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「青木氏の伝統 35」-「青木氏の歴史観-8」

Re:「青木氏の伝統 35」-「青木氏の歴史観-8」 
     投稿者:福管理人   投稿日:2017/06/20(Tue) 11:07:15
> 「伝統シリーズ-34」の末尾

> この様に「四家制度」と「家人制度」が接着剤の役割を果たし、「血縁融合」したが、「東の乱」を契機に、この「補完策」に依って「二つの青木氏」に内政の「賜姓五役」は進み、「志紀真人族系」の「皇族賜姓臣下族の青木氏」は、「二足の草鞋策」も相まって「皇親族であった失った部分」をも完全に補足したのである。

>( 注釈 これを得てたとしても考えられる事が、1025年からは「二足の草鞋策」は総合商社化し、その財源を使って「四家制度の整備」と「家人制度の強化」を果たし、その事と相まって「二つの青木氏の血縁融合」は進んだのである。)

> 他方ではこの頃、「秀郷流青木氏」も「第二の宗家」と呼ばれるまでに至り、「秀郷流青木氏発祥」より100年後(1060年頃)には、一族一門の発展と共に「5氏による青木氏族」を形成する至るのである。

> この1050年代の同時期を境に「二つの青木氏」は、更に、100年後には共に最大の隆盛期を迎えるのである。
> 「賜姓臣下族の青木氏」の「二足の草鞋策の採用の時期」と、「秀郷流青木氏の発祥の時期」とが同一としているのも無関係では無いと考えている。

> (注釈 「賜姓臣下族の青木氏の二足の草鞋」は、それまで「朝廷の部制度」の依る「和紙の開発と生産」で朝廷に納入する役で、その「余剰品」を一般の市場に卸す役目であった。
> これが奈良期の「部制度経済」であったが、その後、「和紙生産」が本格生産に成り、増加して「朝廷余剰品」が大量になり、これを許可を得て市場に売り捌く役目も担った。
> これが「青木氏の二足の草鞋策」の氏族としての正式な始まりであり、これを以って「賜姓五役の財源」とする事を求められたのである。
> 記録でこの時期が925年頃と成っている。)

> 「円融天皇」の「青木氏の補完策」としては、「天皇家、賜姓臣下族青木氏,秀郷流青木氏」のこの三者に執っては“「藤原秀郷流青木氏の創設」”は難しい時期に於いても完全に成功したのである。
>
> 個人情報保護の観点から、系譜や血縁関係の資料等を公的に出す事が出来ないが、上記のこれも「青木氏」が「生き遺れた重要な歴史観」の一つである。

 


> 「伝統シリーズ-35」


さて、話を「新撰姓氏録」に戻して、「青木氏の歴史観」を更に深める。

そこで、「嵯峨天皇(809年-823年)」は、それには世間に対して、“変”を起こす程の「皇位継承権争い」までしてでも、「大義」を獲得しなければならない事であった。

(注釈 志紀真人族の後裔青木氏の白壁王の四男 山部王が桓武天皇と成り、その子が「嵯峨天皇」、そしてこの背景がこの「新撰姓氏録の編纂」に大きく関わっていた。)

この為にも、この「主張」を「新撰姓氏録」として“「広布」”をしなければ成らなかった背景があったのであり、故に、「未完成」のままでも「広布」に拘ったのである。

然し、朝廷から公布する「正式書物」が「未完成」とはどうしてもおかしい。
ところが「未完成」には、ここに意味があった。
ここで、「新撰姓氏録」として“「広布」に、”又、改めて「政治的」にも重ねて「嵯峨天皇に依る詔勅」の“「公布」”と成ったと観られる。

この様な事が向後に起こらない様に、「兄の主張の根源」(兄の平城天皇)の「観察使」と「皇親政治」を廃止したのである。(名目は「財政難」が理由)

「後裔の青木氏」は、ここで大きな初めての「歴史的な試練」に見舞われる。
然し、矢張り、「後裔の青木氏」は嵯峨天皇に執ってみれば「自らの直系の出自一族」であった事もあり、根こそぎに無くす事はしなかったし、政治的にも困るであろう。

(注釈 実は、これには、当時の様子を伺える話がある。
例えば、平安期中期のこの時期には、結局、「保元平治の乱」で「関西域の仏社の荒廃」が目立っていた。
そこで、困った天皇は「清和摂津源氏」(満仲)に対し再建を命じた。
ところが、その日頃の行状が余りにも良くなかった「満仲」は、多くの貴族武士から嫉妬や妬みや政敵等があまりに多く、その為の「争い」から「焼き討ち」等が多く「神社仏閣の荒廃」は進んだとされている。
その「摂津源氏」に命じたのである。)

(注釈 後に「世間の不評」が高く不満を持った「満仲」は摂津に籠って仕舞う。
そこで「比叡山の僧侶」と成っていた息子に諭されて突然に蟄居してしまう。)

そこで、ところが天皇は「摂津の国」を受領させる事の交換条件として、一族に関西域の「寺社の修理」を命じられたが、結局は引き受けたものの財政的にも技量的にもそんな能力がもとより無かった。

(注釈 清和源氏の源氏は周囲の土豪の武力集団を集めて造った武力集団で勢力を高めた事もあった為に、「青木氏」の様に「家人制度」は敷いていないかった。
その為に、当然に「青木氏部」の様な「技量集団」を持っていなかった。
それだけに雇う事に成る為に「人気の悪い満仲の源氏」に執っては「寺社再建」は不可能に近い最大の負担であった。)

最終、「保元平治の乱」でその荒廃は更に進み、「同族争い」も含めてその結果、唯一人源氏族で生き残った「摂津源氏の頼光系四家の頼政」が、引き続き「身内の守護神(八幡神)」の「摂津の八幡社一社の修理」だけに留まると云う事が起こった記録が残っている。

「11家11流の源氏族」の中でもで最も正当に栄えたのは、「摂津源氏」(同族の河内源氏はその行状から「武家貴族」としては認められていなかった。)なのだが、その「摂津源氏の赴任先」は次ぎの通りである。
但し、「武家貴族」であった事から、「頼光」から「京遙任」で赴任地に「国司」、或は「国司代」を送り務めている。
ところが「頼光」が途中から「京遥任」を止めて「美濃」と「信濃」に直接に赴任している。
これは当時として、「武家貴族」としては”「京遙任」”が普通で「一種の武家貴族のステイタス」でもあった。
ところが、「賜姓臣下族の武士団」として勢力拡大するには「京遙任」で藤原氏の下で臣従して役務を務めるだけでは財源的にも無理であった。
これでは「武家貴族」として初めての「武士団」を賄うだけの充分な財力は構築できない。
そこで、この「京遙任の慣習」を破って「国司」に任せるのではなく頼政からは「赴任先」(伊豆)に直接赴いたのである。

この事に依って何が生まれるかである。
つまり、「地元の土豪集団」との「繋がり」を強固にし、可能な限りに縁者関係を結び、そこから得られる「財源の確保」と「主従関係性」を獲得する事が出来る事にあった。

(注釈 この為に頼光より三人とも「后妃嬪妾」で「30人以上の妻」を置いている。主に地方の「豪族の女」を「妾」にしている。
当時、平均寿命が男子55-57歳程度で今から観ると短命であって、子孫を遺そうとすると、「時間」をかける事は出来なかった。
そこで、「妾」を多く置いて男子の“「嗣子」”を多くして「確実な継承性」を高め「高い血縁性」を容易にした。)

系譜の公的に成っているものの殆どは「后妃」までの“「嗣子」“で、上記の慣習を受けての地方豪族の「嬪妾」の事までの“「嗣子」”には書かれていないものが多い。
これは“書かれていない”と云う事のみならず彩輝氏の歴史観から”「間違い」”に相当するのである。

何故ならば、その答えは“「嗣子」”と云う慣習にあり、「武家貴族」、つまり、「賜姓臣下族」には世間と異なる“「嗣子」”に関する「固有の掟」が有ったのである。

つまりは、「后妃」の“「嗣子」”が在りながらも、一族の者の「子や孫」を“「養子」“にする等の「四家制度の仕来り」があった。

(注釈 現在の「養子」の意味合いの「継子や義子」の「異姓不養」では無い。「四掟に基づく「同宗同門」の「嗣子」を云う。)

この事から「子」と云う定義は、必ずしも「第二世の直系族」の「子」だけでは無く、“「ある掟の範囲」(下記)”での「子孫養子」までとしていた。
中でも、「女子」は孫域まで「子」として扱う「武家貴族の仕来り」(四家制度と四掟制度)があり、この影響を受けて文章を観ると“「娘」”とは書かず“「女」”と書いて総じて“「むすめ」”と読んでいた事が判る。

この様な「武家貴族」を出自とする「氏族の歴史」を知る際には、「青木氏の慣習仕来り掟」を知っていなければ正しい答えは得られない。
つまり、世間との多くの「慣習仕来り掟」の「乖離」がある事に注意が必要である。


そこで、「志紀真人族」の「光仁天皇」-「桓武天皇」から「嵯峨天皇」と繋ぎ、「摂津源氏」を構成して「母方の嵯峨源氏」を縁籍のある「武力集団」とし、それを「郎党」とした「四代目の頼政」は「志紀真人族」を「同祖同縁」(同宗同門)としている。
この事を念頭に、「摂津四家の頼政」は、「京遙任」が主にしながらも、「摂津源氏」とは云いながらも「伊豆」に赴任して、ここを受領して「頼政の直系の血筋」を受けた「青木氏(伊勢と信濃)の子孫」をここにも多く遺した。

これは「頼政の一種の子孫戦略」であった。

(注釈 「源氏姓」で遺すよりも「青木氏」で遺す事の方が生き残り策は確実であったと考えられる。)

現実に歴史は「頼政」が描いた様に「子孫戦略」はその様に成った。
但し、下記の受領地にも「現地孫」を遺したとされているが、取り分け、下記に論じる「嗣子の四掟」の「慣習仕来り掟」の「乖離」が認められず依ってその確証はない。


筆者は多くは、“江戸初期の「黒印状と権威付策」の「偏纂」”に依るものと考えていて、それは「注釈」で云う“世間との多くの「慣習仕来り掟」の「乖離」がある事”に関わっているからである。
「頼政」が記録に遺した「伊豆相模」に関しては、「江戸期前後の記録」では無く「古い記録」のみならず、“世間との多くの「慣習仕来り掟」の「乖離」が無い事“にも依るのである。

ところが、「摂津源氏の四家四代目の頼政」には、記録より”「嗣子」”と云う「慣習仕来り掟」が認められるのである。
依って、その「子孫」だとする公的に成っている「現地孫」と云われるものにはこの「四掟による継承」は無いのである。
つまり、「摂津源氏四家の頼政」が敷いていたのであるから、「現地孫」であるとすれば、この「現地孫」には、「武家貴族」「賜姓臣下族」「志紀真人族」「朝臣族」のステイタスを護る為の「氏族の前提」と成る「四掟の慣習仕来り掟」が認められなければならない。
何れの「現地孫」とすれども、この「四掟」を始めとする「慣習仕来り掟」が認められない限りは少なくとも「正規の現地孫」では無い事に成る。

(注釈 伊豆には正規の「同宗同門の現地孫」のこれが認められる。)

殆どの虚偽の「後付の現地孫」には、この「知識の欠落」が認められるのである。
「正規の現地孫」としての「「四掟の慣習仕来り掟の伝承」が無かった事が云える。

“それは何故なのか“である。
少なくとも、この「四掟の慣習仕来り掟」さえをも伝承しようとすると、上記した「四家制度」なるものを敷かなければ成し得ないからであり、到底、現地の「土豪」と成り得ている状況で、上記した様なその「財力と組織力」を賄いきれる事では無いからである。
それでなくても、「現地の土豪」とすれば、「四掟の慣習仕来り掟」の必要性を自覚する前提は無いであろう。
「賜姓五役」などの役そのものが無いのに、「四掟の慣習仕来り掟」を護る必要も全くない筈である。
それでなくては、与えられた逃れ得ない「宿命のステイタスの維持」は適わない事になり「現地孫」とは決して成り得ない事に成る。

逆に云えば、「青木氏」は、与えられた逃れ得ない「宿命のステイタスの維持」を適わす事の為に、「二足の草鞋策」で「巨万の財力」を蓄えた。
そして、「土地の郷士」との血縁と「シンジケート力」を構築して「影の武力の補完」をした。
更に、「賜姓五役としての政治力」を遂行し、「志紀真人族」とする「最高ステイタスの権威」を「準皇位継承系族」(施基皇子)として護った。
この普通では無し得ない「四つの絶対条件」を苦労して構築して得られる「ステイタス」なのである。

少なくとも、「賜姓源氏11家」でさえも出来得ず、この「難しいステイタス」を維持したのは、「摂津源氏の四家」、取り分け、「頼政」のみと成っているのである。

(注釈 「頼信の河内源氏」は、「摂津の頼光」が敷いた「ステイタス路線」より「武勇」を優先して生き残りを図ろうとした。
この為に「武力」から起こる「戦い」から結局は、「直系嗣子」を失い、上記に掲げる「ステイタス維持」の「四つの絶対条件」の「三つ」を失う破目と成る。
つまり、これを採用した「河内源氏」は「都」を追われ衰退し、その後、「枝葉末孫の頼朝」が「坂東八平氏の力」を借りて台頭する羽目と成る。
然し、そもそも、これは「源氏力の力」ではそもそも無かった。
元より無かったのである。
これは頼朝死後三人の後継者は暗殺される事でも判る。
「頼政の子孫戦略」とは、根本的に違っていたのである。)

そこで、この「ステイタス維持」の「四つの絶対条件」を遺す方法、即ち、“「嗣子跡目」”を入れて「子孫戦略の二段構え策」を考え出したのが「頼政」なのある。

(注釈 「青木氏の資料記録」の一つには、「青木氏の志紀真人族」の出自から、「頼政の嗣子跡目」に関する「氏族の成り立ち」を要約を漢文にした大きな書の掛け軸があった事が口伝にあり、「明治35年の失火」で焼失、その後、これを祖父の筆で復元して「額」にして現存する。
「青木氏の古い記録」は、殆どは「漢文」であるが、一語一語に「青木氏」を物語る「青木氏の歴史観」として意味の持つ事が実に多い。
「解釈」を安易に間違えると矛盾が生まれる。)

この「青木氏」に大きく関わる“「頼政の事」”を次ぎに掘り下げる。
「満仲と頼光」は地元の「嵯峨源氏」(母系)を郎党にした。

ところが「頼政」は、「保元平治の乱」で一族で「生き残り方」をかけてどちらに味方するかで争った。
その結果、「摂津源氏の四家」で「兄弟身内の争い」までが起こり、その事から各々の主張に基づく「摂津源氏生き延び策」の違いで「頼政の裏切りの反目」が起こった。
「賜姓源氏族」の中で「摂津源氏」に関わらず弱小の他の10家の源氏も、「頼政」だけを遺して宗家筋は元より傍系族も滅亡に近い衰退を起こした。

従って、この「郎党らの反目」から表向きは「摂津源氏を背景」としてはいたが、実のところは「摂津の嵯峨源氏」(母方ルーツの志紀真人族)を郎党にはなかなか出来なかった。

(注釈 「青木氏の歴史観」から判断する事でこの事が判る史実である。)

(注釈 複数の記録を観ると、他の源氏族は「農業」をしながら息を潜めて身を隠し生き延びていた事が判る。
到底、「四掟の慣習仕来り掟」を護っての「賜姓源氏族」では最早無かった事が判る。
「頼政」が謀った「以仁王の令旨の伝達」に自ら進んで協力した「河内源氏系の新宮源氏」と云われる「源行家」等は当にこの様であった事が記録に遺る。)

(注釈 最終、「源氏再興」を目指して「以仁王の乱」を起こすが、この事はこの「敗退の原因」とその「勢力構成」でも判る。
「平氏専横」に対して「以仁王の令旨」で全国に散る「源氏」に呼応を求めるが、「衰退弱小」に成った呼応する「源氏」も一枚岩では無かった。
最も肝心な「令旨」を運んだ「新宮源氏の行家」の熊野から「裏切り」が出る始末であって、「朝廷の中」での「生き残り」の為の「日和見行為」が「裏切り」と見做され「源氏の反目」が強く、「乱」を起こした際には、「頼政に対する信頼」は既に消えていた。
そもそも、「乱の直前」まで「以仁王追捕の軍」に参加している位である。
例え軍略であったとしても「日和見行為」や「裏切り」として誤解されるのは当然の事であった。)

そこで、「頼政」は、同じ「嵯峨源氏」の直系出自元の「志紀真人族」の「伊勢と信濃の青木氏」に対し「跡目の嗣子」”(伊勢は京綱:信濃は国直)を送り込み「生き残り策」を図ると共に、この「勢力と財力」を背景に「一族の血縁集団」を「伊勢と信濃」に移して「四つ絶対条件」を形成した。

唯、「四掟の慣習仕来り掟」を持つ「青木氏」には、「賜姓五役としての政治力」はあったにせよ、「実質の政治力」は「嵯峨期の詔勅」に依り「皇親族」から外されてこの時期は充分に持ち得ていなかった。
確かに「秀郷流青木氏」に依って補完されたとは言え、「秀郷一門」そのものが未だこの「十分な政治力」を持ち得ていなかった。
これを何としても補完する必要があって、「一族争い」をしてでも「頼政」は「政治の中心の都」に遺る必要性に固持したのである。

そして、その間、自らの他の受領国には血縁族を形成して郎党とはしたが、取り分け、「伊豆」(伊勢信濃の融合族の志紀真人族青木氏)にも「摂津」より心休まる「真の領国」として、母方系をベースとする「志紀真人族の直系の青木一族」に跡目入れて融合族を形成し、安全を期して「二か所」(伊勢信濃に跡目 伊豆に血縁融合族)に遺したのである。

「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」には“「頼政の嗣子」“を直接跡目に入れ、そして、この一族の一部を「護衛団」として「伊豆」に移して、その「伊豆」と「西相模」には、「伊勢と信濃」の子孫を「融合族青木氏」にした上で、“「嗣子跡目」”を入れて「子孫戦略の二段構え策」にしたのである。

これ程に綿密にして「青木氏」にシフトするという「子孫戦略の二段構え策」を先んじて講じていたと云う事は、幾つかの意味を持つ。
上記の通り、「生き残り策の意見の違い」で「摂津源氏」には「反目」から「見切り」をつけていた事に成る。

(注釈 記録に依れば、誤解に依る「相当の反目」があって、その反目は「頼政」の子の「仲綱の子、況や孫」までに及んでいる。)

更には、「以仁王の乱」に対する勝算には、「源氏の衰退」がどれ程の力に成るかに疑問を持っていた事。
殆どは「清和源氏」の「摂津源氏系と河内源氏系」が主体で各地に平家の目を逃れて飛散して生き延びていた源氏で他の「10家10流の力」には力は無かった。

「平家打倒の蜂起」には、そもそも「財源」が必要であり、その「財源」を何処から捻出するかであり、「源氏」には「源氏再興の思い」はあったとしてもその力は殆ど無かった。
「頼政」は「子孫戦略の二段構え策」があったとしても「伊勢-信濃青木氏の財力」は決して動かなかった。
そもそも、「頼政」はこの事に付いて計算が狂ったのではないかと考えられる。

それは、「青木氏の氏是」に依る。
その「青木氏氏是」が「源氏族」との根本的な「四掟の差」であった。
これは単なる「青木氏氏是」では無く、「光仁天皇」からの「天皇家の直系出自元」、況や、「志紀真人族」の「伊勢と信濃の青木氏」を決して崩さないと云う「固い信念と宿命」に基づくものであり、「四掟」の「ステイタス維持」の「四つの絶対条件」を護って来たものである。

簡単に云えば、「青木氏氏是」は元より「氏構成」として「武力集団」を創設するか否かの差である。
「青木氏」に執っては「源氏族との血縁」は「四掟」に叶うものであり、「天皇家の直系出自元」の「子孫繁栄」には欠かせない事では確かにあったとしても、そこには「源氏族」とは唯一つ違う点があった。
それは次ぎの事であった。

「武家貴族」であっても「目的」を達成するための手段として「武力集団」では無い事である事、或は創設しない事にある。
あくまでも、「武家の出自元の有無」であって、所謂、「賜姓五役の有無」にあった。
これが、「嵯峨期の詔勅」にも明記されている様に「源氏族」と決定的に異なる所以でもある。

従って、その「財力の使用目的」は元より異なっており、「青木氏の財力」は使えない「氏是」である。

況してや、「平家の打倒」の理由は、「平家専横」であって、そもそも、「平家」とは「二つの青木氏」は「悠久の絆の歴史」を持つ「伊賀の隣国」でもあり、「奈良期からの長い付き合い」があり、「光仁天皇の母の高野新笠の郷」でもある。
更には、「伊賀の郷士」、つまり、「家人制度」に基づく古来からの血縁にも結び付いてもいる。
これは到底に動かす事は不可能である。

この様に、「四家制度」と「家人制度」を敷いていながらも「摂津源氏」との「所縁、絆の差」は大きかった。
「頼政との繋がり」は、あくまでも「青木氏側」に執ってみれば「子孫戦略の一環」であって、「戦いに加担に値する事」は、「跡目嗣子」があったとしても、これは出来る話では無かった筈である。
これは「頼政と京綱」とが”「激論」”を交わした所以であったとも考えられる。
(「商記録]」ら読み取れる。)

この事からも、「平家打倒」を直前まで表には出来ない事でもあった理由でもあろう。

然し、最早、踏み切った以上は後戻りはできない。
勝つ見込みがない事を知りながらも「以仁王令旨」に至った。
それ故に、「青木氏との子孫戦略の二段構え策」は、敗退した時の事を考えて「源氏族」を「元の青木氏」に移す戦略であった事が頷ける。

(注釈 それを証拠に、明確な記録として乱発覚後、孫の「宗綱と有綱の命乞い」を伊賀に住む「清盛の母」に懇願して、九州平家の隣の「日向廻村に配流の刑」で軽減される。)
(本来は斬罪である筈。)
その後、近隣の廻族を集めて「廻の子孫」を建てては再び九州平家と戦うものの敗退し、両名は戦死、「廻の子孫」は約20数人の配下と共に「薩摩大口村」(現在の市町村合併にて鹿児島県伊佐市大口小木原付近)に逃げ延びて寺に隠れていた。
然し、追手が迫りこの「浄土宗住職の助言」を聞き入れて「伊勢の青木氏」を名乗って敵対性が無い事を前面に押し出し生き延びた。

この事から観ても明らかに「子孫戦略の二段構え策」であった事か判る。
宮崎廻村から大口村までの地域にこの「仲綱子孫の青木氏」は現存する。
その後、室町期には子孫を拡大させ傭兵として九州全土にその名を馳せ、江戸期には日向灘の「遠洋漁団」、山岳部は「農兵軍団、山岳兵民」を務め乍ら、「黒田藩の専属傭兵」を務めるに至っている。

注釈として、そもそも、「源氏族」は、「宋貿易」を推し進めた平氏族の財源的な差は「雲泥の差」と成り、仮に戦えたとしても「寺社の修復」もまともに出来ない状況では、持久戦では「源氏族」は先ず耐えられなかった。
「寺社の修復」は、これを「平家の試す政略」であった可能性があり、あったとしても財源を消耗させる策であった事も考えられる。

筆者は「修復能力」はもとより無かったと考えているし、「平家討伐能力」も無かったと考えている。
「摂津源氏四家の方針の違い」に依る「親族争い」(同族争い)では、「頼政への反目」(裏切り疑惑)があって、そもそも、「頼政自身」の「摂津源氏」と、母方の「嵯峨源氏」の「郎党の力」を使う事は出来なかった筈である。
況してや、「青木氏」への「子孫戦略の二段構え策」の講じる様ではそのものが疑われて地元の力の利用は到底ないと判断できる。
それ故に、それではとして、当初は「嵯峨源氏」の出自元の“「青木氏の力」”を利用しようと考えたと読み込んでいる。
唯、この時、「源氏と青木氏の差違」に付いて、当初は「大きな読み違え」を「頼政」はしていたのである。

(注釈 「源氏」は「朝臣族の武家貴族」の「武力集団」、「青木氏」は「志紀真人族の武家貴族」の「皇親集団」である。
「抑止力の武」は持つがその目的が「賜姓五役の遂行・皇親族」の「青木氏」と、「直接力の武」で以て「政治的な目的」を遂行する「純粋な武力集団」の違いであろう。)

其れが議論の末に出来ない事が決定する事の経緯と成ったと観ている。
態度を間際までははっきりとさせなかったのは、それまでの「時間稼ぎ」を「頼政」は行ったのではないかと観られる。
そもそも、「態度」をはっきりとさせた方が戦略的には「衰退し飛散している源氏力の集結」は高まったと考える方が通常であろう。
「源氏力」とは、元より「軍の権威と象徴」であって、要は、如何にその「郎党族の集結力」を高めるかにあり、それには「風林火山」にあり、「時間稼ぎ」は「六稲三略の戦略」にあらずにある。

(注釈 「頼朝の平家討伐」は、結局は「坂東八平氏の武力」と、彼らの相模駿河等の港でのその「貿易に依る財力」が背景と成っていて、「源氏力の背景」では無かったから勝てた原因でもある。
従って、頼朝死後は全ての「直系の源氏」は「坂東八平氏」に掃討され滅亡する事と成る。
その後、「河内源氏の傍系の足利氏」(二引両紋)が「坂東八平氏」k
pel)ht@正拳をわまるのを待って奪い、形を変えた「傍系源氏の室町幕府」に成る。)

(注釈 源氏側から観れば、”「平家専横」”と云うが、記録では「源義経」は「平清盛との繋がり」が強く、「貿易等に依って国を豊かにする経済論」などの教示を受けて親密であった事が判っている。
これが「頼朝」との「意見の違い」と「境遇の違い」と成って「争い」が起こった。)

さて、「頼政」の「青木氏」との関りの中に、上記以外に「重要な歴史観」が潜んでいるのである。
この事を論じないと「頼政との青木氏の関り」は充分には理解し得ないのである。

ここで、それを左右する「世間との乖離」であり大きく影響する用語がある。
それは“「嗣子跡目」“である。

“「嗣子跡目」“、又は、“「跡目嗣子」”とは、「青木氏の歴史観」として「特別な意味」があって、下記で説明する「同宗同族同門同紋の一族」の”「四掟」”に合致している。
上記で論じた通り「摂津源氏」も「摂津四家」を構成して、この「同宗同族同門同紋の一族」の「四掟」の「四家制度」を採用している。

「頼政」が執った「子孫戦略の二段構え策」では、「朝臣族で賜姓臣下族の源氏」から元の「志紀真人族の賜姓臣下族の青木氏」に「跡目方法」を単に移した事に成り得るのだが、これは上記の「四掟」に叶ったもので他氏からの単なる「跡目」ではないのである。

その内容を説明する。

さて、ここで「重要な注釈」として、上記で書いた様に此処で云う“「嗣子」”とは、そもそも現在で云う単なる一般的に“跡目を継ぐ権利を有する者”を云うのでは無く、その家の「跡目」を継ぐ為に迎えた「同宗同族同門同紋の一族」(四掟)からの“「養子」”を以って“「子」”と成す事を意味する。

つまりは、「福家」から出る「子や孫」も「20家の四家」から出る「子や孫」も全てを一同に福家に集合して“「養子」”として迎え“「子」”と成す事を意味している。
“「養子」”とは書いてはいるが、後に武士等に使われた「養子」(義子・継子)ではない。

「青木氏」で云う“「嗣子」”の“「養子」”は“「子」”である。
「四掟」に叶った身内の子である。
それには、この「四掟」が条件の範囲であるとしている。

改めて、「青木氏の関連資料の記録」を観ると、この「同宗・同族・同門・同紋」の「一族の固い決り事」を“「四掟」(しじよう)”と呼んでいた様である。

別の古い「青木氏の資料」から抜き出すと、漢文的には要約して抜き出すと、次ぎの様に成る。

“「四定以成異性不養之固掟也」”
 以上と表現しているものもある。

つまりは、“「四つの定」を以って、「異なる「姓」(氏族の差違)を養わずとし、これ「固い掟」なり。“と記している。

注釈として、その前に理解する事がある。
それは、そもそも此処で云う“「姓、或は性」(「姓」では無く「性」と記しているものがある)”とは、「男女の差違」を示唆するのではなく、「本来の言葉の語源」は、「生物の本質の差違」を以って云う。

この古い記録の漢文に示す“「異なる性」”とは、「氏族としての本質の差違」を意味していて、“「異なる姓」”では無く、“「異なる性」”なのだと強意している事に成る。

つまりは、「姓」では無く「性」とするは、「氏族の系譜構成」が、「武家貴族」「賜姓臣下族」「志紀真人族」「朝臣族」と定め、その「定めの範囲」は本質的な違いと成し、これを以って「異なる性」だとして、その範囲での「血縁構成を行う」としている事を強意している事に成る。
そもそも、「青木氏」には「慣習仕来り掟」に於いて「姓」は無いのである。
つまり、「新撰姓氏録」に書かれている様に、それが「同宗・同族・同門・同紋」とする「四掟の範囲」であり、これ以外は「不養」、所謂、“「養子」”としないのだ。
つまり、“「子」”としないのだ。と言い切っている。

「本質的な違い」と断じている事は、「四掟」は相当に“「固い掟」”であった事を意味している。

そこで果たして、この”「四掟」”が護れるのかとの疑問を現在では持つが、“「氏族」として護っていた”と云う事に成る。
その為の「四家の制度」であり、「后妃嬪妾の制度」であり、これに依って「四掟」が護られていた事が判る。
これは「異性不養」の文言で単なる制度では無かった事が良く判る。

これで行えば、「青木氏」と同じ様に「四家制度」を敷いていた「摂津源氏系四家の頼政」との「繋がり」は容易に納得できる。

仮に「異姓不養」とすれば、「武家貴族」「賜姓臣下族」「志紀真人族」「朝臣族」は完全に崩れる。
何故ならば、「新撰姓氏録」に観られる様に、当時の「姓」(かばね)では、この「四つのステイタス」は全てなくとも成り立つ事に成る。
況してや、室町期中期から発祥した「武家族」(海部氏が最初)からではない「姓族」も含む事に成り、「四掟」は護れない事に成る。

(注釈 「新撰姓氏録」では、「第四世族内の同祖同縁」、或は、「同祖同門の氏族」と区分けし、「第四世族の同祖同縁」で「真人族」では無い「朝臣族」には「姓」で区分している。)

これは「敏達天皇の第四世族」の「真人族」の「施基皇子」(後に「志紀真人族」)を始祖とする「準皇位継承族の立場」は保てなくなる事と共に、光仁期以降の「天皇家の出自元」は霧消する事にも成る。

この「平安期以降の青木氏」が持つ「ステイタス」としては、「天皇家の血筋」の云々は、兎も角も、「最低限のステイタス」を護る為にも“「天皇家の出自元」を壊さない“と云う事にあったと考えられる。
つまり、この「異性不養」は”「絶対条件」“であった事を記録は伝えている。

(注釈 江戸初期の「家康の御定め書」の”伊勢の事お構いなし”の「お墨付き」がこれを物語る。戦乱期の時代性に執って何の意味も持たないのに、何とか伝えて来た「志紀真人族の後裔青木氏の氏族」を権威付けているのである。)

況や、“「四定以成異性不養之固掟也」” は「青木氏の氏是」に成り、「青木氏の歴史観」としては極めて重要である。

さて、“「跡目嗣子」”に戻って、つまり、「継嗣」、或は「継子(義子)」の事を指すのではあるが、この「継嗣」、或は「継子(義子)」にも「四つの掟」が条件として付く事に成り、且つ,“「子」”としてでは無く、全ての該当者を平等に“「養子」”とする仕組みである。
仮に単なる「子」であれば、「福家」や「四家20家」や「娘の子」等の「立場の差違」から「小」には本来であれば「その差」は当然に生まれる。
これを無くするには、「四掟の範囲」で一同に「福家」に集めた上で、全てを“「養子」(同宗同門)”とすれば、その「立場の差違」は一切生まれない事に成る。
逆説的に論じれば、そうする事で「異性不養」は護れる事に成る。
更に、つまりは、これを“「嗣子」”としているのである。

従って、単なる「養子」を意味するの「義子」、或は「義嗣(継子・義子)」とは異なるのである。
ここが要するに相当な「乖離点」である。

この場合の“「嗣子」”には、”「同宗・同族・同門・同紋」”の”「同世男系血族」”を”「四掟」”とし、且つ、「新撰姓氏録」に書かれている様に、”「同じ祖先の祭祀」を成し得る者”と成っている。
これが「青木氏」が定める厳しい”「四掟」”なのである。

”「同宗・同族・同門・同紋」”の”「同世男系血族」”は、結局は”「同祖の祭祀」を成し得る者”と成る。

これで、この”「同世男系血族」”の青木氏の資料記録中の「文言」に意味が相当ある事が判る。

その意味は次ぎの通りである。

イ 「男系」(女系で成り立つ条件を完全排除していない。)は、兎も角も、先ず「同世」である事。
ロ 「同じ世代」とは、男性の場合、当時では「人生50年」とされる事。
ハ この「50年」の間に同じ世代に出会う子孫は少なくとも「孫域」までである事。
ニ 「曾孫」に仮に遭遇したとして、同世である事に成り、「四家の養子」と成り得る事。
ホ 「孫域」としたのは室町期末期までの一般的な「同世」として論じられていたのであり、この漢文中の「同世男系血族」の文言を以ってすれば「曾孫」までとしても良い事に成る。

以上に成る。

注釈として 現実に、筆者の直近の先祖の四代は全て80歳を悠に超えていて、曾孫域まで何とか観られる「長寿の血筋柄」で系譜先祖も概ね長寿である。
これは偏には、次ぎの二つに成る。
「青木氏の氏是」として「諸々の戦い」に参加しなかった事。
「四家制度」により「より優秀な子供」を「養子」として一同に合して育てた事

以上の二つにより、故意的に「長寿の血筋」を獲得していたのではないかと考えられる。

更にはどちらかと云うと、敢えて言えば「男子」が多い血筋の様である。

故に、「四家制度」が保てたとも云えるし、「悠久の歴史」を生き残れたとも考えられる。

そもそも、これは「短命」では、この「青木氏」が採った全ての制度の保持は元より生き残る事さえも出来なかったと考えられる。
つまり、この「長寿」は、「青木氏の生き残り」と「賜姓五役の遂行」の大前提と成り得る。

逆に云えば、「四家制度」に依ってより「健康な嗣子・養子」を生み出し選び、それが「長寿」を作り出し生き残れたとも云える。
むしろ、当面の思考する眼目は、この説の方の目的が大きかったと考えている。

次ぎに、”「同世男系血族」”に付け加えて、文中の”「同祖祭祀」”にも付いての「特別の意味」がある。

鎌倉期以降の「普通の跡目の慣習」であれば、「男系跡目」に叶わず先ず「養子」(1)を取り、更に、その「養子」にも「男系跡目」に叶わなかった場合も「養子」(2)を取ったとする場合は、養子(1)の系列に組み込まれ、且つ、「家紋」は元より「姓」も「宗派」も「慣習仕来り掟」も変化する事に成る。
其の侭で行けば、止む無く「女系家族」と成る事を選択しなければならない。
この事は、何か特別な制度を敷かなければ、これは長い歴史の間で起こる当然の事である。
これを繰り返す事は、当然に元の”「同祖祭祀」”は出来ない事に成る。
それと同時に、これでは、「普通の跡目の慣習」では“「四掟」”は保てない事にも成る。

そこで、この“「同祖祭祀」”の文言は、“「四掟」”とは別に長い歴史の間では「異変」が起こり得る為に、総括的に「掟の適宜な運用」に「歯止め」をかけている事にも成る。

これ“「同祖祭祀」”の「歯止め」がある事に依って、「厳格な四掟の運用」が保たれて、「青木氏の資料記録」と「新撰姓氏録」にも表現されている文言の、”「同祖同縁」”、或は”「同祖同門」”と同じ意味と成り得るのである。

故に、仮に別の氏族の資料記録に、“「同祖同縁」、或は「同祖同門」”と明記されていたとする事は、「特別な制度」、所謂、「四家制度」を敷いている事の前提と成る。
つまり、前段でも論じた様に、又、上記の“「同宗・同族・同門・同紋」の”「同世男系血族」と「同祖の祭祀」“を成し得る者と成る“は、「同祖同縁」、或は「同祖同門」と同じ意味と成る事から、この「嗣子の四掟」が、所謂、これが「青木氏の四家制度」であるのだ。

従って、この「四掟」を以って「賜姓五役」が成し得る「氏族」と成る。
つまりは、後の「江戸期の武士」が用いた「嫡子」とする用語は生まれない事に成る。
従って、「青木氏の記録」には、“「娘」”と同様にこの“「嫡子」”の用語も出て来ない。
これも“世間との多くの「慣習仕来り掟」の「乖離」がある事”の一つである。

「青木氏の場合」は、「福家」を中心として「20家から成る四家」に生ずる「孫域」までを“「嗣子」”として“「子」”として扱うが、更に、「女」の系も同様に扱い「稼家先」で「ある条件」(下記)の下に「青木氏」を興す事を許される。
この「嫁家先の青木氏の嗣子」も上記の「四掟」の「同宗・同族・同門・同紋の同世男系血族の範囲の者」も「四家20家」に加えられて「嗣子跡目」の“「養子」”で“「子」”として引き取られ「青木氏の福家」で育てられる仕組みと成っている。

これは「男系」だけに依る「四家制度の欠陥」を「同世男系」と「同祖祭祀」の「二補完策」に加え、第三の「女系策」でも補完したと考えられる。
(この策を「四掟」に加えた時期が何時なのか何故なのかである。)
但し、「青木氏」に於いては、「女」(嫁家先)の「男子の子」(嫁家で別に「青木家」を建てる。)も「男の養子」と殆ど同じ扱いであった。
そこで、「男系」からの「嗣子・養子」があると同様に、「女系」(嫁家先)の方にも「青木氏」の中で「何がしかの立場」がある筈である。
それがどの様に扱われていたかを観るには、「男子の子」をこの「四掟」による「嗣子」を継承しようとすれば、当然に「墓所」にもそれが現れている事に成るのでそれを確認すると判る筈である。

先に、この「三つの補完策」を検証するのには、「氏寺の菩提寺の墓所の構成」を観る事で判る筈である。
この「墓所」でも「四家」に関わった「全ての累代の女」の「女墓」を「墓所の横」に別に作られて祀られている。

注釈として、「墓所」は「福家」の維持する「総大墓」があって、その横に「女墓所」が設けられているが、「横長の平青石」に「俗名」を読み込んだ「戒名」と共に、累代順に追記されて行く「碑石墓」が設けられている。

「総大墓」(氏墓)の左右に「四家の小墓」が立並ぶ「氏族の構成」で、「氏寺の菩提寺」の「墓所」が出来ている。
「四家制度」に依って「四家20家」の夫々の家祖が直系と云う事の前提ではない。
「嗣子」の前提と成る「養子のシステム」で構成される以上は、「四掟の範囲」の「四家の祖」と云う事に成るので、「四家の直墓系」と云うものはそもそも無い。

つまり、“「嗣子」”の“「養子」”としての“「子」”であるとすれば、「福家」を含めて「20家の父」は全ての「親」である事に成る。
従って、「四家の20家」は、「松阪殿」、「員弁殿」、「桑名殿」、「名張殿」の「四家の組」とにだけ区分けられ、そして、「氏郷流伊勢青木氏」との「融合青木氏の四日市殿」の組が加えられて以上五組にて構成されている。

従って、「総大墓」(氏墓)を中心に左右に「四家墓」の「墓所」(組墓)もそれに応じて区分けされている。
明らかに「墓所の構成」は「四家制度」に一致している。

問題は「女系の青木氏」の補完策である。
「女」にも「四家制度」が採っていた事もあって、「長い碑石」に刻まれている「女墓」もある事に成るが、この「碑石墓」には、この「嫁家先の青木氏」(下記イロハの条件に従い原則一代限り)の「嗣子」を出した「嫁家先の女」は「青木氏男系」と同じ扱いを受けていた事に成る。
これも明らかにこの「四家制度の要領」に従っている事が判る。

故に、「四家」にこの「他氏から嫁いできた者」の「女墓」と共に、「嫁家先の青木氏の女の名」が刻まれている事は、「四家の考え方」としては、次ぎの様に成る筈である。
他氏の中で「青木氏」を興す限りは、「他氏から嫁いできた者」と同じ扱いとしている事を意味する。
「嫁家先の女」の「青木氏の嗣子・養子」には「それなりの根拠」(下記)がある事を意味する。

(注釈 この様に矛盾なく「四家制度」が構築されている事から、これが「娘」(娘)の呼称と用語は用いず、“「子」(むすめ)”として用いられる先ずは所以でもある。)

男系子と共に他氏に嫁ぐ「女」にも、「四家」で産まれた“「子」“である以上は”「養女」“として「福家」にて同じ制度で育てられる。
これが「第三の補完策」である。

この「第三の補完策」の目的は、「女子」にも同じ「四家制度」を敷いて「青木氏と云う四掟の範囲」での“「養女」”として育て、「四家」と云う事から起こり得る「格式」を取り除き、「格式差の無い青木氏」が持つ“「同格の女」”として他氏に嫁がせる制度であった事に成る。

この事に依って、ある「特別な条件 (下記イロハの条件」)下で「嫁家先」で「青木氏」を興し、その「嗣子」の一人を再び「青木氏」の「福家の養子」として引き取り育て、「跡目嗣子」として「四家20家の嗣子とする制度」で補完している。
この事に依って、「嫁家先」の「女」には「格式差」は生まれず「四掟」は護られる。
そうすると後は、「嫁家先の格式」にあるだろう。
この事が整えば「四掟」と「三つの補完策」は成立する。

この時、ある「女系」で興した「青木氏の嗣子」の「特別な条件」として、次ぎの事が定められている。
イ 氏族(認証族)である事
ロ 格式(従四位下以上)を有する事
ハ 朝臣族(八色の姓制度)である事

この「三つ条件」が存在する家に嫁す場合で、その家の「嗣子」の一人に先ずは「嫁家先」で「青木氏」を興させ、そして、その「青木氏と成った嗣子」を一代限りの「青木氏の嗣子」の「養子」とする場合にて成立する。

この「青木氏」が、この「三つの条件」(イロハの条件)を持つ事は、「四家制度の四掟」は適っている事に成る。
「嫁家先」の「女」と「嫁家先」とには、「格式差」は生まれない事に成る。
つまり、この事は概して云えば、“格式を下げない”と云う事であろう。
依って、「青木氏の嗣子・養子」と成り得る事に成る。

唯、ここで「二つの補完策」の内、「同世男系」と「同祖祭祀」の「二補完策」の内、「同祖祭祀」の補完策だけは異なっている事がどうしても起こる。

然し、この場合は、つまり、この「三つの条件」には「祭祀」として「格式」を同じとする以上は必然的に「比叡山の天台宗」の可能性が限定されるだろう。

即ち、この「天台宗」は、「天皇家の上皇や皇子」も入信する「密教宗派」に属する事もあって、同祭祀とは成らずとも、古代の「密教浄土宗」とは、「“仏系を同じくする事”」と、「顕教」では無く、“「密教とする事」”から同格として許容している事に成り得る。

(注釈 天台宗は、「密教」でもあって、「顕教」でもあるとする柔軟な教義を持っている。)

そこで、故に、先ず「嫁家先」で一度、直接に「青木氏の嗣子の養子」と成るのではなく、先ず「青木氏」を興して、「同世男系」と「同祖祭祀」の「二補完策」にしてから、福家の元に戻して「青木氏の嗣子の養子」とするのである。
これで、必要な「条件の格式」も得て「同祖祭祀」が成立し、「四家制度」に依って育てられた「嗣子・養子」の「男女」にも問題は無く成る。

但し、そこでこれには当然に「嫁家先の同意」も必要と成るだろう。
この「同意」には、「嫁家先の利害」が大きく絡む事から成立にはかなり双方に「政略的な意味合い」が働いての解決事と成ろう。

これで「女系の青木氏の補完策」は完成し、「四家制度の欠陥」を「同世男系」と「同祖祭祀」の「二補完策」に加え、「第三の女系策」とで補完している事に成る。

さて、ここで、次ぎの疑問点である。
「嫁家先の同意」とこの「補完策」を採った「時期と理由」である。

それは、先ず上記の「青木氏」が独自に採った「三つの補完策」と、次ぎに「天皇」が執った外部からの「藤原秀郷流青木氏」の「第四の補完策」である。
「天皇」が執った外部からの「藤原秀郷流青木氏の補完策」(「第四の補完策」)は、記録から「人」(円融天皇)も「時期」(958年頃)も「理由」(賜姓五役の推進策)も明確に成っている。
これは「嵯峨天皇の詔勅」に依り「青木氏」が「皇親族」から離れた事に依る弊害(賜姓五役の遂行の衰退)の補填にあった。

然し、「青木氏」には「三つの補完策」の「時期」についての正確な記録資料が消失して見つからない。
唯、概要は諸々の文書の読み取りで判る。

先ず問題は、「三つの補完策」の「時期」の問題点である。
「四家制度の四掟の時期」と同じくしていない事が判る。
それは、上記の「女系策」からも読み取れる。

「三つの条件」の「イロハ」が時代に依って難しく成る事である。
イ 氏族(認証族)である事
ロ 格式(従四位下以上)を有する事
ハ 朝臣族(八色の姓制度)である事


そこで、「女系策」を判別すれば他の二つは判る事に成る。

先ずは「政略的な意味合い」が働いている事は先ず間違いは無いとすると、次ぎの事が考えられる。
先ず理由としては、次ぎの事が考えられる。

1 「青木氏の嗣子跡目」が逼迫した事。
2 他氏との関係性の強化策に必要とした事。

「1の逼迫」には、次ぎの事が云える。
A 根本的に「四家」に必要とする為の「絶対数の嗣子」が少なく成った事。
B 「他氏との血縁関係」が活発に成り男女ともに不足した事。
C 「青木氏の立場」が大きく変化した事。

「2の他氏との関係性」では、次ぎの事が云える。
A 「時代の混乱」から「青木氏」を護る為に「他氏との繋がり」を広め強化した事。
B 「四家の弊害」(能力 マンネリ化)を解消する時期であった事。
C 「四家の弊害」(血縁性 純血性)を解消する時期に来ていた事。

この時期の答えは、「三つの条件」のイロハに出ている。
そもそも「賜姓五役と云う立場」にあり、これを務める事を主務として「四家制度」が採られている。
だとすると、少なくとも、この「イロハの条件」、即ち、「格式の適合」に適うとこからの「血縁」と云う事が前提と成る。
これは始めからの話であり、態々、「女系策」と云う事には成らず、当然の血縁先と成ろう。
従って、「1の逼迫」と云う事には当たらない。

そうすると、「2の他氏との関係性」と成る。
では、2のABCの何れかと云う事に成るが、この「女系策」を採った時期に関わってくるだろう。
少なくとも「女系策」を採る前は、「男系の嗣子・養子」の「四家制度」で済んでいた筈で、それは、奈良期から始まって、平安初期までは男系に依る「四家制度」であった筈である。
つまり、「施基皇子」が「伊勢王」として都で遙任し国司(三宅岩床連)を置いて務め、その後、伊勢に退任してから、「聖武天皇」に男系が出来ず、結局、「井上内親王」と施基皇子の四男の「白壁王との婚儀事」で「光仁天皇」-「春日宮天皇」-「光仁天皇」の子の「山部王」が「桓武天皇」が即位し、「志紀真人族」が続く事に成り、「平城天皇」-「嵯峨天皇」に繋がった。

ここで、より「後裔の氏族」の「志紀真人族青木氏」としての立場が強化された。
「新撰姓氏録」にも「志紀真人族で朝臣族」で「春日真人族」の「同祖同縁」として特別に記載されているところでもある。
従って、約100年後の「平安初期」と云う事に成り、この「立場の強化」(天皇家の出自元)の為には、「2の他氏との関係性」のABCの全てを講じる必要性に迫られた筈である。

上記の「女系策」が判れば、「同世男系」と「同祖祭祀」の「二つの補完策」の時期と理由が読み取れる。

先ず、「同世男系」は、「同世」である事と云う必要性が切迫して起こった時期と、「男系」であると云う事の必要性が切迫して起こった時期である。
この「二つ掟」は、奈良期からの「青木氏に課せられた慣習仕来り掟」としては「普通の事」の社会であった筈で、それを態々取り立てて、「固い掟」にしなければ成ら無く成った時期は何時なのかである。

一つは、聖武天皇期の「皇位継承者」が欠如し、その後の「光仁期」と「桓武期」に架けての時期、つまり、「平安初期前後の時期」である。
二つは、「氏族」が激減する室町期初期から中期の時期で、つまり、「下剋上期と戦乱期」である。

一つの目の時期に取り分け必要としていたのは、奈良期から「女系」が多く続き、政治には「男系の必要性」を強く見直さなければ成らなくなった時期であった事から、「男系」が態々「固い掟」として定め直したと考えられる。

二つ目の時期に取り分け必要としたのは、「下剋上と戦乱」で「継承者」が激減し、或は、「氏族の郎党」として働いていた「姓族」が「氏族」に代わって台頭し、「跡目継承」が困難と成った時期で、「格式」を重んじて「血縁関係」を維持するに逼迫した時期でもある。

従って、この「二世代」に限らず、「三世代、四世代」までを「嗣子・養子」として拡大しなければ「賜姓五役」としての「青木氏」が維持できなくなった事から、「同世」の「固い掟」を、態々、「掟」に明記したと云う事に成る。

「四掟」,即ち、「同宗・同族・同門・同紋」の文言だけでは、時代に反映して切迫している状況の中では「便宜的な解釈」が起こり、この「解釈」に依って変化して護れなくなったと観られる。
そこで、其の侭で行けば「掟の崩壊」が起こると予想され、「同世男系」の文言を「掟」に補完的に態々書き加えたと考えられる。


次ぎは、「同祖祭祀」である。
「青木氏」は、「祖先神の神明社」で「密教浄土宗」である。
「祖先神の神明社」は、「皇祖神の子神としての立場」にある。
「密教浄土宗」は「法然の浄土宗」の前の「古代仏教」を基とする宗派である。
「祖先神の神明社」と「密教浄土宗」は「神仏同源」としている。
「同宗・同族・同門・同紋」の文言だけの「四掟」に於いて、この「二つの事」を祭祀する事に「差し障り」が生まれたとする訳である。

つまり、態々、「掟の補完」をしなければ成らなくなった時期は何時なのかに関わる。
「同宗・同族・同門・同紋」の文言だけも解る筈なのに、ここで「何か支障」が出た事に成る。

そうすると、考えられる事は、“「神仏同源」”を敷いている「青木氏」に執って周囲との間に「神仏同源」を強い要る事に変化を来した事に成る。
そもそも、又、「青木氏」は、仏教伝来期の奈良期から「神仏同源」の為に“「達親制度」”を敷いている。
この「達親制度」にも問題が出た事にも成る。

そこで、鎌倉期には、「最澄の天台宗」、「法然の浄土宗」、「空海の真言宗」と「三代宗派」が興り、夫々、宗派拡大の宗教戦争の様な事が起こった。
要するに密教はどうあるべきかの「密教論争」である。
そして、この「三つの宗派」にはこの「密教論争」が興り、「密教」を否定する「顕教」が生まれ、「浄土真宗」や「日蓮宗」等の多くの分派が発祥した。

夫々の分派には各身分階層に分かれて入信者を増やした。
当然に「法然浄土宗」は「密教」を宗旨としたが、古代仏教から発展した「青木氏等の密教浄土宗」との間にも、「賜姓五役」と云う「立場」を護ろうとする違いから、「宗旨の乖離」が生まれた。
この為に、「格式」を「固い掟」として重んじる事に血縁を進める場合に「四掟との違い」が同じ「40程度の氏族」との間に発生してしまったのである。

“「神仏同源」と「達親制度」”は、そもそも「青木氏の根幹」を成すものであり、これを崩す事は、「青木氏の滅亡」を意味している。
「同祖祭祀」を護る為には「神仏同源」と「達親制度」が必要であり、その“「神仏同源」の「考え方」を維持するには、「達親制度」でこれを支えている構図なのである。

この事からすると、時代に依って「宗教改革」(密教から顕教に変わる事)が進むと「青木氏」に執っては、同様に滅亡を意味する。
従って、“「神仏同源」と「達親制度」”を護る為にも“「同祖祭祀」”を明記して補完したと考えられる。
その時期は、「鎌倉期初期」であろうと観られる。

従って、“「四定以成異性不養之固掟也」”の記録資料の「掟の文言」には、「同世男系」と「同祖祭祀」の「二つの補完策」の時期と理由が読み込んでいると取れる。
故に、「平安初期の女系策」と共に、「三つ補完策」が取られた事に成る。

(注釈 この「神仏同源」には、「柏紋の青木氏の神職」、「柏紋の青木氏の住職」が存在する所以でもある。)

注釈として、そもそも、「神仏同源」の文言は、「神仏習合」とは異なる。
「青木氏」に執っては、「二つのものが組み合わさる事」では無く、「その元を同じくすると云う事」であり、そこに「青木氏の密教」が成立していたのである。

「青木氏」に執っては「仏教の変化」が起こる事は、「神仏同源」の考え方としては好ましい事では無い。
「青木氏の記録資料」では、“「同祖祭祀」”と共に、“「神仏同源」”の文言で書かれている。
故に、「神」では「御師」、「仏」では「禰宜」、この「二つの主教の行事」を取り持つのが「達親」であって、分離していないのである。

そして、これと「四家制度」とを組み合わせているのが「福家制度」なのである。
この「福家制度」は「四家制度の差配」と「賜姓五役の差配」を仕切るという構図に成っている。

「仏教の変化」が起こる事は、全体の「青木氏」の「同宗の仕組み」を壊す事にも成り兼ねないである。
故に、少なくとも「青木氏の石垣」を崩さない為にも「時代の変化」に対応して「二つの補完策」が是非に必要としたのである。

(注釈 “「四定以成異性不養之固掟也」”の記録資料と共に、この様に「三つの補完策」の資料は室町期中期に頃までにまとめられたものである事が判る。
この記録は、「祐筆役(執事役)の菩提寺の役目」でもあった事もある。
「全国の500社の神明社」には地方毎の事で直接的な解明資料には成らないし、松阪の「菩提寺本寺の消失」で資料の保存状況は完全ではない。)

天皇に依る「政治的な補完策」として、「外部の秀郷流青木氏」に依る補完策は、全面的な部分に依る補完(958年頃)であって、上記の「三つの補完策」(「女系策」「同世男系策」「同祖祭祀」「神仏同源」)を効果的にする意味でも、時期的にも「絶好的な政策」であった事に成った事が判る。

(注釈 「青木氏の歴史観」としては、むしろ、「武家貴族の格式」を交換条件として「秀郷流青木氏」として与えた事だけでは無く、「青木氏」の「保全の努力」を観て、少なくとも「賜姓五役」を継続させ、「志紀真人族」としての「出自元」を「天皇家」として護ろうとしたと観られる。
「嵯峨期の詔勅」で「皇親族」から外されたが、ほぼ100年後の事ではあるが、その意味で「同祖祭祀」「神仏同源」の補完策は一族の者に対して、「四掟」の「同宗同族同門同紋」の文言の「引き締め効果」があったと考えられる。
故に、“「四定以成異性不養之固掟也」”の記録資料と成ったと考えられる。)

さて、そこで、「同宗・同族・同門・同紋」の文言とは、要約すると次の様に定義されている。

「同宗」とは、「大日如来」を神とする「密教浄土宗」であり、「祖先神」を「守護神」とする事。
「同祖祭祀」(「神仏同源」)の補完策が取られた。

「同族」とは、「皇族賜姓臣下族」の「志紀真人族」で「朝臣族」である事。
「同世男系」の補完策が取られた。

「同門」とは、敏達天皇の「春日真人族」を第四世族り「同祖同縁」として「志紀真人族」を「青木氏とする族」である事。
「女系策」の補完策が取られた。

「同紋」とは、「氏族」の「象徴紋」を「笹竜胆紋」とし、「神木の青木」を「氏の象徴木」である事。
鞍作部止利作の賜物の大日如来坐像をステイタスとする事。
「嵯峨期の象徴と禁令策」の補完策が取られた。

この様に「四掟」を補完して定義されている。
これが「青木氏」を理解する上での重要な「青木氏の歴史観」なのである。
この「歴史観」が無くして「世間に出ている歴史」を読むと大変な間違いを起こす。









> 「伝統シリーズ-36」に続く
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:「青木氏の伝統 34」-「青木氏の歴史観-7」 


[No.353] Re:「青木氏の伝統 34」-「青木氏の歴史観-7」 
投稿者:福管理人 投稿日:2017/05/18(Thu) 09:44:31


「伝統シリーズ-33」の末尾

>「嵯峨期の詔勅」で、何度も論じたが、「真人族の氏名」は「青木氏」を名乗る事と成っていた為であり、彼らに独自に「青木氏を興す力」は全く無く、これ等は「五家五流の跡目」に入った。)

>前段でも論じたが、この時に採った政策の一つの例として、「青木氏の氏名」を農民から身を興した下級武士階級の「姓族」が、「嵯峨期禁令」を破って江戸初期に名乗ったので、この者等に対して「姓の青木」を「別の姓名」に変更する様に江戸幕府は命じて「青城氏等の姓名」が生まれた。

>この事と同時に江戸幕府は「系譜由来等を作る事」をも命じて、「武士」であると云う事を証明する為に「黒印状発行の条件」としたのであるが、この時、江戸幕府は「搾取偏纂の系譜」には無視し容認の姿勢を採った。

>(注釈 農民から伸し上がった者には系譜などは元より無い。そこで地元の神社や寺社などに地域の氏族や郷氏等の「古豪の系譜」に脚色を加えて系譜を搾取偏纂して「黒印状」を獲得して武士と成った。これだけは幕府は容認した。)

>従って、現在に於いて「系譜からルーツ」を辿ると、前段でも論じた様に、「氏族」の「郷氏青木氏の歴史観」と対照するとあり得ない矛盾する事が生まれるのである。




「伝統シリーズ-34」

そこで、更に、論じて置かなければならない事が「青木氏の歴史観」としてある。
それは、取り分け、“「家人」”に関わる「歴史観」である。

この事を認知して置けば、この「矛盾」を見抜く事が出来るし、自らのルーツの「正しいロマン」を醸成できる事に成るだろう。
この明治期まで「青木氏」に仕えた「小郷氏」等の事を「青木氏」では、「四家制度」の中で“「家人」”と呼んでいた。
この“「家人」”には、「青木氏」の「職能部の頭」(青木氏部)には娘を嫁がせて、その生まれた嗣子の一人に今度は実家の「青木氏」を名乗らせて、「四家制度」の一員とする“「家人の青木氏」”が在った。
又、この「職能部の頭」にも「青木氏」を「縁続き」(嫁ぎ先)で名乗らせる“「家人の青木氏」(「職能家紋の目結紋類で変化を付けた)”も在った。

(注釈 前段でも詳細に論じてはいるが改めて概要を記すと、「四家制度」では「男系女系」の差が無く「孫域」までを、「孫」と云う概念が無く、「青木氏嗣子の子供」として定められていて「福家」で「共同」で育てた。)

奈良期からの「賜姓族の臣下族の慣習」では、この“「家人」“に付いては「家来」と呼ばず「氏族」としての護らなくてはならない理由があって、その為に“「家人」”と呼んでいたのである。
これは、幾つかの「血縁と所縁」で結ばれた“「同族の家」”が集まり、一つの“「氏」”と云う大きい「集団形体」で「枝葉の姓」を作らず構成する事からの手段であった。
そこでの何らかの「薄い血縁」や「所縁のある者」で厳しく言えば「主従関係」、或は、緩く言えば「統率関係」が構築されていたのである。

従って、一種の「契約」に依る「無血縁の臣」(無縁 後の家来/家臣)で構成されているのでは無く、「血縁族・所縁族の人」で構成される事を意味する事から“「家人」”と呼ばれたのである。
つまりは、これが「氏」と云う形で構成される「下支えの構成族」(家)の「一つの族」の事である。
そして、この「主従の者」を「氏と云う形の人」として、朝廷はこれを維持している「統一した氏族」として「公認する仕組み」であった。
それでなくては「氏族」として認めなかった。
これが、「姓族」と異なる「氏族」の所以もである。

(注釈 江戸期に「家臣」の下に「媒臣」があって、この者を「家人」と呼んでいた事もあり、下級武士の下に働く「農民の奴」を「家人」と呼ぶ様に成ったが、これ等には血縁の何物も無かった。)

要するに、「氏族」の「家人」は、「朝廷の認証族(氏族)」の「准認証族」(准氏族)とも云える。
この形が形成されていなければ、それは「氏族」とは認証はされない「仕組み」でもあった。
これは前段で論じた嵯峨期に偏纂された「新撰姓氏録」の記載する処でもある。

そこで、「青木氏の氏族」を理解する為にも「青木氏と関わり」のあり、この事を明確にしているこの「嵯峨天皇と新撰姓氏録の事」を先ずは論じる事とする。

(注釈 そもそも、何故、「山部王の桓武天皇」の平安初期の直ぐ後に子供の「嵯峨天皇」が、このここに至って「新撰姓氏録」を編集したかが判る。
「聖武天皇」の「直系族」に「男系族」が無く成り「皇位不継承」と成り、唯一人の皇女の「井上内親王」のみと成った事から、唯一遺されていた「春日真人族の第四世族の志紀真人族」の「白壁王 光仁天皇」と婚姻させて「正統性」を何とか確保した。
本来は「真人族」でありながらも、「第六位皇子」である事から「第四世族までの王族」をも捨て「皇族賜姓臣下族」と成り、「皇親族」として「賜姓五役」(令外官)を務める事に成ったのである。
つまり、「格式の継承」から観れば、「継承権」があって「継承権」を捨てた立場に成った「唯一の氏族」であった。
依って、「継承権」では“「准の立場」”にはあった。
これで、「青木氏の准の使用許可」の意味合いが良く判る事でもある。)

この「家人制度」(「朝臣族の臣下族」でありながらも「真人族」の特別の「賜姓の氏族」)を維持している事に依る「准の立場」から、「白壁王の光仁天皇」と「施基皇子の追尊 春日宮天皇」の子が「山部王」の「桓武天皇」と成り、「施基皇子」からは曾孫の「嵯峨天皇の継承」と成ったのである。
そこで、「嵯峨天皇」は、「天皇家の正統性」を整理する意味からも複雑化した「真人族」と「朝臣族」を系譜化しようと試みた。
もっと云えば、複雑化していた「皇族系の系譜」を見直して「格式」を明確にし、主に「継承権のない朝臣族」、並びに元は「真人族でない朝臣族」との「系譜上の区分け」を試みたと考えられる。
この「区分け」で、それは「正統性」を意味する事に成り、「志紀真人族の青木氏」の”「三司」(平安期の官位の呼称)”の「准の使用根拠」にも成り得ると考えたのではないか。
つまり、これは「家人制度」を維持していない正当でない「朝臣族の臣下族」が増えていた事を物語り、この朝臣族でも真人族で無い朝臣族は勿論の事、更には血縁性の無い朝臣族まで発祥していた。
「嵯峨天皇」は、これを改める為にも「天智天皇」が定めたものを、「嵯峨期の詔勅」を改めて出し直した事に伴って、正統に系統化するとともに、合わせてその“今は「准の立場」であるが、本来は「准」でないとする「先祖の正統性」を100年後の今に明確にしたい”と云う考え方の下にその「証明書」を作ろうとしたと考えられる。

そこで、その基準を「家人制度の有無」と「四家制度の有無」に於いたと考えられ、これで或る処までは「系譜化」は出来たが、さらに整理に至るまでには未だ期間と難しさが掛かることから一度は頓挫した。
しかし、何としても形の上でこの「証明書」を作り上げたいとして、所謂、「新撰」として「未整理状態」で“「広布」“をしたと云う処ではないかと云える。
この「新撰の意味」は、この「未整理の範囲」でも、所謂、「証明書」には何とか成り得るとして、改めて「広布する範囲」として認めた処にそこに意味(ある種の思惑)があったと考えられる。
従って、「新撰の意味」と「准の意味」は、判り易く云うと“「公布」”では無く、“「広布」”であった事に成る。

(注釈 故に、そもそも、その証拠として、例えば、「源氏」には「賜姓源氏 11流」と「賜姓で無い源氏 5流」がいて、「家人制度」を敷いている「賜姓源氏」と、「敷いていない源氏」もあり、更には、「四家制度をしている源氏」と、「敷いていない源氏」があるのはこの事に依る。)

と云う事は、何故、この「新撰姓氏録」を、態々、この時期に一度「頓挫しかけたもの」を、又、「未整理のもの」を出そうとしたのかである。
「頓挫や未整理」であるのなら慌てずにそのままに後に引き継いでも良かった筈である。

ところが実は、この時期に朝廷内では、この「継承権の議論」と云うか、「藤原氏の勢力拡大」も狙ってこの「継承権の話」が出ていたのである。

(注釈 これ等を整理するには、そもそもその原因と成っているはっきりしない「継承権の問題」があった。後の「新撰姓氏録」を整備する上でも「この基準の一つ」を造り上げて置くことが必要であったと考えられる。)

それは、父である「桓武天皇」と兄で先代天皇の「平城天皇」を向こうに廻して「ある種の軋轢(皇位継承)」があった事が記録(「続日本記の削除問題」)として伝えられている。
これが「大事件」まで発展した。

注釈として、本来は、「実子」の「平城天皇の子供」が「継承権」を持つが、「嵯峨天皇」は”「直系」”の「志紀真人族の血筋」を引く自分にあるとしたのである。
つまり、況や、”「直系」”と云う意味の捉え方である。
前天皇の弟を最も”「直系」(A)”と考えるか、前天皇の子供を最も”「直系」(B)”と考えるかにある。
前天皇を前提としては、血筋は(A)であり、現天皇としては血筋は(B)と成る。

桓武天皇から観れば、「直系」は(A)であり、皇子の平城天皇から観れば、「直系」は(B)である。
同じ立場の弟の皇子の「嵯峨天皇」にすれば、血筋で濃い「直系」は自分であるとしたのである。
つまり、「縦の継承」を続けると、(A)の直系論理が生まれ、前天皇に皇子が居ないと「横の継承」が起こる。
その後は、(B)の論理が生まれ、この時に(A)か(B)の何れかを「直系」と定める必要が起こる理屈と成る。

この直系の事が、「皇位継承」のみならず、「青木氏の歴史観」にも大きく左右した「施政の事(問題に成った「監察使」等の事)」でもあって、この「処置の仕方」に付いての「軋轢」もあった。
結局は、この事を整理しようとして、”「監察使」”までを「嵯峨天皇」(令外官)は廃止した為に更に軋轢は拡大したのである。
この事等を含めて「父と兄と藤原氏」とで対立して「薬子の変・平城上皇の変」が起ったのである。

つまりは、「志紀真人族の後裔の氏族である青木氏」に執っては「氏存続」を一部否定されたと同然の扱いに同族の嵯峨天皇からされた事に成る。
又、「賜姓五役」を持つ「青木氏」に執っては、この「皇親族の令外官」であった事からこれは拙い。

つまりは、注釈として この”「監察使」”とは、「天皇直属の参議」で、「桓武天皇の勘解由使」から「平城天皇の監察使」、そして、「嵯峨天皇の参議」と変化した。
元々は、「天皇の代官」として「天皇の直接の意向」を背景に、「政治と軍事と経済」の施策に直接に力を発揮する「令外官の事」で、これを元は「参議官」が務めていた。
然し、親と兄の「二人の天皇」は、更に詳細に渡り強化する為に「勘解由使と監察使」のこの制度を設けた。
つまり、これが天智期から引き継いだ”「皇親政治の制度」”であり、この時は「青木氏」等が「賜姓五役」(令外官)として務めていた。
ところが、然し、これを「嵯峨天皇」は「直系の(A)」を根拠にして廃止したのである。

これが前段でも論じた「嵯峨天皇の詔勅」(「皇親族」でなく、且つ、「役目の無い賜姓族」 「賜姓源氏」)と云う形で正式に表に出たのである。

況や、つまり、自分が所属する「志紀真人族」の「皇親族の青木氏」を廃止し、その為に、「単なる役目の無い、且つ、権威の無い賜姓族」として、”「賜姓源氏」”と云う「氏族」に換えた。
そして、その代わり「妥協案」として、以後、「皇位継承」から外れ排出される「真人族」には、「青木氏」を名乗る事を許したのである。
然し、「青木氏」を増やす事禁じたのである。
この「志紀真人族系の血筋を持つ氏族」には、これが「賜姓臣下族」として自活する「五家五流青木氏の跡目」などに入る事を認めたのである。
「賜姓五役の五家五流」に入れない者は自活する路しかなく、地方の豪族の中に入った。

(注釈 正式には18皇子、15皇女が排出されたが、殆どは僧位か斎王に成った。武蔵の丹族に遺した「配流王」の「多治彦王」の「地方の後裔」の「丹治氏流青木氏の1氏」と、「清和源氏からの1氏」か生き残れなかった。)

(注釈 財政難から源氏を名乗る賜姓臣下族には生活保障を打ち切った。詔勅に明確に記されている。
故に、自活する賜姓臣下族の「五家五流青木氏」に何らかの形で入る事を認めた。)

この”「監察使」”は、「勅命」を受けて「皇位継承の問題等の整理」にも関わったのである。
親と兄の「二人の天皇派」は、”「監察使」”からの整理した報告から“「実子制度」”を主張したが、これを嫌った「嵯峨天皇」は「天智天皇と天武天皇」が定めた「第四世族内」の「第四位皇子内の継承権」を“「直系制度」”として理解して、これを主張した。
「天智天皇」から「弟の天武天皇」、「天武天皇」から「妹の持統天皇」の様に「第四世族内の第四位皇子内の継承権」を原則に、“「最優先の二世族」の「直系族」が存在した場合は、「皇位継承権」を保持する“と主張したのである。
要するに、“「内」”と云う語句を優先したのである。

つまり、“「第四位皇子・皇女」で、「第四位皇子」までならだれでも良い”という論調を採用しなかった。

「平城天皇」は、これ等の事を暗黙の「約束の下」に弟を「皇太子」として次期天皇として指名した。
ところが、「退位」の後、弟の「嵯峨天皇」が、約束通りに「皇太子」を甥に指名しなかった。
そこで、「復位」しようとして「薬子の変・平城上皇の変」が起こり失敗に至る。
「平城上皇派」は立場を失って旧都に戻る。
そこで、「嵯峨天皇」は異母弟を皇太子(淳和天皇)に指名した経緯なのである。

この上記の「注釈の複雑な経緯」を観ても、この時、全ゆる面から「皇位継承」を巡る「宮廷内部の論争とそれに伴う紛争」が起こったのである。
その「論争と紛争の一つ」と成ったのは、「聖武天皇の時」に起こった様に、又、「直系性の継承問題」であった。

“継承者が不在と成った時に、「准」の「第四世族の春日真人族」と、その系列の「志紀真人族、第六位皇子」 「浄大一位の格式の持つ氏」の「直系」の我にある”としたのである。

「敏達天皇系(春日真人族)」から「第四世族の志紀真人族」の直系の自分に「継承権」があるとし、「平城天皇の子供」には、「天智天皇」が定めた「四世族内制」に従えば、“「平城天皇の子供」には無い”と結論付けたのであろう。
故に、「直系族の第四世族」の“より「直系」”である異母弟を皇太子(淳和天皇)に指名したし、自分も「直系制」を用いた。

この事で、「志紀真人族」の「直系族」が「天皇家の系譜」として、以後、引き継がれて行く事に成るが、「嵯峨期以降から鎌倉期後期(38代から95代の57代)」までの「天皇家の系譜」を観てみると、「大化期に定めた考え方」に沿い、ほぼ「半分」はこの“「内」の「直系制」“を重視する原則に従っている。
57代中20代が「直系制」であるが、但し、「実子制」では、(57-20)から「女系や后妃嬪や四世族」等の「本来の実子」ではない歴代を除くと、丁度、「半分」と成る。

然し、「実子制」では、「実子」が存在しても、「実子の条件(若輩、能力、意思、血縁、格式、嫡子順、后妃嬪、妾子、人格)」が附添されていて、この事が左右して必ずしも「天皇」に成り得ていない。
この事から考えると、「本来の嗣子」とされる「実子」では無く「実子制」は半分以下に成る。

これには、上記の様に、上記の条件が叶えば、一度は「実子族」で継承しても必ず「直系族」がいると「継承権」を戻して「天皇」と成り得ている。
この様に「直系族」「直系制」が「考え方の主導」と成っていた事から、平安初期の“「内」の「直系制」“を打ち砕く事で、有利に「藤原氏の勢力拡大」を目論み、この「薬子の変」とも云われる様に、「薬子の実家先」の「藤原氏の台頭」(仲成)が絡んでいたのである。

(注釈 「直系制」であれば横に「継承権」を移動させる。ここではいろいろな「后妃嬪妾」の氏族から血縁が入る。然し、この「直系制」は延々には続かせることは兄弟の数が不足すれば一度、縦、つまり、「実子」に移動させねばならない。そして、又、「直系制」に戻す事が基本と成る。これを繰り返す。(血流の点では都合がよい。)
この事では「摂関家の藤原氏の勢力」は強く成らない。ところが「実子制」であればこそ外戚は強く成り得る。
ここに「勢力争い」が起こった。「摂関家の力」が強く成れば「天皇の力」は外戚から牽制されて弱く成るは道理である。
一種、「実子制の継続」は「藤原氏の娘嗣子」を次ぎ込み続ける事に成る。
従って、形の上からは「天皇の地位」を乗っ取った事にも成り得る。
基本的にはこの「争い」である。)

つまりは、この「直系制」があると、「八色の姓制」で「藤原氏外の婚姻([新撰姓氏録]の真人族)」が成立する事が起こり、「斎蔵の摂関家の藤原氏」は、「外戚」であっても「永代の朝臣族」である限りは、常に「継続する勢力拡大」は成し得ない事に成る。
下手をすると、「斎蔵の勢力」もこれらの「真人族(后妃嬪)」に奪われる危険性を孕んでいたのである。
(宇多天皇(59代 890年代)から藤原氏外戚が170年間続く)

「嵯峨天皇」が、何とか「新撰姓氏録」を出す事で、「准の立場」も含めて「継承権のある真人族」を明確にし、「外戚」は兎も角も「朝臣族である藤原氏の立場」を明確にして、ブロックして「天皇家の保全」を保とうとしたとも考えられる。
「外戚」で堀を埋め、今度は「本丸」の「天皇の立場」も奪われる可能性を危惧したのではないかと考えられる。
それは、「嵯峨天皇」の祖父と曾祖父(志紀真人族で賜姓族; 光仁天皇と施基皇子)が、「准の立場」で、且つ、「臣下族の立場」でも「天皇」に成り得たとすれば、「外戚(摂関家)」も「准」と「公家の立場」であるとする理屈を付ければ「天皇」に成り得るとする考えが争いの中に充分にあったと考えられる。
これは上記した様に、まさしく「真人族の確定」と「新撰姓氏録の広布」と「准の使用」と「直系族の掟」と「皇親族の廃止」の施策は筋が通っている事に成る。

現実に、その証拠に「藤原氏外の婚姻」の「後三条天皇(71代 1070年代)」からは明確にこの現象が起こった。
然し、この時期は、「直系族」が居ながらも「実子制」を三代続けて行うが、ところがそこからは「直系制の傾向」がしばらく続く。
つまり、「藤原氏外の血縁」が三代で出来上がり、そこからは「直系制」で行けば完全に「藤原氏外の血縁族」が「天皇家」に続いた事に成る。
言い換えれば、「藤原氏の外戚の勢力」は弱くなったと云う事を意味する。

そこで、しかし、この直前の「円融天皇(64代 970-990年代)」は、「藤原氏の外戚の勢力」は強く成った頃を見計らって、態々、「青木氏」は既に「皇親族」から外されていながらも「青木氏の補完策」として「藤原秀郷流青木氏」を創設したのである。
これは政治的な大決断であった。

これはある意味で“何故なのか不思議”な事でもある。
実は、これには「家人制を採っている氏族の青木氏」に執っての重要な「歴史観の意味」を持っているのである。

つまりは、「実子族」が続く「藤原氏の外戚」とする「天皇」の最中に、そもそも、「藤原氏」を外戚とする「円融天皇」に依って「青木氏の補完策」が取られている事だ。

この“何故なのか”の答えは、これは少なくとも「摂関家の内部勢力争い」に振り回され、「政治の主導権」を握られていて、「天皇が考える政治の遅滞」を恐れて「青木氏の秘書役」を以って密かに「内政の進行」(令外官の監察制度 賜姓五役)を強化したのである。

そこで「青木氏」を元の「皇親族」として「参議にする事」は、「藤原外戚が拒む事」が起こるし、下手をすれば「青木氏との争い」とも成り得るので、「賜姓臣下族」を其の侭に引き出す事を止めて、「東の武蔵の勢力拡大中」の「秀郷流藤原氏」(俵藤太)を利用したと考えられる。

これには、「二つの理由」があった。
それは、一つ目は、東の「将門の乱」の「功績の条件」に貴族(位階従四位下)を要求した事。
二つ目は、「武蔵藤氏」は「西の摂関家」に対して反抗していた事。
実は、この「反抗」を示す事例として、「藤原氏の総紋」の「下がり藤紋」は「下がる」を忌み嫌い「上り藤紋」に変紋したが、「枝葉末端の武家藤原氏」の「武蔵藤氏の秀郷(俵藤太)」はこれに従わなかった。
この「二つの事」に目を付けて、「円融天皇」は「青木氏の格式と同じ扱い」を条件にして「青木氏補完役」を「累代第三子」がその義務を負う事を命じたのである。
これで「家人制を採る氏族の青木氏」は、その「権威の回復」と「賜姓五役の奉修復帰」を再び果たす事が出来る事に成った。
この「権威の回復」と「賜姓五役の奉修復帰」の事が、家人制で成り立つ事が出来、且つ、出来て氏存続の前提は確約された事に成ったのである。

注釈として、その為には「秀郷流青木氏」が絶える事があってはならない。
その為に、改めてこの「秀郷流の青木氏」が絶えることが無い様に「宗家から累代第三子」が「秀郷流青木氏の跡目」を引き継ぐ事を命じた。
「武家貴族」と成った「家人制の氏族」が他に存在する事と成った事で、二つの「家人制を採る氏族の青木氏」はより強固な氏族を造り上げられたのである。
「武家貴族」と成るかどうかが決め手と成った。

藤原氏枝葉末孫の「関東の姓族の俵藤太」では幾ら補完を命じられてもそれは意味が無かった。
当時の慣習としては、「賜姓臣下族」として「四家制度と家人制」で「氏族」を護る以上は血縁性には発展させる事は出来なかったからである。
そこで、更には、「斎蔵」を務める「摂関家」を飛び越えて、且つ、「賜姓臣下族」と「最高級の官位官職」までを同格として扱われる事に成った。
そして、その上で「四家制度と家人制」が強かった、先ずは「伊勢」から血縁は始まり、「近江」「信濃」と深い血縁は進んだ。

(注釈 甲斐は平安末期清和源氏との血縁があった。)

(注釈 武家の賜姓源氏や、皇位継承から漏れた「真人族」とも血縁が進み、遂には「秀郷流青木氏」は「摂関家」と「同格の地位」を獲得した。脩行系青木氏等
清和源氏の摂津本流と河内支流は、各地に散在した枝葉の「11家の源氏放浪族」を集めて「武家衆団」を形成した事から「家人制度」は出来ていなかった。)

(注釈 そこで、「賜姓臣下族の五家五流」から「藤原秀郷流青木氏」に、「秀郷流青木氏」から「五家五流青木氏」にどの様に血縁を結んだかを調べると、その要素は、実は「墓所」にある。
「系譜」には「四家」から「娘の嫁家先」の明記が無く、その「添付書」にしか明記は無い。
ところが、その詳細を書いた「添付書」は、一族が先祖の詳しい史実を知る為に書かれたもので、主に秘蔵が「仕来り」で相互の事が解けない。)

そこで、この「二つの青木氏」の慣習には、その「浄土密教の慣習」としては「本墓所」とは別に「女墓」と云うしっかりした慣習があった。
そして、ここに「累代の妃嬪」が刻まれている。
これを相互に付き合わせれば凡よその事は判るのである。(系譜系のものは信頼性に欠ける帰来があり粉飾の偏纂性を排除するには「墓所の女墓」ではないかと考えられる。)
この「女墓」には慣習として「戒名と俗名と享年」等とが刻まれている。
この「俗名」を「相互の突き合せ」で婚姻が判る。

最近ではこの「女墓の慣習」を続ける事は難しいが、出来たとしても「総宗本家」程度しかない。
それを調べた範囲では、次ぎの様である。

概しては、血縁律を10として、「賜姓臣下族からは3」、「秀郷流からは5」の割合程度で、相互に「女系]で血縁関係が成立している。
時期は主に平安期中期頃から下剋上が起こる前の室町期初期にかけてであり、江戸期初期にも血縁官は起こっている。
ピーク時を査定するのは「五家五流青木氏」の源平の争い等があって、その「栄枯盛衰」が血縁を左右させる事があって困難だが、どちらもその栄枯盛衰の最大時とされる1125年頃ではないかと観られる。

格式も同役も同じである事から婚姻は成立しやすいし、その様に「円融期以後の朝廷」はこの「二つの青木氏」に仕向けたと考えられる。
何故ならば、中には「嵯峨源氏」からも、「摂津系清和源氏」からも「跡目血縁」が、「近江佐々木氏」からも「女系血縁」、「近江佐々木氏系青木氏」からも「同祖血縁」、「五家五流間の青木氏」からの「同祖血縁」が起こっている。

これらには必ず「高位の仲人」が立つが、「天皇の意」を汲んだ「朝廷の参議どころ」でなくては「仲人の格式」は成り立たない。
況や、この様にして「朝廷(天皇)」は「青木氏の血縁」を強化して、より強固に「四家制度」と「家人制度」に依って「賜姓五役」(令外官)を維持させて遂行させたと考える。
概して、この女墓から観た流れ図を見ると次ぎの様に成る。

「源氏(嵯峨源氏・摂津源氏)」→「五家五流青木氏(四家)」←→「秀郷流主要五氏」←→「佐々木氏(青木氏)」
←→「五家五流青木氏(四家)」←「徳川氏(江戸期)」


以上の血縁関係が、「施基皇子」を同祖同縁とする「直系制」が取られた平安末期まで出来上がっていった。

(注釈として、これが「四家制度の範囲」と「家人制度の範囲」で行われた。
この二つの相互間に綿密に関連する制度が「血縁関係」に大きく左右させていた事が判る。
「四家制度」と「家人制度」が完全に確立して居なければならない訳であり、上記の事は理解できる。)

(注釈 それ故に、男女に関わらず「孫域」までを子供として集めて、此処から「娘」は嫁家させ、上記の範囲で「血縁」を結んでいた。
「男子の嗣子」は、概して「四家20家内」に納まっていた様ではあるが、「跡目」では無く「養子」と云う形で「郷士家」に移動している。
そこで「男子」が多く生まれた場合は、「青木氏」を興し、「四家」に戻すと云う形式を採っていた様である。
更には、「縁者、況や四家20家外での娘や曾孫」は、「郷士関係との血縁」に稼せられていた。)

この様に、「同祖同縁の血縁」と、「家人制度」に依る「四家の血縁」の「二段構え」で「血流」を豊かにしていた様である。

但し、「秀郷流宗家との血縁関係」は、「五家五流青木氏」は「笹竜胆紋(象徴紋)」を変紋しない事から、「家紋分析」では「柏紋類」と「目結紋類」とから、「秀郷宗家」と「佐々木氏」と血縁関係があった事が判るが、資料からは見つからない。
「永嶋氏・長沼氏・進藤氏・長谷川氏の青木氏族」とは「佐々木氏の研究資料」からは充分に確認できる。

これは「枝葉末端の武家藤原氏」の「武蔵藤氏の秀郷(俵藤太)」に執っては「摂関家」と肩を並べる「武家藤氏」として「勢力拡大の最大のチャンス」であった。

この様に「四家制度」と「家人制度」が接着剤の役割を果たし、血縁融合したが、「東の乱」を契機に、この「補完策」に依って「二つの青木氏」に内政の「賜姓五役」は進み、「志紀真人族系」の「皇族賜姓臣下族の青木氏」は、「二足の草鞋策」も相まって「皇親族であった失った部分」をも完全に補足したのである。
注釈 これを得てとも考えられるが、1025年からは「二足の草鞋策」は総合商社化し、その財源を使って四家制度の整備と家人制度の強化を果たし、その事と相まって「二つの青木氏の血縁融合」は進んだ。
「秀郷流青木氏」も「第二の宗家」と呼ばれるまでに至り、「秀郷流青木氏発祥」より100年後(1060年頃)には、一族一門の発展と共に「5氏による青木氏族」を形成する至るのである。

この1050年代の同時期を境に「二つの青木氏」は、更に、100年後には共に最大の隆盛期を迎えるのである。
「賜姓臣下族の青木氏」の「二足の草鞋策の採用の時期」と、「秀郷流青木氏の発祥の時期」とが同一としているのも無関係では無いと考えている。

(注釈 「賜姓臣下族の青木氏の二足の草鞋」は、それまで「朝廷の部制度」の依る「和紙の開発と生産」で朝廷に納入する役で、その「余剰品」を一般の市場に卸す役目であった。
これが奈良期の「部制度経済」であったが、その後、「和紙生産」が本格生産に成り、増加して「朝廷余剰品」が大量になり、これを許可を得て市場に売り捌く役目も担った。
これが「青木氏の二足の草鞋策」の氏族としての正式な始まりであり、これを以って「賜姓五役の財源」とする事を求められたのである。
記録でこの時期が925年頃と成っている。)

「円融天皇」の「青木氏の補完策」としては、「天皇家、賜姓臣下族青木氏,秀郷流青木氏」のこの三者に執っては“「藤原秀郷流青木氏の創設」”は難しい時期に於いても完全に成功したのである。

個人情報保護の観点から、系譜や血縁関係の資料等を公的に出す事が出来ないが、上記のこれも「青木氏」が「生き遺れた重要な歴史観」の一つである。




> 「伝統シリーズ-35」に続く。
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[No.352] Re:「青木氏の伝統 33」-「青木氏の歴史観-6」 
投稿者:福管理人 投稿日:2017/04/18(Tue) 15:04:54


> 伝統シリーズ 32の末尾
>
> > (注釈 もう一つその理屈があった。
> > 「青木氏の三つ発祥源」を継承した「武家貴族」の「賜姓源氏や桓武平氏」に与えた。
> > 「徳川氏」は「姓族」である為にこの「資格継承」を有していない。
> > それは「開幕の資格」の「武家の頭領」を、「征夷大将軍」だけは渋々認めたが、「朝廷」は頑として絶対に認めなかった。
> > 朝廷は、徳川氏が「姓族」であり、且つ「武家の資格」も持たない事も含めて、「朝廷の伝統」を護った。
> > 然し、その事で「朝廷の生活源」を押えられた事からその圧力に屈して、「武家の頭領」では無く、「武家の長者」として代替した。
> > 「征夷大将軍」は平安期には既に全国統一を果たしているので、既に「有名無実」であり「飾り」にしか過ぎない。
> > 要は「武家の頭領」である事が「開幕の根拠」である事に成る。
> > 重要な事は、上記の様にこれを朝廷は認めなかったので、徳川幕府は「西の政権の認証」が無い事から、「正規の藩政制度」が採れなかったのである。
> > 従って、そこで「朝廷の官位」で呼ぶ「何々氏・・之守の家来・・である」とさせていれば、例えば「松平伊豆守の家臣」であれば”「伊豆守」”とする「国の守護」の「家臣」で理屈は通る。
> > 「66国の肩書」を朝廷より金品を渡して貰って「正当な家臣」と成れるようにした。
> > 従って、江戸期には権威の無い金品で決まる為に何重にも重複する「・・守」が沢山出た。
> > 中には、江戸中期以降は、「国主並み」でもないのに金品で「・・守」が生まれ乱立した。  
> > これが、 「金品有無のステイタス」にも成った。)


「伝統シリーズ-33に続く。



参考として、青木氏が歴史上の路を走りに走った形跡として、確定できない「青木氏の歴史観」が未だ有るので、ここで論じて置く事にする。

前段で論じた「青木氏」が「多くの殖産」で開発した早場米の「早稲光」と「光稲」は、その形跡を辿ると先ずは関西域に拡がり、次ぎに東北地方にも拡がったとされる。
新潟県で昭和六年に開発された「水稲の極早場米」の「農林一号」の「親米」の基が、「早稲光」、或は「光稲」とに成っていると云われている。
この「農林一号」のこれが後の「農林22号」と交配して「新潟米のコシヒカリ」と成り、全国26県に配られて拡がった事が判る。
この「昭和6年に登録された農林1号」は、「寒冷地水稲」であり、「極早生種」で、「食味」もよく「多収量品種」であったとし、「耐冷性」を持つ事で有名であるが、その「稲の特性」は「青木氏」が殖産として開発した「早稲光」、或は、「光稲一号」に一致する。

そもそも「森多早生(1913)+陸羽132号(1921)」がこの「農林1号(1931)」である。
この「森多早生(1913)」の「親米」の「東郷2号(1901)」には、「早生米」があって、これが「基米」(伊勢の「早稲光」)と考えられる。
ところが、江戸期の米種に付いてここから以前は辿れない。

この「東郷2号」(1901)の凡そ「150年前」に「早稲光」、或は、「光稲一号」が伊勢で開発されて、「越前青木氏」と「越後青木氏」を通じてこれが越前越後域に移されている。
とすると、この事から考えると、「光稲一号」が移されていれば江戸末期から明治期初期にかけて改良された「光稲二号」も移されているであろう事が判る。

この「早稲光」、或は、「光稲二号」から観れば、「東郷2号」(1901)は15年から17年程度後の米種である。
越前、越後域に移植され広まったとすると、つまり「20年以内であろう事」からすると、越前、越後で20年間生産された「早稲光」、或は、「光稲一号」、或は、「光稲二号」のこれを「親米」として「東郷2号」(1901)が生まれた事が充分に考えられる。

「森多早生(1913)」は、福井、山形、青森の北陸一帯域に生産されていた「早生種」である。

資料は見つからないが、この「・・ひかり」と命名したのは、江戸期に「青木氏」が開発したこの「早稲ひかり」、或は「ひかり稲」で、明治期の早い時期にも「青木氏」に依って「光稲二号」としても改良され、「酒米の大和」にも成っているが、「新潟酒の源米」も含めてこれが「基本米」(親米)に成って居た事からではないかと推測している。(研究中 記録が少ない)

上記した様に、当時、「四大杜氏」の一つと呼ばれれた「越前の青木氏」から職人を招いて“「伊勢酒」”を開発したのである事から考えると、又、「新潟」はそもそも「秀郷流青木氏」と、逃避してきた「賜姓臣下族青木氏(諏訪族系青木氏)」の「最大の定住地」でもあるとすると、「早稲光」、或は、「光稲」は少なくとも「越後の青木氏」には移されている筈である。

前段で論じた様に、この「殖産」を「商業組合」としての「15地域」に広げた事から考えると、「米移植」は、前段で論じた様に、「地権者」で「氏上さま」であった事から考えても先ずは間違いは無いだろう。
この「早稲光」、或は、「光稲」は、「青木氏の定住地」として、伊勢、紀州、奈良域は元より琵琶湖域や、淀川域や、灘域や、美濃・信濃域にも広がりを見せた事は記録としても遺されている。
この事から、定住地としてのその先の「越前―越後への拡大」も充分に考えられる所以でもあると観ている。

そこで、江戸では同であったかと云う事であるが、室町期までとしては150万町歩、米生産量は約1800万石程度だったものが、享保時代になると、耕地面積が倍化して300万町歩、米生産量も50%増しの2600万石に成った。

そこで、この事に依って庶民も「経済の発展」と「生産量の拡大」で“「白米」”を食べる様に成り、「炊き方」も“「蒸す方式」”の古来の“「こしき方式」”から“「せいろ方式」”へと移り、遂には“「炊く方式」の「窯方式」”になった時代でもあった。

これは、「米種の改良」に依って出来た「炊く窯方式」に変化したのであるが、関東平野では享保期に「全国各地の米種」が多く試され、その中に「伊勢」から持ち込んだ「早場米」が在ったと記されている。
享保期の「吉宗と青木氏」は、「伊勢平野の環境」から考えると、「赤城の山おろし」が吹く「荒川域の河川敷」を「酷似の適地」として生産された可能性が充分に有る。
況や、よって前段で論じた「青木氏等の享保の改革」が推進したのである。

「享保の改革」では、「米本位の幕府の財政」に影響する「米増産」と、その「米相場」も改革をした事から「米将軍」と呼ばれた位である事から、「吉宗-青木氏」に依っても伊勢の「早稲光」、或は、「光稲」は持ち込まれた事は間違いは無いと観られる。
又、上記の北陸域からも「六地域の商業組合」に依って、「越前と越後の青木氏」に依って「早稲光」、或は、「光稲」の「改良型」の「早生米」が入っていたとも充分に考えられる。
唯、どの程度の「使用量」であったかは判らない。

そこで、この「使用量」を割り出す為に、「江戸期の享保期以後の状況」を調べると次ぎの結果と成る。
先ず関東では、類似種を含めて米種は、「63種」、この内の「・・ひかり」は7国に、13地域に分布しているが、主に「ひかり種」はたった2種である。

「早稲光」、或は、「光稲」が生産されたとする「適地域の湿原域」の「武蔵域」が主で、この地域の「・・ひかり」は殆ど「ひかりの2種」のみで、他の米種は少ない。

米種の多い国は、全体の3地域、つまり、上記の北域3地域で45種/63種と80%で集中している。

「関東の山裾」の「山間部」の三地域(茨城・栃木・群馬の3地域)が、これだけの「多品種の米種」が生産されていると云う事は、如何に気候的、且つ土壌的に適合性が無く厳しかったかを物語る。
つまり、収穫量の多い「良質の米種」に恵まれなかったと云う事である。
逆に云えば、これは北域の山岳部の裾野平野は、土壌と水質が良いにも関わらず未だ気候的に適する米種が少なく、尚更に、河川の洲域に開発された「早稲光」、或は、「光稲」の子孫米の「明治期のひかり種」の生育にも適していなかった事にも成る。

これから観ると、矢張り、「早稲光」、或は、「光稲」の「子孫米」と考えられる「明治期の・・ひかり」は、資料から観ると試験栽培と研究開発を余りせずに、全て「赤城おろしの環境」に適した水質の良い「荒川の河川流域の洲域」に生育した事に成っているので、享保期に間違いなく「伊勢」から移されたものと考えられる。

それが「享保期の記録」を改めて調査した「明治期の統計」で「親米」が「ひかり稲」である事で「・・ひかり」が用いられたと考えられる。

従って、使用量は、「2種/63種」から2600・2/63=「83万石程度」と、三地域分を加算すると「90-100万石程度」が生産されていた事に成る。

荒川域の当初は、酷い「河川反乱と塩害の被害」があって、江戸幕府は「河川工事」と「改良工事」に「莫大な費用」を投資したと記されているが、「米種の改良開発」と「試験栽培の事」は書かれずに、この問題の「二つを解決した事」で被害は解決して増量したと記されいる。

前段で論じた様に、綱吉の時期に比べて享保期では、「生産面積」は倍化し、「幕府の石高」の取得料も200万石から400万石に増加している。

つまり、差額分200万石は、荒川河川域の改良工事の為に収穫量が増大したものであって、その内訳は、結局は、「武蔵域(埼玉・東京)」の「・・ひかり」の「親米の生産量100万石」と「山岳部の100万石」と云う事に成るだろう。

これから観ると、「・・ひかり」は100万石/400万石で「25%程度の収穫量」と成る。


では、どの程度の収穫量が良かったのか、況や、何故、「早稲光」、或は、「光稲」の「子孫米」のこの「・・ひかり」の「米種」を選んだのかと云うと、次ぎの様に成る。
「子孫米」の「・・ひかり」の「早稲光」、或は、「光稲」が、他のどれよりも優れていた事を示すデータがあるが、これが同時に選ばれた理由なのである。

上記した様に、享保期の遺された資料には、「耕作地」が元禄期の「150万町歩」から享保期では「300万町歩(平方)」に増加したので、「増加分は150万町歩」と成る。
そうすると、享保期の関東域全域は32300K平方、南関東域は13300K平方である。
とすると、「南関東域は41%」である。(南関東域は伊勢北部域の環境性に一致している。)

この「41%の生産地・耕作地」に「子孫米」の「・・ひかり」の「早稲光」、或は、「光稲」が生産されていたとすると、次ぎの様に成る。

150万町歩・0.41=61,5町歩として計算すると、これが100万石に相当する。

南関東域外 88.5万町歩-100万石 : 南関東域 61.5万町歩-100万石

そうすると、一万町単位当たりでは次ぎの様に成る。

南関東域外は 1.1万石/万町歩  南関東域は  1.6万石/万町歩

これで「子孫米」の「・・ひかり」の「早稲光」、或は、「光稲」は、明らかに相当量に収穫量が高い事が判る。
依って、「子孫米」の「・・ひかり」の「早稲光」、或は、「光稲」が選ばれたのである。

これでは「伊勢の実績」もあり、この事から「為政」に携わっている「青木氏と吉宗」は、そもそも、「早稲光」、或は、「光稲」を江戸の「荒川の河川敷の米種」として選ばない方が“何をやっていたのだ”と成って立場がおかしい筈である。
そうなれば、意の一番に「適地適米の条件」にありながら放置する事の事態がおかしい。

そもそも、このデータで観る様に、享保期には、当時の関東には、「早稲光」、或は、「光稲」以外に、類似米種を除いて29種あった。
現在では8種である。
従って、「幻の米種」(21種)と成ったものも含めて、この「29種」(全30種)に打ち勝って「早稲光」、或は、「光稲」(「・・ひかり」)は選ばれていた事に成る。

上記した様に、「米の改良」と「炊き方」の進化で、庶民も「生活習慣」が変わり「白米」を食する様に成り、「享保の改革」も進み増産を余儀なくされていたのだが、この「幻の米種」(21種)の数は、この享保期では、「早稲光」、或は、「光稲」(「・・ひかり」)も含めて如何に米増産に本腰を入れて取り組んだかが判る。
この「研究開発」を除き、「各種の米種の苗付」が、白米の使用と開発の速度に対して「研究開発」では間に合わない事から各地から取り寄せて多く試植されていたかが解る数の事に成る。

上記のデータは、「米将軍の吉宗」は、この自らの故郷の「伊勢の青木氏の殖産」で開発した「早稲光」、或は、「光稲」(「・・ひかり」)に対して「享保の改革」に寄与する事を期待していたかが解るデータである。
庶民から「米将軍の呼称」を受けたのは、大阪と江戸に「米相場を開設」をして安定化させただけではなく、此処にその根拠もあったのである。

さて、「享保の改革」に関する「青木氏の歴史観」は、暫くとどめておくとして、次ぎに、この「改革」の中心と成っていた“「射和組」と「松阪組」”がどの様になっていたのかを掘り下げて置く必要がある。

そこで、先ずは、「伊勢」でのこの「射和組」と「松阪組」の「青木氏との関係」「加納氏との関係」は、血縁的にはどの様に成っていたのか気に成るところでもある。
この事は、「伊勢衆」の「郷士衆」との「繋がり具合」を証明する事にも成り、江戸以降の「伊勢の生様」が良く判る事にも成る。

そもそも、この事で「全国の青木氏」が定住する地域で同じ様な事が少なくとも起こっていた事であり、取り分け「商業」をベースに「二足の草鞋策」を成功させていた「15地域」ではこの様な「地域性のある出来事」が起こっていた事が地域毎に遺されている資料でも判る。
これは特異な事では無いのであり、「青木氏の歴史観」が増幅させられる事でもある。

ただ、「二足の草鞋策」を敷いていたこれらの地域では、次ぎの様な事があった筈で、「研究の過程」では常に痛感する事であった。
何よりも、その「15地域の商業組合」には、必ず「商業」と「地域の特徴」を生かしたもので”「殖産」”を必ず敷いていた。

所謂、これが当時としては特別な進んだ「共通点」であり、現在で云う「生産から販売のシステム」である。
この「共通点」は、平安初期の朝廷の「紙屋院での余剰品」を「部市場」に販売した時から始まったものであり、この「殖産(生産)と商い(販売)」は、925年の頃から始まったとされていて、その50年後頃には「秀郷流青木氏の補完」を受けて更に拡大したもので、“日本広し“と云えどもどの商業にも無いシステムであった。

そもそも、これ程、古い悠久の歴史を持っている「商い」は他に無い筈である。

単純に「生産者」から「現物」を購入してそれを「販売する」のではなく、「地域」に「根」を下ろし、自らが「商業の進展」「時代の要求」に合わせて、「殖産」で「生産」も拡大させるという「商業と興業」の「組み合わせのシステム」である。
この「殖産」が拡大すればするほどに「氏子」は潤う。
「氏子」の「郷士と農民」は、「享保の改革」で論じた様に、中には伊勢の紙問屋の伊勢屋の”「仏施の質」”を受けて「農業」の傍ら家に「仕事小屋」を作り、「田畑勝手作の令」の枠を掻い潜り、他の村からも「人」を集めて「下請けの村工場」まで営んだと書かれている。
それは前段でも論じた「氏上と氏子の関係」、「古式伝統の維持」の上に立っている。
それを重厚にする為に「商業の組合」で固めた方式である。

そこで、その典型的な殖産の事例として、次ぎの様なものがある。

伊勢の「射和組」には、「殖産」として“「金山寺味噌」”をベースに“「醤油」”も手掛けていた事が判っていて、この“「日本最初の発祥地でもある醤油」”は、元は「紀州湯浅地区」が「生産地」で、この「醤油つくり」が「紀州藩の肝いり」で「松阪」にも移した事に成っている。

注釈として、「伊勢」で行われた「殖産の事例」としては、次ぎの様なものがある。

そもそも、この「醤油」とは、次ぎの様な経緯で産まれた。
「金山寺味噌」と云う「紀州名産」が古来よりあって、「中国の金山寺」から僧侶が持ち込み、「日本金山寺」で「僧侶の副食の精進料理」として食されていた。
「味噌」と云う言葉があるが、「みそ製造」と同じ方法で作られ、その中には、当然に「豆」と共に「麦や茄子や胡瓜」等の実野菜も一緒に漬けられて、その上に重石を載せて暫く麹菌で発酵させてから豆と共に食するものである。
“「味噌」ではあるけれども「味噌」では無い“と云う風な要するに当時の「副食」であった。

これを漬けている時、この「漬け樽」から「薄茶色い透明色の液体」が出ていた。
これをある時、食した時に実に美味い味を出す事が判り、「僧侶」がこれを集めて精進料理に加えたところ、抜群の味を出した事から、「檀家衆」が興味を示し、この「うま味の液体」だけを造る事にして、販売したところ爆発的に売れ、これに「醤油」と名付けて販売した。
これが紀州湯浅で生産され、後に、「高野山の精進料理」に利用され、宿坊などで出されたものが噂が世間に広まり、これを吉宗等が「商業組合」を通じて本格的生産として「関東の野田」にも移したのが「野田醤油の発祥」である。
上記で詳しく論じなかったが,これも「伊勢紀州の殖産興業」の一つである。

当然に、この「湯浅の殖産」から隣の「伊勢の殖産」にも「青木氏」は直ぐ用いたのである。
この「湯浅の醤油」の製造元と成った「伊勢紀州に広く分布する郷士」の一つ「玉置氏」とは、「伊勢の紙問屋の家」(伊勢青木氏)は二度も縁者関係にあった事は判っている。
この「紀州の郷士」の「玉置氏の末裔」が、「伊勢」にこの「醤油の殖産」の為に、「伊勢」に移って指導した。
(この末裔が「伊勢郷士」と成った。)

この意味では、「伊勢郷士」とは「青木氏とは繋がり」を持っていたが、「射和商人」の代表的な商人の「富山氏 国分氏」(伊勢衆の郷士)との「繋がり」は不思議に伝えられていない。
伝えられていないと云うよりは“「記録が消失した」“と云う事に成るだろう。

恐らくは、これは「吉宗の御側用人4000石の加納氏」が営む「加納屋」との関係が在ったがこの新宮にある「加納氏の分家筋」に遺された資料の関係から判る。

そこで、この「加納氏」についても合わせて論じる事として、「青木氏」と共に「吉宗の育て親」と成るには、「御側用人の立場」だけでは成し得ず、矢張り、「青木氏の指導」の下で「二足の草鞋策」(加納屋 商業組合)で「殖産」をするしか無くこれに取り組んだのである。

実は、「伊勢商人 紙問屋伊勢屋 伊勢青木氏」とは、この「加納氏の加納屋」とは何度も血縁関係を結んでいる。
この様に「商い」を含め、「紀州徳川氏との関係」(加納氏は紀州藩家臣 青木氏と共に「吉宗育親」)を軸に深い親交があった。

筆者の父の祖母、つまり、筆者が曾孫に成るが、加納氏本家から嫁している。
その意味では、「射和商人」(伊勢郷士)との間接的な関係にあった事は否めない。

前段でも論じた様に、「射和組の商い」は、そもそも、「紀州藩」と「青木氏」や「加納氏」の「肝いり」で「殖産」し「商い」にしたのであるから、「女系」で繋がっている事は充分に考えられる。
ところが不思議な事は、”「射和商人」”が江戸の「享保の改革」には余り登場しないのは、これは前段で論じた通りで「商業組合」に「不参加」であった事からであるが、これだけ「家との繋がり」のある中で思えば、これも「伊勢人」としては「伊勢の不思議な現象」の一つとも受け止められる。

同じ「不参加の組」の伊勢に来た”「近江組」”は、”「射和組」”と違って「享保の改革の恩恵」を受けて1765年代に江戸に参加したのに、それでも頑としてこの”「射和組」”は江戸に参加していないのである。
確かに、「青木氏との確執」もあって「不参加」を決め込んでいた”「近江組」”も「江戸の伊勢屋の成功」を観て、“それじゃー我々も“と勇んで「過去の確執」を乗り越えて、「商い」に徹して「伊勢屋の助成」を受けて成功した。

確かに、前段で論じた様に、「頑固な門徒衆」を抱えていて思う様に行かない事は判るし、”「近江組」”の商人と違い「性根」は根っからの「武士」である事もあって、その「伊勢武士の感覚」が先行して「商い」に徹すると云う事にも成らないだろう。
筆者側に資料記録が少ないのも、確かに「出火焼失」もあるが、これには何か腑に落ちない。
それは「伊勢射和の南」に流れる「櫛田川の河川敷」で行った「米殖産」だけの資料はあるのだが、何なにか疑問である。

矢張り、“「武士」であると云う概念”が表に出てそれに縛られる事が強かったとも取れる。
郷土史によると、「射和地区」の「商い」の「商業組合全体」で留まった事が判っている。
「二足の草鞋策」を採っている事から「武士」である事には変わりはないので、その「武士の誇り」は捨てきれない共通する集団であった事から、「射和の結束力」は相当なものであった。
この「江戸初期からの商店街」の街並みと慣習(御師講の仕来り おんしこう)が現在も古式豊かに遺されている。
これが「疑問や不思議の根源」ではないかと云える。

と云うのは、「松阪組」の「紙問屋」は「紙関係」は勿論の事、「リサイクルや骨董品」などまでの「総合商社」を営んでいた。
それには「殖産」を調べれば判る。
どの様な「殖産」を興していたかは次ぎの通りで、先ずは地元の大きく成った“「伊勢殖産10品」”と呼ばれていたものには次ぎのものがあった。

・「伊勢殖産10品」

「伊勢和紙」
「紙箱などの紙製品」
「伊勢米」
「伊勢絹」
「伊勢醤油」
「伊勢陶器」
「伊勢白粉」
「伊勢豆紛」
「伊勢木綿」
「伊勢酒」
「伊勢菜種油」

但し、「紀州藤白墨」と「紀州硯石」は、室町期までは「天皇家の専売」から、江戸期には「徳川氏の専売」の「専売殖産品」と成っていて、一度、「専売先」に収めた後に、「余剰品」を市場に販売する「部市場方式」を採っていた。所謂、「国営」と云う処であろうか。

以上の「伊勢殖産10品」は、「青木氏の殖産」として扱ってはいたが、摂津と近江の他国の豪商も一部で関わっていた事が判っている。
又、中には、伊勢人の中で「紙問屋の青木氏」との連携での「二次殖産」の形(現在の外注)も確認できる。
「他国の商人」は「伊勢の特産」では無く、主にも全国的に通常品としての需要の多い「菜種油」や「木綿」に需要を何とか賄う事の為に「直接の殖産の形」ではなくとも「何らかの関係」で関わっていた事は否めない。

この他には主に「紀州の殖産」に関わったものとして「南伊勢」には次ぎのものがあった。
歴史的には平安期からのものが殆どである。

・「紀州殖産五品」

「伊勢墨」 初期は和歌山県海南市藤白地区から次第に日高地方に生産は移動した。
「紫硯」 初期は上記の海南市の山岳から主に日高川沿いに生産地域は変化した。
「伊勢炭」 生産手法は、「伊勢墨」と同じで、紀州名産の「姥樫木」から作る「備長炭」である。
「線毛筆」 南紀の新宮地域とその山域から伊勢南部域の村郡に家内工業的に分布した。
「青庭石」 高級庭石として紀伊山脈全域に分布し生産された。

何れも「紀伊山脈の山質」に関わる「産品」で、これを応用して「殖産」は進められていた。
中には、昭和20年代まで生産されたものもある。
そもそも、紀伊山脈は海底より迫り上がって出来た「古い山脈」で、その為に硬質の「黒硯石」や「青石」や「紫石」が採れる。
従って、「石英岩石」も多く、中には石英の結晶の「水晶」も「飾石」や「印鑑石」としても「殖産」されていた事が資料からも判っている。(我家に当時の古い現品保管)
庭石などの目的で「青石」を切り出した際に出来る粉からそれを集めて「セメント」も生産されていた。

これらの現物はあるが、何らかの説明の資料や記録関係のものが遺されていれば良いのだが、焼失で無く成っているので、更に、詳しく辿る事が残念ながらなかなか出来ず、「伊勢殖産10品」や「紀州殖産五品」等の販売だけに関わった「肝心な射和組との血縁関係」を確実には立証出来ない。
これ等を「射和組」は「二次殖産」もしていた。
これらの・「紀州殖産五品」の殖産の産品は、大量販売は無理で、故に江戸に出なかった事も考えられる。

そもそも、1000年以上も古くは「奈良末期」から、鎌倉期から江戸期までの言葉として、為政者達からは、“「伊勢の事お構いなしの定」”に依って護られていたので、「為政の影響」もあまり無かった筈である。

「古の血縁関係の立証」とは別に、「伊勢」と云う少ない「土地の郷士との関係」を深く持っていた事は確認できているし、この「射和の伊勢郷士」との関係も掴めているので、「青木氏」を背景に、上記した様に、この「射和郷士」が江戸初期に「商い」を始めた事も判っている。

(注釈 そもそも、“「伊勢の事お構いなしの御定」”とは、「天智期の詔勅」と「嵯峨期の詔勅」で与えられた「不入不倫の権」の事が基本に成って、江戸幕府等からも「伊勢」で興る「問題」についての「政治的な処置」に対しては、特別に「優遇処置」を講じる事の「御定書」が改めて出されていた。この事を為政者にはこの様に呼称されていた。前段記済。)

恐らくは、「射和郷士」とは、「伊賀氏、北畠氏」等の滅亡した「豪族の家臣」が殆どこの「郷士」であった。
この中で「室町期末期の戦乱」で家は飛散し、「青木氏の保護」の下で「伊勢シンジケート」の中で「生活の糧」を得て何とか生き残ったが、その末裔が「商い」に転じて「射和商人」(門徒衆含む)と成り得て、20氏程度が「子孫」を繋いだと観られる。

従って、「事の流れ」から云えば、この「伊勢全体の郷士集団」(伊賀郷士含む)とは、古くから親交が有って、「四家の青木氏の末裔」が、「四家制度」に従って“「家人」”に成って、これらの「郷士族」と血縁していた事が充分に推測できる。

依って、更には、これらの「伊勢郷士」は、平安期の「清和源氏の河内勢力」の関西域の「勢力拡大」の「混乱」もあって、「青木氏の伊勢シンジケート」に入って身を護った。
この様な背景で「伊勢シンジケート」を構成していたので、恐らくは、元は「伊勢郷士」であってその中でも名を残した「富山氏」とか「国分氏」とかは、状況証拠から鑑みて、「血縁の繋がり」を持っていた事は間違いはないと考えられる。

そもそも「江戸期の商人」の元を辿れば、殆どが「郷士」であった。
取り分け、「伊勢商人の松阪商人」は少なく成った「郷士」であった。(伊勢シンジケートが原因)

この様に、江戸初期には、伊勢に上記した様な事件があって、「青木氏の伊勢シンジケート」を構成していた「郷士衆」、つまり、「伊勢衆」は「青木氏の援護」の下で、「商い」を始めた事が判っている。
その「商い」は、全て「青木氏の総合商社」(江戸伊勢屋)が扱っていた事も判っている。
恐らくは、記録にある“「この時の事」”(「室町末期の混乱」から「江戸初期の安定期への移行」の事を言っている)が“契機”と成って、“「射和組」”として編成されたものである。

これらの記録の一つとして、「伊勢の歴史的なの功績」を遺した「伊勢藤氏の伊藤氏」は、平安期の「古来の藤原氏」で、この地に定住していた氏である。
そもそも、その始祖は「伊勢守」の「藤原の基景」で、「藤原秀郷の八代目」に当たる。
この「伊藤氏の末裔」が書き遺したものには、この“「射和商人の事」”が書かれている。

実は、この「伊勢の伊藤氏本家」(伊勢の藤氏で伊藤氏)筋とは、「筆者の伊勢青木氏」とは血縁関係にあった事は承知していて、その末裔は義理の従兄弟であった事も承知している。
諸々の「青木氏の口伝と記録」に依れば、この「伊藤氏」が「射和組」に関係していた事も承知している。
ところが、前段で論じた様に、「射和組の家筋」からの「記録」は把握しているが、如何せん、“「青木氏側の遺品」“には、「口伝」はあるにしても「射和組」に関する”「確証する資料証拠」“は見つからない。
これは恐らくは原因は「明治35年の出火焼失」であろう。

これに関連する「伊勢陶器」等の「先祖の遺物」は多く遺されているにも関わらず、何か「遺された手がかり」もあるかも知れないが未だ紐解く暇がなく立証できていない。
依って、本サイトでは「青木氏の歴史観」としては、筆者も“「射和の関係」”はそれまで余り触れなかった事柄であった。

然し、“「伝統」”と云う点から、判る範囲で敢えて書き遺しておく事にした。
「伝統シリーズ」では、既に、一部では触れてはいるが、そこで、もう少し「射和商人、射和組」を論じて置く。
それは,何も「伊勢の事」だけの話では無く、「全国の青木氏」にも「15地域に商業組合」を広めたが、この事から「郷氏としての同じ伝統」を引き継いでいる事もあって、ほぼ「同様の事」が起こっていた筈であるからだ。
故に、その結果を、「伝統シリーズ」に反映させたいと考える。

「伊勢青木氏の系譜と添書」の殆どが「明治35年の出火」で消失してしまったので、曾祖父や祖父の遺した「忘備録(仮称)」での確認と、「伊勢紀州郷士衆等の関連氏の資料」から成る。
これだけでは不充分で「青木氏側」からの「射和の関係」が、現在では最早、掴め切れない。
実は、前段にも書き記したが、「射和組との関係」があった事は、充分に判っている。
然し、この焼失や消失による「資料不足」にて、どうしても全体を明確にするところには辿り着けないで、状況証拠にては推論は立つが、それを解明する「確証」も掴めない事がある。

その原因としては、「青木氏側」のみならず、「伊勢郷士側」も「室町期の混乱」で、この世の事と思えない「殺戮と焼失と消失の混乱」を受けた事からからそれ以上に資料は激減していている筈である。
この時期は、「記録・資料の保存」の主な殆どは、氏の菩提寺」や「守護神の神明社」などが、前段で論じた様に、祐筆等を務めていた為に担っていた。
従って、それは、「室町期の混乱」に依って、周囲の“「伝統」“と云う「意識概念」が低下して、恐らくは、疑う事無く「記録壊滅」であった筈である。

この「室町期末期の事」のみならず、「明治期初期の混乱期」や「昭和初期の戦争に依る混乱期」等の「社会の外的な原因」に依るものと、現在でも、違う意味で「社会の内的な原因による混乱期」もあって、「伝統と云う概念」の「意識低下」が起こっている。
そして、「著作権や個人情報」の様な「法的拘束力」に依っても、更に「意識低下」が起こり、尚且つ、「調査や原稿の執筆」にも表現が左右されて難しく成っている。
現在ではこれらの原因で、世代を一つ超えると、最早、口伝等の「無形情報」や「物的情報」さえも「価値意識」が低下して完全に無く成っているだろう。

この侭に放置すれば、多分、論じる限界を超える。
「青木氏の研究」の中の「伊勢地区の研究」を何としても十分にして置きたいと考えているが、如何せん“「伊勢衆の事」の資料”が、「商記録」と「口述」と「伊勢と紀州の郷士衆の遺品」以外に見つからない。
有っても「江戸初期の搾取偏纂」の「半強制的な仕儀」(「黒印状」が原因)のものしか無く、信頼に値しない。
「青木氏側」ではある程度の繋がりの事は判るが、「射和組」の「郷士側」の確かなものが見つからない。

(注釈 京都には実に“「古い古美術商」”があって、「青木氏」も長い付き合いの合った「京商人」でもあるが、この歴史書の様な「古い古美術商」は「ヤフー」にも投稿してHPを持っているが、その「研究」では「伊勢の事」は充分に知っている筈であるが「ある部分」で詳細を欠いている。)

この原因は、取り分け、「射和」に関してはその本筋の原因は判っている。
「織田氏の伊勢三乱」に依って、「修羅の様な戦場」と成った事から大きな影響を受けた「伊勢衆」の基には「遺された資料関係」が少ない事から来ている。
そもそも、因みに「織田氏と伊勢衆との戦い」は、上記した様に、両者ともに公的記録で明らかにされている様に、「村が6割全滅」「2万の織田軍が9割全滅」「伊勢寺の僧侶の7割が死亡」「村民6000人が死亡」する等の「激しい戦い」と成った。
「ゲリラ戦」が主体と成っての「醜い戦い」であったので、それに対抗する為に「織田軍側」は、相手がはっきりしない事から、徹底した「焼き払い戦法」を使った。

この時、丁度、「石山本願寺の戦い」も同じ「紀州、河内、大和、伊勢地域」でも、「一揆とゲリラ戦」が起こっていた。
「織田軍側」は、この「二つの戦いの区別」もつかなくなっていた。
「伊勢」では、“「焼き払い作戦」”で多くの「農民」や少ない「郷士衆」が滅亡したし、「郷士に関する記録」も消失した。
その後、これでは終わらなかった。

それは秀吉に依る“「紀州征伐」”が更に起こった。
徹底した“「郷士狩り」”と云う事を遣って退けると云う事が起ったのである。
更には、「武力の反抗」を無くす意味から「郷士等の刀狩り」も行われ、彼らの「生活の余力」を無くす目的からも「検地」も行われ、「伊勢郷士衆」は、「武器」や「土地」を奪われ「丸裸」に成った。

この事が、「郷氏」に及ばず、取り分け、「織田軍や秀吉」に攻められて農民や庶民が「街並み」の中まで逃げ込んで来た事で、これを殲滅させる為には無関係の者との区別が着かない事で「街並みの焼き払い作戦」や逃げ込み先の「寺」などを取り囲みの「焼き払い作戦」を実行した。
逃げ出て来る者は容赦なく殲滅すると云う酷戦に成った経験を持っている。
これが原因して「射和組の遺された資料と記録関係」は例外なく消滅したのである。
口伝に依ると、「伊勢の紙問屋」の「玉城の職人長屋や蔵処」にも逃げ込んだが、流石に「青木氏」には攻撃は無かったと伝えられている。
大義的には、「天皇家の祖のお伊勢さま」を攻めるという避難を免れない事を恐れたからではないかと考えられるが、注釈 唯、「青木氏の菩提寺」に逃げ込んだ者らは門前で責められて被害を受けた。

(注釈 但し、中まで攻込まなかった。「伊勢の藤原秀郷流青木との関係」の深い「伊勢攻め大将の「秀郷流近江藤原氏の蒲生氏郷」の関係も有った。)

「青木氏」が「伊勢の経済」を担っていた事を租借して、”これに被害を与える事は避けた”と口伝では伝えられているが、もう一つあったと考えている。
筆者は、確かに「経済力の懸念」もあるが、別にも、前段で論じた様に、影で動く「武力勢力」の“「伊勢のシンジケートの力」が、これ以上に動くと”「逆効果」”と成る”と「織田氏側」は観たのではないかと推測している。
「青木氏」を背景に「伊勢シンジケート」と「伊賀者」との「共同作戦に依る武力」を持った「ゲリラ戦」が起こると困ると考えた事にもあるだろう。

(注釈、秀吉に裸にされた「伊勢の郷士」がこの伊勢シンジケートに保護されている現実があった。)

(注釈 この伊勢シンジケートの実力は歴史的に裳有名で、彼等には「足利氏の10万の軍」を「餓死させた戦歴」を持っている。)

その意味でも「射和の存続」が殲滅までに至らずに働いたのである。

(注釈 明治期に成って「伊勢の射和の事」に付いて「江戸中期頃の復元」が試みられたが、参考とした資料に搾取が在ってこれを基にした為に可成り矛盾が多い。)

その後、最早、追い込まれた「射和」は、これでは生きて行けないと成り、結局、「伊勢四衆」と呼ばれる「青木氏」等が援護して、庶民も含む生き残った者等(「戦いに参戦した射和郷士」)にも「土地のものを活かした殖産」に加える事にしたのである。
室町期末期には「青木氏」にも残念ながら防ぎ切れなかったのだが、「伊勢の射和組」にはこの様な「辛い歴史」を持っていたのである。


注釈として、前段でも論じたが「本格的な戦い」を避けなければならない「青木氏の氏是」の「縛り」もあった。
それでも半分は「青木氏の氏是」を破った「最大限の影の戦い」にした「名張の戦い」や「伊賀の戦い」の「救出作戦」が在った。

「射和」も「人の子」であり、矢張り、人情的には江戸初期前後に護ってくれる筈の「青木氏に対する多少の怨念」があったと考えられ否定は出来ない。

然し、前段で論じた様に、これ以後には、20年後に「紀州藩の初代頼宣」も「援護の手」を差し伸べて、「青木氏」と共に、要するに、“伊勢を復活させるべく取り組み”が始まったのである。
そして、この「伊勢の殖産」を生き残った「伊勢衆の射和郷士」等にもやらせたところまでは記録から判る。

「青木氏に対する多少の怨念」は、この「殖産と興業化」で多少は霧消したとも考えられる。
それでも「商業組合」に参加しなかった事から考えると、この「青木氏に対する多少の怨念」は未だ多少は引きずっていて、その“「怨念」“は「享保期の直前」の「紀州藩吉宗入城」まであった事にも成る。
つまり、「吉宗」は、この「青木氏に対する怨念」に対して「紀州藩藩主」と「将軍」に成った時にもこの事を充分に知って居た事に成る。

「吉宗」は、「伊勢の紙問屋と伊勢青木氏」に対しても、「江戸の商業組合」を指揮する上でも、何とかやり易くする為に、前段で論じた様に、「家康のお達し」に重ねて“「伊勢の事お構いなしの御定」”の「慣例の継承と強化」を指示したのである。
この一例が前段でも論じた「伊勢奈良奉行時代」(山田奉行)の「大岡越前守の行」に成ったのである。

そこで「青木氏」は、果たしてどのように殖産をしていたのかを説くと、江戸期に成っても地域別に分けると次ぎの「殖産と興業」を興している。

「殖産地域-1」 伊賀地区、脇坂地区、上田地区、
「殖産地域-2」 名張地区、松坂地区、四日市地区、
「殖産地域-3」 員弁地区、桑名地区、
「殖産地域-4」 射和地区、玉城地区、
「殖産地域-5」 長嶋地区、新宮地区、尾鷲地区

以上の5地域等にこの「江戸期の殖産」は分布している。

「青木氏」が地主(地権者)として「紀州藩からの利権」を得て、ここには「青木氏の四家」「青木氏部」「青木氏の家人」「青木氏と関係する伊勢郷士衆」の一族一門と、「青木村の農民と職人」が定住しているが、この地区毎に土地に適した上記の「伊勢殖産10品」の殖産を進めたのである。

この「殖産地域-4」の「射和地区」は、「櫛田川の水」を利用した「殖産」を、「室町期末期の混乱」から「伊勢復興」を兼ねて先ず進めたとある。
それが、主には「伊勢殖産10品」の中で「射和地区」では次ぎの殖産であった。

「射和の主殖産」
(1)良質な水と川土に適する白粉花からの「白粉」
(2)良質な水を活かした「醤油」
(3)粘土質の土壌を活かした「陶器」
(4)水車を生かした「粉の生産」
(5)水分を多く含んだ土壌を好む「楮」と「和紙」

以上をこの地域の地理性を生かした「殖産」にし、それを「青木氏」と共に「興業」にして販売するシステムまでを構築したのである。

従って、この「職人と商人」を「伊勢商人」の「松阪商人」の中でも「射和職人、射和商人」と呼ばれた。

これを「後押し」したのが「青木氏」であって、その為に、「徳川氏」から「青木氏」が古来より持っていた上記した「広大な土地の利権(地主) 5万石分」を“「本領安堵された」“とする考え方が「青木氏の記録と口伝」の中で読み取れる。

(注釈 恐らくは、「青木氏側」では、この様な「暗黙の了解説(本領安堵の目的)」があるので、特に、「伊賀の一部」と「南紀勢域」は元より「遠祖地」であることから、其れに相当する行為であったと観られる。)

それは「紀州藩飛び地領」に「紀州藩の財力」(現実に使えなかった)を先ず使わずに、「青木氏らの財力」を使う事の方が「郷士衆の少ない伊勢域」では、「総合的に得策」と観たのではないかと考えられる。

つまりは、「青木氏側」ではその「見返り」として「本領安堵策」(地権)と成ったと考えていたのである。
それを判断しその方向に仕向けたのが、同族の「伊勢の秀郷流青木氏」で「紀州藩の官僚軍団」であった。

(注釈 充分な「下打ち合わせ」は「二つの青木氏」の中では有ったと観られる。
そもそも、放って置いてもその様に成る環境でもあった。)

(注釈 その代わりにこれ等を司る代償として、家臣では無かったが、「青木氏 郷氏」に紀州藩から“「12人扶持米の礼米」”を初代頼宣より支給されている事が何よりの証拠である。
「青木氏」に執っては斯くたる「礼米」ではないが、徳川氏としては「建前」を採ったと考えられる。)

つまり、「青木氏」は「室町期からの紙文化」の影響で「250万石以上の財力」(総合 500万石)を既に持っていたとされる中でのこの“「扶持米」”である。
上記の事を物語る「形式上の礼米」であった事を物語る。

そこで注釈として、この「礼米」は これは「紀州藩」が「伊勢青木氏」をどの様に見ていたかを示す一つのパラメータともなる。
この“「12扶持米の礼米」”から、どの様な「扱い」であったかを考察して観ると、次ぎの様に成る。

江戸期の「扶持米」の計算は、「一人当たりの米換算」で、「五合/日」と定められていた。

そうすると、次の様に成る。
「一石七斗七升/年」= 「4.5俵/年」と成る。
4.5俵・12人=54表=21.6石

この様に「青木氏の礼米」の程度は、「お礼程度の礼米」である。

比較対象として、上記した様に、「下級武士の最低の生活」では、次の様に成る。

「75俵-28両-37石」で、通常で最低「150石」必要と成る。(経費除く)

「青木氏の礼米の22石  54俵」を「役職の手当」として観れば、「54/75俵」で7割と成る。

「役職の手当」だけで「下級武士並」の俸禄に値する。

当時の江戸の「旗本の扶持米」は、“「五人扶持米」”が最高級の「役職手当」で、現在で云えば「五人扶持」は大企業の次長か課長クラスである。

其れから観ると、「12人扶持」は、次の様に成る。
(12-54):(5-22.5)で約2.5倍である。
5人扶持=22.5俵:8.5両:11石である。

(1両―6-10万円MAX)であるとすると、「勘定方の指導役の公職」としては可成り高く扱われていた事に成る。

つまり、現在の「役職の手当」として観れば、あるとして専務か社長クラスとなると考察される。

「勘定奉行」(財政を担当する重役)を指導するのであるから、「扱い」としては納得出来る。

然し、此処で問題なのは、この「礼米」が利益になるかと云うと、逆で、「青木氏」に執ってはそれ以上の何倍もの「出費」が起こる。
当に、これは、「礼」に対する「米」が結局は「青木氏の出費(品)」であったが、これを「紀州徳川氏」は目論んでいたかは不詳ではある。
「伊勢藤氏の家臣団」がある事から「単なる礼米」と観ている。

さて、この「礼米程度」が「家臣の役職手当の知行」に相当する事としても、上記した「地域の土地の利権」を保証する「本領安堵」を受けている事から、仮に「出費」であったとしてもそれは大した問題ではない。
恐らくは、出費の「勘定方の指導」をし、更に同時に、私財を投資して「殖産と興業」をするには、この「5万石の本領安堵」の「以上の出費」であった筈である。
然し、殖産のそのものは「青木氏の私財投入」であるので問題では無い。

それを更に賄えるものとして、この「殖産と興業」に依って生み出される「青木氏の商い」が在った。

この状況はどの程度のものであったかと云うと、そもそも「紀州藩の家老」は、当時は南紀の「支藩 田辺藩1万石(この時は「城代の田所氏」等で観る)」であったが、これと「同じ扱い方」であった事に成る。
参考として「地権では5万石扱い」と成っている。
恐らくは、「紀州藩飛び地領」の「伊勢松阪域」も、「飛び地領」と呼称されていて「準支藩扱い」で、且つ、「支藩の田辺藩」と同じく「家老扱い並」として、「青木氏」に任していた事に成る。

上記で論じたが、“「江戸初期に5万石以上の扱いを受けていた」”とするのは、この事から来ていると考察できる。

「総合的な扱い」としては、上記した土地の「本領安堵分」を面積にして「米の石高」を推計して勘案すると、「1万石以上」を遥かに超えていたのでは無かったかと考えられる。
そもそも「国の石高」とは、「米の収穫量」のみならず「殖産の生産高」も「米換算」で表現される。

本論は「殖産」を論じている様に、その「殖産」の多くは「青木氏(「伊勢紙屋」)」の殖産」に関わっているので、「紀州藩の伊勢松阪分の18万石分」の公式分より「10万石」が「米の殖産」等で増産された事から、「28万石」の内の「殖産分」は、6割を遥かに超えていた事に成る。

下記の面積計算からすると、「5万石扱いの大名格」と成るのだが、故に、幕府でも「享保の改革」の時には「吉宗」に直言できる立場とした「青木氏の永代の格式」は別としても、元々、石高でも「布衣着用」を許されていた事でも判る。

「青木氏」の「江戸期の商い」を含めた「全資産」は、「250万石以上(株等含む総資産額 500万石)」と云われていた事から、「土地の利権分」としては、面積比で観て、「石高の四割」を基準に考えると、「5万石程度以上」のものには遥かに成っていたと推計出来る。

これは、上記の「扶持米から見た扱い」からも判るし、「本領安堵分」から見た「5万石」と成るが、依って、これが「紀州藩」から受けていた「扱いの根拠」と成り得る。
「石高換算」では、「紀州藩55万石」から観ての「扱い額」としては、「1/10程度の意味」を持っていた事に成る。

実質は「1/2」と成るが、「青木氏の全資産」から観ると「紀州藩」(幕府借財)を遥かに超えていた事に成り、「郷氏の所以」としての立場が解る。

(注釈 「明治初期の地租改正」で、この「本領安堵分の農耕の土地」は、全て「青木氏の絆青木氏」と、その下に働いていた農民に「無償下げ渡し」と成った。
しかし、この時、「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」も、農民に依る「維新政府の租税」の扱いに対する不満で、「伊勢と信濃の農民」が5年間も「伊勢動乱」を起こした)

然し、前段でも何度も論じた様に、この動乱の「経済的背景」と成っていた。
「信濃」でも「同じ伝統と環境」であった事から「動乱」が起こったが、「全国の青木氏の姿勢」が良く判る出来事である。

(注釈 明治後も「養蚕」や「早場米の更なる研究」等で「農民の殖産」を自費で続けた事が伊勢市の記録にも遺されている。)

つまり、「武士の扶持米」では、「知行分」に加算して「役職の手当」として支給されたが、「伊勢青木氏」は「紀州藩家臣」では無く「奈良期から賜姓臣下族」の「永代郷氏」であった。
つまり、「超大地主の利権を持つ者」であった為、「知行分」は無い。

そもそも「地主」は、土地から取れる「石高の4割」が「領主の租税の取り分」で、6割は「租税外」(地主と農民)として分ける仕組み(四公六民の制)であった。
この事から「郷氏」とは、「平安期」までの「以前の元土地の領主」であった「身分格式ある氏族」を云う。

そもそも、室町期中期より出自した「否認証の姓族」と違って、前段で論じた「氏族」とは、前段手も論じた様に、嵯峨期未完の「新撰姓氏緑」で分けられている様に、朝廷より認められた「公認族の事」を云い、室町期に勃興した武力を背景とした「姓族の豪族」に仕官せずに、平安期からの朝廷より認められていた「地権」をベースに「土地の郷士等」をまとめていた「氏で纏まる身分格式の族」を云う。

そして、この「郷士」とは、主には「室町期中期から勃興した姓族」(1)で、小さい「土地の利権」を持つ「小地主身分」の「土豪」で江戸期の庄屋や名主や村主等がこれに当たる。
「伊勢の青木氏」に関わる「伊勢郷士衆」は、「室町中期より多く発祥した姓族」(1)や、「連族の枝葉末裔の姓族」(2)とは異なり、「青木氏に関わる純然たる郷士の姓族」(3)である。

ところが「伊勢」と「近江」では、殆どは、「不入不倫の権」で保護されていた為に、この「室町期の勃興の郷士」より前の「平安期の郷士(2)(3)」であって、何れも「郷氏」と共に生き抜いて来た「郷士衆」であり「姓族」にしても格式は上位にあり異なる。

当然に、中には“「小郷氏」“と呼称される者もあり、この者は平安期には元は「郷氏の家人(家臣)」(青木氏)であって、“一定の永代格式(従六位)を持った郷士”も「伊勢、近江、美濃、甲斐、武蔵」には多かった。

(注釈 この“「小郷氏」“の多くは「郷氏家人」を続けた。
取り分け、「伊勢と近江」には、正式な「永代格式(従六位)」を持つ“「小郷氏」“の「郷士」が多く居た。)

江戸時代初期には、一部には、この「室町期以前の姓族の郷士(2)(3)」を“「武士」では無い“とする「姓族の仕官した武士側(1)」から起こる「嫉み」から来る「不思議な風潮」も起こった。

つまり、注釈にある様に、「仕官した姓族(1)」と「仕官しなかった姓族(2)(3)」との「差」で「身分」を仕切ろうとしたのである。
上記の「三種の姓族(1)(2)(3)」の内、「室町期中期からの姓族(1)」だけを認め、極めて少なく名った数少ない他の「格式のある姓族(2)(3)」を認めようとしなかったのである。

注釈として、平安初期の「新撰姓氏緑」には次ぎの様に成っている。

「真人族」は40族(同系族44族)
「朝臣族」は39族(同系族含み45族)
「宿祢族」は7族(同系族含み16族)
「臣族」は3族(同系族含み40族)
「連族」は3族(同系族含み22族)

これ等は「宿祢族」、「臣族」、「連族」の末枝葉の後裔族は、後に「2と3の姓族」に所属したが、「真人族」、「朝臣族」の後裔は姓族を作らないとする仕来りに従い「氏族」に所属し続けた。

(注釈 「同系族含み」とは、「同縁同祖系」を含めたものを示す。但し、「真人族」と「朝臣族」は「氏族」である為に「姓」を持たない。
唯、この「二つの族」の「女系族」と、「男系継承」が不可能と成り、「他氏から養子」を取り二代続きで「男系継承」が不可能と成った事で「女系族」と成り、「他姓」を持つ事に成った「姓族」がある。
これらの「女系族の姓族」が後に「元の氏名」を興して男系に継がせる事で「女系に依る同縁同祖族」が出来上がった。)

(注釈 「新撰姓氏録」は、そもそも「編集未完の記録」であり、この「女系の同縁同祖」を入れているかは不明である。
唯、「男系に依る同縁同祖」で纏められている欄には無く、散文的に各所の欄の中に飛散している状況で、これが「女系の同縁同祖」であると観られる。
「宿祢族」、「臣族」、「連族」の「松枝葉の後裔の2の姓に所属する族に観られ、「真人族」、「朝臣族」の後裔には「3の姓族」に所属する族は観られない。
故に、「宿祢族」、「臣族」、「連族」の「2の姓族」には同系族が極端に増加している。
本来であれば纏めての「記録物」と成るが、それが区分けして更にまとめあげるべき処まで編集としは何とか来ていた事が判る。
一時、消えて計画であったが、何とか形にしたいとの政治的決断での「編集途中の録物」としたことが判っている。)

これは「嵯峨期の状況」を示すが、ところが此処から大きく時代は変化して、何れ「皇別五族」と云われる族も激減する。
「真人族」、「朝臣族」は、「氏族」であるが、後裔とする「3の姓族」に所属する族は、聖武期には「春日真人族―志紀真人族」(青木氏-井上内親王 光仁天皇 追尊の春日宮天皇)を遺して、「直系の真人族」は「第四世族内の同縁同祖」が「女系の男系族」と成り遂には滅亡する事に成る。

「第五世族以降」の「第七世族」までの「宿祢族」、「臣族」、「連族」の末枝葉の後裔の「2の姓族」の通称“「皇別13族―同縁同祖族78族」“も「下剋上と戦乱」で室町期中期には「正式系統」が霧消するまでに激減した。

因みに、その程度は前段でも何度も論じたが、「概要の傾向」で云えば、「正式な氏族」かそれに纏わる「姓族」(2の族と3の族)の合計として、平安末期には40程度に、鎌倉期には80程度から一時一気に増えて200程度に、室町期中期には40程度に、室町期末期には20程度に、江戸期には10程度も満たない状況と成っていた。
この差がこの「江戸の議論」を産んだのである。

その根拠には、次ぎの事がある。
この末枝葉の後裔族で「仕官した姓族」は、「藩主」に仕え「家臣」に成った。
「仕官しなかった姓族」は、「郷氏」との関係で「家人」に成った。

「仕官した姓族」は、「俸禄」に糧を求めた。
「仕官しなかった姓族」は、「殖産と農業」に糧を求めた。

主張した彼等はこの差で仕切ろうとしたのである。

然し、現実は、「仕官した姓族」の糧では、生き残りは成り立たず、結局は「半農の様な糧」に成っていた。
「仕官しなかった姓族」の糧では、「殖産と農業」であった事から「殖産」が成功裏に成ると生活は逆に豊かに成り、果ては「二足の草鞋策」で「商い」も営み、その差は逆に「武士力の差」にまで現れる様に成ったのである。

更に、次ぎの事の差が起こった。
「仕官しなかった姓族」の「郷士」等は、その「主」が「永代格式をもつ藩主以上の遥か上位の身分格式」(位階は従四位下以上 正三位まで 浄大一位)を持っていた事。
「仕官した姓族」の「主」よりもむしろ「上位の郷士」であると云う説が起こった。

以上の事から「藩主仕官派説」は弱まったのである。

資料からの読み取りでは、上記の30地域の「仕官しなかった姓族」等には、「平安期の郷士の血縁族」に成って居た事から「位階六位の格式の筋目」を自覚していた様である。

或は、上記した様に、地域に依っては中には「伊勢」や「讃岐」の様に「平安期からの郷士」もあり、その中には自らも“「小郷氏」”と呼称される様に「永代の身分格式」(位階六位まで)を持っていた事もあり、更には、この「平安期の氏族の郷士」と「室町期の姓族の郷士」の両者の間で格式が近いと云う事もあって“「地域内での血縁族」”も広がった。
従って、「仕官派の姓族」の「勃興族の立場」は、逆転して仕舞っていて「主張する立場」が本来は無く成っていた。
「仕官した姓族」は、むしろ世評は「身分格式は低い武士」と成り矛盾する事と成ったのである。

そこで、この「仕官派説」は完全に消えて、「全郷士」は「武士とする説」に帰化し特化したのである。

当初の「仕官派説」の武士は、全国の殆どの地域を占めていた事から一時この説が高まったのだが、上記した様に、「新撰姓氏録」等に記載されている「郷氏が存在する地域」は、そもそも「近江、伊勢、信濃、(美濃)、甲斐、武蔵」と、その「関連地域 30地域程度」に限定されていた為に発言力は弱かった。

結局は、上記の様な経緯を経て「郷士の立場」は逆転して仕舞って、遂には、世評では「仕官派の姓族」の立場は低く観られ続けたのである。
つまりは、これは江戸時代には、「黒印状の発行」と共に「権威主義」が起こり、上記の様に「姓族」を「仕分け」して「武士族」を限定したが、ところがこの「権威主義」が進むと、逆に「古来の格式」が重んじられて限定するどころかその「立場」は逆転したのである。

(注釈 「近江域」と「美濃域」は、「源平の争い」で平安期の早い時期に「土岐氏系青木氏」と共に「氏族」と「姓族」は完全滅亡した。
「近江」は「遠祖同族の佐々木氏と青木氏」の援護を受けて「傍系支流」が何とか継承した。
「近江」も近江で敗退し、美濃でも敗退し、この時には一族は滅亡したが「佐々木氏系青木氏」から「近江青木氏」を女系で復興させた事と、「近江青木氏の支流末家」が再び「摂津」で生き延びてある程度で復興した。)

そもそも「幕府家臣団」は、関東の「藤原秀郷流の幕臣」で占められていた事から、上記の論説を張り主張し、結局は「全郷士」は「武士とする説」に収束し特化したのである。
唯、此処では、「氏族の郷氏」は、「新撰姓氏緑」にある様に「永代の身分格式」を正規に持つ「朝廷より認可された氏族」であって、「無冠無位の低い姓族」では無い事から論外として議論に成らなかった。

むしろ、前段でも論じたが、鎌倉幕府、室町幕府、江戸幕府も、取り分け、江戸幕府は戦乱で数少なく成った「権威と象徴を持った数少ない氏族である郷氏」を保護し、むしろ、政策上、“社会に「権威」を醸成し相乗をさせて安定させ様として”、その「権威族」として祭り上げたのである。

(注釈 生き残ったのは「古式伝統」を持った「朝臣族」の「賜姓臣下族」の「青木氏や佐々木氏や藤原氏」等で、流石に「真人族」の「氏名」は「志紀真人族」の「青木氏以外」には出て来ない。
「青木氏」は「真人族」でありながら、「朝臣族」で、「賜姓臣下族」の「武家族」、「佐々木氏」は「朝臣族」の「賜姓臣下族」の「武家族」、「藤原氏」は「賜姓臣下族」の「公家族」(秀郷流青木氏含む)と成る。
前段でも詳しく論じているが、「永代格式」では、「青木氏」=「藤原氏」<「佐々木氏」と云う事に成るだろう。
唯、嵯峨期以降に出自した「源氏族」は後裔の11家は完全滅亡で、「橘氏」は一時滅亡して「傍系支流族」で立ち上げた為に「権威造策」には採用を見送られた。(橘丸紋付支流 資料には観られない。)
「嵯峨期の詔勅」で、何度も論じたが、「真人族の氏名」は「青木氏」を名乗る事と成っていた為であり、彼らに独自に「青木氏を興す力」は全く無く、これ等は「五家五流の跡目」に入った。)

前段でも論じたが、この時に採った政策の一つの例として、「青木氏の氏名」を農民から身を興した下級武士階級の「姓族」が、「嵯峨期禁令」を破って江戸初期に名乗ったので、この者等に対して「姓の青木」を「別の姓名」に変更する様に江戸幕府は命じて「青城氏等の姓名」が生まれた。

この事と同時に江戸幕府は、「系譜由来等を作る事」をも命じて、「武士」であると云う事を証明する為に「黒印状発行の条件」としたのであるが、この時、江戸幕府は「搾取偏纂の系譜」には無視し容認の姿勢を採った。

(注釈 農民から伸し上がった者には系譜などは元より無い。そこで地元の神社や寺社などに地域の氏族や郷氏等の「古豪の系譜」に脚色を加えて系譜を搾取偏纂して「黒印状」を獲得して武士と成った。これだけは幕府は容認した。)

従って、現在に於いて「系譜からルーツ」を辿ると、前段でも論じた様に、「氏族」の「郷氏青木氏の歴史観」と対照するとあり得ない矛盾する事が生まれるのである。



「伝統シリーズ-34」に続く。




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