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藤原秀郷主要5氏と家紋の研究-長沼氏との関係
藤原秀郷主要5氏と家紋の研究-長沼氏との関係
[本文の考察](長沼氏)
永嶋氏に続いて長沼氏に付いて考察する。
この主要5氏の一つ長沼氏は青木氏と同様に秀郷一門の兼光流である。
発祥経緯も早く青木氏との関わりは深い。
その青木氏とどの様に関わっていたのかを考察する。
藤原氏の古い研究書籍では、これ等の主要5氏特に中でも長沼氏と永嶋氏は「青木一族」と位置付けられているものもある位に親密な関係にあった。
「家紋」は当時の氏の特長を表す代表的な手段であって、その「氏の生き方」を示すバロメータでもあるが、その「家紋」を通じて検証してみる。
兼光流の長沼氏は52家紋は次の様な血縁族と成っている。
2 血縁族の家紋類(長沼氏)
(以下第3の長沼氏の家紋含む)
(・印 家紋200選 24/52 46%)
1 ・下がり藤、・丸に下がり藤
2 ・左二つ巴、・右二つ巴、・左三つ巴、右4三つ巴、
3 ・中輪に抱き沢瀉、・丸に立ち沢瀉、・抱き沢瀉
4 ・丸に立ち梶の葉
5 ・桔梗、・丸に桔梗
6 ・九曜、七曜
7 ・抱き茗荷、重ね角持ち抱き茗荷
8 ・五三の桐
9 ・丸に三つ鱗、二つ輪に三つ鱗
10 ・丸に橘
11 ・笹竜胆、・丸に笹竜胆
12 ・丸に剣花菱
13 ・丸に剣片喰
14 ・丸に違い鷹の羽、四方瓜に違い鷹の羽
15 ・三つ柏、二つ輪に三つ柏、・丸に蔓柏
16 ・鶴の丸
17 ・丸に梅鉢
18 三つ扇
19 丸に竪二つ引き
20 輪違い
21 五つ矢
22 亀甲の中に根笹、亀甲に五三の桐
23 采配のぶつ違い
24 折敷に変り七宝
25 くつわ
26 丸に頭合わせ三つ雁金
27 丸に三ツ星に一引き
28 丸に本の字
29 丸に大の字
30 丸に三つ盛り亀甲花菱
31 黒田藤巴
32 丸に鬼蔦
33 丸に釘抜き、丸に延釘抜き
以上33分類52氏の長沼氏である。
長沼氏の血縁族の考察
永嶋氏の27分類に対して、長沼氏は33分類にされるが、「家紋200選」に対しては24氏で全体の46%である。長沼氏の%は永嶋氏とほぼ同じ程度(46)である。
氏数は永嶋氏35氏に対して52氏である。
青木氏は「家紋200選」では(59/121)49%である。
「家紋200選」の3氏とも同率で高く、主要族で血縁を結んでいる事を示す。
「家紋200選」にある主要血縁族で観れば、青木氏と永嶋氏と長沼氏は同じ程度の血縁力を示している。しかし、全体的に観ると、其処には夫々の特徴が出て来る。
先ず、次ぎにそれを示す。
分類の関係では、分類比(27/33)=79%と、氏数の比(35/52)=67%から考察すると、永嶋氏と長沼氏は同門であるので二つの比が同率50として考えると、、「氏力」と言うものがあるとすると、長沼氏の方が「氏力」が20%前後高い事に成る。
双方ともに同時に一般(10%程度)と較べて極めて高い「氏力」を持っている事を示す。
因みに、青木氏(分類38)とでは、永嶋氏との分類比(27/38)71%、長沼氏との分類比(33/38)86%である。青木氏は長沼氏とよりよく似た血縁性を持っている事を示す。
氏数比は「第2の宗家」であるので、次ぎの様に成る。
永嶋氏との氏数比(35/121)29%、長沼氏との氏数比(52/121)43%で、青木氏の「氏力」は数段上である。
又、同率氏数として計算すると(41-44)の氏数である筈であるが、(8-11)+となり永嶋氏より長沼氏の方が、「氏力」が高くなり、「氏力」=永嶋氏<長沼氏=1.2となる。
つまり、その「氏力」の強さの差は、明らかに長沼氏の方が20%程度「氏力」が強いことを示す。
分類/氏数の関係では、27/35=77% (1.3) 33/52=65% (1.5)から分析すると、長沼氏の方が分類は本来は44程度となる筈であるが、33であるので、ここでも20%(1.5-1.3)程度も凝縮して血縁している事を意味する。つまり、血縁の的を絞っていると言う事に成る。
因みに、青木氏は(39/121)で31%である。
青木氏は他の2氏と較べて、本家から分家分派分流からの子孫拡大でだけではなく、多くの氏と血縁を拡げていることを示す。本家分家の拘りは戦略上に余り無いことを示す。
青木氏の結果は、二つの氏の比較から対比してみる事で判る筈ある。
そこで、続けて2氏の比較をする。
上記した様に、永嶋氏より長沼氏の方が、血縁に関しては、特定の大豪族との血縁はするものの「分家筋」を中心とした血縁をし、地域的にも限定した「戦略上の血縁」をしている。
この様に永嶋氏もかなりの「絞込みの血縁」ではあるが、尚、長沼氏はそれよりも的を絞って”「氏数」を効率よく増やし「氏力」を高めている事”を示す。
では何故、よりそう成っているのか疑問である。
第1には、先ず「前発の発祥期」である。
当然に、秀郷一門としては、長沼氏発祥は、永嶋氏は秀郷14代目で、長沼氏はそれより早く6代目である。この代差数8が大きく左右している事がまず一つ言える。
その違いとは次ぎの様に成る。
1 平安末期の時代性と鎌倉初期の時代性で起こる豪族の種類での違いである。
2 貴族系から侍系への変化での違いである。
3 平家の時代から源氏の時代への変化での違いである。
4 朝廷社会から幕府社会への変化での違いである。
この4つの違いで血縁族は異なる。
第2には、次に「家紋群の違い」である。
先ず、「丸付き紋」である。
比率で観てみると次ぎの様に成る。
永嶋氏 18/35=51% 長沼氏 16/52=31%で、これも20%違う。
つまり、永嶋氏より長沼氏の方が「丸付き紋」が少ない。
当然には、永嶋氏と同様に、「共通血縁族主要8氏」との大豪族との血縁は結んではいる。
永嶋氏は、特長として「丸付き紋」の多い「分家筋紋」との血縁を選んで力を付けているが、一方、長沼氏は明らかに家紋数(氏数)から観て、「丸付き紋」の少ない「分家筋紋」が多い事を示す。
明らかにこの2氏は「相対的」で「戦略的」である。
これは発祥期(6)も早い事で「下克上」で分家が力を付ける前の血縁である事にもなる。
むしろ、「戦略的」にそのように動いた事も云える。
永嶋氏=「共通血縁族主要8氏」+「丸付き紋分家筋」
長沼氏=「共通血縁族主要8氏」+「分家筋紋」
家紋掟では丸付き紋にはほぼ6つの掟があるが、この時代では「氏の拡大」が起こって本家筋と支流筋の系譜が出上がって興った時代でもある。
家紋種から観てみると、この場合の「丸付き紋」とは長沼氏の「本家筋の分家」と、永嶋氏の「支流筋の分家」との違いである。
発祥期が違う事による結果であるが、青木氏を含むこの二つの氏もその焼き討ちの対象であったが、永嶋氏の場合は成長期がこのじきであり、「下克上」で勢いを得て「支流分家筋」が延びた事をも意味している
そこで、この2つの氏の比較を更にしてみると次ぎの様に成る。
第3には、更に「勢力圏の地域性」である。
そこで主な血縁族で観てみると次ぎのように成る。
「永嶋氏の主な血縁族」
片喰族、梅鉢族、抱き茗荷族、鷹の羽族(紀州)、沢瀉族、木瓜族
勢力圏は「関西以東中部」までに限定して小さくまとめて「濃い勢力圏」を固めた。
「長沼氏の主な血縁族」
剣片喰族、丸に梅鉢族、抱き茗荷族、丸に鷹の羽族(安芸)、抱き沢瀉族、丸に梶の葉族、桔梗族、鬼蔦族、
勢力圏は、次ぎの様に成る。
西は北九州から西中国の九曜族、西中国の亀甲族、
中国地方の鷹の羽族、近江の茗荷族、
東畿内から中部地方の梅鉢族、美濃の桔梗族、三河の蔦族、三河尾張の沢瀉族、
西関東の剣片喰族、信濃の梶の葉族
「幅広い勢力圏」を固めている。
以上の様に長沼氏の勢力圏は、北九州から中国地方へ、更に近江に入り、畿内を通って、美濃に入り、三河へ尾張へと進み、駿河地方から信濃へと直線上に隙間無く血縁族を作り上げていて、その直線は安芸出雲の巾で行き、信濃駿河の「分布巾」を持つ「広域圏」である。
(史料 家紋分布を参照)
これで永嶋氏と長沼氏の勢力「(氏力)」が違う事が明確である。
明らかに長沼氏の方が「氏力」は上記の吟味と合わせても上である事を証明出来る。
第一に中国地方関西以西に勢力を張る事は阿多倍の末裔の京平家の勢力圏と、神紋寺紋系の中国勢力圏(集団勢力)に合致してしまう事に成る。特に、秀郷一門の四国勢力の讃岐籐氏が中国地方への浸透は見逃せない。
(後に京平家が1185頃に滅亡したとしても、秀郷一門の独断場ではなく、依然としてその末裔(陶一族)は室町末期まで中国地方を抑えていたし、その後も、秀吉に潰されるまで陶族の村上一族等が力を持っていた。)
関西以西では秀郷一門にとってはこれでは争いが絶えない事を意味する。
長沼氏はそれに打ち勝つだけの勢力を持ち得ていた事を示すものである。
藤原一門の長沼氏が京平家(桓武平氏)等と対抗して藤原氏の圏域を何とか維持して来た事を物語るものであるが、摂関家藤原氏は何もしなくて居たのでは無く、その北家でも最も勢力のある秀郷一門とりわけ青木氏と長沼氏が京平家や他の勢力に対して「血縁戦略」で固めて直接対抗していたことを示す史料でもある。
実は、長沼氏は永嶋氏に無かったより強い「氏力」を増す血縁を次ぎの事でより広く行っているのである。
それは、「皇族青木氏族」と「皇族賜姓青木氏族」と「公家族」との血縁関係にある。
第4には、つまり、「皇族系勢力」である。
先ず、宿禰族の橘紋、朝臣族の笹竜胆紋、鶴紋を代表する公家族(日野氏)と血縁をしている事である。
そして、秀郷宗家(貴族)自らが公家最大の近衛家との血縁の連携をしている事にある。
(近衛氏に秀郷宗家から跡目を入れて近衛氏は秀郷流となる。)
つまり、この意味するところは、京を中心とした「朝廷の政治勢力」との結合を目指していることを示す。「政治」と「軍事」を絡めての「氏」の存続を掛けているのである。
これら4つの違いは永嶋氏に無かった事である。
そこで、”何故にこの勢力と血縁連携をしたのか”と言う疑問である。
それは、当然に、上記の{幅広い血縁族の圏域}を護る為である。
これだけ広ければ、「武力」だけでは無理であろう。
側面から「政治抑止力」を着けて「氏力」を維持する大変さが覗える。
当然に、京平家は単純に手が出せない。太政大臣にまで登ろうとしている京平家一門は公家の賛同を得なければ権力握れない。京平家は公家と連携している氏を相手にするわけには行かない。この事は真に「完全抑止力」になっている。
特に、北九州から中国地方の関西以西は、京平家末裔一族(後漢阿多倍一族末裔等)の古来大化期からの勢力圏(32/66)である。
この京平家一門一族にとってみれば、これは、”一部腹の中が虫食いの状態”であろう。その虫が取れない。痛し痒しである。
つまり、京平家末裔一族に対抗する「政治抑止力」を狙ったものである。
つまり、その抑止力の形は、この永嶋氏と長沼氏の2つの氏を合わせると、その氏力は先端が中国地方まで左手が伸び、中部地方の本体は2重複して強くし、東には関東以西まで右手が延びている状況である。
丁度、人が足を踏ん張って立って、両手を横に伸ばし立ち、少し中心(領国)より右に寄って、立ちはだかっている姿である。
この「氏力」は中国地方(32/66)を抑えている京平家末裔一族(所謂後漢一族)に対抗する陣形である。
ただし、これは青木氏を除いての「氏力」と「陣形」となる。
では、その青木氏との関係がどのように成っているのかを検証する。
そうすれば、兼光流一族の3氏がどの様な「氏力」と成っていて「陣形」を採っているかが判る筈である。それは青木氏との「共通血縁族」を調べることに依って判明する筈である。
長沼氏の「共通血縁族」の考察(青木氏)
青木氏と長沼氏との同一の家紋類は次ぎの様に成る。
(より判りやすくする為に兼光流の長沼氏と永嶋氏との比較をする)
「共通血縁族」(長沼氏) 「共通血縁族」(永嶋氏)
1 ・下がり藤 1 ・上り藤、・下がり藤
2 ・笹竜胆 2 ・笹竜胆
3 ・桔梗、・丸に桔梗 3 ・丸に隅立て4つ目
4 ・九曜 4 ・丸に片喰、・丸に剣片喰
5 ・抱き茗荷 5 ・丸に沢瀉
6 ・丸に立ち沢瀉、抱き沢瀉 6 ・丸に抱き茗荷
7 ・丸に三つ鱗 7 ・丸に違い鷹の羽
8 ・丸に橘 8 ・丸に桔梗
9 ・丸に剣花菱 9 ・丸に蔓柏
10 ・丸に剣片喰 10 ・丸に木瓜
11 ・丸に違い鷹の羽 11 ・梅鉢、・丸に梅鉢
12 ・丸に梅鉢 12 ・三階菱
13 ・五三の桐 13 ・五三の桐
14 釘抜き
以上15の「共通血縁族」である。 以上17の「共通血縁族」である。
青木氏との長沼氏「共通血縁族」の考察
この2氏の違い文様(大きい氏を対象とする)は次のように成る。
長沼氏は、九曜族、三つ鱗
永嶋氏は、柏族、木瓜族
この2つの家紋の違いがこの2つの氏の特長を示している。
それは、駿河と相模の境を左に永嶋氏、右に長沼氏と成る。
ここでも史料で示す結果が出ている。
青木氏と長沼氏の「共通血縁族」でも、上記した「地域性から観た分布」の「氏種」と同じ結果が出ている。全く、永嶋氏も「地域性から観た分布」の氏種と同じ結果が出ている。
つまり、青木氏は上記の長沼氏と永嶋氏との「共通血縁族」を合せた2つの分布の氏種である事に成る。
つまり、青木氏の主要族=長沼氏との共通血縁族+永嶋氏との共通血縁族である。
青木氏はここでも、この式からも青木氏を介して、この共通する血縁族で両者との接点を持っている事に成り、その2つの勢力「氏力」をまとめる事が出来るからであり、京平家に対抗する事が出来たのである。
家紋から観た陣形を示すと次ぎの様に成る。
上記に述べた陣形、即ち、”その氏力は先端が中国地方まで左手が伸び、中部地方の本体は重複して
強くし、東には関東以西まで右手が延びている状況である”を、青木氏に依って「2重に重複」している形になることを意味する。青木氏は上記の両方を持っているのであるから。
つまり、兼光流3氏(青木氏、永嶋氏、長沼氏)で2重にして「人の陣形」を形採った「血縁族分布」で堅持して護っていることを意味する。
還して云えば、青木氏は「永嶋氏の氏力」と「長沼氏の氏力」の合せた2つの力を持っている事に成る。いかに大きい勢力であったかを示す。これは「第2の宗家」そのものである。
この「2重の陣形」で「他の勢力」と対抗していたことを意味する。
秀郷一門の総宗本家は貴族であるから、自らは武力を用いる事は出来ない掟である。依って、その力、即ち、血縁族に裏打ちされた「武力」「氏力」は青木氏に頼る以外に無い。
即ち、秀郷一門の総宗本家の力は「第2の宗家」青木氏の「武力」「氏力」である事を示し、兼光流3氏では2倍の力を持っている事を意味する。
その綜合力、即ち、「氏力、武力、勢力(政治)」は中国地方から「西関東域圏」にあったことを示す。
「秀郷宗家」=「青木氏の武力と氏力と勢力」=2*「3氏の血縁族」=「中国-西関東域圏」
当然、「東関東域圏」は武蔵の入間を中心にして、神奈川横浜を半径とする円域が一門の領国であるから、陣形は両手を伸ばし立ち。左手は中国、右手は西関東に向き、そして、右足を開いて丸い陣地に足を掛けている人の姿である。
これが、秀郷一門の兼光流3氏の「氏力」=総合力である。
陣形から見ても京平家を含む他の勢力は先ずてを出せないであろう。
史料関係でも述べたが、青木氏の「2足の草鞋策」が成す「経済力」はこの総合力を裏打ちしている事に成るから、この綜合勢力に打ち勝つ他の勢力は無いであろう。
これだけではない。これにこれに、文行流2氏の力が加わる。
では、文行流の主要2氏の事に入る前に、兼光流の3氏の2倍の「氏力」が急に力を得たのかを観る。つまり、この経済力に裏打ちされた「総合力」に一体「基礎力」が無いのか有るのかを観る必要があるので、その「3氏の基礎力」はどの程度なのかを検証する。
と言う事は、この総合力が長持ちする総合力なのかである。
それには、過去の由来性、地理性、時代性、他氏との関係、其の他について調べて見れば判るはずである。
これは史料-3/10に示しているので参照されたい。
青木氏は「永嶋氏と長沼氏」の両方の血縁族を持っているから、青木氏の上の要素を調べる事で判る筈である。これは史料-5/10等の事前史料に示しているので参照されたい。
他には、事後史料の次ぎの史料でより判りやすくなると思われる。
主要5氏の「時代性」に付いては数値化したデータの史料-7/10を参照されたい。
主要5氏の「共通性」に付いては数値化したデータの史料-8/10を参照されたい
主要5氏の「地域性」に付いては数値化したデータの史料-9/10を参照されたい。
主要5氏の「分布性」に付いては数値化したデータの史料-10/10を参照されたい。
以上の史料は現在は未掲載である。進藤氏の検証レポートが完了する時点までに掲載する。
結論は、長沼氏を始めとして、間違いなく”「3氏の基礎力」はあった。”である。
何をか況や、これが35+52+121(116)=208(203)氏に成った所以である。
この様に青木氏は長沼氏の子孫存続に於いて相互関係に依って大きく関わっていたのである。
では、次ぎは文行流の2氏に付いて考察して、ここで主要5氏を「青木一族」と呼ばれ、敢えて「青木氏一門」と云う族の関わった内容の検証を更に進める。
参考
本流の長沼氏
秀郷流長沼氏
秀郷流渕名族長沼氏
秀郷流小山族長沼氏
未勘氏の長沼氏
土岐氏族長沼氏
日奉氏西党長沼氏
宇都宮氏族長沼氏
桓武平氏長沼氏
島津氏族長沼氏
織田氏族長沼氏(中沼氏)
未勘氏の末裔
陸前国
信濃国
紀伊国
淡路国
駿河国
以上5国の未勘氏がある。
次ぎは長谷川氏である。
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[本文の考察](長沼氏)
永嶋氏に続いて長沼氏に付いて考察する。
この主要5氏の一つ長沼氏は青木氏と同様に秀郷一門の兼光流である。
発祥経緯も早く青木氏との関わりは深い。
その青木氏とどの様に関わっていたのかを考察する。
藤原氏の古い研究書籍では、これ等の主要5氏特に中でも長沼氏と永嶋氏は「青木一族」と位置付けられているものもある位に親密な関係にあった。
「家紋」は当時の氏の特長を表す代表的な手段であって、その「氏の生き方」を示すバロメータでもあるが、その「家紋」を通じて検証してみる。
兼光流の長沼氏は52家紋は次の様な血縁族と成っている。
2 血縁族の家紋類(長沼氏)
(以下第3の長沼氏の家紋含む)
(・印 家紋200選 24/52 46%)
1 ・下がり藤、・丸に下がり藤
2 ・左二つ巴、・右二つ巴、・左三つ巴、右4三つ巴、
3 ・中輪に抱き沢瀉、・丸に立ち沢瀉、・抱き沢瀉
4 ・丸に立ち梶の葉
5 ・桔梗、・丸に桔梗
6 ・九曜、七曜
7 ・抱き茗荷、重ね角持ち抱き茗荷
8 ・五三の桐
9 ・丸に三つ鱗、二つ輪に三つ鱗
10 ・丸に橘
11 ・笹竜胆、・丸に笹竜胆
12 ・丸に剣花菱
13 ・丸に剣片喰
14 ・丸に違い鷹の羽、四方瓜に違い鷹の羽
15 ・三つ柏、二つ輪に三つ柏、・丸に蔓柏
16 ・鶴の丸
17 ・丸に梅鉢
18 三つ扇
19 丸に竪二つ引き
20 輪違い
21 五つ矢
22 亀甲の中に根笹、亀甲に五三の桐
23 采配のぶつ違い
24 折敷に変り七宝
25 くつわ
26 丸に頭合わせ三つ雁金
27 丸に三ツ星に一引き
28 丸に本の字
29 丸に大の字
30 丸に三つ盛り亀甲花菱
31 黒田藤巴
32 丸に鬼蔦
33 丸に釘抜き、丸に延釘抜き
以上33分類52氏の長沼氏である。
長沼氏の血縁族の考察
永嶋氏の27分類に対して、長沼氏は33分類にされるが、「家紋200選」に対しては24氏で全体の46%である。長沼氏の%は永嶋氏とほぼ同じ程度(46)である。
氏数は永嶋氏35氏に対して52氏である。
青木氏は「家紋200選」では(59/121)49%である。
「家紋200選」の3氏とも同率で高く、主要族で血縁を結んでいる事を示す。
「家紋200選」にある主要血縁族で観れば、青木氏と永嶋氏と長沼氏は同じ程度の血縁力を示している。しかし、全体的に観ると、其処には夫々の特徴が出て来る。
先ず、次ぎにそれを示す。
分類の関係では、分類比(27/33)=79%と、氏数の比(35/52)=67%から考察すると、永嶋氏と長沼氏は同門であるので二つの比が同率50として考えると、、「氏力」と言うものがあるとすると、長沼氏の方が「氏力」が20%前後高い事に成る。
双方ともに同時に一般(10%程度)と較べて極めて高い「氏力」を持っている事を示す。
因みに、青木氏(分類38)とでは、永嶋氏との分類比(27/38)71%、長沼氏との分類比(33/38)86%である。青木氏は長沼氏とよりよく似た血縁性を持っている事を示す。
氏数比は「第2の宗家」であるので、次ぎの様に成る。
永嶋氏との氏数比(35/121)29%、長沼氏との氏数比(52/121)43%で、青木氏の「氏力」は数段上である。
又、同率氏数として計算すると(41-44)の氏数である筈であるが、(8-11)+となり永嶋氏より長沼氏の方が、「氏力」が高くなり、「氏力」=永嶋氏<長沼氏=1.2となる。
つまり、その「氏力」の強さの差は、明らかに長沼氏の方が20%程度「氏力」が強いことを示す。
分類/氏数の関係では、27/35=77% (1.3) 33/52=65% (1.5)から分析すると、長沼氏の方が分類は本来は44程度となる筈であるが、33であるので、ここでも20%(1.5-1.3)程度も凝縮して血縁している事を意味する。つまり、血縁の的を絞っていると言う事に成る。
因みに、青木氏は(39/121)で31%である。
青木氏は他の2氏と較べて、本家から分家分派分流からの子孫拡大でだけではなく、多くの氏と血縁を拡げていることを示す。本家分家の拘りは戦略上に余り無いことを示す。
青木氏の結果は、二つの氏の比較から対比してみる事で判る筈ある。
そこで、続けて2氏の比較をする。
上記した様に、永嶋氏より長沼氏の方が、血縁に関しては、特定の大豪族との血縁はするものの「分家筋」を中心とした血縁をし、地域的にも限定した「戦略上の血縁」をしている。
この様に永嶋氏もかなりの「絞込みの血縁」ではあるが、尚、長沼氏はそれよりも的を絞って”「氏数」を効率よく増やし「氏力」を高めている事”を示す。
では何故、よりそう成っているのか疑問である。
第1には、先ず「前発の発祥期」である。
当然に、秀郷一門としては、長沼氏発祥は、永嶋氏は秀郷14代目で、長沼氏はそれより早く6代目である。この代差数8が大きく左右している事がまず一つ言える。
その違いとは次ぎの様に成る。
1 平安末期の時代性と鎌倉初期の時代性で起こる豪族の種類での違いである。
2 貴族系から侍系への変化での違いである。
3 平家の時代から源氏の時代への変化での違いである。
4 朝廷社会から幕府社会への変化での違いである。
この4つの違いで血縁族は異なる。
第2には、次に「家紋群の違い」である。
先ず、「丸付き紋」である。
比率で観てみると次ぎの様に成る。
永嶋氏 18/35=51% 長沼氏 16/52=31%で、これも20%違う。
つまり、永嶋氏より長沼氏の方が「丸付き紋」が少ない。
当然には、永嶋氏と同様に、「共通血縁族主要8氏」との大豪族との血縁は結んではいる。
永嶋氏は、特長として「丸付き紋」の多い「分家筋紋」との血縁を選んで力を付けているが、一方、長沼氏は明らかに家紋数(氏数)から観て、「丸付き紋」の少ない「分家筋紋」が多い事を示す。
明らかにこの2氏は「相対的」で「戦略的」である。
これは発祥期(6)も早い事で「下克上」で分家が力を付ける前の血縁である事にもなる。
むしろ、「戦略的」にそのように動いた事も云える。
永嶋氏=「共通血縁族主要8氏」+「丸付き紋分家筋」
長沼氏=「共通血縁族主要8氏」+「分家筋紋」
家紋掟では丸付き紋にはほぼ6つの掟があるが、この時代では「氏の拡大」が起こって本家筋と支流筋の系譜が出上がって興った時代でもある。
家紋種から観てみると、この場合の「丸付き紋」とは長沼氏の「本家筋の分家」と、永嶋氏の「支流筋の分家」との違いである。
発祥期が違う事による結果であるが、青木氏を含むこの二つの氏もその焼き討ちの対象であったが、永嶋氏の場合は成長期がこのじきであり、「下克上」で勢いを得て「支流分家筋」が延びた事をも意味している
そこで、この2つの氏の比較を更にしてみると次ぎの様に成る。
第3には、更に「勢力圏の地域性」である。
そこで主な血縁族で観てみると次ぎのように成る。
「永嶋氏の主な血縁族」
片喰族、梅鉢族、抱き茗荷族、鷹の羽族(紀州)、沢瀉族、木瓜族
勢力圏は「関西以東中部」までに限定して小さくまとめて「濃い勢力圏」を固めた。
「長沼氏の主な血縁族」
剣片喰族、丸に梅鉢族、抱き茗荷族、丸に鷹の羽族(安芸)、抱き沢瀉族、丸に梶の葉族、桔梗族、鬼蔦族、
勢力圏は、次ぎの様に成る。
西は北九州から西中国の九曜族、西中国の亀甲族、
中国地方の鷹の羽族、近江の茗荷族、
東畿内から中部地方の梅鉢族、美濃の桔梗族、三河の蔦族、三河尾張の沢瀉族、
西関東の剣片喰族、信濃の梶の葉族
「幅広い勢力圏」を固めている。
以上の様に長沼氏の勢力圏は、北九州から中国地方へ、更に近江に入り、畿内を通って、美濃に入り、三河へ尾張へと進み、駿河地方から信濃へと直線上に隙間無く血縁族を作り上げていて、その直線は安芸出雲の巾で行き、信濃駿河の「分布巾」を持つ「広域圏」である。
(史料 家紋分布を参照)
これで永嶋氏と長沼氏の勢力「(氏力)」が違う事が明確である。
明らかに長沼氏の方が「氏力」は上記の吟味と合わせても上である事を証明出来る。
第一に中国地方関西以西に勢力を張る事は阿多倍の末裔の京平家の勢力圏と、神紋寺紋系の中国勢力圏(集団勢力)に合致してしまう事に成る。特に、秀郷一門の四国勢力の讃岐籐氏が中国地方への浸透は見逃せない。
(後に京平家が1185頃に滅亡したとしても、秀郷一門の独断場ではなく、依然としてその末裔(陶一族)は室町末期まで中国地方を抑えていたし、その後も、秀吉に潰されるまで陶族の村上一族等が力を持っていた。)
関西以西では秀郷一門にとってはこれでは争いが絶えない事を意味する。
長沼氏はそれに打ち勝つだけの勢力を持ち得ていた事を示すものである。
藤原一門の長沼氏が京平家(桓武平氏)等と対抗して藤原氏の圏域を何とか維持して来た事を物語るものであるが、摂関家藤原氏は何もしなくて居たのでは無く、その北家でも最も勢力のある秀郷一門とりわけ青木氏と長沼氏が京平家や他の勢力に対して「血縁戦略」で固めて直接対抗していたことを示す史料でもある。
実は、長沼氏は永嶋氏に無かったより強い「氏力」を増す血縁を次ぎの事でより広く行っているのである。
それは、「皇族青木氏族」と「皇族賜姓青木氏族」と「公家族」との血縁関係にある。
第4には、つまり、「皇族系勢力」である。
先ず、宿禰族の橘紋、朝臣族の笹竜胆紋、鶴紋を代表する公家族(日野氏)と血縁をしている事である。
そして、秀郷宗家(貴族)自らが公家最大の近衛家との血縁の連携をしている事にある。
(近衛氏に秀郷宗家から跡目を入れて近衛氏は秀郷流となる。)
つまり、この意味するところは、京を中心とした「朝廷の政治勢力」との結合を目指していることを示す。「政治」と「軍事」を絡めての「氏」の存続を掛けているのである。
これら4つの違いは永嶋氏に無かった事である。
そこで、”何故にこの勢力と血縁連携をしたのか”と言う疑問である。
それは、当然に、上記の{幅広い血縁族の圏域}を護る為である。
これだけ広ければ、「武力」だけでは無理であろう。
側面から「政治抑止力」を着けて「氏力」を維持する大変さが覗える。
当然に、京平家は単純に手が出せない。太政大臣にまで登ろうとしている京平家一門は公家の賛同を得なければ権力握れない。京平家は公家と連携している氏を相手にするわけには行かない。この事は真に「完全抑止力」になっている。
特に、北九州から中国地方の関西以西は、京平家末裔一族(後漢阿多倍一族末裔等)の古来大化期からの勢力圏(32/66)である。
この京平家一門一族にとってみれば、これは、”一部腹の中が虫食いの状態”であろう。その虫が取れない。痛し痒しである。
つまり、京平家末裔一族に対抗する「政治抑止力」を狙ったものである。
つまり、その抑止力の形は、この永嶋氏と長沼氏の2つの氏を合わせると、その氏力は先端が中国地方まで左手が伸び、中部地方の本体は2重複して強くし、東には関東以西まで右手が延びている状況である。
丁度、人が足を踏ん張って立って、両手を横に伸ばし立ち、少し中心(領国)より右に寄って、立ちはだかっている姿である。
この「氏力」は中国地方(32/66)を抑えている京平家末裔一族(所謂後漢一族)に対抗する陣形である。
ただし、これは青木氏を除いての「氏力」と「陣形」となる。
では、その青木氏との関係がどのように成っているのかを検証する。
そうすれば、兼光流一族の3氏がどの様な「氏力」と成っていて「陣形」を採っているかが判る筈である。それは青木氏との「共通血縁族」を調べることに依って判明する筈である。
長沼氏の「共通血縁族」の考察(青木氏)
青木氏と長沼氏との同一の家紋類は次ぎの様に成る。
(より判りやすくする為に兼光流の長沼氏と永嶋氏との比較をする)
「共通血縁族」(長沼氏) 「共通血縁族」(永嶋氏)
1 ・下がり藤 1 ・上り藤、・下がり藤
2 ・笹竜胆 2 ・笹竜胆
3 ・桔梗、・丸に桔梗 3 ・丸に隅立て4つ目
4 ・九曜 4 ・丸に片喰、・丸に剣片喰
5 ・抱き茗荷 5 ・丸に沢瀉
6 ・丸に立ち沢瀉、抱き沢瀉 6 ・丸に抱き茗荷
7 ・丸に三つ鱗 7 ・丸に違い鷹の羽
8 ・丸に橘 8 ・丸に桔梗
9 ・丸に剣花菱 9 ・丸に蔓柏
10 ・丸に剣片喰 10 ・丸に木瓜
11 ・丸に違い鷹の羽 11 ・梅鉢、・丸に梅鉢
12 ・丸に梅鉢 12 ・三階菱
13 ・五三の桐 13 ・五三の桐
14 釘抜き
以上15の「共通血縁族」である。 以上17の「共通血縁族」である。
青木氏との長沼氏「共通血縁族」の考察
この2氏の違い文様(大きい氏を対象とする)は次のように成る。
長沼氏は、九曜族、三つ鱗
永嶋氏は、柏族、木瓜族
この2つの家紋の違いがこの2つの氏の特長を示している。
それは、駿河と相模の境を左に永嶋氏、右に長沼氏と成る。
ここでも史料で示す結果が出ている。
青木氏と長沼氏の「共通血縁族」でも、上記した「地域性から観た分布」の「氏種」と同じ結果が出ている。全く、永嶋氏も「地域性から観た分布」の氏種と同じ結果が出ている。
つまり、青木氏は上記の長沼氏と永嶋氏との「共通血縁族」を合せた2つの分布の氏種である事に成る。
つまり、青木氏の主要族=長沼氏との共通血縁族+永嶋氏との共通血縁族である。
青木氏はここでも、この式からも青木氏を介して、この共通する血縁族で両者との接点を持っている事に成り、その2つの勢力「氏力」をまとめる事が出来るからであり、京平家に対抗する事が出来たのである。
家紋から観た陣形を示すと次ぎの様に成る。
上記に述べた陣形、即ち、”その氏力は先端が中国地方まで左手が伸び、中部地方の本体は重複して
強くし、東には関東以西まで右手が延びている状況である”を、青木氏に依って「2重に重複」している形になることを意味する。青木氏は上記の両方を持っているのであるから。
つまり、兼光流3氏(青木氏、永嶋氏、長沼氏)で2重にして「人の陣形」を形採った「血縁族分布」で堅持して護っていることを意味する。
還して云えば、青木氏は「永嶋氏の氏力」と「長沼氏の氏力」の合せた2つの力を持っている事に成る。いかに大きい勢力であったかを示す。これは「第2の宗家」そのものである。
この「2重の陣形」で「他の勢力」と対抗していたことを意味する。
秀郷一門の総宗本家は貴族であるから、自らは武力を用いる事は出来ない掟である。依って、その力、即ち、血縁族に裏打ちされた「武力」「氏力」は青木氏に頼る以外に無い。
即ち、秀郷一門の総宗本家の力は「第2の宗家」青木氏の「武力」「氏力」である事を示し、兼光流3氏では2倍の力を持っている事を意味する。
その綜合力、即ち、「氏力、武力、勢力(政治)」は中国地方から「西関東域圏」にあったことを示す。
「秀郷宗家」=「青木氏の武力と氏力と勢力」=2*「3氏の血縁族」=「中国-西関東域圏」
当然、「東関東域圏」は武蔵の入間を中心にして、神奈川横浜を半径とする円域が一門の領国であるから、陣形は両手を伸ばし立ち。左手は中国、右手は西関東に向き、そして、右足を開いて丸い陣地に足を掛けている人の姿である。
これが、秀郷一門の兼光流3氏の「氏力」=総合力である。
陣形から見ても京平家を含む他の勢力は先ずてを出せないであろう。
史料関係でも述べたが、青木氏の「2足の草鞋策」が成す「経済力」はこの総合力を裏打ちしている事に成るから、この綜合勢力に打ち勝つ他の勢力は無いであろう。
これだけではない。これにこれに、文行流2氏の力が加わる。
では、文行流の主要2氏の事に入る前に、兼光流の3氏の2倍の「氏力」が急に力を得たのかを観る。つまり、この経済力に裏打ちされた「総合力」に一体「基礎力」が無いのか有るのかを観る必要があるので、その「3氏の基礎力」はどの程度なのかを検証する。
と言う事は、この総合力が長持ちする総合力なのかである。
それには、過去の由来性、地理性、時代性、他氏との関係、其の他について調べて見れば判るはずである。
これは史料-3/10に示しているので参照されたい。
青木氏は「永嶋氏と長沼氏」の両方の血縁族を持っているから、青木氏の上の要素を調べる事で判る筈である。これは史料-5/10等の事前史料に示しているので参照されたい。
他には、事後史料の次ぎの史料でより判りやすくなると思われる。
主要5氏の「時代性」に付いては数値化したデータの史料-7/10を参照されたい。
主要5氏の「共通性」に付いては数値化したデータの史料-8/10を参照されたい
主要5氏の「地域性」に付いては数値化したデータの史料-9/10を参照されたい。
主要5氏の「分布性」に付いては数値化したデータの史料-10/10を参照されたい。
以上の史料は現在は未掲載である。進藤氏の検証レポートが完了する時点までに掲載する。
結論は、長沼氏を始めとして、間違いなく”「3氏の基礎力」はあった。”である。
何をか況や、これが35+52+121(116)=208(203)氏に成った所以である。
この様に青木氏は長沼氏の子孫存続に於いて相互関係に依って大きく関わっていたのである。
では、次ぎは文行流の2氏に付いて考察して、ここで主要5氏を「青木一族」と呼ばれ、敢えて「青木氏一門」と云う族の関わった内容の検証を更に進める。
参考
本流の長沼氏
秀郷流長沼氏
秀郷流渕名族長沼氏
秀郷流小山族長沼氏
未勘氏の長沼氏
土岐氏族長沼氏
日奉氏西党長沼氏
宇都宮氏族長沼氏
桓武平氏長沼氏
島津氏族長沼氏
織田氏族長沼氏(中沼氏)
未勘氏の末裔
陸前国
信濃国
紀伊国
淡路国
駿河国
以上5国の未勘氏がある。
次ぎは長谷川氏である。
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藤原秀郷主要5氏と家紋の研究-永嶋氏との関係
藤原秀郷主要5氏と家紋の研究-永嶋氏との関係
[本文の考察]
本文に入る前に、1/10-6/10の史料を提供して来たが、これらの史料を基に次ぎの本文を考察する。
この本文は青木氏に対して、他の主要4氏との関係がどの様に成っていたのかを検証する。
その事により青木氏の位置付けが明確に成るだろう。
予備知識として史料のところで一定の考察を加えたが、それらの事がもっと明確に成る事を期待する。
先ず、兼光流の青木氏、永嶋氏、長沼氏、文行流の長谷川氏、進藤氏が、藤原秀郷一門24氏の中で最も栄えたで氏でありその主要5氏であるが、先ずは永嶋氏から検証する。
本文 永嶋氏との関係
1 血縁族の家紋類(永嶋氏)
そこで、先ず永嶋氏は35氏から成っている。それは次ぎの様な血縁族に成っている。
(以下第3の永嶋氏の家紋含む)
(・印:家紋200選 比 20/35 57%)
1 ・上り藤、・下がり藤
2 ・笹竜胆
3 ・丸に片喰、・丸に剣片喰
4 ・丸に沢瀉
5 ・丸に抱き茗荷
6 ・丸に違い鷹の羽、丸に抱き鷹の羽、
7 ・丸に桔梗
8 ・丸に木瓜
9 ・丸に蔓柏
10 ・梅鉢、・丸に梅鉢、星梅鉢
11 ・蔦、・丸に蔦
12 ・三階菱
13 ・丸に平四つ目
14 ・五三の桐
15 丸に隅立て一つ目、丸に隅立て四つ目
16 折敷に三文字
17 丸に巴の字
18 扇に永の字
19 丸に八一の字
20 丸に抱き柊
21 丸に五瓜に唐花
22 亀甲に三つ柏
23 井桁、丸に井桁
24 釘抜き
25 石持ち地抜き釘抜き
26 七宝に花菱
27 垂れ穂抱き稲
以上27分類の家紋群である。
永嶋氏の血縁族の考察
永嶋氏にも矢張り「下がり藤紋」を堅持する永嶋氏の宗家が存在する。
宗家はこの「下がり藤紋」の綜紋を堅持するのが宗家の役目であるが、なかなか長い期間を男系継承して跡目を保って行くのは難しい。氏家制度の中で家柄身分の下の氏と血縁すると嫡子得られない場合は家紋掟により変紋を余儀なくされる。依って、上位の同門一族の同紋から養子を迎えての仕儀となる。つまり、秀郷の「総宗本家」(貴族)か、又は総宗本家から「第3子跡目の家法」に基づく「第2の宗家」(武家)の「青木氏宗家」から跡目を入れる事になる。
当然、兼光流の長沼氏の宗家からも考えられる。止む無くば、文行流の進藤氏や長谷川氏の宗家からもあるだろう。
しかし、なかなか秀郷24氏宗家に跡目を入れる程に、総宗本家には跡目の数は絶対的に足りない筈で、それ故に、総宗本家の護衛役を前提とする青木氏に「第3子跡目の家法」を優先して定め「第2の宗家」としたのである。そこから、青木氏の嫡子外は永嶋氏と長沼氏に跡目を入れていたのであろう。
藤原秀郷流の永嶋氏の血縁族は全体の57%が家紋200選に含まれている。半分である。
永嶋氏35氏から「第3の永嶋氏」を除くと、恐らく、85%程度に達することが覗える。
つまり、この数字は「主要族」との血縁を重視していた事に成る。
特に、上記の家紋類を観ると、丸付き紋が全体(16)の65%に達する。(第3氏除く)
つまり、分家或いは支流一族との血縁が多い事が覗える。
家紋200選57%(70-85%)で、支流紋65%とは、次ぎの様に解析できるのではないか。
永嶋氏は隆盛著しい一族と血縁して勢力を横に伸ばし、力を維持しているが、その相手の力は本流ではない元気一杯で身を起した本家を凌ぐ分家筋である事、
これは本流(本家)の「家柄」では無く、「実力」の分家筋を選んだ「戦略的血縁」と観られる。
つまり、これらの家紋の発祥時期から観ると、この時期は「下克上」が起こっている時期である。
「下克上」にて下級武士が、家柄身分を持つ氏に対して、主君に対抗して、「焼き討ち」や「打ちこわし」を行い秩序が大乱れしていた時期でもあり、主君側にある永嶋氏は、この中で「生き残り」の為により勢いのある豪族の「分家筋」を血縁相手に選んだ戦略と観得る。
つまり、主要氏の後発の発祥の氏としての当時の趨勢を配慮した血縁である。
考察として、更に詳細に分析すると、永嶋氏は3つの氏種に分けられ、時期は3期で、「平安期」と「室町期」と「江戸初期」の3つである。
先ずは、次ぎの3つ期間となろう。
1つ目は下記の分析でも出て来るが、「笹竜胆紋」(源氏と青木氏と佐々木氏)との血縁もしているが、多分、これは永嶋氏の本家筋の血縁ではないかと観られる。これ等は平安期である。
2つ目は、しかし、又、一方では「片喰、茗荷、梅鉢、沢瀉、鷹の羽」の一流の大豪族である血縁である。これ等の家紋は室町期に台頭した氏である。後に、これ等は大豪族に成った。
3つ目は全く知名度の無い家紋の氏の血縁である。これ等は江戸初期前の混乱期である。
この笹竜胆紋の勢力では先ず3つのルーツが考えられる。
一つは、賜姓青木氏(5家)である。
二つ目は源氏(清和)である。
三つ目は佐々木氏(近江)である。
この三つは何れも皇族賜姓族の同族である。
この内、この「笹竜胆紋」は源氏、佐々木氏、賜姓青木氏と成るが、この3つの中で賜姓青木氏であると推測している。
では何処の賜姓青木氏なのかである。
結論から、先ず「伊勢青木氏」ではないかと考えられる。
その考察は次ぎの考えから確認出来る。
時期的な考察からは、平安中期から末期の永嶋氏が発祥した初期であろう。
永嶋氏の発祥は、兼光流の秀郷13代目行政(四男)の子行長(四男)が伊予守に任じられた時である。
この時代は、大勢力に成りつつある「平家」に対して、「源氏」と「藤原氏」と「賜姓青木氏」がスクラムを組んで対抗していた時期でもある。この3氏は藤原氏系の母方で繋がっている。
一方、桓武天皇の母(高野新笠)方の「阿多倍一族」の「京平家(たいら族)」が誕生し、賜姓をうけ、成長し、反面、その圧力で皇親政治の賜姓青木氏は衰退に追い込まれた。
源氏も同様に最終11代と子孫を広げながらも平家との戦いで「清和源氏」と「村上源氏」と「宇多源氏」と「嵯峨源氏」程度の源氏がやっと子孫を僅かに遺し生遺り低迷していた。
その中でも、京では低迷していたが藤原秀郷一門の北家筋は関東に坂東平氏と戦いながらも秀郷王国を着実に東に築いていたのである。
その一つが一門の先鋒として逆に関東とその西域に勢力を伸ばすきっかけを狙っていたのが永嶋氏である。京の京平家に対抗したその勢いで2つに分流した永嶋氏は「関東屋形」と呼ばれた。
その証拠には西域に集中した血縁家紋群(・印)にある。東域には全く無い事にある。
その一つとして、この血縁がスクラム網の一つとして、発祥順位では24氏中後発グループの第7番目になる永嶋氏が担ったのである。
後発としては先ずは西域防御が求められ、そしてこの方法しか無った筈である。
京平氏の「東勢力侵攻」の時期に対して、そう成ると、対抗するかの様に畿内の東の伊勢青木氏や美濃青木氏と連携して戦略的に「秀郷防衛網」を築く必要が秀郷一門に出て来る事に成る。
戦略的には、この時期は、「道」に関係する戦略の展開をするのが常道であった。
京に繋がる東海道や中仙道等で分けられていた。信濃や甲斐は東海道外であるので、永嶋氏にはその勢力圏外であつた筈で、信濃と甲斐は防衛網の戦力域外であり先ずは問題はない。
又、近江は京平家域(阿多倍末裔一族圏)に入り過ぎるし遠すぎる。
ここで余談だが、徳川家康は豊臣を潰すために名古屋城で一時3月ほど秀忠本軍を待った時期があったが、この期間は、本軍を待っただけでは無かったのである。大阪に通ずるこの「伊勢道」を確保する事が勝利に繋がると観ての待機であった。つまり、この「伊勢道」を奈良の西域まで抑えていたのは大シンジケートを持つ「2足の草鞋策」の伊勢青木氏であった。故に「伊勢青木氏」に対して合力参戦を促したのであった。
南北朝の楠木正成軍3千が北条氏軍10万に対抗して勝ったのはこの伊勢シンジケートの背景を持っていたからである。家康はこの史実は当然知っている。「伊勢青木氏」の分家一部は豊臣側に味方した。しかし、伊勢青木氏本家は実戦250の「兵」で合力参戦する事と成った。
家康の先遣隊が側面からこの勢力(武力と経済力とシンジケート)に突かれては、北条氏や今川氏の失敗の二の舞に繋がり、家康が潰れれば、豊臣軍は勢いづき徳川本軍の指揮は低下する最も大事な戦略事であったのであった。史実、今川氏も行軍で最も弱い欠点を信長にこの側面を突かれたのである。
結局、「伊勢道」の安全通行の役を受けて「食料、経済面、運送、周囲防御」等を果たしたのである。実際は「伊勢道」にシンジケートを動かしたのであるから1万は超えていた筈である。
この様に「戦い」は刀を振り回す事では無く、その前に「道」とそれを勢力圏としている「氏力」の確保が優先するのが戦いである。
これは永嶋氏にとっても戦略は同じである。「道」を確保しない限り勢力は伸びないし、「氏の存続」は無い。それを保つには、この時期としては当然に必要なのは、先ずは「戦略的血縁」であり、その最適な氏として観ても、先ずは「不入不倫の権」を堅持し、最大勢力を誇る東奈良から員弁、桑名まで勢力を堅持し京大阪に繋がる「伊勢道」を確保している「伊勢青木氏」と成るであろうし、他に無い。
そもそも、賜姓青木氏の元締めの伊勢青木氏との血縁をすれば、必然的に信濃、甲斐との「道」の確保と側面の防御が出来るし血縁をする必要が余りない。永嶋氏にとっては側面の憂いを無くすることが出来る。それどころではない。武力だけでは護れない。経済的裏打ちが確保できなければ全て成り立たないし、永嶋氏には税から上がる以上にそれ程の経済力はない。
伊勢青木氏の「2足の草鞋策」と繋がれば問題は無く成るし、長期的な勢力維持の展望が開ける。
この様に、史料の「共通血縁族」の5氏の「共通血縁族」の考察でも判る様に、「笹竜胆紋」は同じ青木氏の始祖の伊勢青木氏でもあった。
西に勢力圏を重複する相手を選ぶのは当然であるし、平家との勢力争いを起しているのであるから、平家に対して、東の西はずれを強化するのは戦略の常道である。
永嶋氏としてはこの勢力を無配慮に放置する事は少なくとも無い。
先ずそんな事は出来ないであろう。その証拠の一つとして、伊勢の土地永嶋に一族を置いている。(地名:伊勢永嶋)
源氏はこの時期、清和源氏(宗家頼光流一門)だけが戦える武力を保持していたが、河内、摂津、甲賀、信濃、甲斐、伊豆の域である。これは圏外であるし、血縁相手は主に同族の5つの賜姓青木氏であって、土地も、伊勢、美濃、信濃、甲斐であった。この事から、清和源氏ではない。
地理的な考察から、中部を主体として延びた永嶋氏の拠点から観て、史料3の下記の皇族賜姓族5家5流と24氏の内容から美濃の一帯に勢力を持っていた美濃青木氏か、伊勢青木氏かであろうが、遠方の氏と血縁する事は、その勢力範囲が分断されて効果的では無い筈だし、城を築く様に血縁で固めるとすると勢力範囲内と成ろう。
ただ美濃青木氏は勢力範囲が小さく子孫を大きく遺してはいない。
これは、青木氏の家紋121氏(史料2)の群から判断出来る。
つまり、他氏に較べて桔梗紋類は本家と分家の2氏と少ないことでもあり、故に勢力と権威の期間も短かった。
現実には、少し後の桔梗紋族は信長の時期には、殆ど滅亡している位に小さい。
滅亡している事は永嶋氏とは結んでいなかった事により、結んでいれば、信長期には秀郷一門は離散したとは言え依然その勢力は末裔に引き継がれていた。
(注 藤原一門は源頼朝に本領安堵を2度受けている。独断で実行したこれが原因で坂東八平氏の反発を受けて幕府樹立後3年で清和源氏一族は尽く抹殺された。 北条氏は藤原一門と小競り合いを起すが、得策でないと見て結城氏が圧迫を受ける程度で終わる)
故に、東の背後から永嶋氏の勢力に圧迫を受けていて、信長は動けなかった筈である。
源氏(清和)は清和の宗家頼光の領国で主に関西の畿内域(河内)に集中している。永嶋氏の西端の域であるし、また近江の青木氏と伊勢の青木氏もあり、余り伸ばすと争いが起こる。確かに、西端の勢力は室町期の勢力圏域であるから、笹竜胆紋との血縁は平安中期から末期と観られるので、源氏ではないであろう。
確かに、村上源氏の北畠氏が最も栄えた一族であるが、伊勢永嶋に永嶋一族があり、伊勢東部に勢力を張り始めていたが、時代は室町期末なので少しずれていると観られる。
佐々木氏は、主に近江、滋賀と東北地方に勢力を張っていた事から、地理的には余り意味がないし、古来、奈良時代の役目から神官が多い事もあり、確かに大神領との考えもあるが「勢力」と言う意味から考え難い。
(参考 近江佐々木氏は天智天皇の第7位皇子川島皇子、滋賀佐々木氏は宇多天皇の第6位皇子)
佐々木氏は確かに圧迫を受けて、末裔の剣豪佐々木小次郎の近江佐々木氏などでも判る様に、滅亡の憂き目を受けているから永嶋氏との血縁は、桔梗の土岐氏と同様に考えられない。
地理的にも、伊勢青木氏である。
次ぎは氏からの考察では、清和源氏は確かに頼信分家一門が鎌倉幕府を開くが、平家傲慢の反発からの時代の趨勢によるものであって、上記した様にこの清和源氏の頼信末孫の一族は北条氏に依って鎌倉末期に絶滅させられている。
平安期となれば源氏一族11家は一段と成って平家に圧迫を受けていた。
結局は遺されたのは主に4つの源氏(清和、村上、宇多、嵯峨)だけであり、その中でも力を持ったのは実質戦い得る力のあった清和源氏だけであった。村上源氏も一時勢力を持ったが線香花火の様なものであった。
佐々木氏も清和源氏に同調して戦ったが、矢張り平家の圧迫に耐えられなくて近江、滋賀付近と逃亡先の東北地方に分布するだけの様になった。又、主に平家の圧迫手段に対して生き延びる為に神官職に従事して子孫を維持した事も大きく影響している。
(本論から外れるが佐々木氏の家紋から神官職が多い事が覗える。)
藤原秀郷一門の各地に定住した一門の守護神や菩提寺の住職に佐々木氏の姓が多いのは離散後この保護を受けた事から来ている。
(このことから後に清和源氏と佐々木氏末裔を名乗る氏が各地に現れるがこのためであり、先ずは未勘族である)
兎角、源氏では清和源氏が最も生き延び方が長かった。それは、次ぎの戦略からである。
一方、清和源氏は宗家の頼光系は伊勢青木氏に、土岐氏と土岐氏系青木氏に、そして、頼光は信濃守護代を最終は頼信に渡し、東の坂東への進出の足がかりを作らせて清和源氏の生遺り策とした。
この為に伊豆、駿河付近に拠点を置いて、分家の頼信系は足利氏と足利系青木氏に、武田氏と武田氏系青木氏に跡目を入れる戦略を採って子孫を遺したのである。
(この為、頼光系の源三位頼政は援護の為に伊豆に伊勢青木氏の一部を移動させた)
伊勢青木氏の経緯は、伊勢青木氏の天智期からの領国で天領地の伊勢国は、伊勢北部伊賀地方を割譲させられて、この京平家(桓武平氏)の祖の後漢の末裔の阿多倍王に与えられた土地である。
室町期には永嶋氏が抑えていた伊勢永嶋も室町期には北畠氏に割譲させられて、伊勢青木氏の伊勢国は3割譲の憂き目を受けた。
この時期の事で伊勢青木氏は永嶋氏と連携した事も充分に頷ける。
(桓武天皇の母の高野新笠はこの阿多倍王(高尊王)の孫娘である。青木氏と桓武天皇との間には軋轢を受け一時衰退した。しかし、桓武天皇に対抗して子供の嵯峨天皇がこれを解決し伊勢青木氏を救った経緯がある)
史実からも伊勢青木氏と永嶋氏は連携を採っていたのである。(共通血縁族でも良く判る。)
この様な状況から東に向かった頼信系ではなく、武蔵を基盤にした藤原秀郷一門の永嶋氏は、中部から西に勢力圏を求めた事から、畿内に勢力圏を持っていた清和源氏頼光系の跡目を受けていた伊勢青木氏(京綱)や後に美濃青木氏との血縁を結んだ事は確実である。
そうする事で、史実、京平家に対抗して3者(5家5流の元締め伊勢青木氏と、河内摂津に拠点を置く清和源氏頼光一門と、武蔵下野以北圏に勢力を置く藤原秀郷一門)のスクラム体制が成立したのである。
この体制網を組めば、平安期の事としては、京平家は東に侵攻することは出来ないであろう。
現実に出来なかった。無論。室町期にも「2足の草鞋策」を採っていた伊勢青木氏は藤原一門とは連携を続けた史実がある。
この「三者連合」は永嶋氏の35家紋と、その分析の青木氏との同一血縁族の家紋群(下記)でも判断出来る
(参考 秀郷一門24氏の発祥順位は史料4を参照)
笹竜胆紋から話を戻す。
次ぎに一流大豪族の発祥から考察すると、この永嶋氏の血縁時期は、氏家制度の中で分家の権域が本家を凌ぐ「下克上」、「戦国時代」の頃であると観られる。
「時代性」の点から観た分析では次ぎの史料から読み取れる。
(史料7/10添付)
H:平安時代前期 K:鎌倉時代 M:室町時代 A:安土桃山時代 E:江戸時代
一つの家紋は幾つかの時代を重複して計算している。
長谷川氏 長沼氏 永嶋氏 進藤氏 青木氏
H:4 11% H:3 13% H:2 08% H:4 13% H:7 03%
K:1 03% K:1 04% K:1 04% K:1 03% K:20 10%
M:15 39% M:9 39% M:11 46% M:10 31% M:81 39%
A:9 24% A:6 26% A:5 21% A:7 22% A:55 26%
E:9 24% E:4 17% E:5 21% E:10 31% E:47 22%
永嶋氏は室町期を中心にして、血縁は江戸よりにある。
そして、その「地域の点」から観ては、次ぎの様に成る。
最も西はずれの出雲大社の氏子集団の豪族亀甲族一団(1)を始めとして、安芸、美作域の鷹の羽族(2)、関西域の片喰族(3)、美濃域の梅鉢族(4)、尾張域の沢瀉族(5)、近江と伊勢域の茗荷族(6)と満遍なく血縁を固めていることが上記の説としても判る。
これ等は全て「家紋200選」の名族である。
さて、そこで、「家紋200選」の46%とは、多いのか少ないのかの判断がポイントになるだろう。
藤原氏以外の氏の血縁は普通10%程度であることから、かなり多い事が云える。これは上記の「戦略的血縁」と「氏家制度の仕来り」で家柄身分の吊り合った血縁からこの%に成っている事が言える。
藤原秀郷流永嶋氏では高位の家柄身分であるので、跡目継承を機会に政略結婚的な血縁の様相が覗える。
「第3の永嶋氏」と見られる氏や家紋も20%程度を閉めている事は、他氏に観られない藤原氏と青木氏等に強く観られる現象である。この数字はほぼ平均である。
この「第3の永嶋氏」の家紋は不特定の条件と系譜を持つために系統的に調査が難しく全ての確認は「家紋200選」では困難であったと観られる。
従って、永嶋氏のこの特長を除けば、実質70%以上85%以内であると考える。況や殆どである。
そこで、では青木氏121氏の血縁族の家紋と、永嶋氏35氏の血縁族との間にはどの様な関係を持っているだろうと云う考えが浮かぶ。
そこで、次ぎに「共通血縁族」という点でそれを考察する。
「青木氏と共通血縁族の分類」
青木氏と永嶋氏と同一の文様を持つ家紋類は次ぎの様に成る。
解析
その答えは、先に次ぎの様に成る。
35紋中17家紋となる。48%である。約半分である。第3氏を除けば、70%である。
つまり、青木氏と永嶋氏は主要な血縁族としてはほとんど同じ相手である事になる。
青木氏と同様の兼光流から出た永嶋氏は半分は同一氏と血縁をしている事に成り、実に血縁関係の繋がりが深いことを示す。
「下がり藤紋」が存在することは永嶋氏の宗家が現存していることを示す。
又、「上り藤紋」がある事は秀郷主要5氏外の北家一族との血縁を依然として維持している事も示す。
中でも、「笹竜胆紋」の皇族賜姓青木氏との血縁が目立つが、ここで賜姓青木氏と繋がっていたことを示し、5家5流の青木氏と支流24氏(近江系、土岐氏系、諏訪族系、足利氏系、武田氏系。更には佐々木氏系)が信長に負われて逃亡した先が、各地の藤原秀郷一門のところを頼った事がこれでも良く判る。
又、皇族賜姓青木氏24氏の家紋類(参考 皇族賜姓青木氏5家5流と24氏 参照)と、藤原秀郷流青木氏116氏とは家紋類が「笹竜胆紋」の綜紋で、もとより重複するところがあり、これも頼ることが出来た要件であったと見られる。
(重複家紋は史料3に記する)
両者共に、桔梗紋の土岐氏との血縁もあり網目の様に血縁を広げていた事を示す。
特に、「片喰族」、「梅鉢族」、「抱き茗荷族」、「鷹の羽族」、「木瓜族」、「沢瀉族」と中部地方から中国地方手前までの氏と隙間なく満遍なく漏れなく血縁して、勢力圏を確保している事が判る。
これ等の氏は「家紋200選(下記参考)」にある主要氏ばかりである。
これ等の氏の発祥は、時代性から観て室町中期を境に2つに分かれ、如何に勢力を持ち得ていたかの判断材料に成る。
これ等のことは共通血縁族の下記の解析でも更に証明している。
ところで、永嶋氏には、関西より以西から九州地方全土にも、「大蔵氏系永嶋氏」の3氏が存在する。
「大蔵氏系永嶋氏」、「肝付氏系永嶋氏」、「島津氏系永嶋氏」である。何れも阿多倍の末裔子孫の大蔵氏から出ている。
ただ、秀郷流永嶋氏にも2つの流がある。
「佐野氏系永嶋氏」、「結城氏系永嶋氏」である。秀郷一門兼光系である。
この大蔵氏系永嶋氏と秀郷流永嶋氏とは繋がっているとを考察する。
(大蔵氏は直系の阿多倍一族である。)
これ等の事に付いては長谷川氏の本文で「戦略上の違い」として詳しく考察する。
永嶋氏の「共通血縁族」(青木氏)
(・印は「家紋200選」にあるもの)
(青木氏の家紋の内容説明の由来、使用氏、時代、地域、特記は史料5参照)
1 ・上り藤、・下がり藤
2 ・笹竜胆
3 ・丸に隅立て4つ目
4 ・丸に片喰、・丸に剣片喰
5 ・丸に沢瀉
6 ・丸に抱き茗荷
7 ・丸に違い鷹の羽
8 ・丸に桔梗
9 ・丸に蔓柏
10 ・丸に木瓜
11 ・梅鉢、・丸に梅鉢
12 ・三階菱
13 ・五三の桐
14 釘抜き
以上17の「共通血縁族」である。
青木氏との永嶋氏「共通血縁族」の考察
釘抜き紋(長谷川氏支流族)を除いて、16氏全て「家紋200選」にあり、永嶋氏35氏の70%は青木氏と共通血縁族である。
ここで、推論が湧く。
この”17家紋の氏の使用氏と、青木氏と永嶋氏は個別に血縁したのであろうか”である。
推論は、”青木氏と永嶋氏のどちらかの17の家紋を持つ氏が同族内で相互に殆どが血縁した”つまり、”個別に使用氏との血縁ではない”と云う事である。
これは、主要5氏の家紋の解析資料1から結論付けられる。(解析資料1参照)
この17の家紋が主要5氏の4-5氏までの共通家紋群である事でも頷ける。
結論は”個別に使用氏との血縁ではない”と云う事である。
その血縁は、先ず、何れかの5氏の内の一つが使用氏と血縁し、2代続きの「男子跡目継承」が出来ずに養子先の家紋と成り、男系の使用氏系列の永嶋氏と成った云う事になる。
この永嶋氏が青木氏と血縁したと言う事である。当然にこの逆の事もあったであろう。
つまり、”同族で固めている”と云う事である。
青木氏は、秀郷総宗本家からの跡目を「第3子の家法」で入れて青木氏の宗家を保っているが、他の4氏はこの家法の方式の跡目ではない。だから自らの氏を自らの力で維持しなくてはならない。そこで、他の4氏はこの方式を採り、”より高い血縁一族で固めた”と云う事であろう。
そして、一度は使用氏からの血縁を経て、その血縁先は多くは「第2の宗家」の青木氏から男系跡目が出来ない他の4氏に跡目を入れたと観られる。これは解析資料1で証明出来る。
広く使用氏との血縁出来る可能性(これだけに広範囲に大豪族との血縁が出来る事の可能性)は、主に武力を持たない貴族である「秀郷宗家」に同行し、各地に護衛役として移動していた青木氏以外にない。それが(血縁で固める事)又、護衛役の役目でもあり、「第2の宗家」の役目でもあった。
特に、24氏中の後発の発祥氏の永嶋氏にとっては、「総宗本家」からの血縁の繋がりは難しいとしても、常に「第2の宗家」と繋がっておく為には同族血縁は「生残る絶対条件」でもあったであろう。
その青木氏との繋がりは17/35=50%(普通は10%程度)と大変大きい比率と成っているのである。
そして、更には、青木氏と強く繋がる事で、それらは秀郷一門の主要5氏が「共通血縁族主要8氏」で構成されている事にも成ったのである。
青木氏、永嶋氏、長沼氏、長谷川氏、進藤氏の5氏が同じ「共通血縁族主要8氏」を持っていて繋がっている。実に「強い絆」で結ばれた「氏力」である。
これ等のその「血縁戦略」、即ち、青木氏と繋がる事で35の家紋を持つこの35氏の後発でありながらも「関東屋形」と呼ばれる程に24氏の中でも「主要氏の永嶋氏」と成し得たのである。
名前 名字 苗字 由来 ルーツ 家系 家紋 歴史ブログ⇒
[本文の考察]
本文に入る前に、1/10-6/10の史料を提供して来たが、これらの史料を基に次ぎの本文を考察する。
この本文は青木氏に対して、他の主要4氏との関係がどの様に成っていたのかを検証する。
その事により青木氏の位置付けが明確に成るだろう。
予備知識として史料のところで一定の考察を加えたが、それらの事がもっと明確に成る事を期待する。
先ず、兼光流の青木氏、永嶋氏、長沼氏、文行流の長谷川氏、進藤氏が、藤原秀郷一門24氏の中で最も栄えたで氏でありその主要5氏であるが、先ずは永嶋氏から検証する。
本文 永嶋氏との関係
1 血縁族の家紋類(永嶋氏)
そこで、先ず永嶋氏は35氏から成っている。それは次ぎの様な血縁族に成っている。
(以下第3の永嶋氏の家紋含む)
(・印:家紋200選 比 20/35 57%)
1 ・上り藤、・下がり藤
2 ・笹竜胆
3 ・丸に片喰、・丸に剣片喰
4 ・丸に沢瀉
5 ・丸に抱き茗荷
6 ・丸に違い鷹の羽、丸に抱き鷹の羽、
7 ・丸に桔梗
8 ・丸に木瓜
9 ・丸に蔓柏
10 ・梅鉢、・丸に梅鉢、星梅鉢
11 ・蔦、・丸に蔦
12 ・三階菱
13 ・丸に平四つ目
14 ・五三の桐
15 丸に隅立て一つ目、丸に隅立て四つ目
16 折敷に三文字
17 丸に巴の字
18 扇に永の字
19 丸に八一の字
20 丸に抱き柊
21 丸に五瓜に唐花
22 亀甲に三つ柏
23 井桁、丸に井桁
24 釘抜き
25 石持ち地抜き釘抜き
26 七宝に花菱
27 垂れ穂抱き稲
以上27分類の家紋群である。
永嶋氏の血縁族の考察
永嶋氏にも矢張り「下がり藤紋」を堅持する永嶋氏の宗家が存在する。
宗家はこの「下がり藤紋」の綜紋を堅持するのが宗家の役目であるが、なかなか長い期間を男系継承して跡目を保って行くのは難しい。氏家制度の中で家柄身分の下の氏と血縁すると嫡子得られない場合は家紋掟により変紋を余儀なくされる。依って、上位の同門一族の同紋から養子を迎えての仕儀となる。つまり、秀郷の「総宗本家」(貴族)か、又は総宗本家から「第3子跡目の家法」に基づく「第2の宗家」(武家)の「青木氏宗家」から跡目を入れる事になる。
当然、兼光流の長沼氏の宗家からも考えられる。止む無くば、文行流の進藤氏や長谷川氏の宗家からもあるだろう。
しかし、なかなか秀郷24氏宗家に跡目を入れる程に、総宗本家には跡目の数は絶対的に足りない筈で、それ故に、総宗本家の護衛役を前提とする青木氏に「第3子跡目の家法」を優先して定め「第2の宗家」としたのである。そこから、青木氏の嫡子外は永嶋氏と長沼氏に跡目を入れていたのであろう。
藤原秀郷流の永嶋氏の血縁族は全体の57%が家紋200選に含まれている。半分である。
永嶋氏35氏から「第3の永嶋氏」を除くと、恐らく、85%程度に達することが覗える。
つまり、この数字は「主要族」との血縁を重視していた事に成る。
特に、上記の家紋類を観ると、丸付き紋が全体(16)の65%に達する。(第3氏除く)
つまり、分家或いは支流一族との血縁が多い事が覗える。
家紋200選57%(70-85%)で、支流紋65%とは、次ぎの様に解析できるのではないか。
永嶋氏は隆盛著しい一族と血縁して勢力を横に伸ばし、力を維持しているが、その相手の力は本流ではない元気一杯で身を起した本家を凌ぐ分家筋である事、
これは本流(本家)の「家柄」では無く、「実力」の分家筋を選んだ「戦略的血縁」と観られる。
つまり、これらの家紋の発祥時期から観ると、この時期は「下克上」が起こっている時期である。
「下克上」にて下級武士が、家柄身分を持つ氏に対して、主君に対抗して、「焼き討ち」や「打ちこわし」を行い秩序が大乱れしていた時期でもあり、主君側にある永嶋氏は、この中で「生き残り」の為により勢いのある豪族の「分家筋」を血縁相手に選んだ戦略と観得る。
つまり、主要氏の後発の発祥の氏としての当時の趨勢を配慮した血縁である。
考察として、更に詳細に分析すると、永嶋氏は3つの氏種に分けられ、時期は3期で、「平安期」と「室町期」と「江戸初期」の3つである。
先ずは、次ぎの3つ期間となろう。
1つ目は下記の分析でも出て来るが、「笹竜胆紋」(源氏と青木氏と佐々木氏)との血縁もしているが、多分、これは永嶋氏の本家筋の血縁ではないかと観られる。これ等は平安期である。
2つ目は、しかし、又、一方では「片喰、茗荷、梅鉢、沢瀉、鷹の羽」の一流の大豪族である血縁である。これ等の家紋は室町期に台頭した氏である。後に、これ等は大豪族に成った。
3つ目は全く知名度の無い家紋の氏の血縁である。これ等は江戸初期前の混乱期である。
この笹竜胆紋の勢力では先ず3つのルーツが考えられる。
一つは、賜姓青木氏(5家)である。
二つ目は源氏(清和)である。
三つ目は佐々木氏(近江)である。
この三つは何れも皇族賜姓族の同族である。
この内、この「笹竜胆紋」は源氏、佐々木氏、賜姓青木氏と成るが、この3つの中で賜姓青木氏であると推測している。
では何処の賜姓青木氏なのかである。
結論から、先ず「伊勢青木氏」ではないかと考えられる。
その考察は次ぎの考えから確認出来る。
時期的な考察からは、平安中期から末期の永嶋氏が発祥した初期であろう。
永嶋氏の発祥は、兼光流の秀郷13代目行政(四男)の子行長(四男)が伊予守に任じられた時である。
この時代は、大勢力に成りつつある「平家」に対して、「源氏」と「藤原氏」と「賜姓青木氏」がスクラムを組んで対抗していた時期でもある。この3氏は藤原氏系の母方で繋がっている。
一方、桓武天皇の母(高野新笠)方の「阿多倍一族」の「京平家(たいら族)」が誕生し、賜姓をうけ、成長し、反面、その圧力で皇親政治の賜姓青木氏は衰退に追い込まれた。
源氏も同様に最終11代と子孫を広げながらも平家との戦いで「清和源氏」と「村上源氏」と「宇多源氏」と「嵯峨源氏」程度の源氏がやっと子孫を僅かに遺し生遺り低迷していた。
その中でも、京では低迷していたが藤原秀郷一門の北家筋は関東に坂東平氏と戦いながらも秀郷王国を着実に東に築いていたのである。
その一つが一門の先鋒として逆に関東とその西域に勢力を伸ばすきっかけを狙っていたのが永嶋氏である。京の京平家に対抗したその勢いで2つに分流した永嶋氏は「関東屋形」と呼ばれた。
その証拠には西域に集中した血縁家紋群(・印)にある。東域には全く無い事にある。
その一つとして、この血縁がスクラム網の一つとして、発祥順位では24氏中後発グループの第7番目になる永嶋氏が担ったのである。
後発としては先ずは西域防御が求められ、そしてこの方法しか無った筈である。
京平氏の「東勢力侵攻」の時期に対して、そう成ると、対抗するかの様に畿内の東の伊勢青木氏や美濃青木氏と連携して戦略的に「秀郷防衛網」を築く必要が秀郷一門に出て来る事に成る。
戦略的には、この時期は、「道」に関係する戦略の展開をするのが常道であった。
京に繋がる東海道や中仙道等で分けられていた。信濃や甲斐は東海道外であるので、永嶋氏にはその勢力圏外であつた筈で、信濃と甲斐は防衛網の戦力域外であり先ずは問題はない。
又、近江は京平家域(阿多倍末裔一族圏)に入り過ぎるし遠すぎる。
ここで余談だが、徳川家康は豊臣を潰すために名古屋城で一時3月ほど秀忠本軍を待った時期があったが、この期間は、本軍を待っただけでは無かったのである。大阪に通ずるこの「伊勢道」を確保する事が勝利に繋がると観ての待機であった。つまり、この「伊勢道」を奈良の西域まで抑えていたのは大シンジケートを持つ「2足の草鞋策」の伊勢青木氏であった。故に「伊勢青木氏」に対して合力参戦を促したのであった。
南北朝の楠木正成軍3千が北条氏軍10万に対抗して勝ったのはこの伊勢シンジケートの背景を持っていたからである。家康はこの史実は当然知っている。「伊勢青木氏」の分家一部は豊臣側に味方した。しかし、伊勢青木氏本家は実戦250の「兵」で合力参戦する事と成った。
家康の先遣隊が側面からこの勢力(武力と経済力とシンジケート)に突かれては、北条氏や今川氏の失敗の二の舞に繋がり、家康が潰れれば、豊臣軍は勢いづき徳川本軍の指揮は低下する最も大事な戦略事であったのであった。史実、今川氏も行軍で最も弱い欠点を信長にこの側面を突かれたのである。
結局、「伊勢道」の安全通行の役を受けて「食料、経済面、運送、周囲防御」等を果たしたのである。実際は「伊勢道」にシンジケートを動かしたのであるから1万は超えていた筈である。
この様に「戦い」は刀を振り回す事では無く、その前に「道」とそれを勢力圏としている「氏力」の確保が優先するのが戦いである。
これは永嶋氏にとっても戦略は同じである。「道」を確保しない限り勢力は伸びないし、「氏の存続」は無い。それを保つには、この時期としては当然に必要なのは、先ずは「戦略的血縁」であり、その最適な氏として観ても、先ずは「不入不倫の権」を堅持し、最大勢力を誇る東奈良から員弁、桑名まで勢力を堅持し京大阪に繋がる「伊勢道」を確保している「伊勢青木氏」と成るであろうし、他に無い。
そもそも、賜姓青木氏の元締めの伊勢青木氏との血縁をすれば、必然的に信濃、甲斐との「道」の確保と側面の防御が出来るし血縁をする必要が余りない。永嶋氏にとっては側面の憂いを無くすることが出来る。それどころではない。武力だけでは護れない。経済的裏打ちが確保できなければ全て成り立たないし、永嶋氏には税から上がる以上にそれ程の経済力はない。
伊勢青木氏の「2足の草鞋策」と繋がれば問題は無く成るし、長期的な勢力維持の展望が開ける。
この様に、史料の「共通血縁族」の5氏の「共通血縁族」の考察でも判る様に、「笹竜胆紋」は同じ青木氏の始祖の伊勢青木氏でもあった。
西に勢力圏を重複する相手を選ぶのは当然であるし、平家との勢力争いを起しているのであるから、平家に対して、東の西はずれを強化するのは戦略の常道である。
永嶋氏としてはこの勢力を無配慮に放置する事は少なくとも無い。
先ずそんな事は出来ないであろう。その証拠の一つとして、伊勢の土地永嶋に一族を置いている。(地名:伊勢永嶋)
源氏はこの時期、清和源氏(宗家頼光流一門)だけが戦える武力を保持していたが、河内、摂津、甲賀、信濃、甲斐、伊豆の域である。これは圏外であるし、血縁相手は主に同族の5つの賜姓青木氏であって、土地も、伊勢、美濃、信濃、甲斐であった。この事から、清和源氏ではない。
地理的な考察から、中部を主体として延びた永嶋氏の拠点から観て、史料3の下記の皇族賜姓族5家5流と24氏の内容から美濃の一帯に勢力を持っていた美濃青木氏か、伊勢青木氏かであろうが、遠方の氏と血縁する事は、その勢力範囲が分断されて効果的では無い筈だし、城を築く様に血縁で固めるとすると勢力範囲内と成ろう。
ただ美濃青木氏は勢力範囲が小さく子孫を大きく遺してはいない。
これは、青木氏の家紋121氏(史料2)の群から判断出来る。
つまり、他氏に較べて桔梗紋類は本家と分家の2氏と少ないことでもあり、故に勢力と権威の期間も短かった。
現実には、少し後の桔梗紋族は信長の時期には、殆ど滅亡している位に小さい。
滅亡している事は永嶋氏とは結んでいなかった事により、結んでいれば、信長期には秀郷一門は離散したとは言え依然その勢力は末裔に引き継がれていた。
(注 藤原一門は源頼朝に本領安堵を2度受けている。独断で実行したこれが原因で坂東八平氏の反発を受けて幕府樹立後3年で清和源氏一族は尽く抹殺された。 北条氏は藤原一門と小競り合いを起すが、得策でないと見て結城氏が圧迫を受ける程度で終わる)
故に、東の背後から永嶋氏の勢力に圧迫を受けていて、信長は動けなかった筈である。
源氏(清和)は清和の宗家頼光の領国で主に関西の畿内域(河内)に集中している。永嶋氏の西端の域であるし、また近江の青木氏と伊勢の青木氏もあり、余り伸ばすと争いが起こる。確かに、西端の勢力は室町期の勢力圏域であるから、笹竜胆紋との血縁は平安中期から末期と観られるので、源氏ではないであろう。
確かに、村上源氏の北畠氏が最も栄えた一族であるが、伊勢永嶋に永嶋一族があり、伊勢東部に勢力を張り始めていたが、時代は室町期末なので少しずれていると観られる。
佐々木氏は、主に近江、滋賀と東北地方に勢力を張っていた事から、地理的には余り意味がないし、古来、奈良時代の役目から神官が多い事もあり、確かに大神領との考えもあるが「勢力」と言う意味から考え難い。
(参考 近江佐々木氏は天智天皇の第7位皇子川島皇子、滋賀佐々木氏は宇多天皇の第6位皇子)
佐々木氏は確かに圧迫を受けて、末裔の剣豪佐々木小次郎の近江佐々木氏などでも判る様に、滅亡の憂き目を受けているから永嶋氏との血縁は、桔梗の土岐氏と同様に考えられない。
地理的にも、伊勢青木氏である。
次ぎは氏からの考察では、清和源氏は確かに頼信分家一門が鎌倉幕府を開くが、平家傲慢の反発からの時代の趨勢によるものであって、上記した様にこの清和源氏の頼信末孫の一族は北条氏に依って鎌倉末期に絶滅させられている。
平安期となれば源氏一族11家は一段と成って平家に圧迫を受けていた。
結局は遺されたのは主に4つの源氏(清和、村上、宇多、嵯峨)だけであり、その中でも力を持ったのは実質戦い得る力のあった清和源氏だけであった。村上源氏も一時勢力を持ったが線香花火の様なものであった。
佐々木氏も清和源氏に同調して戦ったが、矢張り平家の圧迫に耐えられなくて近江、滋賀付近と逃亡先の東北地方に分布するだけの様になった。又、主に平家の圧迫手段に対して生き延びる為に神官職に従事して子孫を維持した事も大きく影響している。
(本論から外れるが佐々木氏の家紋から神官職が多い事が覗える。)
藤原秀郷一門の各地に定住した一門の守護神や菩提寺の住職に佐々木氏の姓が多いのは離散後この保護を受けた事から来ている。
(このことから後に清和源氏と佐々木氏末裔を名乗る氏が各地に現れるがこのためであり、先ずは未勘族である)
兎角、源氏では清和源氏が最も生き延び方が長かった。それは、次ぎの戦略からである。
一方、清和源氏は宗家の頼光系は伊勢青木氏に、土岐氏と土岐氏系青木氏に、そして、頼光は信濃守護代を最終は頼信に渡し、東の坂東への進出の足がかりを作らせて清和源氏の生遺り策とした。
この為に伊豆、駿河付近に拠点を置いて、分家の頼信系は足利氏と足利系青木氏に、武田氏と武田氏系青木氏に跡目を入れる戦略を採って子孫を遺したのである。
(この為、頼光系の源三位頼政は援護の為に伊豆に伊勢青木氏の一部を移動させた)
伊勢青木氏の経緯は、伊勢青木氏の天智期からの領国で天領地の伊勢国は、伊勢北部伊賀地方を割譲させられて、この京平家(桓武平氏)の祖の後漢の末裔の阿多倍王に与えられた土地である。
室町期には永嶋氏が抑えていた伊勢永嶋も室町期には北畠氏に割譲させられて、伊勢青木氏の伊勢国は3割譲の憂き目を受けた。
この時期の事で伊勢青木氏は永嶋氏と連携した事も充分に頷ける。
(桓武天皇の母の高野新笠はこの阿多倍王(高尊王)の孫娘である。青木氏と桓武天皇との間には軋轢を受け一時衰退した。しかし、桓武天皇に対抗して子供の嵯峨天皇がこれを解決し伊勢青木氏を救った経緯がある)
史実からも伊勢青木氏と永嶋氏は連携を採っていたのである。(共通血縁族でも良く判る。)
この様な状況から東に向かった頼信系ではなく、武蔵を基盤にした藤原秀郷一門の永嶋氏は、中部から西に勢力圏を求めた事から、畿内に勢力圏を持っていた清和源氏頼光系の跡目を受けていた伊勢青木氏(京綱)や後に美濃青木氏との血縁を結んだ事は確実である。
そうする事で、史実、京平家に対抗して3者(5家5流の元締め伊勢青木氏と、河内摂津に拠点を置く清和源氏頼光一門と、武蔵下野以北圏に勢力を置く藤原秀郷一門)のスクラム体制が成立したのである。
この体制網を組めば、平安期の事としては、京平家は東に侵攻することは出来ないであろう。
現実に出来なかった。無論。室町期にも「2足の草鞋策」を採っていた伊勢青木氏は藤原一門とは連携を続けた史実がある。
この「三者連合」は永嶋氏の35家紋と、その分析の青木氏との同一血縁族の家紋群(下記)でも判断出来る
(参考 秀郷一門24氏の発祥順位は史料4を参照)
笹竜胆紋から話を戻す。
次ぎに一流大豪族の発祥から考察すると、この永嶋氏の血縁時期は、氏家制度の中で分家の権域が本家を凌ぐ「下克上」、「戦国時代」の頃であると観られる。
「時代性」の点から観た分析では次ぎの史料から読み取れる。
(史料7/10添付)
H:平安時代前期 K:鎌倉時代 M:室町時代 A:安土桃山時代 E:江戸時代
一つの家紋は幾つかの時代を重複して計算している。
長谷川氏 長沼氏 永嶋氏 進藤氏 青木氏
H:4 11% H:3 13% H:2 08% H:4 13% H:7 03%
K:1 03% K:1 04% K:1 04% K:1 03% K:20 10%
M:15 39% M:9 39% M:11 46% M:10 31% M:81 39%
A:9 24% A:6 26% A:5 21% A:7 22% A:55 26%
E:9 24% E:4 17% E:5 21% E:10 31% E:47 22%
永嶋氏は室町期を中心にして、血縁は江戸よりにある。
そして、その「地域の点」から観ては、次ぎの様に成る。
最も西はずれの出雲大社の氏子集団の豪族亀甲族一団(1)を始めとして、安芸、美作域の鷹の羽族(2)、関西域の片喰族(3)、美濃域の梅鉢族(4)、尾張域の沢瀉族(5)、近江と伊勢域の茗荷族(6)と満遍なく血縁を固めていることが上記の説としても判る。
これ等は全て「家紋200選」の名族である。
さて、そこで、「家紋200選」の46%とは、多いのか少ないのかの判断がポイントになるだろう。
藤原氏以外の氏の血縁は普通10%程度であることから、かなり多い事が云える。これは上記の「戦略的血縁」と「氏家制度の仕来り」で家柄身分の吊り合った血縁からこの%に成っている事が言える。
藤原秀郷流永嶋氏では高位の家柄身分であるので、跡目継承を機会に政略結婚的な血縁の様相が覗える。
「第3の永嶋氏」と見られる氏や家紋も20%程度を閉めている事は、他氏に観られない藤原氏と青木氏等に強く観られる現象である。この数字はほぼ平均である。
この「第3の永嶋氏」の家紋は不特定の条件と系譜を持つために系統的に調査が難しく全ての確認は「家紋200選」では困難であったと観られる。
従って、永嶋氏のこの特長を除けば、実質70%以上85%以内であると考える。況や殆どである。
そこで、では青木氏121氏の血縁族の家紋と、永嶋氏35氏の血縁族との間にはどの様な関係を持っているだろうと云う考えが浮かぶ。
そこで、次ぎに「共通血縁族」という点でそれを考察する。
「青木氏と共通血縁族の分類」
青木氏と永嶋氏と同一の文様を持つ家紋類は次ぎの様に成る。
解析
その答えは、先に次ぎの様に成る。
35紋中17家紋となる。48%である。約半分である。第3氏を除けば、70%である。
つまり、青木氏と永嶋氏は主要な血縁族としてはほとんど同じ相手である事になる。
青木氏と同様の兼光流から出た永嶋氏は半分は同一氏と血縁をしている事に成り、実に血縁関係の繋がりが深いことを示す。
「下がり藤紋」が存在することは永嶋氏の宗家が現存していることを示す。
又、「上り藤紋」がある事は秀郷主要5氏外の北家一族との血縁を依然として維持している事も示す。
中でも、「笹竜胆紋」の皇族賜姓青木氏との血縁が目立つが、ここで賜姓青木氏と繋がっていたことを示し、5家5流の青木氏と支流24氏(近江系、土岐氏系、諏訪族系、足利氏系、武田氏系。更には佐々木氏系)が信長に負われて逃亡した先が、各地の藤原秀郷一門のところを頼った事がこれでも良く判る。
又、皇族賜姓青木氏24氏の家紋類(参考 皇族賜姓青木氏5家5流と24氏 参照)と、藤原秀郷流青木氏116氏とは家紋類が「笹竜胆紋」の綜紋で、もとより重複するところがあり、これも頼ることが出来た要件であったと見られる。
(重複家紋は史料3に記する)
両者共に、桔梗紋の土岐氏との血縁もあり網目の様に血縁を広げていた事を示す。
特に、「片喰族」、「梅鉢族」、「抱き茗荷族」、「鷹の羽族」、「木瓜族」、「沢瀉族」と中部地方から中国地方手前までの氏と隙間なく満遍なく漏れなく血縁して、勢力圏を確保している事が判る。
これ等の氏は「家紋200選(下記参考)」にある主要氏ばかりである。
これ等の氏の発祥は、時代性から観て室町中期を境に2つに分かれ、如何に勢力を持ち得ていたかの判断材料に成る。
これ等のことは共通血縁族の下記の解析でも更に証明している。
ところで、永嶋氏には、関西より以西から九州地方全土にも、「大蔵氏系永嶋氏」の3氏が存在する。
「大蔵氏系永嶋氏」、「肝付氏系永嶋氏」、「島津氏系永嶋氏」である。何れも阿多倍の末裔子孫の大蔵氏から出ている。
ただ、秀郷流永嶋氏にも2つの流がある。
「佐野氏系永嶋氏」、「結城氏系永嶋氏」である。秀郷一門兼光系である。
この大蔵氏系永嶋氏と秀郷流永嶋氏とは繋がっているとを考察する。
(大蔵氏は直系の阿多倍一族である。)
これ等の事に付いては長谷川氏の本文で「戦略上の違い」として詳しく考察する。
永嶋氏の「共通血縁族」(青木氏)
(・印は「家紋200選」にあるもの)
(青木氏の家紋の内容説明の由来、使用氏、時代、地域、特記は史料5参照)
1 ・上り藤、・下がり藤
2 ・笹竜胆
3 ・丸に隅立て4つ目
4 ・丸に片喰、・丸に剣片喰
5 ・丸に沢瀉
6 ・丸に抱き茗荷
7 ・丸に違い鷹の羽
8 ・丸に桔梗
9 ・丸に蔓柏
10 ・丸に木瓜
11 ・梅鉢、・丸に梅鉢
12 ・三階菱
13 ・五三の桐
14 釘抜き
以上17の「共通血縁族」である。
青木氏との永嶋氏「共通血縁族」の考察
釘抜き紋(長谷川氏支流族)を除いて、16氏全て「家紋200選」にあり、永嶋氏35氏の70%は青木氏と共通血縁族である。
ここで、推論が湧く。
この”17家紋の氏の使用氏と、青木氏と永嶋氏は個別に血縁したのであろうか”である。
推論は、”青木氏と永嶋氏のどちらかの17の家紋を持つ氏が同族内で相互に殆どが血縁した”つまり、”個別に使用氏との血縁ではない”と云う事である。
これは、主要5氏の家紋の解析資料1から結論付けられる。(解析資料1参照)
この17の家紋が主要5氏の4-5氏までの共通家紋群である事でも頷ける。
結論は”個別に使用氏との血縁ではない”と云う事である。
その血縁は、先ず、何れかの5氏の内の一つが使用氏と血縁し、2代続きの「男子跡目継承」が出来ずに養子先の家紋と成り、男系の使用氏系列の永嶋氏と成った云う事になる。
この永嶋氏が青木氏と血縁したと言う事である。当然にこの逆の事もあったであろう。
つまり、”同族で固めている”と云う事である。
青木氏は、秀郷総宗本家からの跡目を「第3子の家法」で入れて青木氏の宗家を保っているが、他の4氏はこの家法の方式の跡目ではない。だから自らの氏を自らの力で維持しなくてはならない。そこで、他の4氏はこの方式を採り、”より高い血縁一族で固めた”と云う事であろう。
そして、一度は使用氏からの血縁を経て、その血縁先は多くは「第2の宗家」の青木氏から男系跡目が出来ない他の4氏に跡目を入れたと観られる。これは解析資料1で証明出来る。
広く使用氏との血縁出来る可能性(これだけに広範囲に大豪族との血縁が出来る事の可能性)は、主に武力を持たない貴族である「秀郷宗家」に同行し、各地に護衛役として移動していた青木氏以外にない。それが(血縁で固める事)又、護衛役の役目でもあり、「第2の宗家」の役目でもあった。
特に、24氏中の後発の発祥氏の永嶋氏にとっては、「総宗本家」からの血縁の繋がりは難しいとしても、常に「第2の宗家」と繋がっておく為には同族血縁は「生残る絶対条件」でもあったであろう。
その青木氏との繋がりは17/35=50%(普通は10%程度)と大変大きい比率と成っているのである。
そして、更には、青木氏と強く繋がる事で、それらは秀郷一門の主要5氏が「共通血縁族主要8氏」で構成されている事にも成ったのである。
青木氏、永嶋氏、長沼氏、長谷川氏、進藤氏の5氏が同じ「共通血縁族主要8氏」を持っていて繋がっている。実に「強い絆」で結ばれた「氏力」である。
これ等のその「血縁戦略」、即ち、青木氏と繋がる事で35の家紋を持つこの35氏の後発でありながらも「関東屋形」と呼ばれる程に24氏の中でも「主要氏の永嶋氏」と成し得たのである。
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