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先祖と宗教(「時間の逆行性」)

設問
1「呪いの意」 (般若経の一説:仏教は何故呪うのか)
2「時間の逆行性」 (時間は逆行しないのだから仏教の仏=先祖は疑問)
3「行為と行動の逆進性」 (先祖が成した行為と行動は逆行しないのだから「仏」は疑問)
4「キリスト経の教え」 (仏はキリスト教の教えと異なる)
5「仏教とキリスト経の妥協の余地」 (根本的な違いの考察)

以上に付いて私観を述べたいと思います。
では、「呪いの意」 (般若経の一説:仏教は何故呪うのか)に続いて次の2番目の設問に入ります。

2「時間の逆行性」 (時間は逆行しないのだから仏教の仏=先祖は疑問)

普通、時間は逆行しません。
しかし、宗教では逆行はすると言う説法が多くあります。

前問の「呪い」のところで、「4つのみ」から開放された躯体の持たない魂の「仏」は、死後1週間は「魂」として現世に残るとされています。
そして、この魂は「躯体」を持つ現世の者に語りかけると説いています。

実体験
実は、私の両親と親族の3度の葬儀の後に、この現象に遭遇したのです。
この事の話は、現実にも近隣でも良く聞く話で、叔父も同じ経験をしていると聞いていましたので、まさかという感じでした。確か叔父も周りの人には信じてもらえなかったといっていた事を覚えていて、実は私も経験して驚いたものでした。

葬儀の後に、親が住んでいた仏壇の母屋に入ると、かなり大きい声で話し掛けられるようになんとなく語りかけて来る話し声が耳に入って来たのです。その語意ははっきりとはわかりません。この現象は長い時間で暫くすると止まります。その現象は矢張り1週間続きました。
話していることは確実なのです。周囲は明るい部屋です。方向もなんとなく判るという程度です。その声は父親であり、又母親であり、兄弟であるとする事もはっきりと判りました。
側には家族がいましたが、聞こえないと言いますが、周囲を見渡しても音のするものは有りませんし、家族は静かだと言います。外に飛び出してみても何もありません。理解し難い現象です。
この親族の葬儀の後の経験は3度もありましたので、2回目の時は、”あっ又だ。確かにある。”として、今度は慎重に、静かにして、何を云って居るのかを確かめようとしてみましたが、矢張りわかりません。しかし、印象として、家の事を託すようなことを話しているという直感が起こりました。
これは多分、自分の置かれている立場を自分が知っていて、それを直感として浮かんだのだ、或いは浮かび上がらしたと後で思いました。
それで、私の職業柄であり性格でもあるので、不明快な事では居てもたっても居られません。この現象に付いての調査を始めたのです。宗教的、脳医学的に起こる原因があるのかとの調査です。
そして、双方の点に確かにありました。
この時の現象では、先ず、「直感」に付いては、「仏」が超元的な方法で、私に「直観」を起させ訴えるという方法を採ったという結論に至りました。

仏教でも、脳医学でも、直接「言葉として話し掛ける」と言う連携ではなく、「直感」に訴えると言う方法が起こる事もわかりました。

この現象に付いては、「時間の逆行」の体現がないので、どのような体現として得られるかは判りませんでした。
私は現世に居ます。従って、時間は逆行することはありえません。しかし、躯体をなくした魂の「仏」は他次元(4次元)の世界に居ます。よって、この制限は有りません。
起こるとすれば、「仏」の方からの現象である事は理解できます。
「魂」のみとなった「仏」が話し掛けるとする事は、次元を現世に戻している事に成ります。そして、その現象を「直感」という方法にて出現したのです。
故に、他次元から現世に戻しているのですから、これは明らかに、「仏」の「時間の逆行」を示す現象です。


しかし、この「直感」に訴えると言う体現反応は、脳医学的に論理的に証明出来得る可能性があることが解りました。
(この事に付いては下記に記述します。)

論理的な可能性の理論
つまり、死んで躯体をなくし「魂」のみの「仏」となった者が、「過去の自分」を「現世に戻した」とする現象です。時間は戻っています。

ところがこの不思議な現象を「脳医学」で理解できるものがあるのです。

人間には、「野生本能」というものが存在し、その「本能」を司っていたのではないかとする未解明な不思議な「脳器官」が2つあるのです。

現在でも、あまり、進んでいない野生動物の一部に、この2つの器官が存在して作用している事が解っています。
それは、次の通りです。

「2つの器官」の説明
一つは、「第3の目」といわれるものです。

動物には主に二つの目があります。然し、元はどの動物にも「副眼」というものがあったとされていますが、その必要性が環境の変化で退化してしまったのです。
その「第3の目」的働きをする器官は、現在では、人間では、脳の中心の最下部のところにうずくまるように小指の先くらいの大きさで存在します(前松帯)。これは本来は「前頭葉」の額の上部に存在していたと考えられていて、これが、人間のように脳が進化した為に下に押しやられて、その目的が少なくなり、低下して退化したとされています。

人は、何かを真剣に考えるとき、全思考勢力を額の中央付近(目圏)に集中させて考えるという仕種をしませんか。多分、この時に次に記述する部位が働いているのだと思います。
古い奈良時代の仏像には額の上部に複眼を持った仏像がありますが、これはインダス文明の古来から人間にはこの複眼的機能がまだ比較的強く働いていたことを示すものではないでしょうか。

では、そこで、その事に付いて述べて、論理的にこの現象を解いて見ます。

論理的現象
この「第3の目」は現代では、感情的な予知や未来に対する予測の補助として使われている事までは解っています。
これ等の働きは、人間では左脳の学習的記憶データーから読み取り、無意識の深層思考原理の働きとして使われているために補助的な働き程度にしか使われていないのです。
特に、この「第3の目」のこの現象は、特に顕著に女性に観察さられる現象とされていて、感情的なインスピレーションの働きとして出て来ます。
女性の本来の「性の役目」に基づき「深層思考原理」の「3思考パターン」の「感情、勘定、妥協」により、この最初の脳の無意識の動作の「計画思考」の段階での「感情の補助」として動作されていると研究はされています。
女性の「性の役目」からその必要性は頷けます。

(女性の思考パターン:「感情的」に思考を計画して、「勘定的」に思考基準を取りまとめ、「妥協的」な判断で実行を動作させる。この働きを無意識のうちで瞬時に回想する脳の仕組みで、これを脳幹の後ろの左側の餃子程度の大きさの「脳陵帯」と云う所で管理されている)、

しかし、この器官の詳細は未知や将来の「予知能力的」、又は、「透視力的」な器官であると考えられており、猿人期の原始の時代に確実に強く動作していたのではないかとされています。

現在でもこの「第3の目」の器官をもつ生物や動物は沢山認められています。例えばトンボ等の複眼類や鯨類や原始猿です。
この「第3の目」が、人の脳の最下部には今でも存在することから、女性のインスピレーションの鋭さは透視的なものとして、この器官が理性と感情を司る「前頭葉」と連動して作用していると考えられています。


二つ目は、「未来予測脳」とするものです。

人の記憶機能を司る左脳内側の真ん中の付近の所に「線状帯」と云うところがあります。このところの真ん中あたりに「中紀帯」というところがあります。これも小指の先程度の脳器官です。
この器官は、男性にしか反応しません。
この器官は左脳にあるあらゆる学習的記憶データを駆使して推理し未来を予測予知する超能力部です。

男性は上記の「深層思考原理」は、無意識下に於いて、「3思考パターン」の働きとして、「理想、合理、現実」として、脳は無意識のうちで、連鎖的に瞬時に動作して、諸事に対処します。そして、行動の有意識の中でここれに基づき働きます。

これは原始の時代に、その「性」の定めにて周囲の環境に適応して生存競争の敵から身を守る為に、無意識のうちのこの深層原理のパターンに成っている訳ですが、この為には、周囲の環境の「予知」を働かさねばなりません。
現代に於いても同様ですので、男性にのみ「脳陵帯」に保護されて、この「中紀帯」は働きます。
しかし、まだこの部分の働きの具合は良く判ってはいません。
「現世」と「仏」の他次元との連携的働きをしていたのではとも考えられています。現代でも退化せずせに人の強弱あるにしても男性に働いています。

つまり、この「二つの器官」が、「現世」と「仏」との何らかの働きがあるのではと考えられています。
原始の時代では、人はこの器官が盛んに多次元的に働いていたと予測されています。
しかし、次第に社会の付加価値の増加とこの器官の働きを補助する科学進歩で退化していったと考えられます。

歴史史実
邪馬台国の卑弥呼は、「仏」「神」即ち、他次元との連携を司る体現者であり、他次元からの「神のお告げ」として、この前器官を強く反応させ持つ能力のある人であったと見られます。
その様な説を説く学者も多くいます。
多分、未だ3世紀前後の時代には、現代と違い、この感覚を退化させずに、強く働かせる能力を持ちえていたのではないかと見られているのです。その中でも卑弥呼は特に優れていたと考えられています。
というのも、当時、この邪馬台国では、指導者が会い立たず潰れていて、その乱れた騒乱の中、卑弥呼の巫女としての他次元からのお告げの能力が、周囲を圧倒するだけのものを持ちえていたからこそ、周囲は納得し、巫女の立場から、一躍、邪馬台国の王としての立場までになり得たのではないかとみられます。
ただ、でたらめに予言するのでは、この立場までにはならない筈で、直ぐにボロは出る筈です。
故に、この第3器官が大きく働いていたと考えられています。

多くのインカやマヤを始めとする大古代文明の全てには、この他次元との連携者や預言者が居て、大きな他次元との連携建造物を造り、そのお告げにて政治を納めていた事は学問的に定説ですから、この器官の働きは古代までは強く働いていたと考えられます。
むしろ、万事万象がこのお告げ(この器官を使った直感)であった事から、むしろ、退化させず、特に進化させていて、先鋭化していたと考えられます。
時代事の変化に合わせて、この器官の退化進化は変動していた事も考えられるのです。

自然を追い求める心の強さから、この「2つ脳器官」も、現代では、退化の中でも、やや進化のゆり戻しの時代に入っているのではないかと考えられます。
脳器官全般に於いて使わない器官は、退化が進み、使う器官は進化が起こるのは学説経験上の定説ですから、ゆり戻しはありうる事であります。
そして、当然に、個々の人には、この現象の強弱がある事も判っています。

経験の検証
多分、私の3度の経験は、この器官の動作が起こったとも考えられます。
それは、人の死を経験した直後の脳の働きが顕著に鋭敏になり、少し違っていたとも考えられます。よって他次元との連携が起こったと見られます。
当然に、この現象は他次元からも「魂」のみとなった「仏」から発せられた信号との連携であったのであろうと考えます。
だから、電波の如く周波数が一致しないと聞こえることは出来ないものとして、丁度、家の世話をしていた私との連携となったと理解しています。
当然、この「中紀帯」が人一倍に強いのかも知れません。その様な感覚がします。自分のことで客観性がないので恐縮ですが、記憶力や推測力は強い気がしています。(これが私の人生に良い結果を生むのではよいのですが)

人の脳には、他次元との連携の可能性を秘めたこの「二つの器官」が存在することは確かであり、動作している事も事実であります。

伝達手段
2つの器官が働いたとしても、この伝達手段が脳の中に無ければ、役には立ちません。
実は、更に、これを裏付ける他次元と繋げる脳機能があるのです。
つまり、「二つの器官」の動作を伝達する「情報伝達器官」と言うべきものです。

「2つの脳波」
人には、脳から発せられる「2つの脳波」があります。
それは、アルファ波とベータ-波であります。
ベータ-波は特異なときに発せられますが、このアルファ波が、上記の器官の高まり(精神的な集中力に影響)に依って強く顕著に発せられる事になり、他次元との連携が可能になるものとして考えられていますが、アルファ波、特にベータ-波は未だ充分な解明が進んでいないのが現状です。

脳死は、この脳波を捉えて停止状態になった時のパラメータとしています。
つまり、生きているときに何らかの経緯で一時に著しく強くなり(フラッシュバック)、他次元との連携が可能になり、上記の現象が起こると考えられているのです。

同時に、推測の域は出ないのですが、この躯体をなくした「魂」の「仏」からもこの死と共に発していて、それが、この「2つの器官」を鋭敏にして脳波とのセンサーの役目をして、この現象を起しているとも考えられてます。

実は、推論として、私は、この「魂」とは、この死の直後に発する顕著な末路の「脳波」が「魂」の本質ではないかと推測しています。
(仏教では、魂説は定義しているが、(初七日として葬儀行事として定めているが、)長期間では彼岸の入りとしての祭祀行事までで、それ以上はこの「魂」が存在し続けるとははっきりと定義していない。)

「論理的な科学例」
故に、物理学では、万事万物万象の末路には「フラッシュバック現象」が起こり莫大なエネルギーと振動波を発します。
この事は、この核がなくなるとき物質の基となる「核の分裂」(核分裂:物質の消滅:死)のエネルギーの大きさを証明する事になるし、 同時に、特有周波も発する事実と符合します。

例えば、太陽の核分裂の爆発により、太陽から発する7つの可視光線は、この物質の核分裂のときに発した波長であります。
黄はNa、赤はFe、青はCuのように400n(赤)-700n(紫)の波長を発します。そのすごいエネルギーで振動波としてこの地球まで届いているのです。
その波長は空気中の微細な物質との衝突で色を発します。虹や夕焼けの色の変わる現象はこの空気中の水分やチリなどで色が出て、透過する波長が変化して色が変わるのです。

この現象は、科学では「炎色反応」として確認出来るのです。
物質の微粉末が燃え尽きるとき核の破壊が起こり振動波を発して周囲の物質と衝突して特有の色を発する試験方法です。

この様に人を含むこの世の物質は上記の現象を起します。
つまり、人の場合、このフラッシュバック時の脳波と、上記の敏感になった「2つの器官」の連鎖反応が、他次元的な働きをして、即ち、「魂」と「人」の連携反応を起すのではないかと考えます。(私の「魂」の本質説)
ところが、この現象がはっきりしないと言うのが現実です。何故なのでしょうか。(この事の推論は下記に説明します)

「2つの脳波」の存在理由
その前に、ここで、「2つの脳波」というけれど、一体この脳波が人間の機能にどの様な直接的な働きをもっているのか、何故振動波を発し、そして、存在するのか、と言う疑問が湧きます。
人間の機能には無駄は無い筈です。だとすると、機能はあるのだろうか。

「脳波の機能」
確かに人間は地球の電位体に対して、ほぼ身長に応じた(+)の電位を有します。電位を有することは起電流が流れます。
これで脳の神経を通じて神経のつなぎ目(継電部)に、キャリパー(Naイオンのアルカリ液体)を媒体として、電流が流れて脳が働き、体の各所に信号指令を送る仕組みに成っています。
しかし、この2つの脳波で動かしている機能は無いのです。
脳波が出ると言うことは、脳が常時振動波を発している事になるので、脳がわざわざ意味の無い振動を起こし無駄なエネルギーを使ってする事は無い筈です。。

とすると、何か、元は目的があってして、それが何かの発達でこの目的が退化したと考えられます。
普通は、人間の機能は使わないと退化するのが普通であるので、ではその退化をさせた「何かの発達」は何なのかという疑問が湧きます。
振動波であるのだから、先ず最初に浮かぶものは「情報伝達」の媒体と成ります。

「媒体の推測」
野生猿から人間に変化して変わった情報媒体では、関連する内容としては「脳機能の拡大」と「言葉の使用」と成ります。
「脳機能の拡大」では、「左脳の拡大」(学習記憶情報量の変化)と「前頭葉の拡大」(付加価値増大の感情量の変化)となります。
「言葉」では、「意思伝達の拡大」が起こりましたが、これは、言葉の伝達で「記憶量」が増大し、言葉の伝達で「感情量」が増大します。
結局は、この事で、言葉は「脳機能の拡大」を助長させた手段と言うことに成ります。

つまり、結局は、「記憶量と感情量」は「左脳の拡大」と「前頭葉の拡大」としての「脳機能の拡大」が大きく変化した事に成ります。

そこで、「左脳の拡大」と「前頭葉の拡大」は、上記の説の通り、次のようになるのではないかということです。

「2つの器官」の「左脳の拡大」では、上記した様に、左脳の中央部にある中紀体の「未来予測脳」であり、「前頭葉の拡大」では、前頭葉の額の上部(現代では脳中央部下部)の「第3の目」の複眼となるのでは無いでしょうか。

この「2つの器官」の退化で、「2つの脳波」の目的が無くなり退化したと考えられます。

この事は上記の「2つの器官」の論所と「2つの脳波」の論処とは、符合一致しますので、論理的に無理はないと考えます。

当然、「情報伝達」には、「発信受信媒体」と、「伝達媒体」が必要です。
人間には、この「発信受信媒体」として「2つの器官」、「伝達媒体」として「2つの脳波」と成るのではないかと推測しているのです。

この二つの媒体(「2つの器官」と「2つの脳波」)が、ある条件下で他次元までの伝達と成っていたと考えているのです。
ただ、これが全ての人間に保有していた機能とは思えないのです。それが「ある条件下」です。

極度に心を沈めることが出来て、非常に集中力を高められる能力を保持する者にしか働かないと思うのです。

インカやマヤなどの祈祷師や預言者、邪馬台国の卑弥呼などの者がこれを保持していたと推測しているのです。
より高い能力を持つ者は、他次元との連携をこの器官を使って出来ていたのではないかと考えているのです。
普通の者は、私の体現程度か、それ以下の伝達程度に成っていたと考えます。

この「脳機能」は4世紀ごろのまでの人間の社会にまだ少し存在していたのではないかと考えられます。

とするのは、例えば卑弥呼が予言した事柄を周囲の者が信じる現象は、ヤマト勢力と覇権を争っていた九州勢力を押さえていたこの者達全般にも、この脳機能の能力をある程度まだ維持していたから、卑弥呼の「予言」と言う不確定なものを信じた前提なのではないでしょうか。
又、上記した5-6世紀頃の仏教の仏像の複眼等もこれを裏付けるものとなるのではないでしょうか。
だから、仏教がインドで誕生時期から観て、人の死後の「初七日」の行事とか、「魂」説とか、「仏」=「先祖」説とかもただの説ではなかったのではないでしょうか。

この「第3の目」に関しても、平安期前期の仏像に額の真ん中に「複眼」をつけた仏像がありますが、これは、多分、仏教ではこの事を過去からの伝えで使用していた事を意味します。
つまり、仏教でもこの現象を認めている事を意味します。

以上、この論処事が私の体現の論理的説明となると考えています。

そうする推論で考えると、多くの世間で話されている死の直後の有り得る他次元との他の特異現象は、このことで説明がつくのではと考えています。

無と有の思考の効果
事程左様に、広範囲の科学論理的根拠や学識から調べるとそれ程に「無根拠」ではない事が判ります。
「無」と「有」と決め付けない「反意」で、思考すれば、この様に真実の根拠は見えてくるものであると考えます。

他次元の世界を「無」として決め付ければ(拘れば)、この様に、見えるものも見えなくなり、「有」と理解すれば「二つの器官」の存在も観え、そして、最後には、「時間の逆行」もあるという判断が出来るように成ります。

さすれば、より高く、より正しく、より冷静に、根拠に基づく上記の「理解」が得られる事につながると考えます。
言い換えれば、”「無」であるから「無」と拘るな””「有」であるから「有」だと拘るな”さすれば、般若経が云う「悟り」即ち、根拠ある「理解」のところにたどり着くとしています。(呪いの設問の解読説)
禅宗の座禅は、この様な基となる「静かなる心根」を高め得ようとする修行では有りませんか。
そして、その禅問答はその「静かなる心根」で「悟り」即ち「理解」を修練する行為では有りませんか。

確かに、技術の仕事していたときには、頭から湯気が出るほどに、一つの事に拘っていたときは「見えなくて」、その「拘り」から開放されたときの一瞬には「見えた」という事が沢山あり、何かあの世から知恵を授かった、貰ったというような気になって、技術的に解決したという経験は多くありました。
多分、この時に、この器官が動作していた可能性がありますね。皆さんはいかがですか。

学説では、頂点に達すると、この時にベータ-波が出て、脳は切り替わり、拘りは消滅し、脳の能力最大限に働くと言われています。
スポーツなどでもこの極限に達すると、その極意を得ると言われていますので、優秀な選手はこの域に達しようとして訓練を行うのであります。

「心頭滅却すれば、火も又涼し」であります。事実真実です。

私は、この現象は、「宗教的」な感覚ではなく、医学的にも、人間に本来に備わった「野性的本能」がまだあると観て、それがある条件下で働いていると考えています。

故に、「無」即ち、”ない”と限定し舞わないで、[有」もあわせて考える姿勢と思考が大切と考えます。

つまり、この経験の「有無」が上記した「差」として、積み重なるものと考えます。

私は、論理追求として働く物理技術者でしたが、一面、この様な現世に於いて論理外の思考もするところがあります。
しかし、つぶさに見てみると、上記のように、その否論理的なことを論理的に捉える習性が存在する不思議な性格かも知れません。

結論として、上記の「2つの器官」と「2つの脳波」の働きから、「呪い」の設問の(1)から(22)の数式の結論下で、故に、「時間は逆行する」であります。この世の相対の原理から云っても、あり得る事です。

その事から観ても、「先祖」「仏」の「連携」はある条件下で成り立つと定義できます。

だから、連携の不可思議、その事も含めて、「先祖」を知る事、「先祖」を敬う事は、現代の遺伝子学での結論の「過去の90%の自分」を敬う事にも相成ります。

故に、先ずは、「先祖を知る」事から始めるべきと考えます。
先祖を知れば自ずと先祖を敬い、先祖を祭る行為は生まれ、自身の心は上記の「拘り」の少ない心へと進みます。これが仏教の説くところでしょう。

実は、私は、「宗教」というものを「信仰」はしていません。仏教の説でも正しいとされるものを信じているだけです。

次の設問の徐として。
如何せん、兎角、「宗教」は「ご利益信仰」が主体と成っている事に疑問なのです。
”信仰すれば、こうしてくれる”は信仰とは云わないのではないでしょうか。
次の設問のキリスト教は、この傾向が説話の中で多すぎると感じています。
”信じよ、されば救われん。”には納得できません。信じなくても救われる筈です。この世の中でキリスト教を信じていない人は救われないと言う事でしょうか。そんなことはありませんね。
仏教は、”信じよ”とは云っていません。”理解せよ。”です。理解すれば静かな心根が生まれ、良い方向とへと進むとしています。
キリストは、”人は罪多き悪の子供”と設定していますが、仏教では”悪の子供であるも普通であり悪と拘るな”であります。それが「人」だと説いています。

次は、「行為と行動の進行性」への設問です。
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先祖と宗教(般若経の呪いの意)

先ずはじめに、青木さんから雑談掲示板に投稿されていました事に付いて、本サイトの一つの目的である「先祖」と言うキーワードに関連する事なので、特に広く論じて理解を得る必要があるとして投稿しました。

その経緯は、キリスト教徒の方から見て、仏教の教義に疑問が提起されました。それにお答えした論文でした。
その掲示板の内容は次の1-5の設問でありました。
そこで、青木さん以外の全国の皆さんにも広く観て頂きたく改めて仏教の説法を受ける側からの私観(キリスト教対比関係で)をまとめ直して投稿しました。

最近、日本人には、特にその「先祖」という言葉の意味、又は意義が薄らいでいると感じています。
「先祖」と言う言葉が我々の日常の生活の中に遺伝子的に無意識の中で浸透しているのですが、これを改めて認識してもらい本当の日本人に戻ってもらいたいと常々思っていました。
そこで、その方法として、何とか解りやすくする為に、その「先祖」を仏教とキリスト教とを対比させる事で明確に成るのではと考えました。
この対比事項としては、雑談掲示板に設問された次の内容5つが「先祖」を説く上で適切と見て限定して論じてみました。

そこで、早速ですが、本題に入りたいと思います。

投稿
先ず、掲示板の御意見を拝聴しましたが、私は少し違う考えを持っていますので、ご披露したいと思っています。
ご意見には突き詰めると「先祖」に関わりのある事が大いに認められ、それ故「先祖」という定義からその思考を述べる事でお答え出来ると思います。

ただし、僧から説く説法ではなく、説かれる方からの私観の理解説とします。
ご意見の内で、抜粋した次の設問に対する内容(問題)として、(...)を大意として示しています。

設問
1「呪いの意」 (般若経の一説:仏教は何故呪うのか)
2「時間の逆行性」 (時間は逆行しないのだから仏教の仏=先祖は疑問)
3「行為と行動の逆進性」 (先祖が成した行為と行動は逆行しないのだから「仏」は疑問)
4「キリスト経の教え」 (仏はキリスト教の教えと異なる)
5「仏教とキリスト経の妥協の余地」 (根本的な違いの考察)

以上に付いて私観を述べたいと思います。

注釈 
4-5の設問に付いては、本論はキリスト教との対比を特にします。
但し、このことは決してキリスト教を非難するものではなく、日本人には無意識の中で脳に対して染みこんでいる宗教に対する遺伝子的なものが存在し、それにキリスト教の教えがマッチングしないのではと考えているので、その差違を現したものです。
前置きとして、文内の表現の差違は、仏教とキリスト教との間にこれだけの違いがあるのかと言う程度にご理解ください。

注意
そこで、超論文に成りますので、シリーズで記述する事にしますのでご理解ください。
シリーズの途中から読まれる場合は、継続性がある為に理解が出来ないということも起こりえます。従って、この設問から講読下さい。
念の為、本論は観念論であるが為に、理解し難いことです。従って、文中で、多少の問題はありますが、各所で使用する数式は結論を何とか解りやすくする為に用いています。


本文

1「呪いの意」(般若経の一説:仏教は何故呪うのか)
では先ず、文面で般若経にある「呪い」と言う事に対する「嫌悪感」に対する疑問の件です。

般若経の一説 「是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等々呪 能除一切苦 真実不虚」

現代の言葉で「呪い」とは如何にも恐ろしげな行為であると観られますが、般若経で言う「呪い」とはいったいどう言うもので、どう言う事かと言う設問に入り、且つ、それを解明すれば我々の凡人は全体像の理解が出来ると思いますので以下に進めます。

では、それは一体何なのでしょうか。二元体の人の世界に起こる「呪い]です。よって、その人間の「心の動き」である筈です。
その「心の動き」の「呪い」として出て来るものは、私は次の「4つのみ」であると思います。
それは、仏教で云う、人として ”最も無くさなくては、或いは、少なくしなければならない「人間の性(さが)」”であると思います。そして、それは説法で言う「4つのみ」だと思います。
つまり、この性の「呪い」を構成しているものは「4つのみ」と言うことです。

数式で現せば、「呪い」=「心の動き」=「4つのみ」と成ります。 (1)

では、その「4つのみ」とはどのような「性」なのかと言う事ですが、それは次のものだと思います。

数式で現せば、「4つのみ」の構成要素 =「うらみ」+「つらみ」+「ねたみ」+「そのみ」だと考えます。 (2)

この人の「4つのみ」から誘引して「心の乱れ」を引き起こす結果、その映像として「呪い」が生まれるのです。
そして、この「心の動き」の一つの「心の乱れ」は「人の拘り」へと変わります。

数式で現せば、「心の動き」=<「心の乱れ」=<「人の拘り」=<[呪い」に繋がります。 (3)

数式で現せば、「4つのみ」=「心の乱れ」=「人の拘り」=「呪い」=「性」(さが)と成ります。 (4)

では、この「性」、即ち「心の乱れ」、「人の拘り」を人は無くせるのかという疑問です。
結論から私は出来ないと考えます。”それは何故なのか。”です。

もし、無くせたとしたら、この世に「宗教」というものが存在しません。
この「4つのみ」があるからこそ、世の中は乱れるのです。だからそれを少しでも救おうとして、人は「宗教」というものを考え出し頼ったのです。
ましてや、この「4つのみ」を無くせば、それは、「現世の人」では有りません。
この「4つのみ」をなくした者が、「仏」であります。ゆわんや「先祖」であります。

数式で現せば、「4つのみ」=「現世の人」  つまり、「仏」=「現世の人」-「4つのみ」 (5)

(5)式が成立するのであれば、本サイトの目的の一つとして主張している「先祖を理解する事」は、即ち、「4つのみ」が原因した「先祖の生き様を知る事」ともなります。

数式で現せば、「先祖を理解する事」=「先祖の生き様を知る事」+「4つのみ」 (6)

そして、それは「4つのみ」から少しでも軽減し、同じ苦しみを味わってきた「先祖」、即ち、「90%程度の同じ遺伝子を引き継いだ自分」を見つめる事が出来る唯一の手段なのです。

現代医学では血液型を同じとすると85-95%の遺伝子が同じであります。これは殆ど「自分」という事になります。

数式で現せば、「先祖」=「90%程度の同じ遺伝子を引き継いだ自分」 (7)

つまり、「先祖の自分」に対して、そこに起こる「自分への尊厳」と「先祖への感謝の念」が、人の心を豊かにし、開放させられます。
そして、その心が「4つのみ」への「拘り」を理解する事が出来て、軽減さしてくれるのだと考えます。
何もしないで、「4つのみに拘るな」と云っても、拘わらない事すら難しいのに、「4つのみ」所の話ではありません。
それこそ「負担」であり、[苦」に成ります。

その「拘り」の救いは、先ずは「先祖」を知ることであり、強いては「4つのみ」から開放された「先祖」即ち、「90%の過去の自分」即ち「仏」を知る事になるのだと考えます。

それは(先祖とは)、「4つのみ」から発祥した育枝種にして分離した「108つの煩悩」から解き放たれた「魂」のみの「仏」なのです。

数式で現せば、「108つの煩悩」=「4つのみ」*N=A  「仏」=「魂」-A (8)


但し、ところが仏教では、この「4つのみ」を”無くせ”とは云ってはいません。
むしろ「無くせない」と説いています。

仏教では、「無」(無くす事)を主張するのではなく、「有」(ある事)を認めていて、「有りのままに生きよ」と説いているのだと思います。

ただ、これだけでは「宗教の教え」にはなりません。

この「4つのみ」の「処し方」として、「拘るな」(気にするな)と説いています。
「拘るな」(気にするな)は、人として可能な行為であります。
そして、「拘り」を「捨てる」、或いは、「軽減する」ところから、”人の生きる世界から、又は、「性」(さが)から解き放たれる”と説いているのだと思います。

この事は、即ち、般若経の「色不異空、空不異色」と「色即是空、空即是色」であると思います。

この1節の理解の如何に関わるものだと考えます。
では、どの様に理解したら良いかと言うことですが、私は次の様に理解しています。

「色」即ち、この世のあらゆる物質は全て色(いろ)を有します。故に、その「色」(いろ)のある環境、つまり総意としての「現世」であると理解出来ます。

数式で現せば、「色」=「現世」(うつせ)だとします。 (9)

「空」即ち、物質として存在しない空(から)の世界とし、色(いろ)を有さない世界だから、つまり総意としての「彼世」(かのせ)であると理解できます。

数式で現せば、「空」=「彼世」(かのせ)だとします。 (10)

そこで、「色は空と異ならない 空は色と異ならない」、故に「色は空であり、空は色である」と説いています。

つまり、言い換えると「現世は彼世と異ならない 彼世は現世とは異ならない」、故に「現世は彼世であり、彼世は現世である」と成ります。

究極の大意の数式で現せば、「現世=彼世」であるとします。 (11)

つまり、、「現世=彼世」法の「理」は、”物事に色があるから無いからとどうのこうのと言い立てるな、空だから無いからと騒ぎ立てるな”と言っていると思います。

言い換えれば、究極は”「物事に拘りすぎるな」”となるのではないでしょうか。

では、何故この数式が成り立つのかと言う疑問が出ます。

それは、「現世」と「彼世」の間には「仏」が存在し、その「仏」は「4つのみ」から離脱した「先祖」であるとしているのです。

数式で現せば、「現世=仏=彼世」or「現世=先祖=彼世」の数式が出来ます。 (12)

上記の数式では、「先祖」=「90%程度の同じ遺伝子を引き継いだ自分」、故に、「現世=自分=彼世」 (13)

数式で現せば。「現世=仏=彼世」or「現世=先祖=彼世」or「現世=自分=彼世」・・(B) (14)

故に、(9)から(14)までを合わせて解釈すると、その大意はいずれにしても「自分如何の世界」だから「拘るな」と成ります。

これでは合点し難い所があります。そこで「俗意」としては、次の様になると考えます。
[拘るな」とは、”「現世」「彼世」は自分が関わる世界であるのだから、地獄極楽も「現世」の仕業、だからこの「現世」の所業になんだかんだと理屈を立てて言い張るな。決め付けるな、考えし過ぎるな。気にし過ぎるな。そして、それより、先ずはこの「理」を悟れ、つまり、理解せよ”と成るのだと考えます。

数式で現せば、(B)数式の理を解する事は、「悟り」=「理を解する行為:理解する」=「拘りすぎるな」=「気にしすぎるな」  (15)

そして、これを理解すれば、この「呪い」の般若経の2行のくだりの最後には、「能徐一切苦」「真実不虚」と説いています。つまり、”一切の苦しみを除く事が出来て真実は虚にはならないから”と言う事だと思います。
仏教では。「一切の苦しみ」とは、「108つの煩悩」とされます。

つまり、そうする事(15)で、「4つのみ」で発展した「108つの煩悩」が「呪い」をが引き起こします。その「呪い」が起す[心の動き」の拗れた「心の乱れ」が納まり、”「静かな心根」が得られ、その結果、「現世」の自分に「真実」(誠)が近づき、自然と「苦しみ」から逃れられる”としているのだと考えます。

「現世の理」を「理解する事」で、「自分」に”「静かな心根」”が生まれると言う事が大切であるのだと考えます。
そして、”その判断が回りの茨の道に踏み出さない結果になる”のだと説いていると思います。

数式で現せば、「悟り」=「拘りを無くす事」=「現世の理」を「理解する事」=”「静かな心根」”  (16)

そして、次の「苦しみ」から少しでも逃れられるのだと考えられるのではないでしょうか。

数式で現せば、「呪い」=「108つの煩悩」=「4つのみ」*N=苦しみ 「仏」=「魂」-(苦しみ)  (17)


次に、前節の「是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等々呪」では、私は次の様に解釈します。

この行のくだりのお経を理解する事の大切なことは、般若経の「大神」と「大明」の意をどのように理解し解釈するかの如何だと思います。私は次の事と解釈しています。

数式で現せば、「大神」=「神」 「大明」=「仏」 (18)

そして、”その「呪い」とは、「神」や「仏」の「呪い」であり、それ以上の「呪い」は無く、それは、神仏の「戒め」であり、この上記の「理」を理解すれば、「呪い」は無くなるのである。”としているのだと思います。
そして、”一切の苦しみを除く事が出来て真実は虚にはならない”とし、つまり、そうする事で、”静かな心根”が得られ、「真実」が近づき、自然と「苦しみ」から逃れられる”と説いていると解釈します。

「神」とは仏の中の得心した「仏」であるのだから、次のような考えとなると思います。

数式で現せば、「呪い」=「神」、「仏」の「戒め」=先祖の「戒め」=自分からの「戒め」 (19)

仏教では、「呪い」即ち、自分からの「戒め」を知ることは、それは「悟り」と説いています。
その「”悟れ”の本質」は”静かな心根”で「理解せよ」”としています。

数式で現せば、「”悟れ”の本質」=”「理解せよ」”と成ります。  (20)

そして、本設問の「呪い」に対する「嫌悪感」の結論は、以上(19)、(20)の様になると思います。

そこで、”「理解せよ」”とは、他の一節「所業無常」(諸行無常)の反意では、”業と行は常(恒)ではない。だから所業(行)の全てを一度に理解するのではなく、日々の所業(行)の中で、所業の「理」を知り、積み重ねよ、そうすれば究極は悟れる”としています。つまり、”何時の時か「即身成仏」と成るであろう。それに近いものに成るであろう”であります。

”無常のない行と業の中での”「急ぎの理解」は「拘り」の所以である”ともしています。

数式で現せば、「急ぎの理解」=「拘り」  (21)


決して仏教では、キリスト教のように、”先ずは、「信じよ」(キリスト教)”とはいきなりに説いてはいません。
それは、ただ「信じる」ことだけでは、「根拠なし」のものとなるからです。

仏教の「理解」(悟り)は、日々の精進の理解を経て、この「根拠」を得て初めて「理解」と成ります。

これが、ご指摘のキリスト経と仏教の決定的な差であります。


般若経では、その字句のそのものの意味ではなく、その字句の持つ「反意、真意、深意」を如何に知るかに関わると思います。
私の経験では字句の意味だけではどうしても理解ができませんでした。

ここに書いている事は、この「3つの意」(「反意、真意、深意」)から得たものです。

「人」は「仏」では有りませんので、「呪い」から現世では逃れることは出来ません。
それを無理に排除しようとする所に無理(拘り)が生まれ、現代社会の問題の露出と成っているのだと思います。これは「仏」でなくては出来る事ではないではありませんか。

だから、仏教では万能の「神」との間に、人間社会の「4つのみ」から生きてきた躯体をなくした「御魂」となった「仏」を置き、理解しやすくしているのだと思います。
そして、この精進した「仏」から「神」へと進むのだと説いています。
突き詰めれば、「仏」は「神」であり、「仏」は「先祖」であり、「先祖」は「90%の自分」であるとしているのです。
そして、三段論法では、終局、「仏」は「90%の自分」、「90%の自分」は「神」の元であり、この世とあの世の間には、「躯体」と「4つのみ」の有無の差であると説いているのだと思います。

この論理の結果から、「神」の居る「極楽」は、「この世」という事になります。そして、それは
「4つのみ」の「理解」という行為のことから、自分の目前には「極楽」は作られると考えます。
その「不理解」の行為は、「地獄」という事になります。

数式で現せば、「4つのみ」の「理解」=「極楽」 「不理解」の行為=「地獄」  (22)

つまり、「4つのみ」の「理解の如何」の差が、「極楽」と「地獄」の差となって現れると般若経は説いていると思います。
そして、未だ「仏」でない躯体を持った人のこの「理解の差」に対して、仏教は「縁無き衆生 動し難し」と説いています。
即ち、「極楽地獄」は本人次第としています。”無理に導くな”と説いています。
その差は「仏」となった時に、次に「神」になれない「仏」であるとしています。

「般若心経」は、この「4つのみ」(色)と「躯体」(舎利子)の事のと取り扱いの考え方に付いて述べ、”「万事所業」は、この世では「無」ではなく「有」として「理解」して生きよ”と説いているのだと思います。
しかし、”「有」だから、「有」と主張するな”と説いています。それは結局は論理的には、”「拘り」の元となる”と説いている事にも成ります。

そして、その「心の持ち様」の秘訣は”あの世とこの世との差の「先祖」にある”のだと暗示していると考えます。

私は、故に「青木氏の先祖の研究」と言うものに取り組んだひとつのきっかけでした。
この「4つのみ」から起こる先祖の生き様が、良く判ったと思っていますし、今の「心経」の糧となったと信じています。

人それぞれにいろいろな考えがあろうと思いますが、「呪」の意は、以上の22の数式で表現した様な事だと思いますので、当然のこの世の事として、それ程に疑問を持っていません。

この22の数式は全て等号(=)で繋がると言う「呪い」の意であると思います。

故に、当然の起こりうる「結果」として受け取っています。むしろ、人間社会を維持して行く限りに置いてありうるべき「事柄」かなとも考えます。
ただ、それを出来る限り、避ける「理解」の修行を怠らないようにしています。
その修行とは、”「22法の理」”を知り、”先祖を敬い”と”心静かに”の「心根」(拘りのない平常心)を保つ事であろうと思っています。

現世では「4つのみ」から起こる「呪」は、別には「社会の悪」と対峙し炙り出すテストペーパーでもあり、悪い事ばかりでも有りませんよね。

数式の整理
数式で現せば、「呪い」=「心の動き」=「4つのみ」と成ります。 (1)

数式で現せば、「4つのみ」の構成要素 =「うらみ」+「つらみ」+「ねたみ」+「そのみ」だと考えます。 (2)

数式で現せば、「心の動き」=<「心の乱れ」=<「人の拘り」=<[呪い」に繋がります。 (3)

数式で現せば、「4つのみ」=「心の乱れ」=「人の拘り」=「呪い」=「性」(さが)と成ります。 (4)

数式で現せば、「4つのみ」=「現世の人」  つまり、「仏」=「現世の人」-「4つのみ」 (5)

数式で現せば、「先祖を理解する事」=「先祖の生き様を知る事」+「4つのみ」 (6)

数式で現せば、「先祖」=「90%程度の同じ遺伝子を引き継いだ自分」 (7)

数式で現せば、「108つの煩悩」=「4つのみ」*N=A  「仏」=「魂」-A (8)

数式で現せば、「色」=「現世」(うつせ)だとします。 (9)

数式で現せば、「空」=「彼世」(かのせ)だとします。 (10)

究極の大意の数式で現せば、「現世=彼世」であると成ります。 (11)

数式で現せば、「現世=仏=彼世」or「現世=先祖=彼世」の数式が出来ます。 (12)

上記の数式では、「先祖」=「90%程度の同じ遺伝子を引き継いだ自分」、故に、「現世=自分=彼世」 (13)

数式で現せば、「現世=仏=彼世」or「現世=先祖=彼世」or「現世=自分=彼世」・・・(B) (14)

数式で現せば、(B)数式の理を解する事は、「悟り」=「理を解する行為:理解する」=「拘りすぎるな」  (15)

数式で現せば、「悟り」=「拘りを無くす事」=「現世の理」を「理解する事」=”「静かな心根」”  (16)

数式で現せば、「呪い」=「108つの煩悩」=「4つのみ」*N=苦しみ 「仏」=「魂」-(苦しみ)  (17)

数式で現せば、「大神」=「神」 「大明」=「仏」 (18)

数式で現せば、「呪い」=「神」・「仏」の「戒め」=先祖の「戒め」=自分からの「戒め」 (19)

数式で現せば、「悟れの本質」=”「理解せよ」”と成ります。  (20)

数式で現せば、「急ぎの理解」=「拘り」  (21)

数式で現せば、「4つのみ」の「理解」=「極楽」 「不理解」の行為=「地獄」  (22)


本論は観念論ですので、できる限り論理的な証拠と数式的手法も取り入れて進めたいと思っています。

私は、元の職業柄か性格的な事からも、常々、観念的なものに「理」を求め、それを医学的や動物学的な「論理的証拠」で証明したいと常に思って取り組んできました。以降の論調はこの手法に基づいて論じています。そのつもりでご理解ください。

次回は、堅い話にはなりますが、本来無い筈の「時間の逆行」の私観を述べてみたいと思います。

上記の事にも関わりますので、ご留念下さい。

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藤原秀郷一門の赴任地と発祥氏と主要五氏の分類

藤原秀郷一族の赴任地と発祥氏と主要五氏

藤原北家の鎌足より8代目の秀郷は関東の武蔵の国と下野の国の守護と成ったが、それ以後、朝廷より命じられた赴任地がどの様なところと成って居るか、又、発祥氏がどの様に成っているかを具体的に列記する。

藤原秀郷(元祖)は「藤原秀郷一族とその生き方」で詳細にレポートしたが、彼ら一族は戦略上その勢力を拡大し保つ為に、全ての赴任地に末裔を遺し土地の豪族との発祥氏の血縁族を作った。
当然、この護衛役を全て担った秀郷の第3子千国を始祖とする最古参の藤原秀郷流青木氏も同じ戦略を採った。
この史料から多くの事が読み取れるが、青木氏を理解する上でも、他の同門の末裔一族との大事な資料となる。
そこで、調査資料のその内容を次に纏めた。

順不同(鎌足 初代)
(内容は編集続行中とする)

赴任地  赴任者  注釈
武蔵   秀郷    8代目   平貞盛と「平将門の乱」鎮圧 (勲功:貴族 領国)
武蔵   千国    9代目   鎮守府将軍 秀郷の第3子 青木氏始祖 

武蔵   利仁    9代目    
武蔵   忠正   14代目   利仁(秀郷進藤氏と利仁進藤氏と深く同族血縁)

陸奥   秀郷    8代目   鎮守府将軍 東北北陸の統治の将軍
陸奥   千時    9代目   鎮守府将軍 秀郷の第1子
陸奥   千常    9代目   鎮守府将軍 秀郷の第5子
陸奥   千万    9代目   鎮守府将軍 秀郷の第6子
陸奥   文脩   10代目   鎮守府将軍
陸奥   文修   10代目   鎮守府将軍
陸奥   兼光   11代目   鎮守府将軍 青木氏元祖
陸奥   頼行   12代目   鎮守府将軍

陸奥   有象    8代目   鎮守府将軍 利仁の叔父
陸奥   時長    8代目   鎮守府将軍 利仁の父
陸奥   利仁    9代目   鎮守府将軍

近江   千種    9代目   秀郷の第4子

出雲   宗綱   19代目

美濃   秀忠   16代目   美濃大屋氏の始祖

伊予   行長   21代目   永嶋氏の始祖

下野   豊澤    6代目   秀郷の祖父
下野   正頼   10代目   秀郷の曾孫
下野   有象   10代目
下野   政頼   11代目
下野   行尊   13代目   介 太田氏の始祖 領国に成る
下野   宗郷   13代目
下野   朝政   16代目
下野   秀綱   19代目
下野   定秀   20代目
下野   貞朝   21代目
下野   秀貞   22代目   三代続く
下野   高朝   22代目
下野   義政   24代目

淡路   宗政   16代目   中沼氏の始祖 
淡路   時政   17代目   宗政の子
淡路   時宗   18代目   時政の子
淡路   宗秀   19代目
淡路   宗行   20代目
淡路   政信   22代目
淡路   正信   22代目
淡路   秀直   23代目
淡路   嘉秀   24代目
淡路   義政   24代目
淡路   宗秀   25代目  
淡路   憲秀   26代目
淡路   秀光   27代目
淡路   秀宗   28代目
淡路   氏秀   29代目

上野   朝光   16代目   結城氏の始祖 頼朝に合力し本領安堵 

相模   公光   13代目   介

駿河   景親   14代目   権守
駿河   公則   15代目
駿河   景頼   16代目   権守 近藤氏 嶋田氏の始祖
駿河   常嗣    :
駿河   宗親   20代目   権守
駿河   長久    :(37)

加賀   吉信   11代目   介  利仁 半国に分轄 吉備氏の祖
加賀   忠頼   12代目   介  利仁
加賀   忠親   13代目   介  利仁
加賀   至考   14代目   介  利仁
加賀   良時   14代目   介  利仁
加賀   政任   15代目   介  利仁
加賀   義俊   24代目

豊後   重光   12代目   滝口氏の始祖 利仁
豊後   忠綱   19代目
豊後   忠景   20代目
豊後   忠宗   21代目
豊後   秀久   23代目

出羽   有久   23代目

伯き   豊久   23代目

備後   公則   15代目

越前   高房    7代目   利仁の祖父
越前   大束   10代目   権守  利仁  利仁の子
越前   伊傳   11代目   押領使 利仁
越前   為延   13代目   押領使 利仁
越前   則重   14代目   利仁
越前   秀行   20代目   権守  利仁
越前   長範   20代目   介   利仁


相模   千春    9代目   権守 秀郷の第2子
相模   家綱   15代目

近江   脩行   12代目

能登   助忠   14代目   利仁
能登   伊経   26代目   利仁

能登   時員   17代目

豊前   貞宗   15代目

隠岐   文紀   12代目   讃岐に赴任 (秀郷、利仁)

肥後   長成   22代目   利仁

飛騨   伊忠   22代目   利仁

筑前   為成   19代目   利仁
筑前   為重   20代目   為成の子 利仁
筑前   長経   21代目   為重の子 利仁
筑前   長範   20代目   利仁

越中   経泰   12代目      利仁
越中   則高   13代目   権守 経泰の子 柳沢青木氏(武田) 利仁
越中   延忠   14代目   介  利仁
越中   重吉   26代目   介  利仁

越後   興善   10代目   利仁

(筑後   長治   37代目)
(筑後   長定   39代目)
(筑後   長房   40代目)

讃岐   千常    9代目   秀郷の5子 (讃岐に隠れた純友の乱鎮圧)  
讃岐   文紀   12代目

伊勢   藤成    5代目   特記(秀郷の曾祖父)
伊勢   基景   16代目
伊勢   基経   25代目

周防   忠頼   12代目
周防   知員   18代目
周防   忠綱   19代目

河内   村雄    7代目   特記(秀郷の父)
河内   秀能   18代目
河内   秀長   21代目 
河内   秀貞   22代目
河内   久逸   25代目

(河内   長恒   37代目)

上総   公行   12代目

尾張   公郷   14代目
尾張   公澄   14代目
尾張   知昌   16代目
尾張   知忠   17代目

安房   国基   18代目   永嶋氏
安房   師綱   21代目   永嶋氏

伊豆   行信   22代目   行久曾孫(青木氏)

美作   末茂    5代目

大和   春岡    7代目
大和   秀宗   17代目
大和   信房   20代目
大和   頼房   24代目

常陸   時長    8代目   介

信濃   有綱   17代目   足利氏
信濃   高久   20代目

土佐   行政   20代目

備前   秀春   23代目

出羽   長村   18代目
出羽   宗朝   20代目

美濃   秀忠   16代目

紀伊   正長   20代目   以下は長沼氏支流中沼氏

下総   忠氏   21代目

山城   忠光   21代目

近江   時久   21代目

安芸   資久   21代目

尾張   資忠   21代目

但馬   氏忠   22代目

薩摩   用久   23代目

若狭   忠弘   25代目

摂津   頼久   25代目

遠江   勝久   25代目

相模   友久   25代目



この赴任地から秀郷勢力を隣国に広げたがこの国は含まずとする。
この赴任地は末裔を広く広げた官職の介や権守以上に限定した。
当レポート以前の史料は兼光系ルートの史料として記述しているが、ここには文行系も含んでいる。
秀郷一門としている利仁系も秀郷一門として扱われた。
それは進藤氏を仲介として同族血縁を繰り返した事による。
その結果、秀郷の領国の武蔵、下野国内で圏域を広げ、また守護職も勤めた利仁流系である。

短期間の赴任も含む為に末裔を遺していない国もある
赴任地は平安末期までとする。(...)は鎌倉幕府以降の1200年以後の赴任地とされる。
藤原秀郷一門は鎌倉幕府樹立(1185-1192)により官職を全て失う。
藤原勢としては、朝光が関東一円で合力して勲功を立て、本領安堵されて平家に取られていた上総の結城は戻る
当時、平均寿命50歳とすると、この時期(平安末期)までの代は、17代(+1-1)位から25代(+1-1)位と見られる。
系譜には同名がある。
利仁系に付いて、次の系譜になる。
鎌足-不比等-房善-魚名-藤成-豊澤-村雄-秀郷

鎌足-不比等-房善-魚名-鷲取-藤嗣-高房-時長-利仁
(藤成の弟の鷲取の系譜と成る。)

長沼氏の赴任地は短期間である。(宗家を除き赴任期間は通常2年から5年程度である。)
参考として当時の日本の国は66国である。



藤原秀郷一族一門の発祥氏

秀郷主要五氏は次の通りである。
この主要五氏は以下の氏を発祥している  

秀郷の4代目から次の様に分流する。

但し、青木氏は秀郷2代目より初代となる。
途中、4代目兼光系より13代目で総宗本家より行久が跡目に入る。
青木氏は秀郷の子の千国より出ているので末裔の最古参である。
青木氏主要9氏は直系1氏 直流4氏 支流4氏である。
下記の氏以降の支流分流分派は列記していない。
以下の氏は綜紋を「下がり藤紋」とし直系主要氏である。

秀郷主要5氏
兼光系 青木氏 永嶋氏 長沼氏 
文行系 進藤氏、長谷川氏

但し、進藤氏は秀郷流進藤氏と利仁流進藤氏とがある。共に相互に血縁を繰り返している。
(他に、支流とする清和源氏進藤氏、綾氏進藤氏、未勘の諸流進藤氏もある)


名前   発祥氏   注釈
千国   青木氏   主要五氏の祖 青木氏116氏に末裔広がる 秀郷の3男
秀忠   大屋氏
考綱   長沼氏   秀郷主要五氏 52氏に末裔広がる
成俊   佐野氏
成行   足利氏   本家を排斥して分家に跡目入れて本家を継ぐ
行長   永嶋氏   秀郷主要五氏 伊勢東の永嶋氏の祖 34氏末裔広がる
行久   青木氏   秀郷主要五氏 宗家より鎌足24代目で跡目
兼行   渕名氏
行尊   太田氏
政光   小山氏   陸奥小田氏末裔
親実   松野氏
為輔   進藤氏   利仁流 元祖
景頼   近藤氏   (嶋田氏も祖)
景頼   嶋田氏
行景   進藤氏   秀郷流主要5氏 48氏に末裔広がる
知廣   尾藤氏
公清   佐藤氏
朝光   結城氏
宗政   中沼氏   長沼氏末裔
行義   下川辺氏
重光   滝口氏
助宗   斎藤氏   始祖
叙用   斎藤氏
実景   斎藤氏   勢多
親頼   斎藤氏   美濃
実盛   斎藤氏   長井
宗重   長谷川氏  秀郷主要五氏 111氏に末裔広がる
吉信   吉備氏
則明   後藤氏   元祖
公澄   尾藤氏   元祖
公郷   後藤氏   祖
基景   伊藤氏

以上24氏である。


秀郷主要五氏の系譜

秀郷の主要五氏の一族を夫々について分類すると次の様になる。

進藤氏

藤原秀郷流進藤氏
藤原利仁流進藤氏(秀郷流の斎藤氏が中間血縁族)
未勘の諸流進藤氏

未勘の諸流進藤氏の末裔支流分流
綾姓進藤氏(羽床氏が中間血縁族)
清和源氏進藤氏(乙部氏が中間血縁族)
清和源氏進藤氏(武田氏が中間血縁族)
藤原姓進藤氏
清和源氏吉良氏族進藤氏(吉良氏が中間血縁族)
藤原秀郷流進藤氏(近衛氏が中間血縁族)
以上が未勘である。


長谷川氏

藤原秀郷流長谷川氏(尾藤氏系)
藤原秀郷流長谷川氏(下川辺氏系)
藤原秀郷流長谷川氏(長久系)
藤原秀郷流長谷川氏(重吉系)
藤原姓長谷川氏(利仁系進藤氏)
藤原利仁流長谷川氏
未勘の諸流長谷川氏

未勘の諸流長谷川氏の末裔支流分流
(藤原氏外)
本宗橘氏系長谷川氏
菅原姓長谷川氏



長沼氏

藤原秀郷流長沼氏(渕名氏が中間血縁族:一門)
藤原秀郷流長沼氏(小山氏が中間血縁族:一門)
藤原秀郷流長沼氏(土岐氏が中間血縁族)
藤原秀郷流長沼氏(藤原秀行流:一門)
藤原秀郷流長沼氏(宇都宮氏が中間血縁族:一門)
未勘の諸流長沼氏


未勘の諸流長沼氏の末裔支流分流
藤原秀郷流中沼氏(島津氏が中間血縁族:室町期)
藤原秀郷流永沼氏(織田氏が中間血縁族:室町期)
藤原秀郷流長沼氏(桓武平氏)
藤原秀郷流長沼氏(源姓)



永嶋氏

藤原秀郷流永嶋氏(佐野氏が中間血縁族:一門)
藤原秀郷流永嶋氏(結城氏が中間血縁族:一門)
肝付氏系永嶋氏(肝付氏系:九州永嶋氏:後漢の阿多倍一門)
阿多倍系永嶋氏(大蔵氏系:九州永嶋氏:後漢の阿多倍一門)
日下部氏系永嶋氏(九州永嶋氏:後漢の阿多倍一門)
未勘の諸流永嶋氏

未勘の諸流永嶋氏の末裔支流分流
村上源氏北畠氏永嶋氏
藤姓佐野氏永嶋氏
藤姓永嶋氏


青木氏

上記の赴任地24地方の末裔24氏の青木氏 116氏
直系1氏、直流4氏、支流4氏

直系
藤原秀郷流青木氏(千国:一門)

直流
藤原秀郷流青木氏(行久:一門)
藤原秀郷流青木氏(佐野氏が中間血縁族:一門)
藤原秀郷流青木氏(玄審:一門)
藤原秀郷流青木氏(安明:一門)

支流
藤原秀郷流青木氏(忠英:一門)
藤原秀郷流青木氏(正命:一門)
藤原秀郷流青木氏(正胤:一門)
藤原秀郷流青木氏(政之:一門)

藤原秀郷流青木氏の未勘氏
美作国 吉野郡青木村、真庭郡に末裔青木氏
越後国 古志郡
佐渡国 加茂郡青木村
三河国 渥美郡、額田郡
因幡国 八東郡
豊前国 下毛郡
下総国 猿島郡
岩代国 安達郡青木村
磐城国 袋内
以上赴任地外に室町期から江戸期にかけて赴任地、転封により移動定住したと観られる末裔。
家紋等不詳である。

未勘の諸流青木氏
第一期の室町後期、第2期の江戸初期、第3期の明治初期の第3青木氏が存在する。
この3期の系列は確定できない。


注意:千国、行久、佐野氏から血縁発祥した青木氏以外の玄審から政之までの青木氏は、系譜が取れる範囲のものとして表示し、これ等は行久、佐野氏からの系流の青木氏である。

以上に分類できる。

以上、3つの内容に付いて、分類し整理した。
この分類から、藤原秀郷一門のその当時の活動状況等が解り、他の史料と組み合わせたりすると更に多くの考察が出来るので大いに利用して頂きたい。
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