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日本書紀と青木氏 1/10

日本書紀と青木氏

レポートリンク
2/10 3/10 4/10 5/10 6/10 7/10 8/10 9/10 10/10


日本書紀には、下記に列記する通り青木氏の始祖の活躍が多く出て来る。
その活躍具合を現して、我等の先祖がどの様に生き有能であったかを検証する。
特に、この日本書紀が編成された時期は、未だ大化期とその直ぐ後の事柄について書かれているので、主に青木氏の始祖の伊勢青木氏と近江佐々木氏の活躍具合が現せる。
今回は伊勢青木氏とする。

以下の項目をで10シリーズに分けてレポートする。

検証する青木氏に関わる内容は次の通りである。
検証項目

活躍 第1節 「白雉の年号」
活躍 第2節 「伊勢王の薨去」
活躍 第3節 「伊勢国の重要度」
活躍 第4節 「諸国の巡行」
活躍 第5節 「紫の袴着用の許可」(最高位の身分扱い)
活躍 第6節 「天皇の名代」
活躍 第7節 「天武天皇の葬儀」
活躍 第8節 「善行説話の編集」
活躍 第9節 「伊勢行幸」
活躍 第10節 「大隈の首魁(阿多倍)」

序として
日本書紀はその時期の出来事を事細かく日記的(編年体)に書きとめているものであるので、その活躍具合を表現するには、全編を見た上で、その[活躍どころ]がどの様なものであったかをまとめて、その行間前後の「活躍姿」を考察して、個々の活躍の「役目柄と背景」を見定める必要がある。
伊勢青木氏は主に「伊勢王」と「施基皇子」(芝基)と言う形で出て来る。
従って、その「伊勢王」(30箇所程度)として出てきたところの前後の文章の背景と予備知識(研究室)を考察して纏める事にする。

と言うのは、この日本書紀は天武天皇の皇子の舎人親王らが編集したものであるが、この日本書紀はただの文章と言う事であり、見てもその内容をよく理解できない。
大事なことは、日本書紀が出来た時の政治体制や、その状況や、天皇家の構成や、朝廷の状況や、50人に及ぶ皇子皇女の活躍具合や、身分制度や、公家百官の状況等を把握した上で、その行編を外から見る必要がある。又、舎人親王の人柄とか、書き難い事を間接表現している事もあり、又、後の行間でこっそりと簡潔に記述していることもあり、内側からも見る必要もある。
更には、それでなくては、ただの文章の羅列で何の面白みも生き様も見えて来ないのである。

その史料として、研究室にこの時代の史実をレポートしているので、それを大まかに把握されている事を思い起こして、お読みいただきたい。未だお読みに成っていない方は研究室の右メニューの「おすすめレポート」を参照しながら読まれると、よりご理解が頂けると考える。
「大化改新レポート」「天皇家皇子皇女の系譜」「阿多倍一族の活躍」、「青木氏の綜紋」、「青木氏のステイタスの生仏像様」等、を先にお読み頂きたい。

この時代は、日本の歴史上から観て、例が無く想像を絶する位に、「変化と活動」が大きく、政治、経済、軍事全般に及んで改革が進んでいる社会である。何せ、三権をリードしていた蘇我氏が倒れたあとでもあり、後漢が滅亡して帰化人(17県民)が押し寄せ、進んだ技能を持ち込んで民は潤い始めた時期でもある。高句麗、新羅、百済から政治難民が上陸し、国内で問題を起して騒がしく成っている時期でもある。
従って、当然、民の人心は、下記の「清素仁政」とは裏腹に、百花繚乱ならぬ百花騒乱の如くであっただろう。

以上の事柄を念頭に以下のレポートをお読みください。


活躍 第1節  白雉の年号

本書記録
”白雉元年(650)2月9日に長門国の司の草壁の連の醜経(しこぶ)と言う者が、天皇に珍しい白の雉を献上した。”とある。

”そこで、百済から来ている皇太子の百済君が、天皇に漢の国で白雉が多く出ると大変珍しく吉兆であるとされている”と述べた。”とある。

”周囲の高官が、更に、わが国でも白の鹿や白の雀などが出て大きな休祥(よきさが)で、唐から持ち帰った三本の足を持つ烏(やたがらす)の時もめでたい事だとしています。””まして、白の雉ともなれば、益々祥瑞であります。と述べた。”とある。

”重ねて、天皇の師で国博士の留学僧の「ミン」が、王者の行いが清素で仁政である時に、必ず白の雉が現れます”と述べた。”とある。
その後、”この事を知った天皇は皇太子達を呼び共に、儀式として、公家百官を集めて白の雉を庭に放つ儀式をした。この時、この儀式の為に「伊勢王」と他二人がこの雉の篭を天皇の前に置いた。”とある。

”天皇は過去にもこの吉兆が漢の明帝の時と、国では仁徳天皇の時には竜馬が現れたことが2度程ある。めでたい印であるので、以後、白雉元年と改元する”とあり述べている。
”全国に恩赦を発し、長門の国の連に恩賞を与え、3年間の免税とした。”とある。

検証
年号制定時の朝廷のエピソードである。
この様に、「伊勢王」は儀式のところで白の雉の篭を置いたと書かれている。
この白の雉のことで、「伊勢王」は動いた。
白の雉を「醜経」に命じて天皇に献上さして、それを使って天皇の権威を演出し、国政の道筋を国に示す裏段取りをしたのである。ただ単に、白の雉の篭を天皇の前に置くくらいの事は第6位皇子である「伊勢王」の仕事ではない。他の官僚が充分に行えることである。
しかし、敢えて、「伊勢王」にさせ占めた事には意味がある。
後の記事にも出て来る事であるが、「伊勢王」は「天皇の補佐役」として働き、皇太子などより重く用いているのである。そして、主に、軍略所(天皇の裏仕事を任ずる役)として、天皇の命で問題が起こると全国各地に飛び回っている。
日本書紀には段突に最も多くの場面に出て来る人物である。
むしろ、日本書紀では、天武天皇の死去の葬儀を皇后の持統天皇に、その有能さを認められていて、懇願されて、草壁の皇太子があるにも拘らず、代わって取り仕切っている程にはっきりと明言している。(後節記述)
伊勢青木氏では、先祖伝来の口伝で「軍略所」であったと「口伝」で言伝えられている事でも納得できる。
つまり、この記事は、「醜経」から届けられた珍しい「白の雉」を使って、「伊勢王」は一計を按じて、天皇(斉明の説)の威徳を全国に高める為に演出を計画したものである。
世情には「孝徳天皇」と「中大兄皇子」との軋轢、「有間皇子」(孝徳天皇の子)との軋轢、大化改新の歪み問題などの経緯もあり、又、人心と天皇の権威に不透明部分があった。
ここで、天皇の威徳を高める為に、この「吉兆、休祥、祥瑞」と説得力の持つ人物の各人に述べさせて、お膳立てを行い、儀式を行い、そこで、人心を一新させる為に年号をこの白の雉を使って改元する事の演出の裏仕事をしたのである。

ここで、疑問が湧く。
孝徳天皇死去(654年)時に年号を一時保留(廃止)した経緯がある。
しかし、日本書紀の記録で検証すると、上記のこの辺のところの解決策として改めて演じたのではないかと見られるのである。

その経緯を検証すると、疑問が出て来る。
実は、645-650年の「大化」年号の後、654年から701年まで(47年)年号が無かった事になるのである。
後の、天武天皇崩御の686年の「朱鳥」(あかみどり)の年号は直ぐに廃止された。

この白雉の年号も検証すると、国博士の僧のミンは654年没(653説あり)であるので、この儀式は孝徳天皇の650年とするのか、「大化」を一度廃止した上で、後(654年頃)に、元号の復原儀式を改めて行い「白雉年号」の元号化を図った儀式とも考えられる。
本書記録では何れとも明言していない。

そこで、どちらなのかを観てみる。
孝徳天皇は645年から650年までの大化期の天皇であり、650年から654年までの孝徳天皇の皇位の威厳は中大兄皇子に移り実質無かった。
この時期は中大兄皇子との軋轢がはっきりとして時系列で確認出来る。

2度の遷都劇で既に追い落とされた経緯がある。
遷都劇の時系列  飛鳥宮 650.10 -難波柄豊碕宮 651.12 -飛鳥宮 653.8 -近江大津宮 668

時系列では、故に、650-654年前は孝徳天皇は軋轢と病気と遷都劇から天皇としての権威は全く無かった事になる(疑問1)。
更に、中大兄皇子の子供の「伊勢王」を儀式の中心にするのもおかしい(疑問2)。
既に、日本書紀の記録では白雉の年号に成っている(疑問3)。
又、この儀式は何処で行ったかと言う疑問も出る(疑問4)。
誰も居なかった権威の無い難波ではおかしい(疑問5)。

これ等の疑問1-5を解消するには次の4つの説が考えられる。
この事から、第1には、大化年号を650年に一度廃止し、数年(4年位)して、再び斉明天皇(654)の天皇の権威を挙げるために、中大兄皇子が「伊勢王」を使って”改元(復元)”劇を演じたとも考えられる。

何故ならば、日本書紀の記録では、この劇の日は既に2月9日以降(650)である。白雉改元から実質3月以上も経っている。年号が始まっているのに、年号儀式はおかしい。(疑問6)

第2には、推測として、天皇が代わる事の度に年号が変わるが、しかし、これ以後、4人の天皇が代わっているが、年号が無い事に対して、後で追記したとも考えられるのではないか。
その為に、後で権威付ける為の僧ミン等の発言を入れたが、日付の矛盾が出た事になる。(654年説では可能)

第3には、653-654年頃にこの儀式を、斉明天皇共に中大兄皇子の元で行い、再び年号を復元儀式をして5年遡ったところを白雉元年としたか、儀式日を5年としたとも考えられる。

この第3の説が、始まったばかりの当時の年号意識からは自然ではないか。そうすると全て疑問(1-6)と矛盾は解決する。

第4には、650年説とすると、軋轢の真最中の時であるし、白雉の演出劇の日の記録がおかしい。(疑問7)

そこで、「軋轢問題」の検証で観てみると、時系列の記録では次の様になる。
650.3月 白雉の儀式
650.4月 造営開始
650.10月 造営中の仮小屋に遷都
651.12月 天皇移動
652.12月 完成
653.8月 飛鳥遷都となる。

これを観ると、儀式の1月後、直ぐに遷都劇の造営を開始している。つまり、権威失墜を開始したとなる。軋轢はその前となる。

650.10月では、中大兄皇子の皇太子が移動している。
650.4月の造営開始とは、本書記録 ”4月には土地、住居、墓の撤去の保障をした”とある。
650.5月には ”将作大匠荒田井直比羅夫(たくみのおおつかさあらたいのあたいひらふ)に境界標を立てさせた”とある。

650年初めは保障し境界杭を立てた時期である。

従って、この時系列記録では、計画立案はその前に行うので、649.4月頃以前である事になる。

つまり、遷都劇は軋轢真最中の649年の始め頃に、わざわざ、遷都劇の計画で、天皇の権威を下げようとしている時に、”天皇の権威を高めることを「伊勢王」を使ってするか”と言う疑問が出る。(疑問8)
もし、したとすると周囲から”何をやってんだ”となる。慎重で計画的な政治戦略を実行する皇太子中大兄皇子は「伊勢王」にそんなバカな事はさせない。

自然に失墜したのではない。失墜させたのである。
実は本書記録にその証拠がある。5年前の記録である。
”皇極4年6月14日(大化元年:645) 皇極天皇が中大兄皇子に譲位を打診した。中大兄皇子は即答を避けて、中臣鎌足に相談された。 中臣鎌足は、古人皇子は兄上です。軽皇子(孝徳天皇)は叔父上です。古人皇子がお居でになる以上、殿下(中大兄皇子)が行為を継がれた場合、弟が兄に従う人道に背く事に成ります。 暫くは、叔父上を立てられた上で、人心の望みに暫く叶うようにしてはいかがでしょう。とあり、中大兄皇子は大変褒められて、密かに天皇に奏上した。”とある。

ここでキーワードは4つ有る。
舎人親王は敢えて、明らか様に記録しているのである。
”暫く”①は、”叔父上を立てられた上で②”であり、”大変褒められて③”、”密かに天皇に④。”である。
①から④を観て、5年の前から、初めから大儀名文を得る為に、譲位前より失墜を決めていた事に成る。

即ち、叔父を立てておいて、後に人心が落ち着いたら、戻す。その戦略が良い事を褒めた。そのため密かに、計画を進めた。と言うことである。 実に戦略的である。

現に、3月後には計画を進めて、古人皇子を先ず打った。
その記録は次の通りである。
”大化元年9月12日(645年皇極4年 多説あり) 古人皇子を謀反の嫌疑で打たせた”とある。

645.6月で失墜計画は始まる。
白雉儀式劇の650.3月では、軋轢のピークとなる。
650.4月の時点で、既に権威は完全失墜している。

この事は、公家百官も知っている。改新の実績者は皇太子である。権威どころの話ではない。

この事から、全疑問(1-8)を解決するには、次の筋書きが当然に生まれて来る。

検証筋書き
先ず、権威の失墜した”孝徳天皇の大化は終わったのだ”とし、”斉明天皇の時代(中大兄皇子)の新しい時代が始まるのだ”と宣言する為に、654年にめでたい「白雉年号」を持ち出し演出して「遡り年号」として後に、直に廃止した。そして、軋轢などが国中に伝わっている暗い人心の払拭をも狙ったと考えられる。これが最も有力な説であろう。

この疑問解消説を証明出来る記録を更に次に示す。

年号の疑問解消の有力説の証明
日本書紀には、当時の事情が不明であるので、この様な矛盾が出る事が多いのである。後にも続々と出て来る。

わが国の年号の最初は、「大化」からであるが、「即位や瑞祥と災難」等で一応”改号”される仕組みであった。
従って、年号に対しての考え方は未だ臨機応変に緩やかであった筈である。

大化改新の改革内容を始めとして、自らが天皇に成らず、傀儡天皇の「孝徳天皇」を押し立てて、自らは皇太子(中大兄皇子)として政務を執り行うなど、実に人心に気を配っている。
孝徳天皇の子の有間皇子を暗殺し、そのカモフラージュで孝徳天皇に天皇の座を譲り、自分は蘇我氏の事件では「興国の士」としての立場を保持して、人心の矛先を逸らした位である。

まして、天智天皇の皇位は、23年間の政務の内、最後の3年間だけである事からも、物事にお膳立てをして、期を熟してから実行するなど、実に慎重で戦略的な性格である事が言える事でも本説は頷ける。
又、「孝徳天皇」との軋轢の解決も、突然に都を移し、「孝徳天皇」をそちらに引き込み、又、ある日突然に再び「孝徳天皇」だけを置き去りにし、突然に元に戻り、暫くして遷都とする等の早業を実行して解決している。

白雉の儀式劇程度の本説有力説は納得出来るだろう。

これ等の一連の戦略は天智天皇(中大兄皇子)が自ら描いた筋書きだけではなく、裏で「伊勢王」等が描いた筋書きではと観ている。年号の儀式もこの範疇にあったと観ている。

第一、次の疑問9として、何故に50人もの皇子が居る中で篭を置く仕事を「伊勢王」だけなのか疑問も湧く。

疑問9の検証
それは、15人(19人)もの第4世高位王までの者が赴任地に居ながら、後に第7位皇子の兄弟の近江王の川島皇子と共に、「伊勢王」は都で天皇の下にて働いている。
そして、伊勢国には、代わりの行政官として日本書紀にも出て来る大物の「三宅の連」を国司として派遣しているのである。
この様な背景を下に、前後の歴史的史実を考慮すると、この記事は明らかに、後でも記事を読んでいくと、”白の雉の篭を天皇の前に置いただけの行為”だけでは無い事がよく判る。
つまり、権力闘争の政治性が働いている。

日本書紀のこの前後の行間を読んでいると、大変気を使っていることが判る。つまり、この時期には「人心」が大きく動いていたのではないかと推測できる。
だから、皇子の一人の有能な「伊勢王」を特別に天皇と皇太子(中大兄皇子)の側に置いていたのである。この「伊勢王」には補佐役(三国公麻呂 倉臣小糞)として2人が付いていたと見られる。

実は、この時期の慣習として、「白雉」を使うと云う事は偶然の一致ではなく、一つの「儀式の象徴的物」として捉えているのである。
この記録が他にもあるのである。上記の有力説の証拠でもある。

有力説の証拠
この同じ演出記録がある。
「天武天皇」の即位(668)の”天武元年3月17日にも、この白の雉を備後の国司が亀石郡で捕らえた。”として朝廷に届けている。
そして、”亀石の郡には課役の全免除を与え、全国に大赦令を出した。”と記録されている。
更に、”天武元年4月14日(668) 「大来皇女」に初めて最初に伊勢神宮の斎王を命じた。”とある。
(これが伊勢神宮の正式認定であるが、記録から天武4年が実質であろう。それまで「大来皇女」は泊瀬の斎宮に居た)

「天智天皇(中大兄皇子)」は、伊勢に天皇家の守護神の「伊勢神宮」を建立し、お膝元の伊勢の「伊勢王」に演出させて、人心をここに集めて「伊勢神宮」と「伊勢王」の存在価値をももくろみ演出したものである事が判る。
即ち、全く同じ事を「天武天皇」も行った訳である。

「斎王斎宮の設定」と「白雉の儀式」と「年号の改号と廃止」も、遅れてこの天武14年7月20日に「朱鳥」(あかみどり:686年)と改号した上で、「直に廃止」している事からも証明出来る。

慣例的、且つ、象徴的に用いられた「白雉」の年号の結論は、「中大兄皇子」も「孝徳天皇」没の年(654)の「中大兄皇子」の政権となった斉明天皇の斉明元年(654年)に「白雉儀式」を行った上で、白雉の元号を「直に廃止」したとなる。
つまり、天智天武の2人の天皇には共通する3つの条件、即ち、「伊勢神宮」「白雉の儀式」「年号の改号と廃止」を伴なわせた慣例を造ったと成る。

「伊勢王」
「伊勢王」の働きは、これが本書の記録では最初である。
当時は、寿命が45-50前後と短い。従って、記録によると、社会は6歳頃から一人として扱う時代であった。時代が進み寿命が延びるに従い、10歳、15歳へと変化し、現在では18歳程度に成って社会に出ている。
「伊勢王」(643?-689)も、この時点では補佐が付いていたと見られ10-12歳程度であろうが、記録から実に利発で賢い人物だったと観られる。
「伊勢王」の生誕は不明であるが、皇子皇女の生誕のわかる人物から計算すると、640-645年頃となり天智天皇(626-671)の年齢から当時の可能な範囲では642-644と成ろう。

既に、天智天皇(中大兄皇子)は自分の3人の皇子を朝廷で働かしている事は、この利発と賢さを将来に見込んで鍛えていたと見られる。その一つがこの白雉の年号儀式に中大兄皇子は「伊勢王」を用いたと見られる。

本書編者の舎人親王も、この利発で賢い皇子の「伊勢王」の活躍具合に対して、「畏敬の念」を持っていた事が判る。本書の登場回数とその表現内容でも判る。そのことを念頭に次をお読み頂きたい。
この舎人親王の伊勢王に対する「畏敬の念」は後でも記録されている。


参考
「白雉年号」は一説では650-654年(大化645-650)とされているが、654年以前の5年間も日本書紀の年号から見ると途中から記録上で続いている。
斉明天皇の女性天皇になった時期の654年に廃止してから、天武天皇の朱鳥元年の686年(686年廃止)まで年号は消えたとの説がある。
更に、「朱鳥」の年号も廃止されているから、この説では次の大宝は701-704年であるので、この事から654年から701年までの47年間年号が無かった事になる。
高市皇子は「壬申の乱」の時、19歳で全軍の指揮を執っている事が記録されているので、10歳程度では政務は可能である。大友皇子は太政大臣で24歳であった。

「斎王」とは、天皇の皇女が伊勢神宮の祭祀や儀式を執り行う事として、この皇女は永久未婚を通す定めであり、長くこの仕来りは護られた。伊勢青木氏はこれをサポートする役目でもあった。

「斎宮」とは、「斎王」が身を清める所である。

「舎人親王」は676-735年 天武天皇の皇子 淳仁天皇の父 元明朝から聖武朝にかけて活躍 日本書紀の偏纂 文学に秀で先駆的な歌人 性格穏やかで知者 皇子の中でも最右翼の実力者 淳仁天皇733-765 位758-764の親 一時その有能さから天皇に推された経緯事もある。

日本書紀の改新詔の第1のところにも、青木氏発祥の概容が書かれている。
本書は賜姓に関しては個別には記述を一切していないが、「公地公民の制」に基づき、今までの身分制度を改めて、皇族4位と5位王以上(以前は6世7世王まで)を大夫(まえつきみ)として、人民を統治させる。そして、食封(へひと:戸口による給与)を与える仕組みとする。とある。(646-647)
全体像を見るために、他の史料と合わせると、この時、この定めにより、第6位皇子(施基皇子)で4(5)位王となり「伊勢王」の「伊勢大夫:統治者」と成り、賜姓にて青木氏と仏像を賜ったとある。川島皇子も例外として5位王として近江の地名より佐々木氏の賜姓を受ける。近江王と成る

皇極天皇(斉明天皇)594-661(660) 皇位642-645 皇位654-661(660)
孝徳天皇は597-654年 位645-654年
天智天皇は627-671年 位668-671年である。
天武天皇は630?-686年 位は673-686年
斉明天皇は594-661年 位642-645 665-661
持統天皇は645-702年 位690-697年(太上天皇)
国博士僧みんは654没 653年説もある(632帰国)
施基皇子は643?-689年
草壁皇子は662-689年
高市皇子は653-696
大津皇子は654?-686
考謙天皇は718-770 位749-758
聖武天皇は701-756 位724--749
文武天皇は683-707 位697-707


特記 日本書紀の編成
史料によると、”日本書紀は天武天皇の発意で始まり、元正天皇の時(720年:養老4年:親王は45歳)に編集は終わった。”となる。
本書は漢文で出来ているが、全巻を通して、用語や用字の方法が巻毎と部分的に著しく異なる。これは多数の人が分担し執筆した事によると見られる。これを総裁の舎人親王が自分が観てきた時代の内容をチェックして、編年体での表現方法等の工夫や、非適切な表現等の修正や、文章の配置等の編成をし、編成責任者として1つにまとめ上げたものである。
ところが、31年経過完成という年月から、記録人、時、場処、史料が違う事から、矛盾、間違いが起こっているのである。
初めての大事業であるので、そこまで舎人親王はチェックを成し得なかったのであろう。否定するものではなく理解はできる。

特長として挙げられることは、この記録人の中には、帰化人が多く、史料の間違いを母国から大和を見て書いたそのままを移書きしたものがあり、史料の間違いどころから見て、後漢、百済、新羅の国の帰化人が殆ど多く関わった事が判るのである。この事から来る問題も多く含んでいる。
文章から、諸氏伝、地方伝、個人伝、覚書、中国古籍類などの特長が出ていると言われる程に確かに異なっている。この様なことから、全体として、整理、統一、修正が充分では無かった事が判る。
故に、古事記(712年:和銅5年)は、書き始め(序)で明記している様に、これを見直し編成した史籍であろう。
因みに、古事記の史料では、次のように表現している。
噛み砕いて言うと、”諸々の用いている史料や日本書紀は、経年から見て観察すると、事実と異なり間違いや虚偽や不揃いがあると見られる。現代(和銅)から見てそのミスを改めなければ、何時かはその史実は消滅するだろう。”と記述されている。
ただ、この事を否定要素と捉えて、本書の「日本書紀」の史実を政治目的の為に打ち砕く思惑のあるグループも存在する事も配慮せねばならない。
しかし、確かに疑義や違和感を抱かさせるが、「初めての大事業」の所以であろう事が、文章の前後関係や舎人親王の優秀さや多史料での照合の検証をする事で理解できる。
むしろ、日本書紀は「編年体」であって「記述体」(物語風)の赴きを持ち得ている事(詩文の様に)が判るのである。
つまり、詩文や和歌、連歌、俳句の様に、”想像して疑念を抱かせ、楽しませる”と言う技法を採用しているとも取れる。その方が、検証していると、推理が解けて喜びが湧き楽しいのである。
丁度、試行錯誤してやっと魚が釣れた時のあの感情に似ているのである。
舎人親王は、編成に当って、この技法で故意に後勘に委ねたとも受け取れる。
私は、日本の「詩漢の祖」(詩文興隆の祖)と言われる舎人親王の経歴と巾のあるその有能さを本書の編成に持ち込んでいると考える。
小説でも作文でも、戸籍簿の様に無為ではなく、千差万別の作者の個性が色濃く出るが如く、「日本書紀」も同じではないか。それの方が面白味が出ると言う事で正しいと考えている。元来、本(記紀)の本質は個性=面白味の表現であろう。
「詩漢の祖」(詩文興隆の祖)の舎人親王ならば、”ただ歴史の史実を単純にまとめた”と言う訳では無かろう。ロボットではあるまいし、それならば誰でも出来るだろう。
他書の「日本書紀評価」はこの辺の検証がない。私はかねがね疑問を感じていた。そこで、検証して見ると、案の定、「詩文的表現方法」を駆使して「魚釣りの極意」を披露している。「後勘」に委ねる「楽しみ」即ち「趣心」で編成していると見える。

多くの資料の突合せでは無理であった。その中で舎人親王の史料を見て、ハッと閃いたのである。詩文的に状況や趣を表現している筈だと。そして、再度挑戦し、この手法のお陰で、大分苦労したが長い年月を経て、遂には本書の「伊勢王」の詩文的記録で青木氏の「生様」が観えて来たのである。
特に、次の節の疑問の答えが第1節の証拠とも成り得るのである。
これらの点も留意して、続々と出て来る「伊勢王」の活躍具合を、次からの「伊勢王(青木氏)」の日本書紀の記録検証を、長文ではあるが我慢して是非お読み頂きたいのである。

次は「伊勢王の薨去」と云う項目で青木氏の関わりを記述する。

2/10 3/10 4/10 5/10 6/10 7/10 8/10 9/10 10/10
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日本書紀と青木氏 2/10

前節と本節には、関連性がある為、前節の内容を念頭に以下をお読み頂きたい。

レポートリンク
1/10 3/10 4/10 5/10 6/10 7/10 8/10 9/10 10/10 

検証する青木氏に関わる内容は次の通りである。
検証項目
活躍 第1節 「白雉の年号」

活躍 第2節 「伊勢王の薨去」
活躍 第3節 「伊勢国の重要度」
活動 第4節 「諸国の巡行」
活動 第5節 「紫の袴着用の許可」(最高位の身分扱い)
活動 第6節 「天皇の名代」
活動 第7節 「天武天皇の葬儀」
活動 第8節 「善行説話の編集」
活動 第9節 「伊勢行幸」
活動 第10節 「大隈の首魁(阿多倍)」

本書記録
活躍 第2節  「伊勢王の薨去」
斉明7年(660)に”6月 「伊勢王」が薨去した(死去)”と記録されている。

1年後の ”秋7月24日、(斉明)天皇は朝倉宮に崩御する”と記録されている。(661)

ところが、後のページのところには、この年(661:斉明7年)の7年後(668:中大兄皇子即位)に”天智(斉明没)7年6月 「伊勢王」とその弟王とが日をついで薨去(死去)した。”とある。

注意
斉明天皇崩御から7年間中大兄皇子は即位しなかったので、本書では天智7年(天智元年:668)と記録している。
本来の元号方式では、中大兄皇子は天智天皇に成った年は668年であるから、従って、天智4年までである。
斉明天皇崩御から観ると、天智7年である。


検証
この二人の「伊勢王」とは一体誰なのか疑問が湧く。

第1節の「伊勢王」と、第2節の2人の「伊勢王」の3人の「伊勢王」は誰なのか。(疑問1)

第1節での働きがあって、”概ね6-7年後に薨去した。”とあり、更に、7年後に、又、”薨去した。”とある。「伊勢王」が何人もいる訳が無い。

先ず、この大化の改新で定められた「第6位皇子」の臣下方式で考えると「施基皇子」となるが、この人物で検証すると、無理は無い。

大化期の皇子順位の第6位皇子を「伊勢王」(689没)として配置し、臣下させ、賜姓(青木氏)し鞍造部止利の作の大日像を与えたと複数の古書録にある事から、検証すると次の推理が生まれる。

第1節の時の「伊勢王」が天智天皇の子供の「施基皇子」とすると12歳前後である。
第2節の前の「伊勢王」を「施基皇子」とすると17歳である。
第2節の後の「伊勢王」を「施基皇子」とすると24歳である。
「施基皇子」と「伊勢王」は689年(45-46歳)に平均寿命で死去している。天武天皇死後の天武没後3年に死去している。

この後、「伊勢王」は、未だ30回程度は日本書紀にその活躍の内容で記録されているのである。

この活躍具合から観て、天智天皇や天武天皇が常に「伊勢王」を側に置いて補佐させて働いている状況を観ると、身内の子供であり、天武天皇からすると甥であり、同じ天智の子供の大友皇子との皇位争いの「壬申の乱」の時の味方でもある。
天武期に於いてはこの様な補佐をさせられる信用の置ける人物(30歳)は他にない。
この事から、兎も角は年代は別として、経緯から、本節の前者は「施基皇子」であり、後で出て来る「伊勢王」であろう事が判る。

この時代の王の祭祀や儀式には6-10歳程度で補佐役を伴ない出て来る。このことから考えれば第1節の儀式の「伊勢王」は「施基皇子」と考えても問題は無い。現実に中大兄皇子の補佐が明示されている。中大兄皇子が軋轢中の孝徳天皇の子供の「伊勢王」に天皇権威の演出劇の補佐をさせる事は無い。
そうすると689年の死去までこの人物で一貫して考えられる。

現に、”持統天皇に、歳を取っているがと言い、特別に懇願されて、天武天皇の葬儀の指揮を取る様にした。”とする様子の記録は納得できる。持統天皇は天智天皇の子供であり、「伊勢王」(施基皇子)と腹違いの兄妹でほぼ同年2歳下である。

そうすると、疑問が出る。
つまり、疑問2として、この間のこの2つの記録の「伊勢王」は”どのように説けばよいのか”難しい。

ここで、実は、”孝徳天皇の子供(詳細不明)が3人居て、一人が有間皇子であり、更に一人は「伊勢王」に成り、直ぐに孝徳天皇と中大兄皇子との軋轢で、天智天皇により排除された”とする記録(病死)があり、この時は大化のすぐ後の事である。647-648年頃である。
(有間皇子は中大兄皇子の命で、蘇我赤兄により暗殺された。)

中大兄皇子は伊勢神宮を天皇家の守護神として天照大神を定めて祭り、三種の神器を内、「八た鏡」をご神体と定めたが、この初期にこの孝徳天皇の皇子の人物は外されている。
伊勢国に対して「不入不倫の権」を定めた。そして、正式には伊勢神宮は天武天皇が大増築して斎宮を置き、天武元年(実質4年)より正式に祭祀を行い定め徹底した。
この伊勢神宮の記録から、「伊勢王」は孝徳天皇の子供ではない。
伊勢神宮の制定の前の「伊勢王」は孝徳天皇の子供となる。

この経緯論からすると、後者の記録は、孝徳天皇の子供となる。
有間皇子(暗殺)と兄弟二人(病死:暗殺)で3人となり一致する。

この一環の施策の中で、守護神と決めた段階で、天智天皇(中大兄皇子)の子供を、その土地の伊勢国の守護職として、自らの子供の第6位皇子を臣下させて護らせたものである。
この時期に孝徳天皇の子供は外され病死している。(抹殺されたか)
この後、直ぐに第6位皇子に「伊勢王」を任じている。
同時に、大日像のステイタスを与え青木氏を賜姓している。
第7位皇子の川島皇子にも同時に近江王の佐々木氏を賜姓している。

この事からも、前者はこの孝徳天皇の子供の人物ではない事に成る。
固有名詞で「伊勢王」に任じたとする記録は、日本書紀では正式記録されていないので、判断が尽き難い。

何はともあれ、日本書紀に記録される人物である。
真人族や朝臣族程度の者でなくては記録されていないところを観ると、まして、舎人親王が偏纂したのであるから、親の政敵の子供の事であり、大化始めの事の人物をわざわざと記録するかの疑問もある。
日本書紀にはよく出て来る者は19人中の高位王では「伊勢王」と「近江王」と「栗隈王」程度の王だけである。
研究室の「天智天武の皇子皇女の系譜」史料にも記述しているが、天智天武の皇子は合わせて12人で4世王位の者までを入れると日本書紀に書かれている王は19人である。
しかし、特に、その活躍具合を詳細記録されている人物は草壁皇太子と高市皇子と大津皇子と施基皇子(伊勢王)と川島皇子(近江王)と栗隈王(筑紫王)程度である。

この検証から観て、明らかに前者は孝徳天皇の子供の「伊勢王」ではない事に成る。

推理1
孝徳天皇の子供を病死としていたが、第2節の後者は実は病気中であって死んだので、「前」と書かずに記録したとも考えられるが、軋轢の子供を史実として書くほどの話かは問題である。

では、”前の「伊勢王」は誰なのか”と成る。(疑問3)
前の「伊勢王」の第6位皇子はこの時は17歳であるので、平均寿命は当時は45-50程度であった事からすると、充分に補佐役なしで仕事が出来る歳である。
後の「伊勢王」の記録には補佐役は出てこない。

推理2
この時点で、第6位皇子は上記したように第1期の皇親政治で政務官職が忙しく、天皇から都に呼び出しが掛かっている記述が後節に出て来るので、この時「伊勢王」を子供に任したが、この子供が若くして死んだ。”伊勢王にした若い子供の「伊勢王」だから、代理政務官の大物の三宅の連を国司に当てたとも考えられる。

止む無く、続けて死んだので、次に”「伊勢王」は自分がした”とすると、後に10回出て来る事から考えても”2人の子供も死んだ”とすると理屈が合う。
しかし、”続けて死んだ”の根拠はどの史料でもない。

身内の者で政治をリードする体制の「皇親政治」は、この時期から始まったのであるが、この時、呼び出しがあったので、天武天皇期では皇子第6位と第7位の皇子も呼び出しを受けて補佐として活躍している。
普通は大化改新では皇子の第4位(5位)までの者が政治に関わる事を決めたのだが、この二人は特別であった。日本書紀に記録されている天武期では草壁皇太子より働いているのである。
このシステムは「皇親政治」の所以である。

ところが、後での記録で記述するが、疑問の決定的その答えが出て来るのである。
先ずは、その答えから述べる。
答えは、編集ミスである。
”天智7年6月 「伊勢王」とその弟王とが日をついで薨去(死去)した。”
「天智7年」は、「孝徳7年」の間違いである。
つまり、孝徳7年は651年である。
中大兄皇子が実行した645年の大化の改新の政変劇からすると、7年である。
孝徳天皇には、この時二人の皇子(中大兄皇子と争いで有間皇子は既に死亡)が居て、「伊勢王」であったとされ、この二人は”同日病死”と成っている。
651年は第1節で述べた軋轢の政変劇のところである。
この”同日病死”は史料の一説では「暗殺」であったとされている。有間皇子の事から考えれば充分に考えられる。有間皇子を暗殺して残りの皇子を其の侭では理屈は合わない。

経緯
前節のところで記述したが、慎重で、戦略的家であり、センシティブな中大兄皇子は、この650年前後の孝徳天皇との争いで「向後の憂い」を無くす目的から、この孝徳天皇の二人を有間皇子と同じく抹殺したと見られる。
そして、その後に自らの皇子を「伊勢王」にして体制を保ち、第1節の動きと成った。空かさず、その為のデモンストレーションを演じた。と考えられる。
その証拠に、二人、病死、7年、粛清、暗殺、伊勢王、孝徳、年数、年号、月、年齢等の全ての条件に矛盾は無くなり一致する。

では、前の「伊勢王」の薨去は、どの様に理解すれば良いのかという問題に成る。

斉明7年(660)に”6月 「伊勢王」が薨去した(死去)”は次のように成る。
これには大変苦労した。

実は、本書の末の689年頃に「伊勢王」、「施基皇子」、「第6位皇子」、「爵位浄大1位」、「朝臣族」、「伊勢の首魁」等の固有名詞での薨去の事に第一全く放念し気づかなかったのである。

よく調べてみると、15人程度の上位皇子、王位の薨去の記録があるのに、本書で最も活躍した「伊勢王」等の薨去の記録が編年体であるのに無いのである。

そして、この事に気づいて、この第2節のこの二つ目の疑問の解決の為に、調べ直したのである。
その事で長く放置していた疑問が解けたのである。

その答えは、編集ミスである。
つまり、”斉明7年”は”天武17年”である。
天武崩御686年後、4年間は天皇不在で、持統天皇は2年間は喪に服する時を経て、妃から皇后になり、草壁皇子の病変問題、伊勢王の薨去等があり、その1年後にも即位を宣言したが即位しなかつた。4年目の690年でやっと即位したのである。
政治的にも揺れ動いた期間であり、本書記録的にも煩雑を極めている。(後の節で詳しく述べる)

後者の伊勢王は、上記の病死事件の経緯から、孝徳7年(651年)である事に成る。
中大兄皇子の650年ごろからの前節の時系列から観て、651年は納得できる。
天智7年は孝徳7年の編集ミスである。

その間、崩御前「朱鳥」の年号に改元するが直ちに廃号した。
天武期となる期間が690年まで続く事に成る。この辺のややこしい所の編集配置ミスをした事に成る。
崩御で年号を変えるか、即位で年号を変えるかの問題である。
この時は、まだはっきりと定まっていない。

従って、性格に間違いなく言うと、天武没3年後の689年は天武17年(天智没差)となる。
天智没671年で、 天武即位673年で、2年間即位なしがあるので一致する。

斉明7年は、天武17年の「編集間違い」である。

これで「伊勢王」薨去なしの疑問は解決し、本節の2つの「伊勢王」の薨去問題と、3人の「伊勢王」と、第1節の後付の白雉年号の問題も根拠があり全て一致して解決する。

即ち、多すぎる「伊勢王」薨去の記録と、薨去記録なし(後節でも記述)は解決する。
以上、出て来る「伊勢王」はその記録のくだり内容から無理は無い事になる。

第1節の所で、「特記 日本書紀の編成」でも「編集ミス」等のその特長を記述したが、第2節の既に、「編集ミス」もあった。

兎も角も、本節は後の記録の内容でも判断出来る。
この説を詳しく検証した第7節でも「編集間違い説」を記述した。

そこで、次節以降の事前情報として、留意して頂くべき内容を特記する。そうする事でより検証が巾広くご理解いただけると思われる。

特記 
本書以降(持統期以降)の内容としての情報である。
光仁天皇までの第6位皇子(青木氏)には多くの子供がいて優秀な人材が多く居た。その一人は桓武天皇の前の光仁天皇である。
大化改新で定めた皇位継承順位では、平安期初期の当時は、即位できる4位(又は5位)までの皇子が少なくて、5人の女性天皇が存在している程である。結局、継承外の子供の多い施基皇子の一族に天皇を当てる以外になかった事を示し、この光仁天皇も第6位皇子(施基皇子)の子供であり天皇にした経緯がある。
この間、草壁皇子の子供(文武天皇)や舎人皇子の子供(淳仁天皇)も短期間の天皇に成っている。
桓武天皇期(781)には第6位皇子の賜姓を嫌って無かった。その代わり、母(高野新笠)方の「阿多倍の一族」の末裔を「たいら族」として、阿多倍の呼称「高尊王」に似せて「高望王:平望王」 を架空設定して伊賀に住む第6位皇子と見せかけて賜姓して引き上げた。
これが5代後の後の清盛の京平氏である。
この経緯からすると、賜姓は「第1の流」を「青木氏」とすると、阿多倍一族の京平氏は「第2の流」であり、「第2の流」は以後興隆を続けるが、この2つの「流」は共に相反する「流の勢い」を持つ。
持統天皇末期から始まり、この時点でも「伊勢王」を始祖とする「第1の流」の5家5流の青木氏は衰退を辿って行ったが、この光仁天皇の孫、つまり、桓武天皇の子供の嵯峨天皇は、前の平城天皇(兄弟)と、この相反する「流」の族に対して反目(政治争い)があった。嵯峨天皇は反対を押し切って皇族賜姓に戻し、問題の多かった天智期からの皇位継承方式を弘仁5年に変更の詔を発している。そして、第6位皇子を源氏と変名した。11家11流続いた。これが「第3の流」である。

これより賜姓の発祥時期から観ると、この第2と第3の二つには約30年の差が有り始まった。
この2つの「流」も当然に、繁栄衰退では共に相反する「流」に成る。{
「第1の流」と「第3の流」とは「同流」の族となる。繁栄衰退は共存の流を持ち、後には、第2の流に対抗する為に、同族血縁し「統一流」となった。
この時、今までの第6位皇子の青木氏の「第1の流」の氏は、皇族の者が下族する際の氏として定めた。これが「第4の流」であり、3家の氏を発祥させた。要するに第1と第3の分流族である。
「第2の流」と「第3の流」の間で、何とか「第1の流」の子孫繁栄は維持できた。
「第3の流」11家11流は、結果的に本流の何れも子孫繁栄を維持する事は出来なかったが、「第1の流」が「統一流」としてこれを保持した。
この様な経緯と関係を持つ「第1-4の流」は、本書では「第1と2の流」の記録と成るが、持統天皇末期から桓武天皇までの間では、伊勢の青木氏は上記の摂理で衰退の一途であった。
しかし、この嵯峨天皇は、桓武天皇の治世を見直した為に、伊勢の青木氏はやや一族は息を吹き返すのである。(後述)
嵯峨天皇の詔ついては、皇位継承は「4位方式」から巾を広げて「4世方式」に変更した。この時、臣下方式は第6位皇子を其の侭にしたのである。青木氏(朝臣族)が還俗下族する時の氏姓として変更し、他の者の使用禁令を同時に発した。これが原則明治初期まで維持された。

参考
「譜搾取偏纂期」(弘仁の詔が護られなかった時期)
第1期の室町末期 第2期の江戸初期 第3期の明治初期では護られなかった
「皇親政治」
第1期の天智天武の皇親政治 第2期の桓武嵯峨期の皇親政治 第3期の醍醐村上期の皇親政治
「還俗、下族」
還俗と下族は皇族の者が皇位より外れ僧となって比叡山や門跡寺院などに入るが、その後、下山して一般の者の俗人となる事を言う。皇族の者の下族は僧にはならず俗人となり氏を立てて一族を構成する事
「嵯峨期以降の青木氏」
詔を発した嵯峨期以降の青木氏が現存するのは3氏のみである。
「嶋左大臣の青木氏」、「多治彦王の丹治流青木氏」、「宿禰橘流の青木氏」であり、全対象者は18人であったのみである。殆どは比叡山の高僧僧侶となり子孫は遺していない。
この他、清和源氏の頼光系の高綱ら3人が日向に配流されて、保護した土地の娘との末裔が、逃亡中朝臣族であるので、青木氏を名乗った記録があり、未勘青木氏として日向青木氏(末裔確認済み)がある。
美濃に伊川津7党の中に青木氏があるが、未勘青木氏と見られる。
「有間皇子」は「中大兄皇子」との皇位争いで命を受けた「蘇我赤兄」が和歌山県海南市藤白の藤白神社近くの熊野古道沿いの所で、白浜温泉から帰りに、後ろから絞殺された。

次は、活躍 第3節 「伊勢国の重要度」である。

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日本書紀と青木氏 3/10

前節と本節には、関連性がある為、前節の内容を念頭に以下をお読み頂きたい。

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検証する青木氏に関わる内容は次の通りである。
検証項目
活躍 第1節 「白雉の年号」
活躍 第2節 「伊勢王の薨去」

活躍 第3節 「伊勢国の重要度」
活躍 第4節 「諸国の巡行」
活躍 第5節 「紫の袴着用の許可」(最高位の身分扱い)
活躍 第6節 「天皇の名代」
活躍 第7節 「天武天皇の葬儀」
活躍 第8節 「善行説話の編集」
活躍 第9節 「伊勢行幸」
活躍 第10節 「大隈の首魁(阿多倍)」


本書記録
活躍 第3節 「伊勢国の重要度」
”天智天皇没(壬申の乱) 飛鳥にいる高坂皇子に駅鈴(駅馬の使用許可の公用の鈴:通行手形)の確保の命令を発した。結局、得られなかった。”とある。

”止む無く、大分君恵尺が走り、近江に居る2人の皇子に伊勢に集まるように命令を伝えさせた。”とある。

”(壬申の乱の最中に)大海人皇子(天武天皇)は高市皇子と大津皇子を都の近江からわざわざ呼び寄せて伊勢国に味方の軍を集結させる様にした。”とある。

(軍はその後、)”伊勢の鈴鹿に移動し、伊勢国の伊勢王の代理行政官(国司)の三宅連石床が出迎えて伊勢の入り口を固めさせた。”とある。

(その後、日を置いて)”大海人皇子とその皇子たちと軍は伊勢神宮を遥拝された”とある。

”天武14年7月27日 詔を発して、東山道は美濃以東、東海道(うみつみち)は伊勢以東の諸国の有位の者に課役を免ずる”とある。


検証
この時、伊勢は天智天皇の第6位皇子の伊勢王(施基皇子)が務めていた。当時は30歳程度である。年齢、仕事でも油が乗っている。周囲の信頼も定着している。
従って、本来は天智天皇の子供の大友皇子に味方する筈である。味方になれば勝負は戦わずして尽く。しかし、この伊勢国に大海人皇子(天武天皇)の軍を集結させると云う事は、第6位皇子と第7位皇子の天智天皇の皇子は、初めから大海人皇子に味方する事をはっきりさせていた事になる。
だから、二人の最大の味方が相手側に移った事から、日本書紀に記録されている様に大友皇子の周囲の王や官僚はどんどん離れていったのである。(この様子が詳細に記録されている)
むしろ、「伊勢王」の味方を背景に、皇子等を呼び寄せる時間を保ち、伊勢に集結すると云う事を見せつけて、大友皇子の陣中の分断を図ったと見られる。
それ程に、この「伊勢王」に対する乱の前の諸王公家百官等からの信頼は抜群であったことを意味する。
普通の5位王は赴任地に出向いて務めているが、守護地に代理行政官を置いて伊勢王と近江王は天皇の側で仕事をしている程に信頼をされている。まして、父の天智時代からである。

この乱の後、大海人皇子が即位した後に、この天智天皇の二人(施基皇子と川島皇子)を自分の皇子として扱い、政治面で自分の子供より特別に重用している。(後の節に記述)
しかし、ここで、何故、大友皇子に味方しなかったのか疑問が残る。(疑問1)

その前に、天武天皇の重用の記録の例の一つとして、次の記録がある。

”天武8年5月6日に、天智天皇の子供の皇后と川島皇子と施基皇子の3人と、天武天皇の子供の草壁皇子、大津皇子、高市皇子、忍壁皇子の4人の計7人(皇子12人中)を都に呼んで、母は違うが全て兄弟であるから力合わせて政務に励み忠誠を”とあり誓わせている。

この後、”天武12年2月1日 実際に大津皇子が天皇に代わって朝政の指揮を取る事になった。”
と記録されている。
(しかし、その直ぐ後(4年)の朱鳥元年8月24日(686) 大津皇子は天武天皇死後の半月後に草壁皇子の皇太子に謀反している事に成っている (疑問2 後述)

疑問1に付いて
本来ならば、例え敵にならずとも中立でも排除される筈である。天智天皇が行ったと同じく尽く潰されるのが運命である。この乱の中では、大海人皇子の敵ではないが、疑われて多くの王が抹殺されている。
記録では乱中、”大友皇子は、”中立であっても疑わしきは討て”と直接命令した”とあり、この事が記録されている。どちら側にしても同じであろう。生きるか死ぬかである。

壬申の乱の模様を事細かく記録されている。しかし、あくまでも、大海人皇子(43歳位)側からの記述である。
特に、大友皇子(24歳)が、”中立であっても疑わしきは討て”と言ったとあるが、おかしい。
相手側の事の仔細な発言の内容をどの様にして判ったのか。この件だけではない。近江軍の動きを仔細に記録しているし、描いている内容は、群臣の忠言を無視したとか、近江軍の負けや、失敗や、愚鈍な行動表現ばかりである。、吉野側は良い事ばかりで、勝利表現だけである。
吉野側を身びいきで故意に良く表現している。

例えば、中立を採った実力者の筑紫王(第4位栗隈王)とその子供の二人の王(三野王と武家王)さえも、”疑わしきは”の命令が出ていて、危なかった事が詳細に記録されているくらいである。
これは、大海人皇子の子供舎人皇子が書いた記録である事からも、当然であるが、故意的表現を除けば記録自身は大方は事実であろう。

大海人皇子は吉野から動いて伊勢路を採ったのであるから、伊勢も例外ではなかったと観られ一族が潰されていた事もあった筈である。その証拠に、「伊勢王」の代理行政官の「三宅岩床連」が出迎えている記録で、つまり、事前に味方する事を明確に伝えていた事が判る。

この様に、第1には、皇族賜姓族であっても極めて危ない「人生路を卓越した読み」(青木家の家訓参照)で生き抜いて来た事が判る。
更に、第2には、もう一つの助かりは、大海人皇子の妻(4階級)は殆どが天智天皇の娘である事が左右したのではないか(兄妹)。
特に、「大海人皇子の妃(皇后)(持統天皇)には抜群に信頼」されていたことが記録されている。(後の節で記録記述)
妃等に事前にしっかりと「根回し」をしていたことであろう。この二つの事が一族全体の生残りの結果となったと観られる。
乱前には、大友皇子と伊勢王との兄弟争いは記録されていない。又、叔父の大海人皇子とも特別に仲が良いとかの記録も無い。(後述 信頼で連携)
だとすると、疑問1の答えは上記3つの事であろう。
即ち、「卓越した読み」「抜群に信頼」「根回し」である。(後述でも証明)

「青木家の家訓3」にも記述したが危機は多くあった。、この様に発祥直後にもあったのである。
この事でも「伊勢王」が如何に有能であったかを物語る。

「有能さの証明」はこれだけではない。次々と驚くほどに出て来る。
更に、この事に付いて、以下の検証を進める。

”天武14年7月27日 詔を発して、東山道は美濃以東、東海道(うみつみち)は伊勢以東の諸国の有位の者に課役を免ずる”とある。

この記録に対しては、壬申の乱の後処理の記録で、伊勢王のお膝元の伊勢の処置が記録されている。
伊勢以東の国に免税した事は、壬申の乱(672)で中立を保って平静を維持し、乱は都の範囲での結果となり、最小限の犠牲での戦いで済んだ事と、乱後の平静を維持する事の狙いの2つで、免税したものである。
特に、この地域には大化期から天武期までの改新で発生した新しい皇族第7世族に成った者等を、それまでの都から坂東に追い遣り配置した地域である。
所謂、1150年代までの坂東八平氏(皇族から平になった「ひら族地域」)である。(源の頼朝の後継者に成った「ひら族」である。)
天智、天武が実行した改新の不満を持っている地域である。
ただの地方の豪族ではない。天武に於いては場合に依っては敵側一族でもある。
事と次第では、不満も燻っている地域でもあり、敵側として飛び火するに充分な地域であったのである。
素早く、乱後対策を実行したのである。
実は、これ等の政策を提言したのは、「伊勢王」ではないかという事である。何故ならば、この後、「活躍 第4節 諸国巡行」のところで記録した史実がある。
その史実の一つを述べると、特に、この東国の不安定地域を安定させる為に、検地をした。しかし、その事で後に揉め事の煙が上がった。そこでその煙を消しに回ったのである。一連の仕事をしていたことを意味する。これを実行したのは「伊勢王」である。

この様に、「伊勢王」は一触即発の戦いにもなる難しい問題解決に当り、全国を天皇の名代で指揮官として、飛び回って活躍している。この様な問題解決には、高市皇子、大津皇子やその他の皇子は記録では出て来ない。有ってもせいぜい都範囲の神社仏閣への使い走りである。

この節外にも、文章の主語が「伊勢王」とは成っていないが、主語(高市、大津)の違いがあるが、その記録には確実には「伊勢王」が組み込まれているだろうと観られる内容も沢山ある。

軍事に強い高市皇子、事務に強い大津皇子はこの様な役目を命じられていない。
如何に、「伊勢王」が政治、経済、軍事の3面にその能力が長けていた事を物語る。

ところが、面白い事がある。別述するが、「全国善行話」の収集を命じられている。
これは全国を飛び回っている経験で、よく知っていてをその知識を買われたものであろう。

参考
「ひら族」
第7世族以下の皇族系は大化の改新により天皇が代わる度毎に、”ひら”(下族させる)にして坂東地域に送り、地域の護りとして配置した。この族の呼び名を「ひら族」と呼んだ。
これが350年程度で、坂東には八平氏となった。「坂東八平氏」と呼ばれた。
「たいら族」
これに対して、後漢から帰化した技能集団の首魁が、九州大隈の半国割譲と共に、伊勢の国をも割譲して、伊勢北部伊賀地方に半国を与えられた族がある。首魁阿多倍一族である。この一族は後に、平国香より5代後で太政大臣(清盛)になった「たいら族」(後に伊勢衆)があり、天皇家(敏達天皇の曾孫の芽淳王の娘)との血縁をした。
現代日本の第一次産業の基礎を確立し、中国の進んだ知識を取り入れて律令国家の完成に最も貢献した。軍事、政治、経済に手腕を発揮して、国の国体の様を確立させたその勲功で「たいら族(平氏:京平氏)」と賜姓を受けた。この平氏がある。俗称「京平氏」と言う。坂上、大蔵(永嶋)、内蔵、阿倍氏が主流族である。(第10節記述)

「駅鈴制度」は、大化改新の詔で定められたもので、第2の条に書かれている。
都城(みやこ)を創設して畿内の国司、郡司、関塞(せきそこ)斥候(うかみ)防人駅馬(はいま)伝馬(つたわりうま)を置く。「鈴契(すずしるし)」(駅馬、伝馬を利用する時に使用する鑑札)を造り、地方の土地の区画を定めたもの。

次ぎは、活躍 第4節 「諸国の巡行」である。

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日本書紀と青木氏 4/10

前節と本節には、関連性がある為、前節の内容を念頭に以下をお読み頂きたい。

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検証する青木氏に関わる内容は次の通りである。
検証項目
活躍 第1節 「白雉の年号」
活躍 第2節 「伊勢王の薨去」
活躍 第3節 「伊勢国の重要度」

活躍 第4節 「諸国の巡行」
活躍 第5節 「紫の袴着用の許可」(最高位の身分扱い)
活躍 第6節 「天皇の名代」
活躍 第7節 「天武天皇の葬儀」
活躍 第8節 「善行説話の編集」
活躍 第9節 「伊勢行幸」
活躍 第10節 「大隈の首魁(阿多倍)」


本書記録
活躍 第4節 「諸国の巡行」
”天武12年12月13日 諸王5位の「伊勢王」を始めとして、大錦下羽田公八国、小錦下多臣品治、小錦下中臣連大嶋と官僚の判官、録史、行匠等を遣わして全国を巡行し諸国の境界を区分させた。”とある。”期日通りに出来なかったと報告した。”とある。

又、”天武13年10月3日 「伊勢王」等を全国に遣わして、諸国の境界を正式に定めさせた”とある。

”天武13年 詔を発し、「伊賀、伊勢、美濃、尾張」の4国は、今後、調ある年は役を免除し、役ある年には調を免除せよ”とある。
(伊勢伊賀北部を含む伊勢の国には後に不入不倫の権を与えた)

”天武14年10月17日 「伊勢王」を始めとして、諸臣を東国に向かわせ、衣袴を賜った”とある。
東国の各地で揉め事が多発した様子で、これを治めに出向いた。特に、境界による戦いであろうと考えられる。

”天武14年1月2日 爵位を改めた。施基皇子、川島皇子、忍壁皇子等に浄大三位を授け、諸王、諸臣に爵位を授けた。”とある。
(後に、伊勢王は皇子では段突の皇位の爵位の浄大1位に昇進している) 


検証
活動 第3節で検証した通り、乱後の平定を狙っての全国的な行動である。
最初の12月の仕事は1年掛かりである。大仕事である。
助手の公、臣、連の高位3人と、事務処理官、記録史、測量士のスタッフを連れての仕事である。
これには、ただ測量だけではすまない。検地と言っても(表の目的とは別に)裏の目的は燻る全国を治めに出かけたと云う事であろう。
本来の目的は境界を決めることではある。現代でも尽く揉める事が当り前である。相当な政治的な能力がなければ、俗人には出来ない。戦いも争いもあったであろう。
案の定、”命じられた日時で出来なかった”と報告しているのが何よりの証拠である。
しかし、10ヶ月後に完成していて、再び正式決定の巡行に出たのである。
終わったと思う間もなく、今度は4国の問題に関わっている。この4国は自分の国(伊勢)を含む上位王の国である。つまり、揉め事の東国の処理後、次は逆に、安定化の為の防備で身内の処理である。主要天領地である。
天領地の豊かさを確保する為には、免税処理をして安定化を図ったのである。そして、経済的だけではなく、政治、軍事的な処理も「伊勢王」は行ったのである。記録されている通り「伊勢国東付近の不可侵の詔」を与えて護ったのである。
つまり、不満の強い坂東の第7世族(ひら族)から4国との西境界域を経済、政治、軍事で強くし、バリヤーを築いた事になる。
同様に、関西以西の勢力には、どの様な「バリヤー」が敷かれていたのか疑問1である。
(第10節で詳しく朝廷の姿勢を述べる。)
しかし、それでも、揉め事は起こったので、沈静化させるために、再び2年後に出向いたのである。
この仕事は大変な仕事であるので、天皇は「伊勢王」にその労を労って「衣袴」を送ったのである。
普通、出かける時には、物は送らない。帰ってからの事である筈。
それだけに、”本当に申し訳ない”と労う天皇の気持ちが伝わる。それを表現する舎人親王の配慮も覗える。
そして、爵位を挙げて「伊勢王」に天皇に次ぐくらいの「権威」をつけて「交渉の特使」として送る段取りをしたのである。そして、納まったのである。
”納まった”と云う事は、政治的に「天武天皇期の権威」が定まったことを意味し、それは合わせて天武期の「皇親政治」の基盤を確立した事を物語る。即ち、天皇の権威を護る仕事をしたと言うことである。これだけのことを任される人物は天皇の周りには少ない。
軍事や事務に強い高市や大津の皇子でも出来ると云う事ではない。全ての能力が備わっての事である。この事からも、天皇から信頼されるほどに「伊勢王」の有能さそのものである事が言える。

しかし、ここで見落としては成らない大事なことがある。
居並ぶ50人の諸王が居る中で、順位は第6位皇子で第4位王(5位)で有りながら、まして、皇太子を差し置いて天皇に匹敵する立場と身分(浄大1位:最終皇子最高位)を確保するに至り、諸臣からも信頼も厚い。実績も挙げた。申し分のない環境である。後は、ここまでの者であれば、世の常、二つの事が起こる。
一つは人の「ねたみ」である。二つは「慢心」である。この結果、大抵の者は身を持ち崩すのである。
”この事はどうであったのか。”と言う疑問2が湧く。

これ以後の日本書紀の記録記述を注意しながら読み、舎人親王の記述表現にも現れていないかを観察するが、不思議に出て来ないのである。
むしろ、益々であり、最後には、「有終の美」を飾っている。
この事に付いて、「伊勢王」の努力もあったであろうが、「大津皇子謀反」が起こった事により、反省し自らを誡めたものでなかろうか。(成行きは後節記述)

「伊勢王」がこの様な事に巻き込まれなかった理由(反省)として大津皇子事件を更に検証して見る。そうする事で伊勢王の環境がより理解できるだろう。

伊勢王を検証するための大津皇子事件
”朱鳥元年9月24日 もがりの宮を南庭に建て、天武天皇の喪がりをした。大津の皇子が皇太子に謀反を企てた。”とある。

大津皇子の件も、その命令を出した主役は、妃の後の持統天皇か、草壁の皇太子かは本書では記録していない。
しかし、前後の関係から執務を取っていた大津の皇子に対して頼んだ妃が行うのは疑問がある。
まして、妃が「壬申の乱」(後節記述)で高市皇子と大津皇子と共に戦い、危ない橋を渡ってきて、尚且つ、自分に代わって天武天皇崩御の直前まで政務を執ったのである。人の道や義理人情に於いて朋輩に成し得ない事である。

ところが、記録をよく観察すると、反面、事件後の皇太子の行動の記録は一度に出てきて頻繁に行動して活発である。この活発な行動は奇異である事から、皇太子の命令で有ろう。

天武天皇崩御後の”朱鳥元年9月9日 皇后(妃)は崩御の式も出来ずに”と記録している事から、皇太子が実行したと見られる。崩御から20日経ってからの事件である。

その経緯は、次の通りとなろう。
”天武天皇が崩御して、次は自分がなるものだと思い込んだ。ところが、自分ではない事が判ってきた(後節記述)。そこで、これは実務をしている「大津皇子の反対」に合っているものと思い込み、今の中なら手を打てると見て、皇太子命(勅書を出せる)で実行した。”となるのが世の常であろう。
実際、政務を執り行う大津皇子に対して、本来は自分(草壁)が取るべき立場にありながらも、皇太子草壁皇子の凡庸さの所以から、「ねたみ、そねみ」から嫌疑を掛けたのではないか。
というのも、本来は自分が執務を執り、そして、天皇になる筈でありながら、この時、妃(持統天皇)が成ったのである。

草壁皇子は年齢的(24-5)にも充分である。しかし、この時、成れなかったのは、この辺の皇太子草壁皇子の「人徳の不足」(病癖 後節記述)から来たものではないかと考えられる。
現実に、史実は皇后(持統天皇)で、次は「文武天皇」に譲位と続き、皇太子草壁皇子は遂には天皇に即位出来なかった。病気で無いのに突然、27歳で薨去している。

”天武没3年4月13日 皇太子草壁皇子が薨去した。”とある。
病気であれば、盛んに草壁皇子の行動を記録していて、渦中の人物であるから、舎人親王であれば、病気と書くが、前後に関係する何も記録なし。これもおかしい。舎人親王の得意技であろう。
(後述)
”普通であれば書くが、それを書かないで、想像させる。”と言う手法である。

ここで、更に追求して、推測だが、草壁皇子に即位させなかったのは、一体誰なのかと言う疑問3である。検証して見る。

即位に反対できる次の有力者は4人であろう。反対する条件は次の様になる。
1番目は、最有力は母親の妃(持統天皇)である。
2番目は、大津皇子 皇位第2位、出生順3位 実力2位 人徳1位 政務担当 壬申の乱功労者2位
3番目は、高市皇子 皇位第8位、出生順2位 実力1位 人徳3位 軍事担当 壬申の乱功労者1位
4番目は、「伊勢王」(施基皇子 天智)第6位 出生順1位 実力3位 人徳2位 実務担当。壬申の乱功労者3位
5番目は、舎人皇子 皇位第3位、出生順7位、実力4位 人徳4位 編集担当 壬申の乱功労者0位 
長皇子は4位、出生順5位、弓削皇子は5位、出生順6位 壬申の乱功労者
(人徳は本書の中での記録、活躍、爵位、勲功、昇進の度合いを参考にした)
これらの2人物は、皇位第4、5位は順位はあるが、発言するに必要とする「実力」がない。

継承の「順位」と「実力」と固有の「人徳」の3つの条件が備わっていなければ継承者が多ければなれない。
条件の順位はこの時期では、「実力」で「皇位」で「人徳」となろう。この条件に無関係の人は妃(持統天皇)がある。
(舎人親王はその実力と人望は抜群でその声が出たが、断わり編集に専念した記録経緯がある。)

さて、ここで、草壁皇子から4人に対して「猜疑心」を抱かれるトップは、母親を例外として、矢張り、全ての条件で大津皇子となろう。余りに条件的に整いすぎている大津皇子が居る為に、草壁皇子は高市皇子にしろ施基皇子にしろ、先ず即位はないと見ていたであろう。そして、母親への猜疑は本能的に出なかったのではないか。
しかし、結論として、即位に反対したのは、無条件の母親であろう。(後述)

その証拠的記録がある。
何故ならば、天武天皇崩御後、暫く(5年間)は葬儀、即位を実行しなかった事。
次に、本書では、”壬申の乱から、妃は天皇に対して政務に対して助言をよくする積極的な人柄であった”。と記録されている。
別のところでは、”朱鳥元年9月9日より、2年を経て、立って妃から皇后となられた。皇后は始終天皇を助けて天下を安定させ、常によき助言者で、政治の面でも輔弼の任を果たされた。崩御後、5年間政務を自ら積極的に執った。”とある。
更に、”「2年後に」”、”「妃から皇后」”になって、”「更に1年後に」”、草壁皇子は”「薨去」”している。(689天武没3年後)
本書記録とこの4つの意味は何を示すのであろうか。

明らかに一つの経緯の推理が生まれる。
天武天皇没(686)後、大津事件(上記経緯)があった。即位の問題が出た。妃は悩んだ。暫く考える時間(1年:687)を執った。周囲の様子を見る事にした。しかし、矢張り決断した。自分(妃)が朝政務を執った(1年:688)。兄の「伊勢王」(高市皇子にも)に補佐を頼んだ。皇后になる必要がある。天武天皇の葬儀をした(688)、皇后で即位を決意(689)した。しかし、1年間は即位しなかった。この時、皇太子は自分が即位出来ない事を知った。意気消沈、大津皇子への懺悔、周囲の目から心の病、翌年(689)死亡(27)、兄の「伊勢王」も没(689)、補佐なくした皇后は翌年即位(690)。高市皇子太政大臣(693)。故大津皇子の嫌疑回復(爵位昇格:695)。持統崩御(697)

上記した事件の経緯と合わせて、この推理は、皇后の性格人柄から明らかであろう。

本書の記録もこの編のところを暗示させる為に、突然に行間の経緯から離れて、舎人親王はわざわざ記述したのであろう。
草壁皇子の人間を見て母親は長く悩み決断したと考えられる。
草壁皇子の取り巻きを本書の中で調べたが、はっきりしない。むしろ、大津皇子に関わったとする30人の高官は天武期の高官である。唆されたとする傾向はない。
この事から、草壁皇子の人間性から猜疑心を起し焦って皇太子の権限で実行してしまった。
(この時期、皇太子までは「詔書:天皇」「勅書:皇太子」を出せる仕来りであった)
焦った母親の皇后は、草壁皇子を押さえて暫く天皇を置かずに居たと考えられる。
そして、落ち着いたところで、後に、故大津皇子の嫌疑を回復する爵位の昇進を決めている事でもこれを証明する。

ただ、疑問4なのは、上記の天武期の3羽烏の一人高市皇子の動向である。
この事件を押さえることが出来る実力を持っていた。壬申の乱の功労者である。草壁皇子も一目は置いていた筈である。軍事力、政治力、経済力でも優位であった事から、草壁皇子を押さえ込む事は出来た筈である。
この場合は、中立的に軍を動かすだけの軍事的行動で抑圧して牽制する事で押さえる事は出来る筈であろう。軍事的対立での決着ではなく、「猜疑心」の嫌疑である。
謀反を起すとしたら、「軍事的行動」であろう。記録によると、大津皇子は軍事的行動を起した訳ではないのである。記録には全く無い。その周囲(30人)として挙げている者は僧侶達が多いのである。要するに狭量な嫌疑であり、記録では、ある日、「突然の死」の皇太子命令が下ったのである。
「軍事的行動」とすると事前に知っていた筈だから、その様な事は予期しているから錯乱する事は無い。それだから、大津の后(山辺皇女)は錯乱したのである。又、軍事的でないから、高市皇子や「伊勢王」も助けを出す暇がなかった事が言える。だから記録の通り”周囲の者は涙した”のである。「軍事的行動」であれば、”周囲の者は涙する”は無いだろう。まして、”周囲の者は涙した”は編年体の記録対象では無いだろう。
ここが舎人親王の「詩文的表現力」なのである。この一行を書く事に依って、その「様」を全て表現したのである。
もし、そうでないとしたら、何故、草壁皇子の正当性を表現し記録にしなかったのであろう。

(他説では”自殺”とあるが、本書では”訳語田「おさだ」の舎「いえ」で死を賜った”即ち、”命が伝えられた”とある)

「伊勢王」にしても、17歳年上の叔父であり、実務に長けているし、天智天武期を乗り越えてきて人格的な信頼度が高い。大津皇子との繋がりも高い。実務もし、身分も近いから頻繁に顔を合わしているから事前に説得出来た筈である。
だから、編者舎人親王は、それとなしに、事実を書かずに、大津皇子の性格を故意に書き添えて後勘に委ねたのであろう。
その証拠に持統9年1月5日 持統天皇は事件後9年後に、故大津皇子に浄広1位の爵位を授けている。持統天皇は、自分の子供の皇太子の人徳のなさで起した事件に申し訳ない気持ちを長く持ち続け、持統崩御3年前に嫌疑を回復させたのであろう。(活躍 第5節に記述)
この「故大津皇子の嫌疑回復」は”念願の心のしこり”を解消する為、高市皇子が太政大臣に成って提案し実行したと見られる。
妃である母親は途中(5年と7年計12年間)で、皇太子に問題なければ、譲位する事が充分に出来た筈である。しかし、譲位しなかった。一説では、”直前(1年前)で死んだから”と理由付けしている説もあるが、(持統天皇690年即位に対して草壁皇子689年薨去)天武天皇崩御(686)からの5年間がある。皇太子(27没)23歳で即位は充分である。

「伊勢王」ついては、この事件でも補佐と言う大変な立場にあったし、事態の変化に依っては草壁皇子の病的猜疑心から、場合に依っては嫌疑を掛けられて滅亡に至ったことも考えられる。
結果として、草壁皇子に説得を試みた様子の記録が見当たらないが、幸いしていたとも考えられる。

只、次に、「衣袴の授与」には「衣:つねみごろも」の深意をどう解釈するかである。(疑問5)
(参考の衣袴の解説参照)これを解釈すると、多少の努力はあったことも理解できる。
ともあれ、草壁皇子の性格を見抜いていた行動とも取れる。第一に高市皇子が動かなかった事から見ても、2人は乱の大事になる事を、壬申の乱の後だけに、人心に目を向けて、犠牲を最小限に押さえるために避けたとも考えられる。
壬申の乱の危機の後に、大津の事件の危機である。「伊勢王」は重要な政務と共に、気の休まる暇はなかったと思われる。人心も3度の「天皇家の争い」にはもう目をそむけて離れる事は必定である。

ところが、一難さって又一難である。更に「伊勢王」伊勢青木氏にはすごい試練が未だ待っていたのである。この事件の陰で試練は侵攻していたのである。
今度は、態勢が余りに大きく回避する事は出来なかったのである。(下記の第7節)

参考
天皇の妻 (皇后、后、妃、賓)の4階級と、妥女、女官の階級外で構成、女性天皇には皇后の位が必要。(皇后、妃、夫人、賓:の説もあり)

伊賀国は伊勢の国の分割国で後漢の阿多倍(大隈の首魁)に与えたものであると本書にも記録されている。

皇族賜姓青木氏の5家5流の一つ甲斐は、後の光仁天皇期であるのでやや先であるが、この4つの国には皇子を王として送っている。

信濃国(三野王)であるが、この当時は尾張の一部が開発されていた。
この当時は未だ開発は、現在の信濃までに及んでいなかった。この直ぐ後に後漢の阿多倍が率いる帰化人が入植した。(馬部、磯部等が入植)
大型外来馬を持ち込み牧畜による開発は信濃、甲斐までに及んだと本書に記録されている。

”持統天皇は、天智天皇の第2女で、母は遠智郎娘である。落ち着きのある広い度量の人柄である。”とあり記録されている。 天武天皇の妃になる 天智元年に草壁皇子の母となる。

「衣袴」とは、この字句には意味がある。この「衣」とは「つねみごろも」と読むが、皇位の者が日常に着る衣のことである。”私事(公務外)でも衣が磨り減るほどに頑張って貢献してくれた。”と言う意味があって、又、「袴」とは、今の袴(はかま)の意味ではない。この袴は「法衣」(ほうえ)又は「法服」(ほうふく)と言い、宮中で着る儀式や政務の時の衣服であるが、”政事(公務)でも袴の磨り減るほどに貢献してくれた。”だから、衣袴を与えよう”とする天皇はその意をこめて与えるものである。次の第5節でも、これをはっきりさせる勲功式があった。

次は、活躍 第5節 「紫の袴着用の許可」(最高位の身分扱い)である。

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日本書紀と青木氏 5/10

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それを念頭に「本節 5」をお読み頂きたい。

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検証する青木氏に関わる内容は次の通りである。
検証項目
活躍 第1節 「白雉の年号」
活躍 第2節 「伊勢王の薨去」
活躍 第3節 「伊勢国の重要度」
活躍 第4節 「諸国の巡行」

活躍 第5節 「紫の袴着用の許可」
活躍 第6節 「天皇の名代」
活躍 第7節 「天武天皇の葬儀」
活躍 第8節 「善行説話の編集」
活躍 第9節 「伊勢行幸」
活躍 第10節 「大隈の首魁(阿多倍)」


本書記録
活躍 第5節 「紫の袴着用の許可」(最高位の身分扱い)
天武”14年12月30日の翌年の1月20日を朱鳥元年とし、その前の1月2日 大極殿で諸王を召して、宴を行い、詔を発した。””王たちに無端事を尋ねる”と言われ、”答を得ると賜物を授ける。”とあり、戯にしてこれまでの勲功に対して2人に論功行賞を行った。

壬申の乱と政務などで天武天皇を助け最も活動した勲功者として、二人に論功行賞をした。
”高市皇子に秦擦の御衣(ハンの木の実で編んだ染め衣)を三揃い、錦の袴を二揃い、絹20匹、糸50斤、綿百斤、布百反を賜った。”とあり、次に、”「伊勢王」も答が当り、黒色の御衣三揃い、紫の袴二揃い、絹7匹、糸20斤、綿40斤、布40反を賜った。”と記録されている。

天武”14年7月26日 勅して、明位以下進位以上の者の朝廷服の色を定めた。
浄位以上は朱花(はねず)、正位は深紫 直位は浅紫 勤位は深緑 務位は浅緑 追位は深葡萄 進位は浅葡萄 と定めた”とある。
(注 「伊勢王」は「朱花」色である。前節レポートにもあるが、衣は「黒擦」袴は「紫」の最高職を許されている。) 


検証
天武”14年9月24日 天皇は病気に成られた。”とある。”朱鳥元年の9月9日 正宮で崩御した。”とある。
病気に成って、丁度1年後である。多分、信濃から螻蛄の胃薬を取り寄せたとある事から、胃がんで有ったのであろう。死期を悟り、最も、自分の御世に貢献してくれた「伊勢王」と高市皇子の2人に、特別に感謝を込めて賜物を授けたのであろう事が判る。

それを、感謝だけを以って正式な形としては出来難い事もあり、高市皇子と「伊勢王」の2人に特別に論功行賞の宴を催し行ったのである。50人もの諸王が居るにも拘らず、このたった2人にである。如何にこの二人だけに信頼されていたかが判る。

壬申の乱では殆ど「高市皇子」と「伊勢王」(施基皇子)の働きで天皇に即位できたし、その後の政務の2人の働きは段突である。この節では活躍 第1節-4節のそれをはっきりと記録しているものである。

特に、「伊勢王」の紫の袴は最高位の者(皇太子)が着用を許される色袴である。
高市皇子の錦の袴は天皇以外に着用を許されていないものである。
(平安後期では紫は僧位の最高位の者が許可されて着用を許された。)
そして、「伊勢王」は黒色の御衣の着用を許された。これは、政務官僚の長としての式服である。
皇太子が即位する時に着る冠位束帯の「黒染(くりそめ)御衣の法服」である。つまり、身分は第6位皇子、4位(5位)の王位、浄大3位(この時)であるが、皇太子扱い以上を意味しているのである。
どんな爵位を与えられてもこれ程の名誉は無いし、50人中の皇族の中にはこれ以上の者は他に居ない。

因みに、草壁皇子の皇太子の爵位は浄広1位で1階級下である。それ以上の身分扱いとなる。
(最高位の爵位は明大1位 2位 次は浄位1-4で大広に分ける 全48階級)
この2人には朝廷内外にその最高位の勲功があった事を発表したものである。
その有能さに付いてはこれ以上の説明は必要は無い。
伊勢王は、最終浄大1位に成る。

朝廷服の実務服は壬申の乱の従軍者への取立ての一環で、朝廷に上がる役人として登朝時に着る服でその勲功の印としたのであろう。

身分制度を明確にし、その実力に応じた勲功と身分を与えて、「皇親政治」のピラミッドの基礎が着々と進められていることが判る。

その例として、その朝廷方針として、今後の「律令制定計画」として「官僚体制」を確立する為に、上節記述の様に「官吏」を臣連はもとより、民間からも「優秀な者」の採用を積極的に行っている。
第6位皇子の「伊勢王」や「高市皇子」の二人は、空洞化していた皇太子身分より下でありながらも、爵位と実質身分が「伊勢王」等の方がはるかに高い事でも判る。
この辺に身分は前提になるが、その中でも「実力主義」である事が判断出来る。皇太子より他の皇子らは低い。

実力といえば、施基皇子を始めとして、大津皇子と高市皇子の3人は確別である。
しかし、大津皇子は実質は天皇に代わり政務を取っていたが、余り、彼だけが何故か昇進の記録が少ない(疑問1 上節の草壁皇子の猜疑心から来る反対である。追記)
その後、天武天皇崩御20日後に皇位継承第3位の大津皇子の謀反の事件が発生した。
(持統天皇崩御3年前に大津皇子没後に爵位昇格を与えている)

追記
大津皇子に対しての編者舎人皇子の評価は実に良い。

余談だが、記録から、次のような記録がある。
”朱鳥元年10月3日に、訳語田の舎で死を賜った”とある。
”24歳であった。妃の山辺皇女は髪を乱し、裸足で走り出した。見る者みなすすり泣いた。

”大津皇子は天武天皇の第3位皇子で、威義備わり、言語明朗で、特に、叔父の天智天皇にその才能を認められて可愛がられていた。成長されるに及び有能で才学に富み、特に、文筆を愛された。この頃の詩賦の興隆は大津皇子にある”と本書は記録し断言している。

その証拠に、”この謀反に関連したとされる人物は30余人(皆天武期の大物の朝臣族 僧侶も多く含まれる。)である。罰は軽くした”とある。この記録がある。

又、”伊勢神宮の斎王の大来皇女が同母弟の大津の謀反で任を解かれて都に帰った”とある。

大津皇子のその身分は皇太子より低い事への不満があり、余り実力の無い皇太子に天武天皇崩御直後に謀反したとも考えられるが、既に没した天武天皇にではない。まだ誰が権威者になるかは判らない時である。
そんな時に謀反するかとの疑問が湧く。有る程度天智天皇の時の壬申の乱のように大友皇子が成ると決まっていて、乱が起った事であれば判るが、この場合は、皇太子が天皇に成るとは限っていなかった。皇太子本人は思っていた。
この天智天武期では、最も純血血縁度の高い者がなる掟であった。従って、天智の時は大海人皇子か大友皇子と成るが、本来は大海人皇子である。兄弟優先と決まっていた。

この場合は天武の皇位継承者は草壁皇子か大津皇子かの問題が出る。
順序では皇太子であるので草壁皇子ともなるが、それには実務、実力、権威、信頼、経験、性格に関わるであろうから、優先的には大津皇子となる。
大友皇子の時も、この性格人格が左右して、人心がついて行かなかったのである。
しかし、その条件中の性格は、大津皇子は温厚で文学的な素養を持ち人徳ある人物と特筆されていることからも充分である。

事件の記録されている中では、処罰された者の中には高僧も多いのである。これ等の処罰者は全て軽い刑に終わっている。
この大津皇子の事件の真因は、実刑実罪が見つから無かった事から、草壁皇子は他を罰する事に躊躇したのであろう。
この事件からも覗える事であるが、厳しい身分制度を確立しながら、ある身分の範囲では、実力主義であり、つまり、この後で起こった謀反説が、逆にこの時期に実力主義の考え方が常識化していたことを意味する。多分、上記した条件も含めて、時代の混乱期としては、大津皇子への周囲のラブコールが大きく起こっていたのではないか。
そして、そのラブコールをした人物を30人として罰したのであろう。
だから、ラブコールだから、高僧が多かったのではないか。謀反では高僧は入らないであろう。
しかし、狭量な凡庸な猜疑心の強い病的な草壁皇子には、謀反と捉えたのではないか。
だから賢く政治力の持つ母親は、心情的には草壁であろうが、息子に譲位しなかつたのである。

この事件が、この「皇親政治」が「実力主義」で無かった場合は、この事件は起こらなかったと考えられる。つまり、草壁皇子に政務を執らせ、爵位も高くして今までの「御座成り」の体制を敷いていた場合、「病的な猜疑壁」が頭をもたげなかったとも考えられる。
立場、仕事、身分、能力等何を採っても、本来は皇太子が上である事になる天智前の時代システムが覆させられているのである。そして、「皇太子」と成っている矛盾では、「強い猜疑心」が湧くのは草壁皇子ならずとも、「人の性(さが)」から観ても必然とも思える。
同じ「猜疑心」での「大友皇子事件」、つまり「壬申の乱」は相互に「猜疑心」を持った事から起こったのであるから、若干、天皇になる慣習システム(純血順)が異なってはいたが、何れも「猜疑」と言うキーワードでは同じではないか。この乱は条件的なもの、例えば純血、勢力バランス等が均衡していた事で、相互に出せる立場にあったので、「大津皇子事件」と違い、勅書を遣わずに、「戦い」と言う手段で解決した事に成ろう。

中大兄皇子との「有間皇子事件」は、燻る孝徳天皇派との軋轢が左右した事もあり、「争い」が表沙汰に無くて、「暗殺」と言う事で解決したが、「戦い」と「猜疑」との何れもが使えなかった事件ではないだろうか。
この事からすると、3つの要素の「暗殺」「戦い」「猜疑」から逃れられて、「伊勢王」はあらゆる危機を乗り越え、真に「壬申」ならぬ「人心」に評価されてその幸運に恵まれている事を物語る。

現在でも、同じで実力があっても昇進しないということは同じでは無いか。この3つの何れかで昇進しても潰されることが世の常である。
これは真に「伊勢王の人徳」と言うものであろう。
況や、我々青木氏の末裔は、遺伝子的にこの始祖の人徳を引き継いで持っているのである。

参考
爵位の朝廷で着る実務服は、浄位では朱色である。
袴では、全体として最高位は錦と紫である。儀式では黒の御衣である。
「八色の姓の制」の八色とは元は7色の定めであったが、八色に変更したがこの色からきている。
真人、朝臣、宿禰、忌寸、道師、臣、連、稲置(684)である。宿禰までが皇族系

紫の色の高位性は、大化3年12月 「7種13階の冠位」を制定した。
第1は、服の色は冠と揃い深紫 第3は、冠は紫、服は浅紫とある。
僧衣も以後これに準じた。

次は、活躍 第6節 「天皇の名代」である。

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日本書紀と青木氏 6/10

前節と本節には、関連性がある為、前節の内容を念頭に以下をお読み頂きたい。

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検証する青木氏に関わる内容は次の通りである。
検証項目
活躍 第1節 「白雉の年号」
活躍 第2節 「伊勢王の薨去」
活躍 第3節 「伊勢国の重要度」
活躍 第4節 「諸国の巡行」
活躍 第5節 「紫の袴着用の許可」(最高位の身分扱い)

活躍 第6節 「天皇の名代」
活躍 第7節 「天武天皇の葬儀」
活躍 第8節 「善行説話の編集」
活躍 第9節 「伊勢行幸」
活躍 第10節 「大隈の首魁(阿多倍)」


活躍 第6節 「天皇の名代」
”朱鳥(あかみどり)元年4月27日 伊勢神宮に多紀皇女、山背姫王、石川夫人を遣わされた。
5月9日 多紀皇女等は伊勢より帰った。”とある。

”朱鳥元年6月16日 「伊勢王」及び官人等を飛鳥寺に遣わして、衆僧に勅して「この頃、わが体が臭くなった。願わくは仏の威光で身体が安らかになりたい。それ故に、僧正、僧都及び衆僧たちよ、仏に祈願して欲しい」と言われ、珍宝を仏に奉られた。”とある。

”天皇の御病平癒の祈願して、朱鳥元年8月15日 施基皇子(しきのみこ)と磯城皇子(しきのみこ)2人に食封200戸を加封された”とある。

検証
この頃、天武天皇は病気である。この年(686)、年号を朱鳥とした。「大化」期から始まった年号は次には「白雉」となり、直に廃止し、天武期の終わりに「朱鳥」の元号とし、又、直に廃止した。
第1節で述べた様に、「即位、瑞祥、災難」で年号を変える慣習であり、この時は災難に当るだろう。そこで、天武天皇が身内の者を遣わして、「伊勢王」の居る伊勢国に、天武天皇が斎宮、斎王を置き正式に定めた伊勢神宮に祈願した。
この節で判る様に、「伊勢王」、「施基皇子」と2月毎に差し向けている。

この平癒祈願の3つの記録に少し違いがある。
1つ目は、「氏神」の「伊勢王」の国許に祈願した。
2つ目は、「伊勢王」を「菩提寺」の飛鳥寺に祈願させた。
3つ目は、「祈願努力」の「施基皇子」に加封した。

1つ目は、名代人物の表現が疑問である。
天皇家祈願実行を受ける「天智天皇」の息子である「伊勢王」の立場と成っているが、本来は、実父(天武天皇)の祈願であり、皇太子があるのだから「伊勢王」ではなく「草壁皇子」であろう。
2つ目と3つ目にも違和感がある。逆の表現の疑問が出る。
2つ目は、本来、寺に遣わすのであるから、その正式な皇子名で「施基皇子」とするべきであろう。
「伊勢王」は役職名である。
3つ目は、その努力は氏神を護る役目として「伊勢王」とするべきであろう。逆ではないか。

1つ目では既に役目柄同行している。これは良いとして、2つ目の「伊勢王」の使い方は、伊勢神宮の「神」の護り役であり、その者が飛鳥の「寺」に行くのはおかしい。
神に仕える者が寺に祈願に行くには、役目を外した施基皇子の名であろう。
3つ目の使い方は、身分柄でなく役目柄に対しての勲功であるから、「伊勢王」である。

さて、この1-3(疑問1)をどう解くべきかである。記録から観てみる。
上記した様に、草壁皇子は天皇崩御後は、活発に没後の祭祀(もがり)を盛んに行っている。
しかし、崩御前は活動はない。崩御後は、草壁皇子薨去までの活動は、3年間で10回(正味2.0年)で、薨去直前1年は祈願を含めて全く無いのである。
そして、天武天皇発病で(胃病:信濃より螻蛄[おけら]という薬)胃薬を取り寄せる。
天武14年9月18日後、崩御(朱鳥元年9月9日)までの一年には、草壁皇子の治癒祈願は全く行っていない。治癒祈願外もない。
崩御したからと言って、突然活発に動いた。この事の持つ意味は何を示すのであろうか。

経緯
① 上記の「伊勢王」の「身分柄」、「役目柄」の使い分の事、
② 病気中の皇太子の「本来役目」に対する活動のない事、
③ 崩御後の活動が多い事、
④ 皇太子薨去1年前は突然活動はなくなる事、
⑤ 崩御2年は喪に服する当時の慣習(本書に明記)がありながら、活動は「もがり」以外にも活発である事、
⑥ この皇太子薨去1年前は母親の妃が皇后になり、天皇に成れない事を知った年でもある事。
⑦ 本来、これ等全ては皇太子の草壁皇子が全て行う「仕事柄」であるにも拘らず、周りの者(伊勢王)が行っている事。
⑧ 何を於いても、率先して行わなければ成らない仕事柄である事。
⑨ 民の範たる立場である皇太子である事。

これ等の事(①-⑨)から考えて推理すると、舎人親王の「得意の手法」であろう。
その推理とは次の事に成ろう。
推理
つまり、崩御前後の本来あるべき皇太子の行動に対して「病的異変」(参考参照)があったと観られ、編集上、舎人親王は記述する事は出来ない。そこで、それを代行する「伊勢王」の行動に、先ず「違和感」の変化を与え、「疑問」を持たせて、本書の天武天皇崩御前後の記述に、皇太子の行動に「目立つ変化」を付けた。そして、皇太子薨去1年前にも政治が動いているにも拘らず、全くで記述しない。これで、”皇太子に何かある”と見せた。
喪の終わった時のこの1年には、妃が皇后になり、天皇に即位すると決意した時である事を明示した。即位決意して1年後に即位した。
そして、編年体の項目に関係ないのに、特別に喪の期間を2年と記述した。
これで、舎人親王はこの間(4年)に起こっている経緯を意を含めて編年体で描く事が出来ると観ていたと考えられる。
何はともあれ、前節までの草壁皇子の疑問の行動の検証部分からも考えて、それまでの舎人親王の得意技から考えても、この疑問もこの様に成るのではないか。

この疑問の答えが正しいとすると、「伊勢王」は、大変な環境に居た事を示すものである。

前節までの「伊勢王」の政治行動は「役目柄」で「身分柄」を演じている事である。
本来、「伊勢王」は伊勢の「守護の役目」で、他の王と同じく伊勢に於いて果たす事が主務であり、「朝政務の役目」ではない事は明らかである。しかし、本書では、他の皇子は全て身分柄で記述されているのである。
既にお気づきと思うが、この「伊勢王」と第6位皇子「施基皇子」の全体の扱いの使分けには疑問はある。この事は「伊勢王」のすば抜けた有能さを持ち得えていた事を本書は示しているのである。
即ち、舎人親王が力を特に入れていた編集処であろう。それ故に、第2節と下節の「伊勢王の薨去問題」でも編集時の配置ミスをしたのではないか。

参考
持統天皇は天智天皇の第2女である。天智天皇(中大兄皇子)の同母(遠智娘:おちのいらつめ)弟である天武天皇(大海人皇子)の妃となり、後に皇后と成った。正式名は高天原広野姫天皇(たかまのはらひろのすめらみこと)。幼名は鵜野讃良皇女(うののさららのひめみこ)、俗称は新田部皇子
叔父の天武天皇との血族結婚による。その子供が草壁皇子である。

当時の皇位の血縁は血族結婚を主体として、純血を守る為に慣習化されていた。その代わり、その為に地方の豪族の娘を妥女(うねめ:宮廷女官:人質:妻の階級外)としてとり子孫を護った。
故に生まれは遅いが、妃の子供であるので皇位第一位皇子で皇太子なのである。

伊勢青木氏の始祖の伊勢王(第6位皇子)は越道君の郎女で妥女である。身分の低い皇子となる。
(天智天武の皇子皇女の系譜レポートを参照)

第3親等までの血縁は障害異児の危険性があり、隔世遺伝による危険もあるので、妥女からの子孫存続を図り、当時は可能な限りに於いて2代毎に新しい血筋を入れている。

持統天皇の孫(草壁皇子と後の女性天皇の元明天皇との子供)が次の天皇に成っている。つまり、文武天皇である。元明天皇は天智天皇の子供。持統天皇とは姉妹で、草壁皇子と叔母と血縁した子供が文武天皇である。

妥女の子の伊勢王、施基皇子の子供が光仁天皇であるが、光仁天皇は大隈首魁阿多倍の孫娘「高野新笠」(帰化人)の血筋を入れている。この後、「高野新笠」を母とする桓武天皇からは律令制度の確立に基づき、法的方針として、血族結婚は藤原氏や、阿多倍らの帰化人などの血筋を入れて避けた。
阿多倍は敏達天皇の曾孫の芽淳王の娘を娶る。(詳細は第10節)

次ぎは、活躍 第7節 「天武天皇の葬儀」である。

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日本書紀と青木氏 7/10

前節と本節には、関連性がある為、前節の内容を念頭に以下をお読み頂きたい。

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検証する青木氏に関わる内容は次の通りである。
検証項目
活躍 第1節 「白雉の年号」
活躍 第2節 「伊勢王の薨去」
活躍 第3節 「伊勢国の重要度」
活躍 第4節 「諸国の巡行」
活躍 第5節 「紫の袴着用の許可」(最高位の身分扱い)
活躍 第6節 「天皇の名代」

活躍 第7節 「天武天皇の葬儀」
活躍 第8節 「善行説話の編集」
活躍 第9節 「伊勢行幸」
活躍 第10節 「大隈の首魁(阿多倍)」


本書記録
活躍 第7節 「天武天皇の葬儀」
”天武没年10月22日 皇太子は公家百官と諸国の国司、国造を率いて大内陵の築造に着手した。”とある。

”天武没2年8月11日 浄大1位の「伊勢王」に命じて、葬儀の事を取り計らうように命じた。”とある。


検証
着工1年後の喪(2年喪中)に服した後、天武陵の完成(天武没年12月22日に着手)を見て、山陵に埋葬の正式な葬儀を行う事を、天皇は敢えて「伊勢王」に命じたのである。
この事はこの意味では終わらないのである。
本来は、この行為の責任者は皇太子の草壁皇子が執り行うものである。しかし、伊勢の守護で第6位皇子「伊勢王」なのである。
「天武天皇葬儀」と言う最も形式の慣習を重視する儀式の域をはるかに飛び越えている。

この事に付いて、草壁皇子には、絶えられないことであろう。
この「葬儀の件」、「大津皇子の事件」も含めて、「即位」出来なかった事、「爵位」が「伊勢王」や高市皇子よりも低い事、などを含めて、葬儀の事でも物語る様に、何か「人間的な欠陥」があったのではないかとも思える。これだけ立場の無い事は普通では、考えられない。

兎も角、この儀式は天武天皇の崩御の2年後の事である。
”崩御後に密葬して、天皇陵を造って埋葬の儀式をする。”とするが、本書記録では喪中を実行する為の肝心な「密葬の正式葬儀」は無かったのである。

この事を知りながら、大津皇子のこともあり、草壁皇子の猜疑心を考えると、かなり重大な危険性を持った任務を「伊勢王」は取り計らう事になったのである。
この時は、未だ草壁皇子は健在である。難しい仕事である。
実は、天武天皇崩御から10月まで草壁皇子は御陵の造営の指揮を取っている。
ところが、翌年の8月には、最後の仕上げの儀式では、「伊勢王」である。
つまり、草壁皇子にしてみれば、”下準備の工事は自分で本式の自分の親の葬儀は違う”では、納得しないであろう。本来はこの逆であるべき話である。
ここでも、違和感を感じる。

依然、草壁皇子が皇太子である以上、勅書で起した「大津皇子の謀反」の事件を再び起こす事の可能性の少ない「伊勢王」に決めたのであろう。

更に、次の事が記録から観察される。
持統天皇は、高市の皇子に対して、草壁皇子の死後に、身分、勲功、爵位、最高位官職、褒章、労い等の不思議なくらいに様々な持ち上げをしている事もある。
又、他の天武の皇子が無くて、後に、持統天皇は舎人親王一人だけを爵位(昇格)を授けている事もある。考えられない事でもない。
大津皇子は天武天皇発病から政務代行をして来た。そのために草壁皇子に猜疑されて一命を落としたが、この事で同じ事が起こっては拙い。そこで、前節からも「伊勢王」の有能さから見れば、政務代行は適切な登用で無難であろうが選択はしなかった。

しかし、”崩御後に「密葬」して、「天皇陵」を造って「埋葬儀式」をする。”の3つのことに付いて、「伊勢王」に全て指名実行しなかった。「天皇陵」は草壁皇子に、「埋葬儀式」は伊勢王にし、「密葬」は指名せず実行しなかった。

その理由は次の事ではないかと思われる。
1 天智天皇が定めたばかりの皇位継承順位第4位(継承者が無い場合第5位)と定めた事を覆すは法の尊厳から天皇の信頼を失う。
2 高市皇子、大津皇子等の天武天皇の上位皇子が居る。幾ら天武天皇の子供扱いとして可愛がられ信頼されていたとしても、この順位を狂わす事は大きな争い事を招く。
3 皇太子草壁皇子を覆す為の理由(上記)を天下にあから様に出来ない。より無難で身分、実力、年齢、何れの条件を以ってしても、草壁皇子より優れているし、問題は無いと見たので、誰しもが必然的に2人の一人を選ぶ手段でもある。

ここを境に、事前相談していた母親の妃は、草壁皇子を天皇にしない事を決断したのではないかと思われる。

そこで、決断した以上、草壁皇子は感情を高めているので危ない。
その時、葬儀責任者は、高市皇子にするか、「伊勢王」かの問題が出る。
葬儀だけは、「伊勢王」に指名したのは、上記の検証の第3番目の理由からであろう。

以上で、天武、持統天皇の二人は、相談の結果、政治、経済、軍事に長けて総合的力量を持つ「伊勢王」を選ばず、この選択肢(密葬、天皇陵、埋葬儀式の3つの行事)を全て「伊勢王」に任する事は、崩れたと観られる。軍事に長けた高市皇子も草壁の皇子の猜疑心の配慮から失う事を配慮して選択しなかった。
草壁皇子の天皇陵、「伊勢王」の埋葬儀式、とし、高市皇子を二人の「抑え」として、万全を期したのであろう。
そして、これで間接的に、草壁皇子の即位は無い事を暗に諭したと観られる。

相談していたとするその証拠に、舎人の親王は次の事を3箇所に書き添えている。
それは、結論から言うと、持統妃は大変に「利発」で「政治性」を持った女性であってそれだけの事を考える力量を持っていたのである。

次の記録でそれを証明する。
直接の輔弼の記録である。
”天武元年6月 兵に命じて味方を集めさせ、天皇と謀を練られた。”とあり、又”妃は勇者数万に命じて要害を固めさせた。”とある。

”天武2年 始終、天武天皇を補助し、助けて天下を安定させた。常に、良き助言者であった。政治の面でも積極的に輔弼の任をはたした。”とある。

”朱鳥元年9月9日 天武天皇崩御以後、皇后即位式もせずに、大津皇子の代行まで、自らが政務を執った。”とある。

これは、舎人親王の追記の得意技でもあり、特別にこの事を3度もわざわざと書き込んだ事で、妃が朝政務に積極的に関与していた事を明らかにしているのである。それも、目立つように、女性が軍に命令を発したと書いて故意に際立たせたのである。普通は書かないであろう。

余りにも有能な「伊勢王」を政務代行に、そして次の皇位継承候補に選ばなかったのは、天武、持統の二人は綿密に相談した事から、上記の理由が出て実行しなかったのであろう。

舎人親王はこの記録でそれを強く故意的に物語させたのである。
この事から、即位に付いても、草壁皇子、高市皇子、大津皇子、伊勢王の4人の扱い方を、病気治療期間中の2年間の間には、相談していた事が充分に覗える

更に、次の事が記録から観察される。
持統天皇は、高市の皇子に対して、草壁皇子の死後に、身分、勲功、爵位、最高位官職、褒章、労い等の不思議なくらいに様々な持ち上げをしている事もある。

又、他の天武の皇子が無くて、後に、持統天皇は舎人親王一人だけを爵位(昇格)を授けている事もある。考えられない事でもない。

大津皇子は天武天皇発病から政務代行をして来た。そのために草壁皇子に猜疑されて一命を落としたが、前節からも「伊勢王」の有能さから見れば、政務代行は適切な登用であろう。

相談の結果、計算が合わなくなったのは、「大津皇子事件」であろう。それで、”妃は狼狽した。そこで、暫く、妃自らが朝政務を執り、その間、じっくりと周囲の様子を見てどうするかを考えた。その結論は、自分が皇后となり、周囲の目から観て実子草壁皇子を廃嫡し、天皇に即位し、高市皇子を太政大臣にし、伊勢王の皇子を実務補佐として人心を納めた。”となるであろう。
しかし、兎も角、誰も「伊勢王」の研究している者が居ないのでこの疑問を抱かなかったと思われる。又、舎人親王の詩文体形式の得意技で検証を試みなかったからに過ぎないと考えられる。
詩文体の検証だから出てきたのである。

その持統期以後も、新しい政争の相手が現れたが、後の活躍から立場を保っているし、「伊勢王」の末裔の我々は記録、口伝では厳然とその立場を悪戦苦闘しながら保ち、その後も生きている事からすると、これでよかった事でもあると見ている。
「伊勢王」は、大きい荒波の中で、実力を遺憾なく発揮し、自らその強運を上手く引き寄せて、生き抜いてきた人物であると評価できる。全青木氏始祖として申し分ない人物であり、末裔の者として大いなる誉れである。
「伊勢王」も危ない橋を渡っている。「伊勢王」は成功裏に終わらせている。

そして、その後、この3年後に、「伊勢王」(施基皇子)の記録は出て来ないで、他の記録から689年(6月2日以降薨去の記録を含む全ての活動記録なし)に薨去している。

ところが、同じ689年(天武崩御3年)4月13日に草壁皇子も薨去している。2月前である。
草壁皇子の薨去がそれも突然である。皇太子であり、天武没後の2年間は頻繁活動しているし、記録もされている。しかし、突然に病気でもないのに27歳で薨去している。違和感を感じる。考えられる事は一つである。

第2節でも記述したが、疑問1がある。
本書では天智(中大兄皇子)期には「伊勢王薨去」が2度も出たが、編年体であるので、689年のところ以降では、後の「伊勢王薨去」は出て来ないのである。

50歳を平均寿命とすると、690年代の前後の時期での「伊勢王」は寿命とも考えられるが、草壁皇子の方は27歳で早すぎる。

編者の舎人親王に書き難い何かがあったのか想像する。

書くに充分な立場(天皇に継ぐ浄大1位)の身分である。一つ下の浄広1位と同勲功の高市皇子と天智の兄弟の川島皇子は記録されている。
他の皇子全部と、高位4(5)世王の大半は記録されている。689年の「伊勢王」だけである。

最後に残った高市皇子が太政大臣として政務をとる事になった時代なのであるから、何かあるのではと調べたが、この事(同年死去、記録なし、高市皇子と川島皇子の処遇)から、前後の文章にそれらしき表現がないかを観察してみるが、矢張り記録は全く無い。

「伊勢王」の薨去なしの疑問に対して次の様になる。(第2節記述の追説)

先ず、次の様になる。
上記の一つ目の推理は、再び、本書記録の葬儀の件で、草壁皇子の何かが充分に働いたとも考えられる事。
二つ目の推理は、「第2節の伊勢王の薨去(こうきょ)」の所の「斉明7年の薨去」と「天智7年の薨去」のどちらかの薨去が編集時に間違えたとの推理である。
第2節では二つ目の推理としている。経緯から先ず間違いないことである。

”「斉明7年」は「天武17年」となるのを間違えた。”と推理する。(第2節の説)
天武天皇は668-686 持統天皇は690-697であり、持統天皇は天武没5年後に即位したので、689年は天武期から計算すると、17年後となる。天武没後の4年である。
その一年後に持統天皇は即位している事になるので計算は合う。

編年体で書いているので、舎人親王が故意的に書くことをずらしたが編集(計算間違い)間違いを起した。(編集故意説間違い)
伊勢王薨去が無いが為に、後の時代で書き足し(書き間違い)間違いを起したとも考えられる。
(後刻書き足し間違い説)

この記録の編年体の年号の入れ方を調べると、次の様になる。
「年号」は変化したときだけに「年号」を入れて、後は、「月日」だけである。
天智、天武、持統の3天皇の没後と即位までには年数のズレが有る。
天智と天武では2年間、天武と持統では5年間である。普通は天皇が没すると直ぐ即位である。
この間の期間を計算する事に間違いやすい。
天智、天武、持統元年の正月に年号が入り、その後、年を一度入れて、月日毎に記述されて行く。
この場合だけは、記述部位は、一行で、6月だけで、日はないのである。後全ては、行続きの日の重ね書きである。
全ての場合は月日が書かれているが両方にない。月だけはこの伊勢王の件だけである。

この「伊勢王」の2つの薨去だけに日が無いのは何か違和感を感ずる部位である。

この事からも、考えられる事は、先ずは、舎人親王らの編集時(故意的編集時)の間違い説であろう。

「舎人親王」は676-735年 淳仁天皇の父で、元明朝から聖武朝にかけて活躍した人物である。
日本書紀の編集は720年完成で、「伊勢王」没31年後(持統没23年後)の事である。
間違いを起こす事は充分考えられる。
もし、この推理だと、第1節からの全ての疑問は解消する。

これは、薨去に付いて、本書の大きな疑問1の一点である。
私は、一つ目の推理に付いては、「伊勢王」の失態ではなくて、それ故、編者が最高勲功者の「伊勢王」であるが故に、同月の薨去に対して、「大津皇子事件」の様に、草壁皇子との疑いを抱かれる紛らわしい事を編する事を避けたとも観ているが証拠は無い。

有るとすると、舎人親王の得意とする”記する事をわざわざせずにして、暗示”すると言う事で後勘に問うという思惑もある。だから、先に書いたが、”「斉明7年」は「天武17年」と間違えた。
31年も経っているし、記録人が渡来人で、多数人から成っている。更に、天智から天武即位までが2年のブランク、天武から持統までの即位は5年ブランクである。持統が即位宣言して1年後に即位したブランクなどの間違いやすいこともある。
舎人親王がチェックしているが、編年体で有るから最初に二つの「伊勢王薨去」が記録されていることに気が付きやすい筈である。私は配置は故意的であるが、2つ有るが故に間違えたのであろう。


参考
持統天皇の即位は天武天皇崩御後の4年1月1日 即位 
持統1年7月5日 高市皇子は太政大臣に任じられる。
持統2年7月5日 高市皇子に5000戸に加増される。 
持統2年7月5日 丹比嶋真人(たじひのしままひと)右大臣になる。 丹治流青木氏の始祖
持統2年1月13日 川島皇子浄大3位に食封(へひと)100戸加増される。(昇格)
持統2年9月4日 川島皇子こう去 近江佐々木氏始祖
持統4年1月2日 高市皇子に浄広1位を授ける。(昇格)
持統6年1月5日 故大津皇子に浄広2位を授けた。(昇格)
持統6年1月5日 舎人皇子に浄広2位の爵位を授けた。(昇格)
持統7年7月10日 高市皇子こう去
持統8年8月1日 文武天皇に譲位

「妥女」とは、大化改新の詔の第4の所に、”郡の少領(すけのみやつこ)以上の者の姉妹子女で、容姿端麗の者を奉れ。従丁1人と従女2人を従わせる。百戸で妥女1人の食料を負担せよ。”とある。つまり地方豪族の子女が人質として朝廷に仕えたのである。

藤原秀郷流青木氏は、この後、直ぐに勢力を高め摂関家として母方で皇族賜姓青木一族と繋がる。(呼称青木氏の許可の根拠)


次ぎは、活躍 第8節 「善行説話の編集」である。

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日本書紀と青木氏 8/10

前節と本節には、関連性がある為、前節の内容を念頭に以下をお読み頂きたい。

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検証する青木氏に関わる内容は次の通りである。
検証項目
活躍 第1節 「白雉の年号」
活躍 第2節 「伊勢王の薨去」
活躍 第3節 「伊勢国の重要度」
活躍 第4節 「諸国の巡行」
活躍 第5節 「紫の袴着用の許可」(最高位の身分扱い)
活躍 第6節 「天皇の名代」
活躍 第7節 「天武天皇の葬儀」

活躍 第8節 「善行説話の編集」
活躍 第9節 「伊勢行幸」
活躍 第10節 「大隈の首魁(阿多倍)」


本書記録
活躍 第8節 「善行説話の編集」
”天武没3年6月2日 施基皇子と他朝臣、連、忌寸、宿禰等の豪族6人に撰善言司(よきことえらぶつかさ)を命じられた。”とある。

検証
施基皇子はここでは、全国から善行の言伝えや話を集めて、それを民に示して、模範のマニアルとしたものである事が考えられる。しかし、良く調べてみると律令制定に繋がっている事が判る。

これを施基皇子をその長に命じられたものである。
この時代には、本書の記録から世情の一番騒がしいものとして、朝鮮半島北部と新羅、百済からの帰化人[難民)が大量に難民として上陸して来たことである。そして、朝政はこの取り扱いに懸命に活動している。
各地の未開の土地に配置しているし、騒乱状態でその長を呼びつけて沈静を命じたり、罰したりしている。これは本レポートの目的ではないので記述しないが、その記録は30箇所位ではないかと思われる。
例えば、”百済の使者が貢物と調を朝廷に納める為に、新羅の者と同行して大和に来るが、新羅の者は百済の使者を捉えて牢に入れて御調の物を盗り挙げてしまう。何とか百済の者は逃れて大和の国にたどり着き入る。百済の使者は、新羅が裏切った事を述べる。朝廷は新羅に使いを出した。言い逃れして裏切った事を朝廷の調査使者は察した。
そして、新羅との争いで難民が生まれた。これが日本書紀に出て来る記録の一つである。
この様な経緯の中で、難民が入り治安状態が悪化し、犯罪が各地で頻発して、特に大和古来の軌範の崩れが起こっていたのである。
そこで、上節で記した様に、施基皇子(伊勢王)は天皇に命じられて各地で活動して得た経験、その土地の話、逸話、物語、掟事に明るい事を買われてのことであろう。
それを取りまとめて軌範を作ろうとしたのである。そして、この帰化人、難民などの世情の乱れを正そうとしたのである。

丁度、施基皇子没(689年)前1年前の事である。
妃は出来る限りその彼の知識を遺させて向後に役立てようとしたと思われる。草壁皇子とのいざこざが取り沙汰されている時期でもある。

この時期に、全国を長期に度々飛び回って治めてきている人物は少ないので、伝達手段のない時期としては大変に貴重な知識であったであろう。
ところが、また、この時期は上節でも書いたように、新羅以外にも、後漢、百済の他民族が大量に上陸して来て、当時の慣習等が上手く護られなかった時期でもある。当然、他民族との揉め事が起こる等して、必然的に全体の軌範意識が薄く成っていたところでもあろう。

ところが、これ等の帰化人、難民たちに依って未開発地域がどんどん開発されて行く。帰化人の持ち込んだ技能を得て生活レベルが向上し豊かになる。全国は伊勢王の努力の検地などで少し治まったが、依然として、反面、犯罪が増えてきて、朝廷は頭を悩ませていた時期でもある。記録では罰則の変更を何度もしている。
本書記録では新羅、百済の難民などに褒めたり罰したりしている記録が頻繁に出て来る。

しかし、ここで、何故か、同時期に帰化してきている後漢の阿多倍が引き連れて来た技能帰化人が呼び出されての処罰はない。むしろ、下記するが、褒められていて大隈と伊勢半国を与えられて居るくらいである。(第10節に記述)
この様な騒がしい状態であり、このために民に対して、その行いの模範とするところを示して、その軌範の基準を作ろうと考えたのであろう。つまり、律と令の法の基本形を整えて作ったのである。

そこで、この時期の律令の状況はどうであったのか検証するとこの説話の目的がわかる。
律令制度は桓武天皇期(800年頃)に完成したが、100年掛けてこの原型から本格的な法が出来た事に成る。
その意味からして、持統の妃は、人、時、場処では、適時適切に指揮したと考えられる。
日本最初の「検地」を実行し、又、坂東までを概ね「征圧」して治安を治し、朝廷内務をこなし、これまた、法体系の基礎のその大事な一翼を、我等青木氏の始祖は担った事に成る。
それには施基皇子が適材であり、その補助人も臣連など全国の国司を勤めた人物である。
つまり、妃は施基皇子に最後の仕上げの仕事をさせようとしたのであろう。
つまり、妃はなんとなく朋輩で功労者の施基皇子の健康状態を慮っていたと観られる一行である。

別面では、編成者舎人親王はこの状況を経験しているので知っている筈であるから、検証すると判る。
舎人親王はわざわざこの事の記録を後で編集時に組み入れたのではと考えられる。
舎人親王は、前節でも記述したが、全巻をよく観ると編年体であるが故に、この様な手法を各所に多く取り入れている。
詩人でもあり、学者でもあり、温厚実直な性格でもあり、よく争い毎を嫌う人物であったと他書では記録されている。必然的に詩の如く、本書の状況表現する手法も同じであろう。
事実、上記にも記した各所で遣っている。それ故に、この本書を検証する際は、この点を配慮して注意して検証すると隠していたものが見えてくるのである。実に配慮の行き届いた書と思える。

この時、舎人親王は、妃の優しさ、施基皇子の実績の評価、施基皇子の状況、その時代の環境、等を実に上手く隠して間接的に表現している事が読み取れる。

当時は、字を読める人口は限られていて、尚且つ、漢文で編年体である。物語のように状況を表現する事は、記述(物語)体と違って、漢文に含まれる深意を表現するには難しい。そこで、採った手法が詩文などに観られる間接記述表現であろう。そのための深い配慮から間違いもしたと観られる。
日本書紀はこの様なことを念頭に置いて観ると筋書きが読めてくるのである。

確かに、豊富な情報がこの治安悪化の時期に必要であったが、”この任務を伊勢王(施基皇子)に与えたのか”という疑問もあり、他にも理由があると見たのである。余りにもタイミングが合い過ぎいている。
そこで、次の説を採っている。
持統天皇(妃)は「伊勢王」に対して、この「軌範つくり」を与えて、草壁皇子から遠避ける工夫をした事も合わせて考えている。
其の侭であれば、伊勢に返せばよい筈である。返せば大津皇子事件と同じく勅命が出る。
(大津皇子も避けて近江にいた。)
妃(持統天皇)は自分の側に置いて見守ることを選んだのである。2度と同じ失敗を繰り返さないように、兄妹として保護したのであろう。
1年後の689年に薨去するのであれば、「伊勢王」の姿を常に見て来た妃としては、この時点では何とか荒立てずに是非守りたかったのではないか。
何はともあれ、妃の配慮により、「伊勢王」は律令体制の基盤となる基準つくりに晩年貢献した事に成る。

しかし、この後、天皇となり、悲しきかな「戦友」とも言うべき「全ての朋輩」を失う持統天皇は、「太上天皇」とも成って、院政を敷き専制的な方向に進むのである。
しかしながら、よく調べてみると、この史料の基にして、現実に、持統天皇は「飛鳥浄御原令」(689年)の民法、行政、訴訟、その他の規定(制令)を制定(未完説あり)した。
この「飛鳥浄御原令」は未完成であり、その内容は法令と言う形までなっていないとされる説がある。これが通説と成っている。
この時の施基皇子らが「撰善言司」(よきことえらぶつかさ)でまとめ挙げたものである。
そのまとめたものが4つに区分けした一種の「令集」(令解集 基本集)とも言うべきものであった。この時の事を記録しているものである。

この構想は「伊勢王」が各地に飛び回っている時(681-682年頃 第4節記述)より天武の指示で「原稿集め」を行い始まり、688-689年に責任者として妃から最終の取りまとめを命じられた行ったものである。
この事から、「令」と言うべきは「令集」と見なされて、「未完集」の説が生まれている。

更に調べると、施基皇子の作った「令解集」それを基本として編集した本格的な「大宝律令」(701年)を、持統天皇は「思い出多き令解集」を「自分の手で完成」を目指して、この後、「草壁皇子」の息子の「文武天皇」に譲位しながらも、この時代に、「院政」を敷きながらも完成させたものなのである。院政はこの為なのである。
況や、思い出多き朋輩等の「人生の集大成」の完成を目指した事が第1-9節からの記録で読み取れる。そして、時代は進み「大宝律令」は、更に見直されて、次の「養老律令」と成るのである。
「令解集」即ち、「「飛鳥浄御原令」は「大宝律令」へ「養老律令」への「見直しの史実」から証明されるのである。

この行の記録を入れる事により、舎人親王は後勘に委ねた「思い」として、この事を読み取ってもらいたかったのではなかろうか。
「令解集」の内容そのものの記録であれば、その内容を続けて記録するであろう。しかし、この記録以上の事は全く記録されていない。

「本書前後の記録」から見て、わざわざ、舎人親王は、「伊勢王(施基皇子)と持統天皇」の「8年間の人生苦労」を、「伊勢王薨去1年前の朝務の司」を記録として編入したのであろう。

特記
史料によると、舎人親王は、一時その人柄と有能さから政務(皇太子役)に押されたが、固持し本書の編集記録のみに専念したとある。確かに政治の場面では出てこない。
それだけに「記録の羅列」だけに人生をかける事はこの人物にして無く、本書にかける親王の「心意気」が見える。本書の持つ意味はこの一点に有り、この「政務(皇太子役)に押されたが、固持」の一行を放念してはならない事であると考える。

本書の記録もほぼ終わりに近い巻末に来ているところで、編集して締めくくったのである。


次ぎは、活躍 第9節 「伊勢行幸」である。

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日本書紀と青木氏 9/10

前節と本節には、関連性がある為、前節の内容を念頭に以下をお読み頂きたい。

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検証する青木氏に関わる内容は次の通りである。

検証項目
活躍 第1節 「白雉の年号」
活躍 第2節 「伊勢王の薨去」
活躍 第3節 「伊勢国の重要度」
活躍 第4節 「諸国の巡行」
活躍 第5節 「紫の袴着用の許可」(最高位の身分扱い)
活躍 第6節 「天皇の名代」
活躍 第7節 「天武天皇の葬儀」
活躍 第8節 「善行説話の編集」

活躍 第9節 「伊勢行幸」
活躍 第10節 「大隈の首魁(阿多倍)」


本書記録
活躍 第9節  伊勢行幸
”持統3年2月19日 伊勢行幸を決める。”とある。 

”中納言三輪朝臣高市麻呂は農時の妨げになると諫言した。”とある。

”持統3年3月6日 再度の諫言に従わず、伊勢に行幸した。”とある

”持統3年3月17日 伊賀伊勢志摩の国造等に冠位を賜り調役を免じた。大赦をされた。行宮造営の者たちに免じた。”とある。

”持統3年5月13日 伊勢神宮の神官が天皇に奏上し、「伊勢の国の今年の調役を免じられましたが、2つの神郡からの納めるべき赤引糸35斤は来年に減らす事にしたいと思います」と言った。”とある。 

”持統3年9月21日 班田収授の法の制定で役人長官を伊勢国等の4畿内に遣わした。”とあり、”伊勢の国の嘉采を見て嘉稲2本を立て奉った”とある。  

”持統3年12月24日 太夫を遣わして、新羅からの調(税)を伊勢、住吉(すみのえ)、紀伊、大和に立て奉った。”とある。

 
検証
伊勢の国の事に付いて記録されている内容であるが、ここで違和感を感じる。
と言うのは、先ず、記録3月6日までの3つの記録である。

”何故、中納言が行幸に反対した事をわざわざ記録したのか”。(疑問1)
何事に付いても、反対はあるものである。天皇が行動すると言う事は官僚が計画し段取りをする。当然、検討段階では問題もあろうが、内部の問題であり、その内部の検討段階のそれを記録として遺したのは普通ではない。
普通は、編年体であるから、結果を書く事になるだろう。しかし、舎人親王は結果に対して、その結果の深意やその背景をそれとなしに書き足すと言う手法を執っている事は前記でも彼の得意技として論じた。
今回は、この「検討段階の内部事情」を書いたのは何故か。(疑問1-1)
わざわざ、2度も諫言していることを記録している。記録は一度で良い筈である。
それには、先ず、次の事から研ぎ解す。

「持統天皇の反論理由」
天皇家の守護神のある伊勢の国に天皇が行くことが、何が問題なのか。(疑問1-2)
問題として、”農事の妨げになる”とあるが、別に伊勢神宮に行くのである。今までもあり問題はない筈である。
まして。天智天皇が建立して定め、天武天皇が斎王、斎宮や三種の神器(鏡)などの祭祀を正式にシステムを作り定めたものである。その場所に”行くな”と言う方がおかしい。むしろ、”行け”であろう。
それも「注意程度」のものであるなら未だしも「2度の諫言」である。
「農時」と言っても、天皇が「農時」をするのではない。邪魔といっても伊勢路せいぜい1-2日で通り神宮に参詣するのである。
「梅雨の農時」を言うのであれば、「春畑の農時」、「夏の取入れの農時」、冬の「仕度の農時」がある。この程度の理屈を言い立てれば”行けない”となり理屈が成り立たない。
そもそも、伊勢の国に伊勢神宮を定めたのである。この時点からこの事は承知の事実である。
まして、「壬申の乱」で伊勢に集結して大儀を立てた土地ではないか。天武死後の混乱後の”けじめ”として、”行く”が正しい事であろう。
これが持統天皇の反論になるだろう。

そこで、次の事が考えられる。
1 中納言が何故「諫言」したのか。
2 舎人親王が何故この事を意図的に「記述記録」したのか。
3 持統天皇は「伊勢行幸」を何故強行したか。
4 何があったのか。

そこで、これ等を導き出すために、舎人親王の事だからどこかに得意技があると見られるので、この前後の1年間記録を調査すると次の記録が出て来る。

”持統3年6月9日 諸国の長吏(このかみのつかさ)遣わして、名のある山や河に祈祷を捧げさした。”とある。
”持統3年6月11日 畿内に太夫を遣わして、雨乞いをした。”とある。
”持統3年7月11日 使者を遣わして、広瀬と竜田とを祭らせた。”とある。
”持統3年9月9日 班田収受の役の太夫の長官(ただまいのまえつきみ)らを四畿内(よつのうちつくに)に遣わした。”とある。
”持統4年3月17日 詔して、全国に桑、カラムシ、梨、栗、青菜などの草木を勧めて、植えさせた。五穀の助けの為にした。”とある。
”持統4年4月17日 太夫を遣わして、全国諸社に詣でて、雨乞いをした。
”持統4年4月17日 使者を遣わして広瀬大忌神と竜田風神とを祭らせた。”とある。
”持統5年4月13日 使者を遣わして、広瀬大忌神と竜田風神とを祭らせた”とある。
”持統5年7月14日 使者を遣わして、広瀬大忌神と竜田風神とを祭らせた”とある。

記録では、” 持統3年5月15日から4年4月17日までの1年間で、農作業の免除や録や食封などの勲功賞として民臣に与えたのが7回記録されている。特に顕著である。”(詳細割愛) 

4月17日以後は全く状況が変わって、免除的な関係記録的なものはない。概ね、一年間の全記録数は140件程度であるが、この中の記録である。

この1年間で盛んに与えている。論功行賞は毎年年賀と祭祀と祝事にまとめて行う程度であるが、この様な盛んな行動は他に記録はない。
それどころではない。
”伊勢北部伊賀地方、伊勢南部志摩地方と南北を割譲して功労者に与えた。”(第10節)

「伊勢王」の伊勢国を次から次へと、3割譲してしまったのである。
この意味するところは推して知るべしである。

先ずは、以上8つ記録から明確に見えてくるものがある。
この1年は大水飢饉(渇水、旱魃)であった事。(概ね2年間続く)
この1年に、特別に通称(租庸調)の年貢に関わる免疫追封の勲功賞を散在している事。
天領地の伊勢3割譲(伊勢、伊賀、志摩)が起こっている事。
舎人親王の得意技(間接表現:8記録配置)を駆使している事。
班田法で問題が各地畿内で起こっている事。

この事柄を考え合わすと、疑問1-2の答えでは次の事が言える。

持統3年から5年に掛けて著しい水飢饉が起こり、田畑の収穫は激減し、大飢饉となりながらも、逆に民臣に勲功賞を散在し、大判振る舞いをしたお陰で、朝廷の大蔵と天皇家の内蔵は火の車と成った。まして、大盤振る舞い最たるものは、「天領地」の伊勢をも割譲してしまった事である。間違いなく収穫激減である。「伊勢王」の伊勢松阪付近のみと成ったのであるから当然である。
そこに、全国各地とりわけ畿内では班田法施行の不満(参考)が勃発した。
この様な事であろう事が観えて来る。

つまり、答えは大旱魃が起こったのである。

持統天皇の政治に対する配慮が欠けていたことを記録として直接表現できないので、舎人親王は周囲に記録として18箇所(10+8)を配置し、「伊勢行幸」のところで主表現に違和感を持たせて、それとなしに、連想させる手法に出た。

上記1-4に付いては、
1番目の中納言の諫言理由は、即ち、「伊勢割譲不満と水飢饉と政情不安」である。
2番目の舎人親王の意図は、即ち、「直接表現の回避」である。
4番目の”何があったのか”は、即ち、「水大飢饉と政情不安」と成る。
以上の説明が付く。

しかし、問題は、3番目の持統天皇の「伊勢行幸の強行」である。
1、2、4のある事は雨乞いなどもあり充分に知っていた筈である。にも拘らず、3番目の強行をしたのは、「持統天皇の反論理由]であろう。
特にその中でも、「けじめ」ではないか。そして、自らが、守護神の伊勢神宮に「雨乞いと、政情不満の解消の神仏加護」を祈願するデモンストレーションを実行したとすれば、納得できる。

実は、記録を遡り、この様な事が無いか調べた。そうすると出てきた。そして、上記の説が当っている事が判る。

天武期の経緯は概ね次の通りである。
天武期4年の1月頃から旱魃が始まり、制定したばかりの伊勢神宮に斎王を行かせて祈りをさせたが、旱魃は続き、5年の9月頃にやや納まり、再び、6年の5月頃まで続いている。そして、この時4年、初めて、風の神を祭る事ととして竜田に社を建立し、広瀬には忌神を祭る事として社を建立した。ところが、全く効果は無く、全国的に凶作で民は飢えた。そして、国司は天皇に現状を訴え救いの対応を願い出たが受け入れられなかった。
それどころか、山の木々草木を切ることを禁じて、保水と保湿の対応と、竜田の風神と広瀬の大忌神に祈った。神頼みだけである。
結局は大旱魃となり、民は飢えてしまった。半年後に一時雨は降ったが、解決には至ら無かった。1年半の天武期の大旱魃であった。
以上の記録が出て来た。

天武期では、事態を明確に集中的に時系列に記録しているし、天武天皇の対応のまずさと無策までを暗に非難して記録している。
ところが、持統期では、この様な事は一言も記録で触れていない。
同じ事が起こっているにも拘らず、片方は書かないのは不思議である。

それは、舎人親王は編集上、「政情と財政」が揺らぐ位の救済の対応をした持統天皇に対する配慮を示したのである。
これは上記の通り「政情不安」の中で、そこまでした女性天皇の持統に対する「配慮、思いやり」があって、故意的に直接的に触れずに、舎人親王の得意技を遣って状況説明をしたと観られる。
これで、疑問1-1は解けて、疑問1-2と合わせて疑問1のこの証明が付く。

その得意技を記録から調べると次の様に成る。
それが舎人親王の得意技(配慮)であり、次の各処から抜粋した時系列記録である。
”天武期2年4月14日 大来皇女を伊勢神宮の斎王にするために、先ず泊瀬の斎宮にお住まわせになった。ここで先ず体を潔めて神に使えるところである。”とある。

”天武期4年1月1日 大来皇女は泊瀬の斎宮から伊勢神宮に移られた。”とある。

”天武期4年2月13日 十市皇女、阿閉皇女は伊勢神宮に詣でられた。”とある。

”天武期4年4月10日 美濃王と佐伯連広足を遣わして「神風」を竜田の立野に新たに建立して祭らせた”とある。

”天武期4年4月10日  間人連大蓋と大山中曽根連韓犬を遣わして大忌神を広瀬の川原に新たに建立して祭らせた。”とある。

”天武期5年4月4日  竜田の風神と広瀬の大忌神を祭った。”とある。

”天武期5年5月7日 下野の国司から国内の百姓は凶作の為に飢えて子を売ろうとする者があります”と訴えた。とあり、”天皇は許されなかった。”とある。

”勅して、南渕山と細川山の草木を切る事を禁ずる。又畿内の山野の元からの禁制の所は勝手な切り焼く事をしては成らぬ。”とある。

”天武期5年6月 大旱魃があった 各地に使いを出し、神々に祈った。雨が降らず五穀は実らず百姓は飢えた。”とある。

”天武期5年7月16日 竜田の風神と広瀬の大忌神を祭った。”とある。

”天武期5年9月 雨あり、旱魃は雨乞いの祈りは無くやや解決した。”とある。

”天武期6年5月 又、旱魃があり京や畿内で雨乞いをした。”とある。 


兎にも角にも、これだけを各処に配置して状況を演出している。最早、これでは編年体ではない。明らかに「編年体小説」と言うものである。

更に、舎人親王の記録表現の最たるものは、上記の神宮の「神官の申し出の記録表現」であり、これにもその事が良く出ている。

持統3年3月17日から12月24日までの4つの記録からも、そのための対策を実行している。

それは次の通りである。
朝廷に納められた新羅からの「調」税を、この伊勢にわざわざ移して与えて減免量分を補充している事や、”伊勢国(畿内4域に)に嘉采を見て嘉稲2本を立て奉った”とした「新良種の稲」を与えて「収穫量の増大」を賄って不満を押さえている。

この「新良種の稲」の記録は、次の記録がある。
”天武8年12月2日 嘉稲が現れた。それを称えて、関係した親王、諸王、諸臣、百官の人々に禄物を賜り、罪人の大恩赦をした。”とある。
恩赦するほどの良品種であったことが覗える。それを育て、「伊勢国」に与えたのである。

持統天皇は諫言理由の処置は、上記の事で出来ると観て、”ケジメとデモンストレーション”を専制的に強行したのである。

持統天皇の判断は、「衆生の論」に左右されない主長たる積分域(伊勢青木氏家訓3 苦しい時の明断)の判断である。正しい判断であったと考えられる。
それも然る事ながら、言い換えれば、又、舎人親王の各所に表現記録している「持統天皇の人物像」の「見識眼」も大したものである。

舎人親王は、皇子たちから信頼され、慕われ天皇に推されるに価する相当な人物であったことが覗える。
この記録は信頼に値する。

但し、上記の疑問1が解け判った以上、いよいよ本題の伊勢のことである。

ここで見逃して成らない事がある。
「伊勢国3割譲」と「伊勢王の努力」である。
持統天皇が採った「伊勢国3割譲」は、無二の朋輩しての「伊勢王」に対する裏切りではないか。つまり、「努力貢献」に対する無視である。
この「無視」は末裔の我等青木氏の者でも今でも、”ムカ”とする。
単純な「無視」ではない。それは、これが為に、「青木氏衰退」の”きっかけ”が出来て始まるのである。
つまり、持統天皇のこの事件の「専制的強行」は大きな犠牲の上に成り立ったのである。
今までの最大の朋輩で、「兄妹」に対して、「後ろ足で砂を蹴る」が如きである。

それに付いて次に論じる。
第1節から8節まで「伊勢王」は朝政務に誰よりも貢献して来た。本書に記録されていて出て来る人物の最高功労者である。身分も第6位皇子でありながらも、他の皇子より爵位上位でもある位に貢献してきた。8節までで説明は不要であろう。
しかし、朋輩「伊勢王」没後(689)には、この持統天皇の後期では、伊勢の国は3分割割譲されてしまった。
これではたまったものではない。末裔青木氏は一度に勢力を衰退させただろう。恐らくはこの段階では近江青木氏も衰退の傾向があったであろう。

第1期の皇親政治は、「伊勢王」や大津皇子の薨去後、必然的に持統天皇の独壇場となり、「皇親政治」の本筋は次第に変化して行ったのである。この一つの現われとして、本節の伊勢行幸問題が位置付けられるのである。単純に「伊勢行幸」だけではない。
敢えて、「専制的強行」と記したのは、大津皇子と伊勢王薨去後、舎人親王の心の中に、「皇親政治」から「専制政治」況や「院政政治」へ移行の「寂しい気持」があったから、多くのスペースを採り記録を多くしたのであろう事が観える。

この後も、「持統天皇」は草壁皇子の子供の文武天皇に譲位したが、この文武天皇の時も、「太上天皇」(皇太后)として「大宝律令」の制定に大きく関与したのである。
所謂、第1期の「皇親政治」から「院政政治」への始まりである。
「持統天皇」後も「太上天皇」と呼称した事がその専制の決定的証拠である。
しかし、一面、心情的には、必然的に生まれる「流」で、この事(専制、院政)は止む無き事かなとも咀嚼される。(第8節記述)

当然、伊勢国はこの強い「院政政治」の影響を受ける事に成ったとしても不思議ではない。
その仕打ちは、国の割譲の問題だけではないのである。
この「割譲を受けた氏」(阿多倍一族)にも影響を受けて、実は伊勢青木氏には大きな衰退問題が潜んでいたのである。
この一族と青木氏は相対の関係にあった。
(その内容は続いて、次の第10節で詳しく記述する。)

持統天皇が慌てた真因は、この「班田収受法」の施行にあった。人、時、場から観て拙い時に施工したものである。
その法の中の問題としては、「6歳6年」である。
班田収受法とは、戸籍に基づいて、6年毎(班年。籍年の翌年)6才以上の班田農民に口分田を支給し(6年1班:2反)、死亡後国家に収納する土地制度の仕組みである。
蘇我氏の横暴を防ぐ為に、大化改新を実行しその反省から採った公地公民の制で、土地人を国に帰し、その仕組みの一つとして、施行したもので、6才と言う幼児の年齢から土地を貸し与えて、その税の負担を課した。それを6年というサイクルで早くし税の収納を大きくした。

班田法の不満とは、これ等の「重税と飢饉」に対する不満が合致膨張して人心は大きく離れていった。この時、畿内の中、伊勢は最も割譲、重税、水飢饉、衰退、専制で苦しんだ事になる。
この時、「伊勢王」を始祖とする青木氏一族は不満の中、衰退の方向に傾く(桓武期まで)のである。


参考
文武天皇の第6位皇子も美濃王として青木氏を遺す。

次は、活躍 第10節 「大隈の首魁(阿多倍)」である。

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日本書紀と青木氏 10/10

前節と本節には、関連性がある為、前節の内容を念頭に以下をお読み頂きたい。

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検証する青木氏に関わる内容は次の通りである。
検証項目
活躍 第1節 「白雉の年号」
活躍 第2節 「伊勢王の薨去」
活躍 第3節 「伊勢国の重要度」
活躍 第4節 「諸国の巡行」
活躍 第5節 「紫の袴着用の許可」(最高位の身分扱い)
活躍 第6節 「天皇の名代」
活躍 第7節 「天武天皇の葬儀」
活躍 第8節 「善行説話の編集」
活躍 第9節 「伊勢行幸」

活躍 第10節 「大隈の首魁(阿多倍)」


本書記録
活躍 第10節 「大隈の首魁(阿多倍)」
”天武没(朱鳥)元年5月22日 皇太子は公家百官を率いて、もがりの宮に詣で慟哭された。隼人の大隈:阿多の首魁が夫々の仲間を率いて互いに進んで、しのびごとをした。”とある。

”天武没(朱鳥)元年7月9日 隼人の大隈:阿多の首魁等337人に物を賜った。”とある。

”天武没(朱鳥)3年8月16日 伊勢国伊賀郡(阿多倍の国)の身野2万代に禁猟区を設けて守護人を置いて、河内大鳥郡に順ずるものとした。”とある。

”持統3年5月15日筑紫大宰率「河内王」等に詔して「沙門を大隈と阿多とに遣わして仏教を伝える様にとご下命。”とある。

”持統6年5月13日 隼人の大隈に饗を賜った。”とある。

”持統6年5月21日 隼人の相撲を飛鳥寺の西の槻の木の下で行われた。”とある。

”持統7年 直広1位の位を宿禰大隈に授けられ、伊賀に水田40町賜った。”とある。


検証
本記録は「伊勢王」とは異なるが、「伊勢王」に大変関係する不可欠な記録であるので、特記する。
上記に、その大隈首魁の阿多倍と阿多倍一族の事だけの抜粋とした。何故ならば、この首魁の行動は、相対の関係で、青木氏の「栄枯盛衰」に大いに関わる事と成って行く事だからだ。
大変に奈良時代、否、現在の日本の国体の基礎を築いた帰化人の一族なのだが、余り知られていない。それだけに、特記する必要性を感じている。
この知られていない理由には、日本書紀の研究の遅れと、近代の日本の軍国主義と、左傾主義の本書の否定から、これ等の史実に対して葬って来た事が上げられる。
しかし、本書の裏づけが、韓国(高句麗)から発見された僧道顕の著「日本世記」や「海外記」「海外国記」等から、日本外交史の事に付いて最近裏づけが取れた事から、史実である事が判り、理解される様に成ったのである。
僧道顕は天智天皇の無二の政治の相談相手であり、共に生活した為に、その書は天智、天武天皇の政務や出来事をかなり詳しくその日の出来事を日記的、且つ、記述的に書き込んだのもので、日本書紀より詳細に書かれている。(本書外にも、青木氏の賜姓、由来、仏像授与もここにも記録)
しかし、「日本世記」に拘らずとも、本書の前後関係だけから見て史実である事は明白である。左傾主義者が間違いの多い事を殊更に喧伝した思惑否定の為に一般には信用されていなかったのである。だから、知られていなかったのであり、そのことを頭の隅に置いて頂き次の事をお読み頂きたい。

先ず、研究室のレポートに各処に記述しているが、本書の目的の面から概容を改めて記す。
この大隈の首魁の阿多、即ち、阿多倍王は、後漢光武帝より21代末帝の献帝の孫(石秋王の子)阿智使王と、その子の阿多倍王である。
最終、後漢は隋に圧迫(610)され、唐に潰されて(618)、これ等の阿多倍らに率いられた民は、北九州に上陸した。その入国は1次と2次とに分けられる。

入国経緯
第1次(前期)としては、隋が後漢を含む朝鮮半島を征圧する為に東征したが失敗し、そのために隋は弱体化して、結局、後漢と共に唐に618年に滅ぼされる。この時の2度の圧迫(隋唐)で難民が生まれ、その時、第1次(前期)は、先行して、後漢(高句麗)の漢氏(東漢氏)、司馬氏、秦氏、陶部氏、鍛冶部氏、等が先ず入国(582年頃前後)したとあり、渡来人の秦人、秦人部、秦部等(弓月君始祖)の秦氏の一部族だけでは約7053人居たと記録(宣化、欽明天皇期頃の記録:570-580年)にある。
この数字から観ると、従って、新羅百済の朝鮮系の渡来人を入れると、「部」の技能組織は、記録から調べると40-50程度と観られ、590-630年の間には40-50万人は入国していたと見られる。

第2次(後期:最盛期)としては、次に唐に圧迫(616-618頃)された後漢も滅亡し、618年前後頃か難民で入国、孝徳天皇期(650頃)が頂点となり、以後下降(670年頃)となり、後漢民の終わりは710年頃で200万人とある。(全難民は250-280万)
これ以後、全国的に各処で度々不法入国事件が続く。最後は、1019年の博多下関での西夷大乱入事件があり、朝廷は政治的に「遠の朝廷」の太宰大監の「大蔵種材」(阿多倍の12代目子孫)に命を正式に出し、「難民受け入れ」は打ち切った。

第1次の ”「阿智使王」(阿多倍の親)が率いた”との説があり、間違いである。
史料に依ると異なる。後漢が滅亡していないのに[阿智使王}だけが先に来るのは疑問である。他に史料では阿智使王は孝徳天皇期(650)に入国したとある。本書の記録と一致し後者が正しい。
又、前者の説では阿智使王は朝鮮系と成っていて、漢氏の始祖と成っているが疑問である。
前者の説は、全て朝鮮系としたいとする意図が見られ、史実を無視している。([日本世記」を無視)

第1次の一族の入国と本格第2次の阿多倍集団は、九州全土と中国地方を無戦征圧し帰化した(17県の200万人)技能集団であった。(研究室の阿多倍の関連レポート参照)

この集団が何故にここに出て来るかと言うと、「伊勢王」即ち、伊勢青木氏の「栄枯衰退」と「子孫繁栄」に大きく関わる集団なのである。

先ず、この阿多倍の本書の記録から検証して、次に本書「伊勢王」(青木氏始祖)との関わりを論じたい。
兎も角も、その前に理解を深める為に大筋の経緯を述べて置く。
孝徳天皇期前後(第2次)から、更に、後漢から遼東半島の湾を経て、先ず北九州に上陸入国してきた。これ等の民は中国の進んだ技能を持ち込んだ。所謂、「部」(40-50部)の民である。
その首魁阿多倍王等に引き入れられた軍と技能集団は、北九州から南九州にまで殆ど無戦の状態で征圧した。むしろ、大和の九州の民は進んでその配下に入り、その優れた技能を吸収して生活レベルを向上させたのである。そうして、彼等の首魁の阿多倍は南九州の大隈に定住した。
その後、続々と上陸してくる後漢の民と後漢に圧迫された朝鮮半島の民は、朝鮮半島を経て、中国地方の下関付近に上陸し中国地方へと更に進出して、ここも無戦征圧して、関西の西域まで到達した。
後に、この中国地方は第1次の後漢の「陶部一族」(すえべ)が勢力を高めて征圧し、室町末期まで大豪族として統治した。
この時点で、朝廷は彼等の貢献度を認めて帰化を許し、彼等は帰化人として正式に各地に定住した。
しかし、新羅の政情不安からも難民が出て、ここまででいっぱいに成り、朝廷は後漢の民と共に中部地方の未開発地域に配置した。特に、本書記録でも後漢の民が持ち込んだ外来馬の飼育に適する地域として、美濃(岐阜付近)と信濃の西地域に配置したと本書に記録されている。

朝廷は、この地域が開墾開発が進み、戦略上、主要穀倉地帯でもあり、幹線道路でもある事から天領地として定め、ここに、「美濃王」として第6位皇子を配置したのである。
(この子孫が美濃青木氏である)本書にもこの記録が出て来る。

朝廷は、南九州の隼人に定住していたこれ等の帰化人の首魁阿多(後漢阿多倍王)を都に呼び寄せて、その貢献に報じて賜物を授けた。この時、彼等は天皇の前で337人と言う大勢で踊りを披露したとある。
その後、伊勢北部伊賀地方を割譲されて定住した首魁大隈の阿多倍の一族関係者が、一同挙って天皇の前に集まった事である。しかし、337人と言う定数が面白い。先ず第1の疑問1(違和感)がある。
普通、記録しては”集まった”で良い筈である。
その理由の詳細はまとめて下記に記するが、ある目的で誇張したかったのであろう。
概して、”彼等の技能が国の発展に大きく貢献した事”であり、阿多倍一族らを「伊勢北部伊賀地方の割譲」をして、そこに住まわせた「理由と経緯の明示」(疑問1)を喧伝したかったのである。(詳細下記)

その後、天武天皇が崩御して、彼等は伊賀から都に出てお悔やみをしたのである。
2月後、再び、呼び出して、改めてその功労に対して、勲功を受けたのである。
「帰化人に割譲」の「理由と経緯の明示」の目論見は目立っていて、ここまでは問題はない。

しかし、”6年後に、大隈に居る阿多倍一族と、伊賀に住んでいる阿多倍に仏教を伝える様に命じた。”とあるが、何で彼等にわざわざ命じたのか疑問が湧く。第2の疑問(疑問2-1)である。
そして、何で仏教なのか疑問が湧く(疑問2-2)。
「仏教」と「阿多倍一族」の2つの疑問である。(疑問2)

それには明確な必然的理由があるのである。本書のこのままの記録ではこの疑問は解けない。
「仏教の伝来の経緯」の中に有ったのである。そこで先ず、その経緯を説明する。

仏教伝来の実際の経緯
実は、仏教伝導は「蘇我氏と物部氏の戦い」で決まったもので、聖徳太子の時の問題であった。この時は「決まった」だけであって、「伝導:広まった」ではない。誤解されている。
しかし、第9節でも述べたが、持統6、7年頃は政情は不安定で、特に畿内では国内問題を持っていた。しかし、現状の「仏教布教」は未だ天神文化と共に上位階級のものでしかなかった。
騒いだ割には大きく進まず、民までのものでは無かったのである。依然として、神物信仰が主流であり、天皇家自ら伊勢神宮を興隆させているくらいである。
そこで、朝廷は、矢張り、「民の心」を治めるには、仏教の宗教で納める事であるとして、進んだ中国の仏教典を持つ彼等に仏教布教を命じたのである。疑問2-1の解決である。

そこで、”何故、彼等にこの「仏教」をなのか。命じたか。”と言う第2の疑問中の疑問があるだろう。
それを説明すると、第2の疑問が解けるのである。

実は、阿多倍の配下で、初期(第1次)に入った「司馬達等(馬の鞍造を造る技能人鞍造部の頭領)」と云う人物が居た。この人物は大和国高市郡坂田原(天智天皇の高市皇子の里)で草堂を営んでいた。
彼は後漢から持ち込んだ仏教を、故国から離れて「部の民の心」の頼り所として、私伝で「部の民」に伝えて導いていたのである。(司馬達等:仏教私伝の祖と呼ばれる)
そして、その為に鞍を作る技能で仏像をも彫り、祭祀していた。(他書記録による)
次第に彼等の帰化集団者と彼等の配下となって技能を磨いている「大和の民」にもその仏教の広がりを見せ、大隈国と伊賀国の民を始めとして、彼等に従う関西以北の大和の民の心は穏やかであった。

この時期、少し後に、南九州では独立運動(700-713年頃)が起こり、朝廷の命に従わなかった。
分轄した日向、薩摩、大隈の内、薩摩と日向(朝廷大官僚の弁済使の伴氏と血縁した九州大豪族肝付氏)は従わず、朝廷は720年に遂に討伐した経緯がある。
朝廷は、この阿多倍等の生活態度の事前情報を得ていて、(この時は、半国割譲の大隈の首魁阿多倍一族とその技能集団は平穏であり、その原因は仏教布教にあった事。)そこで、国政不安定の中、持統天皇は、九州全土を統治している太宰大監の「三河王」に命じて、全国に彼等のこの仏教を伝え布教するように命じたのが、この経緯なのである。(この段階では、太宰大監は阿多倍一族ではなくこの直ぐ後である)
半国大隈地方と半国伊勢北部伊賀地方の阿多倍一族の彼等に、問題と成っている関西域にも、布教する様に命じたのである。
これが第2の疑問の解答である。

それだけに、この意味するところは、持統天皇は帰化人の彼等に頼まなければ成らないほどに窮していたのである。これ一つでも「治安人心が不安定」の証拠になる。即ち、疑問2の大元が証明出来る。
しかし、この時、本書の記録を良く調べてみると、後漢の東域の朝鮮半島の新羅と百済からの難民も入っていて、この仏教を信じていた。しかし、よく調べてみると、この新羅、百済の難民の事に付いては、本書記録ではこの期間の1年間で40件程度と本書にしては、目だって多く記録されている事に気づく。(新羅、百済からの難民は応仁大王の事件と共に、5世紀頃から始まっている。)
むしろ、その中を分析すると、犯罪的な事を起し、処罰されているのが約半数弱もあるのである。反面、後漢の民の犯罪記録は全く無い。
現在に於いてでさえ、外国人が多くなると犯罪や揉め事が多くなる。この時は、250万と言う難民帰化人が入国したのである。普通である筈ではない。
そう云う環境の中で、それどころか、隼人の大隈の一族の者を呼び出して、その功労に対して、天皇自ら宴を催して褒め称え、更には、隼人相撲大会を飛鳥寺で行っているのである。
この意味するところは明らかである。まして、「飛鳥寺」と言う場所に意味がある。一般公開である。宮廷ではない。

これは、”どの様に解せば良いのか”と言うことなのであるが、第3の疑問である。

実はこれも明確な理由があったのである。
持統天皇は、不満を増大している大和の民、阿多倍の帰化人の民、新羅、百済の難民の民、この3つの民の安寧を納めるには、静かに帰化してくれ、穏やかに生活している「阿多倍一族の扱い」にあると読んだ。
そこで、相撲大会である。
単純に相撲大会如き行事は何処でもある。しかし、この二つの行事をそれも「隼人相撲」を「大々的」に記録しているのである。相撲ならば何処にもある。何も遠い隼人から呼ぶ事は無い。
また、舎人親王は、得意技で何かを意味するところを含ませているとしか思えないのである。
そこで、本書の得意技と他史料をも調べた。そうすると観えて来た。

つまり、他の時期にも新羅百済の事は記録されているが、この行間前後の本書記録としては適さない40件もあり、その中約1/3の百済、新羅の民の「犯罪」と、何処でも日常茶飯事の「懲罰」がこの時期にわざわざ集中して記録している。
新羅、百済でなくても大和の民も犯罪を犯している筈である。歴史記録に値しないその茶飯事の事を記録しているのである。
明らかに記録の編集には違和感を抱かせる。

その反面、比較対照として貢献している阿多倍の集団を相撲というものでクローズアップさせて、際立たせ、その「品行方正な民」である事を目立てさせる事が、持統天皇の企みなのであり、その天皇の「治世の苦労」を何とか記録として、舎人親王は得意技で編成の配慮をしたのであろう。
これが、第3の疑問の検証の解答である。

この本書が完成する頃31年後には、この阿多倍の帰化人は、政治の官僚の中に「事務方」として本レポート序文に記述した時(天智、天武期)よりも、多く既に入り込んでいる。

この時期、多くの「律令整備」が進んでいる事が証拠である。
そして、”本書のその編成も当然に彼等達が行っていた”と言う事である。

留学生以外の大和の民ではその学識から無理である。留学生にしても量的にもこれだけの「律令整備」を賄う事は実務的に無理である。

そこで、実は、その記録が存在するのである。
”天武期4年2月9日 大和、河内、摂津、山背、播磨、淡路、丹波、但馬、近江、若狭、伊勢、美濃、尾張の国に勅して管内の人民で歌の上手な男女朱儒技人を選んで奉れといった。”とある。

”天武期5年4月14日 朝廷に仕えたいとする者で一般の者でも能力のある者は雇え。”とする直接命令の記録がある。この一つでこれ以後、如何に忙しく成っているか物語っている。

前者の記録は、畿内と中部の王の守護統治領から、政務とは別に、文化や祭祀に拘る体制を民間(渡来人)から集めて確立させようとしていたのである。

後者の記録は、天智天武期から始まった「律令整備」の計画に対して、始まった頃に天武天皇は先読みして準備してこの手を打ったものである。

この2つの記録に付いては、この時期には、天武は民間の力(渡来人)を生かして国の力を付け様としていたのである。

それが持統期には、効果を発揮して律令体制の整備は大いに進んだ。

因みに、彼等による「律令整備」は、「帝紀」、「八色の姓」、「庚寅年籍」、「飛鳥浄御原令」、「藤原京遷都」、「大宝律令」、「養老律令」等が上げられるが、この中味たるは大変なものである。(詳細は大化の改新のレポート参照)

既に(686-692頃に)天皇家に血筋的に食い込んでいる阿多倍一族を、舎人親王は時代性を演出する為に故意的に挿入したのである。
むしろ、当然に、彼等の進んだ知識を以って入り込まなくては成らない程に「政治機構化」していたし、大和の民では、その内容を検証すると到底無理の一言の内容であり、既存の知識、学識ではその範疇が小さかった理由もある。従って、その後漢の民の活躍記録としては、主体がかれらの活躍でその記録になる。

その証拠に、天智天皇から持統天皇までの律令の制定は急激に多く成っている。(参考記述)
特に、この持統期の時期にすれば、689年の「飛鳥浄御原令」の令(民法、行政、訴訟法)と、701年の太上天皇(持統天皇)の「大宝律令」の律(刑法)の2つの大きな完成がある。
これ等は彼等の知識抜きでは成し得ない。

それならば、ここで疑問が湧く。
本来であれば、このような政治、経済、軍事の全能力を持った集団が、殆ど無戦で九州全土中国地方を征圧している事から、「独立国家」を宣言してもおかしくない。
しかし、”行わなかったのは何故なのか”
第4の疑問である。

彼等の軍事、政治、経済のどれを執っても朝廷より遥かに優れている。
また、その技能に依って民の生活レベルが急激に上がり、土地の人心も掴んでいる。従って、戦略補給は充分である。既存の朝廷が到底成し得ない力である。
なにせ、17県民200万と言う人口が津波のように押し寄せてくるのである。朝廷は戦っても絶対に勝ち目は無い。彼等の軍事、経済、政治の力を除いても、この真に津波のように「押し寄せる力」に打ち勝つ力は無い。「押し寄せる力」で充分である。

中国では隋に討伐されて漢が滅亡して漢民は西に逃れたが、西の土地(ネパールチベットベトナム等)の者を追い出し、そこに定着している経緯もある。(正式に元国のときに中国と制定)
その一方の東に逃れた漢民(光武帝に率いられた民)が、東中国と朝鮮半島北部を征圧して後漢を樹立したのである。
その経緯から考えても、後漢難民と言っても、普通の難民ではない。大和国に入った彼等は独立国を樹立するに充分な条件を備えている。大和朝廷としては、歴史上最大の国家存亡の危機問題である。

ところが、関西直前で彼等の進軍は突然に止まったのである。真に「一大決戦」と言うときにである。この時、既に、大和国66国中32国を征圧しているのである。

”進軍停止は何故なのか”第4の疑問(独立)の中の疑問が出る。

それには、ほぼ200年前にも同じ事が起こっているのである。この事は朝廷は知識として知っている。迫る阿多倍の集団に対してどう出るべきかを悩んでいる。

朝廷の事前知識
応仁(応神)大王が、朝鮮半島の百済を始めとして南部の民から構成された大船団を整えて、堺の港に上陸した。
当時、関西域は4つの豪族(巨勢、平群、葛城、紀の4族)の連合体で「ヤマト王権」(大和朝廷前進の連合政権)を樹立していたが、この連合政権と戦った。
先ず、上陸後、4つの豪族は水際の前哨戦で負けた。しかし、この4つの豪族は一端奥に退いて長期戦へと持ち込んだ。大王側は各個攻撃へと変更し、紀族を制圧、紀伊半島を回って新宮から奈良盆地に入った。ところが、残りの豪族達は奈良盆地(当時は未だ奈良盆地は中央に大湖があり、現代は地殻変動により湖面が下がり湖底の所にある。現代の「猿澤の池」がその元と言われている。)
の水際作戦のゲリラ戦を採用し長期戦に持ち込んだのである。
結局、この応仁(応神)大王の船団は補給不足となり、戦いを中止し講和した。そして、5つの豪族による「ヤマト政権」を樹立し、初代の大王に応仁(応神)大王が成った。(この時期は未だ「天皇」では無く「大王」と呼んだ。)
これが類似する事前知識である。

今回の阿多倍の集団には、違う点としては次の事がある
大和の民が彼等に従っている事である。
入国側の民は土地に生活基盤(技能集団)を作り定着している事。

戦いとなると、阿多倍側は勝利は確実であるが、この2つの事(軍人ではない2つの民を巻き込む)で良民に大きな犠牲が出る事になる。かれらも悩んだ。無戦で勢力下に入った人民である。
彼等の首魁の阿多倍は、”犠牲を払って勝利で独立国家を樹立するか、無傷に平和裏に帰化して実利を獲得するか”の二者択一の選択に迫られた。そして、都に入る直前に、選んだのは後者であった。
第4の停止の疑問の答えである。

この様な彼等の態度に対して、事前知識を持ちながらも、朝廷は悩みに悩んでいた事が、阿多倍集団の「実利の決断」と朝廷の「事前知識」とが一致した結果となった。
朝廷は平和裏に解決した事に対する安堵感で一杯であった筈である。多分記録には無いが下交渉はあった筈である。

決着した。そこで、彼等の首魁を呼んだ。阿多倍らもその恭順の意を表す為に、天武天皇崩御(686)に対して、都に出て葬儀に大勢(337人)で参加すると言う姿勢を示したのである。
これが、帰化申請後の「最初のもがりの参加記録」である。
又、この337人は上記のデモもあろうが、多分にして、騙まし討ちを避ける為の阿多倍を護衛する為に付き従った者達であろう。
そして、その返礼として持統天皇は再び彼等を2度も招き、次の記録の経緯と成るのである。

持統6年5月21日 隼人の相撲。
持統7年 爵位直広1位の位を授け、姓は宿禰とし、半国大隈国を授けられ、伊勢半国割譲の伊賀地方(水田40町)賜った。”となるのである。

見返りとして、下交渉の約束で、持統天皇は彼等に先ずはこれだけの事をした訳である。
これが第4の疑問の検証である。
(下交渉の記録はないが、これだけのことを下交渉がなくして出来ない)

しかし、これだけでは収まらず、持統天皇は次から次へと藤原氏以上に引き上げて行く事に成ったのである。(参考 藤原氏は720年頃から台頭:藤原不比等)

朝廷側も事前知識で彼等を敵とせず、味方に引き入れる戦略を採り、「独立国家」に相当するものを与えたのである。事前知識と全く同じ経過を辿ったのである。
むしろ、記録には明確なものは見当たらないが、下記の事も含めて、水面下の交渉の末でのこの「帰化条件」であったのではないかと思われる。
それは次の記録から判断出来る。

帰化の条件の説明
持統天皇としては、この200万人と言う技能大軍団の犯罪を起さないおとなしい帰化人が、第1次産業の技能を持たらし、それどころか国政の事務に長けて律令の根幹を作り、国の発展に貢献している事にうれしくて成らないのである。

その証拠に、「阿多倍」は「敏達天皇」の曾孫の「芽淳王の娘」を娶り、「天皇家と縁結び」となり、且つ、「准大臣」に昇格し、「宿禰族」に列せられ(830年頃)、「半国大隈国東部を割譲」し、「国の首魁」を認め、「伊勢北部伊賀地方を割譲」し与えられ、更に、この半国に「不入不倫の権」を与えられたのである。文句の付け様のない扱いである。
これが持統7年頃のことである。

それどころではない。血縁となり、3人の男子を産み、長男は坂上氏を、次男は大蔵氏を、三男は内蔵氏を、「賜姓」(690-705年頃)を授けている。

まだまだである。少し後では、この3人に、夫々、坂上氏には「朝廷軍」を任し、大蔵氏には朝廷の「財務大蔵」を任し、内蔵氏には天皇家の「財務内蔵」を任したのである。
参考として、朝廷の役所は「3蔵」と呼ばれ、大蔵、内蔵、斎蔵で構成されていた。
斎蔵は藤原氏である。彼の名声と権力を欲しい侭にした藤原氏(不比等)である。しかし、未だ、この頃は、斎蔵を任され祭祀を含む朝廷全般の政務と総務を担当していただけなのである。

その事から、考えたら、恐ろしい程に朝廷の実権を握っていたのである。藤原氏どころの話ではない。(藤原氏の名声は知られているが、それ以上の比べ物にならない名声と実績を持ったこの阿多倍一族は余り知られていないのが、不思議の一つである)

もう終わりと思うであろう。ところが、皇族の「三河王」に代わって、九州全土の行政長官の「太宰大監」(博多別府大宰府:大蔵春實938頃:種光950頃)に任じたのである。(この時、奥州は藤原氏の鎮守府将軍となる)

まだあるのである。今度はこの「太宰大監」に、軍事、行政、経済の「3権」を委ねたのである。

そして、更に「遠の朝廷」(940年)と名付けるのである。遠いところの「九州の朝廷」とまで命名した。
又、「征西将軍」(1017年)に任じられるのである。

最後に、この「遠の朝廷」の阿多倍一族の「太宰大監」に「錦の御旗」を正式に与えたのである。
この「錦の御旗」(830頃:天慶3年:大蔵春実と孫の大蔵種材)は個人に与えた記録は他に無い。

最後の最後と言いたいところであるが、この「太宰大監」を阿多倍一族大蔵氏の「世襲制」としてしまったのである。(追加:この末裔の太宰大監の大蔵種材という豪傑がいたが、この者を四天王のモデルにしてしまった。)
この位で止めて置くが、この事で、もうお判り頂けたと思う。
「独立国」を選ばす、「実利」を選択したが、実利以上の無血の「九州独立国」そのものである。
これで疑問は史実で解けた事になる。850年代で完全達成している。

これより以後もまだ続く。
伊勢北部伊賀地方の阿多倍の孫娘の「高野新笠」が光仁天皇の妻となる。その子供が「桓武天皇」に成る。桓武天皇は母方の伊賀の「阿多倍王」別名「高尊王」(既に没)に対して、架空の「高望王」(平望王)と呼称し、「第6位皇子」の扱いをして、「たいら族」として氏の「賜姓」をしたのである。(詳細下記)
そして、その末裔孫の2代目「平国香」より「平貞盛」で勲功を挙げて、5代後に「平清盛」で太政大臣と成った。

これで、朝廷の政治も思うが侭である。九州だけではなく、全国の政治、経済、軍事の覇権を握ったのであり、独立国どころではない。

本書の持統期(700年頃)では、この一族は未だ60-70%程度であろうか。そして、最終(100%)は1120年頃であろう。そして、1175年頃から没落し1185年で平氏滅亡(京平氏)である。

反面、伊勢青木氏は全くこの逆である。
伊勢の国を割譲されて、伝統ある近衛軍の役職も押さえられ、更には、伊勢の守護も半国司の藤原藤成(藤原秀郷の祖父:826年)に任してしまったのである。
当然、皇親政治として活躍していた天智天武期から、何時の間にか(645-720)この阿多倍一族に全て国と役職を奪われたのである。国と役職を奪われては基盤は無くなる。衰退は避けられない。現実に衰退した。
一方、阿多倍の一族は半国伊賀国を与えられ、そして、遂には、この首魁「たいら族」(平氏=京平氏:桓武平氏:伊勢平氏:781年頃)の一族に天皇から賜姓を受けた。

この賜姓は「大化改新」の目的の一つ経費削減で、第6世以降の皇族の者は皇族を外し、平に成った事から「ひら族」(坂東平氏として賜姓:坂東平氏:8氏)として、天智、天武、持統期に代替わり毎に坂東に配置した。
この「たいら族」の賜姓は、この「ひら族」にかけて阿多倍一族に名付けたのであるが、実は、皇族に並び続く「7世族」として位置付け、「ひら族(平氏)」を「たいら族(平氏)」として「高尊王」(阿多倍王の日本側呼称)に賜姓(桓武天皇期)したのである。
しかし、記録では、伊賀の国に住む「平望王」(高望王)と成っている。これは「尊と望」の編集時の間違いか、平氏賜姓後の呼称なのか、生没も含めて一切の記録は不明なのである。
この時、阿多倍は没している筈であるので、皇族系(第6位皇子)である事かをほのめかす為に「平望王」(高望王)は、「高尊王」に因んで、後付したのではと考えている。

この当時(持統期)は未だ、帰化人には偏見があり、次第に皇族との血縁族とは成りつつあるが、皇族に列する処置が出来なかったのである。
史料から観て、帰化人(渡来人)の字句が消えるのは桓武天皇期の書物からである。

(桓武期頃より以後、難民、帰化人は九州「太宰大監」の大蔵氏が、記録では朝廷の命で盛んに博多、下関の水際で食い止めている事件が記録されているので判る。)

これは、伊賀の国に住む阿多倍の末裔孫]娘「高野新笠」が光仁天皇の賓(みめ)と成り、後の「桓武天皇」を産む事により、世間は、最早、「天皇まで成る時代」として世間の意識の中で、渡来人では無いと考えたからであろう。つまり、日本民族の完全融合(参照 日本民族の構成のレポート)の完結期の経緯である。

賜姓を受けた伊賀の国に住む阿多倍一族は、その末裔孫の「平国香」(900頃)より始まり、「貞盛」(950:繁栄の基礎:平将門の乱鎮圧、常陸の押領使)、「惟盛」、「正盛」(中央政界)、「忠盛」(平氏繁栄の基礎)、「清盛」と続き、5代後で「平清盛」(1180)の太政大臣にまで上り詰める。

遂には、後漢から帰化した阿多倍一族の集団は、上記の本書の記録に示す持統天皇期から政治に関わり、天皇(桓武天皇781)まで上り詰め、政治、経済、軍事と産業の基盤を創り上げたのである。
この伊賀に住む後漢阿多倍王の末裔(渡来人:高野新笠)を母に持つ桓武天皇は、その彼等の力で「日本の律令制度」を完成した天皇としても位置付けられている。

阿多倍の上陸後、上記した経緯でその独立国を樹立せず、200年間でその効果と同じものを持つ実利以上でその立場を確保したのである。はっきり言うと、乗っ取ったとも取れるものである。
しかし、大事なことは、悪い意味での「乗っ取り」ではなく、むしろ現在の日本の政治、第1次産業の基盤を築く程の国としての国体を作ったとしても過言ではない。
「単純な帰化」ではなく、日本の国体を「構築した帰化」であった。阿多倍の卓見である。

ところが、古事記域に入るが、元明、元正天皇と女性天皇が続き、聖武天皇と成り、矢張り第5位後継者までは絶えた。
暫くすると、第6位皇子である「伊勢王」(施基皇子)の子供を、皇位継承者が無かった事から、伊勢より皇位継承者を出す以外に無く成った。光仁天皇である。(伊勢青木氏とは縁続きになる)
一時、一族の光仁天皇により息を吹き返したかとの予測も付くが、甘くは無い。伊勢隣りの伊賀の娘を娶ったのである。
しかし、、前節でも記述したが、その孫(光仁天皇の孫)の嵯峨天皇は賜姓を戻し青木氏を救ったのである。

「伊勢王」を始祖とする伊勢青木氏を含む5家5流24氏の青木氏、更に母方で繋がる藤原秀郷流青木氏主要9氏116氏の元祖は、日本書紀の中で、その「生様」を検証して来たが、大変な、激動の時代(645-710)を乗り越えて来たのである。

日本書紀は編年体であるが、上記した様に真に、舎人親王著「編年体小説」と名付けたが、余り、伊勢王をキーワードとして、限定して検証している書籍はない。
また、本書内の舎人親王の「詩文体」とも言うべきものを考えて、それを年頭に記録を徹底して検索して詩文の環境を導き出すという手法を採用した。
結果は、本書には30箇所以上の伊勢に関する記録が出て来るし、他書籍にある史実以外のものが見えてきて、その背後関係を導き出す事が出来た事は、驚くに値する事であった。
検証する者としてわくわくとして検証した。
幸い、筆者の先祖代々は紀州徳川氏の漢文、漢詩、南画の師たる者でもあった事が”門前の子童習わぬ経を読む”が幸いしている。
古事記の序文ではないが、青木氏も同じ事が言える。”今を逃すと青木氏の史実は消える”と。
これが、本レポートの思いである。

近い将来、時間が有れば、青木氏一族としての藤原秀郷主要5氏の2氏(永嶋氏と長沼氏)との関係についても検証レポートを投稿したいと思っている。

参考
「坂東八平氏」とは、千葉、長尾、上総、秩父、土肥、梶原、大庭の8氏である。
北条氏や熊谷氏は支流である。

阿多倍の天皇家との血縁の年代推定は686-692の間の年代であろう。
”阿多倍次男の山本直が大蔵氏を賜う。”とあるが、その前の時期に敏達天皇曾孫の芽淳王の娘と血縁により次男が生まれ賜姓を受けている。(長男は忘手直、三男は波木直)

「平貞盛」とは藤原秀郷と共に、「平の将門の乱」の鎮圧平定者である。

大隈国 日向国を713年に4群を割譲して大隈の国を造り、正式に阿多倍の首魁一族に与えた。
4群以外はこれに従わず独立国家を主張720年に征圧した。

「司馬達等」は鞍造部の始祖で、仏教私伝者であり、日本初代の仏師「鞍造部止利」は彼の孫である。伊勢青木氏のステイタスの大日像の生仏像様は「鞍造部止利」作である。

文武天皇期の養老律令(718)は藤原鎌足の子供の不比等が編纂したものがあるが、これは大宝律令の修正版である。

光仁天皇は709-781 位770-781
桓武天皇は737-806 位781-806
嵯峨天皇は786-842 位809-823


「陶部の陶氏」は、後漢の阿多倍の配下で、第1次の後期の陶磁器の技能集団の部の頭領で、室町末期までその勢力は中国全土を占有していた。毛利氏に潰された。村上水軍はその末裔と言われている。

「日本書紀と青木氏」 完

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