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先祖と宗教(キリスト教の教え 1-5 主題4)

ご意見の内で、次の文意に対する問題として、
1「呪いの意」
2「時間の逆行性」
3「行為と行動の進行性」
4「キリスト経の教え」
5「仏教とキリスト経の妥協の余地」

以上に付いて私観を述べたいと思います。
超論文に成りますので、シリーズで記述する事にしますのでご理解ください。

4「キリスト経の教え」
さて、4の主題の「キリスト教の教え」に付いて。
下記の設問(①-⑩)です。

そこで、前々回の設問の末尾に次のようなことを書きました。

”信仰すれば、こうしてくれる”は信仰とは云わないのではないかと言うことを書きました。
兎に角、私は「宗教」に対して「ご利益信仰」が主体と成っている事に疑問なのです。
つまり、”こうすれば、こうしてくれる”と言う見返りを求める信仰はここでは論じないでおきます。

次の設問の「キリスト教」は、この傾向が説話の中で多すぎると感じています。
”信じよ、されば救われん。”には納得できません。信じなくても救われる筈です。信じたら神のご利益があると言うことは真さに、この事です。
仏教は、”信じよ”とは云っていません。”理解せよ。”です。
つまり、”理解すれば「静かなる心根」を得て、必然的で、間接的に救われる道に自ずと向かい成るだろう”と言うのです。そして、”その理解を日々増やせ。さすれば、より「深い心根」が得られるであろう”と説いています。

更に、キリスト教は、”人は悪の子供”(罪深き子)と設定していますが、仏教では”悪の子供(罪の子)であるも普通であり悪(罪)と拘るな”であります。それが「人」だと説いています。

これが私の若い頃にキリスト教の説法を4年間聞きに行って知ったポイントでした。

多少の自分勝手な歪みもありますが、なんとなく心の底から納得できないところがありました。そして、説話の解読が”何か攻撃的である”と印象を持ったのです。
これは多分、”民族的な遺伝子の違い゛では無いかと思いました。

そこで、質問をしました所、帰ってくる答えは、何か頭に引っかかるもので、”日本民族のレベル(民主主義のレベル)が低い”のであるかのニュアンスの答えと感じ取りました。
これは当然の答えでもあるかも知れません。当時は、まだ日本は戦後15年程度しか経っていませんし、復興途中ですのでアメリカ人から低く観られていたと考えます。我々のほうがそう云う風に受け取っていたとも考えられますが、やや、彼らの心中にその様な心を一部に宿していた事も事実でしよう。
しかし、中に仏教を勉強していた牧師というか宣教師が居て、仏教との違いを認めていたのも事実でした。その違いは「蛮な宗教」として排除していた言葉を説話の中で聞き及んでいました。同席していた友人たちと牧師との間で、議論になったことを覚えています。

しかしながら、後に仏教も含めて正しく勉強し直した結果は、次の様な事柄でかなり近い調査結果でした。
確かに、その調査結果の違いは、次のような事でした。

① 他宗を少なくとも先ずは強く排他している事。
② 教えがかなり強引である事。
③ キリスト個人を神扱いにしている事。
④ 兎に角にも、”先ずは信じよ”である事。
⑤ 人は全て悪の子供であると否定する事。
⑥ 中間的考え(柔軟性)は無い事。
⑦ 全体が闘争的な発想に成っている事。
⑧ 特定者(若い者)には受け入れられ易い合理的な教えに成っている事。
⑨ 先祖に対する考えは全体として希薄である事。
⑩ 「民族的」と言う考えを認めていない事。

本来、仏教では、”宗教は「万教帰一」である”と説いています。少し違い過ぎているという感じがしました。
そこで、上記の事に付いて、その違い際を出す目的で論じてみたいと思います。
そうする事でその違いの全体の論所が見えてくるのではないかと思います。

①番目の事です。(他宗を少なくとも先ずは強く排他している事)

どの宗教の教義も、良く似た傾向がありますが、仏教では、他宗を強く否定することは有りません。
「万教帰一」と説いているくらいですから、少なくとも、仏教のどの宗派もほぼ同じ教義です。
しかし、はっきりとキリスト教は仏教(他教)を否定しています。世界の宗教はキリスト教しか存在し得ないとも云っていますから、ここの排他的なことが明確な違いの一つです。
最近はトーンを落としていると聞きますが、紛争地での世界のキリスト教の布教の行動を観ると変わっていないと思えます。
本来、宗教は少なくとも「人」を救う事を目的として存在しています。これはどの宗教も同じ筈です。
その救う手段(教義)が異なると言うことだけですが、然し、突き詰めれば人を「救う理由」は、どの民族でも「悩み」としては同じである筈です。だから”キリスト教以外には存在しない”は疑問です。

確かに、夫々の宗教は、その「民族の発祥をベース」に成っていることは確かですので、そこで起こる「民族の生活程度」や「遺伝子的な民族の悩み」のそれから来る悩みの大小はあっても、「救う理由」は同じです。
当然、その「理由」に対する「教え」は突き詰めると、同じ程度のものになると考えられます。
しかし、ここが「違いの原点」になるのでしょう。その理由の大小に対して、何処の部分に重点を加えた教義にするかで異なってくる事は否めません。
しかし、否定する理由としては問題です。

現に、キリスト教、ヒンズー教、イスラム教、ユダヤ教、仏教、儒教、等の宗教で、例えば、キリスト教はローマ時代の乱れた民衆の不満をベースになっています。ユダヤ教は「ジプシー民族」をベースに出来ていますし、イスラム教はその定住する位置と多民族の構成でその置かれている立場(アジア民族とヨーロッパ民族の混血族)から生まれたものです。
従って、「戦い」をベースとして居るために、宗教として最も「戦い」を排除しなければならないのに唯一教義として「聖戦」を認めています。
宗教ではどう考えても「聖戦」は疑問です。民衆の手段としては考えられるが。
この様に、夫々の発祥をベースとしています。

しかし、仏教は、インダス文明として多くの宗教が生まれた中で、小さく拡がりながら中国より日本に司馬氏の始祖の仏師の司馬達等が最初に私伝したものであり、古来より居た神道の物部氏と、百済から渡来した仏教の蘇我氏との戦いの結果、国政として仏教を導入したものであります。正式には後の594年の「仏教興隆の詔」(仏、法、僧)であります。

仏教は、日本以外での成り立ちがどうであろうと、日本での伝承は、奈良時代の「天神文化」として一つの国政上の理由から発達したものであります。
つまり、神道と仏教との「融合文化」で仏教は成育したものであります。
これが奈良期の「天神文化」であります。

「天神文化」、つまり、「人の悩み」を基とした教義というよりは、人間としての有るべき姿、即ち、「信義、道義、徳義」を求めて、そこから人としての悩みを排除しようとした教義であります。

「般若心経」は真さにこの「心経(こころのみち)」であります。従って、その目途して、必然的に他教の教義を否定する必要性は考えられないし、人の有るべき姿、即ち、生きる「道」を説いている宗教であります。
布教に際する教義の説法は、他国のビルマやタイの仏教との違う点は、神道と仏教の融合文化(天神文化)の末に生まれた教義でありますから、独自の宗教といえます。
「武士道」もこの融合文化の仏教と神道の融合教義から生まれた「教道」であります。
事程左様に、融合であるが為に他宗を否定するに至りません。
しかし、キリスト教等はその発祥の基が異なることに成りますので、その布教は必然的に他教を肯定する訳には行きません。ここが、教義の前提の大きく違う点に成ります。

次は②番の事、即ち、教えがかなり強引である事。に続きます。

4「キリスト経の教え」

 キリスト教の設問として、①番の続き、②の問題の説明に入ります。

① 他宗を少なくとも先ずは強く排他している事。
② 教えがかなり強引である事。
③ キリスト個人を神扱いにしている事。
④ 兎に角にも、”先ずは信じよ”である事。
⑤ 人は全て悪の子供であると否定する事。
⑥ 中間的考え(柔軟性)は無い事。
⑦ 全体が闘争的な発想に成っている事。
⑧ 特定者(若い者)には受け入れられ易い合理的な教えに成っている事。
⑨ 先祖に対する考えは全体として希薄である事。
⑩ 「民族的」と言う考えを認めていない事。

②番目の事です。(教えがかなり強引である事)
①の事がある故に、キリスト教は自説を教委するは当然の事でしょう。
「信じよ」を先ずはじめに来て居ます。信じなければ救われないと言う事に成ります。そんな不公平な神は存在しません。神は万民に公平ですから、信じなければ救われないとすると、それは神ではなく普通の人間のする事です。神を前提としている神が、人間と同じレベルであるとすると矛盾しています。
かなり、矛盾をはらんだ強引さを感じます。

仏教では、「信じよ」とは云っていません。般若心経でも、「悟れ」(理解)と説いています。
突き詰めると仏教の教えは「色不異空、空不異色」「色即是空、空即是色」であろうと考えます。
ここから全ての教義の発端が理解され解読出来ます。
つまり、この世はこの一つの教義であり、その「理解」から”人としての「行為と行動」が生まれ、強いては、人としての悩みは解毒するで有ろう”と説いています。

これは、信じなくても、この”理解が成せば成るほどに人としての悩みから救われる”としている訳です。
つまり、誰でも、仏教に帰依しなくても救われると言うことです。
この「理解」が得られた場合に於いて、”人は冷静で、正しい「心根」が得られ、それに依って、人の本来の正しいあるべき「道」が開かれる”と説いています。

これを学問として、仏教から「禅宗」(禅問答)と言う教義が生まれたのですから、「宗教」とするよりは「宗教学」(人生学)とする方が適切ではとも思います。このことからも、つまり、「教えが強引」からは程遠いものと成ります。
ここに、他教との違いが大きくあると考えます。「学問的宗教」とも云えます。
但し、ご利益信仰とは別にします。

日本人の仏教への「信心の姿」は、他教の姿とは違うのはこの点にあり、個々の人の「自由な姿」に委ねているところです。つまり、「色即是空、空即是色」の教えどおり、決められた「信心の姿」を自由にしている所です。イスラム教やキリスト教のように、”信心はこう云う姿ではなくてはならない”とする仏教の教義は何処にも有りません。好む範囲でやればよいという事でしょう。
この様に「教え」に対して、”信じよ、されば救われん。”の拘束としての強引さは有りません。「強引さ」は「色即是空、空即是色」の先ず第一教義の意に合致しません。

この背景は、物部氏と蘇我氏の戦いの後の結末と始末に関わる歴史的処理から来ています。
つまり、先ず、最初は朝廷が主体としていた「神道」を、「仏教」への宗派変えでは、一応は取り入れたものの朝廷の存続をも否定する結果とも成りかねず、過半数以上のそれまでの多くの「神道の民」の不満と反発を招きます。そこで生まれたのが、「神道と仏教」との「融合文化」の天智天皇による「天神文化」であります。(研究室の大化改新の新説への反論を参照)

(仏教導入の直ぐ後の天智天皇は、伊勢に国の守護神として伊勢神宮を建立し、「天神文化」を発展させた事で証明となり、各主要な氏は、氏神を建立し「神道」を誇示し、氏独自の先祖を祭る菩提寺をも建立して「仏道」とし2つの融合を図った事も証明)

つまり、宗教の「神」と民の間には、「仏」とするものを存在させて融合を計ったのです。そして、その「仏」は先祖であるとして身近な宗教としたのです。
これが「天神文化」です。この「天神文化」は現在までに引き継がれているのです。

この「天神文化の融合」が「仏教の教義」を緩やかにして、上記の[強引さ」を排除した所以でありますし、「仏教学的扱い」と成った所以もここから来ています。
又、他国の仏教国の教義とは違う点でもあります。

要は、「信じようが、信じなくても」、その「理解」の「行為と行動」の中で、「人としての道」(冷静で正しい)が生まれれば、「万民は救われる」と説いているのです。
そして、それは、”自ずと、「神」「仏」に自然に導かれる”としているのです。
さすれば、”死する時は、「4つのみ」から発生する煩悩を脱却した「仏」として、他次元で存在する”と説いているのです。仏教では基本的に故に強引さは有りません。

次は③番の事に続きます。


4「キリスト経の教え」

キリスト教の設問として、②番の続き、③と④の問題の説明に入ります。

① 他宗を少なくとも先ずは強く排他している事。
② 教えがかなり強引である事。
③ キリスト個人を神扱いにしている事。
④ 兎に角にも、”先ずは信じよ”である事。
⑤ 人は全て悪の子供であると否定する事。
⑥ 中間的考え(柔軟性)は無い事。
⑦ 全体が闘争的な発想に成っている事。
⑧ 特定者(若い者)には受け入れられ易い合理的な教えに成っている事。
⑨ 先祖に対する考えは全体として希薄である事。
⑩ 「民族的」と言う考えを認めていない事。


③番目の事です。(キリスト個人を神扱いにしている事)
キリストと云う現存した個人を崇拝する宗教は、ある意味で、創り上げた教義であります。その教義の良し悪しの如何を論議しているのでは無く、それはそれで宗教とするは、信じる人が納得できるのであれば、特に問題ではありません。
現存した個人を万能の神扱いにすると言う事は、仏教国の民としては何か納得出来ません。

キリスト教の教義を以って、それを人格形成の絆とするは、特に問題ではなく、この事は仏教でも同じであります。
キリスト教徒に言わせれば、この反論として、生きていた者が死んで、生きている民を導く「仏」となる事に対して疑問を感じるとの反論意見もあります。
結局は、死んだ後のキリストと同じではないかと言う論理です。
確かに、その通りですが、日本の仏教では、更に、その上に万能の「神」が存在し、「仏」はこの「神の裏打ち」を受けている論理に成っていますので、違うと云う事に成る訳です。
そして、「神」は「仏」が精進する事で神と成り得るとする教義です。
「仏」とは、”死して民から全ての煩悩を取り除けた時に成り得るものである”とする論理設定です。
仏教では多くの神が存在し、「武勇の神」とする「神」は、その元は現存した人物を元と成っているのもこのことから来ています。
仏教では、この様に、現存した人物の「仏」が「神」となったものには、民の全ての生活職種に対して「神」が存在し、その中でも万能の全種の神が存在するとしています。
(例えば、渡来人の阿多倍子孫の大蔵種材という武勇に優れて人物が居ましたが、この「武勇の神」の「真利四天王」等の様に成った。)

キリスト教でも、釈迦の弟子が神と成っている様に、キリストの弟子が神扱いとしているのも現実ですが、日本の仏教の様に、全ての種の神が存在する事はありません。
又、キリスト教の祖師のキリストと同じ位置にある、仏教の祖師のお釈迦様を直接拝する行為は日本の仏教徒では少ないでしょう(日本では一部にはあるが直接ではない。アジアの他国の仏教では直接崇拝がある)。
ここが「天神文化」から来る差で、違う所だと思います。

つまり、お釈迦様を特別のものとして扱い特別崇拝するは、「神道」の神との融合から、「神道」の神を引き下げてしまう結果が起こり、且つ、避ける結果とも成ってしまう事にもなり、日本では出来ない設定となります。
況や、「一軍の将、ニ将合い立たず」「一国の神、二神合い立たず」で有ります。
日本の仏教には経緯として2つあるとされている。この2つの仏教(顕密仏教と鎌倉新仏教)には、この個人を神扱いする崇拝の傾向が少なくなったのです。
故に、キリスト教に対しては、万能とする個人の「個人崇拝」的イメージを我々は持つのだと思いますし、「万能」とするところにキリスト教には疑問が残るのでしょう。
しかし、これは、キリスト教徒がそれで納得すれば当り前と成り、故に問題は無く、仏教徒にしてみれば疑問点と成るのだけと考えます。
「個人崇拝」は「人、時、場所」の三相にて正否の如何は異なりますので、世界的に観て、「個人崇拝」の起こり難い土壌の所謂「天神文化」を持つほどに、「融合民族」の「融合文化」を持つ日本人の方がおかしいのかもしれません。
但し、融合は進化を及ぼしますから、この「おかしさ」は愚劣のものではなく、優秀の「おかしさ」と考えます。
故に、日本仏教は禅宗などの「仏教学」が生まれたものであると観ます。

④番目のことです。(兎に角にも、”先ずは信じよ”である事)
②でも述べていますが、この言葉の前提には、「個人の考え」を先ず排除して、教義を信じさせる事から始まっています。これは受け取り方では”信用していない”と言う事に成ります。
仏教では、個人の考え方の差違は問いません。
その考え方の中で、「悟りなさい」としていて、その「悟り」の障害は「拘り」であるとしています。
そして、”今の自分を是として、あるが侭に、受け入れなさい”としています。
人は、”今の自分を是”とする仏教と、”悪の子供”とするキリスト教の「教義」とは、全く反対ですし、”「信じよ」”と”「悟りなさい」(理解)”では大きく違います。

ただ、もう一つ疑問になる点があります。
アメリカを始めとするキリスト教徒は、主に自由の国にあります。自由な考えの中での宗教では、その個人の考え方を認めたうえで、教義が起こる筈です。
しかし、”先ず信じよ、信ずれば救われる”とするは、個人の考えの前提になっていないのではないかという事です。
これでは、仏教では”今の自分を是”とする”としていますが、この様に、仏教の個人の現在の考え方を是としたところから始まる導きの方が、アメリカのキリスト教的では無いかと思えるのです。何か逆であると感じます。

仮に、アメリカとすると、他民族の集合体であり、必然的に自由な考え方を認めなければならず、結果、あり過ぎる事から、否定で入らないと教義の伝播は困難である事から来ているのであるのでしょうか。
収拾が取れないので、”全てを捨てて”としている事はこのことを物語っている証拠となり得るだろうとは思います。
この逆に、同じ他民族の集合体では有るけれど(日本は7民族の融合単一民族で有るので)、融合という優れた手段で考え方が殆ど統一されている故に、その考え方に左程に差違はないとして、「是」としている事と成ろうと思うのです。
この理屈が適切とすると、大きな問題が出て来ます。

それは、アメリカでは、”全てを捨てて”は適切な事として納得できるが、この理屈を変化させずに、直接、単一民族の考え方の少ない「是」する日本人に、キリスト教のこの”全てを捨てて”の手段(教義)は、間違っている事に成るのでは無いだろうかと思います。

私を含む多くの日本人に、安土桃山時代からこれ程キリスト教が伝導した歴史がありながら、その比率が少ないのは、上記の疑問のこの点が大きく影響していると考えられます。

この設問の提起された方の疑問の 「”全てを捨てて”」は、私も含めて、個々に問題があると思うのです。

そして、キリスト教にはもう一つ矛盾があるのです。
それは、”全てを捨てて”とありますが、全てを捨てられれば、既に”何も宗教は要らないのではないか”と言う事です。
捨てられないから、宗教に頼るのではあれませんか。又、”全てを”とありますが、全てどころの話では無く、一つさえも捨てること自体が出来ないから、宗教に頼るのではありませんか。

仏教では、ここは”ありのままでよい”と説いています。
そして、”それが人間なんだ”と説いています。
捨てられればそれは、人間ではなくなるではありませんか。理屈では有りません。
つまり、人間の性(さが)なんです。人間の性(さが)を全て捨てられれば、それは、仏教では「仏」です。生きている人間が「仏」になる事はおかしいのではありませんか。
仏教では、”ありのまま”即ち、「拘るな」と説いています。
「悟れ」即ち、「理解せよ」としています。
これなら、”捨てる”という「行為や行動」より、人間として成し得るものです。そして、それは更に可能な「心の道」として、”冷静に正しい心根”と説いています。これならば、この程度の事を成し得ないとするは、それは人間ではなく、獣と変わりません。
よって、その努力は可能です。そして、”1度にではなく、日々積み重ねよ”としています。
更に、続けて、”その行為は五感を通して”としています。
つまり、”聞く(耳)、観る(目)、嗅ぐ(鼻)、触る(皮膚)、味わう(舌)で日々精進せよ”としています。

ここで、問題に成るのは、”「拘り」を少なくする事が出来るのか”という事です。
そこで、”出来る”という論所を脳医学的に説きます。
このことを知る事で仏教の上記した証明の例と成りますので特記します。

医学的「否拘り」の可能性の証明
人間の「感情」の主体は、「前頭葉」(側頭葉含む)と言う所で管理されています。
この「前頭葉」の動作反応は次の様なメカニズムで働きます。

人の脳は、頭の中心(渦)の所に「脳幹」と言う部分があります。
この部分は電極の役目をしています。
地球がマイナスの電極体ですので、人間はプラスの電位が掛かり、ほぼその身長に等しい値と成ります。
この電位をもって脳の中を小電流が流れます。
この電流は脳神経を通じて流れ、脳神経と脳神経の継目には、キャリパーと言うNaアルカリイオンが継目に流れます。
このキャリパーが流れている間だけ電流が流れて目的の脳の部分に流れて行きます。
この場合に、「前頭葉」に繋がります。
この部分は「感情」を司るところですので、この「感情」はこの「キャリパー(Na)」の液体が流れている間は、この「感情」が維持されます。

例えば、最も顕著な感情として、女性の「母性本能」です。
全ての女性が例外なく、子供が生まれたと当時にこの感情が出て長く続きます。これはこの電流が前頭葉に繋がったままで流れている事に成ります。
これは無意識のうちです。
では、そこで、この物事に対する「拘り」の心は、この「前頭葉」のこの部分に脳神経の継目が繋がった状態を意味します。
つまり、このキャリパーが流れているのです。
大体は普通は0.2秒間程度ですが、特に女性はこの時間が長く持ち続ける傾向があります。
だから、物事が感情的に捉えてなかなか外れないと言う現象が起こりやすいのです。

ところが、男性は、その性の目的から、この部分の繋がっている時間は短く出来ています。又、意識的に切ることさえ出来る様になっています。原始の時代に生活の糧を得る為に生存競争の中に飛び込み戦い殺戮の中で勝てを得る必要があります。従って、殺戮のこの感情を押さえて敵と生死を賭けて戦わなくては成らない為に、脳はこの感情を押さえる能力を保持しています。それで、この電気信号の継電部をきりキャリパーを止めることが出来る様に成っているのです。
この場面に備える為に武士は「武士道」を創り上げて「静かなる心根」を保てるように訓練するのです。

例えば、その切る事の感情は、側頭葉のところで感情の管理を行っていますが、この側頭葉への信号を自発的に切れる様にして管理されているのです。
戦場では相対して殺戮します。もし、女性の様に、感情を維持し続けると、この事はパニックと成って思考が停止して出来ません。しかし、男性は戦場とする場では、正統な行動して思考を固め、側頭葉の感情を押さえることが出来る仕組みに成っています。思考が停止しパニックには成り難いのです。

この様に[拘り」即ち、脳医学の「キャリパー保持」は訓練でコントロール出来る事を証明できます。
「拘り」と言う点では、当然に、この理屈から女性の方が強く成りますし、「感情」を主体とした深層思考原理(無意識の脳の中での思考する原理)ですので、長く続く事に成ります。
つまり、女性は本能的に「拘り」が強いと言う事に成ります。

兎も角も、男女は別として、この「拘りの感情」を短くする事、又は、外す事には、この液体のキャリパーの流れを止めればよいわけです。

では、どうして止めるかです。
それは、その「環境」から先ず外に出る事、つまり、その「感情」を持ち得ている「環境」を変える事に成ります。
簡単な事は、「環境」を変えることで直ぐに変わりキャリパーは止まります。そうすれば電流は切れますので「感情」は停止します。
ひどく「拘り」が強くなった脳が「うつ状態」の現象ですが、この治療は静かな都会を離れた環境が良いとするはこの理由からです。ただ、この時、上記の五感の一つでは効果は少ない事に成ります。
仏教が言う「拘り」とすれば、静かにして正しくする時間を長くする事で次第に流れは変化して停止します。
これが一つの方法として、周囲の「環境」を整えて「念仏」を唱え「一心無我」になる、又は、上記の「五感」を通して冷静になる事です。僧が行う座禅はこの事によります。(医学的に最も効果的手段)
大きい「拘り」はこの訓練を続けることで、「停止」し、「拘り」の「感情」を外す事が出来るのです。
つまり、この理解で大きく「静かなる心根」を得られれば、必然的に医学的に[脳機能」の通電は止まり、「拘りの心」は無くなるのです。

だから、この脳医学の原理と同じく、仏教では、上記した「冷静に正しく理解する姿勢」(悟り)と解いているのです。
そして、その”「今の侭の自分を是」として、「理解」し、「次第」に、この「理解」を深めて行け”としているのです。

明らかに1000年昔の仏教の教えは、現代の脳医学の対処法と完全合致しています。

これは、明らかに、仏教を信じようが、又、信じなくても、万人が成し得ることに成ります。

ただ、仏教は、最適のこの場(環境)の提供をしていて「助け」と成っているだけなのです。
重ねて、当然、このことの「拘り」を無くする修行を成した経験者、即ち伝道者、修験者や先達人(僧侶)がそこには居る事にも成り助けとも成ります。これが本来の仏教の導く姿です。
キリスト教の”信じよ”と較べても明らかに間接的です。

これが、脳医学から見た仏教であります。矛盾はありません。

近代医学では、この様な宗教の本質の所を解明されつつあるのです。
だから、宗教もこの時代の進歩、つまり、「科学的進歩での付加価値の増加」を加味して、教義を修正しなくては、現代との間に”ずれ”が出るのです。

現代病の「うつ」は、この「科学的進歩での付加価値の増加」に起因する「拘り」の結果から来る病気ですが、この処方箋は、上記の脳医学のメカと対処法の所以と成ります。

この様に、医学的で「拘り」を捨てることを証明出来るのです。

実は、私は、この様な事から、現代の「付加価値の進歩拡大」の為に、「五感」に加えて、ここに「考える(頭)」を追加したいのです。

これが、仏教の「心経」、即ち、(頭「考える」は)「こころの道」であると説いています。

この「五感」(考える追加)を正しくし、敏感にして冷静にすれば、「悟れる」とし、”自ずと理解できる方向にと近づく”としています。
これであれば、仏教の、誰でもが、宗教に帰依する有無に関わらず、「救われる」とする事は、理解し納得できます。
「信じる者」だけではないのです。これが「万能の神」が成す所以ですから。

例えば、都会から離れて、自然に親しみ、生活する事でも、より「悟り」に近づいている事の実感を得ます。
私も、この様なキリスト教の矛盾と、この点の疑問も大きく伸し上がって来て”合わない”との結論を出したのです。

次は⑤番の事に続きます。


4「キリスト経の教え」

キリスト教の設問として、④番の続き、⑤の問題の説明に入ります。

① 他宗を少なくとも先ずは強く排他している事。
② 教えがかなり強引である事。
③ キリスト個人を神扱いにしている事。
④ 兎に角にも、”先ずは信じよ”である事。
⑤ 人は全て悪の子供であると否定する事。
⑥ 中間的考え(柔軟性)は無い事。
⑦ 全体が闘争的な発想に成っている事。
⑧ 特定者(若い者)には受け入れられ易い合理的な教えに成っている事。
⑨ 先祖に対する考えは全体として希薄である事。
⑩ 「民族的」と言う考えを認めていない事。


⑤番目の事です。人は全て「悪の子供」であると否定する事

先ずは、上記の④の脳医学の証明でも、人は「悪の子」ではない事はわかります。
ただ、その「悩み」(拘り)はキャリパーの流れが続いていることから、悩み(拘り)が起こっているに過ぎないのです。
切れば、「悩み」(拘り)から脱出できるのです。「善の子」であるかは別として、「悪の子」等では到底有りません。
仮に、「悪の子」としても、切れば、「悪の子」から脱する事が出来るという事は、生まれながらに、本質は「悪の子」でないことを意味します。
その前に、このことを注釈しておきたいと思います。それで次の事もお考え下さい。

「悪の子供」であるとする教義から、”この悪を全て捨てよ”として”「悪」の無い人として出直せ”と成るのであろう事は想像出来ます。
このことは④番目の事にも繋がる事に成るのでありますが、本当に「悪」なのであろうか。実に疑問と思うのです。
と言うのも、子供が生まれた時のことを考えても、子供そのものは「悪」は持っていないでは有りませんか。
子供は持っているのですか。子供の心にどのような悪を持ち得ているのでしょうか。人は、子供の心に「悪」を持ち得ていないから、子供は可愛いと思うのではありませんか。
可愛いという「心根」の本質は、「善」の全ての姿であるが故の発露ではありませんか。
そして、又、持ち得ていないから、「善」成るが故に、子供を産もうとするのではありませんか。「悪」を産もうとしているのでしょうか。
「産む」という「行為と行動」は真さに、人として、人生の最高の「善」ではありませんか。

まして、人の生誕のその「行為と行動」は、1/250兆の確率で「善」を作り出そうとしているのですよ。
1/250兆のすごい確率の「善」です。これだけの確率で生まれてくる人なのです。悪である筈が有りません。
悪と考える方が異常というべき「ひねくれ思考」です。

人生の「喜怒哀楽」以上の「善」の「最大の善」です。これに勝るもの無しです。
「最大の善」から「悪の子」が生まれると言うのですか。どう言う根拠で「悪の子」と成ってしまうのですか。
この人の世は、「善」から「善」が生まれるのです。生まれながらに「悪」であるならば先天的ですから「悪」から「善」に変わる事はありません。
だから人生の中での一過性の「悪」を「善」にするとキリスト教は言っているのであれば理解は出来ます。
基が悪から何にしようとしているのですか。
仮に、「善」に変わったとして、千差万別の「善」が出来てしまうのでは有りませんか。
キリスト教の宗教を信じない人は信じる人より多いはずです。そうすると世の中、悪ばかりですね。少し独善的ではありませんか。
もし、人がキリスト教国外に出ると、「善の国」に戻り、中に居ると「悪の子」ばかりですから「悪の国」に成るのですか。
これは、「善」即ち「是」である事を認めている証拠です。

子供と人は「悪」で有るとすると、もし、、「悪」であれば、究極、その世は殺し合いの末路となり結果は絶滅となり、存在する事は不可能ですね。そうでは無いとするならば、何処までを「悪」とするのですか。そんな「悪」の限界を決められるのですか。
だから、キリスト教は”この世は何年後かに滅亡する”と予言しているのですかね。確かに予言していましたですよね。(Y2006でしたか、起こりませんでした。)
しかし、人は益々と増え存在しているのですから、滅亡しないで存在しているのだから、その後の大人の人生では「善」の人も居るとなりますよね。その人々は宗教を信じる事なしに「変化」したという事になりますよね。
そうすると、宗教を信じる事や頼らなくても、先天性の潜在的な「悪」が変化して、後天性の「善」に「悪」は変化したという事に理屈は成りますね。
先天性は変化するのですか。しないから先天性であるのでしょう。
もし、そうだとすると、つまり、突き詰めると、”宗教は要らない”となりませんか。

では、更に、キリスト教を信じていない人々の方が多い世界の世の中で、救われない「悪」の人の方が多く成ってしまいますよね。そんな「悪」の世の中は成り立ちますか。無理ですよね。自分も含めて周囲が全て悪魔とは到底考えられません。
しかし、全て尽く人は「悪」を持つのですか。そんなことは無いでしょう。
もし、生まれた時から「悪」を持って生まれたとしたら、その子孫を遺そうとする行為と行動は「悪」という事になるではありませんか。子孫を残す「行為と行動」は「悪」と言う事に成りますね。
つまり、「悪」の定義は、人そのものを「否定」していることに等しいのではありませんか。

この矛盾を繰り返していても仕方が有りませんから、そこで、「動物学」か何かで、証明しましょう。

では、他の動物はどうなのでしょうか。人間は最終に偶然に知恵を持った事により、より他の動物との差違が生まれたに過ぎません。
動物は動物で特別に変わった所はありません。人は高い知恵を取り除けば他の動物と変わりません。
変わる所はありますか。だとすると、他の動物も悪の動物なのでしょうか。
他の動物だけは違うとする根拠がありますか。有りませんよね。

猿の進化から、人はチンパンジーからボノボに変化して類人猿となっただけですよね。その知恵の存在となった直立人の差だけですね。

学問的に検証してみますと、猿とチンパンジーとボノボと人間が、人間が住むような同じ環境の部屋に入れて共同生活させた実験結果がアメリカでありました。
その結果として、ボノボだけは不満をあらわにしたとする結果が出ています。
それは、チンパンジーと自分ボノボとは、猿類としての身分、又は、優越感が違う事に対して、同じところに扱ったとして怒り不満を持ったと言うものです。
人間が持つ猿に対する感情と同じものを持っていたのです。
そして、自分ボノボは、”何故、人間と言う優れた猿に成らなかったのか悲しくて寂しく残念である”という感情を表現したと記録されています。
この様に、ボノボの感情を示す様に、猿類からも人間を同じ(なかま)サル類として観ていたのです。
故に、人間は猿の一つなのです。つまり、動物なのです。キリスト教が言うように、特別なものではないのです。科学的な付加価値のある高い知恵を持ったただの猿なのです。実験結果の様に持っている基本的な感情は全く同じなのです。

この様に、学問的には、チンパンジーやボノボの研究で、彼らもほぼ人類と同じ程度の感情と科学的な進歩の知恵を除く、基本的な知恵を持っている事も証明されていますから、彼ら動物も「悪の子」なのでしょうかね。
でも、「悪」とするとしても、子孫を遺すという動物の本来のこの世の目的として「善の行為と行動」をしていますよね。
何処から考えても「悪の子」であるとする根拠は出てきません。有るとしても余りにも無さ過ぎるのでは有りませんか。有ったとしても少なくてこれでは「悪」とする根拠は希薄となりますね。

私は、この矛盾は、次ぎの4つの理由から出ていると考えます。

その宗教の出所①と、祖師の過去の位置付け②と、時代の変化に対する教義の修正の不足③と、民族の土地柄の修正が出来ていない結果④から、教義に対してこの矛盾が起こっているのだと考えます。

では何故に、修正を加えないのでしょうか。
それは、キリスト教の排他性から来ている事に成ります。
その排他性の根拠は、キリスト教の出所地域の先進性から来ているもので、上記したボノボの「優越感」に相当しているからでしょう。
しかし、最近、その優越感が揺らいでいるのです。

その一つには、日本人がその優越感を変えさせたのです。
経済成長に伴い日本の仏教文化の優越性と、その国民の先進性がキリスト教国をはるかに凌ぐ結果を彼らは確認した事によります。”アジアの野蛮国が先ず有り得ないこと”と観て居た筈です。そう云う発言も公式に戦前にはありましたよね。

第2次大戦の発端は、この有り得ないことが起こりつつある事から、アジアの野蛮国に圧力が掛かり、その圧力に対抗した結果の所以でしたですね。この傾向の最初は大国ロシアに勝った日露戦争の勝利が彼らに衝撃を与えたのです。
その大きな勝利は突き詰めると、3つの要素が浮かびます。秋山兄弟の頭脳働きと、軍艦の大砲の改良と、火薬弾の開発でした。
これを観た英国とフランスと米国とロシアの白色国は日本の底力を恐れ始めたのです。
(7つの融合単一民族なのです。遺伝学的に動物は融合すると進化して優秀な人間を作ります。アジアの中で日本人は異質の融合民族で違うのです。)
そして、大戦より50年以上経ったところで、戦後の占領下15年頃の発言に対して、今の発言は、同等の発言となっています。
私は、まだ若い頃、技術者としてヨーロッパ系の技術者との会話したことが幾度もありましたが、軽蔑とまではいかなくても、見下げた言葉尻で、”又か。”という経験が何度もありました。
技術的には、日本の冶金学は世界一段突であるのだが。

そして、どの宗教も、その矛盾を大きく社会に露出している時代なのだと考えています。
特に、キリスト教での争いが目立ちます。

ただ、仏教では、上記した様に、1000年もその教義に矛盾がありません。
特に、日本仏教では、”その矛盾の事が余り起こっていない”という事でも同等間を持ったのでしょう。
だから、仏教と他宗教との間の差違の矛盾が露見しているのだと考えています。特にキリスト教との差違が目立っているのだと考えます。
その理由の一つは、上記の優越感のあらわな表現もあり、世界に対して、余りにもキリスト教は嫌われて問題を起しているという事です。
特に、中東の社会に於いてです。それはこのキリスト教の教義の強引さから来ているものと推測しています。

では、何故に日本仏教は、その差違が出ないのかと言う点です。
それは次の点になると考えます。
先ずは、①「色不異空、空不異色」、「色即是空、空即是色」の教義の考え方です。
次は②「天神文化の融合」です。
更に、③日本民族の゜単一融合民族」の特質です。
最後に、④その教義を「宗教学」としての学問の発展です。
つまり、④は”信じよ”では無く、「悟れ」(理解)、「拘り」を第一の教義にしている事です。

この結果、次の設問の事にも関わることですが、「時代性」という点で、キリスト教の「悪の子」を始めとする時代性の矛盾と較べて、仏教は時代との教義のそのズレが無く仕上がっていると考えています。
それの仕上がりは、「人間の本質」を、「有るがままに見つめた教義」としている事だと考えています。
つまり、「人間の本質」が時代(時、人、場所)に対して特別に大きく変化しない限りは、その教義は生きている事に成ります。
(この科学の世が発展し別質の「宇宙人間」なる者が誕生しない限り、本質は変わらないから本質である)

余談ですが、奈良期から平安末期までの「顕密仏教」を経て、この「融合教義」を作った日本仏教の比叡山天台宗と、それを大きく広めた次の「鎌倉新仏教」の法然の浄土宗が優秀であったことを意味します。
そして、その時代をリードした為政者の天智、天武の両天皇の荒波を乗り越えた「大化改新」の政治統治の基盤を成した偉大さが如何に大きかったかを物語っています。

その時の「天神文化」の融合の判断も適時適切を突いていて、現代までも大きく矛盾なく持ちこたえて来たのも偉大という以外にありません。多分、天神文化の融合政策がなければ、日本仏教は安土期から江戸期に掛けてキリスト教に取って代わられていた事は間違い有りません。アジアの諸国の現状がその証拠です。
そして、1650年程度と続いた現在の日本文化は、上記した考え方の違いで、異教に破壊されて無く成っていた事をも意味します。
私は更に、多分、文化どころでは無く、当然に異教の思考原理の浸透で、日本人に肌身に合わないし適合しない事から政治情勢も混乱し続けていたと思っています。

この様に、日本の融合を基盤とする仏教文化は「すごい文化」であったかと考えます。この様な文化はこれ以後出ていません。
その「教義」は、大した矛盾もなく日本人の民族の遺伝子と生活環境と成って引き継がれて来ているのです。
その、最も優れた思考は、「仏=先祖」の思考であったと評価しているのです。

私は、この「仏=先祖」の数式が維持され、「歴史感覚」が保全保持されれば、日本の国体は安泰であると信じています。
しかし、現在、経済発展に伴い合理思考が伸び、アメリカナイズされて、この「歴史感覚」が希薄に成っていると危惧しています。
故に、全国の人、兎も角も、青木氏に対して、先祖の如何を述べています。

しかし、何はともあれ、現在に於いてまでは、何をか況や、これは真さに、日本仏教の起源を成した「大化改新」であり、上記した基盤がそれを成し遂げたもので、施基皇子を中心とする「皇親政治」を実行した第6位皇子の子孫の5家5流の「青木氏一族」が、奈良期の「基盤政治」をリードし、7つの民族の「融合政策」を牽引して、「優秀な民族」を創造し、「天神文化」を築いた我が「先祖」の成せる技であります。
これは、前説のわが先祖の「行為と行動の逆進性」の「流」の条件が整っていたことを意味します。

次は⑥番の事に続きます。
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先祖と宗教(行為と行動の逆進性)

設問
1「呪いの意」 (般若経の一説:仏教は何故呪うのか)
2「時間の逆行性」 (時間は逆行しないのだから仏教の仏=先祖は疑問)
3「行為と行動の逆進性」 (先祖が成した行為と行動は逆行しないのだから「仏」は疑問)
4「キリスト経の教え」 (仏はキリスト教の教えと異なる)
5「仏教とキリスト経の妥協の余地」 (根本的な違いの考察)

(前回は第2の設問でした)

以上に付いてシリーズで私観を述べたいと思います。

長い論文になりましたので、ゆっくりとお読みください。
尚、人生観と宗教論ですので、硬い話と成りますが、ご興味のある方の論文と成ります。
出来る限り科学的な論所を以って論じていますので、全てが抽象論とは異なります。
解りやすくするために数式論を採用しています。
青木氏を研究する中で、”先祖とは何ぞ”の疑問を解く過程での得た私観です。

では、次をお読みください。

今度の第3の設問は「行為と行動の逆進性」(先祖が成した行為と行動は逆行しないのだから「仏」=先祖は疑問)です。

設問の理由説明
第3の設問のこの[行為と行動と逆進性」、つまり、”先祖が成した「行為と行動の結果」(実績)が変化しない(その影響力は無くなる)。又、時間に対しても逆行しない、又は、変化しない。だから、「先祖」が彼世で「仏」に成って、その「行為と行動の結果」を続けて持ち込んで、その影響力を以って子孫を導くという「力」のその基に成るものは無い筈だ。故に、仏教で説く、「先祖」が「仏」になって子孫を導くと言う事はあり得ない”と言う事に付いてですが、私は次の様に考えています。

結論からしますと、”行為と行動は逆進する”と結論付けたいのです。

但し、この事は、”現世に於いてのみは通常はない。”であります。しかし、他次元的な関連として思考するなら、つまり、宗教的な思考原理からすると、”逆進する”。であります。
そして、この現象は、”現世に於いてある条件下で存在する。”であります。
矛盾している様ですが、実はその立証は困難であるからであります。

恐らく、多くの方はこの現象に一度は必ず出くわしていると思います。そして、それが不思議な事として頭の記憶の中にしまっている事だと思います。

「行為と行動」の現象(流)
その不思議な事を引き起こす「行為と行動」の現象とは、(その逆進性とは、)私は「流」(ながれ)という摩訶不思議な現象だと思うのです。
皆さんは、この「ながれ」「流」と言うものを経験していると思います。特に人生経験を深くして歳をとられた方なら承知していると思います。そして、その受け入れの心得なるものを会得されているのではないでしょうか。
つまり、”この様な「流」の時は、この様にするのだ”と、特に、「古からの言い伝えの教え」では”静かにしているのだ”が一般的ではないかと思います。然しこの「戒め」も今では全く聞かれません。

正しく真剣に「行為や行動」をしても、その「結果」がどうしても「行為や行動」に一致する事の答えに至らない。
すればするほどに、”何か見えない大きなものに流されていて、決められた方向に逆進する。”
そして、”結果は本来あるべきものとして得られないで、何時か、何処か、誰かで決められた方向にたどり着いてしまう。”という現象を経験していると思います。
六十数年の間に私にもこの体験を何度かありました。そして、その体験中はその「ねらいの意識」対して違う答えが頭の隅の方でなんとなく見えているという何れも不思議な経験でした。

「行為と行動」の現象(流)力<「静かなる心根」=悟り(理解)=(1と2の設問の理) (A)

この「流」の強さの力(押し流される力)は、1と2の設問でも記述した「静かなる心根」即ち、「悟り」(理解)を獲得すれば、”その「流」の力に勝り、「ねらいの意識」に対して、その差を理解させて、「神仏」が導く方向の意が見えてくる。”という事であります。

「流」の現象の正体
では、これは一体何なのでしょうか。
私は、これが、「他次元との連携による力が働いての結果」と観ています。
普通は、意識しないでいれば”何の事”と成るでしょう。
しかし、その”何の事”の生きる姿勢ではなく、世の成り立ちを正しく理解すると言う意識が現世に生きている人に生まれれば、見えてくる現象であると云う事です。
つまり、自分の「行為と行動」とは違う「ながれ(流)」の方向になる「他次元性の力」が、この「逆進」の現象を意味し、その「違う結果」の「最終の形」が、「相反する形」になる事から、現世に現れる「逆進の形」であると考えられます。この「逆進の形」が運命的で、神仏がその様に仕向けたとしか考えられない結果になる現象です。
本来、どんなに手を尽くしても「他次元性の力」の力が働き「1+1]=2と成らないこの現象です。

「ながれ(流)」=「逆進の形」 (B)

「数理的不思議」
例えば、論理的数理的であるのに、「1*1」=1と成る様に。「1」は有量です。然りながら、「1」と言う量を持つのに、しかし、結果は基の[1]なのです。この有量の二つのものを掛け合わせれば本来の意識では増量と成る筈です。「2*2」=4の有量のものを掛け合わせれば増量する様に。(数と量の数学定義を無視して観ると)つまり、「1」の次元上で起こる1次元と1次元の積では2次元と成らない何か間尺に合わない現象です。

ここには「固定意識」(固定観念)という「1次元的感覚」が存在する所以から起こる現象で、人間の「錯誤意識」がこの数式を理解できない「破目」に追い込んでいるからです。そのために数学では、この錯誤を防ぐ為に「但し書き」を「定義」として「前置き」をします。

「固定意識」(固定観念)=「錯誤意識」=「1次元的感覚」 (C)

「前置き」の消失
私は、人間は、この「前置き」に付いて、約千年程度の歴史の中で、漸次失われて来た「意識」であると考えています。
即ち、それは「他次元性」又は「現世と彼世」、突き詰めると「彼世の先祖」としての「但し書き」の「前置き意識」ではないかと考えているのです。
この「前置き意識」が無いが為に、「流」に流されていると錯誤しているのだと考えています。
本来は「現世と彼世」が有って、初めて「人の世界」なのだと考えています。
古の「先祖」はまだ「この意識」が多く持っていたのではないかと考えています。
「人の世界」とは、現在では「現世」(+)だけとされている気がします。
故に、+の片方から観た結果の判断と成ってしまっているのだと思うのです。そして、「違う結果」と認識してしまっているけれど、しかし、(+)と(-)の世界から見た結果の判断が本当は正しいのだと思うのです。
ある問題が起こったとします。その時、裁定者は両方の意見を聞き正しい結論の裁定を下す様に導きます。
ところが、「流」のこの他次元性に及ぶ問題が起こると、前置きの消失意識と固定観念がある為に、それを裁定する自分には一次元的感覚の錯誤意識が起こり、「違う結果」と受け取ってしまうのだと考えます。
それは(-)の意識がある事で「当然の結果」と受け取れるのだと思うのです。
故に、「当然の結果」と受け取れるには、「静かなる心根」(設問1と2)にて(-)の消失した意識を取り戻す事が出来るのだと成ります。
だから、「昔からの戒め」として”静かにしているのだ”と成ったのだと考えます。

「行為と行動」+「前置き意識」(消失意識)=「人の世界」=「現世と彼世」 (D)
「違う結果」+「静かなる心根」=「当然の結果」 (E)
「違う結果」-「錯誤意識」=「当然の結果」 (F)

「迷信と混同」
その証拠に私の小さい頃には、この事(現世と彼世との意識)に関わる「行動と行為」は、未だ周囲の年寄りや自分の行動に付いて日常の生活の中に沢山あり、何の疑問も感じないで受け入れていた記憶がまだ有ったと認識しているのです。
ところが、時代と共に付加価値が増えて必然的にその必要性の無さから消えうせて行ったのではないでしょうか。
そして、今や「迷信」と言うものの中に、この意識が取り残されて現在では殆どなく成っている感じがします。
むしろ、真偽は別として、「他次元性の戒め」としての「迷信」と言う言葉さえも聞かなくなり無く成ってしまった感じがします。若い者に「迷信」と言うと”それ何”と言われる始末です。
概して言うと、この「消失した意識」とは「迷信」であった筈です。
この「他次元性の意識」([消失した意識」)として余りに生活や宗教会の中で多く存在させた為に、中には不適当なものも入ってしまった結果、「迷信」とレッテルを貼られてしまったのではないでしょうか。

まだ、山里の田舎に行くと、この「迷信」を他次元性の意識として生活の中で生かしている筈です。
例えば、烏が執拗に鳴くと「不吉」なことが起こるとか、黄色の夕焼けが起こると「自然災害」が起こるとか。夜につめを切ると人が死ぬとか、この様に生活に密着した人の行為と行動に警告(戒め)を他次元性を絡めて発している「迷信」なるものがあります。
先祖が遺した他次元と繋げた「諺」(ことわざ)や「口伝」等の一部もこの「消失意識」ではないでしょうか。
これも「迷信」と共に核家族化で消えてしまったのでしょう。その意味で「先祖」の遺した無形遺産は大きいと認識しているのです。
自分の人生に於いて、より「当然の結果」として理解できる様に「先祖を知る事」をテーマに長年努力を積み重ね試みた一つでもあります
兎も角も、その過程で、私はこの「消失した意識」が「拘った固定観念」を生み出し、強くして、結果として社会の乱れを生み出し、人の思考を歪ませて、根底から(+)の現世からのみの視観となってしまっていると考えたのです。
つまり、「唯物論」が強くなったという事になると思います。

(現世と彼世との意識)=「迷信(混同)」=「他次元性の戒め」=「昔からの戒め」 (G)

「相対の原理」(現世と彼世)
もし、「相対の原理」がこの意識問題に適用されて真理とすると、「現世」を「+の世界」で、「彼世」は「-の世界」として考える事が出来る姿が、人本来の基本思考である筈です。この世のものが全てこの「相対の原理」で成り立っていると言う事実から考えると、この思考が時代と共に消滅した代表的な思考ではと考えます。
つまり、「思考に偏りが出来た人々」の我々が「-の世界」に関わる事が起こると、これを摩訶不思議と観てしまっているのではないでしょうか。
そして、そこに他次元性の意識消失の結果に依って生まれた「拘りの意識」が多すぎると、それが余計に「摩訶不思議」となり「違う結果」と観てしまうのでしょう。
つまり、我々現代人は残念ながら「悟り」(理解)が小さいと成ります。
この事から「相対の原理」が真理である限り、バランスある思考を保つ為にも、「彼世」の「-の世界」の意識を持つのが普通ではないでしょうか。

「違う結果」+「拘りの意識」<=「摩訶不思議」 (H)
「現世」の「+の世界」=「相対の原理」=「彼世」の「-の世界」 (I)

以上このことを念頭にして、本論を展開したいと思います。

そこで、次の様に解りやすく数式論を伴い更にこの観念論を進めてみます。

本論
(A)から(I)の数式定義を念頭にご理解ください。

まず、定義を数式で現すと次のように成ります。
 「流」=「行為と行動の逆進」を仮定する  0
              
 「行為と行動の力」の結果<「他次元性の力」の結果  1
 「行為と行動」の形<>「他次元性の逆進」の形  2
と言う事に成ります。

「逆進の信憑性」
「呪い」や「時間の逆行」でも記述しましたが、明らかに現代の医学では解明がされていない現象の「2つの器官」と「2つの脳波」の存在でも判る様に、「何かの力」=「他次元性の力」が働いていることは明らかで、それを成す器官が人間に持っているという事実を鑑みると、この「行為と行動の逆進性」も完全否定は出来ないものと考えます。

数式で現すと次のように成ります。
「流」=「行為と行動の逆進」=「2つの器官」と「2つの脳波」の働き  3

「何かの力」=「2つの器官」と「2つの脳波」の働き=「流」の力=「他次元性の力」 4

ただ、それは、現代医学では完全に解明されていない範囲である事だけの否定でしか有りません。
そして、むしろこの不可思議な現象が、「2つの器官」「2つの脳波」の医学的証明と、古代史実からも「状況証拠」として認められて居り、むしろ、「否定方向」ではなく「証明される方向」にあると言うことです。

だとすると、必ずしも、現世に於いては、”「原則進行性」の前提ではあるが、「他次元性逆進」もあり得る”という考えに我々の思考として(A)から(I)のことも踏まえて、現代人として到達させて置く必要があるのではないでしょうか。
ところが、現代人は「時代の付加価値の増加」に伴い、必然的に、この「拘り」の心を多く強くせざるを得ず、「多元性の意識」と「静かなる心根」を維持するに難しい情況と成っているものと考えられます。

「拘り」説法の意
そこで、必要なのは”「原則進行性」の前提ではあるが、「他次元性逆進」も有りうる”とするこれが、仏教でいう現世に生きる人としての「思考姿」、つまり、”「色不異空、空不異色」「色即是空、空即是色」”の「否拘りの説法」(設問1前説)であると考えます。

(参考 設問1から転写)
では、この一節をどの様に理解したら良いかと言うことですが、私は次の様に理解しています。
「色」即ち、この世のあらゆる物質は全て色(いろ)を有します。故に、その「色」(いろ)のある環境、つまり総意としての「現世」であると理解出来ます。
数式で現せば、「色」=「現世」(うつせ)だとします。
「空」即ち、物質として存在しない空(から)の世界とし、色(いろ)を有さない世界だから、つまり総意としての「彼世」(かのせ)であると理解できます。
数式で現せば、「空」=「彼世」(かのせ)だとします。
そこで、「色は空と異ならない 空は色と異ならない」、故に「色は空であり、空は色である」と説いています。
つまり、言い換えると「現世は彼世と異ならない 彼世は現世とは異ならない」、故に「現世は彼世であり、彼世は現世である」と成ります。
究極の大意の数式で現せば、「現世=彼世」であるとします。
つまり、、「現世=彼世」法の「理」は、”物事に色があるから無いからとどうのこうのと言い立てるな、空だから無いからと騒ぎ立てるな”と言っていると思います。
言い換えれば、究極は”「物事に拘りすぎるな」”となるのではないでしょうか。

つまり、以上の参考での般若経一節の私説の通り、換言すれば、”静かなる心根(悟り:理解)を得る事、”即ち、”「他次元性の失われた意識」を取り戻せ”と成るのではないでしょうか。
ところが、上記した「他次元性の失われた意識」が易々と戻らない為に、かなり強い力で、「拘りという意識」のバリヤーを取り除かなければ、「流」が見えないものと成ってしまうと解釈できるのではないでしょうか。
仏教でのこの「説法の意」としては、漸次消失して行った何時の世も、現世の人の「意識の消失」の経緯から、「人の道」(心の経:みち)として説いている「般若心経」一節は強調しているし、この上のニ行を意味していると思うのです。

「流の正体の解明」
このことでは、”何のこと”となると思います。この「流の正体」が解らなければ”如何に”と成りますので、その「流」(ながれ)を具現的に説明したいと思いますが、人それぞれの種々「流」の経験は異なると考えますので、「流」の内容に付いては(異文ともなるので、)読者の経験談に委ねたいと思います。その上で次の一般論でご理解ください。

「逆進の現象」
この様に、”兎も角も、先ず、①本人の意思や周囲の意思に反して、その方向とは次第の結果は別の方向に進んで行く。
次に、②あがくと更に進むと言う現象が起こる。
更に、③「環境」が整うと今度は、逆に境遇も本人の意思に関係なくどんどんとよくなる。
そして、④最後に、被者があれば、(天罰が降るが如く、)本人外の周囲の「環境」はそれなりに悪くなる等の現象が起こる。”
この「4つ現象」の変化が一般的なものとなると思います。そして、この「4つの変化」には人の特長から「強弱」が起こります。
この「強弱」が人の「流の差」と成るのだと思います。

数式で表現すれば、人の「強弱」=「4つの現象」=「流の差」 4-1

これが「行為と行動」に付いて人それぞれの「流の結果」が異なってしまう「逆進現象」と考えます。

「逆進の起源とメカ」
この様に、何か附合一致して、これだけの「行為と行動」に対する「環境」を相対的に変える事や、整えることがバランスよく出来るのは、この現世の出来事ではない事と思われ、且つ、確かに何らかの力が他次元から引き起こされいるとしか考えられません。

この場合は、「流」では良い方向(幸せ)に向かう場合もあれば、この逆の例の「戒めを受ける事」(苦労)も世の中には沢山あるだろうと思います。

さて、上記の事で、この「差」は、どこかで繰られているのかと言う疑問が湧きます。

私は結論から言うと、”当事者のこの世に対する「理解」の差で異なる”と云う感じがするのです。

数式で表現すれば、「流の差」(4-1)={当事者のこの世に対する「理解」の差}で異なる。 4-2

しかしながら、どんな場合でも、「神仏」との「連携」が成されるとは限らないのではと思います。

それは「仏」が言う「ある理解」、又は[悟り]の状態を得ている時に起こると考えられます。
そして、それをキャッチする器官は、「2つの器官」であり、その「理解」の差は「2つの器官」の”センサーレベル”によると見られます。

この「ある理解」(悟りの状態)とは、次の過程(イからホ)を経て得られると思います。

イ 「心」を「拘り」から「脱却した差」による時に起こります。

数式で表現すれば、「ある理解の差」(悟りの状態)=「脱却した差」(拘りの心)=センサーレベル 5

ロ そして、本人の「無我」の「心」の「よどみ」が失せた事による時に起こります。

数式で表現すれば、「ある理解」(悟りの状態)=「無我」の「心」の「よどみ」=0 6

ハ この2つ状態(5、6)の何れかに成った時、静寂にして最高の感度を得え高まります。

数式で表現すれば、(5、6)=MAX(センサー) 6-1

ニ この「2つの器官」の本人のセンサーに、先祖が送り届ける波長が合致します。

ホ これ(イからニ)を経て、得て、この時に「神仏」(「先祖」)は、手を差し伸べてくるのではないかと考えます。

数式で表現すれば、「2つの器官」(センサー)=先祖の波長=神仏の加護 7


次に、脳医学的な過程の検証として次の様になります。

「論理的検証」
人間には、脳幹という電池の芯に相当するものがあり、これには地球をマイナスとしてその上に存在する物質はその高さのレベルに相当して電位がかかり、その電位は脳の中心にある脳幹のレベルを変動させる事が出来る仕組みになっていて、これに依って電流が流れて、脳神経細胞を経由してキャリパー(Naイオン)の液に到達して、電子が液イオンに乗って継電してその反対方向に電流が目的の所まで流れて脳が働く仕組みと成っている。

この仕組みはその「神経(心経)の集中力の差」にて脳幹温度は高まると電位は高まり比例的に電流値は変化する。
この高まった電流が流れた時、「2つの器官」のセンサーレベルもこの「集中力」によりこの差に比例して高まる。
これに添って同レベルで「2つの脳波」も動作する。
この「2つの器官」と「2つの脳波」とは連動連携しているのではないかと予測する。(設問2記述)

そして、その「心」への信号は、高レベルの前記の「2つの器官」を使って、本人や周囲の関係者に作用を及ぼす事に成る。
この及ぼす力はこの時の関係者の「理解」と物事の「拘り」の如何に関わるのでは無いかと考えます。
そして、そのセンサーレベルに達していない場合には”届かない”となるのではないかと考えます

数式で表現すれば、集中力の差=電流値の差=センサーレベルの差 A 8
数式で表現すれば、Aの差=「2つの脳波」の差 B 9
数式で表現すれば、Bが高い(HIGH)とき=他次元との連動 C 10

上記の数式の場合のCのLOWでは、「行為と行動」に対する「環境」」と「2つの器官」のセンサーレベルが合致に至っていないから「他次元との連動」を起さないと考えます。
これは、”「親、先祖、仏、神」を敬い養護する姿勢の有無の如何の差”に依ってセンサーレベルが定まるのだろうし、又、、「行為と行動」に対する「環境」」に合致し、このセンサーレベルが受けられる関係者が居た場合は違う展開が起こっていただろうと観られます。

ところが、その展開に付いて、普通、現世に生きる者は「勧善懲悪」と期待するが、前提として、必ずしも神仏は「勧善懲悪」ではないと私は考えています。

「勧善懲悪」の3つの式(11、12、13)
この事に付いて仏教でも、次の様に説いています。

”正しいものは常に正しいという事ではない””悪いものは常に悪いとは限らない”はと説いています。
むしろ、禅宗などは、更に、突っ込んで、問答では”悪いものは正しいと云う事もある””正しいものは悪いと言う事にもなる”と云っています。
そして、それは”「三相」(人、時、場所)の如何に関わる”と説いています。

参考 この事は上記した”結果は本来あるべきものとして得られないで、何時か、何処か、誰かで決められた方向にたどり着いてしまう”を裏付けています。

そして、更にこの状況(良悪、正否の判定)は”社会の付加価値の変化にて進む”と説いています。

数式で表現すれば、 正しいもの=悪い 悪いもの=正しい 11

数式で表現すれば、 正しい=<「三相」(人、時、場所)>=悪い 12

数式で表現すれば、(良悪、正否の判定)の変化(進化)=社会の付加価値の変化(進化) 13

判りやすく云うと、現代のように、社会が近代的(科学的)になり、付加価値が増え、原始の社会の「原理原則」が成り立つ易い「環境」と比して、社会構造が複雑になり正しさが異なることが起こるから、仏教では”正しいから正しいと拘るな”とする一つの理由になります。
”何時の世も「良悪、正否」とする社会環境は変化する”ということであります。

「勧善懲悪」の「3つの説」(abc:141516)
この「勧善懲悪」を仏説で考えると、次の様になると考えます。
先ず、(a)”全て正しい者は「神仏」からの常に正しい適切な処遇を受ける”とは思われないのです。
そして、(b)”「先祖」が考える多くの要素を踏まえ未来過去の要素を配慮した形に持ち込む”と考えます。
更に、それは、(c)”「4つのみ」から脱却した「仏」の成せる業技である”と思います。

上記「勧善懲悪」の「3つの説」(abc)が成り立たなくては、それでなくては、人間であり、仏ではありません。

つまり、「仏」が「4つのみ」を脱却するとはこのことを意味すると考えます。

数式で表現すれば、「勧善懲悪」の「3つの説」+「3つの式」=「仏」(「4つのみ」を脱却) 13-1

「脱却の意」の4原則
数式で表現すれば、仏(先祖)の判断<>正しい適切な判断 14
数式で表現すれば、仏(先祖)の判断=未来過去の要素を配慮した形 15
数式で表現すれば、仏(先祖)の判断=仏」の成せる業技-「4つのみ」 16
数式で表現すれば、仏(先祖)の判断>人間の領域 17


では、「脱却の意」の4原則で行われない「勧善懲悪」とは、その辛い「しがらみ」の中で、人間が考えた切なる願望であるに過ぎないし、それを仏、神が成してくれるものとして勝手に考えている事です。
つまり、仏教が否定する「ご利益信仰」に過ぎないからです。
「ご利益信仰」を宗教と考えている人が大方であるが、「ご利益信仰」は「宗教」ではありません。単なる「人間のエゴ」に過ぎないと考えています。

「ご利益」とは「静かなる心根」を得て、結果として「間接的に得られる幸せ」です。

それでなくては、仏前に手を合わせて、打算(妥算)を願い出れば、簡単に得られれば、全て誰でも何処でもいつでも得られるという事に成ります。

数式で表現すれば、ご利益=「静かなる心根」=間接的な結果幸せ 17-1

もし、それが叶うのであれば、悩みなどは直ぐに仏前で手を合わせれば叶う事に成り、このするところの意味は、結果として宗教はいらないと成りますし、宗教は当初より存在しません。当然仏壇も寺も神社も生まれなかった筈です。

数式で表現すれば、「勧善懲悪」=「ご利益信仰」=「人間のエゴ」>「宗教」 18

神仏のそれは、そんな人間が考える次元の範囲であるとは思わないのです。
もしそうであるとすると、それは「神仏」では有りません。人間そのものであります。つまり、人間の「4つのみ」を持っている「神仏」となってしまう。そんな事は有り得ない事です。
もし、この「4つのみ」から脱却した「仏」であり、「仏」から遊離したの「神」であるなら、「神」が考える最も良いとする形に持ち込む筈です。

その形の「良悪、正否」の事は、現世に居る我々には理解できない範囲にあり、「三相」に関わるとしか判らないのであります。
「神仏のみが知る」であります。

数式で表現すれば、「良悪、正否」の事=「神仏のみが知る」=社会の付加価値の進化 19

だから、人は長い人生の中で、日々より多く悟り理解して、「神仏のみが知る」の範囲の僅かでも読み取ろうとするのであります。

従って、上記する「流」は多くのステップで構成されています。そして、人間が考える「流れ」の一ステップを捉えて「良悪、正否」を評価しても、全体を見た中で判断しなければ、「神仏」が決めることは、人間の範囲を超えている故に、正しい答えは出ないと考えます。

故に、(A、B、C、D、E、F、G、H、I)の前提下に於いて、「行為と行動の逆進性」は、現世に於いては通常の「流」の中では無いとし、しかし、「神仏」又は「先祖」が看た他次元的現象(0から19)が起こった場合に於いて、「2つの器官」「2つの脳波」を媒体として「神仏」加護の下で「逆進性」は起こると成ります。

以上、論理的に数式論にすると、人間には、消失した意識が多く起こり、遂には多くの思い込みが出来て、結局は拘りが強くなり、究極は絶え難いエゴが出たとする局面が私には見えてきます。
皆さんは如何でしょうか、現在、何かが消失して居ると感じていないでしょうか。
一度、この「行為と行動」の論で振り返ることも必要ではありませんか。

参考(行為と行動の逆進性の数式論の記述)

「行為と行動」の現象(流)=「静かなる心根」=悟り(理解) (A)

「ながれ(流)」=「逆進の形」 (B)

「固定意識」(固定観念)=「錯誤意識」=「1次元的感覚」 (C)

「行為と行動」+「前置き意識」=「人の世界」=「現世と彼世」 (D)

「違う結果」+「静かなる心根」=「当然の結果」 (E)

「違う結果」-「錯誤意識」=「当然の結果」 (F)

(現世と彼世との意識)=「迷信(混同)」=「他次元性の戒め」=「昔からの戒め」 (G)

「違う結果」+「拘りの意識」<=「摩訶不思議」 (H)

「現世」の「+の世界」=「相対の原理」=「彼世」の「-の世界」 (I)

数式で表現すれば、「流」=「行為と行動の逆進」を仮定する 0
              
数式で表現すれば、「行為と行動の力」の結果<「他次元性の力」の結果 1

数式で表現すれば、「行為と行動」の形<>「他次元性の逆進」の形 2

数式で表現すれば、「流」=「行為と行動の逆進」=「2つの器官」と「2つの脳波」の働き 3

数式で表現すれば、「何かの力」=「2つの器官」と「2つの脳波」の働き=「流」の力=「他次元性の力」 4

数式で表現すれば、人の強弱=4つの現象=「流の差」 4-1

数式で表現すれば、「流の差」(4-1)={当事者のこの世に対する「理解」の差} 4-2 

数式で表現すれば、「ある理解」(悟りの状態)=「脱却した差」(拘りの心)=センサーレベル 5

数式で表現すれば、「ある理解」(悟りの状態)=「無我」の「心」の「よどみ」=0 6

数式で表現すれば、(5、6)=MAX(センサー) 6-1

数式で表現すれば、「2つの器官」(センサー)=先祖の波長=神仏の加護 7

数式で表現すれば、集中力の差=電流値の差=センサーレベルの差 A 8

数式で表現すれば、Aの差=「2つの脳波」の差 B 9

数式で表現すれば、Bが高い(HIGH)とき=他次元との連動 C 10

数式で表現すれば、正しいもの=悪い 悪いもの=正しい 11

数式で表現すれば、正しい=<「三相」(人、時、場所)>=悪い 12

数式で表現すれば、(良悪、正否の判定)の変化(進化)=社会の付加価値の変化(進化) 13

数式で表現すれば、「勧善懲悪」の「3つの説」+「3つの式」=、「仏」(「4つのみ」を脱却) 13-1

「脱却の意」の4原則
数式で表現すれば、仏(先祖)の判断<>正しい適切な判断 14

数式で表現すれば、仏(先祖)の判断=未来過去の要素を配慮した形 15

数式で表現すれば、仏(先祖)の判断=仏」の成せる業技-「4つのみ」 16

数式で表現すれば、仏(先祖)の判断>人間の領域 17

数式で表現すれば、ご利益=「静かなる心根」=間接的な結果幸せ 17-1

数式で表現すれば、「勧善懲悪」=「ご利益信仰」=「人間のエゴ」>「宗教」 18

数式で表現すれば、「良悪、正否」の事=「神仏のみが知る」=社会の付加価値の進化 19

一般的「4つ現象」の変化
①本人の意思や周囲の意思に反して、その方向とは次第の結果は別の方向に進んで行く。
②あがくと更に進むと言う現象が起こる。
③「環境」が整うと今度は、逆に境遇も本人の意思に関係なくどんどんとよくなる。
④最後に、被者があれば、(天罰が降るが如く、)本人外の周囲の「環境」はそれなりに悪くなる等の現象が起こる。”

「ある理解」(悟りの状態)過程(イからホ)
イ 「心」を「拘り」から「脱却した差」による時に起こります。

数式で表現すれば、「ある理解の差」(悟りの状態)=「脱却した差」(拘りの心)=センサーレベル 5

ロ そして、本人の「無我」の「心」の「よどみ」が失せた事による時に起こります。

数式で表現すれば、「ある理解」(悟りの状態)=「無我」の「心」の「よどみ」=0 6

ハ この2つ状態(5、6)の何れかに成った時、静寂にして最高の感度を得え高まります。

数式で表現すれば、(5、6)=MAX(センサー) 6-1

ニ この「2つの器官」の本人のセンサーに、先祖が送り届ける波長が合致します。

ホ これ(イからニ)を経て、得て、この時に「神仏」(「先祖」)は、手を差し伸べてくるのではないかと考えます。

数式で表現すれば、「2つの器官」(センサー)=先祖の波長=神仏の加護 7


以上が私の逆進性の結論であります。
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