伊勢青木氏 家訓8
伊勢青木家 家訓8
投稿者:福管理人
伊勢青木氏の家訓10訓
以下に夫々にその持つ「戒め」の意味するところを説明する。
家訓1 夫は夫足れども、妻は妻にして足れ。(親子にして同じ)
家訓2 父は賢なりて、その子必ずしも賢ならず。母は賢なりて、その子賢なり。
家訓3 主は正しき行為を導きく為、「三相」を得て成せ。(人、時、場)
家訓4 自らの「深層」の心理を悟るべし。(性の定)
家訓5 自らは「人」を見て「実相」を知るべし。(人を見て法を説け)
家訓6 自らの「教養」を培かうべし。(教の育 教の養)
家訓7 自らの「執着」を捨てるべし。(色即是空 空即是色)
家訓8 全てに於いて「創造」を忘れべからず。(技の術 技の能)
家訓9 自らの「煩悩」に勝るべし。(4つの煩)
家訓10 人生は子孫を遺す事に一義あり、「喜怒哀楽」に有らず。
家訓8 全てに於いて「創造」を忘れべからず。(技の術 技の能)
家訓1は「夫婦の戒め」
家訓2は「親子の戒め」
家訓3は「行動の戒め」
家訓4は「性(さが)の戒め」
家訓5は「対人の戒め」
家訓6は「人間形成の戒め」(長の戒め)
家訓7は「品格の戒め」である。
この家訓8の先祖の説いているところは”人生 「生きるべき力」は「創造」にある”と説いている。
家訓7までの内容の戒めと少し違う。
家訓7までの戒めは「人」又はその「長」としてのより高い人間的な習得、悟るべき戒め」を説いている。
しかし、この家訓8は「人」又はその「長」としての「示さなくては成らない戒め」を解いている。
どう云う事か。当然に自らも絶対条件として保持しなくてはならない条件でもあり、且つ、「長」として人を引き付ける「強いもの」を持ち得ていなくては成らないとしている。
その「強いもの」とは「創造力」であって、その「創造」は具体的には”「技の術 技の能」とを分けて会得せよ”とあり、闇雲に「創造」を追い求めても会得できないし、「長」として人を引き付ける事は出来ないと解いているのである。
此処は”敢えて”解いている”と添書には記述されている。
つまり、”説く”のではなく”解く”であり、即ち”強く分けて考えよ”という事を伝えたいのであろう。
「強く分けて考える事」に付いて”それは何故必要なのか”疑問(1)が湧く。
そして、その「創造」の基となる「技」に付いても”「技の術」と「技の能」とはどう違うのか”の疑問(2)も当然に湧く。疑問の多く湧く家訓8である。
何も「創造」だから「技」に拘らなくても良いであろうが、特にその主な例を以って判りやすく解いているのであろう事が判る。
そこで、「技」としているのは、この「2つの疑問」(1)(2)を「解く事」と「悟る事」の行動が大事で、書籍による習得ではなく、”自らの「努力」と「思考」により得よ”(A)としているのであろう。
”「自らの努力又は思考」に依って得られた時、「長としての務め」は果たせるし、その「創造」の効果は生まれる”(B)と伝えている。
更に、即ち、”この「創造」は家訓10訓を会得する「糧」又は「力」に成るのだ”(C)と添書は強調しているのである。
さて、「2つの疑問」(1)(2)と「3つの添書」(A)(B)(C)に付いてこれから単独ではなく誤解をより少なくするために複合的に都度論じる事とする。
最初の”それは何故必要なのか”の疑問(1)の解明の前に、”「技の術」と「技の能」”とはどう違うのか”の疑問(2)を先に論じて解明する方が解けると考える。
そうする事で最初の疑問(1)は間違いなく理解できるし論理的な答えとして導かれるだろう。
そもそも、”自らの努力と思考により得よ”(A)と論理的に会得する事を求めているのであるから、この解明の過程が正しいと思える。
既にこの世に「技術」と「技能」と云う言葉がある。
この「二つの言葉」があると云う事は、この二つの言葉の「意味」や「目的」が違う事を意味している。
しかし、世間では言葉の範囲では厳密には使い分けをしているとは思えなく、ここは「技術」だなと思うところを「技能」と発言して使っていることが多い。当然に逆の事もある。
つまり、この現象は世間の人、全ての人は「長」としての立場で使い分けをしている事は無いだろう事を示している。
だから、裏を迎えせば、”導く立場の「長」としてはこれでは駄目なのだ”と云っている事になる。
当然、この「技」は添書では主例であるのだから、万事、特に「創造」とする事に関して”斯くあるべきだ”といっている事に成る。
そこで、結論から先に云うと次ぎの様に成るだろう。
”「技術」は「知識」を主体視してそれに「経験」を附帯させて構成されているものだ”と云う結論に成る。
”「技能」は「経験」を主体視してそれに「知識」を附帯させて構成されているものだ”と云う結論に成る。
つまり、「知識」と「経験」の主体が違うと云う事に成る。
当然にその比率は千差万別と成るだろう。場合に依っては殆ど差が無く変わらないものもあり得るだろうし、逆の場合もあり得るだろう。
例えば、科学の場合には「知識」に依って論理的に編み出された「技」もあり、この場合は「知識」から観れば「経験」の度合いが小さいと云う傾向もある。
芸術や工芸の様な観念的なことが働く場合には「経験」から観れば「知識」の度合いが小さいと言う事もあり得る。知識で創作された芸術は”論理性が高く面白くない”と誰しも評価するだろう。
ただ下記に論ずる”「経験」から「知識」へと進む「進化の過程」”を考えると、片方がゼロと云う事は論理的にないし、この比率の差は大した意味を持たない。
この様に分けて考えると、この世の「進化の過程」もあり「知識」と「経験」の定義としては類似する事に成る。だから一般的には面倒だから世間の通常は分けて使い分けしないのであろう。
しかし、だからこの家訓8は”「長」としてはそれでは駄目だ”としているのである。
判りやすく云うと”雑では駄目だ”と云う事だろう。
そこで、これを判りやすくする為に論理的に解析すると、最近の脳科学的に観た場合、次ぎの様に成るのではないか。
「知識」とは学問など書籍に依って「判読力」を主体として得られた脳の「集積結果」である。
「経験」は実労等に依り「体験力」を主体として得られた脳の「集積結果」である。
と考えられる。
「術」=「知識」=「判読力」
「能」=「経験」=「体験力」
当然に、この「集積結果」は左脳の集積場所は異なる筈である。つまり、カテゴリーが異なるのであるから、コンピータ的に観れば収納場所は「トラック」や「セクター」や「カテゴリー」の位置は異なる事になる。
脳も同じ仕組みで成り立っているのだから、つまり、これ即ち、「術」と「能」は「違う」と云うことを意味している。
しかし、厳密に云えば、「知識の学問書籍」も基を正せば始めからあったものではなく「人の進化」の過程の「体験」に依って得られもので、それを類似分析して「学問化」し「体系化」したものが「知識」と成る。
これは大事な思考基準である。
つまり、「能」の「体験力」から「術」の「判読力」へと進化したものと成る。
「進化の過程」=「経験」-「学問化」・「体系化」-「知識」
「体験力」-「進化」-「判読力」
この左から右に向かってルートを通って進む。
従って、現在に於いても未だ体系化されずに、「能」の「体験力」の段階のものもあるだろう。
「体験力」と「判読力」とには「進化」が介在する事に成る。
逆に、最近の科学域では高度な「知識」の「術」から更に進化して高度な「経験」の「新能」が生まれると言う事も起こっている。コンピーター関連やソーラー関連や最先端医療のIPS医療等はその典型であろう。むしろ、これからの形体はこのパターンで論じられる事が主体と成ろう。
しかし、あまり前に進めずとりあえず先ずは、上記の「原型のパターン」を論じて理解しておく必要がある。
「知識」の「術」-「経験」の「新能」=未来の進化。
”「術」と「能」”には同じ事象の中の事でも「能」と「術」とには「経時的変化」を伴なう。
つまり、「能」から「術」へと進むと云う事に成るので、「術」は進化した事になる。故に進化したのであるから、そこでその初期の「能」の段階に留まってはならない事を意味するのである。
つまり、”「長」はこの進化の「術」の把握に努めなくてはならない”と諭している事に先ず成る。
平たく云えば、”「長」は常に確立した「新しきもの」を求めよ。”と云える。
さて、これは難しい。何故ならば今は科学は進みその「術」は何処かで進化して確立し書籍などに表されているが、古ではその様な環境に余りなかった。
とすると、自らが「能」の段階のものを「術」の段階まで進めなくては成らない努力が伴なう。
恐らくは、”「長」はこの努力をせよ。「能」を体系化せよ”と求めている事に成る。
だから、故に家訓8は作り出す事を求め所謂「創造」としているのである。
そこで「技能」には「経験」に依ってその「技」を極めた「匠」がある。
更に推し進めて「能」の「匠」を考えるとすると、”「能」の段階の「匠」では「長」は務まらない”とし、むしろ”「匠」であっては「長」としての指揮に間違いを生じさせる”としているのではないか。
何故ならば、「経験」の「技能」を極めた「匠」は、兎角、その事に「拘り」や「偏り」を持つ傾向が起こる。止むを得ない人間の仕儀でもあるがそうでなくては「匠」には成り得ないであろう。
むしろ、「拘り」の極めが「匠」であろう。
数式で表すとすると次ぎの様になる。
「経験の最大」=「拘りの極め」=「匠」
そうすると、ここで矛盾が生じる。
”経験をして「能」を極めて進化させて「知識」の「術」を会得せよ”とすると、経験には「拘り」と「偏り」が生まれるのであるから、「知識」の「術」は成し得ない事に成る。
何故ならば、「知識」とは「能」の「拘り」と「偏り」の個人性を排除したものが「術」であろうから、そこで初めて他者が一般的に利用し知識として「学問」と成り得るのであって、「匠」の「能」はそのままでは論理的には「知識」の「術」へは不可能である事に成る。
「匠」の能は個人的なものに支配される。個人的なものに支配されるからこそ又、「匠」の値打ちが
出るものであろう。
「経験」-「拘り」=「知識」
「拘り」「偏り」の排除=「体系化」作業
という事に成る。
ただ、それを解決する方法がある。(A)
それは、この家訓8では”「経験」の「能」を「匠」として極め、先ず会得せよ”とは書いていない。とすれば、何故ならば、それは”他の者をしてそれを極めさせれば良い”事に成る。
これだけでは「会得」と云う事から観て意味が無いだろう。
「長」の「習得、会得の率と理解度」が必然的に低下する事になるからだ。これでは「長」の求められるものでは無い事に成る。
しかし、その前提があろう。物事には「完全の習得」は有り得ない。
そうすると「匠」まで極めずとも良い事に成り、それを理解するに足り得る「経験」を会得する事でも、「知識」の「術」の「体系化」は充分に成し得る事が出来る。それが前提である。
つまり、他の者をして「匠」としてそれから「聞き出す事」の手段にて成し得る。
それが”「長」はこの「聞き出す努力」をせよ。そして「能」を自ら「体系化」せよ。”としていると理解する。
「聞き出す事」=「体系化」作業の始まり行動
という事に成る。
上式と連立すると、次のように成る。
「聞き出す事」=「拘り」「偏り」の排除=「個人性の排除」=「体系化」の作業
そして、行き着く処は「知識」となる。
それには先ずは、”ある程度の「経験」の「能」を会得し、「拘り」を排除して「知識」の「術」に進化させて、その「知識」の[術]で以って正しく指揮せよ。”と云っている事に成る。
つまり、”その「経験」から「知識」への「過程を創造する」”と定義している事になる。
これは何も「能」、「術」だけの問題ではないだろう。
「創造する」とは「考え、そして新しき何物かを生み出す」と定義すると次ぎの様に成る。
”「経験」から得たものを「体系化」して「新しき何物」かを生み出せ”
と成るので、この上記の解釈は正しい事になるだろう。
{「経験」-「体系化」-「知識」}=「過程を創造する」
「過程を創造する」の「行動の努力」は、再び、「経験」-「体系化」-「知識」のサイクルのプロセスを生み出す事は容易に理解出来る。より進化して。
この「進化」とはこれを定義とし「体系化」を「媒体」としている事に成る。
このサイクルが限りなく続く事を論理的に説明出来る。
但し、媒体と成る「体系化」を無くしてはこのサイクルは起こらない事も。
そうなると、そこで「創造」とは果たして俗に云う”夢を持て”と云う事に成るのか。(B)
どうも違うのではないか。そもそも俗に云う「夢」とは「就寝中の夢」の如く暗中模索、否具体性のものであろう。その「夢」をかなえる為に「暗中模索」では「夢」は叶えられるものではない。
それほど世の中は甘くは無い。人は兎角「夢」とは「暗中模索」のものを云っている傾向がある。
世間では”夢を持て”と若い者に吹聴しているが、あれには少し違いがあろう。
「暗中模索の夢」は無防備にそれに進むために「夢を叶えられる力」の醸成もせずに「無駄な挫折」をし「不必要に世の中を恨み」「捻くれて拗ねる姿勢」の弊害を生み、若い者に良い結果を生まないのが現状であろう。果たして「幾多の挫折」に充分に耐えられる者がどれだけいるだろうか。
これは、上記した「匠」に相当する”「拘り」「偏り」”と成るだろう。
「夢」を叶えられ者は「匠」と成り得る確率と同じであろう。誰しもが「匠」、「夢」を成し得る事は出来ない。一握りである。さすれば、「夢」に向かって挫折した時、その挫折が向後の人生に良い方向に働けば何の問題もないが、多くは「暗中模索、否具体性」で走る。依って、思考に「不必要に世の中を恨み」「捻くれて拗ねる姿勢」の弊害を持つだろう。これは多くの者に起こる。
この「夢」は取りも直さず「経験」の域にある。
{「経験」-「体系化」-「知識」}=「過程を創造する」のつまり以上のプロセスの「体系化」が成されていない。依って「長」とも行かずとも「夢の実現」は「過程を創造する」の域に達していないだろう。途中である。
従って「創造」とは「夢」であるとは成らない。
大事な事は「暗中模索の夢」を叶える為にその過程のそれに向かった「努力の積み重ね」が必要であり、「ただの努力」では成し得ない筈である。
何故ならば、この世は「人の社会」である。その「人の社会」が皆が同じ程度の努力で「夢」が叶えられるのであればそれは楽なもので「夢」では無い。叶え難いからこそ「夢」と表現しているのだ。
「人の社会」であるからこそ「夢」を成そうとすると「人を押しのける」事の行為は必然的に生まれる事に成る。
「人を押しのける」という事は「人以上に力」を持たなければ成し得ないし、かなりの「忍耐」「苦悩」が伴なう。
その「人の社会」が日本の様な高度な社会であればこそ、更に「それ以上の力」を保持しなくては成らない。
当然に、その「夢の分野」が高度で汎用な分野であればこそ、尚更の事「人を押しのける」「人以上の力を持つ」の条件は更に厳しさを持つ事に成る。
そう成ると、この「人を押しのける」の力は{「経験」-「体系化」-「知識」}の「体系化」の努力に等しい事に成る。
数式では次ぎの様になるだろう。
「人を押しのける力」=「体系化」の努力=「知識」
中には、”その挫折が大事だ”と如何にも正論の如く簡単に云う人が多い。
確かに「挫折」は人の成長に欠かす事が出来ない。
然し、どんな「挫折」でも良いと云う事では無い筈である。
”不必要な挫折などしない方が良い。”と考えている。この家訓から学んだ事として。
4つの「み」を強く興す「挫折」は避けるべきである。
強い「ねたみ」「そねみ」「うらみ」「つらみ」が起こる「挫折」は「人を歪ませる」と仏教では説いている通り、
この仏説には「人間形成に於いて不必要」と観て賛成できる。
確かに「挫折」するよりは「体系化」する事の方人間形成に効果的であろう。
つまり、「不必要な挫折」をするよりはこの事は言い換えれば次のように成る。
”日頃の経験を通して「体系化」する努力、又は「体系化の苦労」をせよ。”
”経験から得たものを「拘り」「偏り」を見抜き取り除くその努力を先ずせよ。”
そこで、”「人以上の力」「人を押しのける」に耐え「正常な精神と思考」を持ち得ている人物がどれほど居るだろうか。「不必要な挫折」は必ず「精神と思考」を歪ませる。
それを正常に成し得る者が果たしてどれだけいるだろうか。”先ず居ない”と云える。
仮に「人以上の力」を確保出来たとして、無情にして非情にも「人を押しのける」と云う行為に絶え得るだろうか。「人を押しのける」が一度であれば未だしも常態の日々に続くのである。
故に、無責任極まりないこの言葉を私は、”「夢]を持て”とは決して云わない。
それを云える人物が果たして、この2つの条件(人以上の力 人を押しのける)を以って発言しているのだろうか。おこがましい限りである。
云うとすれば、くどいがこの家訓8の真意を得て次ぎの様に云っている。
”日頃の経験を通して「体系化」する努力、又は「体系化の苦労」をせよ。”
”経験から得たものを「拘り」「偏り」を見抜き取り除くその努力を先ずせよ。”
”不必要な挫折はするな。その暇があるのなら「自らの努力」で「知識」を得よ。 自らの努力で”
では、どうすれば良いのかと云う事に成る。そのキーワードが必要だ。
それが、この家訓8の事で云えば次に示す処であろう。
「夢」に向かって進む限りに於いて大なり小なり「経験」が伴なう。「能」を確保する事になろう。
”それを進化させて「術」として「知識」と成せ”と云う事に成る。
”「夢」を叶えるとするならば、「能」「経験」だけでは駄目なのだ。”と云う事に成る。
では、更に考えて、”その「進化させる」はどの様にすれば良いのか。”の疑問が起こる。
それは”「体系化せよ」”又は”自分なりの「学問化せよ」”と云う事に成る。
判りやすく云えば、”「経験」(能)をまとめよ。” それが”「長い多様な経験」の間に体系化した「多様な知識」と成り得るのである。”と解ける。
つまり、”「長い多様な経験」により「多様な知識」が「人としての力量」或いは「人としての格」を成し得るのである”と解ける。
”それで良いのだ””何も「夢」を叶え持つ事だけが目的では無い。”
だから、「無駄な挫折」をして思考に歪みを持つ事よりも、”足元の「経験」(能)をまとめよ”その努力が”「長い多様な経験」の間に体系化した「多様な知識」と成り得るのである。”と成るのである。(B)
”この家訓8の「長」はこのことを忘れて怠っては成らない”としている。
”それを会得した者が「人を導ける力」を持ち得るのである。”としている。
つまり、”「人としての力量」或いは「人としての格」は「長」としての人を導く「人格」が得られる”と云う事に成る。
この「人格」が「品格」に、そして、それの積み重ねの結果、雰囲気に滲み出て「風格」と成るのではないだろうか。
「長い多様な経験」=「体系化した多様な知識」=「人格」=「品格」=「風格」
そして、”この「風格」が生まれた時「長」と成り得る。”と理解できる。
家訓10訓、とりわけ家訓8の「風格」を得た時、その「長」の下には「家風」が生まれるだろう。
この「家風」が「伝統」と成り得るのである。
「家風」=「伝統」
”「家風」即ち「伝統」が醸成されると、「一族、配下」は自らその「家風」「伝統」を理解して、「長」が充分に指揮せずしても「的確な行動」を起す”と解いているのである。
昔から、”今成金”という言葉がある。
下記に例として記述する「信長、秀吉」の例は家訓8による「大意」この事に欠けていた事により滅びたと解析できる。
当然に、「多様な経験」を体系化した「多様な知識」は事に当って人を納得させ、諸々の事象に当って適切な指揮する能力を保持する事に成る。
その結果、尽くに「正しい指揮」が積み重なり、その「指揮する品質レベル」に信頼度を増し、人は従い、その結果として”「長」としての「行動の品質」の「格」が醸成される”と定義されるだろう。つまり、”「品格」は「配下の信頼度」が「長」をその様に仕立てる。”と云う事になる。
これは”自らが作り出せるものではない”と云える。
判りやすく数式で表現すると下記の様になるのではないか。(A、B、C)
「品格」=「配下の信頼度」*N=「正しい指揮」*N=「指揮する品質レベル」*N
「品格」=「人格」*N
「品格」*N=「風格」
(「人格」*N)*N=「風格」
(N=経験量+知識量)
しかし、然りながら、ここで「多く無駄な挫折」をした者が、この家訓8を成し得た時に、”何故悪いのか”の反論があろう。悪いのである。
「多く無駄な挫折」「人を押しのける」事の結果で「思考精神」に歪みの持たない者は先ず居ないだろう。つまり、その者の「自らの経験」と「力量」と「人を押しのける力」から独善的に、或いは独裁的になり「人」を導く「長」には問題を含むからである。
”一時的には「長」に成り得ても必ず破綻する。”と云う事になるからだ。
例えば、「信長、秀吉、家康」の例えが適切に物語る。
信長はこの過激的で独善的な典型的人物であろう。その人生過程に於いて余りの典型であったからこそ、歴史は事半ばで終る。
秀吉は下積みから這い出ての「技能量」或いは「経験量」は豊かであったが、体系化した多様な知識を持ち得ていなかった。「千利休に対する対応」や「金の茶室」がそれを物語る。
故に標準的な典型的人物であろう。歴史は一代で成し得たが一代で終わると成り、人生の目的、万物の目的とする後世に子孫を遺し得なかった。
家康であるが、この家訓8に適合する人物である。
三河の地侍に生まれ、今川氏の人質、織田氏から屈辱的な待遇、武田氏との敗戦、秀吉との駆け引き、摂津商人との付き合い、関が原の戦いに負けて勝った結果等を検証すると「多くの挫折」と「人を押しのける」等の「経験」は申し分なく豊かでありながらも、そこから学習して「知識」を獲得し「長」としての家訓8で云う資質を「捻くれる」事無く会得している事が検証できる。
「捻くれる」はこの家訓8で云うそれは”「体系化せよ」”又は”自分なりの「学問化せよ」”の努力の結果がそれを抑えたと考えられる。
徳川氏の歴史資料からも、”「多く無駄な挫折」を避け「人を押しのける」事の結果を極力少なくし、「長い多様な経験」の間に体系化した「多様な知識」を学習し成した。その為に出来る限り「思考精神」に歪みの持たない様に心がけた。
「家訓8」で言う「長」としての数式条件は次ぎの様に成るだろう。
即ち、「長い多様な経験」=「体系化した多様な知識」=「人格」=「品格」=「風格」 を備えた。”と理解し検証できる。
故に、250年以上の存続の条件が醸成されたのである。
それは”「体系化せよ」”又は”自分なりの「学問化せよ」”は何も言葉そのものではなく、「捻くれる」事をも抑える事が出来るのであろう事が読み取れる。
誰しもが普通は陥る経験からの「捻くれ思考」はどうすれば良いのかの疑問は次の事として云える。
「捻くれ思考」は予断なく「長」として最も排除しなければならない事は明白であろう。
"「捻くれ思考」は「体系化」「学問化」の努力でこれを打ち消せ"と成る。
恐らく、当然の事として添書に書かれていないが別の真意はここにもあるのだろう。
つまり、通常はその者の「自らの経験」と「力量」と「人を押しのける力」から独善的に或いは独裁的になり「人」を導く「長」には問題を含むからである。
”信長、秀吉はむしろ常人であって人としての陥るところに落ち至った。しかし、家康の人物は稀有であるが斯くあるべきだ”と云っている事になる。
”「長」は「常人」でありながら「常人」であっては成らない”ことを諭している事に成る。
青木氏の家訓10訓は室町以前の試練から生まれたものであるが、それ以後も子孫に合意されていたからこそ現在までに遺されているのであって、それ以前にこの「3人の生き様」を言い当てていた事になる。
この家訓8が遺された時期は一族一門がこの世に生き残れる確率は極めて低く、危険率は現在の数十倍のものであったことである。それは毎日の茶飯事思考であった筈である。
しかし、青木氏は1367年も続けて直系子孫を遺し得たのは代々先祖がこの家訓類の戒めを護り続けて来た事に他ならない。少なくとも明治35年までは「長」として。
そして「家訓」として「伝統の集約」として維持されている。
現在では科学の著しい進化で社会がより敏感に成りハイトーンと化しているが、この別の意味で厳しさはむしろより遺されているだろう。さらに子孫の時代にはこの状況はもっと続くであろう。
「経験」から「知識」に進化して来た時代から、あまり「経験」の「技能」の伴なわない「知識」から更に「新しい技術」が生まれる時代に、人間形成に於いて代らないだろうが、この「新しい厳しさ」に立ち向かうにはこの家訓8は古い様で居て現在、否未来にも何らかの形に変えて生きている筈だろう。
故に、筆者はこの家訓8の考え方を重視していて、自分の思考判断基準の重要な一つにしている。
とりわけ「人を観る」とする時、或いは「長」とされる「人物評価をする時」に反射的にこの家訓で観ているが、外れた事はない。誰しもが何らかの判断基準を持ち得ているものであろうが。
多くの歴史偉人伝を読み漁ったがこの家訓8は有効に利用されより面白く雑学を得た。
この世は当然に「人の絡み」の世であるが故に必然的に「人を押しのける」は起こる。
別の効果としてもこの世の必然的な行為の"「人を押しのける」"前にこの家訓8の「人を観る」事の「思考経験」とその「体系化」による「知識」で不必要な摩擦を避けて来た。
古い様であるが、突き詰めると現在の言葉が無いので古来の言葉にすれば、「人生の生き様」の体系化は「六稲三略」に通ずる様だ。「戦略戦術」は正しくこの「体系化」であろう気がする。
添書にはないが、"人との不必要な摩擦が避けられる"も極意なのであろう事を思い知り、頭書に記述した、”自らの「努力」と「思考」により得よ”(A)に感嘆した。
これも「経験」からの「体系化」-「知識化」を成し得た事に成るからだ。
もう一つ会得した事がある。
それは、「体系化」-「知識化」を成さず豊富な経験だけで終わる場合、その人物には「個性的性格」、「個性的思考」が残る事が確実に起こる事である。
恐らくは、信長や秀吉は多少なりとも「体系化」-「知識化」があったにせよ多くはこの「経験」のみによるところで留まっていて、そのレベルにより独特な「個性化」が起こったと観られる。
ただ、信長はこの事をある程度知り得ていて外国の新しき文化知識で補おうとしたと観られるし、その側近には同じ行動をする秀吉を登用したことで頷ける。
明智光秀は主に「経験」から「体系化」-「知識化」を成した人物ではなく「書物」から「知識化」成した事により信長との余りの差が起こり、信長は自らを補おうとした余り「接点の無い間違いの登用」をしてしまった事になるだろう。
「経験」を「体系化」成せる者で充分であった筈で、この判断ミスをした事に成る。
ただ、此処で云える事は、光秀タイプが悪いのではない。”学者馬鹿”という言葉があるが、これは「偏り」に依って起こる”「適合性の低い思考」が起こる”からで、その思考化の視野が狭くなる事から起こる現象である。しかし、これを超えるとむしろ大変な「経験」を生み出すのである。
例えば、三国志の劉備と軍師の諸葛孔明である。
諸葛孔明は最たる「知識」と「知恵」の持ち主である。諸葛孔明の策に対して、”敵は過去の彼の「策の経験」から恐れて逃げる”と云う所まで達していた。これは明らかに「知識」から「経験」を生み出し、その「策の知識」から敵は「体系化」して自ら「経験」を作り出した効果に他ならない。「逆のプロセス」である。
明智光秀はこの域に達していなかった事に成るだろう。世に云う「今だ我木鶏にあらず」であろう。
「知識」からの「逆体系化」で「経験」は「木鶏」に達し得る可能性がある事を意味する。
歴史偉人伝にはこの「逆体系化」は少ない為にかなり難しい事が云える。
しかし、家訓8の添書には一句も触れていないがあり得る事である。
秀吉は「金の茶室」で全てを物語るもので「体系化」-「知識化」は自ら嫌っていた事が覗える。だから、補う為に石田三成を重く登用したと観られる。しかし、この石田三成も明智光秀型であった。
ただ、秀吉はこの体系化の見本と見なされる人物を採用している処は優れている。
その人物は一介の下級浪人の薬売りで溢れる知恵の持ち主であった。そして、その知恵を屈指して各地の土豪の争いに雇われて「戦い」を「経験」し、そこから自らその「戦い方の体系化」を成し、知識として保持し続けた。その結果、「天下一の軍師」として賞賛され認められた秀吉の「軍師 黒田勘兵衛」と成り得たし、明治期まで続いた黒田藩主の「長」にも成った。
だから家康は石田三成や明智光秀を「知識側の偏り」に対する者として(「経験」-「体系化」-「知識」の者でないとして)ある面で軽視していた事が伺えるが、黒田勘兵衛は認めていた。
当然、家康は本人が「長」としての「経験」-「体系化」-「知識」を偏り無く成し、性格的にも合致していた事から全て側近はこの型の者を配置したし、「経験」型のものは実践部門に配置した事が読み取れる。
信長は「経験」型の偏りから、「実戦型」と成ろう。
秀吉は「経験」型の標準から、「実戦型」+「術策型」と成ろう。
家康は結果視として「経験」-「体系化」-「知識」から「権謀術策型」と成ろう。
この家訓8は言い換えれば別の意味で、"「長」としては「個性型」を避けよ"と云っている事になる。("「経験」-「体系化」-「知識」"とはっきりと明言している。)
避けなくてはならない理由は、当然、家訓からすると後の人物であるが、"信長-秀吉であるな"と云っているのであるが、この事について他の家訓3で明確でも云えている。
つまり、「個性的」である事は結果として「人」「時」「場所」の三相に左右されるからだ。
その「経験」を「体系化」せずにすると「偏りの個性化」が起こる。その個性は「ある人A」に対してよい効果を生み出すが「ある人B」に対しては逆効果と成ることが起こるからだ。信長-秀吉の例に成る。「時」「場所」も"推して知るべし"である。
"未来永劫に子孫の繁栄を願う場合には、これをリードするに「長」としては好ましくない"
これは個人の単位での事として良いのであればそれも良いであろう。しかし、この訓では個人ではない。あくまでも「長」なのである。
然しながら、筆者は大なり小なり"「長」に限らず斯くあるべきだ"と考えている。
現在の様な「個人」を基盤として尊重し、その連携の先に集団結束を目途とする「個人主義」の時代にあれば「個性的」を賛美され「良し」としているが、日本人にはこの思考原理は「違う」と考えている。
これが仏教で言う"「刹那主義」に偏りすぎる。"と云う点である。
家訓8の「裏意」として、「経験」-「体系化」-「知識」の線上に於いて、この「刹那主義」を排除せよ"としている事が云える。
その根拠は"人は男女一対で成り立っている。"と云う事である。
その「男女一対」は更に「家族」を構成する。そしてその「家族」は「親族」を構成する。「親族」は「一族一門」を構成する。この原理はすべて「男女一対」の「理」が成立しその中にある。
決して、「単数」「個人」の「理」ではこの構成は論理的に成り立たない。
「単数」「個」だけでは子孫は生まれず決して拡大しない。「人」のみに限らずこの世の「万物」は「相対の原理」と「一対の原理」に依って成立する。
この家訓ができた時期には、この「個」の上に無く長い歴史の中で日本の歴史と文化と思想は上記の根拠(「男女一対」-「家族」-「親族」-「一族一門」=伝統)が醸成されて来た。そしてそれが国民の遺伝子的な思考基準と成っている。所謂、現代用語で「チーム」、古代用語で「族」で事を成そうとする癖がある。つまり、「複数の原理」の社会である。
ところが、この「複数」の社会の中に、突然に「単数」「個人」「個性的」を最高視し標榜する国の思想が流入した。この標榜する国の考えが悪いと云うのではない。それは「その国なりの形」でありそれでなくては国は成り立たないのであろう。ただ、日本という「国に於いては構成上の条件」としては決して好ましくないと云う事なのである。
「個人主義」仏教で言えば「刹那主義」と見なされる易い思考が蔓延したのである。
上記した「遺伝子的な思考基準」が醸成している2000年以上の社会の中に、200年にも満たない「然程の伝統」「然程の祖先」も持たない国の思考基準が混在して来たのである。
{「遺伝子的思考基準」=「複数の原理」}><{「個人」「個性的」「個人主義」=「単数の原理」}
現在ではその間約100年で「複数の原理」<「単数の原理」の状況の中で矛盾が生まれ社会問題化していると考えられる。
しかし、反面、「然程の伝統」「然程の祖先」でも200年も経過すると先祖が形成される様になり初めて日本の様な「初期的な伝統」が重んじられる社会風土が出来つつあると云われている。
その一つの現われとして、「ルーツ探し」が大ブームと成っていると云われていて、日本の様な「チームの重視」「族の重視」に思考が傾きつつあると云われている。
端的には云うと今までの彼等の観光目的とは異なり、日本の彼等の観光目的はこの稀有な「伝統の確認」に変わりつつあるとされている。彼等はこの経済大国と近代的な世界有数の国、トップのノーベル賞や最先端の科学技術立国の社会の中に「何故、伝統の美が融合するのか疑問」があり、その「融合力」に驚いているという事らしい。未開発国のそれとは別に観ていると言う事だ。
そもそも元より世界稀有の国として、日本民族は7つの民族の「融合」であり、その「融合」を「遺伝子的性癖」とも云われている事から、何時かこの「刹那主義」に近い「個人主義」から何物かを融合して日本独自の「複数の原理」+「単数の原理」=「中間子の原理」を生み出すであろう。
米国がそうである様に今丁度その最中であろう。
参考に日本の融合過程は、古墳時代の融合は別として、先ず飛鳥時代と奈良時代初期に第1陣の大量移民が起こり、大化期初期に第2陣、奈良末期に第3陣、平安初期に第4陣の民族の大移動が西と北で起こった。然し、平安初期の桓武天皇の時代の律令国家完成期の800年頃には「帰化人」「渡来人」の言葉は書籍から消えている。「遠の朝廷」「錦の御旗」の称号を与えられた「大蔵種材」の時代にはこの移民は禁止して「大宰府大監」は押さえ、北は大蔵氏の兄の坂上氏の「坂上田村麻呂」の「征夷大将軍」がこれを完全に抑えた記録がある。450年から800年の350年で完全融合した事を意味し、900年までの100年で民族は「単一性」を成した。
200年後の650年代大化期では融合の終焉期であった筈である。記録にもそれなりの表現がある。当然に、民族が移動する事は思考も流入されていた事に成り、その最たるものとしての「司馬達等」による「仏教」の伝来で証明出来る。
だとすると、民族の移動は無いにしても思想の流入はあったから、それだけに、明治初期から始まり昭和20年とするかは時期設定には問題であるが、新しい思考原理が侵入して来たこの期間を80-100年とすると、170年後の今ここで家訓8の検証とその問題提起が思考原理の融合が起こり始めている中ほどの時期と観て重要な事であると考えている。
そもそも科学物理の「中間子理論」関係の発見が続いているがこれすべては日本人なのである。
中間子はや中性子は+と-を融合させるファクターであるが、それを発見し続けている日本に於いて日本の「思考の融合」は先ず間違いは無いであろう。次ぎの子孫の代には完成するであろう。
その為にも、家訓8を書き記しておく事の意味は大きいと考える。
何をか況や、先進国の彼等が驚く「融合力」は取りも直さず「経験」-「体系化」-「知識」から起こる「本家訓8の創造力」に他ならないのである。
つまり、”「創造力」は「経験」-「体系化」-「知識」の力であり、即ち、日本固有の「融合力」に等しいのだ。”と解いている。
「融合」とはA+B=Cと成る。しかし、この式の過程には何がしかの因子Xが働いているだろう。
自然科学では「中間子」なるものが働き、更には、「中性子」なるものが働いている。
そして、この両者のエネルギーのバランスをとり続ける。
とすると、AとBと「融合」が成し得なかった民族融合の要素として「中間子」が働かなかったことに成る。つまり「拒絶反応」が働いたことに成る。
日本の「融合」はその「拒絶反応」の逆の事が起こったことに成る。
”ではそれは何なのか。中間子は何なのか。”又疑問が湧く。
AとBが「融合」するには、その数多くの過程で色々な事が起こるであろうが、先ず、融合に依って何らかの良いことが起こり、良い事の「融合の経験」が繰り返される。そしてその「経験過程」で「信頼」が生まれる。この「信頼」の元となる「経験」が数多く繰り返され人は「学習」をする。
この数多く繰り返される「学習」から何らかの「体系化」の「知恵」が働くだろう。
そして、そこに「知識」の「知恵」が生まれ、「経験」では「伝達」を成し得ないその「知識」と云う「共通媒体」で次に正しく伝える。そして、その「正しさ」の結果、「高い信頼」が生まれる。
この事が繰り返されての「信頼」に裏打ちされた厚味のある「知恵」と成り、より「確率の高い融合」は完成する。
日本は「7つの民族」と云う途轍もない数の融合である。世界を観ても、たった300年という短い期間では普通の融合の条件では成し得ない。しかし、そこにはこの「信頼」と云う確固たる「醸成手段」が出来上がる。この「信頼」が「中間子」である。信頼は(+)右の人と(-)左の人を結び付ける。
この事は明らかに正しく「経験」-「体系化」-「知識」である。
”この事が何故に日本人に成し得たのか”またまた次ぎの疑問である。
それは、現在に於いても「科学技術」や「文化芸術」でも「創造力」を駆使して遥かに他を抜いている「日本人の特質」に他ならないのである。2000年もの期間を経過してでもこの特質は変わらない。つまり、「融合」と「創造」は「遺伝的特質」に他ならない事を証明する。
”「中間子」を働かせる力が強い”と云う訳である。言わずもがな自然物理の「中間子」や「中性子」は日本人の発見である。
「長」の「体系化」は配下に「信頼」を生むと論じた。そうすると、次ぎの数式が成立する。
「中間子」=「信頼」=「体系化」
この「経験」-「体系化」-「知識」、即ち、「融合」に働く「中間子=信頼=体系化」に裏打ちされた「創造」が日本人の基盤にあり、ここが外国の「個」の世界と歴然と根本から違うのである。
故に、この理屈からすると”自らに無いものを求める”のも、そして、”それを融合する”のも日本人の特質と云える。それでなくては「日本人の融合論 創造論」は論理的にあり得ないことに成る。
故に、”「個」の侵入は心配いらない”と成り、それ故にそれに惑わされた”「刹那的な夢」の吹聴は良くない。”としている。
それよりも、この「家訓8」は取りも直さず”「中間子」を見つけ働かせよ。さすれば「知識」が生まれる”とのこの事を解いている。
「融合力」=「経験」-「体系化」-「知識」=「創造力」
「知恵」=「体系化」+「中間子」
「知恵」=「創造力」=「融合力」
この数式間には目に見えない「何らかの中間子」が作用している事に成る。
正しく「核理論」そのものである。
その「中間子」は諸事事象によって異なるであろう。「中間子」が発見されれば「体系化」が起こり「知識」となり末には「知恵」と成る。そして、その「知識」は「伝達手段」として正しく継承されるもの」と成るのである。
”「経験」が浄化、或いは整流されて「知識」「知恵」になり伝わる。”と解ける。
日本の国全体に於いても然ることながら、故に青木氏に於いても「家訓8」である事が頷ける。
故に、古の家訓でありながらも、この事は家訓1の真意でもある。
取りも直さず、仏教ではこの事を説き、"「個」「単」から思考する「刹那主義」を「悪」とし排除せよ"としているのであろう。理解できる。
故に、日本社会に於いて行き過ぎた「個」から発した思考規準は現在は尊重されてはいるが、余りの「個性的思考、性癖」により大きな「偏り」を起こす事を好ましくないと観ているのである。
それはその「事象」により「経験」を卓越し「名人」「匠」と成り得るには「個性的」を強く求められる事もあるが、それはそれで「名人」「匠」の範囲であれば、必要以上に「体系化」-「知識」の線上に無くても良いであろう。
むしろ、彼等が「体系化」-「知識」の線上にあると「名人」「匠」と認めない不思議な風潮が日本社会にはあるだろう。「中間子」が存在する割り切れない思考として。
これは取りも直さず、”「名人」「匠」は「長」又は「石田三成」「明智光秀」「諸葛孔明」「黒田勘兵衛」の「権謀術策」側にあってはならない”とする日本人特有の区分けの思考であり、裏を返せば、この「家訓8」の「経験」-「体系化」-「知識」の思考がある事を証明する。
ただし、「家康」も「個性的」とするかは「経験」-「体系化」-「知識」の線上の何れの「位置と量」にあるかに依って決まる事になろう事は頷けるが、家康は歴史上最も偉人伝の人物の中ではこの「家訓8」に「典型的」ではない「標準的」に相当する人物と見なされる。
この何処に規準を置くかも「中間子思考」の所以であろう。其れはそれで良い。そうでなくては凝り固まっては「融合」「創造」は働かない。
「融合」「創造」は正しく「色即是空 空即是色」「空不異色 色不異空」である。
平たく云えば、”頭を柔らかくせよ。(融合) でも考えよ。(創造)”である。
禅問答である。
筆者は青木氏を研究する雑学の中で、この「経験」-「体系化」-「知識」の線上で「偉人伝」なりを観ているが、人物の「生き様」がより立体的に観られて面白いし、意外に大発見の糸口に繋がる事が多いのである。
その中でも、偉人伝の人物の生き様も然ることながら、この家訓8は特に「長」のとるべき姿として論じているが、この「体系化」には別に誰しもが人生で経験する事、即ち、「スランプ」の原因とも成り、そこから「脱出」する答えでもあると考えている。
スランプは、「経験」-「体系化」-「知識」のプロセスの中に起こっている。
「経験」を長く続けると必ずスランプに陥る。然し、このスランプは「経験」だけに留まり、その中で長くそれに頼り生きる「能」を身に沁み込ませてしまう。その結果、この「経験」を活かしての「体系化」に怠り、足踏みしてしまう事がスランプである。前に進まない。「経験」を活かして「拘り」「偏り」を排除して「体系化」を成せば「知識」として身や脳に集約され、更なる「進化」が起こるのである。
スランプの中でも”前に進む”と言う事である。
このプロセスの中で「体系化」を怠った結果スランプなるものが起こる。
つまり、「体系化」を成せばスランプから脱してより一段上のものを獲得する事が出来るのである。
経験中になかなか「体系化」の行為は難しいだろう。
”どの時点で「体系化」を成せば良いのか”の疑問も残るだろう。
その答えは「スランプ」に落ち至った処と観ている。即ち、「スランプ」は「スランプ」では無いのである。
「スランプ」はこの「体系化」するポイントなのである。その「体系化」には「拘り」と「偏り」を見つけ出す時間が必要である。この時間が「スランプ期間」なのである。
人生はこれを繰り返して行く事であるが、その「スランプ」の「期間とレベル」は次第に小さいものと成り得る。但し、「体系化」をして「知識」に移す事で。
”この世の中に「進化」せずして生残れるものは決して無いない。”周囲は途絶える事無く「進化」しているのである。自らもそれに合わせて「進化」せずして取り残されるは必定である。
「進化」の手段「体系化」を怠れば留まるしかないのである。
冒頭からの上記の論説は「長」の誡めに限らず”よって件の如し”である。
「長」のスランプを避け、尚且つ「長」はこのスランプ対策のそれを超える処のものを要求されているのである。「長のスランプ」は取り扱いに依れば一門の滅亡を意味する。
「長」は常に「体系化」を無し、自らの「資格」を獲得し、「スランプ」も起しては成らないのである。
それには、家訓8の戒めを護る以外に無い事を諭している。
話を戻して、だから、この様な事を多く積み重ねる事で「生きる力」「望み」「希望」「目標」は内側から醸成されてくるものであり、「暗中模索の夢の発揚」方法にも賛成できない。
仏教でも説いているが、上記で論じた「刹那思考」や「刹那主義」からの考えや行動を戒めている。
しかし、「刹那思考」や「刹那主義」をマスコミでも大口を開けて怒鳴り喧伝しているが、今だ未だ社会は上記に論じている様に「融合」の中期過程にあるのだろう。
これからは上記した時代の厳しさは増すと共に、そこから逃げようとする「その場凌ぎの思考や行動」がより起こるであろうが、故に誡めて、この”「長」のみならず人は「刹那思考や行動」に陥ち至っては成らない。”としている。
故に「長」でなくしてもこの家訓類10訓とりわけ「家訓8」は以上の様に解説して末裔に伝え守り通さなくてはならないと考えている。
そのためにも、平成に掛けて家訓添書の解説を時代に合わせて、状況に合わせての再編集を行い遺す事をした。
家訓8を取り纏めれば、次ぎの様に成るだろう。
家訓8の添書(悟る事)
「術」=「知識」=「判読力」
「能」=「経験」=「体験力」
「技術」の構成=「知識」>「経験」
「技能」の構成=「経験」<「知識」
「経験」-「学問化」・「体系化」-「知識」=進化過程
同事象の進化=「能」+「術」=「経時的変化」
”「術」は進化した事になるので「能」の段階に留まってはならない。”
”「長」はこの進化の「術」の把握に努めなくてはならない。”
”「長」は常に確立した「新しきもの」を求めよ”
”「長」はこの努力をせよ。「能」を体系化せよ”
”「能」の段階の「匠」では「長」は務まらない”
”経験をして「能」を極めて進化させて「知識」の「術」を会得せよ”
”「匠」であっては「長」としての指揮に間違いを生じさせる”
”ある程度の「経験」の「能」を会得し、「知識」の「術」に進化させて、その「知識」の[術]で以って正しく指揮せよ。”
”「経験」から「知識」への過程を「創造」せよ。”
{「経験」-「体系化」-「知識」}=「過程を創造する」
”自らの「努力」と「思考」により得よ”(A)
”「自らの努力又は思考」に依って得られた時、「長としての務め」は果たせるし、その「創造」の効果は生まれる”(B)
”この「創造」は家訓10訓を会得する「糧」又は「力」に成るのだ”(C)
”「創造力」は「経験」-「体系化」-「知識」の力、即ち、固有の「融合力」に等しいのだ・。”
家訓8の教訓(解く事)
”「夢」を叶えるとするならば、「能」「経験」だけでは駄目なのだ。”
”「長」としての「行動の品質」の「格」が醸成される。”
”「品格」は「配下の信頼度」が「長」をその様に仕立てる。”
”「長」としての「品格」「風格」は自らが作り出せるものではない”
”「長い多様な経験」=「体系化した多様な知識」=「人格」=「品格」=「風格」”
”「家風」即ち「伝統」が醸成されると、「一族、配下」は「的確な行動」を起す”
"「捻くれ思考」は「体系化」「学問化」の努力でこれを打ち消せ"
”「長」は「常人」でありながら「常人」であっては成らない。”
"「体系化」-「知識化」で人との不必要な摩擦が避けよ"
"「長」としては「個性型」を避けよ"
”「個」「単」から思考する「刹那主義」を「悪」とし排除せよ"
”人は「刹那思考や行動」に陥ち至っては成らない。”
”「中間子」を見つけ働かせよ。さすれば「知識」が生まれる”
名前 名字 苗字 由来 ルーツ 家系 家紋 歴史ブログ⇒
投稿者:福管理人
伊勢青木氏の家訓10訓
以下に夫々にその持つ「戒め」の意味するところを説明する。
家訓1 夫は夫足れども、妻は妻にして足れ。(親子にして同じ)
家訓2 父は賢なりて、その子必ずしも賢ならず。母は賢なりて、その子賢なり。
家訓3 主は正しき行為を導きく為、「三相」を得て成せ。(人、時、場)
家訓4 自らの「深層」の心理を悟るべし。(性の定)
家訓5 自らは「人」を見て「実相」を知るべし。(人を見て法を説け)
家訓6 自らの「教養」を培かうべし。(教の育 教の養)
家訓7 自らの「執着」を捨てるべし。(色即是空 空即是色)
家訓8 全てに於いて「創造」を忘れべからず。(技の術 技の能)
家訓9 自らの「煩悩」に勝るべし。(4つの煩)
家訓10 人生は子孫を遺す事に一義あり、「喜怒哀楽」に有らず。
家訓8 全てに於いて「創造」を忘れべからず。(技の術 技の能)
家訓1は「夫婦の戒め」
家訓2は「親子の戒め」
家訓3は「行動の戒め」
家訓4は「性(さが)の戒め」
家訓5は「対人の戒め」
家訓6は「人間形成の戒め」(長の戒め)
家訓7は「品格の戒め」である。
この家訓8の先祖の説いているところは”人生 「生きるべき力」は「創造」にある”と説いている。
家訓7までの内容の戒めと少し違う。
家訓7までの戒めは「人」又はその「長」としてのより高い人間的な習得、悟るべき戒め」を説いている。
しかし、この家訓8は「人」又はその「長」としての「示さなくては成らない戒め」を解いている。
どう云う事か。当然に自らも絶対条件として保持しなくてはならない条件でもあり、且つ、「長」として人を引き付ける「強いもの」を持ち得ていなくては成らないとしている。
その「強いもの」とは「創造力」であって、その「創造」は具体的には”「技の術 技の能」とを分けて会得せよ”とあり、闇雲に「創造」を追い求めても会得できないし、「長」として人を引き付ける事は出来ないと解いているのである。
此処は”敢えて”解いている”と添書には記述されている。
つまり、”説く”のではなく”解く”であり、即ち”強く分けて考えよ”という事を伝えたいのであろう。
「強く分けて考える事」に付いて”それは何故必要なのか”疑問(1)が湧く。
そして、その「創造」の基となる「技」に付いても”「技の術」と「技の能」とはどう違うのか”の疑問(2)も当然に湧く。疑問の多く湧く家訓8である。
何も「創造」だから「技」に拘らなくても良いであろうが、特にその主な例を以って判りやすく解いているのであろう事が判る。
そこで、「技」としているのは、この「2つの疑問」(1)(2)を「解く事」と「悟る事」の行動が大事で、書籍による習得ではなく、”自らの「努力」と「思考」により得よ”(A)としているのであろう。
”「自らの努力又は思考」に依って得られた時、「長としての務め」は果たせるし、その「創造」の効果は生まれる”(B)と伝えている。
更に、即ち、”この「創造」は家訓10訓を会得する「糧」又は「力」に成るのだ”(C)と添書は強調しているのである。
さて、「2つの疑問」(1)(2)と「3つの添書」(A)(B)(C)に付いてこれから単独ではなく誤解をより少なくするために複合的に都度論じる事とする。
最初の”それは何故必要なのか”の疑問(1)の解明の前に、”「技の術」と「技の能」”とはどう違うのか”の疑問(2)を先に論じて解明する方が解けると考える。
そうする事で最初の疑問(1)は間違いなく理解できるし論理的な答えとして導かれるだろう。
そもそも、”自らの努力と思考により得よ”(A)と論理的に会得する事を求めているのであるから、この解明の過程が正しいと思える。
既にこの世に「技術」と「技能」と云う言葉がある。
この「二つの言葉」があると云う事は、この二つの言葉の「意味」や「目的」が違う事を意味している。
しかし、世間では言葉の範囲では厳密には使い分けをしているとは思えなく、ここは「技術」だなと思うところを「技能」と発言して使っていることが多い。当然に逆の事もある。
つまり、この現象は世間の人、全ての人は「長」としての立場で使い分けをしている事は無いだろう事を示している。
だから、裏を迎えせば、”導く立場の「長」としてはこれでは駄目なのだ”と云っている事になる。
当然、この「技」は添書では主例であるのだから、万事、特に「創造」とする事に関して”斯くあるべきだ”といっている事に成る。
そこで、結論から先に云うと次ぎの様に成るだろう。
”「技術」は「知識」を主体視してそれに「経験」を附帯させて構成されているものだ”と云う結論に成る。
”「技能」は「経験」を主体視してそれに「知識」を附帯させて構成されているものだ”と云う結論に成る。
つまり、「知識」と「経験」の主体が違うと云う事に成る。
当然にその比率は千差万別と成るだろう。場合に依っては殆ど差が無く変わらないものもあり得るだろうし、逆の場合もあり得るだろう。
例えば、科学の場合には「知識」に依って論理的に編み出された「技」もあり、この場合は「知識」から観れば「経験」の度合いが小さいと云う傾向もある。
芸術や工芸の様な観念的なことが働く場合には「経験」から観れば「知識」の度合いが小さいと言う事もあり得る。知識で創作された芸術は”論理性が高く面白くない”と誰しも評価するだろう。
ただ下記に論ずる”「経験」から「知識」へと進む「進化の過程」”を考えると、片方がゼロと云う事は論理的にないし、この比率の差は大した意味を持たない。
この様に分けて考えると、この世の「進化の過程」もあり「知識」と「経験」の定義としては類似する事に成る。だから一般的には面倒だから世間の通常は分けて使い分けしないのであろう。
しかし、だからこの家訓8は”「長」としてはそれでは駄目だ”としているのである。
判りやすく云うと”雑では駄目だ”と云う事だろう。
そこで、これを判りやすくする為に論理的に解析すると、最近の脳科学的に観た場合、次ぎの様に成るのではないか。
「知識」とは学問など書籍に依って「判読力」を主体として得られた脳の「集積結果」である。
「経験」は実労等に依り「体験力」を主体として得られた脳の「集積結果」である。
と考えられる。
「術」=「知識」=「判読力」
「能」=「経験」=「体験力」
当然に、この「集積結果」は左脳の集積場所は異なる筈である。つまり、カテゴリーが異なるのであるから、コンピータ的に観れば収納場所は「トラック」や「セクター」や「カテゴリー」の位置は異なる事になる。
脳も同じ仕組みで成り立っているのだから、つまり、これ即ち、「術」と「能」は「違う」と云うことを意味している。
しかし、厳密に云えば、「知識の学問書籍」も基を正せば始めからあったものではなく「人の進化」の過程の「体験」に依って得られもので、それを類似分析して「学問化」し「体系化」したものが「知識」と成る。
これは大事な思考基準である。
つまり、「能」の「体験力」から「術」の「判読力」へと進化したものと成る。
「進化の過程」=「経験」-「学問化」・「体系化」-「知識」
「体験力」-「進化」-「判読力」
この左から右に向かってルートを通って進む。
従って、現在に於いても未だ体系化されずに、「能」の「体験力」の段階のものもあるだろう。
「体験力」と「判読力」とには「進化」が介在する事に成る。
逆に、最近の科学域では高度な「知識」の「術」から更に進化して高度な「経験」の「新能」が生まれると言う事も起こっている。コンピーター関連やソーラー関連や最先端医療のIPS医療等はその典型であろう。むしろ、これからの形体はこのパターンで論じられる事が主体と成ろう。
しかし、あまり前に進めずとりあえず先ずは、上記の「原型のパターン」を論じて理解しておく必要がある。
「知識」の「術」-「経験」の「新能」=未来の進化。
”「術」と「能」”には同じ事象の中の事でも「能」と「術」とには「経時的変化」を伴なう。
つまり、「能」から「術」へと進むと云う事に成るので、「術」は進化した事になる。故に進化したのであるから、そこでその初期の「能」の段階に留まってはならない事を意味するのである。
つまり、”「長」はこの進化の「術」の把握に努めなくてはならない”と諭している事に先ず成る。
平たく云えば、”「長」は常に確立した「新しきもの」を求めよ。”と云える。
さて、これは難しい。何故ならば今は科学は進みその「術」は何処かで進化して確立し書籍などに表されているが、古ではその様な環境に余りなかった。
とすると、自らが「能」の段階のものを「術」の段階まで進めなくては成らない努力が伴なう。
恐らくは、”「長」はこの努力をせよ。「能」を体系化せよ”と求めている事に成る。
だから、故に家訓8は作り出す事を求め所謂「創造」としているのである。
そこで「技能」には「経験」に依ってその「技」を極めた「匠」がある。
更に推し進めて「能」の「匠」を考えるとすると、”「能」の段階の「匠」では「長」は務まらない”とし、むしろ”「匠」であっては「長」としての指揮に間違いを生じさせる”としているのではないか。
何故ならば、「経験」の「技能」を極めた「匠」は、兎角、その事に「拘り」や「偏り」を持つ傾向が起こる。止むを得ない人間の仕儀でもあるがそうでなくては「匠」には成り得ないであろう。
むしろ、「拘り」の極めが「匠」であろう。
数式で表すとすると次ぎの様になる。
「経験の最大」=「拘りの極め」=「匠」
そうすると、ここで矛盾が生じる。
”経験をして「能」を極めて進化させて「知識」の「術」を会得せよ”とすると、経験には「拘り」と「偏り」が生まれるのであるから、「知識」の「術」は成し得ない事に成る。
何故ならば、「知識」とは「能」の「拘り」と「偏り」の個人性を排除したものが「術」であろうから、そこで初めて他者が一般的に利用し知識として「学問」と成り得るのであって、「匠」の「能」はそのままでは論理的には「知識」の「術」へは不可能である事に成る。
「匠」の能は個人的なものに支配される。個人的なものに支配されるからこそ又、「匠」の値打ちが
出るものであろう。
「経験」-「拘り」=「知識」
「拘り」「偏り」の排除=「体系化」作業
という事に成る。
ただ、それを解決する方法がある。(A)
それは、この家訓8では”「経験」の「能」を「匠」として極め、先ず会得せよ”とは書いていない。とすれば、何故ならば、それは”他の者をしてそれを極めさせれば良い”事に成る。
これだけでは「会得」と云う事から観て意味が無いだろう。
「長」の「習得、会得の率と理解度」が必然的に低下する事になるからだ。これでは「長」の求められるものでは無い事に成る。
しかし、その前提があろう。物事には「完全の習得」は有り得ない。
そうすると「匠」まで極めずとも良い事に成り、それを理解するに足り得る「経験」を会得する事でも、「知識」の「術」の「体系化」は充分に成し得る事が出来る。それが前提である。
つまり、他の者をして「匠」としてそれから「聞き出す事」の手段にて成し得る。
それが”「長」はこの「聞き出す努力」をせよ。そして「能」を自ら「体系化」せよ。”としていると理解する。
「聞き出す事」=「体系化」作業の始まり行動
という事に成る。
上式と連立すると、次のように成る。
「聞き出す事」=「拘り」「偏り」の排除=「個人性の排除」=「体系化」の作業
そして、行き着く処は「知識」となる。
それには先ずは、”ある程度の「経験」の「能」を会得し、「拘り」を排除して「知識」の「術」に進化させて、その「知識」の[術]で以って正しく指揮せよ。”と云っている事に成る。
つまり、”その「経験」から「知識」への「過程を創造する」”と定義している事になる。
これは何も「能」、「術」だけの問題ではないだろう。
「創造する」とは「考え、そして新しき何物かを生み出す」と定義すると次ぎの様に成る。
”「経験」から得たものを「体系化」して「新しき何物」かを生み出せ”
と成るので、この上記の解釈は正しい事になるだろう。
{「経験」-「体系化」-「知識」}=「過程を創造する」
「過程を創造する」の「行動の努力」は、再び、「経験」-「体系化」-「知識」のサイクルのプロセスを生み出す事は容易に理解出来る。より進化して。
この「進化」とはこれを定義とし「体系化」を「媒体」としている事に成る。
このサイクルが限りなく続く事を論理的に説明出来る。
但し、媒体と成る「体系化」を無くしてはこのサイクルは起こらない事も。
そうなると、そこで「創造」とは果たして俗に云う”夢を持て”と云う事に成るのか。(B)
どうも違うのではないか。そもそも俗に云う「夢」とは「就寝中の夢」の如く暗中模索、否具体性のものであろう。その「夢」をかなえる為に「暗中模索」では「夢」は叶えられるものではない。
それほど世の中は甘くは無い。人は兎角「夢」とは「暗中模索」のものを云っている傾向がある。
世間では”夢を持て”と若い者に吹聴しているが、あれには少し違いがあろう。
「暗中模索の夢」は無防備にそれに進むために「夢を叶えられる力」の醸成もせずに「無駄な挫折」をし「不必要に世の中を恨み」「捻くれて拗ねる姿勢」の弊害を生み、若い者に良い結果を生まないのが現状であろう。果たして「幾多の挫折」に充分に耐えられる者がどれだけいるだろうか。
これは、上記した「匠」に相当する”「拘り」「偏り」”と成るだろう。
「夢」を叶えられ者は「匠」と成り得る確率と同じであろう。誰しもが「匠」、「夢」を成し得る事は出来ない。一握りである。さすれば、「夢」に向かって挫折した時、その挫折が向後の人生に良い方向に働けば何の問題もないが、多くは「暗中模索、否具体性」で走る。依って、思考に「不必要に世の中を恨み」「捻くれて拗ねる姿勢」の弊害を持つだろう。これは多くの者に起こる。
この「夢」は取りも直さず「経験」の域にある。
{「経験」-「体系化」-「知識」}=「過程を創造する」のつまり以上のプロセスの「体系化」が成されていない。依って「長」とも行かずとも「夢の実現」は「過程を創造する」の域に達していないだろう。途中である。
従って「創造」とは「夢」であるとは成らない。
大事な事は「暗中模索の夢」を叶える為にその過程のそれに向かった「努力の積み重ね」が必要であり、「ただの努力」では成し得ない筈である。
何故ならば、この世は「人の社会」である。その「人の社会」が皆が同じ程度の努力で「夢」が叶えられるのであればそれは楽なもので「夢」では無い。叶え難いからこそ「夢」と表現しているのだ。
「人の社会」であるからこそ「夢」を成そうとすると「人を押しのける」事の行為は必然的に生まれる事に成る。
「人を押しのける」という事は「人以上に力」を持たなければ成し得ないし、かなりの「忍耐」「苦悩」が伴なう。
その「人の社会」が日本の様な高度な社会であればこそ、更に「それ以上の力」を保持しなくては成らない。
当然に、その「夢の分野」が高度で汎用な分野であればこそ、尚更の事「人を押しのける」「人以上の力を持つ」の条件は更に厳しさを持つ事に成る。
そう成ると、この「人を押しのける」の力は{「経験」-「体系化」-「知識」}の「体系化」の努力に等しい事に成る。
数式では次ぎの様になるだろう。
「人を押しのける力」=「体系化」の努力=「知識」
中には、”その挫折が大事だ”と如何にも正論の如く簡単に云う人が多い。
確かに「挫折」は人の成長に欠かす事が出来ない。
然し、どんな「挫折」でも良いと云う事では無い筈である。
”不必要な挫折などしない方が良い。”と考えている。この家訓から学んだ事として。
4つの「み」を強く興す「挫折」は避けるべきである。
強い「ねたみ」「そねみ」「うらみ」「つらみ」が起こる「挫折」は「人を歪ませる」と仏教では説いている通り、
この仏説には「人間形成に於いて不必要」と観て賛成できる。
確かに「挫折」するよりは「体系化」する事の方人間形成に効果的であろう。
つまり、「不必要な挫折」をするよりはこの事は言い換えれば次のように成る。
”日頃の経験を通して「体系化」する努力、又は「体系化の苦労」をせよ。”
”経験から得たものを「拘り」「偏り」を見抜き取り除くその努力を先ずせよ。”
そこで、”「人以上の力」「人を押しのける」に耐え「正常な精神と思考」を持ち得ている人物がどれほど居るだろうか。「不必要な挫折」は必ず「精神と思考」を歪ませる。
それを正常に成し得る者が果たしてどれだけいるだろうか。”先ず居ない”と云える。
仮に「人以上の力」を確保出来たとして、無情にして非情にも「人を押しのける」と云う行為に絶え得るだろうか。「人を押しのける」が一度であれば未だしも常態の日々に続くのである。
故に、無責任極まりないこの言葉を私は、”「夢]を持て”とは決して云わない。
それを云える人物が果たして、この2つの条件(人以上の力 人を押しのける)を以って発言しているのだろうか。おこがましい限りである。
云うとすれば、くどいがこの家訓8の真意を得て次ぎの様に云っている。
”日頃の経験を通して「体系化」する努力、又は「体系化の苦労」をせよ。”
”経験から得たものを「拘り」「偏り」を見抜き取り除くその努力を先ずせよ。”
”不必要な挫折はするな。その暇があるのなら「自らの努力」で「知識」を得よ。 自らの努力で”
では、どうすれば良いのかと云う事に成る。そのキーワードが必要だ。
それが、この家訓8の事で云えば次に示す処であろう。
「夢」に向かって進む限りに於いて大なり小なり「経験」が伴なう。「能」を確保する事になろう。
”それを進化させて「術」として「知識」と成せ”と云う事に成る。
”「夢」を叶えるとするならば、「能」「経験」だけでは駄目なのだ。”と云う事に成る。
では、更に考えて、”その「進化させる」はどの様にすれば良いのか。”の疑問が起こる。
それは”「体系化せよ」”又は”自分なりの「学問化せよ」”と云う事に成る。
判りやすく云えば、”「経験」(能)をまとめよ。” それが”「長い多様な経験」の間に体系化した「多様な知識」と成り得るのである。”と解ける。
つまり、”「長い多様な経験」により「多様な知識」が「人としての力量」或いは「人としての格」を成し得るのである”と解ける。
”それで良いのだ””何も「夢」を叶え持つ事だけが目的では無い。”
だから、「無駄な挫折」をして思考に歪みを持つ事よりも、”足元の「経験」(能)をまとめよ”その努力が”「長い多様な経験」の間に体系化した「多様な知識」と成り得るのである。”と成るのである。(B)
”この家訓8の「長」はこのことを忘れて怠っては成らない”としている。
”それを会得した者が「人を導ける力」を持ち得るのである。”としている。
つまり、”「人としての力量」或いは「人としての格」は「長」としての人を導く「人格」が得られる”と云う事に成る。
この「人格」が「品格」に、そして、それの積み重ねの結果、雰囲気に滲み出て「風格」と成るのではないだろうか。
「長い多様な経験」=「体系化した多様な知識」=「人格」=「品格」=「風格」
そして、”この「風格」が生まれた時「長」と成り得る。”と理解できる。
家訓10訓、とりわけ家訓8の「風格」を得た時、その「長」の下には「家風」が生まれるだろう。
この「家風」が「伝統」と成り得るのである。
「家風」=「伝統」
”「家風」即ち「伝統」が醸成されると、「一族、配下」は自らその「家風」「伝統」を理解して、「長」が充分に指揮せずしても「的確な行動」を起す”と解いているのである。
昔から、”今成金”という言葉がある。
下記に例として記述する「信長、秀吉」の例は家訓8による「大意」この事に欠けていた事により滅びたと解析できる。
当然に、「多様な経験」を体系化した「多様な知識」は事に当って人を納得させ、諸々の事象に当って適切な指揮する能力を保持する事に成る。
その結果、尽くに「正しい指揮」が積み重なり、その「指揮する品質レベル」に信頼度を増し、人は従い、その結果として”「長」としての「行動の品質」の「格」が醸成される”と定義されるだろう。つまり、”「品格」は「配下の信頼度」が「長」をその様に仕立てる。”と云う事になる。
これは”自らが作り出せるものではない”と云える。
判りやすく数式で表現すると下記の様になるのではないか。(A、B、C)
「品格」=「配下の信頼度」*N=「正しい指揮」*N=「指揮する品質レベル」*N
「品格」=「人格」*N
「品格」*N=「風格」
(「人格」*N)*N=「風格」
(N=経験量+知識量)
しかし、然りながら、ここで「多く無駄な挫折」をした者が、この家訓8を成し得た時に、”何故悪いのか”の反論があろう。悪いのである。
「多く無駄な挫折」「人を押しのける」事の結果で「思考精神」に歪みの持たない者は先ず居ないだろう。つまり、その者の「自らの経験」と「力量」と「人を押しのける力」から独善的に、或いは独裁的になり「人」を導く「長」には問題を含むからである。
”一時的には「長」に成り得ても必ず破綻する。”と云う事になるからだ。
例えば、「信長、秀吉、家康」の例えが適切に物語る。
信長はこの過激的で独善的な典型的人物であろう。その人生過程に於いて余りの典型であったからこそ、歴史は事半ばで終る。
秀吉は下積みから這い出ての「技能量」或いは「経験量」は豊かであったが、体系化した多様な知識を持ち得ていなかった。「千利休に対する対応」や「金の茶室」がそれを物語る。
故に標準的な典型的人物であろう。歴史は一代で成し得たが一代で終わると成り、人生の目的、万物の目的とする後世に子孫を遺し得なかった。
家康であるが、この家訓8に適合する人物である。
三河の地侍に生まれ、今川氏の人質、織田氏から屈辱的な待遇、武田氏との敗戦、秀吉との駆け引き、摂津商人との付き合い、関が原の戦いに負けて勝った結果等を検証すると「多くの挫折」と「人を押しのける」等の「経験」は申し分なく豊かでありながらも、そこから学習して「知識」を獲得し「長」としての家訓8で云う資質を「捻くれる」事無く会得している事が検証できる。
「捻くれる」はこの家訓8で云うそれは”「体系化せよ」”又は”自分なりの「学問化せよ」”の努力の結果がそれを抑えたと考えられる。
徳川氏の歴史資料からも、”「多く無駄な挫折」を避け「人を押しのける」事の結果を極力少なくし、「長い多様な経験」の間に体系化した「多様な知識」を学習し成した。その為に出来る限り「思考精神」に歪みの持たない様に心がけた。
「家訓8」で言う「長」としての数式条件は次ぎの様に成るだろう。
即ち、「長い多様な経験」=「体系化した多様な知識」=「人格」=「品格」=「風格」 を備えた。”と理解し検証できる。
故に、250年以上の存続の条件が醸成されたのである。
それは”「体系化せよ」”又は”自分なりの「学問化せよ」”は何も言葉そのものではなく、「捻くれる」事をも抑える事が出来るのであろう事が読み取れる。
誰しもが普通は陥る経験からの「捻くれ思考」はどうすれば良いのかの疑問は次の事として云える。
「捻くれ思考」は予断なく「長」として最も排除しなければならない事は明白であろう。
"「捻くれ思考」は「体系化」「学問化」の努力でこれを打ち消せ"と成る。
恐らく、当然の事として添書に書かれていないが別の真意はここにもあるのだろう。
つまり、通常はその者の「自らの経験」と「力量」と「人を押しのける力」から独善的に或いは独裁的になり「人」を導く「長」には問題を含むからである。
”信長、秀吉はむしろ常人であって人としての陥るところに落ち至った。しかし、家康の人物は稀有であるが斯くあるべきだ”と云っている事になる。
”「長」は「常人」でありながら「常人」であっては成らない”ことを諭している事に成る。
青木氏の家訓10訓は室町以前の試練から生まれたものであるが、それ以後も子孫に合意されていたからこそ現在までに遺されているのであって、それ以前にこの「3人の生き様」を言い当てていた事になる。
この家訓8が遺された時期は一族一門がこの世に生き残れる確率は極めて低く、危険率は現在の数十倍のものであったことである。それは毎日の茶飯事思考であった筈である。
しかし、青木氏は1367年も続けて直系子孫を遺し得たのは代々先祖がこの家訓類の戒めを護り続けて来た事に他ならない。少なくとも明治35年までは「長」として。
そして「家訓」として「伝統の集約」として維持されている。
現在では科学の著しい進化で社会がより敏感に成りハイトーンと化しているが、この別の意味で厳しさはむしろより遺されているだろう。さらに子孫の時代にはこの状況はもっと続くであろう。
「経験」から「知識」に進化して来た時代から、あまり「経験」の「技能」の伴なわない「知識」から更に「新しい技術」が生まれる時代に、人間形成に於いて代らないだろうが、この「新しい厳しさ」に立ち向かうにはこの家訓8は古い様で居て現在、否未来にも何らかの形に変えて生きている筈だろう。
故に、筆者はこの家訓8の考え方を重視していて、自分の思考判断基準の重要な一つにしている。
とりわけ「人を観る」とする時、或いは「長」とされる「人物評価をする時」に反射的にこの家訓で観ているが、外れた事はない。誰しもが何らかの判断基準を持ち得ているものであろうが。
多くの歴史偉人伝を読み漁ったがこの家訓8は有効に利用されより面白く雑学を得た。
この世は当然に「人の絡み」の世であるが故に必然的に「人を押しのける」は起こる。
別の効果としてもこの世の必然的な行為の"「人を押しのける」"前にこの家訓8の「人を観る」事の「思考経験」とその「体系化」による「知識」で不必要な摩擦を避けて来た。
古い様であるが、突き詰めると現在の言葉が無いので古来の言葉にすれば、「人生の生き様」の体系化は「六稲三略」に通ずる様だ。「戦略戦術」は正しくこの「体系化」であろう気がする。
添書にはないが、"人との不必要な摩擦が避けられる"も極意なのであろう事を思い知り、頭書に記述した、”自らの「努力」と「思考」により得よ”(A)に感嘆した。
これも「経験」からの「体系化」-「知識化」を成し得た事に成るからだ。
もう一つ会得した事がある。
それは、「体系化」-「知識化」を成さず豊富な経験だけで終わる場合、その人物には「個性的性格」、「個性的思考」が残る事が確実に起こる事である。
恐らくは、信長や秀吉は多少なりとも「体系化」-「知識化」があったにせよ多くはこの「経験」のみによるところで留まっていて、そのレベルにより独特な「個性化」が起こったと観られる。
ただ、信長はこの事をある程度知り得ていて外国の新しき文化知識で補おうとしたと観られるし、その側近には同じ行動をする秀吉を登用したことで頷ける。
明智光秀は主に「経験」から「体系化」-「知識化」を成した人物ではなく「書物」から「知識化」成した事により信長との余りの差が起こり、信長は自らを補おうとした余り「接点の無い間違いの登用」をしてしまった事になるだろう。
「経験」を「体系化」成せる者で充分であった筈で、この判断ミスをした事に成る。
ただ、此処で云える事は、光秀タイプが悪いのではない。”学者馬鹿”という言葉があるが、これは「偏り」に依って起こる”「適合性の低い思考」が起こる”からで、その思考化の視野が狭くなる事から起こる現象である。しかし、これを超えるとむしろ大変な「経験」を生み出すのである。
例えば、三国志の劉備と軍師の諸葛孔明である。
諸葛孔明は最たる「知識」と「知恵」の持ち主である。諸葛孔明の策に対して、”敵は過去の彼の「策の経験」から恐れて逃げる”と云う所まで達していた。これは明らかに「知識」から「経験」を生み出し、その「策の知識」から敵は「体系化」して自ら「経験」を作り出した効果に他ならない。「逆のプロセス」である。
明智光秀はこの域に達していなかった事に成るだろう。世に云う「今だ我木鶏にあらず」であろう。
「知識」からの「逆体系化」で「経験」は「木鶏」に達し得る可能性がある事を意味する。
歴史偉人伝にはこの「逆体系化」は少ない為にかなり難しい事が云える。
しかし、家訓8の添書には一句も触れていないがあり得る事である。
秀吉は「金の茶室」で全てを物語るもので「体系化」-「知識化」は自ら嫌っていた事が覗える。だから、補う為に石田三成を重く登用したと観られる。しかし、この石田三成も明智光秀型であった。
ただ、秀吉はこの体系化の見本と見なされる人物を採用している処は優れている。
その人物は一介の下級浪人の薬売りで溢れる知恵の持ち主であった。そして、その知恵を屈指して各地の土豪の争いに雇われて「戦い」を「経験」し、そこから自らその「戦い方の体系化」を成し、知識として保持し続けた。その結果、「天下一の軍師」として賞賛され認められた秀吉の「軍師 黒田勘兵衛」と成り得たし、明治期まで続いた黒田藩主の「長」にも成った。
だから家康は石田三成や明智光秀を「知識側の偏り」に対する者として(「経験」-「体系化」-「知識」の者でないとして)ある面で軽視していた事が伺えるが、黒田勘兵衛は認めていた。
当然、家康は本人が「長」としての「経験」-「体系化」-「知識」を偏り無く成し、性格的にも合致していた事から全て側近はこの型の者を配置したし、「経験」型のものは実践部門に配置した事が読み取れる。
信長は「経験」型の偏りから、「実戦型」と成ろう。
秀吉は「経験」型の標準から、「実戦型」+「術策型」と成ろう。
家康は結果視として「経験」-「体系化」-「知識」から「権謀術策型」と成ろう。
この家訓8は言い換えれば別の意味で、"「長」としては「個性型」を避けよ"と云っている事になる。("「経験」-「体系化」-「知識」"とはっきりと明言している。)
避けなくてはならない理由は、当然、家訓からすると後の人物であるが、"信長-秀吉であるな"と云っているのであるが、この事について他の家訓3で明確でも云えている。
つまり、「個性的」である事は結果として「人」「時」「場所」の三相に左右されるからだ。
その「経験」を「体系化」せずにすると「偏りの個性化」が起こる。その個性は「ある人A」に対してよい効果を生み出すが「ある人B」に対しては逆効果と成ることが起こるからだ。信長-秀吉の例に成る。「時」「場所」も"推して知るべし"である。
"未来永劫に子孫の繁栄を願う場合には、これをリードするに「長」としては好ましくない"
これは個人の単位での事として良いのであればそれも良いであろう。しかし、この訓では個人ではない。あくまでも「長」なのである。
然しながら、筆者は大なり小なり"「長」に限らず斯くあるべきだ"と考えている。
現在の様な「個人」を基盤として尊重し、その連携の先に集団結束を目途とする「個人主義」の時代にあれば「個性的」を賛美され「良し」としているが、日本人にはこの思考原理は「違う」と考えている。
これが仏教で言う"「刹那主義」に偏りすぎる。"と云う点である。
家訓8の「裏意」として、「経験」-「体系化」-「知識」の線上に於いて、この「刹那主義」を排除せよ"としている事が云える。
その根拠は"人は男女一対で成り立っている。"と云う事である。
その「男女一対」は更に「家族」を構成する。そしてその「家族」は「親族」を構成する。「親族」は「一族一門」を構成する。この原理はすべて「男女一対」の「理」が成立しその中にある。
決して、「単数」「個人」の「理」ではこの構成は論理的に成り立たない。
「単数」「個」だけでは子孫は生まれず決して拡大しない。「人」のみに限らずこの世の「万物」は「相対の原理」と「一対の原理」に依って成立する。
この家訓ができた時期には、この「個」の上に無く長い歴史の中で日本の歴史と文化と思想は上記の根拠(「男女一対」-「家族」-「親族」-「一族一門」=伝統)が醸成されて来た。そしてそれが国民の遺伝子的な思考基準と成っている。所謂、現代用語で「チーム」、古代用語で「族」で事を成そうとする癖がある。つまり、「複数の原理」の社会である。
ところが、この「複数」の社会の中に、突然に「単数」「個人」「個性的」を最高視し標榜する国の思想が流入した。この標榜する国の考えが悪いと云うのではない。それは「その国なりの形」でありそれでなくては国は成り立たないのであろう。ただ、日本という「国に於いては構成上の条件」としては決して好ましくないと云う事なのである。
「個人主義」仏教で言えば「刹那主義」と見なされる易い思考が蔓延したのである。
上記した「遺伝子的な思考基準」が醸成している2000年以上の社会の中に、200年にも満たない「然程の伝統」「然程の祖先」も持たない国の思考基準が混在して来たのである。
{「遺伝子的思考基準」=「複数の原理」}><{「個人」「個性的」「個人主義」=「単数の原理」}
現在ではその間約100年で「複数の原理」<「単数の原理」の状況の中で矛盾が生まれ社会問題化していると考えられる。
しかし、反面、「然程の伝統」「然程の祖先」でも200年も経過すると先祖が形成される様になり初めて日本の様な「初期的な伝統」が重んじられる社会風土が出来つつあると云われている。
その一つの現われとして、「ルーツ探し」が大ブームと成っていると云われていて、日本の様な「チームの重視」「族の重視」に思考が傾きつつあると云われている。
端的には云うと今までの彼等の観光目的とは異なり、日本の彼等の観光目的はこの稀有な「伝統の確認」に変わりつつあるとされている。彼等はこの経済大国と近代的な世界有数の国、トップのノーベル賞や最先端の科学技術立国の社会の中に「何故、伝統の美が融合するのか疑問」があり、その「融合力」に驚いているという事らしい。未開発国のそれとは別に観ていると言う事だ。
そもそも元より世界稀有の国として、日本民族は7つの民族の「融合」であり、その「融合」を「遺伝子的性癖」とも云われている事から、何時かこの「刹那主義」に近い「個人主義」から何物かを融合して日本独自の「複数の原理」+「単数の原理」=「中間子の原理」を生み出すであろう。
米国がそうである様に今丁度その最中であろう。
参考に日本の融合過程は、古墳時代の融合は別として、先ず飛鳥時代と奈良時代初期に第1陣の大量移民が起こり、大化期初期に第2陣、奈良末期に第3陣、平安初期に第4陣の民族の大移動が西と北で起こった。然し、平安初期の桓武天皇の時代の律令国家完成期の800年頃には「帰化人」「渡来人」の言葉は書籍から消えている。「遠の朝廷」「錦の御旗」の称号を与えられた「大蔵種材」の時代にはこの移民は禁止して「大宰府大監」は押さえ、北は大蔵氏の兄の坂上氏の「坂上田村麻呂」の「征夷大将軍」がこれを完全に抑えた記録がある。450年から800年の350年で完全融合した事を意味し、900年までの100年で民族は「単一性」を成した。
200年後の650年代大化期では融合の終焉期であった筈である。記録にもそれなりの表現がある。当然に、民族が移動する事は思考も流入されていた事に成り、その最たるものとしての「司馬達等」による「仏教」の伝来で証明出来る。
だとすると、民族の移動は無いにしても思想の流入はあったから、それだけに、明治初期から始まり昭和20年とするかは時期設定には問題であるが、新しい思考原理が侵入して来たこの期間を80-100年とすると、170年後の今ここで家訓8の検証とその問題提起が思考原理の融合が起こり始めている中ほどの時期と観て重要な事であると考えている。
そもそも科学物理の「中間子理論」関係の発見が続いているがこれすべては日本人なのである。
中間子はや中性子は+と-を融合させるファクターであるが、それを発見し続けている日本に於いて日本の「思考の融合」は先ず間違いは無いであろう。次ぎの子孫の代には完成するであろう。
その為にも、家訓8を書き記しておく事の意味は大きいと考える。
何をか況や、先進国の彼等が驚く「融合力」は取りも直さず「経験」-「体系化」-「知識」から起こる「本家訓8の創造力」に他ならないのである。
つまり、”「創造力」は「経験」-「体系化」-「知識」の力であり、即ち、日本固有の「融合力」に等しいのだ。”と解いている。
「融合」とはA+B=Cと成る。しかし、この式の過程には何がしかの因子Xが働いているだろう。
自然科学では「中間子」なるものが働き、更には、「中性子」なるものが働いている。
そして、この両者のエネルギーのバランスをとり続ける。
とすると、AとBと「融合」が成し得なかった民族融合の要素として「中間子」が働かなかったことに成る。つまり「拒絶反応」が働いたことに成る。
日本の「融合」はその「拒絶反応」の逆の事が起こったことに成る。
”ではそれは何なのか。中間子は何なのか。”又疑問が湧く。
AとBが「融合」するには、その数多くの過程で色々な事が起こるであろうが、先ず、融合に依って何らかの良いことが起こり、良い事の「融合の経験」が繰り返される。そしてその「経験過程」で「信頼」が生まれる。この「信頼」の元となる「経験」が数多く繰り返され人は「学習」をする。
この数多く繰り返される「学習」から何らかの「体系化」の「知恵」が働くだろう。
そして、そこに「知識」の「知恵」が生まれ、「経験」では「伝達」を成し得ないその「知識」と云う「共通媒体」で次に正しく伝える。そして、その「正しさ」の結果、「高い信頼」が生まれる。
この事が繰り返されての「信頼」に裏打ちされた厚味のある「知恵」と成り、より「確率の高い融合」は完成する。
日本は「7つの民族」と云う途轍もない数の融合である。世界を観ても、たった300年という短い期間では普通の融合の条件では成し得ない。しかし、そこにはこの「信頼」と云う確固たる「醸成手段」が出来上がる。この「信頼」が「中間子」である。信頼は(+)右の人と(-)左の人を結び付ける。
この事は明らかに正しく「経験」-「体系化」-「知識」である。
”この事が何故に日本人に成し得たのか”またまた次ぎの疑問である。
それは、現在に於いても「科学技術」や「文化芸術」でも「創造力」を駆使して遥かに他を抜いている「日本人の特質」に他ならないのである。2000年もの期間を経過してでもこの特質は変わらない。つまり、「融合」と「創造」は「遺伝的特質」に他ならない事を証明する。
”「中間子」を働かせる力が強い”と云う訳である。言わずもがな自然物理の「中間子」や「中性子」は日本人の発見である。
「長」の「体系化」は配下に「信頼」を生むと論じた。そうすると、次ぎの数式が成立する。
「中間子」=「信頼」=「体系化」
この「経験」-「体系化」-「知識」、即ち、「融合」に働く「中間子=信頼=体系化」に裏打ちされた「創造」が日本人の基盤にあり、ここが外国の「個」の世界と歴然と根本から違うのである。
故に、この理屈からすると”自らに無いものを求める”のも、そして、”それを融合する”のも日本人の特質と云える。それでなくては「日本人の融合論 創造論」は論理的にあり得ないことに成る。
故に、”「個」の侵入は心配いらない”と成り、それ故にそれに惑わされた”「刹那的な夢」の吹聴は良くない。”としている。
それよりも、この「家訓8」は取りも直さず”「中間子」を見つけ働かせよ。さすれば「知識」が生まれる”とのこの事を解いている。
「融合力」=「経験」-「体系化」-「知識」=「創造力」
「知恵」=「体系化」+「中間子」
「知恵」=「創造力」=「融合力」
この数式間には目に見えない「何らかの中間子」が作用している事に成る。
正しく「核理論」そのものである。
その「中間子」は諸事事象によって異なるであろう。「中間子」が発見されれば「体系化」が起こり「知識」となり末には「知恵」と成る。そして、その「知識」は「伝達手段」として正しく継承されるもの」と成るのである。
”「経験」が浄化、或いは整流されて「知識」「知恵」になり伝わる。”と解ける。
日本の国全体に於いても然ることながら、故に青木氏に於いても「家訓8」である事が頷ける。
故に、古の家訓でありながらも、この事は家訓1の真意でもある。
取りも直さず、仏教ではこの事を説き、"「個」「単」から思考する「刹那主義」を「悪」とし排除せよ"としているのであろう。理解できる。
故に、日本社会に於いて行き過ぎた「個」から発した思考規準は現在は尊重されてはいるが、余りの「個性的思考、性癖」により大きな「偏り」を起こす事を好ましくないと観ているのである。
それはその「事象」により「経験」を卓越し「名人」「匠」と成り得るには「個性的」を強く求められる事もあるが、それはそれで「名人」「匠」の範囲であれば、必要以上に「体系化」-「知識」の線上に無くても良いであろう。
むしろ、彼等が「体系化」-「知識」の線上にあると「名人」「匠」と認めない不思議な風潮が日本社会にはあるだろう。「中間子」が存在する割り切れない思考として。
これは取りも直さず、”「名人」「匠」は「長」又は「石田三成」「明智光秀」「諸葛孔明」「黒田勘兵衛」の「権謀術策」側にあってはならない”とする日本人特有の区分けの思考であり、裏を返せば、この「家訓8」の「経験」-「体系化」-「知識」の思考がある事を証明する。
ただし、「家康」も「個性的」とするかは「経験」-「体系化」-「知識」の線上の何れの「位置と量」にあるかに依って決まる事になろう事は頷けるが、家康は歴史上最も偉人伝の人物の中ではこの「家訓8」に「典型的」ではない「標準的」に相当する人物と見なされる。
この何処に規準を置くかも「中間子思考」の所以であろう。其れはそれで良い。そうでなくては凝り固まっては「融合」「創造」は働かない。
「融合」「創造」は正しく「色即是空 空即是色」「空不異色 色不異空」である。
平たく云えば、”頭を柔らかくせよ。(融合) でも考えよ。(創造)”である。
禅問答である。
筆者は青木氏を研究する雑学の中で、この「経験」-「体系化」-「知識」の線上で「偉人伝」なりを観ているが、人物の「生き様」がより立体的に観られて面白いし、意外に大発見の糸口に繋がる事が多いのである。
その中でも、偉人伝の人物の生き様も然ることながら、この家訓8は特に「長」のとるべき姿として論じているが、この「体系化」には別に誰しもが人生で経験する事、即ち、「スランプ」の原因とも成り、そこから「脱出」する答えでもあると考えている。
スランプは、「経験」-「体系化」-「知識」のプロセスの中に起こっている。
「経験」を長く続けると必ずスランプに陥る。然し、このスランプは「経験」だけに留まり、その中で長くそれに頼り生きる「能」を身に沁み込ませてしまう。その結果、この「経験」を活かしての「体系化」に怠り、足踏みしてしまう事がスランプである。前に進まない。「経験」を活かして「拘り」「偏り」を排除して「体系化」を成せば「知識」として身や脳に集約され、更なる「進化」が起こるのである。
スランプの中でも”前に進む”と言う事である。
このプロセスの中で「体系化」を怠った結果スランプなるものが起こる。
つまり、「体系化」を成せばスランプから脱してより一段上のものを獲得する事が出来るのである。
経験中になかなか「体系化」の行為は難しいだろう。
”どの時点で「体系化」を成せば良いのか”の疑問も残るだろう。
その答えは「スランプ」に落ち至った処と観ている。即ち、「スランプ」は「スランプ」では無いのである。
「スランプ」はこの「体系化」するポイントなのである。その「体系化」には「拘り」と「偏り」を見つけ出す時間が必要である。この時間が「スランプ期間」なのである。
人生はこれを繰り返して行く事であるが、その「スランプ」の「期間とレベル」は次第に小さいものと成り得る。但し、「体系化」をして「知識」に移す事で。
”この世の中に「進化」せずして生残れるものは決して無いない。”周囲は途絶える事無く「進化」しているのである。自らもそれに合わせて「進化」せずして取り残されるは必定である。
「進化」の手段「体系化」を怠れば留まるしかないのである。
冒頭からの上記の論説は「長」の誡めに限らず”よって件の如し”である。
「長」のスランプを避け、尚且つ「長」はこのスランプ対策のそれを超える処のものを要求されているのである。「長のスランプ」は取り扱いに依れば一門の滅亡を意味する。
「長」は常に「体系化」を無し、自らの「資格」を獲得し、「スランプ」も起しては成らないのである。
それには、家訓8の戒めを護る以外に無い事を諭している。
話を戻して、だから、この様な事を多く積み重ねる事で「生きる力」「望み」「希望」「目標」は内側から醸成されてくるものであり、「暗中模索の夢の発揚」方法にも賛成できない。
仏教でも説いているが、上記で論じた「刹那思考」や「刹那主義」からの考えや行動を戒めている。
しかし、「刹那思考」や「刹那主義」をマスコミでも大口を開けて怒鳴り喧伝しているが、今だ未だ社会は上記に論じている様に「融合」の中期過程にあるのだろう。
これからは上記した時代の厳しさは増すと共に、そこから逃げようとする「その場凌ぎの思考や行動」がより起こるであろうが、故に誡めて、この”「長」のみならず人は「刹那思考や行動」に陥ち至っては成らない。”としている。
故に「長」でなくしてもこの家訓類10訓とりわけ「家訓8」は以上の様に解説して末裔に伝え守り通さなくてはならないと考えている。
そのためにも、平成に掛けて家訓添書の解説を時代に合わせて、状況に合わせての再編集を行い遺す事をした。
家訓8を取り纏めれば、次ぎの様に成るだろう。
家訓8の添書(悟る事)
「術」=「知識」=「判読力」
「能」=「経験」=「体験力」
「技術」の構成=「知識」>「経験」
「技能」の構成=「経験」<「知識」
「経験」-「学問化」・「体系化」-「知識」=進化過程
同事象の進化=「能」+「術」=「経時的変化」
”「術」は進化した事になるので「能」の段階に留まってはならない。”
”「長」はこの進化の「術」の把握に努めなくてはならない。”
”「長」は常に確立した「新しきもの」を求めよ”
”「長」はこの努力をせよ。「能」を体系化せよ”
”「能」の段階の「匠」では「長」は務まらない”
”経験をして「能」を極めて進化させて「知識」の「術」を会得せよ”
”「匠」であっては「長」としての指揮に間違いを生じさせる”
”ある程度の「経験」の「能」を会得し、「知識」の「術」に進化させて、その「知識」の[術]で以って正しく指揮せよ。”
”「経験」から「知識」への過程を「創造」せよ。”
{「経験」-「体系化」-「知識」}=「過程を創造する」
”自らの「努力」と「思考」により得よ”(A)
”「自らの努力又は思考」に依って得られた時、「長としての務め」は果たせるし、その「創造」の効果は生まれる”(B)
”この「創造」は家訓10訓を会得する「糧」又は「力」に成るのだ”(C)
”「創造力」は「経験」-「体系化」-「知識」の力、即ち、固有の「融合力」に等しいのだ・。”
家訓8の教訓(解く事)
”「夢」を叶えるとするならば、「能」「経験」だけでは駄目なのだ。”
”「長」としての「行動の品質」の「格」が醸成される。”
”「品格」は「配下の信頼度」が「長」をその様に仕立てる。”
”「長」としての「品格」「風格」は自らが作り出せるものではない”
”「長い多様な経験」=「体系化した多様な知識」=「人格」=「品格」=「風格」”
”「家風」即ち「伝統」が醸成されると、「一族、配下」は「的確な行動」を起す”
"「捻くれ思考」は「体系化」「学問化」の努力でこれを打ち消せ"
”「長」は「常人」でありながら「常人」であっては成らない。”
"「体系化」-「知識化」で人との不必要な摩擦が避けよ"
"「長」としては「個性型」を避けよ"
”「個」「単」から思考する「刹那主義」を「悪」とし排除せよ"
”人は「刹那思考や行動」に陥ち至っては成らない。”
”「中間子」を見つけ働かせよ。さすれば「知識」が生まれる”


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伊勢青木氏 家訓6
タイトル : 伊勢青木家 家訓6
投稿日 : 12/29-06:48
投稿者 : 福管理人
伊勢青木氏家訓10訓
家訓1 夫は夫足れども、妻は妻にして足れ。(親子にして同じ)
家訓2 父は賢なりて、その子必ずしも賢ならず。母は賢なりて、その子賢なり。
家訓3 主は正しき行為を導きく為、「三相」を得て成せ。(人、時、場)
家訓4 自らの「深層」の心理を悟るべし。(性の定)
家訓5 自らは「人」を見て「実相」を知るべし。(人を見て法を説け)
家訓6 自らの「教養」を培かうべし。(教の育 教の養)
家訓7 自らの「執着」を捨てるべし。(色即是空 空即是色)
家訓8 全てに於いて「創造」を忘れべからず。(技の術 技の能)
家訓9 自らの「煩悩」に勝るべし。(4つの煩)
家訓10 人生は子孫を遺す事に一義あり、「喜怒哀楽」に有らず
家訓6 自らの「教養」を培かうべし。(教の育 教の養)
家訓6までの戒めは次ぎの通りである。
家訓1は「夫婦の戒め」
家訓2は「親子の戒め」
家訓3は「行動の戒め」
家訓4は「性(さが)の戒め」
家訓5は「対人の戒め」
以上であった。
家訓6は「人間形成の戒め」(長の戒め)である。
この教訓6はそもそも「教育」と「教養」とは違うという事を意味し、その区別を受けて培えと云う事として伝えられている。
この事が両親から子供の頃から最も頻繁に教えられた事である。
それは何故なのかと云う事である。この事は人を無意味な差別化を無意識にさせてしまう思考を培ってしまう事を誡めているのである。
この家訓の持つ意味に付いて、成人して結婚に至った時に初めてこの家訓の意味を知ったのだが、家族を持った事で”子孫存続に大きく関わる事だからである”と判ったのである。
それに付いてこの家訓6には添書で細かく解説されている。
それには、まとめるとまず最初に次ぎの様な事柄が書いている。
「教養」「教育」は社会を維持する時に必要とする「上下関係の差違」を意味するものではない事は明らかである。「社会」は「組織に類するもの」と「家庭に類するもの」とに分類出来る。
そこで、その「社会」の中での「組織」や「家庭」で必要とする差違、例えば、上下の関係は「契約」であり、元より「差別」では無く「差違」であり、「組織」又は「家庭」を円満で効果的に維持する上で必要とする「相互の了解」の上での「契約」である。
組織は「命令する者」と「命令される者」の契約を伴なう事であるが、この「命令」が上下の感覚を生み出してしまうのである。
家庭はもとより親と子の関係はあるが上下ではなく、家訓1又は家訓2にある様に「導く者」と「導びかれる者」の差異が主流となり契約が成立する。
「組織」=「命令する者」、「命令される者」=「契約」
「家庭」=「導く者」、「導かれる者」=「契約」
更に、進めて、そもそも、人は「人間的な程度」(人間力)を上げることを目的として「教育」を受けさせる。しかし、この「教育」は「知識」の習得を前提として「人間的な程度」(人間力)を上げる事に第一義があり、決して「心の持ち様」を上げての「人間的な程度」(人間力)の向上を成し得るものではない。
その「人間的な程度」(人間力)とは2つの要素に依って構成される。
それは、ここで云う「教養」であり、「教育}である。
この世に於いて「諸事」を解決するに必要とする「人間力」は様々なところで発揮される。それに依ってその「人の力量」が試される。この「力量」を「人間力」と言うが、「解決成し得る力」のその程度に依ってその「人間力」は測られる。
それは、「心の豊かさ」を培った「教養」だけでは成し得ない。人間は他の動物と違う所は「知恵」に依って得た「知識」で「人間」としての存在がある。
従って、その本来の「知恵」の根拠とする処の「知識」を得て初めてこの世の諸事に対することが出来る。その「諸事の解決」の「成果」を高めるのはこの「心の豊かさ」を培う「教養」である。
この「諸事の解決」には仏教で云う「三相」(人、時、場所)を必要としている。
この「三相」のこの「3つの相」に卓越する事が「人間力」を高める事に成るのである。
その「卓越」は、例えば、「人」を捉えた場合「人」を動するには「知識」と「心の豊かさ」の量が試される。決して、「知識」だけでは成し得ない。
人は「心の動物」と云われる様に、其処には「心の豊かさ」の「教養」が無ければ人を動する事は出来ない。
況や、”人とは何ぞや”と成った場合には、「人の如何」を知る必要がある。これは「先人の知恵」に学ぶ以外には無い。それは「知恵」即ち「知識」である。
つまり、この「2つの知識」と「心の豊かさ」の量の大小の如何に関わることを意味する。
当然に、「知識」を会得する場合にそれに伴ない幾らかの「心の豊かさ」も会得できるであろうし、「心の豊かさ」を会得するにも幾らかの「知識」も会得する事に成るだろう。
しかし、その比は同率では無い。故に、2つの「低い所」を補ってこそ「諸事を成し得る力量」が会得できるのである。
この家訓6では「人の力量」をより他に比して高めるにはこの低い部分を補うことであり、且つ”「教養」と「教育」とは異なる”としているのであり、故に本家訓6ではこの”二つの事を培え”としているのである。
「力量」=「教養」+「教育」=「人間力」=「三相の獲得(人、時、場所)」
「教養」=「心」=「心の豊かさ」
「教育」=「知識」=「知恵」=「先人の知恵」
ところで、この家訓が生まれた頃は氏家制度の盛重期であり、家柄身分が社会を構成する基準と成っていた。その中で、青木氏の家訓では上下の身分は「社会を構成する為の契約」であるとしている。決して本来存在する階級では無いとしているのである。当時としては、口外できる考え方ではなかったのであろうが、それを家訓6としてその意味合い(社会を構成する契約)を遺したものと考えられる。それが、青木氏一族一門の「長」としての「秘たる心根」「人間的な戒め」としていたのであろう。これらは添書から覗える事である。
家柄身分が低いから高いからとして「長」として、差配すれば恐らくは「人」は充分に動かず子孫を遺し得なかったのではないだろか。その良い例がある。
そもそも伊勢青木氏はそれまで日本書紀にも記述されている様に伊勢王施基皇子から発祥し、その活動では皇親政治の中心に居た青木氏は、桓武天皇の律令国家の完成期から始まり、1125年頃から[律令による国家運営」と「皇親政治による国家運営」とに矛盾を生じた為に皇親政治側に居た青木氏は阻害された。
この桓武天皇は母方(高野新笠 阿多倍の孫娘)子孫の賜姓族の「たいら族」(「京平氏」「桓武平氏」「伊勢平氏」)と呼ばれる一族をして青木氏を阻害させたものである。況や、彼の有名な後漢の阿多倍王の末裔帰化人、5代目末裔「平清盛」の全盛時代の始まりの中である。
桓武天皇は、第5位までに皇位継承者が無く次ぎの第6位皇子の身分(浄大1位)の伊勢王施基皇子の一族の長男が天皇と成ったが、その光仁天皇のその子供である。
要するに伊勢青木氏とは親族同族であると云う事だが、その親族同族の伊勢青木氏を圧迫し、300年程度後にはその引き上げた「平族」(たいら族)の台頭に依って、賜姓青木氏は一族の源氏と同様に一族存亡に関わる事態にまで落ち至ったのである。
その衰退の立場に於いて、同じ第6位皇子の末裔子孫の賜姓源氏も11家11流存在していたが衰退滅亡して3家3流に成り清和源氏主流と成った。
賜姓源氏は賜姓青木氏と同様に身の振り方を変えればそれなりの存亡もあったであろうが、この時、伊勢青木氏がわざわざ「2足の草鞋策」を採った。そして生残れた。
賜姓清和源氏の頼信(分家)子孫の頼朝は義経の提言にも関わらず無視弾圧して、皇族としての立場を依然として維持し、「坂東八平氏」の北条氏を「武力的背景」として「政治的存立」に掛けたが、結局70年後には滅ぶ結果と成った。
この事を考えると、賜姓5家5流の青木氏も源氏の滅亡を考えると如何にその立場が窮していたかがよく判る。
70年後の1195年頃には同族5家5流の賜姓青木氏だけが生き残り、賜姓源氏11家11流が全て滅亡したのはこの「2足の草鞋策」から生まれた家訓6を守った事によるものと評価するべき点である。それはどう云う事かと云うと次ぎの様に成るだろう。
つまり、桓武天皇は先ず800年頃にこの青木氏の勢力を殺ぐことを目的として伊勢の国守護等の実権を藤原氏北家筋(藤成 秀郷の曾祖父、平安末期には基景)の国司に委ねた。
それにより賜姓青木氏は次第に衰退し、続いて平氏の台頭が起きた事から生きる為に過去の実力を使い、「経済的安定」を一族一門の目標として、1125年頃(この時は基景が国司)に「2足の草鞋策」を展開したのである。
この時から、一面では摂津港にも店を持つ豪商の松阪商人として、一面では土地の松阪、名張、員弁、桑名、四日市一帯の3つの城を持つ豪族として一族の生き残りを図ったのである。
(美濃、信濃の青木氏と連携をしていた事が口伝や信濃伊勢町などの地名などから判断出来る)
恐らくは、この時から伊勢青木氏は一族一門を束ねて行かねば成らない苦しい試練と経験が起こり、それを通して生まれたのがこの家訓6では無いかと考えられる。
それまでは、皇族賜姓族として、「皇親政治」の主流一族としての立場からそれはそれなりに維持出来ていたのであろう。しかし、この立場を失した状況下では止む無き事となり、一族一門一統を束ねるべき「資質」が大いに求められたのではないかと想像出来る。
何処でも起こる事だが、当然の様に「路線争い」で内部でも内紛の様な事が起こったであろう事からこの家訓が生まれたのであろう。
その時の苦悩の結論からその一族の「長」としての「資質」がこの家訓6と成って代々遺されたものであろう。
この家訓6は賜姓族の侍の家の家訓と言うよりは、むしろ「商家的な色合い」が強く感じる。
「賜姓侍」としては「氏家制度」の中では生まれながらにして「家柄身分」が決められていればこの様な家訓は必要がない筈である。むしろ「武運長久」の家訓らしきものが主と成り得る筈であろう。
しかし、標記の家訓10訓は全て「人」の本質を求めている。
これは伊勢松阪青木氏は伊勢神宮の膝元で「不入不倫の権」で守られていた事から、外から侵害し攻められる脅威が低かった事にもよる。だから「武運長久」の家訓らしきものが無かったからにも依るだろう。
しかし、1130年代頃からその脅威は次第に増したのである。それは「武力的の脅威」と云うよりは衰退に依る「経済的な脅威」が増していたのであろう。
しかし、鎌倉時代に同じ立場に居た全ての同族賜姓源氏が滅んだことから「武力的な脅威」が増し始めたと考えられる。続いて、室町時代には「下克上、戦国時代」が起こり「不入不倫の権」で守られる保証は無く成ったのであろう。そして、遂には、「武力的な脅威」は”「天下布武」を標榜し比叡山等の古代社会権威を破壊すべし”とする信長の登場で現実の問題と成り、遂にはこの伊勢にも「天正の乱」の「3つ戦い」が起こった。
この様に歴史の経緯を観ると、賜姓源氏はこの「経済的な脅威」に対処していなかった為に滅んだと云える。
この時、この「2つの脅威」に対処していた青木氏はこの家訓を遺したのであろう。
しかし、それだけに一層に難しい存続の運営を任された一族一門一統の「長」としての「資質」、「力量」のあるべき姿の根本を問われていた事に成る。
関西以西32/66国を従え、技能集団を抱えての「宋貿易」を自ら行うなど「武力と経済力」を持っていたこの大勢力を誇る「平氏の脅威」に対しては、たった5国だけの5家5流の青木氏は一致団結と成って対処しなければ少なくとも存続が危ぶまれる状況下であった筈である。
5家5流は「経済力での繋がり」と「5つの小さい武力」の一族同盟の終結で対処した事に成る。
そこで、「小さい武力」しか持たない青木氏にとっては、平氏と同様に「経済的な力」を持つ事を考えたのは当然であろう。
むしろ、平氏の”「一門の経営を真似た」”のではないだろうか。それがこの「2足の草鞋策」であったと考えている。
平氏はもとより後漢の技能集団を率いていて「経済的な力」は帰化当時の始めから持っていたものである。恐らくは氏家制度の中で、阿多倍よりその5-7代で政権に上り詰めた「その実力」を観ていたのではないか。
その真因が「武力」では無く「経済力」に真因があると理解していたのであろう。
その証拠に、朝廷は奈良期末にはその始祖の大隈の首魁の阿多倍に、伊勢青木氏の守護地であった伊勢北部伊賀地方を割譲したのである。(薩摩の国の大隈も割譲した)
そして、伊勢青木氏は「経済力」を高める為に、その隣の阿多倍一門(京平氏、伊勢平氏)の和紙を作る技能に目を付けていたのであろう。これを販売する職業を最初に営んだ点である。
”商をする”をすると云っても並大抵の事ではない。まして、天領地の皇族である。
”血を吐く”思いで営んだと観られる。部門であれば組織であるから上記した様に「命令」で動くが「商」と成れば「命令」では動かない。それだけにこの「家訓6の重み」が血の滲む思いにあったのであろう。その「商」を保証する武力は他の四家の青木氏を束ねて一つの力として発揮するのであるから、その「束ねる力」も「命令」では動かないであろう。
当時の「商」は治安が悪く「武力」を背景としなくては販売と運搬は侭成らなかったのである。
当然、台頭する勢力の種を潰すのが上に立つ平家の戦略でありその妨害や脅威もあった筈であろう。
故に「商」にしても「武力」にしてもこの家訓6が大きく左右する事になった筈である。
同じく、信濃青木氏も日本書紀にも出て来る程に、阿多倍らが引き連れて来た「馬部」が信濃のこの地を開墾して信濃王の賜姓青木氏と血縁関係(諏訪族系青木氏)が起こっている。
美濃には小さい氏の「伊川津青木氏」があるが、未確認で証拠は無いが、この氏が細々と生き残った美濃賜姓青木氏の末裔(土岐氏系青木氏がある)ではと見ていて、それもこの「商」の経済的な裏打ちがあったからであろう。その先祖はこの付近の海幸を扱う技能集団の末裔の磯部氏等の血縁の末裔ではと考える。この様に何れもが阿多倍の技能集団との関係が其れなりに出来ている。
これ等の事が存続に大きく作用したと観ているが、反面では「平氏の圧迫や妨害や脅威」もあった不思議な関係にあった筈である。
歴史上は伊勢と信濃での繋がりは明確であるのだが、伊勢青木氏や信濃青木氏もこの阿多倍一門との関わりを持っていたのである。
この様に「経済的な形」ではシンジケートを形成して繋がっていた事に成るが、その阿多倍末裔の一門に「政治的な圧力」を加えられたのであるから不思議な因果関係である。
しかし、次ぎの様な助けられた経緯の事もあるのだ。
衰退した賜姓源氏の中で清和源氏の宗家頼光の末裔の頼政がただ一人平家の中で生き残り朝廷の中で苦労して三位まで上り詰めたのは、私はこの同族賜姓伊勢青木氏と隣の阿多倍一門との付き合いがあった事から生残れたと観ている。
この頼政が遺した「辞世の句」があるので紹介する。
うもれ木の 花は咲く事も 無かりしに 身のなる果てど かなしかりける
源氏を潰さない為にも何とかして平家に迎合して歯を食いしばって生き残りを図り、なかなか源氏を蘇がえさせられなく、出世の出来ない平家の中で生きる辛さを辞世の句として遺したのである。
その心情が良く判る。源氏の衰退に対してそのキツカケを作ろうとした「真情」が良く出ている。
実は確証は無いが、この家訓6を遺したのは頼政の孫の伊勢青木氏の跡目京綱では無いかと考えている。当然、父の仲綱と共に果てた祖父の頼政のこの句は「子孫存続」と云う意味合いを強く表していることから、京綱はこの句を理解して1125年頃から1180年の「以仁王の乱」までの60年程の青木氏の苦しみを承知している筈である。それ以後、身を以って乱を起した事で、伊勢青木氏には更に圧迫が加えられ苦しみ抜いたと考えられる事から、子孫を遺す戒めとして、考えた末にこの家訓6の意味合いを遺したのでは無いかと観ている。
兎も角も、1180年にこの頼政は源氏再興を狙って立ち上がったのであるが、敗戦後頼政の孫の3人の内、清盛の母や一族の執り成しで惨罪にならず、許されてこの2人だけは生残れて日向廻村に配流(日向青木氏)と成った。恐らくは、伊勢北部伊賀地方に定住する彼等の子孫との繋がりや伊賀和紙の商いでの深い付き合いから、京綱の伊勢青木氏は「除名嘆願の運動」を伊賀を通して起したのではないだろうか。幾ら一族の執り成しでもこの様な特別な理由が無い限り謀反の張本人の孫の依頼でも無理であっただろう。
(後にこの2人は平氏に対して廻氏と共に再び反乱を起し失敗する 子孫は逃亡し薩摩大口で青木氏を名乗り子孫を遺す 廻氏系青木氏は現存する)
また、上記したように末の孫京綱が伊勢青木氏の跡目に入っている事から許されて難を逃れたのである。
これは伊勢青木氏と伊賀の伊勢平氏(阿多倍子孫)との和紙の商いによる付き合い関係からであろう。
更に、例を付け加えると、後の「天正の乱」3乱の内の「伊賀の乱」の時、伊勢青木氏の紙屋青木長兵衛が伊勢シンジケートを使って食料や物資運搬などの妨害活動などをして時間を稼ぎ、伊賀氏はゲリラ作戦に出た。しかし、落城寸前で青木氏の軍は突然に名張城から織田軍の側面を突き出て後退させ伊賀一族を救い守った。これ等は、過去の恩義によるものであろう。それでなくては時の織田氏に敵対する事はないであろう。
これ等の「人間的心情」に悖る「歴史的経緯」は、この「2足の草鞋策」を基にした家訓6からの所以で、この様な「生き残りの経緯」を辿れたのではと観ている。
それは一族の「家訓6による人間形成」が平氏らの信頼を得た事からの結果であろう。本来なら完全に滅亡の憂き目を受けている筈である。
これらの家訓6が「賜姓源氏の滅亡」との「分れ目」であったと観ている。
現に、清和源氏主家の源三位頼政が「以仁王の乱」(1187年)を起こす時、頼政の嫡男仲綱の子供で三男の京綱を、子孫を遺す為に同族の伊勢青木氏に跡目として入れた後に、源氏再興の平氏討伐に立ち上がったのであるが、この伊勢青木氏に跡目を入れると云う事は、恐らくはまだ源氏は”平氏に勝てない”と判断したことを意味するが、源氏立ち上がりの「契機」に成ると信じての行動であった。この時、この「不入不倫の権」に護られた伊勢松阪に向けての逃亡を起し再起を待つ事を目論だが、遂には「宇治の平等院」で自害したのであろう。
この時、伊勢青木氏は「2足の草鞋策」を採って60年くらいは経っていた筈で経済的なその裏打ちも有って、源の頼政は源氏宗家の生き残りが果たせると考えて伊勢青木氏の跡目に入れたと想像出来る。源氏の中でもただ一人平氏に妥協して朝廷に残った遠謀術策の人物でもある。
この様に、「2足の草鞋策」が家訓を遺し、それが子孫を遺せたのである。
この後にも、この家訓で生残れた同じ事が起こっているが、この「2足の草鞋策」の家訓6で培われた末裔は、判断を間違えずに子孫を遺した。
それは、信長の「天正の乱」の伊勢3乱の伊勢丸山城の戦いである。(3戦に全て合力)
名張に城を構える青木民部尉信定、即ち、伊勢松阪の豪商紙屋青木長兵衛がこの信長の次男信雄に丸山城構築で攻められた。伊勢青木氏は商人として伊勢シンジケートを使い、築城の木材の買占めとシンジケートの築城大工の派遣とシンジケートの妨害策で食料などの調達不能を裏工作で実行した。
名張城からの牽制で時間を稼ぎ、長い年月の末に出来た丸山城が、大工が”火をつける”という作戦で消失し打ち勝った有名な乱である。信長のただ一つの敗戦である。
そして、後に伊賀一族等も助けたのである。
後に、この時の将の織田信雄と滝川一益は家臣面前で罵倒叱責され遂には蟄居を命じられて疎まれた事件は歴史上有名である。
これも、その差配する青木長兵衛の家訓6の得た「力量、資質」が、恐ろしい信長に反発してでも、配下とシンジケートを動かしたのであり、この家訓6が左右して生残れたのである。
この家訓6の「教養」とそれを裏付ける「知識」の如何が、人を動かし大群を相手に戦いの戦略の成功に結び付けたのである。
この知識は天正の乱では物価高騰の「経済学」の原理知識と諸葛孔明如きの「権謀術策」の知識と築城学の知識が事を運ばせ、それの手足と成る人を「教養」で信望を集めた結果の所以である。
では、この家訓6を深く考察すると、この「教養」とは”一体何を以って得たのであろうか”という疑問が湧く。
そこで、調べたところ、代々主に共通するものは「絵」と「漢詩」であった。
「絵」は「南画」である。所謂「墨絵」である。「漢詩」は「書道」に通ずるものである。
二つを通して考察するに、「紙屋長兵衛」即ち「伊賀和紙」を扱う問屋である。つまり、「紙」である。「南画」、「漢詩」は紙が必需品であるから大いに納得できるもので、ではそのレベルはどの程度のものなのかを更に調べた所、プロでは無いが、江戸時代の歴史を観ると、紀州徳川氏の代々藩主にこの「南画」と「漢詩」を指導していたと言う記録が残っている。これ以外にも短歌や和歌等でも相手をしたと記録されている。
これは、初代紀州藩主で家康の子供の徳川頼宣が伊勢松阪の「飛び地領」の視察での面会の時からの経緯であり、大正14年まで続いたと記録されている。私の祖父の代までである。
これ以外には、「知識」として「経済学」を指導していたとある。
特筆するには「松阪商人」としての知識を藩主と家臣に経理指導していたと記録されていて、その証拠に8代将軍吉宗は若き頃に家老職の伊勢加納氏に長く預けられていたが、この時、伊勢青木氏と加納氏とは代々深い血縁関係にあり、吉宗にも指導していたとされる。このことが縁で、請われて江戸に付き従い、伊勢の松阪商人の知識を「享保改革」で実行し推し進めたと記録されている。
将軍に直接発言できる「布衣着用を許される権限:大名格」を与えられていたとある。初代は江戸に付き従ったのは伊勢の分家の青木六左衛門とある。その後、紀州徳川家にも代々「納戸役」(経理)として奉仕したと記録されている。
この記録の様に、「時の指導者」徳川氏を「教養」で指導し、「教育」の「知識」で導いたのである。
本来であれば、家康に潰されていてもおかしくない。秀吉に潰されかけ新宮に逃げ延びたが、伊勢を任された武勇と学問で有名な蒲生氏郷との「教養」での付き合いが働いて、1年後に伊勢松阪に戻されて侍屋敷(9、19番地)の2区画も与えられる立場を得たのである。つまり、生残れたのである。
これ等は青木氏一族一門の存続に「青木氏の長」としての「教養と教育」の形を変えた貢献でもある。平安の時代より家訓として護られてきた家訓6(教養)の所以であろう。
この家訓6には特に添書に長く解説なるものがありそれを解釈すると次ぎの様になるであろう。
家訓6ではこの事が理解されていないとその「教養」と「教育」の諸事への効果なるものは出ない、又は意味しないとまで断じている。
当時の背景から考えると次ぎの様に成るであろう。
学校と言う形式のものは無かった。従って、「知識」は自らの範囲で書物に依ってのみ得られる事が通常で、学校らしきものは江戸の中期頃からの事であろう。それも「基本的な知識」であり、その専門的な事は「個人の努力」の如何に関わっていたと成る。
まして、其処では、「教養」となると尚更であっただろう。
古来の「教養」を会得する場合はその師匠となる人に付き学び、多くは「盗観」によるものであった事から、その「盗観の会得」する能力が無ければ成し得ないだろう。又、その「極意の会得」は尚更個人の能力の如何に関わるものである。
従って、この「2つの能力」(盗観 極意の会得の能力)を獲得出来るとするには誰でもと云う事では無くなる。能力の無い者は挑戦しないであろうし、してもその会得する極意のレベルは低く「人力」を高めるに足りないであろう。丁度、伝えられる茶道の秀吉如きのものであったであろう。
対比して古来の「教育」を会得する場合はその師匠とする人が少なく「知識」を前提としている為に「盗観」の会得は出来ないし、「極意」の会得は「盗観」が出来ない事から成し得ない。
これは「書籍」による「個人の理解能力」による何物でもない。当然に「教養」以上の会得の困難さを物語るであろう。まして、その書籍からより進めて「知識」を会得出来る事は少ないし困難である。
この様な事から「教養、教育」の会得はある「経済的な力」を獲得している人が得られるチャンスとなる。
と成ると、添書の書いている意味合いは次ぎの様に成る。
「教養」の本質を分析すると、「質的な探求」であり、数を多くした「量的な探求」ではその「極意」は得られないであろう。しかし、「教育」の本質は「量的な探求」であり、「知識」の会得である事からその「会得の数」を繋ぎ合わせての応用であり、「質的な探求」はその研究的なものと成るのでその研究的な知識を以って諸事を成し得るものではないであろう。
「教育」に依って得られる多くの「知識」はそれを繋ぎ活用する事で一つの「知恵」が生まれる。
これは「人間本来の姿」であり、それを多く探求し極める事がより高い「人間形成」の一端と成り得るのである。その「人間形成」の成し得た「知識」から得られたものが「教育」から得られる「教養」と成ると説いている。そして、教養も同じだと説いている。
「教養」もその高い「質的探求」に依って「心の豊かさ」が生まれ其処に「人間形成の姿」が出来てそれを極める事でも「教養」から得られる「知識」が会得出来るのだと諭している。
「教養」で得られる「心の豊かさ」は「心」で、「教育」の「知識と知恵」は「頭」で会得する。
そして、この二つは「心」と「頭」で安定に連動してこそ「効果」を発揮するものだと諭している。
これを現代風に云えば、俗ではあるが、「教養」は「前頭葉」で、「教育」は「左脳」で、そしてそれを連動させるのは「右脳」だと成る。
真に、古代に書かれたこの「説諭論」は論理的にも科学的にも間違ってはいない。驚きである。
「教養」=「質的な探求」=「心」
「教育」=「量的な探求」=「頭」
「教養」=「心の豊かさ」=「人間形成」
「教育」=「知識の応用」=「知恵」=「人間形成」
故に「教養」(心の知識)+「教育」(頭の知識)=「人間形成」
「心の豊かさ」=「心の知識」
更に、次ぎの様にも書かれている。
「教養」は「人」を成し得るものであり、「教育」は「時」を成し得るものであると断じている。
つまり、「教養」の「質的な探求」に依って獲得した「極意」はこの世の「時」の関わる諸事には作用せず、「人」の心を通じ「質的に動じさせるもの」であるとしている。
反面、「教育」即ち「知識」は「時」の関わる諸事に作用しより効果的に動くものであるとしている。それはより多くの「知識量」がもたらす効果であるとするのある。
「教養」=「人に動じる」 「教育」=「時に作用する」
そして、「教養」の「質=人」と「教育」の「量=時」を会得した時に一族一門の長と成り得るものであるとしているのである。
ただ、ここで特筆する事は「教養」は「心」で会得するもので、その「質」が問われる以上その「質」を上げた事で「人」である限り「慢心」が起こるだろう。この「慢心」はその「教養」の効能を無くす事に成ると警告している。
対比して「教育」は「記憶」で会得するもので、その「量」が問われるが「人」にあらず「時」にあるので「慢心」はあったとしてもそれは「得意」とするものであり、むしろ「量を高める源」であるとして、その「知識」の効能は無く成るとはならないとしている。
では、誰しもその人の「性」(さが)として起こる「慢心」をどの様にするべきなのかに付いての方法は「自覚」以外に無いとしている。しかし、常にその「慢心」を抑えようとする努力が「質を高める源」であると説いていて「一体」であると説いている。
そして、その基となるその「自覚」は「仏教の教えの悟り」で成し得ると銘記している。
「仏教の教えの悟り」とは特記されていないが、筆者独自の考えだが「色即是空 空即是色」「色不異空」「空不異色」の解釈では無いかと思う。
「教養」=「心」=「極意」=「質」=「人」=「慢心の抑制」(-の方向)=「質を高める源」
「教育」=「知識」=「記憶」=「量」=「時」=「慢心ー得意」(+の方向)=「量を高める源」
以上が添え書きの解釈とするべきでは無いかと考えている。
この家訓は時代が異なり「教養」も「教育」も講座や学校とする学ぶ機関が存在する故に、若干「教養」は「教育」と等しいと判断されるが、そこで得られる領域では上記した様に、それは「教育」の「知識」の末端のところで得られる「教養」の範囲であろう。つまり、「知識的教養」と定義づける。
ここで云う「教養」とは「個人の努力」による「高い修練」の「結果」を意味していると考える。
当然に、現在では、「知識的な教養」の上に「個人の努力=高い修練」が成されれば、「心的な教養」は会得出来るだろう。
依って「教養」には「個人の努力」による「心的な教養」と「講座」による「知識的な教養」があることを意味する。
この家訓は”「個人の努力」が「心を鍛え質を高める」”としているのである。
筆者はこの家訓6の「教養」には届かないが、この教えを守り物理系技術者として「教育」の知識の方からの貢献を社会にして来たものであり、それを補う形で「知識的な教養」として「写真」や「竹細工」や「庭造り」なるものに傾注している。
幸い家訓6をそれなりに守りしている為か何かしら「心爽やか」である。
意外に、家訓6の先祖の言い分は、「教養」の極意はこの「心爽やか」の辺に合ったのではと勝手に思うのである。
近代科学的に分析すると、”「心爽やか」が事に処する時、脳を開放し、「拘泥」や「拘り」から開放されて、豊かな判断力が高まり、諸事を正しい方向に向ける力と成り得る”としているのかも知れないと、最近は思えている。
この「教養」は、上記した様に、仏教の般若経の一節「色即是空 空即是色」「空不異色 色不異空」を理解し会得する「糸口」になる事を先祖は暗示しているのではないだろうか。
この事に付いては大事と見て次ぎの家訓7で更に追求している。
兎も角も、この家訓6を筆者は次ぎの様に解している。
「教養」=「心爽やか」=「仏教の極意」>「入り口、糸口」<「長の心得」=「諸事万端良」=「資質、力量」=「教育(知識)」
なかなか難解な家訓6ではあるが、「人間形成」の基となる家訓であると考える。
家訓6=「人間形成の戒め」
次ぎの家訓7はこの家訓6を更に強調したものであるので”続く”としたい。
次ぎは家訓7に続く。
名前 名字 苗字 由来 ルーツ 家系 家紋 歴史ブログ⇒
投稿日 : 12/29-06:48
投稿者 : 福管理人
伊勢青木氏家訓10訓
家訓1 夫は夫足れども、妻は妻にして足れ。(親子にして同じ)
家訓2 父は賢なりて、その子必ずしも賢ならず。母は賢なりて、その子賢なり。
家訓3 主は正しき行為を導きく為、「三相」を得て成せ。(人、時、場)
家訓4 自らの「深層」の心理を悟るべし。(性の定)
家訓5 自らは「人」を見て「実相」を知るべし。(人を見て法を説け)
家訓6 自らの「教養」を培かうべし。(教の育 教の養)
家訓7 自らの「執着」を捨てるべし。(色即是空 空即是色)
家訓8 全てに於いて「創造」を忘れべからず。(技の術 技の能)
家訓9 自らの「煩悩」に勝るべし。(4つの煩)
家訓10 人生は子孫を遺す事に一義あり、「喜怒哀楽」に有らず
家訓6 自らの「教養」を培かうべし。(教の育 教の養)
家訓6までの戒めは次ぎの通りである。
家訓1は「夫婦の戒め」
家訓2は「親子の戒め」
家訓3は「行動の戒め」
家訓4は「性(さが)の戒め」
家訓5は「対人の戒め」
以上であった。
家訓6は「人間形成の戒め」(長の戒め)である。
この教訓6はそもそも「教育」と「教養」とは違うという事を意味し、その区別を受けて培えと云う事として伝えられている。
この事が両親から子供の頃から最も頻繁に教えられた事である。
それは何故なのかと云う事である。この事は人を無意味な差別化を無意識にさせてしまう思考を培ってしまう事を誡めているのである。
この家訓の持つ意味に付いて、成人して結婚に至った時に初めてこの家訓の意味を知ったのだが、家族を持った事で”子孫存続に大きく関わる事だからである”と判ったのである。
それに付いてこの家訓6には添書で細かく解説されている。
それには、まとめるとまず最初に次ぎの様な事柄が書いている。
「教養」「教育」は社会を維持する時に必要とする「上下関係の差違」を意味するものではない事は明らかである。「社会」は「組織に類するもの」と「家庭に類するもの」とに分類出来る。
そこで、その「社会」の中での「組織」や「家庭」で必要とする差違、例えば、上下の関係は「契約」であり、元より「差別」では無く「差違」であり、「組織」又は「家庭」を円満で効果的に維持する上で必要とする「相互の了解」の上での「契約」である。
組織は「命令する者」と「命令される者」の契約を伴なう事であるが、この「命令」が上下の感覚を生み出してしまうのである。
家庭はもとより親と子の関係はあるが上下ではなく、家訓1又は家訓2にある様に「導く者」と「導びかれる者」の差異が主流となり契約が成立する。
「組織」=「命令する者」、「命令される者」=「契約」
「家庭」=「導く者」、「導かれる者」=「契約」
更に、進めて、そもそも、人は「人間的な程度」(人間力)を上げることを目的として「教育」を受けさせる。しかし、この「教育」は「知識」の習得を前提として「人間的な程度」(人間力)を上げる事に第一義があり、決して「心の持ち様」を上げての「人間的な程度」(人間力)の向上を成し得るものではない。
その「人間的な程度」(人間力)とは2つの要素に依って構成される。
それは、ここで云う「教養」であり、「教育}である。
この世に於いて「諸事」を解決するに必要とする「人間力」は様々なところで発揮される。それに依ってその「人の力量」が試される。この「力量」を「人間力」と言うが、「解決成し得る力」のその程度に依ってその「人間力」は測られる。
それは、「心の豊かさ」を培った「教養」だけでは成し得ない。人間は他の動物と違う所は「知恵」に依って得た「知識」で「人間」としての存在がある。
従って、その本来の「知恵」の根拠とする処の「知識」を得て初めてこの世の諸事に対することが出来る。その「諸事の解決」の「成果」を高めるのはこの「心の豊かさ」を培う「教養」である。
この「諸事の解決」には仏教で云う「三相」(人、時、場所)を必要としている。
この「三相」のこの「3つの相」に卓越する事が「人間力」を高める事に成るのである。
その「卓越」は、例えば、「人」を捉えた場合「人」を動するには「知識」と「心の豊かさ」の量が試される。決して、「知識」だけでは成し得ない。
人は「心の動物」と云われる様に、其処には「心の豊かさ」の「教養」が無ければ人を動する事は出来ない。
況や、”人とは何ぞや”と成った場合には、「人の如何」を知る必要がある。これは「先人の知恵」に学ぶ以外には無い。それは「知恵」即ち「知識」である。
つまり、この「2つの知識」と「心の豊かさ」の量の大小の如何に関わることを意味する。
当然に、「知識」を会得する場合にそれに伴ない幾らかの「心の豊かさ」も会得できるであろうし、「心の豊かさ」を会得するにも幾らかの「知識」も会得する事に成るだろう。
しかし、その比は同率では無い。故に、2つの「低い所」を補ってこそ「諸事を成し得る力量」が会得できるのである。
この家訓6では「人の力量」をより他に比して高めるにはこの低い部分を補うことであり、且つ”「教養」と「教育」とは異なる”としているのであり、故に本家訓6ではこの”二つの事を培え”としているのである。
「力量」=「教養」+「教育」=「人間力」=「三相の獲得(人、時、場所)」
「教養」=「心」=「心の豊かさ」
「教育」=「知識」=「知恵」=「先人の知恵」
ところで、この家訓が生まれた頃は氏家制度の盛重期であり、家柄身分が社会を構成する基準と成っていた。その中で、青木氏の家訓では上下の身分は「社会を構成する為の契約」であるとしている。決して本来存在する階級では無いとしているのである。当時としては、口外できる考え方ではなかったのであろうが、それを家訓6としてその意味合い(社会を構成する契約)を遺したものと考えられる。それが、青木氏一族一門の「長」としての「秘たる心根」「人間的な戒め」としていたのであろう。これらは添書から覗える事である。
家柄身分が低いから高いからとして「長」として、差配すれば恐らくは「人」は充分に動かず子孫を遺し得なかったのではないだろか。その良い例がある。
そもそも伊勢青木氏はそれまで日本書紀にも記述されている様に伊勢王施基皇子から発祥し、その活動では皇親政治の中心に居た青木氏は、桓武天皇の律令国家の完成期から始まり、1125年頃から[律令による国家運営」と「皇親政治による国家運営」とに矛盾を生じた為に皇親政治側に居た青木氏は阻害された。
この桓武天皇は母方(高野新笠 阿多倍の孫娘)子孫の賜姓族の「たいら族」(「京平氏」「桓武平氏」「伊勢平氏」)と呼ばれる一族をして青木氏を阻害させたものである。況や、彼の有名な後漢の阿多倍王の末裔帰化人、5代目末裔「平清盛」の全盛時代の始まりの中である。
桓武天皇は、第5位までに皇位継承者が無く次ぎの第6位皇子の身分(浄大1位)の伊勢王施基皇子の一族の長男が天皇と成ったが、その光仁天皇のその子供である。
要するに伊勢青木氏とは親族同族であると云う事だが、その親族同族の伊勢青木氏を圧迫し、300年程度後にはその引き上げた「平族」(たいら族)の台頭に依って、賜姓青木氏は一族の源氏と同様に一族存亡に関わる事態にまで落ち至ったのである。
その衰退の立場に於いて、同じ第6位皇子の末裔子孫の賜姓源氏も11家11流存在していたが衰退滅亡して3家3流に成り清和源氏主流と成った。
賜姓源氏は賜姓青木氏と同様に身の振り方を変えればそれなりの存亡もあったであろうが、この時、伊勢青木氏がわざわざ「2足の草鞋策」を採った。そして生残れた。
賜姓清和源氏の頼信(分家)子孫の頼朝は義経の提言にも関わらず無視弾圧して、皇族としての立場を依然として維持し、「坂東八平氏」の北条氏を「武力的背景」として「政治的存立」に掛けたが、結局70年後には滅ぶ結果と成った。
この事を考えると、賜姓5家5流の青木氏も源氏の滅亡を考えると如何にその立場が窮していたかがよく判る。
70年後の1195年頃には同族5家5流の賜姓青木氏だけが生き残り、賜姓源氏11家11流が全て滅亡したのはこの「2足の草鞋策」から生まれた家訓6を守った事によるものと評価するべき点である。それはどう云う事かと云うと次ぎの様に成るだろう。
つまり、桓武天皇は先ず800年頃にこの青木氏の勢力を殺ぐことを目的として伊勢の国守護等の実権を藤原氏北家筋(藤成 秀郷の曾祖父、平安末期には基景)の国司に委ねた。
それにより賜姓青木氏は次第に衰退し、続いて平氏の台頭が起きた事から生きる為に過去の実力を使い、「経済的安定」を一族一門の目標として、1125年頃(この時は基景が国司)に「2足の草鞋策」を展開したのである。
この時から、一面では摂津港にも店を持つ豪商の松阪商人として、一面では土地の松阪、名張、員弁、桑名、四日市一帯の3つの城を持つ豪族として一族の生き残りを図ったのである。
(美濃、信濃の青木氏と連携をしていた事が口伝や信濃伊勢町などの地名などから判断出来る)
恐らくは、この時から伊勢青木氏は一族一門を束ねて行かねば成らない苦しい試練と経験が起こり、それを通して生まれたのがこの家訓6では無いかと考えられる。
それまでは、皇族賜姓族として、「皇親政治」の主流一族としての立場からそれはそれなりに維持出来ていたのであろう。しかし、この立場を失した状況下では止む無き事となり、一族一門一統を束ねるべき「資質」が大いに求められたのではないかと想像出来る。
何処でも起こる事だが、当然の様に「路線争い」で内部でも内紛の様な事が起こったであろう事からこの家訓が生まれたのであろう。
その時の苦悩の結論からその一族の「長」としての「資質」がこの家訓6と成って代々遺されたものであろう。
この家訓6は賜姓族の侍の家の家訓と言うよりは、むしろ「商家的な色合い」が強く感じる。
「賜姓侍」としては「氏家制度」の中では生まれながらにして「家柄身分」が決められていればこの様な家訓は必要がない筈である。むしろ「武運長久」の家訓らしきものが主と成り得る筈であろう。
しかし、標記の家訓10訓は全て「人」の本質を求めている。
これは伊勢松阪青木氏は伊勢神宮の膝元で「不入不倫の権」で守られていた事から、外から侵害し攻められる脅威が低かった事にもよる。だから「武運長久」の家訓らしきものが無かったからにも依るだろう。
しかし、1130年代頃からその脅威は次第に増したのである。それは「武力的の脅威」と云うよりは衰退に依る「経済的な脅威」が増していたのであろう。
しかし、鎌倉時代に同じ立場に居た全ての同族賜姓源氏が滅んだことから「武力的な脅威」が増し始めたと考えられる。続いて、室町時代には「下克上、戦国時代」が起こり「不入不倫の権」で守られる保証は無く成ったのであろう。そして、遂には、「武力的な脅威」は”「天下布武」を標榜し比叡山等の古代社会権威を破壊すべし”とする信長の登場で現実の問題と成り、遂にはこの伊勢にも「天正の乱」の「3つ戦い」が起こった。
この様に歴史の経緯を観ると、賜姓源氏はこの「経済的な脅威」に対処していなかった為に滅んだと云える。
この時、この「2つの脅威」に対処していた青木氏はこの家訓を遺したのであろう。
しかし、それだけに一層に難しい存続の運営を任された一族一門一統の「長」としての「資質」、「力量」のあるべき姿の根本を問われていた事に成る。
関西以西32/66国を従え、技能集団を抱えての「宋貿易」を自ら行うなど「武力と経済力」を持っていたこの大勢力を誇る「平氏の脅威」に対しては、たった5国だけの5家5流の青木氏は一致団結と成って対処しなければ少なくとも存続が危ぶまれる状況下であった筈である。
5家5流は「経済力での繋がり」と「5つの小さい武力」の一族同盟の終結で対処した事に成る。
そこで、「小さい武力」しか持たない青木氏にとっては、平氏と同様に「経済的な力」を持つ事を考えたのは当然であろう。
むしろ、平氏の”「一門の経営を真似た」”のではないだろうか。それがこの「2足の草鞋策」であったと考えている。
平氏はもとより後漢の技能集団を率いていて「経済的な力」は帰化当時の始めから持っていたものである。恐らくは氏家制度の中で、阿多倍よりその5-7代で政権に上り詰めた「その実力」を観ていたのではないか。
その真因が「武力」では無く「経済力」に真因があると理解していたのであろう。
その証拠に、朝廷は奈良期末にはその始祖の大隈の首魁の阿多倍に、伊勢青木氏の守護地であった伊勢北部伊賀地方を割譲したのである。(薩摩の国の大隈も割譲した)
そして、伊勢青木氏は「経済力」を高める為に、その隣の阿多倍一門(京平氏、伊勢平氏)の和紙を作る技能に目を付けていたのであろう。これを販売する職業を最初に営んだ点である。
”商をする”をすると云っても並大抵の事ではない。まして、天領地の皇族である。
”血を吐く”思いで営んだと観られる。部門であれば組織であるから上記した様に「命令」で動くが「商」と成れば「命令」では動かない。それだけにこの「家訓6の重み」が血の滲む思いにあったのであろう。その「商」を保証する武力は他の四家の青木氏を束ねて一つの力として発揮するのであるから、その「束ねる力」も「命令」では動かないであろう。
当時の「商」は治安が悪く「武力」を背景としなくては販売と運搬は侭成らなかったのである。
当然、台頭する勢力の種を潰すのが上に立つ平家の戦略でありその妨害や脅威もあった筈であろう。
故に「商」にしても「武力」にしてもこの家訓6が大きく左右する事になった筈である。
同じく、信濃青木氏も日本書紀にも出て来る程に、阿多倍らが引き連れて来た「馬部」が信濃のこの地を開墾して信濃王の賜姓青木氏と血縁関係(諏訪族系青木氏)が起こっている。
美濃には小さい氏の「伊川津青木氏」があるが、未確認で証拠は無いが、この氏が細々と生き残った美濃賜姓青木氏の末裔(土岐氏系青木氏がある)ではと見ていて、それもこの「商」の経済的な裏打ちがあったからであろう。その先祖はこの付近の海幸を扱う技能集団の末裔の磯部氏等の血縁の末裔ではと考える。この様に何れもが阿多倍の技能集団との関係が其れなりに出来ている。
これ等の事が存続に大きく作用したと観ているが、反面では「平氏の圧迫や妨害や脅威」もあった不思議な関係にあった筈である。
歴史上は伊勢と信濃での繋がりは明確であるのだが、伊勢青木氏や信濃青木氏もこの阿多倍一門との関わりを持っていたのである。
この様に「経済的な形」ではシンジケートを形成して繋がっていた事に成るが、その阿多倍末裔の一門に「政治的な圧力」を加えられたのであるから不思議な因果関係である。
しかし、次ぎの様な助けられた経緯の事もあるのだ。
衰退した賜姓源氏の中で清和源氏の宗家頼光の末裔の頼政がただ一人平家の中で生き残り朝廷の中で苦労して三位まで上り詰めたのは、私はこの同族賜姓伊勢青木氏と隣の阿多倍一門との付き合いがあった事から生残れたと観ている。
この頼政が遺した「辞世の句」があるので紹介する。
うもれ木の 花は咲く事も 無かりしに 身のなる果てど かなしかりける
源氏を潰さない為にも何とかして平家に迎合して歯を食いしばって生き残りを図り、なかなか源氏を蘇がえさせられなく、出世の出来ない平家の中で生きる辛さを辞世の句として遺したのである。
その心情が良く判る。源氏の衰退に対してそのキツカケを作ろうとした「真情」が良く出ている。
実は確証は無いが、この家訓6を遺したのは頼政の孫の伊勢青木氏の跡目京綱では無いかと考えている。当然、父の仲綱と共に果てた祖父の頼政のこの句は「子孫存続」と云う意味合いを強く表していることから、京綱はこの句を理解して1125年頃から1180年の「以仁王の乱」までの60年程の青木氏の苦しみを承知している筈である。それ以後、身を以って乱を起した事で、伊勢青木氏には更に圧迫が加えられ苦しみ抜いたと考えられる事から、子孫を遺す戒めとして、考えた末にこの家訓6の意味合いを遺したのでは無いかと観ている。
兎も角も、1180年にこの頼政は源氏再興を狙って立ち上がったのであるが、敗戦後頼政の孫の3人の内、清盛の母や一族の執り成しで惨罪にならず、許されてこの2人だけは生残れて日向廻村に配流(日向青木氏)と成った。恐らくは、伊勢北部伊賀地方に定住する彼等の子孫との繋がりや伊賀和紙の商いでの深い付き合いから、京綱の伊勢青木氏は「除名嘆願の運動」を伊賀を通して起したのではないだろうか。幾ら一族の執り成しでもこの様な特別な理由が無い限り謀反の張本人の孫の依頼でも無理であっただろう。
(後にこの2人は平氏に対して廻氏と共に再び反乱を起し失敗する 子孫は逃亡し薩摩大口で青木氏を名乗り子孫を遺す 廻氏系青木氏は現存する)
また、上記したように末の孫京綱が伊勢青木氏の跡目に入っている事から許されて難を逃れたのである。
これは伊勢青木氏と伊賀の伊勢平氏(阿多倍子孫)との和紙の商いによる付き合い関係からであろう。
更に、例を付け加えると、後の「天正の乱」3乱の内の「伊賀の乱」の時、伊勢青木氏の紙屋青木長兵衛が伊勢シンジケートを使って食料や物資運搬などの妨害活動などをして時間を稼ぎ、伊賀氏はゲリラ作戦に出た。しかし、落城寸前で青木氏の軍は突然に名張城から織田軍の側面を突き出て後退させ伊賀一族を救い守った。これ等は、過去の恩義によるものであろう。それでなくては時の織田氏に敵対する事はないであろう。
これ等の「人間的心情」に悖る「歴史的経緯」は、この「2足の草鞋策」を基にした家訓6からの所以で、この様な「生き残りの経緯」を辿れたのではと観ている。
それは一族の「家訓6による人間形成」が平氏らの信頼を得た事からの結果であろう。本来なら完全に滅亡の憂き目を受けている筈である。
これらの家訓6が「賜姓源氏の滅亡」との「分れ目」であったと観ている。
現に、清和源氏主家の源三位頼政が「以仁王の乱」(1187年)を起こす時、頼政の嫡男仲綱の子供で三男の京綱を、子孫を遺す為に同族の伊勢青木氏に跡目として入れた後に、源氏再興の平氏討伐に立ち上がったのであるが、この伊勢青木氏に跡目を入れると云う事は、恐らくはまだ源氏は”平氏に勝てない”と判断したことを意味するが、源氏立ち上がりの「契機」に成ると信じての行動であった。この時、この「不入不倫の権」に護られた伊勢松阪に向けての逃亡を起し再起を待つ事を目論だが、遂には「宇治の平等院」で自害したのであろう。
この時、伊勢青木氏は「2足の草鞋策」を採って60年くらいは経っていた筈で経済的なその裏打ちも有って、源の頼政は源氏宗家の生き残りが果たせると考えて伊勢青木氏の跡目に入れたと想像出来る。源氏の中でもただ一人平氏に妥協して朝廷に残った遠謀術策の人物でもある。
この様に、「2足の草鞋策」が家訓を遺し、それが子孫を遺せたのである。
この後にも、この家訓で生残れた同じ事が起こっているが、この「2足の草鞋策」の家訓6で培われた末裔は、判断を間違えずに子孫を遺した。
それは、信長の「天正の乱」の伊勢3乱の伊勢丸山城の戦いである。(3戦に全て合力)
名張に城を構える青木民部尉信定、即ち、伊勢松阪の豪商紙屋青木長兵衛がこの信長の次男信雄に丸山城構築で攻められた。伊勢青木氏は商人として伊勢シンジケートを使い、築城の木材の買占めとシンジケートの築城大工の派遣とシンジケートの妨害策で食料などの調達不能を裏工作で実行した。
名張城からの牽制で時間を稼ぎ、長い年月の末に出来た丸山城が、大工が”火をつける”という作戦で消失し打ち勝った有名な乱である。信長のただ一つの敗戦である。
そして、後に伊賀一族等も助けたのである。
後に、この時の将の織田信雄と滝川一益は家臣面前で罵倒叱責され遂には蟄居を命じられて疎まれた事件は歴史上有名である。
これも、その差配する青木長兵衛の家訓6の得た「力量、資質」が、恐ろしい信長に反発してでも、配下とシンジケートを動かしたのであり、この家訓6が左右して生残れたのである。
この家訓6の「教養」とそれを裏付ける「知識」の如何が、人を動かし大群を相手に戦いの戦略の成功に結び付けたのである。
この知識は天正の乱では物価高騰の「経済学」の原理知識と諸葛孔明如きの「権謀術策」の知識と築城学の知識が事を運ばせ、それの手足と成る人を「教養」で信望を集めた結果の所以である。
では、この家訓6を深く考察すると、この「教養」とは”一体何を以って得たのであろうか”という疑問が湧く。
そこで、調べたところ、代々主に共通するものは「絵」と「漢詩」であった。
「絵」は「南画」である。所謂「墨絵」である。「漢詩」は「書道」に通ずるものである。
二つを通して考察するに、「紙屋長兵衛」即ち「伊賀和紙」を扱う問屋である。つまり、「紙」である。「南画」、「漢詩」は紙が必需品であるから大いに納得できるもので、ではそのレベルはどの程度のものなのかを更に調べた所、プロでは無いが、江戸時代の歴史を観ると、紀州徳川氏の代々藩主にこの「南画」と「漢詩」を指導していたと言う記録が残っている。これ以外にも短歌や和歌等でも相手をしたと記録されている。
これは、初代紀州藩主で家康の子供の徳川頼宣が伊勢松阪の「飛び地領」の視察での面会の時からの経緯であり、大正14年まで続いたと記録されている。私の祖父の代までである。
これ以外には、「知識」として「経済学」を指導していたとある。
特筆するには「松阪商人」としての知識を藩主と家臣に経理指導していたと記録されていて、その証拠に8代将軍吉宗は若き頃に家老職の伊勢加納氏に長く預けられていたが、この時、伊勢青木氏と加納氏とは代々深い血縁関係にあり、吉宗にも指導していたとされる。このことが縁で、請われて江戸に付き従い、伊勢の松阪商人の知識を「享保改革」で実行し推し進めたと記録されている。
将軍に直接発言できる「布衣着用を許される権限:大名格」を与えられていたとある。初代は江戸に付き従ったのは伊勢の分家の青木六左衛門とある。その後、紀州徳川家にも代々「納戸役」(経理)として奉仕したと記録されている。
この記録の様に、「時の指導者」徳川氏を「教養」で指導し、「教育」の「知識」で導いたのである。
本来であれば、家康に潰されていてもおかしくない。秀吉に潰されかけ新宮に逃げ延びたが、伊勢を任された武勇と学問で有名な蒲生氏郷との「教養」での付き合いが働いて、1年後に伊勢松阪に戻されて侍屋敷(9、19番地)の2区画も与えられる立場を得たのである。つまり、生残れたのである。
これ等は青木氏一族一門の存続に「青木氏の長」としての「教養と教育」の形を変えた貢献でもある。平安の時代より家訓として護られてきた家訓6(教養)の所以であろう。
この家訓6には特に添書に長く解説なるものがありそれを解釈すると次ぎの様になるであろう。
家訓6ではこの事が理解されていないとその「教養」と「教育」の諸事への効果なるものは出ない、又は意味しないとまで断じている。
当時の背景から考えると次ぎの様に成るであろう。
学校と言う形式のものは無かった。従って、「知識」は自らの範囲で書物に依ってのみ得られる事が通常で、学校らしきものは江戸の中期頃からの事であろう。それも「基本的な知識」であり、その専門的な事は「個人の努力」の如何に関わっていたと成る。
まして、其処では、「教養」となると尚更であっただろう。
古来の「教養」を会得する場合はその師匠となる人に付き学び、多くは「盗観」によるものであった事から、その「盗観の会得」する能力が無ければ成し得ないだろう。又、その「極意の会得」は尚更個人の能力の如何に関わるものである。
従って、この「2つの能力」(盗観 極意の会得の能力)を獲得出来るとするには誰でもと云う事では無くなる。能力の無い者は挑戦しないであろうし、してもその会得する極意のレベルは低く「人力」を高めるに足りないであろう。丁度、伝えられる茶道の秀吉如きのものであったであろう。
対比して古来の「教育」を会得する場合はその師匠とする人が少なく「知識」を前提としている為に「盗観」の会得は出来ないし、「極意」の会得は「盗観」が出来ない事から成し得ない。
これは「書籍」による「個人の理解能力」による何物でもない。当然に「教養」以上の会得の困難さを物語るであろう。まして、その書籍からより進めて「知識」を会得出来る事は少ないし困難である。
この様な事から「教養、教育」の会得はある「経済的な力」を獲得している人が得られるチャンスとなる。
と成ると、添書の書いている意味合いは次ぎの様に成る。
「教養」の本質を分析すると、「質的な探求」であり、数を多くした「量的な探求」ではその「極意」は得られないであろう。しかし、「教育」の本質は「量的な探求」であり、「知識」の会得である事からその「会得の数」を繋ぎ合わせての応用であり、「質的な探求」はその研究的なものと成るのでその研究的な知識を以って諸事を成し得るものではないであろう。
「教育」に依って得られる多くの「知識」はそれを繋ぎ活用する事で一つの「知恵」が生まれる。
これは「人間本来の姿」であり、それを多く探求し極める事がより高い「人間形成」の一端と成り得るのである。その「人間形成」の成し得た「知識」から得られたものが「教育」から得られる「教養」と成ると説いている。そして、教養も同じだと説いている。
「教養」もその高い「質的探求」に依って「心の豊かさ」が生まれ其処に「人間形成の姿」が出来てそれを極める事でも「教養」から得られる「知識」が会得出来るのだと諭している。
「教養」で得られる「心の豊かさ」は「心」で、「教育」の「知識と知恵」は「頭」で会得する。
そして、この二つは「心」と「頭」で安定に連動してこそ「効果」を発揮するものだと諭している。
これを現代風に云えば、俗ではあるが、「教養」は「前頭葉」で、「教育」は「左脳」で、そしてそれを連動させるのは「右脳」だと成る。
真に、古代に書かれたこの「説諭論」は論理的にも科学的にも間違ってはいない。驚きである。
「教養」=「質的な探求」=「心」
「教育」=「量的な探求」=「頭」
「教養」=「心の豊かさ」=「人間形成」
「教育」=「知識の応用」=「知恵」=「人間形成」
故に「教養」(心の知識)+「教育」(頭の知識)=「人間形成」
「心の豊かさ」=「心の知識」
更に、次ぎの様にも書かれている。
「教養」は「人」を成し得るものであり、「教育」は「時」を成し得るものであると断じている。
つまり、「教養」の「質的な探求」に依って獲得した「極意」はこの世の「時」の関わる諸事には作用せず、「人」の心を通じ「質的に動じさせるもの」であるとしている。
反面、「教育」即ち「知識」は「時」の関わる諸事に作用しより効果的に動くものであるとしている。それはより多くの「知識量」がもたらす効果であるとするのある。
「教養」=「人に動じる」 「教育」=「時に作用する」
そして、「教養」の「質=人」と「教育」の「量=時」を会得した時に一族一門の長と成り得るものであるとしているのである。
ただ、ここで特筆する事は「教養」は「心」で会得するもので、その「質」が問われる以上その「質」を上げた事で「人」である限り「慢心」が起こるだろう。この「慢心」はその「教養」の効能を無くす事に成ると警告している。
対比して「教育」は「記憶」で会得するもので、その「量」が問われるが「人」にあらず「時」にあるので「慢心」はあったとしてもそれは「得意」とするものであり、むしろ「量を高める源」であるとして、その「知識」の効能は無く成るとはならないとしている。
では、誰しもその人の「性」(さが)として起こる「慢心」をどの様にするべきなのかに付いての方法は「自覚」以外に無いとしている。しかし、常にその「慢心」を抑えようとする努力が「質を高める源」であると説いていて「一体」であると説いている。
そして、その基となるその「自覚」は「仏教の教えの悟り」で成し得ると銘記している。
「仏教の教えの悟り」とは特記されていないが、筆者独自の考えだが「色即是空 空即是色」「色不異空」「空不異色」の解釈では無いかと思う。
「教養」=「心」=「極意」=「質」=「人」=「慢心の抑制」(-の方向)=「質を高める源」
「教育」=「知識」=「記憶」=「量」=「時」=「慢心ー得意」(+の方向)=「量を高める源」
以上が添え書きの解釈とするべきでは無いかと考えている。
この家訓は時代が異なり「教養」も「教育」も講座や学校とする学ぶ機関が存在する故に、若干「教養」は「教育」と等しいと判断されるが、そこで得られる領域では上記した様に、それは「教育」の「知識」の末端のところで得られる「教養」の範囲であろう。つまり、「知識的教養」と定義づける。
ここで云う「教養」とは「個人の努力」による「高い修練」の「結果」を意味していると考える。
当然に、現在では、「知識的な教養」の上に「個人の努力=高い修練」が成されれば、「心的な教養」は会得出来るだろう。
依って「教養」には「個人の努力」による「心的な教養」と「講座」による「知識的な教養」があることを意味する。
この家訓は”「個人の努力」が「心を鍛え質を高める」”としているのである。
筆者はこの家訓6の「教養」には届かないが、この教えを守り物理系技術者として「教育」の知識の方からの貢献を社会にして来たものであり、それを補う形で「知識的な教養」として「写真」や「竹細工」や「庭造り」なるものに傾注している。
幸い家訓6をそれなりに守りしている為か何かしら「心爽やか」である。
意外に、家訓6の先祖の言い分は、「教養」の極意はこの「心爽やか」の辺に合ったのではと勝手に思うのである。
近代科学的に分析すると、”「心爽やか」が事に処する時、脳を開放し、「拘泥」や「拘り」から開放されて、豊かな判断力が高まり、諸事を正しい方向に向ける力と成り得る”としているのかも知れないと、最近は思えている。
この「教養」は、上記した様に、仏教の般若経の一節「色即是空 空即是色」「空不異色 色不異空」を理解し会得する「糸口」になる事を先祖は暗示しているのではないだろうか。
この事に付いては大事と見て次ぎの家訓7で更に追求している。
兎も角も、この家訓6を筆者は次ぎの様に解している。
「教養」=「心爽やか」=「仏教の極意」>「入り口、糸口」<「長の心得」=「諸事万端良」=「資質、力量」=「教育(知識)」
なかなか難解な家訓6ではあるが、「人間形成」の基となる家訓であると考える。
家訓6=「人間形成の戒め」
次ぎの家訓7はこの家訓6を更に強調したものであるので”続く”としたい。
次ぎは家訓7に続く。


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伊勢青木氏 家訓5
伊勢青木氏の家訓10訓
以下に夫々にその持つ「戒め」の意味するところを説明する。
家訓1 夫は夫足れども、妻は妻にして足れ。(親子にして同じ)
家訓2 父は賢なりて、その子必ずしも賢ならず。母は賢なりて、その子賢なり。
家訓3 主は正しき行為を導きく為、「三相」を得て成せ。(人、時、場)
家訓4 自らの「深層」の心理を悟るべし。(性の定)
家訓5 自らは「人」を見て「実相」を知るべし。(人を見て法を説け)
家訓6 自らの「教養」を培かうべし。(教の育 教の養)
家訓7 自らの「執着」を捨てるべし。(色即是空 空即是色)
家訓8 全てに於いて「創造」を忘れべからず。(技の術 技の能)
家訓9 自らの「煩悩」に勝るべし。(4つの煩)
家訓10 人生は子孫を遺す事に一義あり、「喜怒哀楽」に有らず。
家訓5 自らは「人」を見て「実相」を知るべし。(人を見て法を説け)
この家訓は大変に難しい誡めである。
人間には主観を持っている。そして、その主観は人により強さと方向が違うことになる。
この人の世に人と拘らなくては生きて行けない現実の中で必修の条件である。
その基本とも云える要件にこの戒めが存在する。
では、”その「実相」とは一体何であろうか”と先ず考えてしまう。
「実」の「相」ですが、語源的に考えると「実」とは本来の持ち得ているもので、花木の「果実」に当るのではないだろうか。
では、「果実」とは邪念の無い植物が最終に成し得る行為或いは目的である。
そうするとその目的の「果実」には「果実」そのものが目的では無く、本来は「種」を保存する手段と成るだろう。とすると、「果実」そのものはその「種」を保存する「相」即ち、「様」と成るだろう。
「果実」=「相」(様)となる。では、ここで、その「相」(様)とは何であろうか。
仏教ではその「相」(様)は3つあるとしている。
それは、この世にて万物が生きていく時に必要とする対応しなければならない条件のことであるが、それを「三相」(「人、時、場」)と定義している。
この「実」と「相」を組み合わせると、「種」を保存する「人、時、場」と成り得る。
この組み合わせの「実 相」=「人、時、場」(三相)と成る。
人間本来のこの世に生まれて来た目的は万物は全て「種」を遺す事にあるだろう。人間も例外ではない。つまり、「子孫」を遺す事に他成りません。つまり、「種」=「子孫」と成る。
そして、「三相」とは、その「子孫」(種)を遺す過程での「人、時、場」での現象であるとされる。
更に、この「人、時、場」とは日々の生活に働く現象である。
依って「子孫」(種)を遺す日々の本来の「生活」と成る。
「子孫」(種)=「三相」(人、時、場)=日々本来の生活
日々の「生活」の中には、「三相」の組み合わせで色々な事が起こるだろう。雑事が起こる。
その中でも「子孫」を定義しているのであるから、雑事の中でもそれを実行して行くべき「基本の姿勢」と云う事になる。
「子孫」=「基本の姿勢」と成る。
即ち、雑事の中でのさまざまな姿勢そのものではなく、それに捉われなく、「子孫」に限定した「根本的な姿勢」を意味する事に成る。
結論は、故に「実 相」とは、人間本来の目的である「子孫」に限定した根本的な「姿勢」を意味する事に成る。
「三相」(人、時、場)の中、この家訓5は「三相」の「人」に対しての事を意味している事から、”「時、場」に依って起こる雑事を排除して、その人の「根本的な姿勢」の如何だけを観なさい”としている。
「人」が生きて行く過程で”人の事に付いての「根本的な姿勢」だけを観て評価しなさい”としている筈である。
又、”「時、場」を取り除いたその「人の姿勢」という事に成りその努力をしなさい”と訓している。
”なかなか、この努力が一朝一夕では出来ない故に、その日々の努力を積み重ねなさい。”
そして、”その暁にはその「根本の姿勢」を見抜く力、人の巾を持ちなさい。”としているのであろう。
そして、”その「人の巾」が大事にせよ”と云う事であろう。
「人」は日々の雑事に追われてその雑事の中で兎角全てを見てしまい、雑事の中で生きている傾向が出来てしまう。そうして、その中でそれを基に「評価の基準」として人を見てしまうジレンマに陥る。
「根本的な姿勢」を見るどころか見えな事に成る事さえもある。
雑事の中では「拘り」が生まれるに他ならないものであろう。
殆どは、実際はこの傾向が強いのではないか。だから、この家訓があるのであり、家訓5を知りより正しくより正確に見抜く力を付ける事が、より確かに子孫を遺せる事に成るし、又は、より人生を確かに豊かに過ごせる事としているのであろう。
伊勢青木氏はその立場に於いて、他のレポートでも記述してきたが多くの立場を有していた。
商家、武家、賜姓族、組織や集団の長などの立場にあったが故に、其処からこの家訓5のその必要性を求められ、又「人の巾」、「根本の姿勢」を持ち得ていなくては成り立たなかったと云う環境にあった。
故に、この家訓5の意味がどれほどに必要視されていたかを物語り、又、子孫にそれを伝える重要性があった事から代々家訓として遺されてきたと考えられる。
この立場の多さが先ずこの家訓を生み出したのであろう。
普通なら雑事の中でも充分に生きられるが、青木氏にはそうでは無かった事を物語る。
さて、これで、この家訓の意味が終わった訳ではないのである。
この家訓には、進めて後文に次ぎの事が書かれている。
それは、「人を見て法を説け」と記されている。
つまり、「人の実相を見よ」とする家訓5の前文の「根本の姿勢」を見抜く力、「人の巾」だけではないのであり、更に進めて、「人を見て法を説け」とある。
この二つの家訓が相まって効果が生み出されるとしているのである。
この2つの意味する所の家訓を理解しようとした時、若い頃には正直に理解が出来なかった。
当然である。「人の巾」をも充分でない者がこの後文を理解できる訳は無かった。
人生の雑事での中で思考も一通り出来る様になり、”甘い酸い”の事が判る様に成って来て、ある時、”待てよ。「人の巾」だけではこの人の世の中上手く行かない”と疑問が湧いた。
”其処には何かある。”とその答えを仏典など読み漁った。
その結論が次ぎのこの答えであった。
確かに、仏典にこの答えが書かれていたし、自分の感覚もこの事に近いものを持っていた。
しかし、ここで疑問が更に湧いた。
”何故、仏教が、「人を見て法を説け」と成るのか、全ての人を幸せに導くのが仏教の道ではないか。”おかしい。”人を見比べて法を説くのは違う。「人の道義」に離反する”と考えたのである。
しかし、よくよく考えた。仏説には、上記した様に「三相」として定義し「人、時、場」を明らかにしている。
普通の場合、雑事の中での思考世界では「人を見て法を説くのは違う」で正しいのである。
しかし、この家訓前文は、”「雑事の思考」から超越して「根本の姿勢」を評価をせよ”としているのであるから、雑事の中での思考の「人を見比べて法を説くのは違う」と考える事とはこの家訓後文の意味するところは「別の思考の世界」と言う事になる事に気づいたのである。
この様に、人間には、より巾を求めるには雑事の思考世界から逸脱する必要があり、常思考は深くこの雑事の思考世界にどっぷりと浸っている事を思い知らされたのである。
つまり、”自己よがりで、低次元で拘っている”と。そして、”「別の思考世界」でなくては成らない筈”とそれは大変な難行苦行の末の事であった。
考えて見ればれば、仏教を先導する僧でさえ難行苦行のこの「逸脱の修行」を行って体得しようとしている訳であるのにも拘らず、その事に気づかず、多少なりとも教典を浚っていながらあさはかにも「別の思考世界」と思い着かなかった。
雑事の中での「低次元の拘りを捨てる事」そうする事であれば、家訓であり仏説である「人を見て法を説け」の縛りは解ける。
後はこの、「人を見て法を説け」の意味する所を理解する事にあった。
では、この意味する所とは「見て」と「説け」に解決キーがあると考えたのである。
そこで、まず、「見て」はその人の「人間的レベル」、その人の「生活環境」の二つに分けられるであろう。「その人の人間的レベルを見て法を説け」なのか、「その人の生活環境を見て法を説け」なのかである。
その「人間的レベル」とはその人の「仏教的悟り」のレベルを意味するだろう。
その「生活環境」とはその人の置かれている「諸々の立場」の如何を意味するだろう。
さて、この内の何れなのか、はたまた両方なのかである。
この事に付いては仏教ではどのように成っているかであろう。調べるとそれを決定付ける仏教の教えが出て来る。つまり、「縁無き衆生動し難し」とあった。
これで大まかには前者の「人間的レベル」である事が判る。
”どのように衆生に説法を説いても説法の効き目が無い人にはその程度の理解力しか無いのだから意味が無い”。諦めなさい”としている。
仏教では”最後までその様な人には説法を説き続けなさい”とは言っていないのである。
”見捨てなさい”とまでは云っていないが、ここで矛盾を感じる。
家訓の前文の”実相を見よ”とある。仏教でも「実相」と云う言葉が使われている。
”雑事から逸脱した「根本の姿勢」を見よ”としているのであれば、どんなに説法の効き目の無い理解力の元々持ちえていない人でも「根本の姿勢」はある筈である。
そう考えると、言っているこの二つには矛盾がある。
ところがこれは矛盾ではないとしているのである。
その事に付いて、更に仏教では”それは拘りだ”としているのである。
仏教では最大の教えは「色即是空 空即是色」又は「色異不空 空異不色」としている。
つまり、この二つの般若経の行では”必要以上に拘るな”としているのである。
”どんなに説法の効き目の無い理解力の元々持ちえていない人でも「根本の姿勢」はある筈である”と考えるのは”必要以上に拘り過ぎる”と云っているのである。
何故ならば、上記の般若経の一説は”この人の世の社会はそんなに「理詰め」では出来ていない”だから、それは”「必要以上」”であり即ち、「拘り」であるとしている。
仮に理詰めで出来ているのであればそれは”必要以上ではない”と成るだろうが。
これでは納得できる。”この人の世の社会はそんなに「理詰め」では出来ていない。” この事を「三相」で考えると、人の世は「人」と成り、社会は「時」と「場」と成る。”だから、三相(人、時、場)で考えよ”と説いているのである。
”どのような事象でも普遍ではなく三相にて異なる”と説いているのである。
もっと進めれば、「三相」に依っては”正しい事は必ずしも正しくもなく、間違いでもあり、間違いは必ずしも間違いではなく正しい事でもある。”と成り、普遍では無く成ると説いている。
つまり、これが「拘り」を排除した考え方であると云う事になる。
確かにあり得る。むしろ科学文明の付加価値が進む現代社会では自然性が無くなり、科学的付加価値の要素が大きく働き、むしろ上記した事の方が多いとも思える。否多いであろう。どちらかというと、「正しい」と「間違い」だとする間のどちらにも含まない事の方が多いと考える。
ところが、我々凡人には普遍だと思い拘ってしまう所に、「悟り」(人間力)の有無如何が問われるのであろう。この家訓の意味する所だろう。
この様に”「三相」に依って変化する時の実相を見る力を付けよ”と家訓は誡めているのであった。
「三相」を思考する事に依って「普遍」と見る「拘り」を捨てれば、「雑事の中の思考」を取り除く事が出来て、「根本的な姿勢」を見抜くことが出来る事を諭しているのである。そして、その姿勢で法を説けとする誡めである。
雑事の中の「思考の拘り」を取り除く方法とは次ぎの事と成る。
”三相で以って行い、そして、考える力の訓練をせよ”と云う事であった。
「人を見て法を説け」の意味する所の「見て」の結論は「人間的レベル」即ち「仏教的悟り」である事である。
次ぎは、”法で「説け」”での疑問である。
先ず、解決キーは「導け」と「教えよ」の二つであると考えられるだろう。
つまり、「説け」とは、仏教では「導け」までを行うのか、「教えよ」までを行うのかという事を判別する事に成る。
これも仏教の教典に随処に明確に書かれている。答えは「教えよ」である。「導け」とまでは書かれていない。”先ず教えよ”である。
例えば「般若心経」である。このお経の「経」の意味は「路」であり、更にこの「路」は「ある過程を持つ路」であり、「人生という過程の心の路」を説いている事に成る。
つまり、般若経は、この世の「心」の段階の「迷い」「拘り」を捨てさせる「術」に付いて教えている事に成る。
上記した、「縁無き衆生動し難し」でも”説法を説いても縁の無い者は動かせない”となり、「導く」と云う所までに至っていない。
本来、「導く」の語意は「教えて」の後に「導く」を意味する。教える事せずに導けることはない。
人の世のことは先ずは教える事無くして導く事は不可である。だから経文があるのである。
仏教は”この教える事に主眼を置いて教えても理解が出来ない者には導くはありえず動かし難い事である。故に「必要以上に導くのだとする拘りを捨てよ」”と禅問答などで説いているのである。
既に「法」とは「則」(のり)であり「決まり」であるのだから、”人の世の生きる為の「決まり事」を教える事”を意味する。
参考
奈良時代に我等の青木氏の始祖の「施基皇子」が、全国を天皇に代わって飛び廻った際に、地方の豪族達からの話や土地の逸話などで得た全国の「善事話」を集め整理する事と、この「まとめ」をし、民の「行動指針」とし発行するように天皇に命じられたが、更に天皇はこの「善事話」を進めたのが日本最初に作られた「律令」であり、この様な「善事話」の「まとめ」を法文化したものであったと日本書紀に書かれている。
事と場合に依っては、これ等の家訓10訓は、証明は困難だが、この時の事柄を施基皇子は自らの氏に抜粋したものを遺したのではとも考えられる。
もし、仮にそうだとした場合は、5家5流を含む29氏の一族一党の青木氏はこの家訓に近いものを保持していた可能性がある。
当時、天皇家は男子に恵まれず女性天皇が何代も続いた時期であり、第6位皇子(第4位までで対象者なし場合は第5位とする継承権)の施基皇子の子供光仁天皇に皇位継承権が廻ったという経緯がある事と、鎌倉時代から江戸時代までに交流があった事から察するに、特にその系列の伊勢、信濃、甲斐の皇族賜姓族一党の青木氏はこの家訓に近いものを持っていた可能性も考えられる。
家訓なるものが偏纂される状況を考えると、700年前から800年前の100年間の期間ではないかと推測する。青木氏が発祥して2ー4世代の間と成るだろう。
その状況の一つとして例えば、又、光仁天皇の子供の桓武天皇(伊勢青木氏の叔父)は、第6位皇子を賜姓せず、後漢の阿多倍の孫娘(高野新笠)を母に持ち、この一族(たいら族:平氏)を賜姓して引き上げ、発言力を強めていた青木氏特に伊勢青木氏に圧力(伊勢国の分轄や国司を送るなど政治から遠ざけた)を加えて歴史上最も衰退に追い込んだ。しかし、この後、桓武天皇の子の嵯峨天皇はこのやり方に反発し賜姓を戻し、青木氏は皇族(真人朝臣族)の者が俗化する時に名乗る氏として一般禁止し、賜姓は源氏と改めた経緯がある。この時代付近までに初期の家訓なるものが偏纂された可能性がある。
当然に長い間に修正編纂された事は考えられるが、多くは仏説の解釈内容を引用している事から見ると、当時の仏教の置かれている立場は絶大であった事から考えても、現在にも通ずるこの家訓10訓は可能性があり否定は出来ないだろう。
この研究を進めた。しかし、この時代の確かな文献が遺されていないために進まなかったが、状況証拠はあるとしても、日本書紀に始祖が「まとめ」に当った史実事だけである。
伊勢では、口伝で伝えられ「家訓書」なるものがあったと見られ、何度かの戦火と松阪の大火で消失し、その後「忘備禄」(別名)なるものに諸事が書かれているが、10訓はあるにしても解説は他書に漢詩文でのこしてあり、「忘備禄」の方は完成に至っていない。
恐らく復元しようとしてまとめながら口伝として「忘備禄」の中に「家訓書」にする為に書き遺し始めたのではと考えられる。続けて筆者が公表できないものを除外しながらこれ等の漢詩文と口伝と忘備禄と史料を基に何とか平成に於いて完成した。
後文の結論は即ち「法を説け」は先ず上記した解説の事柄を「教えよ」の意味する所と成る。
よって「人を見て法を説け」の解釈は次ぎの様に成る。
人の「見て」は「人間的レベル」即ち「仏教的悟り」であり、「説け」は「教えよ」である。
”人の「人間的レベル」或いは「悟り具合」を良く洞察した上でそれに合わせて必要な事を教えよ。”と成る。
しかし、と云う事は、自らがその「人間的レベル」(悟り)を上げなくては人を洞察する事は不可能であり、「教える」に値する度量とその知識と話術を習得せねばならない事に成る。
つまり、言い換えれば、この家訓は逆説の訓でもある。
”自らは「人」を見て「実相」を知るべし”の前文には、確かに「自ら」と定義している。
当初、この家訓には他の家訓と較べて一足踏み込んだ個性的な家訓であるとも考えていたが、どうもそうではない事が後で判る事となった。
特にこの前文の”自ら”と”「人を」見て”の二つの言葉に違和感を持った。
”自ら”は逆説的な事である事を意味させる為に挿入したことは判ったが、”「人」を見て”とするところに”二つの解釈が出来るのでは”と考えた。
つまり、”他人の行動を起している様を良く観察して他人のその実相(根本的な姿勢)を読み取れ、そして自分のものともせよ”と解釈するのか、はたまた、”自分以外の人を評価する時「根本的な姿勢」だけを以ってせよ。そして他人の雑事の姿勢の評価は捨てよ”と単純明快にしているかの考え方もある。
始めは後者の考え方を採っていた。しかし、後文の逆説的内容である事と判った時、前文の「自ら」の記述で、前文も前者であると解釈を仕直したのである。
そすれば、何れも前文、後文共に、”他人に対処する時の姿勢を意味しながらも、そうする為にも”先ず自らも磨け”と成り一致する。
この家訓5の解釈は「人事」を戒めとしているだけに表現も意味も難解であった。
多分、先祖は”単純明快であれば大事で肝心な事が伝わらず間違いを起す恐れがある”として何時しか書き換えて行ったのではと推測する。
恐らく長い歴史の中に間違いを起した事件の様な事があって氏の存続も危ぶまれた時があったのであろう。それだけに、この家訓は人を束ねる立場にあった青木氏の「自らの人」「人の集合体の組織」に関する最も重要な家訓である事が言える。
この様に、青木家の家訓5は人の上に立つ者のあるべき姿を説いている事になる。
これは、子孫を遺す為に難行苦行の末にして、数百年に及ぶ商家の主としての姿を誡めていると同時に、千年の武家としてのあるべき姿に共通する戒めを遺すに至ったのであろう。
正しい事だけを家訓にする必要は無い。何故ならばそんな事は書物でも読み取れる。しかし、書物に書き得ない青木家独自の上記の意味する所一見矛盾と見られるような事に関しては青木家としての家訓として遺す必要があったのであろう。
もとより伊勢青木氏のみならず、「生仏像様」を奉る全国青木氏の家訓であっただろうと同時に、これらの家訓があっての1465年続いた青木氏の所以であると見られる。
次ぎは家訓6に続く。
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以下に夫々にその持つ「戒め」の意味するところを説明する。
家訓1 夫は夫足れども、妻は妻にして足れ。(親子にして同じ)
家訓2 父は賢なりて、その子必ずしも賢ならず。母は賢なりて、その子賢なり。
家訓3 主は正しき行為を導きく為、「三相」を得て成せ。(人、時、場)
家訓4 自らの「深層」の心理を悟るべし。(性の定)
家訓5 自らは「人」を見て「実相」を知るべし。(人を見て法を説け)
家訓6 自らの「教養」を培かうべし。(教の育 教の養)
家訓7 自らの「執着」を捨てるべし。(色即是空 空即是色)
家訓8 全てに於いて「創造」を忘れべからず。(技の術 技の能)
家訓9 自らの「煩悩」に勝るべし。(4つの煩)
家訓10 人生は子孫を遺す事に一義あり、「喜怒哀楽」に有らず。
家訓5 自らは「人」を見て「実相」を知るべし。(人を見て法を説け)
この家訓は大変に難しい誡めである。
人間には主観を持っている。そして、その主観は人により強さと方向が違うことになる。
この人の世に人と拘らなくては生きて行けない現実の中で必修の条件である。
その基本とも云える要件にこの戒めが存在する。
では、”その「実相」とは一体何であろうか”と先ず考えてしまう。
「実」の「相」ですが、語源的に考えると「実」とは本来の持ち得ているもので、花木の「果実」に当るのではないだろうか。
では、「果実」とは邪念の無い植物が最終に成し得る行為或いは目的である。
そうするとその目的の「果実」には「果実」そのものが目的では無く、本来は「種」を保存する手段と成るだろう。とすると、「果実」そのものはその「種」を保存する「相」即ち、「様」と成るだろう。
「果実」=「相」(様)となる。では、ここで、その「相」(様)とは何であろうか。
仏教ではその「相」(様)は3つあるとしている。
それは、この世にて万物が生きていく時に必要とする対応しなければならない条件のことであるが、それを「三相」(「人、時、場」)と定義している。
この「実」と「相」を組み合わせると、「種」を保存する「人、時、場」と成り得る。
この組み合わせの「実 相」=「人、時、場」(三相)と成る。
人間本来のこの世に生まれて来た目的は万物は全て「種」を遺す事にあるだろう。人間も例外ではない。つまり、「子孫」を遺す事に他成りません。つまり、「種」=「子孫」と成る。
そして、「三相」とは、その「子孫」(種)を遺す過程での「人、時、場」での現象であるとされる。
更に、この「人、時、場」とは日々の生活に働く現象である。
依って「子孫」(種)を遺す日々の本来の「生活」と成る。
「子孫」(種)=「三相」(人、時、場)=日々本来の生活
日々の「生活」の中には、「三相」の組み合わせで色々な事が起こるだろう。雑事が起こる。
その中でも「子孫」を定義しているのであるから、雑事の中でもそれを実行して行くべき「基本の姿勢」と云う事になる。
「子孫」=「基本の姿勢」と成る。
即ち、雑事の中でのさまざまな姿勢そのものではなく、それに捉われなく、「子孫」に限定した「根本的な姿勢」を意味する事に成る。
結論は、故に「実 相」とは、人間本来の目的である「子孫」に限定した根本的な「姿勢」を意味する事に成る。
「三相」(人、時、場)の中、この家訓5は「三相」の「人」に対しての事を意味している事から、”「時、場」に依って起こる雑事を排除して、その人の「根本的な姿勢」の如何だけを観なさい”としている。
「人」が生きて行く過程で”人の事に付いての「根本的な姿勢」だけを観て評価しなさい”としている筈である。
又、”「時、場」を取り除いたその「人の姿勢」という事に成りその努力をしなさい”と訓している。
”なかなか、この努力が一朝一夕では出来ない故に、その日々の努力を積み重ねなさい。”
そして、”その暁にはその「根本の姿勢」を見抜く力、人の巾を持ちなさい。”としているのであろう。
そして、”その「人の巾」が大事にせよ”と云う事であろう。
「人」は日々の雑事に追われてその雑事の中で兎角全てを見てしまい、雑事の中で生きている傾向が出来てしまう。そうして、その中でそれを基に「評価の基準」として人を見てしまうジレンマに陥る。
「根本的な姿勢」を見るどころか見えな事に成る事さえもある。
雑事の中では「拘り」が生まれるに他ならないものであろう。
殆どは、実際はこの傾向が強いのではないか。だから、この家訓があるのであり、家訓5を知りより正しくより正確に見抜く力を付ける事が、より確かに子孫を遺せる事に成るし、又は、より人生を確かに豊かに過ごせる事としているのであろう。
伊勢青木氏はその立場に於いて、他のレポートでも記述してきたが多くの立場を有していた。
商家、武家、賜姓族、組織や集団の長などの立場にあったが故に、其処からこの家訓5のその必要性を求められ、又「人の巾」、「根本の姿勢」を持ち得ていなくては成り立たなかったと云う環境にあった。
故に、この家訓5の意味がどれほどに必要視されていたかを物語り、又、子孫にそれを伝える重要性があった事から代々家訓として遺されてきたと考えられる。
この立場の多さが先ずこの家訓を生み出したのであろう。
普通なら雑事の中でも充分に生きられるが、青木氏にはそうでは無かった事を物語る。
さて、これで、この家訓の意味が終わった訳ではないのである。
この家訓には、進めて後文に次ぎの事が書かれている。
それは、「人を見て法を説け」と記されている。
つまり、「人の実相を見よ」とする家訓5の前文の「根本の姿勢」を見抜く力、「人の巾」だけではないのであり、更に進めて、「人を見て法を説け」とある。
この二つの家訓が相まって効果が生み出されるとしているのである。
この2つの意味する所の家訓を理解しようとした時、若い頃には正直に理解が出来なかった。
当然である。「人の巾」をも充分でない者がこの後文を理解できる訳は無かった。
人生の雑事での中で思考も一通り出来る様になり、”甘い酸い”の事が判る様に成って来て、ある時、”待てよ。「人の巾」だけではこの人の世の中上手く行かない”と疑問が湧いた。
”其処には何かある。”とその答えを仏典など読み漁った。
その結論が次ぎのこの答えであった。
確かに、仏典にこの答えが書かれていたし、自分の感覚もこの事に近いものを持っていた。
しかし、ここで疑問が更に湧いた。
”何故、仏教が、「人を見て法を説け」と成るのか、全ての人を幸せに導くのが仏教の道ではないか。”おかしい。”人を見比べて法を説くのは違う。「人の道義」に離反する”と考えたのである。
しかし、よくよく考えた。仏説には、上記した様に「三相」として定義し「人、時、場」を明らかにしている。
普通の場合、雑事の中での思考世界では「人を見て法を説くのは違う」で正しいのである。
しかし、この家訓前文は、”「雑事の思考」から超越して「根本の姿勢」を評価をせよ”としているのであるから、雑事の中での思考の「人を見比べて法を説くのは違う」と考える事とはこの家訓後文の意味するところは「別の思考の世界」と言う事になる事に気づいたのである。
この様に、人間には、より巾を求めるには雑事の思考世界から逸脱する必要があり、常思考は深くこの雑事の思考世界にどっぷりと浸っている事を思い知らされたのである。
つまり、”自己よがりで、低次元で拘っている”と。そして、”「別の思考世界」でなくては成らない筈”とそれは大変な難行苦行の末の事であった。
考えて見ればれば、仏教を先導する僧でさえ難行苦行のこの「逸脱の修行」を行って体得しようとしている訳であるのにも拘らず、その事に気づかず、多少なりとも教典を浚っていながらあさはかにも「別の思考世界」と思い着かなかった。
雑事の中での「低次元の拘りを捨てる事」そうする事であれば、家訓であり仏説である「人を見て法を説け」の縛りは解ける。
後はこの、「人を見て法を説け」の意味する所を理解する事にあった。
では、この意味する所とは「見て」と「説け」に解決キーがあると考えたのである。
そこで、まず、「見て」はその人の「人間的レベル」、その人の「生活環境」の二つに分けられるであろう。「その人の人間的レベルを見て法を説け」なのか、「その人の生活環境を見て法を説け」なのかである。
その「人間的レベル」とはその人の「仏教的悟り」のレベルを意味するだろう。
その「生活環境」とはその人の置かれている「諸々の立場」の如何を意味するだろう。
さて、この内の何れなのか、はたまた両方なのかである。
この事に付いては仏教ではどのように成っているかであろう。調べるとそれを決定付ける仏教の教えが出て来る。つまり、「縁無き衆生動し難し」とあった。
これで大まかには前者の「人間的レベル」である事が判る。
”どのように衆生に説法を説いても説法の効き目が無い人にはその程度の理解力しか無いのだから意味が無い”。諦めなさい”としている。
仏教では”最後までその様な人には説法を説き続けなさい”とは言っていないのである。
”見捨てなさい”とまでは云っていないが、ここで矛盾を感じる。
家訓の前文の”実相を見よ”とある。仏教でも「実相」と云う言葉が使われている。
”雑事から逸脱した「根本の姿勢」を見よ”としているのであれば、どんなに説法の効き目の無い理解力の元々持ちえていない人でも「根本の姿勢」はある筈である。
そう考えると、言っているこの二つには矛盾がある。
ところがこれは矛盾ではないとしているのである。
その事に付いて、更に仏教では”それは拘りだ”としているのである。
仏教では最大の教えは「色即是空 空即是色」又は「色異不空 空異不色」としている。
つまり、この二つの般若経の行では”必要以上に拘るな”としているのである。
”どんなに説法の効き目の無い理解力の元々持ちえていない人でも「根本の姿勢」はある筈である”と考えるのは”必要以上に拘り過ぎる”と云っているのである。
何故ならば、上記の般若経の一説は”この人の世の社会はそんなに「理詰め」では出来ていない”だから、それは”「必要以上」”であり即ち、「拘り」であるとしている。
仮に理詰めで出来ているのであればそれは”必要以上ではない”と成るだろうが。
これでは納得できる。”この人の世の社会はそんなに「理詰め」では出来ていない。” この事を「三相」で考えると、人の世は「人」と成り、社会は「時」と「場」と成る。”だから、三相(人、時、場)で考えよ”と説いているのである。
”どのような事象でも普遍ではなく三相にて異なる”と説いているのである。
もっと進めれば、「三相」に依っては”正しい事は必ずしも正しくもなく、間違いでもあり、間違いは必ずしも間違いではなく正しい事でもある。”と成り、普遍では無く成ると説いている。
つまり、これが「拘り」を排除した考え方であると云う事になる。
確かにあり得る。むしろ科学文明の付加価値が進む現代社会では自然性が無くなり、科学的付加価値の要素が大きく働き、むしろ上記した事の方が多いとも思える。否多いであろう。どちらかというと、「正しい」と「間違い」だとする間のどちらにも含まない事の方が多いと考える。
ところが、我々凡人には普遍だと思い拘ってしまう所に、「悟り」(人間力)の有無如何が問われるのであろう。この家訓の意味する所だろう。
この様に”「三相」に依って変化する時の実相を見る力を付けよ”と家訓は誡めているのであった。
「三相」を思考する事に依って「普遍」と見る「拘り」を捨てれば、「雑事の中の思考」を取り除く事が出来て、「根本的な姿勢」を見抜くことが出来る事を諭しているのである。そして、その姿勢で法を説けとする誡めである。
雑事の中の「思考の拘り」を取り除く方法とは次ぎの事と成る。
”三相で以って行い、そして、考える力の訓練をせよ”と云う事であった。
「人を見て法を説け」の意味する所の「見て」の結論は「人間的レベル」即ち「仏教的悟り」である事である。
次ぎは、”法で「説け」”での疑問である。
先ず、解決キーは「導け」と「教えよ」の二つであると考えられるだろう。
つまり、「説け」とは、仏教では「導け」までを行うのか、「教えよ」までを行うのかという事を判別する事に成る。
これも仏教の教典に随処に明確に書かれている。答えは「教えよ」である。「導け」とまでは書かれていない。”先ず教えよ”である。
例えば「般若心経」である。このお経の「経」の意味は「路」であり、更にこの「路」は「ある過程を持つ路」であり、「人生という過程の心の路」を説いている事に成る。
つまり、般若経は、この世の「心」の段階の「迷い」「拘り」を捨てさせる「術」に付いて教えている事に成る。
上記した、「縁無き衆生動し難し」でも”説法を説いても縁の無い者は動かせない”となり、「導く」と云う所までに至っていない。
本来、「導く」の語意は「教えて」の後に「導く」を意味する。教える事せずに導けることはない。
人の世のことは先ずは教える事無くして導く事は不可である。だから経文があるのである。
仏教は”この教える事に主眼を置いて教えても理解が出来ない者には導くはありえず動かし難い事である。故に「必要以上に導くのだとする拘りを捨てよ」”と禅問答などで説いているのである。
既に「法」とは「則」(のり)であり「決まり」であるのだから、”人の世の生きる為の「決まり事」を教える事”を意味する。
参考
奈良時代に我等の青木氏の始祖の「施基皇子」が、全国を天皇に代わって飛び廻った際に、地方の豪族達からの話や土地の逸話などで得た全国の「善事話」を集め整理する事と、この「まとめ」をし、民の「行動指針」とし発行するように天皇に命じられたが、更に天皇はこの「善事話」を進めたのが日本最初に作られた「律令」であり、この様な「善事話」の「まとめ」を法文化したものであったと日本書紀に書かれている。
事と場合に依っては、これ等の家訓10訓は、証明は困難だが、この時の事柄を施基皇子は自らの氏に抜粋したものを遺したのではとも考えられる。
もし、仮にそうだとした場合は、5家5流を含む29氏の一族一党の青木氏はこの家訓に近いものを保持していた可能性がある。
当時、天皇家は男子に恵まれず女性天皇が何代も続いた時期であり、第6位皇子(第4位までで対象者なし場合は第5位とする継承権)の施基皇子の子供光仁天皇に皇位継承権が廻ったという経緯がある事と、鎌倉時代から江戸時代までに交流があった事から察するに、特にその系列の伊勢、信濃、甲斐の皇族賜姓族一党の青木氏はこの家訓に近いものを持っていた可能性も考えられる。
家訓なるものが偏纂される状況を考えると、700年前から800年前の100年間の期間ではないかと推測する。青木氏が発祥して2ー4世代の間と成るだろう。
その状況の一つとして例えば、又、光仁天皇の子供の桓武天皇(伊勢青木氏の叔父)は、第6位皇子を賜姓せず、後漢の阿多倍の孫娘(高野新笠)を母に持ち、この一族(たいら族:平氏)を賜姓して引き上げ、発言力を強めていた青木氏特に伊勢青木氏に圧力(伊勢国の分轄や国司を送るなど政治から遠ざけた)を加えて歴史上最も衰退に追い込んだ。しかし、この後、桓武天皇の子の嵯峨天皇はこのやり方に反発し賜姓を戻し、青木氏は皇族(真人朝臣族)の者が俗化する時に名乗る氏として一般禁止し、賜姓は源氏と改めた経緯がある。この時代付近までに初期の家訓なるものが偏纂された可能性がある。
当然に長い間に修正編纂された事は考えられるが、多くは仏説の解釈内容を引用している事から見ると、当時の仏教の置かれている立場は絶大であった事から考えても、現在にも通ずるこの家訓10訓は可能性があり否定は出来ないだろう。
この研究を進めた。しかし、この時代の確かな文献が遺されていないために進まなかったが、状況証拠はあるとしても、日本書紀に始祖が「まとめ」に当った史実事だけである。
伊勢では、口伝で伝えられ「家訓書」なるものがあったと見られ、何度かの戦火と松阪の大火で消失し、その後「忘備禄」(別名)なるものに諸事が書かれているが、10訓はあるにしても解説は他書に漢詩文でのこしてあり、「忘備禄」の方は完成に至っていない。
恐らく復元しようとしてまとめながら口伝として「忘備禄」の中に「家訓書」にする為に書き遺し始めたのではと考えられる。続けて筆者が公表できないものを除外しながらこれ等の漢詩文と口伝と忘備禄と史料を基に何とか平成に於いて完成した。
後文の結論は即ち「法を説け」は先ず上記した解説の事柄を「教えよ」の意味する所と成る。
よって「人を見て法を説け」の解釈は次ぎの様に成る。
人の「見て」は「人間的レベル」即ち「仏教的悟り」であり、「説け」は「教えよ」である。
”人の「人間的レベル」或いは「悟り具合」を良く洞察した上でそれに合わせて必要な事を教えよ。”と成る。
しかし、と云う事は、自らがその「人間的レベル」(悟り)を上げなくては人を洞察する事は不可能であり、「教える」に値する度量とその知識と話術を習得せねばならない事に成る。
つまり、言い換えれば、この家訓は逆説の訓でもある。
”自らは「人」を見て「実相」を知るべし”の前文には、確かに「自ら」と定義している。
当初、この家訓には他の家訓と較べて一足踏み込んだ個性的な家訓であるとも考えていたが、どうもそうではない事が後で判る事となった。
特にこの前文の”自ら”と”「人を」見て”の二つの言葉に違和感を持った。
”自ら”は逆説的な事である事を意味させる為に挿入したことは判ったが、”「人」を見て”とするところに”二つの解釈が出来るのでは”と考えた。
つまり、”他人の行動を起している様を良く観察して他人のその実相(根本的な姿勢)を読み取れ、そして自分のものともせよ”と解釈するのか、はたまた、”自分以外の人を評価する時「根本的な姿勢」だけを以ってせよ。そして他人の雑事の姿勢の評価は捨てよ”と単純明快にしているかの考え方もある。
始めは後者の考え方を採っていた。しかし、後文の逆説的内容である事と判った時、前文の「自ら」の記述で、前文も前者であると解釈を仕直したのである。
そすれば、何れも前文、後文共に、”他人に対処する時の姿勢を意味しながらも、そうする為にも”先ず自らも磨け”と成り一致する。
この家訓5の解釈は「人事」を戒めとしているだけに表現も意味も難解であった。
多分、先祖は”単純明快であれば大事で肝心な事が伝わらず間違いを起す恐れがある”として何時しか書き換えて行ったのではと推測する。
恐らく長い歴史の中に間違いを起した事件の様な事があって氏の存続も危ぶまれた時があったのであろう。それだけに、この家訓は人を束ねる立場にあった青木氏の「自らの人」「人の集合体の組織」に関する最も重要な家訓である事が言える。
この様に、青木家の家訓5は人の上に立つ者のあるべき姿を説いている事になる。
これは、子孫を遺す為に難行苦行の末にして、数百年に及ぶ商家の主としての姿を誡めていると同時に、千年の武家としてのあるべき姿に共通する戒めを遺すに至ったのであろう。
正しい事だけを家訓にする必要は無い。何故ならばそんな事は書物でも読み取れる。しかし、書物に書き得ない青木家独自の上記の意味する所一見矛盾と見られるような事に関しては青木家としての家訓として遺す必要があったのであろう。
もとより伊勢青木氏のみならず、「生仏像様」を奉る全国青木氏の家訓であっただろうと同時に、これらの家訓があっての1465年続いた青木氏の所以であると見られる。
次ぎは家訓6に続く。


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