「青木氏の伝統 74」-「青木氏の歴史観-47」に続く。
[No.399] Re:「青木氏の伝統 74」-「青木氏の歴史観-47」
投稿者:青木 投稿日:2022/12/04(Sun) 10:50:04
> 「青木氏の伝統 73」-「青木氏の歴史観-46」の末尾
> > 然し、“「伊勢青木氏」が何かしているだろう”程度の事は判っていただろうが「秀吉」は手を出さなかった。
> 手を出す事が其れこそ、“火に油の様な事に成る”と観た事に成るだろうし、筆者は""出したくても手も出せなかった“と観ている。
> 一方で偶然に、その「“「因事管隷”の院屋号の立場と専有資格」を持っていたとする以上は、それは最早、この“「因事管隷”の院屋号の立場と専有資格」の「流れ」は、「青木氏族の氏の義務」であって、これがある以上はそれに縛られそれ以外には方法は無かったであろう。
> 「言い訳」は、「“「因事管隷”の院屋号の立場と専有資格」で成り立つが、「秀吉」がこれを聞き入れるかどうかは判らなかった様だが何も無かった。
> 筆者は「因事菅隷説効果」より、事と次第に依っては“火に油の様な事に成る”の説を採っている。
> 「家康」は、「秀吉」と違ってこの「“「因事管隷”の院屋号の立場と専有資格」の「立場格式」を尊重して、“「伊勢の事お構いなしのお定め書」”を出しているのだ。
> そもそも元より「伊勢」には、「天智天皇」に依り「不入不倫の権・平安期のものと違う・伊勢を犯したり侵入したりする事を禁止した」が、この「特権」を「伊勢王」に与えられているのだが、これを追認しながらも「室町期末期の松平氏への貢献」にも感謝しててた。
「全段の額田青木氏論」でこの「詳細」を論じたが、故に“「伊勢の事お構いなしのお定め書」”の送り「感謝状」を与えたのだ。
> ところがこれが何と「吉宗」を仕立て上げたその「伊勢青木氏」に対して、その「吉宗の売裏切り」でこの「お構い無し」は終わった。
以後は幕府と「犬猿の仲」と成った。
> 逆に、「紀州藩・大正14年まで続く」とは、それまでもそうであったが、「青木氏に上位の立場」を与えながらも、“管鮑・かんぽうの交わり”、又は、 “刎頸・ふんけいの交わり」”と云う「不思議な関係」に成って行ったのだ
「青木氏の伝統 74」-「青木氏の歴史観-47」に続く。
その頭角は、“「貿易に依り高い技術を求める事・中国貿易は超えていた」”には成っていたが、「鉱石と製鋼の技術」のみならず、「鉱山の火薬・爆破の技術・砂鉄には無い」にも繋がる事で秀でて、其の事に依ってその「技術の完成」が、「因事菅隷に依る近江の鉱山開発」に生かされた。
前段で記した紆余曲折の末にこの技術を習得した「額田部氏」は「臣の官位」を獲得するまでに至ったのだ。
別出自とされる「出雲国の額田部氏・臣」を遥かに凌ぐ立場を獲得する結果と成ったのだ。
結局は「彼等の協力」を得て「鉱山開発の総合技術」は進み、結果として“「2鉱山から4鉱山」に増やした。
この”事の意味は大きく成り、それが無ければ、“鉱山開発を増やしたの経緯”は無く成っていたのだ。
其のままでの技術では「無理に繋がる事」に成り、その為にも先ずは「院の屋の商業化」であったのだろう。
故に、「鉱山開発の院」のみならず「院の屋の号」をも獲得する事と成っているのだ。
然し、考えて観るにこれには「二つの疑問」が湧く。
その「疑問の一つ目」は、この時期に敢えて、天皇から密かに密書としての“「因事管隷”の院屋号」”を持っているにも拘わらず、「伊勢の別枠925年頃の商業化策」は「朝廷」に於いても「危険であった事」なのでは無いか。
この「時期の事」では、慣例上では未だ、“これは朝廷が商いをしている事”と成り得得たのではないか。
然し、寧ろ、「朝廷」はそれを敢えて“「院屋号を思うように許した」”のだか、「その時代が求める必然性」があったと云う事に成る。
そもそもこ「因事菅隷」はその「扱い」は「青木氏だけの密書」であったので、周囲は知る術も無いだろうが。
この凡そ、その“100年後に進めて更に「総合商社化」して「貿易」を本格化さしている。”のだ。
「部経済」によって「朝廷に集まる全ての物」を管理し、それの「余った物」を「市場」に放出して裁き利益を獲得しそれを「朝廷の財源とする役目」を担っていたとすれば、寧ろ、“天皇家が密かに影で商いをしている考え”にあったのではないか。それを当然の事としていた事に成り得てこの一つ目の疑問は解ける。
次は「二つ目の疑問」は、この時、“「女系で繋がる伊勢郷士50衆」はどうしていたのか”である。
資料の一部から読み取るに、この「女系で繋がる伊勢郷士50衆」の「氏族集団」を下に幾つか組を組んでその役割を果たしていた“「特別な下部組織の伊勢衆」”がいたとされるのだ。
それが、歴史上に残る有名な“「200人伊勢村主衆組」が南北に「二つの組」に分けられて「伊勢の民」を長く整えていたとしていて、この「因事菅隷」に基づくものは密かにこの「二つの処理集団」に依って処理され、これが「其れの始り」であったとされているのだ。
この組が南北に二つに分けていたとされ、この組と「伊賀青木氏の情報集団」と連携していたとされているのだ。
丁度、この時期に「嵯峨天皇に圧力をかけられた青木氏」を救ったのが「仁明天皇」であり、更に出自元ではない「円融天皇」から「北家藤原秀郷流青木氏・母方」を永代で、再び「青木氏を賜姓する事」に改めてこれを定めているのだ。
この「円融天皇」はこの「因事菅隷に基くシステム」を知り得ていて、弱っていた天皇家そのものを基礎的に支える集団をより強くしようと試みたと考える。
それが賜姓族を外された後の「因事菅隷の伊勢青木氏」が当に「商社化した時期の50年後」の時期にほぼ一致する。
「鎌倉期の歴史書」にもこの事が書かれている。
この事からも「全青木氏一族」には、“その時代が求める必然性があったと云う事”は否めない。
それが故に、この「上記する経緯」を以てしても、偶然にも期せずして後に上記の様な「銃の鉄」に「良い結果を生み出したと云う事」に繋がったのであろう。
又、それが「額田青木氏の銃の歴史」と成って現れたものであろう。
上記の様に、この「摂津の範囲・秘密裏」で行っていた余りにも「銃に対する高度な技術」は、「上記の事」を充分に理解すれば、「他が真似する事等」は「財と技術と因事菅隷等を含む環境があっての事」で成し得たものであり、他がこの「銃の真似た生産」が「絶対に不可能で在った筈」であり、故に、「三方ヶ原とその後」にも世間には「存在し得ていない銃」と成り得たのである。
「近江鉄の鉱山開発」に、“「因事管隷・賜姓五役」”があった事から「他が真似する事等」は薄々知ったとしても絶対に出来なかったと考えられる。
将又、故に、この「戦後」にこの「殺戮性の高い銃」のそのものも「世間に出す事」は、「密かな護身用」で在る限りに於いては、「青木氏の氏是」に基づき永遠に憚られたものと成り得たのである。
注釈 其の内でこの“「因事菅隷・密書」”を発している相手は、可能性として他に「川島皇子」の「後裔の近江佐々木氏」と「後裔の近江佐々木氏とその系列3氏」と、上記の「青木氏族2流の範囲」に限られるであろう。
筆者はこれらの「献納を成し得ない財の能力」と、及び「因事菅隷財の成し果たし得る組織」の無い氏に対し“「因事菅隷・密書」”を発してはいないと考えている。
これ等は「密書の類」であり処分される常として故にその記録が無いので限定できない。
要するに、少なくとも「皇親族出身の令外官の立場」にあった者への、所謂、「密書の類」であるので「因事菅隷」を出している可能性はそもそも多くはない筈であり、又、遺している可能性も低いし、それを果し得る組織として「伊賀者の様な香具師・情報を担当していた忍者等を有する氏族」で無ければ、この「秘密裏の伝達と保持」は根本的に無理であろう。
と云う事は何度も記する事になるが、「他の高位の氏族」では無理であり、且つ、「内密な密書」と成れば「全く信用の置ける賜姓臣下族」で、それも「血縁性の高い身内」としなければならない事に成り得て、「伊勢の青木氏」で無ければならない事に成っていたと予想できる。
そもそも根本的に「財と秘密裏の情報伝達手段」が無ければ成り立たないのだ。
その意味で、根本的に、所謂、「献納と情報集団」を持つ「二つの青木氏を含む青木氏族」で無ければ成立しなかったのではないか。
取り分け、「経済力を有する事」が先ず前段で論じた様にその「前提の条件」にあり、「献納」に基づく為のそれが大前提条件であったろうし、この二つは「一対」であったろう。
その意味で、毎年、季節的被害に見舞われていた「近江東域」は、その影響を受けて「どの近江族」も「経済力が極めて低かった事」により、「朝廷」もその「負担」で手の出しようが無く、「伊勢」からこの「近江東岸」に対して、「二つの干拓大工事」を「20年と云う歳月」を賭けて援助している所以を持っていたのだし依って無理であったろう。
結局は、密かにこの「因事菅隷」で「伊勢青木氏」を動かし「額田部氏」を以てこの「干拓灌漑工事の完成」を成したのだ。
然し、これは一見して、周囲から観れば“「朝廷」が計画実行している様に観えたかも知れない”が、“「ほぼ青木氏にだけの因事菅隷の狙い」”のひとつにはここにも有ったのかも知れない。
然し、この「因事菅隷]とは別に、数々の「院屋号の特権」を認められていて、それも「永代賜姓五役の令外官」であった以上は、“これも止む無しとしていた事”があっただろう。
そもそもその事に依って「巨万の富」を獲得していたと思えば不満は無かったとも思える。
然し乍ら、これが当時としても片方で「皇位族であったその伝統とその格式」を保ち乍らも地方では「因事菅隷」に基く行動をすると云う不思議な氏族であった事に成る。
注釈 何度も論じた事ではあるが、江戸期に於いては世間が安定し危険性が無く成り、「殖産と商い」にも「存続の危険性が無く成った頃・上記の享保期の事件もあった」を見計らって「闕所」を仕掛けられるような関係性を証明する全てを焼却したと「総合的経緯の分析」から考えられるのだ。
その「銃の存在の発覚」が、世間に広く出して仕舞った以上は、その目的が達成した今に於いて場合に依っては「氏族をとんでも無い危機に陥れる事」にも成ると観て一斉に無くしたのではないか。
つまり、「捨てる事」より「持つ事」のリスクの方が「社会の変化」で変わったと云う事だろう。
恐らくは、その“「兆しが強く現れた」”のが、「青木氏族の事」を一番よく知っている「吉宗の享保期の事件」であったのでは無いかと観ているのだ。
完全に「証拠を掴まれている人物」が居たと云う事だが然し信用していた人物でもあった。
その様に途中で「吉宗は受け取った」のであろうし、そもそも「伊勢攻め」が無地に済んだと思う頃には、今度は「秀吉の刀狩り・1588年」が始まり、それに代わって今度は「吉宗」も「青木氏族の絶大な協力」を受けていたが、その「内心」は“その潰す機会を伺っていた”とも観られるのだ。
「将軍に成る為の裏工作」、「江戸向行」、「江戸の経済政策の立直し」、「紀州藩への財政的救出」や「家康鈴鹿峠の救出事件」や「伊勢津泊の秘密渡し舟事件」で数々貢献したにも関わらず、その反面で「大岡忠相の伊勢の事お構いなしのお定め書無視事件」、「同山田奉行所の海域嫌がらせ事件」、「信濃青木氏の聖域剥奪と殖産没収事件」等の「・吉宗許可が要る裏切り行為」が続いた。
丁度、「嵯峨天皇」が「皇親族の出自元の青木氏の行動」を妨害したのと同じである様に、これに依り遂に「人の内心」が露見したのだ。
“秀でる者は潰される”の例え通りで何れも「最も青木氏と深く関わった者」からの「裏切り行為」であった。
「青木氏の氏是」を遺した「始祖の施基皇子」もこの事を経験していた事であって、それ故の「氏是」であってこれを護っていれば知らねばならない事でもあった。
此れを最後に、前段でも論じた様に「江戸資産・江戸伊勢屋200店舗」を其の侭にして「伊勢水軍の3日船」で「伊勢松阪」に急いで逃げ帰り「紀州藩の後ろ盾・歴史観」を求め「危機」を脱出したのだ。
そもそも「伊勢水軍が湊先に控えていたと云う事」は、丁度、輸送の為にか、将又予想していた事なのか確認はできないが、記録に“「3日船」”と記されている以上は事前に何かある事を予測出来ていたのではないかとかんがえられ、それもそもそも“「信濃」に手を出した時に合わしての「タイミング」”とするとが良すぎる。
筆者は「氏是」がある以上は、「荷物搬送を装って薄々用意していたもの」ではないかと観ているのだ。
恐らくは、この時を「潮時」として、「伊勢」は「難癖を着けられるような物とその行動」を自らを以てそれを「証拠と成り得る因事菅隷・密書等」は特に疑われると共に一斉に青木氏一族全体で消しさったと考えられる。
「伊川津青木氏・当時は未だ国衆」や「駿河青木氏」や「秀郷流一族一門」や「伊勢水軍」や「伊豆青木氏」や「日向青木氏」等には「試作品」も含めた「防護用銃・抑止力として配布していた事」が確かに渡ってはいるが、そのもの一切の時期は同じくして「享保期直後」に於いて忽然とその姿を青木氏族の中から消している。
これは上記した「注釈」が原因と考えられるが、“何かがあって消した”と受け取れるし、消す以外に無くなったとも考えられる。
それは他に参考として語れば、「江戸期」には「一揆などの騒動」が社会に多発して「銃が使われた事」にも成って、従って「幕府」に依って「二度の刀狩り令・銃などの武器保有の禁止」が成された。
恐らくは、「紀州藩と幕府官僚族」であった「青木氏を含む秀郷流一族一門」は、これに伴い密かに「秀郷流の氏族全体」に影響する為に、「申し合わせて一斉一切」に廃棄して焼却させたとも考えられる。
これに伴い、「各地の保有していた青木氏族」も同然に追随したと考えられる。
この時に「秀郷流一族一門・府と藩の官僚族であった事も「影響・政治の中心にいた事」には、今だ「歴史的な関係する研究資料」も散見できないのは、確かにその後の「火災震災戦災」も考えられるが、この時の「令」にも関連して「他の疑われる物までも焼却」したのは前段で論じた通りであり、この様に「一切の焼却時期のタイミング」としては「享保期」で一致するのである。
然し、「銃のみならずこれに関連する一切の書籍」までもが確かに焼却されたものの、僅かに、完全解明には足りないが、「伊勢のテリトリーの中・鎮守社の拝殿後ろ」に密かに「祠」を隠し、その隠した「祠の神明社」と共にその「床下」にも密かにその一部資料が遺されていたのだ。(史実)
その所以もあって、それが本論のこの「芋蔓の様に解明の一口筋」と成っているのだ。
「額田青木氏の銃」とは、全くその「経緯と学説」は異なる事と成るが、敢えて比較して前段で論じた「種子島火縄銃の学説論」での「時代の銃形式」を研究すると、「学問的な知識の到達」と「製造技術の到達」では、「額田青木氏の銃の経緯論」としては、ここまでで“「無理」”と成っていたのだ。
さて、判り易くする為に再び「比較論」をする。
そこでそれとしては“銃での戦闘論」”が最も判り易いので、再び「種子島火縄銃の戦闘論」に立ちいる。
すると、この「射撃」に依って起こる「銃身通過時」の「摩擦高熱の欠点・三つの鉄の欠点」が表にに出て来るのだ。
そもそも其の侭では“銃を銃として使えない”のだ。
これを補う為には、この「摩擦熱」を持つと「銃」は“亀裂破壊”し必然的に最後は使え無く成る事から逃れられないのだ。
その手前で仮に終わったとしても、結局は「冷えて使えるまでの一定時間」は、「徒士の兵」が柵から出て戦闘して、そして再び引き上げて、次の冷えた頃の「銃撃開始期まで待つ事」が必要に成っていたのだ。
「信長」は、この「銃の決定的な欠点」が“不認識に依って計算外で兵力”を計算されていたのだ。
現実に、「信長の雑賀根来の射撃団」でもこれを「計算外の出来事」として捉えていた節があって、これが現実に起こっていて「史実」としてこの事が詳細に記録として語られている。
これには、“「3000丁の火縄銃」が思う程には効果は低かった”としているのだ。
その後に結成された研究団の「実践的に研究した結果」では、使えたのは、その“「1/3程度」であった”としているし、更に、“「大きく銃撃団の犠牲が出た」”とする原因"は、この事にあった”と「雑賀の記録」には記されている。
但し、ところが此れを“側面から「信長の武士団」はこれを補完せずに雑賀根来の傭兵軍団は自ら銃を置いて「刀で戦った事」”が記されているのだ。
この事が元で、“信長と雑賀根来族と犬猿の仲と成った”と結論付けていて、この記録は筆者の検証結果と同じである。
さて、次にでは“この「状況」はどの様なものであったのか”をこの「研究記録」から読み込んで観る。
面白い事が判って来る。
この“「銃撃の間隔」”は、「最低で1h/3000丁の3段階撃ち・記録史実」とすると、「銃の冷却期間・比熱」が「2~3回程度/h発生」と成るが、その間は「弾幕は無しの状態」で「武田軍突撃隊」は前に進む事が出来る事に成る。
この「間隔」を置きながらも、この「進撃」を受けながらで「引き付けて撃つと云う事」を「繰り返した事の戦い方」に成る。
然し、それ故に「雑賀根来の銃の傭兵軍団の3000丁の銃」の内の「約半数・1500丁」は、銃身の「加熱オバー」で「銃」は最終的に使えなく成っていたと「専門的な検証・三つの鉄の欠点」として観られる。
この「戦闘時間」が「記録」では、「最大で8h、最小で4hの説」があるが、この「銃撃戦闘時間の8h説」では、「三っの事、即ち、「疲労と未明と熱の三つ事」で、この説は物理的に「現実的では無い事」が判る。
そうすると、この中を採って、「戦闘時間」が「4hから6h」とすると、「12~18回の射撃回数があった事」に成るが、然し、この「銃身」には「冷やし乍らも熱以外」にも、実は次第にこの「鉄製品に起こる専門的な欠点」、即ち、「300度脆性の欠点」と「鉄疲労破壊の欠点」の先ず「不可避の二つ」が起こるのだ。この論点の間隔時間が研究されていないのだ。
それと、もう一つ検証に於いて考えなくてはない事があって、この“「熱以外」”そのものの「鉄の熱の疲労限界・鉱物には必ず存在する」に近づく事に成るのだ。
この上記した「三つの不可避の鉄欠点」が起これば「銃」は「冷却」どころか「破壊」で永久的に使えなくなるのだ。
この懸賞点t゛欠けているのだ。
これが、この時には、既に一方の「武田軍も戦力」も落ちてきている事に成るだろうが、この“「鉄の欠点の三つの事」”が「傭兵軍団の銃の限界」にも近づいて来ている事に成るのだ。
結果としては、この為に“「アイドリング」”として、「銃撃停止の間」の「徒士の戦闘兵」を再び「棚枠内」に「引き上げる行為等」に、「手間取る事」もあり、又、「弾煙等のロス」が生まれて計算通りには行かないのである。
故に、よく見ても「種子島火縄銃・特に雑賀銃に限定」では、「戦術」とは別に「物理的・当時は学問的な欠点は理解されていない」に観て、抑々、よく見ても「銃撃回数・6から10回程度以下」には確実に成っていただろう事は判る。
これに依って、「武田軍の疲労した突撃」では、最終は記録の通りに「全滅の憂き目」を受けたと成るのだ。
それの「是否」を幾つかの資料の説で観れば、「凡そ1万5千の兵」の内、この最後には「戦い中」でありながらも「勝頼の引き上げ命令」に付き従った「本隊守備兵250人」は、「敗残兵・負傷兵を戦場に残したままで逃げ延びたとする説」が史実として成り立つ。
上記の「銃の鉄の三つの欠点の事」で、この説は史実と診られる。
その「戦い方まで詳細である説」と、「郷土史・戦場の整理を担った地元の住人らが言い書き遺した逸話説」とを総合して観ると、これを“「妥当な説」”とすると、「1万2千の兵の屍」が「長篠原の戦場の北側半分」に在ったとしていて、これには「約2千5百の兵の合わない数」があって、これは「兵数の誇張」か、又は「逃亡者数」に数えられていた事になるだろう。
記録に依れば「戦線離脱の逃亡者」があったとは確かで、その逃亡者は右側側面の隅から西に逃れて行ったとある。この数が合わない数であろう。
然し、「これらの上記の数の違い」は、どの戦いや戦記でもあり得る事であって、合わせての数てあって、要するに「完全な全滅であった事」に成る。
つまり、依って「銃撃回数・6から10回程度以下/3000丁」の論は、「1回2000兵の戦死」と成り、その「射撃法」が「3000丁の三段内」の「冷却済1500丁の三段内」と成ると、「1500弾の3倍」は「4500弾」が飛弾し、その内の実際に、「1/3の兵に被弾する事」に成るとすると、「1万2千の兵の屍」はこの「銃撃回数・6から10回程度以下」からあり得る数に成り、この説は「あり得た説」と成り得る。
上記した「銃の鉄の三つの欠点の事」での「熱等による銃撃間」の間の「兵同士の戦いの数」が、「合わない数・致命傷では無く戦闘能力を無くした兵数、つまり「戦線離脱兵」に成っているのでは無いかとすれば一致する。
要するに、これに依って「熱等による欠陥の銃撃間説論」が大きく左右した事の説は成立する。
現実に、この「銃撃間説論」に依って攻め込まれて「銃兵」は死傷したが、「信長」がこれを「見捨てた事」で、後に「銃の傭兵軍団」から観て感情的に成って、「騙した」「見放した」「契約違反」として「雑賀根来の傭兵軍団」と「信長」とは「犬猿の中」に成ったとし、口伝ではの鮒が狙撃兵が編成された事が云い伝えとして紀州に残っていたとされる。
挙句は戦後すぐに「紀州攻めを受ける事」に成った「史実の事」を考え合わせれば、「銃撃間説論」は充分に納得できる。
要するに、「砂鉄からの来る火縄銃の必然的熱欠陥」が顕著に存在していた事を、この「長篠原の戦い・武田軍との戦い」に付いての検証した“「銃撃間説論」”では証明している事に成る。
そてそこで、これに対して「銃の鉄の三つ欠点の事」を克服したこの「額田青木氏の超近代銃」は、この「火縄銃の欠点」を補いした事で、「一言坂の武田軍との遭遇戦」で、「武田軍本隊を釘付けにした史実」は、それまでの「武田軍が持ち得た銃撃間説論」の「火縄銃に対する発想・情報」を根底から覆した事を実戦で証明した事を意味するのだ。
その意味で、「一言坂」の坂での「遭遇戦の武田軍の新たな印象」は大きかったと考えられるのだ。
それには次の「二つの事」にあったとされている。
「一つ」には「銃」には上記の「熱の銃撃間説論が起こる事・三つの欠点」、
「二つ」には「飛距離と命中率」が3倍に在った事、
この「二つの発想」が、「信玄」に衝撃を与えて何もする事なく、“本隊が「前」を向きながらも徐々に後退する”と云う「戦歴上に於いて前代未聞の事」が起こったのだ。
「信玄」に執っては過去に経験した事の無い衝撃的な事であったろう。
それが「三方ヶ原]にも影響していたと観ているのだ。
「超近代銃を持つ300の銃隊」に対して「武田軍本隊の8倍の軍」が成す術無く、「“弓矢も火縄銃も届かない1K
も離れた東坂下位置まで引くと云う事」”が興ったのは、このそれまでの「銃撃間説論」が「成り立たない事を知った事の所以の最初の事」であって、要するに、「額田青木氏の超近代銃」は、この「銃の欠点」を補いした事の所以の証明でもあるのだ。
「吉田城の第一次の籠城戦」にも「額田青木氏の城内部からの銃撃」を受けているが、その時も「距離の疑問」は持ったかも知れないが、それが「城廓櫓からの銃撃で在った事」から「銃撃間説論」は感じていなかった事もあり得るのだ。
だから比較的この“「銃撃間説論」を使えば崩せる”と云う発想をまだ持っていたと観られる。
だから、前段でも詳しく論じた様に「坂の上」で遭遇し、「坂下」には「100の銃と3000の兵」を事前に廻して「待ち受策」を執り、それに加えて不足と観たか途中で坂途中にも「3000の徒士兵」を伏せて、この“「銃撃間説論」を生かそうとしたと考えれば、“「銃撃間説論」”で観れば情況は読み取れる。
この事は、この時までは、「後」と「前」と「横」から「閉じ込め策」で、“「銃撃間説論」”を以て攻め込めば勝てると見込んていたのであろう事が説明できる。
ところが、この「一言坂遭遇戦」では、この“「銃撃間説論」”は起こらなかった”という事に成る。
「慌てた武田軍本隊」は、早めに「一切の閉じ込め策」を開放し、何と動きづらい後ろ向きの本隊も「坂下1Kまで下げた事・史実」に成った読み取れる。
これは資料からも明かな史実である。
其の後の「浜松城通過時」、又、「堀江城への追尾時」、「三方ヶ原の決戦時」も、この“「額田青木氏の銃隊」に対して一切対抗しなかった事と成った”と読めるのだ。
然し、これが“「銃の鉄の三つの欠陥・上記の学説論/銃身の鉄組織の強化」で補った事”の所以であって、その為に「長篠」の“「銃撃間説論」は「三方ヶ原」では起こらなかった事”を証明しているのだ。
そして、この“「銃撃間説論」は起こらなかった事”は、同時に“「銃の欠陥を上記の学説論」で補った事”の「逆説論」にも成り立つであろう。
仮に、密かに「摂津を中心として技術開発して製作した銃」であったが、これだけの「戦歴の史実」を見せつけていたのであるから、「武田氏や織田氏」は前後の時期に於いて必ず「これを武力で奪う事」に走る筈であるが、ところがこの事が「読み取りの中の資料」では一切発見できないのだ。
では、“これはこれは何故か”であるが、「額田青木氏に完成の近代銃を引き渡した時点」では、上記した様に、「匠、工人の伊勢への一切引き上げた事」と、「一切の資料を隠匿して世間に漏れる事」の無い様に「生産」のみならず「保持」さえも限定した故の結果である。
「摂津商人、伊勢屋商人」をも「特定できない組織・摂津商人と伊勢商人・殆どは大阪商人として記録に遺る」として「明治期」までに至っているのは、この事に対する“「特定できない策」"であったと考えられる。
この事の「史実」は、「室町期から明治初期」まで「大豪商・店名も主人も」は、“この「危険・全ゆる危険」が在った事”から、この“「特定できない影の策・奈良期からの伝統」”を講じたからであるのだ。
追記して置くが、念の為に「青木氏の正しい歴史観」として、「伊勢の氏族」を除く民間の前では、“「テレビドラマ」などの様に、「超豪商は平気で世間の顔表に出て来る事」は実際は殆ど無かったのである。
これは「重要な青木氏だけの歴史観」であって、この歴史観を忘却して歴史を観れば大間違いをする。
そもそも、この「顔隠策」は、少なくとも「奈良期の賜姓五役」や「因事菅隷の天皇の内示・密書」を直接に受ける事に成った時点では、元々、この「顔隠策の路」を「必然策」として「伝統的行為」として実行していたのだ。
何も「院の屋・商いを営むだけの事」では無く、「院に於ける事」に於いても「顔隠策の路」を必然的にも伝統的にも求められたものであって、これは「青木氏氏是」に全てが基づくものであったのだ。
「賜姓五役の青木氏」に限らず、献納時に於いて「天皇に朝見する時も誰が何時あったかなどは秘密裏にしていた配慮の事」が「青木氏の資料の読み取り」の中から読み取れる。
青木氏だけの「顔隠策」のみならず朝廷に於いても同然な伝統であった様で、賜姓臣下族に成った時点から天皇家から引き継がれた伝統であったと観られる。
奈良期から「青木氏氏是の伝統」を少なくともミスなく守るにはこれが一番であったろう事が理解できる。
この「氏是」がある限りは昔で無くても現代でも求められる事でもある。
要するに、これは「古くからの離れられ得ない伝統であった事」に成る。
要するに、「四家・福家」はこの為にあった事をも示すものであり、「四家」が交互に動けば成し得る組織であったし、これに追随して「伊賀青木氏等」もこれを補完していた事に成る。
筆者は、「献納時の朝見」は、「四掟制度」も「四家制度」も「福家制度」も「元々の基本の考え方」はここに在った事では無いかと考えている。
其の為の制度でもあったであろう。
寧ろ、「青木氏族」は、これさえ守れば他から攻撃される事も少なく成り、此れで護られていた事では無かったかである。
中にはこれを窮屈とも思われる「伝統の破目」を外そうとする者も現実には居た事も判っているが、「氏族の掟」と成れば当に、“出る杭は打たれる”の例えの通りであり、これを無視して生きて行く事は難しかったのだ。
それが、それが長い間に、“「青木氏の絶対の伝統」”と成り得たと考えられるし、これが「幕府と正親町天皇」から再び、元の「皇親族」から“「賜姓臣下族」、「賜姓五役」、「令外官族」、「因事菅隷族」から、更には“「律宗族」”と認められる結果と成ったのだ。
「*」印の 「青木貞治救出の検証論」
さて、上記の「三方ヶ原と長篠の火縄銃の経緯」の鉄の特異性を持っているのだ。
これを理解した上で、ここには「青木氏の歴史観」に執って重要な事が在る。
その為に少し話を元に戻す。
「青木氏の氏是」の前に「南下国衆の駿河青木氏の指揮官」は、“それ”を予測して見抜いていたのだ。
この“それ”とは、何かであって後で起こった「銃の結末」である事なのだ。
即ち、「長篠の上記の結末」を事前に“「予測・想像していたと云う事」に成り得る”と観たのだ。
要するに、上記の様に「雑賀根来の銃の雇用集団・1000丁又は3000丁の結末」の事である。
“「極度に殺戮性の高い銃を持つ事」”に依って、その保持者の「額田青木氏が合力する」として「兵力的・松平軍」には「6000+5000=11000+a」に成るが、その「フリントロック式改良銃/超近代銃の威力」は「間隔の無い4連発銃」であって、結果としてこれは「45000+aの兵力・銃数*4*10000」に匹敵値し、これに依って合力下場合は「左右の鶴翼」は必要無くなるので、「兵の温存」が働き、この「他の兵」は「本陣守備」か、又は「銃隊の後ろ」に控えて「銃隊への補足が効く事」に成るのだ。
これは要するに、当に「陣形」からすると「魚鱗の陣形」になるのであり、「馬や弓矢の代わり」に「銃弾」が「遠くの相手」の前面に殺戮性良く次々と飛び交う事に成るのだ。
故に、上記の事を配慮すると、「浜松城」では「額田青木氏の指揮官」は、咄嗟に“虫の云い馬鹿馬鹿しい話を持ち込んだものだ”と思ったのであろう。
それは、況してや「本隊」が戦わすに“額田青木氏に戦わせて自分らは楽をする”と云う構図であった。
要するにその結末は歴史的に“「後の長篠」”がこれを示しているのだ。
そしてその「最後の行き着く所」は、「旗本の事」を考えれば、“「雑賀根来の信長の始末」”と同じ破目に成るのだ。
其れならば、「武田軍」では無く「銃の実質兵力」では負けていない「松平軍」と此処で「城の外」で“一戦を交えるのも良し”とする構えを示した事の筈だし、現実にそれ程の「激論」に成ったであろう。
然し、「武田軍との戦い」の前に、“額田青木氏と戦う事は100%ない”事”は判っている事である。
筆者なら、「判断力を無くして激高する相手」に対しては、この「脅し」を先ず架けて先手を打つ、そして「全国の青木氏族」に対して「攻守の態勢」を執る様に「伊賀」を通じて通達を出すの段取りに入る。そうするだろう。
然し、そもそも、その足元を見ても「松平氏」にはそんな事が出来る余裕等は最早元より無かったのだ。
要するに、激高させて於いて「城の外」に出されるが、それがこの場合は「松平軍と関係性を断つと云う点」では「最善の策」だったからである。
後は、「伊勢青木氏の財と抑止力」を背景としていた以上は「伊川津の国衆」と成っていた事から「主従関係」は元よりなく「自力で生きて行ける能力」を持っているからこそ問題は無かったのだ。
元々は、「吉田城」から呼び出されて「約定」を無視破棄して騙されているのだ。
然すれば、「浜松」から海に出て「伊勢水軍」で「伊川津」に簡単に戻れる。
陸であっても恐らくは常に陰に成り側帯していただろう「伊賀青木氏」を呼び寄せれば「伊川津」に戻れる。
「松平氏」には今この時に「兵力・財力」共に「青木氏とそのシンジケートを攻める余裕と力等」はそもそも無かった。
それは、当に武田軍>「松平氏の直接兵力」<「青木氏の影の力・抑止力」=数段の差の数式の関係であったのだ。
だからこそ、断固断ったのだ。
結果として、「目論み通り」に外に出され「自由」に成った「額田青木氏の銃隊」は、「軍議からの情報」から「駿河青木氏の青木貞治隊」を救うべく、場合に依っては危険を伴う事に巻き込まれる事もあり得るが、「三方ヶ原に走る事」が自由に決定して出来たのだ。
これは何故なのかであるが、それは前段の「軍議の四つの命」に従わなかったからだ。
この「結果の決断」としては、「額田青木氏の指揮官を負傷させた事」に成っている「疑問の遺る三河戦記」には成っているが、「額田青木氏側の記録」では良い方向に向いたのだ。
そこで、大きな「一つ疑問」がある。
この証拠は何も無いが、「松平軍記の負傷者死者の記」とされるこの「資料」には、確かに「山県軍の別動隊の突撃」で左鶴翼の突破時に、「額田青木氏の指揮官」が負傷したと成っている。
然し、これには筆者には「疑問」があるのだ。
つまり、「軍議」で、“一戦交えるかのところまで行った混乱”の中で、これで“果たして無事に済んだのか”の疑問である。
筆者はこの「要素」を重く見ているのだ。
それは、“「負傷者」”に付いては、その「三河記録」にも記載されている所以の、“「指揮官ただ一人」”の記載であるからだ。
突破時であれば、先ず“「指揮官一人」”と云うのはどうも釈然としない。
その負傷後の事を確かにこの「記録」では、指揮は理由が判らないが“「額田青木氏の差配頭」に引き継いでいる事に成っている”が「伊勢」では「無傷の事」である。
これを偶然とみれば偶然と観れるが、この事には資料には全く触れていない。
これが、「流れ」から「軍議の恨み」に報いんが為に、東側から“「旗本の決死の弓矢で狙撃された可能性”があるからだと、それを思わせぶりの形で記録しているのだ。
恐らくは、その「軍議」に出ていたこの「旗本」に依って、その時は「山県軍兵かの判別」が付かず「無差別に弓矢で狙撃された可能性」を思わせるかの様に記された事が確かにはある。
然し、何で、「軍議で争うまでに激論」に成った「指揮官」で、且つ、直ぐに「伊川津」に引き上げている「指揮官」なのに、且つ、「伊川津国衆」であって「三河国衆」では無く、「戦線離脱している者の名」がこの「三河戦記の戦死者・負傷者の記載」の中にあるのかであるし、駿河青木氏を吸湿している弾幕間の中で松平の兵が入ってこられるかの疑問がある。
これは何か間尺に合わない。
普通は外すであろうし記載もしないであろう。
確かに後で知って追記したと云う事でもあるが、時系列的に観ればその時は既に戻っていて「伊川津国衆」を即座に辞しているのに、書く必要はそもそも無い筈であり、これは“戦死か負傷かしたのを如何にも観ていたかの様に、又は如何にも知っていたかの様に書く事は甚だ疑問で”ある。
そもそも国衆を辞している以上は、そもそも「三河戦記」には書かないであろうし、未だ「国衆」であったかの様に書き込んでいるのもおかしい。
この事が釈然としないし、だから、「出身元の伊勢・伊勢秀郷流青木氏」では「指揮官の負傷記録の詳細」は無いのであろう。
筆者には、仮に「伊川津国衆」であっても如何にも「三河国衆」であったかの様にして、“「三河戦記の辻褄の時系列の不都合・後付け」を合わした”としか思えないのだ。
もっと云えば、そうと成ると同時のこの時間に起こった「二人の戦死者の戦記」にも記載がある“「有名な駿河青木氏の青木貞治の死・二俣城の敗北を恥じた死と記載?」”は、“違うかも知れない”とする疑問が生まれるのだ。
“猛烈な銃撃で弾幕と煙幕”を張って「青木貞治隊」を「武田軍の本隊」から救出したその中の目の前で、今度は同時期に、“その「銃隊の指揮官」が負傷している”のは不自然極まりなく「大きな疑問」を持つのだ。
“戦場だから何が起こるかは判らない”と云われればそれまでだが、幾ら何でもそんな事は無いだろうと観ていて、筆者には、“猛烈な銃撃で弾幕と煙幕”の中で、果たして、“偶然にも青木氏の指揮官二人の死”と云うのはあり得るのかは納得できない。
何れにしても、「この状況」を確実に「駿河青木氏の貞治隊員」と「額田青木氏の銃隊員」の「1000人の目」が観ていた筈だ。
故に要するにこれは「典型的な後付け説」と観ている。
「江戸中期・1738年享保期」に成っても、「三河旗本」からの「150年以上の嫉妬と怨嗟の拘り」を超えた様な「嫌がらせ」が続いていたのだ。
「伊川津や伊勢」も然る事乍ら、「江戸・1603年~1868年」に於いてでさえも「三河旗本との執拗な軋轢」が続いたのは、この「事・軍議」に依る「口伝による恨みの伝統・4代続き」ではないかと観ている。
“本来なら4代も続けば忘れている筈であろう”が、これは“「軍議の逆恨みの揉め事」”は「伝統化していた事」に成るだろう。
前段で主眼を置いて論じた様に、「青木氏族の古来からの伝統」にある「特異性・律宗性」や「特別性・格式性・賜姓五役の郷氏」に対する「拭い切れないもの・劣等感」が先ず潜在的にあって、且つ、その上に、更にそれを“自らも決して獲得出来得ない物”に対する「執拗な伝統的な嫉妬と怨嗟と苦悩」のものであったと観ている。
仮にもしそれだけであるとするならば、「青木氏族と紀州藩との大正までの親密な付き合い」も無かった筈である。
ところが、「紀州藩との青木氏の付き合い」は、「三河旗本の嫉妬と怨嗟と苦悩」にも関わらず、記録にも遺る「初代・頼宜」から引き続いて何と「大正14年」まであったのだ。
「彼等・旗本の嫉妬と怨嗟と苦悩」が厳然とあるとするならば、「青木氏族と紀州藩との大正までの親密な付き合い」は果たして可能で在っただろうか。
それを踏み切るには、「紀州藩」に執っては簡単では無かった筈であろうが、然し、踏み切っているのだ。
其れも「勘定方指導の立場」であって、且つ、「俳句・歌・南画・茶道・庭造り」の指導もし、「親友の関係・この関係を“管鮑・かんぽうの交わり”、又は、 “刎頸・ふんけいの交わり」と「資料の二か所にある」”と云う関係にあって極めて「親密」であったのだ。
故に、「彼等・旗本」に「嫉妬と怨嗟と苦悩」の以外のものとして、“「軍議の逆恨みの揉め事」”が、何時しかそれが「歪んだ伝統」として、“「三河者の旗本」にだけに限定されて遺ったと云う事であろう”と思う。
それが「三河」だけと成れば、「伝統的な嫉妬怨嗟」を買うのは、この「額田青木氏」には「軍議以外」には無い。
これが遂には、後で前段で詳細に論じた様に“「闕所」”までに発展するのだ。
それ、つまり、「大商い」をすると疎ましい付きまとう「闕所」であるが、それが何と「信濃」までに及んだのだ。
然し、この元と成った「三河旗本の怨嗟と嫉妬」が治まったのは、「江戸中期・享保期頃」であった。
そして、「伊勢の山田奉行の嫌がらせ」も治まったのも同期であるとし、「伊勢・伊勢屋」が江戸から引き上げたのも同期であって、更には「信濃青木氏の聖域と殖産の奪い取りの事件」も同期であって、挙句は、それを「ぶつける相手」が無く成ったという事と成ったと思われる。
それで、“「平穏」”を保てたとするならば、それは当に「軍議の逆恨みの揉め事の所以」でもあったと充分に見込まれるのだ。
故に、「三河の伊川津」で「陸運業と殖産業」を営む以上は、その「防御論」は、勿論の事、初期の頃の「青木氏の銃」は「軍議の逆恨みの揉め事」から逃れる為の「相手を威圧する抑止力」として保持し持ち続けたのだ。
故に嫉妬怨嗟の彼らに執っては、“恐ろしい陸運業と殖産業”であった筈である。手を出せば潰れるの恐怖があったのだ
そして、それが「主君の松平氏」をも左右する程の「債権漬け」で政治的な勝負は着いたのだし、その叶う事の無い「各種の武力的な抑止力」と「商い・財力と云う力」を持っていたのだ。
筆者は、上記した様に、「額田青木氏」と「駿河青木氏」、強いては「伊勢青木氏」の事を検証する際には、この“軍議と云う要素”が大きく働いていたと観ているのだ。
「*」印の再び「救出の検証」に戻して。
そもそも、この「救出」は「武田軍の本隊」の「魚鱗の陣形の先頭」が「騎馬隊」であったからだ。
横に広く展開すると、その「騎馬の効果」は低下し集中して来るし、自由の効かない騎馬を狙い打ちに掛けれられるし、誘い込まなくても早く命中率の高い範囲に次から次へと勢いよく近づいて来るからだ。
「騎馬」が前に進まなければ「徒士」は前に進めないとすれば「敵の威力」は「騎馬」に集中する。
「騎馬」が全滅すれば、次は「徒士」を「狙い撃ち」にする事に成るし、「魚鱗」は「左右の鶴翼」に分散して「騎馬突撃の威力」は低下する。
これが「長篠・12000戦死」は主に「火縄銃」ではあったが、その2年前の「三方ヶ原」では、当に現実にこの絵に描いた様な同じ経緯と成ったのだ。
「織田方」には「3000の銃隊」の前には「防護柵の馬防柵」で表向きは護られていたとし、この時の犠牲は「雑賀根来傭兵軍団の約半数弱の多少」であって、「信長本隊」にはそもそも何も無かったのだ。
「武田軍12000の全滅の犠牲」を出し、「逃げ出した残りの武田軍」に対して更に「追撃戦」で「武田軍5000の兵の犠牲」を出したが、兎も角もこの時、「長篠の信長」は、何と前段の通りで、この「戦場」では無く、この戦場から西に1km離れた「土豪の館・新庄市富永氏の館」を本陣としていたのだ。
これは始めからこの「三方ヶ原の結果を描いていた事・研究」を示し、「銃の威力に対して自信があった証拠・現実は弱点を突かれて犠牲」でもある。
ここで、さてこれを念頭にして「額田青木氏の南下国衆の銃隊」と「青木貞治との情報交換」に付いてどの様な事が起っていたのか深く踏み込んで観る。
前段でも論じた通り、“「南下国衆の銃隊」を「鶴翼の頭の部分」に何故据えなかったか”と云う「疑問・軍議で拒絶」である。
前段でも論じた様に、次の事が考えられる。
そもそも、「伊川津の国衆に成った時の目的が先ず違うと云う事・イ」、
到着時に「タイムラグの問題があった事・ロ」、
且つ、「青木貞治隊を護り救い出すと云う目的の事・ハ」、
額田青木氏に対して「元よりの旗本の嫉妬が強かった事・ニ」
以上の「イからニの事」が「全体的な四つの事」として「理由」が潜在的に確かにあったろう。
然し、この「全段も含めて詳細論の段」に於いて果たしてそれだけかである。
これが疑問なのだ。
筆者には何となく間尺が取れないのだ。
それは、“一言坂の直ぐ横東1kに「駿河青木氏の菩提寺の西光寺」があると云う事”だ。
この「検証」にはこれは「重要な要素」であって見逃せないがこの事が考慮されていないと云う事なのだ。
どんな戦いに於いてでもこの「菩提寺の存在」は戦略上で重要なのだ。
況してや戦場の近くにある彼等の「氏寺の菩提寺」である。
要するにこの「菩提寺」にはそもそも「仏教徒の掟」があって、「寺内に武力を持って侵入する事」は古来より「厳しい掟」があった。
その為には逃げ込んだ戦士を討ち取るには「寺の焼き討ち」して外に誘い出して、そこで討ち取ると云う事にどんな場合でも「戦術」として成るのだ。
況してや「駿河青木氏の氏寺」とすれば「周囲の民衆・氏人」もこれを断固として護るのが古来から伝統である。
「武田氏」はそれを攻めれば「秀郷流一門の東の361氏の勢力を西に呼び込む事に成り、それがどういう事に成るかは知っていた筈で出来なかった筈である。
恐らくは、故に「三方ヶ原」で救い出して、ここに逃げ込み潜んだ事は間違いはないのだ。
どの「資料の行」から観ても、ここで、“「隠した事の説」”は読み取れる。
其れがここであったと観ているのだ。
だとすると、「隊長の青木貞治」は戦死はしたかは、「戦記に滲ませている表現」の通りに少なくとも「全滅覚悟の死隊」では無かった事に成る。
「貞治隊長」は其の気であっても「家康・軍議」から「二俣城の叱責」を受けても「決死隊」を命じられてはいなかったという事である。他に直接に家臣としての副将が居たのに何で駿河国衆の貞治が責任を取らなくてはならないかの矛盾が生まれるのだ。
これは見逃す事の出来ない重要な事だし、そもそも「二俣城の叱責」を万に感じる立場に果たして居たかである。
先ず、その「二人の副将」の内の一人であって、未だこの時は「貞治」は「松平氏の家臣では無く「松井氏配下の駿河国衆の立場」であったし、そもそも「もう一人の副将の者」は[松平氏の縁者の若者]であって、叱責も戦死も無いのだ。
況して、そもそも「主将」は罰せられてはいないし、「戦死」もしていないのだ。
故に、この「後付けの説」は大いに疑問なのである。
だから、その経緯から「南下国衆の銃隊」に対して「情報」を提供し、且つ、「他の者を救い出して欲しいとの願望」を伝えたと考えられるのだ。
その時、この「菩提寺に逃がす事」を頼んだだろう。
そもそも、そこで「菩提寺があるという事」は、その「盤田見附地域」は「青木貞治の一族の父祖の先祖代々の駿河の知行地」であったと云う事に成る。
つまり、距離にして「40k=10里」で、「徒士の道則」にして「50k・10hの東」の「神奈川の秀郷流青木氏とその一門」が護ってくれるだろうと云う範囲のぎりぎりの範囲の所にあって、その安全の期待があっただろうし、現実に遅れて入っているのだ。
それには、「後付けの三河戦記」の通りでは無く、「青木貞治隊」は「自由な行動下」にあり「主戦の中央に位置する事」は絶対避けなければならない「自由な立場にあった事」が云えるのだ。
「筆者の考え」は、この「条件を叶える」には「軍議の末端」に「参加できる立場」にあった「国衆の青木貞治隊200」のみならず「南下国衆の銃隊の指揮官・300」も、「軍議」では明確に「命令を拒否した」であろうと云う事である。
と云うのは、“「軍議に参加していた」”とする「直接的な表現の記録」はないが、「三河四天王」と云われた「本多軍も大久保軍も酒井軍等」も夫々「200~500兵」でこの「軍議」に参加しているのだ。
「兵の勢力」では同じ立場に居たと云う事だ。
従って、「青木貞治隊200・初期から」のみならず「南下国衆の銃隊の指揮官・300・呼出後」が「軍議」に参加させられなかったと云う「特段の理由」は無いだろう。
間違いなく「参加していた事」に成ろうし、「吉田城・守備隊」から呼び出されたのもその証拠と成り得る。
その「軍議の直後」に、「時間稼ぎの目的」の為の「籠城戦」を前提に「不合理な偵察隊」を命じられたりもするも、これもこの「軍議の参加」による影響のものだろう。
そもそも何度も論じている様に、「浜松城・27m高」から充分に観えている「一言坂の武田軍本隊の陣営の様子」に対してである。
「そもそもの狙い」は、「時間稼ぎである事・織田氏の思惑と額田青木氏の銃の印象付けもあったか」は、「戦略」としては判るが、これも「武田軍の本隊の充分な補給体制」も整えない侭で、且つ、「野営」で「長期間の籠城戦」はあり得るのかと云うここにも何か釈然としないものがある。
確かに、「武田軍の本隊」が「周囲の出城を攻め落とし」をしながら「二俣城からの供給」で「一言坂東」で「大軍の約1月間の停留」をしているのだ。
それは前段に論じた通り、「三方ヶ原」では無く、「野営の此処・一言坂東」を「拠点」として「堀江城」より先に、「西域の脅威」を片付けて「織田勢の本隊」が「決戦」を求めて来ない内に、東から「浜松城」を先に攻め落とすつもりであった陣形である。
「西の織田勢」と共に「三河勢・松平軍」もこの「東の背後の脅威」があった筈で、この「説・浜松城先攻め」は無いだろう事は判る。
「今川氏の様」にそんな「危険な位置」に「準備周到の信玄」は「野営・一言坂」は絶対しないが、ところが何故かしたのだ。
それには、「二俣城の陥落に時間が掛かった事」と、「二俣城で補給体制の構築に時間が掛かった事」での二つが在った事が記録として残っている。
この間に史実として時系列では、「二俣城」からこの「野営場の一言坂」まで「山県軍の別動隊の連絡」が届いている事から。この理由はこの「二つ事」であった事に成る。
それが「整った段階」で「目的の堀江城」に向かった事に成る。
故に仮にこの「戦略」を採用したとすれば、間違いなく「堀江城の二極化論説」であった事になろう。
この事は相当に余裕があった事に成り、「織田氏も松平氏」もこの「堀江の前」の「一言坂の野営」が最も攻める時期であつた事に成るが、そうせずに「無駄な弱腰の時間」を過ごした事に成る。
故に、「籠城戦の戦略自体」がそもそも「空虚で在った事」に成る。
其れならば、“「偵察隊」を命じられた事”は可笑しく成り、当に実に無駄であった事に成る。
「額田青木氏の指揮官の貞秀」はこの間の「経緯」を情報から知り、この様に分析をしていたと思えるのだ。
「織田氏」は「浜松城籠城戦説」を採っていたとしていて「時間稼ぎの理由」の外には、過去にも「第一次吉田城・籠城戦の戦績」の様に、その「経験」を通じて「南下国衆の銃隊を浜松城に留めて置く事」も、「最大の防御・時間稼ぎ策」とも考えていた筈である。
故に、なのにこんな「三方ヶ原の愚策」と「一言坂偵察の愚策」の「二つの愚策」を考えた「その背景」には、“「ある問題」”が「軍議の中」にあったのではないかと観ているのだ。
前記したがこれらの「上記の経緯の事」は、本来は「松平氏右筆衆・青木氏では祐筆」で詳しく調査されて遺されて「原石の侭」で遺されるものであるが、然し、それは消されいて無いのだ。
要するに簡単に云えば、これ等を纏めたとする「三河戦記」は、開幕に必要とした権威を「後付け策」で「権威を必要とする徳川幕府戦記」を塗り替えた事に成り得たのだ。
つまり、「後付けと成っている事・脚色」は、言い換えれば“「軍議の過程」に於いて「上記する事」の物議が交わされた可能性がある”と云う事だ。
確かに、「額田青木氏」に依らずとも「銃隊」とは、「弓矢」に代わって「籠城戦」には絶対に必要であって、且つ、「野戦」に於いても「鶴翼の頭部」に据えて「弾幕」を浴びせると云う何れも「最大の戦術・弓矢に変わるもの」でもあった。
当時は「資料」より「急激に短期間」で、急に“「欠かす事は絶対に出来ない戦術」に成った”と認識に至っていたのだ。
然し、「浜松城の籠城戦論」ではそういう「重要な時代認識」はな未だ遅れてなかった様であり、それは「武田軍の第一次吉田城攻め」がその最初と云われているが、それが偶然にも「額田青木氏」が「伊川津国衆」としての最初の役目として詰めていた為に「銃による籠城戦」と成ったのであったのだ。
その為に「武田軍」は「額田青木氏」に「思わぬ抵抗を受ける事」に成って一時は軍を引き上げると云う結末と成ったのだ。
故に、「一言坂の偵察」は、勿論、論外の事ではあるが“「二度目の銃の威力」を示すと云う戦術”はあり得たが、寧ろ、「籠城戦」と成れば戦いの前は、寧ろ、“「銃の存在」を知らさない方がより効果的”であり、そうと成ればそもそもこの場合の「一言坂の偵察隊の銃威力誇示」も要するに「愚策である事」に成る。
要するに、本格的に「松平軍の主軸と成って戦う事の拒絶」の前に、軍議の「諸々の物議の激論」とは、この是非の「此の処・偵察隊の銃威力誇示」にあったのだ。
兎も角、故に「籠城戦である事」では止む無きとするも、「一言坂の遭遇戦」のみならず「三方ヶ原の野戦の直接本格戦・鶴翼陣形」では、“断固として国衆の立場として断る”としたのだ。
これに付いて「額田青木氏の南下国衆指揮官」と「旗本衆」の間で“激論が交わされた”と観ているのだ。
故に、「軍議の中」では「指揮官<旗本の関係」から“「愚策と実行」”と成ったのだ。
この「旗本」とは、何と伊川津に関係する「東三河の大久保氏や本多氏等」等が主力であったのだ。
それだけに云う事を聞くとしていた「東三河の旗本等」は、「約定のある事」も知らずに独りよがりで、“立場が無く成った”としたのだ。
故に、そして、「偵察隊と云う形」で体よく“城から追い出された経緯”と成ったのであろう。
当然に「城からの情報」が入らない侭で追尾する事には成ったが、最終的に危険が伴うとして、「青木貞治」は周囲に危険を冒してでもこれを補完して「軍議情報」を流し、「額田青木氏の一族を救う事」としたのだ。
そして、「情報の途絶えた額田青木氏の南下国衆」に対して、「青木貞治」は「最後の軍議情報」を「秘密裏」に「額田青木氏」に提供して、且つ、万が一場合には「遠州秀郷流一族一門の救出援助・駿河相模の青木氏・史実」をも頼んだと成ったのだ。
現実に時系列の記録から動き始めていたのだ。
其れで無くしては、「伊賀者・伊賀青木氏の香具師等」で援護しながら「伊賀越え」で「家康」を救った若い「遠州青木氏の貞治の子孫・青木長三郎・貞治の長男・三方ヶ原より9年後」は遺らなかった筈であった。
故に、「偵察としての城への情報」としては記録されていないのだし、「伊勢の資料」にはその経緯を辿れる程度に功績を遺しながらも、「三河」には適正な記録が無いのは「右筆の原石」が後に成って都合の悪い事は一切消し、そして「後付け」で都合よくこの「歴史」を塗り替えた事でもあるのだ。
従って、「一言坂の偵察隊後の追尾」では、「最終軍議の参加・情報入手」には無理であったろう。
そこで、「今後の事」も含めて密かに、“青木貞治から「軍議の情報」を獲得した可能性がある”のだし、故に、本来戦術の「鶴翼の頭部の位置に陣取る」と云う「命令」も無かった事に成る。
これ等の事は、今まで「論調」が余りに複雑に成る為に論じて来なかったが、その「詳細部分」であって、然し、その「一族の青木貞治と云う重要要素」を勘案した場合に、この“「拒否説」”は放置できずにこの「追論」が出る事に成ったのだ。
この“間尺に合わない問題”は、この“「拒否説」”にあって、「上記のイから二」に付いてもこの「拒否説論に始まる・物議に依る激論」と観ているのだ。
これが、後の「戦線離脱」や「陸運業」を容易に成し、早期に得た「決断の基経緯」と成っているのだ。
さて、続けて追論として、次に論じるのは“「鶴翼の銃の威力の理窟」”であるが、唯、これも、又、何とこの「通説」は異なっていたのである。
然し、他方、「武田軍本隊」も「堀江城」で、“「一日」で墜せる見込みであった“が、実はこの「時系列」で観ると「二日の籠城の激戦と延4日所要」と成っていた事が判るのだ。
それは二俣城から山県軍の別動隊の補給基地地築造隊か三方ヶ原に三日後に到着する予定であったとして、この侭では本隊が別動隊を三方ヶ原で補完できない事が起り、1日遅れる事は「松平軍5000」に山県軍の別動隊の実戦の2000の兵が潰される事に成るとしていたのだ。
この「計算」が狂った「武田軍の本隊」は、其の後、「松平軍の二つの情報・野戦情報と鶴翼戦情報」を獲得して、そこで「武田軍の本隊」も慌てて「三方ヶ原への手立て」として「補強路確保と山県具への援軍」をする必要に迫られていた時系列と成っていたのだ。
その為に「武田軍の本隊の大軍」も遅れて「堀江城開城の条件」を“城兵全て助ける事”で「1日分の短縮」を図ったのだ。
この“堀江城の200の城兵は空の浜松城に入った”とされているのだ。
そして、当初は“「三方ヶ原の北側」”に陣取る為に先にも慌てて「三方ヶ原の補給構築拠点」に向かったとする時系列であるのだ。
ところが、そこで「三方ヶ原」での「松平氏の先取りの陣取り方・西向きの鶴翼の陣形」を知って、元はそこで「武田軍」は、当初からの作戦として「北から南に向かって陣取りをする作戦」であったが、西から東に向かっての「応変の結果」と成って仕舞っていたのであった。
この事で、別動隊の合流が出来ず、これで「山県軍の別動隊の計画・北から南」は狂ったのだし、本体も鶴翼の陣形から相手が「予想外の鶴翼陣形・多勢の陣形」であった事から受けて立つ為には不利な「魚鱗の陣形・無勢の陣形」に行進中に変更せざるを得なく成ったのだ。
武田軍に不利な条件が重なってしまったのだ。
そこで止む無く、進軍中の「山県軍の別動隊・補給拠点構築隊」は、「北の山際に停留する事・当初の計画の位置」を強いられたのだ。武田軍本隊と山県軍別動隊とが結局分離された結果と成って仕舞ったのだ。
松平軍に執っては「山県軍2000の兵」を本隊から切り離しした有利な結果と成ったのだ。
この「松平軍の有利な点」を「山県軍の別動隊」は本隊を救う為に有利にする様に知恵を働かせたと云う事に成ったのだ。
そこで先ず「山県軍の別動隊」は、向後の憂いを無くす為に遅れて「二俣城の周囲・国衆軍団が反乱して騒ぐ」を改めて掃討し、「二俣城処理中の別動隊」が「補給路」を造り上げる為に急いで三方原北側に向かっていた。
元よりこの「計画の打ち合わせ・三方ヶ原」であった事から、「武田軍の本隊」も、“これは危険”と観て、急いで「作戦」を変更して「山県軍の別動隊の救出」に急いだ。
そこで「三方ヶ原の北側・山際沿い」に先ず向かい、そして「山県軍の別動隊」が着くのを待つ予定であった。
ところが、結果として間に合わず東西に構える不利な形と成って仕舞ったのだ。
戦術としては鶴翼の陣形>魚鱗の陣形であった事から本隊としては全て大軍でありながらも持久戦に持ち来れれば不利な条件に置かれていたのだ。
そこで、「山県軍の別動隊」は合流する事は出来ず、後は元の計画通りに「北側に陣取る形を執る事」に成って仕舞ったのだ。
この珍しい陣形となって「山県軍の別動隊の執るべき作戦」は唯一つと追い込まれたのだ。
それが、「武田軍本隊」が魚鱗で対抗する前に、「山県軍の別動隊」が「松平軍の鶴翼の先端の頭の部分」に突撃する以外には本隊をより有利にするには戦いの始まる前にする事しては通常戦法では無く成ってしまったのだ。
結果として、後は鶴翼の陣形を決死の覚悟でこれが「鶴翼の頭の側面」を突く事に成り、「戦略的な鶴翼の陣形の意味」が無く成って仕舞って総崩れと成ると考えたと云う事だ。
経緯論として観てきた結果から其処に「思わぬ落とし穴」が有ったのだ。
さて、この検証としてこの経緯の結果から、ここで「一つ目の疑問1」が出る。
それは、「額田青木氏の南下国衆の銃隊」が、「武田軍本隊」を追尾していた事を知りながら、“何故、「三方ヶ原」に向かったか”である。
普通なら後ろを着いてくる筈と思う筈である。現実に隠れながら追尾していた。
更に、「二つ目の疑問2」は、「松平軍=山県軍の兵力」として「兵数としては同じ勢力・築造兵含む」でありながら、何故、「武田軍の本隊」は「山県軍の別動隊の支援」に向かったのかである。
勿論、築造兵3000が実戦兵で無い事は知っていた筈である。
普通は行く行くは「本隊」が行く以上は向かわないだろうし、「松平軍」もその事は充分に認識できていた筈だ。
「山県軍の別動隊」が、三方ヶ原に“早く着くと云う事”に成り「西側に位置する事」とすれば、却ってこの事で「二つの武田軍の陣形」が西側で整う事に成る。
これは速く「三方ヶ原の戦場」に着いた「松平軍」には不利と成り得る。
それと、「三つ目の疑問3」は、「松平軍の鶴翼陣形の向き・西向き」である事である。
この「三方ヶ原の地形」は南の浜に向かって「下り坂の地形」にある。
そこを西向けに陣形を採る事は活動としては斜めの地形であって好ましくない。
本来であれば北の浜松城を背にして北向けて陣形を採るのが普通である。
「一つ目の疑問1」は、勿論、直前でも経験した「南下国衆の銃力の威力」に「脅威」を抱いていた事である。
「二つ目の疑問2」は、「別動隊」であるが、基本は「補給基地築造隊」が主目的であった事である。
この「二つの事・疑問」と連動して、これが「一つ目の疑問の答え」でもある事だ。
「三つ目の疑問3」は、西から来る誘い出した「大軍の武田軍の本隊と対峙する事」と、「松平軍の陣形」が西に向く事で遅れて来そうな「別動隊」に二俣の方から「背後を突かれる危険性」があった事だ。
何れの「三つの疑問の1、2、3」には「松平軍」に執っては「三方ヶ原」と云う「無理な野戦を選んだ事」が左右しているのだ。
そこで、これ等を補完する意味で、「額田青木氏の指揮官」の「自らの判断」で止む無く「南下国衆の銃隊」が、“「南左の鶴翼の付け根部」に「青木貞治隊の救出の為」に位置した”と云う事が先ず考えられる事だ。
筆者は、寧ろ、“位置した”と云うよりは、「上記の物議の軍議の結果」から、“そこに居た”と云う事ではないか、又は、“居る事に成った”として、故に、“「家康の独自の判断」”で「陣形」を、急遽、「軍議」に基づくものでは無く、“戦場で西向きの鶴翼にした”と考えているのだ。
そう成る事で、「額田青木氏の南下国衆の銃力」が“武田本隊と山県軍別動隊の左右の軍に対して「総合的な破壊力を示す事」が出来る”として、“「武田軍の本隊」に対して斜め西に向けた”と考えられるのだ。
然し、「軍議」で「当初の思惑」は大きく崩れたが、最早遅いので当初の通り計画を実行せざるを得なく成ったのだと観ている。
何故ならば、「家康側からの考察」から観ても、そうする事でもこの「上記の疑問の123」の「三つの問題」も解決出来る。
つまり、突き詰めると結果として「山県軍の別動隊は遅れている事」もあるので、“絶対に戦闘に参加せずに、「様子見」してその「時期」を観て貞治隊を救い出すと観ていた”とする「遅れ説」の説に成るのだ。
ところが、ここで更に「思わぬ事」が起ったのだ。
それは、この「山県軍の別動隊」は、予想を超えて突然に“「補給拠点築造兵が突撃隊に凶変したとの云う事”であるのだ。
つまり、「家康の咄嗟の決断」は、“両軍の全ての思惑は狂ったと云う事”の説に成る。
もっと云えば、「額田青木氏の南下国衆の銃隊」に依って、先ず結果として「山県軍別動隊2000以上の犠牲」を負ったが、「残る兵」は最後尾に着いていた「補給拠点築造兵の非戦闘員」が全てであり、「銃の難を逃れる為」に留まらずそのままの「勢い」で生死を掛けて「浜松城」まで走り抜けたのである。
従って、これが下で「浜松城を攻める事は出来なく成っていたと云う説」に成るのだ。
「額田青木氏の南下国衆の銃隊」は、この“2000の戦闘兵を狙撃した”が、「残りの非戦闘員」を銃撃せずに、先ずは「青木貞治の隊員」を先に救い出し、直ちに自らも「戦線離脱した事の説」に成るのだ。
武田軍本隊は、「青木貞治の隊員の救出」の為に補完銃撃して「救出の手助け」をしているのを観た。
そこで、又、「武田軍の本隊」も「一言坂銃撃の様な尋常じゃない威力の額田青木氏の銃隊」が救出後にも続けて「武田軍の残りの非戦闘員」を銃撃しなかった事」をも観た。
続けて「武田軍本隊」は、「攻め込む事」もをせずに、且つ、「掃討作戦の為の武田軍の掃討本隊」と同じ方向に向かう「救出後の青木貞治の隊員の戦線離脱の黙認放置・盤田見附の西光寺に向かう」をも“無条件で許した”と成る説である。
だから、幸いにも思わぬ事が乗した様に「両軍・武田と松平軍」に起こりながらも「青木貞治との約束」も「自らの行動の事」も円滑に成せたのである。
これが両方の時系列から追った史実である。
この中に挟まれて額田青木氏と駿河青木氏の生き残りの経緯が起こったのだ。
ここで注釈として、故に、「家康」から、後の「伊賀越えの協力の事・1」も、「伊勢の事お構いなしのお定め書も獲得出来た事・2」も、更には、「紀州藩の初代」には「家康」が最も信頼していた「水戸藩主だった「優秀な頼宜・遙任」を、態々、「初代紀州藩主・大正14年まで親交」に挿げ替えた事・3」も、その後の「勘定方指導」などの「絶対的な協力体制」を築いた事・4」も、上記したこの「4つの行政事」の、これ等全てはこれ等の“「詳細経緯」”から始まっていたのだ。
この“「1から4までの詳細経緯」”が無ければ、「青木氏の歴史観」としての「額田青木氏と駿河青木氏の正しい戦記」は成り立たないのだ。
さて、もう少し論を戻して
ところが、「上記の詳細経緯」では、「武田軍の本隊」が「三方ヶ原」に到着すると、既に「東側」に「松平軍」が何と“「鶴翼陣形・多勢系」”で陣取っていたのだ。
「松平軍の軍勢・織田軍は軍監目付の形式合力たけ」の「戦力」は、「武田軍の幌者の情報」で知り得ているし、要は「織田軍の援軍の数・実際には軍目付け・軍監だけ」に依るが、“「織田軍」も西で戦っていたので多くを出す事は出来ないだろう”と「武田軍の本隊」は読んでいたし、又、「弱体の足利幕府」と敵対して「織田軍の利害」や「西に引き付けられている現状」の「二つの現状」を考えた場合は、“"松平軍は間違いなく少ない”と「武田軍本隊側」では確率よく観ていた筈である。(資料により史実)
この事に就いては歴史観として配慮の一つとすると「史実」であって、「織田軍の軍目付・軍監の軍勢の偽情報」のこれは「三河東域と駿河西域を制圧しようとしている武田軍」を、これに対して「何とか策謀で動かそうとしていた織田軍側の裏策略」であった事が、全ゆる資料から判明している。
依って、「この事を前提にした戦略の読み込み」では、“「野戦では無い・籠城戦・長期戦」”と観ていた「武田軍の本隊」は、“この「陣形の急変」に驚いた事になった”と「時系列」はで成り立つのだ。
それは、そもそも「多勢が採る鶴翼の陣形」では無くて、「三方ヶ原」で「待ち受けている松平軍」は間違いなく「無勢が採る魚鱗の陣形」と観て“と執った行動であるからだ。
「堀江の解放・敗戦」を見定めた「松平軍」は、上記の「時系列の経緯」では、この時に“「三方ヶ原の野戦」を選んでいた、そして12/22日、早朝に「浜松城」を出た”と事に成る。
これは「武田軍の本隊」が、元より「別動隊を待つ計画」で、到着後に一斉に「浜松城攻め」で「北の三方ヶ原」に補給基地と本陣を構える予定であった事」が判るが、ところがそれが「齎された偵察の情報」では違っていたのだ。
更に、以下の時系列について詳細な経緯の検証を進めると、「額田青木氏」に付いてもある事がこの時系列で観えて来るものがある。
この「重要な時系列」は次の通りである。
「堀江城 12/21~12/22」 朝に落城
「浜松城 12/22」 朝出陣・三方ヶ原・2時間で到着
「松平軍・鶴翼の陣形」 12/22・10時・昼前に構え終了
「堀江城の結果・開城」 「12/22・早朝」に三方ヶ原で確認
「武田軍本隊」 「三方ヶ原 12/22」 昼過・2時間で到着
「武田軍別動隊」 「三方ヶ原 12/22」 15時に到着
「武田軍全軍」 「魚鱗の陣形 12/22」 16時前・「陣形」を整え完了
「武田全軍」と「松平軍」 12/22 16時 開戦・2時間・18時に完了
さて、そこでこの「時系列」から観えて来るものとして、「一言坂の本隊との遭遇戦」には「額田青木氏・国衆・銃隊」に執って興味深いものが、この「時系列の中に一つある」のでそれをここで論じて置く。
そこで、先ず、「武田軍の本隊」は南下して4隊に分けたとある。
「守備隊の信玄本隊」は、「諏訪」から「東三河」の「武節-長篠-遠江-岩村」と全ての支城を落として後に、“「東の二俣」に向かった”とある。
「他の3隊」の「秋山、馬場、山県隊」の夫々の隊は、「北三河」に続き「東三河」と「遠江の境」までの「出城の全て」を瞬く間に事如く落としたとある。
そこで、これで「右側の勢力の憂い」を排除したので、そうすると残るは「掛川や高天神等の駿河との境城」は
「戦略的に東西の秀郷流一族一門361氏と戦う事」に成るとして、これを時系列では後にした事に成っていて、先ず「浜松城に狙いを定めた事」に成る。
その為にだから「武田軍の4隊」が、別々に「北の二俣城」に向かおうとしていたのだ。
この時、この「4つの動き」に対する為に、「家康」は「不得意な一言坂の無理な野戦」に出て防ごうとした。
然し、その結果は完璧に悲惨な敗退を期し「浜松城」に「家臣の身代わり」もあって命からがら逃げ帰ったとある。
この時に、「劣勢の状況」を脱する為に「東三河の吉田城」から「家臣の守備兵」では無く、「国衆」の「額田青木氏・国衆の銃隊」を呼び寄せたとし、「41k東の浜松城」に向けて先ず「昼夜の徒士10時間半の道則」で到着させた事に成っている。
ここで、では、“何で、呼び出しに応じたのか”の疑問が残る。
そもそも“「軍議で命令を拒否する」”のであれば、その前の“「吉田城呼び出しの時」”に拒否しても同じである筈だ。
然し、この「呼び出し」に応じたのだ。
これには何かの配慮が「額田青木氏側」にあったとしか思えないのだ。
それが、“「額田青木氏の救出」”に有ったと観ているのだ。
この時、「三方ヶ原の戦況不利」は「青木氏の情報管理をしている伊賀青木氏」から「秀郷流一族一門、又は貞治本人」を通じて伝えられていた」と観ていて、「国衆の立場・契約条件があった」である限りはこの「救出の大義の機会」を伺っていたのだ。
それは何かであるが゛、これは「軍議の内容の歴史観」でハッキリとしているのだ。
丁度、この時、「武田軍の本隊」が「北の二俣城」から南に向かって「海寄り」の「東の一言坂入り口」に到着した処であった事に「時系列」では成る。
この時、「額田青木氏の銃隊」は、「上段と上記の軍議」で「命令」を拒否した為に「城外」に放り出されていた。
そして、その後に、「武田軍の動向」が城から見えているにも関わらず「意味の無い作戦」として何と「一言坂偵察」を命じられたのだ。
“「軍議拒否」”で、“全滅するだろうと見込まれる命令”を敢えて出したのだ。
ところが、ここで、当然に「額田青木氏・国衆の銃隊」と「武田軍の本隊との遭遇戦」が「史実の通り」に起こった。
初めて「額田青木氏の戦闘」としての「近代銃の火蓋を切った事」に成ったのだ。
この「遭遇戦」は、前段で論じた通りで「武田軍」とは「2度目」である。
一度目の「第一次吉田城の銃撃の脅威」を知っていた「武田軍の本隊・銃に圧倒されて持久戦と成る」はその後引き上げる結果と成ったが、この「額田青木氏の350の銃隊」に対して、「坂途中3000」と「背後に廻った西坂下3000」に追随した形で「坂下に100銃隊」を配置して迎え撃とうとした。
然し、何と「武田軍の本隊」は、「額田青木氏の一度目の銃撃の凄さの撃音」を聞いてだけで、あり得ない事に戦わずしてこの「射程距離外・約1k」にまで後ろ向きでずるずると逃れ後退したのだ。
“余りの凄さに「坂の武田軍本隊」は、「完全無抵抗」で「坂道」を譲った”と云う「戦記の戦歴」であったとある。
そして、そこで「額田青木氏の銃隊」は、敢えて「威力の銃撃」を停止して、「西の坂下」を牽制しながらも、先に通り越して降りて、“「浜松城の北東の小山裾の位置」で先に待った”とある。
この“「待ったと云う事」”に意味がある。
一言坂で銃撃戦を続けなかった事なのに、何で“「待ったと云う事」”に成ったと云う事なのかである。
それは、“「武田軍の本隊の通過」”か、“「浜松城攻め」かの見極めをする事”のこの「二つ」にあって、これを“待った”として、「読み込み」では、“「見極めるとする事」”で観えて来る事なのだ。
要するに目的以外の事はしないとしていたのだ。その「目的」とは世事情を出るとはの初期の目的達成であった「駿河青木氏の救出」に有ったのだから余計な戦いはしなかったと云う事であって、従って、敵は武田軍では無かったと云う事なのだ。だとすれば時系列は全て符号一致するのだ。
取り敢えず、「意味の無い偵察命令」は、兎も角も終わらせ、「額田青木氏の銃隊のする事」はこの段階では最早後唯一つであった。
「軍議命令を拒否」の為に「城外」に放り出された以上は、その後の「行動の決定」は「額田青木氏の銃隊」にあって、そこで「採るべき行動」は、それはこの時は未だ唯二つ遺されていたのであった。
「武田軍の本隊」に対しても、「松平軍」に対しても、先ず一つは、“安全にしてどの様にして「伊川津」に戻るか”であった。
然し、もう一つはその前に先ずは「駿河青木貞治隊の救出」があったのだ。
この段階では敵・松平軍」と見做されていただろう「武田軍本隊」の前を、急いで逃げる事は背後を襲われ危険が未だあったのである。
だから、そこで「武田軍の背後を追尾する事」にしたのだ。
それは、“いざ襲われる”と成ると、「銃弾」を浴びせられる「北東の位置」とすれば、精々100m~300mの小高い丘の上と成る。
これが「史実記載の通り」であり符号一致する。
これは「武田軍の浜松城の武田軍本隊の通過路」に関わる事だ。
これが検証できれば、「潜んでいた位置」が確定でき、「その後の動き」も確定できる。
「戦記」では、「小沢の位置」とされているが、この「小沢の位置」とは何処かであり、史実と一致させられるかである。
先ず、「大軍」である限り「細い道」は周囲から狙撃されて通れない。
当然に「大軍」である限りは「近道と云う考え方」は間違いで「大道路」と成る。
「二俣城」より真直ぐに南下して「一言坂」を東から西に向けて通過したと成ると、「大道路」としては、「現在のR45号」と成るが、これでは「一言坂」は通らない。
そうすると、「天竜川の東横」の「現R44号・真南・18k」を通り南下して、「一言坂」に東から到達し、これより「真東1.5kの位置」から西に直角に「旧道・県道現413号」に入り、そこから「天竜川」を渡り、その「5.5kの位置」から、その後、「旧道・現312号」を更に「西に向かう事」で旧道を通過する事が出来る事に成る。
「武田軍の本隊」は、この「一言坂・坂下・12分・1kの位置」から「旧道・312号」を通り「旧道・152号・2時間半・12k」に繋ぎ、西の「浜松城」の「真南400mの所」を「城」を基点に円を描く様に半円で廻り、そこから「旧道・257号・1時間・5k」を北進した事と物理的に成る。
又は、「城の北に廻る道路」の“「六間道路・1.5k」”を大通りを通り、“「館山街道」”に出る事もあり得るが、元はこの「道幅」が記録に依れば「4間程度・6m」で狭かったとあるので先ずあり得ない。
「戦記通り」に「城の南に廻る道路」を通ったとすると、「城より北進約5.0k・1時間」を進んだところで、今度は「堀江」に向かう為に「直角」に「西」に「館山街道」を「旧道・320号・2時間半・11k」で「真西」に向かい最終は「堀江城」に到着したと考えられる。間違いはなないだろう。
「戦略上の観点」から、これが「武田軍本隊」が「通過できた唯一の経路」であろ事である。
従って、この「武田軍の本隊」が、この「ルート」で“堀江城に向かっている事”を知った「額田青木氏の300の銃隊と荷駄50」は、此処の事からこの「堀江城」は作戦上は直ぐに落ちる事を間違いなく充分に察知していた筈だ。
そこで、「額田青木氏の銃隊」は、「武田軍の本隊」が「松城城通過」を知って確認した上で、「館山街道の交差点」を西に向かった事に成ったが、ここが「伊川津に戻る選択点」でもあったのだ。
然し、ところがここで「情報」が救出しなければならない「駿河青木氏の青木貞治」から「重大な情報」がこの分岐点の処で入ったのだ。
この時系列で「吉田城」から「浜松城」に向かった理由が、「駿河青木貞治隊の救出であった事」がこの「時系列の検証」で証明しているのだ。
この時、初めて「決戦の戦場」が、「武田軍の補給基地として観られていた三方ヶ原」と知って、「駿河青木氏を救い出す為」に「時系列」として「堀江に向かう武田軍の交尾」を背後に観て走った事に成るのだ。
然し、「4時間半」で「三方ヶ原」に到着した時には、既に「連合軍と観られる家康・実際に連合軍に見せかけていた」は、「三方ヶ原」に既に到着し、「上記の鶴翼の陣形」を何と西に向かって敷いていた時であったのだ。
ここで「重要な問題」があって「救出目的」の「額田青木氏の銃隊」に発生したのだ。
それは通常であれば、遅れて後から入れば、この「陣形」からすると「定着位置」として「着く所」は、「鶴翼の頭部分に位置する事」にしか無く成るが、既に陣形が出来ていた事から、この事では此れはそもそも「作戦に参加する事」に成り好ましく成る。
それは「救出の作戦」は不可能と成り得てそもそも採れないのだ。
そこで、これは「軍議でそもそも断った命令」でもあった。
それは、「鶴翼左の最西端に位置する事/武田軍の最先端に近づく位置」の以外には「松平軍の無い所」は無いのだ。
゜時系列の検証」から、元より「三方ヶ原に戻った理由」は、「駿河青木氏の青木貞治隊を救う事」にあったのであるから、「駿河青木氏の青木貞治隊」の「執るべき救出の位置」は、何と最も危険な「伊川津国衆連}が配置されている「左鶴翼の先端の先」に位置するしか無く成っていたのだ。
要するに、「額田青木氏が戦場に着いた時の位置」から、「救出の為に銃撃補完する」としても何と「最も難しい位置」の「斜め左最端西」にいた事に成るのだ。
何故ならば、前進を阻む為に「武田軍本隊の先頭」に向けて銃撃するとしても、その「銃口」は「駿河青木氏の青木貞治隊」の「前進している左端」を掠めなくてはならない事に成る。
且つ、その「弾丸」が「味方の額田青木氏の銃隊の斜め横」を斜め西に家て通過する事に成るのだ。
この事は、「弾の補給」や「補助隊員・50人」の「補完行動の効率」の悪い「制限された身動きが取れない構えの陣形」に成る事は必定であった。
そこで、「額田青木氏の銃隊の指揮官と副官の貞重と貞秀」は、戦後に「伊勢に遺された記録」では、この時に「その一案を案じた」とされているのだ。
それが、“一斉に「武田軍本隊」に目がけて前進を阻む為に、先ずは「弾幕」を張る。
そして、その「爆煙」に依って「前方」を隠す。
次にその「隙間」に応じて、ここで「救助に当たる者・補助隊員・50人」が繰り出される。
そこで「駿河青木氏の青木貞治隊」を「銃隊の方に導く」と云う事をする。
この「作戦」を建てたとされている
そして、それを「伊賀青木氏」が、“「館山街道の見附」”から走って伝えたとしている。
これ等の事を「駿河青木氏の青木貞治隊」に事前に最終伝えたとされるのだ。
さて、ここで「休憩」を執っていた“「館山街道の見附”の横」から「この情報を持った伊賀青木氏の忍者」を「三方ヶ原」に着いた頃の「駿河青木氏の青木貞治隊」に走らせたとある。
その後は、「盤田見附の菩提寺の西光寺」に向けて走り逃げ込む事にした。とある。
一方では、「額田青木氏の銃隊」だけは、「武田軍の本隊の直ぐ側面」」を「銃を構えて走り抜け」て、上記の通りに「西の二俣路に成る“「六間道路・1.5k」”を通り、その“「館山街道の見附”の交差点」を「伊川津」に向けて「怪我人を乗せた荷駄車」と共に懸命に走ったと概ねで記載されている。
ここで、「特記する事」は、特別な事がおこっているのだ。
「武田軍勝利後」に編成された「武田軍本隊の追討軍」は、予想外に何故か次の“「二つの事」”をしなかった事が記載されているのである。
それは先ず「一つ」は、追討していながらも「盤田見附の菩提寺の西光寺」に逃げ込んだ「駿河青木氏の青木貞治隊」を寺から追討せずに黙認して本隊に戻って行った事である。
「二つ」は、本隊の横を悠然と通過して行く「額田青木氏の銃隊」を攻めず追討もしなかった事である。
結論から筆者は、「額田青木氏の銃隊の指揮官・貞重と貞秀」が「武田軍本隊」に対して「感情的」には、“全く敵意が無いと観て執っていた事”と、「戦術的」には、“「経験した銃隊の脅威を避けた事」の、この「二つ」が共通して「指揮官の青木貞重と貞秀」や「指揮官の青木貞治」には「敵意」を全く感じ無かったと観ていたのではないか。
だからこの「救出作戦」は計画通りに成功したのだと考える。
それは「額田青木氏の銃隊」にしても、「駿河青木氏の青木貞治隊」にしても、要するに「三河国衆で無かったと云う事」に尽きる。
「額田青木氏の銃隊」は「伊川津・渥美湾」を下に「伊勢との繋がり」の中で「殖産を築こうとしていた事」と、「駿河青木氏の青木貞治隊」にしては、「国衆の立場」から「伊勢」と共に「殖産」を商い、それを元にして「松平氏の近習・家人近習衆」に食い込んで「駿河水軍の殖産を高める事」にあったのだ。
共にこれは「大成功」を治め、「殖産をする企業家の青木氏」と成り得たのだ。
この結果として、「伊勢水軍と駿河水軍」とを通じて、「三つ目の目的」の「伊豆の安定化とパイプラインの再構築」が成されたのである。
さて、「三河戦記」での「時系列」をもう一度追って観ると、他に「青木氏の歴史観」に執って観えてくるものが有るので「読み込みの検証」をした。
これが12/22日 「三方ヶ原」に向けて「早朝」に出発したとある。
さて、ここで、まず「問題 1」に成るのが、「松平軍」が「夜明け」と共に発進し「三方ヶ原」に向かって「到着した時刻・12/22日 朝10時半頃」と時系列では成って来る。
そして「武田軍の本隊」が、「浜松城」を通過した時刻・12/21日 17時半頃」である。
ここにはある「疑問を持つ時間差」であるが、それは、何と“「17時間半差」”である。
とすると、「額田青木氏・国衆・銃隊」が、この間、“「三方ヶ原」には未だ走っていない事”に成る。
つまり、「12/21日 17時半頃~12/22 10時半頃」は、「松平軍」は、この問題の“「17時間半差」を何を三方ヶ原でしていたのか”である。
そもそも、“「三方ヶ原まで徒士で2時間半」で到着する”のである。
従って、計算では、“「朝8時頃初期の発進」”であるが、ところがこれを「戦記」では、“「夜明け」”としているので変である。
この「冬の1月25日」の“「夜明け」”では、速くても日本列島の「東の三河」では、“「朝6時頃発進」”と成るだろう。
とすると、“「戦記の夜明け」の「朝6時頃」”と、“「計算」での「朝8時発進」”との間には“「約2時間差」”がある。
つまり、「朝6時頃発進」~「朝8時発進」に、随時、「松平軍」は「浜松城」を発進して行った事に成る。
この「2時間のギャップ」は当然の事として起こるので、ここの部分の「戦記の記載」は正しいだろう。
要するに、「松平軍」は、この「発進」の「朝6時頃発進の頃」の直前まで先ず延々として“「夜明けの朝まで城で軍議であった事」”に成る。
然し、この「記録」では、この時、既にその「3日前」に「軍目付・軍監の3人」は、“「美濃尾張に向かって帰参中」”と成る。
この間に、「武田軍の本隊」は、「堀江城」に到着次第、直ぐに急ぎ攻め掛かった頃に成る。
「松平軍」の方は、「三方ヶ原」に最短で到着次第にして、「時間の掛かる鶴翼の陣形」と決めていたので「組み終わる頃」であった事に成る。
つまり、「当時の陣形が組み終えるまで・戦記の記録を参考」にすると、“「最長では12/22 13時~14時頃」”には、既に、“「戦う態勢を整え終わっている事」”に成る。
つまり、だとすると、「開戦・16時としている」までの「約2時間程度の相当長い時間」をそもそも“何をしていたのか”と云う「基本的な疑問」が湧く。
つまり、そうするとこの「寒い冬の三方ヶ原」で「武田軍本隊の到着」するまでの間」は、「松平軍」は「真冬の原で何もせずに“2時間程度”も待っていた事」に成るのだ。
つまりは、最短で「12/22 “10時半頃”」には、到着し、何と夕方の「12/22 “16時頃”」には「三方ヶ原」で開戦しているのだ。
一方、「武田軍の本隊の先頭」は、この“「12時頃」”に「落とした堀江城」を発進し、“「約4時間半」”を架けて走って、「魚鱗の陣形・赤兜の騎馬隊6000」を前に整えながら、「三方ヶ原」に到着している事に成る。
何せ何れも“4時間走ると云う疲労は大きかった”と考えられる。
「松平軍は冬の三方ヶ原で待つ疲労感・2時間」と、「武田軍は三方ヶ原まで走る疲労感・4時間」である。
「堀江の落城」は「囲み三攻め」であるので余り労苦は使っていないとしているので計算外と観る。
「三方ヶ原」に着いてから、“少ししてから開戦”と成ったとしているが、この時、上記した「駿河青木氏の青木貞治隊」を救出する為の「額田青木氏の銃隊の煙幕」で、「武団本隊の進軍阻止のタイムラグ」が発生している。
然し、この“「進軍阻止のタイムラグ」をどの程度と観るか”である。
つまり、これは要するに「救出時間」であり、この間に「武田軍本隊と山県軍の別動隊」は進軍を「待つ事」に成り、時間的には「疲労解除の有利な時間差」と成る。
これをどの程度と観るかであって、それには「弾幕」は固定できるが、その「弾煙の消えるまでの時間」には幅が生まれる。
それの「消えるまでの時間幅が働いていた事」に成るので、少なくとも実質は連続射撃であったとしても“1時間以上とはならない”であろう。
「1時間以上」では、「日暮の時間や寒さの疲労等」が生まれて両者に執って好ましくない筈で、この“「無理攻め」が起こる事”に成り兼ねないが、それを匂わす記載は無い。
従って、実質は、“精々0.5hで救出しなければならなかった事”に成る。
“両者に0.5h相当のアイドリングが生まれていた”が、これは当に“疲労の大きい武田軍本隊に有利に働いた”と観られるのだ。
故に、敢えて「勝負に関係のない救出劇」は“都合が良かった”し、「山県軍の別動隊の行動・判断力」に余裕が出来ていた事に成る。
「不利な状態の武田軍本隊」」を「救うタイミング」が執れ、且つ、だからその「判断の結果」は「少ない兵力・2000」で「松平軍の側面・5000」を突撃で突くと云う事が出来たのだ。
この計算からすると、「武田軍本隊の疲労感」は実に大きかった事に成る。
とすると、“「山県軍の別動隊」は、この本隊の疲労感を気にしていた事に成る。
この間どうしていたのか”と云う疑問の検証が全段でも論じた通りで、もう一度ここで必要だ。
それは、「北東の二俣城・13.5h~14.5h」から発進し、やや遅れて「武田軍の本隊の到着・16時頃」より「約0.5~1.0h程・16.5時~17時頃遅れ」の所で、「約3h~3.5h」を駆けて「三方ヶ原の真北の山際」に到着している事に成る。
この「山県軍の別動隊・5000/2000兵」も行軍に依っても疲労している。
そこで「武田軍の本隊の開戦準備体制」に入ってている事を観て、「最大1h遅れの山県軍の別動隊・補給拠点構築隊」は、この「本隊の危険」を察知した事に成る。
そこで、突然に「北の山際道」から「隊が整うか整わないか間隔」で、“「命令外・使命外の行動」に出て突撃した事」”に成る。
故に、この「時系列の読み込み」では、「本隊を助けた事・本隊が整うまでの時間稼ぎの行動」と読み取れるのだ。
そして、更にこの「戦況」は、「山県軍の別動隊」が「鶴翼の横腹を突く事・弱点」で偶然にも圧倒的な勝利に終わり前段で論じた通りと成ったのだ。
その意味で、その後の「浜松城の攻め落としを成さ無かった使命ミス」は、兎も角も「主戦闘隊」ではない「山県軍の別動隊」は、額田青木氏の銃撃で約半数を無くす程の大きな犠牲」を払ってでも「本隊」を辛うじて助けた事と成るだろう。
「武田軍本隊の戦場での陣形」を「充分に整える時間稼ぎ」が「駿河青木氏救出の弾幕・煙幕のタイムラグ」と共に、ここに「本格開戦までの1h弱程度のタイムラグ」が「流れの中」で有利に自然発生的に生まれたのだ。
「以上の説の通り」のこの「武田軍の行動」を察知して、「松平軍が積極的に行動を執ったとするの説・後付け策」では無く、「上記の時系列の詳細経緯」では、「松平軍が先に2時間前に三方ヶ原に向かった事の説」に成るのだ。
そうでないと「時系列」は符号一致しないのだ。
ある意味で、今後の「重要と成った戦記」にある様に、「浜松城の攻め落としのミス」をした「山県軍の行動」に対してさえも、「これらの事/符号一の時系列論」を以て「武田氏の戦後の軍議で許された経緯・正しい臨機応変策」が記されているのだ。
要するに、「事の戦略論」としては“何れの戦いにもこの「重要な基本と成る流れ」を見誤らない行動策”の事となろう。
これはこの現代に於いてでも成り立つ策謀である。
「今後の武田軍の見本と成る戦い」として扱われた可能性があるのだ。
然し、前段でも論じた様に「信玄死亡後の長篠の戦い」では全く行かされなかったのだし、寧ろその逆であったのだ。
「浜松城の攻め落としのミス」の「甲斐のセンセーション」から観ても、「三つの三河戦記の後付け説・好感引導説」であると観ている。
然し、それが「後の長篠での武田軍を滅ぼすミス」と成って仕舞ったのだ。
この時に、「勝頼」が反省していれば「長篠戦いの戦略的ミス」、つまり、「二拠点化で採った山県軍の別動隊の行動」、即ち、「本陣を崩されない為にも二極点化策の無視」は無かっただろう。
然し、この「山県軍の別動隊の半数を無くす程の大きな犠牲」は、「額田青木氏の銃隊」の「駿河青木氏の青木貞治隊救出」の為に採った仕方の無い影響だけであったのだ。
これ等は「現在の現実処理」に於いても学ぶべき「青木氏の歴史観」として、これらの関係する事柄を後の為にも正しく刻んで置かなければならないこれは「大事な史実」であるのだ。
此の世の事は、直前の「事の勝敗、事の成否、事のリード」の「直前の状況」に拘わらず、“「事の流れを如何に早く正しく見抜いた者”が時間が経った「最後の真の勝利」を獲得するのだ。
それには「人間」である限りは、その基点は「冷静に成る事を鍛える事」にあるのだ。
それを獲得した者が「上記した流れを掴む事」が出来るのだ。
これは「青木氏が求める古代密教浄土宗白旗派」の「仏教の密教経典般若心教の教える処」でもあろう。
それが「青木氏の氏是」を正しく理解する処にあるとしている。
そうでなければ幾ら「青木氏の氏是」を護れとしても決して護れるものでは無い。
「青木氏の歴史観論」より
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投稿者:青木 投稿日:2022/12/04(Sun) 10:50:04
> 「青木氏の伝統 73」-「青木氏の歴史観-46」の末尾
> > 然し、“「伊勢青木氏」が何かしているだろう”程度の事は判っていただろうが「秀吉」は手を出さなかった。
> 手を出す事が其れこそ、“火に油の様な事に成る”と観た事に成るだろうし、筆者は""出したくても手も出せなかった“と観ている。
> 一方で偶然に、その「“「因事管隷”の院屋号の立場と専有資格」を持っていたとする以上は、それは最早、この“「因事管隷”の院屋号の立場と専有資格」の「流れ」は、「青木氏族の氏の義務」であって、これがある以上はそれに縛られそれ以外には方法は無かったであろう。
> 「言い訳」は、「“「因事管隷”の院屋号の立場と専有資格」で成り立つが、「秀吉」がこれを聞き入れるかどうかは判らなかった様だが何も無かった。
> 筆者は「因事菅隷説効果」より、事と次第に依っては“火に油の様な事に成る”の説を採っている。
> 「家康」は、「秀吉」と違ってこの「“「因事管隷”の院屋号の立場と専有資格」の「立場格式」を尊重して、“「伊勢の事お構いなしのお定め書」”を出しているのだ。
> そもそも元より「伊勢」には、「天智天皇」に依り「不入不倫の権・平安期のものと違う・伊勢を犯したり侵入したりする事を禁止した」が、この「特権」を「伊勢王」に与えられているのだが、これを追認しながらも「室町期末期の松平氏への貢献」にも感謝しててた。
「全段の額田青木氏論」でこの「詳細」を論じたが、故に“「伊勢の事お構いなしのお定め書」”の送り「感謝状」を与えたのだ。
> ところがこれが何と「吉宗」を仕立て上げたその「伊勢青木氏」に対して、その「吉宗の売裏切り」でこの「お構い無し」は終わった。
以後は幕府と「犬猿の仲」と成った。
> 逆に、「紀州藩・大正14年まで続く」とは、それまでもそうであったが、「青木氏に上位の立場」を与えながらも、“管鮑・かんぽうの交わり”、又は、 “刎頸・ふんけいの交わり」”と云う「不思議な関係」に成って行ったのだ
「青木氏の伝統 74」-「青木氏の歴史観-47」に続く。
その頭角は、“「貿易に依り高い技術を求める事・中国貿易は超えていた」”には成っていたが、「鉱石と製鋼の技術」のみならず、「鉱山の火薬・爆破の技術・砂鉄には無い」にも繋がる事で秀でて、其の事に依ってその「技術の完成」が、「因事菅隷に依る近江の鉱山開発」に生かされた。
前段で記した紆余曲折の末にこの技術を習得した「額田部氏」は「臣の官位」を獲得するまでに至ったのだ。
別出自とされる「出雲国の額田部氏・臣」を遥かに凌ぐ立場を獲得する結果と成ったのだ。
結局は「彼等の協力」を得て「鉱山開発の総合技術」は進み、結果として“「2鉱山から4鉱山」に増やした。
この”事の意味は大きく成り、それが無ければ、“鉱山開発を増やしたの経緯”は無く成っていたのだ。
其のままでの技術では「無理に繋がる事」に成り、その為にも先ずは「院の屋の商業化」であったのだろう。
故に、「鉱山開発の院」のみならず「院の屋の号」をも獲得する事と成っているのだ。
然し、考えて観るにこれには「二つの疑問」が湧く。
その「疑問の一つ目」は、この時期に敢えて、天皇から密かに密書としての“「因事管隷”の院屋号」”を持っているにも拘わらず、「伊勢の別枠925年頃の商業化策」は「朝廷」に於いても「危険であった事」なのでは無いか。
この「時期の事」では、慣例上では未だ、“これは朝廷が商いをしている事”と成り得得たのではないか。
然し、寧ろ、「朝廷」はそれを敢えて“「院屋号を思うように許した」”のだか、「その時代が求める必然性」があったと云う事に成る。
そもそもこ「因事菅隷」はその「扱い」は「青木氏だけの密書」であったので、周囲は知る術も無いだろうが。
この凡そ、その“100年後に進めて更に「総合商社化」して「貿易」を本格化さしている。”のだ。
「部経済」によって「朝廷に集まる全ての物」を管理し、それの「余った物」を「市場」に放出して裁き利益を獲得しそれを「朝廷の財源とする役目」を担っていたとすれば、寧ろ、“天皇家が密かに影で商いをしている考え”にあったのではないか。それを当然の事としていた事に成り得てこの一つ目の疑問は解ける。
次は「二つ目の疑問」は、この時、“「女系で繋がる伊勢郷士50衆」はどうしていたのか”である。
資料の一部から読み取るに、この「女系で繋がる伊勢郷士50衆」の「氏族集団」を下に幾つか組を組んでその役割を果たしていた“「特別な下部組織の伊勢衆」”がいたとされるのだ。
それが、歴史上に残る有名な“「200人伊勢村主衆組」が南北に「二つの組」に分けられて「伊勢の民」を長く整えていたとしていて、この「因事菅隷」に基づくものは密かにこの「二つの処理集団」に依って処理され、これが「其れの始り」であったとされているのだ。
この組が南北に二つに分けていたとされ、この組と「伊賀青木氏の情報集団」と連携していたとされているのだ。
丁度、この時期に「嵯峨天皇に圧力をかけられた青木氏」を救ったのが「仁明天皇」であり、更に出自元ではない「円融天皇」から「北家藤原秀郷流青木氏・母方」を永代で、再び「青木氏を賜姓する事」に改めてこれを定めているのだ。
この「円融天皇」はこの「因事菅隷に基くシステム」を知り得ていて、弱っていた天皇家そのものを基礎的に支える集団をより強くしようと試みたと考える。
それが賜姓族を外された後の「因事菅隷の伊勢青木氏」が当に「商社化した時期の50年後」の時期にほぼ一致する。
「鎌倉期の歴史書」にもこの事が書かれている。
この事からも「全青木氏一族」には、“その時代が求める必然性があったと云う事”は否めない。
それが故に、この「上記する経緯」を以てしても、偶然にも期せずして後に上記の様な「銃の鉄」に「良い結果を生み出したと云う事」に繋がったのであろう。
又、それが「額田青木氏の銃の歴史」と成って現れたものであろう。
上記の様に、この「摂津の範囲・秘密裏」で行っていた余りにも「銃に対する高度な技術」は、「上記の事」を充分に理解すれば、「他が真似する事等」は「財と技術と因事菅隷等を含む環境があっての事」で成し得たものであり、他がこの「銃の真似た生産」が「絶対に不可能で在った筈」であり、故に、「三方ヶ原とその後」にも世間には「存在し得ていない銃」と成り得たのである。
「近江鉄の鉱山開発」に、“「因事管隷・賜姓五役」”があった事から「他が真似する事等」は薄々知ったとしても絶対に出来なかったと考えられる。
将又、故に、この「戦後」にこの「殺戮性の高い銃」のそのものも「世間に出す事」は、「密かな護身用」で在る限りに於いては、「青木氏の氏是」に基づき永遠に憚られたものと成り得たのである。
注釈 其の内でこの“「因事菅隷・密書」”を発している相手は、可能性として他に「川島皇子」の「後裔の近江佐々木氏」と「後裔の近江佐々木氏とその系列3氏」と、上記の「青木氏族2流の範囲」に限られるであろう。
筆者はこれらの「献納を成し得ない財の能力」と、及び「因事菅隷財の成し果たし得る組織」の無い氏に対し“「因事菅隷・密書」”を発してはいないと考えている。
これ等は「密書の類」であり処分される常として故にその記録が無いので限定できない。
要するに、少なくとも「皇親族出身の令外官の立場」にあった者への、所謂、「密書の類」であるので「因事菅隷」を出している可能性はそもそも多くはない筈であり、又、遺している可能性も低いし、それを果し得る組織として「伊賀者の様な香具師・情報を担当していた忍者等を有する氏族」で無ければ、この「秘密裏の伝達と保持」は根本的に無理であろう。
と云う事は何度も記する事になるが、「他の高位の氏族」では無理であり、且つ、「内密な密書」と成れば「全く信用の置ける賜姓臣下族」で、それも「血縁性の高い身内」としなければならない事に成り得て、「伊勢の青木氏」で無ければならない事に成っていたと予想できる。
そもそも根本的に「財と秘密裏の情報伝達手段」が無ければ成り立たないのだ。
その意味で、根本的に、所謂、「献納と情報集団」を持つ「二つの青木氏を含む青木氏族」で無ければ成立しなかったのではないか。
取り分け、「経済力を有する事」が先ず前段で論じた様にその「前提の条件」にあり、「献納」に基づく為のそれが大前提条件であったろうし、この二つは「一対」であったろう。
その意味で、毎年、季節的被害に見舞われていた「近江東域」は、その影響を受けて「どの近江族」も「経済力が極めて低かった事」により、「朝廷」もその「負担」で手の出しようが無く、「伊勢」からこの「近江東岸」に対して、「二つの干拓大工事」を「20年と云う歳月」を賭けて援助している所以を持っていたのだし依って無理であったろう。
結局は、密かにこの「因事菅隷」で「伊勢青木氏」を動かし「額田部氏」を以てこの「干拓灌漑工事の完成」を成したのだ。
然し、これは一見して、周囲から観れば“「朝廷」が計画実行している様に観えたかも知れない”が、“「ほぼ青木氏にだけの因事菅隷の狙い」”のひとつにはここにも有ったのかも知れない。
然し、この「因事菅隷]とは別に、数々の「院屋号の特権」を認められていて、それも「永代賜姓五役の令外官」であった以上は、“これも止む無しとしていた事”があっただろう。
そもそもその事に依って「巨万の富」を獲得していたと思えば不満は無かったとも思える。
然し乍ら、これが当時としても片方で「皇位族であったその伝統とその格式」を保ち乍らも地方では「因事菅隷」に基く行動をすると云う不思議な氏族であった事に成る。
注釈 何度も論じた事ではあるが、江戸期に於いては世間が安定し危険性が無く成り、「殖産と商い」にも「存続の危険性が無く成った頃・上記の享保期の事件もあった」を見計らって「闕所」を仕掛けられるような関係性を証明する全てを焼却したと「総合的経緯の分析」から考えられるのだ。
その「銃の存在の発覚」が、世間に広く出して仕舞った以上は、その目的が達成した今に於いて場合に依っては「氏族をとんでも無い危機に陥れる事」にも成ると観て一斉に無くしたのではないか。
つまり、「捨てる事」より「持つ事」のリスクの方が「社会の変化」で変わったと云う事だろう。
恐らくは、その“「兆しが強く現れた」”のが、「青木氏族の事」を一番よく知っている「吉宗の享保期の事件」であったのでは無いかと観ているのだ。
完全に「証拠を掴まれている人物」が居たと云う事だが然し信用していた人物でもあった。
その様に途中で「吉宗は受け取った」のであろうし、そもそも「伊勢攻め」が無地に済んだと思う頃には、今度は「秀吉の刀狩り・1588年」が始まり、それに代わって今度は「吉宗」も「青木氏族の絶大な協力」を受けていたが、その「内心」は“その潰す機会を伺っていた”とも観られるのだ。
「将軍に成る為の裏工作」、「江戸向行」、「江戸の経済政策の立直し」、「紀州藩への財政的救出」や「家康鈴鹿峠の救出事件」や「伊勢津泊の秘密渡し舟事件」で数々貢献したにも関わらず、その反面で「大岡忠相の伊勢の事お構いなしのお定め書無視事件」、「同山田奉行所の海域嫌がらせ事件」、「信濃青木氏の聖域剥奪と殖産没収事件」等の「・吉宗許可が要る裏切り行為」が続いた。
丁度、「嵯峨天皇」が「皇親族の出自元の青木氏の行動」を妨害したのと同じである様に、これに依り遂に「人の内心」が露見したのだ。
“秀でる者は潰される”の例え通りで何れも「最も青木氏と深く関わった者」からの「裏切り行為」であった。
「青木氏の氏是」を遺した「始祖の施基皇子」もこの事を経験していた事であって、それ故の「氏是」であってこれを護っていれば知らねばならない事でもあった。
此れを最後に、前段でも論じた様に「江戸資産・江戸伊勢屋200店舗」を其の侭にして「伊勢水軍の3日船」で「伊勢松阪」に急いで逃げ帰り「紀州藩の後ろ盾・歴史観」を求め「危機」を脱出したのだ。
そもそも「伊勢水軍が湊先に控えていたと云う事」は、丁度、輸送の為にか、将又予想していた事なのか確認はできないが、記録に“「3日船」”と記されている以上は事前に何かある事を予測出来ていたのではないかとかんがえられ、それもそもそも“「信濃」に手を出した時に合わしての「タイミング」”とするとが良すぎる。
筆者は「氏是」がある以上は、「荷物搬送を装って薄々用意していたもの」ではないかと観ているのだ。
恐らくは、この時を「潮時」として、「伊勢」は「難癖を着けられるような物とその行動」を自らを以てそれを「証拠と成り得る因事菅隷・密書等」は特に疑われると共に一斉に青木氏一族全体で消しさったと考えられる。
「伊川津青木氏・当時は未だ国衆」や「駿河青木氏」や「秀郷流一族一門」や「伊勢水軍」や「伊豆青木氏」や「日向青木氏」等には「試作品」も含めた「防護用銃・抑止力として配布していた事」が確かに渡ってはいるが、そのもの一切の時期は同じくして「享保期直後」に於いて忽然とその姿を青木氏族の中から消している。
これは上記した「注釈」が原因と考えられるが、“何かがあって消した”と受け取れるし、消す以外に無くなったとも考えられる。
それは他に参考として語れば、「江戸期」には「一揆などの騒動」が社会に多発して「銃が使われた事」にも成って、従って「幕府」に依って「二度の刀狩り令・銃などの武器保有の禁止」が成された。
恐らくは、「紀州藩と幕府官僚族」であった「青木氏を含む秀郷流一族一門」は、これに伴い密かに「秀郷流の氏族全体」に影響する為に、「申し合わせて一斉一切」に廃棄して焼却させたとも考えられる。
これに伴い、「各地の保有していた青木氏族」も同然に追随したと考えられる。
この時に「秀郷流一族一門・府と藩の官僚族であった事も「影響・政治の中心にいた事」には、今だ「歴史的な関係する研究資料」も散見できないのは、確かにその後の「火災震災戦災」も考えられるが、この時の「令」にも関連して「他の疑われる物までも焼却」したのは前段で論じた通りであり、この様に「一切の焼却時期のタイミング」としては「享保期」で一致するのである。
然し、「銃のみならずこれに関連する一切の書籍」までもが確かに焼却されたものの、僅かに、完全解明には足りないが、「伊勢のテリトリーの中・鎮守社の拝殿後ろ」に密かに「祠」を隠し、その隠した「祠の神明社」と共にその「床下」にも密かにその一部資料が遺されていたのだ。(史実)
その所以もあって、それが本論のこの「芋蔓の様に解明の一口筋」と成っているのだ。
「額田青木氏の銃」とは、全くその「経緯と学説」は異なる事と成るが、敢えて比較して前段で論じた「種子島火縄銃の学説論」での「時代の銃形式」を研究すると、「学問的な知識の到達」と「製造技術の到達」では、「額田青木氏の銃の経緯論」としては、ここまでで“「無理」”と成っていたのだ。
さて、判り易くする為に再び「比較論」をする。
そこでそれとしては“銃での戦闘論」”が最も判り易いので、再び「種子島火縄銃の戦闘論」に立ちいる。
すると、この「射撃」に依って起こる「銃身通過時」の「摩擦高熱の欠点・三つの鉄の欠点」が表にに出て来るのだ。
そもそも其の侭では“銃を銃として使えない”のだ。
これを補う為には、この「摩擦熱」を持つと「銃」は“亀裂破壊”し必然的に最後は使え無く成る事から逃れられないのだ。
その手前で仮に終わったとしても、結局は「冷えて使えるまでの一定時間」は、「徒士の兵」が柵から出て戦闘して、そして再び引き上げて、次の冷えた頃の「銃撃開始期まで待つ事」が必要に成っていたのだ。
「信長」は、この「銃の決定的な欠点」が“不認識に依って計算外で兵力”を計算されていたのだ。
現実に、「信長の雑賀根来の射撃団」でもこれを「計算外の出来事」として捉えていた節があって、これが現実に起こっていて「史実」としてこの事が詳細に記録として語られている。
これには、“「3000丁の火縄銃」が思う程には効果は低かった”としているのだ。
その後に結成された研究団の「実践的に研究した結果」では、使えたのは、その“「1/3程度」であった”としているし、更に、“「大きく銃撃団の犠牲が出た」”とする原因"は、この事にあった”と「雑賀の記録」には記されている。
但し、ところが此れを“側面から「信長の武士団」はこれを補完せずに雑賀根来の傭兵軍団は自ら銃を置いて「刀で戦った事」”が記されているのだ。
この事が元で、“信長と雑賀根来族と犬猿の仲と成った”と結論付けていて、この記録は筆者の検証結果と同じである。
さて、次にでは“この「状況」はどの様なものであったのか”をこの「研究記録」から読み込んで観る。
面白い事が判って来る。
この“「銃撃の間隔」”は、「最低で1h/3000丁の3段階撃ち・記録史実」とすると、「銃の冷却期間・比熱」が「2~3回程度/h発生」と成るが、その間は「弾幕は無しの状態」で「武田軍突撃隊」は前に進む事が出来る事に成る。
この「間隔」を置きながらも、この「進撃」を受けながらで「引き付けて撃つと云う事」を「繰り返した事の戦い方」に成る。
然し、それ故に「雑賀根来の銃の傭兵軍団の3000丁の銃」の内の「約半数・1500丁」は、銃身の「加熱オバー」で「銃」は最終的に使えなく成っていたと「専門的な検証・三つの鉄の欠点」として観られる。
この「戦闘時間」が「記録」では、「最大で8h、最小で4hの説」があるが、この「銃撃戦闘時間の8h説」では、「三っの事、即ち、「疲労と未明と熱の三つ事」で、この説は物理的に「現実的では無い事」が判る。
そうすると、この中を採って、「戦闘時間」が「4hから6h」とすると、「12~18回の射撃回数があった事」に成るが、然し、この「銃身」には「冷やし乍らも熱以外」にも、実は次第にこの「鉄製品に起こる専門的な欠点」、即ち、「300度脆性の欠点」と「鉄疲労破壊の欠点」の先ず「不可避の二つ」が起こるのだ。この論点の間隔時間が研究されていないのだ。
それと、もう一つ検証に於いて考えなくてはない事があって、この“「熱以外」”そのものの「鉄の熱の疲労限界・鉱物には必ず存在する」に近づく事に成るのだ。
この上記した「三つの不可避の鉄欠点」が起これば「銃」は「冷却」どころか「破壊」で永久的に使えなくなるのだ。
この懸賞点t゛欠けているのだ。
これが、この時には、既に一方の「武田軍も戦力」も落ちてきている事に成るだろうが、この“「鉄の欠点の三つの事」”が「傭兵軍団の銃の限界」にも近づいて来ている事に成るのだ。
結果としては、この為に“「アイドリング」”として、「銃撃停止の間」の「徒士の戦闘兵」を再び「棚枠内」に「引き上げる行為等」に、「手間取る事」もあり、又、「弾煙等のロス」が生まれて計算通りには行かないのである。
故に、よく見ても「種子島火縄銃・特に雑賀銃に限定」では、「戦術」とは別に「物理的・当時は学問的な欠点は理解されていない」に観て、抑々、よく見ても「銃撃回数・6から10回程度以下」には確実に成っていただろう事は判る。
これに依って、「武田軍の疲労した突撃」では、最終は記録の通りに「全滅の憂き目」を受けたと成るのだ。
それの「是否」を幾つかの資料の説で観れば、「凡そ1万5千の兵」の内、この最後には「戦い中」でありながらも「勝頼の引き上げ命令」に付き従った「本隊守備兵250人」は、「敗残兵・負傷兵を戦場に残したままで逃げ延びたとする説」が史実として成り立つ。
上記の「銃の鉄の三つの欠点の事」で、この説は史実と診られる。
その「戦い方まで詳細である説」と、「郷土史・戦場の整理を担った地元の住人らが言い書き遺した逸話説」とを総合して観ると、これを“「妥当な説」”とすると、「1万2千の兵の屍」が「長篠原の戦場の北側半分」に在ったとしていて、これには「約2千5百の兵の合わない数」があって、これは「兵数の誇張」か、又は「逃亡者数」に数えられていた事になるだろう。
記録に依れば「戦線離脱の逃亡者」があったとは確かで、その逃亡者は右側側面の隅から西に逃れて行ったとある。この数が合わない数であろう。
然し、「これらの上記の数の違い」は、どの戦いや戦記でもあり得る事であって、合わせての数てあって、要するに「完全な全滅であった事」に成る。
つまり、依って「銃撃回数・6から10回程度以下/3000丁」の論は、「1回2000兵の戦死」と成り、その「射撃法」が「3000丁の三段内」の「冷却済1500丁の三段内」と成ると、「1500弾の3倍」は「4500弾」が飛弾し、その内の実際に、「1/3の兵に被弾する事」に成るとすると、「1万2千の兵の屍」はこの「銃撃回数・6から10回程度以下」からあり得る数に成り、この説は「あり得た説」と成り得る。
上記した「銃の鉄の三つの欠点の事」での「熱等による銃撃間」の間の「兵同士の戦いの数」が、「合わない数・致命傷では無く戦闘能力を無くした兵数、つまり「戦線離脱兵」に成っているのでは無いかとすれば一致する。
要するに、これに依って「熱等による欠陥の銃撃間説論」が大きく左右した事の説は成立する。
現実に、この「銃撃間説論」に依って攻め込まれて「銃兵」は死傷したが、「信長」がこれを「見捨てた事」で、後に「銃の傭兵軍団」から観て感情的に成って、「騙した」「見放した」「契約違反」として「雑賀根来の傭兵軍団」と「信長」とは「犬猿の中」に成ったとし、口伝ではの鮒が狙撃兵が編成された事が云い伝えとして紀州に残っていたとされる。
挙句は戦後すぐに「紀州攻めを受ける事」に成った「史実の事」を考え合わせれば、「銃撃間説論」は充分に納得できる。
要するに、「砂鉄からの来る火縄銃の必然的熱欠陥」が顕著に存在していた事を、この「長篠原の戦い・武田軍との戦い」に付いての検証した“「銃撃間説論」”では証明している事に成る。
そてそこで、これに対して「銃の鉄の三つ欠点の事」を克服したこの「額田青木氏の超近代銃」は、この「火縄銃の欠点」を補いした事で、「一言坂の武田軍との遭遇戦」で、「武田軍本隊を釘付けにした史実」は、それまでの「武田軍が持ち得た銃撃間説論」の「火縄銃に対する発想・情報」を根底から覆した事を実戦で証明した事を意味するのだ。
その意味で、「一言坂」の坂での「遭遇戦の武田軍の新たな印象」は大きかったと考えられるのだ。
それには次の「二つの事」にあったとされている。
「一つ」には「銃」には上記の「熱の銃撃間説論が起こる事・三つの欠点」、
「二つ」には「飛距離と命中率」が3倍に在った事、
この「二つの発想」が、「信玄」に衝撃を与えて何もする事なく、“本隊が「前」を向きながらも徐々に後退する”と云う「戦歴上に於いて前代未聞の事」が起こったのだ。
「信玄」に執っては過去に経験した事の無い衝撃的な事であったろう。
それが「三方ヶ原]にも影響していたと観ているのだ。
「超近代銃を持つ300の銃隊」に対して「武田軍本隊の8倍の軍」が成す術無く、「“弓矢も火縄銃も届かない1K
も離れた東坂下位置まで引くと云う事」”が興ったのは、このそれまでの「銃撃間説論」が「成り立たない事を知った事の所以の最初の事」であって、要するに、「額田青木氏の超近代銃」は、この「銃の欠点」を補いした事の所以の証明でもあるのだ。
「吉田城の第一次の籠城戦」にも「額田青木氏の城内部からの銃撃」を受けているが、その時も「距離の疑問」は持ったかも知れないが、それが「城廓櫓からの銃撃で在った事」から「銃撃間説論」は感じていなかった事もあり得るのだ。
だから比較的この“「銃撃間説論」を使えば崩せる”と云う発想をまだ持っていたと観られる。
だから、前段でも詳しく論じた様に「坂の上」で遭遇し、「坂下」には「100の銃と3000の兵」を事前に廻して「待ち受策」を執り、それに加えて不足と観たか途中で坂途中にも「3000の徒士兵」を伏せて、この“「銃撃間説論」を生かそうとしたと考えれば、“「銃撃間説論」”で観れば情況は読み取れる。
この事は、この時までは、「後」と「前」と「横」から「閉じ込め策」で、“「銃撃間説論」”を以て攻め込めば勝てると見込んていたのであろう事が説明できる。
ところが、この「一言坂遭遇戦」では、この“「銃撃間説論」”は起こらなかった”という事に成る。
「慌てた武田軍本隊」は、早めに「一切の閉じ込め策」を開放し、何と動きづらい後ろ向きの本隊も「坂下1Kまで下げた事・史実」に成った読み取れる。
これは資料からも明かな史実である。
其の後の「浜松城通過時」、又、「堀江城への追尾時」、「三方ヶ原の決戦時」も、この“「額田青木氏の銃隊」に対して一切対抗しなかった事と成った”と読めるのだ。
然し、これが“「銃の鉄の三つの欠陥・上記の学説論/銃身の鉄組織の強化」で補った事”の所以であって、その為に「長篠」の“「銃撃間説論」は「三方ヶ原」では起こらなかった事”を証明しているのだ。
そして、この“「銃撃間説論」は起こらなかった事”は、同時に“「銃の欠陥を上記の学説論」で補った事”の「逆説論」にも成り立つであろう。
仮に、密かに「摂津を中心として技術開発して製作した銃」であったが、これだけの「戦歴の史実」を見せつけていたのであるから、「武田氏や織田氏」は前後の時期に於いて必ず「これを武力で奪う事」に走る筈であるが、ところがこの事が「読み取りの中の資料」では一切発見できないのだ。
では、“これはこれは何故か”であるが、「額田青木氏に完成の近代銃を引き渡した時点」では、上記した様に、「匠、工人の伊勢への一切引き上げた事」と、「一切の資料を隠匿して世間に漏れる事」の無い様に「生産」のみならず「保持」さえも限定した故の結果である。
「摂津商人、伊勢屋商人」をも「特定できない組織・摂津商人と伊勢商人・殆どは大阪商人として記録に遺る」として「明治期」までに至っているのは、この事に対する“「特定できない策」"であったと考えられる。
この事の「史実」は、「室町期から明治初期」まで「大豪商・店名も主人も」は、“この「危険・全ゆる危険」が在った事”から、この“「特定できない影の策・奈良期からの伝統」”を講じたからであるのだ。
追記して置くが、念の為に「青木氏の正しい歴史観」として、「伊勢の氏族」を除く民間の前では、“「テレビドラマ」などの様に、「超豪商は平気で世間の顔表に出て来る事」は実際は殆ど無かったのである。
これは「重要な青木氏だけの歴史観」であって、この歴史観を忘却して歴史を観れば大間違いをする。
そもそも、この「顔隠策」は、少なくとも「奈良期の賜姓五役」や「因事菅隷の天皇の内示・密書」を直接に受ける事に成った時点では、元々、この「顔隠策の路」を「必然策」として「伝統的行為」として実行していたのだ。
何も「院の屋・商いを営むだけの事」では無く、「院に於ける事」に於いても「顔隠策の路」を必然的にも伝統的にも求められたものであって、これは「青木氏氏是」に全てが基づくものであったのだ。
「賜姓五役の青木氏」に限らず、献納時に於いて「天皇に朝見する時も誰が何時あったかなどは秘密裏にしていた配慮の事」が「青木氏の資料の読み取り」の中から読み取れる。
青木氏だけの「顔隠策」のみならず朝廷に於いても同然な伝統であった様で、賜姓臣下族に成った時点から天皇家から引き継がれた伝統であったと観られる。
奈良期から「青木氏氏是の伝統」を少なくともミスなく守るにはこれが一番であったろう事が理解できる。
この「氏是」がある限りは昔で無くても現代でも求められる事でもある。
要するに、これは「古くからの離れられ得ない伝統であった事」に成る。
要するに、「四家・福家」はこの為にあった事をも示すものであり、「四家」が交互に動けば成し得る組織であったし、これに追随して「伊賀青木氏等」もこれを補完していた事に成る。
筆者は、「献納時の朝見」は、「四掟制度」も「四家制度」も「福家制度」も「元々の基本の考え方」はここに在った事では無いかと考えている。
其の為の制度でもあったであろう。
寧ろ、「青木氏族」は、これさえ守れば他から攻撃される事も少なく成り、此れで護られていた事では無かったかである。
中にはこれを窮屈とも思われる「伝統の破目」を外そうとする者も現実には居た事も判っているが、「氏族の掟」と成れば当に、“出る杭は打たれる”の例えの通りであり、これを無視して生きて行く事は難しかったのだ。
それが、それが長い間に、“「青木氏の絶対の伝統」”と成り得たと考えられるし、これが「幕府と正親町天皇」から再び、元の「皇親族」から“「賜姓臣下族」、「賜姓五役」、「令外官族」、「因事菅隷族」から、更には“「律宗族」”と認められる結果と成ったのだ。
「*」印の 「青木貞治救出の検証論」
さて、上記の「三方ヶ原と長篠の火縄銃の経緯」の鉄の特異性を持っているのだ。
これを理解した上で、ここには「青木氏の歴史観」に執って重要な事が在る。
その為に少し話を元に戻す。
「青木氏の氏是」の前に「南下国衆の駿河青木氏の指揮官」は、“それ”を予測して見抜いていたのだ。
この“それ”とは、何かであって後で起こった「銃の結末」である事なのだ。
即ち、「長篠の上記の結末」を事前に“「予測・想像していたと云う事」に成り得る”と観たのだ。
要するに、上記の様に「雑賀根来の銃の雇用集団・1000丁又は3000丁の結末」の事である。
“「極度に殺戮性の高い銃を持つ事」”に依って、その保持者の「額田青木氏が合力する」として「兵力的・松平軍」には「6000+5000=11000+a」に成るが、その「フリントロック式改良銃/超近代銃の威力」は「間隔の無い4連発銃」であって、結果としてこれは「45000+aの兵力・銃数*4*10000」に匹敵値し、これに依って合力下場合は「左右の鶴翼」は必要無くなるので、「兵の温存」が働き、この「他の兵」は「本陣守備」か、又は「銃隊の後ろ」に控えて「銃隊への補足が効く事」に成るのだ。
これは要するに、当に「陣形」からすると「魚鱗の陣形」になるのであり、「馬や弓矢の代わり」に「銃弾」が「遠くの相手」の前面に殺戮性良く次々と飛び交う事に成るのだ。
故に、上記の事を配慮すると、「浜松城」では「額田青木氏の指揮官」は、咄嗟に“虫の云い馬鹿馬鹿しい話を持ち込んだものだ”と思ったのであろう。
それは、況してや「本隊」が戦わすに“額田青木氏に戦わせて自分らは楽をする”と云う構図であった。
要するにその結末は歴史的に“「後の長篠」”がこれを示しているのだ。
そしてその「最後の行き着く所」は、「旗本の事」を考えれば、“「雑賀根来の信長の始末」”と同じ破目に成るのだ。
其れならば、「武田軍」では無く「銃の実質兵力」では負けていない「松平軍」と此処で「城の外」で“一戦を交えるのも良し”とする構えを示した事の筈だし、現実にそれ程の「激論」に成ったであろう。
然し、「武田軍との戦い」の前に、“額田青木氏と戦う事は100%ない”事”は判っている事である。
筆者なら、「判断力を無くして激高する相手」に対しては、この「脅し」を先ず架けて先手を打つ、そして「全国の青木氏族」に対して「攻守の態勢」を執る様に「伊賀」を通じて通達を出すの段取りに入る。そうするだろう。
然し、そもそも、その足元を見ても「松平氏」にはそんな事が出来る余裕等は最早元より無かったのだ。
要するに、激高させて於いて「城の外」に出されるが、それがこの場合は「松平軍と関係性を断つと云う点」では「最善の策」だったからである。
後は、「伊勢青木氏の財と抑止力」を背景としていた以上は「伊川津の国衆」と成っていた事から「主従関係」は元よりなく「自力で生きて行ける能力」を持っているからこそ問題は無かったのだ。
元々は、「吉田城」から呼び出されて「約定」を無視破棄して騙されているのだ。
然すれば、「浜松」から海に出て「伊勢水軍」で「伊川津」に簡単に戻れる。
陸であっても恐らくは常に陰に成り側帯していただろう「伊賀青木氏」を呼び寄せれば「伊川津」に戻れる。
「松平氏」には今この時に「兵力・財力」共に「青木氏とそのシンジケートを攻める余裕と力等」はそもそも無かった。
それは、当に武田軍>「松平氏の直接兵力」<「青木氏の影の力・抑止力」=数段の差の数式の関係であったのだ。
だからこそ、断固断ったのだ。
結果として、「目論み通り」に外に出され「自由」に成った「額田青木氏の銃隊」は、「軍議からの情報」から「駿河青木氏の青木貞治隊」を救うべく、場合に依っては危険を伴う事に巻き込まれる事もあり得るが、「三方ヶ原に走る事」が自由に決定して出来たのだ。
これは何故なのかであるが、それは前段の「軍議の四つの命」に従わなかったからだ。
この「結果の決断」としては、「額田青木氏の指揮官を負傷させた事」に成っている「疑問の遺る三河戦記」には成っているが、「額田青木氏側の記録」では良い方向に向いたのだ。
そこで、大きな「一つ疑問」がある。
この証拠は何も無いが、「松平軍記の負傷者死者の記」とされるこの「資料」には、確かに「山県軍の別動隊の突撃」で左鶴翼の突破時に、「額田青木氏の指揮官」が負傷したと成っている。
然し、これには筆者には「疑問」があるのだ。
つまり、「軍議」で、“一戦交えるかのところまで行った混乱”の中で、これで“果たして無事に済んだのか”の疑問である。
筆者はこの「要素」を重く見ているのだ。
それは、“「負傷者」”に付いては、その「三河記録」にも記載されている所以の、“「指揮官ただ一人」”の記載であるからだ。
突破時であれば、先ず“「指揮官一人」”と云うのはどうも釈然としない。
その負傷後の事を確かにこの「記録」では、指揮は理由が判らないが“「額田青木氏の差配頭」に引き継いでいる事に成っている”が「伊勢」では「無傷の事」である。
これを偶然とみれば偶然と観れるが、この事には資料には全く触れていない。
これが、「流れ」から「軍議の恨み」に報いんが為に、東側から“「旗本の決死の弓矢で狙撃された可能性”があるからだと、それを思わせぶりの形で記録しているのだ。
恐らくは、その「軍議」に出ていたこの「旗本」に依って、その時は「山県軍兵かの判別」が付かず「無差別に弓矢で狙撃された可能性」を思わせるかの様に記された事が確かにはある。
然し、何で、「軍議で争うまでに激論」に成った「指揮官」で、且つ、直ぐに「伊川津」に引き上げている「指揮官」なのに、且つ、「伊川津国衆」であって「三河国衆」では無く、「戦線離脱している者の名」がこの「三河戦記の戦死者・負傷者の記載」の中にあるのかであるし、駿河青木氏を吸湿している弾幕間の中で松平の兵が入ってこられるかの疑問がある。
これは何か間尺に合わない。
普通は外すであろうし記載もしないであろう。
確かに後で知って追記したと云う事でもあるが、時系列的に観ればその時は既に戻っていて「伊川津国衆」を即座に辞しているのに、書く必要はそもそも無い筈であり、これは“戦死か負傷かしたのを如何にも観ていたかの様に、又は如何にも知っていたかの様に書く事は甚だ疑問で”ある。
そもそも国衆を辞している以上は、そもそも「三河戦記」には書かないであろうし、未だ「国衆」であったかの様に書き込んでいるのもおかしい。
この事が釈然としないし、だから、「出身元の伊勢・伊勢秀郷流青木氏」では「指揮官の負傷記録の詳細」は無いのであろう。
筆者には、仮に「伊川津国衆」であっても如何にも「三河国衆」であったかの様にして、“「三河戦記の辻褄の時系列の不都合・後付け」を合わした”としか思えないのだ。
もっと云えば、そうと成ると同時のこの時間に起こった「二人の戦死者の戦記」にも記載がある“「有名な駿河青木氏の青木貞治の死・二俣城の敗北を恥じた死と記載?」”は、“違うかも知れない”とする疑問が生まれるのだ。
“猛烈な銃撃で弾幕と煙幕”を張って「青木貞治隊」を「武田軍の本隊」から救出したその中の目の前で、今度は同時期に、“その「銃隊の指揮官」が負傷している”のは不自然極まりなく「大きな疑問」を持つのだ。
“戦場だから何が起こるかは判らない”と云われればそれまでだが、幾ら何でもそんな事は無いだろうと観ていて、筆者には、“猛烈な銃撃で弾幕と煙幕”の中で、果たして、“偶然にも青木氏の指揮官二人の死”と云うのはあり得るのかは納得できない。
何れにしても、「この状況」を確実に「駿河青木氏の貞治隊員」と「額田青木氏の銃隊員」の「1000人の目」が観ていた筈だ。
故に要するにこれは「典型的な後付け説」と観ている。
「江戸中期・1738年享保期」に成っても、「三河旗本」からの「150年以上の嫉妬と怨嗟の拘り」を超えた様な「嫌がらせ」が続いていたのだ。
「伊川津や伊勢」も然る事乍ら、「江戸・1603年~1868年」に於いてでさえも「三河旗本との執拗な軋轢」が続いたのは、この「事・軍議」に依る「口伝による恨みの伝統・4代続き」ではないかと観ている。
“本来なら4代も続けば忘れている筈であろう”が、これは“「軍議の逆恨みの揉め事」”は「伝統化していた事」に成るだろう。
前段で主眼を置いて論じた様に、「青木氏族の古来からの伝統」にある「特異性・律宗性」や「特別性・格式性・賜姓五役の郷氏」に対する「拭い切れないもの・劣等感」が先ず潜在的にあって、且つ、その上に、更にそれを“自らも決して獲得出来得ない物”に対する「執拗な伝統的な嫉妬と怨嗟と苦悩」のものであったと観ている。
仮にもしそれだけであるとするならば、「青木氏族と紀州藩との大正までの親密な付き合い」も無かった筈である。
ところが、「紀州藩との青木氏の付き合い」は、「三河旗本の嫉妬と怨嗟と苦悩」にも関わらず、記録にも遺る「初代・頼宜」から引き続いて何と「大正14年」まであったのだ。
「彼等・旗本の嫉妬と怨嗟と苦悩」が厳然とあるとするならば、「青木氏族と紀州藩との大正までの親密な付き合い」は果たして可能で在っただろうか。
それを踏み切るには、「紀州藩」に執っては簡単では無かった筈であろうが、然し、踏み切っているのだ。
其れも「勘定方指導の立場」であって、且つ、「俳句・歌・南画・茶道・庭造り」の指導もし、「親友の関係・この関係を“管鮑・かんぽうの交わり”、又は、 “刎頸・ふんけいの交わり」と「資料の二か所にある」”と云う関係にあって極めて「親密」であったのだ。
故に、「彼等・旗本」に「嫉妬と怨嗟と苦悩」の以外のものとして、“「軍議の逆恨みの揉め事」”が、何時しかそれが「歪んだ伝統」として、“「三河者の旗本」にだけに限定されて遺ったと云う事であろう”と思う。
それが「三河」だけと成れば、「伝統的な嫉妬怨嗟」を買うのは、この「額田青木氏」には「軍議以外」には無い。
これが遂には、後で前段で詳細に論じた様に“「闕所」”までに発展するのだ。
それ、つまり、「大商い」をすると疎ましい付きまとう「闕所」であるが、それが何と「信濃」までに及んだのだ。
然し、この元と成った「三河旗本の怨嗟と嫉妬」が治まったのは、「江戸中期・享保期頃」であった。
そして、「伊勢の山田奉行の嫌がらせ」も治まったのも同期であるとし、「伊勢・伊勢屋」が江戸から引き上げたのも同期であって、更には「信濃青木氏の聖域と殖産の奪い取りの事件」も同期であって、挙句は、それを「ぶつける相手」が無く成ったという事と成ったと思われる。
それで、“「平穏」”を保てたとするならば、それは当に「軍議の逆恨みの揉め事の所以」でもあったと充分に見込まれるのだ。
故に、「三河の伊川津」で「陸運業と殖産業」を営む以上は、その「防御論」は、勿論の事、初期の頃の「青木氏の銃」は「軍議の逆恨みの揉め事」から逃れる為の「相手を威圧する抑止力」として保持し持ち続けたのだ。
故に嫉妬怨嗟の彼らに執っては、“恐ろしい陸運業と殖産業”であった筈である。手を出せば潰れるの恐怖があったのだ
そして、それが「主君の松平氏」をも左右する程の「債権漬け」で政治的な勝負は着いたのだし、その叶う事の無い「各種の武力的な抑止力」と「商い・財力と云う力」を持っていたのだ。
筆者は、上記した様に、「額田青木氏」と「駿河青木氏」、強いては「伊勢青木氏」の事を検証する際には、この“軍議と云う要素”が大きく働いていたと観ているのだ。
「*」印の再び「救出の検証」に戻して。
そもそも、この「救出」は「武田軍の本隊」の「魚鱗の陣形の先頭」が「騎馬隊」であったからだ。
横に広く展開すると、その「騎馬の効果」は低下し集中して来るし、自由の効かない騎馬を狙い打ちに掛けれられるし、誘い込まなくても早く命中率の高い範囲に次から次へと勢いよく近づいて来るからだ。
「騎馬」が前に進まなければ「徒士」は前に進めないとすれば「敵の威力」は「騎馬」に集中する。
「騎馬」が全滅すれば、次は「徒士」を「狙い撃ち」にする事に成るし、「魚鱗」は「左右の鶴翼」に分散して「騎馬突撃の威力」は低下する。
これが「長篠・12000戦死」は主に「火縄銃」ではあったが、その2年前の「三方ヶ原」では、当に現実にこの絵に描いた様な同じ経緯と成ったのだ。
「織田方」には「3000の銃隊」の前には「防護柵の馬防柵」で表向きは護られていたとし、この時の犠牲は「雑賀根来傭兵軍団の約半数弱の多少」であって、「信長本隊」にはそもそも何も無かったのだ。
「武田軍12000の全滅の犠牲」を出し、「逃げ出した残りの武田軍」に対して更に「追撃戦」で「武田軍5000の兵の犠牲」を出したが、兎も角もこの時、「長篠の信長」は、何と前段の通りで、この「戦場」では無く、この戦場から西に1km離れた「土豪の館・新庄市富永氏の館」を本陣としていたのだ。
これは始めからこの「三方ヶ原の結果を描いていた事・研究」を示し、「銃の威力に対して自信があった証拠・現実は弱点を突かれて犠牲」でもある。
ここで、さてこれを念頭にして「額田青木氏の南下国衆の銃隊」と「青木貞治との情報交換」に付いてどの様な事が起っていたのか深く踏み込んで観る。
前段でも論じた通り、“「南下国衆の銃隊」を「鶴翼の頭の部分」に何故据えなかったか”と云う「疑問・軍議で拒絶」である。
前段でも論じた様に、次の事が考えられる。
そもそも、「伊川津の国衆に成った時の目的が先ず違うと云う事・イ」、
到着時に「タイムラグの問題があった事・ロ」、
且つ、「青木貞治隊を護り救い出すと云う目的の事・ハ」、
額田青木氏に対して「元よりの旗本の嫉妬が強かった事・ニ」
以上の「イからニの事」が「全体的な四つの事」として「理由」が潜在的に確かにあったろう。
然し、この「全段も含めて詳細論の段」に於いて果たしてそれだけかである。
これが疑問なのだ。
筆者には何となく間尺が取れないのだ。
それは、“一言坂の直ぐ横東1kに「駿河青木氏の菩提寺の西光寺」があると云う事”だ。
この「検証」にはこれは「重要な要素」であって見逃せないがこの事が考慮されていないと云う事なのだ。
どんな戦いに於いてでもこの「菩提寺の存在」は戦略上で重要なのだ。
況してや戦場の近くにある彼等の「氏寺の菩提寺」である。
要するにこの「菩提寺」にはそもそも「仏教徒の掟」があって、「寺内に武力を持って侵入する事」は古来より「厳しい掟」があった。
その為には逃げ込んだ戦士を討ち取るには「寺の焼き討ち」して外に誘い出して、そこで討ち取ると云う事にどんな場合でも「戦術」として成るのだ。
況してや「駿河青木氏の氏寺」とすれば「周囲の民衆・氏人」もこれを断固として護るのが古来から伝統である。
「武田氏」はそれを攻めれば「秀郷流一門の東の361氏の勢力を西に呼び込む事に成り、それがどういう事に成るかは知っていた筈で出来なかった筈である。
恐らくは、故に「三方ヶ原」で救い出して、ここに逃げ込み潜んだ事は間違いはないのだ。
どの「資料の行」から観ても、ここで、“「隠した事の説」”は読み取れる。
其れがここであったと観ているのだ。
だとすると、「隊長の青木貞治」は戦死はしたかは、「戦記に滲ませている表現」の通りに少なくとも「全滅覚悟の死隊」では無かった事に成る。
「貞治隊長」は其の気であっても「家康・軍議」から「二俣城の叱責」を受けても「決死隊」を命じられてはいなかったという事である。他に直接に家臣としての副将が居たのに何で駿河国衆の貞治が責任を取らなくてはならないかの矛盾が生まれるのだ。
これは見逃す事の出来ない重要な事だし、そもそも「二俣城の叱責」を万に感じる立場に果たして居たかである。
先ず、その「二人の副将」の内の一人であって、未だこの時は「貞治」は「松平氏の家臣では無く「松井氏配下の駿河国衆の立場」であったし、そもそも「もう一人の副将の者」は[松平氏の縁者の若者]であって、叱責も戦死も無いのだ。
況して、そもそも「主将」は罰せられてはいないし、「戦死」もしていないのだ。
故に、この「後付けの説」は大いに疑問なのである。
だから、その経緯から「南下国衆の銃隊」に対して「情報」を提供し、且つ、「他の者を救い出して欲しいとの願望」を伝えたと考えられるのだ。
その時、この「菩提寺に逃がす事」を頼んだだろう。
そもそも、そこで「菩提寺があるという事」は、その「盤田見附地域」は「青木貞治の一族の父祖の先祖代々の駿河の知行地」であったと云う事に成る。
つまり、距離にして「40k=10里」で、「徒士の道則」にして「50k・10hの東」の「神奈川の秀郷流青木氏とその一門」が護ってくれるだろうと云う範囲のぎりぎりの範囲の所にあって、その安全の期待があっただろうし、現実に遅れて入っているのだ。
それには、「後付けの三河戦記」の通りでは無く、「青木貞治隊」は「自由な行動下」にあり「主戦の中央に位置する事」は絶対避けなければならない「自由な立場にあった事」が云えるのだ。
「筆者の考え」は、この「条件を叶える」には「軍議の末端」に「参加できる立場」にあった「国衆の青木貞治隊200」のみならず「南下国衆の銃隊の指揮官・300」も、「軍議」では明確に「命令を拒否した」であろうと云う事である。
と云うのは、“「軍議に参加していた」”とする「直接的な表現の記録」はないが、「三河四天王」と云われた「本多軍も大久保軍も酒井軍等」も夫々「200~500兵」でこの「軍議」に参加しているのだ。
「兵の勢力」では同じ立場に居たと云う事だ。
従って、「青木貞治隊200・初期から」のみならず「南下国衆の銃隊の指揮官・300・呼出後」が「軍議」に参加させられなかったと云う「特段の理由」は無いだろう。
間違いなく「参加していた事」に成ろうし、「吉田城・守備隊」から呼び出されたのもその証拠と成り得る。
その「軍議の直後」に、「時間稼ぎの目的」の為の「籠城戦」を前提に「不合理な偵察隊」を命じられたりもするも、これもこの「軍議の参加」による影響のものだろう。
そもそも何度も論じている様に、「浜松城・27m高」から充分に観えている「一言坂の武田軍本隊の陣営の様子」に対してである。
「そもそもの狙い」は、「時間稼ぎである事・織田氏の思惑と額田青木氏の銃の印象付けもあったか」は、「戦略」としては判るが、これも「武田軍の本隊の充分な補給体制」も整えない侭で、且つ、「野営」で「長期間の籠城戦」はあり得るのかと云うここにも何か釈然としないものがある。
確かに、「武田軍の本隊」が「周囲の出城を攻め落とし」をしながら「二俣城からの供給」で「一言坂東」で「大軍の約1月間の停留」をしているのだ。
それは前段に論じた通り、「三方ヶ原」では無く、「野営の此処・一言坂東」を「拠点」として「堀江城」より先に、「西域の脅威」を片付けて「織田勢の本隊」が「決戦」を求めて来ない内に、東から「浜松城」を先に攻め落とすつもりであった陣形である。
「西の織田勢」と共に「三河勢・松平軍」もこの「東の背後の脅威」があった筈で、この「説・浜松城先攻め」は無いだろう事は判る。
「今川氏の様」にそんな「危険な位置」に「準備周到の信玄」は「野営・一言坂」は絶対しないが、ところが何故かしたのだ。
それには、「二俣城の陥落に時間が掛かった事」と、「二俣城で補給体制の構築に時間が掛かった事」での二つが在った事が記録として残っている。
この間に史実として時系列では、「二俣城」からこの「野営場の一言坂」まで「山県軍の別動隊の連絡」が届いている事から。この理由はこの「二つ事」であった事に成る。
それが「整った段階」で「目的の堀江城」に向かった事に成る。
故に仮にこの「戦略」を採用したとすれば、間違いなく「堀江城の二極化論説」であった事になろう。
この事は相当に余裕があった事に成り、「織田氏も松平氏」もこの「堀江の前」の「一言坂の野営」が最も攻める時期であつた事に成るが、そうせずに「無駄な弱腰の時間」を過ごした事に成る。
故に、「籠城戦の戦略自体」がそもそも「空虚で在った事」に成る。
其れならば、“「偵察隊」を命じられた事”は可笑しく成り、当に実に無駄であった事に成る。
「額田青木氏の指揮官の貞秀」はこの間の「経緯」を情報から知り、この様に分析をしていたと思えるのだ。
「織田氏」は「浜松城籠城戦説」を採っていたとしていて「時間稼ぎの理由」の外には、過去にも「第一次吉田城・籠城戦の戦績」の様に、その「経験」を通じて「南下国衆の銃隊を浜松城に留めて置く事」も、「最大の防御・時間稼ぎ策」とも考えていた筈である。
故に、なのにこんな「三方ヶ原の愚策」と「一言坂偵察の愚策」の「二つの愚策」を考えた「その背景」には、“「ある問題」”が「軍議の中」にあったのではないかと観ているのだ。
前記したがこれらの「上記の経緯の事」は、本来は「松平氏右筆衆・青木氏では祐筆」で詳しく調査されて遺されて「原石の侭」で遺されるものであるが、然し、それは消されいて無いのだ。
要するに簡単に云えば、これ等を纏めたとする「三河戦記」は、開幕に必要とした権威を「後付け策」で「権威を必要とする徳川幕府戦記」を塗り替えた事に成り得たのだ。
つまり、「後付けと成っている事・脚色」は、言い換えれば“「軍議の過程」に於いて「上記する事」の物議が交わされた可能性がある”と云う事だ。
確かに、「額田青木氏」に依らずとも「銃隊」とは、「弓矢」に代わって「籠城戦」には絶対に必要であって、且つ、「野戦」に於いても「鶴翼の頭部」に据えて「弾幕」を浴びせると云う何れも「最大の戦術・弓矢に変わるもの」でもあった。
当時は「資料」より「急激に短期間」で、急に“「欠かす事は絶対に出来ない戦術」に成った”と認識に至っていたのだ。
然し、「浜松城の籠城戦論」ではそういう「重要な時代認識」はな未だ遅れてなかった様であり、それは「武田軍の第一次吉田城攻め」がその最初と云われているが、それが偶然にも「額田青木氏」が「伊川津国衆」としての最初の役目として詰めていた為に「銃による籠城戦」と成ったのであったのだ。
その為に「武田軍」は「額田青木氏」に「思わぬ抵抗を受ける事」に成って一時は軍を引き上げると云う結末と成ったのだ。
故に、「一言坂の偵察」は、勿論、論外の事ではあるが“「二度目の銃の威力」を示すと云う戦術”はあり得たが、寧ろ、「籠城戦」と成れば戦いの前は、寧ろ、“「銃の存在」を知らさない方がより効果的”であり、そうと成ればそもそもこの場合の「一言坂の偵察隊の銃威力誇示」も要するに「愚策である事」に成る。
要するに、本格的に「松平軍の主軸と成って戦う事の拒絶」の前に、軍議の「諸々の物議の激論」とは、この是非の「此の処・偵察隊の銃威力誇示」にあったのだ。
兎も角、故に「籠城戦である事」では止む無きとするも、「一言坂の遭遇戦」のみならず「三方ヶ原の野戦の直接本格戦・鶴翼陣形」では、“断固として国衆の立場として断る”としたのだ。
これに付いて「額田青木氏の南下国衆指揮官」と「旗本衆」の間で“激論が交わされた”と観ているのだ。
故に、「軍議の中」では「指揮官<旗本の関係」から“「愚策と実行」”と成ったのだ。
この「旗本」とは、何と伊川津に関係する「東三河の大久保氏や本多氏等」等が主力であったのだ。
それだけに云う事を聞くとしていた「東三河の旗本等」は、「約定のある事」も知らずに独りよがりで、“立場が無く成った”としたのだ。
故に、そして、「偵察隊と云う形」で体よく“城から追い出された経緯”と成ったのであろう。
当然に「城からの情報」が入らない侭で追尾する事には成ったが、最終的に危険が伴うとして、「青木貞治」は周囲に危険を冒してでもこれを補完して「軍議情報」を流し、「額田青木氏の一族を救う事」としたのだ。
そして、「情報の途絶えた額田青木氏の南下国衆」に対して、「青木貞治」は「最後の軍議情報」を「秘密裏」に「額田青木氏」に提供して、且つ、万が一場合には「遠州秀郷流一族一門の救出援助・駿河相模の青木氏・史実」をも頼んだと成ったのだ。
現実に時系列の記録から動き始めていたのだ。
其れで無くしては、「伊賀者・伊賀青木氏の香具師等」で援護しながら「伊賀越え」で「家康」を救った若い「遠州青木氏の貞治の子孫・青木長三郎・貞治の長男・三方ヶ原より9年後」は遺らなかった筈であった。
故に、「偵察としての城への情報」としては記録されていないのだし、「伊勢の資料」にはその経緯を辿れる程度に功績を遺しながらも、「三河」には適正な記録が無いのは「右筆の原石」が後に成って都合の悪い事は一切消し、そして「後付け」で都合よくこの「歴史」を塗り替えた事でもあるのだ。
従って、「一言坂の偵察隊後の追尾」では、「最終軍議の参加・情報入手」には無理であったろう。
そこで、「今後の事」も含めて密かに、“青木貞治から「軍議の情報」を獲得した可能性がある”のだし、故に、本来戦術の「鶴翼の頭部の位置に陣取る」と云う「命令」も無かった事に成る。
これ等の事は、今まで「論調」が余りに複雑に成る為に論じて来なかったが、その「詳細部分」であって、然し、その「一族の青木貞治と云う重要要素」を勘案した場合に、この“「拒否説」”は放置できずにこの「追論」が出る事に成ったのだ。
この“間尺に合わない問題”は、この“「拒否説」”にあって、「上記のイから二」に付いてもこの「拒否説論に始まる・物議に依る激論」と観ているのだ。
これが、後の「戦線離脱」や「陸運業」を容易に成し、早期に得た「決断の基経緯」と成っているのだ。
さて、続けて追論として、次に論じるのは“「鶴翼の銃の威力の理窟」”であるが、唯、これも、又、何とこの「通説」は異なっていたのである。
然し、他方、「武田軍本隊」も「堀江城」で、“「一日」で墜せる見込みであった“が、実はこの「時系列」で観ると「二日の籠城の激戦と延4日所要」と成っていた事が判るのだ。
それは二俣城から山県軍の別動隊の補給基地地築造隊か三方ヶ原に三日後に到着する予定であったとして、この侭では本隊が別動隊を三方ヶ原で補完できない事が起り、1日遅れる事は「松平軍5000」に山県軍の別動隊の実戦の2000の兵が潰される事に成るとしていたのだ。
この「計算」が狂った「武田軍の本隊」は、其の後、「松平軍の二つの情報・野戦情報と鶴翼戦情報」を獲得して、そこで「武田軍の本隊」も慌てて「三方ヶ原への手立て」として「補強路確保と山県具への援軍」をする必要に迫られていた時系列と成っていたのだ。
その為に「武田軍の本隊の大軍」も遅れて「堀江城開城の条件」を“城兵全て助ける事”で「1日分の短縮」を図ったのだ。
この“堀江城の200の城兵は空の浜松城に入った”とされているのだ。
そして、当初は“「三方ヶ原の北側」”に陣取る為に先にも慌てて「三方ヶ原の補給構築拠点」に向かったとする時系列であるのだ。
ところが、そこで「三方ヶ原」での「松平氏の先取りの陣取り方・西向きの鶴翼の陣形」を知って、元はそこで「武田軍」は、当初からの作戦として「北から南に向かって陣取りをする作戦」であったが、西から東に向かっての「応変の結果」と成って仕舞っていたのであった。
この事で、別動隊の合流が出来ず、これで「山県軍の別動隊の計画・北から南」は狂ったのだし、本体も鶴翼の陣形から相手が「予想外の鶴翼陣形・多勢の陣形」であった事から受けて立つ為には不利な「魚鱗の陣形・無勢の陣形」に行進中に変更せざるを得なく成ったのだ。
武田軍に不利な条件が重なってしまったのだ。
そこで止む無く、進軍中の「山県軍の別動隊・補給拠点構築隊」は、「北の山際に停留する事・当初の計画の位置」を強いられたのだ。武田軍本隊と山県軍別動隊とが結局分離された結果と成って仕舞ったのだ。
松平軍に執っては「山県軍2000の兵」を本隊から切り離しした有利な結果と成ったのだ。
この「松平軍の有利な点」を「山県軍の別動隊」は本隊を救う為に有利にする様に知恵を働かせたと云う事に成ったのだ。
そこで先ず「山県軍の別動隊」は、向後の憂いを無くす為に遅れて「二俣城の周囲・国衆軍団が反乱して騒ぐ」を改めて掃討し、「二俣城処理中の別動隊」が「補給路」を造り上げる為に急いで三方原北側に向かっていた。
元よりこの「計画の打ち合わせ・三方ヶ原」であった事から、「武田軍の本隊」も、“これは危険”と観て、急いで「作戦」を変更して「山県軍の別動隊の救出」に急いだ。
そこで「三方ヶ原の北側・山際沿い」に先ず向かい、そして「山県軍の別動隊」が着くのを待つ予定であった。
ところが、結果として間に合わず東西に構える不利な形と成って仕舞ったのだ。
戦術としては鶴翼の陣形>魚鱗の陣形であった事から本隊としては全て大軍でありながらも持久戦に持ち来れれば不利な条件に置かれていたのだ。
そこで、「山県軍の別動隊」は合流する事は出来ず、後は元の計画通りに「北側に陣取る形を執る事」に成って仕舞ったのだ。
この珍しい陣形となって「山県軍の別動隊の執るべき作戦」は唯一つと追い込まれたのだ。
それが、「武田軍本隊」が魚鱗で対抗する前に、「山県軍の別動隊」が「松平軍の鶴翼の先端の頭の部分」に突撃する以外には本隊をより有利にするには戦いの始まる前にする事しては通常戦法では無く成ってしまったのだ。
結果として、後は鶴翼の陣形を決死の覚悟でこれが「鶴翼の頭の側面」を突く事に成り、「戦略的な鶴翼の陣形の意味」が無く成って仕舞って総崩れと成ると考えたと云う事だ。
経緯論として観てきた結果から其処に「思わぬ落とし穴」が有ったのだ。
さて、この検証としてこの経緯の結果から、ここで「一つ目の疑問1」が出る。
それは、「額田青木氏の南下国衆の銃隊」が、「武田軍本隊」を追尾していた事を知りながら、“何故、「三方ヶ原」に向かったか”である。
普通なら後ろを着いてくる筈と思う筈である。現実に隠れながら追尾していた。
更に、「二つ目の疑問2」は、「松平軍=山県軍の兵力」として「兵数としては同じ勢力・築造兵含む」でありながら、何故、「武田軍の本隊」は「山県軍の別動隊の支援」に向かったのかである。
勿論、築造兵3000が実戦兵で無い事は知っていた筈である。
普通は行く行くは「本隊」が行く以上は向かわないだろうし、「松平軍」もその事は充分に認識できていた筈だ。
「山県軍の別動隊」が、三方ヶ原に“早く着くと云う事”に成り「西側に位置する事」とすれば、却ってこの事で「二つの武田軍の陣形」が西側で整う事に成る。
これは速く「三方ヶ原の戦場」に着いた「松平軍」には不利と成り得る。
それと、「三つ目の疑問3」は、「松平軍の鶴翼陣形の向き・西向き」である事である。
この「三方ヶ原の地形」は南の浜に向かって「下り坂の地形」にある。
そこを西向けに陣形を採る事は活動としては斜めの地形であって好ましくない。
本来であれば北の浜松城を背にして北向けて陣形を採るのが普通である。
「一つ目の疑問1」は、勿論、直前でも経験した「南下国衆の銃力の威力」に「脅威」を抱いていた事である。
「二つ目の疑問2」は、「別動隊」であるが、基本は「補給基地築造隊」が主目的であった事である。
この「二つの事・疑問」と連動して、これが「一つ目の疑問の答え」でもある事だ。
「三つ目の疑問3」は、西から来る誘い出した「大軍の武田軍の本隊と対峙する事」と、「松平軍の陣形」が西に向く事で遅れて来そうな「別動隊」に二俣の方から「背後を突かれる危険性」があった事だ。
何れの「三つの疑問の1、2、3」には「松平軍」に執っては「三方ヶ原」と云う「無理な野戦を選んだ事」が左右しているのだ。
そこで、これ等を補完する意味で、「額田青木氏の指揮官」の「自らの判断」で止む無く「南下国衆の銃隊」が、“「南左の鶴翼の付け根部」に「青木貞治隊の救出の為」に位置した”と云う事が先ず考えられる事だ。
筆者は、寧ろ、“位置した”と云うよりは、「上記の物議の軍議の結果」から、“そこに居た”と云う事ではないか、又は、“居る事に成った”として、故に、“「家康の独自の判断」”で「陣形」を、急遽、「軍議」に基づくものでは無く、“戦場で西向きの鶴翼にした”と考えているのだ。
そう成る事で、「額田青木氏の南下国衆の銃力」が“武田本隊と山県軍別動隊の左右の軍に対して「総合的な破壊力を示す事」が出来る”として、“「武田軍の本隊」に対して斜め西に向けた”と考えられるのだ。
然し、「軍議」で「当初の思惑」は大きく崩れたが、最早遅いので当初の通り計画を実行せざるを得なく成ったのだと観ている。
何故ならば、「家康側からの考察」から観ても、そうする事でもこの「上記の疑問の123」の「三つの問題」も解決出来る。
つまり、突き詰めると結果として「山県軍の別動隊は遅れている事」もあるので、“絶対に戦闘に参加せずに、「様子見」してその「時期」を観て貞治隊を救い出すと観ていた”とする「遅れ説」の説に成るのだ。
ところが、ここで更に「思わぬ事」が起ったのだ。
それは、この「山県軍の別動隊」は、予想を超えて突然に“「補給拠点築造兵が突撃隊に凶変したとの云う事”であるのだ。
つまり、「家康の咄嗟の決断」は、“両軍の全ての思惑は狂ったと云う事”の説に成る。
もっと云えば、「額田青木氏の南下国衆の銃隊」に依って、先ず結果として「山県軍別動隊2000以上の犠牲」を負ったが、「残る兵」は最後尾に着いていた「補給拠点築造兵の非戦闘員」が全てであり、「銃の難を逃れる為」に留まらずそのままの「勢い」で生死を掛けて「浜松城」まで走り抜けたのである。
従って、これが下で「浜松城を攻める事は出来なく成っていたと云う説」に成るのだ。
「額田青木氏の南下国衆の銃隊」は、この“2000の戦闘兵を狙撃した”が、「残りの非戦闘員」を銃撃せずに、先ずは「青木貞治の隊員」を先に救い出し、直ちに自らも「戦線離脱した事の説」に成るのだ。
武田軍本隊は、「青木貞治の隊員の救出」の為に補完銃撃して「救出の手助け」をしているのを観た。
そこで、又、「武田軍の本隊」も「一言坂銃撃の様な尋常じゃない威力の額田青木氏の銃隊」が救出後にも続けて「武田軍の残りの非戦闘員」を銃撃しなかった事」をも観た。
続けて「武田軍本隊」は、「攻め込む事」もをせずに、且つ、「掃討作戦の為の武田軍の掃討本隊」と同じ方向に向かう「救出後の青木貞治の隊員の戦線離脱の黙認放置・盤田見附の西光寺に向かう」をも“無条件で許した”と成る説である。
だから、幸いにも思わぬ事が乗した様に「両軍・武田と松平軍」に起こりながらも「青木貞治との約束」も「自らの行動の事」も円滑に成せたのである。
これが両方の時系列から追った史実である。
この中に挟まれて額田青木氏と駿河青木氏の生き残りの経緯が起こったのだ。
ここで注釈として、故に、「家康」から、後の「伊賀越えの協力の事・1」も、「伊勢の事お構いなしのお定め書も獲得出来た事・2」も、更には、「紀州藩の初代」には「家康」が最も信頼していた「水戸藩主だった「優秀な頼宜・遙任」を、態々、「初代紀州藩主・大正14年まで親交」に挿げ替えた事・3」も、その後の「勘定方指導」などの「絶対的な協力体制」を築いた事・4」も、上記したこの「4つの行政事」の、これ等全てはこれ等の“「詳細経緯」”から始まっていたのだ。
この“「1から4までの詳細経緯」”が無ければ、「青木氏の歴史観」としての「額田青木氏と駿河青木氏の正しい戦記」は成り立たないのだ。
さて、もう少し論を戻して
ところが、「上記の詳細経緯」では、「武田軍の本隊」が「三方ヶ原」に到着すると、既に「東側」に「松平軍」が何と“「鶴翼陣形・多勢系」”で陣取っていたのだ。
「松平軍の軍勢・織田軍は軍監目付の形式合力たけ」の「戦力」は、「武田軍の幌者の情報」で知り得ているし、要は「織田軍の援軍の数・実際には軍目付け・軍監だけ」に依るが、“「織田軍」も西で戦っていたので多くを出す事は出来ないだろう”と「武田軍の本隊」は読んでいたし、又、「弱体の足利幕府」と敵対して「織田軍の利害」や「西に引き付けられている現状」の「二つの現状」を考えた場合は、“"松平軍は間違いなく少ない”と「武田軍本隊側」では確率よく観ていた筈である。(資料により史実)
この事に就いては歴史観として配慮の一つとすると「史実」であって、「織田軍の軍目付・軍監の軍勢の偽情報」のこれは「三河東域と駿河西域を制圧しようとしている武田軍」を、これに対して「何とか策謀で動かそうとしていた織田軍側の裏策略」であった事が、全ゆる資料から判明している。
依って、「この事を前提にした戦略の読み込み」では、“「野戦では無い・籠城戦・長期戦」”と観ていた「武田軍の本隊」は、“この「陣形の急変」に驚いた事になった”と「時系列」はで成り立つのだ。
それは、そもそも「多勢が採る鶴翼の陣形」では無くて、「三方ヶ原」で「待ち受けている松平軍」は間違いなく「無勢が採る魚鱗の陣形」と観て“と執った行動であるからだ。
「堀江の解放・敗戦」を見定めた「松平軍」は、上記の「時系列の経緯」では、この時に“「三方ヶ原の野戦」を選んでいた、そして12/22日、早朝に「浜松城」を出た”と事に成る。
これは「武田軍の本隊」が、元より「別動隊を待つ計画」で、到着後に一斉に「浜松城攻め」で「北の三方ヶ原」に補給基地と本陣を構える予定であった事」が判るが、ところがそれが「齎された偵察の情報」では違っていたのだ。
更に、以下の時系列について詳細な経緯の検証を進めると、「額田青木氏」に付いてもある事がこの時系列で観えて来るものがある。
この「重要な時系列」は次の通りである。
「堀江城 12/21~12/22」 朝に落城
「浜松城 12/22」 朝出陣・三方ヶ原・2時間で到着
「松平軍・鶴翼の陣形」 12/22・10時・昼前に構え終了
「堀江城の結果・開城」 「12/22・早朝」に三方ヶ原で確認
「武田軍本隊」 「三方ヶ原 12/22」 昼過・2時間で到着
「武田軍別動隊」 「三方ヶ原 12/22」 15時に到着
「武田軍全軍」 「魚鱗の陣形 12/22」 16時前・「陣形」を整え完了
「武田全軍」と「松平軍」 12/22 16時 開戦・2時間・18時に完了
さて、そこでこの「時系列」から観えて来るものとして、「一言坂の本隊との遭遇戦」には「額田青木氏・国衆・銃隊」に執って興味深いものが、この「時系列の中に一つある」のでそれをここで論じて置く。
そこで、先ず、「武田軍の本隊」は南下して4隊に分けたとある。
「守備隊の信玄本隊」は、「諏訪」から「東三河」の「武節-長篠-遠江-岩村」と全ての支城を落として後に、“「東の二俣」に向かった”とある。
「他の3隊」の「秋山、馬場、山県隊」の夫々の隊は、「北三河」に続き「東三河」と「遠江の境」までの「出城の全て」を瞬く間に事如く落としたとある。
そこで、これで「右側の勢力の憂い」を排除したので、そうすると残るは「掛川や高天神等の駿河との境城」は
「戦略的に東西の秀郷流一族一門361氏と戦う事」に成るとして、これを時系列では後にした事に成っていて、先ず「浜松城に狙いを定めた事」に成る。
その為にだから「武田軍の4隊」が、別々に「北の二俣城」に向かおうとしていたのだ。
この時、この「4つの動き」に対する為に、「家康」は「不得意な一言坂の無理な野戦」に出て防ごうとした。
然し、その結果は完璧に悲惨な敗退を期し「浜松城」に「家臣の身代わり」もあって命からがら逃げ帰ったとある。
この時に、「劣勢の状況」を脱する為に「東三河の吉田城」から「家臣の守備兵」では無く、「国衆」の「額田青木氏・国衆の銃隊」を呼び寄せたとし、「41k東の浜松城」に向けて先ず「昼夜の徒士10時間半の道則」で到着させた事に成っている。
ここで、では、“何で、呼び出しに応じたのか”の疑問が残る。
そもそも“「軍議で命令を拒否する」”のであれば、その前の“「吉田城呼び出しの時」”に拒否しても同じである筈だ。
然し、この「呼び出し」に応じたのだ。
これには何かの配慮が「額田青木氏側」にあったとしか思えないのだ。
それが、“「額田青木氏の救出」”に有ったと観ているのだ。
この時、「三方ヶ原の戦況不利」は「青木氏の情報管理をしている伊賀青木氏」から「秀郷流一族一門、又は貞治本人」を通じて伝えられていた」と観ていて、「国衆の立場・契約条件があった」である限りはこの「救出の大義の機会」を伺っていたのだ。
それは何かであるが゛、これは「軍議の内容の歴史観」でハッキリとしているのだ。
丁度、この時、「武田軍の本隊」が「北の二俣城」から南に向かって「海寄り」の「東の一言坂入り口」に到着した処であった事に「時系列」では成る。
この時、「額田青木氏の銃隊」は、「上段と上記の軍議」で「命令」を拒否した為に「城外」に放り出されていた。
そして、その後に、「武田軍の動向」が城から見えているにも関わらず「意味の無い作戦」として何と「一言坂偵察」を命じられたのだ。
“「軍議拒否」”で、“全滅するだろうと見込まれる命令”を敢えて出したのだ。
ところが、ここで、当然に「額田青木氏・国衆の銃隊」と「武田軍の本隊との遭遇戦」が「史実の通り」に起こった。
初めて「額田青木氏の戦闘」としての「近代銃の火蓋を切った事」に成ったのだ。
この「遭遇戦」は、前段で論じた通りで「武田軍」とは「2度目」である。
一度目の「第一次吉田城の銃撃の脅威」を知っていた「武田軍の本隊・銃に圧倒されて持久戦と成る」はその後引き上げる結果と成ったが、この「額田青木氏の350の銃隊」に対して、「坂途中3000」と「背後に廻った西坂下3000」に追随した形で「坂下に100銃隊」を配置して迎え撃とうとした。
然し、何と「武田軍の本隊」は、「額田青木氏の一度目の銃撃の凄さの撃音」を聞いてだけで、あり得ない事に戦わずしてこの「射程距離外・約1k」にまで後ろ向きでずるずると逃れ後退したのだ。
“余りの凄さに「坂の武田軍本隊」は、「完全無抵抗」で「坂道」を譲った”と云う「戦記の戦歴」であったとある。
そして、そこで「額田青木氏の銃隊」は、敢えて「威力の銃撃」を停止して、「西の坂下」を牽制しながらも、先に通り越して降りて、“「浜松城の北東の小山裾の位置」で先に待った”とある。
この“「待ったと云う事」”に意味がある。
一言坂で銃撃戦を続けなかった事なのに、何で“「待ったと云う事」”に成ったと云う事なのかである。
それは、“「武田軍の本隊の通過」”か、“「浜松城攻め」かの見極めをする事”のこの「二つ」にあって、これを“待った”として、「読み込み」では、“「見極めるとする事」”で観えて来る事なのだ。
要するに目的以外の事はしないとしていたのだ。その「目的」とは世事情を出るとはの初期の目的達成であった「駿河青木氏の救出」に有ったのだから余計な戦いはしなかったと云う事であって、従って、敵は武田軍では無かったと云う事なのだ。だとすれば時系列は全て符号一致するのだ。
取り敢えず、「意味の無い偵察命令」は、兎も角も終わらせ、「額田青木氏の銃隊のする事」はこの段階では最早後唯一つであった。
「軍議命令を拒否」の為に「城外」に放り出された以上は、その後の「行動の決定」は「額田青木氏の銃隊」にあって、そこで「採るべき行動」は、それはこの時は未だ唯二つ遺されていたのであった。
「武田軍の本隊」に対しても、「松平軍」に対しても、先ず一つは、“安全にしてどの様にして「伊川津」に戻るか”であった。
然し、もう一つはその前に先ずは「駿河青木貞治隊の救出」があったのだ。
この段階では敵・松平軍」と見做されていただろう「武田軍本隊」の前を、急いで逃げる事は背後を襲われ危険が未だあったのである。
だから、そこで「武田軍の背後を追尾する事」にしたのだ。
それは、“いざ襲われる”と成ると、「銃弾」を浴びせられる「北東の位置」とすれば、精々100m~300mの小高い丘の上と成る。
これが「史実記載の通り」であり符号一致する。
これは「武田軍の浜松城の武田軍本隊の通過路」に関わる事だ。
これが検証できれば、「潜んでいた位置」が確定でき、「その後の動き」も確定できる。
「戦記」では、「小沢の位置」とされているが、この「小沢の位置」とは何処かであり、史実と一致させられるかである。
先ず、「大軍」である限り「細い道」は周囲から狙撃されて通れない。
当然に「大軍」である限りは「近道と云う考え方」は間違いで「大道路」と成る。
「二俣城」より真直ぐに南下して「一言坂」を東から西に向けて通過したと成ると、「大道路」としては、「現在のR45号」と成るが、これでは「一言坂」は通らない。
そうすると、「天竜川の東横」の「現R44号・真南・18k」を通り南下して、「一言坂」に東から到達し、これより「真東1.5kの位置」から西に直角に「旧道・県道現413号」に入り、そこから「天竜川」を渡り、その「5.5kの位置」から、その後、「旧道・現312号」を更に「西に向かう事」で旧道を通過する事が出来る事に成る。
「武田軍の本隊」は、この「一言坂・坂下・12分・1kの位置」から「旧道・312号」を通り「旧道・152号・2時間半・12k」に繋ぎ、西の「浜松城」の「真南400mの所」を「城」を基点に円を描く様に半円で廻り、そこから「旧道・257号・1時間・5k」を北進した事と物理的に成る。
又は、「城の北に廻る道路」の“「六間道路・1.5k」”を大通りを通り、“「館山街道」”に出る事もあり得るが、元はこの「道幅」が記録に依れば「4間程度・6m」で狭かったとあるので先ずあり得ない。
「戦記通り」に「城の南に廻る道路」を通ったとすると、「城より北進約5.0k・1時間」を進んだところで、今度は「堀江」に向かう為に「直角」に「西」に「館山街道」を「旧道・320号・2時間半・11k」で「真西」に向かい最終は「堀江城」に到着したと考えられる。間違いはなないだろう。
「戦略上の観点」から、これが「武田軍本隊」が「通過できた唯一の経路」であろ事である。
従って、この「武田軍の本隊」が、この「ルート」で“堀江城に向かっている事”を知った「額田青木氏の300の銃隊と荷駄50」は、此処の事からこの「堀江城」は作戦上は直ぐに落ちる事を間違いなく充分に察知していた筈だ。
そこで、「額田青木氏の銃隊」は、「武田軍の本隊」が「松城城通過」を知って確認した上で、「館山街道の交差点」を西に向かった事に成ったが、ここが「伊川津に戻る選択点」でもあったのだ。
然し、ところがここで「情報」が救出しなければならない「駿河青木氏の青木貞治」から「重大な情報」がこの分岐点の処で入ったのだ。
この時系列で「吉田城」から「浜松城」に向かった理由が、「駿河青木貞治隊の救出であった事」がこの「時系列の検証」で証明しているのだ。
この時、初めて「決戦の戦場」が、「武田軍の補給基地として観られていた三方ヶ原」と知って、「駿河青木氏を救い出す為」に「時系列」として「堀江に向かう武田軍の交尾」を背後に観て走った事に成るのだ。
然し、「4時間半」で「三方ヶ原」に到着した時には、既に「連合軍と観られる家康・実際に連合軍に見せかけていた」は、「三方ヶ原」に既に到着し、「上記の鶴翼の陣形」を何と西に向かって敷いていた時であったのだ。
ここで「重要な問題」があって「救出目的」の「額田青木氏の銃隊」に発生したのだ。
それは通常であれば、遅れて後から入れば、この「陣形」からすると「定着位置」として「着く所」は、「鶴翼の頭部分に位置する事」にしか無く成るが、既に陣形が出来ていた事から、この事では此れはそもそも「作戦に参加する事」に成り好ましく成る。
それは「救出の作戦」は不可能と成り得てそもそも採れないのだ。
そこで、これは「軍議でそもそも断った命令」でもあった。
それは、「鶴翼左の最西端に位置する事/武田軍の最先端に近づく位置」の以外には「松平軍の無い所」は無いのだ。
゜時系列の検証」から、元より「三方ヶ原に戻った理由」は、「駿河青木氏の青木貞治隊を救う事」にあったのであるから、「駿河青木氏の青木貞治隊」の「執るべき救出の位置」は、何と最も危険な「伊川津国衆連}が配置されている「左鶴翼の先端の先」に位置するしか無く成っていたのだ。
要するに、「額田青木氏が戦場に着いた時の位置」から、「救出の為に銃撃補完する」としても何と「最も難しい位置」の「斜め左最端西」にいた事に成るのだ。
何故ならば、前進を阻む為に「武田軍本隊の先頭」に向けて銃撃するとしても、その「銃口」は「駿河青木氏の青木貞治隊」の「前進している左端」を掠めなくてはならない事に成る。
且つ、その「弾丸」が「味方の額田青木氏の銃隊の斜め横」を斜め西に家て通過する事に成るのだ。
この事は、「弾の補給」や「補助隊員・50人」の「補完行動の効率」の悪い「制限された身動きが取れない構えの陣形」に成る事は必定であった。
そこで、「額田青木氏の銃隊の指揮官と副官の貞重と貞秀」は、戦後に「伊勢に遺された記録」では、この時に「その一案を案じた」とされているのだ。
それが、“一斉に「武田軍本隊」に目がけて前進を阻む為に、先ずは「弾幕」を張る。
そして、その「爆煙」に依って「前方」を隠す。
次にその「隙間」に応じて、ここで「救助に当たる者・補助隊員・50人」が繰り出される。
そこで「駿河青木氏の青木貞治隊」を「銃隊の方に導く」と云う事をする。
この「作戦」を建てたとされている
そして、それを「伊賀青木氏」が、“「館山街道の見附」”から走って伝えたとしている。
これ等の事を「駿河青木氏の青木貞治隊」に事前に最終伝えたとされるのだ。
さて、ここで「休憩」を執っていた“「館山街道の見附”の横」から「この情報を持った伊賀青木氏の忍者」を「三方ヶ原」に着いた頃の「駿河青木氏の青木貞治隊」に走らせたとある。
その後は、「盤田見附の菩提寺の西光寺」に向けて走り逃げ込む事にした。とある。
一方では、「額田青木氏の銃隊」だけは、「武田軍の本隊の直ぐ側面」」を「銃を構えて走り抜け」て、上記の通りに「西の二俣路に成る“「六間道路・1.5k」”を通り、その“「館山街道の見附”の交差点」を「伊川津」に向けて「怪我人を乗せた荷駄車」と共に懸命に走ったと概ねで記載されている。
ここで、「特記する事」は、特別な事がおこっているのだ。
「武田軍勝利後」に編成された「武田軍本隊の追討軍」は、予想外に何故か次の“「二つの事」”をしなかった事が記載されているのである。
それは先ず「一つ」は、追討していながらも「盤田見附の菩提寺の西光寺」に逃げ込んだ「駿河青木氏の青木貞治隊」を寺から追討せずに黙認して本隊に戻って行った事である。
「二つ」は、本隊の横を悠然と通過して行く「額田青木氏の銃隊」を攻めず追討もしなかった事である。
結論から筆者は、「額田青木氏の銃隊の指揮官・貞重と貞秀」が「武田軍本隊」に対して「感情的」には、“全く敵意が無いと観て執っていた事”と、「戦術的」には、“「経験した銃隊の脅威を避けた事」の、この「二つ」が共通して「指揮官の青木貞重と貞秀」や「指揮官の青木貞治」には「敵意」を全く感じ無かったと観ていたのではないか。
だからこの「救出作戦」は計画通りに成功したのだと考える。
それは「額田青木氏の銃隊」にしても、「駿河青木氏の青木貞治隊」にしても、要するに「三河国衆で無かったと云う事」に尽きる。
「額田青木氏の銃隊」は「伊川津・渥美湾」を下に「伊勢との繋がり」の中で「殖産を築こうとしていた事」と、「駿河青木氏の青木貞治隊」にしては、「国衆の立場」から「伊勢」と共に「殖産」を商い、それを元にして「松平氏の近習・家人近習衆」に食い込んで「駿河水軍の殖産を高める事」にあったのだ。
共にこれは「大成功」を治め、「殖産をする企業家の青木氏」と成り得たのだ。
この結果として、「伊勢水軍と駿河水軍」とを通じて、「三つ目の目的」の「伊豆の安定化とパイプラインの再構築」が成されたのである。
さて、「三河戦記」での「時系列」をもう一度追って観ると、他に「青木氏の歴史観」に執って観えてくるものが有るので「読み込みの検証」をした。
これが12/22日 「三方ヶ原」に向けて「早朝」に出発したとある。
さて、ここで、まず「問題 1」に成るのが、「松平軍」が「夜明け」と共に発進し「三方ヶ原」に向かって「到着した時刻・12/22日 朝10時半頃」と時系列では成って来る。
そして「武田軍の本隊」が、「浜松城」を通過した時刻・12/21日 17時半頃」である。
ここにはある「疑問を持つ時間差」であるが、それは、何と“「17時間半差」”である。
とすると、「額田青木氏・国衆・銃隊」が、この間、“「三方ヶ原」には未だ走っていない事”に成る。
つまり、「12/21日 17時半頃~12/22 10時半頃」は、「松平軍」は、この問題の“「17時間半差」を何を三方ヶ原でしていたのか”である。
そもそも、“「三方ヶ原まで徒士で2時間半」で到着する”のである。
従って、計算では、“「朝8時頃初期の発進」”であるが、ところがこれを「戦記」では、“「夜明け」”としているので変である。
この「冬の1月25日」の“「夜明け」”では、速くても日本列島の「東の三河」では、“「朝6時頃発進」”と成るだろう。
とすると、“「戦記の夜明け」の「朝6時頃」”と、“「計算」での「朝8時発進」”との間には“「約2時間差」”がある。
つまり、「朝6時頃発進」~「朝8時発進」に、随時、「松平軍」は「浜松城」を発進して行った事に成る。
この「2時間のギャップ」は当然の事として起こるので、ここの部分の「戦記の記載」は正しいだろう。
要するに、「松平軍」は、この「発進」の「朝6時頃発進の頃」の直前まで先ず延々として“「夜明けの朝まで城で軍議であった事」”に成る。
然し、この「記録」では、この時、既にその「3日前」に「軍目付・軍監の3人」は、“「美濃尾張に向かって帰参中」”と成る。
この間に、「武田軍の本隊」は、「堀江城」に到着次第、直ぐに急ぎ攻め掛かった頃に成る。
「松平軍」の方は、「三方ヶ原」に最短で到着次第にして、「時間の掛かる鶴翼の陣形」と決めていたので「組み終わる頃」であった事に成る。
つまり、「当時の陣形が組み終えるまで・戦記の記録を参考」にすると、“「最長では12/22 13時~14時頃」”には、既に、“「戦う態勢を整え終わっている事」”に成る。
つまり、だとすると、「開戦・16時としている」までの「約2時間程度の相当長い時間」をそもそも“何をしていたのか”と云う「基本的な疑問」が湧く。
つまり、そうするとこの「寒い冬の三方ヶ原」で「武田軍本隊の到着」するまでの間」は、「松平軍」は「真冬の原で何もせずに“2時間程度”も待っていた事」に成るのだ。
つまりは、最短で「12/22 “10時半頃”」には、到着し、何と夕方の「12/22 “16時頃”」には「三方ヶ原」で開戦しているのだ。
一方、「武田軍の本隊の先頭」は、この“「12時頃」”に「落とした堀江城」を発進し、“「約4時間半」”を架けて走って、「魚鱗の陣形・赤兜の騎馬隊6000」を前に整えながら、「三方ヶ原」に到着している事に成る。
何せ何れも“4時間走ると云う疲労は大きかった”と考えられる。
「松平軍は冬の三方ヶ原で待つ疲労感・2時間」と、「武田軍は三方ヶ原まで走る疲労感・4時間」である。
「堀江の落城」は「囲み三攻め」であるので余り労苦は使っていないとしているので計算外と観る。
「三方ヶ原」に着いてから、“少ししてから開戦”と成ったとしているが、この時、上記した「駿河青木氏の青木貞治隊」を救出する為の「額田青木氏の銃隊の煙幕」で、「武団本隊の進軍阻止のタイムラグ」が発生している。
然し、この“「進軍阻止のタイムラグ」をどの程度と観るか”である。
つまり、これは要するに「救出時間」であり、この間に「武田軍本隊と山県軍の別動隊」は進軍を「待つ事」に成り、時間的には「疲労解除の有利な時間差」と成る。
これをどの程度と観るかであって、それには「弾幕」は固定できるが、その「弾煙の消えるまでの時間」には幅が生まれる。
それの「消えるまでの時間幅が働いていた事」に成るので、少なくとも実質は連続射撃であったとしても“1時間以上とはならない”であろう。
「1時間以上」では、「日暮の時間や寒さの疲労等」が生まれて両者に執って好ましくない筈で、この“「無理攻め」が起こる事”に成り兼ねないが、それを匂わす記載は無い。
従って、実質は、“精々0.5hで救出しなければならなかった事”に成る。
“両者に0.5h相当のアイドリングが生まれていた”が、これは当に“疲労の大きい武田軍本隊に有利に働いた”と観られるのだ。
故に、敢えて「勝負に関係のない救出劇」は“都合が良かった”し、「山県軍の別動隊の行動・判断力」に余裕が出来ていた事に成る。
「不利な状態の武田軍本隊」」を「救うタイミング」が執れ、且つ、だからその「判断の結果」は「少ない兵力・2000」で「松平軍の側面・5000」を突撃で突くと云う事が出来たのだ。
この計算からすると、「武田軍本隊の疲労感」は実に大きかった事に成る。
とすると、“「山県軍の別動隊」は、この本隊の疲労感を気にしていた事に成る。
この間どうしていたのか”と云う疑問の検証が全段でも論じた通りで、もう一度ここで必要だ。
それは、「北東の二俣城・13.5h~14.5h」から発進し、やや遅れて「武田軍の本隊の到着・16時頃」より「約0.5~1.0h程・16.5時~17時頃遅れ」の所で、「約3h~3.5h」を駆けて「三方ヶ原の真北の山際」に到着している事に成る。
この「山県軍の別動隊・5000/2000兵」も行軍に依っても疲労している。
そこで「武田軍の本隊の開戦準備体制」に入ってている事を観て、「最大1h遅れの山県軍の別動隊・補給拠点構築隊」は、この「本隊の危険」を察知した事に成る。
そこで、突然に「北の山際道」から「隊が整うか整わないか間隔」で、“「命令外・使命外の行動」に出て突撃した事」”に成る。
故に、この「時系列の読み込み」では、「本隊を助けた事・本隊が整うまでの時間稼ぎの行動」と読み取れるのだ。
そして、更にこの「戦況」は、「山県軍の別動隊」が「鶴翼の横腹を突く事・弱点」で偶然にも圧倒的な勝利に終わり前段で論じた通りと成ったのだ。
その意味で、その後の「浜松城の攻め落としを成さ無かった使命ミス」は、兎も角も「主戦闘隊」ではない「山県軍の別動隊」は、額田青木氏の銃撃で約半数を無くす程の大きな犠牲」を払ってでも「本隊」を辛うじて助けた事と成るだろう。
「武田軍本隊の戦場での陣形」を「充分に整える時間稼ぎ」が「駿河青木氏救出の弾幕・煙幕のタイムラグ」と共に、ここに「本格開戦までの1h弱程度のタイムラグ」が「流れの中」で有利に自然発生的に生まれたのだ。
「以上の説の通り」のこの「武田軍の行動」を察知して、「松平軍が積極的に行動を執ったとするの説・後付け策」では無く、「上記の時系列の詳細経緯」では、「松平軍が先に2時間前に三方ヶ原に向かった事の説」に成るのだ。
そうでないと「時系列」は符号一致しないのだ。
ある意味で、今後の「重要と成った戦記」にある様に、「浜松城の攻め落としのミス」をした「山県軍の行動」に対してさえも、「これらの事/符号一の時系列論」を以て「武田氏の戦後の軍議で許された経緯・正しい臨機応変策」が記されているのだ。
要するに、「事の戦略論」としては“何れの戦いにもこの「重要な基本と成る流れ」を見誤らない行動策”の事となろう。
これはこの現代に於いてでも成り立つ策謀である。
「今後の武田軍の見本と成る戦い」として扱われた可能性があるのだ。
然し、前段でも論じた様に「信玄死亡後の長篠の戦い」では全く行かされなかったのだし、寧ろその逆であったのだ。
「浜松城の攻め落としのミス」の「甲斐のセンセーション」から観ても、「三つの三河戦記の後付け説・好感引導説」であると観ている。
然し、それが「後の長篠での武田軍を滅ぼすミス」と成って仕舞ったのだ。
この時に、「勝頼」が反省していれば「長篠戦いの戦略的ミス」、つまり、「二拠点化で採った山県軍の別動隊の行動」、即ち、「本陣を崩されない為にも二極点化策の無視」は無かっただろう。
然し、この「山県軍の別動隊の半数を無くす程の大きな犠牲」は、「額田青木氏の銃隊」の「駿河青木氏の青木貞治隊救出」の為に採った仕方の無い影響だけであったのだ。
これ等は「現在の現実処理」に於いても学ぶべき「青木氏の歴史観」として、これらの関係する事柄を後の為にも正しく刻んで置かなければならないこれは「大事な史実」であるのだ。
此の世の事は、直前の「事の勝敗、事の成否、事のリード」の「直前の状況」に拘わらず、“「事の流れを如何に早く正しく見抜いた者”が時間が経った「最後の真の勝利」を獲得するのだ。
それには「人間」である限りは、その基点は「冷静に成る事を鍛える事」にあるのだ。
それを獲得した者が「上記した流れを掴む事」が出来るのだ。
これは「青木氏が求める古代密教浄土宗白旗派」の「仏教の密教経典般若心教の教える処」でもあろう。
それが「青木氏の氏是」を正しく理解する処にあるとしている。
そうでなければ幾ら「青木氏の氏是」を護れとしても決して護れるものでは無い。
「青木氏の歴史観論」より
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「青木氏の伝統 73」-「青木氏の歴史観-46」
「青木氏の伝統 72」-「青木氏の歴史観-45」の末尾
> 「摂津・堺」では、これに基づき、「試験用」として初期の時期・近江鉱山開発と同時期」からこれを選ばれていたと考えられる。
> そもそもそうで無くては、態々、この鉄を熔融する事で起こる「チタンの弊害」を取り除く為には、“「通常のタタラ製鉄」”では無く、先ずにそれには“「近江鉄」”を使い、それ故に上記した様に「銃にする為の欠点」を無くす事を試みた。
それには、「温度と量と炭素の関係性」を保つ事が理論的に必要と成り、結果としてそれには必然的に論理的に「高炉に近い炉」しか無かった筈である。
> 「近代銃の入手」と共に、そこで「西洋の高炉をも研究していた形跡」があって、それまでの「炉の技術」も生かし、改良が進んだ室町期にはそれに近いものを採用したと考えられる。
> 然し、その前にそもそも「奈良期」からの「近江鉄の原鉱石を使うとする段階」では、「摂津」には、既に「早い段階では、つまり「平安期頃」では「高炉とするものに近い炉形」が時系列上は既に「伊勢青木氏部]にはあったとされる事とに成る。
それには「関西で使われていた砂鉄用の箱型炉」と「関東で使われていた縦型炉の原形」があったが、この“「縦型炉の改良型」”が、既に開発され存在し得ていたと考えられるのだ。
> 何故ならば、「関東」には「日本の地形の形成事」からの地質地形上で「砂鉄」は少ない地質であった。
> そうで無くては、「砂鉄」では無く「奈良期末期」には次々と開発された「近江鉄の原鉱石の4鉱山の経緯」は、存在し得ない理屈と成る。
> そして、「室町期」に向けてこの頃の各地に盛んに成った「鉱山開発」が「成された史実も存在しない事」にも成り得る。
> 上記した「超近代銃の技術の所以・鉄と炭素と温度の相関関係」が得られる「炉・723度の0.8%C共析鋼」を獲得するには、“「高炉に近いものの改良炉・竪型炉」”で無くては絶対に得られない理屈と成るのだ。
> ここに「通説・高炉は明治期とする説論」とは異なる処であって、少なくとも「近江鉄」が存在し、「炉・723度の0.8%C共析鋼」を獲得している処を観るとすると、少なくとも「高炉的原型炉・竪型炉と予測」を「奈良期の初期」から使われていたとしているのだ。
> 「砂鉄の低融点の平炉や箱型炉」では、「低温度炉」で在る為に、「近江鉄の原鉱石を銑鉄にする事」は少なくとも出来ない。
> 理論的に「還元炉の高炉」と「不純物除去の転炉」で使うように成る筈である。
> ところが、この「高炉説」を本名とする事が起こっているのだ。
> これは「砂鉄の玉鋼の平炉と箱型炉・江戸期」とは違う方法で製鉄が行われていたのだ。
> やっと「鎌倉期」に成って「関東以北」でも「広く鉱山開発」が行われる様に成った。
当然にこれには炉の開発も進んでいなくてはならない。
> そして、この「鉱山」には、突然に「竪型炉/千葉県」と云うものが使われているのだ。
> この「竪型炉」が「高炉」に似ているのだ。
> つまり、「近江」で使われていた「炉形式」が「関東」でも使われたと云う事に成る。
> 全く同じ型では無いが、「高炉に近い竪型炉の改良型」であった事に成る。
> 「近江」では「青木氏の炉、つまり開発した竪型炉」であって、「青木氏部の匠技」には構造には糸目は着けなかったが、「関東」に於いてはそこまでは出来ずにいたものが、恐らくは「高炉」に近い程度により高くしたものを造ったとされる。
これを「竪型炉」としていたと考えられるのだ。
>「 関東」ではこれは「発展過程の炉」と云う事では無いか。
> つまり、「近江鉄の摂津」では、「高炉と呼ばれる程度の構造」を既に必然的に「独自開発していた事」を意味する。
> 実はこれには、「還元炉」と呼ばれ、現鉱石を還元するには「コークス」と「石灰」と「還元剤」を「炉の高い先端」から投入する事が必要とする。
> 専門的に古来から編み出されていた「竪型炉」は、「高炉の原型炉」と云えるものであって、「原理的」には同じ傾向のものである筈だ。
> つまり、簡単に云うと、「炉底」は「二重」に成っていて、この「炉底」には「けら銑・銑鉄」が流れ出て「炭素量」の違う「二種の鉄」が出来る。
> 最後に、「炉全体」を壊してこの「二種の鉄」を取り出していたのだ。
> これではこの工程で未だ「鉄」は使え無ず、ここから「不純物・スラグ」を取り除く工程に入る。
> 更により純度を揚げる為には、もう一度、「石灰等の還元剤」を加えて加熱して「浮き上がった不純物」を「棒先具・ケラ棒」で取り除くのだ。
> この「ケラ作業」は「銑鉄」の上に比重が異なる為に浮かび上がる為に同時に行う事もある。
> 「伊勢青木氏」は、「玉鋼の製法」では目的とする「銃の欠点を解決すべく鉄」が論理的に得られないとして、そこで、その目的を達成させるべく長い間で「高炉に近い炉の開発」に取り組んでいたのだ。
> 実は「高炉を貿易で輸入しての手法」では、「溶融方法」が出来ない「高い還元剤力と溶融温度」が得られないのだ。
> そこで独自に「鈩鉄の炉の中」でこの「目的に近い改良できる炉の開発/摂津」を試みたのだ。
> それが「砂鉄に付か使う縦型炉」の「改良の竪型炉」であった。
> 日本は最も高い効果を出す石炭の「還元剤の製造」には「伝統の掟」があって使え無かったのだ.
> それは先ず「石炭」を「500度程度の蒸気」で熱して、危険な硫黄を取り除き「コークス」として使えば「最高の還元剤」となるが、これが「伝統の概念」で出来なかったのだ。
> 其れは「超毒性の強い酸化硫黄の公害」に依るとして付けて戒めていたのである。
「青木氏の伝統 73」-「青木氏の歴史観-46」
さて、ここで「近江鋼」を検証すると、この時の「製錬の原理」が 「竪型炉≒高炉」とすると、「摂津青木氏の青木氏部の匠」が、「砂鉄の玉鋼」では無い「奈良期・703年~713年からの鉱山開発」からのこの「近江鋼」を製錬する場合は、まず何はともあれ「炉の改良」を行った筈である。
そして、「鎌倉期」に「関東」での「鉱山開発の鉄鉱石」には、「上記の竪型炉」が使われていたとする遺跡の時代経緯からすると、同じ「鉄鉱石の近江鋼」にも少なくともこの「竪型炉」が使われていた事に成る。
何方が先かは後に述べるとして、当然に、「奈良期・703年~713年」からの「鉱山開発」から、「鎌倉期の鉱山開発」までには、「約480年間の時代経緯」があるとすると、「竪型炉」は「摂津青木氏の青木氏部の匠技」に於いて先に必然的に改良されていた筈である。
それは「近江鋼」と「千葉の遺跡」とが「竪型炉≒高炉とする原理」であったからだ。
では、「竪型炉≒高炉とする原理」であったとする事から“どの様な処を改良されていたか”である。
少なくとも「還元剤の使用の有無」から「高炉」そのものでは無かった事が物理的に、時系列から頷ける。
「高炉」に使う「高いコークス技術による還元剤」はまだ日本では使われいないからだ。
故に、「高炉」に対して「改良を施した炉」を使っていた事が判り、それが「竪型炉」であって、この「竪型炉の改良点」は学問的に観て次の様な点があった筈である。
筆者がもし「竪型炉=高炉」とするには、その「財」に問題が無かった事から、且つ、目的達成の為の「改良点」を導き出すとすれば次の様な事をする。
1 「より良い銑鉄とタタラ」を取り出す為に、つまり「溶融温度」を高める必要があるが、この為に「竪型炉」を小高い丘などのより上部にして高くする事。(史実)
2 品質と爆発を配慮して「二重底の炉形」を解消して、「原形のタタラ・溶かした鉄」との「炭素の差」を無くして「銑鉄だけ」に絞る「構造改革」をする事。(史実
3 「二度の不純物除去の炉の無駄」をなくし、つまり、先ず「タタラ」との「炭素の差」を無くして「銑鉄だけ」に絞る「構造改革」をする事。(史実)
4 「重要な還元反応」を高める為に、 「還元剤」として現行の「木炭」+「石灰石」に加えて、「古来からの熱源」で、且つ、「還元剤の石炭」(コークス・注釈)」も加えて「還元反応」を高めて「銑鉄純度」を挙げる事。(史実)
5 炉の上に「屋根」を設けて全天候型にして保温する事。(史実)
6 大きくする為に壁に煉瓦の使用を試みて壁強度と壁保温度を上げる事。
7 「チタンやニッケルやシリコンの不純物」の「流し経路」を設ける事。
注釈 飛鳥時代、奈良時代から、要するに瓦は使われていた。
煉瓦は、“「磚、甎・せん」”と呼ばれてあった事が記載されていて「構造物」には使われたとする。
その後に廃れたとあり、これは弱点の地震にあったとされる。
中国では紀元前の秦の万里の長城に既に使われている。
注釈 石炭は記録から奈良期から採掘が成されていたが、その採掘場所の地層から硫黄分が多く出た。
この「猛毒の硫黄」が嫌われて使用は避けられていた経緯が記されている。
注釈 上記6の「木炭高炉・14世紀」は、まだ「還元性」が不足はしていたが、既に「西洋」に於いて「木炭高炉」は一応は出来ていた。
その歴史は、「14世紀初期」に「木炭高炉」、「17世紀初期」には「石炭高炉」、「1783年頃」には「コークス高炉」、の「以上の経緯」を経て開発されていた。(史実)
それまでの「欠点」をこの「石炭」でこの「還元性」と「火力・炉温度」を高めたが、ところが「石炭高炉・17世紀」には“「硫黄分」”が強く、これが“「銑鉄」”には「最大欠点」の「脆さ」を出して「使えない事」が起こったのだ。
高炉にも使えない最大の欠点がでて一時廃れる。
そこで、多くは「約100年後」の「1709年」に、この「石炭の欠点」を無くす為に先に石炭を蒸して「硫黄」を先に取り除き、これで「コークス・炭素」を造る事で、これで「高炉の欠点」を解決したのが「1783年」である。
この間、「74年間」も掛かっている。元から云えば「174年間」である。
然し、これには「疑問」があるのだ。
従って、時系列からこの「鎌倉期頃」には、つまり、既に「関東での鉱山開発」を始めた頃には、「木炭高炉・竪型炉・青木氏開発」として、「日本・摂津から千葉に移設」でもあった事に成る。(史実)
注釈 この「青木氏開発」の「竪型炉」は、「銑鉄」からもう一度、「製錬する炉」などで溶かし直して「不純物」を完全に取り除いて最終は圧延しして使う方式である。
現在ではこれを「転炉」と云う。
「近江鉱山」から「480年の間」に上記の「改良点」を「青木氏部」で実現すれば、「竪型炉≒高炉」は成立する。
上記の注釈の、「西洋」に於いて「14世紀初期」に「木炭高炉」がある以上は、「青木氏部の竪型炉」の「改良点」は示現していたと考えられる。
従って「1500年代初期」には「堅固な改良型竪型炉≒高炉」は存在していた事が頷ける。
況してや、「院屋号」を背景に「1025年頃に総合商社」に成っていたとすると、「中国・宋」のみならず「西洋との貿易」は行われていて、「最低限」でも「木炭高炉・14世紀・鎌倉期末期の原形」が日本に導入が成されていた事に成る。
それが故に、「関東の鉱山開発」には最低でも、「史実」として「高炉」では無く「改良型竪型炉」が採用されていた所以と成るのだ。
とすると、「青木氏部」がその「院屋号を持つ殖産」の「時・703年・713年」から「近江鋼で得た炉の技の使用」を「全国・関東」に広める事には、可能でその時点から「竪型炉の普及と改良」を重ねていた事に成る。
自らも「銃の欠点の解決とその開発の完成」に至る事までは、それに依って、この「竪型炉≒高炉の改良点」は、「青木氏部」に執って必然急務であった事に成る。
従って、時系列の経緯としては「14世紀」で「木炭高炉」に成ったとすると、上記の「額田青木氏の銃」に使う「近江鉱山の鉄」にするには、未だ「200年の開発期間」があり、それには「高炉の炉」としては「石炭高炉・1709年」から「コークス高炉・1783年」までに「仕上げる事の時間」があった事に成る。
ところがこの時、既に「日本の戦国時代」は始まっていた。
「額田青木氏を救い出す事」にはどんな炉にしろ「炉の開発」は急務であった。
要するにそうする最先端の「コークス高炉・1783年」までには、「高炉開発の時間」が更に「180年足りない事」に成る。
従って、この「180年間」は、「竪型炉≒高炉」であって、「貿易」があったとしても「木炭高炉・14世紀初期」<「石炭高炉・1709年」の間にあった事に成る。
そこで時代は先ず「木炭高炉・14世紀初期」を脱し、更に「石炭高炉・1709年」からも脱しようとしていた時期で、ところがこの「コークス高炉・1783年」にはまだ年代的にも程遠い事に成る。
「木炭高炉・14世紀初期」は、「竪型炉の炉低外」で「炭」を大量に使用し「外に流れでた鉄」を覆い、更には「還元剤」としても多量に使用する為に、製鉄には最も重要なのはこの「還元剤」であるがこの元と成る炭の「備長炭の使用の炭・殖産中の論」と云う点では符合一致する。
時系列として「石炭高炉・1709年」は、「江戸中期以降の事」であるので、その「高炉を使うと云う事」では「青木氏の所期の目的」は既に高炉に至っていず終わっている。
従って、「近江鋼開発と炉開発と銃開発の3目的」から「近江鋼用の高炉開発」は「竪型炉≒高炉」でも良い事であった。
故に「高炉」に拘らなくても敢えて「独自の竪型炉の発展炉・改良炉」を成し遂げて使っていたと観ているのだ。
その為の「財と技」は、充分にあって、それ故に「青木氏の氏是」に従い、この「過程」では「青木氏部」では秘密裏な事であったと観ているのだ。
この「3つの目的」の内の「近江鉄の開発」は、時代は進み「青木氏部がその置かれている政治的立場」から、既にその「殖産の義務」は既に無く成り、「平安期/鉱山開発の炉開発」では終わっていたと観ている。
故に、この「改良型の竪型炉」が「関東の鉱山開発の製鉄」に使われていた事に成る。
丁度、「青木氏部の摂津での開発」は「一種の試験炉」であったのであろう。
これらの周りに無かった「竪型炉の発展」と、「青木氏の義務の経緯」は一致していて、“「木炭高炉・14世紀初期」の段階”で終わらしていて、後は「記録」から「関東の鉱山開発と製鉄技術」の一部をその「青木氏部の匠技」は引き渡していたいた事に成るだろう。
「関東」に於いて「箱型や平炉の歴史」が全くない所から観て、「青木氏の竪型炉の改良型」が「何らかの条件付き」で「引き渡された事は確実であろう。
だからこそ「鎌倉時代の中期」まで、その「功績・見返り」に応じて「伊勢本領安堵策」にも繋がった要因の一つに成ったのであろう。
中期以降も「伊勢の本領安堵」は、“「郷氏」”ではあったが「守護王・大名」で無く成った事を理由に「南勢の旧領地」を残して全て解かれて無く成った事があった。
然し、ところが史実はこれを全てが“「地権者」”に変わっただけであったのだ。
「買った」のか「買わされた」のかは判らないが、前段でも論じた様に「伊勢一の大地権者であった事」は判っている。
後は、「室町期の戦乱期」では「額田青木氏の銃の完成期」にあったのであり、何も「高炉」で無くても「竪型炉≒高炉」で丁度良かったと云う事に成る。
注釈 「竪型炉の改良点」の「強力な還元剤」であり、「強力な熱源」の「石炭」は、その「欠点の硫黄」を除去するのに何と西洋では「74年間以上」も要している。
これは「青木氏部」にとっても「大いなる疑問」である。
そもそも「石炭」は、石油同然にその典型的な「化石燃料」であり、地層より「硫黄」を含むは必然であり、そもそも「硫黄」は地中で「強力な硫酸塩鉱物」を造り「硫化鉄」と成す代表的な物で、常識では“「74年間以上」”は不思議である。
そして、これを解決した方法が“蒸した”とするも当然と云えば科学者、又は科学知識のある者で無くても当然であって「不思議の極め」である。
ストーブなどで「石炭の火力」を火中で強くするには、逆に「石炭」に水を吹きかけ蹴る事であり、これに依って熱せられた「石炭」から硫黄が蒸されて飛びだし、残りは「炭素のコークス」と成り、これが「酸素」と反応して「火力」が強く成るは「子供頃の知恵」であった。
従って、「石炭」から「硫黄」を取り除けば「コークス」になるのは「子供の知識」であり、故に例え「74年間」は年代に関係なくおかしい。
「西洋」では「石炭高炉・1709年」と「コークス高炉・1783年」の2つではあるが、日本に於いては「石炭」は「飛鳥の古来」よりあって当然に「加熱材」として使用されていた事は「記録」から判る。
従って、少なくとも「石炭高炉・1709年」と「コークス高炉・1783年」には「74年の時間差」は普通は生まれ得ない事に成る。
且つ、歴史を観れば、前段の「備長炭の論」からの「木炭高炉・14世紀初期」が在れば「石炭高炉」と「コークス高炉」はほぼ同時期に既に成立する事になり得る。
そこで、「西洋」で「木炭高炉・14世紀初期」とする事には、日本では前段の「備長炭の論」から「900年頃」には既に「乳母女樫」に依る「良質の紀州木炭」は既に存在していた。
そして、その「木炭で造った墨・青木氏部」は、前段や上記で論じて来た通り「奈良期」に於いて「殖産」を命じられて完成している事から、「木炭の竪型炉」では、「高炉」に至るまでに既に使用されている事に成る。
とすると、「西洋」の「木炭高炉・14世紀初期」より前に「摂津の青木氏部」では「木炭竪型炉・平安紀初期」は完成していた事に成る。
従って、この「上記の改良型」が「青木氏部」に依って既に成されていた事に成り得る。
つまり、「石炭高炉」のみならず「コークス高炉・1783年」も同然と成り、“「石炭・コークスの竪型炉の改良型」” つまり、「竪型炉≒高炉」は成立していたと観ているのだ。
「上記の改良点」は冶金学的に「財」さえあれば「目的の重要性」から比較してそれ程に難しい事では無いからだ。
要は「竪型か高炉」かの呼び方如何程度のものに依ると観ているのだ。
余談として、割きに続き「西洋の歴史観」は、「青木氏の歴史観」からすると、余談と成るが、何故、「硫黄」にこれだけの「時間・74年間」を要したのかである。
「硫黄」は今も昔も「鉄を脆くする最悪の物」であるし、「猛毒」である。
「流化鉄」は放置しないであろうが、恐ろしい物である事はあるのだが、逆に石では無いので“蒸して取り除く事”も至って簡単である。
「石炭」は「高炉」の「最高の熱源」であって、且つ、「最高の還元剤」ではある事に目を着けた事は優れている。
現在に於いてもこれ程の物は出て来ない。
故に、現在は、この「厄介物のチタン等の鉱物」は、「高温」にして溶かして「単独金属にまでする溶解炉・高融点」に「コークス高炉」が使われている所以である。
この「74年」は、「コークス高炉」に到達するまでの“「石炭高炉」で一時済ませられていた”と云う事では無いか
「西洋の通説」と違って、「高炉中」に於いては「日本」では「硫黄」は問題とは成らなかったのでは無いかと観ているのだ。
何故ならば「竪型炉」でも「石炭」を使えば出る可能性があるからだ。
「硫黄の分子量32/酸素16/空気28.8」で炉中に発生したガスは重いので先ずゆっくりと「炉底」に沈む。
そして、この「反応力」は酸化物中で最高で「ガスの状態」で吸い取り炉上に放出していたが、空気より重い事から「地表」に落ちて沈み「植物」を枯らし、人間に健康被害の問題を起こす。
その為に「74年も放置無視されたという事」の原因となったのでは無いか。
もっと云えば、日本での「石炭竪型炉の記述」を記録から観ないのは、この「毒性や鋼の脆性」などの「重大欠点」を嫌っていたものであり、故にこれを使わない「木炭に依る砂鉄の玉鋼炉」が明治の初期まで主流であった事でも云える。
当時でも、だから「鉄の製鉄方法」は「砂鉄の玉鋼」から脱却できなかったのだが、だから「最大の欠点」は、「砂鉄」では「還元力」に重点を置くのではなく「炉の溶融温度が低い事・木炭」にあったのだ。
兎も角も、古来より身近にある「石炭」を「硫黄と云う最大の欠点」を生み出す為にこの還元力と熔融での「最高の石炭」は、“敢えて使わなかった”と云う事ではないか。
それを解決するのが「竪型炉か高炉・温度」であって、それが「コークス・温度・還元力」なのだが、そうすると、この「悪害の硫黄」を、何故、「植物化石由来の石炭」を「150度~540度付近」で蒸して「硫黄ガス・120度程度付近の融点」で取り出して「無害」にして使わなかったのかである。
そうすれば、「最高の還元力」と、「最高の温溶融温度」を簡単に獲得出来ていた筈なのだが。
これはそもそも科学的に観て、「古来の日本」に於いてでもそう「難しい発想・知識」ではなかったのだが、それが理由で歴史的に明治初期まで使われなかったと云う事だ。
実は、これには、「科学的の事以外」に、“何かの特別な古来概念が働いていた”と云う事ではないか。
何故ならば、それが“「明治初期」に成って全ての熱源にも一斉に使われ始めた事”なのだ。
この「概念」が突然に簡単に取り除かれたと云う事ではないか。
それ程の物であった事に成る。
これには、そうすると、“何かがあった”からだが、それは何なのかであり「発想の転換」を成すより強いものが明治維新に働いたと云う事になる。
この“古代の鉄の時系列”では次の様に成っている。
「砂鉄のタタラ製鉄、或いは、「その後の鉱山鉄」が、上記して世間、即ち、「伊勢神宮」に於いては<「薬用」<「禊用」の過程の概念に関わる物”として扱われていたと仮にすると、「上記の様な突然変化の事」が起こっていた可能性がある。
そこで、「時代の進行」に沿って当時の「鉄の置かれている立場」がどの様に変化して行ったのかを検証して観る。
1 昔は金属の鍛造に関わっていたものの総称を、「打物者」、又は「打物師」とか「居職」と呼んだ。
2 大工の「番匠」に比べて「専業化の強い職種」であった。
3 飛鳥期からの「鍛冶部・かぬち」と[鍛冶戸・かじべ」はその技を継いだ部であった。
4 彼等は一時は「工人の身分」で「農業の傍での作業」であったた為に「農民」に区分けされていた。
5 「12世紀」に成って「鉄の収容増大・需要」で分化して4は「職人格」に成長した。
6 更に「金属処理加工の分化」が進み、「銀加工の銀鍛冶・細工の職人」が分化した。
7 ところが「5の影響」を受けて「鉄の鍛冶師」だけは別の進化を遂げ「別格の技術者扱い」となった。
8 「12世紀」には「刀鍛冶」、「15世紀」には「具鍛冶師」、「17世紀」に「鉄炮鍛冶と庖丁鍛冶師」は5より抜け出し「高い扱い」を受ける様になった。
9 「砂鉄」は“「野たたら」”と呼ばれていて主に古式に原始的に精錬されてにいたが、「近世中期の18世紀」になって、“「たたら炉」による新しい精錬”と成った。
10 「燃料」は「18世紀の最先端の燃料と還元剤」は、あくまで「木炭」であった事が明記されている。
11 彼等は飽く迄も5の影響を受けたが、「区分作業の賃金労働者」であった為に「木炭」からの発展は留まった。
12 古来には「鍛冶屋の職祖神」、又は「道祖神」を信じる職人は、“「金屋集団」”と呼ばれて「金屋子神・かなやごがみ・金山神」の組織の中に義務的に全員あった。
13 古代では、「天目一箇神・あめのまひとつのかみ」と、「八幡・はちまん信仰」に結び付く「鍛冶翁・かじのおきな」を主神としていた。
14 古代では、その後は彼等の殆どは「稲荷明神」に入信する事と成ったが、「商人」などは「金山神」とし、組織化されていた。
以上の「経緯の事」から観ると、上記した「神饌」<「薬用」<「禊用」<「工業用・冶金的な冷却と云う点」<「食用」の概念の関係から、「伊勢の殖産」の中にはこれが無かった事が解り、「近江の鉄製品」に限っては「特別な縛り」は無かった事に成るのだ。
そして反面、「砂鉄の事」に限ってはあった事に成る。
だとすると、「砂鉄以外」の「全ての炉種」に対して“「石炭の使用」”には「縛り」は無かった事に成る。
これにはただ一つ上記の「9~14」に「答えに成るヒント」が出ている。
先ず、“全ての鉄に纏わる者等”は、“「金山神」”を「主神」としていて、彼等の全ては“「金屋集団」”と呼ばれる「組織」に入っていたと云う事である。
この“「金山神」”は、「天目一箇神・あめのまひとつのかみ」と「八幡神・はちまんのかみ」にその「流れ」を組んでいたと云う事であり、「最終」はそれが“「稲荷明神」”に繋がるとしていて、更に前段でも論じたが、この“「稲荷伏見神」”は、“「伊勢神宮の外宮豊受大神」”と成ったとしているのだ。
つまり、辿れば、“「伊勢神宮の外宮豊受大神」”は、“「稲荷伏見神」”に戻り、古来の果ては“「金屋集団」”の“「金山神」”の、「天目一箇神・あめのまひとつのかみ」と「八幡神・はちまんのかみ」に戻るとしていたのだ.
結局は、「古来からの砂鉄」に限っての概念には、上記の「4つの概念」に縛られていたと云う事に成るのだ。
ところが、200年程度遅れた「近江鉄」には、この上記の経緯の「4つの概念」に未だ強く縛られていなかった事に成る。
寧ろ、以前より在った「禊ぎ概念」の「神饌」<「薬用」<「禊用」<「工業用」<「食用」の概念の関係が伊勢と近江では優先にしていたと云う事に成る。
終局は、何故ならば「炉の加熱材、又は還元剤」は、その「彼等の木炭の使用」にあるとし、又は、この「石炭の使用の是非」も、この“「金屋集団」”の「4つの概念の掟」にあった事に成るのだ。
つまり、“「砂鉄の鉄」”が、「神饌」<「薬用」<「禊用」の過程”の概念にも関わる物として“「伊勢神宮」では扱われていた”のだ。
そもそも直ぐ真近にありながらも「古来からの石炭」は、「鉄、即ち炉」に対して“「是非の非の物であった事」”に成り、「古来からの木炭を超える事」の神聖差からは抜け出せなかった事に成る。
故に、この「概念」が解かれる「明治初期」まで長く使われなかったのだ。
尚の事、「伊勢青木氏の額田の近代銃の製作」には、この「縛り」から離れる為に「伊勢神宮の影響」から離れる為に「改良型竪型炉の固守」で完遂させたのだ。
そもそも、「西洋」では、この「初期頃の高炉とされる主な目的」は、上記で論じている様に製鉄には「軍用の銃身とその弾丸の生産」にあって、「西洋」に於いても同然であって、それに伴って「発達させたとする炉」なのである。
これは「額田青木氏の目的」と同じなのだ。
故に、当然に当時は、「製錬過程」には「日本列島の形成構造上」で、宿命として「原鉱石」の中に「チタン」は多く潜むのだ。
当初では、この「チタンと云う概念が無かった」と考えられるが、それが“「白くて溶けない堅い鉱物・炉の破壊」が、「炉口」で邪魔をして危険な物と成る”とする程度の認識しか無かったと考えられるし,その様に「砂鉄の記録」では記されている。
その為に「砂鉄」では“何か炉に対して対策しようとする開発的の様な動き”はそもそも無かったと考えられる。
要するに、この「不純物の鉱石」を取り除く為の「融点の高い炉」の「必要性の有無」であるのだ。
故に、偶然にも「筆者の上記する専門学的な立場にあった者」から直視しても、「近江鉄に検証される事」からすると、多くの書籍にある「炉の時期に関する通説的な説」とは、「筆者の説」とは一線を画しているのだ。
「日本における炉の上記の歴史的な経緯・青木氏部」とは全く合致しないのだ。
上記の「石炭の使用の経緯」の様に、「炉と砂鉄の鉄」には彼等の守護神の金山神は元より「神に関わる「神饌」<「薬用」<「禊用」の過程”の概念」が強く存在していたと云う事だし、それに縛られていたのだ。
つまり、上記した様に「奈良期」からの「朝廷」より託された「院屋号を有する部経済の摂津の商い」と「青木氏部を有する族」に於いて、「近江鉄の殖産」とそれに伴う「鉄製品の殖産」の「経緯」から判断して、歴史の一般的経緯にはこの「青木氏部の記載」はなくても、“密かに高炉的な開発」もあった”と観ているのだ。
そもそも、「鈩の砂鉄・500年頃の吉備域・主域」に換えて、「鉄鉱石・近江鋼・703年・713年」で行くと決めた時点で、前段でも論じた様に、「タタラ鉄」に用いられた「平炉と縦型炉と箱型炉・鈩用炉」では「鉱山開発の鉱石の溶解」は元々無理であった事に成り、其の様に思っていた事に成る。
故に、“「鉱山開発を命じられた時点・因事菅隷」と同時に「炉開発」が「青木氏部」に求められた筈”であるのだ。
これは「約200年後の事」である事であり、且つ「竪型炉」である事」である事に成る。
「近江鉱山開発の703年頃・因事菅隷」には、「西洋」に於いても未だ「竪型炉」はなく、「日本」では信用できる「遺跡発掘」では、「関東東部」から「11世紀」と「12世紀」と「13世紀」の3地層から「3基の遺跡」が発見されている。
これらは明らかに上記の論より「遺跡」の様子から「竪型炉」とするものであった。
これが「通説」として、この「遺跡の時期」を以て「竪型炉の開発時期」とされていたが、最近に成って「最古」とされる「千葉の遺跡」から、正しいかどうかの確認は別として、ところが「8世紀」と「9世紀」の「2基の竪型炉」が発見されたのだ。
歴史的に「炉の経緯」が食い違っているのだ。
この「8世紀の層からの竪型炉」は、「砂鉄の箱型炉」を上に起こして開発発展させた「縦型式の原形の竪型炉」と云うものであった事に成るらしい。
これは現実に「地層」として観れば、「日本独自の開発炉」に成るが然し違うのだ。
上記した「砂鉄の縦型炉の竪型炉の改良型説」は、納得出きるし、「近江の鉱山開発」と同時に鉱山用として「砂鉄の縦型炉の竪型炉の改良型説」は納得出きるし、これは「近江の鉱山開発と同時」に「炉開発」も急いで行われていた事に成る。
「青木氏部」は大変な課題を背負わされた事に成っていた事を物語る。
余談だが、これに依って先進的位置にいた「中国人も含めた渡来人の技能者」を呼び集めただろう事が判る。
だから何度も論じている上記した「天武天皇の談」に成ったのであろう。
さて、そこで“「関東東部」から「11世紀」と「12世紀」と「13世紀」の「ある地層」から「3基」”に付いても発見されているが、この事に就いて、前期の通り「鎌倉幕府」が「関東」に於いても「財政的な面」から、「関西の鉱山に使われていた竪型炉の技術・伊勢青木氏」を「関東」に導入して、「鉱山開発」を盛んにして「経済の梃入れ」をしたとする経緯に合致する。
この「遺跡3基」はこの「所以である事」から先ず問題はない。
然し、“「千葉の遺跡」から「8世紀」と「9世紀」の2基の「竪型炉」”は、上記とは時代性が全く合わないが、これが上記した「近江の遺跡」とすれば問題がないが、但し、これにはある「疑問」がある。
先ず「竪型炉だとする炉形説」にしても、当に「砂鉄の時代」のものであり、これが「関東に伝わるのが早すぎる事」と、この「8世紀の炉」とするは、兎も角も、「9世紀の竪型炉」も早すぎて疑問なのだ。
仮に「竪型炉」としても未だ「青木氏部」での「近江鋼用の炉の研究を始めた頃」の事であり、何が何でも疑わしい。
「炉の完成」を無視しての前提とすればそうなるが、「砂鉄の縦型炉」から「近江鉱石の竪型炉」への「炉の開発の変化」は、「近江鉱山開発」から暫時行われていたとすれば「竪型炉の試作中の炉」として考えれば問題はない。
現実に並行して「青木氏部」が全力を投じて専門的に開発していたとしているので可能である。
「703年と713年の2つの近江鉄の鉱山開発」でも、「砂鉄に使われる箱型炉」よりも「砂鉄の縦型炉」を改良した「原始的な改良型の竪型炉」であるので、「同時期の炉」としては考えられる。
唯、研究開発を進めながらも「完全な竪型炉」になるには未だ時間は掛かっている筈だ。
だとすると、上記の「8世紀の炉」と「9世紀の炉」が仮に同時に存在していたとして、始めたばかりの「近江鉄用の原始的縦式竪型炉」が、その同時期に「上総」で使われていたとする事に成る。
「初期の鉱山開発の時期」は、歴史的に「近江の鉱山二つ」が最初であるとすると、「上総」にも同時期に鉱山が拓かれたと云う事に成るが、これでは時系列が早すぎるし、且つ、其の「史実」は全くない。
それは「奈良期初期」の「703年と713年の時期」に、「上総」にも「奈良朝の勢力」は未だ充分には及んでいないからだ。
「鉱山開発と炉開発」の「関東での経緯」があるのはあり得ない。
仮にあったとして、精々、「坂上田村麻呂後の事・平安期初期」になろう。
つまり、「関西の者」が征夷を制覇する途中に、この「千葉」に長く立ち寄っている史実があり、それがその最初であって、それまで「炉を設置するなどの文明」は未だここには無かったのだ。
「施基皇子とその後裔」が、「開発途上の鉱山開発」と共に、同じく「開発途上の炉」を「賜姓五役」として “「上総・移設」に移した”とする推論にこれは成る。
移設するとしてもこの時期は「天皇の承認・因事菅隷」が必要であって、其の為の「伊勢青木氏」に対しては「因事菅隷下」にあったのだから、他氏がここに押し入る事は無理である。
然し、「因事菅隷・内密な特別格式の有する者への特別命令書」の無いこの推論は、時系列的にも手続き的な歴史観より相当に無理だなのだ。
後は、「成り立つ可能性の論」としては、矢張り、“「関東東部」から「11世紀」と「12世紀」と「13世紀」の「3地層への設置」からこの「3基」”の論に繋がる説と成るだろう。
前段で論じている様に、総合的に「青木氏の立場」から観て、「11世紀・平安時代末期」で無くても「9世紀・嵯峨天皇前後期」は先ず無理としても、その後の「10世紀・殖産豪商期・平安期中期」の以降は成り立つだろうが「因事菅隷下」の話となるので無理である。
この時期に「関東」に於いて、「殖産」として「伊勢青木氏」は、その「院屋号」に基づき「因事菅隷の令」を受けた「令外官」として「関東に鉱山開発」を試みたのではないかと云う説論に成る。
然し、「記録」を観てもこの「史実」はないし、「炉の開発」は未だそこまで至っていなかった筈だ。
だとすると、それが「開発途上の炉」で以て「11世紀・平安期」にはある程度の花が咲き始めたので、「伊勢本領安堵」された「鎌倉幕府の12世紀」と「北条氏の13世紀」への「見返りの裏」で以て「開発途上の炉」を移行して行った”と云う経緯が無理にも成りたつのではないか。
つまり、「朝廷の命・因事菅隷」にて「関西・近江」だけではなく、「院屋号の特権」を持つ以上は「関東・上総」に於いても、“「初期の8世紀の炉」”ではなく「開発途上の炉」を、「建設場所」を「8世紀の地層」に「703年や713年頃」の100年以上経過した「開発中の炉」を建設したという事で「時系列」は成立するのではないか。
但し、これには前提があり、それは次の経緯を辿る必要がある。
現実に上記した様に、「小高い丘を削りその下から炉を積み上げて造る炉」である以上の事であるが、「8世紀から12世紀までの地層を削る事」は充分にあり得るし、また結果として竪型としては必然的にそう成るだろう。
「近江鋼の様」に明確な記録はないが、「関西の近江」があれば記録は見つからないだけで、「関東の上総・安房」にも「鎌倉幕府の依頼」で、且つ「朝廷の命・院屋号の令外官・因事菅隷」として「青木氏」は密かに「因事菅隷」を受けていた事はあったのではないか。
それが「今回の遺跡調査」で現場が発見と成ったのではないか。
実は、「8世紀、9世紀の地層での竪型炉の遺跡」は有り得るのだ。
それは、この「近江鋼に使った竪型炉の特性」にある。
「砂鉄の縦型炉」を基本に改良したこの「竪型炉」は、その「鉱石と還元剤と加熱材」を「炉の高い頂上」の上から投げ入れる事が必要であって、その為に「炉高」を先ず上に出したのだ。
この「炉高」を「築炉」だけでは無理で、「炉の構造上」から「危険であった事」から2から3回使うとこの炉を壊して新たに築造すると云う方式を採っていたとする。
ところがこの「炉高」を恣意的に高くすると、余計に「爆発などの事故」があったとされ、そこで「小高い丘」の「上下」を竪に削って利用して「竪型の築造」をしたとしているのだ。
これは「雨水の風雨や温度の維持と炉の温度の平均化」で合理的であった。
この「合理性」が功を奏して、それが次第に「竪型」を出す為により高く成って行ったとするのだ。
其れで、その「小高い丘の上下」には、「一つの炉」で「時代の地層が変わる事」が起こったとするのが学説的に常説と成っているのだ。
寧ろ、「地層が変わる事」がこの「炉」に対して「全体の温度」が「平均化」してよかったとされている。
故に、「8世紀、9世紀の地層での竪型炉の遺跡」の誤認は起こり得るのだ。
寧ろ、「誤認」が起らなくてはこの「竪型炉」は成し得ない事であったのだ。
従って、“「関東東部」から「11世紀」と「12世紀」と「13世紀」の地層から「3基」の遺跡」”と「8世紀、9世紀の地層」からでの「竪型炉の2基の遺跡」と合わせて同時期に「5基の遺跡」と成るのだ。
従って、この「変位部分」を修正すれば「竪型炉の史実」は無理なく一致するのだ。
これは云い換えれば、何れにしても「伊勢青木氏」は、「因事菅隷」があったとしても「関東」に於いてその力を敢えて積極的に注がなかった事を物語る。
それはこの間、「伊勢青木氏」では「炉の改良」は進んでいるにも関わらず、「関東」に於いて「技術の進歩の継承」が成されていない事から鑑みて、これは「青木氏の氏是」に基づくものであったろう。
これらの「炉の工事主体」は、「伊勢青木氏の相方」に左右される話で、その前段で、何度も論じている「土木業者の額田部氏」にあったのだ。
そもそもこの「関東の土木」は、「土木を専門とする氏の結城氏の本場」であったし、当時としては手を出さないのが掟であろう。
「争いの元」を出さないのが「氏是」であるし、況して「結城氏」は「母系血縁族の秀郷流一門の主軸」である。
「額田部氏」はまず間違いなく「上総]に手を出さなかったと考えられる。
注釈 「額田部氏」は 「桓武天皇の二度の遷都造成」の「向行命」に従わず「官位剥奪の重刑」を受けて一族追放刑を受けていると渡来系の職能氏族である。
然し、これを「施基皇子」が「伊勢」で密かにひの額田部氏の一族を「青木氏族」の中に入れて匿い助けたのだ。
その後、「施基皇子とその額田部氏の後裔」と共に働き、「功績」を揚げて「50年後」に許されて元の位職に復し、更に「二段階昇進の破格の官位」を「桓武天皇」から受けている。
共に「施基皇子」は「伊勢桑名」に彼等の「土地」を与え居住させる。
当時の慣例として成し得ない民間事で職能人としては、「最高位で破格位の宿禰族の官位」を獲得し、その後、「施基皇子の後裔・青木氏」と共に働き「明治9年」まで「共同企業」として働く。
其の後、「明治35年頃」まで共に発展し、その後、「土木会社」を「桑名」に起こし、その後に経営は現在に続く。
だとすると、「近江鉱山開発とのその製錬溶解炉の開発」に「第二段階の目途」が着いた「11世紀の末期頃」には、「結城氏の根拠地」の「上総・安房」に、この「土木部の額田部氏」と共に、「近江での技術・鉱山開発のノウハウ」を移したと云う「シナリオ」が記録が無いが充分に成り立つ。
そして、その後を「専門外の結城氏・道路の土木技術専門集団」の「結城氏」が引き継いで、「状況証拠の経緯」から「伊勢青木氏と額田部氏」は「上総・安房」から手を引いたいう事では無いか。
然し、それが何時しか「技術の継承」がままならずに放置され廃れて鎌倉期末まで長く引き継がれなかったという事では無いか。
再び、その後、「鉄の重要さ」を認識していた“「鎌倉幕府」が「伊勢」に頼んで来た”と云う事では無いか。
その「見返り代償」が、「伊勢本領安堵と云う事・主張が認められている」ではなかったかと考えられる。
注釈 この「竪型炉」には「一つの特徴」があって、この「重要な認識」を以て建設期ま判断をする必要があるのだ。
それは「砂鉄の平型炉と箱型炉と縦型炉」は、そもそもその構造から「平地」に建造する。
ところがこの「開発の竪型炉」は、「小高い丘」に建設し、丘を垂直下に掘り下げて「高さ」を獲得する。
それは「丘の高い位置の炉口」から「原鉱石や木炭や還元剤」を容易に投入し、下側の「湯口と炉底」に「溶融鉄」を流し、「貯め冷やす仕組み」にして労苦を軽減する仕組みである。
この為に「古い層の土地」を必然的に削る事に成るのだ。
この事から「純粋な竪型炉」に限り「炉の遺跡」に於いては「時代査証」を間違い易いのだ。
この「8世紀と9世紀の査証」は,この“「純粋な竪型炉」”に於いてもう一度検証する必要がある。
もう一つは、まず「初期」にはこの「純粋な竪型炉」に関して、「たたら・鉄滓」を獲得するには「タタラの箱型炉の発展炉」であるが、「箱型炉」をより温度を高める為の「高さ」を獲得する為に「炉」を「縦」にしてそれを「鞴の位置」や「湯口の位置」を変え、「二つの改良」を行った。
それが「改良点の一部」が記録に遺されていて次の通りである。
1 「タタラ・ケラ・炉中・低炭素鉄」と「銑・ズク・炉外底・高炭素鉄」と「鉄滓・ノロ」の「タタラ鉄・3つの鉄」を、「銑・ズク・炉外底・高炭素鉄」だけにした。
2 「鞴・フイゴ・踏み込み式」を「二つの下湯口」に置き、大きくして炉熱を高めた
3 「木炭・熱源」を多くして「溶解温度」を先ず増し、「炭素量」で還元力を増やし、「石灰」を追加して「還元力」を増した。
4 「炉高」を高めて「炉外底」を無くした
最初は、「砂鉄の箱型炉」から先ず「縦型炉」にして、鞴などのそれを改良して最終は「箱型炉」に似つかない形の違う「別型炉/初期の竪型炉」に成った。
それは現在の「高炉に近い炉形」の「純粋な青木氏部独自の竪型炉」と成ったのである。
この「査証の点」から、“「関東東部」から「11世紀」と「12世紀」と「13世紀」の地層からの「3基」”と、“「千葉遺跡」から「8世紀」と「9世紀」の地層からの「2基・誤認」”の合わせて「竪型炉」の「5炉」に関しては、少なくとも、“高炉に近い炉形の「純粋な竪型炉」”としてでは断定できる。
唯、「前者の炉形」と「後者の炉形」が、「竪型炉」としても全く同じであったかは定かではないが、現在この遺跡は分析されている。
これは炉のけんしょうかのものであり、鉱山からの検証に於いては異なるのだ。
では、この時期では「未開に近い関東」には、「鉱山」を開いたが「関東」に於いては「どの資料」からも「鉱山開発」は「鎌倉期」からであるとしている。
それ以前のものは見つかっていない。
それも「鉱山開発」には、「経済の根幹」を左右する「鉄市場」を統制する為に「院屋号・特別占有権」を持っての「開発」であって、この当時は「民間」は、「賜姓臣下族」などの「1等官上級令外官に出される令」の「太政大臣に代わって出される因事菅隷」に基づくものであって「民間」は先ず論外であった。
これは「献納の源」にはならないからであるし、誰でもが「献納する資格や格式」を有していないからだ。
「ある一定の資格なし」には、「朝廷」が乞食の様に「献納」を自由に受ける訳には行かない掟である。
従って、それに伴う「炉などの開発に伴う製鉄方法」も、この「民間の中」には明治期まで無かったのだ。
況してや、「政治と経済」を左右する「製鉄方法が絡む所以」は、この「院屋号の格式」を無くしては尚の事であった。
故に当時から「炉と鉄の関係」は政治から切り離せない関係にあって、「鉱山開発と炉の開発の政策」は「院屋号の因事菅隷」で一体化していたのである。
故に、それを持ち得ていたのは「民間」ではなく、長く関わって来た「永代浄大一位の最上位の格式」を有するのは「伊勢の超豪商紙屋院の号の伊勢屋の青木氏部」だけであったのだ。
それ故に、「一切の資金等や技術の出所」は「院屋号が持つ事」に成っていて、それに「見合う献納」を義務として果たしていたものなのだ。相当な財を持ち得ていなければ元より成し得ない格式であったのだ。
飽く迄も「殖産の利益歩合」では無く「献納の形」で明治初期迄続けられていたのである。
故に「政治の執行官の太政官」が出さない「因事菅隷」に従っているのだ。
当然に、この「関東の鉱山開発・資本投資」に於いても、この事から必然として「鎌倉期初期」と成り得るのだ。
故に「因事菅隷」が、密かに令外官として出される以上は、「平安期末期迄」は、「703年と713年」に「施基皇子」に「永代役の賜姓五役・令外官」として「鉱山開発の院屋号」を正式に与えているのだ。
「天武天皇以降による因事菅隷の役務」とその前の「天智天皇の賜姓五役」の「二つの特権」を保持していたのだ。
従って、これがある以上は、その「権利」は少なくとも「平安末期」までは「権利」としても、「財力」としても、「技術力」としても、「土木能力・額田部氏」としても、どんな面を捉えても少なくとも持ち得ていた事に成るのだ。
民間など入る隙間は無かったのだ。
周囲はこの「因事菅隷」が「伊勢青木氏」にある限りは、先ずはお伺いを建具する事に成っていたし、行うとしても可能かどうかは別としても「氏族の下請け」と成っていたのだ。
それ故に実際は「民間の下請け」は無かったとされていて、それは「献納の格式・誰でも献納はできなかった」の有無にあった。
注釈 奈良期の「朝廷内の官僚の8割」は「後漢の技能集団の帰化人の役人・渡来人」で占められ、これが「問題」と成っていたとある。
其処で「天智天皇」に継いで“「天武天皇」”は、これを官僚に尋ね聞いて、これを憂いて、出来たばかりの「太政官令」とは別に“「因事管隷」”を密かに発したのだ。
この「太政官」は、「八省」のみならず、「神祇官等」も含む「全ての官庁(官司)」を動かしたが、この事をより効果的に動かす為には、「特定の令外官」にのみ“「因事管隷」”と呼ぶ「特定の令・内密書・密書」を発したのだ。
つまり、「太政官令」に基づいて、この個別な正式な令に並ぶ「天皇から直接発せられる令・密書」を指す“「因事管隷」”に依って、「特定の令」を発したのだ。
「施基皇子とその後裔」は、この「法・因事菅隷」に基づく“「因事管隷」”の「最初の範」として「特段の扱い」を受けた。
謂わば、「永代令外官」による「天智天皇期・父・668年- 672年」から“「賜姓五役」”として、その役の“「模範例の前提」”と成っていた。
然し、「天武天皇期・叔父・673年- 686年」では、具体的にこれに対して“「因事管隷」”を以て“「特例に発せられた令」”であるのだ。
云わば、「特別の扱いをしていた令外官」を格式に於いて選別して特定したと云えるのだ。
つまり、「天智天皇の永代賜姓五役」から「天武天皇の因事菅隷」に正式に代わったと云う事が云えるが、その後も、この「賜姓五役」の「令外官の令」も出され続けたのだ。
それの一つが、“「因事管隷」” =「賜姓五役」=「殖産起業の伊勢青木氏」であったのだ。
その前には、前段でも論じたが「部人制度」で造った「全ゆる製品」を一度朝廷に納めて、そこで「必要と成る分」を「朝廷」で取り除き「残りの商品」を裁かねばならなかった。
そこで、これを「専門的に成す者」に「賜姓臣下族の青木氏」に命じたのが、「賜姓五役の始り」であった。
これを「賜姓五役を受けた伊勢青木氏」では、これに依って商い事に成る事を以て最後には正式に「商いとする事」にまで発展して行ったのである。
この「賜姓五役の格式」だけでは「天皇・朝廷の命令の全て」が裁く事が出来なく成ったのである。
そこで、「格式充分な青木氏」に出す「是非特別にして出したい天皇の命令]には「限界が生まれる事」が常時発生したのだ。
そこで格式上、「太政官」より「上位の青木氏・浄大一位」に「下の格式の官僚」が「命令」を出せない事の為にそこで「太政官」は、「天皇の意を伝える手段」として「天皇の意向伝達の伝言書」としての「因事菅隷の書」を天皇に出してもらって発したのが始まりである。
中には「官僚」にも伝えたくない「秘密の指示書・密書」も多かった為に秘密裏に「因事菅隷の書」が頻繁に出される様に成ったのだ。
この「密かな命令」の為にいざ「殖産」と成っても「天皇側」が「一切の管財や協力」を出すものではなかったのだ。
「伊勢青木氏独自の一切の力」で「意向伝達の伝言書」としての「因事菅隷の書」を実行しなければならなかったのだ。
況してや「密書」である限りはそれ以上の事は出来ない。そこで部経済の差配役を担ってそこで生まれる利を使う事でこの役を果たす事に成ったのだ。
それには、この「奈良期の当初」は、「部経済での財としての商い」であって、「技としての集団・国造部」の「差配の青木氏部」であったのだ。
それが本格的にこの「賜姓族令外官の開始」に入ってからは、大きい「因事菅隷」では「703年と713年」には、先ず「近江鉱山開発・元明天皇期」が可能に成ったのであって、これらの「功績」を「天武天皇」の“「因事管隷」”に依って“「権威付けたという事」”であったとされるのだ。
注釈 「703年と713年の近江鉱山開発・元明天皇期」は、「鉱山開発」を実施した時期ではなく、「14年掛かって本格稼働に入ったとする時期」を指しているのだ。
その前の「天智期・668年から天武期・686年」にこの“「因事管隷」”に基づいて「準備」をし「鉱山の開山開発の準備」を開始したのだ。
「鉱山の開発とその採掘」には、「土木工事の専門職の部」が必要であって、「施基皇子」と仲の良かった「額田部氏等の協力」を得ていたのだ。
「開発の山場所調査」からその「青木氏部の技術の習得等の調査の準備」が必要であったのだ。
ところがこれが「密書」に於いてである限りは、以上の認識に朝廷も社会も「因事菅隷」に関しては別の所に置いていたのだ。
「密書」である限り周囲は知らなかったと云うのが正しい表現であろう。
確定はしないが、「浄大壱位の真人族」から、態々、「賜姓臣下族」に成ら得なければならない根拠には、この「天武天皇の重要策の目玉策」として、それを、つまり「内密書の因事菅隷」を「実行する氏族の特定の集団」が必要であったのだ。
そして、それが最初に形として出て来たのが「殖産業」=「伊勢青木氏」=“「因事管隷」”があったのでは無いかと考えられる。
それだけに「鎌倉幕府」に成る前の「平安末期」までは、この何人も侵す事の出来ない最高格式を有する“「因事管隷」”の下に「鉱山開発」はあったのだ。
これ等を理解する上でこれが「最低限の歴史観」であるのだ。
故に、鉱山に関してどんな「殖産」にも対応でき、それを叶えていたのは「奈良期からの青木氏部」であったろうし、「鉱山開発」もその一つであったと云う事だ。
これらは、言い換えれば「伊勢青木氏の格式」だけではなく、即ち、密かに「法の前提・“「因事管隷」”に裏から守られていたという事である。
これは普通であるなら「長い歴史の間」で攻撃され潰されるも「超氏族・超豪族・超豪商」として「攻撃されていない・潰されない・抹殺されない史実」はこの前提にあったからだ。
当時は、平安期に於いては少なくとも次の様な関係式にあって引き継がれていたと云う事だ。
「青木氏の格式・浄大一位」=「賜姓五役・天智天皇」=“「因事管隷・天武天皇」=「律宗族」”と成る。
この“「因事管隷」”の中では、少なくとも「平安期末期」までは、この「鉱山開発」は保証されていた事は明白であり、“「因事管隷」”の届かなくなった時期、即ち、「関東の鉱山開発期頃」には「鎌倉幕府」は、未だ勝手には出来ず「伊勢青木氏に頼む事」に成った所以であろう。
云わば、「現在の特許権」に相当するものであったのであろう。
この「関東の鉱山開発」は、少なくとも「近江鉄」に対応した「伊勢での開発改良された竪型炉」が用いられたものであった事に成る。
「嵯峨期」でこの絶大な権力を持つ事に成っていてそれに依って「皇親族を外された事」が、この「因事菅隷」に左右していた事なのかと云う疑問である。
この論理で考えれば「嵯峨天皇の青木氏に対する過激な行為」は納得できる。
つまり、言い換えれば「嵯峨天皇」はこの「因事菅隷を使わなかった事」にも成る。
嵯峨期に於いて「皇親族」は廃止されたが、「皇親族」は当にこの「因事菅隷の族」であった事が云える。
普通は「賜姓族から外された事」では、普通は「因事菅隷が出ない」と考えられるが、それが記録から鎌倉期にもこの「因事菅隷が働いていた事」なのだ。
「因事菅隷が働いていた事」と云うよりは、それは「伝統的な特許権」と云うか他が犯し得ない得ない「進んだ技術力・改良型竪型炉のノウハウ」とで保障されていたからだろう。
この「因事菅隷の事実の伝統」は、この「銃の欠点を補完するまでの室町期」まで「鎌倉期・関東に竪型炉を広めた時期」を超えて持ち込まれていた事が記録からも判る。
少なくとも、「円融天皇」のこの「青木氏」を補完する為に「藤原秀郷流青木氏」を賜姓する時期までは密かに「賜姓」と共に「円融天皇の因事菅隷」は発令されていた事を意味する。
「藤原秀郷流青木氏」を賜姓し、其の為の「何某かの因事菅隷」を密かに出していた筈でありその目的はあった筈である。
その証拠に記録から、“秀郷流一門宗家の嫡子の第三子が永代に青木氏を名乗らせる”と云う「令・因事菅隷」が正式に出ている。
この時から「母方の藤原秀郷流青木氏」は、正式にも母方系と成り得て、”「伊勢と信濃の賜姓青木氏」とは同格と扱われた事を以て”の格式は「浄大一位」と成り得て、それ以上は「太政官令」は出せなかったからだ。
故に「賜姓族」のみならず当然に「円融天皇の因事菅隷」を発している事に成るのだ。
その「因事菅隷」には、”「伊勢と信濃の賜姓青木氏」を武力的に補完せよ”である事は先ず判るが、その補完の一つは、「旧来通りに藤原氏北家」に代わって「北家秀郷流」で「青木氏を四掟で護る事」であるが、密かに別の「経済的で武力的な補完の因事菅隷」が出ていたのではないかと観ている。
この点で研究は未だ充分にその点に及んでいないが、「銃の試作撃ちに関わっている事」から等何処かに「炉に関する補完」に付いて「因事菅隷の密書」があるだろうと観ているのだ。
だから、「室町期の前」の「鎌倉期の武蔵に竪型炉の遺跡」が見つかっているのだ。
これが所謂、「別の経済的な補完の因事菅隷」であったのではないだろうか。
「銃云々と云う事」よりは“「近江鋼の開発とその炉の開発」がどれ程日本の経済発展に大きく係わるか”を知ったのではないか。
其れが未だ開発途上であっても「青木氏」から移した「鉄鉱石で仕える竪型炉」の「千葉の遺跡・下記」ではないかと観られるのだ。
「青木氏が行っている近江鉄鉱山」は、その意味で「朝廷」を揺るがす程の先進的な事物と成っていたのである。
注釈 「額田青木氏の救助とその為の銃の完成」は、この「因事菅隷」に基づいているかは判らないが、「正親町天皇の律宗族追認」には、この「因事菅隷」に基づくものであった事は間違いはないだろう。後記
それが「高炉」に近い炉形の“「純粋な竪型炉」”であったろう。
何度も云うが、この「鉄に関しての査証の点」から、“「関東東部」から「11世紀」と「12世紀」と「13世紀」の地層からの「3基の遺跡」”と、“「千葉遺跡」から「8世紀」と「9世紀」の「2基の遺跡」の「竪型炉・開発途上」”の以上の「5炉」に関しては、故に少なくとも全ては“「13世紀であった事」”に成り、その「炉形」も調査記録では“高炉に近い炉形の「純粋な竪型炉」”と「関東」に於いても成る。
これは「建設地の地層・丘を地中の下に掘り下げる方式・古い地層が出る」の「堀立地形に依る認識」に成るだろう。
その所期の改良点は調査資料から判断すると次の通りであった。
改良点の4つ
1 度々の「築炉」を一度にし「炉外底」を無くした。
2「銑・ズク・炉外底・高炭素鉄・銑鉄」だけにした。
3 「木炭・熱源・紀州炭」を多くし「還元力」を増し、「炭素量」を増やし、「石灰」で「還元力」を増した。
4 「鞴・フイゴ・踏み込み式」を二つの「下湯口」に置き、大きくして「炉熱」を高めた
「タタラのケラは炉中にある低炭素鉄」と「銑のズクは炉外底にある高炭素鉄」と「鉄滓のノロ」の“「タタラ製鉄・3つの鉄」”に対し分けられ、「炉」を先ず縦に起し、「炉口」を上にし、「湯口」を下にし、「鞴」を足踏み込み型の大形にし、鞴風を下から上に吹き上げる様にし、「原鉱石」を坂の下から上へ運んで「高いロ口」から落とし込む。
先ず「木炭の熱源」と「木炭の還元剤」と最後に「原鉱石」を投げ入れて「下の火口」から「熱源」を高温に上げて加熱する。
「溶けた鉄」を「炉低」で固めて最後に溜まった「炉ロ」から纏めて「湯溶口池」に落とし込み「炭粉」で表面を覆い「鉄の酸化」を防ぎ、ゆっくりと冷やす。
そうする事で「鉄の融点」を“200度上げた”と記載されている。
「丘の地形」を垂直に切り落とし、其の垂直面に炉を据えた事で上記の作業手順は進んだとある。
この為に、“「タタラ製鉄」”では出せない“「銑鉄」だけの「竪型炉」”に成ったとある。
この「中間の炉形」の“「タタラ製鉄」”の「箱型炉」を「縦にした炉」が現実に発見されているが、ところがこの「縦型炉の砂鉄の鈩製鉄」は進まなかったのだ。
何故なのかは判らないが、この炉には矢張り「破壊」が多かった事が記されている。
これが「竪型炉の開発」の「中間過程炉」なのかは判らないが、これが「近江鉄・703年時期の炉」とするとこの「炉説」は考え難い。
何故なら、だとすると「以上の4点」が既に「関東の遺跡炉からの内容」に於いても替わっていた筈だ。
注釈として、この件に関する“幾つかの通説”とするものには、この「近江鉄から導きだされる論理的、且つ、冶金的、学問的な史実」との「複合的検証」は欠落しているので無視とする以外にないのだ。
そもそも「文系範疇の歴史家」に取り分け難しい「冶金工学と金属工学と地質工学」を会得している者は皆無であろうし、尚且つ、「近江学」と「その歴史」をも習得している者は同然に皆無と成ろう。
故に、そもそもこの“通説”とするものには「歴史の経緯からの目」で観るばかりに間違いは多いのであり、これは歴史全般に於いても是非に改めるべきであるとするがこの傾向は未だあるので今後も難しいだろう。
故に、従って、筆者は「青木氏の歴史観」に関しての“通説の利用」”には「比較対象」のものとして警戒して扱っている。
この「現実」に「青木氏族の近江鉄に関わった史実・青木氏の歴史観」に鑑みれば、この「長い間の製鉄の経験」が、「他の物・武器や生活用品等」にも「商いを生み出す事」に適用されていて、これらの“「青木氏の鉄の経験」"が「鍛冶部・摂津と日野の工人」にも存在していて引き継がれていた”と考えれば、それが「室町期」に成って「額田青木氏の銃の必要性」では、更にこの「新しい炉の開発」にも「青木氏部の匠技」が反映されていたと成る。
その「経験」が「銃の試作と生産に向けられた」と考えられるのが普通であろう。
この“「伊勢屋の商い」”とは別に、「伊勢水軍等の氏族一門と秀郷流一族一門と各地の青木氏族」への「必需必要品と器具」を「神明社」を経由して密かに供給していたので、「伊勢と摂津の鍛冶職」はその「近江鉄からの鉄製品」の「充分な生産」を求められていた事に成る。
其の為にも「近江鉄の必要性」は、そもそも「本論の銃の欠点の解決に使用する事」のみならず、その事に関わらず「鉄製品の需要」は急激に本質的に高かく成っていたのである。
この事を「青木氏だけが持つ独自の歴史観」として前段でも論じたがここでも併記する。
この「近江鉄の需要」を叶えている「近江鉄の竪型炉の使用」で、「鉄の供給力」が一段と増し、これに伴って「需要」もそれ以上に増した事に成ったが、この範囲は「青木氏のみが知る竪型炉の使用」である限りに左右されるが、それを全て担ったのが「屋の号を持つ伊勢屋」であったのだ。
それ故に、この「需要」は「伊勢屋」に左右されていたのだ。
これが「青木氏だけが持つ独自の歴史観」である以上は、ここに詳細に記載し論じなければ何時かは消え去るのみの「近江鉄の史実」となるのみである。
従って「近江鉄」は「青木氏族の中」に於いて使われていた事を示し、それだけに青木氏族は鉱山鉄の寡占を極めたのだ。
「独特な竪型炉の炉の形」からの視点で観て、「近江鉄」から始まり「関西」に、そして上記した様に遅れて僅かな炉を「関東」に依頼されて「普及を試みた経緯」と成り得えたのであろう。
「11世紀頃から13世紀」にかけて合わせて「6基の炉の遺跡」しか発見されていない処から観て、この「需要」は、「6基」ではその「供給力」は「関東」に於いてでも無理で、矢張り、全般的には“「関西の伊勢屋の範疇で限定して賄われていた」”と言わざるを得ない。
「近江鉱山」は、先ずは上記した様に「2鉱山」からであり、「竪型炉の開発」が進むに連れて「最終近江6鉱山」が「青木氏部」で開発された。
恐らくは、この「6鉱山」では「関西域だけでの供給」と成っていたのではないか。
その「限界時期」が上記の「関東の6基の炉の遺跡」と繋がったと観られる。
何とか最低にも「鉄需要に賄うだけの炉数」ではないが、これを先ずは「幕府の依頼」もあって「関東に設けようとした事」に成ったと云える。
記録から観て見ると、この「13世紀までの鉄の鉱山開発」には、次の通りである。
栃木に1鉱山、千葉に2鉱山、茨城に1鉱山と成っていて、合わせても「4鉱山」であり、実質は「上記の歴史の遺跡の史実通り」である。
矢張り、この「関東の4鉱山」が「関東の6基の炉」に見合う「炉-鉱山」であった事に成るか。
「近江だけの6鉱山-9基の炉」に比べれば極めて少ない。
矢張り、「鉱山の鉱石を鉄にする」には、「その炉の開発に大きく関わる事」からこの「炉のノウハウ」を持ち得ていなければならず、この結果が関東に生まれていた事を色濃く物語る。
因みに「砂鉄」では、関東以北から観て「8世紀とする鉱山」は、何と唯の「1鉱山」しか観えるだけであるのだ。
「鉱山鉄」には「近江の鉱山開発」と「その炉の開発」、言い換えれば「その財力の有無」、又、「因事菅隷の立場の有無」、「鉱山を見つける山師の知識」と「開山の土木技術」、「その専門の部人集団の所有、将又、「その商力等」の「総合的な力の保有」が必要に成る。
これ等が備わっている事が最低の条件となる。
故に誰でもが直ぐにと云う事には成らなかったのだ。
それ故に少なくとも「鎌倉期」を超えて「室町期末期」まで完全に無かったと考えられ、「記録」も上記した様に「明治期」まで記載は無い。
「室町期末期の額田青木氏の銃の欠点」を解決した直前までは「砂鉄の玉鋼」を除き無いのだ。
ところが、この「竪型炉の経緯」は、この「室町期末期」のこの時期を超えず見当たらないのだ。
これは「青木氏の氏是」に基づき「世に遺さず炉」とて共に消したと考えられる。
当然に“「社会発展の為」に遺せばよいではないか”と云う発想は生まれる。
然し、遺さなかったのだ。
「竪型炉の炉の存在」が、“世に悪影響を与える”と「伊勢青木氏」は判断した事に成る。
だから上記の記録にもある様に「明治期」まで「砂鉄の玉鋼」であったのだ。
逆に言えれば「近江鉱山」も「6鉱山」で終わっている所以であろう
つまり、“「鉱山の鉱石を使って鉄製錬する事」が、「鉄の世の統制」が無ければ「社会に悪影響を与える」”と考えた事なのだろが、「炉の開発能力と炉の使うノウハウ」を以て「商い」とすれば、元々は「因事菅隷を持つ青木氏部と商人」である以上は、出来るし「因事菅隷の寡占」である以上は必ず「巨万の富」が得られる。
然し、それを敢えてしなかったという事だ。
何故なのかである。
「鉱山開発」によって「鉄の生産」を拡張させれば「銃の生産」が「因事菅隷外の処」でもっと広い範囲で行われ世は乱れると解釈したのだろう。
寧ろ、格式を有する「賜姓族・律宗族」で会った以上は逆の発想をしたと云う事に成る。
“「砂鉄の玉鋼程度の生産範囲」で抑えて置けば世は乱れない”としたと考えられ、それが「因事菅隷を持つ格式の青木氏の氏是」と考えたのだ。
その証拠に「鉄の主生産」は「明治初期の高炉の導入・軍事化」と以降と成るのだ。
既に「巨万の富を持つ青木氏」が「企業殖産」でやろうと思えば何の問題も無かった筈である
飽く迄も、「竪型炉の鉄の生産」は「室町期の額田青木氏の為の銃の欠点と生産の完了」で終わらしたと云う事であろう。
何故なら、「竪型炉」で以て「鉄の生産」と「鉄鉱山開発」を成せば、間違いなく「商い」は寡占であった限りは、「巨万の富」を獲得させていた筈である。
その「研究資料の発見」が出来たが、これは「下段」で論じる事と成るが、「青木氏の商い」が“どの程度の巨万の富を最終では獲得していたか”を調査し論じているが殆ど無限であったろう。
これによれば「超豪商と成って呼ばれた明治初期の族に関する研究論文」と「筆者の論文」があるが、「竪型炉」で以て「鉄の生産」と「鉄鉱山開発」での「利益」としては出せないが「一時期に於ける総合力」としてこの「巨万の富・地権は含まず」は、「220億両・7万円/1両/御師制度の研究資料」とされる。
「筆者の研究論文・350億両/伊勢屋」とはさした差はないが、日本国内にこれだけの金が存在したかは定かでないが、兎も角も額が大きいのでこの「積算数値」のこの相当額に相当し比するものである事は先ず確かである。
この事は上記の「炉論に関わる経緯論」にも一致する。
参考に関東には数えきれないほどの鉱山があるが全て「明治期の高炉」である。
注釈 「幕末明治の豪商」と呼ばれる中でもはっきりとした「研究記録・御師制度について」が遺っていて、この「支店とする米商いの淀の屋の資産額」の記載がある。
どの様に計算したかは判らないし、「伊勢」は少なくとも「北勢」は米が採れない国なので、余剰米の米を市場から買い求める必要があって、一時、それを「大阪の蔵」に運んで「蔵管理」をしていたが、それが「淀の屋の実態」であって実態は世間に知らしていないのでも良く判っていない。
然し、それに依れば、この「米相場・儲け」を「伊勢に送る米」に換えていた。
それを営む様に成って、この「伊勢屋の支店の蔵」の「淀の屋」が最高額では「20億両・200兆円/10万円~7万円/両」だったされている。
「金額」では無く「米の量」であったとされている。
これに依れば「伊勢青木氏の伊勢屋・松阪、摂津、堺の主店舗」で、「豪商の街松阪」と呼ばれていた中でも比較すると、「淀の屋の米資産」に比して「約10倍」であった事に成る。
この「米帳合相場の淀の屋資産」は、「全国の米帳合相場基準となる市場を設立したとある豪商」とされ、これに依る「米資産」とされるが、其の内、この「米資産の店と取引」は中止したとある。
実は、「享保期に大阪の米市場」は、前段でも論じたが「伊勢屋」が紀州より吉宗に江戸向行して、「改革の吉宗・前段」に「経済改革の進言」をして設立されたものと「青木氏」では伝わっている。
そうすると、この「米蔵の支店の淀の屋」は、「松阪の豪商の青木氏の伊勢屋」では「吉宗との対立」から「米蔵の支店の淀の屋」は、この時を以て「米市場」から引いたとされている。
何故ならば「摂津と堺」にも「松阪の本店」と各地に取引を前提に「支店・20店舗」を設けていたとされる。
前段からも論じているが、「総合商社」を営む以上は「古来より伝統的」に「顔を出さない、店を明かさない、」等の安全策として「特定されない策」を執っていた。
この事から「店名等」は、「伊勢屋」ではない「堺」」では「米商い」に関しては「淀の屋」を名乗っていたとされていて、この「享保の時」に米取引から手を引いたのではないか。(資料消失)
それ以後は「伊勢の米」は「米市場」では完全に「名を隠しいの商い」としたのではないか。
先ず、その策の「目的」は、何事も特定されない事が前提であって、「総合的に危険である事」が「主因」であるが、古くから「因事菅隷を持つ令外官」としても「奈良期の部商いの伝統」を引き継いでいた事から、この主策を特別に使っていたとされる。
そもそも「伊勢屋・総合商社」は、「天皇から商いに関する紙屋院の格式号の特権を授与された」の事を「始り」として、「和紙以外」にも「令外官としての因事菅隷」で以て「各種の商い」を許されていた事から、特別に名乗っていたものである。
恐らくは、この「隠顔策」は、「因事菅隷の意味合い」から「因事菅隷を出された時期からの伝統」ではないか。
「限定して令外官に出される秘密令の由来」から「この「隠顔策」を[伝統的」に執られていたと考えられる。
依って、その「伝統」を護り「総合商社・1025年」と成ってからも、「商い」が大きく成り手広く成って更にその「秘密の意味合い」は強く成って行ったものであろう。
注釈 「伊勢青木氏」は、前段で詳細を論じたが、「吉宗に向行し享保改革を江戸で主導する」が、その一環として「大阪に米相場市場を設立・具申」を促したとあり、この時に、“「青木氏の伊勢屋」が具申し主導し、率先して「米の商いを専門に商いする店」を「大阪」に設立した”とあり、この役を担ったのが「淀の屋・米蔵」ではないかとしているのだ。
当然に上記した様に、“「伝統の影の策」”として、「各種の商い・総合商社」を営む為にその「各種の店主」を「松阪の伊勢屋」の「番頭の一人・家人・氏族の伊勢50郷士衆達」に“「番頭」”として任したとある。
それが「公表されている少ない資料・系譜では、一切詳細は不詳」ではあるが、判る範囲では、「岡本の郷士・一番番頭名と牧口郷士・二番番頭名」と成っているだけであり、詳細はないが、これが「淀の屋の支店の店主」としている事だけなのだ。
この資料では、結局、この“「店主・福家」”としながらも限定せずに“「番頭・家人」”と追記している処に注目している。
「米相場・蔵の淀の屋」は、「総合商社の伊勢屋の専門分野」としてのものであったと限定され、必然的に「総合商社」である以上は「全店一人」では動かせられない。
従って、必然的に「番頭/家人の一人を置く事」に成るが、これには何度も論じているが「家人・氏族の伊勢士50郷士衆達」を配置する「古来から仕来りの伝統」であって、これが云わば「支店長の証・蔵の管理人」と成ろう。
何故ならば、「判る範囲の淀の屋の経緯」と「伊勢青木氏の経緯」が余りにも一致し過ぎているのだ。
その一つに「幕末の闕所の嫌がらせ」を受けていて、その後の「明治期の経緯」も「青木氏」に遺されたものと極めて類似しているのだし、否定するものは何も無い。
又、「財産を朝廷に献納する等」、又、「大阪湾の干拓事業等」をした事等、疑いをかけられて「偽装倒産させた等」、「本店をダミー店に逸らして逃げた等」の幾つもの経緯なども一致している。
そもそも「淀の屋の淀・屋は授与される院・蔵人院」に対して「商いの特権」も許される場合に於いて課される格式特権の号」は、「伊勢青木氏」の「古来からの名跡名」とされ、引き継がれるべき「名誉の名」であって、簡単に使われるべきものではない。
況してや、「江戸初期」には一般に対して「商いの格式の屋号」を名乗る以上は、「府の便宜上の許可}が必要であった。
「伊勢青木氏」には「過去」に於いて「名跡名」を使っていて、其の内遺しているのは「戒名」であるが、これを調べると、その「戒名の読込名」にも「淀の名の字」や「字名の字」等の所謂、「名跡名・格式名を使った先祖」が「十数人・殆ど」もいる。
そもそも、「名跡名・格式名を読む込む慣習」は、「古代浄土宗白旗派の仕来り」であった。
「額田青木氏の祖」と成った「桑名の淀橋王や飽浪王」は「三野王」に嫁いで後に美濃で独立して「美濃青木一族」を「美濃一色の浪端・清光院」に「青木氏一族」を形成するが、その「淀」や「飽浪」や「一色」等はこの典型例であり、要するにこれは「松阪一色・当初は字名」に並んで「伝統青木氏」が持つ「伝統の名跡名」であるのだ。
注釈 江戸期から明治初期に掛けて「院と屋」を伴った「院の特権」に対して、それを「商い」に広げての「屋の号」を獲得した「正式な屋号をも持つ豪商」は歴史上全くないのはこの事による。
これが「正しい屋の号の名乗り」は「院の号」の下にあるのだ。
「院の号」に対して成せる「屋の号」とは、そのような意味を持ち、「院と屋の号」は一対であるのだし、その名も一致する。
要するに、「院」は「殖産」であり、「屋」はそれを基にした「商い」を「屋」としていたのだ
それには、「条件」として「過去」からの「一定の期間」の「朝廷との親密な関係を持つ事」が必要であって、その為にはその「関係を持つ事」には、「それなりの上位の継続的な格式」が必要であった。
それには「継続的な献納」が「一つの証」であって、“誰でもが関係を持つ事が出来る”と云う事ではそもそもないのだ。
元々、「武士や庶民」は格式上無理であるのだし、況してや「士農工商」に於いて「商人」は論外であった。
そもそも「直接に接見が出来る者」は「三位以上の公家」か「青木氏の格式」以外には無いのだ。
従って、「院と屋の号」、即ち、「一対の号の獲得」は、「上位の格式」を有さなくては無理であるのだ。
「院と屋の号を持つ事の事態」が「その格式を証明するもの」と成っていたのだ。
例えば、故に江戸期に良く使われたのが、「院」の持たない「紀伊国屋の屋」がこの「条件」には合致していないのだ。
更にはその意味で、「上記の淀の屋」が「闕所の疑い」を受けたとした時に、この“「献納」をした”とあるのはこの「一つの証拠」であり、そもそもこの「献納と云う行為」は誰でもが自由にできると云う事では無かったのだ。
誰でも「献納と云う事」をできると仮にすれば、「天皇と云う品格を下げて仕舞う事」にも成り、「寄付さされる団体」に成り下がる事にも成る。
仮に「ある程度の格式を有していた者」としても、この「献納」に対しては、そもそも直接は絶対に無理であり、「献納に比する格式を有する家」を先ず経由して、その「行為」と成り得て、依って「伝統的に公家など」の「一定の格式を持つ家柄の事」に成り得るのだ。
この上記の「院屋と献納」は、少なくともの「伝統を護っていた所以」であって、誰でも「献納」はそもそも出来ないのだ。
そしてその「献納」は、そもそも「継続的なもの」であって、仮に「献納できる者」であっても「突然に献納とする事」はそもそも出来ないのであって、従って、これはそれを「古来」より「継続的にしていた高い格式」を有する「伊勢屋の伊勢青木氏の様な格式を有する家柄・律宗族等の格式」で無くては出来ない行為なのだ。
これが「献納」と云うものの「古い伝統的な外せない歴史観」なのだ。
それを考えた場合、「米の殖産の院・米を酒造などの色々な形で扱う」に対してこの「伊勢の米蔵支店の淀の屋」は、「伊勢青木氏の伊勢屋の蔵米蔵」の「堺の大阪の店」であった事が此処でも云えるのだ。
この様に、「献納の持つ歴史観」から観れば直ぐ判る事である。
然し、現実にはこの様な物事の「伝統的な歴史観」を無視した論説が実に多い。
この「蔵米蔵の支店の淀の屋」は間違いなく「伊勢屋の大阪支店・堺店米蔵」であった事は間違いはない。
そこで、もう少しこの古い「蔵米蔵の支店の淀の屋・蔵人院」の最大限に判る範囲の事の経緯を調べて観た。
注釈 「蔵人院」は、前段でも何度も論じた様に「奈良期の国造部の差配頭」であった事より、要するに「その役目・皇親族」は「蔵人院」にあって、「賜姓五役の役務の一つ」に数えられ伝統的に青木氏に与えられた号となり、「嵯峨期」に「嵯峨天皇の皇子」の一人にこの「蔵人院・甲斐」に別にして任じている。
以下は「賜姓五役」から単独で別の役目として名乗る様に成ったが、その後も「伊勢青木氏」は「伊勢の蔵人院」であり続けた。
注釈論
「米蔵の支店の淀の屋論の米相場の経緯」は、記録によると、「1661年頃の大阪の蔵群」から「1673年頃(17世紀の中頃前)」から「店の前・事務所と蔵の前」で、突然に「米の蔵出し」に依って「帳合取引」として原始的に「市場」が始まり、その結果として周囲に“「米商人仲間」”が集まり「自然発生的に市場」が形成される様に成ったとある。
つまり、初めて、米が「蔵出し現物帳合取引」が行われ始めたとされるのだ。
然し、そもそも「奈良期の部経済」に於いて、先ず一度「朝廷に納められた米」を「必要分」を取り除き、残りを「庶民・市場はない」に放出するとする役目を担っていた。
この事は前段でも何度も論じてきたが、そもそも「伊勢青木氏の商いに成る根源」であったが、この「初めて」とする処に疑問が残る。
筆者は、この「伊勢青木氏の伊勢屋」は「淀の屋・蔵人院」に限らず「奈良期」から行われていた行為であって、初めてとする説には「完全な歴史観の不足の反論説」を採っている。
故に「青木氏」では、「淀の屋・蔵人院」として呼称して記載されていたと観ているのだ。
「淀の屋・蔵人院」は「上記の役目」を担った「青木氏の者」が「淀と云う地名・淀川」にその「役所」を置き、そこで「屋」、即ち、「院」に対しての「商い部」として「屋の号を呼称していた証」であると観ているのだ。
要するに故に、“「米商人仲間」”とする処に意味があって、これを継続していた所に「同じ仲間が集まる所以」である。
つまり、“「米商人仲間」”と記する処は、「各藩・国」の「周囲に米を貯める蔵群」があった事に成る。
要するに「貯めた蔵出し」で「互いの融通」が成立し始めたのだ。
何の為に「蔵出し」をしたかは下記の別諭に記述するが、台風や水害などの季節性被害で困った仲間に蔵から緊急を目的に「帳簿上での融通をし合う互いの習慣」が伝統的に信用を前提に歳出をする事が来上がっていたとしているのだ。
それが「奈良期から務める蔵人院」であった事から中心と成ってこれを務めた事が「市場取引の起源」とされるのだ。
これが前段でも何度も論じている「天智天皇」から授かった「賜姓五役の一つとされる永代の役目」でもあったのだ。
故に「淀の屋」と呼称していたのだし、「美濃に飽波の王と一緒に嫁いだ淀橋の王」の「淀の所以」であるのだ。
その意味で「淀の屋」には「重要な意味」を持っていたのだ。(詳細下記1)
さて、それ故に、それが「30年から50年後」の「1730年頃」に、この「米蔵の支店の淀の屋」もこの「蔵出し現物帳合取引の取引」で、何故か突然に「相場」から退場したとし、それに従い「蔵出し現物帳合取引市場」も絶えたとある。
何故に退場したか「疑問」である。(詳細下記2)
ここより、この「帳合取引の動き」は正式に「堂島米会所」を新設として「堂島」に移され、前記の「蔵出し・現物取引」との取引は無く成ったとされる。
この代わりにでた「市場取引」は、“「帳会米商」”として成立する様に「堂島」では成った。
この「帳会米商」が「吉宗の享保の改革の一環」として承認されて「法・1730年」が制定されて正式なものと成った。
其の後、この「取引方法」は改めて正式に全てが「帳会米商」に変更され「1863年」まで続いた。
其の後は「幕藩公認」で「各所・各藩」にも開かれた。
「先物取引」から「空米の現物取引・1863」の「現物先物取引」に変わり、「長年の帳合取引」から「正米受引」に変わったのだ。
注釈 そこで、先ず何の為に「蔵出し」をしたかは下記の別諭に記述する。(下記1)に付いて。
先ずは「伊勢」には「米」はその真砂土壌から無かった。
そこで「各藩の余剰米」を集める事にあった。
より多く集めるには、一般的にはその「米の現物」を取引に出してその「利鞘」を稼ぎ、「調達資金」を高めて更に米をかき集める必要があった。
同じ様な商人が他にもいた事が、“「米商人仲間」”の表現でも判る。
互に、同じ状況にあって、「各藩の余剰米をかき集める事の競争」が起こったは必然で、「天候被害」などの事で
不作と成ればそれは戦争であったろう。
「伊勢」は其の立場にあって、幸いに「財」は有ったが、それは「各藩の余剰米の如何」に関わっている事であって、結局は「蔵出し現物帳合取引」に頼る事以外に無く成っていたのである。
そして、但し元々、「米を獲得する」にあって、「利鞘の差益」を求める物では無かった。
故に、「蔵出し現物帳合取引」とならざるを得なかったと云う事が実情であった。
注釈 ところが、何故に退場したかである。(下記2)の疑問である。
米相場が拓かれて、それは次第に「米を獲得する」から、「利鞘の差益を獲得する取引」へと変化して行ったと云う事だ。
「蔵出し現物帳合取引」から“「帳会米商」”の「空米の現物取引・1863」の「現物先物取引」の「先物取引」に変わって行ったのだ。
「長年の帳合取引」から「正米受引」に変わったのだ。
そして、遂には「帳会米商」を認めた「吉宗の享保の改革の一環」として「法・173年」に承認されてしまったのだ。
「伊勢屋」が求めていた当初より「吉宗」に具申していた「米取引」は唯単なる「金銭取引」のものと成って仕舞っていたのだ。
要するに、提言外で目的外の「空米の現物取引・1863」の「現物先物取引」に変わったのだ。
ここに「青木氏の伊勢屋」と「吉宗との間」に「完全に考え方の違い」が生まれ亀裂が生じはじめたのだ。
「青木氏が求める伊勢の米」の為の純粋な「蔵出し現物帳合取引」は、結果として「法的違反」となり亀裂と同時に引き上げる破目と成り得たのだ。
この「吉宗」が許した「帳会米商」は庶人の幕府に対する「賄賂」を生み出し「享保期の悪の枢軸」と成って行って「享保の改革」は終わりを告げる結果と成って行ったのだ。
要するに、この「淀屋a」とするのは、たった「30年から50年間の存在」であって、「米商いの期間」としてもこの「豪商論の淀屋論a」はそもそもおかしいのだ。
「伊勢青木氏が吉宗江戸向行」の後に、「当面の改革」」として「幕府財政の蔵埋金・300両財政破壊」を「一時的にも増やす手段の為」に採ったとされるのはこの米取引である。
その理由は、この「堂島米取引の米取引」での事であった。
然し、この前に既に「商人」として「大阪/堺」として「米」を使って「蔵出し先物取引」としての「扱い」で「利益」を上げていたのだ。
この方式を「伊勢青木氏の伊勢屋」は推奨していたが、吉宗は「空米の現物取引」を求めた。
結果として、意見が異なり「帳合取引」から引く結果となってしまったのだ。
これが「淀の屋b」であり、「1700年頃から1730年頃」を境に「現物取引の米の先物取引」から上記の通りに手を引き始めているのだ。
ところが、当初は「帳合取引」で融通を受けた方式でこれにより「将軍にする為の裏金造り」と云う説が出て来ていたのだが、兎も角も目的は達成されたが事の事態は違ってきていたのだ。
余りに「期間が短い事」から「何かの理由目的」があっての「商行為」である事は判る。
そして「紀州藩の吉宗」は「1716年」に記録にある様に、「伊勢青木氏の後ろ盾」で「幕府」の「働き架け」で「将軍」と成るが、この「19年間」は「将軍」にする為の「裏の動き」を始めたとされる。
遂にこれが「15年後」に兎に角も成功させたが、この為に「得られた利益」をこの「裏の動き」に使ったとする説なのだ。恐らくはこの説が間違いは無いだろう。
そして兎も角も「目的達成」で「先物取引」から手を引いたが、「伊勢帳簿」からは直接出金は出来ない事から、この「この米相場の利益」を「将軍にする為の裏の動き」に使ったと考えられる。
この「米の行き違い」が、「吉宗との行き違い」が感情的なものとなって現れたのだ。
然し、「吉宗」は最終に「信濃」で裏切ったのだが、「伊勢」も危険と成って、これを以て「伊勢」に引き上げるが同時に「米相場」からもその必要性が無く成り引き上げたのだ。
それでこの説で行けば、それで無くては「第三番手であった紀州藩・吉宗」からは先ず「将軍」に成り得ないし、この為の「将軍にする為」の「裏資金」は、この「現物先物取引の米取引」から得たものと成り得て仕舞うと考えられる。
この「裏の金が動いた事」は明白な史実である。
当時、「伊勢青木氏・伊勢屋」は「紀州藩勘定方指導」として「財政逼迫の折り」からは「裏の金」は「紀州藩」からは決して出す事は出来なかったし、そもそも「出来る財力」は元よりなかったのだ。
だからと言って「伊勢」から再建にしてでも正式にはこれは出せないし前段でも論じた様に既に「10万両の債権」を持ち得ていたのだ。
「後の手段」は、上記の「大阪・淀の蔵」から動く「現物先物取引の米取引」であったとするのだ。
それを「堺大阪の支店の淀の屋b・伊勢の米蔵」としたのだ。
注釈 ここには、「伊勢」は「明治中期の土壌改良」まで「北勢」では「米は真砂土壌」から殆ど採れなかった事から、“長い期間に於いて全国から「余剰米の米」を調達していた”。
この事から、その「重要な役目」を担っていたのは「伊勢屋の堺・大阪の店のb・淀の屋」であって、此処には「伊勢青木氏」のその「集積所の米蔵群」があったと記録されいる。
何とか遺された記録を手繰れば、この「伊勢青木氏」のその「集積所の米蔵群」のあった所在地を大方に割り出した。
これに依れば、「川の船の接岸可能な場所」を前提と成るので、昔より「安治川の九条の川沿い」に「米蔵群」があって、そこの付近に「自宅・事務所」があったとされ、「現在の西九条附近域の北側」とされる。
そもそも「奈良期」から「部経済の朝廷の担い手」として「賜姓五役」として任されていた事は何度も論じているが、古来よりこの付近にその「集荷品・米の集積場」があったとしてであって、要するにここで「伊勢の米と朝廷の米」を差配を一手に担っていたのだ。
故に何れにしても此処の付近に「蔵米蔵群」があった事に成る。
そうすると、これを“一時的に短期間に於いて「ある目的」の為に「室町期」に成らずとも歴史的に古来よりここで「蔵出し帳合取引」をしていた”と云う事に成る。
これはこの事が急に始まったと云う経緯では無い事が判る。
当然に、仲間もこの淀川の周囲にいる事に成り、長い間には「米の融通」も「帳合上で行う事」等は当たり前の事に成り得ていた事に成る。
これは間違いなく史実に一致している。
それが「国造部の部人の差配者」たる所以の「青木氏の歴史観」と成ろう。
註釈 さて、この「淀の屋論の検証」で、「もう一つの矛盾」は、“30年から50年の短期間とする処の経緯”に問題がある。
そもそも、これは「伊勢屋の家人」から派遣されている「二代の番頭の引き継ぎでの期間」とすると、実質は「10年から15年程度の期間」と成る。
そもそも「番頭の呼称」は「伊勢屋・伊勢青木氏」では古来より云わない。
主に「伊勢氏人・女系」の「青木氏を名乗る家人」である。
この時の「淀の屋の家人・番頭とする者」が「蔵出し帳合取引・融通方式」をその役目として伝統として先ず成功させた者として、「次の番頭とする者の活躍」は、「最後の引手と成った事」からであり、「実質の期間」はもっと一割程度長い事に成る。
この「淀屋a説」では、この「闕所めいた嫌がらせ」の受ける事の可能性の無いこの「短期間」に於いてでさえ、そもそもその「闕所を受けた」としていて、それが前段でも論じた様に、「伊勢青木氏の伊勢屋・淀の屋b」が「受けた嫌がらせ・闕所の内容の経緯」と一致さしている処に「疑問」が出る。
況してや、「米の採れない北勢域の民用の米蔵」の「蔵出し帳合取引での成功」であって、これは法的に触れていず「闕所を受ける謂れ」はそもそも無い。
況して、「淀屋a説」は「家人経営・番頭経営」であったとしていて「闕所の前提」にはない。
「上記の経緯」から観て、「闕所を受け事」とは、この「淀屋a説」とするものには100%無いだろう。
況してや、先ずそれが「限られた米と云う商人の限られた行為」であった事である。
そして、先ず「短期間」である以上は、“「武士に直接に影響を及ぼした”」とするものでは無かった事である。
更には、「合意による蔵出し現物帳合取引」であって、「空米取引」はしていない。
「世間の経済」にこの「取引・融通」は、そもそも対象とする「武士社会」に「直接影響を与えるものでは無かった事」であり、況してや要するに「先物」ではない「蔵出し」の「現物の取引」の「直接的な帳合上の事」であって、「取引方法上」から観ても「武士の家の経済}に全く関係ない所で行われていたのである。
以上等で「淀屋a説とする経緯とする事」には無理があり理解できない。
この公に記載されている「公の淀屋論a説」は、そもそも「淀屋a説の詳細」は「以上の事以外」には全く判っていず、この「淀屋a説」と「伊勢青木氏の伊勢屋/淀の屋b」と「その経緯」を繋いで一致させていると云う事である。
注釈 これは何故かである。
それは、「aの著者」は「aもbの淀の屋」も「同じである事」を始めから知っていたからに過ぎない。
確かに「闕所の疑い」を受けたのは、「紙屋院の伊勢屋の商いに対しての事」であることは記録から確かだが、何れも上記の「蔵米蔵事務所の淀の屋の事」では「闕所の理由」としては100%ない。
仮に、この「淀の屋b」が「紙屋院の伊勢屋の商い」と見做されていたとすれば上記した様に「現実」であるので否定はできない。
それが、「闕所」が突然に其れ迄に「誰もしなかった事」として、つまり、「合意による蔵出し現物帳合取引」を「無許可」でしたとして受けたとすれば、止む無しであるが、その時が少し遅れて「吉宗改革の末期」の「吉宗と青木氏との仲違いの時期」であるのだ。
然し、「合意による蔵出し現物帳合取引」は「奈良期からの役目」として継続して来たものである。
そもそも、「堂島の米相場」を正式に容認して、それに依って“「莫大な冥加金」”を一時的にも獲得する様に提案したのは、前段でも論じた様に「享保の改革」を「江戸経済」で側面から推し進めていたのは当に「江戸の伊勢屋・伊勢青木氏」であるのだ。
飽く迄も「青木氏の提案の前提」は、「冥加金」であって、「取引の利益」では無かったのだ。
「米の取引の差益を求める事」は「米は武士の給金を決める手段」である以上は「給金の変動」を意味し、その結果は幕臣の懐を左右する結果として現れる。
これが武士をより弱くし賄賂が横行する世の中と成り得るとして反対していたのだ。
それが「幕府」は突然に反対していた「伊勢屋の闕所にも及んだと云う事」なのだ。
先ずそれの行為は、「信濃青木氏の養蚕と和紙の殖産」と、それだけに留まらず「信濃青木氏の神域の御領の半減没収」と「養蚕の殖産技能者の幕府召上」と「信濃青木氏の半額領地没収」を突然に無断で強行して来た。
此れを聞きつけたた「紀州藩藩邸」から密かに聞いた「江戸伊勢屋・伊勢青木氏」は、これを“理由なき闕所”と観て、次は、“「伊勢青木氏の伊勢屋」に及ぶ”として「200の江戸伊勢屋を無償放棄」して「伊勢」に「3日で逃げ帰った」とする有名な事件であった。
江戸での「享保改革の吉宗と青木氏の蜜月の関係」はそれもある日突然にこれで消えたのであった。
後は「勘定方指導」をしていた「紀州藩の後押し」でこの「闕所」を無事に乗り切ったのである。
この「時の紀州藩」は「安芸松平氏からの養子」が「藩主」と成っていて、極めて明晰なこの「藩主」は先ず「松阪」を「支藩」として成立させて、其の上で「伊勢屋・伊勢青木氏」と「殖産」と「商業組合」等を「伊勢屋が行う事」の一切を「紀州藩が行っている改革」として正式に認め自由にさせたのである。
これの認定として「勘定方指導と云う立場」を与えたのである。
其の上でこれで、「重要な事」は「味方の縁者」とする「紀州藩士」が何と「全て伊勢の藤氏集団」で占められて仕舞ったていたのだ。
これでは「元紀州藩の藩主」であった「吉宗」でさえも全く口が出せなくなっていたのだ。
この「重要な関係」は前段でも論じたが「大正14年」まで続くのだ。
さて、この時を以て、「蔵米蔵の米帳合取引」から手を引いたと考えられるが、これが「蔵米蔵の淀の屋の闕所」とするものではないか。
その直前には「江戸向行時の約束」と、及び「江戸改革時の約束」と違って「信濃の闕所」を「吉宗」は強硬に行ったが、これに対して「親族の伊勢青木氏」は、「江戸伊勢屋200店舗」を放棄して即座に船で逃れた事件だったのだ。
「伊勢屋の本店」と「大阪の伊勢屋の米集積所・蔵群」、即ち、「合意による蔵出し現物帳合取引」の「店名の淀のの屋」を一体と見做して「闕所」があったとすれば、時系列等も含めて一致する。
注釈 この「淀の屋論」に関して、ところが前段でも論じたがそれを「確定の裏付け出来る事」がまだ他にこの少し前にもあったのだ。
「重要な事」は上記した様に「味方の縁者」とする「紀州藩士」が、何と「全て伊勢の藤氏集団」で初代から占められて仕舞ったていたのだが、これに合わせて、其れは、「全国青木氏一族」が行ったこの時の「大プロジェクト」、その「殆どの全国の青木氏一族」が一斉に経済的に結束したのだ。
それが「全国15青木氏商業組合の結成」であったのだ。
そして、それが「御師制度の構築・紙幣発行の独立経済圏」までにも発展して行ったものだった。
何とこの「二つの集団」が「紀州藩の前後の歴史に「スクラム」として起こったのだ。
既に前段でも何度も論じた事だが、改めて云わずとも、この「15の商業組合の結成」は「諡号族の日本全国の青木氏族の結成」であって、再度、一部記載するがそれは次の通りであった。
前段でも論じたので、ここでは詳しくは論じないが、この「青木氏一族」が「経済的に結束する事」の為に「15組の商業組合」を結成したのだ。
この「巨万の冨の凄さ」が世間に与える影響がこれで判るし、この裏には「361氏の藤原北家で郷流の武力集団」が「女系の縁者」として控えているのだ。
そして、後にはこれらが「御師組合の御師制度と云う組合」を構築して結束し発展させたのだ。
これは、「信長」が「伊勢松阪」に「楽市楽座を構築する事」を「蒲生氏郷」に命じた。
それを実行に先ず移したのが「室町期末期の事」であった。
この時、「伊勢青木氏の紙屋院の伊勢屋」が「古来より商人の氏族」であった以上は、「巨万の富」を獲得したのは、「当然の事であり、「松阪が豪商の街」と呼ばれるこれが所以なのであり、この「楽市楽座」に商人として合力したのだ。
「伊勢郷士50衆の族と全国青木氏族」で「御師制度の15組合・豪商」を結成した何らかの「青木氏族の血縁世族」は以下の通りである。
01「伊勢青木氏と摂津青木氏」と「伊賀青木氏と甲賀青木氏」
02「信濃青木氏」と「諏訪青木氏」
03「額田青木氏」「伊川津青木氏」と「伊豆青木氏」
04「日向青木氏」と「大口青木氏」
05「駿河日秀郷流青木氏」と「相模秀郷流青木氏」
06「武蔵秀郷流青木氏」と「上総秀郷流青木氏」
07「越後秀郷流青木氏」と「越後諏訪青木氏」
08「越前秀郷流青木氏」と「越前青木氏」
09「石見秀郷流青木氏」と「米子八頭足利系青木氏」
10「讃岐秀郷流青木氏」と「藤原純友系青木氏」と
11「印旛秀郷流青木氏」と「土佐秀郷流青木氏」
12「近江青木氏」と「近江佐々木氏系青木氏」
13「越前(長崎)秀郷流青木氏」と「越前(佐賀)秀郷流青木氏」
15「橘氏系青木氏・貴族」と「島氏系青木氏・貴族」と「卜部氏系青木氏」
(血縁族では無い第一青木氏と第二青木氏と第三青木氏と甲斐時光系青木氏含まず)
以上はもれなく「青木氏一族」である。
この特徴は、大小は別として全てが「商いを営んでいたという事」だ。
この「商いの種類」は、多種多様であるが、副業を含めて、所謂、全て「総合商社」である。
これは結果として「付き合いの中」でそうなったと云う事ではないか。
これを観ると、「経済的な繋がり・御師券の組合紙幣を発行」だけとしているが、実はそれだけではなかったのではないか。
「時代的流れ」か「政治的な大きな流れ」もあって、“それに対抗する為に結束した”とも観えるのだ。
これだけの事をこの時代に実行するには、筆者は裏で何か大きい事が動いていたのではないかと考える。
つまり、何事も此れだけの事をすんなりできる事は政治的にも先ず無く、何か青木氏に「大義名分」があったと考えるのだ。
だから「一族」であっても異議なく集まれたと観ているが、それが「商業組合と云う事」を前提にした名目で異議が着けられなかった観ていて、当然に「青木氏族」に対して「厳しい時代の流れ」が確かにあった事は前提ではあるが、では集まろうとするには何か世間が騒げないものがあったと観ているのだ。
それが、前段から論じている「全青木氏一族」にしか発しない「天皇の因事菅隷」であった観ているのだ。
故に、これを盾に「伊勢」が動き、且つ「全国の青木氏族」もそれも同時に動いたと云う事だ。
それが前段でも論じたが、前提の「厳しい時代の流れ」では「商人」に執っては最も嫌う「府の闕所」も含めた「武士からの嫌がらせ」であった。
「氏族の商人」として「巨万の富を獲得する事」は、そもそも「目立ち目」を着けられるからであり、この「闕所の行為」は、「鎌倉期」から顕著となり、取り分け「江戸期」に成っては、そもそも「闕所」そのものは主に当初は「武士に対する法的処置」のものであったが、それがその「目的」を超えて次第に専ら「商人」に対しての「財産没収の為のもの」と成って、それは「難癖」に近くその行為は苛烈を極めたのだ。
この「異常な目的」は「力を出した商人の潰し策」と「その資産の獲得」であった。
特にこの傾向が強かったのは、「大名が負債を背負い苦しんでいた時期」であった。
「商人の力」が「商いの範囲」に留まらず、その「儲けの行為」は、上記の「武士の世界」までに及び、「大名の力」を左右する程に成ったとして、これを何とか理由を着けて留めようとしたのだ。
それ程に「商人の力」は「経済発展」に依って急激に増したのだ。
「経済発展」はそもそも「時の政府」にとって「政治の根幹に当たる部分で臨む処」であったが、いざそうなって観ると「武人の力」よりは「商人の力」が遥かに上に行っていた。
「商人の力」が増せば「税と共に供納金」では増し潤うが、逆に「武人の力」には維持を前提として「進歩」は無く、「商人の力」には「維持」は悪に等しく「進歩」が目立った事であった。
これがその差と成って目だったのは、それは先ず「秀吉の時代」に顕著に現れたのだ。
ところがその前の「信長」では、そうは成らずに逆に「進歩の商人の力」を期待し、それに依って「税の制度」を確立させて「政治の潤い」を獲得しょうとしたのだ。
そもそも「武力」は持ち得ているとすれば、後は「税の制度」に依って得られる「努力なしの制度」で「経済力」を「府」が獲得できるとすれば、合わせて「三権を握った事」に成るとしたのだし、それの「合理性」を「信長」は求めたのだ。
「伊勢の領主の「秀郷流蒲生氏郷」も「松阪」にこの考え方の「楽市楽座」を求める程に同然の考え方を持っていたのであった。
ところが、「秀吉」は「進歩の商人の力」を期待しなかったのだ。
寧ろ、この主な「商人の力」を「市場」に放置するのでは無く、積極的に「政治の中」に取り入れようとしたのだ。
「考え方」としては、これは有り得る考え方でもある。
その結果、「府の中の商人の力」と「市場の商人の力」とに「二つ」に割れて仕舞ったという事である。
「多くの商人」は「府の中の商人の力の傘下」に入って身を守った。
これが「秀吉が期待する流れ」であって、それによって統一性を求めたものであったのだ。
これでも「合理性の範囲」であろうが、ところがその「商人が巨大」に成り、その背後に「武力」をも獲得した「府の中の商人の力」よりも、「市場の商人の力」の方が勝って現れたのだ。
それが「信長」が進めていた「楽市楽座の構図」であって、その「秀吉が最も嫌う伊勢の松阪」の「豪商の街」にそれが現れたと云う事なのだ。
これが「伊勢屋」が居る「豪商の街」と呼ばれる所以であるのだが、それで、突然に実行されたのが「歴史上」に遺される庶民を巻き込んだ苛烈を極めた「伊勢攻めと紀州征伐」であったのだ。
「秀吉」は、反省してこれ以後には「戦い」で庶民を殺戮はしていないし、実戦はせず「戦略的戦い」で勝負を着けて勝利していたのだ。
この「2つの戦い」が未だ「地元・根来」で語り継がれているもので如何に苛烈極まり無かったか物語っているのだ。
これに対抗して、有史来、最も危険を感じた「青木氏族・伊勢」が、「全国の縁者の青木氏族」に呼びかけて「族単独で結集した」のが、この「15商業組合の表れ」なのであった。
「伊勢紀州の基礎の人」で成り立っている「豪商紙屋院の伊勢屋青木氏」であった.
「伊勢紀州の基礎の人」が無く成れば「豪商紙屋院の伊勢屋青木氏・基盤は伊勢氏族」は無く成り、この逆の事も起る。
それは全国に例の無い「伝統」にこの二つは培われていたからである。
故に「歴史上に遺される庶民を巻き込んだ苛烈を極めた伊勢攻めと紀州征伐」で「伊勢者と紀州者」は一致団結して戦ったのだ。
結局、この時、「最終の実戦」は、「葛城山の山道」を「伊賀者・伊賀青木氏等」がこの全山道を完全封鎖して抑えて「補給路を断った事」と、「ゲレラ戦」で、「秀吉」は飢えて慌てて大阪に逃げ帰ったのだ。
これは「15商業組合の活躍」として語り継がれている。
注釈 室町期に足利氏が楠木正成とここで戦いこの「葛城山の山道」を封鎖して抑えて「補給路を断った事」で2万の兵は餓死寸前に陥り敗戦を期した事があった。
「秀吉」はこの事で長期戦は好ましく無いとして引いたのだ。
同じ事が「伊勢長島の戦い」でも、「仮城櫓城の材木」を伊勢者に抑えられて「拠点の櫓城」が立てられず長期戦となり、その為に食料が不足して「苦労した経験」を持っている。
注釈 前段でも何度も論じたが、記録の保存に関して、これまで「3度の主家の失火の記録消失」で「伝統歴史の公表」が出来なく成り、それを何とか「氏族の遺された資料記録」や「その他の一般の資料発見や記録発見」からの「読み込み等」で導き出した結論の利用であり、それで「青木氏の伝統歴史」の「復元」を試みている。
取り分け、これには「正しい全体の歴史観の存在発見とその把握」が左右している。
これ無くしては「正しい青木氏族の歴史観の復元」は難しい。
「公開されている歴史観」には、期待しない「虚偽の導き」が殆ど占めていて、これには「江戸初期の幕府の国印状発行」が原因していて、「格式家柄の虚偽」でもいいから府とする処が「系譜を求めた事」が原因しているのだ。
「室町期の戦乱」で「武士」は、「系譜の無い農民からの成りあがった者」が殆どで、其れも江戸幕府はこの末端の武士迄「系譜」を無理にでも求めたのだ。
其れでなくしては「国印状」を発行しないとしたのだ。
「国印状」が無ければ「武士」には成れない。
実際にこの「国印状」を貰えないで「武士」には成れない者も多く出たのだ。
中でも「国印状」がない元からの「武士の侍」であった「氏族の郷士等」は、「侍」であって「武士」では無いと決めつけられる云う事が起ったのだ。
「郷士」には「主家」とする「郷氏」とは「主従関係」では無く「血縁の氏族の関係」であった事から「郷氏」から「国印状」は出せないと云う矛盾が生まれたのだ。
然し、本来、最も古い「武士・侍」であっても「議論」が起こったし、「郷士-郷氏以外」にもあって、古来より伝統的に「寺を警護する役の当にその侍」も居て問題と成ったとあり、「平安期の各地」に守護して廻されていた「朝廷の官僚役人」で、「統治する為の武装集団」をも持ち得ていた「朝廷の役人」も「武士」では無いとしたのだが、これも本来は「朝廷に仕える諡号の持つ本来の侍」であった。
結果として「侍とする定義」で決めると、「武士」は「侍」とならず、府が決める「武士の定義」とすると「侍」は「武士」では無く成ると云う矛盾」が生まれたのだ。
「諡号」の持たない「室町期の勃興の武士」は、多勢に無勢で吾が身有利として大声を上げて主張したが、歴史の本来性が「諡号と云う歴史的な証拠」があって最終は侍が有利と成り、結局は「折り合い」をつけて「侍=武士」で「武士=侍」であるとして決着を着けた。
その意味で、この「世間の歴史観」は、「青木氏族」に執っては「本来の諡号の侍」を以て優位に置かれたという歴史観を持っているのだ。
それ故にこの「武士の中」でも「大小の格式の有無」が優先されたのだ。
最終はこれを売買の対象と成ったのだ。
この様な下での「江戸初期前後の歴史観」はあまり知られていないが、これは歴史を紐解く上で参考に成る事である。
取り分け、「青木氏族」に対しては「郷士-郷氏以外」にも「寺を警護する役の侍」はどの位置に置くかはこの歴史観が必要に成るのだ。
江戸期に成っての議論の末に、最終は「本来の侍」であった「氏族の郷士-郷氏以外」にも「寺を警護する職役の侍」も「武士」とすると云いう結論が出た。
寧ろ、「格式」は上であるのに「下」から「上」を定めると云う逆の事が起こったのだ。
そこで、「侍は氏族の郷士-郷氏の関係」を指し、「武士」とは「主君との関係の者」として収まりが着き、それが何時しか「侍=武士とする習慣」が慣れで起こり、結局は治まる処に治まったと云う経緯があるのだ。
其の上でこの「青木氏と云う呼称」は、武士の間でも「特別の意味」を持っていたし、故にこの時の結束は世間では違った目で観られていたのだ。
そして、それが「商い」もすると云うこの「マルチナな青木氏族」」には、世間から「特別な目」で見られていて江戸期の前であっても「秀吉」も同然であったのだ。
上記の様に「院屋号の歴史観」に持つ「仕来り」の様にも、少なくとも「室町期までの歴史観」を正しく把握する事が必要であった。
その役に立つ一つが、以上の「全ての血縁族で深い交流があった母系での青木氏族」が、結束してこれらを「ライン統合」した事だった。
世間では強烈なインパクトを与えたのだ。
つまりは、この「青木氏一族」が実行した「大商い・15商業組合の結束」は、世間を驚かせ結果としてそれが「単独」では無く「摂津大阪商船組合等」との「連携」をも組んでの事と成って営んだのだ。
上記の歴史観を知るか知らないかで理解度が違って来るのだ。
注釈 さて、其の上でこの「大商い・15商業組合の結束」の元となった「因事菅隷」も同然である。
これは「一般の歴史観」には出て来難い事で「青木氏一族だけの事」ではあるが、ところがこの事は「NHKの大河ドラマ」にも成った程の詳細な「史実」であるのだ。
筆者はNHKもここまて史実を良く調べ上げたものと驚いている。
さて、そこで、「注目すべき事」は、この時の「史実」として、先ずそれは「“因事管隷”」に裏打ちされ、その下で「全ての青木氏の氏力」を結集していた事が上げられるのだ。
つまり、この「因事菅隷」、即ち、何か「朝廷との思惑の中」で成された「政治的な事」を想像される。
これは突然に「伊勢青木氏」に対して突然に室町期に成って改めて「伝統の氏族」を「律宗族」として追認した「正親町天皇の因事菅隷」であるので、これは「秘密裏・密書」に行われるのでその間の経緯の事は良く判らない。
恐らくは、詳細に調べると、「ある目的」で「大商い・15商業組合の単独」では無く「摂津大阪商船組合等」との「連携」をも組んでの事で得られる何かをこの「正親町天皇」は目論んでいた事になろう。
この「正親町天皇」は、有史来で唯一、「天皇の権威回復を狙った天皇」として有名な天皇である。
その時は「上記した癖の秀吉」であった。
それは何かである。
その為には、「権威回復を狙う以上」はそれなりの危険が伴うが、古来から“「賜姓五役」”としても「献納を裏で続ける青木氏族の安泰」が、「天皇家を支える事・唯一つの味方」として、それを切に望んでいた。
だが、これが「巨万の富」を獲得している「青木氏族の組合による結束」を急いで成された危険を回避する為の理由なのだ。
注釈 この「目論見に依る結束」が、「経済効果は大きくなる事」は確かであり、これでも「秀吉」を躊躇わせたのだ。
後は、その背後にある「藤原秀郷流一門一族の力361氏」を「敵に廻す事」は、その「武力」はもとより全国に散在するその「勢力」を無視できず好ましく無いと判断したのだ。
次の「徳川家康」さえもこの力を避けていて、寧ろ、その「藤原氏の氏名を名乗るなどの近寄り」を見せ「味方」に取り入れて「家臣」にして勢力下に置くほどであったのだ。
突然に組まれたこの「青木氏の15の商業組合策」に対して、「秀吉」は「伊勢勢力の潰し」を遂に諦めたのだ。
そして、更には「青木氏族側」は、今度は「手を緩める事なし」に「御師制度を敷く結果・15組合圏内の独自の市場経済圏・紙幣発行」と成ったのだ。
最早、「伊勢の商人の力を取り込む事」も出来ずに、潰す事も出来ずに「秀吉」は「攻撃」を諦めたのだし、「闕所の話処の事」では無く成ったのだ。
最低限に、この「御師制度を敷く結果」として「・15組合圏内の市場経済圏・紙幣発行」を暗黙で認める以外に無く成ったのだ。
「室町期の幕府と正親町天皇」は、この「勢力」の「古来からの伝統の青木氏族」を「賜姓五役の氏」から「律宗族」と認め直して、先ずはこの「古い伝統の格式」を世に質したのだ。
「上記する秀吉の理屈」からすれば、何はともあれ「商人がこの「格式を持つ事」が「最も嫌う事」であって、これに依って「他の豪商等との扱いを変えなければならない事」が「納得の着かない処」であったのだ。
それも「通常の格式」では無かったのだ。
それが「古来からの伝統」だけに依るものであればいざ知らず直前にはその「全格式の総称」としての“「律宗族」”を「最高権力」の「府と朝廷」が「青木氏族」に改めて認めて仕舞っているのだ。
そこで「秀吉」は「伊勢攻めと紀州攻め」としてその「勢力の弱体化、又は衰退化」を狙ったのだ。
「古来より地に根付いている集団」の「勢力の弱体化、又は衰退化」は「伊勢と紀州」は思いの外に出来なかったのだ。
故に「歴史にも遺る程の批判」を受けてのこれがすっぱりと「諦めた結果」であった。
寧ろ、「陸奥結城攻め」では「伊勢藤原秀郷流青木氏・青木氏族」が「一族の陸奥結城氏」の「救助」に向かうが、これを聞きつけた「秀吉」は、「恐怖の紀州伊勢のトラウマ」に書きたてられたか様に突然に軍を払い「北陸道の商人荒れた山道」を一目散に大阪に逃げ帰ると云う媚態を見せた位である。
それほどに「伊勢攻め紀州攻め」では「恐怖感を与え得た程」であったのだ。
これが「15商業組合結成効果」であって2度と攻めてこなかったのだ。
注釈 そこで何故、「伊勢秀郷流青木氏・青木梵純」が動いただけで逃げ帰ったかである。
これは不思議な事である、
この前には「武蔵の結城一族本家」がこの「陸奥の結城一族」を救う為に立ち上がっているが「秀吉」はびくともしなかったのだ
更にその前にもより大きい「武蔵の本家の秀郷一門」も「陸奥」を救う為に攻めればよいではないかと成る。
でも「紀州伊勢」のより小さい「伊勢秀郷流青木氏・青木梵純」が動いただけで不思議に逃げたのだ。
それには「伊勢秀郷流青木氏・青木梵純」だから逃げたのだ。
其れは先ず「上記の組合を造る程の青木氏」である事であって、「伊勢者紀州者であった事」、そして、その背後に「豪商の青木氏」が控えている事にあったりだ。
「経済力」も然る事乍ら「伊賀者等三つの忍者」を配下にしている彼の苦しめられた「伊勢青木氏が控えている事にあったのだ。
この少し違う軍団がこれが動くと成れば、当に前記した「伊勢紀州での秀吉のトラウマ」にあったのだ。
そして、この「15商業組合の商い」に必要とする“「生産工場」”とする処には、「秀吉の台所」の当にこの「摂津と堺」であったのだが、そそれでもここでも手を出してこなかったのだ。
注釈 この時の事が、上記する「NHKの大河ドラマ」の中でもこれに関する事が詳細に描かれていた。
そもそもその「第一の目的」は、「一族一門の経済発展の事」である事は間違いは無い。
では、“何で結束して一族一門が共に経済発展視しなければならなかったのか”である。
“それもこの時代に密かに「永代の令外官・賜姓五役」に「時の天皇」が突然に「伊勢青木氏」に対して「律宗族の格式」を任じた上で、更に「因事菅隷」を発行してまでの事であったのか”である。
筆者は、「朝廷」がこの「ある目的」を好んで、将又、積極的に画策してまでの事であったのかどうかでである。
筆者の推論では、そうでは無かったと観ている。
結果として、「朝廷の最大の財源・献納の定期収入・権威の維持」であった「青木氏からの定期献納」を「今後も安定させる事」に先ずあったと観ているのだ。
つまり、その「定期献納」に対して「現在か又は先行きの事」として、「上記の事」で「秀吉の中」で、「天皇」は「権威回復」を試みながらも、その「不安」を抱いていたのではないか、其の為には、この顕著に成って来たこの「不安」を取り除く必要が生まれて来たのだ。
それを「献納時」に「街の状況」を伝える「賜姓五役の軍略処の役目」で、この「不安の状況」を潰さに内密に伝えていたのではないか。
この「不安」を取り除く為には、「青木氏族の持つ力」をより「不安をもたらす力」より大きくしなければならなかった筈だ。
それは「通常」であれば上記した様に「上記の商業組合」を組むほどに此処迄大きくする必要は無かった筈で、「伊勢青木氏だけの経済力と世情力」で対応は充分に出来ていた筈だ。
でも、その「経済力」は、勿論の事、「武力の事」、「政治力の事」のこの「三つ力」を兼ね備える事の必要性に迫られていた事に成るだろう。
これが「伊勢青木氏に向けた密書」の「不安の因事菅隷」であったのであろう。
それは「朝廷の今後」のみならず「青木氏一族の今後の事」でもあり、これが両者の「不安の因事」であった事に成る。
では、“それは一体何であったのか”である。
“手を繋いで輪に成って護りあう”為の「不安の因事」は何であったのかである。
筆者は、これが「秀吉」が行う「闕所の様な事」であったのではないかと云う事だ。
「政治の力」に対して「大身内の組合を結成して守り合うと云う事」はこれまでの歴史の中では無かった。
初めての事である。
つまり、“組合が闕所を呼びよせ闕所が組合を呼び寄せた”という事に成ったという事だ。
「時代」が接合しているので何方とも云い難いが「組合」が先ではないかとも考えられる。
「闕所」は「秀吉の時代前」からも既に起っていた。
前記したが「青木氏の中」でもこの「近江で闕所」を「秀吉」より受けている史実がある。
「組合」は「伊勢松阪での楽市楽座の時」より初めて「組合」を結成し始めている。
「信長・蒲生氏郷・秀郷流藤原氏郷」は、寧ろ、「商人が固まりあう事」の「商業組合」を推奨してそれによって「冥加金の獲得の手段」としたのだ。
「濡れで泡の策」である。
ポイントは、然し、「秀吉」からは全く逆で違ったのだ。
「秀吉」は「商人」が大きく成り過ぎる事を嫌った。
其れで゛府の中にこの商人の力を取り込んだのだ。
「朝廷と繋がり」のある「紙屋院で蔵人院の伊勢屋の伊勢青木氏」は、この時、「室町期の紙文化」で既に「巨万の富」を獲得していたのだ。
「朝廷」はこの為に「献納」で潤っていたのだ。
この「状態」は「信長の容認と推奨時迄」に続いたが「秀吉」で突然に変わった。
それも急に「突然に」である。
この時、初めて「朝廷」は「献納で潤い」を得たし「多くの院屋号」を持つ「伊勢青木氏」は「近江鉄」に始り「和紙」でも又「巨万の富」を獲得していた。
然し、「秀吉」はこれを真っ向から露わに嫌った。
取り分け、その基盤となる「紀州-伊勢の勢力」を悉く殺ごうとした。
要するに、「紀州征伐と伊勢攻め」と態々名を打って攻めたてた。
攻め立てられている「伊勢青木氏」は、この時、自らも「蔵の火付けや打ち壊しの攻撃」を受けながらも、「平城で寺城の堅固な清蓮寺城」を始めとして「菩提寺や分寺」に「庶民や僧侶等」を匿って「伊賀者等の活躍」で周囲を護ろうとした。
この時も「紀州伊勢の衆徒連」は「全滅の殺戮」を受けた史実を持っている。
通常は仏教徒である以上は「寺の中に攻め入る事」は、当時はタブーとされ、結局は外から「焼き払い作戦」に限られていて、結局はでて来た者から討ち取ると云う鮮烈極まりない戦いとなるのだ。
「伊勢青木氏」はその為に「火の着けられない清蓮寺城や大寺」に囲い民を守ったもりであったたのだ。
結局は、「伊勢の豪商の青木氏の抵抗」を受けて「紀州征伐と伊勢攻め・1577年~1585年」は引き上げたのだ。
「伊賀者衆」や「甲賀者衆」や「雑賀者衆」や「十津川郷士衆」や「龍神郷士衆等」の現地の要するに「紀州惣国者の忍者衆徒」の「反撃」も受けて引き上げたと云う「秀吉」に執っては「我慢の出来ない出来事」であって、「格式」を有する「伊勢の豪商青木氏」に対しては「敵意」を露わに示し続けたのだ。
従って、この「突然の秀吉の政治的変化」に対して「組合」を組んで互いに護り合おうとしたし、「秀吉」に振り回される「朝廷」も、「密かに因事菅隷」を発してでも「全国の青木氏族」に対して「内密な強化策」を命じて来たのだ。
それが「青木氏族による15商業組合の結束」であったのだ。
時系列で観て見ると、この時、「正親町天皇・在位1517年~1593年」は、「幕府の律宗族」を出してから、少し遅れて「1587年頃の伊勢攻めの頃」に、改めて「律宗族の容認」を出したが、反面、「秀吉」に取り入り「官位の授与」の連発で吊って、“「朝廷の権威回復」”を図った「正親町天皇」ではあるが、この時に片方では“「密かに因事菅隷」も発していた”と云う史実では無いか。
何故ならば、「天皇の権威回復の目的達成」にはそれなりに警戒されて、又危険を伴う事に成る。
それはやればやる程に増す。
その時代は、丁度、「秀吉の室町期末期の事」ではなかったか。
「正親町天皇・在位1517年~1593年」は、この「目的の達成」の為に現実に「二面工作」を図っていたが゛、「唯一の味方」となるのは「古来からの付き合い」の「伊勢青木氏とその青木氏一族」であって、これに対しても「密かに因事菅隷の効果」にも改めて「重きを置いていた」と云う事に成る。
つまり、「青木氏への因事菅隷」と「15商業組合の青木氏族の結集」は、時系列的に一致していたという事に成る。
これには、「時系列」が完全一致すると云う事に成るが、それが「多くの事」を物語っている。
先ず、この「室町期の時代」に成っても、“「因事菅隷」を密かに発していた”という史実である。
「正親町天皇」は、唯一「朝廷の権威回復」を確かに試みたが、反面、「朝廷の存在」そのものまでに「危険感」を感じていたという事に成る。
それは「朝廷の権威」に食い込ん出来た「秀吉」であったからで、「官位の授与の連発」は、結局はその前には「秀吉の推薦」によるとすれば、その「権威」は「秀吉」にあって「天皇」に無いとする「形骸化を招く事」に成り、現実に史実として成っていた。
例えば、「天皇家の権威紋」の「五三の桐紋」に対して、「秀吉」は自分様の「五七の桐紋の権威紋」を造って、“「権威」は自分にあると思わせる策”を現実に執っていた「秀吉」であった。
それが「朝廷の権威回復」で逆に現実化していたのだ。
そこで密かに発したのが、この奈良期から使われていた「因事菅隷の策」であって、その前に室町幕府が出した「律宗族」を改めて見せつけるかの様に、先ず「律宗族」を出して「権威付け」て置いてたのだ。
そして、その「流れ」として上記する様に、「秀吉」は「伊勢攻めと紀州征伐」を同時に実行したのだ。
その意味でこれは「豪商潰し」と云うよりは、影で「朝廷の唯一の味方」となる「青木氏族潰し」では無かったかと観ているが、元より、「政権に靡かない豪商」もあっての事ではあった。
然し、「秘密裏の因事菅隷」での「15商業組合の結束」が、功を奏し「秀吉」に「潜在的な恐怖感」を持たす程の「決定的勝利・大きな犠牲を払ったが」で退けたのだ。
「朝廷」も「伊勢青木氏と信濃青木氏」のみならず、更には改めて「秀郷流の母系の賜姓族」の「15商業組合の結束の味方」を得て、且つ「朝廷への献納」も続く結果と成り、「秘密裏の因事菅隷」は思惑通りとなったのだ。
注釈 「室町期の因事菅隷の策・天武天皇」を出すと云う事は、他にも未だ「天皇」は「天智天皇の永代賜姓五役」を信じていた事に成る。
それが“「永代とする処」”に「天皇」は信じてあったのかは判らない。
然し、兎も角も「天皇]が室町期に「因事菅隷を発したと云う事」はその様に成る。
「律宗族の格式を認めて発したと云う事」もそういう事に成る。
「賜姓族と臣下族の総称策」として「本領安堵策で応じた鎌倉期」の前の「室町期」には改めて「律宗族」として発しているのである。
注釈 余談として他にもこの「思惑の込めた因事菅隷」を発した天皇」は居るのかと云う疑問だが、天皇家と疎遠できるだけに疎遠で通して来た「青木氏族」ではあり、考えられる天皇は余りいないであろう。
そうすると「因事菅隷」を密かに発した「天皇」としては他に「仁明天皇」と「円融天皇」の二人と成ろう。
「桓武天皇と平城天皇」が「親族でありながら「嵯峨天皇」に対しての対応」で発している事は間違いは無いだろう。
「出自元の最後の人」としての「平安期の親派の天皇」の「仁明天皇」は、「青木氏の岐路時期」に居た「親族の天皇」で「親青木氏」であった。
「円融天皇」はこの「青木氏を補完する勢力の拡大」を「賜姓と云う形」で対応した。
故にこの「二人の天皇」は「因事菅隷」を発している可能性は充分にあり得る。
何れも研究中であるが、判れば「因事菅隷と云う語句」からでも今回の様に「歴史に繋がっていた事」がより「詳細」に分析して判る事に成る。
それには「秀郷流青木氏の歴史資料の発見」に頼る処が大きいが何故か出て来ないのだ。
何かあったとしか思えないのだが、唯、この「因事菅隷」はその特質上は「限られたそれも特定の氏」にしか発しておらず、それもそもそも“「秘密裏」”であり、そもそも「遺る事」は「密書」である限り先ず少ない性質のものであり、慣例上は遺す事を「否」とするものである。
もう一つは「伊勢と同然の賜姓族」で「永代賜姓五役の令外官」を務めていた以上は「信濃青木氏からの資料とその分析」に頼る事にも成る。
「信濃青木氏」は取り分け「伊勢」よりも「殖産」を大きく進めていて、そこから生まれる利益の一部を伊勢と同然に「献納」としても行っていた。
「今回の青木氏に対する秀吉論」では、「伊勢青木氏」と同じでありながら「信濃青木氏」に対して「特段の攻撃」を受けたとする資料は見つからない。
「信濃青木氏」が「秀吉」が考える「豪商の大きさ」であったかどうかの事では、該当し無かったかと予想できる。
然し、「伊勢青木氏・伊勢屋」を通じての事であったものでは相当に大きいものであったと筆者は観ているが、此れには何かあったとも考えられる。
結論は「伊勢青木氏の商い」と「信濃青木氏の商い」は同然の一つと観られていたと考えられる。
「伊勢青木氏の商い」を潰せば同時に「信濃青木氏の商い」は潰れると観られていた事ではないか。
然し、「15商業組合のメンバー」の中でも「越後秀郷流青木氏の商い」は「全国豪商中の筆頭」でもあり、「酒業」として米どころでは歴史に遺る程の「日本一であった商人」でもあったが、同然に「秀吉から特段の攻撃」をこの時には受けていないのだ。
この差は何処にあるかと云う事であり、筆者は「越後」では無く、天皇家を強める主体的に定期的に行っていた「伊勢青木氏の献納」にあったのではないかと考えている。
そして、それが主に「伊勢であったと云う事」では無いか。
「正親町天皇の権威回復策」を弱めて、「朝廷」に対して「秀吉の権力」を強めるには、先ずは策としてはこの「献納を弱める事」にあったと観る事が出来る。
其れが「律宗族」と成って仕舞った「伊勢青木氏を潰す事」にあったし、その「古来からの固い地盤を破壊する事」にもあったのだ。
然し、この「戦い」は「伊勢人紀州人の惣国精神」と「女系で繋がる四掟の15商業組合の結成」」とで「秀吉」に「伊勢紀州のトラウマ」を起す程に大失敗したのだ。
要するに、全国各地で「闕所」を行って完全に潰して来た「秀吉の闕所的行動」に執っては、「伊勢紀州」では不入不倫の権で護られていながらも歴史的に大犠牲を負ったが失敗したのだ。
そして、「正親町天皇の権威回復策」の「目論見」も、兎も角も「因事菅隷の初期の目的」は果たされたと云う事で経済的な保障は果たされたのだ。
かといって、「青木氏族」と「朝廷との距離」は以前より近く成ったかと云う事では無く、飽く迄も「因事菅隷の範囲・献納の範囲」で終わっているのだ。
「女系で繋がる四掟の15商業組合の結成」は、益々その「商業勢力」をも広げて行くのだ。
当然に、「因事菅隷」が「15商業組合の結成」だけを先ず求めたものであった事かは「状況証拠」で判るが、将来の「御師制度まで発展させる処」まで指示し目論んでいたかは判らない。
然し、朝廷の「献納の安定」を「目的」とすれば、「御師制度まで発展させる処」までは求めていなかったであろう。
これに依って更に歴史的に繋がる「女系で繋がる四掟の青木氏族」は「より濃厚な血縁性も増す事」に成ったのだ。
逆に失敗した「伊勢紀州」に対する「秀吉の闕所目的」は、これで益々手を出せなくなったのだ。
余談だが前記した事で、恐らくは「時系列」から追うと「秀吉の出方」に対してこの頃から前段で論じた「店主の顔隠策・人と店は隠す」はより強化して始まっているのだ。
この「奈良期からの因事菅隷」がよりこの「顔隠し策」を推し進めたものと成っていたと考えられる。
それを示した初めての「物語」が室町期の末期策とし遺されている。
その「物語」では、「軍需物資の調達」で「伊勢松山」で「「秀吉」と会って「商談」をする。
この相手が矢張り「摂津堺の伊勢屋主人」であった。
この時に「作者」は、この「店主の顔隠策の事」で面白可笑しく物語を書いている。
恐らくは、当時には既にこの「闕所」を実行している「秀吉」に対抗する為に「豪商達」がいつ自分に降りかかるかを警戒していた事かを認識していた事に成る。
この作者は相当に「伊勢屋の身近な人物」であって、それを知っていて少し後に「物語」にした事に成るだろう。
多分、この「幾つか遺されている物語」の内容から、「商慣習」を良く知り得ていて、それはその「実態の詳しさ」から「家人か祐筆の範囲の者の作」であろうと考えられ、そうでなければ幾ら文才があろうともこの史実での事でこれだけの事は書けないであろう。
例えば、「松山城築城」の交渉場面では、「材木と大工の調達の事・史実」まで詳しく書き込んでいる。
そしてこの「物語」は書いた時より「江戸期初期」に成ってヒットとしているのだ。
注釈 米相場を[吉宗の裏切り行為」で引き上げた後の「伊勢の米」はどうしたのかであるが、それは最早、「蔵」さえあれば成り立つ事と成っていたのだ。
それは簡単であり記録にある。
上記した「15商業組合」は全て「酒蔵を持つ程の大米所の国」にあり「伊勢の米」は賄う事が出来たのだ。
それがこの組合で藩を超えて出来る様に成っていたと云う事だ。
因みにこの「伊勢」とは、「北部の米の事・北勢」で「伊勢の最大の収穫量」は全体で57万石で、一時は40万石に足りなかったとされ、「北勢」では「陸稲の収穫」だけで表向き「5万石の小藩程度」のもので「伊勢藩」では無く親族の「支藩の松阪藩」や「高野藩」であった。
この「伊勢国の石高」は、「米」だけに「拘わらず国の殖産物の生産額」を「石高」に換算してのものであって、その比率は石高より大きかったのだ。
それだけに「市場」から求める「余剰米の米」は、必要であって米獲得の為に「藩主とその役人」が動くほどに「江戸の物語」にも成っている程である。
此れを「歴代の紀州藩勘定方指導」の「伊勢屋」が奈良期の昔から一手に担っていたのだ。
口伝でも伝わっている事である。
さて話は変わる。
話は「秀吉の闕所の同時期」に行われていた「二つの近江鉄の製鋼」では記録を追うが何故か何も影響はなかった様だが原因は判らない。
「鉄を扱う商人で殖産人ある事」は歴史が長い事から「秀吉」は充分に知り得た筈だ。
これが「闕所の対象」に成っていたとは思えない。
「伊勢」を潰せば、その「莫大な利権」は「秀吉」に転がり込んでくるは必然である。
然し、「伊勢」は攻めたが「近江」は直接に攻めていないのだ。
これは不思議な事であり何故かである。
攻められない何かがあったからであろう。
それは確定は困難だが、「律宗族」と「因事菅隷」と同然に「朝廷の院屋号をも持っていた事」では無かったか。
この「院屋号」を持っていなければ「鉱山に関係する人達」を動かす事は出来なかった。
前記した様に「彼等の組合の金屋集団の抵抗・金屋神」を受けるからではなかったかである。
「秀吉」はこの「上記の通り」で“「組合」”と云うものには一目を置いていたのだ。
だから先ず手を出さなかったと観られる。
そして、次は元より“密かに出されていた「因事菅隷」”にあったと観ている。
だから、この「三つの事」から考えて“手を出さなかった”と云う事にも成るが、「伊勢青木氏」に「因事菅隷」を出していたかまでは秀吉は判らなかったと思う。
うっすらと知っていた程度で在ろう。
なぜならば「蜂須賀小六の家臣の時代」に今井神社系の影の役をしている。
然し、直前で態々に凡そ「700年後」に「室町幕府と正親町天皇」が“「律宗族」”と改めて「格式を認め直しているの事」を洞察すれば、以上の事では、“密かに何かを出していただろう”の程度の事は「秀吉」は予想は出来ていたと読める。
それまでは「秀吉を含めた世間の認識」は、総称として「律宗族」と追認されるまでは「永代賜姓族・臣下族」で「永代賜姓五役の令外官」、昔は「浄大一位の冠位」等を保有する家柄程度と、「忘れかけの認識程度」であったであろう。
氏族の間で御師様の呼称が物語る。
それが突然に、その「総称の様な格式名」で「律宗族」と再び呼ばれる事に成った。
この事は「秀吉」も知っていた筈で、「そういう特別に限られた族」に対して密かに出す密書の様な命令書の「因事菅隷の存在」も薄々は知っていたと思われる。
然し乍ら、「近江鉄の事」には「因事菅隷の族の存在」でも“手を出せなかった”のではないか。
「攻めた事の本音の目的」が「伊勢全体の力を弱める事」であったとしてもそんな事では「上記した伊勢全体の勢力」は弱まらないからだ。
「秀吉」は、“この「伊勢全体の勢力」の「この底力・観た事もない総合力保持集団」を見誤った”のだ。
「伊勢勢力」を「普通の武力集団」と見誤ったのだ。
だから「将来の秀吉トラウマ」に成る程の体で逃げ帰ると云う結果に終わったのだと読める。
注釈 この「青木氏に対する密書の因事菅隷」は、定期的に納められる「献納時に渡す事」や、「伊賀者の情報伝達」でこれを担っていた事が判っている。
中には、「香具師と呼ばれる伊賀青木氏」が特別に「香具・薬や生活常備品」の「入替え」でこの「朝廷内」に出入りしていたとされる。
この「真の目的」は「情報の伝達忍者」であったからだが。
これらの手段を古来から使っていた。
従って、出したか出さないかなどは判らないのが原則の常で、況して「因事菅隷の内容」までは判らなかったと考えられる。
「因事菅隷」に拘わらず「金銭の小遣いを始めとした生活の細かい依頼事」までも「伊賀者や香具師」に秘かに出していたらしい。
これ等の事が「明治中程」まで続いていた事が京都に明治中頃までその役目の店を構えていた事が「香具師の遺した資料」からも判っている。
「香具・薬や生活常備品の入替え」ではどうも「伊勢の無償」であったらしい。
筆者の祖母も「京の公家出・叶氏」であり、この事から「天皇家のみならず高位の公家なども含まれ、「天皇家の調度品等」は、「伊勢屋が準備した事」が判っているが、これも「超豪商の伊勢屋・伊勢青木氏の無償」であったと考えられる。
取り分け、この「室町期」を分けると「秀吉の時代」は、相当に活躍した事が「香具師の史資料」や「伊賀青木氏の資料」でも判る。
然し、「伊勢」を攻めていながら「近江」には手を出さないのはこれは矛盾をしている。
だとすれば「闕所の為」に「伊勢と紀州」を何故に潰しに掛かったかである。
「伊勢の力・伊勢青木氏の伊勢屋」と「氏族の伊勢郷士50衆」とを合わせたものであるが「財力はあるが武力」は持ち得ていない。
補完的に「女系で繋がる秀郷流青木氏116氏と秀郷一族一門の361氏の武力一門」で強く繋がっているのである。
この「伊勢」を直接攻めれば、この「有史来の四掟の血縁族の補完族」を引き出す事に成るは必定である。
だが、どの条件から検証を捉えても攻めている。
それ程の「闕所の為」であったのかである。
となると、「潰す」と云うよりは「弱めたい」と云う狙いがあったのかと云う事に成るが、「巨万の経済力」と「その地盤の強固さ」と「背後の武力」が在れば弱まる事は100%ないだろう。
でも攻めたのである。
確かに伊勢と紀州は鮮烈極まる犠牲を負った事は確かである。
然し、秀吉の闕所の目的は全く達成されなかった。
普通なら「伊勢」を目的として攻めれば「近江」」も攻め取らなければ意味がない。
全く攻めていないのだ。
「正親町天皇」は「朝廷の権威回復」を積極的図っていたが、これに「献納」する「伊勢勢力」に「牽制」を掛けたとすれば符号一致する。
それには「唯一の勢力と成っていた伊勢青木氏・伊勢屋」への「因事菅隷の手段」を無くす事と成るが、「天皇」には「秀吉の立場」ではこれを命じる事も止められない。
そこで“「伊勢」に的を絞った”と観えるが「伊勢」は屈しなかったのだ。
それどころか“「青木氏族を結束する15商業組合」”で対抗して来たのだ。
それがその嫌う“「因事菅隷」で行われた”と云う事に成る。
そもそも“「因事菅隷」は秘密裏に成されるもの”である。
その“秘密裏に行える手段”を上記した様に幾つも持っているのだ。
恐らくは「秀吉」にはこれには「手の施し様」が無かった筈である。
それが「天下の伊賀者の伊賀青木氏」であったし、「雑賀忍者」であった。
この時は、「内部の考え方の違い・忍者の雇用形態」で「甲賀青木氏」は「伊勢青木氏」から既に手を離れていたのであった。
注釈 さて、そこで「秀吉」はこの「近江の件で攻めなかった事」はそれなりの意味を成すだろう。
「近江の鉄鋼」には未だ「魅力を感じていなかった事」を意味する。
魅力があれば「伊勢」と共に「近江の利権獲得」の為に真剣に攻めていただろうが「伊勢」だけであった。
「近江の鉄利権」は「秀吉の政治権力」で奪えばよかったでは無いかと思うが、実は上記した様にこの「近江の鉱山の鉄利権」には「院屋号を持つ因事菅隷」を朝廷は既に与えていたのだ。
これを否定して「強引に奪い取ると云う事」をすれば世間の信用を低下させると思った筈である。
何故ならば、「秀吉」は「天皇の権威」を背景に「自らの政治権力」を高めているのだ。
従って、「院屋号を持つ因事菅隷」の何人も持ち得ない「最高の権威書」を持っているとすると「強引に奪い取ると云う事」の最悪の事に成り得て仕舞う。
だから、手出しは出来なかったと云う事に成ろう。
この事からこの様に「権威の物を持つ伊勢」に一目を置くにしても、「近江鉄」が「需要と供給の関係」に於いてその「要求に賄う量」を供給できていたかに依るだろう。
つまり、「鉄の供給」が大きく金になる様であれば何か手を使って来るだろう。
それ程の事が無ければ「秀吉」も手は出してこないであろう。
注釈 其の事に就いて検証する。
「世間の資料」では、これに加えて「江戸初期」までの「全国の神明社の質」でも「青木氏の人・処世に失敗した人の救助」を救う為に「社会の一角」で「独占的に鉄製品の商い」を営んでいたが、その時の「事・主に販売」が判っている。
この「近江鉄」に付いて「重要な事」があって、“「全国の神明社のルート」を通じて裁かれていた事”が「記録」として遺っている。
要するに「通常の市場に載せていなかった」と云う事だ。
つまり、「神明社の裏の資金源」であったのだが、「近江鉄の生産量」が恣意的にその範囲に限定されていた事に成る。
それも「神明社」、即ち、「青木氏族の中」で恣意的に限定していた事に成る。
だとすれば、これらの「市場」に対しではなく、「全国の神明社からまとめて来る需要の要求を賄う量」としては生産し、それが相当なものがあった筈である。
それは「神明社を使う者」が「一般人」では無く、上記した「15商業組合の範囲からの声・秀郷流青木氏一門」を下にしていた事に成るからだ。
だから「秀吉」が恐れる程に、「15商業組合の結成」のそこには「近江鉄」が其の裏で存在していた事に成るのだ。
現実には「秀吉」は「近江鉄に目を着けなかった事」、又は「着けられなかった事」は、ここにあって、故に、「鉄製品」に限っても、果たして「市場」では「充分に賄う事」ができ得ていたかは「疑問」を感じるのだ。
当時は“鉄を握る者は天下を握る”と云われ始めていた時代であった。
その「鉱山鉄の近江鉄」を「青木氏」はこのような形で握っていたのだ。
「市場化」しないで「神明社化」で「鉄と云う危険な物」を限定して「青木氏族の範囲」で使うようにしていたと云う事だ。
その「裏のツールとしての神明社」が使われたのだ。
その時期化が戦乱の世であって、鉄で造る火縄銃の生産が戦いに比例して造られる様に成っていたからである。
故にそして、「鉱山鉄の生産」のその「最終起点・神明社」が「青木氏族の逃避起点の越前の福井」として制限したのであった。
未だ、この頃は、「竪型炉の開発」が「需要に賄えるだけの量」に未だ至っていなかった事は上段で論じた様な事でもあろうし、寧ろ、その「範囲の事でも良かった事」に成る。
その分、「世の中の需要」は、未だ「砂鉄の鈩製鉄」に頼っていたし、「江戸期」に成って初めて「鈩鉄の公開市場」が「大阪」に開かれて続いていた事を考えると、「近江鉄」に目を着ける程に「神明社の範囲」で隠れた「魅力」は充分に未だ無かった事に成るし、この分でもシステム的に「権力介入する事」は出来なかった事になろう。
「伊勢」を攻められている「青木氏族」に執ってはこれは都合が良かった。
何より「15商業組合の結成」に上手く働いたのだ。
更に「船を使っての商い」と成ると「院屋号を持っていた事」の限りに於いては、「二つの近江鉄の製鋼」では、世間の影で「フル稼働・限界に達する程」のものであったと見込める。
故に、上記した様に「秀吉」から目を着けられなかった事で、「近江鉄の限定した神明社経由の使用量」から、更に“当初の「2鉱山」から最終は密かに「4鉱山」に増やした”のでは無いかと判断できる。
注釈 「伊豆青木氏の救助」を果たし「独立させる額田青木氏」に「引き渡す近代銃の欠点の完成」は、前段の通り「1540年頃」に開始」し、「1560年頃」から引き渡している事になるので、「秀吉との関わり」と「正親町天皇との関わり」では、当にその“「後半の渦中」”にあった事に成る。
「秀吉・1537年~1597年」、「正親町天皇・1517年~1593年」の時系列を観ると、つまり、「青木氏族」としては「難しい綱渡りをしていた時期」に成る。
故に、何もかもに取り分け「一族を守る為に一斉に行動に出た事」に成った「15商業組合の青木氏での結成」は、その「総合策」としての一族存続の為にはこの事に大きな「意味」を持っていたと考える。
何もかもが青木氏の存亡はこの時期に集中している。
その「意味」でも、当時の「需要」に対して「供給」は、「砂鉄・鈩炉・閑散期の田水路を使う方式」だけでは、到底無理であった事は間違いは無いが、「近江鉄」を合わせても無理で会った事が判っている。
この「比較される砂鉄の経緯」でも、「近江鉄の青木氏一族の全需要・必需品と商い・神明社経由」は、「フル稼働・限界に達する程の事」を説明を補完できる。
これに依ってこれを補うには、「貿易に依り高い技術を他から求める事」に成っていた事が記録からも説明できる。
然し、「青木氏の状況証拠の記録」から想像すると、「鉄を輸入すると云う事等」はそれをしていない様だ。
と云う事は、「市場」は殆どが「砂鉄・鈩炉」に頼り上記した様に「近江鉄」は、「神明社の裏ルートからの供給」に限定されて直接は関わっていなかった事に成る。
これは「青木氏族一門の戦略に成っていた事」に成る。
つまり、「近江鉄の鉄を獲得する事」に依り「鉄などの軍需品の寡占」が起こり、これに追随する武装勢力はいなくなる事に成り、従って「戦乱」の中で「青木氏族の安定に繋がっていた事」に成るのだし、武力を持つ秀郷流一族一門は影では実質の勢力は秀吉より「無敵の勢力」であった事に成る。
言わずもがな「近江鉄」に対して「鉄製品の寡占」を疑われて、場合に依っては「秀吉」の「刀狩りの令」に触れる事にも成り兼ねず、刀狩り令を出しながらも実際には手が出せなかったのではないか。
その意味で「銃の欠点を無くす研究」は、実に危険性を帯びていた事に成ろう。
然し、何かしているだろう程度の事は判っていただろうが「秀吉」は手を出さなかった。
手を出す事が其れこそ、“火に油の様な事に成る”と観た事に成るだろうし、出したくても手も出せなかったと観ている。
一方で偶然に、その「“「因事管隷”の院屋号の立場と専有資格」を持っていたとする以上は、それは最早、この「“「因事管隷”の院屋号の立場と専有資格」の「流れ」は、「青木氏族の氏の義務」であって、これがある以上はそれに縛られそれ以外には方法は無かったであろう。
「言い訳」は、「“「因事管隷”の院屋号の立場と専有資格」で成り立つが、「秀吉」がこれを聞き入れるかどうかは判らなかった様だが何も無かった。
筆者は「因事菅隷説効果」より、事と次第に依っては“火に油の様な事に成る”の説を採っている。
「家康」は、「秀吉」と違ってこの「“「因事管隷”の院屋号の立場と専有資格」の「立場格式」を尊重して、“「伊勢の事お構いなしのお定め書」”を出しているのだ。
そもそも元より「伊勢」には、「天智天皇」に依り「不入不倫の権・平安期のものと違う・伊勢を犯したり侵入したりする事を禁止した」が、「特権」を「伊勢王」に与えられているのだが、これを追認しながらも「室町期末期の松平氏への貢献」にも感謝して、「全段の額田青木氏論」で詳細を論じたが、“「伊勢の事お構いなしのお定め書」”の送り「感謝状」を与えたのだ。
ところがこれが何と「吉宗」を仕立て上げた「伊勢青木氏」に対して、その「吉宗の売裏切り」でこの「お構い無し」は終わり、以後は幕府と「犬猿の仲」と成った。
逆に、「紀州藩・大正14年まで続く」とは、それまでもそうであったが、「青木氏に上位の立場」を与えながらも、“管鮑・かんぽうの交わり”、又は、 “刎頸・ふんけいの交わり」”と云う「不思議な関係」に成って行ったのだ。
> 「青木氏の伝統 74」-「青木氏の歴史観-47」に続く。
名前 名字 苗字 由来 ルーツ 家系 家紋 歴史ブログ⇒
> 「摂津・堺」では、これに基づき、「試験用」として初期の時期・近江鉱山開発と同時期」からこれを選ばれていたと考えられる。
> そもそもそうで無くては、態々、この鉄を熔融する事で起こる「チタンの弊害」を取り除く為には、“「通常のタタラ製鉄」”では無く、先ずにそれには“「近江鉄」”を使い、それ故に上記した様に「銃にする為の欠点」を無くす事を試みた。
それには、「温度と量と炭素の関係性」を保つ事が理論的に必要と成り、結果としてそれには必然的に論理的に「高炉に近い炉」しか無かった筈である。
> 「近代銃の入手」と共に、そこで「西洋の高炉をも研究していた形跡」があって、それまでの「炉の技術」も生かし、改良が進んだ室町期にはそれに近いものを採用したと考えられる。
> 然し、その前にそもそも「奈良期」からの「近江鉄の原鉱石を使うとする段階」では、「摂津」には、既に「早い段階では、つまり「平安期頃」では「高炉とするものに近い炉形」が時系列上は既に「伊勢青木氏部]にはあったとされる事とに成る。
それには「関西で使われていた砂鉄用の箱型炉」と「関東で使われていた縦型炉の原形」があったが、この“「縦型炉の改良型」”が、既に開発され存在し得ていたと考えられるのだ。
> 何故ならば、「関東」には「日本の地形の形成事」からの地質地形上で「砂鉄」は少ない地質であった。
> そうで無くては、「砂鉄」では無く「奈良期末期」には次々と開発された「近江鉄の原鉱石の4鉱山の経緯」は、存在し得ない理屈と成る。
> そして、「室町期」に向けてこの頃の各地に盛んに成った「鉱山開発」が「成された史実も存在しない事」にも成り得る。
> 上記した「超近代銃の技術の所以・鉄と炭素と温度の相関関係」が得られる「炉・723度の0.8%C共析鋼」を獲得するには、“「高炉に近いものの改良炉・竪型炉」”で無くては絶対に得られない理屈と成るのだ。
> ここに「通説・高炉は明治期とする説論」とは異なる処であって、少なくとも「近江鉄」が存在し、「炉・723度の0.8%C共析鋼」を獲得している処を観るとすると、少なくとも「高炉的原型炉・竪型炉と予測」を「奈良期の初期」から使われていたとしているのだ。
> 「砂鉄の低融点の平炉や箱型炉」では、「低温度炉」で在る為に、「近江鉄の原鉱石を銑鉄にする事」は少なくとも出来ない。
> 理論的に「還元炉の高炉」と「不純物除去の転炉」で使うように成る筈である。
> ところが、この「高炉説」を本名とする事が起こっているのだ。
> これは「砂鉄の玉鋼の平炉と箱型炉・江戸期」とは違う方法で製鉄が行われていたのだ。
> やっと「鎌倉期」に成って「関東以北」でも「広く鉱山開発」が行われる様に成った。
当然にこれには炉の開発も進んでいなくてはならない。
> そして、この「鉱山」には、突然に「竪型炉/千葉県」と云うものが使われているのだ。
> この「竪型炉」が「高炉」に似ているのだ。
> つまり、「近江」で使われていた「炉形式」が「関東」でも使われたと云う事に成る。
> 全く同じ型では無いが、「高炉に近い竪型炉の改良型」であった事に成る。
> 「近江」では「青木氏の炉、つまり開発した竪型炉」であって、「青木氏部の匠技」には構造には糸目は着けなかったが、「関東」に於いてはそこまでは出来ずにいたものが、恐らくは「高炉」に近い程度により高くしたものを造ったとされる。
これを「竪型炉」としていたと考えられるのだ。
>「 関東」ではこれは「発展過程の炉」と云う事では無いか。
> つまり、「近江鉄の摂津」では、「高炉と呼ばれる程度の構造」を既に必然的に「独自開発していた事」を意味する。
> 実はこれには、「還元炉」と呼ばれ、現鉱石を還元するには「コークス」と「石灰」と「還元剤」を「炉の高い先端」から投入する事が必要とする。
> 専門的に古来から編み出されていた「竪型炉」は、「高炉の原型炉」と云えるものであって、「原理的」には同じ傾向のものである筈だ。
> つまり、簡単に云うと、「炉底」は「二重」に成っていて、この「炉底」には「けら銑・銑鉄」が流れ出て「炭素量」の違う「二種の鉄」が出来る。
> 最後に、「炉全体」を壊してこの「二種の鉄」を取り出していたのだ。
> これではこの工程で未だ「鉄」は使え無ず、ここから「不純物・スラグ」を取り除く工程に入る。
> 更により純度を揚げる為には、もう一度、「石灰等の還元剤」を加えて加熱して「浮き上がった不純物」を「棒先具・ケラ棒」で取り除くのだ。
> この「ケラ作業」は「銑鉄」の上に比重が異なる為に浮かび上がる為に同時に行う事もある。
> 「伊勢青木氏」は、「玉鋼の製法」では目的とする「銃の欠点を解決すべく鉄」が論理的に得られないとして、そこで、その目的を達成させるべく長い間で「高炉に近い炉の開発」に取り組んでいたのだ。
> 実は「高炉を貿易で輸入しての手法」では、「溶融方法」が出来ない「高い還元剤力と溶融温度」が得られないのだ。
> そこで独自に「鈩鉄の炉の中」でこの「目的に近い改良できる炉の開発/摂津」を試みたのだ。
> それが「砂鉄に付か使う縦型炉」の「改良の竪型炉」であった。
> 日本は最も高い効果を出す石炭の「還元剤の製造」には「伝統の掟」があって使え無かったのだ.
> それは先ず「石炭」を「500度程度の蒸気」で熱して、危険な硫黄を取り除き「コークス」として使えば「最高の還元剤」となるが、これが「伝統の概念」で出来なかったのだ。
> 其れは「超毒性の強い酸化硫黄の公害」に依るとして付けて戒めていたのである。
「青木氏の伝統 73」-「青木氏の歴史観-46」
さて、ここで「近江鋼」を検証すると、この時の「製錬の原理」が 「竪型炉≒高炉」とすると、「摂津青木氏の青木氏部の匠」が、「砂鉄の玉鋼」では無い「奈良期・703年~713年からの鉱山開発」からのこの「近江鋼」を製錬する場合は、まず何はともあれ「炉の改良」を行った筈である。
そして、「鎌倉期」に「関東」での「鉱山開発の鉄鉱石」には、「上記の竪型炉」が使われていたとする遺跡の時代経緯からすると、同じ「鉄鉱石の近江鋼」にも少なくともこの「竪型炉」が使われていた事に成る。
何方が先かは後に述べるとして、当然に、「奈良期・703年~713年」からの「鉱山開発」から、「鎌倉期の鉱山開発」までには、「約480年間の時代経緯」があるとすると、「竪型炉」は「摂津青木氏の青木氏部の匠技」に於いて先に必然的に改良されていた筈である。
それは「近江鋼」と「千葉の遺跡」とが「竪型炉≒高炉とする原理」であったからだ。
では、「竪型炉≒高炉とする原理」であったとする事から“どの様な処を改良されていたか”である。
少なくとも「還元剤の使用の有無」から「高炉」そのものでは無かった事が物理的に、時系列から頷ける。
「高炉」に使う「高いコークス技術による還元剤」はまだ日本では使われいないからだ。
故に、「高炉」に対して「改良を施した炉」を使っていた事が判り、それが「竪型炉」であって、この「竪型炉の改良点」は学問的に観て次の様な点があった筈である。
筆者がもし「竪型炉=高炉」とするには、その「財」に問題が無かった事から、且つ、目的達成の為の「改良点」を導き出すとすれば次の様な事をする。
1 「より良い銑鉄とタタラ」を取り出す為に、つまり「溶融温度」を高める必要があるが、この為に「竪型炉」を小高い丘などのより上部にして高くする事。(史実)
2 品質と爆発を配慮して「二重底の炉形」を解消して、「原形のタタラ・溶かした鉄」との「炭素の差」を無くして「銑鉄だけ」に絞る「構造改革」をする事。(史実
3 「二度の不純物除去の炉の無駄」をなくし、つまり、先ず「タタラ」との「炭素の差」を無くして「銑鉄だけ」に絞る「構造改革」をする事。(史実)
4 「重要な還元反応」を高める為に、 「還元剤」として現行の「木炭」+「石灰石」に加えて、「古来からの熱源」で、且つ、「還元剤の石炭」(コークス・注釈)」も加えて「還元反応」を高めて「銑鉄純度」を挙げる事。(史実)
5 炉の上に「屋根」を設けて全天候型にして保温する事。(史実)
6 大きくする為に壁に煉瓦の使用を試みて壁強度と壁保温度を上げる事。
7 「チタンやニッケルやシリコンの不純物」の「流し経路」を設ける事。
注釈 飛鳥時代、奈良時代から、要するに瓦は使われていた。
煉瓦は、“「磚、甎・せん」”と呼ばれてあった事が記載されていて「構造物」には使われたとする。
その後に廃れたとあり、これは弱点の地震にあったとされる。
中国では紀元前の秦の万里の長城に既に使われている。
注釈 石炭は記録から奈良期から採掘が成されていたが、その採掘場所の地層から硫黄分が多く出た。
この「猛毒の硫黄」が嫌われて使用は避けられていた経緯が記されている。
注釈 上記6の「木炭高炉・14世紀」は、まだ「還元性」が不足はしていたが、既に「西洋」に於いて「木炭高炉」は一応は出来ていた。
その歴史は、「14世紀初期」に「木炭高炉」、「17世紀初期」には「石炭高炉」、「1783年頃」には「コークス高炉」、の「以上の経緯」を経て開発されていた。(史実)
それまでの「欠点」をこの「石炭」でこの「還元性」と「火力・炉温度」を高めたが、ところが「石炭高炉・17世紀」には“「硫黄分」”が強く、これが“「銑鉄」”には「最大欠点」の「脆さ」を出して「使えない事」が起こったのだ。
高炉にも使えない最大の欠点がでて一時廃れる。
そこで、多くは「約100年後」の「1709年」に、この「石炭の欠点」を無くす為に先に石炭を蒸して「硫黄」を先に取り除き、これで「コークス・炭素」を造る事で、これで「高炉の欠点」を解決したのが「1783年」である。
この間、「74年間」も掛かっている。元から云えば「174年間」である。
然し、これには「疑問」があるのだ。
従って、時系列からこの「鎌倉期頃」には、つまり、既に「関東での鉱山開発」を始めた頃には、「木炭高炉・竪型炉・青木氏開発」として、「日本・摂津から千葉に移設」でもあった事に成る。(史実)
注釈 この「青木氏開発」の「竪型炉」は、「銑鉄」からもう一度、「製錬する炉」などで溶かし直して「不純物」を完全に取り除いて最終は圧延しして使う方式である。
現在ではこれを「転炉」と云う。
「近江鉱山」から「480年の間」に上記の「改良点」を「青木氏部」で実現すれば、「竪型炉≒高炉」は成立する。
上記の注釈の、「西洋」に於いて「14世紀初期」に「木炭高炉」がある以上は、「青木氏部の竪型炉」の「改良点」は示現していたと考えられる。
従って「1500年代初期」には「堅固な改良型竪型炉≒高炉」は存在していた事が頷ける。
況してや、「院屋号」を背景に「1025年頃に総合商社」に成っていたとすると、「中国・宋」のみならず「西洋との貿易」は行われていて、「最低限」でも「木炭高炉・14世紀・鎌倉期末期の原形」が日本に導入が成されていた事に成る。
それが故に、「関東の鉱山開発」には最低でも、「史実」として「高炉」では無く「改良型竪型炉」が採用されていた所以と成るのだ。
とすると、「青木氏部」がその「院屋号を持つ殖産」の「時・703年・713年」から「近江鋼で得た炉の技の使用」を「全国・関東」に広める事には、可能でその時点から「竪型炉の普及と改良」を重ねていた事に成る。
自らも「銃の欠点の解決とその開発の完成」に至る事までは、それに依って、この「竪型炉≒高炉の改良点」は、「青木氏部」に執って必然急務であった事に成る。
従って、時系列の経緯としては「14世紀」で「木炭高炉」に成ったとすると、上記の「額田青木氏の銃」に使う「近江鉱山の鉄」にするには、未だ「200年の開発期間」があり、それには「高炉の炉」としては「石炭高炉・1709年」から「コークス高炉・1783年」までに「仕上げる事の時間」があった事に成る。
ところがこの時、既に「日本の戦国時代」は始まっていた。
「額田青木氏を救い出す事」にはどんな炉にしろ「炉の開発」は急務であった。
要するにそうする最先端の「コークス高炉・1783年」までには、「高炉開発の時間」が更に「180年足りない事」に成る。
従って、この「180年間」は、「竪型炉≒高炉」であって、「貿易」があったとしても「木炭高炉・14世紀初期」<「石炭高炉・1709年」の間にあった事に成る。
そこで時代は先ず「木炭高炉・14世紀初期」を脱し、更に「石炭高炉・1709年」からも脱しようとしていた時期で、ところがこの「コークス高炉・1783年」にはまだ年代的にも程遠い事に成る。
「木炭高炉・14世紀初期」は、「竪型炉の炉低外」で「炭」を大量に使用し「外に流れでた鉄」を覆い、更には「還元剤」としても多量に使用する為に、製鉄には最も重要なのはこの「還元剤」であるがこの元と成る炭の「備長炭の使用の炭・殖産中の論」と云う点では符合一致する。
時系列として「石炭高炉・1709年」は、「江戸中期以降の事」であるので、その「高炉を使うと云う事」では「青木氏の所期の目的」は既に高炉に至っていず終わっている。
従って、「近江鋼開発と炉開発と銃開発の3目的」から「近江鋼用の高炉開発」は「竪型炉≒高炉」でも良い事であった。
故に「高炉」に拘らなくても敢えて「独自の竪型炉の発展炉・改良炉」を成し遂げて使っていたと観ているのだ。
その為の「財と技」は、充分にあって、それ故に「青木氏の氏是」に従い、この「過程」では「青木氏部」では秘密裏な事であったと観ているのだ。
この「3つの目的」の内の「近江鉄の開発」は、時代は進み「青木氏部がその置かれている政治的立場」から、既にその「殖産の義務」は既に無く成り、「平安期/鉱山開発の炉開発」では終わっていたと観ている。
故に、この「改良型の竪型炉」が「関東の鉱山開発の製鉄」に使われていた事に成る。
丁度、「青木氏部の摂津での開発」は「一種の試験炉」であったのであろう。
これらの周りに無かった「竪型炉の発展」と、「青木氏の義務の経緯」は一致していて、“「木炭高炉・14世紀初期」の段階”で終わらしていて、後は「記録」から「関東の鉱山開発と製鉄技術」の一部をその「青木氏部の匠技」は引き渡していたいた事に成るだろう。
「関東」に於いて「箱型や平炉の歴史」が全くない所から観て、「青木氏の竪型炉の改良型」が「何らかの条件付き」で「引き渡された事は確実であろう。
だからこそ「鎌倉時代の中期」まで、その「功績・見返り」に応じて「伊勢本領安堵策」にも繋がった要因の一つに成ったのであろう。
中期以降も「伊勢の本領安堵」は、“「郷氏」”ではあったが「守護王・大名」で無く成った事を理由に「南勢の旧領地」を残して全て解かれて無く成った事があった。
然し、ところが史実はこれを全てが“「地権者」”に変わっただけであったのだ。
「買った」のか「買わされた」のかは判らないが、前段でも論じた様に「伊勢一の大地権者であった事」は判っている。
後は、「室町期の戦乱期」では「額田青木氏の銃の完成期」にあったのであり、何も「高炉」で無くても「竪型炉≒高炉」で丁度良かったと云う事に成る。
注釈 「竪型炉の改良点」の「強力な還元剤」であり、「強力な熱源」の「石炭」は、その「欠点の硫黄」を除去するのに何と西洋では「74年間以上」も要している。
これは「青木氏部」にとっても「大いなる疑問」である。
そもそも「石炭」は、石油同然にその典型的な「化石燃料」であり、地層より「硫黄」を含むは必然であり、そもそも「硫黄」は地中で「強力な硫酸塩鉱物」を造り「硫化鉄」と成す代表的な物で、常識では“「74年間以上」”は不思議である。
そして、これを解決した方法が“蒸した”とするも当然と云えば科学者、又は科学知識のある者で無くても当然であって「不思議の極め」である。
ストーブなどで「石炭の火力」を火中で強くするには、逆に「石炭」に水を吹きかけ蹴る事であり、これに依って熱せられた「石炭」から硫黄が蒸されて飛びだし、残りは「炭素のコークス」と成り、これが「酸素」と反応して「火力」が強く成るは「子供頃の知恵」であった。
従って、「石炭」から「硫黄」を取り除けば「コークス」になるのは「子供の知識」であり、故に例え「74年間」は年代に関係なくおかしい。
「西洋」では「石炭高炉・1709年」と「コークス高炉・1783年」の2つではあるが、日本に於いては「石炭」は「飛鳥の古来」よりあって当然に「加熱材」として使用されていた事は「記録」から判る。
従って、少なくとも「石炭高炉・1709年」と「コークス高炉・1783年」には「74年の時間差」は普通は生まれ得ない事に成る。
且つ、歴史を観れば、前段の「備長炭の論」からの「木炭高炉・14世紀初期」が在れば「石炭高炉」と「コークス高炉」はほぼ同時期に既に成立する事になり得る。
そこで、「西洋」で「木炭高炉・14世紀初期」とする事には、日本では前段の「備長炭の論」から「900年頃」には既に「乳母女樫」に依る「良質の紀州木炭」は既に存在していた。
そして、その「木炭で造った墨・青木氏部」は、前段や上記で論じて来た通り「奈良期」に於いて「殖産」を命じられて完成している事から、「木炭の竪型炉」では、「高炉」に至るまでに既に使用されている事に成る。
とすると、「西洋」の「木炭高炉・14世紀初期」より前に「摂津の青木氏部」では「木炭竪型炉・平安紀初期」は完成していた事に成る。
従って、この「上記の改良型」が「青木氏部」に依って既に成されていた事に成り得る。
つまり、「石炭高炉」のみならず「コークス高炉・1783年」も同然と成り、“「石炭・コークスの竪型炉の改良型」” つまり、「竪型炉≒高炉」は成立していたと観ているのだ。
「上記の改良点」は冶金学的に「財」さえあれば「目的の重要性」から比較してそれ程に難しい事では無いからだ。
要は「竪型か高炉」かの呼び方如何程度のものに依ると観ているのだ。
余談として、割きに続き「西洋の歴史観」は、「青木氏の歴史観」からすると、余談と成るが、何故、「硫黄」にこれだけの「時間・74年間」を要したのかである。
「硫黄」は今も昔も「鉄を脆くする最悪の物」であるし、「猛毒」である。
「流化鉄」は放置しないであろうが、恐ろしい物である事はあるのだが、逆に石では無いので“蒸して取り除く事”も至って簡単である。
「石炭」は「高炉」の「最高の熱源」であって、且つ、「最高の還元剤」ではある事に目を着けた事は優れている。
現在に於いてもこれ程の物は出て来ない。
故に、現在は、この「厄介物のチタン等の鉱物」は、「高温」にして溶かして「単独金属にまでする溶解炉・高融点」に「コークス高炉」が使われている所以である。
この「74年」は、「コークス高炉」に到達するまでの“「石炭高炉」で一時済ませられていた”と云う事では無いか
「西洋の通説」と違って、「高炉中」に於いては「日本」では「硫黄」は問題とは成らなかったのでは無いかと観ているのだ。
何故ならば「竪型炉」でも「石炭」を使えば出る可能性があるからだ。
「硫黄の分子量32/酸素16/空気28.8」で炉中に発生したガスは重いので先ずゆっくりと「炉底」に沈む。
そして、この「反応力」は酸化物中で最高で「ガスの状態」で吸い取り炉上に放出していたが、空気より重い事から「地表」に落ちて沈み「植物」を枯らし、人間に健康被害の問題を起こす。
その為に「74年も放置無視されたという事」の原因となったのでは無いか。
もっと云えば、日本での「石炭竪型炉の記述」を記録から観ないのは、この「毒性や鋼の脆性」などの「重大欠点」を嫌っていたものであり、故にこれを使わない「木炭に依る砂鉄の玉鋼炉」が明治の初期まで主流であった事でも云える。
当時でも、だから「鉄の製鉄方法」は「砂鉄の玉鋼」から脱却できなかったのだが、だから「最大の欠点」は、「砂鉄」では「還元力」に重点を置くのではなく「炉の溶融温度が低い事・木炭」にあったのだ。
兎も角も、古来より身近にある「石炭」を「硫黄と云う最大の欠点」を生み出す為にこの還元力と熔融での「最高の石炭」は、“敢えて使わなかった”と云う事ではないか。
それを解決するのが「竪型炉か高炉・温度」であって、それが「コークス・温度・還元力」なのだが、そうすると、この「悪害の硫黄」を、何故、「植物化石由来の石炭」を「150度~540度付近」で蒸して「硫黄ガス・120度程度付近の融点」で取り出して「無害」にして使わなかったのかである。
そうすれば、「最高の還元力」と、「最高の温溶融温度」を簡単に獲得出来ていた筈なのだが。
これはそもそも科学的に観て、「古来の日本」に於いてでもそう「難しい発想・知識」ではなかったのだが、それが理由で歴史的に明治初期まで使われなかったと云う事だ。
実は、これには、「科学的の事以外」に、“何かの特別な古来概念が働いていた”と云う事ではないか。
何故ならば、それが“「明治初期」に成って全ての熱源にも一斉に使われ始めた事”なのだ。
この「概念」が突然に簡単に取り除かれたと云う事ではないか。
それ程の物であった事に成る。
これには、そうすると、“何かがあった”からだが、それは何なのかであり「発想の転換」を成すより強いものが明治維新に働いたと云う事になる。
この“古代の鉄の時系列”では次の様に成っている。
「砂鉄のタタラ製鉄、或いは、「その後の鉱山鉄」が、上記して世間、即ち、「伊勢神宮」に於いては<「薬用」<「禊用」の過程の概念に関わる物”として扱われていたと仮にすると、「上記の様な突然変化の事」が起こっていた可能性がある。
そこで、「時代の進行」に沿って当時の「鉄の置かれている立場」がどの様に変化して行ったのかを検証して観る。
1 昔は金属の鍛造に関わっていたものの総称を、「打物者」、又は「打物師」とか「居職」と呼んだ。
2 大工の「番匠」に比べて「専業化の強い職種」であった。
3 飛鳥期からの「鍛冶部・かぬち」と[鍛冶戸・かじべ」はその技を継いだ部であった。
4 彼等は一時は「工人の身分」で「農業の傍での作業」であったた為に「農民」に区分けされていた。
5 「12世紀」に成って「鉄の収容増大・需要」で分化して4は「職人格」に成長した。
6 更に「金属処理加工の分化」が進み、「銀加工の銀鍛冶・細工の職人」が分化した。
7 ところが「5の影響」を受けて「鉄の鍛冶師」だけは別の進化を遂げ「別格の技術者扱い」となった。
8 「12世紀」には「刀鍛冶」、「15世紀」には「具鍛冶師」、「17世紀」に「鉄炮鍛冶と庖丁鍛冶師」は5より抜け出し「高い扱い」を受ける様になった。
9 「砂鉄」は“「野たたら」”と呼ばれていて主に古式に原始的に精錬されてにいたが、「近世中期の18世紀」になって、“「たたら炉」による新しい精錬”と成った。
10 「燃料」は「18世紀の最先端の燃料と還元剤」は、あくまで「木炭」であった事が明記されている。
11 彼等は飽く迄も5の影響を受けたが、「区分作業の賃金労働者」であった為に「木炭」からの発展は留まった。
12 古来には「鍛冶屋の職祖神」、又は「道祖神」を信じる職人は、“「金屋集団」”と呼ばれて「金屋子神・かなやごがみ・金山神」の組織の中に義務的に全員あった。
13 古代では、「天目一箇神・あめのまひとつのかみ」と、「八幡・はちまん信仰」に結び付く「鍛冶翁・かじのおきな」を主神としていた。
14 古代では、その後は彼等の殆どは「稲荷明神」に入信する事と成ったが、「商人」などは「金山神」とし、組織化されていた。
以上の「経緯の事」から観ると、上記した「神饌」<「薬用」<「禊用」<「工業用・冶金的な冷却と云う点」<「食用」の概念の関係から、「伊勢の殖産」の中にはこれが無かった事が解り、「近江の鉄製品」に限っては「特別な縛り」は無かった事に成るのだ。
そして反面、「砂鉄の事」に限ってはあった事に成る。
だとすると、「砂鉄以外」の「全ての炉種」に対して“「石炭の使用」”には「縛り」は無かった事に成る。
これにはただ一つ上記の「9~14」に「答えに成るヒント」が出ている。
先ず、“全ての鉄に纏わる者等”は、“「金山神」”を「主神」としていて、彼等の全ては“「金屋集団」”と呼ばれる「組織」に入っていたと云う事である。
この“「金山神」”は、「天目一箇神・あめのまひとつのかみ」と「八幡神・はちまんのかみ」にその「流れ」を組んでいたと云う事であり、「最終」はそれが“「稲荷明神」”に繋がるとしていて、更に前段でも論じたが、この“「稲荷伏見神」”は、“「伊勢神宮の外宮豊受大神」”と成ったとしているのだ。
つまり、辿れば、“「伊勢神宮の外宮豊受大神」”は、“「稲荷伏見神」”に戻り、古来の果ては“「金屋集団」”の“「金山神」”の、「天目一箇神・あめのまひとつのかみ」と「八幡神・はちまんのかみ」に戻るとしていたのだ.
結局は、「古来からの砂鉄」に限っての概念には、上記の「4つの概念」に縛られていたと云う事に成るのだ。
ところが、200年程度遅れた「近江鉄」には、この上記の経緯の「4つの概念」に未だ強く縛られていなかった事に成る。
寧ろ、以前より在った「禊ぎ概念」の「神饌」<「薬用」<「禊用」<「工業用」<「食用」の概念の関係が伊勢と近江では優先にしていたと云う事に成る。
終局は、何故ならば「炉の加熱材、又は還元剤」は、その「彼等の木炭の使用」にあるとし、又は、この「石炭の使用の是非」も、この“「金屋集団」”の「4つの概念の掟」にあった事に成るのだ。
つまり、“「砂鉄の鉄」”が、「神饌」<「薬用」<「禊用」の過程”の概念にも関わる物として“「伊勢神宮」では扱われていた”のだ。
そもそも直ぐ真近にありながらも「古来からの石炭」は、「鉄、即ち炉」に対して“「是非の非の物であった事」”に成り、「古来からの木炭を超える事」の神聖差からは抜け出せなかった事に成る。
故に、この「概念」が解かれる「明治初期」まで長く使われなかったのだ。
尚の事、「伊勢青木氏の額田の近代銃の製作」には、この「縛り」から離れる為に「伊勢神宮の影響」から離れる為に「改良型竪型炉の固守」で完遂させたのだ。
そもそも、「西洋」では、この「初期頃の高炉とされる主な目的」は、上記で論じている様に製鉄には「軍用の銃身とその弾丸の生産」にあって、「西洋」に於いても同然であって、それに伴って「発達させたとする炉」なのである。
これは「額田青木氏の目的」と同じなのだ。
故に、当然に当時は、「製錬過程」には「日本列島の形成構造上」で、宿命として「原鉱石」の中に「チタン」は多く潜むのだ。
当初では、この「チタンと云う概念が無かった」と考えられるが、それが“「白くて溶けない堅い鉱物・炉の破壊」が、「炉口」で邪魔をして危険な物と成る”とする程度の認識しか無かったと考えられるし,その様に「砂鉄の記録」では記されている。
その為に「砂鉄」では“何か炉に対して対策しようとする開発的の様な動き”はそもそも無かったと考えられる。
要するに、この「不純物の鉱石」を取り除く為の「融点の高い炉」の「必要性の有無」であるのだ。
故に、偶然にも「筆者の上記する専門学的な立場にあった者」から直視しても、「近江鉄に検証される事」からすると、多くの書籍にある「炉の時期に関する通説的な説」とは、「筆者の説」とは一線を画しているのだ。
「日本における炉の上記の歴史的な経緯・青木氏部」とは全く合致しないのだ。
上記の「石炭の使用の経緯」の様に、「炉と砂鉄の鉄」には彼等の守護神の金山神は元より「神に関わる「神饌」<「薬用」<「禊用」の過程”の概念」が強く存在していたと云う事だし、それに縛られていたのだ。
つまり、上記した様に「奈良期」からの「朝廷」より託された「院屋号を有する部経済の摂津の商い」と「青木氏部を有する族」に於いて、「近江鉄の殖産」とそれに伴う「鉄製品の殖産」の「経緯」から判断して、歴史の一般的経緯にはこの「青木氏部の記載」はなくても、“密かに高炉的な開発」もあった”と観ているのだ。
そもそも、「鈩の砂鉄・500年頃の吉備域・主域」に換えて、「鉄鉱石・近江鋼・703年・713年」で行くと決めた時点で、前段でも論じた様に、「タタラ鉄」に用いられた「平炉と縦型炉と箱型炉・鈩用炉」では「鉱山開発の鉱石の溶解」は元々無理であった事に成り、其の様に思っていた事に成る。
故に、“「鉱山開発を命じられた時点・因事菅隷」と同時に「炉開発」が「青木氏部」に求められた筈”であるのだ。
これは「約200年後の事」である事であり、且つ「竪型炉」である事」である事に成る。
「近江鉱山開発の703年頃・因事菅隷」には、「西洋」に於いても未だ「竪型炉」はなく、「日本」では信用できる「遺跡発掘」では、「関東東部」から「11世紀」と「12世紀」と「13世紀」の3地層から「3基の遺跡」が発見されている。
これらは明らかに上記の論より「遺跡」の様子から「竪型炉」とするものであった。
これが「通説」として、この「遺跡の時期」を以て「竪型炉の開発時期」とされていたが、最近に成って「最古」とされる「千葉の遺跡」から、正しいかどうかの確認は別として、ところが「8世紀」と「9世紀」の「2基の竪型炉」が発見されたのだ。
歴史的に「炉の経緯」が食い違っているのだ。
この「8世紀の層からの竪型炉」は、「砂鉄の箱型炉」を上に起こして開発発展させた「縦型式の原形の竪型炉」と云うものであった事に成るらしい。
これは現実に「地層」として観れば、「日本独自の開発炉」に成るが然し違うのだ。
上記した「砂鉄の縦型炉の竪型炉の改良型説」は、納得出きるし、「近江の鉱山開発」と同時に鉱山用として「砂鉄の縦型炉の竪型炉の改良型説」は納得出きるし、これは「近江の鉱山開発と同時」に「炉開発」も急いで行われていた事に成る。
「青木氏部」は大変な課題を背負わされた事に成っていた事を物語る。
余談だが、これに依って先進的位置にいた「中国人も含めた渡来人の技能者」を呼び集めただろう事が判る。
だから何度も論じている上記した「天武天皇の談」に成ったのであろう。
さて、そこで“「関東東部」から「11世紀」と「12世紀」と「13世紀」の「ある地層」から「3基」”に付いても発見されているが、この事に就いて、前期の通り「鎌倉幕府」が「関東」に於いても「財政的な面」から、「関西の鉱山に使われていた竪型炉の技術・伊勢青木氏」を「関東」に導入して、「鉱山開発」を盛んにして「経済の梃入れ」をしたとする経緯に合致する。
この「遺跡3基」はこの「所以である事」から先ず問題はない。
然し、“「千葉の遺跡」から「8世紀」と「9世紀」の2基の「竪型炉」”は、上記とは時代性が全く合わないが、これが上記した「近江の遺跡」とすれば問題がないが、但し、これにはある「疑問」がある。
先ず「竪型炉だとする炉形説」にしても、当に「砂鉄の時代」のものであり、これが「関東に伝わるのが早すぎる事」と、この「8世紀の炉」とするは、兎も角も、「9世紀の竪型炉」も早すぎて疑問なのだ。
仮に「竪型炉」としても未だ「青木氏部」での「近江鋼用の炉の研究を始めた頃」の事であり、何が何でも疑わしい。
「炉の完成」を無視しての前提とすればそうなるが、「砂鉄の縦型炉」から「近江鉱石の竪型炉」への「炉の開発の変化」は、「近江鉱山開発」から暫時行われていたとすれば「竪型炉の試作中の炉」として考えれば問題はない。
現実に並行して「青木氏部」が全力を投じて専門的に開発していたとしているので可能である。
「703年と713年の2つの近江鉄の鉱山開発」でも、「砂鉄に使われる箱型炉」よりも「砂鉄の縦型炉」を改良した「原始的な改良型の竪型炉」であるので、「同時期の炉」としては考えられる。
唯、研究開発を進めながらも「完全な竪型炉」になるには未だ時間は掛かっている筈だ。
だとすると、上記の「8世紀の炉」と「9世紀の炉」が仮に同時に存在していたとして、始めたばかりの「近江鉄用の原始的縦式竪型炉」が、その同時期に「上総」で使われていたとする事に成る。
「初期の鉱山開発の時期」は、歴史的に「近江の鉱山二つ」が最初であるとすると、「上総」にも同時期に鉱山が拓かれたと云う事に成るが、これでは時系列が早すぎるし、且つ、其の「史実」は全くない。
それは「奈良期初期」の「703年と713年の時期」に、「上総」にも「奈良朝の勢力」は未だ充分には及んでいないからだ。
「鉱山開発と炉開発」の「関東での経緯」があるのはあり得ない。
仮にあったとして、精々、「坂上田村麻呂後の事・平安期初期」になろう。
つまり、「関西の者」が征夷を制覇する途中に、この「千葉」に長く立ち寄っている史実があり、それがその最初であって、それまで「炉を設置するなどの文明」は未だここには無かったのだ。
「施基皇子とその後裔」が、「開発途上の鉱山開発」と共に、同じく「開発途上の炉」を「賜姓五役」として “「上総・移設」に移した”とする推論にこれは成る。
移設するとしてもこの時期は「天皇の承認・因事菅隷」が必要であって、其の為の「伊勢青木氏」に対しては「因事菅隷下」にあったのだから、他氏がここに押し入る事は無理である。
然し、「因事菅隷・内密な特別格式の有する者への特別命令書」の無いこの推論は、時系列的にも手続き的な歴史観より相当に無理だなのだ。
後は、「成り立つ可能性の論」としては、矢張り、“「関東東部」から「11世紀」と「12世紀」と「13世紀」の「3地層への設置」からこの「3基」”の論に繋がる説と成るだろう。
前段で論じている様に、総合的に「青木氏の立場」から観て、「11世紀・平安時代末期」で無くても「9世紀・嵯峨天皇前後期」は先ず無理としても、その後の「10世紀・殖産豪商期・平安期中期」の以降は成り立つだろうが「因事菅隷下」の話となるので無理である。
この時期に「関東」に於いて、「殖産」として「伊勢青木氏」は、その「院屋号」に基づき「因事菅隷の令」を受けた「令外官」として「関東に鉱山開発」を試みたのではないかと云う説論に成る。
然し、「記録」を観てもこの「史実」はないし、「炉の開発」は未だそこまで至っていなかった筈だ。
だとすると、それが「開発途上の炉」で以て「11世紀・平安期」にはある程度の花が咲き始めたので、「伊勢本領安堵」された「鎌倉幕府の12世紀」と「北条氏の13世紀」への「見返りの裏」で以て「開発途上の炉」を移行して行った”と云う経緯が無理にも成りたつのではないか。
つまり、「朝廷の命・因事菅隷」にて「関西・近江」だけではなく、「院屋号の特権」を持つ以上は「関東・上総」に於いても、“「初期の8世紀の炉」”ではなく「開発途上の炉」を、「建設場所」を「8世紀の地層」に「703年や713年頃」の100年以上経過した「開発中の炉」を建設したという事で「時系列」は成立するのではないか。
但し、これには前提があり、それは次の経緯を辿る必要がある。
現実に上記した様に、「小高い丘を削りその下から炉を積み上げて造る炉」である以上の事であるが、「8世紀から12世紀までの地層を削る事」は充分にあり得るし、また結果として竪型としては必然的にそう成るだろう。
「近江鋼の様」に明確な記録はないが、「関西の近江」があれば記録は見つからないだけで、「関東の上総・安房」にも「鎌倉幕府の依頼」で、且つ「朝廷の命・院屋号の令外官・因事菅隷」として「青木氏」は密かに「因事菅隷」を受けていた事はあったのではないか。
それが「今回の遺跡調査」で現場が発見と成ったのではないか。
実は、「8世紀、9世紀の地層での竪型炉の遺跡」は有り得るのだ。
それは、この「近江鋼に使った竪型炉の特性」にある。
「砂鉄の縦型炉」を基本に改良したこの「竪型炉」は、その「鉱石と還元剤と加熱材」を「炉の高い頂上」の上から投げ入れる事が必要であって、その為に「炉高」を先ず上に出したのだ。
この「炉高」を「築炉」だけでは無理で、「炉の構造上」から「危険であった事」から2から3回使うとこの炉を壊して新たに築造すると云う方式を採っていたとする。
ところがこの「炉高」を恣意的に高くすると、余計に「爆発などの事故」があったとされ、そこで「小高い丘」の「上下」を竪に削って利用して「竪型の築造」をしたとしているのだ。
これは「雨水の風雨や温度の維持と炉の温度の平均化」で合理的であった。
この「合理性」が功を奏して、それが次第に「竪型」を出す為により高く成って行ったとするのだ。
其れで、その「小高い丘の上下」には、「一つの炉」で「時代の地層が変わる事」が起こったとするのが学説的に常説と成っているのだ。
寧ろ、「地層が変わる事」がこの「炉」に対して「全体の温度」が「平均化」してよかったとされている。
故に、「8世紀、9世紀の地層での竪型炉の遺跡」の誤認は起こり得るのだ。
寧ろ、「誤認」が起らなくてはこの「竪型炉」は成し得ない事であったのだ。
従って、“「関東東部」から「11世紀」と「12世紀」と「13世紀」の地層から「3基」の遺跡」”と「8世紀、9世紀の地層」からでの「竪型炉の2基の遺跡」と合わせて同時期に「5基の遺跡」と成るのだ。
従って、この「変位部分」を修正すれば「竪型炉の史実」は無理なく一致するのだ。
これは云い換えれば、何れにしても「伊勢青木氏」は、「因事菅隷」があったとしても「関東」に於いてその力を敢えて積極的に注がなかった事を物語る。
それはこの間、「伊勢青木氏」では「炉の改良」は進んでいるにも関わらず、「関東」に於いて「技術の進歩の継承」が成されていない事から鑑みて、これは「青木氏の氏是」に基づくものであったろう。
これらの「炉の工事主体」は、「伊勢青木氏の相方」に左右される話で、その前段で、何度も論じている「土木業者の額田部氏」にあったのだ。
そもそもこの「関東の土木」は、「土木を専門とする氏の結城氏の本場」であったし、当時としては手を出さないのが掟であろう。
「争いの元」を出さないのが「氏是」であるし、況して「結城氏」は「母系血縁族の秀郷流一門の主軸」である。
「額田部氏」はまず間違いなく「上総]に手を出さなかったと考えられる。
注釈 「額田部氏」は 「桓武天皇の二度の遷都造成」の「向行命」に従わず「官位剥奪の重刑」を受けて一族追放刑を受けていると渡来系の職能氏族である。
然し、これを「施基皇子」が「伊勢」で密かにひの額田部氏の一族を「青木氏族」の中に入れて匿い助けたのだ。
その後、「施基皇子とその額田部氏の後裔」と共に働き、「功績」を揚げて「50年後」に許されて元の位職に復し、更に「二段階昇進の破格の官位」を「桓武天皇」から受けている。
共に「施基皇子」は「伊勢桑名」に彼等の「土地」を与え居住させる。
当時の慣例として成し得ない民間事で職能人としては、「最高位で破格位の宿禰族の官位」を獲得し、その後、「施基皇子の後裔・青木氏」と共に働き「明治9年」まで「共同企業」として働く。
其の後、「明治35年頃」まで共に発展し、その後、「土木会社」を「桑名」に起こし、その後に経営は現在に続く。
だとすると、「近江鉱山開発とのその製錬溶解炉の開発」に「第二段階の目途」が着いた「11世紀の末期頃」には、「結城氏の根拠地」の「上総・安房」に、この「土木部の額田部氏」と共に、「近江での技術・鉱山開発のノウハウ」を移したと云う「シナリオ」が記録が無いが充分に成り立つ。
そして、その後を「専門外の結城氏・道路の土木技術専門集団」の「結城氏」が引き継いで、「状況証拠の経緯」から「伊勢青木氏と額田部氏」は「上総・安房」から手を引いたいう事では無いか。
然し、それが何時しか「技術の継承」がままならずに放置され廃れて鎌倉期末まで長く引き継がれなかったという事では無いか。
再び、その後、「鉄の重要さ」を認識していた“「鎌倉幕府」が「伊勢」に頼んで来た”と云う事では無いか。
その「見返り代償」が、「伊勢本領安堵と云う事・主張が認められている」ではなかったかと考えられる。
注釈 この「竪型炉」には「一つの特徴」があって、この「重要な認識」を以て建設期ま判断をする必要があるのだ。
それは「砂鉄の平型炉と箱型炉と縦型炉」は、そもそもその構造から「平地」に建造する。
ところがこの「開発の竪型炉」は、「小高い丘」に建設し、丘を垂直下に掘り下げて「高さ」を獲得する。
それは「丘の高い位置の炉口」から「原鉱石や木炭や還元剤」を容易に投入し、下側の「湯口と炉底」に「溶融鉄」を流し、「貯め冷やす仕組み」にして労苦を軽減する仕組みである。
この為に「古い層の土地」を必然的に削る事に成るのだ。
この事から「純粋な竪型炉」に限り「炉の遺跡」に於いては「時代査証」を間違い易いのだ。
この「8世紀と9世紀の査証」は,この“「純粋な竪型炉」”に於いてもう一度検証する必要がある。
もう一つは、まず「初期」にはこの「純粋な竪型炉」に関して、「たたら・鉄滓」を獲得するには「タタラの箱型炉の発展炉」であるが、「箱型炉」をより温度を高める為の「高さ」を獲得する為に「炉」を「縦」にしてそれを「鞴の位置」や「湯口の位置」を変え、「二つの改良」を行った。
それが「改良点の一部」が記録に遺されていて次の通りである。
1 「タタラ・ケラ・炉中・低炭素鉄」と「銑・ズク・炉外底・高炭素鉄」と「鉄滓・ノロ」の「タタラ鉄・3つの鉄」を、「銑・ズク・炉外底・高炭素鉄」だけにした。
2 「鞴・フイゴ・踏み込み式」を「二つの下湯口」に置き、大きくして炉熱を高めた
3 「木炭・熱源」を多くして「溶解温度」を先ず増し、「炭素量」で還元力を増やし、「石灰」を追加して「還元力」を増した。
4 「炉高」を高めて「炉外底」を無くした
最初は、「砂鉄の箱型炉」から先ず「縦型炉」にして、鞴などのそれを改良して最終は「箱型炉」に似つかない形の違う「別型炉/初期の竪型炉」に成った。
それは現在の「高炉に近い炉形」の「純粋な青木氏部独自の竪型炉」と成ったのである。
この「査証の点」から、“「関東東部」から「11世紀」と「12世紀」と「13世紀」の地層からの「3基」”と、“「千葉遺跡」から「8世紀」と「9世紀」の地層からの「2基・誤認」”の合わせて「竪型炉」の「5炉」に関しては、少なくとも、“高炉に近い炉形の「純粋な竪型炉」”としてでは断定できる。
唯、「前者の炉形」と「後者の炉形」が、「竪型炉」としても全く同じであったかは定かではないが、現在この遺跡は分析されている。
これは炉のけんしょうかのものであり、鉱山からの検証に於いては異なるのだ。
では、この時期では「未開に近い関東」には、「鉱山」を開いたが「関東」に於いては「どの資料」からも「鉱山開発」は「鎌倉期」からであるとしている。
それ以前のものは見つかっていない。
それも「鉱山開発」には、「経済の根幹」を左右する「鉄市場」を統制する為に「院屋号・特別占有権」を持っての「開発」であって、この当時は「民間」は、「賜姓臣下族」などの「1等官上級令外官に出される令」の「太政大臣に代わって出される因事菅隷」に基づくものであって「民間」は先ず論外であった。
これは「献納の源」にはならないからであるし、誰でもが「献納する資格や格式」を有していないからだ。
「ある一定の資格なし」には、「朝廷」が乞食の様に「献納」を自由に受ける訳には行かない掟である。
従って、それに伴う「炉などの開発に伴う製鉄方法」も、この「民間の中」には明治期まで無かったのだ。
況してや、「政治と経済」を左右する「製鉄方法が絡む所以」は、この「院屋号の格式」を無くしては尚の事であった。
故に当時から「炉と鉄の関係」は政治から切り離せない関係にあって、「鉱山開発と炉の開発の政策」は「院屋号の因事菅隷」で一体化していたのである。
故に、それを持ち得ていたのは「民間」ではなく、長く関わって来た「永代浄大一位の最上位の格式」を有するのは「伊勢の超豪商紙屋院の号の伊勢屋の青木氏部」だけであったのだ。
それ故に、「一切の資金等や技術の出所」は「院屋号が持つ事」に成っていて、それに「見合う献納」を義務として果たしていたものなのだ。相当な財を持ち得ていなければ元より成し得ない格式であったのだ。
飽く迄も「殖産の利益歩合」では無く「献納の形」で明治初期迄続けられていたのである。
故に「政治の執行官の太政官」が出さない「因事菅隷」に従っているのだ。
当然に、この「関東の鉱山開発・資本投資」に於いても、この事から必然として「鎌倉期初期」と成り得るのだ。
故に「因事菅隷」が、密かに令外官として出される以上は、「平安期末期迄」は、「703年と713年」に「施基皇子」に「永代役の賜姓五役・令外官」として「鉱山開発の院屋号」を正式に与えているのだ。
「天武天皇以降による因事菅隷の役務」とその前の「天智天皇の賜姓五役」の「二つの特権」を保持していたのだ。
従って、これがある以上は、その「権利」は少なくとも「平安末期」までは「権利」としても、「財力」としても、「技術力」としても、「土木能力・額田部氏」としても、どんな面を捉えても少なくとも持ち得ていた事に成るのだ。
民間など入る隙間は無かったのだ。
周囲はこの「因事菅隷」が「伊勢青木氏」にある限りは、先ずはお伺いを建具する事に成っていたし、行うとしても可能かどうかは別としても「氏族の下請け」と成っていたのだ。
それ故に実際は「民間の下請け」は無かったとされていて、それは「献納の格式・誰でも献納はできなかった」の有無にあった。
注釈 奈良期の「朝廷内の官僚の8割」は「後漢の技能集団の帰化人の役人・渡来人」で占められ、これが「問題」と成っていたとある。
其処で「天智天皇」に継いで“「天武天皇」”は、これを官僚に尋ね聞いて、これを憂いて、出来たばかりの「太政官令」とは別に“「因事管隷」”を密かに発したのだ。
この「太政官」は、「八省」のみならず、「神祇官等」も含む「全ての官庁(官司)」を動かしたが、この事をより効果的に動かす為には、「特定の令外官」にのみ“「因事管隷」”と呼ぶ「特定の令・内密書・密書」を発したのだ。
つまり、「太政官令」に基づいて、この個別な正式な令に並ぶ「天皇から直接発せられる令・密書」を指す“「因事管隷」”に依って、「特定の令」を発したのだ。
「施基皇子とその後裔」は、この「法・因事菅隷」に基づく“「因事管隷」”の「最初の範」として「特段の扱い」を受けた。
謂わば、「永代令外官」による「天智天皇期・父・668年- 672年」から“「賜姓五役」”として、その役の“「模範例の前提」”と成っていた。
然し、「天武天皇期・叔父・673年- 686年」では、具体的にこれに対して“「因事管隷」”を以て“「特例に発せられた令」”であるのだ。
云わば、「特別の扱いをしていた令外官」を格式に於いて選別して特定したと云えるのだ。
つまり、「天智天皇の永代賜姓五役」から「天武天皇の因事菅隷」に正式に代わったと云う事が云えるが、その後も、この「賜姓五役」の「令外官の令」も出され続けたのだ。
それの一つが、“「因事管隷」” =「賜姓五役」=「殖産起業の伊勢青木氏」であったのだ。
その前には、前段でも論じたが「部人制度」で造った「全ゆる製品」を一度朝廷に納めて、そこで「必要と成る分」を「朝廷」で取り除き「残りの商品」を裁かねばならなかった。
そこで、これを「専門的に成す者」に「賜姓臣下族の青木氏」に命じたのが、「賜姓五役の始り」であった。
これを「賜姓五役を受けた伊勢青木氏」では、これに依って商い事に成る事を以て最後には正式に「商いとする事」にまで発展して行ったのである。
この「賜姓五役の格式」だけでは「天皇・朝廷の命令の全て」が裁く事が出来なく成ったのである。
そこで、「格式充分な青木氏」に出す「是非特別にして出したい天皇の命令]には「限界が生まれる事」が常時発生したのだ。
そこで格式上、「太政官」より「上位の青木氏・浄大一位」に「下の格式の官僚」が「命令」を出せない事の為にそこで「太政官」は、「天皇の意を伝える手段」として「天皇の意向伝達の伝言書」としての「因事菅隷の書」を天皇に出してもらって発したのが始まりである。
中には「官僚」にも伝えたくない「秘密の指示書・密書」も多かった為に秘密裏に「因事菅隷の書」が頻繁に出される様に成ったのだ。
この「密かな命令」の為にいざ「殖産」と成っても「天皇側」が「一切の管財や協力」を出すものではなかったのだ。
「伊勢青木氏独自の一切の力」で「意向伝達の伝言書」としての「因事菅隷の書」を実行しなければならなかったのだ。
況してや「密書」である限りはそれ以上の事は出来ない。そこで部経済の差配役を担ってそこで生まれる利を使う事でこの役を果たす事に成ったのだ。
それには、この「奈良期の当初」は、「部経済での財としての商い」であって、「技としての集団・国造部」の「差配の青木氏部」であったのだ。
それが本格的にこの「賜姓族令外官の開始」に入ってからは、大きい「因事菅隷」では「703年と713年」には、先ず「近江鉱山開発・元明天皇期」が可能に成ったのであって、これらの「功績」を「天武天皇」の“「因事管隷」”に依って“「権威付けたという事」”であったとされるのだ。
注釈 「703年と713年の近江鉱山開発・元明天皇期」は、「鉱山開発」を実施した時期ではなく、「14年掛かって本格稼働に入ったとする時期」を指しているのだ。
その前の「天智期・668年から天武期・686年」にこの“「因事管隷」”に基づいて「準備」をし「鉱山の開山開発の準備」を開始したのだ。
「鉱山の開発とその採掘」には、「土木工事の専門職の部」が必要であって、「施基皇子」と仲の良かった「額田部氏等の協力」を得ていたのだ。
「開発の山場所調査」からその「青木氏部の技術の習得等の調査の準備」が必要であったのだ。
ところがこれが「密書」に於いてである限りは、以上の認識に朝廷も社会も「因事菅隷」に関しては別の所に置いていたのだ。
「密書」である限り周囲は知らなかったと云うのが正しい表現であろう。
確定はしないが、「浄大壱位の真人族」から、態々、「賜姓臣下族」に成ら得なければならない根拠には、この「天武天皇の重要策の目玉策」として、それを、つまり「内密書の因事菅隷」を「実行する氏族の特定の集団」が必要であったのだ。
そして、それが最初に形として出て来たのが「殖産業」=「伊勢青木氏」=“「因事管隷」”があったのでは無いかと考えられる。
それだけに「鎌倉幕府」に成る前の「平安末期」までは、この何人も侵す事の出来ない最高格式を有する“「因事管隷」”の下に「鉱山開発」はあったのだ。
これ等を理解する上でこれが「最低限の歴史観」であるのだ。
故に、鉱山に関してどんな「殖産」にも対応でき、それを叶えていたのは「奈良期からの青木氏部」であったろうし、「鉱山開発」もその一つであったと云う事だ。
これらは、言い換えれば「伊勢青木氏の格式」だけではなく、即ち、密かに「法の前提・“「因事管隷」”に裏から守られていたという事である。
これは普通であるなら「長い歴史の間」で攻撃され潰されるも「超氏族・超豪族・超豪商」として「攻撃されていない・潰されない・抹殺されない史実」はこの前提にあったからだ。
当時は、平安期に於いては少なくとも次の様な関係式にあって引き継がれていたと云う事だ。
「青木氏の格式・浄大一位」=「賜姓五役・天智天皇」=“「因事管隷・天武天皇」=「律宗族」”と成る。
この“「因事管隷」”の中では、少なくとも「平安期末期」までは、この「鉱山開発」は保証されていた事は明白であり、“「因事管隷」”の届かなくなった時期、即ち、「関東の鉱山開発期頃」には「鎌倉幕府」は、未だ勝手には出来ず「伊勢青木氏に頼む事」に成った所以であろう。
云わば、「現在の特許権」に相当するものであったのであろう。
この「関東の鉱山開発」は、少なくとも「近江鉄」に対応した「伊勢での開発改良された竪型炉」が用いられたものであった事に成る。
「嵯峨期」でこの絶大な権力を持つ事に成っていてそれに依って「皇親族を外された事」が、この「因事菅隷」に左右していた事なのかと云う疑問である。
この論理で考えれば「嵯峨天皇の青木氏に対する過激な行為」は納得できる。
つまり、言い換えれば「嵯峨天皇」はこの「因事菅隷を使わなかった事」にも成る。
嵯峨期に於いて「皇親族」は廃止されたが、「皇親族」は当にこの「因事菅隷の族」であった事が云える。
普通は「賜姓族から外された事」では、普通は「因事菅隷が出ない」と考えられるが、それが記録から鎌倉期にもこの「因事菅隷が働いていた事」なのだ。
「因事菅隷が働いていた事」と云うよりは、それは「伝統的な特許権」と云うか他が犯し得ない得ない「進んだ技術力・改良型竪型炉のノウハウ」とで保障されていたからだろう。
この「因事菅隷の事実の伝統」は、この「銃の欠点を補完するまでの室町期」まで「鎌倉期・関東に竪型炉を広めた時期」を超えて持ち込まれていた事が記録からも判る。
少なくとも、「円融天皇」のこの「青木氏」を補完する為に「藤原秀郷流青木氏」を賜姓する時期までは密かに「賜姓」と共に「円融天皇の因事菅隷」は発令されていた事を意味する。
「藤原秀郷流青木氏」を賜姓し、其の為の「何某かの因事菅隷」を密かに出していた筈でありその目的はあった筈である。
その証拠に記録から、“秀郷流一門宗家の嫡子の第三子が永代に青木氏を名乗らせる”と云う「令・因事菅隷」が正式に出ている。
この時から「母方の藤原秀郷流青木氏」は、正式にも母方系と成り得て、”「伊勢と信濃の賜姓青木氏」とは同格と扱われた事を以て”の格式は「浄大一位」と成り得て、それ以上は「太政官令」は出せなかったからだ。
故に「賜姓族」のみならず当然に「円融天皇の因事菅隷」を発している事に成るのだ。
その「因事菅隷」には、”「伊勢と信濃の賜姓青木氏」を武力的に補完せよ”である事は先ず判るが、その補完の一つは、「旧来通りに藤原氏北家」に代わって「北家秀郷流」で「青木氏を四掟で護る事」であるが、密かに別の「経済的で武力的な補完の因事菅隷」が出ていたのではないかと観ている。
この点で研究は未だ充分にその点に及んでいないが、「銃の試作撃ちに関わっている事」から等何処かに「炉に関する補完」に付いて「因事菅隷の密書」があるだろうと観ているのだ。
だから、「室町期の前」の「鎌倉期の武蔵に竪型炉の遺跡」が見つかっているのだ。
これが所謂、「別の経済的な補完の因事菅隷」であったのではないだろうか。
「銃云々と云う事」よりは“「近江鋼の開発とその炉の開発」がどれ程日本の経済発展に大きく係わるか”を知ったのではないか。
其れが未だ開発途上であっても「青木氏」から移した「鉄鉱石で仕える竪型炉」の「千葉の遺跡・下記」ではないかと観られるのだ。
「青木氏が行っている近江鉄鉱山」は、その意味で「朝廷」を揺るがす程の先進的な事物と成っていたのである。
注釈 「額田青木氏の救助とその為の銃の完成」は、この「因事菅隷」に基づいているかは判らないが、「正親町天皇の律宗族追認」には、この「因事菅隷」に基づくものであった事は間違いはないだろう。後記
それが「高炉」に近い炉形の“「純粋な竪型炉」”であったろう。
何度も云うが、この「鉄に関しての査証の点」から、“「関東東部」から「11世紀」と「12世紀」と「13世紀」の地層からの「3基の遺跡」”と、“「千葉遺跡」から「8世紀」と「9世紀」の「2基の遺跡」の「竪型炉・開発途上」”の以上の「5炉」に関しては、故に少なくとも全ては“「13世紀であった事」”に成り、その「炉形」も調査記録では“高炉に近い炉形の「純粋な竪型炉」”と「関東」に於いても成る。
これは「建設地の地層・丘を地中の下に掘り下げる方式・古い地層が出る」の「堀立地形に依る認識」に成るだろう。
その所期の改良点は調査資料から判断すると次の通りであった。
改良点の4つ
1 度々の「築炉」を一度にし「炉外底」を無くした。
2「銑・ズク・炉外底・高炭素鉄・銑鉄」だけにした。
3 「木炭・熱源・紀州炭」を多くし「還元力」を増し、「炭素量」を増やし、「石灰」で「還元力」を増した。
4 「鞴・フイゴ・踏み込み式」を二つの「下湯口」に置き、大きくして「炉熱」を高めた
「タタラのケラは炉中にある低炭素鉄」と「銑のズクは炉外底にある高炭素鉄」と「鉄滓のノロ」の“「タタラ製鉄・3つの鉄」”に対し分けられ、「炉」を先ず縦に起し、「炉口」を上にし、「湯口」を下にし、「鞴」を足踏み込み型の大形にし、鞴風を下から上に吹き上げる様にし、「原鉱石」を坂の下から上へ運んで「高いロ口」から落とし込む。
先ず「木炭の熱源」と「木炭の還元剤」と最後に「原鉱石」を投げ入れて「下の火口」から「熱源」を高温に上げて加熱する。
「溶けた鉄」を「炉低」で固めて最後に溜まった「炉ロ」から纏めて「湯溶口池」に落とし込み「炭粉」で表面を覆い「鉄の酸化」を防ぎ、ゆっくりと冷やす。
そうする事で「鉄の融点」を“200度上げた”と記載されている。
「丘の地形」を垂直に切り落とし、其の垂直面に炉を据えた事で上記の作業手順は進んだとある。
この為に、“「タタラ製鉄」”では出せない“「銑鉄」だけの「竪型炉」”に成ったとある。
この「中間の炉形」の“「タタラ製鉄」”の「箱型炉」を「縦にした炉」が現実に発見されているが、ところがこの「縦型炉の砂鉄の鈩製鉄」は進まなかったのだ。
何故なのかは判らないが、この炉には矢張り「破壊」が多かった事が記されている。
これが「竪型炉の開発」の「中間過程炉」なのかは判らないが、これが「近江鉄・703年時期の炉」とするとこの「炉説」は考え難い。
何故なら、だとすると「以上の4点」が既に「関東の遺跡炉からの内容」に於いても替わっていた筈だ。
注釈として、この件に関する“幾つかの通説”とするものには、この「近江鉄から導きだされる論理的、且つ、冶金的、学問的な史実」との「複合的検証」は欠落しているので無視とする以外にないのだ。
そもそも「文系範疇の歴史家」に取り分け難しい「冶金工学と金属工学と地質工学」を会得している者は皆無であろうし、尚且つ、「近江学」と「その歴史」をも習得している者は同然に皆無と成ろう。
故に、そもそもこの“通説”とするものには「歴史の経緯からの目」で観るばかりに間違いは多いのであり、これは歴史全般に於いても是非に改めるべきであるとするがこの傾向は未だあるので今後も難しいだろう。
故に、従って、筆者は「青木氏の歴史観」に関しての“通説の利用」”には「比較対象」のものとして警戒して扱っている。
この「現実」に「青木氏族の近江鉄に関わった史実・青木氏の歴史観」に鑑みれば、この「長い間の製鉄の経験」が、「他の物・武器や生活用品等」にも「商いを生み出す事」に適用されていて、これらの“「青木氏の鉄の経験」"が「鍛冶部・摂津と日野の工人」にも存在していて引き継がれていた”と考えれば、それが「室町期」に成って「額田青木氏の銃の必要性」では、更にこの「新しい炉の開発」にも「青木氏部の匠技」が反映されていたと成る。
その「経験」が「銃の試作と生産に向けられた」と考えられるのが普通であろう。
この“「伊勢屋の商い」”とは別に、「伊勢水軍等の氏族一門と秀郷流一族一門と各地の青木氏族」への「必需必要品と器具」を「神明社」を経由して密かに供給していたので、「伊勢と摂津の鍛冶職」はその「近江鉄からの鉄製品」の「充分な生産」を求められていた事に成る。
其の為にも「近江鉄の必要性」は、そもそも「本論の銃の欠点の解決に使用する事」のみならず、その事に関わらず「鉄製品の需要」は急激に本質的に高かく成っていたのである。
この事を「青木氏だけが持つ独自の歴史観」として前段でも論じたがここでも併記する。
この「近江鉄の需要」を叶えている「近江鉄の竪型炉の使用」で、「鉄の供給力」が一段と増し、これに伴って「需要」もそれ以上に増した事に成ったが、この範囲は「青木氏のみが知る竪型炉の使用」である限りに左右されるが、それを全て担ったのが「屋の号を持つ伊勢屋」であったのだ。
それ故に、この「需要」は「伊勢屋」に左右されていたのだ。
これが「青木氏だけが持つ独自の歴史観」である以上は、ここに詳細に記載し論じなければ何時かは消え去るのみの「近江鉄の史実」となるのみである。
従って「近江鉄」は「青木氏族の中」に於いて使われていた事を示し、それだけに青木氏族は鉱山鉄の寡占を極めたのだ。
「独特な竪型炉の炉の形」からの視点で観て、「近江鉄」から始まり「関西」に、そして上記した様に遅れて僅かな炉を「関東」に依頼されて「普及を試みた経緯」と成り得えたのであろう。
「11世紀頃から13世紀」にかけて合わせて「6基の炉の遺跡」しか発見されていない処から観て、この「需要」は、「6基」ではその「供給力」は「関東」に於いてでも無理で、矢張り、全般的には“「関西の伊勢屋の範疇で限定して賄われていた」”と言わざるを得ない。
「近江鉱山」は、先ずは上記した様に「2鉱山」からであり、「竪型炉の開発」が進むに連れて「最終近江6鉱山」が「青木氏部」で開発された。
恐らくは、この「6鉱山」では「関西域だけでの供給」と成っていたのではないか。
その「限界時期」が上記の「関東の6基の炉の遺跡」と繋がったと観られる。
何とか最低にも「鉄需要に賄うだけの炉数」ではないが、これを先ずは「幕府の依頼」もあって「関東に設けようとした事」に成ったと云える。
記録から観て見ると、この「13世紀までの鉄の鉱山開発」には、次の通りである。
栃木に1鉱山、千葉に2鉱山、茨城に1鉱山と成っていて、合わせても「4鉱山」であり、実質は「上記の歴史の遺跡の史実通り」である。
矢張り、この「関東の4鉱山」が「関東の6基の炉」に見合う「炉-鉱山」であった事に成るか。
「近江だけの6鉱山-9基の炉」に比べれば極めて少ない。
矢張り、「鉱山の鉱石を鉄にする」には、「その炉の開発に大きく関わる事」からこの「炉のノウハウ」を持ち得ていなければならず、この結果が関東に生まれていた事を色濃く物語る。
因みに「砂鉄」では、関東以北から観て「8世紀とする鉱山」は、何と唯の「1鉱山」しか観えるだけであるのだ。
「鉱山鉄」には「近江の鉱山開発」と「その炉の開発」、言い換えれば「その財力の有無」、又、「因事菅隷の立場の有無」、「鉱山を見つける山師の知識」と「開山の土木技術」、「その専門の部人集団の所有、将又、「その商力等」の「総合的な力の保有」が必要に成る。
これ等が備わっている事が最低の条件となる。
故に誰でもが直ぐにと云う事には成らなかったのだ。
それ故に少なくとも「鎌倉期」を超えて「室町期末期」まで完全に無かったと考えられ、「記録」も上記した様に「明治期」まで記載は無い。
「室町期末期の額田青木氏の銃の欠点」を解決した直前までは「砂鉄の玉鋼」を除き無いのだ。
ところが、この「竪型炉の経緯」は、この「室町期末期」のこの時期を超えず見当たらないのだ。
これは「青木氏の氏是」に基づき「世に遺さず炉」とて共に消したと考えられる。
当然に“「社会発展の為」に遺せばよいではないか”と云う発想は生まれる。
然し、遺さなかったのだ。
「竪型炉の炉の存在」が、“世に悪影響を与える”と「伊勢青木氏」は判断した事に成る。
だから上記の記録にもある様に「明治期」まで「砂鉄の玉鋼」であったのだ。
逆に言えれば「近江鉱山」も「6鉱山」で終わっている所以であろう
つまり、“「鉱山の鉱石を使って鉄製錬する事」が、「鉄の世の統制」が無ければ「社会に悪影響を与える」”と考えた事なのだろが、「炉の開発能力と炉の使うノウハウ」を以て「商い」とすれば、元々は「因事菅隷を持つ青木氏部と商人」である以上は、出来るし「因事菅隷の寡占」である以上は必ず「巨万の富」が得られる。
然し、それを敢えてしなかったという事だ。
何故なのかである。
「鉱山開発」によって「鉄の生産」を拡張させれば「銃の生産」が「因事菅隷外の処」でもっと広い範囲で行われ世は乱れると解釈したのだろう。
寧ろ、格式を有する「賜姓族・律宗族」で会った以上は逆の発想をしたと云う事に成る。
“「砂鉄の玉鋼程度の生産範囲」で抑えて置けば世は乱れない”としたと考えられ、それが「因事菅隷を持つ格式の青木氏の氏是」と考えたのだ。
その証拠に「鉄の主生産」は「明治初期の高炉の導入・軍事化」と以降と成るのだ。
既に「巨万の富を持つ青木氏」が「企業殖産」でやろうと思えば何の問題も無かった筈である
飽く迄も、「竪型炉の鉄の生産」は「室町期の額田青木氏の為の銃の欠点と生産の完了」で終わらしたと云う事であろう。
何故なら、「竪型炉」で以て「鉄の生産」と「鉄鉱山開発」を成せば、間違いなく「商い」は寡占であった限りは、「巨万の富」を獲得させていた筈である。
その「研究資料の発見」が出来たが、これは「下段」で論じる事と成るが、「青木氏の商い」が“どの程度の巨万の富を最終では獲得していたか”を調査し論じているが殆ど無限であったろう。
これによれば「超豪商と成って呼ばれた明治初期の族に関する研究論文」と「筆者の論文」があるが、「竪型炉」で以て「鉄の生産」と「鉄鉱山開発」での「利益」としては出せないが「一時期に於ける総合力」としてこの「巨万の富・地権は含まず」は、「220億両・7万円/1両/御師制度の研究資料」とされる。
「筆者の研究論文・350億両/伊勢屋」とはさした差はないが、日本国内にこれだけの金が存在したかは定かでないが、兎も角も額が大きいのでこの「積算数値」のこの相当額に相当し比するものである事は先ず確かである。
この事は上記の「炉論に関わる経緯論」にも一致する。
参考に関東には数えきれないほどの鉱山があるが全て「明治期の高炉」である。
注釈 「幕末明治の豪商」と呼ばれる中でもはっきりとした「研究記録・御師制度について」が遺っていて、この「支店とする米商いの淀の屋の資産額」の記載がある。
どの様に計算したかは判らないし、「伊勢」は少なくとも「北勢」は米が採れない国なので、余剰米の米を市場から買い求める必要があって、一時、それを「大阪の蔵」に運んで「蔵管理」をしていたが、それが「淀の屋の実態」であって実態は世間に知らしていないのでも良く判っていない。
然し、それに依れば、この「米相場・儲け」を「伊勢に送る米」に換えていた。
それを営む様に成って、この「伊勢屋の支店の蔵」の「淀の屋」が最高額では「20億両・200兆円/10万円~7万円/両」だったされている。
「金額」では無く「米の量」であったとされている。
これに依れば「伊勢青木氏の伊勢屋・松阪、摂津、堺の主店舗」で、「豪商の街松阪」と呼ばれていた中でも比較すると、「淀の屋の米資産」に比して「約10倍」であった事に成る。
この「米帳合相場の淀の屋資産」は、「全国の米帳合相場基準となる市場を設立したとある豪商」とされ、これに依る「米資産」とされるが、其の内、この「米資産の店と取引」は中止したとある。
実は、「享保期に大阪の米市場」は、前段でも論じたが「伊勢屋」が紀州より吉宗に江戸向行して、「改革の吉宗・前段」に「経済改革の進言」をして設立されたものと「青木氏」では伝わっている。
そうすると、この「米蔵の支店の淀の屋」は、「松阪の豪商の青木氏の伊勢屋」では「吉宗との対立」から「米蔵の支店の淀の屋」は、この時を以て「米市場」から引いたとされている。
何故ならば「摂津と堺」にも「松阪の本店」と各地に取引を前提に「支店・20店舗」を設けていたとされる。
前段からも論じているが、「総合商社」を営む以上は「古来より伝統的」に「顔を出さない、店を明かさない、」等の安全策として「特定されない策」を執っていた。
この事から「店名等」は、「伊勢屋」ではない「堺」」では「米商い」に関しては「淀の屋」を名乗っていたとされていて、この「享保の時」に米取引から手を引いたのではないか。(資料消失)
それ以後は「伊勢の米」は「米市場」では完全に「名を隠しいの商い」としたのではないか。
先ず、その策の「目的」は、何事も特定されない事が前提であって、「総合的に危険である事」が「主因」であるが、古くから「因事菅隷を持つ令外官」としても「奈良期の部商いの伝統」を引き継いでいた事から、この主策を特別に使っていたとされる。
そもそも「伊勢屋・総合商社」は、「天皇から商いに関する紙屋院の格式号の特権を授与された」の事を「始り」として、「和紙以外」にも「令外官としての因事菅隷」で以て「各種の商い」を許されていた事から、特別に名乗っていたものである。
恐らくは、この「隠顔策」は、「因事菅隷の意味合い」から「因事菅隷を出された時期からの伝統」ではないか。
「限定して令外官に出される秘密令の由来」から「この「隠顔策」を[伝統的」に執られていたと考えられる。
依って、その「伝統」を護り「総合商社・1025年」と成ってからも、「商い」が大きく成り手広く成って更にその「秘密の意味合い」は強く成って行ったものであろう。
注釈 「伊勢青木氏」は、前段で詳細を論じたが、「吉宗に向行し享保改革を江戸で主導する」が、その一環として「大阪に米相場市場を設立・具申」を促したとあり、この時に、“「青木氏の伊勢屋」が具申し主導し、率先して「米の商いを専門に商いする店」を「大阪」に設立した”とあり、この役を担ったのが「淀の屋・米蔵」ではないかとしているのだ。
当然に上記した様に、“「伝統の影の策」”として、「各種の商い・総合商社」を営む為にその「各種の店主」を「松阪の伊勢屋」の「番頭の一人・家人・氏族の伊勢50郷士衆達」に“「番頭」”として任したとある。
それが「公表されている少ない資料・系譜では、一切詳細は不詳」ではあるが、判る範囲では、「岡本の郷士・一番番頭名と牧口郷士・二番番頭名」と成っているだけであり、詳細はないが、これが「淀の屋の支店の店主」としている事だけなのだ。
この資料では、結局、この“「店主・福家」”としながらも限定せずに“「番頭・家人」”と追記している処に注目している。
「米相場・蔵の淀の屋」は、「総合商社の伊勢屋の専門分野」としてのものであったと限定され、必然的に「総合商社」である以上は「全店一人」では動かせられない。
従って、必然的に「番頭/家人の一人を置く事」に成るが、これには何度も論じているが「家人・氏族の伊勢士50郷士衆達」を配置する「古来から仕来りの伝統」であって、これが云わば「支店長の証・蔵の管理人」と成ろう。
何故ならば、「判る範囲の淀の屋の経緯」と「伊勢青木氏の経緯」が余りにも一致し過ぎているのだ。
その一つに「幕末の闕所の嫌がらせ」を受けていて、その後の「明治期の経緯」も「青木氏」に遺されたものと極めて類似しているのだし、否定するものは何も無い。
又、「財産を朝廷に献納する等」、又、「大阪湾の干拓事業等」をした事等、疑いをかけられて「偽装倒産させた等」、「本店をダミー店に逸らして逃げた等」の幾つもの経緯なども一致している。
そもそも「淀の屋の淀・屋は授与される院・蔵人院」に対して「商いの特権」も許される場合に於いて課される格式特権の号」は、「伊勢青木氏」の「古来からの名跡名」とされ、引き継がれるべき「名誉の名」であって、簡単に使われるべきものではない。
況してや、「江戸初期」には一般に対して「商いの格式の屋号」を名乗る以上は、「府の便宜上の許可}が必要であった。
「伊勢青木氏」には「過去」に於いて「名跡名」を使っていて、其の内遺しているのは「戒名」であるが、これを調べると、その「戒名の読込名」にも「淀の名の字」や「字名の字」等の所謂、「名跡名・格式名を使った先祖」が「十数人・殆ど」もいる。
そもそも、「名跡名・格式名を読む込む慣習」は、「古代浄土宗白旗派の仕来り」であった。
「額田青木氏の祖」と成った「桑名の淀橋王や飽浪王」は「三野王」に嫁いで後に美濃で独立して「美濃青木一族」を「美濃一色の浪端・清光院」に「青木氏一族」を形成するが、その「淀」や「飽浪」や「一色」等はこの典型例であり、要するにこれは「松阪一色・当初は字名」に並んで「伝統青木氏」が持つ「伝統の名跡名」であるのだ。
注釈 江戸期から明治初期に掛けて「院と屋」を伴った「院の特権」に対して、それを「商い」に広げての「屋の号」を獲得した「正式な屋号をも持つ豪商」は歴史上全くないのはこの事による。
これが「正しい屋の号の名乗り」は「院の号」の下にあるのだ。
「院の号」に対して成せる「屋の号」とは、そのような意味を持ち、「院と屋の号」は一対であるのだし、その名も一致する。
要するに、「院」は「殖産」であり、「屋」はそれを基にした「商い」を「屋」としていたのだ
それには、「条件」として「過去」からの「一定の期間」の「朝廷との親密な関係を持つ事」が必要であって、その為にはその「関係を持つ事」には、「それなりの上位の継続的な格式」が必要であった。
それには「継続的な献納」が「一つの証」であって、“誰でもが関係を持つ事が出来る”と云う事ではそもそもないのだ。
元々、「武士や庶民」は格式上無理であるのだし、況してや「士農工商」に於いて「商人」は論外であった。
そもそも「直接に接見が出来る者」は「三位以上の公家」か「青木氏の格式」以外には無いのだ。
従って、「院と屋の号」、即ち、「一対の号の獲得」は、「上位の格式」を有さなくては無理であるのだ。
「院と屋の号を持つ事の事態」が「その格式を証明するもの」と成っていたのだ。
例えば、故に江戸期に良く使われたのが、「院」の持たない「紀伊国屋の屋」がこの「条件」には合致していないのだ。
更にはその意味で、「上記の淀の屋」が「闕所の疑い」を受けたとした時に、この“「献納」をした”とあるのはこの「一つの証拠」であり、そもそもこの「献納と云う行為」は誰でもが自由にできると云う事では無かったのだ。
誰でも「献納と云う事」をできると仮にすれば、「天皇と云う品格を下げて仕舞う事」にも成り、「寄付さされる団体」に成り下がる事にも成る。
仮に「ある程度の格式を有していた者」としても、この「献納」に対しては、そもそも直接は絶対に無理であり、「献納に比する格式を有する家」を先ず経由して、その「行為」と成り得て、依って「伝統的に公家など」の「一定の格式を持つ家柄の事」に成り得るのだ。
この上記の「院屋と献納」は、少なくともの「伝統を護っていた所以」であって、誰でも「献納」はそもそも出来ないのだ。
そしてその「献納」は、そもそも「継続的なもの」であって、仮に「献納できる者」であっても「突然に献納とする事」はそもそも出来ないのであって、従って、これはそれを「古来」より「継続的にしていた高い格式」を有する「伊勢屋の伊勢青木氏の様な格式を有する家柄・律宗族等の格式」で無くては出来ない行為なのだ。
これが「献納」と云うものの「古い伝統的な外せない歴史観」なのだ。
それを考えた場合、「米の殖産の院・米を酒造などの色々な形で扱う」に対してこの「伊勢の米蔵支店の淀の屋」は、「伊勢青木氏の伊勢屋の蔵米蔵」の「堺の大阪の店」であった事が此処でも云えるのだ。
この様に、「献納の持つ歴史観」から観れば直ぐ判る事である。
然し、現実にはこの様な物事の「伝統的な歴史観」を無視した論説が実に多い。
この「蔵米蔵の支店の淀の屋」は間違いなく「伊勢屋の大阪支店・堺店米蔵」であった事は間違いはない。
そこで、もう少しこの古い「蔵米蔵の支店の淀の屋・蔵人院」の最大限に判る範囲の事の経緯を調べて観た。
注釈 「蔵人院」は、前段でも何度も論じた様に「奈良期の国造部の差配頭」であった事より、要するに「その役目・皇親族」は「蔵人院」にあって、「賜姓五役の役務の一つ」に数えられ伝統的に青木氏に与えられた号となり、「嵯峨期」に「嵯峨天皇の皇子」の一人にこの「蔵人院・甲斐」に別にして任じている。
以下は「賜姓五役」から単独で別の役目として名乗る様に成ったが、その後も「伊勢青木氏」は「伊勢の蔵人院」であり続けた。
注釈論
「米蔵の支店の淀の屋論の米相場の経緯」は、記録によると、「1661年頃の大阪の蔵群」から「1673年頃(17世紀の中頃前)」から「店の前・事務所と蔵の前」で、突然に「米の蔵出し」に依って「帳合取引」として原始的に「市場」が始まり、その結果として周囲に“「米商人仲間」”が集まり「自然発生的に市場」が形成される様に成ったとある。
つまり、初めて、米が「蔵出し現物帳合取引」が行われ始めたとされるのだ。
然し、そもそも「奈良期の部経済」に於いて、先ず一度「朝廷に納められた米」を「必要分」を取り除き、残りを「庶民・市場はない」に放出するとする役目を担っていた。
この事は前段でも何度も論じてきたが、そもそも「伊勢青木氏の商いに成る根源」であったが、この「初めて」とする処に疑問が残る。
筆者は、この「伊勢青木氏の伊勢屋」は「淀の屋・蔵人院」に限らず「奈良期」から行われていた行為であって、初めてとする説には「完全な歴史観の不足の反論説」を採っている。
故に「青木氏」では、「淀の屋・蔵人院」として呼称して記載されていたと観ているのだ。
「淀の屋・蔵人院」は「上記の役目」を担った「青木氏の者」が「淀と云う地名・淀川」にその「役所」を置き、そこで「屋」、即ち、「院」に対しての「商い部」として「屋の号を呼称していた証」であると観ているのだ。
要するに故に、“「米商人仲間」”とする処に意味があって、これを継続していた所に「同じ仲間が集まる所以」である。
つまり、“「米商人仲間」”と記する処は、「各藩・国」の「周囲に米を貯める蔵群」があった事に成る。
要するに「貯めた蔵出し」で「互いの融通」が成立し始めたのだ。
何の為に「蔵出し」をしたかは下記の別諭に記述するが、台風や水害などの季節性被害で困った仲間に蔵から緊急を目的に「帳簿上での融通をし合う互いの習慣」が伝統的に信用を前提に歳出をする事が来上がっていたとしているのだ。
それが「奈良期から務める蔵人院」であった事から中心と成ってこれを務めた事が「市場取引の起源」とされるのだ。
これが前段でも何度も論じている「天智天皇」から授かった「賜姓五役の一つとされる永代の役目」でもあったのだ。
故に「淀の屋」と呼称していたのだし、「美濃に飽波の王と一緒に嫁いだ淀橋の王」の「淀の所以」であるのだ。
その意味で「淀の屋」には「重要な意味」を持っていたのだ。(詳細下記1)
さて、それ故に、それが「30年から50年後」の「1730年頃」に、この「米蔵の支店の淀の屋」もこの「蔵出し現物帳合取引の取引」で、何故か突然に「相場」から退場したとし、それに従い「蔵出し現物帳合取引市場」も絶えたとある。
何故に退場したか「疑問」である。(詳細下記2)
ここより、この「帳合取引の動き」は正式に「堂島米会所」を新設として「堂島」に移され、前記の「蔵出し・現物取引」との取引は無く成ったとされる。
この代わりにでた「市場取引」は、“「帳会米商」”として成立する様に「堂島」では成った。
この「帳会米商」が「吉宗の享保の改革の一環」として承認されて「法・1730年」が制定されて正式なものと成った。
其の後、この「取引方法」は改めて正式に全てが「帳会米商」に変更され「1863年」まで続いた。
其の後は「幕藩公認」で「各所・各藩」にも開かれた。
「先物取引」から「空米の現物取引・1863」の「現物先物取引」に変わり、「長年の帳合取引」から「正米受引」に変わったのだ。
注釈 そこで、先ず何の為に「蔵出し」をしたかは下記の別諭に記述する。(下記1)に付いて。
先ずは「伊勢」には「米」はその真砂土壌から無かった。
そこで「各藩の余剰米」を集める事にあった。
より多く集めるには、一般的にはその「米の現物」を取引に出してその「利鞘」を稼ぎ、「調達資金」を高めて更に米をかき集める必要があった。
同じ様な商人が他にもいた事が、“「米商人仲間」”の表現でも判る。
互に、同じ状況にあって、「各藩の余剰米をかき集める事の競争」が起こったは必然で、「天候被害」などの事で
不作と成ればそれは戦争であったろう。
「伊勢」は其の立場にあって、幸いに「財」は有ったが、それは「各藩の余剰米の如何」に関わっている事であって、結局は「蔵出し現物帳合取引」に頼る事以外に無く成っていたのである。
そして、但し元々、「米を獲得する」にあって、「利鞘の差益」を求める物では無かった。
故に、「蔵出し現物帳合取引」とならざるを得なかったと云う事が実情であった。
注釈 ところが、何故に退場したかである。(下記2)の疑問である。
米相場が拓かれて、それは次第に「米を獲得する」から、「利鞘の差益を獲得する取引」へと変化して行ったと云う事だ。
「蔵出し現物帳合取引」から“「帳会米商」”の「空米の現物取引・1863」の「現物先物取引」の「先物取引」に変わって行ったのだ。
「長年の帳合取引」から「正米受引」に変わったのだ。
そして、遂には「帳会米商」を認めた「吉宗の享保の改革の一環」として「法・173年」に承認されてしまったのだ。
「伊勢屋」が求めていた当初より「吉宗」に具申していた「米取引」は唯単なる「金銭取引」のものと成って仕舞っていたのだ。
要するに、提言外で目的外の「空米の現物取引・1863」の「現物先物取引」に変わったのだ。
ここに「青木氏の伊勢屋」と「吉宗との間」に「完全に考え方の違い」が生まれ亀裂が生じはじめたのだ。
「青木氏が求める伊勢の米」の為の純粋な「蔵出し現物帳合取引」は、結果として「法的違反」となり亀裂と同時に引き上げる破目と成り得たのだ。
この「吉宗」が許した「帳会米商」は庶人の幕府に対する「賄賂」を生み出し「享保期の悪の枢軸」と成って行って「享保の改革」は終わりを告げる結果と成って行ったのだ。
要するに、この「淀屋a」とするのは、たった「30年から50年間の存在」であって、「米商いの期間」としてもこの「豪商論の淀屋論a」はそもそもおかしいのだ。
「伊勢青木氏が吉宗江戸向行」の後に、「当面の改革」」として「幕府財政の蔵埋金・300両財政破壊」を「一時的にも増やす手段の為」に採ったとされるのはこの米取引である。
その理由は、この「堂島米取引の米取引」での事であった。
然し、この前に既に「商人」として「大阪/堺」として「米」を使って「蔵出し先物取引」としての「扱い」で「利益」を上げていたのだ。
この方式を「伊勢青木氏の伊勢屋」は推奨していたが、吉宗は「空米の現物取引」を求めた。
結果として、意見が異なり「帳合取引」から引く結果となってしまったのだ。
これが「淀の屋b」であり、「1700年頃から1730年頃」を境に「現物取引の米の先物取引」から上記の通りに手を引き始めているのだ。
ところが、当初は「帳合取引」で融通を受けた方式でこれにより「将軍にする為の裏金造り」と云う説が出て来ていたのだが、兎も角も目的は達成されたが事の事態は違ってきていたのだ。
余りに「期間が短い事」から「何かの理由目的」があっての「商行為」である事は判る。
そして「紀州藩の吉宗」は「1716年」に記録にある様に、「伊勢青木氏の後ろ盾」で「幕府」の「働き架け」で「将軍」と成るが、この「19年間」は「将軍」にする為の「裏の動き」を始めたとされる。
遂にこれが「15年後」に兎に角も成功させたが、この為に「得られた利益」をこの「裏の動き」に使ったとする説なのだ。恐らくはこの説が間違いは無いだろう。
そして兎も角も「目的達成」で「先物取引」から手を引いたが、「伊勢帳簿」からは直接出金は出来ない事から、この「この米相場の利益」を「将軍にする為の裏の動き」に使ったと考えられる。
この「米の行き違い」が、「吉宗との行き違い」が感情的なものとなって現れたのだ。
然し、「吉宗」は最終に「信濃」で裏切ったのだが、「伊勢」も危険と成って、これを以て「伊勢」に引き上げるが同時に「米相場」からもその必要性が無く成り引き上げたのだ。
それでこの説で行けば、それで無くては「第三番手であった紀州藩・吉宗」からは先ず「将軍」に成り得ないし、この為の「将軍にする為」の「裏資金」は、この「現物先物取引の米取引」から得たものと成り得て仕舞うと考えられる。
この「裏の金が動いた事」は明白な史実である。
当時、「伊勢青木氏・伊勢屋」は「紀州藩勘定方指導」として「財政逼迫の折り」からは「裏の金」は「紀州藩」からは決して出す事は出来なかったし、そもそも「出来る財力」は元よりなかったのだ。
だからと言って「伊勢」から再建にしてでも正式にはこれは出せないし前段でも論じた様に既に「10万両の債権」を持ち得ていたのだ。
「後の手段」は、上記の「大阪・淀の蔵」から動く「現物先物取引の米取引」であったとするのだ。
それを「堺大阪の支店の淀の屋b・伊勢の米蔵」としたのだ。
注釈 ここには、「伊勢」は「明治中期の土壌改良」まで「北勢」では「米は真砂土壌」から殆ど採れなかった事から、“長い期間に於いて全国から「余剰米の米」を調達していた”。
この事から、その「重要な役目」を担っていたのは「伊勢屋の堺・大阪の店のb・淀の屋」であって、此処には「伊勢青木氏」のその「集積所の米蔵群」があったと記録されいる。
何とか遺された記録を手繰れば、この「伊勢青木氏」のその「集積所の米蔵群」のあった所在地を大方に割り出した。
これに依れば、「川の船の接岸可能な場所」を前提と成るので、昔より「安治川の九条の川沿い」に「米蔵群」があって、そこの付近に「自宅・事務所」があったとされ、「現在の西九条附近域の北側」とされる。
そもそも「奈良期」から「部経済の朝廷の担い手」として「賜姓五役」として任されていた事は何度も論じているが、古来よりこの付近にその「集荷品・米の集積場」があったとしてであって、要するにここで「伊勢の米と朝廷の米」を差配を一手に担っていたのだ。
故に何れにしても此処の付近に「蔵米蔵群」があった事に成る。
そうすると、これを“一時的に短期間に於いて「ある目的」の為に「室町期」に成らずとも歴史的に古来よりここで「蔵出し帳合取引」をしていた”と云う事に成る。
これはこの事が急に始まったと云う経緯では無い事が判る。
当然に、仲間もこの淀川の周囲にいる事に成り、長い間には「米の融通」も「帳合上で行う事」等は当たり前の事に成り得ていた事に成る。
これは間違いなく史実に一致している。
それが「国造部の部人の差配者」たる所以の「青木氏の歴史観」と成ろう。
註釈 さて、この「淀の屋論の検証」で、「もう一つの矛盾」は、“30年から50年の短期間とする処の経緯”に問題がある。
そもそも、これは「伊勢屋の家人」から派遣されている「二代の番頭の引き継ぎでの期間」とすると、実質は「10年から15年程度の期間」と成る。
そもそも「番頭の呼称」は「伊勢屋・伊勢青木氏」では古来より云わない。
主に「伊勢氏人・女系」の「青木氏を名乗る家人」である。
この時の「淀の屋の家人・番頭とする者」が「蔵出し帳合取引・融通方式」をその役目として伝統として先ず成功させた者として、「次の番頭とする者の活躍」は、「最後の引手と成った事」からであり、「実質の期間」はもっと一割程度長い事に成る。
この「淀屋a説」では、この「闕所めいた嫌がらせ」の受ける事の可能性の無いこの「短期間」に於いてでさえ、そもそもその「闕所を受けた」としていて、それが前段でも論じた様に、「伊勢青木氏の伊勢屋・淀の屋b」が「受けた嫌がらせ・闕所の内容の経緯」と一致さしている処に「疑問」が出る。
況してや、「米の採れない北勢域の民用の米蔵」の「蔵出し帳合取引での成功」であって、これは法的に触れていず「闕所を受ける謂れ」はそもそも無い。
況して、「淀屋a説」は「家人経営・番頭経営」であったとしていて「闕所の前提」にはない。
「上記の経緯」から観て、「闕所を受け事」とは、この「淀屋a説」とするものには100%無いだろう。
況してや、先ずそれが「限られた米と云う商人の限られた行為」であった事である。
そして、先ず「短期間」である以上は、“「武士に直接に影響を及ぼした”」とするものでは無かった事である。
更には、「合意による蔵出し現物帳合取引」であって、「空米取引」はしていない。
「世間の経済」にこの「取引・融通」は、そもそも対象とする「武士社会」に「直接影響を与えるものでは無かった事」であり、況してや要するに「先物」ではない「蔵出し」の「現物の取引」の「直接的な帳合上の事」であって、「取引方法上」から観ても「武士の家の経済}に全く関係ない所で行われていたのである。
以上等で「淀屋a説とする経緯とする事」には無理があり理解できない。
この公に記載されている「公の淀屋論a説」は、そもそも「淀屋a説の詳細」は「以上の事以外」には全く判っていず、この「淀屋a説」と「伊勢青木氏の伊勢屋/淀の屋b」と「その経緯」を繋いで一致させていると云う事である。
注釈 これは何故かである。
それは、「aの著者」は「aもbの淀の屋」も「同じである事」を始めから知っていたからに過ぎない。
確かに「闕所の疑い」を受けたのは、「紙屋院の伊勢屋の商いに対しての事」であることは記録から確かだが、何れも上記の「蔵米蔵事務所の淀の屋の事」では「闕所の理由」としては100%ない。
仮に、この「淀の屋b」が「紙屋院の伊勢屋の商い」と見做されていたとすれば上記した様に「現実」であるので否定はできない。
それが、「闕所」が突然に其れ迄に「誰もしなかった事」として、つまり、「合意による蔵出し現物帳合取引」を「無許可」でしたとして受けたとすれば、止む無しであるが、その時が少し遅れて「吉宗改革の末期」の「吉宗と青木氏との仲違いの時期」であるのだ。
然し、「合意による蔵出し現物帳合取引」は「奈良期からの役目」として継続して来たものである。
そもそも、「堂島の米相場」を正式に容認して、それに依って“「莫大な冥加金」”を一時的にも獲得する様に提案したのは、前段でも論じた様に「享保の改革」を「江戸経済」で側面から推し進めていたのは当に「江戸の伊勢屋・伊勢青木氏」であるのだ。
飽く迄も「青木氏の提案の前提」は、「冥加金」であって、「取引の利益」では無かったのだ。
「米の取引の差益を求める事」は「米は武士の給金を決める手段」である以上は「給金の変動」を意味し、その結果は幕臣の懐を左右する結果として現れる。
これが武士をより弱くし賄賂が横行する世の中と成り得るとして反対していたのだ。
それが「幕府」は突然に反対していた「伊勢屋の闕所にも及んだと云う事」なのだ。
先ずそれの行為は、「信濃青木氏の養蚕と和紙の殖産」と、それだけに留まらず「信濃青木氏の神域の御領の半減没収」と「養蚕の殖産技能者の幕府召上」と「信濃青木氏の半額領地没収」を突然に無断で強行して来た。
此れを聞きつけたた「紀州藩藩邸」から密かに聞いた「江戸伊勢屋・伊勢青木氏」は、これを“理由なき闕所”と観て、次は、“「伊勢青木氏の伊勢屋」に及ぶ”として「200の江戸伊勢屋を無償放棄」して「伊勢」に「3日で逃げ帰った」とする有名な事件であった。
江戸での「享保改革の吉宗と青木氏の蜜月の関係」はそれもある日突然にこれで消えたのであった。
後は「勘定方指導」をしていた「紀州藩の後押し」でこの「闕所」を無事に乗り切ったのである。
この「時の紀州藩」は「安芸松平氏からの養子」が「藩主」と成っていて、極めて明晰なこの「藩主」は先ず「松阪」を「支藩」として成立させて、其の上で「伊勢屋・伊勢青木氏」と「殖産」と「商業組合」等を「伊勢屋が行う事」の一切を「紀州藩が行っている改革」として正式に認め自由にさせたのである。
これの認定として「勘定方指導と云う立場」を与えたのである。
其の上でこれで、「重要な事」は「味方の縁者」とする「紀州藩士」が何と「全て伊勢の藤氏集団」で占められて仕舞ったていたのだ。
これでは「元紀州藩の藩主」であった「吉宗」でさえも全く口が出せなくなっていたのだ。
この「重要な関係」は前段でも論じたが「大正14年」まで続くのだ。
さて、この時を以て、「蔵米蔵の米帳合取引」から手を引いたと考えられるが、これが「蔵米蔵の淀の屋の闕所」とするものではないか。
その直前には「江戸向行時の約束」と、及び「江戸改革時の約束」と違って「信濃の闕所」を「吉宗」は強硬に行ったが、これに対して「親族の伊勢青木氏」は、「江戸伊勢屋200店舗」を放棄して即座に船で逃れた事件だったのだ。
「伊勢屋の本店」と「大阪の伊勢屋の米集積所・蔵群」、即ち、「合意による蔵出し現物帳合取引」の「店名の淀のの屋」を一体と見做して「闕所」があったとすれば、時系列等も含めて一致する。
注釈 この「淀の屋論」に関して、ところが前段でも論じたがそれを「確定の裏付け出来る事」がまだ他にこの少し前にもあったのだ。
「重要な事」は上記した様に「味方の縁者」とする「紀州藩士」が、何と「全て伊勢の藤氏集団」で初代から占められて仕舞ったていたのだが、これに合わせて、其れは、「全国青木氏一族」が行ったこの時の「大プロジェクト」、その「殆どの全国の青木氏一族」が一斉に経済的に結束したのだ。
それが「全国15青木氏商業組合の結成」であったのだ。
そして、それが「御師制度の構築・紙幣発行の独立経済圏」までにも発展して行ったものだった。
何とこの「二つの集団」が「紀州藩の前後の歴史に「スクラム」として起こったのだ。
既に前段でも何度も論じた事だが、改めて云わずとも、この「15の商業組合の結成」は「諡号族の日本全国の青木氏族の結成」であって、再度、一部記載するがそれは次の通りであった。
前段でも論じたので、ここでは詳しくは論じないが、この「青木氏一族」が「経済的に結束する事」の為に「15組の商業組合」を結成したのだ。
この「巨万の冨の凄さ」が世間に与える影響がこれで判るし、この裏には「361氏の藤原北家で郷流の武力集団」が「女系の縁者」として控えているのだ。
そして、後にはこれらが「御師組合の御師制度と云う組合」を構築して結束し発展させたのだ。
これは、「信長」が「伊勢松阪」に「楽市楽座を構築する事」を「蒲生氏郷」に命じた。
それを実行に先ず移したのが「室町期末期の事」であった。
この時、「伊勢青木氏の紙屋院の伊勢屋」が「古来より商人の氏族」であった以上は、「巨万の富」を獲得したのは、「当然の事であり、「松阪が豪商の街」と呼ばれるこれが所以なのであり、この「楽市楽座」に商人として合力したのだ。
「伊勢郷士50衆の族と全国青木氏族」で「御師制度の15組合・豪商」を結成した何らかの「青木氏族の血縁世族」は以下の通りである。
01「伊勢青木氏と摂津青木氏」と「伊賀青木氏と甲賀青木氏」
02「信濃青木氏」と「諏訪青木氏」
03「額田青木氏」「伊川津青木氏」と「伊豆青木氏」
04「日向青木氏」と「大口青木氏」
05「駿河日秀郷流青木氏」と「相模秀郷流青木氏」
06「武蔵秀郷流青木氏」と「上総秀郷流青木氏」
07「越後秀郷流青木氏」と「越後諏訪青木氏」
08「越前秀郷流青木氏」と「越前青木氏」
09「石見秀郷流青木氏」と「米子八頭足利系青木氏」
10「讃岐秀郷流青木氏」と「藤原純友系青木氏」と
11「印旛秀郷流青木氏」と「土佐秀郷流青木氏」
12「近江青木氏」と「近江佐々木氏系青木氏」
13「越前(長崎)秀郷流青木氏」と「越前(佐賀)秀郷流青木氏」
15「橘氏系青木氏・貴族」と「島氏系青木氏・貴族」と「卜部氏系青木氏」
(血縁族では無い第一青木氏と第二青木氏と第三青木氏と甲斐時光系青木氏含まず)
以上はもれなく「青木氏一族」である。
この特徴は、大小は別として全てが「商いを営んでいたという事」だ。
この「商いの種類」は、多種多様であるが、副業を含めて、所謂、全て「総合商社」である。
これは結果として「付き合いの中」でそうなったと云う事ではないか。
これを観ると、「経済的な繋がり・御師券の組合紙幣を発行」だけとしているが、実はそれだけではなかったのではないか。
「時代的流れ」か「政治的な大きな流れ」もあって、“それに対抗する為に結束した”とも観えるのだ。
これだけの事をこの時代に実行するには、筆者は裏で何か大きい事が動いていたのではないかと考える。
つまり、何事も此れだけの事をすんなりできる事は政治的にも先ず無く、何か青木氏に「大義名分」があったと考えるのだ。
だから「一族」であっても異議なく集まれたと観ているが、それが「商業組合と云う事」を前提にした名目で異議が着けられなかった観ていて、当然に「青木氏族」に対して「厳しい時代の流れ」が確かにあった事は前提ではあるが、では集まろうとするには何か世間が騒げないものがあったと観ているのだ。
それが、前段から論じている「全青木氏一族」にしか発しない「天皇の因事菅隷」であった観ているのだ。
故に、これを盾に「伊勢」が動き、且つ「全国の青木氏族」もそれも同時に動いたと云う事だ。
それが前段でも論じたが、前提の「厳しい時代の流れ」では「商人」に執っては最も嫌う「府の闕所」も含めた「武士からの嫌がらせ」であった。
「氏族の商人」として「巨万の富を獲得する事」は、そもそも「目立ち目」を着けられるからであり、この「闕所の行為」は、「鎌倉期」から顕著となり、取り分け「江戸期」に成っては、そもそも「闕所」そのものは主に当初は「武士に対する法的処置」のものであったが、それがその「目的」を超えて次第に専ら「商人」に対しての「財産没収の為のもの」と成って、それは「難癖」に近くその行為は苛烈を極めたのだ。
この「異常な目的」は「力を出した商人の潰し策」と「その資産の獲得」であった。
特にこの傾向が強かったのは、「大名が負債を背負い苦しんでいた時期」であった。
「商人の力」が「商いの範囲」に留まらず、その「儲けの行為」は、上記の「武士の世界」までに及び、「大名の力」を左右する程に成ったとして、これを何とか理由を着けて留めようとしたのだ。
それ程に「商人の力」は「経済発展」に依って急激に増したのだ。
「経済発展」はそもそも「時の政府」にとって「政治の根幹に当たる部分で臨む処」であったが、いざそうなって観ると「武人の力」よりは「商人の力」が遥かに上に行っていた。
「商人の力」が増せば「税と共に供納金」では増し潤うが、逆に「武人の力」には維持を前提として「進歩」は無く、「商人の力」には「維持」は悪に等しく「進歩」が目立った事であった。
これがその差と成って目だったのは、それは先ず「秀吉の時代」に顕著に現れたのだ。
ところがその前の「信長」では、そうは成らずに逆に「進歩の商人の力」を期待し、それに依って「税の制度」を確立させて「政治の潤い」を獲得しょうとしたのだ。
そもそも「武力」は持ち得ているとすれば、後は「税の制度」に依って得られる「努力なしの制度」で「経済力」を「府」が獲得できるとすれば、合わせて「三権を握った事」に成るとしたのだし、それの「合理性」を「信長」は求めたのだ。
「伊勢の領主の「秀郷流蒲生氏郷」も「松阪」にこの考え方の「楽市楽座」を求める程に同然の考え方を持っていたのであった。
ところが、「秀吉」は「進歩の商人の力」を期待しなかったのだ。
寧ろ、この主な「商人の力」を「市場」に放置するのでは無く、積極的に「政治の中」に取り入れようとしたのだ。
「考え方」としては、これは有り得る考え方でもある。
その結果、「府の中の商人の力」と「市場の商人の力」とに「二つ」に割れて仕舞ったという事である。
「多くの商人」は「府の中の商人の力の傘下」に入って身を守った。
これが「秀吉が期待する流れ」であって、それによって統一性を求めたものであったのだ。
これでも「合理性の範囲」であろうが、ところがその「商人が巨大」に成り、その背後に「武力」をも獲得した「府の中の商人の力」よりも、「市場の商人の力」の方が勝って現れたのだ。
それが「信長」が進めていた「楽市楽座の構図」であって、その「秀吉が最も嫌う伊勢の松阪」の「豪商の街」にそれが現れたと云う事なのだ。
これが「伊勢屋」が居る「豪商の街」と呼ばれる所以であるのだが、それで、突然に実行されたのが「歴史上」に遺される庶民を巻き込んだ苛烈を極めた「伊勢攻めと紀州征伐」であったのだ。
「秀吉」は、反省してこれ以後には「戦い」で庶民を殺戮はしていないし、実戦はせず「戦略的戦い」で勝負を着けて勝利していたのだ。
この「2つの戦い」が未だ「地元・根来」で語り継がれているもので如何に苛烈極まり無かったか物語っているのだ。
これに対抗して、有史来、最も危険を感じた「青木氏族・伊勢」が、「全国の縁者の青木氏族」に呼びかけて「族単独で結集した」のが、この「15商業組合の表れ」なのであった。
「伊勢紀州の基礎の人」で成り立っている「豪商紙屋院の伊勢屋青木氏」であった.
「伊勢紀州の基礎の人」が無く成れば「豪商紙屋院の伊勢屋青木氏・基盤は伊勢氏族」は無く成り、この逆の事も起る。
それは全国に例の無い「伝統」にこの二つは培われていたからである。
故に「歴史上に遺される庶民を巻き込んだ苛烈を極めた伊勢攻めと紀州征伐」で「伊勢者と紀州者」は一致団結して戦ったのだ。
結局、この時、「最終の実戦」は、「葛城山の山道」を「伊賀者・伊賀青木氏等」がこの全山道を完全封鎖して抑えて「補給路を断った事」と、「ゲレラ戦」で、「秀吉」は飢えて慌てて大阪に逃げ帰ったのだ。
これは「15商業組合の活躍」として語り継がれている。
注釈 室町期に足利氏が楠木正成とここで戦いこの「葛城山の山道」を封鎖して抑えて「補給路を断った事」で2万の兵は餓死寸前に陥り敗戦を期した事があった。
「秀吉」はこの事で長期戦は好ましく無いとして引いたのだ。
同じ事が「伊勢長島の戦い」でも、「仮城櫓城の材木」を伊勢者に抑えられて「拠点の櫓城」が立てられず長期戦となり、その為に食料が不足して「苦労した経験」を持っている。
注釈 前段でも何度も論じたが、記録の保存に関して、これまで「3度の主家の失火の記録消失」で「伝統歴史の公表」が出来なく成り、それを何とか「氏族の遺された資料記録」や「その他の一般の資料発見や記録発見」からの「読み込み等」で導き出した結論の利用であり、それで「青木氏の伝統歴史」の「復元」を試みている。
取り分け、これには「正しい全体の歴史観の存在発見とその把握」が左右している。
これ無くしては「正しい青木氏族の歴史観の復元」は難しい。
「公開されている歴史観」には、期待しない「虚偽の導き」が殆ど占めていて、これには「江戸初期の幕府の国印状発行」が原因していて、「格式家柄の虚偽」でもいいから府とする処が「系譜を求めた事」が原因しているのだ。
「室町期の戦乱」で「武士」は、「系譜の無い農民からの成りあがった者」が殆どで、其れも江戸幕府はこの末端の武士迄「系譜」を無理にでも求めたのだ。
其れでなくしては「国印状」を発行しないとしたのだ。
「国印状」が無ければ「武士」には成れない。
実際にこの「国印状」を貰えないで「武士」には成れない者も多く出たのだ。
中でも「国印状」がない元からの「武士の侍」であった「氏族の郷士等」は、「侍」であって「武士」では無いと決めつけられる云う事が起ったのだ。
「郷士」には「主家」とする「郷氏」とは「主従関係」では無く「血縁の氏族の関係」であった事から「郷氏」から「国印状」は出せないと云う矛盾が生まれたのだ。
然し、本来、最も古い「武士・侍」であっても「議論」が起こったし、「郷士-郷氏以外」にもあって、古来より伝統的に「寺を警護する役の当にその侍」も居て問題と成ったとあり、「平安期の各地」に守護して廻されていた「朝廷の官僚役人」で、「統治する為の武装集団」をも持ち得ていた「朝廷の役人」も「武士」では無いとしたのだが、これも本来は「朝廷に仕える諡号の持つ本来の侍」であった。
結果として「侍とする定義」で決めると、「武士」は「侍」とならず、府が決める「武士の定義」とすると「侍」は「武士」では無く成ると云う矛盾」が生まれたのだ。
「諡号」の持たない「室町期の勃興の武士」は、多勢に無勢で吾が身有利として大声を上げて主張したが、歴史の本来性が「諡号と云う歴史的な証拠」があって最終は侍が有利と成り、結局は「折り合い」をつけて「侍=武士」で「武士=侍」であるとして決着を着けた。
その意味で、この「世間の歴史観」は、「青木氏族」に執っては「本来の諡号の侍」を以て優位に置かれたという歴史観を持っているのだ。
それ故にこの「武士の中」でも「大小の格式の有無」が優先されたのだ。
最終はこれを売買の対象と成ったのだ。
この様な下での「江戸初期前後の歴史観」はあまり知られていないが、これは歴史を紐解く上で参考に成る事である。
取り分け、「青木氏族」に対しては「郷士-郷氏以外」にも「寺を警護する役の侍」はどの位置に置くかはこの歴史観が必要に成るのだ。
江戸期に成っての議論の末に、最終は「本来の侍」であった「氏族の郷士-郷氏以外」にも「寺を警護する職役の侍」も「武士」とすると云いう結論が出た。
寧ろ、「格式」は上であるのに「下」から「上」を定めると云う逆の事が起こったのだ。
そこで、「侍は氏族の郷士-郷氏の関係」を指し、「武士」とは「主君との関係の者」として収まりが着き、それが何時しか「侍=武士とする習慣」が慣れで起こり、結局は治まる処に治まったと云う経緯があるのだ。
其の上でこの「青木氏と云う呼称」は、武士の間でも「特別の意味」を持っていたし、故にこの時の結束は世間では違った目で観られていたのだ。
そして、それが「商い」もすると云うこの「マルチナな青木氏族」」には、世間から「特別な目」で見られていて江戸期の前であっても「秀吉」も同然であったのだ。
上記の様に「院屋号の歴史観」に持つ「仕来り」の様にも、少なくとも「室町期までの歴史観」を正しく把握する事が必要であった。
その役に立つ一つが、以上の「全ての血縁族で深い交流があった母系での青木氏族」が、結束してこれらを「ライン統合」した事だった。
世間では強烈なインパクトを与えたのだ。
つまりは、この「青木氏一族」が実行した「大商い・15商業組合の結束」は、世間を驚かせ結果としてそれが「単独」では無く「摂津大阪商船組合等」との「連携」をも組んでの事と成って営んだのだ。
上記の歴史観を知るか知らないかで理解度が違って来るのだ。
注釈 さて、其の上でこの「大商い・15商業組合の結束」の元となった「因事菅隷」も同然である。
これは「一般の歴史観」には出て来難い事で「青木氏一族だけの事」ではあるが、ところがこの事は「NHKの大河ドラマ」にも成った程の詳細な「史実」であるのだ。
筆者はNHKもここまて史実を良く調べ上げたものと驚いている。
さて、そこで、「注目すべき事」は、この時の「史実」として、先ずそれは「“因事管隷”」に裏打ちされ、その下で「全ての青木氏の氏力」を結集していた事が上げられるのだ。
つまり、この「因事菅隷」、即ち、何か「朝廷との思惑の中」で成された「政治的な事」を想像される。
これは突然に「伊勢青木氏」に対して突然に室町期に成って改めて「伝統の氏族」を「律宗族」として追認した「正親町天皇の因事菅隷」であるので、これは「秘密裏・密書」に行われるのでその間の経緯の事は良く判らない。
恐らくは、詳細に調べると、「ある目的」で「大商い・15商業組合の単独」では無く「摂津大阪商船組合等」との「連携」をも組んでの事で得られる何かをこの「正親町天皇」は目論んでいた事になろう。
この「正親町天皇」は、有史来で唯一、「天皇の権威回復を狙った天皇」として有名な天皇である。
その時は「上記した癖の秀吉」であった。
それは何かである。
その為には、「権威回復を狙う以上」はそれなりの危険が伴うが、古来から“「賜姓五役」”としても「献納を裏で続ける青木氏族の安泰」が、「天皇家を支える事・唯一つの味方」として、それを切に望んでいた。
だが、これが「巨万の富」を獲得している「青木氏族の組合による結束」を急いで成された危険を回避する為の理由なのだ。
注釈 この「目論見に依る結束」が、「経済効果は大きくなる事」は確かであり、これでも「秀吉」を躊躇わせたのだ。
後は、その背後にある「藤原秀郷流一門一族の力361氏」を「敵に廻す事」は、その「武力」はもとより全国に散在するその「勢力」を無視できず好ましく無いと判断したのだ。
次の「徳川家康」さえもこの力を避けていて、寧ろ、その「藤原氏の氏名を名乗るなどの近寄り」を見せ「味方」に取り入れて「家臣」にして勢力下に置くほどであったのだ。
突然に組まれたこの「青木氏の15の商業組合策」に対して、「秀吉」は「伊勢勢力の潰し」を遂に諦めたのだ。
そして、更には「青木氏族側」は、今度は「手を緩める事なし」に「御師制度を敷く結果・15組合圏内の独自の市場経済圏・紙幣発行」と成ったのだ。
最早、「伊勢の商人の力を取り込む事」も出来ずに、潰す事も出来ずに「秀吉」は「攻撃」を諦めたのだし、「闕所の話処の事」では無く成ったのだ。
最低限に、この「御師制度を敷く結果」として「・15組合圏内の市場経済圏・紙幣発行」を暗黙で認める以外に無く成ったのだ。
「室町期の幕府と正親町天皇」は、この「勢力」の「古来からの伝統の青木氏族」を「賜姓五役の氏」から「律宗族」と認め直して、先ずはこの「古い伝統の格式」を世に質したのだ。
「上記する秀吉の理屈」からすれば、何はともあれ「商人がこの「格式を持つ事」が「最も嫌う事」であって、これに依って「他の豪商等との扱いを変えなければならない事」が「納得の着かない処」であったのだ。
それも「通常の格式」では無かったのだ。
それが「古来からの伝統」だけに依るものであればいざ知らず直前にはその「全格式の総称」としての“「律宗族」”を「最高権力」の「府と朝廷」が「青木氏族」に改めて認めて仕舞っているのだ。
そこで「秀吉」は「伊勢攻めと紀州攻め」としてその「勢力の弱体化、又は衰退化」を狙ったのだ。
「古来より地に根付いている集団」の「勢力の弱体化、又は衰退化」は「伊勢と紀州」は思いの外に出来なかったのだ。
故に「歴史にも遺る程の批判」を受けてのこれがすっぱりと「諦めた結果」であった。
寧ろ、「陸奥結城攻め」では「伊勢藤原秀郷流青木氏・青木氏族」が「一族の陸奥結城氏」の「救助」に向かうが、これを聞きつけた「秀吉」は、「恐怖の紀州伊勢のトラウマ」に書きたてられたか様に突然に軍を払い「北陸道の商人荒れた山道」を一目散に大阪に逃げ帰ると云う媚態を見せた位である。
それほどに「伊勢攻め紀州攻め」では「恐怖感を与え得た程」であったのだ。
これが「15商業組合結成効果」であって2度と攻めてこなかったのだ。
注釈 そこで何故、「伊勢秀郷流青木氏・青木梵純」が動いただけで逃げ帰ったかである。
これは不思議な事である、
この前には「武蔵の結城一族本家」がこの「陸奥の結城一族」を救う為に立ち上がっているが「秀吉」はびくともしなかったのだ
更にその前にもより大きい「武蔵の本家の秀郷一門」も「陸奥」を救う為に攻めればよいではないかと成る。
でも「紀州伊勢」のより小さい「伊勢秀郷流青木氏・青木梵純」が動いただけで不思議に逃げたのだ。
それには「伊勢秀郷流青木氏・青木梵純」だから逃げたのだ。
其れは先ず「上記の組合を造る程の青木氏」である事であって、「伊勢者紀州者であった事」、そして、その背後に「豪商の青木氏」が控えている事にあったりだ。
「経済力」も然る事乍ら「伊賀者等三つの忍者」を配下にしている彼の苦しめられた「伊勢青木氏が控えている事にあったのだ。
この少し違う軍団がこれが動くと成れば、当に前記した「伊勢紀州での秀吉のトラウマ」にあったのだ。
そして、この「15商業組合の商い」に必要とする“「生産工場」”とする処には、「秀吉の台所」の当にこの「摂津と堺」であったのだが、そそれでもここでも手を出してこなかったのだ。
注釈 この時の事が、上記する「NHKの大河ドラマ」の中でもこれに関する事が詳細に描かれていた。
そもそもその「第一の目的」は、「一族一門の経済発展の事」である事は間違いは無い。
では、“何で結束して一族一門が共に経済発展視しなければならなかったのか”である。
“それもこの時代に密かに「永代の令外官・賜姓五役」に「時の天皇」が突然に「伊勢青木氏」に対して「律宗族の格式」を任じた上で、更に「因事菅隷」を発行してまでの事であったのか”である。
筆者は、「朝廷」がこの「ある目的」を好んで、将又、積極的に画策してまでの事であったのかどうかでである。
筆者の推論では、そうでは無かったと観ている。
結果として、「朝廷の最大の財源・献納の定期収入・権威の維持」であった「青木氏からの定期献納」を「今後も安定させる事」に先ずあったと観ているのだ。
つまり、その「定期献納」に対して「現在か又は先行きの事」として、「上記の事」で「秀吉の中」で、「天皇」は「権威回復」を試みながらも、その「不安」を抱いていたのではないか、其の為には、この顕著に成って来たこの「不安」を取り除く必要が生まれて来たのだ。
それを「献納時」に「街の状況」を伝える「賜姓五役の軍略処の役目」で、この「不安の状況」を潰さに内密に伝えていたのではないか。
この「不安」を取り除く為には、「青木氏族の持つ力」をより「不安をもたらす力」より大きくしなければならなかった筈だ。
それは「通常」であれば上記した様に「上記の商業組合」を組むほどに此処迄大きくする必要は無かった筈で、「伊勢青木氏だけの経済力と世情力」で対応は充分に出来ていた筈だ。
でも、その「経済力」は、勿論の事、「武力の事」、「政治力の事」のこの「三つ力」を兼ね備える事の必要性に迫られていた事に成るだろう。
これが「伊勢青木氏に向けた密書」の「不安の因事菅隷」であったのであろう。
それは「朝廷の今後」のみならず「青木氏一族の今後の事」でもあり、これが両者の「不安の因事」であった事に成る。
では、“それは一体何であったのか”である。
“手を繋いで輪に成って護りあう”為の「不安の因事」は何であったのかである。
筆者は、これが「秀吉」が行う「闕所の様な事」であったのではないかと云う事だ。
「政治の力」に対して「大身内の組合を結成して守り合うと云う事」はこれまでの歴史の中では無かった。
初めての事である。
つまり、“組合が闕所を呼びよせ闕所が組合を呼び寄せた”という事に成ったという事だ。
「時代」が接合しているので何方とも云い難いが「組合」が先ではないかとも考えられる。
「闕所」は「秀吉の時代前」からも既に起っていた。
前記したが「青木氏の中」でもこの「近江で闕所」を「秀吉」より受けている史実がある。
「組合」は「伊勢松阪での楽市楽座の時」より初めて「組合」を結成し始めている。
「信長・蒲生氏郷・秀郷流藤原氏郷」は、寧ろ、「商人が固まりあう事」の「商業組合」を推奨してそれによって「冥加金の獲得の手段」としたのだ。
「濡れで泡の策」である。
ポイントは、然し、「秀吉」からは全く逆で違ったのだ。
「秀吉」は「商人」が大きく成り過ぎる事を嫌った。
其れで゛府の中にこの商人の力を取り込んだのだ。
「朝廷と繋がり」のある「紙屋院で蔵人院の伊勢屋の伊勢青木氏」は、この時、「室町期の紙文化」で既に「巨万の富」を獲得していたのだ。
「朝廷」はこの為に「献納」で潤っていたのだ。
この「状態」は「信長の容認と推奨時迄」に続いたが「秀吉」で突然に変わった。
それも急に「突然に」である。
この時、初めて「朝廷」は「献納で潤い」を得たし「多くの院屋号」を持つ「伊勢青木氏」は「近江鉄」に始り「和紙」でも又「巨万の富」を獲得していた。
然し、「秀吉」はこれを真っ向から露わに嫌った。
取り分け、その基盤となる「紀州-伊勢の勢力」を悉く殺ごうとした。
要するに、「紀州征伐と伊勢攻め」と態々名を打って攻めたてた。
攻め立てられている「伊勢青木氏」は、この時、自らも「蔵の火付けや打ち壊しの攻撃」を受けながらも、「平城で寺城の堅固な清蓮寺城」を始めとして「菩提寺や分寺」に「庶民や僧侶等」を匿って「伊賀者等の活躍」で周囲を護ろうとした。
この時も「紀州伊勢の衆徒連」は「全滅の殺戮」を受けた史実を持っている。
通常は仏教徒である以上は「寺の中に攻め入る事」は、当時はタブーとされ、結局は外から「焼き払い作戦」に限られていて、結局はでて来た者から討ち取ると云う鮮烈極まりない戦いとなるのだ。
「伊勢青木氏」はその為に「火の着けられない清蓮寺城や大寺」に囲い民を守ったもりであったたのだ。
結局は、「伊勢の豪商の青木氏の抵抗」を受けて「紀州征伐と伊勢攻め・1577年~1585年」は引き上げたのだ。
「伊賀者衆」や「甲賀者衆」や「雑賀者衆」や「十津川郷士衆」や「龍神郷士衆等」の現地の要するに「紀州惣国者の忍者衆徒」の「反撃」も受けて引き上げたと云う「秀吉」に執っては「我慢の出来ない出来事」であって、「格式」を有する「伊勢の豪商青木氏」に対しては「敵意」を露わに示し続けたのだ。
従って、この「突然の秀吉の政治的変化」に対して「組合」を組んで互いに護り合おうとしたし、「秀吉」に振り回される「朝廷」も、「密かに因事菅隷」を発してでも「全国の青木氏族」に対して「内密な強化策」を命じて来たのだ。
それが「青木氏族による15商業組合の結束」であったのだ。
時系列で観て見ると、この時、「正親町天皇・在位1517年~1593年」は、「幕府の律宗族」を出してから、少し遅れて「1587年頃の伊勢攻めの頃」に、改めて「律宗族の容認」を出したが、反面、「秀吉」に取り入り「官位の授与」の連発で吊って、“「朝廷の権威回復」”を図った「正親町天皇」ではあるが、この時に片方では“「密かに因事菅隷」も発していた”と云う史実では無いか。
何故ならば、「天皇の権威回復の目的達成」にはそれなりに警戒されて、又危険を伴う事に成る。
それはやればやる程に増す。
その時代は、丁度、「秀吉の室町期末期の事」ではなかったか。
「正親町天皇・在位1517年~1593年」は、この「目的の達成」の為に現実に「二面工作」を図っていたが゛、「唯一の味方」となるのは「古来からの付き合い」の「伊勢青木氏とその青木氏一族」であって、これに対しても「密かに因事菅隷の効果」にも改めて「重きを置いていた」と云う事に成る。
つまり、「青木氏への因事菅隷」と「15商業組合の青木氏族の結集」は、時系列的に一致していたという事に成る。
これには、「時系列」が完全一致すると云う事に成るが、それが「多くの事」を物語っている。
先ず、この「室町期の時代」に成っても、“「因事菅隷」を密かに発していた”という史実である。
「正親町天皇」は、唯一「朝廷の権威回復」を確かに試みたが、反面、「朝廷の存在」そのものまでに「危険感」を感じていたという事に成る。
それは「朝廷の権威」に食い込ん出来た「秀吉」であったからで、「官位の授与の連発」は、結局はその前には「秀吉の推薦」によるとすれば、その「権威」は「秀吉」にあって「天皇」に無いとする「形骸化を招く事」に成り、現実に史実として成っていた。
例えば、「天皇家の権威紋」の「五三の桐紋」に対して、「秀吉」は自分様の「五七の桐紋の権威紋」を造って、“「権威」は自分にあると思わせる策”を現実に執っていた「秀吉」であった。
それが「朝廷の権威回復」で逆に現実化していたのだ。
そこで密かに発したのが、この奈良期から使われていた「因事菅隷の策」であって、その前に室町幕府が出した「律宗族」を改めて見せつけるかの様に、先ず「律宗族」を出して「権威付け」て置いてたのだ。
そして、その「流れ」として上記する様に、「秀吉」は「伊勢攻めと紀州征伐」を同時に実行したのだ。
その意味でこれは「豪商潰し」と云うよりは、影で「朝廷の唯一の味方」となる「青木氏族潰し」では無かったかと観ているが、元より、「政権に靡かない豪商」もあっての事ではあった。
然し、「秘密裏の因事菅隷」での「15商業組合の結束」が、功を奏し「秀吉」に「潜在的な恐怖感」を持たす程の「決定的勝利・大きな犠牲を払ったが」で退けたのだ。
「朝廷」も「伊勢青木氏と信濃青木氏」のみならず、更には改めて「秀郷流の母系の賜姓族」の「15商業組合の結束の味方」を得て、且つ「朝廷への献納」も続く結果と成り、「秘密裏の因事菅隷」は思惑通りとなったのだ。
注釈 「室町期の因事菅隷の策・天武天皇」を出すと云う事は、他にも未だ「天皇」は「天智天皇の永代賜姓五役」を信じていた事に成る。
それが“「永代とする処」”に「天皇」は信じてあったのかは判らない。
然し、兎も角も「天皇]が室町期に「因事菅隷を発したと云う事」はその様に成る。
「律宗族の格式を認めて発したと云う事」もそういう事に成る。
「賜姓族と臣下族の総称策」として「本領安堵策で応じた鎌倉期」の前の「室町期」には改めて「律宗族」として発しているのである。
注釈 余談として他にもこの「思惑の込めた因事菅隷」を発した天皇」は居るのかと云う疑問だが、天皇家と疎遠できるだけに疎遠で通して来た「青木氏族」ではあり、考えられる天皇は余りいないであろう。
そうすると「因事菅隷」を密かに発した「天皇」としては他に「仁明天皇」と「円融天皇」の二人と成ろう。
「桓武天皇と平城天皇」が「親族でありながら「嵯峨天皇」に対しての対応」で発している事は間違いは無いだろう。
「出自元の最後の人」としての「平安期の親派の天皇」の「仁明天皇」は、「青木氏の岐路時期」に居た「親族の天皇」で「親青木氏」であった。
「円融天皇」はこの「青木氏を補完する勢力の拡大」を「賜姓と云う形」で対応した。
故にこの「二人の天皇」は「因事菅隷」を発している可能性は充分にあり得る。
何れも研究中であるが、判れば「因事菅隷と云う語句」からでも今回の様に「歴史に繋がっていた事」がより「詳細」に分析して判る事に成る。
それには「秀郷流青木氏の歴史資料の発見」に頼る処が大きいが何故か出て来ないのだ。
何かあったとしか思えないのだが、唯、この「因事菅隷」はその特質上は「限られたそれも特定の氏」にしか発しておらず、それもそもそも“「秘密裏」”であり、そもそも「遺る事」は「密書」である限り先ず少ない性質のものであり、慣例上は遺す事を「否」とするものである。
もう一つは「伊勢と同然の賜姓族」で「永代賜姓五役の令外官」を務めていた以上は「信濃青木氏からの資料とその分析」に頼る事にも成る。
「信濃青木氏」は取り分け「伊勢」よりも「殖産」を大きく進めていて、そこから生まれる利益の一部を伊勢と同然に「献納」としても行っていた。
「今回の青木氏に対する秀吉論」では、「伊勢青木氏」と同じでありながら「信濃青木氏」に対して「特段の攻撃」を受けたとする資料は見つからない。
「信濃青木氏」が「秀吉」が考える「豪商の大きさ」であったかどうかの事では、該当し無かったかと予想できる。
然し、「伊勢青木氏・伊勢屋」を通じての事であったものでは相当に大きいものであったと筆者は観ているが、此れには何かあったとも考えられる。
結論は「伊勢青木氏の商い」と「信濃青木氏の商い」は同然の一つと観られていたと考えられる。
「伊勢青木氏の商い」を潰せば同時に「信濃青木氏の商い」は潰れると観られていた事ではないか。
然し、「15商業組合のメンバー」の中でも「越後秀郷流青木氏の商い」は「全国豪商中の筆頭」でもあり、「酒業」として米どころでは歴史に遺る程の「日本一であった商人」でもあったが、同然に「秀吉から特段の攻撃」をこの時には受けていないのだ。
この差は何処にあるかと云う事であり、筆者は「越後」では無く、天皇家を強める主体的に定期的に行っていた「伊勢青木氏の献納」にあったのではないかと考えている。
そして、それが主に「伊勢であったと云う事」では無いか。
「正親町天皇の権威回復策」を弱めて、「朝廷」に対して「秀吉の権力」を強めるには、先ずは策としてはこの「献納を弱める事」にあったと観る事が出来る。
其れが「律宗族」と成って仕舞った「伊勢青木氏を潰す事」にあったし、その「古来からの固い地盤を破壊する事」にもあったのだ。
然し、この「戦い」は「伊勢人紀州人の惣国精神」と「女系で繋がる四掟の15商業組合の結成」」とで「秀吉」に「伊勢紀州のトラウマ」を起す程に大失敗したのだ。
要するに、全国各地で「闕所」を行って完全に潰して来た「秀吉の闕所的行動」に執っては、「伊勢紀州」では不入不倫の権で護られていながらも歴史的に大犠牲を負ったが失敗したのだ。
そして、「正親町天皇の権威回復策」の「目論見」も、兎も角も「因事菅隷の初期の目的」は果たされたと云う事で経済的な保障は果たされたのだ。
かといって、「青木氏族」と「朝廷との距離」は以前より近く成ったかと云う事では無く、飽く迄も「因事菅隷の範囲・献納の範囲」で終わっているのだ。
「女系で繋がる四掟の15商業組合の結成」は、益々その「商業勢力」をも広げて行くのだ。
当然に、「因事菅隷」が「15商業組合の結成」だけを先ず求めたものであった事かは「状況証拠」で判るが、将来の「御師制度まで発展させる処」まで指示し目論んでいたかは判らない。
然し、朝廷の「献納の安定」を「目的」とすれば、「御師制度まで発展させる処」までは求めていなかったであろう。
これに依って更に歴史的に繋がる「女系で繋がる四掟の青木氏族」は「より濃厚な血縁性も増す事」に成ったのだ。
逆に失敗した「伊勢紀州」に対する「秀吉の闕所目的」は、これで益々手を出せなくなったのだ。
余談だが前記した事で、恐らくは「時系列」から追うと「秀吉の出方」に対してこの頃から前段で論じた「店主の顔隠策・人と店は隠す」はより強化して始まっているのだ。
この「奈良期からの因事菅隷」がよりこの「顔隠し策」を推し進めたものと成っていたと考えられる。
それを示した初めての「物語」が室町期の末期策とし遺されている。
その「物語」では、「軍需物資の調達」で「伊勢松山」で「「秀吉」と会って「商談」をする。
この相手が矢張り「摂津堺の伊勢屋主人」であった。
この時に「作者」は、この「店主の顔隠策の事」で面白可笑しく物語を書いている。
恐らくは、当時には既にこの「闕所」を実行している「秀吉」に対抗する為に「豪商達」がいつ自分に降りかかるかを警戒していた事かを認識していた事に成る。
この作者は相当に「伊勢屋の身近な人物」であって、それを知っていて少し後に「物語」にした事に成るだろう。
多分、この「幾つか遺されている物語」の内容から、「商慣習」を良く知り得ていて、それはその「実態の詳しさ」から「家人か祐筆の範囲の者の作」であろうと考えられ、そうでなければ幾ら文才があろうともこの史実での事でこれだけの事は書けないであろう。
例えば、「松山城築城」の交渉場面では、「材木と大工の調達の事・史実」まで詳しく書き込んでいる。
そしてこの「物語」は書いた時より「江戸期初期」に成ってヒットとしているのだ。
注釈 米相場を[吉宗の裏切り行為」で引き上げた後の「伊勢の米」はどうしたのかであるが、それは最早、「蔵」さえあれば成り立つ事と成っていたのだ。
それは簡単であり記録にある。
上記した「15商業組合」は全て「酒蔵を持つ程の大米所の国」にあり「伊勢の米」は賄う事が出来たのだ。
それがこの組合で藩を超えて出来る様に成っていたと云う事だ。
因みにこの「伊勢」とは、「北部の米の事・北勢」で「伊勢の最大の収穫量」は全体で57万石で、一時は40万石に足りなかったとされ、「北勢」では「陸稲の収穫」だけで表向き「5万石の小藩程度」のもので「伊勢藩」では無く親族の「支藩の松阪藩」や「高野藩」であった。
この「伊勢国の石高」は、「米」だけに「拘わらず国の殖産物の生産額」を「石高」に換算してのものであって、その比率は石高より大きかったのだ。
それだけに「市場」から求める「余剰米の米」は、必要であって米獲得の為に「藩主とその役人」が動くほどに「江戸の物語」にも成っている程である。
此れを「歴代の紀州藩勘定方指導」の「伊勢屋」が奈良期の昔から一手に担っていたのだ。
口伝でも伝わっている事である。
さて話は変わる。
話は「秀吉の闕所の同時期」に行われていた「二つの近江鉄の製鋼」では記録を追うが何故か何も影響はなかった様だが原因は判らない。
「鉄を扱う商人で殖産人ある事」は歴史が長い事から「秀吉」は充分に知り得た筈だ。
これが「闕所の対象」に成っていたとは思えない。
「伊勢」を潰せば、その「莫大な利権」は「秀吉」に転がり込んでくるは必然である。
然し、「伊勢」は攻めたが「近江」は直接に攻めていないのだ。
これは不思議な事であり何故かである。
攻められない何かがあったからであろう。
それは確定は困難だが、「律宗族」と「因事菅隷」と同然に「朝廷の院屋号をも持っていた事」では無かったか。
この「院屋号」を持っていなければ「鉱山に関係する人達」を動かす事は出来なかった。
前記した様に「彼等の組合の金屋集団の抵抗・金屋神」を受けるからではなかったかである。
「秀吉」はこの「上記の通り」で“「組合」”と云うものには一目を置いていたのだ。
だから先ず手を出さなかったと観られる。
そして、次は元より“密かに出されていた「因事菅隷」”にあったと観ている。
だから、この「三つの事」から考えて“手を出さなかった”と云う事にも成るが、「伊勢青木氏」に「因事菅隷」を出していたかまでは秀吉は判らなかったと思う。
うっすらと知っていた程度で在ろう。
なぜならば「蜂須賀小六の家臣の時代」に今井神社系の影の役をしている。
然し、直前で態々に凡そ「700年後」に「室町幕府と正親町天皇」が“「律宗族」”と改めて「格式を認め直しているの事」を洞察すれば、以上の事では、“密かに何かを出していただろう”の程度の事は「秀吉」は予想は出来ていたと読める。
それまでは「秀吉を含めた世間の認識」は、総称として「律宗族」と追認されるまでは「永代賜姓族・臣下族」で「永代賜姓五役の令外官」、昔は「浄大一位の冠位」等を保有する家柄程度と、「忘れかけの認識程度」であったであろう。
氏族の間で御師様の呼称が物語る。
それが突然に、その「総称の様な格式名」で「律宗族」と再び呼ばれる事に成った。
この事は「秀吉」も知っていた筈で、「そういう特別に限られた族」に対して密かに出す密書の様な命令書の「因事菅隷の存在」も薄々は知っていたと思われる。
然し乍ら、「近江鉄の事」には「因事菅隷の族の存在」でも“手を出せなかった”のではないか。
「攻めた事の本音の目的」が「伊勢全体の力を弱める事」であったとしてもそんな事では「上記した伊勢全体の勢力」は弱まらないからだ。
「秀吉」は、“この「伊勢全体の勢力」の「この底力・観た事もない総合力保持集団」を見誤った”のだ。
「伊勢勢力」を「普通の武力集団」と見誤ったのだ。
だから「将来の秀吉トラウマ」に成る程の体で逃げ帰ると云う結果に終わったのだと読める。
注釈 この「青木氏に対する密書の因事菅隷」は、定期的に納められる「献納時に渡す事」や、「伊賀者の情報伝達」でこれを担っていた事が判っている。
中には、「香具師と呼ばれる伊賀青木氏」が特別に「香具・薬や生活常備品」の「入替え」でこの「朝廷内」に出入りしていたとされる。
この「真の目的」は「情報の伝達忍者」であったからだが。
これらの手段を古来から使っていた。
従って、出したか出さないかなどは判らないのが原則の常で、況して「因事菅隷の内容」までは判らなかったと考えられる。
「因事菅隷」に拘わらず「金銭の小遣いを始めとした生活の細かい依頼事」までも「伊賀者や香具師」に秘かに出していたらしい。
これ等の事が「明治中程」まで続いていた事が京都に明治中頃までその役目の店を構えていた事が「香具師の遺した資料」からも判っている。
「香具・薬や生活常備品の入替え」ではどうも「伊勢の無償」であったらしい。
筆者の祖母も「京の公家出・叶氏」であり、この事から「天皇家のみならず高位の公家なども含まれ、「天皇家の調度品等」は、「伊勢屋が準備した事」が判っているが、これも「超豪商の伊勢屋・伊勢青木氏の無償」であったと考えられる。
取り分け、この「室町期」を分けると「秀吉の時代」は、相当に活躍した事が「香具師の史資料」や「伊賀青木氏の資料」でも判る。
然し、「伊勢」を攻めていながら「近江」には手を出さないのはこれは矛盾をしている。
だとすれば「闕所の為」に「伊勢と紀州」を何故に潰しに掛かったかである。
「伊勢の力・伊勢青木氏の伊勢屋」と「氏族の伊勢郷士50衆」とを合わせたものであるが「財力はあるが武力」は持ち得ていない。
補完的に「女系で繋がる秀郷流青木氏116氏と秀郷一族一門の361氏の武力一門」で強く繋がっているのである。
この「伊勢」を直接攻めれば、この「有史来の四掟の血縁族の補完族」を引き出す事に成るは必定である。
だが、どの条件から検証を捉えても攻めている。
それ程の「闕所の為」であったのかである。
となると、「潰す」と云うよりは「弱めたい」と云う狙いがあったのかと云う事に成るが、「巨万の経済力」と「その地盤の強固さ」と「背後の武力」が在れば弱まる事は100%ないだろう。
でも攻めたのである。
確かに伊勢と紀州は鮮烈極まる犠牲を負った事は確かである。
然し、秀吉の闕所の目的は全く達成されなかった。
普通なら「伊勢」を目的として攻めれば「近江」」も攻め取らなければ意味がない。
全く攻めていないのだ。
「正親町天皇」は「朝廷の権威回復」を積極的図っていたが、これに「献納」する「伊勢勢力」に「牽制」を掛けたとすれば符号一致する。
それには「唯一の勢力と成っていた伊勢青木氏・伊勢屋」への「因事菅隷の手段」を無くす事と成るが、「天皇」には「秀吉の立場」ではこれを命じる事も止められない。
そこで“「伊勢」に的を絞った”と観えるが「伊勢」は屈しなかったのだ。
それどころか“「青木氏族を結束する15商業組合」”で対抗して来たのだ。
それがその嫌う“「因事菅隷」で行われた”と云う事に成る。
そもそも“「因事菅隷」は秘密裏に成されるもの”である。
その“秘密裏に行える手段”を上記した様に幾つも持っているのだ。
恐らくは「秀吉」にはこれには「手の施し様」が無かった筈である。
それが「天下の伊賀者の伊賀青木氏」であったし、「雑賀忍者」であった。
この時は、「内部の考え方の違い・忍者の雇用形態」で「甲賀青木氏」は「伊勢青木氏」から既に手を離れていたのであった。
注釈 さて、そこで「秀吉」はこの「近江の件で攻めなかった事」はそれなりの意味を成すだろう。
「近江の鉄鋼」には未だ「魅力を感じていなかった事」を意味する。
魅力があれば「伊勢」と共に「近江の利権獲得」の為に真剣に攻めていただろうが「伊勢」だけであった。
「近江の鉄利権」は「秀吉の政治権力」で奪えばよかったでは無いかと思うが、実は上記した様にこの「近江の鉱山の鉄利権」には「院屋号を持つ因事菅隷」を朝廷は既に与えていたのだ。
これを否定して「強引に奪い取ると云う事」をすれば世間の信用を低下させると思った筈である。
何故ならば、「秀吉」は「天皇の権威」を背景に「自らの政治権力」を高めているのだ。
従って、「院屋号を持つ因事菅隷」の何人も持ち得ない「最高の権威書」を持っているとすると「強引に奪い取ると云う事」の最悪の事に成り得て仕舞う。
だから、手出しは出来なかったと云う事に成ろう。
この事からこの様に「権威の物を持つ伊勢」に一目を置くにしても、「近江鉄」が「需要と供給の関係」に於いてその「要求に賄う量」を供給できていたかに依るだろう。
つまり、「鉄の供給」が大きく金になる様であれば何か手を使って来るだろう。
それ程の事が無ければ「秀吉」も手は出してこないであろう。
注釈 其の事に就いて検証する。
「世間の資料」では、これに加えて「江戸初期」までの「全国の神明社の質」でも「青木氏の人・処世に失敗した人の救助」を救う為に「社会の一角」で「独占的に鉄製品の商い」を営んでいたが、その時の「事・主に販売」が判っている。
この「近江鉄」に付いて「重要な事」があって、“「全国の神明社のルート」を通じて裁かれていた事”が「記録」として遺っている。
要するに「通常の市場に載せていなかった」と云う事だ。
つまり、「神明社の裏の資金源」であったのだが、「近江鉄の生産量」が恣意的にその範囲に限定されていた事に成る。
それも「神明社」、即ち、「青木氏族の中」で恣意的に限定していた事に成る。
だとすれば、これらの「市場」に対しではなく、「全国の神明社からまとめて来る需要の要求を賄う量」としては生産し、それが相当なものがあった筈である。
それは「神明社を使う者」が「一般人」では無く、上記した「15商業組合の範囲からの声・秀郷流青木氏一門」を下にしていた事に成るからだ。
だから「秀吉」が恐れる程に、「15商業組合の結成」のそこには「近江鉄」が其の裏で存在していた事に成るのだ。
現実には「秀吉」は「近江鉄に目を着けなかった事」、又は「着けられなかった事」は、ここにあって、故に、「鉄製品」に限っても、果たして「市場」では「充分に賄う事」ができ得ていたかは「疑問」を感じるのだ。
当時は“鉄を握る者は天下を握る”と云われ始めていた時代であった。
その「鉱山鉄の近江鉄」を「青木氏」はこのような形で握っていたのだ。
「市場化」しないで「神明社化」で「鉄と云う危険な物」を限定して「青木氏族の範囲」で使うようにしていたと云う事だ。
その「裏のツールとしての神明社」が使われたのだ。
その時期化が戦乱の世であって、鉄で造る火縄銃の生産が戦いに比例して造られる様に成っていたからである。
故にそして、「鉱山鉄の生産」のその「最終起点・神明社」が「青木氏族の逃避起点の越前の福井」として制限したのであった。
未だ、この頃は、「竪型炉の開発」が「需要に賄えるだけの量」に未だ至っていなかった事は上段で論じた様な事でもあろうし、寧ろ、その「範囲の事でも良かった事」に成る。
その分、「世の中の需要」は、未だ「砂鉄の鈩製鉄」に頼っていたし、「江戸期」に成って初めて「鈩鉄の公開市場」が「大阪」に開かれて続いていた事を考えると、「近江鉄」に目を着ける程に「神明社の範囲」で隠れた「魅力」は充分に未だ無かった事に成るし、この分でもシステム的に「権力介入する事」は出来なかった事になろう。
「伊勢」を攻められている「青木氏族」に執ってはこれは都合が良かった。
何より「15商業組合の結成」に上手く働いたのだ。
更に「船を使っての商い」と成ると「院屋号を持っていた事」の限りに於いては、「二つの近江鉄の製鋼」では、世間の影で「フル稼働・限界に達する程」のものであったと見込める。
故に、上記した様に「秀吉」から目を着けられなかった事で、「近江鉄の限定した神明社経由の使用量」から、更に“当初の「2鉱山」から最終は密かに「4鉱山」に増やした”のでは無いかと判断できる。
注釈 「伊豆青木氏の救助」を果たし「独立させる額田青木氏」に「引き渡す近代銃の欠点の完成」は、前段の通り「1540年頃」に開始」し、「1560年頃」から引き渡している事になるので、「秀吉との関わり」と「正親町天皇との関わり」では、当にその“「後半の渦中」”にあった事に成る。
「秀吉・1537年~1597年」、「正親町天皇・1517年~1593年」の時系列を観ると、つまり、「青木氏族」としては「難しい綱渡りをしていた時期」に成る。
故に、何もかもに取り分け「一族を守る為に一斉に行動に出た事」に成った「15商業組合の青木氏での結成」は、その「総合策」としての一族存続の為にはこの事に大きな「意味」を持っていたと考える。
何もかもが青木氏の存亡はこの時期に集中している。
その「意味」でも、当時の「需要」に対して「供給」は、「砂鉄・鈩炉・閑散期の田水路を使う方式」だけでは、到底無理であった事は間違いは無いが、「近江鉄」を合わせても無理で会った事が判っている。
この「比較される砂鉄の経緯」でも、「近江鉄の青木氏一族の全需要・必需品と商い・神明社経由」は、「フル稼働・限界に達する程の事」を説明を補完できる。
これに依ってこれを補うには、「貿易に依り高い技術を他から求める事」に成っていた事が記録からも説明できる。
然し、「青木氏の状況証拠の記録」から想像すると、「鉄を輸入すると云う事等」はそれをしていない様だ。
と云う事は、「市場」は殆どが「砂鉄・鈩炉」に頼り上記した様に「近江鉄」は、「神明社の裏ルートからの供給」に限定されて直接は関わっていなかった事に成る。
これは「青木氏族一門の戦略に成っていた事」に成る。
つまり、「近江鉄の鉄を獲得する事」に依り「鉄などの軍需品の寡占」が起こり、これに追随する武装勢力はいなくなる事に成り、従って「戦乱」の中で「青木氏族の安定に繋がっていた事」に成るのだし、武力を持つ秀郷流一族一門は影では実質の勢力は秀吉より「無敵の勢力」であった事に成る。
言わずもがな「近江鉄」に対して「鉄製品の寡占」を疑われて、場合に依っては「秀吉」の「刀狩りの令」に触れる事にも成り兼ねず、刀狩り令を出しながらも実際には手が出せなかったのではないか。
その意味で「銃の欠点を無くす研究」は、実に危険性を帯びていた事に成ろう。
然し、何かしているだろう程度の事は判っていただろうが「秀吉」は手を出さなかった。
手を出す事が其れこそ、“火に油の様な事に成る”と観た事に成るだろうし、出したくても手も出せなかったと観ている。
一方で偶然に、その「“「因事管隷”の院屋号の立場と専有資格」を持っていたとする以上は、それは最早、この「“「因事管隷”の院屋号の立場と専有資格」の「流れ」は、「青木氏族の氏の義務」であって、これがある以上はそれに縛られそれ以外には方法は無かったであろう。
「言い訳」は、「“「因事管隷”の院屋号の立場と専有資格」で成り立つが、「秀吉」がこれを聞き入れるかどうかは判らなかった様だが何も無かった。
筆者は「因事菅隷説効果」より、事と次第に依っては“火に油の様な事に成る”の説を採っている。
「家康」は、「秀吉」と違ってこの「“「因事管隷”の院屋号の立場と専有資格」の「立場格式」を尊重して、“「伊勢の事お構いなしのお定め書」”を出しているのだ。
そもそも元より「伊勢」には、「天智天皇」に依り「不入不倫の権・平安期のものと違う・伊勢を犯したり侵入したりする事を禁止した」が、「特権」を「伊勢王」に与えられているのだが、これを追認しながらも「室町期末期の松平氏への貢献」にも感謝して、「全段の額田青木氏論」で詳細を論じたが、“「伊勢の事お構いなしのお定め書」”の送り「感謝状」を与えたのだ。
ところがこれが何と「吉宗」を仕立て上げた「伊勢青木氏」に対して、その「吉宗の売裏切り」でこの「お構い無し」は終わり、以後は幕府と「犬猿の仲」と成った。
逆に、「紀州藩・大正14年まで続く」とは、それまでもそうであったが、「青木氏に上位の立場」を与えながらも、“管鮑・かんぽうの交わり”、又は、 “刎頸・ふんけいの交わり」”と云う「不思議な関係」に成って行ったのだ。
> 「青木氏の伝統 74」-「青木氏の歴史観-47」に続く。
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「青木氏の伝統 72」-「青木氏の歴史観-45」
「青木氏の伝統 71」-「青木氏の歴史観-44」の末尾
> 注釈 以上の様に、前例の無い程に「伊勢国全域の大領地」と「院号を特別に与えられる事」等をしても「朝廷の印象」を極力抑える様にしていたのだ。
> それ故に、「初代の伊勢王の呼称」は、その侭で、かと云って「施基皇子」は一時期は「二代目伊勢王」と呼ばれて扱われていなかった所以でもあるのだ。
> その「実績・功績」に基づく「冠位」から“二代目”と云う扱いには出来なかった所以でもあろうか
> その“「伊勢王呼称事件」”が、“「扱い」”の「最大の事例」であろう。
> 前段で論じた様に、「施基皇子」の上位に位置していた「兄・第六位皇子/第二皇子説もある」で、「浄大参位」であった「川島皇子・近江佐々木氏の賜姓族との扱い」を観れば浄の事でも判る。
> そもそも「上位」であれば、通常は「賜姓」は、神木等の神に関わる名で「賜名・氏名」を着けたが、「佐々木・斎斎木」の場合は、「通常の臣下に授ける賜名」の「地名・「佐々木・斎斎木」を採って賜姓したのだ。
> 「青木の場合」は「あおき・神木」からである。
> この「賜姓の事」からも「功績とそれに基づく冠位」に基づいて「全ての扱い」が変わっていたのだ。
> この事に然し乍ら「川島皇子とその裔系」も一切争いを起こさず寧ろ全くの同化を試みたのだ。
> そもそも「異母兄弟」でありながらも更に[血縁的」にも[政治的」にも「完全同化・融合・事件を起こす程に安寧を互いに「平安中期・源氏化真まで」は図っていたのだ。
> 唯、「施基皇子」は[政争」から逃れる為に終生に於いて「文化人・青木氏氏是」を装った。
> この“「文化人扱い」”が、逆に故に後に問題とした「嵯峨天皇」が嫌った「前例の無い皇親族」と「その特権」にあった事を示してる。
>
> 注記 平安中期までには「近江佐々木氏」は「信濃青木氏」と並び「完全同化・融合の族」で在ったが、「時代の波」に逆らえず「近江族は源氏化」を興し「完全な決別状態」と成った。
> これも後勘から観て「嵯峨天皇の失政」にあるとしている。。
「青木氏の伝統 72」-「青木氏の歴史観-45」
上記で論じて来た「植物絞り油の使用の経緯」の中には、この「注釈の事象」が繋がっていたのだ。
この「注釈の事象」が「伊勢国の殖産を大いに開始させる事の発端時期」と成ったのだ。
この事に就いて「伊勢青木氏の記録」と共に「御師制度の研究」にもこの事の記載が明確にある。
この事の「注釈の事象」は、取り分け、重要で、この中では、例として「紙屋院の院号等の独占権」を「令外官」として与えられていた。
とすると、「伊勢」で「賜姓臣下族」としてでは無く「青木氏部の部の殖産業」として「自由に行えた時期」はこの時以降である事に成る。
それは「禊の条件」が効いていたのであろう。
この時の“「伊勢の殖産」”は、「青木氏の商記録」や「幾つかの古資料」から漁ると「伊勢国と紀州の一帯」には、その「特殊な殖産の前提」があって「完全自由に興せたものでは無い事」が解る。
それには、「一つの青木氏が護らなければならない絶対条件」が課せられていたらしい。
それは、古来より、この「殖産」に関しては、この「伊勢」は 特別に“「禊(みそぎ)の地」”と呼ばれ、又、「食と産業を司る外宮の御祭神」の「豊受大神様」の「神地」にあって、従って、それに纏わる「禊の殖産」が主にして興されていたのだ。
恐らくは、これには前段で論じた様に政治的には「特別な規制令・因事菅隷」、又は「促進令」が発せられていた事が垣間見られる。
取り分け「青木氏が起こした殖産」にはこの「伊勢」に限ってこの「禊の条件」が課せられていた。
これを“「禊(みそぎ)の地」”としてこれを「特殊の規制令・因事菅隷」と「伊勢」では呼ばれていたらしい。
上記の「上記の伊勢王の事件」から考えても、実質は「施基皇子とその裔系」が「伊勢王」を「259年間・272年間続けられる実力」が備わっていて、初代云々では無かったと考えられ、飽く迄も「朝廷の政治的な思惑」の中で称されていた事が判る。
だから、「禊殖産の促進令」が「特別な規制令・因事菅隷」としも「賜姓五役」としても「令外官の青木氏」に発せられていたのだ。
要するに、「特別な規制令・因事菅隷」は伊勢青木氏に発せられる例出あった事に成る。
故に、又、「伊勢に於ける不入不倫の権」が、「中大兄皇子」に依って発せられていて、「伊勢神宮の保全」と共に「特殊な殖産前提の地・禊の地」が構成されようとしたのだ。
その「伊勢の地を護る令」として発せられる「特別な規制令」の「因事菅隷」は「伊勢青木氏の令」として用意されていたものと同じ意味を持つ事に成る。
だから歴史的に知られていない「特別な規制令」、即ち、「因事菅隷」とは成っているのだ。
逆に、これがあるからこそ「伊勢」で気にせずに「禊ぎ殖産の殖産を興せる所以」であった事に成り、それが正しく「禊ぎ殖産」であったのだ。
それには、完全自由では無かったと観られ「特殊な殖産前提」として「二つの前提」があったと考えられる。
「一つ目」は、上記の“「禊(みそぎ)の地・伊勢神宮」”とした事。
「二つ目」は、前段と上記する背景を持つ“「伊勢王の地・青木氏部・令外官・賜姓五役」”であった事。
以上に依る。
そこで、この「二つの前提の範囲」から“「禊ぎ殖産の殖産企業」”は、全国に先駆けて特段に「伊勢」だけに勧められていたものであって、そこで「朝廷」は、それを権威づける為に「紀伊国の日前宮」から、態々、遷宮した「伊勢神宮」の此処を、限定して“「禊(みそぎ)の殖産地」”として限定して取り分け呼ばせていた所以であろう。
「紀州日前宮」からの「伊勢への遷宮」は、要するにその違いを際立たせる為に取り分け“「禊(みそぎ)の殖産地”にする事」であって、その為の”「不入不倫の権」”であったと考えられ、その為にそれを促進させる者としの「因事菅隷を与えた初代伊勢王」であったと観られるのだ。
故に、前段でも論じた様に、“「不入不倫の権」”は、“「禊ぎ殖産の殖産企業」”を実行する「伊勢青木氏に与えられた特権」であったと論じているのだ。
それ故に、後の「鎌倉幕府」は、「本領安堵策」で、「室町幕府」は「律宗族」で、「平安期朝廷」は「259年・272年の伊勢王」で、「家康」も、この「故事の史実」を認めたし、且つ、前段での「三河での額田青木氏等の活躍」などもあって、“伊勢の事お構いなしのお定め書”までを伊勢青木氏に発せられたと考えられるのだ。
そこで、この前提で、ではそれを、「古来」、「殖産」、「産地」の「三つの条件」で観て見よう。
前段から論じている「禊(みそぎ)」等の資料から読み取ると次の様に分類される。
「和紙とその原材料と加工品」は、元より、「穀粉」「白粉」「伊勢木綿」「伊勢紙」「食料油」「薬」「茶」「食品加工品」「果物類」「木工品」「工業品」「絵具類」「備長炭」「墨」「組紐」「陶物」「漆器」・・・
以上、「禊品約20品等」として記載されている。
「古書の資料」からこれを観ると、以上と全て「伊の勢の国」の最も古い奈良時代から「禊(みそぎ)品」として扱われていたとするものばかりである。
それが何と「江戸時代」まで続けていて、結果としてこの「神の禊(みそぎ)の品」が何と増えているのだ。
室町期中期頃から江戸期中頃までの「禊(みそぎ)の品」は、そもそも「禊(みそぎ)の品」と云うよりは「伊勢詣での土産品」であって、殆どが「伊勢」と云う「禊(みそぎ)の品の格式」を利用したものばかりと考えられる。
「伊勢神宮の「禊(みそぎ)の品」の条件に殆ど則わないのだ。
これは「平安期末期」までは、「伊勢新宮の殖産品」として格式化する為に「令・因事菅隷」に基づくものとしての「伊勢青木氏」が「禊(みそぎ)品以外」は「その「伊勢の力・伊勢王」で敢えて認めなかったのでは無いかと考えられる。
その「伊勢王歯止め」のこれが伊勢王で無く成った時からの「室町期」からは崩れ始めたと観られるのだ。
これが何時しか「伊勢青木氏」から手を離れ、「禊(みそぎ)品以外」をこの「二次産業」と「三次産業」として「蜘蛛の巣」の様に組織的にそれぞれの「禊(みそぎ)品以外の長屋群」を通じて「伊勢以外の各地」でも出来るまでに広がって行ったらしい。
この「経済の流れ」は「伊勢詣での品」に成って「禊品」としては抑えきれなくなったのであろう。
主にこれらの物は「奈良に向かう川沿いの支流沿い」にあって、ここにはこの「類似品」を造る「類似の禊品生産長屋群」があった事が伝えられ、この「長屋群の人の呼称・ここでは記載しない」までもあったと成っている。
既に、此れを観ても、「本来の禊(みそぎ)の品」の原則域を遥かに超えていたらしい。
然し、前段でも論じたが「伊勢」では、「古来」に於いてその「殖産地の適正地・櫛田川沿い」には、今で云う「コンビナート」、即ち、全ての「一つの殖産に関する取引」がある限定された「一地域」で賄える「体系」の様にして、ここにこの「正規の長屋群と蔵群」が構成されて進められていた様だ。
その「禊(みそぎ)の品1」の「生産の区別の特徴」は、古来では「一つのコンビナート」が「山と川と浜」に集中していた様で、要するにその「地形の高低」を使って「川」で流し、「舟」で「運搬」をして、「浜」に出て、そこから「二つ目の次のコンビナート」に運ぶ「システム」で、「港・泊」から「大船」で、「伊勢北部の集積地」に運び、「松阪の商業地」に運んでいたとある。
その逆もあった。
この「動力」は、「川の流れ」で「水車・青木氏部」を動かし、「水」で「洗浄」などしていたらしい。
上記した「禊殖産の産品」は、この「コンビナート」のこれに「適合する物」が選ばれていた事が解る。
取り分け、記録に遺るところでは、所謂、「禊の川・A」は、主に「北勢」に集中して「櫛田川」を始めとして「21に及ぶ川」が適度に分散し存在していて、当に「コンビナートであった事」が解る。
故に、然し、「室町期」から興ったこの上記した「本来の(みそぎ)の品の域」のその「以外域品・禊ぎ品2」ではその生産場所が奈良域と限定されていて、主に「奈良県よりの北勢地域・B」に分散集積していた事が解っている。
飽く迄も、「神に関わる禊」を前提としていた為に、この「川の事」を“「禊の川」”とも呼ばれていた時期があったらしい。
さて、ここで論じているこの「禊ぎ品」の“「食用油・南勢・下記」”もその中の主な一つであるが、「伊勢」は結果として「全国の最大の殖産品」の「一大産地の国」に仕立てたとあり、取り分けにこれに「食用油の生産に力」を入れていた事が記されている。
この「禊ぎ品の食用油」は、その域を超えて中でも「交易品」としても使われたとあり。その得た「利益」の代わりに当時としては「貴重な石油の卸問屋」も営んでいた事が判っている。
この事は幾つもの記録にも記されている。
「禊の食用油」が「禊ぎの域」を超えて「貿易」に繋がったとして珍しがったとある。
「伊勢青木氏の院屋号」の「院」に対して、その「業」に対して「商い」をも行う時に与えられる「格式号・屋」があって、「朝廷の認可」を得て「・・屋」と公に号する事ができるのである。
然し、この「禊ぎ品が交易に使われる事」への「疑問」が不思議に無かったとある。
これはどう云う理由であったのか資料に残る筈である。
注釈 資料を調べる範囲では、平安期までは「院屋号」は[朝廷の認可の公認物」であって、幕府期ではこれを乱発して「莫大な利益の獲得源にした事」で、その「認可公認の価値」が無く成り、遂には「ある程度の利権」を獲得する為に「金品を支払い」、且つその「届け出の範囲」で「身分格式無く勝手に使える様に」、遂には成って仕舞ったとあるのだ。
江戸期ではそのに認可は幕府が行うものとしてそのレベルは無制限に成ったのだ。
ここで云う「院屋号」は、室町期中期前の認識とするものである。
これでこの「特権を与えられたこれを持つ部経済」から始まった「紙問屋の伊勢屋の商い」の「当初は「紙」を主として「業と商の屋の対象」と成って、朝廷が認める「業と商いの利権・殖産」を獲得し、其れを以って全国に販売されていた事に成る。
そして、その「院・屋・号に合わした特権」で「収益」を挙げ、その何割かを献納する形を執っていたのだ。
それが故に、当時では「摂津」や「大阪・堺」に「商いの場」が代わる前は、「伊勢」は、未だ「殖産地と販売地」の「現在の大阪の様な商地」でもあって、これで伊勢では古来では“「屋の地・禊の地」”と呼ばれていたらしい。
恐らくは、前段でも論じている奈良期からの「7割株を有する伊勢水軍の発祥」も、この「殖産の地」の「屋の運搬の結果」から生まれたものであったものと考えられる。
それが「摂津水軍」、「瀬戸内水軍」等と「販売地拡大」に伴い、その「殖産地」へと伝播していったものであろう。
その「証拠」に其処には前段でも論じている様に必ず“「青木氏の裔系」”が存在するのだ。
資料から調べると,流石に「院」は鎌倉期、室町期、江戸幕府に於いても乱発は観られない。
それは一つには「院の号の意味合い」には、「皇族」の要するに引退に相当する居に対して付されたもので、それを以て一つ徳行を成した得た事を意味する事から、社会に対して「功績をもたらす業」、即ち、「殖産」を興した事に対して、「院の格式号・貢献」を与えるとするところから発している。
従って、「院」は「殖産業・起業をもたらした者」に与えられていたので、誰でもと云う訳には成らず勝手に誰でもとは成らなかったのだ。
そこに、「認可」は上記の由来より「府の時代に成っても認可は「朝廷」であって伝統的に格式を重んじたのだ。
つまり、当然に青木氏に対しても「格式を重んじたと云う事」に成っていのだ。
故に、「交易の理由」はその範囲で許された事に成ったのだ。
百々の詰まりは、「格式の前」には「献納」が大きく期待されたからだ。それが有史来からの因の持つ伝統であったからだろう。
要は「青木氏」とは事を起こさないで任すが得策であったろう。それは「院号」の朝廷との特権を持っているからだ。
唯一つ、ところがここに「不思議な事」があって、この中には「古来」に於いて“「酒の殖産」”だけは「明治35年頃」まで「伊勢」ではその「殖産地」ではなかった事なのだ。
“「お神酒」”とすれば、又、上記の“「禊(みそぎ)の地・伊勢神宮」”とすれば、その「代表物」であった筈で、そうであったとしても何の不思議はない筈であるが、当時は未だ「禊(みそぎ)の物」の中には関連品も含めてもこの記載が無く、何故か「禊ぎの酒の殖産」だけは無かったらしい。
と成ると、これは「伊勢の神」の“「禊(みそぎ)の地の前提では無かった」”と云う事に成るが、果たしてこれは正しい事なのかであり、検証して観る必要がある。
それは、“「禊(みそぎ)の地の前提」”として、そこには、「一つの意味」が潜在していたのだ。
これには「解明できる要素」がある.
それは、寧ろ、「禊ぎ」と云うりは、“「薬」と「茶・薬用」”が最も“「神の物」”として尊ばれていたとする記録に先ずあるのだ。
これは「見逃せない当時の古来定義」である。
それは「中国」に於いても「大和」に於いてもである。
この事が重要であって、要するに、「禊(みそぎ)」のそれには先ず「浮き上がってくる条件」がある。
それには、そもそも「禊ぎ」は、そもそも「日本古来の慣習」では無く、「中国の神の慣習」そのものであって、その為に「大和」では、“「中国の影響」”を大きく受けいて、その「禊(みそぎ)の主眼」が、中国の“「漢方薬」と云う点”にあったのであろう。
それは、記する処では「中国」では、「禊(みそぎ)」=「漢方薬」であったという事だ。
「禊(みそぎ)」=「漢方薬」は、現在に於いても“医学と薬学」”が進んだ中に於いてでも、依然として「人間とウイルスとの戦い」である事は否めないが、その解決の一役を担っているのだ。
古来、「中国の先史時代」の「三文明後」に、先ず「国の形」として「那の国」から始まり、その「那の国」が先ずは「国体の原形」を定めた。
ところがそれを「秦」がこれを「完成した形」にしたのが中国では興った。
その国では、“石は薬の諺”があつて、現在でも中国ではこの考え方の根幹としてこれは信じられている。
事程左様に、要は全ては「薬」であって、これは「漢方薬の所以」であって、中国に於いてさえ「禊(みそぎ)」=「漢方薬」”には何の不思議もなかったのだ。
そうすると、故に「奈良期の初期」の「禊(みそぎ)」=「漢方薬」は納得できるが、唯、大和では、「禊(みそぎ)」=「漢方薬」だけの事では無かったのではないかとこれには「疑問」が湧く。
その「疑問」が「禊(みそぎ)」であるとなれば、「禊(みそぎ)」=「漢方薬」は「全ての民の現実の問題」であったと考えられる。
奈良期の「古来」に於いては、それがハッキリさせているのだ。
“「薬」と「茶・薬用」”に考えられる事は、同源であって、それが、“神の「禊(みそぎ)の物」としては、“人を癒すもの”が「主眼」として考えられていた事に成る。
ところが、そして、この“「酒」だは違った”と云う事に概念は成っていたのだろう。
では果たして酒と茶がどこが違うのかである。
当時は普通に「茶も薬であった事」が、これは「別の古書」にも幾つにも記されているので、“「薬」と「茶・薬用」”は同然の扱いであったと先ず考えられる。
「茶」は「水の代わり」の様に“親しむ”ように、「薬」と同然の様に一部の階級で親しんでいた事から、“「薬」と「茶・薬用」”は成り立つ事であったと考えられる。
これが「普通の感覚」で「医薬同源と云う事」であったのだ。
現実に「茶」には「カテキンと云う効果」が現実にあって、「過剰摂取の脂肪」には「薬」である。
要するに、「茶」が「薬」とするは、これは早く効くか遅く効くかの問題であって少なくとも間違ってはいない。
問題は次の「酒の検証」である。
確かに「酒」は、「茶」と同じであっても、その「質」は、兎も角も、「量」に起因しているが、「茶」はこの「量」にも「質」にも拘わらず「早い」か「遅いか」である。
古代では、要するに化学分析能力の無かった時代では、「概念」は違っていて「アルコール=カテキン」とも成るであろうが、ところが「古代」では、それでも「酒」は違ったのだ。
そこでこの「酒」が、そもそも「禊」には成らなかった「理由」は何なのかであって、この点にあって、「薬」としてはどのものに比べても「最大の効果」を発揮はすれど、先ずは「考えられる事」は、「人の物」としては別としても、“「神」”に「純粋に捧げる物・禊物」としては「純粋」に選ばれなかったのでは無いか。
「天岩戸の事」から始まり歴史的には最初に出て来る色々な意味の「薬」ではあるが、ところが「伊勢神宮の禊」には選ばれていないと云う事なのだ。
此の処が既にここが「中国」とは違っていたのだ。
もう一つは、「遷宮の地」の伊勢以外は、別として、「伊勢」では、「米」も然る事乍ら、決定的に違う事は、“「よい酒用の米・明治初期まで」が採れなかった事”にあるのでは無いか。
現実に気候と地質と土壌が悪くて「明治中期」まで採れなかったのだ。
これが講じて「禊の条件・伊勢の産物」と成っていなかった事も考えられる。
だとすると、ここには何かに正式な相当な記載があるべきものと成るがどうか。
では更にここを「古書」で検証する。
「上記の事」がハッキリと記録されているのだ。
又、「朝廷」はこの「ある事で伊勢の事に悩んでいた事」を示す事にも成る。
先ず参考として、「史書・古事記」の「経緯」に依れば、「天武天皇・673年~686年」が「稗田阿礼」に「古事記」の「正しい記録」を誦習させた。とある.
これに始まり、この「作業」が「天武天皇の崩御」でこの「誦習の事業」は一時中断したが、その後、「元明天皇(707年―715年)の命」で、再びこの「稗田阿礼」が“誦習した”とある。
この“誦習した”の所に意味が隠されているのだ。
何で何の為にどこを“誦習した”のかである。
そして、この“誦習”とはどの様な作業であったのかである。
そもそも、「古事記」そのものが未だ時代も過ぎてもいないし、ボロボロには成っていないし、内容も違って大きくは違っていないだろうし、故に、この“誦習した”には「特別な意味」が見いだせない。
「漢字の間違い」を直した訳でもないし、然し、“誦習したとするほどに”、する程に大きな理由が生まれたのだ。
筆者は、この事に就いて次の様に検証している。
「伊勢神宮への遷宮」が、「天智天皇」に依って「紀州日前宮」より「帝紀に書かれている事」により“「環境条件」が整わない侭に、「紀州の日前宮」から移してしまった史実”である。
何も「遷都」であっても「日前宮」より「遷宮」を直ぐにしなければならないと云う事ではない。
「遷宮}は「安芸」から始まって「69回の遷宮」を行っているが、「遷都」と同時に「遷宮」も同時には必ずしも行っていない事例はあるのだ。
「遷都が落ち着いた後」でも「遷宮を行っている事例」もあるのだ。
この事は「別の記録」にも記載されている。
「紀州日前宮」の場合は、この最たる例であって、「飛鳥」から「近江大津宮」に「5年間の遷都」にして「神宮」は「伊勢」であって、その前に於いてはその最たるもので先ずあったのだ。
そこで、この「天智天皇が始めた未完成の遷宮事業」を引き継いだ「天武天皇」は、何とか「環境条件を整える事」に専念したが、それでも上記の通りで「誦習で出来ない事」が生まれていたのだ。
これで、「遷宮の環境条件」に「矛盾等」が発生しない様に、先ずは「古事記の見直し」を二人の官僚に行わさせたと云う事である。
それに合わせて、現実に「伊勢王」の「令外官を務める伊勢青木氏」に対して「因事菅隷」で以て合わせて「環境整備」を施させようとしたのだ。
「天皇以外」に「伊勢王」に向かって、仮に「伊勢王」では無くても永代の格式があって「仕事を命じる事」は「永代の浄大壱位」である限りは出来ない。
例えば、「伊勢青木氏」より格式の低い「太政官の一官僚が命じる事」等が出来ないので、取り分け「皇族賜姓臣下族」と成っている「賜姓臣下族の氏族」に対しては、この「面倒の命令」の「伝達方式」の「因事菅隷」で「天皇の言いつけを伝える事」と成ったのだ。
その証拠に、この時、「因事菅隷」を「伊勢青木氏」だけに発しているのだ。
「伊勢」ではこれに合わせて、前段でも詳しく論じた様に、この為に「多気に斎王館」、「寺に十二女官の準備」、「尼寺の建立」、「伊勢神宮の整備」、「日前宮の処置」、「菩提寺の整備」、「分寺の建立」、「聖域の整備等」、この時期に「伊勢青木氏」は多く手掛けているが、これがその時の「神宮に対する環境整備」であったのだ。
「多気に斎王館」、「寺に十二女官の準備」、「女官の住まい」として「尼寺の建立」等のどれを執っても「伊勢青木氏」に直接的には関係はない。
例え因事菅隷が出ようと関係は無いが出した。
「賜姓五役」や「令外官」としても、又、直接に「神宮の事・国」であっても関係する事では無い筈で、例え伊勢の事であるとしても「国政の事」であって、これを「賜姓五役」を前提に「因事菅隷」で無理やりにやらせたと云う事であろう。
これが“誦習した”の所に合せたとする所以なのだ。
「朝廷の官僚」から観れば「青木氏」は便利な氏族であった筈だ。
「天皇の言いつけ」として「令外官の因事菅隷」を出して形付けて置けば済み、「紀州日前宮の在り様」に合わせて「政治的」にも「経済的」にも何もかもしてくれる便利な「賜姓臣下氏族」であったろう。
元々は臣下したとは言えそのような「不確実な立場」には生まれているのだから文句の出無いところであったろうし「院屋号」を多く持つ「伊勢の50郷士衆の氏族」である。
文句の出せない処であった事は頷ける。
そして、この「紀州日前宮の整った内容」を精査して、更に「見直し」をさせて提出しこれを改めて「太安万侶」が書き写し「712年」に再提出させたとあるのだ。
そして、この「古事記」に初めて、“「酒の事」として「神饌・神の供物」”として申しでて、“誦習を意味して追記して書かれた事に成る。
つまり、「重要な事」として「神宮としての環境条件」が完全に揃っていた「紀州の日前宮」から、余りにも整っていない「伊勢の神宮」に対して「伊勢青木氏」は「それなりの事をしなければ成らなかった」のだ。
注釈 「紀州日前宮]からの「遷宮」には、「神宮としての環境条件があまりにも不整備である事」から、「時期は悪い」として「官僚や皇親族」には反対が多かったと記されている。
この事が“誦習に走らせた理由なのだ。”
そこで、これを“誦習の字の如く「追記した事」に成るのだ。
そして、この事を「伊勢青木氏」が成した「環境整備の事」に合わせて、更に「類題三代格」の「平安中期の延喜式目録」にもこの事を記載し、この事を正式に「令を出した」として遺している。
この事を新たに令として、“「神饌”の神事」として「追記する事」に依り「900年頃に改めて定めている事」に成るのだ。
然し乍ら、主に「神宮移設の設備的な事」が「伊勢青木氏」に依って整えられて進められていたが、ところが「紀州日前宮」に比べて「絶対に整えられない事」があったのだ。
それが、先ずは「米による酒」と「飽浪社の不整備」と「帝紀が定める聖域の条件」が遺っていたのだ。
つまり、この「記録の示す事」には、「平安中期の延喜式目録」の記載の通り、「平安中期・900年頃・712年から約190年間」までは、「この事の示す処」は、飽く迄も、“「慣習」”で繋いでいた事と云う事であったとして、“「正式行事」”としては「定められていなかった事」が記されていた。
これが歴史的な事には成るのだ。
この事は、要するに、“「伊勢神宮時代」”にはまだ「酒は禊では無かった事」を意味するのだ。
では、この“「正式行事」として暫定的に扱われていた期間は何時か”であるが、これには明記はされてはいないが、“「来米の赤米・原種稲」”であって、唯単に、これに「麹菌」を加えただけの“「発酵古来酒」”であった事を示していて、これを以て、取り敢えず“「伊勢神宮の「神饌」”としていた事を示していた事に成る。
始めからではなく追記であって、「紀州日前宮」の様に「正規の酒の神饌」ではなかったのだ。
そうすると、「紀州日前宮と同じ禊の条件」としては、「完全に成り立った時期」なのは、「正規の酒の神饌」が出来る「土壌改良で造った明治初期」と云う事に成るだろう。
ここまでは「正式の神饌では無かった事」に成る。
これを唯単に「伊勢神宮の儀式」では、「神饌」として“「来米の赤米・原種稲」”を伝統であるとして「こじつけていた事」に成るが、上記の記載の事実の通りなのだ。
この「参考の事」に関して、“これは何故かである”が、それを次に証明する。
それは「伊勢の土壌と季節性と地形」にあって、長い間、“「良質米の穀物生産」に向かなかった”と云う事にある。
これは「多くの史書」にも記されている事であって、「列島の伊勢の地形・日本海から吹き下ろすくびれ部分」にあったので、「若狭湾から敦賀を通じて桑名」に「流れ込む乾燥する地形」にあったろうし、又、「列島形勢時の成り行き」から「典型的な花崗岩の地質・糸魚川線を境に左側の地質」であって、この「土壌」では「真砂土壌」であり、保水性が掛けていて、「米生産に向かなかった事」にあるのだ。
どんなに騒ごうと「伊勢神宮」では、「紀州日前宮の環境条件に拭う事の出来ない物理的な条件に多く欠けるところがあったのだ。
この事では、前段でも論じたが、「伊勢青木氏」は、「土壌改良工事」に「莫大な私費」を投じて行われた事が「青木氏の資料や口伝」でも伝わっている。
つまり、この事は「伊勢」には、長い歴史の中で、唯一、「神饌を造る土壌に欠けていた事」を意味し、それを成す「公の財源」に長い間、「伊勢王・地権を7割」で無く成った時点の限りに於いて欠けていた事に成るのだ。
「欠けている神饌」を獲得する為のその「財源」を誰が出すかにあったのだ。
そして、その「工事」そのものを誰が行うかにあったのだ。
前段からも何度も論んているが、「伊勢の事」を良く知っている「古来からの土木工事」は隣の「額田部氏」であって、経験も豊富で、「全国の青木氏との繋がり」は奈良期からで親子の様に極めて深い関係を保っていた。
明治期に於いてでさえ「青木氏-額田部氏の関係」が成り立たなくてはこの工事は成し得ない事であったろう。
明治期には、「額田部氏」は額田に「土木会社」を構えていたし、「青木氏部」も独立して「宮大工の会社」と「施工会社」の「二つの会社」を設立していた。
やっとこの「条件」も私的に成立したと云う事に成るだろう。
結論から、「資金と施工」は「伊勢屋の伊勢青木氏」からの「出資と施工」と成ったのだ。
これを成す「額田部氏の施行工事業者」が引き受けてくれるかであった。
先ず、「広大な地権」を「基本域」にして、それに伴う「干拓灌漑と土壌改良」を行い、問題はそれに接する地域の干拓灌漑をどうするかであってもその数は「約3割の地権者」であった事が伝えられている。
この時、未だ「伊勢の大字の約7割・地主」は「青木氏の地権域」であったと伝えられ、これを主体として工事を行えば、後の残りの「約3割を債権補完の干拓灌漑」に成り続けて「帰依した事・約定」に成った伝えられている。
注釈 「明治6年から明治12年」にかけて「地租改正」を行い、「地権者」を細かくして「土地売買を自由にする事」と成ったのだ。
「伊勢」も同然であったとされ、そして、「地租の現金化」を実現した事が記されている。
ところが、この時の「伊勢の 地租改正」には、「地権域」が多くとも3割と成っていたと記されている。
全国的には「土地の私有制度」と「明治政府の財政的基盤」を確立させた事として効果があったとされるが、全国的には伊勢は低いものであったと記されている。
この時期のこの「地租改正」には、「伊勢青木氏の干拓開墾」は当然にそれは「氏族・郷士関係」が働き、その「独立対策」の為にも先ず「伊勢青木氏の開墾と投資」で行われたのだった。
「地権の7割」は元より「古来からの女系血縁の氏族50郷士衆」の管理下にあって、これに対してにも「干拓灌漑の工事や米種の開発等」を先んじて行ったとある。
「残りの一般3割」は「伊勢村主200人衆」に解放されていたとある。
其の後の経緯として大きくは、その後に行われた「戦後の農地改革開放」で、この「灌漑干拓が済んだ地権」ともに全てを「伊勢郷士50人衆の氏族」に「無償」で引き渡す結果としたのだ。
「神饌」を獲得する為の「干拓灌漑土壌改良の効果」が、これで遅れて「戦後」に広く齎される結果と成ったのだ。
これは「当時の流れ」としては「氏族であった事」から当然であった。
要するに、「稲作を可能とする域」の「土壌改良工事/干拓灌漑工事」である。
さて、そこでこの「伊勢での米生産の為の大工事」は、口伝とその記録と郷土史に依れば、「明治期の中期頃」に「筆者の祖父の弟」が「信濃と越後の青木氏の親族」に修業して帰り、「伊勢の土壌と季節性と地形・額田部氏協力を仰ぐ」に合う“「米種の開発」に先ず長年に掛かけて成功したとあり、この為に「倒産寸前」までの「莫大な私費・資本」を投入したとあるのだ。
この時、「青木氏の中」で意見が大いに分かれ、結局、話し合いで「四家の福家」を「実行派の弟」」に譲ったとある。
この時、合わせて「火災」にも見舞われ「先の福家・祖父」が責任を執ったと云う事もあり、又、「明治期の大富豪ら」に向けられた「体制側の嫌からせ」もあって、「福家の権利を窯の灰」まで譲ったとされる。
それが“「米種の開発」に成功し続けて、その後に「日本」でも初めて「米と酒の早場米の開発」にも手掛け成功していて、その「米種等」には「実行派の弟・祖父の弟の名」が着けられている。
その結果、それまでは、「お神酒の神饌」に就いては、古来では「伊勢」では「悪質な土壌・真砂」でも出来る「古来米の赤米・原種稲」であったとされ、それが、「唯単に麹菌を加えてだけの発酵古来酒」を造っていてそれを「神饌」とされていた事が書かれている。
「伊勢青木氏」が「古来の伝統」としてこれを引き継いできていたが、これを「実行派の弟・祖父の弟の名」が自ら「福家」と成って、最後の一つとする大環境条件を変えたのだ。
この結果、「伊勢」ではそれまでのこの「福家であった祖父への呼称」が代わり、「福家が代わった事」で「御師」や「氏上さん」から、新たに「徳宗家・徳宋家」と呼ばれる様に成ったと記されている。
これには「長年の伊勢の願い」であった「米の出来る土壌改良」に「伊勢を変えた事による感謝」が基本にあったとされるのだ。
この古事は、「712年とする古書の内容」の経緯と一致しているし、「900年頃の慣習」の経緯と一致している。
それ故に、この「古来酒」は、“「禊(みそぎ)の品」とは成らず、当然に「神饌品の域を超える事」が「明治中期」まであり得なかったのだ。
簡単に「伊勢の土壌と地形と環境」は替わる事が無く、「伊勢神宮」である限り「他の地の酒の神饌」に上がらう事も出来ず、必然的に「禊への品を超える事」は出来なかったのだ。
では、どうして「平安中期頃」から正式に「神饌」と成り、「禊の品」へと近づいたのかである。
普通では、「土壌改良をしなければ成し得る事」は無い筈だがそれが成っているのだ。
それは、上記した様に「禊の品の前提」には、古来から“「薬用」とする大前提”が強くあった。
「紀伊国」から「伊勢国」に遷宮した以上は、「お神酒の神饌」は「紀伊国」では出来ていたのに「伊勢国」からも出ていなければならず、「遷宮の環境条件」として「不整備」であった以上、それが「天皇の悩みの種」であったとしていて、その「切っ掛け」としていたのが、上記した「天武天皇の古事記の見直し」にもあった。て、その為に努力したが、結局は少なくとも「平安中期」にまで、「伊勢神宮の神饌」として「類題三代格の記載」の通り「正式決定を持ち越した」のは、この「定める根拠が無かった事」に依るのだ。
「遷宮に於ける環境整備の不備」はここにあった。
では、それはどういう根拠なのかである.
そこで、取り敢えず「禊の品の前提」の“「薬用」とする前提”を古事記の“誦習で追記して補って使ったのだ。
これを米どころの「紀伊の日前宮」で国で行っていた「神饌」を、“「伊勢神宮の神饌」”とは成らず、それだけに一段落させる事として、これを“「薬用」”とすれば、「伊勢米の赤米」の「良し悪しや量」に関係なく、“「薬用」とする前提”として、又「禊の品の前提」として「伊勢」でこれを“「殖産」”とすれば、兎も角も何の問題も無く成る事に成る。
これが「上記の古書」に記載する“「慣習と云う形で引き繋がれた事」”を意味するのだ。
つまり、この“「薬用」”にすれば、「良し悪し」は関係なく、「量」を多くし「殖産として生産」できるとしたのだ。
これを「伊勢青木氏の殖産の末」に依って成されたという事である。
ここで、“「この事」”で「大きな史実」に一つ気が着く事がある。
“この「禊の殖産」を「伊勢」で進めていたのは誰か”である。
これがこの「259年の間の伊勢王の務め」であったとすると、「神饌の位置」から「薬用の禊の品」に「帝紀などの決め事」を移させたのは、「施基皇子の後裔の青木氏」であったと云う事に成る。
記録に観る様に「紀州日前宮・官僚の反対が多かった」から、まだ「日前宮」に比べて充分に「遷宮」に対する「環境整備」が整わない侭に、「不完全な遷宮とそれに伴う因事菅隷の殖産を無理に進め差した天智天皇」と、それに依って「歪み」が出たのだ。
この事に気づいて「古事記等の誤りの修正を命じた天武天皇」と、平安中期に「神饌決定と薬用の名目と禊の品の殖産の前提」を、「施基皇子の後裔の青木氏」に「因事菅隷」として命じたのは「仁明天皇」であった事に成る。
だから、「平安中期」なのであって、その役に立つ「青木氏の裔系」を再び「賜姓と云う形」で拡大させたのが「円融天皇・960年の賜姓」であったのだ。
兎も角も、「賜姓族」と云う「天皇の繋がりとしての氏族」を身近に多く整える事に政治的にも経済的にも必要に迫られていた事に成る。
注釈 だから、「青木氏の裔系」のこの論じている「青木氏の歴史観」の「時代の進捗」から「嵯峨期の策」は間違っていたと後裔の筆者は論じている。
朝廷の周囲もそのような環境にあったにも拘わらず、逆に敢えて一時的に感情的に成って便利な賜姓族や皇親族を外したのだ。
「紀伊日前宮」から「伊の勢の国」に移す事は「大反対」を受けていた事は多くの記録にも記載があり、この為に暫くは「伊勢神宮としての準備」が滞った事が記録されているのだ。
一時、「放置された時期」があって、「天智天皇崩御後」に上記した様に「天武天皇」が「神宮としての体制」を整えさせ、その間に「神宮」に絶対に必要とする「浜の宮の海神の神」の「飽浪社・飽津社」も一端先ず日前宮から切り離し、「六十九の遷宮」の「神宮全ての絶対条件」として定められていた「日前宮の神域御領」をも半減させて、「神宮の資格・格式」を落として、「伊勢に移すと云う事」をして、「伊勢の神宮の体制限界」に合わせさせてこれを整えたのだ。
「安芸から始まった遷宮社の約六十数社」の「元の遺った全神宮」は、「有史来」から元は「飽浪社・飽津社」が源である。
もっと云うと、「人類の神の祭り」は元は「飽浪社・飽津社」から始まったのだ。
それ故に、少なくとも「飽浪・飽津の岬」、即ち、「半島の先端の波うち際」の頂上に「海」に向けて「祠」を設けて祀り、ここを「神の居住」として迎え「満月の夜」に「お神酒・神饌」を捧げて歌い踊りして「神」を楽しませて迎え入れたのだ。
其処が、「飽浪の飽津の岬と呼ばれた事」から後に「飽浪社・飽津社」と呼称される様に成ったのだ。
この事がこの「帝紀」に書かれていた事から、「神饌」を捧げる「飽浪社・飽津社」とその「半島域を占める御領」は「神宮の最低条件」であったのだ。
だから、当時はこの「飽浪社・飽津社・飽津の岬」の無い「伊の勢国の宮」は「天皇家の本来の宮」では無いとされていたのだ。
「神宮の祭りの源」は、「飽浪社・飽津社・飽津の岬」から始まっているのだから「神宮の環境条件」では抑々無いのだと世間は騒いだのだ。
又同時にこの「源の飽浪社を保護する杜」も「聖域」として「環境条件」とはなっていないのだ。
此れが「伊勢」では大きく欠けていたのだ。
未だ「決定的な条件」として「神宮」には「幾つかの条件」が完全に欠けていた事があった。
例えば、「神宮は南の小山を背に北向きに建てられる事」
「神宮の右傍らに神宮を清める小川が流れいる事」
この「小川」を「紫の川」と呼ばれ決して「濁らない川である事」
以上等の「細かい設置の環境条件」が帝紀などで定められているのだ。
故に、この「伊勢の遷宮」に大反対を受けていたのだが、ところがそして、これを「二人の天皇」が「ごり押し」をしたので、暫くは「伊の勢国の遷宮」は進まなかったのだ。
現在の「宇治館町1」にある「7世紀に建立された跡」は、この時の「不備の建物」であってこれを観ると確かに「上記の建設条件」は全く整っていない。
それを直せる処は直しても少し横に建立したのだが、「決定的な上記の条件」の「飽浪と飽波社と飽浪祭礼」やそれを成す「聖域範囲」は依然として満足していないのだ。
それを「天武天皇」に成って、兎も角も、「妥協の神宮」を造り上げたが上記する様な「矛盾」が多く出たのだ。
そこでどうしても出来なかったのは、この「「飽浪社・飽津社の移動」であった。
そこで、どうしたかであり、その策が「神宮としてよく無い・姑息だ」として批判を受けたのだ。
この「飽浪社・飽津社」のある「日前宮」ある「紀州浜の宮大御領」を「日前宮から切り離す事」を先ず考えた。
何と“「切り離し」”て「神宮の要件」を敢えて下げて、「伊の勢国の遷宮に移す事」に兎も角も書類の上では成功したのだ。
「長い間の「神宮であった紀州日前宮」が、「朝廷の神宮」とされていたが、この比較する「神宮の存在が紀州では無く成る事」で、「大反対の官僚族」は別としても一般の民の反対をも避けたのだ。
「西域に存在する御領域」は、「日前宮の方を小さく切り離する事」で兎も角も解決したが、「神饌」を捧げる「飽浪社・飽津社」の前提の「飽浪社・飽津社を切り離す事」でも妥協したが、「飽波社の存在」と「神饌」だけは無理であったのだ。
それが上記に記した「古書」に記されている「900年頃」までは正式に決められなかったとする事由であったのだ。
注釈 これ等は何度も角度を変えて前段でも論じた事であるが、実は「万葉集」にもこの事で何句にもこの「切り離しした浜ノ宮の存在」を「哀しげな歌」で読まれているのだ。
これは平安期になっても長くこの事が人々の心に残っていた事に成るのだし、当時としても長く大変な話題であった事を示している。
万葉集以外にも天皇等の熊野詣でも郷土史でも数えきれないほどに哀歌として詠まれているのだ。
受け取り方では批判的にも詠みとれる。例として次の歌がある。
・・・和歌の浦 潮満ち来れば片男波 芦辺を指して 田鶴鳴き渡る・・・
此処は日前宮も含めて名所旧跡の地で、歌の裏には哀歌の意味が込められているのである。
後の世迄この様に批判されているのである。
では「歴史の経緯」では、どうなのか。
この平安期の“「900年頃」まではその後に全て決められたのか”と云うとそれは明確ではないのだ。
この頃に関連して「伊勢の経緯で決められた事」と云えば、「円融天皇の藤原秀郷流一門の第三子に青木氏を永代に賜姓する事を義務付けた事」だけである。
これが「伊勢神宮の神饌等に関わる物」なのかである。
それまでに「伊勢」では、「多気の斎王館」とそれに関わる「女官などの管理システム」等を構築して「青木氏に依ってこれを補完する体制」を整えられている。
これを「伊勢青木氏」から観ると、依然としてこの「神饌」は解決されていないのだ。
「伊勢青木氏」だけに拘わらず「信濃青木氏」と「秀郷流青木氏」にこれに関わる補完が成されていたのでは無いかと観ているのだが、そこが歴史は定かではない。
つまり、「朝廷」に於いてでさえ「伊勢での正規な神饌を造り出す為の干拓灌漑と米種の変更等」は、到底、「その全ての必要とする能力」が揃わなければ容易に成せる事では無かったのだ。
鎌倉期、室町期、江戸期での「朝廷の力」は到底無理であるし,幕府も同であるかも疑問であった筈である。
そうすると、既に「伊勢王」ではない「伊勢青木氏」しかない事に成るが、「3幕府期間」に於いて「巨万の富」があったとしても無理ではなかったかと思わせる。
それは条件が揃っていなかったのだ。
況して、「唯一これを成せるの専門土木業の額田部氏の協力」を得られなければ成す事がならなかったのだ。
3幕府期間はこれは何故か無し得る条件は揃わなかったと云う事であろう。
推測の域を出ないが、「奈良期後期・光仁期」に一時遣ろうとしたのではないだろうか。
ところが期せずして「多くの皇族の者」が死去して「額田部氏は古墳群の築造」に追われた。
そして、又、「平安遷都・桓武天皇」が行われたが、この時に事件が起こった。
この「額田部氏」は、「平安遷都築造の命令」に従わず罰せられた。
此れを密かに「伊勢青木氏」が北勢に一族を匿っていた。
当然に、「匿っていた伊勢青木氏」も「伊勢の事」には手は出せなかったのだ。
そして、遂には「伊勢青木氏」も「嵯峨天皇」に依って「賜姓族」を外されたのだ。
依って「伊勢神宮の事」は万事窮すであったのだ。
注釈 この様に、“「余りにも長い間の神饌が無いという事」”は“それなりの「より良い妥協策」を青木氏の中では済ましていた”と言う「仮説」が成り立つ。
その「仮説」が、「酒の本場の信濃・青木氏」から「代わりの神饌」とし密かにて運んでいたと考えているのだ。
将又、「武蔵の秀郷流青木氏」から「伊勢青木氏に届いていた事」も考えられる。
だから、「莫大な私財」を投じて「明治初期の祖父の弟の酒米と早場米の開発」を縁戚の「信濃と越後」から習い「伊勢」に広めて「初めて神饌」が成立したのだ。
この事の詳しい事は直接詳しく口伝で耳にも伝わっている。
注釈 「青木氏の伝統 33」-「青木氏の歴史観-6」や25等で多く論じている。
「神饌の経緯」としては上記の通りであろう。
こう云う事から「伊勢神宮」にも貢献して関わっていた事から、「賜姓族の格式」とは別に「伊勢青木氏」は、平安期には「氏上様」「御師」と、明治期には「室町期の律宗族」から“「徳宗家」”と呼ばれた所以と伝わっている。
事程左様に、何度も論じるが、“「お神酒の経緯」”には“「神饌・神への供物」”で扱われていた事が事実だが、“「禊(みそぎ)の地の前提では無かった」”と云う事だ。
「奈良期の古来」では、「神饌扱い」ではあったが、「禊扱い」では無かったという事だ。
そしてその「誤りの多さ」に気の着いた「天武天皇」が、「古事記全体の見直し」を含めて「帝紀」として見直す様に命じたが、その中でも「正式な儀式の事と禊の事」として定められたのは「900年頃」であり、それを遅れて「延喜式目に書き写した」と云う事なのだ。
「嵯峨天皇」に依って「賜姓族」は外されたが、「伊勢を含む信濃と武蔵の青木氏」はこの経緯を知っていた事に成る。
もっと云うと、「有史来の神の式次第の供奉品の神饌」を「900年頃」まで中途半端にしていたのかと云う疑問がある。
そもそも「賜姓五役の令外官」として「朝廷の内部の式典」だとして放置できるのかの疑問が残るのだ。
それも「647年から900年までの253年間」の近くも「放置」は前段で論じた様に「伊勢」では実質の「伊勢王」であった以上としても、この「神宮の件」を放置は出来なかったであろうし、できないとする考え方に無理が無いだろうか。
少なくとも何某からの補完をしたとするのが普通ではないだろか。
例え、「嵯峨天皇からの賜姓族外し」に会ったとしても、これを「側面から補完する者」は「伊勢青木氏以外」に果たしていただろうか。
「伊勢の青木氏」を無視してそれをする事が周りの者ができたかである。
「永代の賜姓五役の役目を持つ令外官」であったのに伊勢に余計な事する者はいなかった筈だ。
仮に居たとしても「神饌」である以上は、誰て勢も扱えばよいと云う事には成らない。
それなりの格式を有する必要があって無理であったろう。
そうすると出来る事は、「赤古米の蒸留酒」では無く「信濃の神饌」を「伊勢」に秘かに運ぶ以外には無い。
「信濃の神明社の祭司」は、前段でも論じたが「伊勢神宮の御領」に負けじと劣らず広大な物で、其処でこの「信濃御領で神饌として造られていた」のだ。
注釈 この「信濃御領」は、「享保の吉宗」に依って半分以上は奪われ、この時を以て「伊勢と信濃の青木氏」と決定的な犬猿の関係と成った。
「諏訪-塩尻-松本-青木-上田-東御-小諸-佐久に至る囲まれる御領」であって「青木村で造られる米」から「神饌」を「信濃神明社」に奉納していたのだ。
此れを密かに「伊勢」に廻していた経緯であろう。
然し、「吉宗に神域の御領」を奪われれば、それもできなく成って仕舞ったのだ。
「伊勢と信濃青木氏の親族の仲」で、「信濃」にもこの「神明社の神饌」があって、それを「伊勢に廻さなかったと云う事」は先ず無いだろう。
不仲であったとするのならいざ知らず、「完全な四掟の前提を超える血縁関係」にあれば、「神饌に困っている伊勢神宮・伊勢青木氏・伊勢王でなくても」と成れば先ずいの一番に救うのは必定な事に成るだろう。
それが「享保期のこの事件」で出来なく成ったと云う経緯では無かったかと想像は容易に着く。
注釈 この事件もこの「天武期の紀州日前宮の前例」があったからではないかと思われる。
「江戸期の朝廷」がこの信濃の聖域を管理管轄内であった筈でそれを容易く認める事は無いだろう。
「朝廷・天皇家の生活に関わる程の圧力は脅かされる程のものがあったと考えられそれが「天武期の前例」を言い立てられた可能性があるのだ。
だから、未だ「江戸の青木氏・伊勢屋」に攻撃の無い内に「3日以内」に船で伊勢に引き上げて籠もり「紀州藩の保護・家臣の伊勢藤氏」に入ったのだ。
「紀州藩の勘定方指導の立場」にあって「10万両の債権」も持っていたし、「伊勢青木氏」は「蜜月の関係」にもあった。
「10万両の債権」は吉宗を「将軍」に仕立てる為の「軍資金」と「江戸経済の救済金」等のものであった。
「改革の30年後・吉宗死の直前・旗本騒動」には、ある日突然に「信濃青木氏」に手を出し「聖域や殖産や一族の者」を奪う凶変したのだ。
注釈 丁度、この時期に「円融天皇の藤原秀郷流青木氏」を「永代賜姓」に及んだのもこれらの「環境整備」をよりよく整えようとしたのでは無いかと観ている。
“「神饌」”であったものが“「薬用」”と成って行ったが、この同じ「薬用の植物油」に戻して、
ところが下記の通り「殖産物」の「禊扱いの薬用の植物油」では、古来より「桑名の米油」が「神饌」として扱われていたのだ。
これは逆に「良質の米」が採れず、その「貴重な米」を松阪域では無く、態々「桑名の米油・長良川」に一時は「飽浪社・飽津社の岬の条件」には外れているが「伊勢王」として考えたと云う事になろうか。
「伊勢青木氏」は、それを獲得しようとしたか「三野王」に[飽浪王と淀橋王の二人」を続けて嫁がせている。
ところが、「飽浪王」は「美濃」との「格式」から合わず別居独立し「飽浪院・清光院」を建てて、その地を伊勢の「施基皇子の字名」を用いて「一色」としてここに一族を構築した。
同然で続けて「妹の淀橋」も嫁すが合わず清光院に入り一族として過ごす。
これが前段で論じた「後の額田青木氏」が後裔である。
もッと云えば、これはそれ故に「伊勢の米の収穫」より「北勢」より南勢に向かって下記の通りにより進んで収穫は「植物油等」に特化して行った事を示しているのだ。
この「特化の植物油」はそれ程にいせ領域では重視していたと事に成る。
当時としては「珍しい事」で他の資料には散見できない事だ。
注釈 古来より「神宮」に奉納していたとするその「薬用の植物油」は次の通りである。
「桑名の米油」
「南紀の荏胡麻油」
「伊賀の菜種油」
「四日市の菜種油」
「岡崎の椿油」
「伊勢の魚油・海老油」
以上
この以上と「伊勢一国」に「神饌が無い事」からそれに代わり得る「植物油の殖産地」として成り立って行った事を物語り、これは「神饌が無かった事」を物語り、それに関連する情報とその後の経緯は実に多いのだ。
当然に「薬用」とする以上は、「伊勢一国の販売」では成り立たない。
そこで伊勢は「殖産としている禊の品」でありながらも伊勢だけに限らず「殖産した禊ぎの物」を全国に販売する伊勢詣での土産品に及ばず「全国的販売システム」を造ったらしい。
新たに販売システムを造ったかは疑問で、前段でも論じている「伊賀者」をより「香具師・情報網」に育てあげて、全国に販売網をより広げたと考えられる。
それがその古来より「青木氏の諜報機関」としてあった「香具師の存在」のシステムに載せた。
だからその経緯から観て、「禊ぎ品」は疎か「禊ぎ品」がこの「全国的な殖産品」に成ったものである限りに於いては「全国の香具師の販売網」に載っていないので、「伊勢」には「適切な神饌・日前宮の神饌相当」は無かった事はここでも判る。
此れだけの限られた「伊勢民の人員」を「植物油に割けた所以」は、「伊勢の米の収穫の無さと良し悪し」にもあった事が否めないが、それよりも“「薬用の油の禊(みそぎ)の所以」の方が強かった事に成る。
「薬用と云う名」の下に「伊勢神宮の禊」と云う事に成っている事以上に“その効能は信じられていた事”に成ろう。
これは「神饌が伊勢に無いと云う事」が、「禊の薬用に特化していた事」を示し、その間は確証は採れないが「信濃」からの「良質な神饌の補完・状況証拠」で賄っていたのであろう。
注釈 この「食用油などの殖産品の販売」を影の仕事していた 「香具師」について、この「平安期初期頃」から「伊勢」からは「油売りと薬売りの者」が全国に廻るとした記録がある。
そして全国各地に今で言う「チェーン店」を置いていたとする記録もされていて、「伊勢の伊賀青木氏の記録」にも遺る。
これを担ったのが、「伊賀青木氏」で明治中期迄この組織が働いていた事が記録に遺っている。
この「働き」をしていた「伊勢青木氏」を、“「香具師」”と呼ばれて「江戸期前後」では「甲賀者」と「江戸」でその「情報機関」としても「勢力争い」で張り合い、「情報収集専門の忍者」としても働いていたのだ。
云うまでも無く、何故、「植物油」が「禊(みそぎ)の所以」であったかは、この資料から読み取るとこれも上記のそれは“「漢方薬」”と云う「括りの点」にあったのだが、この「禊(みそぎ)の所以」には、当時としては“「食用」”と云うよりは、殆どは“「薬用」”に重点が置かれていた事であった。
その効果が「情報収集専門の忍者」とも成っていたのである。
この「伊勢殖産物の漢方薬と禊の品と食用品と忍者」がこの全国システムの所以を必然的に構成していたのだ。
現在では使われなくなったが「傷口や火傷や被れや腫れ薬等」として江戸時代から昭和の末期までは利用されていて、「香具師の呼称」からも「香具師と呼ばれる範疇・家庭常備薬」にあった事が解る。
地方に行けば現在でも「植物油の椿油等」は、一般的に油紙に浸み込ませて「傷口の防菌剤」など多様な薬用剤としての扱いに成っていたのだ。
其の後のこの「伊賀青木氏の香具師」は、現在に於いても関東以西に「漢方薬の薬屋・薬局」として定着した事が判っている。
つまり、要するにこの「禊(みそぎ)の所以」は、この「香りする植物油」も、「薬用となった神饌のお神酒」も結局は「疫病の防疫であった事」に繋がっているのだ。
注釈 その意味で、「伊勢青木氏の始祖の伊勢王の施基皇子」から始まったこの「禊(みそぎ)の所以」の“「殖産」”に対しても、この「植物油」も“背に腹は代えられず”に室町期には“「銃開発の冷却剤・魚油/殖産の工業化」にも使った”と云う事を物語っているのだ。
当然に、これには「皇親族」で“「令外官」としての「特権」”を以てこの“「殖産」”を進めていたのだ。
故に、この「薬用や食用油の歴史」は、その途中では「・嵯峨期」には抑えられたが、この「時代・7世紀頃」からの「伊勢青木氏の裔系」が画する「青木氏部の殖産品」であったのだ。
この「禊の歴史的な経緯・流れ」から観るとこの「植物油」は「禊品の殖産」に対して大きな重要な位置を占めていたのだ。
だとしても、「伊勢青木氏と平安期の嵯峨天皇との対立」も今この事で「青木氏の殖産をした後裔」として考えて観れば、この“「禊(みそぎ)の所以」”の「植物油」にも、「疫病の防疫の点」では古くから影響していたので、「嵯峨天皇派」に執っては「単純な事」では無かった筈であろう。
その一時は「伊勢の出自元」に感情的に成って強硬に出たが、上記する「伊勢神宮との軋轢と問題噴出」もあって、結局は最終的には「伊勢青木氏の力・出自元」を借りなければ何とも成らず「妥協策」に出る以外には無かった事も考えられる。
果たして、「嵯峨天皇派」にはこれらの殖産もしている青木氏に対しての“「賜姓族外し」”には、最早考える余裕など無く、思いつく侭に遣って仕舞ったと云えるのでは無いか。
この「禊」がそれを物語る様だ。
そもそも「伊勢神宮・朝廷」としての護らなくてはならない「疫病の防疫の点」とその「朝廷の権益」と、「院号・特権」を持つ「伊勢青木氏」に対して、「植物油への権益・伊勢殖産全ての権利が握られていた事」への「朝廷の反発・皇親族外し・怨嗟」も「嵯峨天皇派」の当時には強くあり過ぎたと云う事であったのであろうか。
「伊勢神宮の神饌と禊の問題」と「伊勢神宮の環境整備の問題」が潜在するにも拘わらず、「院号・特権」とその「権益」とで、「院号・特権」を持つ「伊勢青木氏」に「独占されていた観」があって、それを無視した「嵯峨天皇とその派の官僚族」に頭から拭えなかったのであろう。
この時、「神宮の遷宮の環境整備の完遂」は、「伊勢青木氏の思惑・経済的」に一切が委ねられていて進まなかったのだ。其れなのにである。
だから、もとより「朝廷自らが経済的負担をする事」であればいざ知らず、それを「伊勢青木氏」に任した侭で「嵯峨期後の900年後」まで青木氏に押し付けた侭で一切の解決は無かった事に成るのだ。
伊勢青木氏に与えられていた「院屋号の特権と格式」はそこまでの物では無かった筈だ。
歴史の経緯はつまりは見かねた「出自元になる仁明天皇」と「円融天皇」がこれを「政策」で補足してと云う事に成るのではないか。
現実に「源氏」は「嵯峨期」からであるが、この「神宮の遷宮の環境整備問題}には一切に手を出していないのだ。
この事に突いて「幾つかの記録」が遺されていて、「清和源氏の摂津源氏の本家の源の満仲」は近畿周辺の隣の「寺の荒廃の修復」と「院家の修復」を一手に修復する様に命じられたが、たった「一寺」だけを直して「命令の願下げ」をして最終は不興を架って「蟄居」を命じられる破目と成っているのだ。
「神宮の遷宮の環境整備の完遂」は「伊勢青木氏の思惑・経済的」に比較すればどれだけの物てあったかは物語りそれが現実だったのだ。
現実に、「源氏」の居る前で「神宮の遷宮の環境整備問題}に苦労して取り組んでいたのだ。
此れを観れば記録にある「摂津源氏の命令の願下げ」がどれだけの意味を持つかは判る。
況してや味方とする「嵯峨天皇が下した源氏臣下族の9つの縛り策・禁令」を守らずにである。
その意味で「伊勢青木氏」と「11の源氏」の間では「蟄居が出される程」に際立っていたと観られる。
さて幾つかの注釈から「神宮の遷宮の環境整備問題」に取り組んでいた中で、上記の「伊勢殖産全ての権利」を握っていた「奈良期初期」から、「室町期中期」までには、この時点で「神饌」<「薬用」<「禊用」<「工業用・冶金的な冷却と云う点・工業化・殖産化」<「食用」の「一連の流れ」に沿っていたりだ。
更に「北勢」の「伊勢」では「下記の植物油の増産」にこの「神饌の代わり」に入っていたと考えられる。
所謂、朝廷の態度に見切りを建てて、「伊勢」では早々と「モードの切り替え」が起こったのだ。
その後にその「産量」に合わして大いに「食用」にも間口を広げ「関西」にも広げたのでは無いかと観られる。
寧ろ、奈良期からの“「産量」に合わして”では無く、鎌倉期末から室町期までは“「需要」に合わして”に突然に変化したのでは無いか。
それはこの「食用油の流れ」にあったと考えられる。
何故ならばこの「造り出された流れ」には、「食用に到達するまでの要素」には、絶対に「消費者」が「購買」に飛びつく「信用できる絶対要素」を持っていなければならないからだ。
それが、“「伊勢神宮」から発する「神饌」<「薬用」<「禊用」の過程”が伊勢を超えて関西域まで「食用に繋がる要素」があった事に依る。
前段でも論じたが、この根拠が、“それが一瞬にして「大阪」「京都」「堺」に「食用」は宣伝もしないのに爆発的に広がった”と記録に記述されているからだ。
そして、その「切っ掛け」と成ったのは何と“「天害」”の「バッタ被害の害虫騒ぎ事件」であったのだ。
これが一挙に解決したのが「みかん畑の効果」であって、それが消費者の心に「神饌」<「薬用」<「禊用」の過程”の補償を与えたのだ。
そして、“流石に御伊勢様”・御師様」と成ったのでは無いか。
その証拠に、遅れて「関東域・江戸」にもこの“「天害」”は拡がり起こったが「江戸」にはこの「食用」は不思議に広がらなかったのだ。
これにはある理由があったのだ。
「江戸」は“「50年以上」”の近くも相当遅れてやっと「薬用効果」も何とか認めて「食用」としても又広がったのだ。
これには「伊勢の香具師の活躍」は最大と成ったとある。
注釈 参考として前段でも論じているが、この様に「青木氏の歴史観」で観ると、「食用油への転用」は、「食文化の関西で広がった事」が最初に「記録」として出て来る。
これには「ポルトガルのテンプラ」が最初であるとの「通説論」があるが、然し、経緯を観るとその前から「関西域」では、「薬用」として「油で炒めて食する事」で“「疫病が防げる”として、「神饌」<「薬用」<「禊用」の過程”で既に広まっていたのであり、「時系列が合わないテンプラ説」は、極めて一般論であって、「江戸期の鎖国のポルトガル文化の伝来説」で引きずられたものであって、「時系列」では「70年弱」も合わないのだ。
実際は「年代の時系列」を調べると、この「ポルトガル文化の伝来」では無く、矢張り、「関西」と同じあって、「場所」も「江戸での記録」が別にあって、“「関西の天害説」”の「バッタ被害の害虫騒ぎ事件」で引き興されたものである。
依って、「ポルトガル文化」では無いのだ。
それも「ポルトガル説」には、「薬用から普及発生した関西型」ではないのだ。
「遅れての江戸」に成って、“「天害」”の「バッタ被害の害虫騒ぎ事件」が遅れて関東でも確かに起こるが、“「油粕の対策」を提案したが、暫くは採用されなかった”と資料には記されているのだ。
だから、「関西と関東」では「バッタ被害の害虫騒ぎ事件」の所以があって、「江戸のバッタ被害事件」は「70年の差前」があるので、この「ポルトガル説」は当たらないのだ。
「関西」では、飽く迄も、「神饌」<「薬用」<「禊用」の過程”の関係式の根拠からであって、それは「食用」には、飽く迄゛も、“「味」を付けて「薬用」とされる処から、つまり、その行為は、元は“「食用油・薬用油」から揚げる”から、その名を以西域から鹿児島までに於いて、“「付け揚げ」”と呼称された由縁からのものである。
元は、「油脂で熱する事で食物の菌を殺す事」にあって、先ず「薬用」を課せ食用にしたのだ。
当時は、要するに「天麩羅・テンプラ」に拘わらず、“「疫病」”を恐れての「食用油・薬用油」を「全ゆる料理の使用」にあったのだ。
それなので、総じて関西以西では“「付け揚げ」”と呼ばれていたらしい。
関西以西は、今でも魚を崩して練って固めてするので殺菌をする意味からこの食用に食用油は使われ始めたのだ。
この「元の意味合いの名残」が残っていて各地では「地名」まで遺っているのだ。
飽く迄も、全ては「神饌」<「薬用」<「禊用」の過程”であって、従って「伊勢の影響・奈良時代初期に中国から渡来し伊勢で生産」を受けての“「菜種油」”であったが、「関東」では当時以前より「日本全国主要生産地の80%」は「水戸」にあって、「関西域」には伊勢の様に「集中生産地」は無かった。
それ故に、「食用にする種」は、関東では「胡麻油・縄文時代に呉国から朝鮮を経て出雲地域に渡来」ではあった。
「神饌」<「薬用」<「禊用」の過程”であって、従って「伊勢の影響・奈良時代初期に中国から渡来し、伊勢で生産」を受けての“「菜種油」”でひろまったが、その為に「胡麻食用油」は関西域にはひろまらず「江戸」であったのだ。
注釈 古書には「麻」とはそもそも“種より油を搾りだす食物”の事を云うとあり、これを「麻」と云うのだ。
その事もあって、関東では当初より「薬用植物」として扱われずに「油用植物」として扱われていたのであった。
本来、「漢方薬などの薬用」に使われた「菜種」とは元来違う処があるのだ。
ここに、“根本から関西油と関東油では違う処があった”のだ。
そもそも、絞り粕は「バッタ事件」に使っていたが、銃にはどうなのかと云う疑問である。
その為に「伊勢」では次の「薬用油」しか生産されなかったのだ。
「桑名の米油」
「南紀の荏胡麻油」(薬用の紫蘇の種)
「伊賀の菜種油」
「四日市の菜種油」
「岡崎の椿油」
「伊勢の魚油・海老油」
注釈 この「胡麻」は「日本」では「縄文時代の出土事例」があるが、既に奈良時代には「畑の栽培」で、「ゴマを圧搾」し、その「ゴマ油」を「食用油」として調理し、又燈油としても用いていた記録が早くから記録にはある。
記録的には「平安時代の類題三大格式の史書」にも、「ゴマ菓子や薬用利用」に付いて記されている。
その「効能」は「ビタミンE」であり、抗炎症作用、抗酸化作用、酸化ストレス抑制作用があり、所謂、「体のサビ取り効果」である。
要するに薬用である。
主に其の産地は「強いアルカリ土壌」と「温暖な気候」にあり、従って「鹿児島県と沖縄県」が産地に適しているとある。
注釈 然し、歴史的に古い伊勢一帯には、上記の「油粕」が出ていた事に成り、これが「肥料の効能の良さ」を知らずに一帯に捨てられていた事に成る。
云わば、これら「一連の事」で、「伊勢青木氏」が、「油粕の事」から「窒素リン酸カリの肥料三要素」を発見した事に成る。
さて、話を戻して、
「神饌」<「薬用」<「禊用」<「工業用・冶金的な冷却と云う点・殖産の工業化」と云う目的が、更にはより「食用」の「流れ」に沿って「食用油」は使用される様になったが、この生産しても追いつかない程の中で、「室町期の銃の冷却材としの活用・工業化」と云う事に直面していたので、そこに難しいものがあったと伝えられいて、これを特記して置く。
それは「薬用」から「工業化・殖産産業」への「切り替え期」でも、「銃にも使うと成った時」、「銃」に限らず「伊勢の工業化」に使用する事には、当時は未だ主に「冷却・工業化」に使うのだが、「可成りの発想転換」が「伊勢ならではの事では必要とされたらしい。
これは「青木氏だけの問題」では無く「伊勢全体の同意」が必要であったろう。
然し、それは「氏族の氏人」には同意が得られるとしても、「銃の事・工業化」が「世間の表に出る事に成る事」には好ましくなかった。
だとすると、行き成り「薬用」から「冷却剤・工業化」への転換に、この間に「伊勢青木氏」には何かあったのでは無いかと予想できる。
その侭では行かなかったであろう。
「伊勢青木氏」ではこの「世の工業化の中」で、何れにしても「銃の欠点の最終の解決策」には、この「油の液体に関わっていた事になる」のである。
だから、それまでは「備長炭の灰の灰冷却」であったものが、何れにしても再び「水」を試し、それでも駄目で、そこから「油と云う液体・食用油」に発想を向けたのであろう。
丁度、その時期が既に「食用油の殖産期・工業化」に入っていて、余計にこの「食用油」に目が向けられていったのだ。
この“「油の液体」がどの様に冷える”かは判っていなかったが、「冷却と云う機能」がどの様に転換する何かは判らなかったのである。
「水」から「灰」、そしてそ、そこから再び「水冷却」に移り、そこで丁度良い液体」の「油に発想の転換」をしたのである。
「液体」であれば、先ずは「水」、この「水の機能」が「油」にどの様に転換する為の何かが必要であった。
その「違い」には、「資料と経験」から「冷却の速度」の「質の関わり具合」である事を知った様であり、此処にはその「媒体」が存在して、その「媒体」が“「冷却の熱」をどれだけ早く吸い取るかの問題である事”を知った事であったらしい。
この事が資料の表現から読み取れるが、「初めての事」であって「大きな疑問点であった事」が判る。
それは現在理論で云えば、その「冷却剤」の持つ「吸熱速度」とその「比熱」と云う事に成る。
それが上記で論じた様に、「油の冷却」は「水と灰の中間の媒体」と云う事に成る。
そもそも「水と油」には、「1/2の関係」にあり、「科学的冷却」には「論理的」であり、当時としては「食用油の使用の発想」は、「殖産をしている立場」から利用できるのではと判らない侭に飛びついたのでは無いか。
それが「室町期初期から始まった紙文化」と共に、将来に「二回目の巨万の富を築く事」に「食用油の殖産」で成ったのだ。
「銃の欠点克服の為」にもその「増産」の一つのきっかけに成ったのだ。
注釈 「水」は「冷やす」のが「早い」が、自ら「冷える」のが「遅い」。
逆に灰はこの逆である。
とするとこの「中間に位置する液体」は「油」であろうと判断した様だ。
然し、この「油」は「神饌」<「薬用」<「禊用」の前提にある。
「青木氏の立場格式の範囲」では、「神饌」<「薬用」<「禊用」の「殖産物?工業化」では立場上は先ず使えないのが普通であろう。
然し、ところが工夫して使ったのだ。
どうしても「額田青木氏の計画」を「銃」で解決する為にも「伊勢の工業化」にも実現しなければならない。
何よりも先ずは「神饌」<「薬用」<「禊用」の「殖産物・工業化」で、日夜努力している「伊勢郷士衆の説得」が必要であったろう。
然し、事態はいよいよ「戦国事態」に入り「額田青木氏と伊豆青木氏」は危ない。
「外国人技術者の指導/詳細不詳」であるとしながらも、「20年間の試行錯誤の期間」でもこの事は難しかった事が云えるのだ。
結果として「増産」に務め結果と成ったが、これを「解決している処」を観ると何かがあった事には間違いは無い。
それに「相当する出来事の記された当時の資料」では、発見できたのは「油粕の事件」の以外には見つからない。
ところが思い掛けなく「食用油の活用に大きく拍車をかけた事」が一つあったのだ。
それが何と「食用油の絞り粕」であったのだ。
筆者は、この事に就いて当初は「殖産業も営んでいる事」や、上記した「油粕の事件の記述の事」からも、金銭に問題が無ければ、この「植物油説」を強引に採用したと考えていたが、ところがそれを詳しく書いた資料が観っかったのだ。
この「金銭問題」は、「朝廷の紙屋院号・特別使用権を持つ伊勢屋」である以上は、「目的達成の銃・工業化」には「総力」を以て「秘密裏に躊躇なく注いだ」と考えられる。
然し、此れを否定する資料が出て来たのだ。
それには、この「大問題の事・バッタ事件と呼ぶ」を「伊勢」では解決する為に、何と先ずこの「殖産の食用油」を更に「増産」に務めたとあるのだ。
これを更には「発想の発展」をして「交易」にも初めて使った事が記載されていて、その「交易」が大成功したとあり、遂には「神饌問題」は、外国から仕入れた「石油の卸問屋をも営む事」で、「世間と伊勢の工業化」を促したとあるのだ。
注釈 「室町期の紙文化の紙での巨万の富」、そしてこの論で論じている「食用油・菜種油の交易と石油の問屋での巨万の富」、そして,危険を冒して「享保期の大阪米相場の投機の巨万の富」、等が、「伊勢の干拓灌漑土壌変更」で、「米生産と早場米と酒米の生産で蓄えられた巨万の富」、その数々の投資で「伊勢の禊の神饌問題」は解決したのだ。
「戦後の農地土地解放」でそれを支えて来た「伊勢50郷士衆の女系氏族」に、「無償」でそれまでの「儲け」を全て振り分けたとある。
その「巨万の富を築いた源」と成ったのが、ただ、「神饌」<「薬用」<「禊用」<「工業用・冶金的な冷却」と云う点」<「食用」の「伊勢の殖産」にあって、そこには伊勢独特の不思議なものがあったのだ。
それは「伊勢を調べる事」で判って来た事が次の中にあるのだ。
これを生かした「伊勢商法」と云うものであったのだ。
「桑名の米油」
「南紀の荏胡麻油」(薬用の紫蘇の種)
「伊賀の菜種油」
「四日市の菜種油」
「岡崎の椿油」
「伊勢の魚油・海老油」
つまり、ところが「伊勢」では、意外にも「工業化」には、以上の「伊勢の魚油・海老油」であった事が記されているのだ。
これだけは「神饌」<「薬用」に当てはまらなかったからなのだ。
然し、世間では「魚油・海老油の殖産」は、大々的に殖産として生産されていなかったのだが、この事を良く調べると、「伊勢の一部の地域」で書き遺されているのだ。
この「歴史的な魚油の使用」は、「植物油・実用化/殖産と交易」より「20年程」遅れて本格的に生産されている。
先ずは、その「使用の経緯」は「灯油や肥料」から使用される様に成っているが、古来に於いてはこの魚油生産には身分差別されていたのだ。
これを「一つの言葉」を使って差別されていて、それはその匂から嫌われていたからだ。
「植物と魚の概念」が「神饌」<「薬用」に合致していない事から来ているのだが、上記する「純粋な禊ぎ品」ではなかった事であった。
「植物」は、古来よりその花や色で「人間の階級表示」にも使われるほどに敬愛され、「髪の整髪剤」にも古来より使われていた。
それ故に、これに合致しない「魚油」は蔑まれていたのだ。
理論的な事を述べる述べると、そもそも「魚油」は、化学的には本来魚から発するものでは無く、「魚に入った餌の微生物の塊」として入ったものが、悪臭の匂を発しそれを浸み込んだ油からの発臭に過ぎないのだ。
依って、数日で「微生物で構成された脂肪酸」は、酸化して腐食して「アンモニヤ」に変わり異臭を発するのだ。
それ故に、元より「嫌われた物」であって、「関西」で起こった「植物油の搾り粕」に代わって、「関東」では「70年以上」も後の事であり、この「魚油」を、背に腹は代えられず「民の灯油にした経緯」があって、「安価に売ると云う行為」に出て、「後にこの魚油粕」を「肥料とした経緯」もある位だ。
その意味で「関東」では遅かったのだ。
注釈 ここではの「伊勢」では、「伊勢商法との源」となった“何故に「神饌」<「薬用」として扱われたか”である。
それは全て「伊勢青木氏族」にあったと考えられる。
それは「生産地」が、「北勢の伊勢湾の海老」に限定されていたからだ。
「伊勢湾の海老等の魚不良品処分」で、これを「肥料」にする為に、先ず絞り、「残粕」を「肥料」に、「絞り油」を集めて、一部の良い所は“「灯油」”として、残りはこの“「冷却材・銃・殖産などの工業化」”に使用してこれ等を「伊勢衆の合意形成」を図ったと考えられる。
ところが、それにはこの「魚油の扱いの差別」があったが,その「利用目的」が賛同されて「大いに賛同」を得て、遂には、寧ろ、この「魚油の生産と殖産化・工業化」が「利益」を売るまでに成り、室町期の1500年代には「神饌」<「薬用」としての「殖産の扱い]として、上記の通り「禊ぎ品」と成っている以上は遅れて「伊勢の大儀」を得ていたらしい事に成る。
この「生産地」は、その「悪臭」から「北勢西部の奈良に近い山手」に「20の川舟」で川上に運ばれていて、「当時の生産地」も判っているし、そこで「粕は山手の農業肥料」、「魚油は海手側の生活圏での全地産地消」としても使い、故に「伊勢」と「禊ぎ品」に魚油として全般名で記したと考えられる。
それ故に、「関西の絞り・搾り粕事件」で、「魚の油絞粕」まで「関西」では「みかん畑等」が多い事もあって「植物油の絞粕」では全く間に合わず広く全畑地の「主に堆肥肥料」に用いられたのだ。
最後には、前段や上記でも書いた通り、この「魚油の伊勢殖産」は、生産者は差別待遇を受けながらも「庶民の灯油」として「貴重品」に扱われ、「伊勢屋」は全国に「200以上の支店」を設けて「在庫の全国展開」をし、「伊賀の香具師」が、これを各家庭に“「常備薬」”として欠かさない様に見回り届けるシステムを展開したのだ。
「生産から販売までの殖産」で「伊勢屋」が全国販売をしていたのだ。
その結果、「伊勢奈良紀州の国境」で差別されながらも働いていた彼等は、「生活の糧の思わぬほどの安定」を確保していて、その「感謝の気持ち」で「伊勢屋の青木氏」は「御師様と喜ばれいた」と記されている。
そして、「江戸の中期頃」には遂には「職業の差別」は無く成り、遂には「伊勢の禊用」としてまで「名」を連ねるに至ったのである。
それが「関西」で起こった「魚油殖産での物語」を持つ「歴史的経緯の魚油殖産の流れ」とその「販売システム」であったのだ。
それが「関西以西での香具師の活躍」もあって急激に広まって行ったのだ。
如何に[禊ぎ品」が上記の交易以外にもこれの殖産からも「巨万の富」を獲得していたかが判る。
注釈 何故ならばこれには他に「歴史的経緯」があって「紀州の漁法・ぱたぱた漁法・延縄漁法の原理・坂本氏・」が全国に広まった事からでもある。
それ故に、又、積極的に「魚油を使う事」を許された称賛されていたのである。
注釈 港に残った雑魚を彼等は掻き集め、それを絞って油にし、伊勢屋の買手」がそれを集めて全国の香具師の支店に運んでいたらしい。
「伊賀青木氏の香具師等」は、これを全国の各家庭に定期的に届けて欠かさない様に「システム」を組んでいた。
この時、「伊勢紀州奈良の殖産物」、例えば「油の灯油」に限らず「伊勢漢方薬」や「仏壇線香」や「蝋燭」「蚊取線香」や「椿鬢付油」等の「公家庭用品の常備品」としも販売していたのだ。
この「時代考証」では一番古い物で「奈良期中期の記録」がある。
「奈良期中期」と云えば、未だ「部経済の始まった時期」である。
「青木氏が賜姓族」と成り、「近江鉱山の開発」が完成した事頃ではないかと予想される。
その頃から「工業」とは別に、「地場産業」を一から興して全国展開に持ち込んでいた事に成るが、その「スタートの形態」が未だハッキリと掴めていないのだ。
注釈 何度もこの事からの論説を論じているが。「伊勢青木氏には歴史的に三度の火事」があったが、内2度はまだ「貴重な歴史的記録」は遺されており、最終は「明治35年」には可成りの「祐筆などに依って書き遺された{貴重な歴史的記録」がまだあったとこの「記録」では考えられている。
然し、一度は火事中から全て引き出したとあり、ところが、「家長・福家」が「安いポイ義侠心」を出して、再び“火の中に投じる事を命じた”とある。
そもそも「記録」と云うものの「価値の認識が低かったもの」と考えられる。
それが「有史来の青木氏の歴史を消し去った」のだと思うと残念であり、そしてこの「火事」も全く火の気の無い蔵の中から出火しているのだ。
「長い伝統」として、「人間的個性」として、「氏是」にある様に「長く青木氏が生き遺る事」には「判断力」に於いてカーと成る性質を一番に戒めているのだとしたら尚更であろう。
その意味でも反省して筆者は「青木氏の復元」を試みているのだが、するとしたら今だろう。
恐らくは、これは未だ残る「明治維新政府の一部の過激派の者の火付・薩摩以降も」であろうと思う。
何度も論じている様に、維新時の「青木氏の存在・青木氏を消し去る事」のそのものを否定していた「派閥の仕業」であろうと観られている。
その間にも何度も「打ち壊しや火付け等」を受けていたらしいのだから是が非でも遺すべきであったのだ。
「青木氏」は思い切ってこれを逸らす為に「松阪伊勢屋」を先ず「偽装倒産]させた。そして、その「商い」を「摂津」に移し、「公的な顔」を更に「誰で何処であるかをも隠す様にした」とあり、これは「室町期」から「秀吉や信長」に攻撃されない様にする為にも行っていたシステムではあったが、これが「明治期」にもこの「システムの緩み」が生まれ「松阪」が集中して攻撃されたのだ。
これら対処するには「福家に立つ者の能力如何」であったろう。
筆者はその「福家」の三世ではあるが、「明治期は最も隠すべき時期」であったと観ている。
「明治維新」では、「維新政府」からみれば「天智期からの伝統ある格式の律宗族のレッテルを張られた青木氏」と云う「立場」を有し、「明治天皇家系を揺るがす余計な家系の存在」を、「維新政府から観ると邪魔な立場である事」を読み込み忘れた。
最早、「時代が変わった緩んだとする心の緩み」が「薩摩藩派閥等に読み込まれた」と観ている。
この時の「時代経緯」が、明治期であって古い事では無いので詳しく残っているが、「紀州徳川氏・2万両債権」が懸命に「仲裁」に入ったが「薩摩藩」はこれを認めなかったのだ。
「明治天皇家系を揺るがす余計な格式家系の存在」を少しでも「薩摩藩は認めない」としての「方針」で観て攻撃して来たのであって、依然としても持つ「巨万の財の商い」では直接的な無かった事と考察している。
然し、「薩摩藩」だけが伊勢青木氏を攻撃していたとすると、奈良期からの長きに渡り「献納」で支えて来た「明治天皇の後ろに献納していた超豪商の青木氏」が存在する事を嫌っていたと云う考察にも執れる。
「紀州藩の付き合い」から観て「両方の考察」が考えられる。
後に「華族制度」でこの「維新政府」は「公候伯男爵」を求めて来たが、事前に「紀州藩公」から「侯爵・貴族」での「連絡・正式な菊模様の桐箱に入った文箱・推薦状を書いたとする文」があって、これに対して明確に断っている言い訳の手紙写しも遺っている。
「商いの青木氏」に執っては今更に何の意味もなかったと考えられる。
明かにこれは必要以上の「薩摩藩との摩擦を避けた」のでは無いかと観ているのだ。
この「流れ」から「紀州徳川氏」とは「大正14年までの個人的交際」があって、「献納」は正式には「明治9年」で終わらせているが、「実際」には「朝廷への献納」は密かに「明治35年頃」で終わっている。
そしてそれ以後は無い様だ。
「伊勢青木氏」では、「明治初期」では「薩摩藩の嫌がらせのイメージ」が強かったが、現実に「薩摩藩の力・明治10年」もこの時既に衰えているのだ。
其の後も、「伊勢口伝」の通りに「明治35年頃」まであった”とすれば、これは「薩摩藩だけの過激派勢力」では無かった事を意味するし、既に「薩摩藩の過激勢力」は「明治政府内に145人居た・最終は一人」とされるが、「西南戦争頃」を境に全て去っていて、「長州と土佐」が全ての実権を握っているとすると、「薩摩藩の嫌がらせの時期」はずれている。
寧ろ、「維新政府」とすると「長州」と成り、「長州勢力の過激派もあった事」をも物語る。
その時期が「明治35年前の丁度」として見れば、「青木氏に関わった勢力図」は「紀州藩の陸奥宗光」の「維新政府改革」とも重なっている事になろう。
「幕末の紀州藩の勘定方指導役」で「陸奥宗光親子」とは親族に近く深く関わり、「維新政府」をリードする「陸奥宗光」を「経済面」でも支援するも、「明治30年」に死すも彼の改革はより進んだが、「実力」を大いに発揮して「薩摩藩以後の維新政府」とは異なる「西洋に見習った近代化の政府」を構築し最大の功績を遺したのだ。
然し、それだけに「政敵」も含めて敵も多く、取り分け、「西欧の軍制改革を導入する処」では、「長土肥の旧軍体制」とでの「政府二分する程の摩擦」を起こした。
恐らくは、この時に「陸奥派の力」を弱める為に「長州」は「影で支援をしていた伊勢青木氏の伊勢屋」を攻撃してきていたのではないか。
注釈 「維新後の青木氏」では、「この史実」は子孫に書き残せないであろうし、「大正14年以降の記録」は祖父が「忘備録」で遺した程度で終わっている。
然し、故に「氏族」に遺された資料を何とか探し出してそものから繋いで読み取る以外には無いのだ。
この「明治前後の陸奥家との深く長い親密な繋がり」は詳細に知り得ていた事ではある。
「明治維新前後の豪商」ではその力を弱められた者が多い。
夫々弱められた理由は異なるが、淀屋、小野組、小倉屋、加島屋、永嶋屋等数えきれない。
然し、ところが「屋号」を朝廷より正式に与えられた記録は何処にもない。
「伊勢松阪」より「本店」を「摂津」に移して、名を隠し家を隠し顔を隠し店を隠しして商いをしていたとされ、中には記録として判っているところでは、「伊勢屋の青木氏」は「大阪の商人」と「不特定の屋号]を幾つも名乗っていたとする記録がある。
その中でも良く調べると大阪屋、摂津屋、松阪屋、津屋、淀屋、堺屋、長島屋等が観られるが、これ等は「明治維新」の時に全国各地に「香具師の香具屋」とは別に、「約200支店」を設けていた事が解っていて、この「支店名」を上手く使っていたとしている。
伊勢から摂津や越後の組合で「御師制度・組合で紙幣」を組んで各元大名等への貸付や「米相場」などにも手を出していた事が解っていて、それだけに危険である為に人別は判らない様にしていたらしい。
現在では全てが独立している。
中には「鉄の製鉄」にも雑賀で「雑賀支店」を設けて私財を投入して手を出していたらしい。
現在もここに「製鉄所」は存在する。
其の後の事は次の様に変遷したとある。
ところが、ここで「投資のために設けた金」で「1900年頃」に多くの「銀行投資/御師制度で」や「企業への投資」をしたとあって、「多くの関連企業」は設立されとあり、「政府の支援」もあったが乱立した事が記されている。
これらは“「伊勢の御師制度」”から発展した「商人の銀行」が「大阪」にも「各地」でも生まれたとし、それが合わせて、記されるところでは、「23行の銀行」が新たに設立されたとあり、その殆どが「大阪堺摂津市内の商人」による「殖産の機関銀行・融資」としてのものであったとある。
ところが、その多くは長続きせず、又、“「1901年に起きた恐慌」”もあって、それで、結局は設立した“「15企業行」”が最終的に廃業したと成っている。
要するに「23企業行」の内で「15企業行」が破産したとして「伊勢の投資」は失敗したとあるので,「御師元の伊勢屋の青木氏」では、相当に「ダメージ」はあったのでは無いかと予想できる。
「損害額」は不記載である。
注釈 同様に、「原合名会社」をも多く設立し経営の合理化や近代化を進めて「8企業」を残す結果と成ったとある。(母数が判らない)
一方でこれも「輸出業や殖産業」にも再び力を注ぎ直し参入し、特に経営難に陥 っていた「関西の4つの製糸企業所」を「伊勢}は買収した。
然し、また一方でその「発展の阻害原因」と成っていた「基盤整備」にも手掛け、その「大阪港の拡張」や「鉄道網整理」にも「多額の私財」を資本投下して関わったとある。
この様に、「地域の公的な事業・貿易拡大の為に」にも尽力しているが、其の投下総価額は不記載で判らない。
「総資産額を調査したが、「筆者の試算と大きく異なり、明治中期期までには、下記の通り「試算額 約1億両」であったとする資料にあるが、それがどの程度の物かは判らない。
「創設期以降の米相場」で儲けた「明治期の超豪商の一人であったとされ、その額は資料では「20億両」とあるが、「米相場」だけではあり得ないであろうし、実際はその1/100程度であろう。
注釈 文化面では、残る財を「私財投資」して“「古建築」”を「山の谷部全域」を自然改造して、そこにこれを移設し、現在も残る「枯山水の庵・三つの谷渓園・尾鷲・熊野・田辺・和歌山」を「紀州」に造り上げたりしたとある。
此処に、「禅宗修行僧」、「水墨画家」、「茶道家」、「彫刻家」などを志す若者を集めて無償で修行させていた。
多くの「彼等の遺産」が現在も遺っているし、世に名を馳せた人も多い。
筆者も幼い頃にこれらの一部とここまでは接して観ている。
明治後期から末期にかけての「企業規模の変遷」は、「20世紀以降」に繋がるのともなるが、「他業」の多くは、その明治期までに造り上げた「莫大な資産・約4から5億両」を「低資本金の殖産起業」に投資したとある。
現在もその跡姿は「摂津・大阪」にまだ未だ一部を遺すが、その「子孫への見返り」は「後勘の裔」から観ればあまり無かった事に成ろう。
明治初期に「青木氏部」を「二つの低資本金の殖産起業」を独立させて遺したとある。
それで良かったのかもしれない。
注釈 「青木氏の資料」ではないが、「別の発見資料・御師制度の研究資料」や「明治期前後の商人の研究等」では、「伊勢の和紙問屋」が、「摂津の洋紙問屋」とも成ったが、又「伊勢」の「菜種油問屋」とも成り、「貿易」で利益を上げて、後にそれを元手に「石油の卸売」にも携わったともあり、青木氏の資料と重なる。
何れも「莫大の利益・儲額を研究」を築いたとある。
「明治に入る前」にも、上記の様に「米市以外」にも様々な事業を手掛けて莫大な財産を築いた事が記されているが、ところがここで“「大きな事件」”が起こっているのだ。
幕末までは、その“「商人の財力・超豪商」”が、「武家社会」にも大きく影響する事と成った事を理由としているが、ところが「記録」をあの手この手で色々と漁ると、その「事件」が、「幕府・享保期以後」より起こっており、それには、無法では行かず「法的根拠」を設定しなければならず、それを “闕所(財産没収)処分・けっしょ”として決めて、それに晒されたと記されている。
この「法的根拠」とする「闕所(財産没収)処分」は、飽く迄も「武士」にであるが、武士に影響及ぼしたとしてこれを「商人」に拡大解釈したのだ。
確かに前段でも何度も論じているが、「享保期」に「吉宗と信濃の件」で「伊勢青木氏」は「3日で伊勢に逃げ帰った事件」があったが、これが他の資料の研究記録では、「信濃」への「闕所の最初」では無かったかと説いている。
そもそも、この“闕所(財産没収)処分・けっしょ”とは、本来は“罪を犯した「上級武士の者」に対しての、その「財産を強引に没収する法令」であって、其れには「誰もが認める罪」が必要であった。
然し、これは一致する処ではあるが、そもそも「上級武士の者の財産」を没収した処で、精々、「領土の範囲の物」であって、「幕府の闕所の目的の範囲」とするものでは無かった筈である。
然し、現実には「武士」を対象としていたものが、其の殆どは「超大豪商」に対して向けられたのだった。
「商人」は、「領土関係に無い事」からその「直接の闕所の理由付け」は成り立たず、「刑事事件」を起こす範囲での「刑量で罰する事」は殆どは無理であった。
そこで、「財産没収」は「不随行為」であって、その史実では「行為の正統性が問われる事」が多かったのだ。
これに関する「遺る記録」を観ると、裁判例が残り、あまりの理不尽さが観える。
ところが、この「超大豪商」には、矢張り「罪を問われる事」は殆どなく、「貿易等」を通じて“密貿易”などと「難癖」を着けて「闕所」を一応は申し渡すのだ。
ところが、多くは“「賄賂」で済まして金を「幕府」に巻き上げると云う策略”を何度も繰り返していたのだ。
ところが、前段でも論じているが、「伊勢屋等」は、「伊勢の事お構いなし」の「長篠の戦い財政的協力・三方ヶ原後三河立直し協力・本能寺の変の救出等」に対して、この「過去の恩義」に報いる為に発行された「お定め書等」がありながらも、「幕府」はこの「恩義」にも従わず、「伊勢山田奉行所等・大岡越前守の時以来/享保期以来」は、盛んに「難癖」を着けて来て「闕所」を「伊勢青木氏・伊勢屋」に匂わせて来たのだ。
其の典型的で決定的なものが「信濃事件・聖域と地権域の割譲と殖産の没収と人の家臣化」を命じられて強引に実行されたのだ。
然し、「伊勢屋と信濃青木氏等」もこの「闕所処分」に先立ち、事前に「紀州藩」からこの事を「内密」に知らされていた。
「記録」に依れば、「伊勢の事件」では、「伯耆国久米郡倉吉の地・ダミー店」を設け、前段でも記述した「摂津・本店を移した」のには、先ず「暖簾分け」した等で、「二つの支店」を開き、「朝廷への献納」を幕府に見せつけて牽制し、その後に再び元の「大坂摂津の地」に戻し店を再興したとある。
「伯耆国久米郡倉吉の地」に関して何か特別な逃れ得る理由に成るものがあったのかと云うと無く疑問である。
調査したが、ここには本当に不思議な位に矛先を躱すに効果的なもの、例えば誰かとの所縁とか何もない地域だとするのだ。
この“何も無い事が果たして幕府の追及の矛先を躱せるのか”と云う事なのである。
況してや、「闕所に向けた追及」を受けているのだし、それでも“躱せると云う事”なのかである。
この「伯耆国久米郡倉吉の地・ダミー店」とするには、先ず“「倒産した」”と見せかける必要があったろうが、其の為に「摂津・本店を移した」では、現実には「暖簾分け」をしているのである。
この「言い訳」は現実には成り立たないが、 「暖簾分け」は飽く迄も「内々の事」であって、それでこの「ダミー店」を強調したのであろう。
実は、この事が後に江戸期末に物語に書かれて「小説」にも成っているのだ。
他には実は、前段でも「讃岐青木氏の論説」の中で、「讃岐青木氏の後裔」がこの「宍道湖の横」迄に拡大したと論じて、「安芸の商い」は横の「足利系米子・八頭青木氏」との関係も築いているとした史実がある。
ここに「ダミー店」を設置したとすれば、矛先の可能性は全く無関係の物ではなく成り、「あり得る事」に成るかもしれなかった筈だ。
要するに、これが上記でも、又、前段でも論じている「影の店」であったと考えられるのだ。
元々、「影の店戦法」を使っていたのだから騒ぐことは無かったのではないか。
この様に、“「矛先」を変えてのこの「処置」で、「店を小さく見せる事」をしたり、「影の店」や「影の顔」や「影の店主」や「影の自宅等」さえまでもしても現実には護った”のである。
後は「朝廷への献納」を見せて目を逸らした事などが資料から読み取れるのである。
つまりは、「難癖の闕所」の「名目如何」にどの様に「商人」として対処するかの事であったろう。
「殆どの狙われる超大豪商」は、この様な策や手を前もって使って駆使して特定を避けて逃げていて、一度見せても次は違う等していたらしい。
事実を伝えているかは別としても、飽く迄も小説化しているので人気を博した「江戸時代の小説」にも成っているのだ。
決して「超大豪商の現実」には、「小説やドラマの様な単純な顔や店を見せるような事」は全く無く、此処でこれを論じる以上では、現実には歴史を正しく調べれば、直接に自分や店をよりよく魅せる様な事は決して無く、飽く迄も「影」であって「表に観える等の事」は無かったと知るべきである。
その意味で、「四家の構築した伊勢」での「四家制度」は誰が福家か判らない様にすれば都合が良かったと云える。
また、江戸期にはそれまでも目立つ様に「朝廷・天皇家」には、「献納・奈良期から続ける」をし続けていた事もあって、それ故に、“「朝廷」は都合よく振る舞ってくれていた事等”も伝えられていて、この「闕所事件」では「格好の逃避策」ではあったらしい。
「永代賜姓五役での献納の理由」は、云うまでも無いが、一部には「過去の格式伝統」はこの「闕所の格好の逃避策の意味」もあったのではないか。
前段でも論じたが、「献納時」には「伊勢から御車」を大げさに仕立てて、それに「青木氏の随行者」を着け、且つ、到着後は「街中の事/噂話」を教える「軍略処の役務の令外官・青木氏」の祭りも負っていたと云うのだから、これにも「闕所対策の為の周囲の目を魅つける策」でもあったろう。
これも江戸期から始まり幕末までその「目的の一環」であったのであろう。
そもそも、「影」である以上は、「青木氏の各種の記録」には、これらの事の詳しい事は載せない事であったのであろう。
実は、「享保期」からこの「伊勢青木氏に向けられた闕所事件・類似事件」は、江戸期に限らず「資料や記録の発見」から「新しく判った事」ではあるが、実は「明治期初期」にも明確に起こっていたのだ。
注釈 実は「明治期」にも、そもそも「献納の相手」の「維新政府の政治的意向」から、“「薩摩藩」などが騒いで「闕所の嫌らせ・闕所の江戸時代に似せて」を受けていた”とある。
それまでも、「四掟」で度々、「奈良期より下級公家族と何度も血縁していたと云う事」があり、これらの史実も「公家・叶家等」から「嫁・筆者からは祖母を迎えている事」も合わせていたらしく、これは「朝廷」では無く「初期の維新政府」を造った「薩摩藩等」であったろう。
前段でも論じたが、「伊勢店や住居や蔵等の火付け焼き討ちや蔵の打ちこわし等」が何度もあって、それ故に「伊勢屋の活動本店を摂津に移している事」等に一致している。
ただ「伊勢の福家・本家」は「寺の関係」や「郷士衆の氏族一族」が「伊勢に集中している事」もあって、暫くは「松阪」に置いていた事が判っている。
これは「全ての“話し合い」”が直ぐに解決できる事では無かった事から来ているのではないか。
江戸時代の「享保期と中期と幕末」と、それに「明治9年頃と15年頃と35年頃」にも、「摂津」から「福家・松阪」に届いた三度ほどの連絡の「虫食いのボロボロの手紙」が遺っていて、それ等に依れば、要約すれば次の内容で書かれている。
内容
「長く続く超豪商に対しての執拗な“闕所処分」”には、「伊勢屋」と「御師組合」は財産の一部を多くの機会を捉えて、観える様に「自らの申出」により「献納・朝廷」して「矛先」を先ず外して、目立つ米相場の等への「闕所の動き」を先ず第一段階は終えたとあり、更に、これにより次第に“闕所(財産没収)処分”に晒される事が少なく成り (イ)、この「第二幕」は閉じたとある。
然し、「明治維新政府」の諸事記録からも、続き 「難癖」の“闕所(財産没収)処分らしき嫌がらせ”は続いた事が記されている。(ロ)
先ず、それには“「第二幕」は閉じたとある”この (ハ)の事で、これは「第一幕」があった事を意味する。
又、この等の記録は、“相当に事が落ち着いた後から「祐筆等」が書き記ししたものである事”が判る。これが(ニ)
で、先ず、「青木氏・伊勢屋」から観たこの“「ニの第三幕」”は、本来の形の“闕所であったかは別として、”言うまでも無く、上記した「政治の場」から離れた頃の「明治35年まで」としてしていて、それは「明治期の嫌がらせ」であったであろう。
とすると、「第一幕」とするのは何時としているのであろうかと成る、
筆者には「第二幕のハと第三幕のニ」の事で、恐らくは「二人の祐筆」が書く記す際に「青木氏に降りかかった事」が、「明治期の難癖」の“闕所(財産没収)事件の処分”であったと認識していた事に成り、この事件の事で話題が一族内にも当時は充満していた事に成る。
そして、又、その「闕所認識」が共有していて、同じ事が「明治期」にも続いて興ったと云う事に気が云っていた事に成る。
だとすると、「過去の第一幕の事」が明治期に於いても同じ出来事であったとして認識していた事に成る。
その「第一幕」は、「第二幕と第三幕」に“一致して同じ様な事が起っていた”と観てよい事に成る。
然し、「足利幕府」とは「律宗族の呼称」でも判る様に、少なくとも「難癖」を着けられるような関係性では無かった事は確かである。
「信長が足利幕府を追いやった時期」からと、その後に「秀吉が全国を統一した時期」までと、そこから「氏郷時代の良好な関係」の時期を経て、「豊臣徳川の関ケ原までの時期」と、江戸幕府の「享保期の山田奉行所事件直前」までの期間が「第二幕」と成ろう。
その期間の模様は前段で論じた通りの「犬猿の仲での期間」であった。
この「第二幕」が“一致して同じ様な事が起っていた”とすれば、“信長から秀吉の時代”と成り得る。
「信長前」とすれば、「室町期の紙文化で巨万の富」を築いた時期からと成り、この「巨万の富」に狙いを定めた事に成ろう。
「第二幕の典型的な例」を、前段でも既に論じたが、別にこの闕所の事件があったのだ。
それを前段でも論じているが一つ述べて置くと、「東近江の青木氏」に於いて「本流と分流らの領地の争い」が起こった。
それに於いて「仲裁の申請」が両者からあり、「東近江」には「巨万の富」を背景に伸びて来た「近江青木氏B」と、「元から東近江に居た青木氏A・本流の分家」とを「秀吉の面前」で戦わせて徹底的に雌雄を決せさせたとある。
これは申請に基づく「本家分家の争いの仲裁」と、「その領地争いの仲裁」ではなく、「闕所の手段を使う事」を利用して、戦わせて一方先ず潰して、その「財と領地を奪い取る事」を目論んだのである。
先ず「勝ち残ったB」のその「富」を利用した後で、この「近江青木氏B」を「富に対する難癖の闕所」で、“よく調べたらその富を奪った”として、後で潰す事にしたのだ。
結局、「東近江」には「佐々木氏系青木氏」を除いてはいなくなったのだ。
「伊勢青木氏は、結局は「東近江に居た青木氏Aの生き残り」」を救い出し、「摂津の西」に住まわせて保護した。
「近江青木氏B」は、其の後に「兄弟争い」をして完全に潰れ、一部が千葉に逃れたと云われていて地元の「秀郷流青木氏を勝手に名乗って幕府に仕官している。
他にも語り継がれていないが、郷土史に語り継がれる知る範囲では、この様な「紀州嫌いの秀吉の紀州伊勢征伐」での事で、この時、「小さい闕所事件」が取り分け多く起こっているのだ。
取り分け、「南勢の伊勢50衆郷士衆中の氏族・湯川氏等5士」に対して記録に遺っているのである。
殆どは「騙しの手打ちの闕所事件」である。
当然に「第一幕」は、「嵯峨期の賜姓族外し・皇親族外し」である。
最早、ここではもっと詳しく調べる術を考えて詳しく論じる事は必要だがここては語るに及ばないだろう。
調べる中で関東には、この事件の左程の大きな事件歴史が無かった事が判る。
「商人」が多くても闕所で目に着けられる程の商人が居なかった事が云えるのだ。
そもそも敢えて江戸の政治域にその様な商人を造らせなかったという事であろう。
さて、新しい資料が見つかったのでそれを加えて追記として論じる。
少し「冶金学的考察」に戻して、これは「青木氏の資料」ではないが、「別の資料・御師制度の研究資料や明治期前後の商人の研究等」では、“「伊勢の和紙問屋」が「摂津の洋紙問屋」とも成ったが、「伊勢殖産」の「菜種油問屋」とも成り、「貿易」で「良質な植物油」として「大利益を上げた」”と記されており、後に、“それを資金の元手に「石油の卸売」にも携わった”ともあり、“何れも又「莫大の利益・儲額を研究」を築いた”とある。
これは「伊勢青木氏の記録」と一致しているので史実である。
「上記の経緯」もあって、「総合商社となっていた伊勢屋」は、「菜種油問屋」とも成り、「貿易」で利益を上げて「石油の卸問屋・主に灯油」もしていても、「伊勢での実践・経緯」では、更に“「油・魚油」をメインに「冷却材に使われる結果・工業化」とも成っていた事”が書かれているのでここでも判る。
そこで敢えて「冷却・工業化と殖産化」には、先ず最初に「備長炭の焼灰の中」として対応していたが、次に“「植物油か魚油の油」を使った”と考えられる。
然し、論理的にも確かに「焼灰の中の方」が「冷却速度が緩いと云う点」では良い事は判っていたらしい。
だが、「当時」は、概念的には、 未だ、“「マルテンサイトの有無の概念」”に拘わらず、 “何事にも「冷やすと云うだけの概念」と成っていた。”と云う事なのだ.
そもそも「冷却の程度までの話」では無かったらしい。
それは、当時は「砂鉄の玉鋼」にしても「陶器」にも由来していて、正確な温度把握は在ったかは疑問であるが“100度程度の低くて極めてゆっくり冷やす事程が良い”と云う「冷却概念」が当時にはあったとする。
そこで、ところがこの事に就いては、“「マルテンサイトを獲得する冷却技術」”を獲得していたかどうかに付いては「玉鋼に関する資料」からは、全く散見できない。
恐らくは、“「加熱と鍛圧と冷却の三つの如何」を、巧く調整して敢えて「変態が起さないところ」で「全行程」を止めていた”と、科学的に調べると判断できるのである。
つまり、それが「変態」かは別として,“何か変な事が起こる温度域で、そこには悪い事が起るのだ”という「逃避概念」あったのではないか。
ではこの「変態が起さない点」の手前とは、最も、「割れ、変形、等の品質欠点が起さないところ」でもあったのだ。
現実にもその理論であるが、寧ろ、当時としては「この求めるべき点」と云うのは、「逆の点でとらえられていた事であったと云う事」だ。
全くこの意識の無い事も記された資料があるが、少なくとも「技術的に避ける点」であったと云う事に成る。
此れを「冷却とその後の処置」で上手く乗り越えれば、「逆の点のその逆に成ると云う事」を「伊勢青木氏」は“「銃の欠点克服の過程」で掴んだ”という事なのだ。
それには、是非に「植物油の工業化・殖産化」に取り組まなければならないし、「伊勢神宮の植物油の禊品の事」もある。
結局、上記の資料から、「嫌われている魚油の生産」を施し、「植物油の工業化・殖産化」をして、「禊ぎ品から量の解決」をして、更に「交易をして禊ぎ品の利益」を上げ、挙句はそれに代わる「魚油の代替品の石油を仕入れて卸問屋」を新たに営んで「伊勢の人の理解」を得て「巨万の富」を獲得したという事だろうの「経緯」であることは判る。
この間に「銃の欠点の解決」の為にも、この為の「工業化」で「大量の禊ぎ品の油」を使うが、それに依って「マルテンサイトを獲得する為の冷却技術」を獲得していたのだ。
「伊勢」では「額田青木氏を救う為の銃の製作」と、「それに使う油への批判・禊品に対する工業化」があったのではないだろうか。
「禊ぎの品の殖産化と工業化」は、兎も角もそれを超えた「大工業化・銃」には「大きな批判」があって、そこで「交易から得た資金」で「石油問屋を営んだ事」ではないかと判断する。
これで批判を躱したと考えられる。
「金銭的な事と油植物油の使用率の事」では当面は解決したであろが「伊勢の禊品ぎと云う事」では解決が解決出来ていたかは確認が取れない。
然し、じょうきした様に「額田青木氏の銃の欠点解決」で「冷却材として油を使う事」では結局は理解を得られていた事を考えれば、禊ぎ品に付いては小より大のもくてきではんだんされたので゛はないか。
注釈 ここから「植物油と銃や刀の等の関わり」で論じる。
専門的には成るが、これは、「工業化」に於いて「両者の事を専門的な立場」から観る事に役立つ。
「禊ぎの殖産とその工業化」に付いてはそもそも「単純な動機」に依るものの、それが「意図的」だったとは考えられ無い事だ。
度合いかと云うと、この「殖産化と工業化」には、室町期に「生死を賭けた伊勢青木氏による技術化」が伴っていたからだ。
それには「額田青木氏を救うという大義」が大きくあったからだ。
然し、そこには「技術的」に少なくともそれには、先ずこの「禊ぎ品」の「植物油」を使わないで “刀の処理工程では済ましている事であった。
とすると、少なくとも当初より得られていていたとする「植物油」を使わないで「過去の冷却速さのパターン/水」では、専門的には「刀の内部組織」から観ると、“「類似ツルースタイト組織」”には少なくとも成っていた筈なのだ。
そこで、場合に依っては、この「水の冷却の速さ」からでは、一段低い「類似ソルバイト織」”に完全に成っていたと考えられる。
「水」は「冷却」が油の2倍に早いが直ぐに「蒸発の泡」が発生して「その速さに比例する冷却効果が得られないと云う欠点」を持っていて、「2度目の冷却」は水温が冷却に必要とする温度以上に上がり過ぎ同一のものが得られない欠点を持っているのだ。
この欠点の発生は品質、つまり「製品」とは成し得ない事を生み出すのだ。
だから、常時に一定に冷却効果が成し得る油が求められるのだ。
「工業化」ではどうしても「一定に冷却効果が成し得る油」が必要であって、それには必要とするのが「植物油」と気付いた事であるのだ。それが奈良期から解決し得なかった銃の欠点解決から導きだされた成果であったのだ。
それだけに上記する様に意味は大きかったのだ。
要するに、“「刀」は「類似ソルバイト織・水」”より「類似ツルースタイト組織・水」”にするのが良いのだ”とするのが、これが「過去の普通の概念」であったと考えられる。
例えば、「類似ソルバイト組織」”は、「バネ性を強く求める時に出す組織」で、これより「類似ツールスタイト組織」は「バネ性より硬くて強靭な組織」のものである。
但し、本物のソルバイトやツロースタイトよりは何れもその特性は落ちる。
そこで「水」を使い「植物油を使わない刀」の場合は、「専門的にこの資料を読んで咀嚼すると、「結論」は矢張りそこに陥る結論なのだ。
つまり、“刀の処理工程”の場合には「砂鉄の玉鋼」を使用するが、要するに前段で論じた様に、「近江鋼の場合」の様に、元々使う鋼が「0.8%Cの共析鋼の処」であった場合と違って、そこで起こる“「変態・マルテンサト」を敢えて発生さしていない”のである。表現は正しくは発生しないがただしい。
従って、この「玉鋼の刀」の“「加熱と鍛圧過程の二段階」では、「冷却の速さ」では、それなりに既に「硬くて柔軟な組織」に“「恣意的」ではないが、「偶然」にも成っていた”のだと専門的に観て考えられる。
然し、この“刀の場合は、「上記した工程前後の処理の高度な知識」が、「未完”で在った事から、偶然に“「マルテンサイトの様な類似形」に成っていずに、そこでの「出来具合・類似的にツルースタイトかソルバイト」”が「何らかの形」で意図せずにこの「類似系組織」が得られていた可能性があったと推測できる。
そして、“此れを良いものだ”としていたのだと考えられるのだ。然し、違ったのだ。
決して、「変態」を起さない限りは、偶然にも、“「マルテンサイトの様な類似形」には絶対にならないのだ
これを最近に調べた「刀の組織的・内部の研究結果の論文」があって、それには「内部の組織の良し悪し」では無く、「切れ味の刀の良し悪し」で表現されていたらしい。
これは検査装置が無いので当然かもしれないが。
当時では、従って、当然に「玉鋼の刀」に於いては、この「冶金的な結晶の構造」、つまり「マルテンサイト・ツルースタイト・ソルバイト・パーライ」の「4つの結晶組織」で、「強さ」をも表す「呼称の概念」は無かったと考えられる。
然し、多くは「油の冷却過程」を得ずして得られるこの類似ソルバイト」であったと研究成果では結論付けている。
後は、“「玉鋼の板を何層にも重ねて鍛えた結果」から得られる「強靭な物理的な強さ」”が、これを「補完している強さの正体」であったとしているらしい。
仮にそうであったとしても、それはそもそも“「悪い出来具合」”と「砂鉄の玉鋼」では、「植物油冷却材として使わない事」と、「近江鋼の0.8%C共析鋼を使わない事」から、その「特性から脱却できるものではそもそも無かった」と云う事とされるのだ。
当時としても、既に「近江鋼の0.8%C共析鋼」が一方で「伊勢青木氏」で使われていたにも関わらず、この限定された「その範囲の事が正しい事だ」として「刀の概念」が先行して断定されていたと考えられるのだ。
何故ならば、これは「火縄銃の生産」も「刀の生産」も、「同時期にして同工程での概念」であって、「砂鉄の玉鋼」だけを使って「平衡して生産されていたと云う事」から来ているのだ。
従って、「当時の青木氏部の匠の常識の凄さ」は、先進的に研究して「植物油を使う事」で「冷却問題」を先んじ解明し、“この「技術の壁」を「植物油の殖産と工業化」で打ち破っていた”と云う事に成る。
そこには「伊勢の禊ぎ品と云う縛り」が伝統的にあったにも関わらず、寧ろ、「植物油の殖産化と工業化と交易化の積極策」で解決しているのである。
その証が何よりも「額田青木氏の近代銃の鉄」は、“「近江鉄の鉱鋼」であった”と云う事なのだ。
つまり、上記した「マルテンサイトから得られる鋼の高度な特性処理・冷却・植物油と魚油の冷却」で「銃の欠点」を克服していたのだ。
普通なら長年に渡って「火縄銃の生産」や「刀の生産」も「同時期、同工程での概念」であって、且つ、「砂鉄の玉鋼」を使って平衡して生産されていたと云う事で在るのなら、この「工程に頼る」のが普通であろうがそうでは無かったのだ。
「人間の成す事」と云うのはそんなものであろうが、ところが“全く違う「植物油と云うもの」を選んでいた”のだ。
何故ならば、「刀の特性」には「切れ味」と「鍛する事」と、つまりは、「たたき合う事に依る折れない強さ」のこの「二つ特性」が「最優先」に先ず求められたのだ。
現在科学では、この「切れ味」は、“「マルテンサイト」が最高”であって、これが「技術的に得られない事」から「類似ソルバイト」を「玉鋼の重ね板」で「何度も鍛える事」をして獲得したが、これでは「切れ味」は間違いなく落ちる。
然し、特段に「バネ性」を獲得して「折れに対する強度」を補完していたのだと理解すれば、其れなりに納得出来る。
つまり、故に「刀匠」に依っては、この“「切れ味」><「折れの強さ」”の関係に油と云う冷却概念で差が出る事に成るのだ。
それも“常時では無く時々の技物の出没”に成っていた筈である。
何故ならば、原因はこの「類似ソルバイトの所以性の差」にあるのだ。
当時の代表例として「刀」は次の関係に冶金的にあった事に成る。
「類似ソルバイト」=「重ねたたき合う事」+「その鍛する温度」
注釈 そこで此処からは「刀」に付いて論じる。
「刀」は「類似」である以上は、以上の関係式に依って「刀の性質」は偶然に生まれるのだ。
殆どは、この“「鍛する温度」の「最終温度」”にあって、これに依って「玉鋼」では決まる。
何故ならば、この「狭い限定温度」を間違えると、「類似ソルバイト」は析出しないのだ。
仮に何とか出たとしても、今度は“「切れ味」><「折れの強さ」”の「理想的な関係式」を保てずに「質の悪い使えない刀」と成るとする「冶金的に求めた研究報告」があるのだし、理論的ににもそうである。
冶金的に専門的に合理的で理論的にもこの研究は納得できる。
故に、この「技法」を使った「根来雑賀の火縄銃」は、“この関係性を持っている事”に成っていた事になるのだ。
そこで、この「刀の高度な匠技・現在研究」では、“この「緩める事」と「冷却の事」を「同時に行う術」を把握していた事があり得る”ので、この「技法」を使って「名刀」とするものには、必ずこの「刃文・刃紋・玉鋼の板を重ねる事で起こる模様」と云うものが出る。
そして、そこに出る「模様柄」、即ち「類似ソルバイ」の「光の屈折具合」のこれで「技量の高さの判別」が判るのだ。
注釈 「類似ソルバイト」には「独特の波板の様な模様」が出る
もし、そこで「青木氏部」に依って「額田青木氏の近代銃」に使われたとする“「マルテンサイトから得られる鋼の高度な特性処理」”で、仮にこの「刀」を造ったとすれば、“「切れ味」><「折れの強さ」”の関係は、「最高の物」と成り得て、それは“名刀中の名刀”と成り得る。
以上として間違いなく扱われていただろう。
この事の証明は、この「検証の物理の実験」が成されていて「物理試験・アムスラー試験」でも証明されているのだ。
つまり、この「刀技の匠」で得られたとすれば、「額田青木氏の近代銃」も同然の結果と成り得た事を証明できる。
然し、「近代銃の研究と製作」は、「刀匠の根雑賀根来の鍛冶師」では無く、「青木氏部に所属する部人・松阪と摂津と堺」とその支配下にあった「日野鍛冶師」であったのだ。
そして、元よりそれは「砂鉄の玉鋼」では無く、「殖産の近江鋼」のものを使っていたのだ。
そもそも、「青木氏部」に「所属する部人・鍛冶師」たちは、古い「奈良期からの殖産の結果」から「鉄の鋼」が違うのだ。
注釈 「鍛造後・砂鉄」、又は、「熱処理後・鋼鉄」に得られる「類似ツルースタイト<>類似ソルバイト」の関係には次の二つがある。
1 「鍛造後・砂鉄」の場合は、「鍛える過程のそのエネルギー」で「類似ツルースタイト<類似ソルバイト」の関係で「偽の類似的組織」でそれに近い物理特性が得られる。
これは「鍛する過程」で、「鍛圧エネルギー」と「適度な温度に下がる事」のこの「二つの条件」が揃えば「偽の類似的組織」が得られる。
これは極めて「難しい二つの条件範囲」で得られるので、そこで当然に「匠技」に関わっていたのである。
だから、「名刀」と云うものが生まれていた所以であるのだ。
2 「熱処理後・鋼鉄」の場合は、「決められた特定の範囲・鉄種と炭素量と温度領域と冷却温度と特殊な後処理の5条件」が一致する事である「特別な綱変化」が起こる。
これを、此の世に起こらない特別な変化である為に「変態・トランスフォーメイション」と云うが、これが起こり、この獲得した「マルテンサイト・鉄のダイヤモンド」を、「特殊な後処理で安定させる事・特殊な熱処理」で揺るぎのない「物理特性」を持つ。
これでは未だ安定しないのである特定の温度範囲で少し下げて処理すると「正常なツルースタイト・又はソルバイト」だけが得られるのだ。
これを使ったのが「額田青木氏の銃に起こる欠点」を取り除いた「超近代銃」かが生まれた所以なのであるのだ。
注釈 この「変態結晶体の独特の光反射の色合い・薄青白いシアン系の光を発する」を示すが、ところがこの「偽の類似的組織のマルテンサイト系ツルースタイト、又はソルバイトを有する刀」には現実にはこれが観えない。
この処を考察すると、一般的には「砂鉄の玉鋼」では物理的に無理と成るが、故に当時としては「変態現象の概念を有していなかった事」が間違いなく云えるのだ。
其れが砂鉄の玉鋼であったからだ。
結論として、それに伴う「刀にする為のある程度の冷却に必要とする程度」の「冷却の概念の重要さ」も一部でも「保有していなかった事」は先ず確実であろう。
ところが「名刀」とされるものには、「筆者の見立て」では、これが一部確認する事が出来るが、ところが完全に概念として有していたかは定かでは無い。
又、「製作過程」でも偶然に得てそれが「名刀として扱われる所以」と成っていたとも捉えられるが可能性は低い。
然し、これはより「偽の類似的組織」の「ツルースタイト>ソルバイト」の関係で、“偶然に名刀に成った”と観ていてこれが「刀の筆者説」である。
何故ならば、「鋼鉄と砂鉄の違いの事」は、勿論の事ではあるが、この「マルテンサイトの存在」を「確認する事」には、「屈折光」だけでは無く、「高度な顕微鏡とその為の化学的処理・ナイタールと硝酸液の処理と酸化クローム研磨」が必要であるからだ。
ところがこれが当時は未だ確かに無かったと観ている。
「奈良期からの飾刀の匠技」に伴う「高度な冷却概念」の中には、「密かにテンパー概念」があったとしている記載があるのだ。
何故ならば、それは“玉鋼”ではない”「近江鉄」”であったからだろう。
それを理由に「近江と摂津と伊勢の青木氏部の匠」の中では、「何らかな方法・貿易」で獲得され、この“「703年~713年の前からの歴史を持つ近江鉄」”を使う以上は、「最初の試練」として「試行錯誤の中」で「額田青木氏の超近代銃銃」に「高度な冷却概念」を求められていたと見ている。
寧ろ、そうでなくては使えず懸命にその「匠技」を獲得しょうとして“間違いなく応用された”と考えているのだ。
そうでなくては「近江鉄・磁鉄鉱と褐鉄鉱」である以上は使えないのだ。
上記の「近代的な検査装置の存在」は無かったにせよ、「屈折光」と「焔硝の存在」とそれなりの「研磨工程」があれば、「最低限のより高度な確認検査装置・貿易で得られていただろう」は「室町期」には最早在ったと考えられる。
「屈折光」は、「当然の事」として、「焔硝の存在」は大和には既に奈良期からあった事が記されている。
それは「白村江の戦い」から破れて引き上げた「天智天皇」は、中国が攻めて来るとして「山陽道の造成」と「周防國から奈良」までの間を、「硝煙狼煙」で「情報を伝達するシステム」を構築した「歴史的な有名な事件」が在ったがこれに既に使われているのだ。
これ等があれば、「その概念の存在」は、兎も角も、少なくともそれなりの「マルテンサイトの存在・極めて硬い組織の感覚的存在」は稀にも経験していた事は否定はできない。
注釈 この「マルテンサイトの呼称」は、そもそも「ドイツ語」であって「近代の物理学、即ち、冶金工学と金属工学」は、主に「戦い」に依って利用され進歩を遂げたが、この為に「戦い」に勝つ為に「古くなった西洋の火縄銃の近代化」を「切っ掛け」に「近代銃への発展」へと「発達経路」を西洋で遂げたが、これ等は全てはこの「ドイツ」から起こった事なのである。
必然として「ドイツ」の「西洋での位置づけの結果」では「勝利」を収めたのだ。
これを「伊勢青木氏・伊勢屋の貿易」を通じて得ていたと云う事に成るのだ。
当然に、その「技術」は「青木氏部」を有していた限りに於いて一部分であったと云う事では無かった筈である。
奈良期から始まった「近江鉄の製鋼技術」から「室町期の近代銃の完成技術」までを、この「貿易」に依って全部とは云わずとも獲得していたと認識しているのだ。
確かに問題は「奈良期からとする処」に問題は在るが、そうでなくては「近江鉱山の鉱石」を「高炉・日本での歴史は、一般的に「江戸末期に利用」を使ってしか成し得ない筈だ。
とすると「近江鉄使用論」は成立しない。
逆に「近江鉄」が存在する以上は、其れなりの高炉に近い「高温に成る炉」があった事は否めない。
これは「幾つかの記録」からも「歴史上は紛れもなく史実」で在る。
以上は、「高炉」と「近江鉄の製鋼技術」から、「室町期の近代銃の完成技術」までの間には「高炉存在論」が成立する事に成るが検証か必要である。
それは「奈良期からの近江鉄」は、「院号を有していた伊勢の殖産業」で興されたもので在った以上は、その「社会普及」を特段に敢えて辞めて、「高炉に等しい炉」が見つからない以上はその開発炉は“「伊勢・摂津の範囲に留まっていた事」”に成る。
寧ろ、これは「氏是と家訓」に従っていた事であろう。
其の事からこの「高炉に近い炉の普及」を“留めていた”と受け取るのが正しいだろう。
これらは「院屋号を完全保証されていた平安末期」と、「伊勢本領安堵の号」としては限定保証されていた鎌倉期」と、「律宗族としての半資格での室町期」の「3つの経路の扱い」を受けていた。
この事から、故に「上記の開発の完成技術」は、長い間を「青木氏部」の“「氏族内に留められた・青木氏部」”と考えられる。
そして、前段でも論じた様に「江戸期」に成っても「氏是」に伴い、「銃」と共に「一連の物」が秘密裏に「抹消した経緯」を持っているのだ。
但し、「上記の完成技術の経緯」としては、「三方ヶ原の戦い以後」に「伊川津」に戻り、「渥美湾の制海権」を松平氏から獲得してから、暫くして、「摂津と伊勢」では「銃のその必要性」は無くなり、密かにして治めた。
然し、これが「江戸期」に成って、前段でも論じた様に「享保期末期の吉宗との事件」と「山田奉行所との争い」とを相手に「摂津水運組合と山田奉行所事件」で摩擦・闕所事件」が起こった。
「紀州藩の後盾」を得ていながらも“「難癖」”を着けられない様に、これらの「銃に関する全ての技術」は完全に抹消したと観ているのだ。
取り分け、「母方系の藤原秀郷流一門」が「幕府御家人衆」に組み入れられ、「伊勢藤氏の全て」が「紀州藩家臣」と成った経緯もあり、これ等に影響を及ぼさない様にする為にも「銃技術を含む全て」は、勿論の事としても「上記に論じた完成技術」も“「抹消処置の時期」”としたと観ているのだ。
前段でも論じた様に「四家の桑名等」では、“「祠」にして密かに「神明社」までも鎮守社の裏に隠したとある。
そして、その「床下」に「青木氏の手伝統の記録・資料等」を隠したとした”とする。
この為に「青木氏の現実の記録」も遺されているし、「南勢の旧領地等の各地の青木氏」でも同然であったとしている。
兎も角も、“「抹消処置の時期」”とした場合は、概ねこの時期しか無かったと観ている。
この元には「奈良期からの殖産」で「鉱山開発の院屋号を持つ伊勢」は、偶然にも環境証拠として「近江鉄を利用したとある。
この事では詳細が判っている。
それには僅かに「アルミニウムとマンガン含む鉄の原鉱石」、即ち、「1246度融点での近江鉄」には「磁鉄鉱と褐鉄鉱」が含まれていたとある。
この結果として、「近江鋼」は、砂鉄と違って“「味のある特性としての概念」”で引き出されていた事に成るのである。
工具などに使えば鉄だけの物より特性の豊かなものに成ると云う意味である。
とすると、「近江鉄」は一般の要求に鍛冶師として応えられる鉄であったと云う事だから相当に忙しかったと考えられる。
当初は1つ目の鉱山、あまり時間を置かずして2つ目の鉱山と、開発途上の鉱山でありながらも広げていった事が判る。
そしても何時しか「近江」には「4つの鉱山」が開山された経緯を持つのだ。
如何に「近江鉄・近江鋼」が当に世間から好まれて奪い合いする様に求められていた事が判る。
注釈 さて、そもそも故にこの「急激な需要・経済発展に寄与」に対して、この「経緯論」としては、先ずどの様な「溶解炉」がこの「近江鉄・近江鋼」には、使われていたのかである。
これだけの「需要」に対して、応えられるのは現在科学から観ても「高炉」でしかない。
然し、この「高炉」は日本では「明治初期の使用」であり、西洋でも室町期末期である。
これでは「経緯」が合わない。
「砂鉄の炉」は理論的に使えないから何か炉を開発した事に成る。
結論は、それは“どの様な「高炉に近い炉」を開発していたのか”であり興味が湧く。
「近江鉄」から炉高が高く無くてはならないし、新規の還元剤の開発も求められる。
「砂鉄」では、「平炉、箱型炉、縦型炉の開発経緯」で三つが使われたが、要するに高炉型ではない。
これでは「近江鉄のような鉄鉱石の溶融」は、そもそも物理的に無理であり、それは「砂鉄の砂鉄炉」では「溶解温度」と「還元剤」と「溶解容量」とが原理的にも合わないのだ。
この爆発的な「需要量」に応え得る事は、論理的に無理な事では勿論であるが、取り分けそこには「還元剤」が「鉄」を獲得するのに無理であるのだ。
現実には「鉱山産出と原鉱石にする量」は、この「需要」に応じたとしてもこれを「獲得する炉の開発」が必要であるのだ。
上記した様に「砂鉄の三つの炉」は、原理的に無理であるのだから、何らかのこの三つ以外の原理的に可能にする炉の開発が「鉄の鉱山開発」とは別に同時に求めらていた筈である。
其れでなければ「鉄」として進んだ「特性」を出す「近江鉄」は成し得ないのだ。
そこで、大昔は「原鉱石」から風化で削られて河川に流れ着いてその鉄だけがその比重差で沈み込みそれを溝で浮かび上がらせて、これを浚って集めた鉄、即ち「砂鉄」のものである。
然し、この「砂鉄による製鉄・1560度融点・蒸発最高点」である事からこれを「タタラ鉄」とも云われた。
然し、その「タタラの砂鉄・ふいごを使った炉」には「弊害」と成る「高融点のチタン」を多く含んでいた為に、この「チタン」だけが溶けずにいて炉の出口を塞いだのだ。
これが「砂鉄の進歩」を阻害した最大の欠点であった。
然し、この対策として「考え出した炉・高炉らしき縦型炉の坑口」にも「詰まり」が発生し、結局はこの詰まりの為に「炉の崩壊」が度々起こり解決に至らなかった炉なのだ。
これにより「三つ以外の炉形」は、“進歩に繋がる製鉄法”としては使え無かったのである。
現在でも、ほぼ同然で、そこで、何度も「高炉での研究開発」が「青木氏部」で成されたが、結果は同然で、この「チタンの多く含むタタラ鉄」では無理で況してや、その「チタンの特性」を江戸期末期まで生かせずにいたのだ。
「上記する元素」としては「同然の特性」を有するが、然し、「チタン」は「鉄を強くする五大合金元素」に含まれる可能性を持ちながらも、「利用」は「難・1668度融点」であった為に、現在でも「高度な真空電気炉以外」には「一般炉でも溶解をする事は出来ないのである。
そもそも「チタン」は「鉄」より軽く「アルミ」より重く耐熱性が高く次の「鉄に代わる金属」と云われている。
この経緯から当然に「古代のタタラ製鉄」は必然的に衰退して行ったのだ。
そもそも「何処の砂鉄」にも、他に日本の地形の形成上から「ニッケルとシリコン」を含んでいるものである。
然し、これ等は「高炉以外には取り除く事」が出来ずに「タタラ製鉄の砂鉄の欠点」として残ったのだ。
そこで「伊勢青木氏の摂津」では、「砂鉄の縦型炉を改良した竪型炉」を開発したのだ。
これでこれを機に「近江鉄を使える様な炉」を次第に開発したとあり、それが最後には室町期末期まで使われたとある。
関東は砂鉄が少なく、「近江鉱山」を参考にして「鉱山開発」が「鎌倉期・室町期末期前後」から始まったとされ青木氏部は指導したとある。
注釈 「鉄の融点」は「1560度・実質1230度で可能」とし、「高温では現実に蒸発が伴い爆発の危険性」があって、ところが、この「鉄」には「他の金属」と異なり、その「温度毎に特有の結晶構造」を持つのだ。
それ故に物理的にこの高温は使えないのだ。
即ち、それが「炭素の含有との相関」であり、「使用範囲の限界」は、「温度毎」に異なり、最低で「723度程度以上・オーステナイト結晶」に成る。
最高で「1025程度にする事」で、「何らかの処理」で上記した「マンガン・融点1246度/鉄の限界融点1232度」との「相関関係」、つまり「鉄と炭素相関図」が成立する事に成る。
この相関関係が成立する温度範囲で無くては鉄は使えないのである。
この「鉄と炭素との各種の組み合わせ」により、「各種のセメンタイト・鉄と炭素の結合体が生まれる事」が可能と成るのだ。これ無くして鉄は使えないのだ。
この“「融合と合成」”の為に、これが「比較的低い温度」の為に「上記の様な事」は可能と成る。
だが、然し、逆に砂鉄の場合は、この「タタラのチタンの欠点が生まれ、利用は無理と成るのだ。
故に、「砂鉄」は「平炉のタタラ炉」でゆっくりと行われる。
その為に「炉の温度」に「低めの限界}があって、この「チタン」を溶かせずに、逆に「チタンの弊害・結晶」に対して「炉や加工品の破壊」などが頻繁に起こっていた炉なのだ。
この「弊害・当時は理解されていなかった」を含有し、絶対に「物理的に不向き」であって、現在も「真空電気炉以外」には無理であるのだ。
注釈 そこで、「前段の日野―松井―摂津の地理的往来の論」でも論じた様に、「朝廷」より「院屋号」で「殖産」を命じられた。
この大和では「鉱山開発の経験」のないところで「伊勢青木氏の裔系」の「奈良期の殖産」として「因事菅隷」として開発されたのが、「古代の日本最初鉱山」の「大倉鉱山と高倉鉱山」等に依って採掘されたのだ。
これが「近江鉄と呼ばれる鉄」であった。
要するに「近江鉄・前段の砂鉄では鉄鉱石」であるのだ。
これを使えばより多く、より「高温に溶かす事」が出来る事が可能に成ったと考えられる。
「後の銃の試作生産時」には、即座に「青木氏部・摂津と伊勢の青木氏部の匠等」に依ってこの「近江鉄の原鉱石」と「高炉に近い竪型炉の使用」は、1400年代初期頃には密かに炉の原形が試されていたが、此れは既に奈良期からの試されたものであったと記録されている。
この為に密かに逸早く「西洋」からその「炉の技」の原案理論は「貿易」で密かに持ち込まれていたとされる。
「摂津・堺」では、これに基づき,「試験用」として速い時期からこれを選ばれていたと考えられる。
そもそもそうで無くては、態々、この「チタンの弊害」を取り除く為には、“「通常のタタラ鉄」”では無く、先ずに“「近江鉄」”を使い、それ故に上記した様に「銃にする為の欠点」を無くすには、「温度と量と炭素の関係性」を保つ事が理論的に必要と成り、結果としてそれには必然的に「高炉に近い炉」しか無かった筈である。
「近代銃の入手」と共に、そこで「西洋の高炉をも研究していた形跡」があって、それまでの「炉の技術」も生かし、それに近いものを採用したと考えられる。
然し、その前にそもそも「奈良期」からの「近江鉄の原鉱石を使うとする段階」では、「摂津」には、既に「早い段階では、つまり「平安期頃」では「高炉とするものに近い炉形」が既に「伊勢青木氏部]にはあったとされ、それには「関西で使われていた箱型炉」と「関東で使われていた縦型炉の原形」があったが、この“「縦型炉の改良型」”が既に開発され存在し得ていたと考えられるのだ。
何故ならば,関東には日本形成事からの地質地形上で「砂鉄]は少ない地質であった。
そうで無くては、「砂鉄」では無く「奈良期末期」には次々と開発された「近江鉄の原鉱石の4鉱山の経緯」は、存在し得ない理屈と成る。
そして、「室町期」に向けてこの頃の各地に盛んに成った「鉱山開発」が「成された史実も存在しない事」にも成り得る。
上記した「超近代銃の技術の所以・鉄と炭素と温度の相関関係」が得られる「炉・723度の0.8%C共析鋼」を獲得するには、“「高炉に近いものの改良炉・竪型炉」”で無くては絶対に得られない理屈と成るのだ。
ここに「通説・高炉は明治期とする説論」とは異なる処であって、少なくとも「近江鉄」が存在し、「炉・723度の0.8%C共析鋼」を獲得している処を観るとすると、少なくとも「高炉的原型炉」を「奈良期の初期」から使われていたとしているのだ。
「砂鉄の低融点の平炉や箱型炉」では、「低温度炉」で在る為に、「近江鉄の原鉱石を銑鉄にする事」は少なくとも出来ない。
理論的に「還元炉の高炉」と「不純物除去の転炉」で使うように成る筈である。
ところが、この「高炉説」を本名する事が起こっているのだ。
「砂鉄の玉鋼の平炉と箱型炉・江戸期」とは違う方法で製鉄が行われていたのだ。
やっと「鎌倉期」に成って「関東以北」でも「広く鉱山開発」が行われる様に成った。
この「鉱山」には、突然に「竪型炉/千葉県」と云うものが使われているのだ。
この「竪型炉」が「高炉」に似ているのだ。
つまり、「近江」で使われていた「炉形式」が関東でも使われたと云う事に成る。
全く同じ型では無いが、「高炉に近い竪型炉の改良型」である。
「近江」では「青木氏の炉・竪型炉」であって、「匠技」には構造には糸目は着けなかったが、「関東」に於いてはそこまでは出来ずいたみのが、恐らくは「高炉」に近い程度により高くしたものを造ったとされ、これを「竪型炉」としていたと考えられる。
関東では「発展過程の炉」と云う事では無いか。
つまり、「近江鉄の摂津」では、「高炉と呼ばれる程度の構造」を既に必然的に独自開発していた事を意味する。
実はこれには、「還元炉」と呼ばれ、還元するには「コークス」と「石灰」と「還元剤」を炉の高い先端から投入する事が必要とする。
専門的に古来から編み出されていた「竪型炉」は「高炉の原型炉」と云えるもので、「原理的」には同じ傾向のものである。
つまり、簡単に云うと、「炉底」は「二重」に成っていてこの「炉底」に「けら銑・銑鉄」が流れ出て「炭素量」の違う「二種の鉄」が出来る。
最後に、炉全体を壊して「二種の鉄」を取り出していたのだ。
これでは未だ使え無ず、ここから「不純物・スラグ」を取り除く工程に入る。
更により純度を揚げる為には、もう一度、「石灰等の還元剤」を加えて加熱して「浮き上がった不純物」を「棒先具・ケラ棒」で取り除くのだ。
この作業は「銑鉄」の上に比重が異なる為に浮かび上がる為に同時に行う事もある。
「伊勢青木氏」は、「玉鋼の製法」では目的とする「銃の欠点を解決すべく鉄」が論理的に得られないとして、そこで、その目的を達成させべく長い間「高炉に近い炉の開発」に取り組んでいたのだ。
実は「高炉を貿易で輸入しての手法」では、「溶融方法」が出来ない「高い還元剤力と溶融温度」が得られないのだ。
そこで独自に「鈩鉄の炉の中」でこの「目的に近い改良できる炉の開発」を試みたのだ。
それが「縦型炉の改良の竪型炉」である。
日本は最も高い効果を出す還元剤の製造には伝統の掟があって使え無かったのだ.
それは先ず「石炭」を500度程度の蒸気で熱してコークスとして使えば最高の還元剤となるがこれが伝統で出来なかった。
其れは超毒性の強い酸化硫黄の公害である。
この原理の検証に続く。p48
「青木氏の伝統 73」-「青木氏の歴史観-46」に続く。
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> 注釈 以上の様に、前例の無い程に「伊勢国全域の大領地」と「院号を特別に与えられる事」等をしても「朝廷の印象」を極力抑える様にしていたのだ。
> それ故に、「初代の伊勢王の呼称」は、その侭で、かと云って「施基皇子」は一時期は「二代目伊勢王」と呼ばれて扱われていなかった所以でもあるのだ。
> その「実績・功績」に基づく「冠位」から“二代目”と云う扱いには出来なかった所以でもあろうか
> その“「伊勢王呼称事件」”が、“「扱い」”の「最大の事例」であろう。
> 前段で論じた様に、「施基皇子」の上位に位置していた「兄・第六位皇子/第二皇子説もある」で、「浄大参位」であった「川島皇子・近江佐々木氏の賜姓族との扱い」を観れば浄の事でも判る。
> そもそも「上位」であれば、通常は「賜姓」は、神木等の神に関わる名で「賜名・氏名」を着けたが、「佐々木・斎斎木」の場合は、「通常の臣下に授ける賜名」の「地名・「佐々木・斎斎木」を採って賜姓したのだ。
> 「青木の場合」は「あおき・神木」からである。
> この「賜姓の事」からも「功績とそれに基づく冠位」に基づいて「全ての扱い」が変わっていたのだ。
> この事に然し乍ら「川島皇子とその裔系」も一切争いを起こさず寧ろ全くの同化を試みたのだ。
> そもそも「異母兄弟」でありながらも更に[血縁的」にも[政治的」にも「完全同化・融合・事件を起こす程に安寧を互いに「平安中期・源氏化真まで」は図っていたのだ。
> 唯、「施基皇子」は[政争」から逃れる為に終生に於いて「文化人・青木氏氏是」を装った。
> この“「文化人扱い」”が、逆に故に後に問題とした「嵯峨天皇」が嫌った「前例の無い皇親族」と「その特権」にあった事を示してる。
>
> 注記 平安中期までには「近江佐々木氏」は「信濃青木氏」と並び「完全同化・融合の族」で在ったが、「時代の波」に逆らえず「近江族は源氏化」を興し「完全な決別状態」と成った。
> これも後勘から観て「嵯峨天皇の失政」にあるとしている。。
「青木氏の伝統 72」-「青木氏の歴史観-45」
上記で論じて来た「植物絞り油の使用の経緯」の中には、この「注釈の事象」が繋がっていたのだ。
この「注釈の事象」が「伊勢国の殖産を大いに開始させる事の発端時期」と成ったのだ。
この事に就いて「伊勢青木氏の記録」と共に「御師制度の研究」にもこの事の記載が明確にある。
この事の「注釈の事象」は、取り分け、重要で、この中では、例として「紙屋院の院号等の独占権」を「令外官」として与えられていた。
とすると、「伊勢」で「賜姓臣下族」としてでは無く「青木氏部の部の殖産業」として「自由に行えた時期」はこの時以降である事に成る。
それは「禊の条件」が効いていたのであろう。
この時の“「伊勢の殖産」”は、「青木氏の商記録」や「幾つかの古資料」から漁ると「伊勢国と紀州の一帯」には、その「特殊な殖産の前提」があって「完全自由に興せたものでは無い事」が解る。
それには、「一つの青木氏が護らなければならない絶対条件」が課せられていたらしい。
それは、古来より、この「殖産」に関しては、この「伊勢」は 特別に“「禊(みそぎ)の地」”と呼ばれ、又、「食と産業を司る外宮の御祭神」の「豊受大神様」の「神地」にあって、従って、それに纏わる「禊の殖産」が主にして興されていたのだ。
恐らくは、これには前段で論じた様に政治的には「特別な規制令・因事菅隷」、又は「促進令」が発せられていた事が垣間見られる。
取り分け「青木氏が起こした殖産」にはこの「伊勢」に限ってこの「禊の条件」が課せられていた。
これを“「禊(みそぎ)の地」”としてこれを「特殊の規制令・因事菅隷」と「伊勢」では呼ばれていたらしい。
上記の「上記の伊勢王の事件」から考えても、実質は「施基皇子とその裔系」が「伊勢王」を「259年間・272年間続けられる実力」が備わっていて、初代云々では無かったと考えられ、飽く迄も「朝廷の政治的な思惑」の中で称されていた事が判る。
だから、「禊殖産の促進令」が「特別な規制令・因事菅隷」としも「賜姓五役」としても「令外官の青木氏」に発せられていたのだ。
要するに、「特別な規制令・因事菅隷」は伊勢青木氏に発せられる例出あった事に成る。
故に、又、「伊勢に於ける不入不倫の権」が、「中大兄皇子」に依って発せられていて、「伊勢神宮の保全」と共に「特殊な殖産前提の地・禊の地」が構成されようとしたのだ。
その「伊勢の地を護る令」として発せられる「特別な規制令」の「因事菅隷」は「伊勢青木氏の令」として用意されていたものと同じ意味を持つ事に成る。
だから歴史的に知られていない「特別な規制令」、即ち、「因事菅隷」とは成っているのだ。
逆に、これがあるからこそ「伊勢」で気にせずに「禊ぎ殖産の殖産を興せる所以」であった事に成り、それが正しく「禊ぎ殖産」であったのだ。
それには、完全自由では無かったと観られ「特殊な殖産前提」として「二つの前提」があったと考えられる。
「一つ目」は、上記の“「禊(みそぎ)の地・伊勢神宮」”とした事。
「二つ目」は、前段と上記する背景を持つ“「伊勢王の地・青木氏部・令外官・賜姓五役」”であった事。
以上に依る。
そこで、この「二つの前提の範囲」から“「禊ぎ殖産の殖産企業」”は、全国に先駆けて特段に「伊勢」だけに勧められていたものであって、そこで「朝廷」は、それを権威づける為に「紀伊国の日前宮」から、態々、遷宮した「伊勢神宮」の此処を、限定して“「禊(みそぎ)の殖産地」”として限定して取り分け呼ばせていた所以であろう。
「紀州日前宮」からの「伊勢への遷宮」は、要するにその違いを際立たせる為に取り分け“「禊(みそぎ)の殖産地”にする事」であって、その為の”「不入不倫の権」”であったと考えられ、その為にそれを促進させる者としの「因事菅隷を与えた初代伊勢王」であったと観られるのだ。
故に、前段でも論じた様に、“「不入不倫の権」”は、“「禊ぎ殖産の殖産企業」”を実行する「伊勢青木氏に与えられた特権」であったと論じているのだ。
それ故に、後の「鎌倉幕府」は、「本領安堵策」で、「室町幕府」は「律宗族」で、「平安期朝廷」は「259年・272年の伊勢王」で、「家康」も、この「故事の史実」を認めたし、且つ、前段での「三河での額田青木氏等の活躍」などもあって、“伊勢の事お構いなしのお定め書”までを伊勢青木氏に発せられたと考えられるのだ。
そこで、この前提で、ではそれを、「古来」、「殖産」、「産地」の「三つの条件」で観て見よう。
前段から論じている「禊(みそぎ)」等の資料から読み取ると次の様に分類される。
「和紙とその原材料と加工品」は、元より、「穀粉」「白粉」「伊勢木綿」「伊勢紙」「食料油」「薬」「茶」「食品加工品」「果物類」「木工品」「工業品」「絵具類」「備長炭」「墨」「組紐」「陶物」「漆器」・・・
以上、「禊品約20品等」として記載されている。
「古書の資料」からこれを観ると、以上と全て「伊の勢の国」の最も古い奈良時代から「禊(みそぎ)品」として扱われていたとするものばかりである。
それが何と「江戸時代」まで続けていて、結果としてこの「神の禊(みそぎ)の品」が何と増えているのだ。
室町期中期頃から江戸期中頃までの「禊(みそぎ)の品」は、そもそも「禊(みそぎ)の品」と云うよりは「伊勢詣での土産品」であって、殆どが「伊勢」と云う「禊(みそぎ)の品の格式」を利用したものばかりと考えられる。
「伊勢神宮の「禊(みそぎ)の品」の条件に殆ど則わないのだ。
これは「平安期末期」までは、「伊勢新宮の殖産品」として格式化する為に「令・因事菅隷」に基づくものとしての「伊勢青木氏」が「禊(みそぎ)品以外」は「その「伊勢の力・伊勢王」で敢えて認めなかったのでは無いかと考えられる。
その「伊勢王歯止め」のこれが伊勢王で無く成った時からの「室町期」からは崩れ始めたと観られるのだ。
これが何時しか「伊勢青木氏」から手を離れ、「禊(みそぎ)品以外」をこの「二次産業」と「三次産業」として「蜘蛛の巣」の様に組織的にそれぞれの「禊(みそぎ)品以外の長屋群」を通じて「伊勢以外の各地」でも出来るまでに広がって行ったらしい。
この「経済の流れ」は「伊勢詣での品」に成って「禊品」としては抑えきれなくなったのであろう。
主にこれらの物は「奈良に向かう川沿いの支流沿い」にあって、ここにはこの「類似品」を造る「類似の禊品生産長屋群」があった事が伝えられ、この「長屋群の人の呼称・ここでは記載しない」までもあったと成っている。
既に、此れを観ても、「本来の禊(みそぎ)の品」の原則域を遥かに超えていたらしい。
然し、前段でも論じたが「伊勢」では、「古来」に於いてその「殖産地の適正地・櫛田川沿い」には、今で云う「コンビナート」、即ち、全ての「一つの殖産に関する取引」がある限定された「一地域」で賄える「体系」の様にして、ここにこの「正規の長屋群と蔵群」が構成されて進められていた様だ。
その「禊(みそぎ)の品1」の「生産の区別の特徴」は、古来では「一つのコンビナート」が「山と川と浜」に集中していた様で、要するにその「地形の高低」を使って「川」で流し、「舟」で「運搬」をして、「浜」に出て、そこから「二つ目の次のコンビナート」に運ぶ「システム」で、「港・泊」から「大船」で、「伊勢北部の集積地」に運び、「松阪の商業地」に運んでいたとある。
その逆もあった。
この「動力」は、「川の流れ」で「水車・青木氏部」を動かし、「水」で「洗浄」などしていたらしい。
上記した「禊殖産の産品」は、この「コンビナート」のこれに「適合する物」が選ばれていた事が解る。
取り分け、記録に遺るところでは、所謂、「禊の川・A」は、主に「北勢」に集中して「櫛田川」を始めとして「21に及ぶ川」が適度に分散し存在していて、当に「コンビナートであった事」が解る。
故に、然し、「室町期」から興ったこの上記した「本来の(みそぎ)の品の域」のその「以外域品・禊ぎ品2」ではその生産場所が奈良域と限定されていて、主に「奈良県よりの北勢地域・B」に分散集積していた事が解っている。
飽く迄も、「神に関わる禊」を前提としていた為に、この「川の事」を“「禊の川」”とも呼ばれていた時期があったらしい。
さて、ここで論じているこの「禊ぎ品」の“「食用油・南勢・下記」”もその中の主な一つであるが、「伊勢」は結果として「全国の最大の殖産品」の「一大産地の国」に仕立てたとあり、取り分けにこれに「食用油の生産に力」を入れていた事が記されている。
この「禊ぎ品の食用油」は、その域を超えて中でも「交易品」としても使われたとあり。その得た「利益」の代わりに当時としては「貴重な石油の卸問屋」も営んでいた事が判っている。
この事は幾つもの記録にも記されている。
「禊の食用油」が「禊ぎの域」を超えて「貿易」に繋がったとして珍しがったとある。
「伊勢青木氏の院屋号」の「院」に対して、その「業」に対して「商い」をも行う時に与えられる「格式号・屋」があって、「朝廷の認可」を得て「・・屋」と公に号する事ができるのである。
然し、この「禊ぎ品が交易に使われる事」への「疑問」が不思議に無かったとある。
これはどう云う理由であったのか資料に残る筈である。
注釈 資料を調べる範囲では、平安期までは「院屋号」は[朝廷の認可の公認物」であって、幕府期ではこれを乱発して「莫大な利益の獲得源にした事」で、その「認可公認の価値」が無く成り、遂には「ある程度の利権」を獲得する為に「金品を支払い」、且つその「届け出の範囲」で「身分格式無く勝手に使える様に」、遂には成って仕舞ったとあるのだ。
江戸期ではそのに認可は幕府が行うものとしてそのレベルは無制限に成ったのだ。
ここで云う「院屋号」は、室町期中期前の認識とするものである。
これでこの「特権を与えられたこれを持つ部経済」から始まった「紙問屋の伊勢屋の商い」の「当初は「紙」を主として「業と商の屋の対象」と成って、朝廷が認める「業と商いの利権・殖産」を獲得し、其れを以って全国に販売されていた事に成る。
そして、その「院・屋・号に合わした特権」で「収益」を挙げ、その何割かを献納する形を執っていたのだ。
それが故に、当時では「摂津」や「大阪・堺」に「商いの場」が代わる前は、「伊勢」は、未だ「殖産地と販売地」の「現在の大阪の様な商地」でもあって、これで伊勢では古来では“「屋の地・禊の地」”と呼ばれていたらしい。
恐らくは、前段でも論じている奈良期からの「7割株を有する伊勢水軍の発祥」も、この「殖産の地」の「屋の運搬の結果」から生まれたものであったものと考えられる。
それが「摂津水軍」、「瀬戸内水軍」等と「販売地拡大」に伴い、その「殖産地」へと伝播していったものであろう。
その「証拠」に其処には前段でも論じている様に必ず“「青木氏の裔系」”が存在するのだ。
資料から調べると,流石に「院」は鎌倉期、室町期、江戸幕府に於いても乱発は観られない。
それは一つには「院の号の意味合い」には、「皇族」の要するに引退に相当する居に対して付されたもので、それを以て一つ徳行を成した得た事を意味する事から、社会に対して「功績をもたらす業」、即ち、「殖産」を興した事に対して、「院の格式号・貢献」を与えるとするところから発している。
従って、「院」は「殖産業・起業をもたらした者」に与えられていたので、誰でもと云う訳には成らず勝手に誰でもとは成らなかったのだ。
そこに、「認可」は上記の由来より「府の時代に成っても認可は「朝廷」であって伝統的に格式を重んじたのだ。
つまり、当然に青木氏に対しても「格式を重んじたと云う事」に成っていのだ。
故に、「交易の理由」はその範囲で許された事に成ったのだ。
百々の詰まりは、「格式の前」には「献納」が大きく期待されたからだ。それが有史来からの因の持つ伝統であったからだろう。
要は「青木氏」とは事を起こさないで任すが得策であったろう。それは「院号」の朝廷との特権を持っているからだ。
唯一つ、ところがここに「不思議な事」があって、この中には「古来」に於いて“「酒の殖産」”だけは「明治35年頃」まで「伊勢」ではその「殖産地」ではなかった事なのだ。
“「お神酒」”とすれば、又、上記の“「禊(みそぎ)の地・伊勢神宮」”とすれば、その「代表物」であった筈で、そうであったとしても何の不思議はない筈であるが、当時は未だ「禊(みそぎ)の物」の中には関連品も含めてもこの記載が無く、何故か「禊ぎの酒の殖産」だけは無かったらしい。
と成ると、これは「伊勢の神」の“「禊(みそぎ)の地の前提では無かった」”と云う事に成るが、果たしてこれは正しい事なのかであり、検証して観る必要がある。
それは、“「禊(みそぎ)の地の前提」”として、そこには、「一つの意味」が潜在していたのだ。
これには「解明できる要素」がある.
それは、寧ろ、「禊ぎ」と云うりは、“「薬」と「茶・薬用」”が最も“「神の物」”として尊ばれていたとする記録に先ずあるのだ。
これは「見逃せない当時の古来定義」である。
それは「中国」に於いても「大和」に於いてもである。
この事が重要であって、要するに、「禊(みそぎ)」のそれには先ず「浮き上がってくる条件」がある。
それには、そもそも「禊ぎ」は、そもそも「日本古来の慣習」では無く、「中国の神の慣習」そのものであって、その為に「大和」では、“「中国の影響」”を大きく受けいて、その「禊(みそぎ)の主眼」が、中国の“「漢方薬」と云う点”にあったのであろう。
それは、記する処では「中国」では、「禊(みそぎ)」=「漢方薬」であったという事だ。
「禊(みそぎ)」=「漢方薬」は、現在に於いても“医学と薬学」”が進んだ中に於いてでも、依然として「人間とウイルスとの戦い」である事は否めないが、その解決の一役を担っているのだ。
古来、「中国の先史時代」の「三文明後」に、先ず「国の形」として「那の国」から始まり、その「那の国」が先ずは「国体の原形」を定めた。
ところがそれを「秦」がこれを「完成した形」にしたのが中国では興った。
その国では、“石は薬の諺”があつて、現在でも中国ではこの考え方の根幹としてこれは信じられている。
事程左様に、要は全ては「薬」であって、これは「漢方薬の所以」であって、中国に於いてさえ「禊(みそぎ)」=「漢方薬」”には何の不思議もなかったのだ。
そうすると、故に「奈良期の初期」の「禊(みそぎ)」=「漢方薬」は納得できるが、唯、大和では、「禊(みそぎ)」=「漢方薬」だけの事では無かったのではないかとこれには「疑問」が湧く。
その「疑問」が「禊(みそぎ)」であるとなれば、「禊(みそぎ)」=「漢方薬」は「全ての民の現実の問題」であったと考えられる。
奈良期の「古来」に於いては、それがハッキリさせているのだ。
“「薬」と「茶・薬用」”に考えられる事は、同源であって、それが、“神の「禊(みそぎ)の物」としては、“人を癒すもの”が「主眼」として考えられていた事に成る。
ところが、そして、この“「酒」だは違った”と云う事に概念は成っていたのだろう。
では果たして酒と茶がどこが違うのかである。
当時は普通に「茶も薬であった事」が、これは「別の古書」にも幾つにも記されているので、“「薬」と「茶・薬用」”は同然の扱いであったと先ず考えられる。
「茶」は「水の代わり」の様に“親しむ”ように、「薬」と同然の様に一部の階級で親しんでいた事から、“「薬」と「茶・薬用」”は成り立つ事であったと考えられる。
これが「普通の感覚」で「医薬同源と云う事」であったのだ。
現実に「茶」には「カテキンと云う効果」が現実にあって、「過剰摂取の脂肪」には「薬」である。
要するに、「茶」が「薬」とするは、これは早く効くか遅く効くかの問題であって少なくとも間違ってはいない。
問題は次の「酒の検証」である。
確かに「酒」は、「茶」と同じであっても、その「質」は、兎も角も、「量」に起因しているが、「茶」はこの「量」にも「質」にも拘わらず「早い」か「遅いか」である。
古代では、要するに化学分析能力の無かった時代では、「概念」は違っていて「アルコール=カテキン」とも成るであろうが、ところが「古代」では、それでも「酒」は違ったのだ。
そこでこの「酒」が、そもそも「禊」には成らなかった「理由」は何なのかであって、この点にあって、「薬」としてはどのものに比べても「最大の効果」を発揮はすれど、先ずは「考えられる事」は、「人の物」としては別としても、“「神」”に「純粋に捧げる物・禊物」としては「純粋」に選ばれなかったのでは無いか。
「天岩戸の事」から始まり歴史的には最初に出て来る色々な意味の「薬」ではあるが、ところが「伊勢神宮の禊」には選ばれていないと云う事なのだ。
此の処が既にここが「中国」とは違っていたのだ。
もう一つは、「遷宮の地」の伊勢以外は、別として、「伊勢」では、「米」も然る事乍ら、決定的に違う事は、“「よい酒用の米・明治初期まで」が採れなかった事”にあるのでは無いか。
現実に気候と地質と土壌が悪くて「明治中期」まで採れなかったのだ。
これが講じて「禊の条件・伊勢の産物」と成っていなかった事も考えられる。
だとすると、ここには何かに正式な相当な記載があるべきものと成るがどうか。
では更にここを「古書」で検証する。
「上記の事」がハッキリと記録されているのだ。
又、「朝廷」はこの「ある事で伊勢の事に悩んでいた事」を示す事にも成る。
先ず参考として、「史書・古事記」の「経緯」に依れば、「天武天皇・673年~686年」が「稗田阿礼」に「古事記」の「正しい記録」を誦習させた。とある.
これに始まり、この「作業」が「天武天皇の崩御」でこの「誦習の事業」は一時中断したが、その後、「元明天皇(707年―715年)の命」で、再びこの「稗田阿礼」が“誦習した”とある。
この“誦習した”の所に意味が隠されているのだ。
何で何の為にどこを“誦習した”のかである。
そして、この“誦習”とはどの様な作業であったのかである。
そもそも、「古事記」そのものが未だ時代も過ぎてもいないし、ボロボロには成っていないし、内容も違って大きくは違っていないだろうし、故に、この“誦習した”には「特別な意味」が見いだせない。
「漢字の間違い」を直した訳でもないし、然し、“誦習したとするほどに”、する程に大きな理由が生まれたのだ。
筆者は、この事に就いて次の様に検証している。
「伊勢神宮への遷宮」が、「天智天皇」に依って「紀州日前宮」より「帝紀に書かれている事」により“「環境条件」が整わない侭に、「紀州の日前宮」から移してしまった史実”である。
何も「遷都」であっても「日前宮」より「遷宮」を直ぐにしなければならないと云う事ではない。
「遷宮}は「安芸」から始まって「69回の遷宮」を行っているが、「遷都」と同時に「遷宮」も同時には必ずしも行っていない事例はあるのだ。
「遷都が落ち着いた後」でも「遷宮を行っている事例」もあるのだ。
この事は「別の記録」にも記載されている。
「紀州日前宮」の場合は、この最たる例であって、「飛鳥」から「近江大津宮」に「5年間の遷都」にして「神宮」は「伊勢」であって、その前に於いてはその最たるもので先ずあったのだ。
そこで、この「天智天皇が始めた未完成の遷宮事業」を引き継いだ「天武天皇」は、何とか「環境条件を整える事」に専念したが、それでも上記の通りで「誦習で出来ない事」が生まれていたのだ。
これで、「遷宮の環境条件」に「矛盾等」が発生しない様に、先ずは「古事記の見直し」を二人の官僚に行わさせたと云う事である。
それに合わせて、現実に「伊勢王」の「令外官を務める伊勢青木氏」に対して「因事菅隷」で以て合わせて「環境整備」を施させようとしたのだ。
「天皇以外」に「伊勢王」に向かって、仮に「伊勢王」では無くても永代の格式があって「仕事を命じる事」は「永代の浄大壱位」である限りは出来ない。
例えば、「伊勢青木氏」より格式の低い「太政官の一官僚が命じる事」等が出来ないので、取り分け「皇族賜姓臣下族」と成っている「賜姓臣下族の氏族」に対しては、この「面倒の命令」の「伝達方式」の「因事菅隷」で「天皇の言いつけを伝える事」と成ったのだ。
その証拠に、この時、「因事菅隷」を「伊勢青木氏」だけに発しているのだ。
「伊勢」ではこれに合わせて、前段でも詳しく論じた様に、この為に「多気に斎王館」、「寺に十二女官の準備」、「尼寺の建立」、「伊勢神宮の整備」、「日前宮の処置」、「菩提寺の整備」、「分寺の建立」、「聖域の整備等」、この時期に「伊勢青木氏」は多く手掛けているが、これがその時の「神宮に対する環境整備」であったのだ。
「多気に斎王館」、「寺に十二女官の準備」、「女官の住まい」として「尼寺の建立」等のどれを執っても「伊勢青木氏」に直接的には関係はない。
例え因事菅隷が出ようと関係は無いが出した。
「賜姓五役」や「令外官」としても、又、直接に「神宮の事・国」であっても関係する事では無い筈で、例え伊勢の事であるとしても「国政の事」であって、これを「賜姓五役」を前提に「因事菅隷」で無理やりにやらせたと云う事であろう。
これが“誦習した”の所に合せたとする所以なのだ。
「朝廷の官僚」から観れば「青木氏」は便利な氏族であった筈だ。
「天皇の言いつけ」として「令外官の因事菅隷」を出して形付けて置けば済み、「紀州日前宮の在り様」に合わせて「政治的」にも「経済的」にも何もかもしてくれる便利な「賜姓臣下氏族」であったろう。
元々は臣下したとは言えそのような「不確実な立場」には生まれているのだから文句の出無いところであったろうし「院屋号」を多く持つ「伊勢の50郷士衆の氏族」である。
文句の出せない処であった事は頷ける。
そして、この「紀州日前宮の整った内容」を精査して、更に「見直し」をさせて提出しこれを改めて「太安万侶」が書き写し「712年」に再提出させたとあるのだ。
そして、この「古事記」に初めて、“「酒の事」として「神饌・神の供物」”として申しでて、“誦習を意味して追記して書かれた事に成る。
つまり、「重要な事」として「神宮としての環境条件」が完全に揃っていた「紀州の日前宮」から、余りにも整っていない「伊勢の神宮」に対して「伊勢青木氏」は「それなりの事をしなければ成らなかった」のだ。
注釈 「紀州日前宮]からの「遷宮」には、「神宮としての環境条件があまりにも不整備である事」から、「時期は悪い」として「官僚や皇親族」には反対が多かったと記されている。
この事が“誦習に走らせた理由なのだ。”
そこで、これを“誦習の字の如く「追記した事」に成るのだ。
そして、この事を「伊勢青木氏」が成した「環境整備の事」に合わせて、更に「類題三代格」の「平安中期の延喜式目録」にもこの事を記載し、この事を正式に「令を出した」として遺している。
この事を新たに令として、“「神饌”の神事」として「追記する事」に依り「900年頃に改めて定めている事」に成るのだ。
然し乍ら、主に「神宮移設の設備的な事」が「伊勢青木氏」に依って整えられて進められていたが、ところが「紀州日前宮」に比べて「絶対に整えられない事」があったのだ。
それが、先ずは「米による酒」と「飽浪社の不整備」と「帝紀が定める聖域の条件」が遺っていたのだ。
つまり、この「記録の示す事」には、「平安中期の延喜式目録」の記載の通り、「平安中期・900年頃・712年から約190年間」までは、「この事の示す処」は、飽く迄も、“「慣習」”で繋いでいた事と云う事であったとして、“「正式行事」”としては「定められていなかった事」が記されていた。
これが歴史的な事には成るのだ。
この事は、要するに、“「伊勢神宮時代」”にはまだ「酒は禊では無かった事」を意味するのだ。
では、この“「正式行事」として暫定的に扱われていた期間は何時か”であるが、これには明記はされてはいないが、“「来米の赤米・原種稲」”であって、唯単に、これに「麹菌」を加えただけの“「発酵古来酒」”であった事を示していて、これを以て、取り敢えず“「伊勢神宮の「神饌」”としていた事を示していた事に成る。
始めからではなく追記であって、「紀州日前宮」の様に「正規の酒の神饌」ではなかったのだ。
そうすると、「紀州日前宮と同じ禊の条件」としては、「完全に成り立った時期」なのは、「正規の酒の神饌」が出来る「土壌改良で造った明治初期」と云う事に成るだろう。
ここまでは「正式の神饌では無かった事」に成る。
これを唯単に「伊勢神宮の儀式」では、「神饌」として“「来米の赤米・原種稲」”を伝統であるとして「こじつけていた事」に成るが、上記の記載の事実の通りなのだ。
この「参考の事」に関して、“これは何故かである”が、それを次に証明する。
それは「伊勢の土壌と季節性と地形」にあって、長い間、“「良質米の穀物生産」に向かなかった”と云う事にある。
これは「多くの史書」にも記されている事であって、「列島の伊勢の地形・日本海から吹き下ろすくびれ部分」にあったので、「若狭湾から敦賀を通じて桑名」に「流れ込む乾燥する地形」にあったろうし、又、「列島形勢時の成り行き」から「典型的な花崗岩の地質・糸魚川線を境に左側の地質」であって、この「土壌」では「真砂土壌」であり、保水性が掛けていて、「米生産に向かなかった事」にあるのだ。
どんなに騒ごうと「伊勢神宮」では、「紀州日前宮の環境条件に拭う事の出来ない物理的な条件に多く欠けるところがあったのだ。
この事では、前段でも論じたが、「伊勢青木氏」は、「土壌改良工事」に「莫大な私費」を投じて行われた事が「青木氏の資料や口伝」でも伝わっている。
つまり、この事は「伊勢」には、長い歴史の中で、唯一、「神饌を造る土壌に欠けていた事」を意味し、それを成す「公の財源」に長い間、「伊勢王・地権を7割」で無く成った時点の限りに於いて欠けていた事に成るのだ。
「欠けている神饌」を獲得する為のその「財源」を誰が出すかにあったのだ。
そして、その「工事」そのものを誰が行うかにあったのだ。
前段からも何度も論んているが、「伊勢の事」を良く知っている「古来からの土木工事」は隣の「額田部氏」であって、経験も豊富で、「全国の青木氏との繋がり」は奈良期からで親子の様に極めて深い関係を保っていた。
明治期に於いてでさえ「青木氏-額田部氏の関係」が成り立たなくてはこの工事は成し得ない事であったろう。
明治期には、「額田部氏」は額田に「土木会社」を構えていたし、「青木氏部」も独立して「宮大工の会社」と「施工会社」の「二つの会社」を設立していた。
やっとこの「条件」も私的に成立したと云う事に成るだろう。
結論から、「資金と施工」は「伊勢屋の伊勢青木氏」からの「出資と施工」と成ったのだ。
これを成す「額田部氏の施行工事業者」が引き受けてくれるかであった。
先ず、「広大な地権」を「基本域」にして、それに伴う「干拓灌漑と土壌改良」を行い、問題はそれに接する地域の干拓灌漑をどうするかであってもその数は「約3割の地権者」であった事が伝えられている。
この時、未だ「伊勢の大字の約7割・地主」は「青木氏の地権域」であったと伝えられ、これを主体として工事を行えば、後の残りの「約3割を債権補完の干拓灌漑」に成り続けて「帰依した事・約定」に成った伝えられている。
注釈 「明治6年から明治12年」にかけて「地租改正」を行い、「地権者」を細かくして「土地売買を自由にする事」と成ったのだ。
「伊勢」も同然であったとされ、そして、「地租の現金化」を実現した事が記されている。
ところが、この時の「伊勢の 地租改正」には、「地権域」が多くとも3割と成っていたと記されている。
全国的には「土地の私有制度」と「明治政府の財政的基盤」を確立させた事として効果があったとされるが、全国的には伊勢は低いものであったと記されている。
この時期のこの「地租改正」には、「伊勢青木氏の干拓開墾」は当然にそれは「氏族・郷士関係」が働き、その「独立対策」の為にも先ず「伊勢青木氏の開墾と投資」で行われたのだった。
「地権の7割」は元より「古来からの女系血縁の氏族50郷士衆」の管理下にあって、これに対してにも「干拓灌漑の工事や米種の開発等」を先んじて行ったとある。
「残りの一般3割」は「伊勢村主200人衆」に解放されていたとある。
其の後の経緯として大きくは、その後に行われた「戦後の農地改革開放」で、この「灌漑干拓が済んだ地権」ともに全てを「伊勢郷士50人衆の氏族」に「無償」で引き渡す結果としたのだ。
「神饌」を獲得する為の「干拓灌漑土壌改良の効果」が、これで遅れて「戦後」に広く齎される結果と成ったのだ。
これは「当時の流れ」としては「氏族であった事」から当然であった。
要するに、「稲作を可能とする域」の「土壌改良工事/干拓灌漑工事」である。
さて、そこでこの「伊勢での米生産の為の大工事」は、口伝とその記録と郷土史に依れば、「明治期の中期頃」に「筆者の祖父の弟」が「信濃と越後の青木氏の親族」に修業して帰り、「伊勢の土壌と季節性と地形・額田部氏協力を仰ぐ」に合う“「米種の開発」に先ず長年に掛かけて成功したとあり、この為に「倒産寸前」までの「莫大な私費・資本」を投入したとあるのだ。
この時、「青木氏の中」で意見が大いに分かれ、結局、話し合いで「四家の福家」を「実行派の弟」」に譲ったとある。
この時、合わせて「火災」にも見舞われ「先の福家・祖父」が責任を執ったと云う事もあり、又、「明治期の大富豪ら」に向けられた「体制側の嫌からせ」もあって、「福家の権利を窯の灰」まで譲ったとされる。
それが“「米種の開発」に成功し続けて、その後に「日本」でも初めて「米と酒の早場米の開発」にも手掛け成功していて、その「米種等」には「実行派の弟・祖父の弟の名」が着けられている。
その結果、それまでは、「お神酒の神饌」に就いては、古来では「伊勢」では「悪質な土壌・真砂」でも出来る「古来米の赤米・原種稲」であったとされ、それが、「唯単に麹菌を加えてだけの発酵古来酒」を造っていてそれを「神饌」とされていた事が書かれている。
「伊勢青木氏」が「古来の伝統」としてこれを引き継いできていたが、これを「実行派の弟・祖父の弟の名」が自ら「福家」と成って、最後の一つとする大環境条件を変えたのだ。
この結果、「伊勢」ではそれまでのこの「福家であった祖父への呼称」が代わり、「福家が代わった事」で「御師」や「氏上さん」から、新たに「徳宗家・徳宋家」と呼ばれる様に成ったと記されている。
これには「長年の伊勢の願い」であった「米の出来る土壌改良」に「伊勢を変えた事による感謝」が基本にあったとされるのだ。
この古事は、「712年とする古書の内容」の経緯と一致しているし、「900年頃の慣習」の経緯と一致している。
それ故に、この「古来酒」は、“「禊(みそぎ)の品」とは成らず、当然に「神饌品の域を超える事」が「明治中期」まであり得なかったのだ。
簡単に「伊勢の土壌と地形と環境」は替わる事が無く、「伊勢神宮」である限り「他の地の酒の神饌」に上がらう事も出来ず、必然的に「禊への品を超える事」は出来なかったのだ。
では、どうして「平安中期頃」から正式に「神饌」と成り、「禊の品」へと近づいたのかである。
普通では、「土壌改良をしなければ成し得る事」は無い筈だがそれが成っているのだ。
それは、上記した様に「禊の品の前提」には、古来から“「薬用」とする大前提”が強くあった。
「紀伊国」から「伊勢国」に遷宮した以上は、「お神酒の神饌」は「紀伊国」では出来ていたのに「伊勢国」からも出ていなければならず、「遷宮の環境条件」として「不整備」であった以上、それが「天皇の悩みの種」であったとしていて、その「切っ掛け」としていたのが、上記した「天武天皇の古事記の見直し」にもあった。て、その為に努力したが、結局は少なくとも「平安中期」にまで、「伊勢神宮の神饌」として「類題三代格の記載」の通り「正式決定を持ち越した」のは、この「定める根拠が無かった事」に依るのだ。
「遷宮に於ける環境整備の不備」はここにあった。
では、それはどういう根拠なのかである.
そこで、取り敢えず「禊の品の前提」の“「薬用」とする前提”を古事記の“誦習で追記して補って使ったのだ。
これを米どころの「紀伊の日前宮」で国で行っていた「神饌」を、“「伊勢神宮の神饌」”とは成らず、それだけに一段落させる事として、これを“「薬用」”とすれば、「伊勢米の赤米」の「良し悪しや量」に関係なく、“「薬用」とする前提”として、又「禊の品の前提」として「伊勢」でこれを“「殖産」”とすれば、兎も角も何の問題も無く成る事に成る。
これが「上記の古書」に記載する“「慣習と云う形で引き繋がれた事」”を意味するのだ。
つまり、この“「薬用」”にすれば、「良し悪し」は関係なく、「量」を多くし「殖産として生産」できるとしたのだ。
これを「伊勢青木氏の殖産の末」に依って成されたという事である。
ここで、“「この事」”で「大きな史実」に一つ気が着く事がある。
“この「禊の殖産」を「伊勢」で進めていたのは誰か”である。
これがこの「259年の間の伊勢王の務め」であったとすると、「神饌の位置」から「薬用の禊の品」に「帝紀などの決め事」を移させたのは、「施基皇子の後裔の青木氏」であったと云う事に成る。
記録に観る様に「紀州日前宮・官僚の反対が多かった」から、まだ「日前宮」に比べて充分に「遷宮」に対する「環境整備」が整わない侭に、「不完全な遷宮とそれに伴う因事菅隷の殖産を無理に進め差した天智天皇」と、それに依って「歪み」が出たのだ。
この事に気づいて「古事記等の誤りの修正を命じた天武天皇」と、平安中期に「神饌決定と薬用の名目と禊の品の殖産の前提」を、「施基皇子の後裔の青木氏」に「因事菅隷」として命じたのは「仁明天皇」であった事に成る。
だから、「平安中期」なのであって、その役に立つ「青木氏の裔系」を再び「賜姓と云う形」で拡大させたのが「円融天皇・960年の賜姓」であったのだ。
兎も角も、「賜姓族」と云う「天皇の繋がりとしての氏族」を身近に多く整える事に政治的にも経済的にも必要に迫られていた事に成る。
注釈 だから、「青木氏の裔系」のこの論じている「青木氏の歴史観」の「時代の進捗」から「嵯峨期の策」は間違っていたと後裔の筆者は論じている。
朝廷の周囲もそのような環境にあったにも拘わらず、逆に敢えて一時的に感情的に成って便利な賜姓族や皇親族を外したのだ。
「紀伊日前宮」から「伊の勢の国」に移す事は「大反対」を受けていた事は多くの記録にも記載があり、この為に暫くは「伊勢神宮としての準備」が滞った事が記録されているのだ。
一時、「放置された時期」があって、「天智天皇崩御後」に上記した様に「天武天皇」が「神宮としての体制」を整えさせ、その間に「神宮」に絶対に必要とする「浜の宮の海神の神」の「飽浪社・飽津社」も一端先ず日前宮から切り離し、「六十九の遷宮」の「神宮全ての絶対条件」として定められていた「日前宮の神域御領」をも半減させて、「神宮の資格・格式」を落として、「伊勢に移すと云う事」をして、「伊勢の神宮の体制限界」に合わせさせてこれを整えたのだ。
「安芸から始まった遷宮社の約六十数社」の「元の遺った全神宮」は、「有史来」から元は「飽浪社・飽津社」が源である。
もっと云うと、「人類の神の祭り」は元は「飽浪社・飽津社」から始まったのだ。
それ故に、少なくとも「飽浪・飽津の岬」、即ち、「半島の先端の波うち際」の頂上に「海」に向けて「祠」を設けて祀り、ここを「神の居住」として迎え「満月の夜」に「お神酒・神饌」を捧げて歌い踊りして「神」を楽しませて迎え入れたのだ。
其処が、「飽浪の飽津の岬と呼ばれた事」から後に「飽浪社・飽津社」と呼称される様に成ったのだ。
この事がこの「帝紀」に書かれていた事から、「神饌」を捧げる「飽浪社・飽津社」とその「半島域を占める御領」は「神宮の最低条件」であったのだ。
だから、当時はこの「飽浪社・飽津社・飽津の岬」の無い「伊の勢国の宮」は「天皇家の本来の宮」では無いとされていたのだ。
「神宮の祭りの源」は、「飽浪社・飽津社・飽津の岬」から始まっているのだから「神宮の環境条件」では抑々無いのだと世間は騒いだのだ。
又同時にこの「源の飽浪社を保護する杜」も「聖域」として「環境条件」とはなっていないのだ。
此れが「伊勢」では大きく欠けていたのだ。
未だ「決定的な条件」として「神宮」には「幾つかの条件」が完全に欠けていた事があった。
例えば、「神宮は南の小山を背に北向きに建てられる事」
「神宮の右傍らに神宮を清める小川が流れいる事」
この「小川」を「紫の川」と呼ばれ決して「濁らない川である事」
以上等の「細かい設置の環境条件」が帝紀などで定められているのだ。
故に、この「伊勢の遷宮」に大反対を受けていたのだが、ところがそして、これを「二人の天皇」が「ごり押し」をしたので、暫くは「伊の勢国の遷宮」は進まなかったのだ。
現在の「宇治館町1」にある「7世紀に建立された跡」は、この時の「不備の建物」であってこれを観ると確かに「上記の建設条件」は全く整っていない。
それを直せる処は直しても少し横に建立したのだが、「決定的な上記の条件」の「飽浪と飽波社と飽浪祭礼」やそれを成す「聖域範囲」は依然として満足していないのだ。
それを「天武天皇」に成って、兎も角も、「妥協の神宮」を造り上げたが上記する様な「矛盾」が多く出たのだ。
そこでどうしても出来なかったのは、この「「飽浪社・飽津社の移動」であった。
そこで、どうしたかであり、その策が「神宮としてよく無い・姑息だ」として批判を受けたのだ。
この「飽浪社・飽津社」のある「日前宮」ある「紀州浜の宮大御領」を「日前宮から切り離す事」を先ず考えた。
何と“「切り離し」”て「神宮の要件」を敢えて下げて、「伊の勢国の遷宮に移す事」に兎も角も書類の上では成功したのだ。
「長い間の「神宮であった紀州日前宮」が、「朝廷の神宮」とされていたが、この比較する「神宮の存在が紀州では無く成る事」で、「大反対の官僚族」は別としても一般の民の反対をも避けたのだ。
「西域に存在する御領域」は、「日前宮の方を小さく切り離する事」で兎も角も解決したが、「神饌」を捧げる「飽浪社・飽津社」の前提の「飽浪社・飽津社を切り離す事」でも妥協したが、「飽波社の存在」と「神饌」だけは無理であったのだ。
それが上記に記した「古書」に記されている「900年頃」までは正式に決められなかったとする事由であったのだ。
注釈 これ等は何度も角度を変えて前段でも論じた事であるが、実は「万葉集」にもこの事で何句にもこの「切り離しした浜ノ宮の存在」を「哀しげな歌」で読まれているのだ。
これは平安期になっても長くこの事が人々の心に残っていた事に成るのだし、当時としても長く大変な話題であった事を示している。
万葉集以外にも天皇等の熊野詣でも郷土史でも数えきれないほどに哀歌として詠まれているのだ。
受け取り方では批判的にも詠みとれる。例として次の歌がある。
・・・和歌の浦 潮満ち来れば片男波 芦辺を指して 田鶴鳴き渡る・・・
此処は日前宮も含めて名所旧跡の地で、歌の裏には哀歌の意味が込められているのである。
後の世迄この様に批判されているのである。
では「歴史の経緯」では、どうなのか。
この平安期の“「900年頃」まではその後に全て決められたのか”と云うとそれは明確ではないのだ。
この頃に関連して「伊勢の経緯で決められた事」と云えば、「円融天皇の藤原秀郷流一門の第三子に青木氏を永代に賜姓する事を義務付けた事」だけである。
これが「伊勢神宮の神饌等に関わる物」なのかである。
それまでに「伊勢」では、「多気の斎王館」とそれに関わる「女官などの管理システム」等を構築して「青木氏に依ってこれを補完する体制」を整えられている。
これを「伊勢青木氏」から観ると、依然としてこの「神饌」は解決されていないのだ。
「伊勢青木氏」だけに拘わらず「信濃青木氏」と「秀郷流青木氏」にこれに関わる補完が成されていたのでは無いかと観ているのだが、そこが歴史は定かではない。
つまり、「朝廷」に於いてでさえ「伊勢での正規な神饌を造り出す為の干拓灌漑と米種の変更等」は、到底、「その全ての必要とする能力」が揃わなければ容易に成せる事では無かったのだ。
鎌倉期、室町期、江戸期での「朝廷の力」は到底無理であるし,幕府も同であるかも疑問であった筈である。
そうすると、既に「伊勢王」ではない「伊勢青木氏」しかない事に成るが、「3幕府期間」に於いて「巨万の富」があったとしても無理ではなかったかと思わせる。
それは条件が揃っていなかったのだ。
況して、「唯一これを成せるの専門土木業の額田部氏の協力」を得られなければ成す事がならなかったのだ。
3幕府期間はこれは何故か無し得る条件は揃わなかったと云う事であろう。
推測の域を出ないが、「奈良期後期・光仁期」に一時遣ろうとしたのではないだろうか。
ところが期せずして「多くの皇族の者」が死去して「額田部氏は古墳群の築造」に追われた。
そして、又、「平安遷都・桓武天皇」が行われたが、この時に事件が起こった。
この「額田部氏」は、「平安遷都築造の命令」に従わず罰せられた。
此れを密かに「伊勢青木氏」が北勢に一族を匿っていた。
当然に、「匿っていた伊勢青木氏」も「伊勢の事」には手は出せなかったのだ。
そして、遂には「伊勢青木氏」も「嵯峨天皇」に依って「賜姓族」を外されたのだ。
依って「伊勢神宮の事」は万事窮すであったのだ。
注釈 この様に、“「余りにも長い間の神饌が無いという事」”は“それなりの「より良い妥協策」を青木氏の中では済ましていた”と言う「仮説」が成り立つ。
その「仮説」が、「酒の本場の信濃・青木氏」から「代わりの神饌」とし密かにて運んでいたと考えているのだ。
将又、「武蔵の秀郷流青木氏」から「伊勢青木氏に届いていた事」も考えられる。
だから、「莫大な私財」を投じて「明治初期の祖父の弟の酒米と早場米の開発」を縁戚の「信濃と越後」から習い「伊勢」に広めて「初めて神饌」が成立したのだ。
この事の詳しい事は直接詳しく口伝で耳にも伝わっている。
注釈 「青木氏の伝統 33」-「青木氏の歴史観-6」や25等で多く論じている。
「神饌の経緯」としては上記の通りであろう。
こう云う事から「伊勢神宮」にも貢献して関わっていた事から、「賜姓族の格式」とは別に「伊勢青木氏」は、平安期には「氏上様」「御師」と、明治期には「室町期の律宗族」から“「徳宗家」”と呼ばれた所以と伝わっている。
事程左様に、何度も論じるが、“「お神酒の経緯」”には“「神饌・神への供物」”で扱われていた事が事実だが、“「禊(みそぎ)の地の前提では無かった」”と云う事だ。
「奈良期の古来」では、「神饌扱い」ではあったが、「禊扱い」では無かったという事だ。
そしてその「誤りの多さ」に気の着いた「天武天皇」が、「古事記全体の見直し」を含めて「帝紀」として見直す様に命じたが、その中でも「正式な儀式の事と禊の事」として定められたのは「900年頃」であり、それを遅れて「延喜式目に書き写した」と云う事なのだ。
「嵯峨天皇」に依って「賜姓族」は外されたが、「伊勢を含む信濃と武蔵の青木氏」はこの経緯を知っていた事に成る。
もっと云うと、「有史来の神の式次第の供奉品の神饌」を「900年頃」まで中途半端にしていたのかと云う疑問がある。
そもそも「賜姓五役の令外官」として「朝廷の内部の式典」だとして放置できるのかの疑問が残るのだ。
それも「647年から900年までの253年間」の近くも「放置」は前段で論じた様に「伊勢」では実質の「伊勢王」であった以上としても、この「神宮の件」を放置は出来なかったであろうし、できないとする考え方に無理が無いだろうか。
少なくとも何某からの補完をしたとするのが普通ではないだろか。
例え、「嵯峨天皇からの賜姓族外し」に会ったとしても、これを「側面から補完する者」は「伊勢青木氏以外」に果たしていただろうか。
「伊勢の青木氏」を無視してそれをする事が周りの者ができたかである。
「永代の賜姓五役の役目を持つ令外官」であったのに伊勢に余計な事する者はいなかった筈だ。
仮に居たとしても「神饌」である以上は、誰て勢も扱えばよいと云う事には成らない。
それなりの格式を有する必要があって無理であったろう。
そうすると出来る事は、「赤古米の蒸留酒」では無く「信濃の神饌」を「伊勢」に秘かに運ぶ以外には無い。
「信濃の神明社の祭司」は、前段でも論じたが「伊勢神宮の御領」に負けじと劣らず広大な物で、其処でこの「信濃御領で神饌として造られていた」のだ。
注釈 この「信濃御領」は、「享保の吉宗」に依って半分以上は奪われ、この時を以て「伊勢と信濃の青木氏」と決定的な犬猿の関係と成った。
「諏訪-塩尻-松本-青木-上田-東御-小諸-佐久に至る囲まれる御領」であって「青木村で造られる米」から「神饌」を「信濃神明社」に奉納していたのだ。
此れを密かに「伊勢」に廻していた経緯であろう。
然し、「吉宗に神域の御領」を奪われれば、それもできなく成って仕舞ったのだ。
「伊勢と信濃青木氏の親族の仲」で、「信濃」にもこの「神明社の神饌」があって、それを「伊勢に廻さなかったと云う事」は先ず無いだろう。
不仲であったとするのならいざ知らず、「完全な四掟の前提を超える血縁関係」にあれば、「神饌に困っている伊勢神宮・伊勢青木氏・伊勢王でなくても」と成れば先ずいの一番に救うのは必定な事に成るだろう。
それが「享保期のこの事件」で出来なく成ったと云う経緯では無かったかと想像は容易に着く。
注釈 この事件もこの「天武期の紀州日前宮の前例」があったからではないかと思われる。
「江戸期の朝廷」がこの信濃の聖域を管理管轄内であった筈でそれを容易く認める事は無いだろう。
「朝廷・天皇家の生活に関わる程の圧力は脅かされる程のものがあったと考えられそれが「天武期の前例」を言い立てられた可能性があるのだ。
だから、未だ「江戸の青木氏・伊勢屋」に攻撃の無い内に「3日以内」に船で伊勢に引き上げて籠もり「紀州藩の保護・家臣の伊勢藤氏」に入ったのだ。
「紀州藩の勘定方指導の立場」にあって「10万両の債権」も持っていたし、「伊勢青木氏」は「蜜月の関係」にもあった。
「10万両の債権」は吉宗を「将軍」に仕立てる為の「軍資金」と「江戸経済の救済金」等のものであった。
「改革の30年後・吉宗死の直前・旗本騒動」には、ある日突然に「信濃青木氏」に手を出し「聖域や殖産や一族の者」を奪う凶変したのだ。
注釈 丁度、この時期に「円融天皇の藤原秀郷流青木氏」を「永代賜姓」に及んだのもこれらの「環境整備」をよりよく整えようとしたのでは無いかと観ている。
“「神饌」”であったものが“「薬用」”と成って行ったが、この同じ「薬用の植物油」に戻して、
ところが下記の通り「殖産物」の「禊扱いの薬用の植物油」では、古来より「桑名の米油」が「神饌」として扱われていたのだ。
これは逆に「良質の米」が採れず、その「貴重な米」を松阪域では無く、態々「桑名の米油・長良川」に一時は「飽浪社・飽津社の岬の条件」には外れているが「伊勢王」として考えたと云う事になろうか。
「伊勢青木氏」は、それを獲得しようとしたか「三野王」に[飽浪王と淀橋王の二人」を続けて嫁がせている。
ところが、「飽浪王」は「美濃」との「格式」から合わず別居独立し「飽浪院・清光院」を建てて、その地を伊勢の「施基皇子の字名」を用いて「一色」としてここに一族を構築した。
同然で続けて「妹の淀橋」も嫁すが合わず清光院に入り一族として過ごす。
これが前段で論じた「後の額田青木氏」が後裔である。
もッと云えば、これはそれ故に「伊勢の米の収穫」より「北勢」より南勢に向かって下記の通りにより進んで収穫は「植物油等」に特化して行った事を示しているのだ。
この「特化の植物油」はそれ程にいせ領域では重視していたと事に成る。
当時としては「珍しい事」で他の資料には散見できない事だ。
注釈 古来より「神宮」に奉納していたとするその「薬用の植物油」は次の通りである。
「桑名の米油」
「南紀の荏胡麻油」
「伊賀の菜種油」
「四日市の菜種油」
「岡崎の椿油」
「伊勢の魚油・海老油」
以上
この以上と「伊勢一国」に「神饌が無い事」からそれに代わり得る「植物油の殖産地」として成り立って行った事を物語り、これは「神饌が無かった事」を物語り、それに関連する情報とその後の経緯は実に多いのだ。
当然に「薬用」とする以上は、「伊勢一国の販売」では成り立たない。
そこで伊勢は「殖産としている禊の品」でありながらも伊勢だけに限らず「殖産した禊ぎの物」を全国に販売する伊勢詣での土産品に及ばず「全国的販売システム」を造ったらしい。
新たに販売システムを造ったかは疑問で、前段でも論じている「伊賀者」をより「香具師・情報網」に育てあげて、全国に販売網をより広げたと考えられる。
それがその古来より「青木氏の諜報機関」としてあった「香具師の存在」のシステムに載せた。
だからその経緯から観て、「禊ぎ品」は疎か「禊ぎ品」がこの「全国的な殖産品」に成ったものである限りに於いては「全国の香具師の販売網」に載っていないので、「伊勢」には「適切な神饌・日前宮の神饌相当」は無かった事はここでも判る。
此れだけの限られた「伊勢民の人員」を「植物油に割けた所以」は、「伊勢の米の収穫の無さと良し悪し」にもあった事が否めないが、それよりも“「薬用の油の禊(みそぎ)の所以」の方が強かった事に成る。
「薬用と云う名」の下に「伊勢神宮の禊」と云う事に成っている事以上に“その効能は信じられていた事”に成ろう。
これは「神饌が伊勢に無いと云う事」が、「禊の薬用に特化していた事」を示し、その間は確証は採れないが「信濃」からの「良質な神饌の補完・状況証拠」で賄っていたのであろう。
注釈 この「食用油などの殖産品の販売」を影の仕事していた 「香具師」について、この「平安期初期頃」から「伊勢」からは「油売りと薬売りの者」が全国に廻るとした記録がある。
そして全国各地に今で言う「チェーン店」を置いていたとする記録もされていて、「伊勢の伊賀青木氏の記録」にも遺る。
これを担ったのが、「伊賀青木氏」で明治中期迄この組織が働いていた事が記録に遺っている。
この「働き」をしていた「伊勢青木氏」を、“「香具師」”と呼ばれて「江戸期前後」では「甲賀者」と「江戸」でその「情報機関」としても「勢力争い」で張り合い、「情報収集専門の忍者」としても働いていたのだ。
云うまでも無く、何故、「植物油」が「禊(みそぎ)の所以」であったかは、この資料から読み取るとこれも上記のそれは“「漢方薬」”と云う「括りの点」にあったのだが、この「禊(みそぎ)の所以」には、当時としては“「食用」”と云うよりは、殆どは“「薬用」”に重点が置かれていた事であった。
その効果が「情報収集専門の忍者」とも成っていたのである。
この「伊勢殖産物の漢方薬と禊の品と食用品と忍者」がこの全国システムの所以を必然的に構成していたのだ。
現在では使われなくなったが「傷口や火傷や被れや腫れ薬等」として江戸時代から昭和の末期までは利用されていて、「香具師の呼称」からも「香具師と呼ばれる範疇・家庭常備薬」にあった事が解る。
地方に行けば現在でも「植物油の椿油等」は、一般的に油紙に浸み込ませて「傷口の防菌剤」など多様な薬用剤としての扱いに成っていたのだ。
其の後のこの「伊賀青木氏の香具師」は、現在に於いても関東以西に「漢方薬の薬屋・薬局」として定着した事が判っている。
つまり、要するにこの「禊(みそぎ)の所以」は、この「香りする植物油」も、「薬用となった神饌のお神酒」も結局は「疫病の防疫であった事」に繋がっているのだ。
注釈 その意味で、「伊勢青木氏の始祖の伊勢王の施基皇子」から始まったこの「禊(みそぎ)の所以」の“「殖産」”に対しても、この「植物油」も“背に腹は代えられず”に室町期には“「銃開発の冷却剤・魚油/殖産の工業化」にも使った”と云う事を物語っているのだ。
当然に、これには「皇親族」で“「令外官」としての「特権」”を以てこの“「殖産」”を進めていたのだ。
故に、この「薬用や食用油の歴史」は、その途中では「・嵯峨期」には抑えられたが、この「時代・7世紀頃」からの「伊勢青木氏の裔系」が画する「青木氏部の殖産品」であったのだ。
この「禊の歴史的な経緯・流れ」から観るとこの「植物油」は「禊品の殖産」に対して大きな重要な位置を占めていたのだ。
だとしても、「伊勢青木氏と平安期の嵯峨天皇との対立」も今この事で「青木氏の殖産をした後裔」として考えて観れば、この“「禊(みそぎ)の所以」”の「植物油」にも、「疫病の防疫の点」では古くから影響していたので、「嵯峨天皇派」に執っては「単純な事」では無かった筈であろう。
その一時は「伊勢の出自元」に感情的に成って強硬に出たが、上記する「伊勢神宮との軋轢と問題噴出」もあって、結局は最終的には「伊勢青木氏の力・出自元」を借りなければ何とも成らず「妥協策」に出る以外には無かった事も考えられる。
果たして、「嵯峨天皇派」にはこれらの殖産もしている青木氏に対しての“「賜姓族外し」”には、最早考える余裕など無く、思いつく侭に遣って仕舞ったと云えるのでは無いか。
この「禊」がそれを物語る様だ。
そもそも「伊勢神宮・朝廷」としての護らなくてはならない「疫病の防疫の点」とその「朝廷の権益」と、「院号・特権」を持つ「伊勢青木氏」に対して、「植物油への権益・伊勢殖産全ての権利が握られていた事」への「朝廷の反発・皇親族外し・怨嗟」も「嵯峨天皇派」の当時には強くあり過ぎたと云う事であったのであろうか。
「伊勢神宮の神饌と禊の問題」と「伊勢神宮の環境整備の問題」が潜在するにも拘わらず、「院号・特権」とその「権益」とで、「院号・特権」を持つ「伊勢青木氏」に「独占されていた観」があって、それを無視した「嵯峨天皇とその派の官僚族」に頭から拭えなかったのであろう。
この時、「神宮の遷宮の環境整備の完遂」は、「伊勢青木氏の思惑・経済的」に一切が委ねられていて進まなかったのだ。其れなのにである。
だから、もとより「朝廷自らが経済的負担をする事」であればいざ知らず、それを「伊勢青木氏」に任した侭で「嵯峨期後の900年後」まで青木氏に押し付けた侭で一切の解決は無かった事に成るのだ。
伊勢青木氏に与えられていた「院屋号の特権と格式」はそこまでの物では無かった筈だ。
歴史の経緯はつまりは見かねた「出自元になる仁明天皇」と「円融天皇」がこれを「政策」で補足してと云う事に成るのではないか。
現実に「源氏」は「嵯峨期」からであるが、この「神宮の遷宮の環境整備問題}には一切に手を出していないのだ。
この事に突いて「幾つかの記録」が遺されていて、「清和源氏の摂津源氏の本家の源の満仲」は近畿周辺の隣の「寺の荒廃の修復」と「院家の修復」を一手に修復する様に命じられたが、たった「一寺」だけを直して「命令の願下げ」をして最終は不興を架って「蟄居」を命じられる破目と成っているのだ。
「神宮の遷宮の環境整備の完遂」は「伊勢青木氏の思惑・経済的」に比較すればどれだけの物てあったかは物語りそれが現実だったのだ。
現実に、「源氏」の居る前で「神宮の遷宮の環境整備問題}に苦労して取り組んでいたのだ。
此れを観れば記録にある「摂津源氏の命令の願下げ」がどれだけの意味を持つかは判る。
況してや味方とする「嵯峨天皇が下した源氏臣下族の9つの縛り策・禁令」を守らずにである。
その意味で「伊勢青木氏」と「11の源氏」の間では「蟄居が出される程」に際立っていたと観られる。
さて幾つかの注釈から「神宮の遷宮の環境整備問題」に取り組んでいた中で、上記の「伊勢殖産全ての権利」を握っていた「奈良期初期」から、「室町期中期」までには、この時点で「神饌」<「薬用」<「禊用」<「工業用・冶金的な冷却と云う点・工業化・殖産化」<「食用」の「一連の流れ」に沿っていたりだ。
更に「北勢」の「伊勢」では「下記の植物油の増産」にこの「神饌の代わり」に入っていたと考えられる。
所謂、朝廷の態度に見切りを建てて、「伊勢」では早々と「モードの切り替え」が起こったのだ。
その後にその「産量」に合わして大いに「食用」にも間口を広げ「関西」にも広げたのでは無いかと観られる。
寧ろ、奈良期からの“「産量」に合わして”では無く、鎌倉期末から室町期までは“「需要」に合わして”に突然に変化したのでは無いか。
それはこの「食用油の流れ」にあったと考えられる。
何故ならばこの「造り出された流れ」には、「食用に到達するまでの要素」には、絶対に「消費者」が「購買」に飛びつく「信用できる絶対要素」を持っていなければならないからだ。
それが、“「伊勢神宮」から発する「神饌」<「薬用」<「禊用」の過程”が伊勢を超えて関西域まで「食用に繋がる要素」があった事に依る。
前段でも論じたが、この根拠が、“それが一瞬にして「大阪」「京都」「堺」に「食用」は宣伝もしないのに爆発的に広がった”と記録に記述されているからだ。
そして、その「切っ掛け」と成ったのは何と“「天害」”の「バッタ被害の害虫騒ぎ事件」であったのだ。
これが一挙に解決したのが「みかん畑の効果」であって、それが消費者の心に「神饌」<「薬用」<「禊用」の過程”の補償を与えたのだ。
そして、“流石に御伊勢様”・御師様」と成ったのでは無いか。
その証拠に、遅れて「関東域・江戸」にもこの“「天害」”は拡がり起こったが「江戸」にはこの「食用」は不思議に広がらなかったのだ。
これにはある理由があったのだ。
「江戸」は“「50年以上」”の近くも相当遅れてやっと「薬用効果」も何とか認めて「食用」としても又広がったのだ。
これには「伊勢の香具師の活躍」は最大と成ったとある。
注釈 参考として前段でも論じているが、この様に「青木氏の歴史観」で観ると、「食用油への転用」は、「食文化の関西で広がった事」が最初に「記録」として出て来る。
これには「ポルトガルのテンプラ」が最初であるとの「通説論」があるが、然し、経緯を観るとその前から「関西域」では、「薬用」として「油で炒めて食する事」で“「疫病が防げる”として、「神饌」<「薬用」<「禊用」の過程”で既に広まっていたのであり、「時系列が合わないテンプラ説」は、極めて一般論であって、「江戸期の鎖国のポルトガル文化の伝来説」で引きずられたものであって、「時系列」では「70年弱」も合わないのだ。
実際は「年代の時系列」を調べると、この「ポルトガル文化の伝来」では無く、矢張り、「関西」と同じあって、「場所」も「江戸での記録」が別にあって、“「関西の天害説」”の「バッタ被害の害虫騒ぎ事件」で引き興されたものである。
依って、「ポルトガル文化」では無いのだ。
それも「ポルトガル説」には、「薬用から普及発生した関西型」ではないのだ。
「遅れての江戸」に成って、“「天害」”の「バッタ被害の害虫騒ぎ事件」が遅れて関東でも確かに起こるが、“「油粕の対策」を提案したが、暫くは採用されなかった”と資料には記されているのだ。
だから、「関西と関東」では「バッタ被害の害虫騒ぎ事件」の所以があって、「江戸のバッタ被害事件」は「70年の差前」があるので、この「ポルトガル説」は当たらないのだ。
「関西」では、飽く迄も、「神饌」<「薬用」<「禊用」の過程”の関係式の根拠からであって、それは「食用」には、飽く迄゛も、“「味」を付けて「薬用」とされる処から、つまり、その行為は、元は“「食用油・薬用油」から揚げる”から、その名を以西域から鹿児島までに於いて、“「付け揚げ」”と呼称された由縁からのものである。
元は、「油脂で熱する事で食物の菌を殺す事」にあって、先ず「薬用」を課せ食用にしたのだ。
当時は、要するに「天麩羅・テンプラ」に拘わらず、“「疫病」”を恐れての「食用油・薬用油」を「全ゆる料理の使用」にあったのだ。
それなので、総じて関西以西では“「付け揚げ」”と呼ばれていたらしい。
関西以西は、今でも魚を崩して練って固めてするので殺菌をする意味からこの食用に食用油は使われ始めたのだ。
この「元の意味合いの名残」が残っていて各地では「地名」まで遺っているのだ。
飽く迄も、全ては「神饌」<「薬用」<「禊用」の過程”であって、従って「伊勢の影響・奈良時代初期に中国から渡来し伊勢で生産」を受けての“「菜種油」”であったが、「関東」では当時以前より「日本全国主要生産地の80%」は「水戸」にあって、「関西域」には伊勢の様に「集中生産地」は無かった。
それ故に、「食用にする種」は、関東では「胡麻油・縄文時代に呉国から朝鮮を経て出雲地域に渡来」ではあった。
「神饌」<「薬用」<「禊用」の過程”であって、従って「伊勢の影響・奈良時代初期に中国から渡来し、伊勢で生産」を受けての“「菜種油」”でひろまったが、その為に「胡麻食用油」は関西域にはひろまらず「江戸」であったのだ。
注釈 古書には「麻」とはそもそも“種より油を搾りだす食物”の事を云うとあり、これを「麻」と云うのだ。
その事もあって、関東では当初より「薬用植物」として扱われずに「油用植物」として扱われていたのであった。
本来、「漢方薬などの薬用」に使われた「菜種」とは元来違う処があるのだ。
ここに、“根本から関西油と関東油では違う処があった”のだ。
そもそも、絞り粕は「バッタ事件」に使っていたが、銃にはどうなのかと云う疑問である。
その為に「伊勢」では次の「薬用油」しか生産されなかったのだ。
「桑名の米油」
「南紀の荏胡麻油」(薬用の紫蘇の種)
「伊賀の菜種油」
「四日市の菜種油」
「岡崎の椿油」
「伊勢の魚油・海老油」
注釈 この「胡麻」は「日本」では「縄文時代の出土事例」があるが、既に奈良時代には「畑の栽培」で、「ゴマを圧搾」し、その「ゴマ油」を「食用油」として調理し、又燈油としても用いていた記録が早くから記録にはある。
記録的には「平安時代の類題三大格式の史書」にも、「ゴマ菓子や薬用利用」に付いて記されている。
その「効能」は「ビタミンE」であり、抗炎症作用、抗酸化作用、酸化ストレス抑制作用があり、所謂、「体のサビ取り効果」である。
要するに薬用である。
主に其の産地は「強いアルカリ土壌」と「温暖な気候」にあり、従って「鹿児島県と沖縄県」が産地に適しているとある。
注釈 然し、歴史的に古い伊勢一帯には、上記の「油粕」が出ていた事に成り、これが「肥料の効能の良さ」を知らずに一帯に捨てられていた事に成る。
云わば、これら「一連の事」で、「伊勢青木氏」が、「油粕の事」から「窒素リン酸カリの肥料三要素」を発見した事に成る。
さて、話を戻して、
「神饌」<「薬用」<「禊用」<「工業用・冶金的な冷却と云う点・殖産の工業化」と云う目的が、更にはより「食用」の「流れ」に沿って「食用油」は使用される様になったが、この生産しても追いつかない程の中で、「室町期の銃の冷却材としの活用・工業化」と云う事に直面していたので、そこに難しいものがあったと伝えられいて、これを特記して置く。
それは「薬用」から「工業化・殖産産業」への「切り替え期」でも、「銃にも使うと成った時」、「銃」に限らず「伊勢の工業化」に使用する事には、当時は未だ主に「冷却・工業化」に使うのだが、「可成りの発想転換」が「伊勢ならではの事では必要とされたらしい。
これは「青木氏だけの問題」では無く「伊勢全体の同意」が必要であったろう。
然し、それは「氏族の氏人」には同意が得られるとしても、「銃の事・工業化」が「世間の表に出る事に成る事」には好ましくなかった。
だとすると、行き成り「薬用」から「冷却剤・工業化」への転換に、この間に「伊勢青木氏」には何かあったのでは無いかと予想できる。
その侭では行かなかったであろう。
「伊勢青木氏」ではこの「世の工業化の中」で、何れにしても「銃の欠点の最終の解決策」には、この「油の液体に関わっていた事になる」のである。
だから、それまでは「備長炭の灰の灰冷却」であったものが、何れにしても再び「水」を試し、それでも駄目で、そこから「油と云う液体・食用油」に発想を向けたのであろう。
丁度、その時期が既に「食用油の殖産期・工業化」に入っていて、余計にこの「食用油」に目が向けられていったのだ。
この“「油の液体」がどの様に冷える”かは判っていなかったが、「冷却と云う機能」がどの様に転換する何かは判らなかったのである。
「水」から「灰」、そしてそ、そこから再び「水冷却」に移り、そこで丁度良い液体」の「油に発想の転換」をしたのである。
「液体」であれば、先ずは「水」、この「水の機能」が「油」にどの様に転換する為の何かが必要であった。
その「違い」には、「資料と経験」から「冷却の速度」の「質の関わり具合」である事を知った様であり、此処にはその「媒体」が存在して、その「媒体」が“「冷却の熱」をどれだけ早く吸い取るかの問題である事”を知った事であったらしい。
この事が資料の表現から読み取れるが、「初めての事」であって「大きな疑問点であった事」が判る。
それは現在理論で云えば、その「冷却剤」の持つ「吸熱速度」とその「比熱」と云う事に成る。
それが上記で論じた様に、「油の冷却」は「水と灰の中間の媒体」と云う事に成る。
そもそも「水と油」には、「1/2の関係」にあり、「科学的冷却」には「論理的」であり、当時としては「食用油の使用の発想」は、「殖産をしている立場」から利用できるのではと判らない侭に飛びついたのでは無いか。
それが「室町期初期から始まった紙文化」と共に、将来に「二回目の巨万の富を築く事」に「食用油の殖産」で成ったのだ。
「銃の欠点克服の為」にもその「増産」の一つのきっかけに成ったのだ。
注釈 「水」は「冷やす」のが「早い」が、自ら「冷える」のが「遅い」。
逆に灰はこの逆である。
とするとこの「中間に位置する液体」は「油」であろうと判断した様だ。
然し、この「油」は「神饌」<「薬用」<「禊用」の前提にある。
「青木氏の立場格式の範囲」では、「神饌」<「薬用」<「禊用」の「殖産物?工業化」では立場上は先ず使えないのが普通であろう。
然し、ところが工夫して使ったのだ。
どうしても「額田青木氏の計画」を「銃」で解決する為にも「伊勢の工業化」にも実現しなければならない。
何よりも先ずは「神饌」<「薬用」<「禊用」の「殖産物・工業化」で、日夜努力している「伊勢郷士衆の説得」が必要であったろう。
然し、事態はいよいよ「戦国事態」に入り「額田青木氏と伊豆青木氏」は危ない。
「外国人技術者の指導/詳細不詳」であるとしながらも、「20年間の試行錯誤の期間」でもこの事は難しかった事が云えるのだ。
結果として「増産」に務め結果と成ったが、これを「解決している処」を観ると何かがあった事には間違いは無い。
それに「相当する出来事の記された当時の資料」では、発見できたのは「油粕の事件」の以外には見つからない。
ところが思い掛けなく「食用油の活用に大きく拍車をかけた事」が一つあったのだ。
それが何と「食用油の絞り粕」であったのだ。
筆者は、この事に就いて当初は「殖産業も営んでいる事」や、上記した「油粕の事件の記述の事」からも、金銭に問題が無ければ、この「植物油説」を強引に採用したと考えていたが、ところがそれを詳しく書いた資料が観っかったのだ。
この「金銭問題」は、「朝廷の紙屋院号・特別使用権を持つ伊勢屋」である以上は、「目的達成の銃・工業化」には「総力」を以て「秘密裏に躊躇なく注いだ」と考えられる。
然し、此れを否定する資料が出て来たのだ。
それには、この「大問題の事・バッタ事件と呼ぶ」を「伊勢」では解決する為に、何と先ずこの「殖産の食用油」を更に「増産」に務めたとあるのだ。
これを更には「発想の発展」をして「交易」にも初めて使った事が記載されていて、その「交易」が大成功したとあり、遂には「神饌問題」は、外国から仕入れた「石油の卸問屋をも営む事」で、「世間と伊勢の工業化」を促したとあるのだ。
注釈 「室町期の紙文化の紙での巨万の富」、そしてこの論で論じている「食用油・菜種油の交易と石油の問屋での巨万の富」、そして,危険を冒して「享保期の大阪米相場の投機の巨万の富」、等が、「伊勢の干拓灌漑土壌変更」で、「米生産と早場米と酒米の生産で蓄えられた巨万の富」、その数々の投資で「伊勢の禊の神饌問題」は解決したのだ。
「戦後の農地土地解放」でそれを支えて来た「伊勢50郷士衆の女系氏族」に、「無償」でそれまでの「儲け」を全て振り分けたとある。
その「巨万の富を築いた源」と成ったのが、ただ、「神饌」<「薬用」<「禊用」<「工業用・冶金的な冷却」と云う点」<「食用」の「伊勢の殖産」にあって、そこには伊勢独特の不思議なものがあったのだ。
それは「伊勢を調べる事」で判って来た事が次の中にあるのだ。
これを生かした「伊勢商法」と云うものであったのだ。
「桑名の米油」
「南紀の荏胡麻油」(薬用の紫蘇の種)
「伊賀の菜種油」
「四日市の菜種油」
「岡崎の椿油」
「伊勢の魚油・海老油」
つまり、ところが「伊勢」では、意外にも「工業化」には、以上の「伊勢の魚油・海老油」であった事が記されているのだ。
これだけは「神饌」<「薬用」に当てはまらなかったからなのだ。
然し、世間では「魚油・海老油の殖産」は、大々的に殖産として生産されていなかったのだが、この事を良く調べると、「伊勢の一部の地域」で書き遺されているのだ。
この「歴史的な魚油の使用」は、「植物油・実用化/殖産と交易」より「20年程」遅れて本格的に生産されている。
先ずは、その「使用の経緯」は「灯油や肥料」から使用される様に成っているが、古来に於いてはこの魚油生産には身分差別されていたのだ。
これを「一つの言葉」を使って差別されていて、それはその匂から嫌われていたからだ。
「植物と魚の概念」が「神饌」<「薬用」に合致していない事から来ているのだが、上記する「純粋な禊ぎ品」ではなかった事であった。
「植物」は、古来よりその花や色で「人間の階級表示」にも使われるほどに敬愛され、「髪の整髪剤」にも古来より使われていた。
それ故に、これに合致しない「魚油」は蔑まれていたのだ。
理論的な事を述べる述べると、そもそも「魚油」は、化学的には本来魚から発するものでは無く、「魚に入った餌の微生物の塊」として入ったものが、悪臭の匂を発しそれを浸み込んだ油からの発臭に過ぎないのだ。
依って、数日で「微生物で構成された脂肪酸」は、酸化して腐食して「アンモニヤ」に変わり異臭を発するのだ。
それ故に、元より「嫌われた物」であって、「関西」で起こった「植物油の搾り粕」に代わって、「関東」では「70年以上」も後の事であり、この「魚油」を、背に腹は代えられず「民の灯油にした経緯」があって、「安価に売ると云う行為」に出て、「後にこの魚油粕」を「肥料とした経緯」もある位だ。
その意味で「関東」では遅かったのだ。
注釈 ここではの「伊勢」では、「伊勢商法との源」となった“何故に「神饌」<「薬用」として扱われたか”である。
それは全て「伊勢青木氏族」にあったと考えられる。
それは「生産地」が、「北勢の伊勢湾の海老」に限定されていたからだ。
「伊勢湾の海老等の魚不良品処分」で、これを「肥料」にする為に、先ず絞り、「残粕」を「肥料」に、「絞り油」を集めて、一部の良い所は“「灯油」”として、残りはこの“「冷却材・銃・殖産などの工業化」”に使用してこれ等を「伊勢衆の合意形成」を図ったと考えられる。
ところが、それにはこの「魚油の扱いの差別」があったが,その「利用目的」が賛同されて「大いに賛同」を得て、遂には、寧ろ、この「魚油の生産と殖産化・工業化」が「利益」を売るまでに成り、室町期の1500年代には「神饌」<「薬用」としての「殖産の扱い]として、上記の通り「禊ぎ品」と成っている以上は遅れて「伊勢の大儀」を得ていたらしい事に成る。
この「生産地」は、その「悪臭」から「北勢西部の奈良に近い山手」に「20の川舟」で川上に運ばれていて、「当時の生産地」も判っているし、そこで「粕は山手の農業肥料」、「魚油は海手側の生活圏での全地産地消」としても使い、故に「伊勢」と「禊ぎ品」に魚油として全般名で記したと考えられる。
それ故に、「関西の絞り・搾り粕事件」で、「魚の油絞粕」まで「関西」では「みかん畑等」が多い事もあって「植物油の絞粕」では全く間に合わず広く全畑地の「主に堆肥肥料」に用いられたのだ。
最後には、前段や上記でも書いた通り、この「魚油の伊勢殖産」は、生産者は差別待遇を受けながらも「庶民の灯油」として「貴重品」に扱われ、「伊勢屋」は全国に「200以上の支店」を設けて「在庫の全国展開」をし、「伊賀の香具師」が、これを各家庭に“「常備薬」”として欠かさない様に見回り届けるシステムを展開したのだ。
「生産から販売までの殖産」で「伊勢屋」が全国販売をしていたのだ。
その結果、「伊勢奈良紀州の国境」で差別されながらも働いていた彼等は、「生活の糧の思わぬほどの安定」を確保していて、その「感謝の気持ち」で「伊勢屋の青木氏」は「御師様と喜ばれいた」と記されている。
そして、「江戸の中期頃」には遂には「職業の差別」は無く成り、遂には「伊勢の禊用」としてまで「名」を連ねるに至ったのである。
それが「関西」で起こった「魚油殖産での物語」を持つ「歴史的経緯の魚油殖産の流れ」とその「販売システム」であったのだ。
それが「関西以西での香具師の活躍」もあって急激に広まって行ったのだ。
如何に[禊ぎ品」が上記の交易以外にもこれの殖産からも「巨万の富」を獲得していたかが判る。
注釈 何故ならばこれには他に「歴史的経緯」があって「紀州の漁法・ぱたぱた漁法・延縄漁法の原理・坂本氏・」が全国に広まった事からでもある。
それ故に、又、積極的に「魚油を使う事」を許された称賛されていたのである。
注釈 港に残った雑魚を彼等は掻き集め、それを絞って油にし、伊勢屋の買手」がそれを集めて全国の香具師の支店に運んでいたらしい。
「伊賀青木氏の香具師等」は、これを全国の各家庭に定期的に届けて欠かさない様に「システム」を組んでいた。
この時、「伊勢紀州奈良の殖産物」、例えば「油の灯油」に限らず「伊勢漢方薬」や「仏壇線香」や「蝋燭」「蚊取線香」や「椿鬢付油」等の「公家庭用品の常備品」としも販売していたのだ。
この「時代考証」では一番古い物で「奈良期中期の記録」がある。
「奈良期中期」と云えば、未だ「部経済の始まった時期」である。
「青木氏が賜姓族」と成り、「近江鉱山の開発」が完成した事頃ではないかと予想される。
その頃から「工業」とは別に、「地場産業」を一から興して全国展開に持ち込んでいた事に成るが、その「スタートの形態」が未だハッキリと掴めていないのだ。
注釈 何度もこの事からの論説を論じているが。「伊勢青木氏には歴史的に三度の火事」があったが、内2度はまだ「貴重な歴史的記録」は遺されており、最終は「明治35年」には可成りの「祐筆などに依って書き遺された{貴重な歴史的記録」がまだあったとこの「記録」では考えられている。
然し、一度は火事中から全て引き出したとあり、ところが、「家長・福家」が「安いポイ義侠心」を出して、再び“火の中に投じる事を命じた”とある。
そもそも「記録」と云うものの「価値の認識が低かったもの」と考えられる。
それが「有史来の青木氏の歴史を消し去った」のだと思うと残念であり、そしてこの「火事」も全く火の気の無い蔵の中から出火しているのだ。
「長い伝統」として、「人間的個性」として、「氏是」にある様に「長く青木氏が生き遺る事」には「判断力」に於いてカーと成る性質を一番に戒めているのだとしたら尚更であろう。
その意味でも反省して筆者は「青木氏の復元」を試みているのだが、するとしたら今だろう。
恐らくは、これは未だ残る「明治維新政府の一部の過激派の者の火付・薩摩以降も」であろうと思う。
何度も論じている様に、維新時の「青木氏の存在・青木氏を消し去る事」のそのものを否定していた「派閥の仕業」であろうと観られている。
その間にも何度も「打ち壊しや火付け等」を受けていたらしいのだから是が非でも遺すべきであったのだ。
「青木氏」は思い切ってこれを逸らす為に「松阪伊勢屋」を先ず「偽装倒産]させた。そして、その「商い」を「摂津」に移し、「公的な顔」を更に「誰で何処であるかをも隠す様にした」とあり、これは「室町期」から「秀吉や信長」に攻撃されない様にする為にも行っていたシステムではあったが、これが「明治期」にもこの「システムの緩み」が生まれ「松阪」が集中して攻撃されたのだ。
これら対処するには「福家に立つ者の能力如何」であったろう。
筆者はその「福家」の三世ではあるが、「明治期は最も隠すべき時期」であったと観ている。
「明治維新」では、「維新政府」からみれば「天智期からの伝統ある格式の律宗族のレッテルを張られた青木氏」と云う「立場」を有し、「明治天皇家系を揺るがす余計な家系の存在」を、「維新政府から観ると邪魔な立場である事」を読み込み忘れた。
最早、「時代が変わった緩んだとする心の緩み」が「薩摩藩派閥等に読み込まれた」と観ている。
この時の「時代経緯」が、明治期であって古い事では無いので詳しく残っているが、「紀州徳川氏・2万両債権」が懸命に「仲裁」に入ったが「薩摩藩」はこれを認めなかったのだ。
「明治天皇家系を揺るがす余計な格式家系の存在」を少しでも「薩摩藩は認めない」としての「方針」で観て攻撃して来たのであって、依然としても持つ「巨万の財の商い」では直接的な無かった事と考察している。
然し、「薩摩藩」だけが伊勢青木氏を攻撃していたとすると、奈良期からの長きに渡り「献納」で支えて来た「明治天皇の後ろに献納していた超豪商の青木氏」が存在する事を嫌っていたと云う考察にも執れる。
「紀州藩の付き合い」から観て「両方の考察」が考えられる。
後に「華族制度」でこの「維新政府」は「公候伯男爵」を求めて来たが、事前に「紀州藩公」から「侯爵・貴族」での「連絡・正式な菊模様の桐箱に入った文箱・推薦状を書いたとする文」があって、これに対して明確に断っている言い訳の手紙写しも遺っている。
「商いの青木氏」に執っては今更に何の意味もなかったと考えられる。
明かにこれは必要以上の「薩摩藩との摩擦を避けた」のでは無いかと観ているのだ。
この「流れ」から「紀州徳川氏」とは「大正14年までの個人的交際」があって、「献納」は正式には「明治9年」で終わらせているが、「実際」には「朝廷への献納」は密かに「明治35年頃」で終わっている。
そしてそれ以後は無い様だ。
「伊勢青木氏」では、「明治初期」では「薩摩藩の嫌がらせのイメージ」が強かったが、現実に「薩摩藩の力・明治10年」もこの時既に衰えているのだ。
其の後も、「伊勢口伝」の通りに「明治35年頃」まであった”とすれば、これは「薩摩藩だけの過激派勢力」では無かった事を意味するし、既に「薩摩藩の過激勢力」は「明治政府内に145人居た・最終は一人」とされるが、「西南戦争頃」を境に全て去っていて、「長州と土佐」が全ての実権を握っているとすると、「薩摩藩の嫌がらせの時期」はずれている。
寧ろ、「維新政府」とすると「長州」と成り、「長州勢力の過激派もあった事」をも物語る。
その時期が「明治35年前の丁度」として見れば、「青木氏に関わった勢力図」は「紀州藩の陸奥宗光」の「維新政府改革」とも重なっている事になろう。
「幕末の紀州藩の勘定方指導役」で「陸奥宗光親子」とは親族に近く深く関わり、「維新政府」をリードする「陸奥宗光」を「経済面」でも支援するも、「明治30年」に死すも彼の改革はより進んだが、「実力」を大いに発揮して「薩摩藩以後の維新政府」とは異なる「西洋に見習った近代化の政府」を構築し最大の功績を遺したのだ。
然し、それだけに「政敵」も含めて敵も多く、取り分け、「西欧の軍制改革を導入する処」では、「長土肥の旧軍体制」とでの「政府二分する程の摩擦」を起こした。
恐らくは、この時に「陸奥派の力」を弱める為に「長州」は「影で支援をしていた伊勢青木氏の伊勢屋」を攻撃してきていたのではないか。
注釈 「維新後の青木氏」では、「この史実」は子孫に書き残せないであろうし、「大正14年以降の記録」は祖父が「忘備録」で遺した程度で終わっている。
然し、故に「氏族」に遺された資料を何とか探し出してそものから繋いで読み取る以外には無いのだ。
この「明治前後の陸奥家との深く長い親密な繋がり」は詳細に知り得ていた事ではある。
「明治維新前後の豪商」ではその力を弱められた者が多い。
夫々弱められた理由は異なるが、淀屋、小野組、小倉屋、加島屋、永嶋屋等数えきれない。
然し、ところが「屋号」を朝廷より正式に与えられた記録は何処にもない。
「伊勢松阪」より「本店」を「摂津」に移して、名を隠し家を隠し顔を隠し店を隠しして商いをしていたとされ、中には記録として判っているところでは、「伊勢屋の青木氏」は「大阪の商人」と「不特定の屋号]を幾つも名乗っていたとする記録がある。
その中でも良く調べると大阪屋、摂津屋、松阪屋、津屋、淀屋、堺屋、長島屋等が観られるが、これ等は「明治維新」の時に全国各地に「香具師の香具屋」とは別に、「約200支店」を設けていた事が解っていて、この「支店名」を上手く使っていたとしている。
伊勢から摂津や越後の組合で「御師制度・組合で紙幣」を組んで各元大名等への貸付や「米相場」などにも手を出していた事が解っていて、それだけに危険である為に人別は判らない様にしていたらしい。
現在では全てが独立している。
中には「鉄の製鉄」にも雑賀で「雑賀支店」を設けて私財を投入して手を出していたらしい。
現在もここに「製鉄所」は存在する。
其の後の事は次の様に変遷したとある。
ところが、ここで「投資のために設けた金」で「1900年頃」に多くの「銀行投資/御師制度で」や「企業への投資」をしたとあって、「多くの関連企業」は設立されとあり、「政府の支援」もあったが乱立した事が記されている。
これらは“「伊勢の御師制度」”から発展した「商人の銀行」が「大阪」にも「各地」でも生まれたとし、それが合わせて、記されるところでは、「23行の銀行」が新たに設立されたとあり、その殆どが「大阪堺摂津市内の商人」による「殖産の機関銀行・融資」としてのものであったとある。
ところが、その多くは長続きせず、又、“「1901年に起きた恐慌」”もあって、それで、結局は設立した“「15企業行」”が最終的に廃業したと成っている。
要するに「23企業行」の内で「15企業行」が破産したとして「伊勢の投資」は失敗したとあるので,「御師元の伊勢屋の青木氏」では、相当に「ダメージ」はあったのでは無いかと予想できる。
「損害額」は不記載である。
注釈 同様に、「原合名会社」をも多く設立し経営の合理化や近代化を進めて「8企業」を残す結果と成ったとある。(母数が判らない)
一方でこれも「輸出業や殖産業」にも再び力を注ぎ直し参入し、特に経営難に陥 っていた「関西の4つの製糸企業所」を「伊勢}は買収した。
然し、また一方でその「発展の阻害原因」と成っていた「基盤整備」にも手掛け、その「大阪港の拡張」や「鉄道網整理」にも「多額の私財」を資本投下して関わったとある。
この様に、「地域の公的な事業・貿易拡大の為に」にも尽力しているが、其の投下総価額は不記載で判らない。
「総資産額を調査したが、「筆者の試算と大きく異なり、明治中期期までには、下記の通り「試算額 約1億両」であったとする資料にあるが、それがどの程度の物かは判らない。
「創設期以降の米相場」で儲けた「明治期の超豪商の一人であったとされ、その額は資料では「20億両」とあるが、「米相場」だけではあり得ないであろうし、実際はその1/100程度であろう。
注釈 文化面では、残る財を「私財投資」して“「古建築」”を「山の谷部全域」を自然改造して、そこにこれを移設し、現在も残る「枯山水の庵・三つの谷渓園・尾鷲・熊野・田辺・和歌山」を「紀州」に造り上げたりしたとある。
此処に、「禅宗修行僧」、「水墨画家」、「茶道家」、「彫刻家」などを志す若者を集めて無償で修行させていた。
多くの「彼等の遺産」が現在も遺っているし、世に名を馳せた人も多い。
筆者も幼い頃にこれらの一部とここまでは接して観ている。
明治後期から末期にかけての「企業規模の変遷」は、「20世紀以降」に繋がるのともなるが、「他業」の多くは、その明治期までに造り上げた「莫大な資産・約4から5億両」を「低資本金の殖産起業」に投資したとある。
現在もその跡姿は「摂津・大阪」にまだ未だ一部を遺すが、その「子孫への見返り」は「後勘の裔」から観ればあまり無かった事に成ろう。
明治初期に「青木氏部」を「二つの低資本金の殖産起業」を独立させて遺したとある。
それで良かったのかもしれない。
注釈 「青木氏の資料」ではないが、「別の発見資料・御師制度の研究資料」や「明治期前後の商人の研究等」では、「伊勢の和紙問屋」が、「摂津の洋紙問屋」とも成ったが、又「伊勢」の「菜種油問屋」とも成り、「貿易」で利益を上げて、後にそれを元手に「石油の卸売」にも携わったともあり、青木氏の資料と重なる。
何れも「莫大の利益・儲額を研究」を築いたとある。
「明治に入る前」にも、上記の様に「米市以外」にも様々な事業を手掛けて莫大な財産を築いた事が記されているが、ところがここで“「大きな事件」”が起こっているのだ。
幕末までは、その“「商人の財力・超豪商」”が、「武家社会」にも大きく影響する事と成った事を理由としているが、ところが「記録」をあの手この手で色々と漁ると、その「事件」が、「幕府・享保期以後」より起こっており、それには、無法では行かず「法的根拠」を設定しなければならず、それを “闕所(財産没収)処分・けっしょ”として決めて、それに晒されたと記されている。
この「法的根拠」とする「闕所(財産没収)処分」は、飽く迄も「武士」にであるが、武士に影響及ぼしたとしてこれを「商人」に拡大解釈したのだ。
確かに前段でも何度も論じているが、「享保期」に「吉宗と信濃の件」で「伊勢青木氏」は「3日で伊勢に逃げ帰った事件」があったが、これが他の資料の研究記録では、「信濃」への「闕所の最初」では無かったかと説いている。
そもそも、この“闕所(財産没収)処分・けっしょ”とは、本来は“罪を犯した「上級武士の者」に対しての、その「財産を強引に没収する法令」であって、其れには「誰もが認める罪」が必要であった。
然し、これは一致する処ではあるが、そもそも「上級武士の者の財産」を没収した処で、精々、「領土の範囲の物」であって、「幕府の闕所の目的の範囲」とするものでは無かった筈である。
然し、現実には「武士」を対象としていたものが、其の殆どは「超大豪商」に対して向けられたのだった。
「商人」は、「領土関係に無い事」からその「直接の闕所の理由付け」は成り立たず、「刑事事件」を起こす範囲での「刑量で罰する事」は殆どは無理であった。
そこで、「財産没収」は「不随行為」であって、その史実では「行為の正統性が問われる事」が多かったのだ。
これに関する「遺る記録」を観ると、裁判例が残り、あまりの理不尽さが観える。
ところが、この「超大豪商」には、矢張り「罪を問われる事」は殆どなく、「貿易等」を通じて“密貿易”などと「難癖」を着けて「闕所」を一応は申し渡すのだ。
ところが、多くは“「賄賂」で済まして金を「幕府」に巻き上げると云う策略”を何度も繰り返していたのだ。
ところが、前段でも論じているが、「伊勢屋等」は、「伊勢の事お構いなし」の「長篠の戦い財政的協力・三方ヶ原後三河立直し協力・本能寺の変の救出等」に対して、この「過去の恩義」に報いる為に発行された「お定め書等」がありながらも、「幕府」はこの「恩義」にも従わず、「伊勢山田奉行所等・大岡越前守の時以来/享保期以来」は、盛んに「難癖」を着けて来て「闕所」を「伊勢青木氏・伊勢屋」に匂わせて来たのだ。
其の典型的で決定的なものが「信濃事件・聖域と地権域の割譲と殖産の没収と人の家臣化」を命じられて強引に実行されたのだ。
然し、「伊勢屋と信濃青木氏等」もこの「闕所処分」に先立ち、事前に「紀州藩」からこの事を「内密」に知らされていた。
「記録」に依れば、「伊勢の事件」では、「伯耆国久米郡倉吉の地・ダミー店」を設け、前段でも記述した「摂津・本店を移した」のには、先ず「暖簾分け」した等で、「二つの支店」を開き、「朝廷への献納」を幕府に見せつけて牽制し、その後に再び元の「大坂摂津の地」に戻し店を再興したとある。
「伯耆国久米郡倉吉の地」に関して何か特別な逃れ得る理由に成るものがあったのかと云うと無く疑問である。
調査したが、ここには本当に不思議な位に矛先を躱すに効果的なもの、例えば誰かとの所縁とか何もない地域だとするのだ。
この“何も無い事が果たして幕府の追及の矛先を躱せるのか”と云う事なのである。
況してや、「闕所に向けた追及」を受けているのだし、それでも“躱せると云う事”なのかである。
この「伯耆国久米郡倉吉の地・ダミー店」とするには、先ず“「倒産した」”と見せかける必要があったろうが、其の為に「摂津・本店を移した」では、現実には「暖簾分け」をしているのである。
この「言い訳」は現実には成り立たないが、 「暖簾分け」は飽く迄も「内々の事」であって、それでこの「ダミー店」を強調したのであろう。
実は、この事が後に江戸期末に物語に書かれて「小説」にも成っているのだ。
他には実は、前段でも「讃岐青木氏の論説」の中で、「讃岐青木氏の後裔」がこの「宍道湖の横」迄に拡大したと論じて、「安芸の商い」は横の「足利系米子・八頭青木氏」との関係も築いているとした史実がある。
ここに「ダミー店」を設置したとすれば、矛先の可能性は全く無関係の物ではなく成り、「あり得る事」に成るかもしれなかった筈だ。
要するに、これが上記でも、又、前段でも論じている「影の店」であったと考えられるのだ。
元々、「影の店戦法」を使っていたのだから騒ぐことは無かったのではないか。
この様に、“「矛先」を変えてのこの「処置」で、「店を小さく見せる事」をしたり、「影の店」や「影の顔」や「影の店主」や「影の自宅等」さえまでもしても現実には護った”のである。
後は「朝廷への献納」を見せて目を逸らした事などが資料から読み取れるのである。
つまりは、「難癖の闕所」の「名目如何」にどの様に「商人」として対処するかの事であったろう。
「殆どの狙われる超大豪商」は、この様な策や手を前もって使って駆使して特定を避けて逃げていて、一度見せても次は違う等していたらしい。
事実を伝えているかは別としても、飽く迄も小説化しているので人気を博した「江戸時代の小説」にも成っているのだ。
決して「超大豪商の現実」には、「小説やドラマの様な単純な顔や店を見せるような事」は全く無く、此処でこれを論じる以上では、現実には歴史を正しく調べれば、直接に自分や店をよりよく魅せる様な事は決して無く、飽く迄も「影」であって「表に観える等の事」は無かったと知るべきである。
その意味で、「四家の構築した伊勢」での「四家制度」は誰が福家か判らない様にすれば都合が良かったと云える。
また、江戸期にはそれまでも目立つ様に「朝廷・天皇家」には、「献納・奈良期から続ける」をし続けていた事もあって、それ故に、“「朝廷」は都合よく振る舞ってくれていた事等”も伝えられていて、この「闕所事件」では「格好の逃避策」ではあったらしい。
「永代賜姓五役での献納の理由」は、云うまでも無いが、一部には「過去の格式伝統」はこの「闕所の格好の逃避策の意味」もあったのではないか。
前段でも論じたが、「献納時」には「伊勢から御車」を大げさに仕立てて、それに「青木氏の随行者」を着け、且つ、到着後は「街中の事/噂話」を教える「軍略処の役務の令外官・青木氏」の祭りも負っていたと云うのだから、これにも「闕所対策の為の周囲の目を魅つける策」でもあったろう。
これも江戸期から始まり幕末までその「目的の一環」であったのであろう。
そもそも、「影」である以上は、「青木氏の各種の記録」には、これらの事の詳しい事は載せない事であったのであろう。
実は、「享保期」からこの「伊勢青木氏に向けられた闕所事件・類似事件」は、江戸期に限らず「資料や記録の発見」から「新しく判った事」ではあるが、実は「明治期初期」にも明確に起こっていたのだ。
注釈 実は「明治期」にも、そもそも「献納の相手」の「維新政府の政治的意向」から、“「薩摩藩」などが騒いで「闕所の嫌らせ・闕所の江戸時代に似せて」を受けていた”とある。
それまでも、「四掟」で度々、「奈良期より下級公家族と何度も血縁していたと云う事」があり、これらの史実も「公家・叶家等」から「嫁・筆者からは祖母を迎えている事」も合わせていたらしく、これは「朝廷」では無く「初期の維新政府」を造った「薩摩藩等」であったろう。
前段でも論じたが、「伊勢店や住居や蔵等の火付け焼き討ちや蔵の打ちこわし等」が何度もあって、それ故に「伊勢屋の活動本店を摂津に移している事」等に一致している。
ただ「伊勢の福家・本家」は「寺の関係」や「郷士衆の氏族一族」が「伊勢に集中している事」もあって、暫くは「松阪」に置いていた事が判っている。
これは「全ての“話し合い」”が直ぐに解決できる事では無かった事から来ているのではないか。
江戸時代の「享保期と中期と幕末」と、それに「明治9年頃と15年頃と35年頃」にも、「摂津」から「福家・松阪」に届いた三度ほどの連絡の「虫食いのボロボロの手紙」が遺っていて、それ等に依れば、要約すれば次の内容で書かれている。
内容
「長く続く超豪商に対しての執拗な“闕所処分」”には、「伊勢屋」と「御師組合」は財産の一部を多くの機会を捉えて、観える様に「自らの申出」により「献納・朝廷」して「矛先」を先ず外して、目立つ米相場の等への「闕所の動き」を先ず第一段階は終えたとあり、更に、これにより次第に“闕所(財産没収)処分”に晒される事が少なく成り (イ)、この「第二幕」は閉じたとある。
然し、「明治維新政府」の諸事記録からも、続き 「難癖」の“闕所(財産没収)処分らしき嫌がらせ”は続いた事が記されている。(ロ)
先ず、それには“「第二幕」は閉じたとある”この (ハ)の事で、これは「第一幕」があった事を意味する。
又、この等の記録は、“相当に事が落ち着いた後から「祐筆等」が書き記ししたものである事”が判る。これが(ニ)
で、先ず、「青木氏・伊勢屋」から観たこの“「ニの第三幕」”は、本来の形の“闕所であったかは別として、”言うまでも無く、上記した「政治の場」から離れた頃の「明治35年まで」としてしていて、それは「明治期の嫌がらせ」であったであろう。
とすると、「第一幕」とするのは何時としているのであろうかと成る、
筆者には「第二幕のハと第三幕のニ」の事で、恐らくは「二人の祐筆」が書く記す際に「青木氏に降りかかった事」が、「明治期の難癖」の“闕所(財産没収)事件の処分”であったと認識していた事に成り、この事件の事で話題が一族内にも当時は充満していた事に成る。
そして、又、その「闕所認識」が共有していて、同じ事が「明治期」にも続いて興ったと云う事に気が云っていた事に成る。
だとすると、「過去の第一幕の事」が明治期に於いても同じ出来事であったとして認識していた事に成る。
その「第一幕」は、「第二幕と第三幕」に“一致して同じ様な事が起っていた”と観てよい事に成る。
然し、「足利幕府」とは「律宗族の呼称」でも判る様に、少なくとも「難癖」を着けられるような関係性では無かった事は確かである。
「信長が足利幕府を追いやった時期」からと、その後に「秀吉が全国を統一した時期」までと、そこから「氏郷時代の良好な関係」の時期を経て、「豊臣徳川の関ケ原までの時期」と、江戸幕府の「享保期の山田奉行所事件直前」までの期間が「第二幕」と成ろう。
その期間の模様は前段で論じた通りの「犬猿の仲での期間」であった。
この「第二幕」が“一致して同じ様な事が起っていた”とすれば、“信長から秀吉の時代”と成り得る。
「信長前」とすれば、「室町期の紙文化で巨万の富」を築いた時期からと成り、この「巨万の富」に狙いを定めた事に成ろう。
「第二幕の典型的な例」を、前段でも既に論じたが、別にこの闕所の事件があったのだ。
それを前段でも論じているが一つ述べて置くと、「東近江の青木氏」に於いて「本流と分流らの領地の争い」が起こった。
それに於いて「仲裁の申請」が両者からあり、「東近江」には「巨万の富」を背景に伸びて来た「近江青木氏B」と、「元から東近江に居た青木氏A・本流の分家」とを「秀吉の面前」で戦わせて徹底的に雌雄を決せさせたとある。
これは申請に基づく「本家分家の争いの仲裁」と、「その領地争いの仲裁」ではなく、「闕所の手段を使う事」を利用して、戦わせて一方先ず潰して、その「財と領地を奪い取る事」を目論んだのである。
先ず「勝ち残ったB」のその「富」を利用した後で、この「近江青木氏B」を「富に対する難癖の闕所」で、“よく調べたらその富を奪った”として、後で潰す事にしたのだ。
結局、「東近江」には「佐々木氏系青木氏」を除いてはいなくなったのだ。
「伊勢青木氏は、結局は「東近江に居た青木氏Aの生き残り」」を救い出し、「摂津の西」に住まわせて保護した。
「近江青木氏B」は、其の後に「兄弟争い」をして完全に潰れ、一部が千葉に逃れたと云われていて地元の「秀郷流青木氏を勝手に名乗って幕府に仕官している。
他にも語り継がれていないが、郷土史に語り継がれる知る範囲では、この様な「紀州嫌いの秀吉の紀州伊勢征伐」での事で、この時、「小さい闕所事件」が取り分け多く起こっているのだ。
取り分け、「南勢の伊勢50衆郷士衆中の氏族・湯川氏等5士」に対して記録に遺っているのである。
殆どは「騙しの手打ちの闕所事件」である。
当然に「第一幕」は、「嵯峨期の賜姓族外し・皇親族外し」である。
最早、ここではもっと詳しく調べる術を考えて詳しく論じる事は必要だがここては語るに及ばないだろう。
調べる中で関東には、この事件の左程の大きな事件歴史が無かった事が判る。
「商人」が多くても闕所で目に着けられる程の商人が居なかった事が云えるのだ。
そもそも敢えて江戸の政治域にその様な商人を造らせなかったという事であろう。
さて、新しい資料が見つかったのでそれを加えて追記として論じる。
少し「冶金学的考察」に戻して、これは「青木氏の資料」ではないが、「別の資料・御師制度の研究資料や明治期前後の商人の研究等」では、“「伊勢の和紙問屋」が「摂津の洋紙問屋」とも成ったが、「伊勢殖産」の「菜種油問屋」とも成り、「貿易」で「良質な植物油」として「大利益を上げた」”と記されており、後に、“それを資金の元手に「石油の卸売」にも携わった”ともあり、“何れも又「莫大の利益・儲額を研究」を築いた”とある。
これは「伊勢青木氏の記録」と一致しているので史実である。
「上記の経緯」もあって、「総合商社となっていた伊勢屋」は、「菜種油問屋」とも成り、「貿易」で利益を上げて「石油の卸問屋・主に灯油」もしていても、「伊勢での実践・経緯」では、更に“「油・魚油」をメインに「冷却材に使われる結果・工業化」とも成っていた事”が書かれているのでここでも判る。
そこで敢えて「冷却・工業化と殖産化」には、先ず最初に「備長炭の焼灰の中」として対応していたが、次に“「植物油か魚油の油」を使った”と考えられる。
然し、論理的にも確かに「焼灰の中の方」が「冷却速度が緩いと云う点」では良い事は判っていたらしい。
だが、「当時」は、概念的には、 未だ、“「マルテンサイトの有無の概念」”に拘わらず、 “何事にも「冷やすと云うだけの概念」と成っていた。”と云う事なのだ.
そもそも「冷却の程度までの話」では無かったらしい。
それは、当時は「砂鉄の玉鋼」にしても「陶器」にも由来していて、正確な温度把握は在ったかは疑問であるが“100度程度の低くて極めてゆっくり冷やす事程が良い”と云う「冷却概念」が当時にはあったとする。
そこで、ところがこの事に就いては、“「マルテンサイトを獲得する冷却技術」”を獲得していたかどうかに付いては「玉鋼に関する資料」からは、全く散見できない。
恐らくは、“「加熱と鍛圧と冷却の三つの如何」を、巧く調整して敢えて「変態が起さないところ」で「全行程」を止めていた”と、科学的に調べると判断できるのである。
つまり、それが「変態」かは別として,“何か変な事が起こる温度域で、そこには悪い事が起るのだ”という「逃避概念」あったのではないか。
ではこの「変態が起さない点」の手前とは、最も、「割れ、変形、等の品質欠点が起さないところ」でもあったのだ。
現実にもその理論であるが、寧ろ、当時としては「この求めるべき点」と云うのは、「逆の点でとらえられていた事であったと云う事」だ。
全くこの意識の無い事も記された資料があるが、少なくとも「技術的に避ける点」であったと云う事に成る。
此れを「冷却とその後の処置」で上手く乗り越えれば、「逆の点のその逆に成ると云う事」を「伊勢青木氏」は“「銃の欠点克服の過程」で掴んだ”という事なのだ。
それには、是非に「植物油の工業化・殖産化」に取り組まなければならないし、「伊勢神宮の植物油の禊品の事」もある。
結局、上記の資料から、「嫌われている魚油の生産」を施し、「植物油の工業化・殖産化」をして、「禊ぎ品から量の解決」をして、更に「交易をして禊ぎ品の利益」を上げ、挙句はそれに代わる「魚油の代替品の石油を仕入れて卸問屋」を新たに営んで「伊勢の人の理解」を得て「巨万の富」を獲得したという事だろうの「経緯」であることは判る。
この間に「銃の欠点の解決」の為にも、この為の「工業化」で「大量の禊ぎ品の油」を使うが、それに依って「マルテンサイトを獲得する為の冷却技術」を獲得していたのだ。
「伊勢」では「額田青木氏を救う為の銃の製作」と、「それに使う油への批判・禊品に対する工業化」があったのではないだろうか。
「禊ぎの品の殖産化と工業化」は、兎も角もそれを超えた「大工業化・銃」には「大きな批判」があって、そこで「交易から得た資金」で「石油問屋を営んだ事」ではないかと判断する。
これで批判を躱したと考えられる。
「金銭的な事と油植物油の使用率の事」では当面は解決したであろが「伊勢の禊品ぎと云う事」では解決が解決出来ていたかは確認が取れない。
然し、じょうきした様に「額田青木氏の銃の欠点解決」で「冷却材として油を使う事」では結局は理解を得られていた事を考えれば、禊ぎ品に付いては小より大のもくてきではんだんされたので゛はないか。
注釈 ここから「植物油と銃や刀の等の関わり」で論じる。
専門的には成るが、これは、「工業化」に於いて「両者の事を専門的な立場」から観る事に役立つ。
「禊ぎの殖産とその工業化」に付いてはそもそも「単純な動機」に依るものの、それが「意図的」だったとは考えられ無い事だ。
度合いかと云うと、この「殖産化と工業化」には、室町期に「生死を賭けた伊勢青木氏による技術化」が伴っていたからだ。
それには「額田青木氏を救うという大義」が大きくあったからだ。
然し、そこには「技術的」に少なくともそれには、先ずこの「禊ぎ品」の「植物油」を使わないで “刀の処理工程では済ましている事であった。
とすると、少なくとも当初より得られていていたとする「植物油」を使わないで「過去の冷却速さのパターン/水」では、専門的には「刀の内部組織」から観ると、“「類似ツルースタイト組織」”には少なくとも成っていた筈なのだ。
そこで、場合に依っては、この「水の冷却の速さ」からでは、一段低い「類似ソルバイト織」”に完全に成っていたと考えられる。
「水」は「冷却」が油の2倍に早いが直ぐに「蒸発の泡」が発生して「その速さに比例する冷却効果が得られないと云う欠点」を持っていて、「2度目の冷却」は水温が冷却に必要とする温度以上に上がり過ぎ同一のものが得られない欠点を持っているのだ。
この欠点の発生は品質、つまり「製品」とは成し得ない事を生み出すのだ。
だから、常時に一定に冷却効果が成し得る油が求められるのだ。
「工業化」ではどうしても「一定に冷却効果が成し得る油」が必要であって、それには必要とするのが「植物油」と気付いた事であるのだ。それが奈良期から解決し得なかった銃の欠点解決から導きだされた成果であったのだ。
それだけに上記する様に意味は大きかったのだ。
要するに、“「刀」は「類似ソルバイト織・水」”より「類似ツルースタイト組織・水」”にするのが良いのだ”とするのが、これが「過去の普通の概念」であったと考えられる。
例えば、「類似ソルバイト組織」”は、「バネ性を強く求める時に出す組織」で、これより「類似ツールスタイト組織」は「バネ性より硬くて強靭な組織」のものである。
但し、本物のソルバイトやツロースタイトよりは何れもその特性は落ちる。
そこで「水」を使い「植物油を使わない刀」の場合は、「専門的にこの資料を読んで咀嚼すると、「結論」は矢張りそこに陥る結論なのだ。
つまり、“刀の処理工程”の場合には「砂鉄の玉鋼」を使用するが、要するに前段で論じた様に、「近江鋼の場合」の様に、元々使う鋼が「0.8%Cの共析鋼の処」であった場合と違って、そこで起こる“「変態・マルテンサト」を敢えて発生さしていない”のである。表現は正しくは発生しないがただしい。
従って、この「玉鋼の刀」の“「加熱と鍛圧過程の二段階」では、「冷却の速さ」では、それなりに既に「硬くて柔軟な組織」に“「恣意的」ではないが、「偶然」にも成っていた”のだと専門的に観て考えられる。
然し、この“刀の場合は、「上記した工程前後の処理の高度な知識」が、「未完”で在った事から、偶然に“「マルテンサイトの様な類似形」に成っていずに、そこでの「出来具合・類似的にツルースタイトかソルバイト」”が「何らかの形」で意図せずにこの「類似系組織」が得られていた可能性があったと推測できる。
そして、“此れを良いものだ”としていたのだと考えられるのだ。然し、違ったのだ。
決して、「変態」を起さない限りは、偶然にも、“「マルテンサイトの様な類似形」には絶対にならないのだ
これを最近に調べた「刀の組織的・内部の研究結果の論文」があって、それには「内部の組織の良し悪し」では無く、「切れ味の刀の良し悪し」で表現されていたらしい。
これは検査装置が無いので当然かもしれないが。
当時では、従って、当然に「玉鋼の刀」に於いては、この「冶金的な結晶の構造」、つまり「マルテンサイト・ツルースタイト・ソルバイト・パーライ」の「4つの結晶組織」で、「強さ」をも表す「呼称の概念」は無かったと考えられる。
然し、多くは「油の冷却過程」を得ずして得られるこの類似ソルバイト」であったと研究成果では結論付けている。
後は、“「玉鋼の板を何層にも重ねて鍛えた結果」から得られる「強靭な物理的な強さ」”が、これを「補完している強さの正体」であったとしているらしい。
仮にそうであったとしても、それはそもそも“「悪い出来具合」”と「砂鉄の玉鋼」では、「植物油冷却材として使わない事」と、「近江鋼の0.8%C共析鋼を使わない事」から、その「特性から脱却できるものではそもそも無かった」と云う事とされるのだ。
当時としても、既に「近江鋼の0.8%C共析鋼」が一方で「伊勢青木氏」で使われていたにも関わらず、この限定された「その範囲の事が正しい事だ」として「刀の概念」が先行して断定されていたと考えられるのだ。
何故ならば、これは「火縄銃の生産」も「刀の生産」も、「同時期にして同工程での概念」であって、「砂鉄の玉鋼」だけを使って「平衡して生産されていたと云う事」から来ているのだ。
従って、「当時の青木氏部の匠の常識の凄さ」は、先進的に研究して「植物油を使う事」で「冷却問題」を先んじ解明し、“この「技術の壁」を「植物油の殖産と工業化」で打ち破っていた”と云う事に成る。
そこには「伊勢の禊ぎ品と云う縛り」が伝統的にあったにも関わらず、寧ろ、「植物油の殖産化と工業化と交易化の積極策」で解決しているのである。
その証が何よりも「額田青木氏の近代銃の鉄」は、“「近江鉄の鉱鋼」であった”と云う事なのだ。
つまり、上記した「マルテンサイトから得られる鋼の高度な特性処理・冷却・植物油と魚油の冷却」で「銃の欠点」を克服していたのだ。
普通なら長年に渡って「火縄銃の生産」や「刀の生産」も「同時期、同工程での概念」であって、且つ、「砂鉄の玉鋼」を使って平衡して生産されていたと云う事で在るのなら、この「工程に頼る」のが普通であろうがそうでは無かったのだ。
「人間の成す事」と云うのはそんなものであろうが、ところが“全く違う「植物油と云うもの」を選んでいた”のだ。
何故ならば、「刀の特性」には「切れ味」と「鍛する事」と、つまりは、「たたき合う事に依る折れない強さ」のこの「二つ特性」が「最優先」に先ず求められたのだ。
現在科学では、この「切れ味」は、“「マルテンサイト」が最高”であって、これが「技術的に得られない事」から「類似ソルバイト」を「玉鋼の重ね板」で「何度も鍛える事」をして獲得したが、これでは「切れ味」は間違いなく落ちる。
然し、特段に「バネ性」を獲得して「折れに対する強度」を補完していたのだと理解すれば、其れなりに納得出来る。
つまり、故に「刀匠」に依っては、この“「切れ味」><「折れの強さ」”の関係に油と云う冷却概念で差が出る事に成るのだ。
それも“常時では無く時々の技物の出没”に成っていた筈である。
何故ならば、原因はこの「類似ソルバイトの所以性の差」にあるのだ。
当時の代表例として「刀」は次の関係に冶金的にあった事に成る。
「類似ソルバイト」=「重ねたたき合う事」+「その鍛する温度」
注釈 そこで此処からは「刀」に付いて論じる。
「刀」は「類似」である以上は、以上の関係式に依って「刀の性質」は偶然に生まれるのだ。
殆どは、この“「鍛する温度」の「最終温度」”にあって、これに依って「玉鋼」では決まる。
何故ならば、この「狭い限定温度」を間違えると、「類似ソルバイト」は析出しないのだ。
仮に何とか出たとしても、今度は“「切れ味」><「折れの強さ」”の「理想的な関係式」を保てずに「質の悪い使えない刀」と成るとする「冶金的に求めた研究報告」があるのだし、理論的ににもそうである。
冶金的に専門的に合理的で理論的にもこの研究は納得できる。
故に、この「技法」を使った「根来雑賀の火縄銃」は、“この関係性を持っている事”に成っていた事になるのだ。
そこで、この「刀の高度な匠技・現在研究」では、“この「緩める事」と「冷却の事」を「同時に行う術」を把握していた事があり得る”ので、この「技法」を使って「名刀」とするものには、必ずこの「刃文・刃紋・玉鋼の板を重ねる事で起こる模様」と云うものが出る。
そして、そこに出る「模様柄」、即ち「類似ソルバイ」の「光の屈折具合」のこれで「技量の高さの判別」が判るのだ。
注釈 「類似ソルバイト」には「独特の波板の様な模様」が出る
もし、そこで「青木氏部」に依って「額田青木氏の近代銃」に使われたとする“「マルテンサイトから得られる鋼の高度な特性処理」”で、仮にこの「刀」を造ったとすれば、“「切れ味」><「折れの強さ」”の関係は、「最高の物」と成り得て、それは“名刀中の名刀”と成り得る。
以上として間違いなく扱われていただろう。
この事の証明は、この「検証の物理の実験」が成されていて「物理試験・アムスラー試験」でも証明されているのだ。
つまり、この「刀技の匠」で得られたとすれば、「額田青木氏の近代銃」も同然の結果と成り得た事を証明できる。
然し、「近代銃の研究と製作」は、「刀匠の根雑賀根来の鍛冶師」では無く、「青木氏部に所属する部人・松阪と摂津と堺」とその支配下にあった「日野鍛冶師」であったのだ。
そして、元よりそれは「砂鉄の玉鋼」では無く、「殖産の近江鋼」のものを使っていたのだ。
そもそも、「青木氏部」に「所属する部人・鍛冶師」たちは、古い「奈良期からの殖産の結果」から「鉄の鋼」が違うのだ。
注釈 「鍛造後・砂鉄」、又は、「熱処理後・鋼鉄」に得られる「類似ツルースタイト<>類似ソルバイト」の関係には次の二つがある。
1 「鍛造後・砂鉄」の場合は、「鍛える過程のそのエネルギー」で「類似ツルースタイト<類似ソルバイト」の関係で「偽の類似的組織」でそれに近い物理特性が得られる。
これは「鍛する過程」で、「鍛圧エネルギー」と「適度な温度に下がる事」のこの「二つの条件」が揃えば「偽の類似的組織」が得られる。
これは極めて「難しい二つの条件範囲」で得られるので、そこで当然に「匠技」に関わっていたのである。
だから、「名刀」と云うものが生まれていた所以であるのだ。
2 「熱処理後・鋼鉄」の場合は、「決められた特定の範囲・鉄種と炭素量と温度領域と冷却温度と特殊な後処理の5条件」が一致する事である「特別な綱変化」が起こる。
これを、此の世に起こらない特別な変化である為に「変態・トランスフォーメイション」と云うが、これが起こり、この獲得した「マルテンサイト・鉄のダイヤモンド」を、「特殊な後処理で安定させる事・特殊な熱処理」で揺るぎのない「物理特性」を持つ。
これでは未だ安定しないのである特定の温度範囲で少し下げて処理すると「正常なツルースタイト・又はソルバイト」だけが得られるのだ。
これを使ったのが「額田青木氏の銃に起こる欠点」を取り除いた「超近代銃」かが生まれた所以なのであるのだ。
注釈 この「変態結晶体の独特の光反射の色合い・薄青白いシアン系の光を発する」を示すが、ところがこの「偽の類似的組織のマルテンサイト系ツルースタイト、又はソルバイトを有する刀」には現実にはこれが観えない。
この処を考察すると、一般的には「砂鉄の玉鋼」では物理的に無理と成るが、故に当時としては「変態現象の概念を有していなかった事」が間違いなく云えるのだ。
其れが砂鉄の玉鋼であったからだ。
結論として、それに伴う「刀にする為のある程度の冷却に必要とする程度」の「冷却の概念の重要さ」も一部でも「保有していなかった事」は先ず確実であろう。
ところが「名刀」とされるものには、「筆者の見立て」では、これが一部確認する事が出来るが、ところが完全に概念として有していたかは定かでは無い。
又、「製作過程」でも偶然に得てそれが「名刀として扱われる所以」と成っていたとも捉えられるが可能性は低い。
然し、これはより「偽の類似的組織」の「ツルースタイト>ソルバイト」の関係で、“偶然に名刀に成った”と観ていてこれが「刀の筆者説」である。
何故ならば、「鋼鉄と砂鉄の違いの事」は、勿論の事ではあるが、この「マルテンサイトの存在」を「確認する事」には、「屈折光」だけでは無く、「高度な顕微鏡とその為の化学的処理・ナイタールと硝酸液の処理と酸化クローム研磨」が必要であるからだ。
ところがこれが当時は未だ確かに無かったと観ている。
「奈良期からの飾刀の匠技」に伴う「高度な冷却概念」の中には、「密かにテンパー概念」があったとしている記載があるのだ。
何故ならば、それは“玉鋼”ではない”「近江鉄」”であったからだろう。
それを理由に「近江と摂津と伊勢の青木氏部の匠」の中では、「何らかな方法・貿易」で獲得され、この“「703年~713年の前からの歴史を持つ近江鉄」”を使う以上は、「最初の試練」として「試行錯誤の中」で「額田青木氏の超近代銃銃」に「高度な冷却概念」を求められていたと見ている。
寧ろ、そうでなくては使えず懸命にその「匠技」を獲得しょうとして“間違いなく応用された”と考えているのだ。
そうでなくては「近江鉄・磁鉄鉱と褐鉄鉱」である以上は使えないのだ。
上記の「近代的な検査装置の存在」は無かったにせよ、「屈折光」と「焔硝の存在」とそれなりの「研磨工程」があれば、「最低限のより高度な確認検査装置・貿易で得られていただろう」は「室町期」には最早在ったと考えられる。
「屈折光」は、「当然の事」として、「焔硝の存在」は大和には既に奈良期からあった事が記されている。
それは「白村江の戦い」から破れて引き上げた「天智天皇」は、中国が攻めて来るとして「山陽道の造成」と「周防國から奈良」までの間を、「硝煙狼煙」で「情報を伝達するシステム」を構築した「歴史的な有名な事件」が在ったがこれに既に使われているのだ。
これ等があれば、「その概念の存在」は、兎も角も、少なくともそれなりの「マルテンサイトの存在・極めて硬い組織の感覚的存在」は稀にも経験していた事は否定はできない。
注釈 この「マルテンサイトの呼称」は、そもそも「ドイツ語」であって「近代の物理学、即ち、冶金工学と金属工学」は、主に「戦い」に依って利用され進歩を遂げたが、この為に「戦い」に勝つ為に「古くなった西洋の火縄銃の近代化」を「切っ掛け」に「近代銃への発展」へと「発達経路」を西洋で遂げたが、これ等は全てはこの「ドイツ」から起こった事なのである。
必然として「ドイツ」の「西洋での位置づけの結果」では「勝利」を収めたのだ。
これを「伊勢青木氏・伊勢屋の貿易」を通じて得ていたと云う事に成るのだ。
当然に、その「技術」は「青木氏部」を有していた限りに於いて一部分であったと云う事では無かった筈である。
奈良期から始まった「近江鉄の製鋼技術」から「室町期の近代銃の完成技術」までを、この「貿易」に依って全部とは云わずとも獲得していたと認識しているのだ。
確かに問題は「奈良期からとする処」に問題は在るが、そうでなくては「近江鉱山の鉱石」を「高炉・日本での歴史は、一般的に「江戸末期に利用」を使ってしか成し得ない筈だ。
とすると「近江鉄使用論」は成立しない。
逆に「近江鉄」が存在する以上は、其れなりの高炉に近い「高温に成る炉」があった事は否めない。
これは「幾つかの記録」からも「歴史上は紛れもなく史実」で在る。
以上は、「高炉」と「近江鉄の製鋼技術」から、「室町期の近代銃の完成技術」までの間には「高炉存在論」が成立する事に成るが検証か必要である。
それは「奈良期からの近江鉄」は、「院号を有していた伊勢の殖産業」で興されたもので在った以上は、その「社会普及」を特段に敢えて辞めて、「高炉に等しい炉」が見つからない以上はその開発炉は“「伊勢・摂津の範囲に留まっていた事」”に成る。
寧ろ、これは「氏是と家訓」に従っていた事であろう。
其の事からこの「高炉に近い炉の普及」を“留めていた”と受け取るのが正しいだろう。
これらは「院屋号を完全保証されていた平安末期」と、「伊勢本領安堵の号」としては限定保証されていた鎌倉期」と、「律宗族としての半資格での室町期」の「3つの経路の扱い」を受けていた。
この事から、故に「上記の開発の完成技術」は、長い間を「青木氏部」の“「氏族内に留められた・青木氏部」”と考えられる。
そして、前段でも論じた様に「江戸期」に成っても「氏是」に伴い、「銃」と共に「一連の物」が秘密裏に「抹消した経緯」を持っているのだ。
但し、「上記の完成技術の経緯」としては、「三方ヶ原の戦い以後」に「伊川津」に戻り、「渥美湾の制海権」を松平氏から獲得してから、暫くして、「摂津と伊勢」では「銃のその必要性」は無くなり、密かにして治めた。
然し、これが「江戸期」に成って、前段でも論じた様に「享保期末期の吉宗との事件」と「山田奉行所との争い」とを相手に「摂津水運組合と山田奉行所事件」で摩擦・闕所事件」が起こった。
「紀州藩の後盾」を得ていながらも“「難癖」”を着けられない様に、これらの「銃に関する全ての技術」は完全に抹消したと観ているのだ。
取り分け、「母方系の藤原秀郷流一門」が「幕府御家人衆」に組み入れられ、「伊勢藤氏の全て」が「紀州藩家臣」と成った経緯もあり、これ等に影響を及ぼさない様にする為にも「銃技術を含む全て」は、勿論の事としても「上記に論じた完成技術」も“「抹消処置の時期」”としたと観ているのだ。
前段でも論じた様に「四家の桑名等」では、“「祠」にして密かに「神明社」までも鎮守社の裏に隠したとある。
そして、その「床下」に「青木氏の手伝統の記録・資料等」を隠したとした”とする。
この為に「青木氏の現実の記録」も遺されているし、「南勢の旧領地等の各地の青木氏」でも同然であったとしている。
兎も角も、“「抹消処置の時期」”とした場合は、概ねこの時期しか無かったと観ている。
この元には「奈良期からの殖産」で「鉱山開発の院屋号を持つ伊勢」は、偶然にも環境証拠として「近江鉄を利用したとある。
この事では詳細が判っている。
それには僅かに「アルミニウムとマンガン含む鉄の原鉱石」、即ち、「1246度融点での近江鉄」には「磁鉄鉱と褐鉄鉱」が含まれていたとある。
この結果として、「近江鋼」は、砂鉄と違って“「味のある特性としての概念」”で引き出されていた事に成るのである。
工具などに使えば鉄だけの物より特性の豊かなものに成ると云う意味である。
とすると、「近江鉄」は一般の要求に鍛冶師として応えられる鉄であったと云う事だから相当に忙しかったと考えられる。
当初は1つ目の鉱山、あまり時間を置かずして2つ目の鉱山と、開発途上の鉱山でありながらも広げていった事が判る。
そしても何時しか「近江」には「4つの鉱山」が開山された経緯を持つのだ。
如何に「近江鉄・近江鋼」が当に世間から好まれて奪い合いする様に求められていた事が判る。
注釈 さて、そもそも故にこの「急激な需要・経済発展に寄与」に対して、この「経緯論」としては、先ずどの様な「溶解炉」がこの「近江鉄・近江鋼」には、使われていたのかである。
これだけの「需要」に対して、応えられるのは現在科学から観ても「高炉」でしかない。
然し、この「高炉」は日本では「明治初期の使用」であり、西洋でも室町期末期である。
これでは「経緯」が合わない。
「砂鉄の炉」は理論的に使えないから何か炉を開発した事に成る。
結論は、それは“どの様な「高炉に近い炉」を開発していたのか”であり興味が湧く。
「近江鉄」から炉高が高く無くてはならないし、新規の還元剤の開発も求められる。
「砂鉄」では、「平炉、箱型炉、縦型炉の開発経緯」で三つが使われたが、要するに高炉型ではない。
これでは「近江鉄のような鉄鉱石の溶融」は、そもそも物理的に無理であり、それは「砂鉄の砂鉄炉」では「溶解温度」と「還元剤」と「溶解容量」とが原理的にも合わないのだ。
この爆発的な「需要量」に応え得る事は、論理的に無理な事では勿論であるが、取り分けそこには「還元剤」が「鉄」を獲得するのに無理であるのだ。
現実には「鉱山産出と原鉱石にする量」は、この「需要」に応じたとしてもこれを「獲得する炉の開発」が必要であるのだ。
上記した様に「砂鉄の三つの炉」は、原理的に無理であるのだから、何らかのこの三つ以外の原理的に可能にする炉の開発が「鉄の鉱山開発」とは別に同時に求めらていた筈である。
其れでなければ「鉄」として進んだ「特性」を出す「近江鉄」は成し得ないのだ。
そこで、大昔は「原鉱石」から風化で削られて河川に流れ着いてその鉄だけがその比重差で沈み込みそれを溝で浮かび上がらせて、これを浚って集めた鉄、即ち「砂鉄」のものである。
然し、この「砂鉄による製鉄・1560度融点・蒸発最高点」である事からこれを「タタラ鉄」とも云われた。
然し、その「タタラの砂鉄・ふいごを使った炉」には「弊害」と成る「高融点のチタン」を多く含んでいた為に、この「チタン」だけが溶けずにいて炉の出口を塞いだのだ。
これが「砂鉄の進歩」を阻害した最大の欠点であった。
然し、この対策として「考え出した炉・高炉らしき縦型炉の坑口」にも「詰まり」が発生し、結局はこの詰まりの為に「炉の崩壊」が度々起こり解決に至らなかった炉なのだ。
これにより「三つ以外の炉形」は、“進歩に繋がる製鉄法”としては使え無かったのである。
現在でも、ほぼ同然で、そこで、何度も「高炉での研究開発」が「青木氏部」で成されたが、結果は同然で、この「チタンの多く含むタタラ鉄」では無理で況してや、その「チタンの特性」を江戸期末期まで生かせずにいたのだ。
「上記する元素」としては「同然の特性」を有するが、然し、「チタン」は「鉄を強くする五大合金元素」に含まれる可能性を持ちながらも、「利用」は「難・1668度融点」であった為に、現在でも「高度な真空電気炉以外」には「一般炉でも溶解をする事は出来ないのである。
そもそも「チタン」は「鉄」より軽く「アルミ」より重く耐熱性が高く次の「鉄に代わる金属」と云われている。
この経緯から当然に「古代のタタラ製鉄」は必然的に衰退して行ったのだ。
そもそも「何処の砂鉄」にも、他に日本の地形の形成上から「ニッケルとシリコン」を含んでいるものである。
然し、これ等は「高炉以外には取り除く事」が出来ずに「タタラ製鉄の砂鉄の欠点」として残ったのだ。
そこで「伊勢青木氏の摂津」では、「砂鉄の縦型炉を改良した竪型炉」を開発したのだ。
これでこれを機に「近江鉄を使える様な炉」を次第に開発したとあり、それが最後には室町期末期まで使われたとある。
関東は砂鉄が少なく、「近江鉱山」を参考にして「鉱山開発」が「鎌倉期・室町期末期前後」から始まったとされ青木氏部は指導したとある。
注釈 「鉄の融点」は「1560度・実質1230度で可能」とし、「高温では現実に蒸発が伴い爆発の危険性」があって、ところが、この「鉄」には「他の金属」と異なり、その「温度毎に特有の結晶構造」を持つのだ。
それ故に物理的にこの高温は使えないのだ。
即ち、それが「炭素の含有との相関」であり、「使用範囲の限界」は、「温度毎」に異なり、最低で「723度程度以上・オーステナイト結晶」に成る。
最高で「1025程度にする事」で、「何らかの処理」で上記した「マンガン・融点1246度/鉄の限界融点1232度」との「相関関係」、つまり「鉄と炭素相関図」が成立する事に成る。
この相関関係が成立する温度範囲で無くては鉄は使えないのである。
この「鉄と炭素との各種の組み合わせ」により、「各種のセメンタイト・鉄と炭素の結合体が生まれる事」が可能と成るのだ。これ無くして鉄は使えないのだ。
この“「融合と合成」”の為に、これが「比較的低い温度」の為に「上記の様な事」は可能と成る。
だが、然し、逆に砂鉄の場合は、この「タタラのチタンの欠点が生まれ、利用は無理と成るのだ。
故に、「砂鉄」は「平炉のタタラ炉」でゆっくりと行われる。
その為に「炉の温度」に「低めの限界}があって、この「チタン」を溶かせずに、逆に「チタンの弊害・結晶」に対して「炉や加工品の破壊」などが頻繁に起こっていた炉なのだ。
この「弊害・当時は理解されていなかった」を含有し、絶対に「物理的に不向き」であって、現在も「真空電気炉以外」には無理であるのだ。
注釈 そこで、「前段の日野―松井―摂津の地理的往来の論」でも論じた様に、「朝廷」より「院屋号」で「殖産」を命じられた。
この大和では「鉱山開発の経験」のないところで「伊勢青木氏の裔系」の「奈良期の殖産」として「因事菅隷」として開発されたのが、「古代の日本最初鉱山」の「大倉鉱山と高倉鉱山」等に依って採掘されたのだ。
これが「近江鉄と呼ばれる鉄」であった。
要するに「近江鉄・前段の砂鉄では鉄鉱石」であるのだ。
これを使えばより多く、より「高温に溶かす事」が出来る事が可能に成ったと考えられる。
「後の銃の試作生産時」には、即座に「青木氏部・摂津と伊勢の青木氏部の匠等」に依ってこの「近江鉄の原鉱石」と「高炉に近い竪型炉の使用」は、1400年代初期頃には密かに炉の原形が試されていたが、此れは既に奈良期からの試されたものであったと記録されている。
この為に密かに逸早く「西洋」からその「炉の技」の原案理論は「貿易」で密かに持ち込まれていたとされる。
「摂津・堺」では、これに基づき,「試験用」として速い時期からこれを選ばれていたと考えられる。
そもそもそうで無くては、態々、この「チタンの弊害」を取り除く為には、“「通常のタタラ鉄」”では無く、先ずに“「近江鉄」”を使い、それ故に上記した様に「銃にする為の欠点」を無くすには、「温度と量と炭素の関係性」を保つ事が理論的に必要と成り、結果としてそれには必然的に「高炉に近い炉」しか無かった筈である。
「近代銃の入手」と共に、そこで「西洋の高炉をも研究していた形跡」があって、それまでの「炉の技術」も生かし、それに近いものを採用したと考えられる。
然し、その前にそもそも「奈良期」からの「近江鉄の原鉱石を使うとする段階」では、「摂津」には、既に「早い段階では、つまり「平安期頃」では「高炉とするものに近い炉形」が既に「伊勢青木氏部]にはあったとされ、それには「関西で使われていた箱型炉」と「関東で使われていた縦型炉の原形」があったが、この“「縦型炉の改良型」”が既に開発され存在し得ていたと考えられるのだ。
何故ならば,関東には日本形成事からの地質地形上で「砂鉄]は少ない地質であった。
そうで無くては、「砂鉄」では無く「奈良期末期」には次々と開発された「近江鉄の原鉱石の4鉱山の経緯」は、存在し得ない理屈と成る。
そして、「室町期」に向けてこの頃の各地に盛んに成った「鉱山開発」が「成された史実も存在しない事」にも成り得る。
上記した「超近代銃の技術の所以・鉄と炭素と温度の相関関係」が得られる「炉・723度の0.8%C共析鋼」を獲得するには、“「高炉に近いものの改良炉・竪型炉」”で無くては絶対に得られない理屈と成るのだ。
ここに「通説・高炉は明治期とする説論」とは異なる処であって、少なくとも「近江鉄」が存在し、「炉・723度の0.8%C共析鋼」を獲得している処を観るとすると、少なくとも「高炉的原型炉」を「奈良期の初期」から使われていたとしているのだ。
「砂鉄の低融点の平炉や箱型炉」では、「低温度炉」で在る為に、「近江鉄の原鉱石を銑鉄にする事」は少なくとも出来ない。
理論的に「還元炉の高炉」と「不純物除去の転炉」で使うように成る筈である。
ところが、この「高炉説」を本名する事が起こっているのだ。
「砂鉄の玉鋼の平炉と箱型炉・江戸期」とは違う方法で製鉄が行われていたのだ。
やっと「鎌倉期」に成って「関東以北」でも「広く鉱山開発」が行われる様に成った。
この「鉱山」には、突然に「竪型炉/千葉県」と云うものが使われているのだ。
この「竪型炉」が「高炉」に似ているのだ。
つまり、「近江」で使われていた「炉形式」が関東でも使われたと云う事に成る。
全く同じ型では無いが、「高炉に近い竪型炉の改良型」である。
「近江」では「青木氏の炉・竪型炉」であって、「匠技」には構造には糸目は着けなかったが、「関東」に於いてはそこまでは出来ずいたみのが、恐らくは「高炉」に近い程度により高くしたものを造ったとされ、これを「竪型炉」としていたと考えられる。
関東では「発展過程の炉」と云う事では無いか。
つまり、「近江鉄の摂津」では、「高炉と呼ばれる程度の構造」を既に必然的に独自開発していた事を意味する。
実はこれには、「還元炉」と呼ばれ、還元するには「コークス」と「石灰」と「還元剤」を炉の高い先端から投入する事が必要とする。
専門的に古来から編み出されていた「竪型炉」は「高炉の原型炉」と云えるもので、「原理的」には同じ傾向のものである。
つまり、簡単に云うと、「炉底」は「二重」に成っていてこの「炉底」に「けら銑・銑鉄」が流れ出て「炭素量」の違う「二種の鉄」が出来る。
最後に、炉全体を壊して「二種の鉄」を取り出していたのだ。
これでは未だ使え無ず、ここから「不純物・スラグ」を取り除く工程に入る。
更により純度を揚げる為には、もう一度、「石灰等の還元剤」を加えて加熱して「浮き上がった不純物」を「棒先具・ケラ棒」で取り除くのだ。
この作業は「銑鉄」の上に比重が異なる為に浮かび上がる為に同時に行う事もある。
「伊勢青木氏」は、「玉鋼の製法」では目的とする「銃の欠点を解決すべく鉄」が論理的に得られないとして、そこで、その目的を達成させべく長い間「高炉に近い炉の開発」に取り組んでいたのだ。
実は「高炉を貿易で輸入しての手法」では、「溶融方法」が出来ない「高い還元剤力と溶融温度」が得られないのだ。
そこで独自に「鈩鉄の炉の中」でこの「目的に近い改良できる炉の開発」を試みたのだ。
それが「縦型炉の改良の竪型炉」である。
日本は最も高い効果を出す還元剤の製造には伝統の掟があって使え無かったのだ.
それは先ず「石炭」を500度程度の蒸気で熱してコークスとして使えば最高の還元剤となるがこれが伝統で出来なかった。
其れは超毒性の強い酸化硫黄の公害である。
この原理の検証に続く。p48
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