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「青木氏の伝統 37」-「青木氏の歴史観-10」

Re:「青木氏の伝統 37」-「青木氏の歴史観-10」 
     投稿者:福管理人   投稿日:2017/08/20(Sun) 14:32:06
> 「伝統シリーズ-36」の末尾



>(注釈 「青木氏側」から観れば、「紀州藩」に云われなくしても、“「伊勢の殖産興業」”に無償で邁進したのは、考察結果からも判る様に、上記の血縁で繋がる「同族を互いに救いあう目的」があったからこそ、「明治期の末期」まで続いたのである。
>その意味で、前段の「射和商人の論議」は、「青木氏の中の論議」と捉えられるのである。
>「青木社」と共に必ず論じなくてはならない「青木氏のテーマ」であった。)

>(注釈 「主要15地域」には、最低限、この様な「青木氏の歴史観」が働いていた事が判っていて、一部であるが、合わせて「近江佐々木氏の研究資料」にも「青木氏」のこの事に付いての記載がある。
>「川島皇子」を始祖とする「同宗同門の近江佐々木氏」も「宗家の衰退」もあって苦労した事がよく判る事である。

>(注釈 江戸期には江戸屋敷が近隣にあった様である。
>少なくとも「神明社」の体裁を整え表向きにも「武蔵の四社」の様に「青木社格的要素」を働かせながら維持していた事は確実で、「個人情報の限界」で詳らかには出来ないが明治期まで維持されたことが判っている。


>注釈として 前段でも論じたが、その意味では「伊勢、信濃、伊豆」の「三つの社」は、それぞれ「特徴ある青木社」を構成していたが、「越前の青木社」だけは当に当初から「神明社の目的」は,真の守護神であるが如く「逃げ込んだ氏人」を匿い精神的導きをして立ち直らせ「職」を与えて世に送り出していた役目を果たし主目的としていた。
>これは既に”「青木社」”であった。
>つまりは、「青木社」は前段で論じた所謂、「仏施・社施」であった。
>その意味で「仏施・社施」は、「青木社的要素」に成り易い役務であった。
>つまり江戸期に恣意的に反発して一度に「青木社的要素」を露出させた訳けではなかった。
>それだけに幕府は黙認せざるを得なかった事の一つであろう。

>その意味で「伊勢や信濃」にこの「青木社」を通じて「杜氏」を送り込み「米造り」と「酒造り」を指導して殖産に加勢した。
>「賜姓五役の祖先神の神明社」は、1000年前後からは「賜姓五役」の「皇祖神の子神」である事を表向きにしながらも明らかに外れ「青木社的要素」を強めていた事が判る。
>「四地域」とは言わずとも「15地域の神明社」はその傾向にあった事が判る。




「伝統シリーズ 37」

此処で「青木氏の歴史観」として、「青木社」を成し得るにはそこには「地権と云う権利」があった事になろう。
それ無くして「無理」と考えられる。

この「青木氏の地権」に付いて詳しく論じて置く事がある。
それは「単純なる地権」では無かった筈である。
この「地権」には、「政治的なもの」が働いていて、与える者、与えられる者の双方の「戦略的駆け引き」が読み取れる。

先ずは例として、「伊勢青木氏の地権の状況」が良く判っているので、これを見本として論じるが、全国の「青木氏の地権」も、取り分け、「15地域の青木氏」はほぼ同じであったと考えられ、この事は遺されている資料からも頷ける。

江戸初期の紀州藩から受けた「青木氏の本領安堵」の内容には、“「地権」”と云う点から観ると、その「地権の一部」に異なる事があるのだ。
ところが、その「地権の一部」には“ある意味合いが潜んでいる事”が判る。
それは、むしろ、「伊勢北部の土地」と「南紀の旧領地(遠祖地)」以外は、「紀州藩」から「殖産と興業」の「伊勢復興」の為の「地権の土地」ではあったと観られる。
その「地権の一部」には、紀州藩の「頼宣の差配」で「本領安堵策」で、敢えて「奈良期と平安期初期の旧領の本領」までを付加されているのだ。

先ず、当時の「本領安堵の慣習」として普通ならば、これ程に古い「旧領安堵」までは認めていなかった。
この事は「青木氏」としても当初は考えていなかった筈で、この事から考えると「地権を持つ地主」と云うよりは“「ある目的」”を以って、形式上は“「預け任された」”と云った方が適切であろう。

「青木氏」としても“「ある目的」”を理解するまでは、或は、「紀州藩」から「内々の話」があるまでは驚いたと観られる。
実は、これには「根拠となる資料」があった。
江戸初期の当初は、その年の収穫量から割り出す「検見法」と云う令があって決められていたが、当時の江戸中期前後には、この「検見法」は変動が大きく「定免法」と云う税法に変えた。

(注釈 「検見法」とは、「平均的な収穫高」を設定し、それに都度の「年貢率」を掛けて「年貢高」とする方法である。
一方、「定免法」とは、「平均的な収穫高」を設定し、それに「定税率」を掛けて「年貢高」とする方法である。
その設定方法に依って使い方の時期は判る。)

然し、例外を設けて「収穫量が低い地域」には、“「畑方免令」”と云う特例を発して「畑地の税比率」を変えた。
そこで、この「畑地」として登録されている「殖産地」には、足りない収穫分は「米」を他から買って「米」で納め直す「買納制」が敷かれていた。

ここが「殖産政策を敷く青木氏」に執っては大問題なのである。
そこで、取り分け、上記した本領安堵された「青木氏の地権地域」の「殖産」には、「米」に変換して「金か米」を納める事が起こったが、「青木氏」では主に「金納」であって、一種の別の「買納制の慣習」が敷かれていた。

つまり、「紀州藩」は、“「米納」(「買納制」)”では無く、特別に「青木氏」に対して例外的に原則禁止の“「金納」”のこれを特別に容認していたのである。

さて、これは何故なのかである。
この“「ある目的」”を理解することが出来る「重要な疑問点」であった。
「幕府」は、「紀州藩」の「財政立て直しの目的(安定した借財返済)」を理解して、これを黙認した事が史実として判っている。
これを観ると、「青木氏」の「旧領の本領安堵策」の地域だけには特別視していた事が判る。
実は、この時の事の一部がこの「資料」に書かれていて、「公民比率」が普通の「四六の税」が逆転して、上記の「旧領(古来)の本領分域」の「殖産の地権部分」だけは「六四の税」に成っている内容が書かれている。

そもそも、「一揆」が起こりそうなこの“「厳しい税」(「六四の税))“を考えると、先ずは「紀州藩改革」の為の「一窮策」であったかも知れないが、「青木氏」の「資産投入」に依って”「殖産を興す前提」“として、敢えて紀州藩は「本領安堵する条件」にしていたと考えている。

仮に、この地域を本来の様に「紀州藩直轄領」とすれば、「殖産」を興すとしても全て「紀州藩の財政」から賄わなければならない。
然し、その「投資の財力」が「借財中の紀州藩」に無ければ、取るべき方法は唯一つである。
それは「青木氏」に先ず「慣例」を破って「旧領の本領安堵」をして、“「地権」”を与え、その上で「私財投入」させた上で、その「差配一切の費用」も持たせて、その代わりに「税」だけを「金納」(「六四の税)で、「紀州藩」が獲得出来得れば安定した「六の純利益」が安定して丸々獲得できる事に成る。
それを更に「金納」にすれば、「紀州藩」は大阪で「換金の手間と経費」も省ける。
こんな「濡れ手で粟の策」は無いだろう。

普通は、「四六の税」かせいぜい「五五の税」ではあるが、国に依っては厳しい「七三の税」も在ったが、ここまですると「殖産に注ぎ込む力」はなくなる故に、これはせずに少し緩めて「六」を納め、「四」を「殖産」に注ぎ込ませる政策を採ったと観ている。

そして、「畑方免令」に依って「殖産の利益」を「米換算の納入」にするのではなく、「返還金」で直接納税しているところを観ると、「米換算の納入」では大阪堂島の「米相場の影響」を受けない「藩のメリット」があった事にも成る。

これは、“予期していなかった“と云う事もあって、「紀州藩立て直しの策」として「了解の上の政策」であったと考えられる。

(注釈 それは「青木氏の資料」の文脈から「反動的な文言」は無い事からも判る。)

これで幕府からの「借財10万両の返還」を成し遂げた「紀州藩」の「立て直しの窮策」の効果的な一策であったと観られる。

(注釈 それでもこれを引き受けた事は、「青木氏」に執っても「四」でも”「無形の利」”があった事に成る。
それは「殖産」を興せると云う「利」があって、それが「旧領の氏人」に「潤い」と成り得り「氏人」を救える。
つまり、恐らくは、この「旧領の本領安堵」の地は、「奈良期からの氏人」が住んでいたからであって、“救える”という「無形の利」を敢えて採り、元より「利益」を度外視していた可能性が高い。
「紀州藩」も「腹の底」でそこを見据えていた可能性がある。)

何故ならば、「紀州藩の家臣」は、殆どは縁戚の「伊勢の秀郷流青木氏族」であるからだ。
彼らが“縁戚を裏切る事”は先ず無く、この意味から、事前に説得を受けて内々で承知していた事が伺える。
下記の「紀州藩の勘定方指導」もその「戦略の経緯」の中の一つであった事は間違いはない。
この時の内々の話の中には「この話」が出ていた筈である。

去りとて、幾ら、「頼宣の時」は別としても、更に「殖産」を進めた「吉宗」の時に「勘定方指導」で「紀州藩」を救うと云っても、それまでの「幕府借財2万両の体質」と「10万両の借財返済」の「負の勢い」を押し返し、「立て直し」までに至らすには「相当で効果的な秘策」が無ければ成し得ない。
「吉宗」が唱えた単なる「質素倹約策」だけでは成し得ない事は明白である。
この「質素倹約策」は明らかに「紀州藩の政策上」の「表向きの策」であった事が判る。
”領主はちゃんとやっているよ”と吉宗に対する領民の期待感を先ずこれで維持し、「一揆の動き」を抑え、傍らで”「青木氏の殖産策」”を示すと云う「パフォーマンス」をやってのけたと考えられる。
そもそもこの時期、飢饉や災害が頻発し、その上に「質素倹約の令」は現実的には無理な筈である。
然し、建前上は”「派手」”は推奨出来ない。

筆者は、「領民」には、「吉宗と伊勢屋(伊勢青木氏)」との「育ての親関係」は、「周知の事」であった筈で、「吉宗の裏」には「豪商伊勢屋」、つまり、「伊勢」のみならず「二つの青木氏」があると知っての事で「質素倹約令」を敢えて受け入れたのだと観ている。
これは「一種のサイン」であって、”これから改革して「領民の暮らし」を良くするよ”と云うものであったのだ。
そしてそれは、”「殖産」”を手掛ける「青木氏と伊勢屋」である事は領民の周知の事であったのだ。
況してや、前代未聞の「旧領の本領安堵」の事も充分に伝わっていたのであるから、これから”何か起こるよ”と領民の期待は膨らんでいた事に成る。
だから、「郷氏」としての「旧領安堵の事」を素直に受け入れたと考えられる。

そこで「伊勢屋の紙問屋」の「二足の草鞋」の「青木氏」が、「殖産」と共に「紀州藩の勘定方指導」をする以上は、「質素倹約策」ならば誰でも出来るから何も「青木氏の指導」を受けることの必要はない。
それは「青木氏」ならではの「秘策」とその「実行するノウハウ」を持ち得ていなければならない筈である。

その「秘策」が、次に論じる”「商業組合と殖産」”であって、その「殖産」を前提とした「商業組合」の「殖産」を興す前提が、この“「旧領の本領安堵策」”であった事に成る。

そこで起こる「殖産収益」にその税率を「六四の税」を掛け、「六を金納」にして「四を殖産経費」に廻せば「青木氏と紀州藩」に執っては双方共に「六は純利益」と成り得る仕組みである。
これが「青木氏」の「無形の利」の根拠であろう。
そして、“「殖産」”から生まれる「製品」をより効果的にする為に”「商業組合式」”にして「生産から販売」までを「系統化」すれば、「販売如何」では「六四」以外の”「利益」”は間違い無く起こる。
これを「青木氏等」の「殖産側の取分」とすれば、この「システム」は成り立つ事に成り、「氏人」も確実に潤う。

この「旧領の本領安堵策」以外にも、「伊勢北部の土地」と「南紀の旧領地」の「二つの地権地域」の「殖産」もある事から、「殖産経営」は充分に成り立つ。
従って、「頼宣の要請」(伊勢藤氏家臣団)としても、「吉宗の勘定方指導」(青木氏と伊勢衆)としても、何れにしても「殖産の策」として使えた事に成った。
兎も角も、後は「青木氏と伊勢衆」の「殖産努力の如何」に関わる事に成り、「紀州藩」は「旧領の本領安堵策」だけで事は終わる。
後は”「税納」”を待つばかりに成る。

更には「吉宗」の時は、「勘定方指導」で”「政治」”そのものも任せた事にも成り得て、そこに「伊勢藤氏族の官僚」の体制が整えたと成れば、「伊勢方の主導」で「紀州藩」を動かしたとも云える。
故に、一致結束が出来た事に依って上記の計画、或は、謂わば、”「伊勢戦略」”が「2万両の借財体質の脱却」と「10万両の返済」が可能に成ったのである。

それが「青木氏の歴史観」の「伊勢殖産」であった事は確かではあるが、”「殖産」”をしても「純利益」を高める事が「必要条件」であって、それに「紀州藩」が「伊勢殖産」に直接投資していては「純利益」などあり得ない。
況して、そのノウハウも無いし「必要経費」で毎年の幕府から借財する「2万両の赤字」は更に膨らむ事に成る。
この何もしないで得られる“「純利益」”が、上記した“「負の勢い」の「押し返し」”の”「反力」”と成り得たからだ。

この上記の「金銭」に変換して”「純利益」の「反力」”が「上記の窮策」であったと考えている。


(注釈 何度も記述するが、「紀州藩の家臣団」の殆どは「秀郷流青木氏」を中心とする「伊勢藤氏の集団」であるから、この話を「青木氏」に通して「内諾」を得る事は実に簡単な事であり、この「立場」を生かさない方がむしろおかしい。
むしろ、「青木氏の方」から裏でこの話を持ち込む位の事はあっても不思議ではない。私なら絶対にやる。)

筆者は、この“「反力」”を示す事が何処かに必ずあると観て研究を進めた結果、正式な書類とは考えられないが、「新宮の遠祖地の縁籍筋の家」からこの事に関する資料が発見された。
この資料の上記の一説に、この時の「税の事の経緯」を書いた文章の一説が見付かった。

つまり、「青木氏」が、この「今後の税」の事に付いて、況や「地権地」の事に付いて縁籍関係一族一門に説明をしている一節の行である。
「地権」を持つ各地の「遠祖地の縁籍筋」からの「殖産振興」を進める上での「問い合わせ」の様な事が書かれてあって、これに対する「返信」ではないかと観られる。
そもそも、250年近くも平家をはじめ多氏の支配下にあった「遠祖地の氏人」が、江戸期に成って急に「本領安堵」となれば、”何かあるな”という事は理解していた事は明白で、そこら辺のやり取りではないかと考えられる。
恐らくは、「紀州藩との関係」に付いての「戦略的な事」に付いて懇切丁寧に説明したのではないかと観られる。(青木氏側には消失して資料はない。)


そこで、この「殖産の土地」には、「畑方免令」を上手く利用して「平安期の旧領(遠祖地)」の「本領安堵策」で解決したとして、次ぎの問題としては「優秀なリードできる人の確保」であった。

「優秀なリードできる人の確保」の問題を語る上で「重要な事」があって、そこで、「伊勢青木氏」等は「歴史上に遺る史実(歴史観)」として次ぎの事を成したのである。

前段でも論じたが、「室町末期の伊勢三乱」で敗退して何とか生き残った「3割程度の郷士衆」と、「全国に飛散していた者(伊勢衆の伊賀衆)」等を先ずは呼び集めたのである。
「伊勢衆」を生き残らせる為にも、江戸初期には、「頼宣肝入れ」で、「青木氏」と共に、「紀州藩公認」の下でこの事に取り組んだのである。

この事に付いては「紀州藩家臣団」が要するに何と云っても「伊勢籐氏」である。
「呼び戻す事」には何の問題もない。
むしろ「人と云う戦略点」では、これ程の「都合の良い事」は無いであろう。
普通なら、”呼び戻せばまた反乱を起こす”という意見も家臣や周囲から出るであろうが、そこは逆であった。
そんな馬鹿は幸いに居なかった。

況して、当時は、「人」は領主の下にあり、”他国から呼び集める”と云う事は「国抜けの法度」でもある。
「理」に合わなければ「時の指導者」でも逆らうと云う「伊勢の骨入りの郷士」とその「家人」である。
”「人」には問題がない”と云うよりはこれ程の理に適った「人」は無かったであろう。

後の事は「青木氏」が「引き受け元」に成れば完全に上手く行く。
この事は「公的資料」として遺されている。
流石、「家康」が目にかけた「頼信の紀州藩」である。
実にうまく利用した。中にはこの”「殖産策」”を利用して「伊賀者を護身団」に仕立てたくらいである。

(注釈 実は「頼信」は将軍からその「才」を嫉妬され「謀反の嫌疑」をかけられる始末で「影の護身団」が必要であった。
これも「伊勢籐氏の家臣団」が「当主」を護る為に「青木氏等」が行う「畑方免令の殖産策」に託けたと考えられ、「青木氏」もそれを導いたものである事は疑う余地は無いだろう。
後は、「青木氏の影のシンジケート」で包み込めば表向きは何の問題もない事に成る。
何時の世も「組織の人」を扱うときは慎重であらねばならない。
これは「青木氏」の「家訓」でもあり「氏是」でもあり、それに従ったという事ではないか。)

注釈として、そもそも、室町末期の「伊勢三乱」の結果、「織田軍や秀吉」に抵抗した「伊勢郷士衆」は、取り分け、「北勢の伊賀衆11氏」や「南勢の北山衆(平家残党末裔)」や「山間部の戸津川衆(平家残党末裔)」や「東勢の長嶋衆」等は家族を残して全国に飛散した。
彼らを「神明社」が託ったのである。
多くは「青木氏の定住地」で、「織田軍や秀吉の勢力」が届かず、且つ、「青木氏の保護力」が強い地域の特に「越前や越後(神明社)」等の北域に逃げ込んだ。

ところが、この「二つの条件」のある「武蔵域」には不思議に逃げ込んでいない。
そもそも、「秀郷流青木氏の膝元」であり、家康の「御家人や旗本と成った家臣団」であり、ここに「家臣」として逃げ込めば助かるのに無い。
何故かという疑問には、「北域」と「武蔵域」の差には「伊勢信濃シンジケートの活動」が届く範囲であったかと云う事が考えられる。

そもそも、史実として前段でも論じたが、“「呼び集めた」”と云う事は「居場所」を承知していて保護していた事を示すものであり、“ほとぼり”が冷める時期を見謀っていた事を示す。

この”呼び集めた”とする記録がある事は、前段でも論じた様に、「伊勢」そのものが「郷士衆」が極端に少ない(全国の1/10程度)上に、この「郷士衆」が元より少なく成った処に飛散している訳であるから、“「殖産」を進める上では、「絶対的な力と成る者」が少ない”と観ていた確実な証拠でもある。
つまりは、「青木氏」等に執っては「必須の課題」であった事を示す。
この「畑方免令を利用した殖産」に必要とする”「人の問題」”はこれで解決された事が判る。


この「必須の課題」(「人」)を解決でき得れば、後は、”「拠点造り」”に成るだろう。

この「紀州藩との取り組み」の”「拠点造り」”のそれが、上記の様に、「伊勢北部の土地」と「南紀の旧領地(遠祖地)」の「二つの地権地域」であった。
その一つでもある「玉城領域の全域」(現在の玉城市)が、物流の「蔵群」と「作業群」と「長屋群」であった所以なのである。

この松阪に近い「宮川沿領域」を「畑方免令の殖産」の「拠点づくり」の地域にした。

「旧領の本領安堵地の殖産地」では無い此処に「殖産の実務拠点」を置いて、「全殖産」の「一切の集積地」としたのである。
”何故、「旧領の本領安堵地」に拠点を置かなかったのか”と云う疑問であるが、この地域は「熊野神社の領域」に近く「熊野六氏の勢力圏」(平家落ち武者の末裔族)でもあった。
この域に「殖産の拠点」は絶対に置けない。
然し、「幕府」が成立したとしても世の中は安定はしていない。
「本領安堵域」と成った以上は、未だ無防備ではいられない。
護るには「青木氏」は「武力集団」は使えない。
「影の伊勢信濃のシンジケートの抑止力」をこの地域に及ぼさねばならない。
然し、「熊野勢力」に執っては南勢に「北勢の影の勢力」が浸出して来る事は、この不安定な時期では最も危険性を孕んでいた。
”ではどうすれはせ良いか”と成る。
何せ250年もの長きに渡り、北勢域に伸びた「青木氏の抑止力」の届く範囲ではなかった。

そこで、「青木氏」は、「商記録」にも観られるように、「7割の株券」を持つ「伊勢水軍」を使った様である。
この「水軍勢力」で「影の伊勢信濃のシンジケートの抑止力」を「動かす姿勢」を見せて「熊野勢力」を牽制していた様である。

どう云う事かと云うと、「伊勢水軍」は「海の上での勢力」で「熊野勢力の牽制」は直接は無理である。
況して、「熊野水軍」もある以上は直接的には戦略上好ましくない。
然し、それは「使い方」である。

それは、次の様であった様で、「遠祖地の本領安堵地」等からの「畑方免令の殖産」の生産品を「伊勢水軍の水路」を使って「松阪の玉城域」に「宮川」を経由して陸内に運び込む戦略をとったのである。
そして、ここ「地権のある玉城域全域」に「蔵群」と「職能長屋」と「加工場群」と「支配拠点」を置いてここを「殖産の拠点」とした。(明治期の35年まで残されていた。)

(注釈 中には、恐らくこれでも足りない為に、「郷士の家の庭」に「小さい拠点の作業場」があって、周囲の「氏人の家人の女子供」までもを呼び集めて「工場」が設営されていた。
如何に「殖産」がうまく動いていたかを物語る。
「呼び集め飛散した郷士」等の「屋敷群」が元の「四家の各地域」にも「新たな設営」があった事が記載されている。)

シンジケートの拠点は流石に明記は無いが、「神明社社領域」に敷設されていたらしい事は判る。
唯、身分は隠しての事である。
例えば、判り易い例として、「南北朝の楠木正成」は「シンジケートの一員」でもあったくらいで、「山間地の土豪の身分」の家柄で生きて行くには「経済支援」とそれに基づく「掟」で結ばれた「裏の存在」が必要であった。
この様に「シンジケートの身分」は、多岐に渡りあくまでも「神明社や寺社」の「影の中に生きる身分」であった。
当然に、これに依って「影の伊勢信濃のシンジケートの抑止力」は、”伊勢から直ぐにでも移動できると云う「印象」を与えていた事”は、「商記録の動き」からも判るし、「旧領地の手紙の文面」からも読み取れる。)

そもそも、「影の伊勢信濃のシンジケートの抑止力」の中には、記録では証は出来ないが「平家末裔」が含まれていた事は否めない。
だとすると、確証はないが「熊野勢力の六氏」とは”「事前の渡り」”は付けられていた筈であろう。

上記で論じた様に、「畑方免令を使った殖産」に「利」を与えるには、いくら”「無形の利」があるから”と云って、あの高く厳しい修験道が登る「南勢の紀伊山脈」を越えて運んでいては「利」どころの話では絶対にない。
この事はむしろ、それ位の「使い道の無い山間地の地域」という事にも成ると云う事は、「紀州藩」も当初から知っていた筈で、「殖産として本領安堵する条件」の一つであった事は云うまでも無いであろう。
普通なら、”その土地をやるよ”と云っても”そんなものいらない”と云うだろうそんなもの「土地」である事は誰でも判る。
素直に”頂きます”と云うのは、「遠祖地」であると云う事から「青木氏」だけである事も判る。

「熊野勢力六氏」は、「社領権域の隣接地」であるので”頂きます”と云うかも知れないが、ところがこれは「紀州藩」に執っては好ましくない。
これ以上、彼らの「宗教勢力と発言力」を拡大させたくないし、「殖産」で何とか借財を償却しようと「苦肉の戦略」を練っているのである。
そんな愚策は無いであろう。

そもそも、「宗教勢力」と云うのはどんなものであるかは知っている。
相当、「厄介な勢力」である事は歴史が物語る。
何時の世もこれに大きく関わり過ぎた「政治圏」は乱れる。

その一つの「青木氏の例」があるが、「守護神の神明社」を、丁度、この時期の「江戸初期の幕府」にすべて無償譲渡した事はこの事に由来する。

「青木氏」と「伊勢籐氏の家臣団」が「愚策」を練る様なそんな馬鹿な事をする訳がない。
そもそも、北勢の「伊勢神宮の宗教勢力」の「旗頭」に執っては、南勢の「熊野神社の宗教勢力」に「利」に成るような事は絶対にあり得ない。
況して、「青木氏の遠祖地」で、且つ、「殖産改革」が成り立つ条件下にあれば尚の事でもある。
むしろ、戦略上は「熊野勢力六氏」を適度に”ちょっかい”を出させない様に抑え込んで置く必要がある。
唯、見栄を切って抑え込む事は好ましくない。相手を刺激するだけである。
この事は、「遠祖地の旧領の本領安堵」に依る”「畑方免令の殖産」”を成功させる「重要なポイント」でもある。

そもそも「遠祖地の氏人」は武力は持たないし、”「殖産」”を上手く進めるには穏やかに護る事が必要で、”静かなる事林の如”である。

さて、その上での事を念頭にしての事である。
それには、「間接的に圧力」をかけての「伊勢水軍を動かせる勢力」(7割株保有)である事が条件であった筈だ。

そして、もう一つは、「旧領地の付近一体」を安定に保たせる事が必要である。
「紀州藩」がこれに「家臣」を費やすれば、そもそも「六四の税」の意味が亡くなる。
当然に、「青木氏」の持つ「伊勢信濃シンジケートの抑止力」を生かせる事が必要である。
然し、幾ら「シンジケート」云えども「南勢」はその「勢力」が届く範囲ではない。
上記した様に「熊野勢力」の思惑が働き”「小競り合い」”等の「いちゃもんの脅威」もある。

つまりは、この「二つの条件」を組み合わせれば解決する。
当然に、更には上記の「搬送の利」も解決する。
(この”「搬送の利」”にはもう一つの意味があった。)
これで「一挙三得」でもある。「殖産」は上手く行くかも知れない戦略であった。

そして、「水利」で運んで「宮川」から「陸内の玉城」に運び込めば解決する。

「人の問題」、「拠点造り」に絡む「三つの条件」、「無形の利」等の事を考えたからと云ってそう簡単にできる訳では無い。
相当に「遠祖地の氏人」や「伊勢郷士の呼び集め」や「伊勢籐氏の家臣団」や「伊勢水軍」や「伊勢信濃シンジケート」の関係者と事前に綿密に「打ち合わせ」ての事でなければ出来ない事である。
「遠祖地の手紙」の一説はそれを物語るものであったと観られる。



投稿時の脱落部の追記


ここで、「伊勢籐氏の家臣団」を大量に雇った事のみならず、全国に飛散していた「伊勢郷士」を呼び戻した事は、勿論の事で、更には「青木氏の歴史観」に大きく関わる事が起こったのである。

この”「幕府の嫌疑」”を余計に増幅させた事が次ぎの三つのこの「殖産の策」にあった。

一つは、上記した「搬送の利」の意味である。
二つは、「本領安堵の遠祖地の旧領地」で、”何を殖産させたのか”と云う事である。
三つは、「伊勢水軍」を係留する「大船の港」があるかである。

一つ目の「搬送の利」の「伊勢水軍と伊勢信濃シンジケート」との扱いの関係であった。
「伊勢水軍と伊勢信濃シンジケート」の組み合わせで「遠祖地の山間地の殖産」は克服できた。
然し、これには、「隠れた問題」があった。

それは、”誰が生産品を搬送して防御するか”である。
「伊勢水軍の人夫」は操船で手はいっぱいで出来ない。
だとすると、「遠祖地の山間部の生産地」から「港までの搬送する役」を誰が担うかであって、これを解決しなければ「絵にかいた餅」である。

これが、「伊勢信濃シンジケート」であった。
「影の武力集団」の実力集団でもある。
過去には、足利軍の「二万の軍」を餓死させた歴史記録を持つ怖い「実戦集団」、織田信雄の軍を半壊に追い込んだ「実践集団」、「伊賀の戦い]で「名張の実力」を示した「実戦集団」、秀吉の「長嶋の戦い」で秀吉を物資不足で苦しめた「実戦集団」、「紀州門徒狩り」で秀吉を苦しめた「実戦集団」、二度の「伊勢動乱」で実力を示した「実戦集団」等、この様に上げれば「有名な歴史記録」はこれ全て「伊勢信濃シンジケート」である事は有名である。
「青木氏」はこの”「抑止力」”に使う「影の武力集団」(陸)と「伊勢水軍」(海)に大きく支えられていた。
そうでなければ、「危険で強大な抑止力」を働かせなければ、この時代は「殖産」などの「大きな商い」は絶対に出来なかった。
この「影の実戦集団」が、「伊勢水軍」の船に「搬送役と護衛役」で乗り込むのである。

「幕府」だけではなく、”誰が見ても何かあるのか”と勘繰るは必定で、その上に「伊勢水軍」と結びつけば「謀反」と決めつけられる要素は充分に持っていた。

「表向き」にはとやかく言われる筋は無いが、「青木氏」は、この「影の実戦集団」を「経済的な支援と掟」で平安期からの「悠久の関係」を保ち得ていたのである。
恐らくは、「影」ではあるが、明治期の半ば頃まで「周知の事実」であった事が判っている。
この「青木氏の経済力」が「殖産と云う大義」で「紀州藩の背景」にあるとすると、黙っている方がおかしい。

だから、「青木氏」は「殖産の大義」もあるし、個人の「謀反の嫌疑」は無いが、「紀州藩」では表に出せない理由がここにあったのであるし、況して証拠と成るものを「目付家老」に見られて「難癖の材料」ともなっては困り当然に記録にも残せない所以でもあった。

然し、「青木氏側」に執っては、何はともあれ、「影の実戦集団」と「伊勢水軍」の「組み合わせ」の上に、船に「搬送役と護衛役」で乗り込むさせる戦略は欠かせない事なのであった。
そして、「遠祖地域の熊野勢力」を牽制する意味でも、船には”「影の実戦集団」を載せている”という事を個人的に「殖産」を進める以上は恣意的に誇張する必要があった。
唯、この「牽制策」に付いて上記した様に「紀州藩の勢力」は期待は全く出来ない事は明らかである。

(注釈 下記の「参考」のところで示す「伊勢での紀州藩領の実態」を観ればよく判る。)

この様にする事で、「影の実戦集団」の「搬送役と護衛役」は、”「殖産の利」”が大きかったのである。

ではそこで、、”何を殖産させたのか”と云う事が重要ではあるが、その「殖産」の内容に依っても事態は変わる。
そもそも奈良期より「紙屋院」で「和紙の開発」を手掛け、「楮の生産」をこの「山間地の遠祖地の地域」で、「生産」をして来た。
ここに江戸期初期に成って「畑方免令」に依る「本領安堵策」で、「山間地の本領」により「殖産」を進めると成ったが、これでは問題は無いであろう。

”では何を以ってこの地で他に「殖産」が可能か”と云う問題が出る。
下手をすると、紀州藩に嫌疑がかかるが「養蚕」であった。ケチをつける程に問題は無い

「楮の増産」は、兎も角も、「畑方免令に適した物」として「利」を上げられる物は先ず考える事は「楮」に似たものと成ろう。
この思考は失敗は少なかった。それは、記録から「桑の木」であった。
つまり、伊勢に「養蚕の殖産」を開発する事であった。
それまでは他国の多くの地域で「養蚕」は手掛けられていた。
然し、世間に未だこれだと云う”「殖産」”の”「養蚕」”は無かった。
つまり、それに「見合う生産」と「それを賄う商い」の形を採っていなかったという事である。
つまり、それまでは”「殖産」”では無かったと云う事である。

ところが「殖産という形」で始めたにしては、”「養蚕」”のそも物の記録は、この「遠祖地の手紙資料」には「養蚕の字」の一字も出て来ない。
ところが実際の記録は、「伊勢の商記録」の「取引の内容」から江戸に”「松阪紬の名」”で江戸期も極めて初期頃に取引された記録が読み取れるのである。

(注釈 「搬送役の伊勢水軍の記録」そのものが発見する事が出来ない。明治期に運送業に転身した事までは判ってはいるが、「青木氏の商記録」には「7割株の保有」までの資料があっても「伊勢水軍側の個別の資料」と成る全てが発見できていない。
これは恐らくは、「養蚕」に関しては「桑葉搬送」であった事と、嫌疑とならない様にする「紀州藩に対する配慮」にあったと考えられる。)

この「青木氏の商記録」には、”「松阪紬」”の「固有名詞」で記録されている。
つまり、「江戸での市場」からその珍しい「殖産」に依る「優れた品質」を観てこの名称が付けられた事に成る。

当時、”「絹」”は各地でも生産はされてはいたが、「青木氏」の様に”「殖産」”として生産された「品質」で、その”「品質」”に対して「江戸の市場」が歓迎した事を物語るもので、全国的にその名が広まった事が公開資料で分かる。
その呼ばれた呼称が、商取引の「青木氏の商記録」にも初めて記載したと云う事であろう。

従って、この”「殖産紬」”としての”「松阪紬」”であった事は、”「殖産」”に適する環境下で紡がれた事を意味する。

この事から考えると、普通は「山間地の遠祖地の地域」では、「養蚕の生産」そのものは適さないという事に成る。
これは「養蚕」そのものでは無くて、「養蚕の殖産」に適さないという事であった。
それは「絹糸・絹布」まで仕上げるには、それなりの「平坦な土地の面積」と「近隣の水利などの生産条件」と「生産に関わる人」が整っていないと出来ないと云う事に成る。

現実に、「商記録」では、この「青木氏の養蚕」は、「伊賀域と名張域と玉城域」での「北勢」の「青木氏の地権域」の「線状域の生産」に成っている。
この”「線状域」”と云う事に「殖産の意味」が含んでいると観られ、地形や土壌や水やその地の環境に合わせて「殖産工程」を繋いだ事が資料で読み取れる。

(注釈 「伊賀」は「織」として有名で、「名張」は「染色」、「玉城」は「布」の役割を主に担っていた事が記録で判る
後に、この技能を生かして「伊賀織」として全部の工程を熟し、「名張紡ぎ」では「水利」を生かして「紡ぎ」と「染色」、「玉城布地」は「布と服」に仕立てる事で名を馳せた。)

つまり、「遠祖地」では”「桑葉」”を生産して荷造りして、急いで「影の実戦集団」の「搬送役と護衛役」で、「伊勢水軍」を使ってここに運んだという事に成っている。

では、それが可能なのか検証してみる。
「伊勢松坂」より紀伊半島東側を志摩半島から周り大船が接岸出来る大港と成れば、古来の貿易港の「尾鷲」か「太地」か「新宮」と成り得る。
そもそも、この「尾鷲」は奈良期の古来より「中国との貿易港」で最も盛んであった。条件に問題は無い。
但し、この「尾鷲」の場合は、「遠祖地」からは港に「陸路」か川沿いに「小舟」で搬送しなければならない。

記録では、そもそも「紀州藩の本領安堵の遠祖地」とは、「尾鷲」から「北山村」と「熊野村」に囲まれた「山間地」(地権)とされ、南紀の「飛び地」(地権)では、現在も縁戚筋が定住する「太地村」と「湯浅村」と「周参見村域」にもあったとされる。

(注釈 平安期にはこの「南紀の地域付近」は、「遠祖地としての支配地」であって、伊勢には「三宅岩床連国造」の「国司」を送って守護国としていた。「飛び地の地域」はこの時の「名残の地域」で江戸期まで細々と「地権」を持っていた。)

この「遠祖地の地域」の中心は、明治期まで「遠縁の親族」が居て「越前の地」と同じく「青木氏の休息地」でもあった事から”「尾鷲」”であった事が判っている。


そこで、この事に関する重要な参考事として、江戸期末期までの「伊勢の国」は、何と小国分離の国で、普通は「5郡程度」が原則で一国の藩主が領有するが、何と「13郡」に分かれ、更に分離され「57か所」に成って支配されていた。
その内訳は、「幕府領」(北勢の平地5か所)と「旗本領」(1か所)と「神宮天領」(3か所)を含めて「藩扱い」で何と「25藩」である。
その内、伊勢の「紀州藩領」は、僅かに「8郡/13郡」に跨り、その一部地域の「8か所/57か所」である。

この「8か所」は1郡全部では無くこの「一部地域の分散した村域」なのである。
そして、地元の伊勢の豪族は無く、「熊野勢力」の一氏の「久志本氏」(現在の串本の豪族)が「南勢」の「小さい地域」を「領国」に任じられていて「支配力」は皆無に近かった。
これは「関ヶ原の戦い」で著しい戦功のあった全国の無名の豪族や旗本に小国に分離して分け与えた結果である。

それだけに「伊勢」は「不入不倫の権」で護られ「強い武力の持たず郷士も少ない国」であった事から、「幕府」に執ってみれば「戦功」に分配する「格好の地」であった事がこの「25藩」が物語る。
当然にここで起こる状況は、火を見るより明らかで「不入不倫の権の悪弊の域」であって、これが「青木氏」に重荷に成って圧し掛かっていた。

その中でも元より「伊勢信濃シンジケート」の「影の支配力」を持つ「青木氏」が、「郷氏」として「地権」の持っていた「北勢」と「松阪」を除いては、上記は殆どは地形は「山間地」であり、「青木氏」が「殖産の地権」として関わった域は、「飯高郡」、「飯野郡」、「多気郡」、「度会郡」の「4郡/13郡」の「南勢」に当たる地域であった。
その内の「4地域/57地域」という事に成る。
主に、「多気郡」と「度会郡」の2郡に集中する。
因みに、「神宮天領」は僅かに「5か所/57か所」である。

この問題の「南勢」には、更に難しい存在があった。
関西域全域の水利を統括する天下にその恐ろしさに名を馳せた「幕府奉行所」が、南勢の度会郡に”「山田奉行所」”があって目を光らせていた。

この状況を観ても、伊勢で「紀州藩の藩領」と成った「小域」はどのようなものであったかは一目瞭然であり、語るも意味がない状況であろう。

ここをそもそも「本領安堵」として、「畑方免令」で、「殖産」とするは、「紀州藩領」でありながら、「本領安堵」とは一体どういう事かと成る。
そもそも、「本領安堵」と云う事なら「遠祖地」でありながらも「郷氏の青木氏の領地」である。
然し、そうでは無く、唯、「遠祖地」である事を理由にして「領地並みの地権」を認めたという事に成る。
そして、「大義」を作る為に「畑方免令」で「領地並みの地権」を与え、その上で「殖産」とするには「裏の命令」を出す事で済む。
そして、「六四の税」で「目的の借財」を返すとしたと執れる。
その為にも、”ほとんど役に立たない誰も欲しがらない細かい分散した土地”を表向きは「藩領の形」を採ったと云う事に成る。
そもそも、「幕府」に対しては、表向きは「藩領」としながらも、内々では「青木氏」に対しては紀州藩独自で「本領安堵の大義の形」を整え与えて”「地権に対する全ての支配権」”を委ねたという事である。

勿論、これは上記した様に、「紀州藩と青木氏」との裏の「合意の上」ではあるが、実に状況を観た戦略を練ったという事が云える。
これは当に幕府に対する「謀反嫌疑の対応」でもあった。

何故ならば、こんな「小さい地域」に「幕府領」が「伊勢領」に何と「5か所」も配置され、江戸期には「海奉行」だけではなく、「紀州と伊勢全域の奉行権」をも命じていた有名で恐れられていた「天下の山田奉行所」が配置され、それも「本殖産の度会郡」にあったのだ。

これが「頼信」を通じ「家康」が「江戸初期」にこの「山田奉行所」に命じた”伊勢の事一切御構い無し”の特権の「御定書」の所以でもある。

(注釈 天智天武天皇が出した「不入不倫の権」に基づく「朝廷の永代令」を追認した。
この時の事例を以って追認したのであり明治初期までこの原則は守られた。それだけに緊迫していた。
参考として、吉宗の時も、この「山田奉行所と青木氏」は、”瀬戸内に大船で搬送する商い”で争う「事変」が再び起こった。)

(注釈「紀州藩の伊勢領」は、「伊勢神宮域の北勢域」に4か所、「熊野神社域の南勢域」に4か所と恣意的に配置されている。)

これは「幕府の差配」に依るもので、これを「紀州藩」が「幕府の意向」を表向き果たし、何とか生かそうとして其処で「青木氏の殖産」を興させる。
それに依って「地権を持つ北勢の伊勢神宮域」は元より、「南勢の熊野神社域」をも「牽制させる策」とすれば、「山田奉行所の監視」の「幕府の意向」は表向きは成し遂げられる。

さて、この事を参考とする状況の中で「伊勢の事態」がよく判る事であるが、そうすると、現在の国道R42かR34の陸路か、又は「中川」で小舟で尾鷲の海まで運んで、そこから海路を通じて運んだことに成るので、「尾鷲」からは150キロ、「新宮」からは「熊野川」で小舟で「新宮港」に運びそこからは海路で約200キロと成り、風向きでは5時間から7時間で運べる。
「陸路の分やその他の時間」を加えれば、7時間から10時間程度と成る。
まあ何だかんだで、「半日程度」で運べる算段である。

これならば、「桑葉の搬送」は可能な事に成る。
但し、ここで上記した様に「新宮」は直ぐ隣が「熊野神社の境界」であるので、「熊野勢力」がおとなしくしていてもらう事が絶対必要である。
「熊野勢力」に騒がれては、それこそ「幕府の思う壺」と成ろう。
資料では「陸路」の表現は書かれていないので、主には「小舟」の「川舟」を使って「港」に出していた事が判る。
これの方が騒ぎにはならないし速い事は誰でも判る。また、「目立つこともない事」から先ずこの状況では「陸路」は採らないであろう。

では、その前に、「北勢」は兎も角も、「南勢」の「川舟」をどのように調達したかの問題を先に解決しておく必要がある。
そもそも、「遠祖地」は「山間地」であり「川舟」は持ち得ていたかの疑問が残る。

「青木氏」がこの「殖産」の為に準備したという事は当然であろうが、それだけの「舟」と「漕ぎ手」を充分に準備出来たかは大いに疑問である。
「舟」は作れても「漕ぎ手」は技能を伴う事から身内で直ぐには無理であろう。

では、現実には調達できているのであるのでどうしたかである。
「尾鷲」は「遠祖地の地元中心地」であり、「港」をもつ事から縁者関係で「舟」さえ調達できれば「漕ぎ手」は”「ある方法」”で簡単に整えられる。
然し、これだけでは不足であるし、「熊野聖域港」の「新宮」と成ればこれは殆ど無理である。
それこそ「熊野勢力」に足元を狙われる。近隣には「久志本氏」が目を光らしている。

これには、唯一つの方法(ある方法)があった。
それは、新宮港の直ぐ西隣の「太地域」と「周参見と湯浅域」は江戸期まで「地権」の残る「青木氏の縁戚地」であった。
ここは地形上は紀伊山脈の全くと言って良い程に「平地の無い鯨業等の黒潮の漁村」であった。
ここから調達をした事が縁戚筋の資料や口伝から判る。

これは「閑散期」とか「繁忙期」とかではなく、口伝や資料の読み方では、長い年月の期間、「松阪」から離れて「青木氏との関係」が途絶えていた事で生活は豊かではなく、又、次男三男を「漁業」で充分に賄える事は無かったとある。
そこで、この次男三男に「青木氏」が舟を与えて「漕ぎ手」として迎え入れた事らしい。
こうすれば「漁業の跡継ぎ」は解決するし、「縁戚筋」は喜んだと口伝にある。

(注釈 筆者も祖父や親からや、又、筆者が訪れた際に老人から「伊勢宗家の事」として詳細に聞き及んでいる。)

唯、この場合には、「紀州藩に対する税」を納めなければならなくなるし、「漁業権」を届け出て許可を得て獲得しなければ成らなくなる。
そして、ここは「伊勢」ではなく「紀州」であり、「紀州藩の関り」が表に出て好ましくは無い。
先ず、「伊勢」であれだけ気を配っての戦略なのにそんな事は絶対にしない。
そこで、この「逃げ策」として、この”「畑方免令」”を使ったのである。
この手は、「遠祖地」だけではなく「玉城、名張、伊賀」でも「働き手」として「同じ手」を使った。
何れもこの手には、「紀州藩」は完全な事前了解の無視であって、「畑方免令」を使えば「青木氏の中での事」に成り、次男三男の「働き手」を自由に生み出す手段と成り得て「利益」が生まれる。

(注釈 この時期は、長男が「働き手」として農家の跡を継ぎ、土地の細分化を避けさせる為にそれ以外は奉公など外に出て働かねばならなかったし、そもそも働き場所は少なかった。
武士も同じ事で「部屋住み」の「冷や飯食い」や「僧」で終わる者が多かった。
ところが、この「畑方免令」を使えば「郷士」や「農民」や「漁民」もそれぞれの元の「身分の立場」を保つ事が出来、且つ、「税」からも逃れられたのである。
幕府は「税の管理」が煩雑化し取り分け「土地の細分化」を嫌った。
これを知りつつも室町期の「紙文化」で得た「莫大な資本」(5百万両)を元手に投資し、「未開の土地」等を「田畑」にして「殖産を興せる者」だけに与えられた「畑方免令」で「無形の利」を挙げ、多くの「氏人や家人」らを救い逃れられたのである。
「無形の利」とは云え「青木氏」に執っては「鎌倉期からの宿願」を果たせるこれ程の事は無かった筈である。)

つまり、上記した様に「本領安堵」とは、「地権と畑方免令」の「組み合わせ」で「領地並み」が成立し、強いては「青木氏の完全裁量の範囲」で出来る事に成る。
この事を充分に双方が理解していた事に成る。
後は、この「縁戚筋の漕ぎ手」と「舟」を何処に所属させ支配下に置くかに関わるだろう。
これに依って事態は変わるし、「紀州藩」は当然の事としても、「熊野勢力の動き」も又変わる。
それは、「伊勢水軍の支配下」に入れたのである。
これでは文句の着けようがどこにも無くなる。
これは、”流石、見事”と云いようがない。
「青木氏の縁戚筋」、つまり「氏人」や「家人」を豊かに出来る。これが「無形の利」の一つであった。

だから、「南勢」でも川、「北勢」でも「川を利用する戦略」を採った。
これには「北勢」では「松阪の玉城」の「宮川か櫛田川の水利」が必要で、生産に関わる「人と面積と条件」が整う「大地権」を持つ「玉城域」であって、その先の「名張域」と「伊賀域」であったという事に成ったのである。

そして、「紀州藩」の「畑方免令の殖産」の当時の江戸初期は、未だ誰も手掛けていなかったこれを”「松阪紬」”として命名して、問屋街が集まる「江戸大伝馬町」に「伊勢屋」として問屋を構え販売して大好評を受けたのである。

江戸期は伊勢領は上記した様に「多くの小国」に支配されていたが、その後、「青木氏」が始めた「養蚕の殖産」は20-30年程度を経て、下記の様な経緯で藤堂藩などの支配下で「津域付近」でも生産されるように成っている。(下記)


さて、「殖産の戦略」は解ったが、「養蚕」のこれで「紀州藩の借財」は返せるかの問題があった。
現実には、藩主吉宗の半ば頃に「蓄財」は別として莫大な12万両(積算10万両と幕府2万両)と云われる「借財」だけは返せたのであるから、「蓄財」までにするには他に「別の物の殖産」をした事に成る。


では、その”「他の物」”とは何かと成る。
全く「養蚕の殖産」と同じ事が云える。
それは、「遠祖地の記録」にも「松阪の商記録」にも記載が観られ、公的資料や郷土誌にも記載がある”「木綿」”であった。

この「遠祖地の山間部の畑地」に”「綿の木」”を植え、その「綿花」までを生産し、その「綿花」を上記の要領で「伊勢玉城」までに運び、そこで「木綿布地」にして、「松阪」で販売すると云う手段をとった。
この事に関する記録は、「青木氏の上記の資料」の中にも出てくるし、「郷土史」や「複数の公的資料」や「個人の研究資料」にも明確に記載されていて、その「製品の呼称」までの記録が明確に明治期まで残されている。

この”「木綿」”は当時の衣類の主な生地であって、これをそれまでの家内工業ではなく大量に「殖産」で「興業する事」で爆発的に販売は論理的には可能であった。
ところが、「青木氏の殖産」と云うか「伊勢での初めての綿の殖産」は、初期は論理的には行かなかった様である。
「養蚕の要領」で「玉城までの搬送」には全く問題がなかった様で、意外なところに「落とし穴」があった事が記録や口伝に残る。

そもそも、家内工業的に生産された「木綿」には、「買い手側」の「品質」に対する「諦め」が長い間の習慣に依って潜在的にあって、”「木綿」とはこんなものだ”とする「妥協の産物」として長く市場で認められていた経緯があった。
ところが、大量に問屋で販売すると成ると、「流通」には「多くの目」が働き、「市場原理」が働き、「市場の値段」が激しく変動し、「間接費」が嵩み「利益」に繋がらないという事が起こったのである。

「青木氏」が最初に始めた”「殖産木綿」”を扱う「松阪の伊勢屋」は実に困った。
実は、当時の木綿は全国各地で生産され市場に多く出回っていた。
この中に「伊勢の殖産木綿」が全国で市場に初めて殴り込みをかけたのであるが、これが戦略的に間違っていた。
”間違っていた”と云うよりは、”戦略に欠けていた”と云う方が正しかった。

それは、当に”「殖産の欠点」”でもあった。
「生産の流れ」に沿って「木綿」を作ると云う事に拘り過ぎたのである。
それは、「木綿の品質」にあった。但し、この「品質」は決して”悪い”という事ではなかった。
「家内工業的木綿の品質」に対する妥協からすれば、そんなに「品質の差」は無かった。
決定的に無いのは、「殖産木綿の品質」を市場から「特別に求められた品質」にあったのである。

”「殖産木綿」”として大量に市場が消費する以上は、「品質」に”「布」”としての「品質」を強く求められたのである。
それはどの様なものであったかは記録にも記載がある。

それは、要約すると、次の様に成る。
「木綿の布地」がザラザラせず「平坦」(1の品質)である事
「繊維の目」(2の品質)がキッチリと揃っている事
「生地の色合い」(3の品質)が整っている事

以上であったらしい。
唯、この「色合い」とは生地として「色ムラ」がない事であったらしい。

この「3つの品質」が”「殖産木綿」”に「市場」から求められたのである。
概して言えば、大量に使う事に依って「使い勝手」と「人目」を要求されていた事に成る。
「麻布」から「木綿」を通常に使う以上は、「絹の様な高級の品質」に近い物を求めた事に成る。
つまり、これは今風で云えば「江戸のファション性」として要求された事に成る。

「伊勢」で初めて”「殖産興業」”に成功した”「松阪木綿」”の「伊勢屋の青木氏」は、これに「青木氏部」に依る「機械化」と「職人の技量の向上」の獲得に励み懸命に対応したと記されている。

(注釈 「青木氏」に執っては「可成りの衝撃」であったらしく、「家訓10訓」に追記して説かれている位である。)

この結果、”「松阪木綿」”の「上品質の称号」が「江戸人」に認められた事が多くの資料で確認できる。
全国的にもこの結果、”「松阪木綿」”は別格で扱われた事が記されている。(下記)

その後、上記した様に小国化した「伊勢」では、殆どの小藩主が「なけなしの資産」を投資して、全国各地から「綿花」を仕入れ「委託生産」(OEM)を行ったとされ「伊勢津域」で生産された。
これが、後に、”伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ”の「伊勢の諺」に成った所以である。
そして、この「伊勢の諺」の結果、何と”「松阪」”は「伊勢」ではなく「松阪」であり、「松阪以外の津以南」は、「伊勢の国」とまで呼称される所以と成った。

これはどういうことかと云うと、そもそも、「松阪」の隣接北域が「津域」であり、更に北域には伊部域や桑名域があり「伊勢」であり、「松阪」より南部域は上記した様に間違いなく「伊勢」である。
何故、中間の「松阪」だけが「伊勢」ではないのか、どちらかと云うと「伊勢神宮の膝元」であって、云うのなら「松阪」が「伊勢」であろう。

この「伊勢」のこの「二つの諺」が、物語る様に、”「松阪」”は「青木氏が興す殖産と商業域」があまりにも特異であって特別視されていたのである。
これが後に、この「本領安堵策(地権)」の「畑方免令による殖産」を大きく物語るものと成った。

「青木氏の殖産」を真似てこの「木綿生産」に関わって「利益」を上げようとしたと記されている。
ところが、この結果、この後口からの「木綿」は、「市場の要求」には充分に対応せずに、「利益」だけを追求する「木綿の生産」に成って、結果としてその品質は、上記の「3つの品質」の低いものが出来たとされた。
その結果で「品質」は、”毛布やタオルの様な物”と成り、使う中に「木綿の毛」が剥がれ触手の悪いものと成ってファッション性の無い直ぐに使えなくなる品質と観られた。

これを、”「松阪木綿」”に対して”「伊勢木綿」”として区分けして呼称された事が記されている。

(注釈 有名と成りその品質が認められた”「松阪紬」”と”「松阪木綿」”は、市場の需要の要求に対して「供給の増産」は必要以上にしなかった事が記されている。
その分、「津域の伊勢木綿」に委ねた結果、”「伊勢木綿」”も繁栄をもたらした事らしい。
ところが「摂津堺店」では、この「綿花」を仕入れているが、これは「松阪への供給」ではなく、その後の「津域の伊勢木綿への供給」であった事が「商記録の一部の表現」で判る。
「津域の伊勢木綿への供給」が「遠祖地の綿花」に影響を及ぼさないようにする為の策であったと観られる。
それは「質素倹約令」に依ってあまりにも「伊勢木綿の需要」が後に高まった事から、”「松阪木綿」”は、兎も角も、先ずは「紀州藩」に影響を与えない様にする為の「手立て」であったのであろう。
それと、況や、これは明らかに「青木氏の氏是」に従った事に成る。
どんなに「需要」があったとしても「本殖産の目的」以上のものを求めなかったのである。
然し、「需要」がある限りは見放す事はせずに、「津域の伊勢木綿の成長」に、「松阪木綿の販売」も手掛ける中で、陸路と海路で「摂津堺店」を動かしたと云う事に成るのであろう。
「津域の伊勢木綿の様な高い成長」は、幾ら「豪商」であっても「青木氏」の様な”殖産を興し得る豊かな財源”を無くしては成し得る事ではない。)


そうすると、”「松阪紬」”は高級品とし、この”「松阪木綿」”や”「伊勢木綿」”に対して、「紀州藩」と幕府は「質素倹約令」を発し、「木綿の使用」を奨励した事の所以と成った「青木氏の歴史的経緯」である。
それまでは多くは庶民の多くは「麻布」であった。
”「松阪紬」”と”「松阪木綿」”は、この様に当に「青木氏のそのものの歴史観」を作ったのである。

(注釈 「綿花」を扱えば、当然に種からの「綿油」の「殖産」も考えられるが、詳しい資料が発見出来ない。
唯、確かに、「殖産に依る綿油の生産」が始められたのは1620年頃の後半の様ではある。
然し、江戸初期に広まった「綿油」は、「遠祖地と松阪」では「充分な殖産」では無かった様で、「摂津堺店」で扱ったと考えられる。
1725年頃には、大阪で「水油の菜種油」と共に広まっているし、前段でも論じた「寒天とてんぷらの消費」が神戸付近で広まった事から、「津域」に供給する「綿花」と共に「摂津堺店」と考えられる。
つまり、最大量の「供給」に追われ「綿油」までに持ち込むだけの充分な「生産量」は回せなかった事が考えられる。)

(注釈 仮に、「綿の種」から「綿油の殖産」を行うとして、この場合は、「水利の条件」が整わは無くてはならない。
この条件には、江戸初期の1620年代前半でも全く問題は無く、「玉城の宮川北岸」は高台の「堆積地の水利の地」としても古来より有名であった。
元々、「松阪」は「元神領地の守護」でもあった事から、「青木氏」は江戸初期の紀州藩からもその「玉城域の大半の地権」が認められ、「自費による整備」を行い、上記の様に「殖産」に関わった。)

(注釈 従って、水車等の「綿油の生産条件」は、この時の「青木氏部の技術」を生かし、「享保改革」では、”「紀州流し」”として有名に成ったほど元々充分にあって、「綿油の殖産」は始めたと考えている。
唯、「商記録の傾向」から「綿種の供給」が、「摂津堺店」の「播磨」から主に陸路で運んだと観ている。
そもそも、「播磨」も栽培目的は違うが「菜種栽培の有名な地」でもあった。)

(注釈 記録によれば、「紀州藩」は1680年代の計画から1720年代に「2万両と云う莫大な費用」を投入して「青木氏の地権外」であった「宮川南岸域の洲域」を「埋め立」てなどの「畑地造成用の護岸工事」に入っている。
恐らくは、紀州は「青木氏の畑方免令」での「税利益」をここに更に投入したと考えられる。
これは当に「青木氏の紀州藩勘定方指導の時期」であろう。)

(注釈 その後に、1820年代に伊賀地区の山間部の庄屋から出された水利を利用する「民間の開発計画案」は「財政不足」から採用されなかった経緯がある。
これは吉宗が将軍と成ったそのあと暫くして「放漫財政の赤字」に戻った事を意味する。)


以上、投稿時の脱落部位

これが「殖産の詳細」を論じた部位である。

(注釈 相互に関係する資料は発見されないが、それぞれの「事の時代性」を組み合わせればこの様に成る。
「青木氏」に「総合的な事」が書かれたものがある筈で、無いのはそれまでの室町期の二度の「消失」に依ることは先ず間違いはないであろう。
唯、「青木氏の氏是」がある事から、「紀州藩に直接に関わる事」は、「青木氏の執事役(神明社の神職や菩提寺の住職)」が敢えて遺さなかったと考えられる。
「紀州藩」にもない事は、「明治初期の混乱」による事もあるが、「末端の事象」は「頼信や吉宗事」の以外は消える事でもあろう。)

(注釈 これは、それ程に、「紀州藩の関わり」が、周囲に刺激を与えない為に”隠密裏に行われた”という事にも成り、且つ、「青木氏の主導」で「隠密裏に行われた事」を意味する事にも成る。
これは「南勢の状況」、主には「熊野勢力の六氏」の動きが「微妙}であった事を示している。
それはそうであろう。250年の間は「熊野勢力」や「土豪勢力」に代わる代わる支配されていたのであるから、「紀州藩の藩領」に成ってからは、彼らに執っては「差配量」は入って来ないという事が起こったのである。
それまでは、「熊野勢力」や「浅野勢力」や「日高勢力」の支配下にある土豪に占所されていた。
表向きは、「伊勢神宮社領域」で「天領地の形」を取っていたが、現実には「実質支配」は出来ていなかった。)

(注釈 「幕末の事」は、「藩主」との「やり取りの一部」等は、本来であれば「借財返済の経緯」等は「名誉の為」にも消される処であるが、「青木氏側」に手紙で一部残されている。
明治初期の混乱に乗じて「青木氏」が徳川氏に裏切られる「借財の揉め事」があった。)

この時の「紀州藩の官吏」等に執ってすれば、伊勢の「秀郷流青木氏」の一族が大量に家臣として仕官したのであるが、強いては、上記の様に「青木氏」と共に「殖産」を導いた。


次は、「殖産」としては上記の様に進められて行ったのではあるが、その結果として、幕府の「嫌疑と嫉妬」が余計に膨らんだ事が起こった。

その子孫の縁籍筋の「紀州藩家臣と成らなかった郷士衆」が、“どう成ったか”の問題が潜んでいたのである。

この「実家先の一門等」もが、「生活の糧」を確実に得る事に成り、彼等の「思惑(戦略)」も成功した事には成った。

そこで「彼等の思惑(戦略)」も成功した事なのだが、この雇った「大量の家臣団」は「幕府」に「謀反」と疑われた位の「大仕官団」であった。
この事からも、余計に幕府は不穏に思ったのであろう。(浅野一門の残留族も雇った。)
唯、「幕府の上層家臣団」も関東域の秀郷一門の「同族同門の秀郷一門」でもある。
(家康が藤原氏を名乗った位のものであった。)
とすると、「上層部の幕閣」と「将軍の取り巻き筋」の「頼宣謀反」を感じる位に「大懸念や恐怖」(嫉妬)と成って居た事を示す位のものであった。

そこで筆者は、前段でも論じたが、更に詳しく云うと、この「謀反」と疑われる根拠には、「伊勢藤氏の家臣の量」だけでは無かったと考えていて、その”「質」”にも「恐怖」を持たれるものがあったと考えている。
此処が「青木氏の歴史観」としては重要である。
これが「本論の殖産」であり絶対に述べておかなければならないものなのである。

この嫌疑と成る「殖産」は、そもそも「青木氏の二足の草鞋策」の「片方の草鞋」でもあって、「左右の草鞋」があって両立して成り立つもので、江戸期に成って始めたものでは決してない。

唯、その「殖産」が上記した様に「戦略的」で少し違っていたので、”「嫉妬に近い嫌疑」”が増幅したのであろう。

慣例外の「旧領までを本領安堵」、そこに「殖産推進」、そして「全国青木氏一団」、「伊勢の紙屋の背景」、「15地域の商業組合の成功」、「伊勢藤氏の結束」、「伊勢信濃シンジケートの影の力」、「西の政権(朝廷)との繋がり」等を総合的に咀嚼すると、何か「東の幕府」に対して”「西の幕府の樹立」”を企んでいるのではないかとする「謀反」に近い「恐怖」を感じ取っていたのではないかと観ている。

考えて観れば、「謀反力」、即ち、「政治力(朝廷の御旗と賜姓族の権威)」、「経済力(豪商と殖産)」、「軍事力(西の大名と地域力)」の「三つ力」は現実には備わっている。
そして、「戦費を賄う豪商」と「朝廷(西の政権)」と繋がりのある少なく成った「権威性を持つ氏族」が揃えば「紀州藩」には「大義」は成立している。
「御三家」とは云え、他の二家にはこの「大義の条件」は揃わない。

更には、「頼宣」対する「家康の亡霊」がある。
そもそも、「頼宣入城」後の「藩主」と地元の「大豪商」や「郷氏」と「藩士」の「郷士」の結束は、前段で論じた様に「土佐山内氏の様な事件」を普通は起こす位であり、当時としては「紀州藩の成り立ち地」は「珍しい現象」であった。
「幕府の見方」としては、「紀州」は、“もう少し乱れるのではないか”と観ていたのではないか。
然し、「御三家」の「尾張」も家臣団との間でごたごたしているのに「紀州」だけはそうでは無かった。

このギャップから、“「家康」に可愛がられた「頼宣」何する者ぞ、“と「江戸の嫉妬」も半分は有ったと観られる。
「謀反」は兎も角も、条件の揃った「紀州藩の発言力」を低くして置く必要があって、「幕府」に執ってはある程度、「名声や信用」を落として置く必要が戦略的にあるとしていた筈である。
これは最高権を持った者の宿命であろう。
最初に採った手(謀反嫌疑)が、「紀州討伐」等をした「秀吉」も手こずった位なのに、「頼宣の紀州」は上記の様に政策上で余りの高い実績が上がり、次第に「恐怖や懸念」に変わって行ったのであろう。

「権謀術数」の世の中、「幕府内の勢力争い」はあり得る中では、公にしないまでも「謀反」に近い考え方は少なくとも幕閣は持っていたとする方が妥当であろう。
現実に、見方を替えれば、丁度、100年後に「紀州藩」は、以上の「五つの勢力」が揃って、遂には前段の通りそれを背景で江戸に持ち込み「謀反」とは云わずとも、将軍家系列ではではない「傍系の吉宗」を「将軍」にしている。

何時しか「東の幕府」を倒してまでとは云わずとも「吉宗の将軍の座」を獲得しているのである。

唯、この為の「殖産」とまでは云わないが、「五つの勢力」が整い、その時の「政権の低質さ」から「御三家」として「将軍の座」を狙ったとする事が「謀反の定義範囲」とすれば納得出来る。
筆者は、紀州藩は「謀反の定義範囲」には有ったと考えている。

この「謀反の定義範囲」の事では、「伊勢の秀郷流青木氏の家臣団」が親族でもある「伊勢屋紙問屋の伊勢青木氏」等と「江戸の秀郷一門の同族の官僚族」と共に、取り組んだ事が考えられる。

つまり、最終は「謀反」と定義されながらも構う事無く、“「頼宣」が敷き、そして「吉宗」が仕上げた“とする見方である。
「伊勢の家臣団」に成らなかった「伊勢郷士集団」と、「伊勢から南紀までの職能集団」(生産集団)と、「射和にそれを取り扱う郷士の商人」(販売集団)を「飛び地領」に殖産と云う名分で配置したのである。

この様に「紀州藩」を側面からサポートした「育ての親の青木氏」としては、「頼宣」までは「謀反の嫌疑」は霧消したかに見せて置いて、そして、その「意志」を継いで50年後には「吉宗」が「謀反の定義範囲」で成し遂げたと考える事が出来るのである。

(注釈 ここが「土佐山内氏」との違いであって、その「政治手腕」に嫉妬と嫌疑が働いた違いであり、更には、”その「殖産と云う戦略」が極めて優れていた”と云う事に成ったのである。)

この意味でも、世間では、これが、“総称「松坂商人」(松阪組 射和組)“と呼ばれる所以でもあり、この中で、“「射和商人」(射和組)”と、特別に(1785年頃から)に世間では呼ばれる様に成った由来でもある。
つまり、「伊勢商人」の「射和商人」の呼称には、この「裏の意味」を持っているのである。

「青木氏」と「生き残った郷士衆」とは、「伊勢信濃シンジケート」の関係で「古くから血縁」があった事が判っているが、「射和衆」に関しては「女系」の為に記録も辿り着けない。
遺された一部の系譜には、「女系の嫁ぎ先の事」は「添書」にしか書かれていないので、単純に確証が採れないのである。



そこで、尚の事なのであって、この「女系の嫁ぎ先の事」の諸事に付いて、「射和衆との絡み」もあるので改めて少し論じて置く。
「青木氏の歴史観」としては持っておいた方が実態は掴めるだろう。

そもそも「青木氏」には、前段で論じた様に、“「四家制度」”と云う組織が古来より在り、この「組織」に依って「四掟」からの「血縁」などが決められていた。
当然に、前段で論じた様に、この間には「門徒衆の秀吉からの救出劇」も在って、そこで新たに「射和地区」でも上記の「新殖産」を興して、旧来の「射和の郷士」(木綿、白粉)と共に「商業」も発展させようとした。
そして、この発展の中で、「確固たる組織」にする為に「青木氏」としては、元々の概念(「四掟」への「女系策の補完策」)を基に「射和の女系の流れ」を創った。

“「創った」”と云うよりは、「射和衆」を救うという役(「賜姓五役」)の為には、「必然性の概念」として“「生まれた」“と云う事であろう。

本来は、「青木氏」としては、“「子孫」はその勢いに任せて無制限に広がれば拡がる程良い”とする概念は元より無かった。
この「四掟」の「四家制度」では、「20家の青木氏」が定められていて、この「限定した家」には、上記した「仕来りと掟」に依って、「定められた範囲の一族の者」が配置される。
それを支える「氏上と氏人の関係」や「伊勢信濃シンジケート」と云う「互いに助け合う影の裏組織」や、「青木氏部と云う職能集団」が有って、そこには、「青木氏の嗣子(男女の養子の嗣子制度)」の場合は、一度立場を「家人」に移して、「女子の嫁家先」と共に「伊勢衆」等に「跡目として入る組織」をも古来より制度として確立していた。

上記した「青木氏部」と、「殖産の職能集団」と、「伊勢シンジケートの郷士集団」の「三つの青木氏の下部組織」に、「青木氏の嗣子(男女)」等は、“「四家の福家」”の指揮で、選ばれてこの“「家人(家臣)の形」”で入っているのである。

(注釈 上記で論じたが、奈良期から敷いている“「四家制度」”に依って、この「三つの青木氏の下部組織」に入る場合は、先ず「男子の嗣子」は、直接に“「青木氏」”で入るのでは無く、一度、“「家人(家臣)」”に成った上で、この「下部組織の家の跡目」に入る「仕組み」と成っている。
然し、慣例としては、この制度は「四家の嗣子の直系男子数」が少ないと云う理由で基本的には少ない。
それは、優先的に「五家五流の跡目に移動」と云う事もあって、基本的には「家人の跡目」に入る事は少なく成るが、慣例外では無かった。)

(注釈 唯、元より「家人の家」(「嫁家先」)で、「四家制度」で育った「養女の女子」が「青木家を興し生まれた「嗣子」(「義嗣」ではない)も「四家の跡目の資格」を同等に「養女の女子」として持っているのであるから、「青木氏側」から「家人側」への「男子の跡目」で無くても、「家人側」からの「青木氏側」への「男子の嗣子」が発生する。
従って、この場合も「氏内の養子」(義嗣ではない)なのであるから同じ事に成り得る。)

更には、上記した様に、「射和衆・射和郷士」との場合は、主に「男系」だけで繋ぐシステムでは無く、「四家制度」の「定義」によって、「射和衆・射和郷士」に「養女の女子」の嫁ぎ、そこで生まれた「嫁家先の嗣子の者」が先ずは「青木氏の家人」として成る。
そして、そこで別の「青木氏の娘(養女の女子・曾孫域)」が「家人と成った嫁ぎ先」に入る「仕来り」が採用されていたのである。
この血縁方法で「射和衆・射和郷士」との関係が広げていった事が良く判る。

つまり、先ずは「青木氏との繋がり」を「青木氏の娘(養女の女子・曾孫域)」を嫁がせ「青木氏の家人」として作り上げた上で、その上で二度目の「青木氏の娘(養女の女子・曾孫域)」を嫁がせる「仕組み」である。
これで「深い女系の血縁関係」が成立する仕組みである。

況や、如何なる場合に於いても何にも「青木氏との関係の無い家筋」には嫁がないと云う事である。
それは前段で論じた“「四定以成異性不養之固掟也」”の掟に伴い、次ぎの旧来の「注釈の掟」(「四掟」、「同祖祭祀」、「同世男系」)が有る事に縛られているからである。

(注釈 「共同養育の制」として、この「家人」に入った「娘」の「嗣子」の一部は、「孫域・曾孫もあり得る」までは「男女」を問わず「青木氏の子」として「四家」に入り共同で育てられる。
養育方法は「氏内」の一種の今の保育園か幼稚園の形体であろう。
此処で「青木氏」として「共通する教育」を受け、「そご」の無い様にその「認識とレベル」を統一させる事に狙いがあったと観られる。)

多くの遺された資料からよく読み取ると、次ぎの様な結論が出る。
年齢は女子では、普通では13歳で最小は10歳で最高で15歳、男子では、普通では15歳で最小で13歳で最高で18歳として、まとめると資料から何とか読み取れる。

つまりは、男子は15歳が成人、「雛人形の論」の処でも論じた様に女子は13歳が成人の儀式が行われたと記されている事から、普通はこの儀式が基準と成っていたのであろう。

(注釈 本来は「仕来り」であり「四掟に関する事」から「御定書」と成るものがあった筈であるがなぜか災禍で消失している。
恐らくは、この「儀式の基準」は、血縁を確定させる為にも男女ともに「初潮の生理」に左右されている事が判る。ょ

況や、その前の血縁関係は、「出産不可」から結果として前段で論じた“「嗣子」“では無く”「義嗣」“の「養子や養女の形」に成り得る為に成立しない。
従って、確実に速やかに「血縁状態」が成立する為には、この「生理に依る年齢基準」が「青木氏」では定められていたと考えられる。

この様に「女系の形」でも入る「四家のシステム」に成っていた事から、間違いなく繋がっている事は判っているのである。
つまり、「四家制度」の「子の定義」に入る範囲の女系の「男女の子」が、「四家の福家」に依って「優秀な子」が選ばれると云う「青木氏の仕来り」が有る以上は、上記した様に「家人」で無かった郷士の場合は、一端“「家人の形」”と成って「血縁関係」を結ぶ制度を持っていた。
これは「奈良期」から積極的に進めていた「四家制度」と「家人制度」を結び付けた制度であった。
これに依って「血縁に依る家人」が増え強化される制度であった。

「青木氏」では「性の差」を基本に「賜姓五役の役目」は「男系」を原則とはするものの、「女系」を問わず“「嗣子」”は平等に扱われ、それを基にした縁籍を繋ぐこれを“「家人制度」”と呼ばれていた。

「重要な歴史観の注釈」として、前段でも論じたが、本来、「青木氏」では「自然神」を基とする「皇祖神の子神」の「祖先神の影響」がある事から、「祖先神の神」は「女神」である。
この事から「青木氏」には、“「人」”は「女」に依って繋がれると云う「固有の概念」が在って、封建的な「男尊女卑の様な考え方」が根本的に無かった。
唯、「男女」には其の「性の差」による単なるその「役目としての違い」があると云うだけの概念であった。

現代の遺伝子学的にもそうなっている事から、この「祖先神の青木氏の概念」は正しい事であった事を意味する。
そして、「青木氏の密教浄土宗」でもこの概念は生きていて、例えば「女墓」(伝統-3)と云う慣習もある。
又、「青木氏の家訓10訓」(家訓1と家訓2)にも「女系」(人)を重視する概念は生きている通りである。

この様に「氏族の賜姓族」の「四家制度」と「家人制度」を考察して観れば、「江戸期初期」の時点で観れば、「郷士の姓族」とは、「姓族」は「室町期中期」から発祥している事を鑑みても、「約350年以上」、「郷士」の前身の「鎌倉期中期の伊勢豪族時代」からでは、「約500年以上の期間の縁組」である事に成る。
数少ない「35程度の伊勢郷士衆」(江戸初期)とは、35族/350年とすると、1/10と成り、10年に1回の血縁と成る。

(注釈 日本の最も早い「姓族」は、瀬戸内から出た「海部氏」と云われている。)

「四家の20家」に生まれる「男女の子」が、「1家-5人」の子供として、「100人」、この内、二人を「家人制度」で「三つの組織」に縁組したとすると、「40人」が対象と成る。
これが、「1代-40年」とすると、「40年-40人」と成り、「10年-10人」と成る。
「10-10」/「10-1」から10倍と成り、40-35族/10倍=「4のパラメータ」と出る。

恐らくは、「全体の青木氏」でも、最低限、この範囲(「4のパラメータ」)で「四家制度」を保っていれば「家人制度」を維持する事が出来て、「最低限の血縁関係」は保てる。

つまり、この「4のパラメータ」(上記計算の検証前提: 「四六の古式の概念」)で行けば、“「青木氏」は正常に維持される”との「基本認識」は持っていた事に成る。
従って、平安期中期にまでに定められたレベルのこの正常に維持される「4のパラメータ」の範囲では、「賜姓族の宿命」の「純血性」を保つ為の「同族血縁の弊害」は起こらないとする定義(「四家制度」には「天動説」から来る「陰陽道」の「四六の古式概念」)があった事に成る。

この「家人制度」を維持されると云う前提を護れば、“「四家制度」を正しく保てる定義”でもあった事に成る。
況や、この「二つの関係」は互いに「補完関係」を維持して居た事に成り、「青木氏の存続の大前提」であった。

つまり、それは、突き詰めると“「人」”であって、故に、“「女系」”であると云う前提に成り、これが「青木氏の家訓」に成っているのである。

この様に「賜姓五役」の「純血性を保つ事」には、「家人制度」と下記に論じる「妻嫁制度」と共に、発祥時の奈良期(647年)から「男系女系の区別ない概念」が絶対的不可欠であった事に成る。
これが他氏の男系に拘る数少ない「氏族」や「賜姓族」や「臣下族」とは異なる所以であって、「青木氏」が生き延びられた「根本原因」であった事が頷ける。

それは現在でも通じる「人の遺伝子学」と「青木氏の人の概念」が一致していた事に由来する。
先祖の凄い「透視力」と云うか「真理力」であったと当に驚き入る。


さて、この「青木氏の概念」で以って、「殖産の射和」を観た場合、どのような役割を果たしていたのが疑問に成る。
そして、この「殖産」で、上記の「生産力」は兎も角も、”その「松阪の販売力」(経営力)は足りていたのか”と云う疑問が沸く。”

それを「射和と殖産」で次ぎに論じる。実は大いに影響していたのである。


> 「伝統シリーズ 38」に続く
 

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「青木氏の伝統 36」-「青木氏の歴史観-9」

[No.355]:「Re:「青木氏の伝統 36」-「青木氏の歴史観-9」 
     投稿者:福管理人   投稿日:2017/07/22(Sat) 16:17:28
> 「伝統シリーズ-35」の末尾

>さて、そこで、「同宗・同族・同門・同紋」の文言とは、要約すると次の様に定義されている。

>「同宗」とは、「大日如来」を神とする「密教浄土宗」であり、「祖先神」を「守護神」とする事。
>「同祖祭祀」(「神仏同源」)の補完策が取られた。

>「同族」とは、「皇族賜姓臣下族」の「志紀真人族」で「朝臣族」である事。
>「同世男系」の補完策が取られた。

>「同門」とは、敏達天皇の「春日真人族」を「第四世族」であり「同祖同縁」として「志紀真人族」を「青木氏とする族」である事。
>「女系策」の補完策が取られた。

>「同紋」とは、「氏族」の「象徴紋」を「笹竜胆紋」とし、「神木の青木」を「氏の象徴木」である事。>

「鞍作部止利作の賜物」の「大日如来坐像」をステイタスとする事。
>「嵯峨期の象徴と禁令策」の補完策が取られた。

>この様に「四掟」を補完して定義されている。
>これが「青木氏」を理解する上での重要な「青木氏の歴史観」なのである。
>この「歴史観」が無くして「世間に出ている歴史」を読むと大変な間違いを起こす。




「伝統シリーズ36」に続く

さて、「伊勢の青木氏」(信濃にも入る)に執っては跡目として「頼政の子(仲綱)」の子の「京綱」が平安末期に入るが、
この「頼政」に関しては「青木氏の歴史観」として多くの事が遺されている。
これを掘り起こして置く。

「頼政」は「摂津源氏の四家」の四代目である。
「平家台頭」に依って発祥から200年程度で「源氏族」は衰退した。
その中で何とか仲間を騙し、「平家」の中で生き残りをかけた。
この時、「青木氏」と関わったが、その関りが「跡目」であった。
原則として、前段でも論じた様に「四家制度の掟」に依って、跡目の「嗣子」は「四掟」で、他氏からの「跡目嗣子」は長い間禁じられていた。
「嗣子」と云うその「固い掟」が、その壁と成っていた。
然し、「四掟」からはその「固い掟」そのものを否定する事は「源氏族」には無かった。
ここが「青木氏」と違うところで緩やかであった。
唯、「慣習仕来り掟」の長い間の流れの中では、これが「難壁」と成っていた事であったが、「嵯峨期の詔勅」でこの流れが一変したのである。


当然に、「同祖同門の源氏族」から始めて、「跡目」を入れる事に成った「青木氏」としては「青天の霹靂の歴史的な事」ではあった。
然し、「新撰姓氏禄」に依って明確に定義された事で、「同祖同門」と成るのであるが、それ故に青木氏側には「四掟」に依る論理的には無理は無かった。
唯、「11家11流」あるどの「賜姓源氏族」でも良いという事では無かった。

(注釈 「源氏」と言いながらも「賜姓」を受けられなかった「真人族の源氏」が多く、各賜姓を出した天皇には必ず単なる源氏も居た。
殆どは、結局は、生活に困窮し比叡山か善光寺や地方の土豪の家に入った。
「11家11流」とは言えど、その資格を何とか持ち得ているのは実質は武力集団を構成した「清和源氏系」である。
「宇多源氏」でも搾取偏纂が多いし、源氏の中でも「嵯峨源氏」は「清和源氏」に融合された。)

そこで「四家」を構成する「摂津源氏四家の始祖」の三代に付いて関連事項を述べて置く。
先ずは、「三人の遙任」の受領、或は、守護地は次の通りである。

・「満仲の受領・守護地」
 摂津、越後、越前、伊予、陸奥、武蔵、下野、信濃

(二度の役の摂津を領国とする。「武家貴族」として「嵯峨源氏」(母系)を郎党とし「武士団」を形成する。全国域) 

・「頼光の受領・守護地」
 美濃、尾張、但馬、伊予、摂津、信濃、甲斐

(満仲の摂津国を護り引き継ぐ。但馬を受領する。「摂津四家」を形成する。中部域と関西域)

・「頼政の受領・守護地」
 摂津、美濃、伊豆、相模、下野、上総、下総

(摂津を引き継ぎ伊豆と相模国を受領する。関東域)

さて、そこで果たして、これを観て、同祖同門であるのなら「清和源氏の宗家の摂津源氏」には「神社仏閣の修理」は何所までを命じられたのかと云う疑問がある。

それは、出来たとしても上記の17国の「神社仏閣の修理」である。
この「関西域から中部域」にかけての「天領地」が存在する地域とされていて、それは「六国」であろう。

つまり、これに依って、「嵯峨期の詔勅」に依って、以後は、「青木氏」は、「皇親族」として、或いは「賜姓族」として賜姓を受ける事はなくなった事で、「青木氏の祖先神の神明社」の「神社仏閣の修理」を含む「新規建設」が一時的に留まったのかと云う事が判る。
又、その「内容」と「期間」に依っては「青木氏の歴史観」が判る。

その「期間」としては、「神明社の荒廃」が進んだ時期は、「嵯峨期」では未だ続けていた事が判っている事から、源氏の清和源氏が政治に関わって来て、上記の「青木氏の定住地」に入って来た920年-930年代頃から「青木氏」は「賜姓五役」として摩擦を避ける為に手を一時引いた事に成る。
当然に、「青木氏の祖先神の神明社」の「神社仏閣の修理」からは手を引いた事にも成る。

現実には、「守護」が「賜姓青木氏」に代わって「賜姓源氏」と成った以上は、「賜姓青木氏」は「旧守護の郷氏」である事に成り流れとしては手を引く事に成るだろう。
両者が共に片方(源氏)が守護をし、もう片方(青木氏)は「神社仏閣の修理」をすると云う事はあり得ないであろう。

そもそも、源氏立役者の「三人の受領・守護地」は「青木氏の定住地」でもあり、「天領地」のある処でもある。
「賜姓青木氏」から「賜姓源氏」に変わった事で、故に、「源氏」に対して正式に「朝命」としてこの「赴任地の受領・守護地」の「神社仏閣の修理」を命じられた事と同じ事に成ると考えられる。

然し、未だ、この時期には、領国として受領した「摂津の国」を除いて、この地域には「賜姓源氏族」は「守護神の八幡社」と「密教の菩提寺」を各地に作れるほどの「財政と技量の状況」にはなかった。

(注釈 但し、「武家貴族」から離れた「武勇の頼信」の「河内源氏」にも「八幡社」が存在していたとしているが、他の源氏族地域と同様に「鎌倉期の後付」ではないかとの見方が強い。)

故に、荒廃した自らの守護神の八幡社だけの修理に留めたと観られる。

結局は、「祖先神の神明社の修理」は、「頼政」が「志紀真人族の青木氏」に「京綱の跡目」を入れた時期までと云う事に成る。
少なくとも、この時期からは、”「青木氏の力」を借りる”と云う「手立て」が成り立ち、この事で「祖先神の神明社の修理」の大義は成立する事になり、再び、「青木氏の守護神」である限りは修理は始めたと考えられる。

従って、「祖先神の神明社の修理」は、「青木氏」に依って“「1150年頃以降」”に再び始まった事に成るだろう。
然し、「治承期」には、最早、平家が66国中32国を支配するに至り、その「平家台頭期」からその支配地域に関して以上には、「守護神」であるとは言え「賜姓青木氏」に依る「祖先神の神明社の建設と修理維持」等の事は到底勝手には出来なく成るは必定であるだろう。

従って、続く乱世が保元(1158)-平治(1159)-治承(1180)-寿永(1185)の乱とすると、詳しくは、上記の通り「1150年頃以降」に再び始まった事に成るだろうが、“1165年代頃”からは再び無理にでも出来なく成った事に成る。
つまり、再開後、15年間程度で、又、中断した事に成る。

結局は、時系列的に観ると、次ぎの様に成る。
「頼政(1104年生誕-1135年家督を引き継ぎ)」は、「1140年頃」に官位叙任して出世した。
そして、「賜姓平家の台頭」の中で「賜姓源氏族」として上手く泳ぎ、「1178年頃」までに最高位の「正三位」と成り、「受領・守護地」(「伊豆の受領」を特別に希望した記録)に「京の遙任」を敢えて止めて赴任した。

そして、この間に、「孫の京綱」の「青木氏跡目」も「青木氏の資料」から「1167年-1170年頃」(頼政53歳頃)に行われた事が「公的記録」や「青木氏の記録」でも判っている。
つまり、「平家の権勢」の中で「伊豆の守護地」を特別に臨んだ事に「頼政の戦略的意味」があり、「先々の事」(源氏四家再興)を考えて準備していた事に成る。

と云う事は、「青木氏」が“「皇親族」”から外れ、大きく変化した時期の「嵯峨期(在位824年-没年842年)」では、この「嵯峨期の20年間」は「同祖同縁」である事から何とか「賜姓五役」を務めた時期と成る。
然し、その後、「約108年間(950年頃 「秀郷流青木氏の補完策」まで)」は中止した事に成る。
ところがその後、再び一時は始まるが「220年間(1170年頃 )」で再び中止に成った。
この間の清和期の「1135年頃から1178年頃」まではより「安泰期」であった事には成るが、これも「13年間(頼政以仁王の乱 1180年)」で中止した。

「青木氏」に依る「祖先神の神明社の建設と修理維持」等の事は、結局、再び始まったのは「源氏の政権」が樹立した「鎌倉期」である。

そこで、「青木氏の歴史観」として問題がもう一つある。
それはこの鎌倉期の何時頃から始まったかは、「青木氏」の中に判断資料と成る欠片も何も見つからない。
何故なのかは解らない。この時期には資料消失の事故は無い。

「賜姓五役としての務め」として「青木氏」に依る「祖先神の神明社の建設と修理維持」等の事が出来る様に成ったのであるから、「幸い」である事に成る。
然し、どこかに何か「関連した内容の事」でもが書かれている筈なのに無いのである。

(注釈 この「青木氏に関わる歴史的な記録の務め」は、本来は「神明社の守護神」か「氏寺の密教菩提寺」が執事として勤める役目の「慣習仕来り掟」にあった。)

この「不思議な事」は、「青木氏の中」で“「書けなかった混乱」”が発生していた事以外には考え難い。
これは大きく「青木氏の歴史観」に関わる事ではあるが、“何なのか”である。

先にこの事に付いて是非検証してみる。

この「執事の記録」は先ず考えられる事は、「氏寺」よりも「神明社」であろう。

それは全国の「神社仏閣の建設と維持管理」は「氏寺」よりも「神明社」の方が格段に多い。
「神明社」は“「神明造り」”と云う奈良期からの「古式造り」である。
従って、この「各種技能」の「青木氏」に関わる多くの「技能種」は「青木氏部」の中で培われている。
他では、「皇祖神の伊勢神宮」に関わるもので、その「子神」としての「古式造り」を造り維持する事は他に出来ない“「特段の技能」”である。

そうすると、全国500社以上に上る「神明社」と「氏寺の菩提寺」と、その「分社」「分寺」を維持するには、夫々の「国の社寺」と、「伊勢か信濃」の本部にこの「特段の技能を持つ者」を抱えておかなければならない。
しかし、そんな「不合理な事」は幾ら「青木氏」でも無理であろう。

当然に、一か所に統括して、夫々の社寺から連絡を受けて「人物金を手配する事」に成る筈であろう。
つまりは、それが「青木氏部」と云われる「古来からの技能集団」である。つまり「青木氏部」である。

少なくとも歴史上の存在する記録として、「伊勢」に「青木氏部」が奈良期から歴史的に常駐されていた事は明白である事から、ここから「人物金の統括」をしていた事に成る。
当然に、これ等の「建設修理に伴う資材の調達と運送と警護」も担わなくてはならない事に成り、これ等の全体を効率よく手配する部署が必要に成る。
これらの「責任」を「青木氏の四家」が持ち、各四家が担当し手配していた筈であり、当然に「商い」の「伊勢屋の紙問屋」も関係する事にも成る。
又、直接に「青木氏部」が任されて責任を持っていたかの問題とも成る。

この問題は、この三者の一か所だけで全てを賄える能力を持ち得るのかと云う判断が出て来るが、到底、無理であろう。
総括責任の「指揮支配」は「青木氏」、「物品の手配」は「伊勢屋の紙問屋の総合商社」、「技能者の手配」などは「青木氏部」と云う事に成るのではないか。
当然に伊勢だけでは無理と成り、「信濃の力」、時には「甲斐の力」も求めたであろう。
これを「信濃」を含む「四家の者」が主と成って一体で担当していたのであろう。

(注釈 記録にもある様に「補完役の伊勢の秀郷流青木氏」も平安中期から合力をしたが、どのような「補完役」を演じていたかは、近江の秀郷流一門の記録の流れから考えると「運輸面の実質の警護」にあったとある。)

さて、次の問題は、この「記録」を誰が担っていたかに移る。

筆者は、当にこれには”「御師制度」”が絡んでいたと考えている。
「神明社の御師」には多くの「仕事種」があった。

中でも、記録で明らかに成っている様に、全国の「神明社」を経由して全国の「全ゆる情報」を集め、「福家」に提供する役目もあった。
これには、「諜報活動」もあり、「商いの情報」から「神明社の荒廃状況」等までも報告していた。
この事からすると、「青木氏の福家」には、「伊勢屋の紙問屋の長兵衛」と「青木氏部の差配頭」に対して「指揮支配」をしていた事に成る。
これを受けて「青木氏部の差配頭」(「隅切り目結紋の青木氏」)に「指揮支配」をし、それに必要とする「物と金」を「伊勢屋の紙問屋の長兵衛」に「手配依頼」していた事に成る。
後は、「差配頭」が「運搬と警護」を「伊勢シンジケート」等に手配する事に成るだろう。

恐らくは、これらは「享保の改革」に執った「江戸の伊勢屋」と「伊勢」との「連絡体制」(記録)からも解る様に、“「会議」”を開いたと観られる。
とすると、「疑問の記録」は、「青木氏部の差配頭」が執っていた事に成る。
従って、「伊勢」の「青木氏部の差配頭」に「記録消失」の何かがあった事に成る。

ところで、「松阪」は、「不入不倫の権」で護られていながらも「四度の災禍」に見舞われた。
「松阪火災が二度」、「信長災禍が一度」、「平安期末期と室町期初期の乱の災禍の二度」と成る。
後は、江戸初期に神明社は徳川幕府に引き渡すが財政難から全国的に荒廃する。

「伊勢」の「青木氏部の差配頭」には、少なくとも五度以上のこの「全ての大災禍」に直接的に影響を受けている。

そこで「伊勢」には、「青木氏」が関係した「神明社系の社」は「30社」あり、この内、「1社」は当に「青木社」、残りの「2社」は「青木氏」に関わる「同祖祭祀神」、残りの「27社」は「祖先神の神明社」である。
この「青木社」が「守護神の神明社」の中でも、「氏族全体」をより「神仏同源」として祭祀していた「社」であり、「伊勢松阪」は、「皇祖神」の「伊勢神宮のお膝元」として、「青木氏の色合いの強い神明社」を祭祀する事は困難であった。

そこで、「青木氏の記録」によれば、「四家の桑名殿」の地域に「神明社系の青木社」を設けたのである。

(注釈 「施基皇子の子」には、「春日王」「壱先濃王」「桑原王」「白壁王」「湯原王」「榎井王」が居て、桑原域は、「桑原王」の住地であった。)
 
「松阪の西」の「名張地域」にも、「松阪の北」の「員弁地域」と「四日市地域」にも、もう一つあった様で、この「四つの神明社」には同時に、「神道祭祀」でもあり、「菩提寺の氏寺」も備え、且つ、この「氏社と氏寺」は「護りの城郭」としての目的も持つ「平館」としての役目も果たしていた。
歴史上で本格的に「青木氏」に降りかかった「桑名と名張と上田」の「三つ戦い」の際には、「護りの館」としても働いた有名な「氏社」と「氏寺」でもある。

この様な「役目」としてもあった事からも「神明社」ではあったが、これを須らく「青木社」と呼ばれていた。
現在では、「桑名の青木社」と「名張の神明社」と「四日市の神明社」が寺社共に遺っている。

筆者は、従って、「青木氏の歴史」として遺すとすれば、この「桑名の青木社」に遺されていたと観ている。
然し、唯、「桑名」と共に「北の備え」として役目を果たしていたが、「桑名の左横」の「員弁の神明社」が「上田の戦い」で消えている事から考えると、此処に遺されていた事も考えられる。

つまりは、「青木氏部の差配頭」(隅切り目結紋)は此処に住んでいたとも考えられる。
従って、「記録」が消えたと考えている。

唯一つ、この事で考えておく必要があるのは、この「青木氏部の差配頭」の家紋から観ると、つまり、「隅切り目結紋」が関東域にも存在する事である。
と同時に、「神明社」の「柏紋の神職」の末裔も、「越前」を除くと「関東域(埼玉)」にも多く分布する事である。

本来は、「伊勢」に5年毎に帰る「仕来り」に成っていたのである。
全国に移動しながら「社の修復」に関わっていたので「青木氏部の差配頭の子孫」は、この「桑名市多度町付近域には絶えなかったのである。
鎌倉期から室町期を経ての「戦乱」を経て「目結紋の青木氏」が関東域に残るはただ事ではない。
「柏紋の青木氏」と共に残しえるだけの事があったという事であろう。

(注釈 故に「神仏同源」であったこの”「青木社」”としてはここに残せたのであり、、これが「桑名市多度町小山」にあり、現在は本体は平地小山の上に「祠の様な構え」で祀られていて、過去は大きな鳥居(現存)を持つ社であったが、現在はこの「大鳥居」は周囲に威容を放つ様に目立って遺跡を遺している。
この「多くの神明社」は中部域から北勢域に存在する中の功績なのである。)

「伊勢」には、この様な「祠」の様なものも含めて「970の神社」があると云われているが、これでも最も「社関係」が少ない地域でもある。
全国は元より「伊勢の神明社系の30社」は、多くはこの様な「祠の状況」に成っている。
その原因は、江戸初期に「青木氏」から徳川幕府に移管した事で財政難から著しく荒廃した事とし、又、合わせて「密教」を廃止し「顕教令」を発して急激に移した事で「支える信徒」が少なくなった事と、「他宗の勢い」にも影響している事にも依る。

全国の神明社の多くは、この様に成っているが、この「伊勢桑名市多度」の「青木社」に関してだけは、「青木氏の口伝」で、この「桑名一社」だけは江戸期以降も”「青木社」”としての呼称で維持したとある。
その後、第二次大戦にて大鳥居だけを残し消失し、昭和21年5月に「多度の小山に屋根付きの祠」を再び建設し登録した事が判っている。
”「青木社」”のここを何としても残そうとしたのは「目結紋の青木氏」と共に「柏紋の青木氏」と「「桑名殿」が地域に居た事の所以でもある。

(注釈 唯、「頼朝」は「1197年」頃から特に「地方政治」に「力」を入れ、「武家体制」と「幕府体制」(格式と権威の確立)を強化した。
この時、長い間の乱に依って「神社仏閣」が「戦いの根拠地」と成っていた事から荒廃し、これを立て直す政策と、全国に「平家の残党」が多く残る治安状況の中で実施する為に、ここを、つまり、「神社仏閣」を拠点として「守護や地頭」等の配置を実施した。
この為には、「拠点」は元より,乱に依って疲弊していた「人々の安寧の場」としても重要な「神社仏閣の社会整備」が急務と成っていた。

(注釈 取り分け「頼朝」は、この初期は「北条氏等の反対」を押し切って「頼朝が思う政治体制」を強引に敷いた。
公的に成っている記録として、「格式と権威」を樹立する為に、「神社仏閣」などに深く帰依し保護して推進した。
取り分け「皇祖神の「伊勢神宮の保護」と、その子神の「祖先神の神明社の保護」には目立つほどに「政治力」を注いだ事が判っている。)

その為にも、「志紀真人族」で「武家貴族」の「青木氏の賜姓五役の力」を利用して、「伊勢」は元より「天領地」と成っている「五地域の整備」(「青木氏の定住地と組織力」、「青木氏の権威」、「青木氏の財力」、「青木氏部」を利用)に力を注いだ。
その事に依って、「朝廷の力」(権威)をも利用した。
つまり、「皇祖神の伊勢神宮」に代わって各地に多くの信徒を抱える「祖先神の神明社の力」を利用した事に依る。

それ故に、「祖先神の青木社」を含む「神明社」を守る「目結紋の差配頭一党」は、正倉院にも残されている程に「関東」に於いても鎌倉期から室町期まではその子孫は関東に於いて絶える事無く保護された所以でもある。

これには、鎌倉幕府と室町幕府はどうしても「賜姓臣下族の青木氏の五家五流」と、それを補完する「秀郷流青木氏116氏」の「力」を利用する必要があった。
それには、彼らを「引き付ける権利」を与える事であった。
これが、「北条氏等の反対」を押し切って実行した頼朝の“「本領安堵策」”であった。
過去には「青木氏」と敵対した「足利氏」も「本領安堵策」を採った。

(注釈 「伊勢の天領地保護」には力を注いだ。)

(注釈 「坂東八平氏の傍系」の「北条氏」等に執っては、この「格式と権威」は「利害の反する事」であり、記録に遺る程に「強い反発」を受けた。
取り分け、「義経」は「清盛の影響」を強く受けていて「頼朝」以上にこの「官僚的な考え方」が強かった。
「二つの青木氏」は、「二つの青木氏の氏是」に依って関わらなかったが、これが生き残りの要因の一つに成った。
仮に、「同祖同門の第七世族の末裔」の「坂東八平氏」に関わっていれば「同門の戦い」に成りどうなっていたかは判らない。
身の危険を感じながらも反対を押し切ってでも行った「頼朝の本領安堵策」が「同祖同門」を引き付けたのである。)

恐らくは、「南北朝の足利氏」や「室町末期の織田信雄」や「長嶋や根来や松阪の秀吉」との「闘い」の様な「シンジケート」を使った「影の戦い」と同じ戦いに成っていた事が充分に予想できるが、大きくは手を出さなかった。

取り分け、「伊勢の天領地保護」には力を注いだが、「以仁王の乱」で「鎌倉幕府樹立」のきっかけを作った「頼政の孫」の「京綱の青木氏」が「政治的中立」を保った事から、「北条氏の反対」を押し切ってでも「本領安堵策」を実施し、その為か「青木氏」の奈良期からの旧来の「平家に奪われた土地」までも本領安堵(中勢域から南勢域)された。

(注釈 平末期から「紙を使用する文化」が徐々に進み、鎌倉期には、最早、「紙」は通常の物と成り、室町期には世の中が乱で荒廃する中でも、「紙」は専用の用語として“「紙文化」”とも呼ばれる程に逆に花開いた。 
「二つの青木氏」は、この「紙の文化」の進歩と並行して「氏族」を拡大させ強化させ、「巨万の富」を獲得した。
これには{南勢や南紀(秀郷流24地域と信濃域も含む)}までの「旧来の本領安堵」が大きく効果を発揮させ、進む「紙文化」の「紙生産の殖産地」に成った
この様に”「青木社」”が物語る様に、「鎌倉期と室町期」は「本領安堵策」で力を蓄え、そして「江戸期」にはこの「抜群の力」で生き抜いたと云える。

この「青木氏の歴史観」を物語るには、「柏紋の青木氏」と共に「目結紋の青木氏の存在」が欠かせないのである。

(注釈 「皇族賜姓臣下族の青木氏」は「五家五流」の「五地域」、「賜姓臣下族の秀郷流青木氏」は「116氏」の「24地域」、合わせて「121氏-29地域」である。
この内、強大な勢力を拡大させたのは、合わせて「15地域」で、この内、「秀郷流青木氏」は「10地域」と、「五家五流」の内の「三地域」が「政治、経済、軍事」の「青木氏の基本勢力」を拡大させた。
この「15地域」は、「二足の草鞋策」で「巨万の財力」を共に協調して獲得した。
これには、「秀郷一門361氏」の「主要16氏」の内、「青木氏族」と呼ばれる「主要8氏」が勢力を拡大させた。秀郷流青木氏は116氏-に支流分布)

この事から、再び、「青木氏」に依る「祖先神の神明社の修理」は始まったと観られる。

然し、上記の事や注釈にある様に、「歴史の政治的経緯」の中には確定的な物が観られない。
何故、この事に関わる記録資料が見つからないのかは、この「歴史的変化」からは判らない。
だとすると、「青木氏の中」にある事に成るのだが、無いのである。

全国の「祖先神の神明社の修理」は「皇祖神の子神」として認められて進んだ。
ところが、この頃(1000年頃)からの「青木氏に関わる資料関係」は多く成っていて、「室町期初期」(1334年)に成って「下剋上と戦乱」の影響を受けて、この資料からも「神明社」は一時荒廃が始まった事が書かれている。
ところが、「「鎌倉文化」とそれに続く「室町文化」の“「紙文化」“と云われる文化が興り、「青木氏」は本領安堵された事も伴って「巨万の富」を獲得するが、何故か不思議に「祖先神の神明社の修理」に関する「歴史的な経緯」を示す記録資料は見つからない。
「巨万の富」を獲得し、「青木氏に関する記録資料」が多く成ったのであれば、「祖先神の神明社の修理」に関する「歴史的な経緯」を示す記録資料が出て来てもおかしくはない。

つまりは、「修理するに必要とする財力」は充分に獲得している筈なのに、無いのである。

これは次の事が考えられる。
先ず、「三つの事」が考えられる。
「皇祖神の子神」の「祖先神の神明社」には「修理」は及ばなかった事を意味するか(1)
「青木氏」が「修理」はしたが何かの「記録を遺すシステム」に障害が起こったか(2)
遺したが一度に消える何かが起こったかであろう(3)

「前者二つの原因」(1)(2)は戦乱であった事もあり、全て考えられる状況であった事は頷けるが、(2)は少しは遺るであろうし、一度に全てが消えるのか(3)では疑問である。

上記した様に、記録に関しては一度に全てが消える事からすると、(3)だけが原因していたのだが、「青木氏部の差配頭」の「隅切り目結紋」の一門が預かる「神明社」の「主社の青木社の焼失」が原因である事が頷ける。

注釈として、さてこれを裏付けるかの様に、この「桑名地域一帯」には「桑名殿の青木氏」と共に、この「職能家紋の青木氏」が符号一致した様に実に多いのである。
「松阪」には、後で建設された「伊勢神宮」に関する「新しい社」が多く、この「古い祖先神の神明社」は無かった事が伝えられていて、現在も60社ほどの社が祭祀されている。
然し、「神明社の祭神」としては無く、且つ、「皇祖神の子神」であるにも関わらず無い。

これには原因があって、これは次の”「古来の慣習」”に依るもので、「神宮遷宮」に於いて中国地方から各地を遷宮して、最後は、紀州で「遷宮」は落ち着きを示しすが、最終は「伊勢松阪」に落ち着いた。
然し、そもそも、各地の「遷宮地」には、この「遷宮の仕来り」に依り「子神の神明社」は祭祀されていない事に成っている。

そこで因みに、「伊勢の神明社の分布」を見本にすると次ぎの様に成っている。
先ず「青木氏の定住地」に多く分布する。

「青木氏の口伝」によると、「南勢の旧領地」には、平安期より「1社」あったが、歴史の中で「南勢」は「熊野神社の聖域」であった事から消失して無く成ったとの事である。
一時、この「南勢の遠祖地」は平家と熊野の圏域に置かれ、その事で削除されたらしいとの事であった。
これは現実に云える事で恐らくは”「事実」”ではあるだろう。

そこで「正式な神明社」としての分布は次の通りである。

桑名 13(15) 員弁 3 四日市 4

三重郡 3 鈴鹿市 2 亀山 1

名張 1 志摩 1

津 0 松阪 0 名張伊賀 0

他の8地域 0

これを観ると、「青木氏の聖域」、或は、「神明社の聖域」の範囲が良く判る。

明らかに”「北域」”に集中しているし、当時の聖域図が読み取れる。
併せて、この分布でも、「南勢の旧領地」の事は「平家熊野の説」は納得できる。

「伊勢」を除く「他の四家四流の聖域」も、この「神明社の分布」で観る事が出来る。
この事はある程度の研究資料があるので何時か論じてみたい。

この分布をみると、”「北域」”に「勢力圏」を持ち、その「勢力圏」は「西と東」に分割している。

上記した神明社の中でのこの“「青木社の存在」”はこれを物語るもので、此処に記録資料が保管されていた事の証拠にも成る。

記録に依れば、「松阪」の西域の「名張」にも、江戸期以降にも「青木氏」が管理維持する「独自の神明社」が秘密裏にあった事が記されている。

これは「江戸期」という環境の中では重要な事である。
神明社返還後、勝手に「独自の氏社」を持つことを禁じられている中での「青木社」である。

この「青木社」は「完全な神仏同源」であった事が書かれていて、恐らくは、その事は「室町期末期の青木氏」が実戦した2つの内の一つの”「伊賀の戦い」”(他は北部の「上田の戦い」)で活躍した「清蓮寺城と清蓮寺」がそれに当たる事が判る。
これが「青木社の条件」を備えていたのである。

つまり、「松阪の代わり」にして、「城郭的意味合い」を持たせ「福家」がここを「全体の指揮の拠点」にしていた事が考えられる。

念のために注釈として、「家紋分析」でも「青木社の存在」と、その「目結紋の青木氏」には、要するに「青木氏」には「家紋」と云うものはそもそも無く、「志紀真人族」であった為に「賜紋」としての「笹竜胆紋」を「象徴紋」としている。
但し、朝廷の「賜姓五役」を務める事から、その朝廷が定めた職能に関する文様が次の三つあった。

一つは、「神木の柏」の「三つ柏文様」
二つは、「職能の印」の「目結文様」
三つは、「賜姓源氏」から「青木氏」を名乗った時に使用する「丸付き紋様」(限定)

以上が「青木氏」に認められている。

「神職の青木氏」の「三つ柏紋」、「青木氏部の青木氏」の「隅切り目結紋」、「摂津源氏」が九州大口村で「青木氏」を名乗った「丸付き笹竜胆紋」

以上の「三つの文様」がある。

「佐々木氏の研究資料」にもこのことが書かれている。

後に、室町期頃からこれ等は家紋的に用いられ現存する。

「柏紋」と「目結紋」(桑名多度域)は、朝廷記録や正倉院などの記録にも遺る由緒ある「古来の文様」である。

そもそも、「賜姓五役」を務める為に「部組織」を持つ「青木氏」にだけ使用を認められた格式のある文様である。

これ等の分布は、「柏紋」は伊勢では「名張地域」を中心として「北東の紀州域」までと、桑名、員弁域に多く分布する。

この事から、「桑名の多度小山の目結紋」の平館があって、「名張の清蓮寺城」では「柏紋の神職の本拠地」としていた事に成る。

故に、「神明社」が「神仏同源」とする事からも、「柏紋の青木氏の住職」が多く存在する所以とも成る。

つまり、此処を拠点として、「神職と住職」を養成していたと観られる。

故に、「神明社」が存在する全国の地域には、「目結紋の青木氏」と共に、この「柏紋の青木氏」の末裔が存在する所以と成る。

次に、「目結紋の青木氏」は、「桑名地域」と「員弁地域」を拠点としていた事から集中的に分布する所以でもある。

この文様も「全国神明社の分布」に従っている。

これで上記の「記録の保存の疑問」これでは解ける。


さて、「疑問の記録保存」から話しを戻す。

「青木氏の歴史観」をより深めると、平安期のこれは(1)、つまり、「皇祖神の子神」の「祖先神の神明社」には「修理」は及ばなかった事を意味するか(1)
で、「皇親族」を外し、その「賜姓五役の役務」を外し、それに代わる「源氏族」に任せようとした。
然し、結局はこの策は出来なかった事に成り、あらゆる「社殿修理」は“「放置状態」と成った事”を意味する。

取り分け、「皇祖神の子神」である事から「建設、修理、維持、布教」は「朝廷の勢力」を補完する事にも成り、牽制されて「神明社」は荒廃した。
結局は、平安期から江戸期末期までの期間で上記と多様な経緯から「青木氏」が「修理保全に携われなかった期間」は、この意味でも「神明社」は荒廃したのである。

更に取り分けで、「江戸期全期」は「青木氏」より幕府管理下に引き引き渡した事から「神明社荒廃」は「密教の事」もあって「荒廃」は酷かった。

”「桑名の青木社」”や”「名張の清蓮寺城」(青木社格)”はその意味で「青木氏の歴史観」を大きく物語っているのである。

(注釈 上記の務めである(1)である以上は、「神明社の荒廃」は「青木氏」は意地でも見逃すことは出来なかった。
何らかの形で残す工夫が必要であった。
それが「青木社」か「青木社的神明社」であった。
「青木氏の定住地」の「主要地15地域」には、この「青木社格の神明社」が観られる。
この内の「四地域」、つまり、 「伊勢」、「信濃」、「伊豆」、「越前」は、「青木社」である。)

さて、そこで「桑名や清蓮寺」のみならず、これは、言わずもがな他の「青木氏の定住地」でも全く同じ事が起こっていた。

「秀郷流青木氏の主要地」でも、この事は例外では無く、有名な例として、古来から存在する”「武蔵の四つの神明社」”はその意味で「柏紋の神職の定住」と、「柏紋の住職の定住」と、「目結紋の青木氏の定住」はその歴史を具に物語っている。
つまり、江戸期の中で表向きは「神明社」であっても、「神明社」と云うよりは関りは明らかに「青木社」である。
それは「甲斐青木氏」を出自に持つ「柳沢吉保」がこれに積極的に関わったからでもある。
当然に、「柏紋の青木氏」と「目結紋の青木氏」の二つも「現地孫」を残しながらも関わっているのである。

明らかに「江戸期の青木社」である。

見本として論じた「伊勢域」から遠く管理の行き届かなかった「関東域」には、「青木氏部」をこの「武蔵の地」に定住させて、ここから奈良期からの悠久の歴史を持つ「古来の神明社」(江戸期の青木社)を何とか遺そうとしたのである。
流石、お膝元の「武蔵の神明社」を態勢は整えたとしても「青木社」とは出来なかった。

これを始めたのは、「神明社」は当然として「主要な神明社」に対しては「青木社的な条件」を整え始めたのは、急の事ではなく、そもそも、「1000年前後頃」であった事が判っている。

丁度、「秀郷流青木氏」が「補完役」として働き始め力を保有した時期に相当する。
つまり、「補完力、財力」は「基本力」として勿論の事として、「過去の荒廃」に対する備えとして以後この様な事が無い様に既に「青木社的要素」を高めたのではないかと考えられる。
その対応が、大半は荒廃するが、全てを失う事なく「江戸期」で生きたという事ではないかと考えられる。
その意味で「甲斐青木氏の出自」を持つ「柳沢吉保の先見と行動」を高く買うところでもある。

(注釈 現実に「源氏のエピソード」のこの事の「摂津源氏の史実」がある。
そもそも、「賜姓源氏」は「八幡社」、「藤原秀郷一門」は「春日社」である。
それには、「皇親族の青木氏の商の財力」と奈良期の古来から保有する「青木氏部の技術力」には「源氏力」は到底及ぶ能力が元から無かった事を意味した。)

(注釈 確かに「賜姓源氏族」は、”「武家貴族」”ではあるが、”「家を構成する氏族」”としても矛盾する持ってはならない「武力集団」でもあった。
ところが「賜姓五役の氏」としての「務めの手段」は、現実に「氏族」として元から無かったし、待たなかった。
これは当時の「朝臣族の慣習仕来り掟」としては明らかに矛盾であり、故に「源氏部」も無い。
従って、「氏の守護神」とする「八幡社」を建設する場合は、「青木氏部」などの「技能集団の部」を持つ氏に発注し、故に「莫大な財源」が必要であった。)

(注釈 結局、この様な「賜姓清和源氏」は、その存続のためには、「嵯峨期の詔勅」の事もあり、先ず摂津に居た「清和源氏宗家」が、生き延びる為に近江で土豪化した「嵯峨族の末裔」や「山賊などの不祥の武力団」を集め、「武家貴族の名誉」をかなぐり捨てて、「武力集団」を形成して生き延びようとした。
この事に、朝廷内から顰蹙(ひんしゅく)をかって蟄居してしまう羽目に陥る。)

(注釈 従って、「朝臣族の慣習仕来り掟」の中では「平安期」の”「家」の持つ意味”が異なっていった。
現在の「家」と異なる所以でもある。
「朝臣族の慣習仕来り掟」を頑なに守っている「天皇」に仕える「斎蔵を司る公の家」に対して、「侍を司る武の家」の”「家」”の事である。
これは「朝臣族の慣習仕来り掟」を順守しての”「家」”なのである。)

取り分け、つまり、「源氏全体」にも朝廷の勤めに応じるこの事に関わる「青木氏部の能力」と「同じ組織力」として持ち得ていなかったのである。
依って、余計に朝廷内の公家からは顰蹙は増幅した。
と云う事は、嵯峨期の詔勅に依って「青木氏」に代わって「源氏族」が行うべき「賜姓五役」であると朝廷の中で「公家族」から見られていた。
この史実から、この間の「青木氏」は、政治的情勢に合わせて「都の関西域」の「祖先神の神明社の修理業務」を一時止めていた事に当然に成る。

これは、「11家の賜姓の源氏族」の「主家」は、その「格式」を何とか護る為にせめて「朝臣族」として”「遙任」”を選び「都」に留まる事を選んだからでもあろう。
責めて”「遥任」”でなければ、持ってはならない「武力集団」を持っている中で、到底に当時は「武家貴族」とは完全に認められていなかった筈である。
世間の目は揶揄的であって、そこで、この「源氏族」では何とか「武家貴族」であろうとはしたが、「源氏族内」には「武力集団」を主張する派(A)と、「四家制度」を採用して「武家貴族」を守ろうとした派(B)とに分かれた。

取り分け、(B)の摂津源氏の四家の中でも、「頼政派」はより「武家貴族」を守ろうとして「公家の味方」を取り込んだ。
それだけに「信頼」は厚く後の「平家」の中で生き延びられたのである。
ただ頼信系の「河内源氏」は、徹底して(A)派であった。

そこで、「頼政」は、領国を護る為にも「武力集団」の代わりに、「伊勢と信濃の同祖同門の一族」を味方に付け、その彼らが持つ「影の力とその財力と権威」で護衛団に仕立て上げた。
それが「伊豆領国」の「伊勢信濃の完全融合青木氏」である。
「頼政」は後にこの為に「遥任」を拒否し伊豆に入った。
(これは戦略上に大きな意味を持つ。)
従って、(B)派の「源氏頼政」を長く述べたが、「伊豆」のここの「祖先神の神明社」は、「笹竜胆紋」の「完全な青木社」なのである。
「従三位の頼政」は「伊勢と信濃」と、そして「伊豆」に「青木氏と源氏族」の同宗同門の(B)派を構築したのである。

(注釈 「越前」は別の意味で(B)派の影響を持ち、後に、つまり、「青木社」が構築された。後勘からすると「1000年頃から始まって1150年の頼政の影響」を受けて「青木社の条件」の一つに成り得た。戦略上平家台頭と専横の中である。)


「頼政」から話を戻して、少し前の時代に、最早、この中では「賜姓五役」は無いと観て、“この侭では政治的に拙い“とした「円融天皇」が、「将門の乱の功績」から「俵玄太の藤原秀郷」に直接に特例を以て「嵯峨期の詔勅」を使って「青木氏」を名乗る事を許した。
そして、永続的に「秀郷一族宗家の第三子」に「青木氏の補完役」を命じたと云う事に成ったのである。
「摂関家の藤原氏」は、この事について「猛反発」をしたとある。

当然に、これは「青木氏」に換えた「賜姓源氏族」に委ねようとしたが、矢張り、上記の通りの矛盾を抱えたままでは無理であったからである。
そこで、この事に依って「賜姓臣下族」の「青木氏の賜姓五役の役務」(970年頃)も元に戻したと云う事に成る。

従って、「頼政の事」も含めて「青木社的要素」を拡大させながら、少なくともこの間から鎌倉期までは「神明社の役務」を抱えた侭で続けていた筈であった。


そこで、この(1)を更に掘り下げるとして、この様に、何百社(約500社)と云う「神明社」を全て建立から修理、維持、管理、神職、配置等の一切を「取り仕切る」と云う様な事を「身内の青木氏」から外せばどのような事に成るかは馬鹿でも判っていた。
そもそも、「皇親政治」が廃止されたにも関わらず、「賜姓五役」は廃止されたのではなく、その侭の「継続の義務」(嵯峨期)が暫くは課せられていた事に成る。
これは「政治の矛盾」であろう。
「政治の矛盾」と云うよりは、”「出自元」”であるという事を考えすぎた「嵯峨天皇の計算間違い」であろう。

確かに、「施基皇子」が行った様な「政務までの義務」(「紙屋院」と「絵処院預」以外の政務は継続)は消えた事ではあった。

その証拠の一つに、「皇祖神の子神」の「祖先神の神明社」の「建立と維持と管理」は、混乱期の室町期の「下剋上期」からを除き「江戸初期」まで断続的ではあるが継続されていた。

「平安期の混乱期」でありながらもそれを支えたのが、所謂、円融期以降は、「補完役の秀郷流青木氏の役処」もあったが、再び以前と同じくして「朝廷の紙屋院」と「絵処院の政務」を担当した。
且つ、これに合わせて日本初の「和紙の開発」から始まった「殖産と興業」を兼ねた「二足の草鞋策の採用」(財政的な安定)があったからだ。

つまり、恐らくは、「嵯峨天皇」は、「監察使の制度」と「皇親制度」を廃止はしたが、「参議の制度」を一部に遺した。
この事から、政務上は急速に換える事はしなかった事に成る。

(注釈 だからと云って「賜姓源氏族」にこの「参議の役務」を与えたかと云うと詔勅でも与えていない。)

もし、本当にするとすれば、出自元の「真人族」からの「青木氏」への「皇子の移籍の制度」も無くしていた筈であり、「国政」で最も大事な「国民の安寧」を願い救う的とも成る「神明社の建立」等は「青木氏」に任せなかった筈であり止めていた筈である。

「天皇」としては、「神明社」に関しては、「天皇本来の務め」として疎かには出来ない事であり、自らの「天皇としての立場」を否定する事にも成り、「出自元の青木氏」に顔向けはできず疎まれる筈である。
いくら「天皇」としてもこれは「出自」が同じである以上は辛く出来ない事であろう。
書物を見ると性格的にはそんな事をする「嵯峨天皇」では無かった。

(注釈 ところが「出自元の青木氏」は、財政上は問題ないのに「賜姓五役」の内の「神明社関係」を恣意的に緩めたのである。
矢張り、これは戦略上は牽制した事に成るが、これが単なる「賜姓五役」のみならず「青木社的要素」を強め始める「一つの要因」とも成ったと考えられる。)

当然に、そもそも「賜姓五役と神明社」は、「一対の務め」である以上は、「出自元の事」である以上は「神明社の体制」を保全する立場であれば、「監察使の役務」として重要な「賜姓五役」も解消しなかった事に成る。

従って、「志紀真人族の青木氏」を外し全てを「政治的矛盾」のある「賜姓源氏」とするは、政策上、これと共にこれは一種大きな矛盾する政策の処でもある。

恐らくは、この時、「嵯峨天皇」は、「賜姓源氏」が「青木氏の務め」の少なくとも身内であるのだから”「社の保全」くらいはするであろう”と安易に考えていた事にも成る。

(注釈 未だ、この時は「八幡社」はなかった。)

(注釈 「青木氏」は、平たく言えば「源氏族への当て付け」、つまり 「牽制策」、”やれるものならやってみろ”ではなかったかと考えられる。)

これを”「嵯峨期の詔勅」”の文章から読み取ると、「天皇」は、“朝廷の現在の「財政状況」からお前たちを賄いきれないから、はっきり言えば賜姓する代わりに自分で何とかせよ”と云っている事に成る。
この「文章の裏」には、この「賜姓と云う意味」には、今まで”「青木氏が遣っていた事位の事」”が読み込まれていた事に成る。
現実にその様な意味合いを含む「文章」に成っている。

又、そもそも当時は、“「皇族の者」(第四世内二世族の第六位皇子の真人族)が「賜姓を受けるという名誉」”とはそのような意味を持っていた事にも成る。
唯、「単純な名誉」の為のものでは無かった事に成る。

ところが、注釈として、「監察議」や「参議」とは、そもそも「令外官」であり、「勅旨」などの「正式な任命書」などは無く、「従四位下」以上の「永代位階」を持つ「臣」の中から、「才ある者」を「天皇」が選び、「執政の太政官」と会して全ゆる面で「朝政の意に導く役務」(皇親族)であった。

然し、この事に付いてどこまでとする等の「令」に基づく「正式な定書」は組織の慣例上は無かった。

そもそも、判り易く云うと、“「天皇の意志」”を反映させる今でいう“「実行型秘書」”である。

「政治と軍事と経済」の「三権」を以って「天皇の意向」を「反映させる制度」(当に「天皇の近衛」である以上は)である。

そもそも、上記の意味では、「臨時的に認証される参議の臣」では無く、「青木氏」は、元々が「天皇を護衛する直接役務」(監察役)を負った「浄大一位の格式」を持つ要するに「永代参議」であった。

(注釈 賜姓する源氏には、この務は詔勅に書かれていない。”自分で生きよ”で何もないのある。)

つまり、「天智天武の天皇」が云う“「護衛の臣・近衛の臣」”とは、何も“「侍て天皇の身を護る」“だけではなく、「侍(候)」は“「天皇の意向」を「反映させる」”の事の意味と成り得る。
これが“、後に「北面武士」と呼ばれた制度と成ったが、「隣の部屋」に昼夜居て「天皇」に「侍う」の意味”であって、いつ、何時、「天皇の命」が下るか分らず待ち受ける事を以て「さぶろう」なのである。
ただ単に、「北面武士」の様に”身辺を警護するだけの意味”では無かった。

(注釈 「北面武士の制度」が、藤原氏が排斥されてその反発する「藤原氏の危険」から逃れるために採った「上皇を護る制度」だけに成って短命に終わる。)

現実には、記録で見ると「政治的な動き」に対して即応して「勅命」は就眠中の時にも下る事もあった。
平安後期(1100年頃)にはその目的が相当変わり、「一部の行為」として上記の“「北面武士」”と呼称された所以とも成ったものである。

(注釈 初期の”「侍」”は、平安後期の後には「歴史書物」では”「候」”と記する様に成っている。
つまり、この頃には、この”「侍」”と”「候」”は「同じ意味」成していた事に成る。
「門跡院」に居る「上皇を護る臣」から「侍の語源」とする説もあるが、この説の根拠ではないかと考えられる。)

そもそも、大化期に始まった「宮廷の警護・近衛」などを行う「近衛の役」が平安中期頃からその「役処」が形骸化し変化して行って、遂には「上皇の院政」が始まり、「反対派の勢力」が「上皇」に及ぶ事と成り、実質、身辺の「門跡院を警護する役目」を果たす様に成った。

従って、この頃には、当初の「参議等の役目」は、最早、既に消えていた。
つまり、「青木氏」だけが永代に持ち得ている弱くなった「役務処」と成っていた。

前段の初期で論じた「天智天武期の施基皇子」に観られる様に、「追尊の天皇」とされる程の「永代参議役」でもある。
従って、上記の注釈の様に、「周囲の環境習慣」が変化しても「青木氏」の「監察議」や「参議」の「役務の変更」は無かったのであり、「矛盾のない所以」と成る。
これは一時の「時代の変化」で「役務処の変化」が起こったが、「青木氏」に執ってはこの「一時の中味」が「重要な歴史観」である。

それが、「賜姓五役の神明社」等を通じて起こり、「青木氏」は「青木社的要素」を次第に強めた。

そもそも、”強めた”と云うよりは、「皇祖神の子神」の「祖先神の神明社」であって、且つ、「青木氏の自身の守護神」でもあるが、その「守護神性を強めた」という事になるだろう。

「皇祖神の子神」の「祖先神の神明社」<「青木氏の自身の守護神」=「青木氏の事情」(青木社的要素)

この「青木氏の事情」には、上記の事もあったが、ここを「拠点」として「二足の草鞋策」が進んだ事にも依る要因でもある。

例えば、そもそも、「守護神」とは、「皇祖神の子神」の「祖先神の神明社」の「神職の青木氏」、「密教浄土宗の独自の菩提寺」を持ち、「柏族の青木氏の神職と住職(達親)」と、それに伴う「永代身分格式」を持つと云う風に変わる事のない「氏の仕来り」は定まっていなければならない。

そこで、「皇族賜姓族」は、「臣下族」として「最上位の氏」として認められていたのであって、奈良期から最初に出来た“「朝廷の斎蔵」”に仕える“「公家」”に対して、「天智天皇」は「大化改新」の「政治改革」に依って、新たに“「天皇の警護役(親衛隊の臣下族)」”として仕えさせる“「武家」(氏の家)”としてこれを公認したのである。

それが「青木氏」や「佐々木氏」の「武家」(臣下族・朝臣族・参議役)であって、「天皇家」と強く結ばれた「公家族の藤原氏」(斎蔵・公家)等であった。
本来の「武家」は、要するに「臣下族と朝臣族」は当然の事として、「参議役」が備わっていなければならないのである。

これが、念のために「家人の定義」としては、「天皇の警護役(親衛隊の臣下族)」として仕える“「武家」(「氏の家・賜姓五役の格式」)”としての「公認族」の「下支族」を、”「武家」の「人」”である事からこれを“「家人」”と呼んだ所以なのである
江戸期に呼ばれた「家人」と異なり、平安期の「家人」の語源は根本的な違いはここにある。
この「家人」については、「青木氏の歴史観」として是非に知っておく必要がある。

この「武家族」は、「天皇の警護役(親衛隊の臣下族=賜姓五役)」である事から、「侍(さぶろう=さむらい)」と呼んだが、「武家の家人」はこの当に「侍(さぶろう)」であって、その「武人(たける)」として扱われ、あくまでも「人」であって「臣」とは扱われていなかった。

「天皇を警護」の意味は、当時は「広義」に捉えられていて、「政治を行う天皇」に対してそれを「手足と成って補佐するという意味合い」を持っていた。
この事から「神明社の建立・維持修理」などの「賜姓五役」が定められていた。

(注釈 そもそも歴史観を生かす「基本知識」として次の事を認識する必要がある。
当初の「侍の語源」は、「人」と「寺」から成り、この「寺」は「真人族」を意味し、この「真人族」は「宮廷」を「象徴」として「寺を特別に固有出来る身分」を指した。
その「真人族=寺」の意味から、この「寺に寄りそう人」で、「侍(さぶらう)」の用語が使われる様に成った。
然し、その後、平安期後期に使われた「侍(さぶらう)」の用語」とは「門跡」に入った上皇を護った者を「侍」とする説が出来たが、この場合は、“「武勇を以って主君に仕える」”の事から“「認証の武士」”の呼称に区分けされる。
平安期前は「もののふ」の語源とも成った“「朝廷に仕えた文武の官人」”の事で“「認証の物部」”と呼称した。)

(注釈 当時の文章の中から読み取ると、次の様な「定義」が成される。
そもそも、「侍=候」の「侍(さぶらう)」の用語には、“「朝廷に仕えた文武の官人」”の意味があり、 “「武勇を以って主君に仕える」”にはそもそもその「意」は無った。
そもそも、「官人」ではないし、「官人」は「位階六位以上の者」が成り得る。
つまり、これに依って、「侍」は、「位階を持つ者の官人」の定義が成立する。
更には、当時の「学識」をも持ち得る”「文武」”と、持ち得ない”「武勇」”の差にも定義は由来する。
この「侍の構成族」が、「貴族」が構成する「位階四位以上」の「公家」に対して、「位階六位以上」の”「公認の武家」”を成し得る。
現実に、この様に「言葉選び」が成されている。)

(注釈 この文章の”「武勇の者」”では、室町期中期までは”「家」”を成し得ない「定義」と成り、この「仕来り(定義)」は護られていた。
従って、平安期後期の「門跡の侍の説」は間違いである。
この「定義」からすると、「平安期後期の説」は、平安期にあった呼称の面から”「文人(官人)」”の“「文士」”に対しての“「武士」”の呼称と成り得る。
つまり、”「公家」”に対して”「武家」”とは、「家・格式」の呼称であった様に、「文人」に対しての「役目」の呼称の「武士」(「文士」に成る)には成らないのである。
存在しなかった呼称の”「文士」”と成って仕舞うのである。)

(注釈 「臣下族の武家」には、「もう一つの役目」があった。
前段でも論じたが敢えてここで註釈する。
それは、「皇族賜姓族の役目」として、つまり、「天皇家への準継承族」として常に”「純血性」”を保持する事であった。
その為には、「福家」や「四家制度」と云う「特別の形態」を作り上げて、「三つの発祥源」と「国策氏の役目」(賜姓五役)を担っていた「氏族」である。
この“「家人」”は、この「賜姓氏族の役目(「賜姓五役)」を「調整実務として果たす役目」を担っていたのである。
従って、「氏族の家人」は「同じ氏人」でもあって「家主」と共に「朝廷の同役目」を果たす人であった。
然し、そうでない「姓族」の場合は、「同じ姓人」でない事から”「家人」”とは成らず、「家の来」(「家来」)なのである。
「不特定多数の武者を集めた集合体」が「姓族」であるからだ。)

一 「武家(氏族)の発祥源」  「象徴賜物」は「伝家の宝刀」
二 「侍の発祥源」   「象徴賜物」は「将騎」としての「伝家の黒檀の軍杯」
三 「朝臣子の発祥源」  「象徴賜物」は「伝家の馬杯」
四 「国策氏」 「象徴賜姓物」は「永代正二位青木朝臣左衛門上佐」として「伝家の家紋刀掛」
五 「融合氏」   「象徴賜物」は 「陣笠」と「黒瓢箪」(江戸期は鎧兜着用)

以上は「賜姓五役」と呼ばれ、天智期に「準継承族」として「象徴賜物」を授かっている。
(これは現在も保存伝承されている。)

そもそも、本来は“「臣」”とは、「天皇に仕える直接の役務」であって、故に、「皇族者」が下族した「臣下族」に用いられた「専用の言葉」であった。
本来、”「臣」”とは「従四位下」の以上の位階を持つ者を呼んだ。

上記の様に元の意味は、「姓族」の「江戸期の武士」に使われた「家臣」の「臣の意味」に使われるそもそもの用語では無かった。

上記した「賜姓臣下族の氏族」の”「家人」”に対して、江戸幕府の「権威付け政策」から「姓族の将軍」に仕える者を敢えて「家」と「臣」とを結び着けて”「家臣」”と云う造語を作り出したのである。
従って、仮に使うとするならば、「氏の臣」として「氏臣」と呼ばれる筈であるが、「姓族」そのものは、「氏」を構成する朝廷が認可した「氏族」では無い事から、つまり、「異なる家」の範囲で構成する「姓族」である事からそのものは”「家臣」”と呼称する様に成ったのである。

これは、江戸期の衰退した”「形式上の西の政権」”を構成する「朝廷」に圧力を掛け続け、結局は「幕府に仕える姓族」を”「家臣」”にする事で「権威ある役務」と認めさせた経緯を持っているのである。

本来は、幕府を開いた「将軍」は、「征夷大将軍」の称号を持つが、これは「朝廷の軍」の「最高位の称号」であって、「政治」を司る「政権」を持つ立場の位では無かった。
”「軍位の臣」”であって、最初にその「軍の位」の「臣の意味合い」を強くしたのが、日本を制圧統一した「桓武天皇」の臣の「坂上田村麿」である。

(注釈 その「桓武天皇(山部王)の母」が「光仁天皇の妻」で「後漢の阿多倍王の孫娘」に当たるが、この後漢から帰化した「阿多倍王(高尊王・平望王)」と「敏達天皇の芽純王の孫娘」との間に生まれた長男が「坂上氏」の賜姓を受けたのである。 
「光仁天皇」は「施基皇子の四男」で、「准皇位継承者の施基皇子」は「伊勢青木氏の始祖」である。
つまりは、「坂上田村麿」の「臣」は「青木氏の母方の縁籍族」に当たる事に成る。
依って、本来は「臣」であるが、「准皇位継承者」の立場にもあり、これにて“「臣」が政権を担う事が出来る”と云う理屈が成立して、「次男の頼信系清和源氏の頼朝」が「臣」としてこの「准皇位継承者」の立場を根拠に「鎌倉幕府」が成立した。
依って、そもそも「真人族」か「朝臣族」の「臣下族の臣」が「政権」を持つ事が出来るとする根拠は「光仁天皇」に由来するのである。)

(注釈 前段でも論じたが、日本を「東の政権」(幕府)と「西の政権」(朝廷)とに分離し政治を行う形式を江戸期でも形式的に、且つ、形骸化していたが継続して採用された。
この「西の政権」には、幕府から人を送りこんでの「監視下」にあり、殆どは「官位官職位の授与」と殆ど無く成った「天領地の財産管理」と「伝統祭祀」だけであった。
然し、「形式的な政権」としては存在して居たので、「西の政権」の「明治期の政権取り戻し」の「大義」が円滑に成立したのである。)

それが室町期の中期頃から「姓族」(瀬戸内域から出た「海部氏」が記録上では最初)が出自する様に成って、「武士」の上では「家来」と呼んでいた。
江戸期に成って、その身分に合わせて「武家諸法度」などで“「武士」”には「一定の義務」が与えられ、その「義務」として「雇用促進策」として農民等の庶民から「奴 やっこ」と呼ばれる者等を雇う義務が付加された。

それを「賜姓族の臣下族の習慣」に真似て、江戸期に成って「男子 おとごし(男中)」や「女子 おなごし(女中)」も含めて「家人」(けにん)と呼ぶようになった。
要するに、「武士」を「武家」に構成する為に採った徳川幕府の「苦肉の策」であった。

これで、本来は「平安期の用語」からすると、「武士諸法度」だが、この「苦肉の策」で「武家諸法度」としたのである。
其れに合わせて、「公家諸法度」として「一対の組み合わせ」で「辻褄」を合わせてたのである。
「徳川幕府の権威の擁立」の一つの策としたのである。

つまり、「青木氏の歴史観」から観ると、室町期からの「高級武士」に仕える「家臣や家来」と、「賜姓族の臣下族」に仕える「家人」とには“「仕え方」”に違いが在った。
確かに、「家臣や家来」の意味も持つが、”「家人」”には字のごとく「人の意味」を強く持つものであった。

ここが「青木社の持つ意味」の根幹部である。
「青木社」を支えるすべての者は、「繋がる人」で支えられていたという事であって、江戸期にあっても秘密裏に守り通した所以でもある。

ところが、江戸期に使われたこの「家人」の言葉の意味とは、「人の意味」と「身分格式」も異なっているのだが、上記した通り根本的に「氏の構成」の前提に無く「姓族の構成」の前提にある。
つまり、この「青木氏の家人の仕来り」を、「姓族」の中に無理にそっくりと取り入れて、これを江戸期に真似たものである事に成る。
従って、「家臣や家来」の中には、この「武家の意味合い」、又は「家人の意味合い」を出す為に、「徳川氏」の中には、「家臣や家来」とは別に、態々、この「家人制度」を採用して務める者もいた。

要するに、「吉宗」の享保期には、「伊勢加納氏」の様な“「側用人」”にこの「武家の意味合い」、又は「家人の意味合い」を持たして「家臣や家来」とは別に「特別視」させていたのである。

「藤氏と源氏の二つの流れ」を強く持つ「武家の氏族」の「足利氏の室町幕府(武家貴族)」と違い、「幕府制」を引き続いた「姓族の徳川氏(松平の姓族)」の“「幕府」”と云うものに対して、上記の“「武家」“の「慣習仕来り掟」を持ち込み”「権威付け」“を図ろうとしたのである。

(注釈 徳川氏は「姓族」であった事から「幕府制」を採る為に必要とした「征夷大将軍の称号」の「武家の頭領」の称号を申請した朝廷はこれを与えず、妥協して”「長者」”としたのである。
そこで、搾取偏纂で徳川氏は、「家臣」と成っている「藤氏」と「源氏」の「末裔の親族」であるとして、別々に主張していたが、「朝廷」は頑なにこれを認めなかった。
現実には、室町期中期までの系譜は搾取であるが、幕府樹立後、女系として「貴族」や「氏族」や「武家」の血縁を万遍無く取り込み「権威確立」に成功した。
「青木氏」では「四日市殿」(立葵紋に変紋)が、頼宣期に「勝姫末裔」で血縁して縁籍関係に成っている。)

「家康」は初めは「源氏の朝臣」として名乗っていたが、幕府樹立した時からは今度は関東の秀郷一門を家来にし、その末裔として「藤原の朝臣」として名乗り替えて、その「秀郷一門」を「御の家人」(御家人)として呼称させ「朝廷の臣の理屈付け」をしたのである。

「吉宗育ての親」の「氏族」(武家、貴族、賜姓族、臣下族)の「青木氏の家人」(家人の位階は六位)により近づける為に、「公家下の位階の最高位」の「従五位下の官位」を与えて敢えて「氏族扱い(氏族の伊勢藤氏の支流末裔)」とした。
これに依って、「養育役の加納氏」には「養父の久政」から引き継いだ「久通」に、この特別の「家人の権威」を与えて「吉宗の取次役・調整役」の重職を命じた。
同じく「綱吉」の時には、「甲斐の時光系青木氏」の「柳沢吉保」にも「家人の側用人」を務めさせた。
「伊勢加納氏」と「甲斐柳沢氏」の二人は、「守護神や菩提寺」等の「氏族」が持つ上記の「家人要件」を全て備えている。
この類似二例が有り、何れも「青木氏」と所縁のある「由緒ある氏族の末裔」である。
他の「側用人」は「政治的な用人」でこの「氏族の家人要件」とは明らかに異なっている。



そもそも、この“「人の意味」“とは、「賜姓族の臣下族」の「慣習仕来り掟」から観て、「家臣や家来」よりも「主人との家族的な絆の主従関係」が強い関係にあった事の意味であった。
「嵯峨期の詔勅」と「その禁令」に依って、「賜姓臣下族」の「慣習仕来り掟」の「使用の禁令」は、取り分け、「主従関係の慣習仕来り掟」に於いては「姓族の武士」が生まれるまでの室町期中期まで護られていた。

然し、室町期の「下剋上と戦乱」で“「氏族」”を始めとして、「賜姓族の臣下族」も衰退し激減した事で護られなくなった。
その中での「青木社」である。

そこで、逆に勢力を拡大した「大姓族」(大豪族・大名)の中には、長い間に「賜姓臣下族の一族」に何らかの血縁関係を有する者らを呼び集めて、「主従関係」を作り上げた結果、「家人」とも取れ「家臣」とも取れる中間の“「家人的な家臣」”が生まれたのである。

そして、江戸期に入り、「武家諸法度等の法令」等が定められた事に依って、取り分け、安定期に入った「享保期」頃からは「雇用制度の促進策」とも相まって、一挙にこの“「武士様の仕来り」”が「一つの形」を生み出して大きく進んだのである。(「享保の改革」の一環策)

況や、「伊勢・信濃」では、既に、平安期の頃の早くからこの「仕来り」の中にあって混乱なく維持されていたのである。

この“「武家様」(格式)”から“「武士様」(役柄)”に変化した「享保期の進歩」は、この「青木氏」と関わった「吉宗の所以」に帰来する。
この時、「武家の意味合い」も、「武家の変化」も“「江戸様」(享保様)”に「姓族の武士」までを呼称する様に成ったのである。


この様な本来の“「家人」”と云う「仕来り」は、「京」、「近江」、「信濃」、「甲斐」、「伊勢」、「武蔵」、「美濃一部」と、その「関連地域」で頑なに引き継がれて来た事に成る。
推測の域を超えないが、これらの「家人制度の慣習」を良く見聞きして知る「頼宣と吉宗」は、「伊勢」のこれらを見聞きして“「紀州藩の中」“に「権威造り」の為に先ず真似たのではないかと考えている。
そして、それを「政策的な権威付け」の為に“「武士様」”に変化させたのであろう。
その意味で限定した範囲で「青木社」と「青木社格」の存在を黙認したと考えられる。


さて、話を戻して、「伊勢加納氏」と同様に、この“「青木氏の家人」”の一族に多く含む”「射和郷士達」”は、「青木社」と共にこの「土地と水」を生かした「射和殖産」を又始めた。

「室町期末期の混乱」で土地を荒らされ失ったが、これを「遺された伊勢衆」で復興させ拡大させて行い、最終は、「紀州藩の勧め」ではあるが、その数は少ないが一部で江戸に“「射和商店」”を出すまでに至った事が資料には記されている。
然し、基本的には“「伊勢留まりの態度」を採った”とある。
取り分け、「名張と桑名の青木社」に与していた彼らはその「氏是、或いは社是」を強く守ったのである。
むしろ、「青木社」は護られていたのである。
だから、この「青木社の社是」が「御師制度(おんしせいど)」として引き継がれていったと考えられる。
現実に、「桑名の青木社」を再び起こしたのは「御師制度による伊勢商人」である。

この「手紙の資料」から観ても、「青木氏」は「商業組合」を通じて、“積極的に「江戸の店」を誘致させ様とした事”は、確かに「青木氏と家人等を育てる手段」でもあった。
それだけに「押し付けた政策」ではなかった事を物語るが、これは「家臣」では無い「家の中の人(同じ氏族の人」)を意味する「家人の育成」に取り組んだ事に成るのである。
「家臣」では「氏を構成しない姓族」である以上はここまではしないであろう。

この資料から観て、「筆者の印象の域」を超えないが、「古来の家人」には「遠縁と絆」で結ばれての関係であった事から、どうしてもこの「殖産の射和組」に対しては、「青木氏」は「家人」の“「郷人」”と云う感覚を持っていて、その「親近感の感覚」で行動していたと考えている。

その意味で、ここで「青木氏」の“「家人の由来」”を「青木氏の歴史観」として「家人の概要」を強調して是非に論じて置く必要があった。

そもそも、上記した様に「青木氏」には旧来より“「家臣」“と云う概念が無かった。
其れは「賜姓五役」と云う役を基準に「四家制度」と云う組織形態を敷いていたが、この制度からこの「家臣の概念」が生まれなかったのである。
依って、“「家臣」”と云う「封建的な主従関係」の契約での「接し方」では、「射和組」に対してはここまでは「青木氏」は取り組まなかったと考えている。

「射和」の「郷土史研究家(末裔)の論文」にも、「射和組」と「青木氏」は共に「和紙加工品の開発」や「早場米の研究」に共に取り組んだ事が論じられていて、「射和組の人」から「青木氏」は“「徳崇家」“と呼称されていたと記されている。
この“「徳崇家」“の言葉から、その持つ「意味合い」は「氏族」の「地域の尊敬される指導者」であったと観られる。

(注釈 前段でも論じたが、「伊勢の人」からは、職能人や商人から「御師様」や、「青木氏」に関わった地域住民からは「氏上様」と呼ばれていた。)

「吉宗の補佐」として、「伊勢青木氏」から「吉宗」に従って下向した「青木六兵衛定信」が「享保の改革」を江戸で主導していたのであるから、これも放って置いてもこの様に成る環境ではあったであろう。
然し、注釈としても、筆者の考えでは、「江戸幕府の体制」にこの様に大きく影響を与えたのは、「紀州藩―伊勢青木氏―加納氏―伊勢秀郷流青木氏の紀州藩官僚―伊勢衆―幕府の秀郷流青木氏の官僚―側用人加納久通―吉宗」の連携による「一連の連携結果」であったと観ている。

「殖産興業の元」と成った「松坂商人」と、「小売店」を興した「射和商人」とに区別して、この地に「射和の商いの組合組織」(御師制度 おんし)を作ったのである。
「殖産」を進めるには、「殖産には広大な土地」が必要で、この土地の多くは「青木氏」が「地主」として持っていた「地権の土地」を使った
そして、上記とした様に「伊勢から南紀」にこの「殖産」は及んだのである。

何よりも、「青木氏」の悠久の制度の「御師制度」を模倣して利用して、それを呼称にまでした事は「青木氏と関わり」を強く記すものである。

(注釈 江戸期の射和の「伊勢紙型」で「江戸小紋」が全国的に流行り、伊勢の「奈良期の紙生産」から始まった殖産はこの様に充分に大花を開いた。
でも、これだけの「射和」が江戸に決して出なかった。何故かである。

「青木氏」と女系でつながる射和の「伊勢郷士」は「青木氏の氏是」(社是 伊勢講)を頑なに守ったものだと考えている。
その証拠に、「青木氏族」の「職能の御師制度」を射和の「商いの中」にも取り入れているのである。
そして、明治期までこの「歴史観としての意思」は貫かれた。

それは「伊勢屋」を「二足の草鞋」で続ける「青木氏」が、「自らの殖産」で生きる「商人の証」であって紀州藩などの御用商人では決してなかった事に所以している。
故に、「射和の商人」からも信頼を得たのであって、「氏是」(社是)を守ったのである。
そして、その”「絆の証の拠点」”と成っていたのが”「青木社」”であったのだ。)

(注釈 「青木氏側」から観れば、「紀州藩」に云われなくしても、“「伊勢の殖産興業」”に無償で邁進したのは、考察結果からも判る様に、上記の血縁で繋がる「同族を互いに救いあう目的」があったからこそ、「明治期の末期」まで続いたのである。
その意味で、前段の「射和商人の論議」は、「青木氏の中の論議」と捉えられるのである。
「青木社」と共に必ず論じなくてはならない「青木氏のテーマ」であった。)

(注釈 「主要15地域」には、最低限、この様な「青木氏の歴史観」が働いていた事が判っていて、一部であるが、合わせて「近江佐々木氏の研究資料」にも「青木氏」のこの事に付いての記載がある。
「川島皇子」を始祖とする「同宗同門の近江佐々木氏」も「宗家の衰退」もあって苦労した事がよく判る事である。
(注釈 江戸期には江戸屋敷が近隣にあった様である。)
少なくとも「神明社」の体裁を整え表向きにも「武蔵の四社」の様に「青木社格的要素」を働かせながら維持していた事は確実で、「個人情報の限界」で詳らかには出来ないが明治期まで維持されたことが判っている。

注釈として 前段でも論じたが、その意味では「伊勢、信濃、伊豆」の「三つの社」は、それぞれ「特徴ある青木社」を構成していたが、「越前の青木社」だけは当に当初から「神明社の目的」は,真の守護神であるが如く「逃げ込んだ氏人」を匿い精神的導きをして立ち直らせ「職」を与えて世に送り出していた役目を果たし主目的としていた。
これは既に”「青木社」”であった。
つまりは、「青木社」は前段で論じた所謂、「仏施・社施」であった。
その意味で「仏施・社施」は、「青木社的要素」に成り易い役務であった。
つまり江戸期に恣意的に反発して一度に「青木社的要素」を露出させた訳けではなかった。
それだけに幕府は黙認せざるを得なかった事の一つであろう。

その意味で「伊勢や信濃」にこの「青木社」を通じて「杜氏」を送り込み「米造り」と「酒造り」を指導して殖産に加勢した。
「賜姓五役の祖先神の神明社」は、1000年前後からは「賜姓五役」の「皇祖神の子神」である事を表向きにしながらも明らかに外れ「青木社的要素」を強めていた事が判る。
「四地域」とは言わずとも「15地域の神明社」はその傾向にあった事が判る。


「伝統シリーズ 37」に続く
 

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「青木氏の伝統 35」-「青木氏の歴史観-8」

[No.354] Re:「青木氏の伝統 35」-「青木氏の歴史観-8」 
     投稿者:福管理人   投稿日:2017/06/20(Tue) 11:07:15
> 「伝統シリーズ-34」の末尾

> この様に「四家制度」と「家人制度」が接着剤の役割を果たし、「血縁融合」したが、「東の乱」を契機に、この「補完策」に依って「二つの青木氏」に内政の「賜姓五役」は進み、「志紀真人族系」の「皇族賜姓臣下族の青木氏」は、「二足の草鞋策」も相まって「皇親族であった失った部分」をも完全に補足したのである。

>( 注釈 これを得てたとしても考えられる事が、1025年からは「二足の草鞋策」は総合商社化し、その財源を使って「四家制度の整備」と「家人制度の強化」を果たし、その事と相まって「二つの青木氏の血縁融合」は進んだのである。)

> 他方ではこの頃、「秀郷流青木氏」も「第二の宗家」と呼ばれるまでに至り、「秀郷流青木氏発祥」より100年後(1060年頃)には、一族一門の発展と共に「5氏による青木氏族」を形成する至るのである。

> この1050年代の同時期を境に「二つの青木氏」は、更に、100年後には共に最大の隆盛期を迎えるのである。
> 「賜姓臣下族の青木氏」の「二足の草鞋策の採用の時期」と、「秀郷流青木氏の発祥の時期」とが同一としているのも無関係では無いと考えている。

> (注釈 「賜姓臣下族の青木氏の二足の草鞋」は、それまで「朝廷の部制度」の依る「和紙の開発と生産」で朝廷に納入する役で、その「余剰品」を一般の市場に卸す役目であった。
> これが奈良期の「部制度経済」であったが、その後、「和紙生産」が本格生産に成り、増加して「朝廷余剰品」が大量になり、これを許可を得て市場に売り捌く役目も担った。
> これが「青木氏の二足の草鞋策」の氏族としての正式な始まりであり、これを以って「賜姓五役の財源」とする事を求められたのである。
> 記録でこの時期が925年頃と成っている。)

> 「円融天皇」の「青木氏の補完策」としては、「天皇家、賜姓臣下族青木氏,秀郷流青木氏」のこの三者に執っては“「藤原秀郷流青木氏の創設」”は難しい時期に於いても完全に成功したのである。
>
> 個人情報保護の観点から、系譜や血縁関係の資料等を公的に出す事が出来ないが、上記のこれも「青木氏」が「生き遺れた重要な歴史観」の一つである。

 


> 「伝統シリーズ-35」


さて、話を「新撰姓氏録」に戻して、「青木氏の歴史観」を更に深める。

そこで、「嵯峨天皇(809年-823年)」は、それには世間に対して、“変”を起こす程の「皇位継承権争い」までしてでも、「大義」を獲得しなければならない事であった。

(注釈 志紀真人族の後裔青木氏の白壁王の四男 山部王が桓武天皇と成り、その子が「嵯峨天皇」、そしてこの背景がこの「新撰姓氏録の編纂」に大きく関わっていた。)

この為にも、この「主張」を「新撰姓氏録」として“「広布」”をしなければ成らなかった背景があったのであり、故に、「未完成」のままでも「広布」に拘ったのである。

然し、朝廷から公布する「正式書物」が「未完成」とはどうしてもおかしい。
ところが「未完成」には、ここに意味があった。
ここで、「新撰姓氏録」として“「広布」に、”又、改めて「政治的」にも重ねて「嵯峨天皇に依る詔勅」の“「公布」”と成ったと観られる。

この様な事が向後に起こらない様に、「兄の主張の根源」(兄の平城天皇)の「観察使」と「皇親政治」を廃止したのである。(名目は「財政難」が理由)

「後裔の青木氏」は、ここで大きな初めての「歴史的な試練」に見舞われる。
然し、矢張り、「後裔の青木氏」は嵯峨天皇に執ってみれば「自らの直系の出自一族」であった事もあり、根こそぎに無くす事はしなかったし、政治的にも困るであろう。

(注釈 実は、これには、当時の様子を伺える話がある。
例えば、平安期中期のこの時期には、結局、「保元平治の乱」で「関西域の仏社の荒廃」が目立っていた。
そこで、困った天皇は「清和摂津源氏」(満仲)に対し再建を命じた。
ところが、その日頃の行状が余りにも良くなかった「満仲」は、多くの貴族武士から嫉妬や妬みや政敵等があまりに多く、その為の「争い」から「焼き討ち」等が多く「神社仏閣の荒廃」は進んだとされている。
その「摂津源氏」に命じたのである。)

(注釈 後に「世間の不評」が高く不満を持った「満仲」は摂津に籠って仕舞う。
そこで「比叡山の僧侶」と成っていた息子に諭されて突然に蟄居してしまう。)

そこで、ところが天皇は「摂津の国」を受領させる事の交換条件として、一族に関西域の「寺社の修理」を命じられたが、結局は引き受けたものの財政的にも技量的にもそんな能力がもとより無かった。

(注釈 清和源氏の源氏は周囲の土豪の武力集団を集めて造った武力集団で勢力を高めた事もあった為に、「青木氏」の様に「家人制度」は敷いていないかった。
その為に、当然に「青木氏部」の様な「技量集団」を持っていなかった。
それだけに雇う事に成る為に「人気の悪い満仲の源氏」に執っては「寺社再建」は不可能に近い最大の負担であった。)

最終、「保元平治の乱」でその荒廃は更に進み、「同族争い」も含めてその結果、唯一人源氏族で生き残った「摂津源氏の頼光系四家の頼政」が、引き続き「身内の守護神(八幡神)」の「摂津の八幡社一社の修理」だけに留まると云う事が起こった記録が残っている。

「11家11流の源氏族」の中でもで最も正当に栄えたのは、「摂津源氏」(同族の河内源氏はその行状から「武家貴族」としては認められていなかった。)なのだが、その「摂津源氏の赴任先」は次ぎの通りである。
但し、「武家貴族」であった事から、「頼光」から「京遙任」で赴任地に「国司」、或は「国司代」を送り務めている。
ところが「頼光」が途中から「京遥任」を止めて「美濃」と「信濃」に直接に赴任している。
これは当時として、「武家貴族」としては”「京遙任」”が普通で「一種の武家貴族のステイタス」でもあった。
ところが、「賜姓臣下族の武士団」として勢力拡大するには「京遙任」で藤原氏の下で臣従して役務を務めるだけでは財源的にも無理であった。
これでは「武家貴族」として初めての「武士団」を賄うだけの充分な財力は構築できない。
そこで、この「京遙任の慣習」を破って「国司」に任せるのではなく頼政からは「赴任先」(伊豆)に直接赴いたのである。

この事に依って何が生まれるかである。
つまり、「地元の土豪集団」との「繋がり」を強固にし、可能な限りに縁者関係を結び、そこから得られる「財源の確保」と「主従関係性」を獲得する事が出来る事にあった。

(注釈 この為に頼光より三人とも「后妃嬪妾」で「30人以上の妻」を置いている。主に地方の「豪族の女」を「妾」にしている。
当時、平均寿命が男子55-57歳程度で今から観ると短命であって、子孫を遺そうとすると、「時間」をかける事は出来なかった。
そこで、「妾」を多く置いて男子の“「嗣子」”を多くして「確実な継承性」を高め「高い血縁性」を容易にした。)

系譜の公的に成っているものの殆どは「后妃」までの“「嗣子」“で、上記の慣習を受けての地方豪族の「嬪妾」の事までの“「嗣子」”には書かれていないものが多い。
これは“書かれていない”と云う事のみならず彩輝氏の歴史観から”「間違い」”に相当するのである。

何故ならば、その答えは“「嗣子」”と云う慣習にあり、「武家貴族」、つまり、「賜姓臣下族」には世間と異なる“「嗣子」”に関する「固有の掟」が有ったのである。

つまりは、「后妃」の“「嗣子」”が在りながらも、一族の者の「子や孫」を“「養子」“にする等の「四家制度の仕来り」があった。

(注釈 現在の「養子」の意味合いの「継子や義子」の「異姓不養」では無い。「四掟に基づく「同宗同門」の「嗣子」を云う。)

この事から「子」と云う定義は、必ずしも「第二世の直系族」の「子」だけでは無く、“「ある掟の範囲」(下記)”での「子孫養子」までとしていた。
中でも、「女子」は孫域まで「子」として扱う「武家貴族の仕来り」(四家制度と四掟制度)があり、この影響を受けて文章を観ると“「娘」”とは書かず“「女」”と書いて総じて“「むすめ」”と読んでいた事が判る。

この様な「武家貴族」を出自とする「氏族の歴史」を知る際には、「青木氏の慣習仕来り掟」を知っていなければ正しい答えは得られない。
つまり、世間との多くの「慣習仕来り掟」の「乖離」がある事に注意が必要である。


そこで、「志紀真人族」の「光仁天皇」-「桓武天皇」から「嵯峨天皇」と繋ぎ、「摂津源氏」を構成して「母方の嵯峨源氏」を縁籍のある「武力集団」とし、それを「郎党」とした「四代目の頼政」は「志紀真人族」を「同祖同縁」(同宗同門)としている。
この事を念頭に、「摂津四家の頼政」は、「京遙任」が主にしながらも、「摂津源氏」とは云いながらも「伊豆」に赴任して、ここを受領して「頼政の直系の血筋」を受けた「青木氏(伊勢と信濃)の子孫」をここにも多く遺した。

これは「頼政の一種の子孫戦略」であった。

(注釈 「源氏姓」で遺すよりも「青木氏」で遺す事の方が生き残り策は確実であったと考えられる。)

現実に歴史は「頼政」が描いた様に「子孫戦略」はその様に成った。
但し、下記の受領地にも「現地孫」を遺したとされているが、取り分け、下記に論じる「嗣子の四掟」の「慣習仕来り掟」の「乖離」が認められず依ってその確証はない。


筆者は多くは、“江戸初期の「黒印状と権威付策」の「偏纂」”に依るものと考えていて、それは「注釈」で云う“世間との多くの「慣習仕来り掟」の「乖離」がある事”に関わっているからである。
「頼政」が記録に遺した「伊豆相模」に関しては、「江戸期前後の記録」では無く「古い記録」のみならず、“世間との多くの「慣習仕来り掟」の「乖離」が無い事“にも依るのである。

ところが、「摂津源氏の四家四代目の頼政」には、記録より”「嗣子」”と云う「慣習仕来り掟」が認められるのである。
依って、その「子孫」だとする公的に成っている「現地孫」と云われるものにはこの「四掟による継承」は無いのである。
つまり、「摂津源氏四家の頼政」が敷いていたのであるから、「現地孫」であるとすれば、この「現地孫」には、「武家貴族」「賜姓臣下族」「志紀真人族」「朝臣族」のステイタスを護る為の「氏族の前提」と成る「四掟の慣習仕来り掟」が認められなければならない。
何れの「現地孫」とすれども、この「四掟」を始めとする「慣習仕来り掟」が認められない限りは少なくとも「正規の現地孫」では無い事に成る。

(注釈 伊豆には正規の「同宗同門の現地孫」のこれが認められる。)

殆どの虚偽の「後付の現地孫」には、この「知識の欠落」が認められるのである。
「正規の現地孫」としての「「四掟の慣習仕来り掟の伝承」が無かった事が云える。

“それは何故なのか“である。
少なくとも、この「四掟の慣習仕来り掟」さえをも伝承しようとすると、上記した「四家制度」なるものを敷かなければ成し得ないからであり、到底、現地の「土豪」と成り得ている状況で、上記した様なその「財力と組織力」を賄いきれる事では無いからである。
それでなくても、「現地の土豪」とすれば、「四掟の慣習仕来り掟」の必要性を自覚する前提は無いであろう。
「賜姓五役」などの役そのものが無いのに、「四掟の慣習仕来り掟」を護る必要も全くない筈である。
それでなくては、与えられた逃れ得ない「宿命のステイタスの維持」は適わない事になり「現地孫」とは決して成り得ない事に成る。

逆に云えば、「青木氏」は、与えられた逃れ得ない「宿命のステイタスの維持」を適わす事の為に、「二足の草鞋策」で「巨万の財力」を蓄えた。
そして、「土地の郷士」との血縁と「シンジケート力」を構築して「影の武力の補完」をした。
更に、「賜姓五役としての政治力」を遂行し、「志紀真人族」とする「最高ステイタスの権威」を「準皇位継承系族」(施基皇子)として護った。
この普通では無し得ない「四つの絶対条件」を苦労して構築して得られる「ステイタス」なのである。

少なくとも、「賜姓源氏11家」でさえも出来得ず、この「難しいステイタス」を維持したのは、「摂津源氏の四家」、取り分け、「頼政」のみと成っているのである。

(注釈 「頼信の河内源氏」は、「摂津の頼光」が敷いた「ステイタス路線」より「武勇」を優先して生き残りを図ろうとした。
この為に「武力」から起こる「戦い」から結局は、「直系嗣子」を失い、上記に掲げる「ステイタス維持」の「四つの絶対条件」の「三つ」を失う破目と成る。
つまり、これを採用した「河内源氏」は「都」を追われ衰退し、その後、「枝葉末孫の頼朝」が「坂東八平氏の力」を借りて台頭する羽目と成る。
然し、そもそも、これは「源氏力の力」ではそもそも無かった。
元より無かったのである。
これは頼朝死後三人の後継者は暗殺される事でも判る。
「頼政の子孫戦略」とは、根本的に違っていたのである。)

そこで、この「ステイタス維持」の「四つの絶対条件」を遺す方法、即ち、“「嗣子跡目」”を入れて「子孫戦略の二段構え策」を考え出したのが「頼政」なのある。

(注釈 「青木氏の資料記録」の一つには、「青木氏の志紀真人族」の出自から、「頼政の嗣子跡目」に関する「氏族の成り立ち」を要約を漢文にした大きな書の掛け軸があった事が口伝にあり、「明治35年の失火」で焼失、その後、これを祖父の筆で復元して「額」にして現存する。
「青木氏の古い記録」は、殆どは「漢文」であるが、一語一語に「青木氏」を物語る「青木氏の歴史観」として意味の持つ事が実に多い。
「解釈」を安易に間違えると矛盾が生まれる。)

この「青木氏」に大きく関わる“「頼政の事」”を次ぎに掘り下げる。
「満仲と頼光」は地元の「嵯峨源氏」(母系)を郎党にした。

ところが「頼政」は、「保元平治の乱」で一族で「生き残り方」をかけてどちらに味方するかで争った。
その結果、「摂津源氏の四家」で「兄弟身内の争い」までが起こり、その事から各々の主張に基づく「摂津源氏生き延び策」の違いで「頼政の裏切りの反目」が起こった。
「賜姓源氏族」の中で「摂津源氏」に関わらず弱小の他の10家の源氏も、「頼政」だけを遺して宗家筋は元より傍系族も滅亡に近い衰退を起こした。

従って、この「郎党らの反目」から表向きは「摂津源氏を背景」としてはいたが、実のところは「摂津の嵯峨源氏」(母方ルーツの志紀真人族)を郎党にはなかなか出来なかった。

(注釈 「青木氏の歴史観」から判断する事でこの事が判る史実である。)

(注釈 複数の記録を観ると、他の源氏族は「農業」をしながら息を潜めて身を隠し生き延びていた事が判る。
到底、「四掟の慣習仕来り掟」を護っての「賜姓源氏族」では最早無かった事が判る。
「頼政」が謀った「以仁王の令旨の伝達」に自ら進んで協力した「河内源氏系の新宮源氏」と云われる「源行家」等は当にこの様であった事が記録に遺る。)

(注釈 最終、「源氏再興」を目指して「以仁王の乱」を起こすが、この事はこの「敗退の原因」とその「勢力構成」でも判る。
「平氏専横」に対して「以仁王の令旨」で全国に散る「源氏」に呼応を求めるが、「衰退弱小」に成った呼応する「源氏」も一枚岩では無かった。
最も肝心な「令旨」を運んだ「新宮源氏の行家」の熊野から「裏切り」が出る始末であって、「朝廷の中」での「生き残り」の為の「日和見行為」が「裏切り」と見做され「源氏の反目」が強く、「乱」を起こした際には、「頼政に対する信頼」は既に消えていた。
そもそも、「乱の直前」まで「以仁王追捕の軍」に参加している位である。
例え軍略であったとしても「日和見行為」や「裏切り」として誤解されるのは当然の事であった。)

そこで、「頼政」は、同じ「嵯峨源氏」の直系出自元の「志紀真人族」の「伊勢と信濃の青木氏」に対し「跡目の嗣子」”(伊勢は京綱:信濃は国直)を送り込み「生き残り策」を図ると共に、この「勢力と財力」を背景に「一族の血縁集団」を「伊勢と信濃」に移して「四つ絶対条件」を形成した。

唯、「四掟の慣習仕来り掟」を持つ「青木氏」には、「賜姓五役としての政治力」はあったにせよ、「実質の政治力」は「嵯峨期の詔勅」に依り「皇親族」から外されてこの時期は充分に持ち得ていなかった。
確かに「秀郷流青木氏」に依って補完されたとは言え、「秀郷一門」そのものが未だこの「十分な政治力」を持ち得ていなかった。
これを何としても補完する必要があって、「一族争い」をしてでも「頼政」は「政治の中心の都」に遺る必要性に固持したのである。

そして、その間、自らの他の受領国には血縁族を形成して郎党とはしたが、取り分け、「伊豆」(伊勢信濃の融合族の志紀真人族青木氏)にも「摂津」より心休まる「真の領国」として、母方系をベースとする「志紀真人族の直系の青木一族」に跡目入れて融合族を形成し、安全を期して「二か所」(伊勢信濃に跡目 伊豆に血縁融合族)に遺したのである。

「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」には“「頼政の嗣子」“を直接跡目に入れ、そして、この一族の一部を「護衛団」として「伊豆」に移して、その「伊豆」と「西相模」には、「伊勢と信濃」の子孫を「融合族青木氏」にした上で、“「嗣子跡目」”を入れて「子孫戦略の二段構え策」にしたのである。

これ程に綿密にして「青木氏」にシフトするという「子孫戦略の二段構え策」を先んじて講じていたと云う事は、幾つかの意味を持つ。
上記の通り、「生き残り策の意見の違い」で「摂津源氏」には「反目」から「見切り」をつけていた事に成る。

(注釈 記録に依れば、誤解に依る「相当の反目」があって、その反目は「頼政」の子の「仲綱の子、況や孫」までに及んでいる。)

更には、「以仁王の乱」に対する勝算には、「源氏の衰退」がどれ程の力に成るかに疑問を持っていた事。
殆どは「清和源氏」の「摂津源氏系と河内源氏系」が主体で各地に平家の目を逃れて飛散して生き延びていた源氏で他の「10家10流の力」には力は無かった。

「平家打倒の蜂起」には、そもそも「財源」が必要であり、その「財源」を何処から捻出するかであり、「源氏」には「源氏再興の思い」はあったとしてもその力は殆ど無かった。
「頼政」は「子孫戦略の二段構え策」があったとしても「伊勢-信濃青木氏の財力」は決して動かなかった。
そもそも、「頼政」はこの事に付いて計算が狂ったのではないかと考えられる。

それは、「青木氏の氏是」に依る。
その「青木氏氏是」が「源氏族」との根本的な「四掟の差」であった。
これは単なる「青木氏氏是」では無く、「光仁天皇」からの「天皇家の直系出自元」、況や、「志紀真人族」の「伊勢と信濃の青木氏」を決して崩さないと云う「固い信念と宿命」に基づくものであり、「四掟」の「ステイタス維持」の「四つの絶対条件」を護って来たものである。

簡単に云えば、「青木氏氏是」は元より「氏構成」として「武力集団」を創設するか否かの差である。
「青木氏」に執っては「源氏族との血縁」は「四掟」に叶うものであり、「天皇家の直系出自元」の「子孫繁栄」には欠かせない事では確かにあったとしても、そこには「源氏族」とは唯一つ違う点があった。
それは次ぎの事であった。

「武家貴族」であっても「目的」を達成するための手段として「武力集団」では無い事である事、或は創設しない事にある。
あくまでも、「武家の出自元の有無」であって、所謂、「賜姓五役の有無」にあった。
これが、「嵯峨期の詔勅」にも明記されている様に「源氏族」と決定的に異なる所以でもある。

従って、その「財力の使用目的」は元より異なっており、「青木氏の財力」は使えない「氏是」である。

況してや、「平家の打倒」の理由は、「平家専横」であって、そもそも、「平家」とは「二つの青木氏」は「悠久の絆の歴史」を持つ「伊賀の隣国」でもあり、「奈良期からの長い付き合い」があり、「光仁天皇の母の高野新笠の郷」でもある。
更には、「伊賀の郷士」、つまり、「家人制度」に基づく古来からの血縁にも結び付いてもいる。
これは到底に動かす事は不可能である。

この様に、「四家制度」と「家人制度」を敷いていながらも「摂津源氏」との「所縁、絆の差」は大きかった。
「頼政との繋がり」は、あくまでも「青木氏側」に執ってみれば「子孫戦略の一環」であって、「戦いに加担に値する事」は、「跡目嗣子」があったとしても、これは出来る話では無かった筈である。
これは「頼政と京綱」とが”「激論」”を交わした所以であったとも考えられる。
(「商記録]」ら読み取れる。)

この事からも、「平家打倒」を直前まで表には出来ない事でもあった理由でもあろう。

然し、最早、踏み切った以上は後戻りはできない。
勝つ見込みがない事を知りながらも「以仁王令旨」に至った。
それ故に、「青木氏との子孫戦略の二段構え策」は、敗退した時の事を考えて「源氏族」を「元の青木氏」に移す戦略であった事が頷ける。

(注釈 それを証拠に、明確な記録として乱発覚後、孫の「宗綱と有綱の命乞い」を伊賀に住む「清盛の母」に懇願して、九州平家の隣の「日向廻村に配流の刑」で軽減される。)
(本来は斬罪である筈。)
その後、近隣の廻族を集めて「廻の子孫」を建てては再び九州平家と戦うものの敗退し、両名は戦死、「廻の子孫」は約20数人の配下と共に「薩摩大口村」(現在の市町村合併にて鹿児島県伊佐市大口小木原付近)に逃げ延びて寺に隠れていた。
然し、追手が迫りこの「浄土宗住職の助言」を聞き入れて「伊勢の青木氏」を名乗って敵対性が無い事を前面に押し出し生き延びた。

この事から観ても明らかに「子孫戦略の二段構え策」であった事か判る。
宮崎廻村から大口村までの地域にこの「仲綱子孫の青木氏」は現存する。
その後、室町期には子孫を拡大させ傭兵として九州全土にその名を馳せ、江戸期には日向灘の「遠洋漁団」、山岳部は「農兵軍団、山岳兵民」を務め乍ら、「黒田藩の専属傭兵」を務めるに至っている。

注釈として、そもそも、「源氏族」は、「宋貿易」を推し進めた平氏族の財源的な差は「雲泥の差」と成り、仮に戦えたとしても「寺社の修復」もまともに出来ない状況では、持久戦では「源氏族」は先ず耐えられなかった。
「寺社の修復」は、これを「平家の試す政略」であった可能性があり、あったとしても財源を消耗させる策であった事も考えられる。

筆者は「修復能力」はもとより無かったと考えているし、「平家討伐能力」も無かったと考えている。
「摂津源氏四家の方針の違い」に依る「親族争い」(同族争い)では、「頼政への反目」(裏切り疑惑)があって、そもそも、「頼政自身」の「摂津源氏」と、母方の「嵯峨源氏」の「郎党の力」を使う事は出来なかった筈である。
況してや、「青木氏」への「子孫戦略の二段構え策」の講じる様ではそのものが疑われて地元の力の利用は到底ないと判断できる。
それ故に、それではとして、当初は「嵯峨源氏」の出自元の“「青木氏の力」”を利用しようと考えたと読み込んでいる。
唯、この時、「源氏と青木氏の差違」に付いて、当初は「大きな読み違え」を「頼政」はしていたのである。

(注釈 「源氏」は「朝臣族の武家貴族」の「武力集団」、「青木氏」は「志紀真人族の武家貴族」の「皇親集団」である。
「抑止力の武」は持つがその目的が「賜姓五役の遂行・皇親族」の「青木氏」と、「直接力の武」で以て「政治的な目的」を遂行する「純粋な武力集団」の違いであろう。)

其れが議論の末に出来ない事が決定する事の経緯と成ったと観ている。
態度を間際までははっきりとさせなかったのは、それまでの「時間稼ぎ」を「頼政」は行ったのではないかと観られる。
そもそも、「態度」をはっきりとさせた方が戦略的には「衰退し飛散している源氏力の集結」は高まったと考える方が通常であろう。
「源氏力」とは、元より「軍の権威と象徴」であって、要は、如何にその「郎党族の集結力」を高めるかにあり、それには「風林火山」にあり、「時間稼ぎ」は「六稲三略の戦略」にあらずにある。

(注釈 「頼朝の平家討伐」は、結局は「坂東八平氏の武力」と、彼らの相模駿河等の港でのその「貿易に依る財力」が背景と成っていて、「源氏力の背景」では無かったから勝てた原因でもある。
従って、頼朝死後は全ての「直系の源氏」は「坂東八平氏」に掃討され滅亡する事と成る。
その後、「河内源氏の傍系の足利氏」(二引両紋)が「坂東八平氏」k
pel)ht@正拳をわまるのを待って奪い、形を変えた「傍系源氏の室町幕府」に成る。)

(注釈 源氏側から観れば、”「平家専横」”と云うが、記録では「源義経」は「平清盛との繋がり」が強く、「貿易等に依って国を豊かにする経済論」などの教示を受けて親密であった事が判っている。
これが「頼朝」との「意見の違い」と「境遇の違い」と成って「争い」が起こった。)

さて、「頼政」の「青木氏」との関りの中に、上記以外に「重要な歴史観」が潜んでいるのである。
この事を論じないと「頼政との青木氏の関り」は充分には理解し得ないのである。

ここで、それを左右する「世間との乖離」であり大きく影響する用語がある。
それは“「嗣子跡目」“である。

“「嗣子跡目」“、又は、“「跡目嗣子」”とは、「青木氏の歴史観」として「特別な意味」があって、下記で説明する「同宗同族同門同紋の一族」の”「四掟」”に合致している。
上記で論じた通り「摂津源氏」も「摂津四家」を構成して、この「同宗同族同門同紋の一族」の「四掟」の「四家制度」を採用している。

「頼政」が執った「子孫戦略の二段構え策」では、「朝臣族で賜姓臣下族の源氏」から元の「志紀真人族の賜姓臣下族の青木氏」に「跡目方法」を単に移した事に成り得るのだが、これは上記の「四掟」に叶ったもので他氏からの単なる「跡目」ではないのである。

その内容を説明する。

さて、ここで「重要な注釈」として、上記で書いた様に此処で云う“「嗣子」”とは、そもそも現在で云う単なる一般的に“跡目を継ぐ権利を有する者”を云うのでは無く、その家の「跡目」を継ぐ為に迎えた「同宗同族同門同紋の一族」(四掟)からの“「養子」”を以って“「子」”と成す事を意味する。

つまりは、「福家」から出る「子や孫」も「20家の四家」から出る「子や孫」も全てを一同に福家に集合して“「養子」”として迎え“「子」”と成す事を意味している。
“「養子」”とは書いてはいるが、後に武士等に使われた「養子」(義子・継子)ではない。

「青木氏」で云う“「嗣子」”の“「養子」”は“「子」”である。
「四掟」に叶った身内の子である。
それには、この「四掟」が条件の範囲であるとしている。

改めて、「青木氏の関連資料の記録」を観ると、この「同宗・同族・同門・同紋」の「一族の固い決り事」を“「四掟」(しじよう)”と呼んでいた様である。

別の古い「青木氏の資料」から抜き出すと、漢文的には要約して抜き出すと、次ぎの様に成る。

“「四定以成異性不養之固掟也」”
 以上と表現しているものもある。

つまりは、“「四つの定」を以って、「異なる「姓」(氏族の差違)を養わずとし、これ「固い掟」なり。“と記している。

注釈として、その前に理解する事がある。
それは、そもそも此処で云う“「姓、或は性」(「姓」では無く「性」と記しているものがある)”とは、「男女の差違」を示唆するのではなく、「本来の言葉の語源」は、「生物の本質の差違」を以って云う。

この古い記録の漢文に示す“「異なる性」”とは、「氏族としての本質の差違」を意味していて、“「異なる姓」”では無く、“「異なる性」”なのだと強意している事に成る。

つまりは、「姓」では無く「性」とするは、「氏族の系譜構成」が、「武家貴族」「賜姓臣下族」「志紀真人族」「朝臣族」と定め、その「定めの範囲」は本質的な違いと成し、これを以って「異なる性」だとして、その範囲での「血縁構成を行う」としている事を強意している事に成る。
そもそも、「青木氏」には「慣習仕来り掟」に於いて「姓」は無いのである。
つまり、「新撰姓氏録」に書かれている様に、それが「同宗・同族・同門・同紋」とする「四掟の範囲」であり、これ以外は「不養」、所謂、“「養子」”としないのだ。
つまり、“「子」”としないのだ。と言い切っている。

「本質的な違い」と断じている事は、「四掟」は相当に“「固い掟」”であった事を意味している。

そこで果たして、この”「四掟」”が護れるのかとの疑問を現在では持つが、“「氏族」として護っていた”と云う事に成る。
その為の「四家の制度」であり、「后妃嬪妾の制度」であり、これに依って「四掟」が護られていた事が判る。
これは「異性不養」の文言で単なる制度では無かった事が良く判る。

これで行えば、「青木氏」と同じ様に「四家制度」を敷いていた「摂津源氏系四家の頼政」との「繋がり」は容易に納得できる。

仮に「異姓不養」とすれば、「武家貴族」「賜姓臣下族」「志紀真人族」「朝臣族」は完全に崩れる。
何故ならば、「新撰姓氏録」に観られる様に、当時の「姓」(かばね)では、この「四つのステイタス」は全てなくとも成り立つ事に成る。
況してや、室町期中期から発祥した「武家族」(海部氏が最初)からではない「姓族」も含む事に成り、「四掟」は護れない事に成る。

(注釈 「新撰姓氏録」では、「第四世族内の同祖同縁」、或は、「同祖同門の氏族」と区分けし、「第四世族の同祖同縁」で「真人族」では無い「朝臣族」には「姓」で区分している。)

これは「敏達天皇の第四世族」の「真人族」の「施基皇子」(後に「志紀真人族」)を始祖とする「準皇位継承族の立場」は保てなくなる事と共に、光仁期以降の「天皇家の出自元」は霧消する事にも成る。

この「平安期以降の青木氏」が持つ「ステイタス」としては、「天皇家の血筋」の云々は、兎も角も、「最低限のステイタス」を護る為にも“「天皇家の出自元」を壊さない“と云う事にあったと考えられる。
つまり、この「異性不養」は”「絶対条件」“であった事を記録は伝えている。

(注釈 江戸初期の「家康の御定め書」の”伊勢の事お構いなし”の「お墨付き」がこれを物語る。戦乱期の時代性に執って何の意味も持たないのに、何とか伝えて来た「志紀真人族の後裔青木氏の氏族」を権威付けているのである。)

況や、“「四定以成異性不養之固掟也」” は「青木氏の氏是」に成り、「青木氏の歴史観」としては極めて重要である。

さて、“「跡目嗣子」”に戻って、つまり、「継嗣」、或は「継子(義子)」の事を指すのではあるが、この「継嗣」、或は「継子(義子)」にも「四つの掟」が条件として付く事に成り、且つ,“「子」”としてでは無く、全ての該当者を平等に“「養子」”とする仕組みである。
仮に単なる「子」であれば、「福家」や「四家20家」や「娘の子」等の「立場の差違」から「小」には本来であれば「その差」は当然に生まれる。
これを無くするには、「四掟の範囲」で一同に「福家」に集めた上で、全てを“「養子」(同宗同門)”とすれば、その「立場の差違」は一切生まれない事に成る。
逆説的に論じれば、そうする事で「異性不養」は護れる事に成る。
更に、つまりは、これを“「嗣子」”としているのである。

従って、単なる「養子」を意味するの「義子」、或は「義嗣(継子・義子)」とは異なるのである。
ここが要するに相当な「乖離点」である。

この場合の“「嗣子」”には、”「同宗・同族・同門・同紋」”の”「同世男系血族」”を”「四掟」”とし、且つ、「新撰姓氏録」に書かれている様に、”「同じ祖先の祭祀」を成し得る者”と成っている。
これが「青木氏」が定める厳しい”「四掟」”なのである。

”「同宗・同族・同門・同紋」”の”「同世男系血族」”は、結局は”「同祖の祭祀」を成し得る者”と成る。

これで、この”「同世男系血族」”の青木氏の資料記録中の「文言」に意味が相当ある事が判る。

その意味は次ぎの通りである。

イ 「男系」(女系で成り立つ条件を完全排除していない。)は、兎も角も、先ず「同世」である事。
ロ 「同じ世代」とは、男性の場合、当時では「人生50年」とされる事。
ハ この「50年」の間に同じ世代に出会う子孫は少なくとも「孫域」までである事。
ニ 「曾孫」に仮に遭遇したとして、同世である事に成り、「四家の養子」と成り得る事。
ホ 「孫域」としたのは室町期末期までの一般的な「同世」として論じられていたのであり、この漢文中の「同世男系血族」の文言を以ってすれば「曾孫」までとしても良い事に成る。

以上に成る。

注釈として 現実に、筆者の直近の先祖の四代は全て80歳を悠に超えていて、曾孫域まで何とか観られる「長寿の血筋柄」で系譜先祖も概ね長寿である。
これは偏には、次ぎの二つに成る。
「青木氏の氏是」として「諸々の戦い」に参加しなかった事。
「四家制度」により「より優秀な子供」を「養子」として一同に合して育てた事

以上の二つにより、故意的に「長寿の血筋」を獲得していたのではないかと考えられる。

更にはどちらかと云うと、敢えて言えば「男子」が多い血筋の様である。

故に、「四家制度」が保てたとも云えるし、「悠久の歴史」を生き残れたとも考えられる。

そもそも、これは「短命」では、この「青木氏」が採った全ての制度の保持は元より生き残る事さえも出来なかったと考えられる。
つまり、この「長寿」は、「青木氏の生き残り」と「賜姓五役の遂行」の大前提と成り得る。

逆に云えば、「四家制度」に依ってより「健康な嗣子・養子」を生み出し選び、それが「長寿」を作り出し生き残れたとも云える。
むしろ、当面の思考する眼目は、この説の方の目的が大きかったと考えている。

次ぎに、”「同世男系血族」”に付け加えて、文中の”「同祖祭祀」”にも付いての「特別の意味」がある。

鎌倉期以降の「普通の跡目の慣習」であれば、「男系跡目」に叶わず先ず「養子」(1)を取り、更に、その「養子」にも「男系跡目」に叶わなかった場合も「養子」(2)を取ったとする場合は、養子(1)の系列に組み込まれ、且つ、「家紋」は元より「姓」も「宗派」も「慣習仕来り掟」も変化する事に成る。
其の侭で行けば、止む無く「女系家族」と成る事を選択しなければならない。
この事は、何か特別な制度を敷かなければ、これは長い歴史の間で起こる当然の事である。
これを繰り返す事は、当然に元の”「同祖祭祀」”は出来ない事に成る。
それと同時に、これでは、「普通の跡目の慣習」では“「四掟」”は保てない事にも成る。

そこで、この“「同祖祭祀」”の文言は、“「四掟」”とは別に長い歴史の間では「異変」が起こり得る為に、総括的に「掟の適宜な運用」に「歯止め」をかけている事にも成る。

これ“「同祖祭祀」”の「歯止め」がある事に依って、「厳格な四掟の運用」が保たれて、「青木氏の資料記録」と「新撰姓氏録」にも表現されている文言の、”「同祖同縁」”、或は”「同祖同門」”と同じ意味と成り得るのである。

故に、仮に別の氏族の資料記録に、“「同祖同縁」、或は「同祖同門」”と明記されていたとする事は、「特別な制度」、所謂、「四家制度」を敷いている事の前提と成る。
つまり、前段でも論じた様に、又、上記の“「同宗・同族・同門・同紋」の”「同世男系血族」と「同祖の祭祀」“を成し得る者と成る“は、「同祖同縁」、或は「同祖同門」と同じ意味と成る事から、この「嗣子の四掟」が、所謂、これが「青木氏の四家制度」であるのだ。

従って、この「四掟」を以って「賜姓五役」が成し得る「氏族」と成る。
つまりは、後の「江戸期の武士」が用いた「嫡子」とする用語は生まれない事に成る。
従って、「青木氏の記録」には、“「娘」”と同様にこの“「嫡子」”の用語も出て来ない。
これも“世間との多くの「慣習仕来り掟」の「乖離」がある事”の一つである。

「青木氏の場合」は、「福家」を中心として「20家から成る四家」に生ずる「孫域」までを“「嗣子」”として“「子」”として扱うが、更に、「女」の系も同様に扱い「稼家先」で「ある条件」(下記)の下に「青木氏」を興す事を許される。
この「嫁家先の青木氏の嗣子」も上記の「四掟」の「同宗・同族・同門・同紋の同世男系血族の範囲の者」も「四家20家」に加えられて「嗣子跡目」の“「養子」”で“「子」”として引き取られ「青木氏の福家」で育てられる仕組みと成っている。

これは「男系」だけに依る「四家制度の欠陥」を「同世男系」と「同祖祭祀」の「二補完策」に加え、第三の「女系策」でも補完したと考えられる。
(この策を「四掟」に加えた時期が何時なのか何故なのかである。)
但し、「青木氏」に於いては、「女」(嫁家先)の「男子の子」(嫁家で別に「青木家」を建てる。)も「男の養子」と殆ど同じ扱いであった。
そこで、「男系」からの「嗣子・養子」があると同様に、「女系」(嫁家先)の方にも「青木氏」の中で「何がしかの立場」がある筈である。
それがどの様に扱われていたかを観るには、「男子の子」をこの「四掟」による「嗣子」を継承しようとすれば、当然に「墓所」にもそれが現れている事に成るのでそれを確認すると判る筈である。

先に、この「三つの補完策」を検証するのには、「氏寺の菩提寺の墓所の構成」を観る事で判る筈である。
この「墓所」でも「四家」に関わった「全ての累代の女」の「女墓」を「墓所の横」に別に作られて祀られている。

注釈として、「墓所」は「福家」の維持する「総大墓」があって、その横に「女墓所」が設けられているが、「横長の平青石」に「俗名」を読み込んだ「戒名」と共に、累代順に追記されて行く「碑石墓」が設けられている。

「総大墓」(氏墓)の左右に「四家の小墓」が立並ぶ「氏族の構成」で、「氏寺の菩提寺」の「墓所」が出来ている。
「四家制度」に依って「四家20家」の夫々の家祖が直系と云う事の前提ではない。
「嗣子」の前提と成る「養子のシステム」で構成される以上は、「四掟の範囲」の「四家の祖」と云う事に成るので、「四家の直墓系」と云うものはそもそも無い。

つまり、“「嗣子」”の“「養子」”としての“「子」”であるとすれば、「福家」を含めて「20家の父」は全ての「親」である事に成る。
従って、「四家の20家」は、「松阪殿」、「員弁殿」、「桑名殿」、「名張殿」の「四家の組」とにだけ区分けられ、そして、「氏郷流伊勢青木氏」との「融合青木氏の四日市殿」の組が加えられて以上五組にて構成されている。

従って、「総大墓」(氏墓)を中心に左右に「四家墓」の「墓所」(組墓)もそれに応じて区分けされている。
明らかに「墓所の構成」は「四家制度」に一致している。

問題は「女系の青木氏」の補完策である。
「女」にも「四家制度」が採っていた事もあって、「長い碑石」に刻まれている「女墓」もある事に成るが、この「碑石墓」には、この「嫁家先の青木氏」(下記イロハの条件に従い原則一代限り)の「嗣子」を出した「嫁家先の女」は「青木氏男系」と同じ扱いを受けていた事に成る。
これも明らかにこの「四家制度の要領」に従っている事が判る。

故に、「四家」にこの「他氏から嫁いできた者」の「女墓」と共に、「嫁家先の青木氏の女の名」が刻まれている事は、「四家の考え方」としては、次ぎの様に成る筈である。
他氏の中で「青木氏」を興す限りは、「他氏から嫁いできた者」と同じ扱いとしている事を意味する。
「嫁家先の女」の「青木氏の嗣子・養子」には「それなりの根拠」(下記)がある事を意味する。

(注釈 この様に矛盾なく「四家制度」が構築されている事から、これが「娘」(娘)の呼称と用語は用いず、“「子」(むすめ)”として用いられる先ずは所以でもある。)

男系子と共に他氏に嫁ぐ「女」にも、「四家」で産まれた“「子」“である以上は”「養女」“として「福家」にて同じ制度で育てられる。
これが「第三の補完策」である。

この「第三の補完策」の目的は、「女子」にも同じ「四家制度」を敷いて「青木氏と云う四掟の範囲」での“「養女」”として育て、「四家」と云う事から起こり得る「格式」を取り除き、「格式差の無い青木氏」が持つ“「同格の女」”として他氏に嫁がせる制度であった事に成る。

この事に依って、ある「特別な条件 (下記イロハの条件」)下で「嫁家先」で「青木氏」を興し、その「嗣子」の一人を再び「青木氏」の「福家の養子」として引き取り育て、「跡目嗣子」として「四家20家の嗣子とする制度」で補完している。
この事に依って、「嫁家先」の「女」には「格式差」は生まれず「四掟」は護られる。
そうすると後は、「嫁家先の格式」にあるだろう。
この事が整えば「四掟」と「三つの補完策」は成立する。

この時、ある「女系」で興した「青木氏の嗣子」の「特別な条件」として、次ぎの事が定められている。
イ 氏族(認証族)である事
ロ 格式(従四位下以上)を有する事
ハ 朝臣族(八色の姓制度)である事

この「三つ条件」が存在する家に嫁す場合で、その家の「嗣子」の一人に先ずは「嫁家先」で「青木氏」を興させ、そして、その「青木氏と成った嗣子」を一代限りの「青木氏の嗣子」の「養子」とする場合にて成立する。

この「青木氏」が、この「三つの条件」(イロハの条件)を持つ事は、「四家制度の四掟」は適っている事に成る。
「嫁家先」の「女」と「嫁家先」とには、「格式差」は生まれない事に成る。
つまり、この事は概して云えば、“格式を下げない”と云う事であろう。
依って、「青木氏の嗣子・養子」と成り得る事に成る。

唯、ここで「二つの補完策」の内、「同世男系」と「同祖祭祀」の「二補完策」の内、「同祖祭祀」の補完策だけは異なっている事がどうしても起こる。

然し、この場合は、つまり、この「三つの条件」には「祭祀」として「格式」を同じとする以上は必然的に「比叡山の天台宗」の可能性が限定されるだろう。

即ち、この「天台宗」は、「天皇家の上皇や皇子」も入信する「密教宗派」に属する事もあって、同祭祀とは成らずとも、古代の「密教浄土宗」とは、「“仏系を同じくする事”」と、「顕教」では無く、“「密教とする事」”から同格として許容している事に成り得る。

(注釈 天台宗は、「密教」でもあって、「顕教」でもあるとする柔軟な教義を持っている。)

そこで、故に、先ず「嫁家先」で一度、直接に「青木氏の嗣子の養子」と成るのではなく、先ず「青木氏」を興して、「同世男系」と「同祖祭祀」の「二補完策」にしてから、福家の元に戻して「青木氏の嗣子の養子」とするのである。
これで、必要な「条件の格式」も得て「同祖祭祀」が成立し、「四家制度」に依って育てられた「嗣子・養子」の「男女」にも問題は無く成る。

但し、そこでこれには当然に「嫁家先の同意」も必要と成るだろう。
この「同意」には、「嫁家先の利害」が大きく絡む事から成立にはかなり双方に「政略的な意味合い」が働いての解決事と成ろう。

これで「女系の青木氏の補完策」は完成し、「四家制度の欠陥」を「同世男系」と「同祖祭祀」の「二補完策」に加え、「第三の女系策」とで補完している事に成る。

さて、ここで、次ぎの疑問点である。
「嫁家先の同意」とこの「補完策」を採った「時期と理由」である。

それは、先ず上記の「青木氏」が独自に採った「三つの補完策」と、次ぎに「天皇」が執った外部からの「藤原秀郷流青木氏」の「第四の補完策」である。
「天皇」が執った外部からの「藤原秀郷流青木氏の補完策」(「第四の補完策」)は、記録から「人」(円融天皇)も「時期」(958年頃)も「理由」(賜姓五役の推進策)も明確に成っている。
これは「嵯峨天皇の詔勅」に依り「青木氏」が「皇親族」から離れた事に依る弊害(賜姓五役の遂行の衰退)の補填にあった。

然し、「青木氏」には「三つの補完策」の「時期」についての正確な記録資料が消失して見つからない。
唯、概要は諸々の文書の読み取りで判る。

先ず問題は、「三つの補完策」の「時期」の問題点である。
「四家制度の四掟の時期」と同じくしていない事が判る。
それは、上記の「女系策」からも読み取れる。

「三つの条件」の「イロハ」が時代に依って難しく成る事である。
イ 氏族(認証族)である事
ロ 格式(従四位下以上)を有する事
ハ 朝臣族(八色の姓制度)である事


そこで、「女系策」を判別すれば他の二つは判る事に成る。

先ずは「政略的な意味合い」が働いている事は先ず間違いは無いとすると、次ぎの事が考えられる。
先ず理由としては、次ぎの事が考えられる。

1 「青木氏の嗣子跡目」が逼迫した事。
2 他氏との関係性の強化策に必要とした事。

「1の逼迫」には、次ぎの事が云える。
A 根本的に「四家」に必要とする為の「絶対数の嗣子」が少なく成った事。
B 「他氏との血縁関係」が活発に成り男女ともに不足した事。
C 「青木氏の立場」が大きく変化した事。

「2の他氏との関係性」では、次ぎの事が云える。
A 「時代の混乱」から「青木氏」を護る為に「他氏との繋がり」を広め強化した事。
B 「四家の弊害」(能力 マンネリ化)を解消する時期であった事。
C 「四家の弊害」(血縁性 純血性)を解消する時期に来ていた事。

この時期の答えは、「三つの条件」のイロハに出ている。
そもそも「賜姓五役と云う立場」にあり、これを務める事を主務として「四家制度」が採られている。
だとすると、少なくとも、この「イロハの条件」、即ち、「格式の適合」に適うとこからの「血縁」と云う事が前提と成る。
これは始めからの話であり、態々、「女系策」と云う事には成らず、当然の血縁先と成ろう。
従って、「1の逼迫」と云う事には当たらない。

そうすると、「2の他氏との関係性」と成る。
では、2のABCの何れかと云う事に成るが、この「女系策」を採った時期に関わってくるだろう。
少なくとも「女系策」を採る前は、「男系の嗣子・養子」の「四家制度」で済んでいた筈で、それは、奈良期から始まって、平安初期までは男系に依る「四家制度」であった筈である。
つまり、「施基皇子」が「伊勢王」として都で遙任し国司(三宅岩床連)を置いて務め、その後、伊勢に退任してから、「聖武天皇」に男系が出来ず、結局、「井上内親王」と施基皇子の四男の「白壁王との婚儀事」で「光仁天皇」-「春日宮天皇」-「光仁天皇」の子の「山部王」が「桓武天皇」が即位し、「志紀真人族」が続く事に成り、「平城天皇」-「嵯峨天皇」に繋がった。

ここで、より「後裔の氏族」の「志紀真人族青木氏」としての立場が強化された。
「新撰姓氏録」にも「志紀真人族で朝臣族」で「春日真人族」の「同祖同縁」として特別に記載されているところでもある。
従って、約100年後の「平安初期」と云う事に成り、この「立場の強化」(天皇家の出自元)の為には、「2の他氏との関係性」のABCの全てを講じる必要性に迫られた筈である。

上記の「女系策」が判れば、「同世男系」と「同祖祭祀」の「二つの補完策」の時期と理由が読み取れる。

先ず、「同世男系」は、「同世」である事と云う必要性が切迫して起こった時期と、「男系」であると云う事の必要性が切迫して起こった時期である。
この「二つ掟」は、奈良期からの「青木氏に課せられた慣習仕来り掟」としては「普通の事」の社会であった筈で、それを態々取り立てて、「固い掟」にしなければ成ら無く成った時期は何時なのかである。

一つは、聖武天皇期の「皇位継承者」が欠如し、その後の「光仁期」と「桓武期」に架けての時期、つまり、「平安初期前後の時期」である。
二つは、「氏族」が激減する室町期初期から中期の時期で、つまり、「下剋上期と戦乱期」である。

一つの目の時期に取り分け必要としていたのは、奈良期から「女系」が多く続き、政治には「男系の必要性」を強く見直さなければ成らなくなった時期であった事から、「男系」が態々「固い掟」として定め直したと考えられる。

二つ目の時期に取り分け必要としたのは、「下剋上と戦乱」で「継承者」が激減し、或は、「氏族の郎党」として働いていた「姓族」が「氏族」に代わって台頭し、「跡目継承」が困難と成った時期で、「格式」を重んじて「血縁関係」を維持するに逼迫した時期でもある。

従って、この「二世代」に限らず、「三世代、四世代」までを「嗣子・養子」として拡大しなければ「賜姓五役」としての「青木氏」が維持できなくなった事から、「同世」の「固い掟」を、態々、「掟」に明記したと云う事に成る。

「四掟」,即ち、「同宗・同族・同門・同紋」の文言だけでは、時代に反映して切迫している状況の中では「便宜的な解釈」が起こり、この「解釈」に依って変化して護れなくなったと観られる。
そこで、其の侭で行けば「掟の崩壊」が起こると予想され、「同世男系」の文言を「掟」に補完的に態々書き加えたと考えられる。


次ぎは、「同祖祭祀」である。
「青木氏」は、「祖先神の神明社」で「密教浄土宗」である。
「祖先神の神明社」は、「皇祖神の子神としての立場」にある。
「密教浄土宗」は「法然の浄土宗」の前の「古代仏教」を基とする宗派である。
「祖先神の神明社」と「密教浄土宗」は「神仏同源」としている。
「同宗・同族・同門・同紋」の文言だけの「四掟」に於いて、この「二つの事」を祭祀する事に「差し障り」が生まれたとする訳である。

つまり、態々、「掟の補完」をしなければ成らなくなった時期は何時なのかに関わる。
「同宗・同族・同門・同紋」の文言だけも解る筈なのに、ここで「何か支障」が出た事に成る。

そうすると、考えられる事は、“「神仏同源」”を敷いている「青木氏」に執って周囲との間に「神仏同源」を強い要る事に変化を来した事に成る。
そもそも、又、「青木氏」は、仏教伝来期の奈良期から「神仏同源」の為に“「達親制度」”を敷いている。
この「達親制度」にも問題が出た事にも成る。

そこで、鎌倉期には、「最澄の天台宗」、「法然の浄土宗」、「空海の真言宗」と「三代宗派」が興り、夫々、宗派拡大の宗教戦争の様な事が起こった。
要するに密教はどうあるべきかの「密教論争」である。
そして、この「三つの宗派」にはこの「密教論争」が興り、「密教」を否定する「顕教」が生まれ、「浄土真宗」や「日蓮宗」等の多くの分派が発祥した。

夫々の分派には各身分階層に分かれて入信者を増やした。
当然に「法然浄土宗」は「密教」を宗旨としたが、古代仏教から発展した「青木氏等の密教浄土宗」との間にも、「賜姓五役」と云う「立場」を護ろうとする違いから、「宗旨の乖離」が生まれた。
この為に、「格式」を「固い掟」として重んじる事に血縁を進める場合に「四掟との違い」が同じ「40程度の氏族」との間に発生してしまったのである。

“「神仏同源」と「達親制度」”は、そもそも「青木氏の根幹」を成すものであり、これを崩す事は、「青木氏の滅亡」を意味している。
「同祖祭祀」を護る為には「神仏同源」と「達親制度」が必要であり、その“「神仏同源」の「考え方」を維持するには、「達親制度」でこれを支えている構図なのである。

この事からすると、時代に依って「宗教改革」(密教から顕教に変わる事)が進むと「青木氏」に執っては、同様に滅亡を意味する。
従って、“「神仏同源」と「達親制度」”を護る為にも“「同祖祭祀」”を明記して補完したと考えられる。
その時期は、「鎌倉期初期」であろうと観られる。

従って、“「四定以成異性不養之固掟也」”の記録資料の「掟の文言」には、「同世男系」と「同祖祭祀」の「二つの補完策」の時期と理由が読み込んでいると取れる。
故に、「平安初期の女系策」と共に、「三つ補完策」が取られた事に成る。

(注釈 この「神仏同源」には、「柏紋の青木氏の神職」、「柏紋の青木氏の住職」が存在する所以でもある。)

注釈として、そもそも、「神仏同源」の文言は、「神仏習合」とは異なる。
「青木氏」に執っては、「二つのものが組み合わさる事」では無く、「その元を同じくすると云う事」であり、そこに「青木氏の密教」が成立していたのである。

「青木氏」に執っては「仏教の変化」が起こる事は、「神仏同源」の考え方としては好ましい事では無い。
「青木氏の記録資料」では、“「同祖祭祀」”と共に、“「神仏同源」”の文言で書かれている。
故に、「神」では「御師」、「仏」では「禰宜」、この「二つの主教の行事」を取り持つのが「達親」であって、分離していないのである。

そして、これと「四家制度」とを組み合わせているのが「福家制度」なのである。
この「福家制度」は「四家制度の差配」と「賜姓五役の差配」を仕切るという構図に成っている。

「仏教の変化」が起こる事は、全体の「青木氏」の「同宗の仕組み」を壊す事にも成り兼ねないである。
故に、少なくとも「青木氏の石垣」を崩さない為にも「時代の変化」に対応して「二つの補完策」が是非に必要としたのである。

(注釈 “「四定以成異性不養之固掟也」”の記録資料と共に、この様に「三つの補完策」の資料は室町期中期に頃までにまとめられたものである事が判る。
この記録は、「祐筆役(執事役)の菩提寺の役目」でもあった事もある。
「全国の500社の神明社」には地方毎の事で直接的な解明資料には成らないし、松阪の「菩提寺本寺の消失」で資料の保存状況は完全ではない。)

天皇に依る「政治的な補完策」として、「外部の秀郷流青木氏」に依る補完策は、全面的な部分に依る補完(958年頃)であって、上記の「三つの補完策」(「女系策」「同世男系策」「同祖祭祀」「神仏同源」)を効果的にする意味でも、時期的にも「絶好的な政策」であった事に成った事が判る。

(注釈 「青木氏の歴史観」としては、むしろ、「武家貴族の格式」を交換条件として「秀郷流青木氏」として与えた事だけでは無く、「青木氏」の「保全の努力」を観て、少なくとも「賜姓五役」を継続させ、「志紀真人族」としての「出自元」を「天皇家」として護ろうとしたと観られる。
「嵯峨期の詔勅」で「皇親族」から外されたが、ほぼ100年後の事ではあるが、その意味で「同祖祭祀」「神仏同源」の補完策は一族の者に対して、「四掟」の「同宗同族同門同紋」の文言の「引き締め効果」があったと考えられる。
故に、“「四定以成異性不養之固掟也」”の記録資料と成ったと考えられる。)

さて、そこで、「同宗・同族・同門・同紋」の文言とは、要約すると次の様に定義されている。

「同宗」とは、「大日如来」を神とする「密教浄土宗」であり、「祖先神」を「守護神」とする事。
「同祖祭祀」(「神仏同源」)の補完策が取られた。

「同族」とは、「皇族賜姓臣下族」の「志紀真人族」で「朝臣族」である事。
「同世男系」の補完策が取られた。

「同門」とは、敏達天皇の「春日真人族」を第四世族り「同祖同縁」として「志紀真人族」を「青木氏とする族」である事。
「女系策」の補完策が取られた。

「同紋」とは、「氏族」の「象徴紋」を「笹竜胆紋」とし、「神木の青木」を「氏の象徴木」である事。
鞍作部止利作の賜物の大日如来坐像をステイタスとする事。
「嵯峨期の象徴と禁令策」の補完策が取られた。

この様に「四掟」を補完して定義されている。
これが「青木氏」を理解する上での重要な「青木氏の歴史観」なのである。
この「歴史観」が無くして「世間に出ている歴史」を読むと大変な間違いを起こす。









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