青木[アオキ] 名字 苗字 家系 家紋 ルーツ 由来

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「青木氏の伝統 58」-「青木氏の歴史観-31」

> 「青木氏の伝統 57」-「青木氏の歴史観-30」の末尾
>
> (注釈 「紀州藩との繋がりの効果」
>詳細の検証は更に次段に続く。

> 次は「現地検証の問題2」は、「伊川津青木氏四家・a-2」に付き従った「bとcの官僚族」の墓所が「田原市加治町」に「真宗寺・匿名」としてある。
> 此処には、「18の真宗寺」があって、その内の二つと観られる。
> この寺から真南1kの所に「真宗西光寺」があり、況や「秀郷流青木氏の所縁」の繋がりを物語っているが、恐らくは、この「二つの真宗寺」に江戸期前までは「彼等の菩提寺」として分散していたと考えられる。
> 美濃の「bとcの官僚族・諸蕃諡号雑姓・第1の姓族」に位置する族の「家紋」には、「過去のある特徴」があって「最大48種」の「草に関わる紋様と色」から出来ていて、これを基に最初は「家紋」と云うよりは「位階身分の判別紋」として扱われ次第にそれが「家紋」と成って行った。
> この判別から「諡号では無い第二の姓族」と違って、「諡号を持つbとcの官僚族・諸蕃雑姓・第1の姓族・440族」にはこの“「判別紋」”を持っていたのである。
> これを格を細かくは、「12類族」に分類でき、「大まかな格」には「8類族」に分けられ、「計20類族の格」でこの「分析」から確認できるのだ。
> 全体では「440の判別紋」がある。
> これは「血縁性」に関わらず「位階身分格式」に依って分けられている。
> 念の為に「諡号」に含まない要するに「第二の姓族」にはこれは無い。
> 「伊川津青木氏四家」の近隣にこの「美濃の官僚族」であった「彼等の新たな菩提寺」は2寺存在するのだ。
> 奈良期では「五都計画」の一つであった事から「低位の官僚族」ではあるが、判別から観れば「中位下の判別紋」に成ろう。
> 中位格式以上は都に帰る事に成っていた。
> この判別に含む家紋が刻まれているので確認できる。
> この「現地検証の問題3」では、「上記の類似紋」が実に多いのだが、先ずは「3土豪の姓族の本家筋の家紋」にあるが、「伊勢の裔系の家紋」は元より「秀郷流青木氏の家紋類」には無く、仮にあっても墓石も江戸期前後の慣習のものと違っているので、明治以降のものであって俄かに信じ難い。
> 墓所の家紋から「片喰州浜紋の秀郷流一門」とは正式に明確に混じっていない事が判る。)


「青木氏の伝統 58」-「青木氏の歴史観-31」

(注釈 「国衆の最終目的差」
さて、その「目的差」が生まれたその根拠は、「伊川津青木氏である事」は、勿論の事、「土豪3氏」も「戦乱の中」で生き遺る為には“「何らかの傘」”の中に入らなくては成り立たない。
それが、当面は互いに同地域で結束し合って護りあう「結合体・党」の「伊川津七党」と成ったのだ。
相互に全く関係性の持たない各地から集まった「国衆の集団」であった。
この時期は伊川津に限らず全国各地で「土豪」等が生き遺る為にこの「党」を結成した。
そして、その土地で「国衆」と成ったが、こんな“小さな伊川津”でも同じであった。
だが、この各地の「党の結成目的」はそれは全く千差万別であった。
この「伊川津」の「七党」の中でも、元々、「額田青木氏の南下国衆」には「伊勢の背景」や「秀郷流一門の背景」もあっが、「彼等の目的」に執ってはそれは完全なものでは無かったし、寧ろ、無かったと云える。
普通は「血縁性」などの「一族性の高い土豪等」が集まって「党」を結成する。
例えば「有名な出雲亀甲集団」の様な「党」を組んでいたが「伊川津」では違っていた。
故に「国衆」であっても、彼等には「国衆」から「家臣化する事」に「最終目的」があったのだ。
この「最終目的」の違う族が「七党」を組んだが、「額田青木氏の南下国衆」とはそもそも相当にこの「目的」が異なっていた。
然し、その途中でも彼等には未だ先の見えない「松平氏の国衆」と成っていたのだ。
その「弱い傘笠」の中に最終的に遺る「目的の道」があって、結局は、様子を見てそれを選んだ「彼等の本家筋・未だ国衆」は、未だ「旗本」では無いが「田原藩大久保氏の配下の准家臣扱い」と成っていた。
「土豪3氏」に執っては、その「東三河軍・吉田域」までの「酒井忠次/300の東三河の配下軍門」に入って先ずは「初期の目的」が達せられた。
ここで「目的の異なる七党」には「亀裂の発生」が此処から観られたのである。
ところが、この様な時に、「額田青木氏の南下国衆」にも同時に同じ「東三河の酒井氏の軍政下」の「吉田城詰め」を命じられて仕舞ったのだ。
当初は、「国衆と成る条件」としてより「伊勢」に近い「西三河の軍政下に入る予定の話」に成っていたらしい。
一方、そもそも、形上は少し後にはなるが「三河の東西」は別としても間接的ではあるが、「東三河の土豪3氏」に執っては、結局は「西三河を本貫とする松平氏」に、彼等は「松平氏の譜代と云う立場」を獲得して、先ずは「初期の目的」を獲得し生き延びられる事に成った。
然し、ところがここで彼等の中で「ある事変・本家分家の生き方」の「路線争い」が起こった。
当初から三河に「一族一門全員の参加」とは成らなかったのだ。
何時の世も牛家制度の中では「本家」が良い目をするし、「犠牲」は何時も「分家」と成る仕組みだ。
それが「三方ヶ原の戦い」後に一挙に噴き出した。
故に、この「乱世の三河」では「伊勢青木氏の抑止力」の「額田青木氏との連携の道・商い・陸運業」を選んで身を護った「分家筋も居たと云う事」に成ったのだ。
ここで「伊川津七党」の「目的の差」が吹き出し、「土豪3氏の分家筋」は、「伊勢や伊川津の青木氏・四家」に執っては「土豪3氏の生き方の違い」が、思い掛けない事にこの「額田青木氏の目的」に賛同したと云う事に成った。
「額田青木氏側と伊川津青木氏」に執っては、此処で「路線争いの事」が出て思い掛けない事に成って仕舞ったのであろう。
然し、この時、この「分家筋」に執っては「陸運業をすると云う事」は、当初、決して“「武士・国衆」を捨て「商人」に成る”と云う事だけでは無かったのだ。
資料から観て、この事で相当悩んだ様であり、当初からの「路線争いの事」がここで「分裂離脱の決断をさせた原因」では無いかと考えられる。
この時、簡単には「分家筋」は転身出来た訳では無かったのだ様だ
資料によると三方ヶ原で「彼等の戒め」か分家が前に出されたのだ。
それは更に「伊川津青木氏の四家」でも、兎も角も「伊勢青木氏」と「額田青木氏」が組入る事に付いて「反対の態度」を表明していたのだ。
要するに、今までに無かった掟でもある氏族以外の”「よそ者が青木氏に入る事」”への危惧であった。
「当初の目的」がここで完全に顕在化したのである。
この「分家筋」に執っては、この「三河国衆」の時の様に「商いの銃の護衛団」として生きる事を選択した事に成り、“より「身の安全を図る事」は出来る”と判断したとも「別の意味」としては考えられる
筆者は、「大犠牲を負っての決断」でこれは無視できない事であったと考えたと観ている。
そもそも、「彼等の分家筋」の「利害の計算」は否定はしないが、それが判り易く云えば当時としては「転身だけの意味」では無く、「国衆化」か”「青木氏化」”かであった筈である。
要するに、当初から「路線争いの元」には彼ら分家筋には「青木氏化の道」を選んでいたとも執れる。
即ち、恐らくはこの態度が「将来の陸運業の中での分裂の危機」を呑んでいて、この「態度・姿勢」が「伊勢・額田側の反対の態度」を和らげる事に成功したと云う事に成ったのであろう。
故に、その「態度」は現実に昭和期までこの「青木氏化の道の約束」を護り続けたものと成ったのだ。
つまり、其処に「本家―分家」のこの「利害の計算」が出て来ていたと考えられる。
長い間、「額田青木氏」に執っても「自由性のある青木シンジケート」として生きて来て、「土豪3氏」に執っても、その彼らがこれからの明日も知れない「自由性の無い国衆」として生きて行くかの選択であった。
取り分け、「氏家制度」の中では「分家筋」はその意向は通り難いし弱い。
もっと云えば「本家筋」は「国衆」に依って「当初の目的」の通りに「武士化」に、そして「分家筋」は元の「民・庶民の路」を拘りなく選んだ事に成る。
この点では、何時も最前戦に居て犠牲に成る「分家筋」としては「路線の考え方」として一致していた事に成る。
“本家筋に着いて行くと云う考え方”は、この時、最早、絶対に無かった事に成る。
それは、「三方ヶ原の戦い」の「惨めな様」にあったのであろう。
結局は、両者ともに今後も、「自由性のある青木連携族・陸運業」で行けば「糧と子孫繁栄」は未来に完全に保証されるのだ。
一方で「室町期末期の松平国衆」としてはどうなるかは保障は無かった。
そこで、彼らは薄々に「未来の姿」を感じ執っていたのだろう。
これも後勘から観れば、「本家の家臣化の発展」も「分家の糧と子孫の繁栄」の「両方の目的」は達成されている事に成ろう。
「信長の脅威の背景等」もあって激戦の続く「松平国衆」の中では、目的の違う「本家」と違ってこれ以上は生きられないと判断し、それに「渥美半島の糧の低さ」も働いて、寧ろ、“生き遺れない”と、「本家分家」であろうが、況してや「分家」では悲観的に感じ執っていたのである。
結局は「土豪3氏」の「本家と分家の目的の差異」が「伊川津の流れ」を造ったが、然し、「蒲郡青木氏の本家」と「伊川津青木氏四家の分家筋」の間では、この「目的差異」は頑固な程に生まれなかったのだ。
それは「伊勢からの支援」があったからであろうし、「伊川津」は「古跡神明社の定住地」でもあり、“南下国衆と云う感覚”は元々無かったと観られる。
寧ろ、「他の国衆」よりは”「原住民的感覚」”を持って観られていたと考えられる。
故に、其の後も矢張り、「伊勢の裔系青木氏」として頑なに「伊川津」から移動もせず、「豊橋、豊川、岡田、岡崎、豊田」と子孫を広げているのだ。
これが何と「昭和20年」まで結束し続けていたのだ。
そして「陸運業、開拓業、殖産業」として、“三河の各地に地名を遺す程に”根付いたのだ。)

(注釈 「南下国衆の戦歴」
念の為に「国衆戦歴」を記録から論じて置く。
これを論じれば、額田青木氏の目的が浮き上がる。
幸いにこの「時期の記録」が多く世間に遺っている。
この「多くの資料」から読み取れる事は次の通りである。
中には、この「五記録」を結構信用できるものとして基に文章が「半物語風」にして江戸期に記録したものがある。
又、これらを元に「三河の青木氏等に付いての事」も記して再現しているものもある。
それらによると、「国衆」として最初に「活躍の場」が現れたのが、「伊勢青木氏の資料」の「読み取り」からは、1545頃から「銃の訓練」を開始し準備段階に入っている。
「三河国衆」と成つたのが「南下国衆・1560年」と成っているが、この「記録」から観ると「最初の活躍」は、次の通りである。
「桶狭間の戦い・1560年・?」―「第一次吉田城の奪取・城主・1564年」―「姉川の戦い・1569年」―「第二次吉田城の戦い・1572年」―「一言坂の戦い・1573年・偵察」―「三方ヶ原の戦い・1573年」
以上の「6戦」であった。
但し、「桶狭間の戦い・1560年・?」は「南下国衆・1560年」とは“「同年のズレ」”がある。
この「物語風の記録」の中に“「銃」”と云う表現があるが、未だこの時期には、その「生産量」と「シンジケート販売」と「高価格」であった事から、“松平氏は銃を持っていない”と云う史実がある。
この検証から配慮したもので、この「銃の表現」は疑問である。
何故ならば、「桶狭間の戦い」には、そもそも広義では「1556年の説」もあり、その前の「桶狭間の戦い」に至るまでの「長い勢力争いの戦い・1542年へ1548年」があって、これには「南下国衆」は果たして正式に参戦していたかの疑問があるのだ。
「弱体化した松平氏」の「米生産の三河平野」を「織田と今川」の「争奪する戦い」では、大まかには「第一次と第二次の小豆坂の戦い」に成っている。
そもそも「桶狭間」は、この「今川氏勢力」の「三河」を超えて尾張国境が不明瞭に成っている時期があって、その「不明瞭な尾張東部」に侵攻して、「争奪戦の最終決着」を着けた戦いである。
その前には、「織田信定、織田信秀」と領土を広げて、「今川氏と三河・尾張両国の国境地帯の支配」を巡って争う小競り合いの状況に成っていたのだ。
これが要するに、「決着戦」と成った「1556年とする桶狭間」であって、「最終決着戦・1560年」に「額田青木氏の国衆」が即参戦していたかは「時間差の疑問」がある。
筆者は、要するに「南下国衆」は、そもそも「桶狭間・東尾張」は「今川と織田の戦い」であって弱体化していた「松平氏」は「今川氏側」に組み込まれて、ここには未だ関与して来ないのだ。
従って、未だ間違いなく“1560年最終決戦に参戦しなかった”と観ているが、然し、この「三河」を接収されていた為に「今川方」としての「1556年とする桶狭間」には「銃の傭兵」として「合力・傭兵」をした可能性があったと観ているのだ。
それは、「江戸期の資料」から直接は明記はしていないが、「第一次の小豆坂」で「銃使用の表現」がある。
然し、未だ「織田氏」も「今川氏」もこの時期に「銃の軍制」を敷いて居なく弱体化しているのに、「松平氏が持っている事」は100%あり得ない。
然し、戦記では「銃を使った事」が書かれている。
「南下国衆」は額田でそもそも「1540年」に編成しているが、これは編成して「2年後の事」である。
初期状態の「1556年とする桶狭間の時期・4年前」は、まだ三河は「今川方」であったと観ている。
「銃を使った事」があったとして、「訓練中の額田青木氏」の「実地訓練の形」で「傭兵的」に合力した事に成るだろう。
然し、「銃の訓練」は「青木氏の資料」では正式には「1545年」としているので、これには「3年の差」がある。
貿易で得た「銃の見本」を種子島銃より先に堺で「フリントロック式の改良銃」を密かに作り始めていた時期と成り得る。
「記録」から読み取る範囲では「種子島より10年程度前」の様にも読み取れる。
そもそも、「種子島の火縄銃」は西洋で新しく「軍用銃」が改良され古くなった「火縄銃」を売りつける為に1545年に持ち込んでいる事情である。
「伊勢青木氏の貿易」で「西洋の軍用銃」と成った「フリントロック式銃の見本」は種子島より前に入手出来ていた可能性は充分にある。
依って、「3年の差」は次のシナリオで解消できる。
「種子島・1545年」より前に既に改良作業に入り試作生産が行われ、「資料の行」から観て少なくとも「1542年頃」には、既に「額田青木氏の国衆用」に合う様にある程度の「改良銃の試作」が成され、秀郷一門などでも「試作撃ち」が成されながら進めていた事になり得る。
これを「伊勢秀郷流青木氏の指導」の下で「額田青木氏」とが「第一次小豆坂の戦い等」で数は少ないが「試し打ちの合力」をしたと考えられる。
さて、この説を「裏付ける出来事」が「伊勢と渥美」で起こっていたのだ。
それが、ところがこの時期に、「伊勢青木氏の死活問題と成る事」が「伊勢湾と渥美湾」で「非常事態」が起こっていたのだ。
つまり、それは「額田国衆の目的」も「達成不可能に成る非常事態」が起こっていた。
この「二つの湾の支配権」が「今川氏」に依って握られてしまっていたのだ。
これを至急、且つ緊急で対応しなくてはならない事に成っていたのだ。
そこで、「試作中の銃」を以て急ぐ事から「試し打ち」と「青木氏の誇示」を図ったと考えられる。
ところが、「改良」が進む中、「相当に威力」は「火縄銃以上」に増し、目的に適合したが、それに反して「訓練」を伴わなくてはならない程の「使いづらい銃」と成ったと考えられる。
これは資料の一部の行からも読み取れる。
故に、「1545年」から慌てて訓練に入ったとする経緯であったと観られる。
勿論に、「時の時代性」も然る事乍ら、「国衆としての訓練」もあって、「生産する銃の数・350~400丁」が次第に整い次第に「秀郷流青木氏の指導・試し撃ち」の許で本格的訓練に入ったと考えられる。
その最後の仕上げが1560年と云う事に成ったのだ。
従って、「南下国衆の合力の傭兵」は「今川方の依頼」か、「松平方の依頼」かであるが、当然に、「松平方」と成ろう。
それが、「今川の圧力」かは判らない。
この時、「水軍力」の弱かった「織田方」に対して「今川方」は「海からの包囲網」として「伊勢湾海域から知多・渥美湾の制海権」を握って仕舞っていたのだ。
この為に「織田方」も懸命に「水軍力・史実記録」を着けようとした。
そこで「織田方」は「伊勢衆」に「調略」を掛けていた事が資料からも史実として判っている。
丁度、この時期には「三者三様の形」でこの“「水軍力」”を握ろうとしていた時系列と成っていたのだ。
仮に「傭兵」として活躍していたとすると、これからそもそも、「伊勢湾」と「渥美湾」の「制海権獲得」で南下して抑えようと訓練していた最中でもあり、このままでは全てを失うと考えた可能性が充分にあり、対応次第では「南下国衆の意味」も無くなる事に成っていた。
従って、そこで「伊勢側」は、先ずは「伊勢湾の制海権の保全・7割株保有の伊勢水軍の強化」を試みていたのだ。
同時期に「源平戦で敗戦し衰退していた駿河水軍」に、「伊勢」は船を一艘与えて「伊勢水軍」で実地訓練させ急いでいた事が記録からも判る。
「尾張の調略」と「今川の制海権」に対して必死であったのだ。
そこで、「弱体の松平方」からも何らかの「南下国衆を目的としている事」を聞きつけて、これに対する「伊勢側や額田側の目的」もあり、「裏の特別な依頼や配慮」があって要求に応じたとも考えられる。
「松平氏」に執っては、“三河に「銃で武装する国衆」が南下してもらえれば「弱体化の歯止め」どころか「20倍の勢力増強」に繋がり、独立性は高まると観た事もあり得る。
その「条件」として「表向き」は、「渥美湾の商用利用権」を認めるとすれば、「今川氏」も簡単には手は出せなくなる利点もあった。
「抑止力」として「裏」は銃で武装していたが「青木氏の行為」である以上は商用である。
現実に後に「渥美湾の制海権とその利用」は認められているのだ。
何にせよ無償ではあり得ないだろう。
その為には「銃の威力・示威行為」を周囲に大いに見せつけて置く必要が両者にあったと観ている。
とすれば全ての記録と一致する。
これが南下しようとしていて訓練をしている「額田青木氏の国衆の情報」を“国境の三河が掴んでの依頼”があったと観る事が出来る。
それは「1540~1560年」までの「伊勢側・額田側の利益・目的」と「松平氏の将来の利益」が一致していたと観ているのだ。
故に、「今川氏」が「桶狭間」で幸いに負けてからの「敗戦衰退」が始まつた「1560年」を契機にして、”「南下の絶好の期日」”とする「一つの大きな要素」とした考えられるのだ。
無暗に、「南下1560年」とはしないであろう。
「人時場所と理由目的手段」を整えるのが「基本軍略」である。
つまり、「美濃・1540年」で訓練をしていた「額田国衆の銃の情報」を国境の隣の松平氏は既に掴んでいて、“「松平氏」から「傭兵的な依頼」があった”とする可能性もあり、「物語風の戦記の銃の行」以外に何処にも「銃に関する記録」はないが、この事は完全否定はできない。
そもそも、「銃の訓練」をしていれば秘匿はなかなか出来ないであろうし、隠しても漏れるは必定である。
唯、この「物語風の銃の行」は、単に“「桶狭間”の表現」であって、必ずしも「桶狭間の戦い」そのものを言っているのでは無く、広く「三河域」で起こった「織田方と今川方の決戦・争い」である事も考えられる。
「当時の慣習」としては、常時戦いの中にあって、今の様に”桶狭間”と云えば、歴史的な”桶狭間の戦い”と連想するが、当時は単なる場所に過ぎない事であった。

歴史を研究していると、どうしても今から昔を観る陥り易い癖があって間違える欠点でもある。
「江戸期の資料」の発見と研究が進んでいない時代には、これは起こり得る事も考えられ「第一次の吉田城の戦い」の「籠城戦」から根拠なく想像して、その前の「桶狭間」にも“「松平氏は銃を持っていた」”と考えた事もあろう。
とは言え、その前に起こった「美濃長良川の戦い」で「同盟国の信長・雑賀根来の傭兵」が初めて使った事も「史実」として江戸期でも知られていた事である。
だとすると、「籠城戦から想像する」と云う「筋書き・想像」は無いであろう。
「裕福な織田方」が「傭兵」でやっと持てているのに、「衰退極まりない松平氏」に持てる事等100%無い事は判るし、銃を持てば疑われるは必定で危険極まりない事なのである。
「銃の生産地」が「雑賀・根来」と限定され、そもそも「銃販売」は「シンジケート」で縛られ「市販」は全く生産量も無かったのだ。
「高額な火縄銃を買える事」もあり得ない事も「当の作者」は想像できていた筈である。
そんな事を書けば記録としての価値は否定される。
そもそも「織田方」には、歴史上では、「火縄銃の生産地」で結成された「雑賀根来の火縄銃の傭兵軍団」を大金を叩いて初めて雇い込んだ事は「史実」として知られているのだ。
従って、「織田方や今川方」には「額田青木氏の300の改良銃」が幾ら何でも合力して味方する事は無かったし、「二つの湾の事」は「青木氏の存続」の意味でも絶対に放置できなかったであろう。
従って、「銃の行」は、「三河」で全体的に起こっていた「小豆城の事等」の「小競り合い」を指していたと考えられる。
だとすると、上記した切羽詰まった「伊勢の状況」と史実が一致して来るのだ。
この時は、「三河の松平氏」は弱小で「今川方」であるが、だからと云って「松平氏」に「傭兵」で「今川方に付く事」も記録もないし無いだろう。
「今川方の戦記」の中に、「戦い」で盛んに「火縄銃」を使ったとした記録も見つからない。
あったのは「京」に出向いて、「銃の興味の調査」で鍛冶師に働きかけていた事は記録にあるが、「大量の銃が調達できた事」とそれを使う「銃の軍制」の記録はない。
そもそも、前段の検証でも論じた様に、「同盟中の武田氏」にも「戦力と成る銃数・三方ヶ原」は持っていなかったのだ。
従って、どんな大名でも、当時、未だ持ち得られていない効果で「貴重な火縄銃」、況してや「300丁の超近代銃」で構築された「国衆」であった事から、「三河」は「傭兵」として「三河国衆の額田青木氏」に、“銃を獲得する”と云うよりは「変な傭兵の国衆軍団」に興味を示していた事は確かであろう。
ある資料に「火縄銃の事」に就いての「行」があり、「強力な弓矢の感覚」程のものであって懐疑的であったらしい。
それは主に、そもそも「入手」が難しく、「価格」が高く、「天候」に大きく左右され、「移動」は出来ず、「発射」の準備時間が長くかかり、「威力」を出すには「大量の銃」が必要で、「馬防策」が必要でいざ戦いには障害と成り、「軍制下」で無くては使えないと云う否定的に認識されていた事が書かれていて、実は「銃の理解度」は極めて低かったのだ。
「弱小の松平氏」がどんなに金を積んでも到底買えないから、故に傭兵の様なつさもりで「国衆と成る条件」として「渥美湾の制海権・使用権」を認めた事に成ったのであろうし、これで「伊勢の資料・伊勢湾の侵略の件」との「間尺」はこれで合う。
この「変な傭兵の国衆軍団」とは、彼等が持っていた「火縄銃の感覚」とは違い、この「近代銃」は「フリントロック式改良銃」であり、「戦い」は「移動式銃」で、「荷駄」を引き連れて「移動を伴う方式」であり、上記の欠点を大きく替える「変な銃の国衆」と観ていたと考えられる。
要するに、寧ろ、「殺傷力」のある「強力な弓矢の感覚」にあったと観ている。
その彼等土豪3氏が、「弱小の三河の国衆」を目指しているとも成れば、不思議に成り興味を持つ事は間違いはない。
「渥美湾の制海権を狙っている事」も含めて少なくとも「家康・松平氏」は興味を持っていただろう。
寧ろ、「三河」に執っては好都合であり、織田方や今川方に抑えられるよりは歓迎する事に成ろう。
そして、彼等が奈良期からの「伊川津の神明社族・律宗族」であると云う事にも「親近感」を抱いていただろう。
仮に、「南下国衆」を「伊川津」に配置したとしても言い訳が着く。
筆者の説では、「変な銃の国衆」は、当初は都合よく「今川氏」に利用される可能性があり、隠しても隠し切れないが余り強くは出していなかったと観ている。
然し、この「変な銃の国衆」の銃は、「移動」は肩に担いでのもので、「戦い」では「防護柵越しの固定銃の火縄銃」では無いのだ。
移動で銃撃する時は、荷駄を前にして「膝座式の三段構え」で連射するのだ。
再び移動前進するし、移動しながら連射もするのだ。
現物は遺されていないが資料から読み取れる範囲では、「ショットガンの一発連射式」か軍用で使われる「ボルトライフルの類似式」の「中筒銃」であった様と観られる。
「火縄銃の様な長筒」では無く「ピストルの中筒銃」と考えれば判り易い。
特徴として「銃全体」として「少し丸み」を帯びていたらしく、何せ「射撃の反動」はすごかった様だ。
そのために、この「反動」を真上に逃がし、静かに肩口まで下ろして連射し、命中率を上げるには「練習・訓練」が相当に必要であったらしい。
表現からすると、「射撃の反動」が強すぎる為に「熟練度」に依っては「腰横に据えて構えるスタイル」もあったらしい。
この場合の構えでは「三段撃ちの場合」は「前後入れ替え」であったらしい。
当にこれは「弓矢の構え」であり、「矢」の代わりに「強力な弾」が遠くに飛ぶのであった。
そして、そもそも「撃手」は、「農民」では無く「郷士国衆」で、且つ、移動式であるので同時に「刀と銃」とかで「戦い」もするとしているのだ。
従って、「火縄銃以上」に戦術的には、移動すると云う事が枷にもなって“誰もすぐ使える銃”と云う事では無かった様だ。
恐らくは、当時は、周囲は、”あんなもの使えるか”であって、未だ“変な国衆”と観ていたのではないだろうか。
筆者は、従って、この「銃を含む国衆の威力・試射」を示す為にも「桶狭間の戦前」の「織田氏」との「8年間の小競り合い」のどれかに其れなりに「傭兵・示威行為」として参戦していたと観ているのだ。
それが「第一次小豆坂の戦い・1542年」と「第二次小豆坂の戦い・1548年」では無いかと観ているのだ。
これを表現として判り易く「地名の桶狭間」で表現したのでは無いか。
何故ならば、此処は、そもそも「岡崎古跡神明社の青木村」より「真南8kの位置・2里」にあり、そもそも「岡崎城」に近く、昔は「三河国額田郡小豆坂」で行われた合戦でもあるのだ。
先ずは「伊勢の神職族」が住んでいた地域であり、危険に晒される事を放置出来なかったのでは無いか。
又、今川氏に依り「伊勢湾の制海権と渥美湾の制海権」の二つを奪われている事への何れも「示威行為」で無かったかと推論できるのだ。
そうでなければ「今後の南下国衆」としての「本来の目的」は達成され得ないだろう。
その為にも「変な国衆としての示威行為」を「松平氏合力」で見せつけたと考えられる。
「火縄銃の知識」が有っても、「近代銃の知識」は無かったであろう。
それも当に「弓矢の様に使う短い銃」であり、その「便利さ」に驚いたであろう。
さて、然し、「第一次」は勝利し、「第二次」は松平氏側は敗退しているし、幾つかの資料の記録に依れば「銃に依る威力の表現」、又は、「銃を使ったとする表現」は何処にもない。
では、一体これはどういう事であろうか。
筆者は「二つの目的に依る事前の示威行為」と書いた。
「改良銃の試射」を請け負い、「北陸の戦い」にも使用した経験もある「伊勢秀郷流青木氏の指導」の下に「国衆」として「上記の訓練」を開始して未だ「2年目の事」である。
「実戦をする程の銃と撃手を出す事」は「示威行為の範囲」としてそれ以上の事はしなかった筈である。
“この様な物を持っているよ。!だから「二つの青木村」には手を出すなよ。!「伊勢の制海権」を犯すなよ。!と示威をしたと観る。
それは「織田氏」と「今川氏」に対しての「示威行為」であった。
だから、「織田氏」も「今川氏」も驚いた。
「織田氏も今川氏」も、「武田氏」と違って「火縄銃の威力」には興味を強く持つていた事は記録からも判っている。
「織田氏」は、「今川氏の勢力圏」に入っていた「伊勢湾の制海権」に、これを壊し「制海権」を自分の手中に納める為に、この時期に「伊勢水軍・商業水軍」に「調略」を掛けたが、「伊勢側の引き締め・伊勢衆持株増」で失敗し、必要以上に手を出すのを止めた。
史実、この「伊勢衆」から離脱し、この「織田氏」に味方して裏切った「一衆」も居たし、遠く離れた武田氏に味方した者まで現実に記録として出ていたのだ。
念の為に注釈として、因みに信長に味方した「九鬼水軍」は、「熊野水軍の裔」で「海賊軍」であって、この「海賊軍」とは一線を画していたし、「伊勢青木氏の伊勢水軍・伊勢氏」は「堺組合」に所属していた「商業水軍」でもあった。
「水軍の衆」を分けるとすると、そもそも古来より「海賊衆」、「警固衆」、「船手組」、「船党」などの「四衆」があった。
「水軍」と称するものは、「船手組」、「船党」の「二つの衆」を意味する。
「伊勢衆・伊勢氏の伊勢水軍」は、奈良期より存在し、「船手組」と「船党」の二つの役割を合わせ持つ「本来の水軍」を意味する。
「海賊衆」と「警固衆」は、平安末期から鎌倉期に発生した要するに当に「海賊」である。
その一部の「警固衆」が「海賊も傭船」の「二役」を演じたのである。
「海賊」そのものの「紀伊水軍」もあったが、然し、この「紀伊水軍」は不思議に「伊勢との繋がり」を「平安期・奈良期末」の古くから持っていた。
結局は「調略」に乗ったのは「九鬼水軍」とそれに関わった「一部・一氏・匿名現存」だけであった。
上記した「伊勢」に大きく関わった「九鬼水軍」は、元来は、づばリ「熊野海賊」そのものであり、「室町期末期」には記録にもある様に「信長」に味方して「傭兵」もしたのだ。
然し、「伊勢地域」は古来より温暖であり「気候や風土や物産」にその豊かさがあり、「伊勢衆」を「温厚な性格」にした。
従って、「伊勢氏等の伊勢衆」はこの「環境の恩恵」を壊す事無く護って来たのだ。
「伊勢屋の青木氏」が「織田氏や武田氏や今川氏」の「外からの調略の手」が伸びた時、真っ先に「伊勢水軍の内部の結束」を固めたが、この効果は高く乱れる事は無かったのだ。
結果として、動いたのは「海賊衆」だけで、その「九鬼水軍」はこの環境に馴染まず結果として“「伊勢衆」”から強く排斥されたのだ。
「伊勢湾の北勢」に近づけなかった事が記録されている。
従って、「尾張」などに入る際は、一度、太平洋に出て、再び尾張の知多湾に入る必要があった事に成る。
この“「海賊衆」”と「警固衆」に属する「二衆」は、その後も「尾張国」と「甲斐国」との関係を持ったのだ。
後に「織田軍」に入った衆は、その後も昭和期まで「水運業」を営んでいるし、現在も「水運業」と「陸運業」として遺っていて有名である事を追記する。)

(注釈 「「銃の威力を誇示する狙いの目的」
独自に入手した「西洋の新式銃のフリントロック式」に「日本人体格・青木氏族」に合う様に改良を加えた事に依って、「相当な訓練」を施さなくては使えない様な「独特な個性」の持った「改良銃」が出来た。
然し、その為に逆に「弓矢の様に使える移動式」のものとし「銃の威力」も増したのだ。
そして、試作の生産量を次第に増やし、これを事情の持った「額田青木氏用・南下国衆」にして引き渡したのだ。
結果として「威力誇示」の為に「第一次の小豆坂の戦い」で合力して「多少の銃の威力」でも「非弱な松平氏」は「銃の威力」と云うよりは「恐怖」にあって勝利したのだと考えられる。
この時は未だ初期の「訓練中」であった事から、全面的に「300の銃」を持った使ったとは考え難い。
仮に「脅かしの範囲」であるとするならば、「数丁」で良い筈であるし、又、訓練中とするならば「犠牲」を負わない範囲としてそうしなければならないであろう。
「伊勢」や「額田青木氏」に執っても「威力誇示の目的」は過剰で在っては成らず「適度に知られる範囲」で良かった筈である。
この時期には、「額田の北の背後」の“「縁戚の信濃」でも「5度の戦い・武田氏・1555年まで」”が起こっていて、又、“「尾張では1558年までは5度の戦い」”が起こり、「第二次」までには合わせてこの周辺で“「10度の戦い」”が起こっていたのだ。
依って、暫くは「国衆」として訓練している「額田青木氏」は合力しなかったし、出来なかったのだ。
「縁戚の信濃での5度の戦い」に「威力誇示」として使用していたかは判らないが、「第一次の小豆坂の戦い程度」には加勢していたと筆者は経緯から考えたい。
「考え方」に依っては「信濃青木氏」にも「試作銃」として渡していた筈であろうし、充分に有り得ることである。
「伊勢秀郷流青木氏」と「伊勢藤氏一門」には「試作撃ち」を頼んでいた事は判るが、其処までの詳細は記されていないが「行」から何となく読み取れる。
だとすると、僅かながらも「武田氏の一部」ではこの時に「実戦的な感覚」ではないが、初めてその存在を知っていた事も考えられる。
「5年から10年前の事」として「小豆坂と信濃の戦い」で、まだ出始めた「火縄銃の存在意識」の方が強く、「額田青木氏の改良銃」は、”忍者が使う「単なる火薬弾」”の様に観られていたかも知れない。
因みに、「火薬」は「黒色火薬」で古来では「焔硝」と呼ばれていて、歴史は古く618年~907年に観られ、日本人はその存在を実際に経験して知ったのは「元寇の役・1281年」の時とされている。
参考として、筆者の子供の頃に、「木の又の形状」に成った物にゴムパチンコを張り、これにこの「5ミリ程度の市販の焔硝玉」を挟んで飛ばして、物に打ち付け爆発音で鳥など脅かして落下させ、網で捕らえると云う楽しむ悪戯をした事がある。
この様に弾力性のある物で跳飛ばす「単なる火薬弾」の「知識と道具」は鎌倉期後半には実際に「戦い」に使われた記録が遺す様に既にあったのだ。
要するに、敵を「火傷」させるか「脅かし」としての道具が使われていた。
ところが、”丸い堅い「弾」が飛んで来て死なせる”と云う「弓矢」に勝る「殺傷力の道具」が「火縄銃」であったが、「火縄では無い道具」で何処からともハッキリと観えない遠くから「弾の様なもの」が飛んで来て、不思議に突然に死ぬと云うものとして受け取っていたのだ。
資料に依れば、「火縄銃」は飛距離は500m程度で命中率は50mとされ、「改良銃」は1500mで命中率は500mであったとされる。
だから観えない処からの「流れ弾の被弾」とすれば“判らない”と記される事と成ったのであろう。
そもそも「人の感覚」とは、「焔硝→火薬弾道具→改良銃→火縄銃の過程」で先ず直ぐに「過去の感覚」に捉われ、この時は「火縄銃」までには至っていなかったと観られる。
要は、「焔硝」から「弾」に、「脅し火傷」から「死」に替わった事にあって、「第一次小豆坂」から“何か変だな”と成って行ったのである。
だから、「青木氏族」に執っては「威力誇示、示威行為」の目的は達していたのであった。
ところが、その「地元の美濃」では、「1556年」で「長良川の戦い」で歴史的に「実際の火・火縄銃」が用いて河中で使用されたのだ。
従って、「南下国衆」が合力していないこの「第一次の小豆坂」より「6年後の第二次の小豆坂・1448年」では「松平氏」は敗戦して極度に衰退している。
そして、この「第一次小豆坂の戦い・額田青木氏の国衆の銃の実地訓練」で、それを観て「織田氏の経験」が学んだ事は、「銃を使う戦闘に発想」は切り替わったのだ。
そして、「織田氏の経験」が行動に移したのだ。
これを証明するのは、その事が起こった戦いがあった。
その記録では、「長良川の戦い・1556年・斎藤家の内紛」に「援軍」として合力し対戦したが、この時,「道三側・父」が「敗戦」と決まった時、最早、これまでとして「信長」は対岸で特異な行動を採ったと記されている。
それは「信長自身」が「最後の切り札」として、「雑賀根来の火縄銃傭兵軍団」を破格な金銭で雇っていた。
この「切り札の火縄銃」の一部を川の真ん中に「数隻の船」を繋いで浮かべて「川岸に迫る敵」に向かって「数丁で射撃」を繰り返したとある。
「敵」は矢張りこの「行動」に驚き、「向川岸の背後」にこの「雑賀根来の火縄銃の軍団」が構えている事を想定し、恐れてこの侭に進軍すれば全滅すると考え対岸の川岸で進まなかったとされる。
結果として「信長」は、無事に対岸から「殿軍」を逃がす事に成功し、又、自らも引き上げる事に成功したとする史実がある。
この時の「火縄銃」が、「雑賀根来の火縄銃の傭兵」で事前に雇っていた事は「道三家・1553年・正徳寺の面接」には既に知られていたとされる。
故に、この「火縄銃での威力の知識」が既に「美濃」でも何とか感覚的に持ち始めていたからこそであって「川岸」で留まったのだ。
これを暗に「甲斐や信濃や三河や美濃や尾張や駿河」の周辺国に知らしめる必要があっての行為であって、「額田青木氏側」には其の後にも世間に「青木氏の存在」の為に「銃の威力を誇示する狙い・抑止力」があったと観られる。
“こちらからは決して手は出さないが出すと怖いよ”とする「威力行為・メッセージ」を発していたのだ。
この事を事前に合理的思考で感じ執っていた「信長」は、これを利用してこの「網」にかけて「最後の仕掛け」の「全滅誘い込み戦略」を採用したのだ。
そうでなければ、「額田青木氏の実戦的史実」を世間に知らしめていなければ、この「信長」も然る事乍ら、“「斎藤義龍側」も引き上げる事”は無かっただろう。
故に、この様な経緯に成るのには、「江戸期の三河の事」を書いた「戦記の火縄銃の表現の行」から検証した事として、“「銃の実戦的威力」”を最初は「第一次小豆坂の戦い」で誇示していたと考えられるのだ。
他にこれ以前に「銃の実戦」は歴史上では無かったのだ。
その「長良川の戦い」で“デモンストレーション”として見せた時期は、「第一次小豆坂の戦い」から「11年後の事」であったのだ。
つまり、「額田青木氏側」に執っては世間に「銃の威力を誇示する狙い」は成功していたのだ。
当然に、この事に依って「伊勢湾の制海権」と「渥美湾の制海権」に「微妙な影響」を与えていた事に成るのだ。
さて、この“疑問”に付いては、ところが“風吹く川の中”で果たして「火縄銃の欠点」として“火縄銃が使えたか”であり、「無条件に使える」のは「青木氏が持つフリントロック式改良型」だけであって、然し、「第一次の敗退時・対岸に撤退時」に「使われた可能性」もあるが、少なくとも「火縄」に限らず「銃の威力」として「感覚的」に感じ執っていた事は充分に考えられる。
筆者は、この「長良川の信長の銃」の使用は、概ね史実として受け取っているのだ。
又、故に、「威力の印象」を目的とすれば「川の中」で、「信長一人と家来複数」で夕刻の凪時に何とか「火種」を保護して撃った可能性も充分に考えられると観ているのだ。
そもそも「信長」が「長良川」で最初に「威力行為」として使った理由にはもう一つある。
それは「銃」でも同じ「堺・伊勢青木氏の銃製作」との「付き合い」のあった「銃の傭兵軍団の雑賀根来族」にある。
この「雑賀根来族」は摂津堺の組合員であり、地元に店を構える事や銃を試作している事や資金先として堺から拠出している事や傭兵軍団を編成しているやシンジケートを組んでいる事等から「伊勢青木氏の行為」を充分に知っていた筈である。
それは何よりもそもそもこの「雑賀地域」に「伊勢屋の店」を構えていた事が判っているのだ。
恐らくは、「鉄製鉄の取引の為の店」であったと考えられ、明治初期まで続いていた。
この時期に「銃の生産」のみならず「傭兵軍団」でもあったとすると、“「金のある雇先」を探していた”と云う事に成る。
「重要な事」は他に「雑賀根来を使った雇先」は資料から無い処を観ると、それが最初に「雇先」と成ったのは先ず「信長」であったと云う事だ。
つまり、未だ「傭兵の金額」が手の届くところには無かったと云う事だ。
「市販の銃の生産」をしない「雑賀根来衆」に執っては「雇先」が無ければ其れで無くては「雑賀根来」は成り立たない。
「伊勢屋」は「雑賀」に「小店」を出していた事は記録としてあり判っているし、江戸期には「鉄の販売」に関わっていた巨額の儲けを得ていた事も判っている。
つまり、この時、「雑賀根来衆」は「信長」に「伊勢と額田の情報」を流していた可能性は高い。
だから、未だ「南下国衆」と成っていない時期には、「伊勢や三河や額田」には「銃の存在」を警戒して「信長」は「長良川の後」までは「斎藤家」が潰れるのを待って手を出さなかったのだ。
兎も角も、決定的なのは「歴史的な本格的実戦」として「第一次吉田城」と「三方ヶ原の戦い」と「第一次小豆坂から其の後22年後」の「雑賀根来の傭兵軍団」に依る「長篠の戦い・1575年」であった。
「三河側」の「今川氏・松平氏連合」と、「尾張」から侵攻してきた「織田氏との間」で、「第一次と第二次」の「2度」に繰り広げられた小競り合いを除く「戦い」では、要するに「三河の弱体化」に両氏に組み込まれた「三河平野」を獲得しようとする「典型的な争奪戦」であった。
未だ、「額田での銃兵の国衆」として編成されて訓練に入って間の無い頃であった。
要するに、この様な「周囲の環境」の中で、改良に依って相当に訓練を要する銃であっただけに、“訓練だけの何にも無し”では現実に戦乱下では済まないであろう。
仮に、「物語風の記録史」の「この実戦説」は、「銃を使った行」が「史実」として確定されれば、「訓練中の実戦・示威行為・伊勢湾と渥美湾制海権脅威」とも考えられる。
同時に、前段でも論じた様に、この事から「額田の家族の3度移動」は、「資料の状況判断の行」から観て、「第一次と第二次の期間・1442~1448年」の後に「美濃と三河の空白期間」が起こったが、これが「額田の伊勢の裔系の青木氏」に執っては「移動に伴う絶好の時期」と成っていたと考えられる。
この為にも「威力行為の示威行為」を強く示す必要もあったのだ。
これらに付いて、「幾つかの郷土史」も含めて総合すると、「松平氏の火縄銃保持」と書かれている「行」には、この「第一次の合力」を捉えて「後勘・江戸期」で「印象付けられた事」である事が判る。
「銃の経緯」は上記の通りであって、後勘から観て「矛盾」だらけの「江戸期の脚色の歴史書」がそれが引き継がれ「長篠の戦いまでの行」と成って仕舞ったのであろう。
「正しい歴史書」と云うよりは、“興味を引き付ける物”でなくては江戸期では売れない。
従って、江戸期では現在と違い「適度の脚色も妥当な範囲」として常識としていたと考えられる。
「酒井氏の東三河の兵力・二連木城・吉田城の戦い」からは、現実に「国衆としての合力」ではあるが「松平の銃隊」と成っているのは現実である。
要は、「持ち主の問題」であろう。
当初は、「南下国衆の銃隊300と荷駄50人・伊川津土豪衆」と「牧野氏等の国衆の兵300」と「酒井氏の手勢200」であった事が解る。
形勢不利で援護に駆け付けた「家康の三河本隊」と共に、「支城・二連木城の全兵力」は「吉田城」に敗走し逃げ込んだが、現実にはここで「実戦」として「吉田城」で「銃」で押し返したのが最初であった。
其の後は、「350人の300銃隊と荷駄隊」は、合力ながらも「一言坂の戦い・偵察隊」と「三方ヶ原の戦い」では、「銃隊としての単独行動」ではあったのだから、そもそも「江戸期の記録通り」の「松平軍の銃隊」そのものとは言い難い。
ところが「江戸期」では、其処まで「検証能力」があったかは甚だ疑問で、この事がこの「物語風記録」を元にこれまでを「松平氏の銃隊」と都合よく脚色されて仕舞ったのだ。
本当に江戸期では、“其の後も三河の伊川津に定住し続けたのである”からその様に解釈していた可能性も充分にあり、仕方のない事かも知れないのだ。
これが「一般の歴史観」と成ろうが、関わった「青木氏の歴史観」からするとこの様に違うのだ。)

(注釈 「南下国衆の立場」と「牧野氏等の国衆の兵300」
この戦記の記載には、疑問があり、検証を要する。
当時の標準は、「1年=1反=1石=1両=1人」とし、それに基づいて「子孫拡大式の4nの2乗」が働いたとしていた。
更に「1騎=50人」と「1頭=1200」等の「当時の軍規基準」とその他全ゆる「社会の一般原則」から照らしても、「渥美・伊川津・田原・吉田」の前期した様に「石高5000石」は妥当と見做される。
ところが、記録に遺る戦国中の「松平氏の標準軍規」から考察すると、「土豪3氏で300兵」と云う事は、この原理からすると「土豪3氏の手勢」には、少なくとも「6人の騎馬」が居た事に成り、且つ、「夫々の土豪3氏」から「各2人の准指揮官・差配頭」が居て、合わせて「6人の戦場准指揮官・現場」の「軍編成」と成っていた事を示すのだ。
其の上に「1人の戦場指揮官・現場」で構成されて動いていた事に成る。
同然に前段でも論じた様に、「額田青木氏と伊川津四家の銃隊」は「350の銃隊・荷駄含み」で「300丁の射撃兵」と「50人の補足兵・射撃の補足」が着いていた事に成る。
当然に、この「6人の戦場准指揮官」で「敵の動向」に依って「6つの配置編成」で動いていて、「1人の全体指揮官」で指揮統制されていた事に成る。
それに対して「吉田城の酒井氏の作戦本部」からの「情報や命令の伝達伝令係」が置かれて動いていた事に成る。
この「額田青木氏の射撃銃隊」の戦闘方式は、資料に依れば「隊の前面」に出て「城壁・廓櫓」から「武田軍の動向」を観て射撃した事に成っている。
この「吉田城」で観れば後ろは直ぐの川である。
「三つの郷土史や絵図」から総合すると、「城」は後ろに川をして、そこに「本丸」を中心に「二の丸、三の丸」の二つを配置していたとある。
それを「堀」が「城」を囲む様に不思議な”「円形」”に取り囲様な”「円城構え」”であったとされる。
ところが「平城の館城」の様に「吉田城」には珍しく「天守閣」はなかったとされ、「櫓」は後ろが川であった為に、前面に「当初は2基」であったとされる。
ところが「酒井忠次」が「城主・1564年」と成ってからは、「三層櫓の5基」に改造されて護られていた事に成っている。
そして、この「三層櫓の5基」は、当時の「城構え」としては珍しく「弱さ・武田軍を予想」を必要以上に補強していたのだ。
実は、この「特別な改造」が、当時としては「兵と2基の櫓の弓矢で護る構え」で充分であって、“いざ”と云う時には寧ろこの「櫓廓の存在」が邪魔をする。
然し、この事から敢えて「弱点」とも成り得る「特別の改造」をした事を考えると、最後まで“「籠城スタイル」の「弓矢で護る城に替えた事」”に成るのだ。
つまり、それを「額田の南下国衆」の「弓矢に替わる銃隊」を配置したと云う意味合いに成る。
「松平氏」に執っては「南下国衆」が「ある条件下」で「合力した事」で、この時は未だ「強力な弓矢に替わる銃」と感覚的には捉えられていた事に成る。
「額田青木氏の銃隊」は「移動式銃隊」として「最大の効果」を発揮するが「強力な弓矢程度」と捉えていた事が判る。
そこで、仮に「前面6カ所」で応戦すると成れば、その「構え」はこの「櫓5基」に夫々上記の通りに「銃隊」が配置され、後ろの川側に予備として「1騎の銃隊」が配備されていた事に成る。
普通は、「城櫓」は、その目的から「2~3基」で普通で「5基」と云うのは大変に珍しく先ず無い。
つまり、殺傷力の小さい「弓矢の意味」はここにあるのでだあって、「弓矢」で敵を死滅させるものでは無く、城に寄せ付けない様にする「牽制策」にあったのだ。
「平城」で「弱い勢力」のこの城を護ろうとしてこの力をより強めようとして「5櫓」としたのだ。
要するに、この「城白構え」は”時間稼ぎ策”に過ぎないのだ。
其処に「忠次」は「弓矢」の代わりに「南下国衆の銃隊」を偶然に置いたと云う事で、結果として遂には「時間稼ぎ策」から「死滅力があり撃退策」に替わり得たのだ。
当初の国衆条件は「東の軍政下」では無く西軍制下であった。
この約束を破って、吉田城に詰める事を命じたのは、時間的に観て呼んでから「城改造」をしたのではない事は判っているので、この「酒井氏の作戦」であった事に成る。
恐らく、この時に初めて「彼等の感覚」は、「弓矢の代替」から「死滅力があり撃退策」の感覚へと大きく変わった事を物語っている。
この作戦で、一番小さい城が何と”「武田軍」を何と追い返した”と云う大事件を起こしたのだ。
唯、ところがこの事が「額田青木氏の南下国衆」に「ある被害」をもたらしたのだ。
それは、この勲功は「旗本の立場」を脅かす程の事であって、「彼等の大嫉妬」を招いてしまったのだ。
その「旗本の嫉妬」は「西三河軍」では無く、案定の「東三河軍の中」にあって「酒井氏と大久保氏の中」に起こったのだ。
この「二つの旗本」は何と定住地の「伊川津の田原城」の者等であった。
中には、当然に「旗本」では無い「国衆の土豪3氏・譜代」も含んでいただろう事は判る。
恐らくは、そもそも「吉田城」は、「二連木城の土豪」と対抗する為に建てられた普通の「土豪同士の対抗城」であった事から、「2基」であった事に成り元来「特別な城」ではなかった。
とすると、これを「忠次」が「東三河の土豪等」を「1564年」に攻め落として、その功績から「家康」からこの「東三河軍の防御城」としてを与えられたものである。
この為に、恐らくは、この事を筆者は次の様に考えている。
この時の「1560年頃」に「額田青木氏の銃隊」が「国衆」と成って、「伊川津」で約束違反で「東三河軍」に組み込まれていた。
「青木氏の資料」には「西三河軍編成」に入ると考えていた「行」が記されている。
これは「伊勢との繋がり」からより近い「西三河軍制」に入る方が得策だと観ていたのである。
恐らくは、これは「当初の国衆条件」では無かったかと判断され、だから青木氏に遺されている資料には「不満」を抱いた手紙の「行」が記されているのだ。
これを無視され「松平側の理由・状況」を前面に押し出された。
この事から、「額田青木氏の銃隊」の様に「櫓廓」を上記の検証より弓矢より強力な感覚を持たれた事で「5基」に変更したとも考えられるのだ。
「青木氏の歴史観」からすると、これが“改造の根拠であった”と考えているのだ。
その「証拠」は、当初は「戦記」に依れば「家康と忠次」が、“城から出ての「戦い」”と成っていた事が記されているが、現実に隣の「二連木城」で本隊が救援に駆け付けて「野戦」をして敗退した。
結局は敗退して、この「吉田城」に「二連木城兵」と共に「籠城の戦い」と成ったとある。
これには「誘い込みの戦略」と記したものもあるし、筆者も伊川津から移動した銃隊が既に入場している処からそう見ている。
これが「額田青木氏の銃隊」の「国衆」が、「東三河の軍制」に約束を違えて組み込まれた理由であろう。
始めから、武田軍の攻め込みを考えて「約定を護る心算」は三河軍に無かったと観ている。
恐らくは、ところがこの時に「土豪3氏の手勢・300」と「忠次の手勢の200」と「家康の本隊3000」で、実際に史実ではその「前の戦い」と成った「野戦・二連木城等」に出て配置され応戦した事に成っている。
ところが、この「戦い」には「額田青木氏の銃隊」の「国衆」は参戦していないのだ。
然し、当然に「二連木城」では多勢に無勢で敗戦して「吉田城」に籠もる結果と成り、「城」から「5基の櫓廓」から「300丁の弾幕の銃撃戦」で応戦した事に成っている。
この時に、「第一次の吉田城の史実」に基づけば「銃の持たない武田軍」は、犠牲が多く直ちに“勝ち目がない”として「戦う事」を諦めて引き上げたと成っている。
ところが少しこの「史実の戦術」には一概に信じられない事があり変である。
筆者は、これは「吉田城と二連木城」から出た「勝ち目のない野戦」と云う事は、「櫓廓」からの「銃弾」が効率よく「弾幕を敷ける距離」まで「武田軍」を“城に引き寄せる「忠次の作戦・事前の廓櫓改造」”であったとも考えられる。
「郷土史」でも「有利な銃撃戦」に持ち込む為の「戦略」であったと記されている資料もある。
つまり、その目的は犠牲無く「東三河の全ての兵」が「逃げ込んだ事」から考えると、「額田青木氏の銃隊」が「国衆」の「後方支援」として「吉田城」に入った事から来ているのであろう事で理解できる。
故に、ここでも「銃の存在」ははっきりと明記されているのだ。
この事は合わせて「6の郷土史類」にも記載がある。
「二連木城」と合わせて最高で「吉田城」では「3850の兵力・兵の集結作戦」と成ったのだ。
此処からである。
然し、ここで疑問は、“これだけ「小さい城」に「3850の兵」を詰め込んで集めて何をするのか”であろう。
戦略的に「銃隊説」があったとしても可笑しい。
寧ろ、後ろが川であるので「飲料水不足の危険」は兎も角も「兵糧不足の危険」があった筈である。
故に、この疑問からすると相当に「銃隊の効果」を理解していてこれによる「短期の攻撃」を狙っていた事にも成る。
突如、その「約定」は見つからないが「額田青木氏の南下国衆」に執っては、「伊勢と繋がり」を採る事に有利な「西三河軍制」を望み、この「当初の約束」を破ってでも「東三河軍制」に組み直して「短期決戦を狙ったと云う事」になろう。
つまり、この推理では少なくともこの時は「南下国衆の銃の威力」を最低でも「強力な弓矢」として高度に評価していた事を意味する。
その評価はなんと「武田軍の撤退」で更に変わり、「強い羨望を生み出す程」のものと成ったのだ。
それは、「マッチロック式の火縄銃」では無く、「フリントロック式改良型」であった事に依るだろう。
誰が考えても、「全方位の周囲の5基の櫓廓」から間断なく撃ち掛けられれば「全員死滅の事態」と成り、早期に勝負は着くと見做されて、「全兵力温存の意味」からも採った「止む無き作戦」であって、松平氏側としては思い掛けない程にこれが成功した事に成る。
ところがこれらの記録に依ると、これが「1556年~1572年までの戦い」に依る「兵力変化」では、最終は、然し、結果としては「羨望」からか「奇襲隊として任務」を与えられた事に成ったのだ。
然し、「青木氏」に執つてはその目的から良い事であった事に成る。
「南下国衆時の約定の違反」に意識した事も充分に考えられる。
最終目的の「渥美湾の制海権の獲得」を意識していたと云う事だ。
「青木氏の氏是」に伊勢から指令が届き、それに基づきだから我慢したのだ。
本来であれば「吉田城の戦功」からもっと積極的に使われる事で弱体化した態勢を替える事もあったであろうし、「今川氏も見直した事」もあっただろう。
寧ろ、「伊勢の指令」は、この「今川氏に使われる事」を警戒した事も考えられる。
この時の「東三河軍の兵力」はある戦記では「500」と成っている。
少なくとも、この計算では、「350の銃隊」が存在するも「東三河の兵力・酒井忠次軍」は実質は減少している事に成るのだ。
本来は、「酒井の手勢200」+「土豪勢の300」+「350の銃隊」=850と成っている筈である。
ところが、記録では「500」と成っている。
要するに、この江戸期の戦記の記録では「350の銃隊」が計算されていない事に成る。
「吉田城の戦いの扱い」では、「東三河軍制」に組み込まれていながら、「吉田城の戦い後」は組み込まれていない事に成る。
つまり、これは「吉田城の戦い」の後、直ちに「東三河軍制下」に無く「伊川津に戻つていた事」に成る。
筆者は、「羨望説」や「約定説」では無く「今川氏に使われる事」を気にして「伊川津に戻した事」の説を採っている。
“「弱く見せる事」”に依って「身の安全・松平氏」を保ち必要以上に「織田氏や今川氏」に対して“「戦力の威力」”を隠したのであろう。
そもそもこの時、「西三河の軍・1200」は「石川家成」を「頭」としている。
この時までの兵力は、「松平軍の本隊・3000」と合わせて、「合計5000の兵」としている。
この兵力の数字は正しい。
「南下国衆の銃力・20倍」を以てすれば「5万以上の戦力」と成り得て、その「戦い方」では「織田氏や今川氏」を凌ぐ兵力と成る。
「銃力」に対する「松平軍の認識」は高くは無かったが、「吉田城」で観ていたのであるから少なくとも「弓矢以上の威力の認識」は「酒井氏や家康」には有ったのではないか。
上記の記録に依ると「吉田城の戦い」での「吉田城の兵力・酒井忠次軍800/500」は「額田の南下国衆の銃隊の数」を合算すると検証と一致する。
そうすると結論は、東三河の独自の「酒井軍の兵力・300」の「吉田城の戦い・1571年」の後に、そもそも「土豪3氏」と共に“「伊川津に戻っている事」”で一致するのである。
取り分け、「額田の南下国衆」は戦い後直ぐに戻っている事に成る。
これは「土豪3氏と南下国衆」とには「家臣化を望む者」と「渥美湾の使用権を望む者」とのその「目的の違い」があったからであろう。
資料から「三方ヶ原・1572年」で、急遽、「伊川津から呼び出しを受けた事」の行でも一致する。
この時、記録に依れば「土豪3士等の国衆」は「数からする事」と「その事を匂わす行」から既に参戦している。
この事の物語る事は、軍制下にあったとしても更には“「東三河軍制」に正式には組み込まれていなかった事”を証明する。
これは「第一次の吉田城の戦い」の後に、“「350の銃隊」に何かがあった事”に成る。
それが、「額田青木氏側」の「350の銃隊」に何かあったのか、「松平氏側」に何かあったのかである。
「伊川津」は、「大久保・本多氏の田原藩・1560年」であるが、「酒井軍制下・吉田城・1565年」には既にあった。
それを共に、この「6年間の戦いの任務」は、“「350の銃隊」では「先鋒隊、偵察隊、奇襲隊の任務」であって、「大久保・本多氏の軍政下の3土豪等」では「3つの城を護る役目」にあった事が判っている。
この「東三河の田原城」と「二連木城」と「吉田城」の3城である。
「武田軍の本隊」との最後の一戦の「青木氏の一言坂の戦い・1572年偵察隊」までは、この「三つの役目」、つまり“「先鋒隊と偵察隊と奇襲隊」”の位置に据えられていた事に成る。
「土豪3氏」とは違い固定された「城の防護役」では無かった事に成る。
要するに、記録から総合して考えると、その様な「あやふやな意味」の「最前戦の決死隊の事」の様で、強いて云うならば「危険な位置に据え置かれていた事」に成るのである。
これは「松平軍を救う位置」にある事を認識しながらも、実態は「計算にも入れない」、且つ、「兵力数にも入れない」の立場に置かれていた事に成る。
逆に云えば、確かに良い方に考えれば、これは明らかに「銃隊を認識し生かした事の証」でもあるのだが、それが「固定式の火縄銃」では無く、それは唯単なる「強力な弓矢」に替わる「フリントロック式の改良銃が魅力」であった事にも成る。
これは「概念」としては“「兵力」では無く、未だ「銃力」に対する「排他的概念」”があった事に成る。
これが拗れて「記録」にも遺される程の「東三河の旗本・大久保氏との軋轢」の原因と成っていたと読み取れる。
寧ろ、「銃先」を「旗本」に向けていた事位の軋轢であった事を意味する。
「三方ヶ原の戦い」の「引き上げ方」はそれを物語るだろう。
それを知った上での事で、其れで無くては「先鋒隊と偵察隊と奇襲隊」は心理的に危険に任務を務まらないだろう。
それだからこそ、早々と「三河国衆を辞した理由」と成った一つなのである。
前段でも論じたが、「激しい戦歴」では、結局は主に「伊川津の手勢」には全体として「350の兵の減少・記録犠牲者」があった事にも成っている。
記録では「土豪3氏の手勢」は「300」と成っていたので「全滅に近かった事」に成る。
「吉田城の忠次の手勢・300」には、其の後の「戦歴の経緯の変化」は依然として元の「200」と成っている事から考慮すると、東三河域の「豊橋・豊川の今川国境の国衆・周囲の国衆の100人以上」の減少と成り、「大被害」であった事に成る。
これは「三河戦記の三記」にも「今川国境域・元今川国衆」の「国衆の戦死」が多かった事が書かれていて、その「戦いの激しさの事」として「記録」として遺されていて「有名な記載部位」がある。
江戸期の身内の記録であるので悪くは書かなかった筈である。
とすれば、“「第一次吉田城の戦いの功績後」に「伊川津」に戻った”と云う記録の疑問は、「第一次吉田城の戦い」の後に“「先鋒隊と偵察隊と奇襲隊としての役目」”は既に終わっていた事に成るだろう。
故に、「吉田城の兵糧等の問題」もあり、「必要性の低下」で「伊川津に戻つた事」にも成る。
そして、ところが、その経緯としては、「浜松城の野戦」で「城自体の存続」が危ぶまれ「形勢不利」と成り、「伊川津」に戻って「三河国衆を抜ける準備」をしていた処に、突然、呼び出され止む無く合力し、この「流れ」に従いそれが「三方ヶ原の戦い」までに繋がって行った事に成るだろう。
故に、無理に「鶴翼の陣形」の「左側面」に付き参戦し、「三方ヶ原の敗戦」が決まった処で躊躇なく「戦線離脱」して、急いで「伊川津」に戻って、再び「三河国衆の離脱の準備に入ったと云う事」に成るだろう。
この「記録」に依れば、“「額田青木氏の差配頭等」も戦死している”と書かれているのだ。
とすると、「三つの戦記の記録」から「額田青木氏の国衆差配頭」の「三方ヶ原での戦死」からも「犠牲」はあった事が記載されているし、「額田青木氏の差配頭・名も記載」からも「二人戦死している事」に成る。
合わせて、この記録から読み取る処では、「土豪3氏の手勢・300」等も「桶狭間の戦い・1556年」と「吉田城の戦い・1564年」と「東三河一揆・1563年」と「姉川の戦い・1569年」と「三方ヶ原の戦い・1573等」の「以上5戦」で、全体として「17年間」で「土豪3氏約300の兵」の「全滅に近い戦死の事」と成っていたと記録している事に成る。
恐らくは、その中でもこれは無理に執った「鶴翼の陣形」の敷いた「松平軍の翼面」に他の土豪3氏の国衆も共に着けさせられていた事に依って「犠牲」を多くしたのであろう事が判る。
注釈として、本来は「銃隊」には「無理な陣形」であって」旗本の居る中央の最前線」に配置されて「銃隊の弾幕効果」が出るのだ。
然し、「本来の形」にしていれば勝敗は変わっていたかも知れないがそうでは無かった。
恐らくは、この「300の兵の伊川津国衆の戦死の事」を「土豪3氏の分家筋」は、“先ずこの事を念頭に置いた”と考えられる。
“このままで「土豪3氏」の中でも前戦の最前面に出される「分家」では何時か全滅する”と考えて深慮したと観ているのだ。
そもそも、鎌倉期末期から室町期中期に架けて関東や四国から流れて来て「三河」に住み着き、「三河国衆」として「伊川津の土豪と成った3氏の分家筋」は、遂に決断し「陸運業に成る事」に傾いていたのであろう。
この「伊川津の分家筋」が、「陸運業に加わった事」は「田原の古跡神明社族青木氏」と、その背後に「伊勢の存在」を強く認知し、安定性が担保されていた事を知っていた事に成る。
つまり、後から「伊川津に来た勢力」と云うよりは「伊川津の原住民性の族」を認知していたのである。
この上で「陸運業と成る事」に決断した時の約定とか、反対していた「蒲郡青木氏・桑名」と共に「伊勢との契約書」なるものがあった筈であるが、発見できず未だ見つからず遺されていない。
それは“遺されていない”と云うよりは“遺らなかった”と云うのが正しい。
それは「伊勢」で起こした「3度の失火も含めての消失」で“遺らなかった”である事は間違いはない。
「3度中の消失」のどれかも解らないが、最後の「明治35年の消失」では「曾祖父と祖父の忘備録」には、“全ゆる物改めて火中に放り込んだ”と書かれているので、「執事役」を務めていた「菩提寺清光寺」も消失した時で、遺されていたものが消失したとすればこの時であろう。
然し、例え、これ等の事を「より詳細に描いた記録」が遺されていたとしても、又、「土豪3氏」の国衆の“「300の兵の戦死の事」”は知り得ていたとしても、「渥美伊川津の土豪3氏の本家筋」は、「一族の筋目を遺すと云う宿命」と「松平氏への恩義」と「初期の目的の立身出世」の「三つの狭間」でそういう訳には行か無かったのであろう。
「生き遺りと自由」を求めた「分家筋」が、「伊勢側の了解」を得たので「陸運業」に参加した事に成ったのだ。
確かに「伊勢側の主張」も納得できるが、損得で云えば必ずしも損を危惧する事だけでは無かった筈である。
“船頭多くして船山に登る”の諺の通り「利」はあったのだ。
「額田青木氏の三方ヶ原の戦線離脱」は「罰則中の罰則」であるが、この罰則は受けずに「伊川津と蒲郡」に定住しているし、「豊橋、豊川、岡崎等」に定住もしているし、「陸運業と開発業と殖産業」もしている。
これは要するに「上記の位置にあった事」を証明している。
「松平氏」に執っては事情により違約はしたが、「神明族」と共に「最初の約定」の通り居ついてほしかった事に成るだろう。
故に、江戸初期の”{伊勢の事お構いなしのお定め書」と「頼信との良好な関係」がこれを証明する。)

「青木氏の伝統 59」-「青木氏の歴史観-32」に続く。
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「青木氏の伝統 57」-「青木氏の歴史観-30」

> 「青木氏の伝統 56-4」-「青木氏の歴史観-29-4」の末尾

> (注釈 「紀州藩との繋がりの効果」
詳細の検証は更に次段に続く。
その疑念は明治初期に消えた。
> その後、因みに「伊勢青木氏」は「紀州藩との繋がり」を「伊勢加納氏」と共に復興させて、「支援」をしながら、「大正14年」まで「紀州徳川氏」が「伊豆」で絶えるまで「親密な関係」は記録からも続いていた。
> その証拠に「明治期初期」からは、依頼されて「絵画、俳句、和歌、茶道、華道等の諸芸全般」の「人としての嗜み・上級な教養」の「特別教授」として務めた事が記録として遺され、「多くの逸話」などの「口伝」でも祖父から聞き及んでいる。
> 中でも幕中から幕末に掛けて恒例的に藩主と多くの紀州藩家臣を一同に集めてこれ等の会を催していた事も遺されていて、この「恒例企画」が「祖父の代」の明治期まで続いていたとされる。
> 紀州徳川氏は東京にも「邸宅・事務所」を設け「紀州との往来」をしていて、最終、「商い・財団」を興し、倒産して伊豆に一人籠もって子孫を遺さず紀州松平氏は絶えて恒例企画は中止したとある。
> この時、大正14年であったと祖父から口伝で伝えられている。
> この中には、取り分け「財務」に関して幕末まで「勘定方指導」をしていた関係もあって上記の明治維新政府に大活躍した元紀州藩主の「陸奥宗光とその父との二人続けての交流」の事も含まれていたとある。
> これで「江戸初期前後の事や享保期の事」に就いては「伊勢」では、最早、「疑念」には拘っていなかった事が判る。
> これは「青木氏一族の伝統」の「家訓10訓」で「拘り」は厳しく戒めているからだろう。
> この「拘りの前提」と成る「大きな疑念」や「土豪3氏の話し合い」の「解決の経緯のタイムラグ」は、確かに在ったが、その為にそもそも「伊川津七党の青木氏四家・吉田青木氏等」が脱退したり崩れりすれば、再び「伊豆陸路」は間違い無く崩れる事に成っていたであろう。
> そうした中での、「上記の注釈」で説明する「額田青木氏」であって、その「答え」は最後まで遺ったのである。
> 後勘から観れば、この時も「青木氏の路」を読み間違えていなかったのだ。
> 後世に遺る「青木氏の歴史観」が成立していたのである。)


「青木氏の伝統 57」-「青木氏の歴史観-30」

(注釈 「巨万の富と伊勢青木氏のその後」
それは奈良期から始まった。
「紙屋院の紙の製造・朝廷の認可・勅命」からこれを基に自ら氏力で開発した「和紙」の「余剰品の市場放出の権利・商い」を「925年頃・紙屋院伊勢屋の号」を与えられ認められ手始めた。
そして平安期の「1025年頃の総合商社・献納金」を設立し、遂には、「室町期の紙文化」で「巨万の富」を得た。
更にそこから「室町幕府」には「白旗派・原理主義」を「浄土宗」と認めさせ、結果として唯一の“「律宗族」”と呼ばれるまでに至った。
それを「源・大儀」に、これを「共存共栄共生の概念・青木氏の氏是」で確率させ、要するに室町期の戦乱の中で“「紀伊半島の民」”を護ったのである。
当に、これが既には「平安期末期・嵯峨天皇期」からは「高位族の務め・皇親族・令外官」では無く成っていたが、然し、「伊勢青木氏・信濃青木氏の協力」の範囲では、その概念を頑なに「伝統」として持ち続け、「明治9年」までのその「行動」は矢張り、“「賜姓五役」”であった。
つまりは、”「隠れた令外官」”に徹したと云えるのだ。
「明治期まで続いた天皇への献納」は何よりのその証拠であろう。
況や、「共存共栄共生の概念」に徹していたかは、「明治35年以降」の「富の蓄積」の有無に表される。
そもそも、この「明治35年以降」は既に「普通の富の範囲」にあり、決して最早、「巨万の富」と云えるものでは無かった様だ。
それは「幕末」から起こった「伊勢信濃の全域の庶民が興した伊勢騒動」が明治9年までの「11年間」も続き、これを背後で補完していた為にこれにより「巨額の富」を放出したのだ。
「何万と云う民の糧」を全額支援したし、その「後始末」に明治政府に対してあからさまに「巨額の献納」をし、「騒動の事・始末」の「処罰者」を「差配頭」だけにして「民全員」を穏便に済まさせた。
「地祖改正」で「伊勢の地権域の民」に全て「無償」で「地権」を譲り「富」は遂に底を突いたとされる。
更に、維新時の大名に貸し付けていた「債権放棄・計10万両・主に紀州藩」に合い、富の底の底を突いたとされる。
最後は、「明治35年の松阪の失火」で「松阪福家」は責任を取り、全てを売り払い賠償したとある。
この事から「松阪」より「福家」を「摂津・紙問屋伊勢屋・現存」に移し、「松阪」は「殖産・早場米の開発と酒米の開発」のみにして、「員弁と桑名の四家・現存」に営業の差配を移したとある。
そして、「青木氏部」は「大工職人・宮大工」として支援して独立させて「桑名額田」に夫々の会社・二社・現存」を設立させたとある。
祖父の代の「明治維新から昭和20年」までは、「四家との繋がり」は有りながらも、最早、「富」では無く、“「律宗族」”から“「徳宗家」”としての「呼称の名誉」だけが遺されていた事は事実であった。
「青木氏の資料」と「明治期の郷土史」にもこの記載が遺る。
最後の「福家」であった「祖父」は、後始末を着けた其の後「尾鷲の旧領地」に引き上げたが、「多気と熊野と田辺と海南の庵・一族氏人の保養地」だけが残った事と成った。
「祖父と父」はその間に得た「教養」を許に、これ等の「庵」で「多くの弟子や僧侶・禅宗」を養い、世間に輩出した。
江戸期に「廃れた南画の復興」や衰退していた「彫刻・華道・茶道・歌道・禅門道・俳句道の普及」にも努め、「職業弟子」を世に無限と云える程に送り出した。
現在もその弟子の子孫が受け継いでいる。
これが認められ、「明治期の華族制度」の推薦に続いて、二度目の大正期に徳川侯爵より「文化功労」により推薦され、政府より感謝状を贈られるとするが「氏是」に従い何れも再びこれを辞退した。
「共存共栄共生の概念」に従い関係者で築き上げた「巨万の富」の「分配・地租改正等」は全てこれで終わったのである。
筆者は、未だ、一部の「資料や遺品」と共に「口伝」でも伝わり、その「伝統」は「松阪」や「旧領地等の尾鷲」にも遺り、丁度、その「末尾の経緯」を具に観て来た事に成るのだ。
それ故に、未だ何とか興せるこの「伝統の経緯」を遺そうとしている。
「長野青木氏」でも興し始めたと聞く。)

「前段」で述べきれなかった事柄をここで少し話を元に戻して論じて置く。

(注釈 「雑賀根来を潰した後の銃の行方の印象」
さてそこで、最後は潰そうと思っていた「信長」の「松平氏」に対しての思惑である。
雑賀族等を潰した後、彼等が持っていた「雑賀根来の火縄銃」のその配分の問題」には、直接は「割分」として「松平氏には渡す事」は戦略上は不可能であったであろう。彼等の戦力を強くして仕舞う事になり「潰しの思惑」は難しく成る。
従って、長篠後の「信長―秀吉の紀州征伐・1577年~1585年」には「松平氏」は参戦させていない。
つまり、思惑から敢えて参戦させなかったのではないか。
と成ると、要は「信長」が渡さねばならない「条件下」としてでは「参戦への義務責任」があるかである。
つまり、それは「雑賀討伐の貢献」に対して「家康の功績」があったかに対してであろう。
実は、この「第一次から二次と、最終の三次の雑賀攻め」に関して「松平氏」は参戦さしていないのだ。
「1570年の石山攻め」と、「1577年から始まり1582年までの雑賀攻め」には殆ど関西勢で攻撃している。
「三河の家康」に「信長」から「同数の火縄銃を渡す事」では簡単に済むが「雑賀の銃」は上記理由で渡っていないのであり、戦利品もである。
又、引き続いて「紀州全体の惣国勢力」を潰す為に起こした「秀吉の紀州征伐・1581年~1585年」でも参加はしていないのだ。
現実に、確かに「信長」は「雑賀攻め」に梃子づった。
その「原因」を象徴するのが、「雑賀川の戦い・1572年2月」であった。
「寺山城・雑賀城」から「銃」で狙い撃ちされ、「3万の織田軍勢」は手も足も出ず「壊滅状態」で一度京に引き上げている。
然し、果たして、「信玄」によらずとも「信長」も、「三方ヶ原の戦い・1573年・ホ」の「直前・1572年・ニ」に「雑賀川」のこの「大量の銃の攻撃・威力」を体験して観て驚いているのだ。
又、その前の「1570年」にも「石山本願寺攻め」でも「雑賀衆門徒の銃攻撃・ハ」を受けていて失敗し「銃の威力」を知らない筈は無いのだ。
「長良川の戦い」で、現実に雑賀・根来族の銃の傭兵を雇っていて其れで九死に一生を得ている。
従って、「吉田城の戦い・イ」や「一言坂の遭遇戦・ロ」でも「銃の情報」は既に得ていた筈である。
信長は「5回の史実」として経験しているのにそれ程に疎かで無神経では無かった筈である。
結局、故に、これ等は止む無く「信長」は「兵糧攻めと凋落」で収束させて、最終は「雑賀銃」を「傭兵・1575年長篠の戦い」で獲得しているのだ。
この様にして゜雑賀根来の傭兵の火縄銃を「獲得した銃」を観ても、凡その「簡単な事」では無かったかを察するであろう。
そもそも、この様に「松平氏に銃が渡る歴史的経緯」は無いのだ。
寧ろ、「信長の性格」から“「銃を渡す事」は何を意味するか”を即座に察した筈である。
それは間違いなく「松平氏を強める事」に外ならない。
それ程に万来の信頼をする「和議・織田氏」と「松平氏」では無かった。
寧ろ、「弱める事に裏の狙い」は在った筈で、歴史的にもこれは史実で証明されている。
ところが、実は、「雑賀根来の銃」の「一部・500丁」を「松平氏」に渡したとする説が有るのだ。
筆者は、この説に反対で、この時の一部の火縄銃は、上記に論じた通りの「雑賀族の逃亡者・鈴木氏系・500丁・紀伊山脈」が山に持ち込んだものであると観ているのだ。
何故ならば「雑賀族」とは云えその内情は壱枚岩で無かったのだ。
元々、「鈴木氏の本家筋・藤白穏便派・藤白神社神職族」は「分家筋の鈴木孫六の行動」には反対していたのだ。
そのその住んでいる地域も違っていた。
それ故に、”いざ戦い”となった時、雑賀族と見做される事に警戒して、いち早く山に潜りこんで忍者的な生活したのだ。これが「雑賀忍者」と云われるものである。
地元ではこの時、持ち込んだ「武装兼猟銃用の物」と云われている。
「現地での雑賀族の情報の知らない者の説」の単なる推論に過ぎないと観ている。
恐らくは、これも間違いなく「江戸期の修正」で、“雑賀族の銃としたくない”とする「旗本の書き換え」であろう。
確かに、「織田氏との関係」に付いては美化した方がこの方が「犬猿の仲」を和らげる効果はあるし、「今後の事」では都合は良い筈であったし、「織田氏との長篠後の争い」では「織田氏への悪者の転嫁」としては、「松平氏」に執っては都合が良かった事になろう。
確かに「紀州攻め」をしている中での出来事としては、歴史を後勘から観ても「松平氏の印象」としては、一つの“「緩衝材」”には成る筈で納得が得られやすい「美化事」になろう。
「伊勢や紀州の歴史史実」を現地の詳細に掌握している「青木氏の歴史観」から観て、この事に付いてはこの様に見抜いて観ている。
「雑賀根来の銃」の「一部・500丁の説」に付いては、「現地の史実」を調べずその様に江戸期に成って「旗本」に依り都合の良い様に、“「徳川歴史を仕組んだ」”と観られる。)

(注釈 「江戸初期の銃の必要性」
そもそも、「1605年に銃規制」があったのに、江戸初期以降に「銃の必要性」があったのかと云う疑問が湧く。
確かに、“計算に入らない数の銃の残り”、つまり、「秘匿品の戦利品」の「約100丁~150丁程度」は戦い時に少なくとも「単体」で獲得した筈である。
そうすると、「秀吉などの家臣」を含む「織田軍」が持ち得る「火縄銃の限界」は、どんなに見積もっても、「雑賀根来の傭兵銃隊」は「1000丁」と成っているとすると、「約500~650丁程度」が限界に成る。
「紀州」では、兎も角も「保有量・生産量」は「1500丁・生産量限界」が最大であったとされている。
それは、これは「傭兵が持つ銃」だけでは無く、「雑賀族衆と根来族衆」の個々に生活に使い持つ銃が「500丁」であったと口伝ではされているのだ。
つまり、「傭兵用は1000丁限界と云う事」に成る。
現実に、「秀吉」が紀州征伐後の「紀州の刀狩り」で門徒衆も含めて庶民や農民や郷士等が持っていた「秘匿火縄銃」が郷土史等に依れば「100丁程度」を差し出されたとする記録もある。
これ等は表向き「紀伊族」からの「侵略防御」のみならず「イノシシやシカ等の猟銃」に使う銃であったとされているし、現実に「鈴木氏の本家裔」が持つ絵図にも遺されている。
従って、これは史実であろうし、そもそも、つまりはそれ以上に生産されていないのである。
「紀州征伐」の前後をして、「堺のブロック」に依って“「近江」には、最早、「生産能力」は殆ど無かった”筈で、「雑賀」が遣られれば、“今度は「近江・日野」である”として「伊勢」などに逃げ込んでいる始末であり、カウントには当たらない事に成る筈だ。
そうすると、正式に「生産」に及んでいたかは別として、「銃を生産する能力」を持ち得ていた「最後に残った堺」は、伊勢の資料に依れば、現実には実際は早めに「危険が迫った為」に「伊勢の指示」で中止しているのだ。
中には、「堺の銃生産・火縄銃」を“明治期まで続いたとする説”があるが、これに付いては「伊勢の資料」では、「元の鍛冶屋」に其の侭に転身しただけの事とされていて、「銃の生産の事」では絶対に無い。
そもそも、「1605年」に徳川幕府に依って「銃規制」が掛かり「生産」は無くなったので論理的に無い。
況してや、そもそも「伊勢・摂津・堺」が「財源や発注」を引挙げれば、そもそも、「銃生産を続けられる事」は100%無く、又、「商業組合」の「7割株の組合組織」の中にある事から「別の商人」が密かに入る事の「空き」もない筈である。
仮に、密かに「別の商人」が間に入れば、そんな「危険な事を許す事」は無く、そうなれば結果として間違いなく「別の商人」を「伊勢は潰す事・シンジケート」に成るし、そんな「組合人」も居ないであろう。
史実を無視した「無根拠の説」である。
つまり、江戸期では、残るは、「西洋」での無用と成った「旧式兵の用火縄銃」だけの売りつけで、「西洋の近代銃の発達」で、不用で古く成った「西洋の火縄銃」を「貿易」で秘密裏にオランダやポルトガル等から入った可能性が高く、前段でも論じた様にその「貿易量」で既に「銃規制範囲の基準量」を超えているのだ。
「青木氏」が持った「試作銃改良型の原型」は、所謂、「フリントロック式の近代銃・改良銃」は、その元は飽く迄も「フランスやイギリスやドイツ」の開発国での事であって、「周辺国・欧州」はこれに何とか切り替えていた時期である。
日本に古くなった「火縄銃」を高く売りつけて、その「資金」を獲得していた史実と成っていたのだ。
そもそも、「日本の火縄銃」の「最古」のものは”「1588年製の厳龍寺銃」”と成っているのだ。
その為に、この17年後の「江戸期頃の火縄銃」は、江戸期に入り「銃規制・1605年」も重なって極端に史実として低下しているのだ。
因みに、「総合的な資料の分析」に依れば、江戸期中期までは「火縄銃」の旧式の価格は、「35石~80石」/丁に相当し、当時は1石=1両であって約35両~80両に成っていた。
既に当初よりは約1/10程度以下と成ったと記されている。
これは「銃規制」に依って必要性が極端に低下した事に依る。
「一頭1200人に1銃の規制」の中では、「一万石以上の大名」には殆ど所持していなかった事に成り、「銃力に相当する火縄銃」はそもそも無かった筈であるし、そんな「財政的余力」は他の事でも既に限界で、世情安定期では「無意味な銃」ではあった。
その意味で、「価格の低下」が在って「抑止力」としても効果は無かったのである。
然し乍ら、室町期から「伊勢を含む青木氏族」は、現実に資料の中では、表現として明確にしていないが、「資料の行」から「読み取れる範囲」では、“いざと云う時の抑止力”としての為に秘匿に保持し続け、上記の様に「銃の価値の低下」は、逆に「青木氏族」に執っては、寧ろ、その「抑止力の無意味合い」が高まり、江戸期でも密かに確実に「改良銃」は持っていた様である。
因みに、前段でも論じている事ではあるが口伝でも、「紀州藩の藩主」が「尾鷲」で鷹狩りの際に「銃」を使って腕前を民に誇示披露したとある。
この時、「尾鷲」で保養中の「福家の先祖」が「自分の銃」を持ち出して「遠くの柿」を打ち落として見せたとあり、「家臣」が怒って先祖を叱責した。
その後、この「先祖」は「和歌山城」に呼び出され切腹かとして袴の下に白衣を着て出仕したが、逆で「上座」に導かれて座り、藩主は下座で挨拶をしたと伝えられている。
「元皇親族の伊勢松阪の青木氏福家」で紀州藩には「債権・2万両と勘定方指導・2度」をしていた事から格式が上であるとして上座を譲ったとある。
江戸末期には「紀州藩の財政危機の勘定方指導」として活躍した「伊勢松阪の青木氏の福家である事」や「吉宗育ての親であった事」等を知っての事であったとされるが、その後は、初代藩主に「水墨画」や「俳句」や「和歌」や「茶道」などの「素養指導」を大広間で家臣も交えて行ったとしていて、この「慣習」は「祖父の代の大正14年」までこの関係は続いたとしている。
これは「銃の密かな存在保持」を「裏付ける証拠」でもある。)

(注釈 「1500丁の検証」
さて、明治初期には、“「50万丁」と「世界最大の銃保有国」であった”とする公的な資料があるが、この事に就いて疑問が大いにあり触れて置く。
そもそも、日本にはこの「火縄銃用」の「発火薬の硝石」と「弾丸の鉛」の生産は極小で殆ど「貿易に頼る事」以外には無かったのだ。
確かに、西洋で不用と成った売りつけの「古式火縄銃」は多く「一般の商人」に依って密かに仕入れられていたが、これに伴って「硝石と鉛」も輸入しなければ使えず「飾り銃」であって、況してや、「銃規制・1605年」で持てば「お縄」であるし、安定化した世の中では「銃」は不要で「抑止力」にしか使えなかった筈である。
依って、攻撃用以外に「一般の大名や武士」や、況してや「民」には不要である。
「50万丁」とはそもそも一般の民も持たなくては成らない数である。
そもそも全国でそれ程に「武士」は居なかったのだ。
江戸期初期ではほとんどの記録では、一万石以上の大名264人、旗本5200人、御家人17000人、その他480人と武士の家臣だけで、「媒臣の数」は含まずの合計は実質は53900人であったとされる。
そうすると、平均204人/大名と成り、同じ「江戸初期の1605年の銃規制の基準」から53900/1200では単に「約45丁」と成る。
大名を大まかに「一頭として264人」で、これに「戦時の義務兵数の平均1200人」として計算して観ると、「総勢の兵・316800人」が集まる事に成る。
これと合わせると「家臣数」は「約37万人」と成る。
江戸初期の持っていても構わない「戦時の火縄銃」は、規制に関わらず持っていたとしても「媒臣数」は、「264人の大名」で「平均一騎の兵数50人」としているので、「最大一頭は4騎まで」が義務つけられていて、これが「媒臣の陪臣」と成るので、「264・4・50」と成り、最大で「52800人の数」に成る。
合わせると「約43万の兵」が、「50万丁の説」で計算すると「家臣と媒臣の全員の兵」が何と1丁ずつを持つていた事に成る。
あり得ない数に成る。
そもそもそんな「財力」を持っていなかった。
「銃規制」からすると、別の計算を元にすると、「264人の大名の媒臣数と陪臣数」は、江戸初期の人口は「平均2700万人」とされ、「家臣媒臣・陪臣の数・武士」は、国印状発行でこの「7%」であったと記され、これは明治期まで“抑制されていた”のである。
従って、この基準から観ても「385700人の計算」に成る。
この基準からの計算でも「上記の37万人」にも一致する。
記録に見る処では1割弱としているので、正しい数であろう。
「人口増加」を「食料生産量・米収穫・」以上、つまり「1反=1石=1人の原則」に超えない様に抑制していたのだ。
「火縄銃の持ち得る計算の数」は、故に「1500丁前後」と成るのだ。
この数は、故に「室町期の最大生産」の「1500丁の経緯」にも一致するのだ。
又、「戦」が起こらない限りは「武士」には「無用の長物」で「藩の持ち物」であった。
藩としての「最低限の幕府からの義務」に過ぎなかった。
本音では藩財政から「金のかかる物」は持ちたくない筈である。
この「驚くべき数字」が公的に資料としている江戸中期からの「火縄銃の量」としているが間違いである。
では検証して観る。
「銃規制」の「1頭=1200人=1丁の基準」からこれを護ったとしても、当時の人口が「4000万人」として「国印状を取得した正式な武士」は約7%であったとされる。
現実にはこれにも規制があった。
そうすると、「400万武士/1200≒3330丁」である。
これがこの「基準に適合する量」である。
上記で検証した「火縄銃の貿易で搬入した量」と加算したとしても、「規制の合法的な量」は「3330丁程度」は妥当であろう。
上記で論じた「火縄銃」の「生産地三カ所の経緯」から「国内最大生産量」は「1500丁~2000丁」としても、「外国からの銃」は凡そ「1330丁~1830丁」と成る。
検証の結果としては、「50万丁」は「刀狩りと銃規制」を配慮されていない飛んでも無い量と成る。
これでは「銃規制」など忘却して全くなかった事に成る。
これから割り出すと「三カ所の経緯」を無視して、且つ、「生産量の経緯」を無視して下記の様に「年数の単純計算」をした事に成る。
最大で「国内生産1000丁/年+輸入1500丁/年」・江戸期中期前・200年≒50万丁と成る。
こんな事は絶対にあり得ないのだ。
何故、この「50万丁」が一人歩きして公的数として成つたかにはそれなりの理由が見える。)

(注釈 「50万丁の行方の検証」
これは幕末からの維新にかけて紀州藩士であった「陸奥宗光・1844年~1897年」は「明治維新の政治体制造り」に貢献した人物で、殆どは政策は「彼の発案と努力」に依るもので、版籍奉還、廃藩置県、地租改正等、数を挙げれば暇はない。
そして「徴兵令」もである。
中でも、本題の「徴兵令」では、彼の努力により「徳川幕府紀州藩」が他の二藩と行動を別にして「維新政府側」に着いた。
この時、「御三家の紀州藩」は「維新政府」がまだ実行していないのに率先して「近代軍制」を敷いて「維新政府の後ろ盾」と成った。
これを観て「維新政府」は彼を政府に招き、「維新政府軍制の構築」を任したのである。
この時、全ての古い刀等一切を捨てさせ、武士に関わらず「銃に依る西洋式軍制」を執った。
彼は、「坂本龍馬の下で海援隊」の一員としてとして働き、「彼・龍馬」を神髄していて、彼の進んだ教えを推し進めた。
この時の「兵力」が「陸軍力24万と海軍力25万」で「49万」であり、中でも「陸軍」は「村田銃・国家予算の20%」をかけて編成したものでこれを「主力」としたものであった。
恐らくは、「50万」とするは単純に推論的にこれから来ていると考えられる。
これ等は「1883年・明治16年」から「8年計画」で近代化を推し進め、この体制で「1877年の西南戦争・明治10年」の実戦で成果を上げ、其の後の「明治20年代・1887年」に完成した。
この事は「陸奥宗光の活動」で「薩摩との主導権を争い」が起こり、彼は何度も投獄や失脚に追いやられたが、「伊藤博文等の海援隊の仲間」が彼を何度も救い上げた。
結局は、「彼の造った軍事組織」で「西南戦争」で「薩摩」は「維新政府」から抹殺一掃されたのだ。
其の後、「日清戦争」で「弱いとされていた海軍」は、「陸奥宗光の造った軍事組織」で相手が「数段の兵力差」であっても「勝利」を得たのだ
この事は世界に有名を馳せたのだ。
実は、この「紀州陸奥家」とは「伊勢青木氏」とは無関係では無く、前段で論じたが「幕末の紀州藩勘定方指導」をしていたが、この時の「宗光の父」が「紀州藩の勘定奉行」であって親交が深かったと記されている。
幕末に「紀州藩が犯した操船ミス」で「海援隊の船の賠償金」の支援で、「伊勢屋・2万両・摂津支店・大阪豪商」が支援に動いたが、この時の「勘定奉行」であった。
これは「陸奥宗光の優れた交渉力」として「公的な記録」として遺っている。
資料にも「重要な逸話」として遺されている。
明治9年で「伊勢青木家」からの「天皇家への献納・925年開始」は「幕末から始まつた伊勢騒動の件・明治9年」で打ち切っている。
結局は、「伊勢屋」はこの為に「打ち壊し」や「火付け」等で長い間、維新政府から攻撃されたが、何とか残ったのは“「陸奥宗光の御影だ」”と「伊勢青木氏・伊勢屋」はしているのだ。
注釈として、余談であるが、「伊勢青木氏」はこの「打ち壊し」や「火付け」の「裏の組織」は上記の経緯から「薩摩藩」に依るものであったとも考えられる。
つまり、「陸奥宗光派」と「献納中止」と「武士に頼らない銃の軍組織改革」とそれに関連する「軍費支援・国家予算の20%・支援」と「伊勢騒動・明治9年終結」に在ったと観ていて、これは「薩摩藩」に執っては“「裏目に出る利害関係」が大きく働く”と観ての行為であったのであろう。
結局は、何とその「陸奥宗光の銃軍事組織」で「西南戦争」に持ち込まれて薩摩は敗退したのだ。
「西郷」が「第九回御前会議」で大声をあげ机を叩き席を蹴って勝手に退席し、「大久保の制止」に関わらず「薩摩」に勝手に帰り、その結果、11の身分は剥奪されたのもこの「明治9年の事」であった。
これを契機に維新政府内で「薩摩藩」は勢力を失い「西南戦争」へと突き進む経緯と成るのだ。
ここでも「紀州藩の家臣」の殆どは「伊勢藤氏」であり、「上記の仕儀」から「致し方無しの経緯」とは考えられるが、直接的では無いにしても「政治に関わる事」に対しては「青木氏の氏是」を間接的にも破っている。
唯、「紀州藩藩士の陸奥宗光」とその仲間の「海援隊の裏工作・維新政府の重鎮と成る」で「多少の被害」があったが無事に済んでいる。
この事は「伊勢青木氏」だけに及ばず「青木氏族全体の事」として「伊勢藤氏の力」を借りて成した事に過ぎない。
前段でも詳しく論じたが、「影の首謀者青木氏の伊勢騒動」は「伊勢」だけに及ばす「信濃青木氏」も背景と成っていた事は資料としても遺されている通りの事である。
「伊勢騒動」に対して「維新政府」の「罪に対しての寛大な対応」で応じたのは「紀州藩藩士の陸奥宗光等の働き」があったものと考えている。
「献納・明治9年」も中止し、この「1年後に西南戦争・明治10年」が起こり、している事から考察すると、“「青木氏族」としてはこれ以上の事は危険で出来ない”として「維新政府」から離別したと考えられる。)

(注釈 「近江への再支援の疑問」
飽く迄も、「生産者」でもあって「雑賀・根来の衆」を“「銃傭兵軍団」だとして存在させて置いて「銃の拡散」を抑えておく必要があったのだ。”
当然に「近江」に対しても「堺」からの資材や財源の支援供給で行動を抑制していた。
何故、又しても「難しい近江」に「財源と原材料と職能」を「堺・七割株」から提供したのか、又、当時の「伊勢青木氏の福家」は判断したのか不思議でならない。
これでは「和紙殖産の苦い経験・源氏化」が生かされていない。
筆者なら絶対にしない。
その意味で「銃」は「公的記録」としては、上記した様に「1543年に種子島」に入ったが、実際には、その「40年後」の「1583年頃の近江」から広まった事に成るのだ。
その「意味」では、余りにも「殺戮度の高い銃」は世に存在する事の危険度を察知した「秀吉の刀狩りの判断・1588年」と「家康の銃規制・1605年」は手早く正しかったのだ。
「家康の銃保持・1583年の説」としては正しかった事に成る。
上記した様に、「青木氏の堺銃」は「秘密裏・約100年弱前」に「1543年前からの試作段階・ホイールロック式」を経乍ら,随時適時にて一族一門に「生き残り抑止力・1545年頃」として渡して、最後は「フリントロック式銃・1560年・額田青木氏」に実際に「第一次吉田城・一言坂」で使用したのである。
合わせて「生産元の功罪」の「青木氏の銃」が「近代銃」で「高額」で使用に際しては黄鉄鉱や硝石等特殊な交易で無ければ手に入らない事、又、相当な「熟練」を要し、且つ、銃そのものがそれが漏れたとしても広まらず、最早飾りに過ぎない事に成り得て、故に「身内」で「抑止力の概念」を護り確実に秘匿出来た事も評価できる。
敢えて当初より「火縄銃で無かった事」は「広まらないこの事」を意味していたのだと観る。
惜しむらくは前段でも何度も論じたが、「火縄銃の乱れ」は又しても「近江の事」であったし、「江戸初期前後の松阪での近江商人との軋轢」でも苦労をしているのだ。
「青木氏の全ゆる資料」では、「その説明の一行」が無いが「子孫」としてここに敢えて筆者が遺す。
「青木氏の歴史観」としての後勘としては、矢張り、その原因は、又しても「近江・日野の無節操な行動・抑止力の無効化」にあったのだ。
結局、乱れを食い止める為にも「堺・支援供給」も「中止する破目」と成った。
故に、「火縄銃の銃の歴史」は遅れていて「近江の龍源院銃・1583年」が「銃の事の始まり」として正しいのだ。
「長篠の戦い・雑賀根来火縄銃」での「松平氏の銃保持説」は「誇張の何物」でも無いのだ。
公的に良く「絵巻」でも華々しく描かれている様なものでは決して無かったのだ。
これは「秀吉の刀狩り・1588年」の「5年前の事」に成る。
この事からは「松平軍」は未だ“「銃の調達」”は出来ていなかった事に成る。
恐らくは、上記した様に「銃シンジケート」がしっかりと未だ効いていた事に成るか、高額で手が出せなかった事にも成るが、「家康側近」の「西三河の旗本衆」が“極めて保守的”であった事かにも成る。
筆者はこの「注釈説」から「三河の保守説・嫉妬癖」を更に採用している。
念の為に論じて置くとすれば、この「三河の保守説・嫉妬癖」の性格が、前段で論じた様に「吉宗の頃」にまで続き現実に「史実問題」を起こしているのだ。
如何に「額田青木氏」の「国衆の300丁の近代銃・フリントロック式改良銃」が保持も含めて全ゆる面で如何に「考え方や行動力や判断力」が進んでいたかは判るのだ。
然し、「銃」は例え“「抑止力」”であったとは云え「青木氏の氏是」を超えている事は否定できない。
それだけに「下克上と戦乱」とで「子孫存続」が緊縛していた事にも成る。
「伊勢」のみならず「一族一門の血縁族」により「高い抑止力」を着けて全体で護ろうとしていたのだ。
実際にこの「抑止力」を「伊勢の梵純軍等」は「伊勢の梵純軍等の資料」で使った事は判っているが、青木氏側の確実な記録は見つからない。
「多少の牽制で使った事」もあろうが、全体としては「抑止力の情報力」を高める為に「抑止力・デモはしただろう」であったと観ている。
故に、前段や上記した様に「信長・秀吉・家康」はこれを“「噂」”で知っていたのだ。
つまり、抑止力は働いていたのだ。)

(注釈 「国衆南下の後半」
改めて「源平の戦いの石橋山」で潰されてから「三野王の裔の(aの族)」とその裔の「(a-1の一部)」は完全に滅亡した。
長い間潜んでいた「加茂・木曽の信濃シンジケート(信濃シンジケート)」の「美濃の青木氏の「浄橋・飽波」の「末裔(a-1)と(a-2)」の「一部・伊勢の裔系の集団」と、その血縁関係を持っていた「伊勢の裔系・美濃の者等(a-2)」と、それに追随した「官僚族等(bとc)・原士」等を集めた「血縁族集団」と、この「二つの集団」を「額田を拠点」に形成していた。
所謂、これが国衆南下の「後半の準備期間」であって、これが「美濃額田の所縁集団」であった。
そして、「渥美湾」を「額田」と「伊川津」で縦に結ぶ“「直線勢力圏・縦の陸路」”を「伊勢青木氏と信濃青木氏の背景」で、「超近代的な武力集団」として徐々に構築して支配しようとして「計画」を進めていた。
そこで、「下準備・前期」を終えてからの「室町期の末期」と成ってからは、上記した「美濃額田の所縁集団」の「二つの集団・国衆」を「額田一色」に一同に呼び寄せる機会を伺い実行した。
要するに、「歴史的な集結」であった。
取り分け、危険な「下剋上と戦乱の様子」の中を伺っていたのである。
これを資料から観ると、この時、ここが後期の「周囲の土豪」や「小国衆」との「小競り合い」の「予備戦」があったらしい。
この時の「額田の南下国衆」の行動は、「周囲の勢力」を全体的に抑え込むのでは無く「幅の狭い縦の陸路1・東山稜」の“「直線勢力圏」”の構築に限定していたのであった。
ここには当時にあったこの付近には、“「商業通路」”の様な「自由な通行券・注釈」の様な「山稜の道」があったらしい。
これは「一般道」では無く「一定の物資輸送」や「兵の移動路」等に使われる道で、この様な「土豪」が抑えていた「商業道の物・近道」であったらしい。
「記録」に依れば、前段でも論じて来た様に、その「美濃の国衆」の中では「戦力差・銃」に依って「戦い」には成らなかったのではないかと観られる。
寧ろ、「党の様な軽い連合体」の様な形で「合力を申し合わせた事」が書かれている。
彼らは、元々、別の面で美濃と信濃路間の「一種のシンジケート」であった事を知っていた。
近くにいた「周囲の土豪」や「小国衆」はこの事は既に知っていたらしい。
何せ武装している「美濃の額田の所縁集団」の「二つの集団・国衆」であったかららしい。
「額田の青木氏の国衆」には背後には「伊勢信濃の青木氏抑止力」と「秀郷流青木氏の青木氏族」を控えていたのだ。
これを噂なりに知つていたと云う事であろう。
従って、この「商業通路1」の「土豪集団」は一切戦わなかった。
寧ろ、彼らに執っては{南下国衆}に近づいていた方が全ての面で利得であった。
明らかに資料と戦記の「記録の通り」である事が判る。)

(注釈 「「商業通路の検証」
現在でもこの様な商業道が全国に多くあって、特に「北陸道」に沿って弘前から新潟を経由して富山まで「本道」とは別に「商業道」としての路が遺されているが、この道は歴史に名を遺す商業道であった。
因みにこれには「面白い実話」がある。
前段でも論じた様に室町時代末期に「秀吉」は、「奥州結城氏・永嶋氏」を攻めた時、内部混乱が起こりこれを「奥州結城」に養子に入った一族を護る為に、「背後」を一族の「伊勢の秀郷流青木氏」が「結城永嶋氏」と協力しながら追尾した。
「秀吉側」は家臣の多くを戦死させ無理攻めをして早く片付けようとしていたが間に合わず、慌てて「北陸道本道」を通ると周囲から攻められる事を恐れた。
「食料不足の危険」から密かにこの「商業道」を使って何とか大阪に逃げ延びたとする記録が遺されているのだ。
何故、「秀吉」が「伊勢の秀郷流青木氏」を恐れたかである。
それは、「改良銃による戦歴」を情報として入っていた事を示す証拠でもある。
「銃力」が「非接触による10倍力」を知っていた事に成る。
必死に「商業道」に隠れて逃げたと云う事であろう。
この様に、この頃、“「商業道」”なるものが土豪衆に依って密かに造られていたのである。
この「商業道」には常に「シンジケート」が抑えていた「専門道」であって、これには“「利権・通行料」”さえを払えば通れるのである。
この様な「避難道」の様な当に探訪によれば要するに“「野道」”であった。
この「探訪の印象」では、矢張り「山際の農道」である事から、「田の周囲」から攻められても直ぐに迎撃対応でき、「山からの攻撃」には「山岳側面防御」で護れる。
後は元住んでいた「山間部・R152R}は{2ルート}もあった様だから「伊那・茅野・信濃」までは「活動の地元」であったから、この「商業道・縦の陸路1」に付いては”問題は無い”と観察できた。
「美濃の額田青木氏の銃」があれば問題は全く無い。
ところが、この「予備戦の途中」でこの問題は起こったのだ。
それは「織田勢力」に依って益々“「神明社の破壊」”が起こされ、「伊勢」を含む「近江」でも関西の各地でも起こされた。
「宗教勢力の排除」が各地で徹底して開始されたのだ。
そこで、伊勢は全体青木氏族の事を考えて信濃との命綱である”縦の陸路を造ろう”と決断したのである。
これで、「幅の狭い縦の陸路1」の“「直線勢力圏の構築」が急務であって、この東南の「商業通路」の「利権を持つ東と南三河の土豪連」は、幸いに「信長方」に付かなかった為に何とか「命綱」は「伊勢湾と渥美湾間」の「船の航路」にしても繋がり、兎も角も、再び「信濃間ルーツ」を再構築できた。
後は資料に依れば、「銃の護衛」を着ければ東・南三河の山際の「商業通路」は信濃―三河間は容易に通れたらしい。
「今川氏の勢力圏」と「信長の勢力」圏の丁度狭間にあってここまでは及ばなかった。
従って、元の「一色域」に近い「額田・端浪」には「美濃の所縁集団・二つの集団・南下国衆」を終結させ、「額田青木氏とその一党」として結成させたのだ。
そして、この「額田青木氏・蒲郡青木氏」の中で「伊勢の裔系のa-2」と「血縁性を持つ官僚集団」を先ずは「田原の古跡の神明社」のある「渥美半島・伊川津」に差し向けたのだ。
そして、この奈良期から「古跡神明社の青木氏族の神職族」が住んでいた地域に「伊川津青木氏・吉田青木氏等の四家」として「渥美湾」に再興を成し遂げたのだ。
「渥美」にはそもそも、奈良期の古来より神明社があり、「伊勢青木氏」より「柏紋の神職青木氏」を派遣して定住していたが、ここに相当先に「額田の家族」をも移し、その後に「蒲郡と伊川津」に「国衆」が移動した経緯であった。
然し、この「二つの美濃族の勢力」、つまり、「額田青木氏」と「伊川津青木氏の四家」とにはある種の違う事が起こっていた。
この事もあって、「一つの勢力」としてまとめる事に努力しなければ成らなかった事が判ったのだ。
そこには明らかに次の事が違っていた。
この“「額田青木氏・蒲郡青木氏」”は、つまり「加茂木曽の山間部」に逃げ込んだ「元美濃族系」の「伊勢青木氏の裔系族・「(a-1)と(a-2)の一部の族」であった。
ところが、「額田青木氏」とその後の「蒲郡青木氏」との違いには、「二つの説」が有って記録的には、はっきりしないが、然し乍ら、筆者は、その一説の前記でも論じた様に、後で東・南の端の「商業通路」では無く、別の西三河の「額田」から「蒲郡」に「縦」に「ルート2」を新たに作って南下して「統一して国衆」として定住したものであると考えている。
この一部が「伊勢桑名」に帰り、残り「蒲郡青木氏」が残った。
さて、この「期間差」がどの程度であったかである。
この「信濃の青木村」から塩尻を経由し「縦の陸路2」の「ルート2上」には当に直線状に、丁度、真ん中に「青木村」があり、其処には「古跡の神明社」もあり「清光院」もあり現在もあるのだ。
この歴史を調べれば判るが、先ず「この古跡神明社」も田原と同じく奈良期からである。
この「縦の陸路2」の「神明社」が存在したとすれば、「古跡の田原の神明社」と同様に「神職」が定住していた事から、少し後の同時期に近いと考えられる。
何故ならば、この「西三河の神明社」には「古来の慣習」が遺されていて、「神明社の廻りの六方向」に「山神社」が「子神」として祭司されていて、現在は二方向と成っている。
これは完全な伝統の「奈良期の構え」である。
この事から、これは「神明社」と「青木」に執っては「証拠」と確定できる。
然し、この「清光院」は「浄橋と飽波後の時代」と成る為に完全な同時期とは確定できないが、少なくとも「平安期末期か鎌倉期」である事には間違い。
何故、「蒲郡」かに付いては「桑名の言い伝え」ではあって、資料的には何も物語るものはないが、何かを考えられるとしたら、「伊勢水軍の泊」か「伊勢屋の事務所」の様なものがあったと考えられる。
「蒲郡」の「桑名と伊川津の距離的な事」や「岡崎市の青木町の直線的距離的な事」かであるが、近くに「蒲郡の近隣2社の神明社」があり、「青木町の神明社」との「繋がり」を考えれば何も無かったとは考え難い。
少なくとも、「伊勢の柏紋の神職」が定住していた筈で、現在も「青木氏」はこの村と共に存在するのだ。
そうすると、この状況からも「蒲郡と伊川津の青木氏」は同時に移動したのでは無く、論理的にはこの「二か所」に向かって、別々に「渥美の伊川津青木氏・四家」の一団は東・南の山際の「商業通路1」を通じて移動していた事に成る。
そして、「蒲郡の額田青木氏」は「縦の陸路2」で南下したと考えられる。
「縦の陸路1」と「縦の陸路2」の多少の違いの「時間差」があった事に成る。
その後の「裔系の統一」が起こり、その経緯は次の様であった。
そうする事で、「蒲郡の青木氏」を「主家」として、「伊川津青木氏・四家」を支配下に置く形態を執ったと観ているのだ。
前者が「a-1族」で「額田端浪一色に居た主家」で、「浄橋と飽波の直系の裔系」とした。
後者が「前者の血縁族の裔系」の「a-2族」とした。
前者と後者に当時、「美濃の官僚族」であった「bとc族」が配置された。
この「bとc族」には「300年」と云う長い間に「家紋」から観て「血縁性」が認められる。
この「美濃の官僚族」であった「bとc族」は、この「血縁性と縁故の絆・源氏化」に依って滅亡した「三野王系・a」との二つに分かれたのだ。
そして、「後者の青木氏」にはその「血縁の系類」に合わせて「渥美の四家青木氏」を構築させた。
これには「伊勢」からの「指示成り発言」があったと考えられる。
以上と成る。
そうでなければ「後の史実」とは「時系列」で一致しないのだ。)

(注釈 「伊川津青木氏四家のその後」
其の後に、「美濃の南下国衆の二氏(額田青木氏の蒲郡青木氏・指揮)」と「(伊川津青木氏の吉田青木氏・四家)」には、「松平氏」と共に「国衆」として参加して共に戦う事に成ったのだが、「準備期間の後期」の「予備戦」と観られる「初戦」が「第一次吉田城の戦い」であって、ここから「国衆」が開始されたとされる。
これ以外に「定住地の吉田」が「武田軍」に攻められると云う理由が他に見つからない。
「三野王」に多少の所縁が、「額田青木氏・蒲郡青木氏」には少なくとも在ったとしても、取り分け、「伊川津青木氏四家の吉田青木氏等」にはそれが薄い筈である。
何れも奈良期に繋がる「青木氏」であるとしても、「350年の間」には「青木氏としての違い」は起こっている筈である。
その結果がここに出たのである。
それを物語る記録があって、この事から、一つは「室町期末期」には「額田青木氏の蒲郡青木氏」の一部が“危なく成った桑名”を護る為にも「三河」から「桑名」に向かったとする記録がある。
その二つは、先ず「蒲郡青木氏」は「松平国衆」から離れたとあり、続いて、「伊川津青木氏四家」も離れた形の「行の表現」と成っている。
どうも同時に、「三方ヶ原の戦い後」に直ちに離れた様では無かったらしい。
「多少のタイムラグ」があったと観える。
その「タイムラグ」は、「地元3土豪・国衆・四国」との「伊川津七党の絆」があった事からの「時間差」では無いかと観ている。
「3土豪間の絆」をどう処理するかであったろう。
この「時間差」はどれ位かは判らないが、そもそも「青木氏」の中では「伊勢の指揮の許・蒲郡青木氏」で決まるが、「地元土豪・3氏の間の説得」をどうするか「話し合いの時間差」が必要であったか、「蒲郡青木氏」が行う「陸運業の体制固めの時間差」なのかは判らない。
「蒲郡青木氏」には、「松平氏や土豪との絆」は全く無かった事から「伊川津七党の関係」の「解決待ちの時間差」であった筈である。
この「3土豪の戦い後の状況」から鑑みて「土豪間の話し合い・本家と分家」が着かなかった事が「読み取りの行」から読み取れる。
「資料の深読み込み」から「筆者の印象」では、“二つあった”のではと観ている。
それは、一つは「伊川津の土豪・3氏」を引き入れる事の賛否、二つは「bとc族の引き入れる事の賛否」にあって、「蒲郡青木氏の異論」があったと観ている。
それは「伊川津の地元土豪」は前段でも論じた様に元は4氏であった。
然し、参加しているのは「3氏/4」であるからだ。
“1氏が離れたと云う事・西郷氏・武蔵国衆”に成る。
恐らくは、この「1氏」は資料に全く出て来ない「西郷氏」であったと観られる。
因みに「西郷氏」は三河の戦いにも参加しなかった事が判るが「国衆の中」で何かあったと考えられるが判らない。
これに成し合いに時間が掛かったのであろう。
結果として、「青木氏側」から観て観ると、この「話し合い」に最初に出された「蒲郡青木氏の二つの意見」は引き下げられた事に成っている。
「青木氏だけの陸運業」と「七党の解消と早期決着」であった事は判っている。
この「土豪3氏の国衆の本家」は「松平氏の准家臣扱い」と成った。
この事から、この関係を陸運業の中に持ち込む事を嫌ったのだ。
だから、「武士を捨てた分家筋が加わる事」に成って引き下げたと成ったと考えられる。)

(注釈 「七党の脱党の西郷氏」
「伊川津七党」から逸早く抜けた気に成る「西郷氏」は、鎌倉幕府の相模の低い官吏族の一つで、室町期に三河に入りその後に勢力を伸ばし相模から各地の国衆として流れ、この一部が「三河の伊川津」に入った族である。
又、鎌倉期末期にはその一部はその主家と共に南九州に流れたとされている。
これが「鹿児島」で「勢力」を持っていた「薩摩の土豪・島津氏」の家臣として仕えて、その後、前段でも論じたが、「島津氏は次第に勢力」を持ち「南九州」を制していた「日向肝付氏」と戦い、更に次第に勢力を伸ばし、最終は肝付氏に一国を与え血縁して家老に迎えて決着を着けた島津氏である。
この中に「相模の西郷氏の末裔」が家臣として入り込み居たのである。
要するに、何故に不毛の地の「伊川津」に入り込んだかは判らないがこの「国衆」の一族である。
筆者は、ここから「世間の動き」を観ていたのでは無いかと考えていて、故に、「武田の動き」の活発さから「伊川津」を出たのでは無いかと考えられる。
「伊川津」から何処へ入ったかは判らない。
それは「国衆」をより良い条件で受け入れてくれる所に流れたと考えられ、そうなれば、当時、勢力を大きくさせる為に「国衆」を受け入れていたのは「伊川津の西の今川氏」の「東三河」と成ろう。
然し、この「東三河」から出て尾張全域を攻めた「今川氏・1560年」も織田信長に依って潰された。
恐らくは、この時に「伊川津の西郷国衆一族」は滅びたと観られる。
況や、「伊川津七党の3土豪の国衆」は非弱な三河は尾張と今川の中間に居て、未だそんなに長い間の国衆では無かったし、土地も不毛であって、「国衆としての特典」は固着する程に無かった筈である。
恐らくは、「別の目的」で南下移動してきた「美濃の国衆の青木氏」とは違って「他の3土豪」も「西郷氏」と同じでは無かったかと考えられる。
然し、「今川」が潰れた後は「三河松平氏」はその流れの中にあるこの「3土豪」に何とか「伊川津」に留め置く為にも“「准家臣扱い」”をしたと云う経緯の事に成るのであろう。
それが前段の論の経緯を経て、そして、答えから先に説いて置くと、全てが「准家臣扱い」に納得するかは何時の世も同じで、その「経緯」から嫌って逃れた者等の両者も一つと成って「陸運業」を始めたと云う事に成ったのだ。
だから、「二つの条件」を下げて「伊勢」は納得をしたのである。
これは歴史的に「氏是や慣習仕来り掟」から観て珍しい事であったが、納得わしたのである。
以後、明治期まで全く問題は起こらなかったのだ。
寧ろ、明治35年の松阪の伊勢屋の失火倒産解体時の少し後の時期に、この3つの内の二つは独立して「陸運業」を営んでいるのだ。
その「過去のシンジケートの繋がり」と「国衆の銃の武力」を使って「江戸期の初期」には「大陸運業」に成ったとあり、上記の様に現在も続いている。
「伊勢と信濃と伊豆の商い」を「陸」から支えたとある。
遡れば「江戸初期」は未だ「陸運」は未だ危険であって、各地には「盗賊や山賊や海賊」が散在していが、「彼らの力」に逆らう「盗賊や山賊や海賊」の輩は無かったらしい。
それは「シンジケートの横の繋がり」と「国衆の銃の武力」であって、「伊川津四家の青木氏の陸運」は「美濃忍者の原士」でもあった。
それだけに“仲間に入れて貰う”と云うのは在っても襲う馬鹿は居ないだろう。
故を以てか、益々、「組織」は大きく成っていたとしている。
「伊勢青木氏の資料と商記録添書」を総合的に読み解くと、「三河」より東が「吉田青木氏」、三河より西が「蒲郡青木氏」の領域として故意的かは判らないが分けられていた様である。
ところが、江戸期に入ると、これが“二つに成った”とあるのだ。
“二つにしたのか二つに分裂したのか”は判らないが、これも読み解くと、「昔の慣習」から上手く「割墨」をしていた事も観えて来る。
つまり、この事から、「巨大化した事」に依り「効率化を図る為」に、「西と東の陸運業」にした考えられる。
ここで、「上記の先答え」から次の「二つの疑問」が湧く。
前段でも論じた事ではあるが、次の様に成る。
「一つ目」は、何故に「蒲郡青木氏」の一部が、“危なく成った桑名”を護る為に「三河」から「桑名」に向かったのかであり、そして、その後どうしたのかである。
「二つ目」は、何故に「蒲郡青木氏」は、「松平国衆」から離れたが「吉田青木氏等」も離れたのかである。
この「二つの疑問」を解決していない。
上記の「疑問の答えの記録」が遺っているのだ。
「一つ目」は、「美濃額田の蒲郡青木氏」は、前段でも、且つ、上記でも論じた様に「桑名の額田」に大きく強く関わっていたからである。
つまり、「桑名殿の孫」の「美濃の額田の裔系の祖」の「浄橋と飽波」である。
つまり、「彼らの血筋」には「伊勢」のこの母の「二人の流れ」が強くあって、それが「記憶」「伝統」から「母方始祖」としていた「意識」が強く持ち得て在ったという事である。
「男系の祖」の「三野王の所縁」と云うよりは、「伊勢の所縁・女系」の方が強く在ったのであって、故に、「一色」なのである。
元より、奈良期末期から「妻嫁制度に依る女系氏族」として「四家」を構成していた。
「蒲郡青木氏」の一部は、その為に“伊勢を護るために帰った”という事に成る。
其の後は、彼らは「掟」に依り「桑名殿の四家の家人」と成った事に成っている。
この“「家人の立場」”で、密かに「江戸期初期の神明社引き渡し」を拒み、依然として荒廃した後の「元の位置」に密かに“「祠」”を遺して「桑名殿一族と氏族」で昭和期まで祭司していた事が記載されているし、「氏人」に依って現在も祭司されている。
“「家人の立場」”には、幾つかあるが「額田の裔としての立場」を利用してか、「家人の立場」を利用してかは判らないが、「幕府の目」を欺いたかは確実である。
江戸期は「殖産の関係」からも「家康のお定め書」からも「多くの事」は黙認されていて「紀州藩の黙認」があったと口伝で聞いている。
「一つ目」は、何れにしても「伊勢桑名の裔系」で「家内の掟の範囲」による「掟の事」に過ぎないのである。
「二つ目」は、前段でも論じている「青木氏格式の国衆の立場」と「松平氏の旗本との嫉妬怨嗟の軋轢」であった事が書かれている。
後に述べるが、「第一次吉田城の戦い」「一言坂の戦い」「二俣城の戦い」から「三方ヶ原の戦い」にこの「旗本との嫉妬怨嗟の軋轢」が諸に出ていて、記録にも明確に遺つている。)

(注釈 「二つの縦の陸路の創設」
では、先ず前段でも論じたが、もう少し追論すると、はっきり云える事は上記の「元美濃の額田と伊川津の二氏」は、「伊勢と信濃青木氏の要請・経済的支援」と共に、「伊勢秀郷流青木氏の背景」の“保護下にも入っていた”と云う事である。
注釈として、「1510年~1570年」まで続いた「小峰氏と白川結城氏」の「一族内紛」に乗じて「信長・秀吉」が動き、最終は「秀吉」に依る「1590年の奥州仕置き」で事を治めた。
この時に、「伊勢秀郷流青木氏・梵純・銃」が「背後」を突いて「白川結城氏の裔」を救い出し「結城永嶋」に連れ戻した事件があった。
この前提で論を進める。
従って、この事から「額田青木氏」だけはその「国衆としての成った目的」を果たしている訳であるし、論理的に遺る理由は、元より三河そのものに“「国衆」”として遺る理由は無かったと云えるのだ。
そもそも、何れも「(a-1)(a-2)の族」であった事に依って、「桑名の浄橋飽波の伊勢の裔系」である以上は、「四掟での妻嫁制度に於ける女系」で深く繋がる「伊勢秀郷流青木氏の背景」の保護下に入る事が出来る所以でもある。
然し、「a-2の裔系」である以上は「渥美青木氏」と「伊川津青木氏」と「田原青木氏」と「吉田青木氏」の要するに“渥美四家”は“「伊勢桑名」に帰る”と云うその所以は元より薄い。
必然的に「蒲郡の額田青木氏」にはその「目的」が達すれば、その「松平氏の保護下」に入る必要性は最早全く無く、「伊勢青木氏の桑名殿」の膝下に先ずは帰る事になるだろう。
つまり、「母系出自元」の「伊勢桑名」の目指すその「目的」が達成されたのであれば、故に、最も早くて“「1560年頃」”に「今川弱体化の頃合い」を観て「伊勢青木氏の桑名殿」の膝下に先ずは帰る事には成っただろう。
だから、「蒲郡青木氏」の一部が「桑名に帰った事」に成っているのだ。
ところが再び、事を興し先ず「旧領地・一色地域」から縦に「蒲郡」までに直線的により強固な「勢力地・縦の陸路2」を張ったという事に成ろう。
これが、時系列から観て「三河国衆」に正式に成った間の無い頃の「1560年頃であった事」に成る。
これが「東の山際の商業陸路1」の後に成る。
そうすると「東の山際の商業陸路1」は元々土豪に依って作り上げられていた陸路であり、それを「東三河国衆」として無許可で使える短絡路として設定したのであろう。
東からは金銭で造り上げた既存の「商業陸路1」を、西からは新たに造り上げた勢力に依る「縦の陸路2」を少し遅れて設定した事に成る。
これは「信濃との関係を繋ぐ縦の陸路2」であって「当初の目的」の一つであった。
但し、この「縦の陸路2」は、資料の調査に依れば、「伊勢青木氏の神明社の古跡地」で「岡崎と蒲郡」はその「神職定住地」であってこれを改めて強化して繋いだとされているのだ。
「伊川津の田原の古跡神明社」と同じであったのだ。
故に、その史実を承知していれば「南下後1560の頃」の直ぐに出来る仕草であった様だ。
恐らくはこれは当初からの「伊勢の情報と作戦」であったと考えられる。
この「二つの縦の陸路の創設」は「国衆の銃と財力」に保障されたものであったろう。
だとすれば、「1573年」まで「国衆を続ける理由」は完全では無いが最早無く成っていた筈であるが、然し、「12年間」も続けた。
これは何故なのかである。
一つは松平氏と織田氏への牽制にあったのだ。
「縦の陸路2」は、西の「織田氏の勢力圏」の東末端重複部にあった。
「商業陸路1」は、東の東三河の「今川氏の勢力圏」の西末端の重複部にあった。
これには、両者に対する牽制として“「300丁の銃の脅威・抑止力」”を「国衆」として見せて置く必要があったのだ。
そうする事で戦国の世の中で「二つの陸路」を維持でき「信濃との連携」が取れていた。
さて、それに就いてであるが“「300丁の銃の脅威・抑止力」”だけでは済まなかった様だ。
それを裏打ちするだけのもっと“大きい背景”が必要でそれには問題があったのだ。
ところが、一方、「伊川津の七党」の彼らは、“「秀郷一門の背景下」には入っている”が、その“「保護下の入り方」”に問題があって完全では無かったのである。
それは「地元の土豪勢力」と「七党を形成した事」もあったのだが、「格式等の立場」の違う彼らには要するに「一つの文句・言い分」があった。
主に「額田青木氏(a-1)と、(a-2)」の中には「一部の配下」として、「加茂木曽の山間部」に潜み「シンジケート」を形成していて長い間働いていたが、その「原士の元・奈良期から平安期」は、そもそも「低位の官僚族(bとc)」であった。
これを「地元の土豪勢力」から観れば、この「保護下の入り方」に血縁性も低く間接的に「保護下」に入っていただけの事に結果として観えた事になっていたのであろう。
これを「伊川津四家として見做す事」に「不満をもっていた事」が「資料の行」から読み取れる。
要するに、「低位の官僚族(bとc)」を感覚的に別として捉えていた事に成る。
然し、「伊川津四家」の中の族として「青木氏側」では捉えていた。
ここに「地元の土豪勢力」の「感覚差」が出ていた事に成る。
この「感覚差」が“「秀郷一門の背景下」に「揺らぎ」が生まれたのだ。
この「行の事」から鑑みれば「地元の土豪勢力」に執っては、「伊川津青木氏四家」の先には「秀郷一門の背景下」がちらついていた事を意味する。
「伊川津青木氏四家」だけで信用せずに「伊川津7党」を構築していた訳では無く「影の一党」を後ろに描いていた事になる。
何故ならば、「4土豪」の内の「2党」は関東からの「国衆」であって、「秀郷一門の背景」を事前に承知していた筈である。
室町中期までは「伊勢長嶋」まで「関東屋形」として勢力を維持していたが、室町期中期以降は元の関東に勢力圏は押し込まれ桃山時代まで「秀郷一門の背景」は維持していた。
この時期の「伊勢秀郷流青木梵純」の「陸奥の結城氏救い出し」でもその勢力は未だ健在していた事に成る。
「伊勢青木氏の威力」は、飽く迄も「抑止力とその財力」であっても、「4土豪」には「武力の背景の感覚」を強く持ち続けていて、「彼等の感覚」の中には色濃くまだ残っていたのだ。
それ故に、”七党を組んでも若干心もとない”ものを持っていた事に成ろう。
「細かい歴史観」としては「伊勢青木氏の秀郷一門の背景」に何某かの魅力を感じていた事に成る。
そもそもこれは「額田青木氏・蒲郡青木氏」の「南下国衆の指揮官」であった事もあって無理のない処かも知れない。
更に遡れば、この地域まで「武蔵秀郷流主要五氏」の「青木氏族の永嶋氏の勢力圏」であったのだから「秀郷一門の背景下」を期待するのも「仕方のない事」かも知れない。
寧ろ、厳しく見れば「格式社会の中」では、「地元土豪」は時代が進んだ事に依って「国衆」と云うものが生まれ、彼等から観れば従って「同格程度の官僚族類」だと観ていた可能性もある。
逆に「元官僚族類」は格式からすれば「新撰姓氏禄」に記載にある様に「諸蕃」に類するのである。
平安期は「元官僚族類」の支配下にあった庶民である。
全国的に観れば「土豪の中」には「元官僚族類」から成った者も居たが、この渥美半島の室町期後半の最後まで生き残った4土豪の「戸田、牧野、馬場、西郷」はその多くはその出自を遡れば格式とすれば「下・農民」であった。
然し乍ら、狭い不毛の「伊川津」に住む以上は、この「地元4土豪」は、元を質せば、室町期中期では血縁性は別として「何らかの永嶋族との関係性」を持った「片喰州浜の永嶋系秀郷一門下」であった事には間違いはないだろう。
ところがこれは「家紋類」には、明治初期にも起こっているが、「江戸初期の国印状発行」の際には「公然とした虚偽搾取」が多く起こったので「史実」かどうかは判らないが、「伊川津七党」の地元の「片喰州浜系の家紋類」が多い事からでも判る。
「家紋=血縁と云う論理」に成るのでよく調べると実は一部が異なるのだ。
つまり似せていると云う事だ。
因みに、「片喰紋類」には125紋あり、「州浜紋類」には43紋ある。
三河に関わるこの「3土豪の家紋」はこの中には無く、あるのは渥美半島の田原藩主の本田氏の本田片喰と東三河の酒井氏の酒井片喰での二つであり、恐らくはこの「3土豪」は、二つは「本多片喰系の類似紋類」ともう一つが「酒井片喰系の類似紋類」と云える。
この事で「准家臣扱い」から「松平氏の譜代家臣」になり「大久保氏・本多氏・田原城」と「酒井氏・吉田城」に組み込まれた事に依って、最終は江戸期に「国印状発行」に際し「類似紋を使う事」を許可されたと考えられる。
尚、「州浜紋」はそもそも「秀郷一門」に従って陸奥から来た血縁を受けた「常陸小田氏系の家紋」と成っている。
鎌倉期に秀郷一門の勢力の西への伸長にともない「関東屋形」として三河域に一部の「支流子孫・卑属」を遺したものである。
江戸期の「戸田氏の家紋」は「国印状発行」で正式に決めた家紋は「六曜紋」で、「牧野氏」は「丸に三柏」と成っているが、室町期の家紋は上記の類似紋であった。
そうすると、この「本多氏と酒井氏」が「片喰州浜紋類」を使った事で「秀郷流一門への憧れ」を持っていた事に成り、その中でもこの「家紋類の傾向」としては「伊勢秀郷流青木氏と伊勢藤氏」の方が「関係性・憧れ」は高いと云う事に成るだろう。
この上記の事から、矢張り、「3土豪の本家筋」は「資料の読み取り」の通り「秀郷一門への背景」を強く意識していた事は否定できない。
この様な「資料」に基づけば何気なく読むと気が着かないが「文章の行」を注意深く読み解くと、“この時にこんな表現は使わないだろう”として観れば、故に、“憧れの様なもの”以上のものが強くあった事が伺える。
だとすると、この件で観ると、寧ろ、「土豪等の利害の考え方」が「本家筋」と「分家筋」の考え方が事に成り、「分家筋」に執っては“「抜け出す」”と云うよりは「秀郷流青木氏の背景」の持つ「伊川津青木氏四家の中」の“「保護下」”に入っていた方が得策であると考えたのであろう。
現実に、これがどのような経過であったかは確定はできないが、「下記の注釈」から「本家筋」は「松平氏の保護下に入って行った事」は判る。
この様に「伊川津青木氏」には「党」を形成する上で「以外な悩み」があった事に成る。
故に、「伊勢と蒲郡」は「陸運業」を立ち上げる時に、後々問題に成る事であったのでこの一点も気にしたのでは無いか。
現実に、前段でも論じたが「額田青木氏の南下国衆の指揮」を執った「伊勢秀郷流青木氏」は「岡崎」から「開発業」を手広く始めている。
これは「秀郷流一門の背景」が色濃く出て来た証拠でもある。
分家筋は「読み」の通り相当に「低禄の本家筋・准家臣扱い」より潤った事を意味する。
要するに、拒絶されずに「伊勢秀郷流青木氏が住む世界・地域」の地盤がこの三河にも「広げられる地盤」があった事に成る。
「秀郷一門」は平安期から鎌倉期を経て室町期中期頃まではより良い執政を敷いていた事に成ろうし、取り分け「永嶋氏」は貢献したのであろう。
「永嶋氏」は平安期と鎌倉期に四国徳島と淡路にも「片喰州浜の多くの子孫」を遺したのだ。
これが江戸期まで続いたと云う事なのだ。
そこで「牧野氏の出自説」には大まかには二説あり、共に四国で「阿波説」と「讃岐説」に基づいているが、「牧野の姓」の論処は、四国での「牧野・イ」と三河の「牧野・ロ」に分かれていて、前者は「室町期・応仁の乱」、後者は「鎌倉期・承久の乱」の事に成っている。
「前者・イ」は「讃岐」から出て来て「乱の功績」に基づかず「三河牧野村」に根付いたとする説であるので、元は「牧野」では無かった事に成る。
「後者・ロ」は「阿波」から出て来て「乱の功績」で三河宝飯郡の「牧野村の地頭」と成って「牧野の姓」を名乗ったとしているので、元は「牧野」では無かった事に成る。
何れも「牧野氏」では無かった事に成り、違いは「讃岐」と「阿波」の違い差にある。
「二つの姓」から「元の姓」が明確に成っていない事と、「武士」であったとすれば「家紋」を持つ事から、この「家紋」が明確に成っていないので、当時の殆どの「農民の立身出世」が起こった時期の「農民」であったと観られる。
「讃岐」か「阿波」かであるが、筆者は、豊橋に讃岐神社を造っている事から「讃岐」から一度「三河」に入つた国衆団であったと考えている。
「後者・ロ」は余りにも「史実」に合わせて矛盾なくしての後勘で「出自系」で造り上げていて、現実にこの様に上手く行かないし、上手く行けば「不毛の伊川津」には流れ着かないであろう。
間違いなく江戸期に成ってからの「後付け」であろう。
筆者の説は「前者のイ」であり、「姓の出自」は「農民」であり、三河の「牧野村の庄屋牧野氏」を「何らかの形」、即ち、当時横行した「血縁か奪剥」で名乗ったものであろう。
「農民の立身出世」で「応仁の乱時」の乱世の「流れ者説」を採っている。
因みに、公然としてその出自を公表している「当時の状況」を物語る有名な「土佐藩主の山内氏」も同然である。
「家紋」を観ても四国には無い「三柏紋」は可笑しいし、20に近い一族の家紋がそもそも統一されていないし、この一族の中には「前者・イ」を元としているものもある。
又、「三柏紋類系」には無いものもあり、且つ、「家紋200選」にも無いのだ。
明らかに「国印状発行と系譜」には何が何でも定めなければならないもので、そうでなければ「国印状」は出ず「武士」には成れない。
この「牧野氏」等は「新撰姓氏禄の諡号」の族系には無く、依ってその発祥は阿波の「農民であった事」に成る。
前段でも論じたが「後者・ロ」の現地は「四国」を東西に分けて、東に「秀郷流一門と藤原利仁流一門とその青木氏」、西は「讃岐青木氏と讃岐藤氏の定住地」である。
少なくとも其処の民であったのであろう。
それ故に、「秀郷一門に対する憧れ」が根底にあった筈である。
そこで念の為に、仮に秀郷一門に血縁的に関わっていれば「主要八氏」であれば、「361氏の家紋類」と、「青木氏」であれば「116氏の家紋類」が、「一定の規則」で江戸期の墓所に刻まれている筈である。
現実に「現地調査の問題1」では、江戸期前後のものと考えられる「墓所」を確認した。
「明治期の墓所」は、「苗字令・督促令」に依って掟が護られなくなったので、信用は出来ないし墓石も違うので容易に取捨選択できる。
それによれば「片喰・州浜の家紋類」の江戸初期頃の物と思われる「青木氏の墓紋」が確かに刻まれてはいるが、然し、完全な秀郷一門のものではない様だ。
流石に、この「美濃の一色の西域にある墓所」では、最早、「三野王族の(a)族」は滅亡して「笹竜胆紋」は無い。
「伊川津の青木氏」と名乗る以上は「(a-2)の族」の一部が、「(a-1)」と「尊属血縁性」を持ち「青木氏の掟」に依り「女系」で「青木氏」を興して名乗った事に成る。
従って、「尊属」であれば「笹竜胆紋」となるし、「女系」に依って「姓・卑属」を出さない掟である事から、伊川津では「賜紋の神紋の柏紋」以外には無い筈である。
結果は「伊川津の墓所」では、歴史的経緯から「古来の古跡神明社」を頼って移住した事もあって、「神明社の柏紋類」が殆どである。
つまり、「額田の一色」では「笹竜胆紋」の象徴の下で、「a-1族の裔」は兎も角も、「a-2の裔族」は敢えて「家紋」を「象徴紋」だけとして定め別に持つ事をしなかった事に成る。
然し、「南下国衆」として「a-1の裔系の蒲郡青木氏」と離れ「伊川津域」に移動し「伊川津四家・a-2」を構築した以上は、所縁の「賜紋の神紋の柏紋」を使う事には同じ伊勢の裔系である以上は何ら問題は無いし、奈良期の元から定住していた「伊勢の神職」との血縁も「四掟」から考えても興っていると考えられる。
次は「現地検証の問題2」は、「伊川津青木氏四家・a-2」に付き従った「bとcの官僚族」の墓所が「田原市加治町」に「真宗寺・匿名」としてある。
此処には、「18の真宗寺」があって、その内の二つと観られる。
この寺から真南1kの所に「真宗西光寺」があり、況や「秀郷流青木氏の所縁」の繋がりを物語っているが、恐らくは、この「二つの真宗寺」に江戸期前までは「彼等の菩提寺」として分散していたと考えられる。
美濃の「bとcの官僚族・諸蕃諡号雑姓・第1の姓族」に位置する族の「家紋」には、「過去のある特徴」があって「最大48種」の「草に関わる紋様と色」から出来ていて、これを基に最初は「家紋」と云うよりは「位階身分の判別紋」として扱われ次第にそれが「家紋」と成って行った。
この判別から「諡号では無い第二の姓族」と違って、「諡号を持つbとcの官僚族・諸蕃雑姓・第1の姓族・440族」にはこの“「判別紋」”を持っていたのである。
これを格を細かくは、「12類族」に分類でき、「大まかな格」には「8類族」に分けられ、「計20類族の格」でこの「分析」から確認できるのだ。
全体では「440の判別紋」がある。
これは「血縁性」に関わらず「位階身分格式」に依って分けられている。
念の為に「諡号」に含まない要するに「第二の姓族」にはこれは無い。
「伊川津青木氏四家」の近隣にこの「美濃の官僚族」であった「彼等の新たな菩提寺」は2寺存在するのだ。
奈良期では「五都計画」の一つであった事から「低位の官僚族」ではあるが、判別から観れば「中位下の判別紋」に成ろう。
中位格式以上は都に帰る事に成っていた。
この判別に含む家紋が刻まれているので確認できる。
この「現地検証の問題3」では、「上記の類似紋」が実に多いのだが、先ずは「3土豪の姓族の本家筋の家紋」にあるが、「伊勢の裔系の家紋」は元より「秀郷流青木氏の家紋類」には無く、仮にあっても墓石も江戸期前後の慣習のものと違っているので、明治以降のものであって俄かに信じ難い。
墓所の家紋から「片喰州浜紋の秀郷流一門」とは正式に明確に混じっていない事が判る。)

「青木氏の伝統 58」-「青木氏の歴史観-31」に続く。
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「青木氏の伝統 56-4」-「青木氏の歴史観-29-4」

「青木氏の伝統 56-3」-「青木氏の歴史観-29-3」の末尾
>
> (注釈 「紀州雑賀忍者と伊勢伊賀忍者」
> この「左右の忍者衆」による「勢力争い」が無かったのかである。
> 上記の注釈の通り、「紀州雑賀忍者・紀州藩」が「紀の川の紀北域・伊勢神宮の最後の遷宮社の日前宮社の宮前地区・南地区・中地区の郷」に居て、「紀伊山脈」を境にして伊勢側の全く「反対の位置・100k・北東30度」に「伊勢伊賀忍者・幕府」が居たのだ。
> つまり、「紀伊山脈北部域の山陵」を隔てて左右に「忍者勢力」が活躍していた事に成る。
> そして、「紀伊山脈の南部域」には「平家の原士衆」が勢力圏としていた事に成る。
> この「南部域の左・西域」は「紀州藩」が抑え、「北部域の左・西域」も「紀州藩」が抑えていた事に成る。
> 右域は「伊勢伊賀忍者・幕府」であった。
> そして、前段でも論じた様に「伊勢青木氏」は古来よりこの「伊賀との関係」を深く持っていた。
> 更に、これも前段で論じた様に、「京平家の落人」は「桓武平家」であり、「伊勢青木氏との関係」を古来より持っていた。
> 「伊賀」は、この「桓武平家の里・桓武天皇の母・光仁天皇の妃高野新笠の里」である。
> だから、「紀伊山脈南部域」に住んでいた「平家落人の郷士衆」は「北部伊賀衆」との「繋がり・絆」もあったのだ。
> 江戸初期の殖産には大いに貢献した。
> それ故に、「江戸期前の紀伊半島」も「江戸期の紀伊半島」も「京平家の落人」を基軸として「繋がり」を持っていて、一声出せば「彼等の三つ衆」の「郷士衆・忍者衆・原士衆」は「伊勢シンジケート」して動いたのである。
> 要するに、北部の左に「雑賀」、右に「伊賀」、南部の左に「平家落人郷士」、右には「伊勢郷士」、そして最南端は「熊野六宮司勢力」で「惣国」を固めていたのだ。
> それには、この「五つの惣国衆」を固めていたのは、矢張り、「伊勢青木氏の財政的支援」があったのだ。
> 前段でも論じた様に、故に、「近江職人を匿った事」は当然の事して、「京平家の落人の支援」や「信長の伊賀攻めの救出」や「紀州門徒衆を匿った事」や、最後は「明治初期に掛けての伊勢騒動を支援した事」等を挙げれば暇がない位である。
> 「紀伊半島」は全てこの「五つの何らかの絆」で繋がっていたのだ。)
>
> 詳細の検証は更に次段に続く。
>


「青木氏の伝統 56-4」-「青木氏の歴史観-29-4」

「前段56-3」で「注釈」が多く続いて「歴史の経緯」は敢えて前後しているが基に戻す。
前段で「側面的な詳細論・経緯」があって本論で論じ切れないのでその部分の詳細に付いて明らかにする「不詳文の事」にある。
そこで先ず、「国衆」としての「準備期間(前期 後期)」の事である。
前期の事は前段でも論じたが、その「後半の事」である。

(注釈 「国衆南下の後半」
改めて「源平の戦いの石橋山」で潰されてから「三野王の裔の(aの族)」とその裔の「(a-1の一部)」は滅亡した。
長い間潜んでいた「加茂・木曽の信濃シンジケート(信濃シンジケート)」の「美濃の青木氏の「浄橋・飽波」の「末裔(a-1)と(a-2)」の「一部・伊勢の裔系の集団」と、その血縁関係を持っていた「伊勢の裔系・美濃の者等(a-2)」と、それに追随した「官僚族等(bとc)・原士」等を集めた「血縁族集団」と、この「二つの集団」を「額田を拠点」に形成していた。
所謂、これが国衆南下の「後半の準備期間」であって、これが「美濃額田の所縁集団」の事であった。
そして、「渥美湾」を「額田」と「伊川津」で縦に結ぶ“「直線勢力圏・縦の陸路」”を「伊勢青木氏と額田青木氏の背景」で、「超近代的な武力集団・銃」として徐々に構築して支配しようとして「計画」を進めていた。
そこで、「下準備・前期」を終えてからの「室町期の末期」と成ってからは、上記した「美濃額田の所縁集団」の「二つの集団・国衆」を「額田一色」に一同に呼び寄せる機会を伺いこれを実行した。
要するに、これが350年間の「歴史的な集結」であった。
取り分け、危険な「下剋上と戦乱の様子」の中を伺っていたのである。
これを資料から観ると、この時、ここが後期の「周囲の土豪」や「小国衆」との「小競り合い」の「予備戦」があった地域であった。
この戦略は、「周囲の勢力」を全体的に抑え込むのでは無く、「幅の狭い縦の陸路」の“「直線的な勢力圏の構築」”に限定していたのであった。
ここには、当時にあったこの付近には、土豪等が抑える近道の“「商業通路」”の様な「自由な通行券・注釈」の様な「山稜の道」があったらしい。
これは「一般道」では無く、「一定の物資輸送」や「兵の移動路」の様な「土豪」が抑えて安全を保障する「商業道の物・近道」であったらしい。
三河の海から美濃を通じて信濃に通ずる“「商業通路」”であった。
「記録」に依れば、前段でも論じて来た様に、その「美濃の国衆」の中では「経済力」と「戦力差」に依って「戦い」にはそもそも成らなかったのではないかと観られる。
寧ろ、「党の様な軽い連合体の様な形」で「合力を申し合わせていた事」が書かれている。
彼らの「額田青木氏の国衆」は、元々、「別の面」での「美濃と信濃路間」の「一種のシンジケート・党」であった。
その近くにいた「周囲の土豪」や「小国衆」はこの事に付いて充分に知っていたらしい。
何せ元々、「原士」として活躍し武装している「美濃の額田の所縁集団」の「二つの集団・国衆」であった。
この「額田の青木氏の国衆」には、背後には「伊勢と信濃の青木氏抑止力」と「秀郷流青木氏の青木氏族」を控えているのだ。
従って、この事を知っていたこの「商業通路」の「土豪集団等」は戦わなかった。
寧ろ、彼らに執っては近づいていた方が全ての面で利得であった。
依って、比較的に簡単に東三河の山際にあったこの「商業道路の縦の陸路1」は構築出来た事が判っている。
もし、構築するのに戦い等で苦労していれば何らかの形で「青木氏の資料」に記録されている筈であるが何も発見されない。
明らかに「記録の通り」である事が判る。)

(注釈 「「商業通路の検証」
現在でも「北陸道」に沿って弘前から新潟を経由して富山まで「本道」とは別に「商業道」としての古路が遺されている。
これには実は面白い実話がある。
前段でも論じた様に、室町時代に「秀吉」は奥州結城氏・永嶋氏等の北陸勢を攻めた時、これを護るために「背後」を「伊勢の秀郷流青木氏」が「結城永嶋氏」と協力しながら追尾した事が記録に遺っている。
この時、「秀吉側」は家臣の多くを戦死させ無理攻めをして早く片付けようとしてが間に合わず、慌てて「北陸道本道」を通ると周囲から攻められるし、「食料不足の危険」から密かにこの「商業道」を使って何とか大阪に逃げ延びたとする実話の記録が遺されている。
この様に、この頃、“「商業道」”と成るものが周囲の土豪衆に依って密かに造られていたのである。
この「商業道」には常に「シンジケート」が抑えていた「専門道」であって、“「利権・通行料」”さえを払えば通れるのである。
この様な商業道は各地にあって土豪等に依って抑えられていたし、「通行料」を払う事で安全に使用できたのだ。
この様な「避難道」の様な当に探訪によれば要するに“「野道」”であった。
この「縦の陸路1」の「探訪の印象」では、矢張り「山際の農道」である事から、「田の周囲」から攻められても直ぐに迎撃対応でき、「山からの攻撃」には「山岳側面防御」で護れる。
後は元住んでいた「山間部・R152・Rは2ルートあった様だ」から「伊那・茅野・信濃」までは「活動の地元」であったから問題は無いと観察できた。
そこに「美濃の額田青木氏の銃」があれば問題は全く無い。
ところが、この「予備戦の途中」でこの問題は起こったのだ。
それは「織田勢力」に依って益々“「神明社の破壊」”が起こり、「伊勢」を含む「近江」でも関西の各地でも起こった。
「神明社」を含む「宗教勢力の排除」が各地で徹底して開始された。
そこで「伊勢」は決断したのである。
これで、「幅の狭い縦の陸路1」の“「直線勢力圏の構築」が急務であって、「商業通路」の「利権を持つ東三河の土豪連」は「信長方」に付かなかった為に、何とか「命綱」は「伊勢湾と渥美湾間」の「船の航路」にして、兎も角も、「縦の陸路1」で再び「信濃間ルーツ」を再構築できた。
後は資料に依れば、「銃の護衛」を着ければ「東三河の山際」の「商業通路」は信濃―三河間は通れたらしい。
確かに「神明社の陸の情報網」は消されたが「南の渥美湾」に到達できる様に成ったのだ。
元の「一色域」に近い「額田・端浪」には「美濃の所縁集団・二つの集団・南下国衆」を終結させ、「額田青木氏とその一党」として結成させた。
美濃国衆に留まらずに「南下する為の国衆の結成」であった。
そして、この「額田青木氏・蒲郡青木氏」の中で「伊勢の裔系のa-2」と「血縁性を持つ官僚集団」を渥美半島に差し向けた。
そして「伊川津青木氏・吉田青木氏等の四家」として「渥美湾」に再興を成し遂げたのだ。
「渥美」には、経緯としてはそもそも、「情報網の元」と成っていた「奈良期の古来より神明社」があり、伊勢より「柏紋の神職青木氏」を派遣して定住していたが、ここに相当早期に先ず「額田青木氏等」の「国衆の家族」を移し、その後に「国衆」が移動した事に成ったのだ。
然し、国衆として南下して観ると、この「二つの美濃族の勢力」、つまり、「額田青木氏」と「伊川津青木氏の四家」とには違う事が起こった。
この事もあって、「一つの勢力」としてまとめる事に努力しなければならなかった事が判ったのだ。
この事が記されている。
そこには明らかに次の事が違っていたとある。
この“「額田青木氏・蒲郡青木氏」”は、つまり「加茂木曽の山間部」に逃げ込んだ「元美濃族系」の「伊勢青木氏の裔系族・「(a-1)と(a-2)の一部の族」である。
ところが、二つ記されている資料からの観ると、「額田青木氏」とその後の「蒲郡青木氏」との違いには、次の「二つの説」が有って記録的にははっきりしないが、然し乍ら、筆者は、その一説の前記でも論じた様に、後で東三河の端の「商業通路」では無く、「額田」から「蒲郡」に「縦」に「ルート2」を新たに作って南下して「統一して国衆」として定住したものであると考えている。
筆者はこれを「縦の陸路2」と呼んでいる。
つまり、「東三河の商業道の縦の陸路1」と「額田から蒲郡までの縦の陸路2」があった事に成る。
この「縦の陸路2」は「商業道」では無かったらしい。
要するに、この「二つの縦の陸路」のこの「期間差」がどの程度であったかである。
この「信濃の青木村」から塩尻を経由し、縦の「ルート2上」には直線状に「青木村」もあり「神明社」もあり「清光院」もあり現在もある。
この歴史を調べれば判るが、先ずこの「神明社」は奈良期からである。
この「縦の陸路2」の「神明社」には「古来の神明社の構え」が遺されているのだ。
この「神明社」が奈良期頃に存在したとすれば、「古跡の田原の神明社」と同様に「神職」が定住していた事から、同時期に近いと考えられる。
青木の地名も遺され、現在も岡崎に村もあるのだ。
何故ならば、この「神明社」には「古来の慣習」が遺されていて、「神明社の廻りの六方向」に「山神社」が「子神」として祭司されていて、現在は二方向と成って遺されている。
この事から、「神明社」と「青木」は証拠として確定できる。
然し、「清光院」は「浄橋と飽波後の時代」と成る為に、同時期とは確定できないが、「平安期末期か鎌倉期」である事には間違いはない。
相当な前から住んでいた事に成る。
何故、「蒲郡」かに付いては何も物語るものはないが、何か考えられるとしたら「伊勢水軍の泊」か「伊勢屋の事務所」の様なものが考えられるが判らない。
「蒲郡」の「桑名と伊川津の距離的な事」や「岡崎市の青木町の直線的距離的な事」かであるが、近くに「蒲郡の近隣2社の神明社」があり、「青木町の神明社」との「繋がり」を考えれば何も無かったとは考え難い。
少なくとも、「伊勢の柏紋の神職」が奈良期からここに定住していた筈である。
そうすると、この状況からも同時に移動したのでは無く、論理的にはこの「二か所」に向かって別々に「渥美の伊川津青木氏・四家」の一団は東三河の山際の「商業通路1」を通じて移動していた事に成る。
そして、「縦の陸路2」の方は「額田青木氏」が移動し、依って、この「蒲郡に移動した事」に成ったのだ。
「縦の陸路2」の「岡崎の青木村」に定住しなかったかは恐らくは初期の目的は「渥美湾の制海権」の確保にあった事から「蒲郡」としたと成るだろう。
その証拠に、「蒲郡」はこの「縦の陸路2の岡崎の青木村」とは直線で当に寸分も違わない「真北」に位置するのだ。
そして、ここは古来より「石切り場の運び出し港」なのである。
故に、此処を伊勢水軍の大船が入る事が出来る「伊勢と伊川津と信濃との連絡事務所」として選んだのだ。
さて、この前提で、その後の「裔系の統一」が次の様であった。
そうする事で、「蒲郡の青木氏」を「主家」として、「伊川津青木氏・四家」を支配下に置く形態を執ったと観ている。
前者が「a-1族」で「額田端浪一色に居た主家」で、「浄橋と飽波の直系の裔系」とした。
後者が「前者の血縁族の裔系」の「a-2族」とした。
前者と後者に当時、「美濃の官僚族」であった「bとc族」が配置された。
この「bとc族」には「300年」と云う長い間に「家紋」から観て「血縁性」が一部に認められる。
従って、この「美濃の官僚族」であった「bとc族」は、この「血縁性と縁故の絆・源氏化」に依って滅亡した「三野王系・a」との二つに分かれたのだ。
そして、「後者の青木氏」にはその「血縁の系類」に合わせて「渥美の四家青木氏」を構築させた。
これには「伊勢」からの「指示成り発言」があったと考えられる。
以上と成る。
そうでなければ「後の史実」とは「時系列」で一致しないのだ。)

(注釈 「伊川津青木氏四家のその後」
其の後に、「美濃の南下国衆の二氏:(額田青木氏の蒲郡青木氏・指揮)」と「(伊川津青木氏の吉田青木氏等の四家)」には、「松平氏」と共に「国衆」として参加して共に戦う事に成ったのだ。
然し、「準備期間の後期」の「予備戦」と観られる「初戦」が「第一次の吉田城の戦い」であって、ここから「国衆」が開始されたとされる。
これ以外に「定住地の吉田」が「武田軍」に攻められると云う理由が他に見つからない。
「三野王」に多少の所縁が、「額田青木氏・蒲郡青木氏」には少なくとも在ったとしても、取り分け、「伊川津青木氏四家の吉田青木氏等」にはそれが薄い筈である。
何れも奈良期に繋がる「青木氏」であるとしても、「350年の間」には「青木氏としての違い」は起こっている筈である。
その結果がここに出たのである。
それを物語る記録があって、この事から、一つは、「室町期末期」には「額田青木氏の蒲郡青木氏」の一部が“危なく成った桑名”を護る為にも「三河」から「桑名」に向かったとする記録がある。
その二つは、先ず「蒲郡青木氏」は「松平国衆」から離れたとあり、続いて、「伊川津青木氏四家」も離れた形の行の表現と成っている。
どうも同時に、これに依ると「三方ヶ原の戦い後」に直ちに一斉に離れた様では無かったらしい。
「多少のタイムラグA」があったと観える。
その「タイムラグA」は、「地元3土豪・国衆・四国」との間には「伊川津七党の絆の問題」があった事から、この「タイムラグA」はこの「時間差」によるものでは無いかと観ている。
つまり「3土豪間の絆」をどう処理するかであったろう。
この「時間差」はどれ位かは判らないが、そもそも「青木氏」の中では「伊勢の指揮の許・蒲郡青木氏」の中で決まるが、「地元土豪・3氏の間の説得」をどうするか「話し合いの時間差」が必要であったか、「蒲郡青木氏」が行う「陸運業の体制固めの時間差」なのかは判らない。
「蒲郡青木氏」には、「松平氏や土豪との絆」は全く無かった事からそうすると「伊川津七党の関係」の「解決待ちの時間差」であった筈である。
この「3土豪の戦い後の状況」から鑑みて、「土豪間の話し合い・本家と分家の路線問題」に決着が着かなかった事が「行」から読み取れる。
「資料の深読み込み」から「筆者の印象」では、“二つあった”のではと観ている。
それは、一つは「伊川津の土豪・4氏」を陸運業に引き入れる事の賛否、二つは「bとc族の引き入れる事の賛否」にあって、「蒲郡青木氏からの異論」があったと観ている。
それは「伊川津の地元土豪」は前段でも論じた様に「4氏」である。
結成当初の初期は「6土豪」であったが抜けて行って「4土豪」に成り、最後は「3土豪」と成った。
然し、参加しているのは「3氏/4」であるからだ。
“1氏が離れたと云う事・西郷氏・武蔵国衆”に成る。
恐らくは、この「1氏」は資料に全く出て来ない「西郷氏」であったと観られる。
この「西郷氏」とには「戦い」にも参加しなかった事が判るが、「国衆の中」で何かあったと考えられるが判らない。
これの「話し合い」に時間が掛かったのであろう。
結果として、「青木氏側」から観て観ると、この「話し合い」に最初に出された「蒲郡青木氏の二つの意見」は引き下げられた事に成っている。
「青木氏だけの陸運業」と「七党の解消と早期決着」であった事は判っている。
「土豪3氏の国衆の本家」は「松平氏の准家臣扱い」と成った。
この事から、この関係を陸運業の中に持ち込む事を嫌ったのだ。
だから、「武士を捨てた分家筋が加わる事」に成って引き下げたと成ったと考えられる。)

(注釈 「七党の脱党の西郷氏」
「伊川津七党」から逸早く抜けた事に成る「西郷氏」は、鎌倉幕府の相模の低い官吏族の一つで、室町期に入り後に勢力を伸ばし相模から各地の国衆として流れ、一部が「三河の伊川津」に入った族である。
又、鎌倉期末期にはその一部はその主家と共に南九州に流れたとされている。
これが「鹿児島」で「勢力」を持っていた「薩摩の土豪・島津氏」の家臣として仕えて、その後、前段でも論じたが、「島津氏は次第に勢力」を持ち「南九州」を制していた「日向肝付氏」と戦い、更に次第に勢力を伸ばし、最終は肝付氏に一国を与え血縁して家老に迎えて決着を着けた「島津氏」である。
この中に「相模の西郷氏の末裔」が家臣として入り込み居たのである。
要するに、何故に「不毛の地」の「伊川津」に入り込んだかは判らないが、この「国衆」の一族である。
筆者は、ここから「世間の動き」を観ていたのでは無いかと考えていて、故に、「武田の動き」の活発さから「伊川津」を出たのでは無いかと考えられる。
「伊川津」から何処へ入ったかは判らない。
それは「国衆」をより良い条件で受け入れてくれる所に流れたと考えられ、そうなれば、当時、勢力を大きくさせる為に「国衆」を受け入れていたのは「伊川津の西の今川氏」の「東三河」と成ろう。
然し、この「東三河」から出て尾張全域を攻めた「今川氏・1560年」も織田信長に依って潰された。
恐らくは、この時に「伊川津の西郷国衆一族」は滅びたと観られる。
況や、「伊川津七党の3土豪の国衆」は、非弱な三河は尾張と今川の中間に居て、未だそんなに長い間の国衆では無かったし、土地も不毛であって、「国衆としての特典」は固着する程に無かった筈である。
恐らくは、「別の目的」で南下移動してきた「美濃の国衆の青木氏」とは違って「他の3土豪」も境遇は「西郷氏」と同じでは無かったかと考えられる。
然し、「今川」が潰れた後は「三河松平氏」はその流れの中にあるこの「3土豪」に何とか「伊川津」に留め置く為にも“「准家臣扱い・大久保氏」”をしたと云う経緯の事に成るのであろう。
それが前段の論の経緯を経て、そして、答えから先に説いて置くと、全てが「准家臣扱い」に納得するかは何時の世も同じで、その「経緯」から嫌って逃れた者等と「伊川津青木氏四家」の両者も一つと成って「陸運業」を始めたと云う事に成ったのだ。
だから、「二つの条件」を下げて「伊勢・蒲郡」は納得をしたのである。
これは歴史的に「氏是や慣習仕来り掟」から観て珍しい事であったが、納得をしたのである。
以後、明治期まで全く問題は起こらなかったのだ。
寧ろ、明治35年の松阪の伊勢屋の失火倒産解体時の少し後の時期に、この3つの内の二つの土豪分家は独立して「陸運業」を営んでいるのだ。
その「過去のシンジケートの繋がり」と「国衆の銃の武力」を使って「江戸期の初期」には「大陸運業」に成ったとあり、上記の様に現在も続いている。
「伊勢と信濃と伊豆の商い」を「陸」から支えたとある。
遡れば「江戸初期」は未だ「陸運」は何処でも未だ盗賊山賊等で危険であって、各地には「盗賊や山賊や海賊」が散在していが、ところが「彼らの力」に逆らう「盗賊や山賊や海賊」の輩は無かったらしい。
それは「シンジケートの横の繋がり」と「国衆の銃の武力」であって、何はともあれ「伊川津四家の青木氏の陸運」は元は「美濃忍者の原士」でもあった。
それだけに“仲間に入れて貰う”と云うのは在っても襲う馬鹿は居ないだろう。
故を以てか、益々、「組織」は大きく成っていたとしている。
これには記録があって、伊川津の陸運業で勢力圏の宿場まで着いたが、そこで差配頭が宿で次の宿場までの安全の為の密かな話し合いをしていたとあり、この様な形で北陸までの経路を造り上げていたらしい。
その事に依るのか「伊勢青木氏の資料と商記録添書」を総合的に読み解くと、「三河」より東が「吉田青木氏等四家」、三河より西が「蒲郡青木氏」の領域として故意的かは判らないが分けられていた様である。
ところが、江戸期に入ると、これが“二つに成った”とあるのだ。
“二つにしたのか二つに分裂したのか”は判らないが、これも読み解くと、「昔の慣習」から上手く「割墨」をしていた事も観えて来る。
つまり、この事から意味する処は、「巨大化した事」に依り「効率化を図る為」に、「西と東の陸運業」にした考えられる。
つまり、今で云うファンドのグループ化であろう。
ここで、「上記の先答え」から次の「二つの疑問」が湧く。
前段でも論じた事ではあるが、次の様に成る。
「一つ目」は、何故に「蒲郡青木氏」の一部が、“危なく成った桑名”を護る為に「三河」から「桑名」に向かったのかであり、そして、その後どうしたのかである。
「二つ目」は、何故に「蒲郡青木氏」は、三方ヶ原後に「松平国衆」から離れたが「吉田青木氏等」も離れたのかである。
この「二つの疑問」を解決していない。
実は上記の「疑問の答えの記録」が遺っているのだ。
「一つ目」は、「美濃額田の蒲郡青木氏」は、前段でも、且つ、上記でも論じた様に「桑名の額田」に「出自元」として大きく強く関わっていたからである。
つまり、奈良期の「桑名殿の孫」の「美濃の額田の裔系の祖」の「浄橋と飽波」である。
つまり、「彼らの血筋」には「伊勢」のこの母の「二人の流れ」が強くあって、それが「記憶」「伝統」から「母方始祖」としていた「意識」が強く持ち得て在ったという事である。
「男系の祖」の「三野王の所縁」と云うよりは、「伊勢の所縁・女系」の方が強く在ったのであって、故に、「一色」を地名として名残を遺した事なのである。
元より、奈良期末期から「妻嫁制度に依る女系氏族」として「青木氏族」は「四家」を構成していた。
「蒲郡青木氏」の「一部」は、その為に“伊勢を護るために帰った”という事に成る。
其の後は、彼らは「掟」に依り「桑名殿の四家の家人」と成った事に成っている。
其の後の伝承では、この“「家人の立場」”で、密かに「江戸期初期の神明社引き渡し」を拒み、依然として荒廃した後の「元の位置」に密かに“「祠」”を遺して「桑名殿一族と氏族」で昭和期まで祭司していた事が記載されているし、「氏人」に依って現在も祭司されているのだ。
そもそも「青木氏族」には、“「家人の立場」”には、幾つかあるが「額田の裔としての立場」を利用してか、「家人の立場」を利用してかは判らないが、「幕府の目」を欺いていた事は確実である。
江戸期は「殖産の関係」からも「家康のお定め書」からも「多くの事」は黙認されていて、この事も「紀州藩の黙認」があったと口伝で聞いている。
「一つ目」は、何れにしても「伊勢桑名の裔系」で「家内の掟の範囲」による「掟の事」に過ぎないのである。
「二つ目」は、前段でも論じている「青木氏格式の国衆の立場」と「松平氏の旗本との嫉妬怨嗟の軋轢」であった事が書かれている。
後に述べるが、「第一次吉田城の戦い」「一言坂の戦い・偵察隊」「二俣城の戦い」から「三方ヶ原の戦い」にこの「旗本との嫉妬怨嗟の軋轢」が諸に表に出ていて、記録にも明確に遺つている。
その為にも「蒲郡」から一部が引き上げて、残りの者で「事務所程度の存在」としていた事も判っている。
要するに経緯としては「伊川津の青木氏」は「伊勢青木氏の初期の目的達成」が成され、「伊勢屋の商いの延長」として「陸運業」と成った事で、「蒲郡」と連絡を取りながら「商い」を続けたのだ。
そして、「伊豆までの生命線」を「陸と船」で復元したのだ。)

(注釈 「二つの縦の陸路の創設」
では、先ず前段でも論じたがはっきり云える事は、上記の「元美濃の額田と伊川津の二氏」は「伊勢と信濃青木氏の要請・経済的支援」と共に、「伊勢秀郷流青木氏の背景」の“保護下にも入っていた”と云う事である。
注釈すべきは、「1510年~1570年」まで続いた「小峰氏と白川結城氏」の「一族内紛」に乗じて「信長・秀吉」が動き、最終は「秀吉」に依る「1590年の奥州仕置き」で事を治めた。
この時に、「伊勢秀郷流青木氏・梵純・試作銃保持」が「背後」を突いて「白川結城氏の裔」を救い出し「結城永嶋」に連れ戻した事件があった。
この前提で論を進める。
従って、この事から「額田青木氏」だけはその「国衆」としての成った「初期の目的」を果たしている訳であるし、論理的に遺る理由は、元より「三河」そのものに“「国衆」”として遺る理由は何も無かったと云えるのだ。
そもそも、何れも「(a-1)(a-2)の族」であった事に依って、「桑名の浄橋飽波の伊勢の裔系」である以上は、これは「四掟での妻嫁制度に於ける女系」で深く繋がる「伊勢秀郷流青木氏の背景の保護下」に入る事が出来る所以でもあるのだ。
然し、ところが「a-1の裔系」では無く「a-2の裔系」である以上は、「渥美青木氏」と「伊川津青木氏」と「田原青木氏」と「吉田青木氏」の要するに“「渥美四家」”は、“「伊勢桑名」に帰る”と云うその所以は元より薄い。
必然的に「蒲郡の額田青木氏」には、その「初期の目的・縦の陸路1」が一応は達すれば、その「松平氏の保護下」に入る必要性は最早全く無く、「伊勢青木氏の桑名殿の膝下}に先ずは帰る事になるだろう。
つまり、「母系出自元」の「伊勢桑名」の目指すその「初期の目的」が達成されたのであれば、故に、最も早くて“「1560年頃」”に「今川弱体化の頃合い」を観て上記の様に一部が先ずは帰る事にはなるだろう。
だから、「蒲郡青木氏」の一部が「桑名に帰った事」に成っているのだ。
ところが再び、其の後に「陸運業」を興し、先ず「旧領地・一色地域」から縦に「蒲郡」までに直線的に「勢力地・縦の陸路2・南下時の通路」を「独自の商業道」として改めて確実に安全な道として構築し直した事に成ろう。
これが、時系列から観て「三河国衆」に正式に成った「間の無い頃」の「1560年頃~1565年迄」であった事に成る。
これが「東の山際の商業陸路1」の後に成るのだ。
そうすると「東の山際の商業道・縦の陸路1」は元々土豪に依って作り上げられていた「陸路」であり、それを「東三河国衆」として「無許可で使える短絡路」として設定したのであろう。
東からは金銭で造り上げた既存の「商業道・縦の陸路1」を、西からは新たに造り上げた勢力に依る「縦の陸路2・南下進軍路」を少し遅れて設定した事に成る。
これは「信濃との関係を繋ぐ縦の陸路2」であって「当初の目的」の一つであった。
但し、この「縦の陸路2」は、調査に依れば、「伊勢青木氏の神明社の古跡地・岡崎」で、「岡崎と蒲郡」はその「神職定住地」であって、これを改めて強化して繋いだとされているのだ。
「伊川津の田原の古跡神明社」と同じで古跡神明社は田原に定住地は豊橋にあったと同じ様に岡崎の古跡神明社と青木村と蒲郡にも僅かながらの定住地としていた事に成る。
それは「大船」が着く港に奈良期から別に居を構えていた事に成る。
「神明社」のある「岡崎の青木村」も「田原の青木村」も「神職の生活」を支援する伊勢からの港が必要であったと云う事に成る。
故に、その史実を承知していれば「南下後・1560年の頃」に直ぐに出来る仕草であった様だ。
恐らくは、これは当初からの「伊勢の情報と作戦・復元」であったと考えられる。
そして、この旧来からの「二つの縦の陸路の構築」は「国衆の銃と財力の威力」に保障されたものであったろう。
そうすると「初期の目的」が達成されていたのだ。
だとすれば、「1573年」まで「国衆を続ける理由」は、完全では無いが最早無くなっていた筈であるが、然し、其の後も「12年間」も続けた。
これは何故なのか理解しにくい処である。
その一つは、未だ「戦乱」は終わっていなく不安定で何時「二つの陸路」が崩されるかも知れないと云う恐れがあった。
従って、これには「松平氏と織田氏への牽制」にあったのだ。
「縦の陸路2」は、西の「織田氏の勢力圏」の東末端重複部にあった。
「商業道の縦の陸路1」は、東の東三河の「今川氏の勢力圏」の西末端の重複部にあった。
これには、両者に対する牽制として、“「300丁の銃の脅威・抑止力」”を「国衆」として見せ着けて置く必要があったのだ。
そうする事で「戦国の世」の中で「二つの陸路」を維持でき「信濃との連携」が取れている事に成るのだ。
さて、それに就いてであるが、“「300丁の銃の脅威・抑止力」”だけでは済まなかった事が記されている。
それを「裏打ち」するだけのもっと“大きい背景・「秀郷一門の背景」”が必要であってそれには問題があった。
ところが、一方、「伊川津の七党」の彼らには、一応、“「秀郷一門の背景下」には入っている”が、その“「保護下の入り方」”に問題があって完全では無かったのである。
それは「地元の土豪勢力」と「七党を形成した事」もあったのだが、「格式等の立場」の違う彼らには要するに「一つの文句・言い分」があった。
主に「額田青木氏(a-1)と、(a-2)」の中には、「一部の配下」として、「加茂木曽の山間部」に潜み「シンジケート」を形成していて長い間働いていたが、その「原士の元・奈良期から平安期」は、そもそも「低位の官僚族(bとc)」が組み込まれていたのであった。
この事を「地元の土豪勢力」から観れば、この「保護下の入り方」に血縁性も低く間接的に「保護下」にただ入っていただけの事に結果として観えた事に成っていたのであろう。
これを「伊川津四家として見做す事」に不満をもっていた事が「伊勢の資料の行」から読み取れる。
要するに、「土豪3氏」は「低位の官僚族(bとc)」を感覚的に別として捉えていた事に成る。
然し、一方では「伊川津青木氏四家」の中の族として「青木氏側」では捉えていた。
ここに「地元の土豪勢力」との差が出ていた事に成る。
この「感覚差」が“「秀郷一門の背景下」にあって「揺らぎ」が生まれたのだ。
この「行の事」から鑑みれば、「地元の土豪勢力」に執っては、「伊川津青木氏四家」の先には「秀郷一門の背景下」がちらついていた事を意味する。
「伊川津青木氏四家」だけでは信用せずに「伊川津七党」だけで構築していた訳では無く「影の一党・秀郷一門の背景」」を後ろに描いていた事に成る。
何故ならば、「4土豪」の内の「2党」は関東から移動してきた「国衆」であって、「秀郷一門の背景」を事前に充分に承知していた筈である。
そもそも「秀郷一門の背景」は、室町中期までは「伊勢長嶋」まで「関東屋形」として勢力を維持していたが、室町期中期以降は、元の関東に勢力圏は押し戻されたのだ。
桃山時代まで「秀郷一門の背景」は関東域でも未だ厳然として維持していた。
この時期の「伊勢秀郷流青木梵純」の「陸奥の結城氏救い出し」でもその勢力は未だ健在していた事にも成るし、「秀吉」に依って関東に移封された徳川氏が地元の「藤原朝臣」を名乗っていた事でも判る。
「伊勢青木氏の威力」は、飽く迄も「抑止力とその財力」であっても、「4土豪」には「武力の背景の感覚」を強く持ち続けていて、「彼等の感覚」の中には色濃くまだ残っていたのだ。
それ故に、「近代銃」を持っていても未だその「銃の感覚」が強くなく、「軍力に頼る感覚」が勝り「伊川津七党」を組んでも若干心もとないものを持っていた事に成ろう。
この様に「細かい歴史観」としては、「伊勢青木氏の秀郷一門の背景」に「何某かの魅力」を感じていた事に成る。
そもそもこの事は「額田青木氏・蒲郡青木氏」の「南下国衆の指揮官」であった事もあって、無理のない処かも知れない。
更に遡れば、この地域まで「武蔵秀郷流主要五氏」の「青木氏族の永嶋氏の勢力圏」であったのだから「秀郷一門の背景下」を期待するのもこれまた「仕方のない事」かも知れない。
寧ろ、厳しく見れば「格式社会の中」では、「地元土豪」等は時代が進んだ事に依って”「国衆」”と云う力のある誰でもが立身出世できるものが戦乱の世の中に新たに生まれ、彼等から観れば、従って「官僚族(bとc)」を「同格程度の官僚族類」だと観ていた可能性もある。
逆に「元官僚族類」は格式からすれば「新撰姓氏禄」に記載にある様に「諸蕃」に類する「諡号族」である。
「官僚族(bとc)」側は相当に下と観ていただろう。
平安期は彼等土豪は「元官僚族類の支配下」にあった「庶民」であった。
全国的に観れば、「土豪の中」には「元官僚族類」から成った者も居たが、この「渥美半島の室町期後半」の最後まで生き残った「4土豪」の「戸田、牧野、馬場、西郷」はその多くはその出自を遡れば格式とすれば全く下の農民であった。
然し乍ら、狭い不毛の「伊川津」に住む以上は、この「地元4土豪」は、元を質せば、室町期中期では血縁性は別として、一時期は「何らかの永嶋族との関係性」を持った「片喰州浜の永嶋系秀郷一門下」であった事には間違いはないだろう。
ところがこれは「家紋類」にも現れるが、家紋詐称は明治初期にも起こっているが、「江戸初期の国印状発行」の際には、「公然とした虚偽搾取」が多く起こったので「史実」かどうかは判らない。
この事を前提に「伊川津七党」の地元の「片喰州浜系の家紋類系」が多い事からでも判る。
「家紋=血縁と云う論理」に成るのでよく調べると実は一部が異なるのだ。
つまり、似せていると云う事だ。
因みに、片喰紋類には「125紋」あり、州浜紋類には「43紋」もあるのだ。
「三河」に関わる「3土豪の家紋」は、この中には無く、あるのは「渥美半島の田原藩主」の「大久保氏」の片喰紋」と、「東三河の酒井氏」の「酒井片喰紋」での二つであり、恐らくはこの「3土豪」のものは、この二つに類似し「大久保片喰系の類似紋類」と、もう一つが「酒井片喰系の類似紋類」と云える。江戸期初期に合わして類似紋にしたと云うことである。
これは「国印状取得の為の搾取の疑い」は充分にあるが、元よりの土豪族の「本多氏の片喰紋類」もある。
何れも元の「秀郷流一門の家紋類系」の固有のものなのであるのだ。
「准家臣扱い」から「松平氏の譜代家臣」になり「大久保・本多氏・田原城」と「酒井氏・吉田城」に組み込まれた事に依って、最終は江戸期に「国印状発行」に際し系譜搾取の為に「類似紋を使う事」を幕府から暗黙の中で黙認されたと考えられる。
尚、「州浜紋」はそもそも「秀郷一門・青木氏系」に従って「陸奥」から来た血縁を受けた「常陸小田氏系の家紋」と成っている。
鎌倉期に秀郷一門の勢力の「西への伸長」にともない「関東屋形」として「三河域」に一部の「支流子孫・卑属」を史実として遺したものである。
江戸期の「戸田氏の家紋」は「国印状発行」で正式に決めた家紋は「六曜紋」で、「牧野氏」は「丸に三柏」と成っているが、室町期の家紋は上記の類似紋であった。
そうすると、この「本多氏と酒井氏」が「片喰州浜紋類」を使った事で「秀郷流一門への憧れ」を持っていた事に成り、その中でもこの「家紋類の傾向」としては「伊勢秀郷流青木氏と伊勢藤氏」の方が「関係性・憧れ」は高いと云う事に成るだろう。
この上記の事から、矢張り、「3土豪の本家筋」は「資料の読み取り」の通り「秀郷一門への背景」を強く意識していた事は否定できない。
この様な「資料」に基づけば何気なく読むと気が着かないが「文章の行」を注意深く読み解くと、“この時にこんな表現は使わないだろう”として観れば、故に、“憧れの様なもの”以上のものが強くあった事が伺える。
だとすると、この件で観ると、寧ろ、「土豪等の利害の考え方」が「本家筋」と「分家筋」の考え方が異なり、「分家筋」に執っては“「一族から抜け出す」”と云うよりは「秀郷流青木氏の背景」の持つ「伊川津青木氏四家の中」の“「保護下」”に入っていた方が「得策」であると考えていたのであろう。
現実に、これがどのような経過であったかは確定はできないが、「下記の注釈」から「本家筋」は「松平氏の保護下に進んで入って行った事」でも判る。
この様に「伊川津青木氏四家」には「党」を形成する上で「以外な悩み」があった事に成る。
故に、「伊勢と蒲郡」は「陸運業」を立ち上げる時に、後々問題に成る事であったので、この一点も気にしたのでは無いか。
現実に、前段でも論じたが「額田青木氏の南下国衆の指揮」を執った「伊勢秀郷流青木氏」は「岡崎」から「開発業」を手広く始めている。
これはこの「開発業」を受け入れたのは「秀郷流一門の背景」が地元に色濃く出て来た証拠でもある。
ところが「分家筋」は「読み」の通り相当に後に「低禄の本家筋・准家臣扱い」より潤った事を意味する。
要するに、拒絶されずに「伊勢秀郷流青木氏が住む世界・地域」の地盤がこの三河域にも「広げられる地盤」があった事に成る。
「秀郷一門」は平安期から鎌倉期を経て室町期中期頃まではより良い執政を敷いていた事に成ろうし、取り分け「永嶋氏」は「関東屋形」としてリードし一門に貢献したのである。
「永嶋氏」は四国の徳島と淡路にも「片喰州浜の多くの子孫」を遺したのだ。
これが江戸期まで続いたと云う事なのだ。
そこで,例として挙げると「牧野氏の出自説」には、大まかには二説あり、共に共通点は四国で「阿波説」と「讃岐説」に基づいている。
然し、「牧野の姓」の論処は、四国での「牧野・イ」と三河の「牧野・ロ」に分かれていて、前者は「室町期・応仁の乱」、後者は「鎌倉期・承久の乱」の事に成っている。
「前者・イ」は、「讃岐」から出て来て「乱の功績」に基づかず「三河牧野村」に根付いたとする説であるので、元は「牧野」では無かった事に成る。
「後者・ロ」は、「阿波」から出て来て「乱の功績」で「三河宝飯郡」の「牧野村の地頭」と成って「牧野の姓」を名乗ったとしているので、元はこれも「牧野」では無かった事に成る。
従って、何れも「牧野氏」では無かった事に成り、違いは「讃岐」と「阿波」の違差にある。
「二つの姓」から「元の姓」が明確に成っていない事と、「武士」であったとすれば「姓」を持てば「家紋」を持つ事に成る。
この「家紋」を持っていないか、この「家紋」が明確に成っていないので、当時の殆どの「農民の立身出世」が起こった時期の「農民」であったと観られる。
そこで「讃岐」か「阿波」かであるが、筆者は、「彼等・牧野氏」が江戸期に「三河の豊橋」に「讃岐神社」を造っている事から、「讃岐」から一度は「阿波」に移り、その後に「三河」に入つた「国衆団」であったとも考えている。
そもそも、「国衆」とは、弱い地域に移動しながらそこを略幕して住み着き土豪と成り、「うだつ」が上がらなければ、又別の地域に移動して行く武力集団で必ずしも土着の土豪と云う事ではない。
「後者・ロ」は余りにも「史実」に合わせて矛盾なくしての後勘で「出自系」で造り上げていて疑問である。
現実に乱世ではこの様に上手く行かないし、上手く行けば「不毛の伊川津」には流れ着かないであろう。
間違いなく江戸期に成ってからの「後付け」であろう。
筆者の説は「前者のイ」であり、「姓の出自」は「農民」であり、三河の「牧野村の庄屋牧野氏」を「何らかの形」、即ち、当時横行した「血縁か奪剥」で名乗ったものであろう。
室町期末期の国衆の殆どはこのタイプであった。
「農民の立身出世」で「応仁の乱時」の乱世の「流れ者説」を採っている。
因みに、公然としてその出自を公表している「当時の状況」を物語る有名な「土佐藩主の山内氏」も同然である。
「家紋」を観ても四国には無い「三柏紋」は可笑しいし、そもそも各地に分布している「20に近い牧野一族の家紋」がそもそも全く統一されていないし、この一族の中には「前者・イ」を元としているものもある。
又、「三柏紋類系」には無いものもあり、且つ、「家紋200選」にも全く無いのだ。
明らかに「国印状発行と系譜」には、武士と成る以上は何が何でも定めなければならないもので、そうでなければ「国印状」は出ず「武士」には成れない。
この「牧野氏」等は「新撰姓氏禄の諡号」の族系には無く、依ってその発祥は「阿波の農民」であった事」に成る。
前段でも論じたが「後者・ロ」の現地は、「四国」を東西に分けて、東に「秀郷流一門と藤原利仁流一門とその青木氏」、西は「讃岐青木氏と讃岐藤氏の定住地」である。
少なくとも「其処の民」であったのであろう。
それ故に、「秀郷一門に対する憧れ」が根底にあった筈である。
そこで念の為に、仮に秀郷一門に血縁的に関わっていれば「主要八氏」であれば、「361氏の家紋類」と、「青木氏」であれば「116氏の家紋類」が、「一定の規則」で江戸期の墓所に刻まれている筈である。
現実に「現地調査の問題1」では、江戸期前後のものと考えられる「墓所」を確認した。
「明治期の墓所」は、「苗字令・督促令」に依って掟が護られなくなったので、信用は出来ないし墓石も違うので容易に取捨選択できる。
それによれば「片喰・州浜の家紋類」の「江戸初期頃の物」と思われる「青木氏の墓紋」が確かに刻まれてはいるが、然し、完全な秀郷一門のものではない様だ。
流石に、この「美濃の一色の西域にある墓所」では、最早、「三野王族の(a)族」は滅亡して「笹竜胆紋」は無い。
「伊川津の青木氏」と名乗る以上は「(a-2)の族」の一部が、「(a-1)」と「尊属血縁性」を持ち「青木氏の掟」に依り「女系」で「青木氏」を興して名乗った事に成る。
従って、「尊属」であれば「笹竜胆紋」となるし、「女系」に依って「姓・卑属」を出さない掟である事から伊川津では神明社の「賜紋の神紋の柏紋」以外には無い筈である。
結果は「伊川津の墓所」では、歴史的経緯から「古来の古跡神明社」を頼って移住した事もあって、「神明社の柏紋類」が殆どである。
つまり、「額田の一色」では「笹竜胆紋」の象徴の下で、「a-1族の裔」は兎も角も、「a-2の裔族」は敢えて「家紋」を「象徴紋」だけとして定め別に持つ事をしなかった事に成る。
然し、「南下国衆」として「a-1の裔系の蒲郡青木氏」と離れ「伊川津域」に移動し「伊川津四家・a-2」を構築した以上は、所縁の「賜紋の神紋の柏紋」を使う事には同じ「伊勢の裔系」である以上は何ら問題は無いし、奈良期の元から定住していた「伊勢の神職」との血縁も「四掟」から考えても興っていると考えられる。
次は「現地検証の問題2」は、「伊川津青木氏四家・a-2」に付き従った「bとcの官僚族」の墓所が「田原市加治町」に「真宗の寺・匿名」としてある。
此処には、「18の真宗の寺」があって、その内の二つと観られる。
この寺から「真南1kの所」に「真宗の西光寺」があり、況や「秀郷流青木氏の所縁」の繋がりを物語っているが、恐らくは、この「二つの真宗寺」に江戸期前までは「彼等の菩提寺」として分散していたと考えられる。
美濃の「bとcの官僚族・諸蕃諡号雑姓・第1の姓族」に位置する族の「家紋」には、「過去のある特徴」があって、「最大48種」の「草に関わる紋様と色」から出来ている。
これは当時は、「草・しき」で以て表す「官僚族の格式を表す仕来り」、或いは「掟」であったのだ。
これを観る事で、「階級や属姓」等を簡単に判別できる仕組みであったのだ。
元々、この「官僚族の殆ど」は奈良期の「中国からの渡来人」で構成されていて約8割を占めていて後漢等から持ち込まれた「官僚の仕組み」である。
「日本書紀」にもこの事が書かれていて、「官僚族が知識を多く持つ渡来人」で占められている事に「天武天皇」は憂いていて、制度を造って「倭人の官僚族」を育てる様に命じている。
これを基に最初は「家紋」と云うよりは「位階身分の判別紋・草」として扱われ、次第にそれが「家紋」と成って行ったのだ。
この判別から「諡号では無い第二の姓族」と違って、「諡号を持つbとcの官僚族・諸蕃雑姓・第1の姓族・440族」には、この「草・しき」による“「判別紋」”を持っていたのである。
これを格を細かくは、「12類族」に分類でき、「大まかな格」には「8類族」に分けられ、「計20類族の格」でこの「分析」から確認できるのだ。
全体では「440の判別紋」がある。
これは「血縁性」に関わらず「位階身分格式」に依って分けられている。
念の為に「諡号」に含まない要するに「第二の姓族」にはこれは無い。
「伊川津青木氏四家」の近隣にこの「美濃の官僚族」であった「彼等の新たな菩提寺」は「2寺」存在するのだ。
奈良期では「五都計画」の一つであった事から、朝廷から派遣され勢井治安等を管理する「低位の官僚族」ではあるが、判別から観れば「中位下の判別紋」に成ろう。
中位格式以上は「都に帰る事・遙任制度」に成っていた。
この判別に含む家紋が刻まれているので確認できる。
この「現地検証の問題3」では、「上記の類似紋」が実に多いのだが、先ずは「3土豪の姓族の本家筋の家紋」にあるが、「伊勢の裔系の家紋」は元より「秀郷流青木氏の家紋類」には無く、仮にあっても墓石も江戸期前後の慣習のものと違っているので、明治以降のものであって俄かに信じ難い。
「墓所の家紋」から「片喰州浜紋の秀郷流一門」とは正式に明確に混じっていない事が判る。)

(注釈 「3土豪の不毛の地の環境」
「諡号を持つbとcの官僚族・諸蕃雑姓・第1の姓族・440族」のは内の五都の美濃に派遣されていた者らは確かに「伊勢裔系」の「保護下に入っていた事」は判るが、此処で多少の疑問が残る。
それは、江戸期には「三河の松平氏」、つまり、「幕府の徳川氏」は彼等3氏の本家筋を「准家臣扱い」から「譜代家臣」として最終は扱った。
この「保護下に入っていた最終の三氏」は、“一体誰なのか”に成る。
これを確認調査した。
「渥美の定住地」の伊川津域範囲、「家紋と墓所と宗派」とを細かく調べた。
何を導き出そうとしていたかと云うと、「本家、分家、傍系、支流の関係」である。
この「渥美湾の範囲」で「地形土壌」から、先ずその「土壌」が根本と成り、それがどれだけの家臣等を養えるかである。
調べると成ると、江戸期の資料と成り「江戸期の資料」には搾取偏纂が必ず伴うが、この「搾取のエラー」を取り除くには、生きて行く為に必要とする「絶対条件」の「地形土壌」で検証する必要がある。
これ以上は絶対と成り得る「人の糧」は得られないからである。
1説では、江戸初期には「田原藩と大久保氏」でも判るが、「12000石とする説」もあるが、これは実質無理であろう。
精々、「5000石以内・1石時代」であろう。
この「12000石」は、この「三土豪」を「国衆」から「准家臣」、そして“譜代までに取り立てる為”に仕立てた「虚偽の石高」であろう。
探訪から「古来の地形地質」から、ここは「真砂の多い土壌」であって、花崗岩の土壌は米は不作である。
実質は、「漁獲等の産物」を加えた「合算石高」であって、「米高」は「5000石以内」であるだろう。
前段でも論じた「伊川津四家の人数」は「1500人程度・蒲郡500人」の様に、「1石1人/年の原則」から「伊川津青木氏四氏・1500石最低/5000石」であり、これを「伊勢からの支援」で「糧」は成り立っていた事に成る。
ここに、元々は「阿波や相模や越後」から入った「国衆」があって、そこに「4氏・最大6氏」が入った経緯である。
その「6土豪の族人数・約6000石最低」を加えれば、「計7500石/5000石」ではその「差1500石」は明らかに足りない。
ここでは「渥美と伊川津と田原と吉田域・1500石」と「6土豪分」では足りない上に、更に「豊橋と豊川の青木氏・800石」が必要で、これで「差2300石分」が不足し生きて行くには無理である。
総合結果は「7500石/5000」と成り、精々、「本家位の人数」に限る事には成る。
「子孫拡大原理」の「4nの2乗の原理」から観ても、「分家、傍系、支流」が「武士」として生きて行くには到底難しい。
現実に、最終にはこの「3土豪・元」と成り得たが、これ等は元からの「定住民・原住民」では無かった。
四国や関東から立身出世を夢見て、無理に“弱い地域処”に押し寄せて来た各地からの「農民族で構成された国衆」であった。
それ故に、恐らくは室町期初期には生きて行く為の争いが史実の通り長い間この渥美半島域で起こったのだ。
最終的に遺った「土豪3氏」の代表の一つが「牧野氏」であって、この「牧野村」に入って横領して「牧野氏」を名乗ったのではあるが、同然に争いに勝った「戸田氏」も「鎌倉期信濃大河内村」より「国衆」として「尾張国海部郡戸田村」に移動した来た集団であったが、上記した様にこの中部域は全国各地、主に「5地域・阿波や越後や相模や信濃や美濃」に一時的に分散して流れ込み、そこから、又更にこの中から、そもそも「脆弱な渥美」に「国衆」として流れ込んで来た族である。
東三河域のこの「地域・宝飯・豊川、渥美・豊橋、八名・豊橋」に武力を以て「土豪」として割り込み住み着いたものである。
そもそも、「国衆と成った土豪」と「青木氏四家の国衆」とは、時代的に「青木氏の方」が「古跡神明社の伊勢青木氏神職」の事の所縁もあって、「吉田域以西」ではより早期に、つまり、「家族・1530年代」には神職裔系として入っている事に成るのだ。
「古跡神明社」とすれば、「奈良期」であり、「伊川津の国衆」に執ってみれば感覚的には“「原住民」”に相当するのだ。
「国衆であった4土豪」に執っては、当初は舐めてかかっていただろうが、突然に「伊勢周り」の「美濃の伊勢の裔系」の家族が移り住んで来た事に驚いたであろう。
そして、暫くして「東回り・縦の陸路1」で「青木氏四家の国衆」のとんでも無い近代銃で武装した大集団が、押し寄せて来た事に成ったのである。
彼等の執っては従って“「後から来た国衆」”とは観ていなかった可能性がある。
突然に神職族が膨張したと観ていて、故に「戦い」も無く入れて円滑に「伊川津七党」を結成できたのである。
「戦いの記録」は全く発見されていない。
「国衆」としても少なくとも「前段で論じた通り「1550年・南下期~1560年前・吉田期」前には入っている事に成るので、大した違いは無い。
そこで、だとすると「疑問」が一つ起こる。
「渥美の土豪等」が、この「古跡神明社の所縁」で「額田の南下国衆」の「家族」が「伊勢経由」で前もって入ったとして、これ等の土豪に潰される可能性もあった筈である。
それは、「渥美の国衆土豪等」が何時頃入ったかに関わって来る。
「額田の南下国衆」の「家族」は、前段でも検証した様に、入らなければならない時期があって入っている。
それが「1540年前頃」に「美濃の空白期」があって、これを見計らって入っている。
それが、3回に分けて入っているが、これが「1500年前後の頃」である。
「渥美の国衆土豪等」の系譜では、“「江戸期の資料」”に依ると「1430年頃~1450年頃代」だとしている。
そうすると、「50~70年程度の差」がある。
ところが、ここには上記した様に「江戸期の資料」には「国印状取得の搾取偏纂の問題」があって一概に信用できないのだ。
恐らくは、この年代は、「戸田村や牧野村の原住民」と成っている「庄屋の発祥年代」であって、必ずしも彼等の「渥美の入植出自年代」では無いのだ。
「戸田村の戸田氏」や「牧野村の牧野氏」の家を乗っ取って名乗っているので、「渥美の入植出自年代」はこれより後に成る。
そもそも、「1430年代」は「室町幕府の力」がまだ強く、「関東制覇」に於いて“「結城合戦・秀郷一門」”を興し、「室町幕府」と「結城氏ら関東の諸豪族」との間の戦いが勃発した時期である。
この時、「敗退した多くの土豪」が「国衆」として中部域に流れて来たのだ。
「1430年代」までのここは、先ず「半島外」は、”「海食崖」”と呼ばれ浸食されていた地域で全く使えず、「湾内の内海」は、中部域から「大陸帰化人の由来」に依って「新しい技術」を持ち込まれた。
「奈良期からの陶器や瓦」を焼いた“「渥美窯」”と呼ばれていたものがあって現在でも出土している。
古来には「六連(むつれ)」や「百々(どうどう)」と呼ばれていたのである。
要するに此処は、「真砂の沼地」で米より「真砂と粘土の混在地域」であったのだ。
ところが、上記の“「結城合戦」”の「敗退した多くの土豪」等が関東から流れて来て米の採れない地域を何とか住めるようにした“「歴史的経緯」”を持つ地域なのだ。
「江戸期の搾取偏纂」によるものであって、決して「讃岐の農民や阿波の農民」や「信濃大河内の農民」ではないのだ。
「上記の疑問」の「額田青木氏等の家族の安全」は、時系列から「敗退した多くの土豪」等との関係があって、奈良期からの”「古跡神明社」の「神職裔系家族」”として敬っていた事から確保されていたのだ。
それは「室町幕府」には、「密教浄土宗の原理主義の白旗派」を「浄土宗」として認めさせ、「伊勢裔系族」を”「律宗族」”として認めさせた。
この事からも彼等土豪等は敬った事から従ったのである。
更には元々、彼らは「関東の秀郷一門の傍系支流族」に従っていた血縁した土豪であったからだろうし、讃岐でも「秀郷流讃岐青木」が確固たる勢力を持ち定住していたのだ。
故に、何よりの証拠としての「彼等の菩提寺」の“「西光寺」”が「古跡神明社」の直ぐ近くの「田原」に並んで存在するのだ。

(注釈 「5000石の検証」
そこで上記の検証の通り、この「3氏の土豪」と「青木氏の四家・1500人」が検証の通り「渥美郡域」で生きて行くには、この「5000石以内」では限られていて「本家程度」と成る。
此の検証から、“「額田青木氏」と共に陸運業”に結果として加わったのは「分家筋一門」に成る。
恐らくは、「陸運業に転身する前」のこの「三氏の土豪」は「戦い」で参戦して生きて行けたが、「三方ヶ原」より「陸運業」に転身した後の「少しの期間・準備期間と話し合い期間」では、「渥美湾域の青木氏の護衛・蒲郡青木氏」の支援を「糧」として「伊勢の支援」で生きていた事に成った事が判る。
それは「商記録」の中の「運搬の支払い状況・伊勢水軍の動き」が一時的に活発化しているのでこれで読み取れる。
その意味でも、この「糧の少なさ」を解決する為には、「土豪3氏」の中での「話し合い」には時間が掛かっていたと考えられる。
つまり、上記の「タイムラグ」は、要するに「青木氏側だけの問題では無かった事」に成る。
そこに、「女系の伊勢裔系」との「格式の事」でも問題があったらしく、それが「松平氏の旗本・西三河」とは、「銃の有無・戦力」に関わらず、「格式に対する相当な軋轢」があったらしい事も判っている。
「土豪3氏等」もこの狭間に絡んでていて、「本家筋」は「三河側」に着いたとしても「分家筋」は「最後の糧」には、「三河側の旗本」が補償してくれる訳でも無し、充分にない限りは生き抜けなかったと考えられる。
「三河松平氏の今後の事」を考えると、戦乱の中では「分家筋」は最前線で間違いなく犠牲に成り命を落とす事は必定と観ていたのであろう。
この「格式差・律宗族」と「戦力差・銃」がある「伊勢の裔系側・陸運業」に着く方が得策と見た事に成り、其の侭では「三河での発言力」では「分家筋」は「本家筋」に従うしかなく間違いなく「削がれる立場」には成ると観た事に成る。
兎も角も、これは言葉にしなくても「三河の旗本」は闇雲に「自ら卑下していた事」に成ろう。
然し、因みに「国衆離脱・1573年」でも「伊勢に直ぐに帰る事」はせずに蒲郡に一部が残ったのだ。
分家の土豪等は本家に追随するのでは無く、「三河旗本・大久保・本多氏系・田原城主・1564年・~1590年関東」が入ったが、それでも「伊川津・国衆1560年・家族1530年頃」に其の侭に居着く事に成るのだ。
普通は本家に逆らった場合は居られないのが「氏家制度の掟」であるが、それでも居られたのは奈良期から居た「伊川津の神職族の裔系」に組み込まれた事によるのであろう。
「神明社に対する敬い」は当時は未だ「民衆の間」では絶対に「犯しべからずの立場」に居たのだ。
江戸初期から幕府に引き渡されてから荒廃し変わったのだ。
それだけに御蔭で美濃安全だけは保たれていた。
その「大久保・本多氏の旗本」とは、結局は「国衆の9年間」として「陸運業の21年間」の「付き合い」と成り、合わせて「30年間」と成った。
つまり、その「嫉妬怨嗟の旗本」とは「大久保・本多氏とその家臣」であった事に成るのだ。
この「大久保・本多氏」は藩主と成ると同時に「東三河軍制の吉田城の酒井氏」の配下に入ったのだが、経緯から三河元来からの保守的な旗本だけに「額田青木氏等」には軋轢があったと考えられる。
ところが更に不幸かこの軋轢の中で「額田の南下国衆」の「300の銃隊」も「東三河軍制下」に入れられ、同時期に「武田軍の南下」に伴い急遽「吉田城」に「編入・1565年」を命じらると云う事が起こつたのだ。
注釈だが、筆者は条件として「渥美湾の制海権の確保の役目」として「特別任務」が与えられていたのでは無いかとみているのだ。これが約束であったと観ているのだ。
そして、ところがこの「約束むを違えて皮肉にも「南下国衆の初戦」の「第1期の吉田城の戦い」に引っ張り出された事と成って、「武田軍」を押し返す程の勲功を挙げたのだ。
「蒲郡青木氏と伊川津青木氏四家の国衆離脱」とこの“「5000石の影響」”が「周囲の行動」を根本的に替えさせたのだ。
因みに、この「5000石」に付いて、“「大久保」に「家康」が「7000貫の所領」を与えた”としている詳細な重要な記録があり、これを説としているものがある。
この説では、「1貫=2石の説」では14000石、「1貫=1石の説」で7000石と成る。
「時代と地域」に依って「1貫で買える米量」が替わるので「7000石~14000石」と云う事に成る。
この「時代と地域」では、「7000石程度」であるが、当時は威力を示す為に多めに云うのが慣習であった事から、それを咀嚼すると「5000石」であった可能性がある。
況してや“「石高」”で云うのでは無く、“「貫高」”で与えたとすると“「海産物等」”も含めての「石高」であった事に成る。
ここは、上記した様に「黒潮の海食崖」の域にあって「海産物の高」は元より高かった。
要するに、間違いなく米高は「5000石程度であった事」に成る。
そもそも、彼等の“「旗本」”とは言え戦国の世の民から出た「第二の姓族」である。
然し、一方の彼らの“「額田の南下国衆」”は「諡号の第一の姓族」である。
然し乍ら、「第二の姓族」に執っては、“出世を前提とする「国衆」と成った限り”は、一族を護る為にも「意見」を通す事が「最大の安全」に近づき、且つ、一門を率いる「指揮官」はそうする事が疑い無く当然の「義務」であって、これ等の事は充分に予想できる事で「何時の人の世」も間違いなくそうなるだろう。
然し、「額田青木氏の南下国衆」は違ったのだ。
何方が、「格式」を前面に押し出していたかは記録からは判らない。
筆者は、「青木氏の氏是」もある事でも判る様に「格式」は世間に押し出さず自然を護り通す掟がある。
従って、世間がどう受け取るかにあって、「勲功」か何かで何もない処から格式を得た訳で無いのであって与えられた格式ではない。
故にこれが「青木氏の氏是」の基源に成っているのだ。
元から「旗本側」に強く「卑下の意識」があったと考えている。
それは次の注釈に論じる「状況証拠・目的」からである。)

(注釈 「疑念の検証」
そもそも、「本幹・本命」とも云える“「神明社の遮断」”が「信長」に依って成された事から、結局はこの「命」に係わる「本幹の復元策」として、「信濃青木氏」と共に、「蒲郡と吉田」に結束して「国衆」として入って、「渥美湾までの縦の防護ライン」を形成したのである。
つまり、「渥美湾の制海権と支配力の確保・信長に水軍はない」と「信濃まで縦の陸路の連絡網」を「縦のライン構築(専用商業道)」を成し遂げたのである。
結果として「伊勢」から「渥美湾」から「伊豆」までの「陸路と水路の復元」も出来た事に成った。
改めて「3土豪の国衆」との「国衆としての目的」がそもそもが異なっていたのだ。
この様な関係にあっても、「伊川津七党の青木氏・吉田青木氏等四家」とは「彼らの独立性・3土豪の国衆」も担保してしながらも「不思議な関係」にあったのだ。
上記した「伊川津七党の土豪」のこの「土豪の国衆3氏」は、「松平氏の伸長」と共に「松平の准家臣・後に譜代家臣に格上げ」と成って、互いに護りあい「一族の安全」や「渥美湾の支配力」の関わりを担保していた事も七党にはあったのだ。
故に、上記した様に「額田青木氏・蒲郡青木氏」が「彼等土豪3氏」を「陸運業に加える事」、又、「出自元との関係性を担保する事」に当初は反対したのだ。
前段で論じた様に、「松平氏との関係性」を敢えて「組織の中に引き込む事」に“「大きな疑念」”を抱いていたのである。
つまり、これは「青木氏の氏是の考慮」にあった。
「伊勢も信濃」も同じ意見であったと考えられる。
結果として、この“「疑念」”は後に捨てた事に依って、「吉田城や一言坂や三方ヶ原の勲功」があって江戸期に「家康の天下統一」が成されて、更には「陸運業」や「開拓業」や「殖産業」で゜三河発展」に貢献した。
尚且つ、「伊勢の権威」を尊重し、「本能寺の変」の「堺からの逃亡」にも貢献し、「家康お気に入りの紀州藩主頼宜」に貢献している等の諸々が事の「家康の意識」に訴えて、この“伊勢の事お構いなし”の「お定め書」の発行に成った。
結局はこれを獲得でき、その後の「紀州藩・二万両の債権・2度の勘定方指導」にも貢献したのである。
然し、其の後に「紀州藩」はこの「家康のお定め書」を認めているのに、「三河旗本」は依然として何と「吉宗の享保期」までこれを認め様としなかったのだ。
遂には、「吉宗と伊勢青木氏との関係・親代わり・後見人」を知っていながら「伊勢の幕府役所」の「山田奉行所の難癖」で「二度」も「伊勢」との「係争事件」を起こしているのだ。
他にも前段でも論じた様に、「信濃」でも難癖の「同じ事件」が起こり、「吉宗」はこの「山田奉行所の件」も旗本側に着いた。
これが元で最後は「吉宗」とも決別したのだ。
“如何に執念深いか”と「伊勢」では資料や口伝に遺す程に「戒め」として観ていたらしい。
つまり、この「旗本疑念」を掘り下げれば、この点を持っていて、「伊勢側と蒲郡青木氏」は「陸運業の運営」に“「善い事」が起こらない”と観ての「不吉な疑念」であったのでは無いかと筆者は観ている。)

(注釈 「紀州藩との繋がりの効果」
然し乍ら、その疑念は明治初期に消えた。
その後、因みに「伊勢青木氏」は「紀州藩との繋がり」を「伊勢加納氏」と共に復興させて、「支援」をしながら、「大正14年」まで「紀州徳川氏」が「伊豆」で絶えるまで「親密な関係」は記録からも続いていた。
その証拠に「明治期初期」からは、依頼されて「絵画、俳句、和歌、茶道、華道等の諸芸全般」の「人としての嗜み・上級な教養」の「特別教授」として務めた事が記録として遺され、「多くの逸話」などの「口伝」でも祖父から聞き及んでいる。
中でも幕中から幕末に掛けて恒例的に藩主と多くの紀州藩家臣を一同に集めてこれ等の会を催していた事も遺されていて、この「恒例企画」が「祖父の代」の明治期まで続いていたとされる。
紀州徳川氏は東京にも「邸宅・事務所」を設け「紀州との往来」をしていて、最終、「商い・財団」を興し、倒産して伊豆に一人籠もって子孫を遺さず紀州松平氏は絶えて恒例企画は中止したとある。
この時、大正14年であったと祖父から口伝で伝えられている。
この中には、取り分け「財務」に関して幕末まで「勘定方指導」をしていた関係もあって上記の明治維新政府に大活躍した元紀州藩主の「陸奥宗光とその父との二人続けての交流」の事も含まれていたとある。
これで「江戸初期前後の事や享保期の事」に就いては「伊勢」では、最早、「疑念」には拘っていなかった事が判る。
これは「青木氏一族の伝統」の「家訓10訓」で「拘り」は厳しく戒めているからだろう。
この「拘りの前提」と成る「大きな疑念」や「土豪3氏の話し合い」の「解決の経緯のタイムラグ」は、確かに在ったが、その為にそもそも「伊川津七党の青木氏四家・吉田青木氏等」が脱退したり崩れりすれば、再び「伊豆陸路」は間違い無く崩れる事に成っていたであろう。
そうした中での、「上記の注釈」で説明する「額田青木氏」であって、その「答え」は最後まで遺ったのである。
後勘から観れば、この時も「青木氏の路」を読み間違えていなかったのだ。
後世に遺る「青木氏の歴史観」が成立していたのである。)


> 「青木氏の伝統 57」-「青木氏の歴史観-30」に続く。
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