏が土岐氏と血縁して土岐氏側に「五つ木瓜紋」の青木氏から跡目養子を受けた後にも続けて男系継承の跡目が叶わず両者の家柄(土岐氏が上)から養子側の家紋とせずに「五つ木瓜紋」に唐花部分を桔梗紋にして変紋せずに「副紋方式」を採ったのです。
この方式は藤原氏北家一門の青木氏が家紋掟の仕来りとしてよく使用した方式です。「藤原方式」と呼び24地方で青木氏の本家がどうしても一門から探しても男系継承が困難と成った場合に用いた仕来り手段でした。
宗家本家筋はこの場合2つの方式のどちらかを採用します。一つは上記の方式で、もう一つは主紋をそのままにもう一つの副紋を2つ併用して使用する方式です。
枝葉には夫々本家筋が存在しますが後者を使用する習慣と見られ、前者は宗家筋の傾向を持っています。
(例えば、讃岐藤氏の讃岐の宗家青木氏は「下がり藤紋に雁金紋」、雁金紋は足利氏系花房氏の例 秀郷流賜姓青木氏と賜姓源氏の支流土岐氏は家柄は同格)下がり藤紋の真ん中に雁金紋などを入れて本家筋の変紋を防ぐ方式です。

話を戻して、ところがバランスが崩れたのは常陸等から「関東平氏」が美濃に引き上げてからバランスが崩れましたから、この家紋の血縁時期は1150-60年前後と成ります。
つまり、「五つ瓜に桔梗紋」が存在する限りは「秀郷流青木氏と美濃平氏の通盛系平氏」の血縁は、その家紋は少なくとも1150-60年前後域と成ります。
1181年で決戦が行われ土岐氏は完全に滅亡したのですから、その後の「五つ瓜に桔梗紋」は存在しない訳ですから、その後も5-7年は「美濃平氏」が美濃を支配していたことに成ります。
従って、この家紋は「美濃平氏」が滅亡前(30-40年)に既に家紋として使用していた事を示します。

従って、結論は「美濃平氏」の織田氏に成った時期には既に家紋は持っていた事に成ります。

それを正式に使ったのは1335年前後(1339前)で、「織田木瓜紋」として一部判らない様に修正したのは1339年頃と成ります。

次第に天下を治めるに当たって美濃の「藤原氏秀郷流青木氏」の支流紋そのままにするには「藤原秀郷流青木氏」の支流族としても、「美濃平氏」の支流一族としても、権威として問題があるとして独自性を強調する意味から「五つ木瓜紋」に見えない修正をかけて去勢を張ったと観られます。

その「7つの類似五つ木瓜紋」即ち、「五瓜に唐花線陵紋」類は、3つは織田氏の本家分家一族、残りは藤原秀郷流青木氏2つ、長谷川氏1つ、永嶋氏1つが使用しているのです。
そこで、類似紋の「3つの織田氏の紋」は美濃平氏の「織田氏の3集団」(下記)に一致し、使い分けしているのです。

「30年間の経緯」
以上は職業紋から考証したルーツですが、滅亡前にこの家紋の主の徳大寺氏、即ち、藤原氏北家筋との何らかの血縁関係(上記検証)から美濃平家支流の越前織田郷に1300年頃に定住した一族がこの家紋を落人時代からも密かに伝承していた可能性が極めて高いのです。

そこで、この家紋の主は徳大寺実能を始祖としていますから、徳大寺氏一族との血縁関係があるとして使用したとした場合、その期間上記の約30年の前の間に秀郷一門と同族血縁していたことに成ります。
これをどう観るかですが、ここでも「美濃平氏3分家」までの藤原氏北家筋との血縁が有り得ない事も有りません。
当時の北家筋とは3大豪族の一つですので秀郷一門青木氏であったとする可能性は上記の経緯からも明らかですが、しかし、支流の「美濃平氏」と直接に京の「徳大寺氏」とが血縁をする可能性がありません。それは地理性や時期性や家柄性や戦略性から平家本家を超えて血縁をする事は氏家制度の仕来りから観て皆無ですので、「美濃秀郷流青木氏」と「美濃平氏本家」との血縁は兎も角も「美濃平氏3分家」までの血縁はこの期間内に果たして有り得るのか疑問なのですが確認は難しいのです。
類似紋とすれば先ずは支流までは無いと考えます。本家の類似変紋にあわせて分家筋が更に変えたのだと考えます。
有るのと無いのとでは美濃平氏の考証関係には問題が無いのですが、この「織田氏3集団」のどの集団が斯波氏への仕官口を掴んだのかが変わってくる問題です。

「4つ木瓜」と「5つ木瓜」の仕来り
それには先ず「4つ木瓜」と「5つ木瓜」との違いがあります。
「五つ木瓜紋」は平安後期のもので平安期には少なかった文様でその文様の元は「四つ木瓜文様」に成っているからです。「四つ木瓜」と「五つ木瓜」は変紋による類似家紋で家紋掟によって分家が起こりますとその分家が本家の家紋を引き継ぐことが出来るかは本家の裁量に委ねられます。
その際分家を興す者が「本家の嫡子と妾子との身分関係の有無」、「嫡子と妾子との親密度の有無」に依って家紋継承の有無が決まります。
本家が容認しなければ類似紋か最悪は別紋という事に成ります。支流化の枝葉が広がるに連れてその可能性は広がります。
「四つ木瓜」より「五つ木瓜」に成る事は上記の2つの条件の何れかが適用された事を意味します。
「四つ木瓜紋」にも類似紋の変紋、「五つ木瓜紋」にも類似紋の変紋がある様にその関係度が判断出来ます。
別の氏が類似紋とする場合は氏家制度の中では争いが起こりますので同じ木瓜文様とする場合は争いが起こらない程度に大きく変紋をする事が仕来りとして要求されます。
歴史資料の中で”提訴したが最終戦いで決着と成った”とする史実もあるくらいでした。
この様に類似家紋に無なっている事は当然に身分家柄の関係が低くなった事を意味しますので、徳大寺氏から観れば直接血縁は有り得ない事に成ります。
これらの仕来りに依って既に「五つ木瓜紋」に成っている訳ですから、秀郷一門の中で起こった類似変紋の過程と成ります。そして、この「秀郷流青木氏の木瓜紋族」の支流と「美濃平氏」の支流とが養子血縁して家紋掟の男系跡目を理由に「美濃平氏」側にこの「五つ木瓜紋」の家紋が発祥した事に成ります。
上記した様な分類からその美濃平氏側でも類似変紋した事に成ります。

又、「美濃平氏」の支流一門として当時の京の平安期の最高権力者の一人徳大寺氏とが身分家柄の吊り合いの仕来りから血縁する事はありませんが、念の為にそこで調べました。
実は上記した中継可能な方法で血縁しているのです。上記した仕来り通りに現実が動いていたのです。
秀郷一門主要氏の中で次ぎの一門が血縁しているのです。
次ぎの3氏です。

青木氏  4つ木瓜、丸に4つ木瓜、・五つ木瓜 糸輪に陰木瓜、横木瓜、丸に横木瓜、
長谷川氏 ・織田木瓜、横木瓜、丸に横木瓜、四方木瓜、、三盛木瓜
永嶋氏  丸に木瓜、・丸に五つ瓜に唐花
以上3氏です

北家は9氏中7氏が秀郷一門ですから、可能性は極めて大です。
「徳大寺氏」の家紋から13家紋と成ります。
北家筋の徳大寺氏と北家筋秀郷一門との同族血縁をしているのです。それも13家に及びます。

その中で本家筋は青木氏の「四つ木瓜」、長谷川氏は無し、永嶋氏は無し
分家筋は青木氏は「丸に四つ木瓜」、永嶋氏は「丸に木瓜」(四つ木瓜は木瓜と同じ)
支流は青木氏と長谷川氏の「横木瓜」、「丸に横木瓜」

直接血縁の長谷川氏の「織田木瓜」紋と成ります。
直接血縁と観られる青木氏の「五つ木瓜」紋と成ります。
直接血縁と観られる永嶋氏の「丸に五瓜に唐花」紋と成ります。

(「五つ木瓜」は判別困難の文様が7つもあり「織田木瓜」であるかは不明。「五瓜に唐花」もこの7つの一つで不明)
青木氏だけが徳大寺氏一門の本家との血縁を幾つも重複血縁の血筋を持っています。
ここでこの事から観て次ぎの2つの関係の可能性が高いと観られます。

A 青木氏と美濃平家(織田氏)
B 長谷川氏と美濃平家(織田氏)

参考として先ず徳大寺氏とは、北家藤原実能が屋敷に小堂を建て徳大寺と名付け出家しその後徳大寺を氏名として名乗ったものです。(徳大寺氏の経歴は下記)

A 青木氏と美濃平家(織田氏)
Aの説から、北家秀郷一門の青木氏との同族血縁(6氏)をし、青木氏に跡目を入れたが男系継承ならずして養子先系列の「四つ木瓜紋」の青木氏が発祥となり家紋は「四つ木瓜紋」となる。この「四つ木瓜紋」に分家支流が発祥し、その分家裔が正妻と妾妻との身分差から家紋掟により「五つ木瓜紋」の青木氏を発祥させて生まれた家紋です。
この美濃の「五つ木瓜紋」の青木氏と「たいら族」(京平氏 桓武平氏、伊勢平氏)一門との養子血縁で美濃の「たいら族」側(美濃平氏)に男系継承ならず家紋掟により養子先家紋の家紋の「五つ木瓜紋」となった。この間30年の期間の出来事です。
しかしその後、「平家滅亡」により美濃-越前付近山岳部に隠遁し職人的糧により生き延びて後、室町期初期の下克上期に再び力を得て越前織田郷の土豪となり勢力拡大を次第に図る。この時、家紋を五つ木瓜紋(5瓜)に戻そうとするが、平家一門であるので敢えて北家紋の「五つ木瓜紋」から一部変紋して美濃平氏系列の独自の「織田木瓜紋」(5瓜紋)とした。そして室町期の公表されている「織田氏の系譜」の人物に入り(最終は斯波氏の尾張守護代)信長の経緯に至る。
以上の経緯が仕来りから間違いなく起こったと考えられます。

青木氏と守護神(神明社)-8に続く。
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