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青木氏と守護神(神明社)-6

[No.273] Re:青木氏と守護神(神明社)-6
投稿者:福管理人 投稿日:2011/04/21(Thu) 08:47:26


青木氏と守護神(神明社)-6

 「生き残りの秘策」
ここで、更に”もし「3つの発祥源族」と「皇族賜姓族の立場」の名誉だけで青木氏は「融合氏」として果たして生き残れたのか”と云う疑問が残ります。
しかし、これには実は「生き残りの秘策」が在ったのです。
それは5家5流の土地の開墾地の「物造り」の産物を殖産しそれを「商い」(紙関係・墨硯等)とする「2足の草鞋」策なのです。「商い」は「3つの発祥源族」と「皇族賜姓族の立場」からすると氏家制度の中で当時とするとかなり異質であり、それこそ源の頼信系の様に”模範となるべき氏が何事かけしからん”と世間から「疎んじられる」事は明らかです。
しかし、それを「2足の草鞋」としたところに意味があるのです。表向きには「別人の商人」とした処で「疎んじられる」事を避けたのです。又、「開墾地の殖産」の為と云う「大義名分」もあったと考えられます。
それも武器等の品位を汚すものではない「紙関係」なのです。
この為に周囲はなかなか表向いて批判は難しいかったと考えられます。”見て観ぬ振りをする”以外に無かったと観られます。
恐らく、天皇家の体質としては”皇族、貴族は自ら「武力」を持たない”と云う「仕来り:慣習」が会った事から考えると、同じ賜姓族の源の頼信系の源氏の様に「武力」に繋がるものであったなら同じ憂き目に会っていた事は間違いないと観られます。
この事から賜姓5家5流青木は「紙関係業」と、秀郷流青木氏は水軍を使った主に「回船運搬関係業」であった事からも”非難は小さかった”と決められます。
同じ「品部」を使ってのものであっても、その差は青木氏は「開墾-殖産-販売-運搬」と、片方の頼信系は「荘園勢力・武力」とで異なっているのです。
現実に、仮に「開墾-殖産」までは同じとしても「販売-運搬」の「商いの領域」を行える力のあるものとしては当時では先ずは「ある程度の勢力」を堅持していなくてはこの「商いの領域」は成り立ちません。
当時は大量の「販売-運搬」には危険が伴います。この危険を担保するには矢張り「ある程度の武力」を必要とします。「民の商人」ではこれは困難です。「民が武力を持つ事」は法的に不可能です。
仮に闇で持ったとしても潰されるが落ちです。まして、「運送する」と云う事に成ると通過する長距離の国間の警護が伴います。これには「シンジケート」を構築する以外にはありません。
「民の商い」では金銭による経済的な支援で構築できますが、多種多様なシンジケートの武力を金銭だけで確保する事は無理であり、そこには「ある程度の武力」と「高い権威」と「重厚な信頼」とが無くては「氏家制度の社会慣習中」では成立しません。

この「ある程度の武力」と「高い権威」と「重厚な信頼」の「3つの条件」は「血縁」と云う形で形成されて行きます。これは「民の商い」では氏を構成しない為に「血縁の意味」が氏家制度の社会慣習の中では成立しません。まして「民の血縁」は法的に身分の境を制限して平安期までは定められていますから無理であり、そもそも「民」の中には「商人」の独立した身分は上記した様に現実には無いのです。
部の制度のシステムの中(平安期)では相互間に「物々交換」を主体とした「売買」であり、実態は金銭を以て行うのは限られた範囲の身分に相当していたのです。
「物々交換」が困難なものに対する手当てであったのです。
例えば、シンジケートへの「経済的支援」などは「物々交換」は困難であり金銭を以て行われていたのです。故にこの平安期の「大商い」は「民の商い」では社会体制から無理でありそもそもその概念が低かったのです。
これが「融合氏」の「氏家制度」(相互扶助:上下支配)の一つの意味なのです。
この「氏家制度」の「社会概念」が間違えるととんでもない答えが出てくるのです。この氏家制度の平安期に「商いの概念」が薄かった時代に「生き残りの手段」として選んだと云う事は大変な画期的な手段であったのです。
丁度、この時には伊勢平氏伊賀の末裔太政大臣の平清盛も「平族」として「宗貿易」を実行したのです。
その伊勢の松阪では伊勢青木氏が中心となって国内は元より摂津と堺にも2店舗の大店を構え同じく5家5流の紙を中心に「宗貿易」を行っていたのです。
意外に、平清盛は、伊勢青木氏との「付き合い」が同じ伊勢国の隣同士(伊賀)であった事からかなり親密な付き合い関係があった事が後の「ある事件記録」の中に伺えるので、大いに青木氏の商いに触発されたのではないかと観ています。(触発は逆の事も考えられる)

参考
「ある事件記録」とは、源の頼政の「以仁王の乱1180」の敗戦の時、源3位頼政の孫の「京綱」(伊勢青木氏跡目)を除く「有綱、宗綱の助命嘆願」を清盛の母等を通じて伊勢青木氏が行い「二人は日向配流」で助けられた実績がある。(後にこの二人は廻氏との間で日向青木氏を発祥させる)
この乱の時、源の頼政-仲綱親子は伊勢松阪の京綱の居る伊勢青木氏に向けて逃げる途中、宇治の平等院で切腹する。逃げていれば助命嘆願の経緯から何らかの「時代の変化」はあったと考えられる。

以上の様に「2足の草鞋策」の「商い」(古代和紙)による「経済的な潤いを背景」として「生き残る力」を保ち苦難を乗り越え「秀郷流青木氏」を含む「4つの青木氏」は子孫を現在まで遺せたのです。
特に「絆結合の青木氏2氏」も大変であったと考えられます。現在でも存在する伊勢松阪と員弁、桑名、四日市、名張の「青木村」には血縁に勝る絆で1千年もの間、数え切れない子孫から子孫を村で引継ぎ、主家青木氏を支えてきたのです。血縁以上のものがあったと考えられます。
伊勢青木氏で38代目位に成っていますが、”明治35年時では250名以上の昔からの家人が居たと口伝され隣の玉城町の面積の8割はこれ等の家人の住居と蔵群であった”と、当時の店主の祖父と父から真新しい口伝として聞かされているのです。
この様な意味から「絆結合」で名乗った青木氏は最早、「家族の一つ」であったと認識しているのです。
伊勢のみにあらず「生仏像さま」と「笹竜胆紋」で固く結ばれていた「4家4流」と「秀郷流青木氏」と「絆結合青木氏」は少なからずも上記の様な経緯の中にあったと歴史的に観て考察されます。

話を戻して、そもそも秀郷流青木氏も母方を機軸とした「3つの発祥源族」と「皇族賜姓族の立場」にあり、且つ、摂関家北家一族の藤原氏と云う「名氏の立場」もあり、藤原氏の中でも氏家制度と云う環境の中では厳しい難しい立場にあった筈です。
故に24地方の秀郷流青木氏と同様に中でも「讃岐籐氏」の青木氏の様に大々的に「2足の草鞋策 回船問屋」を実行したのです。その先鞭をつけたのが皇族賜姓族5家5流の青木氏であると考えていて、伊勢青木氏の口伝(浅野家の取潰しの際の所蔵品・貴重品の買取)からも讃岐籐氏青木氏の回船業との繋がり関係が垣間見えてきます。
ですから、源氏一族の頼信系は方向性を間違えて完全滅亡し、頼光系も「2足の草鞋策」を講じないままにした事で平家に圧迫されて、遂には「以仁王の乱」に突入せざるを得ず、結局、5家5流青木氏には跡目を入れて青木氏として遺しはしたものの、頼光系も「2つの立場」(「3つの発祥源族」と「皇族賜姓族の立場」)は保ったにせよ未勘氏を多くしたままで源氏としての直系子孫は遺せなかったのです。
頼光系は摂津、河内、伊豆に3領国を持ちながらも経済的な裏づけが子孫を大きく残す程に無かった事によります。
頼信系を含む11代の源氏は荘園に繋がり勢力を拡大すれば子孫を遺せると考えていて、皇族賜姓族5家4流は毅然としてその立場を弁え勢力拡大には目もくれず「商い」に依る「経済的自立」で子孫を遺せると考えたのです。
結局、荘園に関わる勢力拡大は互いの勢力の保持の為に戦いが起こり戦いで全て滅亡してしまったのです。「血縁による2つの青木氏」とその絆で結ばれた「絆による2つの青木氏」にとって、「商い」(古代和紙)は、武力による戦いは無く細々としながらも、大きく現在まで子孫を遺せた源なのです。
況や、武器を使わず知恵を使う「物造り」に依って生き延びられたのです。そしてその「心拠りどころ」として「祖先神」を敬う「神明社」がそれを支えたのです。(参考 源氏は「八幡宮」を守護神とする)

(結局は伊勢に直系の跡目と伊豆には頼光系4代目頼政の血縁の信濃青木氏と伊勢青木氏の末裔を遺した事で終わる。後は傍系と未勘氏である)

話を戻して、青木氏の守護神(神明社)-5の「3つの発祥源の族」と「皇族賜姓族の立場」に続けます。

次ぎに上記の様に「良民」の範囲も定めました。良民の範囲が決まると残る「民」を「賤民」(せんみん)として呼称しその奴婢を更に五段階に分けたのです。
この五段階に分けた理由は次ぎの2つの理由に因ります。

第2期奈良期- 朝鮮半島の動乱難民→「融合民」
第3期平安期- 朝鮮半島の難民・中国大陸からの難民→「融合民」

理由1 続々と入国してくる「難民」に対処出来なくなりこの難民の処置に困ります。
そこで、これらを「賤民」に所属させ「奴婢」(ぬひ)として扱いその難民のレベルに合わせて区分けします。

これ等の「難民」は次ぎの通りに分類されて身分分けされました。
貴族の奴隷、
官僚家の奴隷、
武家の奴隷、
天領地の奴隷、
豪族の奴隷
以上5つの職位域の集団に吸収されて行きます。

  「民分類の解体」
夫々は奴隷で5つの集団に隷属して離脱する事は出来ない為にその集団の中で融合して行きます。
しかし、この身分制度は900年頃を境に解体を徐々に進めます。

「賤民制度」は901年から923年の間に解体。
「品部と雑戸」の関係は890年を境に解体。

これ等は丁度、荘園制のピーク時に当たり何れも890-923年の間の解体で一致しています。
この荘園制がこの身分制度のこの解体で益々勢い付いた事に成ります。

解体理由は次ぎの3つに因ります。
1 良民間、良民と賤民間、賤民の奴婢間に著しく融合が進み最早「区分け」の理由が大筋を残して無くなりつつあった事
2 荘園に賤民が大きく吸収され、「税と労役」はその荘園から徴収出来る体制に変化した事
3 この解体をきっかけに5つの区分けした集団の賤民が集団間の垣根が取れてますます「民の融合」が進んだ事。

900年前後に起こった「品部」等の「身分解体」により「民の融合」が著しく進みます。それに連れて「荘園大集団化」がその勢力に応じて加速度的に発達して進みます。結局、「民の身分解体」と「民の融合」は進み、挙句は「荘園の行き過ぎ」のその加速度の勢いは逆に最早誰の力も及ぶものでなくなってしまったのです。
しかし、ここで疑問が湧きます。
「民の身分解体」により「民の融合」を推し進めることには理解できますが、当然にこの事に依って懸念している筈の「荘園の行き過ぎ」は加速する事は、「朝廷と天皇家」にとっては「国家の政治態勢の維持」が困難に成る事は解りすぎる位に判る筈です。しかし、「民の解体」は実行されたのです。
これは「天皇家」と「朝廷」との間に思惑の解離があって「朝廷」を牛耳る「名義荘園主」と「官僚の主体」と成っている阿多倍一門一族の勢力の方が勝っていた事を物語るものです。

「天皇家の勢力」<「官僚の勢力」=政治の横暴と腐敗

まして、その解体で朝廷は「税の収入増と安定」が図られるし、「1、2、3の解体理由」が政策的に「融合」と云う点で合致していた為に”好ましい現象”で”解体政策は成功”と捉えていてそこに大義名分があったのです。そちらの方に目を向けていた事も考えられます。この間の累代の天皇は「無能」と云う以外に無かった事を物語ります。
しかし、これは同時に、「量的」な「荘園の拡大」、取り分け「質的」な「荘園の大集団化」に都合が良い事に気が付かなかったのです。”累代の天皇家は気づいていたとしても何ともし難かった”が真実の処でしょう。
しかし、下記123の状況を作り出した事から考えても”何をしているか本当に”と成ります。これが為政者としての「無能」の前提と成らずして何が前提でしょうか。

1の理由では、「区分け」が無く成ると云う事は荘園にとっては逆に自由に労役要員を確保が出来る事に成ります。
それまでは荘園開拓には限られた数の「部曲」(農民)を使う訳には行かず、無理やりに武力を使って「難民や俘囚」を確保する事が必要であり、この「難民や俘囚」は朝廷の管轄下にあった為に、今度は自分の力を使って確保する事が自由に出来て且つ「無届」が出来る様に成ったのです。

2の理由では、1に依って確保した「労役の担い手」には「税と労役の責任」は朝廷に対し詳細不明による「無届」とする事で逃れられ収益はより高まります。

3の理由では、「賎民の垣根」が取れる事でそれまで法で押さえ込まれていた血縁が自由に成り、出生率が増え「労役の担い手」が自然増加しそれを「無届」とする事で「自前の分」の生産力が拡大します。
(戸籍制度の有名無実化が起こった 戸籍の廃止 これ以後江戸時代まで続く)

この123の解体で900年頃を境に「民の融合」としての国策は進んだのですが、結局は荘園主はより朝廷への「税と労役の負担」は軽減される事に成ってしまったのです。
つまり、「内部留保」が大きくなりより「荘園力」を増すように成ったのです。

ところが、この「無届」には更に増幅させる「愚かな措置」を発したのです。
それは「奴婢戸籍」を廃止し「戸」を形成出来なくしたのです。この為に更に「無届」が横行したのです。

これでは何か「朝廷の政策」が影では「融合の目的」とは逆の「荘園自由化」に成る様な事をしている気がします。事実その様にして阿多倍一門一族の官僚主体は「九州自治」を実現できる様に圧力を加えていたのです。如何に天皇と朝廷の間は腐敗していたかが判ります。

ところが、この腐敗の犠牲に耐えかねた民は、その証拠に、この「賎民」即ち「難民」「俘囚」「不浪人」「放棄人」「奴婢」は余りの過酷さに「俘囚」を中心に各地で大小の「暴動」を起したのです。
主なものとして、始めに878年の「元慶の乱」大暴動が有名です。これは丁度、「融合」政策、荘園ピーク期の900年前後に当たります。

「各地での主な暴動」
この暴動は歴史上では余り出て来ないのですが、各種の遺されている資料を調べて総合すると何と次の様に起こっているのです。

660年(3)-708年-712年-724年-733年-762年-802年)(4)-820年-[878年*]-1051年-1061年-1083年-1087年

主な記録から観ても20回程度は起こっている事に成ります。実質は記録に遺されない小事を入れるとこの数十倍は起こっている事に成ります。
(データーは暴動が何らかの形で起こったものを調査したもので、荘園の周囲に逃げ出さないように柵を施した等の大きな兆候を抽出)

(*)の印のピーク期900年頃から「大きな暴動」が起こり始めたのです。

蝦夷鎮圧の鎮守府将軍の頃からで、秀郷一門が鎮守府将軍に成った頃が「俘囚や賤民」が各地で起こした最大の暴動期と成ります。この陸奥の地で土豪と秀郷一門の青木氏の血縁の意味が定説とは違う意味を持っていることが良く判ります。(小山氏、花房氏、小田氏等との主な血縁)

「俘囚賤民の暴動」には余り武力は使えない経緯があり、それらの代表者との血縁を進める事で何とか解決を進める以外に無かったのです。
現にこれらの暴動は「俘囚賤民の暴動」だけの暴動ではなかったのです。余りの過酷さからその地域の土豪や地方官僚(郡司)も加わっていたのです。
江戸期の一揆には役人や土豪の蜂起はありませんが、この時の動乱には土豪や地域の役人の郡司(こおりつかさ 現在の知事と市長との間の国の役人)が加わっているのです。
良心的な役人が立ち上がる位に道理の通らない無法地の状態であって著しく政治は腐敗していた事が一揆の大きさと比べても判ります。
(実際、資料を調べて書いている筆者が”何をやってんだ。全く”とむかつく位なのです。丁度、現在の政治情勢です。)


つまり、関東各地の「俘囚賤民の暴動」は以北の大豪族の「安倍氏や清原氏の反発」に結びついていたのではないかと考えられます。
その安倍氏は朝廷の官僚である宗家阿多倍地族一門(阿倍氏等一族)の身内一族の仕打ちに憤慨し、代々の家人や兵であった者が連れ去られ、それも歴然として阿多倍一族の「民族氏」であるのに「蝦夷民」(北方の醜い民族)として決め付けられていたのです。むしろ、阿倍比羅夫や坂之上田村麻呂が征夷を掃討して此処に一族の阿倍の末裔の安倍氏や清原氏などを配置したのであって「蝦夷」では決してないし統治することで此処に定住して子孫を拡大させていたのです。それを蝦夷地の掃討を理由したこの事でもかなり強引であった事が云えるし、これを理由に平気に実行されていたのです。
この様な事から各地で「俘囚の奴婢」として酷使されいる事に首魁や地方に赴いている官僚としても絶えられなかったと考えられます。だから中央の阿多倍一門一族とその官僚族に対して安部氏等の身内の反乱が起こったのです。
故に犠牲にされた彼らには阿多倍一門一族の中央の一族は救援の兵を向けずに見殺しにしたのです。

耐えられなくなり遂に反発した事件が安倍頼時-貞任  前九年の役[1051-1062] 後三年の役[1083-1087]の乱なのです。
或いは、各地で起こる暴動を押さえ込むには「俘囚の首魁」の蝦夷(陸奥)の安倍氏等一族を倒す事として藤原氏や源義家らを差し向けたと観るのが妥当と考えられます。
(しかし官僚の主体の阿多倍一門一族の九州自治の勢力圧力を恐れて後で天皇は知らぬ顔を決め付けたが、源の頼信系分家の義家がこの戦いを通じて後に天皇家の悩みの種の「荘園制の行き過ぎ」に「3つの発祥源族」と「皇族賜姓族の立場」も弁えずに進んで手を貸してしまった事にも憤慨した。)
この時、後三条天皇(位1068-1072)は未だ19歳で天皇ではなく前九年の役の6年後(1068)に天皇に成っていて、この醜い施政の実情を知っていて「阿多倍一門一族と藤原氏等の為政の行き過ぎ」に”何とかしなくては”と憤慨していた筈です。
そして、立ち上がった後三条天皇は「2つの勢力」を果敢に排除したのです。そして、改革の為に登用された大江匡房(1041-1111)は白河-堀河天皇の3代に渡ってに仕え後三条天皇-白河天皇-上皇の意を踏まえ徹底した改革を断行します。

余談ですが、この事を観ると「累代の無能の天皇」と本論では決め付けたが、「3つの皇親政治の天皇」はいかに優秀な天皇であったかが逆に証明できるところで、むやみやたらに「皇親政治」を敷いたと云う事ではないのです。「天皇の権力欲」を避難するかの様な定説には納得が行かないのです。
確かに、「皇親政治・院政・親政」を敷いた時に「国のあり方」を左右する「国難」が無く、その「皇親政治・院政・親政」を何時までもだらだらと続けるという事では「天皇の権力欲」の定説は納得できるが、他面的に「時系列と傾向分析」をすると「国難解決の目途」が就いた時に開放しているのであるから、一つの「非常時の政治手法」として三相を得た適時適切な行動であると認められます。むしろ斯くあるべきです。
本論では「皇親政治・院政・親政」は「国難を解決する一時的な政治手段」であると云う説を採っているのです。

兎角、定説では”身内で天皇家の権力を強めた”等と一面的な事と成っているが、どうしていつもこの様な否定的な定説になるのかが不思議です。”歴史は1点で評価しては真実は見えない”が筆者の私観です。殆ど定説に納得出来るものは未だ見つからないのです。
歴史の研究は定説では何も真実が見えて来ずむしろ「疑問と矛盾」が生まれ、釈然としないし「先祖の生き様」が見えて来ないのです。
故に前述に記述した私なりに一定法則に基づく「技術屋からの分析法」を用いての研究を進めているのです。
本論のこの様な上述する事が観えて来ます。


(白河法皇は反改革派の弟「輔仁親王」を退け子「堀河天皇」を立て政治制約の少ない院政を敷き改革断行した)
(最高権力者の藤原教道を排斥した。 白河天皇:位1072-86 院政1086-1129 堀河天皇:位1086-1107)
(もともと安倍氏は「蝦夷」と蔑視の呼称をされているが「北方民族」ではない。「北方民族」660-802を制圧した阿倍氏末裔で陸奥に勢力拡大して定着した「融合氏」でルーツは「後漢の民」である。阿倍氏は阿多倍一族 阿倍比羅夫は白村江の戦いで後漢に戻った人物)

歴史的には「全国統一」を定説とされているが、この様に本文の「融合民族」と云う観点から時系列と共に見て行くと疑問が多く残るのです。

「全国統一」は「荘園主官僚の大義名分」(天皇の大義名分では必ずしもない)であって、本当は官僚たちの利害に関わる「俘囚賤民の暴動」を抑え込む目的であったと観られます。
その証拠に「院政」は「源の頼義-義家」の「征夷討伐」(前九年と後三年の両方の役)は通説の「義家等の私闘」と片付けたのもこの「阿倍氏」の「末裔安倍氏」等の行動に非は無いと考えていた事と、「荘園行き過ぎ」に「皇族賜姓族」として「あるまじき行動」を採った事からではないかと考えられます。

そもそも阿多倍一族一門の「阿倍比羅夫」(3度:658)660年、同じく宗家の「坂上田村麻呂」の802年の「蝦夷の北方民族」と、「頼義-義家」の時の「蝦夷の民族」とは最早異なっているのです。(民族そのものが違っている)
「724年」以降は「蝦夷の北方民族」は衰退し、制圧した「阿倍氏」の末裔の「安倍氏」と阿多倍の3男の「内蔵氏」の末裔がその後に陸奥地域を勢力圏としたのです。

(元の安倍氏勢力圏は越後北(新潟)-岩代北(福島)-羽前南(山形)-陸前南(宮城)に囲まれた地域を基盤としていた。古代後漢渡来人の開墾配置地域の「中部山岳地帯域」であったが阿倍氏・坂上氏等一族一門で蝦夷を制圧したことから蝦夷の東北域に勢力を伸ばした) 

だから、制圧後に残った北方民族勢力が盛り返したので「掃討作戦」に依って阿多倍長男の「坂上田村麻呂」(3度:アテルイ)が802年に完全制圧していたのです。



完全制圧の証として朝廷の命により次ぎの証としての神明社を建立しているのです。
A 宮城(陸前)仙台に762年(光仁期末期頃 「伊治砦麻呂の反乱」)先ず「神明社の第1社」建立しています。

B 続けて4回の「掃討作戦」を実行し、3度目で制圧後に白石に807年「神明社の第2社」を坂上田村麻呂は建立しています。

C 平安末期には「最終掃討」(人物は不明)として仙台の中田に1171年「神明社の第3社」を建立しています。

制圧した証として「征討圏の象徴」として「融合政策の達成地」としての印として「神明社を建立」する事は平安期の仕来りと成っていたのです。
この様な史実を見逃しての定説にどの様な意味を持つのでしょうか。

  「安倍氏の掃討原因」
従って、「蝦夷」と呼ばれる族は「アテルイの北方民族」であって、明らかに「安倍氏」は阿多倍一門一族「阿倍氏」の末裔としての大化期からの有力氏ですから、最早「蝦夷民」では無いのです。しかし、「蝦夷民」でないのに陸奥を「蝦夷民」として攻めるには「大義名分」は希薄な「名文」と成ります。
だから、各地の「荘園主である豪族」たちから「大集団化の為の権威のある氏」として「源氏の棟梁」として祭り上げられた「義家」を、疎んじて天皇にその痛くない腹を探られる様な「飛び火の非難」を来ないように「私闘」として扱い防護策を効じて逃げたのです。
しかし、現実は世間では「皇親政治・院政・親政」を敷いた天皇を非難し、義家を英雄と持て囃したのです。「源氏の棟梁」とか「武家の棟梁」とか決め付けたのです。世間は拍手喝采です。
明らかに、これは藤原秀郷流青木氏を除く藤原氏と阿多倍一族一門の「荘園主」等の利害を考えた「宣伝戦略」で在った事が観えて来ます。
「希薄な名文」と「武家の棟梁」がセットに成っている事はこれを物語ります。

a 阿倍氏末裔の安倍氏を「蝦夷」として攻めたてた事、
b その「兵、家人、民」を「俘囚賤民」として関東域以西に配置した事、
c 各地で起こる「一般賤民、俘囚賤民の暴動」の原因矛先を安倍氏に向けた事

以上のa、b、cの本質は蝦夷掃討後の阿倍氏の末裔安倍氏、内蔵氏の末裔清原氏等により東北地方全域を勢力圏に納められた事に対して、同時期(713-723)に起こっていた難問の南九州基地が国策に従わない肝付氏を攻めた事と理由は同じである筈です。

一方の勢力(藤原氏)が、南北で阿多倍一族一門が国策に従わない程に勢力が大きくなり過ぎた為に難癖を付けて「潰そう」としたか、或いは少なくとも「勢力を削ぐ戦略」に出たと考えられます。つまり藤原氏の策謀では無いかと考えられます。朝廷内のウチゲバが起こっていたのです。
清原氏を裏切りをさせて安倍氏を打ち、大きくなった清原氏を今度はその後に義家に依って清原氏を潰す事をしたのは、この「削ぐ戦略」があった証拠に成ります。だから、この戦略に史実として藤原氏は手を貸したのです。
安倍氏-清原氏では到底潰せなかったのです。その勢力圏を観れば一目瞭然で、史実、彼等は青森、岩手、宮城、福島、秋田、山形、新潟北部、群馬北部の8県(全国1割)の勢力圏を保持していたのです。


(阿多倍一族一門は制圧期 関西以西32/66国であったが、常陸上総下総を加えて最終43/66国と成る)
(「清原氏」は朝廷の高級官僚として「清原夏野」等は「日本後紀」「令義解」の編集に関わった氏:782-837)

そこで「攻めて側」は各個攻撃の戦略を行った事に成り、最後にその名義荘園主として拡大する義家には、2つの大勢力の外に居た「天皇と院政」は「恩賞」も絶えず、「私闘」として扱い、「政治的」に疎んじます。
最後の決め手として義家に各地方の豪族の名義上の「荘園寄進を禁止令」まで発して疎んじて押さえ込み衰退させたのです。これで義家は天皇と院政の政敵と扱われたと同じです。
2つの青木氏の様に、身内であり正常な勢力として温存すれば天皇院政側に取ってはむしろ得策である筈なのに敢えて潰す戦略に出た事は身を切る思い出あった筈です。
逆に、九州に於いての阿多倍一門一族の勢力と行動からすれば、こちらを潰しておきたい筈です。
しかし、それが43/66の勢力で北と西で挟撃される懸念があり逆に民族氏の共和国が出来てしまう戦略上の事が起こる為に出来なかったのです。

では、これ程に不合理なことがありながら、ここで「天皇や院政」は本当に”攻撃を命じていたのか”と云う疑問が湧きます。確認をする必要があります。

これは先ず年代で明らかに判ります。
「後三条天皇」が天皇に成ったのは「前九年の役」後の6年後で、天皇の立場は「後三年の役」の前11年前であり明らかに命令してはいない事が判ります。
次ぎに、「白河天皇」が譲位後の11年後に「後三年の役」が起こっていて、退位3年前に「後三年の役」が始まっています。終わったのは退位1年後で、後は「堀河天皇」に譲位して院政を敷いています。
つまり終わるまで退位しない筈ですから命令していません。
まして、「白河天皇」は「後三条天皇」の「整理令-公領制」「荘園の行き過ぎ」国難の改革意思を引き継いでいるわけですから、改革に反する戦いの目的の命令書を出す訳はありません。
この時、「詔勅」「院宣」「令旨」以外に「宣旨」と云う特別の天皇が自ら書しての直命の「命令書」をわざわざ作ったくらいのです。この「命令書」がないのです。勝手に「詔勅」や「院宣」をひそかに作られるほどに危険な状態で在った事を物語ります。

ここで時系列で分析すると決定的な証拠が2つあるのです。
決定的証拠-1
それは、大改革を行う訳ですから、前期した様に「後三条天皇」は勝手に天皇の名前を使って為政に関わる荘園主でもある官僚豪族が都合よく何かを行う事を防止する為に天皇の命令を明確に伝える制度を制定して偽物が出されない様にしたのです。
それが「宣旨」というもので「書式」もわざわざ定めているのです。以後継続されました。過去からの「令旨」(法の執行命令書)を更に細分化して「宣旨」(執政の執行命令書)を新設したのです。
「令旨」と「宣旨」の中間の不詳のところを官僚たちに使われたことが起こっていた事を意味します。この事をわざわざ「後三条天皇」が定めたと云う事は前の天皇の時に「前九年の役」も恐らく令旨の盲点を使われて彼らに都合よく「荘園拡大」の為に起こされた戦であったかが判りますそれを天皇は知っていたのです。17歳から26歳の時の出来事ですから実情を把握できる年代です。

決定的証拠-2
つぎの証拠は前記した「九州南北基地」の大蔵種材に「錦の御旗」「遠の朝廷」と呼称して「九州自治」を認めた時期でもあるのです。後一条天皇の時1018-1020年です。
征西大将軍に命じられて、そして、この後、寛仁2年1019年頃に”異族九州に乱入する武装大襲来の由其の告あり、其の時大蔵種材これを向いて西戒を退治せしめる。”。その後、「院宣」を発して異族を退治せし・・・”と在りますので、引き続き押し寄せる異族の難民に対して1086頃前後に全ての難民を防止する命令を正式に大蔵種材に命じているのです。
恐らく、この内容から1018-1090年頃まで1019年の大事件より「難民流入」が次第に押さえ込まれていった事が判ります。
「荘園拡大」の「働き手」の「賤民の奴婢」の元と成っていた「難民」をここで政策的に押さえ込んでいるのです。その為に彼に「宿禰族-従五位下-岩門将軍-壱岐守-太宰大監」、最後には「征西大将軍」の関西以西の治安責任者の官職に任じているのです。
そして、それを権威付ける為に「錦の御旗」「遠の朝廷」を授けて、つまり、「九州全域の自治」と「難民」が大量に入国してくる「全地域の責任者」に任じているのです。
この最後に任じられた「征西大将軍」には大きな意味をもちます。
荘園主は「開墾の働き手」の根本を1018年から押さえられた為に、今度は「蝦夷」では無いのに「蝦夷」とされてしまった「安倍氏や清原氏」等を「令旨」「宣旨」「院宣」を抜きに、今までのルーズな慣習で以て「全国統一を名目」にして攻めて潰し、昔の「俘囚賤民」と見立てて頼義-義家親子は勢力拡大を図る為に「勝手な戦い」を始めたのです。そして荘園に送り込んだのです。名義上の荘園主になろうとしたのです。
其の為に荘園主側から観れば義家は「武家の棟梁」として持ち上げられたと云うのが本質であるのです。

しかし、天皇側から観れば、後三条天皇-白河天皇-白河上皇から観れば、「皇族賜姓族」でありながら、尚且つ、「後一条天皇」に「征夷大将軍」に任じられていながら最早「反逆者」の何物でもありません。「愚か」である事に成ります。恐らくは「皇族系」でなければ目先に起こっていた「平将門の乱」や「藤原純友の乱」や「平忠常の乱」と同じく「乱」として処理された筈です。
”知らなかった”は通らない周知であります。
これには「乱」にしなかったのは、宗家源頼光系4家と賜姓青木氏5家からの何らかの働きかけや取成しがあった事がなくては逃れられない事だと考えられます。

そうでなくては名指しの「義家に荘園寄進禁止令」は出さない筈です。反逆者になるよりはましで、正しく妥協の産物です。
まして、この時期は普通の時期ではありません。
「一般賤民、俘囚賤民の暴動」の鎮圧の時期
「安倍氏、清原氏の潰しの時期」
「整理令、公領制」の時期
以上に3つの国難に一致します。取成しに依って、この時期の事から院政側の大儀名文が成り立つのです。
義家が如何にこの「法」に対して、「融合氏の行き過ぎ」に対して、まして「3つの発祥源」で「賜姓族」でありながらも、全て無視し、氏拡大のみの「利得」だけの考えで「反行動的な態度」を採っていたかが判ります。これでは潰されます。
頼信系の分家は「3つの発祥源」であり模範とするべき「融合氏」でありながらその逆を行ってしまったのでは滅亡するしかありません。
歴史では”「不運な義家」””「武家の棟梁」”と成っていますが、この様に時系列で傾向分析等を行うと違う事が見えてくるのです。我々融合氏の発祥源側から観れば”何をやってんんだ。 源氏を潰す馬鹿なことを”となります。
歴史はその様な意味で先ず「定説や風評」に”オヤ 変だな”と一度疑問を持つ事が必要なのです。その疑問を解くのが楽しみに代わるのです。

  「予断雑学-1:邪馬台国の自分説」
さて、上記と離れてここで思い出した様に予断を出します。
予断
例えば、無邪馬台国の奈良説や佐賀説がありますが、これも自分なりに疑問を持つと自分説が出来ます。
私はこの件では両説を採っています。どちらにも「三国志」魏国の「魏志倭人伝」に書かれている事が「建物」や「祭祀方法」(鬼道)等が確実にあります。これ程最早、邪馬台国としての条件が確実に両方に存在すると云う事は両方なのです。
もし近畿説とすると佐賀説の国のは”何の国”となり、邪馬台国に匹敵する国がもう一つ在った事になりますよね。そんな国2つも在った事は無い事は判っていますから疑問です。
初期2世紀半頃から全国が繰り返しの飢饉にて食料不足で乱れ戦いが起こり、佐賀にても卑弥呼が鬼道を用いて祭祀を司り「お告げ」の方法にて夫々の国の決定事項を定めるうちに卑弥呼を佐賀の邪馬台国の国王として祭り上げて国の運営を連合方式(共立と記述)で行った。
遂には全国の王国もこのうわさを聞きつけこれに従い、余りにお告げが的中する卑弥呼を中心としてまとまった。
幸い100年周期で起こるとされる地球の気候変動期が過ぎて安定期へと入り飢饉は回避されて国はまとまり始めたのは卑弥呼の「鬼道」のお陰とした。
そこで大国の魏国の脅威に対して通交を行ったが、其の為、国が卑弥呼中心でまとまり始めた事から、列島の全国の中心付近にある奈良の国に政庁を移し、佐賀には魏国との通交の拠点とした。
奈良はその意味で遠すぎる為に佐賀の政庁には港から水路を引いて通交を容易にした。
通交拠点化した為に佐賀には「金印」が存在したとすれば疑問点は解消する。
その後、4世紀の始め佐賀の政庁は南九州からの民族に攻め込まれて北九州の国々も全滅したが南九州の族はここに留まらず南下して戻ったとされている。
故に奈良の政庁のみが残ったのである。その後、共立国の弥生時代の銅鐸による弥生信仰を主体としていた出雲の国等との争いがあり、弥生信仰はこの100年周期の気候変動に合わせることが出来ず祈祷の予言が当たらず弱体化しつつあった中で、大和の政庁にその立場を争いではなく話し合いで譲ったと考えられます。
そして、その後、朝鮮族応仁王の渡来と成り、戦いの末に話し合いと成り、応仁大王を主軸として連合国のヤマト王権が出来る。
その後に、北九州は征討されて奈良の政庁に集約される。ここまでが「ヤマト王権」で、ここからは「大和政権」となり本文の大和朝廷の領域と成るのです。

 「予断雑学-2:道教との関わり」(重要)
実は上記の「鬼道」は本文に記述した中国の「道教」の基とされその祭祀方法は酷似されるし、現在も中国奥地には未だ「鬼道」を行う地域があり、その「鬼道}の巫女には、古来から人間が「野生本能」を働かせる「複眼」と云うものを持つ女が多く、「透視能力、予知能力」を中国では未だ持っている地域があると云われている。
卑弥呼もこの「複眼」を強く残っていた人物ではないかと見られている。お釈迦様の額の中央鼻の上に「ほくろ」の様な丸いものがあるがあれが複眼なのです。
現在も人間の頭の中央の下の脳の真下に大脳と前頭葉が大きく成った事により押し下げられて10ミリ程度のものが人により存在し、特に女性に存在するが未だ僅かに使われている女性もあると云われています。
女性の「感情主観」取り分け「母性本能」としてのインスピレーションが強いのはこの複眼の遠因とされています。
本文による中国の特徴ある「民族性」は「鬼道-道教-儒教」へと発展し、日本人に理解し難い「固有の国民性や概念」が生まれたと観られ、「法より人」「石は薬」の中国人の共通概念はこの「鬼道」の「祈祷」の「宗教概念」が色濃くここに残っているのです。
ところが大和の国では「鬼道-神道-儒教-仏教・神道」へと進んだのであり、日本人の「融合氏」から来る「集団性」に関わる「固有の国民性と概念」がこの過程に依って生まれたのです。
この「鬼道」がある過程を経て「祖先神」と云う信仰概念が生まれねその代表とする「神明社」信仰が生まれたのです。
その意味で歴史的に学術的に未だ余り知られていないこの「鬼道」は日本の歴史を取り分け神明社に関わりその存在を大きく左右させているのです。
(詳細は研究室の「日本民族の構成と経緯」を参照)

義家のところに話は戻ります。
ただここでもう一つの「影の利得者」が居たのです。
”何故、その様な「愚か」と云える様な行動を採ってしまったのか”疑問が湧きます。
「相当虚け者」でなくてはこの様な行動は採る事は無いでしょう。
実は鍵はこの辺にあると考えているのです。

それは何と義家に合力した藤原氏北家秀郷一族一門なのです。
特に、平泉の藤原氏で、当初は清原氏と組み血縁して「清原清衡」と呼称する等一族に成り、最後は策略でこの清原氏に内紛を起こさせて裏切り、挙句は義家と共に滅ぼす等して3代の栄華を築いたのですが、義家の末裔頼朝に滅ぼされる始末です。
この最後に残ったのが「第2の宗家」の秀郷流青木氏に率いられる武蔵入間の秀郷宗家一門であったのです。
安倍氏や清原氏が滅ぶと上記の8県の圏域は戦略的に空に成り、結局、「鎮守府将軍」の懐に転がり込んだことに成ります。

「院政」は頑固で律儀な「秀郷」を選んだのではないかと考えられます。
それは「平将門の乱」に在ったのではないかと考えられます。
藤原氏が「下がり藤紋」を”下がる”を忌み嫌い一族殆どが「上り藤紋」に変紋した経緯がある中で、秀郷一門9氏だけはこの「下がり藤紋」の伝統を護り続けたのです。それはこの背景には「義家と平泉藤原氏」の経緯があったのです。(平泉は秀郷一門とする説がある)
そして、秀郷一門の陸奥の「蝦夷鎮撫」の「鎮守府将軍」の任命は、その目的が明確に成っていないが恐らくは、最終、政界から外されたものの策略を擁した「藤原氏京の北家の本音」であって、安倍-清原氏をを押さえ込ませたものと考えられます。そして「俘囚賤民の暴動の首魁元」(1058-1062:1083‐1087)と陸奥域8県の大勢力を獲得するところに裏の目的・狙いあったのです。
結局、この結果、これに関わった「義家と京の北家筋(摂関家)」は衰退してしまった事から観るとこの二つの氏が策略的に仕掛けたことであったことが云えるのです。
その「陸奥域8県」は鎮守府将軍の秀郷一門に与えられる事に成った事から見ても明らかです。

もう一つは大きくなり過ぎた阿多倍一族一門の内、東北部の勢力を削ぐ事を朝廷や天皇と云うよりは藤原氏北家摂関家一族の思惑があったと考えられます。
この背景から観ても京の摂関家は後三条天皇(1068)に排斥されたのです。何も大したことが無ければ長い以前の実績のある摂関家であるのですから「排斥の責め」を受ける事は無い筈です。
「放置できない責め」があったからこそ義家と供に「過去の実績」を阻害されたのです。

まして、丁度、この時、「整理令、公領制」を実行していた時期なのです。それに逆らう行動を採ったのですから見逃す事は絶対に出来ない筈です。見逃せば矛盾を生じて「整理令、公領制」は有名無実に成り果てます。
その証拠にこの8圏域は義家が疎んじられて後は藤原氏北家秀郷一門の圏域と成るのです。

そうすると、矛盾点が一つ起こります。
「蝦夷の制圧」を名目にした敗北民と敗北兵を関東に「荘園の労役の働き手」として送り込んだのですが、その「俘囚」と呼称された民と兵は、元々「蝦夷」と云う意味の民ではないのです。
阿倍氏の末裔の安倍氏の「家人や兵や民」を、「荘園拡大」の為に「人手」を獲得するために(陸奥の以北の民等を)適当な理由を付けて強引に奪ったことに成ります。

初期の北方民族の「俘囚賤民」と制圧後(802)の「俘囚賤民」とは全く民族そのものが異なっているのです。つまり天皇が政治の国策の目途とする「融合氏」「融合民」なのです。
それを強引に「俘囚賤民」として扱うことには無理が伴っていた事に成ります。
天皇としても絶対に黙っている訳には行きません。「黙っている事」は「融合の国策の3策」を自ら無視した事に成ります。
「安倍氏」はそもそも阿倍氏の末裔で阿多倍一族一門の末裔ですが「俘囚」等の首魁である事は事実です。この支流末裔には安東氏-秋田氏等が居る歴然として名家の家柄の「民族氏」から「融合氏」になった氏なのです。

(鎮守府将軍:各地で起こる動乱を鎮撫し治安・経営をする軍政府の長官)
(清原氏:阿多倍一族一門の内蔵氏の末裔 陸奥出羽の古代の豪族)

とすると、この作戦は明らかに天皇が主導したのではなく、名義上の大集団化の荘園主となった阿多倍一族一門の官僚と、摂関家斎蔵の藤原氏北家等と、清和源氏頼信系義家等の「思惑」と駆け引きから密かに計画されたものと成ります。
「詔勅や宣下や院宣や宣旨」の命令書のない無断独断の大義名分だけを掲げた無謀な行動であったのです。天皇の権威や許可無く勝手にやった況や「私闘」と成ります。「私闘」にしてもこれだけの大きい戦いを「天皇治世」の中でやると云うのはどの様に考えても問題です。
あまり知られていない”義家のこの「戦いの戦費は自前」”としている史実からもこの事は許可を得ていない事は明らかです。
ただ、民に対して「蝦夷を制圧して国統一」の「大義名分」だけを作り宣伝して批判をかわしたのです。
この事だけは成功を収めたのですが、天皇だけはこれを見逃さなかった事を意味します。
義家への「名義荘園主の禁止令」を出されてからは頼信系及び頼光系の清和源氏全体が信用を失い各地に飛散衰退して行きます。
(結局、逆に阿多倍一族一門の「たいら族」の桓武平氏も関東の勢力を失いますが、朝廷内の勢力を伸ばす結果と成るのです。
朝廷内にいる阿多倍一族一門は、この駆け引きの為に一門の阿倍氏の末裔安倍氏(内蔵氏の末裔清原氏も犠牲に)を犠牲にした事になります。観てみぬ振りをした事に成ります。
これは失うものよりこの駆け引きの結果で得るものの方が大きいことを読み込んでいたのです。
つまり、これが前記した阿多倍一族一門の「民族氏」の特徴(法より人 石は薬の潜在的固定概念)を顕著に出た史実なのです。
つまり「伊勢本部基地」の徹底した戦略と成ります。しかし、この事で彼らも「関東の勢力圏」の常陸と上総と下総は全て失うのです。
秀郷一門はこの結果、武蔵、下野、上野の3県を入れると14県/66の大勢力となり藤原氏京宗家を凌ぐ北家最大勢力と成るのです。
この関東の全勢力圏は秀郷一門に下りますが、一門は兼光系の秀郷流青木氏、永嶋氏、長沼氏とそれらの支流の小山氏、織田氏、一部進藤氏の支流に護らせる結果と成ります。後に古来からの結城も戻ります。

安倍氏らは既に融合氏に成ってはいたが、伊勢基地の阿多倍一族一門は後漢中国人の「法より人」「石は薬」の概念がまったく抜けていないで居たのです。
時代が経ち、末裔が広がるも「血縁による絆」が「希薄に成る性癖」を諸に出した事に成ります。
安倍氏は融合氏と成っていて日本人と成っている事からこの「仕打ち」は理解できなかったし「怒り心頭」となり、故に各地に「俘囚の賤民・奴隷」として配置された者達に秘密裏に連絡を採り暴動を起こしたのであり、それに呼応して安倍氏と大化期からの古代豪族内蔵氏の末裔清原氏は立ち上がったが、清原氏が裏切り、結局、路線争いの内紛が原因で藤原清衡に乗じられて清原氏も潰される始末となったのです。

(歴史の定説をこの様に「融合氏」をキーワードで時系列的に立体的に傾向分析すると「矛盾」と「疑問」が多く出てくるのです。)


この上記の年代の出来事と前期の南九州とを比較して下さい。前記した様に全く同じ事が同時期に南九州にも起こっていたのです。違いは南九州の一族一門は「戦いに勝った」事で展開が変わったのですが、この様な「融合氏」の国策を進め「国の安寧と安定」の基盤を造るにはこれだけの「生みの苦しみ」があったのです。
右左に何時巻き込まれてもおかしくない混乱の流れの中でその中央に立ち、且つその混乱の中で「3つの発祥源」の重荷を背負う「4つの青木氏」はその範として立ち回るべき苦労が実に大きかったと考えられます。
「4つの青木氏」即ち「2つの血縁氏の青木氏と2つの絆結合の青木氏」の採るべき態度での出方如何では同族源氏と同じ道を歩んでいた事は間違いないのです。
勿論、そうなれば現在の「4つの青木氏」は存在しないのです。それは”何に依って滅亡の同じ道を歩まなかったのか”と云う疑問が湧きますが、それが解こうとしている本文とするもので、何か「精神を支える本質的なもの」が「4つの青木氏」の中にあったとする考え方なのです。
この様な厳しい融合氏の環境経緯の中で生き残れたのです。何かがあった筈です。

  「4つの青木氏」と「5つの伝統」
それが、次ぎのものだとしています。これは真に「青木氏7つの伝統」と云うべきものです。
4つの青木氏が「心の拠り所」加護としてのお仏像様
4つの青木氏が護る皇祖神、
4つの青木氏の祖先神の守護神の神明社 
4つの青木氏の人生の戒めの家訓10訓
4つの青木氏が集う象徴紋笹竜胆の家紋
4つの青木氏の堅い歴史のある絆
4つの青木氏の「2足の草鞋策」の生き残り策

以上「7つの伝統と殖産事業」が存在していたからです。

そして、この「7つのもの」で維持されていたのは「3つの発祥源」としての「誇り」です。
他の「民族氏」と「融合氏」との間にある違いはこの「7つの有無」にある筈です。
それが1千猶予年代々引き継がれて来た事他ならないのです。
古いとされる他氏でもせいぜい300年から多くて500年は超えていませんし、どの様に調べたもこれ程の条件は備わっていません。
時代の激しい遍歴を得て殆どは滅亡衰退してしまって「融合氏」としての形を保持していないのです。
その倍の悠久の中を生き抜いて来たのです。最早、物質的なものではないことは明らかです。
「生き抜きたい」としても生き抜けないのが「無常の世情」です。しかし、「4つの青木氏」は現に生き抜けているのです。
これを何とか「4つの青木氏」の「先祖の生き様」として描き、その時系列的に起こる現象の史実を用いて解こうとしています。
そして、この「青木7つの伝統」に依って構成される精神が「3つの発祥源」としての立場を護らせたのです。
同じ同族の源氏が翻弄される中で、「4つの青木氏」も頼光系の様に同じように観られて巻き込まれる可能性は十分にあったと考えられます。

  「550年の隣人」
しかし、上記した事も事実あったのですが、もう一つ「巻き込まれる事」が避けられた事があったのです。
それは、「伊勢」と云う地理的要素が働いたと観ています。
伊勢は賜姓青木氏の根拠地で、そこに半国国司として950年頃から藤原秀郷の祖父の藤成が伊勢の国司代を務めています。(伊勢はj天領地であり松阪・伊賀・長島の3つの半国に成っている)
そして、1050年頃にも基景が国司代として務め、その後、此処に伊勢長島以南域を藤原の伊藤氏として定住し、護衛役とし秀郷流青木氏も定住しています。
平家滅亡期の1185年前は此処伊勢北部伊賀地方が阿多倍一族一門桓武平氏の「たいら族」の半国領国でした。この様に同じ伊勢の住人として550年間の「隣人付き合い」が在ったのです。
実は伊勢の「たいら族」とは血縁的には無関係ではないのです。
伊勢の青木氏の始祖の施基皇子の子の光仁天皇と伊勢の阿多倍の孫娘「たいら族」の「高野新笠」との間に生まれた桓武天皇は母方の「たいら族」を引き上げ賜姓した訳ですから、「たいら族」とは縁者関係にあったのです。
この事で上記しましたが「以仁王の乱」の時、源京綱を跡目として入った伊勢青木氏を中心に「4つの青木氏」は主謀者の頼政の子供1人と孫2人の除名嘆願をしますがこれに清盛は応じます。
また、4つの青木氏の殖産の「古代和紙」は伊賀地方の伊賀産で繋がっていたのです。
伊賀の「たいら族」は「宗貿易」で栄え、それを観ての「4つの青木氏」も「商い」で子孫を繋ぐと云う「死生感」は同じで有ったからも知れません。
織田信長の「伊勢攻めの3乱」で桓武平氏の末裔伊賀が攻められますが、この時、伊勢青木氏と伊勢秀郷流青木氏は、2度も大群を相手に織田信勝軍の大軍の側面を突きます。織田勢から突然責められる危険性もあり、名張の城に一族一門を護る為に集結した「4つの青木氏」は伊賀城落城寸前で急遽城から出て織田軍の不意を突き敗退させ助けたのです。
これは「たいら族」とは政治的には相反する立場に置かれていたとしても、この様に「550年の隣人付き合い」は政治を超えていたのです。この様な史実があって、「4つの青木氏」は源氏の渦中から逃れられたのです。
もとより、「4つの青木氏」の「死生感」なるものを「たいら族」は「550年の隣人付き合い」から判っていたのではないかと考えられ「脅威感」はおろか「親近感」を持っていたと考えられるのです。
どの点から考えても渦中に巻き込まれる可能性は無かった事と、「平清盛」と云う人物が上記の背景を考慮して助命嘆願に応じ渦中に巻き込まなかったことから考えて大きかった事ではないでしょうか。
人物が小さければ上記の経緯が有ったとしても潰しに架った事ではないでしょうか。

  「決定的な失敗」
ところで話を元に戻して、この事件を更に詳細に追及すると、更に次ぎの事が起こっているのです。
この頃の政治を牛耳っていた彼等の「思惑」のこの政策には、「決定的な失敗」が潜在していたのです。
900年の前から上記した様に徐々に「大集団が小集団を吸収する現象」が起こっていたのですが、この現象が益々急速に起こってしまったのです。

それは、次ぎの「2つの失敗」です。
イ 「奴婢戸籍」をも廃止し「戸」を形成出来なくしたのです
ロ イを根拠に「賎民」取分け「難民」「俘囚」「不浪人」「放棄人」から成る「奴婢」は「売買」の対象として許可されたのです。(戸籍があれば手続上出来ない)

   イ「戸籍廃止」
荘園大集団は、上記123を背景に「荘園力」を高め、その高めた力で今度は小集団の「労役の担い手」「奴婢」を買い占める現象が起こったのです。「奴婢戸籍」を無くせば荘園主は「奴婢隷属」であるので自由に扱える事が出来る様に成ります。
これで益々小集団は「労役の担い手」「奴婢」を失い大集団に吸収されてしまいます。これで荘園を継続する事が困難と成ってしまったのです。止む無く「小集団」はその「大集団」に吸収されて行く「加速度的な循環」が起こってしまったのです。こうなれば「流」が出来て止める事は誰にも出来ません。
そもそも荘園に対して「税と労役」の負担分を算定する為に「奴婢戸籍」なる特別の人別帳の様なものを造っていました。しかし、それを廃止する事は荘園が拡大しても「税と労役」の負担分を算定できず大きくなった分の税と労役は免除されて終います。この為に益々収益がが上がり拡大の一途を辿ります。

むしろ、無届に「難民や放棄人」を集め勝手に力ずくで連れてきた「俘囚」等を囲って荘園経営をする様に成り把握出来なくなった事が一番の要因であり、次ぎには源氏や阿多倍一族一門や藤原氏や橘氏や一部の皇族貴族等に「名義主」に成って貰ってその政治的力で「税と労役」を逃れ、その分を「名義主」に支払うと云う巧妙な手口を作り上げたのです。
「名義主」はその力で更に拡大し、更にその名義料の拡大を図る為に「難民、放棄人、俘囚」を更に獲得しようとして政治力を使って巧妙に無届の戦いを起こしたのです。
名義主になった大豪族には更に別の利得が生まれるのです。名義料のみならずその実質荘園主が無血縁の一族として名を連ねて其の荘園主の勢力を加えて益々拡大して行ったのです。未勘氏の「源平藤橘」族等が新しく出来上がったのです。(平:阿多倍一族一門)
こんな「戸籍廃止」の問題だらけの政策を誰が見ても事前に「荘園拡大の行き過ぎ」や「俘囚問題」や「放棄人の流失」の難問が起こる事は承知できる筈です。しかし、実行されたのです。
これも「源平藤橘」族等の「政治的な裏工作」によるものであり、観てみぬ振りをする公家貴族等の傀儡政権であるからです。
戸籍を押さえておけば「税と労役」を課して抑制する事も出来たのですが、最早、全く歯止めが利かなくなったのです。
源頼時-義家親子は真にこの典型的な行動をしたのです。
清和源氏のみならず源氏一族11家は少なからずこれに同調したのです。
しかし、清和源氏頼光系4家と2つの血縁氏青木氏はこの流れに同調せずに同族血縁して「2足の草鞋策」へと回避したのです。「3つの発祥源」としての立場を守ったのです。
古代豪族で皇族賜姓佐々木氏2家(天智天皇近江佐々木氏、宇多の滋賀佐々木氏)は立場を守り「2足の草鞋策」を近江青木氏(摂津青木氏 近江商人)の様に積極的に採らずこの為に衰退したのです。

(注:この時の令の慣習は江戸時代まで持ち込まれ「百姓」(:現在の意味と異なる 兵農の下級武士も含む)に適用されたのです。戸籍の代わりに村ごとの「人別帳」(履歴を有しない帳簿)を設けたのです。従って、700年以上の間は姓名も墓の概念もなくなったのです。中級以上の武士は「融合氏」を形成して独自の菩提寺を定めてその寺が本家筋の過去帳と戒名で管理したのです。江戸末期まで。
「良賤民の制」と「五色の賤」が「士農工商」に)

(参考:近江佐々木氏末裔 佐々木小次郎は衰退して剣術修行に 直系子孫は遺して現存する。 結局、阿多倍一族一門や関東の坂東八平氏[7世族:ひら族]等の掃討作戦で潰されて11家の源氏は直系子孫の「融合氏」を遺せなかった。 遺したのは未勘氏と第3氏である)
(「源平藤橘」以外にも佐々木氏や賜姓族も含む代表語とする)

  ロ「賎民の売買」
天皇側にはこの「賎民の売買」の禁止も合わせて行わなかった失敗があったのです。
ここで敢えて「天皇側」としましたが、この事は阿多倍一族一門の官僚と藤原氏の摂関家等の官僚即ち「大集団の名義上の荘園主」は知っていた筈です。しかし、敢えて知らぬ振りをして123の「政策実行」を、如何にも「氏融合」の[国策3策の効果」を推進するかの様に見せかけて、実は123が荘園力を増す事を知っていたのです。否、この時期の天皇側もこれ位の事は理解し知って居た筈です。
それも「奴婢売買」の事を「傀儡の天皇」に隠して「大集団の荘園力の拡大」を狙っていたのです。
123に限らずイ、ロも内容的には天皇もそこそこの頭脳があれば理解できる筈です。無能であったか、何も云えなかったか何れであろうが「可笑しな政策」である事くらいは理解出来ていた筈です。
まして、各地で下級官吏を巻き込んだ「暴動や反乱」が頻発しているのです。判らないのでは゜馬鹿」を通り越しています。
”何も云えなかった”、つまり無能であった事に成ります。だから、1068年の「後三条天皇」の行動に繋がったのです。国難と察し実に「有能果敢、洞察力、戦略性のある天皇」であった事が判ります。
天智、天武天皇の「大化改新」に続くものである事が判ります。
その後に力を持った「大集団の首魁、荘園主」は血縁の無い他の集団をも征服して土豪として君臨し、その「吸収された集団」もその「氏(融合氏)」の中に組み入れられて、同じ「融合氏」を名乗りながらも「血縁性」のある「正系」と「血縁性」の無い「傍系」と云う形で統合されて行きました。
(ここに正系と傍系の呼称が残ったのです。)
この「血縁性」の有無は元よりその「血縁濃度の高低」をも意味します。

  「正系、傍系」(融合氏の氏詳細)
例えば、清和源氏などの「正系、傍系」はこの形から来ているのです。
「甲斐源氏」は、正式には「清和源氏」には頼光系本家(4)と頼信系分家がありますが、この「頼信系分家」の「摂津源氏」の支流「河内源氏」の「傍系」となっているのです。「足利源氏」も同様ですが藤原秀郷一族の仲介で清和源氏と血縁しています。甲斐は河内源氏の傍系一族の放追者が常陸に逃げ甲斐に到達して甲斐の土豪と血縁して勢力を高めたとされていて真偽は定説としては武田氏の言い分を聞けば真であるとしているのです。
系譜は義家の弟三男義光を祖とし義清より分岐し清光-信義と成っている。ここから上記の物語が生まれて武田に行き着いた事に成るので義光系の系譜と成っています。しかし一方藤原秀郷一門が鎮守府将軍として陸奥で務めそこで血縁した小田氏が次ぎの赴任地甲斐に同行して勢力を高め土地の土豪と成りその事から地名から武田を名乗ったとされる説もあります。前者は清和源氏説で後者は藤原説です。

では、源氏説となれば家紋から見れば「笹竜胆紋」で「副紋と変紋」は一切使わないのが賜姓族の慣習です。主に平安期に於いては各地に分布する源氏11家と青木氏29氏と藤原氏北家主要9氏と佐々木氏2家の合わせて概ね55氏×5程度の中から血縁族を求め同族血縁を主体として主系正系を保っていました。その為に武家の「家紋掟」に従う事無く象徴紋(家紋)が保たれていたのです。
これ等の融合氏では「武家の発祥源」でありながらも「家紋」の扱いは「家紋」と云うよりは「象徴紋」的扱いの習慣であったのです。
これは天智天皇期から賜姓青木氏が「融合氏」のその「象徴紋」として、又「3つの発祥源」のその「象徴紋」として、「正系」の象徴紋としての扱いのもので在ったところから家紋感覚は低く、因って「副紋、変紋」が生まれなかった事によります。
これ等の事から武田氏は「4つ割菱紋」である事は「源氏説」は異なっている事に成り、仮に源氏で在ったとしても「傍系」であり、その「傍系」も上記した「大集団化」の「融合氏」の「未勘氏族」の可能性大であるのです。まして、河内から各地を流浪して常陸に行き甲斐に来た者としているところは未勘氏の源氏説に使う手でありその可能性が強いのです。甲斐に到達した時に名乗ったとするだけでの心証ですので疑問が残ります。恐らくは河内源氏とするのであれば氏家制度に基づいて河内の宗家に対して家紋の認証と呼称の認証を採っている筈です。見つかっていません。
もしこの系譜であれば笹竜胆紋である事に成ります。伊豆の源氏や木曽の源氏や新宮の源氏や近江の佐々木氏や滋賀の佐々木氏等直系の系譜を持つ源氏は全て笹竜胆紋です。この様に歴史の定説には矛盾を多く含んでいます。
つまり、「源氏」を名乗った時に上記の「賜姓族の仕来り」を知らずに名乗り後勘にて矛盾を孕んでしまったのです。間違いなく「傍系」であり「未勘氏源氏」の可能性が大であると観られます。
現実に源氏が滅亡しているのですから後から適当な系譜を作り上げても何も文句を言う者が居ません。其の内、「搾取と編纂」が実しやかになるのです。
室町期の殆どは仕来り無視の名乗りでこの類なのです。
其の点で藤原説では、足利氏と同様に、藤原秀郷一門の陸奥の血縁族の「小田氏の末裔」と考えられ、地名より武田氏を名乗ったと成っています。この小田氏の一部が常陸に移動して「関東屋形」と呼ばれる氏(結城永嶋氏、佐竹氏、小田氏、宇都宮氏、小山氏)の一つの大豪族小田氏(秀郷一門支流一族)と成っています。後に秀郷一門宗家の圧力仲介により清和源氏より跡目に入っています。
この陸奥小田説を採り難い理由は「蝦夷」で無いのに「蝦夷」と呼称されて義家に征討され安倍氏と清原氏の俘囚民か支流末裔と観られる事に対する懸念からではないかと観られます。
むつの土豪の花房氏、小田氏、小山氏等は阿倍氏や安倍氏か清原氏の支流末裔であると観られます。その根拠は秀郷一族一門が陸奥の鎮守府将軍として赴任し、「現地の騒動」を鎮めたのは武力に因らず「血縁関係」による「政略」を主体としていたからです。
それを主導したのは秀郷一門の護衛団の秀郷流青木氏だからで、各地の赴任地の治世では歴史上大きな戦いは無く24地方の政略婚が藤原氏の主戦略でした。この意味で陸奥安倍氏との繋がりを持っているのです。治世策で観てみると、藤原氏の「政略戦法」に対比して源義家は余りにも違ったのです。秀郷一門の政略婚は真に「融合氏」の国策に順じているのです。ここでもこの「荘園の行き過ぎ」には秀郷一門は加担していないことが判ります。秀郷一門の彼等の勢力はこの「義家らの荘園行き過ぎ」行動の始末に依って天皇より与えられ獲得した領国です。
実は足利氏は同じく陸奥の花房氏で秀郷一門と血縁しその花房氏の血縁氏が同行し足利に秀郷一門として赴任しました。その後、信濃足利(栃木ではない)の土豪と成り勢力を拡大し足利の地名を採って足利氏と名乗りました。
この土豪の足利氏の本家は秀郷一門に反発して云う事を聴かなかった為に秀郷一門はこの土豪足利氏の分家に秀郷一門の宗家から跡目を入れて後盾の後見人となり、この分家を以て本家を追い出しに掛かります。結局、この土豪足利氏の本家は足利氏系青木氏(賜姓信濃青木氏の血縁族)と共に米子八頭方面に逃亡して定住します。残った分家を本家として信濃足利氏となるのです。この足利氏に清和源氏の跡目が入ります。故にこの史実より足利氏も源氏の傍系の支流一門と成ります。

(この時、秀郷一門は東山道域の中部地域に勢力圏を延ばしたのです。そうしなければ伊豆を基点として頼信系清和源氏の関東伸張と対峙する事に成ります。最終、清和源氏衰退後秀郷一門の勢力圏に成ります。)
武田の土豪小田氏は足利氏と同じ事件が起こり小田氏はこれを受け入れたのです。その代わりに青木氏系小田氏の一部を常陸に移し秀郷一門を背景に「関東屋形」と呼ばれる小田氏一門を拡げたのです。
従って、武田氏は全体の経緯から「藤原説」を採るか途中から「源氏説」を採るかによりますが定説は中間の折衷説を採用しているのです。
常陸からの流浪説もこの常陸と関係させておく配慮であったとみられます。恐らくは、武田の小田氏に跡目が無くなり一族の常陸小田氏から跡目を採ったのではないかとみられます。結局は足利氏と全く同じ源氏傍系支流一門と成る筈です。
この地名を採った武田氏はその家柄をより誇張するために「一条氏の末裔」だと名乗っているのですが、この時、貴族血縁がある事を誇張する風潮が流行っていて四国などに逃げた一条氏の末裔と名乗る事が各地の豪族で流行ったのです。名乗るほどの一条氏に人物数が無いにも名乗ったのです。
これでも武田氏のルーツ説の疑問があります。源氏と異なり藤原説は一族一門は厳然として残っている訳ですから変な名乗りをすれば周囲の藤原氏から潰される事は必定です。「第2の宗家」青木氏が絶大な武力を以て潰される事は判っていますから源氏の様な事は無いのです。

(青木氏も秀吉の時代に摂津青木氏(近江青木氏)が元上山氏の滋賀青木氏(近江青木氏断絶分家を乗取り再興)に対して秀吉了解の下で2度戦い元上山氏の滋賀青木氏が勝ち名乗る事件等があった。各地でこの様な事が室町期末期から江戸初期前に頻繁に起こる)

  「定説の疑問」
この様に「定説」と成る資料は氏家制度の習慣、掟、仕来り、取り決めを考慮せずに現在的な感覚で一面的に考察して検証しているのです。だから主に各氏の作る搾取編算の系譜を正としての説が多いのです。ですからルーツ解明となるとこの時期の「融合氏」の研究には特に注意が必要なのです。
藤原秀郷一門からのルーツを観ると定説に対する搾取の疑問が多く観えて来るのです。
この定説に影響を与えているのは「義家と安倍氏と清原氏」の事が見え隠れしているのです。
殆どは定説の義家を「正」としての事から始まっているのです。
しかし、本文の様に研究していると「義家の性善説」に疑問が出てくるのです。

嵯峨期の「新撰姓氏録」には、古くから地方豪族であった氏が旧来の名字を捨て、中央で勢力のある豪族の氏に「何らかの縁」を求めて属し、その傘下に入り、その代償を払いその「氏名」を名乗る事に依って地方豪族が中央の官職を獲得する事が出来たのですが、その様子を観る事が出来ます。
特に、この事(「正系、傍系」)を集大成したものが「南北朝期」に出来た「尊卑分脈」です。
要するに「未勘氏現象」と呼ばれるものですが、「縁結合」のその一つです。
その代表的な「氏」として中央に繋がる「源平藤橘」(阿多倍一族一門含む)がその「対象氏」と成ったのです。
これ等が大勢力に成った主な原因は、主にこの事(正系傍系の未勘氏現象)に依るのです。
しかし、この「結合氏」の「絆」(縁結合)は緩いものがあり、「橘氏」の様に藤原氏に押されて衰退すると直ぐに鞍替えして霧散するという現象が起こったのです。
「橘氏」(4家)はこの判断(実力を過信)を誤った為に滅亡の憂き目を受けたのです。
「源氏」(11家)も「義家の幻想」を理解損ない実態は左程に大きくなく院政から疎んじられると脆くも同じく滅亡の憂き目を諸に受けたのです。
その点で「桓武平氏、平族」は上記した様に血縁による阿多倍一族一門が余りに大きく成り過ぎた為に「氏間」の結束が取れなくなった事と、「民族性」の強い互助の働き難い「氏姓性」を持っていた事等の別の原因で滅亡したのです。
しかし、反面、「融合氏の集団化」による「未勘氏現象」が起こり「吸収と離反」を繰り返すと云う事が記録から少なかった事が云えます。
平将門、平忠常、安部氏の事件等は乱世を生き延びる為の政略であったのです。日本人が求める「融合氏」の様に「氏姓」を同じくする「同族血縁」を深める等の事は比較的少なく”「薄く結合する」”と云う概念であったのです。だから安部氏の様な「トカゲの尻尾切り」の様な事は逆に頻繁に起こるのです。
例えば日本人に理解し難い事として伝わる現在の中国の山岳地で起こる騒動の鎮圧の政治的措置に観られる現象と同じです。
この様な大化期から入ってきた「民族氏の概念」が国内に蔓延すれば「在来民族」との間で遊離現象が起こり国は再び2分する結果となる事は「自然の摂理」として必定です。
邪馬台国の卑弥呼を中心とした「国家共立体制」が「ヤマト王権-大和政権-大和朝廷」と引き継がれ802年にほぼ統一した国家が、再び阿多倍一族一門とその集団200万人の帰化に依って分裂すると云う事態に遭遇していたのです。既に九州では独立自治の動きがあり国政に従わずそこに「荘園の行き過ぎ」が起こったのですから危険極まりない状況に陥っていたのです。

初期の天智天武天皇期の皇親政治、中間期の嵯峨期の皇親政治、そして末期の後三条天皇の親政院政政治の国を預かった天皇の悩みは計り知れないものがあったと考えられます。
取り分け初期の皇親政治に関わった青木氏中間期の秀郷流青木氏には計り知れない悩みがあった事は間違いない史実であり、それ故に青木氏側から観れば源氏頼信系の義家等の行動は容認する事は出来ないものであります。「正系傍系の未勘氏現象」を起こして大きくなる等は言語道断であります。

ところが、この「未勘氏現象」を上手く利用して勢力を戦略的に運用して生き延びたのは、政権の中枢に居て「同族4家の族争い」を起こした中でも「藤原氏の北家」、中でも「秀郷一族一門」なのです。
不思議な現象です。「融合氏」の青木氏等の「正道」-「民族氏」の阿多倍一族一門の「逆道」に対してその中道を歩んだのです。「頭脳的な生き様」と云う以外にはありません。
なかなか何時の世も「中道派」は生き難い筈です。「衰退の道」が世の常です。ところが「繁栄の道」なのです。
「繁栄の道」になるとすると何かシステム(緻密な戦略戦術と組織の掟と司令塔の存在)が必要です。
現在まで繁栄を遂げて来たのですからシステムが在った事を意味します。「それは何なのか」です。
既に論じましたがその主因は「秀郷流青木氏」の「第2の宗家」としての「緻密な戦略的行動」にあったのです。当然にこの「未勘氏現象」が起こりましたが、それを「判別する仕組み」を採用して「血縁性の有無」を明確にし、「実力の過信」を起こさない様に「管理統括監督」していた事が生き残りの原因です。
その仕組みは次の通りです。
一つ目は「藤原氏の呼称方法」です。
青木氏と血縁性の高い主要5氏を除き、分けて「藤」の前に「24の地名と斎蔵の数種の官職名、役職名」を付けて一族一門の「血縁の関係性」の判別を明確にしていたのです。(主要5氏:青木氏、永嶋氏、長沼氏、進藤氏、長谷川氏)
二つ目はその枝葉の「氏の象徴」となる「象徴紋または家紋」を明確にして「正系の系列」と未勘氏の「傍系」を判別出来る様にしていたのです。
例えば、次ぎの様な方策を採りました。
一つ目の仕組みには、秀郷一門は「副紋方式」を採用し「丸紋」は使わず「藤紋の変紋」も限定していてそれも判別出来る様にしたのです。
二つ目の仕組みには、「氏掟」が存在していて「融合氏」が拡大するに連れて監視監督が困難に成る事を避けて一族一門が結束できる方法を考え出していたのです。
ここに阿多倍一門一族との大きな違いがあったのです。
甲斐の武田氏が信長に滅ぼされた時、甲斐の武田氏系の「3つの賜姓青木氏」が各地の藤原秀郷一門の青木氏を頼って逃げ延びる事が出来たのはこの「2つの仕組み」のお陰で血縁関係が明確に把握されていた事によるのです。特に青木氏に関しては母方での血縁関係が明確に把握されていたのです。

これは「融合氏」として氏神の守護神(春日大社)と氏寺の菩提寺(興福寺)等の支社を各地に置きそこで系譜、戸籍などを管理記録されていたのです。
この記録は「3つの発祥源」としての認識があったからこそと考えられます。
全藤原氏においては「傍系未勘氏族」の判別が完全に出来るのはこの仕組みから来ているのです。
「正系、傍系」の違いは「未勘氏」である事のみならず、この「3つの発祥源」にあり、これを護る認識の有無によります。それは「血縁性の有無」と「有品認識の有無」にあり「正系、傍系」は根本的に大きな違いを持っているのです。この「血縁性」が在っても氏家制度の中では「本家分家の差」に於いても分家は本家の指示行動に従うと云う仕来りから「義家の勝手な不合理な行動」(義家は頼信系分家筋の直系)の差として出て来るのです。
結局は、最終は「有品認識の有無」が左右する事になるのです。(頼信-義家は本家と違い有品の認識が薄かったことに成ります。)

このシステムを管理監視認可など場合によっては血縁の紹介と段取りもして居た事が判っています。これをする秀郷流青木氏が「第2の宗家」と呼ばれる所以なのです。青木氏の指示に基づいていたのでしょう。

(甲斐の3つの賜姓青木氏:武田氏系青木氏、武田氏系諏訪族青木氏、諏訪族青木氏 これ等の氏は甲斐賜姓青木氏の末裔で家紋掟により分家となった。)

青木氏と守護神(神明社)-7に続く


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