青木[アオキ] 名字 苗字 家系 家紋 ルーツ 由来

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鈴木氏発祥地とその環境 2

参考
鈴木氏発祥地とその周辺環境編

全国各地の熊野神社
熊野神社の第1の神社支社の藤白神社は熊野神社の社領の入り口にある。
この神社以外に熊野三山の名で祭祀している神社全国各地に存在する。

必ずしも熊野三山の系列であるとは限らず、三社形式、単独形式、勧誘形式、併社形式、別社形式等で存在するが、正式系列の確認はなかなか困難である。依って、以下の神社以外にも御霊移しなどの簡易な方法で存在する事が多くあると観られる。
それぞれの歴史的な根拠をそれなりに持ち合わせているが、全に於いて確認は取りきれない。
それは熊野三山社との関わり以外に修験道の修験者の開山とも関わっているものも多い。


これらの夫々の確実な神社の歴史的な関係を調べていたが、不思議な一点が浮かび上がる。
それは藤原秀郷流青木氏が定住していたところ全てである。

この青木氏は東京は埼玉入間を中心として神奈川横浜を半径とする処に定住していたが、その範囲にある神社であるが、他も岩手から福島、宮城、青森、千葉、埼玉、神奈川、静岡、愛知、岡山、広島、高知、山口、島根は勿論の事、この下記全ての県でも云える事である。
京都は天皇家との関係からのものであろう。
鹿児島は日向青木氏のところであるので何か事情が存在する。
不思議である。現在研究中である。

ただ、皇族賜姓青木氏の5家5流の土地には無いのである。
皇祖神の神明神社との関わりからであろうか。
高知を除く四国に無いのは弘法大師真言宗の関わりか不明である。讃岐籐氏もこの影響があるのか。

「神明神社」と「熊野神社」との関係は「青木ルーツ掲示板」の「函館の青木さん」のご質問でお答えした内容を参考にしてください。

参考
伊勢王、近江王、甲斐王、山部王、石川王、高坂王、雅狭王、美濃王、栗隅王、三野王(信濃王)、武家王、広瀬王、竹田王、桑田王、春日王、(難波王、宮処王、泊瀬王、弥努王) 以上19/66国
これ等の主要地に初期の段階の基点となる神明神社が建立されました。
矢張りこの地域には正当な系列熊野神社は存在しない。

この2つの歴史ある神社と藤原氏の守護神の「春日神社」との三つ巴の宗教的な勢力争いが大いに絡んでいると観ていてそれを研究している。当然に熊野神社の無い所には「宗像神社」、「出雲大社」が存在するなどの傾向も確認出来る。

「承久の乱」、「治承、平治、保元の乱」等も絡んでいる。義経が平家に追われて弁慶の実家の熊野の日高氏を頼りに熊野神社に出向くが庇護を断わられた。これはこの勢力関係に影響している事は判っている。この乱で賜姓青木氏を始め、賜姓源氏、藤原秀郷北家一門等が平家に押されて衰退する中でこの3氏はスクラムを組んだ。同じく衰退している熊野一門はこの3氏に合力をしたのではないか。
その証拠に一番後の「承久の乱」の時に平家側(田辺別当派)と反平家側(新宮別当派)とに分かれて「熊野動乱」が起こる。最終、田辺別当派が引き下がり反平家派が主導権を握る。
これが伊勢青木氏と藤原秀郷一門青木氏に関わる源氏頼政が首謀する以仁王の乱に繋がる。

「熊野神社」はこの「承久の乱」で後鳥羽上皇に味方した為に衰退するのであるから、5大神社と平安期と鎌倉期の乱との関わりからかこの熊野神社の分布は何かを物語っていて面白い。
勢力保持のために採った秀郷一門の「第2の宗家」と呼ばれる勢力地に熊野神社建立を計画実行したのではないだろうか。

・ 紀伊熊野三山の三社形式

成島三熊野神社(岩手県花巻市)

新宮熊野神社(福島県喜多方市)

熊野三山社(宮城県名取市)

・熊野神社を名乗っている神社(単独形式)。

熊野神社 (青森県中泊町)

熊野本宮社(宮城県名取市)
熊野神社(宮城県名取市)
熊野那智神社(宮城県名取市)
今熊野神社(宮城県名取市)

前野熊野神社 (東京都板橋区前野町)
志村熊野神社(東京都板橋区志村2丁目)
熊野神社 (東京都新宿区)
熊野神社 (東京都目黒区)
熊野神社 (東京都東村山市)
熊野神社 (東京都八王子市)

熊野神社 (千葉県船橋市)
熊野神社 (千葉県四街道市内黒田)
熊野神社 (千葉県四街道市亀崎)
熊野神社 (千葉県武郡横芝光町)
熊野神社 (千葉県匝瑳市)
熊野神社 (千葉県旭市)

熊野神社 (埼玉県和光市)
熊野神社 (埼玉県入間市)

熊野神社 (神奈川県横浜市港北区)
熊野神社 (神奈川県横浜市瀬谷区)

熊野神社 (静岡県鎌倉市)
熊野神社 (静岡県富士宮市)

熊野神社 (愛知県小牧市岩崎)
熊野神社 (愛知県小牧市久保一色)
熊野神社 (愛知県北名古屋市)
熊野神社 (愛知県北設楽郡豊根村)
熊野神社 (愛知県西尾市)

熊野神社 (京都府京都市)
熊野神社 (京都府京丹後市)
新熊野神社(京都府京都市)

鹿塩熊野神社(兵庫県宝塚市)
熊野神社 (兵庫県西宮市)

熊野神社 (岡山県倉敷市林)

熊野本宮社(広島県安芸市熊野町)

熊野神社 (山口県山陽小野田市)

熊野神社 (高知県馬路村)
魚梁瀬熊野神社(高知県馬路村)

熊野神社 (鹿児島県三島村)
熊野神社 (鹿児島県出水市)

熊野神社 (和歌山県御坊市)

・併社(併社形式)
熊野大社 別神祭祀(島根県松江市)

・勧請社(勧誘形式)
熊野神社(いやじんじゃ)(和歌山県御坊市)

・別社方式
久米神社 伊邪那美神祭祀(島根県安来市)

以上


 

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藤白墨と藤白の紫硯石の研究(墨部の存在)

藤白墨と藤白の紫硯石の研究
墨部の存在

先ず藤白とは熊野古道の第1番目の鳥居のあるところが和歌山県海南市藤白でありますが、鳥居の有った所の北域を鳥居地区と呼びます。その南側の山手が古い藤白地区であります。
紀州南紀に行くには先ずこの地域を通る事に成ります。
奈良の古都或いは京都の平安京から熊野に向かうとするとほぼ此処までは平坦な街道を通って来ます。
そして、海南市の鳥居から山の手に入ります。つまり、熊野神社の社領(神社の領地)の入り口であります。此処からが熊野古道と言う事に成ります。
この熊野古道入り口からその最初の緩やかな藤白坂を登ると1千猶予年の歴史を持つ一番目の藤白神社があります。弁慶の親族の日高氏が宮司を務めた神社です。
この1180年頃の日高氏には子供が居なく、後醍醐天皇から賜姓を受けて鈴木氏を拝命したのですが、近隣の氏子の農家の子供の3番目の子供を養子に貰い受けて鈴木氏を継承しました。
此処が鈴木氏の発祥地です。この鈴木の三郎は、源義経と弁慶が熊野神社に平家から追われていたので熊野神社の庇護を求めに行く途中この親類の神社に立ち寄りました。
そこで義経を預けて紀伊半島の端の熊野神社まで弁慶は旅を続けました。
この時、この鈴木三郎は弟の九郎と共に世話をしました。
義経の人柄を慕い2人は2番目の家来になったのです。
鈴木三郎重家を名乗りました。これが始祖であります。
弟の九郎は神社の「紫の井」の青石の蓋の形が亀の形をしていたところから亀井氏を名乗ったのであります。これが亀井氏の始祖であります。
この2人が全国に移動して行き各地に子孫を残したのが鈴木氏や亀井氏の子孫が多くなった原因です。
そんな環境ですがこの環境の付近には日本最古の藤白墨が生産されていました。
さて、この付近には姥目樫から作る備長炭の炭焼きが古来よりありました。
今でも土を掘ると炭の欠片や昔の生活の廃品などが出てきますが、この炭から採れる煤を固めたのが日本最古の姥目樫から採れる「藤白墨」です。
当時は優れた技能もなく良い煤も見つかりませんでしたので中国からの輸入に頼っていました。
奈良期には何とか炭を生産しようと試み奈良の和束付近で松の煤から作る墨が何とか取れるように成っていました。しかし、到底中国墨より優れたものは出来なかったのです。
松の煤は粒にばらつきが多く荒いし墨の色や光沢も良くありませんでした。
朝廷や宮中ではもっぱら中国の高価な墨を使っていました。
この時、何とか自国で良い墨を作れないかと考えていた後醍醐天皇は全国に日本で墨を生産できるように調査を命じていました。そして、この調査に携わったのが高い技能を持った渡来人の技能師の「方氏」で、わざわざ中国から招き入れました。
熊野参詣の途中、案じていた後醍醐天皇がこの付近で採れる炭の煤の細かさと均一な品質から墨に適するのではと考えて全国を調査していたこの「方氏」にここで墨造りを命じました。
ここで、本レポートの研究テーマであります。
当時は物の生産は全て朝廷が命じて生産する方式を採っていました。
これが「部制度」であり、この職に従事する職人を仕事名の後ろに「部」を付けて墨であれば「墨部」と呼ぶ事に成っていました。
彼らは殆どは、中国の後漢国が滅んで全国17県の200万人の民が、その首魁の阿智使王とその子供の阿多倍に引き入れられて、日本に亡命して来た一族です。
奈良時代初期から平安末期まで続きました。この技能の民が朝廷の命で各地に配置しました。
従って、墨を生産していたのですから当然にこの専売品の藤白墨には墨部の姓を持つ一族がこの付近に定住している筈ですが全く発見されません。不思議です。

そこで、何度も研究しても出てきませんでしたが、この墨に付属する硯に着目したのです。
実はこの藤白では特産の紫石が採れるのですが、朝廷に納める紫石から作られる高級硯石が生産されていたのです。この「硯」から研究を進めました。
この地域には朝廷で使われる高級な「紫石硯」は、この地域で産出する紫石で作る特産品でしたし、紫の石で作る仕上げ高級砥石も奈良時代から昭和の始めまで生産されていました。
この砥石と合わせて紫石の硯石も生産されていたのです。殆どは朝廷の専売品でした。
飛鳥奈良時代にはこの地域はこの当時の5大豪族の連合体(平群、巨勢、葛城、物部、紀)で政治が行われていました。その一つ紀氏の勢力下にありました。この紀氏は平群氏や蘇我氏等の様に武内宿禰から出た一族の者でありますが、この子孫が多く住むこの地域では炭や砥石や硯なども特産品として生産されて紀氏の財源とも成っていました。そして、それを朝廷に納めていました。
この様な歴史的な背景を持つ伝統的な硯石には、この「藤白墨」の「墨部」の背景が潜んでいると研究していました。
事実、この「硯」の姓と地域の研究から、この地域には「硯氏」の姓を持つ大変に多く子孫が定住している事が解明出来たのです。
そこが、和歌山県海南市下津町「方」と云う所で、そこに「硯村」が存在している事が判明したのです。そしてこの海南地方には「硯」と名乗る姓の人がこの地域に今も住んでいる事が判りました。
そこが何と中国の墨の技能師の「方氏」と同じ「方」(かた)と言う地名です。
この下津湯浅地方には姥目樫から採れる墨が最も多く採れていましたし、今も備長炭の名で有名な炭の名産地の場所です。この藤白から下津、湯浅の地域までこの炭と墨の生産が行われていました。

現在、この下津町の「方」(かた)と言う地名のところの「硯村(すずりむら)」と言うところがあるのですが、海南市を始めとしてこの村には今でも硯氏の姓の人が多いのです。
つまり、「硯村」は、技能職人を一つにまとめた「部制度」のあった平安時代には、朝廷に納めるこの「紫硯石」を作る「硯部」が住んでいたところであります。
この「紫硯石」には「硯部」が存在し、今も下津町方「硯村」が存在するし、そしてこの村は「硯氏」が定住しているのに、どうしても「藤白墨」には「墨部」が発見されず、地名や村や氏も発見されていないのが不思議であります。
ただ、上記した「墨屋谷」の地名が僅かに残るだけで今は忘れられた地名です。
何故存在しないのか研究を続けていたのですが、未だ発見されていないのであります。

そもそもこの藤白墨は明治の始めまで生産されていたのです。その地名や村や氏が見つからないのは何故なのか大いに疑問であります。
そこで紀州に関係する「部」では、数多くありますが、例えば鍛冶部(鉄製造 鉄砲の生産に従事していた雑賀族)の鍛冶氏なども姓として紀州には多く確実に存在するのです。この有名な長い期間生産されていた藤白墨の墨部の姓の持つ末裔だけが見つかりません。

「硯部」が「墨部」を兼ねていたのではないとも考えられるのですが資料などは発見されないのです。その一つとして、日本の古文書や中国でのものにはこの墨を作っていた中国の氏は「方氏」と書かれています。日本全国墨に適した土地の調査をしたのが「方氏」である事も判っています。
調査した結果、「方」の地名での「方氏」でその子孫が住んでいた地域と観られる地名があり、現在もそこには上記した「硯部」の「硯氏」が定住している事が判りました。
この「方氏」が帰化して後に藤白墨の生産を天皇に命じられてここに移り住んだのですから、その移り住んだ土地が、そこが藤白ではなく海南市の下津町の「方(かた)」地域として最終残ったのではないかと考えられます。

奈良時代の後期、奈良和束の「松煙墨」が最古とされますが、粒が粗くよいものでなかった事から廃れて殆どは中国からの輸入で賄われていました。
しかし、有名な姥樫から採れる後の「備長炭」はこの藤白から下津、湯浅地域で採れるのです。

熊野参詣の途中に、炭から煤を求めて全国を調査していた墨部(渡来人の方氏)に命じてこの墨を作らせたところ良いものが出来た。そこで、後醍醐天皇が生産を命じた事から日本初の墨が量産される事に成った事は確認されています。
これだけの経緯があり徳川時代まで続いたのでありますから、遺されていても不思議ではない筈です。
調査から、どうも「墨生産」には作業を2つに分けていたと考えられます。
そうすると、この「墨部」は方地方に定住した「方氏」ではないかとも観られるます。
元からある炭のその煤を作る仕事を「墨部」、墨の形にする仕事を「方氏」と成っていたことも考えられます。
この墨の原料は元からこの地域の姥目樫から此処で作った炭の煤を集める事で出来ますので、墨部の氏は発祥しなかった事が理解できます。
そして、その煤を集めて練り膠(にかわ 牛の皮を煮詰めた物 古代の接着材)で固める作業は「方氏」が行っていた事に成ります。
そうすると渡来人の墨を作る技能職人「方氏」を「方部」と呼ばなかった理由があると観られます。
つまり、それは「墨の位置付けか後の移動」ではないと考えられます。今回の研究からでは「移動」と観ています。
「方部」として呼んでいた事も考えられますが実は主に次ぎの理由で変化した経緯があります。
この墨職人の「方氏」(方部)が後に朝廷に納める「紫硯石」も生産するようになって重点を硯に変わり「硯部」となり「硯氏」となったと考えられます。
その原因は油から採る煤で作った「油煙墨」の出現です。粒が細かく黒く品質は一定で量産に適していますので、この炭から採る墨に高級品の藤白墨は押されたのです。
この事がはっきりとした事が書かれているのは室町文化の頃からです。
この庶民文化に押されて油煙墨が伸び、姥目樫の墨は長い期間の生産が裏目に出て、この時期から姥目樫の木が藤白から下津湯浅地域に生息が少なく成ったと記されています。
そこで、硯石の生産に振り向けたのではないかと考えられます。時期と状況が一致していますので先ず間違いはないと観られます。
現在もこの地域から日高地方には未だ炭も当然の如く一部で硯や砥石をも作っています。
そして、その「方氏」の一部は廃れた墨を作る為に再び奈良に移り、松の多い奈良和束の松煙墨が再び続けられたのではないか言う事が判ってきました。
室町時代に庶民の室町文化が隆盛が起こり庶民も墨を使う習慣が生まれて需要が増えて庶民が使える松煙墨の墨造りに「方氏」の移動が起こったのだと観られます。だから墨部の存在が確認出来ないのです。
藤白墨は最終は徳川末期まで専売品として続きましたが、姥目樫が藤白に少なくなりこの生産は硯村のある下津、湯浅地方にのみ移動しています。紫硯石も同様です。
この藤白墨の墨屋谷の地域には今でもこの「紫石硯」の片辺が見つかっています。これが墨作りと同じく硯石の生産も方地方に移動した証拠で、方氏の墨と硯は同じ氏にて生産されていた事を意味します。

そして、この藤白墨は姥目樫が無く成ると同時に硯石に生産を向けた事に成ります。
その理由で藤白墨の墨部は藤白から下津、湯浅に無い事になったと観られます。
奈良地域にこの「方氏」の姓の着く氏または地名がないか調査研究しているところです。
これが確証されればこの研究は確実になります。

因みに、他に部の付く氏は思いつくままに、
朝廷に属する部は山部、海部、鵜飼部、鍛冶部、鍛師部、金作部、鏡作部、石作部、玉作部、工部、土師部、陶部、弓削部、矢作部、服部部、綾部、錦織部、倭文部、麻積部、依縫部、赤染部、茜部、舎人部、膳部、靭負部、佐伯部、来米部、織部、磯部、馬部、鞍造部、司馬部、秦部、漢部、物部、硯部、墨部 方部等

氏の発祥は次ぎの7つに分けられる。
地名などの自然形成の血縁的同族が形成して付けた氏名
大和朝廷の上記の部制度による氏名
朝廷の名田制度から起こった名字による氏名
皇族から臣籍に降下し賜姓をうけた氏名
賜姓族と官職役名を一部加えた氏名
自分の知行する土地の名称を加えた氏名
これ等から分家した惣領家と別にした氏名

これ等は「藤白墨」や「紫硯石」の詳細は「鈴木氏発祥とその環境」や他のレポートでも記述していますが、墨に関することもレポートで写真つきで紹介しています。

 

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先祖と宗教(キリスト教の教え 9ー10 主題5)

では、キリスト教の設問として、⑧番の続き、⑨の問題の説明に入ります。
設問
① 他宗を少なくとも先ずは強く排他している事。
② 教えがかなり強引である事。
③ キリスト個人を神扱いにしている事。
④ 兎に角にも、”先ずは信じよ”である事。
⑤ 人は全て悪の子供であると否定する事。

5「仏教とキリスト経の妥協の余地」
⑥ 中間的考え(柔軟性)は無い事。
⑦ 全体が闘争的な発想に成っている事。
⑧ 特定者(若い者)には受け入れられ易い合理的な教えに成っている事。
⑨ 先祖に対する考えは全体として希薄である事。
⑩ 「民族的」と言う考えを認めていない事


⑨番目の事です。(先祖に対する考えは全体として希薄である事)
この事は当然のことかも知れないし、⑧での論文としても充分考えられる事であると思います。

「数理的、合理的、論理的」(以後、定理とする)であるとする事は、「先祖」と言うテーマに対して、この思考を入れた宗教にすると、「定理」であれば不確定要素の多い「先祖」に対して説明が付け難いことに成ろう。又、付けたとして教義の矛盾が生じるであろうと思います。

兎に角、「先祖」に対しては、前論で述べた様に、世界の多くの民族の「先祖」には、その民族の特異性が必ずあり、且つ、譲れない、否定出来ない、事柄を持っている教義に成ります。依って、キリスト教としては何処の民族でも通用する「先祖」に対して一つの定型的な「定義と教義」を作る事は出来ない筈であります。

一民族の中の教義であれば、可能でありますが、全世界に布教伝導と言う野望と言うか考えが有れば、共通項である事が望ましいと言えるでしょう。

その根拠として、次のような事に成ります。
そもそも、ヨーロッパは人類学上、元を正せば2つの人類猿から出来た民族で、その融合民族の合わせた3つの民族から原則構成されているし、それが、更に、その3つはヨーロッパを東西南北に分けた形で枝分かれの4-5つの民族の人類から出来ている事に成ります。
キリスト教はそう云う意味で、ヨーロッパの民族に布教するとすれば、民族的に統一性のある教義とする必要があり、遺伝学上の「思考原理」から、上記の定理の原則が出来上がると言えます。

この2つの理由は、その人類猿期の厳しい極寒の「自然環境」から来ていると言われています。
その2つに成った人類猿の原因は、この環境から生き延びる為に選んだ要素が「食種と住宅」であったとし、2つに変化したと言う最近の学説であります。

一つは、極寒の自然環境に対して、岩盤地域が多く草食に適する南地域に移動して、菜食と岩盤下の竪穴住居とそれを最も補える集団生活を選んだのです。
一方は、狩を中心として肉食の出来る北の地域を選択して移動して、肉食と毛皮に依るテント住居方式を取り狩を行う為に大きく一箇所に集団する形式は採らなかったのです。
この結果、後者は、むしろ逆に、積極的に極寒の自然環境を逆手に取った方法で生き延び、前者は、極寒に耐える消極的な手段を採った事により、生き延びたのは少数と成ったのであります。

それは概略は次の通りであります。
この時、環境に対する進化として、この2つに成った人類猿は、必然的に、その体型と骨格と生理機能を変化させました。
そして、この2つの人類猿に合ったその生活に於ける習慣と規則を創り上げました。
前者は、体型をより小さく丸くし、頭型は四角形とし、肩から後頭部に掛かる筋肉と顎に掛かる筋肉を異常に大きく発達させ食利用の事情に合わせました。
岩盤竪穴式から移動を少なくしてエネルギー消費を小さくし、暖房して身を守りました。この結果、生理機能の変化を少なくし、繊維素の衣服をまとい、現状の体型と生理機能を守った為に進化は遅れました。

後者は、体型をより大きく高くし、頭型は逆円錐とし、胸と肩に掛かる筋肉を大きくし狩に適した体とし、体全体を毛深くして身を守りました。そして、体の周囲に脂肪をつけ筋肉を守り、胎盤、腰盤を大きくし、皮膚の血管を中に入れて、眉毛を深くし、冷気を肺に直接入れないように鼻は長くし下向きにして、額を前に出して目を守って極寒から身を守りました。頭髪は雪日の光に適して茶髪とし、目は光から耐えられるようにブルーとして進化させたのです。

双方はほぼ逆の対策を採りましたが、極寒環境に対して進化を大きくした後者が大きく生き延びたのであります。
前者は、南地域に一部生き残り、一部が北に移動して後者の方式をとりました。この一部が、後者との血縁融合を図り、東に第3の民族を形成したのであります。
そして、遂には、この第3の民族と後者の民族との融合、前者と後者の境界での融合が起こり民族は形成されたのであります。

必然的に、その生活環境から思考の原理は異なる事に成りますが、しかし、その基盤となる自然環境は同じである事。極寒の範囲の活動も小さい事など人間関係の「しがらみ」は、共通する規則的条件が強かった事等から、思考する原理は、「自然と行動」の関わりから、又、精神面からの「しがらみ」が少ないことからも、進化として数理、合理、論理の共通の定理思考となったのであります。

しかし、これとは別に、アジアでは、このほぼ逆の自然環境から「自然と行動」も活発とされました。
(詳細は研究室の日本民族の形成過程の論文参照、また、 大化改新のレポートにも記述)
それ故に、仏教では、言うまでもなく、この「先祖」に対して真正面から「定義と教義」に取り組み取り入れているのです。
それどころではなく、この世の人間、そして、その人間が死して「4つのみ」から抜け出し、「仏」となり、遂には、「神」となるのであります。そして、この職神の神の元締めとして「万能の神」が存在し、この「仏」は自己の民族の「先祖」で有るとするそれを「教義」の大前提にしています。

仏教は、歴史的に、インドを始めとして、アジアを中心に東日本に布教して来ました。中国、韓国の儒教も根底とする教義の所は大きく変わってはいないのであります。
ただ、物事に付いて、仏教より「極端」というか「厳格」と言うか「硬直性」というか「明確」とした所があるだけであります。(江戸時代に一時活発になり、最後は禁令になりました。しかし、日本人の生活に深く残りました)


このキリスト教と仏教の差は、上記の様に、その民族の根源の差にあると見られます。極端に言えば、進化の過程の「猿の根源」の違いにあるとも言えるのです。
それはピネカントロプスとネアンデルタールの違いと成り、更には、コルボックスの移動経路の所に出来た民族と、極寒のヨーロッパ大陸の移動経路の民族の違いであろうと考えます。

そこで、先祖を教義に入れるアジアの民族の根拠は次の通りであります。
この件に付いては本サイトでも何度も記述してきましたが改めて概容を述べます。(研究室のレポート参照)

コルボックスの移動経路の所に出来た民族は、東アジア、南アジア、シベリヤ、アラスカ、北アメリカ、南アメリカ北部までへと移動しましたが、全てのこの民族は、元は全て、コルボックスの民族で一族で縁者兄弟であったのであります。
これは遺伝子的に証明されているのです。

日本の7つの民族の融合族の一部と南アメリカのインカ帝国の末裔との遺伝子は完全一致している事が国の機関で証明されています。(移動経路は同じところで分離した)
これはインカ帝国の末裔のみならず、その民族の人々と遺伝子が共通していることを意味するのであります。

そして、更に、この一つと7つのうちの3つと一部異なるがほぼ一致していることも判っていて、分離した南に進んだ一族とは元は一族が分かれた分離点のところでは縁者である事を証明しているのであります。

この様なことから、この7つの民族は結果として更に融合したが、その内5つの民族は、基は2つの経路から入った一族であった事が証明されています。
真に、これは大ロマンであります。
大昔、分かれた家族は長い年月の末に他民族となり、再び、一つのところで出会い、又、日本で民族を構成したという事に成ります。
日本人は7つの融合単一民族と成っていますが、突き詰めると、ほぼ一族分離点のところでは一つの民族であった事が言えるのです。

これは遺伝子の成す所以であり、人の成した所以ではないので有ります。

それ故に、「融合」と言う今だ世界どの民族も成し得ていない事を成し得たと言える民族なのです。
つまり、長い人類進化の歴史の中で、「先祖」が再び交じり合ったと言う不思議な事にも成ります。
この様な自然が一致したほぼ統一した遺伝子を持つ民族が成す思考は、環境から進化した遺伝子であり、自ずと必然的に同じとなるでしょう。

人類移動先で長い間にその元の「先祖」を祭り維持してきましたから、再会したとしても、同じと成れば、「先祖祭り」の遺伝子は共通したものとなるのは当然の事に成ります。
これが、「人-仏-神」とし、「先祖」をその教義の中核に据える教義としたのであろうし、仏教徒の民は遺伝子レベルからしても充分に納得しているものであろうと考えます。

況や、インディアンやインカやマヤ、アステカなどの文明もその原点に先祖を据えて崇め奉るという宗教行為をしています。
そして、天に届く高い塔を建て、天の先祖とのつながりのモニュメントを造り祭祀しているのは、同じ宗教行為であります。

特に、東アジアの全人類の「先祖」は、アフリカを出て、ヨーロッパ南岸を伝いアジア大陸を渡り、カムチャツカの東岸壁のところに辿り付いた家族で、彼らは北と南と西とに分かれたその時の家族と成ります。
この時点での「先祖」とすると、インカやマヤを含めた東アジアの民族も同じ「先祖」を崇めている事に成ります。
身を裂くような辛い家族の別れの中での事であったから、何れの民族も同じこの時の先祖に対する尊敬と崇めから「心の支え」とする祭りを続けて来た事に成ります。
その証拠に、人類上、最初に、この人類猿の北京原人の祖は死んだ先祖の墓石をつくりそれに花束を捧げた遺跡が遺されているのです。
ヨーロッパの民族にはこの花束を墓に手向けると言う行為の遺跡は人類となった時期の最近であります。
中でも、我が日本民族は、アジア民族の中でも「花」に対する意識が一際強くその花の多くは「仏花」として扱っています。
世界に紹介されている日本民族の教科書には、この事は書かれており、ふ大変「花」を好む民族で、その花に対する固有の文化を持っている”と紹介されているのです。全ての文化には必ず「花」の作法が添えられていると紹介されています。
つまり、「花」は「先祖」との「心の繋がり」の手段としているのです。
我々は無意識にこの作法としていますが、他民族にとっては格別な作法なのです。
それは、北京原人の遺跡から見られる様に、先祖への尊敬と尊厳の繋ぎとして、7つの民族が持つ統一した作法であったからであります。
大事な事は、人類猿が、「死者」に「墓石」を造り「花束」を手向けると言う行為の意味する所を考慮すれば、「先祖」と「仏」の教義の設定は、はるか宗教以前のものと成ります。

即ち、結論として、仏教の「先祖」「仏」は、人類猿からの元からの譲れないアジア人類の思考を超えた定理である事が言えるのです。

日本人と同じ遺伝子を持つインカ、マヤの文明の人たちの「象徴」が「先祖」であると言う事は、ヨーロッパの民族とコルボックスのアジア民族の思考原理の差の何物でもない事を物語る証拠と成ります。

この様に、仏教で言う「悟り」とは、「遠祖」からはじまり、その「先祖」の「生様の知識」を知る事により、そこに「驚き」と「敬い」と「感謝」と「崇め」の「心の念」を得る事にあります。
この「悟り」の範囲は、その「悟り」が「知識」と「理解」の域のものでも良いとしていて、その中から日々少しづつでも「真理と心理」を得られることが出来れば、それは「悟り」であるとしているのであります。つまり、「先祖」を知る事は「悟り」の第一歩と成るのです。

参考として。
キリスト教の創設一団(3人)が中国に入り、勉強して帰ったとする証拠が遺されていると文献で見た事があります。この中に、キリストが居たとの学説もあり、この時、「人-神」としていたキリストの教義を、仏教の「人-仏-神」とする教義を見て、同じにする事が上記の理由から出来ず、「魂」と成った「仏」に対して、そこに、「霊」というものを存在させて「仏」に見合うものとして「悪霊と聖霊」を造り、その「聖霊」の働きを強くして仏教の「悟り」と言うものを用いて「聖霊-悟り」として「人-霊-神」と修正したと言う学説も有るのです。
本来、上記に記述した彼らの民族構成上の所以から「霊」が存在すると言う思考はないのである。

参考として。
最近、アメリカでは、キリスト教の中で、仏教を信じる人、又は、興味を持つ人が急速に増加していると言います。
日本の食文化と相まって急速であると言います。
最近のニュースでは、仏教の先祖を真似てその価値を認めて、ルーツを調べるアメリカ企業が増えているとのことです。
余り、重要視されていなかった「先祖」を見直していると言うのです。


矢張り、これは、余りの世の中の付加価値の増加で、キリスト教が言う「数理、合理、論理」の式の通る世の中では無く成ったことから、人は心の癒しとして、先祖、仏の論理に目を向け始めた現われであると彼ら自身が認めているのであると考えます。
これは、別の面で、キリスト教がそのやり方で世界の国から嫌われている事への反省から、他の民族の譲れない教義を認識して居る証拠でもあり、架空の証明できない悪霊と聖霊の定義に対する疑問が生まれたのではないかと考えます。
そこで理解できる先祖と仏の定義に目を向け始めたと考えられられます。

ロケットで火星等の惑星の内容がわかる時代に、人間の脳医学の発達で2つの脳器官の存在が解る時代に、悪霊聖霊の論理は人を説得するに難しく成っているのではないでしょうか。
その点で仏は現実のものとして理解できるからではないかと思われます。

その意味でこの設問は意味があると思いますが、如何でしょうかう。


では、キリスト教の設問として、⑨番の続き、⑩の問題の説明に入ります。

設問
① 他宗を少なくとも先ずは強く排他している事。
② 教えがかなり強引である事。
③ キリスト個人を神扱いにしている事。
④ 兎に角にも、”先ずは信じよ”である事。
⑤ 人は全て悪の子供であると否定する事。

5「仏教とキリスト経の妥協の余地」
⑥ 中間的考え(柔軟性)は無い事。
⑦ 全体が闘争的な発想に成っている事。
⑧ 特定者(若い者)には受け入れられ易い合理的な教えに成っている事。
⑨ 先祖に対する考えは全体として希薄である事。
⑩ 「民族的」と言う考えを認めていない事


⑩番目の事です。(「民族的」と言う考えを認めていない事)
⑧や⑨番の内容で大方を説明していると思いますが、「宗教」と言うものがどう言う質を持っているかここで考えてみたいと思います。そのことで「民族的」の設問を解けるのではと考えます。

そして、それが、「民族として譲れない事」即ち、”その民族の特異性が必ずあり、且つ、取り除く事も出来ず、否定出来ない、事柄を持っている”と言う事を裏付けることが出来ます。

先ず、その前に、宗教とは、どの様な質があるかを考えて見ます。
① 人の悩みを救うと言う質がある。 環境と衆議の力で人の「4つのみ」と「しがらみ」を解き心を癒す事が出来る。
② 人の差、即ち、人格を作る質がある。 教義を理解し、世の成立ちを知り心理を得て人の格を高めることが出来る。
③ 心を沈める質がある。 黙然し念仏する事で心を冷静に保ち人の道を守る事が出来る。
④ ものの「理」を知る質がある。 教義から人間社会に必要とする「理」(条理)を把握する事が出来る。
⑤ 集団性を増幅させる質がある。 教義を基に民の心を統一して事を成す集団力を作りだす事が出来る。
⑥ 祭祀などの宗教文化を構成する質がある。 宗教行事から祭祀を通じて民の癒しの場処を作りだす事が出来る。
⑦ 殖産技能を発展させる質がある。 宗教行事からあらゆる技能の第一次産業を発展させる事が出来る
⑧ 独特な軌範を造り守り高める質がある。 教義から生活の軌範(信義、徳義、道義)を造り民を導く事が出来る。
⑨ 政治の基盤を補足する質がある。 教義から政治信条を模索して民の基盤を補足し安定させる事が出来る。
⑩ 生活リズムを起動する質がある。 先祖、仏、神を祭祀する日々のリズムから生活を築く事が出来る。
⑪ 病理薬事治療を治める質がある。 薬膳料理や食習慣や漢方薬などの開発や病理の解明などを進化させる事が出来る。
⑫ 記録的事務を編集する質がある。 過去帳や歴史の史実の編集などを遺す事が出来る。
⑬ 天象予測を成す質がある。 天と地の成り立ちを把握して気象情報などを予測する事が出来る。
⑭ 芸術文化を育成する質がある。 宗教的な目的から絵画、工芸等の芸術を発展させる事が出来る。
以上の様な事柄が考えられます。

①から⑭までの質を列記し、その注釈を記しましたが、宗教には人間社会のあらゆる場面にその力は浸透し、それが大きな基盤を担っていることが頷けます。

人の心から始まり、生活、技能、政治、工芸、芸術、科学、情報までに及んでいます。
当然、これ等は、その宗教の教義の範囲で発展して行くものである事は否めず、そこには、教義の独特な思考が大きく左右する事になります。
人間社会の多くの範囲に浸透したこの特異性は、子々孫々に引き継がれる事になり、⑨番の設問で記述した自然環境から来る遺伝的なもの以外に、遺伝子的伝承とするまでのものと成ります。

これを他の宗教、例えばキリスト教の教義が入ったとしても、これだけのものを変化させる力は無いと考えられます。
仮に、キリスト教に帰依するとしても、そこには「生活リズムの大きな犠牲」と、「民族の思考の歪み」を負担せねばなりません。
⑨番の論説と含んで、上記の事柄から遺伝子的思考からは逃れることは絶対にできません。
”遺伝子を自らの体で変える事が出来る”とはまさか言う人は居ないでしょう。
もし、居たとしたら、それは狂気とする以外にありません。

日本に居て、その遺伝子を受け継いだ者が、キリスト教を信じるという事は、遺伝子レベルから来る思考原理に歪みを負わせると言うことに成ります。
歪みを背負い信じることは自由であります。しかし、「歪み」を背負い「信じる」という行為は自然の行為とは見られません。
世界の他民族から警戒されている現象は、ここにあるのではないでしょうか。

米国では、最近ニュースでも紹介されているが、先祖を見直す事が起こっている事(青木サイトに2度4世の方から依頼があった)や、仏教に帰依する事、日本文化に親しむ事が増えているのは、真さに、教義に反発して”周囲と調和して「自然の信心」”を目指し始めているのではと考えます。

”汝 罪深き”悪の子よ 信じよ されば救われん” の教義から来る”「民族性」を軽視した”歪みを背負った信心”は一考に価するのではないでしょうか。

私は、「一考する」は教義の変更だけではなく、彼らの民族の持つ遺伝子をも変えなくてはならず、「不可能」の結論と成るのではないかと思っているのです。

もとより、「教義の良し悪し」の問題では無く、又、誤解で彼らのプライドを傷つけることにも成るので、但し、私の考え方の”周囲と調和して「自然の信心」を是とするのであれば。”を追加します。

① 他宗を少なくとも先ずは強く排他している事。
② 教えがかなり強引である事。
③ キリスト個人を神扱いにしている事。
④ 兎に角にも、”先ずは信じよ”である事。
⑤ 人は全て悪の子供であると否定する事。

①から⑤の「教義の違い」はある事の是非は別としても

⑥ 中間的考え(柔軟性)は無い事。
⑦ 全体が闘争的な発想に成っている事。
⑧ 特定者(若い者)には受け入れられ易い合理的な教えに成っている事。
⑨ 先祖に対する考えは全体として希薄である事。
⑩ 「民族的」と言う考えを認めていない事。

⑥から⑩に付いては、
「先祖」、「民族性」、「非合理」、「融和」、「柔軟性」の思考は、色濃く持つ事の是非の論議にもなりますが、ともあれ、我々日本人には、生活習慣の真底まで浸透したものである事だけは、(余りの当然性の為に無意識となり、)否めない事実であると思います。ともあれ、他宗を信じるという事は、日本人が持つ遺伝子的な違いを無視し、その結果伝統を意味する「歴史や先祖意識」が薄らぎ、「矛盾をはらんでの信心」となるのではないでしょうか。
政治で言えば、共産主義の「歴史否定」主義に匹敵するものであろう行為に類似するものと思います。

以上、「人-仏(先祖)-神」の「先祖」というものに対して、キリスト教と対比させて、「仏教」をクローズアップさせて論文を進めてきました。

本論は青木氏の投稿者から提示された疑問(主題1ー5)に関して、その中の詳細な議論(設問1ー10)に対するやり取りを整理して掲載したものであります。しかし、現代の社会に持つ病巣というかテーマが本ブログの「先祖」と言うテーマに合致していた為に、散文ではありますが、ブログをご覧になる方々に敢えて青木氏氏のHPを超えて提示したものであります。

本論中、キリスト教を対比手段として用いました事は、但し、キリスト教を低く評価するものではなく、「仏教」と「違う」という事を科学的論処と含めて明確にしたものでありますので重ねて注釈します。

「先祖と宗教」論文のその位置付けをご理解いただけたでしょうか。
 

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