「青木氏の伝統 57」-「青木氏の歴史観-30」
> 「青木氏の伝統 56-4」-「青木氏の歴史観-29-4」の末尾
> (注釈 「紀州藩との繋がりの効果」
詳細の検証は更に次段に続く。
その疑念は明治初期に消えた。
> その後、因みに「伊勢青木氏」は「紀州藩との繋がり」を「伊勢加納氏」と共に復興させて、「支援」をしながら、「大正14年」まで「紀州徳川氏」が「伊豆」で絶えるまで「親密な関係」は記録からも続いていた。
> その証拠に「明治期初期」からは、依頼されて「絵画、俳句、和歌、茶道、華道等の諸芸全般」の「人としての嗜み・上級な教養」の「特別教授」として務めた事が記録として遺され、「多くの逸話」などの「口伝」でも祖父から聞き及んでいる。
> 中でも幕中から幕末に掛けて恒例的に藩主と多くの紀州藩家臣を一同に集めてこれ等の会を催していた事も遺されていて、この「恒例企画」が「祖父の代」の明治期まで続いていたとされる。
> 紀州徳川氏は東京にも「邸宅・事務所」を設け「紀州との往来」をしていて、最終、「商い・財団」を興し、倒産して伊豆に一人籠もって子孫を遺さず紀州松平氏は絶えて恒例企画は中止したとある。
> この時、大正14年であったと祖父から口伝で伝えられている。
> この中には、取り分け「財務」に関して幕末まで「勘定方指導」をしていた関係もあって上記の明治維新政府に大活躍した元紀州藩主の「陸奥宗光とその父との二人続けての交流」の事も含まれていたとある。
> これで「江戸初期前後の事や享保期の事」に就いては「伊勢」では、最早、「疑念」には拘っていなかった事が判る。
> これは「青木氏一族の伝統」の「家訓10訓」で「拘り」は厳しく戒めているからだろう。
> この「拘りの前提」と成る「大きな疑念」や「土豪3氏の話し合い」の「解決の経緯のタイムラグ」は、確かに在ったが、その為にそもそも「伊川津七党の青木氏四家・吉田青木氏等」が脱退したり崩れりすれば、再び「伊豆陸路」は間違い無く崩れる事に成っていたであろう。
> そうした中での、「上記の注釈」で説明する「額田青木氏」であって、その「答え」は最後まで遺ったのである。
> 後勘から観れば、この時も「青木氏の路」を読み間違えていなかったのだ。
> 後世に遺る「青木氏の歴史観」が成立していたのである。)
「青木氏の伝統 57」-「青木氏の歴史観-30」
(注釈 「巨万の富と伊勢青木氏のその後」
それは奈良期から始まった。
「紙屋院の紙の製造・朝廷の認可・勅命」からこれを基に自ら氏力で開発した「和紙」の「余剰品の市場放出の権利・商い」を「925年頃・紙屋院伊勢屋の号」を与えられ認められ手始めた。
そして平安期の「1025年頃の総合商社・献納金」を設立し、遂には、「室町期の紙文化」で「巨万の富」を得た。
更にそこから「室町幕府」には「白旗派・原理主義」を「浄土宗」と認めさせ、結果として唯一の“「律宗族」”と呼ばれるまでに至った。
それを「源・大儀」に、これを「共存共栄共生の概念・青木氏の氏是」で確率させ、要するに室町期の戦乱の中で“「紀伊半島の民」”を護ったのである。
当に、これが既には「平安期末期・嵯峨天皇期」からは「高位族の務め・皇親族・令外官」では無く成っていたが、然し、「伊勢青木氏・信濃青木氏の協力」の範囲では、その概念を頑なに「伝統」として持ち続け、「明治9年」までのその「行動」は矢張り、“「賜姓五役」”であった。
つまりは、”「隠れた令外官」”に徹したと云えるのだ。
「明治期まで続いた天皇への献納」は何よりのその証拠であろう。
況や、「共存共栄共生の概念」に徹していたかは、「明治35年以降」の「富の蓄積」の有無に表される。
そもそも、この「明治35年以降」は既に「普通の富の範囲」にあり、決して最早、「巨万の富」と云えるものでは無かった様だ。
それは「幕末」から起こった「伊勢信濃の全域の庶民が興した伊勢騒動」が明治9年までの「11年間」も続き、これを背後で補完していた為にこれにより「巨額の富」を放出したのだ。
「何万と云う民の糧」を全額支援したし、その「後始末」に明治政府に対してあからさまに「巨額の献納」をし、「騒動の事・始末」の「処罰者」を「差配頭」だけにして「民全員」を穏便に済まさせた。
「地祖改正」で「伊勢の地権域の民」に全て「無償」で「地権」を譲り「富」は遂に底を突いたとされる。
更に、維新時の大名に貸し付けていた「債権放棄・計10万両・主に紀州藩」に合い、富の底の底を突いたとされる。
最後は、「明治35年の松阪の失火」で「松阪福家」は責任を取り、全てを売り払い賠償したとある。
この事から「松阪」より「福家」を「摂津・紙問屋伊勢屋・現存」に移し、「松阪」は「殖産・早場米の開発と酒米の開発」のみにして、「員弁と桑名の四家・現存」に営業の差配を移したとある。
そして、「青木氏部」は「大工職人・宮大工」として支援して独立させて「桑名額田」に夫々の会社・二社・現存」を設立させたとある。
祖父の代の「明治維新から昭和20年」までは、「四家との繋がり」は有りながらも、最早、「富」では無く、“「律宗族」”から“「徳宗家」”としての「呼称の名誉」だけが遺されていた事は事実であった。
「青木氏の資料」と「明治期の郷土史」にもこの記載が遺る。
最後の「福家」であった「祖父」は、後始末を着けた其の後「尾鷲の旧領地」に引き上げたが、「多気と熊野と田辺と海南の庵・一族氏人の保養地」だけが残った事と成った。
「祖父と父」はその間に得た「教養」を許に、これ等の「庵」で「多くの弟子や僧侶・禅宗」を養い、世間に輩出した。
江戸期に「廃れた南画の復興」や衰退していた「彫刻・華道・茶道・歌道・禅門道・俳句道の普及」にも努め、「職業弟子」を世に無限と云える程に送り出した。
現在もその弟子の子孫が受け継いでいる。
これが認められ、「明治期の華族制度」の推薦に続いて、二度目の大正期に徳川侯爵より「文化功労」により推薦され、政府より感謝状を贈られるとするが「氏是」に従い何れも再びこれを辞退した。
「共存共栄共生の概念」に従い関係者で築き上げた「巨万の富」の「分配・地租改正等」は全てこれで終わったのである。
筆者は、未だ、一部の「資料や遺品」と共に「口伝」でも伝わり、その「伝統」は「松阪」や「旧領地等の尾鷲」にも遺り、丁度、その「末尾の経緯」を具に観て来た事に成るのだ。
それ故に、未だ何とか興せるこの「伝統の経緯」を遺そうとしている。
「長野青木氏」でも興し始めたと聞く。)
「前段」で述べきれなかった事柄をここで少し話を元に戻して論じて置く。
(注釈 「雑賀根来を潰した後の銃の行方の印象」
さてそこで、最後は潰そうと思っていた「信長」の「松平氏」に対しての思惑である。
雑賀族等を潰した後、彼等が持っていた「雑賀根来の火縄銃」のその配分の問題」には、直接は「割分」として「松平氏には渡す事」は戦略上は不可能であったであろう。彼等の戦力を強くして仕舞う事になり「潰しの思惑」は難しく成る。
従って、長篠後の「信長―秀吉の紀州征伐・1577年~1585年」には「松平氏」は参戦させていない。
つまり、思惑から敢えて参戦させなかったのではないか。
と成ると、要は「信長」が渡さねばならない「条件下」としてでは「参戦への義務責任」があるかである。
つまり、それは「雑賀討伐の貢献」に対して「家康の功績」があったかに対してであろう。
実は、この「第一次から二次と、最終の三次の雑賀攻め」に関して「松平氏」は参戦さしていないのだ。
「1570年の石山攻め」と、「1577年から始まり1582年までの雑賀攻め」には殆ど関西勢で攻撃している。
「三河の家康」に「信長」から「同数の火縄銃を渡す事」では簡単に済むが「雑賀の銃」は上記理由で渡っていないのであり、戦利品もである。
又、引き続いて「紀州全体の惣国勢力」を潰す為に起こした「秀吉の紀州征伐・1581年~1585年」でも参加はしていないのだ。
現実に、確かに「信長」は「雑賀攻め」に梃子づった。
その「原因」を象徴するのが、「雑賀川の戦い・1572年2月」であった。
「寺山城・雑賀城」から「銃」で狙い撃ちされ、「3万の織田軍勢」は手も足も出ず「壊滅状態」で一度京に引き上げている。
然し、果たして、「信玄」によらずとも「信長」も、「三方ヶ原の戦い・1573年・ホ」の「直前・1572年・ニ」に「雑賀川」のこの「大量の銃の攻撃・威力」を体験して観て驚いているのだ。
又、その前の「1570年」にも「石山本願寺攻め」でも「雑賀衆門徒の銃攻撃・ハ」を受けていて失敗し「銃の威力」を知らない筈は無いのだ。
「長良川の戦い」で、現実に雑賀・根来族の銃の傭兵を雇っていて其れで九死に一生を得ている。
従って、「吉田城の戦い・イ」や「一言坂の遭遇戦・ロ」でも「銃の情報」は既に得ていた筈である。
信長は「5回の史実」として経験しているのにそれ程に疎かで無神経では無かった筈である。
結局、故に、これ等は止む無く「信長」は「兵糧攻めと凋落」で収束させて、最終は「雑賀銃」を「傭兵・1575年長篠の戦い」で獲得しているのだ。
この様にして゜雑賀根来の傭兵の火縄銃を「獲得した銃」を観ても、凡その「簡単な事」では無かったかを察するであろう。
そもそも、この様に「松平氏に銃が渡る歴史的経緯」は無いのだ。
寧ろ、「信長の性格」から“「銃を渡す事」は何を意味するか”を即座に察した筈である。
それは間違いなく「松平氏を強める事」に外ならない。
それ程に万来の信頼をする「和議・織田氏」と「松平氏」では無かった。
寧ろ、「弱める事に裏の狙い」は在った筈で、歴史的にもこれは史実で証明されている。
ところが、実は、「雑賀根来の銃」の「一部・500丁」を「松平氏」に渡したとする説が有るのだ。
筆者は、この説に反対で、この時の一部の火縄銃は、上記に論じた通りの「雑賀族の逃亡者・鈴木氏系・500丁・紀伊山脈」が山に持ち込んだものであると観ているのだ。
何故ならば「雑賀族」とは云えその内情は壱枚岩で無かったのだ。
元々、「鈴木氏の本家筋・藤白穏便派・藤白神社神職族」は「分家筋の鈴木孫六の行動」には反対していたのだ。
そのその住んでいる地域も違っていた。
それ故に、”いざ戦い”となった時、雑賀族と見做される事に警戒して、いち早く山に潜りこんで忍者的な生活したのだ。これが「雑賀忍者」と云われるものである。
地元ではこの時、持ち込んだ「武装兼猟銃用の物」と云われている。
「現地での雑賀族の情報の知らない者の説」の単なる推論に過ぎないと観ている。
恐らくは、これも間違いなく「江戸期の修正」で、“雑賀族の銃としたくない”とする「旗本の書き換え」であろう。
確かに、「織田氏との関係」に付いては美化した方がこの方が「犬猿の仲」を和らげる効果はあるし、「今後の事」では都合は良い筈であったし、「織田氏との長篠後の争い」では「織田氏への悪者の転嫁」としては、「松平氏」に執っては都合が良かった事になろう。
確かに「紀州攻め」をしている中での出来事としては、歴史を後勘から観ても「松平氏の印象」としては、一つの“「緩衝材」”には成る筈で納得が得られやすい「美化事」になろう。
「伊勢や紀州の歴史史実」を現地の詳細に掌握している「青木氏の歴史観」から観て、この事に付いてはこの様に見抜いて観ている。
「雑賀根来の銃」の「一部・500丁の説」に付いては、「現地の史実」を調べずその様に江戸期に成って「旗本」に依り都合の良い様に、“「徳川歴史を仕組んだ」”と観られる。)
(注釈 「江戸初期の銃の必要性」
そもそも、「1605年に銃規制」があったのに、江戸初期以降に「銃の必要性」があったのかと云う疑問が湧く。
確かに、“計算に入らない数の銃の残り”、つまり、「秘匿品の戦利品」の「約100丁~150丁程度」は戦い時に少なくとも「単体」で獲得した筈である。
そうすると、「秀吉などの家臣」を含む「織田軍」が持ち得る「火縄銃の限界」は、どんなに見積もっても、「雑賀根来の傭兵銃隊」は「1000丁」と成っているとすると、「約500~650丁程度」が限界に成る。
「紀州」では、兎も角も「保有量・生産量」は「1500丁・生産量限界」が最大であったとされている。
それは、これは「傭兵が持つ銃」だけでは無く、「雑賀族衆と根来族衆」の個々に生活に使い持つ銃が「500丁」であったと口伝ではされているのだ。
つまり、「傭兵用は1000丁限界と云う事」に成る。
現実に、「秀吉」が紀州征伐後の「紀州の刀狩り」で門徒衆も含めて庶民や農民や郷士等が持っていた「秘匿火縄銃」が郷土史等に依れば「100丁程度」を差し出されたとする記録もある。
これ等は表向き「紀伊族」からの「侵略防御」のみならず「イノシシやシカ等の猟銃」に使う銃であったとされているし、現実に「鈴木氏の本家裔」が持つ絵図にも遺されている。
従って、これは史実であろうし、そもそも、つまりはそれ以上に生産されていないのである。
「紀州征伐」の前後をして、「堺のブロック」に依って“「近江」には、最早、「生産能力」は殆ど無かった”筈で、「雑賀」が遣られれば、“今度は「近江・日野」である”として「伊勢」などに逃げ込んでいる始末であり、カウントには当たらない事に成る筈だ。
そうすると、正式に「生産」に及んでいたかは別として、「銃を生産する能力」を持ち得ていた「最後に残った堺」は、伊勢の資料に依れば、現実には実際は早めに「危険が迫った為」に「伊勢の指示」で中止しているのだ。
中には、「堺の銃生産・火縄銃」を“明治期まで続いたとする説”があるが、これに付いては「伊勢の資料」では、「元の鍛冶屋」に其の侭に転身しただけの事とされていて、「銃の生産の事」では絶対に無い。
そもそも、「1605年」に徳川幕府に依って「銃規制」が掛かり「生産」は無くなったので論理的に無い。
況してや、そもそも「伊勢・摂津・堺」が「財源や発注」を引挙げれば、そもそも、「銃生産を続けられる事」は100%無く、又、「商業組合」の「7割株の組合組織」の中にある事から「別の商人」が密かに入る事の「空き」もない筈である。
仮に、密かに「別の商人」が間に入れば、そんな「危険な事を許す事」は無く、そうなれば結果として間違いなく「別の商人」を「伊勢は潰す事・シンジケート」に成るし、そんな「組合人」も居ないであろう。
史実を無視した「無根拠の説」である。
つまり、江戸期では、残るは、「西洋」での無用と成った「旧式兵の用火縄銃」だけの売りつけで、「西洋の近代銃の発達」で、不用で古く成った「西洋の火縄銃」を「貿易」で秘密裏にオランダやポルトガル等から入った可能性が高く、前段でも論じた様にその「貿易量」で既に「銃規制範囲の基準量」を超えているのだ。
「青木氏」が持った「試作銃改良型の原型」は、所謂、「フリントロック式の近代銃・改良銃」は、その元は飽く迄も「フランスやイギリスやドイツ」の開発国での事であって、「周辺国・欧州」はこれに何とか切り替えていた時期である。
日本に古くなった「火縄銃」を高く売りつけて、その「資金」を獲得していた史実と成っていたのだ。
そもそも、「日本の火縄銃」の「最古」のものは”「1588年製の厳龍寺銃」”と成っているのだ。
その為に、この17年後の「江戸期頃の火縄銃」は、江戸期に入り「銃規制・1605年」も重なって極端に史実として低下しているのだ。
因みに、「総合的な資料の分析」に依れば、江戸期中期までは「火縄銃」の旧式の価格は、「35石~80石」/丁に相当し、当時は1石=1両であって約35両~80両に成っていた。
既に当初よりは約1/10程度以下と成ったと記されている。
これは「銃規制」に依って必要性が極端に低下した事に依る。
「一頭1200人に1銃の規制」の中では、「一万石以上の大名」には殆ど所持していなかった事に成り、「銃力に相当する火縄銃」はそもそも無かった筈であるし、そんな「財政的余力」は他の事でも既に限界で、世情安定期では「無意味な銃」ではあった。
その意味で、「価格の低下」が在って「抑止力」としても効果は無かったのである。
然し乍ら、室町期から「伊勢を含む青木氏族」は、現実に資料の中では、表現として明確にしていないが、「資料の行」から「読み取れる範囲」では、“いざと云う時の抑止力”としての為に秘匿に保持し続け、上記の様に「銃の価値の低下」は、逆に「青木氏族」に執っては、寧ろ、その「抑止力の無意味合い」が高まり、江戸期でも密かに確実に「改良銃」は持っていた様である。
因みに、前段でも論じている事ではあるが口伝でも、「紀州藩の藩主」が「尾鷲」で鷹狩りの際に「銃」を使って腕前を民に誇示披露したとある。
この時、「尾鷲」で保養中の「福家の先祖」が「自分の銃」を持ち出して「遠くの柿」を打ち落として見せたとあり、「家臣」が怒って先祖を叱責した。
その後、この「先祖」は「和歌山城」に呼び出され切腹かとして袴の下に白衣を着て出仕したが、逆で「上座」に導かれて座り、藩主は下座で挨拶をしたと伝えられている。
「元皇親族の伊勢松阪の青木氏福家」で紀州藩には「債権・2万両と勘定方指導・2度」をしていた事から格式が上であるとして上座を譲ったとある。
江戸末期には「紀州藩の財政危機の勘定方指導」として活躍した「伊勢松阪の青木氏の福家である事」や「吉宗育ての親であった事」等を知っての事であったとされるが、その後は、初代藩主に「水墨画」や「俳句」や「和歌」や「茶道」などの「素養指導」を大広間で家臣も交えて行ったとしていて、この「慣習」は「祖父の代の大正14年」までこの関係は続いたとしている。
これは「銃の密かな存在保持」を「裏付ける証拠」でもある。)
(注釈 「1500丁の検証」
さて、明治初期には、“「50万丁」と「世界最大の銃保有国」であった”とする公的な資料があるが、この事に就いて疑問が大いにあり触れて置く。
そもそも、日本にはこの「火縄銃用」の「発火薬の硝石」と「弾丸の鉛」の生産は極小で殆ど「貿易に頼る事」以外には無かったのだ。
確かに、西洋で不用と成った売りつけの「古式火縄銃」は多く「一般の商人」に依って密かに仕入れられていたが、これに伴って「硝石と鉛」も輸入しなければ使えず「飾り銃」であって、況してや、「銃規制・1605年」で持てば「お縄」であるし、安定化した世の中では「銃」は不要で「抑止力」にしか使えなかった筈である。
依って、攻撃用以外に「一般の大名や武士」や、況してや「民」には不要である。
「50万丁」とはそもそも一般の民も持たなくては成らない数である。
そもそも全国でそれ程に「武士」は居なかったのだ。
江戸期初期ではほとんどの記録では、一万石以上の大名264人、旗本5200人、御家人17000人、その他480人と武士の家臣だけで、「媒臣の数」は含まずの合計は実質は53900人であったとされる。
そうすると、平均204人/大名と成り、同じ「江戸初期の1605年の銃規制の基準」から53900/1200では単に「約45丁」と成る。
大名を大まかに「一頭として264人」で、これに「戦時の義務兵数の平均1200人」として計算して観ると、「総勢の兵・316800人」が集まる事に成る。
これと合わせると「家臣数」は「約37万人」と成る。
江戸初期の持っていても構わない「戦時の火縄銃」は、規制に関わらず持っていたとしても「媒臣数」は、「264人の大名」で「平均一騎の兵数50人」としているので、「最大一頭は4騎まで」が義務つけられていて、これが「媒臣の陪臣」と成るので、「264・4・50」と成り、最大で「52800人の数」に成る。
合わせると「約43万の兵」が、「50万丁の説」で計算すると「家臣と媒臣の全員の兵」が何と1丁ずつを持つていた事に成る。
あり得ない数に成る。
そもそもそんな「財力」を持っていなかった。
「銃規制」からすると、別の計算を元にすると、「264人の大名の媒臣数と陪臣数」は、江戸初期の人口は「平均2700万人」とされ、「家臣媒臣・陪臣の数・武士」は、国印状発行でこの「7%」であったと記され、これは明治期まで“抑制されていた”のである。
従って、この基準から観ても「385700人の計算」に成る。
この基準からの計算でも「上記の37万人」にも一致する。
記録に見る処では1割弱としているので、正しい数であろう。
「人口増加」を「食料生産量・米収穫・」以上、つまり「1反=1石=1人の原則」に超えない様に抑制していたのだ。
「火縄銃の持ち得る計算の数」は、故に「1500丁前後」と成るのだ。
この数は、故に「室町期の最大生産」の「1500丁の経緯」にも一致するのだ。
又、「戦」が起こらない限りは「武士」には「無用の長物」で「藩の持ち物」であった。
藩としての「最低限の幕府からの義務」に過ぎなかった。
本音では藩財政から「金のかかる物」は持ちたくない筈である。
この「驚くべき数字」が公的に資料としている江戸中期からの「火縄銃の量」としているが間違いである。
では検証して観る。
「銃規制」の「1頭=1200人=1丁の基準」からこれを護ったとしても、当時の人口が「4000万人」として「国印状を取得した正式な武士」は約7%であったとされる。
現実にはこれにも規制があった。
そうすると、「400万武士/1200≒3330丁」である。
これがこの「基準に適合する量」である。
上記で検証した「火縄銃の貿易で搬入した量」と加算したとしても、「規制の合法的な量」は「3330丁程度」は妥当であろう。
上記で論じた「火縄銃」の「生産地三カ所の経緯」から「国内最大生産量」は「1500丁~2000丁」としても、「外国からの銃」は凡そ「1330丁~1830丁」と成る。
検証の結果としては、「50万丁」は「刀狩りと銃規制」を配慮されていない飛んでも無い量と成る。
これでは「銃規制」など忘却して全くなかった事に成る。
これから割り出すと「三カ所の経緯」を無視して、且つ、「生産量の経緯」を無視して下記の様に「年数の単純計算」をした事に成る。
最大で「国内生産1000丁/年+輸入1500丁/年」・江戸期中期前・200年≒50万丁と成る。
こんな事は絶対にあり得ないのだ。
何故、この「50万丁」が一人歩きして公的数として成つたかにはそれなりの理由が見える。)
(注釈 「50万丁の行方の検証」
これは幕末からの維新にかけて紀州藩士であった「陸奥宗光・1844年~1897年」は「明治維新の政治体制造り」に貢献した人物で、殆どは政策は「彼の発案と努力」に依るもので、版籍奉還、廃藩置県、地租改正等、数を挙げれば暇はない。
そして「徴兵令」もである。
中でも、本題の「徴兵令」では、彼の努力により「徳川幕府紀州藩」が他の二藩と行動を別にして「維新政府側」に着いた。
この時、「御三家の紀州藩」は「維新政府」がまだ実行していないのに率先して「近代軍制」を敷いて「維新政府の後ろ盾」と成った。
これを観て「維新政府」は彼を政府に招き、「維新政府軍制の構築」を任したのである。
この時、全ての古い刀等一切を捨てさせ、武士に関わらず「銃に依る西洋式軍制」を執った。
彼は、「坂本龍馬の下で海援隊」の一員としてとして働き、「彼・龍馬」を神髄していて、彼の進んだ教えを推し進めた。
この時の「兵力」が「陸軍力24万と海軍力25万」で「49万」であり、中でも「陸軍」は「村田銃・国家予算の20%」をかけて編成したものでこれを「主力」としたものであった。
恐らくは、「50万」とするは単純に推論的にこれから来ていると考えられる。
これ等は「1883年・明治16年」から「8年計画」で近代化を推し進め、この体制で「1877年の西南戦争・明治10年」の実戦で成果を上げ、其の後の「明治20年代・1887年」に完成した。
この事は「陸奥宗光の活動」で「薩摩との主導権を争い」が起こり、彼は何度も投獄や失脚に追いやられたが、「伊藤博文等の海援隊の仲間」が彼を何度も救い上げた。
結局は、「彼の造った軍事組織」で「西南戦争」で「薩摩」は「維新政府」から抹殺一掃されたのだ。
其の後、「日清戦争」で「弱いとされていた海軍」は、「陸奥宗光の造った軍事組織」で相手が「数段の兵力差」であっても「勝利」を得たのだ
この事は世界に有名を馳せたのだ。
実は、この「紀州陸奥家」とは「伊勢青木氏」とは無関係では無く、前段で論じたが「幕末の紀州藩勘定方指導」をしていたが、この時の「宗光の父」が「紀州藩の勘定奉行」であって親交が深かったと記されている。
幕末に「紀州藩が犯した操船ミス」で「海援隊の船の賠償金」の支援で、「伊勢屋・2万両・摂津支店・大阪豪商」が支援に動いたが、この時の「勘定奉行」であった。
これは「陸奥宗光の優れた交渉力」として「公的な記録」として遺っている。
資料にも「重要な逸話」として遺されている。
明治9年で「伊勢青木家」からの「天皇家への献納・925年開始」は「幕末から始まつた伊勢騒動の件・明治9年」で打ち切っている。
結局は、「伊勢屋」はこの為に「打ち壊し」や「火付け」等で長い間、維新政府から攻撃されたが、何とか残ったのは“「陸奥宗光の御影だ」”と「伊勢青木氏・伊勢屋」はしているのだ。
注釈として、余談であるが、「伊勢青木氏」はこの「打ち壊し」や「火付け」の「裏の組織」は上記の経緯から「薩摩藩」に依るものであったとも考えられる。
つまり、「陸奥宗光派」と「献納中止」と「武士に頼らない銃の軍組織改革」とそれに関連する「軍費支援・国家予算の20%・支援」と「伊勢騒動・明治9年終結」に在ったと観ていて、これは「薩摩藩」に執っては“「裏目に出る利害関係」が大きく働く”と観ての行為であったのであろう。
結局は、何とその「陸奥宗光の銃軍事組織」で「西南戦争」に持ち込まれて薩摩は敗退したのだ。
「西郷」が「第九回御前会議」で大声をあげ机を叩き席を蹴って勝手に退席し、「大久保の制止」に関わらず「薩摩」に勝手に帰り、その結果、11の身分は剥奪されたのもこの「明治9年の事」であった。
これを契機に維新政府内で「薩摩藩」は勢力を失い「西南戦争」へと突き進む経緯と成るのだ。
ここでも「紀州藩の家臣」の殆どは「伊勢藤氏」であり、「上記の仕儀」から「致し方無しの経緯」とは考えられるが、直接的では無いにしても「政治に関わる事」に対しては「青木氏の氏是」を間接的にも破っている。
唯、「紀州藩藩士の陸奥宗光」とその仲間の「海援隊の裏工作・維新政府の重鎮と成る」で「多少の被害」があったが無事に済んでいる。
この事は「伊勢青木氏」だけに及ばず「青木氏族全体の事」として「伊勢藤氏の力」を借りて成した事に過ぎない。
前段でも詳しく論じたが、「影の首謀者青木氏の伊勢騒動」は「伊勢」だけに及ばす「信濃青木氏」も背景と成っていた事は資料としても遺されている通りの事である。
「伊勢騒動」に対して「維新政府」の「罪に対しての寛大な対応」で応じたのは「紀州藩藩士の陸奥宗光等の働き」があったものと考えている。
「献納・明治9年」も中止し、この「1年後に西南戦争・明治10年」が起こり、している事から考察すると、“「青木氏族」としてはこれ以上の事は危険で出来ない”として「維新政府」から離別したと考えられる。)
(注釈 「近江への再支援の疑問」
飽く迄も、「生産者」でもあって「雑賀・根来の衆」を“「銃傭兵軍団」だとして存在させて置いて「銃の拡散」を抑えておく必要があったのだ。”
当然に「近江」に対しても「堺」からの資材や財源の支援供給で行動を抑制していた。
何故、又しても「難しい近江」に「財源と原材料と職能」を「堺・七割株」から提供したのか、又、当時の「伊勢青木氏の福家」は判断したのか不思議でならない。
これでは「和紙殖産の苦い経験・源氏化」が生かされていない。
筆者なら絶対にしない。
その意味で「銃」は「公的記録」としては、上記した様に「1543年に種子島」に入ったが、実際には、その「40年後」の「1583年頃の近江」から広まった事に成るのだ。
その「意味」では、余りにも「殺戮度の高い銃」は世に存在する事の危険度を察知した「秀吉の刀狩りの判断・1588年」と「家康の銃規制・1605年」は手早く正しかったのだ。
「家康の銃保持・1583年の説」としては正しかった事に成る。
上記した様に、「青木氏の堺銃」は「秘密裏・約100年弱前」に「1543年前からの試作段階・ホイールロック式」を経乍ら,随時適時にて一族一門に「生き残り抑止力・1545年頃」として渡して、最後は「フリントロック式銃・1560年・額田青木氏」に実際に「第一次吉田城・一言坂」で使用したのである。
合わせて「生産元の功罪」の「青木氏の銃」が「近代銃」で「高額」で使用に際しては黄鉄鉱や硝石等特殊な交易で無ければ手に入らない事、又、相当な「熟練」を要し、且つ、銃そのものがそれが漏れたとしても広まらず、最早飾りに過ぎない事に成り得て、故に「身内」で「抑止力の概念」を護り確実に秘匿出来た事も評価できる。
敢えて当初より「火縄銃で無かった事」は「広まらないこの事」を意味していたのだと観る。
惜しむらくは前段でも何度も論じたが、「火縄銃の乱れ」は又しても「近江の事」であったし、「江戸初期前後の松阪での近江商人との軋轢」でも苦労をしているのだ。
「青木氏の全ゆる資料」では、「その説明の一行」が無いが「子孫」としてここに敢えて筆者が遺す。
「青木氏の歴史観」としての後勘としては、矢張り、その原因は、又しても「近江・日野の無節操な行動・抑止力の無効化」にあったのだ。
結局、乱れを食い止める為にも「堺・支援供給」も「中止する破目」と成った。
故に、「火縄銃の銃の歴史」は遅れていて「近江の龍源院銃・1583年」が「銃の事の始まり」として正しいのだ。
「長篠の戦い・雑賀根来火縄銃」での「松平氏の銃保持説」は「誇張の何物」でも無いのだ。
公的に良く「絵巻」でも華々しく描かれている様なものでは決して無かったのだ。
これは「秀吉の刀狩り・1588年」の「5年前の事」に成る。
この事からは「松平軍」は未だ“「銃の調達」”は出来ていなかった事に成る。
恐らくは、上記した様に「銃シンジケート」がしっかりと未だ効いていた事に成るか、高額で手が出せなかった事にも成るが、「家康側近」の「西三河の旗本衆」が“極めて保守的”であった事かにも成る。
筆者はこの「注釈説」から「三河の保守説・嫉妬癖」を更に採用している。
念の為に論じて置くとすれば、この「三河の保守説・嫉妬癖」の性格が、前段で論じた様に「吉宗の頃」にまで続き現実に「史実問題」を起こしているのだ。
如何に「額田青木氏」の「国衆の300丁の近代銃・フリントロック式改良銃」が保持も含めて全ゆる面で如何に「考え方や行動力や判断力」が進んでいたかは判るのだ。
然し、「銃」は例え“「抑止力」”であったとは云え「青木氏の氏是」を超えている事は否定できない。
それだけに「下克上と戦乱」とで「子孫存続」が緊縛していた事にも成る。
「伊勢」のみならず「一族一門の血縁族」により「高い抑止力」を着けて全体で護ろうとしていたのだ。
実際にこの「抑止力」を「伊勢の梵純軍等」は「伊勢の梵純軍等の資料」で使った事は判っているが、青木氏側の確実な記録は見つからない。
「多少の牽制で使った事」もあろうが、全体としては「抑止力の情報力」を高める為に「抑止力・デモはしただろう」であったと観ている。
故に、前段や上記した様に「信長・秀吉・家康」はこれを“「噂」”で知っていたのだ。
つまり、抑止力は働いていたのだ。)
(注釈 「国衆南下の後半」
改めて「源平の戦いの石橋山」で潰されてから「三野王の裔の(aの族)」とその裔の「(a-1の一部)」は完全に滅亡した。
長い間潜んでいた「加茂・木曽の信濃シンジケート(信濃シンジケート)」の「美濃の青木氏の「浄橋・飽波」の「末裔(a-1)と(a-2)」の「一部・伊勢の裔系の集団」と、その血縁関係を持っていた「伊勢の裔系・美濃の者等(a-2)」と、それに追随した「官僚族等(bとc)・原士」等を集めた「血縁族集団」と、この「二つの集団」を「額田を拠点」に形成していた。
所謂、これが国衆南下の「後半の準備期間」であって、これが「美濃額田の所縁集団」であった。
そして、「渥美湾」を「額田」と「伊川津」で縦に結ぶ“「直線勢力圏・縦の陸路」”を「伊勢青木氏と信濃青木氏の背景」で、「超近代的な武力集団」として徐々に構築して支配しようとして「計画」を進めていた。
そこで、「下準備・前期」を終えてからの「室町期の末期」と成ってからは、上記した「美濃額田の所縁集団」の「二つの集団・国衆」を「額田一色」に一同に呼び寄せる機会を伺い実行した。
要するに、「歴史的な集結」であった。
取り分け、危険な「下剋上と戦乱の様子」の中を伺っていたのである。
これを資料から観ると、この時、ここが後期の「周囲の土豪」や「小国衆」との「小競り合い」の「予備戦」があったらしい。
この時の「額田の南下国衆」の行動は、「周囲の勢力」を全体的に抑え込むのでは無く「幅の狭い縦の陸路1・東山稜」の“「直線勢力圏」”の構築に限定していたのであった。
ここには当時にあったこの付近には、“「商業通路」”の様な「自由な通行券・注釈」の様な「山稜の道」があったらしい。
これは「一般道」では無く「一定の物資輸送」や「兵の移動路」等に使われる道で、この様な「土豪」が抑えていた「商業道の物・近道」であったらしい。
「記録」に依れば、前段でも論じて来た様に、その「美濃の国衆」の中では「戦力差・銃」に依って「戦い」には成らなかったのではないかと観られる。
寧ろ、「党の様な軽い連合体」の様な形で「合力を申し合わせた事」が書かれている。
彼らは、元々、別の面で美濃と信濃路間の「一種のシンジケート」であった事を知っていた。
近くにいた「周囲の土豪」や「小国衆」はこの事は既に知っていたらしい。
何せ武装している「美濃の額田の所縁集団」の「二つの集団・国衆」であったかららしい。
「額田の青木氏の国衆」には背後には「伊勢信濃の青木氏抑止力」と「秀郷流青木氏の青木氏族」を控えていたのだ。
これを噂なりに知つていたと云う事であろう。
従って、この「商業通路1」の「土豪集団」は一切戦わなかった。
寧ろ、彼らに執っては{南下国衆}に近づいていた方が全ての面で利得であった。
明らかに資料と戦記の「記録の通り」である事が判る。)
(注釈 「「商業通路の検証」
現在でもこの様な商業道が全国に多くあって、特に「北陸道」に沿って弘前から新潟を経由して富山まで「本道」とは別に「商業道」としての路が遺されているが、この道は歴史に名を遺す商業道であった。
因みにこれには「面白い実話」がある。
前段でも論じた様に室町時代末期に「秀吉」は、「奥州結城氏・永嶋氏」を攻めた時、内部混乱が起こりこれを「奥州結城」に養子に入った一族を護る為に、「背後」を一族の「伊勢の秀郷流青木氏」が「結城永嶋氏」と協力しながら追尾した。
「秀吉側」は家臣の多くを戦死させ無理攻めをして早く片付けようとしていたが間に合わず、慌てて「北陸道本道」を通ると周囲から攻められる事を恐れた。
「食料不足の危険」から密かにこの「商業道」を使って何とか大阪に逃げ延びたとする記録が遺されているのだ。
何故、「秀吉」が「伊勢の秀郷流青木氏」を恐れたかである。
それは、「改良銃による戦歴」を情報として入っていた事を示す証拠でもある。
「銃力」が「非接触による10倍力」を知っていた事に成る。
必死に「商業道」に隠れて逃げたと云う事であろう。
この様に、この頃、“「商業道」”なるものが土豪衆に依って密かに造られていたのである。
この「商業道」には常に「シンジケート」が抑えていた「専門道」であって、これには“「利権・通行料」”さえを払えば通れるのである。
この様な「避難道」の様な当に探訪によれば要するに“「野道」”であった。
この「探訪の印象」では、矢張り「山際の農道」である事から、「田の周囲」から攻められても直ぐに迎撃対応でき、「山からの攻撃」には「山岳側面防御」で護れる。
後は元住んでいた「山間部・R152R}は{2ルート}もあった様だから「伊那・茅野・信濃」までは「活動の地元」であったから、この「商業道・縦の陸路1」に付いては”問題は無い”と観察できた。
「美濃の額田青木氏の銃」があれば問題は全く無い。
ところが、この「予備戦の途中」でこの問題は起こったのだ。
それは「織田勢力」に依って益々“「神明社の破壊」”が起こされ、「伊勢」を含む「近江」でも関西の各地でも起こされた。
「宗教勢力の排除」が各地で徹底して開始されたのだ。
そこで、伊勢は全体青木氏族の事を考えて信濃との命綱である”縦の陸路を造ろう”と決断したのである。
これで、「幅の狭い縦の陸路1」の“「直線勢力圏の構築」が急務であって、この東南の「商業通路」の「利権を持つ東と南三河の土豪連」は、幸いに「信長方」に付かなかった為に何とか「命綱」は「伊勢湾と渥美湾間」の「船の航路」にしても繋がり、兎も角も、再び「信濃間ルーツ」を再構築できた。
後は資料に依れば、「銃の護衛」を着ければ東・南三河の山際の「商業通路」は信濃―三河間は容易に通れたらしい。
「今川氏の勢力圏」と「信長の勢力」圏の丁度狭間にあってここまでは及ばなかった。
従って、元の「一色域」に近い「額田・端浪」には「美濃の所縁集団・二つの集団・南下国衆」を終結させ、「額田青木氏とその一党」として結成させたのだ。
そして、この「額田青木氏・蒲郡青木氏」の中で「伊勢の裔系のa-2」と「血縁性を持つ官僚集団」を先ずは「田原の古跡の神明社」のある「渥美半島・伊川津」に差し向けたのだ。
そして、この奈良期から「古跡神明社の青木氏族の神職族」が住んでいた地域に「伊川津青木氏・吉田青木氏等の四家」として「渥美湾」に再興を成し遂げたのだ。
「渥美」にはそもそも、奈良期の古来より神明社があり、「伊勢青木氏」より「柏紋の神職青木氏」を派遣して定住していたが、ここに相当先に「額田の家族」をも移し、その後に「蒲郡と伊川津」に「国衆」が移動した経緯であった。
然し、この「二つの美濃族の勢力」、つまり、「額田青木氏」と「伊川津青木氏の四家」とにはある種の違う事が起こっていた。
この事もあって、「一つの勢力」としてまとめる事に努力しなければ成らなかった事が判ったのだ。
そこには明らかに次の事が違っていた。
この“「額田青木氏・蒲郡青木氏」”は、つまり「加茂木曽の山間部」に逃げ込んだ「元美濃族系」の「伊勢青木氏の裔系族・「(a-1)と(a-2)の一部の族」であった。
ところが、「額田青木氏」とその後の「蒲郡青木氏」との違いには、「二つの説」が有って記録的には、はっきりしないが、然し乍ら、筆者は、その一説の前記でも論じた様に、後で東・南の端の「商業通路」では無く、別の西三河の「額田」から「蒲郡」に「縦」に「ルート2」を新たに作って南下して「統一して国衆」として定住したものであると考えている。
この一部が「伊勢桑名」に帰り、残り「蒲郡青木氏」が残った。
さて、この「期間差」がどの程度であったかである。
この「信濃の青木村」から塩尻を経由し「縦の陸路2」の「ルート2上」には当に直線状に、丁度、真ん中に「青木村」があり、其処には「古跡の神明社」もあり「清光院」もあり現在もあるのだ。
この歴史を調べれば判るが、先ず「この古跡神明社」も田原と同じく奈良期からである。
この「縦の陸路2」の「神明社」が存在したとすれば、「古跡の田原の神明社」と同様に「神職」が定住していた事から、少し後の同時期に近いと考えられる。
何故ならば、この「西三河の神明社」には「古来の慣習」が遺されていて、「神明社の廻りの六方向」に「山神社」が「子神」として祭司されていて、現在は二方向と成っている。
これは完全な伝統の「奈良期の構え」である。
この事から、これは「神明社」と「青木」に執っては「証拠」と確定できる。
然し、この「清光院」は「浄橋と飽波後の時代」と成る為に完全な同時期とは確定できないが、少なくとも「平安期末期か鎌倉期」である事には間違い。
何故、「蒲郡」かに付いては「桑名の言い伝え」ではあって、資料的には何も物語るものはないが、何かを考えられるとしたら、「伊勢水軍の泊」か「伊勢屋の事務所」の様なものがあったと考えられる。
「蒲郡」の「桑名と伊川津の距離的な事」や「岡崎市の青木町の直線的距離的な事」かであるが、近くに「蒲郡の近隣2社の神明社」があり、「青木町の神明社」との「繋がり」を考えれば何も無かったとは考え難い。
少なくとも、「伊勢の柏紋の神職」が定住していた筈で、現在も「青木氏」はこの村と共に存在するのだ。
そうすると、この状況からも「蒲郡と伊川津の青木氏」は同時に移動したのでは無く、論理的にはこの「二か所」に向かって、別々に「渥美の伊川津青木氏・四家」の一団は東・南の山際の「商業通路1」を通じて移動していた事に成る。
そして、「蒲郡の額田青木氏」は「縦の陸路2」で南下したと考えられる。
「縦の陸路1」と「縦の陸路2」の多少の違いの「時間差」があった事に成る。
その後の「裔系の統一」が起こり、その経緯は次の様であった。
そうする事で、「蒲郡の青木氏」を「主家」として、「伊川津青木氏・四家」を支配下に置く形態を執ったと観ているのだ。
前者が「a-1族」で「額田端浪一色に居た主家」で、「浄橋と飽波の直系の裔系」とした。
後者が「前者の血縁族の裔系」の「a-2族」とした。
前者と後者に当時、「美濃の官僚族」であった「bとc族」が配置された。
この「bとc族」には「300年」と云う長い間に「家紋」から観て「血縁性」が認められる。
この「美濃の官僚族」であった「bとc族」は、この「血縁性と縁故の絆・源氏化」に依って滅亡した「三野王系・a」との二つに分かれたのだ。
そして、「後者の青木氏」にはその「血縁の系類」に合わせて「渥美の四家青木氏」を構築させた。
これには「伊勢」からの「指示成り発言」があったと考えられる。
以上と成る。
そうでなければ「後の史実」とは「時系列」で一致しないのだ。)
(注釈 「伊川津青木氏四家のその後」
其の後に、「美濃の南下国衆の二氏(額田青木氏の蒲郡青木氏・指揮)」と「(伊川津青木氏の吉田青木氏・四家)」には、「松平氏」と共に「国衆」として参加して共に戦う事に成ったのだが、「準備期間の後期」の「予備戦」と観られる「初戦」が「第一次吉田城の戦い」であって、ここから「国衆」が開始されたとされる。
これ以外に「定住地の吉田」が「武田軍」に攻められると云う理由が他に見つからない。
「三野王」に多少の所縁が、「額田青木氏・蒲郡青木氏」には少なくとも在ったとしても、取り分け、「伊川津青木氏四家の吉田青木氏等」にはそれが薄い筈である。
何れも奈良期に繋がる「青木氏」であるとしても、「350年の間」には「青木氏としての違い」は起こっている筈である。
その結果がここに出たのである。
それを物語る記録があって、この事から、一つは「室町期末期」には「額田青木氏の蒲郡青木氏」の一部が“危なく成った桑名”を護る為にも「三河」から「桑名」に向かったとする記録がある。
その二つは、先ず「蒲郡青木氏」は「松平国衆」から離れたとあり、続いて、「伊川津青木氏四家」も離れた形の「行の表現」と成っている。
どうも同時に、「三方ヶ原の戦い後」に直ちに離れた様では無かったらしい。
「多少のタイムラグ」があったと観える。
その「タイムラグ」は、「地元3土豪・国衆・四国」との「伊川津七党の絆」があった事からの「時間差」では無いかと観ている。
「3土豪間の絆」をどう処理するかであったろう。
この「時間差」はどれ位かは判らないが、そもそも「青木氏」の中では「伊勢の指揮の許・蒲郡青木氏」で決まるが、「地元土豪・3氏の間の説得」をどうするか「話し合いの時間差」が必要であったか、「蒲郡青木氏」が行う「陸運業の体制固めの時間差」なのかは判らない。
「蒲郡青木氏」には、「松平氏や土豪との絆」は全く無かった事から「伊川津七党の関係」の「解決待ちの時間差」であった筈である。
この「3土豪の戦い後の状況」から鑑みて「土豪間の話し合い・本家と分家」が着かなかった事が「読み取りの行」から読み取れる。
「資料の深読み込み」から「筆者の印象」では、“二つあった”のではと観ている。
それは、一つは「伊川津の土豪・3氏」を引き入れる事の賛否、二つは「bとc族の引き入れる事の賛否」にあって、「蒲郡青木氏の異論」があったと観ている。
それは「伊川津の地元土豪」は前段でも論じた様に元は4氏であった。
然し、参加しているのは「3氏/4」であるからだ。
“1氏が離れたと云う事・西郷氏・武蔵国衆”に成る。
恐らくは、この「1氏」は資料に全く出て来ない「西郷氏」であったと観られる。
因みに「西郷氏」は三河の戦いにも参加しなかった事が判るが「国衆の中」で何かあったと考えられるが判らない。
これに成し合いに時間が掛かったのであろう。
結果として、「青木氏側」から観て観ると、この「話し合い」に最初に出された「蒲郡青木氏の二つの意見」は引き下げられた事に成っている。
「青木氏だけの陸運業」と「七党の解消と早期決着」であった事は判っている。
この「土豪3氏の国衆の本家」は「松平氏の准家臣扱い」と成った。
この事から、この関係を陸運業の中に持ち込む事を嫌ったのだ。
だから、「武士を捨てた分家筋が加わる事」に成って引き下げたと成ったと考えられる。)
(注釈 「七党の脱党の西郷氏」
「伊川津七党」から逸早く抜けた気に成る「西郷氏」は、鎌倉幕府の相模の低い官吏族の一つで、室町期に三河に入りその後に勢力を伸ばし相模から各地の国衆として流れ、この一部が「三河の伊川津」に入った族である。
又、鎌倉期末期にはその一部はその主家と共に南九州に流れたとされている。
これが「鹿児島」で「勢力」を持っていた「薩摩の土豪・島津氏」の家臣として仕えて、その後、前段でも論じたが、「島津氏は次第に勢力」を持ち「南九州」を制していた「日向肝付氏」と戦い、更に次第に勢力を伸ばし、最終は肝付氏に一国を与え血縁して家老に迎えて決着を着けた島津氏である。
この中に「相模の西郷氏の末裔」が家臣として入り込み居たのである。
要するに、何故に不毛の地の「伊川津」に入り込んだかは判らないがこの「国衆」の一族である。
筆者は、ここから「世間の動き」を観ていたのでは無いかと考えていて、故に、「武田の動き」の活発さから「伊川津」を出たのでは無いかと考えられる。
「伊川津」から何処へ入ったかは判らない。
それは「国衆」をより良い条件で受け入れてくれる所に流れたと考えられ、そうなれば、当時、勢力を大きくさせる為に「国衆」を受け入れていたのは「伊川津の西の今川氏」の「東三河」と成ろう。
然し、この「東三河」から出て尾張全域を攻めた「今川氏・1560年」も織田信長に依って潰された。
恐らくは、この時に「伊川津の西郷国衆一族」は滅びたと観られる。
況や、「伊川津七党の3土豪の国衆」は非弱な三河は尾張と今川の中間に居て、未だそんなに長い間の国衆では無かったし、土地も不毛であって、「国衆としての特典」は固着する程に無かった筈である。
恐らくは、「別の目的」で南下移動してきた「美濃の国衆の青木氏」とは違って「他の3土豪」も「西郷氏」と同じでは無かったかと考えられる。
然し、「今川」が潰れた後は「三河松平氏」はその流れの中にあるこの「3土豪」に何とか「伊川津」に留め置く為にも“「准家臣扱い」”をしたと云う経緯の事に成るのであろう。
それが前段の論の経緯を経て、そして、答えから先に説いて置くと、全てが「准家臣扱い」に納得するかは何時の世も同じで、その「経緯」から嫌って逃れた者等の両者も一つと成って「陸運業」を始めたと云う事に成ったのだ。
だから、「二つの条件」を下げて「伊勢」は納得をしたのである。
これは歴史的に「氏是や慣習仕来り掟」から観て珍しい事であったが、納得わしたのである。
以後、明治期まで全く問題は起こらなかったのだ。
寧ろ、明治35年の松阪の伊勢屋の失火倒産解体時の少し後の時期に、この3つの内の二つは独立して「陸運業」を営んでいるのだ。
その「過去のシンジケートの繋がり」と「国衆の銃の武力」を使って「江戸期の初期」には「大陸運業」に成ったとあり、上記の様に現在も続いている。
「伊勢と信濃と伊豆の商い」を「陸」から支えたとある。
遡れば「江戸初期」は未だ「陸運」は未だ危険であって、各地には「盗賊や山賊や海賊」が散在していが、「彼らの力」に逆らう「盗賊や山賊や海賊」の輩は無かったらしい。
それは「シンジケートの横の繋がり」と「国衆の銃の武力」であって、「伊川津四家の青木氏の陸運」は「美濃忍者の原士」でもあった。
それだけに“仲間に入れて貰う”と云うのは在っても襲う馬鹿は居ないだろう。
故を以てか、益々、「組織」は大きく成っていたとしている。
「伊勢青木氏の資料と商記録添書」を総合的に読み解くと、「三河」より東が「吉田青木氏」、三河より西が「蒲郡青木氏」の領域として故意的かは判らないが分けられていた様である。
ところが、江戸期に入ると、これが“二つに成った”とあるのだ。
“二つにしたのか二つに分裂したのか”は判らないが、これも読み解くと、「昔の慣習」から上手く「割墨」をしていた事も観えて来る。
つまり、この事から、「巨大化した事」に依り「効率化を図る為」に、「西と東の陸運業」にした考えられる。
ここで、「上記の先答え」から次の「二つの疑問」が湧く。
前段でも論じた事ではあるが、次の様に成る。
「一つ目」は、何故に「蒲郡青木氏」の一部が、“危なく成った桑名”を護る為に「三河」から「桑名」に向かったのかであり、そして、その後どうしたのかである。
「二つ目」は、何故に「蒲郡青木氏」は、「松平国衆」から離れたが「吉田青木氏等」も離れたのかである。
この「二つの疑問」を解決していない。
上記の「疑問の答えの記録」が遺っているのだ。
「一つ目」は、「美濃額田の蒲郡青木氏」は、前段でも、且つ、上記でも論じた様に「桑名の額田」に大きく強く関わっていたからである。
つまり、「桑名殿の孫」の「美濃の額田の裔系の祖」の「浄橋と飽波」である。
つまり、「彼らの血筋」には「伊勢」のこの母の「二人の流れ」が強くあって、それが「記憶」「伝統」から「母方始祖」としていた「意識」が強く持ち得て在ったという事である。
「男系の祖」の「三野王の所縁」と云うよりは、「伊勢の所縁・女系」の方が強く在ったのであって、故に、「一色」なのである。
元より、奈良期末期から「妻嫁制度に依る女系氏族」として「四家」を構成していた。
「蒲郡青木氏」の一部は、その為に“伊勢を護るために帰った”という事に成る。
其の後は、彼らは「掟」に依り「桑名殿の四家の家人」と成った事に成っている。
この“「家人の立場」”で、密かに「江戸期初期の神明社引き渡し」を拒み、依然として荒廃した後の「元の位置」に密かに“「祠」”を遺して「桑名殿一族と氏族」で昭和期まで祭司していた事が記載されているし、「氏人」に依って現在も祭司されている。
“「家人の立場」”には、幾つかあるが「額田の裔としての立場」を利用してか、「家人の立場」を利用してかは判らないが、「幕府の目」を欺いたかは確実である。
江戸期は「殖産の関係」からも「家康のお定め書」からも「多くの事」は黙認されていて「紀州藩の黙認」があったと口伝で聞いている。
「一つ目」は、何れにしても「伊勢桑名の裔系」で「家内の掟の範囲」による「掟の事」に過ぎないのである。
「二つ目」は、前段でも論じている「青木氏格式の国衆の立場」と「松平氏の旗本との嫉妬怨嗟の軋轢」であった事が書かれている。
後に述べるが、「第一次吉田城の戦い」「一言坂の戦い」「二俣城の戦い」から「三方ヶ原の戦い」にこの「旗本との嫉妬怨嗟の軋轢」が諸に出ていて、記録にも明確に遺つている。)
(注釈 「二つの縦の陸路の創設」
では、先ず前段でも論じたが、もう少し追論すると、はっきり云える事は上記の「元美濃の額田と伊川津の二氏」は、「伊勢と信濃青木氏の要請・経済的支援」と共に、「伊勢秀郷流青木氏の背景」の“保護下にも入っていた”と云う事である。
注釈として、「1510年~1570年」まで続いた「小峰氏と白川結城氏」の「一族内紛」に乗じて「信長・秀吉」が動き、最終は「秀吉」に依る「1590年の奥州仕置き」で事を治めた。
この時に、「伊勢秀郷流青木氏・梵純・銃」が「背後」を突いて「白川結城氏の裔」を救い出し「結城永嶋」に連れ戻した事件があった。
この前提で論を進める。
従って、この事から「額田青木氏」だけはその「国衆としての成った目的」を果たしている訳であるし、論理的に遺る理由は、元より三河そのものに“「国衆」”として遺る理由は無かったと云えるのだ。
そもそも、何れも「(a-1)(a-2)の族」であった事に依って、「桑名の浄橋飽波の伊勢の裔系」である以上は、「四掟での妻嫁制度に於ける女系」で深く繋がる「伊勢秀郷流青木氏の背景」の保護下に入る事が出来る所以でもある。
然し、「a-2の裔系」である以上は「渥美青木氏」と「伊川津青木氏」と「田原青木氏」と「吉田青木氏」の要するに“渥美四家”は“「伊勢桑名」に帰る”と云うその所以は元より薄い。
必然的に「蒲郡の額田青木氏」にはその「目的」が達すれば、その「松平氏の保護下」に入る必要性は最早全く無く、「伊勢青木氏の桑名殿」の膝下に先ずは帰る事になるだろう。
つまり、「母系出自元」の「伊勢桑名」の目指すその「目的」が達成されたのであれば、故に、最も早くて“「1560年頃」”に「今川弱体化の頃合い」を観て「伊勢青木氏の桑名殿」の膝下に先ずは帰る事には成っただろう。
だから、「蒲郡青木氏」の一部が「桑名に帰った事」に成っているのだ。
ところが再び、事を興し先ず「旧領地・一色地域」から縦に「蒲郡」までに直線的により強固な「勢力地・縦の陸路2」を張ったという事に成ろう。
これが、時系列から観て「三河国衆」に正式に成った間の無い頃の「1560年頃であった事」に成る。
これが「東の山際の商業陸路1」の後に成る。
そうすると「東の山際の商業陸路1」は元々土豪に依って作り上げられていた陸路であり、それを「東三河国衆」として無許可で使える短絡路として設定したのであろう。
東からは金銭で造り上げた既存の「商業陸路1」を、西からは新たに造り上げた勢力に依る「縦の陸路2」を少し遅れて設定した事に成る。
これは「信濃との関係を繋ぐ縦の陸路2」であって「当初の目的」の一つであった。
但し、この「縦の陸路2」は、資料の調査に依れば、「伊勢青木氏の神明社の古跡地」で「岡崎と蒲郡」はその「神職定住地」であってこれを改めて強化して繋いだとされているのだ。
「伊川津の田原の古跡神明社」と同じであったのだ。
故に、その史実を承知していれば「南下後1560の頃」の直ぐに出来る仕草であった様だ。
恐らくはこれは当初からの「伊勢の情報と作戦」であったと考えられる。
この「二つの縦の陸路の創設」は「国衆の銃と財力」に保障されたものであったろう。
だとすれば、「1573年」まで「国衆を続ける理由」は完全では無いが最早無く成っていた筈であるが、然し、「12年間」も続けた。
これは何故なのかである。
一つは松平氏と織田氏への牽制にあったのだ。
「縦の陸路2」は、西の「織田氏の勢力圏」の東末端重複部にあった。
「商業陸路1」は、東の東三河の「今川氏の勢力圏」の西末端の重複部にあった。
これには、両者に対する牽制として“「300丁の銃の脅威・抑止力」”を「国衆」として見せて置く必要があったのだ。
そうする事で戦国の世の中で「二つの陸路」を維持でき「信濃との連携」が取れていた。
さて、それに就いてであるが“「300丁の銃の脅威・抑止力」”だけでは済まなかった様だ。
それを裏打ちするだけのもっと“大きい背景”が必要でそれには問題があったのだ。
ところが、一方、「伊川津の七党」の彼らは、“「秀郷一門の背景下」には入っている”が、その“「保護下の入り方」”に問題があって完全では無かったのである。
それは「地元の土豪勢力」と「七党を形成した事」もあったのだが、「格式等の立場」の違う彼らには要するに「一つの文句・言い分」があった。
主に「額田青木氏(a-1)と、(a-2)」の中には「一部の配下」として、「加茂木曽の山間部」に潜み「シンジケート」を形成していて長い間働いていたが、その「原士の元・奈良期から平安期」は、そもそも「低位の官僚族(bとc)」であった。
これを「地元の土豪勢力」から観れば、この「保護下の入り方」に血縁性も低く間接的に「保護下」に入っていただけの事に結果として観えた事になっていたのであろう。
これを「伊川津四家として見做す事」に「不満をもっていた事」が「資料の行」から読み取れる。
要するに、「低位の官僚族(bとc)」を感覚的に別として捉えていた事に成る。
然し、「伊川津四家」の中の族として「青木氏側」では捉えていた。
ここに「地元の土豪勢力」の「感覚差」が出ていた事に成る。
この「感覚差」が“「秀郷一門の背景下」に「揺らぎ」が生まれたのだ。
この「行の事」から鑑みれば「地元の土豪勢力」に執っては、「伊川津青木氏四家」の先には「秀郷一門の背景下」がちらついていた事を意味する。
「伊川津青木氏四家」だけで信用せずに「伊川津7党」を構築していた訳では無く「影の一党」を後ろに描いていた事になる。
何故ならば、「4土豪」の内の「2党」は関東からの「国衆」であって、「秀郷一門の背景」を事前に承知していた筈である。
室町中期までは「伊勢長嶋」まで「関東屋形」として勢力を維持していたが、室町期中期以降は元の関東に勢力圏は押し込まれ桃山時代まで「秀郷一門の背景」は維持していた。
この時期の「伊勢秀郷流青木梵純」の「陸奥の結城氏救い出し」でもその勢力は未だ健在していた事に成る。
「伊勢青木氏の威力」は、飽く迄も「抑止力とその財力」であっても、「4土豪」には「武力の背景の感覚」を強く持ち続けていて、「彼等の感覚」の中には色濃くまだ残っていたのだ。
それ故に、”七党を組んでも若干心もとない”ものを持っていた事に成ろう。
「細かい歴史観」としては「伊勢青木氏の秀郷一門の背景」に何某かの魅力を感じていた事に成る。
そもそもこれは「額田青木氏・蒲郡青木氏」の「南下国衆の指揮官」であった事もあって無理のない処かも知れない。
更に遡れば、この地域まで「武蔵秀郷流主要五氏」の「青木氏族の永嶋氏の勢力圏」であったのだから「秀郷一門の背景下」を期待するのも「仕方のない事」かも知れない。
寧ろ、厳しく見れば「格式社会の中」では、「地元土豪」は時代が進んだ事に依って「国衆」と云うものが生まれ、彼等から観れば従って「同格程度の官僚族類」だと観ていた可能性もある。
逆に「元官僚族類」は格式からすれば「新撰姓氏禄」に記載にある様に「諸蕃」に類するのである。
平安期は「元官僚族類」の支配下にあった庶民である。
全国的に観れば「土豪の中」には「元官僚族類」から成った者も居たが、この渥美半島の室町期後半の最後まで生き残った4土豪の「戸田、牧野、馬場、西郷」はその多くはその出自を遡れば格式とすれば「下・農民」であった。
然し乍ら、狭い不毛の「伊川津」に住む以上は、この「地元4土豪」は、元を質せば、室町期中期では血縁性は別として「何らかの永嶋族との関係性」を持った「片喰州浜の永嶋系秀郷一門下」であった事には間違いはないだろう。
ところがこれは「家紋類」には、明治初期にも起こっているが、「江戸初期の国印状発行」の際には「公然とした虚偽搾取」が多く起こったので「史実」かどうかは判らないが、「伊川津七党」の地元の「片喰州浜系の家紋類」が多い事からでも判る。
「家紋=血縁と云う論理」に成るのでよく調べると実は一部が異なるのだ。
つまり似せていると云う事だ。
因みに、「片喰紋類」には125紋あり、「州浜紋類」には43紋ある。
三河に関わるこの「3土豪の家紋」はこの中には無く、あるのは渥美半島の田原藩主の本田氏の本田片喰と東三河の酒井氏の酒井片喰での二つであり、恐らくはこの「3土豪」は、二つは「本多片喰系の類似紋類」ともう一つが「酒井片喰系の類似紋類」と云える。
この事で「准家臣扱い」から「松平氏の譜代家臣」になり「大久保氏・本多氏・田原城」と「酒井氏・吉田城」に組み込まれた事に依って、最終は江戸期に「国印状発行」に際し「類似紋を使う事」を許可されたと考えられる。
尚、「州浜紋」はそもそも「秀郷一門」に従って陸奥から来た血縁を受けた「常陸小田氏系の家紋」と成っている。
鎌倉期に秀郷一門の勢力の西への伸長にともない「関東屋形」として三河域に一部の「支流子孫・卑属」を遺したものである。
江戸期の「戸田氏の家紋」は「国印状発行」で正式に決めた家紋は「六曜紋」で、「牧野氏」は「丸に三柏」と成っているが、室町期の家紋は上記の類似紋であった。
そうすると、この「本多氏と酒井氏」が「片喰州浜紋類」を使った事で「秀郷流一門への憧れ」を持っていた事に成り、その中でもこの「家紋類の傾向」としては「伊勢秀郷流青木氏と伊勢藤氏」の方が「関係性・憧れ」は高いと云う事に成るだろう。
この上記の事から、矢張り、「3土豪の本家筋」は「資料の読み取り」の通り「秀郷一門への背景」を強く意識していた事は否定できない。
この様な「資料」に基づけば何気なく読むと気が着かないが「文章の行」を注意深く読み解くと、“この時にこんな表現は使わないだろう”として観れば、故に、“憧れの様なもの”以上のものが強くあった事が伺える。
だとすると、この件で観ると、寧ろ、「土豪等の利害の考え方」が「本家筋」と「分家筋」の考え方が事に成り、「分家筋」に執っては“「抜け出す」”と云うよりは「秀郷流青木氏の背景」の持つ「伊川津青木氏四家の中」の“「保護下」”に入っていた方が得策であると考えたのであろう。
現実に、これがどのような経過であったかは確定はできないが、「下記の注釈」から「本家筋」は「松平氏の保護下に入って行った事」は判る。
この様に「伊川津青木氏」には「党」を形成する上で「以外な悩み」があった事に成る。
故に、「伊勢と蒲郡」は「陸運業」を立ち上げる時に、後々問題に成る事であったのでこの一点も気にしたのでは無いか。
現実に、前段でも論じたが「額田青木氏の南下国衆の指揮」を執った「伊勢秀郷流青木氏」は「岡崎」から「開発業」を手広く始めている。
これは「秀郷流一門の背景」が色濃く出て来た証拠でもある。
分家筋は「読み」の通り相当に「低禄の本家筋・准家臣扱い」より潤った事を意味する。
要するに、拒絶されずに「伊勢秀郷流青木氏が住む世界・地域」の地盤がこの三河にも「広げられる地盤」があった事に成る。
「秀郷一門」は平安期から鎌倉期を経て室町期中期頃まではより良い執政を敷いていた事に成ろうし、取り分け「永嶋氏」は貢献したのであろう。
「永嶋氏」は平安期と鎌倉期に四国徳島と淡路にも「片喰州浜の多くの子孫」を遺したのだ。
これが江戸期まで続いたと云う事なのだ。
そこで「牧野氏の出自説」には大まかには二説あり、共に四国で「阿波説」と「讃岐説」に基づいているが、「牧野の姓」の論処は、四国での「牧野・イ」と三河の「牧野・ロ」に分かれていて、前者は「室町期・応仁の乱」、後者は「鎌倉期・承久の乱」の事に成っている。
「前者・イ」は「讃岐」から出て来て「乱の功績」に基づかず「三河牧野村」に根付いたとする説であるので、元は「牧野」では無かった事に成る。
「後者・ロ」は「阿波」から出て来て「乱の功績」で三河宝飯郡の「牧野村の地頭」と成って「牧野の姓」を名乗ったとしているので、元は「牧野」では無かった事に成る。
何れも「牧野氏」では無かった事に成り、違いは「讃岐」と「阿波」の違い差にある。
「二つの姓」から「元の姓」が明確に成っていない事と、「武士」であったとすれば「家紋」を持つ事から、この「家紋」が明確に成っていないので、当時の殆どの「農民の立身出世」が起こった時期の「農民」であったと観られる。
「讃岐」か「阿波」かであるが、筆者は、豊橋に讃岐神社を造っている事から「讃岐」から一度「三河」に入つた国衆団であったと考えている。
「後者・ロ」は余りにも「史実」に合わせて矛盾なくしての後勘で「出自系」で造り上げていて、現実にこの様に上手く行かないし、上手く行けば「不毛の伊川津」には流れ着かないであろう。
間違いなく江戸期に成ってからの「後付け」であろう。
筆者の説は「前者のイ」であり、「姓の出自」は「農民」であり、三河の「牧野村の庄屋牧野氏」を「何らかの形」、即ち、当時横行した「血縁か奪剥」で名乗ったものであろう。
「農民の立身出世」で「応仁の乱時」の乱世の「流れ者説」を採っている。
因みに、公然としてその出自を公表している「当時の状況」を物語る有名な「土佐藩主の山内氏」も同然である。
「家紋」を観ても四国には無い「三柏紋」は可笑しいし、20に近い一族の家紋がそもそも統一されていないし、この一族の中には「前者・イ」を元としているものもある。
又、「三柏紋類系」には無いものもあり、且つ、「家紋200選」にも無いのだ。
明らかに「国印状発行と系譜」には何が何でも定めなければならないもので、そうでなければ「国印状」は出ず「武士」には成れない。
この「牧野氏」等は「新撰姓氏禄の諡号」の族系には無く、依ってその発祥は阿波の「農民であった事」に成る。
前段でも論じたが「後者・ロ」の現地は「四国」を東西に分けて、東に「秀郷流一門と藤原利仁流一門とその青木氏」、西は「讃岐青木氏と讃岐藤氏の定住地」である。
少なくとも其処の民であったのであろう。
それ故に、「秀郷一門に対する憧れ」が根底にあった筈である。
そこで念の為に、仮に秀郷一門に血縁的に関わっていれば「主要八氏」であれば、「361氏の家紋類」と、「青木氏」であれば「116氏の家紋類」が、「一定の規則」で江戸期の墓所に刻まれている筈である。
現実に「現地調査の問題1」では、江戸期前後のものと考えられる「墓所」を確認した。
「明治期の墓所」は、「苗字令・督促令」に依って掟が護られなくなったので、信用は出来ないし墓石も違うので容易に取捨選択できる。
それによれば「片喰・州浜の家紋類」の江戸初期頃の物と思われる「青木氏の墓紋」が確かに刻まれてはいるが、然し、完全な秀郷一門のものではない様だ。
流石に、この「美濃の一色の西域にある墓所」では、最早、「三野王族の(a)族」は滅亡して「笹竜胆紋」は無い。
「伊川津の青木氏」と名乗る以上は「(a-2)の族」の一部が、「(a-1)」と「尊属血縁性」を持ち「青木氏の掟」に依り「女系」で「青木氏」を興して名乗った事に成る。
従って、「尊属」であれば「笹竜胆紋」となるし、「女系」に依って「姓・卑属」を出さない掟である事から、伊川津では「賜紋の神紋の柏紋」以外には無い筈である。
結果は「伊川津の墓所」では、歴史的経緯から「古来の古跡神明社」を頼って移住した事もあって、「神明社の柏紋類」が殆どである。
つまり、「額田の一色」では「笹竜胆紋」の象徴の下で、「a-1族の裔」は兎も角も、「a-2の裔族」は敢えて「家紋」を「象徴紋」だけとして定め別に持つ事をしなかった事に成る。
然し、「南下国衆」として「a-1の裔系の蒲郡青木氏」と離れ「伊川津域」に移動し「伊川津四家・a-2」を構築した以上は、所縁の「賜紋の神紋の柏紋」を使う事には同じ伊勢の裔系である以上は何ら問題は無いし、奈良期の元から定住していた「伊勢の神職」との血縁も「四掟」から考えても興っていると考えられる。
次は「現地検証の問題2」は、「伊川津青木氏四家・a-2」に付き従った「bとcの官僚族」の墓所が「田原市加治町」に「真宗寺・匿名」としてある。
此処には、「18の真宗寺」があって、その内の二つと観られる。
この寺から真南1kの所に「真宗西光寺」があり、況や「秀郷流青木氏の所縁」の繋がりを物語っているが、恐らくは、この「二つの真宗寺」に江戸期前までは「彼等の菩提寺」として分散していたと考えられる。
美濃の「bとcの官僚族・諸蕃諡号雑姓・第1の姓族」に位置する族の「家紋」には、「過去のある特徴」があって「最大48種」の「草に関わる紋様と色」から出来ていて、これを基に最初は「家紋」と云うよりは「位階身分の判別紋」として扱われ次第にそれが「家紋」と成って行った。
この判別から「諡号では無い第二の姓族」と違って、「諡号を持つbとcの官僚族・諸蕃雑姓・第1の姓族・440族」にはこの“「判別紋」”を持っていたのである。
これを格を細かくは、「12類族」に分類でき、「大まかな格」には「8類族」に分けられ、「計20類族の格」でこの「分析」から確認できるのだ。
全体では「440の判別紋」がある。
これは「血縁性」に関わらず「位階身分格式」に依って分けられている。
念の為に「諡号」に含まない要するに「第二の姓族」にはこれは無い。
「伊川津青木氏四家」の近隣にこの「美濃の官僚族」であった「彼等の新たな菩提寺」は2寺存在するのだ。
奈良期では「五都計画」の一つであった事から「低位の官僚族」ではあるが、判別から観れば「中位下の判別紋」に成ろう。
中位格式以上は都に帰る事に成っていた。
この判別に含む家紋が刻まれているので確認できる。
この「現地検証の問題3」では、「上記の類似紋」が実に多いのだが、先ずは「3土豪の姓族の本家筋の家紋」にあるが、「伊勢の裔系の家紋」は元より「秀郷流青木氏の家紋類」には無く、仮にあっても墓石も江戸期前後の慣習のものと違っているので、明治以降のものであって俄かに信じ難い。
墓所の家紋から「片喰州浜紋の秀郷流一門」とは正式に明確に混じっていない事が判る。)
「青木氏の伝統 58」-「青木氏の歴史観-31」に続く。
名前 名字 苗字 由来 ルーツ 家系 家紋 歴史ブログ⇒
> (注釈 「紀州藩との繋がりの効果」
詳細の検証は更に次段に続く。
その疑念は明治初期に消えた。
> その後、因みに「伊勢青木氏」は「紀州藩との繋がり」を「伊勢加納氏」と共に復興させて、「支援」をしながら、「大正14年」まで「紀州徳川氏」が「伊豆」で絶えるまで「親密な関係」は記録からも続いていた。
> その証拠に「明治期初期」からは、依頼されて「絵画、俳句、和歌、茶道、華道等の諸芸全般」の「人としての嗜み・上級な教養」の「特別教授」として務めた事が記録として遺され、「多くの逸話」などの「口伝」でも祖父から聞き及んでいる。
> 中でも幕中から幕末に掛けて恒例的に藩主と多くの紀州藩家臣を一同に集めてこれ等の会を催していた事も遺されていて、この「恒例企画」が「祖父の代」の明治期まで続いていたとされる。
> 紀州徳川氏は東京にも「邸宅・事務所」を設け「紀州との往来」をしていて、最終、「商い・財団」を興し、倒産して伊豆に一人籠もって子孫を遺さず紀州松平氏は絶えて恒例企画は中止したとある。
> この時、大正14年であったと祖父から口伝で伝えられている。
> この中には、取り分け「財務」に関して幕末まで「勘定方指導」をしていた関係もあって上記の明治維新政府に大活躍した元紀州藩主の「陸奥宗光とその父との二人続けての交流」の事も含まれていたとある。
> これで「江戸初期前後の事や享保期の事」に就いては「伊勢」では、最早、「疑念」には拘っていなかった事が判る。
> これは「青木氏一族の伝統」の「家訓10訓」で「拘り」は厳しく戒めているからだろう。
> この「拘りの前提」と成る「大きな疑念」や「土豪3氏の話し合い」の「解決の経緯のタイムラグ」は、確かに在ったが、その為にそもそも「伊川津七党の青木氏四家・吉田青木氏等」が脱退したり崩れりすれば、再び「伊豆陸路」は間違い無く崩れる事に成っていたであろう。
> そうした中での、「上記の注釈」で説明する「額田青木氏」であって、その「答え」は最後まで遺ったのである。
> 後勘から観れば、この時も「青木氏の路」を読み間違えていなかったのだ。
> 後世に遺る「青木氏の歴史観」が成立していたのである。)
「青木氏の伝統 57」-「青木氏の歴史観-30」
(注釈 「巨万の富と伊勢青木氏のその後」
それは奈良期から始まった。
「紙屋院の紙の製造・朝廷の認可・勅命」からこれを基に自ら氏力で開発した「和紙」の「余剰品の市場放出の権利・商い」を「925年頃・紙屋院伊勢屋の号」を与えられ認められ手始めた。
そして平安期の「1025年頃の総合商社・献納金」を設立し、遂には、「室町期の紙文化」で「巨万の富」を得た。
更にそこから「室町幕府」には「白旗派・原理主義」を「浄土宗」と認めさせ、結果として唯一の“「律宗族」”と呼ばれるまでに至った。
それを「源・大儀」に、これを「共存共栄共生の概念・青木氏の氏是」で確率させ、要するに室町期の戦乱の中で“「紀伊半島の民」”を護ったのである。
当に、これが既には「平安期末期・嵯峨天皇期」からは「高位族の務め・皇親族・令外官」では無く成っていたが、然し、「伊勢青木氏・信濃青木氏の協力」の範囲では、その概念を頑なに「伝統」として持ち続け、「明治9年」までのその「行動」は矢張り、“「賜姓五役」”であった。
つまりは、”「隠れた令外官」”に徹したと云えるのだ。
「明治期まで続いた天皇への献納」は何よりのその証拠であろう。
況や、「共存共栄共生の概念」に徹していたかは、「明治35年以降」の「富の蓄積」の有無に表される。
そもそも、この「明治35年以降」は既に「普通の富の範囲」にあり、決して最早、「巨万の富」と云えるものでは無かった様だ。
それは「幕末」から起こった「伊勢信濃の全域の庶民が興した伊勢騒動」が明治9年までの「11年間」も続き、これを背後で補完していた為にこれにより「巨額の富」を放出したのだ。
「何万と云う民の糧」を全額支援したし、その「後始末」に明治政府に対してあからさまに「巨額の献納」をし、「騒動の事・始末」の「処罰者」を「差配頭」だけにして「民全員」を穏便に済まさせた。
「地祖改正」で「伊勢の地権域の民」に全て「無償」で「地権」を譲り「富」は遂に底を突いたとされる。
更に、維新時の大名に貸し付けていた「債権放棄・計10万両・主に紀州藩」に合い、富の底の底を突いたとされる。
最後は、「明治35年の松阪の失火」で「松阪福家」は責任を取り、全てを売り払い賠償したとある。
この事から「松阪」より「福家」を「摂津・紙問屋伊勢屋・現存」に移し、「松阪」は「殖産・早場米の開発と酒米の開発」のみにして、「員弁と桑名の四家・現存」に営業の差配を移したとある。
そして、「青木氏部」は「大工職人・宮大工」として支援して独立させて「桑名額田」に夫々の会社・二社・現存」を設立させたとある。
祖父の代の「明治維新から昭和20年」までは、「四家との繋がり」は有りながらも、最早、「富」では無く、“「律宗族」”から“「徳宗家」”としての「呼称の名誉」だけが遺されていた事は事実であった。
「青木氏の資料」と「明治期の郷土史」にもこの記載が遺る。
最後の「福家」であった「祖父」は、後始末を着けた其の後「尾鷲の旧領地」に引き上げたが、「多気と熊野と田辺と海南の庵・一族氏人の保養地」だけが残った事と成った。
「祖父と父」はその間に得た「教養」を許に、これ等の「庵」で「多くの弟子や僧侶・禅宗」を養い、世間に輩出した。
江戸期に「廃れた南画の復興」や衰退していた「彫刻・華道・茶道・歌道・禅門道・俳句道の普及」にも努め、「職業弟子」を世に無限と云える程に送り出した。
現在もその弟子の子孫が受け継いでいる。
これが認められ、「明治期の華族制度」の推薦に続いて、二度目の大正期に徳川侯爵より「文化功労」により推薦され、政府より感謝状を贈られるとするが「氏是」に従い何れも再びこれを辞退した。
「共存共栄共生の概念」に従い関係者で築き上げた「巨万の富」の「分配・地租改正等」は全てこれで終わったのである。
筆者は、未だ、一部の「資料や遺品」と共に「口伝」でも伝わり、その「伝統」は「松阪」や「旧領地等の尾鷲」にも遺り、丁度、その「末尾の経緯」を具に観て来た事に成るのだ。
それ故に、未だ何とか興せるこの「伝統の経緯」を遺そうとしている。
「長野青木氏」でも興し始めたと聞く。)
「前段」で述べきれなかった事柄をここで少し話を元に戻して論じて置く。
(注釈 「雑賀根来を潰した後の銃の行方の印象」
さてそこで、最後は潰そうと思っていた「信長」の「松平氏」に対しての思惑である。
雑賀族等を潰した後、彼等が持っていた「雑賀根来の火縄銃」のその配分の問題」には、直接は「割分」として「松平氏には渡す事」は戦略上は不可能であったであろう。彼等の戦力を強くして仕舞う事になり「潰しの思惑」は難しく成る。
従って、長篠後の「信長―秀吉の紀州征伐・1577年~1585年」には「松平氏」は参戦させていない。
つまり、思惑から敢えて参戦させなかったのではないか。
と成ると、要は「信長」が渡さねばならない「条件下」としてでは「参戦への義務責任」があるかである。
つまり、それは「雑賀討伐の貢献」に対して「家康の功績」があったかに対してであろう。
実は、この「第一次から二次と、最終の三次の雑賀攻め」に関して「松平氏」は参戦さしていないのだ。
「1570年の石山攻め」と、「1577年から始まり1582年までの雑賀攻め」には殆ど関西勢で攻撃している。
「三河の家康」に「信長」から「同数の火縄銃を渡す事」では簡単に済むが「雑賀の銃」は上記理由で渡っていないのであり、戦利品もである。
又、引き続いて「紀州全体の惣国勢力」を潰す為に起こした「秀吉の紀州征伐・1581年~1585年」でも参加はしていないのだ。
現実に、確かに「信長」は「雑賀攻め」に梃子づった。
その「原因」を象徴するのが、「雑賀川の戦い・1572年2月」であった。
「寺山城・雑賀城」から「銃」で狙い撃ちされ、「3万の織田軍勢」は手も足も出ず「壊滅状態」で一度京に引き上げている。
然し、果たして、「信玄」によらずとも「信長」も、「三方ヶ原の戦い・1573年・ホ」の「直前・1572年・ニ」に「雑賀川」のこの「大量の銃の攻撃・威力」を体験して観て驚いているのだ。
又、その前の「1570年」にも「石山本願寺攻め」でも「雑賀衆門徒の銃攻撃・ハ」を受けていて失敗し「銃の威力」を知らない筈は無いのだ。
「長良川の戦い」で、現実に雑賀・根来族の銃の傭兵を雇っていて其れで九死に一生を得ている。
従って、「吉田城の戦い・イ」や「一言坂の遭遇戦・ロ」でも「銃の情報」は既に得ていた筈である。
信長は「5回の史実」として経験しているのにそれ程に疎かで無神経では無かった筈である。
結局、故に、これ等は止む無く「信長」は「兵糧攻めと凋落」で収束させて、最終は「雑賀銃」を「傭兵・1575年長篠の戦い」で獲得しているのだ。
この様にして゜雑賀根来の傭兵の火縄銃を「獲得した銃」を観ても、凡その「簡単な事」では無かったかを察するであろう。
そもそも、この様に「松平氏に銃が渡る歴史的経緯」は無いのだ。
寧ろ、「信長の性格」から“「銃を渡す事」は何を意味するか”を即座に察した筈である。
それは間違いなく「松平氏を強める事」に外ならない。
それ程に万来の信頼をする「和議・織田氏」と「松平氏」では無かった。
寧ろ、「弱める事に裏の狙い」は在った筈で、歴史的にもこれは史実で証明されている。
ところが、実は、「雑賀根来の銃」の「一部・500丁」を「松平氏」に渡したとする説が有るのだ。
筆者は、この説に反対で、この時の一部の火縄銃は、上記に論じた通りの「雑賀族の逃亡者・鈴木氏系・500丁・紀伊山脈」が山に持ち込んだものであると観ているのだ。
何故ならば「雑賀族」とは云えその内情は壱枚岩で無かったのだ。
元々、「鈴木氏の本家筋・藤白穏便派・藤白神社神職族」は「分家筋の鈴木孫六の行動」には反対していたのだ。
そのその住んでいる地域も違っていた。
それ故に、”いざ戦い”となった時、雑賀族と見做される事に警戒して、いち早く山に潜りこんで忍者的な生活したのだ。これが「雑賀忍者」と云われるものである。
地元ではこの時、持ち込んだ「武装兼猟銃用の物」と云われている。
「現地での雑賀族の情報の知らない者の説」の単なる推論に過ぎないと観ている。
恐らくは、これも間違いなく「江戸期の修正」で、“雑賀族の銃としたくない”とする「旗本の書き換え」であろう。
確かに、「織田氏との関係」に付いては美化した方がこの方が「犬猿の仲」を和らげる効果はあるし、「今後の事」では都合は良い筈であったし、「織田氏との長篠後の争い」では「織田氏への悪者の転嫁」としては、「松平氏」に執っては都合が良かった事になろう。
確かに「紀州攻め」をしている中での出来事としては、歴史を後勘から観ても「松平氏の印象」としては、一つの“「緩衝材」”には成る筈で納得が得られやすい「美化事」になろう。
「伊勢や紀州の歴史史実」を現地の詳細に掌握している「青木氏の歴史観」から観て、この事に付いてはこの様に見抜いて観ている。
「雑賀根来の銃」の「一部・500丁の説」に付いては、「現地の史実」を調べずその様に江戸期に成って「旗本」に依り都合の良い様に、“「徳川歴史を仕組んだ」”と観られる。)
(注釈 「江戸初期の銃の必要性」
そもそも、「1605年に銃規制」があったのに、江戸初期以降に「銃の必要性」があったのかと云う疑問が湧く。
確かに、“計算に入らない数の銃の残り”、つまり、「秘匿品の戦利品」の「約100丁~150丁程度」は戦い時に少なくとも「単体」で獲得した筈である。
そうすると、「秀吉などの家臣」を含む「織田軍」が持ち得る「火縄銃の限界」は、どんなに見積もっても、「雑賀根来の傭兵銃隊」は「1000丁」と成っているとすると、「約500~650丁程度」が限界に成る。
「紀州」では、兎も角も「保有量・生産量」は「1500丁・生産量限界」が最大であったとされている。
それは、これは「傭兵が持つ銃」だけでは無く、「雑賀族衆と根来族衆」の個々に生活に使い持つ銃が「500丁」であったと口伝ではされているのだ。
つまり、「傭兵用は1000丁限界と云う事」に成る。
現実に、「秀吉」が紀州征伐後の「紀州の刀狩り」で門徒衆も含めて庶民や農民や郷士等が持っていた「秘匿火縄銃」が郷土史等に依れば「100丁程度」を差し出されたとする記録もある。
これ等は表向き「紀伊族」からの「侵略防御」のみならず「イノシシやシカ等の猟銃」に使う銃であったとされているし、現実に「鈴木氏の本家裔」が持つ絵図にも遺されている。
従って、これは史実であろうし、そもそも、つまりはそれ以上に生産されていないのである。
「紀州征伐」の前後をして、「堺のブロック」に依って“「近江」には、最早、「生産能力」は殆ど無かった”筈で、「雑賀」が遣られれば、“今度は「近江・日野」である”として「伊勢」などに逃げ込んでいる始末であり、カウントには当たらない事に成る筈だ。
そうすると、正式に「生産」に及んでいたかは別として、「銃を生産する能力」を持ち得ていた「最後に残った堺」は、伊勢の資料に依れば、現実には実際は早めに「危険が迫った為」に「伊勢の指示」で中止しているのだ。
中には、「堺の銃生産・火縄銃」を“明治期まで続いたとする説”があるが、これに付いては「伊勢の資料」では、「元の鍛冶屋」に其の侭に転身しただけの事とされていて、「銃の生産の事」では絶対に無い。
そもそも、「1605年」に徳川幕府に依って「銃規制」が掛かり「生産」は無くなったので論理的に無い。
況してや、そもそも「伊勢・摂津・堺」が「財源や発注」を引挙げれば、そもそも、「銃生産を続けられる事」は100%無く、又、「商業組合」の「7割株の組合組織」の中にある事から「別の商人」が密かに入る事の「空き」もない筈である。
仮に、密かに「別の商人」が間に入れば、そんな「危険な事を許す事」は無く、そうなれば結果として間違いなく「別の商人」を「伊勢は潰す事・シンジケート」に成るし、そんな「組合人」も居ないであろう。
史実を無視した「無根拠の説」である。
つまり、江戸期では、残るは、「西洋」での無用と成った「旧式兵の用火縄銃」だけの売りつけで、「西洋の近代銃の発達」で、不用で古く成った「西洋の火縄銃」を「貿易」で秘密裏にオランダやポルトガル等から入った可能性が高く、前段でも論じた様にその「貿易量」で既に「銃規制範囲の基準量」を超えているのだ。
「青木氏」が持った「試作銃改良型の原型」は、所謂、「フリントロック式の近代銃・改良銃」は、その元は飽く迄も「フランスやイギリスやドイツ」の開発国での事であって、「周辺国・欧州」はこれに何とか切り替えていた時期である。
日本に古くなった「火縄銃」を高く売りつけて、その「資金」を獲得していた史実と成っていたのだ。
そもそも、「日本の火縄銃」の「最古」のものは”「1588年製の厳龍寺銃」”と成っているのだ。
その為に、この17年後の「江戸期頃の火縄銃」は、江戸期に入り「銃規制・1605年」も重なって極端に史実として低下しているのだ。
因みに、「総合的な資料の分析」に依れば、江戸期中期までは「火縄銃」の旧式の価格は、「35石~80石」/丁に相当し、当時は1石=1両であって約35両~80両に成っていた。
既に当初よりは約1/10程度以下と成ったと記されている。
これは「銃規制」に依って必要性が極端に低下した事に依る。
「一頭1200人に1銃の規制」の中では、「一万石以上の大名」には殆ど所持していなかった事に成り、「銃力に相当する火縄銃」はそもそも無かった筈であるし、そんな「財政的余力」は他の事でも既に限界で、世情安定期では「無意味な銃」ではあった。
その意味で、「価格の低下」が在って「抑止力」としても効果は無かったのである。
然し乍ら、室町期から「伊勢を含む青木氏族」は、現実に資料の中では、表現として明確にしていないが、「資料の行」から「読み取れる範囲」では、“いざと云う時の抑止力”としての為に秘匿に保持し続け、上記の様に「銃の価値の低下」は、逆に「青木氏族」に執っては、寧ろ、その「抑止力の無意味合い」が高まり、江戸期でも密かに確実に「改良銃」は持っていた様である。
因みに、前段でも論じている事ではあるが口伝でも、「紀州藩の藩主」が「尾鷲」で鷹狩りの際に「銃」を使って腕前を民に誇示披露したとある。
この時、「尾鷲」で保養中の「福家の先祖」が「自分の銃」を持ち出して「遠くの柿」を打ち落として見せたとあり、「家臣」が怒って先祖を叱責した。
その後、この「先祖」は「和歌山城」に呼び出され切腹かとして袴の下に白衣を着て出仕したが、逆で「上座」に導かれて座り、藩主は下座で挨拶をしたと伝えられている。
「元皇親族の伊勢松阪の青木氏福家」で紀州藩には「債権・2万両と勘定方指導・2度」をしていた事から格式が上であるとして上座を譲ったとある。
江戸末期には「紀州藩の財政危機の勘定方指導」として活躍した「伊勢松阪の青木氏の福家である事」や「吉宗育ての親であった事」等を知っての事であったとされるが、その後は、初代藩主に「水墨画」や「俳句」や「和歌」や「茶道」などの「素養指導」を大広間で家臣も交えて行ったとしていて、この「慣習」は「祖父の代の大正14年」までこの関係は続いたとしている。
これは「銃の密かな存在保持」を「裏付ける証拠」でもある。)
(注釈 「1500丁の検証」
さて、明治初期には、“「50万丁」と「世界最大の銃保有国」であった”とする公的な資料があるが、この事に就いて疑問が大いにあり触れて置く。
そもそも、日本にはこの「火縄銃用」の「発火薬の硝石」と「弾丸の鉛」の生産は極小で殆ど「貿易に頼る事」以外には無かったのだ。
確かに、西洋で不用と成った売りつけの「古式火縄銃」は多く「一般の商人」に依って密かに仕入れられていたが、これに伴って「硝石と鉛」も輸入しなければ使えず「飾り銃」であって、況してや、「銃規制・1605年」で持てば「お縄」であるし、安定化した世の中では「銃」は不要で「抑止力」にしか使えなかった筈である。
依って、攻撃用以外に「一般の大名や武士」や、況してや「民」には不要である。
「50万丁」とはそもそも一般の民も持たなくては成らない数である。
そもそも全国でそれ程に「武士」は居なかったのだ。
江戸期初期ではほとんどの記録では、一万石以上の大名264人、旗本5200人、御家人17000人、その他480人と武士の家臣だけで、「媒臣の数」は含まずの合計は実質は53900人であったとされる。
そうすると、平均204人/大名と成り、同じ「江戸初期の1605年の銃規制の基準」から53900/1200では単に「約45丁」と成る。
大名を大まかに「一頭として264人」で、これに「戦時の義務兵数の平均1200人」として計算して観ると、「総勢の兵・316800人」が集まる事に成る。
これと合わせると「家臣数」は「約37万人」と成る。
江戸初期の持っていても構わない「戦時の火縄銃」は、規制に関わらず持っていたとしても「媒臣数」は、「264人の大名」で「平均一騎の兵数50人」としているので、「最大一頭は4騎まで」が義務つけられていて、これが「媒臣の陪臣」と成るので、「264・4・50」と成り、最大で「52800人の数」に成る。
合わせると「約43万の兵」が、「50万丁の説」で計算すると「家臣と媒臣の全員の兵」が何と1丁ずつを持つていた事に成る。
あり得ない数に成る。
そもそもそんな「財力」を持っていなかった。
「銃規制」からすると、別の計算を元にすると、「264人の大名の媒臣数と陪臣数」は、江戸初期の人口は「平均2700万人」とされ、「家臣媒臣・陪臣の数・武士」は、国印状発行でこの「7%」であったと記され、これは明治期まで“抑制されていた”のである。
従って、この基準から観ても「385700人の計算」に成る。
この基準からの計算でも「上記の37万人」にも一致する。
記録に見る処では1割弱としているので、正しい数であろう。
「人口増加」を「食料生産量・米収穫・」以上、つまり「1反=1石=1人の原則」に超えない様に抑制していたのだ。
「火縄銃の持ち得る計算の数」は、故に「1500丁前後」と成るのだ。
この数は、故に「室町期の最大生産」の「1500丁の経緯」にも一致するのだ。
又、「戦」が起こらない限りは「武士」には「無用の長物」で「藩の持ち物」であった。
藩としての「最低限の幕府からの義務」に過ぎなかった。
本音では藩財政から「金のかかる物」は持ちたくない筈である。
この「驚くべき数字」が公的に資料としている江戸中期からの「火縄銃の量」としているが間違いである。
では検証して観る。
「銃規制」の「1頭=1200人=1丁の基準」からこれを護ったとしても、当時の人口が「4000万人」として「国印状を取得した正式な武士」は約7%であったとされる。
現実にはこれにも規制があった。
そうすると、「400万武士/1200≒3330丁」である。
これがこの「基準に適合する量」である。
上記で検証した「火縄銃の貿易で搬入した量」と加算したとしても、「規制の合法的な量」は「3330丁程度」は妥当であろう。
上記で論じた「火縄銃」の「生産地三カ所の経緯」から「国内最大生産量」は「1500丁~2000丁」としても、「外国からの銃」は凡そ「1330丁~1830丁」と成る。
検証の結果としては、「50万丁」は「刀狩りと銃規制」を配慮されていない飛んでも無い量と成る。
これでは「銃規制」など忘却して全くなかった事に成る。
これから割り出すと「三カ所の経緯」を無視して、且つ、「生産量の経緯」を無視して下記の様に「年数の単純計算」をした事に成る。
最大で「国内生産1000丁/年+輸入1500丁/年」・江戸期中期前・200年≒50万丁と成る。
こんな事は絶対にあり得ないのだ。
何故、この「50万丁」が一人歩きして公的数として成つたかにはそれなりの理由が見える。)
(注釈 「50万丁の行方の検証」
これは幕末からの維新にかけて紀州藩士であった「陸奥宗光・1844年~1897年」は「明治維新の政治体制造り」に貢献した人物で、殆どは政策は「彼の発案と努力」に依るもので、版籍奉還、廃藩置県、地租改正等、数を挙げれば暇はない。
そして「徴兵令」もである。
中でも、本題の「徴兵令」では、彼の努力により「徳川幕府紀州藩」が他の二藩と行動を別にして「維新政府側」に着いた。
この時、「御三家の紀州藩」は「維新政府」がまだ実行していないのに率先して「近代軍制」を敷いて「維新政府の後ろ盾」と成った。
これを観て「維新政府」は彼を政府に招き、「維新政府軍制の構築」を任したのである。
この時、全ての古い刀等一切を捨てさせ、武士に関わらず「銃に依る西洋式軍制」を執った。
彼は、「坂本龍馬の下で海援隊」の一員としてとして働き、「彼・龍馬」を神髄していて、彼の進んだ教えを推し進めた。
この時の「兵力」が「陸軍力24万と海軍力25万」で「49万」であり、中でも「陸軍」は「村田銃・国家予算の20%」をかけて編成したものでこれを「主力」としたものであった。
恐らくは、「50万」とするは単純に推論的にこれから来ていると考えられる。
これ等は「1883年・明治16年」から「8年計画」で近代化を推し進め、この体制で「1877年の西南戦争・明治10年」の実戦で成果を上げ、其の後の「明治20年代・1887年」に完成した。
この事は「陸奥宗光の活動」で「薩摩との主導権を争い」が起こり、彼は何度も投獄や失脚に追いやられたが、「伊藤博文等の海援隊の仲間」が彼を何度も救い上げた。
結局は、「彼の造った軍事組織」で「西南戦争」で「薩摩」は「維新政府」から抹殺一掃されたのだ。
其の後、「日清戦争」で「弱いとされていた海軍」は、「陸奥宗光の造った軍事組織」で相手が「数段の兵力差」であっても「勝利」を得たのだ
この事は世界に有名を馳せたのだ。
実は、この「紀州陸奥家」とは「伊勢青木氏」とは無関係では無く、前段で論じたが「幕末の紀州藩勘定方指導」をしていたが、この時の「宗光の父」が「紀州藩の勘定奉行」であって親交が深かったと記されている。
幕末に「紀州藩が犯した操船ミス」で「海援隊の船の賠償金」の支援で、「伊勢屋・2万両・摂津支店・大阪豪商」が支援に動いたが、この時の「勘定奉行」であった。
これは「陸奥宗光の優れた交渉力」として「公的な記録」として遺っている。
資料にも「重要な逸話」として遺されている。
明治9年で「伊勢青木家」からの「天皇家への献納・925年開始」は「幕末から始まつた伊勢騒動の件・明治9年」で打ち切っている。
結局は、「伊勢屋」はこの為に「打ち壊し」や「火付け」等で長い間、維新政府から攻撃されたが、何とか残ったのは“「陸奥宗光の御影だ」”と「伊勢青木氏・伊勢屋」はしているのだ。
注釈として、余談であるが、「伊勢青木氏」はこの「打ち壊し」や「火付け」の「裏の組織」は上記の経緯から「薩摩藩」に依るものであったとも考えられる。
つまり、「陸奥宗光派」と「献納中止」と「武士に頼らない銃の軍組織改革」とそれに関連する「軍費支援・国家予算の20%・支援」と「伊勢騒動・明治9年終結」に在ったと観ていて、これは「薩摩藩」に執っては“「裏目に出る利害関係」が大きく働く”と観ての行為であったのであろう。
結局は、何とその「陸奥宗光の銃軍事組織」で「西南戦争」に持ち込まれて薩摩は敗退したのだ。
「西郷」が「第九回御前会議」で大声をあげ机を叩き席を蹴って勝手に退席し、「大久保の制止」に関わらず「薩摩」に勝手に帰り、その結果、11の身分は剥奪されたのもこの「明治9年の事」であった。
これを契機に維新政府内で「薩摩藩」は勢力を失い「西南戦争」へと突き進む経緯と成るのだ。
ここでも「紀州藩の家臣」の殆どは「伊勢藤氏」であり、「上記の仕儀」から「致し方無しの経緯」とは考えられるが、直接的では無いにしても「政治に関わる事」に対しては「青木氏の氏是」を間接的にも破っている。
唯、「紀州藩藩士の陸奥宗光」とその仲間の「海援隊の裏工作・維新政府の重鎮と成る」で「多少の被害」があったが無事に済んでいる。
この事は「伊勢青木氏」だけに及ばず「青木氏族全体の事」として「伊勢藤氏の力」を借りて成した事に過ぎない。
前段でも詳しく論じたが、「影の首謀者青木氏の伊勢騒動」は「伊勢」だけに及ばす「信濃青木氏」も背景と成っていた事は資料としても遺されている通りの事である。
「伊勢騒動」に対して「維新政府」の「罪に対しての寛大な対応」で応じたのは「紀州藩藩士の陸奥宗光等の働き」があったものと考えている。
「献納・明治9年」も中止し、この「1年後に西南戦争・明治10年」が起こり、している事から考察すると、“「青木氏族」としてはこれ以上の事は危険で出来ない”として「維新政府」から離別したと考えられる。)
(注釈 「近江への再支援の疑問」
飽く迄も、「生産者」でもあって「雑賀・根来の衆」を“「銃傭兵軍団」だとして存在させて置いて「銃の拡散」を抑えておく必要があったのだ。”
当然に「近江」に対しても「堺」からの資材や財源の支援供給で行動を抑制していた。
何故、又しても「難しい近江」に「財源と原材料と職能」を「堺・七割株」から提供したのか、又、当時の「伊勢青木氏の福家」は判断したのか不思議でならない。
これでは「和紙殖産の苦い経験・源氏化」が生かされていない。
筆者なら絶対にしない。
その意味で「銃」は「公的記録」としては、上記した様に「1543年に種子島」に入ったが、実際には、その「40年後」の「1583年頃の近江」から広まった事に成るのだ。
その「意味」では、余りにも「殺戮度の高い銃」は世に存在する事の危険度を察知した「秀吉の刀狩りの判断・1588年」と「家康の銃規制・1605年」は手早く正しかったのだ。
「家康の銃保持・1583年の説」としては正しかった事に成る。
上記した様に、「青木氏の堺銃」は「秘密裏・約100年弱前」に「1543年前からの試作段階・ホイールロック式」を経乍ら,随時適時にて一族一門に「生き残り抑止力・1545年頃」として渡して、最後は「フリントロック式銃・1560年・額田青木氏」に実際に「第一次吉田城・一言坂」で使用したのである。
合わせて「生産元の功罪」の「青木氏の銃」が「近代銃」で「高額」で使用に際しては黄鉄鉱や硝石等特殊な交易で無ければ手に入らない事、又、相当な「熟練」を要し、且つ、銃そのものがそれが漏れたとしても広まらず、最早飾りに過ぎない事に成り得て、故に「身内」で「抑止力の概念」を護り確実に秘匿出来た事も評価できる。
敢えて当初より「火縄銃で無かった事」は「広まらないこの事」を意味していたのだと観る。
惜しむらくは前段でも何度も論じたが、「火縄銃の乱れ」は又しても「近江の事」であったし、「江戸初期前後の松阪での近江商人との軋轢」でも苦労をしているのだ。
「青木氏の全ゆる資料」では、「その説明の一行」が無いが「子孫」としてここに敢えて筆者が遺す。
「青木氏の歴史観」としての後勘としては、矢張り、その原因は、又しても「近江・日野の無節操な行動・抑止力の無効化」にあったのだ。
結局、乱れを食い止める為にも「堺・支援供給」も「中止する破目」と成った。
故に、「火縄銃の銃の歴史」は遅れていて「近江の龍源院銃・1583年」が「銃の事の始まり」として正しいのだ。
「長篠の戦い・雑賀根来火縄銃」での「松平氏の銃保持説」は「誇張の何物」でも無いのだ。
公的に良く「絵巻」でも華々しく描かれている様なものでは決して無かったのだ。
これは「秀吉の刀狩り・1588年」の「5年前の事」に成る。
この事からは「松平軍」は未だ“「銃の調達」”は出来ていなかった事に成る。
恐らくは、上記した様に「銃シンジケート」がしっかりと未だ効いていた事に成るか、高額で手が出せなかった事にも成るが、「家康側近」の「西三河の旗本衆」が“極めて保守的”であった事かにも成る。
筆者はこの「注釈説」から「三河の保守説・嫉妬癖」を更に採用している。
念の為に論じて置くとすれば、この「三河の保守説・嫉妬癖」の性格が、前段で論じた様に「吉宗の頃」にまで続き現実に「史実問題」を起こしているのだ。
如何に「額田青木氏」の「国衆の300丁の近代銃・フリントロック式改良銃」が保持も含めて全ゆる面で如何に「考え方や行動力や判断力」が進んでいたかは判るのだ。
然し、「銃」は例え“「抑止力」”であったとは云え「青木氏の氏是」を超えている事は否定できない。
それだけに「下克上と戦乱」とで「子孫存続」が緊縛していた事にも成る。
「伊勢」のみならず「一族一門の血縁族」により「高い抑止力」を着けて全体で護ろうとしていたのだ。
実際にこの「抑止力」を「伊勢の梵純軍等」は「伊勢の梵純軍等の資料」で使った事は判っているが、青木氏側の確実な記録は見つからない。
「多少の牽制で使った事」もあろうが、全体としては「抑止力の情報力」を高める為に「抑止力・デモはしただろう」であったと観ている。
故に、前段や上記した様に「信長・秀吉・家康」はこれを“「噂」”で知っていたのだ。
つまり、抑止力は働いていたのだ。)
(注釈 「国衆南下の後半」
改めて「源平の戦いの石橋山」で潰されてから「三野王の裔の(aの族)」とその裔の「(a-1の一部)」は完全に滅亡した。
長い間潜んでいた「加茂・木曽の信濃シンジケート(信濃シンジケート)」の「美濃の青木氏の「浄橋・飽波」の「末裔(a-1)と(a-2)」の「一部・伊勢の裔系の集団」と、その血縁関係を持っていた「伊勢の裔系・美濃の者等(a-2)」と、それに追随した「官僚族等(bとc)・原士」等を集めた「血縁族集団」と、この「二つの集団」を「額田を拠点」に形成していた。
所謂、これが国衆南下の「後半の準備期間」であって、これが「美濃額田の所縁集団」であった。
そして、「渥美湾」を「額田」と「伊川津」で縦に結ぶ“「直線勢力圏・縦の陸路」”を「伊勢青木氏と信濃青木氏の背景」で、「超近代的な武力集団」として徐々に構築して支配しようとして「計画」を進めていた。
そこで、「下準備・前期」を終えてからの「室町期の末期」と成ってからは、上記した「美濃額田の所縁集団」の「二つの集団・国衆」を「額田一色」に一同に呼び寄せる機会を伺い実行した。
要するに、「歴史的な集結」であった。
取り分け、危険な「下剋上と戦乱の様子」の中を伺っていたのである。
これを資料から観ると、この時、ここが後期の「周囲の土豪」や「小国衆」との「小競り合い」の「予備戦」があったらしい。
この時の「額田の南下国衆」の行動は、「周囲の勢力」を全体的に抑え込むのでは無く「幅の狭い縦の陸路1・東山稜」の“「直線勢力圏」”の構築に限定していたのであった。
ここには当時にあったこの付近には、“「商業通路」”の様な「自由な通行券・注釈」の様な「山稜の道」があったらしい。
これは「一般道」では無く「一定の物資輸送」や「兵の移動路」等に使われる道で、この様な「土豪」が抑えていた「商業道の物・近道」であったらしい。
「記録」に依れば、前段でも論じて来た様に、その「美濃の国衆」の中では「戦力差・銃」に依って「戦い」には成らなかったのではないかと観られる。
寧ろ、「党の様な軽い連合体」の様な形で「合力を申し合わせた事」が書かれている。
彼らは、元々、別の面で美濃と信濃路間の「一種のシンジケート」であった事を知っていた。
近くにいた「周囲の土豪」や「小国衆」はこの事は既に知っていたらしい。
何せ武装している「美濃の額田の所縁集団」の「二つの集団・国衆」であったかららしい。
「額田の青木氏の国衆」には背後には「伊勢信濃の青木氏抑止力」と「秀郷流青木氏の青木氏族」を控えていたのだ。
これを噂なりに知つていたと云う事であろう。
従って、この「商業通路1」の「土豪集団」は一切戦わなかった。
寧ろ、彼らに執っては{南下国衆}に近づいていた方が全ての面で利得であった。
明らかに資料と戦記の「記録の通り」である事が判る。)
(注釈 「「商業通路の検証」
現在でもこの様な商業道が全国に多くあって、特に「北陸道」に沿って弘前から新潟を経由して富山まで「本道」とは別に「商業道」としての路が遺されているが、この道は歴史に名を遺す商業道であった。
因みにこれには「面白い実話」がある。
前段でも論じた様に室町時代末期に「秀吉」は、「奥州結城氏・永嶋氏」を攻めた時、内部混乱が起こりこれを「奥州結城」に養子に入った一族を護る為に、「背後」を一族の「伊勢の秀郷流青木氏」が「結城永嶋氏」と協力しながら追尾した。
「秀吉側」は家臣の多くを戦死させ無理攻めをして早く片付けようとしていたが間に合わず、慌てて「北陸道本道」を通ると周囲から攻められる事を恐れた。
「食料不足の危険」から密かにこの「商業道」を使って何とか大阪に逃げ延びたとする記録が遺されているのだ。
何故、「秀吉」が「伊勢の秀郷流青木氏」を恐れたかである。
それは、「改良銃による戦歴」を情報として入っていた事を示す証拠でもある。
「銃力」が「非接触による10倍力」を知っていた事に成る。
必死に「商業道」に隠れて逃げたと云う事であろう。
この様に、この頃、“「商業道」”なるものが土豪衆に依って密かに造られていたのである。
この「商業道」には常に「シンジケート」が抑えていた「専門道」であって、これには“「利権・通行料」”さえを払えば通れるのである。
この様な「避難道」の様な当に探訪によれば要するに“「野道」”であった。
この「探訪の印象」では、矢張り「山際の農道」である事から、「田の周囲」から攻められても直ぐに迎撃対応でき、「山からの攻撃」には「山岳側面防御」で護れる。
後は元住んでいた「山間部・R152R}は{2ルート}もあった様だから「伊那・茅野・信濃」までは「活動の地元」であったから、この「商業道・縦の陸路1」に付いては”問題は無い”と観察できた。
「美濃の額田青木氏の銃」があれば問題は全く無い。
ところが、この「予備戦の途中」でこの問題は起こったのだ。
それは「織田勢力」に依って益々“「神明社の破壊」”が起こされ、「伊勢」を含む「近江」でも関西の各地でも起こされた。
「宗教勢力の排除」が各地で徹底して開始されたのだ。
そこで、伊勢は全体青木氏族の事を考えて信濃との命綱である”縦の陸路を造ろう”と決断したのである。
これで、「幅の狭い縦の陸路1」の“「直線勢力圏の構築」が急務であって、この東南の「商業通路」の「利権を持つ東と南三河の土豪連」は、幸いに「信長方」に付かなかった為に何とか「命綱」は「伊勢湾と渥美湾間」の「船の航路」にしても繋がり、兎も角も、再び「信濃間ルーツ」を再構築できた。
後は資料に依れば、「銃の護衛」を着ければ東・南三河の山際の「商業通路」は信濃―三河間は容易に通れたらしい。
「今川氏の勢力圏」と「信長の勢力」圏の丁度狭間にあってここまでは及ばなかった。
従って、元の「一色域」に近い「額田・端浪」には「美濃の所縁集団・二つの集団・南下国衆」を終結させ、「額田青木氏とその一党」として結成させたのだ。
そして、この「額田青木氏・蒲郡青木氏」の中で「伊勢の裔系のa-2」と「血縁性を持つ官僚集団」を先ずは「田原の古跡の神明社」のある「渥美半島・伊川津」に差し向けたのだ。
そして、この奈良期から「古跡神明社の青木氏族の神職族」が住んでいた地域に「伊川津青木氏・吉田青木氏等の四家」として「渥美湾」に再興を成し遂げたのだ。
「渥美」にはそもそも、奈良期の古来より神明社があり、「伊勢青木氏」より「柏紋の神職青木氏」を派遣して定住していたが、ここに相当先に「額田の家族」をも移し、その後に「蒲郡と伊川津」に「国衆」が移動した経緯であった。
然し、この「二つの美濃族の勢力」、つまり、「額田青木氏」と「伊川津青木氏の四家」とにはある種の違う事が起こっていた。
この事もあって、「一つの勢力」としてまとめる事に努力しなければ成らなかった事が判ったのだ。
そこには明らかに次の事が違っていた。
この“「額田青木氏・蒲郡青木氏」”は、つまり「加茂木曽の山間部」に逃げ込んだ「元美濃族系」の「伊勢青木氏の裔系族・「(a-1)と(a-2)の一部の族」であった。
ところが、「額田青木氏」とその後の「蒲郡青木氏」との違いには、「二つの説」が有って記録的には、はっきりしないが、然し乍ら、筆者は、その一説の前記でも論じた様に、後で東・南の端の「商業通路」では無く、別の西三河の「額田」から「蒲郡」に「縦」に「ルート2」を新たに作って南下して「統一して国衆」として定住したものであると考えている。
この一部が「伊勢桑名」に帰り、残り「蒲郡青木氏」が残った。
さて、この「期間差」がどの程度であったかである。
この「信濃の青木村」から塩尻を経由し「縦の陸路2」の「ルート2上」には当に直線状に、丁度、真ん中に「青木村」があり、其処には「古跡の神明社」もあり「清光院」もあり現在もあるのだ。
この歴史を調べれば判るが、先ず「この古跡神明社」も田原と同じく奈良期からである。
この「縦の陸路2」の「神明社」が存在したとすれば、「古跡の田原の神明社」と同様に「神職」が定住していた事から、少し後の同時期に近いと考えられる。
何故ならば、この「西三河の神明社」には「古来の慣習」が遺されていて、「神明社の廻りの六方向」に「山神社」が「子神」として祭司されていて、現在は二方向と成っている。
これは完全な伝統の「奈良期の構え」である。
この事から、これは「神明社」と「青木」に執っては「証拠」と確定できる。
然し、この「清光院」は「浄橋と飽波後の時代」と成る為に完全な同時期とは確定できないが、少なくとも「平安期末期か鎌倉期」である事には間違い。
何故、「蒲郡」かに付いては「桑名の言い伝え」ではあって、資料的には何も物語るものはないが、何かを考えられるとしたら、「伊勢水軍の泊」か「伊勢屋の事務所」の様なものがあったと考えられる。
「蒲郡」の「桑名と伊川津の距離的な事」や「岡崎市の青木町の直線的距離的な事」かであるが、近くに「蒲郡の近隣2社の神明社」があり、「青木町の神明社」との「繋がり」を考えれば何も無かったとは考え難い。
少なくとも、「伊勢の柏紋の神職」が定住していた筈で、現在も「青木氏」はこの村と共に存在するのだ。
そうすると、この状況からも「蒲郡と伊川津の青木氏」は同時に移動したのでは無く、論理的にはこの「二か所」に向かって、別々に「渥美の伊川津青木氏・四家」の一団は東・南の山際の「商業通路1」を通じて移動していた事に成る。
そして、「蒲郡の額田青木氏」は「縦の陸路2」で南下したと考えられる。
「縦の陸路1」と「縦の陸路2」の多少の違いの「時間差」があった事に成る。
その後の「裔系の統一」が起こり、その経緯は次の様であった。
そうする事で、「蒲郡の青木氏」を「主家」として、「伊川津青木氏・四家」を支配下に置く形態を執ったと観ているのだ。
前者が「a-1族」で「額田端浪一色に居た主家」で、「浄橋と飽波の直系の裔系」とした。
後者が「前者の血縁族の裔系」の「a-2族」とした。
前者と後者に当時、「美濃の官僚族」であった「bとc族」が配置された。
この「bとc族」には「300年」と云う長い間に「家紋」から観て「血縁性」が認められる。
この「美濃の官僚族」であった「bとc族」は、この「血縁性と縁故の絆・源氏化」に依って滅亡した「三野王系・a」との二つに分かれたのだ。
そして、「後者の青木氏」にはその「血縁の系類」に合わせて「渥美の四家青木氏」を構築させた。
これには「伊勢」からの「指示成り発言」があったと考えられる。
以上と成る。
そうでなければ「後の史実」とは「時系列」で一致しないのだ。)
(注釈 「伊川津青木氏四家のその後」
其の後に、「美濃の南下国衆の二氏(額田青木氏の蒲郡青木氏・指揮)」と「(伊川津青木氏の吉田青木氏・四家)」には、「松平氏」と共に「国衆」として参加して共に戦う事に成ったのだが、「準備期間の後期」の「予備戦」と観られる「初戦」が「第一次吉田城の戦い」であって、ここから「国衆」が開始されたとされる。
これ以外に「定住地の吉田」が「武田軍」に攻められると云う理由が他に見つからない。
「三野王」に多少の所縁が、「額田青木氏・蒲郡青木氏」には少なくとも在ったとしても、取り分け、「伊川津青木氏四家の吉田青木氏等」にはそれが薄い筈である。
何れも奈良期に繋がる「青木氏」であるとしても、「350年の間」には「青木氏としての違い」は起こっている筈である。
その結果がここに出たのである。
それを物語る記録があって、この事から、一つは「室町期末期」には「額田青木氏の蒲郡青木氏」の一部が“危なく成った桑名”を護る為にも「三河」から「桑名」に向かったとする記録がある。
その二つは、先ず「蒲郡青木氏」は「松平国衆」から離れたとあり、続いて、「伊川津青木氏四家」も離れた形の「行の表現」と成っている。
どうも同時に、「三方ヶ原の戦い後」に直ちに離れた様では無かったらしい。
「多少のタイムラグ」があったと観える。
その「タイムラグ」は、「地元3土豪・国衆・四国」との「伊川津七党の絆」があった事からの「時間差」では無いかと観ている。
「3土豪間の絆」をどう処理するかであったろう。
この「時間差」はどれ位かは判らないが、そもそも「青木氏」の中では「伊勢の指揮の許・蒲郡青木氏」で決まるが、「地元土豪・3氏の間の説得」をどうするか「話し合いの時間差」が必要であったか、「蒲郡青木氏」が行う「陸運業の体制固めの時間差」なのかは判らない。
「蒲郡青木氏」には、「松平氏や土豪との絆」は全く無かった事から「伊川津七党の関係」の「解決待ちの時間差」であった筈である。
この「3土豪の戦い後の状況」から鑑みて「土豪間の話し合い・本家と分家」が着かなかった事が「読み取りの行」から読み取れる。
「資料の深読み込み」から「筆者の印象」では、“二つあった”のではと観ている。
それは、一つは「伊川津の土豪・3氏」を引き入れる事の賛否、二つは「bとc族の引き入れる事の賛否」にあって、「蒲郡青木氏の異論」があったと観ている。
それは「伊川津の地元土豪」は前段でも論じた様に元は4氏であった。
然し、参加しているのは「3氏/4」であるからだ。
“1氏が離れたと云う事・西郷氏・武蔵国衆”に成る。
恐らくは、この「1氏」は資料に全く出て来ない「西郷氏」であったと観られる。
因みに「西郷氏」は三河の戦いにも参加しなかった事が判るが「国衆の中」で何かあったと考えられるが判らない。
これに成し合いに時間が掛かったのであろう。
結果として、「青木氏側」から観て観ると、この「話し合い」に最初に出された「蒲郡青木氏の二つの意見」は引き下げられた事に成っている。
「青木氏だけの陸運業」と「七党の解消と早期決着」であった事は判っている。
この「土豪3氏の国衆の本家」は「松平氏の准家臣扱い」と成った。
この事から、この関係を陸運業の中に持ち込む事を嫌ったのだ。
だから、「武士を捨てた分家筋が加わる事」に成って引き下げたと成ったと考えられる。)
(注釈 「七党の脱党の西郷氏」
「伊川津七党」から逸早く抜けた気に成る「西郷氏」は、鎌倉幕府の相模の低い官吏族の一つで、室町期に三河に入りその後に勢力を伸ばし相模から各地の国衆として流れ、この一部が「三河の伊川津」に入った族である。
又、鎌倉期末期にはその一部はその主家と共に南九州に流れたとされている。
これが「鹿児島」で「勢力」を持っていた「薩摩の土豪・島津氏」の家臣として仕えて、その後、前段でも論じたが、「島津氏は次第に勢力」を持ち「南九州」を制していた「日向肝付氏」と戦い、更に次第に勢力を伸ばし、最終は肝付氏に一国を与え血縁して家老に迎えて決着を着けた島津氏である。
この中に「相模の西郷氏の末裔」が家臣として入り込み居たのである。
要するに、何故に不毛の地の「伊川津」に入り込んだかは判らないがこの「国衆」の一族である。
筆者は、ここから「世間の動き」を観ていたのでは無いかと考えていて、故に、「武田の動き」の活発さから「伊川津」を出たのでは無いかと考えられる。
「伊川津」から何処へ入ったかは判らない。
それは「国衆」をより良い条件で受け入れてくれる所に流れたと考えられ、そうなれば、当時、勢力を大きくさせる為に「国衆」を受け入れていたのは「伊川津の西の今川氏」の「東三河」と成ろう。
然し、この「東三河」から出て尾張全域を攻めた「今川氏・1560年」も織田信長に依って潰された。
恐らくは、この時に「伊川津の西郷国衆一族」は滅びたと観られる。
況や、「伊川津七党の3土豪の国衆」は非弱な三河は尾張と今川の中間に居て、未だそんなに長い間の国衆では無かったし、土地も不毛であって、「国衆としての特典」は固着する程に無かった筈である。
恐らくは、「別の目的」で南下移動してきた「美濃の国衆の青木氏」とは違って「他の3土豪」も「西郷氏」と同じでは無かったかと考えられる。
然し、「今川」が潰れた後は「三河松平氏」はその流れの中にあるこの「3土豪」に何とか「伊川津」に留め置く為にも“「准家臣扱い」”をしたと云う経緯の事に成るのであろう。
それが前段の論の経緯を経て、そして、答えから先に説いて置くと、全てが「准家臣扱い」に納得するかは何時の世も同じで、その「経緯」から嫌って逃れた者等の両者も一つと成って「陸運業」を始めたと云う事に成ったのだ。
だから、「二つの条件」を下げて「伊勢」は納得をしたのである。
これは歴史的に「氏是や慣習仕来り掟」から観て珍しい事であったが、納得わしたのである。
以後、明治期まで全く問題は起こらなかったのだ。
寧ろ、明治35年の松阪の伊勢屋の失火倒産解体時の少し後の時期に、この3つの内の二つは独立して「陸運業」を営んでいるのだ。
その「過去のシンジケートの繋がり」と「国衆の銃の武力」を使って「江戸期の初期」には「大陸運業」に成ったとあり、上記の様に現在も続いている。
「伊勢と信濃と伊豆の商い」を「陸」から支えたとある。
遡れば「江戸初期」は未だ「陸運」は未だ危険であって、各地には「盗賊や山賊や海賊」が散在していが、「彼らの力」に逆らう「盗賊や山賊や海賊」の輩は無かったらしい。
それは「シンジケートの横の繋がり」と「国衆の銃の武力」であって、「伊川津四家の青木氏の陸運」は「美濃忍者の原士」でもあった。
それだけに“仲間に入れて貰う”と云うのは在っても襲う馬鹿は居ないだろう。
故を以てか、益々、「組織」は大きく成っていたとしている。
「伊勢青木氏の資料と商記録添書」を総合的に読み解くと、「三河」より東が「吉田青木氏」、三河より西が「蒲郡青木氏」の領域として故意的かは判らないが分けられていた様である。
ところが、江戸期に入ると、これが“二つに成った”とあるのだ。
“二つにしたのか二つに分裂したのか”は判らないが、これも読み解くと、「昔の慣習」から上手く「割墨」をしていた事も観えて来る。
つまり、この事から、「巨大化した事」に依り「効率化を図る為」に、「西と東の陸運業」にした考えられる。
ここで、「上記の先答え」から次の「二つの疑問」が湧く。
前段でも論じた事ではあるが、次の様に成る。
「一つ目」は、何故に「蒲郡青木氏」の一部が、“危なく成った桑名”を護る為に「三河」から「桑名」に向かったのかであり、そして、その後どうしたのかである。
「二つ目」は、何故に「蒲郡青木氏」は、「松平国衆」から離れたが「吉田青木氏等」も離れたのかである。
この「二つの疑問」を解決していない。
上記の「疑問の答えの記録」が遺っているのだ。
「一つ目」は、「美濃額田の蒲郡青木氏」は、前段でも、且つ、上記でも論じた様に「桑名の額田」に大きく強く関わっていたからである。
つまり、「桑名殿の孫」の「美濃の額田の裔系の祖」の「浄橋と飽波」である。
つまり、「彼らの血筋」には「伊勢」のこの母の「二人の流れ」が強くあって、それが「記憶」「伝統」から「母方始祖」としていた「意識」が強く持ち得て在ったという事である。
「男系の祖」の「三野王の所縁」と云うよりは、「伊勢の所縁・女系」の方が強く在ったのであって、故に、「一色」なのである。
元より、奈良期末期から「妻嫁制度に依る女系氏族」として「四家」を構成していた。
「蒲郡青木氏」の一部は、その為に“伊勢を護るために帰った”という事に成る。
其の後は、彼らは「掟」に依り「桑名殿の四家の家人」と成った事に成っている。
この“「家人の立場」”で、密かに「江戸期初期の神明社引き渡し」を拒み、依然として荒廃した後の「元の位置」に密かに“「祠」”を遺して「桑名殿一族と氏族」で昭和期まで祭司していた事が記載されているし、「氏人」に依って現在も祭司されている。
“「家人の立場」”には、幾つかあるが「額田の裔としての立場」を利用してか、「家人の立場」を利用してかは判らないが、「幕府の目」を欺いたかは確実である。
江戸期は「殖産の関係」からも「家康のお定め書」からも「多くの事」は黙認されていて「紀州藩の黙認」があったと口伝で聞いている。
「一つ目」は、何れにしても「伊勢桑名の裔系」で「家内の掟の範囲」による「掟の事」に過ぎないのである。
「二つ目」は、前段でも論じている「青木氏格式の国衆の立場」と「松平氏の旗本との嫉妬怨嗟の軋轢」であった事が書かれている。
後に述べるが、「第一次吉田城の戦い」「一言坂の戦い」「二俣城の戦い」から「三方ヶ原の戦い」にこの「旗本との嫉妬怨嗟の軋轢」が諸に出ていて、記録にも明確に遺つている。)
(注釈 「二つの縦の陸路の創設」
では、先ず前段でも論じたが、もう少し追論すると、はっきり云える事は上記の「元美濃の額田と伊川津の二氏」は、「伊勢と信濃青木氏の要請・経済的支援」と共に、「伊勢秀郷流青木氏の背景」の“保護下にも入っていた”と云う事である。
注釈として、「1510年~1570年」まで続いた「小峰氏と白川結城氏」の「一族内紛」に乗じて「信長・秀吉」が動き、最終は「秀吉」に依る「1590年の奥州仕置き」で事を治めた。
この時に、「伊勢秀郷流青木氏・梵純・銃」が「背後」を突いて「白川結城氏の裔」を救い出し「結城永嶋」に連れ戻した事件があった。
この前提で論を進める。
従って、この事から「額田青木氏」だけはその「国衆としての成った目的」を果たしている訳であるし、論理的に遺る理由は、元より三河そのものに“「国衆」”として遺る理由は無かったと云えるのだ。
そもそも、何れも「(a-1)(a-2)の族」であった事に依って、「桑名の浄橋飽波の伊勢の裔系」である以上は、「四掟での妻嫁制度に於ける女系」で深く繋がる「伊勢秀郷流青木氏の背景」の保護下に入る事が出来る所以でもある。
然し、「a-2の裔系」である以上は「渥美青木氏」と「伊川津青木氏」と「田原青木氏」と「吉田青木氏」の要するに“渥美四家”は“「伊勢桑名」に帰る”と云うその所以は元より薄い。
必然的に「蒲郡の額田青木氏」にはその「目的」が達すれば、その「松平氏の保護下」に入る必要性は最早全く無く、「伊勢青木氏の桑名殿」の膝下に先ずは帰る事になるだろう。
つまり、「母系出自元」の「伊勢桑名」の目指すその「目的」が達成されたのであれば、故に、最も早くて“「1560年頃」”に「今川弱体化の頃合い」を観て「伊勢青木氏の桑名殿」の膝下に先ずは帰る事には成っただろう。
だから、「蒲郡青木氏」の一部が「桑名に帰った事」に成っているのだ。
ところが再び、事を興し先ず「旧領地・一色地域」から縦に「蒲郡」までに直線的により強固な「勢力地・縦の陸路2」を張ったという事に成ろう。
これが、時系列から観て「三河国衆」に正式に成った間の無い頃の「1560年頃であった事」に成る。
これが「東の山際の商業陸路1」の後に成る。
そうすると「東の山際の商業陸路1」は元々土豪に依って作り上げられていた陸路であり、それを「東三河国衆」として無許可で使える短絡路として設定したのであろう。
東からは金銭で造り上げた既存の「商業陸路1」を、西からは新たに造り上げた勢力に依る「縦の陸路2」を少し遅れて設定した事に成る。
これは「信濃との関係を繋ぐ縦の陸路2」であって「当初の目的」の一つであった。
但し、この「縦の陸路2」は、資料の調査に依れば、「伊勢青木氏の神明社の古跡地」で「岡崎と蒲郡」はその「神職定住地」であってこれを改めて強化して繋いだとされているのだ。
「伊川津の田原の古跡神明社」と同じであったのだ。
故に、その史実を承知していれば「南下後1560の頃」の直ぐに出来る仕草であった様だ。
恐らくはこれは当初からの「伊勢の情報と作戦」であったと考えられる。
この「二つの縦の陸路の創設」は「国衆の銃と財力」に保障されたものであったろう。
だとすれば、「1573年」まで「国衆を続ける理由」は完全では無いが最早無く成っていた筈であるが、然し、「12年間」も続けた。
これは何故なのかである。
一つは松平氏と織田氏への牽制にあったのだ。
「縦の陸路2」は、西の「織田氏の勢力圏」の東末端重複部にあった。
「商業陸路1」は、東の東三河の「今川氏の勢力圏」の西末端の重複部にあった。
これには、両者に対する牽制として“「300丁の銃の脅威・抑止力」”を「国衆」として見せて置く必要があったのだ。
そうする事で戦国の世の中で「二つの陸路」を維持でき「信濃との連携」が取れていた。
さて、それに就いてであるが“「300丁の銃の脅威・抑止力」”だけでは済まなかった様だ。
それを裏打ちするだけのもっと“大きい背景”が必要でそれには問題があったのだ。
ところが、一方、「伊川津の七党」の彼らは、“「秀郷一門の背景下」には入っている”が、その“「保護下の入り方」”に問題があって完全では無かったのである。
それは「地元の土豪勢力」と「七党を形成した事」もあったのだが、「格式等の立場」の違う彼らには要するに「一つの文句・言い分」があった。
主に「額田青木氏(a-1)と、(a-2)」の中には「一部の配下」として、「加茂木曽の山間部」に潜み「シンジケート」を形成していて長い間働いていたが、その「原士の元・奈良期から平安期」は、そもそも「低位の官僚族(bとc)」であった。
これを「地元の土豪勢力」から観れば、この「保護下の入り方」に血縁性も低く間接的に「保護下」に入っていただけの事に結果として観えた事になっていたのであろう。
これを「伊川津四家として見做す事」に「不満をもっていた事」が「資料の行」から読み取れる。
要するに、「低位の官僚族(bとc)」を感覚的に別として捉えていた事に成る。
然し、「伊川津四家」の中の族として「青木氏側」では捉えていた。
ここに「地元の土豪勢力」の「感覚差」が出ていた事に成る。
この「感覚差」が“「秀郷一門の背景下」に「揺らぎ」が生まれたのだ。
この「行の事」から鑑みれば「地元の土豪勢力」に執っては、「伊川津青木氏四家」の先には「秀郷一門の背景下」がちらついていた事を意味する。
「伊川津青木氏四家」だけで信用せずに「伊川津7党」を構築していた訳では無く「影の一党」を後ろに描いていた事になる。
何故ならば、「4土豪」の内の「2党」は関東からの「国衆」であって、「秀郷一門の背景」を事前に承知していた筈である。
室町中期までは「伊勢長嶋」まで「関東屋形」として勢力を維持していたが、室町期中期以降は元の関東に勢力圏は押し込まれ桃山時代まで「秀郷一門の背景」は維持していた。
この時期の「伊勢秀郷流青木梵純」の「陸奥の結城氏救い出し」でもその勢力は未だ健在していた事に成る。
「伊勢青木氏の威力」は、飽く迄も「抑止力とその財力」であっても、「4土豪」には「武力の背景の感覚」を強く持ち続けていて、「彼等の感覚」の中には色濃くまだ残っていたのだ。
それ故に、”七党を組んでも若干心もとない”ものを持っていた事に成ろう。
「細かい歴史観」としては「伊勢青木氏の秀郷一門の背景」に何某かの魅力を感じていた事に成る。
そもそもこれは「額田青木氏・蒲郡青木氏」の「南下国衆の指揮官」であった事もあって無理のない処かも知れない。
更に遡れば、この地域まで「武蔵秀郷流主要五氏」の「青木氏族の永嶋氏の勢力圏」であったのだから「秀郷一門の背景下」を期待するのも「仕方のない事」かも知れない。
寧ろ、厳しく見れば「格式社会の中」では、「地元土豪」は時代が進んだ事に依って「国衆」と云うものが生まれ、彼等から観れば従って「同格程度の官僚族類」だと観ていた可能性もある。
逆に「元官僚族類」は格式からすれば「新撰姓氏禄」に記載にある様に「諸蕃」に類するのである。
平安期は「元官僚族類」の支配下にあった庶民である。
全国的に観れば「土豪の中」には「元官僚族類」から成った者も居たが、この渥美半島の室町期後半の最後まで生き残った4土豪の「戸田、牧野、馬場、西郷」はその多くはその出自を遡れば格式とすれば「下・農民」であった。
然し乍ら、狭い不毛の「伊川津」に住む以上は、この「地元4土豪」は、元を質せば、室町期中期では血縁性は別として「何らかの永嶋族との関係性」を持った「片喰州浜の永嶋系秀郷一門下」であった事には間違いはないだろう。
ところがこれは「家紋類」には、明治初期にも起こっているが、「江戸初期の国印状発行」の際には「公然とした虚偽搾取」が多く起こったので「史実」かどうかは判らないが、「伊川津七党」の地元の「片喰州浜系の家紋類」が多い事からでも判る。
「家紋=血縁と云う論理」に成るのでよく調べると実は一部が異なるのだ。
つまり似せていると云う事だ。
因みに、「片喰紋類」には125紋あり、「州浜紋類」には43紋ある。
三河に関わるこの「3土豪の家紋」はこの中には無く、あるのは渥美半島の田原藩主の本田氏の本田片喰と東三河の酒井氏の酒井片喰での二つであり、恐らくはこの「3土豪」は、二つは「本多片喰系の類似紋類」ともう一つが「酒井片喰系の類似紋類」と云える。
この事で「准家臣扱い」から「松平氏の譜代家臣」になり「大久保氏・本多氏・田原城」と「酒井氏・吉田城」に組み込まれた事に依って、最終は江戸期に「国印状発行」に際し「類似紋を使う事」を許可されたと考えられる。
尚、「州浜紋」はそもそも「秀郷一門」に従って陸奥から来た血縁を受けた「常陸小田氏系の家紋」と成っている。
鎌倉期に秀郷一門の勢力の西への伸長にともない「関東屋形」として三河域に一部の「支流子孫・卑属」を遺したものである。
江戸期の「戸田氏の家紋」は「国印状発行」で正式に決めた家紋は「六曜紋」で、「牧野氏」は「丸に三柏」と成っているが、室町期の家紋は上記の類似紋であった。
そうすると、この「本多氏と酒井氏」が「片喰州浜紋類」を使った事で「秀郷流一門への憧れ」を持っていた事に成り、その中でもこの「家紋類の傾向」としては「伊勢秀郷流青木氏と伊勢藤氏」の方が「関係性・憧れ」は高いと云う事に成るだろう。
この上記の事から、矢張り、「3土豪の本家筋」は「資料の読み取り」の通り「秀郷一門への背景」を強く意識していた事は否定できない。
この様な「資料」に基づけば何気なく読むと気が着かないが「文章の行」を注意深く読み解くと、“この時にこんな表現は使わないだろう”として観れば、故に、“憧れの様なもの”以上のものが強くあった事が伺える。
だとすると、この件で観ると、寧ろ、「土豪等の利害の考え方」が「本家筋」と「分家筋」の考え方が事に成り、「分家筋」に執っては“「抜け出す」”と云うよりは「秀郷流青木氏の背景」の持つ「伊川津青木氏四家の中」の“「保護下」”に入っていた方が得策であると考えたのであろう。
現実に、これがどのような経過であったかは確定はできないが、「下記の注釈」から「本家筋」は「松平氏の保護下に入って行った事」は判る。
この様に「伊川津青木氏」には「党」を形成する上で「以外な悩み」があった事に成る。
故に、「伊勢と蒲郡」は「陸運業」を立ち上げる時に、後々問題に成る事であったのでこの一点も気にしたのでは無いか。
現実に、前段でも論じたが「額田青木氏の南下国衆の指揮」を執った「伊勢秀郷流青木氏」は「岡崎」から「開発業」を手広く始めている。
これは「秀郷流一門の背景」が色濃く出て来た証拠でもある。
分家筋は「読み」の通り相当に「低禄の本家筋・准家臣扱い」より潤った事を意味する。
要するに、拒絶されずに「伊勢秀郷流青木氏が住む世界・地域」の地盤がこの三河にも「広げられる地盤」があった事に成る。
「秀郷一門」は平安期から鎌倉期を経て室町期中期頃まではより良い執政を敷いていた事に成ろうし、取り分け「永嶋氏」は貢献したのであろう。
「永嶋氏」は平安期と鎌倉期に四国徳島と淡路にも「片喰州浜の多くの子孫」を遺したのだ。
これが江戸期まで続いたと云う事なのだ。
そこで「牧野氏の出自説」には大まかには二説あり、共に四国で「阿波説」と「讃岐説」に基づいているが、「牧野の姓」の論処は、四国での「牧野・イ」と三河の「牧野・ロ」に分かれていて、前者は「室町期・応仁の乱」、後者は「鎌倉期・承久の乱」の事に成っている。
「前者・イ」は「讃岐」から出て来て「乱の功績」に基づかず「三河牧野村」に根付いたとする説であるので、元は「牧野」では無かった事に成る。
「後者・ロ」は「阿波」から出て来て「乱の功績」で三河宝飯郡の「牧野村の地頭」と成って「牧野の姓」を名乗ったとしているので、元は「牧野」では無かった事に成る。
何れも「牧野氏」では無かった事に成り、違いは「讃岐」と「阿波」の違い差にある。
「二つの姓」から「元の姓」が明確に成っていない事と、「武士」であったとすれば「家紋」を持つ事から、この「家紋」が明確に成っていないので、当時の殆どの「農民の立身出世」が起こった時期の「農民」であったと観られる。
「讃岐」か「阿波」かであるが、筆者は、豊橋に讃岐神社を造っている事から「讃岐」から一度「三河」に入つた国衆団であったと考えている。
「後者・ロ」は余りにも「史実」に合わせて矛盾なくしての後勘で「出自系」で造り上げていて、現実にこの様に上手く行かないし、上手く行けば「不毛の伊川津」には流れ着かないであろう。
間違いなく江戸期に成ってからの「後付け」であろう。
筆者の説は「前者のイ」であり、「姓の出自」は「農民」であり、三河の「牧野村の庄屋牧野氏」を「何らかの形」、即ち、当時横行した「血縁か奪剥」で名乗ったものであろう。
「農民の立身出世」で「応仁の乱時」の乱世の「流れ者説」を採っている。
因みに、公然としてその出自を公表している「当時の状況」を物語る有名な「土佐藩主の山内氏」も同然である。
「家紋」を観ても四国には無い「三柏紋」は可笑しいし、20に近い一族の家紋がそもそも統一されていないし、この一族の中には「前者・イ」を元としているものもある。
又、「三柏紋類系」には無いものもあり、且つ、「家紋200選」にも無いのだ。
明らかに「国印状発行と系譜」には何が何でも定めなければならないもので、そうでなければ「国印状」は出ず「武士」には成れない。
この「牧野氏」等は「新撰姓氏禄の諡号」の族系には無く、依ってその発祥は阿波の「農民であった事」に成る。
前段でも論じたが「後者・ロ」の現地は「四国」を東西に分けて、東に「秀郷流一門と藤原利仁流一門とその青木氏」、西は「讃岐青木氏と讃岐藤氏の定住地」である。
少なくとも其処の民であったのであろう。
それ故に、「秀郷一門に対する憧れ」が根底にあった筈である。
そこで念の為に、仮に秀郷一門に血縁的に関わっていれば「主要八氏」であれば、「361氏の家紋類」と、「青木氏」であれば「116氏の家紋類」が、「一定の規則」で江戸期の墓所に刻まれている筈である。
現実に「現地調査の問題1」では、江戸期前後のものと考えられる「墓所」を確認した。
「明治期の墓所」は、「苗字令・督促令」に依って掟が護られなくなったので、信用は出来ないし墓石も違うので容易に取捨選択できる。
それによれば「片喰・州浜の家紋類」の江戸初期頃の物と思われる「青木氏の墓紋」が確かに刻まれてはいるが、然し、完全な秀郷一門のものではない様だ。
流石に、この「美濃の一色の西域にある墓所」では、最早、「三野王族の(a)族」は滅亡して「笹竜胆紋」は無い。
「伊川津の青木氏」と名乗る以上は「(a-2)の族」の一部が、「(a-1)」と「尊属血縁性」を持ち「青木氏の掟」に依り「女系」で「青木氏」を興して名乗った事に成る。
従って、「尊属」であれば「笹竜胆紋」となるし、「女系」に依って「姓・卑属」を出さない掟である事から、伊川津では「賜紋の神紋の柏紋」以外には無い筈である。
結果は「伊川津の墓所」では、歴史的経緯から「古来の古跡神明社」を頼って移住した事もあって、「神明社の柏紋類」が殆どである。
つまり、「額田の一色」では「笹竜胆紋」の象徴の下で、「a-1族の裔」は兎も角も、「a-2の裔族」は敢えて「家紋」を「象徴紋」だけとして定め別に持つ事をしなかった事に成る。
然し、「南下国衆」として「a-1の裔系の蒲郡青木氏」と離れ「伊川津域」に移動し「伊川津四家・a-2」を構築した以上は、所縁の「賜紋の神紋の柏紋」を使う事には同じ伊勢の裔系である以上は何ら問題は無いし、奈良期の元から定住していた「伊勢の神職」との血縁も「四掟」から考えても興っていると考えられる。
次は「現地検証の問題2」は、「伊川津青木氏四家・a-2」に付き従った「bとcの官僚族」の墓所が「田原市加治町」に「真宗寺・匿名」としてある。
此処には、「18の真宗寺」があって、その内の二つと観られる。
この寺から真南1kの所に「真宗西光寺」があり、況や「秀郷流青木氏の所縁」の繋がりを物語っているが、恐らくは、この「二つの真宗寺」に江戸期前までは「彼等の菩提寺」として分散していたと考えられる。
美濃の「bとcの官僚族・諸蕃諡号雑姓・第1の姓族」に位置する族の「家紋」には、「過去のある特徴」があって「最大48種」の「草に関わる紋様と色」から出来ていて、これを基に最初は「家紋」と云うよりは「位階身分の判別紋」として扱われ次第にそれが「家紋」と成って行った。
この判別から「諡号では無い第二の姓族」と違って、「諡号を持つbとcの官僚族・諸蕃雑姓・第1の姓族・440族」にはこの“「判別紋」”を持っていたのである。
これを格を細かくは、「12類族」に分類でき、「大まかな格」には「8類族」に分けられ、「計20類族の格」でこの「分析」から確認できるのだ。
全体では「440の判別紋」がある。
これは「血縁性」に関わらず「位階身分格式」に依って分けられている。
念の為に「諡号」に含まない要するに「第二の姓族」にはこれは無い。
「伊川津青木氏四家」の近隣にこの「美濃の官僚族」であった「彼等の新たな菩提寺」は2寺存在するのだ。
奈良期では「五都計画」の一つであった事から「低位の官僚族」ではあるが、判別から観れば「中位下の判別紋」に成ろう。
中位格式以上は都に帰る事に成っていた。
この判別に含む家紋が刻まれているので確認できる。
この「現地検証の問題3」では、「上記の類似紋」が実に多いのだが、先ずは「3土豪の姓族の本家筋の家紋」にあるが、「伊勢の裔系の家紋」は元より「秀郷流青木氏の家紋類」には無く、仮にあっても墓石も江戸期前後の慣習のものと違っているので、明治以降のものであって俄かに信じ難い。
墓所の家紋から「片喰州浜紋の秀郷流一門」とは正式に明確に混じっていない事が判る。)
「青木氏の伝統 58」-「青木氏の歴史観-31」に続く。


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「家紋掟」の概容
「家紋掟」の概容
青木氏の家紋に関して大変ご質問が多いので一つにまとめました。
そもそもは家紋の使用は平安末期から使用される様に成りましたが、その家紋化した目的は「氏家制度を規則正しく保つ目的の根幹手段」として室町時代の中期から明治の初期頃まで使用される様に成ったものなのです。
家紋は当初から家紋として存在していた習慣ではなく、本来は最初は奈良時代初期に皇族が自らの「ステイタス」(印章)として使用していたものでした。その最初は何んと青木氏に関わる事から始まったのです。
家紋というものを理解する上で家紋の経緯としてそれを少し詳しく述べておきます。
蘇我入鹿を倒した中大兄皇子の時代に遡ります。それまでは「文様」は儀式的な意味合いが強く天皇家と朝廷の「儀式の権威」として位置づけられていました。その儀式を司る天皇に対する「間接的権威」として扱われていたのです。ところが、この事件と成った原因から天皇家の「体制固め」(大化の改新)が始まりました。
先ずその一つは「経済的な原因」でした。つまり、それは無秩序に近い状態で存在する「皇子の数」でした。それまでは「数を固める事」で「天皇家の権威」を作り上げていたのですが、そこを入鹿に狙われたのです。先ず、蘇我氏に内蔵の経費に依る経済的な弱体化を狙われたのです。
軍事的には渡来人の漢氏(あやし)又は東漢氏(やまとあやし)等の軍事集団を蘇我氏に抱え込まれ裸同然の無力化に干されました。政治的には斎蔵の祭祀による権威のみの立場に追いやられると云う事態に成っていたのです。
つまり、天皇家の財政を司る「内蔵」、朝廷の財政を司る「大蔵」、朝廷の祭祀を司る「斎蔵」の政治機構三権と軍事権を蘇我氏に奪われていた事に成ります。
この経済的に問題に付いて、4世族までの皇子皇女の数が大変多く34人にも成っていました。第6世皇子皇女までいれると50人以上と成っていたのです。(7世族以降は坂東に配置されていました。)
そこで「大化改新」と云う「大政治改革」を断行しました。
その目的の一つとして皇族に掛る内蔵の経費を少なくする為に第4世までを皇子王とし第6世以降は臣下させる事を実行しました。
その第4世皇子までに順位を付け第4位皇子までに「皇位継承権」を与え、「第6位皇子」(1)を臣下させる仕組みとして改革をしました。
この結果、これらの下俗臣下した皇子の身分を保障するために、この「世族の仕組み」は「身分制度の確立」に発展し先ず「8つの家柄階級」(八色の姓の制)を定めました。
そして、この時、問題の皇子族は「真人族」(まさと)「朝臣族」(あそん)(2)と特別に「宿禰族」(すくね)を加えて3つの身分に分けました。
これら「八色の姓」に合わせて、別にその功労能力に応じて画期的な「官位階級制度」が定められたのです。これは現在でも観られない徹底した「実力主義」でした。
例えば、皇太子であろうと、他の下位の皇子が優れていれば皇太子よりも遥か上の官位を授かると云うものでした。現在でもあり得ない実力主義でした。
つまり、「家柄制度」と「身分制度」が定めた事に成ります。
そして、この2つの制度に伴い「職務制度」も定めたのです。
この「職務制度」でも下位の皇子でも能力が高い場合は重要な守護王に任じられると云う事が起こりました。
朝臣族4世皇子族までには6段階の位に準じて重要な順に天領地の守護王職を命じたのです。
そして、その皇子には順位を付けて6位皇子からは臣下する事としたのです。
この「3つの制度」によって先ず最も昇格したのは第6位皇子の伊勢王の施基皇子でした。
日本書紀に記述されています。(「日本書紀と青木氏」のレポート参照)
この時に最初に中大兄皇子から直接与えられたのが第6位皇子の施基皇子の伊勢の「青木氏」(3)と特別に第7位皇子の川島皇子の近江の佐々木の地名から「佐々木氏」の氏を与えたのです。
この制度に則って実力のある皇子には氏を与えると云う「賜姓の仕組み」が出来上がりました。
この「皇族の改革」を始めとして、「八色の姓」に準じた他の臣下の特別な豪族の身分改革も起こりました。政治機構は一段引き締まる体制が出来上がりつつありました。
そこで、先ず、皇子族の「身分制度」を明確にする為に、更にそのステイタスの表現の一つとして「独自の印章」(「印章制度」)を用いて明確にする様に改革しました。
5つの制度改革
「家柄制度」
「身分制度」
「職務制度」
「賜姓制度」
「印章制度」
天智天皇はこの2人の皇子にはそのステイタス(印章)として「竜胆の花」とその「葉の形」を文様として「笹竜胆紋」(4)を使用する様に命じ他の氏には使用を禁じ区別させました。
こつ「実力主義」に基づく「5つの制度」に裏打ちされた「笹竜胆の印章」が後に各氏の「家紋」への展開の始まりと成ったのです。その代表者が始祖の施基皇子の青木氏であったのです。
施基皇子は第6位皇子でありながら皇太子よりも3階級も上の官位(浄大1位 天皇に継ぐ官位)を獲得したのです。異例中の異例です。
更には、この施基皇子は天武天皇の葬儀を皇太子に代わり取り仕切ると云う前代未聞の事も起こったのです。そして、日本の律令の根本と成る「善事撰集」司を任じられると云う名誉の編纂者に任じられたのです。
天智天皇が天皇家の守護神として伊勢神宮を指定し後に天武天皇が正式に定めましたが、天皇家にとって最も大事な祭祀の地のここの伊勢の国の守護王に任じた事からもその仕事ぶりが判ります。
そして官吏として彼の有名な三宅連岩床を伊勢国の国司として送っているのです。
恐らくは、研究中ですが、この事実の実力から観てこの「4つの制度」の制定も施基皇子が指揮したと観ています。
家柄、身分、職務、賜姓の制度に裏打ちされたこの「印章制度」を更に確実な権威付けなものとして次の事も実行しているのです。
これらの制度は完璧と云わざるを得ない程に理路整然として作り上げられているのです。
この時、その皇族賜姓族の「青木氏」にはその姓の源と成った「一族の神木」(5)として「青木の木」を指定しました。当時は青木は榊と同じく朝廷祭祀の神木として扱われていたのです。
そして、その「守り本尊」として日本最初の仏師の「鞍作部止利」作の北魏方式の仏像の「大日輪座像」(6)を与えました。「神木」を指定し「守り本尊」を与えると云う事は大和朝廷の始めての事でした。
次にそれまでは天皇一族自らを護る親衛隊が無く、「蘇我氏の増長」を招いたとして大化改新の一つとしてその「護衛隊の任務」(7)を与え、何んと細部には宮中の「3つの衛門」の護りの実務をも与え、これに官職名として左右の衛門に位を与え、「左衛門上尉」や「左衛門上佐」などの「尉佐と上下」の「4階級の職務」(8)まで設定し与えたました。
更に天皇家の守護神として伊勢神宮を指定しここを守護する王の「守護王」(9)の最大任務を与えると云う徹底した改革でした。
因みに、江戸時代には御家人や旗本等の中級武士以上が金品を渡して朝廷より一代限りの官位をうけましたが、例えば彼の江戸南町奉行の遠山の金さんは遠山左衛門上尉景元と名乗っていた様に。この元は皇族賜姓族の青木氏と藤原秀郷流青木氏に与えられる永代官位だったのです。
その後、上記「5つの制度」と共に施基皇子で始まった「9つのステイタス」に裏打ちされたこの権威のある第6位皇子に5代の天皇が5つの主要天領地の守護王を命じたのです。
天智天皇
天武天皇
文武天皇
聖武天皇
光仁天皇
第4世皇子までが守護王に任じられたのは下記の当時の天領地の王に及びました。
嵯峨天皇から賜姓源氏に変名されて11代続きましたが、下記の守護王や国司に任じられたのです。
天領地の守護王
伊勢王、近江王、美濃王、三野王(信濃王)、甲斐王、山部王、石川王、高坂王、雅狭王、栗隅王、武家王、広瀬王、竹田王、桑田王、春日王、難波王、宮処王、泊瀬王、弥努王
以上19王/66国
この中で伊勢王、近江王、美濃王、信濃王、甲斐王には第6位皇子が任じられ上位王として5家5流の青木氏が発祥しました。この5つの国に青木氏の子孫を遺しました。
他の14王ではステイタスが授与されましたが、氏を遺したとされる王と遺し得なかった王とがあります。賜姓源氏は滅亡しましたが、未勘氏として子孫を遺しているとされていますが、史実は結果として多くは賜姓佐々木氏がこの「印章権威」に保護されてこの地の多くに子孫を遺しています。
以下の9つのステイタスは皇族賜姓青木氏5代と皇族賜姓源氏11代と皇族賜姓佐々木氏2代に続けられました。
(1) 「第6位皇子」 (1)
(2) 「朝臣族」 (2)
(3) 「青木氏」 (3)
(4) 「笹竜胆」印章 (4)
(5) 「一族の神木」 (5)
(6) 「守り本尊」「大日輪座像」 (6)
(7) 「護衛隊の任務」 (7)
(8) 「左衛門上尉」や「左衛門上佐」などの官職 (8)
(9) 「守護王」 (9)
この9つのステイタスが5代天皇に引き継がれて「光仁天皇」まで続きましたが、「桓武天皇」と「平城天皇」は律令国家完成を目指して青木氏らの「皇親政治の勢力」を排除しました。
これに反発した「桓武天皇」の第2位皇子の「嵯峨天皇」が元に戻し、これに手を加えて「嵯峨期の詔」を発し、青木氏には皇族の者が下俗する際に称する氏名として使用を禁止しました。明治3年まで3つの混乱期を除き原則守られました。
このわずか後に、「平将門の乱」を平定した功労で「藤原秀郷」は貴族に任じられて為に、秀郷護衛団として第3子の「千国」を侍にしてこの詔に基づき(2)の身分を授かり、(3)の呼称を許され、(1)同等の身分を持つ青木氏として呼称する事を申請して、朝廷より母方を同じとする事を理由に、特別認可され発祥させました。
そして、代々青木氏と同等の天皇家の近衛軍の(7)(8)の官職を与えられ、(9)として伊勢、近江、美濃、信濃、甲斐の守護王の補佐官吏として国司に任じられました。
(4)では秀郷は下賜「下がり藤紋」の印章を維持しました。他の藤原氏四家は「下がり」を忌み嫌い上り藤紋に変紋しましたが秀郷は下賜家紋を固持したのです。
(5)は藤、(6)は春日大社として9つのステイタスを代々保持したのです。
以上の様に藤原秀郷流青木氏は皇族賜姓青木氏と全て同等の扱いを受けていたのです。
この様に家紋「下がり藤紋」には皇族賜姓青木氏の「笹竜胆紋」と同等の身分家柄扱いを朝廷から受けていたのです。家紋はこの様に「9つのステイタス」を背景にその全体的な「象徴」として観られていたのです。
この「9つのステイタス方式」を継承して、その第6位皇子には賜姓青木氏から家紋はそのままに源氏の賜姓に変更しました。賜姓源氏は正式には花山天皇までの11代の天皇に継承されました。合わせて16代続いた事に成ります。
この同等扱いを理由に源氏とも繋がりを持つとして、後に藤原秀郷流青木氏は源氏でもあるとする説が生まれたのです。
この様な「4つの制度」(身分階級制度等)の政治システムが次第に確立してゆく中で、その「立場を表す「印」が必要に成り、そのステイタスとして平安初期には真人族の貴族や朝臣族や他の藤原氏の血筋を引く公家や八色の姓族などにも使用される様になったのです。
この「印章」となる紋だけではなく同時に「他の8つのステイタス」がその身分に合して制度として引き継がれる様になりました。
この家紋化へと進んだ時期は渡来人の帰化人が国に同化し「渡来人」と云う言葉が使われなくなった時期で、律令政治が確立した頃の桓武天皇の時期からそのステイタスを表す諸道具や牛車などに盛んに「権威ある印章」が用いられました。記録によると牛車等に付けられた「印章」でその位身分の差異で道を譲れ譲らないなどの争いが起こるなど一種のブームと成りました。
平安初期の最初は皇子族、貴族侍、公家侍等の40程度の氏を構成する者が使用を許される様に成り、平安中期には80程度の氏、平安末期には200程度に拡がり始めて、鎌倉時代には幕府の推薦で朝廷が授与するシステムが出来上がり、ステイタスからはっきりと家紋化として侍にも身分の区別化として用いられる様に成って拡がりました。
鎌倉期には朝廷からこの「9つのステイタス」を授受される事が上級侍としての誉れとされました。
しかし、鎌倉時代の移行期を経て、更に室町初期には幕府体制の下で家紋の元に成った「印章」だけは武士を中心に上級武士の間で自らが定める完全な家紋となり800程度、戦国時代には1200程度と一時急激に増え、末期には淘汰されて平安初期程度に戻ってしまったのです。
この一連の「9つのステイタス」は、当初は「印章」から「家紋」に、「誉れ」から「判別」に変化して行きました。
この様に家紋を始めとして(4)(5)(6)だけは個別に成り、遂には(7)(8)(9)は実態とは別に名前だけを幕府の推薦と朝廷の授受するものと変わりました。
(1)(2)(3)は朝廷内部のものとして「禁令の詔」を発して明治3年まで原則護られました。
(2)だけは(1)と(3)の家柄を持つ氏に与える事として定められました。これは結局は鎌倉、室町幕府を開いた征夷大将軍にのみ与えるものとして遺されたのです。
因みに徳川幕府は(1)(3)の朝臣族の家柄になく南北朝の天皇家の乱れた系譜を搾取偏纂して朝廷の抵抗を撥ね退けて強引に取得すると云う有名な事件が起こりました。すでに南北朝時代はこの制度は無くなっていました。徳川氏はそこを突いたのです。
安定した桃山時代には遂には秀吉が天皇家の五三の桐紋等を勝手気ままに与えるなどして再び増え江戸初期には家紋奨励するほどに中級以上の「武士階級」は全て持つように成りました。
江戸中期からは朝廷は(7)(8)(9)を乱発して経済的な収入源とした為に中級武士以上は全て持つ様に成りました。結果的に(4)は室町末期からは自由と成ったのです。
江戸末期から明治初期の戸籍化に因って裕福な一般庶民も使用する様になり、何時しか全ての氏が使用し日本全国には8000もの家紋が存在する様に成りました。
この様な経緯を持つ家紋は初期には特定の氏だけに認められて使用を禁じられていましたが、禁令の順守が緩やかに成り鎌倉末期には慣習化されて次の様なルールに基づき使用される様に成りました。
江戸時代初期には幕府により概要が明文化されて各大名が更に慣例に基づき自らの氏の「家紋掟」を定めて氏家制度を保持しました。
この様に、完全な画一的な掟ではなく、統一する事は各氏の事情により異成る為に、大筋を社会慣習にて定めたものです。例えば奈良時代から存在する一連のステイタスを保持する藤原氏の様に元来丸付き紋は使用せず、大一族一門を見分ける為に丸付き紋では困難であり、分家を始めとする分流分派を見分ける為にも「副紋方式」の様な独特な詳細な掟を定めました。
因って、皇子族、貴族侍、公家侍、大古豪族の家紋は当時の社会慣習により、血縁関係も身分釣り合いと純潔習慣があり、丸付き紋は原則使用していません。
依って、(1)(2)(3)、(4)(5)(6)、(7)(8)(9)のステイタスが3つに分離が起こり、その結果、武士階級によって家紋が左右される様な時期からは「丸付き紋」が始まり、氏が拡大して行く室町期頃からの必然的な使用と成りました。
本来、この家紋の丸付き紋の目的は、青木サイトとして「家紋掟の古原本」より筆者なりにまとめますと、「氏家制度」の武家社会の「家紋掟」により細かく分けるとすると、7-8つ程度の役目があります。
以上の経緯を考慮に入れ次ぎの各要素を組み入れて家紋を分析する事で、ご先祖のルーツ解明の一つの手段に成りご先祖の氏での位置付けが見えてきます。
皇族賜姓青木氏29氏は特別な史実に基づく未勘氏を除くと原則丸付き紋は使用していません。
ただ、笹竜胆紋は、当初は「部分変紋」を使用していたと観られていますが、「賜姓青木氏の笹竜胆紋」と「賜姓源氏の笹竜胆紋」と「賜姓佐々木氏の笹竜胆紋」は竜胆の花と5枚葉との間の軸の部分を変化させて判別させていたと観られます。
調査すると、賜姓青木氏の場合は軸状、賜姓佐々木氏の場合は円点状、賜姓源氏の場合は菱状であったと観られ判別されていた模様で何時しか軸状と同じに成っています。
この原因は奈良時代から平安時代の皇族の「純潔慣習」が保たれて「同族血縁」を繰り返した結果から「部分変紋」を維持する事が難しく成ったと考えられます。
この「同族血縁」が制度的に続けられていた最後の時期は、伊勢青木氏の血縁を観ると清和源氏宗家源頼光系頼政の仲綱の子との養子血縁をしている事から、1180年頃から1185年までと観られます。平安末期です。
その理由は最大勢力を誇った清和源氏は1195年で滅亡しました。後は同紋5家5流青木氏か近江佐々木氏との同族血縁しか無く成っていました。その後には美濃、信濃青木氏との血縁が観られます。依って、「部分変紋」が無くなったと考えられます。
同じく藤原秀郷流青木氏も原則は使用していませんが、116氏の内30紋が丸付き紋と成っています。依ってこの30紋は江戸初期前後に発祥した氏が多いのです。
青木氏に関しては、あくまでも丸付き紋単独で存在する家紋はなく全て分家である事が裏付けられます。つまり、単独であっても分家が生き残ったと観られる氏であります。
室町末期、江戸初期、明治初期に発祥した青木氏には全てと云ってよい程に「丸付き紋」が目立ちます。
これは、室町末期は下剋上と戦国時代を経て立身出世した者が没落した氏の家紋などを使用する、又は似せて使用した事から家紋掟に憚って「丸付き紋」を使用したことが原因と成っています。
「下剋上」で元の主君の家紋を何等かな方法で使った事が大きく原因しています。
江戸初期は武士に成った者や家紋の持たない下級武士であった者が左程に氏を構成するほどに大きくなくてもこぞって持つ様になりました。この時、土地柄や周囲の盟主豪族の家紋に似せて「丸付き紋」と「一部変紋」や「糸輪紋」や「囲い込み紋」の方式で変化を付けて家紋を作りました。
この時期は武士の間では急激に家紋が増えた時期です。家紋としての役割がそれほど無い家でも”家紋が無い家は武家ではない”とも観られた時期でもありました。
(参考 当初「武家」とは「公家」に対して「氏」を構成する「侍集団」として主に天皇を護衛する武力集団として呼ばれたもので、室町末期ころから一般の「武士」までを呼ぶ言葉と成った。大化期に伊勢青木氏から最初に発祥したもので、それまでは「部」を構成する武力の職業集団であった。)
氏家制度に沿って一族一門が結束する為のステイタスとしての役割では無く、氏が乱世で個別離散して持った為に一族間でありながらも家紋の違いが起こる等の問題が起こりました。
この時期、この様な家紋やルーツを手繰る専門の職業が生まれて、力のある者は良く似た家紋を作ってもらう等のブームが起こりました。
明治初期は氏家制度や身分制度の崩壊で政治新体制下で「契約社会」となりました。この為全ての国民が姓を持つ事を義務付けられて明治3年に「苗字令」8年に「督促令」が公布されました。
なかなかその習慣に馴染めない民衆は一度にある日村全員が村の周囲の盟主の氏を名乗るなどして苗字を持ち、苗字に合わせて家紋も同じ要領で持つ等の事が起こりました。
苗字でも民衆は8年も掛りましたから、家紋に至っては文様を考案する等は程遠く類似する家紋か盟主の家紋に「丸付き紋」を付けるなどの事で対応するのが限界でした。
この時、憚って盟主の家紋に主に丸付き紋を付ける事などして家紋化が起こりました。
例えば、全国各地に多い「下がり藤紋に丸付き紋」はこの時の家紋群で、群や村の全員が藤原氏の宗家本家筋だけが名乗る「藤原氏」を名乗り、又合わせて家紋も使う等の事が起こったのです。
この様に各地では盟主の家紋に「丸付き紋」が多用されました。
家紋で代表される「源平藤橘」の「丸付き紋」はこの様な背景から生まれました。
因って、「丸付き紋」には元来、正規には分家を意味しますが、氏の発祥の時期によってはこの様な意味を持っているのです。この時期の「丸付き紋」の家紋は村の盟主の「分家」と云う意味を広義に捉えた手段に成ったのです。
中にはそれなりの理由根拠があり、盟主が「農兵」として駆り出しその功労として姓と家紋の使用を許すと云う行為を多用したのです。しかし、「農兵」にしてみれば彼らには生活の中に苗字や家紋を使うそのような慣習がなかったのですから、当時としては何の価値もありませんでした。
しかし、明治の苗字令で督促されて過去のこれを持ち出した事が起こりました。盟主にしてみれば文句の言えない事でした。
明治期には盟主は地主に成り、農民には小作人として働いてもらわなくてはなりません。むしろ、苗字と家紋は新体制維持のためには是非もない事でもあり維新政府の奨励と厳しい指導があったのです。
上記した様に「印章」から始まり「家紋」化したものには必ず其々次の特徴を持っています。
1 由来姓
2 時代性
3 地理性
4 氏名性
5 特記
以上の1から5の「其々の特徴」と「氏家制度の慣習」とを把握し勘案するとその氏の家紋の発祥内容が確定できます。
特に青木氏に関する内容については明確になります。
従って、「丸付き紋」の有無で「氏の構成具合」は評価できるのです。
普通は次の要領で判断されていました。
a 嫡子が存在する場合
本家筋の末裔と分家筋の末裔に分離する。
嫡子が同紋を引き継ぐ。
本家筋の嗣子には家紋部分変更を行う。
分家筋の嗣子には丸付き紋を付ける。
妾子には丸付き紋を付ける。
因縁性のある嗣子に丸付き紋を付ける。
b 嫡子が存在しない場合(女子がいる場合)
婿養子先家紋に変紋し、婿養子が妾子の場合は丸付き紋を付ける。(養子先本家の許可)
この場合は変紋時、正式略式の場合の使い分けを行う。
婿養子に嫡子が出来ると元の家紋に戻る。(本家の許可)
2代続きの婿養子では親の婿養子先の家紋に確定する(女系化 婿先系の新氏発祥)
確定時に丸付き紋の有無の許可を婿養子先に求める。
c 嫡子が存在しない場合(子供居ない場合)
養子婿を迎え嫁を取る場合、丸付き紋に変紋する(本家の許可)
養子婿先の家紋に丸付き紋を付ける。
d 嫡子が存在しない場合(縁者より養子の場合)
家紋は変わらない。(最も一般的で多く採用された方法)
大きな氏は原則、「丸付き紋」で対応する事に成りますが、次の要素により3つの変紋の手段が採用される場合があります。
「時代の変化」
「地理的な変化」
「氏の拡大」
「全体の氏性」
以上が原因で大きい氏は確実に把握が困難と成りました。
この自然淘汰による履歴の把握が困難に加えて、家紋経過には次の事が起こりました。
室町末期(新興勢力 氏のステイタス)
「下剋上」と「戦国時代」で混乱 奈良時代から始まった氏の構成が新興勢力に新しく変化した。
この為に氏を示す家紋も新しく発生した。
江戸初期(下級武士 氏の判別)
新興勢力の氏は自然淘汰されて、氏の安定期に入り、それまで氏を構成しなかった下級武士が改めて興し独自の氏と家紋を持った。
明治初期(庶民 家柄の誇示)
「氏家制度」の崩壊で明治維新の「契約社会」へと変化し、全ての国民が苗字を持ち氏をあらためて構成し始めた。当然に家紋も併せ持った。
以上の3乱期には第3氏が「丸付き紋」を採用しました。
この為に「丸付き紋」の採用は一族性に問題を生じて来ました。
ただ、氏家制度が無くなり身分制度の無く成った社会慣習の明治初期以降に使用された家紋が、この家紋掟を護られたかは疑問ですが、a、b、c、d、イ、ロ、ハ、ニ、等の方法の中でただ「養子縁組」になると「丸付き紋」だけを一時使用していた事は確認されています。
現在では家紋の持つ意味も核家族社会の中で無くなり殆ど護られていない事と思います。
そこで次の4つの方法が採用されて来ました。
上記abcを繰り返して行くと次の方法が採用されて来ました。
イ 部分変紋(最も多く用いられた方法)
ロ 囲い込み紋(糸輪紋含む)
ハ 陰紋
ニ 類似変紋(イの変化)
#1 嫡子の本家筋ルートは次第に分家化する。
主に家紋の「部分変更紋」で何処の本家筋かを判別する方法を採用した。
#2 嗣子の分家筋ルートは次第に分家化する。
丸付き紋が細分化すると丸は採用できなくなる為に、主に「囲い込み紋」を採用して分家筋を判別する方法を採用した。更に「部分変更」を加えて対処した。
#3 妾子の分家筋ルートは次第に支流化する。
「丸付き紋」が細分化すると重複して維持できなくなる為に、一族性を保持する為に家紋の明暗を逆転して主に「陰紋」を作りだした。
#4 #2 #3のabcが進むと次第に傍系化する。
更に血縁性が不明確に成り傍系支流化すると「類似別紋」を採用した。
「部分変紋」にはその違いの大小に依って「類似変紋」に変化する事も起こる。
大小の氏では時代性が異なるが#1から#4の経過を辿っています。
(本来は6つの掟)
1 宗家、本家、分家、支流、分流、分派の区別
2 嗣子と妾子分類
3 宗家の許可
4 配流子孫の区別
5 男系跡目の継承
6 養子縁組
7 嫡子尊厳
8 身分家柄の保全
1についての説明
先ず、宗家が家紋を決めます。そこから枝葉が拡がります。
又、それぞれの本家ができます。そして、嫡子以外は分家となります。
これを繰り返してゆきますと、1の様に呼ばれる枝葉が拡がります。
この6つに更に宗家から分派まで出来る事になります。
この大元が「総宗本家」となります。
この時、家紋の使用はそれぞれの本家筋が伝統を重んじ使用許可を出して決めます。
氏家制度の中では一族の「純血」を出来るだけ守るためにそう簡単には使用を認めません。
この許可は嫡子が行います。
嫡子は何も長男とは限りません。能力のあるものが嫡子となります。
長男が嫡子と成る事を決めたのは「江戸初期」の徳川家康が決めました。徳川家の後継ぎとして定めたものです。これに諸国の大名が習ったものです。
氏家制度の中では実力のあるものが成ります。
嫡子が出来なければ、氏の血筋目が立ちませんし、「長」がいないことにも成る訳ですから、当時の「妾」の存在の概念は罪悪感はなく子孫を残すと云う人としての大命題である為に氏家制度では普通の概念でした。
ただ、とは云え「正子」と「妾子」では身分上で原則区別されます。しかし、「正子」に「妾子」が勝れば子孫繁栄存続の目的のために「妾子」が成ることがあります。「正子」が無ければ「妾子」が「嫡子」に成ることがあります。
この為、大きい氏では妾子は次ぎの3つの身分に分けられます。
妻の身分
后:きさき (正妻)
夫人
妃:ひめ、
嬪:みめ、
采女:うねめ
正妻と次ぎの2つの妻との間には一つランクがあり、更に妥女との間にも一つランクがあります。
当然、この子供が独立するとなると、歴然としてその扱いには差異があり、家紋の継承が問題と成ります。
正妻の身分に子供が居ないとなると必然的に下に降りて行きますが、嫡子が江戸時代までは原則正妻よりランクに従い長男と成りますが誰になるかは別問題です。
これは大きい氏には正妻等の血族結婚による弊害を避ける事もあり、戦国時代で優秀な者を嫡子にしなければ氏の存続は保てない事情もあります。
本家宗家はこのシステムで血縁性と家紋継承を保つのです。
「正子」がいる場合は「采女」の身分まででは、「丸付き紋」は当然の事として「部分変紋」又は「陰紋」「類似変紋」「別紋」の順序でかなり厳しい扱いを受ける事に成ります。
この3つの身分扱いは各氏で血縁性を担保するために「掟」として定めていました。
一般的には「丸付き紋」「部分変紋」「陰紋」「類似変紋」「別紋」の順序となっています。
「陰紋」はその意味合いや目立たない事から比較的に使用を嫌われていました。
家紋は「部分変紋」の差異が小差であるから「類似変紋」へ、「類似変紋」の差異が大差であるから次第に「別紋」へと変異しているのです。
この様な「家紋掟」の中では分家以降は余程その子孫の枝葉が大きくならないと勝手に家紋を決める事はできません。
依って主要な大豪族は原則「丸付き紋」は使用しません。多くは「副紋方式」です。
分家の分家以降は主に普通は「丸付き紋」が多いのですが、これは、普通の氏で、分家である場合か、他氏の無断使用の場合かによります。
しかし、ここで「丸付き紋」に欠点があります。
分家の分家の場合は「丸付き紋」は二重の丸となり使えないことが起こるのです。そこで「丸付き紋」に「部分変紋」が起こるのです。そこで又更に分家扱いが起こると「部分変紋」にも限界が起こる為に「類似変紋」と成ります。
この「類似変紋」に来ると「変化の多様性」つまり差異が大きく取れる特長を持っているので「別紋」に至るまでには時間的な経過期間を保てるのです。この様にして一族の家紋は変化して行くのです。
血縁性の経緯を一定に保つために戸籍簿、系譜の様に氏家制度の中ではそれを宗家本家が管理している事に成ります。
しかし、この管理が江戸中期以降緩んだと云う事に成ります。宗家本家の力が落ちた事を意味し、氏家制度も低下した事に成ります。明治期に入り氏家制度が崩壊し、家紋の使用は庶民に広がったがその家紋の持つ意味合いは「9つのステイタス」からほど遠く成り、「氏の誉れ」と云う単位から「家の虚勢」へと変化していったのです。
藤原秀郷一門の家紋掟ではない「丸に下がり藤紋」は庶民のせめてもの「虚勢行為」と考えられます。
例えば、藤原氏の「下がり藤紋」や「上がり藤紋」に「丸付き紋」は、元来、家紋掟では副紋方式ですので、第3氏である事になります。この様に「源平藤橘」の紋は主に副紋方式ですが、源平橘の氏の子孫拡大はそれまでに至っていません。依ってこの3氏には「丸付き紋」の未勘氏が多いのです。
「橘紋」は藤原氏に圧迫されて子孫を多く広げる事は出来ず大衰退を余儀なくされ、この衰退を末裔は忌み嫌い、橘氏自身がこの橘の紋を使う事をやめると云う事が起こりました。依って、第3氏の丸付き紋の「橘紋」も著しく敬遠されました。丸付き紋になる程に橘紋は使用されなかった筈なのです。子孫もそれだけに広がっていないのです。
ところが、橘紋には上記の由来性、時代性、地理性や宗派性に先ず矛盾し尚且つ丸付き紋が実に多いのです。
この氏は地理性が極めて限定されいて大変氏が小さいのですが、矛盾しての名乗る氏が驚きを超える程に多いのです。
平家の「揚羽蝶紋」は滅亡して関西以西に逃亡して農民として隠れ忍びましたので、この家紋を公に使う事が憚られ室町期に入ると表に出てくる事が再び起こりました。この為に史実から末裔の素性が明確になりません。各地で農民として生きていた為に「丸付き紋の揚羽蝶」が出来る程に管理されていなかった筈なのです。「揚羽蝶紋」に対して実は平家の分家には「臥羽蝶紋」もあるのです。平家には「丸付き紋」は元来なくこの様な家紋掟により分家筋は実は「臥羽蝶紋」が使用されていたのです。丸付き紋の史実がとれない平家の未勘氏も子孫の数より数倍も多い氏が驚くほどにあります。
源氏の11家11流がありましたが、清和源氏、村上源氏、宇多源氏、嵯峨源氏の末裔が何とか政争の中でも生き残りましたが、中でも引き継いだ鎌倉時代の清和源氏の頼朝の末裔が滅亡して史実は子孫を遺せなかったのです。
何とか「不入不倫の権」で守られていた賜姓青木氏の5家5流と近江の佐々木氏、宇多天皇の滋賀佐々木氏がこの笹竜胆紋を維持して来ています。
清和源氏の未勘氏が膨大と云う言葉で表現出来る程に多いのです。何んと家紋から観ると1165氏も名乗りを揚げているのです。1/100も無い筈です。未勘氏を入れると2000前後にも成ります。
普通でも身分家柄上同族血縁を原則としている為に、これほど清和源氏が子孫を遺す事そのものが難しいのに源氏だと名乗っている氏があるのです。
そうだとしたら、源氏の末裔を尽く潰した鎌倉幕府の北条氏らは放って置く事はありません。
鎌倉幕府の後の政権を取った足利氏も家紋の違う傍系支流ですから、本流の末裔が生きているのであれば足利氏の室町幕府に参加していた筈です。
そして、副紋も丸付き紋等も使わない掟のある氏であり、嵯峨期の詔で禁令が出ているのに、家紋は笹竜胆紋ではなく氏名も異なる氏が源氏だと名乗っているのです。ほとんどは史実がありません。
因みに、上記した藤原氏に殆ど抹殺され、氏名家紋を使う事さえ嫌われた橘氏ですが、家紋から観ると86氏も名乗っているのです。藤原秀郷一門でさえ永嶋氏は34氏、長沼氏が52氏、進藤氏は48氏、長谷川氏は111氏、もちろん青木氏は116氏で、「関東屋形」と呼ばれて平安、鎌倉、室町期、江戸初期までに全盛を極めたこれらの秀郷一門の氏でさえせいぜい30-50程度です。
それが橘紋86もあると云うのです。未勘氏を入れると150くらいにも成ります。
ところが、藤原秀郷一門の主要5氏で観てみると、全部で361氏ですが、家紋から観てみると不思議に371氏なのです。未勘氏を入れると凡そ500程度に成ります。意外に少ないのです。
これは、一門が「第2の宗家」として青木氏を中心にして管理されていた事を物語り、なかなか第3氏が秀郷一門の氏名(家紋)を名乗れなかった環境があった事が云えます。
つまり、代表的なものとしてあげれば、傾向として「源平橘」は滅亡しているので氏の「厳しい管理の目」が無く自由に名乗れると云う現象が、室町末期、江戸初期、明治初期の3乱期に起こっていた事を意味します。
賜姓青木氏でも、或る伊賀の立身出世した者が、元近江青木氏が滋賀に移動して再び近江に戻りましたが、一部滋賀に残った全く絶えた分家を乗っ取り、滋賀の青木氏を名乗り、その近江青木氏本家がこれに異議を申し立て2度も戦いをしました。最終、秀吉の承認の下で決戦をし滋賀から近江に戻った近江青木氏本家は負けてしまったのです。伊賀上田の者は滋賀青木氏を堂々と名乗り、後には滋賀青木氏本家を名乗ると云う事件さえ起こりました。そしてこの滋賀青木氏は著しい子孫拡大を果たしました。
藤原氏に付いても群村単位で農民が名乗りましたが、氏家制度の管理が解き放たれた明治期に成って名乗った事、秀郷宗家本家筋が名乗る氏名を名乗ったが、家紋はなかなか使えなかった事と丸付き紋等を使用した事によるものと考えられます。
藤原氏全体では未勘氏があまりに多すぎて検証は困難です。
この様に、絶えた有名な氏を名乗った「虚勢」の未勘氏が実に多いと云う事なのです。
氏家制度の慣習の中では上記した5つの条件から検証するとそれを明確に検証できるのです。
この現象は「源平籐橘」全てに云える現象です。如何に室町末期や江戸初期に武士となった者が搾取して家柄身分に「虚勢」を張っていたかが判ります。
殆ど、5つの条件 即ち、由来性、時代性、地理性、宗派、特記や当時の慣習などから調べると矛盾が出てくるのです。
伊勢青木氏よりはじまった賜姓紋の笹竜胆紋は副紋も一切使用していませんので、本家筋の「総紋」の継承と成りますので、丸付き紋の笹竜胆紋は「未勘氏」(明確でない氏か史実として認められるが継続した証明がとれない氏の事)か第3氏の使用となります。
笹竜胆紋や下がり藤紋の青木氏は、各青木村を形成して嫡子がいない場合とか死んだとかした場合は、青木村を形成している事により縁続きの者を迎え入れて同じ血筋を保持し家紋を保持する事が出来たのです。これを護る「宿命的な伝統」のそのような仕来たりがあったのです。
笹竜胆紋は5家5流の青木村と24の国の青木村、下がり藤紋は武蔵入間を中心に神奈川横浜を半径とする地域に116氏の青木村と24国に青木村を形成していますので、宗家本家筋が血筋と家紋維持のためには縁者を迎え入れる事は氏家制度の中で管理されていればそう難しい事ではありませんでした。
笹竜胆紋の青木氏と下がり藤紋の青木氏との相互血縁も母方血縁族ですので不可能ではありませんでした。
例えば、讃岐藤氏の秀郷流青木氏が足利氏系青木氏や甲斐の武田氏系青木氏を保護し血縁、
神奈川の秀郷流青木氏が信濃諏訪族青木氏を保護し血縁、
伊豆の賜姓青木氏と神奈川の秀郷流青木氏が血縁、
その伊豆賜姓青木氏と本家筋の伊勢賜姓青木氏との血縁、
信濃賜姓青木氏と美濃の秀郷流青木氏との血縁、
その信濃賜姓青木氏と伊勢賜姓青木氏とが江戸末期まで各1300年程の歴史を持つ伊賀和紙と信濃和紙で結ばれた長い期間の血縁関係、
皇族丹治氏系青木氏と入間秀郷流青木氏との血縁
以上の様に複合した血縁関係等の多くの史実があり、恐らくはこれ以上に慣習として頻繁に更に相互間で行われていた事が予想できます。
同じ村単位だけではなく、何処に血縁族が居て互いの宗家に話を通せば相互間で紹介し合える仕来りが生まれていた事を物語ります。
「第2の宗家」の秀郷流青木氏はこの管理を江戸初期頃まで一元化して管理したいた事が判ります。
氏家制度の青木村は「只一族が集まる」というだけではなく、「9つのステイタス」の家柄、身分、家紋、伝統、血筋等を護るために「血縁関係のシステム」即ち「氏家制度の根幹」を担っていたのです。
この様に同じ青木村だけではなく各地に分布する青木村から迎え入れる事も頻繁にしたのです。この様にして広い範囲から宗家、本家、分家、支流、分流、分派から迎え入れる事で血筋の弊害をなくしていたのです。
その証拠の一つに、甲斐武田氏が滅びた時、甲斐賜姓青木氏、武田氏系青木氏、諏訪族青木氏ら一族一門が藤原秀郷一門を頼って神奈川や栃木など、四国讃岐、土佐、阿波にも逃げ延びた史実が残っています。これは真に宗家本家筋のこの管理が行き届いていた事を証明するものです。
一般の「丸付き紋」は、この事から宗家、本家、分家、支流、分流、分派の5つの中で血縁性の高低で直系性が無く成る場合に多く使う事を求められました。
この6つの流れの中で女系と成り新たに氏を発祥させる事となると、ここで始めて丸付き紋の家紋が出てくる事に成ります。「丸付き紋」で違いを出し「支流性」を表現して宗家との区別をします。
始めから「丸付き紋」の氏はこの結果で生まれるのです。
「丸付き紋」の家が血縁性が低下した場合に丸付き紋に更に丸付き紋の変紋は物理的に困難ですので、「部分変紋」や「囲い込紋」や「陰紋」が一定の規則の下で使われたのです。
家紋200選から観るとむしろ本家より分家が勢力を持った結果3割もの丸付き紋が多い事になります。
2番目の嗣子と妾子扱い
これに当たる場合は嫡子が指示しない限りは「嗣子」は原則丸付き紋は使用しない事になります。
しかし、嫡子の指示が無い場合の「妾子」は原則使用することになります。ここに区別がつきます。
只、妾子が嫡子となった場合は自らが決める事になりますので問題はなくなります。
ここに、嫡子、嗣子、妾子の問題が出て類似家紋が増加する事に成ります。
氏家制度の中での妾の概念は制度を維持する為の方法に主眼が置かれていて、元来は男子子孫を遺す事に目的があり、妾子の妾の差別的な概念が強く生まれたのは長男=嫡子となった江戸期に入ってからの事です。
3番目は宗家の許可です。
氏家制度は宗家を頂点にして一門を構成しています。
当然に、勢力を持つ宗家から経済的、武力的、政治的な保護を受けて成り立っていますから、この組織からはみ出しての勢力拡大は困難です。一族の互助システムですから、家紋はそのステイタスですからその許可は宗家の許可を必要とします。宗家に睨まれると家の存続は元より家紋使用も難しい事になります。
家紋類を分析すると、現実には3割近くが丸付き紋の使用を指示された事になります。
そして、宗家本家筋より丸付き紋の分家筋の方が勢力を持った氏が3割近くもいた事を物語ります。
4番目は配流子孫の区別です。
平安初期から氏の戦いが起こり始めて負けた側が遠地に追いやられる事に成ります。
この史実として各地には配流されましたが、その史実は認められるが、戦いや勢力争いなどに敗れて島流しや逃げ延びたりしてその地で再び子孫を広げた場合などの時にその確たる証拠等がない場合のその家紋の使用は原則丸付き紋を使うことになります。
皇族、賜姓族の青木氏では5家5流以外に嵯峨期の詔により後に皇族青木氏を名乗り史実として認められる日向青木氏等の3氏の「丸に笹竜胆紋」の青木氏がいます。
源氏や青木氏外の丸に笹竜胆紋は上記した経緯から明治期か江戸期の第3氏となります。
比較的この場合の家紋が多く、源氏や藤原氏や橘氏や京平氏等の家紋にはこの「未勘氏」のものが大変多いのです。源氏等を名乗る氏の9割はこの配流子孫の類の未勘氏です。
この配流子孫の未勘氏には史実が明確な子孫と史実が発見されない子孫に分かれています。
ほとんどは言い伝えだけで史実の無い未勘氏です。
5番目は男系跡目の継承の原則です。
氏家制度ですから男子が跡を継ぐ事になります。
当然に上記した嫡子、嗣子、妾子に分けられます。
江戸の初期までは嫡子は原則正妻の長男と云う事では必ずしもありません。
一族一門を束ねるだけの器量を保持しているかどうかが問われる時代で又その制度でした。
因って、下の者に器量があれば嫡子に成る事もあります。
当然に内部で争いが起こります。それを乗り越えての試練でなくては一族一門を束ねる事は出来ないと考えられていました。必要悪の様なものでした。
中には本家からではなく分家に良い嫡子とみられる者が居れば養子に迎え入れて長に据える事も行いました。比較的分家から養子を迎える事が多かったのです。
本家に男子が生まれるとは限りません。そうなると分家から迎え入れて血筋や家紋を保つ必要が出ます。大きい氏では縁者関係まで広げて探し出して本家筋の血筋を護る事になります。
そうでない氏や分家支流筋は女子に婿養子、養子婿を迎えて嫁をとる方法が起こります。
6番目は養子縁組です。
原則丸付き紋です。
女子に婿養子をとると、男系の制度ですから一時婿養子の家紋を使います。婿養子に男子が生まれるとその男子が跡目と成れば家紋は元の家紋に戻ります。
しかし、再び女子に成れば婿養子を迎える事に成ります。この様に2代続いて女子となるとその家は女系となりますので男系の最初の婿養子先の家紋が定着してしまいます。
つまり、家紋は変化して新しい養子先系列の氏を発祥させた事に成ります。この場合は元の家紋に丸付き紋は使えなくなります。
又、多くは養子先からも本系列ではないので養子先家紋に丸付き紋とする事が多く起こりました。
この様に成らない様に宗家本家筋だけは無理でも縁者関係から婿養子を何とか探してきます。
女子もなく養子婿を迎えて家を継続する場合です。多くは分家筋の事となります。この場合は縁者から迎えない場合は血縁関係は無くなります。女子を縁者から迎えてそれに婿養子とする場合もあります。
家を継続すると云う事だけの目的で採る処置です。
従って、江戸時代では武士で家紋の持った家からの養子婿であればそれを家紋とする事に成りますが、どうせ許可は下りないので本家からの許可は多くは無視した様です。それでも摩擦を避けるために丸付き紋を使用する場合が多かった様です。
元々問題が起こらない様に丸付き紋の場合は丸の太さを変えたり中の一部を変えたりして新しいものを作りだしました。
家紋も持たない下級武士などそうでない場合が多かったので、家紋は無く新たに定める事も起こりました。しかし、大きな氏では出来ない事ですが、江戸中期以降では男系の血縁名性が途絶えても家紋掟を無視して家紋も継続してしまうと云う事が起こりました。
ほとんどの武士が家紋を持ち始めたのは江戸初期からで旗本、御家人等にブームが起こりこぞって持つ様になりました。従って、江戸初期からの発祥が殆どなので本家の許可云々の問題はあまり起こりません。ルーツを手繰れてもせいぜい普通は江戸初期までで室町期に入れる氏は少ないのです。
その点では青木氏は平安期まで遡れる氏です。
家紋8000の中では武士の場合は戦国時代を経てきたために子孫が少なくなりほとんどはこのタイプです。農民等から身を興して新たに氏を興した場合が多かったのです。
又、先祖が武士であってもそのルーツが下剋上や戦国時代で消失して判らなくなるなどして新たに氏を興したのです。この為に、未勘氏が多く成ったのです。使用した家紋のその氏に憚って丸付き紋とする事が多く起こりました。この場合は中の一部も変えると云う方法を使い争いを避けました。
七番目は嫡子尊厳です。
氏家制度の中では嫡子が絶対的権限を持っています。
嫡子に選ばれると他の嗣子妾子はその嫡子の心一つで家紋を引き継げるかどうか決まります。
家紋を引き継げると云う事は一族の中に残れるかどうかが決まる事です。
家紋を継げるという事はそれなりに財産分けがある事に成りますが、嗣子妾子はほとんどは他家に養子に出る運命です。勢力を拡大しない限りは抱え込むと氏の財政が圧迫するのです。むしろ、他家に出す事で勢力範囲が拡大する事に成るので積極的に行われたのです。
どちらかと云うと、結婚適齢期に婿養子に入ると云うよりは小さい子供のころから預けると云う習慣が多かったのです。その後に正妻や妾に嫡子が生まれたりすると、養子には家を新しく興して傍系支流を発祥させたりしました。
従って、家紋が変化することの方が氏家制度の中では正常な事であったのです。その為にも宗家本家だけは家紋や伝統を絶対的に護る必要が生まれたのです。
ただ、乱世であったことから婿養子に出て男子が多く生まれた場合で、養子先を子供に任して実家に跡目の問題など絶えたなどの事が起こると実家に戻る等の事が頻繁に起こりました。
固定された嫡子が長男と考えられるようになったのは江戸初期からで家康がその先鞭を付けたのです。
八番目は身分家柄の保全です。
氏家制度の中では「血縁はつりあい」で行われます。
その為には、家紋の判定が重要に成ります。
婿養子や養子婿では「つりあい」をある程度無視した形で行われました。
特に婿養子に男子の子供が生まれる事で解決するので家紋問題は解決します。
つり合いのとれない婚姻の場合は家紋継承が許されるかは問題で、丸付き紋を指示されたり、影紋や家紋の一部を変える変紋を要求されるか囲い紋を要求されるかは本家次第と成ります。
宗家本家筋の血縁には「吊り合い」が重視されますが、分家以下ではそのような事を云っていては跡目の継承は困難となります。養子縁組はこの様な事をある程度無視しなければ成り立ちません。
そこで、このままでは氏家制度が崩壊して行きますので、養子縁組には家紋の継承には一つのルールを設けていたのです。
以上の様な理由で一族の家紋は変化して行きます。
故に藤原秀郷流青木氏では116氏に成り、皇族賜姓青木氏(皇族青木氏含む)では24氏(29氏)に成っています。
この様に長い間に一族の家紋は元の総紋を宗家本家がどんな事が起こっても引き継ぐ苦労が伴いますが、上記の理由で分家筋では緩やかに拡がってゆきました。
その様な家紋継承にはそもそも次の様な方法があります。
A 「総紋」と云うのがあります。
これは宗家、本家が引き継ぐ一族の始めからの紋でそれが氏が拡大すると代表紋になるのですが、これが家紋掟により、分家と成った者が次第に家紋が変化して行き藤原氏で云えば361氏の家紋数に成ったと云う事です。その元の家紋が「総紋」と呼ばれるものです。藤原秀郷一門で云えば、「下がり藤紋」と云う事になるのです。この「総紋」と「藤原氏」の氏名を継承している事は361氏中限られた数の24氏と成る筈です。中でも「氏名」に付いては藤原氏にはある掟があり「藤原氏」そのものを名乗れる氏は武蔵入間の「総宗本家筋」だけと成ります。つまり、「氏名」も「総称」なのです。それを名乗ると成ると、"藤原朝臣青木左衛門上尉・・・・"と成ります。
この「総紋」を継承するには男系跡目を必ず果たさなくてはなりません。その為に宗家本家筋では妾子の方法も必然的に必要であり、それだけでも宗家本家筋に男子が生まれなかった場合には一族一門より男子を養子婿に迎えて嫁取りをします。女子がいれば婚姻し婿養子としますが、居なければ縁者から養女を迎えて婿養子をとる等して縁者による男系跡目の方策を構じて何等かな方法で宗家本家を維持し、家紋の一族紋の「総紋」の伝統を維持します。ここが宗家本家筋の大変なところなのです。当然に総宗本家を持つような大きい氏では確実に維持できる何等かな方法を構築しているのですが。
本家と分家の違いを出す方法
B 「副紋方式」(主紋に他の血縁族の家紋も併用して使用する)があります。
本家筋では養子を迎える努力はするが、どうしても叶わない場合は「総紋」にその迎えた養子先の家紋を併用する方法、或いは「総紋」の中にその養子先の家紋かその一部を組み入れて一つの家紋を作り上げます。藤原秀郷流青木氏の本家筋では「下がり藤紋」にこの2つの方式の何れかを採用しています。
宗家本家筋は依然として「下がり藤紋」です。
領国の宗家筋は総紋を維持する環境が周囲に整っていますので、総紋方式で継承して行けますが、地方に定住した本家筋には総紋維持は困難ですので副紋方式を用いたのです。
本家筋に近い分家筋ではここまで縛られませんが、丸付き紋を使わない下がり藤紋に藤の花数を変えるなどして変紋します。この意味から良く見られる現象ですが傍系支流が総紋の下がり藤紋である筈がなく、血縁性から副紋でもなく丸付き紋でもなく別紋である筈です。
藤原秀郷一門で「下がり藤紋」を家紋としているのは青木氏を含む主要7氏だけで、藤原氏だけでも系列から見て9氏しか使用できない筈です。主要7氏の宗家本家筋は結局、養子縁組が起これば副紋を使用する事に成ります。
361氏を監視しこの「氏の管理」をしていたのが「第2の宗家」と呼ばれた武力を持ち内外に睨みを利かしていた一門一族の大護衛団の青木氏なのです。
C 「丸付き紋方式」
明らかに分家となるとその氏が定めた家紋掟により養子先の家紋に変化して行きます。
丸付き紋を使用する氏は宗家本家に伺いを立てて丸を付けますが、許可が得られない場合は養子先の家紋と成ります。嗣子となった妾子の場合はこの対象に成ります。妾子は多くは他家に養子と成ります。この妾子が養子に入った先で男系に恵まれなかった場合は実家に家紋の使用の伺いをたてますが、妾子である事を理由で許可が得られない多くの場合は丸付き紋の使用と成ります。
基本的には丸付き紋は分家紋ですが、一部に女系に成ってでも分家と見なして使用している氏があります。
この様に分家の広義のとらえ方がひろまり分家の一種の分流や分派は丸付き紋と成ります。
血縁性の乏しい支流に広義に丸付き紋を使っている場合が多いですのでが、元来は別紋である筈です。
あくまでも丸付き紋は原則として同紋に分家筋以下を区別させる為に用います。
この他に次のような場合があります。
有名家紋の様な他氏の家紋を無断拝借する場合に多少なりとも遠慮して丸付き紋を用いました。
この現象は室町末期、江戸初期、明治初期に起った。
本流ではないが血縁性の低い支流であるがどうしても本流の家紋を使用したいとして丸付き紋を無断使用する事が室町末期に起こりました。
更には進んで直接血縁がなく自分の親族がその縁者である場合に丸付き紋を用いました。
縁者の縁者の場合であるので無断使用が多かったのです。
この様に、室町末期に一族の味方を誇示する事から、又その一族の背景がある事をにおわせて身を護ったことから丸付き紋が使用されました。
D 「影紋方式」
本家に遠慮して家紋の明暗を逆にして用いる。
丸付き紋を使用せずに家紋の明暗を逆転させて血縁性のある支流を誇示させる方式である。
室町末期に多く用いられました。
E 「変紋方式」
文様の一部を局部的に変更して用いる方式である。
軸、葉、花、花弁等の形や数を変更して用いる。
宗家から同紋の使用が許されないので、一見同紋の様に見えるがよく見ると一部が異にしている文様に変更して一族性を表現した。特に、妾子の場合にこの方式を多く採用した。
一般の家紋はこの方式から広まった。この方式からは血縁性が薄れる方式である。
室町末期、江戸初期、明治初期に広がりました。
特に江戸初期に御家人や旗本に多用されました。
F 「囲い紋方式」
角舛や糸輪で囲って用いる方式である。
糸輪は丸付き紋に似せて用いたもので変紋方式の一種である。
江戸中期以降に用いられたもので土豪集団、職人集団、氏子集団、檀家集団等の集団紋に多く用いられました。明治期には氏子の庶民はこの神紋や寺紋を使いましたので爆発的に増えたのです。
元の文様は神紋や寺紋から発展し小集団同士が結束して自主防衛の連合体を作りその集団紋としたものに多く観られます。
文様として囲う事で集団性を表現したものです。それを家紋としたものです。
この様な氏家制度を保つための社会慣習があり、家紋はその過程で変化して行くのです。
従って、各氏の家紋がこの上記する方式の何処に属するかにより氏家制度の中で大方の先祖の氏の位置するところが判るのです。
丸付き紋の青木氏
以下39の青木氏に関わる丸付き紋
・丸に州浜、丸に三つ盛州浜、・丸に抱き角、・丸に違い鷹の羽、・丸に蔦、丸に陰蔦、・丸に木瓜、丸に横木瓜、・丸に片喰、・丸に剣片喰、・丸に三つ柏、丸に蔓柏、・丸に梅鉢、・丸に揚羽蝶、・丸に九曜、・丸に三つ星、・丸に一つ引き、・丸に二つ引き、・丸に三つ引き、五瓜に丸に三つ引き、・丸に桔梗、・丸に三階菱、丸に三つ目菱、・丸に剣花菱、・丸に花菱、・丸に抱き茗荷、・丸に三階松、・丸に根笹、・丸に違い矢、丸に八矢車、・丸に隅立四つ目、丸に三つ目、・丸に扇、丸に違い扇、・丸に日の丸扇、・丸に並び扇、・丸に立ち沢潟、丸に三つ鱗、丸に青の角字
・印は「家紋200選」に撰ばれている丸付き紋の家紋です。
つまり、この青木氏の丸付き紋の氏は大豪族の氏です。
丸付き紋中の大豪族28紋/39紋で72%も占めています。
青木氏全体361氏の家紋からすると、家紋200選の丸付き紋28紋は7.8%を占めています。
全体の39紋では11%となります。
家紋200選全体から観ると28/200で14%です。
青木氏は丸付き紋の分家筋でも家柄、身分に釣り合いを合わせて血縁している事が云えます。
この分家を分家、分流、分派、その他で分析すると、次ぎの様に成ります。
分家 21家 79.5%
分流 12家 30.7%
分派 5家 12.8%
其他 1家 2.5%
殆ど、直系の分家で血縁(79)しています。
それも大豪族との血縁(72)です。
この丸付き紋の氏は次ぎの様な血縁で成り立っている事が云えます。
1 男系跡目が2代続きで叶わず変紋した氏。
2 直系の分家筋で丸付き紋に変紋した氏。
3 同族血縁した氏。
先ずは分家筋の氏に1の事が起こり他氏から養子縁組で変紋して家紋が増えて行くのですが、以上の内容データから観ると1-2にて氏が拡大して家紋が増え、そこで3-2-1の順に氏が構成されている事に成ります。
これほどの「家紋200選」にある丸付き紋の氏28氏もある事は1と2で起こった事とは、氏家制度の中での慣習からは、血縁関係は出来難いと考えられます。
大豪族を幾つも一門に持つ藤原秀郷一門の氏には血縁に関してはそれなりの明確な戦略があったのです。
イ 24の赴任地には土地の豪族との血縁族を拡げて勢力基盤を固めている事、
ロ 氏家制度の本筋でもある「血縁にはある一定の釣り合い」を求めている事、
ハ 氏が大きく成る弊害を克服する為に各地の同族間の純潔血縁を求めている事、
この「3つの戦略」を遂行すると一つの血縁上の問題(良い子孫が生まれない事)が生まれる為に、各地で他氏との血縁で一門で無い血液濃度の平均化を図る必要から、3を実行する事で「3つの戦略」は可能と成ります。故に、普通ではあり得ない上記の79%であり、72%等のデータが出て来るのです。
つまり、家紋から観ると、1-2-3-3-2-1-3を繰り返す事による家紋データなのです。
この中で、この上記する「家紋掟」は(1-2-3-3-2-1-3)の循環が働いているのです。
この家紋は次の事に大きく関わっているのです。
X 氏家制度の社会慣習
Y 家紋の掟
Z 宗派の慣習
1、2、3のサイクルは、上記X、Y、Zに大きく影響を受けて定まって行くもので、これを考慮しないでは判断できない仕組みの掟なのです。
家紋は9つのステイタスを背景として初期には用いられ、次第に氏の判別としての目的が強く成りましたが、それでも忘れては成らない事として「家紋」と同様に「宗派」も一種のステイタスであったのです。
家紋ステイタスと連動してそのステイタスとみられていた宗派は「古代密教」を掲げる3つの宗派でした。
天台宗密教、
浄土宗密教、
真言宗密教
以上です。
この3つは其々又違う階級の氏を宗徒としていました。
青木氏に関しては浄土宗古代密教を慣習として引き継いでいました。
あくまで密教でありますので、密教でない宗派との運営上のシステムが異なります。
氏が自ら寺を建立して自らの氏の者の住職を立て自らで運営し自らの氏だけを祭祀する排他的運営方式ですので、宗派の発展は特定地域に限定する事に成ります。この「菩提寺方式」がこれがステイタスの象徴と成っていたのです。その菩提寺に「寺紋」として「家紋」を使う事に成ります。
藤原秀郷一門はこの浄土宗古代密教ですが、24地方に赴任していますので、限定されたところにしか無い寺と成りますと、一時的に浄土真宗に仮入信すると云う事が起こりました。
赴任地に定住し勢力を拡大させた者は多くは同様に菩提寺を建立しましたが、一時的な事が本宗と成ってしまった氏も一部に確認できます。
この様に「家紋と宗派」は、その氏のステイタスであったのですから、簡単に「家紋も宗派」も氏家制度の中では変える事はあり得なかったのです。
それは氏家制度の中でそれまでの氏の「先祖の伝統」が切れてしまう事を意味しているのです。
自らの「伝統」を切る事は氏家制度の中では氏への冒涜の何物でもありません。
これは一人の判断で出来る事ではありません。
「家紋と宗派」は連動しての「氏の伝統の象徴」であったわけですから個人の判断では困難です。
因みに甲斐青木氏において武田氏が潰れる3年前に改紋と改宗した人物がいて大問題と成り親子、親族間の争いに発展したのです。結局は2人の子供が浄土宗の菩提寺を建立して家紋を戻す元に戻すという大事件が起こりました。
この様に「家紋と宗派」は氏家制度の中では連動して動いていたのです。
ここでは複雑に成る為に宗派の慣習を論じない事として別に機会があればその掟や社会慣習に付いて研究論文を記載する事にします。
青木氏に関しては室町末期から江戸初期前後に発祥した氏の家紋の丸付き紋と観られ、恐らくは上記した掟から丸付き紋と成るには50年から100年程度の期間が必要と成ると考えられます。
依って、江戸初期から江戸中期前までに分家化したものと考えられます。
江戸中期以降は政治的に安定期に入り家紋も当然に安定化に入り新たな氏の発祥は青木氏に関わるものとしては考え難いのです。
(幕末から明治初期に調査編纂された資料による為に家紋掟による以後の家紋の変化は未確認)
江戸末期には家紋掟の順守が低下した事から丸付き紋にする氏がどれだけ居たかは疑問であります。
多くは藤原秀郷流青木氏の末裔が室町末期から江戸初期にかけて家紋掟により新しく発祥させた氏の
丸付き紋と観られます。
(注釈)
「家紋」によるルーツの解明も然ることながら「戸籍」による解明も可能ですが、戸籍はそのルーツを紐解く要素が必要です。それが「氏名の継承」でありますが、戸籍の歴史は最も古いもので天智天皇の大化の改新時の一つとして「戸籍簿」又は「人別帳」成るものが作られたのが最初で日本書紀にも記載されています。この時の戸籍簿たるものは税の「租庸調」の課税対象者を設定する為のもので、その税の最低年齢が男6歳とした為に民衆の不満が爆発したと記録にあり、むしろ戸籍と云うよりは「人別帳」の色合いが強かったのです。
然し、これも平安期の荘園制度が確立する事に成り荘園内の事はその持ち主のものとして扱われた事により次第に公的なのものは消滅して、矢張りその一時的な「人別帳」的なものが使われた様です。しかし、荘園の民はその「氏名の継承」は有りませんので、次第にルーツの概念が薄くなり無くなり江戸末期までこの状態が続きました。あるとすれば村の庄屋が取り扱う「人別帳」程度であり、「武家」を構成し支配階級の中級以上の「武士」の身分と権威の保全目的から、その氏の「氏寺」、即ち菩提寺が「過去帳」として「戸籍簿」を管理する習慣に成って行ったのです。
これに対して、室町初期から中期には「下克上」が起こり、この支配階級の社会制度を崩壊させて、力のあるものはこの中級以下の武士が取って代わろうとしました。そのために多くの元の支配階級のこの様な権威を示す物件の焼き討ちや取り壊しをしたのです。その結果、権威を代表するステイタスの氏寺を含む等のものが消失してしまいました。又江戸時代から明治の初期まで250年以上続き多発した「民衆の一揆」もこれらの武家武士ではなく下級武士を含む民衆の権威への抵抗が起こり、この2度による「事件」と「反動」で戸籍や人別帳によるルーツの解明は困難と成ってしまっているのです。
それに耐えた特定の「地域」や「氏」の権威物件だけが遺される結果と成ったのです。
その意味で皇族賜姓族5家5流青木氏や藤原秀郷流青木氏等は「不入不倫の権」とその勢力に護られてある程度その難を逃れました。
(むしろ「民衆の一揆」の経済的支援はこれらの難を逃れた氏がシンジケートを使って裏から行っていた)
この様な歴史的経緯から、その意味で「氏名」を持つ事を命じた苗字令3年や督促令8年の明治維新体制が確立するまでの間は、「戸籍簿」に代わるものとして「過去帳」や「氏寺菩提寺」等の存在はルーツ解明には重要な要素に成るのです。
そして、この「氏名」等の歴史的経緯と「家紋」とその習慣は無関係ではなく連動しているのです。
(これ等に関する詳細は研究室関連レポートに記載しています
名前 名字 苗字 由来 ルーツ 家系 家紋 歴史ブログ⇒
青木氏の家紋に関して大変ご質問が多いので一つにまとめました。
そもそもは家紋の使用は平安末期から使用される様に成りましたが、その家紋化した目的は「氏家制度を規則正しく保つ目的の根幹手段」として室町時代の中期から明治の初期頃まで使用される様に成ったものなのです。
家紋は当初から家紋として存在していた習慣ではなく、本来は最初は奈良時代初期に皇族が自らの「ステイタス」(印章)として使用していたものでした。その最初は何んと青木氏に関わる事から始まったのです。
家紋というものを理解する上で家紋の経緯としてそれを少し詳しく述べておきます。
蘇我入鹿を倒した中大兄皇子の時代に遡ります。それまでは「文様」は儀式的な意味合いが強く天皇家と朝廷の「儀式の権威」として位置づけられていました。その儀式を司る天皇に対する「間接的権威」として扱われていたのです。ところが、この事件と成った原因から天皇家の「体制固め」(大化の改新)が始まりました。
先ずその一つは「経済的な原因」でした。つまり、それは無秩序に近い状態で存在する「皇子の数」でした。それまでは「数を固める事」で「天皇家の権威」を作り上げていたのですが、そこを入鹿に狙われたのです。先ず、蘇我氏に内蔵の経費に依る経済的な弱体化を狙われたのです。
軍事的には渡来人の漢氏(あやし)又は東漢氏(やまとあやし)等の軍事集団を蘇我氏に抱え込まれ裸同然の無力化に干されました。政治的には斎蔵の祭祀による権威のみの立場に追いやられると云う事態に成っていたのです。
つまり、天皇家の財政を司る「内蔵」、朝廷の財政を司る「大蔵」、朝廷の祭祀を司る「斎蔵」の政治機構三権と軍事権を蘇我氏に奪われていた事に成ります。
この経済的に問題に付いて、4世族までの皇子皇女の数が大変多く34人にも成っていました。第6世皇子皇女までいれると50人以上と成っていたのです。(7世族以降は坂東に配置されていました。)
そこで「大化改新」と云う「大政治改革」を断行しました。
その目的の一つとして皇族に掛る内蔵の経費を少なくする為に第4世までを皇子王とし第6世以降は臣下させる事を実行しました。
その第4世皇子までに順位を付け第4位皇子までに「皇位継承権」を与え、「第6位皇子」(1)を臣下させる仕組みとして改革をしました。
この結果、これらの下俗臣下した皇子の身分を保障するために、この「世族の仕組み」は「身分制度の確立」に発展し先ず「8つの家柄階級」(八色の姓の制)を定めました。
そして、この時、問題の皇子族は「真人族」(まさと)「朝臣族」(あそん)(2)と特別に「宿禰族」(すくね)を加えて3つの身分に分けました。
これら「八色の姓」に合わせて、別にその功労能力に応じて画期的な「官位階級制度」が定められたのです。これは現在でも観られない徹底した「実力主義」でした。
例えば、皇太子であろうと、他の下位の皇子が優れていれば皇太子よりも遥か上の官位を授かると云うものでした。現在でもあり得ない実力主義でした。
つまり、「家柄制度」と「身分制度」が定めた事に成ります。
そして、この2つの制度に伴い「職務制度」も定めたのです。
この「職務制度」でも下位の皇子でも能力が高い場合は重要な守護王に任じられると云う事が起こりました。
朝臣族4世皇子族までには6段階の位に準じて重要な順に天領地の守護王職を命じたのです。
そして、その皇子には順位を付けて6位皇子からは臣下する事としたのです。
この「3つの制度」によって先ず最も昇格したのは第6位皇子の伊勢王の施基皇子でした。
日本書紀に記述されています。(「日本書紀と青木氏」のレポート参照)
この時に最初に中大兄皇子から直接与えられたのが第6位皇子の施基皇子の伊勢の「青木氏」(3)と特別に第7位皇子の川島皇子の近江の佐々木の地名から「佐々木氏」の氏を与えたのです。
この制度に則って実力のある皇子には氏を与えると云う「賜姓の仕組み」が出来上がりました。
この「皇族の改革」を始めとして、「八色の姓」に準じた他の臣下の特別な豪族の身分改革も起こりました。政治機構は一段引き締まる体制が出来上がりつつありました。
そこで、先ず、皇子族の「身分制度」を明確にする為に、更にそのステイタスの表現の一つとして「独自の印章」(「印章制度」)を用いて明確にする様に改革しました。
5つの制度改革
「家柄制度」
「身分制度」
「職務制度」
「賜姓制度」
「印章制度」
天智天皇はこの2人の皇子にはそのステイタス(印章)として「竜胆の花」とその「葉の形」を文様として「笹竜胆紋」(4)を使用する様に命じ他の氏には使用を禁じ区別させました。
こつ「実力主義」に基づく「5つの制度」に裏打ちされた「笹竜胆の印章」が後に各氏の「家紋」への展開の始まりと成ったのです。その代表者が始祖の施基皇子の青木氏であったのです。
施基皇子は第6位皇子でありながら皇太子よりも3階級も上の官位(浄大1位 天皇に継ぐ官位)を獲得したのです。異例中の異例です。
更には、この施基皇子は天武天皇の葬儀を皇太子に代わり取り仕切ると云う前代未聞の事も起こったのです。そして、日本の律令の根本と成る「善事撰集」司を任じられると云う名誉の編纂者に任じられたのです。
天智天皇が天皇家の守護神として伊勢神宮を指定し後に天武天皇が正式に定めましたが、天皇家にとって最も大事な祭祀の地のここの伊勢の国の守護王に任じた事からもその仕事ぶりが判ります。
そして官吏として彼の有名な三宅連岩床を伊勢国の国司として送っているのです。
恐らくは、研究中ですが、この事実の実力から観てこの「4つの制度」の制定も施基皇子が指揮したと観ています。
家柄、身分、職務、賜姓の制度に裏打ちされたこの「印章制度」を更に確実な権威付けなものとして次の事も実行しているのです。
これらの制度は完璧と云わざるを得ない程に理路整然として作り上げられているのです。
この時、その皇族賜姓族の「青木氏」にはその姓の源と成った「一族の神木」(5)として「青木の木」を指定しました。当時は青木は榊と同じく朝廷祭祀の神木として扱われていたのです。
そして、その「守り本尊」として日本最初の仏師の「鞍作部止利」作の北魏方式の仏像の「大日輪座像」(6)を与えました。「神木」を指定し「守り本尊」を与えると云う事は大和朝廷の始めての事でした。
次にそれまでは天皇一族自らを護る親衛隊が無く、「蘇我氏の増長」を招いたとして大化改新の一つとしてその「護衛隊の任務」(7)を与え、何んと細部には宮中の「3つの衛門」の護りの実務をも与え、これに官職名として左右の衛門に位を与え、「左衛門上尉」や「左衛門上佐」などの「尉佐と上下」の「4階級の職務」(8)まで設定し与えたました。
更に天皇家の守護神として伊勢神宮を指定しここを守護する王の「守護王」(9)の最大任務を与えると云う徹底した改革でした。
因みに、江戸時代には御家人や旗本等の中級武士以上が金品を渡して朝廷より一代限りの官位をうけましたが、例えば彼の江戸南町奉行の遠山の金さんは遠山左衛門上尉景元と名乗っていた様に。この元は皇族賜姓族の青木氏と藤原秀郷流青木氏に与えられる永代官位だったのです。
その後、上記「5つの制度」と共に施基皇子で始まった「9つのステイタス」に裏打ちされたこの権威のある第6位皇子に5代の天皇が5つの主要天領地の守護王を命じたのです。
天智天皇
天武天皇
文武天皇
聖武天皇
光仁天皇
第4世皇子までが守護王に任じられたのは下記の当時の天領地の王に及びました。
嵯峨天皇から賜姓源氏に変名されて11代続きましたが、下記の守護王や国司に任じられたのです。
天領地の守護王
伊勢王、近江王、美濃王、三野王(信濃王)、甲斐王、山部王、石川王、高坂王、雅狭王、栗隅王、武家王、広瀬王、竹田王、桑田王、春日王、難波王、宮処王、泊瀬王、弥努王
以上19王/66国
この中で伊勢王、近江王、美濃王、信濃王、甲斐王には第6位皇子が任じられ上位王として5家5流の青木氏が発祥しました。この5つの国に青木氏の子孫を遺しました。
他の14王ではステイタスが授与されましたが、氏を遺したとされる王と遺し得なかった王とがあります。賜姓源氏は滅亡しましたが、未勘氏として子孫を遺しているとされていますが、史実は結果として多くは賜姓佐々木氏がこの「印章権威」に保護されてこの地の多くに子孫を遺しています。
以下の9つのステイタスは皇族賜姓青木氏5代と皇族賜姓源氏11代と皇族賜姓佐々木氏2代に続けられました。
(1) 「第6位皇子」 (1)
(2) 「朝臣族」 (2)
(3) 「青木氏」 (3)
(4) 「笹竜胆」印章 (4)
(5) 「一族の神木」 (5)
(6) 「守り本尊」「大日輪座像」 (6)
(7) 「護衛隊の任務」 (7)
(8) 「左衛門上尉」や「左衛門上佐」などの官職 (8)
(9) 「守護王」 (9)
この9つのステイタスが5代天皇に引き継がれて「光仁天皇」まで続きましたが、「桓武天皇」と「平城天皇」は律令国家完成を目指して青木氏らの「皇親政治の勢力」を排除しました。
これに反発した「桓武天皇」の第2位皇子の「嵯峨天皇」が元に戻し、これに手を加えて「嵯峨期の詔」を発し、青木氏には皇族の者が下俗する際に称する氏名として使用を禁止しました。明治3年まで3つの混乱期を除き原則守られました。
このわずか後に、「平将門の乱」を平定した功労で「藤原秀郷」は貴族に任じられて為に、秀郷護衛団として第3子の「千国」を侍にしてこの詔に基づき(2)の身分を授かり、(3)の呼称を許され、(1)同等の身分を持つ青木氏として呼称する事を申請して、朝廷より母方を同じとする事を理由に、特別認可され発祥させました。
そして、代々青木氏と同等の天皇家の近衛軍の(7)(8)の官職を与えられ、(9)として伊勢、近江、美濃、信濃、甲斐の守護王の補佐官吏として国司に任じられました。
(4)では秀郷は下賜「下がり藤紋」の印章を維持しました。他の藤原氏四家は「下がり」を忌み嫌い上り藤紋に変紋しましたが秀郷は下賜家紋を固持したのです。
(5)は藤、(6)は春日大社として9つのステイタスを代々保持したのです。
以上の様に藤原秀郷流青木氏は皇族賜姓青木氏と全て同等の扱いを受けていたのです。
この様に家紋「下がり藤紋」には皇族賜姓青木氏の「笹竜胆紋」と同等の身分家柄扱いを朝廷から受けていたのです。家紋はこの様に「9つのステイタス」を背景にその全体的な「象徴」として観られていたのです。
この「9つのステイタス方式」を継承して、その第6位皇子には賜姓青木氏から家紋はそのままに源氏の賜姓に変更しました。賜姓源氏は正式には花山天皇までの11代の天皇に継承されました。合わせて16代続いた事に成ります。
この同等扱いを理由に源氏とも繋がりを持つとして、後に藤原秀郷流青木氏は源氏でもあるとする説が生まれたのです。
この様な「4つの制度」(身分階級制度等)の政治システムが次第に確立してゆく中で、その「立場を表す「印」が必要に成り、そのステイタスとして平安初期には真人族の貴族や朝臣族や他の藤原氏の血筋を引く公家や八色の姓族などにも使用される様になったのです。
この「印章」となる紋だけではなく同時に「他の8つのステイタス」がその身分に合して制度として引き継がれる様になりました。
この家紋化へと進んだ時期は渡来人の帰化人が国に同化し「渡来人」と云う言葉が使われなくなった時期で、律令政治が確立した頃の桓武天皇の時期からそのステイタスを表す諸道具や牛車などに盛んに「権威ある印章」が用いられました。記録によると牛車等に付けられた「印章」でその位身分の差異で道を譲れ譲らないなどの争いが起こるなど一種のブームと成りました。
平安初期の最初は皇子族、貴族侍、公家侍等の40程度の氏を構成する者が使用を許される様に成り、平安中期には80程度の氏、平安末期には200程度に拡がり始めて、鎌倉時代には幕府の推薦で朝廷が授与するシステムが出来上がり、ステイタスからはっきりと家紋化として侍にも身分の区別化として用いられる様に成って拡がりました。
鎌倉期には朝廷からこの「9つのステイタス」を授受される事が上級侍としての誉れとされました。
しかし、鎌倉時代の移行期を経て、更に室町初期には幕府体制の下で家紋の元に成った「印章」だけは武士を中心に上級武士の間で自らが定める完全な家紋となり800程度、戦国時代には1200程度と一時急激に増え、末期には淘汰されて平安初期程度に戻ってしまったのです。
この一連の「9つのステイタス」は、当初は「印章」から「家紋」に、「誉れ」から「判別」に変化して行きました。
この様に家紋を始めとして(4)(5)(6)だけは個別に成り、遂には(7)(8)(9)は実態とは別に名前だけを幕府の推薦と朝廷の授受するものと変わりました。
(1)(2)(3)は朝廷内部のものとして「禁令の詔」を発して明治3年まで原則護られました。
(2)だけは(1)と(3)の家柄を持つ氏に与える事として定められました。これは結局は鎌倉、室町幕府を開いた征夷大将軍にのみ与えるものとして遺されたのです。
因みに徳川幕府は(1)(3)の朝臣族の家柄になく南北朝の天皇家の乱れた系譜を搾取偏纂して朝廷の抵抗を撥ね退けて強引に取得すると云う有名な事件が起こりました。すでに南北朝時代はこの制度は無くなっていました。徳川氏はそこを突いたのです。
安定した桃山時代には遂には秀吉が天皇家の五三の桐紋等を勝手気ままに与えるなどして再び増え江戸初期には家紋奨励するほどに中級以上の「武士階級」は全て持つように成りました。
江戸中期からは朝廷は(7)(8)(9)を乱発して経済的な収入源とした為に中級武士以上は全て持つ様に成りました。結果的に(4)は室町末期からは自由と成ったのです。
江戸末期から明治初期の戸籍化に因って裕福な一般庶民も使用する様になり、何時しか全ての氏が使用し日本全国には8000もの家紋が存在する様に成りました。
この様な経緯を持つ家紋は初期には特定の氏だけに認められて使用を禁じられていましたが、禁令の順守が緩やかに成り鎌倉末期には慣習化されて次の様なルールに基づき使用される様に成りました。
江戸時代初期には幕府により概要が明文化されて各大名が更に慣例に基づき自らの氏の「家紋掟」を定めて氏家制度を保持しました。
この様に、完全な画一的な掟ではなく、統一する事は各氏の事情により異成る為に、大筋を社会慣習にて定めたものです。例えば奈良時代から存在する一連のステイタスを保持する藤原氏の様に元来丸付き紋は使用せず、大一族一門を見分ける為に丸付き紋では困難であり、分家を始めとする分流分派を見分ける為にも「副紋方式」の様な独特な詳細な掟を定めました。
因って、皇子族、貴族侍、公家侍、大古豪族の家紋は当時の社会慣習により、血縁関係も身分釣り合いと純潔習慣があり、丸付き紋は原則使用していません。
依って、(1)(2)(3)、(4)(5)(6)、(7)(8)(9)のステイタスが3つに分離が起こり、その結果、武士階級によって家紋が左右される様な時期からは「丸付き紋」が始まり、氏が拡大して行く室町期頃からの必然的な使用と成りました。
本来、この家紋の丸付き紋の目的は、青木サイトとして「家紋掟の古原本」より筆者なりにまとめますと、「氏家制度」の武家社会の「家紋掟」により細かく分けるとすると、7-8つ程度の役目があります。
以上の経緯を考慮に入れ次ぎの各要素を組み入れて家紋を分析する事で、ご先祖のルーツ解明の一つの手段に成りご先祖の氏での位置付けが見えてきます。
皇族賜姓青木氏29氏は特別な史実に基づく未勘氏を除くと原則丸付き紋は使用していません。
ただ、笹竜胆紋は、当初は「部分変紋」を使用していたと観られていますが、「賜姓青木氏の笹竜胆紋」と「賜姓源氏の笹竜胆紋」と「賜姓佐々木氏の笹竜胆紋」は竜胆の花と5枚葉との間の軸の部分を変化させて判別させていたと観られます。
調査すると、賜姓青木氏の場合は軸状、賜姓佐々木氏の場合は円点状、賜姓源氏の場合は菱状であったと観られ判別されていた模様で何時しか軸状と同じに成っています。
この原因は奈良時代から平安時代の皇族の「純潔慣習」が保たれて「同族血縁」を繰り返した結果から「部分変紋」を維持する事が難しく成ったと考えられます。
この「同族血縁」が制度的に続けられていた最後の時期は、伊勢青木氏の血縁を観ると清和源氏宗家源頼光系頼政の仲綱の子との養子血縁をしている事から、1180年頃から1185年までと観られます。平安末期です。
その理由は最大勢力を誇った清和源氏は1195年で滅亡しました。後は同紋5家5流青木氏か近江佐々木氏との同族血縁しか無く成っていました。その後には美濃、信濃青木氏との血縁が観られます。依って、「部分変紋」が無くなったと考えられます。
同じく藤原秀郷流青木氏も原則は使用していませんが、116氏の内30紋が丸付き紋と成っています。依ってこの30紋は江戸初期前後に発祥した氏が多いのです。
青木氏に関しては、あくまでも丸付き紋単独で存在する家紋はなく全て分家である事が裏付けられます。つまり、単独であっても分家が生き残ったと観られる氏であります。
室町末期、江戸初期、明治初期に発祥した青木氏には全てと云ってよい程に「丸付き紋」が目立ちます。
これは、室町末期は下剋上と戦国時代を経て立身出世した者が没落した氏の家紋などを使用する、又は似せて使用した事から家紋掟に憚って「丸付き紋」を使用したことが原因と成っています。
「下剋上」で元の主君の家紋を何等かな方法で使った事が大きく原因しています。
江戸初期は武士に成った者や家紋の持たない下級武士であった者が左程に氏を構成するほどに大きくなくてもこぞって持つ様になりました。この時、土地柄や周囲の盟主豪族の家紋に似せて「丸付き紋」と「一部変紋」や「糸輪紋」や「囲い込み紋」の方式で変化を付けて家紋を作りました。
この時期は武士の間では急激に家紋が増えた時期です。家紋としての役割がそれほど無い家でも”家紋が無い家は武家ではない”とも観られた時期でもありました。
(参考 当初「武家」とは「公家」に対して「氏」を構成する「侍集団」として主に天皇を護衛する武力集団として呼ばれたもので、室町末期ころから一般の「武士」までを呼ぶ言葉と成った。大化期に伊勢青木氏から最初に発祥したもので、それまでは「部」を構成する武力の職業集団であった。)
氏家制度に沿って一族一門が結束する為のステイタスとしての役割では無く、氏が乱世で個別離散して持った為に一族間でありながらも家紋の違いが起こる等の問題が起こりました。
この時期、この様な家紋やルーツを手繰る専門の職業が生まれて、力のある者は良く似た家紋を作ってもらう等のブームが起こりました。
明治初期は氏家制度や身分制度の崩壊で政治新体制下で「契約社会」となりました。この為全ての国民が姓を持つ事を義務付けられて明治3年に「苗字令」8年に「督促令」が公布されました。
なかなかその習慣に馴染めない民衆は一度にある日村全員が村の周囲の盟主の氏を名乗るなどして苗字を持ち、苗字に合わせて家紋も同じ要領で持つ等の事が起こりました。
苗字でも民衆は8年も掛りましたから、家紋に至っては文様を考案する等は程遠く類似する家紋か盟主の家紋に「丸付き紋」を付けるなどの事で対応するのが限界でした。
この時、憚って盟主の家紋に主に丸付き紋を付ける事などして家紋化が起こりました。
例えば、全国各地に多い「下がり藤紋に丸付き紋」はこの時の家紋群で、群や村の全員が藤原氏の宗家本家筋だけが名乗る「藤原氏」を名乗り、又合わせて家紋も使う等の事が起こったのです。
この様に各地では盟主の家紋に「丸付き紋」が多用されました。
家紋で代表される「源平藤橘」の「丸付き紋」はこの様な背景から生まれました。
因って、「丸付き紋」には元来、正規には分家を意味しますが、氏の発祥の時期によってはこの様な意味を持っているのです。この時期の「丸付き紋」の家紋は村の盟主の「分家」と云う意味を広義に捉えた手段に成ったのです。
中にはそれなりの理由根拠があり、盟主が「農兵」として駆り出しその功労として姓と家紋の使用を許すと云う行為を多用したのです。しかし、「農兵」にしてみれば彼らには生活の中に苗字や家紋を使うそのような慣習がなかったのですから、当時としては何の価値もありませんでした。
しかし、明治の苗字令で督促されて過去のこれを持ち出した事が起こりました。盟主にしてみれば文句の言えない事でした。
明治期には盟主は地主に成り、農民には小作人として働いてもらわなくてはなりません。むしろ、苗字と家紋は新体制維持のためには是非もない事でもあり維新政府の奨励と厳しい指導があったのです。
上記した様に「印章」から始まり「家紋」化したものには必ず其々次の特徴を持っています。
1 由来姓
2 時代性
3 地理性
4 氏名性
5 特記
以上の1から5の「其々の特徴」と「氏家制度の慣習」とを把握し勘案するとその氏の家紋の発祥内容が確定できます。
特に青木氏に関する内容については明確になります。
従って、「丸付き紋」の有無で「氏の構成具合」は評価できるのです。
普通は次の要領で判断されていました。
a 嫡子が存在する場合
本家筋の末裔と分家筋の末裔に分離する。
嫡子が同紋を引き継ぐ。
本家筋の嗣子には家紋部分変更を行う。
分家筋の嗣子には丸付き紋を付ける。
妾子には丸付き紋を付ける。
因縁性のある嗣子に丸付き紋を付ける。
b 嫡子が存在しない場合(女子がいる場合)
婿養子先家紋に変紋し、婿養子が妾子の場合は丸付き紋を付ける。(養子先本家の許可)
この場合は変紋時、正式略式の場合の使い分けを行う。
婿養子に嫡子が出来ると元の家紋に戻る。(本家の許可)
2代続きの婿養子では親の婿養子先の家紋に確定する(女系化 婿先系の新氏発祥)
確定時に丸付き紋の有無の許可を婿養子先に求める。
c 嫡子が存在しない場合(子供居ない場合)
養子婿を迎え嫁を取る場合、丸付き紋に変紋する(本家の許可)
養子婿先の家紋に丸付き紋を付ける。
d 嫡子が存在しない場合(縁者より養子の場合)
家紋は変わらない。(最も一般的で多く採用された方法)
大きな氏は原則、「丸付き紋」で対応する事に成りますが、次の要素により3つの変紋の手段が採用される場合があります。
「時代の変化」
「地理的な変化」
「氏の拡大」
「全体の氏性」
以上が原因で大きい氏は確実に把握が困難と成りました。
この自然淘汰による履歴の把握が困難に加えて、家紋経過には次の事が起こりました。
室町末期(新興勢力 氏のステイタス)
「下剋上」と「戦国時代」で混乱 奈良時代から始まった氏の構成が新興勢力に新しく変化した。
この為に氏を示す家紋も新しく発生した。
江戸初期(下級武士 氏の判別)
新興勢力の氏は自然淘汰されて、氏の安定期に入り、それまで氏を構成しなかった下級武士が改めて興し独自の氏と家紋を持った。
明治初期(庶民 家柄の誇示)
「氏家制度」の崩壊で明治維新の「契約社会」へと変化し、全ての国民が苗字を持ち氏をあらためて構成し始めた。当然に家紋も併せ持った。
以上の3乱期には第3氏が「丸付き紋」を採用しました。
この為に「丸付き紋」の採用は一族性に問題を生じて来ました。
ただ、氏家制度が無くなり身分制度の無く成った社会慣習の明治初期以降に使用された家紋が、この家紋掟を護られたかは疑問ですが、a、b、c、d、イ、ロ、ハ、ニ、等の方法の中でただ「養子縁組」になると「丸付き紋」だけを一時使用していた事は確認されています。
現在では家紋の持つ意味も核家族社会の中で無くなり殆ど護られていない事と思います。
そこで次の4つの方法が採用されて来ました。
上記abcを繰り返して行くと次の方法が採用されて来ました。
イ 部分変紋(最も多く用いられた方法)
ロ 囲い込み紋(糸輪紋含む)
ハ 陰紋
ニ 類似変紋(イの変化)
#1 嫡子の本家筋ルートは次第に分家化する。
主に家紋の「部分変更紋」で何処の本家筋かを判別する方法を採用した。
#2 嗣子の分家筋ルートは次第に分家化する。
丸付き紋が細分化すると丸は採用できなくなる為に、主に「囲い込み紋」を採用して分家筋を判別する方法を採用した。更に「部分変更」を加えて対処した。
#3 妾子の分家筋ルートは次第に支流化する。
「丸付き紋」が細分化すると重複して維持できなくなる為に、一族性を保持する為に家紋の明暗を逆転して主に「陰紋」を作りだした。
#4 #2 #3のabcが進むと次第に傍系化する。
更に血縁性が不明確に成り傍系支流化すると「類似別紋」を採用した。
「部分変紋」にはその違いの大小に依って「類似変紋」に変化する事も起こる。
大小の氏では時代性が異なるが#1から#4の経過を辿っています。
(本来は6つの掟)
1 宗家、本家、分家、支流、分流、分派の区別
2 嗣子と妾子分類
3 宗家の許可
4 配流子孫の区別
5 男系跡目の継承
6 養子縁組
7 嫡子尊厳
8 身分家柄の保全
1についての説明
先ず、宗家が家紋を決めます。そこから枝葉が拡がります。
又、それぞれの本家ができます。そして、嫡子以外は分家となります。
これを繰り返してゆきますと、1の様に呼ばれる枝葉が拡がります。
この6つに更に宗家から分派まで出来る事になります。
この大元が「総宗本家」となります。
この時、家紋の使用はそれぞれの本家筋が伝統を重んじ使用許可を出して決めます。
氏家制度の中では一族の「純血」を出来るだけ守るためにそう簡単には使用を認めません。
この許可は嫡子が行います。
嫡子は何も長男とは限りません。能力のあるものが嫡子となります。
長男が嫡子と成る事を決めたのは「江戸初期」の徳川家康が決めました。徳川家の後継ぎとして定めたものです。これに諸国の大名が習ったものです。
氏家制度の中では実力のあるものが成ります。
嫡子が出来なければ、氏の血筋目が立ちませんし、「長」がいないことにも成る訳ですから、当時の「妾」の存在の概念は罪悪感はなく子孫を残すと云う人としての大命題である為に氏家制度では普通の概念でした。
ただ、とは云え「正子」と「妾子」では身分上で原則区別されます。しかし、「正子」に「妾子」が勝れば子孫繁栄存続の目的のために「妾子」が成ることがあります。「正子」が無ければ「妾子」が「嫡子」に成ることがあります。
この為、大きい氏では妾子は次ぎの3つの身分に分けられます。
妻の身分
后:きさき (正妻)
夫人
妃:ひめ、
嬪:みめ、
采女:うねめ
正妻と次ぎの2つの妻との間には一つランクがあり、更に妥女との間にも一つランクがあります。
当然、この子供が独立するとなると、歴然としてその扱いには差異があり、家紋の継承が問題と成ります。
正妻の身分に子供が居ないとなると必然的に下に降りて行きますが、嫡子が江戸時代までは原則正妻よりランクに従い長男と成りますが誰になるかは別問題です。
これは大きい氏には正妻等の血族結婚による弊害を避ける事もあり、戦国時代で優秀な者を嫡子にしなければ氏の存続は保てない事情もあります。
本家宗家はこのシステムで血縁性と家紋継承を保つのです。
「正子」がいる場合は「采女」の身分まででは、「丸付き紋」は当然の事として「部分変紋」又は「陰紋」「類似変紋」「別紋」の順序でかなり厳しい扱いを受ける事に成ります。
この3つの身分扱いは各氏で血縁性を担保するために「掟」として定めていました。
一般的には「丸付き紋」「部分変紋」「陰紋」「類似変紋」「別紋」の順序となっています。
「陰紋」はその意味合いや目立たない事から比較的に使用を嫌われていました。
家紋は「部分変紋」の差異が小差であるから「類似変紋」へ、「類似変紋」の差異が大差であるから次第に「別紋」へと変異しているのです。
この様な「家紋掟」の中では分家以降は余程その子孫の枝葉が大きくならないと勝手に家紋を決める事はできません。
依って主要な大豪族は原則「丸付き紋」は使用しません。多くは「副紋方式」です。
分家の分家以降は主に普通は「丸付き紋」が多いのですが、これは、普通の氏で、分家である場合か、他氏の無断使用の場合かによります。
しかし、ここで「丸付き紋」に欠点があります。
分家の分家の場合は「丸付き紋」は二重の丸となり使えないことが起こるのです。そこで「丸付き紋」に「部分変紋」が起こるのです。そこで又更に分家扱いが起こると「部分変紋」にも限界が起こる為に「類似変紋」と成ります。
この「類似変紋」に来ると「変化の多様性」つまり差異が大きく取れる特長を持っているので「別紋」に至るまでには時間的な経過期間を保てるのです。この様にして一族の家紋は変化して行くのです。
血縁性の経緯を一定に保つために戸籍簿、系譜の様に氏家制度の中ではそれを宗家本家が管理している事に成ります。
しかし、この管理が江戸中期以降緩んだと云う事に成ります。宗家本家の力が落ちた事を意味し、氏家制度も低下した事に成ります。明治期に入り氏家制度が崩壊し、家紋の使用は庶民に広がったがその家紋の持つ意味合いは「9つのステイタス」からほど遠く成り、「氏の誉れ」と云う単位から「家の虚勢」へと変化していったのです。
藤原秀郷一門の家紋掟ではない「丸に下がり藤紋」は庶民のせめてもの「虚勢行為」と考えられます。
例えば、藤原氏の「下がり藤紋」や「上がり藤紋」に「丸付き紋」は、元来、家紋掟では副紋方式ですので、第3氏である事になります。この様に「源平藤橘」の紋は主に副紋方式ですが、源平橘の氏の子孫拡大はそれまでに至っていません。依ってこの3氏には「丸付き紋」の未勘氏が多いのです。
「橘紋」は藤原氏に圧迫されて子孫を多く広げる事は出来ず大衰退を余儀なくされ、この衰退を末裔は忌み嫌い、橘氏自身がこの橘の紋を使う事をやめると云う事が起こりました。依って、第3氏の丸付き紋の「橘紋」も著しく敬遠されました。丸付き紋になる程に橘紋は使用されなかった筈なのです。子孫もそれだけに広がっていないのです。
ところが、橘紋には上記の由来性、時代性、地理性や宗派性に先ず矛盾し尚且つ丸付き紋が実に多いのです。
この氏は地理性が極めて限定されいて大変氏が小さいのですが、矛盾しての名乗る氏が驚きを超える程に多いのです。
平家の「揚羽蝶紋」は滅亡して関西以西に逃亡して農民として隠れ忍びましたので、この家紋を公に使う事が憚られ室町期に入ると表に出てくる事が再び起こりました。この為に史実から末裔の素性が明確になりません。各地で農民として生きていた為に「丸付き紋の揚羽蝶」が出来る程に管理されていなかった筈なのです。「揚羽蝶紋」に対して実は平家の分家には「臥羽蝶紋」もあるのです。平家には「丸付き紋」は元来なくこの様な家紋掟により分家筋は実は「臥羽蝶紋」が使用されていたのです。丸付き紋の史実がとれない平家の未勘氏も子孫の数より数倍も多い氏が驚くほどにあります。
源氏の11家11流がありましたが、清和源氏、村上源氏、宇多源氏、嵯峨源氏の末裔が何とか政争の中でも生き残りましたが、中でも引き継いだ鎌倉時代の清和源氏の頼朝の末裔が滅亡して史実は子孫を遺せなかったのです。
何とか「不入不倫の権」で守られていた賜姓青木氏の5家5流と近江の佐々木氏、宇多天皇の滋賀佐々木氏がこの笹竜胆紋を維持して来ています。
清和源氏の未勘氏が膨大と云う言葉で表現出来る程に多いのです。何んと家紋から観ると1165氏も名乗りを揚げているのです。1/100も無い筈です。未勘氏を入れると2000前後にも成ります。
普通でも身分家柄上同族血縁を原則としている為に、これほど清和源氏が子孫を遺す事そのものが難しいのに源氏だと名乗っている氏があるのです。
そうだとしたら、源氏の末裔を尽く潰した鎌倉幕府の北条氏らは放って置く事はありません。
鎌倉幕府の後の政権を取った足利氏も家紋の違う傍系支流ですから、本流の末裔が生きているのであれば足利氏の室町幕府に参加していた筈です。
そして、副紋も丸付き紋等も使わない掟のある氏であり、嵯峨期の詔で禁令が出ているのに、家紋は笹竜胆紋ではなく氏名も異なる氏が源氏だと名乗っているのです。ほとんどは史実がありません。
因みに、上記した藤原氏に殆ど抹殺され、氏名家紋を使う事さえ嫌われた橘氏ですが、家紋から観ると86氏も名乗っているのです。藤原秀郷一門でさえ永嶋氏は34氏、長沼氏が52氏、進藤氏は48氏、長谷川氏は111氏、もちろん青木氏は116氏で、「関東屋形」と呼ばれて平安、鎌倉、室町期、江戸初期までに全盛を極めたこれらの秀郷一門の氏でさえせいぜい30-50程度です。
それが橘紋86もあると云うのです。未勘氏を入れると150くらいにも成ります。
ところが、藤原秀郷一門の主要5氏で観てみると、全部で361氏ですが、家紋から観てみると不思議に371氏なのです。未勘氏を入れると凡そ500程度に成ります。意外に少ないのです。
これは、一門が「第2の宗家」として青木氏を中心にして管理されていた事を物語り、なかなか第3氏が秀郷一門の氏名(家紋)を名乗れなかった環境があった事が云えます。
つまり、代表的なものとしてあげれば、傾向として「源平橘」は滅亡しているので氏の「厳しい管理の目」が無く自由に名乗れると云う現象が、室町末期、江戸初期、明治初期の3乱期に起こっていた事を意味します。
賜姓青木氏でも、或る伊賀の立身出世した者が、元近江青木氏が滋賀に移動して再び近江に戻りましたが、一部滋賀に残った全く絶えた分家を乗っ取り、滋賀の青木氏を名乗り、その近江青木氏本家がこれに異議を申し立て2度も戦いをしました。最終、秀吉の承認の下で決戦をし滋賀から近江に戻った近江青木氏本家は負けてしまったのです。伊賀上田の者は滋賀青木氏を堂々と名乗り、後には滋賀青木氏本家を名乗ると云う事件さえ起こりました。そしてこの滋賀青木氏は著しい子孫拡大を果たしました。
藤原氏に付いても群村単位で農民が名乗りましたが、氏家制度の管理が解き放たれた明治期に成って名乗った事、秀郷宗家本家筋が名乗る氏名を名乗ったが、家紋はなかなか使えなかった事と丸付き紋等を使用した事によるものと考えられます。
藤原氏全体では未勘氏があまりに多すぎて検証は困難です。
この様に、絶えた有名な氏を名乗った「虚勢」の未勘氏が実に多いと云う事なのです。
氏家制度の慣習の中では上記した5つの条件から検証するとそれを明確に検証できるのです。
この現象は「源平籐橘」全てに云える現象です。如何に室町末期や江戸初期に武士となった者が搾取して家柄身分に「虚勢」を張っていたかが判ります。
殆ど、5つの条件 即ち、由来性、時代性、地理性、宗派、特記や当時の慣習などから調べると矛盾が出てくるのです。
伊勢青木氏よりはじまった賜姓紋の笹竜胆紋は副紋も一切使用していませんので、本家筋の「総紋」の継承と成りますので、丸付き紋の笹竜胆紋は「未勘氏」(明確でない氏か史実として認められるが継続した証明がとれない氏の事)か第3氏の使用となります。
笹竜胆紋や下がり藤紋の青木氏は、各青木村を形成して嫡子がいない場合とか死んだとかした場合は、青木村を形成している事により縁続きの者を迎え入れて同じ血筋を保持し家紋を保持する事が出来たのです。これを護る「宿命的な伝統」のそのような仕来たりがあったのです。
笹竜胆紋は5家5流の青木村と24の国の青木村、下がり藤紋は武蔵入間を中心に神奈川横浜を半径とする地域に116氏の青木村と24国に青木村を形成していますので、宗家本家筋が血筋と家紋維持のためには縁者を迎え入れる事は氏家制度の中で管理されていればそう難しい事ではありませんでした。
笹竜胆紋の青木氏と下がり藤紋の青木氏との相互血縁も母方血縁族ですので不可能ではありませんでした。
例えば、讃岐藤氏の秀郷流青木氏が足利氏系青木氏や甲斐の武田氏系青木氏を保護し血縁、
神奈川の秀郷流青木氏が信濃諏訪族青木氏を保護し血縁、
伊豆の賜姓青木氏と神奈川の秀郷流青木氏が血縁、
その伊豆賜姓青木氏と本家筋の伊勢賜姓青木氏との血縁、
信濃賜姓青木氏と美濃の秀郷流青木氏との血縁、
その信濃賜姓青木氏と伊勢賜姓青木氏とが江戸末期まで各1300年程の歴史を持つ伊賀和紙と信濃和紙で結ばれた長い期間の血縁関係、
皇族丹治氏系青木氏と入間秀郷流青木氏との血縁
以上の様に複合した血縁関係等の多くの史実があり、恐らくはこれ以上に慣習として頻繁に更に相互間で行われていた事が予想できます。
同じ村単位だけではなく、何処に血縁族が居て互いの宗家に話を通せば相互間で紹介し合える仕来りが生まれていた事を物語ります。
「第2の宗家」の秀郷流青木氏はこの管理を江戸初期頃まで一元化して管理したいた事が判ります。
氏家制度の青木村は「只一族が集まる」というだけではなく、「9つのステイタス」の家柄、身分、家紋、伝統、血筋等を護るために「血縁関係のシステム」即ち「氏家制度の根幹」を担っていたのです。
この様に同じ青木村だけではなく各地に分布する青木村から迎え入れる事も頻繁にしたのです。この様にして広い範囲から宗家、本家、分家、支流、分流、分派から迎え入れる事で血筋の弊害をなくしていたのです。
その証拠の一つに、甲斐武田氏が滅びた時、甲斐賜姓青木氏、武田氏系青木氏、諏訪族青木氏ら一族一門が藤原秀郷一門を頼って神奈川や栃木など、四国讃岐、土佐、阿波にも逃げ延びた史実が残っています。これは真に宗家本家筋のこの管理が行き届いていた事を証明するものです。
一般の「丸付き紋」は、この事から宗家、本家、分家、支流、分流、分派の5つの中で血縁性の高低で直系性が無く成る場合に多く使う事を求められました。
この6つの流れの中で女系と成り新たに氏を発祥させる事となると、ここで始めて丸付き紋の家紋が出てくる事に成ります。「丸付き紋」で違いを出し「支流性」を表現して宗家との区別をします。
始めから「丸付き紋」の氏はこの結果で生まれるのです。
「丸付き紋」の家が血縁性が低下した場合に丸付き紋に更に丸付き紋の変紋は物理的に困難ですので、「部分変紋」や「囲い込紋」や「陰紋」が一定の規則の下で使われたのです。
家紋200選から観るとむしろ本家より分家が勢力を持った結果3割もの丸付き紋が多い事になります。
2番目の嗣子と妾子扱い
これに当たる場合は嫡子が指示しない限りは「嗣子」は原則丸付き紋は使用しない事になります。
しかし、嫡子の指示が無い場合の「妾子」は原則使用することになります。ここに区別がつきます。
只、妾子が嫡子となった場合は自らが決める事になりますので問題はなくなります。
ここに、嫡子、嗣子、妾子の問題が出て類似家紋が増加する事に成ります。
氏家制度の中での妾の概念は制度を維持する為の方法に主眼が置かれていて、元来は男子子孫を遺す事に目的があり、妾子の妾の差別的な概念が強く生まれたのは長男=嫡子となった江戸期に入ってからの事です。
3番目は宗家の許可です。
氏家制度は宗家を頂点にして一門を構成しています。
当然に、勢力を持つ宗家から経済的、武力的、政治的な保護を受けて成り立っていますから、この組織からはみ出しての勢力拡大は困難です。一族の互助システムですから、家紋はそのステイタスですからその許可は宗家の許可を必要とします。宗家に睨まれると家の存続は元より家紋使用も難しい事になります。
家紋類を分析すると、現実には3割近くが丸付き紋の使用を指示された事になります。
そして、宗家本家筋より丸付き紋の分家筋の方が勢力を持った氏が3割近くもいた事を物語ります。
4番目は配流子孫の区別です。
平安初期から氏の戦いが起こり始めて負けた側が遠地に追いやられる事に成ります。
この史実として各地には配流されましたが、その史実は認められるが、戦いや勢力争いなどに敗れて島流しや逃げ延びたりしてその地で再び子孫を広げた場合などの時にその確たる証拠等がない場合のその家紋の使用は原則丸付き紋を使うことになります。
皇族、賜姓族の青木氏では5家5流以外に嵯峨期の詔により後に皇族青木氏を名乗り史実として認められる日向青木氏等の3氏の「丸に笹竜胆紋」の青木氏がいます。
源氏や青木氏外の丸に笹竜胆紋は上記した経緯から明治期か江戸期の第3氏となります。
比較的この場合の家紋が多く、源氏や藤原氏や橘氏や京平氏等の家紋にはこの「未勘氏」のものが大変多いのです。源氏等を名乗る氏の9割はこの配流子孫の類の未勘氏です。
この配流子孫の未勘氏には史実が明確な子孫と史実が発見されない子孫に分かれています。
ほとんどは言い伝えだけで史実の無い未勘氏です。
5番目は男系跡目の継承の原則です。
氏家制度ですから男子が跡を継ぐ事になります。
当然に上記した嫡子、嗣子、妾子に分けられます。
江戸の初期までは嫡子は原則正妻の長男と云う事では必ずしもありません。
一族一門を束ねるだけの器量を保持しているかどうかが問われる時代で又その制度でした。
因って、下の者に器量があれば嫡子に成る事もあります。
当然に内部で争いが起こります。それを乗り越えての試練でなくては一族一門を束ねる事は出来ないと考えられていました。必要悪の様なものでした。
中には本家からではなく分家に良い嫡子とみられる者が居れば養子に迎え入れて長に据える事も行いました。比較的分家から養子を迎える事が多かったのです。
本家に男子が生まれるとは限りません。そうなると分家から迎え入れて血筋や家紋を保つ必要が出ます。大きい氏では縁者関係まで広げて探し出して本家筋の血筋を護る事になります。
そうでない氏や分家支流筋は女子に婿養子、養子婿を迎えて嫁をとる方法が起こります。
6番目は養子縁組です。
原則丸付き紋です。
女子に婿養子をとると、男系の制度ですから一時婿養子の家紋を使います。婿養子に男子が生まれるとその男子が跡目と成れば家紋は元の家紋に戻ります。
しかし、再び女子に成れば婿養子を迎える事に成ります。この様に2代続いて女子となるとその家は女系となりますので男系の最初の婿養子先の家紋が定着してしまいます。
つまり、家紋は変化して新しい養子先系列の氏を発祥させた事に成ります。この場合は元の家紋に丸付き紋は使えなくなります。
又、多くは養子先からも本系列ではないので養子先家紋に丸付き紋とする事が多く起こりました。
この様に成らない様に宗家本家筋だけは無理でも縁者関係から婿養子を何とか探してきます。
女子もなく養子婿を迎えて家を継続する場合です。多くは分家筋の事となります。この場合は縁者から迎えない場合は血縁関係は無くなります。女子を縁者から迎えてそれに婿養子とする場合もあります。
家を継続すると云う事だけの目的で採る処置です。
従って、江戸時代では武士で家紋の持った家からの養子婿であればそれを家紋とする事に成りますが、どうせ許可は下りないので本家からの許可は多くは無視した様です。それでも摩擦を避けるために丸付き紋を使用する場合が多かった様です。
元々問題が起こらない様に丸付き紋の場合は丸の太さを変えたり中の一部を変えたりして新しいものを作りだしました。
家紋も持たない下級武士などそうでない場合が多かったので、家紋は無く新たに定める事も起こりました。しかし、大きな氏では出来ない事ですが、江戸中期以降では男系の血縁名性が途絶えても家紋掟を無視して家紋も継続してしまうと云う事が起こりました。
ほとんどの武士が家紋を持ち始めたのは江戸初期からで旗本、御家人等にブームが起こりこぞって持つ様になりました。従って、江戸初期からの発祥が殆どなので本家の許可云々の問題はあまり起こりません。ルーツを手繰れてもせいぜい普通は江戸初期までで室町期に入れる氏は少ないのです。
その点では青木氏は平安期まで遡れる氏です。
家紋8000の中では武士の場合は戦国時代を経てきたために子孫が少なくなりほとんどはこのタイプです。農民等から身を興して新たに氏を興した場合が多かったのです。
又、先祖が武士であってもそのルーツが下剋上や戦国時代で消失して判らなくなるなどして新たに氏を興したのです。この為に、未勘氏が多く成ったのです。使用した家紋のその氏に憚って丸付き紋とする事が多く起こりました。この場合は中の一部も変えると云う方法を使い争いを避けました。
七番目は嫡子尊厳です。
氏家制度の中では嫡子が絶対的権限を持っています。
嫡子に選ばれると他の嗣子妾子はその嫡子の心一つで家紋を引き継げるかどうか決まります。
家紋を引き継げると云う事は一族の中に残れるかどうかが決まる事です。
家紋を継げるという事はそれなりに財産分けがある事に成りますが、嗣子妾子はほとんどは他家に養子に出る運命です。勢力を拡大しない限りは抱え込むと氏の財政が圧迫するのです。むしろ、他家に出す事で勢力範囲が拡大する事に成るので積極的に行われたのです。
どちらかと云うと、結婚適齢期に婿養子に入ると云うよりは小さい子供のころから預けると云う習慣が多かったのです。その後に正妻や妾に嫡子が生まれたりすると、養子には家を新しく興して傍系支流を発祥させたりしました。
従って、家紋が変化することの方が氏家制度の中では正常な事であったのです。その為にも宗家本家だけは家紋や伝統を絶対的に護る必要が生まれたのです。
ただ、乱世であったことから婿養子に出て男子が多く生まれた場合で、養子先を子供に任して実家に跡目の問題など絶えたなどの事が起こると実家に戻る等の事が頻繁に起こりました。
固定された嫡子が長男と考えられるようになったのは江戸初期からで家康がその先鞭を付けたのです。
八番目は身分家柄の保全です。
氏家制度の中では「血縁はつりあい」で行われます。
その為には、家紋の判定が重要に成ります。
婿養子や養子婿では「つりあい」をある程度無視した形で行われました。
特に婿養子に男子の子供が生まれる事で解決するので家紋問題は解決します。
つり合いのとれない婚姻の場合は家紋継承が許されるかは問題で、丸付き紋を指示されたり、影紋や家紋の一部を変える変紋を要求されるか囲い紋を要求されるかは本家次第と成ります。
宗家本家筋の血縁には「吊り合い」が重視されますが、分家以下ではそのような事を云っていては跡目の継承は困難となります。養子縁組はこの様な事をある程度無視しなければ成り立ちません。
そこで、このままでは氏家制度が崩壊して行きますので、養子縁組には家紋の継承には一つのルールを設けていたのです。
以上の様な理由で一族の家紋は変化して行きます。
故に藤原秀郷流青木氏では116氏に成り、皇族賜姓青木氏(皇族青木氏含む)では24氏(29氏)に成っています。
この様に長い間に一族の家紋は元の総紋を宗家本家がどんな事が起こっても引き継ぐ苦労が伴いますが、上記の理由で分家筋では緩やかに拡がってゆきました。
その様な家紋継承にはそもそも次の様な方法があります。
A 「総紋」と云うのがあります。
これは宗家、本家が引き継ぐ一族の始めからの紋でそれが氏が拡大すると代表紋になるのですが、これが家紋掟により、分家と成った者が次第に家紋が変化して行き藤原氏で云えば361氏の家紋数に成ったと云う事です。その元の家紋が「総紋」と呼ばれるものです。藤原秀郷一門で云えば、「下がり藤紋」と云う事になるのです。この「総紋」と「藤原氏」の氏名を継承している事は361氏中限られた数の24氏と成る筈です。中でも「氏名」に付いては藤原氏にはある掟があり「藤原氏」そのものを名乗れる氏は武蔵入間の「総宗本家筋」だけと成ります。つまり、「氏名」も「総称」なのです。それを名乗ると成ると、"藤原朝臣青木左衛門上尉・・・・"と成ります。
この「総紋」を継承するには男系跡目を必ず果たさなくてはなりません。その為に宗家本家筋では妾子の方法も必然的に必要であり、それだけでも宗家本家筋に男子が生まれなかった場合には一族一門より男子を養子婿に迎えて嫁取りをします。女子がいれば婚姻し婿養子としますが、居なければ縁者から養女を迎えて婿養子をとる等して縁者による男系跡目の方策を構じて何等かな方法で宗家本家を維持し、家紋の一族紋の「総紋」の伝統を維持します。ここが宗家本家筋の大変なところなのです。当然に総宗本家を持つような大きい氏では確実に維持できる何等かな方法を構築しているのですが。
本家と分家の違いを出す方法
B 「副紋方式」(主紋に他の血縁族の家紋も併用して使用する)があります。
本家筋では養子を迎える努力はするが、どうしても叶わない場合は「総紋」にその迎えた養子先の家紋を併用する方法、或いは「総紋」の中にその養子先の家紋かその一部を組み入れて一つの家紋を作り上げます。藤原秀郷流青木氏の本家筋では「下がり藤紋」にこの2つの方式の何れかを採用しています。
宗家本家筋は依然として「下がり藤紋」です。
領国の宗家筋は総紋を維持する環境が周囲に整っていますので、総紋方式で継承して行けますが、地方に定住した本家筋には総紋維持は困難ですので副紋方式を用いたのです。
本家筋に近い分家筋ではここまで縛られませんが、丸付き紋を使わない下がり藤紋に藤の花数を変えるなどして変紋します。この意味から良く見られる現象ですが傍系支流が総紋の下がり藤紋である筈がなく、血縁性から副紋でもなく丸付き紋でもなく別紋である筈です。
藤原秀郷一門で「下がり藤紋」を家紋としているのは青木氏を含む主要7氏だけで、藤原氏だけでも系列から見て9氏しか使用できない筈です。主要7氏の宗家本家筋は結局、養子縁組が起これば副紋を使用する事に成ります。
361氏を監視しこの「氏の管理」をしていたのが「第2の宗家」と呼ばれた武力を持ち内外に睨みを利かしていた一門一族の大護衛団の青木氏なのです。
C 「丸付き紋方式」
明らかに分家となるとその氏が定めた家紋掟により養子先の家紋に変化して行きます。
丸付き紋を使用する氏は宗家本家に伺いを立てて丸を付けますが、許可が得られない場合は養子先の家紋と成ります。嗣子となった妾子の場合はこの対象に成ります。妾子は多くは他家に養子と成ります。この妾子が養子に入った先で男系に恵まれなかった場合は実家に家紋の使用の伺いをたてますが、妾子である事を理由で許可が得られない多くの場合は丸付き紋の使用と成ります。
基本的には丸付き紋は分家紋ですが、一部に女系に成ってでも分家と見なして使用している氏があります。
この様に分家の広義のとらえ方がひろまり分家の一種の分流や分派は丸付き紋と成ります。
血縁性の乏しい支流に広義に丸付き紋を使っている場合が多いですのでが、元来は別紋である筈です。
あくまでも丸付き紋は原則として同紋に分家筋以下を区別させる為に用います。
この他に次のような場合があります。
有名家紋の様な他氏の家紋を無断拝借する場合に多少なりとも遠慮して丸付き紋を用いました。
この現象は室町末期、江戸初期、明治初期に起った。
本流ではないが血縁性の低い支流であるがどうしても本流の家紋を使用したいとして丸付き紋を無断使用する事が室町末期に起こりました。
更には進んで直接血縁がなく自分の親族がその縁者である場合に丸付き紋を用いました。
縁者の縁者の場合であるので無断使用が多かったのです。
この様に、室町末期に一族の味方を誇示する事から、又その一族の背景がある事をにおわせて身を護ったことから丸付き紋が使用されました。
D 「影紋方式」
本家に遠慮して家紋の明暗を逆にして用いる。
丸付き紋を使用せずに家紋の明暗を逆転させて血縁性のある支流を誇示させる方式である。
室町末期に多く用いられました。
E 「変紋方式」
文様の一部を局部的に変更して用いる方式である。
軸、葉、花、花弁等の形や数を変更して用いる。
宗家から同紋の使用が許されないので、一見同紋の様に見えるがよく見ると一部が異にしている文様に変更して一族性を表現した。特に、妾子の場合にこの方式を多く採用した。
一般の家紋はこの方式から広まった。この方式からは血縁性が薄れる方式である。
室町末期、江戸初期、明治初期に広がりました。
特に江戸初期に御家人や旗本に多用されました。
F 「囲い紋方式」
角舛や糸輪で囲って用いる方式である。
糸輪は丸付き紋に似せて用いたもので変紋方式の一種である。
江戸中期以降に用いられたもので土豪集団、職人集団、氏子集団、檀家集団等の集団紋に多く用いられました。明治期には氏子の庶民はこの神紋や寺紋を使いましたので爆発的に増えたのです。
元の文様は神紋や寺紋から発展し小集団同士が結束して自主防衛の連合体を作りその集団紋としたものに多く観られます。
文様として囲う事で集団性を表現したものです。それを家紋としたものです。
この様な氏家制度を保つための社会慣習があり、家紋はその過程で変化して行くのです。
従って、各氏の家紋がこの上記する方式の何処に属するかにより氏家制度の中で大方の先祖の氏の位置するところが判るのです。
丸付き紋の青木氏
以下39の青木氏に関わる丸付き紋
・丸に州浜、丸に三つ盛州浜、・丸に抱き角、・丸に違い鷹の羽、・丸に蔦、丸に陰蔦、・丸に木瓜、丸に横木瓜、・丸に片喰、・丸に剣片喰、・丸に三つ柏、丸に蔓柏、・丸に梅鉢、・丸に揚羽蝶、・丸に九曜、・丸に三つ星、・丸に一つ引き、・丸に二つ引き、・丸に三つ引き、五瓜に丸に三つ引き、・丸に桔梗、・丸に三階菱、丸に三つ目菱、・丸に剣花菱、・丸に花菱、・丸に抱き茗荷、・丸に三階松、・丸に根笹、・丸に違い矢、丸に八矢車、・丸に隅立四つ目、丸に三つ目、・丸に扇、丸に違い扇、・丸に日の丸扇、・丸に並び扇、・丸に立ち沢潟、丸に三つ鱗、丸に青の角字
・印は「家紋200選」に撰ばれている丸付き紋の家紋です。
つまり、この青木氏の丸付き紋の氏は大豪族の氏です。
丸付き紋中の大豪族28紋/39紋で72%も占めています。
青木氏全体361氏の家紋からすると、家紋200選の丸付き紋28紋は7.8%を占めています。
全体の39紋では11%となります。
家紋200選全体から観ると28/200で14%です。
青木氏は丸付き紋の分家筋でも家柄、身分に釣り合いを合わせて血縁している事が云えます。
この分家を分家、分流、分派、その他で分析すると、次ぎの様に成ります。
分家 21家 79.5%
分流 12家 30.7%
分派 5家 12.8%
其他 1家 2.5%
殆ど、直系の分家で血縁(79)しています。
それも大豪族との血縁(72)です。
この丸付き紋の氏は次ぎの様な血縁で成り立っている事が云えます。
1 男系跡目が2代続きで叶わず変紋した氏。
2 直系の分家筋で丸付き紋に変紋した氏。
3 同族血縁した氏。
先ずは分家筋の氏に1の事が起こり他氏から養子縁組で変紋して家紋が増えて行くのですが、以上の内容データから観ると1-2にて氏が拡大して家紋が増え、そこで3-2-1の順に氏が構成されている事に成ります。
これほどの「家紋200選」にある丸付き紋の氏28氏もある事は1と2で起こった事とは、氏家制度の中での慣習からは、血縁関係は出来難いと考えられます。
大豪族を幾つも一門に持つ藤原秀郷一門の氏には血縁に関してはそれなりの明確な戦略があったのです。
イ 24の赴任地には土地の豪族との血縁族を拡げて勢力基盤を固めている事、
ロ 氏家制度の本筋でもある「血縁にはある一定の釣り合い」を求めている事、
ハ 氏が大きく成る弊害を克服する為に各地の同族間の純潔血縁を求めている事、
この「3つの戦略」を遂行すると一つの血縁上の問題(良い子孫が生まれない事)が生まれる為に、各地で他氏との血縁で一門で無い血液濃度の平均化を図る必要から、3を実行する事で「3つの戦略」は可能と成ります。故に、普通ではあり得ない上記の79%であり、72%等のデータが出て来るのです。
つまり、家紋から観ると、1-2-3-3-2-1-3を繰り返す事による家紋データなのです。
この中で、この上記する「家紋掟」は(1-2-3-3-2-1-3)の循環が働いているのです。
この家紋は次の事に大きく関わっているのです。
X 氏家制度の社会慣習
Y 家紋の掟
Z 宗派の慣習
1、2、3のサイクルは、上記X、Y、Zに大きく影響を受けて定まって行くもので、これを考慮しないでは判断できない仕組みの掟なのです。
家紋は9つのステイタスを背景として初期には用いられ、次第に氏の判別としての目的が強く成りましたが、それでも忘れては成らない事として「家紋」と同様に「宗派」も一種のステイタスであったのです。
家紋ステイタスと連動してそのステイタスとみられていた宗派は「古代密教」を掲げる3つの宗派でした。
天台宗密教、
浄土宗密教、
真言宗密教
以上です。
この3つは其々又違う階級の氏を宗徒としていました。
青木氏に関しては浄土宗古代密教を慣習として引き継いでいました。
あくまで密教でありますので、密教でない宗派との運営上のシステムが異なります。
氏が自ら寺を建立して自らの氏の者の住職を立て自らで運営し自らの氏だけを祭祀する排他的運営方式ですので、宗派の発展は特定地域に限定する事に成ります。この「菩提寺方式」がこれがステイタスの象徴と成っていたのです。その菩提寺に「寺紋」として「家紋」を使う事に成ります。
藤原秀郷一門はこの浄土宗古代密教ですが、24地方に赴任していますので、限定されたところにしか無い寺と成りますと、一時的に浄土真宗に仮入信すると云う事が起こりました。
赴任地に定住し勢力を拡大させた者は多くは同様に菩提寺を建立しましたが、一時的な事が本宗と成ってしまった氏も一部に確認できます。
この様に「家紋と宗派」は、その氏のステイタスであったのですから、簡単に「家紋も宗派」も氏家制度の中では変える事はあり得なかったのです。
それは氏家制度の中でそれまでの氏の「先祖の伝統」が切れてしまう事を意味しているのです。
自らの「伝統」を切る事は氏家制度の中では氏への冒涜の何物でもありません。
これは一人の判断で出来る事ではありません。
「家紋と宗派」は連動しての「氏の伝統の象徴」であったわけですから個人の判断では困難です。
因みに甲斐青木氏において武田氏が潰れる3年前に改紋と改宗した人物がいて大問題と成り親子、親族間の争いに発展したのです。結局は2人の子供が浄土宗の菩提寺を建立して家紋を戻す元に戻すという大事件が起こりました。
この様に「家紋と宗派」は氏家制度の中では連動して動いていたのです。
ここでは複雑に成る為に宗派の慣習を論じない事として別に機会があればその掟や社会慣習に付いて研究論文を記載する事にします。
青木氏に関しては室町末期から江戸初期前後に発祥した氏の家紋の丸付き紋と観られ、恐らくは上記した掟から丸付き紋と成るには50年から100年程度の期間が必要と成ると考えられます。
依って、江戸初期から江戸中期前までに分家化したものと考えられます。
江戸中期以降は政治的に安定期に入り家紋も当然に安定化に入り新たな氏の発祥は青木氏に関わるものとしては考え難いのです。
(幕末から明治初期に調査編纂された資料による為に家紋掟による以後の家紋の変化は未確認)
江戸末期には家紋掟の順守が低下した事から丸付き紋にする氏がどれだけ居たかは疑問であります。
多くは藤原秀郷流青木氏の末裔が室町末期から江戸初期にかけて家紋掟により新しく発祥させた氏の
丸付き紋と観られます。
(注釈)
「家紋」によるルーツの解明も然ることながら「戸籍」による解明も可能ですが、戸籍はそのルーツを紐解く要素が必要です。それが「氏名の継承」でありますが、戸籍の歴史は最も古いもので天智天皇の大化の改新時の一つとして「戸籍簿」又は「人別帳」成るものが作られたのが最初で日本書紀にも記載されています。この時の戸籍簿たるものは税の「租庸調」の課税対象者を設定する為のもので、その税の最低年齢が男6歳とした為に民衆の不満が爆発したと記録にあり、むしろ戸籍と云うよりは「人別帳」の色合いが強かったのです。
然し、これも平安期の荘園制度が確立する事に成り荘園内の事はその持ち主のものとして扱われた事により次第に公的なのものは消滅して、矢張りその一時的な「人別帳」的なものが使われた様です。しかし、荘園の民はその「氏名の継承」は有りませんので、次第にルーツの概念が薄くなり無くなり江戸末期までこの状態が続きました。あるとすれば村の庄屋が取り扱う「人別帳」程度であり、「武家」を構成し支配階級の中級以上の「武士」の身分と権威の保全目的から、その氏の「氏寺」、即ち菩提寺が「過去帳」として「戸籍簿」を管理する習慣に成って行ったのです。
これに対して、室町初期から中期には「下克上」が起こり、この支配階級の社会制度を崩壊させて、力のあるものはこの中級以下の武士が取って代わろうとしました。そのために多くの元の支配階級のこの様な権威を示す物件の焼き討ちや取り壊しをしたのです。その結果、権威を代表するステイタスの氏寺を含む等のものが消失してしまいました。又江戸時代から明治の初期まで250年以上続き多発した「民衆の一揆」もこれらの武家武士ではなく下級武士を含む民衆の権威への抵抗が起こり、この2度による「事件」と「反動」で戸籍や人別帳によるルーツの解明は困難と成ってしまっているのです。
それに耐えた特定の「地域」や「氏」の権威物件だけが遺される結果と成ったのです。
その意味で皇族賜姓族5家5流青木氏や藤原秀郷流青木氏等は「不入不倫の権」とその勢力に護られてある程度その難を逃れました。
(むしろ「民衆の一揆」の経済的支援はこれらの難を逃れた氏がシンジケートを使って裏から行っていた)
この様な歴史的経緯から、その意味で「氏名」を持つ事を命じた苗字令3年や督促令8年の明治維新体制が確立するまでの間は、「戸籍簿」に代わるものとして「過去帳」や「氏寺菩提寺」等の存在はルーツ解明には重要な要素に成るのです。
そして、この「氏名」等の歴史的経緯と「家紋」とその習慣は無関係ではなく連動しているのです。
(これ等に関する詳細は研究室関連レポートに記載しています


名前 名字 苗字 由来 ルーツ 家系 家紋 歴史ブログ⇒



藤原秀郷主要5氏と家紋の研究-秀郷一門24氏中主要5氏の青木氏らの実力-6/10
藤原秀郷主要5氏と家紋の研究-秀郷一門24氏中で主要5氏に成る根拠-6/10
史料6
秀郷一門24氏中で主要5氏に成る根拠
先ず氏の発祥順位から観てみると、主要5氏の夫々の生き様が観えて来る。
秀郷一門の主要5氏とは、兼光流青木氏、長沼氏、永嶋氏、文行流長谷川氏、進藤氏である。
順位としては、青木氏、進藤氏、長沼氏、永嶋氏、長谷川氏である。
当時の氏家制度の中で、発祥順位とその家筋は動かし難いものであった。しかし、その「理」に従っていない。その「理」よりむしろ平安末期から室町期までの間の動乱の「時代の変化」の力に左右されたものであると観える。その中でも、「絆」と「氏力」と言う力で統制されていたのである。
[氏の発祥順位]
(24氏の内、主な氏記述)
(・印は主要5氏)
(氏・秀郷より代・元祖)
・青木氏2(千国)
-渕名氏5(兼行)-近藤氏5(脩行)
-・進藤氏6(行景)-佐藤氏6(公清)-足利氏6(成行)-・長沼氏6(考綱)
-太田氏7(行政)
-嶋田氏8(景頼)
-小山氏9(政光)-下川辺氏9(行義)-大屋氏9(秀忠)-伊藤9(基景)-後藤9(公郷)-首藤9(助清)-武藤9(景親)-波多野9(経秀)
-佐野氏10(基綱)-中沼氏10(宗政)-結城氏10(朝光)-尾藤氏10(知広)-松野氏10(親実)
-斎藤氏10(叙用)
-・永嶋氏14(行長)
-・長谷川氏19(宗重)
考察
主要5氏の発祥順位は1 青木氏、2 進藤氏、3 長沼氏、4 永嶋氏、5 長谷川氏となる。
青木氏と進藤氏と長沼氏は2-6代目で速く、永嶋氏と長谷川氏は後発である。
先ず、青木氏の発祥順位と氏数は段突で、「第3子跡目」の藤原秀郷の家法もあり、「藤姓の足利殿と呼ばれる青木氏」であるくらいに最大勢力であった事を物語る。
私は、むしろ藤原宗家一門より、「第3子跡目の家法」と武力を持つ青木氏の方が実質勢力があったのではと考える。だから「藤姓の足利殿」と呼ばれていたのであろう。
ただ、「護衛の役目」と言う一段下の立場であって、力があるからと云ってこれを崩す事は氏家制度の絆を破壊する事に成り、自らの首を締める事にも成るので、立場を保持させたのでは、又、「発祥と氏数」から観ても、その乱れを一門24氏に対して指摘する立場にもあった事に他ならない。
何をか況や、24氏を抑える立場のその勢力を保持していた事を物語るものである。
だから、藤原秀郷一門と北家一門は明治までの生残るほどに強かったのであると観ている。
ただ、一つの弱点があった。それは朝廷を中心という体制の中での立場であった。だから、武士による鎌倉幕府が樹立すると失職離散の憂き目を受けたのである。
恐らく大変な歴史転換点であって右往左往したであろう。
しかし、この中で、青木氏は「武士」と「宗家同等の護衛」という立場から、「武力」をシンジケートと言う立場に作り変えて利用して、弱点を補う為に「2足の草鞋」策で生き延びたのである。だからこの氏数に成ったである。
その史実は、幾つもあるので挙げる。
伊勢青木氏の明治35年まで続いた紙問屋家業(伊賀地方の特産和紙)、瀬戸内に勢力圏を持つ讃岐籐氏青木氏の廻船問屋家業、堺摂津の青木氏の貿易家業、磯部氏を代表とする信濃の産物問屋家業、土佐、駿河の青木氏の遠洋漁業の海鮮問屋家業など、史実が地域に多く遺されている。
多くは、1350年代前後の創業と見られる。室町初期からである。平家からの圧迫からやっと逃れたと思うと、今度は、北条氏の足利氏、青木氏の藤原氏一門、賜姓源氏、賜姓青木氏等への圧迫が強まった時期でもある。その時期を乗り越える為に、2つの青木氏一門は「2足の草鞋策」を採ったのであろう。これは長谷川氏、永嶋氏の活動時期と附合するのである。
宗家に代わる青木氏の武力以外にも、シンジケートと同族大集団を維持する為にも、この「経済的裏づけ」が大きく左右したのではと観ている。
特に、史料4「共通血縁族」でも記述したが、秀郷一門主要5氏の補佐役の主要8氏(片喰族、剣片喰族等)の四国勢を秀郷一門の主力に押し上げていたのは、廻船問屋家業の讃岐籐氏青木氏であり、この「経済力」に支えられていたと考えられる。
だからその「武力」と「経済力」を利用して鎌倉幕府に合力して本領安堵されたりして、地方にいる青木氏は各地方の豪族と成り又家臣と成って生き延びる事が出来たから、この大氏数なのである。それでなくてはこれ程の氏数を維持することは出来ない。
この事は7/10以降のレポートの分析からも充分に云えるし、だから平安末期の後発の永嶋氏や長谷川氏でさえが勢力を保持したのである。
後発が主要氏として勢力を持ちえるには「武力」だけでは決して成し得ない事である。
だから、何れも主要5氏は全て「家紋200選」の比率では50%の高い率を持っているのである。
第3の青木氏を除けば、70%以上に達するとことに成る。
ところが、24氏中では永嶋氏と長谷川氏は最も後発である。
これは、最も後発でありながら、永嶋氏(14)と長谷川氏(19)が、秀郷一門の24氏の中で、経済力を発揮したと言う事に他ならない。武力は武力の反発を受けて「悪くのスパイラル」が起こり究極は歴史が物語る様にジリ貧である。しかし、経済だけでも同じく成し得ない。
「経済と武力」がバランスよく伴なわなくては長い歴史を成し得ない。
現に、詳しく7/10の永嶋氏レポートと9/10の長谷川氏のレポートでそれを証明しているので参照されたい。
それには、ただ「経済と武力」持てばよいと言う事ではない。其処には「戦略」が存在しなければならない。
戦略には、更に、その「血縁族の違い」と、「戦略の違い」に依るであろう。
それを次ぎに検証して観る。
永嶋氏は「血縁族の違い」では、「丸付き紋」(19/35=54%)が大変多い特徴を持っているが、大豪族(49%)と小豪族(47%)との血縁バランスを平均に持っている。
長谷川氏は「血縁族の違い」では、「丸付き紋」(35/111=32%)が少ないのが特徴であるが、大豪族(28%)より小豪族(68%)に重点を置いている。
永嶋氏の「戦略の違い」では、「地理性」に重点を置き、畿内から中部地方の家紋族と血縁して重点を小さく絞っている。「狭く濃く」の為に35氏である。
長谷川氏の「戦略の違い」では、北九州から東北まで満遍なく広げ、近江、伊勢、美濃、信濃、甲斐の小豪族との血縁をして重点を広くしている。だから、「広く薄く」の為に111氏である。
各地に小さく分布する長谷川氏支流族の「釘抜き紋」はその象徴である。
これ等は他の2氏に較べて後発と言う立場にあり、逆の血縁戦略を敷いたが、先発の長沼氏と進藤氏は「血縁族の違い」(52氏-48氏)と「戦略の違い」はその中間である。
長沼氏は北九州から中部地方にてやや西よりに、進藤氏は関西から関東地方にやや東よりで、両者とも中間巾を持っている。
これは、先発、後発の違いで先発の地域は身内の地域争いを遠慮した結果、後発の2つの氏には違いが出たものであろうと先ず思うが、多分、先発の時代と後発の時代の藤原秀郷一門の勢力範囲が違って来ていたのではと考える。
後発になるに従い、やや西よりに勢力分布が出来て来ていたと云う事であろう。
その理由として次ぎの事が言える。
1 藤原一門の赴任地が東山道から東海道、畿内、山陽道、南海道、最終は西海道へと移っている事。(その過程で各地に子孫を遺していった事の成果が出てきた)
2 桓武平氏(京平氏)との勢力争いで、皇族賜姓族(伊勢、美濃、信濃、甲斐)と血縁連合を組んだ事。
3 清和源氏頼光系一族との血縁連合を組んだ事。
4 清和源氏頼信系一族と秀郷一門の勢力圏を神奈川を境にして組んでいた事。
以上の事が挙げられる。
この事に付いて、後発の永嶋氏と長谷川氏が誰かが主導してこの「勢い」に乗ったと云う事だろう。
しかし、そう簡単には「勢い」で済まされないであろう。
「遠慮、深慮」と言うが、現実は秀郷一門の調整による勢力圏の振り分けが出来ていたのではと考える。自然に出来上がったというには余りにも上手く出来すぎている。
永嶋氏と長谷川氏の「狭く濃く」「広く、薄く」の関係、長沼氏と進藤氏の地域の「西より」「東より」の関係は自然にも出来上がらないし、相談しても出来難い「振り分け」である。
まして、「氏数」でも永嶋-長谷川関係、「狭く濃く」「広く、薄く」に合わした35:111とその特長に合致、長沼-進藤関係 52:48とほぼ同数の「圏域の巾」に合わしてを維持している。
明らかにこの「特長造り」は何処からか主導していると観る。
私はその参謀は青木氏に在ったと観ている。
主導するには「力」が必要である。少なくとも氏家制度の社会である。史料1-5でも解説しているが、青木氏は主要5氏の中でも、倍の力を持っている。力のないものが、主導してもこれだけの力の差があり、尚且つ、「第3氏の家法」に裏打ちされた「第2の宗家」に口がなかなか出せないであろう。
秀郷総宗本家の後押しもあろう。護衛と言う実績もあろう。武蔵入間を中心に青木氏116氏の本家筋が秀郷宗家一族を守っている。これだけのの条件が備わっていれば文句なしである。文句をいえば、武力差がものを云う。この時代は宗家に逆らえば文句なしの潰しの社会の氏家制度である。
先ず間違いないであろう。青木氏以外にない。
秀郷宗家に代わって”青木氏が統制していた”と観ている。
ある大學教授の「藤原氏の研究史料」では、一部「藤原秀郷主要5氏」を「青木一族の系譜」の中に入れているものもある。これはその程度に統制されていた事を物語る。
だから、青木氏は江戸時代まで勢力を持ち得たのである。
途中で鎌倉幕府樹立で朝廷職を失い各地の秀郷一門は離散した。しかし、取り敢えずは「頼朝」の2度の「本領安堵策」強行で息を吹き返し、領国と各地では主要5氏の末裔が大豪族、大郷氏、大豪農、大豪商、と大大名となって生残った。これを物語るのが、主要5氏の家紋なのである。
しかし、後の北条氏とは大変な軋轢が起こっていたのである。
地頭、御家人と対立しながらも、その代表的な氏として、幕府に入り、虎視眈々と狙っていた青木氏が守る秀郷宗家の足利氏がある。
そして、後に、足利幕府を樹立する事になるのである。
この足利氏が鎌倉幕府の重鎮として残り得たのは、頼朝の幕府樹立に最も早く合力して貢献した藤原宗家の朝光である。それが宗家足利氏に繋がったのである。この時、先ず最初に本領安堵されたのはこの朝光であり、その末裔の結城氏が先ず最初に北条氏に潰されたのである。そして、それを引き継ぐ足利氏も北条氏に圧力を加えられたのである。
しかし、上記する藤原一門の底力がそれを支えたのである。何をか況や、真にこの青木氏が一門を総括して支えたのである。室町末期の信長から逃亡した時も、青木氏が匿ったのである。
だから、信長は東には手を出せなかった。
この力は記録では明治初期まで続いている。その記録では、江戸時代の中部、関東で多発し、明治の2度の大「一揆」までを含めて、その裏での主導はこの藤原秀郷流青木氏と皇族賜姓青木氏との連合があった。
我々子孫が今に残るは、この先祖青木氏の努力以外に何ものでもない。
先祖の努力の理解が、これからの子孫の如何を左右する。
そのためにも、後世の青木氏が我々の時代を評価した時に、その何がしかの努力を受けるためにも、史料を提供してそれを考察して、現世で理解を広げて頂きたいと考えている。
次ぎの序文と7/10(永嶋氏の考察)からは秀郷主要5氏の本文に入る。
先ずは永嶋氏から入るが、以上1/10-6/10の史料を参考にして、お読み頂きたい。
そうすることで我々が習得した歴史の史実より、より深く理解が広まるものと考えている。
名前 名字 苗字 由来 ルーツ 家系 家紋 歴史ブログ⇒
史料6
秀郷一門24氏中で主要5氏に成る根拠
先ず氏の発祥順位から観てみると、主要5氏の夫々の生き様が観えて来る。
秀郷一門の主要5氏とは、兼光流青木氏、長沼氏、永嶋氏、文行流長谷川氏、進藤氏である。
順位としては、青木氏、進藤氏、長沼氏、永嶋氏、長谷川氏である。
当時の氏家制度の中で、発祥順位とその家筋は動かし難いものであった。しかし、その「理」に従っていない。その「理」よりむしろ平安末期から室町期までの間の動乱の「時代の変化」の力に左右されたものであると観える。その中でも、「絆」と「氏力」と言う力で統制されていたのである。
[氏の発祥順位]
(24氏の内、主な氏記述)
(・印は主要5氏)
(氏・秀郷より代・元祖)
・青木氏2(千国)
-渕名氏5(兼行)-近藤氏5(脩行)
-・進藤氏6(行景)-佐藤氏6(公清)-足利氏6(成行)-・長沼氏6(考綱)
-太田氏7(行政)
-嶋田氏8(景頼)
-小山氏9(政光)-下川辺氏9(行義)-大屋氏9(秀忠)-伊藤9(基景)-後藤9(公郷)-首藤9(助清)-武藤9(景親)-波多野9(経秀)
-佐野氏10(基綱)-中沼氏10(宗政)-結城氏10(朝光)-尾藤氏10(知広)-松野氏10(親実)
-斎藤氏10(叙用)
-・永嶋氏14(行長)
-・長谷川氏19(宗重)
考察
主要5氏の発祥順位は1 青木氏、2 進藤氏、3 長沼氏、4 永嶋氏、5 長谷川氏となる。
青木氏と進藤氏と長沼氏は2-6代目で速く、永嶋氏と長谷川氏は後発である。
先ず、青木氏の発祥順位と氏数は段突で、「第3子跡目」の藤原秀郷の家法もあり、「藤姓の足利殿と呼ばれる青木氏」であるくらいに最大勢力であった事を物語る。
私は、むしろ藤原宗家一門より、「第3子跡目の家法」と武力を持つ青木氏の方が実質勢力があったのではと考える。だから「藤姓の足利殿」と呼ばれていたのであろう。
ただ、「護衛の役目」と言う一段下の立場であって、力があるからと云ってこれを崩す事は氏家制度の絆を破壊する事に成り、自らの首を締める事にも成るので、立場を保持させたのでは、又、「発祥と氏数」から観ても、その乱れを一門24氏に対して指摘する立場にもあった事に他ならない。
何をか況や、24氏を抑える立場のその勢力を保持していた事を物語るものである。
だから、藤原秀郷一門と北家一門は明治までの生残るほどに強かったのであると観ている。
ただ、一つの弱点があった。それは朝廷を中心という体制の中での立場であった。だから、武士による鎌倉幕府が樹立すると失職離散の憂き目を受けたのである。
恐らく大変な歴史転換点であって右往左往したであろう。
しかし、この中で、青木氏は「武士」と「宗家同等の護衛」という立場から、「武力」をシンジケートと言う立場に作り変えて利用して、弱点を補う為に「2足の草鞋」策で生き延びたのである。だからこの氏数に成ったである。
その史実は、幾つもあるので挙げる。
伊勢青木氏の明治35年まで続いた紙問屋家業(伊賀地方の特産和紙)、瀬戸内に勢力圏を持つ讃岐籐氏青木氏の廻船問屋家業、堺摂津の青木氏の貿易家業、磯部氏を代表とする信濃の産物問屋家業、土佐、駿河の青木氏の遠洋漁業の海鮮問屋家業など、史実が地域に多く遺されている。
多くは、1350年代前後の創業と見られる。室町初期からである。平家からの圧迫からやっと逃れたと思うと、今度は、北条氏の足利氏、青木氏の藤原氏一門、賜姓源氏、賜姓青木氏等への圧迫が強まった時期でもある。その時期を乗り越える為に、2つの青木氏一門は「2足の草鞋策」を採ったのであろう。これは長谷川氏、永嶋氏の活動時期と附合するのである。
宗家に代わる青木氏の武力以外にも、シンジケートと同族大集団を維持する為にも、この「経済的裏づけ」が大きく左右したのではと観ている。
特に、史料4「共通血縁族」でも記述したが、秀郷一門主要5氏の補佐役の主要8氏(片喰族、剣片喰族等)の四国勢を秀郷一門の主力に押し上げていたのは、廻船問屋家業の讃岐籐氏青木氏であり、この「経済力」に支えられていたと考えられる。
だからその「武力」と「経済力」を利用して鎌倉幕府に合力して本領安堵されたりして、地方にいる青木氏は各地方の豪族と成り又家臣と成って生き延びる事が出来たから、この大氏数なのである。それでなくてはこれ程の氏数を維持することは出来ない。
この事は7/10以降のレポートの分析からも充分に云えるし、だから平安末期の後発の永嶋氏や長谷川氏でさえが勢力を保持したのである。
後発が主要氏として勢力を持ちえるには「武力」だけでは決して成し得ない事である。
だから、何れも主要5氏は全て「家紋200選」の比率では50%の高い率を持っているのである。
第3の青木氏を除けば、70%以上に達するとことに成る。
ところが、24氏中では永嶋氏と長谷川氏は最も後発である。
これは、最も後発でありながら、永嶋氏(14)と長谷川氏(19)が、秀郷一門の24氏の中で、経済力を発揮したと言う事に他ならない。武力は武力の反発を受けて「悪くのスパイラル」が起こり究極は歴史が物語る様にジリ貧である。しかし、経済だけでも同じく成し得ない。
「経済と武力」がバランスよく伴なわなくては長い歴史を成し得ない。
現に、詳しく7/10の永嶋氏レポートと9/10の長谷川氏のレポートでそれを証明しているので参照されたい。
それには、ただ「経済と武力」持てばよいと言う事ではない。其処には「戦略」が存在しなければならない。
戦略には、更に、その「血縁族の違い」と、「戦略の違い」に依るであろう。
それを次ぎに検証して観る。
永嶋氏は「血縁族の違い」では、「丸付き紋」(19/35=54%)が大変多い特徴を持っているが、大豪族(49%)と小豪族(47%)との血縁バランスを平均に持っている。
長谷川氏は「血縁族の違い」では、「丸付き紋」(35/111=32%)が少ないのが特徴であるが、大豪族(28%)より小豪族(68%)に重点を置いている。
永嶋氏の「戦略の違い」では、「地理性」に重点を置き、畿内から中部地方の家紋族と血縁して重点を小さく絞っている。「狭く濃く」の為に35氏である。
長谷川氏の「戦略の違い」では、北九州から東北まで満遍なく広げ、近江、伊勢、美濃、信濃、甲斐の小豪族との血縁をして重点を広くしている。だから、「広く薄く」の為に111氏である。
各地に小さく分布する長谷川氏支流族の「釘抜き紋」はその象徴である。
これ等は他の2氏に較べて後発と言う立場にあり、逆の血縁戦略を敷いたが、先発の長沼氏と進藤氏は「血縁族の違い」(52氏-48氏)と「戦略の違い」はその中間である。
長沼氏は北九州から中部地方にてやや西よりに、進藤氏は関西から関東地方にやや東よりで、両者とも中間巾を持っている。
これは、先発、後発の違いで先発の地域は身内の地域争いを遠慮した結果、後発の2つの氏には違いが出たものであろうと先ず思うが、多分、先発の時代と後発の時代の藤原秀郷一門の勢力範囲が違って来ていたのではと考える。
後発になるに従い、やや西よりに勢力分布が出来て来ていたと云う事であろう。
その理由として次ぎの事が言える。
1 藤原一門の赴任地が東山道から東海道、畿内、山陽道、南海道、最終は西海道へと移っている事。(その過程で各地に子孫を遺していった事の成果が出てきた)
2 桓武平氏(京平氏)との勢力争いで、皇族賜姓族(伊勢、美濃、信濃、甲斐)と血縁連合を組んだ事。
3 清和源氏頼光系一族との血縁連合を組んだ事。
4 清和源氏頼信系一族と秀郷一門の勢力圏を神奈川を境にして組んでいた事。
以上の事が挙げられる。
この事に付いて、後発の永嶋氏と長谷川氏が誰かが主導してこの「勢い」に乗ったと云う事だろう。
しかし、そう簡単には「勢い」で済まされないであろう。
「遠慮、深慮」と言うが、現実は秀郷一門の調整による勢力圏の振り分けが出来ていたのではと考える。自然に出来上がったというには余りにも上手く出来すぎている。
永嶋氏と長谷川氏の「狭く濃く」「広く、薄く」の関係、長沼氏と進藤氏の地域の「西より」「東より」の関係は自然にも出来上がらないし、相談しても出来難い「振り分け」である。
まして、「氏数」でも永嶋-長谷川関係、「狭く濃く」「広く、薄く」に合わした35:111とその特長に合致、長沼-進藤関係 52:48とほぼ同数の「圏域の巾」に合わしてを維持している。
明らかにこの「特長造り」は何処からか主導していると観る。
私はその参謀は青木氏に在ったと観ている。
主導するには「力」が必要である。少なくとも氏家制度の社会である。史料1-5でも解説しているが、青木氏は主要5氏の中でも、倍の力を持っている。力のないものが、主導してもこれだけの力の差があり、尚且つ、「第3氏の家法」に裏打ちされた「第2の宗家」に口がなかなか出せないであろう。
秀郷総宗本家の後押しもあろう。護衛と言う実績もあろう。武蔵入間を中心に青木氏116氏の本家筋が秀郷宗家一族を守っている。これだけのの条件が備わっていれば文句なしである。文句をいえば、武力差がものを云う。この時代は宗家に逆らえば文句なしの潰しの社会の氏家制度である。
先ず間違いないであろう。青木氏以外にない。
秀郷宗家に代わって”青木氏が統制していた”と観ている。
ある大學教授の「藤原氏の研究史料」では、一部「藤原秀郷主要5氏」を「青木一族の系譜」の中に入れているものもある。これはその程度に統制されていた事を物語る。
だから、青木氏は江戸時代まで勢力を持ち得たのである。
途中で鎌倉幕府樹立で朝廷職を失い各地の秀郷一門は離散した。しかし、取り敢えずは「頼朝」の2度の「本領安堵策」強行で息を吹き返し、領国と各地では主要5氏の末裔が大豪族、大郷氏、大豪農、大豪商、と大大名となって生残った。これを物語るのが、主要5氏の家紋なのである。
しかし、後の北条氏とは大変な軋轢が起こっていたのである。
地頭、御家人と対立しながらも、その代表的な氏として、幕府に入り、虎視眈々と狙っていた青木氏が守る秀郷宗家の足利氏がある。
そして、後に、足利幕府を樹立する事になるのである。
この足利氏が鎌倉幕府の重鎮として残り得たのは、頼朝の幕府樹立に最も早く合力して貢献した藤原宗家の朝光である。それが宗家足利氏に繋がったのである。この時、先ず最初に本領安堵されたのはこの朝光であり、その末裔の結城氏が先ず最初に北条氏に潰されたのである。そして、それを引き継ぐ足利氏も北条氏に圧力を加えられたのである。
しかし、上記する藤原一門の底力がそれを支えたのである。何をか況や、真にこの青木氏が一門を総括して支えたのである。室町末期の信長から逃亡した時も、青木氏が匿ったのである。
だから、信長は東には手を出せなかった。
この力は記録では明治初期まで続いている。その記録では、江戸時代の中部、関東で多発し、明治の2度の大「一揆」までを含めて、その裏での主導はこの藤原秀郷流青木氏と皇族賜姓青木氏との連合があった。
我々子孫が今に残るは、この先祖青木氏の努力以外に何ものでもない。
先祖の努力の理解が、これからの子孫の如何を左右する。
そのためにも、後世の青木氏が我々の時代を評価した時に、その何がしかの努力を受けるためにも、史料を提供してそれを考察して、現世で理解を広げて頂きたいと考えている。
次ぎの序文と7/10(永嶋氏の考察)からは秀郷主要5氏の本文に入る。
先ずは永嶋氏から入るが、以上1/10-6/10の史料を参考にして、お読み頂きたい。
そうすることで我々が習得した歴史の史実より、より深く理解が広まるものと考えている。


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