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旬 :梅の花

梅の花に思うこと。(時事放談)
なんと「暖冬での季節の急激な変化」で今年は「梅の開花」が20日位早く咲きました。普通は2月の15日頃の春一番頃ですか゜こんなに早く咲くと「梅」にも大変な事が起こります。

「梅」は「紀州の南部」という所が名所ですが、紀州白浜温泉の一つ手前の町で皆さんご存知の歌手の坂本冬美さんの故郷です。
紀州梅は「南高梅」という梅が特産ですが、冬美さんはこの梅を加工する工場に勤めていたという事で42号線の道路沿いにあります。

この「南高梅」は地元の南部高校で研究開発された梅でスモモとの掛け合わせで出来ていて「実の香り」が強くてあまい実に良い香りがし、梅が部分的に赤く成ります。梅の花も精錬潔白、すがすがしく、強すぎず弱すぎず、気持ちを癒してくれる香りがします。

俳句などで使われる言葉として「朝の梅」「夜の梅」には特別に地域一面に良い香りがし、真に花の模様と共に「極楽浄土の様」かの気がします。

有名な「菅原道真」の歌に”東風吹かば 匂いおこせよ梅の花 主なしとて春な忘れそ”があります。この「歌の様」がこれを表しているからこそ今に遺こる歌なのでしょう。

ところで、梅は大変に「敏感な植物」で「一雨の梅」という言葉があります。一雨一日で見違える程にびっくりする位大きく成ります。
だから、梅は「梅雨」の6月20日頃の最も雨が良く降る時期に合わせて収穫します。
「梅雨」が無くては収穫が出来ないので「雨の梅」と書きます。
今年の様に、20日も早くなるとこの「一雨の梅」の梅雨の時期が外れるので実が大きく成りません。
梅は「剪定」しないと花は咲きますが実がなりません。
こんな例えがあります。”梅は剪定せず桜を剪定する馬鹿”つまり、梅は剪定を必ずしないと枝は黒くなり遂には枯れます。そして、桜は小枝を剪定すると次第にその元の太枝が枯れます。桜は放って置くと適度に枯れて落ちます。

「梅花」が咲いても実がなる枝と成らない枝があり、成る枝は「薄茶色の枝」で古くなると「黒く」なりこの「黒枝」にはなりません。
だから、剪定の要領「青枝の長枝」というこんな言葉があります。「黒枝」を落とし、「青長枝」を遺して「青枝の7割剪定」が要領です。
梅の作業には「剪定」と「選定」がありますが、摘果後(7月)に「剪定」し、開花前(2月)に「選定」します。毎年これを繰り返す事で実がなるのです。今年は「選定」期前に花が咲きましたのでそれは大変です。

「梅枝」の「剪定」の「選定」も「三叉枝」の選択が必要で、これを間違うと実がなりません。三叉枝の「真中の枝」は「成長枝」で伸びることを目的として成長します。「両端枝」は「着実枝」です。これを使い分けて「将来の梅木」の「枝ぶり」を決めます。
他に、「無駄枝」の「立ち枝」や「下がり枝」や「交差枝」などを落とす事も必要です。
「開花だけの梅木」と「着実の梅木」とでは「青枝と黒枝と三叉枝と無駄枝」の管理で異なるのです。そして、この要領を保つと100年以上もの「老梅」という言葉がある様に保てるのです。
「実のなる木」でこの様に「長生き」する木は他にありません。せいぜい50年程度で木にカビが出て枯れます。
次に、「実」が成ると漬ける時は「塩の具合」で漬けることの成否が決まります。
少ないと、カビが出ますし、長持ちしませんし、美味く有りません。また、多すぎると、長持ちはするが辛くて食べられません。良い「塩梅」(按配)に成りません。

「梅」とはこの様に、「香り」は元より”剪定から始まり漬けるまで「何事も塩加減」”です。この様に社会の時事に似た沢山の「例え言葉」があります。

そこでこの「手塩に掛けての梅」の「塩梅」は昨今の「悲惨な出来事の多い社会情勢」に欠けているとは思えませんか。

「子供を育て規範意識のある大人の社会」にするには、毎日の手入れ作業の中で、その秘訣は「梅の育て方」に類似していると思えてなりません。

個々の「梅の作業」は「社会の時事」に合致しているのではありませんか。
そして、その作業の「何処が弱いか」を考えると解決策は見えてくるのではないでしょうか。「木の状況」を見ての「梅木の管理」と同じだと思います。

つまり、「急激な時代の変化」に惑わされることなく、そして、極論に走ることなく「社会の時事」を見て「社会の修正」が必要です。
教育再生委員会の答申に付いて時事放談として「梅」の事でを考えました。
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藤原秀郷一族の生き方-13

朝廷から鎌倉幕府の「武家政治」に移り、その「政治手法」が根底から変化した。このことに藤原秀郷の一族と九州の大蔵氏はその基盤の根底を根こそぎ浚われたのである。

両者とも、朝廷との関係が強く、その勢力基盤は朝廷の行く末に基いていた。
「賜姓青木氏」や「賜姓源氏」のように皇族と言う家柄と名誉と社会習慣に基いていたことで族間の勢力争いが起こる事でその基盤を失った。

藤原氏は平安時代は「摂関家」を中心として「朝廷政治」の下に巧みな生き残りを図ってきて361氏という子孫の裾野を広げてきた。これが万全であるかの様に見えた。

しかし、大きな落とし穴があつた。
「朝廷政治」の貴族中心の世界の中での生き残りである。
これが「武家政治」という全くそれまでの歴史の中で経験した事のない未知の世界が生まれたのである。

気がつくと藤原氏は「氏家制度、又は氏姓制度」のなかで保護されていたのである。そして、「桓武天皇」の「律令政治」即ち、「国体制度の完成」は正せば「貴族階級」を中心に成り立つ制度であつた。その中にどっぷりと浸かって自分の土台の種類が何であったのかをも意識は無かったのであろう。

多分当時の者誰一人も全く予想もつかなかったのではないか。現代の我々でも民主主義の中に居ると異なる社会制度の時代が突然来るとしたら、今予想が着くだろうか。
「平家の武士の時代」とは云え、それは矢張り、「朝廷政治」の代行であり社会体制は依然として貴族中心のものであつた。

それが、やつぎばやに、政治機構を次から次えと打ち立て変更して行ったのである。ゆっくりではない。約15-20年以内である。
そして、いままで、朝廷から任命された官僚は守護として赴任したが、「御家人」というものが地頭という役職で各地に配置された。
今まで守護であつた者は突然に一介の武士だけに成ってしまったのである。大勢の家来を抱えていた者が家来と同じ身分になるのである。一族と家来を抱えた彼等は逆転して地頭の家来になる以外に生きて行く道はない筈である。

その前に、子孫を増やして裾野又は基盤を強化する戦略に集中し過ぎてその目の前で起こっている現象が自らの土台基盤を壊す者である事を認識する事さえも忘れて、安穏とし、毅然と立ち向かう姿勢を忘れていたのである。そこが源氏や青木氏や平氏の様に武門ではない貴族の持つ欠点であったかも知れない。鎌倉幕府にとってはこの「藤原集団の結束」が一番恐れていたのではないか。

「結束」が起これば朝廷内に「摂関家」を持つ一族としては「錦の御旗」を与えられて、「大儀と武力と戦略」では「坂東八平氏」には十分に勝てる相手であった。「藤原氏」にその意が無いと見た鎌倉側は最も武門に近い考えのある秀郷一族の「奥州藤原氏」の「各個攻撃」に出た。そして、成功したことで他の秀郷一族は戦意を失ったのであろう。

秀郷のような指導者の欠いた優柔不断な藤原氏が立たない事を知った朝廷の天皇家は立ち上がったと見る。各地に散った源氏系の一族の西国武士集団を集めて苦肉にも立ち上がったのである。
上皇自ら起した「承久の乱」が起こっているのにさえ、秀郷一族は動かなかったのである。

これが貴族であるが所以の藤原氏の「栄華の末路」である。
期を逃した藤原氏には「自然の淘汰」以外に身を任す方法はもうないのである。

そして、結果は「自然淘汰」は起こり始めた。
実に多くの浪人集団が発生したのである。この武装集団が野や山にこもり互いに連携しあってシンジケートを各地に作り上げたのである。
この時期から「下克上」の原因基盤が出来てきたのである。
抱えきれなくなった家来が下野に隠れ、頼れない藤原氏を見限り、いつか再び帰り咲く時期を狙っていたのである。

このことは系譜の内容をよく見ると判る。
1230年前後を境にして、361氏を抱えるの藤原秀郷一族の系譜と大蔵氏の一族の系譜を見ると、全て役職は無くなっている。
支流の一族も増えていないし、更に、1250-1300年頃のこの付近で子孫の系譜がとまっているものが多い。この現象を見て取った両一族は、両者共に多くの氏流一族を持つが、全てに永嶋一族にほぼ統一されていて新たな氏は生まれていない。
永嶋氏を中心に「再編」を計つたのではないかと推測される。

足利氏との縁続きの2氏の佐野氏、結城氏は足利氏の家来になる以外に、藤原秀郷氏一族の23氏も同じ傾向であり、鎌倉の御家人か、殆どは地頭の家来になつて生残っている。

そして、1350年から1450年頃ころから滅亡し始めて(佐野氏、結城氏共に一度潰れている、そして足利氏に拾われて盛り返している)、1570-1590年台には藤原氏と藤原氏秀郷の一族の一氏で領国を治めている者はない。最後は記録では藤原氏の越前の国の守護が最後である。
(このころから下克上から戦国時代へと進む)

九州永嶋氏も大宰大監であつたが種秀以後は一族は役職から離れている。
一族の本流は全て永嶋氏を名乗り、農業や他の産業に切り替えて支流は消えている。
この九州地方は古来より江戸の終わりまで、豊臣秀吉の「兵農分離」の禁止令に関わらず、武士と農業の併用の習慣が長い間続いていたのであつた。
従って、本流以外は残らないという現象が起こったのである。
1570年以降の島津氏に成っても同じであつた。

そこで、この両者が何故に永嶋氏に変名したかとの疑問あるが、
1220年―1250年頃の時代性の変化と、それ以後の一族の行く末が一致する。
このことから九州の永嶋氏は一族の京平氏の滅亡から周囲の「あつれき」と官職と領国の無くなったことから、又、藤原秀郷の佐野、結城氏の永嶋氏も足利氏の庇護の下で生き延びたが、互いに「永嶋氏」を名乗る事で一体性を出し、全国的に散在することを利用して「永嶋氏」という族の大きさを示す事に依って「下克上と戦国時代」から結束して身を守ろうとしたのではないか。

各地の地名の永嶋氏(長嶋、永島、長島、34氏)は、名古屋以西は大蔵氏永嶋氏、以北は秀郷流永嶋氏である。

しかし、その話し合いとなる証拠は見つからない。
その鍵は仁徳天皇の末裔の日下部氏の古代永嶋氏の氏を統一の氏としたのではないか。
その証拠にこの末裔は武蔵の国久良岐郡に住まいしていたとされる。
もう一つの鍵は家紋である。この永嶋氏三者の家紋は「左三つ巴紋」に副紋つきである事で一致する。

日下部氏永嶋氏は一文字に五三桐の副紋付き、
九州長嶋氏と佐野氏永嶋氏は左三巴紋
結城氏永嶋氏は丸に剣鳩酸草の副紋付きとする。
勝手に名乗った偶然の一致とは思えない。

時代の変化に追いやられた両氏は最後の苦肉の策に出たのであろう。しかし、これも、1570年頃までのことで「下克上と戦国時代」の波には勝てなかったのである。

藤原秀郷一族の生き方 以上

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藤原秀郷一族の生き方-12

永嶋氏は結局、主には2つの発祥ですが、渡来系京平氏の一族の大蔵氏から出た一族系と、藤原氏の秀郷系から出た一族系の間にはなんらかの関係があり、そのためこの同時期に氏の変名を起している事を何とかして解き明かしたい。それにはまず、この時期の歴史的背景を調べ、その背景から、二つの氏がどの様な行動をとったのかを検証する事にする。

歴史的状況
藤原秀郷一族の存亡が起こり勢力に陰りが出るし、奥州藤原氏の滅亡が起こる。
頼朝にて「鎌倉幕府」が樹立し、「平家没官領」を実行した。
旧領の「本領安堵策」を実行し、源氏一族が息を吹き返す契機が起こるが坂東平氏の圧力で衰退。
「京平氏」の西国渡来系一族の衰退。
各地に「地頭制と荘園地頭制」を敷く。
御家人に「新恩給与策」の実行
「一所懸命」の現象が起こる。
莫大な平家の土地を権門勢家(院)と鎌倉幕府(将軍家)は獲得した。
「関東進止の地」で幕府は絶大な権力保持
「鎮西奉行」で九州の実権把握と奥州を取り締まる「奥州総奉行」の実権把握
清和源氏は滅亡し、「十三人の合議制」で北条執権強化で、「坂東八平氏」は衰退する。
「承久の乱」(1221年の後鳥羽上皇)幕府倒幕が起こる
「新補地頭」に上皇の所領3000箇所を「東国御家人」に地頭文として分ける
西に所領を得た「西遷御家人」が生まれる
六波羅探題で西国ににらみ効かす
評定衆、御成敗式目、先例制、年紀法、武家法、公家法、本所法(1225年頃)

この2氏に関わる1230年前後(20年)の歴史的状況は以上であるが、この状況から次のことが見えてくる。

藤原一族としては、一族の末裔である奥州の藤原氏の滅亡や武蔵や下野の周囲の国は平家の所領を分け与えて坂東八平氏の所領にかわり、心理的には追い詰められた境地で、他の勢力も衰退して行く中で何時、藤原一族も仕掛けられて滅び行くか、びくびくしていた筈である。
朝廷の摂関家も衰退し、自力では立ち向かう勢力はもはや
無く、頼るところ勢力も無かったという状況で合った筈。

其処に、関東には新たな地頭制を敷かれて新しい御家人が生まれて「新恩給与策」のような新しい税体制も確立して社会の機構も変わり、時代の変化が違ってきた事を感じていた時でもある。

この時期は殆どの土地は幕府御家人と朝廷の院のものとなり、藤原氏の所領は「東国御家人」などに押されて、以前の守護としての各地に散在する小さい範囲の所領のみとなつた。

そして、御家人保護の「関東進止の地」策で奪う事も出来ず身動きが取れない今や古い一族藤原氏となつた様に他の氏にとっても「四面楚歌」であつた。

又、一方西国の超豪族であった渡来系の一族は、平安期は「遠の朝廷」と言われて3権を与えられて九州はおろか中国地方まで勢力圏としていた一族にとっては、同族の京平氏の滅亡からは実に脅威となっていた筈である。何時、わが身かの恐怖感を抱いていた。

しかし、いよいよ鎌倉幕府は西国にも勢力を及ぼしてきたのである。しかし、戦いはなかった。京平氏が滅亡したとしても、まだこの一族には結束した戦うだけの勢力はあつた筈である。
中国地方を制覇していた一族の陶氏もあり、九州は肝付氏や大蔵氏
等が依然として無傷である。

しかし、鎌倉幕府は「西遷御家人」と称して東国の者を西国に所領を与えて赴任させ、京平氏の所領であった土地を「本領安堵策」にて元の小さい旧領主の者の「一所懸命」に守ろうとする者たちを多く引き上げて味方に取り込み、九州の各地で周囲から締め上げる戦法に出た。これに対して、この九州の2豪族は動きが取れなかったのである。足元が旧領安堵の餌で崩れて戦う戦略はたたなかったのが現実である。
鎌倉幕府は政治的に、この2つの豪族を押さえ込むことに成功するやすかさず、「六波羅探題」を設けて西国ににらみを効かしたのである。これは実に大きな成果をあげた

しかし、何時の世も不満分子が立ち上がることは世の常である。
実権を完全に把握した執権鎌倉幕府にたいして、「後鳥羽上皇」はこれ等の「北面武士」ならず゜「西面武士」の「西国武士団」を募り、幕府討伐の令を発したのである。
所謂、「承久の乱」である。しかし、失敗して朝廷内も二つの統に分かれて乱れ、益々、北条得宗家は全権を握った。
元々も味方であつた坂東平氏もことごと潰し、関東や西国と藤原氏の一族が点在する奥州にも「奥州総奉行」を設けて東国の武士団も政治的に押さえ込んだのである。

そして、この乱を契機に「法的な整備」を行い、より平安期より進んだ「武力と法」による完全な秩序のある政治体制が確立したのである。そして、朝廷を中心とする今までと違った政治体制「武家社会」が確立して、朝廷の中で育った藤原氏と大蔵氏の一族は全く未知の社会体制に入り、戦う事を忘れる程に、どの様に生きて行けばも判らないほどに狼狽した筈である。
次はこの西国と東国の各2氏にはこの態勢の中でどの様な事情面での共通点があるのかを検証する。続く

青木研究員[副管理人]
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藤原秀郷一族の生き方-11

藤原秀郷の青木氏の4氏の家紋が平氏の綜紋の「揚羽蝶」関係の家紋である理由が判明したが、次は永嶋氏の氏に付いて記することにする。
実に不思議な現象である。

以前のレポートでも記したが、兼光流には、長沼氏、青木氏、永嶋氏の3氏が主な一族がある。この永嶋氏が何故に藤原秀郷流にあるのかという疑問である。何故疑問なのかを述べる前に永嶋氏の構成を検証する。
永嶋氏は次の3つに発祥から分かれる。

1つ目は、渡来系阿多倍と敏達天皇の曾孫の芽淳王の娘との間に出来た子供の次男は孝徳天皇より賜姓を受けて大蔵氏の氏を名乗る。
大蔵は朝廷の3大役職(3蔵)の一つの大蔵職から採って大蔵とした。(650―670年頃)

この大蔵氏が種秀より変名して大蔵氏から永嶋氏に変名した。
この時期は1200―1225年頃である。
阿多倍は帰化後、その絶大なる力で瞬くに九州全土を制圧し、その子孫は「遠の朝廷」と呼ばれて「錦の御旗」を与えられて3権(軍事、政治、経済)を以って「太宰大監」として統治した。

その後、中国地方、関西まで制圧して支配下にいれた。このことは軍事面のみならず技能、政治経済の面までも新しい知識を伝え国体の発展に大いに貢献した。遂に阿多倍は朝廷より呼び出されて伊勢北部伊賀の国を与えられた。桓武天皇から賜姓を受けて貞盛より始まるこの子孫が渡来系京平氏である。
(桓武天皇の母は高野新笠と言いこの阿多倍一族の出である)
この一族の大蔵氏、即ち、永嶋氏である。

2つ目は、平安時代の後期の朝廷より派遣されて、九州北部に勢力を張った「伴兼貞」(奈良時代の5大官僚の一つ)の子兼俊が大隈国肝付郡の弁済使(税務官)となり、在名を取って氏とした。
大隈国の首魁 阿多倍一族の永嶋氏と同じ国に定住したことから、
九州の融和策によりて、この肝付氏と上記の永嶋氏との血縁により誕生した「肝付氏族永嶋氏」である。
(肝付氏に付いては別途詳細を記する)
1450年頃、長年の宿敵であった島津氏に滅ぼされる。

3つ目は、藤原秀郷の兼光流の佐野氏(秀郷より10代目の基綱が祖)から出た行長(基綱より5代目)が祖の永嶋氏(1210年―1230年頃)である。
佐野氏は下野国安蘇郡佐野庄から出た藤原氏の豪族で初代は藤原基綱(秀郷より11代目)である。永嶋行長は基綱から7代目である。

4つ目は、藤原秀郷の兼光流の結城氏(秀郷より9代目の朝光が祖)から出た永嶋氏である。
この永嶋氏は結城氏から酒井氏となり永嶋氏に成った。(佐野氏流 1220年―1250年頃)
この結城氏は上野国の守護の時に、朝光の旧領の結城庄は平氏に奪われていたが、鎌倉側に味方したので、頼朝の鎌倉幕府の本領安堵策により、朝光に戻されてから下総の結城庄の結城氏を名乗る。

5つ目は仁徳天皇の皇子で「若日下王」より起こった者で、日下部氏から日下部姓永嶋氏が出た。永嶋氏の祖と年代は不明である。
日下部氏の子孫は朝倉氏である。
この子孫は武蔵国久良岐郡に住まいしていた事実がある。

以上5つの永嶋氏の発祥がある。しかし、この5つは3つに分けられる。1と2、3と4は夫々は同系列である。5は詳細は不詳だが、朝倉氏や江戸期に永嶋泥亀なる子孫が存在するところを見ると古代の皇族系永嶋氏であろう。

5の永嶋氏を除いて、二つの系流の永嶋氏には共通する者がある。
この共通することを調べることで、見えてくるものがあると考える。
次回はこのことに付いて、検証する。続く

青木研究員[副管理人]
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藤原秀郷一族の生き方-10

4つ巴の戦略を採っている藤原秀郷の一族であるが、此処で、史実をよく見ると2つの不思議なことが判明する。

その一つは、秀郷の第3子系の4氏の青木氏の一族は家紋は「揚羽蝶か丸に揚羽蝶」の副紋つきである事。
その二つは、秀郷の兼光流の子孫の一系列が「永嶋姓」を名乗っている事。

この二つの共通するキーポイントは京平氏である。
揚羽蝶紋は京平氏の「綜紋」である。
「永嶋氏」は京平氏の祖の阿多倍一族の「遠の朝廷」として九州を統治していた「大蔵氏」(阿多倍の次男の賜姓氏である)の末裔の種秀より変名した氏である。
永嶋氏の家紋は「左三つ巴」紋である。

先ず、秀郷流青木氏は116氏中の主流の直系1氏と直流4氏と支流4氏に分流している。直系と直流の5氏のうち3氏が「揚羽蝶の関係紋」である。
更に、支流の1氏が「揚羽蝶紋」である。あわせて主流4氏が「同紋か丸付き支流紋」である。

ほぼ同時期に平氏と同紋を使用しているのである。
明らかに家紋掟から見て、又、当時の慣習から見て同系列である。
これはどう云う意味を持つのか藤原氏の生き方を解明する上で解く必要がある。

ここには、時代性が働いていると考えられる。
それは、秀郷は「平の将門の乱」を京平氏の平の貞盛と共に、935-940年の5年間を協力して平定した。
つまり、無二の戦友である。

その後、貞盛の歴史は子供の維衡が伊勢北部伊賀国(朝廷より阿多倍にこの地を特別に与えられていたが、)を改めて正式に国司に任じられ、4代の後には太政大臣清盛の時代になる。

秀郷も、元は下野の押領使であつたが、この後に下野と武蔵の国を領国として与えられて、第3子(千国)を親衛隊として青木姓を与えて武門化させた。
この時、貞盛も父国香の領国の上総の国の守護を維持していた関係から、戦友として政略関係と血縁関係を持つ為に、貞盛の娘をこの秀郷の第3子に嫁がせたのではないか。
そして、誕生した嫡子に「下がり藤紋」ではなく、外父の家紋を継がせたのではないか。

その理由は、秀郷は恩賞により、貴族の仲間入りした事で、武門になった青木氏を名乗った孫には継げない家紋であるから、家紋掟により、母方の家紋を使用したものとされる。
秀郷側や貞盛側にも異論は無い筈である。

この結果、直系はもとより、直流の内の2氏が、直系の者がこの「揚羽蝶紋」を継ぎ、直流の者は分流したために「丸付き紋に揚羽蝶紋」と「丸付き紋に揚羽蝶紋に副紋付き」としたのではないか。
そして、此処で、これを証明する一族が出て来るのである。

「揚羽蝶紋」を使用しているもう一つの支流の1氏がポイントになる。

「平の正命」なる者の一族は、当初は祖先は、「嶋崎」を名乗り、又、岡田と名乗っていた。
しかし、江戸初期の頃に、兵右衛門利澄の時に旧縁の「藤原氏」と名乗り換えをし、「青木氏」を名乗った一族がある。平家血縁の藤原系青木一族である。

この一族の家紋は「丸に一文字、稲丸の内一文字、丸に揚羽蝶」の副紋付き家紋である。
時代性から見て、この一族の系譜は、貞盛の上記の青木氏に嫁いだ娘方の末裔一族と見られ、平の嶋崎、岡田と名乗り継ぎ、後に、それ故に、直ぐに縁者藤原氏に族換えして、同血筋から嫁ぎ先の青木氏を名乗ったものと見られる。
「平氏」が「藤原氏」に名乗りが換えするには「血縁」が無ければ当時の慣習として「平氏」を捨てて勝手には出来ない。

藤原秀郷は平氏とも血縁を持ち、子孫にはその家紋ところを継がせて、自らの親衛隊を務めさせている。
前レポートとあわせて考えると、主な種族と血縁を結び、小さくは各地に一族を定住させ、地方の豪族と血縁関係を持たせて文句のつけようのない戦略を敷いているのである。これでは、この一族は滅び去る事は無い。次は永嶋氏の関係について記する。 
続く。

青木研究員[副管理人]
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藤原秀郷一族の生き方-9

家紋の使用に於いても、武門の賜姓青木氏や賜姓源氏と異なり、綜紋に依って一族を厳しく取り締まり「氏家制度」を守ろうとした事に対して、藤原秀郷一族は貴族である事もさる事ながら、宗家を守る361氏の秀郷系の武門の者等は自由闊達にして子孫を増やして氏を守る戦法を取っている。
ところが、この戦法は血縁という点でも特異の行動を採っている。

それは次の二つの例に依って物語る事が出来る。
先ず、足利氏の件である。
そもそも、下野の国足利郡足利庄におこる。
この地は、藤原秀郷より4代目の兼光流から祥して、7代目の成行が下野の西と上野の国堺にある地を足利の庄と称して、この地を開拓して足利太夫と称して足利氏を起した。

成行より3代目の成俊が佐野氏を分流して起し、成俊より更に3代目の基綱(佐野の藤原の基綱)の時、平氏に味方しての戦いに敗れて没落の憂き目をうけるが、清和源氏(頼信系)の義家の子義国が藤原基綱の(佐野氏の祖)娘との婚姻関係にて誕生した「義康」を跡目にいれて足利氏の再興を図った。(本家と分家の説有り)
この源氏の跡目を受けた足利氏はその後1183年以降再び土着の豪族として成長拡大したのです。
前レポートにも記した土着豪族足利氏と清和源氏との跡目とは藤原秀郷系の足利氏であつたのです。

ちなみに、同時期に「清和源氏」は5地方の「賜姓青木氏」との跡目戦略を採り、甲斐国では「武田氏」との跡目の関係を作りました。この跡目の武田氏は元は陸奥国の住人であつたものが、甲斐に移り、力を得て豪族となり、゜「清和源氏」との跡目の婚姻関係を結んだのです。
この武田氏も、秀郷より4代目の「兼光」が「陸奥の国」の守護を務めていますが、この「兼光」の陸奥の国での血縁の者ではないかと言う説もあります。

その根拠は、移り済んだ者がいきなりに豪族になる事はありません。それなりの時間と土地の武装勢力集団等を押さえ込む勢力が必要です。
この勢力は自力の勢力だけでは無理で、「寄進系荘園制」のように何らかの「権門勢家」の力が無くては絶対に「氏家制度」の中ではなし得ません。つまり、藤原の兼光一族の後ろ楯があって、土着の豪族となり得るのです。
文頭に記した様に、武田や足利の荘園は、次の様なことで出来たのです。

当時は、荘園制の下で互いの勢力争いで没落して放置した荘園とか、弱体化した荘園主から奪い、次から次えと増やして行く傾向があり、自ら、汗水流して荘園を開墾すると云うものは少なく、殆どこの形態が主で、初期のレポートでも記した様に、この奪った荘園に少し手を加えて、「領家、本家、権門勢家」の関係を作り上げていた時代でした。これが「寄進系荘園制」の実態でした。

当然、「源平籐橘」の一つ藤原氏の特に北家の傘下にある事を誇示することで、「奪取荘園」を正当化して国司や守護に届出して大きく成長して豪族となり得たのです。
そして、遂には、「権門勢家」との血縁関係を結ぶと云うのが普通のパターンでした。武田、足利の両氏はこの典型的パターンです。
これが当時の現実の「荘園公領制」の状況なのです。

「足利氏」もこの「藤原兼光の子孫」(成行-基綱)であります。
仮に、この「武田の兼光説」が正しいとするならば、つまり、゜藤原秀郷」一族はなんと「清和源氏の頼信系」の一族と「信濃と甲斐の国」の2国で網目のように血縁関係を結んび「4つ巴」、即ち、賜姓青木氏と賜姓清和源氏と土着の足利氏、武田氏と藤原氏(兼光流)の関係が出来ていたことになるのです。
この藤原氏は佐野氏系の祖の基綱であります。この佐野氏が継ぎのテーマの永嶋氏と関係があるのです。

この「4つ巴の説」は必ずしも時代性から見て矛盾がないのです。ほぼ間違いはないと考えられます。(別途記する)
この時代は前レポート記の「3つ巴」は10年程度の間に成立した戦略ですが、少し後には、平家が滅亡して鎌倉幕府が興り、北条得宗家の時代となり、坂東八平氏の御家人も次第に滅亡して行く政治状況の中でした。

奥州の藤原氏の滅亡、清和源氏の宗家(頼光系)も衰退、鎌倉幕府に実権が移り、朝廷の藤原摂関家も衰退、など次から次へと起こる不安定そのものの中で、北家の秀郷一族としては生き残りの策を実はこの「4つ巴の戦略」に架けていたのであった。

驚くかな、「4つ巴」では実はないのである。5つ巴となるのである。
だから、藤原は強かで、柔軟な生き方をしているのです。
次は永嶋氏との「5つ巴戦略」に付いて記する。続く。

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藤原秀郷一族の生き方-8

「家紋」は当初は、好みのものとして「文様」として使われ、次第に「氏」を示す「通紋」として扱われた。
最後は文様を刻む技能の発達や寄進系荘園制や氏家制度を確立する手段として扱われるように成って「氏」を示す「綜紋」として爆発的に使用されるように成った。

ここで、「氏」の正統性や氏家制度を守る為に、「氏」の宗家は厳しく取り締まる様に成った。
しかし、武門と貴族とでは家紋の扱いが少し違っている。

藤原氏の場合を見てみる。
藤原氏の家紋は「綜紋」としては、「下がり藤」紋である。
しかし、この「下がり藤」紋を使っている「藤原四家」で見てみると、直系の藤原氏はおよそ97氏あるがその内、この「下がり藤」紋を使用している「氏」は一割程度である。
その一割の殆どは北家の藤原秀郷の一族である。

更に、その傾向として、藤の字の前に役職名を付けた左藤、佐藤、工藤、斎藤、進藤、地名を付けた伊藤、近藤、遠藤、武藤、加藤、尾藤などである。
後は家紋が「下がり」である事などを嫌って家紋を「上り藤」にすることや、家紋に色々と細工を施して、「藤紋」の使用を行っている。
「綜紋」を嫌って「通紋」としているもの、四家として明確に違いを出しているもの等に分析される。

そして、この「家紋」は144紋になる。
「下がり藤」系は30紋 「上がり藤」系は28紋(藤原系皇族貴族)「丸形の変化」系では40程度(支流系)である
秀郷流は直系、直流、支流合わせて361氏あるが、「下がり藤」紋は3%程度である。

ここでも他の「氏」と比べて、一つの特徴が見られる。
「綜紋」を中心に「氏」を守ろうとする傾向が少ない。
どちらかというと、「通紋」である。

秀郷系は正統に「下がり藤」紋を使用しているのは、貴族であるとは言え、元は武門の役職であったことから、直系は厳しくこれを使用しているが、3%から見れば僅かである。
源氏のように綜紋(武力)で厳しく取り締まるというよりは藤原氏と秀郷は子孫を増やして全体でこれを統制するという戦略に出ている。
奥州の藤原氏も一説では秀郷の子孫と言われている。
宗家以上の子孫が奥州に出来た位である。清和源氏の協力を得て東北6国を押さえたが、そして、この奥州藤原氏に対して、秀郷の一族は守護の派遣と言う点から見ても避けている。
(鎮守府将軍と陸奥を除く)
この様な子孫が出ると云う事は夫々の一族の「氏」に自由に働かしている。

史実を見ても、宗家が天下分け目の戦いに参加して一族を滅ぼすという事はなく、支流程度の一族が天下分け目の戦いに参加して滅亡の道を辿っているが、秀郷の一族の361から見ると一割に満たない。
この点に付いても賜姓青木一族は5家5流あったが、一時は大いに子孫は広げたが室町初期には支流にも及ぶ程になくなっている。

藤原秀郷とはこの「氏」を維持すると言う点でも戦略は大きく違う。
又、源氏は16流16家もありながらも夫々の宗家は滅亡し、直流子孫は無く支流のみの氏である。その支流も3源氏(清和、村上、醍醐)のみで13源氏の「氏」の影は見えない程である。

この様に「家紋」という視点から見ても、その戦略は共通している。次は史実から見た長島氏などとの関係から検証する。続く。

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藤原秀郷一族の生き方-7

奈良時代の始め頃から家具や調度品に一つの文様として用いられたのが始まりであり、正倉院の宝物にあるように草花や瑞祥的な文様が刻み込まれていた。

しかし、前6レポートでの2つの原因から爆発的に用いられるに至るのだが、家紋という形で当初は用いられたものではない。
文様を刻みこむ高い技能の取得と広まるに必要とする社会形態の変化、即ち、荘園公領制から来る寄進系荘園の発達により氏が増加して、より高度な氏家制度の完成が成されて、その一つの手段として用いられた事、この主に2つのことから「家紋」というものが氏の増加に伴い定着し始めた。

しかし、この家紋の発達は爆発的ではあつたが、スムーズではなかった。
それぞれが勝手に用いられたことから律令国家の国体に混乱が生じたのである。少なくとも、ある一定の統一性が必要である事から、桓武天皇は「家紋掟」なる指針を占めして事態の収拾を図ったのである。
それを要約して次に記する。

1 分家
「家」を継ぐ嫡子以外の男子が分家する場合は、家紋の一部に細工を施すか、丸付き紋とする。但しこの場合は「宗家」の承認を必要とする。任意の別家紋を用いる場合はこの限りにあらず。
普通はこの場合が多い。

2 跡目上位
上位の男子が養子に出て、養子先の家紋より実家の家紋を使用する場合は家紋に細工を施すか、丸付き紋を使用する。但し、この場合は「宗家」の承認を必要とする。
養子先の家紋の使用はこの限りにあらず。

3 跡目下位
下位の男子が養子に出て、養子先の家紋を使用せず、実家の家紋を使用する事と細工の施しは出来ない。
養子先の家紋を使用する場合は、宗家の承認はこの限りにあらず。

4 養子下位
娘が下位の婿を迎える場合は、娘の父方の家紋は使用できない。
この場合は、家紋の一部を変更して一時を凌ぐか、丸付き紋にするか、或いは通常は母方の家紋を一時使用する。
嫡子誕生により元の家紋に戻す。
この場合は「宗家」の承認はこの限りにあらず。

5 養子上位
娘が上位の婿を迎える場合は、娘の父方の家紋を使用する限りは問題はない。但し、婿実家先の家紋を使用するか、家紋の一部に細工を施して使用する場合は、或いは丸付き紋にする場合は宗家の承認を必要とする。

6 嫁先下位
上位の家から嫁ぎ、その先が嫁実家の家紋に変更する場合は、家紋の一部に細工を施すか、丸付き紋とする。但しこの場合は、誕生する嫡子がこれを正式に継ぐこととする。
但し、この場合は、「宗家」の承認を必要とする。
この場合は余程のことでなければ承認はない。

7 嫁先上位
下位の家から嫁ぎ、その先の家紋を引き継ぐ場合は、問題はない。

家紋を同じくするか、細工を施して使用するか、丸つき紋にするかは別として、宗家の「氏」の勢力傘下に入り、「氏」「家」を守り、家柄を誇示する事は頻繁に行われた。

しかし、これには、「宗家」の「承認」を必要とし、その獲得には「莫大な経済的見返り」と「軍事的な義務」の責任を果たす必要があつた。
現実には、小中豪族には不可能であった。
もとより、古代より鎌倉期までは「氏家制度」(男系家族制度)が守られていて、一家が変更しても親族は元より一族全体が変更していなければ意味は成さない。
宗家同士の話し合いになる。従って、大抵は別家紋にするのが普通である。
寄進系荘園制と共に、この事も「氏」が一挙(1800)に増加した原因にもなるのである。

「分家」しても「自領」を自力で獲得しなければ、「宗家」は家紋の使用は認めなかったのが普通である。
「宗家」とは実家の事とではない。氏家制度の「総元締め」である。つまり、本流中の本流の事である。「支流」の「本家」が「宗家」に伺いを立てるのであるから、大変なことである。
「本流家」の家紋は家柄と純血を維持する目的から容易く広げなかった。

ちなみに、足利(梅鉢紋)や武田(武田菱紋)は清和源氏の支流であるが、清和源氏の者が土着の豪族に跡目に入る事で支流源氏となる。つまり、この場合は、2或いは5であるが「笹竜胆」系の綜紋家紋ではないので、5番の血縁関係を結んだことになる。
明らかに、支流氏である。

笹竜胆に丸付き紋、「丸に笹竜胆」の家紋は1或いは2番であるが、大抵は2番である。例えば、村上源氏の北畠氏はこの2番の支流一族となる。足利などと違う所は土着かそうでないかの違いである事からこの様になる。北畠氏は朝廷の学問所であり、上位族からの出自である。
この様に、家紋掟や家紋や綜紋など、或いは家紋の細工などでその氏のルーツが詳細が判明するのである。

この様に、「宗家」は実に厳しく掟の維持に当った。「宗家」の指示に従わない、或いは、意にそぐわない行動を取るなどした場合は武力をもって攻め滅ぼすという手段に出たのである。
それが、親兄弟は元より、親族や支流の一族まで管理管轄して潰しに掛かった。保元、平治の乱は真にこの一例である。
次は、この家紋に関わる知識を元に藤原氏の事に話を戻す事にする。
続く。

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藤原秀郷一族の生き方-6

家紋は奈良時代から用いられていた。しかし、この時期まだ「氏家制度」のなかでの「氏」を現す手段と言うものではなかつた。

当時は、主に自ら使用する家具や調度品に趣味的に草花や昆虫などを一つの文様にして刻みこむ程度であり、それが次第に、夫々の親族も真似をして好きな文様を色々な道具や武具などに用いられた。
その内に、その文様が誰の物であるかという代名詞のような扱いになってきた。

しかし、此処でこのような文様を刻みこむ技能のもった者が少なく一般には利用されず主に天皇やその周囲の皇族の一つのステイタスの手段としてのみに使用され楽しみの一つとして興されていた。
例えば、正倉院の宝物などには多くの「文様」が垣間見ることが出来る。
これはまだ、「家紋」としての扱いでもなく、単純な「文様」として使用されていたものである。

しかし、ここで大きな変革が起こった。450年から650年頃までに大和の国に入った中国の後漢の高武帝の21代目の末帝の石秋王の子の阿智使王と孫の阿多倍が帰化して来た。
(阿多倍一族のことは別レポートに詳細記載参照)
この集団は17県に(200万 殆ど一国)の人民が450年ごろから約200年にわたり続々と入国してきた。
(九州から中国地方へ関西へと一族を遺し入植移動し最終は信濃甲斐国に開拓民として入植)

この集団は、軍事、文化、技能、政治知識など世の成り立ちに必要とするあらゆる高い文化力を持った人たちで構成されていた。
現代の日本の第1、2次産業のみならず、国体を定める政治体制手法までもその基盤を作り上げたのは、取りも直さずこの集団の知識と力の所以である。
この集団の中には物を作る優れた技能の集団がいた。そして、その集団は「部」という形で構成され統制されていた。
全ては蘇我氏の管理管轄下にあり、この為に蘇我氏が天皇を凌ぐ勢力を保持したのである。(大化の改新の主な理由)

ちなみに、家紋を作るに必要とする者たちは次の通りである。
鍛冶部、金作部、鏡作部、石作部、玉作部、工部、土師部、陶部、弓削部、服部、綾部、錦織部、倭文部、麻績部、衣縫部、赤染部、茜部等の手工芸の職人集団が居た。(部の呼称は割愛する。後には姓となる)
この集団の技能が、家紋と言う文様を刻む能力を容易に高めて、一度にその文様が「氏家制度」の氏を表す手段へと爆発的に進んだ。
そして、蘇我氏の手から離れて「公地公民」となった大化改新期ごろから進んだ。

最終は、この爆発が更に「荘園公領制」の影響を受けて寄進系荘園制へと進行し、開発領主、領家、本家と云う荘園を元に集団的保護関係が成立する至り、「源平籐橘」の「本所」や「権門勢家」の天皇家や大神社仏閣の一連の形態が確立した頃からである。
このことで爆発的に大中小の氏(豪族)が生まれた。

そして、「本所」や「権門勢家」の保護下にある事を誇示する手段として、この「家紋」(通紋)が用いられてきたのである。
「家紋」を示す事でどの系列の保護下にあるかが判り、不輪の権と不入の権を基に多族から身を守ったのである。
平安初期の頃のこの時には奈良時代には40程度の「氏」しかなかったにも関わらず、1800の「氏」に爆発的に増大したのである。
この爆発の元と成ったのは、勢力権域を示す「家紋」が阿多倍の一族の技能集団の成せる技の所以なのである。

例えば、いくつかの例をあげて見ると次の様な経過を辿っている。天皇家の天子は当初は、「通紋」として、「龍紋」を使用していた。
その内、「桐紋」(五三の桐)を使用するに至り、その所以は桐は瑞鳥鳳凰の止まる木と云われて「瑞祥的意義」に基づいた。
「桐、竹、鳳凰」の一組の文様が天皇に用いられる様に成ったが、
後には「桐」だけとなり天皇家の家紋と成った。

又「菊紋」は「延命長寿の薬餌」であり、その効能を意味して「桓武天皇」が主に用い始めた事から「皇室紋」と成った。上記の天皇家の「権門勢家」の下にある「氏」は挙って、「桐紋や菊紋」の一部を変更して使用するように成った。

この様に、「菊や桐紋」の変紋が使用されている「氏」は、この天皇家の「有縁者」か保護下に有った大豪族氏を意味する事になる。
例えば、足利氏は天皇から「菊紋」の使用を許されたし、豊臣氏は「桐紋」の使用を許された。

天皇家の「権門勢家」の者は皇族系の血縁者が多かった。
「賜姓伊勢青木氏」は天智天皇より初代に「青木氏」を賜った「氏」であることから「通紋」として、「笹龍胆」を使用した。その後に5家5流に成った頃から、「綜紋」として必然的に定めた。
上記した様に、奈良時代には既に「龍紋」は「天子紋」として「通紋化」していたこともあり、この「龍」と「竜胆の花」とかけて、葉は笹に似ていることから、皇族の出自を意味する「家紋」として「賜姓紋」としたのが由縁である。
嵯峨天皇の源氏紋の「綜紋」も同じ意味を持つ同族の皇族紋として16代(賜姓青木氏を入れると21代)に渡り使用されるに至った。
これが、後には源氏だけの綜紋として見られ、あげくは清和源氏の「家紋」とのみ見られているふしがある。

「氏」を表す手段として「家紋」として多くの者が用い出したのは「桓武天皇」の天皇家の「紋所」を定めるに至った時期からである。

桓武天皇は阿多倍一族の力を借りて日本の律令体制を確立した偉大な天皇でもあり、この意味からも、氏家制度の社会体制の確固たる
確立を成し、画一する目的からも「家紋」の使用を率先して使用したものである。
この時、この家紋の使用にあたる秩序を帰する為にも「家紋掟」なるものを定めて、民に知ら占めた。

参考 桓武天皇の母は「高野新笠」という阿多倍の末裔であることから、賜姓青木氏の牽制もさることのみならず、より強い能力の持った母方の渡来系一族の引き上げが国体の完成により近づく事も考慮に入れて、桓武天皇は桓武平氏を賜姓した。
「揚羽蝶」のこの家紋は、当初、桓武平氏が好んで「通紋」としてよく調度品に使用していた事から、賜姓に及び「綜紋化」したものである。
「揚羽蝶」は奈良時代からよく用いられたもので、正倉院宝物に多く用いられている格式のある文様から、この渡来系の桓武平氏、即ち、京平氏が用いたものである。
この「家紋」方式そのものを広めたのも渡来系の先祖の技能集団の「技」の由縁とするところである。

「綜紋と通紋」が劇的に増えた時期にこの「家紋」について争いが生じるに至る。そこで、夫々の氏の「宗家」はこの問題の解決に「家紋掟」を使って厳しく「氏」の「正当性や純潔性」を守る為に動いた。
次は、「家紋掟」なるものを記することにする。続く

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藤原秀郷一族の生き方-5

藤原氏北家の藤原秀郷の生き方には前記した様に、一つの生き方がある。この生き方が361氏にもなる子孫を遺し、厳然たる勢力を誇っている。述べるまでもないが、渡来系京平氏の32/66領国を持つには及ばずとも、17の守護地又はそれに類する官職を保持し、関東と中部の一部を領するほどに勢力を持っていた。

実質は武蔵国と下野国を本領として居るが、多分にして、「源平籐橘」に例えられるように寄進系荘園制の影響を大きく受けたものではないかと考えられる。

しかし、この藤原氏も鎌倉前期には生き方の失敗から伸びた支流が領国を失うと言う事態が出ている。結果しては、源の鎌倉幕府の樹立後、「本領安堵策」で生き延びたと言う氏が多く居た。
全体としては安定した生き様ではあるが、中には消えた者もある。

賜姓青木氏の様に土台が衰退すると言うことは全くないのである。
このような藤原秀郷流一族に、特に、現代の位置から見た場合に青木氏に不思議な現象がみられるのである。
それは前レポートの記した4つの疑問点である。

この4つの疑問点を解決してみると藤原秀郷氏の生き方の元が見えてくるような感じがする。
レポート1に記する5つのテーマに対して生き方を進めて来て、4つの疑問に直面したのだが、この4つ疑問点をテーマ4、5と共に組み合わせて3回で解析する事にする。
(テーマ4、5は家紋と時代性である)

この種の文献や資料の史実は探したが全く見つからない。
そこで、この4つの疑問点が過去の当時の社会通念でこれを紐解きして見て、其処に疑問点や矛盾点が無ければ正解という答えが出て来る筈である。

先ず、この4つの疑問点を解くには当時の家紋と言うものに付いての考えとそこにある掟を解析してみる。
先ず、家紋を理解しておく必要があるので次に記する。
家紋であるが、家紋には次の言葉がある。

1 「綜紋」であるが、大きい氏の場合にどこの氏か判らないので共通の家紋というものを決めている。例えば源氏は16源氏あるが、別々に家紋を持つと源氏一族であると言うことが判らない。その場合に、共通紋を決めて於けば判るので、同族の賜姓青木氏と共に「笹龍胆」としているのである。各家氏ごとに綜紋の一部に手を加えて、違いを出す方法である。皇族や貴族や大豪族の社会の中で奈良時代の古代より使用されていた。

2 「通紋」であるが、全体として、家紋ではないが、家具や丁度品などに模様として気にいった文様を入れていたが、それが親族に広まり一般化した文様となり、これを家紋的扱いとしたものを云う。氏を表す手段として確立していない時期の方法方に用いられた家紋を云う。家紋を「令」として定めた800年頃(桓武天皇期に)までの間の期間に豪族社会の中で、皇族に見習って使い始めた。

3 「副紋」であるが、「通紋」を家紋扱いとして用いた時期から、この方法に家氏を区別するために違う文様を主紋の上下のいずれかに加えて違いを出す方法である。例えば多くの支流の出始めた頃の同じ藤原氏でも361氏もあるどの流れの藤原氏か判らなくなって来た時期(1350年頃)に用いたものである。

4 「表紋と裏紋」であるが、対外的には家紋として提示するが、実態は敵味方がある氏家の場合、表紋を出すことで敵対する他の族から責められると言うことが合っては困るようなう氏家が、上手に使い分けをして中立的立場を保つと言う工夫のために主に使用された。又、表紋の氏家の違いを表す一つの手段にもした。小さな地方豪族が生き延びる為にも多く用いた。1800程度もの最も氏家の多くなった平安後期以降に用いられ始めた。

このように家紋には4つの形式があるので、その紋がどの紋方式かでね何時の時代のどの程度氏で、どこの国の氏で、どの系列の下に居たのか等、このことを知る事で判明して行くのである。
更には、この形式の上に「家紋掟」という慣習があり、この慣習でどの様な歴史の経歴を持つ氏か判明もし、主支流の区別も着くなど深く判定が可能になるのです。次回はこの「家紋掟」と「家紋の歴史」について例をあげて記することにします。続く。

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藤原秀郷一族の生き方-4

寄進系荘園制に依って藤原氏のよこの関係がより大きく広がりを見せて、その結果361氏もの支流の裾野の広がりを作り上げた。
その中で、藤原秀郷流の青木氏と各氏の関係の内容を調べてみると面白い結果が見えてくる。

先ず、次のことに注目すると、
第1 直流青木氏の4氏の家紋が揚羽蝶紋か、丸に揚羽蝶に副紋がつく。
揚羽蝶紋は京平氏の共通紋つまり、綜紋である。
藤原氏の北家秀郷の青木氏が何で平氏の支流紋なのか。

第2 藤原秀郷(958)の子孫の14代目の行長(1210-1230年頃)が永嶋氏を名乗っている。
佐野氏族の永嶋氏と、結城氏族の永嶋氏の2流がある。(兼光系)

京平氏と同族の永嶋氏は、次のところから発祥している。
後漢の末裔の渡来系阿多倍は敏達天皇の曾孫芽淳王の娘を娶。その3人の子供は、天皇からその功績に対して賜姓を賜り坂上氏、大蔵氏、内蔵氏を名乗る。(研究室参照)
この大蔵氏の子孫(10代目種材)が九州の大宰大監となり、「遠の朝廷」として九州全体を統治していた。
(帰化後、九州を制圧しそこを元祖の阿多倍の基盤としていたのであった)
この子孫の初代大蔵氏より17代目の種秀(1200-1225年頃)が永嶋氏を名乗っている。
殆ど同時期に両者が永嶋氏を何故名乗っているのか。

第3 更に、調べると、次のことが判る
藤原秀郷一族の支流の青木氏の主流4氏のうちの一つに元は平氏であり、嶋崎氏を名乗り、後に、岡田氏最後には藤原青木氏を名乗っている。家紋は矢張り、丸に揚羽蝶と副紋である。
この一族は361氏の中でかなり多くの支流を増やしている。

第4 藤原秀郷より7代目の成行が足利氏(1100年頃)を名乗っている。(兼光系)
信濃国の足利氏である。
そして、この成行より7代目の広安が永嶋氏(1220-1240年頃)を名乗っている。(兼光系)

361もの氏族を持つ藤原秀郷の子孫一族は源平籐橘と云われるほどに大氏族であるが、他の大豪族との血縁も結んでいる。それも敵に相当する氏族とである。
天皇家はもとより、16源氏とはもとより藤原血筋縁である。
京平氏とは第3での血縁で結んでいるし、超大万能集団の渡来系阿多倍族となんらかの繋がりを以っている事は見逃せない。
ましてや、家紋までが藤原族の青木氏と同じである。
これらの事は寄進系荘園策の影響からなのか、何からなのか検証して見る必要はある。 続く

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藤原秀郷一族の生き方-3

生き方-2では3つの条件(家柄、慣習、名誉)は賜姓青木氏に勝るとも劣らずありながらも、361氏もの子孫を増やし、領国の守りも身内で周囲を固め、尚且つ、役目柄の赴任地には子孫を残してくるという戦略がみられ、賜姓青木氏と大きく異なるところである。
何はともあれ361氏の本流支流は別にしてもこれだけの一族を抱えることだけで、どんなことがあっても子孫は十分に遺す事は確実である。

世に当時は、中小の豪族は、「源平藤橘」といわれてこの傘下に入る事で一族の安全を図ると云う戦略が採った。
当時の氏は最大で1800程度に氏が拡大した。その原因は上記した戦略に大きく原因している。

その方法とは、荘園公領制の下で中小の豪族は自らの力で荘園を開発した場合、この荘園を周囲の勢力から守る為に名義上、勢力の大きな「領家」に寄進し、その勢力で守ってもらう方法を採った。
これには大寺社や中央貴族に名意義上の領主になってもらう事をした。更に、この大寺社や中央貴族は更に上の「本家」に預けると云う二重の方法を採った。この本家には天皇家や摂関家や上記の「源平籐橘」(源氏、平氏、藤原氏、橘氏)等に頼った。

この様に、「寄進系荘園」を各地で多く出来て、不輪の権や不入の権を得て、中小の豪族は身を守ったのである。このために、「氏」の発生が一挙に拡大したのである。

このような背景の中で、藤原氏は大きく勢力を伸ばして来た。
361氏は大きくはこの戦略に関わったことが原因していると思われる。
それは、家紋を見てみると戦国時代の終焉期の家紋200選の殆どが存在する事、そして、それ以外の小族の家紋も目立つ。

その結果、守護地やそれに近い役職やこの寄進系荘園を守る為に出した武装勢力が関東地方中心に西は遠くは北九州の豊後国、北は陸奥国まで17地方に及んでいる。

この戦略は経済的にも恵まれ、いざ戦いの時は大きな軍事力にもなる。当然に、この軍事力を保持するために青木氏などの直系、直流の一族が各地に分散し、藤原秀郷流の5氏の中でも最大の勢力の116氏にもなったのである。全てが上手く発展のサイクルが働いている。賜姓青木氏の千変万化の呈ではない。
ここにも大きな違いがある。

秀郷流青木氏の初代の祖の秀郷の子供の千国に始まり、17代後には青木氏の跡目を継いだ行久の直流の青木氏と、その4代目の行信の直流の青木氏の計4家が存在する。
鎌倉中期以後に出来た支流の青木氏の4家が存在する。
この計5家の青木氏を中心に支流の青木氏とあわせて九氏の青木氏から上記の戦略に絡んで116氏の青木氏へと繋がったのである。
この116氏の青木氏に対して、他の4氏の発祥期は秀郷から数えて進藤氏と長沼氏は約120-150年程度の後であるので、氏の数は少ないのである。秀郷の持つ青木氏の信頼度が垣間見ることが出来る。
寄進系荘園制の政治的な動きを大いに利用する戦略がレポート2で記した赴任地に子孫を残してくる戦略とあわせて相乗的効果として働いたのである。続く

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藤原秀郷一族の生き方-2

藤原秀郷流の5氏は同時に分流したのではない。
1の問題に付いて検証する。
最初は青木氏である。秀郷が恩賞として貴族になり、下野国と武蔵国の守護となつた。(940年)この時点で、貴族が武力を使う事は出来ないし、2つの領国をもったために武装集団を強化しなくてはならない。そこで、5人の子供に対して第3子(第4子)より青木氏を与えて先ず護衛集団した。
5人は千時、千春、千国、千種、千常の5人男子である。

千時は鎮守府将軍に、千春は相模介に、千常は左衛門尉に、後に鎮守府将軍になつた。千国は父秀郷についで武蔵国守護になつた。

この千国系の一族が直系青木氏を名乗り、武蔵の国の入間郡青木村に住まいした。
千常からも7代目の行久が直流青木氏を出し、武蔵の国榛澤郡青木村に住まいした。
その行久から4代目行信が直流青木氏を出し、武蔵国北足立郡青木村に住まいした。
この青木氏は更に直流として4氏に広がり、2氏の青木氏が武蔵国横浜神奈川字青木に住まいしたと成っている。

このことでも判る様に、武蔵国を周囲から青木氏で固めているという事である。
他の長谷川氏、進藤氏、永嶋氏、長沼氏ではなく、116氏の最大氏を持つ青木氏が中心と成って本拠地を守っている事になる。如何に宗家本家が信頼し親衛隊の役目を持たしていたかが判る。
同じ親衛隊でも賜姓青木氏とは、本拠地の固め方が全く違う。
藤原氏は戦略的である。

賜姓青木氏は別レポートで述べた様に、藤原氏と異なり同族の源氏に頼りすぎたことが子孫を遺せなかった原因であることが判明する。一族から直流ないしは支流を出して守り固めるという戦略が無かった。ましてや、天皇の親衛隊であるのに疑問を感じるほどである。これでも同じ藤原氏とは家柄、慣習、名誉が同じ程度であるはずなのに、この3つに頼りすぎていたことを意味する。

現に、長谷川氏を始めとする4氏は秀郷一族の勢力の及ぶ範囲の鎮守府の地に又は、14の守護地に、更には各地の住居地に分散して配置している。
361氏という集団を持つ勢力全体を人口にすると大変な数になる。
そして、その人口を満遍なく武蔵を中心に関東と中部東、北は奥州の一部までを円を描く様に、守護又はその役職に近い形で固めて配置している。そしてその守護地に必ず子孫を残して来ている。
その最たるものとして挙げると遠方の福岡県福岡市付近の2ケ所に守護の任期の後に青木氏の子孫を残してきている。明らかにこれも戦略である。藤原氏流青木氏116の配置関係を調べると明確になる。

更に、この一族361氏には、次の家紋が目立つ。
直系直流の青木氏の家紋を見ると一つの流れが出て来る。
これ等の一族は副紋つき揚羽蝶、又は丸に揚羽蝶を家紋としている。
ここで注意すべき事は「揚羽蝶」は京平氏の綜紋であり、それが何故藤原氏の紋になるのかである。

そして、もう一つは家紋200選に出て来る紋に満遍なく361氏の家紋が存在すると言うことである。
このことは上記の戦略と同じ事がいえるのではないか。血縁による身内の固め策である。
最たるは青木氏の家紋の特徴である。平家の綜紋と同じ「揚羽蝶」であるので、950-1150年頃の時代の戦略の影響かと考える。後で述べる

青木氏のこの直系と直流から多くが分派して子孫の範囲を広げている。
支流系として時代は比較的に新しいが、更に4氏が存在する。
中には平氏の一族の者が嶋崎を名乗り、後に岡田を、最後には藤原青木氏を名乗った支流がある。揚羽蝶紋と関連があるのでは。
後に述べる。
全青木氏は合わせて9氏になる。
この9氏が更に時代と共に116の青木氏へと広がった。
武蔵国を中心に円を描くように配置されたこの青木氏は藤原氏のこの戦略の役割を同果たすか。
続く

青木研究員[副管理人]
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藤原秀郷一族の生き方-1

藤原秀郷の一族の内容を先ず検証して見る。

1 藤原秀郷流は主に5氏によるが、この5氏がなんと361氏に分流している事。
この内訳は秀郷から4代目の文行流と兼光流の二つに分けられる。
この2流は次の通りである。

文行流  進藤氏 長谷川氏 (進藤系が利仁流進藤に2分する)
兼光流  長沼氏 永嶋氏 青木氏

①進藤氏は48氏に分流
②長谷川氏は111氏に分流
③長沼氏は52氏に分流
④永嶋氏は34氏に分流
⑤青木氏は116氏に分流

これほど子孫一族を繁栄させた氏は日本全国を見ても少ない。
361氏の持つ意味はどのような事を示すのか。

2 次に秀郷の子孫が守護又はそれに近い役職にどれだけ関わっていたかという問題である。
この内容は次の通りである。

①相模、②武蔵 ③睦奥 ④美濃 ⑤下野 ⑥上野 ⑦淡路 ⑧加賀 ⑨豊後 ⑩備後 ⑪駿河 ⑫筑前 ⑬能登 ⑭飛騨 ⑮伊予 
⑯対馬 ⑰越中

秀郷本家は代々は鎮守府将軍である。
この守護先が17もあるという事は多くの意味を持つ。

3 次に上記の元祖は誰であるかという事を調べてみる。
①進藤氏は行景   6代目
②長谷川氏は宗重  16代目
③長沼氏は考綱   7代目
④永嶋氏は行長   14代目
⑤青木氏は行久   17代目

初代か跡目かは不明であるがこのように成っている。

余り多い氏なので主流だった氏を記する事にする。
秀忠-大屋 成俊-佐野 成行-足利 兼行-渕名 行尊-太田 
政光-小山 親実-松野 景頼-近藤 知弘-尾籐 公清-佐藤
朝光-結城 宗政-中沼 行義-下川辺 重光-滝口 叙用-斎藤

右は藤原の名前 左は支流
この361の支流が何倍と成って繁栄している事になるし、人口にしては大変な数であろう。
この意味は子孫繁栄にどのような意味を持つのか、大きなものを感じる。

4 家紋は色々な血縁のつながりや歴史の事実など重要な史実が判明する要素である。この家紋がどの様な傾向をもっているのか分析して見ると一つの答えが出て来るものである。

361の家紋がある事になるので此処に記することは出来ないが、綜紋は何であるのかを絞って調べる。綜紋とは大きい氏の統一した家紋又は氏紋と言うものである。それと家紋には表紋と裏紋とがあるので、この様な事を調べると血縁の歴史的な氏同士の戦略が見えてくる。

5 家紋と当時の時代性を合わせて検証を進める。
 時代性は都度書き込むことにする

このような事を分析して次のレポートから記する。続く

青木研究員[副管理人]
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藤原秀郷一族の生き方

皇族賜姓青木氏の弱点を記述しましたが、宿命的な立場から時代の変化に翻弄されて衰退と繁栄を繰り返し、遂には家柄と慣習と名誉を無視する「下克上」の時代で殆ど滅亡に落ち至った。
この3つのことが子孫を多く遺すということにも難しさがあつた。

必然的に、源氏などの同族との血縁を交わす事以外になかったことが時代に翻弄された原因なのである。幸いにして伊勢は天領地でもあり伊勢神宮という不可侵の地でもあつた事が幸いした事と、いち早くこの「3つのしがらみ」から脱皮して「族」に頼るのでは無く、「2足の草鞋」に切り替えたことが瀬戸際で生残れた二つの要件であつた。

他の近江、美濃、信濃、甲斐の賜姓青木氏は不幸にしてか現代から見ると最悪の状況を選んでしまったと云える。何か時代がその様に仕組んだかの様にドラマチックである。そのドラマチックな歴史上の人物の織田信長に4家全部が丁度申し合わせたかの様に、あの個性で打ち砕かれたのである。青木氏だけではなく、支流源氏の一族でさえ滅亡したのであるから。たとえ、伊勢の青木氏の様に「2足の草鞋」策で生き延びようとしても無理であっただろう。
ここで、信長の性格は比叡山の焼き討ちの例にもみる様に激しいものがあつたが、しかし、伊勢の地だけは無理であつたのではないかと想像する。
それは何故なのか。

一つは、大儀名文が立たなくなると見たのではないか。民衆の天皇と言うものに対しての感情がいくら「下克上」とは云えども許さなかったのではないか。現代に於いてでさえある事を思うと、仮に、幕府を作ったとしても支持が得られないと見ていたと考える。

その証拠に伊勢永嶋攻めの後の伊勢松阪攻めは信長の意を汲んだ秀吉であっも、蒲生氏郷なる人物を送り込んだという事も含めて、極めて温厚で緩やかであつたし、その後の扱いも含めて同様である。
この事が伊勢という土地柄の所以である。
そこで、この賜姓青木氏に対して、藤原秀郷流青木氏はどの様であったかに付いて興味を持つ。

そもそも、藤原鎌足から秀郷まで八代で315年程度の間であるが、誕生は大化改新という同じ時期である。
秀郷流青木氏の誕生は秀郷の子の第4子より青木氏を名乗らせると言う方式にしたのだが、この場合も賜姓青木氏と同じ理由による。
平の将門の乱の恩賞の一つの貴族にするという条件から自らが武装すると言うことは慣例より出来なくなる。

故に関東の藤原氏を護衛する武装集団を身内から作るという策から天智天武期の朝廷の方式の賜姓青木氏臣下策を同じ藤原氏の血筋を引くという事から、踏襲して生まれたものである。
つまり、どちらも時代は違えども同じ発祥源からである。
しかし、余りにも生き様は違う。この事に付いて次レポートから検証して見る。
続く。

青木研究員[副管理人]
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埼玉県比企郡吉見町の青木さん

りょうちゃん
私の親父の実家は埼玉県比企郡吉見町とういところで、
家紋は確か丸に梅鉢のはずなんですけど、先祖はどんなかんじでしょうか?
お分かりでしたら教えていただけると幸いです。

青木研究員[副管理人]
貴方の御姓が判りませんので推測の域を脱しませんが、このサイトは青木氏であるので青木氏として検証します。

情報は少ないので、より不確定ですが、3つの情報を元に推測します。
1つ目は埼玉県比企郡です。
2つ目は丸付き梅鉢紋の家紋です。
3つ目は仮定青木氏です。
先ず、1つ目は土地ですが、この比企郡は北足立郡と入間郡に隣接する土地ですが、その前に藤原氏のことに付いて前情報を記します。

入間郡は藤原秀郷が「平の将門」を朝廷の命により、打ち滅ぼした功績で与えられた領国です。
下野国(栃木県)と武蔵国(埼玉県)です。
そして、藤原秀郷は貴族にもなりました。この時、2つの領国を持つ領主になりましたので、他国からこの2国を守る為に、自分のみうちから確実な護衛の武士団を持たなくてはなりません。
秀郷はそれまでは、下野国の朝廷より送られた押領氏(警察軍隊)でした。(貴族は武力を使えない掟がある)
そこで、秀郷は次ぎの事を踏襲しました。
大化改新の時に天智天皇は蘇我氏が天皇を凌ぐ勢力を持ち、天皇家を軍事と経済と政治の3権を握っていまにも天皇家に変わろうとして色々と策を巡らしていました。これに気がついた中大兄皇子(天智天皇)は「藤原鎌足」の協力を得て実権と天皇家を守ることに成功しました。
この時、改新の一つとして、軍事面の弱体を反省して、自らの皇子の内の第6番目の皇子(施基皇子)に「氏」を与え、「青木氏」として臣下(皇子の身分より侍にして氏を与える)させて身内の護衛集団を作りました。
5代の天皇がこれを実行しました。一代目の伊勢青木氏を除き、4代は藤原氏の血縁の皇子でした。
秀郷は鎌足から8代目の子孫です。(藤原氏は4家あり最も勢力のあつた北家と言う一族です)嵯峨天皇期から令により皇族以外の者が青木氏を名乗ることを禁止しました。
そこで、秀郷はこの方式を朝廷の承認を得て護衛集団を自分の5人のうち第3子(千国)に青木氏を与えました。これが、秀郷流青木氏なのです。
この青木氏は116氏ありますが、主流は直系直流あわせて5氏で、支流は4氏あります。詳細は研究室を参照してください。

1つ目の土地ですが
秀郷はこの身内の5氏の青木氏に武蔵国の入間郡を中心に配置しました。この内の支流4氏はこの土地より周囲に更に配置したとされています。上記した比企郡は郡堺ですので、支流の青木氏であります。

次に家紋ですが、
この家紋を保持している支流4氏中の一つに当ります。
116家中に1氏あります。直流は主に「揚羽蝶紋」類です。
藤原秀郷の兼光流の支流 青木正胤(1150-1200年頃発祥で、江戸時代の名を記する)なる者がこの末裔にあたります。
この一族が「丸に梅鉢紋」を使用しています。
秀郷より4代目の兼光流から直流と支流の青木氏が出ています。

この家紋は全国の大豪族の名家を表す「家紋200選」のうちの一つです。鎌倉期には藤原氏の一族として働き、室町時代は戦国時代であつたので不詳ですが、江戸時代は、御家人で、代々御台所人で、後に綱吉期には組頭になります。
3つの情報からはこの範囲のルーツが判明します。これが正しいとして、貴方のルーツはこの末裔に当るものと思います。
もっと宗派などの詳しい情報があれば、更に確定します。
何か質問があれば返信してください。

りょうちゃん
詳細に教えて頂きありがとうございました。
申し遅れましたが、私の苗字は「青木」です。
それから、宗派のことですが、確か「浄土宗」だったような気がします。
自分の先祖がこんな歴史上の人物とは思いもよりませんでした。
更にご質問させて頂ければと思いますが、現在において私と同じ藤原秀郷の末裔で著名な方はいらっしゃいますか?

青木研究員[副管理人]
早速の御返答有難うこざいます。
宗派はその一族のルートを確実に証明するものです。
特に、浄土宗は法然ですが、この宗派は特別の者しか入信する事ができませんでした。だれでも入信することが出来ない宗派で、入信した人々は限られています。

各宗派は時代性と家柄を示す良い情報なのです。
浄土宗は皇族や貴族や上流階級の武士の人々が入信した宗派です。
故に、宗派の中で最も信者が少ない派です。
江戸時代になって徳川幕府がこの宗派を保護するために奨励しました。
貴方のルーツは平安中期から後期のことになり、且つ、藤原秀郷氏の一族ですので、間違いなく日本のどの氏よりも、貴族又は高級侍(武士)ですので浄土宗であります。高級侍とは皇族賜姓青木氏や賜姓源氏や藤原氏の一族や平氏や橘氏等です。
いくら藤原一族であるとしても、宗派か家紋が異なると偽となります。上記しました様に、江戸時代に浄土宗を奨励したので一部は一般の人でも家の宗派が浄土宗としている氏もありますが、鎌倉以前の一族先祖がこの宗派であれば間違いありません。

貴方の先祖は確実に藤原秀郷の第3子の千国の直系青木氏が分流して兼光流から生まれた支流4氏の一つの青木氏である事がこれで確実になりました。
貴方の青木氏の一族は東北6県を除き、中部地方まで藤原秀郷の子孫が守護として赴任した各地に定住しています。支流分家筋です。
その一族の中でも、武蔵の国に定住していたとすると、かなりの本家筋にあつたものです。支流本家筋は当時の慣習からは本拠地を動きません。氏家制度のなでは嫡子以外は分家して地方に役職などで赴任して定住します。各本家が集まってその中の更に本家が宗家となります。
ご質問ですが、今、現在の人では思い浮かびませんが、江戸時代には大名が出ていますが、この家系に矛盾が多くあり、殆ど確定は出来ません。
青木氏は平安初期の令で名乗ってはならない氏でしたので、子孫は他の氏に比べて少ないのです。が藤原氏のなかでは116氏になり最大です。秀郷の氏は361氏になります。代表的な氏は5氏あります。
(名家200選の氏ですので少ないので、現在著名な人はいないのではと思います。私も藤原秀郷流青木氏の支流青木氏を調べていましたが、これで4氏中3氏が現在も存在していることが確認できました。)
秀郷より4代目の文行流と兼光流に分かれます。
文行流は進藤氏、長谷川氏、兼光流では長沼氏、永嶋氏、青木氏です。

研究室を一度先祖の生き様をレポートしていますので、ルーツを知る上で面白いと思いますので読んでください。

りょうちゃん
更に詳細にお教え頂き本当に有難うございました。
私は現在両親と3人で父の実家の隣町の埼玉県吹上町という所住んでおりますがこの町の昔から住んでいる「青木」はほとんど吉見町
から移住してきた人達だと親から聞きました。
また、私は過去に埼玉県内の農家の方等と仕事上のお付き合いがありましたが、「青木」の姓の農家の方は私が知る限り「北埼玉郡騎西町」「北埼玉郡川里町」「大里郡妻沼町」いますがこれらも私と同じ先祖をもつ方達なのでしょうか?
家紋、宗派は不明ですが・・・
いずれにしても本当に有難うございました。

青木研究員[副管理人]
そうです。最終的には藤原の秀郷にたどり着きます。
その前に秀郷の4代目の兼光の所に、直流と支流ともたどり着きます。ルーツは同じです。
但し、子孫は枝別れして行きますので、本流と支流(嫡男と弟)に当然分かれて行きます。
又、当然に母が異なる場合があり、本妻と側女、身分の上下ある母
等で本流となるか支流となるかの違いは生じます。
昔は男系家族による家系ですので嫡子以外は全て分家して家を作ります。そして、更に、分家して支流が増えてゆきます。これが、116家にもなったのです。又本流の本家も同様です。
しかし、幹の本家は一本に繋がって行きますし、分家も支流が大きくなると分家の本家も出てきます。
支流が集まって「支流本家」が出来、その本家が又、多く集まって本流にたどり着き、「本流宗家」が出来ます。
これが「氏家制度」です。この制度で社会が統制されていました。

この宗家は絶大な権限を持ち、場合によっては宗家の意に従わない場合は支流本家一族を武力で潰す事などが頻繁に起こりました。
秀郷のルーツの青木氏は直系の1氏と直流4氏と支流4氏に分けられます。これが枝葉に分かれて合計116氏になったのです。

直系1氏が宗家で、直流4氏が分家で、この直流より分流した支流4氏の分家になります。この9氏のうち8氏までは藤原の兼光にたどり着きますし、更に、千国(千常)に、秀郷にたどり着き、村雄、豊澤、成行(秀郷の祖祖父)にたどり着き、魚名、房前、不比等、鎌足にたどり着きます。

貴方のお家の発祥は確かではありませんが秀郷から10代目位のところではないかと考えます。鎌足から18-20代目くらいと考えます。

昔は、今と違って「氏家制度の社会」ですので、この流れを確実に把握していなければ生きては行けません。自分の家の位置がどこにあるか知らなければ分家本家の区別がつかなくて問題を起しかねません。場合に依っては潰されますので、大きな問題は伺いを本家や宗家に立てるなどしていました。

ご指摘された武蔵国の各地の青木氏同じ秀郷流青木氏です。
入間の青木氏を中心に血縁の縁者です。

当時は他の一族が秀郷一族が固めている地には余程のことが無くては入れませんし、また他国や他地方から移動する事は「国抜け」と云って見つかれば殺されます。抜けると一族で固めた国は滅びます。直さら集団では無理です。これが氏家制度の掟なのです。

秀郷は宗家を守る為に護衛隊の青木氏は入間を中心に秀郷一族361氏のうちで、先ず周囲を5氏の護衛隊の青木氏で固めています。
武蔵国北の入間郡に直系青木氏(1)、北足立郡に直流青木氏(2) 武蔵国の横浜神奈川に直流青木氏(3)、榛澤郡に直流青木氏(4)、麗羅郡に直流青木氏、(5)比企郡に支流青木氏(6)、下野国に近い他の2郡(北埼玉郡と北葛飾郡)にも宗家の命で2つの支流が入りました。
お尋ねの北埼玉郡の方々は支流一族ですので、比企郡の青木氏とは氏支流は異なっていますが、直流の1氏にたどり着きます。
系譜は貴方のお家の浄土宗の菩提寺が判れば、其処に「過去帳」と言うものがありますので、調べて行けば判明し作れます。
9氏中8氏で1氏は全く異なる系列の支流(平氏)です。(初代青木氏の母方の平氏一族)

支流は3本目の枝系となります。比企郡は北足立郡と入間郡の間ですので、連携を考えての配置で有ろう事はわかります。室町以降は国内の移動は比較的にできました。移動してきた方々も縁者です。何らかの戦略上の理由があったのだと思います。一部の郡の青木氏が勢力が弱くなったことで集団移動をして固めたのだと思います。
ルーツを知る事は祖先の生き様を知ることと思います。何でも聞いてください。

りょうちゃん
度々、丁寧に御説明していだだき有難うございます。
仕事で付き合いのあった人達(青木さん)がすべて縁者だったとは、ちょっと驚きです。当時は同じ苗字の人くらいにしか考えていませんでした。
また何かありましたらご質問させていただきます。
その節は何卒よろしくお願いいたします。
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賜姓青木氏の弱体-6

2足の草鞋」策で伊勢青木氏は生き残りにかけた。そして、伊勢松阪の豪商紙屋長兵衛としてスタートした。
当時の豪商は元は武士であり、それなりに力のある者でなければ、大きな「商い」はできない。当時の世相の不安定な中では、4つの条件を備わっていなければならない。

① 「商い品」を安全に安定して動かすだけの力が必要である。
  つまり、安全に輸送する「大きな武力」である。
② 「商い品」を調達できるだけの経済力と調達する人脈関係
   過去から調達できる産地との「交流関係」
③ 完全市場経済ではない中で、商い品を調達するには権力との「政治力」が必要である
  「楽市楽座」が次第に広まりつつあるが、まだ1320-1350年頃は一部の国でしか認めていなく認可制である。
④ 前レポートのシンジケートとの関係保持が必要である。

しかし、伊勢青木氏は天智天武期からの伊勢の政治、軍事、経済を所轄していた家柄である。依ってこの4つの条件は備わっていた。
まして、伊勢の国の産物を他国により以上にさばける間口はこれ以上にない。守護でありながら、他方で「商い」をするというのは誰が見ても歓迎である。伊勢青木氏は生き残り策を経済に求めたのである。2つの顔を持つことで生き様とした。

ちなみに、店即ち商家は松阪に、蔵群は玉城村(村の80%は蔵群であった)に、輸送船は3隻、全国に拡大していたと記録が遺されている。伊勢街道の伊勢路の燈夜塔(灯りと案内の塔)は伊勢青木氏と紙屋の寄付で今まだ据えられている。
この様に大きな経済力を背景に、下克上と戦国時代を生き抜いたのである。1315-1576年までの260年間は経済力を背景に隣国の北畠氏と共に伊勢の国を守ったのである。

しかし、何時までも続かなかった。「下克上」の織田信長である。
彼は、尾張を始めとして美濃、信濃、近江、甲斐、を勢力範囲に収めたが、これ全て、4家賜姓青木氏や賜姓源氏と支流清和源氏の各氏の領国であった。このことからも、3つ巴の跡目策で構築した支流の源氏一族が消えているのであるから、賜姓青木氏と賜姓源氏は跡かたもなく滅亡している可能性が高い。

そして、遂に、伊勢に来た。先ず、第一に伊勢永嶋攻めである(1576年)
朝廷の学問所の村上源氏の支流末裔子孫の北畠氏の伊勢東部永嶋の領国である。全国最後に残った名家の伊勢青木氏と北畠氏に危機が覆いかぶさって来た。有名な戦いである。伊勢青木氏も客員軍師として参戦した。そして、遂に、敗退し北畠氏は滅亡した。

しかし、青木氏はここでは「2足の草鞋」で生き残ったが、1578年豊臣秀吉は蒲生氏郷を伊勢松阪に差し向けた。戦うまでもなく910年も続いた賜姓伊勢青木氏は「下克上」のなかでは250の戦力では戦えず敗退した。そして、一時新宮に移動し直ぐに伊勢松阪に戻った。2足の草鞋の一面をもって。
此処で、過去の危機の時のように、再び救いの神が現れたのである
そりは紛れも無く攻めての蒲生氏郷である。
蒲生氏郷は信長や秀吉や家康に名将、知将と称えられて知られ、藤原秀郷流の蒲生氏であった。そして、この蒲生氏は清和源氏の血筋もある家柄でもあつた。更に、この蒲生氏から藤原秀郷系支流青木氏が出ているのである。なんと、最後の最後に藤原氏秀郷一族に救われたのである。秀吉はこのことを知っていて不可侵の伊勢神宮の天領地とその守護の賜姓青木氏のために蒲生氏郷を廻したのである。

蒲生氏郷は伊勢青木氏を丁重に扱った。氏郷は松阪に城を立てて、城を中心に経済活動を合理的にするため西10町東9町の屋敷町を形成した。ここに主な家来と伊勢の重要な者を住まわさせた。
蒲生氏郷は歴戦の将で数多い彼の戦いの中で一度だけ無理押しの戦いをしたほどで、武力で決して攻めなかった将である。
その様な人柄であり、伊勢青木氏は無償で生き残り、上記の屋敷町を2区画も与えられた。2足の草鞋の「郷氏と紙屋」の青木氏は無償と無傷の形で生残った。この後に夏冬の陣に参加して徳川時代も特別に扱われて明治35年まで2足の草鞋は続いた。伊勢は紀州徳川の飛び地領として徳川氏と大正8年まで親交の交流は続いた。終わり

青木研究員[副管理人]
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賜姓青木氏の弱体-5

賜姓伊勢青木氏は大化改新(645<668)で誕生してから前記したように何度も何度も歴史的な変化(乱)に依ってその宿命的な立場から危機に落ち至った。その度になんらかの救いで子孫は生き延びてきた。
しかし、血縁を結んだ一族(源氏や4家青木氏)はもう居ない。
自らの才覚で生きて行かなければ成らない。そこで、「2足の草鞋」の策を採用した。(1280年頃)

「2足の草鞋」策に付いて、この頃から、「下克上」が起こり始めた時期でもあり、家柄とか名誉とか慣習とかが次第に潰れて行く時期である。伊勢青木氏を始め5家の青木氏はこの3つの上に乗って生きていた事が多くの危機に巻き込まれて来たのである。
その土台が崩れた事を意味する。そこで、1/3に成った領土も維持することが困難になった。そこで、領国を監督すると言う立場から
伊勢青木氏は地場の産物を管理し扱っていたので、この立場を商いに変更する事を決断した。(1315年頃)

伊勢は古代より、伊勢北部から南部に架けて良質の和紙の産地であつた。又、綿も採れた。これは金に換えて税としていたのでこれを全国に売るルートを持っていた。この行政の行為を商いに換えたのである。
この頃から、後の室町文化の花が開き始めていた。この時代の変化の微妙なところを青木氏の長者は見抜いていたのであろう。
なぜなら、上記した「下克上」と言う逆の現象が起こり始めていた。まして、青木氏の土台を覆す上記の3つの現象が起こっている。この文化の前兆を読み取った。

ここで当時の治安状況に付いて、「商い」をする場合、誰でも出来るということではない。何故なら、「商いの品」を運ぶには、それなりの武力が必要であり、これなくしては絶対に出来ない。
これは守護と云う立場から十分な経験と実績がある。
当時は、戦いで潰された豪族が連携をとってシンジケートを作り上げていた。そして、この潰れた豪族の武士の生き延びる道はこのシンジケートに入る事で生き延びる事がで出来たのである。

例えば、後に起こる「南北朝の戦い」の主役の「楠木正成」はこのシンジケートの一人である。だから10万の軍に負けなかったのです。このシンジケートの撹乱戦法で敵を飢えさせ、多数の犠牲を払ったのである。
織田信長は周囲の国との戦いに勝つには鉄砲を入手しようとした。しかし、出来なかった。秀吉に話した。秀吉は蜂須賀小六の仲間に入って居た時にこのシンジケートの事を知っていた。信長はこのシンジケートに話を就けた。この時のシンジケートは神社の宮司であつた。堺の商人が秀吉をてこずらしたのは後ろに巨大なシンジケートがあったからである。家康もこの堺商人のシンジケートを知っていた。大きな経済活動はこのシンジケートとの繋がりを持たなければ絶対に「商い」はできない事が当時の事情であつた。

当時は山賊や海賊は全てこのシンジケートに入っていたのである。
土着の豪族であつた一族が潰されて生き延びる手段は「郷氏」(郷士は小さい族)に成って(村の長、庄屋、長者、名主に)表向きは「郷氏」裏はシンジケートの一員である。村全員が一員なのです。安全に物を作り、物を運び、物を売る経済活動にはこのシンジケートの力が無くては成らないのである。
伊勢青木氏は松阪商人として伊勢松阪で紙等を扱う豪商として片方で力を持った。
(NHKの4度の大河ドラマに伊勢松阪豪商紙屋長兵衛が登場した)
衰退した他の賜姓青木氏はこの「郷氏」になった筈である。又、潰れて行った豪族は「シンジケート」に入った。続く

青木研究員[副管理人]
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賜姓青木氏の弱体-4

賜姓青木氏は歴史的には大まかに次の様な子孫を遺そうとする葛藤をしている。今までの1-3までの経過をまとめる。

① 天智天武期から5家青木氏は大化の改新の目的を果たし、勢力を高めて、朝廷の不輪の権と不入の権の保護のもとに光仁天皇の頃には大きな集団となつた。795年頃

② しかし、桓武天皇はこの賜姓青木氏に対して、幾つかの事情により、この5家青木氏を牽制した。母の実家の一族の集団の渡来系一族を賜姓して朝廷の中央に据えた。そして、親衛隊の賜姓青木氏の守護職を剥奪した。この為に青木氏は衰退した。806年頃

③ この政策に疑問をもった嵯峨天皇は幾つかの戦略と政策を実行し、台頭してきた超万能集団の渡来系一族に再び、改新前の状況に戻ると危惧し、賜姓青木氏を戻した。そして、賜姓の氏名を源氏と変名して、再び皇族の親衛隊を色々な力を付けさせて構築し直した。825年頃

④ 次第に16源氏もの一族は拡大したが、依然渡来系一族は勢力を拡大し、32/66の国を領するに至る。朝廷内には3蔵の内の2蔵まで独占する勢力に膨れ上がった。しかし、ここで源氏は同族の賜姓青木氏と政治的連合を結び、摂関家とも連携して対抗した。1000年頃

⑤ この連合体で渡来系一族に対抗しようとしたが、矢張り力が及ばず、身内や朝廷内で混乱して、乱に突入するが敗退し、源氏は衰退し5家青木氏も衰退する。1160年頃

⑥ しかし、源氏一族は3源氏になりながらも、過去の反省を繰り返さないために、今度は5家の青木氏と跡目の血縁関係を短期間で構築し、更に、5地の土着豪族とも跡目の血縁を結び支流の源氏一族を増やし、裾野を広く固めた。5家青木氏と3地の土着豪族との血縁も成立し、3つ巴の作戦が成立した。武蔵国の藤原氏とも連携が出来た。源平の戦いの前哨戦へと突入し、宗家の頼政は戦いを開始した。しかし、初戦は敗退した。頼政の孫が跡目に入った伊勢青木氏は当然又も衰退した。1180年頃

⑦ 今度は源氏一族は諦めない。頼朝は坂東八平氏の土台の上に立ち義経の奮戦にて勝利する。頼朝の本領安堵策にて、伊勢の青木氏を始めとする5家とや源氏は息をふきかえした。1185年頃

⑧ しかし、坂東八平氏の目的は違った。反対を押し切って政治を行う頼朝に対して本音が出て頼朝はじめ一族を4年以内に抹殺する。北条氏と坂東八平氏は政権を奪いとり、夢を実現した。
伊勢青木氏と4家の青木氏は共に守護職を再び奪われ衰退した。
伊勢青木氏はやむなく2足の草鞋策を採った。1280年頃

⑨ しかし、ここで⑥の跡目による血縁関係の連合策はまだ生きていた。足利氏、武田氏、土岐市の3氏である。この時、主流の源氏一族は耐えた。しかし、跡目を受けた青木氏はかろうじて生き延びていた。京平氏から坂東平氏に移った政権に、再び支流の源氏は挑戦した。そして1333年に支流の源氏の手で取り戻した。

⑩ 足利政権は伊勢青木氏に対して、守護地を1/3にして戻した。
伊勢北部伊賀国地方は融和策として矢張り生き残りの坂東平氏に渡した。東部は村上源氏の畠山氏に。他に連携する同族の源氏は無くなり軍略所の伊勢青木氏は学問所の伊勢の北畠氏との連携をこれより図り互いに守りあった。1340年頃

此処から伊勢青木氏は小さい範囲の守護であるが権力に頼らず生き延びることに戦術を転換した。室町時代は文化の花開いた時期である。伊勢青木氏は紙屋を手広く営みつつ一族を守り続けた。過去の歴史的な財産を元に「伊勢松阪の紙屋長兵衛」として全国的な豪商となった。他の賜姓青木氏は関東の藤原秀郷流青木氏と違い賜姓青木氏と言う宿命で時代の変化に振り回されて子孫を大きく伸ばす事は出来なかった。⑥の時の子孫はどこに。

これからは下克上の時代と突入して行く。
伊勢青木氏も2足の草鞋で生き抜いたが、兎も角も、4家の青木氏はこの下克上で壊滅したのではないか。確認できない。
元々、藤原秀郷流青木氏との生き延びる戦略が違ったのである。(後述)
伊勢青木氏は2つの面を持つがこのままでは済まない。
北畠氏と共に連携して伊勢に攻め込んだ織田信長と戦うのである。
続く

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賜姓青木氏の弱体-3

血縁的に3つ巴に連合を作り上げた5家の青木氏と清和源氏と土着豪族3氏(武田、足利、土岐)は関東には藤原秀郷との連携しながら坂東平氏の動向を押さえ込み、朝廷内では摂関家が監視して、以仁王の乱(1180)へと突入して行く。これに頼朝の背景となつている坂東八平氏は京平氏に味方せず源氏側に着いた。これは頼朝というよりは藤原秀郷一族のにらみが効いていたのではないか。

頼朝といえども御家人制度で結んでいるといってもあくまで平氏の集団である。「利のある方」に味方する筈。「利のある方」は渡来系の京平氏である。しかし、彼等には歴史が証明する一つの夢があつた。それは、皇族第7世のを子孫とする一族でありながら、しいたげられていた一族は坂東に独立国家を作ると言う夢である。

皮肉にも、藤原秀郷が乱を収めた平の将門の乱はこの夢の実現の戦いであり、同じく平の忠常の乱なども同じである。しかし、彼等にはこの夢の実現を成す大儀とその頭となる人物がない。勿論、源氏である。
しかし、そのチャンスが訪れた。「頼朝」である。
京平氏に味方するより、ここで頼政を中心とする「以仁王の乱」の勃発を利用することで夢が実現すると見たのです。
また、京平氏に味方するには大きなハンデイがあったのである。

それは、清和源氏と結んだ藤原秀郷の一族の押さえである。皮肉にも夢を潰された相手である。武蔵国と下野国の背後からの攻撃を受ける危険がある。勢力を拡大した藤原秀郷の一族では難しい。京平氏に味方したとしても夢は実現しない。そこで頼朝を旗頭にして源氏側に味方する方が利があると見た。そして、その後に、担いだ頼朝を倒す事で夢は実現すると考えた。

その証拠に1195年に頼朝は鷹狩の帰りに反吐を吐き、落馬して死んだと歴史は成っている。
薬草による毒殺である。その発端は「頼朝」が坂東平氏の反対を押し切って「本領安堵策」(旧来の領土を元の一族に戻す政策)を実行したことが反発の発端となつている。

何故反発したのか。
幕府を開いたが頼朝が自分たちの操作のうちに入らず、自分で勢いを得て政策を実行し始めたから。
弱く成っていた源氏の一族はこの「本領安堵策」で息を吹き返したので坂東平氏としては夢は遠のく。
更にこの一年後に二人の子供は暗殺される。歴史的に有名な事件である。これで利用した頼朝一族は無くなる事で執権として夢の実現が可能になつた。12年間の源平の乱の間に、これを証明するものがある。
義経は源氏の力を結集して平氏を倒すと言う考えに対して、頼朝はそれでは自分は危ない。しかし、全ての戦いは殆ど義経の源氏の力で勝利している。

更に、大島の源氏が頼朝軍が背後の三浦湾から平家水軍に攻められそうになった時、4日の所を2日で三浦湾にたどり着き平家軍を殲滅した。又も源氏軍が勝利した。この大島源氏と義経が坂東平氏と激論した。源氏主力で戦うかどうかでの議論である。夜間に大島源氏は襲われて逃げた。まだある。義経軍の監視役としていた坂東平氏の二人(梶原景時ら)が頼朝に送った讒言の手紙が発見されている。これ等は全て歴史事実である。結局は北条はじめ坂東八平氏が1196年以降政治の実権をにぎる。

このことで、又も、賜姓青木氏5家は極めて衰退する。伊勢青木氏は伊勢の守護を奪われる事になった。中立を守った北家藤原氏の藤原秀郷一族の9代目の基景が伊勢守護(1275年頃)に収まる。
「以仁王の乱」で敗退で衰退し、本領安堵で戻り、再び北条執権で
不可侵の伊勢も無視され、守護が又奪われた。伊勢青木氏はこれで遂に、生き延びるために「2足の草鞋」を実行したのである。続く

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賜姓青木氏の弱体-2

賜姓青木氏の守護地の甲斐、信濃、美濃、伊勢の4つ国には清和源氏の頼光系と頼信系の子孫から賜姓青木氏に対して、期を同じくして跡目に入っている。これらには、一つのパターンがある。

伊勢以外の3つの国では頼信系のものが跡目になっている。
頼信より3代目の義光系の一族である。嫡男の義家ではない。
分家で甲斐は弟の源光、美濃は兄の時光、の嫡子外の者が跡目に。
甲斐の土着豪族の武田氏にも跡目に。
信濃には土着豪族の足利氏にも跡目に。
美濃には土着豪族の土岐氏にも跡目に。

これ等は分家で嫡子外であり、家紋は笹竜胆ではない。支流源氏である。娘の婚姻ではなく、男子の跡目の血縁をえらんでいる。
当時は男系家系であるのでより固めを強くする狙いがあり、源氏の支流となる事で一族を広めたと見られる。

賜姓3氏の青木氏と清和源氏の血縁作戦、土着豪族3氏と清和源氏の血縁作戦である。
そして、驚く事は、賜姓青木氏3氏と土着豪族の3氏との間でも血縁が結ばれている。つまり、土着豪族3氏系青木氏が生まれているのである。
(家紋違いの賜姓青木氏流青木氏となる。3氏の家来として系列下にはっているが)
完全な三つ巴の形である。この3つの国を完全に清和源氏を中心に固めたことを意味し、そして、同時期の1060頃と1160頃の2回に分けて実施されている。
3つ巴と云い、時期といい、明らかに戦略である。
そして、この時期は、源平の戦いの始まる前と始まる時期の二つにわけられる。

ここで、遂に、藤原秀郷流5氏とのつながりが出てくるのである。
上記の戦略が実行された時期を同じくして、清和源氏は藤原流丹治氏との間に血縁を結んでいるのである。
藤原秀郷流丹治氏系青木氏があるが、。この青木氏は皇族左大臣の島(真人姓)の末裔により皇族氏より臣下した場合は青木姓を名乗ると嵯峨期より令によって定められているので、丹治氏から分岐して青木氏を継承したものである。
中部を固め、藤原秀郷氏とも連携しながら、関東にも血縁を伸ばしたのである。

さて次は、5国の一つ近江国である。
ここは少し事情がある。天智天武期の第7位皇子の川島皇子が第6位皇子に準じて地名を採って特別に賜姓佐々木氏を授けた。
これが初代の佐々木氏である。この後に、1160年頃に清和源氏の源頼憲の子の盛綱がこの佐々木氏の跡目を継承して、初代となつている。そして、ここに光仁天皇(聖武天皇か)のときに賜姓青木氏を配置して守護としている。

つまり、初代佐々木氏の後に100年位たってここに賜姓青木氏を入れたと見られる。
この経過は次の通りである。
盛綱を初代とすると、賜姓佐々木氏は絶えた可能性があり、故にここに賜姓青木氏を置いたのではないか、そしてこの青木氏も一度近江を出ている。そこで盛綱を跡目に入れて継がせたものと見る。
戻った賜姓青木一族はこの佐々木氏との血縁を結び、佐々木流青木氏を作ったものであろう。

結論は、近江の国は清和源氏の盛綱が近江の賜姓青木氏の佐々木氏との同化により、佐々木氏の跡目を継いだことになる。時期は以仁王の乱の前の1160-1170年頃である。これで、全ての5国の血縁関係を結んで再び結束を強化して出直したのである。血縁体制が整ったところで、源氏の宗家の源の頼政(伊勢青木氏の元祖)が遂にたちあがり、源平の戦いの前哨戦となる「以仁王の乱」へと突入して行った。仲綱の子を跡目に入れた宗家の血筋を青木氏に移したとは云え、賜姓伊勢青木氏の最大の危機である。敗退し、伊勢青木氏は衰退する。しかし、4年後に頼朝が平家に勝利して、「関東管領」となり、「本領安堵策」を実施し、天領地としての伊勢領は再び戻る。しかし、150位後に「下克上の戦乱」が起こるのである。
5家賜姓青木氏はどなるのか。続く

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賜姓青木氏の弱体-1

三者連合によって、息を吹き返した。そして渡来系に対抗したが如何ともし難く結局は内部分裂や同族争いがおこり結局は敗退して三者ともに衰退する。特に賜姓青木はその影響を大きく受けた。元々、嵯峨天皇期に青木氏の姓を名乗ることを禁止したこともあり、子孫は大きく遺せないというジレンマに落ち至る。そこえこの始末である。しかし、このままでは三者は済まないのである。今までの結合は勢力の結合であった。そこで、この三者は血縁の連合を反省から実行したのである。分裂や同族争いを無くすために。

5家の賜姓青木氏とは次の様な血縁を清和源氏との間で結んでいる。
甲斐国の賜姓青木氏
源の頼光の守護先になつたこの甲斐の国は今度は血縁で確実に結んだ。
源頼信(頼光の末の弟)の孫の「義光(1055)」から8代目の「源光(げんこう)」が「甲斐青木氏」の跡目に入って居る。
更に、「義光」から15代目の「義虎(時光系)」が「甲斐青木氏」の跡目に入っている。

これは2度も跡目に入ったことは、この跡目に入ったことで5家5流に子孫は分流した一派にもより固めるために一族を跡目に入れたのである。
従って、「甲斐青木氏」は「頼信」の孫たちの関東への進出に同行移動している。横浜神奈川付近にこの甲斐一族の子孫が青木村を形成して残っている。

甲斐の国は元々は「頼光」の守護地であったが、分家を作る弟の為に、この甲斐の国の守護を摂関家に勤める「頼光」は承認を貰い、弟の頼信に渡して、ここを足場にして関東を切り取る拠点にしたのである。

そうすることで清和源氏の勢力範囲を伸ばす事ができるし、同時に「藤原秀郷」らの共同作戦で坂東八平氏を掃討すれば勢力を関西と関東に広げることが出来る。

ここで注目は「清和源氏」と「賜姓青木氏」の血縁一族が、今度は摂関家の「藤原氏」と武蔵の国の「藤原秀郷」との間にも結びつきが出来ている事である。基はといえば全て、「藤原氏」の血縁の結びつきである。
甲斐ではこの様な戦略が実行されて、成功した。
そして、この連合で、第2の拠点を神奈川と鎌倉付近においた。

信濃国の賜姓青木氏
「頼信」の2代目の「義康」が足利氏に跡目に入っている。(足利氏初代である)これが前レポートに云う家紋違いの支流源氏なのです。武田も同じ。

「義康」より3代目の「実国」が「信濃青木氏」に跡目に入っている。再び、「義光」より16代目(不明)が信濃青木氏の跡目に愛っている。結局は末裔は4流に分流して子孫は繁栄している。
この信濃青木氏はもとより家紋は笹竜胆(ささりんどう)であり、皇族系の同族であるので、源氏と同紋。足利氏と違う所である。
(不明部は「義康」であろう)
この国は甲斐の国と違い清和源氏直系の「頼光」系の守護地である。大きい戦略的な移動は無いとみられる。

美濃国の賜姓青木氏
「義光」より8代目「時光」(1195)から11代目(不明)が美濃青木氏を継承し跡目に入っている。
「義光」より19代目が(不明)跡目に入っている。
この末裔も繁栄し5流に分流している。
ここも「頼光」系の守護地であるが、大きい戦略的移動は無い。

伊勢国の賜姓青木氏
「頼光」の4代目子孫「頼政」(以仁王の乱の首謀者)の子の「仲綱」の子の「京綱」が青木氏の跡目には入っている。
この地も「頼光」系の元からの守護地で不可侵の天領地である
戦略的移動は全くない。甲斐と信濃と美濃と伊勢の青木氏は同紋である。理由があり末裔は少ない。

以上の様に、血縁的連合を何重にも行いそして勢力地の幅を関東に広げているし、関西は尚固めている。渡来系の以西32/66に対抗して。  続きは近江佐々木氏と藤原秀郷との血縁関係を記する。

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賜姓青木氏の弱体

桓武天皇の渡来系一族の賜姓により元々あったその実力が更に増してたった5代で朝廷の頂点にまで上りつめた。

これでは朝廷内の摂関家の藤原氏や政治に加わった源氏はせっかく嵯峨天皇が努力した改革が生かされない。しかし、藤原氏も源氏も勢力はもったのだが、余りにも大き過ぎる集団である。

現に、渡来系平氏が著しい台頭を見せた1000から1080年頃は源氏は花山源氏の賜姓があった頃までである。既に12代目の源氏が誕生しているのである。しかし、12代の源氏と8代の藤原氏(秀郷)が結束しても渡来系一族の台頭は止められなかったのである。

この頃源氏は清和源氏が最大勢力を持ち、一族が藤原氏の摂関家に長年仕えて結束は図って居た。この時、摂関家の藤原氏と清和源氏は賜姓5家青木氏の守護地に対して2つの政策を実施している

1 賜姓青木氏の守護地の全てに清和源氏の頼光が守護になってい る。(10年程度の間に5国の歴任し兼任している)
 余りにも早すぎ、普通は25-30年位は必要である

2 賜姓5家の青木氏に対して全てに一族の者が跡目に入っている。 頼光以後地元の青木氏との間に血縁関係を持っち最終は跡目にあ 入ることで結束を図っている。

この二つのことは頼光だけでは出来ないことである。政治的な承認が必要である。頼光とその一族は摂関家に務めている事から可能である。渡来系一族の台頭に対して、生き延びるために、藤原氏と清和源氏と賜姓5家青木氏の3者が結束して固めたのである。余りにも不自然な行動である。

その証拠に清和源氏の一族の妻は殆どが藤原氏である。清和源氏と藤原氏と青木氏との3者の血縁関係を構築したのである。伊勢青木氏や他の青木氏の中には藤原氏との血縁がも見られる。元々は賜姓時には伊勢青木氏を除く4家の青木氏は藤原氏との血縁子孫である。
つまり、準備態勢が出来たこの3者連合で対抗しようとしたことを意味する。

一方、背景3のレポートに記した様に、この時期は朝廷内では内紛が起こっているのである。この3者の動きに対して天皇や法王も藤原氏や源氏も巻き込んで、勢力争いが始まったのである。それが遂には、保元、平治の乱へと火蓋が切られたのである。

この初期の争いが思わぬ方向へと進み、天皇家一族内部の争いが、藤原氏の内部分裂を起し、清和源氏を含む12源氏も内部での意見対立の兄弟や親族や源氏一族の抗争が起こったのである。
この原因で、5家青木氏は連携が外れて、子孫を遺せないまでも衰退した。源氏は12源氏もいたが3源氏に一族は激減した。9源氏の子孫の存在を確認出来ないまでも衰退した。滅亡に近く調査するが明確にならない。それだけではなく、清和源氏内部さえも縮小になった。3大源氏の子孫が残るのみである(清和、村上、醍醐)
この源氏も名乗りを挙げている5氏に引き継がれているが、家紋が違うために疑問である。

このように3者連合は子孫を減らし、思わぬ方向へと進んだのである。賜姓青木氏は伊勢青木氏(本家現存)を除く、4家の青木氏の行方が明確にならない。調査では、2氏の青木氏が関東に移動していることがわかってきているが、この2氏も自己のルーツが確認出来ないでいる様子である。

折角、嵯峨天皇の5つの作と2つの政策で賜姓青木氏は行きを吹き返したが、3者連合が思わぬ方向へと進み、国乱が起こり、再び源氏を含む青木一族は衰退する方向へと進んだ。そして、秀郷流青木氏のように行かず、子孫を多く遺す事ができなかつたのである。
この事が、5家青木氏を弱める結果となり、衰退し子孫を多く遺せなかった原因と見られる。

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賜姓青木氏の弱体 まとめ

桓武天皇の渡来系一族の賜姓により元々あったその実力が更に増してたった5代で朝廷の頂点にまで上りつめた。
これでは朝廷内の摂関家の藤原氏や政治に加わった源氏はせっかく嵯峨天皇が努力した改革が生かされない。しかし、藤原氏も源氏も勢力はもったのだが、余りにも大き過ぎる集団である。

現に、渡来系平氏が著しい台頭を見せた1000から1080年頃は源氏は花山源氏の賜姓があった頃までである。既に12代目の源氏が誕生しているのである。しかし、12代の源氏と8代の藤原氏(秀郷)が結束しても渡来系一族の台頭は止められなかったのである。

この頃源氏は清和源氏が最大勢力を持ち、一族が藤原氏の摂関家に長年仕えて結束は図って居た。この時、摂関家の藤原氏と清和源氏は賜姓5家青木氏の守護地に対して2つの政策を実施している

1 賜姓青木氏の守護地の全てに清和源氏の頼光が守護になってい る。(10年程度の間に5国の歴任し兼任している)
 余りにも早すぎ、普通は25-30年位は必要である
2 賜姓5家の青木氏に対して全てに一族の者が跡目に入っている。 頼光以後地元の青木氏との間に血縁関係を持っち最終は跡目にあ 入ることで結束を図っている。

この二つのことは頼光だけでは出来ないことである。政治的な承認が必要である。頼光とその一族は摂関家に務めている事から可能である。渡来系一族の台頭に対して、生き延びるために、藤原氏と清和源氏と賜姓5家青木氏の3者が結束して固めたのである。余りにも不自然な行動である。

その証拠に清和源氏の一族の妻は殆どが藤原氏である。清和源氏と藤原氏と青木氏との3者の血縁関係を構築したのである。伊勢青木氏や他の青木氏の中には藤原氏との血縁がも見られる。元々は賜姓時には伊勢青木氏を除く4家の青木氏は藤原氏との血縁子孫である。
つまり、準備態勢が出来たこの3者連合で対抗しようとしたことを意味する。

一方、背景3のレポートに記した様に、この時期は朝廷内では内紛が起こっているのである。この3者の動きに対して天皇や法王も藤原氏や源氏も巻き込んで、勢力争いが始まったのである。それが遂には、保元、平治の乱へと火蓋が切られたのである。

この初期の争いが思わぬ方向へと進み、天皇家一族内部の争いが、藤原氏の内部分裂を起し、清和源氏を含む12源氏も内部での意見対立の兄弟や親族や源氏一族の抗争が起こったのである。

この原因で、5家青木氏は連携が外れて、子孫を遺せないまでも衰退した。源氏は12源氏もいたが3源氏に一族は激減した。9源氏の子孫の存在を確認出来ないまでも衰退した。滅亡に近く調査するが明確にならない。それだけではなく、清和源氏内部さえも縮小になった。3大源氏の子孫が残るのみである(清和、村上、醍醐)
この源氏も名乗りを挙げている5氏に引き継がれているが、家紋が違うために疑問である。

このように3者連合は子孫を減らし、思わぬ方向へと進んだのである。賜姓青木氏は伊勢青木氏(本家現存)を除く、4家の青木氏の行方が明確にならない。調査では、2氏の青木氏が関東に移動していることがわかってきているが、この2氏も自己のルーツが確認出来ないでいる様子である。

折角、嵯峨天皇の5つの作と2つの政策で賜姓青木氏は行きを吹き返したが、3者連合が思わぬ方向へと進み、国乱が起こり、再び源氏を含む青木一族は衰退する方向へと進んだ。そして、秀郷流青木氏のように行かず、子孫を多く遺す事ができなかつたのである。
この事が、5家青木氏を弱める結果となり、衰退し子孫を多く遺せなかった原因と見られる。

三者連合によって、息を吹き返した。そして渡来系に対抗したが如何ともし難く結局は内部分裂や同族争いがおこり結局は敗退して三者ともに衰退する。特に賜姓青木はその影響を大きく受けた。元々、嵯峨天皇期に青木氏の姓を名乗ることを禁止したこともあり、子孫は大きく遺せないというジレンマに落ち至る。そこえこの始末である。しかし、このままでは三者は済まないのである。今までの結合は勢力の結合であった。そこで、この三者は血縁の連合を反省から実行したのである。分裂や同族争いを無くすために。

5家の賜姓青木氏とは次の様な血縁を清和源氏との間で結んでいる。
甲斐国の賜姓青木氏
源の頼光の守護先になつたこの甲斐の国は今度は血縁で確実に結んだ。
源頼信(頼光の末の弟)の孫の「義光(1055)」から8代目の「源光(げんこう)」が「甲斐青木氏」の跡目に入って居る。
更に、「義光」から15代目の「義虎(時光系)」が「甲斐青木氏」の跡目に入っている。

これは2度も跡目に入ったことは、この跡目に入ったことで5家5流に子孫は分流した一派にもより固めるために一族を跡目に入れたのである。
従って、「甲斐青木氏」は「頼信」の孫たちの関東への進出に同行移動している。横浜神奈川付近にこの甲斐一族の子孫が青木村を形成して残っている。

甲斐の国は元々は「頼光」の守護地であったが、分家を作る弟の為に、この甲斐の国の守護を摂関家に勤める「頼光」は承認を貰い、弟の頼信に渡して、ここを足場にして関東を切り取る拠点にしたのである。
そうすることで清和源氏の勢力範囲を伸ばす事ができるし、同時に「藤原秀郷」らの共同作戦で坂東八平氏を掃討すれば勢力を関西と関東に広げることが出来る。

ここで注目は「清和源氏」と「賜姓青木氏」の血縁一族が、今度は摂関家の「藤原氏」と武蔵の国の「藤原秀郷」との間にも結びつきが出来ている事である。基はといえば全て、「藤原氏」の血縁の結びつきである。
甲斐ではこの様な戦略が実行されて、成功した。
そして、この連合で、第2の拠点を神奈川と鎌倉付近においた。

信濃国の賜姓青木氏
「頼信」の2代目の「義康」が足利氏に跡目に入っている。(足利氏初代である)これが前レポートに云う家紋違いの支流源氏なのです。武田も同じ。

「義康」より3代目の「実国」が「信濃青木氏」に跡目に入っている。再び、「義光」より16代目(不明)が信濃青木氏の跡目に愛っている。結局は末裔は4流に分流して子孫は繁栄している。
この信濃青木氏はもとより家紋は笹竜胆(ささりんどう)であり、皇族系の同族であるので、源氏と同紋。足利氏と違う所である。
(不明部は「義康」であろう)
この国は甲斐の国と違い清和源氏直系の「頼光」系の守護地である。大きい戦略的な移動は無いとみられる。

美濃国の賜姓青木氏
「義光」より8代目「時光」(1195)から11代目(不明)が美濃青木氏を継承し跡目に入っている。
「義光」より19代目が(不明)跡目に入っている。
この末裔も繁栄し5流に分流している。
ここも「頼光」系の守護地であるが、大きい戦略的移動は無い。

伊勢国の賜姓青木氏
「頼光」の4代目子孫「頼政」(以仁王の乱の首謀者)の子の「仲綱」の子の「京綱」が青木氏の跡目には入っている。
この地も「頼光」系の元からの守護地で不可侵の天領地である
戦略的移動は全くない。甲斐と信濃と美濃と伊勢の青木氏は同紋である。理由があり末裔は少ない。
以上の様に、血縁的連合を何重にも行いそして勢力地の幅を関東に広げているし、関西は尚固めている。渡来系の以西32/66に対抗して。  続きは近江佐々木氏と藤原秀郷との血縁関係を記する。

賜姓青木氏の守護地の甲斐、信濃、美濃、伊勢の4つ国には清和源氏の頼光系と頼信系の子孫から賜姓青木氏に対して、期を同じくして跡目に入っている。これらには、一つのパターンがある。

伊勢以外の3つの国では頼信系のものが跡目になっている。
頼信より3代目の義光系の一族である。嫡男の義家ではない。
分家で甲斐は弟の源光、美濃は兄の時光、の嫡子外の者が跡目に。
甲斐の土着豪族の武田氏にも跡目に。
信濃には土着豪族の足利氏にも跡目に。
美濃には土着豪族の土岐氏にも跡目に。
これ等は分家で嫡子外であり、家紋は笹竜胆ではない。支流源氏である。娘の婚姻ではなく、男子の跡目の血縁をえらんでいる。
当時は男系家系であるのでより固めを強くする狙いがあり、源氏の支流となる事で一族を広めたと見られる。

賜姓3氏の青木氏と清和源氏の血縁作戦、土着豪族3氏と清和源氏の血縁作戦である。
そして、驚く事は、賜姓青木氏3氏と土着豪族の3氏との間でも血縁が結ばれている。つまり、土着豪族3氏系青木氏が生まれているのである。
(家紋違いの賜姓青木氏流青木氏となる。3氏の家来として系列下にはっているが)
完全な三つ巴の形である。この3つの国を完全に清和源氏を中心に固めたことを意味し、そして、同時期の1060頃と1160頃の2回に分けて実施されている。
3つ巴と云い、時期といい、明らかに戦略である。

そして、この時期は、源平の戦いの始まる前と始まる時期の二つにわけられる。
ここで、遂に、藤原秀郷流5氏とのつながりが出てくるのである。
上記の戦略が実行された時期を同じくして、清和源氏は藤原流丹治氏との間に血縁を結んでいるのである。
藤原秀郷流丹治氏系青木氏があるが、。この青木氏は皇族左大臣の島(真人姓)の末裔により皇族氏より臣下した場合は青木姓を名乗ると嵯峨期より令によって定められているので、丹治氏から分岐して青木氏を継承したものである。
中部を固め、藤原秀郷氏とも連携しながら、関東にも血縁を伸ばしたのである。

さて次は、5国の一つ近江国である。
ここは少し事情がある。天智天武期の第7位皇子の川島皇子が第6位皇子に準じて地名を採って特別に賜姓佐々木氏を授けた。
これが初代の佐々木氏である。この後に、1160年頃に清和源氏の源頼憲の子の盛綱がこの佐々木氏の跡目を継承して、初代となつている。そして、ここに光仁天皇(聖武天皇か)のときに賜姓青木氏を配置して守護としている。

つまり、初代佐々木氏の後に100年位たってここに賜姓青木氏を入れたと見られる。
この経過は次の通りである。
盛綱を初代とすると、賜姓佐々木氏は絶えた可能性があり、故にここに賜姓青木氏を置いたのではないか、そしてこの青木氏も一度近江を出ている。そこで盛綱を跡目に入れて継がせたものと見る。
戻った賜姓青木一族はこの佐々木氏との血縁を結び、佐々木流青木氏を作ったものであろう。

結論は、近江の国は清和源氏の盛綱が近江の賜姓青木氏の佐々木氏との同化により、佐々木氏の跡目を継いだことになる。時期は以仁王の乱の前の1160-1170年頃である。これで、全ての5国の血縁関係を結んで再び結束を強化して出直したのである。血縁体制が整ったところで、源氏の宗家の源の頼政(伊勢青木氏の元祖)が遂にたちあがり、源平の戦いの前哨戦となる「以仁王の乱」へと突入して行った。仲綱の子を跡目に入れた宗家の血筋を青木氏に移したとは云え、賜姓伊勢青木氏の最大の危機である。敗退し、伊勢青木氏は衰退する。しかし、4年後に頼朝が平家に勝利して、「関東管領」となり、「本領安堵策」を実施し、天領地としての伊勢領は再び戻る。しかし、150位後に「下克上の戦乱」が起こるのである。
5家賜姓青木氏はどなるのか。

血縁的に3つ巴に連合を作り上げた5家の青木氏と清和源氏と土着豪族3氏(武田、足利、土岐)は関東には藤原秀郷との連携しながら坂東平氏の動向を押さえ込み、朝廷内では摂関家が監視して、以仁王の乱(1180)へと突入して行く。これに頼朝の背景となつている坂東八平氏は京平氏に味方せず源氏側に着いた。これは頼朝というよりは藤原秀郷一族のにらみが効いていたのではないか。

頼朝といえども御家人制度で結んでいるといってもあくまで平氏の集団である。「利のある方」に味方する筈。「利のある方」は渡来系の京平氏である。しかし、彼等には歴史が証明する一つの夢があつた。それは、皇族第7世のを子孫とする一族でありながら、しいたげられていた一族は坂東に独立国家を作ると言う夢である。

皮肉にも、藤原秀郷が乱を収めた平の将門の乱はこの夢の実現の戦いであり、同じく平の忠常の乱なども同じである。しかし、彼等にはこの夢の実現を成す大儀とその頭となる人物がない。勿論、源氏である。
しかし、そのチャンスが訪れた。「頼朝」である。
京平氏に味方するより、ここで頼政を中心とする「以仁王の乱」の勃発を利用することで夢が実現すると見たのです。

また、京平氏に味方するには大きなハンデイがあったのである。
それは、清和源氏と結んだ藤原秀郷の一族の押さえである。皮肉にも夢を潰された相手である。武蔵国と下野国の背後からの攻撃を受ける危険がある。勢力を拡大した藤原秀郷の一族では難しい。京平氏に味方したとしても夢は実現しない。そこで頼朝を旗頭にして源氏側に味方する方が利があると見た。そして、その後に、担いだ頼朝を倒す事で夢は実現すると考えた。

その証拠に1195年に頼朝は鷹狩の帰りに反吐を吐き、落馬して死んだと歴史は成っている。
薬草による毒殺である。その発端は「頼朝」が坂東平氏の反対を押し切って「本領安堵策」(旧来の領土を元の一族に戻す政策)を実行したことが反発の発端となつている。
何故反発したのか。
幕府を開いたが頼朝が自分たちの操作のうちに入らず、自分で勢いを得て政策を実行し始めたから。
弱く成っていた源氏の一族はこの「本領安堵策」で息を吹き返したので坂東平氏としては夢は遠のく。

更にこの一年後に二人の子供は暗殺される。歴史的に有名な事件である。これで利用した頼朝一族は無くなる事で執権として夢の実現が可能になつた。12年間の源平の乱の間に、これを証明するものがある。
義経は源氏の力を結集して平氏を倒すと言う考えに対して、頼朝はそれでは自分は危ない。しかし、全ての戦いは殆ど義経の源氏の力で勝利している。

更に、大島の源氏が頼朝軍が背後の三浦湾から平家水軍に攻められそうになった時、4日の所を2日で三浦湾にたどり着き平家軍を殲滅した。又も源氏軍が勝利した。この大島源氏と義経が坂東平氏と激論した。源氏主力で戦うかどうかでの議論である。夜間に大島源氏は襲われて逃げた。まだある。義経軍の監視役としていた坂東平氏の二人(梶原景時ら)が頼朝に送った讒言の手紙が発見されている。これ等は全て歴史事実である。結局は北条はじめ坂東八平氏が1196年以降政治の実権をにぎる。

このことで、又も、賜姓青木氏5家は極めて衰退する。伊勢青木氏は伊勢の守護を奪われる事になった。中立を守った北家藤原氏の藤原秀郷一族の9代目の基景が伊勢守護(1275年頃)に収まる。
「以仁王の乱」で敗退で衰退し、本領安堵で戻り、再び北条執権で
不可侵の伊勢も無視され、守護が又奪われた。伊勢青木氏はこれで遂に、生き延びるために「2足の草鞋」を実行したのである。

賜姓青木氏は歴史的には大まかに次の様な子孫を遺そうとする葛藤をしている。今までの1-3までの経過をまとめる。

① 天智天武期から5家青木氏は大化の改新の目的を果たし、勢力を高めて、朝廷の不輪の権と不入の権の保護のもとに光仁天皇の頃には大きな集団となつた。795年頃

② しかし、桓武天皇はこの賜姓青木氏に対して、幾つかの事情により、この5家青木氏を牽制した。母の実家の一族の集団の渡来系一族を賜姓して朝廷の中央に据えた。そして、親衛隊の賜姓青木氏の守護職を剥奪した。この為に青木氏は衰退した。806年頃

③ この政策に疑問をもった嵯峨天皇は幾つかの戦略と政策を実行し、台頭してきた超万能集団の渡来系一族に再び、改新前の状況に戻ると危惧し、賜姓青木氏を戻した。そして、賜姓の氏名を源氏と変名して、再び皇族の親衛隊を色々な力を付けさせて構築し直した。825年頃

④ 次第に16源氏もの一族は拡大したが、依然渡来系一族は勢力を拡大し、32/66の国を領するに至る。朝廷内には3蔵の内の2蔵まで独占する勢力に膨れ上がった。しかし、ここで源氏は同族の賜姓青木氏と政治的連合を結び、摂関家とも連携して対抗した。1000年頃

⑤ この連合体で渡来系一族に対抗しようとしたが、矢張り力が及ばず、身内や朝廷内で混乱して、乱に突入するが敗退し、源氏は衰退し5家青木氏も衰退する。1160年頃

⑥ しかし、源氏一族は3源氏になりながらも、過去の反省を繰り返さないために、今度は5家の青木氏と跡目の血縁関係を短期間で構築し、更に、5地の土着豪族とも跡目の血縁を結び支流の源氏一族を増やし、裾野を広く固めた。5家青木氏と3地の土着豪族との血縁も成立し、3つ巴の作戦が成立した。武蔵国の藤原氏とも連携が出来た。源平の戦いの前哨戦へと突入し、宗家の頼政は戦いを開始した。しかし、初戦は敗退した。頼政の孫が跡目に入った伊勢青木氏は当然又も衰退した。1180年頃

⑦ 今度は源氏一族は諦めない。頼朝は坂東八平氏の土台の上に立ち義経の奮戦にて勝利する。頼朝の本領安堵策にて、伊勢の青木氏を始めとする5家とや源氏は息をふきかえした。1185年頃

⑧ しかし、坂東八平氏の目的は違った。反対を押し切って政治を行う頼朝に対して本音が出て頼朝はじめ一族を4年以内に抹殺する。北条氏と坂東八平氏は政権を奪いとり、夢を実現した。
伊勢青木氏と4家の青木氏は共に守護職を再び奪われ衰退した。
伊勢青木氏はやむなく2足の草鞋策を採った。1280年頃

⑨ しかし、ここで⑥の跡目による血縁関係の連合策はまだ生きていた。足利氏、武田氏、土岐市の3氏である。この時、主流の源氏一族は耐えた。しかし、跡目を受けた青木氏はかろうじて生き延びていた。京平氏から坂東平氏に移った政権に、再び支流の源氏は挑戦した。そして1333年に支流の源氏の手で取り戻した。

⑩ 足利政権は伊勢青木氏に対して、守護地を1/3にして戻した。
伊勢北部伊賀国地方は融和策として矢張り生き残りの坂東平氏に渡した。東部は村上源氏の畠山氏に。他に連携する同族の源氏は無くなり軍略所の伊勢青木氏は学問所の伊勢の北畠氏との連携をこれより図り互いに守りあった。1340年頃

此処から伊勢青木氏は小さい範囲の守護であるが権力に頼らず生き延びることに戦術を転換した。室町時代は文化の花開いた時期である。伊勢青木氏は紙屋を手広く営みつつ一族を守り続けた。過去の歴史的な財産を元に「伊勢松阪の紙屋長兵衛」として全国的な豪商となった。他の賜姓青木氏は関東の藤原秀郷流青木氏と違い賜姓青木氏と言う宿命で時代の変化に振り回されて子孫を大きく伸ばす事は出来なかった。⑥の時の子孫はどこに。

これからは下克上の時代と突入して行く。
伊勢青木氏も2足の草鞋で生き抜いたが、兎も角も、4家の青木氏はこの下克上で壊滅したのではないか。確認できない。
元々、藤原秀郷流青木氏との生き延びる戦略が違ったのである。(後述)
伊勢青木氏は2つの面を持つがこのままでは済まない。
北畠氏と共に連携して伊勢に攻め込んだ織田信長と戦うのである。

賜姓伊勢青木氏は大化改新(645<668)で誕生してから前記したように何度も何度も歴史的な変化(乱)に依ってその宿命的な立場から危機に落ち至った。その度になんらかの救いで子孫は生き延びてきた。
しかし、血縁を結んだ一族(源氏や4家青木氏)はもう居ない。
自らの才覚で生きて行かなければ成らない。そこで、「2足の草鞋」の策を採用した。(1280年頃)

「2足の草鞋」策に付いて、この頃から、「下克上」が起こり始めた時期でもあり、家柄とか名誉とか慣習とかが次第に潰れて行く時期である。伊勢青木氏を始め5家の青木氏はこの3つの上に乗って生きていた事が多くの危機に巻き込まれて来たのである。
その土台が崩れた事を意味する。そこで、1/3に成った領土も維持することが困難になった。そこで、領国を監督すると言う立場から
伊勢青木氏は地場の産物を管理し扱っていたので、この立場を商いに変更する事を決断した。(1315年頃)

伊勢は古代より、伊勢北部から南部に架けて良質の和紙の産地であつた。又、綿も採れた。これは金に換えて税としていたのでこれを全国に売るルートを持っていた。この行政の行為を商いに換えたのである。
この頃から、後の室町文化の花が開き始めていた。この時代の変化の微妙なところを青木氏の長者は見抜いていたのであろう。
なぜなら、上記した「下克上」と言う逆の現象が起こり始めていた。まして、青木氏の土台を覆す上記の3つの現象が起こっている。この文化の前兆を読み取った。

ここで当時の治安状況に付いて、「商い」をする場合、誰でも出来るということではない。何故なら、「商いの品」を運ぶには、それなりの武力が必要であり、これなくしては絶対に出来ない。
これは守護と云う立場から十分な経験と実績がある。

当時は、戦いで潰された豪族が連携をとってシンジケートを作り上げていた。そして、この潰れた豪族の武士の生き延びる道はこのシンジケートに入る事で生き延びる事がで出来たのである。
例えば、後に起こる「南北朝の戦い」の主役の「楠木正成」はこのシンジケートの一人である。だから10万の軍に負けなかったのです。このシンジケートの撹乱戦法で敵を飢えさせ、多数の犠牲を払ったのである。
織田信長は周囲の国との戦いに勝つには鉄砲を入手しようとした。しかし、出来なかった。秀吉に話した。秀吉は蜂須賀小六の仲間に入って居た時にこのシンジケートの事を知っていた。信長はこのシンジケートに話を就けた。この時のシンジケートは神社の宮司であつた。堺の商人が秀吉をてこずらしたのは後ろに巨大なシンジケートがあったからである。家康もこの堺商人のシンジケートを知っていた。大きな経済活動はこのシンジケートとの繋がりを持たなければ絶対に「商い」はできない事が当時の事情であつた。

当時は山賊や海賊は全てこのシンジケートに入っていたのである。
土着の豪族であつた一族が潰されて生き延びる手段は「郷氏」(郷士は小さい族)に成って(村の長、庄屋、長者、名主に)表向きは「郷氏」裏はシンジケートの一員である。村全員が一員なのです。安全に物を作り、物を運び、物を売る経済活動にはこのシンジケートの力が無くては成らないのである。
伊勢青木氏は松阪商人として伊勢松阪で紙等を扱う豪商として片方で力を持った。
(NHKの4度の大河ドラマに伊勢松阪豪商紙屋長兵衛が登場した)
衰退した他の賜姓青木氏はこの「郷氏」になった筈である。又、潰れて行った豪族は「シンジケート」に入った。

2足の草鞋」策で伊勢青木氏は生き残りにかけた。そして、伊勢松阪の豪商紙屋長兵衛としてスタートした。
当時の豪商は元は武士であり、それなりに力のある者でなければ、大きな「商い」はできない。当時の世相の不安定な中では、4つの条件を備わっていなければならない。

① 「商い品」を安全に安定して動かすだけの力が必要である。
  つまり、安全に輸送する「大きな武力」である。
② 「商い品」を調達できるだけの経済力と調達する人脈関係
   過去から調達できる産地との「交流関係」
③ 完全市場経済ではない中で、商い品を調達するには権力との   「政治力」が必要である
  「楽市楽座」が次第に広まりつつあるが、まだ1320-1350年頃  は一部の国でしか認めていなく認可制である。
④ 前レポートのシンジケートとの関係保持が必要である。

しかし、伊勢青木氏は天智天武期からの伊勢の政治、軍事、経済を所轄していた家柄である。依ってこの4つの条件は備わっていた。
まして、伊勢の国の産物を他国により以上にさばける間口はこれ以上にない。守護でありながら、他方で「商い」をするというのは誰が見ても歓迎である。伊勢青木氏は生き残り策を経済に求めたのである。2つの顔を持つことで生き様とした。

ちなみに、店即ち商家は松阪に、蔵群は玉城村(村の80%は蔵群であった)に、輸送船は3隻、全国に拡大していたと記録が遺されている。伊勢街道の伊勢路の燈夜塔(灯りと案内の塔)は伊勢青木氏と紙屋の寄付で今まだ据えられている。

この様に大きな経済力を背景に、下克上と戦国時代を生き抜いたのである。1315-1576年までの260年間は経済力を背景に隣国の北畠氏と共に伊勢の国を守ったのである。
しかし、何時までも続かなかった。「下克上」の織田信長である。
彼は、尾張を始めとして美濃、信濃、近江、甲斐、を勢力範囲に収めたが、これ全て、4家賜姓青木氏や賜姓源氏と支流清和源氏の各氏の領国であった。このことからも、3つ巴の跡目策で構築した支流の源氏一族が消えているのであるから、賜姓青木氏と賜姓源氏は跡かたもなく滅亡している可能性が高い。

そして、遂に、伊勢に来た。先ず、第一に伊勢永嶋攻めである(1576年)
朝廷の学問所の村上源氏の支流末裔子孫の北畠氏の伊勢東部永嶋の領国である。全国最後に残った名家の伊勢青木氏と北畠氏に危機が覆いかぶさって来た。有名な戦いである。伊勢青木氏も客員軍師として参戦した。そして、遂に、敗退し北畠氏は滅亡した。
しかし、青木氏はここでは「2足の草鞋」で生き残ったが、1578年豊臣秀吉は蒲生氏郷を伊勢松阪に差し向けた。戦うまでもなく910年も続いた賜姓伊勢青木氏は「下克上」のなかでは250の戦力では戦えず敗退した。そして、一時新宮に移動し直ぐに伊勢松阪に戻った。2足の草鞋の一面をもって。

此処で、過去の危機の時のように、再び救いの神が現れたのである
そりは紛れも無く攻めての蒲生氏郷である。
蒲生氏郷は信長や秀吉や家康に名将、知将と称えられて知られ、藤原秀郷流の蒲生氏であった。そして、この蒲生氏は清和源氏の血筋もある家柄でもあつた。更に、この蒲生氏から藤原秀郷系支流青木氏が出ているのである。なんと、最後の最後に藤原氏秀郷一族に救われたのである。秀吉はこのことを知っていて不可侵の伊勢神宮の天領地とその守護の賜姓青木氏のために蒲生氏郷を廻したのである。

蒲生氏郷は伊勢青木氏を丁重に扱った。氏郷は松阪に城を立てて、城を中心に経済活動を合理的にするため西10町東9町の屋敷町を形成した。ここに主な家来と伊勢の重要な者を住まわさせた。
蒲生氏郷は歴戦の将で数多い彼の戦いの中で一度だけ無理押しの戦いをしたほどで、武力で決して攻めなかった将である。

その様な人柄であり、伊勢青木氏は無償で生き残り、上記の屋敷町を2区画も与えられた。2足の草鞋の「郷氏と紙屋」の青木氏は無償と無傷の形で生残った。この後に夏冬の陣に参加して徳川時代も特別に扱われて明治35年まで2足の草鞋は続いた。伊勢は紀州徳川の飛び地領として徳川氏と大正8年まで親交の交流は続いた。終わり

青木研究員[副管理人]
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鹿児島の青木 家紋は「藤の三つ巴」

かごんま産の青木です。さん
はじめまして
鹿児島で生まれ育った青木です。
父曰く、「ルーツは奈良ら・し・い」です。
家紋は「藤の三つ巴」なんですけど、本当は何処からきたのでしょうかね・・・

青木研究員[副管理人]
鹿児島の青木さん 御尋ねのルーツの件ですが、現在の資料は3つですが、この3つの条件から先ずは推測します。

家紋は三つ巴藤ですが、このことから先ずは御説明します。
藤の紋には約144の家紋の種類があります。
この家紋の元は「下がり藤紋」です。

藤紋は藤原氏の「通紋」となつています。
研究室の所でも家紋のことについて説明をしていますので詳しくはそちらをご覧ください。
「通紋」というのは大まかにその「氏」のステイタスとするとしているものです。それに比べて、「綜紋」はその氏の統一したステイタスとするものです。
ここで、藤原氏は貴族であつたので部門の者と違いこの点を明確にして「氏」を束ねるという事をしませんでした。
藤原氏は本来は綜紋は「下がり藤紋」です。
しかし、この藤原氏には「四家」(藤原鎌足の2代目の不比等の子供から4家に分かれる)といって藤原氏は4つの家に分けられますが、それぞれこの「下がり藤紋」に対して異議を唱えて、家紋を自分の好きな藤の形の紋に変更してしまいました。その結果、144にも成った訳です。例えば、下がり紋は縁起が悪いなどの理由です。
その内の一つが「三つ藤巴紋」です。巴は目出度いものですので、藤原氏の一部(97氏のうち)がこの紋を使うようになりました。
下がり藤と上り藤と巴藤紋は藤紋144の中で3大藤紋です。

そこで、では何故、青木姓なのかと云う点です。
この藤原氏のうち、「藤原秀郷」という者がいました。
この秀郷は「平の将門」が関東で独立国家を目指して乱を起こしました。5年間だれもこの「将門の乱」を静める事ができませんでした。
そこで、困った朝廷は2つの案をだして、この乱を鎮める事が出来る者を募りました。2つの案とは下野国と武蔵の国の守護にする事と貴族にする事でした。
元々この国の押領使(警察軍)であった秀郷は手を挙げました。
もう一人、この将門の叔父にあたる国香と云う者と領地争いで揉めていましたので、息子の貞盛も手を挙げました。(貞盛は京平氏の祖 元祖は渡来系阿多倍王 詳細は研究室参照)
結局940年に将門を討ちました。この恩賞として秀郷は貴族と下野と武蔵の国の守護になりました。
この藤原秀郷と直系の者だけがこの「下がり藤紋」を正式に守り使っています。
この秀郷は貴族になったので慣習として自ら武力を使う事は出来ませんので、自分の子供の(千国)第3子に「青木姓」を与えて武士として親衛隊と成って独立させました。その後、この青木氏は直系1氏と直流4氏と支流4氏に分流しました。この青木氏は最終は全体で116氏の一族と成ります。

ちなみに、青木氏は二つの出祥点があります。
一つは大化改新の時に、天智天皇期に皇子の第6位の者が天皇から直接に青木氏と云う氏を与えられて、天皇の身内の親衛隊の役割りを果たす為に、臣籍しました。この者達を「皇族賜姓青木氏」といいます。この後、4代の天皇から賜姓を受けて5家5流あります。
5国(伊勢、近江、美濃、信濃、甲斐)に分散しています。

二つ目は賜姓青木氏の方式を踏襲した、上記の藤原秀郷流青木氏です。
この二つの青木氏は藤原氏の血統と言う点で伊勢の青木氏を除き同じ「氏」ともいえます。朝廷はこの血筋ゆえに秀郷にこの「青木氏」を名乗ることを特別に許しました。
この内、あなたの家紋の「三つ巴藤紋」は藤原秀郷の直流青木氏の一部が用いていた家紋です。

他に2氏がこの家紋を用いています。堀氏と正親町氏です。
この内、正親町氏は皇族です。

皇族の者が皇族から離れて臣下するときは「青木氏」を名乗ることに嵯峨天皇期より令により定められていました。
従って、一般の者は名乗ってはならない「氏」と定められて、下克上の始まる室町時代初期頃まで守られていました。
但し、この正親町氏が臣下して青木氏を名乗ったかは不明です。
多分、貴族の正親町天皇の子孫は記録に無いので正親町を「氏」にしたと思います。

次は奈良の土地の件ですが、この国は大和国には藤原秀郷流青木氏が本家の一族の者とこの地に守護として赴任した記録がありません。しかし、この隣の伊勢の国(三重)には赴任して、その後、伊藤と名乗って、こに住み着いて締まっていますので、この定住した一族と共に、国堺付近に定住したものと思われます。
その後の移動はあるとは思いますが、この3つの情報の組み合わせには史実に基づき矛盾がありませんので、先ず、正しいと考えます。

そこで、更に資料があれば教えてください。どんな古いことでも結構ですから、特に、宗派とか奈良のどことか、記録に残る一番古い人とか、何でも結構です。確定することが可能ですので。ところで鹿児島の大口市青木と言う地名がありますが、御存知でしょうか。
古いルーツは3つの情報でここまでは判明します。
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長野県 小県郡(ちいさがたぐん) 青木村の由来

昔は、今のように車なんかありませんでしたから、旅をするにはわらじばきで、歩かなければなりませんでした。遠い道のりを旅する時は、山の形や、大きな木などを目印にして、どこまで行ったら休もうか、なんて、目やすにしていたものです。

そんな木の一つに、街道のそばに、いつも青々としている一本の大きな「ねずみんばら」の木がありました。旅の人は、この村を通るたびに「どれ、あの木の下で、休んでいくべえ。」 「うん、そうするべえ。」といいながら、大きなねずみんばらの木の下で休むのが楽しみでした。その頃は、今のように家もたくさんはありませんでしたから、少し小高いところに立っているねずみんばらの木は、かなり遠い所からも見えて、旅をする人のはげみにもなっていました。

月日は流れて、今まで部落ごとに、村の名前がついていたのが、
その小さな村がいくつもより集まって、一つの大きな村に、生まれかわることになりました。ところが、大きくなった村に、なんと名前を付けたらいゝだろう、ということで、ひともんちゃく、起きてしまいました。一緒になる前の大きな部落だったところはその部落の名前がいゝ、なんていってますし、ほかの部落の人は、その意見に反対しますし、何回相談しても、らちがあきません。

みんなが困りはてゝいるとき、あるお年寄りの人が、 「むかし、旅をする人が、いつも喜んで休んでいた、あの青々とした木は、この村のほこりだから、あの木にちなんだ名前を付けたらどうだろう」といゝ出しました。集まった人たちは、その意見に賛成しました。いつも青々としている木 そこで 「青木」という名前が付けられました。

青木村の名付の親ともいわれるねずみんばらの木は、今は切り倒されて、その姿を見ることは出来ません。※ねずみんばらの木があったのは、今の中学校へ登っていく途中にありました。
そして、昭和の中期に切り倒されています。この葉の形が、校章になったこともあります。

青木の由来 「青木村の伝説と民話」沓掛昭典さん編集・発行 (昭和53年7月発行)
http://www.ued.janis.or.jp/~lscu/densetsu2.htm

青木研究員[副管理人]のコメント
上記の伝説から村名がつけられたとの説ですが、私の調べた範囲では、この地は平安初期に皇族賜姓の青木氏が朝廷より派遣された土地でありますので、一族が住み着きそして人があつまり青木氏の姓を採って青木村としたものと解釈しています。他の賜姓青木氏が配置された土地④ケ所も全て青木村です。賜姓青木氏の青木は天皇から賜姓を受けた氏で土地名から採った氏ではありませんから、この人たちが住み着いたことから、村名を青木としたものです。

大化改新後、天皇家にとって重要な土地と指定されて天皇ケ一族の者が臣籍してこの地に赴任して住み着いたものであります。この事は「日本書紀」にも書かれています。大変重要な土地であるので、この地を豊かにする為に不輪の権と不入の権を土地の者たちの申請により認めたとかいています。つまり、他の国がこの地を侵してはならないと言う命令と税を一定期間免除すると言う命令を授かったのです。それはこの地を重要な土地であるために賜姓青木氏を配置して豊かにして繁栄をさせるための配慮であったのです。このような背景から生まれた賜姓青木氏の青木村なのです。

更にさかのぼるとこの地には渡来人の後漢の滅亡により帰化した「阿多倍一族」の内の馬を飼う「馬部の集団」と、山の物を加工する「山部の集団」とが配置されて、さらに、東海地方の海辺にはこの山の幸を加工する「磯部集団」が配置されて生活が保てるようにして、開墾した土地でもあります。640年頃です。

そこから100年くらい経って、開墾された土地を更によりよくするために朝廷より「皇族賜姓青木氏」が配置されて尚村が栄え「日本書紀」に書かれているようなことに発展していつたのです。

そして、これより200年後には賜姓源の頼光が朝廷よりこの国の青木氏に代わって守護にはいったのです。一番力のあった清和源氏をこの国を他国から守る為に守護代として赴任しました。

渡来系一族が開墾する地に守護として賜姓青木氏が入り栄えて青木村が出来たのです。少し、歴史の事実を無視して民話的に成りすぎているとおもいます。
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ルーツの姓の発祥

自分のルーツを調べるのに大変役にたつことはその姓が、又は氏がどの様に付けられたのかを知ることではないかと思います。
一説では姓は土地の地名で付けられたものが殆どと言う文献もあるようなので、ここでこの説を否定する為にも、次にそれらを網羅します。
日本の氏は次の3つにわけられます。

1 皇別の氏
皇族の令の規則で皇族を維持する上で、皇族を直接守護する親衛隊を作るために、又財政的な負担が大きくなるため、ある一定の規則を設けて軽減のために皇子と皇女を臣籍する。
このことによって生まれた一族。賜姓青木氏、賜姓源氏、など

2 神別の氏
天皇家を取り巻く各地の土着の豪族が自らの一族をまとめて集団で生活していた。そしてこのなかから強い者が出て他の一族を吸収して血縁によって一族を大きくした。これらを一つにまとめて氏を作り上げた。その様なものが全土に出来た。

3 諸蕃の氏
日本には約250万人くらいの外国から入った人たちがいる。
この人たちは集団をつくり各地に分散した。
特に最大集団で入国した一族は後漢滅亡の折に、光武帝の末帝の石秋王の子の阿智使王と阿多倍王の17県民(200万)が450年ころから650年ころまでに入国帰化した集団である。渡来系人が各地で定着して氏を構成した。(中国、朝鮮)
朝鮮からは百済、新羅等の動乱時にも入国した。
これら3氏は保護神を造り氏統制の役を果たした。
これらから多くの分流の氏が出た。

そして、これらの氏は各地に分散して行くが、この時に必要とするこれらを区別するために姓を設けた。
この姓が次ぎの7つの姓に変化していつた。

① 血縁的な同族が形成する氏より採った姓
② 諸蕃の氏の阿多倍王が引き連れてきた技能集団の仕事別に呼んだ職名を姓としたもの(部制度)服部、織部、綾部
③ 名田の制度から起こった名字
  天皇から一般良民まで土地が与えられたがこの土地を登録する際に名を書いたことから、その土地(字あざ)の名から「なあざ」が変化して、呼び分けるために「なあざ」を「名字」とした。
④ 皇族が臣下する際に賜姓や地名の賜姓を受けて出来た姓
  家来が賜姓を受けて出来た姓
⑤ ④が分家、分流、支流、分派していく過程で名字の一部をつけた姓
⑥ 自分の知行する土地の名称と③④⑤の名字に組み合わせたものの姓(66あった)
⑦ 武士の嫡子以外の者が地方に分散して行くときに、③等の名字を採って、惣領家と区別するために付けた姓
   
以上3つの氏から、更に、7つの姓が区別する目的で付けられた。
この3つと7つとの関係を調べることでルーツが見えてくるのです。
それで、自分のルーツがどの程度の身分や家柄であったかという事も判るのです。これで姓は地名からだけではない事がわかります。

江戸時代に作られた文献にはおおくの間違いがあるのです。また、偏纂や脚色がみられるので、これを利用した人が信じて文献にするので変な説がでてしまいます。自分の姓が7つのどれに属しますか。青木氏の場合は1と④、2と⑤、1と⑤ですね

青木研究員[副管理人]
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皇族賜姓青木氏の背景2

皇族賜姓青木氏の背景2
(皇族賜姓青木氏の背景1に続き、背景2の記述)

背景2-1
5家の青木氏特に伊勢青木氏は桓武天皇期に前述した5つの牽制策で衰退の一途を辿ったが、桓武天皇の子の嵯峨天皇(786-842 位809-823)は渡来系一族の平氏の賜姓を実行した事に同じ方法を採らなかった。
超貢献度のこの一族に対して普通であれば賜姓し続ける筈であるが、実行しなかつたのは一体どの様な背景があったのだろうか。

検証項目
1 皇族として賜姓したが事実は渡来系であり異なる事
2 天智から光仁天皇までの皇族賜姓青木氏の身内の伝統を護る事
3 今度は渡来系一族への牽制をする必要がある事
4 再び増え続けた皇族一族の維持費の軽減を図る必要がある事
5 律令制度が整った現状の今政治への見直しが出た事
以上が考えられる。

この事に付いて詳しく検証する。
1 に付いて
前記したように高尊王や高望王、同一住居の伊勢北部伊賀地方等、明らかに皇族と見せかけた賜姓であった事から、衰退して行く伊勢青木氏などを見て、矢張り一族賜姓の族を護ろうとしたのではないか。そうでなければ結局、身内を無くすことは天皇家を弱くする事と父のやり方を見て認識したのではないか。その証拠として、嵯峨天皇に即位する前は平城天皇(現状維持をしていた)が即位していた。この天皇は兄弟であるが3年で病気で嵯峨天皇に譲位した。そして、その後、再び、810年「薬子の変」が起こるが、天皇としての考えを持っていたと見てこの変を察知しつぶした。この変を企てた藤原式家は衰退した。そして、嵯峨天皇の考えを後押ししていた秀郷の北家が台頭した。
桓武天皇が採った伊勢青木氏の牽制策で伊勢国司に成った藤原藤成の子供(豊沢:藤原秀郷の祖父)の時の出来事である。
この藤成は5-6年程度の任期であり、その後、810伊勢青木氏は守護に戻っている。秀郷の祖父が初めてこの功績で下野国と備前の守護に成っている。(下野の豪族の娘を母) 
ここで伊勢青木氏と藤原秀郷とはここで初めて繋がっているのです。

青木氏牽制策で祖祖父の藤原藤成(秀郷の祖祖父)が伊勢の半国国司に。
伊勢青木氏を伊勢に戻した天皇を補佐した藤原豊沢(秀郷の祖父)。
下野の守護になり坂東に根着いた藤原豊沢。
豊沢の影響を受けた孫の押領使の秀郷が藤原秀郷流青木氏(始祖の第3子千国)を出した。
この経緯から伊勢青木氏にしてみれば、この北家藤原氏は恩人である。

2 に付いて
嵯峨天皇はこの考えのために、賜姓を青木氏から変更して、同じ方式で第6位皇子を源氏とした
父の手前上、青木氏の姓に戻す事は角が立つので避けたのではないか。そして、この時、弘仁5年に詔書を発して、天智天皇の時に定められた「皇位4位6位臣下方式」から正式に「皇位4世6位臣下方式」に変更し定めた。この時8人の皇子皇女は臣下した。そして、このうちの6位の皇子を源信として初代の源氏が誕生した。この時、同時期に伊勢青木氏も伊勢神宮の護り守の守護として戻っている。つまり、朝廷の守護神の伊勢神宮の守りは、藤原氏ではなく、皇族一族の者に戻す事が本来とした証拠であり、渡来系一族(たいら族:平氏)では「皇親政治」を築こうとするには困るのである。
渡来系平氏族を賜姓し続けることは天皇家として得策ではなく出来ないのである。桓武天皇の施策(母:高野新笠:阿多倍一族の引き上げ策)は間違いとして嵯峨天皇が改めたことになる。
そして、嵯峨天皇は伝統ある伊勢青木氏の衰退はこのためには困るとした。
伊勢青木氏に付いてのこの考え方の伝統は、織田信長の伊勢永嶋攻めの1576年まで続いた。(後述する)
この伝統を守るために、この時から詔で皇族以外の一般の者が青木姓を名乗ることを禁止した。そして、源氏はこの後の天皇の第6位皇子の賜姓で16代続いた。(実質11代:花山天皇期)
17人の皇子と15人の皇女の臣籍が行われた。15家15流(実質11家11流)ある。
(16家16流とする説もある)
賜姓を外れた者は比叡山か門跡寺院への入山が主となり、学僧となった。この者たちが還俗したときは青木姓を名乗ることを許した。皇女は斉王か他家に嫁いだ。
嫁いだ先は家紋の違う未勘の源氏一族としてその男子の子供は名乗りをあげた。本来の皇族賜姓の家紋は笹竜胆である。しかし、家紋の違う源氏一族は源氏宗家の許可を得ていない事を主に意味する。(又上記の皇子皇女の数からして青木氏と源氏の名乗る数は多すぎる。前記した戦国時代の家系偏纂である。)皇族賜姓族は青木氏5家を含むと24氏となる。
賜姓青木氏から還俗青木氏までの賜姓源氏からは家紋違いの源氏がでた。
正規には、家紋笹竜胆は賜姓青木氏5流と佐々木氏2流と大島氏1流の3氏が使用する。
(大島氏は源為朝の逃亡先伊豆大島での子孫)

背景2-2
(背景2-1の続き)
皇族賜姓青木氏と還俗青木姓と皇族賜姓源氏からは家紋違いの源氏一族がうまれた。
桓武天皇の施策によって政治構成が大きく変化したが、この変化に対して、嵯峨天皇は反対派を押し切って修正を実行した。
律令国家の形態が完成したが、この行き過ぎを嵯峨天皇は修正したのである。
兄の平城天皇が病気理由で譲位したが、譲位後、戻ろうとして、薬子の変が起こる。つまり、変が起こるという事は現状派と修正派の戦いであろう。そして、これに藤原氏が両者に絡み戦った。そして、式家が落ちて修正派の北家が上がった。桓武天皇に命じられ青木氏に代わり、伊勢の国司に成った北家の藤原藤成であったが、修正派の勝利で伊勢の守を退き、伊勢青木氏に戻した。
そして、藤原秀郷の祖父藤原豊沢が修正派として藤成と行動した。この結果、北家が力を持ち孫の秀郷の代へと繋がるのである。

3について
嵯峨天皇は渡来系への牽制策の必要性があった。余りにも大勢力の超一族が朝廷内に存在して来た。修正派として勝利した古来から朝廷内に血縁を広げて確固たる勢力を敷いて来た藤原氏にとって、この渡来系一族の存在は放置することは出来ない。しかし、余りにも大きく貢献度もある。建前上も到底武力では排除できない。
桓武天皇を背景とした渡来系一族は、勢力の出した青木氏を牽制し、今度は藤原氏が渡来系一族を牽制しょうと画策する。多分、薬子の変はこの策の延長線にあったのであろう。しかし、嵯峨天皇(809)から1185年までこの戦いが続くのです。この間にこの戦いが朝廷内にくすぶるのです。そして、数多くの乱(保元平治 1159)などに結びついてゆくのである。
戦う北家は摂政関白にありながらも殆ど権力を失った状況の中(1150頃)で、渡来系一族を横目に見ながら、その後の11代の天皇(1070頃まで)は源氏を賜姓し北家の協力を得ながら着実に親衛隊の育成に勤めるのである。特に、清和源氏が勢力を挙げて積極的であった。
この証拠に清和源氏の妻は殆どが藤原氏北家の娘である事。特に清和源氏の源氏の勤め先は藤原北家の侍所で、頼光や頼信などは長く摂関家に勤めたのである。(1148頃)このパイプを利用して約10年程度で、5家青木氏の守護地は全て頼光の守護地に変わり青木氏との血縁を進めた。(990頃)
ここで源氏と摂関家との結びつきが生まれ、清和源氏と皇族賜姓青木氏が古来からの守護職を清和に代譲し、且つ、5家青木氏の跡目に入るなどの同化策に出た。
つまり、(1150年頃まで)渡来系一族追い出しの長期共同作戦である。

背景2-3
(背景2-2の続き)
青木氏への牽制策が、今度は藤原氏が子孫を守るために余りに大きい渡来系一族に対して天皇譲位と言う変化を捉えて牽制を始めた。渡来系一族にとっては「青木氏との摩擦」から今度は「藤原氏との摩擦」になりつつあった。そのなかで、皇族一族の維持経費が増大した。

4に付いて、
天智天武期の改革で皇族の維持費が財政上の問題として大化の改革は行われたが、それから160年経った嵯峨天皇期には再び膨大していた。嵯峨天皇には多くの皇子皇女がいた。そして、8人の皇子を臣籍した。そして、皇族を賜姓しなかった桓武天皇にも皇子が居たので、天武からの第4世以降の王が嵯峨天皇の時には膨大に成っていた。それまでは第6世以上の者は坂東に移して土地の者(坂東八平氏)とした。
これが、「坂東八平氏」で”ひら族”と呼ばれていた。しかし、この「ひら族」以外に天皇が代わるたびに増える6世王がたまって来ていた。王には高位王と低位の王とが居た。この低位の王の存在が朝廷と天皇家の財政上の問題と成っていた。よって天智天武期と同様に嵯峨天皇は弘仁5年8月に詔書を出した。そして、それまで、大化改新時に実施した皇位継承の制度を正式に制度として発した。天武期のそれと一部改善して皇位4世第6位臣下方式を発した。
代々出る低位王の数を減らした。
この事も桓武天皇との考えの違いがあったのではないか。譲位すると直ぐに実行したのはその証拠である。桓武天皇はこの臣下の策を皇子の中では採らなかった。律令制度を構築した天皇でありながら
も財政上の改革を身内の中で実行しなかった唯一の天皇であった。
それどころか、渡来系一族の引き上げを一族と見せかけて賜姓したのである。(これが将来、朝廷内のもめごとの一つになるのだが)
重複するが、嵯峨天皇以降の15天皇(11天皇)はこの方式を踏襲して第6位王を臣籍して、それ以外の王は比叡山か門跡寺院の僧として入った。皇女は伊勢神宮の斉王や門跡寺院の尼僧として入ったのである。一部には豪族の他家に嫁ぐなどした。この皇女を受け入れた豪族は源氏一族として生まれた嫡子に名乗らせたのである。これが家紋違いの源氏一族の支流族である。(豪族の跡目方式として出来る源氏一族もある)これらは全て、家紋違いの源氏である。
入山した学僧や尼僧が還俗する時は[青木姓}を名乗る事もこの嵯峨天皇から後15代の天皇に引き継がれた。(多くはない)

歌舞伎などで演じらる5家の賜姓青木氏に対して、徳川家の殿様が上座を外す、外さないともめる場面がある。慣例では賜姓青木氏は上位であるので結局外して上座を譲るという場面である。
たとえ嵯峨天皇から臣籍してきた源氏であっても、古代の賜姓青木氏に対しては下座した。特に、伊勢王を先祖として持つ伊勢の賜姓青木氏に対しては、江戸時代になっても行われたと伝えられている。
天武天智から引き継いだ賜姓族の制度で朝廷の財政は改善されたのである。
(実際の効果は花山天皇期までで後二条天皇まで行われた)

背景2-4
(背景2-3の続き)
嵯峨天皇が譲位したこの頃、阿多倍一族の勢いに対して賜姓青木氏も北家藤原氏も何とか対抗しようとしてあがいていた。
しかし、余りにも大きい相手である。この渡来系の一族は益々実績を挙げて、更に力を付けて拡大した。過去誰もなし得なかったが長男の息子坂上田村麻呂は征夷征伐の大成果を成し、征夷大将軍となり、次男と三男は大蔵氏と内蔵氏として、朝廷の律令の国体を完成するなど3蔵の官職のうちの2つまで握り、又一族は九州全土を統治する大宰府の大監になり、「遠の朝廷」(とうのちようてい)と呼ばれ3権を委ねられた。室町時代までこのように呼称されて3権を与えられた者はいない。この様な一族の働く中で、嵯峨天皇は源氏を賜姓し、上記の1から4までの改革を進めた。歴史では簡単に云う大変な軋轢と争いがあり、例えこの「勢力争い」の中で、天皇でも身の危険もあり言語に絶する大変なことであったと思う。
嵯峨天皇と藤原氏はこれだけでは納まらなかった。
絶大な反対勢力の中で桓武天皇の「政治」を改めたのである。また、北家藤原氏も着実に勢力をた高めた。それは次のことである。

5に付いて
律令体制が完成したが、一つの問題が出てきた。
それは、官職と官職の間の不備である。この問題に藤原氏は大いに関わったのである。
それは「令外官制度」である。(令の規定にない官職)
戦略1
嵯峨天皇は渡来系一族の対策として次の政治見直しにかこつけて、対抗する勢力を藤原氏北家に次の役職を与えて政治力を強めさせたと考える。

戦略2
それと「侍所」や「右大臣」などの政治の場での役職を与えて、身内の源氏一族の引き上げをした。

令外官は次の通り。
内大臣、中納言、参議、勘解由使、検非違使、按察使、蔵人、摂政、関白、近衛府 以上を出来上がったばかりの律令制度外に設置した。(財政、司法、行政、立法の官)
この「政治と行政」の「見直し機関」を設置し、これに全て藤原北家氏が関わったのである。これにより、力の出てきた藤原氏の秀郷も祖父の豊沢と共に70年後位に押領使として下野に赴くのである。
そして、この「令外官制度」は次第に常駐となった。この常駐となる事で藤原北家は朝廷政治の中では、渡来系一族に負けない絶大な力をもったのである。阿多倍の末裔一族に対しては軍事や経済力は依然として劣っているが朝廷政治では同等とまで成ったのである。(880-920)
しかし、矢張り渡来系一族は巻き返し強かった。1120年頃には再び藤原北家族と源氏は権勢は無くなるのである。

戦略3
しかし、藤原氏北家は朝廷内では衰退したが、坂東では930-940年頃には、豊沢や村雄や秀郷らに役職を与えて勢力を高めさせていた。
そして、この時、遂に、朝廷内でも940年頃に、更に台頭のきっかけとなる事件が起こったのである。「平の将門の乱」である。
「平の将門の乱」では、秀郷は掛けに出た。将門の独立国家樹立の動きに対して、朝廷内には、2分する勢力の為に、この勢力を征圧する事が出来なかった。
阿多倍一族の平貞盛もこの掛けに出た。そこを見越した秀郷は、混乱する朝廷に2つ条件を朝廷に出した。平貞盛もこれに載った。この二人は決死で戦った。5年後に征圧した。条件の貴族に成る事と武蔵、下野国の領国化を2つを獲得した。この二つを基盤に低迷する藤原氏の勢力を付けて行ったのである。当然共に、たいら族の貞盛を始めとする阿多倍一族も勢力を高めて行ったのである。

また、一方近畿では、源氏が誕生して村上源氏(9代目)まで一族が拡大していた。そして「清和源氏」や「村上源氏」や「醍醐源氏」が3源氏は、軍事と政治に力を持ち始めていた。清和源氏の3代目の頼光、頼信の兄弟は、摂関家の侍所、村上源氏では、具平親王が右大臣になり、遂には朝廷内にこの3源氏は藤原北家氏と勢力を二分するまでに成長した。しかし、まだ一氏だけでは渡来系族には劣っていた。
(15源氏中この3源氏が子孫を遺し勢力を拡大した。)
令外官で政治の場に台頭した藤原北家氏、関東では北家秀郷氏らが勢力拡大、近畿では軍事力を保持した親衛隊の源氏3家が台頭、力の盛り返した賜姓青木氏の4勢力がスクラムを組んで対抗した。
この4つの勢力が一体となって渡来系一族に1160年を境に立ち向かうのである。
1-5の政治、軍事の改革変化の中で、戦略1-3を実行して、2分した天皇家をも巻き込んだ双方一進一退の状況であった。

その中で、嵯峨天皇と藤原北家一族の助けによって、伊勢青木氏をはじめとする5家の賜姓青木氏は再び息を吹き返した。
嵯峨天皇は桓武天皇の渡来系一族を引き上げてその持つ力の絶大さを政治の場に多いに利用した。又その効果は抜群で律令国家の国体を完成させのである。それは、それなりの方法で3相を得ていたものであるので否定するものではない。時代は3相(人、時、場所の構成体)にて構成されなければ本当の目的効果は達成されない。
この意味では、この800年頃は桓武天皇方式が正しいのであった。だから、効果があがった。しかし、何時の時代にも完全というものはない。嵯峨天皇はこの隙間に発生する問題を指摘し、これを修正しなければ天皇家はもとより朝廷も瓦解すると考えたのであろう。
なぜならば、この事例が目の前に歴史的にあった。そして、天智天皇や天武天皇はこの問題に取り組んだ。蘇我氏の台頭による天皇家の危機であった。これも3相を得て乗り越えて守りきれた。そして、その効果は桓武天皇期前まで引き継がれた。桓武天皇は果敢に課題と取り組んだ。そして、嵯峨天皇も背景2で述べたように1-5までの対策を実行して効果を挙げつつあった。

上記1-5の政策実行と次の二つの変更を試みたのである。
引き上げた藤原北家は貴族である。従って、武力による行動はない。しかし、北家には関東の役武を与えた。必然的に武装する必要は生まれる。祖父や秀郷親子のように当初は自ら武器で統治した。
もう一つは賜姓の源氏である。源氏は賜姓青木氏以来の天皇の親衛隊であり、侍を本文とし、政治に関与しない。
しかし、この本来の役務に対して、政治に関与させた。それを主務とする源氏まで生まれた。(村上源氏や醍醐源氏であり、右大臣までなった。)参考に、伊勢青木氏は軍略所であつた。つまり天皇の軍事的な相談役で勅命の代理実行者である。村上源氏(北畠氏)は学問所である。事務、政治の相談役である。
藤原氏には主務外に武を求め、源氏は主務外に文を求めた。
これは何故であろう。結論はあくまで渡来系一族に対する牽制のための一策で、彼等と同じ能力をつけることに先ず主眼を置きそして、勢力を付けさせたのである。そうでなければ、到底、超大勢力で万能の一族である彼等と同等の力を持ち得ない。
策は成功した。しかし、依然として、彼等は益々大きくなる。
それは何故なのか。そこには二つのことが欠けていたのである。
嵯峨天皇はこのことに気がついた。
それは、部制度(前記)による経済的な基盤である。もとより、彼等が引き連れてきた技能集団の力でそこから上がる経済的利益の基盤が彼等にあつた。朝廷の軍事力は渡来系一族の武装集団に頼っていた。(蘇我氏の二の舞である)
「一紀一班の制」を施行し調査して、余剰の税の徴収をした。
「健児の制」を敷き一般の有位者の子弟から徴兵し軍団を創った。(前記した渡来系統治の九州は除く)
この政策を実行したことで、弱点は消えるとした。元に次第に藤原氏と源氏は勢力を付けて台頭し朝廷内では対等になった。背景2と背景3の政策が、1160年頃から渡来系一族と4者の団結で対等となった。1180年伊勢青木氏の跡目祖の源の頼政から乱が始まるのです。



背景2の最終。

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皇族賜姓青木氏の背景1

前背景では青木氏は順調に150年も伸びてきたが、桓武天皇期にはそのいくつかの政治的施策(前記)により急に衰退へと追い込まれることになり、反面、藤原氏は勢いを伸ばしてきた。
生きる為、子孫を残すための戦略のズレがこの場面を引き起こしたのである。

少なくとも、桓武期には皇族賜姓青木氏は約35年程度の間には子孫を多く増やす程に力は無くなり、否、減らす方向へと進んだと見られる。
特に、藤原藤成氏に守護を奪われるなどして、伊勢青木氏は直接の影響を受けたと見られる。藤原秀郷流青木氏と違い、その子孫が少ないのはこの時の影響も働いている。
(5地に少なく関東伊豆付近に移動している傾向がある)
後には、次々と難題が降りかかる。検証では10の難題が降りかかっている。繰り返し来るこの難題は皇族賜姓族と言う宿命と地理的要因によると考える。

しかし、950年には又立ち上がれるほどの力を保持して来ていた事が清和源氏と藤原氏との3者連携のその動きで判断出きる。
多分、この時の影響で、近江の青木氏の末裔が極端に少ない原因に成ったと見られる。近江から離れたのは桓武天皇の青木氏への圧政であったと推測する。近江青木氏は再び戻るが佐々木流青木氏が存在するのはこの戻った時の生き残る妥協策であろう。
何故なら、近江佐々木氏は生き残っている。そして、丹波や大江にも佐々木氏の子孫が繁栄している事が証拠である。

ここで、近江佐々木氏のことに付いて多少述べる事とする。
近江佐々木氏には二つの流れがある。
1 天智天武期伊勢青木氏と同じくして第7位の川島の皇子が天武天皇により、地名の近江の佐々木村の名を採って、特別に賜姓を受けたとされている。本来は第7位からは賜姓をださない慣例になっていたので、伊勢王と兄弟の川島の皇子を天武期の朝廷に対する貢献を鑑み丁重に扱ったことが伺える。(日本書紀にも伊勢王に近いその貢献が多く出て来る)
(参考 文武天皇以降と桓武期の賜姓青木氏以外の皇子はこの当時、神社仏閣門跡院などに入山した。還俗時は青木姓を名乗った。これが第三の青木氏で室町から江戸の初期までと明治初期の2回にわたり青木氏の名が利用された原因です。皇子にとっては厳しい定めであったことを追記する。当時は皇子はだれでも栄華を受けない事が子孫を少なくした原因の一つです)

他の文献では明確に佐々木氏を書いているものは少ない。
2 宇多天皇の時(867-931 位887-897)の末裔の者で臣下した佐々木盛綱を祖とする佐々木氏で、この佐々木氏は全国10国に及び守護を務め、この江州佐々木氏が全国に広がった。
(参考 盛綱は以仁王の乱で伊勢青木氏の跡目を継いだ「京綱」源の頼政一族に加担している)
この佐々木氏から、上記の丹波佐々木流青木氏(元の姓は上山氏でこの系譜をなんらかの方法で引き継いだ)が誕生した。

1は 桓武期前の佐々木氏(近江)、
2は 後の佐々木氏(丹波) 後に戻った近江青木氏と佐々木流青  木氏系を造る。これを上山氏が城持ちになった時、この系譜を  買い取り引き継いだと思われる。
この様に近江丹波には桓武天皇期前には佐々木氏と青木氏とが住み着いていた。しかし、後に第2の佐々木氏が元祖佐々木氏の跡目を引き継いで、全国(北陸、越後、近江、山城、大和、淡路、阿波、土佐、伊予、石見)に佐々木氏の子孫を広めた。
もう一つの広めた理由はこの各地の佐々木氏の菩提寺の住職を務めたこともその一つである。
藤原秀郷流青木氏もこの菩提寺住職を務めたことに子孫を多く遺した理由でもある。

しかし、子孫の少ない理由のもう一つは賜姓青木氏にはこの努力が足りない事が伺える。(調査中)
賜姓族5家の青木氏は桓武天皇期頃(790-850)を境にして大きく変化している。そして、975年頃を境に再び、息を吹き返している。
次のレポートは嵯峨天皇期からの青木氏の行方源氏と平氏と藤原氏の絡み合いの中での事を記する事にします。

後日追記
2の佐々木氏の元祖の盛綱について、疑問の点があるので追記します。
宇多天皇の末裔としている事の説に付いて、
宇多天皇は15源氏を賜姓した天皇の一人です。したがって、盛綱は賜姓外の第7位以降の皇子となり、佐々木氏の跡目に入ったとなります。ここから佐々木氏は始まっていなく天智天武期からですから、必然的に跡目となります。しかし、元祖と記しています。
もう一つの疑問は盛綱は清和天皇の源氏で、父は源の頼憲としている説もあります。摂津多田源氏となります。
清和源氏盛綱は1の天智天武期の元祖の衰退した佐々木氏の跡目に入ったとする説です。そして各地に佐々木氏子孫を遺したとすると理屈はあいます。

同時期に源隆綱という者がいました。この隆綱も佐々木隆綱として記しているものもあります。しかし、隆綱は清和源氏源の頼政の子孫となつています。そして、太田氏の元祖となつています。
隆綱は頼政の子の広綱の子供です。つまり孫。しかし、佐々木氏です。頼政の子の仲綱の子の宗綱が佐々木宗綱と記しているものもあります。
清和源氏の同時期の者で盛綱と隆綱と宗綱の3人は佐々木氏の者としているのです。同時期に同姓同名の者が源氏方に居たとなりますが、明らかに疑問です。この3人は明らかに清和源氏源の頼光系の子孫です。源平の乱の始まりの以仁王の乱で没しています。
これらの3人の子孫は別の氏に引き継がれています。佐々木氏ではないと言う事です。

このように、どちらが正しいのか判らないほどに系譜には矛盾点を精査してよく検証する必要があります。
多分後刻に氏の欠落を没した者を使って都合良く埋め合わせたものと考えます。

結論は、多分、当時の15源氏の中では最大勢力の清和源氏一族が源盛綱をして1の佐々木氏の跡目に入り盛り返したと見ました。
賜姓青木氏と同様に跡目に入り、一族を盛り返しの策に出たとする説です。理由は32/66国の渡来系平氏の勢いに対する対抗策です。
背景 1の前段として。

青木研究員[副管理人]
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皇族賜姓青木氏の背景

皇族賜姓族の青木氏は5家5流ある事は前レポートで述べましたが、この背景についてもう少し詳しく検証してみます。
大化改新によって青木氏は誕生したその背景のことは以前のレポートで書きましたが、その後の背景について述べたいと思います。
天智天皇の最終の皇子は2人で、施基皇子と川島皇子ですが、弟の天武天皇はこの2人を皇子として扱い、12人中第6位と7位の皇子としました。この二人の母は施基皇子は越の道君伊羅都女、川島皇子は忍海造小篭色夫古娘です。母の身分は采女(うねめ)か宮人で地方の小豪族の娘で、人質として扱われていた身分は低かつた。この理由は天智天皇は后、妃、夫人、みめ、の妻(妻は20人)の4階級の子供は避けて、一般の女官(采女、宮人)を妻として扱い、その子供を皇子とした。この理由は上位3階級の妻は全て血縁関係にありこれを特に避けたのである。天智天皇の12人の皇女の内の4人は天武天皇の上位2までの妻である。
この状況の中、第6位の施基皇子を伊勢の守護として配置した。伊勢は天皇家の天領地で伊勢神宮は守護神で、交通の要衝地で、主要穀倉地でもある。伊勢王として配置についたが、日本書紀に出て来る事14回で、天武天皇は自分の皇子たち全ての者より身分を高位にして頼った。浄大一位。草壁皇太子は浄広位一位で1ランク差
そして、伊勢王の身分のままに伊勢には代理として三宅連石床を国司として送った。日本書紀では伊勢王は天武天皇の代理として行動して、大和の国に起こる領地争いや、政治施策の実行等の状況やもめごとを解決するために全国を回っている。
この伊勢王の青木氏は賜姓を受けるときにステイタスとして、当時、日本初の仏師 鞍作止利の作った30センチ大の仏像を与えられた。この後、子孫は桓武天皇まで伊勢の守護として勤めた。しかし、ここで青木氏の衰退となる大問題が起こった。(後述)
この間には、近江滋賀、美濃、信濃、甲斐に天智天皇より後の4人の天皇(天武]、文武、聖武、光仁)もこの規則に則り、配置した。どの国も伊勢と同様の重要な領地である。そして、伊勢青木氏を中心に5家がまとまり、大化の目的を果たした。(前記)
朝廷内で侍所として、その親衛隊としての役割を果たしていた。この時、伊勢青木氏は天武期の伊勢王の役所の「軍略所」(天皇の相談役)として勤めていた。
嵯峨天皇は皇位継承制度は第4位まで継承権を保持、第6位を賜姓し臣下した。第7位は地名を採って臣下した。
大化期の目的から財政上の改善目的のために第6世方式に準じず第6、7の皇子は王となって臣籍とした。
((第7位の川島皇子は近江滋賀青木氏を名乗ったとされる)
嵯峨天皇は財政上の理由で弘仁5年の詔で正式に第6位方式に変更した。
天武期の王は山部、高坂、石川、若狭、栗隈、三野、武富、広瀬、竹田、桑田、伊勢である。王には高位王と低位王(5世)がある。
次レポートへ

追記と訂正
天武期の王には春日王と信濃の三野王と美濃王と近江王と追加します。
訂正は武富王と記していますが武家王です。
天武期の皇子は継ぎの通りです。先頭数字は誕生順 末尾は皇位順
1高市8、2大津2、3草壁1、4忍壁9、5長4、6弓削5、
7舎人3、8新田部6、9穂積7、10磯城10、11施基6、12川島7
建皇子と大友皇子は死亡
11と12は天智天皇の皇子で、5と6は天智天皇の娘(大江皇女)の子供、7は天智天皇の娘(新田部皇女)の子供で、日本書紀の編者です。
伊勢王と美濃王と信濃の三野王と竹田王と近江王の5家青木氏の守護先の王、
初代の青木氏の元祖の伊勢王は天武期朝廷の仕事が忙しく国司を置く。国司(くにつかさ)は朝廷より派遣された守護代理の役人
本来は天武天皇の葬儀は皇太子が行う慣例でありながら、絶大なる信頼があり、天智天皇の子供でありながら伊勢の王施基皇子が行うほどであた。
王には皇位の高い皇子の王(6,7位)と5世以下の王とがあつた。
当時は令で4世まで皇位継承権ありとして、6世は臣下し、5世は王にあれど王にあらずとされた。天智天武期は改革のために2世6位以下を臣籍にした。嵯峨天皇は弘仁5年に正式に4世6位以下を臣籍に改めた。このことにより、青木氏より変名して源氏が誕生した。途中の桓武天皇だけはある4つの理由でこの2つの氏の賜姓の臣籍をしなかつた。これが後に特に青木氏を含む源氏と藤原氏に大きな難題が降りかかるのです。そして。保元平治の乱などの多くの乱に繋がるのです。次の背景2のレポートに続く。

上記のように青木氏には基本的な事柄の背景を持つていることを前提に次に記述を進めます。
645年の大化の改新で誕生した青木氏であるが、正式には668年に伊勢王となり、臣下して賜姓を受け、次第に勢力をつけて天智天皇や天武天皇の所期の目的を達成しながら、他の4地方までに4代の天皇に引き継がれて青木氏を広げていきました。
朝廷の軍事舞台の渡来系の坂上氏には達しないまでも、天皇家の親衛隊としての力をつけてきました。しかし、阿多倍一族との武装集団としての対抗が芽生えた。これがまた、青木氏の発展の障害となつたのです。世の常といえばそのとおりで、出る釘は打たれるのたとえ通りで、780年頃桓武天皇期にはこの荒波が押し寄せることとなりました。806
桓武天皇はそれまで続けていた第6位の皇子の臣籍と賜姓青木氏を変更し、突然、次の様な4つの理由で賜姓を渡来系一族におこないました。では、その理由ですが、
1 大化から引き継がれて拡大した4家青木氏の朝廷に対する勢力を律令体制を完成させた天皇としてはそぐ必要に迫られた。
2 渡来系阿多倍王の一族の九州から始まり、関西まで及んだその
32/66国の勢力。
3 阿田倍王一族が持ち込んだ国内へ部制度による産業基盤の技能と彼等による国内の軍事平定と律令体制への完成作業など、過去にだれにも成しえなかったその超貢献度。それによる朝廷の経済的財政力と政治的安定性の獲得。平安遷都はこれにより成し得たのである事。
4 慣例外の渡来人の豪族からの世間の風当たりなどの中で、桓武天皇の渡来系の母(高野新仁)とその義祖父への思い。

桓武天皇前の各天皇はこの超大勢力の阿多倍王一族との融和策だけではすまない政治的な決断に迫られていた。
皇族との結婚、子孫の朝廷内への主要役務の取立て、賜姓、特別地の支給と不輪と不入の権での保護を最大限に行ってきた。
桓武期にはそれまでの伊勢王などの貢献に比して、更には引き立てを実行せざるを得ない政治状況に落ち至る。
桓武天皇は次の施策を実行した。
1 伊勢北部伊賀国の容認と国司の任命扱い800頃
2 伝統ある伊勢の守護の青木氏からの剥奪と藤原藤成の任命820
3 青木氏に対抗する阿多倍一族の賜姓(後の平氏)797
4 藤原一族氏の重用(鎌足から4代目783頃から北家の台頭引上)
5 青木氏を政治から遠去ける。806
 (天皇の相談相手としての軍略所の軽視)
特に、青木氏の中心としての伊勢青木氏に対する締め付けは大で
4家の青木氏は衰退の一途を辿る。
伊勢松阪付近に集中して生き残る。そして、源氏との連携が始まる
この桓武天皇の賜姓と渡来族の台頭に警戒感を持った次の子供の嵯峨天皇はこの動きを止めようとした。そして、詔を出した。
次レポートへ

青木氏は誕生以来、150年程度政治の荒波にもまれることも無く成長を遂げ、青木氏の親衛体として軍略所としての役目を果たしてきた。そして、子孫を増やし、大化期から律令国家が成立する800年ころまでは太平の世であった。しかし、この影で、大きな時代の変化の「うねり」が気がつかぬままに押し寄せていたのである。その「うねり」は時代に伴う必然的なものであった。
一つは渡来系一族がもたらしたの余りにも大きい津波の様な「うね  り」で、軍事、経済、政治の3面の「うねり」があった。
二つは本来あるべき国家の姿が次第に出来つつあった。
三つにはこの状況に上手く対応出来た二つの氏がいた。
一つは云うまでも無く阿多倍一族のもたらしたもので、軍事の近代化や経済の部制度と生産技能の発達、政治では、財政や政治手法の知識の普及である。200万と言われる人民が進んだ後漢のノウハウを一度に持ち込んだのである。近代に於いても例を見ない速さと質と量であった。明治のそれに比較にならないものであったのである。そして、それが近代日本のまだ基幹産業になり、政治体制の基礎に成っていることは不思議である。それが明治以降の植民地時代をくりぬけられた一因ではないか。
このようなものを持ち込んだ一族が動けば5家青木氏などひとたまりもありません。多分青木氏に於いてもこのことには気付いていた筈です。しかし、余りの力の差に手も足も出ない有り様であった事は間違いなく、それが桓武期まで引きずったと見る事ができます。
当然、桓武天皇はこの神にも近い万能超勢力を国体に利用しない手はなく、当然の流れとして。自分もさることながらその勢いを天皇の立場からも利用した。利用せざるを得ずしていた。なぜなら、歴史が物語るように蘇我氏のそれと同じくなり大化期前に戻ることを意味するからである。
当然にして、弱いながらも、天智天武から平安初期の未完の時期の働きから比較して、天皇の相談役の軍略所の役目は時代遅れの感あり、消え行く定めであろう。
二つは聖徳太子の冠位十二階制度など国家の基盤を作ろうとしていた頃から次第に整いつつある律令制度への国体が見えてきた時期でもあり、周囲から青木氏に対する目も異なりつつあったのではないか。それでなければ、阿多倍一族を倒すまでも、何時の世も同じで不満を表す程度の反乱が起きるはずである。
しかし、歴史を調べてもすくない。多分青木氏は政治と言う場面から孤立に近い立場に置かれつつあつたのではと推測する。
そして、5家間も次第に隙間風が吹いていた。結束することで生き延びることも容易であった筈なのに、次第に弱体化していった。
三つは先ず、藤原氏一族である。青木氏と同じくして誕生した藤原一族(4家)である。本来なら、朝廷の役職も阿多倍の子孫に軍事、政治、経済の3面を握られたのである。ただ一つ三蔵の一つは藤原氏が鎌足の頃からの役職であつた「斉蔵」を守った事。それに、2代目の不比等の活躍とその洞察力が生き延びるに一役をなした。
それは天皇家との血縁を結んだことによる。これによる力が藤原氏を支えた。5代目位までは血縁を盛んに結んでいる。そして冠位を獲得し、不動の体制を作っていた。
次レポートのテーマとなるのだが天皇家から外れはじめると15源氏中の10源氏位まで、今度は源氏との盛んな血縁関係を結び、天皇家と源氏と両極から固めている。
それだけではなく、地方の押領使等の役職で一族を配置して地固めを進めているのである。
現に、藤原氏の姓に付いて見ても判る。各地に配置した一族は姓を変えて、藤原の文字の前に土地の名を採って、例えば、伊藤、近藤、尾藤、武藤、加藤、遠藤等はそうである。殆ど全国に配置した。又、朝廷ないでも、役職の文字を付けて、斎藤、工藤、佐藤、左藤、進藤、内藤など小さい役職でも受けて子孫を守っている。
そこで、地方武蔵の押領使であった鎌足から8代目の藤原秀郷である。この一族の青木氏はこのような政治的な行動でその一とその二の荒波から逃げることが出来たのである。むしろ逆手にとって子孫は成長した。賜姓の青木氏とは大違いである。次レポートで記することにするテーマであるが、しかし、810年頃を境として嵯峨天皇期からは逆転していくのである。それは、この頃は藤原氏も例外ではなく、賜姓青木氏との苦肉の策の政治的戦略であり、これが大成功に導き、1185年についに最大の超ライバルの渡来系一族を抹殺するのである。もう一つの氏は言うまでも無く、渡来系一族から名を変えて成長してきた平氏である。 4つ巴の子孫を残す戦いの次レポートに期待ください。

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