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大化改新 新説 NHKスペシャルまとめ7-4

NHKの新説大化改新の番組の中で、10項目の新説を唱え、その第7番目の説で”大化の改新は「失政、失敗」”との説を唱えました。
その説が余りにも根拠に基づかない新説であるので、「18改革」の夫々について徹底的に検証して「失政、失敗」の是否を論理的に反論している。


中大兄皇子の大化改新の概要は次の通りである。

「4つの行政方針」を発表した。
「18改革」と「10活動」を実行した。
「13種税」と「3管理システム」を断行した。

(改革1から6は検証済みで、今回は改革10番目より18まで付いて検証する 大化改新7-4)

では、次は続きとして、先ずは中大兄皇子が実行した「第10番目の改革」に付いての検証を進める。

「第10番目の改革」

10 「防人」(さきもり)を定めた。

職業軍人とは別に現代にもある民の「徴兵制度」を敷いたのである。

九州北部の西海の防備を司る兵制度である。
阿多倍の子孫大蔵氏が司る「太宰大監」(遠の朝廷)に支援し、唐の来襲の警戒に当った。
坂上氏や阿倍氏が率いる朝廷の軍隊と青木氏が率いる親衛隊とは別に、一般の民の者で「対外国防軍隊」を編成したのである。(蘇我氏が訴える対外防備とのレベルが違う。)

一部の豪族が国を守るのではなく、国民全てが国を守るという理念に立って編成されたものである。
これは「4つの行政方針」の一つ「公地公民」の理念から発想されたものである。

一部豪族の集合体で急遽編成する寄せ集めの国防意思の統一が成されない国防軍ではなく、それを専門とする軍隊である。これにより、その「目的と指揮命令系統の統一」が成されて本格的な国軍と見なされる。

鎌倉時代以降はこの国軍もなく蒙古襲来のときなどは、博多、門司付近の豪族の集合体がこれを護った程度で、幸いに台風で蒙古は全滅を余儀なくされた事となり、戦いは小さいもので終わったが、もし、「日本列島戦艦」を抜かれて、補給路がつながれ、全面的に攻め込まれていた場合は、国は護れなかった事であろうことは明らかである。

そのことを考えると、その「国軍」に対する配慮思慮は実に適切であった筈である。

明治初期に英国の援助で国軍が編成されて訓練されて、「南下政策」のロシアに対して、傑出の2兄弟秋山参謀がいて陸海のその巧みな用意周到の頭脳的戦略で、(100%勝てないといわれた)国軍を鍛えたことから日露戦争は幸いにも勝利したのである。(詳細は前レポート記述)

因みに、比較する為に現代はどうであろうか。現代に於いてでさえ未だ自衛隊の「隊」であり、第2次大戦の後遺症が残って50年経っても「完全確立」していない。
しかし、その「近代的戦備力」とそれを補う「工業力」では、「陸海空」では段突の世界第2位なのであるから、後は
「4情報衛星網」と「6隻のイージス艦」(米国24隻、スペイン1隻)と「ジェット戦闘機F105」の世界最高性能エンジンは三菱日本製であり、戦艦は明治以降のトップ造船性能のものである。
後は、「国防と言う意識の確立」だけにある。それは「自衛隊」では無い。意識の反映は名実共に「自衛軍」である。

この時代に、それまで無かった「国防」という意識を「防人」と言う「徴兵制」の専門の「国軍」という意識に変換させて民を納得させたのである。
それは真に、皮肉にも「蘇我さまさま」なのである。
何故か、中大兄皇子の「白村江の戦い」は、唐に対しての一つの「先制攻撃」であり、その「目的」は勝利ではなく攻撃そのものが目的とし、達成されていたことでよかったと以前のレポートで書いた。

蘇我氏が「唐」と騒げば騒ぐほどに中大兄皇子には都合はよいのである。
それは、「白村江の戦い」への「先制攻撃戦」の「民の賛同」は得られ、国民の「国防民意」は出来上がり、究極「公地公民」の「豪族達の反動」を潰す事が出来るという目算があつたのである。

だから、むしろ、どちらかというと「華々しく負ける」ことに意味があった。
勝てば、気が緩み油断が出来て民意はまとまらない。
しかし、負ければ、”これではいかん。何とかしなければ”となり、一致団結して、「国防」と言う意識が生まれて、「防人」の「徴兵制度」がやり安くなり、次に述べる「国防施設等の建設」に民意を得て、政治を改革の方向に誘導し振り向けられるのである。

だから、次の関連の改革が引き続いて出来たのである。
これは、この成功のポイントは「白村江の戦い」に始まり「負けて勝つ」の戦略にあったのである。

この様なことを「無から有」のシステムを生じさせた宰相はそうざらに無い。数えても浮かばない程である。
それが一つではなく、前記、上記から述べてきた「無から有」の「9改革」も実行したとなると、中大兄皇子以外にない。
「失政、失敗」どころの話ではない。政治的には右翼ではないが、実のところ書いていると余りにもNHKの「無根拠」に憤りを覚える。

では、上記の戦略からその国防策のもう一つの内容(改革11)を見てみるとする。

「第11番目の改革」

11 「水城、山城、大野城、さい城、高安城」等の防備要塞を築いて防衛拠点を作った。

唐の来襲を警戒して全国各地と都の周辺に防壁と城を築いた。

「負けて勝つ」の戦略の後に、民の心理作用が覚めないうちに、唐が攻めてくるルーツ上を想定して、そこに防備を効果的に整えたのである。上記した真に日露戦争と類似するのである。
大国唐に立ち向かう中大兄皇子という頭脳(日露では秋山兄弟)と、これから下記する戦略(海はT字作戦と近代砲の開発:陸は騎馬軍団の逆ハ作戦と大砲機関銃)とが一致するのである。

この防塞処置を築くにはその戦略の分析が必要である。先ずその分析に取り掛かったのである。

そのルーツとは、先ずは唐は陸を利用して朝鮮半島から海峡を隔てて門司又は博多付近に襲来する。
当然に戦隊は戦艦でも襲来する。陸は少なくとも補給を前提としてのルーツを使う筈である。
唐から来るには距離的に戦艦ではあり過ぎる。
このためには補給路を開く必要がある。それが朝鮮半島の先端である。
そうなると、この地点から戦艦が日本に向けて移動し始める。
都は奈良となると門司か博多を先ず制圧する必要があり、ここを通過して四国九州の間の沖を通過するには距離的に問題である。
だとすると、瀬戸内海を通過する以外に無い。左右の四国と中国地方の陸を控えて間を通過するには「挟撃」という戦略的に「最も弱い戦術」を覚悟しなければならない。
まして、周囲に島が多いと成ると「ゲリラ戦」を覚悟しなければならない。小回り利かない大きい船隊には弱点である。
更にここは、「潮の流れ」が強いし゜操船術も土地の海に「慣れた優れた者」がいるが全く居ない。
ここで手間取れば、食料や水の補給に欠く事になる。船隊が大きい故の欠点ともい言える。
しかし、ここを抜かれた場合は次は港である。大船隊が泊まれる港という事になる。摂津か堺港であろう。
ここに処点を築き、先ず周囲を征圧する事になる。
征圧する事で水と食料を調達する。
その上で奈良の都に登る事になろう。
直線的に激戦を覚悟で奈良に入るか、紀州から入り各個攻撃で食料と水を確保しながら、南から侵入する背後を突くルーツを使うかに決断を迫られる。
前者は開けたところと狭いところがある。つまり「挟撃と背後襲撃」を受ける可能性が高い。
ダメージが大きいが勝てば短期間で済む利点がある。失敗は全滅である。
紀州周りは船隊の背後を残る無傷の四国中国の軍に突かれる危険がある。

日本側の戦略は、この様に想定した「水理と地理」の必要とするところに兵を貯めて攻撃諸点と築き、見張台を作り、烽火による情報砦を置く。
水軍と地上軍を配備して「ゲリラ戦」を展開する事で防げる可能性はあり地理的、水理的に有利な事が多い。
主な戦術は、「水と食料」を消耗させる事で完全に勝てる。
それには被害の少ない「持久戦」に持ち込む事が必要である。
こちらは水と食料は問題ない。こちらの被害が少なくて相手の弱いところを突けば良いのであるから、当然に夜昼を問わず人馬の豊富なところを利用する「不断ゲリラ戦法」である。
「白村江の戦い」での「先制攻撃」で日本人の強さを知っている。
相手を眠らさないで、精神を弱らせて叩く戦術で、この「先制攻撃の印象」は生きて、相手に「厭戦気分」が芽生えてくれば、迎えれば勝てる。

ただ、欠点がある。持久戦の「兵の戦意」である。
国や家族を護ろうとする「熱意」である。
日本人には”パッと燃えてパッと咲く”という「根強い美的心理反応」がある。「融合単一民族」の欠点でもある。

だから、中大兄皇子は改革10で行った「遠慮深謀の戦略」があったのである。
彼の改革の内容を今まで検証してきてその能力はずば抜けている事を証明してきた。
凡人奇人では成し得ない能力をこの2年という短期間で「7つの改革」を政治的矛盾もなしに指揮して成し遂げているのである。
充分にその「遠慮深謀の戦略」の思考準備は、彼なら出来ると考えると頷けるはずである。

この3つの要素、即ち、「白村江の戦い」の「先制攻撃」と、「侵略経路」上に「防備要塞」を構築し、戦術はルート上での「ゲリラ攻撃の持久戦」の3段構えで待機すれば勝てると見ていたのである。

その根拠に、[過去の経験]から得られた重要な知識が実はあるのである。

日本の初代天皇とされている応仁(応神)大王(天皇)出来事である。(前レポートに記述)
4世紀後半に、朝鮮半島より、不意を突いて、この応仁王が率いる軍隊を含む大船団を組んだ戦隊が、瀬戸内から大阪湾の堺港に入った。
上陸戦は当初、直接飛鳥に入る作戦であったが、周囲の平群族、葛城族、巨勢族らの持久戦のゲリラ戦と挟撃戦に阻まれて食料も絶えつつ矢張り失敗したのである。
そこで、各個攻撃に出た。南端の紀伊半島の豪族「紀族」である。紀族は負けた。そして、ここから水と食料を確保して、案内人を作り、南紀から奈良に入る戦法を採った。

当時、未だ奈良盆地は中央に琵琶湖に匹敵する湖がありその周辺に民は生活圏を作っていたのである。
(後に湖は地盤沈下で無くなる)
そこを南から進入して各個攻撃で襲撃した。この場合は奈良盆地は地理的地形が最の弱点である。
周囲から潰されてきた。慌てた4族の連合軍が奈良飛鳥に集中し、湖を挟んで持久戦に持ち込んだ。
こうなると、応仁王の戦隊は「水と食料と疲労の厭戦気分」の問題が起こる。弱点が生まれた。
港にある船隊との連絡が取れなくなる。紀族が息を吹き返し背後を突かれる可能性もある。勝利に近いが急がなくては全滅の危険もある。
止む無く、停戦し、和合策に出た。
話し合いが始まった。結局、4族と応仁王族の帰化で決着し、その5族による「連合政府」を作り上げて、その「連合王」を「大王」として呼び、初代の大王にこの「応仁大王」が着いたのである。
後に、この5族との血縁関係を結び融合政策が成功した。そして、ここより応仁大王系の百済を始めとする朝鮮系の物部氏や蘇我氏の豪族が生まれたのである。続いて女性の仁徳天皇が誕生する事となったのである。

この歴史を中大兄皇子は150年程度後であるが学んで知っている。
この知識から「不意」を突かれ無くして「防備」をすれば、侵略は難しいことであると考えているのである。

しかし、現実は危険はあるが、前レポートでも書いたが、先ず来る事は無いと見ていたはずである。
これ程のリスクを覆う「侵略攻撃」は避けると見ていたと見る。

その証拠に、同時期に直ぐに遣唐使を合わせて中国に派遣している事が何よりの証拠である。

来ると見ていたなら、敵に派遣する事態が無駄である。
派遣した事は、来ないと見て遣唐使を出したのである。
つまり、「硬軟両面からの政策」である事が判り、これまた「改革実行」の上で都合がよいのである。
民には”来るぞ”と心理を働かせて緊張感を持たせて置き、前代未聞の「18改革」に移ることこそ、その目的に沿っているのであるから。そうでなくては18もの改革が成し得ない筈である。

現代まで、「無から有」の「政治的改革」で「18改革」も実行した宰相は居たか。否全く居ない。

このことから見ても「失政、失敗」の糸口すら見出せない。”よくもまあ”と感嘆そのものである。

次はその背景下での国造りの本題である。

国の中が、やるべき事はやって準備整えて掛からないとこの法令は法令で終わる。そうでなければ民は安心して法令を護れないであろう。法令というシステムにまったく未知の政治に慣れていない民にとっては”それどころの話か”となるは必定である。

「第12番目の改革」

12 「近江令」を定め律令政治の完成を目指して律令を発した。

668年に中臣鎌足等が作ったとされる22巻から成る法令集であるが、体系的な法典マニュアルとして作ったものとされている。つまり、いきなり法を作っても慣れていない官僚の執政施行は難しい。
そこで、急劇に増えた官僚の種類と数のためにその行動マニュアル的な心得を書き印したものであった。

律令の解説書である。
前レポートでも書いたが、律は刑法、令は民法、他に格は政令、式は律と格の細則規定で条例である。
これ等の施行細則で、施行する時の要領書である。
施行が疑問視されているが、要領書であるので施工は無い。

つまり、豪族の主観を主体として刑罰を科していたが、これを無くして律令政治に慣れていない社会にいきなり施行するのではなく緩衝的に導入しょうとしていたのである。
当然、施行する者、裁く者、裁かれる者、刑を実行する者など全てこれに関わる者は経験がないのである。
必然的に混乱は起こる。これを沈めるためのマニアル的な要領書である。
これも、用意周到で失敗のリスクを将来に於いて大きいことを計算の上で、この書を定めたのである。

特に天武天皇はこの辺の完成を目指した事が判っている。つまり、矢張り当然に問題が多くあったのであろう。

遂には、近江令から文武天皇に引き継がれて33年後の701年には修正して、本格的な「大宝律令」が完成して、30年で民は慣れたことを物語る。
これで民主政治の基幹が根付いたのである。
そして、120年後の桓武天皇の時に「皇親政治」による本格的な「中央集権的民主政治」が完成したのである。
6代の天皇に引き継がれて完成したのである。
(この間に5家5流の青木氏は最大の勢力を誇ったのであるが、これが災いして桓武天皇期には圧迫されて衰退した。)

以上のような目的をもって、この後に引き継がせるこの書の配慮も見事である。
「失政、失敗」を何とか無くす配慮であるからNHKの指摘は当らない。

軍事、経済、政治の3権を改革して行くのであるから、太政大臣だけでは繁忙すぎてそれこそ失敗を起こす。
それを、天皇の補佐役の「内臣」とあわせて、実務の大臣には次の補佐役が設けられたのである。
これが、次の改革である。

「第13番目の改革」

13 「御史太夫」を定めて「太政大臣」などの補佐として特別に補佐役を設けた。

「改新」の大きさと繁忙さから補佐役を特別にこの天智期に特別に作ったものである。
天皇の「2つの補佐役」や「重臣の補佐役」を設けるなど如何に大改革であったかを物語るし、その思考が柔軟である事が覗える。

これは直接の改革ではないが、「行政形態」としては大きな意味を持っている。
これだけの短期間で、且つ未経験の改革施行をするのであるから指揮指導は一人に限定する事は無理である。
別の意味でこの改革の位置付けが「戦略上極めて重要」な意味を持っている事に気付くのである。

つまり、初めての改革であり、失敗は次に行う改革の推進に大きな影響を持つ。民は懐疑的になり賛同を得られ無い事が起こり、むしろ過去の豪族支配の原始的政治形態の方に向かう事が、民に心理的に起こる。
これは場合に依っては、未来の日本の「政治形態の良悪」に関わる問題でもある。

その意味で、この「補佐役」は「忙しいから設ける」という問題だけではない重要な「政治形態」の「補佐役改革」である。
ここにも、「失政、失敗」の歯止め策が働いているのである。
確かに、「失政、失敗」の懸念があって、ただ改革を強引に導入すると言う手法では無かったのである。

この意味でNHKの新説「失政、失敗」の説は当らないのである。


次の改革は大化改新7-3で説明した「7色の姓制度」を、更に追加して進化した社会情勢に即応したのである。
天武天皇が即応してこれを定めたことは、天智天皇の「7色の姓」は成功して地に着いていたことを物語る。

「第14番目の改革」

14 「八色の姓制度」を定めて身分を8つに分けて氏姓制度の充実を図った。

皇族とその重臣の身分を定めた。真人、朝臣、宿禰、忌寸、道師、臣、連、稲置である。
そして、その身分にあった「行動と責任の所在」を明確にしたのである。
「社会の構造」を7つから8つに分けた「役割分担」でもある。

例えば、賜姓青木氏や賜姓源氏は「天皇」や「天領地」や「国体」を「保全する主要幹線国」を護る「親衛隊」の「護衛役」である。(伊勢、近江、信濃、美濃、甲斐の国等)他には、藤原秀郷一門の役割は「朝臣、宿禰」などの身分で24国地方に対する国司役や守護役を担ったのである。
(「青木氏の官位官職と職位の研究」を参照)

この様に「姓」(かばね)の身分のみを定めている事のみならず、その「姓の役目」を定めているものでもある。
この様にして社会の必要なところの「役目」を果たさせる事で「国の安定」と「民の安寧」を保とうとする政治形態なのである。
5家5流の賜姓青木氏と嵯峨天皇から始まった11家11流の賜姓源氏は、各代の天皇の第6位皇子であるので、この「朝臣」(あそん)に当るが、その中でも青木氏は上位である。

この身分制度は、後には社会の変化に対応して更に細分化されるのである。

この政治形態は江戸幕府まで続いたのである。「失政、失敗」でなかったから1000年も続いたのである。


「第15番目の改革」

15 「皇位継承制度の変更」

皇位継承は大変な財政的負担と成っていた。
(天智天武の子供は34人もいたし、他の皇子も合わせると50人程度にもなる)

天皇家の財政を担う「内蔵」では破綻寸前であつた。(行政単位は斎蔵、大蔵、内蔵の3つに分類されていた)
このため、この原因と成っていた「皇位継承制度」の変更を「経費節減」(天皇の護衛役含む)のために「財政改革」を断行し実行した。

多分、皇族関係者からの第6位皇子以下は、平民化するのであるから反発は大変なものであった筈である。
この「改革」で、第6位皇子から臣下して賜姓を受けて、初代の青木氏(伊勢青木氏 天皇家の守護神の伊勢神宮の守護)が発祥したのである。(伊勢青木氏は左右兵衛府の官位と民部尉官位)

これ等が、「第14改革」の「朝臣」に相当し、その役目を担ったのである。

其れまでは、第4世皇位継承、第7世下族の「世」方式で、第5世はこのどちらにも属するとし、第7世は代替わりにて「ひら族」とし、賜姓して「平氏族」を形成し、坂東の守護として配置した。
これが、「坂東八平氏」族である。
これと比較して阿多倍末裔の渡来人系の「京平氏」の「桓武平氏」(たいら族)とは混同されている。

「第4世」方式から、第2世第4位皇子皇位継承として第6位皇子を臣下させ、賜姓(青木氏)して、親衛隊とした。
この賜姓青木氏であり、伊勢の青木氏(始祖 施基皇子)としたのである。
即ち、「第6位」方式である。
第6位以降は下族(比叡山僧侶、門跡寺院僧、守護神の神社の斎王)した。
この方式は、嵯峨天皇期に一部変更修正されて実質上は花山天皇まで続いた。
(第2世から第4世第6位皇子に変更 青木氏は皇族系の宿禰族まで名乗れる氏とした 実質は室町中期まで護られた)
(青木と源氏の賜姓族は16代 人数17皇子18皇女)

初代の賜姓伊勢青木氏にはそのステイタスとして、「鞍作止利」作の「大日如来坐像」(伊勢青木氏の宗家保有)の仏像与える事とした。そして、王位は4世までとした。(これまでは6世まで王位であった。)

この様に財政的に負担を少なくすると共に、身内を下族させて侍として周囲に配置して、目配りして天皇を護る体制を作ったのである。
これで改革に対する周囲の民や豪族の反動を押さえる仕組みを作って推進していった。
都の付近(伊勢、近江、信濃、美濃、甲斐等)にはより親族(第6位皇子)を王位として、代々天皇の代替わりに発生する7世以降の親族には遠方の坂東地方に配置して国内を固めたのである。
西域は、この改革の中心種族の渡来系の大隈の首魁の阿多倍が率いる200万の集団に任せた。
この西域は32/66国に相当するのである。
九州はこの一族に「錦の御旗」を与え、「太宰大監」として官位を与え、「遠の朝廷」と名付けて3権を任したのである。(後には天皇家と血縁し賜姓を受けた)

改革は「行政」だけでは無く、「治安」という点でも改革したのである。

これで地方の豪族は手が出せない。この環境の中で「18改革」と「10活動」を安心して遂行したのである。

これがNHKの言う「失政、失敗」なのか。それが何処に存在するのかよく判らない。あるとすれば体制そのもの否定する左傾の社会システム以外に無い気がする。

「第16番目の改革」

第15番目の改革に伴って34人もの皇子や皇女がいる。
第6位皇子を含む彼等の処遇をどうするかで不必要な反発が生まれ、それに乗じて改革で利権を奪われた不満を持つ豪族達が騒ぐ可能性は充分にある。
阿多倍らの最大武力を保持している大集団を味方に引き入れての改革なので、豪族達は手が出せないで居るが、間違えれば皇子を味方に引き入れての内乱となり得る。
蘇我石川麻呂が大化より3年後に謀反で自決しているが、この改革は2年後であるとすると、この蘇我石川麻呂の謀反は明らかに成っていないが、上記の内乱の嫌疑を掛けられたのではないかと推測する。

その内乱とは次の事ではないか。
蘇我石川麻呂は3人の娘を中大兄皇子に妃として差し出している。そして、一人の皇子と5人の皇女を産んでいる。
この皇子は建皇子である。8歳で死んだ。(大化改新6で記述)この時点では5-6歳程度である。
この建皇子は祖母の斉明天皇に一番孫として特別に大変に可愛がられており、死んだ時には斉明天皇はうつ病に成った事が日本書紀に詳しく書かれている。蘇我石川麻呂にとっても孫の一番皇子である。
この皇子を担ぎ上げて”内乱を企てた”と嫌疑を掛けられたのではないかと推測している。

そのためには、皇子たちの上位に立ち行動力と指揮力のある有能な二人(施基皇子と川島皇子)に委ねて残りの6人の皇子を掌握させる必要がある。この6人の皇子を取り込んでおけば、豪族達は皇子を旗頭に祭り上げる事が出来ない。
その二人(第6位と第7位)に「権力と武力」を与えて天皇を護ると同時に、皇子達も見張らさせたのである。
それが、次の改革である。

16 「親衛隊の創設」
蘇我氏に牛耳られていた反省から、天皇自ら護る軍隊を創設した。
上記のこれが第6位皇子の青木氏である。
この青木氏は伊勢神宮のある伊勢国の王として守護とした。
伊勢を「不入不倫」の天領地とした。
(後に、天武天皇が伊勢神宮を護り本尊として正式に詔を出して定めた)

この第6位皇子には伊勢王(青木氏)として、天皇家の守護神を伊勢神宮と定めて、この地を任せてこれを護らせた。
第7位の皇子には近江王(佐々木氏)として、近江宮の近江神宮を守護させたのである。
(後には、賜姓源氏の清和源氏の守護神となった。)
大化期の宮廷と守護神があり、交通の要でもあり、天領地のある大事な2つの戦略上の政治ポイントを抑えさせたのである。
ここから6皇子達の動きを見張ったのである。

この二人の事は日本書紀に10-13回も出て来る。
この内容を見てみると、天智天皇や天武天皇は、皇太子を含む第5位皇子までの皇子よりも、この二人に対して実に信用し信頼して度々呼び出して役務を命じている(10活動)。本来は皇太子の役務であるのに。

その内容を分析すると上記の様な全体の思惑が理解できるのである。
舎人親王はこの様な思惑を忍ばせたかったのではないかと私は見ている。

この後、上記15番の改革と共に、天武、聖武、文武、光仁天皇までこの制度は維持された。
伊勢、近江、美濃、信濃、甲斐の国の戦略上の主要地の守護としたのである。
この開拓には阿多倍の支配下の漢民の技能集団(馬部、山部、磯部、鞍部等)を遷して大きい外来馬を飼育し開墾した。(日本書紀に記述)

5代も続いたこの制度が何故に「失政、失敗」なのか。
100年以上も維持しているのである事を考えも「失政、失敗」ではない。
NHKに教えて欲しいと言いたい。


「第17番目の改革」

17 「飛鳥浄御原令」(689)を定めて律令制度を2度にて進めた。(天武期)

701年完成の「大宝律令」の基となった。
天智天皇が没して後に、弟の天武天皇は都を元の飛鳥の浄御原に戻して政治を執り行った。
この説には他説があり、元の位置より違う所に立てたと言う説と、同じ位置に立てたという説の二つがあり現代でも確認出来ていない。天智天皇から4度目に遷宮している事になるが、これは政治上と地形上の考えがあり遷宮した。
しかし、ほぼ政情と律令国家の骨格が出来上がりつつある事から、天武天皇はこの出発点を歴史上の位置に戻して、ここでこの骨格完成の「飛鳥浄御原令」を発布したいと考えての事であろうと推測する。

その後、この「令」は嵯峨天皇から5代に渡り「見直しの改革」が行われて「皇親政治」の全盛期を迎えるのである。
そして、そして、その経緯は(中国の律令制度も参考に)「大宝律令」(701)の基となったのである。そして、「養老律令」(757)と続くが、この律令は一部修正された程度である。

更に「時代の変化」と共に、「修正追加」を加えて光仁天皇の子供の桓武天皇が「完全な律令制度」(794)を完成させた。つまり、律令制度の完成は初代の聖徳太子から7代の天皇がその方針を貫き引き継ぎ完成させたのである。(170年)

その後、「嵯峨天皇」から5代に渡り見直しの改革が行われて「皇親政治」の全盛期の基礎を敷いた。
(桓武天皇の母はこの阿多倍の孫に当り、「高野新笠」と言う。光仁天皇の妃である。光仁天皇は第6位皇子の施基皇子の子供である。施基皇子は伊勢青木氏の始祖 この桓武天皇の圧力で伊勢青木氏は衰退する)

この改革もNHKの新説「失政、失敗」の言い分は170間の時代の変化と共に修正追加を加えて更には中国の進んだ律令をも参考にして完成させたもので、何処に「失政、失敗」があると言うのであろうか。この長い期間に多くの人間の知恵が関わり、民と社会の変化に対応して仕上げたものを「失政、失敗」とするは不尊極まり無しである。
中国の律令も参考にし、且つ、阿多倍の子孫等の中国漢民が編成の実務に関わりて完成したのであるから、中国の律令も「失政、失敗」と成るではないか。


「第18番目の改革」

18  「行政単位の設定」

地方の行政の単位を「評」(こおり)と決めて、そこに国司を置き「改革」の浸透の徹底を図った。
「東国国司」の「10活動」の「改革の専門官僚」とは別に、通常の「一般行政の役所」の「単位区域」を定めたのであ る。
日本の「地方行政区域」は、「七道」制として、東海、東山、北陸、山陰、山陽、南海、西海に分けた。
特に、畿内に対しては、「特別行政区域」として設定し、大和、摂津、河内、山城、(後に和泉)の4区域(5区域)に分けた。「5畿」と呼ばれた。

「国」と」「評(郡)」と「里」の単位であった。
「評(郡)」には「評(郡)司」(こおりつかさ)を置き、「里」には「里長」(さとおさ)を置いた。

これ等は「行政と司法」を担当したのである。
1里は50戸で、2-20里で評(郡)、4-5評(郡)で国を構成するとした。

「国」は大、上、中、下の「4区」に分け「国司」とし「中央官僚」が担当し「国府」を置いた。
「評(郡)」は小を加えた「5区」にして「地方豪族」を「評(郡)司」として「評(郡)家」を置いて任せた。
(地方豪族の権利を奪われた不満はこれで納まる)
「国司」は「守、介、えん、目」の四等官で構成し、任期は4年である。
「評(郡)司」は「大領、少領、主政、主帳」に分けられて四等官で構成し、任期は終身である。
「里長」は地方の「小豪族」で、郡司の監督支配下に於いて郡司の仕事を手伝った。
(これ等の国司、評(郡)司、里長は上記の律令格式で役務を裁いた。)

このことに付いて、「郡評論争」が1950年代に起こった。
この大化改新の時代には「評」は無かったという説である。「郡」はこれより50年程度後に定められた制度であるという説である。
つまり、国はあるが郡は無い。無い所に改革はできない。大化改新は故に「絵に書いた餅」の説である。”その施行する組織体制が確立無くして律令の原案を作っても効果は生ない”と言う説である。
この時代は果たして「郡」であったのか、「評」があったのかである。

結局、木簡が大量に発見されて解明の結果、大宝律令(701)までは「評」であった事が確定した。
この事は、大化改新の「18改革」「10活動」は順次「追加修正」が行われていたことを意味する。更に、改革が続けられていたのであるから「失政、失敗」で無かったことを意味する事になる。

つまり、歴史を否定するグループが唱えた戦術であったが、解明されたのである。
「アイヌ民族原住民説」と同じ歴史否定のグループであつた。これも遺伝子学的に否定された。

改新前は、各国の守護王とその代理の官僚国司との「独断と偏見」で「行政と司法」を行っていたのである。
蘇我氏の下では、この体制「独断と偏見の政治」を維持していた筈である。

この手法の違いが入鹿暗殺という結果として出た。
「蘇我氏」と「中大兄皇子」との「軋轢」の真実の原因は、この「政治手法の違い」でも起こったのである。

これをみても実に緻密である。現代と変わらない。
現代も「道州制」が叫ばれている中で、これでは既に三位一体どころかまだ出来ていない道州制も既に1640年前に実行されていた。
「行政域の分離」も市町村合併が進んでいる現在より昔の方が進んでいる気がする。
ただ違いは、担当官が選挙で選ばれているか否かの違いだけである。
現在の完全民主主義と昔の中央集権の民主主義との違いである。
昔に、この完全民主主義を敷いたらそれこそNHK新説の100%「失敗、失政」であろう。

これをもって「18改革」が断行されたのであるから、地方の末端まで浸透する筈である。

要は、この「行政域の分離単位」が「明確に細分割」されているかどうかの是非が、この改革の成功を占う最大要素であった。
もし、NHKが新説として唱える「失政、失敗」はこの一点に絞られて、もしこのシステムが出来ていなければ、「18改革」は「絵に描いた餅」となるであろうし、「失政、失敗」の指摘は妥当であろう。しかし、違ったのである。

現代にも勝るとも劣らず完全に近いし、今以上に細分化されている。
ここまで計算されて尽くされている事が「18改革」の内容の優秀さも、兎も角に、その条件は整っている。
何はともあれ、現代以上にその「指揮官と官僚」の「緻密さと実行力」が優れていた気もする。

故に、これをみる事でNHKに自信を持って指摘できるのである。

「第19番目の改革」(補足)

19  「伊勢神宮の守護神」の制定

それまでは聖徳太子時代には、特に固定されていなかった。というよりは、「民の精神」の置き所に対する認識が政治に無かった事による。ただ、仏教だけを導入する事で民を救おうとした事は事実であるし、仏閣を建ててこれに民の祈りを集めたが、朝廷が先導して民を導くシステムを引く程では無かった。
物部氏と蘇我氏との争いはこの神道と仏教の2者択一の選択でもあった。

天智天皇は「民」を治めるには、仏教はもとより「民の精神」即ち「民の心」の「よりどころ」(安寧)に注目したのである。
これは「仏教や神道の普及」による影響である。

天智天皇は「治世」は「衆上」と定めたのである。
「律令格式」の「行政」の上にあるものは、如何としてそれをこの「衆上」と置いたのである。
では、その「衆上」は何によって導けばよいかと問うた。
それは、「神」の導きにあるとした。その為には統一した守護神を定める必要があり、その守護神を奉る適切な人を導かねば成らない。
この二つの課題を解決する必要がある。

守護神としての要件は、”国の中央に位置し、国の主要地であり、豊かさを刻する土地でなくては成らない。
そして、そこを天領地として定め、適切な者に護らせねば成らない。
そこを永代的に侵することを禁ずる事で、その民の神聖な「心のよりどころ」とする事が出来る”とした。

その要件に合わすには、「伊勢の国」であり、それを祭祀する者を「皇族の皇女」として、不浄なき「斎王」と崇め、永代に奉らせて、護る者は「第6位皇子」として「賜姓」(伊勢青木氏)し、臣下させて「侍」とし、そこに、詔で「不入不倫の権」を与える事で可能となる。それを実行した。

「中央集権国家」の「民主主義体制」を「律令政治」で確立した。
その上に「民の心」の「よりどころ」として「伊勢神宮」を守護神とした。
「天皇家」がこれを「祭祀」し守護した。
「政事」を執り行う体制を「優秀な指揮官」と「有能な阿多倍らの進んだ知識の官僚」に委ねた。
この様に、この短い期間に「国家体制の根幹」(18改革と10活動)という形で造り上げたのである。

今まで述べて検証してきた「18改革」と「10活動」に対して論理的で、適時適切で、適材適所で、矛盾点当を見つけ出す事が出来ない程である。

以上を通して、NHKの新説「失政、失敗」の論所を到底見つける事が出来なかったのである。

もし、無理にでもこの「18改革」と「10活動」を「失政、失敗」とせよとの意見があるとするならば、ただ一つある。
それは、「歴史否定」を前提とする「結果平等」の「社会主義」思想であろう。所謂、左傾思想に他ならない。


「視聴料不払い」や「命令放送拒否」や「視聴料20%値下げ」や「不祥事の未改善」などで、現在でも国会で問題視されている現状下で、何故、公共放送のNHKが明らかにこれだけの無理を承知で新説論を放送したかの「背景」が気になる。
「世の中弱身に虫」の例え通りであって欲しくないのである。是非に「悪のスパイラル」から這い出してもらいたい。

次の大化改新の検証テーマは第8番目の新説に対する反論である。
「日本の文化は朝鮮文化」である。
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青木氏の官位と職位の研究

青木氏の官位と職位

645年の大化の改新で発祥し5代続いた皇族賜姓青木氏(647)5家5流24氏と、藤原秀郷流青木氏(940)直系1氏、直流4氏、支流4氏、116氏と、及び第3の青木氏(室町末期、江戸初期、明治初期の3期)の全ての青木氏が、各種の朝廷官位と江戸幕府の職位に着いた内容は次ぎのとおりである。

記載条件

これ等は史実として書籍に記載されているものである。
その期間は大化期から江戸期までのもである。
江戸中期頃に朝廷に申請して取得した官職で、主として個人として青木氏24氏と116氏に与えられた氏一代限りの期間の名誉官位と守護職は含まない。


青木氏の守護の職(守)(大化から江戸期まで)

摂津守、伊豆守、豊前守、甲斐守、尾張守、伊勢守、信濃守、近江守、美濃守、下野守、武蔵守、遠江守、駿河守、出羽守、美作守、和泉守、志摩守、紀伊守、伊賀守、出雲守、三河守 筑後守  

以上20の守護職である。

注釈
以上の守護職の官位は代々の世襲期間の官職である。
これ等は赴任先の期間限定を含み、統治支配及び自領地と守護の職は一致する。


青木氏の朝廷からの官位官職(大化から江戸期まで)

掃部介、玄蕃允、民部尉、別当蔵人、刑部卿、民部少輔、左衛門尉、右衛門尉(清、小)、八百之丞、従五位下、式部少輔、治部少尉、所衛門尉、左衛門佐、三位、従三位、従三位下、左兵衛府、右兵衛府

以上19の官位官職である。

注釈
以上の官位は最高位で天皇に拝謁が出来て会話が出来る賜姓青木氏に与えられた従三位と、藤原系に与えられた従五位下までである。
これ等の皇族賜姓青木氏と藤原秀郷流青木氏の2つの青木氏には、その本来の職務の「天皇護衛」から侍に与えられた官位が殆どである。
伊勢青木氏は左兵衛府、近江青木氏は右衛門尉、信濃美濃青木氏は左右衛門尉
の官位が多い。

青木氏の江戸幕府の職位

玄蕃頭
小普請
勘定組頭
勘定奉行支配
御勘定
御書院蕃
御書院蕃組頭
御納戸方
大蕃
大蕃組頭
小十人頭
御広敷番
小姓組
小姓組頭
御台所入
鷹匠
鷹匠組頭
宝蔵書
主計頭
鉄砲箪筒奉行
御広敷番頭
評定所儒者
御目付け
佐渡奉行支配組頭
御賄頭
御幕奉行
勘定奉行
御裏門頭
定火消
桐間番
奥御祐筆
御小納戸
広沢判官代
足利判官
陸奥判官
矢田判官
西の丸御口

以上37職位である。

注釈
以上が大名を除く江戸幕府の御家人の職位であるが、殆ど世襲職である。途中で家が途絶えたものもある。
俸禄の石高は平均的には100石から500石位の間で250石位である。
1000石高を超えるものは少ない。最高で勘定奉行であろう。
(大名は5人)

総評
青木氏の御家人であるが、皇族賜姓青木氏や藤原秀郷流青木氏らの古い青木氏としては、「下克上や戦国時代」などで狙い撃ちにされて滅亡に近い状態になったが、何とか子孫は生き延びさして遺して、再び、直系は衰退したが、分流一族は本家筋を継ぎ、室町末期からここまでの立場になった。
それこそ戦いに明け暮れた死に物狂いの果ての生残りである。

藤原秀郷流青木氏の一門も鎌倉幕府樹立で各地に定住していた氏は離散した。
しかし、頼朝の本領安堵策の2策で、何とか鎌倉幕府の御家人に成って生き延びたり、元の所領を回復して郷氏や商人となって生き延びられた。
(このために頼朝は北条氏に暗殺された)

この様な状況の中で末裔は上記の官職を獲得しているのである。
そしてお陰で現在の我々はここに生きている。

殆どは、各地の郷氏、郷士になりその職位官職の力と流通筋を活かして、各地の同族が連携してシンジケートを構築して名主や庄屋、地主、大問屋、大廻船業などの流通職に成っているのが多い。
多くの他氏に較べて、上記2氏の青木氏の特長でもある。

江戸時代に大豪商と言われた松阪、松前、堺、摂津、近江、博多商人の殆どは、元は武士で自領を持つ国司や守護職や大郷氏や大郷士(名主や庄屋や地主)である。青木氏はこれに当てはまるもの全てである。

特に、皇族賜姓青木氏は、その自領地の守護地であった関係から、松阪と近江と摂津と堺の豪商に成っている。そして、その氏一族がこぞって本家の商いに取り組んでいる。

藤原秀郷流青木氏は、その赴任地の24の土地の殆どには、必ず廻船問屋や土地の産物を卸す豪商が存在する。

この特徴的な事が「伊勢の賜姓青木氏と紙問屋の紙屋長兵衛」の2つ顔を持って信長と戦い駆け引きした史実(天正伊賀の乱)がある。
これを基にした歴史小説「名張の小太郎」と言ものがある。歌舞伎にもなった事もある。又、NHKの大河ドラマでジェームス三木氏脚本でも3歴史小説にも出て来る。
(詳細はインターネットで検索されたし)

中には、8代将軍吉宗のとき、紀州藩の飛地領の伊勢松阪で、皇族賜姓青木氏が「二足の草鞋」策で営んでいた「紙問屋」の大豪商「紙屋長兵衛」の一族の者が、紀州藩から請われて、江戸に出向き、「勘定奉行」を仰せつかり「享保の改革」を実行した履歴もある。(その後、末裔は江戸に定住した)

江戸幕府の職位では、印象としては、何故か判らないが、勘定方と小姓組とその組頭と大番組とその組頭の職位が多い気がする。
勘定方に付いては上記の2氏の豪商の所以であろう。
幕府からその商才を買われて請われて将軍毎に任官したと見られる。
小姓と番頭は想像であるが、元は天皇の護衛役を担っていた事から代々世間で信用されていた事もありうる。

名誉職に付いては、5家5流の皇族賜姓青木氏の子孫は江戸時代中期ごろから、朝廷に申請して一代限りの官位を受ける事が出来た。
このために主に問題が起こらない様に朝廷の天領地であったところの官位を与えた。
中には、何度もダブって与えていることも見られる。そのことで争いが起こっている。

伊豆守や紀伊守や伊賀守や、伊勢を除く近江守、美濃守、信濃守、甲斐守の4家の元皇族賜姓青木氏の「天領地」であったところの官職を実際は統治していない「名誉職」だけのものとして重複して与えたものが目立つ。
それ程に朝廷は困窮していた事を意味する。
特に、各大名のお抱え医者や学者や社会から尊敬される職業の者に一代限りに与えた。大大名などは挙って家臣の名誉官位を申請したのである。
当然に与える名誉官位は直ぐに無くなり、何度も重複する名誉官位を与えたのである。

青木氏や藤原氏の子孫には「守」などの高位の官位を与えた。
江戸時代には1千石以上の俸禄を得ている青木氏や藤原氏の家柄を持つ御家人や旗本が競って名誉職を獲得した。
当時は、朝廷の生活状況は、江戸幕府から締め付けられて、家の壁を直す事が出来ない程度に著しく困窮していた。
だから、金品の授受で名誉職を与えてこれを補った。
これを全て江戸幕府も黙認した。

以上の様に、青木氏の末裔は死物狂いで子孫を遺す為に頑張った事を、このデータは物語ると考える。
決して、今ある自分はこの歴史の中で生きている事に対して、そして我々子孫は先祖に対して、感謝を忘れてはならない。
そして、次の子孫(子供)をその感謝の表現として大切に遺そうではないか。
このデータはそれを証明するものとしてまとめた事を理解されたし。

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大化改新 新説 NHKスペシャルまとめ7-3

NHKの新説大化改新の番組の中で、10項目の新説の唱え、その第7番目の説で”大化の改新は「失政、失敗」”との説を唱えました。その説が余りにも根拠に基づかない新説であるので、「18改革」の夫々について検証して「失政、失敗」の是否を論理的に反論している。

中大兄皇子の大化改新は「18改革」と「10活動」を実行した。

(改革1から6は検証済みで、今回は改革7番目より9まで付いて検証する)

では、先ず中大兄皇子が実行した「第7番目の改革」に付いての検証を進める。

「第7番目の改革」

7 「冠位の制」を改善した。
天智天皇は生没年は626-671で、在位は668-671年である。つまり、天皇としては在位3年である。その間23年間は中大兄皇子として政務(18改革、10活動)をとったのである。
そして、この改革は第7番目の改革で647年である。
この身分制度を含む「7つの改革」は大化改新劇が始まって、2年間の間にその7つの改革までを実行したのである。

この時期は未だ、藤原入鹿の暗殺からまだ政情が不安定である時期である。

改新劇の時に中臣の鎌足の説得で味方に引き入れた分家の首魁の蘇我石川麻呂はこの時は未だ生きていた。
そして、中大兄皇子は石川麻呂の娘を妥女(女官奴隷)にして子供を産んでいる時期に当る。

そして、孝徳天皇との政治手法の違いで軋轢もあり混乱中の混乱でもある。
普通は、こんなときは改革が出来るものではない。

しかし、上記したように大改革の「7つの改革」が適時適切に実行に移されていたのである。
それも、豪族支配の原始政治の時代から未だ半歩も出ていない時でもある。
現代に於いてでさえ、三相(人、時、場所)を考えたら先ず出来ないだろう。

僅か2年間の間に7つもの改革を成し遂げた背景力を考えると、この「三相」が「適時適切」にの行動が優れていた事を示すのではないか。

先ず、人である。

① 混乱の中、周囲の力のある人を説得し、そして、それを起案する優れた知識をもつ官僚、更には起案を実行する組織の阿倍内麻呂を代表とする阿多倍らの子孫となる渡来系の人々、
② 全体を指揮統括する国博士、天皇の直接手足となり相談役として働く施基皇子(伊勢青木氏)川島皇子らの「10活動」で活躍した身内の軍略師や内臣、
③ 後漢から阿多倍らが引き連れて来た事務を本職とする技能集団の秦氏、司馬氏らの末端の役人、
④ そして、それらを保護するの漢氏、東漢氏、百済氏の阿多倍の渡来系の人々、
これ等の者が一致結束してこそ始めてできるものである。
人の問題だけを捉えてもこれだけの大プロジェクトとである事が判る。

それも「時の問題」としても、

この7改革が2年間の間に猛スピードで処理し実行した事を意味する。
現代でも一つだけでも起案、実行、監査をするに2年も掛かるところを7つもの改革を実行したのである。

そして、その改革を蝦夷地を除く60カ国近い地域に前記した「東国国司」を置いて、この施策を実際に「測量」、「人口調査」や「国堺の確定」等の「10活動」など敷いたのである。

場所としての施政地域は次ぎの範囲である。

この時には未だ、東北、北陸、蝦夷地は未征圧である。危険を覚悟で実行している事になる。
最初にこの地域を制圧したのが15年後の阿多倍の長男の坂上の田村麻呂である。
その地域のまだまだ未開の土地でもあつた。
この未開の地域までの近い所まで「民主政治の原型」の政治体制を敷いたことを意味する。

この事はいかに、大改革で、実に多くの人員を投下して、多分、7つ以上のプロジェクトを組み、実行した事が覗える。

又、「国博士」が飾りではなく本格的の知識が最大限に生かされたことを意味する。
高くて広範で進んだ知識と豊富な経験が無くては出来ない
当然にどれだけ中大兄皇子が熱意を以ってして指揮したかが判るものでもあり、これだけ2年間の間の7つの改革を指揮できる人物はそうざらにはいないであろうと考える。
それを的確に、論理的、合理的、数理的に即決判断出来て指示する人物は秀才を超えている。

その間には、政治不安の対応もあったであろう。
現に、蘇我石川麻呂の謀反の嫌疑や孝徳天皇のと軋轢、その勢力下の子供や親族の抹殺、蘇我氏の血縁を持つ皇子の追い落としなども1年後に起こっているのである。と云う事は、既にこの時にはこの粛清の動きは始まっていたことを示す。
燻りから見ると、その時の状況はその真ん中にあった事を示す。真にすごい勢いで猪突盲信の如くである。

この2年間の政争混乱の末に生まれた直接天皇を護衛し、相談役の日本最初の元祖の皇族賜姓伊勢青木氏(647)らの一族もこれに参加したのである。もし、私なら無理である。
いかに相当で天才的な優秀な天皇であったことを証明している。

この様な背景から生まれた為政者のこの身分制度の持つ意味はどのようなものであったかを考えるに、大変重要な判断材料であり、この視点を欠いて判断すると違う結果が生まれる。

「冠位13階制度」
聖徳太子の冠位12階制度の意思を引き継ぎ、この冠位13と19と26冠位と状況に応じて追加をしているのである。
この状況には対応した夫々の意味を持って居たのである。
この政情不安の中、その反動は主に豪族の反動であり、それらを押さえる一つの手段として改新に力を発揮した豪族には、「名誉」という手段で応じた。
聖徳太子の冠位制度を改善して、この大化改新の豪族間の不安定な状況に対応したのである。
そして、これだけではなく、更にこれに姓制度を加味して安定を図ったのである。それが、次ぎの制度である。

「7色の姓制度」
それだけではなく、この時に「7色の姓制度」を新しく付帯して施行したのである。
この「7色の姓制度」は後に、天武天皇が更に充実させて684年に完成させたものである。
明治までこの冠位身分の制度は用いられた。「失政、失敗」であれば個々まで続く事は無いだろう。

それは、次ぎのとおりである。
真人族(まさと)  最上位で、皇族出身の者である。
          第4世までの皇子らに与えられた冠位の姓である。
          皇位継承権の持つ皇子である。
          後の島左大臣の子孫といわれる丹治氏系青木氏がある。 
朝臣族(あそん)  第2位の姓である。
          皇族出身で臣下した第6位皇子らに与えられた。
          皇族出身の官位の姓である。
          賜姓青木氏や嵯峨天皇期から生まれた賜姓源氏である。
宿禰族(すくね)  第3位の姓である。
          皇族系で天皇家と直接血縁を保持する一族である。
          元の連姓に与えられた冠位の姓である。                 例えば橘宿禰として橘諸兄などがいた。
          皇族系の橘系青木氏がある。
忌寸族(いみき)  第4位の姓である。
          始めは直姓(あたい)の族に与えられた。
          各地に赴任する高級官僚に与えられた。 
          「国造」(くにのみやつこ)
          「伴造」(とものみやつこ)
          以上の官僚の冠位の姓である。
          後には、阿多倍らの渡来系の一族に与えられた。
          坂上、大蔵、内蔵、阿倍氏らである。
道師族(みちのし) 第5位の姓である。
          実際には与えられた氏の姓は少ない。
          天智天皇の子供を生んだ妥女の父親らに与えた。
          「越の道師君伊羅都女」などがある。
          (伊羅都女は施基皇子の母)
          地方豪族が主体で里親などに与えた冠位の姓である。
臣族(おみ)    第6位の姓である。
          小族であるので確認の書籍が見つからない。
連族(むらじ)   第7位の姓である。
          小族であるので確認の書籍が見つからない。

(天武天皇期に追加)
稲置族       「隋書」の倭国伝の中に記されている。
          道師の更に小族で村などの里長である。
          この10人程度の集団で忌寸の配下に成っていた。
          小族であるので確認の書籍が見つからない。        

当時は氏家の制度を主体としている事から、この様な冠位と姓を受けることで、権威が上がり、官職も上昇し、権力も強くなり、俸禄もを増える。このことは氏一族の発展を意味するのである。
少々の不満があろうと、この一種の餌で収まるほどの不満である。確かに下記の「公地公民」があり、「土地と民」を奪われての不満があった。しかし、これを、「冠位と姓」で埋めたのである。

つまり、「土地と民」の不満>=「冠位と姓」の名誉、 「冠位、姓」の制=「公地公民」の制の方程式が成り立つのである。

冠位制度の変更の経緯は次ぎのとおりである。

聖徳太子の冠位12階制度より開始された。
大化改新の2年後(647)に中大兄皇子に依って変更された。それが7色13階制度というものである。
その後、更に2年後(649)に19階の冠位制度とした。
そこから15年後(664)に26階の冠位制度とした。
19年後(685)の天武天皇期には48階の冠位制度した。
後に「7色の姓」から「8色の姓」に変更した

この様に次第に冠位を増やしたのは、矢張り、末端まで行き届く制度に変更して下記の方程式にしたのである。
「土地と民」の不満=「冠位と姓」の名誉

このことは、この制度が政治的「不満」という事に効果があったことを意味する。

では、不満という見地以外に、何故にこの「冠位制度」と「7色の身分と姓制度」を定めたのかと言う疑問が残る。
それを検証して見る。

上記したようにこの「7つの改革」時期は「混乱の時期」である。
その中でこの「混乱」を沈めるには「民衆」が納得する「論理的な区割り」をして、力の有無を原則として問わない新しい身分制度というシステムで政治的に統治しようとしたのである。

つまり、このシステムを方程式にすると次ぎのようになる。
「民衆の納得」=「論理的な区割り」<>力の有無 

「身分」や「冠位」や「姓」や「職業別」や「氏族」等で「括り」を作り、夫々に対して「権限」と次ぎに述べる「食封」などと共に、「公平に論理的分配」をする事で「人心の安定」を保ったのである。

これも方程式にすると次の様になる。
「人心の安定」={「身分」・「冠位」・「姓」・「職業別」・「氏族」}*{「権限」+「食封」}

その為には、「10活動」のような土地を政治的主体としている社会の中で、数理的な計測をする事で論理性を出し、衆知が得られるシステムを構築したのである。

現代でも、国会で問題に成っているこの政治的システムである。この時代にこの新しい計測システムを駆使して正確に区分けしたのであり、それも全国的である。

この計測さえも当時の文明では大変なのに、この2年間程度の中で行ったと言うことは脅威と言う以外にない。
不思議なくらいである。おそらく各地では上よ下へよの大騒ぎであったはずであるし、珍しさと未来に向けた期待もあり各地は祭りの如くであっと思われる。また、これを実行する官僚は今の「奉仕残業」どころの話では無かったと想像する。

蘇我氏らの豪族支配による原始的社会制度から、ある程度の民主的な新しい社会体制に移行して生まれ変わるのだと言う日本全国が熱気を帯びていただろう事が想像出来る。

現在の政治改革は過去の見本や履歴がありその延長上の改革である。しかし、この改革は全く新しい履歴の無いところでの改革で有るのだから、中大兄皇子のその指揮ぶりはどの様なものであったか知りたい気持ちに駆られる。
おそらく、人間離れした「機械的頭脳人間」であったであろう。

この様な雰囲気の中を利用して民衆を掌握して、民衆が納得できる体制を確立したのである。
誰でもが同じと言う古来の原始時代に用いていた「共産主義的な括り」の延長ではなく、「冠位と姓制度」という手段でより進んだ民主主義的要素を持った天皇を頂点とする中央集権的な社会と政治の体制を確立したのである。

今の時代から考えれば、天皇を中心とするという政治体制は異質に感じるが、当時としては当り前の身分と言う括りに納得していたのである。

何故ならば、それは、前記した「民族構成」にある。
「7つの民族」からなる「融合単一民族」へと進んでいる最中なのである。
この「融合」をより進めて、一つにしてこそ政治社会の体制が確立するものであろう。
この「7つの民族」の「習慣や考え方や能力」などは全て違うと言う現象の中で、これを統治する手段はそう多くない筈である。
では、この「7つの民族」のを統治するとしたら、貴方ならどうするかである。

矢張り、私ならば、民衆の「集約的な要素」を分析して、「論理的、合理的、数理的」な「行動」で納得させる。
これを「身分」という「括り」で分類する。
それに、「冠位」と言う「権威」を与える。
「基本的権利」を分別する。
その区分けに相当する「働き」を義務化する。
それに見合う「俸禄(食封)」を与える。
主観的なものを排除した3つの「論理、合理、数理的」な「集約的手段」として納得させる。

そして、このベースとして、「民主的な義務の責任」=「税体制」(後述)の方程式を確立させる。

この「冠位と姓」制度と関連した「税体制」を調べると、実に合理的で細部までに配慮が届いている事が”よくもまぁなるほど”と判るのである。

以上から見て、NHK新設の「失政、失敗」は当らない。
以後、これを見本に、天武、聖武、文武、光仁、桓武、嵯峨の6代の天皇に引き継がれて、「皇親政治」により強固な律令国家は完成したのである。以後も1185年頃までは確実に続けられた。(開始645年)
「失政、失敗」であるのであればこれ程に続く事はありえない。

それこそ、NHK新説そのものがこれ程の客観的史実がありながら「失政」だとする事は、その新説そのものが「失敗」と言いたいところであろう。「新説」は平成の「大不思議」を超えて「平成の大失敗」である。

尚、これにそのすごさを更に証明する改革を用意する。

それでは、先に、第9番目の「食封」(じきふ)の改革から述べてみる。

9 「食封」を定めた。
「18改革」の内の第9番目に実行した改革である。

この改革は上級官僚等に一定の戸(封戸:ふこ)を指定して、その戸が納める租の半分と、調、庸の税の全部を受け取らせると言う俸禄制度で、下級官僚には布帛(ふはく)が支給された。
大化改新の際には大夫(たいふ)以上の官僚に支給したのが始まりである。
これ等のことを正式にこの令で裏付けたのである。

ここで税体制がどの様なもので成り立っていたかを述べると、次ぎのようになる。
税には13のものがあった。

これは天智天皇から天武天皇に引き継がれて完成された税制である。
実に内容が細かく再分化されてこの時代に決められたものかと思う程である。
そして、この細分化され納められたものを収納するシステムまで完成しているのである。

大化改新の税体系(13税体系と2収納方式)


律令下で田地面積に応じて課せられる税であり、田租である。
諸国の正倉に収納されるもので、地方行政の財源となつたものである。
上田(稲の品質を4等分した内の最上級)の1段に採れる公定の収穫量を72束として決めて、その2束と2把を税として徴収した。約3%である。

この3%の根拠は初めて採れる穂を神に捧げる農耕の儀礼を元としているのである。
現在の主税(3-6%)の根拠に近いのである。これは現在の税率が正しいとすると素晴らしい論理的根拠である。


労役、或いは歳役である。
年に10日と定めて、その労役が出来ない場合に納める税で、物納税である。
例えば、その物納は麻布が主であり、3段階に分けていた。個人の労力程度に分類して正丁(10日)、次丁(5日)、小丁(0)としていた。
正丁は2丈6尺である。次丁は1丈3尺。小丁は免除された。
これは、雇役して河川などの公共施設などの増設や修理作業等に支払う財源にしたのである。
目的財源である。現在の自動車税や通行税などの道路特定財源等に当るのである。
今と変わっていないとすると論理的根拠と言える。

調
地方の特産物を物納する税で、品目としては絹、綿、糸などの他に、鉄や海産物などを納めるものである。
正丁、次丁(正丁の1/2)小丁(正丁の1/4)で納税し、畿内は免税である。

歳役
労役そのもので、庸で物納税に代える事が出来る税である。

あしぎぬ
粗い絹織物で、全国から集められる。その内の調の一つでこれを官人に支給される物品税である。

雑徭
これも労役である。正丁(60日)、次丁(30)、小丁(15)地方の労役に従事する。

兵役
徴兵制である。正丁の3人に1人が平氏とする制度で、1戸で1兵士を徴兵する制度である。

衛士
宮廷警備の兵士制度で兵役の軍団から1年任期で選出された。

仕丁
これも労役である。中央の公的造営建設に従事する制度である。50戸に2人を選出した。

運脚
庸調を中央政府に送る運送労役である。食料は自弁である。

贅(にえ)
天皇へ貢納物であるが、山海珍味を納めるもので儀礼的な意味の役。

義倉
備蓄用の米麦粟の等級に応じて納入した。

出挙
稲種を貸付て、利稲をつけて返す制度。

正税
地方財源にする田租で国司が正倉で収納管理する。

以上の労役税、物納税、正稲税の3つに分けて、それを納める段階を3つに分けて、正丁、次丁、小丁に指定し、夫々に課税する方式を採用する方式である。

「消費形体」も確立していた。

労役税は賃金を支払われる事で、地方と個々の戸に貨幣を流通させて、経済の均等化を図っていた。
地方の労役は自弁を原則として消費活動を活発化させた。
労役が出来ないことでは柔軟に物納を代替させて労役の財源としたのである。

「経済方式」も確立していた。

基本的には技能集団による「部制度」で全物品を集めて管理(伴造)し、それを市場に出し、上記の労役で消費させる「基本的な市場経済」になる。
各地に「弁済使」の官僚を置き、税の徴収や稲の管理、収納と運搬の全体の管理をさせた。
担当した氏は主要官僚5氏の伴氏である。

「出挙」等は「国定財源」を恒久的に安定させるシステムであるが、市場経済的な合理的手法である。
この一つ一つの税を見てみると、現在の税の種類と同じである。
若干の手法は時代の進歩と付加価値では異なるが基本の税理念は同じである。
そして、それは「国税」、゜地方税」、「徴兵税」、「運輸税」、「物品税」、「消費税」等に当てはまる。

当時としては個々の物品の技能集団(阿多倍ら支配下)を形成して「部制度」を確立させて、それを「計画生産」させて、市場に出して「消費」させて、「国定財源」を確保安定させ、その税を再び「労役で戻す」方式である。

一部は「社会主義的な生産」をさせて、「消費は市場経済」を採用している事になる。

検証
極めて合理的である。現在でも出来ないのではないか。それを一部蘇我氏ら豪族の力のある者の消費に頼る「原始経済」の状況から、「国民全部」の「市場経済」を確立させたのである。驚き以外にない。

もし、これを「失政、失敗」だとすると、「成功」とはどんなものを言うのであろうか知りたいものである。
NHK新説の「成功」は共産経済を是として「失敗」としていると考える以外にないのでは無いか。

3管理システム
この上記の「13税種」の体系だけでは税は確立しない。
されには、「3つの管理システム」を確立させる必要がある。

それは、「収納」、「搬送」、「消費」である。

この「3管理システム」と「13税種」がうまく連携してはじめて機能は働く。

主要広域な消費システム

消費としての意味合いの強いこの労役税が多いが、これは労役を通じて「民衆の現金収入」と正税の「稲から得られる収入」の二つで生計を立てさせ、その上で消費活動を活発化させて経済システムを構築する為の労役なのである。
この労役は農繁期を外した時期に行われたので、問題は無い。

又、防人(さきもり)等の兵役も各戸の余剰の働き手を吸収しさせる事で、生計を潤させる事ができ、且つ消費が活発になり、国を守る意識を植え付ける事が出来るなどの政策効果を高められる重要政策の一つである。
兵役などは2年と言う短期間に限定して悪影響の出ない工夫をしているのである。

この様にむしろ、この時代では経済を大きく動かす事の出来る唯一の主要政策の位置付けであった。

「正倉」(しょうそう)
地方毎にある「収納倉庫」で、「正倉」(しょうそう)と言う倉庫。公的に財源とした正稲を収納した。

「官稲」(かんとう)
諸国の「正倉」に納められた稲の総称である。国定財源になる。これを運ぶ手段として上記の「運脚」税と「官稲」管理システムとを絡めていたのである。

このように現在の国が仕切る「税体系」と農協が行う「管理システム」とは余り変わっていない。この事から見ると、現在の税システム体系が正しいとすると、「失政、失敗」の改新ではない事になる。

そして、この税体系が次ぎの一定の「根拠」により形成されているのであり、思い付きでの税体系ではなかった。

そこで「根拠」として、次ぎの「8番目の改革」に付いて述べるとする。

民にこれから行う「政治改革」を事前に発表したのである。
現在のマニフェストである。
現在でもまともに出したのは10年前位からである。それを1365年前に発表したのであるから、驚きである。民主主義の原点を1365年前に実行したのである。
さて、その内容はどんなレベルのものであったのであろうか。

「8番目の改革」

8 「改新の詔」を定めた。
「大化改新」の「行政方針」を4つとして定めたものである。

4つの「行政方針」は次の通りである。

現在の「行政方針」に当る様なことを新しく敷いて公表したのである。真に、「民主主義」の原点である。

A 公地公民制 
土地や民は全て国に所属する制度で、土地の官吏は「国司」、「部制度」の官吏は「伴造」「国造」とし行政を明確にした。現在の行政の原型を定めたのである。  

それまでは、蘇我氏らの豪族の支配に有る半奴隷的所有であった民を国の民として位置付けて豪族から支配権を剥奪した。
そして、これ等の民を国の民として上記した労役や兵役、衛士として活躍させ、且つ、市場経済の消費の源としたのである。
更に、豪族が所有していた土地も剥奪して、国の管理の基にしたのである。
土地から来る豪族の利益は極めてなくなったことを意味するのである。
民も地とも国に取られたら、普通は豪族が結束して反乱を起こす筈である。
しかし、実行出来たのである。

当然、何かがあったから出来たと疑問が出る筈である。
この事に付いて、「日本書紀」に詳しく出ている。

この「改革」を推進し、この事を解決したすごい人物が、中大兄皇子と大海人皇子の2人の側に居たのである。それも、身内の子供である。
第6位皇子と第7位皇子である。つまり、「施基皇子」と「川島皇子」である。
各地で全ての争いや問題や揉め事が有ると呼び出している。調べた範囲では「施基皇子」は18回呼び出されて各地に飛んでいる。「川島皇子」もこれに近い程度で呼び出されている。そして、沈静化していることが書かれている。

後漢の「光武帝」より21代目の「献帝」の子供「石秋王」の子供の「阿智使王」と孫の「阿多倍王」らの帰化人が九州征圧して、中国地方と関西の一部を征圧して、この「豪族の反動」は鎮圧されてた。

更に、各地の経済も技能集団の民により「生活程度の向上」に貢献し、「民の不安」を取り除いた勲功で、薩摩を分轄して「大隈の国」と、伊勢国を分轄して「北部伊賀地方」とを作り「2つの領国」を与えた。

日本書紀には「大隈の首魁阿多倍」と「伊賀の衆」と呼ばれて3度朝廷から呼び出されて祝宴している。

この3人(伊勢青木、近江佐々木氏、阿多倍一族)の持つ「大勢力とその活動」が、「豪族達の反動」を押さえた事も言えるのである。

B 統一的地方行政制度
国と地方の行政を分割してよりきめ細かく施政する様にしたもので、現代の「三位一体」の行革である。
むしろ現代より、この時代の方が地方に行政を委ねているのである。
   
その例として、九州全土の政治を「阿多倍」の一族の3人の男子の内の次男の子孫に委ねたのである。
大蔵氏(後の九州永嶋氏)である。そして、現代までも例の無い一氏のこの大蔵氏に「錦の御旗」を与えたのである。
そして、その大蔵氏に対して「遠の朝廷」と呼んだ。どれほど地方に行政を委ねたかが判る。
南の守りとしては、官職として「太宰大監」を代々に与えた。
北の守りとしては、北海道の鎮圧の為に代々与えた藤原秀郷一族の「鎮守府将軍」と同じである。

C 戸籍と計帳と班田の収受制度
民の正確な把握の為に戸籍調査を断行し、土地の測量を行い租税の正確な把握を行った。
官僚制度を整えて国の国体形態の基礎を築いた。

この測量方式は秀吉の検地や江戸時代の測量に採用された方式である。
同じ方式を用いた江戸時代の伊能忠敬の日本地図の正確さを見れば、如何に正確であったかが判る。

現代の中国でさえ、今もまともに行われていない位の難しい難題を解決したのである。
如何にこの官僚と指導者の強い意志が有ったことを示す。
日本人の体質を物語ることである。つまり、”ここぞ”と思うときに出す根気の有る「精神構造」である。

D 統一的税制度
上記の3つのことで正確に把握した国情を下に「弁済使」を置き「租税」の統一と正確な管理を図った。
大雑把な税体制から確実な計測等のデータで合理的な税を徴収した。

この「弁済使」で有名な氏は「伴氏」である。地方の各地に子孫を配置してこの任を実行した。
各地に、この伴氏との血縁族が各地に多い。例えば、九州の最大勢力の「肝付氏一門」がある。
以上の内容である。

これ等の活動のことを、「日本書紀」に詳しく書かれている。

上記の「10活動」はこの政策を実行ならしめる為に、内臣で軍略師の伊勢青木氏の始祖の施基皇子、近江の佐々木氏の始祖の川島皇子が活動したのである。

この「18改革」と「10活動」は、多くの国民が国の変革の為に熱気を持って指示し支えている事が判る。

この改革は、中大兄皇子と大海人皇子の下に、この「3人の活動」から来るもので、現代の「日本の根幹」を作ったのである。

このように、多くの民に指示され、豪族の反動を押さえ、進んだ技術と国政のシステムを駆使して、現代の税体制に類似する政治体制を敷いたのである。

7-3の改革は、何処から見ても「NHK新説」の「失政、失敗」となるのか判らない。事の良し悪しを決める「人、時、場所」の三相の何処が「失政、失敗」なのか勉学の為にNHKに聞きたい位である。

では、次は第10番から検証する。
(18改革)と(10活動)の詳細は大化改新2-2参照

(第10番から18番までの「18改革」項目は大化改新7-4以降に記述する)
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大化改新 新設 NHKスペシャルまとめ7-2

この新説に付いては後は次の4つ(7-10)の事が未だ残っています。
それは次ぎの様な事でありました。

(活躍した内容の「18改革」と「10活動」はレポート末尾を参照)
(大化改新の新説 1-6は解説済み 改新7-1は検証済み)

今回の検証
7 天智天皇は失政した。
この新説テーマの7-2です。

次回の検証(7-3終了後に記述します)
8 日本文化は朝鮮(三韓)の文化
9 律令国家の導入
10 石と水の庭園は疑問とあつた。

今回は大化の改新に付いて上記第7番目の2の新説に付いて、「18改革」の第5番目以降の問題の検証である。
(第6番目から10番目までの項目は末尾に追記)

この新説は上記の”大化改新は「失政、失敗」であった。”と言うことである。

(大化改新1-6までのレポートで失政ででない事をそれを充分に証明しているが更に詳細に次の要領で論じている)


では、続きの第5番目から6番目までの改革に付いて述べる。(第7番目以降第18番目までは7-3で論じる)

次ぎの5番目の改革である。
5 「男女の法」を制定した。

この法令の制定が「失政、失敗」で有るのか、無いのかである。

先ず、この法の内容を記する。
現在の民法の「子供の認知」の法である。

この蘇我氏らの豪族が支配する原始時代に近い社会情勢の中にありながら、この子供の認知のことを定めたのだからかなり進んだ法令である事が判る。

一般の者は別に決めて欲しいと思う事は無かったと考えるのが普通ではないか。
そこを、系譜を定めて人との繋がりを明確にし、人としてのこの世に存在する意義を明確にしたのではないか。
もし、そうだとすると大変な進んだ考えを持っていた事を意味する。
通常の頭脳を持った人間が考えられる物ではない。それは後ほど証明される。

内容
生まれた子供の所属を定める基準を定めたものである。

1 良民の男女の子供の所属は 父に。
2 良民と奴婢の子供の所属は、奴婢に。
3 奴婢間の子供の所属は、奴婢に。

以上3つの基準を定めたのである。

ところで、「奴婢」とは「奴隷」であるが、この時代は「7つの民族」の「融合」から大和の民は構成されていたが、大和の国には近隣の混乱から中国、朝鮮、南アジア、ロシアなどから多くの難民が押し寄せて来たのである。
未だ、5世紀前は日本の全土を統一されていなかった。そのために国間の戦いで負けた民は奴婢となり扱われたのである。
又、外国の混乱から逃れてきた密入国人で各地に上陸した者等が「奴婢」として扱われたのである。

現代では「奴婢」は異常と判断されるが、この時代の「戦いの負け」は「死か奴婢」の選択であった。
特に、大化改新の前までは戦いの一つの「戦利品的内容」の意味合いを持っていたのである。

つまり、第一次産業の生産を高める為の労働力として扱われ国の国力を高める一つの手段であった。むしろ、他国から拉致して生産力を高めようとした時代でもあった。
このために「奴隷」というよりはこちらの「労働力=生産力」の意味が高かったのである。

例えば、天智、天武の皇子皇女は「妥女」(うねめ)より生まれた子供である。
「妥女」はこれも一つの「奴隷」の形であり、地方の小豪族から採った「人質」であり親元の発言の届かない「女官奴隷」であった。

当時の社会は「身分」という「細分化した階級」で維持されていたのである。
つまり、「労働」という括りで「二つの身分」が出来、それを「良民」と「奴婢」とに成って分けていた。この二つを更に細分化されていたのである。

この事の証として次に述べる大化改新7-3のところで述べる「公地公民」の制度がそれを物語るものである。

上記の「社会体制」を理解した上でこの施策の何処が「失政で失敗」であるのか検証する必要がある。

昔の「社会体制」を現代の社会体制の常識で考えれば全ての事が「失政で失敗」となるのではないか。
そんな論理があるのであろうか。
普通は、物事は「三相」(人時場所の条件)を統一したところに論理が成り立つのであろう。そうで無ければ「一物」を持った考え以外には普通は無い考え方である。

現代の「思考」で過去の社会を「評価」する事はそれは即ち、「歴史」そのものを否定する事になるのである。
現代の感覚で評価できるものではない。

「人」としては、「良民、奴婢」の括りが「戦いの掟」での当時の「社会の仕来り」である。
「部制度」等の充実の中、民の全ては「公の民」であり、民でない民は認めていない制度である「公民制度」を施行した事から理解すると問題は無い。

「時」としても、当時としては蘇我氏等の豪族の支配されていた状況の中では「奴婢」は「奴隷」そのものであるが、これを「公地公民」らの制度とあわせて時代を変革し施行したのは、適切であったと考えるのは、当然のことであり時代的錯誤は無い。
むしろ、この時期に蘇我氏を討った目的の一つでもあったのであるから、時期としては天皇の無力化の進行からみると限界を示している。

「場所」として、阿多倍らの後漢民らの渡来系の技能集団の働きで「30/66国の生活力と統治力」が上がり、未統治の蝦夷域を除き、中部以北を大和朝廷の支配下に入った統治地域の安定域の全域に敷いた事は適時適切である。

何処に問題があるかとすると、この「奴婢」で「歴史」を否定する事ぐらいであろうが、これは上記した「当時の社会体制」の所以である。

この事を理解する事とあわせて、次ぎのことを知り理解しておく必要があり、そうで無いと誤解が生まれる。
つまり、この時代の大和民族の「構成状況」とその「融合過程の経緯」を知るべきである。

大和民族の「構成状況」とその「融合過程の経緯」
日本は「単一融合民族」であり、この結果、民族の優秀性はこの「融合」の結果から来るのである。人類は交配するほど優秀な人類が出来る事は衆知の事実であるが、日本はこの交配の最多の民族でそれも「7つの民族」というものすごい数の融合である。2つでも難しくて現代でももめている国も多いのに大変な融合を成しているのである。

当時は、「封建社会」であり、大化期前は「原始社会」でもあり、未だ「7つの民族」が混生して「融合単一民族」に向けて「融合化」が進んでいる最中である。

この「7つの民族」とは、3世紀から6世紀までの間に、日本の各地に民族移動が起こり上陸してきた。

先ず、国がこの遺伝子的、歴史的に分類した「7つの民族」を列記してみる。

1 中国系の民族(15)。2 朝鮮系の民族(20)。3 太平洋系の民族(10)。4 ロシア系の民族(3)。5 アイヌ系の民族(2)。6 南アジア系の民族(10)。7 北アジア系の民族(40) 

以上の7つの「民族の融合族」である。

これだけの民族が融合して単一の融合民族を構成した例は他に無い。
現代世界の乱れの原因はこの「否融合民族」間の争いである。
そこで、先ずは「アジア系人類」の歴史的な移動経路に付いて述べる。

民族(人類)の移動経緯
アフリカで生まれた人類Aは、地球の地殻変動に伴い気候が変化して、アフリカからヨーロッパ南に移動して地中海の縁を経て、アジアに入った。
ここで2つに分流して海岸沿いを経て南アジアに移動して定住したグループAと、更に南下して海洋に出たグループA-1
イタリヤから北側に分流したグループが中央アジアを経てモンゴール経由して東岸に到達したグループBと、
このグループが沿岸を租って南下して朝鮮に到達したグループCと、
グループBの一部が北部に分流してシベリヤの最東岸に到達したグループDと、
このグループが半島を経て樺太に入ったグループEと、
このグループがアメリカ大陸に到達したグループFと、
更にこのグループがアメリカ大陸を横断してパナマを経由して南アメリカに到達したグループGと、
この一部か山岳部に移動したグループHと、
平野部に移動して定住したグループIと、
更に南下して最南端まで到達したグループKとになる。

所謂、コルボックス系の人類の移動経路であり、そこで定住し一つの民族構成を成したのである。


そこで参考として、アジア系人類を比較対照にして理解する上で大切であるので概要を記する。

人類の起源
アフリカで生まれた人類Bは人類Aとはその類人猿は異なる。(ネアンデルタール、ピネカントロプス)
つまりは、猿の本が違うのである。

ところで、猿系は最も進んだ人間、次にボノボ、次ぎにチンパンジー、次にゴリラ系と分かれる。
ボノボは一時、チンパンジーの一種と見られていたが、大変に人間に近い方の猿である事が最近になって判り、チンパンジーから分離された。
このボノボから人間に変化したのではないかと言う説が通説に成っている。顔もチンパンジーより人間に似ている。
原人とはこのような顔をしていたのではないかと思われている。

このボノボは人間の感情と殆ど同じ「喜怒哀楽」を持つ事が判っていて、チンパンジーと生活させて言葉の原語を教えて研究したところ、器具類の変化にて得た文明知識を除けば、人間の持っている本質の知能指数は人間に余り代わらない事が判っていて、チンパンジーに対し人間が猿に対する持つ「優越感」と同じ「優越感」を持って一所にいることへの不満を表し「優越感」を持っている事を原語を使って表現したと言われている事が判っている。
そして、驚く事に、人間に対しては自分ボノボは、何故人間に生まれなかったのかを残念に思っていることが判っているのである。

このボノボが移動中に進化して原人と成りつつ移動して人類と変化してきたと見られている。

一方ヨーロッパ系の移動経路は概ね次の通りである。

この人類Bはヨーロッパに進出し北岸側に移動してデンマーク付近に移動し、更に付近域の北ロシアに到達したグループLがある。このグループLの僅か一部が極寒の中生き残り、東海岸まで到達してカムチャッカ半島を経て北海道と北陸東北一部まで移動して入った。

一方海岸線に沿って移動したグループがとイタリヤ付近まで到達移動したグループとに別れる。

この2つのグループは夫々、地球の地殻変動に伴う激しい気温低下の気候変動で遺伝子と体格と骨格変化を起こした。
この時、北周りのグループは厳寒を避ける為に、食を肉食主体として暖かくして、住居は原野での毛皮のテント生活とし、骨格の額を前に出し奥目にして目を保護し、鼻から入る低温の空気を直接体内に入れないように高くし、下向きにし、長くした。そして、全体毛を深くし、血管を体内深くに入れた。だから、体が白く成る。歯茎は肉食から奥行きを大きくして食べやすくしたのである。所謂、北ヨーロッパ系の人類である。

イタリヤ側に移動したグループは体格、骨格は類似するが、草食生活を選び、岩窟に入り、移動を少なくして厳寒に絶えたが、必然的に熱と食料の絶対量が不足して絶滅に瀕した。

この人類は顎とその頭から顎にわたる筋肉が異常に発達し頭骨格が四角になり、草食にて熱が不足したので体毛は多くなった。
これがヨーロッパ系の2つの人類の民族構成の概略である。

さて、話を戻す。

人類の元は、縄文時代(紀元前4000年頃)の骨格のしっかりした四角頭格で毛深くて目が丸く眉の濃い縄文人(グループB)と、その2000年後に北アジアで進化した人類で、後に入った顔の細い背の高い目の吊りあがった弥生人(グループC)の二つの人類であり、これが原住民となる。
そして、その後の紀元年頃の後の進化した民の3つの民族で概ね構成されている。そして、この紀元前後の進化した民族は次に示す幾つかの地域で進化して日本列島に上陸してきたのである。

それは次ぎの通りであり概要を説明する。

1 中国系民族は、
広大な大陸であるので、南アジアAと中央アジアBと東アジアCのグループから構成されているが、現在に於いても余り融合化は進んでいないのが現実であり、三国志の書籍でも明らかなように民族の戦いの変化で統治者が変わる。

入国の経緯 ①-⑥クループ
この民族は縄文と弥生時代と紀元前までに上陸したグループ①と、日本の国体が出来ていない時代の2世紀から3世紀前半の邪馬台国の卑弥呼の前までに移動して来たグループ②-③と、6世紀中ごろまでの阿多倍らに代表される渡来人より構成されたグループ(④-⑥)とになる。

3世紀後半は博多や下関付近に上陸したグループ③と、漢が滅亡して2つのグループに漢民は分かれて逃亡した。西に逃げた漢民は山を越えてネパールに入り定住し、一部は更に西に進みベトナム付近に入ったがここで戦いが起こり漢民の一部とベトナム民とネパール民の一部もが海に逃げボートピープルなり、インド洋から太平洋に出て黒潮に乗り長崎博多付近に上陸したグループ④と、更に一部は黒潮に乗り薩摩付近に上陸したグループ⑤とである。(580年頃)

その後、中国の東に逃げて光武帝が遼東半島と朝鮮半島を征圧して「後漢」を樹立したが、21代後の献帝の時に唐に滅ぼされた。
この時、石秋王の子供の阿智使王とその孫の阿多倍王は、九州北部に上陸し九州全土を無戦の状態で制圧、その後、下関から関西に入り中国地方も征圧して30/66の国を制したが、引き連れていた17県の漢民は帰化した。その後、中部地方の開墾に廻された。
この17県民の200万人もの帰化集団のグループ⑥とがある。(620-660年頃)

その後、朝鮮半島より下関、博多付近に難民が度々に上陸してきたが、朝廷は国情を配慮して阿多倍の末裔の「太宰大監」がこれを取り締まらせた。(1050年頃)

この中国系の民族は遺伝子的に区分けした結果、全体の15%程度を占めている。

2 朝鮮系の民族は、
この民族の移動経路の人類は主にグループC、D、(E)で構成されているのある。所謂、これ等が融合進化して後の弥生人と成ったのである。

その後2世紀の当時の朝鮮半島は3つ民族で構成されていて、古来、「馬韓」、「弁韓」、「辰韓」の三韓で構成されていた。
現在も地区は同じ分け方である。
その後、中国東部と朝鮮北部に出来た高句麗、朝鮮の中央部東に出来た新羅、中央部西に出来た百済での3つの国であるが、「倭人」として下関と博多と朝鮮半島の南部に交易諸点を割譲して設けた倭人(倭国の交易人を特別に呼んだ)が常駐した「任那」とがあり、この倭人の民は南部半島沿岸部に住み分けていた。

ところが、この朝鮮半島が2度に渡り混乱し、この時の難民が下関や博多に上陸して来た。

未だ、日本全土には統治機構は無く主に4つの域で独立国的国家体制であったので、上陸は統制されていなかった。
「倭人」が活躍している頃の3C末期4C前半頃に、この下関、博多域に入国してくる難民を任那の交易民の倭人の統治機構で海峡管理され始めたのが最初である。

先ず、その前に紀元前に北朝鮮系の民の弥生人が、この日本列島に2つのルートで上陸してきた。一つは下関、博多ルートで上陸してきたグループ①と、新潟、佐渡付近に上陸してきたグループ②とある。これが第1期である。

その後、上記3韓が乱れて、4世紀後半ごろ瀬戸内海を経由して堺港に入り、上陸してきた応仁(応神)王の大船団のグループ③がある。これが第2期である。

この応仁王は、当時、大和国は4つの部族の豪族から構成されており、この関西地方を連合統治していた。
その4つの部族とは、「巨勢族」、「紀族」、「葛城族」、「平群族」、等に依って首長を交代で統治していた。
上陸時、この連合軍との戦いで苦戦、その後、戦略を変更して各個攻撃に変更して、先ず、紀族を制覇した。
その後、紀伊半島を南下して、新宮から奈良盆地に入り、各族を制圧しようとしたが抵抗持久戦となり、結局、和睦した。
そして、この「応仁王」が率いる朝鮮族を加えた5つの族で大和国の域を「連合統治」したのであり、この初代の王と成ったのが、この「応仁王」(応神王)で「応仁大王」となった。所謂、「河内王朝」である。
この「応仁大王」で「初代天皇」として7C頃に定められた。
この時に上陸した「蘇我氏」や「物部氏」らがあり、後には上記関西域の豪族に「蘇我氏」と「物部氏」が加わったのである。

次に、7世紀初期から中期にかけて中国後漢に征圧されていた民の朝鮮族が、「阿多倍」に引き入れられて下関、博多に上陸して来たグループ④がある。これが第3期である。

以上、朝鮮系の民族は大量にはこの3期の民の上陸があつた。
この朝鮮系の民族は遺伝子的区分けした結果、全体の20%程度を占めている。

3 太平洋系の民族は、
所謂、アモイ族である。海洋族と言われる民族で、グループAが更に南下して海洋に出たグループÅ-1である。
ハワイなどの太平洋にある群島に定住した太平洋系の民族が黒潮に乗って2世紀前半ごろに更に流れ着いたところが南九州であった。これがグループ①である。

このグループ①と基からいた北アジア系民族(縄文人)との融合が起こった。

この後に、580年頃に南九州には、別に、漢が滅亡して民族が西側に逃げ海洋に出た一部がインド洋から太平洋の黒潮に乗って長崎、博多付近(中国クループ④)と南九州(中国グループ⑤)に上陸したが、この中国グループ⑤のグループ②がある。
この南九州に上陸した漢民と先に入ったこの太平洋族と基から居た北アジア系民族の3つの民族が争い無く融合したのである。
このグループ①とグループ②(中国グループ⑤)との融合民族は大変に強く、しかし、争いをあまり好まない民族であったとされている。

2世紀中頃は北九州地方に「倭国大乱」が起こり乱れていたが、グループ①と②この間に融合が起こり、その後3世紀中ごろの「邪馬台国」の「卑弥呼」が死んだ後に、グループ①と北アジア系民族(縄文人)の融合民はこの北九州に攻め上がってきて全土を制圧した。

しかし、この「融合民族」は不思議に北九州の土地(狗奴国と邪馬台国)を統治せずに南九州に戻った。これで「邪馬台国」は滅亡したのである。
ところで、征服される前はこの「狗奴国」は熊を守護神として崇め、国を閉ざし、戦う事を嫌う閉鎖的民族が定住していて「邪馬台国」と争っていた。
これが、周囲と融合を図らなかった元から居た北アジア系民族の(縄文人)の狗奴国(アイヌ系)民族である。

この民族は征服されてからは北九州から門司を渡り、中国地方を通過するときこの地を支配していた出雲国に追われて、名古屋地方に出て、元から居た北アジア系民族(弥生人)にも追われて、最後、滅亡寸前で蝦夷地に入り、元から居たコルボックスの東岸に到達したグループBと融合し定住したのである。

4 ロシア系の民族は、
この民族は2つのグループから成り立っている。
そのグループはグループBとヨーロッパ人類の北ロシアに到達した人類が東岸に移動したグループの2つから構成されている。

この民族は蝦夷地と北陸地方までの地域に定住した。
この民は2つの民族から構成されていたが、その一つは白系人(グループL)であり、もうひとつは黄系人(グループB)である。

現在でも、東北北陸地方の人の中には白色の肌をした人は多いがこれは寒いと言うことから起こる遺伝子的現象のみならずこの白系人の遺伝子をも引き継いでいる事からなのである。

北海道では良く”大楽さん”(だいらく)という氏名等のロシア人の名に似た人を見つける事が出来るが、これはこの白系人の遺伝子を持った氏なのである。私の埼玉の友人にいるが明らかにロシア系である。

清和源氏の゜源義家」が「征夷大将軍」となり、この東北北陸以北を征圧統治し勢力圏としていた首魁人物「アテルイ」を藤原氏の力を借りて騙まし討ちしてこの蝦夷域を征圧して鎮圧した。この「アテルイ」はこの系統の人物である。
この人物らの一団は体格が良く背が高く毛深く色白で異人的様相であったと記されている。

5 アイヌ系の民族。
この民族は上記した邪馬台国と対峙していた「狗奴国」の民が南九州の融合民に追われてこの地に逃げついた「縄文系民族」である。
この民族は熊を主神として崇め閉鎖的で他民族との融合を全く図らなかった。
この地に移動しても同じであり、一部グループBとの融合を図った。この二つは元を正せばグループBの縄文系であり、何れも融合を図らなかった事によりコルボックス系の原種とも言われている。現在までも行っていない事から殆ど絶えたに等しい。

ここで、グループBがアラスカを経て南アメリカに到達し山岳地域に移動したインカ帝国を築いたインカ人と、このグループBの遺伝子を色濃く持つ上記の狗奴国とグループBの融合縄文系アイヌ民族とは、国の調査の結果、遺伝子的にこのインカ帝国王の末裔と全く遺伝子が一致したのである。

つまり、閉鎖的な民族のアイヌ民族と、インカ帝国王の末裔も純血を護って王として子孫を遺したので、ともにどちらもグループBの遺伝子的純血を保っていた事になる。
つまり、東岸に到達した時にそこの地点で日本に上陸したグループと、アラスカを経て南アメリカ山岳部に入ったグループとは親子兄弟であったことを意味する。
この大陸のアジア東海岸のここで親子兄弟が左右に分かれたことを意味するのである。ともに純血を守った事による結果なのである。

この”アイヌ系民族が日本民族の原住民である”という運動が25年前頃(1980年頃)から長く学者を中心に起こった。
困った国はこの問題の研究に取り組んだ。
そして、判った結果が上記した「7つの民族」説と「単一融合民族説」と「アイヌ原住民説」を遺伝子的に最近に解明し証明したのである。そしてその民族割合を遺伝子的に出したのである。

この時、このアイヌ原住民説を上記の通り「インカ帝国」の末裔と一致する事を証明した。つまり、「グループBの子孫」と「狗奴国の民」(現代の熊本 狗奴=熊)とする事が解明出来て、「アイヌ原住民説」の左傾学者運動は解明されて消えたである。

6 南アジア系の民族。
上記した人類分類のグループAとグループÅ-1の人類が南アジアに到達して定住したが、この民族が更に移動して来た。
上記した西に逃亡した漢民により追い出されたベトナム民族やネパールなどの山岳民族がインド洋に逃げ黒潮に乗って南九州の薩摩と北九州の博多長崎付近に580年以降の頃に到達した難民である。

7 北アジア系の民族。
紀元前4000年に縄文人(人類グループB)と、その後、紀元前2000年頃の弥生人(人類グループC)が九州と中国、関西、中部地方に分布し各地に定住していた。この二つの民族は体格、骨格、頭格、性格など異なる民族で紀元前頃まで融合が進んでいた。
この2つの「原住民族」と2世紀-7世紀半までに6つの地域から移動してきた民族と融合をしながら「単一民族」化を進めた。

 以上である。

この「7つの民族」が構成されて奈良時代の大化期には5-7世紀半の民族を「渡来人」と呼び、同化には桓武天皇期まで掛かった事が書物による「渡来人」の言葉で判る。
しかし、この実態は、言葉としては残るが、「天皇家」との血縁等や朝廷の官職などの重要職域に成っていた史実から既に同化、融合は完了していたと見る。

このような「7つの民族」の構成中の対立を出来るだけ避けて「同化融合」の方向に向けて進んだ時代背景の中で、「良民と奴婢」の関係がどのような意味を持つかを考えた上で、この「男女の法」を評価すべきであって、安易に現代風に決して「失政、失敗」の説を唱えるべきではない。

6 「薄葬令」
この法令は、646年に発布されたもので、内容は次の通りである。

身分に基づいて墓の規模、葬送の形式などの儀式の要領と基準を定めたものである。

この法令の持つ意味は「身分」を基準に社会を構成し、統治しようとする「政治方式」であり、現代の感覚では理解が難しいが、上記した「7つの民族」で構成し「同化融合」を遂げようとしている社会では絶対的条件である。
何故ならば、この「7つの民族」の「同化融合」の初期段階では、「習慣、慣例、思考、常識」が全て異なるのである。
これは、国としての要件を最も欠けるものである。つまり、纏まり無く国が乱れる前提であるからだ。

それには先ず、上記の生活から来る基本の条件を統一化させる事が「同化融合」の基本戦略となる。
その為には、「男女の法」の「生誕」条件を定めて「身分」と言う「括り」を作って「常識」の一つとしたと事と同じく、逆の本法令の「死滅」の行為の「常識」を矢張り「身分」と言う「括り」で統一させた。

この「身分」と言う「括り」で「7つの民族」の、「習慣、慣例、思考、常識」を統一させて「同化融合」を国家としての方針で断行したのである。
現在ある日本の「単一融合民族」の社会の「習慣、慣例、思考、常識」はこの時代の法令から来るものであってその行為が現代の「世界に冠たる日本」を作り上げたのである。
決して、[失政、失敗」では無いことが判る。
もし、これが「失政、失敗」とするならば現代の日本を否定するに等しい事となる。
つまり、国会でも「命令放送」などで問題に成っているNHKの最近に見られる心に1物を持った歴史否定のイデオロギーに他ならない。

7-18までは大化改新7-3のレポートに続く。

7 「冠位の制」を改善した。
聖徳太子の冠位12階より7色13階、19階、26階、48階とし位階制を定めた。

参考 改革の下に概要を列記する。
(詳細は、大化改新2-2を参照)

「18改革」と「10活動」は次ぎの通りです。

仕事は次の様なものである。
(10活動)

1 「全国の国領地の検地」    租税の安定した確保を図り朝廷の基盤を造る
2 「全国の武器の検査」     侍としての基本的な姿勢を確認する
3 「全国の税の見直し」     改新前の粗雑な税体制を改革する
4 「特定地への天皇からの特命」 治世などが乱れている各国に対する督励
5 「全国の争いの調停と平定」  改新前の勢力の修正
6 「全国の領地境目の確定」   領地争いの原因の見直しを実行
7 「重大行事の指揮」      朝廷内の神事や行事と国内外の使節団の指揮
8 「天武天皇の相談役」     政治の難題の相談と調査
9 「皇族間の調停役」      皇族間の勢力争いの調停
10 「斉明天皇への助言」     女性天皇の補佐役
 
以上が大化期の「日本書紀」から拾い出した内容である。

本格的改革は次ぎの通りである。
(18改革)

(改革1-6は検証済み 次回は7以降 大化改新7-3に記する)

7 「冠位の制」を改善した。聖徳太子の冠位12階より7色13階、19階、26階、48階とし位階制を定めた。

8 「改新の詔」を定めた。「大化改新」の「行政方針」を4つとして定めたものである。
 4行政方針は次の通りである。

 現在の行政方針を新しく敷いて公表したのである。 民主主義の原点である。

 A 公地公民制 
 土地や民は全て国に所属する制度で、土地の官吏は「国司」、「部制度」の官吏は「伴造」「国造」とし行政を明確に  した。現在の行政の原型を定めたのである。  

 B 統一的地方行政制度
   国と地方の行政を分割してよりきめ細かく施政する様にしたもので、現代の「三位一体」の行革である。。

 C 戸籍と計帳と班田の収受制度
   民の正確な把握の為に戸籍調査を断行し、土地の測量を行い租税の正確な把握を行った。
   官僚制度を整えて国の国体形態の基礎を築いた。
 
 D 統一的税制度
   上記の3つのことで正確に把握した国情を下に弁済使を置き租税の統一と正確の管理を図った。
   大雑把な税体制から確実な計測等のデータで税が徴収

9 「食封」(じきふ)を定めて経費の無駄を省いた。
 官僚の俸禄制度を定めたもので、上級官吏に一定の戸指定(50)し、戸の租税の1/2と調庸2/2を与えた。下級官吏には布 帛(ふはく)を与えた。

(第10番から18番までの「18改革」項目は大化改新7-4に記述する)
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