卑屈と萎縮の脱皮
◆ [No.303] 卑屈と萎縮の脱皮
投稿者:福管理人 投稿日:2014/01/14(Tue) 19:07:33
最近の青木氏氏のチャツトを観て思う事があります。
チャツトのご意見を見て、投稿を寄せて頂いている”あおきさん”とチャット外でよくお話する事があります。
今回の新春のお話の中で、昨年のチャツトに議論が及びその事に付いて一つご意見がまとまった事がありました。取りまとめの役目を負いましたのでそれをご披露したいと思います。
今、政治問題化している「日本の現状の問題」に成っている事柄です。
つい最近次ぎの様なことが起こりました。
それは「靖国問題」に対する、或いは日本に対する「米国の失望論」です。
実はここには大きな意味が潜んでいます。
その事に付いて少し議論したいと思います。
「米国の失望論」
先日、安倍氏が「靖国神社」を訪問したが、これに対して米国は”失望した”とコメントを出した。
今までの「米国の反応」と違った「異質の流れ」のコメントであって、その「言葉の持つ意味」には大変な「米国の態度」を示した事に成る。
この事は、今後の日本が採るべき、或いは考えておかなければならない事柄が潜んでいる。
先ず、この事に付いて、中国と韓国の反応は、過去に重要な「歴史的経緯」がある為に当然の結果としても、 問題は米国の”失望論”であり、これにはそもそも「移民族の米国の概念」と「融合民族の日本の民族の概念」が異なる事が存在している。云い換えれば、「伝統」なるものの違いが存在している。
特に、米国人は他民族に比べて、この「伝統」なるものの理解が低い。「移民族の他民族国家」であるが所以で一面ではやむ終えない事ではあるが。しかし、駆け引きの場の「政治の場」の面ではそうは行かない。
米国内ではいざ知らず、国家間では考え方の異なる他民族との折衝と成るからだ。
その異なる事を租借して国家間のコメントを出すのが常識でありながら、そうではなかった事が先ず第一に挙げられる。(もともとこの傾向はヨーロッパ系の民族には強い傾向がある)
日本には米国と比べて、戦死者に対する「日本人の尊崇の念」の有り様と、 それを具現的に表す神社と云う概念の結びついた国民的概念の有り様は日本には厳然として必然的にあり、それは他国に比べて異質で強いものである。この異質の概念の一つが外国から”サムライ”と表現される所以であろう。
しかし、この概念のない米国はこの概念の違いを無視した。 ここに大きな潜在的な問題がある。
では、果たして、問題とする ”失望”と云う概念の奥にはどの様な意味合いがあるのか考えてみる。
今回の場合は、この”失望”とする言葉の先には、先ずは ”仲良く”とする「主観的感情」が存在する。
更に、失望するには、”以前に”信用していて”それが裏切られた”と云う事にも合わせて成る。
この2つの事が問題と成る。
そこで、先ず、この”「主観的感情」”を専攻して民族や国家が持つ民族的な「尊崇の概念」を無視して、この ”仲良く”を専攻させるべき事であるかは明らかに違う。
それは”仲良く”は”主観的”に関わる。”主観的”は人、民族、国家によって明らかに異なる。
日本と云う国家では「尊崇の概念」は、最早、”サムライ”と日本人自らも自認し呼称される様に「主観的な事柄」ではない。
日本国民が持つ「共通の基本概念」である。
確かに「主観的感情」で個人的要素のものではあるが、日本人全てが共通して持つ欠かす事の出来ない感情で、生活の慣習の中に深く浸透していて共通している事で、この念を欠落すると日本人として社会の中でなかなかスムーズに生きて行けないし、兎角、信用されず低く見られる事に成る重要な欠かす事の出来ない概念である。
つまり、「感情の域」を超え、「主観の域」を超えているのである。
所謂、「国民性」なのである。
この概念を”共通に持つ事に依って強く結ばれている”と云っても過言ではない。
判りやすく数式論に置き換えれば次の様に成る。
「主観的感情」<「共通基本概念」=「国民性」の数式が成立ち「国家」を構成する。
ここが米国の「移民族の国家」の「思考原理」と異なるのである。恐らくは100万遍労を駆使しても、彼らには充分な理解は得られないだろう。
つまりは、「移民族の思考原理」で、「融合民族」を評価した事に成る。
それは彼等(ヨーロッパ系の民族)が示す”自己の民族の思考の優越論”からくる論調の結果であろう。(筆者は特にこの論調で議論になった多くのこの経験を持っている。)
つまり、「融合民族の思考原理」≠「移民族の思考原理」であり得る。
彼等の”思考の矛盾点とも云える。
そもそも、この「世の自然原理」として万物に適合する摂理として ”考え方が違うから「同じ考え方」の者が集合し、だから「国家」として「屯」を民族は構成する。
人間のみならず鉱物も同じである。万物の核の構成もこの自然摂理で成立っている。
従って、この関係が無ければ「屯」はしない。「屯」の前提である。価値観は良く似ているが考え方が違うと云う事である。価値観=考え方では必ずしも無い。
故に、”「優越」を前提として他民族の考え方を否定し低く見る思考原理”の「民族性」は矛盾である。
「民族性」、或いは「国民性」が低かろうが高かろうが存在するのである。
”優越するから相手には考え方が無い”と云う事でもないし、”無視しても良い”と云う事ではない。
最近は、”世界の平均的な考え方”として「グローバル思想」と云うものが漠然とあるが、「屯」を構成する国内の行為ではこの「グローバル思想」は別問題である。
取り分け、「尊崇の念」の様な「国民性」は国内では「是」である。「屯」を構成する以上は国内では”グローバル”ではない。「国民性の坩堝」の中にある。
それでなくては、”日本国では無い事”に成る。周りが「国民性」が無くなって、全てが”グローバル”に成ってしまったら「屯」では無く、果てには「国家」では無くなる。米国の様な国に成ってしまう。
しかし、端的に云えば、「尊崇の念」は”尊敬に値する概念”であり、所謂、世に云う ”グローバル”であり、「良い国民性」である。
「尊敬の強弱」はあるにしても、”尊敬を否定する者”は幾らなんでも、”グローバル”ではないと「米国人」でも云わないであろう。
ところが、況や、この「国民性と伝統」に対して ”グローバルの末の形”には相反するものがあるのだ。”グローバル”が進みすぎると「国民性と伝統」がアメーバーのように食われてしまう危険性を持っている。
強いて云えば、「国民性」は、兎も角も、最近では、この行過ぎた”グローバルの考え方”が「伝統」を消し去る「最大の要因」と成って来たのである。
そもそも「伝統」とはその国の「国民性」が構築するからだ。
依って、国内までも、この”グローバル”を容認するも”絶対的な思考”として持ち込むべきではない。
何故ならば、”グローバル思考”の果てには、論理的に”「伝統」の否定”が起こる。
重ねて何故ならば、「国民性」を維持しているのは「伝統」であるからだ。
むしろ、”グローバルの考え方”は、諸外国、取り分け先進国との「政治と経済の運用手段」、又は明快に「知識」として位置づけて活用するべき考え方である性質のものである。
つまり、「国民性」を色濃く持ち「伝統」が多く存在すれば、その果てには ”グローバルの思考”は成立たない訳である。
そもそも、”グローバル”の思考は他民族が共通の場で共存して生きて行く為の ”平均思考のルール”である筈で、依って、米国の様な「他民族の坩堝」の「移民族」の中の思考が主と成っている。
最近、世界情勢から”難民と移民の傾向”が進み、各国は「移民族化」を起こしている事による流れの現象もその一つであろう。
日本の様な、「異民族」の「他民族」が、初期に唯一”「単一融合化した民族」には、つまり、この「国民性」や「伝統」が多く存在する国には、この”グローバル”はある範囲では容認するも「要注意の思考」であろう。
そもそも、”グローバル、グローバル”と鬼の首を取った様に云うが、確かに、「世界の民族」の考え方や商習慣や社会習慣等を知る事は、上記している様に ”「国民性」を知った上での判断の事”として指摘しているが、何も全ての考え方を ”グローバルに成れ”と云う事では無く”、グローバル”に成る事そのものが目的では無い。
そもそも、「語学の習得」がグローバルと思っている節がある事は問題で、それを成し得るに必要とする一つのツールであっても、「全ての目的」でもなく、要は、相手の国の「良い国民性」を良く知る事に重点を置く事に成るのだ。
今までも、日本の発展に供したのは「語学」のみならず、”何らかの方法”で「異民族の国民性」を勉学し、習得し、それを以って折衝して来たが、その際には互いに何とか「共通の理解」を得て来たのだ。無かった訳ではない。
それには先ず何よりも互いの「良い国民性」を良く理解し、互いの「悪い国民性」を指摘し、排除して、「コミニュケイション」を得て来た。
矢張り、この様に論理の終局は ”、グローバル”は「良い国民性」に繋がる事なのである。
ただ、ここで「卑屈と萎縮」を排除して、我々日本人はより一層の「コミニュケイション力」を獲得しようとするものである。
昔は、筆者は、中国や世界各国から来た「企業実習生」と懇談してこの事に付いて議論した事がある。
世界で活躍して貰う為に ”グローバル的な行動と考え方”を、端的に、彼らに理解を得た例題は意外なものであった。それは当初、彼らに云わせれば、”国民性の良い悪いの判断”が付かないとの事であった。その理解を得たのは、それは、何と”「立小便」”である。
私たちの若い時には、この「道端の立小便」は何の抵抗もなくしていた。不思議に爽快な一時であった。しかし、「良い悪いの国民性」はこの「道端の立小便」の例で有った。
中国人は、最初、猛反発した。その「論理の根拠」は、矢張り、”「小便」は、”人間が持つ最も自然な生理機能”であり、”人は無条件にその「自然な生理機能」を尊重すべきである”と主張した。
矢張り、「法より人」の考え方に従う国民である。
その例に挙がったのは、「観光地での立小便」で、中でも”「富士山登山」で外国人は平気で立小便や痰の排出などの「生理機能」を到る所で平気に果たしている”とする批判があった。そして、注意すると、矢張り、「上記の論調」であった。
そこで ”中国では良くても日本では「悪い性癖」なので、この「悪い性癖」は世界の先進国でも「悪い性癖」であり、何処の国でも「社会の良い環境」を維持する「ルール」を破壊する「悪い性癖の国民性」であるのだから、貴方達の言い分には一理あるにしても、世界の「平均的な約束事」として護らねば成らない”と説いた。
日本にいる場合では「日本の法」に従うのが普通であり、「中国の法」に従うとする論調は異常である。依って、「仕来り 慣習」も例外ではない。
例え、「法より人」の考え方を持っていたにせよ日本では古来より「人より法」の社会と成っている。”自己の主張をするのであれば日本から出て中国でして貰いたい”と繰り返した。
元々、実習でも「自国の考え方」を日本でも平気で主張する傾向があり、なかなか注意を受け入れない傾向(国民性の性癖)があった。挙句の果てには、”中国は大国である”と虚勢を張って主張する始末であった。まさに例外なく「中国人」である。
”「人、時、場所」の要素が異なるのだから、日本にいる限りは「日本の慣習や考え方」を少なくとも護るべきだ。その「日本の考え方」が「良い考え方」であって、「世界の考え方」の平均に成っているのであれば少なくとも守るべであると、その事に依って、現在の「日本の発展」に供しているとした考え方が、要するに「良い考え方」の定義なのだと、「良い考え方」(良い国民性と伝統)であるからこそ発展したのだ”と説得した。
そしてところが、現在の様に国が発展した日本も60年前までは例外ではなかった。
しかし、”この様な事を改め無くして行った”と説いた。
国に帰り「日本の様に発展した国」を作りたいのであれば、”「悪い性癖の国民性」は排除しなければならないのだ”と、それには”「立小便論」を会得せよ”として彼らを納得させた。
”何時もグローバルを考えた時には「立小便論」を思い出せ”と説いたのである。
この「立小便論理」で、”「意匠問題」に繋がる「物真似」も同じである”と説いた。
日本の労働条件や日本の商慣習など数え切れない考え方もこの「立小便論」でクリヤー出来た。
要するに、それは全て”「グローバル」”で、「日本の良い国民性」であった。
その時には「語学力」は「大きな問題」では無かった。
その秘訣は、”双方の国民性の対比が出来る程度のカタコトの語学力”であった。
これが、”グローバル”の判断なのである。
筆者は、結局は、「グローバル」=「国民性」の関係にあると信じている。
決して、”適度のグローバル”は、”「国民性」、或いは「伝統」を否定するものではない”と云う事である。「日本のグローバル化」はそれを前提としなければ成らないのだ。
何も「国民性」を否定した”行き過ぎたグローバル”ではない。
この「失望」のコメントをだした人物や機関は、この考え方を失落して優越論の末に更には「感情主観」に走ってしまったのである。
因みに、中国は「偽物」を平気で作るが、彼らの言い分は、人間には、本来 ”物を真似るという本質”を持っている。故に、”その「本質」を働かせるのは何故悪い”と云う言い分を決まって述べる。これには一理はある。
しかし、”グローバル”では、これは許さない。しかし、依って、彼らは「意匠権・商用権などの特許権」を認めようとしない。しかし、これは「良い国民性」を代表する「概念」ではない。何でもかんでもではない。
「尊崇の念」の様な「国民性」を物語る「良い伝統」を伝える概念は”グローバル”の対象ではないのが定義だ。
依って、国内は「国民性」であるべきである。国内にも地方色がある様に、「情緒豊かな環境」であるべきである。
”グローバル”は ”「他民族との折衝の場」の「共通する手段」” として「別の認識」として持って置かなければ成らない「知識の領域」の事であるべきだ。
依って、”グローバル”に拘って、「国民性」、即ち「尊崇の念」の為にも、国内ではこれを否定する「卑屈と萎縮」を取り除くべきである。
敗戦に依った「卑屈と萎縮」がそれを(必要な適切なグローバル化の遅れ)起こしているからだ。
逆に、彼らの「優越論」は、この”グローバル”の過剰思想の所以である。”グローバル”に陥り過ぎても優越論の様な事に成り好ましくない。
彼らには、「自分の国の考え方」が何処でも”グローバルだ” と必要以上に考え過ぎているのである。
確かに、グローバル”の多くは”自由”を前提としている「移民族の思考原理」に多いのは否定できない。
そうでなければ、彼らの社会は構成出来ないであろうことは否めない。
米国は、国内でも「自由」を前提とした思考原理の”グローバル”の概念だから、国外も殆ど”グローバル”の概念に成っているから、他国の国内でも”グローバル”の概念であるべきだ” と思い込むのも無理の無い事だが、ここに彼らの矛盾点がある。
然し、国内は「屯」を構成している以上は「国民性」を保持するべきである。
”グローバル”は「国民性」(伝統)を否定するものでは決してない。
故に、2「良いとされる国民性」”が存在する限り、他民族の者は、この場合は、「日本民族の思考原理」が同であるかを思考をめぐらして「答えの発言」をしなければ成らない訳であった。
しかし、米国の「失望論」はしなかった。自らの「民族性の欠陥」から、これを欠落したのであり、当然にその思考は「政治の場」の判断としては低質すぎるし、「感情主観」である事になる。
まあ、百歩譲って「感情主観論」のものであるとして、妥協して考察すれば、次に、この「主観的感情論」にその国民がどの程度のウエイトを置く思考原理を持っているかに問題は移る事に成る。
ところが、移民族の他民族の国家であるから、論理的に考えれば、相反する徹底した「合理主観論」が「共通する概念」となろう。
しかし、この「失望論」は、そんな環境の中でも、「感情主観論」を展開した事に成る。
つまり、今までとは異質のコメントに成る。大使館を管轄する国務省コメントであるが、大統領府のコメントではないところにまだ救いは有る。国務省だとしても問題は問題である。
これには”米国の失望”の根拠とする中には”仲良く”と云う思考と、もう一つ ”相手を信用しなかった”と云う意味合いが大きく潜んでいる事になる。
過去に「信用」していたが、「靖国」で「信用」できなくなった。だから、「失望」した事に成る。
「信用」していなければ「失望」には成らない。現在にも”信用しない”と発言した事に成る。
この「失望」には、この”仲良く”と、”信用”と云う問題にすべき要素が含まれている。
だから、この2つの事の「米国の失望論」に対して日本の人々は「違和感」を強く感じて ”センセーションの渦”と成ったのである。(日本の反応に対して彼らは当然の如く驚きヒートした。)
その”仲良く”に対しては、今、”仲良く”とする行動を採るべきか、その”時期”にあるのか、どの様な”仲良く”が存在するのか、はたまた”仲良く”した先には”何”が待ち受けているのか、普通は考える。
少なくとも日本人の「国民性」からすれば、常識となっている「人時場所の思考原理」を働かせる。
そうしなければ「7つの民族」が融合して「屯」を形成させる事は不可能であったし、現在も同じである。
だから、”うん、変化だ、おかしい、異質だ、その先には、果たして「同盟」に与える影響はどの様になるのか、今後、どうすればよいのか、” を瞬時に考えた。と云う事に成ったのである。
それが「噂」では無く、日本大使主導の「正式な国務省発言」であったからだ。
そして、「信用」には急に出て来た「米国の態度表明」でもあった。
そもそも、この”「信用」”には、仲良くするには色々な「政治の場」での「条件や立場」がある。
それなのに「自分の国の思考原理」だけで低質で短慮に単純に考えて、日本が ”米国の言う通りに行動しないと、今後、信用しないよ”と成る。
「信用」しなくても良い、「同盟」と云う事を結んでいなければそれでも良い。
「同盟」は”信用を前提”として成立っているからだ。「信用」できない相手と「同盟」を結ぶ事は無い。「信用」=「同盟」の関係にある。
つまり、この”失望した=信用しない”と発言した米国は、暗にこの「同盟の破棄」を結果として臭わしてしまった事に成るだろう。
更に突き詰めれば、次の米国との「政治交渉の場」に、この「失望」、”信用しないの発言”を取り除かないと、”何時まで信用されていない外交交渉”をする事に成る。
「同盟」の中では有り得ない事に成る。
例え、「失望感」があっても思っていても発しては成らない禁句である筈で、それを発してしまったのだから、日本側は、今後は注意をして置かなければ成らない事に「政治の場」では戦略上は成る。
ある政府の高官が発した言葉では無く、大使や更には国務省の正式コメントであるのだから、十分にこの禁句のチェックは効いていた事に成る。失言ではないのだ。
オバマ氏と習氏との会談以降、米国は”中国より”に発言するように成っている事には失念しては成らない。大なり小なり ”同盟の如何”に変化を来たしている事に成る。
自衛隊との合同演習にもこの態度は露骨に出始めている。
「米国が観る中国」と、「日本が観る中国」とはその「国民性」が異なる為にその重要性は異なる。
「日本が観る中国」は、事を起こせば軍事と経済に於いて、中国がそのファンダメンタルが外資に頼っている比率が大きいし、取り分け、日本に頼る事が強い筈で、「一国二制度の矛盾」を持っている事から「共産党の崩壊」に繋がるは必定で、「尖閣問題」の様なある程度の小競り合いはあるにしても「実戦」は起こせない筈で、故に「政治の場」の駆け引きの範囲の「虚勢」は張る事には成るだろうし、これからも続く。
そもそも、「一国二制度の矛盾」は市場経済の制度は「自由」を前提として売買は進む。
「市場経済」を無制限に進めれば人は「自由の良さ」を知り、政府に対して「自由」を求める。
しかし、「共産主義」はある程度の「自由」を制限する主義である。依って、何時かこの「自由の要求」が強く成った時点で論理的に「乖離」が起こる。
その「乖離」は、何かキッカケで起こる筈で、”日本とのある程度の争い”でその矛先は共産党の政府に向けられるは必定である。従って、中国国民向けにも「虚勢」を張り通す事になるのである。
要は、日本が「弱み」を見せない姿勢を日本側が採る限りは現状維持を図る事は出来るだろう。
それには、別つの意味で ”「卑屈と萎縮」は禁物である”と観る。
むしろ、「中国」と云うより先には「失望」と云う言葉を発する「米国」との関係の悪化が懸念される。
それは、日本が[ファンダメンタルの影響]の”歯止め”と成る垣根が無い米国ならではの事であるからだ。
筆者は、米国が「中国よりの政治路線」をこれからも採る限りは、この事が「第2次大戦の経緯」を辿る事に心配をする。
その意味で ”失望した=信用しない”には、この「失望」と云う発言に危機感を感じる。
日本側が絶対に避けねばならない「経緯」である。
そもそも「戦争」とは国家の明確な「意思」では無くその前の「経緯」から勃発するものであるからだ。
上記した様に、「中国より米国」と「失望発言」と「習会談」や「合同演習」などあらゆる関係を考察するとその危険性が懸念される。
況して、「自主防衛」「憲法改正」「基地返還」「米国を凌ぐ経済発展」等を進めれば、「日本の発言力」は増す事は間違いはなく、”米国側に採ってこれをどう観るか”と成る。
まさに、「第2次大戦の経緯」である。又、「石油の制限等の経済封鎖戦略」で来る事は最早無いであろう。
しかし、一つその懸念事項があるのだ。それは「日本産のエネルギー資源」が発見されて充分な資源国に成った時点では、事態は異なるだろう。
メタンハイトレートや自然エネルギーが発見されて来ている現状では「資源国」に成る可能性は高いし、その対策は進んでいる。10年程度の先には、資源国に成った事に依る危険な問題が露出して来るだろう。
何故ならば、資源に掛かる経費は日本全体の経済の国家予算の最大5割程度を占めている現在、これが資源国に成った事に依ってこの経費の多くは浮いてくる。
問題は ”この経費が何処に回されるか”は明らかである。「資源国」を護る為の「国防費」となるは必定である。そうすれば、「卑屈と萎縮」を持つ日本に関わらず、エネルギーで「世界の勢力図」は変わる事に成る。石油枯渇の問題もあり、当然に、隣国と先進国は今以上にこれを警戒する。
これが戦争への逃れ得ない「経緯」の流れの一つに成るのだ。
むしろ、現在の中国と韓国と米国のイライラは内心はここにもあるのだろう。
「憲法改正」や「自衛権拡大」などの保守化が進む日本がこの立場に立てば、その実行するファンダメンタルは充分にある事から、「現実の問題」と成って来るのは間違いない。
だからと云って、「卑屈と萎縮」をそのままにしてはこれからの国が発展するチャンスを失う。
元々、他国と異なり、”「国民性」として優秀な「発展する能力」とその「チャンス」”に恵まれているのだから、「卑屈と萎縮」をそのままにして圧力に屈し現状で甘んじる手は無い。
日本が資源国に成る事は”鬼に金棒”である。この為の要素が日本の周囲には整いつつある中で唯一つそれを成しえる為の「心の気概」に不足している。それが「敗戦の後遺症」の「卑屈と萎縮」であると談じている。
その為にも、今以上に成長させるには「卑屈と萎縮」から脱皮する事が必要で、今の様な態度の維持はこれを成し得ない。それには”米国の失望から来る圧力”に屈しては成らないのである。
しかし、屈しないと、上記の経緯を辿る羽目に陥る事は必定であろう。
そもそも、日本での日常の会話の中では、「失望発言」は上から目線である。圧力を臭わしている言葉になる。日常会話の中ではないとすると、少なくとも日本人はその様に採るだろう。
言葉のニュアンスは「国民性」であるので、”上から目線を彼等に租借せよ”とまでは云わないが、圧力的な意味合いは少なくとも「失望と信用とする言葉」からはある。
そもそも「2者択一」である。この事を韓国は別として中国は必ず観ている筈である。
何故ならば、中国の「国民性」や「政治事情」はあるにしても、両国は古代からの「歴史の関係」から良く似た思考原理をそもそも採るからだ。
因みに、「駆け引きの古書」の様に、上記した様に「六稲三略」はそれを具に物語っている。
この「六稲三略」は政治や軍事や経済の駆け引きの場で使うが、日本と中国は古来にこの中国から持ち込まれた考え方を「駆け引きの思考の原点」としている。
従って、この「思考の原点」から、むしろ、中国は「米国の失望論」で「虚勢」の足しに成る事からほくそ笑んでいるだろう。
「一国2制度の矛盾」をクリヤー出来るからだ。自ら手を下さずに「米国-日本の関係」が崩れてくれればこの矛盾の危険性は排除出来るからで、「虚勢」の代わりに成る。
先ず、次に、この”仲良く”には、「国家」や「民族」と云う前に「人の性」の思考原理にも関わる。
そもそも”仲良く”は「女性的な思考原理」に左右されている判断で、特に”政治の場”ではあまり採用され得ない思考である。
何故ならば、”主観”である事によりその人によりその”主観”が異なるからで、千差万別の結果が招かれるから賛同が得られにくい思考であるからだ。
当然に、主観であるから”仲良く”の程度も千差万別と成る。
喧嘩状態でも”仲良く”とする論調も生まれる。
しかし、”仲良く”は否定はしない。”仲良く”が採用し維持できる環境である事に越した事はない。
では、百歩譲って、この相手の国の中国と韓国に、ここで ”その”仲良く”を採用したとして、果たして、その ”仲良く”の「良い結果」を招き入れる事が可能であるのか大いに疑問である。
恐らくは、過去の事例から ”歴史認識”と云う理由を背景に量にかかって更に上から言い続ける事になる。恐らくは、その過去の遺恨から土下座してでもいい続ける筈だ
何故ならば、事実、日本はこの2国を過去にその理由如何によらず「侵略した行為の非」を持っているからだ。された方にすれば、”「侵略の恥部」は何年経っても消し去る事の出来ない憤懣のしこり”であるからだ。
中国の様に”面子を重んじる国民性”では、「政治の場」や「教育の場」に「喧伝の道具」としてこの「憤懣の誇張」を持ち込んでいる。
況して、この2国には不幸にしてか合わせて「儒教思想」から ”過去に拘ること”を推奨する思考原理”をも「国民性」として強く持っている。それ故に効果は大きい。
それだけに「過去の事」に拘れば、中国にして観れば、各国から侵略された為に、”今はそうじゃないんだ”と「虚勢」を示し続け無ければならない事になり、それには「国民の目」を外に向ける必要が「政治の場」の事として戦略上ある。放置しておけばこの「憤懣」は政府に向けられる事に成る難儀な事がある。
それには、日中には格好の事がある。
その前に参考として、因みに、最近の”中国の中古空母の購入と改造”は「虚勢」の最たるものである。
現在では空母は近代戦の戦略上は無用の長物と成りつつある中では「中国の虚勢」を示したものに成る。何故ならば、この空母とは「最大の軍事費」の掛かるもので、経済成長の低下の中では将来は無理であろう。兎に角、空母は「周囲の戦機」が整わないと使えない代物であるのだ。
これからは「イージス艦の保有」であろう事は明々白々で、空母にしても「ヘリ空母」が機能的に戦略上良く働くと見られている。
(この「ヘリ空母」とイージス艦とは日本は主体的に保有し、その製造は日本の独断場である)
この様に、中国には政治戦略上、アンバランスが多く良く考察すると「虚勢」と見られるものが多いのだ。
それは「過去の日本の侵略」であり、これを誇張する事で国民に「憤懣」を助長させる事が出来る。
既に、戦後70年も経っているにも関わらず、この動きは衰える事が無く、常に格好の”日本非難の材料”として使われている。
こんな「格好の事」は先ず無い。”過去に拘る儒教の国民性”もある事からその効果は実に大きい。
今までは教科書にも載せての喧伝であったが、現在では、「改革開放路線」と「情報社会と経済進出」から真実を国民は知った為に、この「格好の手段」に効果が採れなくなったのである。
その為に、今度は「尖閣問題」と「防空識別圏」等の問題を持ち出して「格好の手段の国」として日本に「虚勢」を張り出したと見るべきであるが、しかし、これも”笛吹けど踊らず”に成って来たのである。
むしろ、日本を肯定し政府を攻撃し始めているのである。
しかし、国民の間では、概ね、「醸成化」に向かっているだろうが、これでは「虚勢」は成立たない事だし、その効果は低いから、何か”小競り合い” になる事を持ち出してくる事は今後も必定である。
その意味で、「絶好のチャンス」で、今回の「米国の失望論」は願ってもいない「格好の事柄」であった筈である。
自ら手を汚さずに”米国と日本の間に楔を入れる事”が出来たと云う点では叶ったって得られるものではない事で、最も「虚勢」の張る事の障害と成っていた「同盟」に楔を打ち込んでくれた、と観ている筈である。
その意味で、今回の”米国の大使主導の失望論は低質である”と云えるのだ。
その考えは「性」を超える事が出来なかった事を示す。
そもそも、この「感情主観の性」は、”神が人間に与えた絶対的な「性」”であって、この「感情主観」の「性」は女性が持っている。「女性」である限りはこの「性」から脱する事は出来ない。如何なる「男性の論理主観」を持ち得たとしても”イザ”と云う時にはこの感情主観に左右される。
これは決して「良し悪しの問題」ではない。況して「差別の問題」ではない。「神が決めた事」である。
問題なのは、「政治の場」では、残念ながらこの「感情主観の論調」は通じ得ないからだ。
今回はこの「政治の駆け引きの場」にこの「失望」のコメントを出した事にある。
恐らくは、これからもこの失態は間違いなく続くだろう。況や、これを繰り返せば、「同盟」に不必要な傷をつける事に成り、最悪の場合、日本は「卑屈と萎縮」を排除して「積極的平和外交」を続けるのであるから、上記の経緯に不本意に乗ってしまう事に成るかも知れない。
そうかと云って昔の様に、”米国の言い分と圧力”を飲んで無理やりに”仲良く” して、「卑屈と萎縮」に戻る事も出来ないジレンマに陥ってしまった事に成る。
況や、「卑屈と萎縮」をそのままに「憲法改正」は有り得ない。
日本側から見ると、”実に馬鹿なコメントを出してくれた”と成ってしまった事に成る。
先ずはこのコメントを無視する事が得策であろう。
無視される事で「自分の発言」(大使)に何かの異質に気がつく事を狙う必要がある。悪戯に反応してはならない。反応し続けると、上記したこの「最悪の経緯」に乗ってしまう事になるだろう。
要するに、「低質な性」から来る「米国の国民性」の露出であろう。
しかし、当のヒートした米国のこの事に対する主導する意見は、矢張り、「移民族の国民性」と云うか、「ヨーロッパ系の民族優越論」が花を咲かしている。
「同盟」を前提とする「失策の言」の意見は極めて少ない。
意見が少ないと云う事は、「同盟」は日本では「防衛の要」と考えているが、強国の米国側では比較的「同盟の意識」が低い事が云える。恐らくは米国の ”中国より”もここから来ているのであろう。
米国としてはこれは当然の事であろう事は良く判るが、米国側にしては大なり小なり自国の「直接的な脅威」であると云う訳ではない。極東に於ける平和維持の同盟である事は否めないのであるから、一歩譲って、日本側への「失望」コメントの「同盟意識の欠如」は、この観点からはまぁ仕方の無い発言とも取れる。
但し、それは”米国の国民の範囲の意見”に限られるのである。
日本を良く知る者の意見でも「民族性の概念の違いの神社論」とする意見は無かった。
筆者の過去の経験とほぼ合致するものでヒートしている。「中国重視論」が意見上に出ているのもある。
そもそも、逆に、自画自賛には成るが、「日本人の国民性」の優れているところは、この「仏教的思想」から”未来を志向する点”にあり、現に過去に敵対して占領された米国に対して、この”しこり”を消し去ってしまう「国民性の思考原理」を持っている程である。東北震災時の”友達”を物語る。
まぁ ”過去に拘る性癖”より人生を鑑みると ”未来志向の性癖”の方が生き易く楽しいのではないだろうか。「反省力」がないと彼等から批判されるだろうが。
「色即是空 空即是色 空不異色 色不異空」と仏教の「般若心経」は教えているのだから、「良悪」の問題でない。
その「未来性の志向原理」を持つ国民に対して、それから2年後に”失望”と云う態度で米国は示したのだ。「失望論」は「人時場所」に依って使い分けるのが上質の人間がする思考である。
この事に依って、その人、或いは「民族や国家」を周囲は高く評価する。
現実に日本人は高く評価されている。
つまり、日本が持つ「人時場所」の判断要素が、考え方の異なる「移民族」で構成されている事自体がそれぞれバラバラなのに、更にはその「異なる移民族の米国」は自由奔放な「移民族の思考原理」を前提にして日本を評価したのだ。
自分の狭い思考原理で相手を評価してしまったのだ。
この傾向はヨーロッパ゜系の民族に極めて強い。
どう評価するは勝手であるが、「同盟」と云う前提にある事を忘れてしまった「感情主観論」である。
そもそも、米国は別にして、中国と取り分け韓国の「国民性の思考原理」は、その儒教の影響から、”過去を重視し、” 仏教の日本の国民性は、有史来、”未来を重視する性癖”を持っているのだ。
違うのだ。違うものを味噌糞を同じにして思考するは、その判断能力は感情主観にしてもあまりに低質すぎる。
故に、その日本はこの状況の米国に対して、中国や韓国の様に過去に拘らず、「未来の有り様」に思考原理を展開するのである。そして、現実にその敵であった米国の良いところを吸収して今や米国に勝るとも劣らずの近代国家を未来に築いたのである。この判断を忘れている。
これは日本人の「武道の精神」の”負けて勝つ”にあるのだ。
その”負けて勝つ”の精神を構成しているのが、他に類と比を観ない”「尊崇の念」の強さ”にあるのだ。
これが中国や韓国に観られない「日本人の国民性」なのだ。
恐らくは、つまり、この精神をなくしては、”日本と云う国家”は成立たない限界の一線なのである。
その事を今回の米国の国務省の判断はそもそも欠落している。
(情報では日本大使の意見が主導したらしいとあるが、今後、”失望”と評価する根底の知識力に注意しなくては成らない相手と見られる。弱体化する今後の米国に、この様な間違いの判断が示される可能性が強い。)
そもそも、この様に、「政治の場」は国家の「駆け引きの場」である。
普通の商業の交渉の場ではないのだ。
「国家の主体性」を如何に相手に強く示す事が出来るかの「戦略の場」なのであって、場当たり的な「戦術の場」ではない。この「戦略の場」で負ければ、それは「国家が負ける場」なのである。
まさに”失望”とする判断は、「国家の主体性」を意味しているのに、この「米国の失望論」は「戦術の場」のものである。
この事はまさに米国は今回の事で”政治の何たるか”を失念しているのではないかとも思える。
故に、米国の言う通りにこの2国に対して、「国民性」が色濃く出ている国家の為に命を投げ出してくれた「尊崇の念」で譲れば、「国家」がまた負けるのである。
「実戦」で負け「国民性」でも又負ける事になるのである。”これでは申し訳が無い”とする感覚が強く生まれる「国民性」である。他民族とこの一点が違うのである。
(戦後、敗戦と占領の結果、「自信」を喪失して「卑屈と萎縮」が蔓延りこの傾向が強く成った。)
まして”「個人」”では無く”「日本民族」”と云う「国家」に命を投げ出してもらったのである。
当然に「国家」がこれに対して深い「尊崇の念」を示し、「向後の責任」を負うは当然の事であって議論の余地は無い。その責任の”表現の仕方”が他民族とは異なっているし、その強さは「基本概念」とも成っているのである。
日本民族の者の ”最高の尊崇の念を表現する方法”は古来から引き継がれて来たもので、それは「自然神」から来る「神道」との結びつきの表現なのである。
「神道」との結びつきの無い方法もよくあるが、それは一段下がった念の行為である。
「日本人の国民性」はこの様にあらゆる様々な「念の表現方法」にも「差別化」を図り、その重要性を表現するのである。
その「神道」の神社も、日本人の中で、多くの神社のある中でも限定して、戦死した人も国民も「靖国神社」と決めているのであるから、「靖国神社」に参拝して「尊崇の念」を表現する事は「最高の念」の表現方法に成る。
日本人の中にコンセンサスとして決めていなければ再考の余地も有ろうが、”靖国で又逢おう”と誓って散っていった人の意志を尊重するは「最高の念」の要素でもある。
これを無視する事では「尊崇の念」は成立たない。
例え、その「神社」にどの様な人物が祭祀されていようと「尊崇の念」には無関係であり、止めさせようとする念の低い一派の”こじ付けの低質論”であり、「尊い命」を「国家」の為に捧げてくれた故人への為にも左右されるべき事では決してない。
他民族、取り分け米国の様な「移民族」は、十束一絡げに「戦没者慰霊碑」で事は済むのであって、他民族国家である所以から日本の様な差別化した「神道」などと結びつく「尊崇の念」の表現方法はとり難く、「集約的な概念」の祭祀と成る事は無理な事であろう。
故に、「ヨーロッパ゜系民族の優越論」以外にも、この”他民族”と云う事も誘引して「差別化の概念」は彼等には無いのである。
依って、彼等には「神道と尊崇の念」との結びつきに対して”理解する事”は「困難」と云うより「無理」と云った方が適切であろう。
先日、米国の2人の長官が、”これ見よがし”に日本の「戦没者慰霊碑」に参拝したが、何も”靖国に参拝してくれ”とは云わないが、その彼等の思考原理の表れであって、「靖国神社」と「戦没者慰霊碑」とは、日本人の中では「最高の尊崇の念」の表現方法が異なっているのである。
「靖国神社」は上記する様に「命の約束事」の場であるのだ。
「戦没者慰霊碑」は国が行なう「政治の場」での「祭祀の場」に過ぎないのだ。
「最高の尊崇の念」と云う行為の中には、この「命の約束事」が条件と成っているのだから、この「命の約束事」が欠落すれば、それは「最高の尊崇の念」には成らないのである。
故に、その彼等の思考原理の感覚からすれば、「神社」との結びつき、又は「靖国神社」への「差別化」の「最高の念」の「表現方法」に理解が成し得ないである。
「卑屈と萎縮」の所以の一つとして「最高の尊崇の念」をかなぐり捨てて ”「戦没者慰霊碑」で良いのではないか”とする意見とは、この”国家に対して投げ出してくれた命”への「尊崇の念」の行為の表現とは異なるのである。
つまり「最高」では無くなる事の行為となる。他の「尊崇の念」であれば下げてでもそれでも良いが、この一点は譲れない「尊崇の念」の行為なのである。
個人で親などが自分の為に命を投げ出してくれて、自分の命が助けられたとした場合、その人は一生その人たちに感謝し、その人に執って最高とする「尊崇の念」を表現するであろう。
それが「国家」であり、強いては「父母等」に対しての保護などの報いと成る。
「国家」と成るからその念の表現が希薄に成る傾向がある人がいるが、それを国を代表するものが代して表現したに過ぎない。その表現方法が最高の方法で表現した事に過ぎない。
奇異に感じる事はその人に「希薄の感」がある事を否めない。
何故、希薄に成ったかは云うまでも無く「卑屈と萎縮」の所以である。
現に、自分の足元を観て見れば判ることである。
それは個々の家庭で毎年行なう「尊崇の念」の行事として、正月から年末まで行なう数々の祭祀の行事には、その多くはこの「神道」との結びついたものが多いのは、この日本人の「尊崇の念の差別化」の結果である。
中には「伊勢神宮」や多くの悠久の歴史を持つ由緒ある大社に参詣して、わざわざ「尊崇の念の差別化」をして、その「尊崇の念」に対する経緯の表現を採っている。
筆者は他民族との間で議論した数々の経験を持っているが、この「尊崇の念の表現方法の差別化」には理解は得られなかった。
特にキリスト教徒との議論は殆どの機会で白熱したが、韓国人との議論は別の意味が介在して議論に成り難く、「儒教」と云う点でも合致点は得られなかった。
しかし、儒教の中国系の者との議論にはある程度の理解は得られたが、”其処までする必要性が余り無いのでは”との結論の様であった。
それは”其処まで、と余り”とする意味にはある程度の合意や賛同の意味が潜んでいた。
そもそも「中国の儒教」には、我々日本人と同じく「日本の神道」には ”「自然神」を基幹とする中国の祖神の「鬼道神の流れ」”がある事と、”仏教の通過国”でもあり、更には ”法の政治より人を重視する思考原理”が彼等に存在する事から ”何らかの共通性”を感じたのではないかと考えられる。
何せ「文化や概念」を輸入した「過去の模範国」であった所以であろうし、日本人には2割程度の漢民族の融合族が存在する所以でもあろう。
何せ、その元を正せば、そもそもの「安倍氏」は6世紀の帰化人の後漢民族の首魁の「阿多倍王」の支流末裔の氏である。皮肉なものであろう。
「政治の場」が働いた事以外はもう少しの「醸成期間」が得られれば、民間の中国人には決して理解が得られないとは考えられない。
故に、筆者は中国は、この”靖国”には「政治の場の駆け引きの道具」にされてはいるが、一般国民には同意は得られていると考える。
今回の中国の国民の”笛吹けど踊らず”の結果は、この表れであって「靖国の問題」は、”心底からのものでは無い”と観ている。
そもそも、江戸時代に儒教は幕府に依って日本人社会に不適合として、関係者全てが一生投獄されて根絶させた歴史的経緯があるし、日本の生活のなかにもその名残が未だ色濃く残っている。
例えば、判り易い例として、「正座」である。儒教では礼を正すときには「正座」をする。しかし、仏教では「胡坐」であり、女性は「立膝」が正式な礼法である。
共通の慣習は遺されているのだから、「以心伝心」で何かを通ずるものがあるのだ。
チャツト意見にあった”「虚勢の表現」の「政治の場」の道具にされている”Tと考えられる。
中国の「改革開放」から閉ざされた窓が開き、「真の日本」を知り、更には上記する「共通点」を知り、「親近感」とまでは未だ行かずとも、ある程度の「理解」が醸成して来ている状況の中にあると観ている。
韓国は本来は共通点は多いし、中国とは異なり窓は自由に開かれている。
醸成する範疇でも無いし、文化や概念も古来より「倭人」が南韓域に韓民の1割にも成る程度に融合していて、日本では3割にも成る韓国人が融合している関係にある。
しかし、中国の様に、”醸成するキッカケさえ掴めば理解は得られる”と考える事も出来るが、韓国は元よりこの「醸成のキッカケ」は既に出来ている。
問題は、儒教から来る”韓国民の過去への拘りの性癖”にあり、且つ、女性大統領と成っている以上は感情主観論に左右されたその「性」から脱皮は難しい事と、「日本への借財」の「政治の場の駆け引き」から今はその時期ではないだろう。
この場合、無理をして”仲良く”を実行すれば、その結末には「無理の末路」が待っている。
その時期を待つ以外にはないと考えられる。
ただ一つあるは、韓国にやむなく「妥協の場」を発生した時にある。
つまり、再び韓国の日本への借財の原因と成っている「円安-ウオン高」で、「外貨準備高の不足」が起こる事以外には窓を開かないで有ろう。
その時がチャンスと成ろう。それ以外は「感情主観の歴史認識論」を持ち出して、何時までも日本に対して暗に「借財の放棄」を狙うだろう。
問題は、上記する様に、この様に「米国の失望論」にある。
これまた「女性大使の交代」に依って暫くはこの主観的で歴史の知識の欠落の論が起こり、難しい場面が出てくる事が考えられる。この今の米国のコメントの主観論は人が代われば、また元の知識と認識のある人物がなれば消えるだろうから、ここでも時期を待つにあると観られる。
では、何故、この「失望論」を出したのかを考えた時には、”米国のある焦り”が読み取れる。
それは、米国との同盟国の韓国に「外貨準備高の不足」が起こりかけているのではないだろうか。
「安倍氏の円安誘導」に依って、20円の差が発生した。
この差は「韓国経済」には大打撃である事に間違いは無い。過去に2度が韓国は「外貨準備高の欠損」を起こし、日本がこれを救ったがこれが大きな借財となっている。
むしろ、「韓国経済」が成長を遂げたのは、「円高」によって極度の「ウオン安」が起こり、三菱の電気と自動車のプラント輸出に依って、企業が起こり、これに円安と日本からの借財を全て注ぎ込んでその出資額の殆どを占める国家企業を仕上げ、その後、”恣意的な労働争議”を起こして三菱はその利益を無くして放棄した企業である。
しかし、ここに来て日本は円高誘導から円安誘導へと変換して経済を立て直しつつあるが、この影響を受けて、韓国は再び「外貨準備高不足の欠損」が起ころうとしていて、先日の日本の自衛隊による「アフリカでの銃弾提供」はこの現象を具に表している。
軍が遠征するのに銃を持って行くが銃弾を持って行かないのは笑い話である。
先ず有り得ない事態で間違いなく資金力が不足していた筈である。
米国は、この韓国の経済欠損の事を承知していて、アジア同盟国にスペインのような事が発生し、その中で中国や北朝鮮に戦略上の事が起こってはまずいと考えて、慌てて””仲良く”の言葉を発してしまったと観られる。
韓国のこの「経済欠損」を救うのは過去の2度と同じく日本だけである事を米国は承知している。
果たして、この償還は有り得るのかは疑問である。
この米国の失望論の背景の”仲良く”にはこの意味合いが強く含まれているのではと考えられる。
韓国は密かに米国に泣きついて行っているのではないだろうか。
「20円の円安」は”韓国にとって非常事態”で、この傾向はアベノミクスで未だ続くと考えられる。
間違いなくこの「欠損状態」が起こっている筈である。
そもそも韓国の国家企業には起こらない方がおかしく、この2大国家企業は日本の技術者のヘッドハントとに依って円安を利用して類似品を作った事による成長であって、その成長もその製品より優れた開発品が再び日本から再び出て後退している現状で、そのヘッド゛ハンティングの人材も高齢期に入り、その持った技術も古くなって「価格安い-品質は低い」に依って市場から後退している。
尚、この類似品の韓国の市場の実態は、「ウオン高」でドイツ製品等の攻勢が激しく、円安の原因以外にも「経済欠損の危機」が迫っている。
其処に「北朝鮮の動向」が働いている事と、TPPの事から米国は躍起と成って「政治の場」で日本に圧力を掛けたと観ている。
ただ、一つ、韓国経済界が上記の事を判断して韓国大統領に対して、”日本との関係を良くする様に抗議した”が聞き入れず、依然として「感情主観論」を展開して一方的な「歴史認識論」に拘り、韓国政府との間に「乖離現象」が起こっている事に注目すべき点であろう。
更に、最近、「河野談話」は韓国政府との調整により発せられた談話である事が日本政府と企業からつきあげを食った韓国政府の一部からも暴露された。
つまり、これによれば「歴史認識論」はすでに国家間で済んでいる事になる。
”済んでいること”に成っているものをわざわざ何度も繰り返すのかはそれは「政治の場」の事として判る。
恐らくは、これを座台にして借財の帳消しを狙っているのであろう。
そもそも、「歴史認識」では、その仮に日本に「歴史認識の悪さ」が有ったとしてその咎は日本が負うものであって韓国ではない。
況して、”歴史認識を無視するものに未来はない”と主意の発言をしているが、戦後、混乱の中からいち早く立ち上がり世界第2位まで伸し上がって生活力を挙げたのは日本であり韓国ではない。
日本に未来があった事に成る。日本の未来は日本人が追うものであって韓国ではないし、韓国が日本を救える力はまったく無い。
逆であり、上記する様に、最近に於いて「外貨準備高欠損」で2度も助けているし、今度も日本からの救助となろうが、ここで韓国に「外貨準備高の欠損」で日本が支援することは恐らくは不可能であり、アベノミクスは失敗に終る。
何故ならば、支援に依って「ウオン安-円高」が起こる事になり、その支援で再び国家企業にその資金の流入が起こるので、日本経済の足元をすくわれる結果になり、「国家的な失敗」をする事になるからだ。
「河野談話」でも、韓国大統領は国家間の言い分を無くしている筈であるが、また無くしていながらも平然とその後でも、同じ歴史認識論を展開した。これでは、大統領個人の範囲の事と成り、個人の主観感情に捉われた一国の指導者もどきの人物の言い分には日本政府は対処に難しい事に成った。
これでは日本政府としては 今は”仲良く”は無理であろう。様子を見るが得策である。
そもそも、米国の日本大使館前にその女性像を建立するは、最早、理性ある一国の行為とは思えない。
この様な場合は、米国政府も撤去を促す事が国際儀礼上、求められるが撤去させない。
この様な事に目を瞑って”仲良く”は無理である。
少なくとも”仲良く”の前にその時期では無い事が明らかである。
米国もこの韓国の態度を放置して、”仲良く”に理解に苦しむ。
昔の日本であれば、「卑屈と萎縮」から米国の言い分に従った筈で、「政治の場での力」は皆無であった。命を投げ出してくれた尊い日本人の若者に申し分けなかった事に成る。
戦後70余年の現在、この意味でもここで「卑屈と萎縮」から脱却すべき時期に来ている筈で、国家としての「成長の活力」を生み出すのにも、この”「卑屈と萎縮」から脱却”しなければ、それこそ「日本の未来」は無いだろう。
その為にも「失望論」には毅然として対処しなければならない。
「過去の歴史」を観て「卑屈と萎縮」に苛まれるより、゜未来」を観て「卑屈と萎縮」から脱却するべきが日本人の「良い国民性」であり、その事に依って現在の日本は築かれたが、「卑屈と萎縮」からの脱却で活力を生みだすのである。
これからは、決して、”失望のコメント”の裏で示す「米国の圧力」に「卑屈と萎縮」で屈しては成らない。
その米国の”失望論の仲良く”には、それこそ「中国の書」の「六稲三略」から、今は国家間のその時期ではないことに成り、2国からその意志が明確に成らない限りは ”待つ”が得策で、「政治の場」の「米国の発言」は当を得ていない。
本古書を「思考の基幹」としている発行元の中国も知っている筈であろう。
況して、国民は知っている筈で、「尖閣問題」も「航空識別圏」も「政治の場の虚勢」としてどこまで問題を大きくしてくるかを観る必要があるが、恐らくは、「国民との乖離」が起こる事は共産党政権としては「一国2制度の矛盾」が噴出し危険であるから、その「足元」を狙うべきであろう。
「中国国民との醸成化」に総力を注ぐ今は時期であろう事が判る。中国政府の弱点ではある。
「政治の場」が「戦略の駆け引きの場」であるとすると、この「日本理解の醸成化」を官民挙げて取り組む課題であり、その時期に来ているし、「醸成化による相互理解」は両国にとって「悪」では無い。
中国政府にとっては弱点であるが、相互理解には「大儀明文」が存在し、「尖閣問題」も防衛航空識別圏」もこれ以上にはエスカレートさせ難くなる事になろう。
これ以上に「卑屈と萎縮」が続けば、レベルを上げて「尖閣上陸」と「識別圏の実質取締り強化」に出てくる筈である。
「卑屈と萎縮の脱却・脱皮」からは、その先には、「憲法改正」や「集団的自衛権」の解釈問題等が存在し、オバマ政権の様な政治が続けば、「同盟」と云う姿も検討の余地が有り得るし、その先には国家として本来あるべき「自衛力の範囲」も検討せざるを得ない事に成る。
何にしても、この「卑屈と萎縮」から脱却しなければ「憲法改正」など「絵空事の内容」と成り意味が無いだろう。
沖縄の様に米軍基地が日本の領土を大きく占めている現状も自衛力に特化させる問題も出てくる事に成る。
「同盟」と云うキーで基地提供しているが、米国は基地以上に日本を「卑屈と萎縮」の先に置いておく必要性があり、「政治の場」では「同盟」で護られているかの様に見えて、実は「卑屈と萎縮」の先にあるのだ。
果たして、「戦い」が起こったとして中国になるが、上記する様に中国にも弱点があり、米国の戦力を借りて戦わなくては成らない状況になるかは甚だ疑問であり、その前に「法より人」の国民から乖離現象が起こり、ロシア帝国の様にその経緯を経て共産党は解体する事に成るので、国内の基地の削減化は可能である。
現に、大国ロシア帝国との戦いはこの「足元の戦略」(レーニンに資金提供)を日本政府が採った事は記録から明らかで、故に「日露戦争」は「国民との乖離」が原因して勝利したのである。
問題は現在の米国政権では、この様な場合に日本に味方するかは疑問であり、中国を敵国と看做すより同盟国の「米国の出方の方」が懸念材料となろう。
「卑屈と萎縮から脱皮・脱却」にはこの問題が付きまとっているのである。中国ではない米国なのだ。
この「失望論の背後」にはこの問題が潜んでいるのだ。突き詰めて「同盟」そのものを否定するかの意も含むセンセーショナルな発言であるのだ。
今の「オバマ政権」には”失望”のコメントの「深意」が示す様に、この危険性が伴っているが、その後にどの様な政権が就くかが今後の「卑屈と萎縮」の先は見える筈である。
今までとは「異質な発言」で急に変化したオバマ政権の日本へのコメントである。
この失言は「日本大使の交代」での時期に符合するし、その意味で「コメントの主体」は当初は大使館とされているので、米国政府なのか大使館なのかの先ずは見極めが必要であろう。
それにしても大変なコメントである。
政府とするならば「卑屈と萎縮の脱皮・脱却」は是非により加速して進めなければならない事である。
そもそも、ここで合わせて云いたい事は、「伝統」とは一体何なのかと云う事で、「伝統」はこの「卑屈と萎縮」からは生まれず、「卑屈と萎縮」に依って「消滅する性質」のものであると云う事なのである。
要するに、「酸とアルカリの様な関係」にあると考えられ、どちらかと云えば酸化反応と云うよりは「還元反応」に近い関係にあると考えられる。
その「卑屈と萎縮」はどちらかと云えば「伝統」にとって「酸」に相当する働きをする。
日本人の「国民性」と成っている「尊崇の念」はこの「伝統」に値するもので、「卑屈と萎縮」はこれを阻害する。
「日本人の国民性」を示す「良い伝統」とは、「卑屈」に成り「萎縮」するとその「良い伝統」のものを分離させ分解させ、何時かは焼却させてしまう最大の原因であろう。
還元である以上その基と成るものは遺されている筈で、それを再びもとの元素の形に戻すには、「反応力」のエネルギーが必要で、その力を阻害している「卑屈と萎縮」を取り除けば「蘇る活力」を生み出す事に成る。
ただ、放置すれば酸化反応により破壊されて原型を取り戻す事が出来なくなる事に成る。
「卑屈と萎縮」に左右され得ない「正しい心根」を持つ事に依って「良い伝統」は維持されて行くものであると認識する。この「尊崇の念」はまさに「伝統」なのである。
戦前までに維持されて来た「良い伝統」は、この「卑屈と萎縮」に左右されずにしたから遺されて来ているものであり、日本人が始めて経験した「戦後の敗戦の衝撃」に依って「卑屈と萎縮」がこの「伝統」を消し去ってしまったのであり、むしろ、その「卑屈と萎縮」から”消し去る事が正しい行為”であるかの様に成ってしまうと云う現象が起こったのである。
明治期の廃仏毀釈の様なムードの現象が国民の中に起こったのである。
最も古く維持されて来た多く遺されていた筈の青木氏に「良い伝統」もこの事に抗することが出来ずに消え去ってしまったのである。
今、サイトはそれを「卑屈と萎縮」から脱皮して、何とか掘り起こそうとしているのである。
「伝統シリーズ」に取り組む為にも、その前に「伝統を維持する力」はこの「卑屈と萎縮」とを排除する事から起こると考えられる。
その為にも、丁度良いテーマが発生したので、サイトにご意見を投稿してくれた人々と相談し、この投稿の原文の流れの構築を試みた。
以上
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> 最近の青木氏氏のチャツトを観て思う事があります。
> チャツトのご意見を見て、投稿を寄せて頂いている”あおきさん”とチャット外でよくお話する事があります。
> 今回の新春のお話の中で、昨年のチャツトに議論が及びその事に付いて一つご意見がまとまった事がありました。取りまとめの役目を負いましたのでそれをご披露したいと思います。
> 今、政治問題化している「日本の現状の問題」に成っている事柄です。
> つい最近次ぎの様なことが起こりました。
> それは「靖国問題」に対する、或いは日本に対する「米国の失望論」です。
> 実はここには大きな意味が潜んでいます。
> その事に付いて少し議論したいと思います。
>
> 「米国の失望論」
> 先日、安倍氏が「靖国神社」を訪問したが、これに対して米国は”失望した”とコメントを出した。
> 今までの「米国の反応」と違った「異質の流れ」のコメントであって、その「言葉の持つ意味」には大変な「米国の態度」を示した事に成る。
> この事は、今後の日本が採るべき、或いは考えておかなければならない事柄が潜んでいる。
>
> 先ず、この事に付いて、中国と韓国の反応は、過去に重要な「歴史的経緯」がある為に当然の結果としても、 問題は米国の”失望論”であり、これにはそもそも「移民族の米国の概念」と「融合民族の日本の民族の概念」が異なる事が存在している。云い換えれば、「伝統」なるものの違いが存在している。
> 特に、米国人は他民族に比べて、この「伝統」なるものの理解が低い。「移民族の他民族国家」であるが所以で一面ではやむ終えない事ではあるが。しかし、駆け引きの場の「政治の場」の面ではそうは行かない。
> 米国内ではいざ知らず、国家間では考え方の異なる他民族との折衝と成るからだ。
> その異なる事を租借して国家間のコメントを出すのが常識でありながら、そうではなかった事が先ず第一に挙げられる。(もともとこの傾向はヨーロッパ系の民族には強い傾向がある)
> 日本には米国と比べて、戦死者に対する「日本人の尊崇の念」の有り様と、 それを具現的に表す神社と云う概念の結びついた国民的概念の有り様は日本には厳然として必然的にあり、それは他国に比べて異質で強いものである。この異質の概念の一つが外国から”サムライ”と表現される所以であろう。
> しかし、この概念のない米国はこの概念の違いを無視した。 ここに大きな潜在的な問題がある。
>
> では、果たして、問題とする ”失望”と云う概念の奥にはどの様な意味合いがあるのか考えてみる。
> 今回の場合は、この”失望”とする言葉の先には、先ずは ”仲良く”とする「主観的感情」が存在する。
> 更に、失望するには、”以前に”信用していて”それが裏切られた”と云う事にも合わせて成る。
> この2つの事が問題と成る。
>
> そこで、先ず、この”「主観的感情」”を専攻して民族や国家が持つ民族的な「尊崇の概念」を無視して、この ”仲良く”を専攻させるべき事であるかは明らかに違う。
> それは”仲良く”は”主観的”に関わる。”主観的”は人、民族、国家によって明らかに異なる。
> 日本と云う国家では「尊崇の概念」は、最早、”サムライ”と日本人自らも自認し呼称される様に「主観的な事柄」ではない。
> 日本国民が持つ「共通の基本概念」である。
> 確かに「主観的感情」で個人的要素のものではあるが、日本人全てが共通して持つ欠かす事の出来ない感情で、生活の慣習の中に深く浸透していて共通している事で、この念を欠落すると日本人として社会の中でなかなかスムーズに生きて行けないし、兎角、信用されず低く見られる事に成る重要な欠かす事の出来ない概念である。
> つまり、「感情の域」を超え、「主観の域」を超えているのである。
> 所謂、「国民性」なのである。
> この概念を”共通に持つ事に依って強く結ばれている”と云っても過言ではない。
> 判りやすく数式論に置き換えれば次の様に成る。
> 「主観的感情」<「共通基本概念」=「国民性」の数式が成立ち「国家」を構成する。
> ここが米国の「移民族の国家」の「思考原理」と異なるのである。恐らくは100万遍労を駆使しても、彼らには充分な理解は得られないだろう。
> つまりは、「移民族の思考原理」で、「融合民族」を評価した事に成る。
> それは彼等(ヨーロッパ系の民族)が示す”自己の民族の思考の優越論”からくる論調の結果であろう。(筆者は特にこの論調で議論になった多くのこの経験を持っている。)
> つまり、「融合民族の思考原理」≠「移民族の思考原理」であり得る。
> 彼等の”思考の矛盾点とも云える。
> そもそも、この「世の自然原理」として万物に適合する摂理として ”考え方が違うから「同じ考え方」の者が集合し、だから「国家」として「屯」を民族は構成する。
> 人間のみならず鉱物も同じである。万物の核の構成もこの自然摂理で成立っている。
> 従って、この関係が無ければ「屯」はしない。「屯」の前提である。価値観は良く似ているが考え方が違うと云う事である。価値観=考え方では必ずしも無い。
> 故に、”「優越」を前提として他民族の考え方を否定し低く見る思考原理”の「民族性」は矛盾である。
> 「民族性」、或いは「国民性」が低かろうが高かろうが存在するのである。
> ”優越するから相手には考え方が無い”と云う事でもないし、”無視しても良い”と云う事ではない。
> 最近は世界の平均的な考え方として「グローバル思想」と云うものが漠然とあるが、「屯」を構成する国内の行為ではこの「グローバル思想」は別問題である。
> 取り分け、「尊崇の念」の様な「国民性」は国内では「是」である。「屯」を構成する以上は国内では”グローバル”ではない。「国民性の坩堝」の中にある。
> それでなくては、”日本国では無い事”に成る。周りが「国民性」が無くなって、”グローバル”に成ってしまったら「屯」では無く、果てには国家では無くなる。
> 国内までもこの”グローバル”を持ち込むべきではない。
> ”グローバル、グローバル”と鬼の首を取った様に云うが、確かに、世界の民族の考え方や商習慣や社会習慣等を知る事は、上記している様に”「国民性」を知った上での判断の事”を指摘しているが、何も”グローバル”そのものが目的では無い。
> 「語学の習得」はそれを成し得るに必要とする一つのツールであって全ての目的でもない。
> 要は相手の国の「国民性」を知る事に成るのだ。
> 「日本のグローバル化」はそれを前提としなければ成らないのだ。何も「国民性」を否定した”グローバル”ではない。この「失望」のコメントをだした人物や機関は、この考え方を失落して優越論の末に感情主観に走ってしまったのである。
> (因みに、中国は「偽物」を平気で作るが、彼らの言い分は、人間には、”物を真似るという本質”を持っている。故に、”その「本質」を働かせるのは何故悪い”と云う言い分を決まって述べる。一理はある。
> しかし、”グローバル”では、これは許さない。しかし、彼らは「意匠権・商用権などの特許権」を認めようとしない。しかし、これは「国民性」を代表する「概念」ではない。何でもかんでもではない。「国民性」を物語る「良い伝統」を伝える概念は”グローバル”ではないのが定義だ。)
>
> 国内は「国民性」で有るべきである。国内にも地方色がある様に「情緒豊かな環境」であるべきである。
> ”グローバル”は ”他民族との折衝の場の共通する手段”として別に認識として持って置かなければ成らないことであるべきだ。
> 依って、”グローバル”に拘って、「国民性」、即ち「尊崇の念」の為にも、国内では「卑屈と萎縮」を取り除くべきである。敗戦に依った「卑屈と萎縮」がそれを(必要なグローバルの遅れ)起こしているからだ。
> 彼らの「優越論」は、この”グローバル”の過剰思想の所以である。”グローバル”に陥り過ぎても優越論の様な事に成り好ましくない。
> 彼らには、「自分の国の考え方」が何処でも”グローバルだ” と必要以上に考え過ぎているのである。
> 確かに、グローバル”の多くは”自由”を前提としている「移民族の思考原理」に多いのは否定できない。
> そうでなければ、彼らの社会は構成出来ないであろうことは否めない。
> 米国は、国内でも「自由」を前提とした思考原理の”グローバル”の概念だから、国外も殆ど”グローバル”の概念に成っているから、国内でも”グローバル”の概念で有るべきだ” と思い込むのも無理の無い事だがここに彼らの矛盾点がある。
> 然し、国内は「屯」を構成している以上は「国民性」を保持するべきである。
> ”グローバル”は「国民性」(伝統)を否定するものでは決してない。
> 故に、良いとされる「国民性」が存在する限り、他民族、この場合は、「日本民族の思考原理」が同であるかを思考をめぐらして答えの発言をしなければ成らない訳であった。
>
> しかし、米国の「失望論」はしなかった。自らの「民族性の欠陥」から、これを欠落したのであり、当然にその思考は「政治の場」の判断としては低質すぎるし、「感情主観」である事になる。
> まあ、百歩譲って「感情主観論」のものであるとして、妥協して考察すれば、次に、この「主観的感情論」にその国民がどの程度のウエイトを置く思考原理を持っているかに問題は移る事に成る。
> ところが、移民族の他民族の国家であるから、論理的に考えれば、相反する徹底した「合理主観論」が「共通する概念」となろう。
> しかし、この「失望論」は、そんな環境の中でも、「感情主観論」を展開した事に成る。
> つまり、今までとは異質のコメントに成る。大使館を管轄する国務省コメントであるが、大統領府のコメントではないところにまだ救いは有る。国務省だとしても問題は問題である。
>
> これには”米国の失望”の根拠とする中には”仲良く”と云う思考と、もう一つ ”相手を信用しなかった”と云う意味合いが大きく潜んでいる事になる。
> 過去に「信用」していたが、「靖国」で「信用」できなくなった。だから、「失望」した事に成る。
> 「信用」していなければ「失望」には成らない。現在にも”信用しない”と発言した事に成る。
> この「失望」には、この”仲良く”と、”信用”と云う問題にすべき要素が含まれている。
> だから、この2つの事の「米国の失望論」に対して日本の人々は「違和感」を強く感じて ”センセーションの渦”と成ったのである。(日本の反応に対して彼らは当然の如く驚きヒートした。)
> その”仲良く”に対しては、今、”仲良く”とする行動を採るべきか、その”時期”にあるのか、どの様な”仲良く”が存在するのか、はたまた”仲良く”した先には”何”が待ち受けているのか、普通は考える。
> 少なくとも日本人の「国民性」からすれば、常識となっている「人時場所の思考原理」を働かせる。
> そうしなければ「7つの民族」が融合して「屯」を形成させる事は不可能であったし、現在も同じである。
> だから、”うん、変化だ、おかしい、異質だ、その先には、果たして「同盟」に与える影響はどの様になるのか、今後、どうすればよいのか、” を瞬時に考えた。と云う事に成ったのである。
> それが「噂」では無く、日本大使主導の「正式な国務省発言」であったからだ。
>
> そして、「信用」には急に出て来た「米国の態度表明」でもあった。
> そもそも、この”「信用」”には、仲良くするには色々な「政治の場」での「条件や立場」がある。
> それなのに「自分の国の思考原理」だけで低質で短慮に単純に考えて、日本が ”米国の言う通りに行動しないと、今後、信用しないよ”と成る。
> 「信用」しなくても良い、「同盟」と云う事を結んでいなければそれでも良い。
> 「同盟」は”信用を前提”として成立っているからだ。「信用」できない相手と「同盟」を結ぶ事は無い。「信用」=「同盟」の関係にある。
> つまり、この”失望した=信用しない”と発言した米国は、暗にこの「同盟の破棄」を結果として臭わしてしまった事に成るだろう。
> 更に突き詰めれば、次の米国との「政治交渉の場」に、この「失望」、”信用しないの発言”を取り除かないと、”何時まで信用されていない外交交渉”をする事に成る。
> 「同盟」の中では有り得ない事に成る。
> 例え、「失望感」があっても思っていても発しては成らない禁句である筈で、それを発してしまったのだから、日本側は、今後は注意をして置かなければ成らない事に「政治の場」では戦略上は成る。
> ある政府の高官が発した言葉では無く、大使や更には国務省の正式コメントであるのだから、十分にこの禁句のチェックは効いていた事に成る。失言ではないのだ。
> オバマ氏と習氏との会談以降、米国は”中国より”に発言するように成っている事には失念しては成らない。大なり小なり ”同盟の如何”に変化を来たしている事に成る。
> 自衛隊との合同演習にもこの態度は露骨に出始めている。
>
> 「米国が観る中国」と、「日本が観る中国」とはその「国民性」が異なる為にその重要性は異なる。
> 「日本が観る中国」は、事を起こせば軍事と経済に於いて、中国がそのファンダメンタルが外資に頼っている比率が大きいし、取り分け、日本に頼る事が強い筈で、「一国二制度の矛盾」を持っている事から「共産党の崩壊」に繋がるは必定で、「尖閣問題」の様なある程度の小競り合いはあるにしても「実戦」は起こせない筈で、故に「政治の場」の駆け引きの範囲の「虚勢」は張る事には成るだろうし、これからも続く。
> そもそも、「一国二制度の矛盾」は市場経済の制度は「自由」を前提として売買は進む。
> 「市場経済」を無制限に進めれば人は「自由の良さ」を知り、政府に対して「自由」を求める。
> しかし、「共産主義」はある程度の「自由」を制限する主義である。依って、何時かこの「自由の要求」が強く成った時点で論理的に「乖離」が起こる。
> その「乖離」は、何かキッカケで起こる筈で、”日本とのある程度の争い”でその矛先は共産党の政府に向けられるは必定である。従って、中国国民向けにも「虚勢」を張り通す事になるのである。
> 要は、日本が「弱み」を見せない姿勢を日本側が採る限りは現状維持を図る事は出来るだろう。
> それには、別つの意味で ”「卑屈と萎縮」は禁物である”と観る。
> むしろ、「中国」と云うより先には「失望」と云う言葉を発する「米国」との関係の悪化が懸念される。
> それは、日本が[ファンダメンタルの影響]の”歯止め”と成る垣根が無い米国ならではの事であるからだ。
> 筆者は、米国が「中国よりの政治路線」をこれからも採る限りは、この事が「第2次大戦の経緯」を辿る事に心配をする。
> その意味で ”失望した=信用しない”には、この「失望」と云う発言に危機感を感じる。
> 日本側が絶対に避けねばならない「経緯」である。
> そもそも「戦争」とは国家の明確な「意思」では無くその前の「経緯」から勃発するものであるからだ。
> 上記した様に、「中国より米国」と「失望発言」と「習会談」や「合同演習」などあらゆる関係を考察するとその危険性が懸念される。
> 況して、「自主防衛」「憲法改正」「基地返還」「米国を凌ぐ経済発展」等を進めれば、「日本の発言力」は増す事は間違いはなく、”米国側に採ってこれをどう観るか”と成る。
> まさに、「第2次大戦の経緯」である。又、「石油の制限等の経済封鎖戦略」で来る事は最早無いであろう。
> しかし、一つその懸念事項があるのだ。それは「日本産のエネルギー資源」が発見されて充分な資源国に成った時点では、事態は異なるだろう。
> メタンハイトレートや自然エネルギーが発見されて来ている現状では「資源国」に成る可能性は高いし、その対策は進んでいる。10年程度の先には、資源国に成った事に依る危険な問題が露出して来るだろう。
> 何故ならば、資源に掛かる経費は日本全体の経済の国家予算の最大5割程度を占めている現在、これが資源国に成った事に依ってこの経費の多くは浮いてくる。
> 問題は ”この経費が何処に回されるか”は明らかである。「資源国」を護る為の「国防費」となるは必定である。そうすれば、「卑屈と萎縮」を持つ日本に関わらず、エネルギーで「世界の勢力図」は変わる事に成る。石油枯渇の問題もあり、当然に、隣国と先進国は今以上にこれを警戒する。
> これが戦争への逃れ得ない「経緯」の流れの一つに成るのだ。
> むしろ、現在の中国と韓国と米国のイライラは内心はここにもあるのだろう。
> 「憲法改正」や「自衛権拡大」などの保守化が進む日本がこの立場に立てば、その実行するファンダメンタルは充分にある事から、「現実の問題」と成って来るのは間違いない。
> だからと云って、「卑屈と萎縮」をそのままにしてはこれからの国が発展するチャンスを失う。
> 元々、他国と異なり、”「国民性」として優秀な「発展する能力」とその「チャンス」”に恵まれているのだから、「卑屈と萎縮」をそのままにして圧力に屈し現状で甘んじる手は無い。
> 日本が資源国に成る事は”鬼に金棒”である。この為の要素が日本の周囲には整いつつある中で唯一つそれを成しえる為の「心の気概」に不足している。それが「敗戦の後遺症」の「卑屈と萎縮」であると談じている。
> その為にも、今以上に成長させるには「卑屈と萎縮」から脱皮する事が必要で、今の様な態度の維持はこれを成し得ない。それには”米国の失望から来る圧力”に屈しては成らないのである。
> しかし、屈しないと、上記の経緯を辿る羽目に陥る事は必定であろう。
> そもそも、日本での日常の会話の中では、「失望発言」は上から目線である。圧力を臭わしている言葉になる。日常会話の中ではないとすると、少なくとも日本人はその様に採るだろう。
> 言葉のニュアンスは「国民性」であるので、”上から目線を彼等に租借せよ”とまでは云わないが、圧力的な意味合いは少なくとも「失望と信用とする言葉」からはある。
> そもそも「2者択一」である。この事を韓国は別として中国は必ず観ている筈である。
> 何故ならば、中国の「国民性」や「政治事情」はあるにしても、両国は古代からの「歴史の関係」から良く似た思考原理をそもそも採るからだ。
> 因みに、「駆け引きの古書」の様に、上記した様に「六稲三略」はそれを具に物語っている。
> この「六稲三略」は政治や軍事や経済の駆け引きの場で使うが、日本と中国は古来にこの中国から持ち込まれた考え方を「駆け引きの思考の原点」としている。
> 従って、この「思考の原点」から、むしろ、中国は「米国の失望論」で「虚勢」の足しに成る事からほくそ笑んでいるだろう。
> 「一国2制度の矛盾」をクリヤー出来るからだ。自ら手を下さずに「米国-日本の関係」が崩れてくれればこの矛盾の危険性は排除出来るからで、「虚勢」の代わりに成る。
>
> 先ず、次に、この”仲良く”には、「国家」や「民族」と云う前に「人の性」の思考原理にも関わる。
> そもそも”仲良く”は「女性的な思考原理」に左右されている判断で、特に”政治の場”ではあまり採用され得ない思考である。
> 何故ならば、”主観”である事によりその人によりその”主観”が異なるからで、千差万別の結果が招かれるから賛同が得られにくい思考であるからだ。
> 当然に、主観であるから”仲良く”の程度も千差万別と成る。
> 喧嘩状態でも”仲良く”とする論調も生まれる。
> しかし、”仲良く”は否定はしない。”仲良く”が採用し維持できる環境である事に越した事はない。
> では、百歩譲って、この相手の国の中国と韓国に、ここで ”その”仲良く”を採用したとして、果たして、その ”仲良く”の「良い結果」を招き入れる事が可能であるのか大いに疑問である。
> 恐らくは、過去の事例から ”歴史認識”と云う理由を背景に量にかかって更に上から言い続ける事になる。恐らくは、その過去の遺恨から土下座してでもいい続ける筈だ
>
> 何故ならば、事実、日本はこの2国を過去にその理由如何によらず「侵略した行為の非」を持っているからだ。された方にすれば、”「侵略の恥部」は何年経っても消し去る事の出来ない憤懣のしこり”であるからだ。
> 中国の様に”面子を重んじる国民性”では、「政治の場」や「教育の場」に「喧伝の道具」としてこの「憤懣の誇張」を持ち込んでいる。
> 況して、この2国には不幸にしてか合わせて「儒教思想」から ”過去に拘ること”を推奨する思考原理”をも「国民性」として強く持っている。それ故に効果は大きい。
> それだけに「過去の事」に拘れば、中国にして観れば、各国から侵略された為に、”今はそうじゃないんだ”と「虚勢」を示し続け無ければならない事になり、それには「国民の目」を外に向ける必要が「政治の場」の事として戦略上ある。放置しておけばこの「憤懣」は政府に向けられる事に成る難儀な事がある。
> それには、日中には格好の事がある。
>
> その前に参考として、因みに、最近の”中国の中古空母の購入と改造”は「虚勢」の最たるものである。
> 現在では空母は近代戦の戦略上は無用の長物と成りつつある中では「中国の虚勢」を示したものに成る。何故ならば、この空母とは「最大の軍事費」の掛かるもので、経済成長の低下の中では将来は無理であろう。兎に角、空母は「周囲の戦機」が整わないと使えない代物であるのだ。
> これからは「イージス艦の保有」であろう事は明々白々で、空母にしても「ヘリ空母」が機能的に戦略上良く働くと見られている。
> (この「ヘリ空母」とイージス艦とは日本は主体的に保有し、その製造は日本の独断場である)
> この様に、中国には政治戦略上、アンバランスが多く良く考察すると「虚勢」と見られるものが多いのだ。
>
> それは「過去の日本の侵略」であり、これを誇張する事で国民に「憤懣」を助長させる事が出来る。
> 既に、戦後70年も経っているにも関わらず、この動きは衰える事が無く、常に格好の”日本非難の材料”として使われている。
> こんな「格好の事」は先ず無い。”過去に拘る儒教の国民性”もある事からその効果は実に大きい。
> 今までは教科書にも載せての喧伝であったが、現在では、「改革開放路線」と「情報社会と経済進出」から真実を国民は知った為に、この「格好の手段」に効果が採れなくなったのである。
> その為に、今度は「尖閣問題」と「防空識別圏」等の問題を持ち出して「格好の手段の国」として日本に「虚勢」を張り出したと見るべきであるが、しかし、これも”笛吹けど踊らず”に成って来たのである。
> むしろ、日本を肯定し政府を攻撃し始めているのである。
> しかし、国民の間では、概ね、「醸成化」に向かっているだろうが、これでは「虚勢」は成立たない事だし、その効果は低いから、何か”小競り合い” になる事を持ち出してくる事は今後も必定である。
> その意味で、「絶好のチャンス」で、今回の「米国の失望論」は願ってもいない「格好の事柄」であった筈である。
> 自ら手を汚さずに”米国と日本の間に楔を入れる事”が出来たと云う点では叶ったって得られるものではない事で、最も「虚勢」の張る事の障害と成っていた「同盟」に楔を打ち込んでくれた、と観ている筈である。
> その意味で、今回の”米国の大使主導の失望論は低質である”と云えるのだ。
> その考えは「性」を超える事が出来なかった事を示す。
>
> そもそも、この「感情主観の性」は、”神が人間に与えた絶対的な「性」”であって、この「感情主観」の「性」は女性が持っている。「女性」である限りはこの「性」から脱する事は出来ない。如何なる「男性の論理主観」を持ち得たとしても”イザ”と云う時にはこの感情主観に左右される。
> これは決して「良し悪しの問題」ではない。況して「差別の問題」ではない。「神が決めた事」である。
> 問題なのは、「政治の場」では、残念ながらこの「感情主観の論調」は通じ得ないからだ。
> 今回はこの「政治の駆け引きの場」にこの「失望」のコメントを出した事にある。
>
> 恐らくは、これからもこの失態は間違いなく続くだろう。況や、これを繰り返せば、「同盟」に不必要な傷をつける事に成り、最悪の場合、日本は「卑屈と萎縮」を排除して「積極的平和外交」を続けるのであるから、上記の経緯に不本意に乗ってしまう事に成るかも知れない。
> そうかと云って昔の様に、”米国の言い分と圧力”を飲んで無理やりに”仲良く” して、「卑屈と萎縮」に戻る事も出来ないジレンマに陥ってしまった事に成る。
> 況や、「卑屈と萎縮」をそのままに「憲法改正」は有り得ない。
> 日本側から見ると、”実に馬鹿なコメントを出してくれた”と成ってしまった事に成る。
> 先ずはこのコメントを無視する事が得策であろう。
> 無視される事で「自分の発言」(大使)に何かの異質に気がつく事を狙う必要がある。悪戯に反応してはならない。反応し続けると、上記したこの「最悪の経緯」に乗ってしまう事になるだろう。
> 要するに、「低質な性」から来る「米国の国民性」の露出であろう。
> しかし、当のヒートした米国のこの事に対する主導する意見は、矢張り、「移民族の国民性」と云うか、「ヨーロッパ系の民族優越論」が花を咲かしている。
> 「同盟」を前提とする「失策の言」の意見は極めて少ない。
> 意見が少ないと云う事は、「同盟」は日本では「防衛の要」と考えているが、強国の米国側では比較的「同盟の意識」が低い事が云える。恐らくは米国の ”中国より”もここから来ているのであろう。
> 米国としてはこれは当然の事であろう事は良く判るが、米国側にしては大なり小なり自国の「直接的な脅威」であると云う訳ではない。極東に於ける平和維持の同盟である事は否めないのであるから、一歩譲って、日本側への「失望」コメントの「同盟意識の欠如」は、この観点からはまぁ仕方の無い発言とも取れる。
> 但し、それは”米国の国民の範囲の意見”に限られるのである。
> 日本を良く知る者の意見でも「民族性の概念の違いの神社論」とする意見は無かった。
> 筆者の過去の経験とほぼ合致するものでヒートしている。「中国重視論」が意見上に出ているのもある。
>
> そもそも、逆に、自画自賛には成るが、「日本人の国民性」の優れているところは、この「仏教的思想」から”未来を志向する点”にあり、現に過去に敵対して占領された米国に対して、この”しこり”を消し去ってしまう「国民性の思考原理」を持っている程である。東北震災時の”友達”を物語る。
> まぁ ”過去に拘る性癖”より人生を鑑みると ”未来志向の性癖”の方が生き易く楽しいのではないだろうか。「反省力」がないと彼等から批判されるだろうが。
> 「色即是空 空即是色 空不異色 色不異空」と仏教の「般若心経」は教えているのだから、「良悪」の問題でない。
>
> その「未来性の志向原理」を持つ国民に対して、それから2年後に”失望”と云う態度で米国は示したのだ。「失望論」は「人時場所」に依って使い分けるのが上質の人間がする思考である。
> この事に依って、その人、或いは「民族や国家」を周囲は高く評価する。
> 現実に日本人は高く評価されている。
> つまり、日本が持つ「人時場所」の判断要素が、考え方の異なる「移民族」で構成されている事自体がそれぞれバラバラなのに、更にはその「異なる移民族の米国」は自由奔放な「移民族の思考原理」を前提にして日本を評価したのだ。
> 自分の狭い思考原理で相手を評価してしまったのだ。
> この傾向はヨーロッパ゜系の民族に極めて強い。
> どう評価するは勝手であるが、「同盟」と云う前提にある事を忘れてしまった「感情主観論」である。
>
> そもそも、米国は別にして、中国と取り分け韓国の「国民性の思考原理」は、その儒教の影響から、”過去を重視し、” 仏教の日本の国民性は、有史来、”未来を重視する性癖”を持っているのだ。
> 違うのだ。違うものを味噌糞を同じにして思考するは、その判断能力は感情主観にしてもあまりに低質すぎる。
> 故に、その日本はこの状況の米国に対して、中国や韓国の様に過去に拘らず、「未来の有り様」に思考原理を展開するのである。そして、現実にその敵であった米国の良いところを吸収して今や米国に勝るとも劣らずの近代国家を未来に築いたのである。この判断を忘れている。
> これは日本人の「武道の精神」の”負けて勝つ”にあるのだ。
> その”負けて勝つ”の精神を構成しているのが、他に類と比を観ない”「尊崇の念」の強さ”にあるのだ。
> これが中国や韓国に観られない「日本人の国民性」なのだ。
> 恐らくは、つまり、この精神をなくしては、”日本と云う国家”は成立たない限界の一線なのである。
> その事を今回の米国の国務省の判断はそもそも欠落している。
> (情報では日本大使の意見が主導したらしいとあるが、今後、”失望”と評価する根底の知識力に注意しなくては成らない相手と見られる。弱体化する今後の米国に、この様な間違いの判断が示される可能性が強い。)
> そもそも、この様に、「政治の場」は国家の「駆け引きの場」である。
> 普通の商業の交渉の場ではないのだ。
> 「国家の主体性」を如何に相手に強く示す事が出来るかの「戦略の場」なのであって、場当たり的な「戦術の場」ではない。この「戦略の場」で負ければ、それは「国家が負ける場」なのである。
> まさに”失望”とする判断は、「国家の主体性」を意味しているのに、この「米国の失望論」は「戦術の場」のものである。
> この事はまさに米国は今回の事で”政治の何たるか”を失念しているのではないかとも思える。
> 故に、米国の言う通りにこの2国に対して、「国民性」が色濃く出ている国家の為に命を投げ出してくれた「尊崇の念」で譲れば、「国家」がまた負けるのである。
> 「実戦」で負け「国民性」でも又負ける事になるのである。”これでは申し訳が無い”とする感覚が強く生まれる「国民性」である。他民族とこの一点が違うのである。
> (戦後、敗戦と占領の結果、「自信」を喪失して「卑屈と萎縮」が蔓延りこの傾向が強く成った。)
> まして”「個人」”では無く”「日本民族」”と云う「国家」に命を投げ出してもらったのである。
> 当然に「国家」がこれに対して深い「尊崇の念」を示し、「向後の責任」を負うは当然の事であって議論の余地は無い。その責任の”表現の仕方”が他民族とは異なっているし、その強さは「基本概念」とも成っているのである。
> 日本民族の者の ”最高の尊崇の念を表現する方法”は古来から引き継がれて来たもので、それは「自然神」から来る「神道」との結びつきの表現なのである。
> 「神道」との結びつきの無い方法もよくあるが、それは一段下がった念の行為である。
> 「日本人の国民性」はこの様にあらゆる様々な「念の表現方法」にも「差別化」を図り、その重要性を表現するのである。
> その「神道」の神社も、日本人の中で、多くの神社のある中でも限定して、戦死した人も国民も「靖国神社」と決めているのであるから、「靖国神社」に参拝して「尊崇の念」を表現する事は「最高の念」の表現方法に成る。
> 日本人の中にコンセンサスとして決めていなければ再考の余地も有ろうが、”靖国で又逢おう”と誓って散っていった人の意志を尊重するは「最高の念」の要素でもある。
> これを無視する事では「尊崇の念」は成立たない。
> 例え、その「神社」にどの様な人物が祭祀されていようと「尊崇の念」には無関係であり、止めさせようとする念の低い一派の”こじ付けの低質論”であり、「尊い命」を「国家」の為に捧げてくれた故人への為にも左右されるべき事では決してない。
> 他民族、取り分け米国の様な「移民族」は、十束一絡げに「戦没者慰霊碑」で事は済むのであって、他民族国家である所以から日本の様な差別化した「神道」などと結びつく「尊崇の念」の表現方法はとり難く、「集約的な概念」の祭祀と成る事は無理な事であろう。
> 故に、「ヨーロッパ゜系民族の優越論」以外にも、この”他民族”と云う事も誘引して「差別化の概念」は彼等には無いのである。
> 依って、彼等には「神道と尊崇の念」との結びつきに対して”理解する事”は「困難」と云うより「無理」と云った方が適切であろう。
> 先日、米国の2人の長官が、”これ見よがし”に日本の「戦没者慰霊碑」に参拝したが、何も”靖国に参拝してくれ”とは云わないが、その彼等の思考原理の表れであって、「靖国神社」と「戦没者慰霊碑」とは、日本人の中では「最高の尊崇の念」の表現方法が異なっているのである。
> 「靖国神社」は上記する様に「命の約束事」の場であるのだ。
> 「戦没者慰霊碑」は国が行なう「政治の場」での「祭祀の場」に過ぎないのだ。
> 「最高の尊崇の念」と云う行為の中には、この「命の約束事」が条件と成っているのだから、この「命の約束事」が欠落すれば、それは「最高の尊崇の念」には成らないのである。
> 故に、その彼等の思考原理の感覚からすれば、「神社」との結びつき、又は「靖国神社」への「差別化」の「最高の念」の「表現方法」に理解が成し得ないである。
> 「卑屈と萎縮」の所以の一つとして「最高の尊崇の念」をかなぐり捨てて ”「戦没者慰霊碑」で良いのではないか”とする意見とは、この”国家に対して投げ出してくれた命”への「尊崇の念」の行為の表現とは異なるのである。
> つまり「最高」では無くなる事の行為となる。他の「尊崇の念」であれば下げてでもそれでも良いが、この一点は譲れない「尊崇の念」の行為なのである。
> 個人で親などが自分の為に命を投げ出してくれて、自分の命が助けられたとした場合、その人は一生その人たちに感謝し、その人に執って最高とする「尊崇の念」を表現するであろう。
> それが「国家」であり、強いては「父母等」に対しての保護などの報いと成る。
> 「国家」と成るからその念の表現が希薄に成る傾向がある人がいるが、それを国を代表するものが代して表現したに過ぎない。その表現方法が最高の方法で表現した事に過ぎない。
> 奇異に感じる事はその人に「希薄の感」がある事を否めない。
> 何故、希薄に成ったかは云うまでも無く「卑屈と萎縮」の所以である。
> 現に、自分の足元を観て見れば判ることである。
> それは個々の家庭で毎年行なう「尊崇の念」の行事として、正月から年末まで行なう数々の祭祀の行事には、その多くはこの「神道」との結びついたものが多いのは、この日本人の「尊崇の念の差別化」の結果である。
> 中には「伊勢神宮」や多くの悠久の歴史を持つ由緒ある大社に参詣して、わざわざ「尊崇の念の差別化」をして、その「尊崇の念」に対する経緯の表現を採っている。
> 筆者は他民族との間で議論した数々の経験を持っているが、この「尊崇の念の表現方法の差別化」には理解は得られなかった。
> 特にキリスト教徒との議論は殆どの機会で白熱したが、韓国人との議論は別の意味が介在して議論に成り難く、「儒教」と云う点でも合致点は得られなかった。
> しかし、儒教の中国系の者との議論にはある程度の理解は得られたが、”其処までする必要性が余り無いのでは”との結論の様であった。
> それは”其処まで、と余り”とする意味にはある程度の合意や賛同の意味が潜んでいた。
> そもそも「中国の儒教」には、我々日本人と同じく「日本の神道」には ”「自然神」を基幹とする中国の祖神の「鬼道神の流れ」”がある事と、”仏教の通過国”でもあり、更には ”法の政治より人を重視する思考原理”が彼等に存在する事から ”何らかの共通性”を感じたのではないかと考えられる。
> 何せ「文化や概念」を輸入した「過去の模範国」であった所以であろうし、日本人には2割程度の漢民族の融合族が存在する所以でもあろう。
> 何せ、その元を正せば、そもそもの「安倍氏」は6世紀の帰化人の後漢民族の首魁の「阿多倍王」の支流末裔の氏である。皮肉なものであろう。
> 「政治の場」が働いた事以外はもう少しの「醸成期間」が得られれば、民間の中国人には決して理解が得られないとは考えられない。
> 故に、筆者は中国は、この”靖国”には「政治の場の駆け引きの道具」にされてはいるが、一般国民には同意は得られていると考える。
> 今回の中国の国民の”笛吹けど踊らず”の結果は、この表れであって「靖国の問題」は、”心底からのものでは無い”と観ている。
> そもそも、江戸時代に儒教は幕府に依って日本人社会に不適合として、関係者全てが一生投獄されて根絶させた歴史的経緯があるし、日本の生活のなかにもその名残が未だ色濃く残っている。
> 例えば、判り易い例として、「正座」である。儒教では礼を正すときには「正座」をする。しかし、仏教では「胡坐」であり、女性は「立膝」が正式な礼法である。
> 共通の慣習は遺されているのだから、「以心伝心」で何かを通ずるものがあるのだ。
>
> チャツト意見にあった”「虚勢の表現」の「政治の場」の道具にされている”Tと考えられる。
> 中国の「改革開放」から閉ざされた窓が開き、「真の日本」を知り、更には上記する「共通点」を知り、「親近感」とまでは未だ行かずとも、ある程度の「理解」が醸成して来ている状況の中にあると観ている。
> 韓国は本来は共通点は多いし、中国とは異なり窓は自由に開かれている。
> 醸成する範疇でも無いし、文化や概念も古来より「倭人」が南韓域に韓民の1割にも成る程度に融合していて、日本では3割にも成る韓国人が融合している関係にある。
> しかし、中国の様に、”醸成するキッカケさえ掴めば理解は得られる”と考える事も出来るが、韓国は元よりこの「醸成のキッカケ」は既に出来ている。
> 問題は、儒教から来る”韓国民の過去への拘りの性癖”にあり、且つ、女性大統領と成っている以上は感情主観論に左右されたその「性」から脱皮は難しい事と、「日本への借財」の「政治の場の駆け引き」から今はその時期ではないだろう。
> この場合、無理をして”仲良く”を実行すれば、その結末には「無理の末路」が待っている。
> その時期を待つ以外にはないと考えられる。
> ただ一つあるは、韓国にやむなく「妥協の場」を発生した時にある。
> つまり、再び韓国の日本への借財の原因と成っている「円安-ウオン高」で、「外貨準備高の不足」が起こる事以外には窓を開かないで有ろう。
> その時がチャンスと成ろう。それ以外は「感情主観の歴史認識論」を持ち出して、何時までも日本に対して暗に「借財の放棄」を狙うだろう。
>
> 問題は、上記する様に、この様に「米国の失望論」にある。
> これまた「女性大使の交代」に依って暫くはこの主観的で歴史の知識の欠落の論が起こり、難しい場面が出てくる事が考えられる。この今の米国のコメントの主観論は人が代われば、また元の知識と認識のある人物がなれば消えるだろうから、ここでも時期を待つにあると観られる。
> では、何故、この「失望論」を出したのかを考えた時には、”米国のある焦り”が読み取れる。
> それは、米国との同盟国の韓国に「外貨準備高の不足」が起こりかけているのではないだろうか。
> 「安倍氏の円安誘導」に依って、20円の差が発生した。
> この差は「韓国経済」には大打撃である事に間違いは無い。過去に2度が韓国は「外貨準備高の欠損」を起こし、日本がこれを救ったがこれが大きな借財となっている。
> むしろ、「韓国経済」が成長を遂げたのは、「円高」によって極度の「ウオン安」が起こり、三菱の電気と自動車のプラント輸出に依って、企業が起こり、これに円安と日本からの借財を全て注ぎ込んでその出資額の殆どを占める国家企業を仕上げ、その後、”恣意的な労働争議”を起こして三菱はその利益を無くして放棄した企業である。
> しかし、ここに来て日本は円高誘導から円安誘導へと変換して経済を立て直しつつあるが、この影響を受けて、韓国は再び「外貨準備高不足の欠損」が起ころうとしていて、先日の日本の自衛隊による「アフリカでの銃弾提供」はこの現象を具に表している。
> 軍が遠征するのに銃を持って行くが銃弾を持って行かないのは笑い話である。
> 先ず有り得ない事態で間違いなく資金力が不足していた筈である。
> 米国は、この韓国の経済欠損の事を承知していて、アジア同盟国にスペインのような事が発生し、その中で中国や北朝鮮に戦略上の事が起こってはまずいと考えて、慌てて””仲良く”の言葉を発してしまったと観られる。
> 韓国のこの「経済欠損」を救うのは過去の2度と同じく日本だけである事を米国は承知している。
> 果たして、この償還は有り得るのかは疑問である。
> この米国の失望論の背景の”仲良く”にはこの意味合いが強く含まれているのではと考えられる。
> 韓国は密かに米国に泣きついて行っているのではないだろうか。
> 「20円の円安」は”韓国にとって非常事態”で、この傾向はアベノミクスで未だ続くと考えられる。
> 間違いなくこの「欠損状態」が起こっている筈である。
> そもそも韓国の国家企業には起こらない方がおかしく、この2大国家企業は日本の技術者のヘッドハントとに依って円安を利用して類似品を作った事による成長であって、その成長もその製品より優れた開発品が再び日本から再び出て後退している現状で、そのヘッド゛ハンティングの人材も高齢期に入り、その持った技術も古くなって「価格安い-品質は低い」に依って市場から後退している。
> 尚、この類似品の韓国の市場の実態は、「ウオン高」でドイツ製品等の攻勢が激しく、円安の原因以外にも「経済欠損の危機」が迫っている。
> 其処に「北朝鮮の動向」が働いている事と、TPPの事から米国は躍起と成って「政治の場」で日本に圧力を掛けたと観ている。
> ただ、一つ、韓国経済界が上記の事を判断して韓国大統領に対して、”日本との関係を良くする様に抗議した”が聞き入れず、依然として「感情主観論」を展開して一方的な「歴史認識論」に拘り、韓国政府との間に「乖離現象」が起こっている事に注目すべき点であろう。
> 更に、最近、「河野談話」は韓国政府との調整により発せられた談話である事が日本政府と企業からつきあげを食った韓国政府の一部からも暴露された。
> つまり、これによれば「歴史認識論」はすでに国家間で済んでいる事になる。
> ”済んでいること”に成っているものをわざわざ何度も繰り返すのかはそれは「政治の場」の事として判る。
> 恐らくは、これを座台にして借財の帳消しを狙っているのであろう。
> そもそも、「歴史認識」では、その仮に日本に「歴史認識の悪さ」が有ったとしてその咎は日本が負うものであって韓国ではない。
> 況して、”歴史認識を無視するものに未来はない”と主意の発言をしているが、戦後、混乱の中からいち早く立ち上がり世界第2位まで伸し上がって生活力を挙げたのは日本であり韓国ではない。
> 日本に未来があった事に成る。日本の未来は日本人が追うものであって韓国ではないし、韓国が日本を救える力はまったく無い。
> 逆であり、上記する様に、最近に於いて「外貨準備高欠損」で2度も助けているし、今度も日本からの救助となろうが、ここで韓国に「外貨準備高の欠損」で日本が支援することは恐らくは不可能であり、アベノミクスは失敗に終る。
> 何故ならば、支援に依って「ウオン安-円高」が起こる事になり、その支援で再び国家企業にその資金の流入が起こるので、日本経済の足元をすくわれる結果になり、「国家的な失敗」をする事になるからだ。
>
> 「河野談話」でも、韓国大統領は国家間の言い分を無くしている筈であるが、また無くしていながらも平然とその後でも、同じ歴史認識論を展開した。これでは、大統領個人の範囲の事と成り、個人の主観感情に捉われた一国の指導者もどきの人物の言い分には日本政府は対処に難しい事に成った。
> これでは日本政府としては 今は”仲良く”は無理であろう。様子を見るが得策である。
> そもそも、米国の日本大使館前にその女性像を建立するは、最早、理性ある一国の行為とは思えない。
> この様な場合は、米国政府も撤去を促す事が国際儀礼上、求められるが撤去させない。
> この様な事に目を瞑って”仲良く”は無理である。
> 少なくとも”仲良く”の前にその時期では無い事が明らかである。
> 米国もこの韓国の態度を放置して、”仲良く”に理解に苦しむ。
> 昔の日本であれば、「卑屈と萎縮」から米国の言い分に従った筈で、「政治の場での力」は皆無であった。命を投げ出してくれた尊い日本人の若者に申し分けなかった事に成る。
> 戦後70余年の現在、この意味でもここで「卑屈と萎縮」から脱却すべき時期に来ている筈で、国家としての「成長の活力」を生み出すのにも、この”「卑屈と萎縮」から脱却”しなければ、それこそ「日本の未来」は無いだろう。
> その為にも「失望論」には毅然として対処しなければならない。
> 「過去の歴史」を観て「卑屈と萎縮」に苛まれるより、゜未来」を観て「卑屈と萎縮」から脱却するべきが日本人の「良い国民性」であり、その事に依って現在の日本は築かれたが、「卑屈と萎縮」からの脱却で活力を生みだすのである。
> これからは、決して、”失望のコメント”の裏で示す「米国の圧力」に「卑屈と萎縮」で屈しては成らない。
>
> その米国の”失望論の仲良く”には、それこそ「中国の書」の「六稲三略」から、今は国家間のその時期ではないことに成り、2国からその意志が明確に成らない限りは ”待つ”が得策で、「政治の場」の「米国の発言」は当を得ていない。
> 本古書を「思考の基幹」としている発行元の中国も知っている筈であろう。
> 況して、国民は知っている筈で、「尖閣問題」も「航空識別圏」も「政治の場の虚勢」としてどこまで問題を大きくしてくるかを観る必要があるが、恐らくは、「国民との乖離」が起こる事は共産党政権としては「一国2制度の矛盾」が噴出し危険であるから、その「足元」を狙うべきであろう。
> 「中国国民との醸成化」に総力を注ぐ今は時期であろう事が判る。中国政府の弱点ではある。
> 「政治の場」が「戦略の駆け引きの場」であるとすると、この「日本理解の醸成化」を官民挙げて取り組む課題であり、その時期に来ているし、「醸成化による相互理解」は両国にとって「悪」では無い。
> 中国政府にとっては弱点であるが、相互理解には「大儀明文」が存在し、「尖閣問題」も防衛航空識別圏」もこれ以上にはエスカレートさせ難くなる事になろう。
> これ以上に「卑屈と萎縮」が続けば、レベルを上げて「尖閣上陸」と「識別圏の実質取締り強化」に出てくる筈である。
> 「卑屈と萎縮の脱却・脱皮」からは、その先には、「憲法改正」や「集団的自衛権」の解釈問題等が存在し、オバマ政権の様な政治が続けば、「同盟」と云う姿も検討の余地が有り得るし、その先には国家として本来あるべき「自衛力の範囲」も検討せざるを得ない事に成る。
> 何にしても、この「卑屈と萎縮」から脱却しなければ「憲法改正」など「絵空事の内容」と成り意味が無いだろう。
> 沖縄の様に米軍基地が日本の領土を大きく占めている現状も自衛力に特化させる問題も出てくる事に成る。
> 「同盟」と云うキーで基地提供しているが、米国は基地以上に日本を「卑屈と萎縮」の先に置いておく必要性があり、「政治の場」では「同盟」で護られているかの様に見えて、実は「卑屈と萎縮」の先にあるのだ。
> 果たして、「戦い」が起こったとして中国になるが、上記する様に中国にも弱点があり、米国の戦力を借りて戦わなくては成らない状況になるかは甚だ疑問であり、その前に「法より人」の国民から乖離現象が起こり、ロシア帝国の様にその経緯を経て共産党は解体する事に成るので、国内の基地の削減化は可能である。
> 現に、大国ロシア帝国との戦いはこの「足元の戦略」(レーニンに資金提供)を日本政府が採った事は記録から明らかで、故に「日露戦争」は「国民との乖離」が原因して勝利したのである。
>
> 問題は現在の米国政権では、この様な場合に日本に味方するかは疑問であり、中国を敵国と看做すより同盟国の「米国の出方の方」が懸念材料となろう。
> 「卑屈と萎縮から脱皮・脱却」にはこの問題が付きまとっているのである。中国ではない米国なのだ。
> この「失望論の背後」にはこの問題が潜んでいるのだ。突き詰めて「同盟」そのものを否定するかの意も含むセンセーショナルな発言であるのだ。
> 今の「オバマ政権」には”失望”のコメントの「深意」が示す様に、この危険性が伴っているが、その後にどの様な政権が就くかが今後の「卑屈と萎縮」の先は見える筈である。
> 今までとは「異質な発言」で急に変化したオバマ政権の日本へのコメントである。
> この失言は「日本大使の交代」での時期に符合するし、その意味で「コメントの主体」は当初は大使館とされているので、米国政府なのか大使館なのかの先ずは見極めが必要であろう。
> それにしても大変なコメントである。
> 政府とするならば「卑屈と萎縮の脱皮・脱却」は是非により加速して進めなければならない事である。
>
> そもそも、ここで合わせて云いたい事は、「伝統」とは一体何なのかと云う事で、「伝統」はこの「卑屈と萎縮」からは生まれず、「卑屈と萎縮」に依って「消滅する性質」のものであると云う事なのである。
> 要するに、「酸とアルカリの様な関係」にあると考えられ、どちらかと云えば酸化反応と云うよりは「還元反応」に近い関係にあると考えられる。
> その「卑屈と萎縮」はどちらかと云えば「伝統」にとって「酸」に相当する働きをする。
> 日本人の「国民性」と成っている「尊崇の念」はこの「伝統」に値するもので、「卑屈と萎縮」はこれを阻害する。
> 「日本人の国民性」を示す「良い伝統」とは、「卑屈」に成り「萎縮」するとその「良い伝統」のものを分離させ分解させ、何時かは焼却させてしまう最大の原因であろう。
> 還元である以上その基と成るものは遺されている筈で、それを再びもとの元素の形に戻すには、「反応力」のエネルギーが必要で、その力を阻害している「卑屈と萎縮」を取り除けば「蘇る活力」を生み出す事に成る。
> ただ、放置すれば酸化反応により破壊されて原型を取り戻す事が出来なくなる事に成る。
>
> 「卑屈と萎縮」に左右され得ない「正しい心根」を持つ事に依って「良い伝統」は維持されて行くものであると認識する。この「尊崇の念」はまさに「伝統」なのである。
> 戦前までに維持されて来た「良い伝統」は、この「卑屈と萎縮」に左右されずにしたから遺されて来ているものであり、日本人が始めて経験した「戦後の敗戦の衝撃」に依って「卑屈と萎縮」がこの「伝統」を消し去ってしまったのであり、むしろ、その「卑屈と萎縮」から”消し去る事が正しい行為”であるかの様に成ってしまうと云う現象が起こったのである。
> 明治期の廃仏毀釈の様なムードの現象が国民の中に起こったのである。
> 最も古く維持されて来た多く遺されていた筈の青木氏に「良い伝統」もこの事に抗することが出来ずに消え去ってしまったのである。
> 今、サイトはそれを「卑屈と萎縮」から脱皮して、何とか掘り起こそうとしているのである。
> 「伝統シリーズ」に取り組む為にも、その前に「伝統を維持する力」はこの「卑屈と萎縮」とを排除する事から起こると考えられる。
> その為にも、丁度良いテーマが発生したので、サイトにご意見を投稿してくれた人々と相談し、この投稿の原文の流れの構築を試みた。
>
> 以上


名前 名字 苗字 由来 ルーツ 家系 家紋 歴史ブログ⇒



中国列車事故に関してレポート(潜在的欠陥)
中国列車事故に関してレポート
福管理人
2011/07/28 13:59 - パソコン
中国の新幹線脱線事故
(潜在的欠陥)
序文
現在、以前より強気の発言が話題に成っていましたが、中国の表向きの威信を掛けての事だっただけに衝撃的な問題と成っています。筆者は当初よりこの問題には危険なものが潜んでいると技術者として疑念を抱いていました。図らずも中国が何と”日本に進んだ新幹線の技術供与をしますよ”と虚勢と威しを掛けてきたその直ぐ後にこの事件が起こりました。真実味の無い無知な国民を騙す共産党の国威高揚が招いた事件です。恐らくは真因をぼやかした原因説を出す事は判っていますので、そこで筆者の前からの疑念を敢えてこの際に披露しようと考えました。なかなか特別な領域の技術問題ですのでこの様な真因を判断出来る技術情報を把握している人は少ないと考えて投稿します。
多少、専門的内容を記述せさることに成りますが「潜在的欠陥」をより詳しく網羅させる必要からとご理解ください。
本件は今投稿中の「青木氏と神明社」のレポートに記述した「物造り」に真に関係する内容の決定的な例としても取り上げられるものですので敢えて論じます。
実はこの問題は歴史的な専門的立場からも観ると、明らかに「石は薬」「法より人」の中国の思考規準に影響した「潜在的な事故発生要因」が大きく潜んでいるのです。
「事故の相関性」
そもそも車や列車の高速化は常時ブレーキの制動力と相関していて命です。
後のパーツは常時の直結の人命の事故には繋がる可能性は有りません。せいぜい複合要因にての結果と成るでしょう。しかし、この事故は明らかに高速化=ブレーキ制動力=命の関係にあります。
それだけにこの事故には幾つかの要因がある中で、主に中国の「潜在的欠陥」の体質が働いた「ブレーキ制動力の事故」と云ってよいものです。
従って、真因を解析して判断するにはかなり専門的な工学領域の高度な幅広い綜合技術知識が必要と成ります。それも開発担当域の限られた技術者のノウハウの領域と成ります。
つまり、技術的に政治的に真因が解明され難い事故ともなり、且つ中国の置かれている立場と国民性が更に左右してしまう事故と成ります。
そこで、「青木氏と神明社」の論文に「物造り」の事として記述している事が真に一つの事例として現れてしまいましたが、当初より何か起こると気にしていた事なのです。
「高速化制御システム」
さて、上記した様に、それは高速化を制御する「列車管理システム」と「高速列車のブレーキ制動力」との相関問題にあるのです。中国はこの領域までの知識は到底ないと考えますが、全体として外国技術を習得し切れていない「付け焼刃的な現状」にあると考えられます。
中国はこの高速列車を主にドイツ、カナダ、日本の3国の列車技術の殆どの部分で導入しています。
外国技術は高度であり、且つ寄せ集めの先端技術である為に余計に複雑化して充分に短期間(4年)では習得は出来ていないと考えられます。列車の操作力は勿論の事、列車生産に関わる3国の異なる技術的ノウハウ等の取得は皆無に等しいと考えられます。そもそも教える方もこの短期間では困難です。
それだけの基礎力が元々無かったのですから、この短期間で扱いこなすにはこの複雑化した現場では習得し難いものと成り得ている筈です。「四苦八苦」が正しいのではないでしょうか。
中でも本文の「列車管理システム」のノウハウと「ブレーキ制動力」のノウハウの2つは最も命に関わる事でありながら、それだけに理解し習得に至るまでには最高度の難しいノウハウと成る筈です。
先ず無理であろう事が判ります。
中国当局がどんなに「虚勢」を張って国内向けに発言しても我々技術部門に直接携わった者から見れば「空虚」そのものであります。
先ずは、中国の「列車管理システム」はヨーロッパ統一の「ETC管理システム」を導入していますが、日本の列車(川崎重工)は異なる「ATC管理システム」で出来ています。
何れも「自国製」と発言していますが、この「虚偽の発言」そのものが無形の「潜在的欠陥」ではないでしょうか。
「高速化ブレーキ制動システム」
次ぎに、事故の追突された列車はカナダ製です。後ろの追突列車は日本の川崎重工の列車です。
ここでこの2つの列車には運用具合に依っては決定的な命に関わる違いがあるのです。
それはカナダ製のブレーキの制動力は山形制動の方式です。日本の列車は全て楔鍵形制動です。( 〕印を左横に倒した楔形の制御)
同じ線路上で、同じ列車管理システム上で、2つの列車の高速時のブレーキ制動力が著しく異なり、且つ、その制動方式も全く異なるシステムと云う極めて危険な運行状況です。考え難い組み合わせと成ります。
今だヨーロッパも日本も開発しきれていない相当な極めて最先端の「列車管理システム」でなくては安全運行は出来ないのではないでしょうか。
まして、この「2つの方式」の制動力の持つ中で、且つ外国から購入したこの混成列車の中国では、それまでは列車の管理は殆ど人為的に行われていたのですから、この複雑な条件をこなすシステムの開発は到底無理である事は云うまでもありません。
そもそも、つまり高速に成るほどブレーキは制動力が落ちますが、「2つの方式」の制動力が同じと言うことで有れば問題ありませんが、諸外国製のブレーキは高速に於いてはそもそも効き(制動力)が悪いのです。その為によほど手前からスピードを落としながら制動しないと停車位置に止まらないのです。
次第に速度を上げ最高速度に到達すると今度は次第に問題の起こらない速度まで落としてブレーキを制動して停める山形制動です。
日本はすぐに速度をピークに上げてそのままに維持し停車直前でブレーキを制動して定位置に停める楔鍵型です。(くさびかぎ形)
これは「方式」が違う、「制動力」が違うの話では無く、「技術力の差」なのです。
これはブレーキの技術力の開発差から来ています。つまり、殆どは金属冶金工学の技術力の差で日本は段突に進んでいます。
「摩擦熱400度と350K/Hの関係」
そこで上記した「問題の起こらない制動ポイント」とは、技術的に「摩擦熱が400度」のところを限界としています。これは大変に重要な要素なのです。
高速での制動は摩擦熱などによりかなり高温(日本は400度限界)に成りますので、普通の冶金学と機械工学の範疇では本来はブレーキそのものが造れないのです。ところが日本のブレーキはこれを解決していてこの相当な企業秘密ノウハウを占めています。
ところでこの「400度と云う温度」が金属にとって非常に厄介で問題の多い温度域で、金属の結晶に大きく質的変化を与える温度域なのです。
更に高速でブレーキを制動するとしますと当然に低速のものより摩擦熱が数倍に上がりますので、その400度の薄赤くなった金属には、溶接やボルト締め等の普通の機械的な処置が強度的に低下してしまい、使えないし加工は出来ない事になります。
ではどの様にしてブレーキの「焼結パット」を取り付けるか、又列車本体に取り付け固定するか普通の既存の技術的な方法では通用出来ない範囲なのです。
金属が温度が上がれば柔らかくなるのは当り前ですから普通の固定方式では成り立ちません。
この400度と云う温度は、鉄系の金属にとっては金属の性質(特性)が変わる限界点で、これ以上高く成ると金属の結晶構造が変わるので、普通の金属では機械的強度は絶えられません
鉄系の金属では500-650度の範囲までは「特性温度域(再結晶温度域)」と呼ばれ鉄系の中に含まれる炭素と融合(溶融結合)して「結晶構造」も変わり、それに伴ない更に別の性質(特性)に変わって行きます。この中間温度域(特性温度域)はそれなりに熱処理として多くの使い道があるのですが、ブレーキには柔らかくなる事も然りながら、絶対的に好ましくない「臨界的な温度域」であります。
逆説的に云えば、「摩擦熱」などにより上昇するこの直前の「400度と云う温度」が「ブレーキ構造方式の限界域」で、これ以上に摩擦熱が上がりますと「臨界的温度域」(特性温度域)に達する為に、リニヤーなどの列車の走行方式等の別の方式に変えなければならない温度域と云う事に成ります。
この「400度と云う温度」に達する速度とすれば350K/Hを限界としているのです。
これ以上の速度でブレーキ制動するとブレーキは破壊する温度域なのです。たとえ350K/H以上出せたとしてもです。400度=320K/Hを順守する必要があるのです。
ですから世界の先進国はより高速制動にする為には500K/Hのリニヤーの開発と成っているのです。
「400度の問題点と解決技術」
そこで開発の限界点とも云える高速350K/H以上の列車を開発するのは摩擦熱が上昇し著しい欠陥が露出する為に物理的(冶金学的)に困難ですが、この限界の手前の400度の温度域(高速320K/H以下)でブレーキ構造方式とするには次ぎの特別な解決手法の開発が必要となります。
解決手法
主に4つの部品に研究を加えなくては成りません。焼結金属のパッド、パッドを取り付けるプレート、このプレートを摺動移動させる案内プレート、この案内板を固定するプレートです。
この「焼結金属の組成配合」と「3つのプレート」に「400度」の上下の熱影響を繰り返し受ける事に成りますので、この「4つの部品」を先ずはどの様にして固定するかとなります。「固定の問題」です。
それと「金属的に、組成的に、機械的」にも解決する必要が出て来ます。
溶接やボルト締めでは熱で軟らかくなり使えないと共に、且つ繰り返しの「高温の熱疲労」で直ぐに金属疲労破壊してしまう欠点を持っています。
まして「400度」なので最も厄介な難問の「低温の脆性破壊」も起こります。
(脆性の怖さ)
鉄系の金属の脆性破壊には次ぎの3種類があります。
A:-20~-80℃の「臨界域脆性」、B:300~400℃の「低温脆性」、C:850~900℃の「高温脆性」
Aは寒冷地で起こります。Bは本論 Cはこの温度域で加工して常温、低温域に戻した時に起こります。
Cは「鍛造」や「鋳造」や「熱処理」や「圧延」の加工の時に起こります。
Cはこの脆性をなくす為に上記した「特性温度域」(再結晶温度域)で熱処理を施してなくす事が出来ます。
A~Cは常温と発生温度域を繰り返し上下すると著しく脆性現象が強くなります。
従って、「熱の繰り返し疲労破壊」と「脆性破壊」が同時にダブル発生してしまうのです。
高速列車の「ブレーキ部品」はこの「3つの脆性域」に関わっているのです。(Cは処理済)
「取り付け方」と「熱の繰り返し疲労破壊」と「低温域の脆性破壊」(A、B)の「3つの問題点」が露出して来ますのでこれを解決しなくては成りません。
(「3つの問題点」と「3つの脆性域」)
この「低温脆性」の温度の上限が400度(下限300度)ですが、制動していない時の低温の温度域が何度に成るのかは列車の「操作のノウハウ」に大きく関わることなのです。
当然に操作が未熟であれば400度を超える場合が有ります。この温度を超えると云う事、「操作が未熟」と云う事はそれは単純な話ではありません。
何度か走行中に常習的に繰り返すと上記の「3つの問題点」が露出して即「ブレーキ制動力の低下」のみならず「ブレーキ破壊」へと繋がるのです。
今回この事が確実に起こっていて大事故と成った事も考えられます。
例えば、「未熟」とは車で長い下り坂道でブレーキを踏み続けると熱を持ちブレーキが効かなく成ります。その為に上手くエンジンブレーキを加えながらスピードを落としてカバーします。この概してこの操作ノウハウと同じ理屈です。
中国は未だこの「未熟の領域」にあると考えられます。
場合に依っては「中国の国民性」が影響してここにも「潜在的な欠陥」とも成り得ている可能性も有り得ます。筆者はこの説を採っています。
「3つの問題点」と「速度超過」
当然に上記「3つの問題点」と同じ現象を示す「320K/H以上の速度」を超えての操作を繰り返し摩擦熱が400度以上を超えて上昇し過ぎた事でも起こる訳ですから、この「操作の未熟さ」と「限界速度オーバー」は同時に起こる事に成りますので両方から痛めつけられて「極めて危険な状態」が起こっていた事に成ります。
(この「3つの問題点」は専門的な立場からすると金属面に特徴ある破面が出ていますので比較的簡単に目視でも解析できます。誰でも判る事では有りませんが専門の「破面工学」を取得した技術者であれば観れば直ぐに判ります。)
中国は”常速 350K/H以上で走行する世界一の新幹線”と虚勢を張りと鼓舞していましたから列車のブレーキに「3つの問題点」のダメージを確実に与えていた事に成ります。証拠の事実です。
中国のこの発言は、専門的に見ると”何時大事故が起こっても不思議でない状況である”と発言している事と同じなのです。
「寒冷地仕様の欠陥」
この摩擦熱の400度に加えもう一つ問題があるのです。
それは自然環境です。中国は冬は極寒の地(-50度)がありますので、この400度との「温度差域」が500度以上に成ると技術的に耐えられない領域と成る特性問題を持っています。
勿論、極寒温度でも上記したAの問題でもこの「温度差500」と並行してがダブルで起こる事に成ります。
金属の組成上からの臨界点(-80度)に近くなり、この「熱差」と「繰り返し」による「金属疲労の発生率」が極めて高く成るのです。先ず本件の対策を加えないと全く使えないのが普通です。
ところが全く鉄系の金属は、ある限界の範囲で「特殊金属」を加えないと使えないのですが、この特殊金属の添加が逆効果になるのがこの「寒冷地仕様」なのです。極めて難解なのです。先ず”諦める”が常識です。今は未だ発生していませんが、日本の環境とは違うために中国国内では事故の発生率は明らかに高い筈です。(日本では高速化の東北地域は-20前後ですから一応の対策は可能)
この問題(高速化寒冷地仕様)も中国では到底解決していませんし、その開発手法と能力は中国には基よりないのですから確実な「潜在的な欠陥」と成っています。
まして日本でさえも何ともし難い技術問題の「潜在的欠陥」が潜んでいるくらいなのです。
日本では輸出用には自動車や生産機械でも「寒冷地仕様」として開発していますが、精度問題は別として、高速列車では中国では現在この「寒冷地仕様」の問題は未だ起こっていませんが、必ず冬には起こる筈です。その証拠に自動車は必ず起こっている現状なのです。
この「寒冷地仕様」では、高速のみならず「ブレーキ制動前の時の寒冷地温度」から「ブレーキ制動後の温度差」が「500度差域」に成ると、鉄系金属では金属内の結晶構造が変化する為に応力差が生まれる為に、更に重複して避けられない欠陥に成るのです。
車のブレーキの制動でも起こりますが、これと異なり高速列車の場合は温度差が余りにも大きくなるので必ず起こる問題なのです。
そこに「未熟度のエラー」が加わると「寒冷地の欠陥」のみならず通常の「500温度差域による欠陥」も重複して平行して起こりますので事故に繋がる事は必定と成ります。
(日本側は所定の期間1年の講習を要求したがたった10日間で打ち切ってしまったと発言していますので、習熟度は先ず「無い」事に成ります。つまり「未熟度エラー」は確実に起こっている事を意味します。)
依って、詳記した「500温度差欠陥」、「400℃欠陥」、「350K/H欠陥」、「寒冷地欠陥」、「脆性欠陥」、「3つの問題点」「高速化ブレーキ制動システム」「サージ欠陥」等の充分な習得はまず無い筈ですからこれらの欠陥は必ず起こっている事は間違いありません。
これに「高速化の習熟度によるエラー」が加わりますので疑う余地はありません。
高速化に依って高温差化するとこれを繰り返すと「熱疲労と脆性の疲労破壊」が避けられないほどに極めて高くなるのです(逆に熱暑地仕様もあるが中国では問題ない)。
自動車の領域で起こる問題と比べられない程に極めて危険な問題となるのです。
因みにロシアの自動車が、あれだけ進んだロケットや人工衛星など高度なものを造れる国が自動車がまともに開発製造販売が出来ていないのです。
中古を含む日本車90%に頼っている現状ですから、それは「寒冷地仕様」の対策が極めて高度な技術力を駆使しなければ成らないからで、それを充分に解決し得るノウハウの開発が出来ていないからなのです。「寒冷地仕様」は基より物理的に難しいのです。
中国も奥地はこの「寒冷地仕様」に準じます。
高速列車の「寒冷地仕様」は、今までに輸出と云う形態までに至っていなかった事から中国に輸出する分に対しては、日本での寒冷地仕様の範囲である筈で、明らかに「未開発の部分」では無いかと考えられます。やろうとすれば日本の輸出自動車は完全に「寒冷地仕様」は完成していますので直ぐに応用する事は可能ですが、中国用のものには未だ開発し適用していないと考えられます。
(開発メーカーは列車メーカーではないし、開発と試験が難解で短期間である為に現在では困難)
この「寒冷地仕様」が施されていない高速列車では冶金・金属工学上から観てブレーキ関係は云うまでも無く、本体そのものの鉄系車軸や伝道軸や鋳物や鍛造等の熱処理部品に対して上記の「3つの問題点」が顕著に現れることは必定です。少なくとも軸が折れるか変形する等の問題が出てくる筈です。
これからは寒冷地の「潜在的欠陥」の露出として出てくる事が考えられます。
より「潜在的欠陥」に対して厳しさが増します。
この「寒冷地の欠陥」は冬場に部品に破壊が起こり潜在して、これを過ぎて気温が高く成る直前で事故に繋がる欠陥が露出して来る傾向があります。
高速ブレーキ制動の分野に限らず全体で起こると考えられます。つまりこれも恐ろしい中国の「潜在的欠陥」であります。
恐らくは、日本の寒冷地仕様より-30度程に厳しい環境にある事を承知していますから、日本側は何らかの条件を付加して「列車運行の条件」として伝えている可能性が考えられます。
問題はそれを理解して護るかによると考えられ、国民性や国威高揚などの政治状況から観て疑問を感じます。
しかし、もとよりこの「寒冷地仕様」によって起こる欠陥を見抜き解析して対策まで持ち込むノウハウが中国にあるかは大いに疑問です。
確かに”日本の東北で走る列車仕様の前形式を技術移転した”と伝えられていますから、ある程度の寒冷地仕様が施されていた仕様になっているかも知れません。
ただ問題は上記した「未熟操作」が更に「3つの問題点」の危険性を著しく高めますので安心できる範囲ではありません。
又、何れにしても寒冷地による「脆性疲労破壊」がブレーキは元より列車本体までにも働く可能性が有りますので、それがブレーキ制動力にどれだけの影響力を与えるかの問題もあるのです。
恐らくはこの現象は「激しい振動」と云う形で露見してくる筈で、それがブレーキの制動力とその部品構造に特化されてくる筈です。
現象としては、主に「振動疲労」による「ミクロクラック」が発生して、最後には「疲労破壊」に繋がることが考えられるのです。
(この欠陥は特長ある破壊破面を呈し目視でも確認出来る。日本の専門家に見せれば一目瞭然で判定できるので見せないでしょう。)
それを防ぐ「高速化の管理保全」が出来ているかによりますが、短期間の間に成せる保全問題ではありませんから無いと考えます。
「寒冷地の現象と欠陥」
寒冷地は金属の分子運動が止まるか緩やかに成る為に金属の弾性力が低下して破壊に直接繋がるのです。最も怖い欠陥で、幾つかの技術的な方法が専門的にはあるのですが、何せ分子運動が止まるとなる事は金属の仮死状態を意味しますので、処置の施し様が暖めると云う方法以外に有効的な方法は無い事を意味します。
(過剰にすると逆に成りますが、ニッケルを加えて結晶を細分化する方法や、500度から650度で熱処理を施して結晶を均一にして細かくする方法で加工して使う方法もありますが、完璧な方法とは云えず暖めて400温度差に保つ事が最も簡単で効果的なのです)
この対策が中国に於いて成されているかは問題で先ず無いと考えられます。
そもそも特に上記の高速の対策として用いた「特殊金属」は寒冷地に対しては金属の仮死状態が起こって「弾性力の低下」が起こりますので、「特殊金属の弾性力の低下」と合わさって逆の現象を引き起こすのです。従って高速列車のブレーキ制動力に主眼を置いているので「寒冷地仕様」は完全ではない筈です。
日本に於いては寒冷地対策は車、列車、工作機械、等には施されています。東北新幹線と山陽新幹線の走っている列車が混在させずに異なるのはこの事から来ているのです。
日本などでは一定率の「列車管理システム」を保つ為に「寒冷地の列車」には充分な仕様で設計されて管理されているのです。
「部品の固定方式の開発」
兎も角も、寒冷地に於いてでさえもブレーキ制動ではその最たる影響を受けますが、先ずは日本環境の範囲として「普通仕様」で考察すると、そうすると後は機械的、物理的に考えられるのは「圧入方式」か「焼バメ方式」ですが、「焼バメ方式」はもとより同じ400度ですので締まらず使えません。
(温度差は500度以内が仕様限界)
残るは「圧入方式」だけですが400度の温度に上がっては圧入は緩み効きません。
この2つの加工技術の使用温度がこの400度であるのはこの領域を超えて加工すると金属の組成上(パーライト)の強度的問題が冶金学上で出るからなのです。
この制動で発生する摩擦熱も偶然にも400度です。従って、高速350K/H以上でのブレーキの掛け方如何ではこの400℃は更に上がりますので、限界の制動領域を超え開発能力以上の限界を超えますので、著しい制動欠陥を露出する事に成ります。
果たして中国の「未修得の操作能力」が低い場合はここでも「潜在的欠陥」を潜んでいるのです。
実質1年程度のトレーニングという事で計画されていたすのですが、それを”10日程度で切り上げた”との情報を考えると、此処暫くは「未修得」が「潜在的欠陥」と成り得ます。
(350K/Hの意味)
日本の新幹線は350K/Hの下の320K/Hとしている一つの根拠はここにあるのです。
何も350K/H以上を出せないとする訳ではなく、ブレーキ制動の限界点だからなのです。
”350K/H以上の高速で走った”として自慢下に誇示していましたが、この事の技術問題を知らない事を自ら露呈したのです。全体のノウハウの未熟度を自ら認めた見苦しい虚勢です。
確かこの限界を超えた速度で走行して本体が耐えられない激しい振動に見舞われ列車に亀裂が入りなどして指定の速度に下げたとしているのです。
まだまだ上記した「潜在的欠陥」が露出してくる事は間違いは有りません。日本からの早期に技術指導を受けない限りは大事故と成るでしょう。
恐らくはこの振動の原因の一つはブレーキの制動を超えたところで摩擦熱が400度を超えて限界温度500度に達してブレーキ制動が空効きになり、その振動のパラセーションがタイヤ(車輪)に加わり車体本体を激しく刺激したと考えられます。
恐らく、この時、摩擦熱500度以上に達して後続のブレーキ制動力が破壊するか等を起し効かなく成っていた可能性があります。
謳い文句の350K/Hを取り下げてその高速をその事故の為に運行走行速度を250-300K/Hに下げたとしています。ブレーキ制動における設計限界である事を知らずに。とりあえずは一時的速度では欠陥を出さずに成った事に成りますがブレーキ制動のノウハウの未修得で起こる問題は解決していません。
これは上記する高度な基本設計の冶金的知識の習得は先ず無く、感覚的に激しい振動が何かを引き起こすと考えたものと観られ、変更を余儀なくされたものであろう事が判ります。
この行動は真に知識の底を露呈した愚かな醜態に他なりません。
速度を上げれば何でも上げられると云う「石は薬」「法より人」の感覚から出た中国人らしい論理性のない発想です。
恐らく、日本人から観ればこの雑な感覚は、直ぐには直らず今後も続くだろう事から、これからもこの様な国民性に潜む「潜在的な欠陥」の醜態を示す事に成ると観られます。
兎も角も、ですから「潜在的欠陥」に関しては中国は「事故の情報」のそのものを隠す以外に方法が無い事を物語ります。
「技術開発点」
そこで、中国の怠惰な実情を気にかけながらも、兎も角も日本の技術開発の努力とその経緯から考察して観ます。
中国に日本の次のような開発努力を知るまともな技術者が少ないのかも知れないけれど居た筈です。
(筆者も冶金に関する実習留学生を承知しているが、小さい力のために基本の技術習得が無視され「政治力」が優先されたのではないか)
上記する「3つの問題点」を解決するには次のような開発をしたのです。
日本の開発はそれはこの400度の限界を超えない範囲で要は温度がどんなに上がっても緩まずむしろ締まるようになり、且つ金属に関する疲労、脆性等の問題を起こさない様にしなくては成りません。
上記する金属的に起こる問題を色々な「特殊金属」(下記)を組成に加えて特殊金属板を造り熱に対する欠点を解決して、且つその加えた「特殊金属」によって逆に熱が掛かると一定以上の圧入力(取付力)が増加する様にしなくては成りません。この領域は真に自然物理の矛盾です。
「特殊金属」の「種類とその配合率」と、「圧入代」と、「熱膨張係数の差」と、「耐熱性の向上」とこれ等処置による「組成上の競合欠陥の防止」を解決して、丁度良いポイントの探求が必要に成ります。途方も無い総合知識の研究です。
その難しさはこの「競合欠陥」です。
「特殊金属」はある種の特性を引き出す手段によく用いますが、この金属を加える事に依って「鉄系金属」には、同時に逆の事も起こる特質を持っています。
この「鉄系金属」にはこの種の「特殊金属」は「人間の拒絶反応」と同じ現象を起す性質を持っていて、ある一定の範囲までしか受け付けないのです。一定を超えるとあらゆる機械的な強度や特性の低下を引き起すのです。
(「特殊金属」とはマンガン、モリブデン、クローム、コバルト、マグネシューム、タングステン等でこれに対応してニッケルを補填して「特殊金属」の弊害を少なくする為に同時に適量を加えます。
例えば、18-8ステンレスにクロームを加えて強く錆びなくしていますが、これに対してニッケルを加えて弊害を抑えているのはこの為です。この特殊金属は夫々特徴を持っているのです。)
この「特殊金属」を適材適量に加えるだけでは解決しません。
実はこの世の全ての物質には温度を上げ再び下げて来ると「スパークーリング現象」と云う特殊な現象を起す特質を持っています。同じ上昇したライン上を温度を下げると別のライン上で下がって来るのです。
その為に「ズレ」が2ポイント発生します。この2つのポイントの一定の温度間隔域に金属の組成を納められれば下記の「研究課題」を解決する事が出来る事に成ります。
(現象の発生メカニズム)
この現象は”何故起こるのか”と云うと次ぎの様に成ります。
温度が上昇するとある温度域で結晶構造が変化します。この為にその変化のために必要とするエネルギーが奪われて一時温度が下がります(ポイントA)。 そして変化が終わると又上昇します。
今度は上昇したラインに沿って温度が下がって来ると元の上昇して変化した「ポイントA」で同じ現象が起こる筈ですが、ところが起こらずある温度範囲がズレて「ポイントB」で変化が起こるのです。
そしてその変化が終わると再び元の上昇のラインに沿って下がって来ます。
このポイントAとポイントBには一定の温度差域が出来ます。この温度差の領域を上手く使えば温度上昇に依って緩むものが締まる事にも成ります。
本来は論理的にポイントA=ポイントBである筈ですが、このポイントが物質に依って顕著に出るものとそうで無いものがあります。
且つ、この温度域にも大小のものがあります。特に金属には顕著に表れるのですが、この特性に着目してその「温度域の巾」を大きくすれば使えることに成ります。
特殊金属(ニッケル等)を投入して結晶を微細化させるとそれが顕著に表れるように成りますので、そのポイント域(A-B)を上手く使えば上記した研究課題が成功するのです。(現場ではノックピン方式と呼称)
このポイント域(A-B)では、上記した別の変化、つまり、その「金属の特性変化」でも「結晶の中間域」(特性の中間域)が発生しますので、金属は安定し変質化しないのです。
この「ポイント域(A-B)」即ち「中間域」では上記した特殊金属の特性が効果的に働きます。そして「拒絶反応的な事」が起こり難いのです。
つまり、「ブレーキ制動」に依って摩擦熱で温度が上昇し、又下降すると云う現象を繰り返しますので、この「スーパークーリング現象」が常に起こる事に成ります。
鉄系で云えば普通はポイントAは500度付近で起こります。そしてポイントBは400度にズレます。
ところが上記の特殊金属等を入れますとこのポイントが変わるのです。
この特殊金属は鉄より溶融点が高い事等の理由の為にポイントAが下に下がり合わせてポイントBも下がります。
そうするとポイントAを400度にし、ポイントBが300度の付近に持ち込めばこの研究課題は成功する基本に成ります。
この熱エネルギーの「温度の変化の中間域B」と共に、上記した結晶構造が変化する過程でも「特性の変化の中間域A」が起こります。
この「中間域A」でも特性変化する為に多少変化のタイムラグ域が起こります。このタイムラグ域も含めて「2つの中間域A,B」はほぼ同様の温度域で起こりますのでポイントAとポイントBを解決する事で「2つの中間域の活用」は解決する事に成ります。
以上の様にかなり特域の専門的な冶金金属の技術です。
(現在では、この「中間域A、B」の領域の特性を精密機器の部品によく用いられる様に成っていますが、「特殊合金鋼」として当時は未だ開発に依って「企業内規格化」される程度でしたが、現在は細分化して一般規格化されています。 故に、これによりブレーキに限らず今やこの合金鋼板を使って日本の全ての精密機器や工作機械は超高精度の品質や高速化や寒冷地の対策用として作り出せるのです。)
(中国の国家戦略)
何時、中国がこの「技術ノウハウ」等を盗み出して獲得できるかに掛かっています。
つまり、自ら研究する事では無く他国のノウハウの盗作で日本や先進国に追いつこうとしている「中国の国家戦略」と成っているのです。
真に「自国製」と言われるものは今だ少なく、列車やジェット機を始めとする超高度な綜合先端技術のものは事ごとく失敗をしている中で、本論の「新幹線」は盗用の成功例と思ったのではないか。 その意味での挫折は”又か”で大きかったのではないか。”いざ”と成って見れば原因追求の技術さえも無い事を知り焦った行為であったと観られます。
要は「中国の狙い」は、この総合力の研究では、現在は未だ中国では明らかに無理でありますが、高速-制動力の関係を知っていて何時かノウハウを盗み出し自国の物にする事にあり、そのためにも故に優れている日本を代表する川崎重工のこの「制動ノウハウ」のある列車が中国には絶対に国家戦略上必要なのです。
ところが、共産国には「貿易管理令」により「高度な電子部品機器」や「高度な精密機器」の輸出は禁止されていて、悪質と観られる様な裏ルートの方法で機器を入手して分解してノウハウを盗み出そうとしているのです。分解して解析して何かを見つけ把握しようとする為にも国家的課題としてもこの列車は国家戦略上で代表的なものとして必要なのです。
その為には、中には日本の中小企業の倒産先からスクラップとして精密機器を頻繁に入手して持ち帰り研究しているとの情報もあり、又、中国に生産拠点を移転した中小企業が契約期間が過ぎると別の場所に移転させて生産設備を強引に奪い取り、言う事を聞かない時は移転先を認めないと云う荒手の裏手を使うと云う事まで起こっているのです。(経験談) ニュースに成っている”中古の空母をベースに自国製の空母を製作している”との情報もある位に、 「石は薬」「法より人」の思考規準に沿って、”何事何物も利用した者が勝ち”、”模倣や盗用はした者が勝ち”の考え方が徹底しているのです。
これ程に況や”喉から手が出るほど”の中国の「国家戦略」は実行されているのです。
先進国に追いつこうとすれば、韓国が日本のプラント輸出を受け、後に激しい労働争議で追い出し日本の三菱の車や家電製品のノウハウを盗み出したと同じ様にです。
韓国には、同じ儒教でありながら、違うところは「石は薬」「法より人」の思考規準が無い事です。
だから韓国の手法は成功しているのです。
「研究課題」
戦後から始まった新たな日本の成長は中国の「石は薬」「法より人」の思考規準と異なり「雑種の優秀性」を基に「研究開発」から始まった「物造り」であります。
当初戦後10年程度は「安かろう 悪かろう」でありましたが「模倣」をベースにしてはいなかったのです。。
「模倣」の裏には必ず「研究」が伴なっていたのです。ここが中国と異なる処です。
それは、日本の「国民性」が大きく働いたこの金属の「質的変化と機械的な処置の探求」(2つのノウハウ)であり、「3つの問題点」(「3つの新たな研究課題」)を解決する事に動いた結果であり、本論を理解する上ではその認識が必要であります。
これ等の「研究開発の積み重ね」の結果で掴んだ「最先端の総合的技術力の駆使」が必要であったのです。
この開発経緯は、丁度戦後20年後から始まったものでその5年後には何と成功しているのです。
戦後の「安かろう 悪かろう」の時代が10年間で、残りの10年間は「自国製」の開発研究段階に入っていた事に成ります。
ブレーキに関してはアメリカのベンディクスがトップメーカーでありましたが、戦後25年後には早くもベンディクスを追い越して日本のメーカーの方が品質的に優れていた事に成ります。
この時期20年後に高難易度の新幹線ブレーキの開発に入っていた事に成るのです。
当時はブレーキ部品に使う鉄鋼板には特殊金属を組み込んだ規格品は未だ少なく、新幹線ブレーキに耐えられる上記に記する規格品は無かったのです。
この高度な研究開発は列車のみならず自動車や他の高精度の生産機器などにも使える研究開発だっただけに「新幹線」の国家プロジェクトとして鉄鋼メーカの積極的な協力を得て進め成功裏に納めたのです。
これ以後、この研究成果は専用鋼板として準規格化され、後半には順次細分化されて規格化されましたが、この開発の効果は瞬く間に他の産業にも広がりを見せこの開発の特長を生かした日本の高精度の高能力の製品が生み出されて行きました。
(開発技術とその加工技術)
中国は現在 ”どの鋼板をどの様に使えば良いか”の上記した専門的技術が無い為に規格品の選定の判断までにも至っていないのが現状では無いかと判断されます。
選定できれば専用鋼板としてだけは日本から輸入で入手する事が可能です。しかし、現実に適切な鋼板を選べばそれで済む簡単な話ではありません。
この鋼板を加工する技術(プレス技術や熱処理技術や生産加工技術)等のノウハウは中国にはありません。
そもそも特殊金属が含有する鋼板は普通の加工技術では難易度が高く「加工ノウハウ」も大きく伴なうのです。
概して云うと、含有する上記した特殊金属は加工する刃物先よりそれ以上の硬さや強靭性を有しているか、或いは同じ程度の硬さ程度である為に加工の刃物先が耐えられないのです。まともな品質では加工出来ないのです。(全ての刃物先にはこの同じ特殊金属の「タングステン」が焼き付けられている)
依って、研究は次ぎに刃先角度や加工速度や加工温度を研究して見つけ出して、量産できるものに開発したのです。この開発にはトップ技術を駆使したのです。
又、難加工の精度を上げるにはそれを0.01ミクロンまで測定出来て、且つ、加工面の画像解析出来る超高度の「三次元測定機」を使い加工面を画像にして解析して特長のある部分を特定し修正する技術も必要とするのです。
この「三次元測定機」は日本の独断場で、よく違反問題になっている物で「貿易管理令」に触れて共産国は入手出来無いのです。
鋼板を選定でき輸入する事が出来ても、この多くの「加工ノウハウ」はブレーキメーカー側のノウハウですので入手する事は不可能です。つまり「中国の戦略方式」では要するに不可能なのです。
依って、知らない人や庶民を相手に虚勢発言を張っていますが、厳密に云えば「中国製のアセンブリー列車」の域を越えないのです。
手芸品等の類似品や模倣品を作る事が出来ても、工業品を越えない範囲では類似品や模倣品は中国では未だ不可能なのです。まして、「高速化や寒冷地」などの難易度の高いものは「技術ノウハウ」と「加工ノウハウ」の2つのノウハウから類似品や模倣品は無理であります。
重要参考 此処には「加工ノウハウ」等の上記「2つのノウハウ」とは別に、決定的な冶金技術のもう一つの無理があるのです。
それは自動車(高速列車等にも)に使用する鋼板は「自動車専用薄板鋼板」(ラミネーション)と云って世界の自動車に使用されていますが、この「ラミネーション」は日本の独断場で外国では現在でも造れないのです。
それは精錬過程で鋼板を圧延で薄くすると、鋼板の板圧の中央部分に「不純物の帯」即ち「バンドストラクチャー」と呼ばれる「ゴースト」現象が必ず出来るのです。
それは鋼板に含まれる極少ない分散した不純物や攪拌され難かった炭素やイオウやリンやシリコンが薄板にする為に圧延しますが、この圧延の振動エネルギー(リミングアクション)で板圧の中央部に帯状と成って必ず集まる現象なのです。
日本の自動車の発達や高精度の精密機器や列車の高速化等の必要性に迫られて苦労して同時に他のプロジェクトがこれを解決したのです。
普通の材料として使う分には問題はありませんが、上記した本論の「高速化や寒冷地」などの仕様では破壊に繋がる振動や加速度のエネルギーが大きい為に影響してしまうのです。
これが存在するとこの破壊エネルギーが欠陥となって働き始め、突然に自動車の鋼板が2枚に「剥離分解」して破壊したり、部分的に起こる「局所疲労破壊」に繋がる亀裂が多数発生するのです。
(当然に高速列車でも使用されているので起こる)
特には箱型の車体などでは別として、プレス加工の多い「流線型の形状」の自動車などに現れて「高速化や寒冷地」では大事故に成ります。(曲げたり絞ったりしたコーナー部分に出現する)
この欠陥を解決したのが世界に冠たる日本の冶金技術なのです。
このゴースト現象は精錬中に炭酸ガスなどを入れて溶融した金属の攪拌を行うのですが、この攪拌不良が主な原因で中にある炭素との反応で連動して起こります。大変に難しい精錬技術です。
外国鋼板では自動車や高速列車に使用する薄板のものにはこの欠陥の無い鋼板を作り出す事が必要があるのですが、今だ難しくて出来ないのです。(日本製を使っている)
一部では自動車や高速列車の「車体内部の鋼板」にもプレス加工して利用されています。
ブレーキ部品も車体内部にも使用されている事で、もし欠陥と成って出た場合にはブレーキ部品にもその影響が出てくることにも成りますので、車体や外板にもこの日本のラミネーションを使う以外には本来はないのです。しかし、中国のものはこれを使っているかは技術知識が無い為に疑問であります。
情報によれば”車体に「大きな振動」と共に「大きな亀裂」が発生した”と伝えられていますので、上記したブレーキ制動の欠陥が露出して起こったと考えますが、このラミネーションを使わなかった事から起こっていることも考えられます。兎角起こりがちな現象ですが、両方が「競合欠陥」を引き起こしたかも知れません。(破面工学で判定が出来る)
(「2つのノウハウ」)
この参考例でも、これで「日本の技術力」がどれほどのものであるか判り、逆に「中国の虚勢の発言」の意味合いがどの程度の虚勢かがよく判ります。
勿論、中国の基礎技術力の無さの程度もこの発言や情報からも判るものです。
これは日本の冶金金属工学の優れている程度の証とも成ります。
これは決して「技術ノウハウ」のみならず日本の「加工ノウハウ」も同時解決して「高速化の列車ブレーキ制動」は始めて可能に成るのです。この「2つのノウハウ」は連動しているのです。
兎角、「技術ノウハウ」だけで論じられている様ですが、中国が模倣するとしても「2つのノウハウ」を解決しなければ物にはならないのです。中国の事毎くの「模倣の失敗」は此処に原因があるのです。
「2つのノウハウ」が絡む高速列車やジェットや自動車の様な高度なものには基礎力の無いままに簡単な期間や設備では元々が無理なのです。
”普通列車の延長が高速列車である”とする認識はそもそも間違いなのです。
ここには論じている高い「2つのノウハウ」の溝が厳然として存在しているのです。
高速列車は同じではなく別物なのです。
高速列車は「レール」と「莫大な重量物」によって比較にならない「莫大な加速度」が働くからなのです。
この加速度は”重量に対して2乗に比例する”のです。例えば50Kの物が加速度が働くと2500Kのダメージを受ける計算に成ります。
列車の車体重量を考えてください。これに高速が働きますので、考えられないエネルギーであり、このエネルギーが悪い方向に働けば「一点のミスや欠点」も「時間の間隔」なしに瞬時に「拡大破壊」を起す要素を持っているのです。「破壊」ではない「爆発」に近いと云えるでしょう。
ですから上記した金属や冶金的な欠陥が少しでも潜んでいると破壊・爆発に成ってしまうのです。
高速300K/Hは本当は怖いのです。
日本は「怖い」は「品質の良さ」に裏打ちされて安心して乗っています。中国は「怖い」は「知らない」で裏打ちされて安心して乗っています。これそのものが「潜在的国家欠陥」では。
「知らない」「知らせない」は本来あるべき姿ではありません。中国は「知らない」「知らせない」は「品質の良さ」に特化させるべきです。
この事無くして中国の高速新幹線はまた大事故を招きます。本論の危険性を悟ら無ければ今その上記した欠陥が進んで行く事になります
そもそも自動車の場合は、普通であり高速であり一帯で一連化していますが、しかし、現実にはありませんが自動車もレールの上を走り連結すると同じ事が起こるのです。
中国にはこの自動車の延長・普通列車の延長の認識にあったと考えられます。
そこにこれまた「認識不足」の中国の「潜在的欠陥」が存在するのです。
つまり、「国家戦略の政治ミス」(政治環境)が事故を誘発させているのです。
「開発技術の姿勢と方針」
これ等の認識の基に、正しい政治環境下の基で、これを解決する為に柔軟な発想と思考が確保されて、次のような学問的に「極めの発想と思考判断」での技術が確保されたのです。これは日本ならではの仕事なのです。(中国では現政治体制下では無理であり模倣も困難と成ります。)
日本のブレーキは急速に速度が上がり停車位置のかなり直前で高速で制動しても停車ポイントに5ミリとずれないのです。良く効くと云う事なのです。約400度くらいに成りますのでどんな機械的なブレーキの取り付け構造にしてもこの温度には耐えられません。
これを日本はこだまの初期の新幹線開発の時にこれを金属的に冶金学的に解決したのです。(開発経験)この「特殊金属」には夫々特徴を持っていてそれを如何に使いこなすか、先ずその特長を作り出す金属の結晶の組成形状をどの様にするかの研究と、中に入れる特長を持っている「特殊金属」の選定とその配合割合をどの様にするかの研究で、この400度と云う難しい難題を解決したのです。
因みにとりわけこの温度域には低温脆性現象(ステッドブリットネス)と云う厄介な問題が発生するのです。
金属が中に含まれる僅かな不純物(セグレゲーション)とP(リン)やS(イオウ)と結合してそれに依って脆く成ると云う温度域なのです。
これ等は普通の発想では出て来ないものでありますし、それを実現しょうとする気力も芽生えない筈です。
(300度以下では分子運動、結晶運動が低い為にその変化するエネルギーが無く起こらない)
この状態のものにブレーキを掛けるとその「繰り返しの動作」で「脆性破壊」と「熱疲労破壊」が顕著に発生します。先ず機械的な取り付け方法とは別にこの必ず起こる欠点を上の2つの研究で克服する必要があるのです。)
(未熟な操作技術で劣悪な線路状態では不定期振動とそれによる加熱現象が倍加する為にこの物理的な破壊現象は数倍と言う形で起こる危険性が潜んでいます。最終、破壊して”ブレーキが効かない”と云う現象と成ります。恐らくはこの極めて危険であるとする知識もないと考えられます。)
「技術課題の難問と国民性」
上記の”金属や冶金的な欠陥が少しでも潜んでいる”とする「怖い事」を続けます。
最大の難関はこの欠点と研究課題は相反する矛盾する特質を持っているのです。
つまり対策を講ずれば反対のこの欠点が増幅するというジレンマにあるのです。
普通で考えれば「絶対無理」の答えなのですが、その何れにも入らない中間のところを見つけると云う根気のいる研究開発です。
どんな金属にも必ずこの特性域の中に「中間域」の発生する「小さい域」(ポケットゾーン)を持っています。上記した「スパークーリング現象」の2ポイントと共にこれを見つけ出す事なのです。恐らくは共に自然現象の為に同じ「小さい領域」付近に出て来る事に成ります。
これは日本人ならではの根気の要る研究です。脆くなれば逆にブレーキどころの話でなくなりますから、欧米は合理的思考が強いので危険性から観て”この領域に入らない方がベストだ”とする考えに到達するのです。納得出来るし一理はあります。
要は上記した様にブレーキ制動の限界に立ち居るか否かの問題です。
しかし、これは上記した中国人の国民性と異なる日本人のかなしきかな国民性のさが(性)です。
この性の違いで何から起こるかは「青木氏と神明社」の中で詳しく論じている事です。
本来、「物造り」の技術とその精神は6世紀始め頃から6世紀中頃に掛けて後漢の漢民の阿多倍王等の技能集団がもたらしたものでありながら、今やその立場は逆転しているのです。
「石は薬」「法より人」の思考規準とそれを構築した「民族性結合」の継続の所以がこの差と成って現れているのです。
「開発の判断可否」
現在はこのブレーキ制動は当初の新幹線はMAX250K/HであったものがMAX320K/Hに常時制動できる様になっていますから、更に超限界に挑戦して改善され、技術開発されて完全に確立して無事故の35年は経過していますが、まだ諸外国は高度な総合力の為にこれに全く追いついていません。
ョーロッパ諸国では多分無理でその内に問題を起こすのではないかと考えていた節があります。
しかし、限界のブレーキ制動と高速化の2つを連動させて成功したのです。
と云うのも、この時フランスは高速化のギリギリのところの500のK/H試験走行を成功させたと発表したのです。もちろん、ブレーキは普通の制動力の範囲です。ですから、高速後100K/H程度にスピードを落としての山形方式の制動です。
この事から考えると、むしろ35年の経過でも、この領域の高速化の制動技術を合理的な判断として採用しないとしている可能性も確かにあります。それ程に難題なのです。判断の分かれる技術開発だったのです。
当然にその根拠は列車や自動車はブレーキ制動力が命ですから、高速になれば成るほどに危険は増します。しかし列車が”1時間程度遅れても何の問題もない、安全であれば問題なし”とするヨーロッパ系の国民性からすれば”そんなに急いで何処へ行く。 その間、速いのだから問題なし”と成るでしょう。
これの探究心は「良悪の問題」、「優劣の問題」から離れた日本人の「融合単一民族」の「雑種の優秀性」とその「性」から起こる「国民性」から来ているものであります。「究極を求める性」であります。
ヨーロッパ諸国の列車の運用については「判断の違い」であると観ていますが、では中国人は何れにある国民性なのでしょうか。それに依ってもこの「潜在的欠陥」がどのような形で顕著に出てくるかはこれから見るべき問題です。
筆者はこれまでの史実に基づかない中国の虚勢と国威高揚の発言から観ても、又伝統の思考規準の「石は薬」「法より人」からしても「潜在的欠陥」に成るとみているのです。
因みに韓国は日本人の全体の3割を占めている縁戚の民族ですから、儒教の宗教観は異なりますが、全体として酷似していますから、この「ノウハウ」を吸収する方式で克服したと見られます。
中国も韓国と同じく「ノウハウの吸収と克服」は可能と観ているのでしょうか。観ていると考えます。
そして、その時期を”この新幹線で出来た”と見ていてそこで一挙に喜び勇んで「虚勢」を張り世界に「鼓舞」した節があります。それが脆くも崩れたのです。”そんなに甘くは無かった”と反省しているのでは。
今回の事故の原因の出し方で判断できます。
「雷と信号」で逃げれば原因究明どころか対策もままならない立場にあることを知り、”韓国の様には行かない”と悟った事の発言と成ります。この「雷と信号」の根拠を明らかにしないままに終わると観られます。
だとすると、中国はこれを機会に多くの上記する「有形無形の潜在的欠陥」を持って居る事に成りその事に気が着き始めたのかも知れません。
しかし、「中国の国民性と政治体制とその体質」がどの様に作用するかが疑問です
そもそも韓国は日本の三菱グループから「製造プラント輸出」して獲得したものでありますが、このブレーキは列車メーカーではなくブレーキメーカーの領域ですので、韓国始めとして中国には当然にこのノウハウは渡っていませんし、中国自身この間これほどに難しい総合技術力の把握と操作技術は専門的に観て開発とそのノウハウの取得は到底に無理と成ります。そもそも部品調達のアセンブリー生産しかないのです。
これは高速列車を走らせるという事とを考えると、ブレーキと云う事からするとそれは恐ろしい事になり、特に日本の高速列車を走らせるという事は「潜在的な欠陥」と成り、「基礎的な技術力不足」と成り得ます。
ヨーロッパの形式も別の意味ではそれなりにブレーキ制動域のノウハウもそれなりに難しいことに成ります。この異なる二つの技術の習得は専門的な立場から見ても短期間で成し得るものでは決してありません。
「人為的操作の必然性」
さて、そうするとこの様な「劣悪な未熟の環境」の中であるとすると、戻して事故を検証すると、本来前方を走るべき列車が後方を走る管理システムはどこから生まれたのかと言う疑問が生まれます。
実はこれが上記するブレーキ制動力に起因しているのです。
全くの制動力の精度の違う高速の列車を走らせると成ると、何処かの駅のポイントでその違いを吸収させる為に、混成の為にかなり複雑な「入れ違い」を列車管理上で「人為的」に頻繁に起させる必要性が起こります。
混成であるが為に完成された追加管理ソフトが改良されて持っているとは考えらず、ヨーロッパ方式でもヨーロッパでは充分に出来ていないという現状を考えると、多くは中国人の「人為的な操作」に委ねている事である筈です。
本来前に走るべき川崎重工の列車が前を高速で走ると後ろのカナダの制動力の悪い列車との間に大きな間隔が発生してしまい、列車管理システムに大きな「タイムラグ」が起こりすぎて、追突の危険で運用できません。
そこで、この危険な間隔を解決させる為にある駅の手前で後続の列車がスピードを落として次ぎの駅に向かいます。後ろにした制動力のよい高速の川崎重工の列車をこの駅でやり過ごしますと管理は可能に成ります。
(日本の在来線に特急列車が走ると普通列車は最寄の駅で停車して「やり過ごし」をします。ブレーキ制動力による走行の速度変化の差ですが大まかにはこれと同じです)
前方にいた列車はより正しく早く次ぎの切り替え駅まで到達しておく必要が起こりますが、何らかの理由で(雷か人為操作ミス)低速40キロであったとしていますから追突の危険性は最大に成った事に成ります。
この直前で事故が起こった事に成ります。恐らくこの時にブレーキ制動の限界を超える「未熟な操作」が重なっていた可能性があります。
「混成システムの矛盾欠陥」
ところが、更に問題が生まれます。ここでETCヨーロッパシステムは「制動力の悪い列車群」と「異なる形式の各国列車」を一定としてこれを前提としていますので、川崎重工の制動力のよい列車が介在する事はこの「やり過ごし」方式には矛盾が生じることに成ります。
事故が起こったとして後方にブレーキをかけますが、後ろは制動力のよい川崎重工の列車です。管理システムで後方に制動をかけても最早間に合いません。その管理システムの速度管理では走っていないのですから。この矛盾を避けるべき手立てとしての其処に「やり過ごし」現象のポイントが差し掛かったのです。二重の矛盾点が重なるべきポイントと成ります。
「雷、サージ対策の欠陥」
更に、3重の自然災害がここに加わったのです。雷です。雷により停止する可能性もある為に前方を走るカナダの列車は制動力が悪いので速度を落とす事になってしまったのです。
ところが後ろは制動力のよい川崎の列車ですので、然程に速度は落とさずに走っていた事に成りますのでより追突の危険性が余計に増したことなります。
更に雷対策(サージ対策)も諸外国に比べて日本は段突に良く出来ていますので速度を落とさずに走らせます。ところが、ここでも技術力の差が出たのです。
実は日本製の列車は「サージテスト」と云う大変厳しいテストを課せられているのです。
気象変動の多い環境のために外国列車と段違いのテストを通過させなければ成りません。
これに更にメーカー独自の「過酷テスト」(パーチェイステスト)が掛けられますので、まず、サージつまり雷では信号や制御に問題は起こらなくなっているのです。
”雷で事故が起こる事は考えられない”との日本側の関係者の発言は此処から来ています。
相当なサージに対するノウハウなのです。先ず回路上のノウハウですから中国では真似は困難でしょう。
ただその分CPU回路等を強くする為に安全回路を幾つもの回路ラインに組み込む事に成りますので値段が多少高く成ります。
半導体の耐力アップや、コンデンサーCの追加と、抵抗Rと、電磁コアーやサージチップ等の組み込みを行います。
ところがヨーロッパの列車と列車管理システムは平地の多い比較的環境の良い所を走りますので、サージテストには比較的緩いのです。
サージテストでは普通の弱いサージ対策なら列車には管理CPUソフト基盤が入っていますのでこれがやられてしまう懸念があるのですが、ところがこれでは基盤そのものが壊れてしまいますので制御回路が無くなりそれこそ列車は暴走しますので大変な事に成ります。
そのためにサージ対策は主にこの回路入口にセットして内部の回路の中に入らなくするように設計しますし、仮に入っても内部にもサージチップ等の対策を施して最悪の状態が起こらないように基本的な設計がなされます。故に内部までサージのカレントの電流が入る事は有りませんが、仮に中に入ると回路が壊される前に基盤そのものがサージの電流が強い為に焼けてしまいます。
事故を起こったものを見れば一目瞭然で基盤を観ればすくに判ります。そもそも基盤がバーンアウトする事の事態がおかしいのですから、中国はそれを見せる事さえもしない筈です。
サージ対策とは主な方法としては、カレント電流を上記のサージ対策部品で主に電磁コアーを通して熱に変えてしまう仕組みに成っています。要するに判りやすく説明すると電子レンジの原理と同じなのです。
サージが鍋と考えればよい事に成ります。磁場の中に電流を含む異物が入ろうとするそれを拒む形で異物に誘導起電流が流れて熱に代わる原理です。
雷は電流ですのでこれを熱に変えるか、途中でコンデンサーに溜めてしまうか、別の非難回路に流してしまうか3つの方法の何れかを採れば問題はなく成ります。
この原理を回路の色々なポイントに問題が起こらないようにセットする事なのです。この3つの方法の使用は回路の内容に依っても異なります。
ですから、そもそもサージに依って信号が赤から青になるなどの内部の回路の変化の問題ではないのです。
先ずCPU回路の入り口の問題で厳しいサージであれば殆ど手前の電源回路でOFFさせる事に成ります。当然にこのサージ対策にも高度なノウハウが伴なっているのです。何故ならばサージ対策をする事に依って逆にその弊害(バグ)が起こるので、セットする場所やその部品の選択などの極めて高度な電気設計のノウハウが必要なのです。
中国がこの高度のトップクラスの設計能力をもった技術者が先ずいないと考えられます。
中国としても仮にこれが原因であったとしても何ともし難いことに成ります。
サージテストする専用の高度なテスター設備が必要なのです。このテスターに基のプリント基板を覚えさせ対策した回路をセットすると其処に問題点が検出させそれを解析しながら進めて行くのです。そしてそのテストをする専門の試験環境室チャンバーが必要と成ります。
中国にそれがあるかの問題ですし、そのチャンバーとテスターの専門メーカーは日本が独占的に段突なのです。
(高速化は始めて間もない時期ですからこのサージテストの高度なチェックシステムとノウハウは無い筈です。)
そもそも大抵は電磁コアーかサージチップで熱に変えられますので問題は起こる事はありません。
日本の全てのものはこの国の規格テストに合格していますので全く考えられないのです。
(参考 4K程度から14K程度の差 外国のものは確定は出来ませんが4-6K程度か 日本は8K-12K程度)
雷の中で前方のカナダの列車は「横ハシリの雷」のこのかなりきついサージに耐えられなかったとも考えられますが、しかし、サージ説はこれ以外にも考え難い事があるのです。つまり仮に入り口で耐えられなかったとしたら、当然に前方のカナダ製列車のCPUと列車内の搭載管理システムのCPUが破壊された事が考えられるのですが、ところが、しかし、列車は避雷針を保持し、且つ電線と線路の両方に上下並行に避雷針に成り得る伝導体が走っている構造と成っていますので、元々ヨーロッパの管理システムの回路でも殆どカレントの過電流を抑える事が出来る構造に成っています。
仮にカレント電流が流れても上記のサージに対するある程度の保護回路があればこれをブロックする事に成りますのでヨーロッパのものにしろ日本のATCのCPUは破壊しません。
諸外国のものも線路と電線ケーブルと列車は元々耐えられる構造ですが、中国が勝手に変えてしまったとすると別問題で耐えられるかのきわどい危険性が高まります。
ところが回路上の変更はプリント基板で出来ていますので回路変更はまず出来ないと考えます。
変更するとなると、上記のサージテストを繰り返して変更によるバクの問題が出ないか調べなくては成りませんし、プリント基板の回路内部まで把握できるかの問題が出ます。
量産システムでプリント基盤は造られ手作りではありませんので変更は先ず無理です。中国が部品調達していることから考えると回路変更は無理であります。
先ず、変更が出来得るハード回路ではありませんので、先ずその基盤の設計者程度の技術者でなくては専門的に観て無理です。依って変更は先ずは無理と判断できます。
この3重の技術的矛盾が引き起こした事故と成ります。
サージにたいするソフトに組み込む高い技術力も到底中国には無いと考えられますので、恐らくは中国で出来る範囲としては色々なCPUとCPUの間をソフトに依って繋ぐ回路程度の基盤程度と成ります。
これを「中継基盤」といいますがこの程度でしょう。
恐らくは、この少なくとも前記2つの矛盾は各所に必然的に起こる筈です。避けられない必然性のあるシステムと成ります。
少なくとも異なる制動力とスペックの川崎重工の列車が2つのメーカーの列車の中で走る限りに於いて起こる事に成ります。
現在の混成列車を編成する選択を採った中国に於いてこの4つの矛盾を解決するほどの技術力は専門的に観て有り得ない事でありますので潜在的に持つ欠陥と成ります。
ましてヨーロッパでも日本並のものが出来ていないのですから。
結論的には対策は「混成の列車システム」である限りは無い事を意味します。
日本を除いて世界の技術力ましてや中国に於いては「無い」と成ります。
ですから、終局は「雷」に原因を押し付けて対策が出来ない欠陥列車システムであるので慌てて証拠隠滅のために「埋める」と云う行動に出てしまったのです。と云う事は自らその原因究明と対策立案の能力が無い事を暗に認めている事に成ります。しかし、かといって日本などにその協力を求める事は虚勢を張っている以上は求める事は立場上出来ない事を物語ります。
まして証拠が出る事がこの「4つの潜在的欠陥」が露出する事に成り、外国のメーカーに「おんぶに抱っこ」の何も出来ない姿を露見させてしまいますので、虚勢を張っている手前それこそ中国にとっては「恥じの上塗り」の国難で有ります。
技術問題の解決というよりは最早一連の経緯から政治的な問題としての重要度がましている事に成っています。日本とヨーロッパの力を借りない限り「原因追求と対策」をも出来ない立場にあることが判ります。
「真因対策の解決策の検証」
そこで、では、本気で解決しようとすれば、中国に方法が無いのかと言う事ですが、論理的には問題の優秀な川崎重工の列車をラインから外す事で解決する可能性があり、列車種を統一する事で論理的に危険率は低くなる筈です。
ヨーロッパの列車管理システムの良悪の中で起こる事故の可能性の範囲で留まりますが、しかし、このヨーロッパ(EU)の混成式の列車管理システムはヨーロッパでは現実に不完全なシステムとして上記した様にまだ管理しきれない混成の欠点が出て現実にはあまり採用されていないのです。
そこで、では”川崎重工の列車を外す事が出来るか”の問題です。
出来ない筈です。この性能の良い列車を以って高速としての中国の”鼻息ばかりの謳い文句”にしているからです。国威高揚の為に。
川崎重工の列車を走らせるには本来は列車管理システムを日本のATCにする事と、列車主体を川崎重工を始めとする日本製の列車にする事で事故の起こる確率は極めて低くなり、制動力の悪い列車は早い日本製の列車を「やり過ごし」の方式でプールするソウトを日本製で組めばクリヤーする事が出来ます。
第1は制動力の悪い諸外国の列車を主体とするから良い列車が原因してシステムに矛盾が生まれるのです。
第2は制動力の悪い列車は時間帯に応じてある駅で「やり過ごし」の方式でカバーできますが、この逆は論理的に困難です。そもそもこの世の構成は第2の構成で成り立っています。この世に限らず分子構造の中までこの第1の構成で成り立っていますからこれは最早この世の自然の摂理です。
第1と第2を混在させるから問題が起こるのです。
第1を導入する以上は第1を主体として行えばそれはそれで第2と成る事に成りますから問題は無く成る筈なのですが、第1も第2も混成の主体は何れにも着かず問題を起すのです。
中国の大きな判断ミスでありこれを続ける限り「潜在的欠陥」に結びつくものです。
「時刻表のタイムラグ欠陥」
ここで、更に問題が出てくるのです。列車の制動力の良悪の問題ですが、制動力が良いと云う事は「時刻表」をより正しく守れることを意味します。
停車位置も定位置で停車する事が可能となりそれだけに「事故の確率」は低く成ります。
ヨーロッパの列車の制動力であれば山形∧ですのでかなり手前から速度を落としてブレーキを掛けながら停車位置に止まろうとしますから「時間ロス」が起こり「時刻表」が正確に守れなくなります。
これが走っている幾つかの列車群に起こりますので其処に起こる「時間のズレ」が重なると最悪「衝突と接近の危険性」が高まる事に成ります。
(ヨーロッパのようにゆったりとした大きい「時間ロス」が発生してもそれを吸収し得る余裕ある「時間表」を作ればよいことに成ります。)
更に其処に制動力の良い日本の列車が介在すると余計に「衝突と接近の危険性」は高く成ります。
この現象が各区間で起こる事に成ります。依って、「時刻表」にも列車の前後が逆になるなどの問題が起こってくる事に成るのです。其処に過密が重なれば「衝突と接近の危険性」は更に増します。
そうすると列車管理システムの信号の精度良い管理ソフトが必要に成りますが、これは混成システムですので、確実にしようとすれば列車の「完全な固体認識」が必要と成ります。
しかし、先ず相当にこの「固体認識」はソフトと機械的に困難です。
依って中国の現場では此処の部分を「人為的操作」で逃げる以外に有りまんので「衝突と接近の危険性」のズレが常に発生していたと考えられます。「人為的な潜在的欠陥」となります。
依って、この技術力が無いがためにもともと人為的にする為により早く「やり過ごし」のポイントまで行かせる為に「青信号」であったのであって、「固体認識」の無さと「サージ対策」で赤に変え得るノウハウが無かった事を意味しますので、上記した「衝突と接近の危険性」の矛盾から衝突が起こったのです。
日本の新幹線の様にくさび鍵形〔印の制動能力であると、直前でブレーキを掛けて停車できる同じ制動力と同じ速度と同じ時間帯が守られて初めて高速鉄道は維持出来るのです。高速化=ブレーキ制動の前提に於いて。
この事も加えると中国の混成列車システムであると最終4重の矛盾を持つ事に成りますから、衝突を含む事故は”必ず起こるシステム”と云えるのです。
ところがこの4重の矛盾の解消策は、中国では上記のこの解決案を実行する事は政治的に国民高揚を図る目的があり、且つと技術的に低く混成である限り無理であります。
因みに、ところが、韓国の高速列車もフランスの方式ですので混生システムではない為にこの様な3つの矛盾の事故は起こらないのですが、もとより列車管理システムと制動力はヨーロッパ方式で走らせている限りは「時間のロス」と「小さい事故」は現在も起こっています。これを証明しています。
ところが、これを補う為に韓国は三菱系の新幹線の列車を別に三菱OEM方式で製造して韓国製として輸出しようとしているのです。日本の三菱の製造単価を下げる目的です。
何時か韓国は日本のシステムに変わる事を意味しています。車や家電の三菱プラント生産方式で日本のノウハウを模倣で獲得した時と同じ様に、又、三菱系のものを韓国製とするでしょう。
因みに台湾は全て日本の新幹線ですので問題は起こっていません。
しかし、この様に中国がどの様な列車を自国の物として喧伝しても絶対的に技術的に造り出す事が出来ないのです。
「アセンブリー生産の弱みと欠陥」
上記した様に現在技術力が進んだヨーロッパ諸国でも日本のシステムと金属関係の2つの技術力には追いついていないのです。ましてや中国にはこれを実行できる全てを賄えるだけの総合の基礎力の技術力と生産力はないのですから、部品は全て外国から買取調達する事に成ります。要するにアセンブリー生産です。
その意味で列車一つを売るよりは部品単位で売却する方が欧米と日本のメーカーはより利益率は上がります。ですから、日本を含む先進技術の諸外国は損はしないのです。
戦略的にも政治的な問題が起これば部品の供給をとめる事で「首根っ子」を抑える戦略が採れることに成ります。
日本を含む諸外国は当初からこの「潜在的欠陥」を承知していて戦略的優位がある為に落ち着いて今回の問題に対処出来ます。
この事は政治的に承知している中国は、つまり、国威高揚の切迫条件に迫られて慌てる余り中国は言葉で国民向けに大きなことを言っていますが、実は「首根っ子」を抑えられているのです。
これを外国に輸出するも日本に執っては部品売却益が増える事を意味します。問題が起これば解決する能力の無いままに中国が責任を負う事に成ります。
責任はまともには負えないでしょう。上記した様に対策力がそもそも無いのですから。中国の事ですから政治的にどの様な難癖を付けて来るかの危険はありますが、「首根っ子」の事から”事を荒立てる事”は決して出来ない筈です。
専門的に観ればこれだけの決定的潜在欠陥を持っていれば導入する国は限られてきます。
価格を落としての販売と成りますが、部品が先進技術国から購入する生産体制そのものが変わらなければ大きく価格を下げる事は困難です。況して売却先にこの欠陥システムの列車を運用する能力がある事が疑問視されます。あくまで「国威高揚の道具」に使う目的でしょうが、今回はその問題点をさらけ出してしまった事から難しく成ったと考えられます。
そこで、中国らしく「雷」と「埋める」で「臭い物には蓋」で逃げようとしたのです。
技術問題点を解明してもこの4つの矛盾をさらけ出す事に成り余計に中国としては問題を大きく広げてしまう事に成ります。
仮に技術的問題として原因が解明されても中国では解決で出来ないのですから。下手をすると拗れて購入先と政治問題化して「部品の供給」が止まる事も充分に予想できます。それこそ中国にとっては基も子もありません。
「過去の開発失敗の経緯」
そもそも中国は国威高揚の為に1990年頃から10年間ほど独自の列車を開発し始めたのですが、結局、無理である事が判り4年間で今回の外国から購入しての混成システムと成ったのです。
この事からでも潜在的な問題がある事が判ります
ロシアの技術導入を基本にロケットや戦闘機開発も行いましたが全て失敗に終わっているのです。
話題に成ったジェツト戦闘機はロシア式のもので19機作りましたが上空で激しい振動を起こして飛んでいられない有様で即時開発は中止したのです。表向きは成功したように国民に見せていますが。
人工衛星のロケットもロシアのものを基本にして2段目を類似の自己開発をしたのですがこれも2段目爆発で失敗に終わっています。それだけにこの高速列車は後に引けない国威のものと成っていて何とか混成でもよいから成功したかに受け取り、喜び勇んで必要以上の虚勢を張り国民に鼓舞したのですが1月もしない内に上気する「潜在的欠陥」から決定的な失敗を招いてしまったのです。
幸いに国民にはこの「潜在的欠陥」を見抜くだけの知識と理解力の不足と情報の不足があるから技術問題として発展しない事が伺えますし、補償と関係者への不満だけに収まると考えられます。
まして、一般の中国人の「石は薬」「法より人」の思考規準から真因追究の要求までに発展しないと考えられます。
上記の通り中国当局は真の原因追求は政治的に戦略的にもとより技術的に外国の力を借りない限り出来ない筈で見せ掛けの行為に終わると見られます。
現に、そもそもこの様な列車事故の矛盾を指摘し解明できる国民が居ないことそのものが問題なのです。ここでもその技術力の無さが露見しているのです。日本では何もかも考えられない事です。
日本では国民がメーカーと相当する以上に技術力を保持しているのです。それだからこの様な優秀な制動力とATCとが生み出されているのです。専門的な立場から見て中国にはこの「潜在的欠陥」の改善は急激に成される技術力ではありません。
混生システムのアセンブリー列車です。原因が判っても対策を採る能力が備わっているかは疑問で、結局は原因究明は関係国の協力なしでは現実には無理と成る筈です。
依って中国は戦略的に原因を雷説か信号説にする事以外に無い事に成ります。
「サージテスト」の事実を無視して。しかし、混成システムは4つの矛盾を潜ませたままで。
「今後の中国」
現実問題として政治的に国民の知識力を高める事は現体制の共産党の言論統制や格差等に対する批判に繋がり、政府の不安定さに繋がっていく事に成り痛し痒しの問題となります。
韓国の様に技術力を吸収して経済力につなげる事は喉から手が出るほどでしょう。しかし、急激に経済力を上げる事は「民度」が上がり国民意識も高く成りますので政府の倒壊にも繋がるのです。
だからある意味で戦略的に混成にする必要に迫られた事も有り得ます。
日本製の物に統一させる事は国家防衛に対する戦略的な意味で日本に技術支配される事にも成りますので、せめて数カ国にその支配性を分散させる事も必要です。この判断のミスが招いた事故といえます。
何にしても他国の基本をベースにして自国製として見せつけ国威を高揚させねば成らない国情に至っているのです。今後も著作権の盗用問題に見られる様にこの様な状態が続くと見られます。
しかし、それでもロシアの戦闘機や人工衛星を始めとしてベースにしてでも失敗している技術力の無さですから、その基礎力の範囲は見えています。
故に原因追求はおろか対策までも成し得ず、たとえ成し得たとしても仕様内容が異なっていますので部品へのフィードバックは論理的に不可能ですし、また、下手をすれば部品の停止ともなれば国難と成ります。
先ずは、専門家でなくては判らない「雷か信号」でお茶を濁す事の程度で真因の証拠を見せずに終わらせるつもりで有ろう事がよく判ります。
その様な列車に乗らなくてはならない中国の人々の心境はいかばかりか。同情に耐えません。
実情や真因を”知らない知らせない”の中ではその怖さも半分では何か矛盾を感じ割り切れないものがあります。
共産主義の一党独裁の計画的市場経済の「潜在的欠陥」の一端を露見した事に成ります。
本事故の一連の列車計画もバブル破綻経済を恣意的に起こしている延長線上にあるのです。
中国経済全体がそうであるようにオリンピック以降の経済は「恣意的バブル経済」にして維持しています。
政治も何もかもが共産党の一党独裁が「潜在的矛盾」を引き伸ばしている事に過ぎない事に気が付きます。
兎にも角にも、それらを解決するには中国は先進国を見習ながら国民の民度を上げなくては成りません。これは中国の伝統的な思考規準の「石は薬」「法より人」の考え方が無く成るかに掛かっています。
どの様に無くすのでしょうか。「知らない知らせない」の範囲では中国国民には事の問題意識も無いかも知れません。
つまり、中国の「他民族性の国情」から日本の様な「融合民族性」の国情により近づく事、近づかせる事が「雑種の優秀性」を発揮させ、「石は薬」「法より人」の考え方が変える事に成ります。そしてそれが世界に通ずる認識力と物造りの国が生まれるものと考えます。
しかし、反面それは現体制の崩壊に繋がる最大要因とも成り得ます。このシーソウの原理の中にある事が判ります。
これからも「この種の事故」と「事故の処理」と「中国の国民への虚勢」がしばらく続く事が予想できます。
要するに技術も然ることながらこの国情も「潜在的欠陥」を持っている事に成ります。
今回の処置もこの思考規準と国情が根底にありそれが大きく左右されていると観られます。
(中国の技術的な物造りの現状のレポートは「青木氏と神明社」の関連レポートとしてそれに基づき詳細を記述していますので不明なところは「青木氏と神明社」を参照してください。)
名前 名字 苗字 由来 ルーツ 家系 家紋 歴史ブログ⇒
福管理人
2011/07/28 13:59 - パソコン
中国の新幹線脱線事故
(潜在的欠陥)
序文
現在、以前より強気の発言が話題に成っていましたが、中国の表向きの威信を掛けての事だっただけに衝撃的な問題と成っています。筆者は当初よりこの問題には危険なものが潜んでいると技術者として疑念を抱いていました。図らずも中国が何と”日本に進んだ新幹線の技術供与をしますよ”と虚勢と威しを掛けてきたその直ぐ後にこの事件が起こりました。真実味の無い無知な国民を騙す共産党の国威高揚が招いた事件です。恐らくは真因をぼやかした原因説を出す事は判っていますので、そこで筆者の前からの疑念を敢えてこの際に披露しようと考えました。なかなか特別な領域の技術問題ですのでこの様な真因を判断出来る技術情報を把握している人は少ないと考えて投稿します。
多少、専門的内容を記述せさることに成りますが「潜在的欠陥」をより詳しく網羅させる必要からとご理解ください。
本件は今投稿中の「青木氏と神明社」のレポートに記述した「物造り」に真に関係する内容の決定的な例としても取り上げられるものですので敢えて論じます。
実はこの問題は歴史的な専門的立場からも観ると、明らかに「石は薬」「法より人」の中国の思考規準に影響した「潜在的な事故発生要因」が大きく潜んでいるのです。
「事故の相関性」
そもそも車や列車の高速化は常時ブレーキの制動力と相関していて命です。
後のパーツは常時の直結の人命の事故には繋がる可能性は有りません。せいぜい複合要因にての結果と成るでしょう。しかし、この事故は明らかに高速化=ブレーキ制動力=命の関係にあります。
それだけにこの事故には幾つかの要因がある中で、主に中国の「潜在的欠陥」の体質が働いた「ブレーキ制動力の事故」と云ってよいものです。
従って、真因を解析して判断するにはかなり専門的な工学領域の高度な幅広い綜合技術知識が必要と成ります。それも開発担当域の限られた技術者のノウハウの領域と成ります。
つまり、技術的に政治的に真因が解明され難い事故ともなり、且つ中国の置かれている立場と国民性が更に左右してしまう事故と成ります。
そこで、「青木氏と神明社」の論文に「物造り」の事として記述している事が真に一つの事例として現れてしまいましたが、当初より何か起こると気にしていた事なのです。
「高速化制御システム」
さて、上記した様に、それは高速化を制御する「列車管理システム」と「高速列車のブレーキ制動力」との相関問題にあるのです。中国はこの領域までの知識は到底ないと考えますが、全体として外国技術を習得し切れていない「付け焼刃的な現状」にあると考えられます。
中国はこの高速列車を主にドイツ、カナダ、日本の3国の列車技術の殆どの部分で導入しています。
外国技術は高度であり、且つ寄せ集めの先端技術である為に余計に複雑化して充分に短期間(4年)では習得は出来ていないと考えられます。列車の操作力は勿論の事、列車生産に関わる3国の異なる技術的ノウハウ等の取得は皆無に等しいと考えられます。そもそも教える方もこの短期間では困難です。
それだけの基礎力が元々無かったのですから、この短期間で扱いこなすにはこの複雑化した現場では習得し難いものと成り得ている筈です。「四苦八苦」が正しいのではないでしょうか。
中でも本文の「列車管理システム」のノウハウと「ブレーキ制動力」のノウハウの2つは最も命に関わる事でありながら、それだけに理解し習得に至るまでには最高度の難しいノウハウと成る筈です。
先ず無理であろう事が判ります。
中国当局がどんなに「虚勢」を張って国内向けに発言しても我々技術部門に直接携わった者から見れば「空虚」そのものであります。
先ずは、中国の「列車管理システム」はヨーロッパ統一の「ETC管理システム」を導入していますが、日本の列車(川崎重工)は異なる「ATC管理システム」で出来ています。
何れも「自国製」と発言していますが、この「虚偽の発言」そのものが無形の「潜在的欠陥」ではないでしょうか。
「高速化ブレーキ制動システム」
次ぎに、事故の追突された列車はカナダ製です。後ろの追突列車は日本の川崎重工の列車です。
ここでこの2つの列車には運用具合に依っては決定的な命に関わる違いがあるのです。
それはカナダ製のブレーキの制動力は山形制動の方式です。日本の列車は全て楔鍵形制動です。( 〕印を左横に倒した楔形の制御)
同じ線路上で、同じ列車管理システム上で、2つの列車の高速時のブレーキ制動力が著しく異なり、且つ、その制動方式も全く異なるシステムと云う極めて危険な運行状況です。考え難い組み合わせと成ります。
今だヨーロッパも日本も開発しきれていない相当な極めて最先端の「列車管理システム」でなくては安全運行は出来ないのではないでしょうか。
まして、この「2つの方式」の制動力の持つ中で、且つ外国から購入したこの混成列車の中国では、それまでは列車の管理は殆ど人為的に行われていたのですから、この複雑な条件をこなすシステムの開発は到底無理である事は云うまでもありません。
そもそも、つまり高速に成るほどブレーキは制動力が落ちますが、「2つの方式」の制動力が同じと言うことで有れば問題ありませんが、諸外国製のブレーキは高速に於いてはそもそも効き(制動力)が悪いのです。その為によほど手前からスピードを落としながら制動しないと停車位置に止まらないのです。
次第に速度を上げ最高速度に到達すると今度は次第に問題の起こらない速度まで落としてブレーキを制動して停める山形制動です。
日本はすぐに速度をピークに上げてそのままに維持し停車直前でブレーキを制動して定位置に停める楔鍵型です。(くさびかぎ形)
これは「方式」が違う、「制動力」が違うの話では無く、「技術力の差」なのです。
これはブレーキの技術力の開発差から来ています。つまり、殆どは金属冶金工学の技術力の差で日本は段突に進んでいます。
「摩擦熱400度と350K/Hの関係」
そこで上記した「問題の起こらない制動ポイント」とは、技術的に「摩擦熱が400度」のところを限界としています。これは大変に重要な要素なのです。
高速での制動は摩擦熱などによりかなり高温(日本は400度限界)に成りますので、普通の冶金学と機械工学の範疇では本来はブレーキそのものが造れないのです。ところが日本のブレーキはこれを解決していてこの相当な企業秘密ノウハウを占めています。
ところでこの「400度と云う温度」が金属にとって非常に厄介で問題の多い温度域で、金属の結晶に大きく質的変化を与える温度域なのです。
更に高速でブレーキを制動するとしますと当然に低速のものより摩擦熱が数倍に上がりますので、その400度の薄赤くなった金属には、溶接やボルト締め等の普通の機械的な処置が強度的に低下してしまい、使えないし加工は出来ない事になります。
ではどの様にしてブレーキの「焼結パット」を取り付けるか、又列車本体に取り付け固定するか普通の既存の技術的な方法では通用出来ない範囲なのです。
金属が温度が上がれば柔らかくなるのは当り前ですから普通の固定方式では成り立ちません。
この400度と云う温度は、鉄系の金属にとっては金属の性質(特性)が変わる限界点で、これ以上高く成ると金属の結晶構造が変わるので、普通の金属では機械的強度は絶えられません
鉄系の金属では500-650度の範囲までは「特性温度域(再結晶温度域)」と呼ばれ鉄系の中に含まれる炭素と融合(溶融結合)して「結晶構造」も変わり、それに伴ない更に別の性質(特性)に変わって行きます。この中間温度域(特性温度域)はそれなりに熱処理として多くの使い道があるのですが、ブレーキには柔らかくなる事も然りながら、絶対的に好ましくない「臨界的な温度域」であります。
逆説的に云えば、「摩擦熱」などにより上昇するこの直前の「400度と云う温度」が「ブレーキ構造方式の限界域」で、これ以上に摩擦熱が上がりますと「臨界的温度域」(特性温度域)に達する為に、リニヤーなどの列車の走行方式等の別の方式に変えなければならない温度域と云う事に成ります。
この「400度と云う温度」に達する速度とすれば350K/Hを限界としているのです。
これ以上の速度でブレーキ制動するとブレーキは破壊する温度域なのです。たとえ350K/H以上出せたとしてもです。400度=320K/Hを順守する必要があるのです。
ですから世界の先進国はより高速制動にする為には500K/Hのリニヤーの開発と成っているのです。
「400度の問題点と解決技術」
そこで開発の限界点とも云える高速350K/H以上の列車を開発するのは摩擦熱が上昇し著しい欠陥が露出する為に物理的(冶金学的)に困難ですが、この限界の手前の400度の温度域(高速320K/H以下)でブレーキ構造方式とするには次ぎの特別な解決手法の開発が必要となります。
解決手法
主に4つの部品に研究を加えなくては成りません。焼結金属のパッド、パッドを取り付けるプレート、このプレートを摺動移動させる案内プレート、この案内板を固定するプレートです。
この「焼結金属の組成配合」と「3つのプレート」に「400度」の上下の熱影響を繰り返し受ける事に成りますので、この「4つの部品」を先ずはどの様にして固定するかとなります。「固定の問題」です。
それと「金属的に、組成的に、機械的」にも解決する必要が出て来ます。
溶接やボルト締めでは熱で軟らかくなり使えないと共に、且つ繰り返しの「高温の熱疲労」で直ぐに金属疲労破壊してしまう欠点を持っています。
まして「400度」なので最も厄介な難問の「低温の脆性破壊」も起こります。
(脆性の怖さ)
鉄系の金属の脆性破壊には次ぎの3種類があります。
A:-20~-80℃の「臨界域脆性」、B:300~400℃の「低温脆性」、C:850~900℃の「高温脆性」
Aは寒冷地で起こります。Bは本論 Cはこの温度域で加工して常温、低温域に戻した時に起こります。
Cは「鍛造」や「鋳造」や「熱処理」や「圧延」の加工の時に起こります。
Cはこの脆性をなくす為に上記した「特性温度域」(再結晶温度域)で熱処理を施してなくす事が出来ます。
A~Cは常温と発生温度域を繰り返し上下すると著しく脆性現象が強くなります。
従って、「熱の繰り返し疲労破壊」と「脆性破壊」が同時にダブル発生してしまうのです。
高速列車の「ブレーキ部品」はこの「3つの脆性域」に関わっているのです。(Cは処理済)
「取り付け方」と「熱の繰り返し疲労破壊」と「低温域の脆性破壊」(A、B)の「3つの問題点」が露出して来ますのでこれを解決しなくては成りません。
(「3つの問題点」と「3つの脆性域」)
この「低温脆性」の温度の上限が400度(下限300度)ですが、制動していない時の低温の温度域が何度に成るのかは列車の「操作のノウハウ」に大きく関わることなのです。
当然に操作が未熟であれば400度を超える場合が有ります。この温度を超えると云う事、「操作が未熟」と云う事はそれは単純な話ではありません。
何度か走行中に常習的に繰り返すと上記の「3つの問題点」が露出して即「ブレーキ制動力の低下」のみならず「ブレーキ破壊」へと繋がるのです。
今回この事が確実に起こっていて大事故と成った事も考えられます。
例えば、「未熟」とは車で長い下り坂道でブレーキを踏み続けると熱を持ちブレーキが効かなく成ります。その為に上手くエンジンブレーキを加えながらスピードを落としてカバーします。この概してこの操作ノウハウと同じ理屈です。
中国は未だこの「未熟の領域」にあると考えられます。
場合に依っては「中国の国民性」が影響してここにも「潜在的な欠陥」とも成り得ている可能性も有り得ます。筆者はこの説を採っています。
「3つの問題点」と「速度超過」
当然に上記「3つの問題点」と同じ現象を示す「320K/H以上の速度」を超えての操作を繰り返し摩擦熱が400度以上を超えて上昇し過ぎた事でも起こる訳ですから、この「操作の未熟さ」と「限界速度オーバー」は同時に起こる事に成りますので両方から痛めつけられて「極めて危険な状態」が起こっていた事に成ります。
(この「3つの問題点」は専門的な立場からすると金属面に特徴ある破面が出ていますので比較的簡単に目視でも解析できます。誰でも判る事では有りませんが専門の「破面工学」を取得した技術者であれば観れば直ぐに判ります。)
中国は”常速 350K/H以上で走行する世界一の新幹線”と虚勢を張りと鼓舞していましたから列車のブレーキに「3つの問題点」のダメージを確実に与えていた事に成ります。証拠の事実です。
中国のこの発言は、専門的に見ると”何時大事故が起こっても不思議でない状況である”と発言している事と同じなのです。
「寒冷地仕様の欠陥」
この摩擦熱の400度に加えもう一つ問題があるのです。
それは自然環境です。中国は冬は極寒の地(-50度)がありますので、この400度との「温度差域」が500度以上に成ると技術的に耐えられない領域と成る特性問題を持っています。
勿論、極寒温度でも上記したAの問題でもこの「温度差500」と並行してがダブルで起こる事に成ります。
金属の組成上からの臨界点(-80度)に近くなり、この「熱差」と「繰り返し」による「金属疲労の発生率」が極めて高く成るのです。先ず本件の対策を加えないと全く使えないのが普通です。
ところが全く鉄系の金属は、ある限界の範囲で「特殊金属」を加えないと使えないのですが、この特殊金属の添加が逆効果になるのがこの「寒冷地仕様」なのです。極めて難解なのです。先ず”諦める”が常識です。今は未だ発生していませんが、日本の環境とは違うために中国国内では事故の発生率は明らかに高い筈です。(日本では高速化の東北地域は-20前後ですから一応の対策は可能)
この問題(高速化寒冷地仕様)も中国では到底解決していませんし、その開発手法と能力は中国には基よりないのですから確実な「潜在的な欠陥」と成っています。
まして日本でさえも何ともし難い技術問題の「潜在的欠陥」が潜んでいるくらいなのです。
日本では輸出用には自動車や生産機械でも「寒冷地仕様」として開発していますが、精度問題は別として、高速列車では中国では現在この「寒冷地仕様」の問題は未だ起こっていませんが、必ず冬には起こる筈です。その証拠に自動車は必ず起こっている現状なのです。
この「寒冷地仕様」では、高速のみならず「ブレーキ制動前の時の寒冷地温度」から「ブレーキ制動後の温度差」が「500度差域」に成ると、鉄系金属では金属内の結晶構造が変化する為に応力差が生まれる為に、更に重複して避けられない欠陥に成るのです。
車のブレーキの制動でも起こりますが、これと異なり高速列車の場合は温度差が余りにも大きくなるので必ず起こる問題なのです。
そこに「未熟度のエラー」が加わると「寒冷地の欠陥」のみならず通常の「500温度差域による欠陥」も重複して平行して起こりますので事故に繋がる事は必定と成ります。
(日本側は所定の期間1年の講習を要求したがたった10日間で打ち切ってしまったと発言していますので、習熟度は先ず「無い」事に成ります。つまり「未熟度エラー」は確実に起こっている事を意味します。)
依って、詳記した「500温度差欠陥」、「400℃欠陥」、「350K/H欠陥」、「寒冷地欠陥」、「脆性欠陥」、「3つの問題点」「高速化ブレーキ制動システム」「サージ欠陥」等の充分な習得はまず無い筈ですからこれらの欠陥は必ず起こっている事は間違いありません。
これに「高速化の習熟度によるエラー」が加わりますので疑う余地はありません。
高速化に依って高温差化するとこれを繰り返すと「熱疲労と脆性の疲労破壊」が避けられないほどに極めて高くなるのです(逆に熱暑地仕様もあるが中国では問題ない)。
自動車の領域で起こる問題と比べられない程に極めて危険な問題となるのです。
因みにロシアの自動車が、あれだけ進んだロケットや人工衛星など高度なものを造れる国が自動車がまともに開発製造販売が出来ていないのです。
中古を含む日本車90%に頼っている現状ですから、それは「寒冷地仕様」の対策が極めて高度な技術力を駆使しなければ成らないからで、それを充分に解決し得るノウハウの開発が出来ていないからなのです。「寒冷地仕様」は基より物理的に難しいのです。
中国も奥地はこの「寒冷地仕様」に準じます。
高速列車の「寒冷地仕様」は、今までに輸出と云う形態までに至っていなかった事から中国に輸出する分に対しては、日本での寒冷地仕様の範囲である筈で、明らかに「未開発の部分」では無いかと考えられます。やろうとすれば日本の輸出自動車は完全に「寒冷地仕様」は完成していますので直ぐに応用する事は可能ですが、中国用のものには未だ開発し適用していないと考えられます。
(開発メーカーは列車メーカーではないし、開発と試験が難解で短期間である為に現在では困難)
この「寒冷地仕様」が施されていない高速列車では冶金・金属工学上から観てブレーキ関係は云うまでも無く、本体そのものの鉄系車軸や伝道軸や鋳物や鍛造等の熱処理部品に対して上記の「3つの問題点」が顕著に現れることは必定です。少なくとも軸が折れるか変形する等の問題が出てくる筈です。
これからは寒冷地の「潜在的欠陥」の露出として出てくる事が考えられます。
より「潜在的欠陥」に対して厳しさが増します。
この「寒冷地の欠陥」は冬場に部品に破壊が起こり潜在して、これを過ぎて気温が高く成る直前で事故に繋がる欠陥が露出して来る傾向があります。
高速ブレーキ制動の分野に限らず全体で起こると考えられます。つまりこれも恐ろしい中国の「潜在的欠陥」であります。
恐らくは、日本の寒冷地仕様より-30度程に厳しい環境にある事を承知していますから、日本側は何らかの条件を付加して「列車運行の条件」として伝えている可能性が考えられます。
問題はそれを理解して護るかによると考えられ、国民性や国威高揚などの政治状況から観て疑問を感じます。
しかし、もとよりこの「寒冷地仕様」によって起こる欠陥を見抜き解析して対策まで持ち込むノウハウが中国にあるかは大いに疑問です。
確かに”日本の東北で走る列車仕様の前形式を技術移転した”と伝えられていますから、ある程度の寒冷地仕様が施されていた仕様になっているかも知れません。
ただ問題は上記した「未熟操作」が更に「3つの問題点」の危険性を著しく高めますので安心できる範囲ではありません。
又、何れにしても寒冷地による「脆性疲労破壊」がブレーキは元より列車本体までにも働く可能性が有りますので、それがブレーキ制動力にどれだけの影響力を与えるかの問題もあるのです。
恐らくはこの現象は「激しい振動」と云う形で露見してくる筈で、それがブレーキの制動力とその部品構造に特化されてくる筈です。
現象としては、主に「振動疲労」による「ミクロクラック」が発生して、最後には「疲労破壊」に繋がることが考えられるのです。
(この欠陥は特長ある破壊破面を呈し目視でも確認出来る。日本の専門家に見せれば一目瞭然で判定できるので見せないでしょう。)
それを防ぐ「高速化の管理保全」が出来ているかによりますが、短期間の間に成せる保全問題ではありませんから無いと考えます。
「寒冷地の現象と欠陥」
寒冷地は金属の分子運動が止まるか緩やかに成る為に金属の弾性力が低下して破壊に直接繋がるのです。最も怖い欠陥で、幾つかの技術的な方法が専門的にはあるのですが、何せ分子運動が止まるとなる事は金属の仮死状態を意味しますので、処置の施し様が暖めると云う方法以外に有効的な方法は無い事を意味します。
(過剰にすると逆に成りますが、ニッケルを加えて結晶を細分化する方法や、500度から650度で熱処理を施して結晶を均一にして細かくする方法で加工して使う方法もありますが、完璧な方法とは云えず暖めて400温度差に保つ事が最も簡単で効果的なのです)
この対策が中国に於いて成されているかは問題で先ず無いと考えられます。
そもそも特に上記の高速の対策として用いた「特殊金属」は寒冷地に対しては金属の仮死状態が起こって「弾性力の低下」が起こりますので、「特殊金属の弾性力の低下」と合わさって逆の現象を引き起こすのです。従って高速列車のブレーキ制動力に主眼を置いているので「寒冷地仕様」は完全ではない筈です。
日本に於いては寒冷地対策は車、列車、工作機械、等には施されています。東北新幹線と山陽新幹線の走っている列車が混在させずに異なるのはこの事から来ているのです。
日本などでは一定率の「列車管理システム」を保つ為に「寒冷地の列車」には充分な仕様で設計されて管理されているのです。
「部品の固定方式の開発」
兎も角も、寒冷地に於いてでさえもブレーキ制動ではその最たる影響を受けますが、先ずは日本環境の範囲として「普通仕様」で考察すると、そうすると後は機械的、物理的に考えられるのは「圧入方式」か「焼バメ方式」ですが、「焼バメ方式」はもとより同じ400度ですので締まらず使えません。
(温度差は500度以内が仕様限界)
残るは「圧入方式」だけですが400度の温度に上がっては圧入は緩み効きません。
この2つの加工技術の使用温度がこの400度であるのはこの領域を超えて加工すると金属の組成上(パーライト)の強度的問題が冶金学上で出るからなのです。
この制動で発生する摩擦熱も偶然にも400度です。従って、高速350K/H以上でのブレーキの掛け方如何ではこの400℃は更に上がりますので、限界の制動領域を超え開発能力以上の限界を超えますので、著しい制動欠陥を露出する事に成ります。
果たして中国の「未修得の操作能力」が低い場合はここでも「潜在的欠陥」を潜んでいるのです。
実質1年程度のトレーニングという事で計画されていたすのですが、それを”10日程度で切り上げた”との情報を考えると、此処暫くは「未修得」が「潜在的欠陥」と成り得ます。
(350K/Hの意味)
日本の新幹線は350K/Hの下の320K/Hとしている一つの根拠はここにあるのです。
何も350K/H以上を出せないとする訳ではなく、ブレーキ制動の限界点だからなのです。
”350K/H以上の高速で走った”として自慢下に誇示していましたが、この事の技術問題を知らない事を自ら露呈したのです。全体のノウハウの未熟度を自ら認めた見苦しい虚勢です。
確かこの限界を超えた速度で走行して本体が耐えられない激しい振動に見舞われ列車に亀裂が入りなどして指定の速度に下げたとしているのです。
まだまだ上記した「潜在的欠陥」が露出してくる事は間違いは有りません。日本からの早期に技術指導を受けない限りは大事故と成るでしょう。
恐らくはこの振動の原因の一つはブレーキの制動を超えたところで摩擦熱が400度を超えて限界温度500度に達してブレーキ制動が空効きになり、その振動のパラセーションがタイヤ(車輪)に加わり車体本体を激しく刺激したと考えられます。
恐らく、この時、摩擦熱500度以上に達して後続のブレーキ制動力が破壊するか等を起し効かなく成っていた可能性があります。
謳い文句の350K/Hを取り下げてその高速をその事故の為に運行走行速度を250-300K/Hに下げたとしています。ブレーキ制動における設計限界である事を知らずに。とりあえずは一時的速度では欠陥を出さずに成った事に成りますがブレーキ制動のノウハウの未修得で起こる問題は解決していません。
これは上記する高度な基本設計の冶金的知識の習得は先ず無く、感覚的に激しい振動が何かを引き起こすと考えたものと観られ、変更を余儀なくされたものであろう事が判ります。
この行動は真に知識の底を露呈した愚かな醜態に他なりません。
速度を上げれば何でも上げられると云う「石は薬」「法より人」の感覚から出た中国人らしい論理性のない発想です。
恐らく、日本人から観ればこの雑な感覚は、直ぐには直らず今後も続くだろう事から、これからもこの様な国民性に潜む「潜在的な欠陥」の醜態を示す事に成ると観られます。
兎も角も、ですから「潜在的欠陥」に関しては中国は「事故の情報」のそのものを隠す以外に方法が無い事を物語ります。
「技術開発点」
そこで、中国の怠惰な実情を気にかけながらも、兎も角も日本の技術開発の努力とその経緯から考察して観ます。
中国に日本の次のような開発努力を知るまともな技術者が少ないのかも知れないけれど居た筈です。
(筆者も冶金に関する実習留学生を承知しているが、小さい力のために基本の技術習得が無視され「政治力」が優先されたのではないか)
上記する「3つの問題点」を解決するには次のような開発をしたのです。
日本の開発はそれはこの400度の限界を超えない範囲で要は温度がどんなに上がっても緩まずむしろ締まるようになり、且つ金属に関する疲労、脆性等の問題を起こさない様にしなくては成りません。
上記する金属的に起こる問題を色々な「特殊金属」(下記)を組成に加えて特殊金属板を造り熱に対する欠点を解決して、且つその加えた「特殊金属」によって逆に熱が掛かると一定以上の圧入力(取付力)が増加する様にしなくては成りません。この領域は真に自然物理の矛盾です。
「特殊金属」の「種類とその配合率」と、「圧入代」と、「熱膨張係数の差」と、「耐熱性の向上」とこれ等処置による「組成上の競合欠陥の防止」を解決して、丁度良いポイントの探求が必要に成ります。途方も無い総合知識の研究です。
その難しさはこの「競合欠陥」です。
「特殊金属」はある種の特性を引き出す手段によく用いますが、この金属を加える事に依って「鉄系金属」には、同時に逆の事も起こる特質を持っています。
この「鉄系金属」にはこの種の「特殊金属」は「人間の拒絶反応」と同じ現象を起す性質を持っていて、ある一定の範囲までしか受け付けないのです。一定を超えるとあらゆる機械的な強度や特性の低下を引き起すのです。
(「特殊金属」とはマンガン、モリブデン、クローム、コバルト、マグネシューム、タングステン等でこれに対応してニッケルを補填して「特殊金属」の弊害を少なくする為に同時に適量を加えます。
例えば、18-8ステンレスにクロームを加えて強く錆びなくしていますが、これに対してニッケルを加えて弊害を抑えているのはこの為です。この特殊金属は夫々特徴を持っているのです。)
この「特殊金属」を適材適量に加えるだけでは解決しません。
実はこの世の全ての物質には温度を上げ再び下げて来ると「スパークーリング現象」と云う特殊な現象を起す特質を持っています。同じ上昇したライン上を温度を下げると別のライン上で下がって来るのです。
その為に「ズレ」が2ポイント発生します。この2つのポイントの一定の温度間隔域に金属の組成を納められれば下記の「研究課題」を解決する事が出来る事に成ります。
(現象の発生メカニズム)
この現象は”何故起こるのか”と云うと次ぎの様に成ります。
温度が上昇するとある温度域で結晶構造が変化します。この為にその変化のために必要とするエネルギーが奪われて一時温度が下がります(ポイントA)。 そして変化が終わると又上昇します。
今度は上昇したラインに沿って温度が下がって来ると元の上昇して変化した「ポイントA」で同じ現象が起こる筈ですが、ところが起こらずある温度範囲がズレて「ポイントB」で変化が起こるのです。
そしてその変化が終わると再び元の上昇のラインに沿って下がって来ます。
このポイントAとポイントBには一定の温度差域が出来ます。この温度差の領域を上手く使えば温度上昇に依って緩むものが締まる事にも成ります。
本来は論理的にポイントA=ポイントBである筈ですが、このポイントが物質に依って顕著に出るものとそうで無いものがあります。
且つ、この温度域にも大小のものがあります。特に金属には顕著に表れるのですが、この特性に着目してその「温度域の巾」を大きくすれば使えることに成ります。
特殊金属(ニッケル等)を投入して結晶を微細化させるとそれが顕著に表れるように成りますので、そのポイント域(A-B)を上手く使えば上記した研究課題が成功するのです。(現場ではノックピン方式と呼称)
このポイント域(A-B)では、上記した別の変化、つまり、その「金属の特性変化」でも「結晶の中間域」(特性の中間域)が発生しますので、金属は安定し変質化しないのです。
この「ポイント域(A-B)」即ち「中間域」では上記した特殊金属の特性が効果的に働きます。そして「拒絶反応的な事」が起こり難いのです。
つまり、「ブレーキ制動」に依って摩擦熱で温度が上昇し、又下降すると云う現象を繰り返しますので、この「スーパークーリング現象」が常に起こる事に成ります。
鉄系で云えば普通はポイントAは500度付近で起こります。そしてポイントBは400度にズレます。
ところが上記の特殊金属等を入れますとこのポイントが変わるのです。
この特殊金属は鉄より溶融点が高い事等の理由の為にポイントAが下に下がり合わせてポイントBも下がります。
そうするとポイントAを400度にし、ポイントBが300度の付近に持ち込めばこの研究課題は成功する基本に成ります。
この熱エネルギーの「温度の変化の中間域B」と共に、上記した結晶構造が変化する過程でも「特性の変化の中間域A」が起こります。
この「中間域A」でも特性変化する為に多少変化のタイムラグ域が起こります。このタイムラグ域も含めて「2つの中間域A,B」はほぼ同様の温度域で起こりますのでポイントAとポイントBを解決する事で「2つの中間域の活用」は解決する事に成ります。
以上の様にかなり特域の専門的な冶金金属の技術です。
(現在では、この「中間域A、B」の領域の特性を精密機器の部品によく用いられる様に成っていますが、「特殊合金鋼」として当時は未だ開発に依って「企業内規格化」される程度でしたが、現在は細分化して一般規格化されています。 故に、これによりブレーキに限らず今やこの合金鋼板を使って日本の全ての精密機器や工作機械は超高精度の品質や高速化や寒冷地の対策用として作り出せるのです。)
(中国の国家戦略)
何時、中国がこの「技術ノウハウ」等を盗み出して獲得できるかに掛かっています。
つまり、自ら研究する事では無く他国のノウハウの盗作で日本や先進国に追いつこうとしている「中国の国家戦略」と成っているのです。
真に「自国製」と言われるものは今だ少なく、列車やジェット機を始めとする超高度な綜合先端技術のものは事ごとく失敗をしている中で、本論の「新幹線」は盗用の成功例と思ったのではないか。 その意味での挫折は”又か”で大きかったのではないか。”いざ”と成って見れば原因追求の技術さえも無い事を知り焦った行為であったと観られます。
要は「中国の狙い」は、この総合力の研究では、現在は未だ中国では明らかに無理でありますが、高速-制動力の関係を知っていて何時かノウハウを盗み出し自国の物にする事にあり、そのためにも故に優れている日本を代表する川崎重工のこの「制動ノウハウ」のある列車が中国には絶対に国家戦略上必要なのです。
ところが、共産国には「貿易管理令」により「高度な電子部品機器」や「高度な精密機器」の輸出は禁止されていて、悪質と観られる様な裏ルートの方法で機器を入手して分解してノウハウを盗み出そうとしているのです。分解して解析して何かを見つけ把握しようとする為にも国家的課題としてもこの列車は国家戦略上で代表的なものとして必要なのです。
その為には、中には日本の中小企業の倒産先からスクラップとして精密機器を頻繁に入手して持ち帰り研究しているとの情報もあり、又、中国に生産拠点を移転した中小企業が契約期間が過ぎると別の場所に移転させて生産設備を強引に奪い取り、言う事を聞かない時は移転先を認めないと云う荒手の裏手を使うと云う事まで起こっているのです。(経験談) ニュースに成っている”中古の空母をベースに自国製の空母を製作している”との情報もある位に、 「石は薬」「法より人」の思考規準に沿って、”何事何物も利用した者が勝ち”、”模倣や盗用はした者が勝ち”の考え方が徹底しているのです。
これ程に況や”喉から手が出るほど”の中国の「国家戦略」は実行されているのです。
先進国に追いつこうとすれば、韓国が日本のプラント輸出を受け、後に激しい労働争議で追い出し日本の三菱の車や家電製品のノウハウを盗み出したと同じ様にです。
韓国には、同じ儒教でありながら、違うところは「石は薬」「法より人」の思考規準が無い事です。
だから韓国の手法は成功しているのです。
「研究課題」
戦後から始まった新たな日本の成長は中国の「石は薬」「法より人」の思考規準と異なり「雑種の優秀性」を基に「研究開発」から始まった「物造り」であります。
当初戦後10年程度は「安かろう 悪かろう」でありましたが「模倣」をベースにしてはいなかったのです。。
「模倣」の裏には必ず「研究」が伴なっていたのです。ここが中国と異なる処です。
それは、日本の「国民性」が大きく働いたこの金属の「質的変化と機械的な処置の探求」(2つのノウハウ)であり、「3つの問題点」(「3つの新たな研究課題」)を解決する事に動いた結果であり、本論を理解する上ではその認識が必要であります。
これ等の「研究開発の積み重ね」の結果で掴んだ「最先端の総合的技術力の駆使」が必要であったのです。
この開発経緯は、丁度戦後20年後から始まったものでその5年後には何と成功しているのです。
戦後の「安かろう 悪かろう」の時代が10年間で、残りの10年間は「自国製」の開発研究段階に入っていた事に成ります。
ブレーキに関してはアメリカのベンディクスがトップメーカーでありましたが、戦後25年後には早くもベンディクスを追い越して日本のメーカーの方が品質的に優れていた事に成ります。
この時期20年後に高難易度の新幹線ブレーキの開発に入っていた事に成るのです。
当時はブレーキ部品に使う鉄鋼板には特殊金属を組み込んだ規格品は未だ少なく、新幹線ブレーキに耐えられる上記に記する規格品は無かったのです。
この高度な研究開発は列車のみならず自動車や他の高精度の生産機器などにも使える研究開発だっただけに「新幹線」の国家プロジェクトとして鉄鋼メーカの積極的な協力を得て進め成功裏に納めたのです。
これ以後、この研究成果は専用鋼板として準規格化され、後半には順次細分化されて規格化されましたが、この開発の効果は瞬く間に他の産業にも広がりを見せこの開発の特長を生かした日本の高精度の高能力の製品が生み出されて行きました。
(開発技術とその加工技術)
中国は現在 ”どの鋼板をどの様に使えば良いか”の上記した専門的技術が無い為に規格品の選定の判断までにも至っていないのが現状では無いかと判断されます。
選定できれば専用鋼板としてだけは日本から輸入で入手する事が可能です。しかし、現実に適切な鋼板を選べばそれで済む簡単な話ではありません。
この鋼板を加工する技術(プレス技術や熱処理技術や生産加工技術)等のノウハウは中国にはありません。
そもそも特殊金属が含有する鋼板は普通の加工技術では難易度が高く「加工ノウハウ」も大きく伴なうのです。
概して云うと、含有する上記した特殊金属は加工する刃物先よりそれ以上の硬さや強靭性を有しているか、或いは同じ程度の硬さ程度である為に加工の刃物先が耐えられないのです。まともな品質では加工出来ないのです。(全ての刃物先にはこの同じ特殊金属の「タングステン」が焼き付けられている)
依って、研究は次ぎに刃先角度や加工速度や加工温度を研究して見つけ出して、量産できるものに開発したのです。この開発にはトップ技術を駆使したのです。
又、難加工の精度を上げるにはそれを0.01ミクロンまで測定出来て、且つ、加工面の画像解析出来る超高度の「三次元測定機」を使い加工面を画像にして解析して特長のある部分を特定し修正する技術も必要とするのです。
この「三次元測定機」は日本の独断場で、よく違反問題になっている物で「貿易管理令」に触れて共産国は入手出来無いのです。
鋼板を選定でき輸入する事が出来ても、この多くの「加工ノウハウ」はブレーキメーカー側のノウハウですので入手する事は不可能です。つまり「中国の戦略方式」では要するに不可能なのです。
依って、知らない人や庶民を相手に虚勢発言を張っていますが、厳密に云えば「中国製のアセンブリー列車」の域を越えないのです。
手芸品等の類似品や模倣品を作る事が出来ても、工業品を越えない範囲では類似品や模倣品は中国では未だ不可能なのです。まして、「高速化や寒冷地」などの難易度の高いものは「技術ノウハウ」と「加工ノウハウ」の2つのノウハウから類似品や模倣品は無理であります。
重要参考 此処には「加工ノウハウ」等の上記「2つのノウハウ」とは別に、決定的な冶金技術のもう一つの無理があるのです。
それは自動車(高速列車等にも)に使用する鋼板は「自動車専用薄板鋼板」(ラミネーション)と云って世界の自動車に使用されていますが、この「ラミネーション」は日本の独断場で外国では現在でも造れないのです。
それは精錬過程で鋼板を圧延で薄くすると、鋼板の板圧の中央部分に「不純物の帯」即ち「バンドストラクチャー」と呼ばれる「ゴースト」現象が必ず出来るのです。
それは鋼板に含まれる極少ない分散した不純物や攪拌され難かった炭素やイオウやリンやシリコンが薄板にする為に圧延しますが、この圧延の振動エネルギー(リミングアクション)で板圧の中央部に帯状と成って必ず集まる現象なのです。
日本の自動車の発達や高精度の精密機器や列車の高速化等の必要性に迫られて苦労して同時に他のプロジェクトがこれを解決したのです。
普通の材料として使う分には問題はありませんが、上記した本論の「高速化や寒冷地」などの仕様では破壊に繋がる振動や加速度のエネルギーが大きい為に影響してしまうのです。
これが存在するとこの破壊エネルギーが欠陥となって働き始め、突然に自動車の鋼板が2枚に「剥離分解」して破壊したり、部分的に起こる「局所疲労破壊」に繋がる亀裂が多数発生するのです。
(当然に高速列車でも使用されているので起こる)
特には箱型の車体などでは別として、プレス加工の多い「流線型の形状」の自動車などに現れて「高速化や寒冷地」では大事故に成ります。(曲げたり絞ったりしたコーナー部分に出現する)
この欠陥を解決したのが世界に冠たる日本の冶金技術なのです。
このゴースト現象は精錬中に炭酸ガスなどを入れて溶融した金属の攪拌を行うのですが、この攪拌不良が主な原因で中にある炭素との反応で連動して起こります。大変に難しい精錬技術です。
外国鋼板では自動車や高速列車に使用する薄板のものにはこの欠陥の無い鋼板を作り出す事が必要があるのですが、今だ難しくて出来ないのです。(日本製を使っている)
一部では自動車や高速列車の「車体内部の鋼板」にもプレス加工して利用されています。
ブレーキ部品も車体内部にも使用されている事で、もし欠陥と成って出た場合にはブレーキ部品にもその影響が出てくることにも成りますので、車体や外板にもこの日本のラミネーションを使う以外には本来はないのです。しかし、中国のものはこれを使っているかは技術知識が無い為に疑問であります。
情報によれば”車体に「大きな振動」と共に「大きな亀裂」が発生した”と伝えられていますので、上記したブレーキ制動の欠陥が露出して起こったと考えますが、このラミネーションを使わなかった事から起こっていることも考えられます。兎角起こりがちな現象ですが、両方が「競合欠陥」を引き起こしたかも知れません。(破面工学で判定が出来る)
(「2つのノウハウ」)
この参考例でも、これで「日本の技術力」がどれほどのものであるか判り、逆に「中国の虚勢の発言」の意味合いがどの程度の虚勢かがよく判ります。
勿論、中国の基礎技術力の無さの程度もこの発言や情報からも判るものです。
これは日本の冶金金属工学の優れている程度の証とも成ります。
これは決して「技術ノウハウ」のみならず日本の「加工ノウハウ」も同時解決して「高速化の列車ブレーキ制動」は始めて可能に成るのです。この「2つのノウハウ」は連動しているのです。
兎角、「技術ノウハウ」だけで論じられている様ですが、中国が模倣するとしても「2つのノウハウ」を解決しなければ物にはならないのです。中国の事毎くの「模倣の失敗」は此処に原因があるのです。
「2つのノウハウ」が絡む高速列車やジェットや自動車の様な高度なものには基礎力の無いままに簡単な期間や設備では元々が無理なのです。
”普通列車の延長が高速列車である”とする認識はそもそも間違いなのです。
ここには論じている高い「2つのノウハウ」の溝が厳然として存在しているのです。
高速列車は同じではなく別物なのです。
高速列車は「レール」と「莫大な重量物」によって比較にならない「莫大な加速度」が働くからなのです。
この加速度は”重量に対して2乗に比例する”のです。例えば50Kの物が加速度が働くと2500Kのダメージを受ける計算に成ります。
列車の車体重量を考えてください。これに高速が働きますので、考えられないエネルギーであり、このエネルギーが悪い方向に働けば「一点のミスや欠点」も「時間の間隔」なしに瞬時に「拡大破壊」を起す要素を持っているのです。「破壊」ではない「爆発」に近いと云えるでしょう。
ですから上記した金属や冶金的な欠陥が少しでも潜んでいると破壊・爆発に成ってしまうのです。
高速300K/Hは本当は怖いのです。
日本は「怖い」は「品質の良さ」に裏打ちされて安心して乗っています。中国は「怖い」は「知らない」で裏打ちされて安心して乗っています。これそのものが「潜在的国家欠陥」では。
「知らない」「知らせない」は本来あるべき姿ではありません。中国は「知らない」「知らせない」は「品質の良さ」に特化させるべきです。
この事無くして中国の高速新幹線はまた大事故を招きます。本論の危険性を悟ら無ければ今その上記した欠陥が進んで行く事になります
そもそも自動車の場合は、普通であり高速であり一帯で一連化していますが、しかし、現実にはありませんが自動車もレールの上を走り連結すると同じ事が起こるのです。
中国にはこの自動車の延長・普通列車の延長の認識にあったと考えられます。
そこにこれまた「認識不足」の中国の「潜在的欠陥」が存在するのです。
つまり、「国家戦略の政治ミス」(政治環境)が事故を誘発させているのです。
「開発技術の姿勢と方針」
これ等の認識の基に、正しい政治環境下の基で、これを解決する為に柔軟な発想と思考が確保されて、次のような学問的に「極めの発想と思考判断」での技術が確保されたのです。これは日本ならではの仕事なのです。(中国では現政治体制下では無理であり模倣も困難と成ります。)
日本のブレーキは急速に速度が上がり停車位置のかなり直前で高速で制動しても停車ポイントに5ミリとずれないのです。良く効くと云う事なのです。約400度くらいに成りますのでどんな機械的なブレーキの取り付け構造にしてもこの温度には耐えられません。
これを日本はこだまの初期の新幹線開発の時にこれを金属的に冶金学的に解決したのです。(開発経験)この「特殊金属」には夫々特徴を持っていてそれを如何に使いこなすか、先ずその特長を作り出す金属の結晶の組成形状をどの様にするかの研究と、中に入れる特長を持っている「特殊金属」の選定とその配合割合をどの様にするかの研究で、この400度と云う難しい難題を解決したのです。
因みにとりわけこの温度域には低温脆性現象(ステッドブリットネス)と云う厄介な問題が発生するのです。
金属が中に含まれる僅かな不純物(セグレゲーション)とP(リン)やS(イオウ)と結合してそれに依って脆く成ると云う温度域なのです。
これ等は普通の発想では出て来ないものでありますし、それを実現しょうとする気力も芽生えない筈です。
(300度以下では分子運動、結晶運動が低い為にその変化するエネルギーが無く起こらない)
この状態のものにブレーキを掛けるとその「繰り返しの動作」で「脆性破壊」と「熱疲労破壊」が顕著に発生します。先ず機械的な取り付け方法とは別にこの必ず起こる欠点を上の2つの研究で克服する必要があるのです。)
(未熟な操作技術で劣悪な線路状態では不定期振動とそれによる加熱現象が倍加する為にこの物理的な破壊現象は数倍と言う形で起こる危険性が潜んでいます。最終、破壊して”ブレーキが効かない”と云う現象と成ります。恐らくはこの極めて危険であるとする知識もないと考えられます。)
「技術課題の難問と国民性」
上記の”金属や冶金的な欠陥が少しでも潜んでいる”とする「怖い事」を続けます。
最大の難関はこの欠点と研究課題は相反する矛盾する特質を持っているのです。
つまり対策を講ずれば反対のこの欠点が増幅するというジレンマにあるのです。
普通で考えれば「絶対無理」の答えなのですが、その何れにも入らない中間のところを見つけると云う根気のいる研究開発です。
どんな金属にも必ずこの特性域の中に「中間域」の発生する「小さい域」(ポケットゾーン)を持っています。上記した「スパークーリング現象」の2ポイントと共にこれを見つけ出す事なのです。恐らくは共に自然現象の為に同じ「小さい領域」付近に出て来る事に成ります。
これは日本人ならではの根気の要る研究です。脆くなれば逆にブレーキどころの話でなくなりますから、欧米は合理的思考が強いので危険性から観て”この領域に入らない方がベストだ”とする考えに到達するのです。納得出来るし一理はあります。
要は上記した様にブレーキ制動の限界に立ち居るか否かの問題です。
しかし、これは上記した中国人の国民性と異なる日本人のかなしきかな国民性のさが(性)です。
この性の違いで何から起こるかは「青木氏と神明社」の中で詳しく論じている事です。
本来、「物造り」の技術とその精神は6世紀始め頃から6世紀中頃に掛けて後漢の漢民の阿多倍王等の技能集団がもたらしたものでありながら、今やその立場は逆転しているのです。
「石は薬」「法より人」の思考規準とそれを構築した「民族性結合」の継続の所以がこの差と成って現れているのです。
「開発の判断可否」
現在はこのブレーキ制動は当初の新幹線はMAX250K/HであったものがMAX320K/Hに常時制動できる様になっていますから、更に超限界に挑戦して改善され、技術開発されて完全に確立して無事故の35年は経過していますが、まだ諸外国は高度な総合力の為にこれに全く追いついていません。
ョーロッパ諸国では多分無理でその内に問題を起こすのではないかと考えていた節があります。
しかし、限界のブレーキ制動と高速化の2つを連動させて成功したのです。
と云うのも、この時フランスは高速化のギリギリのところの500のK/H試験走行を成功させたと発表したのです。もちろん、ブレーキは普通の制動力の範囲です。ですから、高速後100K/H程度にスピードを落としての山形方式の制動です。
この事から考えると、むしろ35年の経過でも、この領域の高速化の制動技術を合理的な判断として採用しないとしている可能性も確かにあります。それ程に難題なのです。判断の分かれる技術開発だったのです。
当然にその根拠は列車や自動車はブレーキ制動力が命ですから、高速になれば成るほどに危険は増します。しかし列車が”1時間程度遅れても何の問題もない、安全であれば問題なし”とするヨーロッパ系の国民性からすれば”そんなに急いで何処へ行く。 その間、速いのだから問題なし”と成るでしょう。
これの探究心は「良悪の問題」、「優劣の問題」から離れた日本人の「融合単一民族」の「雑種の優秀性」とその「性」から起こる「国民性」から来ているものであります。「究極を求める性」であります。
ヨーロッパ諸国の列車の運用については「判断の違い」であると観ていますが、では中国人は何れにある国民性なのでしょうか。それに依ってもこの「潜在的欠陥」がどのような形で顕著に出てくるかはこれから見るべき問題です。
筆者はこれまでの史実に基づかない中国の虚勢と国威高揚の発言から観ても、又伝統の思考規準の「石は薬」「法より人」からしても「潜在的欠陥」に成るとみているのです。
因みに韓国は日本人の全体の3割を占めている縁戚の民族ですから、儒教の宗教観は異なりますが、全体として酷似していますから、この「ノウハウ」を吸収する方式で克服したと見られます。
中国も韓国と同じく「ノウハウの吸収と克服」は可能と観ているのでしょうか。観ていると考えます。
そして、その時期を”この新幹線で出来た”と見ていてそこで一挙に喜び勇んで「虚勢」を張り世界に「鼓舞」した節があります。それが脆くも崩れたのです。”そんなに甘くは無かった”と反省しているのでは。
今回の事故の原因の出し方で判断できます。
「雷と信号」で逃げれば原因究明どころか対策もままならない立場にあることを知り、”韓国の様には行かない”と悟った事の発言と成ります。この「雷と信号」の根拠を明らかにしないままに終わると観られます。
だとすると、中国はこれを機会に多くの上記する「有形無形の潜在的欠陥」を持って居る事に成りその事に気が着き始めたのかも知れません。
しかし、「中国の国民性と政治体制とその体質」がどの様に作用するかが疑問です
そもそも韓国は日本の三菱グループから「製造プラント輸出」して獲得したものでありますが、このブレーキは列車メーカーではなくブレーキメーカーの領域ですので、韓国始めとして中国には当然にこのノウハウは渡っていませんし、中国自身この間これほどに難しい総合技術力の把握と操作技術は専門的に観て開発とそのノウハウの取得は到底に無理と成ります。そもそも部品調達のアセンブリー生産しかないのです。
これは高速列車を走らせるという事とを考えると、ブレーキと云う事からするとそれは恐ろしい事になり、特に日本の高速列車を走らせるという事は「潜在的な欠陥」と成り、「基礎的な技術力不足」と成り得ます。
ヨーロッパの形式も別の意味ではそれなりにブレーキ制動域のノウハウもそれなりに難しいことに成ります。この異なる二つの技術の習得は専門的な立場から見ても短期間で成し得るものでは決してありません。
「人為的操作の必然性」
さて、そうするとこの様な「劣悪な未熟の環境」の中であるとすると、戻して事故を検証すると、本来前方を走るべき列車が後方を走る管理システムはどこから生まれたのかと言う疑問が生まれます。
実はこれが上記するブレーキ制動力に起因しているのです。
全くの制動力の精度の違う高速の列車を走らせると成ると、何処かの駅のポイントでその違いを吸収させる為に、混成の為にかなり複雑な「入れ違い」を列車管理上で「人為的」に頻繁に起させる必要性が起こります。
混成であるが為に完成された追加管理ソフトが改良されて持っているとは考えらず、ヨーロッパ方式でもヨーロッパでは充分に出来ていないという現状を考えると、多くは中国人の「人為的な操作」に委ねている事である筈です。
本来前に走るべき川崎重工の列車が前を高速で走ると後ろのカナダの制動力の悪い列車との間に大きな間隔が発生してしまい、列車管理システムに大きな「タイムラグ」が起こりすぎて、追突の危険で運用できません。
そこで、この危険な間隔を解決させる為にある駅の手前で後続の列車がスピードを落として次ぎの駅に向かいます。後ろにした制動力のよい高速の川崎重工の列車をこの駅でやり過ごしますと管理は可能に成ります。
(日本の在来線に特急列車が走ると普通列車は最寄の駅で停車して「やり過ごし」をします。ブレーキ制動力による走行の速度変化の差ですが大まかにはこれと同じです)
前方にいた列車はより正しく早く次ぎの切り替え駅まで到達しておく必要が起こりますが、何らかの理由で(雷か人為操作ミス)低速40キロであったとしていますから追突の危険性は最大に成った事に成ります。
この直前で事故が起こった事に成ります。恐らくこの時にブレーキ制動の限界を超える「未熟な操作」が重なっていた可能性があります。
「混成システムの矛盾欠陥」
ところが、更に問題が生まれます。ここでETCヨーロッパシステムは「制動力の悪い列車群」と「異なる形式の各国列車」を一定としてこれを前提としていますので、川崎重工の制動力のよい列車が介在する事はこの「やり過ごし」方式には矛盾が生じることに成ります。
事故が起こったとして後方にブレーキをかけますが、後ろは制動力のよい川崎重工の列車です。管理システムで後方に制動をかけても最早間に合いません。その管理システムの速度管理では走っていないのですから。この矛盾を避けるべき手立てとしての其処に「やり過ごし」現象のポイントが差し掛かったのです。二重の矛盾点が重なるべきポイントと成ります。
「雷、サージ対策の欠陥」
更に、3重の自然災害がここに加わったのです。雷です。雷により停止する可能性もある為に前方を走るカナダの列車は制動力が悪いので速度を落とす事になってしまったのです。
ところが後ろは制動力のよい川崎の列車ですので、然程に速度は落とさずに走っていた事に成りますのでより追突の危険性が余計に増したことなります。
更に雷対策(サージ対策)も諸外国に比べて日本は段突に良く出来ていますので速度を落とさずに走らせます。ところが、ここでも技術力の差が出たのです。
実は日本製の列車は「サージテスト」と云う大変厳しいテストを課せられているのです。
気象変動の多い環境のために外国列車と段違いのテストを通過させなければ成りません。
これに更にメーカー独自の「過酷テスト」(パーチェイステスト)が掛けられますので、まず、サージつまり雷では信号や制御に問題は起こらなくなっているのです。
”雷で事故が起こる事は考えられない”との日本側の関係者の発言は此処から来ています。
相当なサージに対するノウハウなのです。先ず回路上のノウハウですから中国では真似は困難でしょう。
ただその分CPU回路等を強くする為に安全回路を幾つもの回路ラインに組み込む事に成りますので値段が多少高く成ります。
半導体の耐力アップや、コンデンサーCの追加と、抵抗Rと、電磁コアーやサージチップ等の組み込みを行います。
ところがヨーロッパの列車と列車管理システムは平地の多い比較的環境の良い所を走りますので、サージテストには比較的緩いのです。
サージテストでは普通の弱いサージ対策なら列車には管理CPUソフト基盤が入っていますのでこれがやられてしまう懸念があるのですが、ところがこれでは基盤そのものが壊れてしまいますので制御回路が無くなりそれこそ列車は暴走しますので大変な事に成ります。
そのためにサージ対策は主にこの回路入口にセットして内部の回路の中に入らなくするように設計しますし、仮に入っても内部にもサージチップ等の対策を施して最悪の状態が起こらないように基本的な設計がなされます。故に内部までサージのカレントの電流が入る事は有りませんが、仮に中に入ると回路が壊される前に基盤そのものがサージの電流が強い為に焼けてしまいます。
事故を起こったものを見れば一目瞭然で基盤を観ればすくに判ります。そもそも基盤がバーンアウトする事の事態がおかしいのですから、中国はそれを見せる事さえもしない筈です。
サージ対策とは主な方法としては、カレント電流を上記のサージ対策部品で主に電磁コアーを通して熱に変えてしまう仕組みに成っています。要するに判りやすく説明すると電子レンジの原理と同じなのです。
サージが鍋と考えればよい事に成ります。磁場の中に電流を含む異物が入ろうとするそれを拒む形で異物に誘導起電流が流れて熱に代わる原理です。
雷は電流ですのでこれを熱に変えるか、途中でコンデンサーに溜めてしまうか、別の非難回路に流してしまうか3つの方法の何れかを採れば問題はなく成ります。
この原理を回路の色々なポイントに問題が起こらないようにセットする事なのです。この3つの方法の使用は回路の内容に依っても異なります。
ですから、そもそもサージに依って信号が赤から青になるなどの内部の回路の変化の問題ではないのです。
先ずCPU回路の入り口の問題で厳しいサージであれば殆ど手前の電源回路でOFFさせる事に成ります。当然にこのサージ対策にも高度なノウハウが伴なっているのです。何故ならばサージ対策をする事に依って逆にその弊害(バグ)が起こるので、セットする場所やその部品の選択などの極めて高度な電気設計のノウハウが必要なのです。
中国がこの高度のトップクラスの設計能力をもった技術者が先ずいないと考えられます。
中国としても仮にこれが原因であったとしても何ともし難いことに成ります。
サージテストする専用の高度なテスター設備が必要なのです。このテスターに基のプリント基板を覚えさせ対策した回路をセットすると其処に問題点が検出させそれを解析しながら進めて行くのです。そしてそのテストをする専門の試験環境室チャンバーが必要と成ります。
中国にそれがあるかの問題ですし、そのチャンバーとテスターの専門メーカーは日本が独占的に段突なのです。
(高速化は始めて間もない時期ですからこのサージテストの高度なチェックシステムとノウハウは無い筈です。)
そもそも大抵は電磁コアーかサージチップで熱に変えられますので問題は起こる事はありません。
日本の全てのものはこの国の規格テストに合格していますので全く考えられないのです。
(参考 4K程度から14K程度の差 外国のものは確定は出来ませんが4-6K程度か 日本は8K-12K程度)
雷の中で前方のカナダの列車は「横ハシリの雷」のこのかなりきついサージに耐えられなかったとも考えられますが、しかし、サージ説はこれ以外にも考え難い事があるのです。つまり仮に入り口で耐えられなかったとしたら、当然に前方のカナダ製列車のCPUと列車内の搭載管理システムのCPUが破壊された事が考えられるのですが、ところが、しかし、列車は避雷針を保持し、且つ電線と線路の両方に上下並行に避雷針に成り得る伝導体が走っている構造と成っていますので、元々ヨーロッパの管理システムの回路でも殆どカレントの過電流を抑える事が出来る構造に成っています。
仮にカレント電流が流れても上記のサージに対するある程度の保護回路があればこれをブロックする事に成りますのでヨーロッパのものにしろ日本のATCのCPUは破壊しません。
諸外国のものも線路と電線ケーブルと列車は元々耐えられる構造ですが、中国が勝手に変えてしまったとすると別問題で耐えられるかのきわどい危険性が高まります。
ところが回路上の変更はプリント基板で出来ていますので回路変更はまず出来ないと考えます。
変更するとなると、上記のサージテストを繰り返して変更によるバクの問題が出ないか調べなくては成りませんし、プリント基板の回路内部まで把握できるかの問題が出ます。
量産システムでプリント基盤は造られ手作りではありませんので変更は先ず無理です。中国が部品調達していることから考えると回路変更は無理であります。
先ず、変更が出来得るハード回路ではありませんので、先ずその基盤の設計者程度の技術者でなくては専門的に観て無理です。依って変更は先ずは無理と判断できます。
この3重の技術的矛盾が引き起こした事故と成ります。
サージにたいするソフトに組み込む高い技術力も到底中国には無いと考えられますので、恐らくは中国で出来る範囲としては色々なCPUとCPUの間をソフトに依って繋ぐ回路程度の基盤程度と成ります。
これを「中継基盤」といいますがこの程度でしょう。
恐らくは、この少なくとも前記2つの矛盾は各所に必然的に起こる筈です。避けられない必然性のあるシステムと成ります。
少なくとも異なる制動力とスペックの川崎重工の列車が2つのメーカーの列車の中で走る限りに於いて起こる事に成ります。
現在の混成列車を編成する選択を採った中国に於いてこの4つの矛盾を解決するほどの技術力は専門的に観て有り得ない事でありますので潜在的に持つ欠陥と成ります。
ましてヨーロッパでも日本並のものが出来ていないのですから。
結論的には対策は「混成の列車システム」である限りは無い事を意味します。
日本を除いて世界の技術力ましてや中国に於いては「無い」と成ります。
ですから、終局は「雷」に原因を押し付けて対策が出来ない欠陥列車システムであるので慌てて証拠隠滅のために「埋める」と云う行動に出てしまったのです。と云う事は自らその原因究明と対策立案の能力が無い事を暗に認めている事に成ります。しかし、かといって日本などにその協力を求める事は虚勢を張っている以上は求める事は立場上出来ない事を物語ります。
まして証拠が出る事がこの「4つの潜在的欠陥」が露出する事に成り、外国のメーカーに「おんぶに抱っこ」の何も出来ない姿を露見させてしまいますので、虚勢を張っている手前それこそ中国にとっては「恥じの上塗り」の国難で有ります。
技術問題の解決というよりは最早一連の経緯から政治的な問題としての重要度がましている事に成っています。日本とヨーロッパの力を借りない限り「原因追求と対策」をも出来ない立場にあることが判ります。
「真因対策の解決策の検証」
そこで、では、本気で解決しようとすれば、中国に方法が無いのかと言う事ですが、論理的には問題の優秀な川崎重工の列車をラインから外す事で解決する可能性があり、列車種を統一する事で論理的に危険率は低くなる筈です。
ヨーロッパの列車管理システムの良悪の中で起こる事故の可能性の範囲で留まりますが、しかし、このヨーロッパ(EU)の混成式の列車管理システムはヨーロッパでは現実に不完全なシステムとして上記した様にまだ管理しきれない混成の欠点が出て現実にはあまり採用されていないのです。
そこで、では”川崎重工の列車を外す事が出来るか”の問題です。
出来ない筈です。この性能の良い列車を以って高速としての中国の”鼻息ばかりの謳い文句”にしているからです。国威高揚の為に。
川崎重工の列車を走らせるには本来は列車管理システムを日本のATCにする事と、列車主体を川崎重工を始めとする日本製の列車にする事で事故の起こる確率は極めて低くなり、制動力の悪い列車は早い日本製の列車を「やり過ごし」の方式でプールするソウトを日本製で組めばクリヤーする事が出来ます。
第1は制動力の悪い諸外国の列車を主体とするから良い列車が原因してシステムに矛盾が生まれるのです。
第2は制動力の悪い列車は時間帯に応じてある駅で「やり過ごし」の方式でカバーできますが、この逆は論理的に困難です。そもそもこの世の構成は第2の構成で成り立っています。この世に限らず分子構造の中までこの第1の構成で成り立っていますからこれは最早この世の自然の摂理です。
第1と第2を混在させるから問題が起こるのです。
第1を導入する以上は第1を主体として行えばそれはそれで第2と成る事に成りますから問題は無く成る筈なのですが、第1も第2も混成の主体は何れにも着かず問題を起すのです。
中国の大きな判断ミスでありこれを続ける限り「潜在的欠陥」に結びつくものです。
「時刻表のタイムラグ欠陥」
ここで、更に問題が出てくるのです。列車の制動力の良悪の問題ですが、制動力が良いと云う事は「時刻表」をより正しく守れることを意味します。
停車位置も定位置で停車する事が可能となりそれだけに「事故の確率」は低く成ります。
ヨーロッパの列車の制動力であれば山形∧ですのでかなり手前から速度を落としてブレーキを掛けながら停車位置に止まろうとしますから「時間ロス」が起こり「時刻表」が正確に守れなくなります。
これが走っている幾つかの列車群に起こりますので其処に起こる「時間のズレ」が重なると最悪「衝突と接近の危険性」が高まる事に成ります。
(ヨーロッパのようにゆったりとした大きい「時間ロス」が発生してもそれを吸収し得る余裕ある「時間表」を作ればよいことに成ります。)
更に其処に制動力の良い日本の列車が介在すると余計に「衝突と接近の危険性」は高く成ります。
この現象が各区間で起こる事に成ります。依って、「時刻表」にも列車の前後が逆になるなどの問題が起こってくる事に成るのです。其処に過密が重なれば「衝突と接近の危険性」は更に増します。
そうすると列車管理システムの信号の精度良い管理ソフトが必要に成りますが、これは混成システムですので、確実にしようとすれば列車の「完全な固体認識」が必要と成ります。
しかし、先ず相当にこの「固体認識」はソフトと機械的に困難です。
依って中国の現場では此処の部分を「人為的操作」で逃げる以外に有りまんので「衝突と接近の危険性」のズレが常に発生していたと考えられます。「人為的な潜在的欠陥」となります。
依って、この技術力が無いがためにもともと人為的にする為により早く「やり過ごし」のポイントまで行かせる為に「青信号」であったのであって、「固体認識」の無さと「サージ対策」で赤に変え得るノウハウが無かった事を意味しますので、上記した「衝突と接近の危険性」の矛盾から衝突が起こったのです。
日本の新幹線の様にくさび鍵形〔印の制動能力であると、直前でブレーキを掛けて停車できる同じ制動力と同じ速度と同じ時間帯が守られて初めて高速鉄道は維持出来るのです。高速化=ブレーキ制動の前提に於いて。
この事も加えると中国の混成列車システムであると最終4重の矛盾を持つ事に成りますから、衝突を含む事故は”必ず起こるシステム”と云えるのです。
ところがこの4重の矛盾の解消策は、中国では上記のこの解決案を実行する事は政治的に国民高揚を図る目的があり、且つと技術的に低く混成である限り無理であります。
因みに、ところが、韓国の高速列車もフランスの方式ですので混生システムではない為にこの様な3つの矛盾の事故は起こらないのですが、もとより列車管理システムと制動力はヨーロッパ方式で走らせている限りは「時間のロス」と「小さい事故」は現在も起こっています。これを証明しています。
ところが、これを補う為に韓国は三菱系の新幹線の列車を別に三菱OEM方式で製造して韓国製として輸出しようとしているのです。日本の三菱の製造単価を下げる目的です。
何時か韓国は日本のシステムに変わる事を意味しています。車や家電の三菱プラント生産方式で日本のノウハウを模倣で獲得した時と同じ様に、又、三菱系のものを韓国製とするでしょう。
因みに台湾は全て日本の新幹線ですので問題は起こっていません。
しかし、この様に中国がどの様な列車を自国の物として喧伝しても絶対的に技術的に造り出す事が出来ないのです。
「アセンブリー生産の弱みと欠陥」
上記した様に現在技術力が進んだヨーロッパ諸国でも日本のシステムと金属関係の2つの技術力には追いついていないのです。ましてや中国にはこれを実行できる全てを賄えるだけの総合の基礎力の技術力と生産力はないのですから、部品は全て外国から買取調達する事に成ります。要するにアセンブリー生産です。
その意味で列車一つを売るよりは部品単位で売却する方が欧米と日本のメーカーはより利益率は上がります。ですから、日本を含む先進技術の諸外国は損はしないのです。
戦略的にも政治的な問題が起これば部品の供給をとめる事で「首根っ子」を抑える戦略が採れることに成ります。
日本を含む諸外国は当初からこの「潜在的欠陥」を承知していて戦略的優位がある為に落ち着いて今回の問題に対処出来ます。
この事は政治的に承知している中国は、つまり、国威高揚の切迫条件に迫られて慌てる余り中国は言葉で国民向けに大きなことを言っていますが、実は「首根っ子」を抑えられているのです。
これを外国に輸出するも日本に執っては部品売却益が増える事を意味します。問題が起これば解決する能力の無いままに中国が責任を負う事に成ります。
責任はまともには負えないでしょう。上記した様に対策力がそもそも無いのですから。中国の事ですから政治的にどの様な難癖を付けて来るかの危険はありますが、「首根っ子」の事から”事を荒立てる事”は決して出来ない筈です。
専門的に観ればこれだけの決定的潜在欠陥を持っていれば導入する国は限られてきます。
価格を落としての販売と成りますが、部品が先進技術国から購入する生産体制そのものが変わらなければ大きく価格を下げる事は困難です。況して売却先にこの欠陥システムの列車を運用する能力がある事が疑問視されます。あくまで「国威高揚の道具」に使う目的でしょうが、今回はその問題点をさらけ出してしまった事から難しく成ったと考えられます。
そこで、中国らしく「雷」と「埋める」で「臭い物には蓋」で逃げようとしたのです。
技術問題点を解明してもこの4つの矛盾をさらけ出す事に成り余計に中国としては問題を大きく広げてしまう事に成ります。
仮に技術的問題として原因が解明されても中国では解決で出来ないのですから。下手をすると拗れて購入先と政治問題化して「部品の供給」が止まる事も充分に予想できます。それこそ中国にとっては基も子もありません。
「過去の開発失敗の経緯」
そもそも中国は国威高揚の為に1990年頃から10年間ほど独自の列車を開発し始めたのですが、結局、無理である事が判り4年間で今回の外国から購入しての混成システムと成ったのです。
この事からでも潜在的な問題がある事が判ります
ロシアの技術導入を基本にロケットや戦闘機開発も行いましたが全て失敗に終わっているのです。
話題に成ったジェツト戦闘機はロシア式のもので19機作りましたが上空で激しい振動を起こして飛んでいられない有様で即時開発は中止したのです。表向きは成功したように国民に見せていますが。
人工衛星のロケットもロシアのものを基本にして2段目を類似の自己開発をしたのですがこれも2段目爆発で失敗に終わっています。それだけにこの高速列車は後に引けない国威のものと成っていて何とか混成でもよいから成功したかに受け取り、喜び勇んで必要以上の虚勢を張り国民に鼓舞したのですが1月もしない内に上気する「潜在的欠陥」から決定的な失敗を招いてしまったのです。
幸いに国民にはこの「潜在的欠陥」を見抜くだけの知識と理解力の不足と情報の不足があるから技術問題として発展しない事が伺えますし、補償と関係者への不満だけに収まると考えられます。
まして、一般の中国人の「石は薬」「法より人」の思考規準から真因追究の要求までに発展しないと考えられます。
上記の通り中国当局は真の原因追求は政治的に戦略的にもとより技術的に外国の力を借りない限り出来ない筈で見せ掛けの行為に終わると見られます。
現に、そもそもこの様な列車事故の矛盾を指摘し解明できる国民が居ないことそのものが問題なのです。ここでもその技術力の無さが露見しているのです。日本では何もかも考えられない事です。
日本では国民がメーカーと相当する以上に技術力を保持しているのです。それだからこの様な優秀な制動力とATCとが生み出されているのです。専門的な立場から見て中国にはこの「潜在的欠陥」の改善は急激に成される技術力ではありません。
混生システムのアセンブリー列車です。原因が判っても対策を採る能力が備わっているかは疑問で、結局は原因究明は関係国の協力なしでは現実には無理と成る筈です。
依って中国は戦略的に原因を雷説か信号説にする事以外に無い事に成ります。
「サージテスト」の事実を無視して。しかし、混成システムは4つの矛盾を潜ませたままで。
「今後の中国」
現実問題として政治的に国民の知識力を高める事は現体制の共産党の言論統制や格差等に対する批判に繋がり、政府の不安定さに繋がっていく事に成り痛し痒しの問題となります。
韓国の様に技術力を吸収して経済力につなげる事は喉から手が出るほどでしょう。しかし、急激に経済力を上げる事は「民度」が上がり国民意識も高く成りますので政府の倒壊にも繋がるのです。
だからある意味で戦略的に混成にする必要に迫られた事も有り得ます。
日本製の物に統一させる事は国家防衛に対する戦略的な意味で日本に技術支配される事にも成りますので、せめて数カ国にその支配性を分散させる事も必要です。この判断のミスが招いた事故といえます。
何にしても他国の基本をベースにして自国製として見せつけ国威を高揚させねば成らない国情に至っているのです。今後も著作権の盗用問題に見られる様にこの様な状態が続くと見られます。
しかし、それでもロシアの戦闘機や人工衛星を始めとしてベースにしてでも失敗している技術力の無さですから、その基礎力の範囲は見えています。
故に原因追求はおろか対策までも成し得ず、たとえ成し得たとしても仕様内容が異なっていますので部品へのフィードバックは論理的に不可能ですし、また、下手をすれば部品の停止ともなれば国難と成ります。
先ずは、専門家でなくては判らない「雷か信号」でお茶を濁す事の程度で真因の証拠を見せずに終わらせるつもりで有ろう事がよく判ります。
その様な列車に乗らなくてはならない中国の人々の心境はいかばかりか。同情に耐えません。
実情や真因を”知らない知らせない”の中ではその怖さも半分では何か矛盾を感じ割り切れないものがあります。
共産主義の一党独裁の計画的市場経済の「潜在的欠陥」の一端を露見した事に成ります。
本事故の一連の列車計画もバブル破綻経済を恣意的に起こしている延長線上にあるのです。
中国経済全体がそうであるようにオリンピック以降の経済は「恣意的バブル経済」にして維持しています。
政治も何もかもが共産党の一党独裁が「潜在的矛盾」を引き伸ばしている事に過ぎない事に気が付きます。
兎にも角にも、それらを解決するには中国は先進国を見習ながら国民の民度を上げなくては成りません。これは中国の伝統的な思考規準の「石は薬」「法より人」の考え方が無く成るかに掛かっています。
どの様に無くすのでしょうか。「知らない知らせない」の範囲では中国国民には事の問題意識も無いかも知れません。
つまり、中国の「他民族性の国情」から日本の様な「融合民族性」の国情により近づく事、近づかせる事が「雑種の優秀性」を発揮させ、「石は薬」「法より人」の考え方が変える事に成ります。そしてそれが世界に通ずる認識力と物造りの国が生まれるものと考えます。
しかし、反面それは現体制の崩壊に繋がる最大要因とも成り得ます。このシーソウの原理の中にある事が判ります。
これからも「この種の事故」と「事故の処理」と「中国の国民への虚勢」がしばらく続く事が予想できます。
要するに技術も然ることながらこの国情も「潜在的欠陥」を持っている事に成ります。
今回の処置もこの思考規準と国情が根底にありそれが大きく左右されていると観られます。
(中国の技術的な物造りの現状のレポートは「青木氏と神明社」の関連レポートとしてそれに基づき詳細を記述していますので不明なところは「青木氏と神明社」を参照してください。)


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給付金の景気議論の無駄と恐慌の時事放談
タイトル : 給付金の景気議論の無駄と恐慌の時事放談
投稿日 : 01/30-16:47
投稿者 : 福管理人
時事放談
景気刺激策の給付金に思う事
先ず始めに結論から云うと、”今国会でもめている給付金の議論は無駄である。”と言う事だ
給付金が無駄ではない。議論が無駄だと云いたいのだ。
”他に廻せばもっと効果があるだろう”とか、そんな事云い続けたらきりがない。”景気に対して効くか効かない”とかは問題ではない。やってもいないのに主観で判るだろうか。
「人、時、場所」の「三相」で考えたら、先ず実行する事に意味があるのである。そして、その「三相」で観て、仮に”あるか無いか”と聞かれたら、私は意外にあると観ているが、その理由は後に述べるとして、兎も角も、「恐慌」になりかけている現在何と馬鹿らしい事か呆れる。
そもそも「恐慌」と云うものの人間社会に与える恐ろしさを知らないらしい。
いや、96年も過ぎると人々の意思伝承からはそれを忘れてしまうらしい事だ。要するにバカに成るらしい。
念のため、給付金は先ず後にして、その恐ろしさを認知して頂く事がそれをわかって貰える最も近道だろうか。この為に過去に起こった「恐慌」のその時の経緯を先にどの様なものかを述べる事とする。
そうすれば、この給付金の議論が無駄である事がわかって貰えるだろう。先ずは実行するのみである。実行に価値があるのだ。2兆円等は問題では無くなるだろう。
この2兆円がその「恐慌」のもたらす恐ろしい人間の「性(さが)」を抑えてくれるのだ。
それで済むのなら安いものである。
それを次に縷縷述べるとする。
「100年一昔」と人は云うが、100年も過ぎれば何事もその恐ろしさが人々の脳裏から消えて忘れさられる。
結論から「恐慌」のもたらすものは生活の貧窮だけではないのだ。それは、歴史が物語っている。
では、その「恐慌」と云うものがどの程度起こっているかかが問題と成ろう。
そして、どのような経緯から起こるのかも気に成る。
どのような恐ろしいことが起こるのかも知りたいと思う。
最後にその経済的なメカニズムはどうなっているのかも知っておく必要があろう。
前回と較べて今回の起こりそうな「恐慌」はどのようなものかも、ここで知らねば「給付金の議論」の良悪の持つ意味が理解できないだろう。
そこで、これ等の事に付いて経済論ではない可能な範囲で論じる。
その恐慌は先ず日本では最近では3度起こっている。
1890年の「企業恐慌」 (1)
1894年の「資本主義恐慌」(2)
1907年の「植民地恐慌」 (3)
筆者らの年代であれば、当時と同じ生活環境にいたためにより実感としてこの程度の事はまだ聞き学んだ記憶として脳裏に残っている。
1880年後半の「企業恐慌」は、何れも、1860年前後に西洋で「産業革命」が起こり、日本では第1次は日清戦争期、第2次は日露戦争の時期に2度の「産業革命期」があった。
この時期はその産業革命を下にした生産を主体とした新しい体制の企業勃興期でそのブームが起こった。未経験のその企業が勃興してきた新しい「資本主義」の中で起こる「経済恐慌」を誘発した。
初めての経験であるが故に対処に手間取った。
つまり、「資本主義」では「産業革命」で大きな「生産活動」が起こる。
そこに「生産の変動」が起こる。当然にそれに伴なって「消費の変動」が起こり、遂には「景気変動」は起こる。これは当然の人間社会が起す「経済メカニズム」である。
何れも「需要と供給」のバランスが原因で起こる。
しかし、ここで「資本主義」の中では大きな欠点が起こる。
それは人間社会の生活から来る「消費の限界」である。
どんなに人間社会がある一定の生活レベルで維持した場合でも、「産業機械」による「生産活動の増大」にあわせての「消費活動」の拡大は出来ない。そこである一定の限界が起こる。
一方、科学、即ち「機械革命」による生産(供給)には限界が無い。ここに矛盾が起こる。
つまり、資本主義には、次ぎの原理の数式が生まれる。
「生産活動の増大」>「消費活動の増大」 「消費活動」=一定 「生産活動」=無限大・・・X
その矛盾が「社会変動」を起して、それが起因してこのギャップが大きい時に「恐慌」が起こるのである。
「生産活動の増大」ー「消費活動の増大」=MAX=「恐慌(デフレ)」 A
「消費活動の増大」ー「生産活動の増大」=MIN=「恐慌(インフレ)」 B
当然に、ギャップの大きい時、ギャップの小さい時の2種類の「恐慌」が起こるだろう。
そして、この「2つの恐慌」の連鎖の末に起こる経済システムの崩壊現象の「第3の恐慌」が起こる。
「消費活動の増大」<=0 「生産活動の増大」<=0 A-B<=0 :C
先ず、1880年末頃に起こった最初の「企業恐慌」は、「産業革命」による「機械革命」に依って「資本主義」では「企業の勃興」が起こる。当然に「供給」が大きくなり値段が下がり「デフレ」となる。株は暴落する。資産価値は低下する。勃興した企業は直ぐに倒産する。
この為に経済メカニズムが狂い「恐慌」となる仕組みだ。
人は、当然に、一度味わった「生活レベルの享受」を求めて下げる事をせずにその対応策を求めようと走る。それはその溢れた供給物を外に求めようとするのだ。これは人間の本能である。
そして、それを産み出すその「エネルギー源」を維持しょうとして、「力」(軍事力)の増大を図りその武力で以って自国のものとするためにその「資源の確保」を外に求める。
要するに、「資本主義」に起こる「必然のシナリオ」の「植民地政策」である。
時には、「軍事力支配」、「経済支配」、「政治支配」、「資源支配」、「思想支配」と重複しても使う事と成ろう。この時は、「軍事力支配」の植民地であった。
「植民地」と云う言葉はこの時代の「軍事力」における言葉でありいいイメージを起さないだろうが、現在に於いても、「軍事力」以外にも、実質、同じ支配を受けているのであって、消えたわけではない。
何時の「時代」にも、どんな「思想主義」でも「人間社会」である限りこの「必然のシナリオ」から逃れることは出来ない。
更に、この「必然のシナリオ」が起こった歴史を考察してみる。
先ず、次に起こった1894年は、今まで経験した事のない始めての「恐慌」と云う「経済システム」に戸惑い、慌てて、維持しようとして、この「植民地政策」を基本とした「資本主義」の反動が起こる。
つまり、「産業革命」以後に「新しい生活スタイル」が急に蔓延したが、今までの「古い生活スタイル」を捨てて一種の「+の拒絶反応」が人間には起こるのである。
その行動が引き金に成って社会が沸騰し過ぎ、金融バランスが崩れて、折角に勃興した企業、銀行が倒産し、再び「恐慌」へと走ったのである。
今まで苦労して得ていた資源は易々と手に入れられる事になり、商品も植民地でさばける状況が生まれる。この結果、「植民地政策」の勝利で得た海外からの利益で、国内は過激に景気沸騰して物が不足して物価は高騰して「インフレ」を起こし、「恐慌」へと向かうのである。(B)
この資本主義の欠点でもある「需要と供給」のバランスにより、片方に行き過ぎてしまった時に「デフレの恐慌」と「インフレの恐慌」が起こるのである。
この時までの未熟の資本主義はその産業革命の時から15年で「企業恐慌」(A)が、更にそこから11年間で「資本主義恐慌」であわせて26年間で「インフレ」と「デフレ」の両方がめまぐるしく起こり「恐慌」を起した。
そして、その13年後の1907年の「恐慌」は、この「二つの恐慌」を解決清算する為に、上記2つの恐慌(「経済活動でのアンバランス恐慌」)を避ける為に、それ以外の経済活動外で行う「景気刺激策」やむ終えず採用した。それが「植民地政策拡大」に乗じて「軍事物資」の需要を喚起させ、特殊な限定した分野での「軍需景気」を誘発させて解決しようとしたのである。
その活用地を求めてより海外に出て広める事に向かう「必然的な現象」が起こったのである。
これが本格的な「植民地恐慌」(C)であった。
植民地政策で世界は荒れ、資本主義を邁進する先進国は争って植民地獲得へと動いたので、各地で紛争が絶えず、先進国同士で、また、先進国と後進国(当時はこの様に呼ばれていた)との間で紛争と戦争が起こったのである。
この為、生活は疲弊し、挙句は各国の経済活動は低下し輸出入が激減し、遂には農村部格差の問題、都会貧困層の社会問題を誘発させて、「需要供給」に無関係に「恐慌」へと突き進んだ。
同じ事が殆ど同時に世界の先進国で起こっていたのである。
(A)と(B)の連鎖による経済システムの崩壊現象(C)を誘発させたのである。
これでは経済手法では手の打ち様が無く成ったのである。
この様に人間社会に於いて資本主義の欠点とも云えるこの三つの循環性のある必然的な「連鎖的な恐慌」が起こるのである。
最初に先ず「企業恐慌」が起こる。そして、反動として「資本恐慌」が起こり、最後には経済外の「植民地恐慌」までへと必ず走る性質の「連鎖反応」とも云うべき欠点を持っているのである。
一度、何れの「恐慌」が起ころうとも「連鎖の恐慌」が起こるのが資本主義の欠点でもある。
否、人間社会の「生活意識の欠点」ともいえる。
それは、一度知った果実の味「安楽の享受」の本能である。この本能がある限りこの恐ろしい必然の連鎖は解消できない。
そこで、しかし、この3つの「ただの恐慌」だけが怖いのではない。
この「恐慌」の上記する「3つのスパイラル」が怖いのである。
そして、その「3つのスパイラル」に陥る時に必ず起こり引き金と成る「煽り現象」、即ち「人間の性(さが)」が最も怖い事なのである。
この中には目を伏せたくなるような熱動する「非人間的な現象」が内蔵しているのである。
資本主義における「恐慌」とはこの様な「恐ろしい過程」を持っているのである。
そこで、その時のことを認識を高める為に再現して見よう。
直近の96年程前から昭和初期に掛けて「世界恐慌」が起こった。
先進国はより植民地政策へと動いていた。その事が昂じて決着の為にその時はその解決策として武力に訴える戦争へと動いた。
世界は、特にドイツは恐慌の嵐に喘いでいた。そこに、当初その発言と行動で異端児扱いされていたヒットラーが、国民は”何とかしてくれるのでは”と救世主として、熱狂的に幻想して引き出した。
怖いのはここである。
この様なときには人間の社会は現状の生活レベルを享受しようとして、「盲動的に、幻想的に」それを解決してくれるヒーローを仮想して作り出してしまう事である。
そして、その現象が一度起こると「悪のスパイラル」が起こり止まらない。
ドイツではこの「恐慌」の結果、この過ちを起してしまったのである。
そのヒーローのヒットラーはそこで「最後の切り札」を直ぐに使った。
ドイツを中心とした「統一ヨーロッパ」を作る事を名文に、本音はエネルギー源の確保を忍ばせて、先ず、フランス等ヨーロッパ域とロシアを侵略して「軍需景気」を起こし、ドイツは半年で恐慌から脱出して景気を回復させたのである。その狙いは意外に脆いフランスが落ちて半ば成功した。
そして、その勢いで今度はその「科学力」を大いに発揮してドイツは今までに無い新型のロケット弾を開発し、それを対岸からイギリスロンドンに向けて攻撃した。
無抵抗で戦わねば成らないイギリスは慌てた。
そこでアメリカに助けを求めた。飛び火してアメリカは軍隊を送った。
その反動でドイツとイタリヤは同盟、アメリカ、イギリスフランス、ロシアは同盟し、第一次大戦のへと突入。
その頃、一方日本は「恐慌」から先ず、西アジアにそのエネルギー源を求めて侵略、植民地としていた。
当然、そこを植民地支配していたアメリカとイギリスと衝突、対抗手段として相手は経済封鎖を実施した。
そこで、ある2つの目的(白人社会に黄色人が伸し上がることを好まない事も含む)を同時に持っていたアメリカは「戦いで日本を潰す」事を狙った。
もう一つは、同時に資本主義では15年程度で経済恐慌が繰り返し起こる経済政策では解決が困難と見て、経済外の政策として国民を煽動、喚起して「軍需」による景気回復で解決を狙った。
そのアメリカはわざと真珠湾に海軍をわざわざと集積させながら、日本海軍が太平洋に出てきても無防備の近い状態にしていた。即ち外国製の「鶴翼の陣」とも云うものであろう。
「経済封鎖」で窮地に至った日本は「勿怪の幸い」とその戦略に引っかかり日本軍は突出して真珠湾攻撃をしてしまった。つまり、懐を無防備に広げて相手に攻めさせて「戦い」の大義名分を得たアメリカ、イギリスの連合国側は「国民に反発の勢い」を着けて第2次大戦へと突入させた。
そして、アメリカ側はその本来の目的としての先ず「軍需景気」を起して「恐慌」を克服させたのである。後は、白色人種の領域に侵蝕し成長して来た黄色人種の「日本潰し」である。
日本は、次第にアジアから後退し昭和17年の4月18日の本土空爆から2年後に敗戦となった。
これで、第2の目的は達成されたのである。
しかし、敗戦占領後、直ぐに朝鮮半島で共産主義者の動乱が起こる。
アメリカは始めは共産主義者を引き入れて、白人先進国の中にアジアの黄色人種の伸張の大きな力と成っていた戦後の日本の「国粋的思想」の一掃を試みた。
しかし、朝鮮半島で共産主義が台頭して拙い事に成った。
そこで、共産主義から日本を護るために、その「軍需景気」を日本で起こし「戦後復興」と「経済力」をつける作戦に出た。そのために驚異的に日本は戦後の荒廃から脱出して立ち直らせ国力を回復させてたのである。そして、弱い所に巣食う共産主義の浸透を防いだ。
しかし、アメリカは日本の植民地であった朝鮮半島は失敗した。
一方、ドイツは極寒ロシアで大失敗し、次第に後退し、ドイツ国内はアメリカの「財力の元」と成っているユダヤ人を警戒して「ユダヤ人抹殺」の「修羅の世界」と成ったのである。
この様に、「恐慌」の結末は「窮鼠猫を噛む」の如き「最後のあがき」が起こり、必然的にその生きる「エネルギー源確保」のために、「歴史は繰り返す」の例え通りで、資本主義の経済活動の欠点を除くために最後手段の「軍需景気」で以って全ての国は「恐慌」から立ち直っているのである。
そこに起こる弊害や修羅を無視してである。
ここで、この様な時、「人間の社会」は「盲動的、幻想的」に「良悪を鑑みず」「ヒーローを仮想」して作り出してしまう事である。これが「恐慌」での最も怖い事である。
しかし、日本でも第2次大戦へと突入していった時も日本軍陸軍はこの悪のスパイラルに入っていたのである。
そのヒーローを「神国」「神風」に求めたのである。
そして、ドイツの「ヒットラー」と同じく、日本ではそれを煽ったのは矢張り、記者上がりの当時のトップ評論家で「ヒットラー的なヒーロー」として、「神がかりした人物」として見られたこの人物の度重ねる発言であった。それは通説の東条や近衛の指導者ではなかった。
日本も全く例外では無かった。全く同じ事が起こっていたのである。
その者の云う事は国民は皆信じた。国では、「神国」「神風」で煽り、人ではこの人物の「煽り」の影響を諸に受けたのであった。
この者の「煽り」が無ければ国民は盲動しなかっただろうと云われている。
この人物は戦後、その「煽り」の反省や謝罪も無く煽られる方が悪いといわんばかりの強気で生き延びたという事である。第一この本人も自らが洗脳されて熱動していたのではと考える。
真に恐ろしきは仏教で云う「縁無き衆生動し難し」とはこの事である。
「人間の社会」とはこの様なものである。だから盲動するのである。
今、恐ろしい「恐慌」の連鎖に真に陥らんとするこの社会では、この人物になる「煽り」人物は一体誰なのかとフトと考えることがある。
何せ、歴史的に学ぶと、今、一番怖い事はこの「煽り」である。人間の性(さが)を突く事実に基づかない「煽り」である。
そこで、資本主義が上記「3つの恐慌」の「連鎖の欠点」を反省して成熟し、それから96年経っているが、今度はその資本主義の自由市場を標榜する大元のアメリカ発の恐慌である。
これは以前のものと違う。今回は特殊な原因である。
2大国の冷戦時代は終わり、そこから、ブレーキが効かなくなったその一方に「無制限な自由の経済」の行き過ぎが起こり、走り続けなければ倒れる自転車の様な、貯蓄をしない連続の「消費経済」を作り出したのである。
「貯蓄」は、「悪のスパイラル」の「消炎剤」「冷却材」と成るが、貯蓄なしの「消費経済」では論理的に欠点を解消する事はできない筈である。
そして、そのために再び経済の証券、株、住宅などのものを、「自由」の旗の下でいじ繰り回し、それを「自由」と標榜して、その熱動のためにアメリカの「基礎的科学力」は軽視されて、その反動の低下が起こった。これは恐らく現世代のコンピータによる管理が成せる技であろう。
そして、アメリカでは、科学的な付加価値を怠り創造せずに「国力の低下」が起こったのである。
この時、アメリカでは、データでは「インフレ」と「デフレ」の現象が同時に起こると云う今までに無い不思議な現象であった。資本主義の経済システムに無い現象が起こっていたのである。
この現象は、1907年の恐慌のときに起こった社会現象と、時代の内容は違えど、同じ社会反動の条件に類似する事に気づくであろう。
この原因が2年程前のその時点では掴めなかったのである。
中国の安い製品がアメリカに入っていて、「生産過剰」と成っていると前世代の論理で考えた。
しかし、それであれば、インフレの現象は何なのか疑問であった。
それは、原因追求せずに、トップの自負の下で、アメリカ政府が承知の上で、危険であることを承知で、大リスクの下で、無理に低所得層の住宅ローンを喚起させ景気を維持させようとした。そして、あらゆる手段でドルを自国に引き込んむ応急政策を採った。
それでも駄目と成ると、世界の原油資本の6割を抱えるアメリカは、「先物市場」で「原油価格」の吊り上げに入った。しかし、この手も長く続けられるものでは無い。
当然、住宅(サブプライムローン)、原油ともに無理が露見してしまった。
そうすると、それに資金を出していた金融機関も破綻してしまったのである。
そこで、予想もしなかつた「証券(派生商品)」の「捻くりまわし」の「からくり」が見えて来たのである。
遂に、「生産活動」をせずに「濡れ手で粟」の「消費経済」が破綻し露見と成った。
そして、歯止め策の無い「恐慌」へと向かう危機が進行しているのである。
それも「貯蓄なしの消費経済」は自転車の如く止まらないのである。
果たして、この「猪突猛進」と見えるものはどの方向に動くのであろうか。
兎に角は、止めなければ成らない。貴方ならどうして止める?。過去に使われた秘策はある。
普通なら、「特効薬」となるのであれば、「秘策」を使うのでは無いだろうか。
上記した生産活動の歪みから起こる「3つの恐慌」の連鎖ではなく、全く別の「自由、資本主義経済」の盲点である「濡れ手で粟」の「行過ぎた経済」が侵蝕していた事に成る。
その盲点はコンピータが起因した。
だから、一種の「詐欺行為」(派生商品)をしてのけたアメリカの自由の行き過ぎた消費経済が、市場からの信頼が、絶壁から落ちるが如く一挙に落としてしまった。
これが今回の一国から出たアメリカの失態の結末である。
丁度、その時、国民の70%を占めるアメリカ社会の「白人優越主義」が崩壊の暗示をするが如く、黒人の大統領が生まれると言う、タイミングよくサプライズが起こった。
この歴史的なタイミングをどう見るかである。
そのタイミングで選ばれたその大統領の発言が、今までのアメリカとは違う歴史的演説をしたのである。
しかし、他方の黄色人種の世界第2位に踊り出ているその日本では、必要以上に事実無根の「煽り」を目的として批判する評論家が続出している。
今に至って、その間に日本は基礎的科学力の発展に力を注ぎ世界第2の力を持ち得たのである。
其処に、証券、株、住宅、原油で生きたアメリカと、基礎的科学力の発展に力を注いだ日本との間に大きなギャップが生まれたと言う事である。
そこをこのオバマの黒人大統領だからこそその拘りを捨てて日本を歴史上認めたということであろう。
況や歴史的なアメリカの失敗を認める演説したのである。
しかし、有史来、アメリカは国民の70%が白人社会であるが、白人の彼等は彼等の特長でもある「白人優越主義」からアメリカの経済運営の失敗を認めようとしなかった。この金融危機が起こったときにも。
当然に、日本のその科学的なファンダメンタルな繁栄も認め様としなかった。否”したくなかった”というのが正しいだろう。
ところが、黒人のオバマは就任1週間前の演説でこの2つの事をはっきりと認めたのである。
白人社会の権位失墜を意味する70%の抵抗のある中でのこの大変な演説であると考える。
日本の「科学に力を入れた政策運営」とアメリカを大きく凌ぐその「科学の発展」を認めたのである。
つまり、「金融危機」を起したアメリカをその反対の「科学政策の失敗」で言い換えたのである。
そして、それには何と「日本」を例に挙げたのである。
今まで決して無かったプライドを許さない白人の「日本認め」をオバマは言い放ったのである。
言い換えれば、アメリカ発の恐慌に成ろうとしている危機は、オバマが云うように、間接的にはその大きな原因は日本であるとも言える。
もし、日本が次ぎに挙げる「科学のリード」が無ければ、アメリカは今回の危機を招いてはいないと考えられる。それ程に日本の科学政策の進展が大きいものである。
それは次ぎに挙げる代表的な物品に例を挙げられる。
二輪車ヘルメットから始まり、ホンダ、ヤマハの大型バイク、電卓、テレビ、自動車、原発、高能力エンジン航空機、テレビ、高性能測定機器、ソーラーなどのエコ機器など全てアメリカ発の主なものを日本のものとしてしまった。
科学では、国をリードする自信を無くし、今回のような住宅、金融、原油の目先にあるものに走ってしまったという事であろう。本来、自動車に例を挙げられる様に「科学のアメリカ」である。
筆者は技術系であるので、そこの所は良く判る。
鉄鋼等の科学に絡む殆どの技術は「日本」の実感がある。少なくとも負けているものは無いのではとも思える。技術的視野から見て現在、科学の点では少なくとも先ず無いであろう。
恐らくはアメリカ人の心の片隅に”日本にしてやられている”と感じているのではないか。
アメリカはこの点で失政しているので、残るは証券、ファンド株、住宅となる。
必然的に其処に走るが自然の摂理である。
そして、「証券と住宅」で崩壊したのである。そこに残るのは「自由の根源」の「消費社会体質」(ファンド)が残るだけである。
そうなると、さて、”特効役はあるのか?”と疑問が湧く。結論は無い。
そんなに簡単にあるのであれば「人の冷えた心理」の挙句の「景気恐慌」は起こらない。
普通は「恐慌」は、通常景気の平均株価(14000円)の半分に陥ると「恐慌」と見なされるが、現在、8000-7600円である。殆ど「剣が峰」である。
「剣が峰」から落ちるには、アメリカはその景気を維持する為にドルを無理やりに自国に戻す為に、そして、ドルの信頼度を護るために、”金融、株、住宅、消耗品、原油”の全ての{切り札}を既に使ってしまった。
これは、消費経済の享楽の上に胡座をかき、上記の「科学的ファンダメンタル」の低下を招き起して、アメリカの「国力の低下」から、更にドルの「信頼度の低下」へと「悪のスパイラル」が起こった。
その結果から、アメリカは自国にドルを戻す事を無理やり起して景気を維持させていたのである。
原油資本による原油相場操作などをしたが、結局は、その結果、持ち応える事は出来ずに景気は低下し不況に突入してしまった。
其処に、自由資本主義の行過ぎた「経済の歪み」が起こり、一度味わった高い生活程度を求める人間の本質、アメリカの権位を護るために是が非でも何らかの手を打つ筈である。
前の「恐慌」どおりにその徹を踏むしかない筈。人類が発達しても人の考える事に大した違いはない。余り騒がれていないが、上記に書いたとおり、技術者であった私の目からは、現在の人類の享楽の大元は「科学の進歩」によるが、アメリカの反面、逆に日本の「科学進行への投資政策」が円高を産み、ドルの低下を招いていると見ている。必然性がある。
昔であれば、上記した様に、アメリカは日本の締め出しをヨーロッパの国と組んでしてくる筈であった。
しかし、ここまで、ヨーロッパと「4倍の力差さ」が出てしまった「科学の日本」を締め出す事は無理であろう。むしろ、味方に引き入れて、その力を利用する方が得策であろう。
いまやそれを決断するのはヨーロッパでは最早無い。アメリカである。
アメリカは、戦略的に「日本」を無視出来ないところに追い込まれているのである。
痛し痒しであろう。しかし、日本ではどうであろう。
自民党による国政の運営は全体とて、オバマが認めるように、アメリカの資本主義の行き過ぎの徹を踏んではいなく、「高度な科学」による「生産」を主体とした経済運営であり、相対的に見ればM党の様な「失政の非難」は当らない。
確かに、抹消政策のところでのゴタゴタはある。与党としての腐敗もあるだろう。官僚主義の行き過ぎもあるだろう。
しかし、国政の方向は、高度科学による生産主体の運営は、上記の資本主義の欠点のスパイラルからは逸脱していないし、現在まではオバマが認めるように、極めて近い資本主義体制でありながらも、「アメリカの徹」を踏んでいないし、そこを認めたオバマであるが、日本のその政策は相対的には功を奏している。
多分、未来のどの政権に於いても、”重箱の隅を突付けば粗は出る”である。
その重箱を手の上に掲げて、”これ見よがし”に政権与党を”悪政”の如く「煽る」のは次元が低い。
そんな、”オバマが褒める政権与党の科学政策”を隠しての「煽り」は、むしろ「搾取」行為であろう。
一部の左傾の2つのマスコミが「煽り」を目的として、オバマの演説を隠して”アメリカは日本を無視”として毎日煽っている。
挙句は「麻生氏の政権」の能力低さを喧伝する「煽り作戦」に出ている。そして、”M党に政権を”と狙っているが。
これにも、”戦前のあの記者上がりの評論家”らしき類似する者が「煽り評論家」として熱弁を奮っているのである。
丁度、ドイツのヒットラーの時と日本の戦争直前の状況によく似ている。
一方への不満が片方の良悪(M党)に拘らず傾く「人の心理」に託けて6割の無責任者を煽っているのである。
先の参院選では多くのこの6割の国民は”自民が悪い”からと云って、盲動、且つ、熱動してM党に入れて”衆参のねじれ”を作り出し、政治は滞る同じ現象で起こったのである。こんな時期に。
この「6割の無責任者」のために「ねじれ」で政治が上手く行く事は無い事を知りながらも片方に傾いてしまったのである。
所謂、「ヒットラー現象」とも言うべき日本製の現象が3年前から起こり始めたのである。今その過程にある。
其処に来て、この危機である。この現象の条件は揃っている。96年前と類似する同じ条件が。
さて、そこで、掘り下げて見ると、一番警戒して見て居なければ成らないのは、現在ドルに継いで円であるが、まだ世界をリードできるのはアメリカ、ドルであろう。
日本の主導は憲法改正が成らなければ少なくともむりであるし、トップである必要はない。
むしろ、セカンドが好ましい。今回の様に”トップの過ち”を反省点として進む事が国力、体質、国民性から観て好ましい。
とすると、後は残された特効薬は只一つ「軍需景気」で先ずトップ体質のアメリカを立て直す事にある。
それで無ければ自転車は倒れる。
そうすると、世界で見て観ると、連鎖の危険はあるが、秘策の「軍需物資」を使える紛争地はどこかであるが、3箇所ある。
イラク、アフガン、北朝鮮であろう。イラン、パレスチナは小さすぎる。
「軍需物資」を使える現実的なシナリオは只一つアフガンである。
しかし、「大量の武器」を使うには「シナリオ」は不十分である。
それには、イラクから軍を撤退、現イラクでは再び、テロリストが盛り返す。それに乗じて”テロリストの根拠地を潰す”を理由にアフガンに大量の武器を注ぎ込むだろう。
これは、テロリスト撲滅は大義名分であり、本音は大量の武器を「雨霰の如く」に使う事を目的とするだろう。
それには、先ず先立つ金が要る。それを日本に出させる。
何故ならばEUの1に対して4の日本の効果があるからだ。
アメリカはインド洋に軍艦を出す事と、日本はその燃料の提供、物資の輸送、ある程度の高性能艦を出す事に成るだろう。
日本も「自衛艦海外派遣」の為のその前の「お膳立て」が必要である。
これからは、政府はその「お膳立て」を別の目的でする事を合策すると見られる。
アフリカ紛争地、インド洋沖、インドシナ近海などへの「自衛艦隊派遣」をする法改正を検討する段取りが必要である。ソマリヤ沖の海賊の事も絶好の名文が立つ。
この様にして、止められるシナリオが無い今、恐らく起こる「恐慌」に対して、この様なシナリオとなると観られる。
北朝鮮は難民の流入が中国、韓国で起こり、中国では「恐慌」で内乱が頻発しているが窮地に陥っている中国との摩擦が起こりやり方では大問題と成るので避けるだろう。
韓国は国の外貨準備額が底をつき、IMFから断わられ2度目の日本からの「てこ入れ」(借金)で何とか国の破産を防いでいる最中にこの様なことを隣りで起されては困る。それこそ滅亡である。
そこで、他に手は無いかと云うことだが、表向きはアメリカは大義名分は「グリーンニューディール」として「環境策」で回復させるとしている。
上記した様に、「日本認め」からの「政策変換」である。それをオバマはこの様にタイトル化させた。
この根拠は、就任1週間前に行った演説で、日本、ドイツ、スペインを例に挙げて、特に日本の科学の進歩に対して高く褒め景気を維持している事を挙げて、このことから、日本を見習いこの政策を進めるとしたのである。
ハイブリット車、ロケット、航空機、原子力、エコ発電、など全て日本が完全に勝った。
ハイブリットはトヨタホンダの事で衆知であろう。
原子力のアメリカのNO2の会社を買収し、三菱とパナソニックがアメリカに参入し受注した。
航空機はロッキードが次期の航空機を短距離発着のジェット機の完成機を作った三菱ートヨタ系列富士重に発注、
今までアメリカに発注していた自衛隊の高性能次期輸送機と偵察情報機は川重のジェット機が受注。
ロケットは三菱が20機受注、アメリカが真似の出来ない高精度の4つの偵察衛星保有の日本に。
エコ機器は日本の独断場で、アメリカに架設されているエコの殆どは日本製である。ノーベル賞でも明らかな様に、この背景をオバマは日本を見習えと国民にけしかけたのである。
それがグリーンニューディール政策としたのである。
しかし、直ぐに効く特効薬では無い。今後の方針である。
この様に、アメリカの威信を保つには、当面直ぐに「軍需景気」を使う以外に無い。
それには日本を巻き込むことが必要である。
問題なのは、上記した「恐慌」のスパイラルが起こる事である。
しかし、その日本では、一部のマスコミでは、知らない煽られやすい6割の大衆を相手に”日本は無視されている”と上記の演説の事実を隠して煽っている。M党の政権奪取のために。
マスコミは知らないはずが無い。筆者でも知っているのであるから。
しかし、隠している。この歴史的、画期的な演説なのに。紹介したのは右傾の一つのメディアのみである。
仮に上記のアメリカのシナリオどおりに進んだとすると、仮にM党が事実無根の「煽り発言」で政権を奪取したとしてもM党の政策では無理が来る。
なぜなら、アフガンの日本の義務に対して、国連が認めたもので指名され場合の自衛隊の出動となり、アメリカ主導の今回のアフガンテロ攻撃では国連は動かない。
とすると、アメリカと方針の違いが起こり、同盟関係にヒビがはいる事は必定である。
多分、矛盾が生まれて短命に成るだろう事は判る。
ここで、幾らM党の政党方針としても同盟を今壊す事は国策ではない。
ましてや、給付金の是非を論じているくらいの党である。
この様に給付金を論じること事態が今の状況、恐慌寸前では無意味である。
そこで、まあ、兎も角も、この日本のこの給付金額はどの程度のものかと云うと、フランスの平均国民所得の1月の給与の1/3なのである。
フランス人が新聞を読んで驚いていると書かれていた。”給与の1/3の金額を貰って何が不満なのか”と。その効果の有無は問題ではないのである。
因みにアメリカは一律3万円であり、既に配布されたが「景気の効果有無」は論じていない。
「恐慌」前の「出す事の無形効果」に意味があるのであって、実質の「景気の効果」では無いと。
このことは誰でも、わかる事であろう。
その”「恐慌」に対する「心構えを喚起」するだけでただ良い”であり、智る人は判るはずであろう。
それを、M党は、政策如何で国会を止める騒ぎをしている。
恐らく、真意は判っているのだが、政権をとる為に、国民の6割を占めている者を煽動する事にあり、あまり考えの持たない国民層を狙って煽っているのであろう。オバマの演説の「日本認め」を隠して。
この「M党の煽り」がドイツで起こったヒットラーの如く「恐慌」の一番怖く弱い所である。
戦前の一人の評論家の神国神風の「゜煽り」で戦争突入になった弱い所である。
既に「衆参ねじれ」の盲動、熱動のスパイラルに入っている中では「M党の煽り」が最も怖いのである。
第一、M党は国会で漢字テストを議論する位である。議論するところではない事は承知で、麻生氏を誹謗し、この層を明らかに煽っているのである。
人間少しくらい漢字を間違えたからと云って、その人間の能力評価するとでも言いたいのか。では自分はどうなのか。胸に手を当てて自分に聞いてみよといいたい。
総理だからと云って万能ではない。むしろ万能でない方が独裁者となるので困る。
今はこの様な時期である。「適時適切に出来る人」ある範囲でその資質を持った人であれば良い。
失言や漢字などは全く問題ではない。
国会議員だからと云って、今や、明治のときと違う。普通人であろう。
そんな議論を国会でする程度のM党の方がおかしい。
第一そんな事で政権を奪取して上手く行くか疑問である。
また、自民が悪いからと云って、M党が良いというわけは無いだろう。
M党にどれだけの自民と違うすごい能力を持っているというのだろう。
漢字テストをするくらいの党で、すごい能力があるとは到底思えない。
むしろ無いとする方がより真に近いのではないか。
給付金に70%が反対しているのであれば、その人たちは、M党は貰わないのか。
”反対するが貰う”では筋が通らない。
反対するのであれば、”M党はその前に貰わないと宣言せよ”である。
”麻生は何もしていない。”と一割程度の人が云うが、それでは、M党やこの様な意見を出している人は麻生さんが出した以上に出来るのか。アレが精一杯のことであろう。
よく考えて欲しい。この国は資本主義である。共産国ではない。”何でも政府”はいい加減にして貰いたい。”政府には湯水の如き金は出てくるのだろうか”。”それならば、もっと税金を払え。”と成る。
社民党、共産党は「社会主義」で「資本主義」の日本社会の考え方ではないのだから、この「煽り」の考えに揺さぶられては困る。それこそ、ヒットラーの二の舞に成る。
まして、マスメディアの「煽り」の最たるのは他にもある。
例の国民から無作為RDDで意見を聞いているが、あれもおかしい。
支持率等で大いに自説を喧伝する材料としている。ある事を隠して「煽り」の材料として。
少し煽りを証明する為に論じる。
統計学では国民1億2000万に対して1800人では信頼度は殆ど無いのである。
統計学では、出た数字に「バイアス」と云うものがあり、そのデーターの信頼度を表す。
又、他には、データー採取では標準偏差法と云う方法がある。
これには平均値と偏差値が伴なう。この偏差値がそのデータ採取の信頼度を表す。
通常皆さんが良く使われる「単純平均法」でも、本当は信頼度の一覧表があるのだ。
皆さんは実際には使われていないが本当はあるのだ。
では、その時、統計では信頼度(指数能力)CP=1.0以上なくては殆ど信頼できないと成っている。
CP=1.33以上は全く信頼できる。
CP=0.67以下は全く信頼できないと成る。
マスコミやNHKなどが行っている電話でのデータは1800人ー2000人位であるから、信頼度は0.67以下0.3ー0.4程度に相当する。つまり、”殆ど信頼できない”と成るのである。
皆さんは、この「バイアス」とか「CP」とか「積分偏差値」の事を知っていましたか。
つまり、NHKは知っている筈です。しかし、この事を隠して発表していますね。
つまり、騙されて煽られているのです。
「知る、知らない」では上記の「煽られる煽られない」のより個人差が出るのです。
しかし、この様な統計的なことを知っている人は10万人に1人或いはそれ以上であろう。
だから声にはならないから隠しても問題に成らない。だから「煽り」が効くのであるが。
さて、ここで皆さんに少しお聞きしたい。
統計学にはデーター採取方法は10程度ありますが、全てに信頼度を表す方法があり、この条件が適用されるのです。常識です。
でも、もし騙されていないと云うのであれば、「6割の人」はこの事を知っていましたか。”信頼度幾ら”と発言していることを聞いたことありますか。データ採取幾らと聞いたことがありますか。無いですよね。
例えば、麻生さん支持率20%と出ます。このデータの採取量は2000を超えていません。
先ず、電話で、信頼度のCP=1.00と成るには無理と思いますよ。
それは電話を掛ける量が大変過ぎて時間が掛かり過ぎて、経費が掛かり過ぎて、国民から迷惑がられて多分出来ないでしょう。
統計学には、「時間」がある一定を過ぎると、「環境」が変化して正しい資料が取れないのです。
それが「時間の制限」と云いそれを超えてしまいます。
せいぜい、やや信頼できる程度CP=0.67以上CP=1.00でも、最低10000以上は必要です。
だから、RDD方式では無理なのです。
皆さんがいつも使われる「単純平均法」でも、「データ採取量」が本来は表から決められているのですが使っていますか。例えばサンプル50個で採取は最低15個程度で信頼度80%程度ですよ。
そして、統計的データ採取のデータとして扱える最低はサンプル15ですが知っていましたか。
この様に、騙されているのです。
更に、最も良い方法の適用はそのサンプルで異なります。
その採取するサンプルの内容で、10程度ある統計法の中から最適な統計法を選ぶのが普通です。
マスコミで扱っている統計法は適切であるかを疑問を持った事がありますか。
専門的に観ると疑問が多いのです。
どれでも使えるとしたら「標準偏差法」と「CP」ですね。
しかし、マスコミで使っているものは最もエラー性の大きい信頼性の低い「単純平均法」です。
これは、人、時間、場所から経費がもっとも安く簡単に出来るからです。
マスコミやテレビではこのことを隠していることを知っていましたか。
この様に、巧妙にし煽る事、怖いのは、この「煽り」なのです。
「恐慌」の様な時には、この「煽り」の「悪のスパイラル」が起こるのです。
それは統計的には「6割の無意識層」の存在がこの「煽り」で間違いを起してしまうのです。
これがこの世の宿命であり、「恐慌」や「政権委譲」時などの「極めの所」で問題となるのです。
では、この「6割の人」を少なくし無くす事は出来無いかと云うと出来ません。
ここでは、詳しい事は説明しませんが、「脳の本能的な事」から起こってこの層を作り出しているのです。
学問的に少なくとも絶対に5割以下は下がりません。人間が人間である限り。
仏教でもこれを認めているのです。「縁無き衆生、動し難し」と。
つまり、どんなに説法しても説法を受け入れる能力の無い者がこの世には居ると言うことなのです。それが「性」(さが)来るものだと云っています。
M党はこの層6割を狙って「煽り」をしているのです。国会で漢字テストする様に。
だから、データを取ると、”麻生は何していない”とする層が1割程度居るのです。
アレだけの補正予算案や色々と出しているのにもう他に無いだろうと思えるのに、、”麻生は何もしていない”と答えるのです。
これは「煽り」の「洗脳」と「盲動、熱動」から着ているのです。
6割の中には1割の人は「煽り」でこの様な反応をしてしまうのです。この6割の人は直情激情型に多いとされています。感情主観の強い人と言う事に成ります。逆に言えば論理性の少ない人です。
統計学でも、この様なデータはサンプルを表にすると、必ず先ずほぼ直線的に延びて比例直線が起こり、そして、変曲点があるところ(60-65%)で、表の直線は緩やかなカーブを示す事に成ります。
このカーブは変曲点以後は積分曲線と成ります。
これをSパターンと言います。
その比例直線の傾きはそのサンプルによって異なります。その傾きが大きいほど信頼度は増します。
この世の全ての統計データはこのパターンを示すのですが、さて、この1割はこの6割(60-65)の直線の初期にあるのです。
この様に煽られやすい層は6割も居るのですから、「煽れ」ばドイツのヒットラーや日本の第2次大戦のような(神国、神風)一種の洗脳状態が起こり、「悪のスパイラル」の方に走るのです。
これが、3割とかであれば洗脳されても暫く時間をおけば解けて元に戻るのですが、日本人は更に、国民性があり、この傾向が強いのです。
つまり、比例直線の傾きが小さいのです。表ではラインは横に寝ていると言う事です。7つの融合民族の為です。この状態では6割ですので時間での洗脳状態の解消は無理と成ります
そこで、アメリカはどうなのかですが、今のアメリカのオバマ旋風では、多少この傾向が起こっていると見ています。
そこで、「恐慌」の非常策のオバマのシナリオは成功裏に走ると観ているのです。
しかし、オバマ本人はグリーンニューディール政策を唱えているのですから。
日本の科学政策と比較対照して、実に冷静にアメリカの駄目な所の失政を認めて居るのです。
そしてそれを方針として、日本のような”本来の高度な科学活動による生産活動の資本主義の経済活動に戻したい”としているのです。
さて、そこで「剣が峰」から落ちる力、又は「決め手」は何なのかと云うと、それはアメリカの象徴が崩れる時だと見ます。
それは、明らかに自動車産業のビッグ3の倒産でしょう。アメリカの意識は完全に低下する事になりますからね。そうすると、間違いなく6割のアメリカ人はシナリオを求めるでしょう。
従って、このビッグ3をなんとしても倒産から護ることを当面すると見られますが、永く続ける事はできないと観ます。高度な科学が遅れているからです。
とすると、この救済策をアフガンとは別に日本に求めてくる事が考えられます。
何とかトヨタ系列に入れてくれとか。トヨタも大変だが。何か条件をつけて、円高を利用しての策かと観られます。高度な科学を即座に吸収する手段として、同盟を全面に掲げて。
この辺が今後見ものです。
さて、「給付金」は、この「世の摂理」の恐ろしい「恐慌」がその「剣が峰」に来ている時に、景気に効果の有無ではなく、必然に起こる「煽り」の「冷却材」に成り得るのである。
アメリカの「軍需景気」の動向では、「悪のスパイラル」に入りつつある今、この「煽り」の「冷却効果」になると考えられます。
政権与党は日本の舵を握っている。「煽り」等の低次元のことは言っている暇が無いだろう。
アメリカの「軍需策」を待って、任期ぎりぎりまで続けることが先ず戦略として考えられる。正しい舵取りの為に。さすれば、「6割の煽り熱」の解熱剤はこのアメリカの「軍需策」と成ろう。
兎も角も、「煽り」の材料としての「給付金」の景気議論は是非避けてもらいたいもので、6割の人たちに、その「給付金」の先に起こる可能性の高い恐ろしい「恐慌」を示して、それを知らない若い人々に詳しく知らしめて少しでも冷却してほしいのである。政治性を超えて、故に、敢えて、時事放談をした。
否、とすると、「給付金の景気議論」続けた方が良いのかな。戦略的に観て。
乱筆、乱文、散文の至り謝罪
念のため、本当投稿はあくまでも「放談」である。
名前 名字 苗字 由来 ルーツ 家系 家紋 歴史ブログ⇒
投稿日 : 01/30-16:47
投稿者 : 福管理人
時事放談
景気刺激策の給付金に思う事
先ず始めに結論から云うと、”今国会でもめている給付金の議論は無駄である。”と言う事だ
給付金が無駄ではない。議論が無駄だと云いたいのだ。
”他に廻せばもっと効果があるだろう”とか、そんな事云い続けたらきりがない。”景気に対して効くか効かない”とかは問題ではない。やってもいないのに主観で判るだろうか。
「人、時、場所」の「三相」で考えたら、先ず実行する事に意味があるのである。そして、その「三相」で観て、仮に”あるか無いか”と聞かれたら、私は意外にあると観ているが、その理由は後に述べるとして、兎も角も、「恐慌」になりかけている現在何と馬鹿らしい事か呆れる。
そもそも「恐慌」と云うものの人間社会に与える恐ろしさを知らないらしい。
いや、96年も過ぎると人々の意思伝承からはそれを忘れてしまうらしい事だ。要するにバカに成るらしい。
念のため、給付金は先ず後にして、その恐ろしさを認知して頂く事がそれをわかって貰える最も近道だろうか。この為に過去に起こった「恐慌」のその時の経緯を先にどの様なものかを述べる事とする。
そうすれば、この給付金の議論が無駄である事がわかって貰えるだろう。先ずは実行するのみである。実行に価値があるのだ。2兆円等は問題では無くなるだろう。
この2兆円がその「恐慌」のもたらす恐ろしい人間の「性(さが)」を抑えてくれるのだ。
それで済むのなら安いものである。
それを次に縷縷述べるとする。
「100年一昔」と人は云うが、100年も過ぎれば何事もその恐ろしさが人々の脳裏から消えて忘れさられる。
結論から「恐慌」のもたらすものは生活の貧窮だけではないのだ。それは、歴史が物語っている。
では、その「恐慌」と云うものがどの程度起こっているかかが問題と成ろう。
そして、どのような経緯から起こるのかも気に成る。
どのような恐ろしいことが起こるのかも知りたいと思う。
最後にその経済的なメカニズムはどうなっているのかも知っておく必要があろう。
前回と較べて今回の起こりそうな「恐慌」はどのようなものかも、ここで知らねば「給付金の議論」の良悪の持つ意味が理解できないだろう。
そこで、これ等の事に付いて経済論ではない可能な範囲で論じる。
その恐慌は先ず日本では最近では3度起こっている。
1890年の「企業恐慌」 (1)
1894年の「資本主義恐慌」(2)
1907年の「植民地恐慌」 (3)
筆者らの年代であれば、当時と同じ生活環境にいたためにより実感としてこの程度の事はまだ聞き学んだ記憶として脳裏に残っている。
1880年後半の「企業恐慌」は、何れも、1860年前後に西洋で「産業革命」が起こり、日本では第1次は日清戦争期、第2次は日露戦争の時期に2度の「産業革命期」があった。
この時期はその産業革命を下にした生産を主体とした新しい体制の企業勃興期でそのブームが起こった。未経験のその企業が勃興してきた新しい「資本主義」の中で起こる「経済恐慌」を誘発した。
初めての経験であるが故に対処に手間取った。
つまり、「資本主義」では「産業革命」で大きな「生産活動」が起こる。
そこに「生産の変動」が起こる。当然にそれに伴なって「消費の変動」が起こり、遂には「景気変動」は起こる。これは当然の人間社会が起す「経済メカニズム」である。
何れも「需要と供給」のバランスが原因で起こる。
しかし、ここで「資本主義」の中では大きな欠点が起こる。
それは人間社会の生活から来る「消費の限界」である。
どんなに人間社会がある一定の生活レベルで維持した場合でも、「産業機械」による「生産活動の増大」にあわせての「消費活動」の拡大は出来ない。そこである一定の限界が起こる。
一方、科学、即ち「機械革命」による生産(供給)には限界が無い。ここに矛盾が起こる。
つまり、資本主義には、次ぎの原理の数式が生まれる。
「生産活動の増大」>「消費活動の増大」 「消費活動」=一定 「生産活動」=無限大・・・X
その矛盾が「社会変動」を起して、それが起因してこのギャップが大きい時に「恐慌」が起こるのである。
「生産活動の増大」ー「消費活動の増大」=MAX=「恐慌(デフレ)」 A
「消費活動の増大」ー「生産活動の増大」=MIN=「恐慌(インフレ)」 B
当然に、ギャップの大きい時、ギャップの小さい時の2種類の「恐慌」が起こるだろう。
そして、この「2つの恐慌」の連鎖の末に起こる経済システムの崩壊現象の「第3の恐慌」が起こる。
「消費活動の増大」<=0 「生産活動の増大」<=0 A-B<=0 :C
先ず、1880年末頃に起こった最初の「企業恐慌」は、「産業革命」による「機械革命」に依って「資本主義」では「企業の勃興」が起こる。当然に「供給」が大きくなり値段が下がり「デフレ」となる。株は暴落する。資産価値は低下する。勃興した企業は直ぐに倒産する。
この為に経済メカニズムが狂い「恐慌」となる仕組みだ。
人は、当然に、一度味わった「生活レベルの享受」を求めて下げる事をせずにその対応策を求めようと走る。それはその溢れた供給物を外に求めようとするのだ。これは人間の本能である。
そして、それを産み出すその「エネルギー源」を維持しょうとして、「力」(軍事力)の増大を図りその武力で以って自国のものとするためにその「資源の確保」を外に求める。
要するに、「資本主義」に起こる「必然のシナリオ」の「植民地政策」である。
時には、「軍事力支配」、「経済支配」、「政治支配」、「資源支配」、「思想支配」と重複しても使う事と成ろう。この時は、「軍事力支配」の植民地であった。
「植民地」と云う言葉はこの時代の「軍事力」における言葉でありいいイメージを起さないだろうが、現在に於いても、「軍事力」以外にも、実質、同じ支配を受けているのであって、消えたわけではない。
何時の「時代」にも、どんな「思想主義」でも「人間社会」である限りこの「必然のシナリオ」から逃れることは出来ない。
更に、この「必然のシナリオ」が起こった歴史を考察してみる。
先ず、次に起こった1894年は、今まで経験した事のない始めての「恐慌」と云う「経済システム」に戸惑い、慌てて、維持しようとして、この「植民地政策」を基本とした「資本主義」の反動が起こる。
つまり、「産業革命」以後に「新しい生活スタイル」が急に蔓延したが、今までの「古い生活スタイル」を捨てて一種の「+の拒絶反応」が人間には起こるのである。
その行動が引き金に成って社会が沸騰し過ぎ、金融バランスが崩れて、折角に勃興した企業、銀行が倒産し、再び「恐慌」へと走ったのである。
今まで苦労して得ていた資源は易々と手に入れられる事になり、商品も植民地でさばける状況が生まれる。この結果、「植民地政策」の勝利で得た海外からの利益で、国内は過激に景気沸騰して物が不足して物価は高騰して「インフレ」を起こし、「恐慌」へと向かうのである。(B)
この資本主義の欠点でもある「需要と供給」のバランスにより、片方に行き過ぎてしまった時に「デフレの恐慌」と「インフレの恐慌」が起こるのである。
この時までの未熟の資本主義はその産業革命の時から15年で「企業恐慌」(A)が、更にそこから11年間で「資本主義恐慌」であわせて26年間で「インフレ」と「デフレ」の両方がめまぐるしく起こり「恐慌」を起した。
そして、その13年後の1907年の「恐慌」は、この「二つの恐慌」を解決清算する為に、上記2つの恐慌(「経済活動でのアンバランス恐慌」)を避ける為に、それ以外の経済活動外で行う「景気刺激策」やむ終えず採用した。それが「植民地政策拡大」に乗じて「軍事物資」の需要を喚起させ、特殊な限定した分野での「軍需景気」を誘発させて解決しようとしたのである。
その活用地を求めてより海外に出て広める事に向かう「必然的な現象」が起こったのである。
これが本格的な「植民地恐慌」(C)であった。
植民地政策で世界は荒れ、資本主義を邁進する先進国は争って植民地獲得へと動いたので、各地で紛争が絶えず、先進国同士で、また、先進国と後進国(当時はこの様に呼ばれていた)との間で紛争と戦争が起こったのである。
この為、生活は疲弊し、挙句は各国の経済活動は低下し輸出入が激減し、遂には農村部格差の問題、都会貧困層の社会問題を誘発させて、「需要供給」に無関係に「恐慌」へと突き進んだ。
同じ事が殆ど同時に世界の先進国で起こっていたのである。
(A)と(B)の連鎖による経済システムの崩壊現象(C)を誘発させたのである。
これでは経済手法では手の打ち様が無く成ったのである。
この様に人間社会に於いて資本主義の欠点とも云えるこの三つの循環性のある必然的な「連鎖的な恐慌」が起こるのである。
最初に先ず「企業恐慌」が起こる。そして、反動として「資本恐慌」が起こり、最後には経済外の「植民地恐慌」までへと必ず走る性質の「連鎖反応」とも云うべき欠点を持っているのである。
一度、何れの「恐慌」が起ころうとも「連鎖の恐慌」が起こるのが資本主義の欠点でもある。
否、人間社会の「生活意識の欠点」ともいえる。
それは、一度知った果実の味「安楽の享受」の本能である。この本能がある限りこの恐ろしい必然の連鎖は解消できない。
そこで、しかし、この3つの「ただの恐慌」だけが怖いのではない。
この「恐慌」の上記する「3つのスパイラル」が怖いのである。
そして、その「3つのスパイラル」に陥る時に必ず起こり引き金と成る「煽り現象」、即ち「人間の性(さが)」が最も怖い事なのである。
この中には目を伏せたくなるような熱動する「非人間的な現象」が内蔵しているのである。
資本主義における「恐慌」とはこの様な「恐ろしい過程」を持っているのである。
そこで、その時のことを認識を高める為に再現して見よう。
直近の96年程前から昭和初期に掛けて「世界恐慌」が起こった。
先進国はより植民地政策へと動いていた。その事が昂じて決着の為にその時はその解決策として武力に訴える戦争へと動いた。
世界は、特にドイツは恐慌の嵐に喘いでいた。そこに、当初その発言と行動で異端児扱いされていたヒットラーが、国民は”何とかしてくれるのでは”と救世主として、熱狂的に幻想して引き出した。
怖いのはここである。
この様なときには人間の社会は現状の生活レベルを享受しようとして、「盲動的に、幻想的に」それを解決してくれるヒーローを仮想して作り出してしまう事である。
そして、その現象が一度起こると「悪のスパイラル」が起こり止まらない。
ドイツではこの「恐慌」の結果、この過ちを起してしまったのである。
そのヒーローのヒットラーはそこで「最後の切り札」を直ぐに使った。
ドイツを中心とした「統一ヨーロッパ」を作る事を名文に、本音はエネルギー源の確保を忍ばせて、先ず、フランス等ヨーロッパ域とロシアを侵略して「軍需景気」を起こし、ドイツは半年で恐慌から脱出して景気を回復させたのである。その狙いは意外に脆いフランスが落ちて半ば成功した。
そして、その勢いで今度はその「科学力」を大いに発揮してドイツは今までに無い新型のロケット弾を開発し、それを対岸からイギリスロンドンに向けて攻撃した。
無抵抗で戦わねば成らないイギリスは慌てた。
そこでアメリカに助けを求めた。飛び火してアメリカは軍隊を送った。
その反動でドイツとイタリヤは同盟、アメリカ、イギリスフランス、ロシアは同盟し、第一次大戦のへと突入。
その頃、一方日本は「恐慌」から先ず、西アジアにそのエネルギー源を求めて侵略、植民地としていた。
当然、そこを植民地支配していたアメリカとイギリスと衝突、対抗手段として相手は経済封鎖を実施した。
そこで、ある2つの目的(白人社会に黄色人が伸し上がることを好まない事も含む)を同時に持っていたアメリカは「戦いで日本を潰す」事を狙った。
もう一つは、同時に資本主義では15年程度で経済恐慌が繰り返し起こる経済政策では解決が困難と見て、経済外の政策として国民を煽動、喚起して「軍需」による景気回復で解決を狙った。
そのアメリカはわざと真珠湾に海軍をわざわざと集積させながら、日本海軍が太平洋に出てきても無防備の近い状態にしていた。即ち外国製の「鶴翼の陣」とも云うものであろう。
「経済封鎖」で窮地に至った日本は「勿怪の幸い」とその戦略に引っかかり日本軍は突出して真珠湾攻撃をしてしまった。つまり、懐を無防備に広げて相手に攻めさせて「戦い」の大義名分を得たアメリカ、イギリスの連合国側は「国民に反発の勢い」を着けて第2次大戦へと突入させた。
そして、アメリカ側はその本来の目的としての先ず「軍需景気」を起して「恐慌」を克服させたのである。後は、白色人種の領域に侵蝕し成長して来た黄色人種の「日本潰し」である。
日本は、次第にアジアから後退し昭和17年の4月18日の本土空爆から2年後に敗戦となった。
これで、第2の目的は達成されたのである。
しかし、敗戦占領後、直ぐに朝鮮半島で共産主義者の動乱が起こる。
アメリカは始めは共産主義者を引き入れて、白人先進国の中にアジアの黄色人種の伸張の大きな力と成っていた戦後の日本の「国粋的思想」の一掃を試みた。
しかし、朝鮮半島で共産主義が台頭して拙い事に成った。
そこで、共産主義から日本を護るために、その「軍需景気」を日本で起こし「戦後復興」と「経済力」をつける作戦に出た。そのために驚異的に日本は戦後の荒廃から脱出して立ち直らせ国力を回復させてたのである。そして、弱い所に巣食う共産主義の浸透を防いだ。
しかし、アメリカは日本の植民地であった朝鮮半島は失敗した。
一方、ドイツは極寒ロシアで大失敗し、次第に後退し、ドイツ国内はアメリカの「財力の元」と成っているユダヤ人を警戒して「ユダヤ人抹殺」の「修羅の世界」と成ったのである。
この様に、「恐慌」の結末は「窮鼠猫を噛む」の如き「最後のあがき」が起こり、必然的にその生きる「エネルギー源確保」のために、「歴史は繰り返す」の例え通りで、資本主義の経済活動の欠点を除くために最後手段の「軍需景気」で以って全ての国は「恐慌」から立ち直っているのである。
そこに起こる弊害や修羅を無視してである。
ここで、この様な時、「人間の社会」は「盲動的、幻想的」に「良悪を鑑みず」「ヒーローを仮想」して作り出してしまう事である。これが「恐慌」での最も怖い事である。
しかし、日本でも第2次大戦へと突入していった時も日本軍陸軍はこの悪のスパイラルに入っていたのである。
そのヒーローを「神国」「神風」に求めたのである。
そして、ドイツの「ヒットラー」と同じく、日本ではそれを煽ったのは矢張り、記者上がりの当時のトップ評論家で「ヒットラー的なヒーロー」として、「神がかりした人物」として見られたこの人物の度重ねる発言であった。それは通説の東条や近衛の指導者ではなかった。
日本も全く例外では無かった。全く同じ事が起こっていたのである。
その者の云う事は国民は皆信じた。国では、「神国」「神風」で煽り、人ではこの人物の「煽り」の影響を諸に受けたのであった。
この者の「煽り」が無ければ国民は盲動しなかっただろうと云われている。
この人物は戦後、その「煽り」の反省や謝罪も無く煽られる方が悪いといわんばかりの強気で生き延びたという事である。第一この本人も自らが洗脳されて熱動していたのではと考える。
真に恐ろしきは仏教で云う「縁無き衆生動し難し」とはこの事である。
「人間の社会」とはこの様なものである。だから盲動するのである。
今、恐ろしい「恐慌」の連鎖に真に陥らんとするこの社会では、この人物になる「煽り」人物は一体誰なのかとフトと考えることがある。
何せ、歴史的に学ぶと、今、一番怖い事はこの「煽り」である。人間の性(さが)を突く事実に基づかない「煽り」である。
そこで、資本主義が上記「3つの恐慌」の「連鎖の欠点」を反省して成熟し、それから96年経っているが、今度はその資本主義の自由市場を標榜する大元のアメリカ発の恐慌である。
これは以前のものと違う。今回は特殊な原因である。
2大国の冷戦時代は終わり、そこから、ブレーキが効かなくなったその一方に「無制限な自由の経済」の行き過ぎが起こり、走り続けなければ倒れる自転車の様な、貯蓄をしない連続の「消費経済」を作り出したのである。
「貯蓄」は、「悪のスパイラル」の「消炎剤」「冷却材」と成るが、貯蓄なしの「消費経済」では論理的に欠点を解消する事はできない筈である。
そして、そのために再び経済の証券、株、住宅などのものを、「自由」の旗の下でいじ繰り回し、それを「自由」と標榜して、その熱動のためにアメリカの「基礎的科学力」は軽視されて、その反動の低下が起こった。これは恐らく現世代のコンピータによる管理が成せる技であろう。
そして、アメリカでは、科学的な付加価値を怠り創造せずに「国力の低下」が起こったのである。
この時、アメリカでは、データでは「インフレ」と「デフレ」の現象が同時に起こると云う今までに無い不思議な現象であった。資本主義の経済システムに無い現象が起こっていたのである。
この現象は、1907年の恐慌のときに起こった社会現象と、時代の内容は違えど、同じ社会反動の条件に類似する事に気づくであろう。
この原因が2年程前のその時点では掴めなかったのである。
中国の安い製品がアメリカに入っていて、「生産過剰」と成っていると前世代の論理で考えた。
しかし、それであれば、インフレの現象は何なのか疑問であった。
それは、原因追求せずに、トップの自負の下で、アメリカ政府が承知の上で、危険であることを承知で、大リスクの下で、無理に低所得層の住宅ローンを喚起させ景気を維持させようとした。そして、あらゆる手段でドルを自国に引き込んむ応急政策を採った。
それでも駄目と成ると、世界の原油資本の6割を抱えるアメリカは、「先物市場」で「原油価格」の吊り上げに入った。しかし、この手も長く続けられるものでは無い。
当然、住宅(サブプライムローン)、原油ともに無理が露見してしまった。
そうすると、それに資金を出していた金融機関も破綻してしまったのである。
そこで、予想もしなかつた「証券(派生商品)」の「捻くりまわし」の「からくり」が見えて来たのである。
遂に、「生産活動」をせずに「濡れ手で粟」の「消費経済」が破綻し露見と成った。
そして、歯止め策の無い「恐慌」へと向かう危機が進行しているのである。
それも「貯蓄なしの消費経済」は自転車の如く止まらないのである。
果たして、この「猪突猛進」と見えるものはどの方向に動くのであろうか。
兎に角は、止めなければ成らない。貴方ならどうして止める?。過去に使われた秘策はある。
普通なら、「特効薬」となるのであれば、「秘策」を使うのでは無いだろうか。
上記した生産活動の歪みから起こる「3つの恐慌」の連鎖ではなく、全く別の「自由、資本主義経済」の盲点である「濡れ手で粟」の「行過ぎた経済」が侵蝕していた事に成る。
その盲点はコンピータが起因した。
だから、一種の「詐欺行為」(派生商品)をしてのけたアメリカの自由の行き過ぎた消費経済が、市場からの信頼が、絶壁から落ちるが如く一挙に落としてしまった。
これが今回の一国から出たアメリカの失態の結末である。
丁度、その時、国民の70%を占めるアメリカ社会の「白人優越主義」が崩壊の暗示をするが如く、黒人の大統領が生まれると言う、タイミングよくサプライズが起こった。
この歴史的なタイミングをどう見るかである。
そのタイミングで選ばれたその大統領の発言が、今までのアメリカとは違う歴史的演説をしたのである。
しかし、他方の黄色人種の世界第2位に踊り出ているその日本では、必要以上に事実無根の「煽り」を目的として批判する評論家が続出している。
今に至って、その間に日本は基礎的科学力の発展に力を注ぎ世界第2の力を持ち得たのである。
其処に、証券、株、住宅、原油で生きたアメリカと、基礎的科学力の発展に力を注いだ日本との間に大きなギャップが生まれたと言う事である。
そこをこのオバマの黒人大統領だからこそその拘りを捨てて日本を歴史上認めたということであろう。
況や歴史的なアメリカの失敗を認める演説したのである。
しかし、有史来、アメリカは国民の70%が白人社会であるが、白人の彼等は彼等の特長でもある「白人優越主義」からアメリカの経済運営の失敗を認めようとしなかった。この金融危機が起こったときにも。
当然に、日本のその科学的なファンダメンタルな繁栄も認め様としなかった。否”したくなかった”というのが正しいだろう。
ところが、黒人のオバマは就任1週間前の演説でこの2つの事をはっきりと認めたのである。
白人社会の権位失墜を意味する70%の抵抗のある中でのこの大変な演説であると考える。
日本の「科学に力を入れた政策運営」とアメリカを大きく凌ぐその「科学の発展」を認めたのである。
つまり、「金融危機」を起したアメリカをその反対の「科学政策の失敗」で言い換えたのである。
そして、それには何と「日本」を例に挙げたのである。
今まで決して無かったプライドを許さない白人の「日本認め」をオバマは言い放ったのである。
言い換えれば、アメリカ発の恐慌に成ろうとしている危機は、オバマが云うように、間接的にはその大きな原因は日本であるとも言える。
もし、日本が次ぎに挙げる「科学のリード」が無ければ、アメリカは今回の危機を招いてはいないと考えられる。それ程に日本の科学政策の進展が大きいものである。
それは次ぎに挙げる代表的な物品に例を挙げられる。
二輪車ヘルメットから始まり、ホンダ、ヤマハの大型バイク、電卓、テレビ、自動車、原発、高能力エンジン航空機、テレビ、高性能測定機器、ソーラーなどのエコ機器など全てアメリカ発の主なものを日本のものとしてしまった。
科学では、国をリードする自信を無くし、今回のような住宅、金融、原油の目先にあるものに走ってしまったという事であろう。本来、自動車に例を挙げられる様に「科学のアメリカ」である。
筆者は技術系であるので、そこの所は良く判る。
鉄鋼等の科学に絡む殆どの技術は「日本」の実感がある。少なくとも負けているものは無いのではとも思える。技術的視野から見て現在、科学の点では少なくとも先ず無いであろう。
恐らくはアメリカ人の心の片隅に”日本にしてやられている”と感じているのではないか。
アメリカはこの点で失政しているので、残るは証券、ファンド株、住宅となる。
必然的に其処に走るが自然の摂理である。
そして、「証券と住宅」で崩壊したのである。そこに残るのは「自由の根源」の「消費社会体質」(ファンド)が残るだけである。
そうなると、さて、”特効役はあるのか?”と疑問が湧く。結論は無い。
そんなに簡単にあるのであれば「人の冷えた心理」の挙句の「景気恐慌」は起こらない。
普通は「恐慌」は、通常景気の平均株価(14000円)の半分に陥ると「恐慌」と見なされるが、現在、8000-7600円である。殆ど「剣が峰」である。
「剣が峰」から落ちるには、アメリカはその景気を維持する為にドルを無理やりに自国に戻す為に、そして、ドルの信頼度を護るために、”金融、株、住宅、消耗品、原油”の全ての{切り札}を既に使ってしまった。
これは、消費経済の享楽の上に胡座をかき、上記の「科学的ファンダメンタル」の低下を招き起して、アメリカの「国力の低下」から、更にドルの「信頼度の低下」へと「悪のスパイラル」が起こった。
その結果から、アメリカは自国にドルを戻す事を無理やり起して景気を維持させていたのである。
原油資本による原油相場操作などをしたが、結局は、その結果、持ち応える事は出来ずに景気は低下し不況に突入してしまった。
其処に、自由資本主義の行過ぎた「経済の歪み」が起こり、一度味わった高い生活程度を求める人間の本質、アメリカの権位を護るために是が非でも何らかの手を打つ筈である。
前の「恐慌」どおりにその徹を踏むしかない筈。人類が発達しても人の考える事に大した違いはない。余り騒がれていないが、上記に書いたとおり、技術者であった私の目からは、現在の人類の享楽の大元は「科学の進歩」によるが、アメリカの反面、逆に日本の「科学進行への投資政策」が円高を産み、ドルの低下を招いていると見ている。必然性がある。
昔であれば、上記した様に、アメリカは日本の締め出しをヨーロッパの国と組んでしてくる筈であった。
しかし、ここまで、ヨーロッパと「4倍の力差さ」が出てしまった「科学の日本」を締め出す事は無理であろう。むしろ、味方に引き入れて、その力を利用する方が得策であろう。
いまやそれを決断するのはヨーロッパでは最早無い。アメリカである。
アメリカは、戦略的に「日本」を無視出来ないところに追い込まれているのである。
痛し痒しであろう。しかし、日本ではどうであろう。
自民党による国政の運営は全体とて、オバマが認めるように、アメリカの資本主義の行き過ぎの徹を踏んではいなく、「高度な科学」による「生産」を主体とした経済運営であり、相対的に見ればM党の様な「失政の非難」は当らない。
確かに、抹消政策のところでのゴタゴタはある。与党としての腐敗もあるだろう。官僚主義の行き過ぎもあるだろう。
しかし、国政の方向は、高度科学による生産主体の運営は、上記の資本主義の欠点のスパイラルからは逸脱していないし、現在まではオバマが認めるように、極めて近い資本主義体制でありながらも、「アメリカの徹」を踏んでいないし、そこを認めたオバマであるが、日本のその政策は相対的には功を奏している。
多分、未来のどの政権に於いても、”重箱の隅を突付けば粗は出る”である。
その重箱を手の上に掲げて、”これ見よがし”に政権与党を”悪政”の如く「煽る」のは次元が低い。
そんな、”オバマが褒める政権与党の科学政策”を隠しての「煽り」は、むしろ「搾取」行為であろう。
一部の左傾の2つのマスコミが「煽り」を目的として、オバマの演説を隠して”アメリカは日本を無視”として毎日煽っている。
挙句は「麻生氏の政権」の能力低さを喧伝する「煽り作戦」に出ている。そして、”M党に政権を”と狙っているが。
これにも、”戦前のあの記者上がりの評論家”らしき類似する者が「煽り評論家」として熱弁を奮っているのである。
丁度、ドイツのヒットラーの時と日本の戦争直前の状況によく似ている。
一方への不満が片方の良悪(M党)に拘らず傾く「人の心理」に託けて6割の無責任者を煽っているのである。
先の参院選では多くのこの6割の国民は”自民が悪い”からと云って、盲動、且つ、熱動してM党に入れて”衆参のねじれ”を作り出し、政治は滞る同じ現象で起こったのである。こんな時期に。
この「6割の無責任者」のために「ねじれ」で政治が上手く行く事は無い事を知りながらも片方に傾いてしまったのである。
所謂、「ヒットラー現象」とも言うべき日本製の現象が3年前から起こり始めたのである。今その過程にある。
其処に来て、この危機である。この現象の条件は揃っている。96年前と類似する同じ条件が。
さて、そこで、掘り下げて見ると、一番警戒して見て居なければ成らないのは、現在ドルに継いで円であるが、まだ世界をリードできるのはアメリカ、ドルであろう。
日本の主導は憲法改正が成らなければ少なくともむりであるし、トップである必要はない。
むしろ、セカンドが好ましい。今回の様に”トップの過ち”を反省点として進む事が国力、体質、国民性から観て好ましい。
とすると、後は残された特効薬は只一つ「軍需景気」で先ずトップ体質のアメリカを立て直す事にある。
それで無ければ自転車は倒れる。
そうすると、世界で見て観ると、連鎖の危険はあるが、秘策の「軍需物資」を使える紛争地はどこかであるが、3箇所ある。
イラク、アフガン、北朝鮮であろう。イラン、パレスチナは小さすぎる。
「軍需物資」を使える現実的なシナリオは只一つアフガンである。
しかし、「大量の武器」を使うには「シナリオ」は不十分である。
それには、イラクから軍を撤退、現イラクでは再び、テロリストが盛り返す。それに乗じて”テロリストの根拠地を潰す”を理由にアフガンに大量の武器を注ぎ込むだろう。
これは、テロリスト撲滅は大義名分であり、本音は大量の武器を「雨霰の如く」に使う事を目的とするだろう。
それには、先ず先立つ金が要る。それを日本に出させる。
何故ならばEUの1に対して4の日本の効果があるからだ。
アメリカはインド洋に軍艦を出す事と、日本はその燃料の提供、物資の輸送、ある程度の高性能艦を出す事に成るだろう。
日本も「自衛艦海外派遣」の為のその前の「お膳立て」が必要である。
これからは、政府はその「お膳立て」を別の目的でする事を合策すると見られる。
アフリカ紛争地、インド洋沖、インドシナ近海などへの「自衛艦隊派遣」をする法改正を検討する段取りが必要である。ソマリヤ沖の海賊の事も絶好の名文が立つ。
この様にして、止められるシナリオが無い今、恐らく起こる「恐慌」に対して、この様なシナリオとなると観られる。
北朝鮮は難民の流入が中国、韓国で起こり、中国では「恐慌」で内乱が頻発しているが窮地に陥っている中国との摩擦が起こりやり方では大問題と成るので避けるだろう。
韓国は国の外貨準備額が底をつき、IMFから断わられ2度目の日本からの「てこ入れ」(借金)で何とか国の破産を防いでいる最中にこの様なことを隣りで起されては困る。それこそ滅亡である。
そこで、他に手は無いかと云うことだが、表向きはアメリカは大義名分は「グリーンニューディール」として「環境策」で回復させるとしている。
上記した様に、「日本認め」からの「政策変換」である。それをオバマはこの様にタイトル化させた。
この根拠は、就任1週間前に行った演説で、日本、ドイツ、スペインを例に挙げて、特に日本の科学の進歩に対して高く褒め景気を維持している事を挙げて、このことから、日本を見習いこの政策を進めるとしたのである。
ハイブリット車、ロケット、航空機、原子力、エコ発電、など全て日本が完全に勝った。
ハイブリットはトヨタホンダの事で衆知であろう。
原子力のアメリカのNO2の会社を買収し、三菱とパナソニックがアメリカに参入し受注した。
航空機はロッキードが次期の航空機を短距離発着のジェット機の完成機を作った三菱ートヨタ系列富士重に発注、
今までアメリカに発注していた自衛隊の高性能次期輸送機と偵察情報機は川重のジェット機が受注。
ロケットは三菱が20機受注、アメリカが真似の出来ない高精度の4つの偵察衛星保有の日本に。
エコ機器は日本の独断場で、アメリカに架設されているエコの殆どは日本製である。ノーベル賞でも明らかな様に、この背景をオバマは日本を見習えと国民にけしかけたのである。
それがグリーンニューディール政策としたのである。
しかし、直ぐに効く特効薬では無い。今後の方針である。
この様に、アメリカの威信を保つには、当面直ぐに「軍需景気」を使う以外に無い。
それには日本を巻き込むことが必要である。
問題なのは、上記した「恐慌」のスパイラルが起こる事である。
しかし、その日本では、一部のマスコミでは、知らない煽られやすい6割の大衆を相手に”日本は無視されている”と上記の演説の事実を隠して煽っている。M党の政権奪取のために。
マスコミは知らないはずが無い。筆者でも知っているのであるから。
しかし、隠している。この歴史的、画期的な演説なのに。紹介したのは右傾の一つのメディアのみである。
仮に上記のアメリカのシナリオどおりに進んだとすると、仮にM党が事実無根の「煽り発言」で政権を奪取したとしてもM党の政策では無理が来る。
なぜなら、アフガンの日本の義務に対して、国連が認めたもので指名され場合の自衛隊の出動となり、アメリカ主導の今回のアフガンテロ攻撃では国連は動かない。
とすると、アメリカと方針の違いが起こり、同盟関係にヒビがはいる事は必定である。
多分、矛盾が生まれて短命に成るだろう事は判る。
ここで、幾らM党の政党方針としても同盟を今壊す事は国策ではない。
ましてや、給付金の是非を論じているくらいの党である。
この様に給付金を論じること事態が今の状況、恐慌寸前では無意味である。
そこで、まあ、兎も角も、この日本のこの給付金額はどの程度のものかと云うと、フランスの平均国民所得の1月の給与の1/3なのである。
フランス人が新聞を読んで驚いていると書かれていた。”給与の1/3の金額を貰って何が不満なのか”と。その効果の有無は問題ではないのである。
因みにアメリカは一律3万円であり、既に配布されたが「景気の効果有無」は論じていない。
「恐慌」前の「出す事の無形効果」に意味があるのであって、実質の「景気の効果」では無いと。
このことは誰でも、わかる事であろう。
その”「恐慌」に対する「心構えを喚起」するだけでただ良い”であり、智る人は判るはずであろう。
それを、M党は、政策如何で国会を止める騒ぎをしている。
恐らく、真意は判っているのだが、政権をとる為に、国民の6割を占めている者を煽動する事にあり、あまり考えの持たない国民層を狙って煽っているのであろう。オバマの演説の「日本認め」を隠して。
この「M党の煽り」がドイツで起こったヒットラーの如く「恐慌」の一番怖く弱い所である。
戦前の一人の評論家の神国神風の「゜煽り」で戦争突入になった弱い所である。
既に「衆参ねじれ」の盲動、熱動のスパイラルに入っている中では「M党の煽り」が最も怖いのである。
第一、M党は国会で漢字テストを議論する位である。議論するところではない事は承知で、麻生氏を誹謗し、この層を明らかに煽っているのである。
人間少しくらい漢字を間違えたからと云って、その人間の能力評価するとでも言いたいのか。では自分はどうなのか。胸に手を当てて自分に聞いてみよといいたい。
総理だからと云って万能ではない。むしろ万能でない方が独裁者となるので困る。
今はこの様な時期である。「適時適切に出来る人」ある範囲でその資質を持った人であれば良い。
失言や漢字などは全く問題ではない。
国会議員だからと云って、今や、明治のときと違う。普通人であろう。
そんな議論を国会でする程度のM党の方がおかしい。
第一そんな事で政権を奪取して上手く行くか疑問である。
また、自民が悪いからと云って、M党が良いというわけは無いだろう。
M党にどれだけの自民と違うすごい能力を持っているというのだろう。
漢字テストをするくらいの党で、すごい能力があるとは到底思えない。
むしろ無いとする方がより真に近いのではないか。
給付金に70%が反対しているのであれば、その人たちは、M党は貰わないのか。
”反対するが貰う”では筋が通らない。
反対するのであれば、”M党はその前に貰わないと宣言せよ”である。
”麻生は何もしていない。”と一割程度の人が云うが、それでは、M党やこの様な意見を出している人は麻生さんが出した以上に出来るのか。アレが精一杯のことであろう。
よく考えて欲しい。この国は資本主義である。共産国ではない。”何でも政府”はいい加減にして貰いたい。”政府には湯水の如き金は出てくるのだろうか”。”それならば、もっと税金を払え。”と成る。
社民党、共産党は「社会主義」で「資本主義」の日本社会の考え方ではないのだから、この「煽り」の考えに揺さぶられては困る。それこそ、ヒットラーの二の舞に成る。
まして、マスメディアの「煽り」の最たるのは他にもある。
例の国民から無作為RDDで意見を聞いているが、あれもおかしい。
支持率等で大いに自説を喧伝する材料としている。ある事を隠して「煽り」の材料として。
少し煽りを証明する為に論じる。
統計学では国民1億2000万に対して1800人では信頼度は殆ど無いのである。
統計学では、出た数字に「バイアス」と云うものがあり、そのデーターの信頼度を表す。
又、他には、データー採取では標準偏差法と云う方法がある。
これには平均値と偏差値が伴なう。この偏差値がそのデータ採取の信頼度を表す。
通常皆さんが良く使われる「単純平均法」でも、本当は信頼度の一覧表があるのだ。
皆さんは実際には使われていないが本当はあるのだ。
では、その時、統計では信頼度(指数能力)CP=1.0以上なくては殆ど信頼できないと成っている。
CP=1.33以上は全く信頼できる。
CP=0.67以下は全く信頼できないと成る。
マスコミやNHKなどが行っている電話でのデータは1800人ー2000人位であるから、信頼度は0.67以下0.3ー0.4程度に相当する。つまり、”殆ど信頼できない”と成るのである。
皆さんは、この「バイアス」とか「CP」とか「積分偏差値」の事を知っていましたか。
つまり、NHKは知っている筈です。しかし、この事を隠して発表していますね。
つまり、騙されて煽られているのです。
「知る、知らない」では上記の「煽られる煽られない」のより個人差が出るのです。
しかし、この様な統計的なことを知っている人は10万人に1人或いはそれ以上であろう。
だから声にはならないから隠しても問題に成らない。だから「煽り」が効くのであるが。
さて、ここで皆さんに少しお聞きしたい。
統計学にはデーター採取方法は10程度ありますが、全てに信頼度を表す方法があり、この条件が適用されるのです。常識です。
でも、もし騙されていないと云うのであれば、「6割の人」はこの事を知っていましたか。”信頼度幾ら”と発言していることを聞いたことありますか。データ採取幾らと聞いたことがありますか。無いですよね。
例えば、麻生さん支持率20%と出ます。このデータの採取量は2000を超えていません。
先ず、電話で、信頼度のCP=1.00と成るには無理と思いますよ。
それは電話を掛ける量が大変過ぎて時間が掛かり過ぎて、経費が掛かり過ぎて、国民から迷惑がられて多分出来ないでしょう。
統計学には、「時間」がある一定を過ぎると、「環境」が変化して正しい資料が取れないのです。
それが「時間の制限」と云いそれを超えてしまいます。
せいぜい、やや信頼できる程度CP=0.67以上CP=1.00でも、最低10000以上は必要です。
だから、RDD方式では無理なのです。
皆さんがいつも使われる「単純平均法」でも、「データ採取量」が本来は表から決められているのですが使っていますか。例えばサンプル50個で採取は最低15個程度で信頼度80%程度ですよ。
そして、統計的データ採取のデータとして扱える最低はサンプル15ですが知っていましたか。
この様に、騙されているのです。
更に、最も良い方法の適用はそのサンプルで異なります。
その採取するサンプルの内容で、10程度ある統計法の中から最適な統計法を選ぶのが普通です。
マスコミで扱っている統計法は適切であるかを疑問を持った事がありますか。
専門的に観ると疑問が多いのです。
どれでも使えるとしたら「標準偏差法」と「CP」ですね。
しかし、マスコミで使っているものは最もエラー性の大きい信頼性の低い「単純平均法」です。
これは、人、時間、場所から経費がもっとも安く簡単に出来るからです。
マスコミやテレビではこのことを隠していることを知っていましたか。
この様に、巧妙にし煽る事、怖いのは、この「煽り」なのです。
「恐慌」の様な時には、この「煽り」の「悪のスパイラル」が起こるのです。
それは統計的には「6割の無意識層」の存在がこの「煽り」で間違いを起してしまうのです。
これがこの世の宿命であり、「恐慌」や「政権委譲」時などの「極めの所」で問題となるのです。
では、この「6割の人」を少なくし無くす事は出来無いかと云うと出来ません。
ここでは、詳しい事は説明しませんが、「脳の本能的な事」から起こってこの層を作り出しているのです。
学問的に少なくとも絶対に5割以下は下がりません。人間が人間である限り。
仏教でもこれを認めているのです。「縁無き衆生、動し難し」と。
つまり、どんなに説法しても説法を受け入れる能力の無い者がこの世には居ると言うことなのです。それが「性」(さが)来るものだと云っています。
M党はこの層6割を狙って「煽り」をしているのです。国会で漢字テストする様に。
だから、データを取ると、”麻生は何していない”とする層が1割程度居るのです。
アレだけの補正予算案や色々と出しているのにもう他に無いだろうと思えるのに、、”麻生は何もしていない”と答えるのです。
これは「煽り」の「洗脳」と「盲動、熱動」から着ているのです。
6割の中には1割の人は「煽り」でこの様な反応をしてしまうのです。この6割の人は直情激情型に多いとされています。感情主観の強い人と言う事に成ります。逆に言えば論理性の少ない人です。
統計学でも、この様なデータはサンプルを表にすると、必ず先ずほぼ直線的に延びて比例直線が起こり、そして、変曲点があるところ(60-65%)で、表の直線は緩やかなカーブを示す事に成ります。
このカーブは変曲点以後は積分曲線と成ります。
これをSパターンと言います。
その比例直線の傾きはそのサンプルによって異なります。その傾きが大きいほど信頼度は増します。
この世の全ての統計データはこのパターンを示すのですが、さて、この1割はこの6割(60-65)の直線の初期にあるのです。
この様に煽られやすい層は6割も居るのですから、「煽れ」ばドイツのヒットラーや日本の第2次大戦のような(神国、神風)一種の洗脳状態が起こり、「悪のスパイラル」の方に走るのです。
これが、3割とかであれば洗脳されても暫く時間をおけば解けて元に戻るのですが、日本人は更に、国民性があり、この傾向が強いのです。
つまり、比例直線の傾きが小さいのです。表ではラインは横に寝ていると言う事です。7つの融合民族の為です。この状態では6割ですので時間での洗脳状態の解消は無理と成ります
そこで、アメリカはどうなのかですが、今のアメリカのオバマ旋風では、多少この傾向が起こっていると見ています。
そこで、「恐慌」の非常策のオバマのシナリオは成功裏に走ると観ているのです。
しかし、オバマ本人はグリーンニューディール政策を唱えているのですから。
日本の科学政策と比較対照して、実に冷静にアメリカの駄目な所の失政を認めて居るのです。
そしてそれを方針として、日本のような”本来の高度な科学活動による生産活動の資本主義の経済活動に戻したい”としているのです。
さて、そこで「剣が峰」から落ちる力、又は「決め手」は何なのかと云うと、それはアメリカの象徴が崩れる時だと見ます。
それは、明らかに自動車産業のビッグ3の倒産でしょう。アメリカの意識は完全に低下する事になりますからね。そうすると、間違いなく6割のアメリカ人はシナリオを求めるでしょう。
従って、このビッグ3をなんとしても倒産から護ることを当面すると見られますが、永く続ける事はできないと観ます。高度な科学が遅れているからです。
とすると、この救済策をアフガンとは別に日本に求めてくる事が考えられます。
何とかトヨタ系列に入れてくれとか。トヨタも大変だが。何か条件をつけて、円高を利用しての策かと観られます。高度な科学を即座に吸収する手段として、同盟を全面に掲げて。
この辺が今後見ものです。
さて、「給付金」は、この「世の摂理」の恐ろしい「恐慌」がその「剣が峰」に来ている時に、景気に効果の有無ではなく、必然に起こる「煽り」の「冷却材」に成り得るのである。
アメリカの「軍需景気」の動向では、「悪のスパイラル」に入りつつある今、この「煽り」の「冷却効果」になると考えられます。
政権与党は日本の舵を握っている。「煽り」等の低次元のことは言っている暇が無いだろう。
アメリカの「軍需策」を待って、任期ぎりぎりまで続けることが先ず戦略として考えられる。正しい舵取りの為に。さすれば、「6割の煽り熱」の解熱剤はこのアメリカの「軍需策」と成ろう。
兎も角も、「煽り」の材料としての「給付金」の景気議論は是非避けてもらいたいもので、6割の人たちに、その「給付金」の先に起こる可能性の高い恐ろしい「恐慌」を示して、それを知らない若い人々に詳しく知らしめて少しでも冷却してほしいのである。政治性を超えて、故に、敢えて、時事放談をした。
否、とすると、「給付金の景気議論」続けた方が良いのかな。戦略的に観て。
乱筆、乱文、散文の至り謝罪
念のため、本当投稿はあくまでも「放談」である。


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