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給付金の景気議論の無駄と恐慌の時事放談
タイトル : 給付金の景気議論の無駄と恐慌の時事放談
投稿日 : 01/30-16:47
投稿者 : 福管理人
時事放談
景気刺激策の給付金に思う事
先ず始めに結論から云うと、”今国会でもめている給付金の議論は無駄である。”と言う事だ
給付金が無駄ではない。議論が無駄だと云いたいのだ。
”他に廻せばもっと効果があるだろう”とか、そんな事云い続けたらきりがない。”景気に対して効くか効かない”とかは問題ではない。やってもいないのに主観で判るだろうか。
「人、時、場所」の「三相」で考えたら、先ず実行する事に意味があるのである。そして、その「三相」で観て、仮に”あるか無いか”と聞かれたら、私は意外にあると観ているが、その理由は後に述べるとして、兎も角も、「恐慌」になりかけている現在何と馬鹿らしい事か呆れる。
そもそも「恐慌」と云うものの人間社会に与える恐ろしさを知らないらしい。
いや、96年も過ぎると人々の意思伝承からはそれを忘れてしまうらしい事だ。要するにバカに成るらしい。
念のため、給付金は先ず後にして、その恐ろしさを認知して頂く事がそれをわかって貰える最も近道だろうか。この為に過去に起こった「恐慌」のその時の経緯を先にどの様なものかを述べる事とする。
そうすれば、この給付金の議論が無駄である事がわかって貰えるだろう。先ずは実行するのみである。実行に価値があるのだ。2兆円等は問題では無くなるだろう。
この2兆円がその「恐慌」のもたらす恐ろしい人間の「性(さが)」を抑えてくれるのだ。
それで済むのなら安いものである。
それを次に縷縷述べるとする。
「100年一昔」と人は云うが、100年も過ぎれば何事もその恐ろしさが人々の脳裏から消えて忘れさられる。
結論から「恐慌」のもたらすものは生活の貧窮だけではないのだ。それは、歴史が物語っている。
では、その「恐慌」と云うものがどの程度起こっているかかが問題と成ろう。
そして、どのような経緯から起こるのかも気に成る。
どのような恐ろしいことが起こるのかも知りたいと思う。
最後にその経済的なメカニズムはどうなっているのかも知っておく必要があろう。
前回と較べて今回の起こりそうな「恐慌」はどのようなものかも、ここで知らねば「給付金の議論」の良悪の持つ意味が理解できないだろう。
そこで、これ等の事に付いて経済論ではない可能な範囲で論じる。
その恐慌は先ず日本では最近では3度起こっている。
1890年の「企業恐慌」 (1)
1894年の「資本主義恐慌」(2)
1907年の「植民地恐慌」 (3)
筆者らの年代であれば、当時と同じ生活環境にいたためにより実感としてこの程度の事はまだ聞き学んだ記憶として脳裏に残っている。
1880年後半の「企業恐慌」は、何れも、1860年前後に西洋で「産業革命」が起こり、日本では第1次は日清戦争期、第2次は日露戦争の時期に2度の「産業革命期」があった。
この時期はその産業革命を下にした生産を主体とした新しい体制の企業勃興期でそのブームが起こった。未経験のその企業が勃興してきた新しい「資本主義」の中で起こる「経済恐慌」を誘発した。
初めての経験であるが故に対処に手間取った。
つまり、「資本主義」では「産業革命」で大きな「生産活動」が起こる。
そこに「生産の変動」が起こる。当然にそれに伴なって「消費の変動」が起こり、遂には「景気変動」は起こる。これは当然の人間社会が起す「経済メカニズム」である。
何れも「需要と供給」のバランスが原因で起こる。
しかし、ここで「資本主義」の中では大きな欠点が起こる。
それは人間社会の生活から来る「消費の限界」である。
どんなに人間社会がある一定の生活レベルで維持した場合でも、「産業機械」による「生産活動の増大」にあわせての「消費活動」の拡大は出来ない。そこである一定の限界が起こる。
一方、科学、即ち「機械革命」による生産(供給)には限界が無い。ここに矛盾が起こる。
つまり、資本主義には、次ぎの原理の数式が生まれる。
「生産活動の増大」>「消費活動の増大」 「消費活動」=一定 「生産活動」=無限大・・・X
その矛盾が「社会変動」を起して、それが起因してこのギャップが大きい時に「恐慌」が起こるのである。
「生産活動の増大」ー「消費活動の増大」=MAX=「恐慌(デフレ)」 A
「消費活動の増大」ー「生産活動の増大」=MIN=「恐慌(インフレ)」 B
当然に、ギャップの大きい時、ギャップの小さい時の2種類の「恐慌」が起こるだろう。
そして、この「2つの恐慌」の連鎖の末に起こる経済システムの崩壊現象の「第3の恐慌」が起こる。
「消費活動の増大」<=0 「生産活動の増大」<=0 A-B<=0 :C
先ず、1880年末頃に起こった最初の「企業恐慌」は、「産業革命」による「機械革命」に依って「資本主義」では「企業の勃興」が起こる。当然に「供給」が大きくなり値段が下がり「デフレ」となる。株は暴落する。資産価値は低下する。勃興した企業は直ぐに倒産する。
この為に経済メカニズムが狂い「恐慌」となる仕組みだ。
人は、当然に、一度味わった「生活レベルの享受」を求めて下げる事をせずにその対応策を求めようと走る。それはその溢れた供給物を外に求めようとするのだ。これは人間の本能である。
そして、それを産み出すその「エネルギー源」を維持しょうとして、「力」(軍事力)の増大を図りその武力で以って自国のものとするためにその「資源の確保」を外に求める。
要するに、「資本主義」に起こる「必然のシナリオ」の「植民地政策」である。
時には、「軍事力支配」、「経済支配」、「政治支配」、「資源支配」、「思想支配」と重複しても使う事と成ろう。この時は、「軍事力支配」の植民地であった。
「植民地」と云う言葉はこの時代の「軍事力」における言葉でありいいイメージを起さないだろうが、現在に於いても、「軍事力」以外にも、実質、同じ支配を受けているのであって、消えたわけではない。
何時の「時代」にも、どんな「思想主義」でも「人間社会」である限りこの「必然のシナリオ」から逃れることは出来ない。
更に、この「必然のシナリオ」が起こった歴史を考察してみる。
先ず、次に起こった1894年は、今まで経験した事のない始めての「恐慌」と云う「経済システム」に戸惑い、慌てて、維持しようとして、この「植民地政策」を基本とした「資本主義」の反動が起こる。
つまり、「産業革命」以後に「新しい生活スタイル」が急に蔓延したが、今までの「古い生活スタイル」を捨てて一種の「+の拒絶反応」が人間には起こるのである。
その行動が引き金に成って社会が沸騰し過ぎ、金融バランスが崩れて、折角に勃興した企業、銀行が倒産し、再び「恐慌」へと走ったのである。
今まで苦労して得ていた資源は易々と手に入れられる事になり、商品も植民地でさばける状況が生まれる。この結果、「植民地政策」の勝利で得た海外からの利益で、国内は過激に景気沸騰して物が不足して物価は高騰して「インフレ」を起こし、「恐慌」へと向かうのである。(B)
この資本主義の欠点でもある「需要と供給」のバランスにより、片方に行き過ぎてしまった時に「デフレの恐慌」と「インフレの恐慌」が起こるのである。
この時までの未熟の資本主義はその産業革命の時から15年で「企業恐慌」(A)が、更にそこから11年間で「資本主義恐慌」であわせて26年間で「インフレ」と「デフレ」の両方がめまぐるしく起こり「恐慌」を起した。
そして、その13年後の1907年の「恐慌」は、この「二つの恐慌」を解決清算する為に、上記2つの恐慌(「経済活動でのアンバランス恐慌」)を避ける為に、それ以外の経済活動外で行う「景気刺激策」やむ終えず採用した。それが「植民地政策拡大」に乗じて「軍事物資」の需要を喚起させ、特殊な限定した分野での「軍需景気」を誘発させて解決しようとしたのである。
その活用地を求めてより海外に出て広める事に向かう「必然的な現象」が起こったのである。
これが本格的な「植民地恐慌」(C)であった。
植民地政策で世界は荒れ、資本主義を邁進する先進国は争って植民地獲得へと動いたので、各地で紛争が絶えず、先進国同士で、また、先進国と後進国(当時はこの様に呼ばれていた)との間で紛争と戦争が起こったのである。
この為、生活は疲弊し、挙句は各国の経済活動は低下し輸出入が激減し、遂には農村部格差の問題、都会貧困層の社会問題を誘発させて、「需要供給」に無関係に「恐慌」へと突き進んだ。
同じ事が殆ど同時に世界の先進国で起こっていたのである。
(A)と(B)の連鎖による経済システムの崩壊現象(C)を誘発させたのである。
これでは経済手法では手の打ち様が無く成ったのである。
この様に人間社会に於いて資本主義の欠点とも云えるこの三つの循環性のある必然的な「連鎖的な恐慌」が起こるのである。
最初に先ず「企業恐慌」が起こる。そして、反動として「資本恐慌」が起こり、最後には経済外の「植民地恐慌」までへと必ず走る性質の「連鎖反応」とも云うべき欠点を持っているのである。
一度、何れの「恐慌」が起ころうとも「連鎖の恐慌」が起こるのが資本主義の欠点でもある。
否、人間社会の「生活意識の欠点」ともいえる。
それは、一度知った果実の味「安楽の享受」の本能である。この本能がある限りこの恐ろしい必然の連鎖は解消できない。
そこで、しかし、この3つの「ただの恐慌」だけが怖いのではない。
この「恐慌」の上記する「3つのスパイラル」が怖いのである。
そして、その「3つのスパイラル」に陥る時に必ず起こり引き金と成る「煽り現象」、即ち「人間の性(さが)」が最も怖い事なのである。
この中には目を伏せたくなるような熱動する「非人間的な現象」が内蔵しているのである。
資本主義における「恐慌」とはこの様な「恐ろしい過程」を持っているのである。
そこで、その時のことを認識を高める為に再現して見よう。
直近の96年程前から昭和初期に掛けて「世界恐慌」が起こった。
先進国はより植民地政策へと動いていた。その事が昂じて決着の為にその時はその解決策として武力に訴える戦争へと動いた。
世界は、特にドイツは恐慌の嵐に喘いでいた。そこに、当初その発言と行動で異端児扱いされていたヒットラーが、国民は”何とかしてくれるのでは”と救世主として、熱狂的に幻想して引き出した。
怖いのはここである。
この様なときには人間の社会は現状の生活レベルを享受しようとして、「盲動的に、幻想的に」それを解決してくれるヒーローを仮想して作り出してしまう事である。
そして、その現象が一度起こると「悪のスパイラル」が起こり止まらない。
ドイツではこの「恐慌」の結果、この過ちを起してしまったのである。
そのヒーローのヒットラーはそこで「最後の切り札」を直ぐに使った。
ドイツを中心とした「統一ヨーロッパ」を作る事を名文に、本音はエネルギー源の確保を忍ばせて、先ず、フランス等ヨーロッパ域とロシアを侵略して「軍需景気」を起こし、ドイツは半年で恐慌から脱出して景気を回復させたのである。その狙いは意外に脆いフランスが落ちて半ば成功した。
そして、その勢いで今度はその「科学力」を大いに発揮してドイツは今までに無い新型のロケット弾を開発し、それを対岸からイギリスロンドンに向けて攻撃した。
無抵抗で戦わねば成らないイギリスは慌てた。
そこでアメリカに助けを求めた。飛び火してアメリカは軍隊を送った。
その反動でドイツとイタリヤは同盟、アメリカ、イギリスフランス、ロシアは同盟し、第一次大戦のへと突入。
その頃、一方日本は「恐慌」から先ず、西アジアにそのエネルギー源を求めて侵略、植民地としていた。
当然、そこを植民地支配していたアメリカとイギリスと衝突、対抗手段として相手は経済封鎖を実施した。
そこで、ある2つの目的(白人社会に黄色人が伸し上がることを好まない事も含む)を同時に持っていたアメリカは「戦いで日本を潰す」事を狙った。
もう一つは、同時に資本主義では15年程度で経済恐慌が繰り返し起こる経済政策では解決が困難と見て、経済外の政策として国民を煽動、喚起して「軍需」による景気回復で解決を狙った。
そのアメリカはわざと真珠湾に海軍をわざわざと集積させながら、日本海軍が太平洋に出てきても無防備の近い状態にしていた。即ち外国製の「鶴翼の陣」とも云うものであろう。
「経済封鎖」で窮地に至った日本は「勿怪の幸い」とその戦略に引っかかり日本軍は突出して真珠湾攻撃をしてしまった。つまり、懐を無防備に広げて相手に攻めさせて「戦い」の大義名分を得たアメリカ、イギリスの連合国側は「国民に反発の勢い」を着けて第2次大戦へと突入させた。
そして、アメリカ側はその本来の目的としての先ず「軍需景気」を起して「恐慌」を克服させたのである。後は、白色人種の領域に侵蝕し成長して来た黄色人種の「日本潰し」である。
日本は、次第にアジアから後退し昭和17年の4月18日の本土空爆から2年後に敗戦となった。
これで、第2の目的は達成されたのである。
しかし、敗戦占領後、直ぐに朝鮮半島で共産主義者の動乱が起こる。
アメリカは始めは共産主義者を引き入れて、白人先進国の中にアジアの黄色人種の伸張の大きな力と成っていた戦後の日本の「国粋的思想」の一掃を試みた。
しかし、朝鮮半島で共産主義が台頭して拙い事に成った。
そこで、共産主義から日本を護るために、その「軍需景気」を日本で起こし「戦後復興」と「経済力」をつける作戦に出た。そのために驚異的に日本は戦後の荒廃から脱出して立ち直らせ国力を回復させてたのである。そして、弱い所に巣食う共産主義の浸透を防いだ。
しかし、アメリカは日本の植民地であった朝鮮半島は失敗した。
一方、ドイツは極寒ロシアで大失敗し、次第に後退し、ドイツ国内はアメリカの「財力の元」と成っているユダヤ人を警戒して「ユダヤ人抹殺」の「修羅の世界」と成ったのである。
この様に、「恐慌」の結末は「窮鼠猫を噛む」の如き「最後のあがき」が起こり、必然的にその生きる「エネルギー源確保」のために、「歴史は繰り返す」の例え通りで、資本主義の経済活動の欠点を除くために最後手段の「軍需景気」で以って全ての国は「恐慌」から立ち直っているのである。
そこに起こる弊害や修羅を無視してである。
ここで、この様な時、「人間の社会」は「盲動的、幻想的」に「良悪を鑑みず」「ヒーローを仮想」して作り出してしまう事である。これが「恐慌」での最も怖い事である。
しかし、日本でも第2次大戦へと突入していった時も日本軍陸軍はこの悪のスパイラルに入っていたのである。
そのヒーローを「神国」「神風」に求めたのである。
そして、ドイツの「ヒットラー」と同じく、日本ではそれを煽ったのは矢張り、記者上がりの当時のトップ評論家で「ヒットラー的なヒーロー」として、「神がかりした人物」として見られたこの人物の度重ねる発言であった。それは通説の東条や近衛の指導者ではなかった。
日本も全く例外では無かった。全く同じ事が起こっていたのである。
その者の云う事は国民は皆信じた。国では、「神国」「神風」で煽り、人ではこの人物の「煽り」の影響を諸に受けたのであった。
この者の「煽り」が無ければ国民は盲動しなかっただろうと云われている。
この人物は戦後、その「煽り」の反省や謝罪も無く煽られる方が悪いといわんばかりの強気で生き延びたという事である。第一この本人も自らが洗脳されて熱動していたのではと考える。
真に恐ろしきは仏教で云う「縁無き衆生動し難し」とはこの事である。
「人間の社会」とはこの様なものである。だから盲動するのである。
今、恐ろしい「恐慌」の連鎖に真に陥らんとするこの社会では、この人物になる「煽り」人物は一体誰なのかとフトと考えることがある。
何せ、歴史的に学ぶと、今、一番怖い事はこの「煽り」である。人間の性(さが)を突く事実に基づかない「煽り」である。
そこで、資本主義が上記「3つの恐慌」の「連鎖の欠点」を反省して成熟し、それから96年経っているが、今度はその資本主義の自由市場を標榜する大元のアメリカ発の恐慌である。
これは以前のものと違う。今回は特殊な原因である。
2大国の冷戦時代は終わり、そこから、ブレーキが効かなくなったその一方に「無制限な自由の経済」の行き過ぎが起こり、走り続けなければ倒れる自転車の様な、貯蓄をしない連続の「消費経済」を作り出したのである。
「貯蓄」は、「悪のスパイラル」の「消炎剤」「冷却材」と成るが、貯蓄なしの「消費経済」では論理的に欠点を解消する事はできない筈である。
そして、そのために再び経済の証券、株、住宅などのものを、「自由」の旗の下でいじ繰り回し、それを「自由」と標榜して、その熱動のためにアメリカの「基礎的科学力」は軽視されて、その反動の低下が起こった。これは恐らく現世代のコンピータによる管理が成せる技であろう。
そして、アメリカでは、科学的な付加価値を怠り創造せずに「国力の低下」が起こったのである。
この時、アメリカでは、データでは「インフレ」と「デフレ」の現象が同時に起こると云う今までに無い不思議な現象であった。資本主義の経済システムに無い現象が起こっていたのである。
この現象は、1907年の恐慌のときに起こった社会現象と、時代の内容は違えど、同じ社会反動の条件に類似する事に気づくであろう。
この原因が2年程前のその時点では掴めなかったのである。
中国の安い製品がアメリカに入っていて、「生産過剰」と成っていると前世代の論理で考えた。
しかし、それであれば、インフレの現象は何なのか疑問であった。
それは、原因追求せずに、トップの自負の下で、アメリカ政府が承知の上で、危険であることを承知で、大リスクの下で、無理に低所得層の住宅ローンを喚起させ景気を維持させようとした。そして、あらゆる手段でドルを自国に引き込んむ応急政策を採った。
それでも駄目と成ると、世界の原油資本の6割を抱えるアメリカは、「先物市場」で「原油価格」の吊り上げに入った。しかし、この手も長く続けられるものでは無い。
当然、住宅(サブプライムローン)、原油ともに無理が露見してしまった。
そうすると、それに資金を出していた金融機関も破綻してしまったのである。
そこで、予想もしなかつた「証券(派生商品)」の「捻くりまわし」の「からくり」が見えて来たのである。
遂に、「生産活動」をせずに「濡れ手で粟」の「消費経済」が破綻し露見と成った。
そして、歯止め策の無い「恐慌」へと向かう危機が進行しているのである。
それも「貯蓄なしの消費経済」は自転車の如く止まらないのである。
果たして、この「猪突猛進」と見えるものはどの方向に動くのであろうか。
兎に角は、止めなければ成らない。貴方ならどうして止める?。過去に使われた秘策はある。
普通なら、「特効薬」となるのであれば、「秘策」を使うのでは無いだろうか。
上記した生産活動の歪みから起こる「3つの恐慌」の連鎖ではなく、全く別の「自由、資本主義経済」の盲点である「濡れ手で粟」の「行過ぎた経済」が侵蝕していた事に成る。
その盲点はコンピータが起因した。
だから、一種の「詐欺行為」(派生商品)をしてのけたアメリカの自由の行き過ぎた消費経済が、市場からの信頼が、絶壁から落ちるが如く一挙に落としてしまった。
これが今回の一国から出たアメリカの失態の結末である。
丁度、その時、国民の70%を占めるアメリカ社会の「白人優越主義」が崩壊の暗示をするが如く、黒人の大統領が生まれると言う、タイミングよくサプライズが起こった。
この歴史的なタイミングをどう見るかである。
そのタイミングで選ばれたその大統領の発言が、今までのアメリカとは違う歴史的演説をしたのである。
しかし、他方の黄色人種の世界第2位に踊り出ているその日本では、必要以上に事実無根の「煽り」を目的として批判する評論家が続出している。
今に至って、その間に日本は基礎的科学力の発展に力を注ぎ世界第2の力を持ち得たのである。
其処に、証券、株、住宅、原油で生きたアメリカと、基礎的科学力の発展に力を注いだ日本との間に大きなギャップが生まれたと言う事である。
そこをこのオバマの黒人大統領だからこそその拘りを捨てて日本を歴史上認めたということであろう。
況や歴史的なアメリカの失敗を認める演説したのである。
しかし、有史来、アメリカは国民の70%が白人社会であるが、白人の彼等は彼等の特長でもある「白人優越主義」からアメリカの経済運営の失敗を認めようとしなかった。この金融危機が起こったときにも。
当然に、日本のその科学的なファンダメンタルな繁栄も認め様としなかった。否”したくなかった”というのが正しいだろう。
ところが、黒人のオバマは就任1週間前の演説でこの2つの事をはっきりと認めたのである。
白人社会の権位失墜を意味する70%の抵抗のある中でのこの大変な演説であると考える。
日本の「科学に力を入れた政策運営」とアメリカを大きく凌ぐその「科学の発展」を認めたのである。
つまり、「金融危機」を起したアメリカをその反対の「科学政策の失敗」で言い換えたのである。
そして、それには何と「日本」を例に挙げたのである。
今まで決して無かったプライドを許さない白人の「日本認め」をオバマは言い放ったのである。
言い換えれば、アメリカ発の恐慌に成ろうとしている危機は、オバマが云うように、間接的にはその大きな原因は日本であるとも言える。
もし、日本が次ぎに挙げる「科学のリード」が無ければ、アメリカは今回の危機を招いてはいないと考えられる。それ程に日本の科学政策の進展が大きいものである。
それは次ぎに挙げる代表的な物品に例を挙げられる。
二輪車ヘルメットから始まり、ホンダ、ヤマハの大型バイク、電卓、テレビ、自動車、原発、高能力エンジン航空機、テレビ、高性能測定機器、ソーラーなどのエコ機器など全てアメリカ発の主なものを日本のものとしてしまった。
科学では、国をリードする自信を無くし、今回のような住宅、金融、原油の目先にあるものに走ってしまったという事であろう。本来、自動車に例を挙げられる様に「科学のアメリカ」である。
筆者は技術系であるので、そこの所は良く判る。
鉄鋼等の科学に絡む殆どの技術は「日本」の実感がある。少なくとも負けているものは無いのではとも思える。技術的視野から見て現在、科学の点では少なくとも先ず無いであろう。
恐らくはアメリカ人の心の片隅に”日本にしてやられている”と感じているのではないか。
アメリカはこの点で失政しているので、残るは証券、ファンド株、住宅となる。
必然的に其処に走るが自然の摂理である。
そして、「証券と住宅」で崩壊したのである。そこに残るのは「自由の根源」の「消費社会体質」(ファンド)が残るだけである。
そうなると、さて、”特効役はあるのか?”と疑問が湧く。結論は無い。
そんなに簡単にあるのであれば「人の冷えた心理」の挙句の「景気恐慌」は起こらない。
普通は「恐慌」は、通常景気の平均株価(14000円)の半分に陥ると「恐慌」と見なされるが、現在、8000-7600円である。殆ど「剣が峰」である。
「剣が峰」から落ちるには、アメリカはその景気を維持する為にドルを無理やりに自国に戻す為に、そして、ドルの信頼度を護るために、”金融、株、住宅、消耗品、原油”の全ての{切り札}を既に使ってしまった。
これは、消費経済の享楽の上に胡座をかき、上記の「科学的ファンダメンタル」の低下を招き起して、アメリカの「国力の低下」から、更にドルの「信頼度の低下」へと「悪のスパイラル」が起こった。
その結果から、アメリカは自国にドルを戻す事を無理やり起して景気を維持させていたのである。
原油資本による原油相場操作などをしたが、結局は、その結果、持ち応える事は出来ずに景気は低下し不況に突入してしまった。
其処に、自由資本主義の行過ぎた「経済の歪み」が起こり、一度味わった高い生活程度を求める人間の本質、アメリカの権位を護るために是が非でも何らかの手を打つ筈である。
前の「恐慌」どおりにその徹を踏むしかない筈。人類が発達しても人の考える事に大した違いはない。余り騒がれていないが、上記に書いたとおり、技術者であった私の目からは、現在の人類の享楽の大元は「科学の進歩」によるが、アメリカの反面、逆に日本の「科学進行への投資政策」が円高を産み、ドルの低下を招いていると見ている。必然性がある。
昔であれば、上記した様に、アメリカは日本の締め出しをヨーロッパの国と組んでしてくる筈であった。
しかし、ここまで、ヨーロッパと「4倍の力差さ」が出てしまった「科学の日本」を締め出す事は無理であろう。むしろ、味方に引き入れて、その力を利用する方が得策であろう。
いまやそれを決断するのはヨーロッパでは最早無い。アメリカである。
アメリカは、戦略的に「日本」を無視出来ないところに追い込まれているのである。
痛し痒しであろう。しかし、日本ではどうであろう。
自民党による国政の運営は全体とて、オバマが認めるように、アメリカの資本主義の行き過ぎの徹を踏んではいなく、「高度な科学」による「生産」を主体とした経済運営であり、相対的に見ればM党の様な「失政の非難」は当らない。
確かに、抹消政策のところでのゴタゴタはある。与党としての腐敗もあるだろう。官僚主義の行き過ぎもあるだろう。
しかし、国政の方向は、高度科学による生産主体の運営は、上記の資本主義の欠点のスパイラルからは逸脱していないし、現在まではオバマが認めるように、極めて近い資本主義体制でありながらも、「アメリカの徹」を踏んでいないし、そこを認めたオバマであるが、日本のその政策は相対的には功を奏している。
多分、未来のどの政権に於いても、”重箱の隅を突付けば粗は出る”である。
その重箱を手の上に掲げて、”これ見よがし”に政権与党を”悪政”の如く「煽る」のは次元が低い。
そんな、”オバマが褒める政権与党の科学政策”を隠しての「煽り」は、むしろ「搾取」行為であろう。
一部の左傾の2つのマスコミが「煽り」を目的として、オバマの演説を隠して”アメリカは日本を無視”として毎日煽っている。
挙句は「麻生氏の政権」の能力低さを喧伝する「煽り作戦」に出ている。そして、”M党に政権を”と狙っているが。
これにも、”戦前のあの記者上がりの評論家”らしき類似する者が「煽り評論家」として熱弁を奮っているのである。
丁度、ドイツのヒットラーの時と日本の戦争直前の状況によく似ている。
一方への不満が片方の良悪(M党)に拘らず傾く「人の心理」に託けて6割の無責任者を煽っているのである。
先の参院選では多くのこの6割の国民は”自民が悪い”からと云って、盲動、且つ、熱動してM党に入れて”衆参のねじれ”を作り出し、政治は滞る同じ現象で起こったのである。こんな時期に。
この「6割の無責任者」のために「ねじれ」で政治が上手く行く事は無い事を知りながらも片方に傾いてしまったのである。
所謂、「ヒットラー現象」とも言うべき日本製の現象が3年前から起こり始めたのである。今その過程にある。
其処に来て、この危機である。この現象の条件は揃っている。96年前と類似する同じ条件が。
さて、そこで、掘り下げて見ると、一番警戒して見て居なければ成らないのは、現在ドルに継いで円であるが、まだ世界をリードできるのはアメリカ、ドルであろう。
日本の主導は憲法改正が成らなければ少なくともむりであるし、トップである必要はない。
むしろ、セカンドが好ましい。今回の様に”トップの過ち”を反省点として進む事が国力、体質、国民性から観て好ましい。
とすると、後は残された特効薬は只一つ「軍需景気」で先ずトップ体質のアメリカを立て直す事にある。
それで無ければ自転車は倒れる。
そうすると、世界で見て観ると、連鎖の危険はあるが、秘策の「軍需物資」を使える紛争地はどこかであるが、3箇所ある。
イラク、アフガン、北朝鮮であろう。イラン、パレスチナは小さすぎる。
「軍需物資」を使える現実的なシナリオは只一つアフガンである。
しかし、「大量の武器」を使うには「シナリオ」は不十分である。
それには、イラクから軍を撤退、現イラクでは再び、テロリストが盛り返す。それに乗じて”テロリストの根拠地を潰す”を理由にアフガンに大量の武器を注ぎ込むだろう。
これは、テロリスト撲滅は大義名分であり、本音は大量の武器を「雨霰の如く」に使う事を目的とするだろう。
それには、先ず先立つ金が要る。それを日本に出させる。
何故ならばEUの1に対して4の日本の効果があるからだ。
アメリカはインド洋に軍艦を出す事と、日本はその燃料の提供、物資の輸送、ある程度の高性能艦を出す事に成るだろう。
日本も「自衛艦海外派遣」の為のその前の「お膳立て」が必要である。
これからは、政府はその「お膳立て」を別の目的でする事を合策すると見られる。
アフリカ紛争地、インド洋沖、インドシナ近海などへの「自衛艦隊派遣」をする法改正を検討する段取りが必要である。ソマリヤ沖の海賊の事も絶好の名文が立つ。
この様にして、止められるシナリオが無い今、恐らく起こる「恐慌」に対して、この様なシナリオとなると観られる。
北朝鮮は難民の流入が中国、韓国で起こり、中国では「恐慌」で内乱が頻発しているが窮地に陥っている中国との摩擦が起こりやり方では大問題と成るので避けるだろう。
韓国は国の外貨準備額が底をつき、IMFから断わられ2度目の日本からの「てこ入れ」(借金)で何とか国の破産を防いでいる最中にこの様なことを隣りで起されては困る。それこそ滅亡である。
そこで、他に手は無いかと云うことだが、表向きはアメリカは大義名分は「グリーンニューディール」として「環境策」で回復させるとしている。
上記した様に、「日本認め」からの「政策変換」である。それをオバマはこの様にタイトル化させた。
この根拠は、就任1週間前に行った演説で、日本、ドイツ、スペインを例に挙げて、特に日本の科学の進歩に対して高く褒め景気を維持している事を挙げて、このことから、日本を見習いこの政策を進めるとしたのである。
ハイブリット車、ロケット、航空機、原子力、エコ発電、など全て日本が完全に勝った。
ハイブリットはトヨタホンダの事で衆知であろう。
原子力のアメリカのNO2の会社を買収し、三菱とパナソニックがアメリカに参入し受注した。
航空機はロッキードが次期の航空機を短距離発着のジェット機の完成機を作った三菱ートヨタ系列富士重に発注、
今までアメリカに発注していた自衛隊の高性能次期輸送機と偵察情報機は川重のジェット機が受注。
ロケットは三菱が20機受注、アメリカが真似の出来ない高精度の4つの偵察衛星保有の日本に。
エコ機器は日本の独断場で、アメリカに架設されているエコの殆どは日本製である。ノーベル賞でも明らかな様に、この背景をオバマは日本を見習えと国民にけしかけたのである。
それがグリーンニューディール政策としたのである。
しかし、直ぐに効く特効薬では無い。今後の方針である。
この様に、アメリカの威信を保つには、当面直ぐに「軍需景気」を使う以外に無い。
それには日本を巻き込むことが必要である。
問題なのは、上記した「恐慌」のスパイラルが起こる事である。
しかし、その日本では、一部のマスコミでは、知らない煽られやすい6割の大衆を相手に”日本は無視されている”と上記の演説の事実を隠して煽っている。M党の政権奪取のために。
マスコミは知らないはずが無い。筆者でも知っているのであるから。
しかし、隠している。この歴史的、画期的な演説なのに。紹介したのは右傾の一つのメディアのみである。
仮に上記のアメリカのシナリオどおりに進んだとすると、仮にM党が事実無根の「煽り発言」で政権を奪取したとしてもM党の政策では無理が来る。
なぜなら、アフガンの日本の義務に対して、国連が認めたもので指名され場合の自衛隊の出動となり、アメリカ主導の今回のアフガンテロ攻撃では国連は動かない。
とすると、アメリカと方針の違いが起こり、同盟関係にヒビがはいる事は必定である。
多分、矛盾が生まれて短命に成るだろう事は判る。
ここで、幾らM党の政党方針としても同盟を今壊す事は国策ではない。
ましてや、給付金の是非を論じているくらいの党である。
この様に給付金を論じること事態が今の状況、恐慌寸前では無意味である。
そこで、まあ、兎も角も、この日本のこの給付金額はどの程度のものかと云うと、フランスの平均国民所得の1月の給与の1/3なのである。
フランス人が新聞を読んで驚いていると書かれていた。”給与の1/3の金額を貰って何が不満なのか”と。その効果の有無は問題ではないのである。
因みにアメリカは一律3万円であり、既に配布されたが「景気の効果有無」は論じていない。
「恐慌」前の「出す事の無形効果」に意味があるのであって、実質の「景気の効果」では無いと。
このことは誰でも、わかる事であろう。
その”「恐慌」に対する「心構えを喚起」するだけでただ良い”であり、智る人は判るはずであろう。
それを、M党は、政策如何で国会を止める騒ぎをしている。
恐らく、真意は判っているのだが、政権をとる為に、国民の6割を占めている者を煽動する事にあり、あまり考えの持たない国民層を狙って煽っているのであろう。オバマの演説の「日本認め」を隠して。
この「M党の煽り」がドイツで起こったヒットラーの如く「恐慌」の一番怖く弱い所である。
戦前の一人の評論家の神国神風の「゜煽り」で戦争突入になった弱い所である。
既に「衆参ねじれ」の盲動、熱動のスパイラルに入っている中では「M党の煽り」が最も怖いのである。
第一、M党は国会で漢字テストを議論する位である。議論するところではない事は承知で、麻生氏を誹謗し、この層を明らかに煽っているのである。
人間少しくらい漢字を間違えたからと云って、その人間の能力評価するとでも言いたいのか。では自分はどうなのか。胸に手を当てて自分に聞いてみよといいたい。
総理だからと云って万能ではない。むしろ万能でない方が独裁者となるので困る。
今はこの様な時期である。「適時適切に出来る人」ある範囲でその資質を持った人であれば良い。
失言や漢字などは全く問題ではない。
国会議員だからと云って、今や、明治のときと違う。普通人であろう。
そんな議論を国会でする程度のM党の方がおかしい。
第一そんな事で政権を奪取して上手く行くか疑問である。
また、自民が悪いからと云って、M党が良いというわけは無いだろう。
M党にどれだけの自民と違うすごい能力を持っているというのだろう。
漢字テストをするくらいの党で、すごい能力があるとは到底思えない。
むしろ無いとする方がより真に近いのではないか。
給付金に70%が反対しているのであれば、その人たちは、M党は貰わないのか。
”反対するが貰う”では筋が通らない。
反対するのであれば、”M党はその前に貰わないと宣言せよ”である。
”麻生は何もしていない。”と一割程度の人が云うが、それでは、M党やこの様な意見を出している人は麻生さんが出した以上に出来るのか。アレが精一杯のことであろう。
よく考えて欲しい。この国は資本主義である。共産国ではない。”何でも政府”はいい加減にして貰いたい。”政府には湯水の如き金は出てくるのだろうか”。”それならば、もっと税金を払え。”と成る。
社民党、共産党は「社会主義」で「資本主義」の日本社会の考え方ではないのだから、この「煽り」の考えに揺さぶられては困る。それこそ、ヒットラーの二の舞に成る。
まして、マスメディアの「煽り」の最たるのは他にもある。
例の国民から無作為RDDで意見を聞いているが、あれもおかしい。
支持率等で大いに自説を喧伝する材料としている。ある事を隠して「煽り」の材料として。
少し煽りを証明する為に論じる。
統計学では国民1億2000万に対して1800人では信頼度は殆ど無いのである。
統計学では、出た数字に「バイアス」と云うものがあり、そのデーターの信頼度を表す。
又、他には、データー採取では標準偏差法と云う方法がある。
これには平均値と偏差値が伴なう。この偏差値がそのデータ採取の信頼度を表す。
通常皆さんが良く使われる「単純平均法」でも、本当は信頼度の一覧表があるのだ。
皆さんは実際には使われていないが本当はあるのだ。
では、その時、統計では信頼度(指数能力)CP=1.0以上なくては殆ど信頼できないと成っている。
CP=1.33以上は全く信頼できる。
CP=0.67以下は全く信頼できないと成る。
マスコミやNHKなどが行っている電話でのデータは1800人ー2000人位であるから、信頼度は0.67以下0.3ー0.4程度に相当する。つまり、”殆ど信頼できない”と成るのである。
皆さんは、この「バイアス」とか「CP」とか「積分偏差値」の事を知っていましたか。
つまり、NHKは知っている筈です。しかし、この事を隠して発表していますね。
つまり、騙されて煽られているのです。
「知る、知らない」では上記の「煽られる煽られない」のより個人差が出るのです。
しかし、この様な統計的なことを知っている人は10万人に1人或いはそれ以上であろう。
だから声にはならないから隠しても問題に成らない。だから「煽り」が効くのであるが。
さて、ここで皆さんに少しお聞きしたい。
統計学にはデーター採取方法は10程度ありますが、全てに信頼度を表す方法があり、この条件が適用されるのです。常識です。
でも、もし騙されていないと云うのであれば、「6割の人」はこの事を知っていましたか。”信頼度幾ら”と発言していることを聞いたことありますか。データ採取幾らと聞いたことがありますか。無いですよね。
例えば、麻生さん支持率20%と出ます。このデータの採取量は2000を超えていません。
先ず、電話で、信頼度のCP=1.00と成るには無理と思いますよ。
それは電話を掛ける量が大変過ぎて時間が掛かり過ぎて、経費が掛かり過ぎて、国民から迷惑がられて多分出来ないでしょう。
統計学には、「時間」がある一定を過ぎると、「環境」が変化して正しい資料が取れないのです。
それが「時間の制限」と云いそれを超えてしまいます。
せいぜい、やや信頼できる程度CP=0.67以上CP=1.00でも、最低10000以上は必要です。
だから、RDD方式では無理なのです。
皆さんがいつも使われる「単純平均法」でも、「データ採取量」が本来は表から決められているのですが使っていますか。例えばサンプル50個で採取は最低15個程度で信頼度80%程度ですよ。
そして、統計的データ採取のデータとして扱える最低はサンプル15ですが知っていましたか。
この様に、騙されているのです。
更に、最も良い方法の適用はそのサンプルで異なります。
その採取するサンプルの内容で、10程度ある統計法の中から最適な統計法を選ぶのが普通です。
マスコミで扱っている統計法は適切であるかを疑問を持った事がありますか。
専門的に観ると疑問が多いのです。
どれでも使えるとしたら「標準偏差法」と「CP」ですね。
しかし、マスコミで使っているものは最もエラー性の大きい信頼性の低い「単純平均法」です。
これは、人、時間、場所から経費がもっとも安く簡単に出来るからです。
マスコミやテレビではこのことを隠していることを知っていましたか。
この様に、巧妙にし煽る事、怖いのは、この「煽り」なのです。
「恐慌」の様な時には、この「煽り」の「悪のスパイラル」が起こるのです。
それは統計的には「6割の無意識層」の存在がこの「煽り」で間違いを起してしまうのです。
これがこの世の宿命であり、「恐慌」や「政権委譲」時などの「極めの所」で問題となるのです。
では、この「6割の人」を少なくし無くす事は出来無いかと云うと出来ません。
ここでは、詳しい事は説明しませんが、「脳の本能的な事」から起こってこの層を作り出しているのです。
学問的に少なくとも絶対に5割以下は下がりません。人間が人間である限り。
仏教でもこれを認めているのです。「縁無き衆生、動し難し」と。
つまり、どんなに説法しても説法を受け入れる能力の無い者がこの世には居ると言うことなのです。それが「性」(さが)来るものだと云っています。
M党はこの層6割を狙って「煽り」をしているのです。国会で漢字テストする様に。
だから、データを取ると、”麻生は何していない”とする層が1割程度居るのです。
アレだけの補正予算案や色々と出しているのにもう他に無いだろうと思えるのに、、”麻生は何もしていない”と答えるのです。
これは「煽り」の「洗脳」と「盲動、熱動」から着ているのです。
6割の中には1割の人は「煽り」でこの様な反応をしてしまうのです。この6割の人は直情激情型に多いとされています。感情主観の強い人と言う事に成ります。逆に言えば論理性の少ない人です。
統計学でも、この様なデータはサンプルを表にすると、必ず先ずほぼ直線的に延びて比例直線が起こり、そして、変曲点があるところ(60-65%)で、表の直線は緩やかなカーブを示す事に成ります。
このカーブは変曲点以後は積分曲線と成ります。
これをSパターンと言います。
その比例直線の傾きはそのサンプルによって異なります。その傾きが大きいほど信頼度は増します。
この世の全ての統計データはこのパターンを示すのですが、さて、この1割はこの6割(60-65)の直線の初期にあるのです。
この様に煽られやすい層は6割も居るのですから、「煽れ」ばドイツのヒットラーや日本の第2次大戦のような(神国、神風)一種の洗脳状態が起こり、「悪のスパイラル」の方に走るのです。
これが、3割とかであれば洗脳されても暫く時間をおけば解けて元に戻るのですが、日本人は更に、国民性があり、この傾向が強いのです。
つまり、比例直線の傾きが小さいのです。表ではラインは横に寝ていると言う事です。7つの融合民族の為です。この状態では6割ですので時間での洗脳状態の解消は無理と成ります
そこで、アメリカはどうなのかですが、今のアメリカのオバマ旋風では、多少この傾向が起こっていると見ています。
そこで、「恐慌」の非常策のオバマのシナリオは成功裏に走ると観ているのです。
しかし、オバマ本人はグリーンニューディール政策を唱えているのですから。
日本の科学政策と比較対照して、実に冷静にアメリカの駄目な所の失政を認めて居るのです。
そしてそれを方針として、日本のような”本来の高度な科学活動による生産活動の資本主義の経済活動に戻したい”としているのです。
さて、そこで「剣が峰」から落ちる力、又は「決め手」は何なのかと云うと、それはアメリカの象徴が崩れる時だと見ます。
それは、明らかに自動車産業のビッグ3の倒産でしょう。アメリカの意識は完全に低下する事になりますからね。そうすると、間違いなく6割のアメリカ人はシナリオを求めるでしょう。
従って、このビッグ3をなんとしても倒産から護ることを当面すると見られますが、永く続ける事はできないと観ます。高度な科学が遅れているからです。
とすると、この救済策をアフガンとは別に日本に求めてくる事が考えられます。
何とかトヨタ系列に入れてくれとか。トヨタも大変だが。何か条件をつけて、円高を利用しての策かと観られます。高度な科学を即座に吸収する手段として、同盟を全面に掲げて。
この辺が今後見ものです。
さて、「給付金」は、この「世の摂理」の恐ろしい「恐慌」がその「剣が峰」に来ている時に、景気に効果の有無ではなく、必然に起こる「煽り」の「冷却材」に成り得るのである。
アメリカの「軍需景気」の動向では、「悪のスパイラル」に入りつつある今、この「煽り」の「冷却効果」になると考えられます。
政権与党は日本の舵を握っている。「煽り」等の低次元のことは言っている暇が無いだろう。
アメリカの「軍需策」を待って、任期ぎりぎりまで続けることが先ず戦略として考えられる。正しい舵取りの為に。さすれば、「6割の煽り熱」の解熱剤はこのアメリカの「軍需策」と成ろう。
兎も角も、「煽り」の材料としての「給付金」の景気議論は是非避けてもらいたいもので、6割の人たちに、その「給付金」の先に起こる可能性の高い恐ろしい「恐慌」を示して、それを知らない若い人々に詳しく知らしめて少しでも冷却してほしいのである。政治性を超えて、故に、敢えて、時事放談をした。
否、とすると、「給付金の景気議論」続けた方が良いのかな。戦略的に観て。
乱筆、乱文、散文の至り謝罪
念のため、本当投稿はあくまでも「放談」である。
名前 名字 苗字 由来 ルーツ 家系 家紋 歴史ブログ⇒
投稿日 : 01/30-16:47
投稿者 : 福管理人
時事放談
景気刺激策の給付金に思う事
先ず始めに結論から云うと、”今国会でもめている給付金の議論は無駄である。”と言う事だ
給付金が無駄ではない。議論が無駄だと云いたいのだ。
”他に廻せばもっと効果があるだろう”とか、そんな事云い続けたらきりがない。”景気に対して効くか効かない”とかは問題ではない。やってもいないのに主観で判るだろうか。
「人、時、場所」の「三相」で考えたら、先ず実行する事に意味があるのである。そして、その「三相」で観て、仮に”あるか無いか”と聞かれたら、私は意外にあると観ているが、その理由は後に述べるとして、兎も角も、「恐慌」になりかけている現在何と馬鹿らしい事か呆れる。
そもそも「恐慌」と云うものの人間社会に与える恐ろしさを知らないらしい。
いや、96年も過ぎると人々の意思伝承からはそれを忘れてしまうらしい事だ。要するにバカに成るらしい。
念のため、給付金は先ず後にして、その恐ろしさを認知して頂く事がそれをわかって貰える最も近道だろうか。この為に過去に起こった「恐慌」のその時の経緯を先にどの様なものかを述べる事とする。
そうすれば、この給付金の議論が無駄である事がわかって貰えるだろう。先ずは実行するのみである。実行に価値があるのだ。2兆円等は問題では無くなるだろう。
この2兆円がその「恐慌」のもたらす恐ろしい人間の「性(さが)」を抑えてくれるのだ。
それで済むのなら安いものである。
それを次に縷縷述べるとする。
「100年一昔」と人は云うが、100年も過ぎれば何事もその恐ろしさが人々の脳裏から消えて忘れさられる。
結論から「恐慌」のもたらすものは生活の貧窮だけではないのだ。それは、歴史が物語っている。
では、その「恐慌」と云うものがどの程度起こっているかかが問題と成ろう。
そして、どのような経緯から起こるのかも気に成る。
どのような恐ろしいことが起こるのかも知りたいと思う。
最後にその経済的なメカニズムはどうなっているのかも知っておく必要があろう。
前回と較べて今回の起こりそうな「恐慌」はどのようなものかも、ここで知らねば「給付金の議論」の良悪の持つ意味が理解できないだろう。
そこで、これ等の事に付いて経済論ではない可能な範囲で論じる。
その恐慌は先ず日本では最近では3度起こっている。
1890年の「企業恐慌」 (1)
1894年の「資本主義恐慌」(2)
1907年の「植民地恐慌」 (3)
筆者らの年代であれば、当時と同じ生活環境にいたためにより実感としてこの程度の事はまだ聞き学んだ記憶として脳裏に残っている。
1880年後半の「企業恐慌」は、何れも、1860年前後に西洋で「産業革命」が起こり、日本では第1次は日清戦争期、第2次は日露戦争の時期に2度の「産業革命期」があった。
この時期はその産業革命を下にした生産を主体とした新しい体制の企業勃興期でそのブームが起こった。未経験のその企業が勃興してきた新しい「資本主義」の中で起こる「経済恐慌」を誘発した。
初めての経験であるが故に対処に手間取った。
つまり、「資本主義」では「産業革命」で大きな「生産活動」が起こる。
そこに「生産の変動」が起こる。当然にそれに伴なって「消費の変動」が起こり、遂には「景気変動」は起こる。これは当然の人間社会が起す「経済メカニズム」である。
何れも「需要と供給」のバランスが原因で起こる。
しかし、ここで「資本主義」の中では大きな欠点が起こる。
それは人間社会の生活から来る「消費の限界」である。
どんなに人間社会がある一定の生活レベルで維持した場合でも、「産業機械」による「生産活動の増大」にあわせての「消費活動」の拡大は出来ない。そこである一定の限界が起こる。
一方、科学、即ち「機械革命」による生産(供給)には限界が無い。ここに矛盾が起こる。
つまり、資本主義には、次ぎの原理の数式が生まれる。
「生産活動の増大」>「消費活動の増大」 「消費活動」=一定 「生産活動」=無限大・・・X
その矛盾が「社会変動」を起して、それが起因してこのギャップが大きい時に「恐慌」が起こるのである。
「生産活動の増大」ー「消費活動の増大」=MAX=「恐慌(デフレ)」 A
「消費活動の増大」ー「生産活動の増大」=MIN=「恐慌(インフレ)」 B
当然に、ギャップの大きい時、ギャップの小さい時の2種類の「恐慌」が起こるだろう。
そして、この「2つの恐慌」の連鎖の末に起こる経済システムの崩壊現象の「第3の恐慌」が起こる。
「消費活動の増大」<=0 「生産活動の増大」<=0 A-B<=0 :C
先ず、1880年末頃に起こった最初の「企業恐慌」は、「産業革命」による「機械革命」に依って「資本主義」では「企業の勃興」が起こる。当然に「供給」が大きくなり値段が下がり「デフレ」となる。株は暴落する。資産価値は低下する。勃興した企業は直ぐに倒産する。
この為に経済メカニズムが狂い「恐慌」となる仕組みだ。
人は、当然に、一度味わった「生活レベルの享受」を求めて下げる事をせずにその対応策を求めようと走る。それはその溢れた供給物を外に求めようとするのだ。これは人間の本能である。
そして、それを産み出すその「エネルギー源」を維持しょうとして、「力」(軍事力)の増大を図りその武力で以って自国のものとするためにその「資源の確保」を外に求める。
要するに、「資本主義」に起こる「必然のシナリオ」の「植民地政策」である。
時には、「軍事力支配」、「経済支配」、「政治支配」、「資源支配」、「思想支配」と重複しても使う事と成ろう。この時は、「軍事力支配」の植民地であった。
「植民地」と云う言葉はこの時代の「軍事力」における言葉でありいいイメージを起さないだろうが、現在に於いても、「軍事力」以外にも、実質、同じ支配を受けているのであって、消えたわけではない。
何時の「時代」にも、どんな「思想主義」でも「人間社会」である限りこの「必然のシナリオ」から逃れることは出来ない。
更に、この「必然のシナリオ」が起こった歴史を考察してみる。
先ず、次に起こった1894年は、今まで経験した事のない始めての「恐慌」と云う「経済システム」に戸惑い、慌てて、維持しようとして、この「植民地政策」を基本とした「資本主義」の反動が起こる。
つまり、「産業革命」以後に「新しい生活スタイル」が急に蔓延したが、今までの「古い生活スタイル」を捨てて一種の「+の拒絶反応」が人間には起こるのである。
その行動が引き金に成って社会が沸騰し過ぎ、金融バランスが崩れて、折角に勃興した企業、銀行が倒産し、再び「恐慌」へと走ったのである。
今まで苦労して得ていた資源は易々と手に入れられる事になり、商品も植民地でさばける状況が生まれる。この結果、「植民地政策」の勝利で得た海外からの利益で、国内は過激に景気沸騰して物が不足して物価は高騰して「インフレ」を起こし、「恐慌」へと向かうのである。(B)
この資本主義の欠点でもある「需要と供給」のバランスにより、片方に行き過ぎてしまった時に「デフレの恐慌」と「インフレの恐慌」が起こるのである。
この時までの未熟の資本主義はその産業革命の時から15年で「企業恐慌」(A)が、更にそこから11年間で「資本主義恐慌」であわせて26年間で「インフレ」と「デフレ」の両方がめまぐるしく起こり「恐慌」を起した。
そして、その13年後の1907年の「恐慌」は、この「二つの恐慌」を解決清算する為に、上記2つの恐慌(「経済活動でのアンバランス恐慌」)を避ける為に、それ以外の経済活動外で行う「景気刺激策」やむ終えず採用した。それが「植民地政策拡大」に乗じて「軍事物資」の需要を喚起させ、特殊な限定した分野での「軍需景気」を誘発させて解決しようとしたのである。
その活用地を求めてより海外に出て広める事に向かう「必然的な現象」が起こったのである。
これが本格的な「植民地恐慌」(C)であった。
植民地政策で世界は荒れ、資本主義を邁進する先進国は争って植民地獲得へと動いたので、各地で紛争が絶えず、先進国同士で、また、先進国と後進国(当時はこの様に呼ばれていた)との間で紛争と戦争が起こったのである。
この為、生活は疲弊し、挙句は各国の経済活動は低下し輸出入が激減し、遂には農村部格差の問題、都会貧困層の社会問題を誘発させて、「需要供給」に無関係に「恐慌」へと突き進んだ。
同じ事が殆ど同時に世界の先進国で起こっていたのである。
(A)と(B)の連鎖による経済システムの崩壊現象(C)を誘発させたのである。
これでは経済手法では手の打ち様が無く成ったのである。
この様に人間社会に於いて資本主義の欠点とも云えるこの三つの循環性のある必然的な「連鎖的な恐慌」が起こるのである。
最初に先ず「企業恐慌」が起こる。そして、反動として「資本恐慌」が起こり、最後には経済外の「植民地恐慌」までへと必ず走る性質の「連鎖反応」とも云うべき欠点を持っているのである。
一度、何れの「恐慌」が起ころうとも「連鎖の恐慌」が起こるのが資本主義の欠点でもある。
否、人間社会の「生活意識の欠点」ともいえる。
それは、一度知った果実の味「安楽の享受」の本能である。この本能がある限りこの恐ろしい必然の連鎖は解消できない。
そこで、しかし、この3つの「ただの恐慌」だけが怖いのではない。
この「恐慌」の上記する「3つのスパイラル」が怖いのである。
そして、その「3つのスパイラル」に陥る時に必ず起こり引き金と成る「煽り現象」、即ち「人間の性(さが)」が最も怖い事なのである。
この中には目を伏せたくなるような熱動する「非人間的な現象」が内蔵しているのである。
資本主義における「恐慌」とはこの様な「恐ろしい過程」を持っているのである。
そこで、その時のことを認識を高める為に再現して見よう。
直近の96年程前から昭和初期に掛けて「世界恐慌」が起こった。
先進国はより植民地政策へと動いていた。その事が昂じて決着の為にその時はその解決策として武力に訴える戦争へと動いた。
世界は、特にドイツは恐慌の嵐に喘いでいた。そこに、当初その発言と行動で異端児扱いされていたヒットラーが、国民は”何とかしてくれるのでは”と救世主として、熱狂的に幻想して引き出した。
怖いのはここである。
この様なときには人間の社会は現状の生活レベルを享受しようとして、「盲動的に、幻想的に」それを解決してくれるヒーローを仮想して作り出してしまう事である。
そして、その現象が一度起こると「悪のスパイラル」が起こり止まらない。
ドイツではこの「恐慌」の結果、この過ちを起してしまったのである。
そのヒーローのヒットラーはそこで「最後の切り札」を直ぐに使った。
ドイツを中心とした「統一ヨーロッパ」を作る事を名文に、本音はエネルギー源の確保を忍ばせて、先ず、フランス等ヨーロッパ域とロシアを侵略して「軍需景気」を起こし、ドイツは半年で恐慌から脱出して景気を回復させたのである。その狙いは意外に脆いフランスが落ちて半ば成功した。
そして、その勢いで今度はその「科学力」を大いに発揮してドイツは今までに無い新型のロケット弾を開発し、それを対岸からイギリスロンドンに向けて攻撃した。
無抵抗で戦わねば成らないイギリスは慌てた。
そこでアメリカに助けを求めた。飛び火してアメリカは軍隊を送った。
その反動でドイツとイタリヤは同盟、アメリカ、イギリスフランス、ロシアは同盟し、第一次大戦のへと突入。
その頃、一方日本は「恐慌」から先ず、西アジアにそのエネルギー源を求めて侵略、植民地としていた。
当然、そこを植民地支配していたアメリカとイギリスと衝突、対抗手段として相手は経済封鎖を実施した。
そこで、ある2つの目的(白人社会に黄色人が伸し上がることを好まない事も含む)を同時に持っていたアメリカは「戦いで日本を潰す」事を狙った。
もう一つは、同時に資本主義では15年程度で経済恐慌が繰り返し起こる経済政策では解決が困難と見て、経済外の政策として国民を煽動、喚起して「軍需」による景気回復で解決を狙った。
そのアメリカはわざと真珠湾に海軍をわざわざと集積させながら、日本海軍が太平洋に出てきても無防備の近い状態にしていた。即ち外国製の「鶴翼の陣」とも云うものであろう。
「経済封鎖」で窮地に至った日本は「勿怪の幸い」とその戦略に引っかかり日本軍は突出して真珠湾攻撃をしてしまった。つまり、懐を無防備に広げて相手に攻めさせて「戦い」の大義名分を得たアメリカ、イギリスの連合国側は「国民に反発の勢い」を着けて第2次大戦へと突入させた。
そして、アメリカ側はその本来の目的としての先ず「軍需景気」を起して「恐慌」を克服させたのである。後は、白色人種の領域に侵蝕し成長して来た黄色人種の「日本潰し」である。
日本は、次第にアジアから後退し昭和17年の4月18日の本土空爆から2年後に敗戦となった。
これで、第2の目的は達成されたのである。
しかし、敗戦占領後、直ぐに朝鮮半島で共産主義者の動乱が起こる。
アメリカは始めは共産主義者を引き入れて、白人先進国の中にアジアの黄色人種の伸張の大きな力と成っていた戦後の日本の「国粋的思想」の一掃を試みた。
しかし、朝鮮半島で共産主義が台頭して拙い事に成った。
そこで、共産主義から日本を護るために、その「軍需景気」を日本で起こし「戦後復興」と「経済力」をつける作戦に出た。そのために驚異的に日本は戦後の荒廃から脱出して立ち直らせ国力を回復させてたのである。そして、弱い所に巣食う共産主義の浸透を防いだ。
しかし、アメリカは日本の植民地であった朝鮮半島は失敗した。
一方、ドイツは極寒ロシアで大失敗し、次第に後退し、ドイツ国内はアメリカの「財力の元」と成っているユダヤ人を警戒して「ユダヤ人抹殺」の「修羅の世界」と成ったのである。
この様に、「恐慌」の結末は「窮鼠猫を噛む」の如き「最後のあがき」が起こり、必然的にその生きる「エネルギー源確保」のために、「歴史は繰り返す」の例え通りで、資本主義の経済活動の欠点を除くために最後手段の「軍需景気」で以って全ての国は「恐慌」から立ち直っているのである。
そこに起こる弊害や修羅を無視してである。
ここで、この様な時、「人間の社会」は「盲動的、幻想的」に「良悪を鑑みず」「ヒーローを仮想」して作り出してしまう事である。これが「恐慌」での最も怖い事である。
しかし、日本でも第2次大戦へと突入していった時も日本軍陸軍はこの悪のスパイラルに入っていたのである。
そのヒーローを「神国」「神風」に求めたのである。
そして、ドイツの「ヒットラー」と同じく、日本ではそれを煽ったのは矢張り、記者上がりの当時のトップ評論家で「ヒットラー的なヒーロー」として、「神がかりした人物」として見られたこの人物の度重ねる発言であった。それは通説の東条や近衛の指導者ではなかった。
日本も全く例外では無かった。全く同じ事が起こっていたのである。
その者の云う事は国民は皆信じた。国では、「神国」「神風」で煽り、人ではこの人物の「煽り」の影響を諸に受けたのであった。
この者の「煽り」が無ければ国民は盲動しなかっただろうと云われている。
この人物は戦後、その「煽り」の反省や謝罪も無く煽られる方が悪いといわんばかりの強気で生き延びたという事である。第一この本人も自らが洗脳されて熱動していたのではと考える。
真に恐ろしきは仏教で云う「縁無き衆生動し難し」とはこの事である。
「人間の社会」とはこの様なものである。だから盲動するのである。
今、恐ろしい「恐慌」の連鎖に真に陥らんとするこの社会では、この人物になる「煽り」人物は一体誰なのかとフトと考えることがある。
何せ、歴史的に学ぶと、今、一番怖い事はこの「煽り」である。人間の性(さが)を突く事実に基づかない「煽り」である。
そこで、資本主義が上記「3つの恐慌」の「連鎖の欠点」を反省して成熟し、それから96年経っているが、今度はその資本主義の自由市場を標榜する大元のアメリカ発の恐慌である。
これは以前のものと違う。今回は特殊な原因である。
2大国の冷戦時代は終わり、そこから、ブレーキが効かなくなったその一方に「無制限な自由の経済」の行き過ぎが起こり、走り続けなければ倒れる自転車の様な、貯蓄をしない連続の「消費経済」を作り出したのである。
「貯蓄」は、「悪のスパイラル」の「消炎剤」「冷却材」と成るが、貯蓄なしの「消費経済」では論理的に欠点を解消する事はできない筈である。
そして、そのために再び経済の証券、株、住宅などのものを、「自由」の旗の下でいじ繰り回し、それを「自由」と標榜して、その熱動のためにアメリカの「基礎的科学力」は軽視されて、その反動の低下が起こった。これは恐らく現世代のコンピータによる管理が成せる技であろう。
そして、アメリカでは、科学的な付加価値を怠り創造せずに「国力の低下」が起こったのである。
この時、アメリカでは、データでは「インフレ」と「デフレ」の現象が同時に起こると云う今までに無い不思議な現象であった。資本主義の経済システムに無い現象が起こっていたのである。
この現象は、1907年の恐慌のときに起こった社会現象と、時代の内容は違えど、同じ社会反動の条件に類似する事に気づくであろう。
この原因が2年程前のその時点では掴めなかったのである。
中国の安い製品がアメリカに入っていて、「生産過剰」と成っていると前世代の論理で考えた。
しかし、それであれば、インフレの現象は何なのか疑問であった。
それは、原因追求せずに、トップの自負の下で、アメリカ政府が承知の上で、危険であることを承知で、大リスクの下で、無理に低所得層の住宅ローンを喚起させ景気を維持させようとした。そして、あらゆる手段でドルを自国に引き込んむ応急政策を採った。
それでも駄目と成ると、世界の原油資本の6割を抱えるアメリカは、「先物市場」で「原油価格」の吊り上げに入った。しかし、この手も長く続けられるものでは無い。
当然、住宅(サブプライムローン)、原油ともに無理が露見してしまった。
そうすると、それに資金を出していた金融機関も破綻してしまったのである。
そこで、予想もしなかつた「証券(派生商品)」の「捻くりまわし」の「からくり」が見えて来たのである。
遂に、「生産活動」をせずに「濡れ手で粟」の「消費経済」が破綻し露見と成った。
そして、歯止め策の無い「恐慌」へと向かう危機が進行しているのである。
それも「貯蓄なしの消費経済」は自転車の如く止まらないのである。
果たして、この「猪突猛進」と見えるものはどの方向に動くのであろうか。
兎に角は、止めなければ成らない。貴方ならどうして止める?。過去に使われた秘策はある。
普通なら、「特効薬」となるのであれば、「秘策」を使うのでは無いだろうか。
上記した生産活動の歪みから起こる「3つの恐慌」の連鎖ではなく、全く別の「自由、資本主義経済」の盲点である「濡れ手で粟」の「行過ぎた経済」が侵蝕していた事に成る。
その盲点はコンピータが起因した。
だから、一種の「詐欺行為」(派生商品)をしてのけたアメリカの自由の行き過ぎた消費経済が、市場からの信頼が、絶壁から落ちるが如く一挙に落としてしまった。
これが今回の一国から出たアメリカの失態の結末である。
丁度、その時、国民の70%を占めるアメリカ社会の「白人優越主義」が崩壊の暗示をするが如く、黒人の大統領が生まれると言う、タイミングよくサプライズが起こった。
この歴史的なタイミングをどう見るかである。
そのタイミングで選ばれたその大統領の発言が、今までのアメリカとは違う歴史的演説をしたのである。
しかし、他方の黄色人種の世界第2位に踊り出ているその日本では、必要以上に事実無根の「煽り」を目的として批判する評論家が続出している。
今に至って、その間に日本は基礎的科学力の発展に力を注ぎ世界第2の力を持ち得たのである。
其処に、証券、株、住宅、原油で生きたアメリカと、基礎的科学力の発展に力を注いだ日本との間に大きなギャップが生まれたと言う事である。
そこをこのオバマの黒人大統領だからこそその拘りを捨てて日本を歴史上認めたということであろう。
況や歴史的なアメリカの失敗を認める演説したのである。
しかし、有史来、アメリカは国民の70%が白人社会であるが、白人の彼等は彼等の特長でもある「白人優越主義」からアメリカの経済運営の失敗を認めようとしなかった。この金融危機が起こったときにも。
当然に、日本のその科学的なファンダメンタルな繁栄も認め様としなかった。否”したくなかった”というのが正しいだろう。
ところが、黒人のオバマは就任1週間前の演説でこの2つの事をはっきりと認めたのである。
白人社会の権位失墜を意味する70%の抵抗のある中でのこの大変な演説であると考える。
日本の「科学に力を入れた政策運営」とアメリカを大きく凌ぐその「科学の発展」を認めたのである。
つまり、「金融危機」を起したアメリカをその反対の「科学政策の失敗」で言い換えたのである。
そして、それには何と「日本」を例に挙げたのである。
今まで決して無かったプライドを許さない白人の「日本認め」をオバマは言い放ったのである。
言い換えれば、アメリカ発の恐慌に成ろうとしている危機は、オバマが云うように、間接的にはその大きな原因は日本であるとも言える。
もし、日本が次ぎに挙げる「科学のリード」が無ければ、アメリカは今回の危機を招いてはいないと考えられる。それ程に日本の科学政策の進展が大きいものである。
それは次ぎに挙げる代表的な物品に例を挙げられる。
二輪車ヘルメットから始まり、ホンダ、ヤマハの大型バイク、電卓、テレビ、自動車、原発、高能力エンジン航空機、テレビ、高性能測定機器、ソーラーなどのエコ機器など全てアメリカ発の主なものを日本のものとしてしまった。
科学では、国をリードする自信を無くし、今回のような住宅、金融、原油の目先にあるものに走ってしまったという事であろう。本来、自動車に例を挙げられる様に「科学のアメリカ」である。
筆者は技術系であるので、そこの所は良く判る。
鉄鋼等の科学に絡む殆どの技術は「日本」の実感がある。少なくとも負けているものは無いのではとも思える。技術的視野から見て現在、科学の点では少なくとも先ず無いであろう。
恐らくはアメリカ人の心の片隅に”日本にしてやられている”と感じているのではないか。
アメリカはこの点で失政しているので、残るは証券、ファンド株、住宅となる。
必然的に其処に走るが自然の摂理である。
そして、「証券と住宅」で崩壊したのである。そこに残るのは「自由の根源」の「消費社会体質」(ファンド)が残るだけである。
そうなると、さて、”特効役はあるのか?”と疑問が湧く。結論は無い。
そんなに簡単にあるのであれば「人の冷えた心理」の挙句の「景気恐慌」は起こらない。
普通は「恐慌」は、通常景気の平均株価(14000円)の半分に陥ると「恐慌」と見なされるが、現在、8000-7600円である。殆ど「剣が峰」である。
「剣が峰」から落ちるには、アメリカはその景気を維持する為にドルを無理やりに自国に戻す為に、そして、ドルの信頼度を護るために、”金融、株、住宅、消耗品、原油”の全ての{切り札}を既に使ってしまった。
これは、消費経済の享楽の上に胡座をかき、上記の「科学的ファンダメンタル」の低下を招き起して、アメリカの「国力の低下」から、更にドルの「信頼度の低下」へと「悪のスパイラル」が起こった。
その結果から、アメリカは自国にドルを戻す事を無理やり起して景気を維持させていたのである。
原油資本による原油相場操作などをしたが、結局は、その結果、持ち応える事は出来ずに景気は低下し不況に突入してしまった。
其処に、自由資本主義の行過ぎた「経済の歪み」が起こり、一度味わった高い生活程度を求める人間の本質、アメリカの権位を護るために是が非でも何らかの手を打つ筈である。
前の「恐慌」どおりにその徹を踏むしかない筈。人類が発達しても人の考える事に大した違いはない。余り騒がれていないが、上記に書いたとおり、技術者であった私の目からは、現在の人類の享楽の大元は「科学の進歩」によるが、アメリカの反面、逆に日本の「科学進行への投資政策」が円高を産み、ドルの低下を招いていると見ている。必然性がある。
昔であれば、上記した様に、アメリカは日本の締め出しをヨーロッパの国と組んでしてくる筈であった。
しかし、ここまで、ヨーロッパと「4倍の力差さ」が出てしまった「科学の日本」を締め出す事は無理であろう。むしろ、味方に引き入れて、その力を利用する方が得策であろう。
いまやそれを決断するのはヨーロッパでは最早無い。アメリカである。
アメリカは、戦略的に「日本」を無視出来ないところに追い込まれているのである。
痛し痒しであろう。しかし、日本ではどうであろう。
自民党による国政の運営は全体とて、オバマが認めるように、アメリカの資本主義の行き過ぎの徹を踏んではいなく、「高度な科学」による「生産」を主体とした経済運営であり、相対的に見ればM党の様な「失政の非難」は当らない。
確かに、抹消政策のところでのゴタゴタはある。与党としての腐敗もあるだろう。官僚主義の行き過ぎもあるだろう。
しかし、国政の方向は、高度科学による生産主体の運営は、上記の資本主義の欠点のスパイラルからは逸脱していないし、現在まではオバマが認めるように、極めて近い資本主義体制でありながらも、「アメリカの徹」を踏んでいないし、そこを認めたオバマであるが、日本のその政策は相対的には功を奏している。
多分、未来のどの政権に於いても、”重箱の隅を突付けば粗は出る”である。
その重箱を手の上に掲げて、”これ見よがし”に政権与党を”悪政”の如く「煽る」のは次元が低い。
そんな、”オバマが褒める政権与党の科学政策”を隠しての「煽り」は、むしろ「搾取」行為であろう。
一部の左傾の2つのマスコミが「煽り」を目的として、オバマの演説を隠して”アメリカは日本を無視”として毎日煽っている。
挙句は「麻生氏の政権」の能力低さを喧伝する「煽り作戦」に出ている。そして、”M党に政権を”と狙っているが。
これにも、”戦前のあの記者上がりの評論家”らしき類似する者が「煽り評論家」として熱弁を奮っているのである。
丁度、ドイツのヒットラーの時と日本の戦争直前の状況によく似ている。
一方への不満が片方の良悪(M党)に拘らず傾く「人の心理」に託けて6割の無責任者を煽っているのである。
先の参院選では多くのこの6割の国民は”自民が悪い”からと云って、盲動、且つ、熱動してM党に入れて”衆参のねじれ”を作り出し、政治は滞る同じ現象で起こったのである。こんな時期に。
この「6割の無責任者」のために「ねじれ」で政治が上手く行く事は無い事を知りながらも片方に傾いてしまったのである。
所謂、「ヒットラー現象」とも言うべき日本製の現象が3年前から起こり始めたのである。今その過程にある。
其処に来て、この危機である。この現象の条件は揃っている。96年前と類似する同じ条件が。
さて、そこで、掘り下げて見ると、一番警戒して見て居なければ成らないのは、現在ドルに継いで円であるが、まだ世界をリードできるのはアメリカ、ドルであろう。
日本の主導は憲法改正が成らなければ少なくともむりであるし、トップである必要はない。
むしろ、セカンドが好ましい。今回の様に”トップの過ち”を反省点として進む事が国力、体質、国民性から観て好ましい。
とすると、後は残された特効薬は只一つ「軍需景気」で先ずトップ体質のアメリカを立て直す事にある。
それで無ければ自転車は倒れる。
そうすると、世界で見て観ると、連鎖の危険はあるが、秘策の「軍需物資」を使える紛争地はどこかであるが、3箇所ある。
イラク、アフガン、北朝鮮であろう。イラン、パレスチナは小さすぎる。
「軍需物資」を使える現実的なシナリオは只一つアフガンである。
しかし、「大量の武器」を使うには「シナリオ」は不十分である。
それには、イラクから軍を撤退、現イラクでは再び、テロリストが盛り返す。それに乗じて”テロリストの根拠地を潰す”を理由にアフガンに大量の武器を注ぎ込むだろう。
これは、テロリスト撲滅は大義名分であり、本音は大量の武器を「雨霰の如く」に使う事を目的とするだろう。
それには、先ず先立つ金が要る。それを日本に出させる。
何故ならばEUの1に対して4の日本の効果があるからだ。
アメリカはインド洋に軍艦を出す事と、日本はその燃料の提供、物資の輸送、ある程度の高性能艦を出す事に成るだろう。
日本も「自衛艦海外派遣」の為のその前の「お膳立て」が必要である。
これからは、政府はその「お膳立て」を別の目的でする事を合策すると見られる。
アフリカ紛争地、インド洋沖、インドシナ近海などへの「自衛艦隊派遣」をする法改正を検討する段取りが必要である。ソマリヤ沖の海賊の事も絶好の名文が立つ。
この様にして、止められるシナリオが無い今、恐らく起こる「恐慌」に対して、この様なシナリオとなると観られる。
北朝鮮は難民の流入が中国、韓国で起こり、中国では「恐慌」で内乱が頻発しているが窮地に陥っている中国との摩擦が起こりやり方では大問題と成るので避けるだろう。
韓国は国の外貨準備額が底をつき、IMFから断わられ2度目の日本からの「てこ入れ」(借金)で何とか国の破産を防いでいる最中にこの様なことを隣りで起されては困る。それこそ滅亡である。
そこで、他に手は無いかと云うことだが、表向きはアメリカは大義名分は「グリーンニューディール」として「環境策」で回復させるとしている。
上記した様に、「日本認め」からの「政策変換」である。それをオバマはこの様にタイトル化させた。
この根拠は、就任1週間前に行った演説で、日本、ドイツ、スペインを例に挙げて、特に日本の科学の進歩に対して高く褒め景気を維持している事を挙げて、このことから、日本を見習いこの政策を進めるとしたのである。
ハイブリット車、ロケット、航空機、原子力、エコ発電、など全て日本が完全に勝った。
ハイブリットはトヨタホンダの事で衆知であろう。
原子力のアメリカのNO2の会社を買収し、三菱とパナソニックがアメリカに参入し受注した。
航空機はロッキードが次期の航空機を短距離発着のジェット機の完成機を作った三菱ートヨタ系列富士重に発注、
今までアメリカに発注していた自衛隊の高性能次期輸送機と偵察情報機は川重のジェット機が受注。
ロケットは三菱が20機受注、アメリカが真似の出来ない高精度の4つの偵察衛星保有の日本に。
エコ機器は日本の独断場で、アメリカに架設されているエコの殆どは日本製である。ノーベル賞でも明らかな様に、この背景をオバマは日本を見習えと国民にけしかけたのである。
それがグリーンニューディール政策としたのである。
しかし、直ぐに効く特効薬では無い。今後の方針である。
この様に、アメリカの威信を保つには、当面直ぐに「軍需景気」を使う以外に無い。
それには日本を巻き込むことが必要である。
問題なのは、上記した「恐慌」のスパイラルが起こる事である。
しかし、その日本では、一部のマスコミでは、知らない煽られやすい6割の大衆を相手に”日本は無視されている”と上記の演説の事実を隠して煽っている。M党の政権奪取のために。
マスコミは知らないはずが無い。筆者でも知っているのであるから。
しかし、隠している。この歴史的、画期的な演説なのに。紹介したのは右傾の一つのメディアのみである。
仮に上記のアメリカのシナリオどおりに進んだとすると、仮にM党が事実無根の「煽り発言」で政権を奪取したとしてもM党の政策では無理が来る。
なぜなら、アフガンの日本の義務に対して、国連が認めたもので指名され場合の自衛隊の出動となり、アメリカ主導の今回のアフガンテロ攻撃では国連は動かない。
とすると、アメリカと方針の違いが起こり、同盟関係にヒビがはいる事は必定である。
多分、矛盾が生まれて短命に成るだろう事は判る。
ここで、幾らM党の政党方針としても同盟を今壊す事は国策ではない。
ましてや、給付金の是非を論じているくらいの党である。
この様に給付金を論じること事態が今の状況、恐慌寸前では無意味である。
そこで、まあ、兎も角も、この日本のこの給付金額はどの程度のものかと云うと、フランスの平均国民所得の1月の給与の1/3なのである。
フランス人が新聞を読んで驚いていると書かれていた。”給与の1/3の金額を貰って何が不満なのか”と。その効果の有無は問題ではないのである。
因みにアメリカは一律3万円であり、既に配布されたが「景気の効果有無」は論じていない。
「恐慌」前の「出す事の無形効果」に意味があるのであって、実質の「景気の効果」では無いと。
このことは誰でも、わかる事であろう。
その”「恐慌」に対する「心構えを喚起」するだけでただ良い”であり、智る人は判るはずであろう。
それを、M党は、政策如何で国会を止める騒ぎをしている。
恐らく、真意は判っているのだが、政権をとる為に、国民の6割を占めている者を煽動する事にあり、あまり考えの持たない国民層を狙って煽っているのであろう。オバマの演説の「日本認め」を隠して。
この「M党の煽り」がドイツで起こったヒットラーの如く「恐慌」の一番怖く弱い所である。
戦前の一人の評論家の神国神風の「゜煽り」で戦争突入になった弱い所である。
既に「衆参ねじれ」の盲動、熱動のスパイラルに入っている中では「M党の煽り」が最も怖いのである。
第一、M党は国会で漢字テストを議論する位である。議論するところではない事は承知で、麻生氏を誹謗し、この層を明らかに煽っているのである。
人間少しくらい漢字を間違えたからと云って、その人間の能力評価するとでも言いたいのか。では自分はどうなのか。胸に手を当てて自分に聞いてみよといいたい。
総理だからと云って万能ではない。むしろ万能でない方が独裁者となるので困る。
今はこの様な時期である。「適時適切に出来る人」ある範囲でその資質を持った人であれば良い。
失言や漢字などは全く問題ではない。
国会議員だからと云って、今や、明治のときと違う。普通人であろう。
そんな議論を国会でする程度のM党の方がおかしい。
第一そんな事で政権を奪取して上手く行くか疑問である。
また、自民が悪いからと云って、M党が良いというわけは無いだろう。
M党にどれだけの自民と違うすごい能力を持っているというのだろう。
漢字テストをするくらいの党で、すごい能力があるとは到底思えない。
むしろ無いとする方がより真に近いのではないか。
給付金に70%が反対しているのであれば、その人たちは、M党は貰わないのか。
”反対するが貰う”では筋が通らない。
反対するのであれば、”M党はその前に貰わないと宣言せよ”である。
”麻生は何もしていない。”と一割程度の人が云うが、それでは、M党やこの様な意見を出している人は麻生さんが出した以上に出来るのか。アレが精一杯のことであろう。
よく考えて欲しい。この国は資本主義である。共産国ではない。”何でも政府”はいい加減にして貰いたい。”政府には湯水の如き金は出てくるのだろうか”。”それならば、もっと税金を払え。”と成る。
社民党、共産党は「社会主義」で「資本主義」の日本社会の考え方ではないのだから、この「煽り」の考えに揺さぶられては困る。それこそ、ヒットラーの二の舞に成る。
まして、マスメディアの「煽り」の最たるのは他にもある。
例の国民から無作為RDDで意見を聞いているが、あれもおかしい。
支持率等で大いに自説を喧伝する材料としている。ある事を隠して「煽り」の材料として。
少し煽りを証明する為に論じる。
統計学では国民1億2000万に対して1800人では信頼度は殆ど無いのである。
統計学では、出た数字に「バイアス」と云うものがあり、そのデーターの信頼度を表す。
又、他には、データー採取では標準偏差法と云う方法がある。
これには平均値と偏差値が伴なう。この偏差値がそのデータ採取の信頼度を表す。
通常皆さんが良く使われる「単純平均法」でも、本当は信頼度の一覧表があるのだ。
皆さんは実際には使われていないが本当はあるのだ。
では、その時、統計では信頼度(指数能力)CP=1.0以上なくては殆ど信頼できないと成っている。
CP=1.33以上は全く信頼できる。
CP=0.67以下は全く信頼できないと成る。
マスコミやNHKなどが行っている電話でのデータは1800人ー2000人位であるから、信頼度は0.67以下0.3ー0.4程度に相当する。つまり、”殆ど信頼できない”と成るのである。
皆さんは、この「バイアス」とか「CP」とか「積分偏差値」の事を知っていましたか。
つまり、NHKは知っている筈です。しかし、この事を隠して発表していますね。
つまり、騙されて煽られているのです。
「知る、知らない」では上記の「煽られる煽られない」のより個人差が出るのです。
しかし、この様な統計的なことを知っている人は10万人に1人或いはそれ以上であろう。
だから声にはならないから隠しても問題に成らない。だから「煽り」が効くのであるが。
さて、ここで皆さんに少しお聞きしたい。
統計学にはデーター採取方法は10程度ありますが、全てに信頼度を表す方法があり、この条件が適用されるのです。常識です。
でも、もし騙されていないと云うのであれば、「6割の人」はこの事を知っていましたか。”信頼度幾ら”と発言していることを聞いたことありますか。データ採取幾らと聞いたことがありますか。無いですよね。
例えば、麻生さん支持率20%と出ます。このデータの採取量は2000を超えていません。
先ず、電話で、信頼度のCP=1.00と成るには無理と思いますよ。
それは電話を掛ける量が大変過ぎて時間が掛かり過ぎて、経費が掛かり過ぎて、国民から迷惑がられて多分出来ないでしょう。
統計学には、「時間」がある一定を過ぎると、「環境」が変化して正しい資料が取れないのです。
それが「時間の制限」と云いそれを超えてしまいます。
せいぜい、やや信頼できる程度CP=0.67以上CP=1.00でも、最低10000以上は必要です。
だから、RDD方式では無理なのです。
皆さんがいつも使われる「単純平均法」でも、「データ採取量」が本来は表から決められているのですが使っていますか。例えばサンプル50個で採取は最低15個程度で信頼度80%程度ですよ。
そして、統計的データ採取のデータとして扱える最低はサンプル15ですが知っていましたか。
この様に、騙されているのです。
更に、最も良い方法の適用はそのサンプルで異なります。
その採取するサンプルの内容で、10程度ある統計法の中から最適な統計法を選ぶのが普通です。
マスコミで扱っている統計法は適切であるかを疑問を持った事がありますか。
専門的に観ると疑問が多いのです。
どれでも使えるとしたら「標準偏差法」と「CP」ですね。
しかし、マスコミで使っているものは最もエラー性の大きい信頼性の低い「単純平均法」です。
これは、人、時間、場所から経費がもっとも安く簡単に出来るからです。
マスコミやテレビではこのことを隠していることを知っていましたか。
この様に、巧妙にし煽る事、怖いのは、この「煽り」なのです。
「恐慌」の様な時には、この「煽り」の「悪のスパイラル」が起こるのです。
それは統計的には「6割の無意識層」の存在がこの「煽り」で間違いを起してしまうのです。
これがこの世の宿命であり、「恐慌」や「政権委譲」時などの「極めの所」で問題となるのです。
では、この「6割の人」を少なくし無くす事は出来無いかと云うと出来ません。
ここでは、詳しい事は説明しませんが、「脳の本能的な事」から起こってこの層を作り出しているのです。
学問的に少なくとも絶対に5割以下は下がりません。人間が人間である限り。
仏教でもこれを認めているのです。「縁無き衆生、動し難し」と。
つまり、どんなに説法しても説法を受け入れる能力の無い者がこの世には居ると言うことなのです。それが「性」(さが)来るものだと云っています。
M党はこの層6割を狙って「煽り」をしているのです。国会で漢字テストする様に。
だから、データを取ると、”麻生は何していない”とする層が1割程度居るのです。
アレだけの補正予算案や色々と出しているのにもう他に無いだろうと思えるのに、、”麻生は何もしていない”と答えるのです。
これは「煽り」の「洗脳」と「盲動、熱動」から着ているのです。
6割の中には1割の人は「煽り」でこの様な反応をしてしまうのです。この6割の人は直情激情型に多いとされています。感情主観の強い人と言う事に成ります。逆に言えば論理性の少ない人です。
統計学でも、この様なデータはサンプルを表にすると、必ず先ずほぼ直線的に延びて比例直線が起こり、そして、変曲点があるところ(60-65%)で、表の直線は緩やかなカーブを示す事に成ります。
このカーブは変曲点以後は積分曲線と成ります。
これをSパターンと言います。
その比例直線の傾きはそのサンプルによって異なります。その傾きが大きいほど信頼度は増します。
この世の全ての統計データはこのパターンを示すのですが、さて、この1割はこの6割(60-65)の直線の初期にあるのです。
この様に煽られやすい層は6割も居るのですから、「煽れ」ばドイツのヒットラーや日本の第2次大戦のような(神国、神風)一種の洗脳状態が起こり、「悪のスパイラル」の方に走るのです。
これが、3割とかであれば洗脳されても暫く時間をおけば解けて元に戻るのですが、日本人は更に、国民性があり、この傾向が強いのです。
つまり、比例直線の傾きが小さいのです。表ではラインは横に寝ていると言う事です。7つの融合民族の為です。この状態では6割ですので時間での洗脳状態の解消は無理と成ります
そこで、アメリカはどうなのかですが、今のアメリカのオバマ旋風では、多少この傾向が起こっていると見ています。
そこで、「恐慌」の非常策のオバマのシナリオは成功裏に走ると観ているのです。
しかし、オバマ本人はグリーンニューディール政策を唱えているのですから。
日本の科学政策と比較対照して、実に冷静にアメリカの駄目な所の失政を認めて居るのです。
そしてそれを方針として、日本のような”本来の高度な科学活動による生産活動の資本主義の経済活動に戻したい”としているのです。
さて、そこで「剣が峰」から落ちる力、又は「決め手」は何なのかと云うと、それはアメリカの象徴が崩れる時だと見ます。
それは、明らかに自動車産業のビッグ3の倒産でしょう。アメリカの意識は完全に低下する事になりますからね。そうすると、間違いなく6割のアメリカ人はシナリオを求めるでしょう。
従って、このビッグ3をなんとしても倒産から護ることを当面すると見られますが、永く続ける事はできないと観ます。高度な科学が遅れているからです。
とすると、この救済策をアフガンとは別に日本に求めてくる事が考えられます。
何とかトヨタ系列に入れてくれとか。トヨタも大変だが。何か条件をつけて、円高を利用しての策かと観られます。高度な科学を即座に吸収する手段として、同盟を全面に掲げて。
この辺が今後見ものです。
さて、「給付金」は、この「世の摂理」の恐ろしい「恐慌」がその「剣が峰」に来ている時に、景気に効果の有無ではなく、必然に起こる「煽り」の「冷却材」に成り得るのである。
アメリカの「軍需景気」の動向では、「悪のスパイラル」に入りつつある今、この「煽り」の「冷却効果」になると考えられます。
政権与党は日本の舵を握っている。「煽り」等の低次元のことは言っている暇が無いだろう。
アメリカの「軍需策」を待って、任期ぎりぎりまで続けることが先ず戦略として考えられる。正しい舵取りの為に。さすれば、「6割の煽り熱」の解熱剤はこのアメリカの「軍需策」と成ろう。
兎も角も、「煽り」の材料としての「給付金」の景気議論は是非避けてもらいたいもので、6割の人たちに、その「給付金」の先に起こる可能性の高い恐ろしい「恐慌」を示して、それを知らない若い人々に詳しく知らしめて少しでも冷却してほしいのである。政治性を超えて、故に、敢えて、時事放談をした。
否、とすると、「給付金の景気議論」続けた方が良いのかな。戦略的に観て。
乱筆、乱文、散文の至り謝罪
念のため、本当投稿はあくまでも「放談」である。
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藤原秀郷主要5氏と家紋の研究-史料 8/10-1(時代の変化に対する対応)
Re: 藤原秀郷主要5氏と家紋の研究-史料 8/10-1(時代の変化に対する対応)
投稿者:福管理人 投稿日:2009/01/23(Fri) 20:11:09
史料8/10-1
この史料は主要5氏の”時代に対してどの様に血縁状況を適応させていたのか”を統計的に家紋を分析して、その姿を今に再現しようとするものである。
そこで、その内容を次ぎの2つに絞った。
(これ等は青木氏と4氏と関係の「本文の考察」の基史料と成る。)
この史料1(時代の変化に対しての推移)と、史料2(時代の変化に対して5氏の繋がり具合)に付いて、「時代性」から観た青木氏と他の4氏との「共通血縁性」を統計分類したデータである。
(作成要領と注意は史料7/10と同じ)
(史料1-5/10を基本に統計分類しデータ収集 参照)
平安(H)、鎌倉(K)、室町(M)、桃山(A)、江戸(E)の夫々の時代で、秀郷一門の「共通血縁族」(2氏から5氏)がどの様に、且つ、どの程度出来上がって行ったかを考察する。
このデータは他に「一門の有様」の「色々な状況」を発見するのに使う事が出来る。
今回は特に上記の2つの内容に絞ることで、秀郷一門の出来上がり具合(氏力の推移)を浮き出させる事にする。
先ず、史料1(時代の変化に対しての推移)から考察する。
「共通血縁族」
史料1-1
3氏合計の場合 4氏合計の場合 5氏合計の場合
H:09 11% H:13 11% H:20 06%
K:03 04% K:04 04% K:24 07%
M:35 41% M:45 38% M:126 39%
A:20 24% A:27 23% A:82 25%
E:18 21% E:28 24% E:75 23%
2氏合計の場合 全体の平均
H:03 08% H:36 09%
K:07 18% K:33 08%
M:13 33% M:151 38%
A:09 23% A:95 24%
E:08 20% E:88 22%
(時代の家紋数/全家紋数)=X%
(但し、例えば3氏(4、5)とは青木氏と他主要4氏の何れか2氏(3、4)との合計を意味する。)
史料の考察
史料1に付いて。
平安期に於いて
主要5氏の「共通血縁族」は「5氏の場合」のレベル(6%)は意外に低い。
これは平安期の「氏数」(40)が大きく育っていない為に少ない事が先ず云える。
尚且つ、その中で「血縁相手」が幾ら各地での「血縁戦略」とは云え、土地の土豪程度であった。
従って、「氏家制度」から藤原秀郷流主要5氏と他氏との「血縁の吊りあい」の取れる相手が少なかった事が云える。この2つ等が主な理由として挙げられる。
特に、5氏の中で、青木氏だけは「第2の宗家」としての立場から難しかったのではないかと考えられる。その為に数字を下げていると観られる。
更に、平安期での後発族の2氏(永嶋氏、長谷川氏)の血縁力はまだ拡げるに必要とする「氏力」が低かった事も誘引しているだろう。
しかし、「3氏、4氏の場合」共に「共通血縁族」の数字は11%と一割を占めている処から観るとこの時代としては5氏の6%は妥当なレベルと考えられる。
これは、上記の4つの理由からすると6%が妥当であるとするならば、赴任地24地方の相当な豪族との血縁を青木氏は進めていた事にも成る。
それは他の4氏と異なり「移動性」が高かった事によるだろう。特に、「全体の平均」(詳細事例確認:9%)(11%と6%)から観て上記4つの原因と合わせて、次ぎの事柄で「5氏共通性」が低い数字(伸悩み原因)と成ったと考えられる。
伸悩み原因
1 青木氏の「第2の宗家」としての立場
2 発祥の先発後発の関係
3 地理的な関係
4 立場、役目の違い
5 由来の違い
6 移動性
7 平家と競合(末期)
1-7により夫々の氏の「血縁戦略」は異なるだろうから5氏全てを以って評価するには問題がある。特に、2の「発祥期のズレ」が大きく原因しているだろう。これで考えると、秀郷が一門を構えてから、間隔は最大で240年、最低で130年はある。当時としては、平均寿命から4代から7代の代替わりがあった筈で「発祥期のズレ」(4-7)は史料とほぼ一致する。
この秀郷一門は、この期間のほぼ中間に居る「進藤氏」を中心にして、
1 青木氏と長沼氏の「先発組」、
2 進藤氏の「中間組」、
3 長谷川氏と永嶋氏の「後発組」、
この3つの組にはっきりと分けられる。
この間には、「進藤氏」を中心に左右2つに分けると、その片側の巾は平均90{(60-120)/2}年と成るので、この事から、盛んに血縁を進めていた3氏、4氏の「共通血縁族」の11%からすると(上記の理由(1-7)があるとすると)、左右に分けた1/2(先発組分)のその6%と同じに成る。
故に、「5氏の場合」のレベル(6%)は「妥当」な数字6%なのである。特別に低い数字では無かったと考えられる。
何か特別な原因が作用してでは無く、普通の結果(氏家制度の中で)に依って得られた低い数字である。
更に2氏(8%)と、より「共通血縁性」が高い3氏、4氏も含めての評価とすると、5氏は妥当な「時代性ある血縁」と見なされる。
それなりに”しがらみ(1-7)”の多い5氏ならではの数字(努力)である。
つまり、平安時代には、別の見方をすれば、主要5氏の「共通血縁族」は200年程度経ってやっと一割を占めていたと言う事である。
平安期では、「氏」には広がりが出てはいるが、「氏力」即ち「一門結集勢力」(共通血縁力)としては、この意味としては「氏力」の一割は既に出来上がっていた事に成るし、秀郷一門の「絆」は1割であるので固まり始めていた事にも成る。
しかし、一門に末裔の広がりを見せても、必ずしも「結束(絆)」が固まるとは限らない。
史実を観ると、むしろ「結束(絆)」は恣意的に成し得て、且つ、維持をさせて始めて成し得るものであろう事を教えている。
「嫁取り」すれば「兄弟は他人の始まり」とも云う。それが世の現実であろう。
まして、「主家、分家」等「主従関係」の厳しい「氏家制度」の社会の中では「結束(絆)」は別であり尚更であろう。
従って、全く他人が入る「嫁取り」では無く、秀郷一門間を「血縁関係」で固める事は、ここでは「結束(絆)」と成ると観ている。
その上で、「第2の宗家」の物心両面の一門への「思いやり」が「結束(絆)」を高めるものと成ろう。故に、このデータの「血縁」+「思いやり」は「結束(絆)」となると観た。
つまり、数式論で言えば、次ぎの様に成る。
「血縁」+「思いやり」=「結束(絆)」=1割
「氏力」(「一門結集勢力」:共通血縁力)=1割
故に、「共通血縁力」=「氏力」=「血縁」+「思いやり」=「結束(絆)」=1割 と成る。
更に、この論理ですると、言い換えれば、青木氏の「第2の宗家」としての「指導力」は全体の平均から観ても一門の1割を固めるだけの力を発揮していた事にも成る。
平安期
時代の状況:「貴族の社会」「氏家制度」
秀郷一門の状況:藤原氏の赴任地豪族との「血縁戦略」=「7つの確認事例」
鎌倉期について
ところが、鎌倉時代(K)に入り、矢張り一族に「失職離散」が起こり、政治体制も「武士の時代」と成り、秀郷一門の「貴族」の下に「侍集団」が構成されていた時代とでは大きく異なり、又、「豪族集団」もその「氏種」が異なった事もあり、そのレベル(4%)は平安期6%よりも低く成っている。
多分、この時代は「血縁」と言うよりは「当面の生残策」に翻弄されていた時代であったろう事を物語る数字である。
従って、この時代の血縁は、「同族内の血縁」を主体として固めていたのではないか。
その証拠にKの5氏の「共通血縁」が7%と高い。青木氏を中心として翻弄されながらも「横の関係」を必死に整えていたの事を示すものであろう。
しかし、ところが主要4氏と共通血縁性が低い青木氏と他の1氏(2氏の場合)の場合が18%と段突である。これは平安期では地方24赴任地での青木氏と土豪との「血縁戦略」があったが、まだ、主要4氏との「横の関係」の血縁までの発展には至っていなかった事を物語る数字でもある。
この18%(単独の血縁数字)は青木氏が先頭に立って進めている「血縁戦略」(平安期8%)が次第に延びて来ている証拠の数字でもある。
「氏力」には未だ至ってはいないが、全体の26%まで延びてきているのは、”「当面の生残策」に翻弄されながら、「横の関係」を必死に確実に進める努力をしていた”と成る。
この「単独血縁」と「横の関係」が次ぎの室町期の混乱期の時代に大きく支えに成ったのである。
この時期、同時に「青木氏の単独血縁」の努力と合わせて、後発の永嶋氏や長谷川氏らが構成する5氏の6%(平安期)から7%(鎌倉期)と+傾向に成り、全体13%の数字が示す様に、やっと力を付けて延び始めた時期でもある。
鎌倉期
時代状況: 「失職離散」「武士の時代に変化」「氏種が変化(豪族集団)」
秀郷一門の対応:「当面の生残策」(横の関係)「同族内の血縁」「青木氏単独血縁」「長谷川氏永嶋氏の台頭」
室町期に付いて
そして、室町時代ではなんとその努力が実り、丁度、高率の40%を占めている。
この「地道な努力」の「冬の時代」から一挙にその努力が花を開いたことを意味する。
況や、秀郷一門の鎌倉期の対応が正しかった事を示す数字と成っている。
一門全体の「同族内の血縁」による「氏力」の半分がこの時代の混乱期に出来上がったことを示す。
この時代の背景、即ち、「下克上、戦国時代」の攻撃を受けながらも、これだけの「氏力」(40%)を形成したのは、藤原秀郷一門は青木氏の「第2の宗家」を中心に一致協力して、「下克上」の攻撃には「受け」に入らず「攻め」の体制を採ったからであり、この数字はそれを物語るものである。
普通は、「下級武士の台頭」を中心とした「下克上」「戦国時代」では、「伝統」を主体としてた氏は「受け」に入り衰退するのが現実の理屈であった。また普通はその様に予想するであろう。
ところが、秀郷一門の現実の史実は、一門は「焼き討ち等の憂き目」を受けているが、「子孫」「血縁」と云うテーマで観た場合は、データの通り違うのである。
つまり、この40%は「時代の生様」を具現化する見逃しては成らないデータである。
果たしてこれは何を意味するのか。深く考察に価するテーマであろう。
そこで、敢えて検証を進める。
一体どの様な戦略で対応したのであろうか。そして、その「生き様」(経緯)はどの様であったのだろうか。
「焼き討ち等の憂き目」が在ったためにそれを「警鐘」として受け止め、一門がそれまで創り上げていた「氏力」15%で先ず「横の関係」を図り、身を鎧の様に固め、24地方の一門は青木氏を中心に据え「一致結束」して「戦い、排除」しながらも、「24地方の血縁族土豪集団」をひとり立ちできるように「育成」してたのでは無いかと観ている。
その為に、「下克上」の下級武士等の不満は、同じ立場に居た「24地方血縁族土豪集団」を「潰す」と云うところまで処せられなかったと観ている。
現に、それには次ぎの証拠があるのである。
それは家紋分類の史料(3/10)をもう一度参照されたい。
ここに隠れた証拠が潜んでいたのである。それはある種の「集団防衛」システムである。
各地の秀郷一門の土豪集団は、このシステムで動乱期に臨んだのである。
後の安土桃山時代にはこれ等は一種のシンジケート化した集団として遺したのである。
このシンジケートが、又、次の時代の生き抜く重要な力と成った。
つまり、「下克上、戦国時代」の「焼き討ち等の憂き目」の混乱に誘引されて「跡後」に訪れるそれは世の「必然の流れ」では無かったかと観られる。
しかし、ここで、この対応策の「集団防衛」は「精神論」だけでは成り立たない。
当然に「経済的裏打ち」が取れていてこそシステムなのである。
既にお気づきと思うが、秀郷一門の「第2の宗家」青木氏の「2足の草鞋策」で「裏打ち」されていたのである。
恐らく、青木氏はこの「裏打ち」の為に、「第2の宗家」として一門を支える為に採った「必然の策」であっただろう。
「氏家制度」による「手弁当の掟」から観ても、「領地から得られる税収入」を以って一門を支えこの動乱期を乗り切るだけ力は無かった筈で、秀郷一門にはどの様に見積っても到底その財力は出て来ない。有史来、史実の中で「世中の動乱の動き」(必然の流れ)を押し返すだけの「氏力」の持った氏は何処にも無かった。
たとえ、頼朝、尊氏、秀吉、家康にしてもその時代の「世中の動乱の動き」(必然の流れ)に上手く乗っただけである。自分の「氏力」のやり方で押し返したのではない。
まして、24地方の赴任地に戦略として「血縁族」を作っている。室町期まで上記の通り育ててきたこれ等の「血縁族」に生き残らせる為に「軍事的支援」のみならず「経済的支援」を必要とする。まして、動乱期(有史来「世中の動乱の動き」:必然の流れ)である。尋常の「経済的支援」では済まないであろう。
これ等の育ちかけた「抹消の血縁族」を生残らせ、尚更に、育てるには尋常を超えていると観られる。
と成ると、「人の心」は、必然的にその財源を求めようとする。
しかし、その「財源」は他氏を攻め落として領地を増やして得られる収入の範囲ではない。
それに頼れば「犠牲」も多く成り、育てている「抹消の血縁族」は疲労し潰れ離れて行く事は世の必然である。
だとすると、「人の心」に生まれる知恵は「地の利と理」と「役職の利」を先ず考える。
税としての物資を裁くは「役職の利」そのものである。当然、それを「守る武力」も役職である。裁く「商いの繋がり」も一門の縁故を使える。
この様に「2足の草鞋策」の「商い」の条件は整っていると成ると、むしろ、これだけの条件を使わない方がおかしい。「人の心」はその方向に間違いなく動く。これが「必然の動き」である。
それは「24地方の血縁族」の力も使えるし、その24土地の「生活物資や生活用品」を一手に扱い動かせば商いは成り立つ。まして動乱期である。
「動乱の戦い」のその「軍需物資」を扱う事が出来れば大商いは成り立つ。当時では、食料は当然の事、鉄や銅や金などの「鉱物資源」と成ろう。
参考
自然の摂理で、太平洋プレート、ユーラシャプレート、フィリピンプレートの3つのプレートが重なる地域には地殻の動きで比重の重いものが集まるのが冶金学的な特長である。
信濃と上野と甲斐の境界点付近の3合流を基点に能登佐渡との中間を結ぶ線上帯に鉱物資源は集まる。
さて、ここで、本文の進藤氏のレポートを思い起こしてもらいたい。
大変な藤原秀郷一門の戦略が観得るのである。
再度、概容として、進藤氏は秀郷一門が発祥であった。ところがこの秀郷一門の進藤氏は「秀世」のところで男系跡目に苦労した。そして、利仁流の「藤原為輔」と出羽国で出合った。そして、この進藤氏を為輔は引き継いだ。この進藤氏を「接着剤的役割」でリードした青木氏は利仁流との血縁関係を戦略上で持とうとした。
この利仁流は北陸道7国を代々の勢力圏としている。何故、この北陸道に目を就けたのか。
一つは、確かに藤原秀郷一門の「氏力」の「血縁戦略上の強化」であったであろう。しかし、それだけでは無いと観る。それは上記の資源帯のこの北陸道一帯に存在する鉱物資源である。
既に、頼朝に潰された秀郷一門の「平泉三代」の栄華はこの鉱物資源(金)の確保から来ている。
又、信長、秀吉の経済力もこの北陸道地域を抑えた事から全国を平定した。
当然、この知識を知っていたであろう。同じ秀郷一門宗家が知らないはずが無い。
(史実は足利氏、信長、秀吉、家康も先ずこに最も信頼できる人物を差し向けている。)
「武力」だけではない「経済力の裏打ち」が必要であると、間違いなくこの事を知っていた筈で天下を取ろうとする者がこのことを知らない方がおかしい。
だとすると、喉から手が出るほどに「経済的な裏打ち」を望んでいた筈。これを一門を維持するには戦略上見逃す筈が無い。
しかし、直接、「武力」でこれを抑えるには室町期では藤原氏の「50%の氏力」では無理であろう。
だとすると、「血縁戦略」以外に無い。まして、土地には藤原北家一門利仁流が土地に根付いている。直接支配は室町幕府の直轄であるが、現場の支配は利仁流一門が担っている。これを「商い」として結び付けば、相当の「経済的効果」は挙げられる。
これに目を付けて進めた血縁戦略ではあった筈で、利仁流一門からしても当時とすれば3倍以上の程度の「氏力」を保持している秀郷一門からのこの「力」を借りて「経済的裏づけ」を持ちたいと云う立場にあった筈である。藤原北家一門でその恩恵を分かち合える事が出来る。
秀郷宗家としては、貴族であり「武力」と「商い」は法度であるとすると、「第2の宗家」の青木氏としては、24土地の「生活物資や生活用品」を一手に扱い動かせる「大商い」と、「軍需物資」を扱う事が出来る「大商い」の2つを見逃す事は無い。
これが、青木氏の藤原秀郷一門の戦略であった。
この「必然的な流」の中でのその知恵が青木氏に働かせたのである。
その「必然の流」(A-B-C)とは次ぎの様にまとめられるのではないか。
(A)「下級武士の不満」「下克上、戦国時代」の「焼き討ち等の憂き目」の混乱
(B)「縦から横の関係」「一致結束」「24地方の血縁族土豪集団化」「2足の草鞋策の裏打ち」
(C)「秀郷一門の集団防衛化」
(A)が起こり、混乱から逃れ生きる為に「味方を呼び集め」、一心に「身を固め」、他に「生活の糧」を得んとして、必然的に人の心に(B)の「自然の流」が起こり進み、結果として(C)の生き延びられる「形」が生まれた。とする。
この「必然の流れ」の中で青木氏は、それを(B)を得心し、一門をリードし、自ら「糧」を生み出しす役目を果たしたのである。
一門の「2足の草鞋策」は史料から観てみると、年代は不詳だが由来書や系譜説明等の内容の経緯から、丁度、この時期(末期)から実行されている。
史料から他氏の時期を記述する事には問題があるので、因みに筆者伊勢青木氏の紙問屋紙屋の青木長兵衛の事に例を挙げて記する。
丁度、この頃、同じ苦境にあった青木長兵衛は「土地の利と理」(伊賀紙)と「守護の立場」を生かして1325-40年頃(鎌倉-室町期)に「2足の草鞋策」に挑んだのである。史実は秀郷一門の青木氏も同様の時期に「2足の草鞋策」を各地で採っている。(詳細下記)
逆に、動乱期に於いては「2足の草鞋策」にも「経営と物資運搬」の防衛の為にシンジケートが必要である。この必然的な「相互依存の環境」にあった事がこの「システム完成」を助長した。
「下克上、戦国時代」後の安定期には、これ等がシンジケート化して現存したのである。
「比叡山などの寺社集団」や「2足の草鞋のシンジケート」のこれに苦しんだ信長以後の主導者の秀吉、家康は「戦わずして勝つ」と云う戦略上で挑み、史実上、逆にこの2つを味方に引き入れて利用し勝利した事に成る。
つまり、2人はこの藤原氏一門の「戦い方の史実」としてこの各地の「防衛集団」種を充分に認識し承知していた事を示すものでもあろう。そのために戦いに有利としてこのシステムを持つ藤原一門はこの2人に大いに雇われ仕官したのである。
その決定的な事例の「典型的事件」がこの時期に起こっている。それは「南北朝の戦い」で楠木政重(菊水紋)と北条氏10万の戦いであろう。
この特長データから考察すると、各地に満遍なく、且つ、大変な量の集団が形成されていたかが判る。これでは、「下克上、戦国時代」では「勢いのある焼き討ち集団等の敵」に対して、何とか抗する事が出来たのではないかと容易に想像出来る。
史料(3/10)の特長として、「一門の集団性」がある。つまり、「2つの種類の集団」が秀郷一門の家紋類に大きく存在するのである。
「2つの種類の集団」
1つは、地域に根ざした「土豪の集団防衛」である。
2つは、地域の氏子の「寺社の集団防衛」である。
この「血縁族」をまとめた「集団防衛」は他にレポートした「伊勢の青木長兵衛」のそれをはるかに超えた大きいものである。
史料1-2(一門の集団性)
主な秀郷一門「土豪の集団防衛」群
中国地方では、亀甲族集団(8党)、鷹羽党(3党)
関東地方では、武蔵族(7党)、関東屋形族(4党)、坂東族(8党)、矢車族(2党 荒川党)、大島族(2党)、根笹族(4党)、駿河族(3党)
中部地方では、伊川津族(7党)、諏訪族(2党)、真田族(2党)、伊勢族(2党)
関西地方では、河内摂津族(7党)、紀州一党(雑賀族、根来族、巨勢族、葛城族、紀族、平群族)、熊野神職族(5党)、上山党(2党)、伊賀族(2党)、菊水党(2党)
四国地方では、讃岐族(讃岐籐氏4党)、阿波族(阿波藤氏2党)
(注)史実上、秀郷一門の何らかの「流」を汲むもので、以上は動乱期前後までに何族、何党、何衆と呼ばれた共闘集団を構成したものを記述した。
(注)史料3/10では枝葉氏の家紋まで記述していない。
主な秀郷一門「寺社の集団防衛」群
出雲大社氏子集団(亀甲紋神紋:美作、安芸、出雲の氏子)
阿蘇大社氏子集団(鷹の羽神紋:氏子が中国地方に移動 菊地氏、浅野氏)
伊勢大社氏子集団(柏紋神紋:久志本氏)
熱田大社氏子集団(柏紋神紋:千秋氏)
宗像大社氏子集団(柏紋神紋:宗像氏)
吉田大社氏子集団(柏紋神紋:吉田氏、ト部氏)
吉備大社氏子集団(柏紋神紋:大守氏)
春日大社氏子集団(下がり藤紋:藤原一門)
菅原大社氏子集団(梅鉢紋神紋:菅原氏系)
天台宗檀家集団(摩多羅神の神紋寺紋:抱き茗荷紋:二宮氏系)
加茂大社氏子集団(立ち葵紋神紋:西田氏系 丹波、信濃、三河)
柊明神社氏子集団(抱き柊紋神紋:丹治氏、大関氏)
諏訪大社氏子集団(立ち梶の葉神紋:諏訪氏)
熊野大社氏子集団(やた烏紋神紋:熊野5氏)
(注)史実上、秀郷一門の何らかの流を汲むもので、血縁関係が認められる集団で、以上は動乱期に共闘集団を構成したものを記述した。更にこの期間では、完成した「防衛共闘集団」になりかけのものも含まれている。以上、2つの「防衛共闘集団」に更に夫々小さい土豪の集団が枝葉する。
(注)柏紋の大社神紋は主に三つ柏紋8種に分類される。
これだけの「2種の大集団」を一つにしてシンジケート化すれば、「表の勢力」に比較できない程の「裏の勢力」が働く事は間違いない。「裏の勢力」であるが故に、室町政権から直接睨まれる事は無く、又大儀明文が無い為に出来ないであろう。
上記の経緯から、この時代の期間では、「他の氏の入れ替わり」が起こったにも拘らず、全体としての一門の「氏力」の推移は、平安期10%の「氏力」(基礎力)から苦難の中で鎌倉期では15%と維持し、その努力が生きて室町期(39)では全体では55%と拡大に繋がったものである。
これは平安期の藤原氏の赴任地豪族との「血縁戦略」が、時代の変化にも拘らず鎌倉期の群雄割拠の侍時代(土豪達)に、効を相して血縁族が台頭したものである。
それが室町期では、この台頭の血縁した土豪、地侍等が「勢力争い」に勝ち抜き一門が「氏力」を広げたと成る。
勿論、この土豪、地侍に秀郷一門が積極的に「武力と経済」で「裏打ち」したのは紛れもない事実であるが、終局、彼等の集団は「共通血縁族の主要8氏」と大豪族と成り得たのである。
この終局の室町期は「共通血縁族の主要8氏」がこの数字を作り得たものである。
その室町期の「氏力」の出来上がり具合は次のように成る。
2氏で59% 3氏で56% 4氏で53% 5氏で52%
この数字から観ると、5氏だけに拘らず青木氏と1氏までも50%台であり、”一門と血縁族全体が均一に「氏力」を固めた”と云う事であり、”取り残しは無い”事に成る。
”赴任地24地方の血縁族が全て生残り、尚且つ勢力を拡大した”と云う事は、如何に秀郷一門が強かったかを物語る。
この強さは当然に一門を指揮したからこそ強いのであるから、これは当然に青木氏の指揮如何に関わる事である。指揮のない「烏合集団」はやがて衰退するがこの「世の常道」である。
つまり、秀郷一門は「烏合集団」では無かった事を証明する。
これは後の時代に遺す「一門の絆」の強さを示すものである。
青木氏と他4氏との関わり具合が均一である事は、明らかに「血縁戦略」即ち「青木氏の指揮」が徹底していた証拠にも成る。
これでは、秀郷一門が時代に取り残されずに生抜けた事がこのデーターでも明確に解る。
安土桃山期に付いて
そして、その「氏力」が安土桃山時代ではその勢いが続き25%と氏力を維持させた。
多分、室町期の40%が無ければ、この高い「氏力形成25%」は無かったであろう。
この時代は「群雄割拠の時代」から「選別の時代」へと変化して行った時代である。
その中で「選別された豪族」(「共通血縁族の主要8氏」等)との血縁が結ばれ、主要5氏が時代に即応した「氏力」を培ったと言う事に成る。この事は主に「分家筋」との血縁を優先させた事が頷けるし、その証明に成る。
「共通血縁族の主要8氏」からそれを主軸として、更には「選別」により駆逐されてこれ等「枝葉の末裔末孫」の「横の血縁」を拡げたに他ならない。つまりは、鎌倉期に勢いのあった2氏(18%)のところまで主要4氏との血縁は進んだことを意味する。
普通、この時代は時代のめまぐるしい変化に即応出来ずに古い氏は全て衰退し消えて行った時代でもある。その中で生残れたのは、「時代の変化」に拘らず、これもH、K、M(55%)と「氏力」を即応させた結果による。
しかし、生き残れはしたが、秀吉には、史実上に記録されている氏として、豪族クラスでは、四国の讃岐藤氏一門、阿波の藤氏一門、伊勢の秀郷一門の青木氏、永嶋氏、伊藤氏、常陸の結城氏、小山氏、陸奥の結城氏等が多くの秀郷一門が潰された。数えられない程である。逆に、徳川叙封禄に記載されているもので、江戸初期には家康に依って潰された青木氏等の秀郷一門も多い。
多少の戦いはあったとしても、殆ど「選別」に類する衰退である。
(機会あれば何時か衰退した青木氏等のレポートもしたい)
安土桃山期に付いては上記した室町期から桃山期初期の秀郷一門の「生残りシステム」が効かなかったことに成る。
何故ならば、彼等二人はこの一門の「生残りシステム」を熟知し、真似をし、利用し、駆使したに過ぎない。
同じ「生残りの戦略」で対抗されれば、「時の勢い」の持ったものが勝つのが常道である。
違うものを持った同士の戦いであれば、「群雄割拠」であり、殺戮の少ない同じシステムの戦いであれば「選別」であろう。
しかし、ここで、特記する事は、秀郷一門の生き方の数式論である。
「生残りシステム」から「選別」が起こると差し引き残るものがある。
{秀郷一門}=「生残りシステム」-「選別」={時代の趨勢}
1 「生残りシステム」=「血縁戦略」+「経済(2足の草鞋策)」であった。
2 「生残りシステム」-「選別」=「経済(2足の草鞋策)」と成る。
3 「経済(2足の草鞋策)」は無傷である。
4 そうすると、「全秀郷一門」-「選別」=「選別された遺豪族」と成る。
5 故に、「経済(2足の草鞋策)」+「選別された遺豪族」と成る。
6 そこで、「経済(2足の草鞋策)」+「選別された遺豪族」=「共通血縁族の主要8氏」と成る。
結論は、”{力の着いた「共通血縁族の主要8氏」}が一門を支えた”と云う事になる。
しかし、これが選別後の江戸初期以降では、時代に即応して、6の数式論が大きく左右して末裔を遺し得たのである。
因みに、再び、筆者の伊勢青木氏を例に挙げると、この典型的な数式論が成立しているのである。
「伊勢攻め」即ち「天正伊賀の乱」と「伊勢永嶋の戦い」で、信長、秀吉と戦った。
この時、青木氏は名張城、青木山城、柏原城など3つの城と平城の松阪館から戦いを挑んだ。
信長は伊勢の入り口に丸山城を築く為に信長の次男信雄と滝川一益を差し向けた。
この時、伊勢の500年歴史を持つ豪商紙問屋青木長兵衛が陰で建築物資を抑えて高騰させ物資不足を作り出し伊勢シンジケートを動かしてゲリラ作戦を展開した。そして、高額築城費と長期間を費やさせやっと出来たその日にシンジケートに天守閣を爆破させて消失させた。信長は烈火の如く怒り、信雄を蟄居させる事になった。有名な史実である。一方この時、名張の城では、別の顔を持つ青木民部尉信定は無傷、紙問屋長兵衛の店も無傷で、次ぎの「伊賀攻め」に備えた。
その後、秀吉を先ず伊勢永嶋攻めに差し向けた。青木氏の手の内を知る秀吉は青木氏の陰の手口を封じて、材木を兵が切り裁き筏を組んで流したりして伊勢永嶋を攻めて北畠氏を潰した。次ぎにこの伊勢の背景を知る秀吉は、戦わずして勝つ戦法を使ってきた。藤原一門で清和源氏血筋も持つ蒲生高卿の子の歌人で軍師の蒲生氏郷を差し向けた。伊勢青木氏とは遠縁関係にあり縁故を使った。青木氏の背景を知る抜いている。戦うと両者ともに「シンジケート戦」で大きな犠牲を払う事に成る。青木長兵衛を説いた。条件を飲んだ。一端新宮に青木氏は引き上げた。
氏郷は有史来松阪に城を築いた。1年後に屋敷町に2区画を与えて青木氏を戻し松阪の一部と玉城町を与えた。そして、その経済力とシンジケートを氏郷は潰さずに利用した。
伊勢は発展した。その後、家康は関が原の戦いにその「経済力」と「シンジケートの力」を利用して合力した青木氏を氏郷と同様に無傷で青木氏を遺した。
この史実は、秀郷一門と同様に、上記の方程式の「必然の条理」の上にあった。
これはこの世の「必然の条理」に従った最高の戦略ではないか。秀郷一門はこの戦略に到達したからこそ子孫を大きく遺し得たのである。何をか況や、青木氏の指揮の下の所以である。
時代の状況:「群雄割拠の時代」から「選別の時代」
秀郷一門の状況:「共通血縁族の主要8氏」成長と「選別された遺豪族」「横の血縁}(分家筋)
江戸期に付いて
江戸時代に成ると、そして、その「必然の条理」の下に、江戸時代の藤原秀郷一門の主要5氏は多くはその背景を持つ事を重用されて大名、御家人、旗本に成った。
この時代は「戦国時代の終焉」を経て「江戸の安定期」に入ったが、逆に「氏と家紋」は爆発的に増加した。
(参考 氏数変化は家紋200選を参照 N40-H200-K800-M400-A1000-E2000-m8000)
この中には「家柄や身分」などが「出世や羽振り」等に必要と成り、こぞって自分のルーツの故古を持って名乗りを挙げた。この中には疑問のものも多いが20%台を維持して血縁関係を維持したのはこのブームの影響もあった。
つまり、室町期まで培った「正味の努力」の血縁で拡げたものとは異なるレベルである。所謂、江戸の「安定期」に起こる過去の「家柄の誇示」に過ぎない。
「安定期」のこの時代にはある意味では「戦略的血縁」を必要としている訳では無かった。
むしろ、「社会的必要性」(家柄)からの血縁ではあった。
しかし、ここで秀郷一門の「戦略的血縁」を必要としないからと云って、レベルが低く成っていた場合は、現在の青木氏等の主要5氏は無かったのではと考える。
「戦略的血縁」ではその勢いは息切れしたであろうし、一種の「接着剤的働き」をしていたと考えられる。この血縁は現在の青木氏を始めとして藤原一門の存続に大きく影響させた時代でもあった。
秀郷一門にとってはその「社会的必要性」(家柄)を元より踏襲する必要が無かった事によるもので、江戸の時代の「軽い風潮」に振り回されることが無かった事が幸いしたものであろう。
むしろ、「羨望の目」が向けられたし、この家柄が安定した「氏力」を保持していると評価されて認識されて、幕府や大名に仕官し、平安期と同じく再び高い位置を得た要因の一つと成り得たのである。
世間の中級以上の武士は、この安定期では、衰退した朝廷に媚入り金品を支払い、誰しもが一代限りの名前だけの官職や爵位を貰い獲得し名乗ると云う風潮がはびこった時代でもある。しかし、藤原氏はこの必要が無く元より永代の官職を保持している事から、鎌倉期の失職離散の憂き目や室町期の下克上での敵対視された時代と異なり、今度は逆に一門の末裔である事が効果的に働き続けた時代でもあった。このために末裔はその一門の「氏力」を期待されて、多くの新興勢力の大名に逆に抱えられて出世した時代でもあった。
これは、青木氏を中心に的確に「時代の先取り」を間違える事無く一門を指揮した為に、平安期から室町期までの上記した「血縁戦略」がやっと働いた事に成る。データはそれを物語っている。
そのA、Eでは、共に3氏4氏5氏の青木氏との「共通血縁」が同じ数字20%台と成っているが、青木氏から観ると、総じて”5氏間は70%台以上が同じ血縁族で占められていた”と言う事であり、平安期から江戸期まで次第に相互間の血縁を深めて行った事に成る。
普通ならば、「安定期」では、世間と同様に5%台程度の数字を示すのが当り前であったが、何れも20%台と言う高く巾のある「5氏の血縁力」(絆:結束力:氏力)を維持していた。
「家柄の誇示」等の「社会的必要性」(室町期から江戸にかけての風潮)と、地道な「秀郷一門の血縁戦略」に支えられた「氏力」が世間に受け入れらマッチングして2つの「相乗効果」を発揮したものであろう。
その典型的な時代は室町期の数字の通りであり、且つ「混乱期」にありながらより「5氏の血縁力」(絆:結束力:氏力:40%)を高めていたその時代性(難行苦行の努力)にあり、この事を物語る。
これは青木氏の一門に対する「指揮力」が在ったからこそ成し得たものであった。
そして、その「指揮力」は「5氏の血縁力」(絆:結束力:氏力)の裏づけにあった。
統一した指揮指導がなければ40%の「氏力」のこの様な数字は残せない。普通は5%台なのであるから。
「5氏の血縁力」(絆:結束力:氏力)とは云え、結束は緩むものであるのが世の常である。ましてや「安定期」である。しかし、25%程度の「血縁力」を生み出し、決して”緩んでいない”のである。誰かが中心に成ってリードしてこそのこの結果であろう。
私はそれが、「第2の宗家」の青木氏であると説いている。つまりは青木氏を中心として秀郷一門は「混乱期の余裕の不足」と「安定期の気の緩み」に2つに依って緩みかねない中で「氏家制度」を厳然と護っていた事の証しである。
そして、この90%にも達した(2氏3氏4氏5氏共に)「氏力」が突然ある磐が崩れる如く崩壊したのである。今度は、「2足の草鞋策」も全く効果がなく明治末期頃までに崩れ去ったのである。
その後の時代の経緯として、この結束は明治前夜の動乱に依って、「武士の体制」が壊れ、西欧化した「政治体制」が敷かれて、その基盤の「氏家制度」は崩壊して最早「血縁戦略」の意味が無くなり始めて一門は完全に離散したのである。その後、明治以降昭和20年頃までは、そう強くは無かったが、「社会慣習」として「家柄」だけは重んじられていた。その契機は終戦による「アメリカナイズ」により完全に社会から消え去ったのである。
むしろ昭和は「日本的伝統」さえも「自由主義」と「共産主義」とで社会に「罪悪感」がはびこり否定された時代であった。平成に入り世界第2位の経済力を確保して人の気持に余裕が生まれて「自然の確保」とそれに伴なってあらゆる「伝統」が見直される時代へと変化してきた。
最早、平成では、藤原一門の「景」は完全に消え去ったのである。
明治から100年を経ているが、後世から見た藤原秀郷一門の生き様はどの様に理解され検証されるのであろうか。多分、藤原秀郷一門青木氏などの歴史的史実は霧消しているだろう。
そこで、現在の社会体制の中では「家柄」「伝統」が大した経済的意味を持たないが、「心の伝統」(誇り)の持つ事の意味は「7つの民族」で構成される「融合単一民族」の日本社会にはあると信じている。
「7つの民族」「融合単一民族」=「伝統」と成る。これが「日本人」なのである。
故に「日本人」=あらゆる「伝統」である。
とすると、「三段論法」が是とするならば、故に、「日本人」-「伝統」=0であり、「日本人」から「伝統」を差し引けば何が残るだろう。
そして、もし「伝統」が認められるなら、「伝統」=「先祖」=「自分」=「尊厳 感謝」=「日本人の心」へと進化する。
もし、日本人を「骨抜き」にする事を目論むなら、数式から「伝統」をことごとく否定する事により潰せる事に成る。これが左傾主義者の「目論み」であろう。行く末「伝統」の破壊は「革命」であろう。故に我々「日本人」であり続けるためには、「伝統」の啓示にある。
その「伝統の啓示」は最早、今の時代のみしか無く成っている。次世代では史料もさることながら「心の伝統」も蘇させる事は無理であろう。「時代の動きとウネリ」は計り知れないほど大きい。せめて、筆者は青木氏の子孫の一部にでも遺したいと考えていてこの史料関係の提供と成っている。
(参考 子孫は血液型が同じであれば、遺伝子的には85-95%が同じなのである。故に、自分*0.85=子供 の数式が成立する。故に、先祖=自分=子孫 の数式が成立する。)
さて、次ぎは秀郷主要5氏に関わる「共通血縁族」の比率である。
青木氏とどの主要4氏がどの様に一番関わっていたのかの検証史料である。
名前 名字 苗字 由来 ルーツ 家系 家紋 歴史ブログ⇒
投稿者:福管理人 投稿日:2009/01/23(Fri) 20:11:09
史料8/10-1
この史料は主要5氏の”時代に対してどの様に血縁状況を適応させていたのか”を統計的に家紋を分析して、その姿を今に再現しようとするものである。
そこで、その内容を次ぎの2つに絞った。
(これ等は青木氏と4氏と関係の「本文の考察」の基史料と成る。)
この史料1(時代の変化に対しての推移)と、史料2(時代の変化に対して5氏の繋がり具合)に付いて、「時代性」から観た青木氏と他の4氏との「共通血縁性」を統計分類したデータである。
(作成要領と注意は史料7/10と同じ)
(史料1-5/10を基本に統計分類しデータ収集 参照)
平安(H)、鎌倉(K)、室町(M)、桃山(A)、江戸(E)の夫々の時代で、秀郷一門の「共通血縁族」(2氏から5氏)がどの様に、且つ、どの程度出来上がって行ったかを考察する。
このデータは他に「一門の有様」の「色々な状況」を発見するのに使う事が出来る。
今回は特に上記の2つの内容に絞ることで、秀郷一門の出来上がり具合(氏力の推移)を浮き出させる事にする。
先ず、史料1(時代の変化に対しての推移)から考察する。
「共通血縁族」
史料1-1
3氏合計の場合 4氏合計の場合 5氏合計の場合
H:09 11% H:13 11% H:20 06%
K:03 04% K:04 04% K:24 07%
M:35 41% M:45 38% M:126 39%
A:20 24% A:27 23% A:82 25%
E:18 21% E:28 24% E:75 23%
2氏合計の場合 全体の平均
H:03 08% H:36 09%
K:07 18% K:33 08%
M:13 33% M:151 38%
A:09 23% A:95 24%
E:08 20% E:88 22%
(時代の家紋数/全家紋数)=X%
(但し、例えば3氏(4、5)とは青木氏と他主要4氏の何れか2氏(3、4)との合計を意味する。)
史料の考察
史料1に付いて。
平安期に於いて
主要5氏の「共通血縁族」は「5氏の場合」のレベル(6%)は意外に低い。
これは平安期の「氏数」(40)が大きく育っていない為に少ない事が先ず云える。
尚且つ、その中で「血縁相手」が幾ら各地での「血縁戦略」とは云え、土地の土豪程度であった。
従って、「氏家制度」から藤原秀郷流主要5氏と他氏との「血縁の吊りあい」の取れる相手が少なかった事が云える。この2つ等が主な理由として挙げられる。
特に、5氏の中で、青木氏だけは「第2の宗家」としての立場から難しかったのではないかと考えられる。その為に数字を下げていると観られる。
更に、平安期での後発族の2氏(永嶋氏、長谷川氏)の血縁力はまだ拡げるに必要とする「氏力」が低かった事も誘引しているだろう。
しかし、「3氏、4氏の場合」共に「共通血縁族」の数字は11%と一割を占めている処から観るとこの時代としては5氏の6%は妥当なレベルと考えられる。
これは、上記の4つの理由からすると6%が妥当であるとするならば、赴任地24地方の相当な豪族との血縁を青木氏は進めていた事にも成る。
それは他の4氏と異なり「移動性」が高かった事によるだろう。特に、「全体の平均」(詳細事例確認:9%)(11%と6%)から観て上記4つの原因と合わせて、次ぎの事柄で「5氏共通性」が低い数字(伸悩み原因)と成ったと考えられる。
伸悩み原因
1 青木氏の「第2の宗家」としての立場
2 発祥の先発後発の関係
3 地理的な関係
4 立場、役目の違い
5 由来の違い
6 移動性
7 平家と競合(末期)
1-7により夫々の氏の「血縁戦略」は異なるだろうから5氏全てを以って評価するには問題がある。特に、2の「発祥期のズレ」が大きく原因しているだろう。これで考えると、秀郷が一門を構えてから、間隔は最大で240年、最低で130年はある。当時としては、平均寿命から4代から7代の代替わりがあった筈で「発祥期のズレ」(4-7)は史料とほぼ一致する。
この秀郷一門は、この期間のほぼ中間に居る「進藤氏」を中心にして、
1 青木氏と長沼氏の「先発組」、
2 進藤氏の「中間組」、
3 長谷川氏と永嶋氏の「後発組」、
この3つの組にはっきりと分けられる。
この間には、「進藤氏」を中心に左右2つに分けると、その片側の巾は平均90{(60-120)/2}年と成るので、この事から、盛んに血縁を進めていた3氏、4氏の「共通血縁族」の11%からすると(上記の理由(1-7)があるとすると)、左右に分けた1/2(先発組分)のその6%と同じに成る。
故に、「5氏の場合」のレベル(6%)は「妥当」な数字6%なのである。特別に低い数字では無かったと考えられる。
何か特別な原因が作用してでは無く、普通の結果(氏家制度の中で)に依って得られた低い数字である。
更に2氏(8%)と、より「共通血縁性」が高い3氏、4氏も含めての評価とすると、5氏は妥当な「時代性ある血縁」と見なされる。
それなりに”しがらみ(1-7)”の多い5氏ならではの数字(努力)である。
つまり、平安時代には、別の見方をすれば、主要5氏の「共通血縁族」は200年程度経ってやっと一割を占めていたと言う事である。
平安期では、「氏」には広がりが出てはいるが、「氏力」即ち「一門結集勢力」(共通血縁力)としては、この意味としては「氏力」の一割は既に出来上がっていた事に成るし、秀郷一門の「絆」は1割であるので固まり始めていた事にも成る。
しかし、一門に末裔の広がりを見せても、必ずしも「結束(絆)」が固まるとは限らない。
史実を観ると、むしろ「結束(絆)」は恣意的に成し得て、且つ、維持をさせて始めて成し得るものであろう事を教えている。
「嫁取り」すれば「兄弟は他人の始まり」とも云う。それが世の現実であろう。
まして、「主家、分家」等「主従関係」の厳しい「氏家制度」の社会の中では「結束(絆)」は別であり尚更であろう。
従って、全く他人が入る「嫁取り」では無く、秀郷一門間を「血縁関係」で固める事は、ここでは「結束(絆)」と成ると観ている。
その上で、「第2の宗家」の物心両面の一門への「思いやり」が「結束(絆)」を高めるものと成ろう。故に、このデータの「血縁」+「思いやり」は「結束(絆)」となると観た。
つまり、数式論で言えば、次ぎの様に成る。
「血縁」+「思いやり」=「結束(絆)」=1割
「氏力」(「一門結集勢力」:共通血縁力)=1割
故に、「共通血縁力」=「氏力」=「血縁」+「思いやり」=「結束(絆)」=1割 と成る。
更に、この論理ですると、言い換えれば、青木氏の「第2の宗家」としての「指導力」は全体の平均から観ても一門の1割を固めるだけの力を発揮していた事にも成る。
平安期
時代の状況:「貴族の社会」「氏家制度」
秀郷一門の状況:藤原氏の赴任地豪族との「血縁戦略」=「7つの確認事例」
鎌倉期について
ところが、鎌倉時代(K)に入り、矢張り一族に「失職離散」が起こり、政治体制も「武士の時代」と成り、秀郷一門の「貴族」の下に「侍集団」が構成されていた時代とでは大きく異なり、又、「豪族集団」もその「氏種」が異なった事もあり、そのレベル(4%)は平安期6%よりも低く成っている。
多分、この時代は「血縁」と言うよりは「当面の生残策」に翻弄されていた時代であったろう事を物語る数字である。
従って、この時代の血縁は、「同族内の血縁」を主体として固めていたのではないか。
その証拠にKの5氏の「共通血縁」が7%と高い。青木氏を中心として翻弄されながらも「横の関係」を必死に整えていたの事を示すものであろう。
しかし、ところが主要4氏と共通血縁性が低い青木氏と他の1氏(2氏の場合)の場合が18%と段突である。これは平安期では地方24赴任地での青木氏と土豪との「血縁戦略」があったが、まだ、主要4氏との「横の関係」の血縁までの発展には至っていなかった事を物語る数字でもある。
この18%(単独の血縁数字)は青木氏が先頭に立って進めている「血縁戦略」(平安期8%)が次第に延びて来ている証拠の数字でもある。
「氏力」には未だ至ってはいないが、全体の26%まで延びてきているのは、”「当面の生残策」に翻弄されながら、「横の関係」を必死に確実に進める努力をしていた”と成る。
この「単独血縁」と「横の関係」が次ぎの室町期の混乱期の時代に大きく支えに成ったのである。
この時期、同時に「青木氏の単独血縁」の努力と合わせて、後発の永嶋氏や長谷川氏らが構成する5氏の6%(平安期)から7%(鎌倉期)と+傾向に成り、全体13%の数字が示す様に、やっと力を付けて延び始めた時期でもある。
鎌倉期
時代状況: 「失職離散」「武士の時代に変化」「氏種が変化(豪族集団)」
秀郷一門の対応:「当面の生残策」(横の関係)「同族内の血縁」「青木氏単独血縁」「長谷川氏永嶋氏の台頭」
室町期に付いて
そして、室町時代ではなんとその努力が実り、丁度、高率の40%を占めている。
この「地道な努力」の「冬の時代」から一挙にその努力が花を開いたことを意味する。
況や、秀郷一門の鎌倉期の対応が正しかった事を示す数字と成っている。
一門全体の「同族内の血縁」による「氏力」の半分がこの時代の混乱期に出来上がったことを示す。
この時代の背景、即ち、「下克上、戦国時代」の攻撃を受けながらも、これだけの「氏力」(40%)を形成したのは、藤原秀郷一門は青木氏の「第2の宗家」を中心に一致協力して、「下克上」の攻撃には「受け」に入らず「攻め」の体制を採ったからであり、この数字はそれを物語るものである。
普通は、「下級武士の台頭」を中心とした「下克上」「戦国時代」では、「伝統」を主体としてた氏は「受け」に入り衰退するのが現実の理屈であった。また普通はその様に予想するであろう。
ところが、秀郷一門の現実の史実は、一門は「焼き討ち等の憂き目」を受けているが、「子孫」「血縁」と云うテーマで観た場合は、データの通り違うのである。
つまり、この40%は「時代の生様」を具現化する見逃しては成らないデータである。
果たしてこれは何を意味するのか。深く考察に価するテーマであろう。
そこで、敢えて検証を進める。
一体どの様な戦略で対応したのであろうか。そして、その「生き様」(経緯)はどの様であったのだろうか。
「焼き討ち等の憂き目」が在ったためにそれを「警鐘」として受け止め、一門がそれまで創り上げていた「氏力」15%で先ず「横の関係」を図り、身を鎧の様に固め、24地方の一門は青木氏を中心に据え「一致結束」して「戦い、排除」しながらも、「24地方の血縁族土豪集団」をひとり立ちできるように「育成」してたのでは無いかと観ている。
その為に、「下克上」の下級武士等の不満は、同じ立場に居た「24地方血縁族土豪集団」を「潰す」と云うところまで処せられなかったと観ている。
現に、それには次ぎの証拠があるのである。
それは家紋分類の史料(3/10)をもう一度参照されたい。
ここに隠れた証拠が潜んでいたのである。それはある種の「集団防衛」システムである。
各地の秀郷一門の土豪集団は、このシステムで動乱期に臨んだのである。
後の安土桃山時代にはこれ等は一種のシンジケート化した集団として遺したのである。
このシンジケートが、又、次の時代の生き抜く重要な力と成った。
つまり、「下克上、戦国時代」の「焼き討ち等の憂き目」の混乱に誘引されて「跡後」に訪れるそれは世の「必然の流れ」では無かったかと観られる。
しかし、ここで、この対応策の「集団防衛」は「精神論」だけでは成り立たない。
当然に「経済的裏打ち」が取れていてこそシステムなのである。
既にお気づきと思うが、秀郷一門の「第2の宗家」青木氏の「2足の草鞋策」で「裏打ち」されていたのである。
恐らく、青木氏はこの「裏打ち」の為に、「第2の宗家」として一門を支える為に採った「必然の策」であっただろう。
「氏家制度」による「手弁当の掟」から観ても、「領地から得られる税収入」を以って一門を支えこの動乱期を乗り切るだけ力は無かった筈で、秀郷一門にはどの様に見積っても到底その財力は出て来ない。有史来、史実の中で「世中の動乱の動き」(必然の流れ)を押し返すだけの「氏力」の持った氏は何処にも無かった。
たとえ、頼朝、尊氏、秀吉、家康にしてもその時代の「世中の動乱の動き」(必然の流れ)に上手く乗っただけである。自分の「氏力」のやり方で押し返したのではない。
まして、24地方の赴任地に戦略として「血縁族」を作っている。室町期まで上記の通り育ててきたこれ等の「血縁族」に生き残らせる為に「軍事的支援」のみならず「経済的支援」を必要とする。まして、動乱期(有史来「世中の動乱の動き」:必然の流れ)である。尋常の「経済的支援」では済まないであろう。
これ等の育ちかけた「抹消の血縁族」を生残らせ、尚更に、育てるには尋常を超えていると観られる。
と成ると、「人の心」は、必然的にその財源を求めようとする。
しかし、その「財源」は他氏を攻め落として領地を増やして得られる収入の範囲ではない。
それに頼れば「犠牲」も多く成り、育てている「抹消の血縁族」は疲労し潰れ離れて行く事は世の必然である。
だとすると、「人の心」に生まれる知恵は「地の利と理」と「役職の利」を先ず考える。
税としての物資を裁くは「役職の利」そのものである。当然、それを「守る武力」も役職である。裁く「商いの繋がり」も一門の縁故を使える。
この様に「2足の草鞋策」の「商い」の条件は整っていると成ると、むしろ、これだけの条件を使わない方がおかしい。「人の心」はその方向に間違いなく動く。これが「必然の動き」である。
それは「24地方の血縁族」の力も使えるし、その24土地の「生活物資や生活用品」を一手に扱い動かせば商いは成り立つ。まして動乱期である。
「動乱の戦い」のその「軍需物資」を扱う事が出来れば大商いは成り立つ。当時では、食料は当然の事、鉄や銅や金などの「鉱物資源」と成ろう。
参考
自然の摂理で、太平洋プレート、ユーラシャプレート、フィリピンプレートの3つのプレートが重なる地域には地殻の動きで比重の重いものが集まるのが冶金学的な特長である。
信濃と上野と甲斐の境界点付近の3合流を基点に能登佐渡との中間を結ぶ線上帯に鉱物資源は集まる。
さて、ここで、本文の進藤氏のレポートを思い起こしてもらいたい。
大変な藤原秀郷一門の戦略が観得るのである。
再度、概容として、進藤氏は秀郷一門が発祥であった。ところがこの秀郷一門の進藤氏は「秀世」のところで男系跡目に苦労した。そして、利仁流の「藤原為輔」と出羽国で出合った。そして、この進藤氏を為輔は引き継いだ。この進藤氏を「接着剤的役割」でリードした青木氏は利仁流との血縁関係を戦略上で持とうとした。
この利仁流は北陸道7国を代々の勢力圏としている。何故、この北陸道に目を就けたのか。
一つは、確かに藤原秀郷一門の「氏力」の「血縁戦略上の強化」であったであろう。しかし、それだけでは無いと観る。それは上記の資源帯のこの北陸道一帯に存在する鉱物資源である。
既に、頼朝に潰された秀郷一門の「平泉三代」の栄華はこの鉱物資源(金)の確保から来ている。
又、信長、秀吉の経済力もこの北陸道地域を抑えた事から全国を平定した。
当然、この知識を知っていたであろう。同じ秀郷一門宗家が知らないはずが無い。
(史実は足利氏、信長、秀吉、家康も先ずこに最も信頼できる人物を差し向けている。)
「武力」だけではない「経済力の裏打ち」が必要であると、間違いなくこの事を知っていた筈で天下を取ろうとする者がこのことを知らない方がおかしい。
だとすると、喉から手が出るほどに「経済的な裏打ち」を望んでいた筈。これを一門を維持するには戦略上見逃す筈が無い。
しかし、直接、「武力」でこれを抑えるには室町期では藤原氏の「50%の氏力」では無理であろう。
だとすると、「血縁戦略」以外に無い。まして、土地には藤原北家一門利仁流が土地に根付いている。直接支配は室町幕府の直轄であるが、現場の支配は利仁流一門が担っている。これを「商い」として結び付けば、相当の「経済的効果」は挙げられる。
これに目を付けて進めた血縁戦略ではあった筈で、利仁流一門からしても当時とすれば3倍以上の程度の「氏力」を保持している秀郷一門からのこの「力」を借りて「経済的裏づけ」を持ちたいと云う立場にあった筈である。藤原北家一門でその恩恵を分かち合える事が出来る。
秀郷宗家としては、貴族であり「武力」と「商い」は法度であるとすると、「第2の宗家」の青木氏としては、24土地の「生活物資や生活用品」を一手に扱い動かせる「大商い」と、「軍需物資」を扱う事が出来る「大商い」の2つを見逃す事は無い。
これが、青木氏の藤原秀郷一門の戦略であった。
この「必然的な流」の中でのその知恵が青木氏に働かせたのである。
その「必然の流」(A-B-C)とは次ぎの様にまとめられるのではないか。
(A)「下級武士の不満」「下克上、戦国時代」の「焼き討ち等の憂き目」の混乱
(B)「縦から横の関係」「一致結束」「24地方の血縁族土豪集団化」「2足の草鞋策の裏打ち」
(C)「秀郷一門の集団防衛化」
(A)が起こり、混乱から逃れ生きる為に「味方を呼び集め」、一心に「身を固め」、他に「生活の糧」を得んとして、必然的に人の心に(B)の「自然の流」が起こり進み、結果として(C)の生き延びられる「形」が生まれた。とする。
この「必然の流れ」の中で青木氏は、それを(B)を得心し、一門をリードし、自ら「糧」を生み出しす役目を果たしたのである。
一門の「2足の草鞋策」は史料から観てみると、年代は不詳だが由来書や系譜説明等の内容の経緯から、丁度、この時期(末期)から実行されている。
史料から他氏の時期を記述する事には問題があるので、因みに筆者伊勢青木氏の紙問屋紙屋の青木長兵衛の事に例を挙げて記する。
丁度、この頃、同じ苦境にあった青木長兵衛は「土地の利と理」(伊賀紙)と「守護の立場」を生かして1325-40年頃(鎌倉-室町期)に「2足の草鞋策」に挑んだのである。史実は秀郷一門の青木氏も同様の時期に「2足の草鞋策」を各地で採っている。(詳細下記)
逆に、動乱期に於いては「2足の草鞋策」にも「経営と物資運搬」の防衛の為にシンジケートが必要である。この必然的な「相互依存の環境」にあった事がこの「システム完成」を助長した。
「下克上、戦国時代」後の安定期には、これ等がシンジケート化して現存したのである。
「比叡山などの寺社集団」や「2足の草鞋のシンジケート」のこれに苦しんだ信長以後の主導者の秀吉、家康は「戦わずして勝つ」と云う戦略上で挑み、史実上、逆にこの2つを味方に引き入れて利用し勝利した事に成る。
つまり、2人はこの藤原氏一門の「戦い方の史実」としてこの各地の「防衛集団」種を充分に認識し承知していた事を示すものでもあろう。そのために戦いに有利としてこのシステムを持つ藤原一門はこの2人に大いに雇われ仕官したのである。
その決定的な事例の「典型的事件」がこの時期に起こっている。それは「南北朝の戦い」で楠木政重(菊水紋)と北条氏10万の戦いであろう。
この特長データから考察すると、各地に満遍なく、且つ、大変な量の集団が形成されていたかが判る。これでは、「下克上、戦国時代」では「勢いのある焼き討ち集団等の敵」に対して、何とか抗する事が出来たのではないかと容易に想像出来る。
史料(3/10)の特長として、「一門の集団性」がある。つまり、「2つの種類の集団」が秀郷一門の家紋類に大きく存在するのである。
「2つの種類の集団」
1つは、地域に根ざした「土豪の集団防衛」である。
2つは、地域の氏子の「寺社の集団防衛」である。
この「血縁族」をまとめた「集団防衛」は他にレポートした「伊勢の青木長兵衛」のそれをはるかに超えた大きいものである。
史料1-2(一門の集団性)
主な秀郷一門「土豪の集団防衛」群
中国地方では、亀甲族集団(8党)、鷹羽党(3党)
関東地方では、武蔵族(7党)、関東屋形族(4党)、坂東族(8党)、矢車族(2党 荒川党)、大島族(2党)、根笹族(4党)、駿河族(3党)
中部地方では、伊川津族(7党)、諏訪族(2党)、真田族(2党)、伊勢族(2党)
関西地方では、河内摂津族(7党)、紀州一党(雑賀族、根来族、巨勢族、葛城族、紀族、平群族)、熊野神職族(5党)、上山党(2党)、伊賀族(2党)、菊水党(2党)
四国地方では、讃岐族(讃岐籐氏4党)、阿波族(阿波藤氏2党)
(注)史実上、秀郷一門の何らかの「流」を汲むもので、以上は動乱期前後までに何族、何党、何衆と呼ばれた共闘集団を構成したものを記述した。
(注)史料3/10では枝葉氏の家紋まで記述していない。
主な秀郷一門「寺社の集団防衛」群
出雲大社氏子集団(亀甲紋神紋:美作、安芸、出雲の氏子)
阿蘇大社氏子集団(鷹の羽神紋:氏子が中国地方に移動 菊地氏、浅野氏)
伊勢大社氏子集団(柏紋神紋:久志本氏)
熱田大社氏子集団(柏紋神紋:千秋氏)
宗像大社氏子集団(柏紋神紋:宗像氏)
吉田大社氏子集団(柏紋神紋:吉田氏、ト部氏)
吉備大社氏子集団(柏紋神紋:大守氏)
春日大社氏子集団(下がり藤紋:藤原一門)
菅原大社氏子集団(梅鉢紋神紋:菅原氏系)
天台宗檀家集団(摩多羅神の神紋寺紋:抱き茗荷紋:二宮氏系)
加茂大社氏子集団(立ち葵紋神紋:西田氏系 丹波、信濃、三河)
柊明神社氏子集団(抱き柊紋神紋:丹治氏、大関氏)
諏訪大社氏子集団(立ち梶の葉神紋:諏訪氏)
熊野大社氏子集団(やた烏紋神紋:熊野5氏)
(注)史実上、秀郷一門の何らかの流を汲むもので、血縁関係が認められる集団で、以上は動乱期に共闘集団を構成したものを記述した。更にこの期間では、完成した「防衛共闘集団」になりかけのものも含まれている。以上、2つの「防衛共闘集団」に更に夫々小さい土豪の集団が枝葉する。
(注)柏紋の大社神紋は主に三つ柏紋8種に分類される。
これだけの「2種の大集団」を一つにしてシンジケート化すれば、「表の勢力」に比較できない程の「裏の勢力」が働く事は間違いない。「裏の勢力」であるが故に、室町政権から直接睨まれる事は無く、又大儀明文が無い為に出来ないであろう。
上記の経緯から、この時代の期間では、「他の氏の入れ替わり」が起こったにも拘らず、全体としての一門の「氏力」の推移は、平安期10%の「氏力」(基礎力)から苦難の中で鎌倉期では15%と維持し、その努力が生きて室町期(39)では全体では55%と拡大に繋がったものである。
これは平安期の藤原氏の赴任地豪族との「血縁戦略」が、時代の変化にも拘らず鎌倉期の群雄割拠の侍時代(土豪達)に、効を相して血縁族が台頭したものである。
それが室町期では、この台頭の血縁した土豪、地侍等が「勢力争い」に勝ち抜き一門が「氏力」を広げたと成る。
勿論、この土豪、地侍に秀郷一門が積極的に「武力と経済」で「裏打ち」したのは紛れもない事実であるが、終局、彼等の集団は「共通血縁族の主要8氏」と大豪族と成り得たのである。
この終局の室町期は「共通血縁族の主要8氏」がこの数字を作り得たものである。
その室町期の「氏力」の出来上がり具合は次のように成る。
2氏で59% 3氏で56% 4氏で53% 5氏で52%
この数字から観ると、5氏だけに拘らず青木氏と1氏までも50%台であり、”一門と血縁族全体が均一に「氏力」を固めた”と云う事であり、”取り残しは無い”事に成る。
”赴任地24地方の血縁族が全て生残り、尚且つ勢力を拡大した”と云う事は、如何に秀郷一門が強かったかを物語る。
この強さは当然に一門を指揮したからこそ強いのであるから、これは当然に青木氏の指揮如何に関わる事である。指揮のない「烏合集団」はやがて衰退するがこの「世の常道」である。
つまり、秀郷一門は「烏合集団」では無かった事を証明する。
これは後の時代に遺す「一門の絆」の強さを示すものである。
青木氏と他4氏との関わり具合が均一である事は、明らかに「血縁戦略」即ち「青木氏の指揮」が徹底していた証拠にも成る。
これでは、秀郷一門が時代に取り残されずに生抜けた事がこのデーターでも明確に解る。
安土桃山期に付いて
そして、その「氏力」が安土桃山時代ではその勢いが続き25%と氏力を維持させた。
多分、室町期の40%が無ければ、この高い「氏力形成25%」は無かったであろう。
この時代は「群雄割拠の時代」から「選別の時代」へと変化して行った時代である。
その中で「選別された豪族」(「共通血縁族の主要8氏」等)との血縁が結ばれ、主要5氏が時代に即応した「氏力」を培ったと言う事に成る。この事は主に「分家筋」との血縁を優先させた事が頷けるし、その証明に成る。
「共通血縁族の主要8氏」からそれを主軸として、更には「選別」により駆逐されてこれ等「枝葉の末裔末孫」の「横の血縁」を拡げたに他ならない。つまりは、鎌倉期に勢いのあった2氏(18%)のところまで主要4氏との血縁は進んだことを意味する。
普通、この時代は時代のめまぐるしい変化に即応出来ずに古い氏は全て衰退し消えて行った時代でもある。その中で生残れたのは、「時代の変化」に拘らず、これもH、K、M(55%)と「氏力」を即応させた結果による。
しかし、生き残れはしたが、秀吉には、史実上に記録されている氏として、豪族クラスでは、四国の讃岐藤氏一門、阿波の藤氏一門、伊勢の秀郷一門の青木氏、永嶋氏、伊藤氏、常陸の結城氏、小山氏、陸奥の結城氏等が多くの秀郷一門が潰された。数えられない程である。逆に、徳川叙封禄に記載されているもので、江戸初期には家康に依って潰された青木氏等の秀郷一門も多い。
多少の戦いはあったとしても、殆ど「選別」に類する衰退である。
(機会あれば何時か衰退した青木氏等のレポートもしたい)
安土桃山期に付いては上記した室町期から桃山期初期の秀郷一門の「生残りシステム」が効かなかったことに成る。
何故ならば、彼等二人はこの一門の「生残りシステム」を熟知し、真似をし、利用し、駆使したに過ぎない。
同じ「生残りの戦略」で対抗されれば、「時の勢い」の持ったものが勝つのが常道である。
違うものを持った同士の戦いであれば、「群雄割拠」であり、殺戮の少ない同じシステムの戦いであれば「選別」であろう。
しかし、ここで、特記する事は、秀郷一門の生き方の数式論である。
「生残りシステム」から「選別」が起こると差し引き残るものがある。
{秀郷一門}=「生残りシステム」-「選別」={時代の趨勢}
1 「生残りシステム」=「血縁戦略」+「経済(2足の草鞋策)」であった。
2 「生残りシステム」-「選別」=「経済(2足の草鞋策)」と成る。
3 「経済(2足の草鞋策)」は無傷である。
4 そうすると、「全秀郷一門」-「選別」=「選別された遺豪族」と成る。
5 故に、「経済(2足の草鞋策)」+「選別された遺豪族」と成る。
6 そこで、「経済(2足の草鞋策)」+「選別された遺豪族」=「共通血縁族の主要8氏」と成る。
結論は、”{力の着いた「共通血縁族の主要8氏」}が一門を支えた”と云う事になる。
しかし、これが選別後の江戸初期以降では、時代に即応して、6の数式論が大きく左右して末裔を遺し得たのである。
因みに、再び、筆者の伊勢青木氏を例に挙げると、この典型的な数式論が成立しているのである。
「伊勢攻め」即ち「天正伊賀の乱」と「伊勢永嶋の戦い」で、信長、秀吉と戦った。
この時、青木氏は名張城、青木山城、柏原城など3つの城と平城の松阪館から戦いを挑んだ。
信長は伊勢の入り口に丸山城を築く為に信長の次男信雄と滝川一益を差し向けた。
この時、伊勢の500年歴史を持つ豪商紙問屋青木長兵衛が陰で建築物資を抑えて高騰させ物資不足を作り出し伊勢シンジケートを動かしてゲリラ作戦を展開した。そして、高額築城費と長期間を費やさせやっと出来たその日にシンジケートに天守閣を爆破させて消失させた。信長は烈火の如く怒り、信雄を蟄居させる事になった。有名な史実である。一方この時、名張の城では、別の顔を持つ青木民部尉信定は無傷、紙問屋長兵衛の店も無傷で、次ぎの「伊賀攻め」に備えた。
その後、秀吉を先ず伊勢永嶋攻めに差し向けた。青木氏の手の内を知る秀吉は青木氏の陰の手口を封じて、材木を兵が切り裁き筏を組んで流したりして伊勢永嶋を攻めて北畠氏を潰した。次ぎにこの伊勢の背景を知る秀吉は、戦わずして勝つ戦法を使ってきた。藤原一門で清和源氏血筋も持つ蒲生高卿の子の歌人で軍師の蒲生氏郷を差し向けた。伊勢青木氏とは遠縁関係にあり縁故を使った。青木氏の背景を知る抜いている。戦うと両者ともに「シンジケート戦」で大きな犠牲を払う事に成る。青木長兵衛を説いた。条件を飲んだ。一端新宮に青木氏は引き上げた。
氏郷は有史来松阪に城を築いた。1年後に屋敷町に2区画を与えて青木氏を戻し松阪の一部と玉城町を与えた。そして、その経済力とシンジケートを氏郷は潰さずに利用した。
伊勢は発展した。その後、家康は関が原の戦いにその「経済力」と「シンジケートの力」を利用して合力した青木氏を氏郷と同様に無傷で青木氏を遺した。
この史実は、秀郷一門と同様に、上記の方程式の「必然の条理」の上にあった。
これはこの世の「必然の条理」に従った最高の戦略ではないか。秀郷一門はこの戦略に到達したからこそ子孫を大きく遺し得たのである。何をか況や、青木氏の指揮の下の所以である。
時代の状況:「群雄割拠の時代」から「選別の時代」
秀郷一門の状況:「共通血縁族の主要8氏」成長と「選別された遺豪族」「横の血縁}(分家筋)
江戸期に付いて
江戸時代に成ると、そして、その「必然の条理」の下に、江戸時代の藤原秀郷一門の主要5氏は多くはその背景を持つ事を重用されて大名、御家人、旗本に成った。
この時代は「戦国時代の終焉」を経て「江戸の安定期」に入ったが、逆に「氏と家紋」は爆発的に増加した。
(参考 氏数変化は家紋200選を参照 N40-H200-K800-M400-A1000-E2000-m8000)
この中には「家柄や身分」などが「出世や羽振り」等に必要と成り、こぞって自分のルーツの故古を持って名乗りを挙げた。この中には疑問のものも多いが20%台を維持して血縁関係を維持したのはこのブームの影響もあった。
つまり、室町期まで培った「正味の努力」の血縁で拡げたものとは異なるレベルである。所謂、江戸の「安定期」に起こる過去の「家柄の誇示」に過ぎない。
「安定期」のこの時代にはある意味では「戦略的血縁」を必要としている訳では無かった。
むしろ、「社会的必要性」(家柄)からの血縁ではあった。
しかし、ここで秀郷一門の「戦略的血縁」を必要としないからと云って、レベルが低く成っていた場合は、現在の青木氏等の主要5氏は無かったのではと考える。
「戦略的血縁」ではその勢いは息切れしたであろうし、一種の「接着剤的働き」をしていたと考えられる。この血縁は現在の青木氏を始めとして藤原一門の存続に大きく影響させた時代でもあった。
秀郷一門にとってはその「社会的必要性」(家柄)を元より踏襲する必要が無かった事によるもので、江戸の時代の「軽い風潮」に振り回されることが無かった事が幸いしたものであろう。
むしろ、「羨望の目」が向けられたし、この家柄が安定した「氏力」を保持していると評価されて認識されて、幕府や大名に仕官し、平安期と同じく再び高い位置を得た要因の一つと成り得たのである。
世間の中級以上の武士は、この安定期では、衰退した朝廷に媚入り金品を支払い、誰しもが一代限りの名前だけの官職や爵位を貰い獲得し名乗ると云う風潮がはびこった時代でもある。しかし、藤原氏はこの必要が無く元より永代の官職を保持している事から、鎌倉期の失職離散の憂き目や室町期の下克上での敵対視された時代と異なり、今度は逆に一門の末裔である事が効果的に働き続けた時代でもあった。このために末裔はその一門の「氏力」を期待されて、多くの新興勢力の大名に逆に抱えられて出世した時代でもあった。
これは、青木氏を中心に的確に「時代の先取り」を間違える事無く一門を指揮した為に、平安期から室町期までの上記した「血縁戦略」がやっと働いた事に成る。データはそれを物語っている。
そのA、Eでは、共に3氏4氏5氏の青木氏との「共通血縁」が同じ数字20%台と成っているが、青木氏から観ると、総じて”5氏間は70%台以上が同じ血縁族で占められていた”と言う事であり、平安期から江戸期まで次第に相互間の血縁を深めて行った事に成る。
普通ならば、「安定期」では、世間と同様に5%台程度の数字を示すのが当り前であったが、何れも20%台と言う高く巾のある「5氏の血縁力」(絆:結束力:氏力)を維持していた。
「家柄の誇示」等の「社会的必要性」(室町期から江戸にかけての風潮)と、地道な「秀郷一門の血縁戦略」に支えられた「氏力」が世間に受け入れらマッチングして2つの「相乗効果」を発揮したものであろう。
その典型的な時代は室町期の数字の通りであり、且つ「混乱期」にありながらより「5氏の血縁力」(絆:結束力:氏力:40%)を高めていたその時代性(難行苦行の努力)にあり、この事を物語る。
これは青木氏の一門に対する「指揮力」が在ったからこそ成し得たものであった。
そして、その「指揮力」は「5氏の血縁力」(絆:結束力:氏力)の裏づけにあった。
統一した指揮指導がなければ40%の「氏力」のこの様な数字は残せない。普通は5%台なのであるから。
「5氏の血縁力」(絆:結束力:氏力)とは云え、結束は緩むものであるのが世の常である。ましてや「安定期」である。しかし、25%程度の「血縁力」を生み出し、決して”緩んでいない”のである。誰かが中心に成ってリードしてこそのこの結果であろう。
私はそれが、「第2の宗家」の青木氏であると説いている。つまりは青木氏を中心として秀郷一門は「混乱期の余裕の不足」と「安定期の気の緩み」に2つに依って緩みかねない中で「氏家制度」を厳然と護っていた事の証しである。
そして、この90%にも達した(2氏3氏4氏5氏共に)「氏力」が突然ある磐が崩れる如く崩壊したのである。今度は、「2足の草鞋策」も全く効果がなく明治末期頃までに崩れ去ったのである。
その後の時代の経緯として、この結束は明治前夜の動乱に依って、「武士の体制」が壊れ、西欧化した「政治体制」が敷かれて、その基盤の「氏家制度」は崩壊して最早「血縁戦略」の意味が無くなり始めて一門は完全に離散したのである。その後、明治以降昭和20年頃までは、そう強くは無かったが、「社会慣習」として「家柄」だけは重んじられていた。その契機は終戦による「アメリカナイズ」により完全に社会から消え去ったのである。
むしろ昭和は「日本的伝統」さえも「自由主義」と「共産主義」とで社会に「罪悪感」がはびこり否定された時代であった。平成に入り世界第2位の経済力を確保して人の気持に余裕が生まれて「自然の確保」とそれに伴なってあらゆる「伝統」が見直される時代へと変化してきた。
最早、平成では、藤原一門の「景」は完全に消え去ったのである。
明治から100年を経ているが、後世から見た藤原秀郷一門の生き様はどの様に理解され検証されるのであろうか。多分、藤原秀郷一門青木氏などの歴史的史実は霧消しているだろう。
そこで、現在の社会体制の中では「家柄」「伝統」が大した経済的意味を持たないが、「心の伝統」(誇り)の持つ事の意味は「7つの民族」で構成される「融合単一民族」の日本社会にはあると信じている。
「7つの民族」「融合単一民族」=「伝統」と成る。これが「日本人」なのである。
故に「日本人」=あらゆる「伝統」である。
とすると、「三段論法」が是とするならば、故に、「日本人」-「伝統」=0であり、「日本人」から「伝統」を差し引けば何が残るだろう。
そして、もし「伝統」が認められるなら、「伝統」=「先祖」=「自分」=「尊厳 感謝」=「日本人の心」へと進化する。
もし、日本人を「骨抜き」にする事を目論むなら、数式から「伝統」をことごとく否定する事により潰せる事に成る。これが左傾主義者の「目論み」であろう。行く末「伝統」の破壊は「革命」であろう。故に我々「日本人」であり続けるためには、「伝統」の啓示にある。
その「伝統の啓示」は最早、今の時代のみしか無く成っている。次世代では史料もさることながら「心の伝統」も蘇させる事は無理であろう。「時代の動きとウネリ」は計り知れないほど大きい。せめて、筆者は青木氏の子孫の一部にでも遺したいと考えていてこの史料関係の提供と成っている。
(参考 子孫は血液型が同じであれば、遺伝子的には85-95%が同じなのである。故に、自分*0.85=子供 の数式が成立する。故に、先祖=自分=子孫 の数式が成立する。)
さて、次ぎは秀郷主要5氏に関わる「共通血縁族」の比率である。
青木氏とどの主要4氏がどの様に一番関わっていたのかの検証史料である。
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藤原秀郷主要5氏と家紋の研究-史料 7/10 (時代の変化に対する特長)
Re: 藤原秀郷主要5氏と家紋の研究-史料 7/10 (時代の変化に対する特長)
史料 7/10(主要5氏の時代性の分析)
青木氏との関係を「時代性」から観て、どの様に変化しているか、その特長を分析する。
この事から、その氏の発祥時期や氏の置かれている立場などの総括的な活躍具合が観えて来る。
(これ等は青木氏と4氏と関係の「本文の考察」の基史料と成る。)
判りやすくする為に次ぎの記号を用いる。
H:平安時代前期 K:鎌倉時代 M:室町時代 A:安土桃山時代 E:江戸時代
(一つの家紋は幾つかの時代を重複して計算している。)
「作成要領」
主要5氏各氏の家紋群を上記5つの時代に分け、その家紋群の一つ一つの発祥を分類し、一つの家紋に1ポイントを与える。
但し、一つの家紋が時代を跨るものもある。
家紋になる過程は「家紋200選」にある様な主要な家紋は、象徴-ステイタス-物象-具象-宗匠-家紋などの過程を踏むが、いきなり家紋に成るもの等多種多彩である。
又、また家紋の種類(瑞祥象徴等)もありかなり難しい。一つの家紋でも本家、分家、分流、分派等の家紋の変化と経緯と由来もあり、それらにも配慮してポイントを割り振った。
(注)
室町期(M)までの家紋群には上記の「経緯」とか「由来」を正確に持つが、安土桃山期、江戸期の家紋にそれらのものが殆ど無く「類似家紋」のものが多い。
特に江戸期初期の家紋には、殆どこの「類似家紋」が多く時代性の特定は容易である。
また古い滅びた氏の家紋を持ち出して「経緯と由来」に一致せず自前の家紋とした搾取偏纂も多い。
この辺も考慮して割り振った。従って、このポイントは数値そのものに意味を持たないレベルを表すデシベル(dB)とする。
史料
「時代性から観て家紋の分布」
長谷川氏 長沼氏 永嶋氏 進藤氏 青木氏
H:4 11% H:3 13% H:2 08% H:4 13% H:7 03%
K:1 03% K:1 04% K:1 04% K:1 03% K:20 10%
M:15 39% M:9 39% M:11 46% M:10 31% M:81 39%
A:9 24% A:6 26% A:5 21% A:7 22% A:55 26%
E:9 24% E:4 17% E:5 21% E:10 31% E:47 22%
(謝:画面のズレはソフトの関係)
「時代性」の考察
先ず、H、Kの時代から考察する。
「青木氏」は2代目の千国を元祖とする発祥であり、「第2の宗家」であったことを物語る様に、他の4氏とはHとKが比べ物に成らない程に8倍を有し全体の家紋数(27)を保持している。
Hでは3%で低く、Kは特に10%と高い。
氏数では多いのであるが、これは平安末期から鎌倉期にかけて秀郷一門の「失職離散」の時期でもあり苦しい時期でもあった中で、「第2の宗家」として、藤原一門の氏を守らんとして働いたことを示す苦しさを示す数字である。
特に、逆にHの数字(3%)が低いのは、当時、青木氏との「血縁を進める相手」の問題があったと考えられる。
ながでも「氏家制度」の「身分家柄の吊りあい」の取れた血縁相手が少なかった事にもより、又、純血を守る「同族(属)血縁」を主体とした「奈良時代の高位の習慣」が色濃く残っていた時代でもあった。
これが青木氏に大いに働いたのであろう。何せ、「第2の宗家」でもある。宗家としての立場もあったであろう。他の4氏と同じようには行かない自由の効かない事情もあったのであろう。
逆に言えば、他の4氏と「同属血縁」する事により、「間接的に新しい血」を取り入れていた事をも意味するものである。
「共通血縁数」の数値が、他の氏と異なり8倍ほどに段突に高いのは、上記の理由から「同属血縁」を推し進めた証でもある。
H、Kの時代は氏数も少ない中でも高いものである事から、Kの10%は全国の氏数が200から800に変化した様に、4倍の変化からするとこの10%は40%に相当する。
これは、他の時期の数字から観てもピークに相当する数字であるので、大いに努力をし苦労した事を意味するものである。
何をか況や、これは「第2の宗家」としての「本当の実力の本領発揮」を示すものである。
全体的には、H、Kでは青木氏の努力の証明から勘案しても、全氏とも12-17%に入るが、これは5氏が「一致協力(絆)」して頑張ったことを示すものである。
これはまさしく青木氏の秀郷一門に対する「体制固め」を主要5氏に対して均等に図ったことを示すものである。
数字が示すもの
「同属血縁」、「本領発揮」、「体制固め」
しかし、その中で「長沼氏」と「進藤氏」は若干高めを推移している。
これはどのようなことを意味するのか多少考察しておく必要がある。
特長としては、「長沼氏」と「進藤氏」は「発祥」が「先発」で速いために矢張りHでは13%と高い。これが原因しているのであろう。
「発祥」が早いと言う事は、それなりに「積み重ねた勢力」を築いていた事を示す為に血縁の機会を拡げる事が出来たのであろう。
その証拠に、逆に「長谷川氏」と「永嶋氏」は「後発」であるので3%は高くは無い。論理が一致する。
つまり、「発祥時期」即ち「勢力圏」がこの時期では大きく働いていた事を示すものである。
では”その血縁はどのようなものであったのか”を考察する事も必要である。
この時代の数字は「同族内での血縁」でも数字が出来ているのである。
この時代はまだ、社会全体の「氏数」が低く、青木氏を除いて、4氏の数字としてはそれ相当の意味を持っている。
鎌倉時代は進んで「氏数」も増えたが、ここでは平安期に較べても数字は低い。
更に、このH期は、主要5氏共にH、Kと合わせて(12-17%)で「京平家」との軋轢の中でも氏を次第に固め始めている時期でもある。
主要5氏ともに、鎌倉期Kは対抗する「平家が滅亡した」となったとしても、反面、矢張り、鎌倉幕府樹立で「失職離散期」であり「苦難の時期」で有った事には変わりは無い。
本来なら「平家滅亡」で数字は上がる筈である。しかし、それ以上に「失職離散」のマイナス要因が大きく働いたと云う事であり、結果として、「氏数と血縁数」は当然に低くなった事を示すものである。
「平家の影響」によるものより、矢張り、「失職離散の影響」の方が影響が大きかったことを示すこの数字は、この「失職離散」期の子孫を広げる事どころか失う方が大きかったほどの「大苦労」が襲ったことが解る。しかし、この大苦労が後の「子孫繁栄の礎基」と成ったと観られる。
私は今ある現在の苦労を考える時、この時期の先祖を理解して、この時期の苦労を思い起こして将来に鑑みて頑張っている。
何時か未来の子孫がこの様に考察するとき、「平成期の先祖」としての印象に成る事を期待している。これが先祖に残す「先祖が居て現在の自分がある。先祖への敬いと伝統」との最大のメッセージであり、我々も平安鎌倉期の先祖の苦労を思い起こすように。私事ながらこれ等の史料を由来書に書き記したものである。
数字が示すもの
(「平家滅亡」)-(「失職離散」+「侍の時代」)「2重苦難の時期」=「子孫繁栄の礎」
さて、この事はさて置き、室町、安土桃山期の戦乱期でさえこの大苦労が実を結ぶのである。
本来であれば、更に鎌倉期より氏の入れ替えが起こり、尚且つ、既成勢力の藤原一門を狙い撃ちにされたにも拘らず、「子孫繁栄」に大きく影響した「下克上、戦国時代」に、更に翻弄されて、数字は間違いなく下がった筈である。
しかし、それにも拘らず違っているのである。
M、Aの時代
Mでは、永嶋氏と進藤氏を除く3氏は39%で「失職離散」の苦難の時代から脱出してやっとその勢力を伸ばし始めている。
その中でも、「後発」の永嶋氏は「関東屋形」(結城氏、小山氏、宇都宮氏、佐竹氏)と呼ばれる様に佐野氏流と結城流からと氏を二つに分けて勢力を「氏力」の半分を占めるほどに伸ばしている。
これに対照的に、「先発」の進藤氏は秀郷流と利仁流からとこれも氏を二つに分けているが、「氏力」は他の4氏と較べると低い。これは他の4氏の間では「接着剤的働き」に専念し勢力圏を思う存分に広げる事が出来なかったである。
また、秀郷流進藤氏はその「末裔の跡目」に代々恵まれなかった事が起因している。データーもそのように成っている。
進藤氏は他の4氏に較べて、別の方へ勢力(接着剤的働き)を注ぎ、軍事、経済、政治的な「基礎的な戦略的」が徹底されていなかった事によるものである。この「3重苦難の時期」に主要5氏にさすがは「明暗の変化」を与えた。
勿論「第2の宗家」青木氏の補完はあったのであり、主要5氏として遺し得たのであるが。
数字が示すもの
「2重苦難の時期」+「下克上、戦国時代」=「3重苦難の時期」 -「主要5氏に明暗変化」
Aでは、5氏共に「戦乱の終焉期」でありながら、同率(21-26)でありよく氏力を固めている。室町期では進藤氏が、安土桃山期では永嶋氏が史実通りやや息切れ状態ではあるが。
実は、この時、皇族賜姓青木氏、及び、藤原秀郷流青木氏は西軍と東軍に分かれて戦った。
子孫を遺すにはやむ終えない仕儀であったと考えられ、それなりの「氏力」を形成している以上避ける事は不可能であった。例え中立で居られたとしても戦いが終わった勝者の戦後処理では子孫存続は不可能であった筈でこれはこの世の条理である。
史実は、この二つの青木氏を見てみると真田氏の様に本家分家で仕儀無く二つに分けて戦っている。
この時期は「戦いによる子孫存続の可否」もさる事ながら、どちらに味方するかの天下分け目の戦いに「選択による子孫存続の可否」も大きく左右した時代でもあった。
生死を伴なう「戦いによる子孫存続の可否」+生死を伴なわない「選択による子孫存続の可否」の「2重苦の時代」でもあった。
「戦う」と言う事ではその「戦術の駆使」で臨めばよいが、「選択」と言う事で「子孫存続」を決めると言う事は「至難の業」である。最早、殆ど「賭け」であっただろう。
故に、高い確率で子孫を遺せる方法として藤原一門は「本家分家の選択」で臨んだのだ。
だから、永嶋氏や長沼氏の様に分家筋が多いのはこの事の原因によると観られる。
ただ、徳川幕府後の青木氏等の本家分家の比率を調査したが確実な答えは出なかった。
しかし、感じとしては家紋類から観て矢張り「分家筋」が多い感じがする。
確証は出来ないが数字としては青木氏は83/121=69%に成った。
当時、感覚的には社会現象として、庶民の中では、強弱は別として「軍勢の差」と「豊臣政権に対する保守的思考」が働いていたのではと考える。
大豪族は別として、全国各地の一般的な豪族の分家筋は自分達も室町期に立身出世したこともあり、「立身出世の星」の豊臣政権に期待したのではと考える。
現実は小説や伝説などの説とは少し違うのではと観ている。家紋から観ると間違いなく通説と異なる。
「通説」と「家紋説」のどちらが正しいかの検証は難しい。
藤原秀郷主要5氏の家紋から観ると分家筋が60-70%と成り、通説と異なる。
通説と異なるのは藤原一門だけが分家筋に偏ったととも考えられる。
その理由は、商業に長けた豊臣政権ならではの「2足の草鞋」策が働いたと観ているのである。
史実では、関西の堺、摂津、伊勢、近江、瀬戸内などの豪商は二つに分かれたと成っているし、藤原秀郷一門の本拠地の関東の豪商では徳川側に傾いたからである。
つまり、関西では割れた事、「2足の草鞋策」を採った秀郷一門の豪商の多くは関西に在った。
「戦い」は「武力」だけでは戦えない。「経済力」なくした絶対に勝利は無い。年貢だけではせいぜい生活が限度である。そこに、「戦いの戦費」と成ると、別の所から補う必要がある。
当時の戦いの「手弁当の掟」から、”軍事費用(戦費)の「経費負担」はこの「2足の草鞋策」の豪商から出ていた”とし、その「豪商の発言力」が左右したのではと観られる。
況や、この豪商の主体は「第2の宗家」の「青木氏の発言力」に有ったからである。
「2足の草鞋策」を持つ「讃岐籐氏」の青木氏と、四国の豪族の藤原一門の長曾我部氏等の末裔は、四国では秀吉と戦っている事からも、藤原秀郷一門の特長であったと観られる。
血縁を結んでいる伊勢青木氏を始めとする5家5流の賜姓族青木氏と、その「2足の草鞋策」の豪商の全ては徳川方に味方した。その為に、関西の5地方の港を抑えていた商業に長けた豊臣政権に対抗して、家柄、身分から観て、その「2足の草鞋策」の青木氏の豪商は、徳川氏に味方し、その発言力を保守的な本家筋を避け分家筋に向けていたと観られる。
平安、鎌倉期の「失職離散、氏家制度の影響」と、室町期の「下克上、戦国時代の血縁戦略の良悪」と異なり、この時の時代背景(2極体制下、「2足の草鞋策」の経済力、賭け)が数字に、即ち子孫繁栄に大きく左右した時代でもあった。
平安鎌倉期は「失職離散、氏家制度の影響」
室町期は「下克上、戦国時代の血縁戦略の良悪」
安土桃山期は「2極体制下、2足の草鞋策の経済力、賭け」
Eでは、混乱から安定期に入り、青木氏は当然として、「後発」の2氏の長谷川氏と永嶋氏は20%程度である。江戸幕府の御家人、旗本に成り子孫を遺す為に勢力を懸命に維持した時代である。その苦労が数字で物語っている。
ここでは進藤氏が高い「氏力」を示している。これはMでの伸び切れなかった「氏力」をここで伸ばしているのである。
「接着剤的働き」がここに来て花を咲かしたと云う事になり、他の4氏と違う「生残り戦略」を採った結果による。
進藤氏が室町期に足利氏に大老として入り各地、特に北陸道以北に領国を持ち、その戦乱の影響を最小限に抑えた結果、江戸期に入って、その力をその遺された力を遺憾なく発揮したのである。
その証拠に、逆の現象を起こした中部にその勢力を温存していた先発の長沼氏は、低い「氏力」を示している。「生残り戦略」を前半に採った事に依る。
つまり、平安鎌倉期の「高位の氏との血縁」を主体としていたが、江戸期には「戦乱後の立身出世の豪族」との入れ替わりの時代と成り、その時代の趨勢に乗れなかった結果でもある。
「高位の氏との血縁」から「戦乱後の立身出世の豪族」に変化
しかし、全体を観ても判る様に、青木氏は他の4氏の「標準的氏力」を示している。
夫々の「時代性」に対応して「血縁戦略」を採っている事を物語っている。
その苦労が読み取れる。
これは、矢張り、藤原秀郷一門を指揮するその立場(第2の宗家)から来ているのでは無いかと観られる。極端な戦略は取れない立場で、且つ生残れなくては成らない宿命があった事に依る。
しかし、時代を通じてところがこれが相して現代に我々子孫が現存する結果と成ったのである。
このデータはその時の「時代の背景」とデータを突き合せてみると、先祖の生き様がこの様に良く見えてくる。
史料7/10は、この様に他に多くのことの分析に使用する事が出来るので利用されたい。
このデータは主要5氏の分析考察の確証となるものである。
名前 名字 苗字 由来 ルーツ 家系 家紋 歴史ブログ⇒
史料 7/10(主要5氏の時代性の分析)
青木氏との関係を「時代性」から観て、どの様に変化しているか、その特長を分析する。
この事から、その氏の発祥時期や氏の置かれている立場などの総括的な活躍具合が観えて来る。
(これ等は青木氏と4氏と関係の「本文の考察」の基史料と成る。)
判りやすくする為に次ぎの記号を用いる。
H:平安時代前期 K:鎌倉時代 M:室町時代 A:安土桃山時代 E:江戸時代
(一つの家紋は幾つかの時代を重複して計算している。)
「作成要領」
主要5氏各氏の家紋群を上記5つの時代に分け、その家紋群の一つ一つの発祥を分類し、一つの家紋に1ポイントを与える。
但し、一つの家紋が時代を跨るものもある。
家紋になる過程は「家紋200選」にある様な主要な家紋は、象徴-ステイタス-物象-具象-宗匠-家紋などの過程を踏むが、いきなり家紋に成るもの等多種多彩である。
又、また家紋の種類(瑞祥象徴等)もありかなり難しい。一つの家紋でも本家、分家、分流、分派等の家紋の変化と経緯と由来もあり、それらにも配慮してポイントを割り振った。
(注)
室町期(M)までの家紋群には上記の「経緯」とか「由来」を正確に持つが、安土桃山期、江戸期の家紋にそれらのものが殆ど無く「類似家紋」のものが多い。
特に江戸期初期の家紋には、殆どこの「類似家紋」が多く時代性の特定は容易である。
また古い滅びた氏の家紋を持ち出して「経緯と由来」に一致せず自前の家紋とした搾取偏纂も多い。
この辺も考慮して割り振った。従って、このポイントは数値そのものに意味を持たないレベルを表すデシベル(dB)とする。
史料
「時代性から観て家紋の分布」
長谷川氏 長沼氏 永嶋氏 進藤氏 青木氏
H:4 11% H:3 13% H:2 08% H:4 13% H:7 03%
K:1 03% K:1 04% K:1 04% K:1 03% K:20 10%
M:15 39% M:9 39% M:11 46% M:10 31% M:81 39%
A:9 24% A:6 26% A:5 21% A:7 22% A:55 26%
E:9 24% E:4 17% E:5 21% E:10 31% E:47 22%
(謝:画面のズレはソフトの関係)
「時代性」の考察
先ず、H、Kの時代から考察する。
「青木氏」は2代目の千国を元祖とする発祥であり、「第2の宗家」であったことを物語る様に、他の4氏とはHとKが比べ物に成らない程に8倍を有し全体の家紋数(27)を保持している。
Hでは3%で低く、Kは特に10%と高い。
氏数では多いのであるが、これは平安末期から鎌倉期にかけて秀郷一門の「失職離散」の時期でもあり苦しい時期でもあった中で、「第2の宗家」として、藤原一門の氏を守らんとして働いたことを示す苦しさを示す数字である。
特に、逆にHの数字(3%)が低いのは、当時、青木氏との「血縁を進める相手」の問題があったと考えられる。
ながでも「氏家制度」の「身分家柄の吊りあい」の取れた血縁相手が少なかった事にもより、又、純血を守る「同族(属)血縁」を主体とした「奈良時代の高位の習慣」が色濃く残っていた時代でもあった。
これが青木氏に大いに働いたのであろう。何せ、「第2の宗家」でもある。宗家としての立場もあったであろう。他の4氏と同じようには行かない自由の効かない事情もあったのであろう。
逆に言えば、他の4氏と「同属血縁」する事により、「間接的に新しい血」を取り入れていた事をも意味するものである。
「共通血縁数」の数値が、他の氏と異なり8倍ほどに段突に高いのは、上記の理由から「同属血縁」を推し進めた証でもある。
H、Kの時代は氏数も少ない中でも高いものである事から、Kの10%は全国の氏数が200から800に変化した様に、4倍の変化からするとこの10%は40%に相当する。
これは、他の時期の数字から観てもピークに相当する数字であるので、大いに努力をし苦労した事を意味するものである。
何をか況や、これは「第2の宗家」としての「本当の実力の本領発揮」を示すものである。
全体的には、H、Kでは青木氏の努力の証明から勘案しても、全氏とも12-17%に入るが、これは5氏が「一致協力(絆)」して頑張ったことを示すものである。
これはまさしく青木氏の秀郷一門に対する「体制固め」を主要5氏に対して均等に図ったことを示すものである。
数字が示すもの
「同属血縁」、「本領発揮」、「体制固め」
しかし、その中で「長沼氏」と「進藤氏」は若干高めを推移している。
これはどのようなことを意味するのか多少考察しておく必要がある。
特長としては、「長沼氏」と「進藤氏」は「発祥」が「先発」で速いために矢張りHでは13%と高い。これが原因しているのであろう。
「発祥」が早いと言う事は、それなりに「積み重ねた勢力」を築いていた事を示す為に血縁の機会を拡げる事が出来たのであろう。
その証拠に、逆に「長谷川氏」と「永嶋氏」は「後発」であるので3%は高くは無い。論理が一致する。
つまり、「発祥時期」即ち「勢力圏」がこの時期では大きく働いていた事を示すものである。
では”その血縁はどのようなものであったのか”を考察する事も必要である。
この時代の数字は「同族内での血縁」でも数字が出来ているのである。
この時代はまだ、社会全体の「氏数」が低く、青木氏を除いて、4氏の数字としてはそれ相当の意味を持っている。
鎌倉時代は進んで「氏数」も増えたが、ここでは平安期に較べても数字は低い。
更に、このH期は、主要5氏共にH、Kと合わせて(12-17%)で「京平家」との軋轢の中でも氏を次第に固め始めている時期でもある。
主要5氏ともに、鎌倉期Kは対抗する「平家が滅亡した」となったとしても、反面、矢張り、鎌倉幕府樹立で「失職離散期」であり「苦難の時期」で有った事には変わりは無い。
本来なら「平家滅亡」で数字は上がる筈である。しかし、それ以上に「失職離散」のマイナス要因が大きく働いたと云う事であり、結果として、「氏数と血縁数」は当然に低くなった事を示すものである。
「平家の影響」によるものより、矢張り、「失職離散の影響」の方が影響が大きかったことを示すこの数字は、この「失職離散」期の子孫を広げる事どころか失う方が大きかったほどの「大苦労」が襲ったことが解る。しかし、この大苦労が後の「子孫繁栄の礎基」と成ったと観られる。
私は今ある現在の苦労を考える時、この時期の先祖を理解して、この時期の苦労を思い起こして将来に鑑みて頑張っている。
何時か未来の子孫がこの様に考察するとき、「平成期の先祖」としての印象に成る事を期待している。これが先祖に残す「先祖が居て現在の自分がある。先祖への敬いと伝統」との最大のメッセージであり、我々も平安鎌倉期の先祖の苦労を思い起こすように。私事ながらこれ等の史料を由来書に書き記したものである。
数字が示すもの
(「平家滅亡」)-(「失職離散」+「侍の時代」)「2重苦難の時期」=「子孫繁栄の礎」
さて、この事はさて置き、室町、安土桃山期の戦乱期でさえこの大苦労が実を結ぶのである。
本来であれば、更に鎌倉期より氏の入れ替えが起こり、尚且つ、既成勢力の藤原一門を狙い撃ちにされたにも拘らず、「子孫繁栄」に大きく影響した「下克上、戦国時代」に、更に翻弄されて、数字は間違いなく下がった筈である。
しかし、それにも拘らず違っているのである。
M、Aの時代
Mでは、永嶋氏と進藤氏を除く3氏は39%で「失職離散」の苦難の時代から脱出してやっとその勢力を伸ばし始めている。
その中でも、「後発」の永嶋氏は「関東屋形」(結城氏、小山氏、宇都宮氏、佐竹氏)と呼ばれる様に佐野氏流と結城流からと氏を二つに分けて勢力を「氏力」の半分を占めるほどに伸ばしている。
これに対照的に、「先発」の進藤氏は秀郷流と利仁流からとこれも氏を二つに分けているが、「氏力」は他の4氏と較べると低い。これは他の4氏の間では「接着剤的働き」に専念し勢力圏を思う存分に広げる事が出来なかったである。
また、秀郷流進藤氏はその「末裔の跡目」に代々恵まれなかった事が起因している。データーもそのように成っている。
進藤氏は他の4氏に較べて、別の方へ勢力(接着剤的働き)を注ぎ、軍事、経済、政治的な「基礎的な戦略的」が徹底されていなかった事によるものである。この「3重苦難の時期」に主要5氏にさすがは「明暗の変化」を与えた。
勿論「第2の宗家」青木氏の補完はあったのであり、主要5氏として遺し得たのであるが。
数字が示すもの
「2重苦難の時期」+「下克上、戦国時代」=「3重苦難の時期」 -「主要5氏に明暗変化」
Aでは、5氏共に「戦乱の終焉期」でありながら、同率(21-26)でありよく氏力を固めている。室町期では進藤氏が、安土桃山期では永嶋氏が史実通りやや息切れ状態ではあるが。
実は、この時、皇族賜姓青木氏、及び、藤原秀郷流青木氏は西軍と東軍に分かれて戦った。
子孫を遺すにはやむ終えない仕儀であったと考えられ、それなりの「氏力」を形成している以上避ける事は不可能であった。例え中立で居られたとしても戦いが終わった勝者の戦後処理では子孫存続は不可能であった筈でこれはこの世の条理である。
史実は、この二つの青木氏を見てみると真田氏の様に本家分家で仕儀無く二つに分けて戦っている。
この時期は「戦いによる子孫存続の可否」もさる事ながら、どちらに味方するかの天下分け目の戦いに「選択による子孫存続の可否」も大きく左右した時代でもあった。
生死を伴なう「戦いによる子孫存続の可否」+生死を伴なわない「選択による子孫存続の可否」の「2重苦の時代」でもあった。
「戦う」と言う事ではその「戦術の駆使」で臨めばよいが、「選択」と言う事で「子孫存続」を決めると言う事は「至難の業」である。最早、殆ど「賭け」であっただろう。
故に、高い確率で子孫を遺せる方法として藤原一門は「本家分家の選択」で臨んだのだ。
だから、永嶋氏や長沼氏の様に分家筋が多いのはこの事の原因によると観られる。
ただ、徳川幕府後の青木氏等の本家分家の比率を調査したが確実な答えは出なかった。
しかし、感じとしては家紋類から観て矢張り「分家筋」が多い感じがする。
確証は出来ないが数字としては青木氏は83/121=69%に成った。
当時、感覚的には社会現象として、庶民の中では、強弱は別として「軍勢の差」と「豊臣政権に対する保守的思考」が働いていたのではと考える。
大豪族は別として、全国各地の一般的な豪族の分家筋は自分達も室町期に立身出世したこともあり、「立身出世の星」の豊臣政権に期待したのではと考える。
現実は小説や伝説などの説とは少し違うのではと観ている。家紋から観ると間違いなく通説と異なる。
「通説」と「家紋説」のどちらが正しいかの検証は難しい。
藤原秀郷主要5氏の家紋から観ると分家筋が60-70%と成り、通説と異なる。
通説と異なるのは藤原一門だけが分家筋に偏ったととも考えられる。
その理由は、商業に長けた豊臣政権ならではの「2足の草鞋」策が働いたと観ているのである。
史実では、関西の堺、摂津、伊勢、近江、瀬戸内などの豪商は二つに分かれたと成っているし、藤原秀郷一門の本拠地の関東の豪商では徳川側に傾いたからである。
つまり、関西では割れた事、「2足の草鞋策」を採った秀郷一門の豪商の多くは関西に在った。
「戦い」は「武力」だけでは戦えない。「経済力」なくした絶対に勝利は無い。年貢だけではせいぜい生活が限度である。そこに、「戦いの戦費」と成ると、別の所から補う必要がある。
当時の戦いの「手弁当の掟」から、”軍事費用(戦費)の「経費負担」はこの「2足の草鞋策」の豪商から出ていた”とし、その「豪商の発言力」が左右したのではと観られる。
況や、この豪商の主体は「第2の宗家」の「青木氏の発言力」に有ったからである。
「2足の草鞋策」を持つ「讃岐籐氏」の青木氏と、四国の豪族の藤原一門の長曾我部氏等の末裔は、四国では秀吉と戦っている事からも、藤原秀郷一門の特長であったと観られる。
血縁を結んでいる伊勢青木氏を始めとする5家5流の賜姓族青木氏と、その「2足の草鞋策」の豪商の全ては徳川方に味方した。その為に、関西の5地方の港を抑えていた商業に長けた豊臣政権に対抗して、家柄、身分から観て、その「2足の草鞋策」の青木氏の豪商は、徳川氏に味方し、その発言力を保守的な本家筋を避け分家筋に向けていたと観られる。
平安、鎌倉期の「失職離散、氏家制度の影響」と、室町期の「下克上、戦国時代の血縁戦略の良悪」と異なり、この時の時代背景(2極体制下、「2足の草鞋策」の経済力、賭け)が数字に、即ち子孫繁栄に大きく左右した時代でもあった。
平安鎌倉期は「失職離散、氏家制度の影響」
室町期は「下克上、戦国時代の血縁戦略の良悪」
安土桃山期は「2極体制下、2足の草鞋策の経済力、賭け」
Eでは、混乱から安定期に入り、青木氏は当然として、「後発」の2氏の長谷川氏と永嶋氏は20%程度である。江戸幕府の御家人、旗本に成り子孫を遺す為に勢力を懸命に維持した時代である。その苦労が数字で物語っている。
ここでは進藤氏が高い「氏力」を示している。これはMでの伸び切れなかった「氏力」をここで伸ばしているのである。
「接着剤的働き」がここに来て花を咲かしたと云う事になり、他の4氏と違う「生残り戦略」を採った結果による。
進藤氏が室町期に足利氏に大老として入り各地、特に北陸道以北に領国を持ち、その戦乱の影響を最小限に抑えた結果、江戸期に入って、その力をその遺された力を遺憾なく発揮したのである。
その証拠に、逆の現象を起こした中部にその勢力を温存していた先発の長沼氏は、低い「氏力」を示している。「生残り戦略」を前半に採った事に依る。
つまり、平安鎌倉期の「高位の氏との血縁」を主体としていたが、江戸期には「戦乱後の立身出世の豪族」との入れ替わりの時代と成り、その時代の趨勢に乗れなかった結果でもある。
「高位の氏との血縁」から「戦乱後の立身出世の豪族」に変化
しかし、全体を観ても判る様に、青木氏は他の4氏の「標準的氏力」を示している。
夫々の「時代性」に対応して「血縁戦略」を採っている事を物語っている。
その苦労が読み取れる。
これは、矢張り、藤原秀郷一門を指揮するその立場(第2の宗家)から来ているのでは無いかと観られる。極端な戦略は取れない立場で、且つ生残れなくては成らない宿命があった事に依る。
しかし、時代を通じてところがこれが相して現代に我々子孫が現存する結果と成ったのである。
このデータはその時の「時代の背景」とデータを突き合せてみると、先祖の生き様がこの様に良く見えてくる。
史料7/10は、この様に他に多くのことの分析に使用する事が出来るので利用されたい。
このデータは主要5氏の分析考察の確証となるものである。
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