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「家紋掟」の概容

「家紋掟」の概容

青木氏の家紋に関して大変ご質問が多いので一つにまとめました。

そもそもは家紋の使用は平安末期から使用される様に成りましたが、その家紋化した目的は「氏家制度を規則正しく保つ目的の根幹手段」として室町時代の中期から明治の初期頃まで使用される様に成ったものなのです。
家紋は当初から家紋として存在していた習慣ではなく、本来は最初は奈良時代初期に皇族が自らの「ステイタス」(印章)として使用していたものでした。その最初は何んと青木氏に関わる事から始まったのです。
家紋というものを理解する上で家紋の経緯としてそれを少し詳しく述べておきます。
蘇我入鹿を倒した中大兄皇子の時代に遡ります。それまでは「文様」は儀式的な意味合いが強く天皇家と朝廷の「儀式の権威」として位置づけられていました。その儀式を司る天皇に対する「間接的権威」として扱われていたのです。ところが、この事件と成った原因から天皇家の「体制固め」(大化の改新)が始まりました。
先ずその一つは「経済的な原因」でした。つまり、それは無秩序に近い状態で存在する「皇子の数」でした。それまでは「数を固める事」で「天皇家の権威」を作り上げていたのですが、そこを入鹿に狙われたのです。先ず、蘇我氏に内蔵の経費に依る経済的な弱体化を狙われたのです。
軍事的には渡来人の漢氏(あやし)又は東漢氏(やまとあやし)等の軍事集団を蘇我氏に抱え込まれ裸同然の無力化に干されました。政治的には斎蔵の祭祀による権威のみの立場に追いやられると云う事態に成っていたのです。
つまり、天皇家の財政を司る「内蔵」、朝廷の財政を司る「大蔵」、朝廷の祭祀を司る「斎蔵」の政治機構三権と軍事権を蘇我氏に奪われていた事に成ります。
この経済的に問題に付いて、4世族までの皇子皇女の数が大変多く34人にも成っていました。第6世皇子皇女までいれると50人以上と成っていたのです。(7世族以降は坂東に配置されていました。)
そこで「大化改新」と云う「大政治改革」を断行しました。
その目的の一つとして皇族に掛る内蔵の経費を少なくする為に第4世までを皇子王とし第6世以降は臣下させる事を実行しました。
その第4世皇子までに順位を付け第4位皇子までに「皇位継承権」を与え、「第6位皇子」(1)を臣下させる仕組みとして改革をしました。
この結果、これらの下俗臣下した皇子の身分を保障するために、この「世族の仕組み」は「身分制度の確立」に発展し先ず「8つの家柄階級」(八色の姓の制)を定めました。
そして、この時、問題の皇子族は「真人族」(まさと)「朝臣族」(あそん)(2)と特別に「宿禰族」(すくね)を加えて3つの身分に分けました。
これら「八色の姓」に合わせて、別にその功労能力に応じて画期的な「官位階級制度」が定められたのです。これは現在でも観られない徹底した「実力主義」でした。
例えば、皇太子であろうと、他の下位の皇子が優れていれば皇太子よりも遥か上の官位を授かると云うものでした。現在でもあり得ない実力主義でした。
つまり、「家柄制度」と「身分制度」が定めた事に成ります。
そして、この2つの制度に伴い「職務制度」も定めたのです。
この「職務制度」でも下位の皇子でも能力が高い場合は重要な守護王に任じられると云う事が起こりました。
朝臣族4世皇子族までには6段階の位に準じて重要な順に天領地の守護王職を命じたのです。
そして、その皇子には順位を付けて6位皇子からは臣下する事としたのです。
この「3つの制度」によって先ず最も昇格したのは第6位皇子の伊勢王の施基皇子でした。
日本書紀に記述されています。(「日本書紀と青木氏」のレポート参照)
この時に最初に中大兄皇子から直接与えられたのが第6位皇子の施基皇子の伊勢の「青木氏」(3)と特別に第7位皇子の川島皇子の近江の佐々木の地名から「佐々木氏」の氏を与えたのです。
この制度に則って実力のある皇子には氏を与えると云う「賜姓の仕組み」が出来上がりました。
この「皇族の改革」を始めとして、「八色の姓」に準じた他の臣下の特別な豪族の身分改革も起こりました。政治機構は一段引き締まる体制が出来上がりつつありました。
そこで、先ず、皇子族の「身分制度」を明確にする為に、更にそのステイタスの表現の一つとして「独自の印章」(「印章制度」)を用いて明確にする様に改革しました。

5つの制度改革
「家柄制度」
「身分制度」
「職務制度」
「賜姓制度」
「印章制度」

天智天皇はこの2人の皇子にはそのステイタス(印章)として「竜胆の花」とその「葉の形」を文様として「笹竜胆紋」(4)を使用する様に命じ他の氏には使用を禁じ区別させました。
こつ「実力主義」に基づく「5つの制度」に裏打ちされた「笹竜胆の印章」が後に各氏の「家紋」への展開の始まりと成ったのです。その代表者が始祖の施基皇子の青木氏であったのです。
施基皇子は第6位皇子でありながら皇太子よりも3階級も上の官位(浄大1位 天皇に継ぐ官位)を獲得したのです。異例中の異例です。
更には、この施基皇子は天武天皇の葬儀を皇太子に代わり取り仕切ると云う前代未聞の事も起こったのです。そして、日本の律令の根本と成る「善事撰集」司を任じられると云う名誉の編纂者に任じられたのです。
天智天皇が天皇家の守護神として伊勢神宮を指定し後に天武天皇が正式に定めましたが、天皇家にとって最も大事な祭祀の地のここの伊勢の国の守護王に任じた事からもその仕事ぶりが判ります。
そして官吏として彼の有名な三宅連岩床を伊勢国の国司として送っているのです。
恐らくは、研究中ですが、この事実の実力から観てこの「4つの制度」の制定も施基皇子が指揮したと観ています。
家柄、身分、職務、賜姓の制度に裏打ちされたこの「印章制度」を更に確実な権威付けなものとして次の事も実行しているのです。
これらの制度は完璧と云わざるを得ない程に理路整然として作り上げられているのです。
この時、その皇族賜姓族の「青木氏」にはその姓の源と成った「一族の神木」(5)として「青木の木」を指定しました。当時は青木は榊と同じく朝廷祭祀の神木として扱われていたのです。
そして、その「守り本尊」として日本最初の仏師の「鞍作部止利」作の北魏方式の仏像の「大日輪座像」(6)を与えました。「神木」を指定し「守り本尊」を与えると云う事は大和朝廷の始めての事でした。
次にそれまでは天皇一族自らを護る親衛隊が無く、「蘇我氏の増長」を招いたとして大化改新の一つとしてその「護衛隊の任務」(7)を与え、何んと細部には宮中の「3つの衛門」の護りの実務をも与え、これに官職名として左右の衛門に位を与え、「左衛門上尉」や「左衛門上佐」などの「尉佐と上下」の「4階級の職務」(8)まで設定し与えたました。
更に天皇家の守護神として伊勢神宮を指定しここを守護する王の「守護王」(9)の最大任務を与えると云う徹底した改革でした。

因みに、江戸時代には御家人や旗本等の中級武士以上が金品を渡して朝廷より一代限りの官位をうけましたが、例えば彼の江戸南町奉行の遠山の金さんは遠山左衛門上尉景元と名乗っていた様に。この元は皇族賜姓族の青木氏と藤原秀郷流青木氏に与えられる永代官位だったのです。

その後、上記「5つの制度」と共に施基皇子で始まった「9つのステイタス」に裏打ちされたこの権威のある第6位皇子に5代の天皇が5つの主要天領地の守護王を命じたのです。
天智天皇
天武天皇
文武天皇
聖武天皇
光仁天皇

第4世皇子までが守護王に任じられたのは下記の当時の天領地の王に及びました。
嵯峨天皇から賜姓源氏に変名されて11代続きましたが、下記の守護王や国司に任じられたのです。

天領地の守護王
伊勢王、近江王、美濃王、三野王(信濃王)、甲斐王、山部王、石川王、高坂王、雅狭王、栗隅王、武家王、広瀬王、竹田王、桑田王、春日王、難波王、宮処王、泊瀬王、弥努王
以上19王/66国

この中で伊勢王、近江王、美濃王、信濃王、甲斐王には第6位皇子が任じられ上位王として5家5流の青木氏が発祥しました。この5つの国に青木氏の子孫を遺しました。
他の14王ではステイタスが授与されましたが、氏を遺したとされる王と遺し得なかった王とがあります。賜姓源氏は滅亡しましたが、未勘氏として子孫を遺しているとされていますが、史実は結果として多くは賜姓佐々木氏がこの「印章権威」に保護されてこの地の多くに子孫を遺しています。

以下の9つのステイタスは皇族賜姓青木氏5代と皇族賜姓源氏11代と皇族賜姓佐々木氏2代に続けられました。
(1) 「第6位皇子」 (1)
(2) 「朝臣族」 (2)
(3) 「青木氏」 (3)
(4) 「笹竜胆」印章 (4)
(5) 「一族の神木」 (5)
(6) 「守り本尊」「大日輪座像」 (6)
(7) 「護衛隊の任務」 (7)
(8) 「左衛門上尉」や「左衛門上佐」などの官職 (8)
(9) 「守護王」 (9)

この9つのステイタスが5代天皇に引き継がれて「光仁天皇」まで続きましたが、「桓武天皇」と「平城天皇」は律令国家完成を目指して青木氏らの「皇親政治の勢力」を排除しました。
これに反発した「桓武天皇」の第2位皇子の「嵯峨天皇」が元に戻し、これに手を加えて「嵯峨期の詔」を発し、青木氏には皇族の者が下俗する際に称する氏名として使用を禁止しました。明治3年まで3つの混乱期を除き原則守られました。
このわずか後に、「平将門の乱」を平定した功労で「藤原秀郷」は貴族に任じられて為に、秀郷護衛団として第3子の「千国」を侍にしてこの詔に基づき(2)の身分を授かり、(3)の呼称を許され、(1)同等の身分を持つ青木氏として呼称する事を申請して、朝廷より母方を同じとする事を理由に、特別認可され発祥させました。
そして、代々青木氏と同等の天皇家の近衛軍の(7)(8)の官職を与えられ、(9)として伊勢、近江、美濃、信濃、甲斐の守護王の補佐官吏として国司に任じられました。
(4)では秀郷は下賜「下がり藤紋」の印章を維持しました。他の藤原氏四家は「下がり」を忌み嫌い上り藤紋に変紋しましたが秀郷は下賜家紋を固持したのです。
(5)は藤、(6)は春日大社として9つのステイタスを代々保持したのです。

以上の様に藤原秀郷流青木氏は皇族賜姓青木氏と全て同等の扱いを受けていたのです。
この様に家紋「下がり藤紋」には皇族賜姓青木氏の「笹竜胆紋」と同等の身分家柄扱いを朝廷から受けていたのです。家紋はこの様に「9つのステイタス」を背景にその全体的な「象徴」として観られていたのです。
この「9つのステイタス方式」を継承して、その第6位皇子には賜姓青木氏から家紋はそのままに源氏の賜姓に変更しました。賜姓源氏は正式には花山天皇までの11代の天皇に継承されました。合わせて16代続いた事に成ります。
この同等扱いを理由に源氏とも繋がりを持つとして、後に藤原秀郷流青木氏は源氏でもあるとする説が生まれたのです。

この様な「4つの制度」(身分階級制度等)の政治システムが次第に確立してゆく中で、その「立場を表す「印」が必要に成り、そのステイタスとして平安初期には真人族の貴族や朝臣族や他の藤原氏の血筋を引く公家や八色の姓族などにも使用される様になったのです。
この「印章」となる紋だけではなく同時に「他の8つのステイタス」がその身分に合して制度として引き継がれる様になりました。

この家紋化へと進んだ時期は渡来人の帰化人が国に同化し「渡来人」と云う言葉が使われなくなった時期で、律令政治が確立した頃の桓武天皇の時期からそのステイタスを表す諸道具や牛車などに盛んに「権威ある印章」が用いられました。記録によると牛車等に付けられた「印章」でその位身分の差異で道を譲れ譲らないなどの争いが起こるなど一種のブームと成りました。
平安初期の最初は皇子族、貴族侍、公家侍等の40程度の氏を構成する者が使用を許される様に成り、平安中期には80程度の氏、平安末期には200程度に拡がり始めて、鎌倉時代には幕府の推薦で朝廷が授与するシステムが出来上がり、ステイタスからはっきりと家紋化として侍にも身分の区別化として用いられる様に成って拡がりました。
鎌倉期には朝廷からこの「9つのステイタス」を授受される事が上級侍としての誉れとされました。
しかし、鎌倉時代の移行期を経て、更に室町初期には幕府体制の下で家紋の元に成った「印章」だけは武士を中心に上級武士の間で自らが定める完全な家紋となり800程度、戦国時代には1200程度と一時急激に増え、末期には淘汰されて平安初期程度に戻ってしまったのです。

この一連の「9つのステイタス」は、当初は「印章」から「家紋」に、「誉れ」から「判別」に変化して行きました。
この様に家紋を始めとして(4)(5)(6)だけは個別に成り、遂には(7)(8)(9)は実態とは別に名前だけを幕府の推薦と朝廷の授受するものと変わりました。
(1)(2)(3)は朝廷内部のものとして「禁令の詔」を発して明治3年まで原則護られました。
(2)だけは(1)と(3)の家柄を持つ氏に与える事として定められました。これは結局は鎌倉、室町幕府を開いた征夷大将軍にのみ与えるものとして遺されたのです。
因みに徳川幕府は(1)(3)の朝臣族の家柄になく南北朝の天皇家の乱れた系譜を搾取偏纂して朝廷の抵抗を撥ね退けて強引に取得すると云う有名な事件が起こりました。すでに南北朝時代はこの制度は無くなっていました。徳川氏はそこを突いたのです。
安定した桃山時代には遂には秀吉が天皇家の五三の桐紋等を勝手気ままに与えるなどして再び増え江戸初期には家紋奨励するほどに中級以上の「武士階級」は全て持つように成りました。
江戸中期からは朝廷は(7)(8)(9)を乱発して経済的な収入源とした為に中級武士以上は全て持つ様に成りました。結果的に(4)は室町末期からは自由と成ったのです。
江戸末期から明治初期の戸籍化に因って裕福な一般庶民も使用する様になり、何時しか全ての氏が使用し日本全国には8000もの家紋が存在する様に成りました。

この様な経緯を持つ家紋は初期には特定の氏だけに認められて使用を禁じられていましたが、禁令の順守が緩やかに成り鎌倉末期には慣習化されて次の様なルールに基づき使用される様に成りました。
江戸時代初期には幕府により概要が明文化されて各大名が更に慣例に基づき自らの氏の「家紋掟」を定めて氏家制度を保持しました。

この様に、完全な画一的な掟ではなく、統一する事は各氏の事情により異成る為に、大筋を社会慣習にて定めたものです。例えば奈良時代から存在する一連のステイタスを保持する藤原氏の様に元来丸付き紋は使用せず、大一族一門を見分ける為に丸付き紋では困難であり、分家を始めとする分流分派を見分ける為にも「副紋方式」の様な独特な詳細な掟を定めました。
因って、皇子族、貴族侍、公家侍、大古豪族の家紋は当時の社会慣習により、血縁関係も身分釣り合いと純潔習慣があり、丸付き紋は原則使用していません。
依って、(1)(2)(3)、(4)(5)(6)、(7)(8)(9)のステイタスが3つに分離が起こり、その結果、武士階級によって家紋が左右される様な時期からは「丸付き紋」が始まり、氏が拡大して行く室町期頃からの必然的な使用と成りました。

本来、この家紋の丸付き紋の目的は、青木サイトとして「家紋掟の古原本」より筆者なりにまとめますと、「氏家制度」の武家社会の「家紋掟」により細かく分けるとすると、7-8つ程度の役目があります。

以上の経緯を考慮に入れ次ぎの各要素を組み入れて家紋を分析する事で、ご先祖のルーツ解明の一つの手段に成りご先祖の氏での位置付けが見えてきます。

皇族賜姓青木氏29氏は特別な史実に基づく未勘氏を除くと原則丸付き紋は使用していません。
ただ、笹竜胆紋は、当初は「部分変紋」を使用していたと観られていますが、「賜姓青木氏の笹竜胆紋」と「賜姓源氏の笹竜胆紋」と「賜姓佐々木氏の笹竜胆紋」は竜胆の花と5枚葉との間の軸の部分を変化させて判別させていたと観られます。
調査すると、賜姓青木氏の場合は軸状、賜姓佐々木氏の場合は円点状、賜姓源氏の場合は菱状であったと観られ判別されていた模様で何時しか軸状と同じに成っています。
この原因は奈良時代から平安時代の皇族の「純潔慣習」が保たれて「同族血縁」を繰り返した結果から「部分変紋」を維持する事が難しく成ったと考えられます。
この「同族血縁」が制度的に続けられていた最後の時期は、伊勢青木氏の血縁を観ると清和源氏宗家源頼光系頼政の仲綱の子との養子血縁をしている事から、1180年頃から1185年までと観られます。平安末期です。
その理由は最大勢力を誇った清和源氏は1195年で滅亡しました。後は同紋5家5流青木氏か近江佐々木氏との同族血縁しか無く成っていました。その後には美濃、信濃青木氏との血縁が観られます。依って、「部分変紋」が無くなったと考えられます。

同じく藤原秀郷流青木氏も原則は使用していませんが、116氏の内30紋が丸付き紋と成っています。依ってこの30紋は江戸初期前後に発祥した氏が多いのです。
青木氏に関しては、あくまでも丸付き紋単独で存在する家紋はなく全て分家である事が裏付けられます。つまり、単独であっても分家が生き残ったと観られる氏であります。
室町末期、江戸初期、明治初期に発祥した青木氏には全てと云ってよい程に「丸付き紋」が目立ちます。
これは、室町末期は下剋上と戦国時代を経て立身出世した者が没落した氏の家紋などを使用する、又は似せて使用した事から家紋掟に憚って「丸付き紋」を使用したことが原因と成っています。
「下剋上」で元の主君の家紋を何等かな方法で使った事が大きく原因しています。

江戸初期は武士に成った者や家紋の持たない下級武士であった者が左程に氏を構成するほどに大きくなくてもこぞって持つ様になりました。この時、土地柄や周囲の盟主豪族の家紋に似せて「丸付き紋」と「一部変紋」や「糸輪紋」や「囲い込み紋」の方式で変化を付けて家紋を作りました。

この時期は武士の間では急激に家紋が増えた時期です。家紋としての役割がそれほど無い家でも”家紋が無い家は武家ではない”とも観られた時期でもありました。

(参考 当初「武家」とは「公家」に対して「氏」を構成する「侍集団」として主に天皇を護衛する武力集団として呼ばれたもので、室町末期ころから一般の「武士」までを呼ぶ言葉と成った。大化期に伊勢青木氏から最初に発祥したもので、それまでは「部」を構成する武力の職業集団であった。)

氏家制度に沿って一族一門が結束する為のステイタスとしての役割では無く、氏が乱世で個別離散して持った為に一族間でありながらも家紋の違いが起こる等の問題が起こりました。
この時期、この様な家紋やルーツを手繰る専門の職業が生まれて、力のある者は良く似た家紋を作ってもらう等のブームが起こりました。

明治初期は氏家制度や身分制度の崩壊で政治新体制下で「契約社会」となりました。この為全ての国民が姓を持つ事を義務付けられて明治3年に「苗字令」8年に「督促令」が公布されました。
なかなかその習慣に馴染めない民衆は一度にある日村全員が村の周囲の盟主の氏を名乗るなどして苗字を持ち、苗字に合わせて家紋も同じ要領で持つ等の事が起こりました。
苗字でも民衆は8年も掛りましたから、家紋に至っては文様を考案する等は程遠く類似する家紋か盟主の家紋に「丸付き紋」を付けるなどの事で対応するのが限界でした。
この時、憚って盟主の家紋に主に丸付き紋を付ける事などして家紋化が起こりました。
例えば、全国各地に多い「下がり藤紋に丸付き紋」はこの時の家紋群で、群や村の全員が藤原氏の宗家本家筋だけが名乗る「藤原氏」を名乗り、又合わせて家紋も使う等の事が起こったのです。
この様に各地では盟主の家紋に「丸付き紋」が多用されました。
家紋で代表される「源平藤橘」の「丸付き紋」はこの様な背景から生まれました。
因って、「丸付き紋」には元来、正規には分家を意味しますが、氏の発祥の時期によってはこの様な意味を持っているのです。この時期の「丸付き紋」の家紋は村の盟主の「分家」と云う意味を広義に捉えた手段に成ったのです。
中にはそれなりの理由根拠があり、盟主が「農兵」として駆り出しその功労として姓と家紋の使用を許すと云う行為を多用したのです。しかし、「農兵」にしてみれば彼らには生活の中に苗字や家紋を使うそのような慣習がなかったのですから、当時としては何の価値もありませんでした。
しかし、明治の苗字令で督促されて過去のこれを持ち出した事が起こりました。盟主にしてみれば文句の言えない事でした。
明治期には盟主は地主に成り、農民には小作人として働いてもらわなくてはなりません。むしろ、苗字と家紋は新体制維持のためには是非もない事でもあり維新政府の奨励と厳しい指導があったのです。

上記した様に「印章」から始まり「家紋」化したものには必ず其々次の特徴を持っています。
1 由来姓
2 時代性
3 地理性
4 氏名性
5 特記

以上の1から5の「其々の特徴」と「氏家制度の慣習」とを把握し勘案するとその氏の家紋の発祥内容が確定できます。
特に青木氏に関する内容については明確になります。
従って、「丸付き紋」の有無で「氏の構成具合」は評価できるのです。
普通は次の要領で判断されていました。

a 嫡子が存在する場合
本家筋の末裔と分家筋の末裔に分離する。
嫡子が同紋を引き継ぐ。
本家筋の嗣子には家紋部分変更を行う。
分家筋の嗣子には丸付き紋を付ける。
妾子には丸付き紋を付ける。
因縁性のある嗣子に丸付き紋を付ける。

b 嫡子が存在しない場合(女子がいる場合)
婿養子先家紋に変紋し、婿養子が妾子の場合は丸付き紋を付ける。(養子先本家の許可)
この場合は変紋時、正式略式の場合の使い分けを行う。
婿養子に嫡子が出来ると元の家紋に戻る。(本家の許可)
2代続きの婿養子では親の婿養子先の家紋に確定する(女系化 婿先系の新氏発祥)
確定時に丸付き紋の有無の許可を婿養子先に求める。

c 嫡子が存在しない場合(子供居ない場合)
養子婿を迎え嫁を取る場合、丸付き紋に変紋する(本家の許可)
養子婿先の家紋に丸付き紋を付ける。

d 嫡子が存在しない場合(縁者より養子の場合)
家紋は変わらない。(最も一般的で多く採用された方法)

大きな氏は原則、「丸付き紋」で対応する事に成りますが、次の要素により3つの変紋の手段が採用される場合があります。
 「時代の変化」
 「地理的な変化」
 「氏の拡大」
 「全体の氏性」
以上が原因で大きい氏は確実に把握が困難と成りました。

この自然淘汰による履歴の把握が困難に加えて、家紋経過には次の事が起こりました。
 室町末期(新興勢力 氏のステイタス)
「下剋上」と「戦国時代」で混乱 奈良時代から始まった氏の構成が新興勢力に新しく変化した。
この為に氏を示す家紋も新しく発生した。

 江戸初期(下級武士 氏の判別)
新興勢力の氏は自然淘汰されて、氏の安定期に入り、それまで氏を構成しなかった下級武士が改めて興し独自の氏と家紋を持った。

 明治初期(庶民 家柄の誇示) 
「氏家制度」の崩壊で明治維新の「契約社会」へと変化し、全ての国民が苗字を持ち氏をあらためて構成し始めた。当然に家紋も併せ持った。

以上の3乱期には第3氏が「丸付き紋」を採用しました。
この為に「丸付き紋」の採用は一族性に問題を生じて来ました。
ただ、氏家制度が無くなり身分制度の無く成った社会慣習の明治初期以降に使用された家紋が、この家紋掟を護られたかは疑問ですが、a、b、c、d、イ、ロ、ハ、ニ、等の方法の中でただ「養子縁組」になると「丸付き紋」だけを一時使用していた事は確認されています。
現在では家紋の持つ意味も核家族社会の中で無くなり殆ど護られていない事と思います。

そこで次の4つの方法が採用されて来ました。
上記abcを繰り返して行くと次の方法が採用されて来ました。
イ 部分変紋(最も多く用いられた方法)
ロ 囲い込み紋(糸輪紋含む)
ハ 陰紋
ニ 類似変紋(イの変化)

#1 嫡子の本家筋ルートは次第に分家化する。
主に家紋の「部分変更紋」で何処の本家筋かを判別する方法を採用した。

#2 嗣子の分家筋ルートは次第に分家化する。
丸付き紋が細分化すると丸は採用できなくなる為に、主に「囲い込み紋」を採用して分家筋を判別する方法を採用した。更に「部分変更」を加えて対処した。

#3 妾子の分家筋ルートは次第に支流化する。
「丸付き紋」が細分化すると重複して維持できなくなる為に、一族性を保持する為に家紋の明暗を逆転して主に「陰紋」を作りだした。

#4 #2 #3のabcが進むと次第に傍系化する。
更に血縁性が不明確に成り傍系支流化すると「類似別紋」を採用した。
「部分変紋」にはその違いの大小に依って「類似変紋」に変化する事も起こる。

大小の氏では時代性が異なるが#1から#4の経過を辿っています。

(本来は6つの掟)
1 宗家、本家、分家、支流、分流、分派の区別
2 嗣子と妾子分類
3 宗家の許可
4 配流子孫の区別
5 男系跡目の継承
6 養子縁組
7 嫡子尊厳
8 身分家柄の保全

1についての説明
先ず、宗家が家紋を決めます。そこから枝葉が拡がります。
又、それぞれの本家ができます。そして、嫡子以外は分家となります。
これを繰り返してゆきますと、1の様に呼ばれる枝葉が拡がります。
この6つに更に宗家から分派まで出来る事になります。
この大元が「総宗本家」となります。
この時、家紋の使用はそれぞれの本家筋が伝統を重んじ使用許可を出して決めます。
氏家制度の中では一族の「純血」を出来るだけ守るためにそう簡単には使用を認めません。
この許可は嫡子が行います。
嫡子は何も長男とは限りません。能力のあるものが嫡子となります。
長男が嫡子と成る事を決めたのは「江戸初期」の徳川家康が決めました。徳川家の後継ぎとして定めたものです。これに諸国の大名が習ったものです。
氏家制度の中では実力のあるものが成ります。
嫡子が出来なければ、氏の血筋目が立ちませんし、「長」がいないことにも成る訳ですから、当時の「妾」の存在の概念は罪悪感はなく子孫を残すと云う人としての大命題である為に氏家制度では普通の概念でした。
ただ、とは云え「正子」と「妾子」では身分上で原則区別されます。しかし、「正子」に「妾子」が勝れば子孫繁栄存続の目的のために「妾子」が成ることがあります。「正子」が無ければ「妾子」が「嫡子」に成ることがあります。
この為、大きい氏では妾子は次ぎの3つの身分に分けられます。
妻の身分
 后:きさき (正妻)
 夫人
 妃:ひめ、
 嬪:みめ、

 采女:うねめ

正妻と次ぎの2つの妻との間には一つランクがあり、更に妥女との間にも一つランクがあります。
当然、この子供が独立するとなると、歴然としてその扱いには差異があり、家紋の継承が問題と成ります。
正妻の身分に子供が居ないとなると必然的に下に降りて行きますが、嫡子が江戸時代までは原則正妻よりランクに従い長男と成りますが誰になるかは別問題です。
これは大きい氏には正妻等の血族結婚による弊害を避ける事もあり、戦国時代で優秀な者を嫡子にしなければ氏の存続は保てない事情もあります。
本家宗家はこのシステムで血縁性と家紋継承を保つのです。

「正子」がいる場合は「采女」の身分まででは、「丸付き紋」は当然の事として「部分変紋」又は「陰紋」「類似変紋」「別紋」の順序でかなり厳しい扱いを受ける事に成ります。
この3つの身分扱いは各氏で血縁性を担保するために「掟」として定めていました。
一般的には「丸付き紋」「部分変紋」「陰紋」「類似変紋」「別紋」の順序となっています。
「陰紋」はその意味合いや目立たない事から比較的に使用を嫌われていました。
家紋は「部分変紋」の差異が小差であるから「類似変紋」へ、「類似変紋」の差異が大差であるから次第に「別紋」へと変異しているのです。
この様な「家紋掟」の中では分家以降は余程その子孫の枝葉が大きくならないと勝手に家紋を決める事はできません。
依って主要な大豪族は原則「丸付き紋」は使用しません。多くは「副紋方式」です。
分家の分家以降は主に普通は「丸付き紋」が多いのですが、これは、普通の氏で、分家である場合か、他氏の無断使用の場合かによります。
しかし、ここで「丸付き紋」に欠点があります。
分家の分家の場合は「丸付き紋」は二重の丸となり使えないことが起こるのです。そこで「丸付き紋」に「部分変紋」が起こるのです。そこで又更に分家扱いが起こると「部分変紋」にも限界が起こる為に「類似変紋」と成ります。
この「類似変紋」に来ると「変化の多様性」つまり差異が大きく取れる特長を持っているので「別紋」に至るまでには時間的な経過期間を保てるのです。この様にして一族の家紋は変化して行くのです。
血縁性の経緯を一定に保つために戸籍簿、系譜の様に氏家制度の中ではそれを宗家本家が管理している事に成ります。
しかし、この管理が江戸中期以降緩んだと云う事に成ります。宗家本家の力が落ちた事を意味し、氏家制度も低下した事に成ります。明治期に入り氏家制度が崩壊し、家紋の使用は庶民に広がったがその家紋の持つ意味合いは「9つのステイタス」からほど遠く成り、「氏の誉れ」と云う単位から「家の虚勢」へと変化していったのです。
藤原秀郷一門の家紋掟ではない「丸に下がり藤紋」は庶民のせめてもの「虚勢行為」と考えられます。
例えば、藤原氏の「下がり藤紋」や「上がり藤紋」に「丸付き紋」は、元来、家紋掟では副紋方式ですので、第3氏である事になります。この様に「源平藤橘」の紋は主に副紋方式ですが、源平橘の氏の子孫拡大はそれまでに至っていません。依ってこの3氏には「丸付き紋」の未勘氏が多いのです。

「橘紋」は藤原氏に圧迫されて子孫を多く広げる事は出来ず大衰退を余儀なくされ、この衰退を末裔は忌み嫌い、橘氏自身がこの橘の紋を使う事をやめると云う事が起こりました。依って、第3氏の丸付き紋の「橘紋」も著しく敬遠されました。丸付き紋になる程に橘紋は使用されなかった筈なのです。子孫もそれだけに広がっていないのです。
ところが、橘紋には上記の由来性、時代性、地理性や宗派性に先ず矛盾し尚且つ丸付き紋が実に多いのです。
この氏は地理性が極めて限定されいて大変氏が小さいのですが、矛盾しての名乗る氏が驚きを超える程に多いのです。

平家の「揚羽蝶紋」は滅亡して関西以西に逃亡して農民として隠れ忍びましたので、この家紋を公に使う事が憚られ室町期に入ると表に出てくる事が再び起こりました。この為に史実から末裔の素性が明確になりません。各地で農民として生きていた為に「丸付き紋の揚羽蝶」が出来る程に管理されていなかった筈なのです。「揚羽蝶紋」に対して実は平家の分家には「臥羽蝶紋」もあるのです。平家には「丸付き紋」は元来なくこの様な家紋掟により分家筋は実は「臥羽蝶紋」が使用されていたのです。丸付き紋の史実がとれない平家の未勘氏も子孫の数より数倍も多い氏が驚くほどにあります。

源氏の11家11流がありましたが、清和源氏、村上源氏、宇多源氏、嵯峨源氏の末裔が何とか政争の中でも生き残りましたが、中でも引き継いだ鎌倉時代の清和源氏の頼朝の末裔が滅亡して史実は子孫を遺せなかったのです。
何とか「不入不倫の権」で守られていた賜姓青木氏の5家5流と近江の佐々木氏、宇多天皇の滋賀佐々木氏がこの笹竜胆紋を維持して来ています。
清和源氏の未勘氏が膨大と云う言葉で表現出来る程に多いのです。何んと家紋から観ると1165氏も名乗りを揚げているのです。1/100も無い筈です。未勘氏を入れると2000前後にも成ります。
普通でも身分家柄上同族血縁を原則としている為に、これほど清和源氏が子孫を遺す事そのものが難しいのに源氏だと名乗っている氏があるのです。
そうだとしたら、源氏の末裔を尽く潰した鎌倉幕府の北条氏らは放って置く事はありません。
鎌倉幕府の後の政権を取った足利氏も家紋の違う傍系支流ですから、本流の末裔が生きているのであれば足利氏の室町幕府に参加していた筈です。
そして、副紋も丸付き紋等も使わない掟のある氏であり、嵯峨期の詔で禁令が出ているのに、家紋は笹竜胆紋ではなく氏名も異なる氏が源氏だと名乗っているのです。ほとんどは史実がありません。

因みに、上記した藤原氏に殆ど抹殺され、氏名家紋を使う事さえ嫌われた橘氏ですが、家紋から観ると86氏も名乗っているのです。藤原秀郷一門でさえ永嶋氏は34氏、長沼氏が52氏、進藤氏は48氏、長谷川氏は111氏、もちろん青木氏は116氏で、「関東屋形」と呼ばれて平安、鎌倉、室町期、江戸初期までに全盛を極めたこれらの秀郷一門の氏でさえせいぜい30-50程度です。
それが橘紋86もあると云うのです。未勘氏を入れると150くらいにも成ります。

ところが、藤原秀郷一門の主要5氏で観てみると、全部で361氏ですが、家紋から観てみると不思議に371氏なのです。未勘氏を入れると凡そ500程度に成ります。意外に少ないのです。
これは、一門が「第2の宗家」として青木氏を中心にして管理されていた事を物語り、なかなか第3氏が秀郷一門の氏名(家紋)を名乗れなかった環境があった事が云えます。

つまり、代表的なものとしてあげれば、傾向として「源平橘」は滅亡しているので氏の「厳しい管理の目」が無く自由に名乗れると云う現象が、室町末期、江戸初期、明治初期の3乱期に起こっていた事を意味します。

賜姓青木氏でも、或る伊賀の立身出世した者が、元近江青木氏が滋賀に移動して再び近江に戻りましたが、一部滋賀に残った全く絶えた分家を乗っ取り、滋賀の青木氏を名乗り、その近江青木氏本家がこれに異議を申し立て2度も戦いをしました。最終、秀吉の承認の下で決戦をし滋賀から近江に戻った近江青木氏本家は負けてしまったのです。伊賀上田の者は滋賀青木氏を堂々と名乗り、後には滋賀青木氏本家を名乗ると云う事件さえ起こりました。そしてこの滋賀青木氏は著しい子孫拡大を果たしました。

藤原氏に付いても群村単位で農民が名乗りましたが、氏家制度の管理が解き放たれた明治期に成って名乗った事、秀郷宗家本家筋が名乗る氏名を名乗ったが、家紋はなかなか使えなかった事と丸付き紋等を使用した事によるものと考えられます。
藤原氏全体では未勘氏があまりに多すぎて検証は困難です。

この様に、絶えた有名な氏を名乗った「虚勢」の未勘氏が実に多いと云う事なのです。
氏家制度の慣習の中では上記した5つの条件から検証するとそれを明確に検証できるのです。

この現象は「源平籐橘」全てに云える現象です。如何に室町末期や江戸初期に武士となった者が搾取して家柄身分に「虚勢」を張っていたかが判ります。
殆ど、5つの条件 即ち、由来性、時代性、地理性、宗派、特記や当時の慣習などから調べると矛盾が出てくるのです。

伊勢青木氏よりはじまった賜姓紋の笹竜胆紋は副紋も一切使用していませんので、本家筋の「総紋」の継承と成りますので、丸付き紋の笹竜胆紋は「未勘氏」(明確でない氏か史実として認められるが継続した証明がとれない氏の事)か第3氏の使用となります。

笹竜胆紋や下がり藤紋の青木氏は、各青木村を形成して嫡子がいない場合とか死んだとかした場合は、青木村を形成している事により縁続きの者を迎え入れて同じ血筋を保持し家紋を保持する事が出来たのです。これを護る「宿命的な伝統」のそのような仕来たりがあったのです。

笹竜胆紋は5家5流の青木村と24の国の青木村、下がり藤紋は武蔵入間を中心に神奈川横浜を半径とする地域に116氏の青木村と24国に青木村を形成していますので、宗家本家筋が血筋と家紋維持のためには縁者を迎え入れる事は氏家制度の中で管理されていればそう難しい事ではありませんでした。

笹竜胆紋の青木氏と下がり藤紋の青木氏との相互血縁も母方血縁族ですので不可能ではありませんでした。
例えば、讃岐藤氏の秀郷流青木氏が足利氏系青木氏や甲斐の武田氏系青木氏を保護し血縁、
神奈川の秀郷流青木氏が信濃諏訪族青木氏を保護し血縁、
伊豆の賜姓青木氏と神奈川の秀郷流青木氏が血縁、
その伊豆賜姓青木氏と本家筋の伊勢賜姓青木氏との血縁、
信濃賜姓青木氏と美濃の秀郷流青木氏との血縁、
その信濃賜姓青木氏と伊勢賜姓青木氏とが江戸末期まで各1300年程の歴史を持つ伊賀和紙と信濃和紙で結ばれた長い期間の血縁関係、
皇族丹治氏系青木氏と入間秀郷流青木氏との血縁

以上の様に複合した血縁関係等の多くの史実があり、恐らくはこれ以上に慣習として頻繁に更に相互間で行われていた事が予想できます。
同じ村単位だけではなく、何処に血縁族が居て互いの宗家に話を通せば相互間で紹介し合える仕来りが生まれていた事を物語ります。

「第2の宗家」の秀郷流青木氏はこの管理を江戸初期頃まで一元化して管理したいた事が判ります。

氏家制度の青木村は「只一族が集まる」というだけではなく、「9つのステイタス」の家柄、身分、家紋、伝統、血筋等を護るために「血縁関係のシステム」即ち「氏家制度の根幹」を担っていたのです。
この様に同じ青木村だけではなく各地に分布する青木村から迎え入れる事も頻繁にしたのです。この様にして広い範囲から宗家、本家、分家、支流、分流、分派から迎え入れる事で血筋の弊害をなくしていたのです。
その証拠の一つに、甲斐武田氏が滅びた時、甲斐賜姓青木氏、武田氏系青木氏、諏訪族青木氏ら一族一門が藤原秀郷一門を頼って神奈川や栃木など、四国讃岐、土佐、阿波にも逃げ延びた史実が残っています。これは真に宗家本家筋のこの管理が行き届いていた事を証明するものです。

一般の「丸付き紋」は、この事から宗家、本家、分家、支流、分流、分派の5つの中で血縁性の高低で直系性が無く成る場合に多く使う事を求められました。
この6つの流れの中で女系と成り新たに氏を発祥させる事となると、ここで始めて丸付き紋の家紋が出てくる事に成ります。「丸付き紋」で違いを出し「支流性」を表現して宗家との区別をします。
始めから「丸付き紋」の氏はこの結果で生まれるのです。
「丸付き紋」の家が血縁性が低下した場合に丸付き紋に更に丸付き紋の変紋は物理的に困難ですので、「部分変紋」や「囲い込紋」や「陰紋」が一定の規則の下で使われたのです。

家紋200選から観るとむしろ本家より分家が勢力を持った結果3割もの丸付き紋が多い事になります。

2番目の嗣子と妾子扱い
これに当たる場合は嫡子が指示しない限りは「嗣子」は原則丸付き紋は使用しない事になります。
しかし、嫡子の指示が無い場合の「妾子」は原則使用することになります。ここに区別がつきます。
只、妾子が嫡子となった場合は自らが決める事になりますので問題はなくなります。
ここに、嫡子、嗣子、妾子の問題が出て類似家紋が増加する事に成ります。
氏家制度の中での妾の概念は制度を維持する為の方法に主眼が置かれていて、元来は男子子孫を遺す事に目的があり、妾子の妾の差別的な概念が強く生まれたのは長男=嫡子となった江戸期に入ってからの事です。

3番目は宗家の許可です。
氏家制度は宗家を頂点にして一門を構成しています。
当然に、勢力を持つ宗家から経済的、武力的、政治的な保護を受けて成り立っていますから、この組織からはみ出しての勢力拡大は困難です。一族の互助システムですから、家紋はそのステイタスですからその許可は宗家の許可を必要とします。宗家に睨まれると家の存続は元より家紋使用も難しい事になります。
家紋類を分析すると、現実には3割近くが丸付き紋の使用を指示された事になります。
そして、宗家本家筋より丸付き紋の分家筋の方が勢力を持った氏が3割近くもいた事を物語ります。

4番目は配流子孫の区別です。
平安初期から氏の戦いが起こり始めて負けた側が遠地に追いやられる事に成ります。
この史実として各地には配流されましたが、その史実は認められるが、戦いや勢力争いなどに敗れて島流しや逃げ延びたりしてその地で再び子孫を広げた場合などの時にその確たる証拠等がない場合のその家紋の使用は原則丸付き紋を使うことになります。
皇族、賜姓族の青木氏では5家5流以外に嵯峨期の詔により後に皇族青木氏を名乗り史実として認められる日向青木氏等の3氏の「丸に笹竜胆紋」の青木氏がいます。
源氏や青木氏外の丸に笹竜胆紋は上記した経緯から明治期か江戸期の第3氏となります。
比較的この場合の家紋が多く、源氏や藤原氏や橘氏や京平氏等の家紋にはこの「未勘氏」のものが大変多いのです。源氏等を名乗る氏の9割はこの配流子孫の類の未勘氏です。
この配流子孫の未勘氏には史実が明確な子孫と史実が発見されない子孫に分かれています。
ほとんどは言い伝えだけで史実の無い未勘氏です。

5番目は男系跡目の継承の原則です。
氏家制度ですから男子が跡を継ぐ事になります。
当然に上記した嫡子、嗣子、妾子に分けられます。
江戸の初期までは嫡子は原則正妻の長男と云う事では必ずしもありません。
一族一門を束ねるだけの器量を保持しているかどうかが問われる時代で又その制度でした。
因って、下の者に器量があれば嫡子に成る事もあります。
当然に内部で争いが起こります。それを乗り越えての試練でなくては一族一門を束ねる事は出来ないと考えられていました。必要悪の様なものでした。
中には本家からではなく分家に良い嫡子とみられる者が居れば養子に迎え入れて長に据える事も行いました。比較的分家から養子を迎える事が多かったのです。
本家に男子が生まれるとは限りません。そうなると分家から迎え入れて血筋や家紋を保つ必要が出ます。大きい氏では縁者関係まで広げて探し出して本家筋の血筋を護る事になります。
そうでない氏や分家支流筋は女子に婿養子、養子婿を迎えて嫁をとる方法が起こります。

6番目は養子縁組です。
原則丸付き紋です。
女子に婿養子をとると、男系の制度ですから一時婿養子の家紋を使います。婿養子に男子が生まれるとその男子が跡目と成れば家紋は元の家紋に戻ります。
しかし、再び女子に成れば婿養子を迎える事に成ります。この様に2代続いて女子となるとその家は女系となりますので男系の最初の婿養子先の家紋が定着してしまいます。
つまり、家紋は変化して新しい養子先系列の氏を発祥させた事に成ります。この場合は元の家紋に丸付き紋は使えなくなります。
又、多くは養子先からも本系列ではないので養子先家紋に丸付き紋とする事が多く起こりました。
この様に成らない様に宗家本家筋だけは無理でも縁者関係から婿養子を何とか探してきます。

女子もなく養子婿を迎えて家を継続する場合です。多くは分家筋の事となります。この場合は縁者から迎えない場合は血縁関係は無くなります。女子を縁者から迎えてそれに婿養子とする場合もあります。
家を継続すると云う事だけの目的で採る処置です。
従って、江戸時代では武士で家紋の持った家からの養子婿であればそれを家紋とする事に成りますが、どうせ許可は下りないので本家からの許可は多くは無視した様です。それでも摩擦を避けるために丸付き紋を使用する場合が多かった様です。
元々問題が起こらない様に丸付き紋の場合は丸の太さを変えたり中の一部を変えたりして新しいものを作りだしました。
家紋も持たない下級武士などそうでない場合が多かったので、家紋は無く新たに定める事も起こりました。しかし、大きな氏では出来ない事ですが、江戸中期以降では男系の血縁名性が途絶えても家紋掟を無視して家紋も継続してしまうと云う事が起こりました。
ほとんどの武士が家紋を持ち始めたのは江戸初期からで旗本、御家人等にブームが起こりこぞって持つ様になりました。従って、江戸初期からの発祥が殆どなので本家の許可云々の問題はあまり起こりません。ルーツを手繰れてもせいぜい普通は江戸初期までで室町期に入れる氏は少ないのです。
その点では青木氏は平安期まで遡れる氏です。
家紋8000の中では武士の場合は戦国時代を経てきたために子孫が少なくなりほとんどはこのタイプです。農民等から身を興して新たに氏を興した場合が多かったのです。
又、先祖が武士であってもそのルーツが下剋上や戦国時代で消失して判らなくなるなどして新たに氏を興したのです。この為に、未勘氏が多く成ったのです。使用した家紋のその氏に憚って丸付き紋とする事が多く起こりました。この場合は中の一部も変えると云う方法を使い争いを避けました。

七番目は嫡子尊厳です。
氏家制度の中では嫡子が絶対的権限を持っています。
嫡子に選ばれると他の嗣子妾子はその嫡子の心一つで家紋を引き継げるかどうか決まります。
家紋を引き継げると云う事は一族の中に残れるかどうかが決まる事です。
家紋を継げるという事はそれなりに財産分けがある事に成りますが、嗣子妾子はほとんどは他家に養子に出る運命です。勢力を拡大しない限りは抱え込むと氏の財政が圧迫するのです。むしろ、他家に出す事で勢力範囲が拡大する事に成るので積極的に行われたのです。
どちらかと云うと、結婚適齢期に婿養子に入ると云うよりは小さい子供のころから預けると云う習慣が多かったのです。その後に正妻や妾に嫡子が生まれたりすると、養子には家を新しく興して傍系支流を発祥させたりしました。
従って、家紋が変化することの方が氏家制度の中では正常な事であったのです。その為にも宗家本家だけは家紋や伝統を絶対的に護る必要が生まれたのです。
ただ、乱世であったことから婿養子に出て男子が多く生まれた場合で、養子先を子供に任して実家に跡目の問題など絶えたなどの事が起こると実家に戻る等の事が頻繁に起こりました。
固定された嫡子が長男と考えられるようになったのは江戸初期からで家康がその先鞭を付けたのです。

八番目は身分家柄の保全です。
氏家制度の中では「血縁はつりあい」で行われます。
その為には、家紋の判定が重要に成ります。
婿養子や養子婿では「つりあい」をある程度無視した形で行われました。
特に婿養子に男子の子供が生まれる事で解決するので家紋問題は解決します。
つり合いのとれない婚姻の場合は家紋継承が許されるかは問題で、丸付き紋を指示されたり、影紋や家紋の一部を変える変紋を要求されるか囲い紋を要求されるかは本家次第と成ります。
宗家本家筋の血縁には「吊り合い」が重視されますが、分家以下ではそのような事を云っていては跡目の継承は困難となります。養子縁組はこの様な事をある程度無視しなければ成り立ちません。
そこで、このままでは氏家制度が崩壊して行きますので、養子縁組には家紋の継承には一つのルールを設けていたのです。
以上の様な理由で一族の家紋は変化して行きます。
故に藤原秀郷流青木氏では116氏に成り、皇族賜姓青木氏(皇族青木氏含む)では24氏(29氏)に成っています。
この様に長い間に一族の家紋は元の総紋を宗家本家がどんな事が起こっても引き継ぐ苦労が伴いますが、上記の理由で分家筋では緩やかに拡がってゆきました。

その様な家紋継承にはそもそも次の様な方法があります。

A 「総紋」と云うのがあります。
これは宗家、本家が引き継ぐ一族の始めからの紋でそれが氏が拡大すると代表紋になるのですが、これが家紋掟により、分家と成った者が次第に家紋が変化して行き藤原氏で云えば361氏の家紋数に成ったと云う事です。その元の家紋が「総紋」と呼ばれるものです。藤原秀郷一門で云えば、「下がり藤紋」と云う事になるのです。この「総紋」と「藤原氏」の氏名を継承している事は361氏中限られた数の24氏と成る筈です。中でも「氏名」に付いては藤原氏にはある掟があり「藤原氏」そのものを名乗れる氏は武蔵入間の「総宗本家筋」だけと成ります。つまり、「氏名」も「総称」なのです。それを名乗ると成ると、"藤原朝臣青木左衛門上尉・・・・"と成ります。
この「総紋」を継承するには男系跡目を必ず果たさなくてはなりません。その為に宗家本家筋では妾子の方法も必然的に必要であり、それだけでも宗家本家筋に男子が生まれなかった場合には一族一門より男子を養子婿に迎えて嫁取りをします。女子がいれば婚姻し婿養子としますが、居なければ縁者から養女を迎えて婿養子をとる等して縁者による男系跡目の方策を構じて何等かな方法で宗家本家を維持し、家紋の一族紋の「総紋」の伝統を維持します。ここが宗家本家筋の大変なところなのです。当然に総宗本家を持つような大きい氏では確実に維持できる何等かな方法を構築しているのですが。

本家と分家の違いを出す方法
B 「副紋方式」(主紋に他の血縁族の家紋も併用して使用する)があります。
本家筋では養子を迎える努力はするが、どうしても叶わない場合は「総紋」にその迎えた養子先の家紋を併用する方法、或いは「総紋」の中にその養子先の家紋かその一部を組み入れて一つの家紋を作り上げます。藤原秀郷流青木氏の本家筋では「下がり藤紋」にこの2つの方式の何れかを採用しています。
宗家本家筋は依然として「下がり藤紋」です。
領国の宗家筋は総紋を維持する環境が周囲に整っていますので、総紋方式で継承して行けますが、地方に定住した本家筋には総紋維持は困難ですので副紋方式を用いたのです。
本家筋に近い分家筋ではここまで縛られませんが、丸付き紋を使わない下がり藤紋に藤の花数を変えるなどして変紋します。この意味から良く見られる現象ですが傍系支流が総紋の下がり藤紋である筈がなく、血縁性から副紋でもなく丸付き紋でもなく別紋である筈です。
藤原秀郷一門で「下がり藤紋」を家紋としているのは青木氏を含む主要7氏だけで、藤原氏だけでも系列から見て9氏しか使用できない筈です。主要7氏の宗家本家筋は結局、養子縁組が起これば副紋を使用する事に成ります。
361氏を監視しこの「氏の管理」をしていたのが「第2の宗家」と呼ばれた武力を持ち内外に睨みを利かしていた一門一族の大護衛団の青木氏なのです。

C 「丸付き紋方式」
明らかに分家となるとその氏が定めた家紋掟により養子先の家紋に変化して行きます。
丸付き紋を使用する氏は宗家本家に伺いを立てて丸を付けますが、許可が得られない場合は養子先の家紋と成ります。嗣子となった妾子の場合はこの対象に成ります。妾子は多くは他家に養子と成ります。この妾子が養子に入った先で男系に恵まれなかった場合は実家に家紋の使用の伺いをたてますが、妾子である事を理由で許可が得られない多くの場合は丸付き紋の使用と成ります。

基本的には丸付き紋は分家紋ですが、一部に女系に成ってでも分家と見なして使用している氏があります。
この様に分家の広義のとらえ方がひろまり分家の一種の分流や分派は丸付き紋と成ります。
血縁性の乏しい支流に広義に丸付き紋を使っている場合が多いですのでが、元来は別紋である筈です。
あくまでも丸付き紋は原則として同紋に分家筋以下を区別させる為に用います。

この他に次のような場合があります。
有名家紋の様な他氏の家紋を無断拝借する場合に多少なりとも遠慮して丸付き紋を用いました。
この現象は室町末期、江戸初期、明治初期に起った。
本流ではないが血縁性の低い支流であるがどうしても本流の家紋を使用したいとして丸付き紋を無断使用する事が室町末期に起こりました。

更には進んで直接血縁がなく自分の親族がその縁者である場合に丸付き紋を用いました。
縁者の縁者の場合であるので無断使用が多かったのです。
この様に、室町末期に一族の味方を誇示する事から、又その一族の背景がある事をにおわせて身を護ったことから丸付き紋が使用されました。

D 「影紋方式」
本家に遠慮して家紋の明暗を逆にして用いる。
丸付き紋を使用せずに家紋の明暗を逆転させて血縁性のある支流を誇示させる方式である。
室町末期に多く用いられました。

E 「変紋方式」
文様の一部を局部的に変更して用いる方式である。
軸、葉、花、花弁等の形や数を変更して用いる。
宗家から同紋の使用が許されないので、一見同紋の様に見えるがよく見ると一部が異にしている文様に変更して一族性を表現した。特に、妾子の場合にこの方式を多く採用した。
一般の家紋はこの方式から広まった。この方式からは血縁性が薄れる方式である。
室町末期、江戸初期、明治初期に広がりました。
特に江戸初期に御家人や旗本に多用されました。

F 「囲い紋方式」
角舛や糸輪で囲って用いる方式である。
糸輪は丸付き紋に似せて用いたもので変紋方式の一種である。
江戸中期以降に用いられたもので土豪集団、職人集団、氏子集団、檀家集団等の集団紋に多く用いられました。明治期には氏子の庶民はこの神紋や寺紋を使いましたので爆発的に増えたのです。
元の文様は神紋や寺紋から発展し小集団同士が結束して自主防衛の連合体を作りその集団紋としたものに多く観られます。
文様として囲う事で集団性を表現したものです。それを家紋としたものです。

この様な氏家制度を保つための社会慣習があり、家紋はその過程で変化して行くのです。
従って、各氏の家紋がこの上記する方式の何処に属するかにより氏家制度の中で大方の先祖の氏の位置するところが判るのです。

丸付き紋の青木氏
以下39の青木氏に関わる丸付き紋
・丸に州浜、丸に三つ盛州浜、・丸に抱き角、・丸に違い鷹の羽、・丸に蔦、丸に陰蔦、・丸に木瓜、丸に横木瓜、・丸に片喰、・丸に剣片喰、・丸に三つ柏、丸に蔓柏、・丸に梅鉢、・丸に揚羽蝶、・丸に九曜、・丸に三つ星、・丸に一つ引き、・丸に二つ引き、・丸に三つ引き、五瓜に丸に三つ引き、・丸に桔梗、・丸に三階菱、丸に三つ目菱、・丸に剣花菱、・丸に花菱、・丸に抱き茗荷、・丸に三階松、・丸に根笹、・丸に違い矢、丸に八矢車、・丸に隅立四つ目、丸に三つ目、・丸に扇、丸に違い扇、・丸に日の丸扇、・丸に並び扇、・丸に立ち沢潟、丸に三つ鱗、丸に青の角字

・印は「家紋200選」に撰ばれている丸付き紋の家紋です。
つまり、この青木氏の丸付き紋の氏は大豪族の氏です。

丸付き紋中の大豪族28紋/39紋で72%も占めています。
青木氏全体361氏の家紋からすると、家紋200選の丸付き紋28紋は7.8%を占めています。
全体の39紋では11%となります。
家紋200選全体から観ると28/200で14%です。

青木氏は丸付き紋の分家筋でも家柄、身分に釣り合いを合わせて血縁している事が云えます。

この分家を分家、分流、分派、その他で分析すると、次ぎの様に成ります。
分家 21家 79.5%
分流 12家 30.7%
分派  5家 12.8%
其他  1家  2.5%

殆ど、直系の分家で血縁(79)しています。
それも大豪族との血縁(72)です。

この丸付き紋の氏は次ぎの様な血縁で成り立っている事が云えます。

1 男系跡目が2代続きで叶わず変紋した氏。
2 直系の分家筋で丸付き紋に変紋した氏。
3 同族血縁した氏。

先ずは分家筋の氏に1の事が起こり他氏から養子縁組で変紋して家紋が増えて行くのですが、以上の内容データから観ると1-2にて氏が拡大して家紋が増え、そこで3-2-1の順に氏が構成されている事に成ります。
これほどの「家紋200選」にある丸付き紋の氏28氏もある事は1と2で起こった事とは、氏家制度の中での慣習からは、血縁関係は出来難いと考えられます。
大豪族を幾つも一門に持つ藤原秀郷一門の氏には血縁に関してはそれなりの明確な戦略があったのです。
イ 24の赴任地には土地の豪族との血縁族を拡げて勢力基盤を固めている事、
ロ 氏家制度の本筋でもある「血縁にはある一定の釣り合い」を求めている事、
ハ 氏が大きく成る弊害を克服する為に各地の同族間の純潔血縁を求めている事、

この「3つの戦略」を遂行すると一つの血縁上の問題(良い子孫が生まれない事)が生まれる為に、各地で他氏との血縁で一門で無い血液濃度の平均化を図る必要から、3を実行する事で「3つの戦略」は可能と成ります。故に、普通ではあり得ない上記の79%であり、72%等のデータが出て来るのです。

つまり、家紋から観ると、1-2-3-3-2-1-3を繰り返す事による家紋データなのです。
この中で、この上記する「家紋掟」は(1-2-3-3-2-1-3)の循環が働いているのです。

この家紋は次の事に大きく関わっているのです。
X 氏家制度の社会慣習
Y 家紋の掟
Z 宗派の慣習
1、2、3のサイクルは、上記X、Y、Zに大きく影響を受けて定まって行くもので、これを考慮しないでは判断できない仕組みの掟なのです。

家紋は9つのステイタスを背景として初期には用いられ、次第に氏の判別としての目的が強く成りましたが、それでも忘れては成らない事として「家紋」と同様に「宗派」も一種のステイタスであったのです。

家紋ステイタスと連動してそのステイタスとみられていた宗派は「古代密教」を掲げる3つの宗派でした。
天台宗密教、
浄土宗密教、
真言宗密教
以上です。

この3つは其々又違う階級の氏を宗徒としていました。
青木氏に関しては浄土宗古代密教を慣習として引き継いでいました。
あくまで密教でありますので、密教でない宗派との運営上のシステムが異なります。

氏が自ら寺を建立して自らの氏の者の住職を立て自らで運営し自らの氏だけを祭祀する排他的運営方式ですので、宗派の発展は特定地域に限定する事に成ります。この「菩提寺方式」がこれがステイタスの象徴と成っていたのです。その菩提寺に「寺紋」として「家紋」を使う事に成ります。
藤原秀郷一門はこの浄土宗古代密教ですが、24地方に赴任していますので、限定されたところにしか無い寺と成りますと、一時的に浄土真宗に仮入信すると云う事が起こりました。
赴任地に定住し勢力を拡大させた者は多くは同様に菩提寺を建立しましたが、一時的な事が本宗と成ってしまった氏も一部に確認できます。
この様に「家紋と宗派」は、その氏のステイタスであったのですから、簡単に「家紋も宗派」も氏家制度の中では変える事はあり得なかったのです。
それは氏家制度の中でそれまでの氏の「先祖の伝統」が切れてしまう事を意味しているのです。
自らの「伝統」を切る事は氏家制度の中では氏への冒涜の何物でもありません。
これは一人の判断で出来る事ではありません。
「家紋と宗派」は連動しての「氏の伝統の象徴」であったわけですから個人の判断では困難です。

因みに甲斐青木氏において武田氏が潰れる3年前に改紋と改宗した人物がいて大問題と成り親子、親族間の争いに発展したのです。結局は2人の子供が浄土宗の菩提寺を建立して家紋を戻す元に戻すという大事件が起こりました。
この様に「家紋と宗派」は氏家制度の中では連動して動いていたのです。
ここでは複雑に成る為に宗派の慣習を論じない事として別に機会があればその掟や社会慣習に付いて研究論文を記載する事にします。

青木氏に関しては室町末期から江戸初期前後に発祥した氏の家紋の丸付き紋と観られ、恐らくは上記した掟から丸付き紋と成るには50年から100年程度の期間が必要と成ると考えられます。
依って、江戸初期から江戸中期前までに分家化したものと考えられます。
江戸中期以降は政治的に安定期に入り家紋も当然に安定化に入り新たな氏の発祥は青木氏に関わるものとしては考え難いのです。
(幕末から明治初期に調査編纂された資料による為に家紋掟による以後の家紋の変化は未確認)

江戸末期には家紋掟の順守が低下した事から丸付き紋にする氏がどれだけ居たかは疑問であります。
多くは藤原秀郷流青木氏の末裔が室町末期から江戸初期にかけて家紋掟により新しく発祥させた氏の
丸付き紋と観られます。

(注釈)
「家紋」によるルーツの解明も然ることながら「戸籍」による解明も可能ですが、戸籍はそのルーツを紐解く要素が必要です。それが「氏名の継承」でありますが、戸籍の歴史は最も古いもので天智天皇の大化の改新時の一つとして「戸籍簿」又は「人別帳」成るものが作られたのが最初で日本書紀にも記載されています。この時の戸籍簿たるものは税の「租庸調」の課税対象者を設定する為のもので、その税の最低年齢が男6歳とした為に民衆の不満が爆発したと記録にあり、むしろ戸籍と云うよりは「人別帳」の色合いが強かったのです。
然し、これも平安期の荘園制度が確立する事に成り荘園内の事はその持ち主のものとして扱われた事により次第に公的なのものは消滅して、矢張りその一時的な「人別帳」的なものが使われた様です。しかし、荘園の民はその「氏名の継承」は有りませんので、次第にルーツの概念が薄くなり無くなり江戸末期までこの状態が続きました。あるとすれば村の庄屋が取り扱う「人別帳」程度であり、「武家」を構成し支配階級の中級以上の「武士」の身分と権威の保全目的から、その氏の「氏寺」、即ち菩提寺が「過去帳」として「戸籍簿」を管理する習慣に成って行ったのです。
これに対して、室町初期から中期には「下克上」が起こり、この支配階級の社会制度を崩壊させて、力のあるものはこの中級以下の武士が取って代わろうとしました。そのために多くの元の支配階級のこの様な権威を示す物件の焼き討ちや取り壊しをしたのです。その結果、権威を代表するステイタスの氏寺を含む等のものが消失してしまいました。又江戸時代から明治の初期まで250年以上続き多発した「民衆の一揆」もこれらの武家武士ではなく下級武士を含む民衆の権威への抵抗が起こり、この2度による「事件」と「反動」で戸籍や人別帳によるルーツの解明は困難と成ってしまっているのです。
それに耐えた特定の「地域」や「氏」の権威物件だけが遺される結果と成ったのです。
その意味で皇族賜姓族5家5流青木氏や藤原秀郷流青木氏等は「不入不倫の権」とその勢力に護られてある程度その難を逃れました。
(むしろ「民衆の一揆」の経済的支援はこれらの難を逃れた氏がシンジケートを使って裏から行っていた)
この様な歴史的経緯から、その意味で「氏名」を持つ事を命じた苗字令3年や督促令8年の明治維新体制が確立するまでの間は、「戸籍簿」に代わるものとして「過去帳」や「氏寺菩提寺」等の存在はルーツ解明には重要な要素に成るのです。
そして、この「氏名」等の歴史的経緯と「家紋」とその習慣は無関係ではなく連動しているのです。

(これ等に関する詳細は研究室関連レポートに記載しています

 

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藤原秀郷主要5氏と家紋の研究-秀郷一門24氏中主要5氏の青木氏らの実力-6/10

藤原秀郷主要5氏と家紋の研究-秀郷一門24氏中で主要5氏に成る根拠-6/10

史料6

秀郷一門24氏中で主要5氏に成る根拠

先ず氏の発祥順位から観てみると、主要5氏の夫々の生き様が観えて来る。
秀郷一門の主要5氏とは、兼光流青木氏、長沼氏、永嶋氏、文行流長谷川氏、進藤氏である。
順位としては、青木氏、進藤氏、長沼氏、永嶋氏、長谷川氏である。
当時の氏家制度の中で、発祥順位とその家筋は動かし難いものであった。しかし、その「理」に従っていない。その「理」よりむしろ平安末期から室町期までの間の動乱の「時代の変化」の力に左右されたものであると観える。その中でも、「絆」と「氏力」と言う力で統制されていたのである。

[氏の発祥順位]

(24氏の内、主な氏記述)
(・印は主要5氏)
(氏・秀郷より代・元祖)

・青木氏2(千国)
-渕名氏5(兼行)-近藤氏5(脩行)
-・進藤氏6(行景)-佐藤氏6(公清)-足利氏6(成行)-・長沼氏6(考綱)
-太田氏7(行政)
-嶋田氏8(景頼)
-小山氏9(政光)-下川辺氏9(行義)-大屋氏9(秀忠)-伊藤9(基景)-後藤9(公郷)-首藤9(助清)-武藤9(景親)-波多野9(経秀)
-佐野氏10(基綱)-中沼氏10(宗政)-結城氏10(朝光)-尾藤氏10(知広)-松野氏10(親実)
-斎藤氏10(叙用)
-・永嶋氏14(行長)
-・長谷川氏19(宗重)

考察
主要5氏の発祥順位は1 青木氏、2 進藤氏、3 長沼氏、4 永嶋氏、5 長谷川氏となる。
青木氏と進藤氏と長沼氏は2-6代目で速く、永嶋氏と長谷川氏は後発である。
先ず、青木氏の発祥順位と氏数は段突で、「第3子跡目」の藤原秀郷の家法もあり、「藤姓の足利殿と呼ばれる青木氏」であるくらいに最大勢力であった事を物語る。
私は、むしろ藤原宗家一門より、「第3子跡目の家法」と武力を持つ青木氏の方が実質勢力があったのではと考える。だから「藤姓の足利殿」と呼ばれていたのであろう。
ただ、「護衛の役目」と言う一段下の立場であって、力があるからと云ってこれを崩す事は氏家制度の絆を破壊する事に成り、自らの首を締める事にも成るので、立場を保持させたのでは、又、「発祥と氏数」から観ても、その乱れを一門24氏に対して指摘する立場にもあった事に他ならない。
何をか況や、24氏を抑える立場のその勢力を保持していた事を物語るものである。
だから、藤原秀郷一門と北家一門は明治までの生残るほどに強かったのであると観ている。

ただ、一つの弱点があった。それは朝廷を中心という体制の中での立場であった。だから、武士による鎌倉幕府が樹立すると失職離散の憂き目を受けたのである。
恐らく大変な歴史転換点であって右往左往したであろう。
しかし、この中で、青木氏は「武士」と「宗家同等の護衛」という立場から、「武力」をシンジケートと言う立場に作り変えて利用して、弱点を補う為に「2足の草鞋」策で生き延びたのである。だからこの氏数に成ったである。

その史実は、幾つもあるので挙げる。
伊勢青木氏の明治35年まで続いた紙問屋家業(伊賀地方の特産和紙)、瀬戸内に勢力圏を持つ讃岐籐氏青木氏の廻船問屋家業、堺摂津の青木氏の貿易家業、磯部氏を代表とする信濃の産物問屋家業、土佐、駿河の青木氏の遠洋漁業の海鮮問屋家業など、史実が地域に多く遺されている。
多くは、1350年代前後の創業と見られる。室町初期からである。平家からの圧迫からやっと逃れたと思うと、今度は、北条氏の足利氏、青木氏の藤原氏一門、賜姓源氏、賜姓青木氏等への圧迫が強まった時期でもある。その時期を乗り越える為に、2つの青木氏一門は「2足の草鞋策」を採ったのであろう。これは長谷川氏、永嶋氏の活動時期と附合するのである。
宗家に代わる青木氏の武力以外にも、シンジケートと同族大集団を維持する為にも、この「経済的裏づけ」が大きく左右したのではと観ている。
特に、史料4「共通血縁族」でも記述したが、秀郷一門主要5氏の補佐役の主要8氏(片喰族、剣片喰族等)の四国勢を秀郷一門の主力に押し上げていたのは、廻船問屋家業の讃岐籐氏青木氏であり、この「経済力」に支えられていたと考えられる。

だからその「武力」と「経済力」を利用して鎌倉幕府に合力して本領安堵されたりして、地方にいる青木氏は各地方の豪族と成り又家臣と成って生き延びる事が出来たから、この大氏数なのである。それでなくてはこれ程の氏数を維持することは出来ない。
この事は7/10以降のレポートの分析からも充分に云えるし、だから平安末期の後発の永嶋氏や長谷川氏でさえが勢力を保持したのである。
後発が主要氏として勢力を持ちえるには「武力」だけでは決して成し得ない事である。
だから、何れも主要5氏は全て「家紋200選」の比率では50%の高い率を持っているのである。
第3の青木氏を除けば、70%以上に達するとことに成る。

ところが、24氏中では永嶋氏と長谷川氏は最も後発である。
これは、最も後発でありながら、永嶋氏(14)と長谷川氏(19)が、秀郷一門の24氏の中で、経済力を発揮したと言う事に他ならない。武力は武力の反発を受けて「悪くのスパイラル」が起こり究極は歴史が物語る様にジリ貧である。しかし、経済だけでも同じく成し得ない。
「経済と武力」がバランスよく伴なわなくては長い歴史を成し得ない。
現に、詳しく7/10の永嶋氏レポートと9/10の長谷川氏のレポートでそれを証明しているので参照されたい。
それには、ただ「経済と武力」持てばよいと言う事ではない。其処には「戦略」が存在しなければならない。
戦略には、更に、その「血縁族の違い」と、「戦略の違い」に依るであろう。

それを次ぎに検証して観る。
永嶋氏は「血縁族の違い」では、「丸付き紋」(19/35=54%)が大変多い特徴を持っているが、大豪族(49%)と小豪族(47%)との血縁バランスを平均に持っている。

長谷川氏は「血縁族の違い」では、「丸付き紋」(35/111=32%)が少ないのが特徴であるが、大豪族(28%)より小豪族(68%)に重点を置いている。

永嶋氏の「戦略の違い」では、「地理性」に重点を置き、畿内から中部地方の家紋族と血縁して重点を小さく絞っている。「狭く濃く」の為に35氏である。

長谷川氏の「戦略の違い」では、北九州から東北まで満遍なく広げ、近江、伊勢、美濃、信濃、甲斐の小豪族との血縁をして重点を広くしている。だから、「広く薄く」の為に111氏である。
各地に小さく分布する長谷川氏支流族の「釘抜き紋」はその象徴である。

これ等は他の2氏に較べて後発と言う立場にあり、逆の血縁戦略を敷いたが、先発の長沼氏と進藤氏は「血縁族の違い」(52氏-48氏)と「戦略の違い」はその中間である。

長沼氏は北九州から中部地方にてやや西よりに、進藤氏は関西から関東地方にやや東よりで、両者とも中間巾を持っている。
これは、先発、後発の違いで先発の地域は身内の地域争いを遠慮した結果、後発の2つの氏には違いが出たものであろうと先ず思うが、多分、先発の時代と後発の時代の藤原秀郷一門の勢力範囲が違って来ていたのではと考える。
後発になるに従い、やや西よりに勢力分布が出来て来ていたと云う事であろう。

その理由として次ぎの事が言える。
1 藤原一門の赴任地が東山道から東海道、畿内、山陽道、南海道、最終は西海道へと移っている事。(その過程で各地に子孫を遺していった事の成果が出てきた)
2 桓武平氏(京平氏)との勢力争いで、皇族賜姓族(伊勢、美濃、信濃、甲斐)と血縁連合を組んだ事。
3 清和源氏頼光系一族との血縁連合を組んだ事。
4 清和源氏頼信系一族と秀郷一門の勢力圏を神奈川を境にして組んでいた事。
以上の事が挙げられる。

この事に付いて、後発の永嶋氏と長谷川氏が誰かが主導してこの「勢い」に乗ったと云う事だろう。

しかし、そう簡単には「勢い」で済まされないであろう。
「遠慮、深慮」と言うが、現実は秀郷一門の調整による勢力圏の振り分けが出来ていたのではと考える。自然に出来上がったというには余りにも上手く出来すぎている。
永嶋氏と長谷川氏の「狭く濃く」「広く、薄く」の関係、長沼氏と進藤氏の地域の「西より」「東より」の関係は自然にも出来上がらないし、相談しても出来難い「振り分け」である。
まして、「氏数」でも永嶋-長谷川関係、「狭く濃く」「広く、薄く」に合わした35:111とその特長に合致、長沼-進藤関係 52:48とほぼ同数の「圏域の巾」に合わしてを維持している。
明らかにこの「特長造り」は何処からか主導していると観る。

私はその参謀は青木氏に在ったと観ている。
主導するには「力」が必要である。少なくとも氏家制度の社会である。史料1-5でも解説しているが、青木氏は主要5氏の中でも、倍の力を持っている。力のないものが、主導してもこれだけの力の差があり、尚且つ、「第3氏の家法」に裏打ちされた「第2の宗家」に口がなかなか出せないであろう。
秀郷総宗本家の後押しもあろう。護衛と言う実績もあろう。武蔵入間を中心に青木氏116氏の本家筋が秀郷宗家一族を守っている。これだけのの条件が備わっていれば文句なしである。文句をいえば、武力差がものを云う。この時代は宗家に逆らえば文句なしの潰しの社会の氏家制度である。
先ず間違いないであろう。青木氏以外にない。
秀郷宗家に代わって”青木氏が統制していた”と観ている。
ある大學教授の「藤原氏の研究史料」では、一部「藤原秀郷主要5氏」を「青木一族の系譜」の中に入れているものもある。これはその程度に統制されていた事を物語る。

だから、青木氏は江戸時代まで勢力を持ち得たのである。
途中で鎌倉幕府樹立で朝廷職を失い各地の秀郷一門は離散した。しかし、取り敢えずは「頼朝」の2度の「本領安堵策」強行で息を吹き返し、領国と各地では主要5氏の末裔が大豪族、大郷氏、大豪農、大豪商、と大大名となって生残った。これを物語るのが、主要5氏の家紋なのである。
しかし、後の北条氏とは大変な軋轢が起こっていたのである。
地頭、御家人と対立しながらも、その代表的な氏として、幕府に入り、虎視眈々と狙っていた青木氏が守る秀郷宗家の足利氏がある。
そして、後に、足利幕府を樹立する事になるのである。
この足利氏が鎌倉幕府の重鎮として残り得たのは、頼朝の幕府樹立に最も早く合力して貢献した藤原宗家の朝光である。それが宗家足利氏に繋がったのである。この時、先ず最初に本領安堵されたのはこの朝光であり、その末裔の結城氏が先ず最初に北条氏に潰されたのである。そして、それを引き継ぐ足利氏も北条氏に圧力を加えられたのである。
しかし、上記する藤原一門の底力がそれを支えたのである。何をか況や、真にこの青木氏が一門を総括して支えたのである。室町末期の信長から逃亡した時も、青木氏が匿ったのである。
だから、信長は東には手を出せなかった。
この力は記録では明治初期まで続いている。その記録では、江戸時代の中部、関東で多発し、明治の2度の大「一揆」までを含めて、その裏での主導はこの藤原秀郷流青木氏と皇族賜姓青木氏との連合があった。
我々子孫が今に残るは、この先祖青木氏の努力以外に何ものでもない。
先祖の努力の理解が、これからの子孫の如何を左右する。
そのためにも、後世の青木氏が我々の時代を評価した時に、その何がしかの努力を受けるためにも、史料を提供してそれを考察して、現世で理解を広げて頂きたいと考えている。

次ぎの序文と7/10(永嶋氏の考察)からは秀郷主要5氏の本文に入る。
先ずは永嶋氏から入るが、以上1/10-6/10の史料を参考にして、お読み頂きたい。
そうすることで我々が習得した歴史の史実より、より深く理解が広まるものと考えている。

 

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藤原秀郷主要5氏と家紋の研究-青木氏と同一血縁類の解析 -5/10

藤原秀郷主要5氏と家紋の研究-青木氏と同一血縁類の解析 -5/10
史料5

(解析資料1)

青木氏と同一血縁類の解析(青木氏の「氏力」の解明)

解析の目的
青木氏の116氏の家紋類に対して、他の主要4氏と同一の家紋を持ち血縁している氏を調べ、その青木氏の「氏力」や秀郷一門の中での「位置付け」等を家紋データ分析で割り出し考察する。

解析
分類の為に次ぎの記号を用いる。

藤原秀郷一門の主要5氏
永嶋氏(N1)、長沼氏(N2)、長谷川氏(H)、進藤氏(S)
(青木氏全121氏で調査する)
(・印 家紋200選)

「共通血縁族」(5-2)の4分類
青木氏との共通血縁族

青木氏と他主要4氏との同一血縁類(全5氏)
・下がり藤 (N1:N2:H:S)
・笹竜胆(N1:N2:H:S)
・丸に片喰(N1:N2:H:S)
・丸に剣片喰(N1:N2:H:S)
・丸に立ち沢瀉(N1:N2:H:S)
・丸に違い鷹の羽(N1:N2:H:S)
・丸に梅鉢(N1:N2:H:S)
・五三の桐(N1:N2:H:S)
以上7家紋である。(五三の桐含まず)

青木氏と他主要3氏との同一血縁類(全4氏)
・上り藤(N1:H:S)
・九曜(N2:H:S)
・抱き茗荷(N2:H:S)
・丸に桔梗(N1:N2:S)
・橘(N2:H:S)
・丸に橘(N2:H:S)
・丸に抱き茗荷(N1:H:S)
以上7家紋である。

青木氏と他主要2氏との同一血縁類(全3氏)
・丸に隅立て四つ目(N1:N2)
・桔梗(N1:N2)
・丸に蔓柏(N1:H)
・丸に木瓜(N1:H)
・三階菱(N1:H)
・梅鉢 N1:H)
・立ち沢瀉(N2:H)
・丸に横木瓜(H:S)
・蔦(H:S)
・丸に蔦(H:S)
・片喰(H:S)
・剣片喰(H:S)
・丸に陰蔦(H:S)
・橘(H:S)
・丸に二つ引き(H:S)
・九枚笹(H:S)
以上17家紋である

青木氏と他主要1氏との同一血縁類(全2氏)
・抱き沢瀉(N1)
・丸に三つ鱗(N2)
・丸に剣花菱(N2)
・木瓜(H)
・横木瓜(H)
・違い柏(H)
・丸に根笹(H)
・武田菱(H)
・剣花菱(H)
・丸に九曜(H)
・丸に一つ引き(H)
・丸に三つ引き(H)
・揚羽蝶(H)
・松皮菱(H)
・三つ柏(S)
・菊水(H)
・三階松(H)
・丸に三階菱(H)
・丸に三つ柏(S)
・釘抜き(N1)
 丸に陰蔦(S)
 三つ引き (H)
以上22家紋である

合計53家紋である。

4分類の史料の考察
この関係資料はどの様な意味を持っているのか、考察してみる。
この考察は主要5氏がどの様な関係を持ち、どの様な「氏力」を持って藤原氏を支えていたかも判るので、下記にそれらを考察する。

まず、上記の結果から、青木氏との共通血縁族の比率は次ぎの様に成る。

1 共通比から観た考察  

他の4氏比 共通数(主要4氏の氏数:比率)
5氏 7 (246:3%)  13
4氏 7 (246:3%)  13
3氏 17(246:7%)  32
2氏 22(246:9%)  42

青木氏比 共通数(青木氏の氏数:比率)
5氏 7 (116:6%)
4氏 7 (116:6%)
3氏 17(116:15%)
2氏 22(116:19%)

全体比(共通数/全体数)
5氏 13%
4氏 13%
3氏 32%
2氏 42%

以上 合計53共通血縁数

この共通比は、共通5氏から2氏までを、夫々青木氏(116)、他の4氏の全氏数(246)が締める割合である。

青木氏の「氏力」の考察
(0) 「第2の宗家」の証拠
116/246(氏数比=青木氏/他の4氏)は、丁度1/2(47%)である。
この数字から、青木氏の氏力は他の4氏合わせての半分であり、如何に大きい「氏力」を秀郷一門の中で持っていたかが判る。3氏あわせても青木氏と同じであるのだから、「第2の宗家」と云われる所以が判る。

(1) 「第3氏の家法」「第2の宗家」の証拠1
秀郷宗家は「第2の宗家」として「第3子の家法」を基にして全力を注いでいた事を示す1つ目の大きな証拠でもある。

全氏共通数(共通比=53/116)の比46%とは、他の4氏に対して(無条件)全共通氏は、氏数比と同じく、丁度1/2(47:46)で同比である。
全体でみても青木氏だけで見ても同比は大きい。

(2) 「第2の宗家」と「第3氏の家法」の証拠2
この2つの47%と46%とを考察しても、明らかに間違いなく、青木氏(116)に対して、これも秀郷宗家が「第2の宗家」として「第3子の家法」を基にして、全力を注いでいた事を示す2つ目の大きな証拠でもある。

(3) 「親族関係」>「同族関係」の証拠
青木氏の内部の氏は、「氏数比」47と「共通比」46とも半分を占めているのであるから、同族というよりは”「親族関係」にある”と云うことでもあろう。


(4) 「5氏相互間血縁」>「個別間血縁」の証拠
この数字から、一つ推論が湧く。
青木氏が、例えば他の4氏外のある氏(X)と血縁して、そして、又、他の4氏がある氏(X)と血縁して、出来た個別の偶然の氏が出来たのでは無く、”5氏の内の何れかが他氏と血縁して、それが5氏と互いに血縁をした。”と云う事に成るのではないか。
そうでなくてはこれ程(47、46)の大きい数字は偶然では示さないだろう。

即ち、「個別間血縁」(イ)の結果では無く、「5氏相互間血縁」(ロ)である事を示す。

偶然ではないこの様な2つもの高い比率は果たしてどうして生まれたのであろう。

(5) 「恣意的血縁」>「互恵的血縁」の証拠
では、確率的に互恵的な「相互間血縁」なのか、恣意的に戦略的な「相互間血縁」なのかの疑問が湧く。
統計確率論からは50%偶然は無い。まして、5氏ともに定住地と行動範囲は別であるとすると、「氏数比」=47%、「共通比」=46%であり、5氏+4氏=26%、5氏+4氏+3氏=58%となるとすると、”恣意的に戦略的な「相互間血縁」”となるだろう。

一門の1/3から1/2が同紋であると云う事は、「人、場所、時」の条件が違うのだから、互いの自由意志での「互恵」では余程の偶然が起こらない限り成し得ない数字である。
つまり、誰かが仕掛けた「政略血縁」と成る。


(6) 「青木氏」で「一族固め」の証拠
では、”誰で、目的は何なのか”と推理は進む。
先に、答えは、{青木氏}で、{一族固め}である。
では、その根拠は、この数字は青木氏との関係数字である。従って、青木氏の内容を調べる事で判る筈である。
上記の「共通血縁数」はと比率は、全て「家紋200選群」の家紋と成っている。
青木氏の「共通血縁数」を構成している「家紋200選」の比を見る事で、大まかな事は判る。
(詳しくは史料2と本文の考察で記述している)
家紋200選比は49%である。(121)
第3氏と未勘氏と賜姓族を除けば、藤原秀郷比は70%と成る。
偶然では2氏=42%は無理には考えられるが、58%の共通比は難しく、この数字は70%の影響を受けている事に成る。
では、その58%の氏を内訳を見てみると、「主要共通血縁族8氏」なのである。8家紋群でこの58%が占められている。(下記)
従って、明らかに、「青木氏」が中心に成って、、”「恣意的」に戦略的な「相互間血縁」”をリードした事になる。

(7) 「相互間血縁」=「絆」の証拠
更に考察を進める。
その、「5氏相互間血縁」(ロ)の内容は、次ぎの様に成る。
5,4,3,2の順で観てみると、6,6,15,19%となる。
判りやすくすると(6を1とする)1(13%),1(13%),2.5(33%),3(41%)と成る。

ここで、「共通性」を大小二つに分けると、5氏と4氏(大)、3氏と2氏(小)とすると次ぎの様に成る。
(大)は26%、(小)は74%の共通性と成る。
つまり、1:3の関係である。

この関係を5氏の「血縁力」(絆:強弱)と観て評価すると、全体(46、47)の3割が「強血縁力」で占められて、7割がそれを補足している形を占めす内容と成る。

偶然(イ)ではない、「5氏相互間血縁」(ロ)は、3割もの強い「絆」で結ばれていた事を表す。

(8) 「青木氏一門の長期繁栄」の証拠
藤原秀郷一門の主要5氏は、2倍の力を持つ青木氏を中心として、極めて強い絆で結ばれていた事を物語り、それ故、藤原秀郷一門は他の藤原氏と異なり、総宗本家を中心に江戸時代まで各地でその勢力を堅持していたことを裏付けられる証拠である。

(9) 「家紋4大血縁族」+「家紋4血縁族」=青木氏の証拠
そして、このデータから、その一門のリーダーは青木氏で、宗家「下がり藤紋」を先頭に、それを補佐として5氏共通の・丸に片喰、・丸に剣片喰、・丸に違い鷹の羽、・丸に梅鉢族の「家紋4大血縁族」が固め、・九曜、・抱き茗荷、・丸に桔梗、・丸に立ち沢瀉の「家紋4血縁族」が2重固めをしていた事を示すデータである。
「家紋4大血縁族」+「家紋4血縁族」=青木氏

(注 5氏共通の下がり藤と笹竜胆と第3氏の五三の桐紋は除く、4氏共通の上り藤と橘紋は除く)

「秀郷主要5氏」の中では、次ぎの様に成る。
「青木氏主要8氏」=「家紋4大血縁族」+「家紋4血縁族」
・丸に片喰・丸に剣片喰・丸に違い鷹の羽・丸に梅鉢族 
・九曜・抱き茗荷・丸に桔梗・丸に立ち沢瀉

以上の青木氏が固めていた事に成る。

(10) 「青木氏主要8氏」(武家)の証拠 
秀郷一門の組織=「藤原秀郷総宗本家」(貴族)-「秀郷主要5氏」(武家)-「青木氏主要8氏」(武家)

このデータが面白い事を示している。
それは、上記の8氏の血縁力は地理的に明確な形(分布=勢力圏)を示しているのである。

(11) 「大」の字の広域勢力圏の証拠
それは、畿内と四国を中心として、西には東中国、東には西中部に手を広げた形を示し、それを緩やかにラップするかの様に北九州の東、東中国、中部中、西関東に勢力圏を保持している事に成る。
勿論、拠点は坂東の武蔵を青木氏116氏の本家筋が螺旋状に固めている広域陣形がある。
陣形から観ても隙が無いもので、偶然に創り上げたものではなく「戦略的」に行ったと考えられ納得できる。(家紋分布史料参照)

ところで、「六韜三略」と云う攻守の戦法の基本があるが、これに合致した全く驚きいる隙の無い「氏の血縁力(内部)」と「陣形」を敷いている。
秀郷一門の青木氏は余程の軍略司が居たと観られる。
確か、これでは、歴史的に観て、信長、秀吉が中国関東の東西両方と四国の域に手を出せなかった事が言えるし、「手一杯」であった事を事実として物語る。
だから、この隙を狙って、信長等に追われた諏訪族青木氏等の賜姓族青木氏は2つの域のここに逃げ込んだことが納得できる。つまり、秀郷流青木氏が護衛守備軍として宗家に変わって、血縁関係のある賜姓青木氏を迎え入れたのである。
即ち、共通5氏の「笹竜胆紋」と共通4氏の「橘紋」の血縁関係、青木氏の「下がり藤紋」の血縁関係が成立していた事に依り、そして、そこには、上記の「血縁族8氏」と「血縁族」がスクラムを組んで存在したのであるから出来た事である。

皇族笹竜胆族29氏(笹竜胆族と24氏重複血縁)と繋がった藤原秀郷宗家が入間に鎮座していたのである。逃亡先にした事が納得できる。

当然、四国の讃岐籐氏の「下がり藤(副紋雁金紋)」の讃岐青木氏宗家と、それを補佐する「共通血縁族主要8氏である阿波、土佐東の青木氏の片喰、剣片喰紋の青木氏が率いる処にも逃避した事が理解できる。

そこで、余談であるが、歴史を思い起こすと、賢かったのは「家康」である。
この藤原秀郷一門の中に入り、その「氏力」を利用したのであるから。江戸初期以後は諏訪族を含む藤原秀郷一門は徳川氏の旗本と御家人になったがこれでは天下は確実に取れる。
同じ秀郷一門の軍師真田氏分家は家康を一刀両断の刀振り下ろす所まで追い詰めたが、両断はしなかった。下ろすと天下は変わっていた。”天下は家康が”の考えと、矢張り、軍師である限り、同じ一族の藤原一門の邪魔をしたくないとの意があったと考えられる。むしろ、一族が未来永劫に栄える後者の方の現実的なことを優先したと考えている。私は上記のこの分析からそのように考え直したのである。

2 綜合数の結果から観た考察

青木氏との「関係の強さ」を表すデータである。
「絆の強さ」である。

(A)5氏から2氏までの比(共通血縁総数/氏数=個別血縁比)

永嶋氏19(35:54%) 長沼氏18(52:35%) 長谷川氏41(111:37%) 進藤氏27(48:56%)である。

(B)5氏から2氏までの比(共通血縁総数/青木氏116氏)

永嶋氏19(16%) 長沼氏18(16%) 長谷川氏41(35%) 進藤氏27(23%)である。

「考察」
先ず、(A)の総共通血縁数の結果から観ても、血縁の比率は、青木氏に対して、(共通数/氏数)の関係の結果は次ぎの様に成る。

永嶋氏と進藤氏は55%台で、長沼氏と長谷川氏は35%台となる。


何かこの二つに分かれる原因があると観られる。この原因を調べれば主要5氏の「氏力」などが見えてくる筈である。

  「絆の強さ」

総合的に観ると、この二つに分けられるという事は、青木氏(116)との付き合い具合(血縁具合の強弱)を示すものとも成る。ではどの様なものであったのか。

つまり、永嶋氏と進藤氏は大変に青木氏との「絆」が強かった事が言えるが、長沼氏と長谷川氏はそれよりやや「絆」が弱かった事に成る。ただし、これは藤原秀郷一門の中での事である。
しかし、藤原氏以外のこの数字は普通は10%前後である事から観ると、長沼氏と長谷川氏でも大変高い「絆」で結ばれていた事にも成る。

もう一つは、この「絆の強さ」がどちらからのリードであったのか知りたいが、これは(B)の結果から大まかなところが読み取れる。

永嶋氏と長沼氏の16%に対して、長谷川氏と進藤氏の30%前後の数字である。

つまり、兼光流の同流族の2つは16%で青木氏のリードは比較的弱いが、必然的に弱くなる「絆の強さ」の文行流の異流の2つにはリードは高くなっている。

(A)、(B)の結果から、即ち、異流であるので余計に青木氏側からは働きかけを強くしていた事を物語るものである。

では、此処まで知ると、その「絆の強さ」の内容はどうであったのか興味がより湧く。

これをデータを解析してより細分化して考察してみると、よりその「絆の強さ」の内容が判る。

  「絆の内容」

(A)-aの結果(「部類分け」)

(a) 血縁比:110>72 (b) 血縁数:46>59 (c) 氏数:83>163

データを入力すると、以上の3つのデータが採れる。

血縁比の(a)で観ると次ぎの式が成立する。

 永嶋氏と進藤氏>長沼氏と長谷川氏 関係式1

血縁数の(b)、(c)で観ると次ぎの式が成立する。

血縁数のb及びcの関係式は不等号は逆になる。
(cの氏数は元数と成るので除外)

 永嶋35<進藤48<長沼52<長谷川111  関係式2

つまり、この3つのデータと2つの関係式の中には何かの事象を持っている事に成る。
それを次ぎに考察して観る。

(A)-bの結果(「部類分け」)

bの血縁数(46<59)で観ると次ぎの様に成る。

 永嶋氏と長沼氏<長谷川氏と進藤氏  関係式3

しかし、(A)-aの関係(相互氏数)には、夫々の氏数が異なるので比較としては誤差を持つので、同率で比較する必要がある。

補正を掛けると次ぎの様に成る。
 
 永嶋氏92 長沼氏48 長谷川氏39 進藤氏86

補正値:((各共通血縁数/各氏数)*100))*(1+(1-(各氏数/116)))  
(116:青木氏数)

(A)-cの結果(「部類分け」)

 永嶋氏と進藤氏>長沼氏と長谷川氏  関係式4

 「部類分け」の関係式は成立する。(178:87 2.17)

 (A)-aの関係式1と関係式4は一致する。
   
 (A)-aの関係式1=(A)-cの関係式4

この結果は、秀郷4代目から分流した「兼光流」と「文行流」との「血縁具合」には、違いは無い事を意味する。

しかし、本来であれば、「流」から観ると青木氏と兼光流で同流であるから、「付き合い」としては、当然に関係式は次ぎの様になる筈である。

 永嶋と長沼氏>長谷川氏と進藤氏  関係式5

しかし、「兼光流」と「文行流」が入り乱れて違っている。

(A)-aと(A)-bとは逆に成っている。どちらがこれで正しいのかを(B)で考察する。


そこで、(B)の関係(青木氏数)では観てみると次ぎの様に成る。

(B)の関係(修正前)

永嶋氏19(16%) 長沼氏18(16%) 長谷川氏41(35%) 進藤氏27(23%)

夫々の氏数が異なるので比較としては誤差を持つ。よって同率にして比較すると次ぎの様に成る。

(B)の関係(修正後)

永嶋氏32     長沼氏25     長谷川氏43     進藤氏41

補正値: 共通数*((青木氏数-各氏数)/青木氏数)+1 

ところが、この結果は次ぎの様に成る。

 永嶋氏と長沼氏<長谷川氏と進藤氏  関係式6

 (A)-bの関係式3と関係式6は一致する、
エラーを取り除いて観ても次ぎの様に成る。 

  関係式3=関係式6 
 
ややこしいので、これをまとめると、次ぎの様になる。
永嶋氏と長沼氏>長谷川氏と進藤氏  関係式5(本来の関係式)

永嶋氏と進藤氏>長沼氏と長谷川氏 関係式1
永嶋氏と長沼氏<長谷川氏と進藤氏  関係式3
永嶋氏と進藤氏>長沼氏と長谷川氏  関係式4
永嶋氏と長沼氏<長谷川氏と進藤氏  関係式6
永嶋35<進藤48<長沼52<長谷川111  関係式2

関係式1=関係式4
関係式3=関係式6

エラーを取り除いて観ても、本来の関係式に一致する関係式は此処までの考察では出てこない。


青木氏との共通血縁数を各4氏夫々の関係では次ぎの様に成る。

イ 永嶋氏と進藤氏>長沼氏と長谷川氏 (A)-a 関係式1

青木氏との各4氏の共通血縁数の関係では次ぎの様に成る。
本来であれば、次のように成る。

  永嶋氏と長沼氏>長谷川氏と進藤氏     関係式5

しかし、異なる。最終の関係式は矢張り次の様に成る。

ロ 永嶋氏と長沼氏<長谷川氏と進藤氏 (A)-b  関係式3(関係式6)

直接、青木氏との共通血縁関係を青木氏の氏数から観ると、本来考えられる関係式と逆になる。
  
ハ 永嶋氏と進藤氏>長沼氏と長谷川氏 (A)-c  関係式4

本来の答え(関係式5)に対して、関係式1=関係式4 関係式3=関係式6の答えが出る。
(これは個別分類の結果(「同族固め」)のところで解明する。)

考察
各4氏の氏数から観ると異なるのは、各4氏の氏数には共通血縁に入らないものを含んでいる。
含んだままではこのエラーが入ってくる事になるので、イの関係式(A)-aとハの(A)-cと成る。
それはそれで意味のあるデータであり、(A)-aと(A)-cで成立している位であるので別の意味を持っている事に成る。

先ずより正確に観ると為にエラーを取り除く。

エラー比は、永嶋46% 長沼69% 長谷川63% 進藤46%と成り、並び替えして関係式とすると、次ぎの様に成る。
エラー比:100(各氏数-共通血縁)/各氏数


永嶋氏54%と進藤氏54%>長沼氏31%と長谷川氏37%  関係式7

一致して”それなりに意味”を持っているからこの関係式が出て来るのである。

この”それなりに意味”は、下記の3の「個別分類の結果」でこれが証明されるのである。

依って、関係式7(「部類分け」)から、ロの結果の即ち、(A)-bがより正しい関係式となろう。

ロ 永嶋氏と長沼氏<長谷川氏と進藤氏 (A)-b

しかし、これは何故なのか疑問が出る。
それは、次ぎの様に成る。

結論
本来の考えられる一般関係式は、永嶋と長沼氏>長谷川氏と進藤氏と成るだろう。
ところが、青木氏から観ると、永嶋氏と長沼氏は同族であり親族関係にある。
しかし、長谷川氏と進藤氏とは同族であるが、親族とはいえない。系列が別で細分化しすぎている。

故に、青木氏は、長谷川氏と進藤氏に少し比率を高めて血縁関係を深めたと考えられる証拠である。

何をか況や、そのための「同族固め」の為の「共通血縁」である。即ち、強く「同族固め」を推し進めたと成る。だから、本来とは異なるロの(A)-bが出たのである。


では、その「同族固め」がどの様な戦略で行っていたかの疑問である。
次ぎのデータでもそれを証明している。


3 個別分類の結果(「同族固め」)

次ぎの様に分類する。

分類 (A)共通5氏と共通4氏との和、(B)共通3氏と共通2氏の和の二つに分類する。
前提 (A):共通性が強い (B):共通性が弱い

(A)分類
永嶋氏9(35:26%)  長沼氏12(52:23%)  長谷川氏13(111:12%)
進藤氏14(48:29%)

(B)分類
永嶋氏10(35:29%) 長沼氏5(52:10%)   長谷川氏28(111:25%)
進藤氏11(48:23%)

これ等の氏数には共通血縁外の数を含んでいるので、これを排除して正味で比を観てみるとする。

(A)永嶋氏は47% 長沼氏は67% 長谷川氏は8%  進藤氏は41%
(B)永嶋氏は53% 長沼氏は28% 長谷川氏は68% 進藤氏は41%

ここに一つ特徴が出る。
(A)と(B)は長沼氏が67から28に、長谷川氏は8から68に変化した事である。

(A)クループは、「主要8氏」で占めていて、大豪族の家紋類である。
(B)グループは、賜姓族を除いて、(A)グループの力の落ちた本家筋か分家筋で、中小の家紋群である。

分析
長沼氏は上記の(A)グループの主要8氏との血縁関係に重点を置いているが、(B)グループに血縁力を下げている。
逆に、長谷川氏は(B)に大重点を置いている事に成る。


結論

前論の疑問としては次ぎの様な戦略が浮き出て来る。

永嶋氏と進藤氏は(A)と(B)のグループに均等に「血縁戦略」を進めていた。・「血縁戦略A」

長沼氏は(A)グループに大重点を置いて、(B)グループに血縁力を下げている。

長谷川氏は(B)グループに大重点を置いて血縁をし、(A)グループには力を注いでいない。

長沼氏と長谷川氏は対照的な「血縁戦略」を進めていた。・・・・・・・・・・・・「血縁戦略B」


上記の結論の「血縁戦略的な違い」(「血縁戦略A」「血縁戦略B」)が下記の関係式と成っているのである。


イ 永嶋氏と進藤氏>長沼氏と長谷川氏 (A)-a
(47-53)と(41-41)>(67-28)と(8-68)

長沼氏(67-28)と長谷川氏(8-68)の数字のバラツキが偏差となり上記の関係式(A)-aを構成していたのである。

”ふそれなりの意味”とは、他の2氏と較べて「同族固め」と「血縁戦略的違い」があったのである。


以上、今までは、「共通血縁族」の考察であった。



残るのは、青木氏の「単独の血縁族」の考察である。

次ぎは「単独血縁数」に付いて考察する。

ここでも面白い「戦略的血縁」の結果が出る。

「単独血縁族」
氏の内容に違いがあるので、正確にする為に、データの「単独血縁族」を分類し1-4の4分轄に分ける。


青木氏だけの「単独血縁族-1」(家紋200選族群)

(・印 「家紋200選」 15家紋)
・加藤藤
・上り藤
・抱き角
・丸に抱き角
・州浜
・割り菱
・丸に扇
・丸に日の丸扇
・丸に並び扇
・丸に三つ星
・陰蔦
・糸輪に陰木瓜
・丸に違い矢
・花沢瀉
・丸に三階松


青木氏だけの「単独血縁族-2」(30家紋)
「単独血縁族-1」(15)に属する一族紋
「共通血縁族」(53)に属する一族紋
この二つの内容の分類とする。

四つ又抱き角
隅きりに抱き角
隅切り角に梶の葉

丸に州浜
三つ盛り州浜
丸に三つ盛り州浜
三つ盛り陰州浜
五瓜に州浜


丸に違い扇
隅きり角に扇

亀甲に三つ星
扇に三つ星
三つ星ひとつ引き

隅入り平角に片喰
子持ち亀甲剣片喰
五瓜に片喰

隅きり角に蔦
八角に蔦
二重瓜に蔦
五瓜に蔦
鬼蔦

抱き茗荷菱
丸に一つ目菱
四方瓜に重ね菱

加賀梅鉢
牧野柏
三階松
抱き若松
並び鷹の羽


青木氏だけの「単独血縁族-3」(12家紋)
「単独血縁族-1,2」に属さない家紋

抱き柊
蔓柊
3枚笹
二階根笹
丸に六つ矢車
隅きり角に四つ目
丸に三つ目
三つ銀杏
二重亀甲に三つ銀杏
二つ葉蔓柏
五瓜に違い鷹
立ち葵


青木氏だけの「単独血縁族-4」(6家紋)
第3氏及び未勘氏に属する家紋

五つ木瓜
丸に揚羽蝶
八角に木瓜に二つ引き
下がり対四つ藤
丸に隅立て升
隅切り角
丸に青角の字
(くつわ)
以上68家紋である

「単独血縁数」 68 (367:19%)
(第3氏と未勘氏の青木氏含む)


考察
(1)「家紋200選」に対する比率は59/121で49%である。
丁度、半分が「家紋200選」の家紋群と成る。

(2)「共通血縁数」(53)に対して(53/68)1:1.3にある。
「単独血縁数」(68)は青木氏数(121)に対し56%である。
全体の約半分は「単独血縁数」と成る。

(3)この「単独血縁数」(68)の内「家紋200選」は15家紋群で青木氏比12%(49%)である。
(4)「単独血縁数」(15/68)では「家紋200選」は22%である。


これらの内容に付いて考察する。

先ず、特長は、次ぎの事が挙げられる。
*「単独血縁族」(68)は上記4つの属に分類される。

(注)
「単独血縁族」-1,3に付いて下記に考察をする。
「単独血縁族」-2は、「単独血縁族」-1と「共通血縁族」(53)に属する血縁関係を保持する。
(注)
氏家制度の中ではほぼ同行動を採ると観られるので考察より除外する必要がある。
又、「単独血縁族」-4は第3氏又は未勘氏であるので除外しないと正しい分析には成らない。


「単独血縁族」の特長の考察

第1に、
まず、諏訪族青木氏の「抱き角紋」とその「丸付き抱き角紋」である。
この家紋の氏は藤原「共通血縁族」の秀郷主要4氏には全く無い家紋である。珍しい。
信濃賜姓青木氏と諏訪氏(たち梶の葉紋)との血縁により発祥した大変古い青木氏で賜姓族である。他に武田氏系諏訪族青木氏がある。つまり、秀郷主要5氏との重複家紋の中では只一つ重複なしの皇族賜姓青木氏である。

第2に、
州浜紋の一族である。この家紋も主要4氏にはない。珍しい。
有名な主要家紋であるが、不思議にない。
地域的に観ても常陸と陸奥である。
常陸は藤原秀郷宗家(朝光)の結城氏が定住する土地柄である。
陸奥は鎮守府将軍として代々務めた地域であり、土地の豪族の武田氏、小田氏、小山氏、足利氏、花山氏等は秀郷一門から血縁を受けた。
秀郷一門が赴任移動時に関東に移動してきて勢力を挙げた氏がいる地域でもある。この地域は「共通血縁族」が在っても不思議ではない。むしろ在るべきである。
何故なのか疑問1が湧く。

第3に、
他の4氏に無い家紋として、角紋類、扇紋類、柊紋類、銀杏紋類がある。
何故なのか疑問2が湧く。
ではその疑問1、2を解明する。

先ず、角紋族である。
角紋は理解できる。諏訪族の個性的行動にあったからであろう。
後漢阿多倍が引き連れてきた17県民200万の内の後期に帰化した馬部とその関係の職能集団がこの信濃の開拓に入り、開拓は成功し天皇より勲功を受けて土地に根着き力を着けた一族である。
諏訪神社を守護神として固い結束で有名な集団の赤兜軍団で有名な一族である。
この為、他の一族と血縁を余り進めなかった特長を持っていた。武田信玄との軋轢でも有名である通りこの一族は血縁を広げて守ると云う戦略を採らなかった一族でもある。
只、信濃青木氏との血縁が取れた。入植開墾の過程で信濃王の末裔(青木氏)との二人三脚で成し得た事であったからである。
日本書紀にも、呼び出しを受けた彼らは勲功を受ける時、この二人三脚で天皇に意見具申したと出て来る位である。その「気構え」のある一族である。
朝廷には藤原氏もいるし、阿多倍の末裔も天皇血縁族としても、官僚ともなって働いている。充分に血縁は在り得る事であるがない。だとすると「気構え」と「誇り」ではないか。

次ぎは、扇紋族である。
発祥地域は筑後、豊後、豊前に在る。
発祥時期は新しい。江戸氏初期後である。御家人旗本がごぞって家紋を持った時期に位置する家紋であり、他の4氏と「共通血縁族」に成り得なかったのは、この時期にあると観ている。
他の4氏から観ると平安から室町期に在るとすれば可能性は高いが、安定期には入ったこの時期に、遠方に於いて大した防御の必要性が無かった事と、他の4氏の聖域とのズレに問題が多少あったとも考えられる。
青木氏と「単独血縁族」に成り得たのは、共通血縁族の主要8氏の西末端に位置していた事に依ると観られる。「戦略的血縁」ではなく、「政略的結婚」に過ぎないと考えられる。
青木氏は藤原一門の「第2の宗家」としての役割からこの地域も血縁で確実に固めたと考えられる。

柊紋族である。
発祥地域は関東地方、武蔵7党の一つ丹治氏系青木氏一門の家紋である。
家紋化したのは以外に新しい江戸中期前の頃である。
柊明神の氏子神紋である。
藤原秀郷一門の領国であり、入間の地域、多治彦王の配流時の落子末裔が根づいた古い氏である。
秀郷がここを領国とする前からの小豪族氏であり、家紋は家紋化の江戸時代のブームによりこの一門は家紋化したと観られるが、血縁はその前の時期に行われていたと成る。秀郷流青木氏と丹治氏系青木氏との複合血縁もあったと考えられる。
武蔵7党としては土地と権域を奪われた事から、秀郷一門の他の4氏とは一線を架していたと観られるが、青木氏がこの丹治氏と代表血縁をしたのである。つまり、この武蔵は青木氏一門が螺旋状に取り巻いて守っていたからである。つまり、青木氏との対峙となろう。そこで、双方が戦略的血縁を図ったと観られる。何故ならば、この小豪族の戦力程度では、藤原一門とりわけ青木氏にとっては問題ではない。そこで、敵の力を生かす戦法に出たと観られる。その証拠に、この丹治氏一門と多く血縁をしているからである。丹治氏宗家だけではなく一門との血縁で押さえ込んだと見られる。
それで、円の枠の中に閉じ込めた結果藤原の他の4氏との血縁は無かったのである。
他の4氏の戦略は大豪族に在ったことは主要8氏でも判る。

銀杏族である。
地域としては関西以西の氏で、土方、水島、坪内、間部氏である。家紋化は家紋の持たない者の家紋ブームの江戸初期である。土地の10氏以上がこの家紋を使用している。
青木氏の聖域の西端であり、土地の小豪族の相互間の血縁集団の家紋群である。
主要4氏とは地理的に離れている。
西端を固める為に土地の小軍団との血縁をした戦略的血縁であろう。
血縁は速かったものと見られるがこの銀杏族集団の家紋化が遅かったという事であろう。
この地域の西には、出雲大社の氏子集団の亀甲紋集団があり、この地域では讃岐籐氏の青木氏が血縁を成している。
この小豪族の集団群は、他に関西以東の伊川津7党、武蔵7党等もあり、これ等との血縁も青木氏に任している。
更に以東の上記の柊紋の集団も、柊神社の氏子集団でまとまっていた事も同じである。

この事から観ると、疑問1、2は次ぎの様に成る。
同じ小豪族の集団群であったので、主要4氏は敢えて血縁を進めず、「第2の宗家」の青木氏に任したと言う事であろう。
そして、それは次ぎの考察で詳細の戦略が判る。

「独立血縁族」-1に付いての考察

家紋200選にある家紋は15家紋である。(詳細は史料3参照)
・加藤藤     加賀、越前  2種ある 藤原氏家紋
・上り藤     畿内長戸周防 藤原北家筋家紋 苗字が着く藤紋 賜姓族には無い
・抱き角     信濃諏訪   賜姓族 諏訪族青木氏 (諏訪氏と賜姓信濃青木氏との血縁)
・丸に抱き角   信濃甲斐上野 諏訪族青木氏の分家
・州浜      常陸、陸奥 重複 賜姓族にある
・割り菱     甲斐、北関東 重複 武田氏支流 賜姓族にある。
・丸に扇     北九州3   松平深溝氏分家
・丸に日の丸扇  筑後、豊後  佐多家氏支流
・丸に並び扇   筑後、豊前
・丸に三つ星   中国地方4  児島氏分家
・陰蔦      加賀越前越中 大岡氏
・糸輪に陰木瓜  尾張、遠江  岸氏 他7氏の分家
・丸に違い矢   中部、西関東 恒岡氏の分家
・花沢瀉     尾張、遠江  酒井氏
・丸に三階松   讃岐阿波土佐 五条氏分家 他11氏
以上「家紋200選」の15家紋である。

この15家紋だけから考察すると次ぎの様な事が観えて来る。
先ず、江戸初期か少しそれ以前の比較的新しい氏族である。

内訳を観ると、西海道の北側域(5)と、北陸道の西域(4)と、東山道の域(5)と、南海道の四国域(1)の4域の聖域を持つ家紋群である。日本8道の内の4道を血縁で抑えているのである。
これは、「単独血縁数(15/68)」の22%の成せる戦略技である。
その戦略は全体の戦略の2割の力を持っていることを示す。
つまり、大豪族との単独血縁を「第2の宗家」として行い、それが単独血縁の2割を占めて力を注いでいた事を意味する。そして、それも無造作にするのではなく、「日本8道」を自分の拠点の東海道を中心に満遍無く恣意的に4道を固めている。

諏訪族青木氏を除いて、江戸初期前に家を興した氏が主体で、共通血縁族の「藤原秀郷一門の聖域」(中部を基点に西は中国東から東は尾張、駿河がまでに広げ領国を関東に置いた域)以外の4域を満遍なくその域の豪族と「戦略的血縁」を「第2の宗家」の責任を果たすべく血縁をしている事を物語る確実な史実である。

即ち、まとめるとこの大戦略は次ぎの様に成る。

1 「共通血縁族」では「藤原秀郷一門の聖域」の保全(上記)

2 「単独血縁族」では「4道域」を抑えた。

この大戦略が観得る。

そして、それは「成長著しい新興勢力」に依って固められているのである。
当然に、古い伝統をもつ青木氏は秀郷一門主要5氏と「共通血縁族大主要4氏と補佐主要4氏」(「青木氏主要8氏」)で固められている。

3 「青木氏主要8氏」=「家紋4大血縁族」+「家紋4血縁族」

4 真に「鉄の結束」である。 
新旧の血縁族で、「第2の宗家」青木氏は総宗本家に代わって121氏をフルに活用して護っていた事を示す。

この大戦略で青木氏は秀郷一門を「第2の宗家」として単独血縁で構築し役割を果たしていたのである。


そこで、「単独血縁数(15/68)」外の78%(53/68)はどうしていたの興味が湧く。
それでは78%族の活躍具合を考察する。

名も知れない氏族である。その力をどの様に青木氏は活用して上記の戦略に加えていたのか観るとする。
この場合、「単独血縁族」の15氏の系列の一族紋は30紋あり、氏家制度の中、力の有る宗家を中心に纏まり、余程のことがない限りその「氏戦力」となる。もし、従わなかった場合には、その戦い前に力のある宗家がこれを潰すことが慣わしであり、余程の事がない限り生きて行くことは困難である。
故に、ここでは「単独血縁族」15家紋に従うとし、主要8氏の系列の一族紋の6紋も、これに従うとする。そして、第3氏の家紋6は戦力外で除くとする。

そうすると、11(68-(15+30+6-6))家紋と成り、それを「単独血縁族X」として、この11家紋の氏の活躍具合を調べる事で解析できる。

「11家紋」の解析
この11家紋は「家紋200選」に無い為に、その内容を把握するのは困難であるが、近い形の内容として把握する。

「単独血縁族」-3に付いての考察
「11家紋の内容」

1 抱き柊、蔓柊    柊明神の家紋 大関氏 武蔵7党の丹治氏系一門 江戸初期の家紋化
2 3枚笹       野々山氏 江戸初期-中期の家紋化
3 二階根笹      千葉地方 仁木氏、桜井氏 江戸初期-中期の家紋化
4 丸に六つ矢車    荒川支流の小族 関東 江戸中期の家紋化
5 隅きり角に四つ目  近江、滋賀の皇族賜姓族の末孫支流 室町期に家紋化 神職多し
6 丸に三つ目     近江、滋賀、佐々木氏系の末孫支流 室町期に家紋化 神職多し
7 三つ銀杏      関西以西の小豪族相互血縁集団の紋 江戸初期-中期の家紋化
8 二重亀甲に三つ銀杏 上記の氏と、出雲大社氏子の連合体(亀甲族)の血縁族 寺紋
9 二つ葉蔓柏     神職紋 
10 五瓜に違い鷹    中国地方、渋江氏、五瓜族の副紋(神紋関係)   
11 立ち葵       寺紋 丹波、三河 善光寺の寺紋 室町期 (松平、本田氏)

この11家紋からは次ぎの事が観えてくる。
全て、新しい江戸初期から中期の家紋の持たない者が江戸の家紋ブームに乗り家紋化したものである。そして、これ等は小氏が地域に連合して「相互間血縁」をして「集団化」したものである。
もう一つは、「神紋と寺紋」に関わるものが8紋/11ある。

「相互間血縁の集団化」と「神紋寺紋の集団化」この2つが特長である。

家紋化の時期を考えると、その必要性が青木氏にはない。
しかし、これ等は室町期頃から家紋化前に集団化して、周囲の豪族から氏を守った。その時にその集団の旗印、又は標印として使ったものが、後に家紋化したものである。

この集団化は相互間に血縁関係を作り一集団として行動を採る誓約の基に行動した。

例えば、出雲大社の氏子連はこの代表的な属種であり、寺紋の亀甲紋を家紋化して、それに各氏子の独自の印をつけたもので、亀甲紋族と言われる。この亀甲族は藤原秀郷一門と青木氏との血縁族を結んでいる。特に讃岐籐氏と「下がり藤に結び雁金」の副紋を持つ青木氏9氏の直流一門との血縁をして中国地方を治めている。
小氏集団は何らかの基に集まり、「相互血縁」し「集団化」して、後にその「集団印」を家紋化したもので、多くの地方の家紋の殆どは、この「相互血縁集団」の基にある。

この考察の結論は、「相互血縁集団」とその基になる「神紋寺紋」の内容となる。

青木氏は「単独血縁族」として、この2つのターゲットに戦略を集中させたのである。

更には、上記の説明の「共通血縁族」=「青木氏主要8氏」との結束の戦略とを複合的にして「大血縁戦略」を展開した事に成る。

総論
この様に明確な二つの特徴(「共通血縁族」と「単独血縁族」)が読み取られ考察される。
夫々には、上記の「大戦略1-4」に合わせて、上記内容の説明の通り、更に「小戦略」=「相互間血縁の集団化」と「神紋寺紋の集団化」が存在する仕組みを持って行動していたのである。

秀郷の総宗本家に変わり、武力を持つ「第2の宗家」として、この様な完全とも観える「血縁戦略」を採っていた事を示すものである。驚くに価する。

本史料をよく調べると、この様に、我々の先祖の苦労が観えて出て来るものである。

本文の考察では、この史料と考察を考慮に入れて、お読み頂きたい。
 

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