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「青木氏の伝統 69」-「青木氏の歴史観-42」

[No.394] Re:「青木氏の伝統 69」-「青木氏の歴史観-42」
投稿者:副管理人 投稿日:2022/02/23(Wed) 10:08:32
「青木氏の伝統 68」-「青木氏の歴史観-41」の末尾

> 前段でも論じた事だが、「額田青木氏の一族」が戦乱の世であっても「額田を抜け出す口実」として「伊勢詣を理由」に「簡単・船でも2時間・船を桑名西尾渥美の泊に出していた」に比較的に議論になせない程に簡単に「伊勢に立ち寄っている事」を考えれば、「同時、同時期、同場所、同目的」は充分に有り得て、故にその絆を史実の通りに「三方ヶ原では三者共同作戦が採り得ていた事」に成るのだ。
> 但し、「額田青木氏」は「桑名の浄橋飽波の裔系」であるので「上記した伝統の掟」により「貞」はあり得るかは疑問の遺る処であったが上記の推論が成立する事で問題は無くなるだろう。
> 唯、これも「非常時の直近での事」で成り立つ「一つの説論」であるのだが、「伊勢の総合差配が在った」とすれば、この「非常時の説論」は無くなるし、「伊勢訓練」から「三方ヶ原」とその後の「三河と駿河の殖産業」までの「約80年から100年間の良好な経緯期間」を考えれば先ず間違いは無いだろう。
> 「上記の推論」も含めてそうでなければ「前段の論」も含めて「約80年から100年」は保てない筈である。
> これは「伊勢秀郷流青木氏」の「始祖青木梵純のパターン説から興る」ものであるので、先ず間違いは無いと思うが、更に「研究中・資料発掘と読み込み中」なので深く確実に解明できれば更に「追記」で投稿する。


「青木氏の伝統 69」-「青木氏の歴史観-42」

(注釈 「二つの青木氏に影響した武田軍の時系列の詳細経緯」)
この検証の為に前段より少し話を戻す。
先ず、もう少し「武田軍の詳細経緯」を「青木貞治の行動と額田青木氏の行動」に影響している事があるのでそれに関する重要な歴史観を論じて置く。
実は、ここで「青木氏の歴史観・額田青木氏の貞秀の目と駿河青木氏の目」として注目して置かなければならない事があるのだ。
それは、「堀江城落城後」に、必ずしもこの時点で、「戦後の戦略」として「宿営地・二極化拠点」とするだけで、時系列から調べると、「堀江城の武田軍の本隊」が「三方ヶ原に来る」とはかなずしも決まって居なかったと読み解けれるのである。
先ず、例えば、何故ならば「三方ヶ原の2年後」の「長篠の戦い」でも「織田軍」は“「本陣」”を「長篠の戦場」より「別の所・4k真西・茶臼山」に置き、そこから指揮し、この「野営上の戦場」は別にした経緯の史実があるのだ。
それを研究として見ると次の様に不思議な構えに成るのだ。
そして、先ず「信長の本陣」からここより「南1k横に家康本陣」があった。
「信長の本陣・豪族館」を除いて全て本陣は「寺」であった事が解つている。
そうすると「秀吉の陣」は「信長本陣」より真北に「500mの上の所」に置いて安全を期した事に成る。
つまり、「信長本陣」を中心にして「南北に家康秀吉の二人の本陣」を構えて万が一の安全を期している。
この時、「敵方の勝頼本陣」はこの北部の「長篠の戦場」より「真北1k」に「本陣・寺」と「軍」と共に配置して「秀吉の陣」と何と「500m離れた所」に並行して置いていたのだ。
つまり、この位置より「真西4kの位置」に対峙して「信長本陣」があった事に成るのだ。
この配置は「長篠」を中心に、丁度、「辺1kの三角形の位置形状」で配置されていた事に成る。
これは「いざ徒士での開戦と成った事」を配慮しての事であるだろう。
そして、「信長」はこの「長篠の戦場」には「周囲・北と東」にかけて事前に「固定の馬廻り柵」を「くの字」にして張り巡らして、その後ろに「信長本陣」を背後にして「傭兵の雑賀の火縄銃隊」を配置して「敵の攻撃」を直接に受けない様に保護していたのだ。
つまり、敵方が「三つのどの位置」から崩しに掛かるかを観て、どの位置からでも応戦が叶う様に構えていたと云う事に成り、中央と北か東かどちらの三方からでも「銃撃戦を繰り返す事」が出来る様にしていたのだ。
ところが「勝頼の本軍の陣形」は、この「くの字」の「右上の先端部分の500m右側」に配置したのだ。
不思議な何か意味のある配置で在る。
普通なら左右、つまり「右の秀吉軍」、「左の徳川軍」を睨みながら「くの字」の「弾丸」が届かないぎりぎりの位置の「中央の1km程度離れた位置」に対峙して配置する筈である。
ところがそうでは無く北の「秀吉軍の右500m真横」に位置したのだ。
これから観ると、先ず「一つ目」は明らかに「武田勝頼方の総合軍勢・2万5千説」が少なかった事を意味する。
無勢であるが故に何か戦略的な位置とした事に成る。
「二つ目」は「信長軍の傭兵火縄銃隊3000」を恐れて逸らす位置に配置した事をも意味する.
そして、「織田軍の傭兵銃隊」に届く前に、「三つ目」は「左右の秀吉軍と徳川軍」に挟撃される可能性があった事を意味する。
この「三つのリスクの事」の事だけを考えた場合でも、この「リスクを出来るだけ下げる配置」とする必要があったと考えられた筈だ。
だとすると、「勝頼軍」は必然的に「くの字」の右上の先端に位置した「秀吉軍の真横の右上」に配置する以外には無かった筈だ。
そして実際にその様に配置したのだ。
だとすると、これでは「戦術」としては普通は「信長本陣を直接に攻撃する戦術」は採れなかった筈だ。
この配置の通り、先ず、戦略的には「直ぐ左に位置する秀吉軍」を崩して様子を見る必要があった事に成る筈である。
なぜならは、「信長軍」の前には「銃の傭兵軍団用の馬周り柵」を前に採っている。
況して「信長軍」は「くの字」に囲んで「本陣」を護っているし、そうすると「徳川軍」はその「織田軍の銃隊の前」を横切って前に出て戦う事は出来ないし,そうすると本来の「徳川軍の戦略の目的」は「織田軍の本陣を護る位置」に在った筈で、この目的は崩す事は出来ないので、先ずこの「二つの軍の配置」は崩さず「秀吉軍」を援護の為の配置するものでは無かった筈だ。
そうすると、この配置から「秀吉軍と徳川軍」が崩されても「織田信長軍」は動かなかった筈だし、「くの字の馬周り柵」が邪魔して自由に動けない位置にいた事にも成る。
それは、「雑賀族を主体としての銃隊の傭兵軍団3000の戦力」は、当時の常識では銃を兵力に換算すると10倍以上に相当すると云われ「恐ろしい戦力」と読まれていて、そう云う常識にあったので、これでも「最低3万の兵力」と成り兵力的にも「勝頼軍2万5千より未だ上」であったと計算していただろう。
「銃隊の傭兵軍団3000の戦力」が仮に破られたとしても、未だ「織田軍独自の軍」が「本陣の周り」を固めていて、これで「無傷の勝頼軍」としても勝負は決まらないだろうし、現実にはその前に「銃隊」に叩かれていて戦える状況では無かった事に成り得る。
仮に「秀吉軍」が真横から攻められて敗退としても「徳川軍」が「1k左」から前面に出て来て既に「傷ついた勝頼軍」と対峙する事に成る。
故に、飽く迄も「信長軍全体の配置を崩す事」は始めからしなかった筈であるは出来なかった事に成る。
要するに、「勝頼軍の戦術」は「織田側の三軍」に対して「確個不抜の攻撃」を仕掛けるべきであったし、其れしかなかった筈だ。
当に上記の「長篠の戦い」では「織田方の三軍」はこの「三方ヶ原の武田軍略」を先取りして「二つの拠点造りの戦略」を採ったと云う事に成るのだ。
要するに、「信長」はこの陣形配置を考えた場合に「信玄の三方ヶ原の戦い」を参考にしたと観ているのだ。
それに「傭兵軍団の雑賀族根来族を主体としての銃隊の傭兵軍団3000の戦力」を本陣が攻撃されない為にもその直前で「圧倒的な戦力向上を目的」として利用して「殲滅作戦を採ったと云う事」に成るのだ。
これは「直前の父の戦略」を事前に理解せずに無視して戦ってしまったと云う事に成る。
あまり「将としての器では先ず無かった事」に成り、要するに戦う前に負けていたのである。
だから余談だが、史実に遺されている様に、“武田方の指揮官達は戦いの前に分かれの宴を躱した”とする史実が遺されているのだ。
唯、何故に「くの字の先端に位置した秀吉軍」の直ぐ「横500mの位置」に位置したかと云う疑問が残る。
此れには上記の位置にいた「苦しい勝頼軍の唯一の勝つ為の唯一つの秘策・信長軍の配置の欠点」が観える。

前段でも論じたが、二つの郷土に遺る逸話を元にした「郷土史の記録」には次の二つの資料が遺されている。
一つは、「信長本陣の館壁」に銃弾痕が無数あったとする事と、「雑賀族の銃隊」の後にも“酷く潰れた弾丸”が"多く畑に遺っていたとしている事である。
そこの処を掘ると、集中して一か所周囲に多数に遺されて出て来た事の記録である。
これは「史実である事」が後の研究で証明されている。
この事は見逃す事の出来ない重要な事である。
これは「通説」と成っている「騎馬隊が先頭切って突っ込んだとする説」を覆す事であり、この事が興るという事は、先ず先頭切ったのは「勝頼軍の数少ない銃隊・200の守備隊説」が「3列」に整列して突っ込んで来た証拠であり、それが「信長本陣の館300m程度・弾丸の飛距離」まで「馬周り柵の北側の右柵・秀吉の陣の際」を破って接近していた証拠と成り、且つ、その後、「信長の傭兵軍団の銃隊」の中の「くの字の右側」から侵入して来た事に成る。
つまり一時的に、この「くの字」の「北外側の右柵が破られていた事」。つまりこれは{秀吉軍と北側柵の間」に成り、それが当に「真西」にある「信長本陣の置いていて館」の近くまで侵入していた事を「壁の弾丸跡」が物語っているのだ。
つまり、「勝頼軍の銃隊による守備隊の決死隊が編成された事」を意味し、これが全滅した事に成り、「戦い」の後を農民などが戦場を整理して兵を軍別に分けて葬った事の記録が遺されているのでこれはそれを纏めたもので史実である。
この時の「記録・1万2千・銃による戦死」から「勝頼の武田全軍の7割近く・2万5千比」が戦死していた事に成り一致する。
但し、「双方の祐筆が遺した公表している戦記」からの数字とは合わないが、当然に何れも極端に少な目であるが、「長篠の戦い後の勝頼逃避行の記録の数」は脱落者や死人や掃討作戦での犠牲者から最後の村に到達したのは「当初200人で最終は100・数人の説もある」にもなら成らない数に成っていたとされている。
その戦場の総合墓地と逃避中の墓所も発見されている。
この時の「農民の口伝」を下に江戸期に入り「数人の郷土史研究家」が取り纏めた資料の書籍が遺されている。
その解説に依れば、その遺された「多くの弾丸の潰れ方・平坦に潰れていた」から「流れ弾」では無く何か固いものに当たっていた事に成る。
「郷土史の説」に依れば暫くは畑から弾丸以外にも「戦歴を物語る物」が出土していたらしい。
つまり、それらの事を読み込むと、一時には「右側の柵に完全に柵の中に入り込んでいた事」に成り、「数は少ないがその弾丸」の「潰れ方」から「銃などの鉄製」に当たっていた事に成るとしているのだ。
「戦場での潰れ方}ではそういう事に成る。
この考察から、上記の陣形から「戦法」に行き詰まり「決死隊」を「勝頼の守備隊の銃隊」で編成した事を意味する。
そしてこの「銃隊」のちょっとしたチャンスを生かそうとして全軍を突破作戦に無理に切り替えた事に成るだろう。
恐らくは、勝頼軍は「信長軍の馬周り柵の中の様子・銃隊の実際の数や三段構えの戦法態勢」が実際に掴めていなかったのだと考えられる。
通常は「武田軍の隠密等」も探っていた筈で「通説」とは違って「信長」はこれらを当初から敢えて「何らかの方法・戦記には車に蓑の表現が出て来る」ので隠していた可能性がある。
「勝頼の陣」からはこの「信長本陣」は、丁度小高い丘を影にしていた事から詳細が観えず、この「勝頼の決死隊の功績」で銃隊の勢力を低く見たのでは無いかと予想できる。
つまり、これはこの「隠していた状態」の時に「決死隊」が比較的に簡単に「右の柵・秀吉軍の左際」に沿って突っ込んで来たと云う経緯と成ろう。
そこで「信長のくの字の馬周り柵を伴った陣形」の「最大の弱点」は「右側のくの字の縁」に沿って「直線的に走れば「信長本陣館」に到達する。
これが「弱点」であるからこそ「くの字」の真ん中では無く、この「右にある秀吉軍」に対して「勝頼本陣」を極めて接近させて「即応態勢」で防ごうとしていた事に成る。
その「弱点」を「勝頼本陣に直接所属していた守備隊」を「決死隊の銃隊」に仕立てて先ず先陣を切らせて攻めさせたと云う事であろう。
これが「信長本陣」の近くまで到達した事を観て、この「くの字の弱点」を確信して「赤兜6000騎馬隊」を次に突破させようと突進させたのであろう事が「郷土史の後の経緯研究史」でも判る。
ところが、そうするとこれに「本来の配置の役目」を持つ「秀吉軍」は阻止する為の即応が出来なかった事の史実と成り得る。
これは何故かである。
それは「勝頼軍の本陣」そのものが「くの字の右際に沿って直線的に移動するとこの「くの字の戦棚」に沿って陣を敷いていた“「秀吉軍」にはどの様な事が興るか”である。
「勝頼軍の本陣」が「秀吉軍の正面に向かって攻めて来る」と開戦前の当初は観ていたが、それが「くの字の隙間」に沿って「200の突撃隊の銃隊」が先ず突っ込み、次に「赤兜6000騎馬隊」が「猛スピードで走った事」で「秀吉軍は軍の向きを柵側の南に変えられず、且つ、仮に攻めたとすると、この行動は「くの字」の「馬周り柵内の傭兵軍団の銃隊の陣形」を壊す結果と成り、右横から向きを変えて秀吉軍に攻められた「赤兜の騎馬隊」が左横に逸れる事で「戦域幅」が広く開き、その事で「くの字の馬周り柵」は壊れ、この結果として「信長本陣の館」は危なく成り、却って「勝頼の赤兜6000騎馬隊の目的に利する事」と成る筈であった。
そして、下手をすると「勝頼軍の4軍の徒士軍」が正面から「秀吉軍」に向かって決戦を仕掛けて来る事と成ると、「秀吉軍」は南側と東の正面側から攻められて壊滅する事に成る。
だから「秀吉軍」は敢えて「史実」は動かなかったのだ。
ところが、ここで「幾つかの史実」を組み合わせると、このタイミングでここで「思わぬ事態が興った事」に成るのだ。
それは「くの字の内側右側」にいた「馬周り柵の傭兵軍団の銃隊」は「赤兜の騎馬隊」の余りの早さの攻撃に態勢が崩れそうに成った。
然り乍らも、これを盛り返し再び「銃弾幕の激しい銃撃」を開始し始めた事に成る。
問題はここに在るのだ。
そこで、「200の銃の突撃隊」で「くの字の北側」を崩して進入路を造った後に、「山型陣形の赤兜の騎馬隊」は、「郷土史の研究記録」などの記録・弾丸と死傷者の集中位置等」から観て、「くの字の馬周り柵」の真ん中より内側の中心よりに押し出して進軍していた事に成りる。
それが、つまり、一時、「くの字の北側」が崩れてその「傭兵軍団の銃隊の立て直し」がその後何とか出来て、その間に「傭兵軍団の北側の銃隊」に犠牲を負っていたのだ。
つまり、この事はその北側に犠牲を負っている「傭兵軍団の味方の銃隊」が未だ居る中に向かって何と「くの字の中心と南」に位置していた「傭兵軍団の射撃」が止む無く突然に開始したのだ。
つまり、「味方の銃隊」が「味方のいる北側}を射撃した事に成るのだ。
当然に「味方の犠牲者」は出るがそうでなければ「くの字の中は総崩れ」になるところであった。
これは同時に「信長本陣」も危なかった事を意味する。
この結果として、これで「山型陣形の赤兜の騎馬隊の先頭」が「くの字の内側横・中心側に広がる結果」と成って仕舞ったのだ。
つまり、この時、敵味方の双方に多数の犠牲を負う事と成ったのだ。
然し、この時、傭兵軍団の銃隊に異変が起こったのだ。
それは織田軍側は「傭兵軍団」だという事だ。
そして織田軍と秀吉軍はこれを救わなかったという事だ。
この二つを合わせれば何が起こったかは判る筈である。
然し、傭兵軍団はこの戦場ではg:yを伴う為に織田軍に対して態度を露わにしなかったのだ。
その頃より、結果として今度は中心より「左のくの字」の「傭兵軍団の銃隊の弾幕の範疇」に入り一時途絶えた弾幕は再び開始された結果、「山型陣形の赤兜の騎馬隊の陣形」が史実の通りに「総崩れ」と成ったのだ。

これを救おうとして「山県軍の徒士軍団4軍」が「くの字の右内側横」に押し出した結果と成って仕舞ったのだ。
「郷土史の研究記録」の「弾丸や死傷者の位置等」から余り犠牲者が出る筈のない「傭兵軍団の右横の銃隊」にも多く犠牲者が出た戦歴と成っていて多く弾丸が残るのは、この経過を物語っているのだ。
結局は、「傭兵軍団のくの字の左横の銃隊」の横からの態勢を整え直した「三段攻撃の総攻撃」を受けて「赤兜の騎馬隊」のみならず「4軍の徒士軍団」も「全滅・1万2千」した事の史実の経緯が「郷土史の研究記録」からも裏付けられて判るのだ。

この様に「勝頼の本陣の位置・秀吉軍の左500mの配置」は「織田軍とその三つの軍」と「馬周りの柵」とその兵力から、その弱点と成るこの位置を採った事が判り、当初よりその「弱点」を突く戦略で在った事に成る。
そして、それを証明する為の「200の銃隊による決死隊・本来の勝頼の守備隊」を敢えて前面に出して崩す配置をした事が判る。
そして、「4軍の家臣団」の全てから「反対・記録」を受けながらも強引に「勝頼の独断」でこの「少数の銃隊・勝頼の守備隊」で「突撃させてしまった事・それなりの戦功はあった」に成る。
要するに、この勝頼は「三方ヶ原の二極拠点化」の「六稲三略から来る常套戦術」を参考にせず「弱点攻撃」に切り替えた事にし、護らなかったのだ。
然し、現実はこれしかなかったのでは無いかと考えられる。
要はその成否の境は、「くの字の馬周り柵」に沿って配置された「傭兵軍団のくの字の北側の味方」を「自らの銃で撃ってしまう」と云う耐え難き悲惨な事の「判断の差」で事は決まったと云う事に成る。
史実はこの悲惨な代償に信長は全く応えなかったのだ。それどころか戦い後直ちに「傭兵軍だの攻撃」を開始したのだ。
故に筆者は勝頼の戦略にはこの「非」は通説と違い無かったと観ている。
然し、これに従えばより良くするには「勝頼」は先ず「秀吉軍の拠点」を打破して「くの字の弱点」を先ず抑えて「二拠点化」にして有利にし、其の上で「くの字が崩れた信長軍」の「次の出方」を先ず観るべきであったのだ。
「信長軍の全軍」はそもそも「傭兵軍の銃隊」が「命綱」である以上は「くの字の陣形」を崩せなかった筈であり、この「信長の採った二拠点化」は痛手で在った筈である。

ここで、注釈として後に事件が興ったのだ。
この「見方が味方を撃つと云う事・助けを出さなかった事」が原因で長篠後に紀州征伐が起こり「信長と犬猿の仲」に成る。
この機微を勝頼は戦場で見抜けなかったという事に成る。
この「銃隊による決死隊・勝頼の守備隊の突撃」で「くの字の外側の右側」が現実に崩されたが、この時、「秀吉軍と織田本軍と徳川軍」はこれを救わずに記録では黙って観ていたのだ。
この時、「主に雑賀傭兵軍団の銃隊」は崩れながらも「自らの力」で「態勢」を立て直し、味方のいる右に銃口を向け直して何とか「応戦態勢」を採り始め、結果として“「味方1200の犠牲・傭兵軍団の半分の犠牲の史実」”を出しながらも盛り返した。
そして、この状況を観て「くの字の南側・左側の銃隊」は弾幕を張って柵から出て自らの力で犠牲を出しながらも味方を救助し開始した。
最早、「長篠の郷土史の伝説」では、この時は「軍団の銃隊の指揮官」は「織田氏の指揮官」に従わず自らの身内を護る為に「雑賀族が指揮を執った」とある。
そして「長篠の戦い後」に、「この事」が元で「雑賀族と信長―秀吉」とは逆に「犬猿の仲」に成って、「銃隊の傭兵軍団」は「信長」に一切味方する事は無かった。
前段でも論じたが、「長篠の戦いの戦後始末後」に、[信長―秀吉軍団」は史実として「大紀州征伐」を長期間で実行し「雑賀・根来傭兵軍団」は「分断」される始末と成り瓦解に到るのだ。
前段で論じたが、改めて「信長の軍」は、この時、「雑賀族三軍団の征伐・鈴木氏族・根来族・土橋族」に矢張り「銃の軍団」に大失敗し、大阪に一時逃げ帰ると云う経緯と成っていて、そこで「信長」はこの「雑賀族三軍団」に対して「調略作戦」を開始したのだ。
「紀州の紀の川」の川を挟んで「北側の土橋氏族」に「調略」を仕掛けて成功するが、「鈴木氏族」は譲らず続けられていた戦いに応戦した。
そして「根来氏族」に対しては、「秀吉に歴史」に大きく残る「焼き払い殲滅作戦」で一族を焼死で殲滅させたのだ。そして「伊勢青木氏」に逃げ込んできて匿う事が興ったのだ。
「孤立した雑賀氏族」は、飽く迄「戦い」ながら子孫を遺す為に「三つの裔系・鈴木氏本家と分家の鈴木氏の雑賀氏と土橋氏との血縁族」に分けて戦う事に成った。
「現海南藤白地域・鈴木氏発祥の地」に在した「鈴木氏本家族」はその支流末裔が存在していた「紀伊山脈の山の中」に「山族」として逃げ込み、「平家の生き残りの龍神族と十津川族」と組んで「織田軍」に「銃のゲリラ戦」で対抗したのだ。
「分家鈴木氏の雑賀族・現雑賀地域」は、「紀の川の南側」の平地でゲリラ戦で死守して譲らなかったのだ。
後に少数でも強い敵に立ち向かう者を「紀州惣国者」と呼ばれた。
信長調略に応じた「土橋の血縁族」は、「一族内・川南との」に内乱が興り、最終は「川北の土橋族」が信長に着いたのだ。
この状況の中で「土橋族の持つ銃を獲得した事」を下にして「秀吉の第二次紀州征伐」が興り、「ゲリラ戦・紀伊山脈の山と紀の川南側の聖地のゲリラ戦の二つ」が続いて起こったが、他の「南紀の紀州土豪達・青木氏の旧領地の家人や氏人」に対して、「子孫存続の為に伊勢青木氏説得」もあって仕方なく「秀吉側」に靡いて一応は平定された。
この後にこの状態で「秀吉の刀狩り」が興り、「彼等が保有していた多数の銃」は。「三つの生産地」も含めて「秀吉の手中・支配下」に入って「秀吉軍」はこれが下で銃を獲得し急速に強く成ったのだ。
この時、合わせてこの「秀吉の奪い取った銃」での「兵力」を高めない様に「伊勢青木氏」は「摂津で管理していた近江の生産地」を即座に廃止し、この「銃工人等」を「伊勢」に呼び寄せて「青木氏部」に入れて保護したのだ。
一部に従わなかった者等がいて「薩摩と秀吉」に密かに吸収されたとある。
この時、これを「薄々見破った秀吉」に「伊勢の蔵を焼かれる事」が興ったが「伊賀」がこれを「ゲリラ戦」で撃退し阻止したが、この様に「雑賀事件の影響を受けた経緯」を持っているのだ。
この時、この「雑賀域・鉄の生産地・現住友金属」に「伊勢の出店・伊勢屋を持った事・現地との調整する連絡事務所」が史実として判っている。
そして江戸期に入ったが、「本家の鈴木族と分家の鈴木族」は「紀州藩の銃を持つ雑賀忍者集団として組する事・歴史的に有名な史実が多く遺る」と成ったのだ。
この事件発生から歴史観を観ると、結局は「くの字の南側に位置した徳川軍・紀州藩」が恨まれずに得をし、「大量の銃と雑賀忍者・元平家族と融合」を得た事に成る。
後々、「伊賀忍者の紀州藩、甲賀忍者の徳川氏等」とその路で競り合うのだ。
「長篠の戦い」には、「三方ヶ原の戦術」により関連する掘り起こせる史実があったのだ。

この様に「今川義元・武田信玄以降の戦術」に習って「歴史上の本陣」を決して「実際上の戦場」には置かつたのであり、「1里・4kから4里・16k」の「位置・当時の活動圏」に配置するのが「当時の歴史的な常道戦術」であったのだ。
つまり、要するに「秀吉の本陣の配置」がいざという時のキーに成っていた事に成る。
「敵方の勝頼本陣」が動けば「秀吉の本陣の配置」で側面を突いて牽制する戦術で在った事に成る。
「固定の馬廻り柵」を攻撃してくる前に「秀吉の本陣軍で攻撃して崩すと考えていた事に成る。
「南1k横に在った家康本陣」は、「信長本陣」とそれを背後にした「傭兵の雑賀の火縄銃隊」が崩されそうに成った時に「勝頼の武田軍本隊の左側面」を突いて攻撃して救うと云う配置形態に在っていた事が判る。
現実には上記の通り「勝頼」は「弱点を見つけた事・銃による守備隊による決死隊で実証」で上記した様にこの様に成らなかったのだし、これが下で「銃の傭兵軍団の雑賀族との事件」に発展して行ったのだし、「伊勢にも影響が出て来る事」に成ったのだ。
「額田青木氏等が関わった三方ヶ原」はその「直前の出来事・2年」であった。

さて、「二拠点化の論の検証」に戻して、其れもが何とか「額田青木氏の新型銃の長距離銃」と違って「火縄銃の銃弾」が本陣から届くと云う「命中率低い・流れ弾程度の距離の500m」の位置に「敵方の勝頼本陣」が存在すると云う事は動けば撃つと云う態勢にあった。
況して「くの字の陣形」を採る織田全軍の配置形態に対して、然し、この常套手段を無視したのだ。
況してや、「馬回り柵の3000の銃隊」に対峙するには無視も良い処で子供でも判る攻撃でもあるのにだ。
ところが、「長篠の戦いの場合」もほぼ同じ配置形態に在り乍らも、「勝頼の銃隊200の守備隊」と共に「武田本軍の赤兜騎馬隊6000」で、先ず「秀吉軍」と「馬周り柵」の間を「側面突破」して直線的に「信長本陣を目指す」と云う「戦術上・六稲三略」ではそんな状況では無かった筈であったが、処がその是非は別として「考えられない行動」を執ったのだ。
「戦う」とすれば「基本の戦術」は先ず「秀吉軍と戦うと云う事」に成るだろう。
何故ならば、誰でも判る事だが「信長の本軍」は自分から先に仕掛ける構えではなく待つ構えであった。
そもそも「銃隊」を前に置いて、且つ、「馬回り柵」で前を「くの字」で囲んでいる以上はそもそも「徒士の本隊」を戦う為には前に出す事は出来ない。
例え「秀吉軍」が突かれ敗退したとしてもこの戦形は物理的に崩せない。
否、崩してまで出る事は100%出来なかった事は自明の理であったしその意思は信長には無かったと云える。
だとすると、この「陣形」から観ると「上記の突破作戦しかない事」に成る。
現実に「くの字の北側・右側・秀吉軍の南側面と馬周り柵の間」は崩されているのだ。
ここで様子を見る事が信長がどの様に出るか待つ必要であったと後勘では観える。
それは、「雑賀根来の銃の傭兵軍団」に異変か起こっていたのだ。
勝頼もその「異変」を感じていた筈である。
「勝頼軍の突撃」で現実に「北側馬周り柵」が崩れた。
この「総崩れ」になりかけている「くの字の態勢」を護ろうとして、「雑賀根来の銃の傭兵軍団」は「味方のいる混乱した柵側」に向かって何とか救い出そうとして射撃を開始し始めたのだ。
この為に「味方1200の/3000の味方」を犠牲にしたのだ。
そして「秀吉軍」は救出しなかったのだ。
これが現実に起こったのシナリオだ。
この時、「郷土に残り続けた逸話」では、「雑賀根来の銃の傭兵軍団」は「信長と秀吉に対しての怒り」を示したのだ。
現実に紀州では伝説としても「信長と秀吉に対しての怒り」の通りに人気は良くないのだ。

この「長篠の戦い」は結果として半日で決着が着いたが、「雑賀根来の銃の傭兵軍団」は「信長に対しての怒り」を表す為に“「紀州」に向かって直ぐに引き上げて仕舞った”と伝わっているのだ。
この「逸話」が真実だとすると、「勝頼軍の徒士隊4軍」は“一時様子を見る事が必要では無かったか”と云う考えが生まれる。
つまり、「雑賀根来の銃の傭兵軍団」は「銃先」を信長又は秀吉軍に向けた可能性があったし、「戦線離脱」していた可能性もあり得た。
筆者は、見方が味方を撃つと云う異変のこれだけの事が興れば戦場と云えど普通では無く何かこの時に「異変」が戦場に起こっていたのでは無いかと観ていてこれを敢えて捉えなかったのではないかと観ている。
そしてそれが家臣団の信頼を失うきっかけと成ったのであろう。
これを利用すれば「万が一の勝ち目」が武田側に傾くのだし、それだけの意味のある事件であったのだ。
何故ならは、彼等は「武田軍に対して敵への怒り」は元より無かった筈で、要は「傭兵軍団」であったのだ。
この様に、世情はこの様に「見殺しされるという事」は傭兵軍団に執っては今後も信長の元では次も同じ破目に成り得る。
現実に、その証拠にこれが下で間一髪を置かずして「長篠後」に「歴史に遺る残虐極めた紀州攻め」が実行されているのだ。
「郷土の逸話」の通りに、史実の「間一髪」を考えれば、何もなくしてはいきなりに「紀州攻め」は無いだろう。
確かに、信長の「銃への恐怖」と「自らも銃を持ちたい」とすれど、「史実の間一髪」は無いだろうし、そもそも世間に対して「戦う大儀」が成り立たない。
そもそも「銃」は「市場制」の中に無く飽く迄も「傭兵制」の中にあって銃のシンジケートを形成していたのだ。
後は密かに影ルートで入手する以外には無く必然的に数は護身用程度で数丁単位で在って戦用と云う事には成らず、飽く迄も銃組織のシンジケートを形成していたのだ。
この中の中心に青木氏族は摂津を介して存在していたのだ・
これは「銃」に限らず「砂鉄の玉鋼」そのものがこの範疇にあって、そもそも「商用」と成ったのは「江戸初期の摂津と大阪」であってそれでも寡占であったのだ。
それ故に、この「雑賀根来族のシンジケート」は独立性が強く、そもそも「紀州人」は穏やかな処に根に元来「古来より惣国者」としての気質を持っていたのだ。
故に、この「異変」にはこれには「味方1200の/3000の味方を犠牲」に対して戦場で「銃先を変える可能性」だけの「相当な怒り」が在った事が云えるのだ。
観ていれば戦い中のこれだけの状況では「異変」を読み取れていた筈だ。
筆者は、異変の間隔を待つべきであったとし、利用するべきで在ったし、然し、現実は待つ事は無かったのだが、これが「勝頼軍の徒士隊4軍」の歴史に遺る「家臣の信頼を失った・死の宴とする原因」に成ったのであろうと考察する。
「勝頼軍の徒士隊4軍」の突撃は待つべきで在ったと観ている。
通説の“勝頼は冷静さを失っていたの説”にこの意味では合意する。


「長篠の戦い・陣形論の経緯」と、その「青木氏・伊勢と駿河」までに及んだ「結末論」を例えとして論じたが、そこで再び「拠点化の論」に戻す。
その意味で「三方ヶ原の信玄軍本隊」は「戦術の基本に沿っていたと云う事」に成るのであって「三方ヶ原で決戦すると云う考え」を持っていた訳では無く、そもそも「戦い」は元々自在変化するがそれにしても「三方ヶ原」を「軍の拠点とする事」は無かった事が判るのだ。
飽く迄も、「三方ヶ原を起点・補給拠点」にして、「堀江城、二俣城の二拠点化」とし、その「敵方の浜松城」はこの「戦略の範囲内」にあったのだ。
もっと云えば、「家臣の犠牲」の下で早々の体で逃げ帰った「一言坂の野戦の敗戦・本陣は戦場」としたのも、考えれば、元からこの「範囲内・浜松城より真東11k・二俣城から南16k3里から4里内・浜松城は南向きの三角形の頂点」に置かれていた事からなのだ。
依って「一言坂や三方ヶ原」にしても、この辺では戦略上の位置に置かれてるにも拘わらず「戦い」を無駄に仕掛けた「元々の松平軍の戦略の低さ・家康」が見えていたのだ。
況して勝てる見込みのない「狭い一言坂の野戦・時間稼ぎ家康説もある・江戸期の後付け」の「戦い」を仕掛けた理由も凡はその処は判る。
更に、「三方ヶ原」に於いても「額田青木氏と駿河青木氏」が合力と参戦しているこの「松平側」に「戦略の低さ」が目立ったのだ。
上記した様に「雑賀根来の傭兵軍団の憂き目」と同じ憂き目を「額田青木氏」にも「指揮官の戦略の低さ」から巻き込まれる可能性があったのだが何れにしてもその心もとなさが目立つものであった事に成る。
それが「浜松城軍議の命令拒絶」で「牛族を左右する憂き目」を免れたのだ。
後勘から観れば「長篠の傭兵軍団と同じ流れ」を踏んでいた事に成る。
この「活動圏の範囲」と「陣形の向き・北向き」に依って「陣形」を選ぶのが「戦いの常道」なのであったが、其れを「松平軍」は、何と「南向きの三角形の頂点・自分の城に対しての左向き」で“「西向き」”に執ったのだ。
本来では「浜松城」を背景に「北向きに採るのが常道」であった。
然し、これであれば松平側に執って「長期戦と成った時の補給路を断たれる事」は始めから判っていたのだ。
これを「武田軍側」から観れば、その「補給路」は「二俣城と堀江城」にあって困らないが、速くに「浜松城を攻め落とすと云う点」からは「今後の戦略上」では「最終補給拠点」の「三方ヶ原」は早期に是非に必要であった事に成るが、然し、その意味ではこの「陣形」では都合が良かった事に成る。
「浜松城落城後の西三河攻め」にしても、この「三方ヶ原」はその「補給中継点」としては絶好にいい位置にあったのだし、その為には「補給拠点・三方ヶ原」の近い「堀江城」は「西三河攻めの指揮の拠点の本陣」とする戦略でもあったのだ。
其れは、同時に既に、「3っの別動隊」に依って「背後の北三河」もほぼ手中に収めていたが、それは「足利将軍の信長征伐命」で「西」で引き付けられて苦戦している「織田軍の動向」にもあった。
つまり、この「織田氏の西の戦い」が解決する前に「本陣と補給点」を前提にして先に「東に拠点を構えて置く必要」が「武田軍側の戦略」にはあったのだ。

では、この「不思議な陣形を採った松平軍」は、これに対して薄々の「武田軍のこの行動」を読めていた「家康」は、これをさせまいとして「一言坂の野戦を仕掛ける事」で「武田軍の進軍」を留めて「軍監の織田軍の意思」を入れた“「時間稼ぎの行動」を示す事”で、つまり、「時間稼ぎ」を主張する「軍目付・軍監の圧力」の「賛同」が得られる様に敢えてしてしまった為に、その様に「陣構え」を「山県軍の別動隊の動向」も在りながらも、敢えて北向きでは無く、“「西向き」”にしたと読み取れる事にも成るのだ。
この「西向き」は、「山県軍の別動隊・二俣城の行動の情報から」を「補給実戦隊」と家康等は軽く見ていて計算に入れていなかった事にも成る。
これを計算に入れていれば、この「陣形」は「浜松城を背にして北向き」にする筈であった。
これであれば「武田軍の本隊」のみならず「山県軍の別動隊の動向」も「空の浜松城」をも「戦いの中」に組み込める事と成る。
そもそも、「織田軍」が「援軍」を廻そうとすれば、「都田川の姫街道・8k-2h」を通過しなければならない訳であるから、その「三方ヶ原」の前に織田軍は「堀江城の武田軍の本隊」と「側面」を突かれて決戦をしなければ成らないし、又、下手をすれば「山県軍の別動隊の動向」に「正面を突かれる事」もあり得て、更には「山県軍の別動隊の動向」で「松平軍」は浜松城から出て「織田軍に合力すれる事」にも成れば、「山県軍の別動隊」に「浜松城を取られる事」もあり、「浜松城を出る事」は絶対に戦略上は出来なかった筈である。
従って、史実の通りに「織田軍の援軍」はあり得ないのであるし、無理に「浜松城の援軍」に向かえば「北三河」が落とされている現状では、北から「織田軍の左横腹」を突かれて進む事に成る等で現実は出来ないのだ。
つまり、この「自明の理の戦略状況」から元より「織田軍の援軍説は無かった事」に成り、当初より「信長」は「軍目付・軍監」だけで「南三河と西駿河の事」は治めて「時間稼ぎ」をする「目論み」であった事に成る。
其れも「織田軍」の「浜松城援軍の時間稼ぎ説」では無く、「織田軍」の為の「西三河攻めの時間稼ぎ説・昔からの領地続き争いの西三河」であった筈である。
つまり、これは「家康の思考」の中には「織田氏の援軍は無いもの」として、然る事乍ら、最早、余りにも「西三河」に「視点が行っていたと云う事」であるのだ。
その結果として「額田青木氏」が無理に呼び寄せられた「浜松城軍議で妥協案が出た事」から、これを読み切る事が出来なかった「美濃守備軍の平手軍・汎秀戦死」は、「信長の命に反して合力する事」と成って「平手一族」に対して「信長から強い叱責を受ける事の始末」と成ったのだ。
この「筆者」、即ち「額田青木氏の指揮官の考え」の「経緯の分析説・陣形の分析説」から観ると、故に「武田軍本隊と別動隊の大軍」も「北の三方ヶ原・補給拠点」にして、上記の「二拠点化戦術の常道手段」の通り「浜松城を陣取る事」にして構える事に成っていた筈であると説いている。
唯、確かにここを「本陣とする説」も考えられるが、地理的や地形的に「遠江の入り口の堀江城」を超えて「中に入らせる戦略」は常道ではないし、そもそもそうであった場合は「堀江城攻めは無駄に成る事」に成り、その意味が無くなるだろう。
そもそも既に、「浜松城の周囲全域の出城」を落とされていていれば、自然と「補給路を断たれ事で「浜松城は落ちる事」は「時間の問題」であって、「攻め落とした西駿河の安定の補給路」と「北三河攻めの補給路」を「三方ヶ原」に「大規模な補給拠点を造る事」さえ出来れば「総西攻めの為」にも「無駄な戦い」はしないであろう。
後は、「孤立した松平軍」に執っては密かに「海からの補給支援・南」に頼るしか無くなるのだ。
当然に「信長」も同然にこれを救う「強い水軍も持っていなかった事」の為に「充分な補給路の無い所」に「援軍を出す事は自らの首を絞めるだけ」で当初よりその「心算」は無かったのだ。

注釈として、前段でも論じたが、故に記録にある様に、この時、「伊勢水軍・伊勢衆は調略を受けなかった」が一部の小さい「尾張衆の知多衆」だけは受けたのであり、それと「熊野水軍・調略を受けた」に「調略」を掛けて来たのだ。そして最終は「熊野水軍」は調略に乗ったのだ。
此れには一つ問題があって、当時の水軍にはその「厳しい縄張りの掟」があって果たしてこれを破ってまでも浜松沖まで行くかは不可能な問題であった。
それは他の水軍から掟を破った事で「総攻め」を受ける事に成る。
背後から「伊勢水軍など軍団」から突かれればそれこそ戦わずして壊滅で憂き目を受ける。
何故ならば出過ぎた「熊野水軍の補給路」を接水運組合ので前段で断てばよいだけである。
通説が解いている「熊野水軍説」は100%あり得ず、又その勢力からも「紀伊水軍」や最大勢力を誇っていた「摂津水軍」の「組合連合軍を敵に廻す事」は不可能であった筈である。
当時は「堺に事務所を置いていた水軍組合」は一熊野地方の熊野水軍が幅を利かせる程では無く「絶大な権力とその勢力」を持っていた史実があるのだ。
従って、「熊野水軍の利用」は「信長のデスチャー」で現実的では無かったのだ。
さて、だからところが、「武田軍」には山国であった為に「陸揚げ」を遮るだけで「海での水軍・最大の欠点」は無かったのだが、そもそも“海で戦うその必要性は無かった”のだ。
結局はこの「水軍説」を根拠としている「熊野水軍説の通説」は合わないのだ。

さて、ここで「伊勢水軍の保護」の下で「摂津の水軍組合の一員」と成ったとする「本論」の「駿河水軍の青木貞治」の「キーポイント論」が出て来るのだ。
「駿河水軍の主」として育った「二俣城の副将の青木貞治の存在」は松平軍が求める「海からの支援・南」に執って“最大の重要ポイントの役目”であったのだ。
だとすると、「松平軍」には「駿河水軍の青木貞治の存在」は、「戦略上」では極め大きかった筈であるが、ところが「旗本の羨望」で実際上は「二俣城の副将の扱い」まででそれ以上の「その正統な扱い」を受けていなかった事なのだ。
「副将の青木貞治の存在」のそのものでは無く、その「異様な影の背景・旗本」はこれを敢えて認めようとしなかった事」にあったのだ。
そもそ、海から最も遠い「二俣城」に追い込めていたのだし作戦上からどう考えても変である。
史実の判っている後勘から考えても「軍としての指揮官の能力」を疑っていただろうし、駿河青木氏の貞治は当然の事として、「額田青木氏の指揮官の貞秀」から観ても大きな疑問を持っていただろう。

当然に、この「三河旗本羨望」とも成っていた「背景の一つ目」には、「青木貞治」に繋がる「額田青木氏の南下国衆の銃隊・伊勢の裔系」にもあった。
更に「背景の二つ目」には、「伊勢青木氏の財力」とその「伊勢シンジケート」と「伊勢水軍」は「海からの支援・南」を可能に成ら占めるにもあったし、その「実質の武力行使」では「秀郷流一門の抑止力の存在」が厳然とあった。
次の「背景の三つ目」には、「海」では「青木氏族」として「東は伊豆相模」まで「西は摂津瀬戸」に繋がっているのだ。
この総合力があったとして、この「三つの背景を実現させしめる手段・イ」は次の様に成っていただろう。

その「手段・イ」が果たして可能ならしめるのか検証して観る。
先ず、地形的には「馬込川・最狭川幅60m」より入り北に船で8k遡上し、そこで、陸路の真西に「六間通り」を1.5k経て真っすぐに「浜松城」に入れる。
故に地形的には「補給路」として充分に可能であった。
然し、ところがこの「三方を囲まれている場合」のこれを「可能ならしめる警備・武力」に付いての事も「松平側」には全くなかったのだ。
「武田氏」はこれを抑えれば「補給路の断絶」は可能となるし、奪取する事も容易に可能であった。
ところが、こんなに「重要な事」なのに「商記録」や「資料」や「手紙の行」や脚色編集されていると云えども「三河記録」にも、全くこの事に付いての影も形もが触れている処が全く無く、且つ、そもそも資料記録が遺されていないのだ。
間違いなく、「青木貞治の手」で駿河水軍・伊勢水軍の支援」を使ってこの「補給路作戦、又は計画」を実行していた筈である。
それは「東からの秀郷流一門からの補給路の作戦」も考えられただろうが、それに関わる様な記録や資料とそれを物語るような語句や行等は不思議に全く何もないのだ。
この「松平氏の恥辱と成るような資料一切」が後で消された可能性がある。
つまり、筆者が論じたい事は次の事である。
「額田青木氏の南下国衆の銃隊・300銃隊+50荷駄隊」を「吉田城の守備隊」から、突然、「当初の国衆約定」と異なり「浜松城」に呼び出した。
そして「軍議」に於いて「二つの事」を命じられそうに成った。
その目的の「一つ目」は、「籠城戦」を止めて野戦と成った場合に、その「陣形・鶴翼」の中心に「南下国衆の銃隊・300+50荷駄隊」を「実戦隊の中心」に据えて「不利な形勢」を変えて勝利出来る様にする事であった。
確かに、これでは「鶴翼の陣形で効果を発揮し勝つ見込み」はあったが、「額田青木氏の南下国衆の銃隊・300+50荷駄隊」にも、「雑賀根来傭兵軍団」と同じくそれなりに無傷では行かずに「大きな犠牲を伴う事」は必然の理であった。
然し、これはそもそも「国衆と成った時の約定」とは違う。
結果は、前段でも論じた通り、これを断り、「城」より放り出され、意味の無い「一言坂偵察」として派遣された経緯と成ったのだ。
目的の「二つ目」は、「籠城戦と成った場合」に本論上記した「伊勢と武蔵の協力」、つまり、「水軍に依る補給路の確保」と「補給の態勢造り」にあった様でこれも断ったのだ。
確かに「水軍を持ち得ない敵である事」から「戦場域」では襲われる危険性は少ない。
然し、既に「武田氏の手中」にあった「同族の信濃と諏訪の安全」と、片脚を掛けていながら「中立」を見せている「伊勢の安全・掟に依り直接侵攻は無い」は保障できない。
取り分け、「信濃と諏訪の安全」は、そもそも既に「武田軍中」にあって侵されている事から、これを盾に脅して来る事は充分にあった。
既に「筆者・額田青木氏の指揮官の考えとしてみる」は「脅しや牽制」に付いては「信濃」を介して事前に有ったと観ている。
筆者は、「松平氏の戦い」に必要以上に肩入れする必要も無い故に即座に断ったと観ているのだ。
目的の「一つ目」を遣らないのであれば、目的の「二つ目」も遣らないのが「理」であって、この逆の事も云える。
ところが次の目的の「三つ目」があった。
それは、「額田青木氏」の「基」に成っている「西」の「伊勢の影の勢力・伊勢シンジケート・伊勢屋を含む」と、「駿河青木氏」の「基」に成っている「東の武蔵の秀郷一門の勢力・地場産を扱う商い・長嶋屋等含む」とを、「背景」にする為には、この「二つの抑止力」を「松平軍が獲得・合力」が成立出来得れば、「浜松城の籠城戦」は充分に勝てると確かに見込める。
そもそも、「軍議の為」に態々三河の「吉田城の任」を解き呼び寄せたのであるのだから、「松平軍の基本戦略」は、その“「二つの象徴を味方にし呼び寄せたいと云う事」”では無かったかと観ているのだ。
そして、そこに「額田青木氏・伊勢青木氏裔系」と同縁族の「駿河青木氏・秀郷流青木氏裔系」を「背景に着ける戦略」であったのではないか。
然し、この「三つの何れ」も断ったのだ。
「結果の答え」は「旗本との軋轢・前段論じた」が在った以上は論じなくても解る。
この「軍議の末」の「籠城戦」は、これで論理的に崩れ、「野戦を選ばなくてはならない事」と成ったのだと考えられる。
その表れが、「補給基地の三方ヶ原」にあって、前段で論じた通り「密かに助け合う額田青木氏と駿河青木氏の行動」と成って現れたのだ。
これ等の「統一した行動」は、「伊勢青木氏裔系」と「秀郷流青木氏裔系」の「女系族の裔系の青木氏存続の氏是の所以」から成したものであったのだ。

ここで余談だが「浜松城の軍議」では、「青木貞秀・指揮官」も「青木貞重・額田青木氏の差配頭」も「青木貞治・額田青木氏」も「青木・・のこの三人の指揮官」も「嫉妬羨望の旗本」からの「相当な身の危険」もあったのではないかとまで観ている。
その最悪の場合には、「額田青木氏の銃弾」は「城」に向かって一斉に炸裂していたであろうし、其の「後の事」として「松平軍」は最早無く成っていた事にも成っていただろう。
そして「額田青木氏」も「駿河青木氏」も「安全な伊勢」に近い「三河伊川津」と「秀郷流一門」に近い「遠江・駿河」に直ちに戻ったであろう。
「三方ヶ原」での「上記の経緯の結果論」は、上記の「三つの何れの結果と同じであった事」を考え合わせると、この「歴史観」は先ず間違いでは無かった事に成るだろう。
そもそも、「武田軍」も「織田軍」もこの場合の方が傷を得ずして何事も無く都合は良かった筈と成る。
ところが結果として、「額田青木氏の銃隊」を呼び寄せたが「思惑」が外れて「額田青木氏」だけは“「城外に出された事に成った・史実」”のだ。
この直前までは「武田軍・早期奪取」にしても「松平軍・時間稼ぎ」にしても両者ともに戦略的に「同じ考え・籠城」であった事に成る。
然し、「額田青木氏」を訓練させて「近代銃」を持たせ「信長の戦略」で消失した「伊勢と伊豆間の中継点」の「再構築」を目論み「伊川津・渥美湾の制海権獲得」で行おうとして、その「権利」を獲得した「伊川津国衆としての約定」にも反して「呼び寄せられた軍議」で決然として断ったのだ。
ところが、当初は「通常の考え方」からすれば「野戦」では無く「籠城」と観ての「時間稼ぎ・松平軍」であったと観ていた。
この為に「紛糾した軍議」から外された「額田青木氏の銃隊」も、最初は「情報」の無い中で作戦的には予想通りに“「浜松城での籠城」”と考えていて、外された「軍議の結果の命令」を受けて、事を荒立てて行き成りに「伊川津・吉田城」に帰る事もせずに駿河青木氏の事もあって「様子見をする事」と成ったのだ。
そこで何れにしても、兎も角も「武田軍の動向を探る・意味無」の為にも「偵察隊としての名目の任」を受けて仕方なく「一言坂・前段の遭遇戦」に向かったのだ。
其の後、その「堀江城の途中」まで後尾に着いてそれを「追尾する形での過程」で、そのつもりで「様子見の追尾」では居たが、その途中で、“其の後の浜松城で軍議に異変が起こっている”のを、「余りの速さ」で「内部機密情報・駿河青木貞治から忍者を通じて」で情報を逸早く獲得し「異変」に気付くのである。
この「意外な展開の経緯」から、一応は「偵察隊としての名目命令」を受けた段階で、それを“断った以上は「籠城戦に成る」と把握していたので、武田軍本隊の追尾途中では、「駿河青木氏の青木貞治隊」を護る為に未だ「浜松城周辺に戻る予定・額田青木氏」ではあった。
然し、そこでこの「情報」を得て「駿河青木氏を救う」のは「三方ヶ原」しかないとしてそれに向けて踵を返したのだ。
この「青木貞治の情報」の中には、「三方ヶ原と指定していた可能性」があるからだ。
何故ならば、「青木氏族の将来の事・子孫存続」を考え合わせれば、“「浜松城・激戦」”よりも、“「三方ヶ原決戦」”を選んでいた可能性があるからだ。
結果として、その様に上手く運んだのは、「この駿河青木氏との情報の打合わせ」に依るだろう。
そうでなければ「戦場で無傷で救い出す事」は出来なかった筈だ。
結果として、「軍議の拒絶反発」での「偵察隊として命令・表向き」を受けていながらも、寧ろ、この「表向き命令」で「自由行動を採れた事」が幸いしたのだ。
そうでなければ、「伊川津国衆」と云えども「軍議の命令」に縛られていた筈である。
だから「三方ヶ原から伊川津」に直接戻った「額田青木氏」は「国衆」を直ちに辞し「開発業と陸運業と殖産業」に勤しんだのだ。

(参考として「上記の経緯」から観て、「絆の貞秀・貞治・貞重の呼称の経緯」は起こらなかった筈だし、「前段の額田青木氏の銃隊の差配頭の貞重の呼称の推論」に付いては、“「貞重の呼称」”がこの「状況証拠の経緯」の中で出て来る事は無く間違いは無いと考えられる。
故に此処では貞重を使う事にする。)

唯、未だ、「陸運業等の形」は整えたとすれど「松平氏の行く末」に依っては「渥美湾の制海権の獲得の行方」は「2年後の長篠結末」までには「既成の事実」としながらも夢中の中にあったのだ。
「名目」は「籠城戦の為の情報収集の偵察隊であった事」に成るが、そもそも「一言坂の武田軍の本隊の動向・城から見えていた」が、その「目的」と成るが、前段の検証でも「海抜300m城の天守閣」からは充分にその行動は観えていたのだ。
だからこの「名目偵察」は「完全な名目で在った事」が解る。
そもそも、この「目的」はそれが「本来の偵察隊」であり、一度、「松平軍」は「野戦・一言坂」に出て戦って敗戦しているので、「本隊を動かす事」は出来ず「吉田城守備隊」にいた「伊川津国衆と成った銃を持つ額田青木氏」を呼び出して、それも「銃力のある南下国衆」にこの「命令」を出したという事に概要の経緯は成る。
其処にこの「重点」があって、そもそも、検証ではその「一言坂・17m上」は「10k先」の「浜松城・天守37.5m」からは「20m下」に障害物無くはっきりと見えていた筈なのだ。
間違いなく「偵察の意味」が違っていたのだ。
「偵察隊を名目」に「城」から放り出されて、その「松平軍」が既に「野戦」で負けていた「武田軍の本隊の存在する一言坂」に先ず向かったと云う事であるのだ。
この「呼び出した後の軍議」では、「三つの命令」に従わなかった「南下国衆の銃隊」に向かって“「意味の無い偵察隊」”としたのは、そもそも“「意味の無い」”に意味があって、「武田軍に殲滅される命令」を「罰として下した事」なのではないかと観ているのだが結果は逆に何とその銃力で勝利するのだ。
一度、家康は「野戦」をしてその実情は命の危険から脱して敗戦し、故にその力は充分に知っているし、「城」からも観えている各所で戦った「武田軍」でもある。
「今更の偵察」では無いだろう。
ところが、その「結果」は逆であって「勝利」してゆっくりと警戒をしながら坂を下りて「浜松城の斜め横の丘」に陣取った「史実」と成るのだがこれも城から観えていたであろう。
「額田青木氏の銃隊の今までに経験してこなかった威力」を知って「武田軍」は追尾して来なかったのだ。
当然に松平軍も「城」からこの「銃撃の状況」も充分に見えていた筈である。
「城から追い出した張本人の旗本ら」は、内心、「南下国衆の銃隊」に対して「初経験の恐怖」を抱いていたのではないか。
「筆者・額田青木氏の指揮官の目」は、これを観て「城の東の丘」に隠れた「南下国衆の銃隊」を、再び「野戦の三方ヶ原の陣形」に加えた時に、旗本達は「やり返し」を受けて“自分たちの命が危ない”としたのではないか。
当然にそうなるだろうしならない方が可笑しい。
これが「軍議の事の出来事・命令拒絶」もあったが、この「恐怖」から初めから「三方ヶ原の不思議な陣形」などに一切に加えなかった理由もここにあったと観ているのだ。
故に、その「陣形」の中で「額田青木氏の銃隊」が「青木貞治隊だけを救い出した事」にも口を出せなかったのだ。
普通なら他も救い出すだろうし、其れもせずに直ちに「戦線離脱」してそれも「吉田城・国衆の本来の役目」では無く「伊川津」に引き上げて仕舞ったのだ。
この意味は大きい。
これは、今後、「松平軍」に「伊川津国衆として関わらない」とする姿勢を示した事と成るだろう。
そうなれば、今度は「伊川津」で「弱った松平軍との戦い」と成るが、それは起絶対に起こらない理屈に成る。
それは次の四つの事だ。
一つ目は「三方ヶ原の敗戦」の後に余力は無い事。
二つ目は「銃隊の威力」に対する恐れがある事。
三つ目は「家康の配慮」でこれを止めた事。
特に、この三つ目が重要で、寧ろ、「国衆としての名目だけの武力」ではなく「周囲」に対して“「敗戦後の三河」には未だ「銃の威力」があるぞ”とするもので、「織田軍と武田軍」に対しても「その誇示をして利用しよう」とし牽制したのでは無いか。
四つ目は「額田青木氏の背後」にある「秀郷流青木氏の武力」と「伊勢青木氏の財力」の「誇示と今後の利用に在った」と観える。
その為にも、「敗戦後」の直ぐにも如何にも「三方ヶ原の功労者」の様に見せつけて「伊川津の国衆・額田青木氏で伊勢をも誇示」をも目的として、そして「渥美湾の制海権の利用」と「三河の開発業と陸運業と殖産業」を許可して、この関係性を松平氏は世間に対して強く見せつけたのだ。

その後の現実には、検証すると「三方ヶ原の敗戦後」にこの様に「四つの経緯」は動いて行くのだ。
「三方ヶ原の戦い前と戦い後」に「三河旗本」などは、“自分たちにも銃口を向けられるのではないか”と、「南下国衆の銃隊」に対して「武田軍以上」に「恐怖」を抱いていたのではないか。
この事は、兎も角も「伊川津」に戻ったが、何と「羨望の先頭を走っていた伊川津国衆」から伸し上がった「下級旗本」が、なんと「田原と豊橋間に住み着いた事」から、尚更の事と成った。
そこで「古神明社」を境にして東西を東に向けて「壁」を造りここ「銃を構えた防衛線」を敷く事に成ったのだ。
これ以上に「無駄な摩擦を避ける意味」でも「額田青木氏の思惑」にもこの感覚は強くあったと観ている。
現実に、その後の「旗本の羨望」は下火と成り、その後の「額田青木氏」の三河に貢献する等でも、この「旗本等」は物が言えなく成り、この「思惑」は非常に効いたのだ。
唯、この「羨望」は「享保期・享保の改革先導」に成って再び噴出する事と成ったのだ。
物を云えば、「主君行動に異議を唱える事」に成るなどの風潮が享保の幕府内に興ったのだ。
その「不満の捌け口」と成ったと云う事だ。
唯、一人だけ恣意的なのか本気なのか「織田領地との係争地の西三河で反発・宗教一揆など興す・額田青木氏が伊川津国衆に成っている時から」をした「旗本」がいた。
この時、一時、家康の不満から「三河から引き下がる事をした者」が居て、其の後にこの「者・本多・蜂屋等」は、「旗本重臣の大久保氏・伊川津元田原」の「計らい・参謀に」で「三方ヶ原後」に「影の活動家の参謀・意味あり」と成って、こっそりと「旗本」に戻った者が居た事が判っている。
筆者は、江戸期に成って再燃するも一時的に通説と違い恣意的に動いたと観ているのだ。
「額田青木氏が伊川津の国衆」に成った事を観て、“これは拙い”としてこれに「圧力」を加える為に「織田領地との係争地の西三河」に、「織田氏」は「宗教戦争・口実は別」に見せかけて「圧力」を掛けて来たと考えられる。
それ程に「伊勢青木氏の財力と水軍力」と「額田青木氏とその銃力」と「秀郷流青木氏の武力勢力」は、無視できない「絶対的な勢力」として「織田氏と松平氏」には浸みこみ、更に「伊川津の国衆と成った事」で無視できない「脅威」と観て一目を置いて数年燻っていたのだ。
それ故に興った「旗本を巻き込んだ関連の一揆」であって、この時の感情が「浜松城の軍議・軍監の意中」の中に在ったと観ていて、始めから「織田氏は援助や大きな犠牲を払らう事」のつもりは無かった筈であったのだ。
その為にも「織田軍」に執っては、先ずは「武田軍の二拠点化」を防ぐ為にも、又「補給の陣形・織田軍」を充分とさせる為にも、「最低限に西三河・最大は南三河」を制しておく必要があったのだ。
だから「松平軍」には、これをさせない為にも「三方ヶ原後」に上記のこの「青木氏の三つの勢力」を「南三河の伊川津に留め置く戦略」が必要であったのだと考察する。

さて話は戻って、だとすると、「額田青木氏の銃隊」は「武田軍」をそもそもの「敵」と観ず、「山県軍の別動隊」は直ぐ横の「鶴翼の側面」から突破して来た事から止む無く、「自らの身を護る為」と「青木貞治隊を救い出す為」にも「額田の近代銃の銃口」を彼等に向けた所以と成り得る。
結果は、再び「一言坂で経験している武田軍」に向かって「弾幕」を張って「無事に救い出す事」は出来たが、「山県軍の別動隊」に仕方なく「大犠牲を負わした事」には成ったと云う詳細結末と成るであろう。
だから、「救い出した後」に「武田軍の本隊」に向けて、更に「銃口を向ける事」も充分にあり得たが、それもせずにすぐさま「戦線離脱」をした所以なのだ。
更には、故に「三方ヶ原後の掃討作戦」でも、逃げ込んだ「駿河青木氏の盤田見附の西光寺の検索」も、又、経験した「銃の危険」を避ける意味でも無事に避けられたのだ。
「銃に対する危険」を考えて深く捜索を敢えて避けたと観ているのだ。

次に更に、ここでも「詳細経緯」として「南下国衆の青木氏からの疑問」があるのだ。
それは「天竜川の圷」に出来た「浜松城」から同じ圷内の「真東11k先の坂下・一言坂―盤田」にいた「武田軍の本隊」を「浜松城」からはハッキリと「敗戦後の動向」は目で観えていた筈である。
この「敗戦した一言坂」から「盤田の西光寺・青木貞治菩提寺」までたった真東1kにあるのだ。
要するに「一言坂の戦場内」である。
其れなのに、経験し観えていたのに、且つ、敗戦しているのに、今更“「偵察隊」とは何なのか”である。
そもそもこれでは「偵察のそもそもの意味」は無い。
つまり、詳細経緯としてこれが疑問を解く最大の解明点なのである。
結局は、結論として、「松平軍」では「兵に依る時間稼ぎは無理」と観て、当初は“「銃隊」で「時間稼ぎ」をする予定”であったとも考えられるが、然しこれも断ったのだ。
上記が「四つ目の軍議の命・時間稼ぎ」である。
果たしてこれもそうであろうか、これも検証する。
確かにこれであれば間尺は合うが、「青木氏側の断片資料」から観た処では、これは「後付けで脚色した事」に成り、この説はあり得ない。
そこで、この時の「詳細の状況」を戻って検証して観た。
つまり、「軍目付・軍監の意見」の通りの「籠城戦」に近い「時間稼ぎ」をして「同意」を得ようとしたとするのは経緯からしても充分に考えられる。
それにしても「家康命拾いの野戦・1度目の一言坂」も、且つ、二度目の“「銃力で押し返した銃隊」”も史実であって、それは当初より危険な事ではあった。
其れなのに、直ぐその後には、「武田軍の本隊」が「山県軍の別動隊」より、先に「松平氏側の補給拠点確保と云う野戦を選んで仕舞った事・上記の三つの行詰」であって、今度は流石に「同意・織田軍軍監の同意・上記の意思無し」は「史実の通り」に得られなかったのだ。
この様に「松平軍」は三度も失敗しているのに「軍目付」としてはそもそもOKは出せないだろう。
要するに「無理な一言坂の時間稼ぎの実行」で、これを主張していた「軍目付・軍監・3氏の援軍・1.5~0.3万説は無理・後付け説」の「安易な興味本位の援軍説」もあるが、そもそも、「軍監」とは「援軍」を以て参加するのではなく「意見の具申」と「謀叛の見張り役」として参加するものである。
この点から考えて、これは「織田軍の軍監の守備隊」としては納得できる充分な程の多すぎる軍勢説であったが、これがそもそも「尾張国元・お膝下」の「尾張と美濃」に遺した「二つの守備隊・記録に記載・この説では国元が空に成る」であった。
然し、ここから果たして「三河・駿河」に「援軍」を割いて「戦記通りの兵数を送る事・1.5~0.3万」は120%無いだろう。
精々、この「100から200程度の守備兵」で当時の世間の原則通りの「1騎2将の兵数」にした筈である。
現実には「三軍監」にもされていない「平手汎秀・意見が違った」だけを残して戦い3日前に去ったのは事前の建前を実行したに過ぎずこの限りにある事に在る。
そもそも、この「援軍」も「美濃・尾張の留守中にする始末」では無く、それこそ名目上とすればこの「通説の数」は勿論の事で、その「援軍」そのものが「本末転倒の援軍」であった筈であり、この通説論は間違いなく「後の脚色論」であるだろう。
筆者が「武田氏」であるのなら、つまり、「浜松城」を牽制しながらも外に誘い出して、其れなら空と成った同然の「背後の尾張と美濃を攻め落とす方」を先にして、戦略上ではその後に「浜松城を攻める方が有利」と考える。
要するに「誘出作戦」である。
「史実」はそれをしなかったのは「軍目付の守備隊を一兵も動かしていなかった事」にも成るのだ。
同盟を結んでいる以上は、「三軍目付・軍監・林秀貞・佐久間信盛・水野信元」として「代理の者」を差し向けた程度であろう。
それが重要な事は「戦死したのは平手汎秀であったと云う事・病弱でこの後父は早々と汎秀を残し撤退し後に信長に追放されるも、本人もその能力で家康から侮辱を受けたが、この後に“汎秀を見殺しにした”とするは「信長の大義の名目理由」に間違いなく成る。
然し、「松平軍」に「本末転倒の援軍を送る事」は出来る事は先ず無く、実際は「軍監」を護る為の「100にも観たない数・一騎の50との説も」だったと考えられるのだ。
現実に多くなれば成る程に、それだけ「援軍」を「浜松城の中に居れる事」は「面積と補給などの点」から考えても無理であって、そう成っていれば「武田軍一言坂母待つの通過時」には「外の野営」では潰されていた筈だが、どの戦記にもこの事は一切触れられていない。
筆者は、故に殆ど「代理の軍目付・軍監」だけの100より少ない「数十名・50」に過ぎなかったと考えている。
殆どはこれは当に江戸期の「軍記戦記・脚色漬け・面白おかしくする為・流行した」の「後付け説」である。
筆者は、「吉田城の守備隊」としていた処を呼び出され、「軍議」で「初期の契約目的」を考え「国衆契約の条件の違約」から、間違いなく「軍勢の中心に据えらる事等の三つの命令」を拒絶したと考えられるのだ。
故に、この事で外に放り出され「半殺し目的の疑問の偵察隊」と成ったのだ。
然し、「額田青木氏の近代銃」で「武田軍の本隊」に完璧に勝ったのだ。
その様を城から観えていたのだし、「旗本」はこれでも「恐怖」を抱いたと考えられる。
上記の「四つ目の軍議の命・時間稼ぎ」は、自分たちが何度も負けている「武田軍の本隊」に対して、この「額田青木氏の南下国衆」の「一言坂の完全勝利」で、「松平軍の時間稼ぎの思惑」は完全に無く成ったのだ。
要するに、「南下国衆の犠牲」で“銃撃戦で時間が稼げる”と観ていた事も潰えたのだ。
これは「命令拒絶」では無く、「独自行動」で解決したのだ。
其の後に「旗本」は、「銃口」を自分たちに向けられた場合の“身の危険と恐怖そのものを間違いなく抱いた”であったろう。
「其の後の行動」も、“記録通りに自由に行動している”のはこの所以であろうし、「戦線離脱」も、そして「伊川津」に戻ったのも、「陸運業・殖産業・開発業」にすぐさま転身したのも、この事による“「自由行動」”に基づいているのだ。
故に、「絆での結ばれた青木貞治」も情報提供し続けたのだ。
そして「誰の命令」でも無く“「命の危険を冒しての自由行動」”として「貞の絆の救出」をしたのだ。
それも、普通なら、戦線からの救出後、盤田見附まで届けて引き下がるが、「三方ヶ原救出」だけで留まり、「盤田の西光寺までの救出」では無かったのだし、更には普通なら、“「青木貞治隊以外」にも救出したらどうか”と云う考えも起こるが、「壊滅混乱の中」でも旗本を救出せずに引き上げたのだ。
「自由行動」であったとすれば、当然に、「三方ヶ原の停戦後の2年間」の間に「青木氏族」は、罰せられるか、「旗本」から「口述攻撃」をされていた筈である。
でも、全くその逆であった。
そもそも、「罰する事」は、「国衆」で無くても「三河」に居る限りに於いては出来た筈だ。
実際には松平軍にはその力は無かったし、筆者は家康の計算が合ったと考えている。
然し、「額田青木氏」に執っては国衆から抜けて「伊川津」に居続ける事は彼等に執つては“「恐怖」”でそもそも出来なかったのであろう。
それは「彼等の脳裏」には、「拭う事の出来ない銃の脅威」と、「弁解の着かない青木氏族の格式」があったからなのだ。
「国衆」から辞しても「護身用として持ち続けた銃」は、この“いざと云う時の「抑止力」”を働かせたのだ。
だから、この「背景」があるからこそ手放さなかったのだし、その後の事にもこの「銃の抑止力」を持たせたのだ。
「三河旗本」に執っては「歯ぎしりの限り」であったろう。
此れらの根底には、「約定」を破り「呼びつけて置いて外に放り出した事」があった事も否めない。
但し、寧ろ、後勘から観れば「青木氏族」に執つてはこれの方が良かったのだ。
先ず、それには「伊川津国衆」を辞めて「陸運業等の商族・企業家」に転身していた事にある。
つまり、「抑止力の強い民間の商人と成った事」で、「表向き」に罰し攻め立てる事は出来なくなった事である。
寧ろ、それには、戦後、「敗戦で弱った松平氏」を「強める効能の方」に「家康自身」は舵を切ったのだ。
寧ろ、「秀郷流一門・青木氏の抑止力」と「伊勢青木氏の財力と抑止力」を味方に着けたかった事であった。
それには、“「青木氏族」にそれ相当の実利を与える必要があった”のだ。
「伊勢青木氏」には、要求通りに「渥美湾の制海権」を認め、「伊勢秀郷流青木氏」には、「三河の開発業の権利」を認め、「東の秀郷流青木氏・駿河青木氏」には、「青木貞治の裔系」を「家臣」にして引き上げると云う「策・御側衆旗本」に出たのだ。
その事で、「三河の民」は富み、「松平氏」には当然の事として「莫大な税と献納金」が入り、「急速に松平氏の復興を遂げさせる事」が出来、結果として他国から「商いの流れを呼び込む事」が出来ると踏んだのだ。
当然に、「青木氏族」にも「同じ事・相互利益」が云えたのだ。
「駿河青木氏」のみならず「一族の相模青木氏等」は「水運と陸運の復元」で「商いの還流・長嶋屋が窓口」を「武蔵・越後まで波及」に呼び込み栄えて富むのだし、現実に富ましたのだ。

「三方ヶ原の軍議の命拒絶」をし「額田青木氏を救った後」に「伊川津に独断で戻った事」が、この時に、弱っていた「三河軍の旗本等が攻めて来ると云うシナリオ」が考えられたが、上記の通りに無かったのだし、寧ろ、「逆のシナリオ」と成ったが。
では何故なかったのかである。
記録が見つからないが、恐らくは、普通のシナリオからは伊川津国衆として命令拒絶の形が出来ている以上はあるが、筆者は次の事で「三河軍の旗本等が攻めて来ると云うシナリオ」は最早無かったのだと考えているのだ。
当然に「事前の銃の恐ろしさ」を経験していて無理だと云う事は判ってし、「家康の命」は違っていて、それ以上は出来なかったと云う事は判るが、その経緯の中には次の事があったと観ているのだ。
それは、一つは[渥美湾に伊勢水軍を配置した事」と、二つは「藤沢まで秀郷流青木氏を主軍として秀郷流一門の軍を廻した事で牽制したと観ている。
これは「伊勢青木氏の資料」の何処かにその中にしか遺されない記録である故に解明は難しい。
其の上で、明治35年まで3度の大火を被っているし、「室町期の2度の紀州攻め」と「江戸期の神明社・春日社と清光寺・西光寺の幕府没収」で記録資料は飛散している現実もある。
これには「伝統の大事な記録」を隠す為に南紀と南勢の「旧領地の家人や氏人の家」に移されていた現実があって、故にこれ等に関する資料と記録は未だ見つけられていないのだ。
然し、筆者はこの時の「青木氏一族」が「非常事態の経緯」として普通に考えれば「上記の二つの事」を採ったと観ているのだ。
「額田青木氏」と「駿河青木氏」を再興して力を持たせ「三方ヶ原と云う災難」に巻き込まれた事態に何もしない訳では無い筈だ。

この詳細は前段を参考にして頂くとして、そもそも「伊川津と云う土地」は「有名な不毛の地」であり、「奈良期からの神明社の関係」で維持していた「伊豆まで補給路」を信長に寄って寸断されたとしても、依然として松平氏との間で「渥美湾の利用権」を獲得し「渥美への糧の補給路・片道2時間」を構築していた。
この事を以てすれば、「非常事態には対処しない事」は100%あり得ないだろう。
急遽、「伊勢水軍」を渥美湾内海田原に廻して補給も含めて態勢を構えたと考えられ、「額田青木氏」は「渥美半島の細長い半島」の「田原と豊橋の境界」にこの「銃隊」を東向き構えて防御策を執った事も判る。
この「田原の古神明社」の内海側には三方ヶ原の前には「3人の土豪・後に旗本・大久保氏等・羨望の主導者」が田原城を築いて入植していたのだ。
従って、この僅か西側に「銃隊の防御策」を東に向けて半島を南北に横切る様に構築し、背後に「東三河の駿河青木氏」と「藤枝の秀郷流青木氏」を「牽制策]として構えたと考えられる。
この「三方ヶ原後の牽制策」は、それもわざとらしく無く、それでいて「見せつけ効果を狙ったもの」であったと考えられる。
これでは「羨望の塊の旗本」は元より「松平軍」もその気であって何も出来なかった筈であり弱体と成っている「三方ヶ原後事」とすれば到底出来る事では無かった筈で、家康は「浮薄な旗本の力」を抑えて、「額田青木氏のこの力・銃力とその背後の財力と東の秀郷流青木氏に繋がる一族一門の勢力」を利用する方向に現実的に舵を切ったと考えられる。
「三方ヶ原の後頃」に「額田青木氏の四家・四神明社」の「渥美半島の西側域」に「居住していた地域」と「古神明社付近」の「御屋敷と云う役所・現地役所・地名」には「これらに関する関係する逸話」が遺されていて、その“「家康」がよく訪ねて来ていた”とあり、これは「奈良期からの青木氏の守護神の古神明社を名目上で訪ねた事・裏意は額田青木氏を訪ねた事に成る」を意味する。
前段でも詳細を論じたがこの様な事もあり、「長篠までの2年間」の経緯ては「驚くほどの復興・信長警戒」を遂げたのだ。
何時の世も「莫大な経済的背景」が無ければこの様な事が興らない事は「自明の理」である。
「三方ヶ原の直後」から「三河」で「開発業と殖産業・前段で詳細」に携わり、この為に「伊川津」とは別に「古神明社が存在する3カ所」を「専属の居住地・前段」として「北側の青木村」を始めとして「11カ所・地権を認められた定住地」までも認められているのだ。
これも「伊勢の事お構いなしのお定め書」に繋がった所以の一つでもあるのだ。

要するに短期間で“この得た「財力」で「膨大な戦費」を松平氏は賄い”、「長篠」へと向かったのだ。
「信長」はその後の経緯の戦歴を観れば、東には手を出していないし、故にこの「三河国の背後の経済力・伊勢青木氏・伊勢屋と東の秀郷一門の勢力」を恐れていたと考えられる。
それは「間接効果」を狙っていたと考えられ、「三河の松平氏」を通じて「最低の犠牲」で抑えたと観られ、それ故に「徳川氏の伸長・難癖程度」を“我慢ぎりぎりで見守った”と云う事では無いか。
それ故に、「三河国の背後の経済力・伊勢青木氏・伊勢屋と東の秀郷一門の勢力」が存在する限りに「本能寺の変まで長期間」の“我慢ぎりぎりで見守った”と成るだろう。

この「大きい流れ」は「江戸期」まで続き、「江戸幕府」を「秀郷流一族一門とその青木氏族とその関係一族」は、「幕府官僚族・御家人旗本・家人旗本衆」として支えるまでに至るのだ。
当然に、「伊勢の二つの青木氏」も「紀州藩・全伊勢藤氏が家臣」とは「殖産業」で栄えさせ、「伊勢の事お構いなしのお定め書・天智天皇の不入不倫の権の追認」と「浄土宗の律宗族の追認」を得て、且つ、「紀州藩勘定奉行の指導の役目」までも担い、挙句は「吉宗育て親」まで熟し、「将軍」に「裏・朝廷への働き掛け等」で押し立てるに至る「親密な関係・幕府との関係」は、その皮肉にもその「吉宗で終わる」を維持したのだ。
筆者が論じているのは、この“「基点」”は、「三方ヶ原の戦後の伊川津の行動」にあったと云う事なのだ。
「筆者の見立て」は、それ故に「家康」は、「戦闘戦略家」では無く、「経済戦略家」であったと観ているのだ。
だから、「伊勢青木氏・伊勢屋」と「秀郷流青木氏・長嶋屋」は、上記が物語る様に存命中に於いて、“家康と馬が合った”のだ。
家康の「伊勢の事お構いなしのお定め書の効力」も同時期に低下した事に観られるように、これが「最高潮は吉宗・前段」までであって「最悪期も吉宗・前段」で終わったのだ。
筆者は「三河旗本の執拗に続く羨望」に将又押され、且つ、「吉宗自身」も「奈良期の皇親族・青木貞治に観られるような幕府官僚族」の様な「二つの一族」に警戒したと考えられる。
それ故に、一方で「四掟で女系族で繋がる伊勢藤氏」をそっくりと家臣とした「紀州藩との関係性・紀州殖産業の確立で」を更に「強化・大正14年まで継続・幕末には藩の財政難から旧領地の返還を求められるも・2万両以上債権保有」したものだ。
「額田青木氏と駿河青木氏の前段論」に「三方ヶ原と長篠の二つの戦い」の「環境問題」を中心にどの様な位置に置かれていたかを論じて観た。
この以上の「四つの詳細経緯・前段の追記論」のどの一つを以てしてもでも、流石に「女系で繋がる青木氏族」は、「1千年の歴史」を持つ「女性の持つ鋭い先を観る遺伝子的洞察眼を持って立ち回った氏族であった事」が良く判る。
上記の様に何時巻き込まれていてもおかしくない厳しい環境の中で、取り分け、この室町期末期に於いて生き遺った事が判る。
それは「青木氏族の商い」と「青木氏族の氏力」を最大限に出してそれを利用した「自己開発の銃の保持」とそれを上手く利用しての所以であろう。
この事は「奈良期の親族の佐々木氏族」が「単独で青木氏の一族論」を論じている所以と成っているのであろう。
「お返し」として何時か「佐々木一族論」を論じたいとも思うが。

「青木氏の伝統 70」-「青木氏の歴史観-43」に続く。(118P)  

名前 名字 苗字 由来 ルーツ 家系 家紋 歴史ブログ⇒

「青木氏の伝統 68」-「青木氏の歴史観-41」

> 「青木氏の伝統 67」-「青木氏の歴史観-40」の末尾


> 筆者は、「皇親族としての商い」に「品位疑義・禁令」があって、これに対して「世間と官僚の反発を喰らったと云う経緯」が在ったと一部の資料では記されて信じられている様だが、これは実の処は「表向きの記録」であってその「裏の本意」は周囲は「出自元の筋目格式の疑義」であったと観ているのだ。
> この「表向き」は、「朝廷」としては「今後続く天皇家の品格・皇統に傷を着ける事」に成るので、記録としては「世間と官僚の反発を喰らったと云う経緯」として遺したと観ているのだ。
> それが「桓武派と嵯峨派の争い」を引き興し、これ対して根本的に基を質して「仁明天皇と円融天皇」が原因を元に戻したと云う事に成ったが、これが世間では「円融天皇の頃・960年頃」まで燻っていた事に成る。
> これにより現実に以後問題はかき消された事から以上の歴史観と観ているのだ。

「青木氏の伝統 68」-「青木氏の歴史観-41」



此処から伝統 68に続く


“何故かの「疑問a」である”。に論を戻す
これらの事を前段とは別の面で検証する。

つまり、何故、「白羽の矢」であったのかであって、つまり、この「白羽の矢」が“何故、青木氏だったのか”であるが、“明らかに「正統性では無い」”とする事を前段では論じた。
それには、そもそも「青木氏以外」に“「存在する継承族の対象者」は「数十人」と成っていた事なのに、その「矢先の決定的な違い」が何処にあったのか”であり、従って、この数からすると必ずしもその理由付けの“天智系にしなければ成らない”とする「正統な理由」はそもそも無かった筈だ。
とすると、然し、実行したこの「隠れた原因」、寧ろ「隠された原因」が「白羽の矢の答え」であった事に成る筈である。
そもそもこの事は「伊勢青木氏」に執っては全氏族内に「求めない無いゴタゴタ・呼称する」を招くからである。
この「ゴタゴタ」を避けていた事は、公的でも、且つ、氏族内の記録としても史実として遺されているからだ。
それ故に大きく「青木氏の行動」に影響したのは確実で、その為に慎重に成っていた。
なので、これに関する以下の事等が、取り分け、前段で論じた「大口青木氏・日向青木氏の商いの前提」も、この少し後のやっとこの「ゴタゴタ」が治まった頃であった事から、未だ「慎重な行動」がこれらに関わって来ていたとするのだ。

後勘から観て比較すればこの頃の行動の様子が違っていて「違いの差」が直ぐに出て来るのだ。
それらの「違いの差」は、唯一点、925年から正式に自立し、1025年の総合商社にした「貿易と殖産の商い」から得られた「伊勢青木氏の財力」にあった事は先ず一つ目としては間違いはない。
これだけは歴史的にどの様に観ても「格段の差・財力の事」であった。
逆に、これが「白羽の矢の原因」と成った「称徳天皇期の弱点」と既に成っていたし、少なくとも速くても臣下族であった「伊勢青木氏の財力」で、「改善に向かう仁明期」、遅くても「改善した円融期」までは何処にも助けを求められなかった「朝廷の財政難」では苦しんでいた事は史実であったからだ。
つまりはこの「賜姓族の青木氏」に無理に矛先・矢先を向けたと捉えられる。
「白羽の矢の目的」がこの「財」にあったとしても全面的には無理であったとしても元々は「青木氏」に執っては「伊勢青木氏の財力・献納と貢献」は、「影の令外官の賜姓五役」からしても補助する程度の貢献は「朝廷」から求められる前の「氏族の前提・宿命・献納と具納程度」でも立場に少なくともあったのだ。
この様に「氏族の宿命」と「白羽のゴタゴタ後遺症」から離れたい心情の難しい立場にあったが、然し、先に結論から云うが前段でも論じた通り「天武系」の天下の中で「これ・天武系に取り込まれる事・財政的援助」を「天智系」であるとして拒んでいたこの「苦しい心情」から、その「仁明天皇・出自元との調和」と「円融天皇の青木氏賜姓復活」の「二人の解決努力」で救ってくれたのだ。

それで「歴史上の経緯」を元から考察して観る。
そもそも、先ず「行基和上・668~749」―「鑑真和上・754~763」の歴史でも知られる様に、「聖武天皇期」は「世の混乱期・政治経済軍事」で人は疲弊していて、其処からそもそも一連の事が始まった事だ。
最終的にこれを救ったのが要するに「上記の二人」であった。
つまり、前記で論じた「神道仏道の文化格式の違い」が生じ始めて、これを解決しようとした「新撰姓氏禄」でこの「違いの矛盾」を解決しようとしていたが、朝廷内に関わる範囲では完全に解決し切れていなかったのだ。
この中に既に「神道仏道を格式化していた元賜姓臣下族」として事で「伊勢王の施基皇子の裔系の青木氏」が巻き込まれていて、それが時系列や経緯から「前期の財の他」には先ず「白羽の矢に成った経緯の発端」の一つでもあった事にも成る。
それ等を「出自元の立場の保全を修復した仁明天皇」と、これを決定付けた「賜姓青木氏の仕来りを母方であった秀郷流の青木氏賜姓をした円融天皇」が救う事で、未だ「源氏賜姓」が在る中でも社会に公然と再び格式化したのだ。
これで当然の事として停止していた「大掛かりな献納と具納」は再び始まったのだ。
然し、この「二つの賜姓青木氏」は互いに「四掟での女系制度」を敷く事で、再び徹底して「天皇家に組する事」をしなかったのだし、「白羽の矢」の様に二度と組される事を出来なくした。
その上で「賜姓族」では無く「律宗族」として二人は位置付けたのだ。
この「二人の策」で「円融天皇」の直ぐ後の「花山天皇・968年から1008年」は、「円融天皇・960年」の「賜姓青木氏をした事」で、まぎれもなくこの「11代続いた源氏賜姓・律宗族にはしなかった」を中止した事に成ったのだ。
経緯から「円融天皇」に依って「四掟で結んだ秀郷流青木氏の再賜姓化」で格式化された為に“中止と云うよりは出来なくした”と観た方が正しい。

そこで、参考例として関係する事を時系列で始めから改めて纏めると次の様に成る。
飛鳥時代から奈良時代にかけての僧。
「仏教の伝来伸長」で「国家機関と朝廷」が「寺や僧の行動」を規定規制して締め付けた。
そして「民衆へ仏教を直接布教することを禁止」していた。
この「禁令」を破って「行基集団」が出来限り禁令に抵触しない様に「世の難儀」を仏教で解決する「布教の集団行動」を形成したのだ。
先ず畿内(近畿)に民衆や豪族など階層を問わず広く人々にこの行動型仏教で説いた。
それは記録に依れば「困窮者のための布施屋9所」、「道場や寺院49院」、「溜池15窪」、「溝堀9筋」、「架橋6所」
以上の設立などの「数々の社会事業」を各地で成し遂げた。
「渡来人の職能集団」が持ち込んで自然普及させ、其の後に彼等の力を借りて行基らの草の根運動で仏教の土元からの伝播が広がりこれで更に蔓延する様に庶民社会に興った。

注釈として、この「行基の行動・749年没」の中に常に「渡来人の職能集団の頭の男」と、その「技能集団」が専門的な知識が必要とする土木工事に積極的に関わっていた事が記録から判っているが、この「男とその集団」は「施基皇子」と関わった「額田部氏・前段で論じた」では無かったかと考えているのだ。
この頃き、土木工事一切は三つの大集団で統制されていて、それが「第一の額田部氏」、「第二の結城氏」、「第三は和気氏」であった。
「伊勢青木氏」は「国造の差配」として独自に「青木氏部・殖産事業を進めた」を持っていたとあり、額田部氏と関わり乍ら「明治9年」まで続いた事が判っている。
「施基皇子の青木氏との関わり」や「仏教の関わり」から「平安遷都・出自元の山部王の桓武天皇794年」に同行する事を拒絶し、朝廷より排斥された経緯を持っていて一切の官位格式を排除されて「施基皇子」」がこれを匿った史実の経緯・後に破格の冠位を与えられ復する」もある。
従って、当に行基の事や額田部氏の事は当に同時期の事であり関わる経緯としては完璧である。
つまり、仮にこの「土木技能集団の額田部氏」であったとすると、前段でも深く関わっていた「施基皇子とその裔系」が浮かび上がる事に成る。
橋を掛けるにしてもそれに関わる人の糧とその資材の財源をどうしたかであり、必然的に「額田部氏」であれば「施基皇子とその裔系の商いの財源」と成ろうし、「大仏殿建立」としても「大財源」と「高度な技能と技術」が必要と成るは必定で、未だ「皇親族」であった以上は「施基皇子とその裔系の財源の援助」が先ず最初に宛がわれるのが当然の事と成る。
と成れば、その後の「孝謙天皇の頭」に浮かぶ「白羽の矢の矢先」は「流れ」としては何よりも目前で華々しい実績をあげていた「施基皇子とその裔系の財源」と向かうは当然の流れであろう。
これは大きな証拠に成るので研究している。
時期も完全に一致しているのだし、彼等を通じて「古代浄土密教」を信じていた以上は援助は先ず間違いは無いと観ている。
同時に「額田部氏」は平安京遷都に同行しなかったが、その後の「伊勢青木氏との経緯・施基皇子・716年没の裔系」も考えればこの理由も更に解けてくる。

この「古代浄土密教」に「施基皇子の青木氏・647年賜姓」は「賜姓族」でありながらも「職能集団の国造差配であった事」から強い興味を持っていて神明社を守護神としながらもこの中に居たのだ。
つまり、「朝廷の3度の新撰姓氏禄の発想」の元に成った「神道仏道の融合化策の原因」と成った「神道・神明社」と「仏道・古代浄土密教」の「格式文化」の狭間に居たのだ。
要するに危険な中に居た事に成る。
ところがこれが思わぬ「白羽の矢の原因」の一つと成って仕舞い「神道仏道の融合化策の根拠付け」をして仕舞ったのだ。
当然ながら、「元賜姓青木氏」もこの渦中には居たし、これには当初は「朝廷」から度々弾圧や禁圧を受けていた事が判っている。
ところが突然に「聖武天皇」から始まり最後は「孝謙天皇」がこの「神道仏道の融合化・神明社と清光寺」に舵を切ったという事だ。
これが「白羽の矢」を打ち出す為の根拠としたと論じている。
当時では最も「神道仏道の融合化」を実践していた為に、「伊勢青木氏の裔系」にこの「白羽の矢」を打ち出すには必要で「違い差」が出ない様にそれに合わしてこの「融合化策」を講じたのでは無いかと考えられるのだ。
これが「嵯峨天皇」に依っては賜姓族でありながらとして気に入らなかったのだ。
この考え方の違い差が顕在化して「桓武派と嵯峨派」に分かれて「出自元」が同じとする者等で「政治的な戦い」が始まったのだ。
だから特段に外す必要が無かったのに「皇親族と賜姓族」を外したのだ。
「皇親族」から追い出し「賜姓族」を外せば普通の氏族と成り得て「神道仏道の融合化の問題」は解決するからだ。
筆者はこの様に観ていて、故に、嵯峨天皇没後にこの「ゴタゴタの歪み」を解決し始めたのが「仁明天皇」であって、解決したのが「円融天皇」であってこの「二人」という事に成るのだ。
だから、「円融天皇の秀郷流青木氏」は「清光寺」に対して「西光寺」と云う事に成るのだ。

然し、この「行動型仏教の普及」が民衆の圧倒的な支持を得てその力を結集して急激に逆境を跳ね返したのだ。
その後、ところがこの余りの強い民衆の力を恐れた「朝廷」は止む無く「最高位である大僧正の位」を与えて逆に利用しようとしたのである。
故に、とりあえず「仏教の布教を認めた上で民衆への布教を禁じた」のだが、この最初の扉を開いたのが「行基仏教」が最初であった。
結果として、「民衆側からの行動」で求めていた朝廷の当初の目的の「神道仏道の合体・習合策」が成し遂げられたのである。
その二なの行動の証拠として「聖武天皇の招請」により遂に「奈良の大仏と東大寺の造立」したのだ。
これが「天皇の意思の証」と成ったのだ。
以上の実質上責任者として招聘されここで「仏道」は正式に承認された形を執った。
この功績により「東大寺の四聖」の一人に加えら「行動型仏教普及の行基」は加えられ数えられた。
「仏道」はこれに依り完全に全階層には浸透した事を意味したのだ。
然し、当然の事として「朝廷内部」、取り分け、「天皇家の内部形態」は現実にはこの「神道仏道の合体・習合」に追いついて行けなかったのだ。
「神道仏道の合体・習合策」が成し遂げられたとして、それ故に「同線上に存在する事」に成った「賜姓青木氏に白羽の矢先」を向けて近づこうとした「理由・根拠」の一つと成って行ったのだ。

さて、「白羽の矢の理由の背景と成った経緯の検証」はここからである。
「孝謙天皇」は「吉備真備の補佐・過程を熟知していた」を得て、この時の皇太子に成る過程を経て前代未聞難しい立場の天皇に成るのだが、其処に賜姓を授かった「伊勢王の施基皇子の裔系」は「朝廷の部経済」を進める為にの朝廷に代わって「商い」を営み始めたのだが、それ故に「伊勢青木氏/施基皇子」に関わる問題に関わって来るのだ。
この事で判る様に、「聖武天皇の上記の大仏殿建立」で二つの事が興った。
「拠出金での朝廷の財政難」と「仏教徒全階級の民衆の力を使って寄付等」での建立であったとされる。
その為に、仏教に帰依する著しく庶民の力が強く成ったのだ。
此処にこの「天皇継承問題」が絡んで仕舞ったのだ。
天下の最大事でもあるこのの「天武天皇系継承の正統性を担保する事」が出来ない程の事が興り、「天武系の称徳天皇期の弱点」ともなり「思惑通り」には運ぶ事が出来なくなったのだ。
その現状は“朝廷には「財力」は無く「借財を前提」として、そこに付け込んだ「藤原仲麻呂」に牛耳られて、当に術なく「藤原朝廷」と成り「無力」であった。”のだ。
それがその前の「藤原系外孫王の淳仁天皇・天武皇子の舎人親王系」の「出現・廃帝事件」で当にその危機に落ち至っていたのだ。

そこで「慌てた称徳天皇」は「財政問題と仏教勢力浸透」の「二つの難題」を先ずは「先送り」にして、先ず先にこの「系内の外孫王天皇」でさえも廃帝し、淡路島に島流し抹殺してしまう程の慌てぶりの策を執ったのであった。
「系内の南家外孫王と云えど正統性を主張する持ち主」であったが「財政問題と仏教勢力浸透と藤原氏の天皇座の乗っ取り」との「三つの難題」は「継承問題以上の事」と成り得ていた事が判る。
ではどうするかであって、「同系の外孫天皇の廃帝」までしてこの「三つの問題」を一挙に解決するには
要するに「本題の白羽の矢以外には無かった事」に成るのだ。
如何にも論理的にはこれで解決する。
後は「慌てた称徳天皇」がこの「三つの事」で「固辞していた主張・天武系」を取り下げる以外に無く成って仕舞った事を示しているのだ。
筆者はこの「考え方を変えた行為」が「表向き行為」は公式非公式で何度か行った「称徳天皇の伊勢神宮向行」であったと観ているのだ。
同じこ事として「嵯峨天皇時の平城上皇との揉め事」の末も「伊勢神宮向行」で治めているからだ。
当時ではこの「伊勢神宮向行」が説得の一つの手段と成っていたのでは無いかと観ている。
「伊勢神宮向行」は要するに「伊勢青木氏との治め方・納得のさせた方」であったのであろう。
上記の全ての経緯を承知・熟知しいた「吉備真備の指導」で取り下げたと観られるのだが、この「称徳天皇白羽の矢策」は実質はそれ故に戦略的であり「吉備真備の白羽の矢策」であったろう。
朝廷内は不満で在ったろうが後に朝廷の三つ苦境をすくうのは一応はこの「白羽の矢・財の意見」で纏りを見せさせこれで解決した様であったが、問題は「伊勢青木氏内」に持ち込まれ移された事に成って、「光仁天皇と嵯峨天皇の出自元への反発」で生まれた上段で論じた通りであって、これが「約200年近くも伊勢青木氏内での揉め事・ゴタゴタ」と前段でも論じた様に変化して変わる事と成ったのだ。
実はその範囲が四家の宗家だけではなく研究過程で見直して観ると、「女系氏族」の「青木氏の氏族の伊勢郷士衆内」でもこの「ゴタゴタ」が持ち込まれていて、その影響が出ていた事が最近判った。
どんな形にせよ相当に「天皇家・朝廷に関わる事に反対意見・女系の意見」があった事に成る。
それが前段でも論じた様に「難波王」や「美濃王に嫁した浄橋や飽浪ら」の意見と成って現れていたと考えられる。美濃の源氏化も然る事乍ら、「浄橋や飽波」が一線を課して美濃で「一色一族」として独立して行動した行為などもこの事に由来していると観ているのだ。
要するに、これは「施基皇子の戒めの青木氏氏是を護ろうとした意見」であったと考えられる。

「同系の外孫王を否定する位の正統性を主張する主」が、「天智天皇・38代から48代の10代目の事・100年目の事」であるとすれば、定説として称徳天皇が突然に「天智系」に主張を変更しているのは全く考え難く、「朝廷大儀」として「何か正式に云えない理由があった事」に成るだろう。
それが「天智系の施基皇子の裔系の財力」にあったと説いている。
朝廷は然る事乍ら「天皇家」として「財を表向きに理由にする事」は出来ないであろう。
「天智系のより上位で正統なの継承対象者」は上記した様に「近江川島皇子・近江佐々木氏」を始めとして大勢いる中である。
但し、「嵯峨期の詔勅」でも「賜姓」を「源氏」とするが、その替わりに「指定する皇位族」としてのあるべき「慣習仕来り掟・格式・9つの縛り」を定めたのだ。
「源氏の権威付け・格式化」を策したのだが全く守られなかった。
「詔勅の中」に明確に記されている様に「財の裏付けのない賜姓」が無いのではそもそも生きて行く事さえも出来ない皇子たちには無理であろう。

更にこれに、即ち、「格式」を与える為に「中国の仏教戒律」を取り入れて「十誦律」に似たものにしたとする資料説もあるが、兎も角も「九重戒相伝・通称9つの縛り」として「嵯峨天皇」は「縛り」を「賜姓源氏」に加えたのだ。
然し、「11賜姓源氏」はこれをも一切守らなかったのだし守れなかったのだ。
其れは寧ろ、下記の理由で守れなかったと云えるだろう。
それは、「源氏族の直接武力」と「青木氏族の間接抑止力」にあって、「源氏」には「九重戒相伝・通称9つの縛り」と「直接武力」との間には「論理的な大矛盾」が生まれていたのだ。
因みに、「摂津源氏・頼光系だけ」がある程度これを「四家の範囲」で護れたのは、問題の「直接武力・藤原氏の力を借りた」は「朝廷の借物」として「考え方の矛盾」を解消させていたのだ。
ところが引きづっていた問題が後の「嵯峨天皇の計算・思惑」は狂ったのだ。
更にこれでも未だ事の治まりが着かず結局は、武力を持たさない為に「財力を与えない賜姓族」とするとして詔にこれを明記して折衷したのだがこれも守らなかった。
結局は、この「無視の緩み」で「賜姓源氏」は「11流11家」も生まれたが、何れも格式を有する事は出来なかったのだ。
何れも要は「源氏化の問題・青木氏から観れば財の問題」もこの「財」に在ったのだ。
「嵯峨天皇の苦境」の「対策の九重戒相伝・通称9つの縛り」は「格式化の効」を全く奏しなかったのだ。
源氏化は「財」を担保しない「格式化の苦境策」は当然の事で「縛りの保全」どころか武力化の方に向かうのは必然の事であったろう。
兎も角も、つまり「後勘」から観ても裏付けられる。
この「嵯峨天皇の格式化の苦境策」にはそもそも「根本的なもの」を忘れていたのだ。
それは、「最大最多の格式の象徴」の「神明社の伝統・律宗族とその裏打ち」を忘却していた事に成るのだとして故に「青木氏の資料・先祖・氏是や家訓など始めとして」では周囲の圧力には抑止力でにげその抑止力を担保するのは「財と四掟・女系で秀郷流一門で繋がる。
この結果として「賜姓秀郷流青木氏等の武力で抑止力」にあるとして、これを護る事を「青木氏の戒め・氏是とか訓と四掟の女系制度」として解いているのだ。

追記として、本来は「十誦律」とは、中国仏教教団における規則や作法、戒律などをまとめた「中国律書」の一つで、他に「四分律・五分律・摩訶僧祇律」が四つがある。
然し、日本ではこれ等の戒律を“「仏界」”にだけに留められず、咀嚼させ変化させて「高位族側・臣下族の朝臣族18氏」」にも利用伝統化させていたのだ。
その例の一つが、これが“「青木氏の家訓十訓」”に代表され咀嚼されて遺されたものだ。
“「青木氏の家訓十訓」”には、「奈良期の生い立ち」の「伊勢衆の氏族」の「商いと青木氏部の影響」を受けての考え方が色濃く滲んでいる様だ。
ここにも忘れては成らない歴史的経緯の「律宗族の格式化の名残・伝統」を持っていたのだ。

この代表的な立場が「天皇家を想起させる賜姓族」では無く「伝統の律宗族の所以」の故を以て、「皇位臣下族の朝臣族18氏」の「最高位の中」には入れずに、「武力を背景とした事・9つの縛り」を護らなかった事から永代に「源氏族」だけは、“「単なる朝臣族”の区分け」にして「身分格式」を留められて分類されて仕舞ったのだ。
それも、「源氏族の始祖とも成る嵯峨天皇」の「新撰姓氏禄・過去の二つの氏禄あり」に依って皮肉にも正式に決められて仕舞ったのだ。
止む無くその代わりに「仕掛け人の嵯峨天皇」は、「賜姓」は、「青木氏」を辞めて、「皇位族に居た事」の「裔である事の証明」があれば、「青木氏を名乗る事」を「詔勅禁令・争いの末の妥協案・その後に仁明天皇と円融天皇は修正している」で許したのだ。
その場合にも「賜姓青木氏に於ける慣習仕来り・9つの縛り」を護る様に求めたのだ。
然し、「賜姓源氏」には矢張り武に頼り当然に守られなかった。
その証拠に平安期初期には、例えば“「島左大臣」”等の様に「公家の三代目の裔・天皇家と外戚の藤原氏」は、殆どはこの「身分格式の伝統」を重んじてこの敢えて「源氏」を名乗らずに態々“「青木氏」”を名乗ったのだ。
これは「武」では無く「財と格式・伝統」に周囲は求めた何よりの証拠であろう。
これが「伝統を護らない源氏」に対しての「公家である事」を重んじた典型的で代表例である。
要するに、「公家から低く見られがちの財」にあったとしても「公家」から青木氏族が出て、「公家」から「より低いとしていた「武の源氏族」は発祥しなかったのだ。

注釈としてこれに関連して何度も論じている事ではあるが、この事に類する事として敢えて思起こす具としてここでも述べる。
この寧ろ「源氏化」でその系譜を可能性があり搾取していた立場にいた筈の「武蔵七党の丹党の青木氏」には、「配流者の多治彦王の裔説・イ」と、「島左大臣の裔説・ロ」と、この「二つイロ」を組み合わせた系譜偏纂裔説の「三つの青木氏」が存在するが、「島左大臣の裔説の青木氏」は丹党とは歴史的因果関係が無く別である。
そもそも、「坂東」に配流された若い罪を犯した「多治彦王」は、3年後に京の都に既に戻されていて、且つ、若くて子孫を遺しえる能力を未だ持ち得ていなかったし、「彦の呼称」が示す通り青木氏を名乗れる「四世族内の王位」ではなかった事を示し、「配流の重罪を得ている事」からも「嵯峨期の禁令」に基づく「青木氏を名乗れる立場」にはそもそも無かったのだ。
念の為に、“「彦」”とは「未成年・15歳以下」を指し、「彦」は「神道」が使う呼称であって、「王」のそのものは「四世族内の皇位族の者」でも無かった事を示すのだ。
依って、そもそもこの「彦」と「王」の「二つを連結させた呼名」が先ず問題なのだが、「彦の段階」の年齢では「王位」にはそもそも未だ成り得ないのだ。
上記の通り「彦」はそもそも「神明社の神道系の呼称用語の忌名」であって、且つ、「皇位族=神明社の者」の中に無い者であり、そもそも「慣習仕来り掟の矛盾の疑問」が余りにも多すぎる。
更には、この「二つを組み合わせた系譜偏纂裔説」にはあり得ない事があって、その「丹党が示す系譜」は「繋目」で終わっているのだ。
「武蔵七党の国衆の丹党」が「関ヶ原の戦い」で摂津藩を取得した際の「江戸初期の国印状取得での搾取偏纂」である事には先ず間違いは無い。
但し、「島左大臣の裔説」の「青木氏」に関しては正統であるが、その裔の詳細な行方は未だ判らないが、「左大臣」とも成れば「京の公家中の公家」の中に存在していた可能性は充分にあり、「近江青木氏との判別」が付かなく成っている可能性もあるし、明治期の公家の「東京への移動」で「武蔵青木氏との判別」が付かなく成っている可能性がある。
他に、「橘の諸兄」の「宿禰族の橘姓賜姓青木氏」はあるが、そもそも「宿禰族」は「青木氏」を名乗れる資格は無いが、「諸兄の母」の「三千代」は後に「藤原不比等」に嫁し、後の「光明皇后」を産み、結果として「青木氏を名乗れる所以」を得たのでこの「橘氏系青木氏」は「正統・現存」である。
「橘系青木氏の子孫」は大きく遺してはいないが「橘紋」を有し現存する。
この橘氏も青木氏族に成ったが間違いなく源氏化する立場・格式にいた処を源氏化はしていないのだ。
これは「財と賜姓の青木氏」に執って何を意味しているかである。
少なくとも「河内源氏の鎌倉期初期」まででも「武の源氏」より「財と賜姓の青木氏」の方が、実質は「財と伝統の青木氏の方」が上位に扱われていた事を意味し、滅ぼされず「伊勢と信濃」は「奈良期末期の元を本領安堵」されている事もその「財の青木氏の証拠」であろうし、室町期は求めずとも「律宗族の扱い」で正式に「幕府と朝廷」で態々認められているのもその証拠であろう。
筆者は、この上記の証拠事例の様に「孝謙天皇の白羽の矢」に限らず、後勘でも「財の青木氏」>「賜姓の青木氏」の図式は重く捉えられていて、その上でもこの格式は認められていて「周囲・社会全体」は認めていた事を示していると観ているのだ。

他には実際は「甲斐で大きく子孫を広げた時光系青木氏」もその「嵯峨期詔勅が求める証拠」と成り得る物を有していないが、一方で「嵯峨天皇」は「皇子・嗣子の一人」に、「源氏の賜姓め・峨源氏」とは別に、「薬子の変」の「争いの別の収拾妥協策」として、「甲斐青木冠者蔵人・遙任」の「官位・税務担当」を授けていて、「賜姓同等の仕来り」として「9つの縛り」を護らせようとした史実が存在する。
この「裔系の甲斐賜姓青木氏」は、「清和源氏頼信系河内源氏4代目」が同じ「甲斐冠者」に任じられ、以降10代目に遂に「甲斐守の守護」に任じられていて、「11代目・源光」がこの「甲斐青木冠者蔵人」の「家の跡目」に入り「源光系青木氏」が誕生するのである。
唯、確かに「源光」は「源氏隆盛時」の「河内源氏」であったが、態々、「源氏」から「甲斐青木冠者蔵人」としての「律宗の伝統」を護り続けた「異色の青木氏」である。
この事も見方に依れば「武の源氏」より「財の青木氏」の方をげんじそのものが重視していた証と成るだろう。
この「源源光」は「源時光の弟・異母弟」であるが、「源氏化」で敗退して衰退して、「信長の甲斐凱旋時」の「出迎え」に出た時、この「律宗の伝統儀式」に則り「白馬白衣の乗馬姿」で「信長の反感」をかい、その時、「酷い暴行」を加えられ「信長家臣の制止」と説明で何とか留まった史実があるが、その後は「甲斐の山奥・北巨摩郡」に押し込まれひっそりとその余生を過ごし後絶えた。

「円融天皇の青木氏賜姓復活・母方秀郷一門に」にも拘わらず「室町期の経緯」では、上記の事が影響し、遂には「皇位族に居た事」の「裔である事の証明」として、偽の「脇差・短刀」を持ち出して、その裔であるとして名乗る者まで出て「搾称」が頻繁に出たのだ。
中には、上記した通り「平安期の公家・彦」等の「皇位族の配流罪人」が一時坂東などに配流された事を以て、記録から探しだしてその時の裔であるとして「朝廷の承認無し」に勝手に名乗った者も数多くいる始末と成った。
故に、平安期末期では名乗ったもののこれ等の食い詰めた「青木氏の裔系」は、結局は「近江佐々木氏」や「近江青木氏」や「美濃青木氏」や「甲斐青木氏」に雪崩込んで家臣化して生き延びたとされているのだ。
これを「鎌倉期末期」まではこの「慣習仕来り掟」もまだ多少は護られていたが、「下克上」の起こった時期の戦国時代では最早無理であった。
故に、これを留める為にも室町幕府は「律宗族の明確化の所以」と走ったのだ。
この「室町期・足利氏・河内源氏の卑属」と、「姓族の国印状取得」の「江戸期・徳川氏・第二・第三の族」の発祥では、最早、意味の無いものと成って、挙句は「第二次の系譜搾取」までに至り、「氏族に関する制御」が効かず横行したのだ。
つまり、これはそれだけ乱れていても、この時でも河内源氏の室町幕府は「財の持つ律宗族」でも「青木氏を格式化しようとしたと云う事」に言い換えられるだろう。
当然に、これは自らの格式化を「青木氏の律宗族」を対象にして「源氏・幕府の格式」を浮き上がらせようとした事は間違いは無い。

但し、江戸初期に「源氏族」に属さない「徳川幕府」は、流石に「伊勢の事お構いなしのお定め書」にしている限りである。
そして「青木氏の搾称を禁じる令」が出て、これ等に対して「葵木、青樹等に変更する事」を「幕府・大日本史以降では「第三青木氏として命名・別枠にしている」は命じたのだ。
「律宗族の所以・格式権威の保全」を以て「追認の形」であったが、ところがこれに「大反発・旗本」し、「伊勢の事お構いなしのお定め書」や律宗族の格式は無視」は享保期には幕府も同調し青木氏を潰しに掛かったのだ。
これに「伊勢・信濃青木氏は大影響・聖域を奪われ殖産を奪われる・影の戦いの寸前まで陥る」を受けながらもこの旗本の行動・旗本に遣らせた」を認めたのだ。
「青木氏族」が好まない侭にしても「律宗族の反面」としてのこの様な経緯を持っているのだ。
然し乍ら、前段でも論じているが、「嵯峨期詔勅の青木氏を正統にして名乗った氏」は結局は「数氏」に留まり、現存し子孫を大きく伸ばしている。

さて、この様にして「更に律宗族を追認した・賜姓と同じ意味に成る」室町期では、「嵯峨期の禁令」に基づく「青木氏」の「搾取偏纂」が横行し始めていて、「嵯峨天皇の施策・新撰姓氏禄」は後に「律宗族の混乱」を著しく招いた結果と成って行ったのだ。
その意味でも、室町幕府が出した「浄土宗白旗派を以ての律宗族の追認」と、「朝廷の正親町天皇の追認」と「江戸幕府の青木氏の使用禁令」と「伊勢の事お構いなしのお定め書」があって、「律宗族・青木氏族・賜姓」を確定させ明治9年まで何とか護られたのだ。
これが幸いにして「律宗族の所以」を以て側面からも「青木氏の四掟の範囲と成る根拠」とも成り得たのである。
流石に、この経緯は明治35年頃から大正14年頃ではこの「律宗族の所以」は次第に無く成り、その代わり「徳宗家、得宗家、御師家、氏上様等」と呼ばれていたと記されていて「口伝」でも伝えられ、筆者も昭和の初め・20年頃の幼い時に未だ聞いた事がある。
要するに、この「律宗族の認定」は上記で論じた「宗教力の格式論説」と「青木氏の再格式論説」であったと観られる。
これには「青木氏から仕掛けたとする抑止力の説」、つまり、「青木氏の再格式論説」も上記で論じたが、この経緯から観ると「仕掛け説」は考え難い説と成る。
「賜姓族」にせよ「律宗族」にせよ「徳宗家、得宗家、御師家、氏上様等」と呼ばれていた事にせよそこには確かに「奈良期からの古式伝統の維持」の古氏族の前提があったが、それが明治9年まで続いたがそれだけ長く続くにはそこには「良い意味」での「殖産の財の影響」は垣間見えるのだ。
「奈良期からの古式伝統の維持」の前提だけでは到底無理であったろう。
その「認められた財・朝廷も認めた民に幸せを与える殖産の財」は「地域に影響を強く与えた殖産」にあった事には間違いない。
「白羽の矢」の時に、特に「朝廷の貴族や官吏等の反対」を受けなかったのは、この氏是と家訓に裏打ちされて実行されている「民に幸せを与える商い・殖産」で在ったからであり、「武」より低く扱われていた「唯単の商い」では無理であったろう。
だから「室町幕府」も躊躇なくこの「律宗族」を自発的に認め「朝廷」もこれに追随したのだ。
それだけに「氏族も関わる認められた財に溺れる事」なく上記の経緯の通り珍しく「伊勢と信濃の氏族」と共に生き遺れたのであろう。
この様に「後勘の経緯」からもそれを物語り「白羽の矢の疑問」は「財の前提に在った事」は疑う余地はない。
この「律宗族でも財の前提に在った事」は、前段でも論じたが、「旗本の範囲・藤原秀郷一門の近習御家人衆の旗本は律宗族を肯定」がこれを否定し吉宗が黙認する事件が「伊勢と信濃」で起こり、それが皮肉にも「江戸期享保期末期・吉宗の享保の改革」までであろう。
唯し、「紀州藩」だけは飽く迄もこの「律宗族・財の前提に在った事・手紙の中の文面での資料で遺る」」を擁護し、それが体制が一変した「明治9年・実際は資料から大正14年まで姿勢を貫いた」まで正式に緩やかに西側では続いた事に成るのだ。


上記の「律宗族論」は中断して大きく元に戻るが、論は跨るが、故に、「源氏の論」として「前段の論」で論じ遺した件の追論記として、此処で論じて置く。
「美濃の駿河青木氏の論」である。
この「山城の河内源氏との絆の所以」が、「河内源氏」が「律宗族」で無いと成るならば、「松井氏に関わる河内源氏説」は無くなるのだ。
現実に「八幡菩薩・八幡神社の習合の守護神」であり、「祖先神の神明社の守護神」にして「臣下族と特定の公家」が必ず帰依するごく少数派で構成する「浄土密教の白旗派」ではそもそもないのだ。
「決定的で最大の歴史観の差異」なのである。
これを敢えて違えて、或いは知識不足の歴史観で論じているものが実に多い事に注意する必要がある。
そもそもそれどころか「摂津源氏が存在する処の山代」に、「嵯峨期の9つの縛り」や「律宗の掟」も一切護らなかったどころか、「武力」を主体とする「河内」に「追放された河内源氏」が存在する所以も確かによく見かける説ではある。
然し、これは間違いなく「系譜繋合わせの系譜搾取偏纂の証」であり、歴史観として其処までそれを許す程に「朝廷と公家と貴族と規律を求めた社会」ではなく緩んではいなかったのだ。
殆どは後勘の世間,又は当時の世間の歴史観の低さを見抜いての搾取偏纂であって、そもそも、歴史観として当時の「掟・律」では、「河内源氏・満仲の隠居罪や頼信の放免罪」の様に「罪を犯した者の一族」とその「罪みを得た族」は、“「誅族」”と呼ばれ“「三族の罪・永代の罪?
9」”をそもそも課せられていたのだ。
それ故に、「河内源氏」は「縛りをある程度護った摂津源氏の周辺に存在する事」がそもそも無く、「冠位・官位・官職」のみならず「婚姻」すら「三代・義家義光まで」に於いて正常に許されなかった考証と成るのだ。
「摂津源氏の律宗の縛り」もこれでは無くなるどころか次の歴史観の様に「河内源氏と摂津源氏の事の歴史的始末」も無く成って仕舞う事に成る。
“「摂津源氏の以仁王の頼政の令旨」を以てその跡を引き継いだ”として「9つの縛り」を護らなかった事を理由にその資格なしとして扱われ譲らなかったのだし、後に既成の事実を造り上げた事で朝廷は止む無くその代わりに「右大臣左衛門大将の冠位」を与えて「西の朝廷」の「許し」を何とか得て、「東の府・朝廷の出先機関」を築いたのだ。
そもそも、その「幕府とする呼称の記録」は決して正しい歴史観としては無いのであって、飽く迄も「武士団を統制する東の府・朝廷の出先機関」としての認可であったのだ。
当時は、「格式や冠位授与や信賞必罰の大権」はあくまでも「西の朝廷」に任され、この「東の府」は「武士や御家人」を「統制する府」であるとして呼称され任じられていたのだが、最終の「東の府」の勢力が及んだのは「東の府」の「執権」と成った「北条氏」の鎌倉末期頃である。
この「正しい歴史観」は、正式には「頼朝」がこの「西の朝廷」から「右大臣左衛門大将に任じられた事・征夷大将軍では無かった」でその権を以て始めて「東の府」と正式に成ったのだ。
この「冠位に叙される前の初期」は「9つの縛り」をある程度護っていた事からその「資格」はあるとして「摂津源氏の頼政の代理人論」として「東の府」を開くとする前提にしていたのだ。
然し、この時、西には「東に属さない武士団」と「官吏から武を獲得した勢力集団」が未だ多く西域に居て「東の府の勢力」は及んでいなく「西の朝廷の支配下」にあったのだ。
然し、ところが「西の朝廷」の許可なく勢力の及ぶ範囲・東の関西域まで「守護職と地頭職」を勝手に置いて「東の府の政治体制」を敷いたのだ。
歴史観としては、「江戸時代」に成っても上記の通り「西の朝廷」と「東の府」の関係性は全く変わらなかったのだ。
故に、「徳川氏・松平氏・下野土豪得川氏の出自」で「源氏族」では無かった事に依り「武士の棟梁」の「称号」は「宮廷の壁」が崩れるまでに「経済的な圧力」を掛け続けた末に、流石に頑として得られず最終は「武士の頭目・実質統治者である」としての「妥協案」で決着が着き「関東の府」は成立したのだ。
「正しい歴史観」は飽く迄も「幕府」では無く「武の東の府」であってものなのだ。
この「徳川の府」は、そこで「古来からの西の武士の集団」を壊し、「西と東の入れ替え」を図って統一して統制できる様にして、「府としての態勢・東の府だけではなく成った事に依り自ら「幕府の呼称とした」を整えたのだ。
だから、「朝廷の認可」を前提とすれば「幕府」で無かった事に「徳川慶喜」はより正しく伝統を護り「府の政権・政権奉還で」を朝廷に返還したのだ。正しくは朝廷に代わり「全ての信賞必罰までの政権の「幕の府」では無かった事により政権奉還として済んだのだ。
故に、この様に「正しい歴史観」としては「西の朝廷」は、記録を探して観ても飽く迄も「・・幕府の認証」を正式にはしていないのであって、故に「・・幕府の幕府の呼称」はそもそもないのであり、「徳川氏の府」が「全国の政治体制」は整ったとして勝手に「幕府として呼称した事」に成っているのだ。
恐らくは、故に、その「河内源氏の頼朝」が「鎌倉の府を拓いた所以」から、それを利用した「江戸期の武士への国印状取得の系譜偏纂の搾取・府は武士だけに国印状は出せる」ではあるが、そもそも、最早、“律宗族では無い“として、「河内源氏の頼朝」東のは開府に際しては「朝廷の認可」は降りていず、止む無く「以仁王の乱の主導者の摂津源氏頼政・三位」の「継承幕府・頼政戦死の代理人」として「朝廷の府認可」を取得した史実としての歴史的経緯を持っているのだ。

注釈として「武士外の庶民」は“全て武士の統治下にある”としてその前提として平安期までの習いとして「武士の政治の支配下」と成るが「徳川の府」は故にこれを「農工商・対して意味が無いのに」と態々階級付けして分けて類似させた体制にする事を明示させたのだ。
前段でも論じたが、この体制は「施基皇子」が「伊勢王」と成った奈良期の時にも「土地」と共に「伊勢の民500戸の民」も朝廷より賜っている。
これが、「平安期までの体制]として続いたのであったがこれを江戸では再び明確に仕手詳細化させて採用したのだ。
この事には「朝廷」はそれまでと違ってより「昔の制度に近づいたとしてその採用」に対して「大きな好感」を持ったと考えられる。
要するに「徳川の府」を「江戸の府・江戸幕府」として「より黙認する姿勢」をこの時より採ったのだ。
「正しい歴史観」はこの前提下にあるのだし、故にこの別枠として特段に「律宗族の位置づけ・源氏の否定」は「重要な格式を持っている事」に成ったのだ。
この時から、それまでは使い分けして主に「源氏の朝臣」と名乗っていたが、今度は「藤原の朝臣」を名乗る傾向が強くなったのだ。
徳川氏と同然に「主だった格式を重んじた武家」もこりに準じてその系譜の成否は別にとて、どれと云う風に決めずに状況に応じて「源平藤橘の裔」として使い分けていたし、それに対して周囲は自らもそうである事から異論は唱えなかった社会気風が出来上がっていたのだ。
記録を観ると、その中でも「徳川氏・家康」は「府の頭と云うは立場」もありこの傾向は特に激しかったのだ。
だから[室町期の戦乱」に乗じて「農民庶民・武士の約8割」から伸し上がった者等の゜武家とする末端」まで「黒印状制度」で格式化させて真偽は別にして「系譜づけ提出・寺や神社の専門業者が横行」を先ず条件にして制度化したのだ。
その意味で、こんな中でも「正統な律宗族」は特段に「周囲から目立った環境」が室町期より成立したのだし、これが上記した様に「「農民庶民・武士の約8割の旗本」の「根強い反発・145年間」を招いたのだ。
この「反発」の中には「律宗族を構成する郷士衆の氏族・武士では無いとする否定の反発」で僻んで歴史を否定するまで揺り返して来たのだが、然し、これも旗本側の反発は不利として引き下がった史実がある。
最終は、前段で論じた「享保期・吉宗」の「伊勢青木氏は江戸伊勢屋の引上げ」と「信濃青木氏の聖地没収と殖産の奪い取り事件」で「収束・紀州藩が擁護・旗本と吉宗は手が出せなくなった」を観た経緯と成ったのだ。

西の朝廷」は上記の経緯の様に「思いの方向に向かう「江戸の府」に対してこの事でも更により好感を持つ様に成ったのだ。
これ等の積み重ねで「朝廷の承認」を必要とする「幕府の呼称」に対して「西の朝廷」はより黙認する事と成ったのだ。
「西の朝廷」が反対をし続けた「源氏の呼称・源氏の棟梁より頭目に格下げ」で反対を解いたのだが「藤原朝臣の名乗り・事実では無い」で事実上の大儀が得られ解決したのだ。
古来より「藤原の朝臣は「朝廷の摂政」である事から「朝廷の臣・朝臣」であるとすれば「摂政」は可となり「幕府の黙認の大義」はこれで成り立ったのだ。
そして、その「藤原の朝臣の根拠」を「東国の藤原秀郷流一族一門」をごっそりと「御家人衆」として「家人衆旗本の位置」に据えて、それも「江戸の府の官僚族の扱い・実際に上級事務官僚を務めた」としたのだ。
そうなれば、その「頭目であるとして妥協策」で許された「徳川氏」は成否に拘わらず「朝廷の藤原朝臣族とする根拠」が生まれたのだ。
「西の朝廷」はこれを以て否定する事が出来なく成ったのだ。
他にもあって「格式」を決定づけた「嵯峨期の9つの縛りや新撰姓氏禄の制定」に対して「武家諸法度や公家諸法度の制定」で「西の朝廷の思惑」に「同じ政治歩調を合わして実施していると云う印象」を醸し出して強化してこれに合わして「幕府呼称の黙認」を完全に引き出した「江戸期の経緯」と成ったのだ。
然し、「鎌倉期と室町期の府」にはこの「政治歩調」は無かったので「単なる武士への行政府」に成ったのだ。
最早、「江戸の府」に対してこれ以後は「西の朝廷」は何も言えなく成ったのだ。
この時、前段や上記で論じている様にこの「妥協の政治歩調」に対して「三河御側衆の旗本の反発・律宗族の伊勢と信濃はこれでトバッチリを受ける」では猛反対をしたが押し切られた経緯の歴史観と成ったのだ。
この「旗本の不満」は独自性が強く幕末の後々まで引きずられた経緯と成ったのだ。
「妥協の政治歩調」に関して研究すると「奈良期から平安期までの政策」と見比べてみると「江戸期の政策」には詳細は別の論とするが確かに「類似性」が多く観られるのだ。
念の為に「農民の立場」からであった事より搾取で脚色する事は出来ず直接に「豊臣とする朝廷の格式」を得た「豊臣秀吉の政権」は「自らを金品の献納」で「武家貴族・公家族の格」を獲得して「政権の前提」を強引に構築して「摂政の立場」を造り上げたので論外である。
この事に「西の朝廷」はより他の二つの府よりもより好感を持ったと考えられ、「江戸の歴史観の根底」にはこの様な経緯が流れていた事を知って置く必要があるのだ
これで「上記の源氏に関する疑問点の解消」はこれらの史実に基づく歴史観で出来るので、以後、再び論はどれだけ「正しい歴史観」の下で論じるかであって、それ故に「bの疑問のより正しい歴史観の解消」の為に次のその所に戻す。


「額田青木氏と駿河青木氏の論の追記」
故に、“B 何故、この時期に訓練中の「額田青木氏の銃隊」が「三河国衆・1560年」と成ったのかである。
何故ならば筆者には「駿河青木氏」の「桶狭間の参戦期」に合わしての経緯の歴史観が気に成るのだ。
これの「関わり」を「青木氏の歴史」を遡って検証して置く必要があると思う。

上記の格の如しで「源氏説」は成り立たないので、「青木氏族の二つの氏族」は、「摂津源氏」でさえも「四掟」で関わろうとはしなかったのである。
だから、「松井氏」では無い事は判るし、当然に「河内源氏に対する「正しい歴史観」は、当時の歴史観には未だ社会に遺されていて、この「松井姓」も「当時の一般常識」としてこの事は知ってはいたであろう。
然し、「松井姓」に関しては明らかに「青木氏族との四掟の範囲・律宗族の所縁」では無かった事が判る。
それは,真偽は別として、「山城や近江」は古来より「天領地や公領地」であり、従って其処に隅管理する者はその“御家人としている事”であり、このでも判るが、然し、筆者は、「源氏や御家人」は別として、「日野―松井―摂津の地理的往来」から来る「所縁優先説・近江鉱山とそれに関わる殖産ルート」ではあったとしその説を取る。
最低限、「二つの青木氏一族」が「律宗族」であり得ていたのだから、その恩恵を受けている「近江の松井の庄の者等」はこの事を知り得ていただろう。
まあ何れにしても「駿河水軍」を基にして復興を遂げた「駿河青木氏」が「遠州の国衆」に成り得た所以は意外にここにあったのだ。
筆者は当初、「伊勢青木氏」と「駿河国の藤枝の秀郷流青木氏」の連携によるものとして観ていたのだが、「遠州の国衆に成り得る為の直接的な繋がり・今川氏」のここの「詳細な解明」に時間が掛かったのだ。
まさか“「今川氏の家臣」に成っていた「松井姓・本流」にある”とは考えなかった。
参考として、この「松井姓の本流」は「桶狭間」で完全に滅亡した史実があり、それでもこの僅かに遺された家族の「分流族・卑属」は伸長し“「徳川、武田、今川」”の三方に生き遺り分裂したと記録にある。
この事が「決定的な重要な検証要素」である。
結局は、「今川氏の家臣」からその分流卑属が“徳川家臣と成った要するに「近江の流れの者・松井氏」”が江戸期には、戦国の世でも無いのに何故か「3000貫≒7500石」を獲得し、それも「旗本の大身」を獲得すると云う事に成るのだ。
然し、同時にここには「青木貞治の裔系の運命」と同じである。
ここが解明できなければ「詳細経緯」の「青木氏の正しい歴史観」として前には進めなかった。

さて、そうすると上記の事から、「Bの疑問」であるが、筆者は、先ず、桶狭間後に、衰退しながらその中で「松井姓の家臣・今川氏」であった者等の分流卑属が、其の後に“「徳川、武田、今川」”の「三方」に分裂したが、その最大の原因の一つが、つまり、余りにも徳川氏からの扱いの「この事・3000貫≒7500石と旗本の大身の理由」にあったと観ているのだ。
「三つに分裂した」のを纏めて結局弱小な徳川氏側に靡かせたこの「戦略的な功績」に在った事が判ったのだ。
そうするともっと云えば、「一つ目・イ」は、三つに分かれた中で“何故、徳川氏・松平氏であったか”と云う事に尽きる。
未だ「弱小の松平氏」に着いたのだ。何故かである。

その前に、この事に関わっている事がある。
この後の「三方ヶ原の戦い」では、この「状況の中」で「松平軍の本隊」と共に「松平の国衆」に属し、「青木貞治隊・200」は主将を失う程であったが、ところがその「子孫・一族」は滅亡する筈の処が不思議に多く生き残っているのだ。
然し、これは先ず何を意味するかでありこの「重要な経緯」を説いて置く必要がある。
さて、では“何かの手立て”が無ければこれ程に完全に多く生き残る事は難しい。
ここの「詳細経緯」を探る。
では、それは何かである。
筆者は、全段でも論じた通り、「額田青木氏の南下国衆の銃隊」が「山県軍の別動隊」と応戦しながらも「武田軍の本隊」に目がけても「青木貞治隊・200」を救い出す為に「弾幕」を浴びせて張って救った事だったと観ているのだ。
これは「一言坂の様」に、「強烈な弾幕」で「武田軍の本隊」が怯んだ隙に、何とか救い出して「東・西光寺」に逃がした事の「連携の経緯」より成る戦記の史実にある。
そこで、上記の「内部情報」を得て「初期の目的」を達して深入りせず直ぐ様に「戦線離脱」して「伊川津」に向きを変えたのだ。
この「怯んだ隙」には、この「二つの事」を成し得る“其れだけの行動する時間・銃力があった”と云う事だ。
単純に戦線離脱したのではなくこの事には大きな「意味・鍵」を持っているのだ。

「二つ目・ロ」は、こんなに「見事な裁き」を見せた「額田青木氏の南下国衆の銃隊の行動」にある。
それは折角育てた「駿河青木氏の補完」にあったと考えられる。
さて、更に追記として、史実の時系列から「山県軍の別動隊」が、“三方ヶ原補給拠点を確保されたと云う事”の「情報」を掴んだのはそれより遅れていたと云う事に成る。
故に、この「経緯」としては「二俣城」から「12.2kの位置・直線 徒士14.5k≒3.2h」にある「三方ヶ原」にも「重要な到着」は遅れたのだ。
「堀江城」より「三方ヶ原」までは「8.4kの位置・直線 徒士10.2k≒2.2」にあるとすると、“同時に「情報」が入った”として、「約3.8k・直線≒徒士4k≒1h≒1里・1時間」の「時間・距離の差」が生まれていた事に成る。
然し、実際に「武田軍の本隊」は「堀江城の陥落」と「三方ヶ原」までの「魚鱗の陣形に軍編成・編成しながら行軍」に手間取っていたので、つまり、「三方ヶ原の西側」には着けず「南・右から左」に向けて「山県軍の突撃」が可能と成っているので、「最大1h以下~最小0.5h」は遅れていた計算が成り立つ事に成る。
「山県軍の突撃・本来は突撃隊ではない」としてもこれ以上の「遅れ」は無理であろう。
この「突撃した事・突破・本隊との交差避ける」を観て、「武田軍の本隊」は先ず「赤兜の騎馬隊・6000」から「松平氏の本陣」に目がけて進軍突撃しただろう事に必然的に成る。
だとすると、そこで「青木貞治隊・200」を「救い出す」とすれば、残された作戦は「山県軍の最後尾」とこの「赤兜の騎馬隊・6000」とに「弾幕を加える事・史実」に成る。
「徒士」では無く、自由の効かない「赤兜の騎馬隊」であれば、離れて撃ち掛けれらて「弾幕を加えた事・最大射程距離1k」は「最大の効果」を導いたと断定できる。
「弾幕とそのその煙」が無くなるまで近づけなかった筈である。
要するに「青木貞治隊・200」を充分に救い出せたのだ。

「三つ目・ハ」は、これ等の「救出」は前段でも「情報に依って成された」と論じたが、如何にもこの「救出の行動経緯」が一面計算されている様に見える。
つまり、これは、つまり「救出」は「当初からの目的」であったのではないか。
これ程に「史実」に等しい「青木氏の歴史観」があったのに、これ等の事が歴史的に過去の「3度の消失・青木氏側」もあったが、これらの「伊勢の詳細な資料」は、勿論の事、「松平氏の資料・駿河国衆であった事が原因」の中にもここだけが崩れ落ちて不思議・恣意的に遺されていないのだ。
「専門の祐筆」が徳川氏に居たのなら何処かに在ってもいいだろうと思う。
「松平氏の中の資料」には、例え「駿河国衆」であったとしてもこれだけの功績を松平氏の中に遺したのだから、何れの「青木氏の国衆・三河と駿河の事」に就いても、「無いと云う事」はこれも大いなる疑問である。
況してや、この後の江戸期には、「3500石の御側衆・上級番方」に出世しているので、そこにも「徳川氏の右筆衆・徳川氏この字を使っている」と「駿河青木氏の祐筆」に依る「記録・失火の消失は無い菩提寺と春日社」が遺る筈だが散見できない。

ここで念の為に「歴史観」を深める為に参考として「祐筆」に就いて合わせて追記して置く。
何故ならば実は、古来奈良期より「青木氏」では「菩提寺と神明社」には「必ず氏の祐筆と云う役職・事務官」があって、「一切の出来事」を記録に留めていた。
室町期の時には同じ習慣を利用されて「氏姓の祐筆又は右筆」は、「戦い」にも参加して「戦記状況」を詳しく遺す事が定めとして行われていた歴史観があったのだ。
これを「鎌倉期頃」からは「右筆衆・祐筆衆」と称し「戦記」も遺していたのだ。
取り分け、「室町時代」にはこの役職が家臣化が進みこの制度が取り分け重視され、その中でも「信長と秀吉」は、この「右筆衆」を重視して、戦場に「多くの右筆衆」を各所の重要拠点に何人も配置して、「正しい状況」を把握して“「家臣契約の者・雇用契約制度」”に対して正しく「論功行賞」をするのに利用していたのだ。
そしなければ“「郷士や土豪の集団と家臣契約の者・雇用契約制度」と「主従制度」”は成立しないのだ。
「血縁や所縁などに依って氏家制度の集団・氏人で固まる集団」とは異なっていたので、故に、“「家臣契約の者・雇用契約制度」”では、この「右筆制度」は「欠かせない制度」と成っていて「記録などの事」はここに頼っていた歴史観なのだ。
それだけに「右筆の書様」では「記録」は書き替わり「主君や家臣の利害」が生まれていたのだ。
中には正しく書か無かったとして首を打たれる者も出た程で難しい役職であったのだ。

参考として、筆者が良く論じている奈良期から「伊勢青木氏の資料・“祐筆”に依る」等は「福家・四家」のみならず主な「家人頭」や「差配頭」、時には、「女系で繋がる伊勢郷士衆の大郷士・氏人」にも居て「何らかの資料・清光寺や神明社」が「その役柄」を決めて何らかの形で補完が行われていたのだ。
故に、但し、多く脚色されずに「祐筆の所以の違い」を以て遺されているのだが、これを務めていたのは「祐筆・神明社の神職と菩提寺の住職」で事務範囲の役割を決めて行われていて、故に、論じている様に奈良期からの長い間の「四掟や嫁家制度や妻嫁制度」の詳しい「血縁先」や、その「状況把握」までが「明治期」まで保存され遺す事が出来ていたのだ。
当然に「伊勢屋」にも同然で“「商記録」”とすれば何処かに遺されている可能性があったのだ。
この二つを突き合わせれば何らかの答えの手掛かりが得られる。
故に、この「Bの疑問の解明」に関しても、「青木氏の資料以外」を読み解く事で「答え」を導き出す事も出来ないのだから、ここまで論じている本論の様に「それ・青木氏の根拠・祐筆」を探し出す事に「総力」が注がれるのだ。
後は、「得られたちょつとした情報」を繋ぎ合わせられるかの「ひらめき」に関わって来る。
唯、見つけ出した「青木氏の資料」には「脚色」は伴わない「原石そのもの」であるので、「世の美化論・格式化論・脚色化」に流される事なくより「正しい歴史観」を常に獲得する事に関わるのだ。
故に、「Bの疑問の答え」には「松平氏の戦記」が「脚色部分」を削ぎ落として働くのだ。
例え「第二の姓族」と云えど、天下を揺るがす程の豪族には、必ずこの「原石」成るものがあって、そもそも“記録が無いという事”は無いのだ。
況してや、この「三方ヶ原の戦い」や「長篠の戦い」の「関連の戦い」では両軍に於いてこの「右筆衆の活動」は盛んに行われていたのは有名な事なのだ。
中には、「戦場の戦いの状況」を適当な安全な位置から絵に遺して説く事も行われていた。
中には「忍者衆」を雇い「右筆の仕事」を契約していた事が遺されている。
恐らくは、「五つの内」の「三つの三河戦記」なるものは江戸期直前までは少なくとも「原石」で在った筈である。
その「原石」を曇らせたのは、上記した様に「三河旗本の嫉妬・羨望・反発」が江戸期初期にこれを消したと考えられるのだ。
取り分け、「松平氏」が正式に出した「三河戦記」は「幕府の権威付け」を図る大義の為に曇らせたのであろう。
これ「等・脚色」を消さなければ、「上記の様な詳細な各所の論」から、「有利に描いた三河戦記」に記している事柄に引っ張られて、“「脚色での崩れ」”が生じて仕舞うからである。
それには歴史的に変化した「慣習仕来り掟」から成る「正しい歴史観」がどうしても必要と成るのだ
「上記の立場」、つまり、「伊勢青木氏」が受けた“伊勢の事お構いなし”の「お定め書」の様な「家康との関係性」の中でさえ、この「脚色」も「旗本の嫉妬・羨望・反発」は否定できず、通用しなく成っている事が起こっていたのだ。
因みに、執拗の様だが「享保期の彼等の行動」が、表に出て来た「旗本の嫉妬・羨望・反発の行動」等は充分に有り得た「史実」なのであるが、それだけに完全否定はしないが「原石」を磨かず「史実」を有利に脚色し歪めたのだ。
恐らくは、この「享保期中期」までが「青木氏の様な歴史的な経緯を持つ族」には「旗本の嫉妬・羨望・反発の行動」は「最高潮」であったが、皮肉にも逆に前段でも論じた様に「徳川家との関係性」も「最高潮」であったのだ。
「人の世の中の起こり」はこの様なものであろう。
故に、この渦から逃れられる様な箍は「青木氏の氏是」と成り得るだろう。

「四つ目・ニ」である。
両者は同じ頃から「伊勢・青木氏族の訓練所」では「伊賀の忍者と雑賀の忍者と伊勢水軍」が「氏族内」に氏人として存在しているので「訓練・差配頭」を受け始めた事だ。
史実として「伊豆青木氏の殖産」と「大口青木氏・日向・交易船」と「額田青木氏・美濃・銃」と「駿河青木氏・遠江・大船」が「伊勢の指導」の下で“戦乱の世に出る為の訓練”を受けた。
そして「駿河青木氏・駿河水軍再興」は、「一足先・9年~10年前」に「今川氏の国衆」と成り、その輩下の「松井氏の家臣」と成ったが「桶狭間」で敗退した。
折角の「伊豆までの海路の拠点構想」は崩れ架けた様に観えたのだ。
さて、その前に判断に要する「青木氏だけの歴史観」として論じて置く事がある。
筆者は、「初期の研究過程」で、「額田青木氏の南下国衆」を指導し、「指揮官」であった「伊勢秀郷流青木氏」が、「三方ヶ原」で「山県軍の別動隊」が「左鶴翼」を通り抜ける際に交戦と成ったが、この一瞬に怪我をし、後に死亡した者がこの「青木貞治」と考えて推論していたのだ。
要するに、「青木貞治一人説」であった。
これの詳細を解決して置かなければ「Bの疑問」は前に進まない。
然し、どうしても何故か間尺が合わない。
それは、確かに「三方ヶ原で討死にした事」は、「三河戦記」にも明確にも記載在り、「史実」でどの「三河戦記」にもその「戦い様」が記されている程に「有名な人物」であった。
先ずその疑問は、果たして「額田青木氏の南下国衆」を指導した「指揮官」を、“何故、これ程に「三河」では詳しく名誉の様に語るのか”から疑問が始まったのである。
“家臣や譜代の者は別として「国衆であった事」からそこまではしないだろう”であった。
それは突き詰めると、次の様であった。
1 「敗戦した二俣城の副将」
2 「浜松城に入場の史実」
3 「盤田の西光寺の菩提寺」
4 「本能寺の変の家康の逃亡事件・伊賀越え」
5 「伊勢秀郷流の通名」
6 「青木貞治の行動経緯」
7 「伊勢への連絡の手紙」
8 「二つの西光寺存在」
以上の「8つ疑問」に加えて、この時の「指揮官の名」がどうしても明確には判らなかったのだ。

「近江蒲生家・近江藤氏」より「伊勢藤氏の秀郷流青木氏・梵純・伊勢青木氏の母系」を興し、これを継承した「通名」は、「定」と「忠」に成っている。
なので、「此の一族の指揮官」も少なくともこの何れか「二文字」を引き継いでいる筈である。
ところが「結論の最終の決定」は「菩提寺の違い」の中にあった。
歴史は「平安期」には「秀郷流青木氏」は、「全国24地域・116氏」に「子孫」を広げ、「鎌倉期」には「青木氏族の永嶋氏・主要五氏」等が、取り分け更に勢力を高め最終は「伊勢域」まで「藤氏青木氏族」は勢力圏に治めた。
ところが「室町期」に成り「下剋上」で「中部域の秀郷流主要一門」は再び元の東に押し込まれ元の「藤沢神奈川伊豆近郊域」まで勢力を引いた。
結果として、「西の最先端」に存在していた「駿河青木氏・駿河水軍」が「山越え」の「遠江」に遺された形と成って遂には支えきれず衰退したのだ。
然し、「片喰州浜族と云われた一部」は、何とかこの「駿河・藤枝―鶴見」に遺したのだ。
「伊勢青木氏」が「駿河青木氏の生遺り・支流末裔卑属」を探し出している事から観て「伊勢側・女系ルートで」に「何らかの情報」を遺していた事が考えられる。
そして、これが「伊勢での訓練」を経て「遠江」に「駿河水軍」を再興し、「桶狭間敗退」の「今川氏の家臣松井氏」からの誘いで、「松平氏の勢力圏」に入り「国衆」として仕えた経緯であった。
そして「二俣城の副将」まで「国衆」として勤めたのだ。
結果として、殆ど引き上げた「秀郷流青木氏の菩提寺・盤田見附の西光寺」を「遠江・駿河」にたった一つ残す状態と成ったのだ。
これが上段の論の通りで、「盤田市見付」のこの「駿河」の唯一つの「菩提寺・西光寺・復元」であるのだ。
ここに何か「探し出しの伏線」が残されていたのであろう。

ところが一方史実は、「三河」には「西光寺」は、“「伊川津田原の西光寺」”を「本寺」として「江戸期」に架けて「子孫拡大」で「11の西光寺」を「三河」に広げる結果と成ったのだ。
これが、所謂、「菩提寺の過去帳」から、「駿河盤田市見付の西光寺・駿河秀郷流青木氏」と「伊川津田原の西光寺・伊勢秀郷流青木氏」の“「二寺」”であった事が判ったのだ。
これは「当時の慣習」から照らして、この「二寺の西光寺」のあり得ない疑問なのである。
「伊勢」で「訓練」を経て「駿河青木氏」を「遠江」で再興して「15~20年程度」で、「二つの菩提寺を持つ事」は幾ら子孫繁栄と云えども先ずあり得ない。
つまり、「伊勢秀郷流の指揮官の青木氏」と、一族の「駿河秀郷流青木氏」の「駿河水軍の青木貞治」は「別人説」が「二つの西光寺の説」から生まれる事に成っていたのだ。

そこで先ず、この名を「Bの疑問の解明」に関わるので検証して観る。
現在は個人情報秘匿の為に、「寺内部に関する情報」は詳細に書き記す事は難しいが、そこで「青木氏貞治の方」は、「盤田見附の西光寺」の「曼陀羅や過去帳、及び墓所の可能な範囲の調査記録」から判明する結果と成ったのだ。
つまり、先ず先に調べた「額田青木氏の南下国衆の銃隊の指揮官」は、「遠江の駿河青木氏貞治」では無かったと云う事に成った。
要するに「指揮官の名」が「青木貞治」では無かった事に成る。
然し、何れも「三方ヶ原で戦死している事」は史実ではあるが、「伊勢」では「銃隊の指揮官」の名は、「資料の表現」が「短文で確定的な表現・筆者の読解力の低さ」と成っていて、「通名以外・定か忠」は正しくは遺されてはいず判らないのだ。
この「指揮官」が、「伊勢秀郷流青木氏・梵純・伊勢青木氏母系」の“本家から又は分家から派遣されたか”も解っていないのだ。
これに依っても「通名」は違って来る。
主には「伊勢の西光寺」か「田原の西光寺」か、「三河11の西光寺」の何処かにある可能性がある筈だが確定できていないが恐らくは「前者の二つ」であろう。
「伊勢」には「西光寺は20寺・秀郷流青木氏」あるので「一族の者の誰か」であった為に、「本寺本墓の仕来り」もあって、間違いなく「何処の西光寺」で祭られている筈だが然し特定は出来ないのだ。

「指揮官の青木氏」と「額田の青木氏」から送られた「伊勢青木氏へ報告された手紙等」は「四家の福家」と「氏人の家人の差配頭の家」で、一部がぼろぼろの状態で見つかっているが、これ等も「伊勢秀郷流青木氏の四家」の何れかにも送られている筈だがこれでも判明しない。
恐らくは、「指揮官を務めるだけの者」であって、“一族の戦いの経験ある一族の上位の者である事”には間違いない。
然し、故に「松阪・5寺」では無いかとして墓所等を見て廻ったがここでも判らない。
この「指揮官の青木氏」は「三河」に「11寺の西光寺・子孫」をも広げた始祖でもあるのだ。
「駿河青木氏の青木貞治」と共に、「室町期の乱世」を乗り越え「青木氏一族」を良い方向に導き、「江戸期」に繋いだ当に“神に匹敵する偉人”であるのだ。
これは「青木氏族」に執っては、“ロマンの極め”であり、何としても研究して何とかのヒントを得て「その名」を見つけ出したいと考えているが、別人である事と「本寺・戒名なので」までは判っているが未だ「指揮官の青木氏の俗名」は見つからない。
因みに、歴史を遡ればその経緯では「始祖」の「伊勢秀郷流青木玄蕃充梵純・駿河守」は、「秀郷」より「宗家22代目の高郷の子」で、「伊勢青木氏」より「四掟」で「正妻」として嫁いだ「女(むすめ)」の「四男」に当たり、「近江の蒲生」に住み「朝廷との役務」を果たしていた者の子である。
「伊勢の仕来り」に基づき「女系族の優秀な男子一人」を「伊勢」で「母系族青木氏」を興させ「家人」として務めさせる「家人制度」があった。
その子の「四男の梵純」には「母方の伊勢青木氏」を「家人」として継ぎながらも、「伊勢」に「伊勢秀郷流青木氏」を興したのだ。
「四家で繋がる女系の秀郷流青木氏を継げる立場」にもそもそもありながらも、「伊勢青木氏の家人」として「青木氏」を継ぎ、且つ、「女系の秀郷流青木氏」としても継いだとする「完全融合族の青木氏」を樹立し出自した事に成るのだ。
何れも要するに「女系族で重婚血縁の青木氏」であって、更に「伊勢賜姓臣下族青木氏」であって、且つ「伊勢賜姓秀郷流青木氏」でもあると云う「二つの流れ」を持つ象徴する「重複融合族」である。
その「末裔の指揮官」である。
要するに、歴史の経緯では何処かに違いなく存在したと云う事である。

そもそも「伊勢の歴史」も融合していて、この「蒲生の高郷・1460年~1530年」の「長男の子の孫」に当たる者が「織田信長」に寵愛され「信長の娘」を娶ったが、秀吉もその才に恐れた「蒲生の氏郷」であり、「難攻不落の伊勢」を攻め落とし「伊勢藩主・1569年~1590年」と成るのだ。
つまり、これが「青木玄蕃充梵純・1480年~1550年」の「兄弟・叔祖父」に当たる者なのだ。
その者が「伊勢」を攻め「藩主」と成ったと云う何とも不思議な差配である。
要するに、“叔祖父の居る「伊勢」を「孫子に当たる者」が上手く伊勢族を潰さずに攻めた”のだ。
唯、「親類・叔祖父の梵純」を親族の対立を興させない為に直接攻めた訳では決して無く、更には奈良期大化の古来より「不入不倫の権」で護れていたのに「室町期」では、最早、これを無視され「国衆と成り易い伊勢」に入り込んでいた「国衆等との戦い」と成っていたのだ。
それを追い出したと云う形を形成して信長にその知恵の良さを褒められると云う事が興した人物なのである。
寧ろ、「城主に成る事」に依って「一族の氏郷」に依って「伊勢」は、「伊勢嫌いの信長」よりも上手く護られたと云う皮肉な事に成ったと云えるのだ。
そうすると、その「祖父の兄弟の一族の子孫」が「額田青木氏の指揮官・訓練も」と成ったと云えるのだ。
「松阪藩の藩主」と成っていた「氏郷・1556年~1595年没」は、「上記した詳細経緯」のこの「一連の行動」を知り得ていたと云う事に成るのだ。
丁度、この時系列では、この「室町期末期の時期」は、何と敵味方に成りながらも「叔父」と「甥」と「叔父の母方」で「伊勢を治めていたと云う事」に成るのだ。
「環境論」はこの様である。

この時の「美濃と三河と遠江と駿河」で起こった「第一次伊勢長島攻め」から「1573年4月の鯰江城攻め」までの「青木氏族内の事件」であったと云える。
この「環境論の経緯等」から導き出し考えると、「青木玄蕃充梵純」の予想される「最初の菩提寺・西光寺本寺」は、「伊勢松阪・4寺に絞られる」の内の「御麻生薗町の西光寺」ではある事に先ず間違いは無いかと考えられる。
その「寺の構え」は自然を生かした「古来の仕来り」に一致していて、「他3寺」は後に埋め立てられた「伊勢湾の櫛田川の圷野」に建立されているので該当しないであろう事が直ぐに判る。
この「3つの寺」は江戸期に「御麻生薗町の西光寺」を菩提寺としていた本家筋の子孫拡大に依って建立されたものであろう事が判る。
これは「当時の慣習」としては、「浄土宗寺派」は「森林の際」に建てられ「南の杜」に面して構えて「北向き」に配置して建立されるのが「重要な氏の仕来り」であった。
そうすると、「額田青木氏の指揮官の年齢」は、「青木玄蕃充梵純・1480年~1550年」の「40歳頃の者」とすると、「1573年」から遡れば「1533年頃」と成り得て「子供域」として生まれる事に成る。
又、例えば、「指揮官が50歳代」とすると、「1573年」から遡れば「1523年頃の子供域」と成る。
「指揮官が60歳代」とすると「1573年」から遡れば「1513年頃」と成り得る。
つまり、「40~60歳」では、「青木玄蕃充梵純の1480~1550歳」に対して、「1513へ1533年」であるので、「梵純子供域の説」は充分に成り立つ。
当時は、「青木氏」は「四家制度」の「女系尊属の子孫」を絶やさぬように、且つ、発展を護る為に「后、妃、嬪、妾の制度」を執っていた。
当時は、「賜姓青木氏族・賜姓族青木氏と賜姓秀郷流青木氏」の相互には、「15歳を成人」として「婚姻する習慣・女性は8歳と記述あり・早熟・妻嫁制度で教育」にあったので、「1480+15~1550歳の範囲」では充分に「子供域であった事」に成る。
従って、その者は「戦いの経験」はあり「指揮官」は成り立つ。
「三方ヶ原後」に、この「指揮官の裔」が「開発業と殖産業」を営み「三河」に於いて「11寺の西光寺」と「3社の春日社の建立」に至った事に成ったのだ。
それだけに「指揮官の特定」が難しいのだ。
つまり、「御麻生薗町の西光寺」が「伊勢にある始祖墓」のある「20ある菩提寺」の内のこの寺に成る事に成る。
その他の「寺の経緯」で観ると、未だ「賜姓族秀郷流青木氏の格式」に付いて充分ではない「疑問の処」があるのだ。
実は、「伊勢青木氏の菩提寺の本寺」の「清光寺」には「氏族の四家の墓所」と成っていて、その中の真ん中に位置する一つが、周囲も大きいのだが、取り分け中央付近には「相当に大きい白構えの様な大墓」があって、これが「本宗墓」と称されていて、「一族全体の墓所」と成っているのである。
この詳しい事の「伝統の慣習仕来り掟に関する詳しい事」は未だ解明されていないが、「四家」は四家で「大墓」が存在するが、その中の「福家の墓」と特定している訳でも無ない様で、これを「氏族の総墓」としていたと考えられる。
従って、恐らくは、「青木氏族」である限りは「御麻生薗町の西光寺」にもこの様な「伝統」と云うか「仕来り」と云うか働いていたと考えられる。
とすれば、「個別の指揮官の特定の墓所」は「渥美半島の伊川津の田原の西光寺・200m離れて新旧の二寺がある」にある事に成る。

この「指揮官」と「青木貞治」とは違うとすれば、上記の「四つ目・ニ」の論は前に進められる。
その上記の「四つ目・ニ」である。
前段でも論じた通り両者は同じ頃から「伊勢」で「訓練・」を受け始めた事が史実として判っているのだ。
その「二人の人物」は「額田青木氏・美濃・銃・貞秀」と「駿河青木氏・遠江・大船・青木貞治」が「伊勢の指導」の下で、“戦乱の世に出る為の訓練”を同時期に受けたとされる「郷土戦記」が遺されている。
先ずここに注目するとでは「この二人の貞秀と貞治」は「郷土戦記・逸話論」では「兄弟」と表現し記されている。
参考としてこの「郷土戦記・逸話論」ではこの逸話が遺されたかと云う疑問であるが、当時は伊勢青木氏と秀郷流伊勢青木氏の中では「有名な事・功績をあげた者」として「両方の一族内」で語り継がれていて、それを一族の者が消えて行くのを惜しんで書き遺し、後に語り継がれたものであろう。
云うまでも無く、二つの青木氏には神明社と春日社・清光寺と西光寺には「祐筆制度」があり、この様な「歴史の経緯や逸話などの話を遺す制度・江戸期以降は記録資料飛散」がある事を理由に「一族の者・福家の差配頭・社や寺の行事を差配する者・交代制」が書き遺す様に差配したのでは無いかと考えられる。
故に、これは「伊勢側を中心」に記していて「貞秀」が記され同時に「貞治・駿河側の記録も判る名」と成り、両方で一致する事と成り得たものである。
この「兄弟の表現」は、「一族の者・福家の祭祀役の差配頭・社や寺の行事を差配者」が書き遺す様に言った事では無いか。
果たして「貞」が同じであるので同じに訓練を伊勢で受けて事から「兄弟」と成るだろう。
果たして、そこで資料が観っかった処で「実の兄弟か」であるが、「伊勢側の兄弟」か「駿河側から呼び寄せた兄弟」なのかである。
「全く同時期で同年齢で同場所で同訓練・目的である事」に間違いはない。
筆者はこの二人は戦記・逸話の通り「兄弟」では無かったと観ている。
「年齢も近い事」から「兄弟の様にして訓練を受けた」と考えていて、だから一人は「額田青木氏」を、一人は「駿河青木氏」を目的の違う事を担当した事から「義兄弟の契りを結んだ」と観ているのだ。
それでなければ、「駿河青木氏の者の方」が「額田青木氏の訓練」は担当はしないであろうし、額田は「銃で兵士の訓練」で、駿河は「水軍の訓練と氏の再興」に目的があった。
だとすれば、「額田は秀郷流伊勢青木氏の者」で「駿河は秀郷流駿河青木氏」であってともに秀郷流青木氏の処刑の縁戚関係に在った事に成り、故に義兄弟の契りで在ったとし、それを後に書き残した「郷土戦記・逸話論」では「兄弟と書き記した」と考えられる。
「兄弟とする事」には何の問題もないし、「通名の貞」は「秀郷流伊勢青木氏の者」が名乗っていたものを「駿河の弟分の者に名乗らせた」と考えられる事が出来る。
だから、前段と上記した「三方ヶ原の戦場」でも違和感なく歩調が採れたと考えられるし、その後に「弟分の裔たち」が居る「三河と駿河」に「殖産」で遺ったと考えられる。
つまりは、「秀郷流伊勢青木氏の額田青木氏を指導し指揮した者の俗名」は「貞秀で在った事」に成る。

そして、「貞秀の額田青木氏の訓練中」に大船一艘を与えられて地元に帰った「駿河青木氏・駿河水軍再興」は、「一足先・9年~10年前」に「今川氏の国衆」と成り、上記の論でその輩下の「松井氏の家臣」と成ったが「桶狭間」で敗退したと成るのだ。
然し、一応は「駿河水軍の構築」はその裔等で再興出来たものの、生きる為に止む無くして「今川氏の国衆と成った事」で「折角の伊豆までの海路の拠点構想」はここで“「充分な初期の目的崩れ」”が起こったのだ。
当時に当たっては「今川氏に対する青木氏族全体の計算違い」であったのだろう。
これは結果としては、前段と上記の通りの経緯でこの「三方ヶ原での波乱」を起こしながらも何とか良い方向に収まりが着いたが、戦乱の世であった事に依り「伊豆の事」を含めて「伊勢の計算違いが興った」と観ているのだ。

そこで、「五つ目・ホ」である。
「伊勢」は、「伊豆の計算違いと戦乱状況」から「額田青木氏の銃隊の訓練」を早めて、南下して蒲郡に指揮拠点を置き、「伊川津田原の古跡神明社の定住地」に家族を移住させて「四家」にして移動させて「拠点造り」を至急にして固めたのだ。
そして、「地元豪族との七党・伊川津七党」を結成させ地盤を三河で先ず築いた。
この時、「桶狭間」で敗退し衰退して行く「今川氏」と共に「松井氏―駿河青木氏青木貞治」も衰退していった。
当然の事として、「遠江の駿河青木氏の青木貞治」も西からの危険に晒されて弱体していたのだ。
「折角の伊豆」までの「海路の拠点構想」は、この「駿河青木氏の弱体」で一時中断したのだ。
そこで、「伊勢」と「南下した額田青木氏」と「一門の駿河・相模の秀郷流青木氏」とは「渥美湾の制海権の獲得」に動いたのだ。
前段までの「額田青木氏の国衆南下説」には実はこの「上記の背景」があったのだ。

「六つ目・ヘ」である。
その上で、「桶狭間」で「伊勢シンジケート」に依って救われた「遠江の駿河青木氏の青木貞治」の「伊勢」と「駿河相模の秀郷流青木氏」とで再々復興に取り掛かつたのだ。
「今川氏の衰退」に伴い「松井氏」も“「三派・武田、徳川、今川」”に「内部分裂」を興していた。
ここ、即ち、“「三派の内部分裂」”が重要なポイントであった。
ここで、問題なのは、何故、海千山千の徳川氏に組したのかである。
これがキーである。
本来であるならば、未だ一定の勢力を保持していた「今川氏―松井氏」に組するだろうし、その「恩義」はあった筈である。
場合に依っては、最大に天下を取る可能性のあった武田氏に着いていた可能性も高かったが何故か味方しなかったのだ。
「勢力」からの可能性を観れば、武田氏>今川氏>・・・>徳川氏であったでろう。
場合に依っては、形勢的に「織田氏」でも良かった筈であろうが、「織田氏にしても武田氏」にしても何れも「伊勢伊豆のライン・織田氏」と「伊勢信濃ライン・武田氏」を壊された「一族の宿敵」でもある。
然し、この最も何の可能性も無く低い「弱小徳川氏」に組したのである。
故に、ここには当時としては伊勢では判断の“大きなキーポイント”に成っていた筈だ。
それには、結論は「五つ目・ホ」の「美濃」からの「三河南下国衆と成った事・額田青木氏の南下」によるだろう。
「伊豆までの海路を確保する事」は、先ずは「渥美湾の権利取得にある事」は「自明の理」であり、欠かす事の出来ない絶対的条件と成り得ていて、戦略的に放置出来ない状況であった。
当然に、これを獲得するにはここで最も可能性の低い「弱小の徳川氏」と成り得る。
とすると、「武田氏>今川氏>・・・の説」は、敵方と成りどんな事があっても無くなる。
だとすると、必然的に“「伊勢」”は「渥美湾獲得」の為にも「三河」に「莫大な資金・冥加金」を投入して裏から支えるであろうし、「摂津」も含めて「伊勢シンジケート・全ての裏組織」も必然的に「青木氏族の命運」をかけて動かす事に成るであろう。

「7つ目・ト」である。
「六つ目・ヘ」の敢えて分裂の中で「徳川氏」に組したのだ。
故に、「今川氏」が瓦解した時に、「二俣城の副将・発言権」にする為に、「伊賀青木氏と伊勢秀郷流青木氏と相模と駿河青木氏の一族一門」は、「後押し」をして「兵力数・倍」を態々高めたのだ。
其の後の「駿河青木氏の青木貞治の活躍」はこれを証明する。
単なる「兵力200」には、これに留まらず、その裏には「伊勢・財力」と「摂津・商力」と「伊賀・情報・影の勢力」と「額田の銃力」と「武蔵秀郷一門の勢力」等の「数万の兵力に値し象徴する力」を見せつけていたのだ。
因みに、その後に「家康」は、「武蔵」に「転封の憂き目」を「秀吉」から受けるが、逆に上記した裏のその「秀郷流一族一門の勢力」を以て高めて「天下を取るに及んだ事」はそれを証明しているのだ。
注釈として、何度も「青木氏族との苦い経験」をしていながら、これが「秀吉の読み」の「天下分け目の差」と成った「甘かった処」であったであろう。
故に、それを「家康」は理解していたが故に、“伊勢の事お構いなしのお定め書”の所以でもあったし、「黙認の幕府の官僚族・家人衆旗本・秀郷一門」と「紀州藩との付き合い」や「紀州藩の藤氏家臣団」に繋がって行ったのだ。
要するに、今まで論じて来た「青木氏の歴史観」に繋がっていたのだ。

結論は、「Bの疑問の1560年」は、この歴史的な「絶妙な頃合いを狙った事」に成るのだ。

前段の「額田青木氏の南下国衆の論」の「1560年」は、論調を判り易くする為に、「伊勢側論説」で論じたが、この後段には「青木貞治」が関わっていたのだ。
況や、“家康を作ったのは「青木氏族」である”と云っても過言ではないだろう。
その「1560年」はその当に「基点」であったと云える「青木氏の歴史観」である。
然し、「額田青木氏の国衆の差配頭」が、上記の様に「伊勢」で同時期に訓練を受けた事は判っているが、前段と上記の「貞秀」では無く「別名の青木貞重論もあった事」が未だ解明されないでいる。
念の為に簡単に追記する。
この「貞の通名」が、「秀郷流伊勢青木氏と駿河青木氏の通名」でありながらも、「額田青木氏の差配頭」とされる「貞重である事」から「伊勢や信濃の青木氏」に無い通名の「貞・・である事・秀郷流青木氏の通名」が気に成るのだ。
これが判れば、“「1560年」”は更に解明できるだろう。
つまり、「額田青木氏と駿河青木氏の関係/秀郷流青木氏」を複縦的に解明する糸口に成るのだが。
これに関する「筆者の推論」は、「伊勢での訓練中」に意気投合して「貞・・」を貰った等の色々なケースが考えられるが、これには「伊勢で訓練中」の「駿河青木氏の青木貞治の兄であった可能性」があるとしているのだ。
この「貞重」は、「駿河青木貞治」と当時に「額田青木氏の差配頭にも貞秀が与えた名」では無いかとも考えられる。
「義兄弟の契り・訓練中」を結んだと云う説に成り、この三者は「同時、同時期、動場所、同目的」で「総合訓練を受けた経緯」から「額田青木氏の訓練を任された指揮官」であった「秀郷流伊勢青木氏の兄貴分」から他の二者にも「今後の結束」を約して「貞の通名」としたのでは無いかと推測しているのである。
然し、これでは「青木氏の伝統の慣習仕来り掟」、つまり、この「通名」では「女系族」であるが故に「嗣子は移動しないとする掟」に反するのだ。
然し、「訓練で今後の結束の通名・目的」がはっきりしている為にと戦国の世として何時か会えば義兄弟として協力しようと約束した為のものとしてすればこの「伝統の掟」は問題はなく、他の二人は当然の通名とし問題なく従って「額田青木氏の差配頭の俗名」を「通名」とするだけの問題と成る。
後は「伊勢側の裁量の問題」であろうから「同時、同時期、動場所、同目的」で「総合訓練」を目論んだのだから通名とするに異論は起こらないであろうし、「額田青木氏の差配頭の意思次第」と成ろう。
とすると、「貞重論はあり得る事」と成る。
これが解明できれば「額田青木氏の差配頭」も一時「伊勢」に「同時」に呼び寄せていた事を確定出来得る事に成り得る。
前段でも論じた事だが、「額田青木氏の一族」が戦乱の世出あっても「額田を抜け出す口実」として「伊勢詣を理由」に「簡単・船でも2時間・船を桑名西尾渥美の泊に出していた」に比較的に議論にな内程に簡単に「伊勢に立ち寄っている事」を考えれば、「同時、同時期、動場所、同目的」は充分に有り得て、故に史実の通りに「三方ヶ原では三者共同作戦が採り得ていた事」に成るのだ。
但し、「額田青木氏」は「桑名の浄橋飽波の裔系」であるので「上記した伝統の掟」により「貞」はあり得るかは疑問の遺る処であったが上記の推論が成立する事で問題は無くなるだろう。
唯、これも「非常時の直近での事」で成り立つ「一つの説論」であるのだが、「伊勢の総合差配が在った」とすればこの「非常時の説論」は無くなるし、「伊勢訓練」から「三方ヶ原」とその後の「三河と駿河の殖産業」までの「約80年から100年間の良好な経緯期間」を考えれば先ず間違いは無いだろう。
「上記の推論」も含めてそうでなければ「前段の論」も含めて「約80年から100年」は保てない筈である。
これは「伊勢秀郷流青木氏」の「始祖青木梵純のパターン説から興る」ものであるので、先ず間違いは無いと思うが、更に「研究中・資料発掘と読み込み」なので深く確実に解明できれば更に「追記」で投稿する。

「青木氏の伝統 69」-「青木氏の歴史観-42」に続く。(102P)  

名前 名字 苗字 由来 ルーツ 家系 家紋 歴史ブログ⇒

「青木氏の伝統 67」-「青木氏の歴史観-40」

> 「青木氏の伝統 66」-「青木氏の歴史観-39」の末尾


> 注釈として何度も前段で記したが「古書・史書」には、「現在文」と違って前後の経緯を知り得ていると云う前提で記されていて、歴史観を得た上での理解できる記録であるので、この「力量」が絶対条件として求められる。
> この「力量を持ち得た者」のみが「読み取る事」が出来る様にし、現台文の様に誰にでも判る様に事細かに書かれてはいないのだ。
> 殆どが「字の読み書き」が出来ない特別社会の中であって、そう云う「文化状態」であったのだし、況してや漢文であり、故に「漢字の語一つ一つに持つ原語意」を知り得て、現在人ではその深意を知るにはこの歴史経緯まで到達して置く必要があるのだ。
> この時期に発達した歌や俳句はその最たる手段のものであろう。
> 歴史が好きであった為その理解力を深める俳句は、家の書籍は漢文だらけではあったがそもそも若者には無理であったが、その環境もあって小学五年頃から始めた。
> 「俳句」は「情景と情緒と訓韻」の3つを持っていなければ「俳句の意味」は無いと教えられたし、「俳句」は古くからその意味での「総合の伝達手段」であったと教えられた。
> 当にこれは歴史書を読み切る能力に通ずるのだと教えられた。
>

「青木氏の伝統 67」-「青木氏の歴史観-40」

ここから67に続く

さて、本事件も斯くの如しで、最長で平安末期まで「東甲賀の坂上族」に実質350年間の間、「経済的な圧力を掛け続けた事}に成るが、然し、歴史的にはその圧力の必要性が無くなった「寺尾生産の以降期」までの間であろう。

「青木氏」に執っては「裏切りの坂上氏」が朝廷内で宿禰族として権力の幅を利かされている事は好ましくは絶対に無い。
世の常として「信用のおけない族の存在」は絶対に影響のない程度まで排除しておく必要がある。
それは「嵯峨天皇」に依って「賜姓」を先ず剥奪し「冠位」を外された事にあったろう。
それでなければ「賜姓五役」と「令外官」は務まらないし、そもそも「専売権を持つ殖産等」を始めとした「商い」は無理である。
丁度、この時に「嵯峨天皇」から形式上は確実に「賜姓族と皇親族」を外されている事に成るのだ。
これは偶然ではない。
これは「嵯峨天皇の対抗策」であったとも考えられる。
それには「青木氏」は対抗して「献納金・俱納金・冥加金」を停止して応じたのだ。
然し、当然に「予想できる対抗策」では、「青木氏」に与えられた“「先帝等が出した専売権の剥奪」は出した”とする記録はどこにも散見できないのだ。
その理由には三つある。

一つは、当時は未だ「市場経済」ではなく「部経済」であった以上は、「献納停止の対抗策で専売権剥奪」は朝廷内の経済が麻痺する事。
要するに「剥奪令を出す事」でその荒波が自分にも返ってくると云う危機感である。
二つは、「先帝が出した勅」は覆さない事の掟がある事。
「平城上皇」が「遷都令」で覆したが、この行為は「自己の勅の信頼度」を弱める事に成る。
三つは、上記の「薬子の変」で論じた様に「完全決裂」を望んでいなかった事。
これは「臣下が興したとしたする大義」が自ら崩す事に成る。
四つは、「自らの出自元」を破壊すれば、それこそ「天皇家」を揺るがす「骨肉の争いとして泥沼の戦い」と発展する事。
これは「自らの汚名」に成る。
この「第三の大義」も崩れるし、そうなれば「天皇家」も二つに割れ、「青木氏」も「抑止力」を最大現に使って生き残ろうとするだろうし、結局は「権威と財力の戦い」と成り、勝負の結果は「権威」をも持つ「桓武派・上皇派の青木氏」が勝利する。
従って、以上の「四つの判断」から“「予想できる対抗策」は出せなかった”と考えられるのだ。
それを見越せば「嵯峨天皇に味方した坂上氏」は、“素直に甲賀から引き上げる事”が子孫を遺す意味で「最上策」と成る。
上記で“「田村麻呂」は覚悟した”とするのは、要するに、“ここに帰する”と考えた事に間違いは無いが、その「歴史の経緯と結果」は当にその様に成っているのだ。

筆者なら「上皇・824没」の「命」に従うが、つまり、“田村麻呂は判断ミスをした”と観ているのだ。
そもそも、興る事と云えば、取り敢えずは「遷都と云う事」に収まるだけであり、飽く迄も「4年在位後の院政・1年」である以上は、何時かはその権力は「嵯峨天皇」に戻る所以であろう。
元々、「平安京」に都があって「平城上皇」は元の「平城京」で住んでいたのだし、「信賞必罰の院政の大権」を敷いた以上は「平城京」でも何の問題もない。
記録から、「平城京」に住んでいた時から「嵯峨天皇」の「朝貢と朝覲行幸」を数度既に受けているのだし、これは認めていた事を意味するし、それに近くには「伊勢神宮」もあるのだ。
つまり、通説で云う様に,これでは「平城上皇」が“政権を奪い戻す”と云う説の事にはそもそも成らないだろう。

記録に依れば、「坂上氏」は既に変の時には引退していて、「桓武天皇と平城上皇」とその「出自元」に恩義があり、「宿禰族」まで引き上げられ「甲賀」を領地として獲得していたのだ。
然し、抑々、何のその恩義も無い「嵯峨天皇」に請われて「自軍」を廻して道を塞ぐ行為を執ったすと云う事にある。
「桓武派」を「田村麻呂の名声」で引き込む作戦であった事は記録にもあり、要するに「坂上一族の今後の安寧」を願って「桓武派の病弱な平城上皇」より「現天皇側」に日和見で着いたのだ。
「青木氏を含む桓武派が対抗して来る事」は、充分に読めていた筈でありながらも、ここで「田村麻呂」は更に取り返しのつかない次の「二つの読み違いのミス」をした。
一つは、「変」は臣下が起こした変とされた事
二つは、「地位」を失うと思われた「平城天皇」が院政を敷いた事
要するに、その「院政」が「天皇の持つ大権の生殺与奪」に繋がる「信賞必罰の大権」を握った事にある。
これで結局は「甲賀」を失ったし、「甲賀」を失えば「宿禰族の冠位」も失う破目と成った。
其処に「青木氏の経済的な対抗策」が相乗的に効いたのだ。

「嵯峨天皇と伊勢青木氏との争い」は記録的に観ると「845年」まで続いた事に成る。
その後に[桓武派であった嵯峨天皇の子供」の「仁明天皇」に依ってこの修復を図って関係性は正常な状態に戻したのだ。
これは「朝廷の経済的な復興」から観て、その原因と成る一つは「殖産増加からの発展」と二つは「献納の復活経緯」から読み取れる。

そこで「坂上氏の甲賀での経緯」は判ったとして、「伊賀、甲賀と別れた」とする前に、既に「平安期」には「伊賀」から「伊賀の北域に住んでいた坂上氏一族・北伊」が「東甲賀」に移動していたとしていて、更にもう「一つの移動事件」が起こっていた。
「武家社会の鎌倉期直前」には、「伊賀域」と「西甲賀域」では再び「生き方の路線・傭兵と雇用」の事件が発生した。
平安期では「坂上氏一族の裔系」は上記の事件で「東甲賀」に、更に「滋賀と敦賀」に完全に移動していた事に成るのだが、室町期では「雇用・仕官」を前提に起こった論争事件では遺された一部共存組の「西甲賀の裔系」も「東甲賀」に移動したのだ。
結局は、「北伊賀の者等」は記録に遺る様に「西甲賀」に移動したのだ。
その「記録」が遺っていて「信長の妾」となった「北伊賀に住んでいた甲賀青木氏者等」も結局は「西甲賀」を経由して「近江に流れた」がその後の「経緯・全貌」は判らない。

これが、要するに「一族の関係族を伊賀域から追い出す手段」と成っていたのでは無いかと観ているのだ。
この事で「伊賀」と「西甲賀」は、「敏達天皇の芽淳王の娘」との間に出来た「渡来人・二世族坂上氏の裔系」では無い「元祖の完全な渡来人」の「後漢阿多倍王の裔系の定住地」と成ったのだ。
つまり、上記した様に「伊賀」に朝廷から受領された「伊勢国の半国割譲」で定住した「阿多倍王―高尊王―高見王」とし、その「后妃嬪妾」は全て「光仁天皇から桓武天皇」までの「伊勢の青木氏の女(むすめ)」であり、彼女等は「追尊王女」として「後付け・追尊」されている事が判るが、歴史的に判るのは「妾子の高野新笠・伊賀族以外」には全く判っていない。
然し、筆者は「伊賀青木氏」が存在する以上は、「仲介する事」は間違いは無い筈で、その人は「伊勢伊賀郷士50衆の娘の妾子」であったと考えている。
その証拠に「後の信長の伊賀攻め」でこの「伊賀者」は徹底し籠城し「総攻撃の前夜」に「伊賀青木氏と伊勢青木氏」とが、「伊賀郷士21士中の3士」は「信長」に味方し裏切ったが、必死の覚悟で「残りの伊賀18士中11士」を何とか救い出して、「伊勢青木氏の清蓮寺城・平寺城」に匿っていたこの「史実」は「血筋」を繋いでいた何よりの証拠ではないか。
「伊賀郷士」が「伊勢郷士衆50衆の中」に在るのもそれを物語るし、前段でも論じた様に「伊勢殖産」でも資料の表現の一部に遺る様に、要するに「家族の一員」でもあったのだ。
これは先ず間違いは無いだろう。
要するに、「伊賀に嫁いだ娘」は「青木氏の女系の中に在った」という事だ。
つまり、「青木氏」から観れば「氏族である事」に成るのだ。

因みに前段でも論じたが念の為に追記して置くと、だから、「以仁王の乱の失敗」で「頼政の子孫の三人宗綱と有綱と叔父高綱」の「助命嘆願書」を「伊賀の女・老女と記されている」のこの“「老女”を仲介にして届けられた」として記されているのだ。
この“「老女」”とは「確定の研究中」であるが、検証の結論は「伊勢平氏維衡の妾・源満快娘 1」では無いかと観ている。

その検証は次の通りである。
系譜は、「維衡・推測980年~1065年頃―正度・生没不詳―正衡・生没不詳―正盛・?~1121年―忠盛・1096年~1153年―清盛・1118年~1181年」と続くのである。
つまり、この事から時系列では「維衡」は「正盛」が生まれた頃まで生きていた事に成る。
「桓武平氏の清盛」からすれば「伊勢平氏の始祖の維衡」はそんなに遠い人では無かった事に成り、「85歳の長寿・現在で云えば146歳に相当」であった事から、「噂程度の口伝と始祖」でもあったのでこの「伝統」は在った事に成る。
要するに“老女は知らない先祖”と云う事では無かった筈である。
必然的にその「若い妾・源満快娘 1」は「清盛の祖父正盛・?から1121年」の「老女の人・姥程度」に成り得る。
故に、その「絆」から「仲介の役」を担ったのだとされる。

更に検証を進める。
その「根拠」は、この者は、「清和源氏の始祖源経基の五男」で「満仲の異母弟満快」であり、「桓武平氏・伊勢平氏の清盛」から云えば、「伊賀の伊勢平氏と繋がった源氏の娘」とは、この「娘の者」と次の「4娘の者」である事に成る。
この「4娘の者」が、「伊勢平氏維衡の子」の「伊賀}に住した「平國香の妾」で「源護娘 2」とあり、これは「嵯峨源氏」であり、「老女」とするには「清盛の時代」に近いが、「河内源氏」からすれば、「疎遠の摂津源氏」では無く、「助命嘆願をする程の縁」は系譜からは最早無い。
後には、「清盛の祖父」に当たる「正盛・1121年没」の「妾の源義忠娘 3」と「妾の源有賢娘 4」と、「父に当たる忠盛・1096年から1153年」の「妾の源信雅娘 5」があり、これ等は年代的に極めて近い。
そこでこの五者が「伊賀」に住したかであるし、この者等はそもそも「疎遠の河内源氏」であり「摂津源氏」ではないので無関係である。
「清盛の父の忠盛」が「1145年」に「播磨国」を「知行地」として任じられ、「伊賀」を離れて一族移動定住したので、「清盛の父の忠盛・1096年から1153年」は、この事から初期は確かに「伊賀」に住んでいた事に成る。
「助命嘆願書の事件」は、「1180年の宇治平等院の戦い」で自決で敗死し、早期に鎮圧されたが、この時の事であるので、「忠盛の妾の源信雅娘 5」は全く当たらない。

そこで「正盛」は「1121年の以前」は間違いなく「伊賀国」に住していた事に成るが、,この「3人」は[河内源氏の政略婚」である。
従って、少なくとも「老女」とするには、「正盛の妾の源義忠娘 3と源有賢娘 4」の二人に絞られる事に成るが、「河内源氏の最盛期の人物」でありこれも当たらない。
つまり、「維衡から4代目」に当たり「清盛より3代目前の叔父」に当たる事に成る。
この“「源義忠」”は歴史的に極めて「有名な人物」で、「平家との和合策」を積極的に執りその為に「味方から暗殺」を受けた「歴史的に遺る有名な人物」である。
この「3と4の2人の娘の妻嫁」は時代的に符号一致するが、これも「和合策の所以」ではあるのだか、そもそもこれも「最盛期の河内源氏」であり「助命嘆願の条件」にそもそも当たらない。
依って、検証の結果は「伊勢平氏維衡の妻・源満快娘 1」だけに絞られる事に成るが、これも[時代性」としては多少はずれている。

そこで念の為にこのズレを確かめて観る。
「清盛」に執つては、「2~5」にはそもそも「助命嘆願の条件」には当てはまらない。
然し、「伊勢平氏の桓武平氏の始祖」とする「維衡の妻」には心は動くだろう。
その「老女の人物」が「清盛」に執って生存しているか否かよりも、その「人の名」を使った「助命嘆願書」には「個人的感情」では無く、先ず「桓武平氏の始祖とする大きな大義」が生まれる。
故に、筆者は「記録」には「匿名・特名」とせずに「青木氏祐筆」は「老女とする表現」を使ったと観ているのだ。
そうすると、この「助命嘆願書の記載」には、「維衡の妻・源満快娘 1」の事に付いては、「伝統」に則って「女墓」に刻まれている筈で、「浄土宗の戒律」に則って「院殿居士の伝統の戒名」を必ず記したと観ているのだ。
然し、現在の処では「一族の平氏播磨移動の際」に墓所も移されてそれは不明とに成っているのであるし、「伊賀の所以」は上記した様に時代と共に変化した。
「伊賀」は、上記の「坂上氏の事件」と共に、この「助命嘆願の事件」にも関わり、後に論じるが時代と共に期せずして“「伊賀青木氏化した」”と云えるのだ。
故に、その後の事も上記した様に「青木氏祐筆」に依って「歴史的な史実」を追跡されて「経緯の詳細」が記されているのだと観られる。

要は、先ず条件として「清盛との近い所縁」にあり、「大儀」が得られない限りは「情」だけではそうでなければ動かないだろう。
だとすると、「998年から1185年」までの「維衡・85歳没の若妾妻・源満快娘1」にどうしても成る。
「摂津源氏の歴史的経緯」から観て、「若妾妻・源満快娘1」は確かに「時代性のズレの事」もあるが、それも相当に若かったと考えられ、それ故に史実として「摂津」から再び「伊賀に嫁いだ事」に成る。
ここで「重要な事」は、「摂津源氏」は、「河内源氏」と違い「嵯峨天皇の9つの縛りの伝統・真人族に課せた必要条件」をある程度に護りながら、「青木氏族」とは別の範囲の処で、中でも「四掟と四家の二つの制度」を唯一に敷いていたのだ。
つまり、朝臣族では無く摂津源氏は「真人族扱いの源氏・頼政の正三位昇格が証明」とされていた事に成る。
上記の通りに、その「摂津源氏の四掟」の中に、この「伊賀の伊勢平氏」が入っていたと成るのだ。
その意味で「青木氏」とは「伊賀」で「初期の氏族形成時」から「伊賀青木氏」は勿論の事ではあるが、「摂津四掟四家」での「伊賀接点としては繋がっていた事」に成る。

つまり、「伊賀青木氏」と「伊勢青木氏の出自元」で繋がっていたのだ。
唯、それが、全て「正妻」ではなく、「后妃嬪妾の制度」の「妾階級扱い」であり、故に伝統に基づき「歴史的記録」は遺され難いのだし、但し、ある条件下で記録としては遺される場合もあった。
ここに「繋がりの意味」があり、その「摂津四掟の繋がり方」が「ぎりぎりの処」で繋がっていた事を示すが、要するにこの「四掟」は「全て政略婚」ではあるが、これは「軽度の政略婚」と成ろう。
その「妾の意味」で「軽度の政略婚」とすれば「助命嘆願の清盛の扱い」も違って来るだろう。
然し、「清盛」がこれを認めた限りは、「重軽の政略婚」とは別の処で認めた事に成ると云う事に成る。

同然に実は証とする事がこれ以外に興っていて、この時期、前段でも論じたが「伊勢青木氏の京綱事件・摂津源氏」と「信濃青木氏の国友事件・摂津源氏」の二つの事件が同時に興っていて、前段でも論じた様にこれには「伊豆事件」も連動しているのだ。
それはこの「源満快」は、記録には「下野守を務めた後」に、「信濃にその裔は土着した」とあり、これを所縁で「源平戦で負けた場合の子孫存続の為の策」として「国友」を「正三位の頼政」は「信濃に預けた経緯」であったのだ。
記録にもその様に記されている。
「信濃」には、更に証として「北の摂津源氏」と「美濃よりの南の河内源氏」とが土着したとあり、その「裔系之記録の時代性」から観て、これの「真偽」には「後付けの疑問」が強く残る。
同じ地域に犬猿の仲もあるが「摂津源氏」と「河内源氏」が住む事は住み分けの掟としての考え方の違いもあって本来は無い
然し、「北の摂津源氏の裔」に付いては間違いなく史実であろう。
これに「系譜偏纂の為に後付け利用」で「美濃に近い事」から「南の河内源氏の系譜」を託けたと観られる。
だとすると、「源満快の裔系」の「北の摂津源氏の信濃土着」は、この経緯から「生没不明と成っている維衡・85歳没」の「若妾妻・源満快娘1」は相当に若い事が云える。

そして同時期で同然の事が絡んで興っていて、因みにこの「四掟の制度」を破って「伊勢青木氏」に入籍した「摂津源氏の仲綱の京綱・嬪子四男」も「乳飲子」であった事が記録には記されていて、その母は「入嫁後の2年程度」で「後家・初めて後家という言葉が使われたとしている」として「伊勢青木氏」に戻っている。
つまり、これは「以仁王の乱」を控えた「頼政の子孫保全の為の策」であった事が云えるが、その「青木氏からの四掟」では無い「摂津源氏の四家の主家の仲綱の嬪」として入った「伊勢青木氏の女(むすめ)」が直ぐに「後家で戻った」とすれば、「嬪妾扱い」から観てもここでも相当に「若かった事」が云える。
「源満快」は「娘」を「嫁・妾」として差し出している以上は、「乱1180年前」で、尚且つ、「没1081年前」での「妾の娘」とすると、「当時の平均寿命55歳」からすると、少なくと「妾を迎えられる可能な範囲」では「30年前の1050年から1060年頃」と成るだろう。
この時、「若い」とする「当時の女の最低年齢の限界」を、何度も伝統で論じているが、史実として「最低で8歳・平均寿命55歳」で「早熟」であったと「青木氏の資料」でも記されている」とすると、仮に「老女・85歳程度」として記されている以上は「1060+85=1145年の没」と成り、丁度、「播磨に移動定住する前の時期・直前」まで生きていた事に成る。
この「老女の1145年」は「忠盛1096年から1153年」の時代である。

この検証の「嫁ぎ年齢8歳」としては「清盛・1118年から1181年」からすると、“「知らない人では無い事・認識あり」”に成る。
「青木氏の女(むすめ)の資料」では、嫁家制度の「女(むすめ)」では最高で「13歳から15歳」が「通常の年齢」であったので、どんなに考えても「1137年頃」と成る。
当時の「平均寿命」から計算すると、現在では、「23歳から24歳」と成るので適格性から観て「1137年から1145年の検証の「清盛・1118年から1181年」は正しい事に結果として出る。
「清盛19歳から27歳の時」にこの「老女に会っていた居た事」に成る。
この「検証」は、「記録の老女記載・現在寿命133歳相当」を前提として符号一致して矛盾が無いだろう。
この「老女との記載」は、現在の133歳に相当とするとして、当に「神に近い白髪の老女」と成り得て、「当時の習慣仕来り掟」から、「氏族に執つての尊敬の対象」として「神扱い」であった筈である。
念の為に奈良期から平安期の過去の慣習では、「女(むすめ)」の「嫁ぎ年齢」は必ずしも「女(むすめ)」の適齢期に達していなくても嫁する事は盛んにしてあったとされ、中には江戸期の記録にも散見できる程なので、必ずしも適齢期には拘っていなかった事がある。

上記で検証した様に、「維衡・85歳没」も「伊勢平氏の始祖」であり、且つ、同然に共に「氏族に執つての尊敬の対象であった事」がこの事から云える。
「清盛」は少なくとも、この「大儀」としては、この「老女の扱い・助命嘆願」について「氏族に背くような扱い」は出来なかった事が云える。
それだけにその「扱いは慎重にした事」が云える。

そうすると、さて、次にこの「助命嘆願書を書く事」を誰が企んだかである。
筆者は、「青木氏の資料」にこの様な「余りの詳細な経緯」が遺る限り、「平等院で自決し滅び、若い子孫を密かに逃がした事」を既に知っている者と成る。
それは「逃がした者」であろう。
これを「必然的に成し得る者」としては、この資料には「薩薩摩までの実に詳細な経緯を遺している事」の以上は間違いなく「伊勢青木氏である事」に成る。
この「詳細な経緯」は、内容の時代経緯から「以仁王の乱の事件後」-「日向」―「薩摩」までの「全体の経緯」が事細かく書かれている。
という事は、これは「青木氏に関わる事」として一度に書かれたものでは無く何回かに依って「祐筆」に依って「経緯に従い追記された事」に成る。
その記録には、最終には、「黒田藩の傭兵」と「下青木、上青木の呼称」まで書き留めている処を観ると、「1180年から1620年頃までの歴史的な関わり具合」を「歴史の幅」として記していた事に成るのだ。
但し、「三つの地域部位の由縁」として「伊賀、日向、大口の青木氏に関わる事」として纏められ何度かに追記されているのだ。

但し、この関係する「日向青木氏・大口青木氏」に付いては必要なので下記で論じる。

それを筆者が「行の読み込み」をして総合的に解釈して論じている。
記録は何も態々、「伊賀の事に付いての事」であって、「摂津源氏の事」を書き記しているものでは決してない。


では、これが「伊賀の事に付いての事」であるとすると、「伊賀青木氏に関わる事として」と成るので、この「助命嘆願の件」は、多少なりとも「伊賀青木氏に関わっていた事」にも成るだろうがそれがどうもそうで無い様だ。

さて、“どの様に関わっていたのか”であるが、「史実を含む詳細」は「四掟の範囲の血縁接点」はないのであるから、“無い”は当然で「糸口を見つけ出す事」には全く判らない。
然し、「助命嘆願」と「大口村の浄土宗寺住職・特定できる」にだけは関わっている事は「文意の行」から確かである。

では、それは何なのかである。
導き出される当然の答えは、「京綱事件だけ・伊勢青木氏には記録されている事」と「公的資料でも確認できる事」である。
つまり「頼政の乱の直前」にこの「二つの事件の策」が不思議に実行された云う事なのだ。
そもそも乱の混雑の前にこんな面倒な事は普通はしないであろうがしたのだから其れだけの意味を持っていたと云う事だ。
恐らくは、「流れ」としては、この「京綱の継嗣」は「女系の青木氏」では「青木氏の伝統」からして「異例事」であり、その「異例事」は「630年間無かった事」である程だ。
従って、その「異例事」に付いては、「四家の嗣子」が「青木氏以外」から出自していないが、然し、話が決着したのは、「継嗣の母」は、確かな事は「嫁家制度の青木氏の女(むすめ)」であって、それも「氏族の伊勢郷士」に嫁いだ「女(むすめ)」が「優秀な嗣子」に対して「青木氏」を興させて「福家の家人」として「四家」に入れると云う「家人仕組み」があるが、この「家人仕組み」として、「氏族の伊勢郷士」から「氏族では無い四掟外の摂津源氏」にと考えてこの「異例事」の「話し合い」は最終決着したのではないかと予想している。
摂津源氏が「四家の氏族では無い」としても、元は「皇位族の朝臣族同士」とすれば「一つの朝臣氏族」と考えれば、「嵯峨期の掟」に基づき摂津源氏は何とか最低限の処で「四家制度」を敷いている。
それ故に「氏族相当」として考えて、「氏人の氏族伊勢郷士50衆」の「一族同意」を得たと考えられる。
然し、隣の「伊賀青木氏」もいる「伊賀」には、「伊勢平氏の始祖」の「維衡の妾」として「摂津源氏源満快娘1が嫁していた事」は知っていたとすれば、この「京綱の事件に含む内意」も既に読み取れていた事に成る。

それは「乱の決意の失敗時」に何らかの形で「宗綱等の裔の救出」を内意として依頼していたのではないかと云う事なのだ。
その時に、「以仁王の令旨」を廻したが、「王位の令旨であった事」もあって初期には思い掛けなくも「他の源氏一族は動かなかった史実の事・初期段階・新宮源氏が全国を説得の為に廻った」に原因があったのでないだろうか。
前段でも論じたが、「戦う前」に既に「失敗を決意していた・源氏族蜂起の切っ掛けを造る目的」と観られるが、筆者は更にその前に敢えて「失敗覚悟で起こした乱」であったと観ていて、その為にも「京綱と国友の二つの事件」があって、それ故に「三つ目の事件」として「宗綱等の裔の救出の依頼」が一連にしてあったと観ているのだ。
然し、其処まで「青木氏がリスクを請け負う必要性」は何もないし、応じなければならない「摂津源氏に対して義理」もない。

では、何故、「伊勢青木氏」は「宗綱等の裔の救出」の「助命嘆願書の作成」に動いたかである。
「伊勢平氏の始祖」の「維衡の妾」として「摂津源氏源満快娘1の老女」が独自に動く事はそもそも不可能であるし、周囲は敵であるので、そんな動きは勝手に絶対に出来ない。
では、それをさせたのは何かであって、それが「福家を通じて伊賀青木氏」では無かったかと云う筆者の説である。
何故ならば、それは上記で論じた様に、「伊勢平氏の始祖の維衡」の「桓武平氏の始祖の阿多倍王、高尊王、平望王、高見王」との「伊賀青木氏との血縁繋がり」であろうと観ている。
況や、「伊勢平氏の祖」の更に「始祖の族」でにである。
何を云わんとしているかと云えば、これは「伊賀青木氏の位置づけに関わる事」であるからだ。
それは、「桓武天皇の出自元」であり、「前段からの高野新笠の出自元」でもあり、「伊勢平氏の祖」からしても「氏上様、御師様」で呼ばれていた様に、突き詰めれば「律宗族の祖」の「始祖の始祖の始祖である事」に成る。
要するに、当時の「古来の氏上制度」からすると、「神の領域の筋目」と成っていたのだ。
これで充分だが、そもそも「不毛な山郷の真砂の村での糧・伊賀」だけでは一族は生きていけない。
古来より「伊勢伊賀」は資料にもある様に、そもそも切っても切れない「糧の運命共同体」であって、そこに前段でも論じたが「殖産の商い」で「富を獲得している運命共同体」でもあったのだ。
だから奈良期の古くから「氏上様、御師様、律宗様、得宗家」と呼ばれていた所以である。
この呼称がこれを証明している。
「国幣社の神明社を守護神としている事・神職の柏紋の青木氏」を一つ捉えても「尊敬対象の…神様」であった筈である。


此処で、詳しく歴史観を論じるので話は外れるが、予備知識として「御師様」に付いて前段でも論じたが「歴史観」として誤解の無い様に改めて記する。
そもそも、「御」は兎も角も、それは先ず上記した様に「師の語源」にあって、「師の意味する処」はその「語源の下」で奈良期から室町中期まで使われていたが、江戸期に成ってこれが「別の意味」で使われる様に成った。
寧ろ、成ったと云うよりは“使われる様にした”と云う事の方が正しいだろう。

さて、そこでそもそも「文字の生まれた中国」では、「師の象形文字」は「左の偏」は「段」を二つ重ねたもので「平坦な丘の形」を意味を成し、「右の旁」も「小高い土地」の上に建てられた「風向きを知る旗」の形を表す。
即ち、「吹き流しを表した形」を意味し、この「二つの平岡」を象形する事で、歴史的にここには「見張りの効く岡の上」、突き詰めれば「近衛軍を置く位置」として決められ、初期に中国ではこれを意味し扱われていた文字であった。
そして、この「小高い丘の上の近衛軍」には、当然に「名誉」があって、それを「格式ある指揮する者・尊敬する指揮者・指導者」をこの「象形の師」を使って表現したのだ。
これが「御師の真の語源」だ。
だから「賜姓朝臣族の臣下族の青木氏」は「御師の呼称」に成るのである。

そこで、最初はこの上記の「中国の制度」に学んで「奈良期の天智天皇の近親の者」から「賜姓臣下朝臣族」が成り得る「近衛軍」を作った経緯と成るのだ。
前段や上記した様に、そこでこの「近衛軍の師」は「天皇の寝所」に「近侍・さぶろうから侍のサムライの語源」したが、これをこの「賜姓五役の一つ」として「伊勢青木氏」の「四等位最上位の左衛門上佐」の「最高位にいた事」に成るのだ。
故に「四家の福家の継承者」はこの「・・・左衛門上佐」を襲名としている「伝統」を持つのだ。
更に、其の上に「伊勢神宮を護る伊勢王位」にもあって、それ故に「皇祖神の子神の祖先神の神明社」を「守護神」としていて、「皇位族朝臣族」としての「伝統・9つの縛りの掟の律宗族」を頑なに護り、これらの「格式所以」を以て、上記する「師としての位置」にいたのだ。
この事から、「伊勢郷士衆50衆の氏族」から「衆の師」として崇められて「御師様」と長く呼ばれるに至っていたいたのだ。
この「御師様の格式」は「嵯峨期」に強引に打ち消されたが、依然として永代であった事に依り「御師様の呼称・」は江戸期末直前まで続けられたのだ。
況や、此処で云う“「御師様」”とは、「青木氏の歴史観」に基づく呼称を意味するのだ。

ところが、この「江戸期」に成って、この「格式呼称の前提の歴史観」は世間では完全に忘れ去られ無く成り、この結果として、この「御師様の呼称の意・商業の長意」は替わって行ったのだ。
寧ろ、「幕府の都合」によって変えたのであろう。
故に、「各地・24地域」に散在する過去に同じ「近衛軍の御師の立場」であった「秀郷流賜姓青木氏とその一門等」に声をかけて、前段でも論じた様に「15の商業組合を造った経緯」を持つのだ。
必然として、この最初にスタートした「全国15組合員を一つの円圏」として「伊勢・伊勢神宮」を中心としての「15の経済圏」を造ろうとしてこれは成功したのだ。
遂に、それを拡大して「摂津・大阪までの経済圏」として拡大させたのだ。
この時、この中心となった「伊勢屋・青木氏」が担保する「御師券」と呼称する「信用幣・紙幣」を発行して、「一大経済圏」を構築したのだ。
この事から何時しか誤解されて、「伊勢神宮参詣に関わるのみの経済圏」の「店の事」を「御師・おんし」と成ったと通説しているのだが、これは明らかに間違いであって「江戸期の時代の語意」が「奈良期平安期の語意」と成り得る事は100%無く、よくある「通説の間違い・歴史観の勘違い」である。
飽く迄も、此処で云う“「御師様・おんしさま」”とは、「奈良期、平安期中期頃の語意」である。
念の為に、その証拠に上記の「奈良期の歴史的経緯」から論じると、「出雲朝廷」でも同然にこの制度は中国から伝えられていて歴史的にあったと記録され、矢張り、「御師・おし」と呼称されていたとする論説記録がある。

そこでこの「御の語源」は、「偏の複数人」とその中央の象形文字の意は「走る」と「右旁の車」で、「皇帝を乗せる牛車」を意味し、其れを以って「尊敬字」として扱われた「漢語」であって、日本に伝わった段階で、尚、「敬語としての意味合い」が強く成り「大・おお」を着けて使用する様に成ったのだ。
語源的に当初は、韻語として「おほみ」から「おおん」と成り、其処から「おん」と「お」を使い分ける様に成ったとされる。
「出雲朝廷」では「中国からの使者」から伝わったとされ、その後に「和語」として「神明社の詔に使う韻語」を使わず先ず略されて使われたとしていて「お」でつかわれたと記録されている。
それがその後に「大和朝廷」に入り、「神社の韻語」として「おほみ」から「おおん」か「おん」に変化した経緯と成ったとされる。
故に、先ず「出雲」で「御師のおし」から大和で「御師のおんし」と成った事に成るのだ。
「伊勢の記録」では使い分けされているので「おし」として記されているが呼称で伝わったのは「おんし」である。

実は、この「御師様」には、「福家様」や「律宗様」や「得宗家様」や「氏上様」等の呼称と共に並行して使い分けして呼称されていたのだ。
これは、つまり、「呼ぶ人の範囲」に依って使われていた事が判っている。
恐らくは、漢字から判る為に明記されていないが、「福家様」は「四家の人」、「律宗様」は「全国の青木氏神明社神職の人々」、「得宗家様」は「家人の人々」、「御師様」は「伊勢全体の人」で、「氏上様」は「氏族の長」としていた事に成る。
この「氏上様」は「伊勢郷士衆50衆の人々」に限定していたと成っていたと考えられる。
では、因みに「秀郷流賜姓青木氏116氏の人々」から「女系親族・母方族の伊勢青木氏と信濃青木氏」はどの様に認識呼称されていたかであるが、これは「相手側の書籍」に頼る以外に無く、こちら側からの資料記録の行からでは良く判らない。
然し、総称は通して“「伊勢殿」”では無かったかと思われる。
家人の家に遺された資料にはその様に記されている。
又、依って「秀郷流賜姓青木氏116氏の人々」からは、「親しみ」を込めて「松阪殿、名張殿、員弁殿、桑名殿、四日市殿」と呼んでいたとも考えられるが、何せ「24地域に及んでいた事」から正確には判らない。
「伊勢秀郷流賜姓青木氏」に付いての呼称は、「伊勢側」では「梵純殿の名・又は一時期は駿河殿」がある事故に、前段でも論じている様に「代々の俗名」で呼んでいた可能性がある。
「駿河守の記録」も一時期にはあったらしい。
兎も角も、上記の通りに「御師の歴史観」はここで質して置く。

戻してその「伊賀青木氏の仲介が入ったと云う事」に「伊賀」では成ったのでは無いか。
そして兎も角も「助命嘆願を出して観る」と成ったのでは無いか。
それには「伊勢平氏の始祖」の「維衡の妾」として「僅かな繋がり」を持つ「摂津源氏源満快娘1の老女」の名を使う事」に成ったと観られる。
この「老女」そのものには、最早、その策を考える能力とその意欲は無かった筈だし、「6代先の宗家筋の頼政の子孫の事」に「口出すつもり」も無かっただろうし、況して過去の事は幼少でもあったので知らなかったであろう。
間違いなく「周り・伊賀青木氏」が、「福家」と協議して動いたものである事には間違いは無い。
では、「助命嘆願」を出しても「伊勢側」にどんな「理利」が在ったかと云う事であるが恐らくは無かったでろう。

結果として、この「助命嘆願」に依って「配流先」が「日向国廻村」であった事から、この事が「日向青木氏の歴史観」に繋がって行く事に成るのだが、今までにその詳細に就いて論じていなかったのでここでそれを下記に論じて観る。
つまり、その「日向青木氏」、又は、「大口青木氏」と「伊勢青木氏との関わり」に繋がって行くのだ。
それにしても、不思議な事に「伊勢青木氏の名を使う事」を「大口村の浄土寺の住職に伝える利益」は無かった筈であるが、然し、万が一の場合に備えて現実に伝えているのだ。
この事は「二つの記録」から判る。
それも最後は、「廻村」から「軍」を興して「日向平氏」に敵対し敗退して逃亡の最終は「大口村の寺・浄土寺・朝廷官吏族伊佐氏の菩提寺」まで逃げた事を記録として伝えているし、それ以外の寺は無理としてこの行動と発言がこれも余りに用意周到の言である。
最終、この「寺」に最終的に「日向平家追討軍」が直ぐに後を追って到達して来たとある。
その逃亡の結果としてぎりぎり辿り着いたのは、「廻氏の血筋を引いた宗綱の子供と合わせて廻氏の土豪侍5人」に成っていたと記されている。
「日向平氏」に「戦いを挑んだ経緯」では、「配流元受け入れ」と成っている「廻氏」が「周囲の南九州の土豪達」に呼びかけ、そしてその「戦いの背景」を援護したのは「南九州全域」を長く勢力下に置いていた「朝廷官吏族の大豪族肝付氏」であって、結果として二度も戦ったが、敗退し「肝付氏の勢力下の大口まで逃げ込んだ経緯」であるとして記されている。
それが前段でも論じた様に、嵯峨期直前までは「助命嘆願から支援した伊勢青木氏」は、「令外官」として代々「国造の伴造差配」であった「誼」で、「朝廷官吏族伊佐氏」や「朝廷官吏族の大豪族肝付氏」に繋がっていたとしているのだ。

この繋がっていたとする「青木氏の祐筆」の記した「誼説の根拠の行の表現」は史実であり理解できる。
故に、この「大口村の寺・浄土の寺・朝廷官吏族伊佐氏の菩提寺・現存」の「住職行動の詳細経緯」も史実として理解できるし、この「寺での騒ぎ」も記されていて、「生き残った末裔と侍五人」が寺に到着後、息の着く暇も無く「日向平氏の追討軍」が追いつかれたとされる。
「記録」はこの瞬間に住職の指示で“「伊勢青木氏だ”と名乗ったしていると記されているのだ。
これが、「南九州域の強いアクセントのニュアンス」で見抜けるが、ここも恐らくは「都から六年交代で来ていた伊佐氏の住職」が「日向平氏の追討軍」に直接に答えたとされているのだ。
だとすると、この記録から「伊勢青木氏との誼」は先ず解決する。

この「伊佐氏の住職」は、「官吏」として「伊勢平氏と伊勢青木氏との血縁性」を充分に承知していて「言い逃れ」で先ずは回避できるとして咄嗟に答えた事と観える。
然し、この「伊佐氏の住職」が「伊勢青木氏の名」を何故タイミングよく断りもなく答えたものだと疑う。

この事に付いて、情報が住職に伝えられていたとする原因は下記にするが別の処でも詳しく判る。

こに祐筆は次の事を「添書の形」で追記の形で記している。
到着後、「日向青木氏・呼称とする」は、“「伊勢青木氏だ”と名乗った事」に対して十分な詮議をせずに引き上げたとしている。
それは「引き上げた原因」は、「伊勢平氏と伊勢青木氏との血縁性・桓武派」を充分に承知していて「追及」が出来なかった事とし、又、何せ「肝付氏の勢力の領域」に「懐深く入り込んでいた事」のこの二つであろう。
「配流処置と成った嘆願書」に背任して「戦いに及んだ事」で、「日向平氏の追討軍」には許し難い事もあったが慌てて引き上げたとある。
その原因は、「祐筆の添書」には無いが、それは上記の通り主に“「肝付氏の勢力」にあった”と観ている。
この事に付いて、「物語風の記録・ある郷土史」によれば村人に「引き上げなければならない理由を述べている」が遺されている。
つまり、正しく「肝付軍」に背後を突かれれば全滅であり、だから「伊勢青木氏」に執っては何の関係も無い「肝付氏の事まで」も書き記したと観られる。

其の後、 「大口村の寺・浄土寺・朝廷官吏族伊佐氏の菩提寺・現存」の中でこの「裔系の日向青木氏・後の呼称」が「大口村」から最終は元の故郷の「日向の廻村」までその子孫を拡大して行くのである。(下記)
因みに、この事に就いて「近江佐々木氏の青木氏一族の研究資料」には、この「朝廷官吏族伊佐氏・弁財使の事」や「朝廷官吏族の大豪族肝付氏・押領使の事」と、「大口村の寺・浄土寺・朝廷官吏族伊佐氏の菩提寺の事」も記されていて、何れも「地域の安定の為に統治用の朝廷軍」を預けられていたとされる。
それも「秀郷流賜姓青木氏族の薩摩永嶋氏」に関連に付いても記されているのである。

結局は、「伊勢側が執った助命嘆願書」は、思いがけなく「日向平氏への戦い」で背任され「面目丸つぶれ」と成った経緯事件なのである。
その後の「裔系の廻氏系摂津清和源氏の仲綱系の裔」は、「日向青木氏」としてその子孫は大繁栄したが、これ以上は「伊勢側」は何も出来なかった事に成ろう。
然し、「これだけの情報」が記されているその所以は、「青木氏の氏是に反した戒め」としての「伝記」で詳しく後世に語り継がれる様に遺したと観られる。

「面目丸つぶれの伝記」には、念の為にもう一つ疑問が残っている。
それは、「大口村の寺・浄土寺・朝廷官吏族伊佐氏菩提寺」への「情報伝達手段」はどうしたのかであり如何にも早い。
「何の所縁も義理も無い住職」が自分の危険も顧みずに、機転を利かすにしても余りにも適格であった。
これは何らかの連絡なくしては余計な事は出来なかった筈である。
実は、色々研究の末にその元が比較的に簡単に発見できたのだ。
それは「二か所からの史実」であった。
その一つは、上記の「近江佐々木氏の研究資料」の「秀郷流青木氏族薩摩永嶋氏」の処と、「1180年頃の青木氏の商い」にあって、前段でも論じた様に、「925年」に朝廷から離れて本格的に「殖産と合わせた商い」に及び、「1025年頃」には「総合商社」を「伊勢」と「摂津」で営んでいるのだ。
そして、前段でも何度も論じている事ではあるが、その後、直ぐに「大船三艘」で伊勢と摂津で「北宋貿易」を開始しているし、「伊勢水軍」も7割株の水軍主であったのだ。

そもそも歴史的には「平安時代」には「北宋」との間で公式ではない「私的貿易」が行われいたが、「南宋樹立後」に「平氏政権」も非公式で「宋貿易」を担った。
その後、「鎌倉時代」にも「民間レベル交流」があった。
この「日宋間の貿易」は飽く迄も元より非公式のものであって、「私権の獲得」に過ぎず利益を獲得して「桓武平氏の発展」を遂げた原因と成った事は公的な記録でも明らかである。
これに依って「宋銭」が入り、「貨幣経済」が発達した経緯を持っているのだ。
「清盛」はこの「私的貿易の宋貿易」を振興する為に各地に「朝廷の市舶司役人」を設置したとある。
その結果として、「宋商人」は、「博多」や“「薩摩坊津」”、「越前敦賀」まで来航し、この“「私的貿易」”が盛んに行われていて、これを許していたが、「1173年」にその為にもこの“「南宋貿易」”を「博多」から「瀬戸内」を通って「摂津」の「拡張福原の大輪田泊・突貫工事」に直輸させて「利権」を一人締めしようとしたとする「騒動の記録」さえある。
この為に、突貫的に博多から瀬戸内経由で「各地の数十の船泊」を改修して摂津に引き込んだのだとされる。

さて、「伊勢青木氏」もこの「総合商社・1025年頃後」に既に開始していた「私的な北宋貿易」は、「1170年頃」に「北宋貿易・1025年から1127年まで」で得た「貿易知識」を以て、この「南宋貿易」をも始動しその商法を「清盛」に指導したのは「摂津の伊勢青木氏」であったと記されている。
更に「伊勢青木氏から受けた貿易知識」を「源義経」にも教えたとする記録がある。
その「伊勢青木氏の知識」は「北宋貿易」だけでは無かった様で、「伊勢水軍」も盛んに使って「琉球や周辺の島々」等もあったらしい事が資料より読み取れる。

その後、因みに上記した様に「清盛」は「義経」にもこの「南宋貿易の商い」を我子の様に優しく教えて「政治を始動する事」を教えたとする記録も遺っていて、この事で考え方の違いが発生し「頼朝と仲違いの原因」と成ったと記している説もあるが、この「史実の経緯」から観て納得できる説でもある。
その元は「伊勢平氏との所縁」を持つ「伊勢青木氏」であったが、「南宋貿易の事・1190年頃~1277年頃」には記されていないのは何かあったと考えられる。
これは「鎌倉幕府の樹立期」である。
つまり、この「上記の史実」から、「伊勢青木氏が助命嘆願で興してしまった大失敗」をしたが、「大不義理を興した伊勢青木氏」に対しては、この時、次の二つの事が読み取れる。

一つは、「宋貿易での清盛と伊勢との関係性」の「時代性経緯」が、この「不義理の時期」と一致している事である。
つまり、ところが「伊勢の不義理」に対して「清盛」は何の変化・処置もしていない事にある。
寧ろ、「貿易と云う点」で指導していて「伊勢平氏を強くした事」に繋がったと考えられ、「清盛」は感謝していた可能性がある。

二つは、この「伊勢交易・伊勢屋・青木氏」の「日本各地の交易泊」として、又、「北宋貿易の経由地泊」として「薩摩坊津泊」が記されている。
此処が日本から離れる時の「最初の泊」であったとされ、「大口村の寺・浄土寺・朝廷官吏族伊佐氏の菩提寺」から約北東に「100k(25里)の所」にある。
この事で上記の「情報伝達の仕組みの疑問」が解決する。

「伊勢」からの「情報伝達手段」と「糧の物資輸送手段」は「伊勢の大船3艘と伊勢水軍」に執って見れば特段に何の問題も無い。
特段に「宋貿易」でなくても「総合商社」としては、「九州伊勢の物資輸送・交易」としては当たり前の事であった。
上記に記されている「伊勢側の詳細な経緯の内容」は、この事で得られていた事に成り、「祐筆の書」は納得できる。
現在でも、何はともあれ証としてこの「坊津泊の地名」も「大口の浄土寺の寺」も現存しているのだ。

この件と離れて、「奈良期からの泊」で調査して観ると、次の事が出て来る。
それは「五つの自然条件」が整っていた所が「泊」として選ばれていたらしい。
それは、次の順であったらしい事が資料に記されている。

一つは、黒潮の通る所 黒潮の力を利用できる事
二つは、水深がある所 深く黒潮の流れに乗れる事
三つは、風が在る所 一定の良い風が吹く事
四つは、地形の良い所 停泊が出来る事
五つは、大きな河川のある所 泊の奥に荷駄を送れ安全に船が逃げ込める事

これ等は「帆船」であった事からの条件であろう。

さて、本論のこの「五つの条件」に合致する「坊津」は古書にも記されている通り、「貿易」の「大和から外洋に出る最初の拠点」であったらしい事が判る。

九州で「古くからの奈良期からの泊」であった所があって、この「坊津」から海沿いに北に向かって西域に「約96k・26里」の域に、「上記の五条件」が整っている「阿久根」云う「自然泊」があって賑わっていた事が記されている。

この“「阿久根泊」”から「真東の内陸」に向かって直線的に「68k・17里で徒歩12H・1日到達」の所が、「大口村の寺・浄土寺の浄光寺・朝廷官吏族伊佐氏の菩提寺」がある地域なのだ。
此の“「阿久根泊」からこの「浄光寺」”までは比較的平坦な河川敷(九州全土を廻るR3)を経由して到達するのだ。
記録が無いが、この“「阿久根泊」からこの「浄光寺」”に向かって、「情報と物資の伝達」が成されていたと観ていて、「交易・貿易」の為の各地の物産を運ぶ為に「伊勢水軍等の青木氏の大船」を使ったと観ているのだ。
現在もこの「阿久根までの摂津の航路」は現存していてあるのだし、「摂津」から「室戸泊・四国」を経由し、「坊津泊・南薩」や「阿久根泊」を経由して「中国」に渡っている史実がある。
他には、古書には「佐多大泊・佐多岬の記録」も出て来て、「宋貿易」のみならず「中国交易の黒潮を利用した中継点」と成っていた事が判る。

丁度、この少し前に歴史的にこの航路を使っての「鑑真和尚・吉備真日等に観られる様な史実」、難破して九南九州の多くの泊に辿り着いとする史実が多く残っている史実がある。
だから、上記の通り「助命嘆願策の実行」と、その「詳細の経緯を記す事」が出来たと観ている事もあり、然る事乍ら、「宋貿易の経路」でもあった事もあって、「青木氏の氏是」を破ってでも比較的簡単に「情報提供と伝達」を請け負った事も考えられる。
そこに「裏切り」が起こり「青木氏として興してはならない不義理」の「落とし穴」があったのだろう。
「歴史的な大失敗」と成ったが故に、事例として詳細な記録を「後世の戒め」として遺したと考えられる。
ところが消えるのみと成っている処を纏めて繋いでそれを筆者が未来の裔の為に更に「復元・復興している事」に成るのだ。

唯、この「復元の中」で一つ一寸した疑問がある。
何故、「伊勢からの示唆」であるとして「住職の忠告の結果」で、「伊勢青木氏」を名乗って、その後も更に引き継いで名乗っている事だ。
これを説いて置くと本来であるなら、「伊勢青木氏との血縁」は元は無いのだから「廻氏を名乗る」のが妥当と云う事に成るだろう。
宗綱の廻裔とすれば「嵯峨源氏以降の朝臣族の摂津源氏系」なので、「奈良期の慣習」として「元皇位族の名乗り」としてあったのだから、但し、「青木氏の名乗り」も完全否定は出来ないが、「平安末期の事」とすれば矢張り「名乗り」は当然の事して「廻氏」であっただろう。
そこで、この何にも「確かな記録のない疑問」を探るとすると、其の後の詳細資料を遺した以上には「謂れ」として何かがあって、「救出直後の糧」としては「大船を廻す等の過程」で何かがあったとする「推測・勘ぐり」が出る。
つまり、「大口村の救出生活・生き残る糧の獲得」の「一定期間の糧を獲得する過程」で、実質、「青木氏を名乗る事」が興ったとも考えられる。
そうでなくては「平安末期の混乱の時代」に実質的に生けて行けなかったであろう。

それは筆者は、前段でも論じた様に、後に興った「駿河青木氏」の様に一度、先ず「伊勢」に引き取り育て一人前にして「糧と成る大船」を1艘与えて復興させて駿河に帰した経緯がある。
この様な事が必然として興ったのでは無いかと云う事だ。
要するに、「家人説」である。
つまり、「廻氏の裔系とその廻氏家臣5人」を「伊勢」に先ず交易船で引き取り育て、「5人の家臣」に「操船技術と商い」を「伊勢水軍」で教え、一人前に成った処で「大船一艘」を与えて、この「廻氏裔系と5人の家臣」を先ず「日向」では無く「大口」に帰えしたのではないか。

そもそも、上記の通りに「伊勢」は「宋貿易や琉球交易」をしていて「廻船」をしていたとしているので、この「伊勢の仕事」を手伝って「南九州の産物」を「伊勢」に、「伊勢の産物」を「南九州」に運んで糧を建てていたと考えられる。
当時は、「神明社ルートや秀郷流青木氏等全国各地のルート」、「青木氏族の定住地のルート」とすれば「伊勢―伊豆間」、後に「駿河」でも交易は行っていたのだからこれは「難しい事」では無かった筈だ。
記録に「大口・日向青木氏」は、後に「日向」にも裔を戻したとされ、「大口―日向間」の「流れの早い難所」で「有名な日向灘水軍の記録・この「海運一族」を「下青木組」と呼ばれていた事もあり、これは、上記の「家人説」を裏付けるものであろう。
後に、「黒田藩」に「山族の上青木・上青木組と呼ばれていた」と「海族の下青木・下青木組と呼ばれていた」のこの二つは「二つの力」を買われて、「傭兵と成った事」は記録で証明されている。
恐らくは、元々、「商人出自の黒田藩」は、「傭兵」は勿論の事、黒田藩に無かった「海軍・名目」をこれで持てた事と、「上青木組と下青木組」と呼称させるほどの「取り組み」から観て、この「商力・財力・伊勢屋の財力も」に目を着けていたと考えられる。
これは「裏」で「伊勢屋・青木氏」が背後にいて、「日向青木氏と黒田藩の商い」で「大子孫拡大の鍵」と成ったのだ。
そこで「青木氏家人説」では、先ず「廻氏の裔」を「伊勢」で育て、「男子15歳成人」として「妻嫁制度の仕来り」に沿って「福家」で育てられた「青木氏の女(むすめ)」を嫁して、女系である故にその「生まれた優秀な男子」に伊勢で「青木氏」を興させて、「家人青木氏」として「大口」に戻したと観られる。
筆者は「廻氏の5人の家臣」にも「氏族の伊勢郷士衆との血縁」を繋いで「女系青木氏・氏人族」としたのでは無いかと観ているのだ。

上記の「商いの経緯」で「糧」を充分に得られ、それを下地に「地権」を獲得拡大しながら、その「家人青木氏」が「大口と日向」に子孫を広げたと考えられる。
唯、子孫を勝手に増えたからと云って住み分け制度で戦わない限りは平安末期から室町期末期に掛けて「子孫拡大の生活圏」を、強い武力の略奪で無ければ勝手に広げられる社会ではそもそも無かった。
それが「戦い」で日向まで広げたとする記録が無い事から「財」を下地に地権獲得で広げたのだ。
筆者は、当初、「上青木と下青木」が「廻氏裔の青木氏・本家分家」で分けられていたと考えていたが、飽く迄もこれは「傭兵の軍制」の都合の発端から分けられたものであって、「黒田藩の資料」の中にこれが出て来るので、「地域・つまり特徴」で分けた軍制であった筈だ。
この為に二か所の墓所等を調べた結果、「本家筋とみられる大口青木氏」がある事が判った。
それは、一つは前段でも論じたが秀吉が「天皇家の式紋・五三の桐紋」を模写して作った「五七の桐紋」が、「墓所と資料」にあって、これは「勲功のあった大名やその家臣等」に使用を許したが、黒田藩から大口・日向青木氏に与えられた事が記されている。
その「五七の桐の式紋」と共に思い掛けなくも「丸に笹竜胆紋」を使用した「古い墓所」があった。
家紋を墓所に刻んでいる事から室町期以降の墓所であろう。
「丸に笹竜胆紋」は前段でも論じたが「本来賜姓族の格式を持っている事」から丸紋は掟として無い。
然し、唯一、この上記の家人の「大口青木氏」にある事から、「宗綱の裔とする廻氏の裔」は根本は「卑属」である限りは「丸」は勿論の事で「笹竜胆」は無い。
然し、黒田藩時代の時には「丸付き紋」を使っている資料があるし、古い墓所にもある処から「伊勢」が、「丸付き紋」も「伊勢郷士・戦い等で一族の総紋として使う事がある」には許していない紋を許した事が考えられる。
それは「氏族の伊勢郷士衆」との違いのこの「丸付き」は「廻氏系の伊勢青木氏の家人であると云う前提」であったのかも知れない。
これには以下の二つである。
一つは、「女系である事」から男子を四家の一族の者から出す前提である事。
この事から、「廻氏・子供」を先ず「養嗣・養継嗣」とし、その後に「伊勢の女(むすめ)」が嫁し「一族の者」とし、「家人青木氏」とし、「生まれた男子」を「青木氏」とした経緯 1。
二つは、「廻氏の若者」と「女(むすめ)」との間に生まれた「優秀な男子」に「女系の青木氏」を興させて「家人」の「青木氏」とした経緯 2。
以上の「二つ」が考えられるが確定するそこまでの資料が出て来ない。

さて、この一つ目は「四掟の前提」からかこの前例は見られないので、恐らくは「二つ目の通常の方法」を慌てる事なく採ったと観ている。
そう成ると、「廻氏の子供の年齢」であるが、宗綱配流後に廻氏との間で子供を産み、その後に「日向平氏」と二度戦ったとされていて、敗退して大口に逃げたとする経緯から検証すると、そもそも、「配流」は「1180年、頼政敗戦」の後に「1185年頃」から「頼朝」が立ち上がり先ず敗戦し一度目が敗退し、「1192年の二度目」に平家に壇ノ浦で勝つが、「仲綱の長男宗綱」は、「従五位下、左衛門尉、肥後守。源宗仲の父」としているので、少なくともこの時には「30歳程度の年齢」で「配流と成った前の事」に成る。
そうすると、「日向平氏」に「戦いに挑んだ時期」は、「頼朝に呼応しての事」であったので「1183年頃と1190年頃」の二度目として、再度、「南九州の土豪勢力」を再結集して「日向平氏」に挑んで敗退した事に成る。
そして、その後にその「廻氏裔」が「大口」に逃げ込んだとすると、少なくとも時系列の計算では「5歳位から9歳」までであった事に成る。
それを「伊勢」に呼び寄せたと成るのだ。
そうすると、最低でも「成人15歳」までの「5年から7年間」は育てられたと成る故に、後者の考察説では、「廻氏の裔の若者・15歳」と「伊勢の女(むすめ)」との間に生まれた「優秀な男子」に「女系の家人青木氏」を興させて「家人青木氏」とした「経緯 2」に成る。
そうでなけれは時系列から「伊勢青木氏は名乗れない事」に成る。
これは「生きる糧」として身に着ける訓練としても最低であり得る期間と成る。
そもそも生き残った「廻氏の侍の家臣5人」だけでは「大船」は動かせられないし、「伊勢との商い」を始動させるには「伊勢水軍と伊勢郷士衆」を「5人から10人」を暫くは帯同させた筈だ。
その上で先ず、その後に「伊佐大口」に近い「阿久根泊」に戻った事に成ろうし、此処で「廻村」から「下記の事件の事」があって、「一族や村人等」を急いで「大口村」に呼び寄せた事に成ろう。
この「時代の時系列」は、「伊佐大口」に戻って一族を呼び寄せたのは「1195年から1205年頃の10年間の事」に成ろう。

丁度、「日向廻村・現在の小林市細野付近」はこの事件に巻き込まれていたのだ。
この「日向の廻村」から西国境を超えて「えびの」を中間にし、「薩摩伊佐の大口」まで真西に真直線で「11里・44k・徒士1日の約9時間程度の範囲」の小山一つを越えた「平野部の所」に両村は在った。
船で「阿久根泊」に到着後、更に東に「68k・12h・17里・徒士」に移動して先ず「大口」に到着後、其処から更に「11里・44k・徒士1日の約9h」で「廻村」に到着する事に成る。
合せて、「79k・21h・28里」であった事に成り、「2日から3日架かり」で到着する道程であった。
到着後、時を同じくして、“村人等は恐れて飛散した”の行から、「廻村」から「一族と村人」を段階的に「大口の浄光寺・伊佐氏の菩提寺」に先ず集め、「阿久根」から陸路で東に荷物を運び入れて先ずは「生き延びる糧」を造って得た事が考えられ救い出した事に成るだろう。

そこで「伊勢側」では前もってこの「危険な情報」を得ていた事が上記の交易手段で得ていた可能性が充分にある。
筆者は「伊勢」を出る際には、この事を既に想定していたのではないか。
「一族を救い出す事」と「最低の生活基盤を築く事」に当面はあっただろう。
だとすると、この仮定では「伊勢の大船2艘程度」を重ねてで無くては無理であろう。

先に注釈として記するが、因みに、この直前の「逸話・史実」が「日向」でも物語風で語り継がれていた事が判っている。
時は、「鎌倉時代・頼朝三代1219年・1221年淘汰され源氏完全滅亡期」の3年前であり、「北条氏の台頭事件」の有名な一つである。
この直前で「日向平家」が滅亡し、ここに「惟宗忠久・1203年・清和源氏裔名乗る者」が「日向地頭」として入って良政を敷き土着したとある。
ところが「比企能員の変・1203年・謀略」が起きて、“廻村の村人等は関わりを恐れて飛散した”とあり、その「忠久」もそれに連座したとして罰せられて「鎌倉幕府」から「呼戻命」が届き死を覚悟して「鎌倉に戻る語り」が地元の歌舞伎としても遺されている。
「惟宗忠久」は、「朝廷の記録」にもある様に、“惟宗”の呼称である以上は「渡来人秦氏の裔」で「賜姓」を受けて、「宿禰の惟宗朝臣・姓の賜姓」を名乗ると「史実の記録」があるので、「秦氏」が史実として正しいので、「源氏とする説」は「国印状取得」の為の「江戸初期の後付け」である。

そうすると「阿久根泊」に着いた彼等は、直ぐに東の「大口」から更に「廻」に走った事に成る。
“村人等は恐れて飛散した”とありする処から、「廻村の一族」とその「村人」を間違いなく1日も早く「大口」に救い出した事に成る筈である。
その「村人救い出し」としては、「廻村」から真東の同距離の「小泊・赤江泊」は資料の地形から“河洲が広がり水深が浅く”の記述あり、この事から「大船の泊」は昔は無理であった様であり、従ってここからは「救出」は無理であったろう。
この事は、「救出後の生活基盤の構築具合」でも判る。
「一族と村人を救い出す」と云っても、そう簡単な事ではない。
「大口を拠点にした事」は判っているので、「船泊の阿久根」を「物資の拠点」として東の「定住拠点の大口村」に「第一段階の定住地」を先ず構築した事がこの「行」でも判る。

この当時の構築劇を検証して観ると、「伊佐全域面積では80000反」で、その「羽月川」の流れる1/4の「大口村の未開の約20000反の原野・羽月川・川内川支流」を開墾して、そこに是が非でも「住む所と田畑の開墾」を行う必要があった。
「阿久根泊」から「448m山上りし、そこから654m下る位置」にあり、「段差175m高い位置の高原」にあり、この「窪地の平野」が、「朝廷の官吏伊佐氏が赴任していた土地」として考えれば、ここを「定住地」としては適していた事に成る。
この「広い河洲の平野」では、「原則1反1石1人1年の原則」は成り立つとして、それで救出したとして、「隠れて生き遺った一族と村人の数」を少なくとも「総勢仮に100人」とすると、先ず「食料の100反=3万坪」を開墾しなくてはならないし、「住む場所の確保」として「山手・台地」に、「100人/4」として「25軒分・50坪=1250坪=40反」として、少なくとも「合計150反」は開墾しなくてはならない計算に成る。
後は「地権獲得の財」と成り、これは「生活費」と共に水運で稼げるし、当初は「伊勢が支払う事・支援」に成ろう。
「財」は「伊勢からの大船1艘の水運」で「伊勢」と繋がっているので「交易」で容易に稼げるだろう。

第二段階として、「子孫」が広がり、「上青木と下青木氏」のある「呼称記録」がある通り、此処から拡大子孫が次第に「日向灘の行文」がある様に「真東の赤江泊・下青木・現存」に降りて行った事に成る。
この「赤江の生活」は基本は「漁業」であったと記されいる。
最後は「流れの早い日向灘での漁業」としているが、筆者は、「伊勢水軍の支援・熊野灘」もあって誰もが避ける“「日向灘水運」を手掛けた”と考えている。
この事から、「小舟漁業」から「日向灘大船水運と日向灘大船漁業」の「二つの操業経緯」を辿って持っていたと観ていて、だから「黒田藩」にこれを買われ「傭兵軍団と成った事」でもあり、「御用商人と成っていた事の証」と成る。
そもそも「漁業」では「傭兵軍団」とはならないだろうし、だから、「大口青木氏」に伝えられた「五七の桐紋の使用許可の口伝・墓所などにも使用している」が出たと観ている。
結局は、この「財」は、「大船1艘の水運」から始まったものであったろうし、その経緯は「大口村の経緯」と同然であろう。
「祐筆の表現不足」に在ったのであろうがここまで「青木氏の記録」の読み込みであり祐筆は書く必要は無かったであろう。

そこで、だとするとここで「疑問」がある。
何故、「大口」から「真東外れの赤江」と行き成り成ったのかであって、言い換えれば「大口」を東に、又は「西の阿久根泊」に当然の事として伸びなかったのかである。
「地権獲得」では西にしろ東にしろ何れにしてもこの時期は未だ「肝付氏の圏域」であり、良好な関係を保っていた。
何で「赤江」では無く「阿久根」では無かったのかであり、将又、「大口より東域」に伸びなかったのかである。
「傭兵」であるとしても飽く迄も「傭兵」であり、「積極的武力を使っての事」では無い。
「利」からすれば、「原点が交易もある事」からどう考えても「大口の一族の生活」からも「阿久根泊」である。
実は調べるとこれには「大きな欠点」を持っていたのだ。
「良好な大船の泊」は、“水深が深い事から地形も狭い”と云う「地形的な宿命」でもあった。
大河洲が無く「大口の東域」は「赤江」まで伸びていて制限はなく、「1反1石1人1年の原則」の「伸代」は拡大次第で充分で成り立つが、然し、「阿久根泊」には「伸代」は「地形地層」から「岩層」で固定の「5から7平方km以内・現在も同」でこれは全く成り立たない「地形的な欠点」を持っていたのだ。

「阿久根」は、そもそも「地層」の専門的学的にも極めて「有名な地形」で知らない者がない程で、「鹿児島」は勿論の事、九州、日本で最も古いとされる“「阿久根古生層」”と呼ばれる「固い地層」が海岸の一部に露出した珍しい地層である。
「古生時代」に「大洋底に堆積したチャート」が地表に突き出した珍しい地形」で、その「岩石」は「五色岩」と呼ばれる「色チャート礫」と「凝灰角礫岩」とで形成されたものであるのだ。
現在でも「阿久根層」として地私学的に有名だが、当時としても「水運を操る者」としての「海層地形の常識」であって故に西に延びる事が出来なかったのだ。
此処からも意味する事は、明らかにこの事が判る「伊勢と伊勢水軍が深く関わっていた事」が判り、「現地訓練も行っていた事」をも証明するものであるのだ。

上記とすると、ここで更にこの事から後世として記述に及んでいない解明して置くべき「疑問」が又浮き出る。
それは、“赤江泊で漁業を営んだとする事 1”と、それに反する“「日向灘水運」を営んだとする事 2”の二つである。
この1では、「大口」が密集度としていっぱいに成り、一部がそこから出て行って「赤江泊」で「地権と漁業権」を獲得し移り住んだとすれば何の問題も無い。
然し、この2の「日向灘水運」が伴うと成るとこの1に問題が生まれる。
それは2を行うと成れば、「大船の泊の問題」が浮き出る。
「大船の泊」は、当時の記録から、この南薩では「佐多岬泊」か「坊津泊」か「阿久根泊」かの3泊に成るが、「物・資供給を必要とする大口」の「常宿泊」としては、「前者二つの泊」は「寄港泊と成る事」は否定できないが大口までは遠すぎて適さない。
そうすると矢張り「大船の泊」としては「阿久根泊」で無くてはならない事に成る。
「日向灘水運」を行う以上は、ではそもそも一々、「阿久根泊」に戻ったのかという事であり、半島を「一回り・440km」とするとそんな事は到底無理だ。
どこかの「赤江付近」に「常宿泊」が無くては「水運営業」は成り立たないが、当時は原則として「泊を建設する事」は無く南薩海域にも無く、主に「自然泊」としていた為に当初は「水深」が浅く「自然泊」は無かったのだ。
この時期の「平清盛の宋貿易」の「大船用の泊」も「自然泊」を水深等を深くするなどの急造の改築して建造しているのだ。

ところが記録に依れば、「鎌倉期」に入ってから「志布志泊・水深50mから70m」が開発されたと記されている。
それは、“「1205年から1210年頃には交易が盛んになり始めた事”で「志布志泊」は“「鎌倉幕府」に依って開かれた”と公的な記録では成っている。
そうすると、それまでは、、“赤江泊で漁業を営んだとする事 1”と成っていた事を物語るし、“「日向灘水運」を営んだとする事 2”は、「志布志泊」が「交易用の大船泊が可能と成った事」で、つまり「日向灘水運が営まれる事」と成り、これは「灘水運の開始時期」を物語るものだ。
「上記した伊勢の記録」とは、当に丁度、その時期に合致していて、先ず、“1で始まり2に直ぐ移行した事の経緯”とする「行」と書き換えられた事に成るだろう。
恐らくは「伊勢青木氏祐筆」は、この事があって添書としたのであって「書き添えた」のであろう。
では、「大口での救出劇」は、1203年」の“赤江泊で漁業を営んだとする事 1”の記述は、何の為にしたのかである。
ほぼ「3年にも満たない時期」に2が始まっているとすると、「1203年の比企能員の乱」に伴い「廻村の一族等」を救出したのだから、1は短期間であった事に成る。
これは大した意味は成さなかったのではないかと云う疑問に発展する。
其の侭でも、1をしなくても2に入れる事に成るだろう。
この事は「赤江の小舟漁業」は同時と見做す事が出来るだろう。

筆者は、意味が無いと観られるこの「リスクのある1の行動」は、「2の行動の策」の為にあったと観ているのだ。
「阿久根泊で開いていた大船海運・上青木」を「志布志泊・日向灘水運・下青木」にも拡げる為の「鎌倉幕府」と「地頭肝付氏」への「政治工作の策」であったと観ている。
先ず「新たに開設された志布志泊」を「常宿泊」として「日向灘水運」を始めるその為には、上記した様に「阿久根泊」から「大口」に「船人」を廻せない。
そこでその為には、「志布志泊付近」に「定住地」を新たに開設する必要がある。
それが「赤江泊・小舟」であったと考えられ、それには先ず「業業権」を獲得するには「定住地とする権利」を獲得せねばならない。
「日向灘水運の業」を前提としたのではこの「権利」は降りず獲得できない。
そこで、「赤江での小舟での漁業権の獲得」を先ず狙う必要があった。
この「漁業権の獲得」に依って「定住地の地権獲得の条件」が整う事に成る。
それが得られれば、「日向灘水運の業」を前提とした「常宿泊の定住地」が獲得でき「志布志泊の条件」にも合致する。

恐らくは、「日向灘水運の業の事務所」を設置しなければならないし、それらの「大船の船員家族の家」も必要と成るし、その何もしないで過ごす事も無いと考えら、「その間の少しの糧」としても表向きとして「小舟漁業」を営んだと観られるのだ。
筆者は、「小舟漁業に関する記述」は、「資料読み込み」から主に「家族の名目労働の事」を記したものであったと観ている。
これで「泊役人」や「何れの周囲の組合人等」からも文句が出ない様にしたのであろうし、後は、「赤江泊と志布志泊と阿久根泊と大口村」との「商いの連絡事務所の開設」であったと観られる。

因みに「平安末期から鎌倉期」までは「各種の役人」を九州域に置いて「取り締まりを強化した事」が記録にある。
例えば、一例として次の様な役人が勢力を張っていて恐れられていたと記録にある。
この事で、「船主」は、“何もしない”と云う訳には行かず、“裏表に取り分け気を配った事”が「鎌倉期の東鏡」などに記されている。
取り分け、「鎌倉期」には次の様な「海事に関する三つの奉行」が「北条氏世襲の鎮西府下」で急遽設置されたとしている。
それだけに「海事」が、「清盛」が先駆者と成って開き、その後の「鎌倉時代」には、急激に「交易が盛んに成った事・史実」で「簡単な規則」を作り盛んに成った事を意味している。
歴史上の「義経と頼朝の軋轢」はこの考え方の差にあったとされている。

記録に依れば次の通りである。
それは次の三つとしている。
一つは、「舟船奉行」は、「各地大泊」に配置した泊税役人
二つは、「船手奉行」は、「船舶・海路・水運の運航管理の諸事」を主に扱った役人
三つは、「港泊役人」は、「泊管理や交易船取り締まり」を扱った役
以上の様な通称“「三役人」”を最初は九州から次第に「全国各地の泊」に配置して「幕府の税収益や冥加金の
「裏表」をあげて「海事権力を高めていた」と記録にあるのだ。

つまり、「船主」と成るには、この「大壁」を乗り越えなくては成らなかったのだが、それだけに「利益も大きかった事」が云える。
大きく成り過ぎれば成る程に警戒をされる等の事が「幕府や周囲の豪族地頭勢力]からあったのだ。
その意味で、「伊勢を背景」として「大口青木氏・日向青木氏の水運交易」は、「小舟漁業を主体とする商いの糧」では無かった事が明確に云えいて、飽く迄もこれ等の大きな壁を超える為の警戒されない様にする為の「見つからないようにする策・手立て」であった事を意味するのだ。
明確に言える事は「日向水運の事業」は、況や「大口青木氏・日向青木氏」は「伊勢を背景」として当にその位置にのし上がろうとしていた時期だったのだ。
未だ周囲が余り開かれていなかった「平安末期の交易水運」を「伊勢主導」で逸早く取り入れ、「伊勢の指導の下」で、「大口」にも一族・大口青木氏と伊勢青木氏」を集中拡大させ、「阿久根泊を常宿泊とした水運」と「志布志泊を常宿泊として水運」の何と「二つの水運業」を鎌倉期に持とうとしていたのだ。
当然に、「大船」も増やしたであろうがこの祐筆は書き記していないので「船数」は判っていない。
唯、この「文章の行の一節」に、「伊勢水軍の単語」が入っているので、「伊勢青木氏が7割株で親方と成っている伊勢水軍」とまでは行かなくても、「志布志泊の時」には「大口青木氏の方」では「5隻から6隻程度」は所有していたと考えられる。

上記の「三つの海事奉行の設置」は、主に「第一回目の元寇の役・1266年」を機に幕府が執った「海事の強化策・処置令を出している」とされていて、それは先ず「南九州」に於いて施されたとされている。
これは「約62年から63年間程度」は経ているので、検証としては「志布志泊の時」には「5隻から6隻程度/60」と成り 10年に1隻」はあり得るだろう。
つまり、だとするとこの時期では未だ「大船を使った交易業」は当時としては少なく、「清盛に「大船の交易業」を教えた経緯がある位で「伊勢」を背景とした「大口青木氏の交易水運業」は、恐らくは「トップ域」にあったと考えられ、「途轍もない財」を背景に共に恐れられていた事とも考えられる。

因みに前段でも論じたが、これは「江戸期の事」ではあるが、「伊勢」でもこの様な「事件記録」があった。
「全国五奉行所」の一つの「関西区域」を管轄する「海事奉行」の「山田奉行所」が伊勢にあった。
そこで「家康の伊勢の事お構いなしのお定め書」を持つ「莫大な財を持つ伊勢青木氏」と、大きくなり過ぎた為としてこれを敢えて無視した「山田奉行所」から無理難題を押し付けられていた事が「伊勢青木氏の記録と公的記録」にも記録されている。
「摂津商船組合・物語風に記録あり」と組んだ「戦い寸前・享保期初期」まで陥ったが、前段でも論じたが、「伊勢・伊勢屋」は、この時、「莫大な債権」を「松平系支藩・安芸藩等の3藩」と「紀州藩」と「幕府」とに、抑え込めるだけの「大債権」を持っていたのだ。
これが大事に成れば、幕府は破産と成り信頼失墜するは必定で大きな武器を持っていた。
「山田奉行所は「伊勢と摂津組合」を飽く迄も無視した。
この事が「吉宗の耳」に入り「伊勢」と共に「享保の改革」を共に推進したにも拘わらず「吉宗」も「山田奉行所]のこれを黙認した。
此処から「吉宗との関係」が崩れ始め最後は「信濃青木氏の財を奪う事」が引き金と成って「江戸」を引き上げる結果・200店舗を残す」と成った。
この件は「紀州藩」が間に入り取り敢えずは治まった「有名な事件」があった程であったと記録されている。
然し、この「鎌倉期」では、幕府から「伊勢本領安堵」が成され、「平安期の領地と地権」が認められた「経緯・安堵奉行が審査」があって、「良好な関係が維持されていた」とある。
ところが、それでも「交易の要衝の南九州」でも「北条氏の代々赴任勢力・横暴な勢力」が広がり、記録では「北九州別府域」からの圏域で、「日向」から「肝付氏の勢力」を押しのけて南に広がり「志布志泊」までの「交易泊の利権等の剥奪」で「気の抜けぬ状態」ではあったと記されている。
つまり、「出方次第」では変わっていた事が判る。

さて、戻して次は、「志布志泊」まで子孫を拡大させて「下青木」が生まれ、「志布志交易水運業」は順調であった事が判るが、「大口青木氏」から「日向青木氏」と云う呼称が、「伊勢の資料記録」に在る以上は、此処から更に北に伸長して行って別の地域で拡大した事を意味するのか、将又、「下青木氏」が「日向青木氏」を意味しているのかがこの祐筆は語っていないので解らない。
つまり、「大口青木」を「上青木と下青木」に呼称分けをしたのかである。
この事に就いてその歴史的経緯から検証をしてみるが、筆者は、「下青木氏」は「日向青木氏である事」で、「上青木氏」は「大口青木氏」とするのが正しいと観ている。

では、その解く鍵は、室町期には「交易水運業での黒田藩の傭兵・実践軍団では無かった可能性がある」と観ているからだ。
これを「祐筆の表現の行」から読み込めば判る筈である。

確かに“「軍」”として記されてはいるが、“「傭兵」”とする以上は何も戦うだけが「軍」では無いだろう。
筆者は、平常時も然る事乍ら、「商い」としての「戦時の食料や武器の輸送」や「調達」を専門的に担ったものであったと考えている。
もし、“「戦う軍」”であるのなら、「室町期の雑賀根来の銃傭兵軍団」の様に何時かは警戒されて潰されるか少なくとも「争いでこの様に子孫拡大」は果たせなかったと考えられる。
然し、そうでは無かったとすれば、「普通の考え方」としては「交易水運業」を前面に押し出した「傭兵としての関係」を持っていた筈であろうし、背後に「伊勢青木氏」もあったとすれば“「戦う軍・青木氏の氏是」”は無かっただろう。
そもそもその必要性は認められないからだ。
これに「大口青木氏と日向青木氏が氏是に逆らう事」をすれば、「交易の糧」を絶たれて大勢の一族の者を養う事は出来なかった筈で、ここまで「海運水運業」で「子孫拡大」は望めなかったであろう。
そもそも「上記した経緯を持つ青木氏」であった以上は、「青木氏氏是に反する事」は出来なかったであろう。
間違いなく「交易水運業の傭兵」であったであろうし、前段でも詳しく論じた様に「室町期の雑賀根来の銃傭兵軍団」も「銃の生産業」からこれを生かした「銃の傭兵」であったのだ。
「特技を生かすと云う点」では違っていないのだ。

「日向灘と云う語」と「黒田藩傭兵の語」の「二つの語の意味」からすると、少なくとも「大船」を黒田藩に近い所までは運んでいた事は判る。
そうすると、この「二つの語句」から「当時の泊の検証」が必要に成る。
当時では、「自然泊」としては「佐伯泊」は記録にあった。
この「佐伯泊」は古くから“「幌筵泊・幌を休める泊」”と呼ばれ、「日向灘の難所の大船の筵幌・むしろの幌を下ろし逃げ込み休む泊」で有名であったと記されていて、ここに幕府は「小さな警備府」を置いて「水難事故等の管理をしていた泊」であったと記されている。
(現在は自衛隊の軍港である。)
水深は丁度大船が入れる15m程度を持っていたとしている。
「日向灘」とする以上は此処までは少なくとも来ていた事を意味している。

次は「黒田藩・1600年の関ヶ原の戦いで福岡藩と成る」の「交易水運の傭兵の事」であるが、「1600年以降」では、「水運等の傭兵」であったとしても、その後には「荷駄運搬」を必要とする「内戦の戦い」は現実には無い。
従って、この事から「伊勢側の記録」として遺した「傭兵とする語句」は、「黒田藩のお抱商人・交易水運業者」であった事に成る。
「江戸」から離れた「福岡」である以上は、「交易水運の役」は無くてはならない「藩策」であったのだ。
「素早く運び」、「良質で」、「何でも揃えられ」、且つ、「大量に運搬獲得できるの手段」が「黒田藩を救う唯一の策」と成り、それには「日向灘と云う難所」を越えられるだけの「人時場所の条件を揃えられる大商人」と成り得ていた事を示し、且つ、「祐筆」はそれには「優秀な日向青木氏が選ばれていた事」を示す為に「二つの語句」に「それ・傭兵」に込めたのでは無いか。

そうすると、次の二つのルートが考えられる。
先ず一つ目の、「佐伯泊」に入り、其処から「陸路」で北の湾岸沿いに博多に入る経路。
これが「最短」で「平地」を経由する「約200km・50里・徒士42H・現R10号線ルート」
次の二つ目は、「佐伯港」から出て其の侭で「海路」で下関通過して、奈良期古来より「日本最大良好泊」の「博多港」に入る経路で、「約240kmの水路」を移動する経路。
この二つが考えられる。

古書には、「一つ目の経路」が「二つ目の経路」よりも良く積極的に使われていた事が記されている。
恐らくは、一つ目は「荷駄の積み替え」は起こるが時間が短い。
「二つ目の経路」とは「約40kmの差」が起こるが、「博多泊」では「荷駄の積み替え」が起こるので、結局は差し引き同じで「古書」での「陸路選択の史実」は矢張り「安全」であったのであろう。
然し、史実は別の資料ては両方がその目的に応じて頻繁に使われていた事が記されている。
この「祐筆の記述」には、「二つ目の記述」は全くなく「佐伯泊の所」まである。
だから、「佐伯泊」は上記した「筵幌休めの呼称」が遺っていたのであろう。
その証拠に「佐伯泊」は「戦時中の軍港・現在も」としても使われた程の「筵幌休泊」であった。

さて、これには上記の事で祐筆の何時もの一寸した面白半分の「表現差」が出ていると観る。
筆者は、これに再び食い着いた。
つまり、上記の「日向灘と黒田藩の一対の語句」からの「二つの経路」が在るのだが、祐筆は、何故か「日向灘だけに拘っていないのか」と感じる「行」としたのかと云う事だ。
「黒田藩」とすれば、「下青木の志布志泊」からすると「日向灘」は位置的に「必然の場所」であろう。
そこには、既に「阿久根泊の事」は記述しているので、とすると「日向灘」は何かに足して比較しているのではないかと「青木氏祐筆独特の語り調」と筆者は感じた。
直接、「歴史書の様」に書くのではなく、何時も「匂わせる物語風」に面白く語り調の癖がある。
記録を子孫に読ませようとする手段であろう。
又、考えればある程度、そのような「目的・一族の者に言い語り遺す事」もあった事は否めない。
そうすると、この「日向灘」にはこの「目的」を潜ませて記したとすれと、其れは何かである。

「志布志泊に日向灘」とすると、当然に対比的に「阿久根泊」と成り、此処から北に向かう海路という事に成る。
先に「阿久根泊の事」を書き記している以上、再び興して「阿久根泊の事」を書く訳には行かないだろう。
そこで、これを潜ませて記したとすれば、「目的の行の流れ」は成り立つ。
「阿久根泊・上青木・大口青木氏・?」と「志布志泊・下青木・日向青木氏・日向灘」の「対比語り」であるので、この「?の解明」と成る。
とすると、「東周りの日向灘海路」に対して、「西回りの・・・回路」が在った事に成る。

この「西回りの・・・海路」の{?}を次に検証した。
前段でも何度も論じたが、その指摘した経緯があるのだ。
{奈良期・618年」に「後漢」が「隋」に滅ぼされて、「第21代献帝」の時に、「父の阿知使王」と「子の阿多倍王」が「職能集団200万人」を引き連れて「大船団」で、「現北九州市・泊」と「現福岡泊」に上陸したとある。
他の一部の「船団」は、「大和人の船先案内人」を載せて、上記の「二つの泊」から「西回り」で「南九州西」に上陸し、この上下で「職能」を伝導して「阿久根泊」から「福岡博多泊」までの航路を「無戦制圧」したとある。
「数日程度で無戦制圧」して「枕崎に入った」としていて、そこから「父の阿知使王」は「現在の薩摩阿多地区」を拠点に、「子の阿多倍王」は「東の隼人地区」を拠点に住み着いたとある。
ここから、更に船団は「瀬戸内」に入り「摂津播磨の手前」まで「職能伝導」で瞬く間に「32/66国」を制圧したとする「歴史的史実記録・伊勢と薩摩の半国割譲」が在る。
これはこの時に「大和人の船先案内人という語句」から既に使われたこの「海路」が「古来より在った事」を証明している。
つまり、「奈良期」より「阿久根泊」から「福岡博多泊までの西回りの北上航路」が出来ていた事に成る。

そこで、この「古い阿久根泊」から「福岡博多泊までの西回りの北上航路」」は「約224km・49h」であって、そこから「枕崎」まで約100kmで、合わせて、「324k・70h」である。
とすると、「制圧の記録」にある「数日程度の短期間・4日で制圧した」とあるので記録は合致する。
古い「阿久根泊」から「福岡博多泊」までの西回りの北上航路」の問題の航路は、「約224km・49h」にこれに沿って「陸路の国道」が奈良期より在ったとしていて、それは「現在のR3」の西回りの「北九州-福岡―鹿児島間・現存」に成る。
この「西回りの北上航路」の「海路と陸路」のそれに沿って「職能を伝導した」とある事から、「船の泊」からも都度上陸し、「陸路・R3」でも渡来人は移動した事に成る。
この史実は、「阿久根泊」から「福岡博多泊」の「西回りの北上航路」の「海路・水運」が働いていた事を示し、「日向灘・佐伯泊」よりも何と“「1000年前に在った」”事になるのだ。
それも「短期間」で「便利」で「安全な古来からの当然の海路」であった事に成り、史実も多く残り、故に「祐筆」が態々、「語るに足りずの事」であったのであろう。
取り分け、「伊勢水軍」と「船を有する伊勢青木氏・伊勢屋」に執ってはこれは「衆知の史実」であったのであろう。
況してや、その前段で論じた「後漢の渡来人」が伊勢半国割譲で伊賀に入ったのだから何の不思議も無かった筈である。
つまり、この史実の事は、「西の海路・大口青木氏・上青木」と「東の海路・日向青木氏・下青木」の「組み合わせ」でも働いていた事を意味する事に成る。

「黒田藩」は遠く後の「1600年以降の事・江戸期以降の商い」であるので、「東の海路・日向青木氏・下青木」には、その前は「黒田藩」は「豊前中津1587年」から二代に渡り「秀吉」より与えられていたと成る。
この時には、「日向灘の佐伯泊」を利用していた関係で「交易水運の傭兵」と成り、その為の所縁で「秀吉時代の五七の桐紋」を「秀吉」から「中津藩時に獲得した黒田氏」は獲得していた。
「江戸期1600年」に成って、黒田藩は「豊前中津藩・1578年」から13年後に「筑前福岡・1600年」を領地として「大藩」を与えられた。
然し、「日向青木氏の墓所等」にある「五七の桐紋の家紋・明治初期の墓所造り」から観て、この時の「22年間の勲功」で「五七の桐紋の使用」を許されていた事に成り得て、これを「大口青木氏・日向青木氏」に与えたとしているのである。
其の後、「黒田藩」は隣の「佐賀藩鍋島氏」と1年交代で「上記の問題・北九州泊の管理」と、「幕府領の長崎警備」を任されていたのだ。
然し、ところがその後の「江戸期」は「九州地域」は「代々旗本に依る賂政治の悪名で有名な長崎奉行」の「支配下」に置かれていた。

上記の様に、この「賂政治の悪名の事」は「歴史史実」としても有名で、「冥加金」の下で「九州域の海事の奉行差配」は行われ、「黒田藩」が「長崎警備役」に1年交代で任じられていたとしても「幕府支配下」にある以上は難しくこの悪政を黙認し、「商い・日向青木氏と伊勢青木氏」に執っては行動は非常に難しかったのだ。
従って、この「九州海事の歴史」は、「秀吉」がこの「重要な交易拠点」を「大内氏」に任し、その後に「1580年」に「イエスズ会」に与え、「1588年」にこの利益が上がる「長崎」を「豊臣家直轄地」とし、ここに「鍋島氏・肥前佐賀城主」を「代官」として置いたのが始まりである。
その「3年後」の「1592年」には「奉行」として「寺沢氏・肥前唐津城主」が任命されたもので、これが所謂、有名な「長崎奉行の前身」である。
つまり、経緯としては「商いの日向青木氏と伊勢青木氏」この秀吉の時代は何も動けなかったのだ。

前段でも何度も論じたが、「重要な史実」は、「青木氏側」から観れば「秀吉」とは「伊勢や摂津や紀州」で「戦い」をした「犬猿の仲」であった事から、その「重要拠点の隣」に監視の為の「黒田氏の福岡藩」を移封するまでのこの「1587年・23年間」までは、「大口青木氏・日向青木氏」は「交易海運の許可」を得ていない事に成る。
つまり、「佐伯泊」までの「交易水運であった事」に成り、「西の海路・大口青木氏・上青木」の中で働いていた事に成る。
「1600年関ケ原後」で無くては「交易海運の許可」は認可される事は先ずあり得ず、従って、「黒田藩」からすり寄って来ると云うよりは「黒田藩との繋がり」を「伊勢摂津側」から強く求めた事に成るのだ。
これで「阿久根泊の西回り」と「佐伯泊の日向灘の東周り」の「二つの航路許可」が得られた事に成る。

そこで。従ってその為には、態々、「御用商人」では無くて、この安定社会に成った「江戸初期」では、「傭兵」はそもそも疑問であり、その時期から名目上は先ずは「黒田藩の傭兵と云う立場」で「交易水運業」は行われていた事に成る。
ところがこの「傭兵とした処に意味」があって、「1年交代の長崎奉行」に対して「傭兵を名目」に“黒田藩だ”と強調させる意味が「大口青木氏・日向青木氏」にはあったのではと考えている。
従って、「この時期の傭兵」は、要するに「准家臣扱いである事」に成る事から、この「長崎奉行支配」が「日向青木氏」に及ばない処に「伊勢と大口」は「政治的に置いたという事」では無いかと観ている。

更に、筑前中津藩時の25年前程前に「秀吉」から与えられていた「五七の桐紋の使用」を黒田藩に、そして更に「黒田藩」からこの「自由通商の証明木札・監察券」を名目としてたのではないか。
「大口青木氏・日向青木氏」はこの「黒田藩」に対しては、この「自由通商の証明木札・監察券の見返り」として「冥加金名目」で,、且つ、「交易の利の以外」に「使役金」を支払っていただろうと考えられる。
だから、この関係が長く正式に「明治初期・9年」まで続いたと事に成る。
「伊勢商記録」や「祐筆記録」や「遺産資料」でも、その「前後の事」はどの様な差配で使っていたかは判らないが、「西海路と東海路」には「時代性と場所性がある事」から何かその差を着けたか、何れにしろ「伊勢と摂津」が「商いの元差配・政治的差配」をしていた事は間違いは無いので、両者の何れにしろ「リスク差」はあるが、筆者はこの史実は「その差は無かった事」を意味していると観ている。
その「水運交易の利」に対して大きくなく「満遍ない物資の供給の商いをしていた事」が「最大の利」と成っていたのであろう。

上記の様に、最早、「伊勢」とは一体であって「青木氏族」であって「廻氏」ではないとして「一族の関係性を持っていた」ので「大口青木氏・日向青木氏」であるのだ。
この間には「伊勢との女系血縁を結んでいた事」には「血縁の記録」が「3度の失火」で消えているのが間違いは無いだろう。
これには「大口青木氏・日向青木氏」であった以上は「四掟の伝統の適用」は最早無かった事に成る。

そこでこの時系列の経緯から話を再び「大口青木氏発祥の原点」に戻して。
この事に就いて歴史的に遺した「二つの意味」が含まれていて、その一つは、“伊勢に呼び寄せたとする意味”を持っている事、つまり、「呼び寄せる程」で無ければ「丸に笹竜胆紋を使う事」を許さなかったであろうし、「女(むすめ)」を嫁して「氏人の伊勢郷士衆50衆」と同様に「血縁一族扱い」までして可愛がった事に成り、且つ「商い」まで教えて「船」を与えて重視していた事に成る。
二つは“「廻氏」に拘らずに「青木氏家人扱いにした事」”を以て、「廻氏再興」を忘れ去らせ、その為にこの「丸付き紋笹竜胆紋の説・青木氏の系列化」にしたのが「証」となろう。
この二つの「隠された意味」として物語るのは、“「戦い・再興」から「商い・発展」への転換”の此処にあったと筆者は評価し観ているのだ。
その為に「四掟」に反して「笹竜胆紋の丸付き紋」に与えたのだ。
当然に、況してや「宗綱の源氏」も同然にあり、確かに「40年間は源氏の時代・」1221年滅亡」と成ったが、「伊勢」は長年培ってきた「商人の先を見通す眼力」からその様に観ていなかったのだ。
それを「言葉」では無く、「行動」に移したのだ。
それが「伊勢で育てる事」であって、「大口青木氏にする事」であり、その「シンボル」を「伝統と四掟」に反してでも「丸付きの笹竜胆紋にする事・青木氏家人扱い」であり、これに目を引きつけて「廻氏の家臣5人」を納得させたのだ。
そして、「その為の条件を整えてやる事」であったろう。

だから上記した様に、普通はこの時代では消えて行くのが「運命・宿命」なのに、“「その後の発展」が「後に戻る事」も無く、上記した様に目覚ましいもの”と成ったのだ。
この「宗綱の血筋を引く若い廻氏裔系」を、“「伊勢」に一時的に成人に成るまで引き取った事”と「女(むすめ)」を嫁がせた事が「大きな流れ」として考えられるが、最早、「源氏云々の宗綱」も無いだろうし、恐らくは「廻氏」も無いだろうし、あるのは「伊勢」では無く「故郷・大口」で発展した“「大口青木氏・日向青木氏」”であっただろう。

前段でも論じた様に、この時、前段でも論じたが、実は「伊勢と信濃」でも同じ事が起こっていたのだ。
恐らくは、だから「5年から7年程度の訓練期間中」には、「伊勢青木氏の京綱・少年・17歳程度」と「廻氏の裔系の少年・15歳程度」が、「同年代の少年」として確実に同じ「伊勢で顔を合わせている筈」である。
当初は、この充分に考えられる事として、上記と前段の「伊勢の青木京綱」が「廻の裔系の少年」であるかも知れないとして研究をしたが、とうも違う様で「近江佐々木氏の青木氏研究資料」や「祐筆資料」や「嘆願書」や「他資料」にも完全に違う者として史実があるので研究調査を断念した経緯があった。
「伊勢青木氏の資料」にも「後刻・相当前・平安末期頃」の「先祖が描いた書」を「掛け軸・江戸期」にして「漢書」で遺しているし、「口伝・家人でも伝わっていた事」が判ったので違う事が明確と成った。

他にも「小さい疑問」があって解決して置く。

先ずは上記の「大口青木氏と日向青木氏の経緯」の背景には、次の様な事が「伊勢青木氏と信濃青木氏と伊豆青木氏」にあって、夫々の「郷土に遺る口伝」では「幾つかの説・口伝」が生まれているのだ。
従って、これを知る事でその「次の疑問の経緯」がどの様な意味を持っているかが判るし、理解が深まりその「小さな疑問」も解けるだろう。
この「助命嘆願の異例時」の「直前の出来事」である以上は、「京綱の話だけの問題」だけでは済まなかった筈で、その「経緯と目的」から、「乗りかかった船」として現地調査等をして研究に本気で取り掛かって見た。
その結果では、そもそも「薩摩国」には、「押領使や弁財使」を兼ねた「四等官・守と介と掾と目との四役目」を一度に熟す「国司並官僚族用の菩提寺・2寺・現地の治安等も熟す」が「薩摩」にはあって、これには彼等の「古代浄土寺がたった2寺しかない事」は「伊勢側」は既に知っていた筈である。
全ては薩摩は「東西の浄土真宗寺」であるのだ。
その中で「古代浄土寺住職・浄土寺の浄光寺」の「用意周到の救出発言」までを事前に伝えられていた様子とすると,これは計画的であって「一時の出来事では無い事」が判る。
この事で他の発想・仮説も出て来るのだ。
だから「寺名」も「浄光寺・伊勢信濃は清光寺」で類似するのだ。
この「薩摩の寺の事」は、天皇から秘密裏に処置命令を受ける「令外官・前段・賜姓五役」として「ある範囲の官吏を差配する国造の差配役」に任じられていたのだから「一切の経緯の情報」を事前にも知り得ていた事に成るのだ。
故に、何かがある為に解き明かして置くべき「伊勢青木氏の関わり」は、絶対に見流す事は出来ないのだ。
そこで、では何故かである。

先ず、伊勢と関わりの深い「信濃の国友の経緯」は、「1159年頃」に「配流の宗綱の祖父」の「頼政の伊豆知行地」と成っていた。
この「丹波の母の妾子の国友」は、「21年後・21歳」に、一度、この「信濃・養継嗣」に入り、上記した「源満快の裔系が土着している場所」の「北信濃」に移されて定住しているのである。
その後に前段の論の通り「頼政領地の伊豆」に「乱の直前・1180年頃」に移動して定住している史実である。
此処に「伊勢青木氏と信濃青木氏」が「頼政」に頼まれて一族の一部を移住させていて此処で二つの完全な融合族を形成した。
そこで「一部の兵と商い」を以てこの「頼政の伊豆」を護った記されていて、其処にこの「国友を護る形」で入ったと成るが、「其処からの行動」は未だ若いのに消えているのだ。
これが疑問を招いているのだが、そして現地に「仮説らしき口伝」が生まれているのだ。
これには他に「二つ程の説」が語り継がれていたらしく、先ず検証するに値するし信頼できるこの説は「国友伊豆説」である。

そこでこの説を検証すると、直接的に決果として、「源満快から6代目」の「頼政の孫」の「助命嘆願の仲介」として動けるのはこの人物だけであろう。
故に場合に依っては「この絆」を使って「嘆願書」を出して受け入れられたとする「国友説」も成り立つ。
この「国友説」に従えば、更にこの「経緯」で「商い」に伴い「伊豆」から船で経由地として「伊勢・訓練」に一度入り、その後に「大口に入ったとする説」であるが、「宗綱」とは伊勢に入った「京綱・妾子四男」とは共に何れも「摂津源氏四家の妾子・国友である事」なのでこの「国友説」は考えられない事は無い。
[伊豆から消えた人物」として全く資料は無いので何とも言えないが、それ故に「国友説の仮説・現地口伝」が生まれる。
「伊豆」から忽然と行動が消えたのは、この「大口青木氏・日向青木氏に入った事」で消えて「宗綱の裔廻氏との裔」と成ったのでは無いかという疑問を産んでいるのだ。
「宗綱の裔系」としてすれば同じ「清和源氏の摂津源氏・頼政・仲綱の裔系」であるので、全ての「伊勢青木氏を名乗るなどのストーリーの筋」が年齢の検証は5歳程度違えど通り得るだろう。
但し、筆者は飽く迄も上記した様に「伊勢の祐筆資料」からの「伊勢伊賀説」を採っている。

つまり、「維衡の妻の源満快娘1・老女説」を通じて「清盛」に出して叶えられ「日向配流・廻村」で先ず住んだとする「青木氏の詳細な言伝記録」があるので、「上記の国友説」は除外しているのだ。
上記した様に現実に其の後に本論の再び「日向」で「挙兵・史実」し、敗退し「薩摩大口村の浄土宗寺・鹿児島県伊佐市大口小木原」に匿われ、其処の「住職の機転・?」で「伊勢青木氏の裔系」として名乗る様に諭され難を逃れたと成っている。
上記の「国友説」は、ここに「国友が入ったとする説・摂津源氏説と成る」である。
これが先ず「伊勢青木氏との血縁」で「伊勢伊賀説」とすればある程度は繋がるが確定は出来ない。

後に「日向青木氏の発祥・黒田藩傭兵」とする「伊勢側の詳細な資料」がある。
この「日向青木氏・大口青木氏」は「山手に住んだ青木氏」を「上青木・薩摩の山族」、「海手に住んだ青木氏」を「下青木・日向灘の海族」と呼称されていたとし、現在もその「裔系」は南九州で大拡大している。
「廻氏との裔系・摂津源氏の国友とすると疑われるので」であると記されていて「通説・伊勢伊賀説」」とは異なるがある程度は史実に近いともと考えられる。
「国友説」にしても「廻氏裔系」にしても平家の目を避ける為にも「源氏」は元より「摂津源氏」は絶対に名乗れなかった筈で、それは鎌倉期に成っても同然な状況であった。
これは「清盛の伊勢平氏」とはこの様な関係に在った証拠でもあるのだ。

故に、「伊勢伊賀説」では、「平清盛」は「桓武平氏」と呼ばれ「桓武派」であって、「伊勢と信濃の青木氏」とは同派であり、前段でも詳細に論じた通り、その結果で平安末期まで潰されずに生き遺る事が出来ているのだし、取り分け「源氏化に反対した立場の経緯」でもあるのだ。
それ故に「伊勢伊賀説」では、それ以後も安全であったのだから納得できる。
「伊豆にある国友説」もこの「伊勢伊賀説」に沿わしたものの筈である。
従って、鎌倉期に於いても主体は「河内源氏」であったので、同じ源氏ありながらも敵視していた所以で「摂津源氏を名乗る事」は危険であった筈である。
何れにせよ「伊勢系を名乗る事の所以」を以て「中立と安全」は保たれ、その証拠に「伊勢と信濃」は「伊勢の本領安堵・鎌倉期」を逸早く史実として獲得しているのだ。
同然に故に鎌倉期には、いの一番にその「伊賀」に「地頭・足利氏の5年間」が入った事もその証拠である。

結局、若干時代を遡れば、「清盛の初期の時代」には、未だこの時も「伊勢」と「近江、美濃、信濃・甲斐は別」を加えた「賜姓青木氏族」と、「嵯峨天皇系と坂上氏の組み合わせ」との「激しい対立関係の継続の結果」で「二つの派」が継続して出来上がりつつあったのである。
その「810年頃の段階」では、未だ「能登と名張の「女(むすめ)」が嫁した「近江・市原王」や、「浄橋と飽浪が嫁した美濃・三野王」との関係は維持できていたのだ。
この「薬子の変・平城天皇との政争事件」の「直後の814年・4年」に「17皇子の源氏、15皇女の源氏」として、「詔と禁令と掟・弘仁五年」」を発して「朝廷の経済的な逼迫」を理由」に「財政削減の理由付け」で、“「全て皇位」を外すから、「一般の官吏等」として働き生きて行け・自由にせよ”と「嵯峨天皇派」は財政難から突き放した。
然し、その前にこの時、「嵯峨天皇」は同時に「青木氏」に対しても「賜姓族と皇親族」を外して来たのだ。
これは、この事件に依って「青木氏族」が、同時にやり返し、“「嵯峨朝廷に対する貢納・献納を中止した事」”に依り「朝廷の経済的な逼迫」に更に拍車がかかり追い遣られていたのだ。
それが後に「常習的な朝廷の経済的圧迫」と成って出たとして、これ等の各地に散っている「官僚族」からも大きな非難が噴出していたと記録されている。
この各地に散っている「四等官吏族等」も従って自ら糧を得る為に預かった「治安用の軍事力」を使って土豪・豪族化して略奪を行ったのだ。
それでも「嵯峨天皇派ら」は強引に実行したのだが、その「反発と圧力」に屈し結局は最後は「中和策」に出て兄の「平城上皇と仲直りをする羽目」と成った。
然し、「出自元の青木氏」とは「皇族である証拠」を示すものがあればそれを示して「青木氏を名乗っても良い」とする「妥協案」をだして「兄・平城上皇」を納得させたのだ。
この時、「賜姓五役」としてこれ等の「官吏等を統率する令外官の役目・国造差配等」を命じられていた。
これが「嵯峨天皇の平安期に発祥した青木氏」である。
結局は、「賜姓青木氏の掟以外」のところで名乗る事が出来るシステムが出来あがったのだ。

「大口青木氏・日向青木氏」はこの「嵯峨期の青木氏」では無く、「伊勢と信濃青木氏」の「伝統下での家人青木氏」として発祥させたのだがイメージとしては「賜姓系の青木氏」である。
これには前段で論じた通り「時光系青木氏や島左大臣系青木氏や橘氏系青木氏や丹治氏系青木氏等」があるが、この大影響下を受けて、「賜姓源氏」にしても結局は、「32の源氏」も生まれたが、最終は結局の処は例えば「嵯峨源氏」は「10年後」には「官吏に就けた4源氏」しか残らず、更に「20年後程度には2源氏」に、「30年後の三世族」では生きて行けず全て「経済的理由」から絶えて“「皆無」”と成ったと記されているのだ。
更に最終は「清和源氏」も含めて「正統な源氏とする賜姓族」は「対抗した青木氏の朝廷への貢納献納の停止」では、この「賜姓源氏族・勝手に名乗った賜姓源氏の方が多い」は「1221年」には影も形も無く成ったのだ。
丁度、これはこの「大口青木氏・日向青木氏の件の35年前の出来事」であった。
何れにしても「源氏を名乗る事への危険性・それだけ厳しい環境下・平家と経済」ではあったのだ。
「伊豆にある国友説」もこの「伊勢伊賀説」にしても、つまりは是が非でも「安全な策」を未来に対しても執るには「禁じ手の伊勢の名を使う必然性」に迫られていたのだ。

当然にそうなれば「嵯峨天皇派等の勢力」は、「賜姓族と皇親族」を外せば「資格を示す令外官の院号を持つ伊勢側の商い」も止めて来る筈であったが、「資料と記録の行」から調べて観ると、「令外官としての朝廷との商い」は「継続関係・停止の表現行は無い」に未だあって、「四等官以上の官僚族等」はこれを“「内々の争い」”として扱い「天皇の云う事」を聞かなかった事に成り「資料・記録」もその様に記されている。
それ程に「商いを外す事」が出来ない程に、他に「賜姓族の令外官」としての「信頼できる代わり得る者」が居なかった事に成り、且つ、始まったばかりの「部経済下」で「天皇家・内蔵」を支える「殖産業を含む大商い・賜姓族形式的には「院号を持つ御用商人」をしていた事に成り、ここが「判断の見どころ」であったろう。
「809年位」から「院政842年没」までの「33年間」で、「源氏の基源と成る族」は一応は消えた事に成るのだが、これを盛り返し「河内源氏」が「武器を持つ事・禁令を破る事」で「略奪で遺った事」に成り、反対にこれをしなかった「官僚としての摂津源氏一族」は朝廷内の立場として衰退していた。
内々では「正三位」という「朝臣族」では普通は成り得ない「最高の冠位と領地・富裕」を得ていながらも「乱を興す結果」に追い込まれていたのだ。
然し、「朝廷の底入れ」で何とか生き残った「摂津源氏・正三位頼政」にも「伊豆・国友説の起源」に初めて「朝臣族」でありながらも「略奪」では無い「冠位の正三位に成る事で正式な領地」を与えられながら,それにも関わらず「頼政の乱」が興って仕舞ったのだ。
故に、「天皇や平氏」のみならず「朝廷」をも敵に廻した結果と成ったのだが、「地方の四等官の官僚族・国司階級」までも「信頼・支持」を失っていたのだ。
故に、この「伊豆の国友説の場合」も「伊勢伊賀説の場合」も、そもそも「周囲の信頼」を事石く失い、そもそも「名乗る諡号の姓」さえ無かったのだし、密かに先ずは「廻氏の裔系」として呼称させ、且つ、その後に「伊勢に肩を寄せる事・家人青木氏を名乗る事」の以外には、そもそも「上記する平安期の古くからの歴史的経緯」すらでも「摂津源氏系・名乗り」には「生きる策・道」は最早無かったのだ。
況してや室町期とは違い平安期末期に乱を興しての事である。

然し、「資料の行」から観て、この発生した「嵯峨期までの三十数名以上と妾や女官や宮人等」を「伊勢と信濃」は引き取ったとされるが、然し、女系とした以上は「皇子」は「施基皇子」の時より一切引き取らなかったとされる記録がある。
前段でも詳細に論じた様に、この「三十数名以上と妾や女官や宮人等」を「多気郡の斎王館と清光寺分寺と神明社等」に匿ったとしている。
これが「伊勢と信濃の青木氏の立ち位置」に「大きな影響」として働いて来たのだ。
中には、その「出自格式差」を基に身分を「12階級の女官扱い」として、その後の身分を確定させた事が記されている。
但し、「伊勢の嫁家制度」の「女(むすめ)」に組み込んだかは記録が無いので定かではないが組み込んだであろう。
但し、実質、「皇子族」は「近江と美濃」に流れたと考えられ、「佐々木氏の研究資料」にもこの事が記されているが「経済的な理由」から「近江」は少なく「美濃」が殆どであろう。
それ故に「美濃の格式」は「伊勢・施基皇子の裔系以上」と肩を張る様にして伸し上がった理由に成ったのだ。
これが所謂、「源氏化への原因」と成ったのだが、これに反して「伊勢と信濃」はこの「源氏化」に一切走らなかった一つの要因と成っていた。
反して「伊勢と信濃の青木氏」には「女系族としての掟」があり「皇子族」は徹底して阻害し続けたのだ。
これが元で「裔系の格式」に「美濃」には「伊勢と信濃」との「格式差の短縮・伊勢桑名から浄橋と飽波が嫁して中和策を執ったが上手く行かなかった・地名一色の発祥原因」が起こり、この「青木氏族の関係」の「近江と美濃の関係」も、それ故に「源氏化」が進んだ事」で「清和期」から極度に悪化して行ったのだ。
「伊豆の国友説の場合」も「伊勢伊賀説の場合」もこの「中・源氏化」にあって難しい経緯にあったのだ。

その後の「天皇家」に「対抗した青木氏の朝廷への献納貢納停止の影響」は、「近江と美濃の関係の悪化」へと繋がって行くのだが、然し、「嵯峨期の跡目」を継いだ「子供の仁明天皇・施基皇子からは玄孫」は、「出自元の里との関係修復」に必死に働き、「対抗した青木氏の朝廷への貢納停止」を中止させるまで持ち込み、その代わりに「嵯峨期の処置の令の一切の中止・廃止はできない」とし、再び「天皇家への献納」として限定した事が判っている。
各地の「源氏化と武力化」と「四等官までの官吏の汚職」で、「天領地や蔵人攻撃等」が各地で盛んに起こり奪われ「各地からの貢納・弁財使の反抗」も低下して、「武力の持たない天皇家・内蔵」のみならず「朝廷・大蔵」も貧したのだ。
それだけに「青木氏からの供納献納・朝廷の財」には大きな意味を持ちその多くを占めていたのだ。
やっと「仁明期」に依って「事件の解決」を観たのだが、これには「直前の一時的に興った源氏化事件」が伴っていて、この事から生き遺った「青木氏の伊勢と信濃」は前段でも論じたが「各種の院号・専売権」を得て「殖産業」を邁進させ、「大口青木氏・日向青木氏の経緯」として発展して行くのであって、その「大きな起爆剤」と成っていたので「歴史的経緯」が「大きな背景としての意味」を持っていたのだ。
この時期までは、この様に「伊勢青木氏も苦しい時期と経緯であった事」には間違いはなかったのだ。
「伊勢伊賀説」も「伊豆に語り継がれた伊豆国友説」もその「名乗りの裔系の時系列の経緯」は、歴史的に微妙であった事が判る。
結果として、上記した様に何れの説も「伊勢の裔系としての策・それしか無かった」を講じた事が判るのだ。
それも「古来からの経緯」を引き継ぐ「伊勢青木氏の格式を持ち出す事」では無く「商いの前提」に重点を置いた経緯であったのだ。

更に「大きな背景としての流れの意味」を続けると、そう成ると、「青木家の四家と福家」と「白壁の間」には経緯から基礎的には「青木氏の内部」では「亀裂が発生していた事」に成っていたのだ。
「父親の白壁・光仁天皇」に対して、「子の山部王・桓武天皇」は「実家元の意見」に賛成していた構図と成る。
「桓武天皇の子の平城天皇・当時」も「父親に賛成・反対派」していたが、その後の同じ「子の嵯峨天皇」が「賛成派」であった。
それを「光仁天皇」から観れば「孫の嵯峨天皇」が賛成して「光仁天皇の意思」を継いで「格式化・新撰姓氏禄・振動と仏道の習合策」を世に出した事に成る。
この「二人の賛成派の狙う処」は、“全く同じであったかは議論の分かれる処”である。
「桓武平氏・伊勢平氏」も「反対派の桓武派」であって「50年程度」に渡って「骨肉の争い」は起こっていた。
分ければ「伊豆の国友説の場合・賛成派」も「伊勢伊賀説の場合・反対派」の位置づけにいた事と成る。

つまり、ここが“「疑問aの答え」”に繋がる処だと観ているのだ。
この事に注目する事は、「青木氏一族」の中でも「賛成反対の争い」が継続して起こっていた事に成るのだが、「伊勢と信濃の青木氏」は「反対の態度」を明確に執っていたのだ。
簡単に云うと「桓武派」は、「伊賀」は「母親・祖母の里」であり、それは「青木氏」に執つても、「伊賀青木氏の里」にも成るし、そもそも「庶人化し商いの格式化の中にある事」ではそもそもその必要性はないし、「源氏化を進めた嵯峨派・賛成派」は「賜姓・皇親族を外した派」でもあるのだ。
「桓武天皇派・反対」の「反対派の主張と危機感」は、「格式が無くなる事」や、「皇親族では無くなる事・商いの前提の院号の喪失」では判るが、然し、そもそも「父親の光仁天皇・賛成」や「孫の嵯峨天皇派・賛成の主張」は記録の上ではその差は一見してはっきりとは判らない。
「伊勢と信濃」では“「皇親族で無くなる事」”は、“「自らの足元を失う事”の危険性」では同じであり、“失なわないと云う保証”はそもそも何処にも無い。
現実に「献納」や「商いの承認」も最終は復するが形式上は既に一時的には失っていた。

そもそも、追記するが「嵯峨天皇」が「青木氏を皇親族から外した事」には次の手順が必要であって、さうしなければ「朝廷の制度」に依って簡単に外せない。
その要素は、「禁令813年>皇親族>源氏詔勅814年>令外官>院号の順」で「手続上」としては外して行かなければ矛盾が生まれて出来ないのだ。
「令外官」は,表向きは「皇親族で外している事」には成るが、明確に外すとした訳では無いのでこれは正式ではないとする。
「令外官・賜姓五役の一つ」そのものが、何れの「族・従四位以上」であっても多くは「天皇の内示」で「秘密裏に行われる体質」のものである事から外れていない事に成るし、そもそも「賜姓五役」を外さなくてはならない理由はない。
原則は、「天皇家」では「前天皇の施政策は否定してはならないとする絶対掟」があり、これを断行するとすれば「別の何らかの他の名目大儀」を着ける必要があるのだ。
後はその「内示」が有るか無いかであり、無ければそれまでであり、現実には何処にもそんな記録は無い。。
依って、歴史的に無いのであり、又「何らかの他の名目大儀」も無いので、正式には「賜姓五役は遺る事・令外官」に成るのだ。
だから「永代・明治9年まで」とされているのだが、この「権威を示す院号・許可書の様な資格」は、「天智天皇と天武天皇と桓武天皇と平城天皇」の「前四代の天皇が継続して与えた号」である限りは、「外すとした命令」を出さないと外れない。
何れも出されていないし、そんな「強引な詔勅」は「先代の天皇を否定する事」に成り、それは自らの立ち位置をも否定する結果と成るからで現実には出せないであろう。
一時的に「嵯峨天皇」が「青木氏の賜姓を中止した事」があったが、これも「周囲の圧力・四等官以上の官吏等以上」で「中和策」を執り別の形で最終は復している.

これを観ると、「青木氏の慣習仕来りの禁令」と「源氏詔勅を出す事」で、「皇親族を実質外した事」に形上は成るのだが、然し、「賜姓」は「源氏に変更して外した事」には実質は成る。
然し、最後は「中和策」で「真人族」を証明とその証拠を示せれば「青木氏」でも「源氏」でも名乗っても良いとしたが、「賜姓五役」だけは「永代」と名目されているので外せていない事に成るのだ。
後に960年頃に「円融天皇」がこれを覆し「藤原北家秀郷流宗家の三男族」に「青木氏の賜姓をした事」で永代に「青木氏の賜姓」は復活した事にも成る。
その意味で「青木氏の賜姓」は生き帰った事に成るのだ。
更に「1180年代」では、「伊豆にある国友説」もこの「伊勢伊賀説」の「諡号の姓名の名乗り」は、論理的に形式的には「伊勢の諡号姓の青木氏の発祥」は「正式な事に扱われる事」に成り得るのだ。

但し、これ等の論理は「院号を持つ商い」をしていないと云う前提であり、「925年頃」に「商いを主業」とする「氏族に変えた事」で、世間の目は別として「伊勢と信濃の青木氏の中」ではそれらは既に格式意味の無いものとして扱われていたのだ。
然し、ところがこの「二つの社会との乖離」で「世間」では依然として「鎌倉期から室町期」にはそれでも「律宗族として扱い・賜姓族から律宗族」に替わって行ったのだ。
「伊勢と信濃の意識」と「世間の意識」とは「大きく乖離していた時代」であった事に成る。
それは「各種の院号を持つ事」で「正当な商い・二足の草鞋策」と成った事であったと考えられる。
この時の「大口青木氏・日向青木氏」の件を、要するに時系列で観れば、その直前で興った事に成るが、その後の「鎌倉期から室町期・400年程度の間」には「世間の律宗族の位置づけ」で「大口青木氏・日向青木氏」の「立ち位置」にしても「商い」にしても都合が良かった事に成る。
それを示す「紛失している嵯峨期の新撰姓氏禄・木々の点も多いが凡そ復元か」でも「敏達天皇・春日皇子族四世族」としての「真人族」に分類記載されているので外してはいない事にも成る。
その意味で、その「主な理由」は「桓武派であった事」もあるが、故に「別の理由」では「伊勢青木氏を名乗る事」では、その意味で「格式上の上位」にあって流石の「日向平氏も手が出せなかった事」もあり得たと考えられるのだ。
故に、「大口青木氏・日向青木氏」のこの「家人の姓名」は、この意味で「賜姓青木氏の制度」の中では「家人青木氏」とは成るが、「嵯峨期で定めた制度」の中でも「正統な姓」として見る事が出来る。

この論には「二つの矛盾・疑問」している処がある。
それが下記の二つ目の「疑問b」である。
つまり、「嵯峨天皇の行為」は、「青木氏側」から観れば“「自らの足元」を失っても「格式順位を定めた新撰姓氏禄」なのか”と云う事だ。
幾ら何でもそんな馬鹿な話は無いだろう。
そもそも、「上記の経緯」では思い掛けなく「出自元」に「白羽の矢」が当たり「皇族」に成ったのだ。
これは何しろ「170年後に引き戻された事」に成り、兎も角も「院号を持つ商い」もしているし、この「二つの事」は「朝廷の掟」からあり得ない「白羽の矢であった事」に成る。
そもそもそういう事・皇族の煩わしい扱い」を避ける為に男系継承を避け「女系制度」にしていたのにである。
故に確実に「世間の目」からは、「新撰姓氏禄」のこれに“「疑問b」”を持たれ「足元」は間違いなく揺らいでいた「天皇家」であった事は間違いなく、前段でも論じた様にこれは記録からも確かであるし、「編集作業をしていた四等官以上の官吏等」にも三回とも大疑問を持たれたのだし、編集を放棄されていたものだ。
世間でも反対が多く、疑問も多く、何しろ「周囲の環境」は「正当な天皇の出自と格式」を疑われていたのだ。
それ故に「編集一度目の挑戦」は失敗したし、更に「編集二度目の挑戦」をした「光仁天皇期の新撰姓氏禄」に依っても、上記した様に「神道仏道の概念の矛盾の解決の事や賜姓を換える事」もあって「白羽の矢」として成立させて仕舞った以上は、上記の経緯での「足元の緩い天皇」に成っていた事は間違いはない。
且つ、「正当な直系尊属・170年経過では最早卑属系」では最早無く成っていた以上は、この「自らの足元を失う事の危険性」を帯びていたし、現実帯びたのだ。
然しながらも、これを少しでも無くす目的でも、事と次第に依っては「神道仏道の格式化を施す事や青木氏の賜姓から源氏の賜姓に換える事」で、“副産物”として「揺らいでいた天皇の地位の格式化も図られる事」は充分にあり得たのだ。
この可能性は重要であって、要するに「揺らいだ天皇の格式」に成った以上は、“「三度目の賭け」”として遺された道として「神道仏道の格式化策」で「天皇の地位を安定させようとした事」に賭けた事には間違いは無いのだ。

それには「新撰姓氏禄の18氏・真人族」の中に、この「神道仏道の格式化策」などの“何某かの説明要素が組み込まれていれば、“「天皇としての格式」”は保てるし、且つ、“「自らの足元の揺らぎも無くなる事」”にも成る。
それが「世間の反対の目」は逸らす事が出来るとした事に成るだろう。
それを探し出せば「父親の光仁天皇・賛成」や「孫の嵯峨天皇派・賛成」の「賛成の主張内容」は解決して矛盾している「疑問b」は解決するのである。
答えは、“あった”である。

さて、その前に余談であるが、「足元の緩い事」に就ては「資料」によると、三度目共に“編者に身の危険が迫る程の反対”を周囲から受けていたらしい事が判っている。
然し、この時、“反対”をしている世の中に対しても、“「折衷案」”を示して、この為に“「青木氏を賜姓する事」を中止し”、“「格式化」の「最高位・皇親族」から外した”とする説が当時には有力であった。
そこで、これを同じ賛成派の「父・光仁天皇」では無く「孫・嵯峨天皇」が強引に遣って仕舞ったのだ。
筆者もこの「失政説」を採っている。
故に「天皇としての地位の揺らぎ」は、恐らくは「白羽の矢の光仁天皇」より「孫・嵯峨天皇」の方がより大きく成っていたのであろう。
この記録に記されている様子の史実の「父・光仁天皇」<「孫・嵯峨天皇」=「地位の揺らぎ」の関係式は、“何故起こったか”は、「嵯峨天皇の施政」を潰さに検証しても「揺らぎ」を「顕著に興させる事は無い。
当然にこの失政の様を記録として遺す事は皇室の中ではあり得ないが、「伊勢青木氏側等」にはそれなりの疑われる記録は散見できる。
然し、唯一点、政策の為には構わず「出自先を否定した事」は、公然とした史実として“世間が許さなかったのではないか。”と考えられる。
何時の世も「大儀の理屈」では無く「世情の仁義」に「判断の重点」を置くが常道であろう。
これは“大事を成す時、上に立つ者の辛い処”である。
上記で論じた「九重戒相伝・通称嵯峨9つの縛り」として「嵯峨天皇」は、故にこの「縛り」をしっかりとした皇族の品位の者としてする為に「賜姓源氏」に義務として付け加えたが、その後の「11代の賜姓源氏」にはこれを一切守られなかった事を捉えても判る。
要するにこれは「世情の仁義を失っていた事」なのだ。
この「余談」が「伊勢青木氏の家人」として「大口青木氏・日向青木氏」とした「諡号の姓名の判断」の理解の要素には成り得るだろうし、「家人青木氏」で無くても成り立つ由縁でもあろうと考えられる。

ここで従って、“鎌倉期直前まで「格式化の律宗族氏」では一時無くなる”のだが、然し、「鎌倉期」では「伊勢と信濃が本領安堵された事」は「格式化の前提と成る律宗族」に「青木氏は戻った事」を意味するだろう。
それは「律宗族=本領安堵の証明の前提」であるからだ。
この「事・賜姓では無く律宗族で」、これは要するに先ずは、「世の中」を納得させようとしたのであろう。
それでも平安期中期から末期までは遂には“「収まり」”が着かず「光仁天皇の子の桓武天皇と平城天皇」の派との「一族内の政治争い・薬子の変等」の政争事件までが遂に始まつて仕舞ったのだ。
然し、時系列を追えば経緯としては、「律宗族=本領安堵の証拠の前提」で鎌倉期ではこの「政治的な扱い」として治まったと云う事に成ったのだ。
結局、「嵯峨天皇」は「収拾策・中和策・仲介策」として「弘仁五年の詔勅と禁令」を出して、「禁令」としては、この“「青木氏の慣習仕来り掟」の一切の使用を禁じる”とする事で先ず「格式化」を施した。
これで「表向き」は「賜姓も認めた事・真人族を物語る伝統品の朝廷への提示」を意味するだろうとした。
その上で、更に「青木氏」を「皇位族の者の臣下先」として指定しこれを補おうとした事に成る。
これを「証明する物の提示」を朝廷に提示してその前提として容認すると云う形にするとしたのだ。
再び、「青木氏」がこれを採用するかは別としても、これで「格式化の親族」として復帰させた形を整えた事に成ったのだ。
現実は、「青木氏に移る皇位族」と「賜姓の無い源氏を名乗る事」に走ったのだ。
「120年後の朝廷」は、この問題を持った「賜姓族」ではなく「律宗族」で政治的には整えたとしたのだ。
その代わりに「円融天皇の藤原秀郷流・青木伊勢青木氏と信濃の母方:系」を「賜姓の青木氏」として正式に永代にして興させて「嵯峨期の失政」を正式に復帰・修復させ正した事に成ったのだ。
これは、つまり「出自元の問題」は上記した様に「仁明天皇」が修復したが、その後にも[朝廷の中」では「嵯峨天皇の失政」を燻る様に気にしていた事に成るだろう。
この「時系列の経緯の意味」でも「大口青木氏・日向青木氏」の「家人の諡号の姓名」は、「伊勢」が「家人として関わった事」で正当に成ったと云える。

それが「古い言い伝え」に依れば、「当初の嵯峨期の新撰姓氏禄の原本」には、“春原朝臣天智天皇皇子浄広壱河島王之後裔也”と記されていたとされるが、この 「川島皇子・河島皇子」と共に、遺された「青木氏の資料」の行から判断しても「光仁天皇期の新撰姓氏禄・仮称」では、文意を要約すると“「敏達天皇之系にして同祖同門同族同宗の四掟裔也、 故以四世族天智天皇皇子浄大壱位施基皇子後裔也」”と記されていたとされるのだ。
それらの事を「書にした長尺物」を室町期頃に「巻軸」にしその一部を江戸期頃に「古額」にして伊勢に遺こしている。
従って、この事から「川島皇子」と同じ「天智天皇の皇子の第七位施基皇子」は同然にこの「嵯峨期の新撰姓氏禄」に記されていた事に成るのだが、これが「光仁天皇」と共に「追尊春日宮天皇・施基皇子」に成り、この事に依ってその「後裔族の賜姓伊勢青木氏・律宗族」はこの「嵯峨期の新撰姓氏禄」から先ず抹消され、書き換え修正してされていた事に成る。
この「修正策」の実行は「朝廷内での事」では無いかと推論している
「追尊春日宮天皇・施基皇子」とすれば「賜姓を外す外さないの議論」は霧消に成るが、「嵯峨天皇」は上記の通り「賜姓を外そうとした事」は、本来は出来ない事に成るので「周囲の四等官以上の官僚族」から強い反対意見が三度も共に噴出したのだ。
そこで「三度目の嵯峨期」では「折衷案」として、その替わりに「春日王族」としての下記の通り記載があるのだ。

「嵯峨期の新撰姓氏禄」では次の三つが記載されているので検証する。
1 香山真人 敏達皇子春日王の後裔也
2 春日真人 敏達天皇皇子春日王之後裔也
3 高額真人 春日真人同祖 春日親王之尊属後裔也

1の「香山」とは、現在の三重県伊賀地方付近一帯
2の「春日」とは、奈良県大和高田市付近一帯
3の「高額」とは、同付近一帯

同じ族が三つも記載がある事はそもそも無く、「敏達天皇の春日」は「親王」、即ち、「第二皇子」である。
「王」とは、「大化改新・645年」より「真人族の内」のその「第四世族の位」を云う事に成った。
従って、この「2の表現」は当時期の「嵯峨期での記入」とすれば「歴史観」が無く正確では無くあり得ないのである。
3はその「2の後裔」とするならば、「皇子」としながらも「王としている事」は「歴史観」がそもそも食い違っている。
2は正しくは「敏達天皇皇子春日親王之後裔也」と成る筈である。
故に、この2と3は正しい知識の歴史観が無い事から後から筆を加えられた事に間違いは無い事に成る。

1は「敏達天皇」より「第四代目の天智天皇の裔系」と成り、「施基皇子」の「長男春日・天智天皇前の三世族」であり、「基準の敏達天皇」より数えると「施基皇子の裔系」は「六世族」であり「王位の基準外」である。
「天智天皇」は四世族、「施基皇子」が五世族、その裔系は六世族、追尊王は七世族である。
当時では、これを「覆いを外れた者」を「ひら族・平族・第六位を含む第七世族」と呼ばれて坂東等に配置されていたので天皇が第代わりする度にこの平族は増える事に成る制度と大化改新で敷いたのだ。
且つ、そこで「施基皇子」はそもそも既に臣下しているので、その「裔系」は既に「王位」ではなく成っているのだ。
「天智天皇第七位皇子賜姓臣下族」と成った「伊勢王」の「施基皇子の四男の白壁」が「孝謙天皇の白羽の矢」で、何と54歳で「聖武天皇の井上内親王」を娶らされ「光仁天皇」に無理やり押し上げられた事は完全な枠外であった。
この事で「光仁天皇の一族・伊勢青木氏」は、好まない「追尊王位」を授かる「仕儀」と成り、「9人の男子と7人の女子供等」の「第四世族」までが「王位を授かる前提」と成って仕舞ったのだ。
然し、その時、「施基皇子の長男の春日」が「春日王」と成り、「伊勢青木氏四家一族の長」として「施基皇子の裔系一族」を「嵯峨期の新撰氏禄」の中では背負う事に成ったのだ。
ところが「政争の世界」に取り込まれる事を恐れて「辞退者」や「逃隠者」も多く出たとある。
要するに「記の1」は当にこの「春日王の裔系・四家」である事に成る。
「施基皇子・716年」は、没後に「追尊春日宮天皇・770年」の名称を授かりと成り、その結果、「追尊春日宮天皇の裔系」であり、「光仁天皇の裔系」の「二つの事由」からの「施基皇子の一族四世族」までに逃れ得ない侭に「追尊王位を授けられる仕儀」と成って仕舞ったのだ。

そこで、「嵯峨期の新撰姓氏禄」では、急遽、「修正」を余儀なくされたのだ。
それまでは「光仁天皇期の新撰姓氏禄」を原稿としていたのが「嵯峨期の新撰姓氏禄の稿」では次の様に成っていた。
当初は、同じ「天智天皇皇子の第六位皇子」の「近江王の川島皇子」には、“春原朝臣天智天皇皇子浄広壱河島王之後裔也”と記されているのに対して、「施基皇子」には、“田原・志紀朝臣天智天皇皇子浄大壱位施基皇子之後裔也”と記されていたとされるからなのだ。

以上の経緯から「光仁天皇」と「追尊春日宮天皇」の「天皇追尊事由」で「嵯峨期の新撰姓氏禄」には、この「天皇家の記載・真人族まで」がそのものが困難と成り、その「伊勢の裔系」を「長兄春日の真人族」として「修正記載する事」に成ったとされるのだ。

世間ではこれを疑問視されていて反対されていた故に、これを以て「天皇系」を正当化して基に戻して、「足元の揺らぎ」を無くして、「格式化と正当化」で「根強い世間の反対」を押し切ろうとした事が判るのだ。

念の為に、この“「四掟」”は、そもそも中国の初期の「朝廷国の華の国」から始まった制度で、「中国の皇室伝播血縁掟」から由来するものであり、「大和朝廷」ではこれを取り入れて「二つの賜姓青木氏族・女系適用」だけに古くから適用し採用されたものだ。
この「中国の制度を取り入れた事」に依って「伊勢と信濃」がこれを「伝統」として採用した「四掟四家の制度」は、制度的には当に「賜姓族所以・律宗族」そのものを示す証拠と成るのだ。
これで「疑問b」を解決させたのだ。

ところがこの事から、「嵯峨天皇」としては、本来は「賜姓を外す事」は本来は出来なかったのであり、規則に拘る官僚族から強く反対を受けていた所以でもあるのだ。
そこで「嵯峨天皇」が、「賜姓をした源氏」に対しては「9つの縛り」を義務付けて、これに対応しようとしたが「11源氏」の全てはこれを護らなかったのだ。
この「四掟四家」さえも護らず、あまつさえ「義務とする9つの縛り」をも守らなかった「嵯峨期詔勅の賜姓」はこれでは「賜姓源氏」では無い事に成る。
その何とか生き残った「河内源氏」は禁じ手の「武器」をも以て「略奪の行為」に出て品位を失い糧を得たのだ。
これ等の歴史観は、「近江佐々木氏や伊勢信濃青木氏以外の伝統」と比較する事で判って来る事であってあまり知られていない事に成り、今度は官僚側に反対される事が無い為に「賜姓源氏の正統性が突っ走る事」に成って仕舞っているのだ。
但し、「清和源氏の三代目以降の摂津源氏・頼光の裔系」は「最低限の四家制度」を敷いて何とか「賜姓族の範囲」に留まったのだ。
然し、「伊勢と信濃青木氏」はこの「摂津源氏を四掟の範囲の族」と認めなかったのだ。
中には「、「笹竜胆紋の家紋や白旗派の白旗の旗印・古代浄土宗白旗派族のもの」も「清和源氏の河内源氏」ものとして思い込まれている間違った歴史観になっしまっているが、そんな与えたとする記録は何処にも無いのだ。
「源氏」は上記の事では、前段で何度も論じているが、そもそも「課せられた白旗派の浄土宗」では無く「八幡菩薩の神仏習合・神道と仏道の統一宗」であって、「笹竜胆紋の家紋や白旗派の白旗の旗印・古代浄土宗白旗派族のもの」は論理的に資格としてはあり得ないのだ。
「四掟四家」さえも護らず、あまつさえ「義務とする9つの縛り」をも守らなかった族に与えられる事はあり得ないのだ。
これを理由に幕府樹立を認めようとしなかった朝廷は、頼朝が次の様な苦し紛れの言い訳をして返した。
「幕府は権利を何とか有していた「摂津源氏の頼政の乱」を引き継いだ事を以て「笹竜胆紋と白旗」を証明する使用の開幕の条件・源氏の頭梁と成り得る権利を有しているとしたのだが、確かに「頼政に王位の令旨・1」も出ているし、「摂津源氏も最低限の真人族の条件・正三位の冠位・2」に叙されているし、「真人族の9つの縛り・3」も最低限の処で維持しているし、何とかこの3つの条件がある以上は嫌々ながらも開幕を認めざるを得なかったのだ。
それでも「以仁王の王位の令旨は有効かと云う議論」と「笹竜胆紋と白旗の使用は有効かという議論」が朝廷内で興っていたのだ。
筋論としては確かに筋が通っている処から「頼政引継論」で決着は着いたのだ。
結局は、上記の「3つの資格条件」は、飽く迄も「天領地などを略奪した河内源氏の頼朝」ではなく、「朝臣族として働いていた摂津源氏の頼政」に与えたものだとして認めたものとした。
従って、後の「時系列の経緯」としては「頼朝三代」を潰せば「頼政引継論」は成り立たなく成った。
然し、そこでこのこの「北条氏等の坂東八平氏」は、唯単なる地方豪族では無く、元は「大化改新期からの発祥族」の「皇族朝臣族の第7世族集団・坂東八平氏・ひら族と呼称させた・大化前は王族位」であった事から、「頼政家の執権」としての「資格・家老」を難なく「北条氏」は「執権としての立場」で政治的立場を問題なく獲得したのだ。

筆者の論では「頼朝三代」より「北条執権説の方」が「開幕の歴史観」としては筋論に妥当性があると考えている。
「河内源氏」も「坂東八平氏」も「武器」を持ったが、ところが「坂東八平氏・王位族」には「武器を持つ大義名分」が朝廷から「坂東の治安維持の命令」が正式に出されていて、その「集団」に「平族・ひらぞく・天智天皇令」とする呼称にも「賜姓」されているからだ。
「清和源氏の河内源氏」には「嵯峨天皇9つの縛り」を「賜姓朝臣族の品位義務」として義務付けたにも拘わらず護らず、且つ、「禁令の武器」を許可なく持ち、其れも「天領地略奪」を繰り返した。
明かに対比的であるが、「資格」に問題は無くその得た時代が「天智期」と「清和期」の「時代差」だけであるので「坂東八平氏」もその様に認識していた可能性がある筈だ。
時期を観て「頼政引継者」の「頼朝三代」よりは、これを潰して「皇族朝臣族の第7世族集団・坂東八平氏」に取り戻す行動に出たと観ているのだ。
つまり「頼朝利用説」である
「摂津源氏・頼政四家一族」はこれらの事を最低下で護ったが故に「正三位であった事等」を以て「開幕条件」は成立したのだ。
斯くの如しの歴史観で以て始祖を「摂津源氏の宗綱の廻氏裔系」とする「大口青木氏・日向青木氏」は「頼朝三代の鎌倉期・1221年」を過ぎた頃には「摂津源氏の宗綱の廻氏裔系」の「名乗り」は難しく成っていたのだ。
故に、「大口青木氏・日向青木氏の論」はより正統性を持ったと「北条氏の鎌倉幕府」から認められていたのだ。
だから「日向灘の海運業」は前に前進したのだし「不当な攻撃を受ける事」はなかったのだ。
この事を「大口青木氏・日向青木氏の論」を借りて「後段での歴史観・時代背景」としても参考に成るので追論して置く。

さて、「疑問bの経緯」が判ったとして、論が外れる事に成るが「大口青木氏・日向青木氏の論」と同じく歴史観として「次段の論」を解決する為に敢えて次の事を先に論じて置く。
先ず、“では、故かの「疑問a」である”。が起こるのかである。
つまり、それには追論として前段で論じ切れていなかったので、先ず何故、「白羽の矢」であったのかであって、つまりこの視点を変えて「白羽の矢」が“何故、青木氏だったのか”である。
それを検証する。
上記した様に、正統に「天皇家の准継承者」は、周囲から疑問や反対者が出ている「施基皇子系」で無くても他に寧ろ資格者は未だ多かったのだ。
必ずしも「伊勢青木氏」だけでは決して無かったし、伊勢であるのなら「信濃青木氏」もいた。
「聖武天皇裔系」は「称徳天皇」まで、少なくとも「天皇家内」で、「四世族内」で、「第四位皇子内」で、「直系尊属の内」で継続して行われていた。
「孝謙天皇」から観れば、直系とすれば「文武天皇42」と「元明天皇43・女性」であり、「継承という事」に成れば「直系」は、「天智天皇38」では無く、直系尊属と成れば「天武天皇40」の「嗣子」に成る。
「追尊の弘文天皇39・大友」を除き「元正天皇44・女」、「元明天皇43・女」、「持統天皇41・女」は「女系嗣」であるので、「天武天皇40」の「直系嗣子」は「7人皇子と8人孫子と5人曾孫子」にあり、間違いなく「継承権のある者」は確実にあった。
この前の「持統天皇期」には、態々、「継承を定める為の規則」を議論する為の問題と事件・史実」が起こつている位なのだ。
この「考え方・継承を定める為の規則」が後に「大宝律令」に反映されたと云われるものだ。
それは「文武天皇697年~707年」の「15歳の即位時の事」である。
従って、未だ、それから「50年も経っていない時期の事件・白羽の矢」であり、且つ、自らも「皇統の正統性」を強く主張していた「孝謙天皇769年~758年・称徳天皇764年~770年」はこの事に強く縛られていた事は「史実・記録」から明らかであるにも拘わらず「突然に変更した事」である。
この経緯は「不思議な事件・疑問c」である。


ここで序でに、前段で充分に論じていない事に就いて、且つ、次の論に繋がる事なので先に「注釈」として論じるが、、この時、「称徳天皇の異母妹・井上内親王」を妻とした「施基皇子の四男、又は六男」の「白壁」は、「称徳天皇の嫉妬」を警戒し、酒に溺れた振りをして難を逃れようとしていたとあるが、「伊勢青木氏」で伝えられる処では、これは「皇位継承」の為に「皇位にある内親王」を押し付けられ、それで「皇統の正統性」を高めようとして避けたものと解釈している様だ。
光仁天皇に成った「後の事件」では無く、その「前の事件」として記されている。
この「後の事件とする説」には不合理がある。

さて、その「継承事件」とは要約すると次の通りである。
この様な「孝謙天皇15歳の若さ」で即位したのには何か「理由」があると観られる。
これを説明する為に「皇太子になった経緯」を辿る。
「漢詩集である懐風藻・751年頃」に次の事が記されている。
これは「史書」では無いがそれに依ると、次の様に成る。
「持統天皇」が、“「皇位継承者」である「日嗣(ひつぎ)」を決めようとした。”
この時に、群臣等がそれぞれ自分の意見を言い立てた。
この為に「利害が絡む意見の対立」で決着が着かなかった。
その際に“「葛野王・大友皇子の子・大友皇子は天智第一皇子」”が、次の様に言い立てた。
“「わが国では、「天位」は「子や孫の直系尊属」が継いで来た。
もし、「兄弟」に「皇位」を譲位すると、それが原因で乱がおこる。”と強く主張した。
そこで、“この点から考えると、「皇位継承予定者は己と定まる」”という主旨の「発言・天智系に」をした。とある。
ここで反論の為に、“「弓削皇子・天武第二皇子」が何か発言をしようとした。”
然し、これを観た「葛野王」が高圧的にこれを叱り付けた。
この為に、その場では“そのまま口を噤んだ”とされる。
そこで「葛野王・天智系」と「弓削皇子・天武系」との間で「皇位継承の対立事件」が起こったのだ。
再び“「弓削皇子」が自らが{正統な後継者」である”と主張したのだ。
ところが、逆にそこで「持統天皇」は、“この一言が国を決めたと大変喜んだ”、とある。
「持統天皇」は、「葛野王・天智系の主張」に賛成していた。
これは矛盾するが、これには裏の意があって、つまり、これは「天智派が巻き込まれる事」を嫌って、“正統はそちらの天武系で決めてくれ”と云った事を意味する”と解釈したのだ。
これは何故かであって、「葛野王・天智系の主張」を自らこの主張を引下げれば「弓削皇子・天武系」の主張だけと成る。
現実に直ぐにその様にした。
一方的に結論を導き出すと「自らの一族の天智系の者ら」が騒ぎだすと観て先手を打ったのだ。
この先手策を読んで喜んだとしたのだ。
そして、重ねて「弓削皇子・天武系」は、“「皇位継承の立場にあるのはそれは私だ”と主張したという事に成ったのだ。
この様な「論争が起こった事」には、「天武・持統両天皇」が元々、「自分達の後継者」を「草壁皇子」と定め、「皇太子」に立てたにも関わらず、即位目前の689年に没してしまったからだとしている。
この為に、「持統天皇」は「草壁皇子の子である皇子・珂瑠・文武天皇」に「皇位」を継承させようとしたのだ。
そしてその為に、その成長を待つ間は自ら皇位に着いた。としているのだ。
これには、要するに、「持統天皇」が、昔、「軽皇子・孝徳天皇」を「皇太子」にしようとしていた際にも、「王公諸臣の意見が纏らなかった事件」が起こったという事が、三度も起こって仕舞った事に気にしていたと云う事で、それがこの「一言」で解決したとして喜んだ事に成ったとしたのだ。
つまり、この「事件」は、“「持統天皇の詔に相当する正統性の宣言」”でもあったのだ。

先ず「一つ目の事件」は、「軽皇子・孝徳天皇・芽淳王系」と「中大兄皇子・天智天皇」との争いである。
兎も角はこの事件は「中大兄皇子」が引き下がって解決した。
次に「二つ目の事件」は、その後の「孝徳天皇の皇子の有間皇子継承問題」の「藤白坂絞殺事件」も「孝徳天皇系が引かなかった事」で実権を握っていた「天智天皇」は「孝徳天皇側が引かない為に結局は争い」と成って解決した。
最後に「三つ目の事件」は「大友皇子・天智系」と「大海人皇子・天武系」の争いである。
「大友皇子」は「戦い・壬申の乱」で決着し敗退した。
「敏達天皇の裔系」のこの「三系」で「皇位継承の四度目の対立事件」は以上の事としているのである。
要するに、この「皇位継承事件」は四度共に姿勢としては「天智系」は引いて治まっているのだ。(重要)
それ故に「持統天皇」は、この「全ての経緯」を知っていて「天武系を主張していた事・宣言」に成る。
「聖武天皇系の孝謙天皇・称徳天皇」も自らも「完全な天武系」であり、且つ、「皇位の正統性」を主張していた「天皇」の一人で在りながらも、この「上記の立場」に置かれていた「賜姓臣下した施基皇子系」に「白羽の矢を立てる事」、そのものが先ず一番に「おかしい事・疑問・主張の矛盾」に成ったのだ。
「主張と行動の食い違い」が「孝謙天皇」に起こっていたとされるのだ。
その上に、「四度目の事件」としても引いていたのだ。
「大化改新の詔」で規則に沿って「天智系の施基皇子の皇子の立場」は「第七位皇子」であった為に「賜姓臣下」していたし、況して「院号を元に真人族」としては「禁じ手の商い」をもしているし、一族は「女系」と成っていたし、その「血筋縁」は既に「四掟」で「皇族系」で無くなっていたし、その後も皇族に「還族」もしていないし、「天武系の正統性の者」が上記した様に大勢にいなければいざ知らず「継承族の対象者」は「数十人」にも及んでいたのだ。何よりも伊勢側は再び「天皇に成る事」のみならず「皇族系に成る事」も望んでいなかったのだ。
政治に関わる事を望んでいなかったのだ。
況してや、その「無継承者としての正統性」はこの段階で「50年」も経過していたのだ。
相当無理してこれだけの「リスク」を以てして「白羽の矢を立てた事・殆ど無理やり」に成る。
故に、上記した様に記録にある様に、「光仁天皇への世間の評価が低かった事」がこれで判るのだ。
前段でも論じたが、この経緯からしても、上記した“「持統天皇の詔に相当する正統性の宣言」”の様に「天武系だけで継承する事」にすれば「継承者の政争」が起こると考え直した「称徳天皇・孝謙天皇」であったが、其れだとすると「近江系」が「伊勢系」より正統性は数段に高い事に成るが然しそうしなかったのだ。
そこで、「近江佐々木氏との格式差」は確実にあるとするが、「白羽の矢」に成る程の「近江と伊勢の違い差」は源氏化までは「相互血縁」が行われていたので「血縁差」はない。
とすると、突き詰めれば比較にならない程の「大経済差・殖産財力」と成り得る。
これを前段で論じた。

つまり結論はこれが「疑問a」であり、それに繋がる「疑問c」である事に成る。
そうすると、前段と前記した「光仁天皇と嵯峨天皇」が採った「青木氏への賜姓排除排斥策」には矛盾が生まれるが、これはこれを「白羽の矢」で期待した以上は当然に起こるこの「財力を使った皇親族の政治的で財力的な絶対的な勢力の排除」に尽きる。
それが「世間と官僚の反発を喰らったと云う経緯」と成り、「政治と経済・基盤」に「狂い・矛盾・疑問」が出たと云う事に成ったのだ。
唯、「青木氏側からの言い分・反対の言い分も」が、飽く迄も朝廷が認めた「二足の草鞋策・賜姓五役・院号獲得」を前提としている事で分けて考えていて大儀名分はあったし、そもそも「白羽の矢・献納で貢献」を望んだ事では無いし、当たらないとしていたのである。

筆者は、「皇親族としての商い」に「品位疑義・禁令」があって、これに対して「世間と官僚の反発を喰らったと云う経緯」が在ったと一部の資料では記されて信じられている様だが、これは実の処は「表向きの記録」であってその「裏の本意」は周囲は「出自元の筋目格式の疑義」であったと観ているのだ。
この「表向き」は、「朝廷」としては「今後続く天皇家の品格・皇統に傷を着ける事」に成るので、記録としては「世間と官僚の反発を喰らったと云う経緯」として遺したと観ているのだ。
それが「桓武派と嵯峨派の争い」を引き興し、これ対して根本的に基を質して「仁明天皇と円融天皇」が原因を元に戻したと云う事に成ったが、これが世間では「円融天皇の頃・960年頃」まで燻っていた事に成る。
これにより現実に以後問題はかき消された事から以上の歴史観と観ているのだ。

次に論じる事に就いて、上記のこの「歴史観・観点」を念頭にする事が必要である。


「大口青木氏・日向青木氏」の論は次の段に続く。

「青木氏の伝統 68」-「青木氏の歴史観-41」に続く。(88P)  

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