長野県 小県郡(ちいさがたぐん) 青木村の由来
昔は、今のように車なんかありませんでしたから、旅をするにはわらじばきで、歩かなければなりませんでした。遠い道のりを旅する時は、山の形や、大きな木などを目印にして、どこまで行ったら休もうか、なんて、目やすにしていたものです。
そんな木の一つに、街道のそばに、いつも青々としている一本の大きな「ねずみんばら」の木がありました。旅の人は、この村を通るたびに「どれ、あの木の下で、休んでいくべえ。」 「うん、そうするべえ。」といいながら、大きなねずみんばらの木の下で休むのが楽しみでした。その頃は、今のように家もたくさんはありませんでしたから、少し小高いところに立っているねずみんばらの木は、かなり遠い所からも見えて、旅をする人のはげみにもなっていました。
月日は流れて、今まで部落ごとに、村の名前がついていたのが、
その小さな村がいくつもより集まって、一つの大きな村に、生まれかわることになりました。ところが、大きくなった村に、なんと名前を付けたらいゝだろう、ということで、ひともんちゃく、起きてしまいました。一緒になる前の大きな部落だったところはその部落の名前がいゝ、なんていってますし、ほかの部落の人は、その意見に反対しますし、何回相談しても、らちがあきません。
みんなが困りはてゝいるとき、あるお年寄りの人が、 「むかし、旅をする人が、いつも喜んで休んでいた、あの青々とした木は、この村のほこりだから、あの木にちなんだ名前を付けたらどうだろう」といゝ出しました。集まった人たちは、その意見に賛成しました。いつも青々としている木 そこで 「青木」という名前が付けられました。
青木村の名付の親ともいわれるねずみんばらの木は、今は切り倒されて、その姿を見ることは出来ません。※ねずみんばらの木があったのは、今の中学校へ登っていく途中にありました。
そして、昭和の中期に切り倒されています。この葉の形が、校章になったこともあります。
青木の由来 「青木村の伝説と民話」沓掛昭典さん編集・発行 (昭和53年7月発行)
http://www.ued.janis.or.jp/~lscu/densetsu2.htm
青木研究員[副管理人]のコメント
上記の伝説から村名がつけられたとの説ですが、私の調べた範囲では、この地は平安初期に皇族賜姓の青木氏が朝廷より派遣された土地でありますので、一族が住み着きそして人があつまり青木氏の姓を採って青木村としたものと解釈しています。他の賜姓青木氏が配置された土地④ケ所も全て青木村です。賜姓青木氏の青木は天皇から賜姓を受けた氏で土地名から採った氏ではありませんから、この人たちが住み着いたことから、村名を青木としたものです。
大化改新後、天皇家にとって重要な土地と指定されて天皇ケ一族の者が臣籍してこの地に赴任して住み着いたものであります。この事は「日本書紀」にも書かれています。大変重要な土地であるので、この地を豊かにする為に不輪の権と不入の権を土地の者たちの申請により認めたとかいています。つまり、他の国がこの地を侵してはならないと言う命令と税を一定期間免除すると言う命令を授かったのです。それはこの地を重要な土地であるために賜姓青木氏を配置して豊かにして繁栄をさせるための配慮であったのです。このような背景から生まれた賜姓青木氏の青木村なのです。
更にさかのぼるとこの地には渡来人の後漢の滅亡により帰化した「阿多倍一族」の内の馬を飼う「馬部の集団」と、山の物を加工する「山部の集団」とが配置されて、さらに、東海地方の海辺にはこの山の幸を加工する「磯部集団」が配置されて生活が保てるようにして、開墾した土地でもあります。640年頃です。
そこから100年くらい経って、開墾された土地を更によりよくするために朝廷より「皇族賜姓青木氏」が配置されて尚村が栄え「日本書紀」に書かれているようなことに発展していつたのです。
そして、これより200年後には賜姓源の頼光が朝廷よりこの国の青木氏に代わって守護にはいったのです。一番力のあった清和源氏をこの国を他国から守る為に守護代として赴任しました。
渡来系一族が開墾する地に守護として賜姓青木氏が入り栄えて青木村が出来たのです。少し、歴史の事実を無視して民話的に成りすぎているとおもいます。
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そんな木の一つに、街道のそばに、いつも青々としている一本の大きな「ねずみんばら」の木がありました。旅の人は、この村を通るたびに「どれ、あの木の下で、休んでいくべえ。」 「うん、そうするべえ。」といいながら、大きなねずみんばらの木の下で休むのが楽しみでした。その頃は、今のように家もたくさんはありませんでしたから、少し小高いところに立っているねずみんばらの木は、かなり遠い所からも見えて、旅をする人のはげみにもなっていました。
月日は流れて、今まで部落ごとに、村の名前がついていたのが、
その小さな村がいくつもより集まって、一つの大きな村に、生まれかわることになりました。ところが、大きくなった村に、なんと名前を付けたらいゝだろう、ということで、ひともんちゃく、起きてしまいました。一緒になる前の大きな部落だったところはその部落の名前がいゝ、なんていってますし、ほかの部落の人は、その意見に反対しますし、何回相談しても、らちがあきません。
みんなが困りはてゝいるとき、あるお年寄りの人が、 「むかし、旅をする人が、いつも喜んで休んでいた、あの青々とした木は、この村のほこりだから、あの木にちなんだ名前を付けたらどうだろう」といゝ出しました。集まった人たちは、その意見に賛成しました。いつも青々としている木 そこで 「青木」という名前が付けられました。
青木村の名付の親ともいわれるねずみんばらの木は、今は切り倒されて、その姿を見ることは出来ません。※ねずみんばらの木があったのは、今の中学校へ登っていく途中にありました。
そして、昭和の中期に切り倒されています。この葉の形が、校章になったこともあります。
青木の由来 「青木村の伝説と民話」沓掛昭典さん編集・発行 (昭和53年7月発行)
http://www.ued.janis.or.jp/~lscu/densetsu2.htm
青木研究員[副管理人]のコメント
上記の伝説から村名がつけられたとの説ですが、私の調べた範囲では、この地は平安初期に皇族賜姓の青木氏が朝廷より派遣された土地でありますので、一族が住み着きそして人があつまり青木氏の姓を採って青木村としたものと解釈しています。他の賜姓青木氏が配置された土地④ケ所も全て青木村です。賜姓青木氏の青木は天皇から賜姓を受けた氏で土地名から採った氏ではありませんから、この人たちが住み着いたことから、村名を青木としたものです。
大化改新後、天皇家にとって重要な土地と指定されて天皇ケ一族の者が臣籍してこの地に赴任して住み着いたものであります。この事は「日本書紀」にも書かれています。大変重要な土地であるので、この地を豊かにする為に不輪の権と不入の権を土地の者たちの申請により認めたとかいています。つまり、他の国がこの地を侵してはならないと言う命令と税を一定期間免除すると言う命令を授かったのです。それはこの地を重要な土地であるために賜姓青木氏を配置して豊かにして繁栄をさせるための配慮であったのです。このような背景から生まれた賜姓青木氏の青木村なのです。
更にさかのぼるとこの地には渡来人の後漢の滅亡により帰化した「阿多倍一族」の内の馬を飼う「馬部の集団」と、山の物を加工する「山部の集団」とが配置されて、さらに、東海地方の海辺にはこの山の幸を加工する「磯部集団」が配置されて生活が保てるようにして、開墾した土地でもあります。640年頃です。
そこから100年くらい経って、開墾された土地を更によりよくするために朝廷より「皇族賜姓青木氏」が配置されて尚村が栄え「日本書紀」に書かれているようなことに発展していつたのです。
そして、これより200年後には賜姓源の頼光が朝廷よりこの国の青木氏に代わって守護にはいったのです。一番力のあった清和源氏をこの国を他国から守る為に守護代として赴任しました。
渡来系一族が開墾する地に守護として賜姓青木氏が入り栄えて青木村が出来たのです。少し、歴史の事実を無視して民話的に成りすぎているとおもいます。


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埼玉県 北足立郡 青木村の歴史 (現川口市の一部付近)
1889年4月1日
青木村、下青木村、前川村が合併し 青木村へ
1933年4月1日
川口町、青木村、横曽根村(よこぞね) 南平柳村が合併し
川口市になった。
青木研究員 [副管理人]のコメント
この地は私のレポートの9/14の一つの武蔵の国の北足立郡ですので、藤原秀郷流の青木氏の発祥地です。
この地に青木氏が依然として存在し、青木村が残っているのはうれしいことです。この地は坂東八平氏や鎌倉幕府の一部源氏一族と賜姓の青木氏が残っていたり、藤原秀郷流青木氏、藤原氏、進藤氏、長沼氏、長嶋氏、長谷川氏等多くの一族か混在した土地柄ですが、
平安後期には多くの戦いの場となつた所です。このような古来激戦地にありながら、藤原秀郷流青木氏が住まいしておられるということは核家族化したとは言えすばらしいと思います。
ちなみに、一括りにして坂東八平氏といいますが、この八の平氏を述べてみます。
1千葉氏 2長尾氏 3上総氏 4秩父氏 5三浦氏 6土肥氏 7大庭氏 8梶原氏
以上が坂東八平氏です。これらが平氏一族です。この平氏一族には現代は二つの説があります。(別に記述します。)
藤原秀郷には二つの流れがあります。
1 藤原秀郷の3代後の藤原分行流。 この子孫には進藤氏と長谷川氏の2流にわかれます。
進藤氏は本家をしのぎ大勢力になりました。したがって、この進藤氏は藤原利仁から分流して利仁流進藤氏ができました。
2 分行の弟の兼光流。 この子孫には長沼氏(中沼氏)と長嶋氏(永嶋氏)と青木氏が生まれました。
青木氏はこの兼光流から出ています。中には利仁流の青木氏とする系譜がありますが、戦国時代の偏纂に拠って生まれたものです。本来は利仁流青木氏はありません。この5氏は元は血縁一族です。親類です。昔は何かあると、集まったものです。
この中に、永嶋氏には二つの氏があります。(別に記述します)
多分、源氏の移動によって更に多くの氏が存在すると思います。
氏の激戦地です。青木氏は氏姓制度の中で、下克上の戦国の中で大変子孫を遺すことに死に物狂いの苦労したと考えます。
平氏の2説のレポートと永嶋氏のレポートも読んでください。面白いところで貴方の氏と繋がっています。
自分のルーツがどの様な環境にあったかという事でルーツ調査は面白くなりますよ。
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青木村、下青木村、前川村が合併し 青木村へ
1933年4月1日
川口町、青木村、横曽根村(よこぞね) 南平柳村が合併し
川口市になった。
青木研究員 [副管理人]のコメント
この地は私のレポートの9/14の一つの武蔵の国の北足立郡ですので、藤原秀郷流の青木氏の発祥地です。
この地に青木氏が依然として存在し、青木村が残っているのはうれしいことです。この地は坂東八平氏や鎌倉幕府の一部源氏一族と賜姓の青木氏が残っていたり、藤原秀郷流青木氏、藤原氏、進藤氏、長沼氏、長嶋氏、長谷川氏等多くの一族か混在した土地柄ですが、
平安後期には多くの戦いの場となつた所です。このような古来激戦地にありながら、藤原秀郷流青木氏が住まいしておられるということは核家族化したとは言えすばらしいと思います。
ちなみに、一括りにして坂東八平氏といいますが、この八の平氏を述べてみます。
1千葉氏 2長尾氏 3上総氏 4秩父氏 5三浦氏 6土肥氏 7大庭氏 8梶原氏
以上が坂東八平氏です。これらが平氏一族です。この平氏一族には現代は二つの説があります。(別に記述します。)
藤原秀郷には二つの流れがあります。
1 藤原秀郷の3代後の藤原分行流。 この子孫には進藤氏と長谷川氏の2流にわかれます。
進藤氏は本家をしのぎ大勢力になりました。したがって、この進藤氏は藤原利仁から分流して利仁流進藤氏ができました。
2 分行の弟の兼光流。 この子孫には長沼氏(中沼氏)と長嶋氏(永嶋氏)と青木氏が生まれました。
青木氏はこの兼光流から出ています。中には利仁流の青木氏とする系譜がありますが、戦国時代の偏纂に拠って生まれたものです。本来は利仁流青木氏はありません。この5氏は元は血縁一族です。親類です。昔は何かあると、集まったものです。
この中に、永嶋氏には二つの氏があります。(別に記述します)
多分、源氏の移動によって更に多くの氏が存在すると思います。
氏の激戦地です。青木氏は氏姓制度の中で、下克上の戦国の中で大変子孫を遺すことに死に物狂いの苦労したと考えます。
平氏の2説のレポートと永嶋氏のレポートも読んでください。面白いところで貴方の氏と繋がっています。
自分のルーツがどの様な環境にあったかという事でルーツ調査は面白くなりますよ。


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青木の地名の発祥源
青木の地名の発祥源は全国に14ケ所あります。
この発祥の基は藤原秀郷が第4子以降の子に青木姓をつけて土地を与えたものでその土地を青木村と呼称するようになりました。
この14の青木の地名は2分類に分かれます。5の青木と7つの青木村です。9つは藤原流のものです。関東(武蔵国)を中心に存在します。5つは皇族賜姓族の青木村です。つまり、天皇から青木姓の氏を与えられて臣籍し武士となり、朝廷の重要な土地の伊勢、近江、信濃、美濃、甲斐の土地を与えて守護させました。そのことにより青木村が出来ました。
私の先祖はこの伊勢の青木氏(645)です。一方の9つは岩代国、越後国、越中国、武蔵国4、筑後の9ケ所です。藤原氏は4つに分かれますが秀郷は北家で最も栄えた一族で、武蔵7党と言われてこの中に青木氏がはいっています。
秀郷流は2つに分けられて、分行流と兼光流です。前者は進藤氏と長谷川氏、後者は長沼氏、永島氏、青木氏です。この青木氏は116家に分流します。なぜ青木氏としたかは前回のメールで伝えました。
皇族青木氏の後の源氏はこの北家の藤原氏との婚姻
で子孫を増やしています。本日は此処までにします。
後日追記
青木の地名の発祥源は全国に14ケ所あります。
この発祥の基は皇族賜姓青木氏があり、又多、賜姓青木氏の方式を習って、藤原秀郷が第3(4)子に青木姓をつけて土地を与えたもので、その土地を青木村と呼称するようになりました。
(伊勢の青木氏を除く賜姓青木氏が、母方に藤原氏の血筋を受け継いでいるために踏襲した)
この14の青木の地名は2分類に分かれます。5の青木村と9つの青木村です。
9つは藤原流のものです。関東(武蔵国を中心に円状に)を中心に存在します。
5つは皇族賜姓族の青木村です。
つまり、5天皇から青木姓の氏を与えられて臣籍し侍(武士)となり、朝廷の重要な土地の伊勢、近江、信濃、美濃、甲斐の5つの土地を与えて守護させました。そのことにより青木村が出来ました。
(5天皇は天智、天武、文武、聖武、光仁です。最初は伊勢の青木氏(645)です。)
一方の9つは、岩代国、越後国、越中国、武蔵国4、筑後の主要9ケ所です。
藤原氏は4つに分かれますが、秀郷は北家で最も栄えた藤原一族です。
注、この土地には、別に武蔵7党と言われて土着の豪族が居て、この中の丹治氏から出た皇族系青木氏(賜姓ではない真人族の島氏の血筋を受けたとされる)が、他説がありますが分流して定住していたといわれています。
秀郷流は2つに分けられて、分行流と兼光流です。
前者は進藤氏と長谷川氏、
後者は長沼氏、永島氏、青木氏です。この青木氏は主要9氏で116氏家に分流します。
なぜ青木氏としたかは前回のメールで伝えました。
皇族賜姓青木氏の後の皇族賜姓源氏は、この北家の藤原氏との婚姻で子孫を増やしています。
皇族賜姓青木氏と皇族青木氏の違いは、次の様になります。
嵯峨天皇期に令を発して、全ての皇族系の者が還俗する場合は氏を青木氏として名乗る事を許しました。(藤原氏以外に)
賜姓などを受けられなかった大抵の皇族の者が、入山し僧侶や門跡寺院等に入るか、又は遠い地方に移り住みました。
その後に還俗したり、土着の者との間に子孫を遺した者は血縁を統一するために賜姓を受けない青木姓を名乗る事を許しました。それ以外の者が名乗る事を正式には江戸期まで禁じたのです。
(源氏の者が平家の追手を逃れるために、もとの賜姓に戻して青木氏を名乗る事が各地で起りました。)
本日は此処までにします。
さらに追記
日本の青木村の発生箇所を記述しましたが、全体で14カ所です。このどこにあるのかは明記しませんでしたので、追記します。2流に分類できるとした内、5/14は皇族賜姓族の村ですが、先ず、甲斐の国は巨摩郡です。信濃の国は小縣郡です。美濃の国は安八郡です。同尾張の国は丹波郡です。伊勢の国は松阪です。近江の国は佐々木氏と同化し移住して不明です。
9/14秀郷流は岩代の国は伊達郡です。越後の国は中顕城郡金谷村大字です。越中の国は下新川郡です。武蔵の国は北足立郡と横浜神奈川字と入間郡と榛澤郡です。筑後の国は三猪郡です。これは古い住所ですので、一定の発祥源によってこの村が出来たのですが、この村より各地に分流していったものです。青木村が有って青木姓が出来たわけではありません。特に、鎌倉時代より以降の戦国時代のものは偏纂が多いので鎌倉から以前の歴史を調べる必要があります。
室町から以降は下克上の時代で、歴史伝統がくずれました。後日これらの事について記述しますが、別記事の横浜の青木さんの様に元は950年頃の歴史の出来事からおこつていますので、調べる時は元に戻ると明確になります。秀郷流は116の分流をおこしていますので、1/116を調べてもルーツの発見は難しいと思います。
調べるには家紋も大事です。
家紋200選といって室町後半以降は1200ほど有った家紋は激減し40程度になり、再び200程度に戻りました。奈良時代から平安初期は40程度で中期から後期には300弱になり戦国の下克上の時までには1200になり江戸所初期ころには200程度にもどりました。この200の家紋の中にはいっているかを先ず調べるとルーツがわかりやすいです。下克上の戦国時代の家紋とか系譜は殆どが偏纂です。系譜とか紋が食い違うとか系譜のずれがあるとかします。秀吉のルーツとか徳川のルーツとかにはこの偏纂の見本です。先ずは、鎌倉以前のルーツの村とか家紋とか系譜とか調べるとわかってきます。
参考
青木 地名 / 地形 データベース
青木という地名地図
青木研究員[副管理人]
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この発祥の基は藤原秀郷が第4子以降の子に青木姓をつけて土地を与えたものでその土地を青木村と呼称するようになりました。
この14の青木の地名は2分類に分かれます。5の青木と7つの青木村です。9つは藤原流のものです。関東(武蔵国)を中心に存在します。5つは皇族賜姓族の青木村です。つまり、天皇から青木姓の氏を与えられて臣籍し武士となり、朝廷の重要な土地の伊勢、近江、信濃、美濃、甲斐の土地を与えて守護させました。そのことにより青木村が出来ました。
私の先祖はこの伊勢の青木氏(645)です。一方の9つは岩代国、越後国、越中国、武蔵国4、筑後の9ケ所です。藤原氏は4つに分かれますが秀郷は北家で最も栄えた一族で、武蔵7党と言われてこの中に青木氏がはいっています。
秀郷流は2つに分けられて、分行流と兼光流です。前者は進藤氏と長谷川氏、後者は長沼氏、永島氏、青木氏です。この青木氏は116家に分流します。なぜ青木氏としたかは前回のメールで伝えました。
皇族青木氏の後の源氏はこの北家の藤原氏との婚姻
で子孫を増やしています。本日は此処までにします。
後日追記
青木の地名の発祥源は全国に14ケ所あります。
この発祥の基は皇族賜姓青木氏があり、又多、賜姓青木氏の方式を習って、藤原秀郷が第3(4)子に青木姓をつけて土地を与えたもので、その土地を青木村と呼称するようになりました。
(伊勢の青木氏を除く賜姓青木氏が、母方に藤原氏の血筋を受け継いでいるために踏襲した)
この14の青木の地名は2分類に分かれます。5の青木村と9つの青木村です。
9つは藤原流のものです。関東(武蔵国を中心に円状に)を中心に存在します。
5つは皇族賜姓族の青木村です。
つまり、5天皇から青木姓の氏を与えられて臣籍し侍(武士)となり、朝廷の重要な土地の伊勢、近江、信濃、美濃、甲斐の5つの土地を与えて守護させました。そのことにより青木村が出来ました。
(5天皇は天智、天武、文武、聖武、光仁です。最初は伊勢の青木氏(645)です。)
一方の9つは、岩代国、越後国、越中国、武蔵国4、筑後の主要9ケ所です。
藤原氏は4つに分かれますが、秀郷は北家で最も栄えた藤原一族です。
注、この土地には、別に武蔵7党と言われて土着の豪族が居て、この中の丹治氏から出た皇族系青木氏(賜姓ではない真人族の島氏の血筋を受けたとされる)が、他説がありますが分流して定住していたといわれています。
秀郷流は2つに分けられて、分行流と兼光流です。
前者は進藤氏と長谷川氏、
後者は長沼氏、永島氏、青木氏です。この青木氏は主要9氏で116氏家に分流します。
なぜ青木氏としたかは前回のメールで伝えました。
皇族賜姓青木氏の後の皇族賜姓源氏は、この北家の藤原氏との婚姻で子孫を増やしています。
皇族賜姓青木氏と皇族青木氏の違いは、次の様になります。
嵯峨天皇期に令を発して、全ての皇族系の者が還俗する場合は氏を青木氏として名乗る事を許しました。(藤原氏以外に)
賜姓などを受けられなかった大抵の皇族の者が、入山し僧侶や門跡寺院等に入るか、又は遠い地方に移り住みました。
その後に還俗したり、土着の者との間に子孫を遺した者は血縁を統一するために賜姓を受けない青木姓を名乗る事を許しました。それ以外の者が名乗る事を正式には江戸期まで禁じたのです。
(源氏の者が平家の追手を逃れるために、もとの賜姓に戻して青木氏を名乗る事が各地で起りました。)
本日は此処までにします。
さらに追記
日本の青木村の発生箇所を記述しましたが、全体で14カ所です。このどこにあるのかは明記しませんでしたので、追記します。2流に分類できるとした内、5/14は皇族賜姓族の村ですが、先ず、甲斐の国は巨摩郡です。信濃の国は小縣郡です。美濃の国は安八郡です。同尾張の国は丹波郡です。伊勢の国は松阪です。近江の国は佐々木氏と同化し移住して不明です。
9/14秀郷流は岩代の国は伊達郡です。越後の国は中顕城郡金谷村大字です。越中の国は下新川郡です。武蔵の国は北足立郡と横浜神奈川字と入間郡と榛澤郡です。筑後の国は三猪郡です。これは古い住所ですので、一定の発祥源によってこの村が出来たのですが、この村より各地に分流していったものです。青木村が有って青木姓が出来たわけではありません。特に、鎌倉時代より以降の戦国時代のものは偏纂が多いので鎌倉から以前の歴史を調べる必要があります。
室町から以降は下克上の時代で、歴史伝統がくずれました。後日これらの事について記述しますが、別記事の横浜の青木さんの様に元は950年頃の歴史の出来事からおこつていますので、調べる時は元に戻ると明確になります。秀郷流は116の分流をおこしていますので、1/116を調べてもルーツの発見は難しいと思います。
調べるには家紋も大事です。
家紋200選といって室町後半以降は1200ほど有った家紋は激減し40程度になり、再び200程度に戻りました。奈良時代から平安初期は40程度で中期から後期には300弱になり戦国の下克上の時までには1200になり江戸所初期ころには200程度にもどりました。この200の家紋の中にはいっているかを先ず調べるとルーツがわかりやすいです。下克上の戦国時代の家紋とか系譜は殆どが偏纂です。系譜とか紋が食い違うとか系譜のずれがあるとかします。秀吉のルーツとか徳川のルーツとかにはこの偏纂の見本です。先ずは、鎌倉以前のルーツの村とか家紋とか系譜とか調べるとわかってきます。
参考
青木 地名 / 地形 データベース
青木という地名地図
青木研究員[副管理人]


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