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藤原秀郷主要5氏と家紋の研究-進藤氏との関係

藤原秀郷主要5氏と家紋の研究-進藤氏との関係

先発進藤氏に付いては次ぎのレポートで延べる。

本文では、藤原秀郷一門の主要5氏の永嶋氏、長沼氏、長谷川氏と青木氏の関係を述べて来たが、最後は進藤氏である。
夫々3氏は特長ある氏力を持って青木氏と関わって来た。そして、その中で、比較対象として進藤氏の事にも触れてた。ここでは、それ以外の特に主な役割に付いて述べるとする。
次ぎの進藤氏も例外ではなく、極めてはっきりとした特長を持っている。そして、その特長はその「氏力」に合わした重要な役割を演じている。
では先ずは家紋群から入るとする。

文行流の進藤氏48家紋は次の様な血縁族となる。

血縁族の家紋類
(以下第3の進藤氏の家紋含む)
(・印 家紋200選 23/48 48%) 

・上り藤、・下がり藤、左藤巴、かに藤
・笹竜胆
・橘、・丸に橘
・蔦、・丸に蔦、丸に鬼蔦、丸に陰蔦
・丸に剣片喰、・丸に片喰、隅切り角に剣片喰
・丸に桔梗、太田桔梗、五瓜に桔梗
・丸に梅鉢
・丸に立ち沢瀉
・丸に三つ柏
・丸に違い鷹の羽、丸に並び鷹の羽、藤の輪に違い鷹の羽
・抱き茗荷
・丸に二つ引き
・九枚笹
・九曜
・三つ鱗
・左三つ巴、・左二つ巴、左二つ丁字巴
・丸に雁金、丸に対噛合い雁金
・三階菱、丸に花菱
・五三の桐
丸に釘抜き
丸に横木瓜
亀甲に三つ星
茶の実、丸に茶の実
丸に木の字
丸に宋の字
抱き柊
組井桁に花菱
井桁に違い扇
丸に隅立て井筒
浮線菊十六菊

29氏の分類である。

進藤氏の血縁族の考察

さて、進藤氏の考察に付いては、青木氏を中心に主要3氏の考察をして来た中で、概ねは比較対照として述べて来たが、主要5氏は夫々の立場などを生かして特長ある血縁戦略を採っている。
その中で、進藤氏は秀郷流から外れて利仁流にも進藤氏も発祥させている。
これが最も他の主要4氏と違う所ではないかと考えられる。
永嶋氏は兼光流の中での2流を発祥させている。
青木氏には利仁流があるとされているが、これは室町期の混乱期の搾取偏纂である事が高い。
長沼氏は中沼氏等を発祥させているが兼光流を越えていない。
長谷川氏は自らの氏の勢力拡大と兼光流の3氏中でも青木氏との関係を強く維持したのである。
勿論、文行流の主導者としての長谷川氏は、兼光流の主導者としての青木氏の立場と同様に、利仁流進藤氏(為輔)との関係も維持したのであった。(利仁流一族との血縁は直接は持っていない。)

元々、進藤氏は下記に詳細を記するが秀郷流からの発祥であり利仁流との次ぎの様な縁で末裔が拡がったものである。
この進藤氏は利仁流から進藤氏を発祥させている事の意味は大きいので特記する。
単純に利仁流進藤氏と言う事だけではない。これは血縁戦略の重要な一つである。
つまり、関東に勢力を持つ兼光流と文行流を持つ秀郷一門と、同じ地域に勢力圏を持つ藤原北家利仁流一門とを固める大きな要素に成っているのである。
利仁流と秀郷流を両方の進藤氏の仲介で結びつける事は、より強固に北家一門が固まる事になり、その「接着剤的働き」をする事に成る。
まして、利仁流は秀郷一門の「鎮守府将軍」も歴任する等「同じ地域」でも「同じ環境」に繁栄している。利仁流に付いての赴任地を見てみても2地域に限定はされているが秀郷一門と余り代わらない位である。
「藤原秀郷一族の赴任地と発祥氏と主要五氏 」を参照して観てもかなりの多くの赴任地を占めている。それも代々の赴任地である。
因みに、そこで重要な関係であるので、利仁流との関係に付いて先に少し述べる事とする。

先ず次ぎの様に成る。
赴任地とは云え「藤原氏の血縁戦略」として「土地に子孫を遺す」と云う事から、当然に次ぎの土地にも子孫を多く遺している事に成る。
赴任地は「藤原氏の血縁戦略」の最たるものでもあるので、これ等の検証を先ず進めると何かが見えてくる筈である。

利仁流の赴任地は次ぎの通りである。
豊後2人、5、12代目
豊前1人 5、(15)代目 
筑前4人、19、20、20、21代目
陸奥2人、1、2代目
加賀8人、5、7、8、11、12、13、14、15代目
能登2人、14、17、(26)代目
越前7人、7、10、11、13、14、20、20代目
越中4人、12、13、14、20代目
越後1人、10代目
相模1人、15代目
隠岐1人、12代目
肥後1人、22代目
飛騨1人、22代目
出羽2人、5、9代目(18、20)
秀郷流24地方に較べて、14地方37人である。

(注)出羽と豊前と能登は時代性より対象外とした。
(注)「藤原秀郷一族の赴任地と発祥氏と主要五氏 」のレポートとは分布を前提にし影響ある下位の役職範囲を広げた事から若干異なる。

これで、「藤原氏の血縁戦略」であるので利仁流の概ねの「氏力」が判る。約半分であろう。
氏数から観ては25%程度(下記)であろう。
赴任地の大きさから、次ぎの様に成る。

① 越前、越中、越後、加賀、能登、陸奥(後に出羽分離) の北陸道地方(7国)
② 豊前、豊後、筑前、肥後 の北九州地方(4国)
主に以上の2地域に限られる。

北陸道は秀郷一門は特に赴任していないが、北九州地方は赴任している事は特長ある戦略である。
これは明らかに秀郷一門の手薄な地方の北陸地方を利仁一門が補完した形態である。
北九州地方の土地は秀郷一門が、阿多倍一門、即ち、京平家の大勢力圏を後ろから牽制する力を利仁一門に補完してもらった形態である。
しかし、後に、この「敵対関係」は北条氏の鎌倉幕府に成ってからは、むしろ「同盟関係」を樹立した。それは念の為に記するが、秀郷一門の鎌倉幕府樹立による「失職離散」の憂き目と、阿多倍一門大蔵氏の「元寇の役」による責任「太宰大監の失職」の憂き目とが一致した「血縁同盟」であった。
この事は、長谷川氏のところで詳細に論じた「大蔵永嶋氏との関係」で証明した事であるが、重要であるので概容だけを重複させる。
これが秀郷-利仁ラインの主な「戦略的な関係」であった。
そして、その繋がりと成ったのが「進藤氏」である。
その意味で、「大蔵氏との血縁同盟」も然ることながら、北家一門の2氏の「接着剤役割」=「進藤氏」なのである。
これは秀郷一門をまとめるには下記に述べる「大事な役割」である。

先ずその前にこの内、その進藤氏の赴任地としては次ぎの通りである。
豊前1人
豊後1人
筑前4人
加賀4人
能登1人
越前6人
越中4人
越後1人
隠岐1人
出羽1人、

但し、進藤氏は秀郷流進藤氏と利仁流進藤氏とがあるが区別は無しとする。
「藤原秀郷一族の赴任地と発祥氏と主要五氏 」のレポートとは分布を前提にし影響ある下位の役職範囲を広げた事から若干異なる。
陸奥の利仁本人と父の時長の2人であるので進藤氏ではない。

この地域は同時に進藤氏の末裔の分布域である。

北陸道の赴任地は主に昔の越国と出羽国域である。
(注:後に、越国は越前、加賀、越中、越後と4分轄、出羽国は羽前、羽後と2分轄)

利仁流の赴任地37人中で進藤氏は29人であり、78%を占めているのである。

進藤氏でない赴任地
相模1人
能登1人
肥後1人
飛騨1人
加賀2人
越前1人
出羽1人

以上の7赴任地8人が進藤氏でない事に成る。

残りのこの進藤氏が利仁流と血縁をし大きく交流を続けていたことが判る。

利仁流藤原氏(8)と進藤氏(29)では、この赴任地から観ると利仁一門の働き(78%)は進藤氏が主役である事になる。
この数字78%は2つの進藤氏の「接着剤的役割」の大きさが証明出来る。
では”この進藤氏の中で秀郷流進藤氏の割合がどの程度占めているのか”が問題と成る。

先に数字的には下記に示す7人で進藤氏の中では秀郷流進藤氏は24%(7/29)である。

この内、先ず秀郷流進藤氏の内情を調べると、「下がり藤紋」より「かに藤紋」が主家主流と成っていて、この一族の末裔は出羽国(山形、秋田)の山形地方に広く定住した(現存:仙台岩切)進藤氏であった。
この進藤氏の家紋から観て、血縁に依って北家の京、近江、丹波付近に定住する「上り藤紋」の進藤氏もあり、「下がり藤紋」の秀郷一門の本家筋も下野国付近に存在するが、長い歴史の中で「かに藤紋」の進藤氏が子孫繁栄には隆盛を極めたものと考えられる。
これは利仁一門との関わりからその居住地(出羽)に定住した進藤氏が主流となったと考えられる。
しかし、この多くの進藤氏は利仁流進藤氏が76%(22:7)で占める働きをしている事に成る。
その比率は、利仁流の赴任地(37)の中での29人である事から観て、この29人の中で秀郷流進藤氏は、確定出来ないが、下記に示す血縁族の分布と史料、系譜から観ると次ぎの通り7人である。

この7つの国域帯に秀郷流進藤氏の末裔が分布した。
特に、分布域は次ぎの様に成る。

出羽国域(延沢、里見)
陸前国境域(宮城:大崎)
越後国境域(出羽国境)
越前域(主に斯波域)
能登域(2人の域は判別できない。)

出羽、越前域には両方の進藤氏が分布した。

秀郷流進藤氏
出羽1人
越後1人
越前1人(斯波域)
隠岐1人
能登1人
筑前1人
豊前1人

以上7域の7人と考えられる。

全進藤氏29人:秀郷進藤氏7人で約24%であろう。(4:1)

そこで、秀郷流進藤氏と利仁流進藤氏の系譜上の接点は何処にあるのかが次ぎに問題と成る。

そもそも、元の進藤氏の始祖は秀郷-千常-脩行-行景の系譜で「行景」がその始祖と成る。
先ず「脩行」が官職「進藤大夫」と成り、その子「行景」が「進藤左衛門尉」の官職と従五位下と成った。そこで、進藤氏の発祥の基が生まれた。発祥は明らかに秀郷一門である。

この進藤氏は利仁流進藤氏では、次ぎの様に成る。
これには斎藤氏が発祥の基と成っている。

「利仁」の子の「叙用」(斎宮頭)が「流」と成り、下記の通り次ぎの9氏の「斎藤氏」が発祥している。この「斎藤氏」の内「疋田斎藤氏」から発祥している。
この疋田斎藤氏から進藤氏に到達するには次ぎの事を理解する必要がある。

藤原一門は全て2つの氏名の使い方をしている。
1つ目は役職官職を藤原の「藤」の前につけて区別して氏名としている事。
(役職を前に着ける。左衛門佐の左藤氏、佐藤氏 斎宮頭の斎藤氏等)
2つ目は土地の名を藤の前につけて区別する何れかの方法である事。
(24地方の国名の前だけを着ける。伊勢で伊藤氏 加賀で加藤氏等)
北家は大変多くの藤原氏を出したが、「姓名」だけでは区別判別が難しいし、同じ「姓名」の者も多く居る。よって主に上記2つの方法を採った。
3つ目は少ないが爵位より着けた氏名がある事。(爵位 諸臣の位6回階級の第6番目の「進位」でその進藤氏は藤原氏の爵位の「進」と「藤」とで進藤氏とした)

参考
宗家以外に藤原氏を直接「姓」として各地に名乗る氏があるが、多くは明治初期の村全体が或いは郡全体が名乗ると云う現象が、特に”藤原”姓に起こったが、この「第3の藤原氏」か「未勘の藤原氏」である。上記2つの方式で名乗っているのが本来の藤原氏である。
家紋も同様で、藤原氏は丸付き紋の藤紋は使わず副紋を使う定めである。
多い丸付き紋は「未勘氏」か「第3の氏」と成る。
「藤原氏」そのものの「氏名」を名乗れるのは基本的に夫々の「宗家、本家」と「総宗本家」である。以上の知識を把握すると家紋類の分析が正しく出来る。

元に戻して。
役職官職では「斎藤氏」はそもそも朝廷の藤原氏の本職の「斎蔵」の官職「斎宮頭」に成った事により「斎藤氏」と号するように成ったものである。
「斎蔵」は奈良期、主に大化期から「朝廷の政治機構」を3つに分けると「3蔵」と称し分けられた。
この内、律令が進むに連れてその立役者と成った阿多倍の子の次男の「大蔵」の大蔵氏と、3男の「内蔵」の内蔵氏が2つを占めていた。賜姓である。

律令体制が完成する桓武期にはこの高い知識を持った後漢の帰化人が官僚の6割を占めていたことが日本書紀に記録されており、天武期には一般からも官僚として採用するように命じている。
この桓武期以降には史料から渡来人、帰化人などの言葉が消えている。この事から150年で融合同化したものと考えられる。
(この日本書紀そのものが、舎人親王を中心に主にこれ等の官僚の編集組織で構成されていた。)
この事を念頭に次ぎの事柄を把握されると概ね全体像が見えてくると考える。
その全体像の中で、次ぎの事柄の流と時代背景(氏家制度の社会慣習)を思考されたい。

天智天皇の大化の改新以降、「皇親政治」の祀り事一切(政治含む)を司る「斎蔵」、朝廷の財政を司る「大蔵」、天皇家の財政を司る「内蔵」の「3つの機構」と「軍事(朝廷軍と親衛隊の2軍と藤原氏の押領使)」に分かれていた。
朝廷軍は「阿多倍」の子の長男の「坂上氏」が征夷大将軍を司った。親衛隊は「北面武士」に語られるように宮廷の衛兵軍の近衛兵で天皇を護る「親衛隊」の役目から「青木氏」と、「斎蔵」の役目から各地の押領使役の「藤原氏」であり、この2氏には永代の左と右の衛門尉か佐の官職が与えられた。
(宮廷門の左右の門の衛兵から来ている。2つの青木氏、即ち、賜姓青木氏と藤原秀郷流青木氏はこの事からは民部尉か佐、右左の門(左衛門尉か左衛門佐)の役職と成る)

この「斎蔵頭」の「疋田斎藤氏」が上記の越前の国の押領使(警察と軍の役割)に成った「藤原為延」から起こり進藤氏の祖と成った。
そして、その子の4兄弟の一人「為輔」が史料から勘案すると進藤氏を名乗ったと成っている。利仁より6代目である。

秀郷流進藤氏は「行景」で4代目、利仁流進藤氏では「為輔」で6代目である。
秀郷の代から合わせると、利仁は「時長」の子であるので「為輔」は7代目に当る。
では、秀郷流の相伝の「行景」の進藤氏の末裔の誰がこの「為輔」と関わったのか問題である。

秀郷流の進藤氏系統では、可能性のある人物は次ぎの4人に絞られる。
6代目では「脩俊」(隠岐八嶋冠者)
7代目は「好治」(進藤太郎)
8代目では「治卿」(左衛門尉、母は豊後守藤原安隆の娘)
9代目では「秀世」(進藤左馬允)
以上4人が可能性のある人物と成る。

つまり、秀郷流より発祥した進藤氏は、利仁流の進藤氏相伝の「為輔」との血縁か縁組かをした事に成るが、上記の秀郷流の4人の内の誰かとの子孫と跡目継承か血縁をしたことを意味する。

そこで、繋がるキーは「為輔」と繋がる関係を持つところを調べる事で判別できる。

次ぎの通り検証した。
同じ年代7代目の「進藤好治」では実質の進藤太郎で嫡子であるので難しいし、その親の「進藤脩俊」は源の頼朝から冠者として命ぜられて平家を西海に討ち紀州和歌山の地の領主となっているから血縁は無い。
8代目の「進藤治卿」は豊後守の利仁流安隆の娘を母にしている。豊後と言う利仁流子孫の赴任地から血縁して可能性が高まるが、経歴から将軍宗尊の近臣を務めた事から山形にいる「為輔」とは関係は薄いので疑問である。

最後は次ぎの「進藤秀世」である。
この「進藤秀世」の親が利仁流と血縁関係を先ず母方で完全に繋がり、更にこの「進藤秀世」の経歴を調べると完全に繋がるのである。
その経歴の一部から、元弘の建武の乱の時、北条尊時に属し勲功、その後、足利幕府家兼家に仕え、家兼の奥州官領の時、陸前の「大崎五郡」(現在の宮城大崎市)を知行するによって、その一部を知行とし、元の赴任地の「越前斯波」の一部加美郡保柳(現在の宮城加美郡 大崎市の隣り)2百余町を加え知行する。秀世大老として働く。
その後、足利家兼の嫡男家督し大崎治部大輔になり継承する、次男が斯波修理大夫として延文元年に出羽探題(山形、秋田地方)と成り、最上地方(現在の山形北部最上郡)に移動した時、秀世は同行する、この代々秀世の末裔12代まで足利氏(最上家)に仕える。
秀世はこの地の「為輔の知行」の一部「寒河江小国」(現在の山形中央部の寒河江市)を知行する。その後、「手の粉城主」(手の子城)となる。(山形と宮城の圏域地帯の藤原氏と最上家の知行帯)

この事から、①秀郷流の秀世の母(利仁流)の豊後、②大崎の一部知行地、③利仁流の主な赴任地の越前、④「為輔」の斯波、⑤利仁流の「為輔」の官職知行の一部取得、⑥利仁一門の代々の山形居城の出城の「手の粉城主」から観て、明らかにこの「秀世」が関わったと観ている。

その一族の履歴がこの経緯を示す重要な史料となるので次に記する。
「為輔」の父は「疋田斎藤氏」の祖で「為延」である。
「為延」は「越前押領使」で「北陸道7国押領使」も兼ねている。(重要)
利仁より4代目の祖父は「伊傳」で越前押領使で官位は高い「民部小輔」である。
伊傳の兄弟の一人嫡男「忠頼」は加賀守で加賀斎藤氏である。
次男「重光」は豊後守で豊後の斎藤氏である。
三男の尚忠は官位は「春宮小進」であり、爵位の進位の「進」の氏の役官である。
四男は「文紀」で隠岐守、讃岐守である。
他無役4人の男子が居る。

そして、上記赴任地の北陸道一帯を勢力圏として納めていた一族の中で、「進藤為輔」には4人の兄弟が居る。

「為兼」(疋田大夫)疋田氏相伝した
「為頼」(越前権介)越前権介 総追捕使、7代目の利仁流跡目
「行用」(無役無禄:妾子)
「為輔」(進藤氏祖)居所最上に捨扶持知行地
以上の4人となる。

この事から残りの部屋住みの「為輔」と成る。

つまり、”秀世との上記の6つの関係が興り、4兄弟の身内から身軽な「為輔」が秀郷流との関係強化の目的から秀郷流進藤氏の実質後継者の「進藤秀世」の「進藤氏」を名乗り引き継いだ”と考えられる。
「秀世」と「為輔」は同知行地の地域で懇親を深めて部屋住みで斎藤氏を継げない所から秀郷一門からの働きかけにより「養子縁組(秀世の娘との血縁)」の形を採り進藤氏を名乗ったものと考えられる
そこで、「為輔」の捨扶持知行地一部が何故「秀世」に渡ったかは確証は取れないが、次ぎの経緯からと考えられる。

その経緯とは、朝廷より命ぜられた「秀世」の赴任地が「越前斯波と陸前大崎」に成った事から、この経緯から、恐らくは、「北陸道7国」を納めていた利仁流の父、祖父が、秀郷流一門との関係強化の目的から、「為輔」の知行地の一部の「寒河江小国」を同地に来た「秀世」に与え、その見返りに部屋住みの「為輔」に「秀世」の娘を嫁がせて「進藤氏」を名乗らせひとり立ちを進めたと観られる。つまり、秀郷と利仁の両方の一門の思惑がこの「秀世」の時に一致した事に成る。
(秀世は跡目をなくしている 下記の「血縁の経緯」参照)
同時に「為兼」には「疋田氏」を名乗らせ、「為頼には斎藤氏」を名乗らせて独立させいるから
”為輔には、進藤氏を”と成ったとしても経緯から自然である。

(参考 斎藤氏主要9氏 加賀斎藤氏、広岡斎藤氏、疋田斎藤氏、河合斎藤氏、長井斎藤氏、勢田斎藤氏、吉原斎藤氏、豊後斎藤氏 他1氏)

参考
秀郷流進藤氏と利仁流進藤氏があるが、他に未勘の進藤氏がある。

乙部氏族の進藤氏
源の頼政流の乙部氏族の未勘末裔が信長との軋轢から進藤氏に改名したとある。
伊勢国の乙部郷に住する。

綾姓羽床氏族の進藤氏
讃岐の羽床氏が進藤氏を名乗る。
以上2氏は何らかの形で藤原氏の血縁を受けていると見られる。

武田氏進藤氏
吉良氏進藤氏
近衛氏進藤氏
以上3氏は何らかの形で藤原氏の血縁を受けていると見られる。

以上5氏が時代を経て室町末期以降から江戸期初期に発祥した進藤氏である。
秀郷一門と関係があると認められるこれ等5氏は、進藤氏に何らかの血縁を先祖に持つ事から、後に何らかの理由にて縁先の進藤氏を名乗ったものと考えられる。

出羽の進藤氏
近江の進藤氏
丹波の進藤氏
安芸の進藤氏
出雲の進藤氏
他の13の未勘進藤氏がある。
夫々の国に合わせて18氏(全部で23氏)の未勘進藤氏があるが確定できない。第3氏で無いかと見られる

この様に、主流2氏の進藤氏は上記の経緯を以って一族固め戦略を7代目辺りで採った事に成る。

進藤氏は他の主要4氏の血縁戦略とは違う中間的な血縁戦略の生残りを図ったのであるが、その一つとして、地域的な血縁戦略より、上記した9つの「地方の赴任地」で血縁を固め、且つ、「利仁流の勢力圏」を利用する2つ形で主要族に成った。
それを補完した利仁流の勢力圏は14地方が秀郷流進藤氏(7)を創り上げた。
この様に、秀郷流進藤氏は「接着剤役割」で青木氏からの依頼を受けて利仁流とのパイプ役を演じていた。

参考
長谷川氏のところで九州永嶋氏との関係の仮説4つのキー探しは、接着剤役進藤氏の役目柄、”青木氏に依頼されて、利仁流の北九州の赴任地との関係から、この進藤氏が絡んでいるのでは”と見ているが現在確証は出来ない。

しかし、この「接着剤役」の文行ルートの進藤氏では、秀郷流兼光ルートの青木氏が主動していたが、一門の中で最も重要視していた血縁戦略であった筈である。
と云うのも、この「接着剤の役目」が上手く働かなければ、戦略上、関東以北の同地、身内の中に爆薬を抱える結果と成るだろう。
武蔵以西の事を主要3氏のところで、その戦略の合理性、完璧性を論じてきたが、しかし、武蔵以北が秀郷一門の弱点とも言えるところであり、武蔵以北と北陸道を抑えている利仁一門との関係が藤原秀郷一門の最悪の弱点であったでと観ている。
それだけに両方の進藤氏の出方は秀郷一門を仕切る「第2の宗家」の青木氏の最大のテーマであろう。他の4氏との戦略的関係は上手く行っているとしてもである。

その青木氏に対して、逆の見方からすると進藤氏は、江戸期までの間で平安期は13%と血縁族を多く創り上げている。(普通は3%-5%程度)
進藤氏の発祥は文行流の一族であるが、青木氏と進藤氏は対象的なのは、「護衛役の有無」と「一門の立場」と「戦略の違い」の3つに差があったと考えられるが、進藤氏には、「藤成」からの「秀郷」の一門進藤氏と、「鷲取」からの利仁流進藤氏もあり、上記の赴任地の内容から同時期、同地、同族、親族間の血縁連携をも図っていた戦略がはっきりと観える。

利仁流は鎮守府将軍や阿波と北陸道の守護を代々続けるなど、藤原氏の中でも秀郷一門と共同の活動を採って来た一門で、秀郷流と利仁流の進藤氏があるほど連携をして来たのである。
進藤氏はどちらかと言うと同じく一族内を固くする「篭城戦略」に似た「身内戦略」を採ったと観られる。上記「接着剤的役割」はこの「身内戦略」から出たものである。
永嶋氏とは少し違うのは、血縁族を赴任地だけに留め、広く求めなかった所にあり、即ち勢力圏は極めて小さい処にある。
”広く求めなかった”と云うより”求められなかった”とする可能性が下記の系譜の所の史料で判断できる。
赴任地は北九州の目的とは別に、主に能登、加賀、越前、越中、越後、陸奥の「北陸道」に限られている事からも、むしろ、鎌倉期以降の血縁族を広められなかった原因の一つではと考えられる。
それと二つ目は本流の「跡目継承の子孫繁栄」が上手く行かなかった事であろう。
それに依って、失職離散する前の成長期の平安期の血縁率(13%)が高く成ったと観られる。
その結果が室町期、安土桃山期、江戸期と余り延びていないのである。青木氏と対照的である。
(詳細は進藤氏の本文考察参照)

青木氏との共通血縁族を観てみると、進藤氏は下記の主要5氏の「共通血縁族」の「主要8氏」が殆どである。この事は進藤氏が独自に血縁戦略にて血縁族を拡げた傾向は少ないことを意味する。
青木氏に指導に基づき「主要8氏」に留めていることに成る。
その分、利仁流との関係を強化したと観られる。
この事は上記の「為輔との血縁の経緯」を観ても、「第2の宗家」との相談で、むしろ、秀郷流進藤氏の「最大の役目」としていた事を物語る証でもある。
つまり、腹の中に爆薬を抱えた秀郷一門の弱点を補う「接着剤的役割」に主眼を置いていた事に成る。
室町期から江戸期にかけて発祥している未勘の進藤氏を含む進藤氏の上記データを観ても、秀郷一門の「西側防衛域」には全く進出していない。秀郷一門の戦略上の規定域内だけである。
これも一つの「最大の役」即ち「接着剤的役割」を越えることの無い証であろう。
この秀郷一門の血縁戦略から誰が見ても明らかに見えて来る「弱点」を進藤氏で補っている。これ程の完璧な戦略事は、自然にその戦略が出来上がったと云うことではないであろう。
明らかに「恣意的な戦略計画」で実行されたものと考えられる。

”それは誰が主動したか”であろうか。当然「第2の宗家」の青木氏となろう。
青木氏との「共通血縁族」とは、”大きな笊(ざる)に血縁族というものを入れて流れ落ちて残ったものが「主要8氏」である”と云う事に成る。
と云う事は、この笊の原理からすると、「青木氏「=「共通血縁族」の条件と、上記「進藤氏」<「共通血縁族」の条件とで、共通項=「共通血縁族」と成り、結果、「青木氏」=「進藤氏」が残る。
青木氏が主導の下で、進藤氏は「行景」より発祥後、6代目「秀世」のところで利仁流の「為輔」と「接着剤的役割」を果たしたと成る。
しかし、ここで、「秀世」は秀郷流進藤氏の本家跡目を継いで子供の「脩久」に引き継いでいる事から、「跡目血縁」は無い事に成る。
では、”どのような形の血縁か”と云う事に成る。

「血縁の経緯」は次ぎの通りである。
「秀世」には子供が4人居る。2男2女である。
長男の嫡男は”秀世18歳の時の子供で実に聡明である事から足利将軍の寵愛を受け、2つ引き両紋の家紋を授与されるが、短命で死す。”とある。”次男が将軍に仕え「脩久」が跡目を継ぐが、これも若くして死す。跡目耐える。その暫時後、その跡目に養子を取る。養子「実理」成る者を跡目として進藤氏を継ぐ。”とある。”「実理」の実父は大崎家の家臣の四亀(伊予)氏で、「実理」はその次男で、65歳で没する。”と成っている。
この大崎家は秀世の2度目の赴任先で大崎五郡の知行地のある土地で其処の豪族である。

2女の”次女は里見に嫁ぎ、長女は山形の延沢に嫁ぐ”とある。
長女の延沢は現在の(出羽)山形県尾花沢市で最上線が走る最上地方であり、隣りの寒河江市地域でもある。(延沢の進藤氏発祥)
次女の里見は現在の(出羽)秋田県横手市である。(後に里見の進藤氏発祥)
これは上記の「為輔」「秀世」の記述と完全一致する。
このことから、「秀世」は跡目2人を若くして無くし、暫く跡目を探していたが、「為輔」も「4兄弟の部屋住み」である事から、長女を山形の延沢(「藤原為輔」居所)に嫁がせ進藤氏を絶えさせない努力をした。そして、この相伝「為輔」が形式上の養子縁組の形を採り進藤氏の姓を継いでもらった。(実質は延沢の末裔の吉継の継承)その後、秀郷流の進藤氏も耐える事の無い様に、支流で大崎家の家臣の四亀(伊予)氏から養子を取った。
以上が血縁経緯であり、秀郷流進藤氏は「秀世」の子供の代で絶え、支流大崎家(秀世の知行地)より跡目養子の進藤氏となり、利仁流進藤氏は「秀世」の娘の女系進藤氏と成る。

実は、この後も養子「実理」後の跡目末裔も48歳、30歳、39歳、38歳、その後も討死、親子腹切等があり、「跡目継承」は大いに乱れて大変苦労している。
この秀郷流進藤氏の本流は殆ど枝葉の無い系図である。この系図から観ると、この様に、嫡子だけでも他氏から迎えるくらいで、嗣子と女子を外に出すほどの余裕は無く秀郷流進藤氏は子孫繁栄に極めて苦労している。
ところが利仁流進藤氏の「為輔」の末裔は全く逆で枝葉を伸ばし多くの子孫を遺している。
これは上記の家紋群29分類の48家紋の氏は「未勘氏」が多いことを意味する。
未勘氏に対しては、上記の進藤氏家紋群の家紋と、進藤氏の上記の小さい地理性から観て殆ど繋がりは採れない。
室町末期と江戸初期、江戸末期と明治初期の苗字令の混乱期の移動性から来た分布氏ではと考えられる。
上記に記した「未勘氏18氏」(23)があるとしているが(他の主要4氏と異なり未勘氏が多い)殆ど枝葉の無い系譜から察するに「主要共通血縁族8氏」を除いては未勘氏と成る。

進藤氏の利仁流一門との「接着剤的役割」は主に「主要共通血縁族8氏」に委ねられていた事を物語る。
では、その「主要共通血縁族8氏」が働いた「接着剤的役割」の血縁を他の主要3氏と比較して観てみる。

参考
主要5氏の「共通血縁族」(青木氏と同じ家紋を持つ氏)
主要5氏共通:「家紋4大血縁族」・丸に片喰、・丸に剣片喰、・丸に違い鷹の羽、・丸に梅鉢族
主要4氏共通:「家紋4血縁族」・九曜、・抱き茗荷、・丸に桔梗、・丸に立ち沢瀉。

「家紋4大血縁族」+「家紋4血縁族」=青木氏
(注 5氏共通の下がり藤と笹竜胆と第3氏の五三の桐紋は除く、4氏共通の上り藤と橘紋は除く)

青木氏と同一血縁族の分類
「共通血縁族」
1・下がり藤、・上り藤
2・笹竜胆
3・橘、丸に橘
4・丸に片喰、・丸に剣片喰
5・丸に違い鷹の羽
6・丸に梅鉢
7・九曜
8・抱き茗荷、・丸に抱き茗荷
9・丸に桔梗
10・丸に立ち沢瀉
11・蔦、・丸に蔦、丸に陰蔦
12・三つ柏
13・三階菱
14・丸に二つ引き
15 丸に横木瓜
以上15分類21「共通血縁族」

参考
長谷川氏           長沼氏            永嶋氏           
1・下がり藤・上り藤     1 ・下がり藤        1 ・上り藤、・下がり藤   
2・笹竜胆          2 ・笹竜胆         2 ・笹竜胆         
3・桔梗           3 ・桔梗、・丸に桔梗    3 ・丸に隅立て4つ目    
4・木瓜・丸に木瓜      4 ・九曜          4 ・丸に片喰、・丸に剣片喰 
5・橘・丸に橘       5 ・抱き茗荷        5 ・丸に沢瀉        
6・梅鉢・丸に梅鉢      6 ・丸に立ち沢瀉、抱き沢瀉 6 ・丸に抱き茗荷      
7・九枚笹・丸に根笹     7 ・丸に三つ鱗       7 ・丸に違い鷹の羽     
8・片喰・丸に片喰      8 ・丸に橘         8 ・丸に桔梗        
9・九曜・丸に九曜      9 ・丸に剣花菱       9 ・丸に蔓柏        
10・蔦・丸に蔦        10 ・丸に剣片喰       10 ・丸に木瓜        
11・立ち沢瀉・丸に立ち沢瀉  11 ・丸に違い鷹の羽     11 ・梅鉢、・丸に梅鉢    
12・剣片喰・丸に剣片喰    12 ・丸に梅鉢        12 ・三階菱         
13・武田菱・剣花菱      13 ・五三の桐        13 ・五三の桐        
14・抱き茗荷・丸に抱き茗荷                 14 釘抜き          
15・丸に蔓柏・違い柏     以上13分類15「共通血縁族」以上14分類17「共通血縁族」
16・違い鷹の羽・丸に違い鷹の羽                              
17・丸に一つ引き・丸に二つ引き・丸に三つ引き                       
18・三階菱                                        
19・松皮菱                                        
20・揚羽蝶                                        
21・五三の桐                                       
22・丸に隅立て四つ目                                   
23 横木瓜 丸に横木瓜                                  
以上23分類40「共通血縁族」である。
(謝罪 画面の乱れはソフトの関係)

進藤氏は以上15分類で青木氏との共通血縁族は29に成る。
分類/共通血縁族の分類比は、進藤氏52%に対して、長谷川氏58%、永嶋氏87%、長沼氏82%である。
この比は、%が高い事は同じ家紋の文様が多いことを示し、他氏やその本流に限らず支流分流分派の末裔まで及ぶ広い血縁をしている事を示すもになる。つまり、「血縁活動」が高かった事を物語る。「血縁活動」が高かったと言う事は「氏力」が高いと云う事になる。

そこで進藤氏は同じ文行流の長谷川氏と同じ程度であるが、永嶋氏と長沼氏とでは大きな差がある。
進藤氏と長谷川氏とでは同率であるが元々体質が異なる。
先ず、上記した様に未勘氏(18+5)が進藤氏に多い事で、これを勘案すると、上記した様に25%程度の分類比と成る。
「家紋200選」では48%である。
上記の考察の「共通血縁族」=「家紋200選」=「主要血縁族8氏」とすると、この分類比25%と勘案すると、支流族などと殆ど血縁していない藤原一門外の「普通の氏の血縁力」と言え得る。
故に、「共通血縁族」=「家紋200選」=「主要血縁族8氏」=「接着剤的役割」の数式の結果と成る。

つまり、秀郷流進藤氏の「氏力」(25)は「接着剤的役割」の一点に絞られていたことを示すものである。「氏力」(25)=「接着剤的役割」の数式と成ろう。
そうでなければ、この他の役割を果たす以外に25%では氏力が小さく「氏力の余裕」は出てこないであろう。
これでは、主要5氏に成る要素は無い事だし、自分の氏さえも護ることは難しい事に成るが、そこの「氏力の余裕の役割」の補填は利仁流進藤氏に頼ったという事であろう。それ以外に無いだろう。
その事は、現実に主要氏と成っていることから、2つの進藤の交流が高かった事にも成るだろう。
つまり、数式では、秀郷流進藤氏+利仁流進藤氏=氏力と評価される。
但し、この「接着剤的役割」は藤原北家一門にとって無くては成らない何物にも変え難い「最大の役目」なのである。
むしろ、進藤氏にこの役目が在った事からこの様な低い「氏力」と成り得た可能性がある。
それに進藤氏の「氏エネルギー」を使い果たしていたと言えるだろう。
その証拠に、この進藤氏の官位官職は八嶋冠者、左衛門尉、左馬允、右近蔵人、主税介、駿河守、程度であり、他の主要4氏と異なり高位高官は無く官職も少ない。
これは政治的に活発に活動をしていない事に成る。上記した活動地域も出羽を中心とした利仁一門と同じ域の北陸道に限られるし、この役目に徹していたと言え、役割に専念したからこそ藤原秀郷一門はこれ程の子孫繁栄を果たしたと言える。

この戦略的な主導的働きを進藤氏に与えたのは青木氏と成る。
今までの永嶋氏、長沼氏、長谷川氏、史料1/10-6/10の考察にも比較対照として進藤氏の血縁戦略を合わせて考察し述べて来たが、進藤氏にはこの様な大きな役割が存在したのである。
以前のレポートに、長谷川氏の様に「野戦的血縁戦略」、永嶋氏や長沼氏の様に「篭城的血縁戦略」であって、世の中の諸事には、その役割が「外向き」と「内向き」とがあり、その両方をコントロールする「調整役」が居て上手く行くのであるが、この3氏は「外向き」で、進藤氏は「身内戦略」の「内向きの役割」を担っていたのである。所謂、「身内の女房役」とでもいう役割を演じた。
そして、その「外向き」と「内向き」の「調整役」が「第2の宗家」の青木氏と言う事に成る。

この時代は平安末期から室町末期までの混乱期であった事から、「外向き」と「内向き」の比率が3:1の形に成っているが、平安初期や江戸時代の安定期では1:3の逆の比率として戦略を採る事も必要であっただろう。それだけに、混乱期に「調整役の青木氏」にとっては「系譜に弱点」を持つ「氏力」の小さい「進藤氏」にこの役を担わしたのであろう。
それだけに、青木氏は利仁一門との関係強化を目論んだと観られ、上記する「秀世」-「為輔」との関係を強力に図ったものと考えられる。
それが、上記した「秀世」の跡目養子の縁組と「為輔」の婿養子の縁組(女系)の采配に現れている。
秀郷流進藤氏に対して「調整役青木氏」が大きく関わった証として、「かに藤紋」の進藤本家と、殆ど「主要8氏の共通血縁族」だけの血縁枠にある。

本来、進藤氏の家紋類には、綜紋の「下がり藤紋」が本家家紋の持つ家があるにも関わらず、出羽国域に居所する「かに藤紋」一族の分家筋を「主家筋」として扱った事。
青木氏が推し進めた秀郷一門内での戦略血縁を推し進めた「共通血縁族」が進藤氏血縁族であった事。
この氏家制度の中で青木氏だけが成し得るこの2点にある。

この様に、氏家制度の中で、一門の運営を総括する「第2の宗家」としての「調整役の青木氏」は「内向き役」の「一門の弱点」の強化に大変苦労したと考えられる。

「所感」
何にせよ、主要5氏の血縁戦略を検証するに当って、感嘆することは、その「血縁戦略」が揺るぎないものと成っている事、戦略としての定法に欠けるものが無い事、強処弱処の押さえ事、攻め護りの定法事、等を「氏」の維持に必要とする戦略上の疑問が湧く点事を、尽く史料分析から証明されて「理」に叶い否の付く所が無かった事にある。
実際、筆者の長年の検証が進むに連れて、その戦略が”定法ではこの戦略は何処に”と次々と疑問が湧く状況であったが、尽く潰された。
日本書紀には大化改新より藤原一門と賜姓青木氏の天皇の相談役の軍略司の記述が多い中で、伝統的に確かに如何に青木氏が優れた「戦略師」であったかを思い知らされた検証事であった。

「結」
本論文は、元々は「青木氏」の調査の中での他の氏に疑問を感じて調べていると大変な繋がりがある事を知れ得て、更に青木氏の巾を横に広げたのが経緯であった。
しかし、秀郷一門の「青木氏」と「主要5氏」、それに「主要8氏の共通血縁族」に付いては血縁族ではあるが、どのような関係で成り立っていたかを長い間で試みたが、あまり関係研究の資料が無い中で、苦労はしたが何とか網羅できたかとも思っている。
その苦労とは、「史料調査-疑問-推論-史料探索-考察-検証-確定調査」の繰り返しでここまで到達する事が出来たが、今後、ルーツ探しなどに挑戦しようとされる方は、この手順を踏まれる事をお勧めする。
中でも、「疑問-推論」のプロセスが大変大事であり、”「推論」が当らなければ又元に戻り推論を建て直す”とする根気の必要とする作業である。
そして、その「推論」の当る秘訣は、当時の時代性の「氏家制度の社会慣習」の知識を習得する事にあり、「現代感覚」では決して推論は当らないことである。
その「社会慣習」を習得するには、上記のプロセスは役に立たず、”只、一言「雑学」を試みる。”に以外に無い事による。この「雑学」が上がれば、「推論」も確率的に不思議に高まるのである。
筆者は物理系技術者であるので、本職的に上記プロセス作業は専門であった為に比較的にこの作業は楽であった。しかし、「科学的雑学」は領域内であったが「文科系雑学」は特に大苦手で読む事さえも毛嫌いし苦労をした。従って、この「文科系雑学」に極めて努力を重ねたものである。
それに、最後は、「男の社会経験」(ネゴシエイション)にあると考えている。
この3つがあると、「魚釣り」の吊り上げる直前のググウと引き込まれる手に伝わる「感触感と歓喜」を味わえる。
釣であろうと、何であろうと、上記「プロセス」は同じであり、それを補う「雑学」や「ネゴシエイション」も同じ「必要素」では無いだろうか。そして、其処に、「達成の歓喜」が生まれるのではないだろうか。その「達成の歓喜」が次ぎの「ヤルキ」に繋がるもと考える。
況や、これは「人生学の摂理」ではないと考える。

兎も角も、これで、他のレポートと合わせて、筆者は「歴史の伝統資産」を少しでも後世に遺す事が出来ると自己満足の域にある。今後、歴史に興味のある方は、大いに利用し挑戦して頂きたい。
その為に、本文の後に、本文関係資料を続けて掲載する。

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藤原秀郷主要5氏と家紋の研究-長谷川氏との関係

Re: 藤原秀郷主要5氏と家紋の研究-長谷川氏との関係

[本文の考察](長谷川氏)
これより文行流主要2氏の考察である。

念の為、兼光流主要3氏の結論は次ぎの通りであった。
「秀郷宗家」=「青木氏の武力と氏力と勢力」で成り立っていた。
青木氏の氏力=2倍の「兼光3氏の血縁族」の勢力で維持した
兼光3氏の勢力圏=東関東を領国を足場に「中国-西関東域圏」を血縁族で抑えていた。
青木氏=「長沼氏との共通血縁族」+「永嶋氏との共通血縁族」の「濃い絆の複合状態」であった。
兼光流3氏の「氏力」=「総合力」を構築していた。
2重にして「人の陣形」を形採った血縁族分布の理想的な戦略的勢力図であった。
青木氏=確実な政治、経済、軍事の力を持つ「第2の宗家」であった。
青木氏による恣意的な血縁構成を指揮していた。

さて、次ぎは文行流2氏の事についてであるが、兼光流3氏に「氏力」にこの2誌の氏力が伴なって藤原秀一門の「氏力」がどのようなものであったか定まる。
文行流と兼光流と定めているがこれ等相互に深い関係を維持していたのである。
そこで、その関係を先ず家紋から検証して観るとする。

文行流の長谷川氏111家紋は次の様な血縁族となる。
兼光流青木氏(116)と並んで大きな氏力を持っていた。
それを次に網羅する。

血縁族の家紋類(長谷川氏)
(以下第3の長谷川氏の家紋含む)
(・印 家紋200選 54/111 49%)
(*印 「家紋4大血縁族」と「家紋4血縁族」=青木氏)

1・下がり藤、・上り藤、下がりばら藤、
2・笹竜胆
3・橘、・丸に橘
4・違い鷹の羽、・丸に違い鷹の羽*、・右違い鷹の羽、・隅切り角に違い鷹の羽、丸に右違い鷹の羽、丸に並び鷹の羽、中輪に違い鷹の羽
5・木瓜、・丸に木瓜、・四方木瓜、・織田木瓜、横木木瓜、丸に横木木瓜、三つ盛木瓜
五瓜に剣片喰、五瓜に蔦
6・片喰、・剣片喰、・丸に片喰*、・丸に剣片喰*、・亀甲に剣片喰
7・丸に蔓柏、・丸に蔓柏、・違い柏、・三つ柏、丸に並び柏
8・蔦、・丸に蔦、・丸に鬼蔦、中輪に蔦、鬼蔦、糸輪に蔦
9・立ち沢瀉、丸に立ち沢瀉*、抱き沢瀉
10・丸に根笹、長谷川筍、
11・梅鉢、・丸に梅鉢*、・丸に剣梅鉢
12・抱き茗荷*、・丸に抱き茗荷
13・武田菱、・花菱、・剣花菱、・丸に松皮菱、隅切り角に花菱、丸に菱四つ目、丸に亀甲花菱
14・桔梗、・丸に桔梗
15・九曜*、・丸に九曜
16・丸に三階菱、・三階菱、・松皮菱、丸に四つ目菱
17・丸に三つ引き、・丸に二つ引き、・丸に一つ引き、隅切り三つ引き、丸に竪二つ引き、三つ星に一つ引き
18・三階松、・左三階松
19・丸に三つ葵
20・揚羽蝶
21・二つ巴
22・九枚笹、・丸に九枚笹
23・菊水、丸に菊の一枚葉
24・五三の桐、丸に五三の桐
25・丸に違い矢
26・丸に梶の葉、梶の葉、
27 三つ盛亀甲、丸に三つ盛亀甲
28 白波
29 下り出ばら藤、
30 丸に隅立四つ目、丸に平四つ目
31 並び扇、丸に四つ扇、佐竹扇、五本骨扇、檜扇
32 下り藤に四つ目
33 丸に井桁
34 丸に平井筒
35 右三つ巴、・左三つ巴
36 丸に釘抜き
37 一つ茗荷の丸
38 切りに升
39 弓矢
40 隅切り橘
41 隅切り角に本の字

以上41分類である。


長谷川氏の血縁族の考察
藤原秀郷一門の宗家の流は、4代目から起こっている。
兼光流と文行流であるが、長谷川氏はこの文行流である。
秀郷より17代目の最も後発の発祥である。つまり24氏の中では最も新しい氏である。
17代目と成ると、平安末期のぎりぎりのところの後発の発祥であろう。
しかし、主要5氏の一つと成り得たのである。それは何故なのか疑問が湧く。
既に、史料6でも考察しているが、一つの特徴を持っているからである。

これは、青木氏は兼光流の主導者であるが、長谷川氏は分行流の主導者である。
青木氏は、兼光流と文行流の2つのブロックの5氏を束ねているが、長谷川氏としてもその一つのブロックのサブリーダーと成っていたのである。
史料3で青木氏116氏が主導していることを記述したが、それに対してそれに相当する111氏を擁している。明らかに、1ブロックの主導者である。
主導者で在るからこそ、逆に青木氏と同様に111氏に拡がったと云う事にもなる。
青木氏116氏と同様に、111氏に声を掛ければ、大集団の末端までが動くのである。
単純に111氏ではない。この家紋111氏の家紋に続く夫々の親族縁者が氏家制度の掟の中で動くのである。
藤原秀郷一門の兼光流の主導者青木氏116氏と、文行流の主導者長谷川氏111氏と言う風に見事に戦略上のシステムが採れている。
そして、「一軍の将二頭合い立たず」のたとえ通り、この長谷川氏と云えども秀郷一門の掟「第3子の家法」の下「第2の宗家」の位置付けで青木氏の主導下に置かれていたのである。
この戦略も文句の付け様がない。

ではその長谷川氏がどの様な家紋、即ち、氏で構成されていたかの疑問も湧く。
疑問1 何故に秀郷主要5氏の一つと成り得たか
疑問2 どんな氏で構成されていたか
(疑問1と疑問2は重複する部分がある。)

既に、史料6で考察したが、それをもう一度引き出してみると次ぎの様に成る。
疑問1は「2足の草鞋策」を採っていた事
疑問1は「血縁族の違い」が在った事
疑問2は「戦略の違い」が在った事。
疑問1と疑問2では「大豪族28」と「小豪族68」の比率が在った事。
疑問1と疑問2では地理性が「狭く濃く」に対して「広く薄く(長谷川氏)」で在ったこ事。
等が挙げられる。(詳細は資料6参照)

では、41分類の家紋類を観てみるとする。
先ず、最初に驚く事は、「家紋200選」の比は49%である事。
これ程17代目と言う後発で、111氏という集団で在りながら、大豪族の50%程を占めている。他の氏はせいぜい10%程度で在るのに較べれば大変な集団である。
まして、「下克上」と「戦国時代」に差し掛かって発祥した氏である。
「家紋200選」ではないが、その一門(111)を入れて計算すると、73%にも成る氏である。
「血縁族」としての「主要8氏」など家紋群の正式な末端族を調べて入れると、概ね、90%弱になる。
「身内力」と成る90%となると恣意的に確実に固めに固めて創り上げた氏力である。
平たく言うと”いざ戦い”と言う時に駆けつける軍団が、全て身内で殆ど占められると云う事である。他氏との連携での力を借りる必要は無い。
これは「固い軍団」を意味する。これに、其の他の27%の血縁族が着くのであるから、疑問1の主要5氏になれるに違いない。成れないとおかしい。

次ぎには、長谷川氏も同様、「下がり藤紋」宗家紋が控えている。
17代目の発祥であるがこれは秀郷一門の直系子孫を身内にをまだ有していることを意味する事から、一門の中では肩身を広く持てる。これも疑問1の解答要素である。

更に、笹竜胆紋である。
皇族賜姓青木氏、又は清和源氏との血縁族を固めて、「家柄身分」の保全を続けている。
これが、「家柄身分」の社会慣習の強い氏家制度の中では、秀郷24氏との大きな差となってその力を一門の中で誇り絶大に働いていた事に成る。疑問1の回答要素でもある。
笹竜胆に限らず、橘諸兄の皇族宿禰族の橘氏との血縁も固めていることも、要素を重複させる。

次ぎには、史料5考察の青木氏の共通血縁族の「家紋4大血縁族」と「家紋4血縁族」補佐役4氏の合わせて8氏とも血縁をしている。(下記)
「家柄身分」の固めも然りながら、「家紋200選」の主要家紋の8紋の氏である「力、武力」の象徴族の固めも間違いなく戦略として取り入れている。
これも疑問1の解答である。

それも、他の秀郷主要4氏とは違うところがある。それは、この血縁族8紋の氏の支流紋とも血縁し加えての血縁を末端まで幅広く手堅く固めているところである。
特に、「大豪族」と「小豪族」の類とに分けるとすると28:68との比率になり、「小豪族」に重点を置いていることに成る。
同じ氏力持つ青木氏は「第2の宗家」であるが故に、長谷川氏の様に大きく偏る戦略を採れないであろうが、長谷川氏と異なる点である。
これは疑問2の解答に当るで在ろう。

参考
「共通血縁族」
5氏共通:「家紋4大血縁族」=・丸に片喰、・丸に剣片喰、・丸に違い鷹の羽、・丸に梅鉢族
4氏共通:「家紋4血縁族」=・九曜、・抱き茗荷、・丸に桔梗、・丸に立ち沢瀉。

「家紋4大血縁族」+「家紋4血縁族」=青木氏
(注 5氏共通の下がり藤と笹竜胆と第3氏の五三の桐紋は除く、4氏共通の上り藤と橘紋は除く)

青木氏と同じく全く、長谷川氏の主要血縁族はこの家紋の2群(家紋4大血縁族+家紋血縁族)に振り分けられる。
これも、疑問1の解答になるだろう。

しかし、この2群以外にも、大豪族との血縁をしている。
木瓜族、柏族、蔦族、桔梗族(土岐氏)、引両族(足利氏)、菱族(武田氏)である。
そして、特長は、この6氏族は、本家宗家だけではないその族の支流族の末端までとの血縁を進めている事である。(鷹の羽族浅野氏含む)
これは他の秀郷4氏とは大きく異なるところである。
これは疑問2の解答にも成る。

他の秀郷主要4氏の血縁戦略は宗家、本家、或いはその族の力のある家紋氏が特長である。
これは”「いざ戦い」”の時はその支流族まで余程の事がない限り「氏家制度」の社会慣習に基づき馳せ参じるであろうが、長谷川氏は違うのである。
この支流族までも「手堅く細かく」の血縁で固めている事である。
戦いの中で”裏切”で足を救われる危険は極めて少ない。戦国時代の中を通り過ぎてこの「氏力」(111)を維持できたのもこの戦略に大きく関わっている事に成る。

この戦略を採った理由は、矢張り、「最後発」の長谷川氏であるからであろう。
他の秀郷主要3氏(青木氏、長沼氏、進藤氏)に対する戦略的配慮もある事ながら、その平安末期の時代性と室町期の「下克上」に晒された事の「時代性」で、生残るには、宗家本家筋だけでは「下克上」でどう出るか判らない。藤原秀郷一門はその最大の標的であった。
だとすると、後発の長谷川氏としては、どうするか。
つまり、「小豪族(68%)」でも判る様に、「支流族末端」まで確実に血縁で結んで「生残り戦略」を展開せざるを得ない宿命を論理的に帯びている事に成る。
「広く薄く」の戦略を敷く以上、絶対必要条件で在ろう。
参考に、同じ後発の立場の永嶋氏は、違う戦略を採った。つまり、「狭く濃く」の逆の戦略で身を固めて安全を図る戦法である。
戦法で云えば、長谷川氏は城から出て「野戦戦法」、永嶋氏は城に籠り「篭城戦法」ではっきりするであろう。これが疑問2の明快な解答になるだろう。

因みに、では、青木氏と長沼氏はこの理屈で言うと何に成るだろう。
青木氏は「第2の宗家」で組織のピラミッドの上に立ち、且つ、組織(宗家)、武力(九州-関東)、経済力(2足の草鞋策)、政治力(シンジケート)にて押さえ込み、焼き討ちと打ち壊しのまとまりの小さい「下克上」を「力」で相手を綜合的に強圧した戦法である。
長谷川氏と違う秀郷宗家(貴族)に代わり「宗家」としての威厳を保った戦略である。
宗家が「篭城戦法」では話にならないだろう。又、大一門を率いているのだから現実に理屈上「篭城戦法」は出来ないであろう。
要するに、青木氏は立場上、必然的に秀吉が採った戦法「圧力戦法」となろう。戦わずして圧力で押さえ込む血縁戦法を採ったのである。

長沼氏ではどうなのか。
長沼氏は先発氏である。本文史料の考察の8/10で記述したが、この「中間的戦法」を採った。
だから、53氏であるのだが、長谷川氏の「野戦戦法」、永嶋氏の「篭城戦法」、青木氏の「圧力戦法」の「混合戦法」とでも云える。
しかし、史実、この先発の上級族との血縁をした長沼氏の支流族は下克上や戦国時代に大きく潰された。
この先発の長沼氏の失敗を反省して、戦略上採ったのが後発の永嶋氏なのである。

長谷川氏から話を少し留めて、その長谷川氏の血縁の対比を浮き彫りにする為に、一門で起こったその弱点の例を暫く述べるとする。
ここで、「長沼氏の弱点」(先発族の秀郷一門の弱点)を補う戦法を採った小さいながらも永嶋氏は大変な考えられない「篭城戦法」の弱点を補ったのである。
まさしく、鎌倉幕府末期の南北朝の戦いの主役10万の兵に対して3000の兵で立ち向かい勝った戦法の主役の楠木政成で在ろう。この戦法を補った。戦法としては次ぎの2つにある。

「篭城戦法」に対して、「シンジケート戦法」を加えた事、況や「ゲリラ戦法」である。
もう一つは、「2面作戦の戦法」を加えた事、況や「挟み撃ち戦法」である。
永嶋氏は「篭城戦法」+「ゲリラ戦法」+「2面作戦戦法」+「挟み撃ち戦法」を血縁戦略では採ったと成る。所謂「補足戦法」である。
長沼氏はこの「補足戦法」を採らなかった為に「下克上と戦国時代」の影響を大きく受け子孫を弱くしたのである。

先ずその一つ血縁戦略による「挟み撃ち戦法」として延べる。
これは、当時、最大の関西九州域で勢力を張っていた阿多倍の末裔の大蔵氏との関係である。
この子孫が、藤原秀郷一門の「鎮守府将軍」と「24地方の守護職」の力に対して、「征夷代将軍」を担い、且つ、「遠の朝廷」と「錦の御旗」を持つ「太宰大監」として関西以西から九州全土の西側に勢力を張っていた。この大蔵氏の末裔が1250-1290年頃の鎌倉期に突然に、同名の永嶋氏に氏名を変更したのである。面白い現象である。
仇敵でもある東の秀郷一門の永嶋氏に対して、大蔵氏を変えて同名の永嶋氏を西に名乗ったのである。
秀郷一門の結城氏系永嶋氏(佐野氏系永嶋氏もある)は「関東屋形」と呼ばれてその勢力は中部東域である。
まして、この時代には天皇から賜姓を授かることは殆ど無くなりつつある時期でもあり、その中で3百年近い由緒ある「賜姓大蔵氏」から「長嶋氏」を名乗ったである。
当時の氏家制度の中で「賜姓」は大変な名誉の氏名で望んでももらえない特別で格別なものである。それを捨てたのである。
放って置く訳けにはいかない程の血縁的史実のこの現象には何か政治的なバランス関係が起こったのであろう。

それは経緯としては次ぎの様に成る。
阿多倍王の直系末裔(12)の歴史上大豪傑の「大蔵種材」という政治、経済、軍事を納める3権を保持した「錦の御旗」を正式に与えられた唯一の人物が居た。平安末期「太宰大監」を努めた人物である。この「種材」は四天王彫刻(増長天、広目天、持国天、多聞天)のモデルにもなった日本唯一の文武に長けた豪傑人物でもある。
賜姓大蔵氏は代々「太宰大監」を勤めた敏達天皇の曾孫の芽淳王の子の娘を娶り准大臣に列せられた家柄で、その阿多倍の次男が興した賜姓大蔵氏12代目(1090年頃)である。
朝廷の財政を一手に担う「3蔵」の一つを任された氏である。後には太政大臣平清盛まで上り詰めた家柄の一族でもある。全国32/66国の関西以西に勢力を保持していた。
この一族が大蔵氏から永嶋氏に突然に氏名を変えたのである。
関西以西から九州全土の永嶋氏はこの末裔である。
何故変名したのであろうか。それが「挟み撃ち戦法」になるのか疑問である。そこで史料を調査した。それが次ぎの内容である。

「大蔵氏系永嶋氏」と「藤原秀郷系永嶋氏」との関係
そこで、この「大蔵氏系永嶋氏」と「藤原秀郷系永嶋氏」との関係を調べて観ると、「繋がり」を否定出来ない史実が生まれている。

「大蔵氏系譜」
種輔-種貞-種有-種資-種秀-頼種-
種輔-種貞-種嗣-義種----種親-種武-
種輔-種貞-種房-種重-

(注釈 種有は右馬氏の跡目に入る。)

まず、大蔵氏のことから検証する。
この大蔵氏の末裔が永嶋氏に変えた時期である。その経緯は次ぎの通りである。
変えた人物は、永嶋氏相伝の大蔵種秀(阿多倍王18代目 大蔵種材7代目)で、正式にはその親族の「種親」(19代目)である。
(注意 大蔵氏長嶋が正しい氏名である。 秀郷一門の結城氏系永嶋氏は長嶋氏が正しい)

系譜の経緯は次ぎの様に成る。
親の「種資」の時に血縁し、その子「種秀」は長嶋氏を相伝し、その子「頼種」は子なし 「種嗣」の孫の「種親」を養子にして継承する。その子「種武」が子孫を広げる。
(ここで始めて他氏の菊地氏から嫁を採り血縁)
「種秀」は大蔵氏より「長嶋氏」を相伝し始めるが、その子供(頼種)に嫡子出来ず僧侶(覚心)となり身を引く。「種嗣」の孫の「種親」を養子に迎え、その子「種武」で長嶋氏は伝承する。
この事から実質の長嶋氏は「種武」の継承である。

「種武」は「種材」から9代目に当る。
変更時期は1280(1275-1285)年頃前後に氏名を変えた事に成る。

この時期に関する考察には、次ぎの様な国家的大事件が起こっている。
1 鎌倉幕府の北条氏の執政で、丁度、2度の「元寇の役」が起こった時である。
第1次1274年と、第2次1281年である。
(北条氏の没落原因となった。)

2 この時、大化期から大蔵氏は代々続いた朝廷の3権を保持する「太宰大監」を、鎌倉幕府の「鎮西探題」(1293年)に変更する直前に、「種秀」の前の「種資」まで続いた「太宰大監」を下ろされた時期(1280頃)でもある。
「元寇の役」の責任をとらされた形で降ろされた事になり、大蔵氏は衰退の憂き目を受ける。

(参考「太宰大監」(初代種材)「遠の朝廷」(「西の朝廷」)と呼ばれた九州全土を3権を持って納めた大宰府に府庁を置いた大監である。後に鎌倉幕府は「鎮西探題」に変える)

秀郷の永嶋氏から観ると次ぎの様に成る。
この時期に北九州の守又は官職を務めた人物は、10人居る。
(大蔵氏の定住地域を前提とする。日向、鹿児島の肝付氏系大蔵氏と島津氏系永嶋氏は除く)
(藤原利仁流は永嶋氏との血縁は薄いことから9人を差し引くと1人となる。)

秀郷宗家一門の任官の人物
豊後5人(12、19、20、21、23代)、豊前1人(15代)、筑前4人(19、20、20、21代)

その1人目は、次ぎの通りである。
豊前 貞宗 15代目 1270-1280年頃

永嶋氏関係筋からの豊後に赴いた人物
その2人目は、行光である。
豊後 行光 16代目 1270-1285年頃

永嶋氏は行長(14)が始祖である。しかし、正式には孫の武蔵守の行光(16代:1280年頃前後)である。秀郷一門の永嶋氏も孫の代で実質永嶋氏(長嶋氏)と成ったのである。
「行光」と成ると1280年代であり、武蔵守であるので、可能性が大きい一人である。

これ等2人は、大蔵氏系永嶋氏発祥の経緯と永嶋氏の経緯からは年代的には完全一致する。

では、この接点の仮説である。
上記の大蔵氏の永嶋氏の継承の経緯から次ぎの様に成る。

「継承経緯」
”両氏は血縁関係を結んだ”つまり、”大蔵氏分家に秀郷流永嶋氏から男子跡目を入れた。””相伝した””2代続きで嫡子が出来ず完全女系と成った””養子先の氏名の永嶋氏の選択をし名乗った。”となるだろう。
大蔵氏の系譜の経緯から仮説は一致し問題はなく、氏名の変更は可能となる。

では、次ぎに九州と武蔵の地理的要因を仮説する。
1274年と1281年に2度の「元寇の役」があった。全国より豊前、豊後、筑前に史実として全国の豪族の兵が集まった。

ここで、仮説する。

仮説1
鎌倉幕府に一番早く合力し、藤原一門で最も勲功のあった「藤原朝光」はその為に下総の「結城の本領安堵」と「武蔵国の本領安堵」を受けた。
この永嶋氏は佐野氏-結城氏-酒井氏-永嶋氏が発祥しているのである。
この時、この佐野氏系から分流した結城永嶋氏(長嶋氏)3代目(孫)の行光が武蔵守に任じられた。
この「行光」が2度目の「元寇の役」の為に、九州に赴いた。
この時、大蔵氏は「太宰大監」を降ろされて窮地に陥っていた。
そこで、この時期、最も勢力を伸ばしていた「関東屋形」と呼ばれるほどの勢力のある永嶋一門(結城氏系長嶋氏)との連合に踏み切った。
そして、”両氏は血縁関係を結んだ”とする。
以上の上記の接点に至る。
そこから、この大蔵氏系長嶋氏は北九州3国から九州全土へと拡がる。(1300年頃)

この「関東屋形」には、大変重要なデータが入っている。
「関東屋形」とは、結城(永嶋)氏、佐竹氏、宇都宮氏、小山氏の4氏である。
4氏は大変連携を持っていた。
この内の1氏の佐竹氏は関東(分家)と北九州(本家)に一族が分布する。
佐竹氏は「扇紋」である。まずこのことは大きなポイントである。

しかし、この大蔵氏の跡目に入った人物は本人の「行光」なのか、その子か孫か、誰なのかの疑問が湧く。
そこで、この「行光」の系譜を追うと、次ぎの様な人物が浮かび上がる。

「結城永嶋氏系譜」
行長-行重-行光-房重-重忠-重国-
行長-行重-行光-行経-行房-行長-

行長-行重-吉清-
行長-重行-
(行長は同名2人居る)
「行光」には二人の子供が居る。
一人は、「行経」で佐渡に定住した。
もう一人は、「房重」である。

この人物「房重」には、「行光」系譜の全ての人物は定住地、役職など書かれているが、詳細が全くない。
普通では、詳細が無い理由は、大蔵氏に移動した為に系統外となり、系譜作成時に詳細は不詳と成った事からで、役職も無く成った事からである。

そして、更に違う事がある。
この「房重」は氏名の「行」の字(通名)を引き継いでいないただ一人の人物である。

まだ、決定的と観られるものがある。
それは、この「房重」の秀郷流永嶋氏の末裔子孫には役柄が着いているが、孫の「重国」には大蔵氏の役どころの「蔵人役」を司っている。

全て系譜は「永嶋氏」であるが、この人物の「永嶋氏」は「長嶋氏」と成っている。
これは系譜作成時に九州長嶋氏を「長嶋」で違いを出したものであろう。

ところが、この長嶋氏を使った最初の人物は秀郷15代目「重行」である(1270-1285)
「房重」はこの「行重」(永嶋氏)より直系3代目(孫:秀郷17代目)である。
初代「行長」の子の「重行」と「行重」の二人兄弟の人物が居る。
重行:長嶋氏であり、行重:永嶋氏を発祥継承している。

「房重」のその末裔一族は長嶋氏である。内一人が永嶋氏の跡目に入っている。
つまり、大蔵長嶋氏はこの「房重」の秀郷流長嶋氏で一致する。

故に、この人物の疑問の答えは、この「房重」ではないかと観られる。
この事は、下記仮説4の大蔵長嶋氏でも状況証拠として検証できる。

仮説1-1
つまり、「行光」と共に子供の「房重」が豊後の防備に同行した。
大蔵氏はこの「元寇の役」で正妻嫡子を無くしたか、嫡子を遺せなかった。
そこで、家の「存亡衰退の危機」もあり、共に戦った結城の永嶋(長嶋)「行光」の子供を跡目に入れて建て直しの政略血縁を図った。
「大蔵種秀」がこの「房重」であると観る。「種資」の「子供養子縁組」で入る。
そこで「子供養子」であるので「房重」の名を大蔵氏の通名「種秀」と変名する。
後に、「種秀」=[房重」は「種資」の実娘との血縁をした。

「種資」実子は廃嫡説
「種資」の「実子頼種」は僧侶(覚心)と成り身を引いた
「重房」の実子説
「種秀(重房)」と娘との実子「頼種」に子が出来ず、僧侶(法名覚心)に成り身を引く。

嫡子生まれず、親類より跡目(種親)を入れて長嶋氏(永嶋)を無理に継いで名乗った事に成る。
実質は、その子の「種武」が始めて嫁取りの長嶋氏(永嶋氏)が発祥する。
結局、仮説1-1は何れの説も結城長嶋氏(房重)の血筋は消える事に成る。
無理でも長嶋氏を継いだところに長嶋氏との血縁を実行したい大蔵氏の強い事情がある事を示すものであるが疑問の一点と成る。

(「親種」は「種資」の父の弟(叔父)の3代目である。)

その後の経緯は、次ぎの様に成る。
大蔵氏系の弁済使肝付氏(540年続いた。北九州中部から薩摩の一部まで勢力圏に納めていた)との血縁の肝付氏系永嶋氏が南九州に発祥した。
遂には、この肝付氏は薩摩の島津氏に敗退(1591年)し肝付半島を残して島津家家臣(志布志阿多)と成る。この時、島津氏系永嶋氏も発祥する。
この元は大蔵氏からの3系列の九州永嶋氏と長嶋氏が発祥した。(発祥元の大蔵氏は長嶋氏である)

仮説2
豊前 貞宗 15代目 
 
大蔵氏の在所に役職として赴任していた1人(1270-1280年)が、上記仮説1(結城永嶋氏)の所を置き換えて、この大蔵氏との血縁した。
この永嶋氏は佐野氏系永嶋氏と成るが、兼光流で佐野氏系秀郷宗家一門15代末裔である。
兼光流9代目有綱系の青木氏と、兼光流9代目成俊系佐野氏とがあるが、佐野氏系永嶋氏(6代目兼行流)は後者である。(結城氏系長嶋氏は6代目行尊流)

「永嶋氏と長嶋氏系譜」
兼光--有綱系--青木氏

兼光--成俊系--佐野氏--兼行--永嶋氏

兼光--成俊系--佐野氏--行尊--結城氏-酒井氏-永嶋氏-永嶋氏

兼光--成俊系--佐野氏--行尊--結城氏-酒井氏-長嶋氏 

(注意;:上総の結城氏が一時酒井氏を名乗り、その後永嶋氏(長嶋氏)と成った。)
(酒井氏には四国阿波の秀郷一門と大きく関わった剣片喰族の酒井氏が存在する。)

「貞宗」は佐野氏系宗家の15代目の人物であるが、流としては永嶋氏と繋がりは取れるが、豊前に長嶋氏か永嶋氏が移動した史実が取れない。(扇紋の佐竹氏関係のみ)
移動の護衛は青木氏であった事が確認出来るが、この時期の「元寇の役」の為に、青木氏と同様に佐野氏系永嶋氏も移動したとする仮説(100%)である。
この「元寇の役」には全ての豪族が命じられたことは史実であるので間違いはないだろう。
しかし、この仮説2では史実が取れない。今後の研究課題である。
豊前は大蔵氏と長嶋氏共に間違いなく赴任しているので地理的にも問題はない。

家紋としては、この地域は「扇紋」の大蔵氏の末裔支流と見られる佐竹氏と佐伯氏がある。
大蔵氏は宗家は「三つ撫子紋」である。
肝付氏系永嶋氏は「三つ雁金紋」である。
大蔵氏系長嶋氏の家紋が正式には掴めないが、「三撫子紋」であろう。
現在の所、秀郷流永嶋氏の家紋の中にはそれらしき九州地域の家紋は見当たらない。

ところが、青木氏と長谷川氏だけに、この3地域(豊前、豊後、筑前)の「扇紋」は確認は出来る。
そこで、大蔵氏系長嶋氏は、「扇紋」から観て、「貞宗」に同行した青木氏との何らかの繋がりにて長嶋氏が発祥したとも考えられる。

仮説3(研究課題 仲介説)
「青木氏の仲介説」
賜姓青木氏と大蔵氏は奈良期(大化期)から宿敵であり、特に、桓武期の賜姓青木氏の衰退は、彼等の台頭と桓武天皇(阿多倍大蔵氏は母方親族:高野新笠)から官職剥奪の憂き目も受けての結果であり、藤原秀郷一門も同様に桓武平氏(阿多倍一族)台頭で勢力は低下した経験がある。
この環境の中で、旧来の宿敵大蔵氏と繋がる背景が如何に在るのか大きな研究課題である。
北条氏が間に絡んでいる可能性も高いと推測している。
佐竹氏の扇族の扇紋と丸に扇紋の二つである。

つまり、”北条氏から「元寇の役」の責任で「太宰大監の剥奪」を受け、「危機存亡」の窮策として先ず、「第2の宗家」秀郷流青木氏の「扇紋(大蔵氏系佐竹氏)」を仲介として、時の「関東屋形」と呼ばれる「結城氏系長嶋氏(永嶋氏)」が入った”とする説である。

「長谷川氏の仲介説」
もう一つは、最後発の長谷川氏の仲介説である。
長谷川氏は史料6でも述べたが小豪族が全体の68%を占めている。これが「野戦戦略」の所以であるのだが、北九州の豪族の扇族との血縁を強く進めている。これは青木氏以上である。

青木氏は、「扇紋」とその分家の「丸付き扇紋」の2つである。宗家紋筋である。
長谷川氏は、「並び扇、丸に四つ扇、佐竹扇、五本骨扇、檜扇」紋の5つである。
支流紋筋である。
2つ合わせると、扇一門全てに成る。
ここで「関東屋形」4氏の関東佐竹氏(北九州佐竹氏の分家)との繋がりが観られる。

青木氏の「2つの扇紋」の「丸付き扇紋」は分家に成ったものと観られるが、長谷川氏は明らかに「5つの扇族」と血縁している。そして、それは佐竹氏を中心にして一族の全ての家紋群と個別に血縁している事である。
その域は豊後に留まらず、真に北九州全域に血縁していることである。
この事から、「第2の宗家」青木氏より長谷川氏の方が大蔵氏との血縁関係の可能性が遥かに強い事が血縁種や血縁数から観て言える。間違いなく「縁」が深い。

何よりも、青木氏には「扇紋族」と血縁があると云う事は、真に「行光」と「貞宗」の2人に同行して豊前、豊後の2地域に赴任した証拠であり、藤原秀郷一門の戦略「赴任地の豪族との血縁族を造る」に一致する事である。

青木氏には、「宗家護衛の役」があり、[第2の宗家の役」があるので、「繋がり」は納得出来易い。
では、長谷川氏の方は、その「血縁の可能性」から大蔵氏との「繋がり」の経緯はどの様なものであるのか疑問である。
長谷川氏は、”この「5つの扇紋」との血縁をどの様なことから起こったのか”と言う事に成る。
兎も角も、私は、「5つの扇紋」の中に鍵があるのではとも考えている。鍵は「関東屋形」である。
(1280年前後の関係史料が少ないので、「探り出し」は難攻となる。)

後は、史料6でも詳しく述べたが青木氏の一門への指揮は大きく働いていた。故に、その「青木氏仲介説」の証拠の「接点探り出し」の今後の研究課題と成る。

「長谷川氏仲介説」も「接点探り出し」で共通の研究課題である。
「長谷川氏仲介説」には、「長谷川氏と永嶋氏との接点」(「大蔵氏と長谷川氏の接点」)も解明が必要である。
この「接点1点」である。この1点の確証が取れれば、仮説1、2、3は一つに成り証明出来る。

何にしても三相(人、時、場所)の状況証拠の条件は先ず揃っている。後は確証である。

仮説4(青木氏抜き説)
「房重」の「房」の通名では「種房」と云う者が「種資」の叔父に居る。
「貞宗」の「貞」の通名では「種貞」と云う者が「種房」の父に居る。
「関東屋形」の結城永嶋氏と連携した4氏の「関東の大竹氏」も一族の扇紋である。
九州の大蔵氏の永嶋氏は長嶋氏である。
2人の通名の持つ人物が大蔵氏に居る。
時期、時代、地理、繋がりも佐竹氏で採れ一致している。
「房重」と「貞宗」の豊後、豊前に関係した藤原秀郷流長嶋氏の2名の通名が使われている。

この事から、次ぎの事が予想できる。
「房重」は「種房」で、「貞宗」が「種貞」であるとすると、仮説1、2、3とは別に、次の事が仮説できる。
同時期に関係は確認出来るが通名が一致するのは余りにも偶然過ぎる。

この2人の繋がりは、「扇紋」の佐竹氏であり、「関東屋形」の「繋がり」より、九州の本家の佐竹氏に繋がりをつけて、血縁を結んだ。これで大蔵氏と藤原秀郷流の長嶋氏(永嶋氏)の「繋がり」は取れる。

第一次の役(1274)の前後で、長嶋氏の「房重」は大蔵氏の本家と血縁したその人物が「種房」で、大蔵氏の通名の「種」と長嶋氏の通名の「房」とを採って「種房」と名乗った。
「種房」は「太宰大監」を勤めた。
しかし、その血縁は、そこに、再び第2次の「元寇の役」の事件が起こる。
九州を納めていた責任を問われ本家大蔵氏は「太宰大監」の職を解かれた。
相伝の「種秀」の親の「種資」のところでの出来事である。
そこで、長嶋氏から跡目に入った大蔵氏は「危機存亡の窮策」として、「藤原貞宗」が再び大蔵氏と血縁した。
そして、通名を大蔵氏の通名の字「種」と、藤原氏の通名の字「貞」とを合わせて、「種貞」とした。
しかし、「種貞」の子の「種有」は直ぐに、右馬氏に跡目に入れた為に、「種貞」は跡目「種資」の子の「種秀」(孫)を長嶋氏の相伝に指名した。
しかし、「種秀」の嫡子の「頼種」に子供が居なく、「種貞」のところでの長嶋氏を告がせるために長嶋氏の血筋を引く同系列「種貞」の子「種嗣」の孫の「種親」を養子に迎え、長嶋氏を引き継ぎ名乗らせた。この時、「頼種」は僧侶覚心と成って身を引き跡目を譲った。
これで藤原氏の血筋が大蔵氏に入った事に成る。

仮説1、2、3、の繋がりは仮説4の「関東屋形」(5氏連携)の扇紋の佐竹氏の九州の本家筋扇紋の佐竹氏で「繋がり」は採れる事が出来る。
仮説4と合わせて、何れの説かは今後の研究課題である。

さて、話は変えて、仮説1、2、3に付いては次ぎの様に成る。
肝付氏は、1140年頃に朝廷上級官僚の弁済使の「伴兼俊」が土地の古い阿多倍らの血筋を引く無名土豪の跡目に入り始祖(1270頃)とされるが、丁度、この時期の氏である。
雁金紋がキーポイントになる可能性が観られる。
秀郷一門の永嶋氏の家紋の中に雁金紋があると決定であるのだが無い。
しかし、青木氏がこの両家紋を持つ。
何らかの方法で青木氏のリーダ役目柄この縁を取り持ったと言う事に成る。
”青木氏の雁金紋の者が長嶋氏に養子の形を採り入り、その後、九州の大蔵氏系長嶋氏に入った”とすれば解決する。この時期はこの方式が良く採られた。
この形の血縁方式を採れば家紋は遺せる事で一致する。

以上仮説1、2、3、4にて確証は取れないが、秀郷一門の永嶋氏(長嶋氏)と繋がっている事はほぼ間違いないと考えている。
この様に仮説3で絡んでいる事もあり、”どの仮説か”の問題である。
(今のところ仮説1が有力であるが、青木氏と大蔵氏と永嶋氏の関係を掴む事が今後の研究課題である。)

話を元に戻して、九州長嶋氏の以上の仮説から、先ず間違いなく永嶋氏は西にその弱点を補った事が云える。
「篭城戦法」に対して、「シンジケート戦法」を加えた事、況や「ゲリラ戦法」である。
もう一つは、「2面作戦の戦法」を加えた事、況や「挟み撃ち戦法」である。
先ずその一つ「挟み撃ち戦法」として延べた。

つまり、関西より西側に親族血縁者を作り出し、”いざ戦い”と成ると、背後より縁者が駆けつけて「挟み撃ち」にしてくるという「圧力作戦」である。なかなか手が出せない事になる。
大蔵氏は現行の役で窮地に陥っていたとは言え、引き続いて直ぐ後の時代には雁金紋の肝付氏等の末裔が依然として九州の最大勢力を誇った事から考えれば。その大勢力はへ保持され大蔵氏との血縁は秀郷一門の長嶋氏としては戦略上願っても無い血縁である筈である。
だから、「挟み撃ち戦略」で後発発祥でありながら「関東屋形」と呼ばれる位の勢力を持ったのである。だから、主要5氏に成れた一因のである。

次ぎは「シンジケート戦法」(ゲリラ戦法)である。
堺から名張、松阪から桑名、員弁まで、更には美濃、信濃域までのライン上には伊勢シンジケートがあった。
これは、伊勢青木氏の「2足の草鞋策」を護る「陰の力」である。史実このシンジケートの存在は確認出来るが、このシンジケートは東隣りの美濃、その隣りの信濃との繋がりを持っていた事も判っている。つまり、5家5流の青木氏との繋がりであり、その基点とするところには今でも必ず伊勢で無いのに伊勢町の地名が残るほどである。つまり、拠点の要所要所に一族を置いて連携強化を図っていた事を意味するのである。
大商いをするには、その運搬や商品を護る必要がある。そのためには各地にその護る連合が必要であり、「下克上」で潰された氏や敗退した武士団をまとめて経済的な支援をしてシンジケートに入れる事で彼等は生き延びる事が出来るのである。これが氏家制度の「裏の慣習」なのである。潰された小氏は皆死んだ訳ではないのである。
村の農民、小商人、野武士、盗賊、山賊、海賊、土地の小豪族、神社寺社の宮司や住職に身を変えてその役目を果たすのである。そして、それらの一族と配下はその下で働くのである。これ等の働きの歴史的な事件は山とある。
有名なことでは、上記した南北朝の楠木正成と北条氏の戦いである。
又は、伊勢青木氏の紙屋青木長兵衛と織田信長の「天正の乱」の「丸山城の戦い」で在ろう。
物資補給を抑える事、局所戦で疲れさせる事等の戦術を採る事で相手は餓死し、眠れなくて疲労困憊で戦意は無くなる自然壊滅に成る戦略である。事実10万の兵が餓死寸前になったのである。
この事を知る秀吉に忠告されながら信長も、足利氏に忠告されながら北条氏も、この「陰の力」を無視したから負けたのである。

永嶋氏はその伊勢から始まる中部勢力圏を「第2の宗家」の青木氏が指揮する事で、このシンジケートに乗れる。当然、秀郷一門の青木氏は賜姓青木氏とは笹竜胆紋で血縁の繋がりを持っている。勿論長嶋氏もである。
伊勢を動かすことは容易である。当然、広範囲に116氏もの血縁を広げているから、一声出せば各地が地震の様に動く。
この二つのシンジケートに護られれば、うかつに手を出させない。先に出した方が相手を無傷にして負けるが定法である。
目に見えない武力である。永嶋氏は賜姓青木氏との血縁によりこの「陰の力」を保持していたのである。だから「篭城戦法」が効くのである。
だから、「丸付き紋」を多く血縁相手に選んでいるのである。
菊水紋の楠木正成の様に10万の兵に勝てるのである。この楠木正成こそ紛れも無いこの「伊勢シンジケート」の一員なのであった。伊勢と紀州に跨る山里に住まう土豪集団の元締めであった。
史料5の秀郷流青木氏には菊水紋がある事に思い出してもらいたい。
大元締めの伊勢賜姓青木氏と秀郷流青木氏とこの楠木政成の土豪集団の元締めと血縁関係を保持していたのである。
完璧な血縁戦略で固めていたと考えられる。だから、強かったのである。
何れも二つは伊勢青木氏が指揮する「伊勢シンジケート」の活躍である。

話を元に戻して、ここが、長谷川氏と異なる所である。
これが、説明が長くなったが、「篭城戦略」の血縁族の「永嶋氏の補足戦略」であって、長谷川氏との違いである。
だから、「野戦戦略」を採用した長谷川氏はその代わりにこの支流族まで細かく血縁で固めている事である。
本来、永嶋氏のところで記述するものであるが、敢えて長谷川氏のところに移した。
「接点探り出し」如何では、長谷川氏との結びつきが高くなることも在り得ることも含めてここに記述した。先にレポートした本文「永嶋氏との関係」を思い起こして頂きたい。

家紋から推察出来得る長谷川氏の「氏を守りぬく戦略」の苦労は統一した戦略として血縁関係にも働いていた。
その長谷川氏とは、「逆の戦略」で氏を守ろうとしていた事も覗える史実なので、ここで記述した。長谷川氏のこの「野戦戦略」をクローズアップさせる為にも、逆に永嶋氏の戦法「篭城戦略」を説明した。

長谷川氏の「共通血縁族」の分類(青木氏)
「共通血縁族」(長谷川氏) 「共通血縁族」(長沼氏)   「共通血縁族」(永嶋氏)
1・下がり藤・上り藤     1 ・下がり藤        1 ・上り藤、・下がり藤
2・笹竜胆          2 ・笹竜胆         2 ・笹竜胆
3・桔梗           3 ・桔梗、・丸に桔梗    3 ・丸に隅立て4つ目    
4・木瓜・丸に木瓜      4 ・九曜          4 ・丸に片喰、・丸に剣片喰
5・橘・丸に橘       5 ・抱き茗荷        5 ・丸に沢瀉  
6・梅鉢・丸に梅鉢      6 ・丸に立ち沢瀉、抱き沢瀉 6 ・丸に抱き茗荷    
7・九枚笹・丸に根笹     7 ・丸に三つ鱗       7 ・丸に違い鷹の羽     
8・片喰・丸に片喰      8 ・丸に橘         8 ・丸に桔梗      
9・九曜・丸に九曜      9 ・丸に剣花菱       9 ・丸に蔓柏    
10・蔦・丸に蔦        10 ・丸に剣片喰       10 ・丸に木瓜      
11・立ち沢瀉・丸に立ち沢瀉  11 ・丸に違い鷹の羽     11 ・梅鉢、・丸に梅鉢    
12・剣片喰・丸に剣片喰    12 ・丸に梅鉢        12 ・三階菱     
13・武田菱・剣花菱      13 ・五三の桐        13 ・五三の桐    
14・抱き茗荷・丸に抱き茗荷                 14 釘抜き   
15・丸に蔓柏・違い柏     以上15の「共通血縁族」   以上17の「共通血縁族」
16・違い鷹の羽・丸に違い鷹の羽
17・丸に一つ引き・丸に二つ引き・丸に三つ引き
18・三階菱
19・松皮菱
20・揚羽蝶
21・五三の桐
22・丸に隅立て四つ目
23 横木瓜 丸に横木瓜
以上40血縁族である。


青木氏との長谷川氏「共通血縁族」の考察
青木氏との関係を「時代性」から観て、どの様な同変化しているか、その特徴を分析する。
この事から、その氏の発祥時期や氏の置かれている立場などの総括的な活躍具合が観えて来る。

H:平安時代前期 K:鎌倉時代 M:室町時代 A:安土桃山時代 E:江戸時代
一つの家紋は幾つかの時代を重複して計算している。
(史料7/10添付)
以下の数値はdB的な数値として扱う。

長谷川氏     長沼氏      永嶋氏      進藤氏     青木氏
H:4  11%   H:3  13%   H:2  08%   H:4  13%   H:7 03%
K:1  03%   K:1  04%   K:1  04%   K:1  03%   K:20 10%  
M:15 39%  M:9  39%   M:11  46%   M:10  31%   M:81 39%
A:9  24%   A:6  26%   A:5  21%   A:7  22%   A:55 26%
E:9  24%   E:4  17%   E:5  21%   E:10  31%   E:47 22%

このデーターから、次ぎの様な事が読み取れる。
1 大別すると平安、鎌倉期 2 室町期 3 安土桃山、江戸期期
この3つがこのデターの趨勢を物語っている。
そこで先ず、最初の時代から観てみる。

1 平安、鎌倉期 
全体としては次ぎの様な事を物語る。
平安と鎌倉期では12-17%で平均14.4%Bで主要5氏の大きな差はなく低率である。
各氏とも平安末期までに発祥した氏であるが、発祥の時期には大した差は無い事になる。
速ければ、隆盛期のH、Kが多くなるとも考えられるが、それだけに社会の氏の数も少ない事を意味するので、同率と成ったと観られる。
後につまり、逆に言えば、最後発の長谷川氏にしてみれば、大いに勢力拡大に努めたと成る。その数値の比較として永嶋氏の数値で判るし同様である。
青木氏は藤原一門が鎌倉幕府樹立で離職離散した苦しい時期にその氏力を他の4氏より段突に伸ばしておりその立場から来る努力の跡が観得る。だからリード役の「第2の宗家」がしっかりして窮地を守り抜いたから4氏が生き延びられたとも謂える。
私はこの時点で「総宗本家」の「藤原氏」より「第2の宗家」に徹しながらも青木氏の方が信頼されていたのでは考えいてる。
青木氏は鎌倉期では10%と矢張り他の氏と異なっているのはこの事を意味しているのではないか。

鎌倉幕府樹立で失職離散したが、秀郷一門の氏を支える為に、源平合戦に生残った豪族との血縁関係を持ち連携を積極的に図って建て直しを試みたものであろう。
平安期には各地での藤原氏特有の戦略的血縁も図ったが、未だその相手は小豪族であって、鎌倉期では生残った血縁氏が力を増して家紋200選に選ばれるくらいの大豪族と成った事を意味する。
むしろ、室町期の39%はこらの血縁氏が力を付けた氏の数字であって、39%の家紋を調べるとその60%が平安期と鎌倉期のの血縁氏である。
即ち、平安期は氏が少ない故に発祥したばかりの小さい氏を育て将来に種をまいて守ったといえる。
それが鎌倉期を経て室町期で育ったと云える。
別の面から観ると、「源平合戦」、「下克上」、「戦国時代」で青木血縁族は潰れた氏も多かったで在ろう。

青木氏に対して、逆の見方からすると進藤氏は13%と平安期に血縁族を多く創り上げている。
文行流の一族であるが、青木氏と進藤氏は対象的なのは、「護衛役の有無」と「一門の立場」と「戦略の違い」の差があったと考えられるが、進藤氏には、「藤成」からの「秀郷」の一門進藤氏と、「鷲取」からの利仁流進藤氏もあり、同時期、同地で同族と親族間の血縁連携をも図っていた戦略が観える。
利仁流は鎮守府将軍や阿波と北陸道の守護を代々続けるなど、藤原氏の中でも秀郷一門と共同の活動を採って来た一門で、秀郷流と利仁流の進藤氏があるほど連携をして来たのである。
進藤氏はどちらかと言うと同じく一族内を固くする「篭城戦略」に似た「身内戦略」を採ったと観られる。永嶋氏とは少し違うのは、血縁族を赴任地だけに留め、広く求めなかった所にあり、即ち勢力圏は極めて小さい処にある。
赴任地は主に能登、加賀、越前、越中、越後、陸奥の「北陸道」に限られている事からも、むしろ血縁族を広められなかったのではと考えられる。
それに依って、失職離散する前の平安期の血縁率が高く成ったと観られる。
その結果が室町期、安土桃山期、江戸期と余り延びていないのである。青木氏と対照的である。
(詳細は進藤氏の本文考察参照)

5氏の平安鎌倉期のこの平均15%は、主に賜姓族(笹竜胆族)一門と皇族(橘族)一門と限定されている。
秀郷一族のその「母方縁者関係」から血縁をした結果の率である。その当時の大豪族とは積極的な血縁をしていない事を意味する。していればもっと大きい数字となろうが、そうでは無い。
つまり、5氏共に平安期と鎌倉期には全く他の大豪族とは記録に残り、且つ、子孫を遺す「正式血縁」をしていない事を意味する大きな特徴である。
この時期は「象徴と権威の血縁」を主体に血縁戦略を進めたと観られる。

”ではどうしていたか”であるが、氏家制度の最も厳しい時代での血縁では、最も最上位の氏が下位の身分家柄との血縁は、この藤原としては「直接的血縁」では困難で、天皇家、公家、朝臣族、宿禰族かの相手しか無く成る。つまり、「同族血縁」を繰り返していた事が云える。
又、娘を下位の血縁相手に出し「間接的血縁」を行っていた事に成る。
上位は「直接血縁」(「同族血縁」)で「象徴と権威の血縁」、下位は「間接血縁」で「組織固めの血縁」(「力の地固めの血縁」)とする戦略を採っていたことを示す。

この「同族血縁」の習慣は、現在社会では異常視されるが、当時は通常の血縁習慣であった。血筋家からを重んじる「氏家制度」の最も強い社会で「純血度」がその尺度に成っていた。
その只、その社会は出来る限り「4階級の妻制度」を持ち、障害を克服する手立ては構じられていた。
つまり、平易に謂えば、氏家制度の中で行為の立場の氏には、病気と戦時での死亡率が高い時期に、確実に子孫を遺す目的とこの弊害を無くすることも含めて、4人までの妻を作る事が慣習或いは義務として認められていたものである。
その制度とは、純血の高い順に3位まで妻は高位の身分とし、4位(3位)は妥女(妾)であった。
純血度の高い妻の子で障害の無い場合は嫡子として扱い、後は全て妾腹子になる。嫡子の直氏が産まれなければ妾子を嫡子とするシステムであった。
嫡子外妾子は上記の下位の「間接血縁」(跡目)の道具として用いられると言うものであり、長男が必ずしも嫡子ではなく廃嫡と僧化する事は頻繁に行われていた厳しい社会でもあった。
長男制度は江戸初期からである。

話を戻して、別の見方をすれば、皇族賜姓族と天皇家との結束を重点に図っていた事になり、賜姓青木氏との血縁が強かった事を意味する。
これは室町期末期の信長などにより敗退逃亡した時に、諏訪族を始めとする賜姓青木氏を各地の藤原秀郷一門が匿ったのはこの「強い縁と絆」の関係があったからである。ただ、頼っただけではない。この数字はこの事をも意味するのであり、この社会体制は豪族間の間で江戸時代まで続いた。
(だから、3期の混乱期には特に江戸時代には、系譜などの「搾取偏纂」が起こったのである。)
秀郷一門が匿う事で手が出せなかったのは、この「関係情報」は信長などもよく知っていた事をも意味する。
もっと云えば、秀郷一門の中で、これだけの事をどこかで支配していないと出て来るデータではない事に成る。
5氏らが勝手に動くだろう。そうすると5氏ともに率は散在する筈である。しかし、全ての比較データを見てもらうと進藤氏の1箇所を除いて殆ど同比である。(進藤氏のこの考察は下記)
つまり、武力を持たない貴族の秀郷の総宗本家に代わり「第2の宗家」が居て、それが統率して細かく指揮していた事を物語るものである。そうで無くてはこのデータは出てこない。
つまり、「第3子の家法」を持つ青木氏が居たからである。
氏家制度の中で、藤原秀郷一門の氏はこの「第2の宗家」の青木氏に許可と指示を受けていた事に成る。
2倍の勢力を持つ相手に背けば打たれるのは当時の「氏家制度の掟」を前提に組織は護られていた。宗家本家の末端までの口出しは「冠婚葬祭時」も含めてこの社会習慣は江戸中期まで護られていた。
これが「氏家制度」であり、しかし、物身心共に困った時には助けてくれるなど良い事の多い制度であった。
しかし、これは難しい事である。次第に他の血筋が入れば他人化して統率は取れなくなるは世の常である。史実が物語る通り武力だけでは無理である。
しかし、それをクリヤーしたのは、2つの方法があり、その一つは他氏の豪族の血筋が入ればその氏との藤原一門間の「同族間の血縁」である。
だから、「共通血縁」(普通10%程度)が50%程度と云う高い率に成っているのである。
そして、史料でも記述したが、その5氏の「共通血縁」が80%台(第3氏未勘氏賜姓氏など除く)で同じと云う不思議とも云える現象を示しているのである。
これは「他氏の血筋」が入るその「同族間血縁」で組織を固め、同族血縁の障害を排除している証拠でもある。草する事で当然に高い率の「共通血縁族」が生まれる事になる。

このまだ「氏家制度」が厳然と残る平安期と鎌倉期は、これから起こる日本歴史上の未曾有の社会逆転現象と危機存亡期に打ち勝つ組織力を築く前哨戦でもあった。
其処に、その試練の室町期が到来するのである。乗り越える力をこの「共通血縁方式」の藤原秀郷一門は持ち得ていたのであろうか。

2 室町期
長谷川氏     長沼氏      永嶋氏      進藤氏     青木氏
M:15 39%   M:9  39%   M:11  46%   M:10  31%   M:81 39%

この数字を観て驚く。
進藤氏を除いても、40%である。
室町期は下克上と戦国時代と云う混乱期で有名であるが、失職離散の憂き目でも、この数字は高い。

当然に、室町期に大きい数字が出る可能性は高いが、現実に、混乱期で、農民などが武士となり立身出世をして、自らの存在を鼓舞する為に家紋化が次第に起こり、氏数も最大に増えた時期でもある事から、それを物語る結果である。
この数字を観る事から、同族血縁間の弊害は克服している事を意味している。見事なものであるが、恣意的な指示があったであろう事を想像される。当然にその恣意的指示の出処は「第2の宗家」の青木氏である。
これは藤原秀郷一門主要5氏が平安期の隆盛より室町期の隆盛の方が大きかった事を示すものであるが、鎌倉幕府が樹立し、秀郷一門は職を失い離散した時期でもあるから、一時期はこの影響を受けたことは否めない。その時期の鎌倉期は矢張り一段小さいデータと成っている。
しかし、室町期では高く成っていて、その勢いは江戸まで続いている事は失職離散の憂き目を受けながらも、猛烈な勢いで氏を固め、勢力を盛り返した頑張りが観えて来る。
その間の頑張りは、普通ではない。40%である。
室町の「下克上」の時期の最も苦しい時期に最も高いのである。ましてや、その「打ちこわし」「焼き討ち」の相手は、殆ど弱り目祟り目の藤原氏だけに向けられたのである。
それにもまして、延びている。倍の80の力以上を出して、40を確保した事を意味する。
そうすると「戦う力」は倍の力を持っていたとは考えられない。離散失職しているのであるから、兵力も減っている。
そうすると後は秀郷一門の結束以外に無い。その結束は精神的なものだけであったとは言い切れる程に世の中は理想的に出来ていないし甘くは無いない。
上記から青木氏の「第2の宗家」の統率力と、その支配を裏打ちする「経済力」が無ければ、「下克上」と「戦国時代」で「政治と軍事」の力は低下しているのであるから無理である。
それが、上記で説明してきた2つ目の「2足の草鞋策」なのである。

私は、近江、伊勢、美濃、信濃の豪商の地として有名であるが、この4地方の皇族賜姓青木氏の「2足の草鞋」と藤姓秀郷流青木氏の豪商が支えていたのではないかと観ている。
史実として残る伊勢の豪商紙屋長兵衛、讃岐籐氏の大廻船問屋、近江、堺、摂津の大貿易商人、藤姓の駿河の大海鮮問屋信濃の大産物商や大馬商等の青木氏がこれを支えたのである。豪商史実を挙げればきりが無い。
平安鎌倉時期の水軍合戦の史実を紐解くと、これ等の「2足の草鞋策」の船団が軍船に早代わりして戦っている。最も有名な事として、源平合戦は水軍の戦いで勝敗が決まったが、この史実を探ると幾つも出て来る。先ず、平家の壇ノ浦の水軍の敗戦再結集で、軍戦の持たない頼朝軍の本拠地とする三浦半島の鎌倉沖まで迫り「万事窮す」の時、これを察知し救ったのが。伊豆大島と伊勢尾張間で水産物商い船団と伊豆の海賊船団に伊豆の源氏の大島氏が乗り込み、更に、伊勢の豪商の伊勢船団の水軍(賜姓青木氏)が加わり急いで三日で三浦沖に駆けつけ、平家軍と再び戦火を交えて頼朝の窮地を救った。
この時、義経自身の身内船団で平家の瀬戸内の平家水軍を破った船団を構成する紀州海賊(雑賀、河内一族)、熊野水軍(新宮太郎)、伊勢水軍(伊勢三郎)瀬戸内水軍(讃岐青木氏)は関西にいて裏を掻かれた。
この2つの史実の船団を裏で結び付けたのは2足の草鞋の2つの青木氏の豪商である。
この様に、裏では「2足の草鞋策」の商船団が暗躍していたのである。
故に、「2足の草鞋策」で「下克上」「戦国時代」の危機を乗り越えられたのである。

これだけの力を持ち得ていれば、潰される事は無いだろう。武蔵、下野の領国は安泰であったのである。鎌倉幕府も故にその力を認めての2度の「本領安堵策」と「平家没官僚策」が降りたのである。
その藤原氏を代表して朝光が頼朝の幕府に近づき、結城氏を再興したのである。そして、そこから永嶋氏や秀郷一門が底支えを受けたのである。「関東屋形」として力を発揮出来たのである。
データーでもこの様に出ている。

ここで、進藤氏と永嶋氏の数字が少し違う。これは何を意味しているのであろう。
後発の永嶋氏46%と先発進藤氏31%である。
他の3氏は40%であるが、永嶋氏に付いては史料6と前本論で記述したが、氏の血縁方法と云うか生き方に違いがあった。
所謂「篭城戦略」で「狭く濃く」ある。長谷川氏は「野戦戦略」で「広く薄く」であった。
この差が46%と云う数字と成って現れている。
後発でもあったが、確実に主要8血縁族との血縁を固めている。室町期に誕生した豪族との血縁で身を護った結果を示すデータでもある。

3者合計(N1:N2:H) 4者合計(N1:N2:H:S) 5者合計(N1:N2:H:S)
H:09  11%      H:13  11%        H:20  06%
K:03  04%      K:04  04%        K:24  07%
M:35  41%      M:45  38%        M:126  39%
A:20  24%      A:27  23%        A:82  25%
E:18  21%      E:28  24%        E:75  23%

主要5氏の合計でも観て見ると、3者と4者と5者とも高率と同率であり、主要5氏間の血縁は極めて濃厚さを示し且つ固い事を示すものである。主要5氏共に「家紋200選」の上位の家紋群で構成されている事を示すもので裏打ちされている。
合計で観ても同率であると云う事は、”夫々が勝手に動いて血縁関係をしていない”事を物語るものである。
文行流の同じ氏力を持つ長谷川氏でさえも「第2の宗家」青木氏の一門を統括する恣意的指示があった事をここでも意味する。


本流長谷川氏の一族
秀郷流長谷川氏 秀郷7代目公澄の末裔である。後に尾藤氏を名乗る。
秀郷流長谷川氏 秀郷8代目行義の末裔である。後に下川辺氏を名乗る。
秀郷流長谷川氏 秀郷の末裔長久の末裔である。長久は未勘
利仁流長谷川氏 為輔を祖とする進藤氏の末裔である。
利仁流長谷川氏 有国を祖とする末裔である。有国は未勘

未勘の長谷川氏
橘姓長谷川氏  
菅原姓長谷川氏
在原姓長谷川氏
中原姓長谷川氏
宇野氏族長谷川氏
中臣姓長谷川氏
源満政流長谷川氏

未勘氏の末裔。
岩代
越後
上野
常陸
羽後
武蔵
相模
駿河
尾張
越中
紀伊



先発進藤氏に付いては次ぎのレポートで延べる。
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