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「青木氏の伝統 56-2」-「青木氏の歴史観-29-2」

> 「青木氏の伝統 56-1」-「青木氏の歴史観-29-1」の末尾


> 「青木氏」と同様に、主家が「神職族」であると云う格式から、つまり、高い「宿禰族」であると云う格式から、本来は「姓」は広げられない。
> 従って、「額田部氏」だけを何とか護ろうとしたが、結果として「神社」は遺せたが「氏名」は遺す事は出来なかったと云う説が頷ける。
> 「青木氏」は、「神明社」が有りながらも「由緒ある柏紋の神職・青木氏」を別に作り、これを徹底して「女系の四家制度」で切り抜けたのだ。
> 故に「神職青木氏」は各地で遺ったのである。
>
> 恐らくは「神職と云う事」から長い年代を「男系」だけでは難しかったと考えられる。
> ここに差が出たのではと考えられる。
> 筆者は全国に広がる“穂積氏で繋ぐ”と云う選択肢もあった筈なのに其れもしていない。
> それだけに「伝統を重んじた氏」であった事に成る。
>
> (注釈 江戸初期の「神社の統制令」の内に入り「で500社程度を有する神明社」を幕府に引き渡した。
> 江戸幕府は財政的にも管理し切れず荒廃は極端に進んだ。
> 但し、「伊勢と信濃と美濃と伊豆」では密かに「祠」で隠して護り通した。)
>
> 「額田部氏の系譜」の中まで入れないので、この「推測論」に成るが恐らくは間違いは無いだろう。
> それの遍歴が、現在は姓名が違うが「伝統」を護った「額田の宮大工」として遺ったとしているのだ。
>
> だから「施基皇子の裔の青木氏」には,当に、“「墳墓からの付き合い」”と記されているのは、“この事を察して護った”とする暗示の「青木氏の説」があるのだ。


「青木氏の伝統 56-2」-「青木氏の歴史観-29-2」

さて、前段の「額田青木氏・蒲郡青木氏」と「伊川津七党の青木氏・吉田青木氏等」のところに改めて戻る。
これには「別の面」からも考察が必要で、これに依って「青木氏の歴史観」が多く出て来るのだ。

この両者の「美濃の青木氏」は、「源平の美濃の二戦」で「近江佐々木氏や近江青木氏や佐々木氏系青木氏・近江三氏」と共に滅びた。
そして、別行動を執っていた「美濃」の「彼らの生き残り・伊勢の裔系」は、「加茂・木曽の山間部」に逃げ込み、「信濃シンジケート」として「伊勢等の支援」を受けて、密かに細々と「伝統」を守り生き延びた。
この間、平安末期からは「約300年以上」であった。
其の後、「額田を拠点」としてと「信濃までの山間部」で「原士・伊勢の裔系に付き従った官僚族」と共に生き延びた。

「美濃」で戦った「近江佐々木氏や近江青木氏や佐々木氏系青木氏・近江三氏」の一部も、「加茂・木曽の山間部」に逃げ込みんだとする一説もあるが、共に、この一部がどれだけ生き残り出来たかは判っていない。
筆者は滅亡したと考えている。
後に、「彼らの傍系支流一部」を探し出し、”「摂津」に匿った”とする「青木氏の資料」を採用している。
所謂、前段でも{論じた「摂津支店の支援」を受けた「摂津青木氏」である。
その意味で、この史実がある限りその一部が「加茂・木曽の山間部」に逃げ込んでいた可能性は否定出来ないだろう。

恐らくは、鎌倉期に入って暫くして「近江に戻る事」を望んたが、流石に「近江」には戻る事が出来ず、近くに居て、「摂津支店の保護」を受けて「商いの手伝い」をした事に成ったと考えられる。

そもそも前段でも論じたが、“「美濃の青木氏」は滅びた”と論じているのは、この“「美濃」”には「(aの族)と(a-1の族)と(a-2の族)」と「(bとcの官僚族)」の「四つの族」が居て、其の内、「(三野王の裔系のaの族)とその系列の(a-1の族)」の「全部」が滅びたのである。
つまり、「源氏化を進めた美濃族」である。

然し、「(a-1の残り・朝臣族、浄橋と飽波の裔系)」とその裔系の「(a-2・血縁族)」と、美濃の「(bとc・低位官僚族)」は、全てが「源氏化に賛成する者等」だけでは無かったし、元来、長い間に「多少の血縁性」は在ったとしても、「族としての関係性・氏族」は無かったのである。
要するに、「三野王を祖とする族(aの族)」とその「皇子族(a-1の族)」が「源氏化」を進め滅びた族であるが、「(a-1の族一部)(a-2の族)と(bとcの族)」の中には、上記の「浄橋飽波の裔系族」とは別に、彼等は、多少の所以を持つものの“「三野王に関わる美濃族」”としては“関わらなかった族”であった事に成る。

筆者は、「源氏化に反対」なのか、将又、「同族間の勢力争い」なのかは判らないが、何らかの理由で、恣意的に関わらなくしていた族”が居たと「状況証拠」から考えているのだ。
歴史的には記録として、激しい「同族間の勢力争い」があって衰退していたとする記録がある。
その原因は、「源氏化」なのかは明記されていないが、恐らくは、「源氏化に対する路線争い」であると思われる。

そもそも「平安末期」には、「美濃の土豪」であった「土岐氏」と血縁した「賜姓土岐氏系青木氏」が存在している以上はそう成るだろうし、この結果として「土岐氏の台頭」が目立つ故に、この゜土岐氏」も平安末期には完全な「源氏化」をしている。
「源平戦」で完全に滅びる事なく一部が何とか生き延びたが、室町期には弱体し乍らも存在している。
従って、「三野王系の中」には、「源氏化に反対していた勢力」が居たと考えられるし、その勢力も得て「浄橋、飽波の裔系」も早くから互いに「協力体制を採った流れ」の中に居たと観られる。

ところが、少し進んで、記録的には室町期の「織田勢力」が其処に付け込んで「美濃」にその「勢力」を拡大させたと成っている。
そこに存在していた「青木氏の影の勢力排除」の為に、その「信濃シンジケートの連絡網」、つまり、「命綱の断絶」の「神明社の排除」を図ったのだ。
困った「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」は、この「別の命綱」の別の構築に入った。
「伊勢から美濃信濃経由の縦の陸路」を遮断され、周囲に危険が迫っていた事から「三河の松平氏」に「国衆」として入った。
そして、「370年程度」の間は現地に潜んでいた(a-1の族一部)(a-2の族)と(bとcの族)の「末裔」が、これを機に「伊勢と信濃の青木氏の説得」で創った集団の「国衆」であった。

その「支援」を受けた「国衆」のその「戦力(鉄砲とゲリラ戦)」を「売り」にして三河の伸長している「松平氏」に「国衆として合力」したと前段でも詳しく論じた様にである。

(注釈 松平氏の「三方ヶ原の戦い」の「戦記」に、「195の国衆」の中にトップに「二つの青木氏」としてのその行動が詳しく記載が在る。
結局、この「三河の三つの記録」に依れば「美濃の青木氏」は、「額田青木氏」と「伊川津七党の青木氏」の二つを纏めて“「渥美の青木氏」”と記載されている。
この「記録」では、「前者の国衆の傭兵」は多く戦死し、「後者の国衆の傭兵」は生還と成っている。
つまり、この「記録」に依れば、「後者」とは、「額田の青木氏」であり、(a-1の族一部)の事である。
そして「前者」とは、武蔵から各地の国衆を経て「信濃」に移動し、そして最後に「美濃」に、更に「三河」に移動した「武蔵7党の丹治氏系青木氏」、つまり、「嵯峨詔勅で青木氏を名乗った族」の事である。
つまり、上記の(a-2の族)と(bとcの族)の事ではない。
この「前者」は、この後に、豊臣に付き、形勢を観て土壇場で徳川方に着いて摂津麻田藩を獲得した。)

(注釈 この時の戦記には、主に「松平の戦記記録」と「甲斐国志録」と「物語風の伊能文」とか外にも「複数記録」がある。)

注釈として、前段で詳しく論じた「一言坂の戦い」の「武田本隊の先鋒隊」と「額田青木氏の国衆の偵察隊」とが「坂の上下」で対峙して、その「遭遇戦」で戦死と成っている。
「青木氏等の記録」や゜他の二つの記録」では、「三方ヶ原での戦死」と成っている。
これは恐らくは「一言坂での戦い」は、抑々記録でも二つあって、一度目は「松平本隊」が野戦を仕掛ける為に、つまり、「土地の有利性」を生かして「武田軍本隊」を迎え撃つ為に「一言坂の東」で戦い、完敗して浜松城に逃げ帰った。
もう一つは、この後に、「吉田城」から呼び寄せた「350の銃隊」を「偵察隊」として「一言坂」に派遣し坂上で、遭遇した戦いで、この二つを混同して記録したものであろう。
然し、一概にこれには「混同」とは考え難く、江戸期にこの「無謀な野戦」を脚色して美化したと考えられる。

そこで、この時の「350の銃隊の偵察隊」に付いて記録から検証して観ると、この時の事が良く判る。
「額田青木氏の国衆・蒲郡青木氏」は「250人程度」であったとされる。
「渥美青木氏の国衆・田原青木氏等」は「100人程度」であったとされる。
合わせて、「南下した額田の裔系の国衆」は「350人」とある。
この内、「50人」は「伊川津七党の50人」としている郷土史らの説もある。
恐らくは、この「50人」は荷駄隊に従事したと観られるので、差配は「250人程度」の50人であると考えられ、要するに「土豪3氏の内の一部」であったと観られる。

今川氏が滅亡し駿河に隣接するその「東三河」には多くの「溢れ国衆等の残存兵」が居た。
これを重臣の「酒井氏や池田氏」に依って纏められて、「東三河軍・2000人」にして2軍制にしたのだが、ここに「額田の南下国衆・350人」は組み込まれたとある。
「松平軍」はこの時の「軍勢」は未だ「3000人」であったと成っていて、「西三河」と合わせて5000人に成ろうとしていた。

「350の銃隊の偵察隊」は何と全体の「約1割の国衆の勢力」であった事に成り、本来であればその「発言力」は相当あった事には成るが、現実は「旗本の西三河侍」に依って阻害された経緯を持っている。
筆者はそもそもこの「兵数の違い」には、前段で論じた「準備段階前の移動の証」と成ると考えている。
そもそも、「額田の子孫数」から観て「逆の兵数」に成ると観られ、そうすると「(bとcの族)」を分散させて「主力」を「額田青木氏の国衆・蒲郡青木氏」の方に置いたと考えられる。
これが「兵の役割」にもあった事は否定できない。

前段でも論じた様に、つまり、この記録の「350人」は、「美濃の伊勢の裔系の末裔」とすれば「約800年間」として、その「子孫力」の「4Nの2乗論」からすると少なすぎると考えられる。
前段でも論じた様に「人口に合った耕地面積」を「額田部氏」に依って開拓開墾灌漑され、その糧は充分にあった事を証明した。
つまり、これらが「家族とそれを護る一団」が先に「渥美」に移動させたとする確実な証拠にも成るのだ。
要は、「国衆の南下後」に家族を移すか、「南下の前」に移すかの選択にある。
当然に「国衆」がひしめき合う「美濃」に於いて「家族の移動前」の「国衆の南下」は危険すぎて無い。

前段でも検証した様に「家族」などの「一族郎党の移動集団の規模」は、「1500人程度」あった事が検証から判るが、南下前の更に「事前準備に入る前」に移していた事も判っている。

(注釈 前段でも論じた様に「田原にある古跡神明社の神官族・伊勢青木氏」を頼りにして、事前に「1500人もの家族」が「渥美と伊川津と田原と吉田域」の四域に移したが、武田軍の東三河の駿河と三河西から攻め入った軍勢に対し、「東三河」ではその攻撃の的は、当然に駿河に隣接する「吉田城と二連木城の攻撃」と成っていた。
そもそも、「豊橋の吉田域」は前段と上記で論じた様に、「伊勢青木氏の神官族」の古来よりの定住地であって、そこに「伊勢の神職の家族」などの一族郎党が奈良期より入っていた。
当然に、「国衆」と成った「一言坂の戦い前」の「8年間の歴史的空白期間」は、当に必然的に絶対的に護らなければならない「地域」であったし、そして、その地域を護る「二つの城」でもあった。
この「二つの城」は、「豊川」の川際に建てられた「平城の吉田城・豊橋今橋」と、そこから真東・2kmの「朝倉川」の際にある「300m高さ」の「山城の支城の二連木城・豊橋二連木」であった。
前者の「吉田城の経緯」は、土豪の「牧野氏と戸田氏との攻防」の後、最終は「戸田氏の城」と成ったが、1565年に「三つ巴戦」で「家康の手中」に入った。
この「東三河」には「武田軍」は「1571年・第一次」に攻め入った。
そして、「二連木城」を簡単に攻め落とし「1572年に吉田城」に攻め込んだ。
この時、「三河の戦記」に「二連木城の兵」は「吉田城」に入ったとある。
ところが、「平城の吉田城」が落ちず犠牲が大きく成つた事から「武田軍」は一度甲斐に引き上げた。
前段でも論じたが、明らかに「山城の二連木城」より簡単に落ちる「平城の吉田城」が落ちなかったのは、「額田青木氏の国衆」の「近代銃による銃隊」で雨霰の様に打ちかけられた事に依るものであった。
其の後、「今川氏の衰退」により「松平軍」は駿河を獲得したが、「武田軍の第二次」が始まり劣勢に置かれた。そこで、直ぐに「額田青木氏の国衆」の「近代銃による銃隊」は呼び出されて「吉田城」を出て「浜松」に向かい、その後に「一言坂」に偵察隊として向かったのである。
「一言坂の戦い」と「松平本隊の野戦」の「本戦の内容」は、「三河の三戦記」に記載はあるが、この「吉田城の戦記」では、何故か詳しく無く「田原吉田の兵」が戦った事だけが記されている。
要するに、ここで云う「田原吉田の兵」とは前段でも論じた様に「伊川津七党の事」である。
つまり、「小さい館城」を持っていた「渥美氏と戸田氏と牧野氏と西郷氏」の「4土豪」と、その「運命共同体の関係」にあった「額田青木氏の伊勢の裔系族とその原士族」の事で有り、当初は「4土豪」とで結成された「伊川津七党」であった。)

そこで、この「吉田城の経緯」を検証する。

牧野氏・1490年―戸田氏・1506年―松平氏・1529年―牧野氏・1535年―戸田氏・1537年―松平氏・1540年―(牧野氏・家臣―戸田氏・家臣)―今川氏・1546年―今川氏・1560年―松平氏・1565年―酒井氏(松平氏)・1571年

以上の様に、目苦しい経緯を持つていて、「松平氏・1560年」から渥美の伊川津で松平氏に関わっているのだ。

以上の「注釈の論」は、「青木氏の歴史観・三河での戦歴」を決める為には重要であり、唯、そこでこの活躍の「国衆」として南下したこの「活躍した350人」をどの様に決めたかにある。

前段での検証から、「地積拡大」から観て「40000人」と計算されたが、これは「三河域・青木氏の定住地」も含んでいる事も考えて「額田の域」だけでは「山間部含み」であった事から、「最大1/20」として「最大2000人程度弱」は「糧=人口の原理」から居たと考えられる。
又、「10里四方・40k四方の面積」の「拠点額田域の税の負担」から観てもこれ以上は無いであろう。
要するに、「350/2000≒1/18」で「残り」は「家族とその一族一門の集団」と成り得る。
これを数段に分けて徐々に移動させた事に成る。

兎に角も、この「350人のその役割」は「銃を持った偵察隊」と成っている。
つまり、記録としては「銃隊」である為に、前記の通り「吉田城の後」は「先鋒隊・偵察隊」に指名されたのであろう。
然し、これは「銃隊配置の原則の戦法」としては考え難い。
これには何かがあった事に成る。
そもそも「銃隊」は、「陣形の前方」に置くのが「常套手段」であるので「先鋒隊・偵察隊」は可笑しいし、それも「350と云う相当の数」である。
これ程は入らないでろう。

この事から考えると、「両者の合わせた戦力」は「280~350/3000」とすると、単なる割合でも約10%~12%とも成り、「松平軍」の中では「相当な軍力・発言力」と成っていた事が判る。
其処に、「平城の吉田城」で「武田軍」を退けた「300丁の超近代銃」を持っていると成ると、この前段でも検証したが「数倍の力・10~20倍」を持っていた事に成る。

現に、「信長」が{武田軍27000」を「1000丁・傭兵}で殲滅した「戦歴の史実」の事から考えると、「350の銃隊の威力」は兵力に換算すると、其れも「単発の火縄銃」では無く、「4連発の近代銃」であったので、「数倍の力・10~20倍」は充分に納得できる。

とすると、「350の銃隊の威力」は「松平軍本隊3000」と同じ軍力を持っていた事に成る。
此の論理からすると、「額田国衆の発言力」は最大であった筈である。
何度も論じているが、「西三河の旗本の嫉妬」、又は、「無知」は「異常のレベル」であった事に成るし、「家康」も歴史で美化されるほどに「青木氏の歴史観」から観れば大した事は無かった事に成る。

“一言坂の「先鋒隊・偵察隊」の扱い”のみならず「三方ヶ原の本戦の扱い・鶴翼の陣形」も「異常中の異常」であった。
筆者は元より「美化の方」が先行していて余り「家康」を買っていない。
故に、当時の伊勢は、“早々に国衆を引き払らう事を支持した”と考えられる。

そして、記録通りに「武田軍本隊(20000)の先鋒」と「全面戦に成った事」で観てみると、矢張り、「一言坂の戦いの遭遇戦」と云われる位に、僅か1%で対決出来た事は、普通では出来ない筈である。

(注釈 「西三河の松平軍本隊は3000」とあり、「武田軍の攻撃」を受け護り通した「東三河の吉田城」より参加した「東三河の酒井氏の支隊2000」とで最後は5000と成った。
「二連木城」より「吉田城」に移り参戦し「武田軍」を甲斐に戻させた「額田青木氏の国衆の銃隊」は「東三河軍の吉田城」を離れ本隊に参加し「一言坂の戦い」に偵察隊として入る事に成った事の経緯は判る。)

この戦歴は「相当な鉄砲等の火器/300丁・商記録から算出」と、「得意とするゲリラ戦」を駆使して対抗出来た事を示すものである。
況して、「三河戦記の記録類」にある様に、「三方ヶ原」で「騎(額田青木氏の当主)・隊長」が戦死した「額田青木氏の国衆」の一部と、「渥美の青木氏の国衆」が無事に生還した事を考察すると、前段でも検証した通り、「武田軍本隊の追撃」を躱すだけの「相当な戦力の保持」があった事に成る。

その意味で、「本能寺の変」を境に弱体化した「元今川氏」の「北三河域」の「額田地域一帯」に「青木氏の勢力圏・縦の陸路・第一と第二の陸路」を「国衆」として拡大構築して“「命綱」”を更に蘇えさせる戦略に出た事がこの事からも良く判る。
恐らくは、この「兵数と銃力」は相当に「家康本人」からは信頼されていた事を物語るものであろう。
ところが「西三河の旗本」は嫉妬で別であった。

そもそも、「二連木城」を物ともせず押し寄せた「勢いづいた武田軍」との「平城の弱い吉田城」から退けた「戦いの功績」が「額田青木氏等の銃隊の功績」の記録として遺さなかったのは疑問である。
「吉田城」と「二連木城」は、そもそも「戸田氏と牧野氏の争い」の為に「城づくり」が成された城であり、
それだけに「護り」は弱いのである。
それを退けたのであるから「相当な戦歴」であった筈である。

「武田氏の資料」には“全滅に近い犠牲が出る”として“甲斐に建て直しの為に引き上げた“とある。
それ程の事が起こったのである。
記録を遺さない程の嫉妬であったのであろうし、青木氏の資料に依ればこれが「江戸の享保期」まで続いたとある。

それは「平城」で戦うには「20000の軍」を退かせるには「10~20倍の力を持つ銃」以外には無い。
そうすると。2000+1000+7000=1万
重臣の守備の酒井氏は「2000の兵」で守備していた。
家康はこれを助ける為に西三河から駆け付けたが脆くも負けたので「残存兵」と共に「吉田城」に入ったとある。
この時に、“渥美や田原や吉田や西郷等の土豪衆・伊川津七党も西から入った”とある。

そうするとこれで、「松平の守備力」は「2000+1000+7000」=1万と成る。
然し、これは2万>1万では無い。
これは「入り乱れての戦いの勢力」の時の論理である。
「2k先」から「命中率90%以上の威力」を持つ間断なく打ち込んで来る「弾幕の超近代銃」なのである。
つまり、「2万の軍力」には意味を持たない事に成る。
それも完全な北に川が控える北本丸のある小高い丘の上にある土盛りと素掘りの平城である。
城門は東向きに当初あって、松平氏はその後に南門を付け加えた。
従って、敵は三方から主に南門と東門から攻め立てる事に成ったが、普通であれば「土掘りと素掘りの平城」で何の強みも無い城は「総攻めの兵力」で簡単に堕ちる。
然し、二つの記録に依れば「4倍の兵力を持つ武田軍」は「総攻め」で堕ちる事に成るが、ところが「銃隊」が存在した事からはほぼ水平に的を得て打ち込まれたとあり、このの範囲に近寄れば何もしないでも全滅である。
然し、「2000の兵」の「二度に渡る攻撃」を掛けて、“「全滅」に近い相当の犠牲を負った”とされていて、「全滅」を恐れて断念して「建て直しの為」に軍は「二度目の撤退」と成り“「甲斐に帰った」”とあるのだ。

(注釈 織田軍の側面からの脅威論もある。
然し、この説は矛盾である。東三河を攻めれば松平氏が全滅し東が武田勢に堕ちれば「織田軍」に執っては好ましくないとしている説であるが、この事は始めから判っていた筈である。
そもそも、「甲斐に引き上げる理由」には成らない。
「甲斐の戦記」にはこの事に何も触れていないのだ。
「信玄の病気説」もあるが、これを隠し通して先ず「三河」を落とした上で織田との本戦に備える為に三河に守備隊を置いて「甲斐」に引き上げれば済む筈である。
何れにして長期戦であった事から「甲斐」に一度は引き上げなければならないであろう。
現に、歴史は「吉田城の戦い・1572年3月」から丁度一年後に「三方ヶ原の戦い・1573年1月25日」と成っている。
その前の「一言坂の戦い・1572年10月13日」が起こっている。
「織田脅威説」にしろ「信玄病気説」にしろこの間に何も状態は変化はしていないのである。
明らかに、「思い掛けない手痛い犠牲」を負って「態勢立て直し」の為に国に引き返した事に成る。信濃にも引き返しているが、それ以上の問題が戦術的にあった事に成る。
恐らくは、「吉田城の経験」から「今後の戦い方」として当然に「銃戦に対する対策」であった事に成る。
故に、「甲斐の戦記」には幾つもあった中の一つの戦いの「吉田城の事」が記されているのだ。
そして、「三河の戦記」に「家康の談」として“長篠城の壁は銃の穴だらけであった”と記されている。
「武田軍」は「吉田城の戦い」で「甲斐」に帰り、この「難しい銃の入手」に一年間奔走した事に成る。

前段でも論じたが、念の為に「銃の数」は「戦記の中」では不明であるが、一年間で入手できる範囲は「精々150丁から200丁・火縄銃」であろう。
「近江、日野、堺、雑賀、根来」の「生産地の能力・総合産業」から当時は未だ最大でも「年間で計300丁程度」とされた。
その「雑賀と根来」は「長篠」までは未だ「織田の銃の傭兵軍団」であった。
其の後に、「犬猿の仲」と成る。
従って、「近江、日野」か「堺」と成るが、「堺」は「伊勢青木氏の商いの取引先」にあって難しいし、「雑賀」と「根来」も「伊勢の商い先」であって「資産投資先」でもあった。
従って、堺からの資材供給で成り立つ「近江」から、起きた破りの裏ルートの何らかな方法で獲得する以外には無かった筈である。

然し、上記の通り「銃」は「ある特定の商人」の“「専売品」”で、先に“「一括発注」”されて生産されるシステムにあって、「一般の市場品・市販品」では無かった。
「伊勢の紙屋」の「伊勢屋のシンジケート」と「今井神社シンジケート」と「近江の商いの特定組合」の手中にあった。
従つて、“「政治的絡み」”が大きく、獲得しようとした場合、「裏ルートの獲得」と成った。
つまり、此の頃から、“裏ルートを獲得した者が天下を取る”と云われていた。

さて、そうすると、「伊勢屋の青木氏」が専売で特注し獲得した“「近代銃と云われる物」”は「300丁」と「商記録」が成っていて、この「期間」を割り出すと、「額田の国衆」に渡し、「伊勢秀郷流青木氏による特訓」の訓練をした時を、「1540年~1545年の間」であるとすると、これに「運び渡すまでの時間」を遡れば、「伊勢で調達出来た時間限」が判る。
これが、「準備期間の開始」を「1540年期限」だとすると、「商記録の記載日等の資料」を探ると「約1年弱程度の期間」が掛かっている事に成る。
「300丁/11~13」が「堺と、又は雑賀と根来」の特注での「銃生産力」と成る。

これは資料から、“「新式銃・超近代銃」”とするものであったので、「普通の火縄銃の生産」と合わせると、「三カ所の全生産力」は「600丁~800丁」を超えないものであったろう。
但し、これには「条件」があって、「主生産地」は「湊を持つ地域」で、それは「堺と雑賀」であり、紀州の奥の「根来」は、「同族雑賀」からの「下請けの流れ」の中での生産に成っていた。
「近江と日野」は「雑賀―根来」と同様に「一地域の流れ生産」であり、港は持っていないので生産は低いと考えられる。
「雑賀と堺」は「銃」に必要な「鉄生産と火薬や檜等の用材」を全て持つていた「生産地」である。

恐らくは、「貿易」に関わっていた事から「最新の銃の情報・西洋の情報」を掴み、高額を叩き「見本」を得て“秘密裏に特注した”と考えられる。

注釈として、「銃の型式」は確実には解っていない。
それは下記した様に、「火縄銃・1543年」で無かった事が解る。
「火縄銃類」でなければ、「読み取り」から「種子島から後の事・1543年伝来」であれば“「近代銃」”である事に成る。

「国衆としての準備段階」に入ったのが「1540年」であるとすると、その「2年後」に伝来し、これを「国衆の武器」に逸早く採用しようとしたのは1545年頃と成る。
「外国貿易」をしていた事から「銃の情報」はもっと早かった筈である。
恐らくは、「1540年頃以前」に「中国からの情報」を得ていたと考えられる。
「銃の歴史」は「1411年・ヨーロッパ」が「最古」であるとして、「1430年」には遺されていて、「1473年」には、「汎用的」に外国では取り入れているし、「1499年」には“「マスケット」”と「火縄銃の総称」として呼ばれる様に成っていた。

恐らくは、「貨幣経済」が進んだ「室町期中期」で「巨万の富」を獲得した“「時期・1454年頃・倭寇時代」”と見做される。
早くても「1454年~1473年」には少なくとも「見本」を取り入れて“「堺」”で「伊勢屋の許」で密かに、つまり、「種子島の100年前」には“「試作」”が施されている筈である。
そして、「1500年頃~1540年頃」には、「伊賀や伊勢水軍」では「貿易の倭寇の護身用」として持っていた可能性がある。

「戦乱期である事」から、当初は「密かな商い用」であったと考えられる。
それが、試行錯誤しながら「1535年頃」には「改良型の新型の近代銃」の「試作量産」に入れていたと考えられる。
そして、「国衆の訓練・1540年~1545年」頃には間に合わしていたと考えられる。
そもそも「伊勢秀郷流青木氏・梵純」が、この時、既に「結城氏を護る為」に「兵」を北と東に動かしていて、「額田国衆の訓練の指揮官」も「1540年頃」には引き受けている事から考えると、この経験から「指揮官」そのものが「額田国衆」の「近代銃の訓練」で来ていた事に成る。

だから、「織田勢や秀吉勢に対抗する力・銃力」を持っていて、つまり、既に、まだ「珍しい銃」を持っていて、背後から迫る「伊勢秀郷流青木氏・梵純」を恐れられたのであろう。
「陸奥」から「北陸商用道」を使って「歴史に遺超す程」の「醜い退却」をしたのである。
この事は、既に、「伊勢秀郷流青木氏・梵純」には「1543年の前」には「伊勢青木氏・伊勢屋」は密かに生産していた試作のものを彼等に渡していた事に成る。

其れで無くては、「伊勢秀郷流青木氏・梵純」の「僅かな兵力を恐れる事」は無かった筈である。
前段でも論じた様に、「伊勢の人口」は「不入不倫の権」で抑圧され「全国平均の1/20程度」しかなく、取り分け、「北勢」は“「聖域であった事」”からこれを護る為に少なく成っていた。
それ故に「中勢以南」に「人口」が集中し「室町期中期」には「全国平均並みの92万人」であったとされる。
「北勢に住む秀郷流青木氏」を含む「伊勢藤氏」が、史実の通り「対抗軍」を編成したとしても最大で「1000人~2000人程度」であろう。

この「勢力」が背後に迫ったからと云って、「兵糧攻め」している中で慌てて「攻める事」を止めて「一般道」を通らず「北陸商人道」と云う「特別の険しい道」を通って「大坂」まで逃げ帰る事まではしない筈である。
何かが無ければ何処かで「陣構え」をして「迎え打つ事」はこの「人数・2万に拡大」では充分に出来た筈である。
結果としては「1510年頃」から“「北陸の戦い」”は始まり、「1575年・天正の乱」と「戦い」は続き、更に移り「1590年」に遂に「奥州仕置き」と発展し、「奥州の白川結城氏」は衰退し滅亡した。

この間の「織田勢の奥州攻め」の「支城一戦・1540年頃・三戸城等の在郷領主連合軍」である。
この“「奥州攻め」”では「陥落した城や領主」を勢力下にして「軍力」を大きくして行ったのである。

「種子島鉄砲伝来」より前に、既に“「試作」”が成され、その間、僅か乍ら“「量産」”に持ち込んでいた「伊勢屋」は、これを出来つつあるものから「伊勢藤氏」と「伊賀原士」と「伊勢水軍」と「秀郷一門一門」、或いは「信濃・諏訪含む」や「伊豆」に護身用に密かに渡していたのでは無いかと考えられる。
つまり、「種子島の100年前」には、「欧州・フランス」から兵用に使っていた銃を見本として取り寄せ、“「試作」”が何度も施され、そして、「1500年頃~1540年頃」には「試作量産化」が成され、「1535年」には「火縄銃」を超えた「新型銃の試作と量産化」と成っていたとすると、間尺が合う。
それだけの「財力」は充分にあった。
そして、それが「伊豆」を救い「額田青木氏」を救う事が出来るのだと執念に燃えていたのだ。

何しろ、「奈良期」からの“「紙屋院の称号」”を獲得し「高位族」で在り乍らも“「造部」”を支配下に置き、自らも「青木氏部」を持ち、唯一、「商いの出来る特権」を得ていたのであり、それを更に発展させて「朝廷の財政・献納」を潤していた。
その「伊勢屋」は「貿易」をしていたのである。
この「状態」は前段でも論じた様に、明治中期まで続いていたのである。
そもそも、「進んだ銃の存在」を“「知らないと云う方」が可笑しい”であろうし、「造れない方」が可笑しい。

それを連携して叶えていたのは要するに「堺の呼称」なのである。
そもそも、奈良期から最も「海外の情報」を手中に収めていた「氏族」なのである。
“「銃の事」に関しては何事も条件は揃っていた”のである。
寧ろ、“何でも出来ると云う立場”にあった。
「青木氏の歴史観」はここにあるのだ。
これを忘れては「歴史の考察」は間違う。
その前提の意味で「全ゆる資料の行」の「一字一句の持つ深い意味」を読み解いているのだ。
この「銃の事」も同然である。

故に、密かに持つ「近代銃の力」で「1000~2000の兵」としても「2万~4万の戦力」と成って討ちかけられれば“全滅”として恐れられ、一時は「額田青木氏・蒲郡青木氏」の一部が「桑名」に引き上げた「史実」と成ったと考えられる。
「伊勢」と詳細を打ち合わせの為に戻った可能性が高い。

この「試作近代銃」を得て「伊勢の伊勢梵純の戦力」は「2万~4万の戦力」と周囲から見做され、その兵力で「織田氏の勢力」を「大阪」まで追いやり、そこで陸奥の「小峰族の血筋」の無い「生粋の白川結城氏の一族末裔」をその「本家の永嶋氏」の「茨木結城・永嶋氏」に救い出した事に「伊勢梵純の戦記史実」として成ったのであろう。

そして、この何度も「試作量産銃」を「伊勢藤氏に渡す事」で「伊勢全域を護る血縁族の抑止力」ともしたと考えられる。
そこで、気になる処はこの「銃」を「信濃」に渡していたかであるが、手を尽くして色々な可能性を調べたが判らない。
「信濃」は唯一の奈良期からの「同族血縁族である事」から「伊勢藤氏」と同じ様に渡していた可能性は高いと考えている。
後段でも論じるが、「状況証拠」として「諏訪青木氏」の武田氏本隊での「一言坂の活躍」でも判る。
上記した様に銃が得られない状況の中で、「一言坂の遭遇戦」で僅かながら持ち得ていた事が史実として判っている。
武田軍の中で獲得出来得る国衆は信濃諏訪族の裔系以外に無い。

これだけ渡す「間口」が広ければ数から観れば“「試作」”では終わらなかった筈であり、額田は勿論の事、「全青木氏」の“「内々の量産」”であったと観ている。
戦国の世から「青木氏を生き残らせるための策」であったと考えている。

筆者はこの前提は、前段からも論じている様に、「室町期」に入り「下克上と戦乱期」に入り、「青木氏族の危険性」が極度に増し焦ったのでは無いかと考えられる。
そして、その為にもこの「抑止力」を高める為にも「青木氏の奈良期からの利点」を生かして“「財力」”を蓄えたと考えられ、幸いにも「紙文化」が花咲き「巨万の富」を獲得した。
そこで、この「財力」を使って「兵」を待たずとも出来る「銃の様な防御力・抑止力」を何とか確立させようとしたと考えているのだ。
それが、この「銃の先取りの試作」であったと観ていて、それが「美濃の国衆の近代銃」に繋がったと観ているのだ。

「公式の記録」では、「1543年の種子島」と成っているが、既に秀吉や家康は薄々は「伊勢青木氏」が背景で「堺」で「寡占的」に「秘密裏」に何か「変な飛び道具」を作っていた事を知っていたと考えられる。
然し、“懐疑的な面もあった”と考えていただろう。
故に、「梵純の兵」を“極度に警戒した事に成った”のであろう。

(注釈 この秀吉が銃を持った時期の歴史は次の通りです。
実は1588年に「刀狩り」があります。
その時の絵図にも「鉄砲」は描かれていて「記録」は遺つています。
つまり、これは「武士以外の者」が持っていた事に成る。
「1575年の長篠の戦い」では「雑賀と根来衆の銃の傭兵」で「信長」は獲得します。
これは「秀吉」が「信長」に進言し「調達」を「今井神社シンジケート」に「調達」を試みたが失敗に終わり、結局は「雑賀と根来衆の銃の傭兵」で「決着」が着く。
これはこの頃、「特殊な武具の情報・銃」を既に掴んでいた事に成る。
これは「蜂須賀小六の子分時代に知った事」に成っている。
秀吉は「1537年~1598年」で、少年時代(15祭頃)に「蜂須賀頃の子分」に、「信長」に「草履取り」で「1558年」に、つまり「21歳の時」である。
「少年時代に情報」を掴んだとすると「15歳~21歳」で、「信長・1532年~1582年」に進言したのが仮に「2年~5年」経っての事として、“「1560~1563年」”に成る。
「種子島鉄砲伝来・1543年」とすると、「1558年」までには「15年経過~20年経過」している。
この「1560年」は「桶狭間の戦い」で「今川氏」を衰退に追い込んだ時期である。
「1568年に上洛」、「1570年に姉川の戦い」、「1573年に室町幕府潰す、そして「武田軍」との「長篠の戦い・1575年・銃隊」と成る。
これが「実戦の種子島の経緯記録」と成る。

火縄銃の規制では、「秀吉の刀狩り1588年」と、これを「15年後」に引き継いだ「家康の1603年の銃規制」と成る。
故に、原則として「1560年~1563年」までは誰も「銃」を持っていなかった事に成るのだ。
“入手できるとか出来ない”と云う前に、「銃価格」が「この時期」では余りにも入手出来ない程に「高価」であり過ぎたし、当然に「生産量」が無かった。
故に、「シンジケート入手」として独占化していたのである。

そもそも「生産態勢に必要とする財源」の供給が無い限りは無理であった事から「独占寡占化」して「シンジケートルート」に成っていたのである。
従って、「雑賀根来の銃傭兵」の方が可能と成るのだし、「銃を扱える熟練度」も必要としていたが未唯、その様な者は「生産者が財源元の支援者以外」には育っていなかった。
「シンジケートルート」と成り得る根拠があって、要するに「銃に依って得られる利益」は「販売で得られる利益」より「シンジケートを維持する事に依る利益」の方が遥かに大きかった事と、販売する事に依って「自らへの危険度を増す事への警戒度」が大きかったのである。
つまり、この集団を浮力に依って獲得して勢力を拡大させようとする危険度である。
これ等を無くすには、「シンジケートルート」しかないのであって、とは云っても「財源の補償」をしてくれる「バック」が必要であった。
当然に”口を出さずに”である。
そうなれば、「七割株の豪商」と云う事に成り、「商い」だけが成り立てば必要以上には”口を出さずに”に居たのが「伊勢屋・伊勢青木氏」であったのだ。
この「伊勢屋」が「氏是」で“銃の世間への広まり”を危惧していたのである。
飽く迄も、「抑止力の前提」の許にあったのだ。

ところが、又もや、「近江・日野」がこの「掟」を密かに破つたのだ。
この「近江日野」には「資材の供給の停止」と「財源の補償の制裁」を加えたのだ。
これが、結果としてその「職能」は空気感染を起こし各地に飛び散った。
「伊勢屋」はこれを止められなかった。
然し、幸いに広まった「火縄銃」は旧式で「マスケット」を超えていなかったのだ。
それでも「秀吉と家康」は抑え込もうとした事はいい方に働いた。


注釈として さて、そこで歴史に遺る「正規の火縄銃の生産経緯」はどの様なものであったのかである。
重要な歴史観を決める要素である。

「歴史の経緯」が記載されている説では、次の様に成る。
「根来寺の杉の坊算長(津田監物)」が自ら種子島に渡り、「鉄砲と火薬の製法」を習い、これを「根来の地」に持ち帰えったとされる。
その「鉄砲と同じ物」を根来の坂本に住む、「堺の鍛冶師、芝辻清右衛門」に製作させたのが「本州最初の鉄砲」と言われている。
実際は違っている。
上記で論じた様に「筆者の資料・近代銃・フリントロック」では、「貿易」で「種子島より相当前」に密かに入手し、それを「堺・持ち株7割・伊勢屋支店」で造らしていたとある。
「火縄銃」とは全く書いて居ず火縄銃ではないと考える。
出来るかどうかも判らない「フリントロックの改良型」を追求していたのであった事から銃名を書かなかったと考えられる。
「伊勢青木氏の資料」と同じ「歴史経緯に乗らないルート」を論じている説が他に「三説」がある。

一つ目は、「近江佐々木氏の青木氏研究論」に葉、”種子島”とは書かずに相当前に入手していたとする「行」がある。
これは「伊勢青木氏の資料の事」と同じで恐らくは「伊勢屋の事」を言っていると考えられる。

二つ目は、歴史の経緯の公的に成っている「記載説」に、「但し書き」として、“「種子島」は決して始めてでは無い“とする「添え書き」による入手事前説がある。
唯、生産していたとは明記していない。

三つ目は、二つ目と同じく「但し書き」であるが、「伊勢」では無く「近江の日野」とあり、「近江商人」をイメージする表現と成っている。
但し、三つ目は二つ目を参考にして論じたとものと推測できる。

合計4説があり、「青木氏説」も入れて「二つ」が「事前説」を強調し、「残り二つ」はそれらの“「種子島より事前説」”もあると説いている。

これ等の「4説の根拠」は二つある。これを分類すると次の様に成る。
一つは「青木氏の説」と同じく“「貿易説」”である。
二つは“「銃の長短説」”に基づいている。

「貿易」に依って「100%に情報」が早い。
そうでなければ「抑々論」で「貿易」は出来ない。
これに基づいて「貿易」は成されている。
要するに゜情報の遅い貿易」はあり得ない事に成り、完全に納得できる。

「銃の長短説」では「火縄銃」は大した訓練を要せずに使える。
然し、「天候」に左右され、「命中率」も低く、硝煙の火薬は貿易に頼るし、「飛距離」も短いと云う欠点があり、「西洋」では「個人的な使用に類する使い方」に限られていた。
これが「マッチロック式マスケット銃類・火縄銃類」と云うものである。

ところが、この「マッチロック式マスケット銃類・火縄銃類」の「欠点」を改良したのが「ホイールロック式銃」か、更に改良した「フリントロック式銃」であって、「欠点」は「火縄銃の裏返し」である。
「フリントロック式銃類」は、「活動性(軽量・移動)」を重視し、訓練で熟練度を必然的に挙げる事が出来るので「軍隊」に早くから広く採用されていたのだ。

この「軍隊」に広く採用されていたとすれば,“「貿易」”で「国内に情報」が入らない方が可笑しい。
故に、では何故、この「ホイールロック式銃」か、「フリントロック式銃」かが入らなかったかという事に説明が到達する。
入ったのは、“「個人用」”としてに持ち込まれた汎用的な“「火縄銃」”が先で、其れも「10種類」ほどある中の「初期の銃」であった事に成る。
そもそも、この「火縄銃の旧式銃」を日本に高く売り込んで「商い」とすると云う「外国の戦略」であった。

「伊勢の伊勢屋」が見本を入手した「銃」は、上記で検証した通りの「ホイールロック式銃・見本銃」か、「フリントロック式銃・近代銃」であったのかは確定は出来ないが、「汎用的火縄銃」を目的としたもので無かった事は明確と成る。
見本として入手したのは状況証拠から「フリントロック式銃」であろう事が判り、これをよりに日本人向けに、更に、「活動性(軽量・移動)」を重視した銃に密かに堺を使って改良を重ねたと云う事に成る。

急激に高まった「下克上と戦乱」の「極度の危機感」からの生き遺る為には「全財産・巨万の富」を使てでも獲得しようとしたのだ。
要するに、「銃に関わった理由」は、上記した“「青木氏の抑止力」”を「強化させる事」を“目的としたもの”であった事に依る。

(注釈 前段で論じた「美濃の額田青木氏の南下国衆の携帯した近代銃」は、上記した「1588年の刀狩り」では、既に“「商人の陸運業」”としてだけでは無く“「武士の護衛団役」”として帯同していた事であり、“「刀狩り」”は適用されずに逃れられた事を意味する。
この1588年時は、既に、「三方ヶ原の戦い後」の「1572年}で「国衆」を辞め「強力な陸運業」に専念した15年後の事であった。
当時は、未だ「盗賊山賊」が多く危険で「元美濃原士」であった「繋がり」もあり、襲っても「軍隊」でも「瞬時に潰せる能力」の持った「陸運業・伊勢屋の仕事」であってその相手では無かった。
この「刀狩り」には掛かったとする記録はない。
問題は、「大名」に課せた「1603年の銃規制・火縄銃」にはどの様に対処したのかは、「対象の大名」では無かった事からも、殆どは、「五つの記録」や「江戸期の小説」にも記載は無い。
「陸運業と開発業と殖産業」に成っている事は知られている。
その裔が行った有名を馳せた「額田青木氏の一言坂の戦い」を知っているし、例え、山賊や盗賊でも戦いを挑む馬鹿は居なかったであろう。
寧ろ、逆であったと考えられ、「遠方運送の場合」は連携して「協力態勢」を執って「糧」を得ていた可能性の方が高いだろう。
宿で隠密の様に,“次の連携について打ち合わせた”とする資料はある。
筆者は、この「一部の資料の行」を読み解くと、常時、使う陸路の場合は積極的に潰したか、その仲間に糧を与えて組み込んだと考えている。
「運送荷駄団」の「側面護衛」を前提にしている以上は、この考え方の方が自然であり、「抑止力」としては「美濃の国衆の役目」の様に「伊勢式」で、当時としてはこの記録は「1000年の歴史」を持つ「氏是」に沿っている。
この様に「強力的で協力的な抑止力で済んだ筈」である。)


さて次に、上記した様に「信長」が果たせなかった“「伊勢攻め」”で、今度はこれを引き継いだ「秀吉」は、「伊勢と紀州の勢力」を「紀州攻め」で、「銃」を生産し、且つ持つ「銃勢力」を潰しに掛かった。
上記した様に「秀吉」は「1552年頃」に、この「銃シンジケート」を知っていて天下を取ると逸早く潰しに関わった。
「銃生産と保持者」のみならずその「影と成る財源力」も潰しに掛かったのである。
「信長の雑賀根来攻め」は、「1577年、1581年、1582年」と三度である。
これには伊勢側は何とか「ゲリラの抑止力」で絶えた。
然し、これを引き継いだ「秀吉の紀州征伐」は「1585年」であった。
歴史に遺る「秀吉」の「信長」を超える「残虐な酷い殺傷の戦い」をした。
この時、「伊勢青木氏」は逃亡してくる「紀州門徒衆」等を匿ったし、然し、この為に「松阪の蔵」や「菩提寺・本寺」を焼かれた。

「銃生産の財源の背後」と知っていた「秀吉」の「長島の戦い」でも抵抗した。
最後には、「青木氏の旧領地・弱点」の「南勢の奈良期からの旧来からの氏人・郷士」の“「湯川衆攻め」”までして仕掛けて来たのである。
そもそも、この「南勢の湯川衆」は確かに「旧領地」と云えど政治的にも秀吉に抗した訳でも無く、「直接の関係衆」では無かったが、それでも「牽制の為」にも攻めたのである。
「氏人の伊賀攻め」も同然で仕掛けられた。
然し、これを「氏是」を護りながらも「秀吉の弱点」の「ゲリラ戦の抑止力・伊勢シンジケート」で抵抗したとある。
「観えない相手と戦う事」に疲れた秀吉は、これで「南勢の湯川衆攻め」から手を引いた。
然し、「北勢の攻め」も「伊勢青木氏に関わる攻め」たけは「深入り」をしなかった。
これ全ては「銃に関わる背後関係」から来ている筈である。

矢張り、“「ゲリラの本格戦」”ともなれば「三河の伊勢の裔系」からも「近代銃の陸運業隊」が駆けつけ、更には「銃」で既に防備していた「全国の秀郷流一門」や「伊賀衆」をも本格的に敵に廻す事に成るとして「得策」では無いとし、秀吉は「単なる牽制」で終わったのである。

「伊勢水軍」や「摂津河内水軍」や「堺衆」や「雑賀根来衆」も「力を盛り返して来る事」に成り、「秀吉の兵力」を遥かに超えて「無傷で上回る事」を意味していたのである。
それが「ゲリラ戦」と来ていると成れば手は出さないであろう。
「信長の紀州攻めの失敗」も知っている。
これは当に、密かに「伊勢青木氏」が「銃生産」で「抑止力」として「相当な銃力を蓄えていた事」を知っていた事に成る。

故に、「見せしめの牽制策」として、徹底して「根来一寺」を滅ぼせば、「紀州の諸豪族は刃を交えず降伏する」と見込んで、「根来勢の徹底壊滅」に乗り出したのである。
「すさまじい勢い」の「秀吉軍10万の大軍」を相手に「根来勢」は、「積善寺」をはじめに、千石堀、沢、畠中と次々に出城寺を攻め落とされ、最後はこの「本拠地の根来寺に逃げ込んだ農民等」に対し、「秀吉軍の本隊」が着いた時には、「寺衆・農民庶民」では既になく「抵抗する者」は全く居なかったと伝えられている位の殲滅状態であったとされる。
それでも、寺門から出て来た「戦力の持たない農民庶民」の全てを殲滅したと「記録・6000人」に遺されている。


さて、この「銃の事前獲得」に就いて、凡そ「資料の行」から、新たに、この“「300丁の銃」”を整えるとしていて、その「二つの銃(ホイールロック式、又はフリントロック式)」を整えるには、“「新型の事・フリントロック式・試作銃」”もあって纏めるには、「資料の存在の意味合い」から観ても「最低5年~最大7年程度」は要したと考えられる。

この「二つの近代銃」は、“「扱い」”が難しく“「熟練を要した」”とだけ記されている。
“どの様な熟練度を要求していたのか”を他の資料と共に探るとする。

それは「火縄銃」は、上記で論じた様に、その「飛距離」、「命中度」、「殺傷力」、「環境力」、「時間差」の「5点」が低かったとされる。
ほぼ後に「欧州」で開発されたものは「小銃的・短銃」なもので「個人性」を有していて、一部でこれを「軍用」として「日本」では使おうとしたが直ぐに失敗したとある。
其れは“弓より劣る”とする理由であったとされる。

この「5欠点」を全て改良した結果、再び、何が起こったかと云えば、「射撃発射時の反動の悪化」であったとされる。
この「反動」があると、行き成り焦点を合わして構えるのではなく、肩に沿えた構えで「縦膝姿勢」で「反動」に耐えられる様にして、先ず、「銃」を上から下側に下ろして来るとしている。
そして、「狙いの位置」で引き金を引きシリンダに込めた弾丸を火打ち石で発火させて連続に打ち始める。
この時、1発目から4発目まで撃つ度に「長い銃身」が反動で少し上側に上がる。
これを“「訓練で少なくする事」”にあった。
然し、これを小さくする手段として「伊勢」が求めたのは、この「訓練」は兎も角も、“銃身を短くする事”にあったとしている。
これには意味があった。
この「銃身を短くする事」は、「飛距離を短くする事」になるが、「火縄銃」と違い「飛距離を短くなる事」には「黄鉄鉱の火花の爆発力を高める事」でより補い、それは上記の「活動性を高められる事」に成ったとしている。
然し、依然としてこの「反動」は高く、これを「打つ姿勢」を良くする事で「訓練」に依って、この「反動具合」が身に就いて来ると、“一定率に熟す事”が出来る様に成ったとして記されている。

恐らくは、この「発想の根拠」は、丁度、“「日本式弓の連射」に完全に相似している”としているとして採用したと観られる。
恐らくは、「銃に対する考え方」として「武器」と云うよりは、「弓道」に匹敵する「銃道」と観ていた可能性があるのだ。
この「銃道の考え方」の方が「青木氏」としては自然では無いか。
これを「額田青木氏」に「伊勢」は求めたと考えられる。
飽く迄も「護身術の一つ」として考えていたと観られる。

従って、それまでは「武士の嗜み鍛錬」として熟知していた「飛び道具の弓矢隊」が「銃隊に特化する事」に成るに等しく、“この「銃の熟練」には問題は無い”としている資料が遺されている。
中には、“人間の本能が蘇らせる”とまで書いている。

だから、この「近代銃」の生まれた「西洋の合理的考え方として」では、逸早く「火縄銃」を捨て、早くから100年も前から「高価」であっても、「威力の高い銃・小銃」を好んで”「兵用」”として用いられたのであろう。
日本では、「日本式弓の連射」がこれを導いたとしているが、手の届きそうでは無い「高価・4千両~2千両/1丁」であって、更には前段でも論じた様に「三河武士」にあった様に“旧態依然としての感覚”がこれを排除していたのである。
それが「刀狩り・1588年」と「銃規制・1605年」に表れているのだ。

つまりは、“天下を治める”には、「絶対的武力差をける事」で「安定化を図る方式」と、逆に、「威力の高いものを排除」して「安定化を施す方式」かの「主観差」であろう。
然し、結論としては、「青木氏一族一党」はそもそも「天下安寧の目的」では無く「抑止力を増す方法」としての“「前者を採用したと云う事」”に成るのだ。
「積極的に威力として使う目的」では無かったから、「弓の延長」として“積極的に「近代銃」を先駆けて採用した”と考えられる。
“「殺戮の道具」としてでは無い”と云う事に成る。
「秀郷流一門」も“この「考え方」に同調していた“と云う事に成るのだ。
不幸にして「武力化・源氏化」で「近江佐々木氏」は滅亡に貧したが、これらの資料を「青木氏族の一員としての研究論文」に、生き遺った「原因回顧の反省」として記載して遺したのであろう。
故に、銃の説明では無いた為に「不明瞭」なのであると観ている。

さて、そこで「遺された資料」から考察すると、「フリントロック式の改良型」の「青木氏仕様」として上記した様に幾つかの「銃の型式」が考えられるのだ。

その一つを検証して観る。
そもそも、先ず、「江戸期初期・1605年」に「銃の規制」が敷かれたので、「近代銃」は元より「火縄銃の発展」もそもそも進まなかった。
それは「世の中の安定」もあって「銃の発展」は「秀吉と家康」に依って二度止められたのである。
その意味では、「秀吉と家康」は「青木氏仕様」に「近い考え方」があった可能性がある。
然し、”物事を術化する癖のある日本人”に比べて、その考え方のない外国は発展した。
筆者は、「鎖国」そのものがこの「主原因」では無いかと観ているのだ。
「銃の持つ威力」に対して「日本文化」に合わない、将又、「破壊する」として“拒否した事”でもあろう。

そこでその「銃の事」を記されている事を集めて纏めると次の様に成る。
1 外国から取り寄せた「見本」の「特注の発注」であった事
2 その頃・1540年~1545の間で生産・量産された事
3 「4充填式」の「手動回転式シリンダ」を使っていた事
4 原理は「火縄銃・マッチロック式・マスケット」では無かった事
5 ケーベル式リボルバー銃であった事
6 「ホイールロック式」では無かった事
7 「フリントロック式」に最も似ている事
8 雨にも強く命中率も良く飛距離もあったとしている事。
9 「取り扱い」に「熟練」を要したとしている事
10 「手が出ない程の高価」であった事
 
以上の事から考察すると、「フリントロック・黄鉄鉱の火打式の改良型・シリンダ型」であった事に成る。

前段で論じた様に、「外国の兵用」に用いた「マックル式銃・パーカッションロック式・キャップロック式銃」の“「原型」”とする考察もあるが、これには多少疑問もあり、これは「フリントロック式」を更に「自動式にした銃・シリンダ」であり、「開発途上の銃」を指している様である。
其処までは、「自動式近代銃」であったかは判らないが、「時系列・完成1810年頃」から先に“日本に入って開発段階”を経たとしても難しいと考えられる。

然し、仮にこれらの形式は入ったとしても、日本では「極めて高額であった事」から発展しなかったし、獲得できる者は居なかつた筈で、獲得したとしても1丁程度と成るだろう。
故に、日本では拡大しなかったのである。
出来たとしても幕府程度で、その幕府自身が「江戸初期の銃規制」で「火縄銃以外」は認めなかったのである。
この「形式銃」は、従って、既に、江戸初期頃の西洋の外国では“「兵用」”に一般的に用いられていた。
従って、江戸期から明治期まで「火縄銃の開発」は進まず「堺の銃生産・江戸初期前」も低下し中止した。

又、最終は、「火縄銃式・マスケット・マッチロック」しか認めなかった事から、「一丁当たりの価格」も当初の「1/20~1/30程度・20両程度」に急激に下がり、「生産の対比効果」がそもそも無くなったのである。

(注釈 「堺の銃生産」は、「秀吉と家康の厳しい取り締まり」で、「堺」が攻められ、「堺の人」を護る為に「堺の銃生産」は江戸初期全後頃で中止したとある。投資の中止である。)

(注釈 念の為に追記すると、「江戸期での銃規制」で「一頭は1200兵」と規制して、これに対して「火縄銃1丁」を「所持の規制範囲」とし、逆に“騒乱を避ける為に義務付けた”ものであった。
仮にこれに依れば「5000の兵」に対して“「火縄銃」”は「5丁~6丁」と成る。
これでは「攻撃用」とするよりは当に「防御用」であろう。
室町期では、「一頭は2200兵」とし、「火縄銃1丁」を基準としていたらしいが護られなかった。
室町幕府にもこの規制があった事は、三幕府共に銃の武器としての殺戮性に危惧を抱いていた事を意味する。)


そこで、検証に戻して観る。
「吉田城の戦い」から「一言坂の戦い・遭遇戦」、又は、「三方ヶ原の戦い」までには「約7ケ月から10ケ月の期間」があった。
この間に「立直し策」の「銃の必要性」で、調達出来たとしても「近江・日野からの銃」の「裏ルーツ」の入手であり、且つ、「シンジケートの専売品の銃・普通の火縄銃」をどの様に調達したかにある。
出来たとして、「伊勢屋」とは「犬猿の仲」の「近江商人」と成るだろう。
又、この「近江商人」も「近江・日野」に対しては「大きな発言力」は無かった筈であり、「資材や財源」は「堺」と繋がった「近江と日野」であった。
この事から「近江商人とする説」には多くの「説の矛盾」はここにある。

さて、ところが此処で問題に成る事がある。
「銃の専売品システム」は何故出来たのかである。
それは簡単である。
上記した様に“「政治的な絡み」”があったからで、この時は「室町幕府」は最早、弱体化して「幕府の絡み」は最早無かった筈である。
合ったのは“「商いの絡み」”に特化されていたのである。

「銃生産する事」には「武力勢力」に侵される。
これに「対抗する充分な抑止力」が彼等を護らなければならなかった。
そこで、紀州の「雑賀族・鈴木一族」と「根来族・津田一族」は「同盟と血縁」を進めた。
そして、自らが「銃の軍団」を組んで自らを護つたのである。
要するに、この「自己防衛と銃の傭兵軍団」は、この「二つの一族」は元より「民衆から成る銃兵」を編成して造ったのである。

「紀州山間部」に住んでいた「鍛えられた平家郷士(龍神・戸津川・北山)」も「鈴木氏の縁」からこれに参加したとある。
この「雑賀と根来」で「1000丁の軍団」であったとされ、上記検証の20倍を掛け合わせれば「20000の軍団」に相当する事に成る。
故に、恐らくは記録では「火縄銃の1000」と成っているが、実際はもっと「大きな軍団」を組めていたと考えられる。

(注釈 「鍛えられた平家郷士」が組しているのであるから、「野戦の実戦」にも強かった筈である。
現在でも「戸津川郷士」と云えば「剣道の名手」が多い処であり、後に紀州藩は「伊賀原士」とは別に、「紀州の五平家集団」を「吉宗」は“「原士」”として地域の安定の為に「准家臣」にして扱った事は有名である。)

これに、「雑賀と根来」には「古来からの付き合い」により背後に「伊賀原士」を中心とする「五平家原士・紀伊郷士」等を含む「伊勢青木氏の伊勢シンジケート」を持っていた。
これが「生産地」のみならず「危険な銃の搬送」等に護衛し貢献したのである。
故に、「武田氏」は、要するに「精度の良い銃」のみならず「火縄銃」を簡単に大量に入手する事は出来なかった筈である。

現実に、「家康の発言」として、“「長篠の城壁の銃弾跡」”の「戦後の発言」があったが、これから観て、既に、数は別として、この「1年間の間」に何らかの方法で確保した事に成る。
これは「近江・日野の銃」である事には成るが、「経済的な問題」よりも入手出来ても「1年程度の期間・三方ヶ原」では、前段でも論じた様に、精々、「生産能力」から最大でも「100丁~150丁程度」では無いだろうか。
最大は先ずあり得ない。
それは「堺」で「資材の原材料の供給と財源」をコントロールされていたからである。

「額田青木氏の国衆」に執っては長篠は「無関係の戦い」ではあるが、「長篠」では「吉田城の手痛い敗戦」の「3年半程度後」とすれば、あり得ない事ではあるが、全て「近江・日野の分」が流れたとしても積算で最大「300丁~450丁」という処かである。
恐らくは、各大大名も「近江・日野」に集中しているので、「銃の認識度」は急激に高まり「銃値段」は上がったとあるので、「武田の支払いの経済力」から判断してもこの半分程度以下では無いかと考えられる。

注釈として、そこで前段に次いで、これに付いて検証を重ねてしてみると、「種子島の値段は2000両/2丁」であった。
ところが「室町期末期」の「この時期の値段」が、資料に依って異なるが、「約450両から800両の値段」が着いたとされている。
判断材料としては(450~800両)・450丁=「36万両となり大金」である。
これは、凡そ「9000人の兵の数」に相当するもりと成り、こんな大金を一度に払える大名は居ない。この為に「家臣の武士」では出来ず「専門の傭兵屋」が居て「農兵の傭兵・経験者」を周囲から集めたとされる事となろう。

当時の資料よれば、これが戦乱期であった事から、「5~10両/1人・銃兵」で「傭兵」にしたとする事から、「45000両の分」と成る。
簡単にこの時期は「銃獲得金」とも含んで「傭兵金」を合わせて「武田氏」は果たして払えるかは甚だ疑問である。
先ずは無理な事である。

そこで更に検証すると、「武田氏」は「甲斐」では「22万石 360億円」、当時価は「前渡金」は「約10万円/1両」であったので、「36万両」であった事に成る。
「銃価+傭兵価」で「40.5万両」と成る。
これは「1年間の米収穫量」の何と113%に相当する。
この時、「信濃域・25万石」も「甲斐の支配下」にあったとして、「769億円・70万両」と成る。
「信濃域」と合わせても60%と成る。
論理的に到底無理である。

そもそも「最大450丁」は、「戦費も要る事」なので到底無理であるし、「近江・日野の1年間の生産量」からしても、全てを獲得したとしても「300丁・14万両・20%」である。
「銃を獲得するルート」や「20%」も含めて「300丁」も絶対に無理である。
多ければ多い程に寡占と成るので「城価格・800両」に近づく。
そうすると、金額から観ても「最低の線」で「100丁・450両=4.5万両」が「精々の能力」と成る。
然し、これたけでは絶対に獲得は出来ないのだ。

後の課題の一つは、「銃取り扱い」に慣れた「傭兵の獲得」である。
先ず、全く「甲斐」には無かったと判断できる。
「額田青木氏の訓練」でさえ、「訓練指揮官」に「伊勢秀郷流青木氏の専門の家臣」を依頼した位である。
この事を配慮すれば、とりあえずは「50丁以内」と成ろうし、少なくとも訓練を要する。

然し、これでも無理なのである。
爆発させる「硝煙」は日本では生産は殆ど無いのだ。
「貿易」に頼るしか無かったのだ。
入手した火縄銃を使い続ける為には、この「硝煙」を入手できる「手立て」が必要で、要するに「豪商との繋がり」が必要と成るのだ。
「入手」のみならずこの高額の「硝煙の財源の確保」も必要と成るのだ。
先ず、無理であった筈で、それよりも「弓矢の方」が余程、現実的であった筈である。
況して、「移動性が無い銃」では「戦術」としては籠城か鶴翼利陣形でしか使えず先ず避けるであろう。
確かに「弓矢」は「殺傷力」は無いが、この室町期にはこれを補完する意味で「毒矢」が使われていて、戦術的には多用されていたのだ。

さて、然し、最早、「額田青木氏」はこの時は既に「三河国衆」から手を引いている。

「長篠の戦い時の松平氏の銃」はどの程度かは判っていない。
「鶴翼の陣形」を「三方ヶ原の戦い・銃が使えない陣形」で組んだ事から上記の論から考えても「銃」は未だ確保できていない筈である。
これは松平氏も、且つ、「魚鱗の陣形の武田氏」もである。
「魚鱗の陣形」の先端に置くとすれば「銃隊」を置くのが通常であるが、実際はそれに類する「赤兜の騎馬隊」であった。
「突撃型突破隊」であるが、「火縄銃」は」移動性」が「銃の特性」のみならず「荷駄隊」を伴う為に極めて低いのだ。
つまり、「赤兜の騎馬隊」で有名を馳せていた武田軍に執っては「魚鱗」で構えられる程の「銃隊」は無かった事に成るのだ。

然し、この「近江・日野」も「生産地」は「地理上の事」もあるが、主に「生産」に対して「護衛」が無かった事から周囲から武力的にな浸食されて危険に晒されて絶えたとする説もあるのだ。
充分に有り得る説で全く無かったとは云えず、細川氏等はこれを勢力内に居れようとして画策していた記録がある位である。

そもそも、前記した様に、この「近江・日野の生産体制」は、単独で生産出来るものでは無く、「堺からの資材供給と財源と搬送の許」にあったのだ。

恐らくは、「掟を破つた事」から「商いの青木氏の影響下・70%持ち株」にあった「堺」から「供給等の圧力」を受けて直ぐに衰退した。
従って、「武田氏等」は少なくとも「三方ヶ原」では「50丁」も無かった筈である。
「武田軍の敗因」は「建て直し」で必要な「充分な銃・財源」を獲得する事は出来なかったと判断できる。
「赤兜の騎馬隊の過信」もあったのであろう。

従って、「3年後の長篠」でも「織田軍の銃撃・雑賀根来傭兵軍」に応戦する事なく「全滅する破目・7割」と成ったのである。

(注釈 「一言坂」では「額田青木氏の300丁銃隊」に対して「坂途中の3000」と「西坂下の3000」の「待ち伏せ兵」に僅かな「原始的火縄銃」が配置されていた事は確かに記録には遺る。
恐らくは、「本隊から廻された6000の兵」であった事からこれが「全ての50丁」で在ったろう。
但し、入手できる国衆が居たのだ。
これは「青木氏の歴史観」に関わるので後段で論じる。)

故に、「近江・日野」の「銃職人」は,“「伊勢」に逃亡したとする説等”が起こり、その後に“雑賀や堺に入った”としている説があるのだ。
一部は薩摩に移動したと説もある。
この「銃職人」を「根来」は、「根来寺」で完全に地域支配されていて「排他的な所・宗教の縛り」があって引き取らなかったのでは無いか。
江戸期に成って「銃規制」により「堺と雑賀」が残り、そこから先ず「雑賀」が脱落し衰退し、遂には「堺」が中止した。
現在は伝統しかない事も同じである。

(注釈 江戸期に成って「近江・日野の銃職人」は、「伊勢と堺」以外にも、「備前、土佐、薩摩、稲富、関」に分散したと記録にある。
この様に、江戸初期には「銃の生産地が増えた事」が大きく「投資」と「値段」と「生産地」と「銃職人」の激減に繋がっていったのである。
恐らくは、然し乍ら依然として「その利権」は「シンジケート」に握られ入手困難であった事から、「大大名」はこれらの「銃職人」をかき集め“密かな軍事力を高めた”と観られる。
その意味で、「伊勢屋」は「独占的な利権保護」を保持する為に、「近江・日野の銃職人」を寧ろ積極的に記録にある様に「伊勢に掻き集めた」と考えられる。
秀吉より「伊勢屋の青木氏」は敵対され続けた所以は此処にもあったと考えられる。
遂に、「堺」にも「圧力」が掛かり「発注と投資」を「中止する結果」と成ったのである。)


「吉田城の事」に説明不足があるので触れて置く。
この時、「酒井氏の城兵」は「銃隊の応戦」に任せ「籠城」であった事に成る。
故に、家康も無事であって、記録に依れば直ぐに城から出て西三河に帰ったとされている。
つまり、上記の通り戦績は「武田軍の戦記」からも総合的に明確であって、明らかに“「銃隊で命を救われた戦績」”であった事が明確であった。

これだけ「戦績」が明確に成っているのに、況やこれが「銃の威力」なのに「吉田城の銃に関する事」や「額田青木氏の事」に付いて「三つの三河戦記」では何も記録されていないのである。
江戸期に消された可能性が高い。
況してや、応援に駆け付け負けて逃げ込んだ「家康」もこの城に居たのである。
そもそも「戦記」としては書かない方がおかしいであろう。

その記録は、単なる“渥美や田原や吉田や西郷等の土豪衆が「吉田城」に入り活躍した”とあるだけで終わっているのである。
他の「二つの記録」や「武田の戦記類」では明確に記されているのに「三河」では記録はない。

(注釈 この時は「吉田城の経緯」から既に「戸田や牧原」は「松平氏の准家臣」に組み込まれていた。
従って、「伊川津七党だけの戦績」である。)

これはまぁ兎も角も、元より前段から論じている“「伊川津七党の事」”の事ではあるが、この中には「額田青木氏」の要するに「渥美」で「四家」を構成していた「伊川津青木氏」が入っていたのだ。
そして、これが「銃隊の主」であり、“「吉田城」で戦った”と云えば、「伊勢の裔系の国衆額田青木氏の一族」であった事ははっきりしている事でもある。

流石に「一言坂の戦い」の様に、「単独の戦いの事」であったので「額田青木氏の国衆の事」を詳しく明記したが、「吉田城の戦い」では一緒に居た「家康の手前」から書かなかった事になるのかである。

これ程に「西三河の旗本」は「戦記」を書く時にも「意地」を張っていた事に成る。
これ等の「戦記」に付いては「三河の記録」では「三記録」であって、他に「二記録」がある。
この後の「二記録」からも凡そは知る事が出来る。

「銃の事・威力等」を先に論じたが、この様な「銃威力」を持ち得ているのに、「三河」では評価が低かった。
「保守的な力」が未だ全体を占めていたと云う事であろう。
これも何時の世も同じで否めない事ではあるが、然し、それにしても「旗本の嫉妬」には悩まされていた「額田青木氏等」の「三河の銃戦績・吉田城・一言坂・三方ケ原」のこれが此処に至るまでの経緯である。

要するに、「事前移動行動」と「準備期間・前期と後期」と「予備戦・吉田城」と「本戦・一言坂・三方ヶ原」と「その後の行動」の「五つの経緯」である。

恐らくは、筆者の推測ではあるが、少なくとも「三河国衆」としては「渥美湾の目的」が達成されているので、「長篠前までの計画」で進めていたのでは無いかと思われる。
ところが、上記した様に、当然に「目的達成」と「戦況悪化」もあったと思われるが、主に「銃認識低さと旗本嫉妬」から、「資料の文面の行」から観ても、“この侭では危険”と察して「三河の額田国衆」から手を引いたと判断しているのだ。

「長篠の戦い」で「織田徳川連合軍」が「武田勢」に勝てたとしても「三河の額田国衆」の「発展」は“これ以上に無いと観ていた“と考えられるのだ。
それは、「織田軍」には「雑賀根来の銃傭兵」で「主軍として固めての戦い」であった。
これは「織田軍」には“「銃認識低さと旗本嫉妬」が無かった事”を意味しているからだ。
逆に云えば、この「織田軍の考え方」が「松平軍を飲み込む」と観ていた可能性がある。
然し、旧態依然として「松平軍」には下記注釈の通り「3年」も経っていながら無かったからだ。

(重要な注釈 「長篠の戦い」とは、そもそも「三つの場所の総称」であるが、「長篠・設楽原・鳶ケ巣山岩」の「三つの戦い」を以て云うが、ある「長い期間の三河の研究記録」によると、この「古戦場」には、「戦い後」のすぐ後に調べた記録として、“「火縄銃の残骸跡」は全く発見されていない”とあるのだ。
「戦場を直ぐ整理した者等の発言」を取り纏めた「寺に遺された郷土史」にはその様に記されている。
これは「雑賀・根来の銃傭兵軍団」であった事から、「銃の発見の無い事」は充分に頷けるし、「戦場の後始末」は、“「勝った方」が誠意を以て行う「仕来り・請負」であった事”からも見つらなかった事もあるし、更には「戦場荒らし」が当時は横行した事もあろう。
然し、「鉛玉」はあの「広い戦場」に於いて発見されたのは、何とたった“「12個」”であった事は何かを物語っている。

「鉛銃弾」を戦後に貴重である為に、又鉛害の為に拾い集めたか、「武田軍の7割死傷者」に持ち込んだとする考え方説もあるが、“直ぐの集めた者の調査行為”であるとして、それを信じるとしたデータとして考えれば、そもそも、そして、その「発見分布」が、この「鉛弾玉」は「織田軍後方陣地」と「前線」と、この前線より「武田軍側」の三カ所にだけ発見されており、「松平軍陣地」には全く発見されていないとする記録もある。
これに付いて「明治後の周囲の自治体」を巻き込んだ「郷土史の調査団体」の「長年の現地調査研究記録」があるのだ。それなりの信用が出来る。

これによると「色々の事」が判って来る。
別に「松平軍陣地・6000・織田含み」には、「酒井忠次の東三河別動隊」に「200の銃」を与えたとし、自らは「300の銃」を持っていたとする説もあるが、別に「東三河の隊」は「臨機応変の奇襲隊・銃隊」として役務が与えられていたとしている。
とすると、これに依ると誇張気味に“銃は500であつたとする説”もある。
この研究はこれに疑問を投げかけいるのだ。

果たして、「信長」が「雑賀根来の1000の傭兵銃」なのに、上記で論じた様に「松平軍500の銃」も持つ事は絶対に無いだろう。
恐らくは、「三方ヶ原の額田青木氏の国衆の銃・300丁・東三河の酒井軍の支配下・吉田城・1572年・史実」にあった事からの、これを其の侭で採用した推論であつたと考えられる。
然し、「青木氏の資料」では「額田青木氏の国衆」は「三方ヶ原・1573年」で「国衆」から手を引いているのだ。
時代考証は可笑しい。
唯、「吉田城の戦い・家康本隊」の後、直ぐに「一言坂の戦い」の「偵察奇襲隊」を命じられて城を出ている。
この時に、「幾らかの銃」を置いて行った事は考えられるが、この「近代銃」を持ったからとして、「火打ち石の黄鉄鉱と鉛玉の弾丸」を特別に供給しなければ使えない。
唯、これには問題があって、「貿易」に依って得られる為に、当時としては未だ「極めて特殊な黄鉄鉱と硝煙」のこれを入手できるかにあるのだ。
「黄鉄鉱の生産能力」が地元にあるかである。当然に無い筈である。
この説では記録は発見されていないが、「松平氏」には難しいと考えられる。

故に、「上記の研究記録」では「戦場の状況」と「「技術的能力の問題」から無理であったと観ているのだ。
後段でも論じるがこの説によれば、「最も古いタイプの現存する火縄銃」は「滋賀近江の厳浄寺で観っかった銃だとしていて、「松平氏の火縄銃保有説」は時系列が合わないとして否定している。

(注釈 尚、記録に依れば、「滋賀県近江」と「滋賀県日野」で「火縄銃」は造られていたと論じているが、この何れにも「厳浄寺」があって、その所縁から「彼等の菩提寺」としてこの寺が遺されている。
琵琶湖の中央部に位置して直ぐ東横にこの「滋賀県近江の厳浄寺」があり、此処から「滋賀県日野の厳浄寺」が南東方向に22k、この「日野厳浄寺」から北東に10k、「日野厳浄寺」から「近江厳浄寺」まで北西に20kのほぼ「二等辺三角形の位置」にある。
ここで、「近江銃、即ち、厳浄寺銃」が造られていたのだ。
「厳浄寺銃の説」はこれでも信用できる。)


(注釈 即ち、鉄には「フェーライト」と「パーライト」と「オーステナイト」と云う「結晶組織の違う鉄」があり、これらは「加熱温度」に依って「炭素の結晶構造」が異なる事に依って起こる。
これをある程度の速さで冷やすと常温でもその結晶構造が得られる。
この「炭素量の多くしたパーライト状態」に「硫黄」を多く加えると「黄鉄鉱」と呼ばれる「極めて脆い金属」が出来て、叩くと簡単に「酸化火花」が出る。
「硫黄」は「鉄」に執っては「不純物」であり、「結晶の間」に食い込んで来る為に弱く、打つと結晶が破壊されて「空気中の酸素」と反応して酸化して「火花」が飛び散るのである。
「黄色の色」をしていて摩耗する。
これを「火打ち石の代わり」にして「硝煙」に火をつけ爆発させる仕組みである。
従って、「専門的で進んだ論理的な銃」と云う事に成る。
これは「火縄銃の仕組み」としては疑問である。)

要するに、「資料不足」の“「美化の2年の誤差」”を無視しての論説と成る。
「青木氏の歴史観」から観ても「長篠の戦記」には問題が多い。
これも「江戸期の書き換え」であろう。


「青木氏の伝統 56-3」-青木氏の歴史観-29-3」に続く。  

名前 名字 苗字 由来 ルーツ 家系 家紋 歴史ブログ⇒

「青木氏の伝統 56-1」-「青木氏の歴史観-29-1」

「青木氏の伝統 55」-「青木氏の歴史観-28」の末尾

> これ等の好機に付いては次の「裏の段取り」が在ったと考えられる。
> 「地元と松平氏への裏の交渉・情報の取得など」が在った事に依るだろう。
> 「地元の土豪郷士・4土豪」に執っても安全は保たれる事にも成る。
> これは「地元の郷士と松平氏と額田青木氏」の「三方両得の策」であっただろう。
> 「松平氏」に執っては「豊橋の東三河の不安定地域」を安定化させる一つの拠点と成った。
>
> (注釈 「伊勢青木氏」から「軍資金等の協力金名目・冥加金」での「三河」に対してそれなりの処置は在ったと考えられる。
> 何故か「名目」を替えての其れらしきものがこの期間内には「商記録」には見つけられない。)
>
> つまり、「水路の戦略(1540年~1545年)・第1期」と「陸路(1560年~1568年)・第2期」とは「ある期間・15年・第1期の準備と第2期の南下の重複」を置いて同時並行して続行していた事になるのだ。
> それでも「伊豆-美濃」の関係性から「戦闘的な復興戦略」を実行した。
>
> (注釈 この「戦闘的な復興戦略」を「後段の伝統 56-1」で詳細に論じる。
> 「三河と伊勢」に「青木氏に関わる多くの資料と記録」が遺るので詳細に再現してみる。)
>
> その前に、前段でも実戦状況に就いて詳細に論じたが、別の面から「予備知識」を次の段に論じて置く。

「青木氏の伝統 56-1」-「青木氏の歴史観-29-1」

さて、「戦闘的な復興戦略」を論じる前に、その背景を前段に続き少し論じて置く。
その事で「準備期間の戦略」の実行(第1期・第2期)も含めてこの「戦闘的な復興戦略」が大変なものであったかが判る。

「額田青木氏の存在経緯」に大きく関わるこの「一色の検証」は、「足利氏傍系の者(斯波氏)」が「三河の西域(西尾・上杉氏)」の「地頭守護」と成り、約通算80年の期間、ここに住み、「地名の一色・本貫名」を、“「格式の印象」”を挙げる為に名乗ったと云う結果と成る。

現実には「縛り」を護らなかった「河内源氏系の傍系族」で、且つ、その「傍系支流」が、元は「皇族系であると云う事」だけで如何にも「伊勢の青木氏族との所縁」であるかの様に「見せかけ」を以て“「一色」”を名乗ったと云う事なのである。
それを基準に「上記の検証」と成っている。

ところが、もう一つ「一色の地名・伊勢の本貫名」が、現在の豊田市の「真南の14kの位置」の「岡崎地区」に「一色・額田一色系の青木氏」の地名があるのだ。
これには上記の「西尾一色(権威利用)」と「端浪の一色(本命)」の「二つ以外」にこの様に「もう一つの一色」があるのだ。

これを先に上記の“「二つの一色」”と誤解を招かぬ様に解明して置く事が必要だ。
これから論じる「国衆南下」の後の「青木氏」に大きく関わって来る事なのだ。

さて、この「岡崎の一色(額田一色・青木氏)・本貫」が「戦闘的復興戦略の論」に関わるので更に検証を続けて置く。

そもそも、前段でも論じているこの「額田の一色」は、「伊勢の施基皇子の所縁・追尊春日宮天皇」・「追尊50年後」にこれを由縁に着けられた地名であるのだが、それは「伊勢の二世族・額田裔系」の「浄橋と飽浪」が嫁いだ「美濃青木氏の本庄」に嫁いだ所縁から「伊勢の本貫名」を付けられたものである。

ここ「岡崎の一色」の地名は「額田―蒲郡」の「間」の「丘陵・山沿い」の直線上にあり、真南の湾間地域の「蒲郡」とは直線で「20キロの位置」にある。
「額田」から真南14kで「蒲郡」から真北の位置にある。
要するに、この「一色」は「額田と蒲郡」の真南の線状の丁度、「中間の位置」にある。
これは余りにも恣意的である。
これは何なのかである。
答えから先に云う。

それは前段でも論じた「渥美湾から信濃までの縦の陸路」の跡なのである。
つまり、「中継地とした所」であろう。
「国衆」として「南下を果たして跡」のその「縦の南下陸路・陵道」であり、「信濃」を護る為に「一つの固定ルート」の「中間点」に「人」を置いて、そこを「一色」と名付け造った「山際の陵の拠点」である。
そして、「渥美」からも「豊橋-豊川-豊田」から「R1」で北に上ればこの「山稜線」に交差し、これを辿れば、後は「旧中仙道・R19」を「塩尻」まで上れば「信濃青木村」に達するのである。
現地調査でも現在も可能であった。
このルート上に入れば前段でも論じた様に、「土地開発(伊勢秀郷流青木氏)」と「殖産開発(伊勢裔系の青木氏)」とで入った「開発地域の真中」を通れる事に成る。
ここが「信濃」までの「縦の陸路」として造り上げた「固定ルート」なのである。
その為の「中継点」である。

さて、そこで「西尾の一色」とは、「岡崎の一色」へ斜線で東に30キロの位置にあり、「岡崎の一色・額田一色系」から知多湾に向けて「真西に18キロの位置」にある。
「西尾の一色」と「岡崎の一色」と「額田の一色・端浪一色」は、真西に10キロ、真南に21キロ、斜線で30キロの“「直角三角形の位置」”にある。

この「土岐域」から直線で「真東に45キロ」の「丘陵・山沿いの位置」にある“「岡崎の一色」”は、「圷の問題」は全くない地域である。
上記した「土岐―大垣―揖斐」の「三角洲の野」に“「三野王」”の「本庄」はあったとする「古書の記録」からは、可成り距離的に近い事が云える。
直ぐにでも「岡崎の一色」の「伊勢本貫名の地名」を着けられる位置にあった事が云える。

そうすると、愛知県の「西尾の一色(本巣郡)」と、同じ愛知県の「岡崎の一色(額田郡)」とには、“どんな違いがあるのか”である。
「斯波氏系足利氏の地頭」の「一色」との明らかな違いがあるとしても、他にもこれを知って於く必要がある。

北部の「土岐」から直線で真南に愛知県境まで7キロ、この県境から「岡崎一色」まで33キロ、 合わせて「40キロ(10里)」と成る。
「当時の生活圏」としては「丁度良い位置にある事」に成る。

先ず、地理的に観れば、次の様に成る。
「岡崎の一色(額田郡)」は、39キロから40キロの「丘陵山沿いの域」にあり、「三野の土岐―大垣のライン」から「40キロ」として「10里の真南の位置」に在る。
要するに、ここは「古書記録の三野王の本庄」があったとする位置には「古来の生活圏内」に在った事に成る。

「古来の生活圏」は、「9里(36キロ)から10里半(46キロ)」がその限界であって、この範囲で「宿」を取るのが普通であった。
これに合わして宿場があった。
従って、「三野王の本庄・美濃青木氏」と「額田青木氏・端浪一色」との「ずれ問題」は「許容の範囲」では問題は無かった事に成る。
「本庄の位置」と「端浪一色」は嫁いだ直ぐ後から、“丁度良い位置”に離れて生活をしていた事を暗示している。
この“丁度良い位置”に意味を持っているのだ。

(注釈 古来はこの「10里・40k」が「生活環境」における「考え方の基準」であった。)

つまり、ここの二か所に滅亡する前の「美濃青木氏」が「隣合わせ」に定住していた事に成る。
「伊勢の二世族」の「浄橋と飽浪」の嫁いだ地であるが、この「隣合わせ・距離観」の持つ意味は、「浄橋と飽波の源氏化での抵抗」の「距離観」であり、「源平戦の前」に既に「別行動」を起こしていた事を意味する。

そして、「40k東の離れた位置」のここに「伊勢の本貫名の一色と名付けた事」に成ると前段でも論じたが、この様な説が生まれた所以である。

次に「西尾の一色(本巣郡)」は、「三野の土岐―大垣のライン」から「71キロの位置」にあって、「18里の位置」にあって、ほぼ「二倍の生活圏の位置」にあった。

これは「古来の生活圏」としては、「この距離」は「円滑な意思疎通」は絶対に無理であり、「三野王の本庄・美濃青木氏」の可能性は無い事に成る。
当然に、この「二つの一色」では、「圷の有無の問題」があって、「西尾の一色(本巣郡)」には決定的な「圷のハンディ」があり、「古書記録」の「三野王の本庄の一色」では更にない事にも成る。

従って、鎌倉期の「西尾の一色(本巣郡)」は以後、前段でも論じた様に論外とする。

歴史的に観れば、この「圷の検証」から、ここには、「三野王の時代」から最低でも「150年~200年後」までは“「本庄」”と云えるものは、この「西尾の一色(本巣郡)の地域」には無かった事が云える。

「三河の事」を書いた遺る「古書」には、「西尾の一色(本巣郡)」の「圷の野」を埋め立てたとする記録が見える事から、鎌倉幕府の正式な「地頭職設置令(1195年~1232年)」までの間に、「荘園の埋立権」が「地頭のみ」に許されていて、盛んに行われ「地頭荘園の呼称」の「圏域」を当に広げていた事に成る。
つまり、それが「西尾の一色(本巣郡)」と云う事に成る。
そもそも、「西尾の一色」と「時代性」が「額田一色・岡崎の一色」とは異なるのだ。

これの「圷野の埋立」を行ったのが、記録から当時の「初代地頭」と成った「西尾一色の祖」の「足利公深」である事が判っている。

(注釈 室町幕府の時代には遂には、「嵯峨期の縛り」が無視され外れて、この「一色」を姓にして名乗る家臣まで出て来た事が起こった。注意する必要がある。)

其の内にこれ等は先ず全て共通して「清和河内源氏支流」にその系を求め搾取して、その上で「6つ」の「伊勢の施基皇子の本貫名」の「一色」を何と「姓」としているのだ。
そして、その「本人」では無く、「要領」を得て上手く「搾取者の裔系」が名乗っているのだ。

前段でも論じたが、調べ上げれば「主種の記録」から以下の通りである。

「斉藤義龍の裔」 「土岐頼栄の裔」 「吉良有義の裔」 「吉良定監の裔」 「上杉教朝の裔」 「唐橋左通の裔」
名乗ったのは全てこの裔系の以上の6姓である。

「本人」は世に憚るが「裔系」は信じて仕舞うであろう。

(注釈 但し、この姓を「明治3年の苗字令」でも名乗ったのだが、これは「第三の姓」と観られる姓は除く。
これだけに「伊勢」に無関係のそれも「第二の姓」が使うまでに「嵯峨期の仕来り・9つの縛り」が「室町期」では最早無視されて護られなく成っていた。
誰も彼もが例外なくこの「9つの縛り」を護らなかった源氏姓を名乗った。
名乗っている数だけに、「皇族」としての「縛り」を護れなかった「源氏族」にはそれ程に「子孫」を遺してはいないのだが。)

さて、「西尾の一色(“本巣郡”)」は、「30キロ以上」も離れた「岡崎の一色(額田郡)」の地名を使ったのだが、「三野王の本庄」、又は、「額田端浪の一色」の「権威と象徴」を連想させるこの「一色名」の「地名」を、勝手に「地頭所在地」のここに移した事に成るのかである。
或いは、「斯波氏系足利氏の目的」は、「地頭の所在地」に「統治」の為に「権威と象徴の一色名」を「本巣一色・鎌倉期初期」と、「額田端浪一色・平安期初期」との二つに態々分けたのか何れかである。
要は当時の呼称がどうであったかであるが、郷土史などでは、“西尾の一色”と記されている。
恐らくは、分けて読んでいた事を示すものである。
然し、「額田端浪一色・平安期初期」には無い。
「岡田一色」は室町期の中期後であるので別枠である。

余計な事かも知れないが、前段でも各所で論じたが、改めて「青木氏の歴史観」として釈然としないので、これを検証としては先に解決しなければならないだろう。

実は、この「疑問」を解決するものがある。

それは、「権威と象徴の一色名」を判別する「西尾の一色(本巣郡・鎌倉期初期)」と「岡崎の一色(額田郡・室町期末期)」には、それぞれ、「古来の状況」の物語を遺す“「字」”を持っているのだ。
前段でも詳しく論じた「字・あざ」が持つ意味からすると、“「地名」が全てを物語る”と云う事である。

当時は、「字の使い方」に於いてこれを「見抜く慣習」を庶民は知っていて何方が「本庄」とするかは知っていた筈である。

「岡崎の一色(額田郡)」には、「27の字・あざ」があって、「字名・あざな」は、例えば、「池神(1)、大神田(3)、神谷、奥添、入洞(各2)」等の全て“「神」”に纏わる「字名・あざの名」が殆どである。
「神に纏わる字名」は、当然に美濃では「始祖の三野王」を指す事に成る。

ところが、「西尾の一色(本巣郡)」には、「26の字」があって、「字名・あざな」は、例えば、「新田(3)、船入(1)、塩浜(2)、浜田(1)」等の全て“「圷野の埋立」”に関わる「字名・あざな」が殆どである。

これは「初代の地頭」がここを「荘園」とする為に「圷」を「野」にする為に埋め立てた所以でもある。

従って、この「字名・あざな」が遺る状況は、「岡崎の一色」と「端浪の一色」と、「西尾の一色(本巣郡)」の「三つの地名」を遺した事に成る。
間違い無く「古来より在る名」は「本巣一色・鎌倉期」よりは「端浪一色・平安初期」の方を「本当の本貫名一色」と“地元民”は字の存在で使い分けの呼称をしていたと考えられる。

そもそも、つまり、「平安期の頃」では庶民は、未だ「語源の意」が遺り、この「語源」からでも判別出来ていたと考えられ字名で意味合いを充分に知っていたと事に成る。
従って、「西尾の一色」には左程の興味を示さなかった状況であったと考えれ、故に足利氏も平気で使ったのではないか。
つまり、何を云わんかと云うと、“民に「守護の在所」を慣習として「権威付け」の為に「一色」とするものだ”と思い込ませた可能性があると云う事だ。

それは、先ず「額田端浪の一色」はその様な「守護的な高位の者」が居る処を民は「一色」とすると思い込んでいた事にも成る。
見方に依れば、「伊勢の一色も志紀も色も一志」の「字」も間違いなくそうであったし、「美濃の額田端浪の一色」もそうであったからであろう。

(注釈 前段や上記で検証した様に、「三野王の在所」から「浄橋飽波の在所・額田端浪一色」までは「40k真東の位置・10里」にあって、この「位置」は源平戦後は「当然の事」として「室町期の1560年の南下」までは厳然とここに定住しているのである。
年数にすれば、「800年近く」にこの「高位の立場」にあった「浄橋・飽波」の「在所・額田端浪一色」は、「守護的な高位の者が居る処」を指すものと成っていた事を考えると、寧ろ、それが自然であろう。)


さて、ここでこの「美濃や三河」に関わらず、そもそも「本巣」とは、“「元は洲」”と云う言葉から「新田開発の代表の言葉」とされて来た経緯があるのだ。
この「呼称」でも証明できる。

平安時代より各地の荘園等の「河洲の圷」を埋め立て、そして「野」にした「新田開発」の地には、必ず「‥洲」や「‥巣」とか使われている。
この“「巣」”も「洲」に繋がり「小鳥の住処・巣」の意味も含まれて使われていた。
「本」は「元」と同意である事から、「元の巣(元洲)」や「本の巣(本洲)」等の多くの形で「もとす」と各地では呼称されていた。

そこで次に「額田一色」に付いてでも証明できる。
「岡崎の一色(額田郡)」が「伊勢の裔系の室町期中期の本庄」とする「決定的根拠」が未だ他にも在るのだ。

(注釈 「三野王の本所」は前段でも上記でも検証した様に、「西尾の一色」の斜め右北側に在り、其処より東に「端浪の一色」の西側の「額田の40kの位置」にあった。)

実は、「伊勢の桑名」に「額田」の「大字の地名」が奈良期中期の古来より在るのだ。
これは「平安末期の美濃青木氏」が滅亡するまでに「桑名の額田大字」があった事は「伊勢青木氏の資料」でも判っている。

これは、然し、これはどちらが先かで変わって来る。
「三野王の本庄の額田」が先か
「桑名の額田」が先か
実は以上を決定づけるものがある。

その前に、「呼称の語源」として導き出した証が在る事を知って置く事がある。
古来より「額田の語源」は、「ぬかるんだ田(額るんだ田)」、又は、米の「糠の田」と云う意味で、要するに当時は“水利の良い土壌の良い「肥沃な田」”と云う意味を以て使われていた。

そこで、先ず「桑名の額田」は、「揖斐川の入江口」の直ぐ西(6.6キロ)に位置し、「員弁川(0.3キロ)」に沿い、その「揖斐川沿い」の「桑名(0.3キロ)」の直ぐ西に位置する。
前段でも論じたが奈良時代よりこの「額田の名」が遺す通り元から「良好な圷の野」であったのだ。
要するに「額田の意味」としては「良い意味」を持っていたのだ。

そこで、どちらが先かの問題を解決する為にこの“「額田」”を更に掘り下げる。

この「額田の諱号」を使っていた歴史的人物の「額田王」は、「鏡王の女」で、「天武天皇」の寵愛を受け、その子は「十市皇女」、この「十市皇女」は「天智天皇の後宮」である。
そして、更にその子は「大友皇子の妃」と成る。
「有名な歌人」でもある。

この地には「額田王」を祭る「額田神社」がある。
この「額田神社」は、一説では「額田部氏の祭神」(五世紀・允恭天皇期創建)であるとしているのだ。

そもそも、この「額田王生誕とその地」には諸説があるが、一概に「桑名」がその「生誕地」とは決められないのだ。

実は、「新撰姓氏禄」によれば、「彼女」を始祖とするこの「額田部氏の子孫」とは、この地の「桑名額田」の「守護社」とするとある。

唯、そもそもこの「額田の地名」は、“「額田王」に関係するか”は奈良期初期である為に古すぎてそれを証明する記録がない。(後付け説)

この為に、「史実」は別として、この「桑名王」の「伊勢青木氏」との「額田部氏との血縁」は否定できないのだ。

つまり、どういう事かと云えば、上記の通り「施基皇子」と「額田王の孫大友皇子」とは「異母兄弟」にあって、歴史的史実では“「吉野盟約」”で関係があった。
この事から、「額田王」と「桑名王」の関係性が見つかれば”「同門の高位族」”である事から関係性は否定は出来ない。
そうすれば、「額田神社」が「額田部氏の祭神」とする事には論理的道筋が生まれる。
前段でも論じたが、施基皇子との関係があって平安遷都に同行しなかった事から罰せられ、特別しゅせの与えられた「平群の額田神社」は廃社とされる。
そこから平群村から「伊勢青木氏の手配」で「桑名の額田」に匿った。
この時の廃社の額田神社は一時、御神体を桑名の鎮守社で嫁していた。
こういう経緯がある。

要するに、従って、この「額田」の「額田神社」が「桑名」の「額田部氏の額田神社」と「同神」と成れば、大きく「青木氏」と繋がって来る事に成り、美濃の額田青木氏と繋がる。
つまり、「青木氏の始祖」の「施基皇子」も同時代に生きた「同じ都の高位の歌人」でもある事からも、この「伊勢の桑名」は「美濃の額田」とこの経緯の下で重複的に繋がる事に成る。

では、そこで、検証の一つとして「桑名の額田神社」の他に、もう一つ「額田神社」がある。
「桑名の額田」、「美濃の額田」、「岡崎の額田」が在る事に成り、各々、「額田神社」が存在する。
この「三つの額田」には「伊勢青木氏」が深く関わっている。
これを検証して観る。

つまり、「岡崎地域一色近く」にもこの「額田神社」があるのだ。
この事で「古来の慣習」から鑑みれば大方は解決する。

そこで、この“存在の有無の問題”であるが、実は答えは、「桑名の額田」は別として、「両方の額田神社」には、後勘から観て、形の上では“「歴史的なズレ」”があって無かった事に成るのである。

とすると、この「岡崎の額田」の「一色」は奈良期から平安期に架けて、その「所縁」が存在していた事に成る。

そもそも、前段でも論じている様に、仮に「青木氏の重要な歴史的年代」である“「800年頃」”を設定して観て、この「岡崎」に既に何らかの形で“「一色の地名」”があったとすれば、当然に「古来の慣習」に依って「額田の地名」も同時に着いていた筈である。

「施基皇子の没年」が716年であるので、何らかの所縁が在れば「本貫名」の“「一色の地名」”を「岡崎」でも使え得る。
問題は、「岡崎」にその「所縁の有無」にある。
「浄橋や飽波」の様に「端浪一色」と「額田一色」の様に「根拠」が見つかれば問題はないが、現在はその「所縁」は室町期中期依然のもの依然とし見つかっていない。
「額田」の「額田神社」が「桑名」の「額田部氏の額田神社」と「同神」あるとして、それは「伊勢側」からのものか、「額田や端浪」のものかである事に成る。

現在の筆者の推測では、“あった”としてその可能性から「伊勢側」では無いかと考えている。

当時、古来より肥沃の地でここは藤原氏が治めていた。
ここを元に「藤原氏」は「勢力」を拡大したとする程に、“藤原荘園”とも呼ばれ、「藤原氏の土地」で奈良期以前からの「古墳群地」で、ここに「一色」なる「地名や名乗り」をする事は普通では出来ない。
出来るとすれば、ここの「藤原氏」に嫁して、その裔系が「一色、一志、色、志紀」の「4字名」の何れかを名乗る事以外にはない。

そして、それが「伊勢」とすると、「桑名殿の裔系」か、「員弁殿の裔系」かに成る。
「肥沃な美濃域」には「浄橋と飽波」が「美濃青木氏」に嫁した。
当然に、「肥沃な岡崎域」にも青木氏が無いがあり得る事であろう。
当時としては、未だ「四掟の範囲」で定まるので、嫁家先は「藤原氏」である。
其の後、「美濃の様」には成らず、「伊勢本貫名」が「岡崎」に遺らず「子孫の滅亡の憂き目」を受けたと考える事が出来る。

(注釈 当時の「四掟」は前段でも論じた様に、「妻嫁制度と嫁家先制度の掟」により嫁家先で優秀な者がいれば「青木氏」を興し「家人」として務める事が出来る。
それだけの格式を「女(むすめ)」には持つていた。)

然し、何らかの形で地元岡崎に記憶されていて、それを室町期に呼び興したとも考える事も出来る。
然し、それを物語る資料が見つからない。
従って、前段と本段では「下記注釈の後者のロ」として論じているが、最早、室町期中期に幾ら何でも「格式」を誇示して「額田青木氏」が、態々、”一色の地名”を着けるかにある。
無いであろうし、仮に着けるとしたら“元あった事からの所縁”に依るだろう。

その「所縁」とは次の通りである。
この「岡崎の一色」には、その町の中央には“「神明社」”が現在もあり、元は「額田郡」に所属し、この“「一色町・3里」”より「真西の13kの位置」に岩津地区の“「青木町」”があるのだ。
そして、上記で論じた“「額田の額田神社」”もあるのだ。
これで室町期や江戸期のものでない事は良く判る。
恐らくは、「神明社関係」で「神職青木氏の関係」が「一色の地名」を遺した「所縁」では無いかとし、ここが後の室町期に「地名」を引き興したものでは無いかと観ている。

(注釈 「額田」は、「額田部氏の額田」と、「額田王の額田」と、「青木氏の所縁の額田」のあり、「青木氏の所縁の額田」を仲介して他の二つと関係性が認められる。
但し、「額田部氏の額田」と、「額田王の額田」の間の直接的な関係性が、現在では「状況証拠」でしか証明できない。古来にはあってねそれが両者ともに子孫拡大が大きくなかった事で消えたと観ている。)

(注釈 三河東端の「山稜沿いの縦の陸路 イ」と、三河中央の「岡崎一色を中心に結ぶ縦の陸路 ロ」を論じている。
「前者のイ」は、「初期段階」、「後者のロ」は、「後期段階」と成る。
それは前段や上記でも論じている様に、「戦況の変化」により切り替えざるを得なかった。
前者は、第一次の武田氏の攻撃と第二次の攻撃で奪われ使えなくなった。
後者は、「陸運業」に転向してからの「縦の陸路」と成る。
最終は、両方を使った事が記されている。)

そもそも、この「額田端浪一色の地名」は「追尊春日宮天皇・施基皇子の二世族」の「桑名王の子」の「浄橋と飽浪」とが嫁いだ「美濃青木氏の本庄の地」から「10里東の位置」にあった。
それが「830年頃」に既に名付けられている。

従って、“何らかの所縁”があったとして、これが歴史的に消えたとすれば「鎌倉期までの事」に成るだろう。
「額田」には、少なくとも「天智期むからの「額田王、額田部氏、青木氏との三者関係性」があった事が読み取れる。

そもそも、「額田部氏」は飛鳥時代に遡るほどの「伊勢青木氏」より「古い職能族で官僚族・当時は連」であった。
そうすると、時代は異なるが、“共に何で「額田の地名(桑名と岡崎)」が着いたか”である。

考えられる事として、次の「三つの事」が考えられる。
イ 「伊勢青木氏(桑名殿)」(「一志・一色の地名」)との所縁。
ロ 「額田の語源」の「肥沃な土地(ぬかるんだ地・湿んだ土地)」から呼称されただけ。
ハ 「職能集団の連」の「額田部氏末裔」が額田に移住した。

先ず、判り易いので「ハ」に付いて解決する。
彼らは次の様な経緯を持っている。

「穂積氏の臣」と「額田部氏の連」を祖とした同族である事
「穂積の語源」は、「額田の語源」と同じである事
「額田部の連(後に破格の昇格・宿禰に成る)」は、その「額田の役目」、つまり、「米」を作る為の「技能」を専門とした事
そして、共にその「役目」を負う「官僚族」であった事
同じく「穂積氏(額田部氏の分家)」は「部」が無い事から「米」の収穫と、その一切の管理を任された「事務官僚族」であった事
以上と成る。

(注釈 「穂積」が有っても「穂積部」は無いのだ。これは穂積氏が「連」の「姓・かばね」として認められていなかった事を意味する。)

つまり、「額田部氏」の許に共に、一族の「一連の米収穫の為の官僚族(本家分家の関係)」であった事と成る。
故に、史実は、これを以て“「祖」として「同族」である”としている所以でもあろう。
つまり、これは「額田部氏」からの末裔が「穂積氏」が出自したと考えられる。
要するに、「分家」である「穂積氏」も「連族」であったのだ。
後に、その功績を認められて、この「額田部氏一族一門」は「朝臣族」に継ぐ「宿禰族」に破格の昇格するのだ。

故に、「宿禰・連」としての「高い役目の官僚族であった事」から「額田部氏」は、その「役目の神社を持つ事」を「朝廷(天武天皇)」から特別に許された「唯一の高位の官僚族」であったと考えられる。

「桑名」の「額田神社」が「豊作を願う神社」として「最高格式の国幣社」として許可され、それ故に、それを「伊勢神宮」の「伊勢・桑名」に平群(廃社)から置く事を許可した事が考えられる。
これは歴史的に観れば見逃す事の出来ない歴史的な「相当な所以」である。

「伊勢神宮外宮」の「豊受大御神」(五穀豊穣の神)と共に「伊勢桑名」に設置を許され、それも古来より最も「肥沃な土地」の「現地」に置いた事に成る。

従って、この論理から、これ程の「高い神格のある神社・額田神社」が「三野域」に二か所に建立される事は先ず無かった筈である。
それは「伊勢」であるからこそ認められたのである。

ここで「重要な事」で、当時の慣習から「不思議な事」は、“「額田部神社では無い事」”であり、“「社格では無く神社格」”である事だ。
「個人の村格式」と成る「額田部氏の神社」で在り乍ら、「公的な額田神社」の扱いに成っている事であるのだ。

そして、その結果、「額田部神社」は「額田部氏の分家」の「穂積氏」に依って「美濃西域」に「村格式の神社」として相当後に建設された事に成るのだ。

要するに、「額田部氏」は「格式の高い特例の国幣社」を名誉高く与えられ事の由縁を以て村格式社の「額田部神社」は掟上で最早、建てられない事に成るのだ。
故に、分家の「穂積氏」が「氏神社」の「額田部神社」を建てたと云う事に成る。

(注釈 「穂積氏の身分格式」が低いので、恐らくは、この「縛り」が緩んだ室町期では無いかと考えられる。)

(注釈 「朝臣族」か少なくとも「宿禰族」までの高位でなくては「氏神社」でも許可なく建てられない。)

「額田神社の額田部氏」は、「神明社の青木氏」にも劣らない各式を有する事を意味したのである。
この「違い差」は「社格式」と「神社格式」の差だけと成り得えたのである。

(注釈 その後、事件が起こった。
実はこの「額田神社」は当初から「桑名」に建立されたものでは無かったのである。
これは後段で記述する。)

次はロである。
「額田の語源」の「肥沃な土地(ぬかるんだ地・湿んだ土地)」は、各地にこの意を持つ「古地名」では、殆どは“「糠田」”としている。
つまり、これは「宿禰・連」としての「高い役目の官僚族であった事」であった事から「額田」を使っていないのである。
つまり、「奈良期の禁令の範疇」にあった。

この事も重要である。
そもそも、「糠」は「米糠」で「糠」が良く出る事は「豊作」を意味し肥沃な土地である事をする。
つまり、「糠の良く出る田」として余りにも「格式の高い額田」に替えて「糠田」としたのである。
これには、理由があって奈良期からの「慣習仕来り掟」で、前段でも論じたが、「神、天皇、神社,高尊族」等の「高位の品格を持つ名」を勝手に使用する事を禁じていた。
「嵯峨期の詔勅」でもこれを追認して徹底させた。

従って、前段と上記で論じている「一色」と同様に、この「額田」そのものも勝手には使えないのである。
そこで「同意の糠田」として使用したとされ、全国に多いのである。
そもそも、そこでこの「高位の格式」を持つ「額田の地名」があるのは、「桑名」と「岡崎」と「美濃」を除いて、次の通りである。

「奈良平群郡」
「近江野洲郡」
「出雲一意宇郡」

以上の「三地域」である。

これには「歴史的な意味」があるのだ。

これには「ある事件」が含んでいたのだ。
極めて限定されている。
そして、この「事件」の関わりで、「伊勢青木氏との深い繋がり」に成り、強いては「美濃の事」にも関わってくるのだ。
避けて通れない事件なのである。

上記の「三つの郡」は何れも「高位の格式」の何物でもない。
この何れもが合わせて「額田部氏の末裔の分布域」でもある。
且つ、「伊勢神宮」に関わる「神の品格の地」でもあるのだ。

これで、「額田の地名」の「存在有無」はこれで「決め手」に成るのだ。
そもそも、「桑名」は、上記の通り当然の事として、取り分け「岡崎の額田」は「三野王の地」として、又、「天武天皇」の「五都計画の朝廷の天領地」でもあった。
従って、「三野の米」の「五穀豊穣の管理」が必要であり、「豊穣の祭司」が伴う場所でもあった筈である。
これで、「額田の地名の存在有無」は、この「官僚族の額田部氏と穂積氏」が派遣されて、そこに「現地孫」を少なくとも遺したと考える事が出来るのだ。

唯、「特別高位の宿禰族」である限り「青木氏」と同じく「額田部氏」は「現地孫を遺す事」は許されなかった。
遺したのは故に「穂積の形」で遺したのである。

故に、ここに「額田神社」が無いのは、「五穀豊穣の祭司」を「伊勢神宮の子神」として「桑名」に古くから建立されている以上は、「二つもの同格式の神社」を「三野の天領地」と云えども創建は出来ない事に成る。

(注釈として、後は「呼称」を変えているので「嵯峨期の禁令」から「後付け」である事が判る。
ところが、実は歴史的にその様な時期があったのだ。
元禄期に神社経営を良くする策として盛んに禁令を無視して命名した史実がある。
「神明社」も「神明神社」として、又、神明社の前に地名を着けたもの等のものが出た。
これ等の「社格式」は「国幣社」では無く、何れも最低の「無資格社」である。
正式なものでは無く、商い的な格式でのものである。)

では、そこで最終的に検証して置かなれればならない事は、他の主要な「信濃と甲斐の天領地」にはどうなのかである。
答えは“無い。”である。

唯、何か「額田神社」に「替わる神格の持つ神社」が存在するかの疑問がある。
結論から云えば、答えは簡単である。

「五都」の二つの「信濃と甲斐」の「二つの天領地」には「額田の地名」と「額田神社」は“無い”である。

有りそうなものであるが無いのだ。
然し、ところが「五都」の一つ「美濃」には、「額田の地名」と「額田神社(額田地区 額田杜 本命」)」があったのだ。
この事は意味が大きい。
この事は「古書」より判っている。

その現在では、ここは「西美濃」」に当たるが、「平安期」までは「三重桑名の近接地区」にも、「本命の他」にも「額田神社(増田地区 員弁川沿い・「後付け」)」があるので問題は無いのだ。
これは古来は美濃と伊勢の線引きの位置が西側に寄っていたのだ。

「伊勢桑名」と現在名の「美濃増田」にと二つ並んで在るのだ。

この「美濃増田」が上記した「ある事件」を解決してくれるのだ。

(注釈 この「後付けの神社」に付いては「江戸初期の神社経営難期」があったが、この時、「増田」のある「村格式の神社」が、この「額田の格式権威」を使って呼称を変更した可能性がある。
これはある程度の何らかの「地名などの所縁」があっての事ではないかと考えられる。
これは後に解明する。
現在は「三重県の桑名」域であるが、古来は「美濃の西端域」であった。
その為に、この「額田地区と増田地区」の「二つの神社」の間は、“「1km程度 真南北の位置」”にある。
然し、愛知県に「三河額田地名」があるが、ここには「氏格と神格を示す神社」は一切無いのだ。)

唯、「美濃と甲斐」には、前段でも論じた様に、「石橋山の戦い」と「富士川の戦い」で巻き込まれて「額田部氏の子孫・穂積氏」は壊滅したとも考えられる。(源氏方に味方した。)

「美濃」はその意味で、後の「増田地区の額田神社」が「圷野の干拓灌漑」の感謝から祭司した「鎮守神社」であろう。
その意味で「古来の慣習」に従った「神社の位置づけ・北側」に「杜」を祭祀し、その麓に「社」を構えた形式に適合している。

そもそも、本来であれば「員弁川」から北の「128mの圷野」に「社」を構える事は先ずは無い。
従って、「額田神社(額田地区・桑名)」にある「額田の杜」にある「社」が「古書記載」の通り「本命」と目される。

(注釈 「増田地区の額田神社」との関係については後述する。ある事件の解明の処で論じる。)

然し、そこで「信濃と甲斐」に「額田の地名」と「額田神社」が無いのは不思議である。

これは、この「五都」の二つに「額田部氏が関与しなかった事」を示す事に成る。

然し、「信濃」には、「南佐久郡」に「額田部氏の子孫」である“「穂積村」”が存在しているのだ。
この“「穂積村」”は、「青木村」とは、直線で北西に「40キロの位置」にある事は、「額田部氏」に代わる「穂積氏」の「官僚族・米の管理」が明らかに配置されていた事が判る史実である。

但し、「役務」を“マンツーマンで行う同僚族”で、尚且つ、「穂積氏」は「額田部氏」とは「分家の同族」であるので、従って、次の様な分布を示している。

「伊勢の額田と穂積」
「近江の額田と穂積」
「美濃・三河の額田と穂積」

「信濃の穂積」(額田部氏無し)
「甲斐の穂積」(額田部氏無し)

以上である。

依って、「五都計画の天領地」は、結果として「伊勢、近江、美濃」を除いて、当時は「信濃と甲斐」(盆地)は「穂積氏」だけで管理されていたと云う事に成る。

では、そうすると「伊勢の額田と穂積」、「近江の額田と穂積」は当然の事として考えられる。
然し乍ら、「美濃・三河の額田と穂積」に、「額田部氏と穂積氏の同族官僚」の両氏が存在していたかと云うと疑問である。

それは、上記でも論じた様に、「四つの河(揖斐、長良、木曽、土岐)」に恵まれた無限に近い「圷の野」にあった。

上記の検証で論じた様に、この「四つの河」に依って「圷・あくつ」はどんどんと広がる。
当然に、この「圷」が出来てそれを「埋め立て」て行けば「四つの河」から運ばれる栄養のある「肥沃な五穀豊穣の野」が出来る。

従って、「圷」の「埋立」と、これを適切な「野」にして、「田」にする「灌漑技術」と、「豊穣の田」にする「経験と技術」、土壌に適合した「米種の選定」等をするには、当時としてはどうしても「総合的な専門技術」を持つ“「額田部氏」”が無くてはならい「絶対的要件」と成る。

そして、これだけでは未だ「米」には成らない。
「額田部氏が創った野田」から「稲穂」を収穫して、それを「米糠」を取り、使える様に「保存庫」に納め、「収穫量の管理」と、これを管理して「農民の分配とその手配」と、それを「都に搬送する手配と管理」の一切等も、これ又、「穂積氏の官僚の力」が試され無くてはならない存在と成る。
両者相まって成し得る「大事業」と成るのだ。

当時は、「職能部の者」が成り得ない「宿禰族」に「破格の昇格」を果たした事は、「額田部氏」では無くては無し得ない環境にあった事を示すものである。(後にこれが崩れる。)
「墳墓増築」や「干拓開墾」に関しては「独占的な部」であった事を示している。

其れも短期間ではない。上記で検証した様に、「100年―20キロ」として「揖斐川西域」までの「圷」は、東西90キロ、南北70キロの範囲が「圷」で次第に広がる。
計算では縦の南北で350年、横の東西で450年と云う年月を要する。

然し、これは、「100年―20キロ」としての「干拓灌漑事業」であって、「縦横の面積」が絡んでくる計算と成ると、そう簡単ではない。

この事は「額田部氏と穂積氏」が同時進行と成ると、「800年頃」から始めたとして、「干拓灌漑」が終わるには、「1250年頃以上」と成り得るのだ。(この時期が重要である。)

現実に、上記した様に、「本巣の一色氏」は、その後、地頭として鎌倉幕府に命じられて「圷の灌漑の埋め立て・鎌倉期・結城氏が開墾」をしたとある。
「足利氏系斯波氏・西尾氏・一色氏」が「地頭」として派遣され、ここに住み着いた(80年間)が、上記した様に「鎌倉期初期に地頭」を任じられた事から考えると、ほぼ一致している。

「朝廷の守護制度」とは別に「地頭制度」を朝廷に認めさせての「初めての地頭(「圷の干拓灌漑」の)」であった事が書かれている。
それだけにこの地は「重要な地」であった事を示していて、この時でもまだ「圷の干拓灌漑」はより進めていた事に成る。

参照
80年/縦の南北で350年、横の東西で450年≒1/(4~6)
「100年―20キロ」/80年≒16キロ

故に、「額田氏部と穂積氏」の末裔を、「桑名」から近く「圷」に繋がる「美濃・三河」のこの地に子孫は遺した所以であり、「地名」の「額田」(一色)も同然でもある。

上記した様に、何れの「額田の地名」と「一色の地名」の「遺る位置」も、「北の土岐域」から「東の額田」の「丘陵線」にあるのも充分に頷ける事である。
つまり、「東の丘陵・山沿い」のここに「管理施設の事務所の館」を設けていた事に成る。

これで「干拓灌漑」は、「東の額田域」から「桑名の西」に向かって進行した事が伺える。

ここで重要なのは、上記で記した様に、「額田の地名」と「一色の地名」と“「飽波の名」と「端浪の一色」(端浪は飽浪の変意語)”も含めて史実を観るように検証される。

「伊勢桑名側の干拓灌漑」は、5世紀頃に「揖斐川沿いの300mの域」に「額田神社」が建立されている事から、「縦の干拓灌漑」では無く、「揖斐川沿い」から「員弁の北側の圷」を横方向に「青木氏の財力」と「額田部氏の技術」で「野」にして行ったと考えられる。

「五都計画の天領地」が拡大する事は、「朝廷」に執っては都合は良かった事から許可は出たのであろうし、当時としては「賜姓五役しての役務」から「当然の事」と考えていた筈である。
当然に、ここは現在の「濃尾平野の西域」である。

「額田前域」の「木曽川河岸の丘陵体」
「各務原」等の「三野の扇状体」
「圷野の本巣域」の「中央原地」
「伊勢湾三角州」

以上の「四つ圷野」で出来ているのだが、「伊勢の三角洲側」は「木曽川丘陵体」の域よりは「高い位置」にある。

従って、この「地理的要素」としての「伊勢三角州の野」は、「干拓灌漑」が容易で「氾濫性」が低く、「肥沃性の濃度」が高く、「東の圷」より古来より見込まれていた事が「史実の通り・額田神社の存在の所以」と成り得るのである。
ここは共に「桑名」から近く「圷で繋がる地域帯」であった。

それ故に、ここには、「額田部氏と穂積氏」が早くから配置されていた所以なのである。

更に、伊勢の「不入不倫の権」で安定して居た事から、安定して職務に取り組める環境があった。
これらは「伊勢神宮の遷宮地」である事も含めて、「額田神社」が「存在する大きな所以」とも成っていたのである。

然し、「穂積氏」も、「額田部氏の“額田神社”」と共に、古来より“「穂積神社(伊勢四日市・桑名南近隣・村格社)」”が祭司され、且つ、「額田神社」の真西の「16キロ(4里)」の「近隣の地(三重郡菰野 現在社跡)」に在る事も見逃す事の出来ない所以でもある。

但し、記録から“「穂積神社(村郷社格)」”に付いては「相当後の時代」に創建されたものであろう事に成る。
「1250年頃の干拓灌漑」が終わった後の室町期に「穂積氏の子孫」がこの「所縁の地」に創建したのであろう。

(注釈 「穂積氏」は「額田部氏」と違って「分家格」である為に、「朝廷」から正式に「氏神の神社建設」を認められる「管理族の格式」を有していない。
これは上記の検証の通りで、ここは「長期間の工事」の為に必要とする「館等の事務所」であった可能性が高いのだ。)

当時の「生活圏10里」とすると、「連絡の範囲(4里)」として「穂積氏と額田部氏」の間の同族が「事業の連絡の距離感」としては「社跡位置」は充分に納得できる。

この時期は、ここを「差配の基点」にして「天領地等の事業」を朝廷に代わって差配をしていたと考えられる。
それにはこの「距離感」は遠くも無く近くも無く絶対に必要であっただろう。

以上で、「額田部氏」が関わった「史実経緯」と「三つの額田神社」、「青木氏」と繋がる「額田王」との関わりが青木氏を経由して「状況証拠」では間接的には繋がる。

(注釈 一説にある上記で説明した様に、“「額田王」”が“美濃の「額田神社」で祭司される”と云う説があるが、それほどの「尊厳と権威」を持ち得ていたかは疑問である。
そもそも、「額田神社」とは、「伊勢神宮」の「外宮・大豊受神・五穀豊穣」の祭祀する「額田の神社」であって、これを、大きく「務め」としてなす「額田部氏」に「祭司」を専門に任したとする考え方であろう。
故に「宿禰族扱い」であって、それを成した五都の内の「伊勢と美濃と近江」に存在する故である。
「信濃と甲斐」には無い所以である。
「額田神社」は「額田部氏」であると云う事に成る。
丁度、「青木氏の神明社」に同義する事と成ろう。
又、「伊勢神宮の外宮の祭司」の経緯と成った「庶民」が淀川で祭祀する「稲荷明神社」も子神としては同義である。
その役目を果たす「額田神社」と「稲荷明神社」であって「奈良期初期からの時代性」も変わらないのだ。)


さて、「伊勢の計画の許」で進められている「額田部氏と穂積氏」が関わる中で、ここから、次にこの「美濃」の「浄橋・飽波の時期」に入り、「美濃青木氏の源氏化」で「浄橋・飽波の裔」は「別行動」を執って、その「拠点」を要するに前段で論じた様に、「額田部氏」に依って新たに「開拓された土地」”を「一色」”と名付け、「三野王の本庄」から真東に「10里の位置」に“「拠点・一色」”を置いた事を論じた。

(注釈 「出自元の伊勢」の「開拓地」である事から「一色」としたとも執れる。
新しい土地とすれば、これでは「三野王系」も文句は付けられないであろう。)

然し、ここで一つ解決して置かなければならない事がある。
それは、当時、ここは未だ「圷」であった史実である。
この「拠点」とするには、「干拓灌漑」をしなければ住む事は出来ないし「野」にする事も出来ない。
そんな「財力と技術」は「浄橋・飽波の裔」には当然に無い。
先ず、この事を解決しなければ「浄橋・飽波の裔」の”「別行動」”は出来ない筈である。

そこは、「伊勢の裔系」である以上、「桑名の東横」の「圷」を「干拓灌漑」した様に、「伊勢の力」を借りる以外には無い。
又、源氏化が進む以上は「伊勢」もそうするであろう事は判る。
上記した様に、この「伊勢」と深く関わっていたのが「額田部氏」である。

つまり、上記でも論じた様に「額田の地名」と「穂積の地名」が物語る様に「額田部氏と穂積氏」がここに入った事に成るのだ。
これは「穂積氏の裔」と「穂積神社」がこの地域に遺った事で示しているのだ。

更に、「室町期」に入り「額田青木氏の国衆」が南下して戦い、そして「三河国衆」から離れ、後に「陸運業」を始め、且つ、その後に子孫は「豊田・岡田の開拓業」と「豊川と豊橋の殖産業」を始めた。

未だ、この域も、「河川の圷」を埋め立て「野」にして全て「本格的な干拓灌漑工事」が伴うのだ。
然し、これにも「額田部氏」が関わらないと成し得る事ではないのだ。
故に、室町期末期迄には、「信濃までの縦の陸路 1と2」を確立させる為も含めて、ここには「伊勢の裔系」と血縁族である「伊勢秀郷流青木氏」の子孫が多く定住している由縁でもあるのだ。

「信濃の青木村」と同様に、「縦の陸路 2」に「青木氏の諸条件」を揃えて「三河の青木町・青木村」がその中間地点に現在でもあるのだ。
「神明社、一色、青木村、山神、額田等の諸条件」である。
現在も山間部で過疎地であり、此処に「古来の由緒」を求めて室町期に改めて「拠点」として住み着いたと考えられる。

「端浪と岡田の二つの一色」の持つ意味には、この「額田部氏の所縁」が含んでいるのだ。
この事を逃して決して語れないのである。

この「三野王・美濃」に関する「予備知識」を前提に、「準備期間」と「予備戦」が終わり、遂に前段でも論じた様に「本戦」と成って行ったのだ。

「額田部氏の詳細」は前段でも論じたが後段でも詳しく論じるが、この時期でも活躍していた事に成るのだ。
「国衆南下」に対して「額田部氏」がどの様に動いたかは未だ詳しくは解っていない。
恐らくは、「蒲郡と伊川津の埋め立て」に移動した可能性がある。
現実に、多くの移動に伴う糧確保の為に「記録」からも「蒲郡も渥美の伊川津」も干拓灌漑されている。
「伊勢の裔系」が住み着くのに額田部氏以外に頼む事は無いだろう。
其れも前段で論じた様に、移動の前では無いかと考えている。
それは「家族・1500人」が伊勢に移動した後に船で渥美伊川津に移動したと成れば、筆者ならそうする。
現実に埋め立てしているのである。



注釈として、ここで敢えて「額田と端浪の一色の地名」の「そもそもの成り行き」を論じる。

果たして、先ず「額田」や「一色」と名付けた「本貫名の字の大きさ」はどの様なものであつたかを記して置く。
「施基皇子」は「古書」に依れば、最終的に、その功績の大きさは「500戸」であった。

この「500戸の基準」は、次の基準で「税と格式」は計算される。

7世紀中の「口分田・班田収綬法」では「一里―50戸の基準」であった。
「6年1造戸籍」から、その後、申請方式の「1年1計帳戸籍」に替わった。
1戸は「15~20人」とし、「3~5人の男子」の基準であった。
そうすると、「500戸」は、「10里で40k」と成り、「民は1万人」居た事に成る。
そうすると、「一色の字」は「10里四方・40k四方」の面積と成る。
これを「伊勢」には、「一色」に相当する大字を「志紀、壱志、色、一色」の四つを待っていた事に成る。
つまり、{「10里四方・40k四方」の面積}・4倍と成る。
これに依って、凡そ「青木氏の地積」は「1616162反」・4=「6464648反」である。

そこで「伊勢の全面積」は古書の記録では「6034875反」である。
「6464648反」≒「6034875反」で明らかに「伊勢国一国相当」を示している。
故に奈良期には「伊勢守護王」であった事に成る。

奈良時代の「伊勢国の人口」は「幾つかの古書」の集積から研究計算された人口は「37300人」であったとされ、725年頃には「103200人」や「92600人」と成っていたとされる記録もある。

ここでも「伊勢人口」が「圷の干拓灌漑埋立工事の成果・額田部氏と青木氏」の貢献で、徐々に人口を増やしていた事がこれでも物語る。

故に、「額田部氏」は前段から論じている「宿禰の特別昇格を授かった事」がここでも判る。
逆に、「11100人」とした記録もあるが、「志摩域と熊野域を除く・青木氏の旧領地」とあるので、問題視しなくても良いであろう。

そうすると、上記から「一色の大字」の「500戸・1万人」で「伊勢」では「4つの大字」を持つていた事から、「4万人近い民」を有していた事に成る。
「40000人/37300人」は正しい事に成る。

(注釈 「伊勢の人口」が少ない理由は「不入不倫の権」で抑制されていた事から来ている。
然し、平安末期にはこれが緩み「約92600人」と増加させている。
前段で論じた様に、「伊勢青木氏と額田部氏による連携」で「桑名域の干拓灌漑開墾」によって「米策の生産量」と「殖産」とで「糧」がより生まれ増えた事に依る。)

因みに、「美濃」は725年頃には「163900人」で、奈良期初期は「103400人」で、次第に「115000人」から「126900人」と増加している。
そうすると、約100年で50000人増加した事に成る。

明らかに、これは「圷の干拓灌漑埋立工事の成果・額田部氏と青木氏」を「和紙殖産」から始まり、「源氏化阻止の対策」に切り替えて「伊勢一国並みの人口」を増やすだけの事をした事の証明に成る。
つまり、上記で論じた「500戸・1万人」で「大字の4つ分」に相当する。

故に、「美濃」の「伊勢の裔系」の頃、つまり、「伊勢青木氏と額田部氏の連携」に依って、「50年後頃の奈良期末期」には「25000人の人口」を増やし、「188900人」に迄に増やしていた事に成る。

これは、「糧=人口の自然摂理」から「圷の干拓灌漑埋立工事の成果・額田部氏と青木氏」以外には成しえず考えられない事を意味する。

さて、参考に「近江」であるが、前段でも論じた様に、当然に「額田部氏」を入れて難しい「真砂」の「圷の干拓灌漑の工事」を期間を架けて行って、「和紙の楮対策」を苦労して成功させたと論じた。
然し、その後に離反して源氏化に邁進して行った。
当然に、この「人口」は増加している筈であるが、実は増加していないのだ。

奈良期初期には比較的多い「112800人」であったが、平安期直前には「85700人」に次第に減少させているのだ。
何と「100年」で「27100人」もである。

この原因は、折角、「額田部氏の管理の手」が引き上げて「手入れ」を施さないままで「時間経過」と共に進む「真砂土壌の悪化」で「圷土壌」が悪化したのである。
そして、これは「米生産」では無く、「楮生産」での「和紙の生産と販売」であったからであった。

然し、これでも依然として「源氏化」を中止せず、何と「同族に近い血縁関係」で在り乍らも恩義を忘れ「伊勢」とは一線を企して仕舞ったのである。

逆に、この事が原因で「源氏化に走った事」もあり得る。
この事での「和紙の専売権」は当初より一手に“「紙屋院の称号」”を得ている「伊勢青木氏」だけにあった。
又、「造部支配・穀物等の販売権」と共に、「朝廷の商社権」をも授かっている「伊勢青木氏」から離反すれば「糧を失う破目」と成るは必定であった。
これが「人口」を減らす原因と成ったのである。

(注釈 前段でも論じた様に「屋の称号」と「院の称号」を与えられたのは「伊勢青木氏」が歴史上始めてであったし、歴史上無い。)

「美濃」は「浄橋・飽波の伊勢の裔系・桑名殿」の存在があった。
恐らくは、「三野王系」も「近江と同じ憂き目」を直接に受けていた可能性があるのだ。

故に、前段でも論じたが、「美濃西域(米原東域の隣接域)」で和紙生産されていた。
然し、矢張り、「源氏化」を中止しなかった事から、必然的に「近江」と同じ様に販売権を持たない以上は「生産」を中止せざるを得なかった。

そして、その「源氏化」が完全瓦解した事から、前段から論じて来た経緯から、室町期中期頃の後に「美濃北域の山間部」の”「長尾の域」”で「和紙生産」が再び起こった事もこの事から来ている。
これは「準備段階の経済的裏打ち」の「伊勢の策」であったと考えられる。
この直前に、この事にも乗じて「美濃の伊勢の裔系家族」を「額田」から下ろして「渥美」に移したと考えられる。

そもそも、「美濃人口」が増やせたのは、「前期・伊勢裔系」と「後期・国衆」の「額田部氏の干拓灌漑の長期間の結果」に及ぶのだ。
「東山間部の開墾」は、「楮生産」で、「西南の圷の干拓」は「穂積氏の存在」が示す様に「米策」であった事が記されている。
「信濃までの縦の陸路・初期路・1」に沿って「東西の地形」に合わせて「干拓灌漑開墾」が進められた事が判る。

これから判断すると、「額田端浪の一色の地積」は、「本貫名の字名」が「地名」と成った事から考えると、凡そ、これに「近い地積」を有していて、「一色」の一つの「字名」であるので、この約1/4程度であった事に成る。
上記の系さんの通り如何に大きかったかを示している。

然し、これが「元からあった野」を「一色の地積」としたのでは無く、当然にこれだけの大きさの地積を生み出すには「圷の干拓灌漑開墾の面積」で生み出したものである事が良く解る。

「源氏化の方針の違い」から「別行動」を執った訳であるから、これだけの「地積の分部」を「三野王の本裔」から貰える事は無い。
寧ろ逆であったろう。
それを「浄橋・飽波」が無し得る「力も技術」も無いとすれば、「出自元の伊勢」にして貰う事以外に無いし、そもそも「出自元伊勢」も当初より「源氏化阻止」を目論んでの嫁家であった事から「充分な計画」を準備していた可能性が高い。

恐らくは、その「名目」は「持参金」成らずとも「持参地」として「圷の干拓灌漑開墾」を手掛けていた可能性がある。
この「名目」には「持参地」のみならず「和紙生産の楮生産地」としていた可能性がある。
(然し、美濃西域の米沢東の楮生産地は別行動で消える。)

この時期、矢張り、「源氏化阻止」を目論んで「近江」にも「圷の干拓灌漑開墾」を進めていた事を考えれば、「美濃」だけの「圷の干拓灌漑開墾」では無かった事に成る。
これの為に「伊勢」から「額田部氏」を指し向けたと考えるのが普通であろう。
故に、「地名」だけが記録に遺ったのである。(現在は消えている。)

「上記検証」での「圷野」にする為の「圷の干拓灌漑開墾」は年数が掛かる事は論じたが、故に「工事中の額田」と「工事後の一色」の地名が遺され、所縁のある象徴の「神社」と「本貫名」が遺された所以とも成る。

古代の「額田の地名」には、「額田部神社と穂積神社・室町期」があって、「一色の地名」には「清光院と神明社」という事であったと云う事は史実であるのでこの事に成ろう。
「当時の慣習仕来り」からすれば「地名と神社」は同時に遺すのが「普通の習わし」であった。

「地名」では無く、現在の愛知県の「額田郡・字・50戸1里・4k」は、「岡崎」から真南に3k、「蒲郡」から真西に2kの位置にある。

ここは「歴史的な経緯」から考察すれば、「昔の圷の地域」であった地域を室町期末期に「干拓灌漑を行った地域」である。
それ故に、それが前段でも論じた「国衆南下独立後」の「圷の干拓灌漑開墾」を行った事から古来の由来を以て名付けられた「額田の郡域の広さ」である。

因みに、この「額田郡域の地積」は「約57平方キロメートル・(57500石・50000人/1年)である。
これで「100年50000人の理屈」は成り立つ。

上記の経緯より、この事から「端浪や岡崎の一色」は「伊勢の出自元」が「当初よりの計画」により「額田部氏」に依って「圷の干拓灌漑開墾」が先に並行して行われていた事が判る。


注釈として、更に追論すれば、この「額田部氏」が“何故に「美濃伊勢近江」の「三つの地域」に関わる事に成った”かには、「朝廷内の職能部官僚族の勢力争い」があったのだ。

そもそも、奈良期と平安期には「土木職能部の官僚族」には「3氏」があった。
先ず初期は、最も古い族としては「天智天皇」に重用された「結城族」で、「道路や築城」を専門としていた。
ところが、「天武天皇」には「額田部氏」が重用された。
「墳墓や干拓灌漑」を専門としていた。
そして、「桓武天皇」に重用されたのが「和気氏」である。
「水利事業」を専門としていた。

この三氏相まって「一つの土木事業」が成り立つ事に成っていた。

ところが、此処で衝撃的な「ある事件」が起こった。
それまで重用されていた「額田部氏」が、この「勢力争い」の中で「飛鳥」からの「遷都」に同行して行かなかったのだ。

この為に、「朝廷」より厳しく罰せられて「平群の里」にあった「額田神社」を廃社された。
管理していた額田部氏を罰して管理手が無くなり、朝廷は結局見せしめの為に廃社したのだ。
つまり、“額田部氏を認めない”と云う「厳しい罰」を受けて仕舞ったのだ。
この結果、「結城氏と和気氏」が遷都事業を熟す事と成って伸びた。

これを観ていた「伊勢青木氏」は、「皇親族」と「賜姓五役」と「令外官」の役目を名目にして、この「額田部氏」を救い上げた。
天武天皇と持統天皇期の葬儀に合わせて額田部氏は墳墓を創建したが、この時の「葬儀」で“「施基皇子」と「額田部氏」が会った”とする記録が「日本書紀」や帝紀や他の古書一冊に遺されている。

この結果、飛鳥の「平群の里」を追い出された「額田部氏一族」と密かに「平群の額田神社の御神体」を持ち出し、共に「桑名」に移して「伊勢青木氏」は擁護した。
そして、この「御神体」を「桑名の地元」の「鎮守社」に隠したのである。(後に判った史実)
そして、「伊勢青木氏の職能部」の「青木氏部」に「額田部氏」を組み込んで護った。

その「五都の干拓灌漑の働き」が上記の論であるが、その後、この働きの「伊勢青木氏との連携」が高く評価を受けて、「伊勢青木氏」を出自元とする「仁明天皇」に依り「額田部氏」に与えられていた「社格式」が戻されると云う事に成った。
つまり、「額田部氏の存在」が復帰し、「額田神社」は「桑名の鎮守社」から戻して「桑名の額田」に建立祭祀する事が認められたのである。
この事から大手を振って「伊勢青木氏」と共に働いた。
ただ、この時には最早朝廷には戻らず「伊勢青木氏」と連携して「民間の土建業」として独立した。

「官僚族の和気氏や結城氏」と違って、この時に正式に日本の初代の「造部の民間の土木業者」として独立したのだ。
「伊勢青木氏」と「同じ生き方」を選んだ事に成る。

そもそも、「造部」は「朝廷の中」にあり、「伊勢青木氏の統括(造・伴の二つの諱の号を持つ)」で「青木氏の殖産事業」と共に働いたのである。
この関係は明治期35年まで続いたとされる。

其の後の栄枯盛衰は、「和気氏」に付いては鎌倉期に衰退し、結局、「藤原秀郷流の永嶋一族」としての「結城氏」が残り「民間事業者」としても明治政府まで続いた。

尚、前段でも論じたが「伊勢青木氏」は、「鎌倉幕府期」には「旧領地の部分と北勢域」は「本領安堵」され、残りは「地権域」として獲得している。
ところが、「室町幕府期」には「本領安堵域」は「旧領地の多い南勢域」に限られ、「大字のある北勢域」は「全て地権域」と成っている。
これで「額田部氏」も「民間の土建業」の地位も確立する事に成った。
「信濃」は前段で論じた通り「伊勢青木氏」と共に生きたのである。

何れにしても、この「青木氏の在様」を示している「地権域」に付いては、「幕府の政治的施策」に依り「金銭の支払い」で「地権域を買い取った形」を示した事を意味する。
江戸期は殆どが「地権域」と成っている。
江戸期には「尾鷲の旧領地」だけが遺されていたと伝わる。

その意味で、「額田部氏」は「信濃」も含む「総合商社の形態」を執り、その三氏の内の「構成氏」と成って生き残ったのだ。

余談とは成るが、余り「額田部氏の活動」に対して意外に「子孫」を増やしていないのはこの変の事が影響してると考えられる。
且つ、「遷都時の行動」にも観られる様に「天皇家より古い格式伝統」を重んじ過ぎた所以では無いかとも考えられる。
当然に、「宿禰族」でもあり「四掟」としては問題は無いし、「青木氏部」に組していたとすれば「伊勢や信濃や額田」との間には、「嫁家制度に基づく女系に依る血縁関係」があったと考えられる。
然し、何故か「表」には出て来ないのだ。
「氏人の伊勢衆の郷士衆」との間にも確認は出来ないのだ。
「子孫」を大きく拡大させられなかったと云う事もあるが、「戦国時代下剋上」も「青木氏」と同様に組していないし、「抑止力」で護られていた事なので、”表に出ないと云う事に何かがある”様に思える。

「額田神社の神道・神職」に関わる「宗教」なのかも一つの疑問で研究を続けている。
それだけにその「伊勢信濃の青木氏」と共にする「行動」は徹底していたと云う事でもあるだろう。
その「伝統に類する氏」は「天皇家」までも含んで周囲には居なかった事に左右したのであろうか。
それだけに上記で論じた事は「五都に関わる地域」の「美濃域や三河域」への関わりは頷ける。

(注釈 尚、「施基皇子と額田部氏との付き合い」に付いては、「天武天皇崩御の葬儀祭司総裁に「施基皇子」が選ばれた時からの事である。
この時、「額田部氏」は「臣の造の身分」から本来は昇格は「造部・みやつこ」は「臣」まである。
この「仕来り」からあり得ない「三階級昇格で、且つ特別計らい」で「宿禰族・朝臣族相当」に引き上げて貰った「天武天皇へのその恩義と寵愛」から「墳墓築造一切」を任された。
この事を観ていた「二人天皇の葬儀主宰」の「施基皇子」から特別に命じられて、そこからの「付き合い」と成ったと書記にある。
「編者の舎人親王」がこの事を態々特筆しているのだし、「帝紀」にも記載がある。
「天武天皇墓」は「野口王墓 明日香村」である。)

「額田部氏」が「遷都」に同行しなかったのは、「天武天皇への恩義」と、それへの「墳墓の護り」にあって、「明日香の平群」から離れたくなかったとされる説もあり、更には、その「平群」には「彼等の守護神」とも云える唯一の「額田神社」が別に在ったとする「合体説」があるのだ。
「後付け説」であろう。

恐らくは、「額田部氏の伝統や格式」から考えて「付き合い」の深かった「伊勢青木氏」も確定資料も無いが、この「合体説」が正しいと考えている様だ。
唯一つ、前段でも論じたが、「桑名額田」には、現存するが「宮大工の会社」が二つあり、幾つかの土木業の会社を「額田」で営んでいたとする史実が「伊勢青木氏側」にもある。
“「青木氏部」も明治35年に解体したが、その後、員弁や桑名で「宮大工業」を営んでいた”とする「確実な言い伝え」が「口伝」で遺されている。祖父からも聞かされていた。
然し、「額田の姓名」は何故か「額田部氏」ではない。

「穂積氏」は大きく子孫を各地に遺したが、この事から考えると、その差は主家と分家の掟の差と云う事に成る。
「額田神社」は格式は高いが対象神社が三つとする範囲であり、最終は「江戸期の統制」の対象外と成って「額田部氏が護るべき神社」と成った。
従って、つまり、“「額田神社」を永久に主家が護る”と云う義務があり、これに「縛られての差」であって、「神道の宗教・神職・神道」に関わる事と成った。
それ故に、「子孫」は本家分家共に「姓違い」で遺せたが、「主家の神職」としての「由緒ある筋目の額田部氏」は正統に遺せなかったと云う説が生まれる。

「青木氏」と同様に、主家が「神職族」であると云う格式から、つまり、高い「宿禰族」であると云う格式から、本来は「姓」は広げられない。
従って、「額田部氏」だけを何とか護ろうとしたが、結果として「神社」は遺せたが「氏名」は遺す事は出来なかったと云う説が頷ける。
「青木氏」は、「神明社」が有りながらも「由緒ある柏紋の神職・青木氏」を別に作り、これを徹底して「女系の四家制度」で切り抜けたのだ。
故に「神職青木氏」は各地で遺ったのである。

恐らくは「神職と云う事」から長い年代を「男系」だけでは難しかったと考えられる。
ここに差が出たのではと考えられる。
筆者は全国に広がる“穂積氏で繋ぐ”と云う選択肢もあった筈なのに其れもしていない。
それだけに「伝統を重んじた氏」であった事に成る。

(注釈 江戸初期の「神社の統制令」の内に入り「で500社程度を有する神明社」を幕府に引き渡した。
江戸幕府は財政的にも管理し切れず荒廃は極端に進んだ。
但し、「伊勢と信濃と美濃と伊豆」では密かに「祠」で隠して護り通した。)

「額田部氏の系譜」の中まで入れないので、この「推測論」に成るが恐らくは間違いは無いだろう。
それの遍歴が、現在は姓名が違うが「伝統」を護った「額田の宮大工」として遺ったとしているのだ。

だから「施基皇子の裔の青木氏」には,当に、“「墳墓からの付き合い」”と記されているのは、“この事を察して護った”とする暗示の「青木氏の説」があるのだ。


> 「青木氏の伝統 56-2」-「青木氏の歴史観-29-2」に続く。  

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「青木氏の伝統 55」-「青木氏の歴史観-28」

> 「青木氏の伝統 54」-「青木氏の歴史観-27」の末尾

> (注釈 当初、「近江」と「伊勢」は前段でも論じたが、「川島皇子」と「施基皇子」の異母兄弟の時代は女系での血縁は完全な同族血縁の一族であったほどに相互に行き来していた。
> 中の良い関係を続けていた。
> 然し、「嵯峨天皇の源氏化が起こる事」に依って「決定的な溝」がうまれ、疎遠と成ったのである。
> 余談であるが、「川島皇子の裔」系の「近江佐々木氏」に引きずられた縁戚の「二つの青木氏」は「真砂不毛の地」で「財力の無さ」と「天武期の「反抗行動」から「朝廷の中」で立場を失って行った。
> その為に源氏化で生き残ろうとした。)
>
>
> 敢えて、追加して上記を論じた様に、「信濃」は「伊勢」と共に「女系」で「青木氏族の体制」を確立していた為に、これには是非に「美濃の源氏化」を進めない様にする事が戦略的に必要であった。
> この為にも「信濃」には同族並みに充分であった為に「伊勢の一色での格式」は必要が無かった事に成る。
>
> 然し、「美濃」にこの「生命線を壊す事」が起こって仕舞ったのだ。
> 恐らくは、この時までは“「伊勢と美濃と信濃のライン(神明社で繋がる族)」”は、戦略的に「青木氏族の生命線」と判断していたと観ての事であったと考えられる。
>
> それには二つあった。(前段でも論じている。)
> 第一段の「皇子」を引き入れる事に依る「源氏化」が多少起こっていたのである。
> 第二段がその「源氏化」が引き起こした「姓族勃興」の危険性で既にあったのである。
> この二つにより「神明社の情報と物流の遮断化(本論)」が齎す危険性であった。
>

「青木氏の伝統 55」-「青木氏の歴史観-28」


さて、前段から「信濃」には「一色の格式」は必要無かったと云う結論に成る。
そうするとここで先に論じて置かなくてはならないのは“「近江の事」”である。
その前にもう一度、お浚いをして置く。
前段でも何度も論じたが「近江」には、抑々、何度も論じているが「近江青木氏」と「近江佐々木氏系青木氏」に「近江佐々木氏」の三氏が「同族の血縁族」として存在していた。
最初は始祖の川島皇子の裔の近江佐々木氏が発祥し、そこから皇子族が近江に移り「伊勢の施基皇子の賜姓」に倣って「青木氏」を名乗り「近江青木氏」が発祥した。
そして、この両氏が血縁して「近江佐々木氏系青木氏」が発祥した。
「近江佐々木氏」は「青木氏族の一員」としても考えられる。
「近江佐々木氏」もその様に考えていたし、異母兄弟の「伊勢の施基皇子」の裔と相互血縁した様に「奈良末期の血縁」では間違いなくそうなる。

(注釈 「近江佐々木氏」の「青木氏の研究記録」に詳細に記されている。)

そもそも、「近江青木氏」はその所以を以て発祥している。

概要は次の通りである。
前段でも「血縁弊害の処」で論じている様に、奈良期の「伊勢青木氏からの血縁」で嗣子の一人に「近江の青木氏」を興させた。
これが「近江青木氏」で、この「近江青木氏」と「近江佐々木氏」との重血縁で「近江佐々木氏系青木氏」が発祥して子孫を拡大させた。
この三つは「近江佐々木氏」が主縁(リード)と成っている。
「近江三氏族」と云われていた。

この「三つの族」は地理的要因でその存続の「経済的な裏付け」が弱く、従って、「伊勢」は「額田部氏や穂積氏」を投入して「干拓灌漑の工事」をして「和紙の殖産」を促した。
ところが、史実としてこれが「逆の効果」を生んだ。
「近江佐々木氏」にリードされた和紙で経済力が着いた所以を以て「二つの青木氏族」は「伊勢と信濃」から離れて「甲斐」と同様に「自立の道」を選んだ。

「近江佐々木氏」にリードされた事から「伊勢」とは疎遠と成って仕舞った。
ところが、更に「嵯峨期」に入っても「縛り」の外れた「嵯峨源氏」が当に近江の地元で起こった。
当然に、その傾向にあった「三つの族」は更に「源氏化」が極端に進んだ。
「近江佐々木氏」に全て引っ張られていたと云う事である。
これが経緯である。

「近江」には源氏化で最早当然に「伊勢の権威と支援」は必要なかった。
要するに「近江族」には、「信濃」と「甲斐」と共に“「一色の格式」”に付いて「別の意味」を持っていた。
「近江佐々木氏」にも「源氏化」が起こった事に依って相反する意味を持つ「一色」を拒絶するそれを「他の近江二氏」と共に成し得ていたのである。
これが「近江」に「一色の地名」の無い所以である。

従って、この「三つの青木氏族」は「経緯と云う過程」で「一色の地名」に於ける「権威」は必要とはしなかったのである。
況や、近江族に執っては当に論外であった。

(注釈 近江でこの「一色」を必要としなく成った事が「神明社の情報紋の遮断の主原因」と成ったのである。
近江は「佐々木氏と経済力」が主因であった。)


「一色の論」から「美濃の論」の元に戻して。
然し、「美濃」は要するに、これ等の事と比較すれば、前段でも詳細に論じた様に主因は次の為の事であった事が判る。

前段で論じた事を「別の視点」からこれを観て観る。
「面白い経緯」が見えて来る来るのだ。

第一段は「皇子」を引き入れる事に依る「源氏化」が起こったのである。
第二段がその「源氏化」が引き起こした「姓族勃興」の「神明社の情報と物流の遮断化」であった。

「第二段の事」はそもそも「青木氏」である限りは「神明社族」であり、然しながら「源氏化」に依って「八幡社族」と成って仕舞った。
結局は「神明社」と「八幡社」は「密教と顕教の差」にあり、その「教義」は相反するものと成ったのである。
故に、「神明社の存在否定する結果」と成ったと云う事である。

(注釈 「密教と顕教の差」は前段で論じた。
「9つの縛り」と「原理主義の白旗派・律宗」の意味する差である。
端的に判り易く云えば「水と油」であるだろう。)

これが「美濃域」には「神明社」が少なく成った所以であって、それが「源氏化と姓化」に合って、それが「源平戦」と成って「神明社」が無くなり、上記した“「第一段の遮断」”が起こったのである。

これが当然に「伊勢と信濃」に大きく影響した。
「源平戦」で敗戦し生き遺った「一色族」は前段でも論じた様に「信濃までの山間部」に逃げ込んだと云う形である。
然し、此処で彼らの一部は「生遺路線」を選択して「源氏族」から逃れ「一色の青木氏」を旗印に「伊勢信濃のシンジケート」と成ったと云う経緯である。
この時、「青木氏の財力」を使って彼等を保護し「美濃-信濃間域」に「神明社の再興・情報網(第1期)」を成し遂げた。

(注釈 この時の「神明社再興」には“「神明造祠社」”が多かった事が「桑名の資料」には記されているし、現在も「桑名と美濃の西地域一帯」にはこの「神明造の祠社の神明社」は遺されている。
管理は「青木氏神官族」で成されていたが、「社」というよりは寧ろ此処に「青木一族」が集合して「情報交換・中継点形式」をしていた事が記され、その内容が判っている。
「室町期の御師制度」の「情報交換の中継拠点化」と成っていた事をも示す。
「全国から集めた情報」をこの「桑名域に集めていた事」にも成る。
つまり、「桑名殿」が「情報交換の係」を担当していた事にも成る。
これは「商いの情報」と「戦況の情報」であった事にも成る。
「美濃伊豆の戦況」も然る事乍ら「商い」も大きく成っていた所以であろう。
これは前段でも論じた様に「伊勢」では「桑名」に全て「神明社・9社」が一括集中させていた事でも判る。
それ故に、前段の「御師」から集めた情報から「移動時期」を見据えて「伊勢の裔系の集団移動」はここに辿り着けば安全であって、元より「桑名殿の裔系」であった事にも依る。
此処に美濃の「伊勢の裔系」の「二つ目の清光院」と「二つ目の清光寺」を木曽川長良川を隔てて戦略的意味合いで右に隣接する様に建立しているのである。
前段でも論じた様に「額田端浪の一色」から現在のR19で全く直線的に最短で移動した事に成る。)

前段で論じた「移動経緯」から水路では一時それなりに回復する「第2期」が起こった。「伊勢-渥美-駿河-伊豆」と繋がった事に成ったのである。
次はこれを起点に「国衆の南下策」を促進させる為に「陸路」の縦の「伊勢-三河-美濃-信濃の情報網」を造る事にあった。
ところが室町幕府との「白旗派の浄土宗承認」や「伊勢神宮信仰」に合わせた「神明社の庶民信仰」等の「政治的策謀」や「御師制度」等の策で「空白地」「空白期」では「伊勢-美濃-信濃の情報網・R19」で一時的に繋がったかに見えた。
然し、これも「15年程度の短期間」で「空白地」「空白期」は崩れたのである。

これで再び、「室町期の戦乱」で「信長勢力」に依って恣意的に「神明社の情報網・中継点形式」が遮断される結果と成ったのである。
要するにこれが「第3期」である。
これで再び「伊豆との連絡網の遮断」と成った。

然し、「平安末期の伊豆の結論」は、それぞれ違う経緯で「近江と美濃と甲斐」が敗退したのである。
その「時系列の経緯」は、この事から上記の通り「1159年」から「伊豆入り」し、「1221年の直前」までの「約60年間程度」でそれなりに「神明社の情報網・中継点形式」は回復させた事(第3期)が「人と神明社の構え」から判る。

いよいよ「国衆の南下策」を急いで動かそうとしていたその時に、然し、再び、記録から観てみると“「鎌倉時代」の「伊豆内部の混乱」”で「第3期の神明社焼失」の事と成っている。
要するに今度は「鎌倉幕府の滅亡の混乱」に巻き込まれて「伊豆の神明社の焼失」が起こって仕舞ったのである。
滅亡寸前であった事に成る。
これらの「室町期前期」の「3期の経緯」を経て、結論は「1540年以降の室町期後期」に再度、前段で論じた様に「国衆の南下策」で回復させた事(第4期の経緯)に成っている。

そこで、この時「3期の経緯」は、「室町幕府」が「法然浄土宗14派中」の「最小派」の「白旗派の密教浄土宗・原理主義」を「本貫本宗」として強引な決定を下した。
同時に「原理主義一体」のものとして「神明社(青木氏の守護神)」も認める等の決定を下し「青木氏」を擁護した。
これがこの際の「幕府と青木氏の政治的策謀」であったと観ている。
これで、「神明社の情報網・中継点形式・水路」は「藤枝・富士宮・三島と駿河」までの再建立(第3期)が成し遂げられたのである。
「浄土宗」が「白旗派の原理主義の律宗族」と成った以上は、つまり、「伊勢と信濃の青木氏」の「政治的立場」が公に認められたも同然と成った。
これで「1560年期の松平氏・三河で独立」が「三河国衆」として認めより「国衆の南下策」が容易と成ったと考えられる。
当然に「国衆」に成るには南下策だけでは成立しない。
「足利氏との政治的策謀・裏工作」と同様に「松平氏との政治的策謀・裏工作」は否定できない。

(注釈 この第4期の「藤枝の四つの神明社」にはその「第4期なりの特徴」が出ているのである。
それは「神明社の構え」であるのだが、この中に「特徴」を顕著に表している「神明社」がある。
それは「呼称」の一つだけに表れているその「社名の構え」が“「伊勢神明社」”と云う「神明社の情報網・中継点形式」を適格に表現しているものであるのだ。
実はこの「伊勢神明社の命名」は「信濃と美濃」にもあるのだ。
敢えて、「第4期」の混乱期であるが故に、「足利氏背景」と「律宗族・遺された皇族系族」であるとする「其れなりの意味・誇示」を持たして名付けたと考えられる。)

「伊勢と云う呼称」のその背後に「伊勢の抑止力」を「伊豆」にも宛がえたと観られる。
将又、同時に「仏教の象徴族」の「律宗族」であって、且つ、明らかに全国庶民信仰と成った「神明社」の「神明社族」であるとしてその族の「神明社の情報網・中継点形式」の「拠点である事」をも周囲に誇示している事に成る。

これは同時に、「神明社」を分散させるのではなく「伊豆」から離して「藤枝、三島地域、富士宮地域」の三カ所と隣の「駿河市東町」の「一地域」に集中させているのだ。
本来であれば「庶民信仰」であれば平等に「分散」させるのが常道である筈だ。
ところが極めて一か所に集中させているのだ。
明らかに「伊勢の呼称」と共に「ある種の目的」があっての事である。

この上記の「計四ケ所の神明社の創建期」と「伊豆内部の神明社の創建期・平安期」が現地調査に依ればその「構えの内容・平安期の様式変化」から判断して大きくずれていて前者が「室町期初期」である事が判る。
「伊勢-美濃-三河-駿河-伊豆」の経路を再興して「伊豆」を護ろうとした場合は、「伊豆の人」が先ず移動してそこに「守護神社・神明社」を建てると云う経緯を辿るだろう。
「室町幕府の擁護」もあってそれなりに補完出来た「第4期」でこれを実行したと云う事に成る。
それ故に、「伊勢の呼称」は「室町幕府の擁護」があった事も相まってあってその「格式」を誇示しての事もその一つであったであろう。
「室町幕府の擁護・白旗原理主義」が「全国の神明社」をも護った事もあったと考えられる。
つまり、普通ではあり得ない「菩提寺」が「守護神」を護ったと云う事である。
これは、特定される「律宗の氏族」であるが故であろう。

この様に「室町幕府の権威」が失墜し始めた室町期末期までは兎にも角にも「神明社の情報網・中継点形式」は何とか維持出来た。
これが上記した様に「特別な変化」である。

(注釈 そもそも「神明社の建設」は、「社格」は「官幣社」で在り乍らも「賜姓五役・令外官」であるとしてその「財源と建設と維持管理」は「青木氏部」で江戸初期まで行われていた。)

さて、これで「伊豆側」の「神明社の情報網・中継点形式」は回復した様に観えた。
唯、ところが「伊勢-美濃-三河-駿河-伊豆」の経路は、「伊勢-美濃-三河」の間で上記した様に再び断絶したのである。

「戦乱期の信長」で「尾張域の神明社」は再び「神明社の情報網・中継点形式」の「神明社」が今度は「信長勢」に敵視され遮断される結果と成ったのである。
「室町期中期」には遂には「情報交換・中継点形式」は、又もや「伊豆」には届かなく成って仕舞ったのである。

今度は「青木氏の対処」は違った。
再び、渥美への裔系の移動は前段の通り成功した。
そして次の段階として「1540年頃」から「ある行動」に移したが、今度はその戦略は氏是を破り「戦闘的」であった。

そもそも、この行為は奈良期からの「青木氏の氏是」に反する。
然し、何故この「青木氏の氏是」に反する行為を執ったかである。

その理由は実は「伊勢から伊豆」までの「情報交換(中継点形式)」には「大きな欠点」を持っていた。
この「欠点」が「戦乱と云う状況」の中で「氏全体の致命傷」に成る欠点であったからである。
それまでは問題では無かった。

「伊勢-美濃-三河-駿河-伊豆」の経路を観ればすぐ判る。
それが「-三河-駿河-」には「青木氏」は存在しない。
要するに「定住地」では無いのだ。
然し、それでもそれまでは「人間の血管」に当たる“「神明社」”と云うものがあって生きて行く事が出来た。

(注釈 歴史的にはこの域を支配する「今井神社系のシンジケートの連携」で何とか助けられて繋がっていた。)

ところが「戦乱と云う状況」では“これを絶たれると云う事”が起こった。
“「人間の血管」だけでは駄目”に成ったと云う事である。
要するに「体」を造らなくては成らなく成った。
その「体」が「氏の人」のものであって、其処に置かなければ効果は出ないと云う事である。
「神明社」が「血管」であって「心」であり「体」と一体にしなければ成らなくなったと云う事である。
この「-三河-駿河-伊豆」の間に何らかな方法で「体」を置かねばならない。

そして、それだけでは無かった。
「伊勢-美濃-信濃」が「信長」に壊されようとしていたのである。
現実に「体のあった美濃」が小さく成って「山間部」に逃げ込んだ事で空いた隙間を見事に壊された。
「神明社の血管の破壊」と「美濃氏の体の破壊」も興り形が無い事に成って仕舞ったのである。
「伊勢-(美濃)-信濃」でも「信濃シンジケートと云う形」で繋いでいたが無理と成っていた。
それは「伊豆」が成り立たなく成っていた事を示すものであった。
この「空いた隙間」を埋めていた「伊勢秀郷流青木氏族」も補完して「美濃」まで張り出していたが、その「頼みの勢力」の一つと成っていた「永嶋氏」も衰退し「結城」に引き始めていたのである。

そこで「伊勢と信濃」は「戦闘的復興戦略」(下段で論じる)を採った。
つまり、此処に「陸路と水路」の「神明社に依る情報交換点(中継点形式)」を構築しなければ「廃墟と復興の第5期」が必ず起こる。
「伊豆の背後」の「頼みの綱」の「秀郷流青木氏」に「助太刀」を頼むとしても「神明社に依る情報交換点(中継点形式)」が欠けていれば「即戦力」には成らず間に合わなく成っていた。

では、どうするかであった。
簡単な事である。
「美濃」をもう一度興して「美濃」から「三河の湾岸域」に引き出して「青木氏の拠点を新たに作る事」と、破壊された「神明社に依る情報交換点(中継点形式)」を造りなおす事以外に無い筈である。
これで「血管と体と心」が「伊勢-美濃-信濃」と「-三河-駿河-伊豆」を造る事が出来る。
「伊勢-美濃-信濃-三河-駿河-伊豆」(駿河には第4期で構築した)は完成する。
これで「伊豆」は護れる。
前段でも論じた様に、問題は上記の“「美濃・額田一色」を「三河」に下ろして来る事が出来るか”である。
つまり、「信濃シンジケート」と成っている「美濃の額田青木氏」を「シンジケート」では無い「三河の青木氏」にする事である。
これは「山岳民」を「湾岸民」にする事に成る。
これは「人,時、場所」の「三要素」が揃わなくては成り立つ戦略では無い。

それには「陸路と水路の両面のルート」を構築しなければならない。
「縦の陸路」は“「美濃」を「三河」に下ろして来る事で出来る。
そうして、これが出来れば「三河の港」を確保すれば伊勢と三河までの「水路」は「伊勢水軍」で成り立つ。
「水路」は「伊勢-(美濃-信濃)-三河-駿河-伊豆」の上記で論じた様に「駿河」には「第4期」で構築したので「駿河・駿河湾」と「内浦湾」では出来ている。
後は「三河と駿河間の水路の構築」にあった。

そもそも、「水路」はその「圏域・海域権」が「水運組合と海運奉行」に依って昔から決められていて変わっていない。
要するに「伊勢水軍」が勝手に入る事は出来ないのである。

ではどうするかであった。
「伊勢の尾鷲」の「伊勢水軍の差配」の家に資料が遺されていて、この一節にこの事に付いての「行」がある。
要約すると、「摂津会所の・・・駿河殿の件の御差配に付いて承知致し候故に御安堵下される様に・・・御手配お頼み申し候・・・」とある。
恐らくは「福家からの指示」があって「水軍」が何かをしたと考えられる。
この時期は準備段階に入った5年後の「1545年」と成っている。

同時に前段でも論じたが、伊勢が「千石船の大船」を更に一艘を持ち、「熊野水軍」と「摂津の寄合組合」に「海路の水利権」を申し出て獲得している。
「商記録」にもこの「支払添書」の一行事があり一致している。
これは恐らく「組合員の会員権の取得費」であろう。
「摂津」までの四艘目の「海路の水利権」を持った事が判る。


さて、そこで、「駿河水軍の事」ではあるが、「駿河水軍」には「平家水軍」に対抗する為に「駿河源氏」に頼まれて参戦するが滅亡する。
この「駿河水軍」と「伊勢青木氏」と「伊勢水軍」は相互に血縁関係を持っていた事を前段で論じたがこの「源平戦」で「美濃族」等と共に滅亡する。

この「駿河水軍」は其の後も「海路の水利権」だけは持っていたと考えられる。
筆者の分析では、「伊勢の福家」はこの時の「差配」を「伊勢水軍の差配頭」に考えを述べたのでは無いかと観ていて、上記の資料はその時の打診であったと観ている。

そして、「1540年の準備段階」の五年後から「伊勢水軍」に「駿河水軍の支流末裔の者(血縁族の駿河青木氏滅亡)」を呼び出して訓練し、其の後に「伊勢」が建造した「船一艘」を与えて、「血縁族の駿河水軍」を復興させようとする考え方を述べたのでは無いかと考える。
その為に取り敢えず、経済的に成り立ちさせる為に「摂津会所(堺)」に先ずは「海路水利権」を申し込んだのでは無いかと観ている。
「駿河水軍」としての申請では無く「伊勢の申請」として扱った。
「伊勢の仕事」を彼らに与え「摂津支店」までの「荷駄の搬送」に従事させて経験を着けさせたと観ている。
この事を「血縁族」でもあった「伊勢水軍の差配頭」にこの事を相談し伝えて了解を得たという事ではないかと観ている。

さて、その後の事ではある。
「駿河域の会所(府中)」に「駿河水軍」が組み入れられるかであろう。
唯、「組合の株券」は保持している筈である。
「源平戦」で負けただけで既に幕府は室町期にあるとすれば、「出自を証明」できれば「復権」は出来る筈で、後は「商人」である以上は「組合の株券」を買うと云う名目の裏の手で解決は可能である。
この「証拠」と成るものは無いが、「状況証拠」である。

(注釈 この「状況証拠」に付いて現実に「其の後の事」ではあるが、「駿河湾」と「内浦湾」に「伊勢からの荷駄・商記録に四か所の記載有」が入り「藤枝、三島」を始めとする「地域・八カ所の青木氏」の「青木氏の商い」が復活しているし、「下田」と「稲取」にもである。
当然に、「神明社に依る情報交換点(中継点形式)」を構築も復活しているのである。
これが何よりの証拠である。)


先ずそうすれば「水路」では「三河・渥美湾」から「伊豆・駿河湾」まで成り立つ。
後は「陸路の創設」が「戦い」を伴ったもので大変であった事が「松平氏の戦記等」の複数の記録で詳細に判っている。
この様な「多くの死者」を出した「実戦事」は「伊勢」と「信濃」の「青木氏の歴史」の中では初めてである。
それまでは全て「抑止力」で済んでいる。
ところがこの時の記録に依れば「額田青木氏の差配頭」等が「激しい銃弾戦」で戦死しているのである。

尚、注釈として、「伊豆の現地調査」の印象の一つは「イ地域からリ地域」までの「青木の地名」の「青木氏」には現在も「何らかの商い」を営む「青木さん」が実に多い事であった。
この事に意味があって、1159年に「伊豆」に入ったが当然に其れまでには「伊豆の土地への繋がり」は全く無かった。
「伊豆」は実質は「頼政の所領地の守護の警備」としてではなく、「山岳地の伊豆」を豊かにする「管理人的な目的」で「頼政」に頼まれて入った経緯である。(清盛の圧力)
従って、「伊勢や信濃」の様に「土地の郷士との繋がり」で「氏族」を形成していた訳では全く無かった。

「伊勢信濃の融合族」として「管理人的な目的」では「商い」が主体で管理するだろう。
「頼政」は遙任であって実質の格式は「守護代」である。
「地域の治安」と「地域を豊かにする事」の「二つが目的」であって「武力的に統治する形態」ではそもそもなかった。

故に、「伊勢や信濃との繋がり」の中で「殖産を含む商い・伊豆楮や海産物」を興して統治する事が主眼であった。
伊勢に送っていた形態であった事が記録に遺る。
それだけに、「伊豆の商い」は「独自路線での伊豆」では無く、飽く迄も「伊勢や信濃との繋がり」が切れれば滅亡するのである。

当然に「伊勢や信濃」はこの「命の繋がり・血管」を切る事は見殺しに成る事は充分に承知の上である。
必死に成って「神明社に依る情報交換点(中継点形式)」を構築してこれを護ろうとしたのである。

「管理人」として入った当初は「土地との繋がり」の無い地域である。
故に「国友」を「信濃青木国友」として入って管理している者等に配慮し、且つ、「地元の者」には実は「頼政の孫」を隠して「信濃の青木国友の事」を誇示して上手くバランスを保ったとも考えられている。
その経緯が現在に成っても“「何らかの商い」を営む「青木さん」”の形に成って表れていると考えられるのだ。

(注釈 実は、前段でも論じたが、「伊勢」に、この時、「伊勢秀郷流青木氏」の出自元の「秀郷流蒲生氏郷」が入り、「近江商人」を呼び寄せて「管理方式」で「国を富ませ統治」に替えるとする考え方を採用した。
この方式が平安末期から鎌倉期芽を吹きだしていた。
「清盛」も同様の形式で九州の北部域太宰府などを統治しようとした。)

当の「青木氏」から観れば約300年後の「宿敵の信長」も「楽市楽座・自由市場」の方針を示している。
つまり、「伊豆」は既に1159年にはその考え方を実行したその「先駆け」であった筈である。
「伊豆」に執つては300年経ってもこの環境下にあってこれまで上記した様に「四度の復興」で生き延びて来た。
この「管理方式の立場にあった事」が「一種の欠点」でもあったのだ。
「伊勢と信濃」は「商いをしている事」からもこの「一種の欠点」を「神明社に依る情報交換点(中継点形式)」で必死に補い救おうとした構図と考えられる。

然し、それが「四度の再興」で何とか逃げ延びられたが今度は簡単では無く成ったのである。
それが皮肉にも同じ考え方を持ちもっと進んだ考えの「信長」であったのだ。
唯、「彼の考え方」には「伊勢信濃の律宗族」に執っては「相容れない勢力」があった。
それが「青木氏」が「補完の手段」としている「神明社に依る情報交換点・シンジケート」の「寺や神社などの勢力」も含む「影の勢力」であった。
「伊勢」でも「影の勢力」として観られ、同時期(1568年~1576年)の8年間に渡って「信長勢力(秀吉含む)」とも争っているのである。
然し、緊迫していたのは「伊豆」だけではなかったのだ。

当然に「伊勢」も対象として観られていたが、「伊勢シンジケート」で対処して「伊勢の五つの戦い」で勝っているのだ。
ところが不思議な事にこの「勝った背景」には、前段でも論じたが「信長」から派遣されていた「血縁族である信長の家臣の蒲生氏郷」があったからだ。
彼は「伊勢秀郷流青木氏の出自元・氏郷の曾祖父の兄弟」であり、故に彼は上手く立ち回ったのである。
それ故に「伊勢の背景」が出来た事から早期でも「美濃」に手を出す事が出来たのである。

前段でも論じたが、一説には、“「1540年頃」には動き出した”とする記録があり、これには「美濃」で起こった「斉藤氏等の争い(美濃尾張を制する)」に「シンジケート」が多少は何らかの形で関わったとする説では無いかと観る事も出来る。
然し、上記の時期では「伊勢」では「駿河水軍」を興す為に「船の調達」に関わる「伊勢水軍」との「やり取り」が「1545年頃」であった。
そうすると、この説ではこの5年間で並行して何か既に「美濃域」で動いていたのでは無いかとも考えられる。

実際には「初期の戦闘行動」があったのは「1545年~1575年代」であったので、この間の「30年程度」は時系列的に“準備期間であった”と云う事にも成る。
準備期間は当然に斉藤氏に疑われる。
然し、記録から斎藤氏との間での争いに関するものは発見できない。
先ず、南下の為の「三河の松平氏との調整」の前に、手順としては現場でのこの「斎藤氏との調整」を果たさなければならないであろう。

斉藤氏は「1432年」から始まり1542年の最盛期を経て最終は「1573年以降」は衰退し、そして江戸期には「米沢藩の平侍」までに落ちる事に成るが、「国衆」が南下して「一言坂の戦いの1年前」と成る。
そうすると、少なくとも南下に入り「三河松平氏の国衆」と成った時期の「1560年以前」では美濃では未だ「斎藤氏の影響・1567年」を受けていた時期である事は間違いは無い。
「超近代銃の集団」を訓練しているのに何も無かった訳では無いだろう。

その為には二つ考えられる。
一つ目の策は、一時的に「美濃国衆(斉藤氏の国衆)」に入っていた事
二つ目の策は、斎藤氏に「裏の策(金策)」を使った事
この「美濃国衆(斉藤氏の国衆)」は公的な記録に遺されているので現実である。

国衆として「美濃」を離れて「三河国衆」として南下するには斉藤氏に対してそれなりの策を講じる必要がある。
無事に南下するにはそれが「二つ目の策」であった筈である。
故に経過としては南下出来たと考えられる。
「1567年」に「稲葉城」を「信長」に依って滅ぼされ「1573年」に逃亡した。

(注釈 この「時系列の結果」から観ても、犬猿の仲の「信長が入る前の時期」に「上記二つの策」で南下している事(1560年説)の資料は間違いはない事に成る。)

「本戦の戦闘行動」は前段でも詳しく論じた様に「一言坂の戦い(1572年)」で、続いて「三方ヶ原(1573年)」であった。
実はここまでは関わったのである。

実はこの時期は上記した様に「伊勢」でも「激しい戦い(1568年~1576年 実質は1578年)」に成っていた。
ところが、記録を観ると、「ある事(詳細は後段)」で「其れ成りの目的」を完成してか「1574年以降」は「三河」から手を引いている形に成っているのだ。

唯、この「資料説」が史実とすると、“「1540年~1560年の行動(準備期間)・(準備戦)」と「1568年~1578年の戦い・(本戦)」がどんなものであったのか”は「詳細」は判らないが気になる事である。
後者は前段で論じた様に、記録の通り当に「戦い」のそのものであった。
問題は「前者の期間の行動」である。

“「ある事(詳細は後段)」”が「伊豆」に関わる事であるとすると、この「シンジケートの元」が「第4期の再興の事」と成り得る。
然し、この時の少し後には、既に「美濃」では「神明社の情報網」は切れていたので、「戦闘的復興戦略の作戦行動」の本戦とは別に、要するに“「初期作戦」”が取られていた可能性は否定できない。
伊勢(前半はゲリラ作戦・後半は本戦)でも戦っている時期である。
この環境の中で「後者の戦い」にいきなり突入する事は無いと考えられる。

そうすると、「前半と後半」とには「8年間の差の期間」があるが、「1560年~1568年」の「準備期間の後半」である。
この期間が“「初期作戦」”説としは正しい事に成る。

では「どんな作戦」で「戦い」は繰り広げられたのかではある。
ところがこれには詳しい記録はない。

そこでこれを読み解くには「戦闘的な復興戦略の作戦行動」には何が考えられるのかである。
つまり、「シンジケートの額田青木氏」を「国衆」として「蒲郡」まで引き出して「土壌」を作るには「美濃」と三河」にどのような行動を取らす必要があるのかである。

それを一応、次の様に考えて観た。

イ 「準備の財源」には問題は無い事を保障している事。
ロ 「伊勢と信濃」が説得に掛かっている事。
ハ 「一族の生活保障」を約束している事。

ではこの「三つの事」に就いてどの様に手配するかであろう。

0 シンジケートの目的と説得 (神明社復興 伊豆救出)
1 シンジケートの内部の意思統一 (「a族とb族」の利害統一)
2 シンジケートの「差配頭」をどうするか (美濃青木氏の末裔)
3 この「組織」をどの様に分けるかの決定 (「a族とb族」の二つに分けた)
4 その「組織の形」を何にするか (「国衆」として結束)
5 「戦略の提示」とその「作戦会議」 (最大の課題)
6 「軍師の決定」 (伊勢秀郷流青木氏)
7 「作戦実行」を何時に開始するか (美濃を出る時期)
8 「合力相手との関係性」の決定 (松平氏)
9 「松平氏(国衆)」との調整 (伊勢が担当)
10 「戦略実行後の処置」 (伊勢信濃が補完)
11 「土地の郷士との説得」 (国衆として入る地元説得 蒲郡と吉田)
12 「駿河青木氏」の復興 (駿河水軍の再興)
13 「駿河水軍と美濃族との関係性」の復活 (平安末期決別 水陸の経済的繋がり)
14 「渥美湾の利権」の取得 (美濃の陸運と水運の融合)
15 「駿河水軍」との結合 (伊勢湾-渥美湾-駿河湾の航路)
16 「神明社」の建設開始 (桑名-渥美-駿河-伊豆)

筆者ならば少なくともこれだけの事は事前に決めて係る必要があると考える。
その「問題の決め手」は「戦い」を前提とすれば主要な事は「5と6の事」であろう。
これを“1590年程度で「最終目的・南下定着」に到達させる”とすると長くは無い。
何せ「伊勢」も「戦い」に入っているのだ。

「伊勢と信濃」が「実戦力」を持っていないと成れば、「伊勢のシンジケート」の「抑止力」をフルに使って牽制して、且つ、「財力」で抑え込む以外には無い。

前段でも論じたが、現実に「伊勢の松ヶ島戦い」の「二戦」では幾つかの記録には完全にこの「伊勢のシンジケート」の「抑止力」だけで勝利して「最小限の負担」に軽減している。
これに「秀吉の長島の戦い」を入れれば「伊勢五戦」である。
全てこの策で伊勢はとりあえず勝利している。
後は、「三河」に全力を投入すると云う事に成る。

現実には作戦通りに「伊勢信濃が出来る事」は、上記の通り見事に「伊勢のシンジケート」の「抑止力」を派遣してフルに使って牽制して、且つ、「財力」で抑え込んだ事に成った。
片方の伊勢で戦い、片方の美濃では国衆南下をさせたのである。
実戦に近い「伊勢シンジケート」を使って先ず「三河の山間部」を獲得する事であった。

「戦略物資の輸送路の遮断」
「戦闘物資や食料調達の買い占め」
「周辺域のゲリラ作戦の展開」

「伊勢」と全く同じ作戦」を「三河」にも採った事が「商記録の添書・商取引・時系列」で読み取れる。
これが“「初期作戦」”説の根拠に成っている。
「1560年~1568年」の「準備期間の後半」の事である。

その「国衆南下のルート」は「本庄の額田」から「蒲郡」までの「真南に60k」の「圷と山間部の境目」を降りて来る事に成る。
この“「初期作戦」”の目的は改めて次の二つにあった。

「国衆」と成って南下して「渥美湾域」を抑え此処に「陸路水路の拠点」を築く事
「伊勢の信長勢力」に絡み乍ら「三河」での「信長勢力への牽制」である事

この「初期作戦の二つの目的の達成」であった。
この「二つの目的達成」は「信長」に執って「戦略上好ましくない事」であったと考えられる。
然し、「松平氏」にはやっと「三河」を「今川」から取れたもので、これを「信長」に取られる危険性はあって、それを三河に執っては「国衆の立場」から側面から牽制してくれるのには都合はよかった。
誰も入手できない超近代銃を持つ事で「単なる国衆」とは見ていなかったのであろう。
それは「歴史的な史実」として「雑賀衆」に入手を断られそれだけに困難さは知られていた筈である。


(注釈 「雑賀衆と根来三千の銃傭兵」で取り敢えず解決した史実が在る。
そこで「信長の松平氏への牽制」は、歴史的にもこれは「現実の事」として激しく動いていた事はこれは史実である。)

何しろ「ゲリラ作戦の国衆」で、且つ、“「超近代銃300丁(下記)」”で「武装する国衆」であり、後ろに「財力の青木氏」が控えていると成るとうっかり手は出せない。
既に少し前に「伊勢の事(伊勢五戦)」で「痛い目」にあっている。
抑々、「額田青木氏」と云えど「普通の国衆」では無い。
何せ背後に「伊勢」と「秀郷一門」が控えている。
信長に執つては直近に「武田氏との決戦」を控えている中では「三河の国衆側」から動かなければ取り敢えずは「黙視」が常套手段であろう。
現実に松平氏は国衆を使って西には動かなかった。

「戦い」も無く「蒲郡域と吉田域」を「今川氏衰退(1560年・岡崎城敗退)」のすれすれ(「1560年~1568年」の「準備期間の後半」の記載)に手に入れる事が出来たのは、この「強力な背景」があった事に間違いはない。

恐らくは、この「信長」は「岡崎城奪取のチャンス」を狙っていたと考えられる。
単独での「蒲郡と吉田の奪取」は目立ちすぎる事から得策ではない筈で、従って「松平国衆」として「蒲郡と吉田の奪取」であれば、「信長」を含む「衆目の理解」が得られた筈であった。
これ等の好機に付いては次の「裏の段取り」が在ったと考えられる。
「地元と松平氏への裏の交渉・情報の取得など」が在った事に依るだろう。
「地元の土豪郷士」に執っても安全は保たれる事にも成る。
これは「地元の郷士と松平氏と額田青木氏」の「三方両得の策」であっただろう。

(注釈 「伊勢青木氏」から「軍資金等の協力金名目」での「三河」に対してそれなりの処置は在ったと考えられる。
何故か「名目」を替えての其れらしきものがこの期間内には「商記録」には見つけられない。)

つまり、「水路の戦略(1540年~1545年)・第1期」と「陸路(1560年~1568年)・第2期」とは「ある期間・15年・第1期の準備と第2期の南下の重複」を置いて同時並行して続行していた事になるのだ。
それでも「戦闘的な復興戦略」を実行した。

(注釈 この「戦闘的な復興戦略」を「後段の伝統 56-1」で詳細に論じる。
「三河と伊勢」に「青木氏に関わる多くの資料と記録」が遺るので詳細に再現してみる。)

その前に、「予備知識」を次の段に論じて置く。


「青木氏の伝統 56-1」-「青木氏の歴史観-29-1」に続く。  

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