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大化改新 新説 NHKスペッシャルまとめ8-1
大化改新 新説 まとめNHKスペッシャル7-4の「失政、失敗」の反論は終わり次の新説に対する反論に入るとする。
今度の大化改新の検証テーマは第8番目と最後の10番目の新説に対する反論である。
8 日本文化は朝鮮(三韓)の文化
9 律令国家の導入
10 石と水の庭園は疑問とあつた。
以上の3つであるが、9番目は既に大化改新は「18改革と10活動」が行われたことを述べ反論し出来たので割愛する。
では、先ず、8番目の「日本文化は朝鮮の文化」について反論する。
反論すると言うよりは影響受けた事は事実であり。問題は日本文化との影響比率が問題となる。
事実、100%とは言っていないので反論とはならない。
そこで、その比率とその影響の内容の具合が問題であるのでそれを解明したい。
このまま放置しておくと大化の改新の改革文化は内容全てが導入したとなってしまうので、ここで改めて文化の説明をしておきたい。
先ず、次の問題を設定する。
第1の問題は、その文化の影響を受けた期間をどのように設定するかである。
第2の問題は、どの範囲の事柄を文化と設定するかである。
第3の問題は、どの程度の人々のところまでの文化とするかである。
第4の問題は、主に影響を受けた外国を何処とするかである。
以上が検証するに必要とする設定であり、この4つの問題が不明確に論じると結論が変わるものと見て設定する。
論じる際には次の設定で分類しながら行う事とする。
第1の問題は、時代を大化としてその大化期とその前の期間が文化に影響するものとする。
そうすると、大化期を645年(650)として前期を半世紀の50年程度の文化として600年頃とし、後期は大化期を半世紀を経た期間までの700年頃までとする。
そして、前期は後漢の滅亡前の文化と、隋の滅亡前の文化と、唐の建国(618年)位の時代から大化前(645年)までの影響とし、大和では欽明天皇時代からの文化とする。
後期は唐の影響とし、大化改新から27年間の天智天皇と、天武天皇の14年間と、持統天皇の8年間の約50年間の文化とする。
第2の問題は、国の国体の構成要素を政治、経済、軍事、文化の4つとして前者3つは補完要素とする。
この補完的要素を政治的なことから影響した事柄を①「政治文化」と呼称し、経済的なことから影響した②「経済文化」と呼称し、軍事的なことから影響した事柄を③「軍事文化」として論じる。
そして、その主体の文化は④「宗教文化」と⑤「科学文化」とに分ける事とする。
しかし、この時代には現代のような「科学文化」というものが進化していない事から特に特記する物が無い場合は論外とするが、現代のような科学を意味するものとは異なる場合がある。この場合は呼称名を作って説明する。
第3の問題は、この大化期は大化改新1から7までその社会状況を述べてきたが、特に「7色の姓制度」(8色)などの身分制度の存在する社会の中であるので、その文化の影響を直接受ける内容が異なるので、階級の範囲を「上流階級」と「下流階級」とに分けて論じる。
この時代の文化は現代と異なり身分制度がある以上各階級の文化は、平均化していないで異なっている場合があるので分けて分析する。
第4の問題は、外国の影響を主に中国と朝鮮国とし、中国は「隋」と「後漢」と「唐」の影響とし、朝鮮国は3韓(馬韓、弁韓、辰韓)の「百済」、「新羅」、「高句麗」の影響とする。
既に、これ等の内容の内で政治的、軍事的、経済的な事柄の影響文化に付いては、「失政、失敗」の所の検証で概ねの所を述べている。しかし、これを「文化」という点に絞って史実史料に基づき対比しながら論ずる事とする。
本件の限定した分野での結論の結果は、既に前レポートで次の様に記述した。
大化改新7の1-4までのレポートで、「隋と後漢と唐」の文化に「百済」の文化が「政治、経済、軍事的」には補完的影響として受けている事を既に述べている。
その中でも「後漢の文化」の影響が強かった事を3権の範囲で最も影響が強かった事を特記している。。
もとより、朝鮮国は618年までは後漢の占領下にあったし、その後の唐の影響を受けているので直接、間接的にも中国文化(主に前期は後漢の文化で、後期は唐の文化である)である事を注釈する。
では、その手法として「文化」という括りで史実として残っているものだけを取り上げて論じて行く。
1 聖徳太子の592年頃から起こった「崇仏論争」である。
即ち、「仏教」の導入に依って起こる「宗教文化」である。
「仏教」は中国を経て「百済」の「聖明王」から伝えられた。
この事に付いての経緯を次ぎに述べる。
4世紀後半に百済「応神王」に引き連れられて難波津の河内に上陸した。
この地を制して後、当時の「ヤマト王権」の「政治連合体」(4豪族)との戦いの末に、和議して出来た「ヤマト政権」の「合議体」が樹立した。
この初代大王に朝鮮の渡来人の「応神王」がなり、彼に引きつられて来た「物部氏」や「蘇我氏」らも勢力を拡大し、これに加わりそれらがヤマトの豪族となり、6大豪族(巨勢、紀、葛城、平群の4氏と物部、蘇我の各氏)等で構成する「ヤマト政権」、即ち「河内王朝」(ワケ王朝)が樹立した。
その後(6世紀半ば)政治的成長を遂げて「大和朝廷」が出来たが、ほぼその直後に「大和政権」を揺さぶる上記の豪族の間で2分して論争が起こった。
最終的に神の祭祀を担当する中臣氏と、軍事を担当する物部氏(百済系渡来人)の排仏派と、阿智使王と阿多倍(後漢系渡来人)が率いる武力集団の漢氏(東漢氏)を管理支配下に入れていた蘇我氏との崇仏派に別れて、利害関係の存在する戦いが起こり、結果として崇仏派の蘇我氏等が勝った事件があった。
この時、聖徳太子が加わり蘇我稲目、馬子の親子の大臣の時代であったが、崇仏派の努力で仏教は拡大し、同時にそのもたらす「宗教文化」が飛躍的に発展した。
このことでも判る様に、百済人の初代の応神大王らの率いるヤマト政権であったので「朝鮮文化」が拡大して、それまでの既存文化と合わせて「百済文化」の発展期となったのである。
しかし、この時は既に、後漢の21代末帝の献帝(子供の石秋王)の孫の阿智使王と曾孫の阿多倍王が17県民を引き連れて大技能集団が続々と帰化してきていた。(ピークは孝徳天皇期:大化改新期)
後漢のこれ等の帰化民は、最終日本全土の66国中関西以西の32国を無戦の状態で支配下に納めたが、後漢の渡来人の持つ技能が瞬く間にその支配下の民の生活に浸透して生活程度が上がり、その技能は益々ヤマト民の生活に吸収されて広まつている時期でもあった。
従って、上流階級には「仏教文化」が起因する文化が発展し、同時期には「民の文化」も「後漢の文化」が浸透していたと云う事になる。
つまり、「上流階級」の文化は「宗教文化」の「朝鮮文化」が普及し、「下流階級」の文化は「技能文化」(経済文化)の「後漢文化」が並存している時期でもあったのである。
念のために、当時は「民」とは、次の様に定義付けられて呼ばれていたのである。現在とは随分と異なる。
「民」の呼称を「百姓」と言い、当時は皇族と賎民を除く良民一般(公民、地方豪族、一部地方貴族を含む)の総称であった。
実際は農民だけではなく、山民、海民等を含めて調庸を負担する被支配民一般をさす語として用いられていた。
真に、百の姓(かばね)である。
この「百姓」の民に「阿多倍」の引き連れてきた高度な技能を持つ集団がそれを伝授して生活程度を向上させたのである。
それ故にむしろ進んでこの阿多倍らの支配下に入ったのである。
現在の第1次産業はこの集団が持ち込んだものであるが、つまり、大化改新のところで述べた「部制度」を維持した服部、磯部、海部、鍛冶部、陶部、土師部、...等の姓を持つ集団である。
そこから生まれた彼等の技能がもたらす事による文化、即ち「技能文化」(「経済文化」:「後漢文化」:「下流階級文化」)はこの「百姓文化」として大発展したのである。
もし、これが支配的な統治ではこの様な文化はこれ程までに生まれていなかった可能性がある。
例えば、現在の陶磁器(陶部:すえべ)や土器(土師部:しがらきべ)や鉄器(鍛冶部:かじべ)や織物(織部:おりべ)等の様に伝統芸能としてその文化は引き継がれて来ている。
(阿多倍の詳細は「大化改新」の所や研究室の検索で参照して下さい。)
ここで、忘れては成らない現代も長く続く最長の限定した文化が存在していたのである。
崇仏の争いに付いての上流階級の「仏教文化」とは別に、その中でもう一つの文化があったのである。
それは物部氏や中臣氏らの主帳する「天神文化」というものが元々「ヤマト」にはあった。
この事に付いては、このヤマト政権(王権)の樹立の経緯が大きく関わっているのである。
その経緯の事に付いて説明する
この「ヤマト王権」とは、大和川が形成している「大和平野」を支配した地域勢力(物部氏や蘇我氏を除く上記の氏族の勢力)が樹立していた王権である。
この王権は後の天皇を中心とする律令国家の前身であり、成立の時期(年代)の確定ははっきりしていないが、ここに百済の応神王らの渡来人が上陸し、進んだ生産技能や統治の方法を持ち込み、地域勢力はいち早くこの「朝鮮文化」(百済文化)を取り入れ勢力を増し、三輪山の祭祀を中心に結束し、この渡来人の応神王を大王としてその祖先を神とする伝承を作り上げたと述べたが、後に、朝鮮諸国との交流を進める中で、更に別に「天と神を中心とする伝承」(天神文化)を作り上げていたのである。
この「大和王権」(大和政権)の「天と神を祭祀する伝統」のこの神代の時代からの「伝承文化」を護ろうとする物部氏やこの祭祀を担当する氏の中臣氏(後の大化改新の立役者の「中臣鎌足」の先祖である。)等が「排仏運動」を起こしたのである。
これに対して、蘇我氏等は立場を失う事となり、この結果、崇仏派を立ち上げて対抗したのである。
当初は排仏運動派の方が優勢であったが、聖徳太子の気転(恵美押勝)で戦いでの勝敗が付いたのである。
しかし、この後、蘇我氏らの崇仏派は傀儡の聖徳太子を立てて「大和政権」を形成したが、この時、一方ではこの政権には崇仏する「仏教文化」が、他方では「天と神を祭祀する伝統」の「伝承文化」(天神文化)も妥協の産物として天皇家(大王家)が維持していたのである。
この結果、次の現象が起こった。
皇族階級は、「天と神を祭祀する伝統」による「伝承文化」(大和文化:天神文化)を発展させた。
政権と蘇我氏等の大豪族の上流階級は、仏教による「宗教文化」(朝鮮文化:仏教文化)を発展させた。
民の「百姓」の良民の下流階級は、技能による「経済文化」(後漢文化:技能文化)を発展させていた。
即ち、同時期に「三つ巴文化」(融合文化)の花を咲かせて次第に発展させて行ったのである。
そして、この3階級の身分の「三つ巴文化」は根付き「律令国家」に根ざし、国体を維持するに値する民を治める政権の「大和朝廷」が誕生したのである。この大和朝廷の天皇家の主幹文化として維持していた事になる。
聖徳太子等が、「中国」の中央集権的律令国家の政治的導入と共に、「百済」から「仏教文化」を導入したのであったが、結局は元の「中国」の隋(唐)から「仏教文化」と「先進文化」を積極的に摂取し、「三経義疏」(簡易解説書)を著して民に解り易く解説して浸透を図り、その信仰の場として四天王寺、法隆寺、発起寺、中宮寺等を建立したのである。
結局は上流文化(宗教文化)としながらも、この書の存在でも判る様に「政治文化」としての仏教を用いて当初は「民の安寧」を計っていたのである。
(「三経義疏」とは「法華経」、「勝曼経」、「維摩経」の3経の注釈解説書(義疏)を言う。)
この当初の初期の「三つ巴文化」は、上記の例に見る様に「分離」して文化が発展して行ったのでは無く、次第に「融合」しながら「融合文化」へと形成して行った。
これに基づいて、「政権」も成育し、「ヤマト王権」から「大和政権」へと、遂には「大和朝廷」へと生育して推移して行ったのである。
ここで「朝廷」とは、大王、天皇を中心とする政治機構で、大臣、大連を始めとして中央の豪族を含めた「合議体」の呼称なのであるが、真にこの「融合文化」と共に政治機構も「合議」(融合)へと「文化」の成せる技として進化して行ったのである。
これも政治が起因する「政治文化」の一つと言わざるを得ない。
だとすると、「政治文化」を加えて「四つ巴文化」とも言えるのではないか。
或いは、「三つ巴文化」を分離することなく上手くリードし上位に立つ「政治文化」が成立していたのであろうか。
これが当時(飛鳥前半期)の文化の構造であった。
大化改新の前レポートでのところでも述べたが、そもそも「日本民族」そのものが「7つの融合民族」なのである。
それ故に、これは我々日本人の持つ何でも「融合」してしまう「国民の特徴」でもある。
そして、この「融合」が全ての問題の解決手段として、現在までの世界に誇る優れた「国体」と「文化」を維持させてその奥深い国体と文化に成っている要素なのである。
歴史を顧みて、既に1400年前からの大化前後から政治と文化にその特長を発揮していることを知ると今さらながら真に驚きである。
この事が明治初期まで「三つ巴文化」が続き、多様性の持つ世界に誇る独自の「融合文化」を作り上げたのであるが、しかしながら、「分離」しようとして明治初期には再び廃仏(毀釈)の運動が起こった歴史をも持っているのである。
この様に決して「外国文化」をそのままに伝承した訳ではないのである。これを独自性の「融合文化」と呼称されている所以である。
2 「遣隋使」と「遣唐使」の文化の影響
この使節は大化期の文化育成に大きな影響を与えたのであり無視出来ない。
この「隋」は高句麗遠征に失敗して短命(581-618)に終わったが、小野妹子や大化改新の前レポートで記述した4人の国博士共に、遣唐使としては高向玄理、河内鯨、栗田真人、山上億良、吉備真備、石上宅嗣、藤原葛野麻呂、小野皇等が居る。
これ等の人物は650年前後と以降の大化期の人物も含まれているが、敢えて判りやすくする為にまとめて掲載して置く。
この時期としては、第1次遣唐使として犬上御田鍬、薬師恵日等が多くの先進文化を伝えた。
彼等は主に留学生、学問僧、技術者とで構成されていて、「文化」と言うよりは「文明科学」の航海知識や造船技術、建造物技術等の進んだ「科学文化」を伝えたのである。
大和国の文化に大きく貢献するその大切な派遣であるので、通常、”よつふね”と呼び確率から4隻の船を仕立てて唐渡した。かなりの犠牲を負っての遣唐(隋)使であった。
難波津から出て博多湾に立ちよりここから出た。
状況により3つのルート(北路、南路、南島路)を選択した。
唐の末期の政情不安と危険度から菅原道真が遣唐使の中止を建言して取りやめになった経緯がある。
ここで誤解されている傾向のあるものとして、日本の文化は隋唐からの遣唐(隋)使が持ち帰り直ぐにその文化が伝達させたと教科書で教わった。
ところが社会に出て技術士として経験して行くうちに疑問が湧いてきた。そこで、歴史に興味を持って良く調べて考えてみると社会システム上で理屈に合わない事に突き当たるのである。
物理的にこの教科書説には矛盾を持っているのである。この事は下記で説明する。
(余談として、ここで暫く息抜きの為に、ついでに時事放談をする。)
(ところで、学校教育にはこの矛盾が多い。原因は教師バカや教授バカである。つまり、ある「社会のシステム」を無視して限定された視野からしか見られ無く成った論法である。最近は判事バカや検事バカが出て社会の常識とズレが出たために、裁判員制度や検察員制度が設けられた。だから教育も同じ様な限られた世界であるのだから、やるなら一緒にである。教育問題も教諭員制度、教授員制度を設けてはどうかと思う。)
3 「慧慈」(高句麗人)、「慧聡」(百済人)の影響
「慧慈」は聖徳太子の仏教の師となり、仏教はもとより太子の人間像の育成にも大きな影響を与えた人物で、大和朝廷の「政治文化」の伝来に最大の貢献をした人物である。
615年に帰国し太子の死を知ると太子と同日の死を望んで622年の翌年同日に死亡したと言う有名な伝説が残っている程の人物であった。
また、百済僧の「慧聡」は「慧慈」と共に「三宝の棟梁」と称えられた人物で、学僧として二人(聖徳太子と中大兄皇子)に大きな影響を与えた。
大化前期のそれらの文化育成に影響を与えた書物として次のものが選択できる。
先ず、中国書では、「隋書」、「倭国伝」、「唐書」、「旧唐書」、「通典」、「唐会要」である。
朝鮮書では、「三国史記(新羅本記)」、「日本世記」(百済)である。
大和書では、史書「天皇記」「帝紀」、「帝皇日継」、「国記」である。
特に、百済の「日本世記」の発見は、それまでの通説を覆す史実が詳しく判明したことであり、大きな文化の影響を与えていた事が最近に判明したのである。
特に大化期の中大兄皇子が政務した日々の詳しい内容が日記形式で記載されていて、その百済文化の影響を色濃く反映している事が読み取れるものが発見された。
これは「慧聡」が皇子の側で政務をとりそれを日記にして帰国する際に持ち帰ったものとして考えられている。
確かに政務や書物に依って影響を与えただろう事は否めないが文化まで影響したかは史実が無いので不明確である。
4 「干支の法」が与えた「生活文化」の影響
この法は、十干(じっかん)と十二支とこの二つを組み合わせた60通りの年月日を表す方法である。
この「干支の法」は言語に相当する文化文明のあらゆる基本と成るパラメータであり、これにて記述、記載、記録の文化は発達した。
この中国の法を取り入れたことで中国、朝鮮との文化文明の共通する価値が伝わり、普及発展に大きく速やかに寄与したのである。
この基本と成るパラメータが異なると発達途上の国々のその原因にも見られる様に、現代の日本の文化文明の進展は遅れていたと考えられる。
それで中大兄皇子は、第10番目の新説のところで述べるが、この時刻、日の正確な設定の問題であると考えて取り組んだのである。これ無くしてこの手法は充分に使えないとして水時計を作り解決した。
そして、これを朝廷の儀式又は祭祀として用いたのである。
飛鳥文化では太陽の日時計を使っていたが正確度が悪く、これを「白鳳文化」(大化期の文化)では水時計を作ってこの問題の正確さを解決したのである。(第10番の答えはこの水時計である。「時」の重要性は文明と文化発展に重要である事は議論の余地は無い。)
現在に於いてはこの中国の法は殆ど消滅しているが、当時としては民の生活に必要不可欠な直接に浸透している基準であった。
これも直接の「文化」とは言い難いところもあるが、文明と文化構成上の基本としてその歴史上の影響として扱った。
5 「識緯説」(しんいせつ)の影響
この当時の中国の「政治思想」、又は民の「生活習慣思想」としても用いられたのである。
この思想は概ね次の通りである。
例えば、一つの説を採ると、干支で甲子の歳や辛酉の年には変乱が多いとし甲子革令説、辛酉革命説と呼ばれるものがある。
一種の統計学的な推理に基づく予想である。この様な多くの諸事に統計説が作られているのであり、中国の長い歴史から来る経験を統計的に論理つけたものである。
確かに、一概に無視出来ない推理法であるが、現在でも「10年一昔」と言う。
10年経つと社会構造が変化して一つの「節目」が出来て、これだけ科学が進歩してもそれにても解析できない何らかの変化、又は問題が起こる可能性は現在の人の社会でも充分考えられる。
この様な「言葉」や「伝説」や「言い伝え」等が、特に日本社会には多いことは今だ否めない。
これは一種の中国から伝わった「統計文化」と言える。
この方式が未だ科学が大きく発展していない時の社会としては、この当時の統計文化を構成していて人の「先の見えない不安」の「指針」として用いられたのである。
そして、一方では「仏教」で人の「心の不安」を解消したのである
因みに、「日本書紀」に記載されている「神武天皇」の即位の日が、変更されてこの辛酉の年(前660)を元号としたと記されている。
「日本書紀」にも書かれている事柄であるからして、諸事に対して朝廷や民の社会では充分に有り得たと考えられる。
現在でも、民衆の祝い事や祭事や旅行や生活習慣全般に於いてなども未だ田舎では充分に用いているのである。
また、現在に於いても企業の製造現場では「ミス」を無くす方法として「オルガノリズム」の近代的統計学での方法で人の諸事の変化を予測して、中国の甲子革令説や辛酉革命説なるものと同じものを見つけて注意して「ミス」を無くすると言う方法を採っているのである。
人の諸事の変化は「心の変化と体調の要素」にて統計学的には「Nパターン」(又はWパターン)を示す事が解っているのである。
つまり、「人の関わる諸事に於いて一定のリズムで周期を繰り返す」という統計説である。
現代のこの同じ統計説に比例定数やカーブの微分係数、積分係数を加えて人の個々のリズムに適応してを算定する方式が採られているのである。
参考として昔の識緯説に見合うものとして、現代での統計学では回帰分析法、標準偏差方式法、統計分散度法、比例平均法、Cp法、ヒストグラム法等の夫々の諸事に適合する多くの方式が確立している。
元は中国の「識緯説」、即ち人の「意識の経緯を論理的にしたものの意」であり、つまり「統計」であり現代のものとは少しも変わらないのである。
この様に科学が進んだ「現代社会」においでも「統計文化」は人の「生活文化」として当時は浸透して用いられていることを考えると、当時の大化期前の「飛鳥文化」では、生活の大半の決定事項がこの「統計文化」(生活文化)手法で決められていた事が判る。
これは最早、「民の生活」に完全浸透したことを意味するとすれば「生活文化」の何物でもないのである。
(「飛鳥文化」とは推古期から大化前までの文化を言う)
それ故に、この影響を記述したが、これも中国から導入された無視出来ない文化である。
6 「北魏様式」と「南梁様式」の影響
この時代は建築、工芸に中国の文化の色合いが大きく出ている。
「飛鳥文化」は即ち「仏教文化」である。
これには精神心理の「宗教文化」と、建築、造船、工芸の「科学文化」とが並存して「進化」までは届かないまでも「新化」したのである。
特に、ここでは特に顕著な新化を遂げたこの建築、造船、工芸に付いてスポットを当ててみる事とする。
この「飛鳥文化」の50年の間に建造されたものを列記してみると次の様になり、その中で日本最初の匠が各種の職種で出ている。
その有名な人物として、日本最初の彫り物師、又は仏師の「鞍作部止利」(司馬達等の孫)が上げられる。
この者は中国後漢の渡来人の鞍作部の者から鍛えられて日本人として最初に「鞍作り」を教わったのである。
当時の馬具の鞍は彫り物で作られていてこれを専門に彫っていたが、次第に仏像や建築物の建造にも関わるようになった。
彼の作として遺されている飛鳥遺産物の有名なものとしては、法興寺の安居院の釈迦如来像、法隆寺の金堂釈迦三尊像(北魏様式)などがある。(参考 賜姓伊勢青木氏に与えられたステイタスの「大日如来坐像」も鞍作部止利の作である)
この「鞍作部止利」が大きく貢献した「飛鳥文化」に関して推古天皇が発した詔がある。
7 「仏法興隆の詔」と「三宝興隆奨励の詔」(三宝とは仏、法、僧のことである)の影響。
これ等の詔を発してまでも仏教を基本としてその「心の教え」もさることながら、この仏教に関連する建造物や像などの新化をも狙ったものとして考えられる。
この宗教の伝播はその生活の行動にも関わる人の往来方法やその生活処式の道具等にも新化は進み、造船や工芸への発達にも大きく影響は広がったのである。
特に、大化前の50年の「飛鳥文化」の後半には、建築、造船、工芸品の年代を調べると、その進歩は目覚しい所があり集中している。
これは、阿多倍らが率いるの「後漢」17県民の渡来人の200万と言う技能と知識の大集団が帰化してきた事によるものである。
ここで、上記のバカ問題の解答をする。
考えても不思議ではないか。知識の吸収は遣唐使では可能であるが、いざ建造となるとそれを実行するに必要とする「経験」と「人数」と「設備」と「処具」と特異な「資材」が必要である筈で、その物が何処にあるのか。
当時のヤマトには元々は進んだ「科学文化」が無いのだから。遣唐使が中国から”よつふね”を何回も組んで持ち込んだとでも言うのだろうか。そんなことしていたら時間と浪費と危険がかさみ作業なんか出来ない。
当時のこれだけ多くて現在までの遺された優秀な建造物や諸具を作るのは素人では無理であり、且つそれを作るのは人海戦術であるから、大量で大変優秀な技能者が必要である。
ただ、遣隋使や遣唐使の10人程度の派遣では、「知識」は持ち帰ったとしてもその作る「手段」の「技能」の伝達は直ぐには出来ないのであるから、いくら詔を発してもこの様に伝播する事は無いはずであるし、優れた物を創造する事はできない。
そこにはそれを「理解」し「経験」し「高い技能」とそれを「指揮する能力」の「綜合力」が「絶対的要件」として必要である。
では、下記の寺群はもとより「飛鳥文化」を代表する綜合建築、工芸、処具の見本の「飛鳥大仏」はどのようにしてこれ等の技能技術者を準備したのであろうか。
この建造物は土木、建築、冶金、化学、機械、の設計、製造、施行、組み立て等の広範囲の進んだ大規模工事である。
この建造に関わった大勢の優れた知識と経験を持った人たちを中国からでも呼んで来たというのであろうか。
現在でも難しいのではないか。
私も40年程度の経験を持つ機械と冶金の専門技術士であるが、この「飛鳥大仏」を見てどのように作ったのか不思議なくらいに優れている。
中国から帰った技術者では到底に論外で出来ない事は判るし、帰ったからといって直ぐに出来るわけは無い。
設備も無し道具のも無いところで、又教えたとして直ぐに経験がつくわけでも無い。
建造の準備期間を入れると5年も経っていないのである。
では、その大変な数の「絶対要件」は短期間に何処から持ってきたのか、まさか中国からと云う事はないと思う。
しかし、出来ているのであるから国内にその「絶対要件」が既に備わっていた事になる。
また、この二つの詔を発する位にあるだから直ぐに出来ると見て出した筈である。
確かに遣唐使に唐が与えた技能者を史実で調べると最高で20人と成っているが、これは全て建築工芸の者だけではなく政治経済等の諸々の技能者である。
前期したように朝廷の中でも、遣唐使の派遣は危険である事から菅原道真が中止を建言したくらいである。
大量の道具と優れた技能者人数を確保して、4隻仕立てで確率で運ぶ時代であるし、且つ、遭難覚悟で中国から運ぶのでは人数が何人あっても足りないし、そんなことは不可能だし、唐政権が何せ物理的に危険である事から許す事はない。
しかし、「大和朝廷」期には全く”そのものずばり”の要件が既に備わった集団があったのである。
言うまでも無く「阿多倍」の後漢の200万という経験豊富で組織で統治された進んだ技能集団の帰化人が続々と上陸して来るのである。むしろ多すぎる位である。
後漢と言っても唐の建国と同時に618年に滅びて大和に帰化してきているのであるから、年数的には飛鳥時代では文化の年代差としても5-10年程度のものであり、建造物の技能には殆どその差はないと見てよい。
むしろ、どちらかというと、”遣唐使などいらない”と言うほどであるが。
そこで、余談だが、後に菅原道真の「遣唐使の中止の建言」はただ通説「危険」という単純な理由では無かったと考えている。それはこの阿多倍らの「有能な集団」の存在に関わっていたと見ている。
そして、それで周囲、特に藤原氏の施政との軋轢が生まれて道真は配流されたのではないかと見る。
話を元に戻す。
この阿多倍の集団が存在することでこの詔も効果を発揮したのであり、総合的な「飛鳥文化」が新化して発展したのである。
そして、それが大化期後の50年の進化の足がかりとなって向かったのである。
即ち、「飛鳥文化」の「宗教文化」と「科学文化」と「統計文化」と「生活文化」(生活文化)の「融合文化」は阿多倍の集団が成せる技であったと結論付けられるのではないか。
飛鳥期に建立された主な有名な寺
橘寺(橘氏)、飛鳥寺(蘇我氏)、太秦寺(秦氏 広隆寺)、興福寺(藤原氏)
法興寺、法隆寺、法輪寺、百済寺、中宮寺、法隆寺金堂、法隆寺五重塔
以上の寺が「飛鳥文化」を象徴する寺群である。少なくとも50年の間に今のようにスピーディーに建設器機を使ってやるのではない。一つの建物でも20年程度掛かっているものもある。これだけでも大変な数である。
この寺には中国の文化の「南北朝文化」を色濃く出ているのである。
その「南北朝文化」とは次の通りである。
この北と東と西と南の魏方式とは中国のどこの場所付近の文化なのであろうか。
言うまでも無く漢、後漢の地域帯である。
漢が滅ぶと一部の漢民は西に逃れ中国西域に文化を移動させたし、他方は東に逃れた光武帝に引き連れられた漢民は東に「漢文化」(後漢文化)を移したのである。
そして、東にだけ漢民による国を造り21代の献帝までに渡り「漢文化圏」を構築したのである
その一つは、北朝(6C)の北魏から東魏と西魏の時代の文化様式である。
もう一つは、南朝の「六朝文化」の影響の影響を受けた文化様式である。
この二つの文化にはエンタシス、大斗、雲形肘木、卍崩しの勾欄、一字形割束等が特長である。
この中国の「南北朝文化」の影響が飛鳥の文化に「大和文化」の「様式」として融合して確立して行ったのである。
それは特に、「伽藍配置」と言う形で現れているのである。
「伽藍配置」即ち、寺院を構成する塔、金堂、講堂などの配置の様式をいうが、次のものがある。
① 飛鳥寺式、塔を中心に東西北に3金堂が配置される。高句麗と同一
② 四天王寺式、金堂の前に塔を建てて南北一直線にした伽藍配置である。
③ 法隆寺式、五重塔を西、金堂を東に配置する寺院伽藍配置の様式である。
④ 薬師寺式、金堂の南に東西の両塔が建つ伽藍配置である。
⑤ 東大寺式、東西の両塔が中門と南門の間に出る伽藍配置である。
⑥ 大安寺式、東西の両塔が南大門の南に出る伽藍配置である。
以上の6つの様式に分類される。
この様に伽藍配置にしても大和方式に変化させて建造物に対しても「飛鳥文化」を創造させたのである。
(北魏様式とは「南北朝文化」の一つで、中国の南北朝の北魏の彫刻様式の影響を受け杏仁形の目、仰月形の唇、左右対称の幾何学的衣文などを現すのが特長である。)
つまり、中国の「南北朝文化」そのものを「ものまね」的に吸収したのではないのであり、独自の文化として吸収したのである。
金銅像
他に像に付いては「金銅像」と言うものがあるが、この金銅像に付いては、 青銅を方に流し込んで鋳造した像の上に金粉を水銀に混ぜたアマルガムを塗布して加熱して水銀を蒸発させて塗金したものである。
当時の「科学文化」としては考えられないほどの技法である。しかし、現実には実際は匠に使用されていたのである。
素晴らしい文化が醸成されていた事になる。
他にも高度な技法の文化がある。
「密陀絵」とは、油に溶かした絵の具に密陀僧(一酸化鉛)を加えた塗料で描いた油絵で、漆器の様な光沢が出る。
法隆寺「玉虫厨子」の絵は密陀絵或いは漆絵とも言う。
これだけの科学技術を屈指して作り上げる文化を飛鳥時代には独自の技法として確立したのである。
これは明らかに、中国の唐隋の文化から持ち込んだものではなく、後漢からの阿多倍らの渡来人らが持ち込んで醸成したものである。
その技能の高さでの匠技で、この現代でも難しい複雑な「科学文化」の新化が遂げられているのである。そのレベルが判る。
確かに中国で発展した文化技法であるが、後漢17県民200万人と言う帰化した渡来人の所以である。
中国の当時の経済方式は、中国では一族が中央に城を築き、そして、全周囲を城壁で囲い、その中に何万という一族民が住まう方式である。
その中は全て同姓である。そして、その中でこの様な一族の技法が発展して行ったのである。そして、その別隣の城の他族では別の技能の発展を起こして、それを交換し合う経済方式で進化と新化と進化を繰り返して文化を発展させたのである。
中国文化(後漢)を理解するにはこの経済方式のことを理解する必要があるので特記する。
これ等の17県民の数種の一族が渡来し、故に、そっくりとそのままの「綜合文化」を持ち込んだものであり、後漢の渡来人は優れた技能技術の総合力を保持していたのである。
8 「飛鳥文化」に影響を与えた朝鮮人と宝蔵品の例品
(3に別分野での追加)
「曇徴」 610年に渡来した高句麗の僧で、「五経」の師である。また絵の具や紙墨製法にも精通して「紙墨の法」を表し指導した。
「観ろく」 602年に来日した百済の僧で、暦法、天文地理、の師である。多くの弟子を育てた。
7の「科学文化」を屈指してい宝贓品群
法隆寺金堂釈迦三尊像
法隆寺百済観音像
法隆寺夢殿救世観音像
法隆寺金堂薬師如来像光背銘
法隆寺金堂四天王像
広隆寺半伽思惟像
法隆寺玉虫厨子
玉虫厨子扉絵
捨身飼虎図
施身聞げ図
天寿国繍帳
忍冬唐草文様
法隆寺金堂灌頂幡
竜首水瓶
獅子狩文様錦
以上が「飛鳥文化」の代表宝蔵品として上げられる。
ここまでが「飛鳥文化」の史実に基づいての検証である。
結論
既に、検証の「朝鮮文化」の影響は「飛鳥文化」の初期にはあったことは否めない。そして、特にその功績の主な元は「人的貢献」による影響と言えるものである。
初代のヤマト政権期の「応神大王」の百済からの登場で、確かに進んだ文化を持ち込んでヤマトの民に影響を与えた。
しかし、この文化も中国の文化が朝鮮半島の陸を経ての伝達であり、その中国の「隋唐文化」も阿多倍らが率いる大技能集団の所以の「後漢文化」を越えるものでは無かったのである。
そして、その「後漢文化」の「政治文化」、「経済文化」、「軍事文化」、「科学文化」(統計文化、技能文化、生活文化)、「宗教文化」、「伝承文化」も日本という中で溶け込み「融合文化」を構成して、国民全階層の「三つ巴文化」を育み、独自の「飛鳥文化」を発展させ「新化と進化」を繰り返し、「50年文化」とも言い得る短い期間に中国の文化のレベルに到達しているのである。
否、それだけではない独自に発展させた文化をも育成したのである。
大化改新1-7のレポートでも記述したように律令国家体制の確立を短期に到達した事を書いたが、この進歩と平行して「飛鳥文化」もバランスよく進んだと言えるのである。
このことは国体を維持し高めるに当って不可避の条件でもあったが成し遂げられている。
現代ある日本文化はこの期間での発展が大きな原点と成っていると考える。
もとより、民の文化の発祥点ともなる「第一次産業」が、後漢の渡来人の成させる技でもある事を踏まえると、これはもう日本の文化の多くは彼等の功績と評価しても誤りではないのであろう。
そうすると、全レポートでの「律令国家体制」彼等の功績も配慮すると、「政治と文化」の日本の礎を築いたのは殆ど彼等であると言えるのではないか。この事が余り「教育の場」では評価されていないのは残念である。
この検証の論外にはなるが、次の検証の「白鳳文化」(熟成文化)と、日本最大の花開いた「独自文化」の「平安文化」へと繋がって行くのである。そして、この時も彼等の末裔の「京平家」が平家文化とも言える程に大きく関わっている事を忘れては成らない。
何はともあれ、しかしながらも、いまや彼等も「日本単一融合民族」の25%を占める国民であり、その優秀さに誇りと感謝を持つものである。
この検証は未だ「飛鳥文化」の範囲であり、次に検証する大化期の50年の文化(白鳳文化)は更に飛躍を遂げているのである。
大化期の「白鳳文化」の「50年文化」は次に続く。
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今度の大化改新の検証テーマは第8番目と最後の10番目の新説に対する反論である。
8 日本文化は朝鮮(三韓)の文化
9 律令国家の導入
10 石と水の庭園は疑問とあつた。
以上の3つであるが、9番目は既に大化改新は「18改革と10活動」が行われたことを述べ反論し出来たので割愛する。
では、先ず、8番目の「日本文化は朝鮮の文化」について反論する。
反論すると言うよりは影響受けた事は事実であり。問題は日本文化との影響比率が問題となる。
事実、100%とは言っていないので反論とはならない。
そこで、その比率とその影響の内容の具合が問題であるのでそれを解明したい。
このまま放置しておくと大化の改新の改革文化は内容全てが導入したとなってしまうので、ここで改めて文化の説明をしておきたい。
先ず、次の問題を設定する。
第1の問題は、その文化の影響を受けた期間をどのように設定するかである。
第2の問題は、どの範囲の事柄を文化と設定するかである。
第3の問題は、どの程度の人々のところまでの文化とするかである。
第4の問題は、主に影響を受けた外国を何処とするかである。
以上が検証するに必要とする設定であり、この4つの問題が不明確に論じると結論が変わるものと見て設定する。
論じる際には次の設定で分類しながら行う事とする。
第1の問題は、時代を大化としてその大化期とその前の期間が文化に影響するものとする。
そうすると、大化期を645年(650)として前期を半世紀の50年程度の文化として600年頃とし、後期は大化期を半世紀を経た期間までの700年頃までとする。
そして、前期は後漢の滅亡前の文化と、隋の滅亡前の文化と、唐の建国(618年)位の時代から大化前(645年)までの影響とし、大和では欽明天皇時代からの文化とする。
後期は唐の影響とし、大化改新から27年間の天智天皇と、天武天皇の14年間と、持統天皇の8年間の約50年間の文化とする。
第2の問題は、国の国体の構成要素を政治、経済、軍事、文化の4つとして前者3つは補完要素とする。
この補完的要素を政治的なことから影響した事柄を①「政治文化」と呼称し、経済的なことから影響した②「経済文化」と呼称し、軍事的なことから影響した事柄を③「軍事文化」として論じる。
そして、その主体の文化は④「宗教文化」と⑤「科学文化」とに分ける事とする。
しかし、この時代には現代のような「科学文化」というものが進化していない事から特に特記する物が無い場合は論外とするが、現代のような科学を意味するものとは異なる場合がある。この場合は呼称名を作って説明する。
第3の問題は、この大化期は大化改新1から7までその社会状況を述べてきたが、特に「7色の姓制度」(8色)などの身分制度の存在する社会の中であるので、その文化の影響を直接受ける内容が異なるので、階級の範囲を「上流階級」と「下流階級」とに分けて論じる。
この時代の文化は現代と異なり身分制度がある以上各階級の文化は、平均化していないで異なっている場合があるので分けて分析する。
第4の問題は、外国の影響を主に中国と朝鮮国とし、中国は「隋」と「後漢」と「唐」の影響とし、朝鮮国は3韓(馬韓、弁韓、辰韓)の「百済」、「新羅」、「高句麗」の影響とする。
既に、これ等の内容の内で政治的、軍事的、経済的な事柄の影響文化に付いては、「失政、失敗」の所の検証で概ねの所を述べている。しかし、これを「文化」という点に絞って史実史料に基づき対比しながら論ずる事とする。
本件の限定した分野での結論の結果は、既に前レポートで次の様に記述した。
大化改新7の1-4までのレポートで、「隋と後漢と唐」の文化に「百済」の文化が「政治、経済、軍事的」には補完的影響として受けている事を既に述べている。
その中でも「後漢の文化」の影響が強かった事を3権の範囲で最も影響が強かった事を特記している。。
もとより、朝鮮国は618年までは後漢の占領下にあったし、その後の唐の影響を受けているので直接、間接的にも中国文化(主に前期は後漢の文化で、後期は唐の文化である)である事を注釈する。
では、その手法として「文化」という括りで史実として残っているものだけを取り上げて論じて行く。
1 聖徳太子の592年頃から起こった「崇仏論争」である。
即ち、「仏教」の導入に依って起こる「宗教文化」である。
「仏教」は中国を経て「百済」の「聖明王」から伝えられた。
この事に付いての経緯を次ぎに述べる。
4世紀後半に百済「応神王」に引き連れられて難波津の河内に上陸した。
この地を制して後、当時の「ヤマト王権」の「政治連合体」(4豪族)との戦いの末に、和議して出来た「ヤマト政権」の「合議体」が樹立した。
この初代大王に朝鮮の渡来人の「応神王」がなり、彼に引きつられて来た「物部氏」や「蘇我氏」らも勢力を拡大し、これに加わりそれらがヤマトの豪族となり、6大豪族(巨勢、紀、葛城、平群の4氏と物部、蘇我の各氏)等で構成する「ヤマト政権」、即ち「河内王朝」(ワケ王朝)が樹立した。
その後(6世紀半ば)政治的成長を遂げて「大和朝廷」が出来たが、ほぼその直後に「大和政権」を揺さぶる上記の豪族の間で2分して論争が起こった。
最終的に神の祭祀を担当する中臣氏と、軍事を担当する物部氏(百済系渡来人)の排仏派と、阿智使王と阿多倍(後漢系渡来人)が率いる武力集団の漢氏(東漢氏)を管理支配下に入れていた蘇我氏との崇仏派に別れて、利害関係の存在する戦いが起こり、結果として崇仏派の蘇我氏等が勝った事件があった。
この時、聖徳太子が加わり蘇我稲目、馬子の親子の大臣の時代であったが、崇仏派の努力で仏教は拡大し、同時にそのもたらす「宗教文化」が飛躍的に発展した。
このことでも判る様に、百済人の初代の応神大王らの率いるヤマト政権であったので「朝鮮文化」が拡大して、それまでの既存文化と合わせて「百済文化」の発展期となったのである。
しかし、この時は既に、後漢の21代末帝の献帝(子供の石秋王)の孫の阿智使王と曾孫の阿多倍王が17県民を引き連れて大技能集団が続々と帰化してきていた。(ピークは孝徳天皇期:大化改新期)
後漢のこれ等の帰化民は、最終日本全土の66国中関西以西の32国を無戦の状態で支配下に納めたが、後漢の渡来人の持つ技能が瞬く間にその支配下の民の生活に浸透して生活程度が上がり、その技能は益々ヤマト民の生活に吸収されて広まつている時期でもあった。
従って、上流階級には「仏教文化」が起因する文化が発展し、同時期には「民の文化」も「後漢の文化」が浸透していたと云う事になる。
つまり、「上流階級」の文化は「宗教文化」の「朝鮮文化」が普及し、「下流階級」の文化は「技能文化」(経済文化)の「後漢文化」が並存している時期でもあったのである。
念のために、当時は「民」とは、次の様に定義付けられて呼ばれていたのである。現在とは随分と異なる。
「民」の呼称を「百姓」と言い、当時は皇族と賎民を除く良民一般(公民、地方豪族、一部地方貴族を含む)の総称であった。
実際は農民だけではなく、山民、海民等を含めて調庸を負担する被支配民一般をさす語として用いられていた。
真に、百の姓(かばね)である。
この「百姓」の民に「阿多倍」の引き連れてきた高度な技能を持つ集団がそれを伝授して生活程度を向上させたのである。
それ故にむしろ進んでこの阿多倍らの支配下に入ったのである。
現在の第1次産業はこの集団が持ち込んだものであるが、つまり、大化改新のところで述べた「部制度」を維持した服部、磯部、海部、鍛冶部、陶部、土師部、...等の姓を持つ集団である。
そこから生まれた彼等の技能がもたらす事による文化、即ち「技能文化」(「経済文化」:「後漢文化」:「下流階級文化」)はこの「百姓文化」として大発展したのである。
もし、これが支配的な統治ではこの様な文化はこれ程までに生まれていなかった可能性がある。
例えば、現在の陶磁器(陶部:すえべ)や土器(土師部:しがらきべ)や鉄器(鍛冶部:かじべ)や織物(織部:おりべ)等の様に伝統芸能としてその文化は引き継がれて来ている。
(阿多倍の詳細は「大化改新」の所や研究室の検索で参照して下さい。)
ここで、忘れては成らない現代も長く続く最長の限定した文化が存在していたのである。
崇仏の争いに付いての上流階級の「仏教文化」とは別に、その中でもう一つの文化があったのである。
それは物部氏や中臣氏らの主帳する「天神文化」というものが元々「ヤマト」にはあった。
この事に付いては、このヤマト政権(王権)の樹立の経緯が大きく関わっているのである。
その経緯の事に付いて説明する
この「ヤマト王権」とは、大和川が形成している「大和平野」を支配した地域勢力(物部氏や蘇我氏を除く上記の氏族の勢力)が樹立していた王権である。
この王権は後の天皇を中心とする律令国家の前身であり、成立の時期(年代)の確定ははっきりしていないが、ここに百済の応神王らの渡来人が上陸し、進んだ生産技能や統治の方法を持ち込み、地域勢力はいち早くこの「朝鮮文化」(百済文化)を取り入れ勢力を増し、三輪山の祭祀を中心に結束し、この渡来人の応神王を大王としてその祖先を神とする伝承を作り上げたと述べたが、後に、朝鮮諸国との交流を進める中で、更に別に「天と神を中心とする伝承」(天神文化)を作り上げていたのである。
この「大和王権」(大和政権)の「天と神を祭祀する伝統」のこの神代の時代からの「伝承文化」を護ろうとする物部氏やこの祭祀を担当する氏の中臣氏(後の大化改新の立役者の「中臣鎌足」の先祖である。)等が「排仏運動」を起こしたのである。
これに対して、蘇我氏等は立場を失う事となり、この結果、崇仏派を立ち上げて対抗したのである。
当初は排仏運動派の方が優勢であったが、聖徳太子の気転(恵美押勝)で戦いでの勝敗が付いたのである。
しかし、この後、蘇我氏らの崇仏派は傀儡の聖徳太子を立てて「大和政権」を形成したが、この時、一方ではこの政権には崇仏する「仏教文化」が、他方では「天と神を祭祀する伝統」の「伝承文化」(天神文化)も妥協の産物として天皇家(大王家)が維持していたのである。
この結果、次の現象が起こった。
皇族階級は、「天と神を祭祀する伝統」による「伝承文化」(大和文化:天神文化)を発展させた。
政権と蘇我氏等の大豪族の上流階級は、仏教による「宗教文化」(朝鮮文化:仏教文化)を発展させた。
民の「百姓」の良民の下流階級は、技能による「経済文化」(後漢文化:技能文化)を発展させていた。
即ち、同時期に「三つ巴文化」(融合文化)の花を咲かせて次第に発展させて行ったのである。
そして、この3階級の身分の「三つ巴文化」は根付き「律令国家」に根ざし、国体を維持するに値する民を治める政権の「大和朝廷」が誕生したのである。この大和朝廷の天皇家の主幹文化として維持していた事になる。
聖徳太子等が、「中国」の中央集権的律令国家の政治的導入と共に、「百済」から「仏教文化」を導入したのであったが、結局は元の「中国」の隋(唐)から「仏教文化」と「先進文化」を積極的に摂取し、「三経義疏」(簡易解説書)を著して民に解り易く解説して浸透を図り、その信仰の場として四天王寺、法隆寺、発起寺、中宮寺等を建立したのである。
結局は上流文化(宗教文化)としながらも、この書の存在でも判る様に「政治文化」としての仏教を用いて当初は「民の安寧」を計っていたのである。
(「三経義疏」とは「法華経」、「勝曼経」、「維摩経」の3経の注釈解説書(義疏)を言う。)
この当初の初期の「三つ巴文化」は、上記の例に見る様に「分離」して文化が発展して行ったのでは無く、次第に「融合」しながら「融合文化」へと形成して行った。
これに基づいて、「政権」も成育し、「ヤマト王権」から「大和政権」へと、遂には「大和朝廷」へと生育して推移して行ったのである。
ここで「朝廷」とは、大王、天皇を中心とする政治機構で、大臣、大連を始めとして中央の豪族を含めた「合議体」の呼称なのであるが、真にこの「融合文化」と共に政治機構も「合議」(融合)へと「文化」の成せる技として進化して行ったのである。
これも政治が起因する「政治文化」の一つと言わざるを得ない。
だとすると、「政治文化」を加えて「四つ巴文化」とも言えるのではないか。
或いは、「三つ巴文化」を分離することなく上手くリードし上位に立つ「政治文化」が成立していたのであろうか。
これが当時(飛鳥前半期)の文化の構造であった。
大化改新の前レポートでのところでも述べたが、そもそも「日本民族」そのものが「7つの融合民族」なのである。
それ故に、これは我々日本人の持つ何でも「融合」してしまう「国民の特徴」でもある。
そして、この「融合」が全ての問題の解決手段として、現在までの世界に誇る優れた「国体」と「文化」を維持させてその奥深い国体と文化に成っている要素なのである。
歴史を顧みて、既に1400年前からの大化前後から政治と文化にその特長を発揮していることを知ると今さらながら真に驚きである。
この事が明治初期まで「三つ巴文化」が続き、多様性の持つ世界に誇る独自の「融合文化」を作り上げたのであるが、しかしながら、「分離」しようとして明治初期には再び廃仏(毀釈)の運動が起こった歴史をも持っているのである。
この様に決して「外国文化」をそのままに伝承した訳ではないのである。これを独自性の「融合文化」と呼称されている所以である。
2 「遣隋使」と「遣唐使」の文化の影響
この使節は大化期の文化育成に大きな影響を与えたのであり無視出来ない。
この「隋」は高句麗遠征に失敗して短命(581-618)に終わったが、小野妹子や大化改新の前レポートで記述した4人の国博士共に、遣唐使としては高向玄理、河内鯨、栗田真人、山上億良、吉備真備、石上宅嗣、藤原葛野麻呂、小野皇等が居る。
これ等の人物は650年前後と以降の大化期の人物も含まれているが、敢えて判りやすくする為にまとめて掲載して置く。
この時期としては、第1次遣唐使として犬上御田鍬、薬師恵日等が多くの先進文化を伝えた。
彼等は主に留学生、学問僧、技術者とで構成されていて、「文化」と言うよりは「文明科学」の航海知識や造船技術、建造物技術等の進んだ「科学文化」を伝えたのである。
大和国の文化に大きく貢献するその大切な派遣であるので、通常、”よつふね”と呼び確率から4隻の船を仕立てて唐渡した。かなりの犠牲を負っての遣唐(隋)使であった。
難波津から出て博多湾に立ちよりここから出た。
状況により3つのルート(北路、南路、南島路)を選択した。
唐の末期の政情不安と危険度から菅原道真が遣唐使の中止を建言して取りやめになった経緯がある。
ここで誤解されている傾向のあるものとして、日本の文化は隋唐からの遣唐(隋)使が持ち帰り直ぐにその文化が伝達させたと教科書で教わった。
ところが社会に出て技術士として経験して行くうちに疑問が湧いてきた。そこで、歴史に興味を持って良く調べて考えてみると社会システム上で理屈に合わない事に突き当たるのである。
物理的にこの教科書説には矛盾を持っているのである。この事は下記で説明する。
(余談として、ここで暫く息抜きの為に、ついでに時事放談をする。)
(ところで、学校教育にはこの矛盾が多い。原因は教師バカや教授バカである。つまり、ある「社会のシステム」を無視して限定された視野からしか見られ無く成った論法である。最近は判事バカや検事バカが出て社会の常識とズレが出たために、裁判員制度や検察員制度が設けられた。だから教育も同じ様な限られた世界であるのだから、やるなら一緒にである。教育問題も教諭員制度、教授員制度を設けてはどうかと思う。)
3 「慧慈」(高句麗人)、「慧聡」(百済人)の影響
「慧慈」は聖徳太子の仏教の師となり、仏教はもとより太子の人間像の育成にも大きな影響を与えた人物で、大和朝廷の「政治文化」の伝来に最大の貢献をした人物である。
615年に帰国し太子の死を知ると太子と同日の死を望んで622年の翌年同日に死亡したと言う有名な伝説が残っている程の人物であった。
また、百済僧の「慧聡」は「慧慈」と共に「三宝の棟梁」と称えられた人物で、学僧として二人(聖徳太子と中大兄皇子)に大きな影響を与えた。
大化前期のそれらの文化育成に影響を与えた書物として次のものが選択できる。
先ず、中国書では、「隋書」、「倭国伝」、「唐書」、「旧唐書」、「通典」、「唐会要」である。
朝鮮書では、「三国史記(新羅本記)」、「日本世記」(百済)である。
大和書では、史書「天皇記」「帝紀」、「帝皇日継」、「国記」である。
特に、百済の「日本世記」の発見は、それまでの通説を覆す史実が詳しく判明したことであり、大きな文化の影響を与えていた事が最近に判明したのである。
特に大化期の中大兄皇子が政務した日々の詳しい内容が日記形式で記載されていて、その百済文化の影響を色濃く反映している事が読み取れるものが発見された。
これは「慧聡」が皇子の側で政務をとりそれを日記にして帰国する際に持ち帰ったものとして考えられている。
確かに政務や書物に依って影響を与えただろう事は否めないが文化まで影響したかは史実が無いので不明確である。
4 「干支の法」が与えた「生活文化」の影響
この法は、十干(じっかん)と十二支とこの二つを組み合わせた60通りの年月日を表す方法である。
この「干支の法」は言語に相当する文化文明のあらゆる基本と成るパラメータであり、これにて記述、記載、記録の文化は発達した。
この中国の法を取り入れたことで中国、朝鮮との文化文明の共通する価値が伝わり、普及発展に大きく速やかに寄与したのである。
この基本と成るパラメータが異なると発達途上の国々のその原因にも見られる様に、現代の日本の文化文明の進展は遅れていたと考えられる。
それで中大兄皇子は、第10番目の新説のところで述べるが、この時刻、日の正確な設定の問題であると考えて取り組んだのである。これ無くしてこの手法は充分に使えないとして水時計を作り解決した。
そして、これを朝廷の儀式又は祭祀として用いたのである。
飛鳥文化では太陽の日時計を使っていたが正確度が悪く、これを「白鳳文化」(大化期の文化)では水時計を作ってこの問題の正確さを解決したのである。(第10番の答えはこの水時計である。「時」の重要性は文明と文化発展に重要である事は議論の余地は無い。)
現在に於いてはこの中国の法は殆ど消滅しているが、当時としては民の生活に必要不可欠な直接に浸透している基準であった。
これも直接の「文化」とは言い難いところもあるが、文明と文化構成上の基本としてその歴史上の影響として扱った。
5 「識緯説」(しんいせつ)の影響
この当時の中国の「政治思想」、又は民の「生活習慣思想」としても用いられたのである。
この思想は概ね次の通りである。
例えば、一つの説を採ると、干支で甲子の歳や辛酉の年には変乱が多いとし甲子革令説、辛酉革命説と呼ばれるものがある。
一種の統計学的な推理に基づく予想である。この様な多くの諸事に統計説が作られているのであり、中国の長い歴史から来る経験を統計的に論理つけたものである。
確かに、一概に無視出来ない推理法であるが、現在でも「10年一昔」と言う。
10年経つと社会構造が変化して一つの「節目」が出来て、これだけ科学が進歩してもそれにても解析できない何らかの変化、又は問題が起こる可能性は現在の人の社会でも充分考えられる。
この様な「言葉」や「伝説」や「言い伝え」等が、特に日本社会には多いことは今だ否めない。
これは一種の中国から伝わった「統計文化」と言える。
この方式が未だ科学が大きく発展していない時の社会としては、この当時の統計文化を構成していて人の「先の見えない不安」の「指針」として用いられたのである。
そして、一方では「仏教」で人の「心の不安」を解消したのである
因みに、「日本書紀」に記載されている「神武天皇」の即位の日が、変更されてこの辛酉の年(前660)を元号としたと記されている。
「日本書紀」にも書かれている事柄であるからして、諸事に対して朝廷や民の社会では充分に有り得たと考えられる。
現在でも、民衆の祝い事や祭事や旅行や生活習慣全般に於いてなども未だ田舎では充分に用いているのである。
また、現在に於いても企業の製造現場では「ミス」を無くす方法として「オルガノリズム」の近代的統計学での方法で人の諸事の変化を予測して、中国の甲子革令説や辛酉革命説なるものと同じものを見つけて注意して「ミス」を無くすると言う方法を採っているのである。
人の諸事の変化は「心の変化と体調の要素」にて統計学的には「Nパターン」(又はWパターン)を示す事が解っているのである。
つまり、「人の関わる諸事に於いて一定のリズムで周期を繰り返す」という統計説である。
現代のこの同じ統計説に比例定数やカーブの微分係数、積分係数を加えて人の個々のリズムに適応してを算定する方式が採られているのである。
参考として昔の識緯説に見合うものとして、現代での統計学では回帰分析法、標準偏差方式法、統計分散度法、比例平均法、Cp法、ヒストグラム法等の夫々の諸事に適合する多くの方式が確立している。
元は中国の「識緯説」、即ち人の「意識の経緯を論理的にしたものの意」であり、つまり「統計」であり現代のものとは少しも変わらないのである。
この様に科学が進んだ「現代社会」においでも「統計文化」は人の「生活文化」として当時は浸透して用いられていることを考えると、当時の大化期前の「飛鳥文化」では、生活の大半の決定事項がこの「統計文化」(生活文化)手法で決められていた事が判る。
これは最早、「民の生活」に完全浸透したことを意味するとすれば「生活文化」の何物でもないのである。
(「飛鳥文化」とは推古期から大化前までの文化を言う)
それ故に、この影響を記述したが、これも中国から導入された無視出来ない文化である。
6 「北魏様式」と「南梁様式」の影響
この時代は建築、工芸に中国の文化の色合いが大きく出ている。
「飛鳥文化」は即ち「仏教文化」である。
これには精神心理の「宗教文化」と、建築、造船、工芸の「科学文化」とが並存して「進化」までは届かないまでも「新化」したのである。
特に、ここでは特に顕著な新化を遂げたこの建築、造船、工芸に付いてスポットを当ててみる事とする。
この「飛鳥文化」の50年の間に建造されたものを列記してみると次の様になり、その中で日本最初の匠が各種の職種で出ている。
その有名な人物として、日本最初の彫り物師、又は仏師の「鞍作部止利」(司馬達等の孫)が上げられる。
この者は中国後漢の渡来人の鞍作部の者から鍛えられて日本人として最初に「鞍作り」を教わったのである。
当時の馬具の鞍は彫り物で作られていてこれを専門に彫っていたが、次第に仏像や建築物の建造にも関わるようになった。
彼の作として遺されている飛鳥遺産物の有名なものとしては、法興寺の安居院の釈迦如来像、法隆寺の金堂釈迦三尊像(北魏様式)などがある。(参考 賜姓伊勢青木氏に与えられたステイタスの「大日如来坐像」も鞍作部止利の作である)
この「鞍作部止利」が大きく貢献した「飛鳥文化」に関して推古天皇が発した詔がある。
7 「仏法興隆の詔」と「三宝興隆奨励の詔」(三宝とは仏、法、僧のことである)の影響。
これ等の詔を発してまでも仏教を基本としてその「心の教え」もさることながら、この仏教に関連する建造物や像などの新化をも狙ったものとして考えられる。
この宗教の伝播はその生活の行動にも関わる人の往来方法やその生活処式の道具等にも新化は進み、造船や工芸への発達にも大きく影響は広がったのである。
特に、大化前の50年の「飛鳥文化」の後半には、建築、造船、工芸品の年代を調べると、その進歩は目覚しい所があり集中している。
これは、阿多倍らが率いるの「後漢」17県民の渡来人の200万と言う技能と知識の大集団が帰化してきた事によるものである。
ここで、上記のバカ問題の解答をする。
考えても不思議ではないか。知識の吸収は遣唐使では可能であるが、いざ建造となるとそれを実行するに必要とする「経験」と「人数」と「設備」と「処具」と特異な「資材」が必要である筈で、その物が何処にあるのか。
当時のヤマトには元々は進んだ「科学文化」が無いのだから。遣唐使が中国から”よつふね”を何回も組んで持ち込んだとでも言うのだろうか。そんなことしていたら時間と浪費と危険がかさみ作業なんか出来ない。
当時のこれだけ多くて現在までの遺された優秀な建造物や諸具を作るのは素人では無理であり、且つそれを作るのは人海戦術であるから、大量で大変優秀な技能者が必要である。
ただ、遣隋使や遣唐使の10人程度の派遣では、「知識」は持ち帰ったとしてもその作る「手段」の「技能」の伝達は直ぐには出来ないのであるから、いくら詔を発してもこの様に伝播する事は無いはずであるし、優れた物を創造する事はできない。
そこにはそれを「理解」し「経験」し「高い技能」とそれを「指揮する能力」の「綜合力」が「絶対的要件」として必要である。
では、下記の寺群はもとより「飛鳥文化」を代表する綜合建築、工芸、処具の見本の「飛鳥大仏」はどのようにしてこれ等の技能技術者を準備したのであろうか。
この建造物は土木、建築、冶金、化学、機械、の設計、製造、施行、組み立て等の広範囲の進んだ大規模工事である。
この建造に関わった大勢の優れた知識と経験を持った人たちを中国からでも呼んで来たというのであろうか。
現在でも難しいのではないか。
私も40年程度の経験を持つ機械と冶金の専門技術士であるが、この「飛鳥大仏」を見てどのように作ったのか不思議なくらいに優れている。
中国から帰った技術者では到底に論外で出来ない事は判るし、帰ったからといって直ぐに出来るわけは無い。
設備も無し道具のも無いところで、又教えたとして直ぐに経験がつくわけでも無い。
建造の準備期間を入れると5年も経っていないのである。
では、その大変な数の「絶対要件」は短期間に何処から持ってきたのか、まさか中国からと云う事はないと思う。
しかし、出来ているのであるから国内にその「絶対要件」が既に備わっていた事になる。
また、この二つの詔を発する位にあるだから直ぐに出来ると見て出した筈である。
確かに遣唐使に唐が与えた技能者を史実で調べると最高で20人と成っているが、これは全て建築工芸の者だけではなく政治経済等の諸々の技能者である。
前期したように朝廷の中でも、遣唐使の派遣は危険である事から菅原道真が中止を建言したくらいである。
大量の道具と優れた技能者人数を確保して、4隻仕立てで確率で運ぶ時代であるし、且つ、遭難覚悟で中国から運ぶのでは人数が何人あっても足りないし、そんなことは不可能だし、唐政権が何せ物理的に危険である事から許す事はない。
しかし、「大和朝廷」期には全く”そのものずばり”の要件が既に備わった集団があったのである。
言うまでも無く「阿多倍」の後漢の200万という経験豊富で組織で統治された進んだ技能集団の帰化人が続々と上陸して来るのである。むしろ多すぎる位である。
後漢と言っても唐の建国と同時に618年に滅びて大和に帰化してきているのであるから、年数的には飛鳥時代では文化の年代差としても5-10年程度のものであり、建造物の技能には殆どその差はないと見てよい。
むしろ、どちらかというと、”遣唐使などいらない”と言うほどであるが。
そこで、余談だが、後に菅原道真の「遣唐使の中止の建言」はただ通説「危険」という単純な理由では無かったと考えている。それはこの阿多倍らの「有能な集団」の存在に関わっていたと見ている。
そして、それで周囲、特に藤原氏の施政との軋轢が生まれて道真は配流されたのではないかと見る。
話を元に戻す。
この阿多倍の集団が存在することでこの詔も効果を発揮したのであり、総合的な「飛鳥文化」が新化して発展したのである。
そして、それが大化期後の50年の進化の足がかりとなって向かったのである。
即ち、「飛鳥文化」の「宗教文化」と「科学文化」と「統計文化」と「生活文化」(生活文化)の「融合文化」は阿多倍の集団が成せる技であったと結論付けられるのではないか。
飛鳥期に建立された主な有名な寺
橘寺(橘氏)、飛鳥寺(蘇我氏)、太秦寺(秦氏 広隆寺)、興福寺(藤原氏)
法興寺、法隆寺、法輪寺、百済寺、中宮寺、法隆寺金堂、法隆寺五重塔
以上の寺が「飛鳥文化」を象徴する寺群である。少なくとも50年の間に今のようにスピーディーに建設器機を使ってやるのではない。一つの建物でも20年程度掛かっているものもある。これだけでも大変な数である。
この寺には中国の文化の「南北朝文化」を色濃く出ているのである。
その「南北朝文化」とは次の通りである。
この北と東と西と南の魏方式とは中国のどこの場所付近の文化なのであろうか。
言うまでも無く漢、後漢の地域帯である。
漢が滅ぶと一部の漢民は西に逃れ中国西域に文化を移動させたし、他方は東に逃れた光武帝に引き連れられた漢民は東に「漢文化」(後漢文化)を移したのである。
そして、東にだけ漢民による国を造り21代の献帝までに渡り「漢文化圏」を構築したのである
その一つは、北朝(6C)の北魏から東魏と西魏の時代の文化様式である。
もう一つは、南朝の「六朝文化」の影響の影響を受けた文化様式である。
この二つの文化にはエンタシス、大斗、雲形肘木、卍崩しの勾欄、一字形割束等が特長である。
この中国の「南北朝文化」の影響が飛鳥の文化に「大和文化」の「様式」として融合して確立して行ったのである。
それは特に、「伽藍配置」と言う形で現れているのである。
「伽藍配置」即ち、寺院を構成する塔、金堂、講堂などの配置の様式をいうが、次のものがある。
① 飛鳥寺式、塔を中心に東西北に3金堂が配置される。高句麗と同一
② 四天王寺式、金堂の前に塔を建てて南北一直線にした伽藍配置である。
③ 法隆寺式、五重塔を西、金堂を東に配置する寺院伽藍配置の様式である。
④ 薬師寺式、金堂の南に東西の両塔が建つ伽藍配置である。
⑤ 東大寺式、東西の両塔が中門と南門の間に出る伽藍配置である。
⑥ 大安寺式、東西の両塔が南大門の南に出る伽藍配置である。
以上の6つの様式に分類される。
この様に伽藍配置にしても大和方式に変化させて建造物に対しても「飛鳥文化」を創造させたのである。
(北魏様式とは「南北朝文化」の一つで、中国の南北朝の北魏の彫刻様式の影響を受け杏仁形の目、仰月形の唇、左右対称の幾何学的衣文などを現すのが特長である。)
つまり、中国の「南北朝文化」そのものを「ものまね」的に吸収したのではないのであり、独自の文化として吸収したのである。
金銅像
他に像に付いては「金銅像」と言うものがあるが、この金銅像に付いては、 青銅を方に流し込んで鋳造した像の上に金粉を水銀に混ぜたアマルガムを塗布して加熱して水銀を蒸発させて塗金したものである。
当時の「科学文化」としては考えられないほどの技法である。しかし、現実には実際は匠に使用されていたのである。
素晴らしい文化が醸成されていた事になる。
他にも高度な技法の文化がある。
「密陀絵」とは、油に溶かした絵の具に密陀僧(一酸化鉛)を加えた塗料で描いた油絵で、漆器の様な光沢が出る。
法隆寺「玉虫厨子」の絵は密陀絵或いは漆絵とも言う。
これだけの科学技術を屈指して作り上げる文化を飛鳥時代には独自の技法として確立したのである。
これは明らかに、中国の唐隋の文化から持ち込んだものではなく、後漢からの阿多倍らの渡来人らが持ち込んで醸成したものである。
その技能の高さでの匠技で、この現代でも難しい複雑な「科学文化」の新化が遂げられているのである。そのレベルが判る。
確かに中国で発展した文化技法であるが、後漢17県民200万人と言う帰化した渡来人の所以である。
中国の当時の経済方式は、中国では一族が中央に城を築き、そして、全周囲を城壁で囲い、その中に何万という一族民が住まう方式である。
その中は全て同姓である。そして、その中でこの様な一族の技法が発展して行ったのである。そして、その別隣の城の他族では別の技能の発展を起こして、それを交換し合う経済方式で進化と新化と進化を繰り返して文化を発展させたのである。
中国文化(後漢)を理解するにはこの経済方式のことを理解する必要があるので特記する。
これ等の17県民の数種の一族が渡来し、故に、そっくりとそのままの「綜合文化」を持ち込んだものであり、後漢の渡来人は優れた技能技術の総合力を保持していたのである。
8 「飛鳥文化」に影響を与えた朝鮮人と宝蔵品の例品
(3に別分野での追加)
「曇徴」 610年に渡来した高句麗の僧で、「五経」の師である。また絵の具や紙墨製法にも精通して「紙墨の法」を表し指導した。
「観ろく」 602年に来日した百済の僧で、暦法、天文地理、の師である。多くの弟子を育てた。
7の「科学文化」を屈指してい宝贓品群
法隆寺金堂釈迦三尊像
法隆寺百済観音像
法隆寺夢殿救世観音像
法隆寺金堂薬師如来像光背銘
法隆寺金堂四天王像
広隆寺半伽思惟像
法隆寺玉虫厨子
玉虫厨子扉絵
捨身飼虎図
施身聞げ図
天寿国繍帳
忍冬唐草文様
法隆寺金堂灌頂幡
竜首水瓶
獅子狩文様錦
以上が「飛鳥文化」の代表宝蔵品として上げられる。
ここまでが「飛鳥文化」の史実に基づいての検証である。
結論
既に、検証の「朝鮮文化」の影響は「飛鳥文化」の初期にはあったことは否めない。そして、特にその功績の主な元は「人的貢献」による影響と言えるものである。
初代のヤマト政権期の「応神大王」の百済からの登場で、確かに進んだ文化を持ち込んでヤマトの民に影響を与えた。
しかし、この文化も中国の文化が朝鮮半島の陸を経ての伝達であり、その中国の「隋唐文化」も阿多倍らが率いる大技能集団の所以の「後漢文化」を越えるものでは無かったのである。
そして、その「後漢文化」の「政治文化」、「経済文化」、「軍事文化」、「科学文化」(統計文化、技能文化、生活文化)、「宗教文化」、「伝承文化」も日本という中で溶け込み「融合文化」を構成して、国民全階層の「三つ巴文化」を育み、独自の「飛鳥文化」を発展させ「新化と進化」を繰り返し、「50年文化」とも言い得る短い期間に中国の文化のレベルに到達しているのである。
否、それだけではない独自に発展させた文化をも育成したのである。
大化改新1-7のレポートでも記述したように律令国家体制の確立を短期に到達した事を書いたが、この進歩と平行して「飛鳥文化」もバランスよく進んだと言えるのである。
このことは国体を維持し高めるに当って不可避の条件でもあったが成し遂げられている。
現代ある日本文化はこの期間での発展が大きな原点と成っていると考える。
もとより、民の文化の発祥点ともなる「第一次産業」が、後漢の渡来人の成させる技でもある事を踏まえると、これはもう日本の文化の多くは彼等の功績と評価しても誤りではないのであろう。
そうすると、全レポートでの「律令国家体制」彼等の功績も配慮すると、「政治と文化」の日本の礎を築いたのは殆ど彼等であると言えるのではないか。この事が余り「教育の場」では評価されていないのは残念である。
この検証の論外にはなるが、次の検証の「白鳳文化」(熟成文化)と、日本最大の花開いた「独自文化」の「平安文化」へと繋がって行くのである。そして、この時も彼等の末裔の「京平家」が平家文化とも言える程に大きく関わっている事を忘れては成らない。
何はともあれ、しかしながらも、いまや彼等も「日本単一融合民族」の25%を占める国民であり、その優秀さに誇りと感謝を持つものである。
この検証は未だ「飛鳥文化」の範囲であり、次に検証する大化期の50年の文化(白鳳文化)は更に飛躍を遂げているのである。
大化期の「白鳳文化」の「50年文化」は次に続く。
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明治以降の第3の青木氏
第3の青木氏は明治以降に姓として付けられたものですが、この姓には一つのパターンがあります。なぜなら自分の好きな姓を自由に付けるということは難しい。というのは他に親族とか一族とかがあります。この者たちと姓が事なると言うことは出来ません。
したがって何とか親族一同同じにする方法が必要です。ここにお寺がでてくるのです。なぜなら、お寺は過去帳と言うものを持っています。この過去帳は昔の戸籍簿を兼ねていました。明治初期の姓の持たない人たちはこのお寺に頼みこんだのです。裕福な一族は高額の金品を払い付けてもらいます。この中で最も高額な姓は青木氏だつたのです。それは言うまでもなく第1、2の青木氏は青木氏と藤原氏の最も歴史のある高位の氏姓です。
ですからこの姓を獲得できれば系譜を作れると考えたからです。71レポートに記した様に菩提寺の寺側では還俗僧の青木姓をつけることは容易です。比叡山か門跡寺院にそれなりの金品を支払えば架空の還俗僧は作る事はでき、還俗僧の青木姓を取得することが出来る。この現象はレポートの青木村の14ケ所の土地とその縁の土地で多く確認できるのです。それはホームページの管理人さんのレポートに”3500人の内大半が青木姓であつた”と書いていましたが、これはこの現象が起こった結果なのです。
第1、2の青木氏は武士である以上村全部が青木と言うことは生活できずありえない。全部主人という事になるからです。明治の姓の付ける基準はその土地の環境に合わしたものが多かったのです。つまり憧れです。寺側でも容易に適度の系譜を作ることができます。基のところに還俗僧の青木姓をいれればよいだけですから。このようにして青木姓が明治以降増えたのです。違うところは系譜は途中からのものが多いし、第1、2の青木氏のようにルーツ条件がありません。
ルーツ条件
1 14ケ所の村にある事。5/14か9/14か。
2 家紋が家紋200選にある事
3 系譜に矛盾がない事。(人名に時代性にズレがない事)
4 宗派は浄土宗である事。
5 系譜に藤原血縁にある事。
以上、5条件が成立することで第1,2の青木氏が決まります。
4について、藤原氏の貴族と青木氏の皇族侍の者は全て法然の浄土宗に入信しています。
5について、皇族賜姓族の青木氏は天智天皇と天武天皇の皇子は別として藤原の血縁です。5家の全ての青木氏は平安中期に清和源氏の跡目が入っています。この理由は後日レポートします。
清和源氏の3家は妻方に藤原氏の北家の血縁がベースになっています。
5/14の追加条件として、身分を示すステータスとして、奈良時代の仏師の鞍作部止利の作った30センチ大の仏像を持っています。これが賜姓を授かったときにステータスとして与えられたものです。9/14の追加条件として、秀郷直系の証として、主流家紋は「丸に揚羽蝶」に一文字や蛤などの追加紋がある家紋です。
1について、一族の移動により村が変わっていても移動点が歴史的に確認できる事で証明可能。
第3の青木姓氏は上記条件に外れることになります。
上記の条件でルーツを確認してみてください。家紋200選が解らなければ質問ください。
青木研究員[青木氏氏 副管理人]
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したがって何とか親族一同同じにする方法が必要です。ここにお寺がでてくるのです。なぜなら、お寺は過去帳と言うものを持っています。この過去帳は昔の戸籍簿を兼ねていました。明治初期の姓の持たない人たちはこのお寺に頼みこんだのです。裕福な一族は高額の金品を払い付けてもらいます。この中で最も高額な姓は青木氏だつたのです。それは言うまでもなく第1、2の青木氏は青木氏と藤原氏の最も歴史のある高位の氏姓です。
ですからこの姓を獲得できれば系譜を作れると考えたからです。71レポートに記した様に菩提寺の寺側では還俗僧の青木姓をつけることは容易です。比叡山か門跡寺院にそれなりの金品を支払えば架空の還俗僧は作る事はでき、還俗僧の青木姓を取得することが出来る。この現象はレポートの青木村の14ケ所の土地とその縁の土地で多く確認できるのです。それはホームページの管理人さんのレポートに”3500人の内大半が青木姓であつた”と書いていましたが、これはこの現象が起こった結果なのです。
第1、2の青木氏は武士である以上村全部が青木と言うことは生活できずありえない。全部主人という事になるからです。明治の姓の付ける基準はその土地の環境に合わしたものが多かったのです。つまり憧れです。寺側でも容易に適度の系譜を作ることができます。基のところに還俗僧の青木姓をいれればよいだけですから。このようにして青木姓が明治以降増えたのです。違うところは系譜は途中からのものが多いし、第1、2の青木氏のようにルーツ条件がありません。
ルーツ条件
1 14ケ所の村にある事。5/14か9/14か。
2 家紋が家紋200選にある事
3 系譜に矛盾がない事。(人名に時代性にズレがない事)
4 宗派は浄土宗である事。
5 系譜に藤原血縁にある事。
以上、5条件が成立することで第1,2の青木氏が決まります。
4について、藤原氏の貴族と青木氏の皇族侍の者は全て法然の浄土宗に入信しています。
5について、皇族賜姓族の青木氏は天智天皇と天武天皇の皇子は別として藤原の血縁です。5家の全ての青木氏は平安中期に清和源氏の跡目が入っています。この理由は後日レポートします。
清和源氏の3家は妻方に藤原氏の北家の血縁がベースになっています。
5/14の追加条件として、身分を示すステータスとして、奈良時代の仏師の鞍作部止利の作った30センチ大の仏像を持っています。これが賜姓を授かったときにステータスとして与えられたものです。9/14の追加条件として、秀郷直系の証として、主流家紋は「丸に揚羽蝶」に一文字や蛤などの追加紋がある家紋です。
1について、一族の移動により村が変わっていても移動点が歴史的に確認できる事で証明可能。
第3の青木姓氏は上記条件に外れることになります。
上記の条件でルーツを確認してみてください。家紋200選が解らなければ質問ください。
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秀吉と家康の系譜偏纂
豊臣秀吉は天下をとりましたが、天下の政治は古来より源氏系の者でなければなりません。朝廷がこれを認可しません。この身分は征夷大将軍に任じられる事です。
征夷大将軍とは平安初期はまだ東北地方以北は制圧されていませんでした。この地域はアテルイという者が抑えていました。
この蝦夷も全く制圧できていないためこの地域を制圧する将軍のことを征夷大将軍と言いました。征夷とは醜い未開の族人と言う意味です。
この征夷大将軍で最初に制圧に成功したのは64レポートの阿多倍と敏達天皇の孫の芽淳王の娘との間に出来た子供の長男の賜姓の坂上の田村麻呂です。
そして、この一族がここに根着き勢力を拡大したのは「藤原秀郷流青木氏の発祥理由」レポートの阿多倍王の一族の阿倍(あべ)氏とその一族の清水氏なのです。
これを討ったのは征夷大将軍に任じられたのは清和源氏の満仲の子の三男の頼信の子孫の義家で奥州藤原氏と協力して制圧しました。
この時より国を制圧するものは征夷大将軍の肩書きが必要で、それには源氏の者でなければなりません。秀吉は農民でしたので、天下を治めるにはこの肩書きが必要です。仕方なく母が朝廷の女官で天皇の子供を身ごもり、朝廷を去り、秀吉を産んだとしたのです。したがって秀吉は王の身分(皇子より身分の低い第6世以降の天皇の子供)であるので貴族になれない太閤という位を獲得したのです。しかし、ここで無理があるのです。それは女官になるにはある一定の身分の者の娘でなくてはならない朝廷の規則があります。これは奈良時代から決められていて6階級の定めがあり、皇后、后、夫人、みめ、うねめ、みやびとです。女官ですので「うねめ」か「みやびと」になり、これになるには地方の中程度の豪族か小程度の豪族の娘である事の決まりがありました。そして一度入ると先ず勝手に出ることはできません。金を積んで獲得した訳ですが、系譜はちゃんと造りあげているのです。次は家康ですが、駿河の国の三河の庄屋程度の地方の豪族であつた松平家は次の様な手を打ちました。
家康より3代前の時、一人の修行僧が門前にきました。そして、暫く逗留しました。この時、娘との間に子供がうまれました。やむなく、僧を還俗させ養子として迎えいれました。男子が生まれて松平の嫡子となりました。この嫡子より産まれた子供が家康です。これでは征夷大将軍になれません。そこで、昔、天皇の皇子で王にもなれない身分の低い母から産まれた子供は比叡山に僧としてはいりました。また、別には門跡寺院(天皇家のゆかりの者か退位した天皇が入る寺)に入るかしました。また源氏の者で跡目を継げない者は比叡山などの寺に学僧としてはいりました。
そして、この人たちが還俗(僧を辞めて普通の人に成る事)する時は、青木姓を名乗ったのです。ここにもう一つの青木姓があるのです。つまり、嵯峨期の詔の令に従い、皇族縁の者は青木姓を名乗る権利を保障していたのです。青木姓は江戸のころまでこのように勝手に名乗ってはならない由緒ある氏や姓でありました。江戸のころから崩れました。
したがって、この還俗僧を青木姓として天皇の子供は源氏であるとして搾取したので、また源氏の縁の者であるとしたので、家康は3代あとになるので当然の権利があるとして、搾取偏纂して源氏氏を名乗ったのです。
ここで、古来より、家紋掟があり、源氏の娘が嫁入りして子供が産まれた時、夫の家紋をやめて産まれた子供の母方の家紋に変更することが宗家が許可すれば認められました。これには莫大な金を必要としました。あるいは源氏族を2代目より名乗ることもできました。
但し、この時は、家紋に一部細工を必要としました。大抵は家紋は分家でもなかなか認められませんでした。足利や武田や新田などは源氏を名乗っていますが、源氏であれば、笹竜胆ですが、どれもそうではありません。
跡目が絶えて源氏の末弟を養子で迎え入れてした時等は上記ことで源氏を名乗っても本系や支流でもない源氏が生まれてくるのです。
還俗僧の松平も葵紋です。上手に偏纂したのです。したがって徳川に名乗りかえして、徳川氏は気宇帝の壁が崩れても治し事が出来ないほどに経済的圧力を掛けて、朝廷に源氏の頭領の地位を認めるように圧力を掛けますが、遂には余りにもうそで固めているため朝廷は認めることはしませんでした。そのかわり、源氏の長者としました。長者の意味が変ですね。
笹竜胆の家紋を継げることが出来る氏は現代では5家の青木氏と佐々木氏と大島氏程度だと見られます。藤原秀郷流青木氏の家紋のベースは「下がり藤紋」を綜紋として、支流は「丸に揚羽蝶」にいくつかの細工したものが本流で、秀郷主要9氏以外は支流分流分派だとみられます。116家もあるのでつかみ切れません。ちなみに青木氏の母方(嶋崎氏)は「揚羽蝶紋」の平氏の家紋です。
この様に、皇族関係者(高位の朝臣族と宿禰族)は比叡山の還俗僧と門跡寺院の還俗者は(対象者は18人居ますが)青木氏を名乗りました。(実質は王位から3氏、源氏から2氏しか子孫を残せなかった)
室町から江戸に掛けて、また、明治のはじめにこの青木姓の発祥が多く起こりました。この青木氏は他の2つの青木氏とは違う点があります。一つは土地の定まりがない事。家紋が200選に外れている事。家系が途中から始まる事です。青木姓を名乗る以上は何かの理屈が必要であるので、お寺の協力を得てこの還俗方式で作り上げたものです。2つの青木は一定の土地や家紋や寺の系譜や歴史実等の条件をそなわっています。松平方式にはこれがありません。
源平藤橘と言いますが、「平の将門の乱」から「平の忠常の乱」などに見られるように伝統を守ってきた国司などの階級が尽く滅亡していき鎌倉以降には下克上の時代になり、伝統や習慣が崩されたなかで、上記したような偏纂が起こりました。
時代の変化が起こるときには必ず起こる現象ですので病む終えない事ですが。自分のルーツはこの2つのルーツと後のルーツかを調べて見ることも必要ですね。自分のルーツで御質問があればコメントでしてください
青木研究員[青木氏氏 副管理人]
名前 名字 苗字 由来 ルーツ 家系 家紋 歴史ブログ⇒
征夷大将軍とは平安初期はまだ東北地方以北は制圧されていませんでした。この地域はアテルイという者が抑えていました。
この蝦夷も全く制圧できていないためこの地域を制圧する将軍のことを征夷大将軍と言いました。征夷とは醜い未開の族人と言う意味です。
この征夷大将軍で最初に制圧に成功したのは64レポートの阿多倍と敏達天皇の孫の芽淳王の娘との間に出来た子供の長男の賜姓の坂上の田村麻呂です。
そして、この一族がここに根着き勢力を拡大したのは「藤原秀郷流青木氏の発祥理由」レポートの阿多倍王の一族の阿倍(あべ)氏とその一族の清水氏なのです。
これを討ったのは征夷大将軍に任じられたのは清和源氏の満仲の子の三男の頼信の子孫の義家で奥州藤原氏と協力して制圧しました。
この時より国を制圧するものは征夷大将軍の肩書きが必要で、それには源氏の者でなければなりません。秀吉は農民でしたので、天下を治めるにはこの肩書きが必要です。仕方なく母が朝廷の女官で天皇の子供を身ごもり、朝廷を去り、秀吉を産んだとしたのです。したがって秀吉は王の身分(皇子より身分の低い第6世以降の天皇の子供)であるので貴族になれない太閤という位を獲得したのです。しかし、ここで無理があるのです。それは女官になるにはある一定の身分の者の娘でなくてはならない朝廷の規則があります。これは奈良時代から決められていて6階級の定めがあり、皇后、后、夫人、みめ、うねめ、みやびとです。女官ですので「うねめ」か「みやびと」になり、これになるには地方の中程度の豪族か小程度の豪族の娘である事の決まりがありました。そして一度入ると先ず勝手に出ることはできません。金を積んで獲得した訳ですが、系譜はちゃんと造りあげているのです。次は家康ですが、駿河の国の三河の庄屋程度の地方の豪族であつた松平家は次の様な手を打ちました。
家康より3代前の時、一人の修行僧が門前にきました。そして、暫く逗留しました。この時、娘との間に子供がうまれました。やむなく、僧を還俗させ養子として迎えいれました。男子が生まれて松平の嫡子となりました。この嫡子より産まれた子供が家康です。これでは征夷大将軍になれません。そこで、昔、天皇の皇子で王にもなれない身分の低い母から産まれた子供は比叡山に僧としてはいりました。また、別には門跡寺院(天皇家のゆかりの者か退位した天皇が入る寺)に入るかしました。また源氏の者で跡目を継げない者は比叡山などの寺に学僧としてはいりました。
そして、この人たちが還俗(僧を辞めて普通の人に成る事)する時は、青木姓を名乗ったのです。ここにもう一つの青木姓があるのです。つまり、嵯峨期の詔の令に従い、皇族縁の者は青木姓を名乗る権利を保障していたのです。青木姓は江戸のころまでこのように勝手に名乗ってはならない由緒ある氏や姓でありました。江戸のころから崩れました。
したがって、この還俗僧を青木姓として天皇の子供は源氏であるとして搾取したので、また源氏の縁の者であるとしたので、家康は3代あとになるので当然の権利があるとして、搾取偏纂して源氏氏を名乗ったのです。
ここで、古来より、家紋掟があり、源氏の娘が嫁入りして子供が産まれた時、夫の家紋をやめて産まれた子供の母方の家紋に変更することが宗家が許可すれば認められました。これには莫大な金を必要としました。あるいは源氏族を2代目より名乗ることもできました。
但し、この時は、家紋に一部細工を必要としました。大抵は家紋は分家でもなかなか認められませんでした。足利や武田や新田などは源氏を名乗っていますが、源氏であれば、笹竜胆ですが、どれもそうではありません。
跡目が絶えて源氏の末弟を養子で迎え入れてした時等は上記ことで源氏を名乗っても本系や支流でもない源氏が生まれてくるのです。
還俗僧の松平も葵紋です。上手に偏纂したのです。したがって徳川に名乗りかえして、徳川氏は気宇帝の壁が崩れても治し事が出来ないほどに経済的圧力を掛けて、朝廷に源氏の頭領の地位を認めるように圧力を掛けますが、遂には余りにもうそで固めているため朝廷は認めることはしませんでした。そのかわり、源氏の長者としました。長者の意味が変ですね。
笹竜胆の家紋を継げることが出来る氏は現代では5家の青木氏と佐々木氏と大島氏程度だと見られます。藤原秀郷流青木氏の家紋のベースは「下がり藤紋」を綜紋として、支流は「丸に揚羽蝶」にいくつかの細工したものが本流で、秀郷主要9氏以外は支流分流分派だとみられます。116家もあるのでつかみ切れません。ちなみに青木氏の母方(嶋崎氏)は「揚羽蝶紋」の平氏の家紋です。
この様に、皇族関係者(高位の朝臣族と宿禰族)は比叡山の還俗僧と門跡寺院の還俗者は(対象者は18人居ますが)青木氏を名乗りました。(実質は王位から3氏、源氏から2氏しか子孫を残せなかった)
室町から江戸に掛けて、また、明治のはじめにこの青木姓の発祥が多く起こりました。この青木氏は他の2つの青木氏とは違う点があります。一つは土地の定まりがない事。家紋が200選に外れている事。家系が途中から始まる事です。青木姓を名乗る以上は何かの理屈が必要であるので、お寺の協力を得てこの還俗方式で作り上げたものです。2つの青木は一定の土地や家紋や寺の系譜や歴史実等の条件をそなわっています。松平方式にはこれがありません。
源平藤橘と言いますが、「平の将門の乱」から「平の忠常の乱」などに見られるように伝統を守ってきた国司などの階級が尽く滅亡していき鎌倉以降には下克上の時代になり、伝統や習慣が崩されたなかで、上記したような偏纂が起こりました。
時代の変化が起こるときには必ず起こる現象ですので病む終えない事ですが。自分のルーツはこの2つのルーツと後のルーツかを調べて見ることも必要ですね。自分のルーツで御質問があればコメントでしてください
青木研究員[青木氏氏 副管理人]
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- 秀吉と家康の系譜偏纂 (2007/04/18)
- 青木氏の官位と職位の研究 (2007/04/18)
- 青木氏の官位と職位の研究 (2007/03/20)
- 江戸の町に住んでいた青木さん (2007/02/27)
- ルーツの姓の発祥 (2007/01/02)
- いろいろな 青木 アオキさん (2007/01/01)
- 青木 なまりでとんでもない事に (2006/12/31)
- あん分で黒岩さんに勝った青木さん - 真鶴町議選 (2006/12/31)


名前 名字 苗字 由来 ルーツ 家系 家紋 歴史ブログ⇒



青木氏の官位と職位の研究
青木氏の官位と職位
645年の大化の改新で発祥し5代続いた皇族賜姓青木氏(647)5家5流24氏と、藤原秀郷流青木氏(940)直系1氏、直流4氏、支流4氏、116氏と、及び第3の青木氏(室町末期、江戸初期、明治初期の3期)の全ての青木氏が、各種の朝廷官位と江戸幕府の職位に着いた内容は次ぎのとおりである。
記載条件
これ等は史実として書籍に記載されているものである。
その期間は大化期から江戸期までのもである。
江戸中期頃に朝廷に申請して取得した官職で、主として個人として青木氏24氏と116氏に与えられた氏一代限りの期間の名誉官位と守護職は含まない。
青木氏の守護の職(守)(大化から江戸期まで)
摂津守、伊豆守、豊前守、甲斐守、尾張守、伊勢守、信濃守、近江守、美濃守、下野守、武蔵守、遠江守、駿河守、出羽守、美作守、和泉守、志摩守、紀伊守、伊賀守、出雲守、三河守 筑後守 出羽守
以上21の守護職である。
注釈
以上の守護職の官位は代々の世襲期間の官職である。
これ等は赴任先の期間限定を含み、統治支配及び自領地と守護の職は一致する。
青木氏の朝廷からの官位官職(大化から江戸期まで)
掃部介、玄蕃允、民部尉、別当蔵人、刑部卿、民部少輔、左衛門尉、右衛門尉(清、小)、八百之丞、従五位下、式部少輔、治部少尉、所衛門尉、左衛門佐、三位、従三位、従三位下
左兵衛府、右兵衛府
以上19の官位官職である。
注釈
以上の官位は最高位で天皇に拝謁が出来て会話が出来る賜姓青木氏に与えられた従三位と、藤原系に与えられた従五位下までである。
爵位では賜姓青木氏は浄大浄広の一位から三位、藤原氏は進位大広の一位から4位までであった。
これ等の皇族賜姓青木氏と藤原秀郷流青木氏の2つの青木氏には、その本来の職務の「天皇護衛」から侍に与えられた官位が殆どである。
皇族賜姓青木氏の伊勢青木氏は左兵衛府、左衛門尉、民部尉、近江青木氏は右衛門尉、信濃、美濃青木氏は左、右衛門尉の官位が目立つ。
青木氏の江戸幕府の職位
玄蕃頭
小普請
勘定組頭
勘定奉行支配
御勘定
御書院蕃
御書院蕃組頭
御納戸方
大蕃
大蕃組頭
小十人頭
御広敷番
小姓組
小姓組頭
御台所入
鷹匠
鷹匠組頭
宝蔵書
主計頭
鉄砲箪筒奉行
御広敷番頭
評定所儒者
御目付け
佐渡奉行支配組頭
御賄頭
御幕奉行
勘定奉行
御裏門頭
定火消
桐間番
奥御祐筆
御小納戸
広沢判官代
足利判官
陸奥判官
矢田判官
西の丸御口
以上37職位である。
注釈
以上が大名を除く江戸幕府の御家人の職位であるが、殆ど世襲職である。途中で家が途絶えたものもある。
俸禄の石高は平均的には100石から500石位の間で250石位である。
1000石高を超えるものは少ない。最高で勘定奉行であろう。
(大名は5人)
総評
青木氏の御家人であるが、皇族賜姓青木氏や藤原秀郷流青木氏らの古い青木氏としては、「下克上や戦国時代」などで狙い撃ちにされて滅亡に近い状態になったが、何とか子孫は生き延びさして遺して、再び、直系は衰退したが、分流一族は本家筋を継ぎ、室町末期からここまでの立場になった。
それこそ戦いに明け暮れた死に物狂いの果ての生残りである。
藤原秀郷流青木氏の一門も鎌倉幕府樹立で各地に定住していた氏は離散した。
しかし、何とか鎌倉幕府の御家人に成って生き延びたし、頼朝の「本領安堵策」で2氏の青木氏は各地で息を吹き返して「二束の草鞋策」で郷氏や商人となって生きた。
この様な状況の中で末裔は上記の官職を獲得しているのである。
そしてお陰で現在の我々はここに生きている。
殆どは、各地の郷氏、郷士になりその職位官職の力と流通筋を活かして、各地の同族が連携してシンジケートを構築して名主や庄屋、地主、大問屋、大廻船業などの流通職に成っているのが多い。
多くの他氏に較べて、上記2氏の青木氏の特長でもある。
江戸時代に大豪商と言われた松阪、松前、堺、摂津、近江、博多商人の殆どは、元は武士で自領を持つ国司や守護職や大郷氏や大郷士(名主や庄屋や地主)である。
青木氏はこれに当てはまるもの全てである。
特に、皇族賜姓青木氏は、その自領地の守護地であった関係から、松阪と近江と摂津と堺の豪商に成っている。そして、その氏一族がこぞって本家の商いに取り組んでいる。
藤原秀郷流青木氏は、その赴任地の24の土地の殆どには、必ず廻船問屋や土地の産物を卸す豪商が存在する。
この特徴的な事が「伊勢の賜姓青木氏と紙問屋の紙屋長兵衛」の2つ顔を持って信長と戦い駆け引きした史実(天正伊賀の乱)がある。
これを基にした歴史小説「名張の小太郎」と言ものがある。歌舞伎にもなった事もある。又、NHKの大河ドラマでジェームス三木氏脚本でも3歴史小説にも出て来る。
(詳細はインターネットで検索されたし)
中には、8代将軍吉宗のとき、紀州藩の飛地領の伊勢松阪で、吉宗を伊勢で育てた家老の加納家との縁組を持つ皇族伊勢の賜姓青木氏が「二足の草鞋策」で営んでいた「紙問屋」の経験を買われて、大豪商「紙屋青木長兵衛」の一族の者(青木六兵衛)が、紀州藩から請われて、江戸に出向き、「勘定奉行」を仰せつかり「享保の改革」を実行した履歴もある。(その後、三代続いて勘定方を務め末裔は江戸に定住した)
江戸幕府の職位では、印象としては、何故か判らないが、勘定方と小姓組とその組頭と大番組とその組頭の職位が多い気がする。
勘定方に付いては上記の2氏の豪商の所以であろう。
幕府からその商才を買われて請われて将軍毎に任官したと見られる。
小姓と番頭は想像であるが、元は天皇の護衛役を担っていた事から代々世間で信用されていた事もありうる。
名誉職に付いては、5家5流の皇族賜姓青木氏の子孫は江戸時代中期ごろから、朝廷に申請して一代限りの官位を受ける事が出来た。
このために主に問題が起こらない様に朝廷の天領地であったところの官位を与えた。
中には、何度もダブって与えていることも見られる。そのことで争いが起こっている。
伊豆守や紀伊守や伊賀守や、伊勢を除く近江守、美濃守、信濃守、甲斐守の4家の元皇族賜姓青木氏の「天領地」であったところの官職を実際は統治していない「名誉職」だけのものとして重複して与えたものが目立つ。
それ程に朝廷は困窮していた事を意味する。
特に、各大名のお抱え医者や学者や社会から尊敬される職業の者に一代限りに与えた。大大名などは挙って家臣の名誉官位を申請したのである。
当然に与える名誉官位は直ぐに無くなり、何度も重複する名誉官位を与えたのである。
青木氏や藤原氏の子孫には「守」などの高位の官位を与えた。
江戸時代には1千石以上の俸禄を得ている青木氏や藤原氏の家柄を持つ御家人や旗本が競って名誉職を獲得した。
当時は、朝廷の生活状況は、江戸幕府から締め付けられて、家の壁を直す事が出来ない程度に著しく困窮していた。
だから、金品の授受で名誉職を与えてこれを補った。
これを全て江戸幕府も黙認した。
以上の様に、青木氏の末裔は死物狂いで子孫を遺す為に頑張った事を、このデータは物語ると考える。
決して、今ある自分はこの歴史の中で生きている事に対して、我々子孫は先祖に対して、感謝を忘れてはならない。
そして、次の子孫(子供)をその感謝の表現として大切に遺そうではないか。
このデータはそれを証明するものとしてまとめた事を理解されたし。
青木研究員[青木氏氏 副管理人]
名前 名字 苗字 由来 ルーツ 家系 家紋 歴史ブログ⇒
645年の大化の改新で発祥し5代続いた皇族賜姓青木氏(647)5家5流24氏と、藤原秀郷流青木氏(940)直系1氏、直流4氏、支流4氏、116氏と、及び第3の青木氏(室町末期、江戸初期、明治初期の3期)の全ての青木氏が、各種の朝廷官位と江戸幕府の職位に着いた内容は次ぎのとおりである。
記載条件
これ等は史実として書籍に記載されているものである。
その期間は大化期から江戸期までのもである。
江戸中期頃に朝廷に申請して取得した官職で、主として個人として青木氏24氏と116氏に与えられた氏一代限りの期間の名誉官位と守護職は含まない。
青木氏の守護の職(守)(大化から江戸期まで)
摂津守、伊豆守、豊前守、甲斐守、尾張守、伊勢守、信濃守、近江守、美濃守、下野守、武蔵守、遠江守、駿河守、出羽守、美作守、和泉守、志摩守、紀伊守、伊賀守、出雲守、三河守 筑後守 出羽守
以上21の守護職である。
注釈
以上の守護職の官位は代々の世襲期間の官職である。
これ等は赴任先の期間限定を含み、統治支配及び自領地と守護の職は一致する。
青木氏の朝廷からの官位官職(大化から江戸期まで)
掃部介、玄蕃允、民部尉、別当蔵人、刑部卿、民部少輔、左衛門尉、右衛門尉(清、小)、八百之丞、従五位下、式部少輔、治部少尉、所衛門尉、左衛門佐、三位、従三位、従三位下
左兵衛府、右兵衛府
以上19の官位官職である。
注釈
以上の官位は最高位で天皇に拝謁が出来て会話が出来る賜姓青木氏に与えられた従三位と、藤原系に与えられた従五位下までである。
爵位では賜姓青木氏は浄大浄広の一位から三位、藤原氏は進位大広の一位から4位までであった。
これ等の皇族賜姓青木氏と藤原秀郷流青木氏の2つの青木氏には、その本来の職務の「天皇護衛」から侍に与えられた官位が殆どである。
皇族賜姓青木氏の伊勢青木氏は左兵衛府、左衛門尉、民部尉、近江青木氏は右衛門尉、信濃、美濃青木氏は左、右衛門尉の官位が目立つ。
青木氏の江戸幕府の職位
玄蕃頭
小普請
勘定組頭
勘定奉行支配
御勘定
御書院蕃
御書院蕃組頭
御納戸方
大蕃
大蕃組頭
小十人頭
御広敷番
小姓組
小姓組頭
御台所入
鷹匠
鷹匠組頭
宝蔵書
主計頭
鉄砲箪筒奉行
御広敷番頭
評定所儒者
御目付け
佐渡奉行支配組頭
御賄頭
御幕奉行
勘定奉行
御裏門頭
定火消
桐間番
奥御祐筆
御小納戸
広沢判官代
足利判官
陸奥判官
矢田判官
西の丸御口
以上37職位である。
注釈
以上が大名を除く江戸幕府の御家人の職位であるが、殆ど世襲職である。途中で家が途絶えたものもある。
俸禄の石高は平均的には100石から500石位の間で250石位である。
1000石高を超えるものは少ない。最高で勘定奉行であろう。
(大名は5人)
総評
青木氏の御家人であるが、皇族賜姓青木氏や藤原秀郷流青木氏らの古い青木氏としては、「下克上や戦国時代」などで狙い撃ちにされて滅亡に近い状態になったが、何とか子孫は生き延びさして遺して、再び、直系は衰退したが、分流一族は本家筋を継ぎ、室町末期からここまでの立場になった。
それこそ戦いに明け暮れた死に物狂いの果ての生残りである。
藤原秀郷流青木氏の一門も鎌倉幕府樹立で各地に定住していた氏は離散した。
しかし、何とか鎌倉幕府の御家人に成って生き延びたし、頼朝の「本領安堵策」で2氏の青木氏は各地で息を吹き返して「二束の草鞋策」で郷氏や商人となって生きた。
この様な状況の中で末裔は上記の官職を獲得しているのである。
そしてお陰で現在の我々はここに生きている。
殆どは、各地の郷氏、郷士になりその職位官職の力と流通筋を活かして、各地の同族が連携してシンジケートを構築して名主や庄屋、地主、大問屋、大廻船業などの流通職に成っているのが多い。
多くの他氏に較べて、上記2氏の青木氏の特長でもある。
江戸時代に大豪商と言われた松阪、松前、堺、摂津、近江、博多商人の殆どは、元は武士で自領を持つ国司や守護職や大郷氏や大郷士(名主や庄屋や地主)である。
青木氏はこれに当てはまるもの全てである。
特に、皇族賜姓青木氏は、その自領地の守護地であった関係から、松阪と近江と摂津と堺の豪商に成っている。そして、その氏一族がこぞって本家の商いに取り組んでいる。
藤原秀郷流青木氏は、その赴任地の24の土地の殆どには、必ず廻船問屋や土地の産物を卸す豪商が存在する。
この特徴的な事が「伊勢の賜姓青木氏と紙問屋の紙屋長兵衛」の2つ顔を持って信長と戦い駆け引きした史実(天正伊賀の乱)がある。
これを基にした歴史小説「名張の小太郎」と言ものがある。歌舞伎にもなった事もある。又、NHKの大河ドラマでジェームス三木氏脚本でも3歴史小説にも出て来る。
(詳細はインターネットで検索されたし)
中には、8代将軍吉宗のとき、紀州藩の飛地領の伊勢松阪で、吉宗を伊勢で育てた家老の加納家との縁組を持つ皇族伊勢の賜姓青木氏が「二足の草鞋策」で営んでいた「紙問屋」の経験を買われて、大豪商「紙屋青木長兵衛」の一族の者(青木六兵衛)が、紀州藩から請われて、江戸に出向き、「勘定奉行」を仰せつかり「享保の改革」を実行した履歴もある。(その後、三代続いて勘定方を務め末裔は江戸に定住した)
江戸幕府の職位では、印象としては、何故か判らないが、勘定方と小姓組とその組頭と大番組とその組頭の職位が多い気がする。
勘定方に付いては上記の2氏の豪商の所以であろう。
幕府からその商才を買われて請われて将軍毎に任官したと見られる。
小姓と番頭は想像であるが、元は天皇の護衛役を担っていた事から代々世間で信用されていた事もありうる。
名誉職に付いては、5家5流の皇族賜姓青木氏の子孫は江戸時代中期ごろから、朝廷に申請して一代限りの官位を受ける事が出来た。
このために主に問題が起こらない様に朝廷の天領地であったところの官位を与えた。
中には、何度もダブって与えていることも見られる。そのことで争いが起こっている。
伊豆守や紀伊守や伊賀守や、伊勢を除く近江守、美濃守、信濃守、甲斐守の4家の元皇族賜姓青木氏の「天領地」であったところの官職を実際は統治していない「名誉職」だけのものとして重複して与えたものが目立つ。
それ程に朝廷は困窮していた事を意味する。
特に、各大名のお抱え医者や学者や社会から尊敬される職業の者に一代限りに与えた。大大名などは挙って家臣の名誉官位を申請したのである。
当然に与える名誉官位は直ぐに無くなり、何度も重複する名誉官位を与えたのである。
青木氏や藤原氏の子孫には「守」などの高位の官位を与えた。
江戸時代には1千石以上の俸禄を得ている青木氏や藤原氏の家柄を持つ御家人や旗本が競って名誉職を獲得した。
当時は、朝廷の生活状況は、江戸幕府から締め付けられて、家の壁を直す事が出来ない程度に著しく困窮していた。
だから、金品の授受で名誉職を与えてこれを補った。
これを全て江戸幕府も黙認した。
以上の様に、青木氏の末裔は死物狂いで子孫を遺す為に頑張った事を、このデータは物語ると考える。
決して、今ある自分はこの歴史の中で生きている事に対して、我々子孫は先祖に対して、感謝を忘れてはならない。
そして、次の子孫(子供)をその感謝の表現として大切に遺そうではないか。
このデータはそれを証明するものとしてまとめた事を理解されたし。
青木研究員[青木氏氏 副管理人]
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鈴木氏発祥地とその環境 1
今回、青木氏を離れて鈴木氏ルーツの地元に関わる昔のお話をします。

写真は鈴木邸と曲水の池
この鈴木氏が発祥した由来は前回の鈴木氏のルーツと青木氏のレポートで紹介ましたが、大変に読まれていますので、その意を汲んで、今度はこの発祥地がどのようなところかを説明して、昔のこの鈴木邸周辺の雰囲気を味わって頂きたいと思います。
又、周囲が概ねどのような自然環境にこの鈴木邸があるのかを、全国の青木氏を代表して、全国の鈴木さんに紹介したいと思います。
では、鈴木氏のご先祖がどのような所に住んでいたかを先ずは偲んでください。
そのためには一部、前回のレポートと重複するところもありますが、ご理解を得て雰囲気造りに努力します。
鈴木邸周辺に纏わる話。
鈴木邸の住所は和歌山県海南市藤白です。
この鈴木氏発祥の藤白の有名な事柄に付いて述べてみます。
「藤白神社」と「鈴木邸」と「紫川」
この鈴木氏の発祥の場所は世界遺産の熊野古道の最初の出発点(社領の第1鳥居)より約1KMくらいの「藤白坂」の上の所の「馬の背」(平安期の呼称)と言う場所にあります。
藤白坂の丁度中間付近に「祓戸王子」と云う宿泊施設がありました。
上りきった「馬の背」の所には「藤白王子」と云う宿泊施設がありました。
先ずその付近の環境に付いて詳しく述べて行きます。
周囲の環境
前回のレポートでも述べました様に、後醍醐天皇や後白河院達の一行が、熊野古道詣での途中で、この熊野権現の第一社目の藤白神社に宿泊し毎回歌会を催しました。
この時、藤白神社の宮司の日高氏の歌の上手さに感嘆して、その功によりその席で「鈴木瑞穂」(すすきみずほ)の姓と名の賜姓を賜ったものですが、ところが日高氏の宮司には子が居なくて近くの農家の氏子の三男を養子に貰い受けて賜姓鈴木氏を継がせました。これが鈴木氏の初代の三郎であります。(賜姓とは天皇から氏を直接賜る事)
その神社隣には隣接して「鈴木邸」があります。
熊野詣で天皇の一行は藤白に一泊し、そこで歌会をいつものように催しましたが、熊野詣では後醍醐天皇は23年間の間に24回訪れたと伝えられています。後白河院は33回と言われています。
この藤白神社からは直ぐ後ろの藤白山(370M)の峠越えを行なわなくてはならないのです。
途中で山越えになると夜になるので、全ての人はこの藤白の山麓の熊野権現の第一社の藤白神社や鈴木邸で一泊するのです。(一般の人は「藤白王子」や「祓戸王子」に泊まります)
この藤白神社の社領には参集殿や儀式殿や広い母屋があります。
境内には1千年もの樹齢の楠木が境内一杯に覆い繁っています。
神社東隣には500坪程度(2500㎡)の木々が生い茂る鈴木邸があります。

「千年楠」
この神社と鈴木邸との北側20M位の所に大理石の大鳥居がありましたが、この大理石の大鳥居は60年程度前まで海辺の近くの所にありましたが、今は直ぐ近くをJRが通っていますのでこのために移されて母屋横の北側正門階段前に有ります。
そこより一段低い所(7M)の20M程度の離れた所には海が直ぐに控えており、「藤白の浦」といわれている入り江がありました。その「藤白の浦」の西先には「お崎浜」と言う小さい干潟がありました。
(現在は沖合いの1KMところまで埋め立てられているので一部を残してなくなりました。)
神社の南は直ぐに藤白山でその裾の所には孟宗竹の藪があり、この藪より直ぐに急な角度で段々畑の山が控えています。
西側の神社敷地端には、この南の山から流れ込む山水が谷川となり、直ぐに神社に西に隣接する所には5M幅程度の急激な勾配で、大石の点在する水の豊富な谷川(紫川)が流れておりました。

谷川から取り込んだ「紫の水」
ここには神社と隣接する谷川には5M程の石橋が敷かれて居ます。この石橋から急な上り坂に成っています。50M程上ると平坦に成り、平安の昔は農家の人家はここまででした。
ここから、入り江の多い「藤白の浦」や「名高の浦」や「内海の浦」と「お崎浜」が見えましたが現在は埋め立てられて見えません。
更にこの谷川は人家の後ろを200M程流れて、この水が鯔場(ボラ科の子のイナと言う魚が住んでいる海に繋がっている池)に流れ込み、そして隣の「お崎浜」の海に直に流れ込んでいます。
この景色は昔と今も余り変わっていないようです。
この谷川の両側には、藪椿でびっしりと覆われて目白や鶯等の小鳥が鳴きながら飛び交っている静かなたたずまいの環境です。その小鳥の鳴声は山に響いて自然が作り出した「枯れ山水」の様です。
この神社中央を「熊野古道」(八尺:2.4M)が東から南に貫いていて、神社横の「紫の谷川」の橋を越えると「藤白坂」が始まり峠に向けて続いています。まだこの付近からは「藤白の浦」や「名高の浦」だけが右手に見えています。
この途中で、神社西端の「紫の谷川」の橋から50M上った所に「中大兄皇子」(天智天皇)と皇位継承で争った「孝徳天皇」の子供の「有間皇子」の墓があります。
(写真は下に添付)
「皇位継承争い」で狂気を装った有間皇子は南紀「白浜温泉」の帰りのこの藤白のこの地の所で、「中大兄皇子」の蜜命を持った「蘇我赤兄」に依って絞殺されます。
(後に蘇我赤兄は中大兄皇子に娘を差し出して皇女を産んでいる)
この神社境内には1000年もの老大楠が境内いっぱいに覆い被さっています。
その境内には、隣の「紫川」から引き込んだ「名水」と詠われた井戸があり、この井戸には亀の形をした紀州名産の大青石盤の蓋が被せられています。(青石は紫石と並んで庭石としては高級石でこの付近で採れる紀州名産品です)
この亀の形をした青石盤は現在は神社の南側にある本殿の左横に祭られています。

青石の亀の井の蓋
その理由は、鈴木氏の始祖の兄の「鈴木三郎」に続いて、藤白神社の氏子の六郎は牛若丸(源義経)の第3番目の家来となり、この亀の形の蓋の井戸に因んで、「亀井の姓」を名乗り「亀井六郎」と名乗りました。
この名元と成った謂れの石なのです。鈴木三郎と亀井六郎とは兄弟です。
この兄弟は神社の氏子で「紫川」の橋を渡り藤白坂道を10M行った所に6人兄弟で農業を営んで住んでいました。兄弟は上記した紫川の石橋より坂の上りきった所に住んでいましたが、今でも人家があります。この付近にはこのルーツに成る亀井さんが多く住んでいます。亀井さんは大変多いですのですが、元祖系ルーツの鈴木さんは意外に少なく、海南市でも数軒と成っています。
藤白神社隣の鈴木三郎の鈴木邸にも、この名水が西側端から引き込まれて、2M程度の小滝を経て、苔むす庭と欝蒼とした木々で覆われた「枯れ山水」の庭の池に流れ込みます。
この滝池の西庭にはS字のようにゆっくりと鯉と共に流れる小川があり、苔生す中央の「曲水の園」の池に流れ込んでいます。
この鯉の住む中央の池をやや東よりに位置する本宅座敷の縁側より眺められるように配置されています。昔はこの縁側で平安歌人達は歌を詠んで楽しんだのでしょう。
この「曲水の園」は、更に本宅の南横を通過して東に向けて小川の如く流れて行き、東側にある正門の近くまで届き、ここに小さい菖蒲が生える溜池があり、この池に留まります。
この庭園内の小川の南側には古道が走り、邸より2Mほど高い位置にあり、その斜面には藪椿などの花咲く木々が50M程度の距離に植えられています。
この溜池と東正門通りの真ん中に大きな雄松がありその横には御影石で蓋をした井戸がありました。
実はこの雄松には次のような逸話があります。
牛若丸(義経)は平清盛に追われて熊野権現に庇護を求めての途中、ここで弁慶の交渉の結果を3月も待っていました。弁慶は日高氏ですが、日高氏は熊野権現の5氏の一つですが、実家を頼りに義経を日高氏の神社に預けて一人で熊野権現に交渉に出かけます。
この時、鈴木の三郎と六郎(後に亀井を名乗る)が身の回りの世話をしました。この縁で兄弟は義経(牛若丸)の人柄に惚れて家来にしてもらう様に懇願し許されたのでした。
義経は直ぐ近くの藤白山で山狩りなどをして過ごしましたが、この時に弓を立てかけたと言われる松がこの大松なのです。現在はその3代目の雄松があります。その松の名を「義経弓立ての松」と言います。
この松を巻き込む様に北側には馬小屋と納戸があり、その横を通って一段下の所へと、溜池の水は小川となり20M程度を流落ちて行きます。
そして神社と鈴木邸の北側真ん中下あたりに二つ目の孟宗竹で覆われた大溜池に注ぎ込んでいます。
鈴木邸の曲水園から流れてきた紫川の水は絶えることなくここに流れ込んでいるのです。
この水は直ぐ下の細波静かに繰り返す入江に注ぎ込んでいたのです。(現代は埋め立てられてない)
この様な神社と鈴木邸の静かで花咲く木々で覆われた小鳥が飛び交う環境の中で平安人の「曲水の宴」を催すのです。
更に神社と鈴木邸の静かなたたずまいの中で、神社と鈴木邸とを繋ぐ北側面には桜並木の坂道があり、この桜下では曲水の宴だけではなく、周辺住民の庶民の唯一の憩いの場として、また歌会や大桜宴会が恒例の如く昔は行われていました。
この桜は何度か枯れて現在のはソメイヨシノの桜でと成っています。
この様な環境と雰囲気の中で、天皇や天皇家の人々と大勢のお供の人々の「蟻の熊野詣」で知られる人たちは、ここで恒例の大歌会を催し、一泊の楽しい一日一夜を過ごしたのです。
明日の峠越えを控えて、この「紫川の名水」と地元の地酒を飲んで英気を養うのでした。
この時、弁慶の郷里でもあり実家でもある熊野権現の宮司でもあつた豪族日高氏(庵沈清姫の物語で知られる日高地方)から派遣されていて、この藤白神社の宮司になっていた一族の日高氏は、毎回にこの歌会に参加してその歌の技量に大変な評価を受けていました。
(熊野権現の主な氏 日高氏、久鬼氏、音無氏、田所氏、吉田氏、榎本氏、和田氏、宇井氏、玉置氏)
ある時、天皇は喉が渇いたので水を所望しました。
宮司はこの神社付近の川の水を引き込んだ井戸(亀井の井戸)から汲み上げた水に歌を添えて天皇に差し出しました。
この水の美味さに加えてその歌の余りにも上手さに感心して、歌を返して返礼しました。
この時に歌われた中にこの川の水を絶賛してそれを後醍醐天皇は「紫川」(紫は最上位の色)と詠み名付けられたのです。
この意味は、紫の色は当時では最高の美しい色とされ官位の色付けでは最高位の色とされていました。
例えば朝廷が僧侶に与える階級の最高位の色はこの「紫」であり、「紫の衣」として有名であります。
つまり、最高の褒め上げた水を意味したのです。
以来、この川を「紫川」と称されました。
参考に、「紫」の語源は野に群がって咲く5ミリ程度の小さい野の花の色ですが、大変愛らしく美しく、万葉の世界では好まれた花であります。
この花が群がって野に一面に咲くので“ムラ”と“サク“でこの草の色を「紫」と呼ぶようになりました。紫の語源説は幾つかありますが、これが語源の元となったものです。
「むらさき草」

鈴木邸で詠まれたこの紫色の歌がありますので紹介します。

万葉集の詠み人知らずの歌
紫の 名高の浦の 真砂地の 袖のみ触れて 寝かなりてなむ
「名高の浦」はこの藤白神社の北側の直ぐ前に見え拡がる松並木のある海が「名高」と言う地名の所で、その前に小さい入江干潟が幾つかあり、ここを「名高の浦」というのです。鈴木邸からは「藤白の浦」の隣の浦で両方の浦は一望できます。
今でも、紫川の石橋を少し登った藤白山越えの途中から入り江が一望でき、景色の良さで有名な国立公園の「和歌の浦」も見える景観が広がっています。
天気のよい日は徳島も観えます。
この様な歌を詠って一夜を過ごしました。
そして、明日は峠越えです。
熊野詣の人たちは、難所のSの字の「藤白坂」の「山越え坂」を登るのです。
約3時間程度の登坂であります。
その真ん中ほどの平になった山道の途中には、「名所」の「筆捨て松」という所があります。
ここで疲れが出て熊野詣での人たちは一休みをします。
ここからは、遠い先の「瀬戸内海国立公園」の「和歌の浦」が全望できる絶景の名所です。
高いところから眺望すると、和歌の浦は藤白の浦と名高の浦の北側の山向こうある大きい入り江干潟の浦です。
この眺望を詠った万葉の歌
和歌の浦 潮満ちくれば 片男波 芦辺をさして 鶴鳴きわたる 山辺赤人
この「筆捨て松」には逸話があります。
その逸話は概ね次の通りです。

写真は藤白坂中ほどにある「筆捨松」
「熊野権現第1の鳥居」より藤白坂を登り始めて藤白神社付近までところを「墨屋谷」と呼ばれていましたが、この「藤白坂」の神社よりを更に山に向かって登って行くと、「筆捨松」というところがあります。
この松の由来は、宇多天皇の御代(887-897)に画家の巨勢金岡(こせのかなおか)が熊野詣の途中「投げ松」の所に来て、眼下のすばらしい景色にみとれて、写生をしようとしていた時、峠の方から少年が降りて来たのです。
この少年もあまりの美しさにひと休みをしました。
お互いに話がはずみ、金岡は「君は何をしに来たのか」と聞いたところ、少年は「私も画がすきで勉強に来たのです」と答えたので、二人は意気投合して絵の書き比べをしようということとなりました。
先ず金岡が松にとまったウグイスを描きました。
次いで、少年は松にカラスの絵をかきましたが、双方とも甲乙つけがたい立派なものでした。
そこで”手をたたいてこの鳥を追っぱらった方を勝ちとしよう”ということとなり、お互いに手を打ってみると両方とも鳥は画面から飛び去ってしまい、またも勝負がつかなかったのです。
困りはてた二人は思案のすえ、今度はその鳥を呼び戻そうと話は決まり、まず少年が手をたたいたところカラスは帰ってきたので、次いで金岡が手を打ってウグイスを呼んでみたが帰って来ることはなかったのです。
無念の金岡はいたたまれず、手に持っていた筆を松に向かって投げ捨てて、少年の勝ちを認めたのです。
このことからこの松を「筆捨松」と云い伝えられるようになったと言い伝えられています。
この少年は熊野権現の化身であったといい、当時、飛ぶ鳥も落す勢いの金岡を諌めるためでもあったというお話です。
その眺望の良さの意味も含めての言い伝えであろうと思います。
(注 巨勢氏は大和朝廷の前の4世紀の半頃の連合政治族の4族の一つで、平群氏、巨勢氏、葛城氏、紀氏であり、巨勢氏は和歌山北部の大豪族と、紀氏は和歌山南部の大豪族であった。巨勢氏は8代将軍徳川の吉宗の母方が巨勢氏である。)
熊野詣の人たちはこの眺望を見てここで一時の休みをとると、後半分の登坂に向かって再び頑張るのです。
再び登り始めると一時間程度経つと、峠の頂上に到達します。
藤白峠の頂上には10軒程度の村があり、この村の真ん中には大きい池があり、大鯉が住んでいます。この上がり切った丁度村の入り口の右手のところに墓所があり、その中には平安時代のものと思われるものがあり、中には源氏の氏名の墓石の古いものもあります。ここで落命したのか村人の先祖の墓かは判りませんが源氏の古を忍ばされます。この付近の清和源氏族には紀州の新宮太郎と云う者が居ました。この末裔でしょうか。
そして、頂上の上がりきった中央のところには小寺があり、村の人たちが住職を代々続けています。
寺の後ろ上側には大きい広場があります。この広場からは和歌山市や海南市が全望でき、実に見晴らしの良いところであります。

「藤白塔下寺」
今では1年中、特に秋になると紅葉になり全国からやって来た人々や遠足で近隣の小学生や中学生等が山ウォーキングします。そして、必ずこの広場で弁当を開きます。見晴らしのよいところでの楽しみの一時を過ごします。
村の池の側には青石で石垣を積み上げたいかにも古を偲ばせる邸宅があります。
熊野詣の人は止む無くここで宵闇になると村人の家に泊まった事でしょう。
ここから暫く下り坂になって棚田の畦道に沿って降りて行きます。
降り切った所に岩屋山という俗称お寺があります。毎年獅子舞や餅投げなどをしての熊野権現のお祭りがあります。ここは加茂郷と言うところです。山と海が控えた土地柄です
熊野権現の影響で平安の頃、紀州の人々が全国に熊野神社の宣伝(熊野神社宣伝隊が編成されたと伝えられている)の為と、紀州の漁業の伝播の為に各地に移動してその土地に定住しました。
全国の熊野神社の加茂神社系はここから全国に広まったとも云われています。
加茂郷や湯浅郷の人たちだと言われていますが、特に静岡、千葉、徳島、土佐に進んだ漁法を伝えたとされ、今でも各地に紀州の地名と同じ地名が多いのはこのためです。
その伝えた黒潮ならではの有名な漁法が在ります。紀州は陸の直ぐ近くまで黒潮が流れていますが、その漁法とは船の後尾に糸を何本も流し、その糸の先には木で作った木の葉の形をした板を流します。この板は釣の「ウキ」の役目をすると同時にこの「ウキ下糸」の下の針に付けた餌が、ウキの波に跳ねる動きに従い餌が生きた餌のように動くのです。この漁法が大変当時(現代も)としては画期的な収穫高の多い漁法でした。この漁法を請われて全国に指導し広めたのです。
現代では世界的に広まっています。カツオやマグロ漁法で使われています。この漁法は紀州から世界に伝わったのです。(俗称パタパタ漁)
この他にも、醤油や味噌造りなどもここ紀州のこの付近の土地から広まりました。これらの為に移動した紀州人が故郷を偲んで加茂神社が祀られ広まって行ったのです。
他にはある高僧が中国から持ち帰った「金山時味噌」の作り方を紀州の人たちに伝えました。
この味噌は色々な野菜と大豆とを加え醗酵させて直に食べるのです。しかし、ある時放置していたこの味噌からうまみの成分のだし汁のような液体が出ました。それでこの液体だけを取り出して製造しましたが大変調味に合うことから作り出されたのが醤油で、その発祥はこの藤白峠を下った所の加茂郷から湯浅地方でした。これ等の技法をこの熊野古道から伝えたのが全国に広まったのです。
そして、これ等の紀州の人々はこの藤白の熊野古道を平安以後も生活道として使われ通って行きました。
この行動は長く続いていました。この熊野権現の第一の鳥居の海南藤白から岩屋さんまでは昭和25年くらいまで海沿いではなく近道の熊野古道を利用し、天秤で担いで海産物や農産物の運搬で人々の盛んな往来がありました。
今では、この山道筋は山道で荒れていますが、山の散策道としては大変に利用されています。。
昔はこの辺までが”藤白の山”と云われいました。
以上が鈴木邸のある藤白圏のこの藤白の神社と鈴木邸の環境です。
次に上記しました亀井氏の発祥の地の由来に付いて更に詳しく述べてみます。
「亀の井」
(亀井の井戸)

「亀の井」
亀井の井戸は「紫川」の水の件以来、この川の水を引いたこの井戸のことを「亀井の井戸」と呼ばれる様に成りました。
この井戸は今でも神社中央に遺っています。
この井戸の呼ばれる元になったのは、この「井戸の蓋」が亀の形に似ているので「亀の井」と名付けられたのですが、今でもその蓋は本殿の直ぐ左横に祭られています。
この蓋の石は和歌山原産の「青石」であり、この「青石」は庭石では最高級品の物です。
この「青色」は「紫」と同じく奈良時代末期からこの「青色」は神霊で尊き諸源の色されていました。
又、朝廷儀式では紫に次いで最高位の色として使用されていました。
最も美しい色と好まれた「紫色」と、階級職色の「紫」と同じく、この「青」の色を代表する樹として「青木」の木があり、古来より「神木」として用いられていました。
そして、神官の祝詞では(今でも)「アオキ」ではなく「オオキ」と発音されていました。
この由来は「木の色」とその実の「赤い色」の二つの色に起因するのです。
つまり、常葉の「青色」はすべての物の諸源を意味し、実の「赤色」は血を意味して命の根源を意味したのです。
参考として、この「青木」の樹木は恒葉樹であり、絶えることのない物質の生命の根源を意味したのです。
「青木」姓はこの意味を持つ氏として、天智天皇より賜姓(第6位皇子の施基皇子に与えた氏名)を受けた日本最初の氏名であります。(青木氏の由来)
参考
現代の藤白神社の宮司は吉田氏で、平安初期から朝廷の神職を司る由緒ある官職の持つ氏であります。
吉田氏は現在は藤白神社3代目です。
上記の吉田氏と同じく由来どおり青木氏は皇位の門跡者を祀る神職を司る氏が多い。
この亀の井戸に因んで名乗った亀井氏は現在も鈴木邸横に本家筋の住居があります。
ここも鈴木氏と同じく亀井氏の発祥の地でもあります。
鈴木氏の鈴木三郎と亀井氏の亀井六郎とは、牛若丸(源義経)と武蔵坊弁慶に伴って一度京に戻ります。その後、平泉の藤原京に向かうのです。これよりその鈴木亀井の両氏の兄弟はぴったりと常に寄り添い平泉から逃亡にも付き従ったと言われています。前回のレポートに記述しています。
上記した「青と紫の石」に付いては、鈴木邸付近の藤白山で取れる高級石ですので詳しく述べておきます。
「青石の園」
「青石」は上記した由来からの様に、平安初期から最高貴重品として用いられたものです。
庭石としても高級品である。庭石は主に敷石やふすまの様に立石として用いられる。これは石が平石が多いことによります。
この石は又アルカリ性が強くコンクリートの原料として使用されつい最近まで藤白の山で採取していました。
現在ではこの青石も少なくなり、県外不出の条例が出ている現状です。
鈴木邸付近の山の産物なのです。
この鈴木邸にもこの石が敷き詰められています。
(参照 亀の井の蓋はこの青石で出来ています。)
「紫石」と「紫の硯」



「紫石の原石」それで作られた「紫の硯」
この「青石」と同時に、「紫石」もあり、この「紫石」は平安期から和歌山市の浜の宮から海南にかけて採取された石で、これも上記した「紫色」の由来から朝廷内で「飾り石」として用いられました。
又、日本初国産の「藤白墨」と同じ時期に、「紫の硯石」としても加工され高級品として朝廷内で使用されていました。貴族や天皇の使用品であった。
この「紫の硯石」は使用されているものとして現存としては唯一の硯石であろう。
特にその使用は加工を余り施さず原型を保ちその色の優雅さと赴きを楽しんだ。
この付近から現在の海南市下津付近までの間で紫の硯石が生産されていた。
現在、この下津町の「方」(かた)と言う地名のところの硯村(すずりむら)と言うところがある。
海南市を始めとしてこの村には今でも硯氏の姓の人が多い。
硯村は、技能職人を一つにまとめた「部制度」のあった平安時代には、朝廷に納めるこの「紫硯石」を作る「硯部」が住んでいたところである。
当時は「市場経済」ではなく「部経済」(べ制度)として殆どの加工品は一度朝廷に納入され、その後に市場に払い下げられると言う方式であったので、「紫の硯」は「藤白墨」と同じく専売品として庶民には手に入る物ではなかったのです。
この様に「紫の硯」は「藤白墨」と「紫の硯」とは一対として庶民には手に入らない品物として扱われました。
注 「部制度」とは全て一次製品はその専門の職人が集団となって作り上げ、その作り上げた製品は一度朝廷に納められ、その後余った製品は市場に払い下げられると云う経済方式でありました。
この技能集団は、例えば、服を作る集団であれば「服部」(はっとり)と言い、陶物を作る集団は「陶部」(すえべ)、海のものを加工する集団は海部(かいふ)等全て後ろに「部」が付く姓はこの子孫であります。
そして、更に、この子孫は中国後漢の民で渡来人であります。(詳細は青木氏氏のサイトの研究室にレポートしています)
「大化の改新」(645)前後を挟んで200万人の17県の民が、後漢の光武帝より第21代の献帝の子の石秋王とその子で、阿智使王とその孫の阿多倍王の二人の王の下に共に大和国に帰化して来ました。そして、瞬く間に66国中32国を無戦征圧しました。
この阿多倍王は天皇家(敏達天皇の曾孫の芽淳王の娘)との血縁で発祥した子孫の坂上氏、大蔵氏、内蔵氏であります。
阿多倍王は薩摩の国を割譲して大隈に住まいします。日本書紀にも何度も出てきます。
「大隈の首魁」と呼ばれ、伊勢国北部伊賀地方を割譲して「不入不倫の件」を天皇から与えられます。国を部の技能で潤したとして何度も勲功を受けます。そして、その末裔が太政大臣の平清盛に成ります。この200万人の後漢の帰化人は現在の日本の政治体制と一次産業を築きました。
後に大蔵氏は永嶋氏に変名します。特に関西より西に多く子孫を残しています。平家の清盛の一族とその5代前の先祖はこの阿多倍王の子孫です。
坂上氏は征夷代将軍と成り、北陸に子孫を遺しました。この3氏の勢力は朝廷の3権(3蔵と言う)のうちの2権を握りました。
元はこの部を管理していたのは蘇我氏で、天皇家より勢力を握ったのはこの「部制度」とその渡来系の一団を管理していたことによります。朝廷の役職は「国造」(くにのみやつこ)です。
そこで、語りを戻して。
万葉集 詠み人知らず
紫の石を詠んだ歌
紫の 名高の浦の なびき藻の 心は妹に よりにしもを
さて、次は周辺にはこの鈴木邸より20M東に戻った所に日本最古の「藤白墨」(紫の硯石と共に)が採れました。
この藤白墨の採れる場所を「墨屋谷」と云います。
「藤白墨」


日本最古の藤白墨
現存する唯一の「最古藤白墨」の一つである。
写真以外にも藤白墨の練り棒(製作過程のものある。
この藤白墨はある個人が天皇家より拝領した物であり、使用しているものとその片鱗である。
未使用の天皇家蔵「宝の藤白墨」は盗難紛失した。
写真の無かった古の時代の為にそれらの藤白墨は「墨拓」として保存されいる。
奈良時代より中国より輸入されていた墨は平安中期に後醍醐天皇に命じられて日本各地で墨の試作を試みられたが中国産に勝る「墨」は見つかりませんでした。
そこで、朝廷は「熊野古道」沿いに「炭焼き」する村を見つけました。
この村で、「熊野神社」の「第一の鳥居」の近くに「藤白村の炭」がある事を発見し、この「炭焼き」で出来る「煤」をかき集めて、それを練り、牛の皮を煮詰めた「にかわ」で「墨」を固めて作ってみました。
ところが、この「墨」が中国産より優れ、「紫色」を滲ませる墨色であったので、大変に喜ばれて以来、朝廷の専売品として生産されて、その後、大々的に生産されて、徳川時代まで、その時の幕府専売品として扱われました。
この「藤白墨」は徳川時代までに四、五種類のものになっています。
この「藤白墨」は海南から有田地域まで分布する「うばめ樫」の木を用いて造られました。
この「うばめ樫」はどんぐりの木の仲間で、通称「ばべの木」と呼称されています。
この藤白村で生産される「藤白墨」の生産場所は史跡として指定されています。
この「うばめ樫」は海南地区では今も現存します。
又、この生産場所も当初はこの場所を古来より藤白の「馬の背坂」と呼ばれていました。
丁度、馬の背中のような真ん中が下がったような形をしている坂でありました。現在は道拡幅の為に少し変わっています。
藤白のこの付近では「うばめ樫」の木が少なくなり江戸時代には南紀の有田方面に生産場所を移動して行きました。
しかし、鈴木邸付近周辺のところには時々は藤白墨の片鱗が出てきます。
この「藤白墨」と「墨拓」もある個人が所有して現在も保存されています。日本国産最古の墨です。
(現在でも宮内庁正倉院か天皇家にはあるのではないでしょうか。大正14年にはあった事が確認出来ています。)
「熊野一の鳥居」
本来、熊野古道と呼ばれる最初の起点は、この藤白の入り口の鳥居のあったところから始まるものです。
つまり、この「鳥居」は熊野神社の「最初の鳥居」であり、「熊野神社」の社領の入り口と言うことになります。
藤白の「馬の背坂」を北に下り、「日限坂」との交差する点に存在しました。
古道の由緒ある「一の鳥居」です。ここから藤白峠に向けて坂が始まるのです。
1キロ程登った所から、馬の背のようになった道が鈴木邸まで続き、この「馬の背坂」には「熊野古道」参詣の「道宿」として二つの「王子」(参詣のための道中の宿)があり、「一の鳥居」から50メータほど古道沿いに東に寄ったところにある「祓戸王子」と、「藤白神社」のところに「藤白王子」とがありました。
この王子は一般には寺や神社が営んでいました。
天皇の熊野詣では一行はこの王子に分散して宿を取りました。天皇は藤白神社や隣の鈴木邸に泊まります。
「藤白王子」と「祓戸王子」
上記した様にここには一般の人たちが泊まる「藤白王子」と「祓戸王子」と言う「熊野古道」の2宿が存在しました。(少し北に離れた所には「春日王子」があった。)
「熊野詣での蟻の行列」として平安朝から呼ばれてこの8尺程度の狭い道を参詣者は途切れることなく歩いたと言われています。
現在でも3.6Mの道幅ですが、古道の出発点としてのこの静かな環境の周辺が「熊野古道の世界遺産」の影響を受けて、昔と同じ様に古道を訪れる人でいっぱいなのです。
そして、昔の参詣者は藤白山の難行の「藤白坂」を目の前にして、ここで一泊して休息して朝早くに起きて「藤白坂」に挑んだのです。宿はいつも一杯だったと言う事です。
泊まれないときは寺社や民家や3キロ程度戻った所の春日王子に戻って宿泊しました。
当時は約1里(3.75=4キロ)程度毎に王子がありました。
宿は泊まりが中心で食事は周辺の農家の人たちが仕出しをするという方式で現在の旅館とは違っていました。
この時、この王子に留まった人たちはこの藤白神社から西の方に向かって「藤白の浦」と「名高の浦」と「和歌の浦」の景色を見てその美しさに感嘆しまた登るのでした。
ここで詠まれた万葉時代の歌は多く遺されています。
代表歌として
和歌の浦 汐満ちくれば 方男波 芦辺をさして 鶴鳴きわたる。
「鈴木」と「亀井」の館
一部重複
先ず、鈴木姓の発祥について上記した歴代の天皇が参詣した中で後醍醐天皇が藤白坂を上るに際して前日にこの藤白神社に投宿した時、恒例の宴を催しましたが、この時、天皇はこの日高氏の宮司の歌を褒め、褒美として「鈴木」姓を賜姓しました。(名は瑞穂)
しかし、この日高氏には子供は居なかったので、氏子の亀井(後に名乗る)の家から三男の三郎を養子に貰いうけて鈴木姓を継がした。
丁度、この時に鞍馬山の牛若丸(清和源氏の分家筋の頼信系の九郎)は平家に追われていた。
弁慶の父が田辺では熊野神社の宮司の一人であつた事からその庇護先を求めて弁慶と共に熊野神社に向かった。
この時、牛若丸と弁慶の一行はこの藤白神社に立ち寄り弁慶だけが実家の日高に向かいその後、熊野神社に向かったのです。
この間、この牛若丸の身の回りの世話をしたのがこの「鈴木」の養子となった鈴木三郎でありました。
そして、3月ほどの滞在のうちに、この「鈴木三郎」は牛若丸の家来になる事を許されました。
そこで、この三郎の実家の弟の六郎も牛若丸の世話をしていて兄弟二人が家来となったのです。
この六郎も姓が必要となり上記した有名な「亀の井」にあやかり「亀井」の姓を起して「亀井六郎」と名乗り武士となり、牛若丸に付き従いました。
弁慶は熊野神社から庇護を断わられて戻り、共に家来の三人と共に再び京の都に戻り、その後、一行とこの兄弟は奥州藤原氏を頼り平泉へと向かうことになつたのです。
これが鈴木と亀井の姓の発祥となり、全国的に子孫を広めた原因ともなりました。
この後、この藤白の鈴木と亀井の縁者は身内を応援するために、平家の監視を逃れるために「熊野参詣宣伝」を名目に各地に向かい子孫を増やす作戦に旅立ったのです。
当時は自らの勢力を広げるために旅に出てその土地毎に子孫を遺していざと言うときにはこの子孫が駆けつけると言う戦略を取るのが普通でこれを「戦地妻」と呼ばれました。
その結果、八島と壇ノ浦の平家との戦いには12000人の身内の軍勢が義経の周りに集まったとされています。
頼朝から派遣された「坂東八平氏」の力を借りずに、この身内の軍勢が先陣を切り勝利を決定付けたのであります。
「義経弓立て松」
歴史上で義経一行は二度ここ鈴木屋敷を訪れたとされています。
この時、一度は上記の牛若丸時代の時と、二度目は二つの戦いの時に、熊野水軍と紀水軍と攝津水軍と伊勢水軍を味方に引き入れるための説得工作に赴いた時に訪れています。
「曲水の園」(曲水の宴)
写真は冒頭に添付
この鈴木邸には平安朝時代に和歌を詠み、それを山から引いた「紫川」の山水を邸の池に流しこみ、その流れに乗って流れる短冊を入れた小船に和歌をすばやく詠み返歌して返してゆくという平安朝の歌儀式の社交池です。
熊野神社参詣に来る貴族達の一時の休息の場となりました。
この曲水の池は今も現存します。(上記)
そして、この曲水の園は自然の景観に溶け込み「枯れ山水」の形式に造形されていて、その曲水の池と溶け込み自然の景観を造り出しています。
この「枯れ山水」は人間の作り出した創造美ではなく、「自然の力」による美を強調し苔や自然の石組み樹木の成り立ちを生かして園として作り上げたもので、渓谷の谷川の成り立ちを思わせる自然美を追求したものです。
古来よりその美は作られていたが戦国の時代に廃れ、再び桃山時代からその美が見直されるようになりました。
しかし、昭和期には再び創造美が求められて消えました。
然し平成期の安定期に入り再現され始めていますが、世と人の心の安定に左右される落ち着きのある美です。
この鈴木屋敷の「曲水の園」と「枯れ山水」は現在に於いて貴重な美の財産でとして遺されているものです。
この時に歌われた万葉の歌は次ぎのとおりです。
黒牛潟 潮干の浦を紅の王裳 裾ひき行くは誰が妻 (潮干:ひかた 現在は日方の地名 黒牛潟:黒潮潟の昔の呼称)
古に 妹とわが見ぬばたまの 黒牛潟を見ればさぶしも
黒牛の海 紅にほうももしきの 大宮人しあさりすらしも
紅の海 名高の浦に寄する波 音高きかも逢わぬ子ゆえに
紫の名高の浦の名告藻の 礎にまかむ時待つ我を
(読み人知らず)
鈴木邸付近には、現在は絶滅したと言われている平安人に大変好まれた「まゆみ」という花がありました。
この花は「恋歌の花」として親しまれていました。
「まゆみの木」

この木は平安朝の時代にはこの熊野古道沿いに沢山生息していたとされ、この木の持つ印象から沢山の歌が万葉歌として読まれています。
この上記した曲水の宴でも読まれたことであろうことが想像されます。
しかし、現在はこの木は殆どなくなっています。
この木の花は淡い赤紫の花と真っ赤な実をつけて半年も長く咲き誇る花で、その花の形は少女の可憐な姿を想起させ、其処からは清廉な恋心を詠んだ万葉歌が多いのです。(万葉集二歌選択)
ちなみに、二首を次ぎに示します。
みこもかる しなぬのまゆみ わがゆけば うまひとさびて いなといはむかも
解説
信濃の弓を引く様に、私が貴方の気を引いたなら、あなたは都人の様に、嫌ですと云うでしょうか。
みこもかる しなぬのまゆみ ひかずして しひさるわざを しるといはなくに
解説
貴方が信濃の弓を引くこともしないのですから、私が嫌ですともいいともいえる訳がないでしょう。
この様に、沢山のこの「まゆみの花」の歌が詠まれています。
現在では京大の調査では熊野古道の新宮付近の山奥に生息するのみとなつています。
しかし、この花は現代では熊野古道の万葉歌としてその花名の愛らしさと花のその可憐さが愛好家には好まれています。
「まゆみ」とは、基字は「真弓」とされ、真の意は語源は「目一杯」の意を基とし、真実は「目一杯の実」、つまり、「目一杯の誠」となります。この様に、「真の弓」となり、「目ッ一杯に弓を引いた射する寸前の状態」をさします。
況や「まゆみ」の意は「目一杯の愛」であり、純心無垢く、清廉な熱愛とし、「少女の愛」とされます。そして、その意に合う、何とも云えない真っ赤な花色と半年も長く咲く花とその愛らしい花の形をしていて、葉は1年近く紅葉しても落葉しない性質で次ぎの葉が出るまで落葉しません。その葉の形が弓を一杯に引き込んだ弓形をし、木の軸は花と葉に出過ぎぬ様に葛のように頼りなさを表しています。しかし、花火が開いた時のように柳のように垂れ下がり大木になるのです。
大変、繊細な木で環境や土壌が少しでも変わると枯れたり、花を咲かせずに居ます。
「まゆみ」にはオスメスの2種があり、雄木ははしっかりしていてなかなか枯れません。
詠われている「まゆみ」は雌木の様であります。
この様な何とも云えない愛のはかなさの木質から繊細な万葉の歌人はこの木を男女の恋愛歌と観たのでしょう。
絶滅種の雌雄の「まゆみ」は現在、神社の近隣のある個人の家で何とか育植されています。
彼の有名な「てるてる姫」で有名な歌人で官僚の小栗判官もこの藤白神社の「馬の背」付近で姫に宛てて詠んでいます。
恐らく、昔は、この「まゆみ」が熊野古道沿いに一杯咲いていたのでしょう。
話を元に戻して。
「有間皇子」


鈴木邸の周辺環境の一つとして、藤白峠の始まり点で、神社より直ぐ近くで、このところから氏子の民家が存在する所ですが、”やれやれ”と峠を下りきって”鈴木邸で一休み”という所で気を緩めたところで後ろから信頼していた蘇我の赤兄に後ろから絞殺されたと見られます。
鈴木邸と有間皇子は550年位の時代差がありますが、周辺では一つとして捉えています。それは有間皇子も鈴木三郎も同じ悲運の者だからです。
皇位継承問題で痴呆を装う有間皇子は白浜の湯に行き、その帰りに藤白の坂の麓で蘇我赤兄に絞殺された事件が起こります。
有間皇子は孝徳天皇の子供でありますが、中大兄皇子との権力闘争に巻き込まれて狂気を装い白浜に逃げ延びるが中大兄皇子の意を受けた同行の蘇我赤兄に絞殺される悲しい事件の場がここで起こります。
この直前に遺した歌があります。
家に居れば いい盛る椎も草枕 旅にしあればしいの葉に盛る。
現実には山に生息する椎の葉には飯(いい)は盛れないけれど、いい(飯)とかけて詠んだもので、椎の葉には飯はもれません。しかし、椎の木は山木の意から旅の意味を含み、皇位継承問題で狂気を装いそして旅に出なければならないわびしい気持ちを詠んだ歌です。
昔は旅に出た時は柏の木の葉に包んだ乾し飯を食べていました。
地方に依っても異なりますが、関西や和歌山地方では柏の木は少ないので、ハート形した「さる茨」の葉を用いました。
五月の祝いに作る柏餅はこの「さる茨」の葉で作る習慣は未だ残っています。
そこで、:経緯を知るために詳しく日本書紀に書かれている有間皇子の内容を記載します。
内容は漢文であるので平易に翻訳します。
冬、十月十五日、紀の湯に行幸された。天皇は建王のことを思い出して悼み悲しまれて哀悼歌を詠われた。
山越えて、海渡るとも おもしろき、今城(いまき)の内は、忘らゆ難(ま)じに。
山を越え海を渡る面白い旅をしていても、建王のいたあの今木の中のことは忘れる事は難しいだろう。
港の、潮(うしお)の下り、海(うな)下り、後(うし)ろも闇(くれ)れに、置きてか行かん。
海峡の潮の激流の中を、舟で紀州へ下って行くが、建王のことを暗い気持ちで、後に残して行くことであろうか。
愛(うつく)しき、我(あが)稚(わか)き子を、置きてか行かん。
可愛い私の幼子を後に残して行く事であろうか。
秦大蔵造万理に詔して「この歌を後に伝えて、世に忘れさせない様にしたい」と言われた。
十一月三日、留守を守る役目の蘇我赤兄(そがあかえ)が、有間皇子に語って「天皇の政治に三つの失政があります。大きな蔵を建てて、人民の財を集め積むことがその一、長い用水路を掘って人夫にたくさんの食料を費やしたことがその二、舟に石を積んで運び、岡を築くというような事をした事がその三であると云った。有間皇子は赤兄が自分に好意を持っていてくれる事を知り、喜んで応答して、「我生涯で始めて兵を用いるべき時が来たのだ」と言った。
五日、有間皇子は赤兄の家に行き、高殿に登って相談した。その時、床机がひとりでに壊れた。
不吉の兆しであると知り、秘密を守ることを誓って中止した。皇子が帰って寝ていると、この夜中に赤兄は物部朴井連を遣わして、造営人夫を率いて、有間皇子の市経(いちぶ)の家を囲んだ。そして、早馬を遣わして天皇のところに奏上した。
九日、有間皇子と守君大石、坂合部連薬、塩谷連この魚とを捉えて、紀の湯に送った。舎人の新田部米麻呂が従って行った。中大兄皇子は自ら有間皇子に問われて「どんな理由で謀反を図ったのか」と言われた。答えて申されるには「天と赤兄が知っているでしょう。私は全くわかりません」と言われた。
十一日、蘇我赤兄は部下の丹比小沢連国襲たちに命じて、有間皇子を藤白坂で絞首した。同時にこの日塩谷連子魚舎人の新田部連米麻呂をも藤白坂で斬った。塩谷連は殺されるという時に、「どうか右手で国の宝器を作らせて欲しいものだ」と言った。(意味不明 助けてくれと懇願の意味か)
守君大石を上毛野国(かみつけのくに 上野国)に、坂合部薬を尾張の国に流した。
(塩谷は和歌山の地名で土豪 新田部は中大兄皇子の皇女の実家土豪)
ある史料では、有間皇子は蘇我赤兄、塩谷連小才、守君大石、坂合部連薬と、短籍(捻り文)を作って、謀反のことを図って占ってみた。そこで、有間皇子が「先ず大宮を焼いて、五百人で一日二夜、牟ろ(田辺市)に迎え撃ち、急ぎ舟軍で淡路の国を遮り牢屋に囲んだようにすれば計画はなり易い」と言った。ある人は諌めて「よくないことです。計画はそれとしても徳が有りません。皇子は19歳です。まだ、成人もしていません。成人されてから徳をつけるべきです」と言った。別の日に有間皇子が一人の判事(刑部省の役人)と謀反に付いて相談した時、皇子の机の脚がが故なく折れたが、謀略を止められず遂に殺されたとある。
(注)後説は各所に間違い(成人の年齢など)があり、後で有間皇子謀反説の自説を誘引する為に偏纂したものと考えられる。
当時の壬申の乱等の皇位後継者争いや孝徳天皇との軋轢から見てから観て、命令説ではと考えやすいが、日本書紀では蘇我赤兄の反逆行為で有間皇子は謀反人にされた事に成っている。
赤兄本人の自発行為か、中大兄皇子の赤兄に命じたことなのかは判っていない。
現在、丁度、民家が途切れた峠越えが始まる角で側には小さい池があり、その直ぐ側で絞殺されたが、この藤白坂のその地に有間皇子神社があり藤白神社や土地の者達により祀られ維持管理されている。
絞殺後、山中では無く直ぐ人気がつく場所で、誰がやった事かもわかる場所で、直ぐ側の民家の者達に向後の面倒を看て貰う目的があり、この地の上り始め点で行ったと考えられ、蘇我の赤兄にも憐憫の情があったと見られる。
土地感から観ると、蘇我赤兄の処置には「命令」が出ていたと考えられる。勲功の意味もあり後に娘を中大兄皇子に嫁がせて皇女を産んでいることからも頷ける。
「小栗街道」
熊野の「蟻の熊野詣で」の通り、一年に一回は参詣するためにこの熊野街道を通りました。
この時、天皇に同行した歌人の「小栗判官」と「てるてる姫」の逸話の通り、この「馬の背坂」付近で「藤白の浜」見て「てるてる姫」に宛てて詠んだ歌が有名です。
此れに因んで歌人の間ではこの付近の丘の事を「小栗街道」と呼ばれる様になりました。
この浜は現代の位置とは異なり、この古道の直ぐ崖下が波打ち際でありました。
昔は「藤白の浜」または「藤白の浦」と呼称されていました。
「藤白獅子舞」「藤白相撲」

熊野詣での朝廷の人たちにはこの獅子舞を見せたとされています。
藤白の獅子舞は熊野権現の各社で行われている五穀豊穣の祭りに神に奉納する行為の一つです。
この獅子舞は日本各地の熊野権現の支社では行われているものです。
平安中期ごろからこの獅子舞は行われていて歴史上伝統ある祭りの奉納する行為の一つです。
この舞はその昔神の使いの命が獅子を退治して村を平安に保ったという言い伝えから来たもので、獅子とは架空のものだですが、この世の全ての悪を獅子に見立ててこれを退治して平安を願う庶民の祭りです。
これと同時に藤白には「藤白相撲」も奉納されていました。
最近まで行われていて、50年前位までは祭りに「子供相撲」が夏に奉納していたものです。
余興として面白い史実の話をします。
相撲は日本書紀にも書かれて、上記した後漢の帰化人の首魁の阿多倍らが飛鳥の都の木下で天皇に披見したと書かれているのが最初です。700年頃から既に奉納相撲があったのです。
義経が今泉から逃れて鈴木加盟の兄弟の従者を連れて蒙古に逃れたとのせ津がありますが、蒙古相撲もこの伝統から伝わったとされています。
蒙古の古い記録から、突然天から2人の従者を連れた者が現れてたちどころに周囲を従えたが、次ぎの指導者になる筈の者との一騎打ちにより勝ち、この指導者は殺されて、2人の従者を連れた天から降りてきた者が支配者に成ったとされ、それがジンギスカンだと記録されています。
蒙古の習慣では各族の首長の最も強い者が指導者になる仕来りでしたが、この時はこの天から降りてきた者がなったと記録されています。
そして、その者の紋章は笹竜胆紋(賜姓源氏と賜姓青木氏の綜紋)とそっくりです。
ジンギスカンの蒙古襲来は鎌倉幕府の1271年と1284年で丁度この時期です。
義経縁の地であり、従者2人は鈴木亀井の兄弟の地でありますので敢えて紹介しました。
(詳しくはこのレポートの前のレポート参照して下さい。)
その事の伝統もあり熊野神社系では子供奉納相撲が行われていました。
「藤白桜」
「鈴木氏のルーツと青木氏」のレポート冒頭に添付
山桜古木が枯れ現在吉野桜を移植されている。
この藤白神社と鈴木邸には昔から周辺に沢山の桜が植えられていて、春には山越えをして遠方からも訪れて周辺が見物人でいっぱいで立つところもないくらいの盛況ぶりでありました。
当時も鈴木邸付近では花見の見物と熊野詣ででいっぱいであったことが予想できます。
未だ、この時分は神社の鳥居の直ぐ坂下は浜辺であり、その景色は万葉の人が褒めちぎるほどの景観を示していました。(上記の歌)
現在は世界遺産の決定で再び桜見物はもとより、古道散策が盛んになり、この狭い古道は昔の「蟻の熊野詣で」と同じくらいに賑やかになっています。
そして、その景色と共に「藤白の山」と「藤白の浜」と「藤白の桜」として平安の古来より有名でありました。
この景観を詠った詞が地域の小学校の校歌として残っています。
桜は主に現在は染井吉野桜と山桜の群生であります。
現代はその一部の子孫の桜が残っている程度です。
この様に、鈴木氏発祥の土地の鈴木邸の周辺の環境は万葉の時代を偲ばせる雰囲気が多く残る所ですし、まだ藤白墨などの文化遺産を含めて名所旧跡の多いところです。
周辺にはまだ鈴木氏や亀井氏の一族末裔が多く残る所です。
しかし、残念な事ですが、周辺は鈴木邸近くまで住宅が立ち並び、住民の歴史意識が低下し土地の謂れを知らない人たちが殆どとなり、次第にこの伝説が消えつつあるとのことが気に成ります。
この鈴木氏と亀井氏のレポートをする事で、出来るだけ多くの各地の鈴木氏や歴史ファンの記憶に留めて欲しいと思います。
敢えて、現在の青木氏のブログでは「鈴木氏のルーツと青木氏」のレポートが青木氏以外の多くの人たちに読まれていることを考えて、青木氏ブログサイトから「鈴木氏の環境」のレポートをした次第です。
名前 名字 苗字 由来 ルーツ 家系 家紋 歴史ブログ⇒

写真は鈴木邸と曲水の池
この鈴木氏が発祥した由来は前回の鈴木氏のルーツと青木氏のレポートで紹介ましたが、大変に読まれていますので、その意を汲んで、今度はこの発祥地がどのようなところかを説明して、昔のこの鈴木邸周辺の雰囲気を味わって頂きたいと思います。
又、周囲が概ねどのような自然環境にこの鈴木邸があるのかを、全国の青木氏を代表して、全国の鈴木さんに紹介したいと思います。
では、鈴木氏のご先祖がどのような所に住んでいたかを先ずは偲んでください。
そのためには一部、前回のレポートと重複するところもありますが、ご理解を得て雰囲気造りに努力します。
鈴木邸周辺に纏わる話。
鈴木邸の住所は和歌山県海南市藤白です。
この鈴木氏発祥の藤白の有名な事柄に付いて述べてみます。
「藤白神社」と「鈴木邸」と「紫川」
この鈴木氏の発祥の場所は世界遺産の熊野古道の最初の出発点(社領の第1鳥居)より約1KMくらいの「藤白坂」の上の所の「馬の背」(平安期の呼称)と言う場所にあります。
藤白坂の丁度中間付近に「祓戸王子」と云う宿泊施設がありました。
上りきった「馬の背」の所には「藤白王子」と云う宿泊施設がありました。
先ずその付近の環境に付いて詳しく述べて行きます。
周囲の環境
前回のレポートでも述べました様に、後醍醐天皇や後白河院達の一行が、熊野古道詣での途中で、この熊野権現の第一社目の藤白神社に宿泊し毎回歌会を催しました。
この時、藤白神社の宮司の日高氏の歌の上手さに感嘆して、その功によりその席で「鈴木瑞穂」(すすきみずほ)の姓と名の賜姓を賜ったものですが、ところが日高氏の宮司には子が居なくて近くの農家の氏子の三男を養子に貰い受けて賜姓鈴木氏を継がせました。これが鈴木氏の初代の三郎であります。(賜姓とは天皇から氏を直接賜る事)
その神社隣には隣接して「鈴木邸」があります。
熊野詣で天皇の一行は藤白に一泊し、そこで歌会をいつものように催しましたが、熊野詣では後醍醐天皇は23年間の間に24回訪れたと伝えられています。後白河院は33回と言われています。
この藤白神社からは直ぐ後ろの藤白山(370M)の峠越えを行なわなくてはならないのです。
途中で山越えになると夜になるので、全ての人はこの藤白の山麓の熊野権現の第一社の藤白神社や鈴木邸で一泊するのです。(一般の人は「藤白王子」や「祓戸王子」に泊まります)
この藤白神社の社領には参集殿や儀式殿や広い母屋があります。
境内には1千年もの樹齢の楠木が境内一杯に覆い繁っています。
神社東隣には500坪程度(2500㎡)の木々が生い茂る鈴木邸があります。

「千年楠」
この神社と鈴木邸との北側20M位の所に大理石の大鳥居がありましたが、この大理石の大鳥居は60年程度前まで海辺の近くの所にありましたが、今は直ぐ近くをJRが通っていますのでこのために移されて母屋横の北側正門階段前に有ります。
そこより一段低い所(7M)の20M程度の離れた所には海が直ぐに控えており、「藤白の浦」といわれている入り江がありました。その「藤白の浦」の西先には「お崎浜」と言う小さい干潟がありました。
(現在は沖合いの1KMところまで埋め立てられているので一部を残してなくなりました。)
神社の南は直ぐに藤白山でその裾の所には孟宗竹の藪があり、この藪より直ぐに急な角度で段々畑の山が控えています。
西側の神社敷地端には、この南の山から流れ込む山水が谷川となり、直ぐに神社に西に隣接する所には5M幅程度の急激な勾配で、大石の点在する水の豊富な谷川(紫川)が流れておりました。

谷川から取り込んだ「紫の水」
ここには神社と隣接する谷川には5M程の石橋が敷かれて居ます。この石橋から急な上り坂に成っています。50M程上ると平坦に成り、平安の昔は農家の人家はここまででした。
ここから、入り江の多い「藤白の浦」や「名高の浦」や「内海の浦」と「お崎浜」が見えましたが現在は埋め立てられて見えません。
更にこの谷川は人家の後ろを200M程流れて、この水が鯔場(ボラ科の子のイナと言う魚が住んでいる海に繋がっている池)に流れ込み、そして隣の「お崎浜」の海に直に流れ込んでいます。
この景色は昔と今も余り変わっていないようです。
この谷川の両側には、藪椿でびっしりと覆われて目白や鶯等の小鳥が鳴きながら飛び交っている静かなたたずまいの環境です。その小鳥の鳴声は山に響いて自然が作り出した「枯れ山水」の様です。
この神社中央を「熊野古道」(八尺:2.4M)が東から南に貫いていて、神社横の「紫の谷川」の橋を越えると「藤白坂」が始まり峠に向けて続いています。まだこの付近からは「藤白の浦」や「名高の浦」だけが右手に見えています。
この途中で、神社西端の「紫の谷川」の橋から50M上った所に「中大兄皇子」(天智天皇)と皇位継承で争った「孝徳天皇」の子供の「有間皇子」の墓があります。
(写真は下に添付)
「皇位継承争い」で狂気を装った有間皇子は南紀「白浜温泉」の帰りのこの藤白のこの地の所で、「中大兄皇子」の蜜命を持った「蘇我赤兄」に依って絞殺されます。
(後に蘇我赤兄は中大兄皇子に娘を差し出して皇女を産んでいる)
この神社境内には1000年もの老大楠が境内いっぱいに覆い被さっています。
その境内には、隣の「紫川」から引き込んだ「名水」と詠われた井戸があり、この井戸には亀の形をした紀州名産の大青石盤の蓋が被せられています。(青石は紫石と並んで庭石としては高級石でこの付近で採れる紀州名産品です)
この亀の形をした青石盤は現在は神社の南側にある本殿の左横に祭られています。

青石の亀の井の蓋
その理由は、鈴木氏の始祖の兄の「鈴木三郎」に続いて、藤白神社の氏子の六郎は牛若丸(源義経)の第3番目の家来となり、この亀の形の蓋の井戸に因んで、「亀井の姓」を名乗り「亀井六郎」と名乗りました。
この名元と成った謂れの石なのです。鈴木三郎と亀井六郎とは兄弟です。
この兄弟は神社の氏子で「紫川」の橋を渡り藤白坂道を10M行った所に6人兄弟で農業を営んで住んでいました。兄弟は上記した紫川の石橋より坂の上りきった所に住んでいましたが、今でも人家があります。この付近にはこのルーツに成る亀井さんが多く住んでいます。亀井さんは大変多いですのですが、元祖系ルーツの鈴木さんは意外に少なく、海南市でも数軒と成っています。
藤白神社隣の鈴木三郎の鈴木邸にも、この名水が西側端から引き込まれて、2M程度の小滝を経て、苔むす庭と欝蒼とした木々で覆われた「枯れ山水」の庭の池に流れ込みます。
この滝池の西庭にはS字のようにゆっくりと鯉と共に流れる小川があり、苔生す中央の「曲水の園」の池に流れ込んでいます。
この鯉の住む中央の池をやや東よりに位置する本宅座敷の縁側より眺められるように配置されています。昔はこの縁側で平安歌人達は歌を詠んで楽しんだのでしょう。
この「曲水の園」は、更に本宅の南横を通過して東に向けて小川の如く流れて行き、東側にある正門の近くまで届き、ここに小さい菖蒲が生える溜池があり、この池に留まります。
この庭園内の小川の南側には古道が走り、邸より2Mほど高い位置にあり、その斜面には藪椿などの花咲く木々が50M程度の距離に植えられています。
この溜池と東正門通りの真ん中に大きな雄松がありその横には御影石で蓋をした井戸がありました。
実はこの雄松には次のような逸話があります。
牛若丸(義経)は平清盛に追われて熊野権現に庇護を求めての途中、ここで弁慶の交渉の結果を3月も待っていました。弁慶は日高氏ですが、日高氏は熊野権現の5氏の一つですが、実家を頼りに義経を日高氏の神社に預けて一人で熊野権現に交渉に出かけます。
この時、鈴木の三郎と六郎(後に亀井を名乗る)が身の回りの世話をしました。この縁で兄弟は義経(牛若丸)の人柄に惚れて家来にしてもらう様に懇願し許されたのでした。
義経は直ぐ近くの藤白山で山狩りなどをして過ごしましたが、この時に弓を立てかけたと言われる松がこの大松なのです。現在はその3代目の雄松があります。その松の名を「義経弓立ての松」と言います。
この松を巻き込む様に北側には馬小屋と納戸があり、その横を通って一段下の所へと、溜池の水は小川となり20M程度を流落ちて行きます。
そして神社と鈴木邸の北側真ん中下あたりに二つ目の孟宗竹で覆われた大溜池に注ぎ込んでいます。
鈴木邸の曲水園から流れてきた紫川の水は絶えることなくここに流れ込んでいるのです。
この水は直ぐ下の細波静かに繰り返す入江に注ぎ込んでいたのです。(現代は埋め立てられてない)
この様な神社と鈴木邸の静かで花咲く木々で覆われた小鳥が飛び交う環境の中で平安人の「曲水の宴」を催すのです。
更に神社と鈴木邸の静かなたたずまいの中で、神社と鈴木邸とを繋ぐ北側面には桜並木の坂道があり、この桜下では曲水の宴だけではなく、周辺住民の庶民の唯一の憩いの場として、また歌会や大桜宴会が恒例の如く昔は行われていました。
この桜は何度か枯れて現在のはソメイヨシノの桜でと成っています。
この様な環境と雰囲気の中で、天皇や天皇家の人々と大勢のお供の人々の「蟻の熊野詣」で知られる人たちは、ここで恒例の大歌会を催し、一泊の楽しい一日一夜を過ごしたのです。
明日の峠越えを控えて、この「紫川の名水」と地元の地酒を飲んで英気を養うのでした。
この時、弁慶の郷里でもあり実家でもある熊野権現の宮司でもあつた豪族日高氏(庵沈清姫の物語で知られる日高地方)から派遣されていて、この藤白神社の宮司になっていた一族の日高氏は、毎回にこの歌会に参加してその歌の技量に大変な評価を受けていました。
(熊野権現の主な氏 日高氏、久鬼氏、音無氏、田所氏、吉田氏、榎本氏、和田氏、宇井氏、玉置氏)
ある時、天皇は喉が渇いたので水を所望しました。
宮司はこの神社付近の川の水を引き込んだ井戸(亀井の井戸)から汲み上げた水に歌を添えて天皇に差し出しました。
この水の美味さに加えてその歌の余りにも上手さに感心して、歌を返して返礼しました。
この時に歌われた中にこの川の水を絶賛してそれを後醍醐天皇は「紫川」(紫は最上位の色)と詠み名付けられたのです。
この意味は、紫の色は当時では最高の美しい色とされ官位の色付けでは最高位の色とされていました。
例えば朝廷が僧侶に与える階級の最高位の色はこの「紫」であり、「紫の衣」として有名であります。
つまり、最高の褒め上げた水を意味したのです。
以来、この川を「紫川」と称されました。
参考に、「紫」の語源は野に群がって咲く5ミリ程度の小さい野の花の色ですが、大変愛らしく美しく、万葉の世界では好まれた花であります。
この花が群がって野に一面に咲くので“ムラ”と“サク“でこの草の色を「紫」と呼ぶようになりました。紫の語源説は幾つかありますが、これが語源の元となったものです。
「むらさき草」

鈴木邸で詠まれたこの紫色の歌がありますので紹介します。

万葉集の詠み人知らずの歌
紫の 名高の浦の 真砂地の 袖のみ触れて 寝かなりてなむ
「名高の浦」はこの藤白神社の北側の直ぐ前に見え拡がる松並木のある海が「名高」と言う地名の所で、その前に小さい入江干潟が幾つかあり、ここを「名高の浦」というのです。鈴木邸からは「藤白の浦」の隣の浦で両方の浦は一望できます。
今でも、紫川の石橋を少し登った藤白山越えの途中から入り江が一望でき、景色の良さで有名な国立公園の「和歌の浦」も見える景観が広がっています。
天気のよい日は徳島も観えます。
この様な歌を詠って一夜を過ごしました。
そして、明日は峠越えです。
熊野詣の人たちは、難所のSの字の「藤白坂」の「山越え坂」を登るのです。
約3時間程度の登坂であります。
その真ん中ほどの平になった山道の途中には、「名所」の「筆捨て松」という所があります。
ここで疲れが出て熊野詣での人たちは一休みをします。
ここからは、遠い先の「瀬戸内海国立公園」の「和歌の浦」が全望できる絶景の名所です。
高いところから眺望すると、和歌の浦は藤白の浦と名高の浦の北側の山向こうある大きい入り江干潟の浦です。
この眺望を詠った万葉の歌
和歌の浦 潮満ちくれば 片男波 芦辺をさして 鶴鳴きわたる 山辺赤人
この「筆捨て松」には逸話があります。
その逸話は概ね次の通りです。

写真は藤白坂中ほどにある「筆捨松」
「熊野権現第1の鳥居」より藤白坂を登り始めて藤白神社付近までところを「墨屋谷」と呼ばれていましたが、この「藤白坂」の神社よりを更に山に向かって登って行くと、「筆捨松」というところがあります。
この松の由来は、宇多天皇の御代(887-897)に画家の巨勢金岡(こせのかなおか)が熊野詣の途中「投げ松」の所に来て、眼下のすばらしい景色にみとれて、写生をしようとしていた時、峠の方から少年が降りて来たのです。
この少年もあまりの美しさにひと休みをしました。
お互いに話がはずみ、金岡は「君は何をしに来たのか」と聞いたところ、少年は「私も画がすきで勉強に来たのです」と答えたので、二人は意気投合して絵の書き比べをしようということとなりました。
先ず金岡が松にとまったウグイスを描きました。
次いで、少年は松にカラスの絵をかきましたが、双方とも甲乙つけがたい立派なものでした。
そこで”手をたたいてこの鳥を追っぱらった方を勝ちとしよう”ということとなり、お互いに手を打ってみると両方とも鳥は画面から飛び去ってしまい、またも勝負がつかなかったのです。
困りはてた二人は思案のすえ、今度はその鳥を呼び戻そうと話は決まり、まず少年が手をたたいたところカラスは帰ってきたので、次いで金岡が手を打ってウグイスを呼んでみたが帰って来ることはなかったのです。
無念の金岡はいたたまれず、手に持っていた筆を松に向かって投げ捨てて、少年の勝ちを認めたのです。
このことからこの松を「筆捨松」と云い伝えられるようになったと言い伝えられています。
この少年は熊野権現の化身であったといい、当時、飛ぶ鳥も落す勢いの金岡を諌めるためでもあったというお話です。
その眺望の良さの意味も含めての言い伝えであろうと思います。
(注 巨勢氏は大和朝廷の前の4世紀の半頃の連合政治族の4族の一つで、平群氏、巨勢氏、葛城氏、紀氏であり、巨勢氏は和歌山北部の大豪族と、紀氏は和歌山南部の大豪族であった。巨勢氏は8代将軍徳川の吉宗の母方が巨勢氏である。)
熊野詣の人たちはこの眺望を見てここで一時の休みをとると、後半分の登坂に向かって再び頑張るのです。
再び登り始めると一時間程度経つと、峠の頂上に到達します。
藤白峠の頂上には10軒程度の村があり、この村の真ん中には大きい池があり、大鯉が住んでいます。この上がり切った丁度村の入り口の右手のところに墓所があり、その中には平安時代のものと思われるものがあり、中には源氏の氏名の墓石の古いものもあります。ここで落命したのか村人の先祖の墓かは判りませんが源氏の古を忍ばされます。この付近の清和源氏族には紀州の新宮太郎と云う者が居ました。この末裔でしょうか。
そして、頂上の上がりきった中央のところには小寺があり、村の人たちが住職を代々続けています。
寺の後ろ上側には大きい広場があります。この広場からは和歌山市や海南市が全望でき、実に見晴らしの良いところであります。

「藤白塔下寺」
今では1年中、特に秋になると紅葉になり全国からやって来た人々や遠足で近隣の小学生や中学生等が山ウォーキングします。そして、必ずこの広場で弁当を開きます。見晴らしのよいところでの楽しみの一時を過ごします。
村の池の側には青石で石垣を積み上げたいかにも古を偲ばせる邸宅があります。
熊野詣の人は止む無くここで宵闇になると村人の家に泊まった事でしょう。
ここから暫く下り坂になって棚田の畦道に沿って降りて行きます。
降り切った所に岩屋山という俗称お寺があります。毎年獅子舞や餅投げなどをしての熊野権現のお祭りがあります。ここは加茂郷と言うところです。山と海が控えた土地柄です
熊野権現の影響で平安の頃、紀州の人々が全国に熊野神社の宣伝(熊野神社宣伝隊が編成されたと伝えられている)の為と、紀州の漁業の伝播の為に各地に移動してその土地に定住しました。
全国の熊野神社の加茂神社系はここから全国に広まったとも云われています。
加茂郷や湯浅郷の人たちだと言われていますが、特に静岡、千葉、徳島、土佐に進んだ漁法を伝えたとされ、今でも各地に紀州の地名と同じ地名が多いのはこのためです。
その伝えた黒潮ならではの有名な漁法が在ります。紀州は陸の直ぐ近くまで黒潮が流れていますが、その漁法とは船の後尾に糸を何本も流し、その糸の先には木で作った木の葉の形をした板を流します。この板は釣の「ウキ」の役目をすると同時にこの「ウキ下糸」の下の針に付けた餌が、ウキの波に跳ねる動きに従い餌が生きた餌のように動くのです。この漁法が大変当時(現代も)としては画期的な収穫高の多い漁法でした。この漁法を請われて全国に指導し広めたのです。
現代では世界的に広まっています。カツオやマグロ漁法で使われています。この漁法は紀州から世界に伝わったのです。(俗称パタパタ漁)
この他にも、醤油や味噌造りなどもここ紀州のこの付近の土地から広まりました。これらの為に移動した紀州人が故郷を偲んで加茂神社が祀られ広まって行ったのです。
他にはある高僧が中国から持ち帰った「金山時味噌」の作り方を紀州の人たちに伝えました。
この味噌は色々な野菜と大豆とを加え醗酵させて直に食べるのです。しかし、ある時放置していたこの味噌からうまみの成分のだし汁のような液体が出ました。それでこの液体だけを取り出して製造しましたが大変調味に合うことから作り出されたのが醤油で、その発祥はこの藤白峠を下った所の加茂郷から湯浅地方でした。これ等の技法をこの熊野古道から伝えたのが全国に広まったのです。
そして、これ等の紀州の人々はこの藤白の熊野古道を平安以後も生活道として使われ通って行きました。
この行動は長く続いていました。この熊野権現の第一の鳥居の海南藤白から岩屋さんまでは昭和25年くらいまで海沿いではなく近道の熊野古道を利用し、天秤で担いで海産物や農産物の運搬で人々の盛んな往来がありました。
今では、この山道筋は山道で荒れていますが、山の散策道としては大変に利用されています。。
昔はこの辺までが”藤白の山”と云われいました。
以上が鈴木邸のある藤白圏のこの藤白の神社と鈴木邸の環境です。
次に上記しました亀井氏の発祥の地の由来に付いて更に詳しく述べてみます。
「亀の井」
(亀井の井戸)

「亀の井」
亀井の井戸は「紫川」の水の件以来、この川の水を引いたこの井戸のことを「亀井の井戸」と呼ばれる様に成りました。
この井戸は今でも神社中央に遺っています。
この井戸の呼ばれる元になったのは、この「井戸の蓋」が亀の形に似ているので「亀の井」と名付けられたのですが、今でもその蓋は本殿の直ぐ左横に祭られています。
この蓋の石は和歌山原産の「青石」であり、この「青石」は庭石では最高級品の物です。
この「青色」は「紫」と同じく奈良時代末期からこの「青色」は神霊で尊き諸源の色されていました。
又、朝廷儀式では紫に次いで最高位の色として使用されていました。
最も美しい色と好まれた「紫色」と、階級職色の「紫」と同じく、この「青」の色を代表する樹として「青木」の木があり、古来より「神木」として用いられていました。
そして、神官の祝詞では(今でも)「アオキ」ではなく「オオキ」と発音されていました。
この由来は「木の色」とその実の「赤い色」の二つの色に起因するのです。
つまり、常葉の「青色」はすべての物の諸源を意味し、実の「赤色」は血を意味して命の根源を意味したのです。
参考として、この「青木」の樹木は恒葉樹であり、絶えることのない物質の生命の根源を意味したのです。
「青木」姓はこの意味を持つ氏として、天智天皇より賜姓(第6位皇子の施基皇子に与えた氏名)を受けた日本最初の氏名であります。(青木氏の由来)
参考
現代の藤白神社の宮司は吉田氏で、平安初期から朝廷の神職を司る由緒ある官職の持つ氏であります。
吉田氏は現在は藤白神社3代目です。
上記の吉田氏と同じく由来どおり青木氏は皇位の門跡者を祀る神職を司る氏が多い。
この亀の井戸に因んで名乗った亀井氏は現在も鈴木邸横に本家筋の住居があります。
ここも鈴木氏と同じく亀井氏の発祥の地でもあります。
鈴木氏の鈴木三郎と亀井氏の亀井六郎とは、牛若丸(源義経)と武蔵坊弁慶に伴って一度京に戻ります。その後、平泉の藤原京に向かうのです。これよりその鈴木亀井の両氏の兄弟はぴったりと常に寄り添い平泉から逃亡にも付き従ったと言われています。前回のレポートに記述しています。
上記した「青と紫の石」に付いては、鈴木邸付近の藤白山で取れる高級石ですので詳しく述べておきます。
「青石の園」
「青石」は上記した由来からの様に、平安初期から最高貴重品として用いられたものです。
庭石としても高級品である。庭石は主に敷石やふすまの様に立石として用いられる。これは石が平石が多いことによります。
この石は又アルカリ性が強くコンクリートの原料として使用されつい最近まで藤白の山で採取していました。
現在ではこの青石も少なくなり、県外不出の条例が出ている現状です。
鈴木邸付近の山の産物なのです。
この鈴木邸にもこの石が敷き詰められています。
(参照 亀の井の蓋はこの青石で出来ています。)
「紫石」と「紫の硯」



「紫石の原石」それで作られた「紫の硯」
この「青石」と同時に、「紫石」もあり、この「紫石」は平安期から和歌山市の浜の宮から海南にかけて採取された石で、これも上記した「紫色」の由来から朝廷内で「飾り石」として用いられました。
又、日本初国産の「藤白墨」と同じ時期に、「紫の硯石」としても加工され高級品として朝廷内で使用されていました。貴族や天皇の使用品であった。
この「紫の硯石」は使用されているものとして現存としては唯一の硯石であろう。
特にその使用は加工を余り施さず原型を保ちその色の優雅さと赴きを楽しんだ。
この付近から現在の海南市下津付近までの間で紫の硯石が生産されていた。
現在、この下津町の「方」(かた)と言う地名のところの硯村(すずりむら)と言うところがある。
海南市を始めとしてこの村には今でも硯氏の姓の人が多い。
硯村は、技能職人を一つにまとめた「部制度」のあった平安時代には、朝廷に納めるこの「紫硯石」を作る「硯部」が住んでいたところである。
当時は「市場経済」ではなく「部経済」(べ制度)として殆どの加工品は一度朝廷に納入され、その後に市場に払い下げられると言う方式であったので、「紫の硯」は「藤白墨」と同じく専売品として庶民には手に入る物ではなかったのです。
この様に「紫の硯」は「藤白墨」と「紫の硯」とは一対として庶民には手に入らない品物として扱われました。
注 「部制度」とは全て一次製品はその専門の職人が集団となって作り上げ、その作り上げた製品は一度朝廷に納められ、その後余った製品は市場に払い下げられると云う経済方式でありました。
この技能集団は、例えば、服を作る集団であれば「服部」(はっとり)と言い、陶物を作る集団は「陶部」(すえべ)、海のものを加工する集団は海部(かいふ)等全て後ろに「部」が付く姓はこの子孫であります。
そして、更に、この子孫は中国後漢の民で渡来人であります。(詳細は青木氏氏のサイトの研究室にレポートしています)
「大化の改新」(645)前後を挟んで200万人の17県の民が、後漢の光武帝より第21代の献帝の子の石秋王とその子で、阿智使王とその孫の阿多倍王の二人の王の下に共に大和国に帰化して来ました。そして、瞬く間に66国中32国を無戦征圧しました。
この阿多倍王は天皇家(敏達天皇の曾孫の芽淳王の娘)との血縁で発祥した子孫の坂上氏、大蔵氏、内蔵氏であります。
阿多倍王は薩摩の国を割譲して大隈に住まいします。日本書紀にも何度も出てきます。
「大隈の首魁」と呼ばれ、伊勢国北部伊賀地方を割譲して「不入不倫の件」を天皇から与えられます。国を部の技能で潤したとして何度も勲功を受けます。そして、その末裔が太政大臣の平清盛に成ります。この200万人の後漢の帰化人は現在の日本の政治体制と一次産業を築きました。
後に大蔵氏は永嶋氏に変名します。特に関西より西に多く子孫を残しています。平家の清盛の一族とその5代前の先祖はこの阿多倍王の子孫です。
坂上氏は征夷代将軍と成り、北陸に子孫を遺しました。この3氏の勢力は朝廷の3権(3蔵と言う)のうちの2権を握りました。
元はこの部を管理していたのは蘇我氏で、天皇家より勢力を握ったのはこの「部制度」とその渡来系の一団を管理していたことによります。朝廷の役職は「国造」(くにのみやつこ)です。
そこで、語りを戻して。
万葉集 詠み人知らず
紫の石を詠んだ歌
紫の 名高の浦の なびき藻の 心は妹に よりにしもを
さて、次は周辺にはこの鈴木邸より20M東に戻った所に日本最古の「藤白墨」(紫の硯石と共に)が採れました。
この藤白墨の採れる場所を「墨屋谷」と云います。
「藤白墨」


日本最古の藤白墨
現存する唯一の「最古藤白墨」の一つである。
写真以外にも藤白墨の練り棒(製作過程のものある。
この藤白墨はある個人が天皇家より拝領した物であり、使用しているものとその片鱗である。
未使用の天皇家蔵「宝の藤白墨」は盗難紛失した。
写真の無かった古の時代の為にそれらの藤白墨は「墨拓」として保存されいる。
奈良時代より中国より輸入されていた墨は平安中期に後醍醐天皇に命じられて日本各地で墨の試作を試みられたが中国産に勝る「墨」は見つかりませんでした。
そこで、朝廷は「熊野古道」沿いに「炭焼き」する村を見つけました。
この村で、「熊野神社」の「第一の鳥居」の近くに「藤白村の炭」がある事を発見し、この「炭焼き」で出来る「煤」をかき集めて、それを練り、牛の皮を煮詰めた「にかわ」で「墨」を固めて作ってみました。
ところが、この「墨」が中国産より優れ、「紫色」を滲ませる墨色であったので、大変に喜ばれて以来、朝廷の専売品として生産されて、その後、大々的に生産されて、徳川時代まで、その時の幕府専売品として扱われました。
この「藤白墨」は徳川時代までに四、五種類のものになっています。
この「藤白墨」は海南から有田地域まで分布する「うばめ樫」の木を用いて造られました。
この「うばめ樫」はどんぐりの木の仲間で、通称「ばべの木」と呼称されています。
この藤白村で生産される「藤白墨」の生産場所は史跡として指定されています。
この「うばめ樫」は海南地区では今も現存します。
又、この生産場所も当初はこの場所を古来より藤白の「馬の背坂」と呼ばれていました。
丁度、馬の背中のような真ん中が下がったような形をしている坂でありました。現在は道拡幅の為に少し変わっています。
藤白のこの付近では「うばめ樫」の木が少なくなり江戸時代には南紀の有田方面に生産場所を移動して行きました。
しかし、鈴木邸付近周辺のところには時々は藤白墨の片鱗が出てきます。
この「藤白墨」と「墨拓」もある個人が所有して現在も保存されています。日本国産最古の墨です。
(現在でも宮内庁正倉院か天皇家にはあるのではないでしょうか。大正14年にはあった事が確認出来ています。)
「熊野一の鳥居」
本来、熊野古道と呼ばれる最初の起点は、この藤白の入り口の鳥居のあったところから始まるものです。
つまり、この「鳥居」は熊野神社の「最初の鳥居」であり、「熊野神社」の社領の入り口と言うことになります。
藤白の「馬の背坂」を北に下り、「日限坂」との交差する点に存在しました。
古道の由緒ある「一の鳥居」です。ここから藤白峠に向けて坂が始まるのです。
1キロ程登った所から、馬の背のようになった道が鈴木邸まで続き、この「馬の背坂」には「熊野古道」参詣の「道宿」として二つの「王子」(参詣のための道中の宿)があり、「一の鳥居」から50メータほど古道沿いに東に寄ったところにある「祓戸王子」と、「藤白神社」のところに「藤白王子」とがありました。
この王子は一般には寺や神社が営んでいました。
天皇の熊野詣では一行はこの王子に分散して宿を取りました。天皇は藤白神社や隣の鈴木邸に泊まります。
「藤白王子」と「祓戸王子」
上記した様にここには一般の人たちが泊まる「藤白王子」と「祓戸王子」と言う「熊野古道」の2宿が存在しました。(少し北に離れた所には「春日王子」があった。)
「熊野詣での蟻の行列」として平安朝から呼ばれてこの8尺程度の狭い道を参詣者は途切れることなく歩いたと言われています。
現在でも3.6Mの道幅ですが、古道の出発点としてのこの静かな環境の周辺が「熊野古道の世界遺産」の影響を受けて、昔と同じ様に古道を訪れる人でいっぱいなのです。
そして、昔の参詣者は藤白山の難行の「藤白坂」を目の前にして、ここで一泊して休息して朝早くに起きて「藤白坂」に挑んだのです。宿はいつも一杯だったと言う事です。
泊まれないときは寺社や民家や3キロ程度戻った所の春日王子に戻って宿泊しました。
当時は約1里(3.75=4キロ)程度毎に王子がありました。
宿は泊まりが中心で食事は周辺の農家の人たちが仕出しをするという方式で現在の旅館とは違っていました。
この時、この王子に留まった人たちはこの藤白神社から西の方に向かって「藤白の浦」と「名高の浦」と「和歌の浦」の景色を見てその美しさに感嘆しまた登るのでした。
ここで詠まれた万葉時代の歌は多く遺されています。
代表歌として
和歌の浦 汐満ちくれば 方男波 芦辺をさして 鶴鳴きわたる。
「鈴木」と「亀井」の館
一部重複
先ず、鈴木姓の発祥について上記した歴代の天皇が参詣した中で後醍醐天皇が藤白坂を上るに際して前日にこの藤白神社に投宿した時、恒例の宴を催しましたが、この時、天皇はこの日高氏の宮司の歌を褒め、褒美として「鈴木」姓を賜姓しました。(名は瑞穂)
しかし、この日高氏には子供は居なかったので、氏子の亀井(後に名乗る)の家から三男の三郎を養子に貰いうけて鈴木姓を継がした。
丁度、この時に鞍馬山の牛若丸(清和源氏の分家筋の頼信系の九郎)は平家に追われていた。
弁慶の父が田辺では熊野神社の宮司の一人であつた事からその庇護先を求めて弁慶と共に熊野神社に向かった。
この時、牛若丸と弁慶の一行はこの藤白神社に立ち寄り弁慶だけが実家の日高に向かいその後、熊野神社に向かったのです。
この間、この牛若丸の身の回りの世話をしたのがこの「鈴木」の養子となった鈴木三郎でありました。
そして、3月ほどの滞在のうちに、この「鈴木三郎」は牛若丸の家来になる事を許されました。
そこで、この三郎の実家の弟の六郎も牛若丸の世話をしていて兄弟二人が家来となったのです。
この六郎も姓が必要となり上記した有名な「亀の井」にあやかり「亀井」の姓を起して「亀井六郎」と名乗り武士となり、牛若丸に付き従いました。
弁慶は熊野神社から庇護を断わられて戻り、共に家来の三人と共に再び京の都に戻り、その後、一行とこの兄弟は奥州藤原氏を頼り平泉へと向かうことになつたのです。
これが鈴木と亀井の姓の発祥となり、全国的に子孫を広めた原因ともなりました。
この後、この藤白の鈴木と亀井の縁者は身内を応援するために、平家の監視を逃れるために「熊野参詣宣伝」を名目に各地に向かい子孫を増やす作戦に旅立ったのです。
当時は自らの勢力を広げるために旅に出てその土地毎に子孫を遺していざと言うときにはこの子孫が駆けつけると言う戦略を取るのが普通でこれを「戦地妻」と呼ばれました。
その結果、八島と壇ノ浦の平家との戦いには12000人の身内の軍勢が義経の周りに集まったとされています。
頼朝から派遣された「坂東八平氏」の力を借りずに、この身内の軍勢が先陣を切り勝利を決定付けたのであります。
「義経弓立て松」
歴史上で義経一行は二度ここ鈴木屋敷を訪れたとされています。
この時、一度は上記の牛若丸時代の時と、二度目は二つの戦いの時に、熊野水軍と紀水軍と攝津水軍と伊勢水軍を味方に引き入れるための説得工作に赴いた時に訪れています。
「曲水の園」(曲水の宴)
写真は冒頭に添付
この鈴木邸には平安朝時代に和歌を詠み、それを山から引いた「紫川」の山水を邸の池に流しこみ、その流れに乗って流れる短冊を入れた小船に和歌をすばやく詠み返歌して返してゆくという平安朝の歌儀式の社交池です。
熊野神社参詣に来る貴族達の一時の休息の場となりました。
この曲水の池は今も現存します。(上記)
そして、この曲水の園は自然の景観に溶け込み「枯れ山水」の形式に造形されていて、その曲水の池と溶け込み自然の景観を造り出しています。
この「枯れ山水」は人間の作り出した創造美ではなく、「自然の力」による美を強調し苔や自然の石組み樹木の成り立ちを生かして園として作り上げたもので、渓谷の谷川の成り立ちを思わせる自然美を追求したものです。
古来よりその美は作られていたが戦国の時代に廃れ、再び桃山時代からその美が見直されるようになりました。
しかし、昭和期には再び創造美が求められて消えました。
然し平成期の安定期に入り再現され始めていますが、世と人の心の安定に左右される落ち着きのある美です。
この鈴木屋敷の「曲水の園」と「枯れ山水」は現在に於いて貴重な美の財産でとして遺されているものです。
この時に歌われた万葉の歌は次ぎのとおりです。
黒牛潟 潮干の浦を紅の王裳 裾ひき行くは誰が妻 (潮干:ひかた 現在は日方の地名 黒牛潟:黒潮潟の昔の呼称)
古に 妹とわが見ぬばたまの 黒牛潟を見ればさぶしも
黒牛の海 紅にほうももしきの 大宮人しあさりすらしも
紅の海 名高の浦に寄する波 音高きかも逢わぬ子ゆえに
紫の名高の浦の名告藻の 礎にまかむ時待つ我を
(読み人知らず)
鈴木邸付近には、現在は絶滅したと言われている平安人に大変好まれた「まゆみ」という花がありました。
この花は「恋歌の花」として親しまれていました。
「まゆみの木」

この木は平安朝の時代にはこの熊野古道沿いに沢山生息していたとされ、この木の持つ印象から沢山の歌が万葉歌として読まれています。
この上記した曲水の宴でも読まれたことであろうことが想像されます。
しかし、現在はこの木は殆どなくなっています。
この木の花は淡い赤紫の花と真っ赤な実をつけて半年も長く咲き誇る花で、その花の形は少女の可憐な姿を想起させ、其処からは清廉な恋心を詠んだ万葉歌が多いのです。(万葉集二歌選択)
ちなみに、二首を次ぎに示します。
みこもかる しなぬのまゆみ わがゆけば うまひとさびて いなといはむかも
解説
信濃の弓を引く様に、私が貴方の気を引いたなら、あなたは都人の様に、嫌ですと云うでしょうか。
みこもかる しなぬのまゆみ ひかずして しひさるわざを しるといはなくに
解説
貴方が信濃の弓を引くこともしないのですから、私が嫌ですともいいともいえる訳がないでしょう。
この様に、沢山のこの「まゆみの花」の歌が詠まれています。
現在では京大の調査では熊野古道の新宮付近の山奥に生息するのみとなつています。
しかし、この花は現代では熊野古道の万葉歌としてその花名の愛らしさと花のその可憐さが愛好家には好まれています。
「まゆみ」とは、基字は「真弓」とされ、真の意は語源は「目一杯」の意を基とし、真実は「目一杯の実」、つまり、「目一杯の誠」となります。この様に、「真の弓」となり、「目ッ一杯に弓を引いた射する寸前の状態」をさします。
況や「まゆみ」の意は「目一杯の愛」であり、純心無垢く、清廉な熱愛とし、「少女の愛」とされます。そして、その意に合う、何とも云えない真っ赤な花色と半年も長く咲く花とその愛らしい花の形をしていて、葉は1年近く紅葉しても落葉しない性質で次ぎの葉が出るまで落葉しません。その葉の形が弓を一杯に引き込んだ弓形をし、木の軸は花と葉に出過ぎぬ様に葛のように頼りなさを表しています。しかし、花火が開いた時のように柳のように垂れ下がり大木になるのです。
大変、繊細な木で環境や土壌が少しでも変わると枯れたり、花を咲かせずに居ます。
「まゆみ」にはオスメスの2種があり、雄木ははしっかりしていてなかなか枯れません。
詠われている「まゆみ」は雌木の様であります。
この様な何とも云えない愛のはかなさの木質から繊細な万葉の歌人はこの木を男女の恋愛歌と観たのでしょう。
絶滅種の雌雄の「まゆみ」は現在、神社の近隣のある個人の家で何とか育植されています。
彼の有名な「てるてる姫」で有名な歌人で官僚の小栗判官もこの藤白神社の「馬の背」付近で姫に宛てて詠んでいます。
恐らく、昔は、この「まゆみ」が熊野古道沿いに一杯咲いていたのでしょう。
話を元に戻して。
「有間皇子」


鈴木邸の周辺環境の一つとして、藤白峠の始まり点で、神社より直ぐ近くで、このところから氏子の民家が存在する所ですが、”やれやれ”と峠を下りきって”鈴木邸で一休み”という所で気を緩めたところで後ろから信頼していた蘇我の赤兄に後ろから絞殺されたと見られます。
鈴木邸と有間皇子は550年位の時代差がありますが、周辺では一つとして捉えています。それは有間皇子も鈴木三郎も同じ悲運の者だからです。
皇位継承問題で痴呆を装う有間皇子は白浜の湯に行き、その帰りに藤白の坂の麓で蘇我赤兄に絞殺された事件が起こります。
有間皇子は孝徳天皇の子供でありますが、中大兄皇子との権力闘争に巻き込まれて狂気を装い白浜に逃げ延びるが中大兄皇子の意を受けた同行の蘇我赤兄に絞殺される悲しい事件の場がここで起こります。
この直前に遺した歌があります。
家に居れば いい盛る椎も草枕 旅にしあればしいの葉に盛る。
現実には山に生息する椎の葉には飯(いい)は盛れないけれど、いい(飯)とかけて詠んだもので、椎の葉には飯はもれません。しかし、椎の木は山木の意から旅の意味を含み、皇位継承問題で狂気を装いそして旅に出なければならないわびしい気持ちを詠んだ歌です。
昔は旅に出た時は柏の木の葉に包んだ乾し飯を食べていました。
地方に依っても異なりますが、関西や和歌山地方では柏の木は少ないので、ハート形した「さる茨」の葉を用いました。
五月の祝いに作る柏餅はこの「さる茨」の葉で作る習慣は未だ残っています。
そこで、:経緯を知るために詳しく日本書紀に書かれている有間皇子の内容を記載します。
内容は漢文であるので平易に翻訳します。
冬、十月十五日、紀の湯に行幸された。天皇は建王のことを思い出して悼み悲しまれて哀悼歌を詠われた。
山越えて、海渡るとも おもしろき、今城(いまき)の内は、忘らゆ難(ま)じに。
山を越え海を渡る面白い旅をしていても、建王のいたあの今木の中のことは忘れる事は難しいだろう。
港の、潮(うしお)の下り、海(うな)下り、後(うし)ろも闇(くれ)れに、置きてか行かん。
海峡の潮の激流の中を、舟で紀州へ下って行くが、建王のことを暗い気持ちで、後に残して行くことであろうか。
愛(うつく)しき、我(あが)稚(わか)き子を、置きてか行かん。
可愛い私の幼子を後に残して行く事であろうか。
秦大蔵造万理に詔して「この歌を後に伝えて、世に忘れさせない様にしたい」と言われた。
十一月三日、留守を守る役目の蘇我赤兄(そがあかえ)が、有間皇子に語って「天皇の政治に三つの失政があります。大きな蔵を建てて、人民の財を集め積むことがその一、長い用水路を掘って人夫にたくさんの食料を費やしたことがその二、舟に石を積んで運び、岡を築くというような事をした事がその三であると云った。有間皇子は赤兄が自分に好意を持っていてくれる事を知り、喜んで応答して、「我生涯で始めて兵を用いるべき時が来たのだ」と言った。
五日、有間皇子は赤兄の家に行き、高殿に登って相談した。その時、床机がひとりでに壊れた。
不吉の兆しであると知り、秘密を守ることを誓って中止した。皇子が帰って寝ていると、この夜中に赤兄は物部朴井連を遣わして、造営人夫を率いて、有間皇子の市経(いちぶ)の家を囲んだ。そして、早馬を遣わして天皇のところに奏上した。
九日、有間皇子と守君大石、坂合部連薬、塩谷連この魚とを捉えて、紀の湯に送った。舎人の新田部米麻呂が従って行った。中大兄皇子は自ら有間皇子に問われて「どんな理由で謀反を図ったのか」と言われた。答えて申されるには「天と赤兄が知っているでしょう。私は全くわかりません」と言われた。
十一日、蘇我赤兄は部下の丹比小沢連国襲たちに命じて、有間皇子を藤白坂で絞首した。同時にこの日塩谷連子魚舎人の新田部連米麻呂をも藤白坂で斬った。塩谷連は殺されるという時に、「どうか右手で国の宝器を作らせて欲しいものだ」と言った。(意味不明 助けてくれと懇願の意味か)
守君大石を上毛野国(かみつけのくに 上野国)に、坂合部薬を尾張の国に流した。
(塩谷は和歌山の地名で土豪 新田部は中大兄皇子の皇女の実家土豪)
ある史料では、有間皇子は蘇我赤兄、塩谷連小才、守君大石、坂合部連薬と、短籍(捻り文)を作って、謀反のことを図って占ってみた。そこで、有間皇子が「先ず大宮を焼いて、五百人で一日二夜、牟ろ(田辺市)に迎え撃ち、急ぎ舟軍で淡路の国を遮り牢屋に囲んだようにすれば計画はなり易い」と言った。ある人は諌めて「よくないことです。計画はそれとしても徳が有りません。皇子は19歳です。まだ、成人もしていません。成人されてから徳をつけるべきです」と言った。別の日に有間皇子が一人の判事(刑部省の役人)と謀反に付いて相談した時、皇子の机の脚がが故なく折れたが、謀略を止められず遂に殺されたとある。
(注)後説は各所に間違い(成人の年齢など)があり、後で有間皇子謀反説の自説を誘引する為に偏纂したものと考えられる。
当時の壬申の乱等の皇位後継者争いや孝徳天皇との軋轢から見てから観て、命令説ではと考えやすいが、日本書紀では蘇我赤兄の反逆行為で有間皇子は謀反人にされた事に成っている。
赤兄本人の自発行為か、中大兄皇子の赤兄に命じたことなのかは判っていない。
現在、丁度、民家が途切れた峠越えが始まる角で側には小さい池があり、その直ぐ側で絞殺されたが、この藤白坂のその地に有間皇子神社があり藤白神社や土地の者達により祀られ維持管理されている。
絞殺後、山中では無く直ぐ人気がつく場所で、誰がやった事かもわかる場所で、直ぐ側の民家の者達に向後の面倒を看て貰う目的があり、この地の上り始め点で行ったと考えられ、蘇我の赤兄にも憐憫の情があったと見られる。
土地感から観ると、蘇我赤兄の処置には「命令」が出ていたと考えられる。勲功の意味もあり後に娘を中大兄皇子に嫁がせて皇女を産んでいることからも頷ける。
「小栗街道」
熊野の「蟻の熊野詣で」の通り、一年に一回は参詣するためにこの熊野街道を通りました。
この時、天皇に同行した歌人の「小栗判官」と「てるてる姫」の逸話の通り、この「馬の背坂」付近で「藤白の浜」見て「てるてる姫」に宛てて詠んだ歌が有名です。
此れに因んで歌人の間ではこの付近の丘の事を「小栗街道」と呼ばれる様になりました。
この浜は現代の位置とは異なり、この古道の直ぐ崖下が波打ち際でありました。
昔は「藤白の浜」または「藤白の浦」と呼称されていました。
「藤白獅子舞」「藤白相撲」

熊野詣での朝廷の人たちにはこの獅子舞を見せたとされています。
藤白の獅子舞は熊野権現の各社で行われている五穀豊穣の祭りに神に奉納する行為の一つです。
この獅子舞は日本各地の熊野権現の支社では行われているものです。
平安中期ごろからこの獅子舞は行われていて歴史上伝統ある祭りの奉納する行為の一つです。
この舞はその昔神の使いの命が獅子を退治して村を平安に保ったという言い伝えから来たもので、獅子とは架空のものだですが、この世の全ての悪を獅子に見立ててこれを退治して平安を願う庶民の祭りです。
これと同時に藤白には「藤白相撲」も奉納されていました。
最近まで行われていて、50年前位までは祭りに「子供相撲」が夏に奉納していたものです。
余興として面白い史実の話をします。
相撲は日本書紀にも書かれて、上記した後漢の帰化人の首魁の阿多倍らが飛鳥の都の木下で天皇に披見したと書かれているのが最初です。700年頃から既に奉納相撲があったのです。
義経が今泉から逃れて鈴木加盟の兄弟の従者を連れて蒙古に逃れたとのせ津がありますが、蒙古相撲もこの伝統から伝わったとされています。
蒙古の古い記録から、突然天から2人の従者を連れた者が現れてたちどころに周囲を従えたが、次ぎの指導者になる筈の者との一騎打ちにより勝ち、この指導者は殺されて、2人の従者を連れた天から降りてきた者が支配者に成ったとされ、それがジンギスカンだと記録されています。
蒙古の習慣では各族の首長の最も強い者が指導者になる仕来りでしたが、この時はこの天から降りてきた者がなったと記録されています。
そして、その者の紋章は笹竜胆紋(賜姓源氏と賜姓青木氏の綜紋)とそっくりです。
ジンギスカンの蒙古襲来は鎌倉幕府の1271年と1284年で丁度この時期です。
義経縁の地であり、従者2人は鈴木亀井の兄弟の地でありますので敢えて紹介しました。
(詳しくはこのレポートの前のレポート参照して下さい。)
その事の伝統もあり熊野神社系では子供奉納相撲が行われていました。
「藤白桜」
「鈴木氏のルーツと青木氏」のレポート冒頭に添付
山桜古木が枯れ現在吉野桜を移植されている。
この藤白神社と鈴木邸には昔から周辺に沢山の桜が植えられていて、春には山越えをして遠方からも訪れて周辺が見物人でいっぱいで立つところもないくらいの盛況ぶりでありました。
当時も鈴木邸付近では花見の見物と熊野詣ででいっぱいであったことが予想できます。
未だ、この時分は神社の鳥居の直ぐ坂下は浜辺であり、その景色は万葉の人が褒めちぎるほどの景観を示していました。(上記の歌)
現在は世界遺産の決定で再び桜見物はもとより、古道散策が盛んになり、この狭い古道は昔の「蟻の熊野詣で」と同じくらいに賑やかになっています。
そして、その景色と共に「藤白の山」と「藤白の浜」と「藤白の桜」として平安の古来より有名でありました。
この景観を詠った詞が地域の小学校の校歌として残っています。
桜は主に現在は染井吉野桜と山桜の群生であります。
現代はその一部の子孫の桜が残っている程度です。
この様に、鈴木氏発祥の土地の鈴木邸の周辺の環境は万葉の時代を偲ばせる雰囲気が多く残る所ですし、まだ藤白墨などの文化遺産を含めて名所旧跡の多いところです。
周辺にはまだ鈴木氏や亀井氏の一族末裔が多く残る所です。
しかし、残念な事ですが、周辺は鈴木邸近くまで住宅が立ち並び、住民の歴史意識が低下し土地の謂れを知らない人たちが殆どとなり、次第にこの伝説が消えつつあるとのことが気に成ります。
この鈴木氏と亀井氏のレポートをする事で、出来るだけ多くの各地の鈴木氏や歴史ファンの記憶に留めて欲しいと思います。
敢えて、現在の青木氏のブログでは「鈴木氏のルーツと青木氏」のレポートが青木氏以外の多くの人たちに読まれていることを考えて、青木氏ブログサイトから「鈴木氏の環境」のレポートをした次第です。
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- 鈴木氏発祥地とその環境 1 (2007/04/06)
- 鈴木氏のルーツと青木氏 (2007/02/04)


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