青木[アオキ] 名字 苗字 家系 家紋 ルーツ 由来

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[No.359] Re:「青木氏の伝統 40」-「青木氏の歴史観-13」 



◆ [No.359] Re:「青木氏の伝統 40」-「青木氏の歴史観-13」 
投稿者:福管理人 投稿日:2018/02/19(Mon) 10:06:17
>「青木氏の伝統 39」-「青木氏の歴史観-12」の末尾


当然に、室町期末期の「商業組合」の「15地域の青木氏族」との相互に「女系族」で繋がったは必然の事であろう。
云うまでも無いが、この「血縁の繋がり」を無くして「商業組合も殖産」も、江戸期の「氏家制度と封建制度」の「閉鎖的社会」の中では成し得なかった事であって、その事があって「商業組合の15地域」には「秀郷流青木氏族の商人」も含んでいる所以と成っているのである。
これにて「何らかの血縁」に依って「商業組合と殖産」は成し得たと観ている。
そして、それが、況や、“「女系族」”であったと説いている。

その最たる見本が、前段で論じた「射和商人の殖産」であったのである。
逆に言えば、「射和商人の殖産」は「女系族」を完成させたという事にも成る。

次の段では、この「女系族」を完成させた“「四六の古式の概念」”と云うものが「青木氏族」にあった。
「記録と関係族の口伝」でこの概要があった事を知り、これを時間をかけて解明した。
これに付いて次段で論じる。




「青木氏の伝統 40」-「青木氏の歴史観-13」

「女系族」の「四六の古式の概念」

さて、話を少し戻す事に成るが、「上記の女系族」の「清らかな血縁性の源流」の為にそこでより考えられたのが、これが前段で論じた「四六の古式の概念」であった。

つまりは、“四を保ち六を入れる”とすれば論理的には「純血性」は保てる事に成ると云う考え方である。
それには、この「四六の古式の概念」で得た“「純血性」”、つまりは、「青木氏族」ではその「歯止め」と云うか「指針」と云うか「基準」とするかそれを定めたのが“「四掟」の事”に成る。

然し、「現在の概念」で考えてみれば、「六」が「四掟(六掟か)」で縛り、「四」が「入り」に成っての以上程度が、「完全純血」が無い以上は、始めて“「純血性」”と云える論理だとも考えられる。
然し、これでは前段で論じた様に「血縁性の弊害(唖子等)」を出す所以と成っていたと云う事であろう。

(注釈 これが「六四の概念」以上を保とうとする「天皇家の理屈」であろう。)

筆者は、「青木氏族」はこの時期の頃から既に「血縁性の弊害」のこの「経験値」を獲得していたと観ている。
そして、そのより「弊害を薄める方法」を今までの「男系」に頼るのではなく、前段の論理性で“「女系」で行う”と云う方向に舵を切っていたと云う事なのであろう。
当時としては、「皇族朝臣族」とは云え未だ「妾子族」への「社会の見方」はそれほどでも無く、より「妾子族」であるが故に「血縁性の弊害」には神経をとがらせ「経験値」を得ようとする姿勢が強かったと考えられる。
現在医学から考えて、当時としては充分な医学的根拠なくしても、「経験値」で「雄」があくまでも「補完役」であって、主は「女系(雌)」が「人の類」の「遺伝情報」を引き継いでいるという事を知っていた事にも成る。
そうすると「男系の継承」を逆の前提としている「社会の中」で、或いは、もっと限定すれば「皇族系の中」では、この「考え方」は明らかに「異端」であった事に成る。
これは、恐らくは「宋貿易」をしていた事に依る「知識の吸収」の影響ではないかと観られる。
そして、「宋貿易以外の知識」を補完するものとして、それは「経験値」のみならず「人の類」(雄雌)の「外見上」からの「雄」が持つ身体上の「四つの不要な差異(前段で論じた)」を分析して見抜いていた事にも成る。

「歴史観的」にもっと云うと、その「分析の知識」、或いは、「確たる鋭利な感覚」が強く「青木氏族の中」にだけあったという事にも成る。
そんな「異端の考え方」が果たして「志紀真人族」の中にだけ許されたのであろうか疑問に成る。
然し、何故か現実には成り立っていたのであった。
そうすると、“何かがあった”から「賜姓五役の立場」の「志紀真人族」には許されていた事に成る。
その“何かがあった“とするものが何なのかである。

そこで、更に云うと、「宋貿易の知識吸収」のみならず、中国の紀元前の「華国の時代」の「国王の歴史」を始めとして、そこで起こった「知識」を獲得していた事にも成り、大和では「天皇家」が「権威と象徴」を保つ事の為にだけ「純血と云う事」で、この“「六四の掟」”に拘っていたからこそ「青木氏族等」はこの”危険性”を感じ取っていたのではないかと考えられる。
そして、「志紀真人族」はこの”「危険性」”から鑑みて、「孝謙天皇期」では、最早、“「純血性」が保てなく成った”と云う事を事前に読み解いて知っていた事にも成ろう。
それは、「華国」を始めとして中国に興った国々の歴史期間を見れば約50年程度で滅びている事の知識であった。
この様に「純血性」に拘り過ぎると「国王、或いは、天皇」の「権威の象徴」を消失する事にも成り得る「世の掟」であろう。
つまりは、この「経緯」から観ればすぐ近くで“滅びる”と云う前提にあった事に成る。

(注釈 この時期迄に百済を経由して「王仁等の渡来人」の「中国人の学者」が多く渡来して大和に「中国文化と歴史」を伝えていて知り得ていた筈であり、「国家体制」を確立した大化期では是非に知り得なければならない進んだ国の情報であった筈である。)

それなのにでは何故に、「国王や天皇」は「権威と象徴」の為に例外は無く「純血性」に拘ったのであろうか。
それは、それ以外に方法が無いからであって、「武力と云う方法」もあるが、それでは「武力」によって潰された者の「恨みの輪廻」が増幅する事に成り、「人」を束ねる事は何時かは出来ない事を「経験値と情報」で知っていた事に過ぎない。
故に、「蘇我氏」等を危険を顧みず苦労してこの「周囲の力」を集めて「武力」で取敢えず抑えたからこそ、「天智天皇の大化の改新」では、研究書では「天皇を凌ぐ蘇我氏の専横」と結論付けられてはいるが、確かにその事(武力の脅威の心)もあった事は否めないが、「武力」に頼らない「制度的な対応策」を考えた事に成る。

(注釈 この「皇族」は勿論の事、或いは、「公家族」や「武家貴族」の考え方には、”「武」を持たない”とする「ステイタス」が、江戸末期まで保たれた所以でもある。
”「武」を持つ事はその位格を傷つける”事とする「暗黙のステイタス」があった。
表向きの理由は別として、”「衰退と滅亡の恐怖」に喘ぐ事”と成ると考えていた筈である。
現実には、”「衰退と滅亡の恐怖」に喘ぐ事”から逃れようとして室町期にはこれを破った平安期の「源氏」を始めとして室町期の公家族の「北畠氏」、「西園寺氏」、「一条氏」等は結局は滅亡した。)

唯、元々、「武力だけへの対応」は、「ある条件」を除いて何時の世も論理的に無理であろう。
「武力を持たす姓」が今度は蘇我氏の様に成れば元の木阿弥である。

では、この”「ある条件」”とは、一体何か。それが次ぎの事に関わるだろう。
然し、そこで「天智天皇」は、不思議に、それも唐突にも突然に「后妃嬪妾の制度」を「国の制度」に取り入れて実行した。
この事は、先ずは「権威と象徴」の為の「純血性の維持」に依って、“「天皇家を弱めると云う危惧」”を抱いていた事に他ならないと考えられる。
この侭では「蘇我氏」の様な「象徴と権威」だけに拘らない「自由な血縁性を持つ豪族」にその「天皇の立場」を奪われると危惧したのである。
そして、その上で目の前に起こっていたその「きっかけ」と成ったのが、”「純血性」から起こる「唖子(軽皇子の事)」に象徴される事にもあった”と認識していたと云う推論である。
つまり、「数多くの唖子の現出」が「天皇家の権威性」が低下させると認識していた事に成る。
故に、”外からの脅威の「武力」”と、”内からの象徴を脅かす「純血性の弊害」”から逃れられ、且つ、これらに頼らないで「権威と象徴」を樹立する事にあり、この為にはこの”「ある条件」”を確立させる事に気が着いたのである。

そこで、この”「ある条件(妾子を利用する事)」”を確立させるに必要とする事の為には、「国家成立」後初めての「政治の大改革」、つまり、「大化の改新と云う制度の創設」などに依る改革を決断したのである。
何としても「激しい抵抗」を受けながらも断行し推し進めるしか無かったという事に成る。
故に、先ずその為には、”先ず隗より始めよ”であって、”「妾」”を”隗”と見立てて制度として唐突にも「公」に取り入れたのである。
これが先ずは”「ある条件の対策(妾子の環境造り)」”としたと読み取れる。

これは勿論の事、「純血性(イ)」を緩和し、且つ、「豪族との繋がり(ロ)」をより一層強化する事に意味があった事は云うまでも無い。
ところが当時の「貴族社会」としては、そもそも“「妾」を制度化して採り入れる事”のそもそもが極めて“「異端」”であった。
確かに「青木氏族等」も「四六の掟」で、“「異端」”のところがはあるが、親元の「天智天皇」も元より「異端」を演じていたのである。
これでは「四六の概念」を持った、或いは、「四六の概念」を持たされたとしても「非難される筋合い」は必然的に無く成る事と成る。

それが、(イ)や(ロ)だけであるのならば、「后、妃、嬪」と「妾」の系譜や「三つの身分制度」から観ると、そもそも、何も、「后、妃、嬪」の階級だけでも済む筈であり、これは判るとしても、態々、“「妾」”を制度に明記する必要性は何も無くそもそも一見してこの制度としては「変」である。
普通では、“「妾」を持った”としても補助的に「子孫を遺す目的の為」として「高位の者」が持つ事は「何処でもあり得る仕儀」で放置して置くものであり、それを態々制度して書き込んだとする事には、そこの“「異端」”には“「何らかの意図」”があった事を示すものであると観る。
そもそも、その環境として、つまり「天皇家の基礎環境」としては、それ以前は「六四の掟」ではなく「七三の掟」位以上であった事が判る。
然し、後勘として観ても、この何も対策を採らない侭の「純血性」であるとするならば「七三の掟」にしても「六四の掟」でも、どう考えても「血縁性の弊害」を防ぐにはこれでは無理である事は明々白々である事が判る。
結果としては、その「権威と象徴」は低下してその行く末は目に見えている。
だから、この上記の様な切羽詰まった「天皇家の中の基礎環境」があり、そもそも「制度」として「妾を制度化」し、その上で“「妾子を賜姓」”して、且つ、「臣籍降下族」としたと成るだろう。
「妾子族」では無く、「后、妃、嬪」の「嗣氏族」ではこの周りには「姓族の傍系尊属」が付き纏いその「天皇の立場」を侵されるは必定である。
そこで、この「遠隔の地方の土豪を外縁」とする事で心配は無く成り、その上で”「妾子族」”とする事にすれば、これ成らばある程度に納得できる。
然し、それだけでは済まい事は明らかである。

つまり、この為には「后、妃、嬪」の族から護る為には、”「周囲の策」”を固める必要がある事に成る。
この経緯を先ず「お膳立て」をして、そこで生まれるその「施基皇子族」や「川島皇子族」の様に、その「経緯の最終」はこの“「妾子ルーツ」”に頼る事にする、或いは、頼らなければならない事にして行くその様に運んだと考えられる。
然し、故に、この「二つの欠陥」をあまり持たない「四六の概念」を持つ”「妾子族」”であるがこそ「頼る事」としたと観られる。
”「周囲の策」”を凝らした上で頼る以上は、この「四六の概念」が「必須の条件」と成ったと云えるのである。
これが「青木氏の歴史観」から観れば、”「大化の改新」の「大きな背景」”ともしたとも又云える。

注釈として、現実に、そこに至るまでには”「周囲の策」”、即ち、多くの”「成すべき手立て」”が必要であった。
そこで、先ずはそれまでは「真人族の皇子」は、「第六世族迄」であったがこれを先ず「四世族迄」とし、「真人族」は「第四位迄」として制限して、これから外れた四世族までの元皇子を王位に下げて遠隔の主要各地に遥任を認めない「守護王」(a)として配置し固め、そして「第六世族」以降は例え元は「嗣子族」であっても無冠の「ひら族・(坂東八平氏)・(たいら族では無い)」(b)として下げて「坂東の警護」に廻した。
当然に”「遥任」”でない以上は土地に根ずき「末裔」を遺す以外に無く成ったのである。

つまりは、これが「天皇家が恐れる姓化」であったが、「姓化に成る事」を事前に承知した上での「恣意的な配置」をした事を意味する。
遠からず「嗣子族」が必然的に姓化に成るとするならば、「都付近の姓化」よりも、「遠隔地の姓化」と成る方が”より安全である”と判断した事に成る。
そして、その代わりに「四世族内の第六位皇子の妾子族」には、「都の天皇の警護」と「都を囲む主要五天領地の遥任の守護王」として配置して固めたのである。
例え、「遠隔地」に配置され、”「ひら族扱い」”に成った「第六世族以降の嗣氏族」から観れば、”何が妾子族ぞ”とする「蔑視の感覚」はあったであろうが、「妾子族」であっても「第六位皇子とする制度化」に依って抗う事が出来なく成った、或いはその様にしたのである。

この状況は以降、「天皇」が変わる度に起こる事には成るが、その度に全ての「姓化に成る嗣子族」が都近くにいる事はそれだけで危険であり、これを避ける為には先ずは「遠隔地」に追いやり身を護る策を採った事に成ろう。
普通ならば「嗣子族]だから「身の周り」に置いて固めるとする策と成ろうが、然し、この「常識的な一般策」を採らなかったのである。
そこには歴史が教える”「嗣子族」”の”「外縁族の影響」”での”「姓化」”が必ず起こる事を学習した結果の対策であった。
当然に、外縁族が都の周りに増え続ければ、その発言力は増し、天皇の立場を侵される事にも成るは必定で、そこで嗣子族を遠ざけた事に成る。
これらから観ても、明らかに「四世族内で第六位皇子(妾を制度化する事で皇子に成る)」の”「妾子族」”で身を護り、且つ、それに必要とする第二弾の「順次改革」を進めたのである。
これで、その後裔が広範に広がり「姓族化」に成り安い”「嗣子族」”で固めずに”「妾子族の身内」で固め頼った事はよく判るし妥当だと考えられるのである。

そこで、「青木氏族」を客観的に観れば、この経緯から観ても避ける事の出来ない”「嗣子族の姓化」”で、次第にこれに対抗する「青木氏族等の妾子族に掛かる負担」は難しく大きく成った事は充分に予想できる。
要するに、ここには「第六位皇子の妾子族」が持つ「四六の概念の有無の基準」が存在したという事に成る。
この「四六の概念」を持たない「自然発生的な姓族化」は防ぎきれ無い定めに有っても、そこで、「四六の概念」を敷きながらも「賜姓五役」を務めるという事は至難の業であった事に成ろう。
普通なら、”そんな「面倒な四六の概念」なんか捨てよ。「妾子族」であろう。”と成るだろう。
然し、「青木氏族や佐々木氏族」は捨てなかった。
つまりは、「姓化」はしなかったという事に成る。
そこには、「大化の制度化」に依って、本来であれば”「妾子」”で終焉する筈であったが、「天皇の意」に顧みて「第六位皇子と云うプライド」がそれをさせ占めた事に成る。

(注釈 然し、後には「aとb」は、姓族化した事で、矢張り、遂には「逆の事」と成り失敗に終わる。
その「失敗の終焉」は、見事に「鎌倉幕府」の後ろ盾に成った「姓化した坂東八平氏の勃興」であった。
即ち、「四六の概念」を捨てた「第六世王族の末裔の姓族化」であった。
つまり、この姓化で結局はその「招いた事」は「蘇我氏の専横以上の事」と成ったのである。この姓化の結末は矢張り「世の定め」と捉えられた。
所謂、「武に頼る嗣子系の姓族」と「四六の概念を済に求めた妾子族」とには、その「生き方の差異」は生まれていた。
然し乍らその最終の経緯は、室町期終焉では”「姓の武」と「氏の済」の勝負”と成って行き「四六の概念」を敷く「氏の済」が勝利を得たのである。)

(注釈 然し、さて、これだけの「改新の改革」を立て続けに実行する事は現在でも難しい。
これを「取り巻く勢力(蘇我氏など姓族と姓化の姓族)」が黙っていない事は直ぐに判る。
況や、「世の定め」として大きな「立場上の利害」は生まれる。
それだけに「世の定め」とは云え「天皇の身辺」は元よりその膝元の「要害と成る都を護る事」は高まり、この”「妾子族」(氏上と氏人の族)”で護る必要性は高く成り、「主要五天領地の警護」も「妾子族の青木氏族」等に委ねたと成る根拠である。
「姓族」では無く「妾子族」に任した発想は、「三相」を得て戦略的にはよく考えられているだろう。
唯、「妾子族の四六の概念」に護られた「氏上と氏人」に依るこれの「防護態勢」には、「姓族化の進捗」が大きく影響する事と成り、そこに限界が生まれるは必然であろう。
そこで、平安期中期前頃から室町期末期までにかけては、「妾子族」は「四六の概念の縛り」から、敢えて逆の手を使って「戦国で滅びた姓族」を集めて「経済的契約に依る防護体制」、即ち、「影の武力組織」の「シンジケート体制」を構築して、「氏上と氏人に依る防護体制」の「自らの補完策」を採った。
当然に「藤原秀郷流青木氏の補完役」の上により強固にする事で対抗した。
従って、「妾子族」の「自らの武」は「四六の概念」の上で絶対に執らなかった。
つまり、「直接威力」では無く、”「抑止力」”であった。
この意味で「四六の概念」=「抑止力」の関係が成立していた。
「氏人の関係」は兎も角も「四六の概念」の中の「補完役の青木氏との関係」は「青木氏族全般」を形成する上で絶対的条件の中にあった。
この「二つの抑止力」は”「姓族」”に執ってはこの上ない”恐怖”であった事は予想できる。
況してや、この「二つの抑止力」の上に「上記の済」が伴うのである。
済に依る持久力があり、且つ、何時、何処から攻め込まれるかもしれない”「お化けの様な影の力」”を持ったものに襲われるかも知れない「抑止力の勢力」にこれに適う「姓族」はいないだろう。
そして、「天皇のお墨付き」を持つ「妾子族と云う権威」が着いている。
逆らえば、例え姓化した「嗣子族」でも「逆賊の汚名」を着る事に成る。
この「恐ろしい勢力」が「天皇を護る」とした場合は、当時としてはこれらは”考えられない発想”であったと考えられ、周囲は唖然とした事の様子が目に映る。
これらの事の一切は、「妾子族の四六の概念の所以」と成り得るのである。)

(注釈 「姓族」では無い「補完役」の「藤原秀郷流青木氏の補完役」を作っただけではその「抑止力の効果」はない。
そこで、「天皇」、即ち、「朝廷」は、「秀郷流宗家」以上に「藤原秀郷流青木氏」を広く「24地域」に広げ、且つ、多く「116氏」にしてこの「抑止力」を高めた所以であると観ている。
普通ならば、賜姓して補完役を命じたとしても、その秀郷流宗家以上に力を持たす事は無かった筈である。これが前段でも論じている「第二の宗家」と呼ばれた所以でもある。
所謂、これが「永嶋氏」や「長沼氏」や、将又、広く「長谷川氏」や「進藤氏」を含む「青木氏族」である。
ここまで「補完役」が広がれば「外縁族の北家藤原一門」を含むどの様な勢力であっても「妾子族」には手を出せないであろう。)

(注釈 「佐々木氏族」が「補完役佐々木氏」とどの様な関係を構築していたかは良く判らない。
唯、「近江宗家佐々木氏」が出している研究書から観ると、「宇多源氏佐々木氏の補完役」との関係が観えず、むしろ、「青木氏族」に関する「秀郷流青木氏族との関係の研究」が目立つ。
これが歴史的にどの様な意味を持っているのかは研究は行き届いていない。
不思議な疑問の一点である。
これに付いては予想の域を脱しないが、各地に余りに姓族化して散在する「補完役との関係性」が良くなかったのではと考えられる。
それはあまりの「補完役の姓化」で「近江宗家が持つ四六の概念の域」を超えていたからであろうか。
それは、研究書によく出て来る「近江佐々木氏系青木氏」に表れている事であって、「四六の概念」を敷く「青木氏族」の「近江青木氏との連携」を執っていた事からも凡そは読み取れる。
「補完役の宇多佐々木氏」よりも近くにある「近江青木氏との関係性」を重視したと云う事に成るだろう。
それは、「近江宗家佐々木氏」と「近江青木氏」とには、固い”「共通する点」”があって、”「天智天皇の妾子族」で「同祖」として、同じ「四六の概念」を敷く一族と観ていた”と云う事に成るのではないか。)

だが、この「妾子の賜姓」には、「天皇家の基礎環境」の中では、要するに「目的」が上記の二つ(イとロ)、言い換えれば「天皇家の保護」と、「純血性の維持」にあって、その“二つが上記の”「妾子の事の目的」”とも深く連動していた事”に成る。
況や、これが発祥時から「青木氏族や佐々木氏族」の中には、この「連動目的」から逃れられない”「宿命があった(「四六の概念」)」”のではある。
だが、そこで「天智天皇」は「大化の改新」で「青木氏族」と「佐々木氏族」を”「妾子族」”でありながらも、この”「宿命」”を持たす為にも、前段でも論じたが“「直系尊属(皇族の朝臣族)」”として発祥させた事の所以にも成るだろう。
当時としては、本来であれば、”「系譜」にも抹消される立場”にもあった筈である。

(注釈 「嵯峨天皇の詔勅」に依って「青木氏」に代わって賜姓を受ける様に成った「源氏」には賜姓を受けない源氏も実に多かった。
歴史的な記録からに観て、全源氏22源氏と称される内のこの「賜姓有無の基準」は、「皇位に残れる事の差」、即ち、大枠で「嗣子と妾子との差」にあってその約半分に当たる。
嵯峨期以降で、「嗣子族」を含み「妾子族」として遺れた族は「姓族」や「氏族]としても皆無である。
正式に「源氏族」としては、「花山源氏までの11流」を最後にその”「正式な目的」”は終えている。
「各地の源氏土豪」とする説は、この「正式な目的」から逸脱していて、到底、「源氏」とは云えず「江戸期の後付けの偏纂(黒印状)」であって、殆ど”「僧侶」”としてその族を遺さず一生を終焉している。
その「食」に苦しみ「天台宗寺院、門跡院、善光寺、真言宗」の記録を観れば、その「源氏と成り得た人数」からも数は合わない。
それは、前段でも論じたが「善光寺の内部の組織」を観れば一目瞭然である。)

この「注釈の事」を配慮すると、外から観れば、同じ運命にあった「妾子族」の「青木氏族や佐々木氏族の妾子族」は、これはまさしく世に示す特別な”「妾子の権威付け」”であった事に成るだろう。
つまり、「天皇家の基礎環境」には、「妾子を権威づける絶対的必要性」があったと云う事である。
「嵯峨期以降の賜姓族」は、その「四六の概念」等を始めとする”「正式な目的」”は霧消している事である事から比較すると、その大化期の「妾子族の位置づけ」は比較に成らないものとして証明できる。
その「決定的な所以」として位置付けた上で、その上で「四六の概念」等を敷く事を前提して”「賜姓五役」”を与え、”「皇位の准継承族」”と更に位置付けたものでもあろう。
これで、後の「源氏族」の様に「無役」では無く、”「妾子族」”であってもこれで「絶対的存在価値」を世に示した事を意味する。
ここから「大化期の妾子族」は、”世にその存在を認められる様に成った”のである。

その最たる経緯が、「妾子族の青木氏族」は嫌ってはいたが、「孝謙天皇期の白羽の矢」”という事に成る。
その意に反する「経緯の状況」は、同じ「青木氏族の嵯峨天皇」に依って「打ち止め」された。
長く云えば、その経緯は「仁明天皇」迄と成ろう。
「四六の概念の論」を結論付けてしまうが、「始祖と後裔」の”意に反していた”とする処から観れば、「青木氏族」に執っては一時は「嵯峨天皇」に苦しめられたが「子孫繁栄」では縛られることも無く却って良かったかも知れないとも考えられる。
前段でも、論じたが「嵯峨天皇」の「隠された真意」はどこにあったかは今と成っては判らないが、「青木氏の歴史観」からすると後裔としてはここにあったのかも知れないと思いたい。


(注釈 「妾子族」を系譜から外す慣習は武家社会に成っても長く存続する概念でもあった。
因みに、「清和摂津源氏宗家の源の頼政」の孫、「仲綱の子の系譜」には、「伊勢青木氏の跡目」として入った「妾子の京綱」を一部で記載しない古書籍もあるくらいである。)

(注釈 前段でも述べたが、”「妾子族」の「青木氏氏是」”は、この「権威付け」で「施基皇子の青木氏族」と「川島皇子の佐々木氏族」に限っては「妾子族」は世に強く認められる様には成ったが、「天皇家を護る族の範囲」を超える事無くこれを前提として、”頭に載って前に出過ぎるな”とする”「絶対的戒め」”である。
「物語る事」はこの「氏是」に尽きると筆者は観る。
唯、「佐々木氏族」にはこの「佐々木氏氏是」になるものがあったかは、「佐々木氏の宗家の研究書」を観る限りに於いて明確ではない。
然し、研究書から読み取れる範囲では当初はあったとも採れる。
唯、「補完役」として出自の「宇多源氏の佐々木氏」の出現で消えてしまったのではないかと考えられる。
「近江佐々木氏の宗家末裔」の「剣豪佐々木小次郎の書」を観ると、衰退していた「近江家宗家の御家再興の行」から「氏是の様な行動規範」で動いていた事が読み取れる。
この事から「青木氏族」と同じ境遇にあった事から、当初は、つまり、平安初期頃(中期頃か)迄は「宗家」だけには確定は出来ないが受け継がれていたのではないかと想像できる。
何をか況や、「近江宗家の佐々木氏族」には、仮に「佐々木氏氏是」が細々と宗家だけに受け継がれてあったとすれば、江戸期頃までは「四六の概念」も受け継がれていたするパロメータにも成り得る。
筆者は、「宇多源氏佐々木氏の姓(890年代頃)」が出自の段階で、単独の「総宗本家」だけは別としても、「佐々木氏族全体」として霧消したと観ている。
少なくとも「青木氏族」も大きなダメージを受けた「嵯峨期の詔勅頃迄」はあった事は充分に頷け「四六の概念」の形を変えて江戸期直前まで維持していた事は前段でも論じ事である。
その「佐々木氏氏是」、将又、「四六の概念」の存在の証拠は、「佐々木氏系青木氏の出現」にあると観る。
そうでなければ、「四六の概念」の基となる「四掟による血縁」は起こり得ず、「佐々木氏系青木氏の出現」も成し得ないからである。
つまりは、「佐々木氏氏是」、「四六の概念」、「四掟」も「佐々木氏系青木氏の出現」迄は存在していた事を意味するものであるからだ。)

(注釈 そもそも、追記するが”「源氏の呼称」”の原点は、中国の「魏」の皇帝が他国を滅ぼし、その国の王を上記した儀式で家臣にした時に、その「祖」は同じとして、その者に「源」と名乗らせた。
この「中国の経緯」から「天智天皇の妾子族の青木氏族」と同じとして「源」の氏名を「嵯峨天皇(志紀真人族・青木氏族)」は与えた事に依る。
この「源の意味」を知った上で、その「生き方」は上記や下記に論じている様に違ったが、「青木氏族と源氏族の関係」を理解する必要がある。
尚、「源の呼称」として、目的から観れは「花山源氏」、ルーツ的にみれば「仁明源氏」迄であろう。
後は、その「目的とルーツ」から正確には”「源」”とは言い難い。「慣例に依る呼称」であろう。
「青木氏の歴史観」から観れば、「青木氏族」と繋がる「源」が「源」なのである。
故に、「嵯峨天皇の親元の青木氏族の象徴紋」の「笹竜胆の継承」と成った。
つまり、「目的とルーツ」からは「仁明源氏」迄は正しい事に成り「笹竜胆紋」は納得できる。
唯、「清和摂津源氏」の「宗家の四家」の「頼政との繋がり」を「青木氏族・伊勢と信濃」が持った事では、「目的とルーツ」では「源氏と笹竜胆紋」は納得できる。故に使ったのであろう。)


さて、そこで「華国」の様に、“初めて執った「国家形式」”の、“初めての「妾子族」に対する「酒瓶に基づく家臣儀式」”だけでこの事が済むのであればいざ知らず、その侭では必然的に生まれてくる「家臣力(官僚族)の拡大」は防ぎきれ無い。
そこで、「中国の華国」等の「滅亡に至る結果」を観る様に、これを「事前知識」として知っていた「天智天皇」はこれを避ける為にも、「大和」でも「家臣の蘇我氏等」に対抗できる“「直系尊属」を「天皇家の外に造り上げる事」”で対応したと観る。

故に、その為に「絶対信頼できる身内」の「妾子族の皇子」に「一定の規則(四世族内第六位皇子)」を宛がい、その「皇子」に“「賜姓」”と云う手段を始めて使ったのであり、「家臣の豪族の朝臣族(高位の官僚族)」に、「皇族の朝臣族」を加えて創設し、「華国の習わし」を用いて“「酒瓶」”を交わし与え、権威付けの「象徴紋」を与え、「氏神木」を定めてその行事を神格化し、「賜姓五役」の「令外官の役目」までを与えると云う事までは行わなかった筈であると観ている。
明らかに、これは正式で完全な「二つの目的(イとロ)の為の儀式」である。
この“正式で完全な儀式(賜氏の儀式)を世に見せる事”で、「妾子族」であってもこれは明らかに蘇我氏等の様な「豪族に対抗し得るだけの権威のある力」を着けさせた事を世に示した事に外ならない。

そこで、この上記の通りに、この様な「天皇家」の中にも、この様な“「下環境(基礎環境)」”があり、「異端(四六の概念の保持)」な「皇族賜姓臣下族」だけに文句をつける筋合いは、「天皇家」は元より“「周囲の官僚族」”にも無かった事に成る。
この“「異端」”とも観られる「四六の概念」を敷く事には、そもそも“「異端」”どころか、「違和感」そのものが無かったと観られる。
百々のつまり、この「青木氏族や佐々木氏族」の“「四六の概念」”は、「皇族賜姓臣下族」として「当然の事」として認められていた事にも成り得る。

(注釈 これらの「賜姓時の儀式」に授与された「遺習物品」のものは「記録」を含めて「伊勢青木氏族」に現存保管されている。
「近江宗家の佐々木氏の研究記録」に、この「遺習物品」に付いての記載がないので「佐々木氏族の近江宗家」に存在するかは確認が取れていない。)

(注釈 そこで飛鳥期から始まり奈良期の当時は、そもそも、歴史的に“「賜姓」とはどのような位置づけに成っていたか”に成るのだが、その「日本書紀の記録」に最初に観られるものとしては、つまり、先ず“「賜姓」”に付いての「最初の歴史」に観られるものとしては、「垂仁天皇期」にあり、“敦く湯河板挙(ゆかわたな)に賞す。則ち、「姓」を賜ひて「鳥取造」と曰ふ”とある。
これは「中国の華国」に観られる様に「家臣(官僚族)」に成る儀式に対しての「姓の賜姓」によるものであって、且つ、「氏名の賜姓(皇族)」の最初は、同じ「日本書紀」にも見られる様に「天智天皇期」にあり、これら「家臣(官僚族)」に対する「姓名」と、「皇族から臣籍降下した皇子」に対する「氏名」を二つに分けて正式に制度化した事に成る。
この意味は「青木氏族」や「佐々木氏族」に執って大きい。)

「姓名(官僚族)」と「氏名(皇族系朝臣族)」との違いと、その「目的の違い」からすると、前者は当に「賜姓」で、後者は明らかに「賜氏」である筈である。
然し、「日本書紀」では、「賜姓「の「二つの事例」で「賜姓の言語」を使っている。
この事は、且つ、「天智天皇の意」を引き継いで上記で論じた様に「二つの目的」で制度化したのは、「八色姓制度等の政策」にある様に「天武天皇期」にある。
つまりは、「姓族の賜姓(官僚族)」と、「氏族の賜姓(皇族朝臣族)」とは、「考え方」を別にしていた事に成る。
これが後に、上記の“「周囲の官僚族」“として記した「朝廷内を構成する姓族」に対するものを、その「目的」はさて置き、兎に角はその違いを明確にしようとした「嵯峨天皇の新撰姓氏禄」(下記に論じる)に繋がって行くのである。

(注釈 然し、ここで考察として、その前に、記したいのは「垂仁天皇期」のそれを“「姓(かばね)」”としている以上は、「中国の華国」に見習って「家臣・官僚に対する制度」を前提としていて、「賜姓」は「酒瓶の儀式制度」と連動した制度あった。
従って、当初は「家臣(官僚)」に対する「儀式の一環」で、少なくとも「氏名」とする「皇子」に対する「臣籍降下の賜姓」では無かった事に成る。
「天皇の立場」から観れば、儀式化に依って、「姓」は、他人の「家臣又は官僚」、「氏」は、「身内の同族」と見極めていた事に成る。
「他人の姓」は元より、この「身内の同族」にも、”二つに分けて観ていた”という事に成る。
その「判断基準」が、「姓化の有無」、即ち、「四六の概念の有無」、将又、「嗣氏族と妾子族の差異」との三つにあったと観られる。
この「天皇の三つの判断基準」からすると、残るは妾子族という事に成ったと云う事である。)

そもそも、その「賜姓の目的」は異なる。
上記した様に「本来の意味」、又は、その「目的」からすると「賜姓」では無く「賜氏」であるのだが、それを明確にしている証拠が「日本書紀の天武天皇の発言」(前段でも記したが改めて記す。)にある。
後に、「ある種の問題」が出て、敢えて、ここでこの「官僚族に成る賜姓」、つまり、「姓族に成る賜姓」と、「皇族の臣籍降下の賜姓」とを明確に分けようとした、或いは、分けて違いを明確にしたものである。
然し、判る範囲では、この「違い(「ある種の問題」)」から始まって、「三代の天皇」が正式に手掛け、遂には「新撰姓氏禄」たるものがまがり乍らも編纂されたと考えられる。

筆者は、この計画は正式には「最初の淳仁天皇」の前の“「持統天皇期」”から既に企画されていたと観ている。
「官僚族に成り得る姓族の賜姓」とは別にして、この新しい「皇族賜姓臣下族の賜姓」、つまり、「臣籍降下の賜姓」を始めた「天智天武の意向」を継承した「持統天皇期」にあると観ている。
その「根拠」と成るのは、「日本書紀」にも記されている“「天武天皇の発言」”にある。
それまでは、「朝廷内の高度な専門性の持った官僚族」は、殆どが「蕃別」に記された「後漢からの渡来人」であった。

(注釈 改革を進める上で、「天武天皇」は「進む改革」に対してのその進捗状況を官僚から聞き、「家臣・官僚」に厳しく問いただしていて、その「問題点」を指摘され、その事に対する「命令」を下している行である。)

つまり、前段でも何度も論じられた「阿多倍王」に率いられた「後漢の部の族」と云う族で、その専門域を「・・部」と云う呼称で括り、「極めて優秀な官僚族」で占められていた。
“「大和の民の官僚族」が育っていない“と云うその事を憂いた「天武天皇」は、官僚の部下に”「大和の民」にも「優秀な民」を選んで早く「姓(官僚族)」にしなくてはならない”と命じている。
「後漢の部の民」は、「高級官僚」としてその能力を発揮し、「朝廷の三務」、つまり、「大蔵、内蔵、斎蔵」の「部造(べのみやつこ)」として「賜姓を受けた姓名の持つ官僚族」が殆どを占めていた。
最たるものは「伴氏]や「秦氏」や「物部氏」や「鞍作氏」等多くいる。

(注釈 これが「新撰姓氏禄」の「蕃別」に所属する「姓族」の事であるが、「斎蔵」が「神別」に所属する「藤原氏等の姓族」の事である。)

「後漢の渡来人」の「阿多倍王」の長男はこの「蕃別」に所属し、且つ、「賜姓族」でもある「征夷大将軍の坂上田村麻呂」もそうであるし、三男の「賜姓族」の「安倍氏に繋がる内務大臣・財政の内蔵氏」、次男の「賜姓族」の「九州域の後裔に繋がる全政務と財政の大蔵氏」は、最たる「渡来系の姓の官僚族」である。

この「日本書紀」にある「天武天皇の命」より、「大和の民の官僚族」に成る為の「姓の賜姓(本来の姓族の賜姓)」を受けていたのである。 
中国では「華国」のそれに見習い、「官僚」と成り得る「宦官制度」と云うものを敷いた。

(注釈 中国のそれに見習い「官僚試験」に受かり「賜姓」を受け「官僚」に成る過程を経る。)

この「天武天皇の命」を受けてから発祥した「大和の姓族」に対して「持統天皇」は、「華国の失敗」を招かない様に、その多く成り「勢力」を持ち始めた「官僚族の姓族」を整理していたのである。
この証拠は、「新撰姓氏禄」に記されている「蕃別族 404」と「神別族 326」と云われる間違いなく「姓族の官僚族」のその多さがそれを示している。

(注釈 「数値の信頼度」は別として、但し、分けて問題のある「皇別の姓族の多さ 335」は下記で論じる。)

故に、「垂仁天皇期」には、未だ「四六の概念」を敷く「氏名の賜姓の概念」はそもそも無かった事を示す。

故に、この「四六の概念」のそのものが、当時では”「氏族を表す象徴」”と成っていたのである。
況や、同じ「朝臣族」でも「四六の概念を持つ氏族」と、「持たない姓族」との「大きな違い」と成っていた。
従って、「四六の概念」を論じる上では、これを編纂した「新撰姓氏禄」と「氏姓制度」とは避けて通れない「青木氏族の歴史観」としては論点と成るのである。

(注釈 更に進めてそもそも、そこで「日本書紀」にある“「鳥取造」”とは、「鳥取の守護王(遥任)」の代わりに「鳥取」の国に赴任する「国司」の事であり、“「姓」を賜ひて「鳥取造」と曰ふ”のこれを「姓の賜姓の原型」とする「後期の研究論説」には少し無理があると考える。
それは先ず「姓」に「官僚の役職」の「造(みやつこ)」を着けるのは当時の「官僚の慣習、又は掟」からしておかしい。
況して、一般の会話の中で使うのは吝かではないが、官僚が作る「日本書紀」と云う正式な公的な書物の中では疑問である。
先ずあり得ない事である。単に「姓」なら“「鳥取」”で良い筈である。)

(注釈 筆者は、次ぎの様に「守護王の施基皇子」の「伊勢の国司代」であった「伊勢造三宅連岩床」と同じ様に、“「鳥取造」”は、「赴任先の役職名」であり、依って「朝廷」が出す「赴任命令」であって、本来の正式なものであるのなら「三宅連」の様に「鳥取造・・・・」とし、冠位の後ろの「姓」の後に「連」か「宿禰」等の「八色の制等の官職位」を着けて「名」を入れる事に成ると観る。
依って、単なる「赴任命令」であったと考えている。
従って、“「姓」を賜いて“の文言は、「姓名」の「賜姓」を受けた上での”鳥取の国司に任じられた“とする表現であろう。
この研究論文では、例え、「垂仁天皇期」であっても既に完成していた「中国の冠位制度」に習い「賜姓」には、必ず「冠位」が伴う事の知識が欠落している。)

(注釈 少なくとも当時には、「家臣」、つまり、「姓の官僚(家臣)」に対しての「厳格な朝廷の掟」であったとするならば、上記の「慣例」に依って「鳥取の国司並み」に成るには、「賜姓を授かった事」と同じ結果を意味するのであるから、その「姓」は「湯河(ゆかわ)」であって、その「名」は「板挙(たな)」とすれば上記の例に観る様に、唯、「八色等の冠位」は無いが「伊勢造三宅連岩床」と同じ事に成る。
つまり、「鳥取造湯河・板挙」と成り得る。)

(注釈 何故ならば、国司、又は国司代に成るには、そもそも、既に、先に「姓」を持っていた位にいて、「連」か「宿禰」等程度の冠位を獲得していなければ、且つ、無冠であっては、成れない掟の朝廷の「官僚の役職」であった。
つまりは、「姓」を持たない「官僚の者」には”「造」”は無いという事である。
そもそも、「官僚」である限りは「姓」が無いという事は無い。
先ずは先に「姓」なのである。中国の「華国の家臣に対する儀式」も同じである。)

(注釈 「聖徳太子」の「冠位十二階制度」、「七色十三階冠制度」、「八色の姓制度」等の施行は「聖徳太子前の政権」や「王朝や朝廷」から引き継がれてきたものを纏めて「律令の下」で正式により確実に制度化したもので、これらの元は急に出来たものでは無い。
「垂仁天皇期の記録」にも「・・宿禰等の冠位」が散見できるが「造」は上記の冠位では無くその「官僚族の下位の階級」を示す。
そして、その「造等の役務」とは別に、「冠位」としての始まりは「聖徳太子期」にあり、これに「律令」を加えて完全に正式化したのは「天智天武期」にある。
その中で「それまでになかった概念」の「特別な意味(「賜姓五役)・「四六の掟」・「四掟」)を持つ「臣籍降下の賜姓族」の発祥であった。)

以上の「注釈」に依って“「賜姓と云う前提」”と“「新撰姓氏禄」”の「予備知識」を持った上で、更には論じる。
そうでなくては「下記の論の意味合い」の理解に差異が生まれるだろう。

さて、これならば「天皇家」自らが「権威と象徴」を保つ為に「武力や純血性」を充分に保持しなくても、“「臣籍降下の賜姓族」がこれを裏打ちしてくれる”と云う手段(安心の“保障手段”)を用いた事に成るだろう。

逆に言えば、「中国の華国」より始まった「家臣に成る姓の賜姓の儀式制度」には、「中国の史実(50年経緯)」の事を学んではいたが、ところが「大和」ではその「高位の家臣(官僚族」」に対しては中国に比べてそれ程に「信頼」を持っていなかった事にも成る。
故に、「青木氏族や佐々木氏族」の様な「身内の皇族」より「臣籍降下」で「賜姓」して信頼のおける「家臣(官僚)の儀式制度の確立」を特別に図った事にも成る。
これが「天皇家の権威と象徴」を裏付ける「純血性の保持」にも繋がるものと成ったが、それを「天皇家」の”「六四の掟」”より下げて「臣籍降下の賜姓族」として”「四六の掟”」とした事は、裏を返せば、ある程度の「純血性の保持」を、或いは、引き継がせていた事にも成る。
そして、天皇家自らが「賜姓する事」だけでは無く、「権威性を保させる事」の為にも近い「純血性の掟(四六の概念)」を「引き継がせる強い意志」を持っていた事にも成る。

だから、この結果として「青木氏族や佐々木氏族」が引き継いでいたのであるから、「権威と象徴」を保てる「天皇家の純血性」は、「孝謙天皇期」の「直前」までは何とか「六四の掟」以上のその程度には保てていた事にも成る。
唯単に、「現在の定説」、即ち、これは“「皇位継承者」が「直系尊属内」に居なかったという事”では済まされない事態に成っていた事なのである。
「純血性の保持」の「自体」が、形式上は「傍系尊属の外孫王」の中にあったとしても「天皇家」の中には、最早、出来ていなかった事に成る。

注釈として、重ねて云うと、「孝謙天皇期」には、「中国の歴史」の例に漏れず「外孫王の背景」、即ち、「傍系尊属(家臣)」、或いは、「傍系卑属(家臣)」、将又、「姓族」が、「天皇家」より力を持ち過ぎた結果の所以でもある。
「孝謙天皇期」では、最早、それを続ける事が出来なく成った事をも意味する。

結局は、「中国の歴史の経緯」とは違い、既に「四六の概念」を敷く「四世族」を遥かに離れ「直系尊属」では無く成っているにも関わらず、依然として「過去の経緯」から頑なに「四六の概念」を敷いている「青木氏族」に「白羽の矢」が立てられた所以とも成る。
それと共に、その「特別な意味」を持つ「臣籍降下の賜姓」の「キー」は「四六の概念」とも成ったのである。
然る事乍ら、それよりも、「四六の概念」を敷く「妾子族」のそれに裏打ちされた“「絶対信頼」”にあった事を意味する。

「青木氏族からの歴史観」として観れば、この様に考える事が出来る。

然し乍ら「白羽の矢」の当たる「青木氏族等」に執ってみれば、それは単に、“「賜姓」と云う事”だけでは済まない事なのである。
つまり、そこで授かった「賜姓」に何かを持たせる事に成らないと“「裏打ちの手段」”とは成らないからだ。
その事が「青木氏族や佐々木氏族」にそっくり任されていた事に成る。
この「何かを持たせる事」の如何に依っては「妾子族の行く末」が決まる事にも成り得る。

(注釈 況や、「佐々木氏族」にはこの”「何かを持たせる事」”の如何に狂いが生まれたと観られる。)

もし、仮に唯単に、その「出自」が「直系尊属」と云う事だけであれば、「嵯峨期の詔勅」に見られる様に「源氏族」の様に「賜姓」だけで済む筈である。
これが無い「源氏族」と「その経緯」がそれを証明している。
上記した様に、「妾子族」に与えられた”「権威付け」”などに代表される「天智天皇や天武天皇等の行動」があったからこそ与えられる「象徴紋」等であって、全くこれが無い「源氏族」に「象徴紋」等の「権威付け」を与えられる訳けが無い。
所謂、「冠位役職」=「権威付け」=「象徴紋」であって、「詔勅の文章」を観ても判る様に「権威付けの行」は全くない。
何時の世も「権威」の無いものに「権威を象徴する象徴紋」等は論理的にあり得ないし、そんな政治は自らが「権威」を否定している事に成り出来ないだろう。行く末は判る。

故に、「令外官の様な役職」は元より「象徴紋」も与えられなかった「源氏族」は、結局は、他の「慣習仕来り掟」は別としても「嵯峨期の詔勅と慣習の禁令」に依って「青木氏の象徴紋(笹竜胆紋)」だけを上記した「源の呼称由来」の言葉通りに理由づけて用いた事に過ぎない事が判る。
ところで、そもそも、「理由付け」したこの「用い方」に問題があったと筆者は観る。

先ず、この「青木氏族」の様に「源氏族」にはこれらの「権威付け・習わし」が、“「天皇」に依って与えられた“とする記録はどこにも無いのである。
むしろ、上記した様に「嵯峨期の詔勅とその慣習の禁令」の中の文章がそもそもそれを証明している。
つまり、「妾子族の権威性」を高める為に“「青木氏族の慣習仕来り掟」を何人も真似てはならない”とする「禁令」が記載されている。
“何人も”とある以上は、当然、「賜姓」を授かった「源氏族」であっても例外ではない。

注釈としてこの事は何度も論じている事ではあるが、唯、論理的には、「志紀真人族の青木氏族」の血筋を引き継ぐ「嵯峨源氏」だけには「慣習仕来り掟」の中でも「笹竜胆の象徴紋」だけは最低では使用は認められるだろう。
然し、その「嵯峨天皇の自らの詔勅」がこれを否定している事には間尺が合わない。
少なくとも「目的と血筋」として観ても、「仁明源氏」までと成ろう。
後の源氏は「目的と血筋」からもそもそも論理性が無い。

同じく「笹竜胆紋」を「象徴紋」としている「近江佐々木氏」は勿論の事、嵯峨期以前の「賜姓の妾子族」であった「伊勢青木氏、近江青木氏、信濃青木氏、甲斐青木氏、伊豆青木氏」は当然に「嵯峨期の前の賜姓の妾子族」である以上は、「象徴紋の笹竜胆紋」を使えるし、その間も使ってはいるが、「佐々木氏の補完役の宇多源氏等」は「嵯峨期の詔勅」以降の源氏であり、且つ、「目的性や血筋性」からも論理的には使えない事は明白と成る。
これは筆者から観れば、これは明らかに”こじつけ”以外の何物でもない。

この「注釈」として、「笹竜胆紋」はある説では「源氏の家紋」としている説もあるが、仮に「源氏の家紋」とするならば、それ以前の発祥の「伊勢青木氏」を始めとする「近江佐々木氏、近江青木氏、伊勢青木氏、信濃青木氏、甲斐青木氏、伊勢と信濃の融合の末裔の伊豆青木氏」が「源氏族」でないので「無紋族の賜姓の妾子族」であった事に成り得て、「笹竜胆紋」では無い事に成る。
又、「源氏族発祥の以前」は、これらの「天智天武期の賜姓族の妾子族」には、上記した様な「確実な形の賜姓」が有り乍ら「象徴紋」が無かった事に成り得て矛盾であり、「日本書紀の記述」等を否定する事に成る。
そんな事はあり得ず、「青木氏族や佐々木氏族の存在」そのものが否定される事に成る。
「嵯峨期以前の歴史の氏族 妾子族」から観ても、「日本書紀」もその後の「累代三代格等の書籍」にも記述があり、「青木氏族」が持つ記録や遺賜品などにも証明するものが有って、現実に使って来ているのであるのだから、これらから観ても、「笹竜胆紋の使用」は「源氏族のこじつけの使用」と成り、「歴史の識見の高い多くの歴史家」も筆者と同じこの説も取っているのだ。

まあ、無理に論理性を持たせば、「象徴紋と家紋の差」とも云えない事も無いが、「嵯峨源氏と仁明源氏」が使っていたので、”我々も使ってもよいとする発想であった”のであろう。
「家紋」であれば「姓族」である事に成る故に、「新撰姓氏禄」では「源氏」は「姓族」に分類されている事からもそれなりの妥当性は出るだろう。
となると、「同紋使用」は「禁じ手」であった当時の慣習からは逸脱しているし、「嵯峨期の禁令」にも触れる行為と成る。

だから、「目的とルーツ」から「嵯峨源氏と仁明源氏」までとする説とし、後は「摂津源氏」を除いたとして「成り行きのこじつけ説」に成るのだ。
唯、注釈として上記で論じた「清和摂津源氏の四家」が使用しているのは、「伊勢青木氏」を始めとして「近江青木氏、信濃青木氏、甲斐青木氏、伊豆青木氏」と血縁を結んでいる事から「象徴紋」にしろ「家紋」にしろ「笹竜胆紋」は使えるし、場合に依っては禁令の「慣習仕来り掟」も使えるとする論理は成立つ。
「摂津源氏宗家」が「四家制度」を採用していた事は判っているが、「准皇位継承権」などの「権威付けの四六の概念の採用」は無い。
然し、「分家の河内の清和源氏」は少なくとも「源氏族のこじつけの使用」の範囲であろう。
何にしても、「嵯峨天皇以降の源氏の笹竜胆紋」の使用以前には、「五家五流の青木氏の象徴紋」として、且つ、「賜紋」として「笹竜胆紋」は使っていた証拠があり、将又、「青木氏の平安初期の古記録」や「賜物の遺習物の刻印紋」にも観られ、「日本書紀」にも記載がある以上は「源氏族のこじつけの使用」と成り得るのだ。

そもそも、何をか云わんとするは、”「四六の概念」を敷くか”は、この「象徴紋の使用の前提」とも成っている事なのである。
「象徴紋」などは”「四六の概念」”がその「数少ない氏族」に無ければ使えないとする前提であって、「嵯峨天皇の禁令の前提」と成っているのである。
依って、”「四六の概念」”の敷かない「源氏族」はどんな理由があろうが原則使えないのである。

「賜姓族」、将又、「妾子族」の前提は、この”「四六の概念」”の中にあって、始めてそれに依ってその「権威」が保てるのであって、その「保てる事」を証明するものが「象徴紋」なのである。
「源氏族」が、この”「四六の概念」”を敷いていたのであればいざ知らず、敷いていなかった限りは「象徴紋」はあり得ない事に成る。
これが「象徴紋」の「笹竜胆紋の前提」であるのだ。

尚更に、「源氏族」には、正式には「花山天皇」までの「11家11流」まであるが、然し、これらの「11家」の「賜姓時」の度に「象徴紋の笹竜胆紋」を与えたとする記録は何処にも一度も無く全くない。
当然に、「四六の概念の記述」も全く無い。
従って、せめて、「嵯峨源氏と仁明源氏」は記述は無いとしても、その「流れ」からは考えられし、「血縁」と四家の「四六の概念」に近い「慣習仕来り掟」を持ち得ていたので、この結果から「摂津源氏」もあり得るだろう。
そもそも、これは「権威のある氏族の妾子族の象徴紋」であり、「姓化した源氏族」には論理的にあり得えず、上記の”こじつけ”の説と成る。

まあ、百歩譲って、”「四六の概念」”の無い「姓化した族」であるから、「笹竜胆紋」を「象徴紋」では無く「家紋」として観れば、我慢は出来る。


そこで、「四六の概念」の理解上もう一つ解き明かさなければならない疑問なのは、この「禁令」には、“「青木氏族と佐々木氏族」“とは書かれていず、”「青木氏」”だけである。

この事は「佐々木氏の研究書」にも明確に記述されている。
上記の「象徴紋の条件」の行に合致し、且つ、「四六の概念」を敷いていた「近江宗家の佐々木氏」の記載があっても不思議ではない。
これは”何故なのか”はよく判らないが、兎も角も、当然に、「青木氏族と佐々木氏族」が敷く「四六の概念」がこの「慣習仕来り掟」の中に含まれている。

つまり、恐らくは上記した様に、“「青木氏族や佐々木氏族」の様な「身内の皇族」より「臣籍降下」で「賜姓」して強引に「信頼のおける朝臣族」を「妾子族」で創設した事は上記した。
この基と成った「臣籍降下の賜姓の儀式制度の確立」を図った事”に従い、そこで態々この「儀式の差 (イ)」を付け、更に「禁令の差 (ロ)」で縛った。
この「二つ(イ)と(ロ)」に護られた「青木氏の慣習仕来り掟の前提」は、”「姓制」の持たないこの「四六の概念」”、つまり、「青木氏の慣習仕来り掟」に影響する事が前提とも成っていたと観る。
この事から考えて、敢えて(イ)と(ロ)を持つ「四六の概念」を敷く「佐々木氏族」を記載する事にしなかった事に由来すると観える。
この(イ)と(ロ)が、”「佐々木氏族」そのものを保証する”と観ていたと成るだろう。
唯、”「佐々木氏族」も記載してはいいではないか”と考える事も出来る。
然し、この「記載有無の差」が、”「志紀真人族の青木氏族の嵯峨天皇」であった”と成るだろう。

「嵯峨期の禁令」が、”「妾子族」の「青木氏族や佐々木氏族」を「権威づける目的」であった事”は云うまでも無いが、(イ)と(ロ)から観て、「四六の概念」を他の「氏族や姓族」に敷かせない目的があった事も強く考えられる。
何故ならば、この「四六の概念」が「他の氏族」に広まる事は、それだけに”権威性が低下する”と云う懸念も持ち得ていたとも考えられる。
「孝謙天皇期の外孫族」に観られるように、”恣意的に権威性を獲得しよう”とする「氏族の勢力」が表れていた事も充分にあり得る。
現に、「嵯峨天皇の嵯峨源氏」でさえも(イ)と(ロ)の適用を受けていない位なのであるから、この事の配慮は充分にあっただろう。
これは、「禁令」では無く「嵯峨期の詔勅」のそのものの文面でも判る。


これには後勘から観ると、唯、気になる事がもう一つあって、「天智期から嵯峨期」までに、それは「近江佐々木氏族の宗家族」は別にして、「傍系尊属」には「佐々木氏族の一門」より「姓族」を多く出した事に関わっていたと考えられる。
嵯峨期の前後には既にその様な「姓化の兆候」が「近江佐々木氏」にあったのではないかとも考えられる。

「青木氏族」の様に、「絶対に姓制を敷かなかった氏族」では無く、「傍系族」とは言え「姓制」を持った「近江佐々木氏族」には“「絶対信頼」を置けなかった事”に成るであろう。
つまり、「近江佐々木氏」は「四六の概念」を敷くが、その「四六の概念の信頼度」を疑問視した事を示している。
「近江佐々木氏宗家」の「四六の概念の統制」が「青木氏族」ほどに十分では無かった事も考えられるし、況して、「青木氏族の後裔の嵯峨天皇」である。
その点では、当然の事として「記載の事」に付いては厳しく考えていたのであろう。
「青木氏族」は「四六の概念」を始めとして、「四家制度」、「妻嫁制度」、「四掟」、「青木氏氏是」等で「姓族」を出さない様にしていたが、取り分け、その「証拠の前提」と成る”「青木氏氏是」”は、その「青木氏族の勢力」を表に出す事を禁じた掟であって、「嵯峨天皇」はこの「青木氏氏是」を始めとした制度を身を以って体現していた人物でもあり、ここに”「信頼」”の基点を置いていた事にも成るだろう。

この様に「佐々木氏族」に対する「見方」とその「信頼度」に付いては間違いなく違っていた筈である。
故に、「詔勅の禁令」までには「佐々木族」を書き込まなかった所以であろう。


さて、そこで次に気になるのは、「光仁天皇の孫」に当たる「青木氏族の嵯峨天皇」が、上記の「詔勅と禁令」と共に、「氏族志」を見本編にした「新撰姓氏禄(妙記)」で周囲の反対を押し切って編纂してこれを態々慌てて書いて公にしたと云う事である。
これは、少なくともこの時期までは「青木氏族」の中には、この”「経緯」と「歴史観(概念)」”が強く伝えられていた事にも成る。
所謂、この“「四六の概念」”が「青木氏族や佐々木氏族」にある事を知った上での事であったと考えられる。

前段に戻ってみて別の面からの「経緯」としては、そこで、妥協して「外縁族(傍系卑属)」を入れる事無く、「四六の概念」に切り替えて最大限に保っていた「青木氏族」に上記の「詔勅の禁令」に至るまでの”「歴史的経緯」”を「青木氏族」の中に持っている事を「孝謙天皇」が知っていて、”「白羽の矢」”がこの「経緯」に従って当てられたと云う事に成るとも考えられる。


さて、然し、そこで”「孝謙天皇の白羽の矢」”が立ったとしても”「四六の概念」”であってもこれの保持を前提とする以上は、無暗に条件を緩める事無く「公家族」と「武家族」、或は、「真人族」(最大48)と「朝臣族」(最大101 30%)からの「数少ない氏族の血筋」から必然的に求めなくてはなら無く成る。
変化の起こる歴史の長い期間の中でこの事が永久に成し得ない事は直ぐに解る。

例えば、注釈として、鎌倉期の末期から戦国時代と下克上の時代に掛けて次第に上記した様に「純粋な賜姓」を受けた「48もの氏族(真人族の15%)」が、「身分や権威」だけに頼っていた結果、「自己を防御する戦力(武力)」を保持し得ない侭で完全に近い形で淘汰されて行った。
之は儘ならない「生存競争の中」では当然と云えば当然である。
「四六の概念」としてはこの侭では成し得ない。

例えば、「逸記」の多い「新撰姓氏禄」の中だけに従えば、「101の関係氏族」では記録では「20程度」に成ったとされていて、「純粋な48の氏族」は筆者の調査では厳密に「慣習仕来り掟」を護っていたとされるのは「5氏」だけに成るのではないかと推測される。
これでは到底、「四六の概念の維持」は無理であった筈である。

注釈として、念の為に、その前に、「嵯峨天皇の編纂」と云われるこの「新撰姓氏禄」の研究書は多くあるが、そもそも「目録」だけに編集された「抄記」であって、且つ、「逸記」であるが故に、そもそも「嵯峨天皇」自らの出自の「春日真人族の四世族後裔」の「施基真人族」や「川島真人族」の直系の後裔「青木氏族や佐々木氏族」は、矢張り「逸記」されて書き込まれていない。
そもそも、これは次の事から来るのかも知れない。

「光仁天皇と春日宮天皇」に成った事で恣意的に「逸記」したのかは分からない事。(A)
「5割の抄記」と云われる事から逸脱したかも判らない事。(B)
「本文」の無い「抄記」「逸記」である事。(C)

以上の事から止むを得ない事も考えられる。

然し、「研究書」に依っては「日本書紀」にも記されているこの「敏達天皇」の「春日真人族の後裔」として「志紀真人族」や「川島真人族」が書き込まれた研究書もある。
唯、脱落している書もあるのは、何故に「逸記」し「脱落」したかは筆者の研究が未だ行き届いていない。
恐らくは、筆者はこれは「研究書のレベル」によると観ている。

筆者は、(A)の説を採っているが、その理由は、現在では、「追尊の春日宮天皇(施基皇子)」と、その四男の「光仁天皇の出自元」とした以上は、編纂に当たって「嵯峨天皇」自らがそれまで「志紀真人族」で「臣籍降下の朝臣族」から「元の真人族」に戻したとする説(A)を採っている。
そうでなければ、「臣籍降下の朝臣族」から「天皇」が出ると云う事はいくら「四六の概念」等を持った「氏族」とは云え、一度外に出た「氏族」である以上は論理的にあり得ない事に成るからである。

その「根拠と裏付け」は、「始祖の施基皇子」は「皇太子」を遥かに跳び超えて「天皇」に継ぐ「永代浄大一位」にあったからと考えられる。
そうなると、「永代浄高二位」で「四六の概念」を持つ「臣籍降下の賜姓」を授かった「近江佐々木氏の始祖の川島真人族」(宗家族・直系尊属)をもその侭にして置く事は論理的に無理が出る。
依って、「歴史研究者」では無く、「嵯峨天皇」が見本にした「中国の氏族志」に拘わらず恣意的に敢えて「逸記の命」を下したと観ている。

(注釈 この「新撰姓氏禄」は815年に「編纂」は取り合えず終了したが、「公表」はその前から編纂者の中に「反対」が多く、遅れて815年に成ったとされ、最初の「嵯峨源氏族」の詔勅は814年であるとすると、「源氏の詔勅」を出したからと云って直ぐには行かない。
当然に「源氏族(皇子23 皇女17)」が出るまでには時間がかかりこの偏纂には間に合っていない筈である。然し、記載されている。
況して、「近畿圏」としながらも、この多くの「嵯峨源氏」は地方に飛散し、その中でも「皇親族」として左大臣として勢力を張った「源融の末裔」でさえ、中国地方の日本海側の米子の東付近に「土豪」として末裔が潜んで生き延びていた。
然し、後に「清和源氏源満仲」が「武力集団」を形成する際にこの「嵯峨源氏の末裔の土豪」を呼び寄せ摂津に住まわせた。
この事で摂津域に「嵯峨源氏の末裔」が多くの「姓」を拡げた。
この事は記録からも知られていて、これに付いても「逸記」である。
従って、そもそも、「朝臣族」の中に「源氏族」が記されている事の事態が、そもそも大いなる疑問なのである。
他にも数多くこの815年代以降の「姓族」が記されていて、これは明らかに後勘での「逸記」(追記)に他ならない。)

(注釈 更には「清和河内源氏の末裔」の「姓」の「室町期の姓」も多く含んでいる。
これが「後付け」の何よりの証拠である。)

著書を出した数人の研究者も「本文」がない事に依る“「江戸期初期の後付け」”と観ている。
つまり、「江戸幕府の権威付け」の「政策の一環」として大名を始めとして「武士」である事を確定する為の「黒印状」を獲得する為に、課せられた条件をクリヤーする必要に迫られた。
この為に、その「ルーツ」を搾取し「不確定な過去の資料」に多くは偏纂を加えた。
この槍玉にあげられたのが、「本文」の無い「不確定な抄記と逸記」を持つこの「新撰姓氏禄」が「格好の的」と成ったのであったとされる。
所謂、これが「後付け説」である。

これを「片識の研究者」が前提として著書とした事が、「新撰姓氏禄」と思われてしまっている事の所以であろう。
筆者もこの意見に賛成であって、嵯峨期の当時の本記の編者の反対は、下記した様な「不確定な理由」で「逸記の多い事」へのここにあったと観ている。)

「新撰姓氏禄」には「抄記」で「逸記」で有り乍らも上記の様に、「青木氏の歴史観」を説明する事に関わる事が多くあり、この「予備知識」を前提に更に論を展開する。

さてそうすると、この「新撰姓氏禄」に、「敏達天皇の一族春日真人族の四世族」としては位置づけされてはいるが、別に、天皇家に継ぐ「四六の概念」を保持していた「志紀真人族」として記載を避けたとしても、「志紀真人族」であるとする以上は否が応でもこれでは「青木氏族や佐々木氏族」が採っていた”「四六の概念」”にも、絶対に「四」をその侭にしても論理的には「六の入り」を変えざるを得ない事が判る。

それにしても、”「六の入り」を変える”と云っても、当然にそれに依って”「四が薄くなる現象」”が必然的に起こる。
つまり、これに依って「青木氏族や佐々木氏族」としての「存在価値」は、必然的に低下する事に成る。
何時かは、結果として“「姓族化する」“に相違ない。
そこで、より長く「姓」を持たない「氏族」を保つ為にも「四」を何とかその侭にして「六の入り」を変えるには、“「入れ方如何」”を変える以外には無いと判断したと成る。

つまり、これが「青木氏族」の執った「四家制度」等での“「女系族の入れ方」”に成る。
但し、これにも前段でも論じたが、無限にこの方法が一定に出来た訳ではない事は判る。
「大化の改新」の様に「上記の改革」を推し進めたとしても、矢張り、何時かはその効果は低下するは必定で、これは止むを得ない事ではある。
然し、「孝謙天皇期」に観られる様に、”「天皇家の権威の前提」と「純血性」”に拘る以上は、同じ様に矢張りそこには”「限界」”が起こり「時代性」に依って“「変化」”が起こっていた事は明らかである。

(注釈 「中国の歴史」に観る様に、中国もこの”「変化」”に対して「貞観氏族志」に依って見える様に何とかしょうとして頓挫した。
この「頓挫の氏族志」を編じたのを学習しての同じく「頓挫の歴史を持つ新撰姓氏禄」である。
依って、態々、“「新撰」”としたのであって、「青木氏族」等の「四」に拘った「四六の概念」であったとしても「純血性の維持」の結末は、どんなにしてもある「一定の時代経過」に左右されてこの”「限界」”が起こる事を知っていた事にも成る。)

(注釈 この「二つの書」の「頓挫の原因」は、況してや「氏族」だけでは無く、主に多く成った「姓族だけの禄記」であった。)

(注釈 その「頓挫の無理の原因」のそれが顕著に出てきたのが、「孝謙天皇期」であって、その”「トバッチリ」”が「自分の出自元」に出た「逃れ得難い因縁」があり、余計に無理にしても「編纂」を試みた事も考えられる一つである。
然し、何れにしても何時の世もこの種のものは“「利害」”が多く「反対」に見舞われる。
前段でも論じたが、正式には「淳仁天皇期」から始めたものとされているが、実際は歴史的には以前にもテーブル上には出て何度も「反対」に合い結局は挫折し、この「新撰姓氏禄」も例外では無く何とか編じる迄には至った。
それだけに「利害に伴う編者の思惑」が出て「酷い逸記」に成り得たと観える。)

(注釈 筆者は、そもそも、正式な「酒瓶と賜姓の儀式」を受けていない「335の姓族(正しいとして)」を”系統的に網羅する事の事態”がおかしいと観ていて、正式な「賜姓族の氏族」が全体の「15%の48氏」しかない中で、自由に「姓」を名乗っていたものを寄せ集めて編じる事は当然に必然に“「利害の温床」”と成り得ると観る。)

(注釈 「嵯峨期の詔勅」で、これに従って「自由」であるが故に「自由な姓名」には「制限」が編纂と同時に掛けられたのである。
「青木氏族や佐々木氏族」などの「賜姓族氏族の慣習仕来り掟に関わる名詞」、勿論に「氏族に似せたもの」等を「姓名」にしては成らないとする歯止めをかけた。
然し、結局は、彼らは「地名」かのである、或いは、「由緒ある土地の特徴」以外を「姓名」にする以外には無く成ったのである。
この「慣習仕来り掟の禁令」は三幕府の保護もあって明治3年まで原則護られた。)

注釈の「新撰姓氏禄」の偏った編纂による”「利害の温床」”の発生に付いては、載せられた「姓の者」には「利」が生まれ、載せられなかった「姓の者」には「利」が著しく損なわれるのは当然の事である。
況してや、「近畿圏内に限られての事」とした場合、大半の圏外の「有力な姓族」は公的に認められなかった事として「利」が著しく損れる事と成る。
ところが、例え圏外と云えども、都より赴任している「姓族」、のみならず「賜姓族」や「四世族の真人族」の「守護王の後裔」や果ては官僚の高官の「国司の後裔」も近畿圏よりも多くむしろ多く存在する。
これらの者には「冠位を持つ上位の者」が多く、且つ、数も近畿圏のそれに比較には成らない。
そもそも、「地域限定」そのもので編纂する事は当初より無理である事は明々白々である。
当然に「反対者」も出るは必定である。
中には、都より赴任していた九州全域を統治していた「賜姓族」で「高位の冠位」を持つ「日本書紀」にも記載される「四世族の大隅王の三代の末裔」等はどうなるのかと云う大問題も生まれる。
例えば、北九州全域にその後裔を拡げ赴任していた「朝廷官僚族五大氏の伴氏」や「南九州域の官僚高位族の市来氏」はどうなるのかと云う大問題も生じさせている。
何も「血縁」は、そもそも何も「近畿圏の中」だけで起こる事では無く、遠く九州からも足を運んで血縁する事も頻繁に起こっている。

(注釈 現に、曾孫である「嵯峨天皇」の祖の「施基皇子」であった「妾の母」は「越の国」から来ているではないか。知らない訳は無い。)

むしろ、「血縁の事」を考えれば「遠い方」が良い事は判るし、「青木氏族」や「佐々木氏族」でも中部域の「五家五流青木氏」、関東や北九州からの「秀郷一門の青木氏」との血縁も現実に起こっている。
そもそも、「純血性の弊害」のみならず「四六の概念の保持」に依る「血縁の格式」を確立させるとしても、その「目的の範囲」で編じるのであれば、次ぎの様に成る。

(1)「正式な酒瓶儀式」を受ける事
(2)「正式な賜姓儀式」を受ける事
(3)冠位を持った「氏族と姓族とその後裔」に限るべき事

以上ではあった。

これならば、朝廷が認証しているから文句は出ない。
自らが文句の着けようもない”「四六の掟」”を敷いていたその「三代目の後裔」であるのに、「血縁の弊害」は、そもそもその範囲での事であり、少なくとも「姓族」には大きくは及ばない事でもあり、「編纂の強行判断」はどの様に考えても普通は“「不思議な事」”ではある。

当初は、前段でも論じた様に、「補完役の秀郷流青木氏族(960年頃)」を始めとして一門からその「源流の元」を得ていたが、「四六の掟」でさえも何時か起こり得る終末期を迎える。
これを防ぐ為に、江戸初期頃には「氏族」を「氏人」として広範囲に構成する「郷士との繋がり」からも「源流の元」とせざるを得なく成っていたのである。
つまりは、「四六の概念」の「青木氏族に起こった限界」は、「江戸初期前後」にもあったという事に成る。

それは前段でも論じたが、「殖産の拡大と云う事の手段」のみならず、「嵯峨期頃」から改善を加えて来た「四六の掟」にも限界に至っていた事にも成っていたのである。

矢張り、最早、「限界」に至りこの「室町期末期」からはより「源流を拡大する手段」に陥っていたと成る。
然し、「四六の概念」が崩れそうに成ってはいたが、ここでも頑なに「姓族」までは広げなかった。

「補完役の秀郷流青木氏族の源流 1」と「青木氏の氏族を構成する郷士の源流 2」に頼る事と成って行った。

そこで、これが百々の詰りは、この「四六の概念の限界」を知り、“「六の入り」の「入れ方如何」”と成ったのである。

(注釈 この傾向から考えても、問題の起こった「孝謙天皇期頃」には、「天皇家」と血縁を結べる「純粋な氏族」は、最早、「48氏族」では無く、問題の持つ「新撰姓氏禄」に関わらず本当は既に「数氏」に陥っていた事に成るだろう。)

(注釈 前段でも論じたが、「青木氏族の光仁天皇(施基皇子の子の白壁王)」の孫の「嵯峨天皇(山部王の子)の新撰姓氏禄」を慌てて未完成のままで世に出すという「編纂の意味」も敢えて云えば一部はここにあった事も否めないと観ている。
つまり、「奈良期からの四六の概念」を弱めた所謂、「青木氏族の四六の掟」を敷かないまでも、“「姓族」”としては、それなりに「ある程度の格式」を維持する為に「何らかの慣習仕来り掟」を持っていた事は否めない。
唯、”「四六の概念」”の様な格式張ったものは無かった筈で、有れば、それに拘れば衰退を余儀なくされるは必定で、「間口を広げて身を護る事」は「姓族」であれば「常套手段」として当然の事であって、その為に“「武力の容認」”が認められていた事にも成る。)

従って、「自由な姓族」にも「社会の血縁の動き」が、「勢力」を獲得すればそれなりに格式化して閉鎖的に成り、「血縁の範囲」が狭まり「弊害」が出始めていた事にも成る。
これが”「別の意味(武力の容認)」”としても読み取れる。
然し、「天皇家」の中では無くて、財政的理由を下に各地に散在した「数多くの真人族」を臣籍降下させ「姓化」した事から、「氏族と姓族」にも夫々の社会にある程度の「格式化」が起こったとする論も考えられる。
現実には「四六の概念」と迄では行かないが起こっていた事は記録でも事実である。
故に、「賜姓氏族」ではない「ある程度の格式化を持つ族」に対して“「姓族の禄」”として出したとも成るが、この「姓族の禄」に「記載された族」には「記載され得なかった族」との間に差異が生まれ却って「格式化」を招く事にも成ったらしい。

(注釈 ここで云う「姓族」とは、「官僚に成る為の儀式を受けた姓族(「平安期からの官僚族の姓族)」と、室町期中期から無制限に出自した海部族等に代表される「自由な姓族」とがある。ここでは前者の「三分類される姓族」を云う。)

(注釈 上記注釈について、唯、「新撰姓氏禄」の「姓族の禄」の「分類の仕方」にも問題があって、「皇別、神別、蕃別」の三つに分類され、且つ、研究書によればその「同門後裔」迄に分けられている。
「同門、後裔」まで分ける事には、取り分け問題は無いが、そもそも、「皇別」は兎も角も、「神別」は「天孫降臨期」からのものとして何の証拠もない「姓」が多く書かれている。
「皇別」と「蕃別」には入らず、然し、古くから「高位の官僚族」を形成している組み入れ難い「姓族」を「神別」のここに組み入れたと観られ、これで批判を増幅させたのであろう。
ここに「本文の無い本禄」に「江戸期の後付け」の「醜い戦術」が起こった事を注釈する。)

(注釈 そこで、「新撰姓氏禄」に、“何故にそもそも「本文」が無いのか”と云う疑問がここにある。
普通であれば、「抄記」迄あれば「本文」はあるのが当然であり、「無い」とする処に意味があって、これが江戸期初期の「後付けの根拠を消す目的」があったと観られる。
筆者は、「本文の消失」は「江戸期初期説」と考えており、「後付け説の所以」と考えている。
「純仁天皇期」から勧められ「嵯峨天皇期」で兎も角も終止符を打ったが、この三期でも「紛失」や「放棄」や「停止」等のサボタージュがあった事は記録からも明らかではある。
この研究には、「全体の紛失」はあったとする記載があるが、「本文の消失」迄の事は書かれていない。
従って、「本文の消失」は江戸期初期と見做される。
故に、「嵯峨天皇期後の姓族の名」が多く書き込まれた所以なのである。
後勘で調べれば、”「後付け」”は直ぐに判る筈で、当時の混乱期の中では判らないだろうとする「低意識の余裕」が定着していた事に成る。これは世の常であろう。
現実に、「ある研究書」では、「姓族の説明」として”室町期の中期の発祥”と態々書いたものもある位で、極めて笑止である。)

(注釈 因みにこの「説明の族」の二つは、同族で「関ヶ原の戦い」で功を挙げ「近江の土豪」ではあったが、5千石と一万石を与えられて「伊勢長嶋域」に移封された「近江二宮氏の末裔」であったとされる。
その末裔が江戸期に「伊勢者」と呼ばれある「家紋」を持っている。
「説明の族」が記載されている事は、明らかに「新撰姓氏禄」のそれは逃れられない「黒印状の所以の仕儀」である事は明白である。
そもそも、上記した様に「注釈の姓族」には「室町期中期の前後」を境にして、更に「勃興」は二つに分けられる。
「中期前の最初の姓」は海部氏である事は記録で判っている。
この「伊勢者」と云われていた姓族も中期後の発祥である。)

さて、然し、「青木氏族」には「源流 1と2」があったとしても、この依然として「賜姓を受けた真人族の臣籍降下」の「氏族」が、敢えて「源流」を求めずに「四」に拘り、多少、後に「四六の概念」を弱めたとしても「四六の掟」の程度を敷く以上は、「同族血縁の弊害防止」に対する「情報の提供」は矢張り急務であったとも考えられる。
唯、「本文」が消されている限りはこの情報は無意味であるのだが。

そもそも、「本文の無い情報」は、「血縁弊害が出る慣習仕来り掟」の中に無く、且つ、後の時代には「自由に出来る姓族」には不要であった筈である。
故にも、三代以上も偏纂を試みられて「嵯峨期の前後」ではある程度の「本文的な情報」が既に有ったので、反対のある中で「逸記」の多い筈なのに完成を急いだ事も云える。
それ程に「孝謙天皇期の争い」の混乱期の中で「社会に与えた影響」が大きかった事を物語っているし、「嵯峨天皇」、果ては、「志紀真人族」等に与えた影響は大きかった事を物語る。
「孝謙天皇」に抗した「外孫族」も詳しくは判らないが、この点に「思想論理の原点」があった可能性がある。

(注釈 上記した様に光仁天皇期には偏纂する者等がこの編纂した書を隠してしまうと云う事が起こった。)

「嵯峨天皇期の詔勅」と、”同時期に世に出したという事”は、次ぎの様な事が考えられる。
「青木氏族」や「佐々木氏族」を始めとして、社会の中、取り分け、「335の皇別族(朝臣族)」と云われる「姓族」の中には、「原因」は別として「唖子を含む血縁の弊害」の様なものがある程度に蔓延していて、「国家的問題」に成っていた可能性があったとも観られる。
筆者は、それは「四六の概念」以上の慣習を持った「賜姓の氏族」では無く、「純血性の弊害」と迄ででは無く、「血液型の不適合」(遺伝子障害)か「抗うつ性症候群」(同族血縁障害)が蔓延し、これを「血縁弊害と捉えていた事」が考えられる。
故に、「氏族志」と違い「氏族」では無く「姓族」のそれとしたと考えると間尺が一致する。

(注釈 一部には縄文期に入って来た「結核菌」が蔓延し、これが集団で患う事から「血縁障害」とも捉えられていた事が判っている。
「研究」に依って「骨の状況」から判明していて、この状況は平安期頃迄続き「血縁障害」と捉えられていた事が判っている。
その後、貿易で中国から入った「漢方薬の薬湯」で治る事が解り、「血縁障害」では無い事が認識された事が解っている。
つまり、この様に「結核菌説」もあり考えられる。)

(注釈 そもそも「上記の注釈」のその根拠としては、現在、「日本の姓」は「8000前後」とも云われるが、「嵯峨期の近畿圏の姓数」は「新撰姓氏禄」の総計を前提で「約1200」だとすると、全国域で観れば五地域圏ではこの5倍はあったと観られ、凡そ、「6000の姓数」に成る。
然し、江戸期の「武士階級の姓」を持つ人口は、全人口の1割以下であったので、「8000の姓数」に対して「800程度」と見込まれる。
「江戸期の800の姓数」と「嵯峨期の6000の姓数」には差があり違い過ぎる。
江戸初期には「姓名」を持たない「農民等」から「武士」に成った者が多くを占め、且つ、合わせて「明治維新の苗字令」で9割以上の者が一挙に「姓名の苗字」を持った。
そして、この「二つの経緯」を経て「8000の姓数」と成ったのであり、嵯峨期までの「自然増」だで近畿圏だけで「1200の姓数」は違い過ぎて論理性が逆転している。
この崩せない前提条件の事から考察すると、明らかに「嵯峨期の姓数」は「1200程度」では無かった筈で極めて多すぎる。
これは「後付けの証拠」である
「時代の経年変化」として、「嵯峨期から江戸期」までの「約400年間」からも考えても、「バイアスを持つ自然増」としてこれを「1/4」としても、「300程度の姓数」と観る事が妥当であろう。
そうすると、「嵯峨期」では「全国の姓数は1500の姓数」と成り得て、論理性が出て来る。)

(注釈 上記の注釈から、そうすると「300程度の姓数」での「血縁」には「限界」が生まれ、その「姓族」の「周囲の血縁出来る姓数」は、どう考えても限られて「30程度以下の範囲」と成り得るだろう。
この「30の姓数」に対して血縁を何度も繰り返す事は不可能であり、「純血性の弊害」に含まれない上記した「軽度の遺伝子レベル」の「血液型の不適合」か「抗うつ性症候群」かが起こるし、更に、当時は平均寿命から観て平均年齢から8-15歳が「女性の血縁の適正年齢」で、現在は30歳-35歳でこれを超えると、「卵子は老化する事」は医学的に証明されている。
この「血縁年齢の低下」による「老化卵子に依る弊害(唖子・水頭症)」等の弊害が蔓延していた事にも成り得る。
現在でも依然として起こっていて社会的問題となっている事からも、当時としては尚更に「姓族」にとっては「逃れ得ない弊害」であった事に成る。
この「三つの弊害」は現在でも起こっていて、これを「血縁の弊害」として捉えられていた事に成る。)


再び、嵯峨期前の施基皇子期に敷かれた「氏族の四六の掟」以外の問題、つまり、「血縁の弊害」を克服する「氏族の四六の掟」(四掟基準)の施行、そして、同時期に「姓族に対する姓禄の偏纂」の喚起の二つがあった。

然し、その上記の「注釈の前」に戻って、これは“「氏族の四六の掟」”の維持する元と成る「賜姓五役の務め」としては、これを“「四掟の格式」”を前提としている為に、つまり、“氏族の何処からでも良い”、況してや、“「姓禄に記する姓族」の何処からでも良い”と云う事では無く成る。

そこで、「氏族」にはどうしてもこの「歯止め(「四六の古式の概念」から求めた四掟・基準)」が必要に成る。
その「氏族の歯止め」として、無暗に「姓禄に記する姓族」までに陥らない様にしながらも、厳しい「純血性の掟」を緩めて、例えば「位階」で云えば、「永代の従四位までの家筋」の範囲の血筋とした。
つまりは、「四掟の運用」を見直した事に成るだろう。
この「永代の従四位までの家筋の範囲」とは、記録から観てみると、多くは「四世族内か五世族の範囲」に留まり、ある程度の範囲で”「四掟の原理」”が成立している。

(注釈 「姓族」は、上記の「新撰姓氏禄」で「抄記や逸記」でありながらも、この範囲の中にある「姓の朝臣族」と云われる族を根拠として何とか無理にでもこの為に公表した。これは前段でも論じた)

前段でも論じたが、古い「帝紀や諸事紀」に観る様に、「朝廷の規則」にもその範囲を定めてある限り、その範囲を最低限に逸脱しなければ良い事に成る。
それは、「永代の従四位までの家筋」の範囲の「血縁の掟」は、「公家族」と「武家族」も「四家制度と家人制度」に「近い制度」を少なくとも敷いている訳であるから、多少の「同族血縁の弊害」を持ち込まれる可能性はあるにしても、「性」による役務上からの“「男系」“では無く、これは上記した様に「女系の理」、況や、“「人の理」が根本として成り得ている“と云う理屈が「青木氏族や佐々木氏族」にはあった事に成り得る。

つまり、ところが「佐々木氏族」は、この「四六の概念の維持」は、鎌倉期前頃には崩れ始め、全国に「佐々木氏族」の「氏族の中」に“「四六の掟」や「四掟の掟」”を緩めて「勢力保持」の為に「主従関係」を確立して「姓族」を作らせた。
然し、ところが「青木氏族」では、この為に「女系」を重視した「孫域までの娘」を「子の域部」として“「子の選択」”の範囲を広げる事の方法を選択したのである。
ここに違いが出た。
この「佐々木氏族」を外し「青木氏族」に「白羽の矢」を立てたのは、この「違いの差」を「孝謙天皇」は着目したのである。

(注釈 つまり、頑として「姓」を発祥させなかった。「佐々木氏」とは、この段階で生き延び方、況や、「四六の掟の維持」が異なってしまった。
「佐々木氏が編纂した研究書」にもこの種の事が書き込まれている。
その原因と成ったのは、「補完役」としての「秀郷流青木氏」と同様に、「佐々木氏族」にも「補完役」の「宇多源氏の佐々木氏の発祥」があった。
この「補完役の宇多流佐々木氏族」が「四六の概念」を無視して「佐々木氏系姓」を各地に広げた。
では、唯、「補完役の秀郷流青木氏から出自した姓」と、同じ「補完役の佐々木氏系姓」との違いは、前者には、この「姓」を“「現地孫(傍系卑属)」”として位置づけして、形式上は「氏族内」として認めなかった事にあった。
然し、後者は、「勢力保持」を前提としていた為に「氏族内の勢力」として取り込み認めたところにあった。
何れの方法も方法は違えども「生き残り」には効果は認められた。)

然し、改めていう事には成るが、「賜姓臣下族の青木氏族」には「氏人と云う慣習」が認められていて、「四六の概念」を敷く以上は、次第に「男系が薄れる事」に成り、この「男系の氏人」は薄れる事にも成る。
従って、これを補完して「女系」で繋がるものとしているのであるのだが、但し、だからと云ってこの「女系」の「子の範囲」を広げた事だけでは「本当の解決策」とはならない事は必然である。

それの「解決策」には、”「子としての扱い」”にあって、無制限のものでは無かった。
「第四世族(一説では「第三世族」と書いているものもある)」までの「孫域(2)」までの「子」を一か所に集め、現在の保育園の様に“「共同養育」と「共同教育」と「共同教養」”を施し、「四家制度の範囲」に従って行ったのである。
つまり、制度的(慣習仕来り掟)に「青木氏族」から逸脱しない範囲の「女系」を確立させていた事らしい。
無暗に「女系概念」を拡げていたのではなかった様である。

この「共同と云う範囲」がよく判らないが、資料の各所から読み取れる事として、毎日、親元に返すのではなく「専門の教育と養育掛かり」を置いて「福家管理」の下で「共同生活(菩提寺と分寺の二か所に男女の設備が設けられていた)」を敷いていた事らしい。
現在の「寮生活の学校とホームステイ」を組み合わせた様な形式であったらしい。
但し、注釈として、記録によると、「子供の数」が少ない一時期があって、「玄孫(3)」までとしている事がある。
この方法で「女系に依る四六の掟」を維持していたのである。

注釈として、前段でも何度も論じている事ではあるが、改め理解する上で記する事として、そもそも、「青木氏族」は、「分家支流族制度」を採らない「賜姓族臣下族としての掟」がある事から、「直系族の女系」に限っては、最大で「直系7親等」までの「子の範囲」を云う事としていた様である。
これを「四家制度」に依って、現実には「第四世族内」に留めていたらしい。
これを「福家の世代交代期」に依って、「直系族」と云われる「主家」の「7の孫(じゃくそん)」が連れて変わって行く事に成る。
[世代交代」と云っても、「四家の範囲」の中で、次ぎの「四家の中の長」が「福家」と成る仕組みである事から、「福家の嫡嗣」が引き継ぐのではなく「世」に依る「世代交代」は激しくは起こらない仕組みである。
従って、「四六の概念」の「四」に大きく関わる「福家の嫡嗣の世継ぎ」では無く、普通はせいぜい25年か30年程度と成るが、「四家の範囲」の中で「福家」を「長」で引き継ぐ方式では、「世代交代」は、少なくとも「100年」は見込める事に成る。
これに”「四掟で補う仕組み」”で「四を補う事」であるとするならば、”「世継ぎ」”という事では”「急激な変化を起こさない仕組み」”と成る。

然し、「姓制」を採らない以上は、これは実質上は「女系性」の強い「直系の青木氏族の青木氏」である。

(参考 因みに、「上記の注釈」の解りやすい例として「直近の福家の継承」は、「伊勢青木氏]の紙問屋を主体とする明治期(970年間)以上続いた「総合商社の伊勢屋」では、この「福家の長に依る仕組み」は筆者の祖父の代まで引き継がれて来た。
例えば、次の様に成っている。
曾祖父の兄-曾祖父-曾祖父の弟-・祖父の兄-同祖次男-同祖三男-・祖父-同祖次男-同祖三男=明治35年 これから観ると長寿系であった事から(・)と(・)の間隔は「約100年程度の間隔」で「世代交代」と成っている。
現在もこの「紙屋問屋の伊勢屋」は二か所で継承されている。
多少の他と違う「伝統」は残すも「四家制度」などは最早敷いていない。)

即ち、「六の入り」の子は次ぎの通りである。
1 子、
2 孫・
3 曽孫(ひまご)
4 玄孫(やしゃご)
5 来孫(らいそん)
6 昆孫(こんそん)
7 じゃく孫(じゃくそん)

(注釈追記 以上、上記で「玄孫」までとしていたが、「過去の筆者の研究記録」をもう一度詳しく見直したところでは、「時代性の状況」に応じて、「孫>曾孫>玄孫」をその「女子の範囲」として”「六の入り」”は運用したらしい事が「氏人の遺手紙の記録」からも読み取れる。
それ以降の「来孫>昆孫>じゃく孫」の「女子の範囲」は何か”「特別性」”があったとも考えられる。
「尾鷲の遺手紙」に「7のじゃく孫」が記されている関係から、当時としてはここまでが「青木氏と氏人の女系に依る関係」が「一族の範囲」として確認し認識できていた事を示すものであろう。
現実には、「玄孫」までは筆者の代でも充分に知り得ていたし、普通の「言葉の使用」としても確認できていた。
従って、「村の組織構成」との「繋がり」や、前段で「論じた「部の差配頭」の関係から「来孫>昆孫>じゃく孫」の「来孫」までは普通扱いで、「しゃく孫」までが最大で特別であったろう事が伺える。)


ここまでを「賜姓族臣下族の掟」としてでは、“「直系族」(女系の「六の入り」)”と定めとしてこの範囲までとしている。
後は、「傍系族」に成る。

従って、そもそも、「青木氏族」の「傍系族」としては、次ぎの「三つの属の範囲」に成るとしている。
「傍系尊属」
「傍系卑属」
「傍系同代」

以上の範囲に限定して「青木氏族」としない様にして定めている。

(注釈 「近江佐々木氏」は限定は出来ないが、この「範囲の限定」を無制限に近い状態で緩めていたと観られる。
これを「孝謙天皇」は嫌ったと観るか、将又、これに関連する「四家制度」か「四掟」を緩めてしまったかとも観られる。)

これで極力、”「属の範囲」”を限定し、”「四六の概念」の[保持拡散(概念を緩くする事)」”を防ぎ、且つ、それによって興る「姓発祥」を食い止めていた事が解る。
最後までその「四六の概念」を保持していた「青木氏族」、取り分け、明治維新頃(・明治35年)までその連携を続けた「伊勢と信濃の青木氏族」には厳格なものがあった事が伺える。
「補完役の青木氏族」には、その立場上から「四六の概念の考え方」を変えて維持されていた事が「近江佐々木氏の研究書」からも読み取れる。
これは「当然の事」と考えられ、「両青木氏」のものが「完全一致」とはならないだろうが、伊勢の秀郷流青木氏は「四日市殿」を発祥させている事から見ても相当に近い「四六の概念」を保持していた事が判る。


然し、「賜姓臣下族の志紀真人族」としての「重要な掟」として、この「傍系族」等は鎌倉期までは少なくとも原則としては「青木氏族の内」として認めていなかった事が判る。
所謂、「外孫扱い」であったらしい。
この「鎌倉期までの外孫族」に付いては、調査したが全く判明しない。
本来は「系譜や添書」に記載されている筈なのだが、又、せめて「女墓」に刻まれているかさえも判別し得ない。
これは、「姓化の緩み」のものとして「傍系族」に対して「徹底していた姿勢」とも考えられる。

これについて、強いて云えば、判った範囲で、前段でも論じたが、「宮崎の廻村」と「鹿児島の大口村」の「廻氏の血筋」を持つ「青木氏」が唯一それに当たるだろう。
この「廻氏系青木氏」の「傍系の青木氏」は、「姓族」には成っているが、江戸期には「黒田藩の専属の傭兵」として山や海にその「最大勢力」を拡大させている。
時期は明確ではないが、記録の中に垣間見られる範囲としては、何れか確定は出来ないが、「鎌倉末期頃」、又は、「室町期末期頃」から「丸に笹竜胆(本家筋)」を”家紋”としていたらしい事が判る。

(注釈 唯、筆者はこの判断には、この時、その「薩摩山岳族」と「日向灘の海洋族」として勢力を拡大していた室町期末期から江戸初期前後頃に「黒田藩の専属傭兵」と成った事から、又、確たるルーツを語る家紋を必要と成った事から、その出自経緯から「丸付き紋の笹竜胆」を使用したとする説が納得できる。(イの説)
調査では、それまでは「五七の桐紋(黒田藩より授受)」を使用していた事が判っている。
黒田藩はその彼らの功労により「秀吉」よりこの「家紋の使用」を許されたが、更に黒田藩はこの「専属傭兵の青木氏族」にこの「五七の桐紋」の使用を許したらしい事が判っている。
然し、江戸期初期に成って「黒印状獲得」の為には流石に「秀吉」の「五七の桐紋」は憚って使えず、その出自元と成る「廻氏の血筋」を引く「清和摂津源氏族の笹竜胆紋(上記)」に傍系として「丸付き紋」を着けて「家紋届」を出した事に成るだろう。
或いは、平家により配流された「源宗綱」と兄弟であった「伊勢青木氏の京綱の所縁」を以って「大口村の浄土宗寺住職(寺名は秘匿する)の勧め」で「青木氏」を名乗ったとする記録もあり、この事から宗家筋が「丸付き笹竜胆紋」を使った事も考えられる。(ロの説)
家紋が刻まれている墓所を観ると、両方の墓の家紋があり、凡そその違いは宗家筋とそうでない筋に分類される様でもある。
この事から筆者は、記録のある「後者の説(ロの説)」を採っている。先ず間違いは無いだろう。
何故ならば、「大口村の浄土宗寺(生き残り主従5人)」に逃げ込んだが、間近に「平家の追手」が迫り、緊迫した中で”「名乗り」”として(イ)の説(「嵯峨期の詔勅の青木氏」)を採れば、恐らくは何の所縁の無い「源氏族」としては遠慮会釈なく討ちとられていただろう。
然し、「伊勢青木氏」では、「松阪の隣の伊賀との付き合い」や、「光仁天皇の妃の高野新笠」は「伊賀の平家の里の祖」でもあり、「宗綱の助命嘆願」の親元であり、「伊勢青木氏の所縁の者」とも成れば先ず討つ事は出来ないであろう。)

(注釈 「伊勢青木氏」では、遠い薩摩や宮崎の事でもあり、且つ、「伊勢青木氏」が「直接」に使用、又は「許可」を認めたものでない限りは、「記録」のある限りは事実として「丸付き紋家紋」を逸視していたと考えられる。
「丸付き紋の笹竜胆紋」の記録に残る「確定できる姓」はこの「日向と薩摩出身の廻氏系青木氏」だけと観ている。
筆者は、むしろ「青木氏族」を物語る「確たる物証」のある「所縁のある姓」を敢えて「不問の姿勢」を示し遺そうとしたと観ている。)

注釈として、「近江佐々木氏系の青木氏族」の段でも、その様に定義され”「青木氏族」”として認めて論じている。
と云う事は、同じ「青木氏族」も然る事ながら、「天智天皇」の「賜姓臣下族」の「川島皇子」を始祖とする「近江佐々木氏の直系族」もその範囲のものとして考えていただろうことが判る。
故に「佐々木氏族」も自らの研究記録の中にこの「日向青木氏の歴史」を態々記載している事の「裏の意」は、その「四六の掟」を頑なにある程度までは採っていた事を意味すると観ている。




>「青木氏の伝統 41」-「青木氏の歴史観-14」に続く。
>「女系族」の「四六の古式の概念の続き」


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Re:「青木氏の伝統 39」-「青木氏の歴史観-12」

[No.358] Re:「青木氏の伝統 39」-「青木氏の歴史観-12」 
投稿者:福管理人 投稿日:2017/12/18(Mon) 16:06:22
> 「伝統シリーズ-38」の末尾

「松阪紬の殖産」の南勢から始まる桑から始まり「玉城-名張-伊賀-射和」の「すべての状況」を把握していなければ務まる役目ではない事が判るし、相当に「知恵と経験のある者」の「重要な役目」であった事が判る。

筆者は、この「重要な役目」は、「紀州門徒衆(C)」の「総元締め」が務めていたと考えている。

これで、「松阪紬の殖産化」での「五仕業」の事は論じたが、上記した様に、後発の天領地の「青木氏定住地の養蚕(御領紬)」もほぼ同じ経緯の歴史観を保有していた事は間違いはない。
元々、何れも「朝廷の天領地」であった処を、豪族に剥奪され、それを「吉宗」がここを「幕府領」として強引に取り戻し、「地権」を与えて取り組ませた。
全く「伊勢青木氏の経緯」(「青木氏X」)とは変わらない「共有する歴史観」が起こっていたのである。


> 「伝統シリーズ 39」に続く


「青木氏の伝統 39」-「青木氏の歴史観-12」

前段の「射和の殖産」の論に加えて、ここでもう一つの「青木氏の歴史観」を作り上げる重要な事があった。
それは「射和の殖産」をリードする為の「青木氏(A)」の「盤石な体制」にあった。
これ無くしては「射和の殖産」は成し得なかったと観ている。
それは、単なる「氏存続」の事だけでは済まされ得ない「青木氏(A)の体制造り」にあった。

前段でも論じたが、「青木氏(A)」には「四家制度」と「家人制度」や「四掟制度」以外にも、この定義を護る為には、“「同族血縁の弊害」”を起こさせないもう一つの課題の制度が必要であった。
これが無いと「大きな殖産」と云う「世の繋がり」と密接したものを維持する有能な架体を持っていなければ成し得ない。
その大きくて堅固な架体の体制を維持させる制度が「青木氏(A)」の中にあった。
それは上記の“「妻嫁制度」”、つまりは「女系族の制度」であった。

そもそも現在の「一夫一妻」とは、「人の目的」を達成させられる「社会性や時代性」が異なることから、この制度では一概に「善悪の評価」は難しい。
前段でも論じたが、これは余り触れられていない、或は、触れない“「影の制度」”と云える制度であった。
当時としては、現在感覚では矛盾する様に考えられるが、一般的に経済的に成り立てば、「人」、つまり、“「女系」を重視する「通常の概念」”であった。
これは現在では否定されている一種の「一夫多妻」に類似するからであろう。

そこで、先に論じておくが、この「現在の人類学」では、「一夫多妻」の「悪の原因」は現在医学で解明されている。
それに付いて理解度を深める為に念の為に少しこの事に先に触れて置く。

そもそも、原始の時代に於いて「人の類」は「類」を増やす為に「四回の変態」を起こしたが、それは他の類からの「捕食に耐える事」の為にあって、遂には「雌の類」で増やしていた変態方法を「雌」から分離させた「雄」という「補完の役」として「人の類」を造り上げて「子孫を増やす方法」の確立に成功した。
そして「雌」と云う「人の類」を「雌」を主体として「雄」を造り上げて継承(遺伝)する事に成った。
つまり、それまで取っていた変態形式の「雌」の子(娘)の「雌の遺伝継承」と、新しく「雌」の「雄」(息子)の子(娘)の持つ「雌の遺伝継承」の二つで「雌」の「人の類」の子孫確立を高めた。
このプロセスが、他の類からの「捕食」から子孫を増やせないと云う「第一の危機回避策」であった。
これはとりあえず成功した。

(注釈 「人の類に関する遺伝継承」は「雌」に依ってのみ継承される。)

ところが、「第二の危機」に襲われた。
「人類の初期」、つまり、四千年前の中国の「華国の創建」の由来、況や、“国と云う概念の創設期”では、「善悪の概念」は別として、この「集団」を形成する為に必要としたのは、「第一の危機」の回避策が進みより子孫を遺そうとして採ったのが「雄」を起点にして「一夫多妻の原理」であった。
この「一夫多妻の原理」に従っていた事から「多妻に依る集団化」が起こり、その互いの集団に「指導者の王」(絶対的指導者)を定め、「国と云う概念の集団」が初めて出来た。
これが人類史上初の国の所謂、中国の“「華国」”であった。
この時、「一夫多妻の原理」で生まれた初の国の「華国」は、夫々の妻の子供の集団化が幾つか集まり、その中での「指導力のある者」が「国家の王」として祀り上げて、「初の国家規則」を作り上げた。
それは、「臣下制度」と云うもので、これを「初の国家規則」として「儀式化したもの」は“「瓶杯」”であった。
「瓶」と云う入れ物に「酒」を入れて、それを「家臣と成る者」に「瓶皿」に注ぎ「家臣と成る者」が飲み干すと云う儀式化であった。
これで「初の国家体制」を造り上げた「華国」は、「血縁のある絶対的な絆」が成立させて行った。
これが最初の「国家の規則」であり、最初の「国家儀式」であった。

この「国家形式の儀式」は、世界の人の類に依って異なるのだが、我が国に限定し論じるとすると次の様に成る。
日本では、最初に、この「儀式化」で出来た「国家形態」は、摂津湾に入った「渡来人の応仁王(蘇我説)」で、関西域を制圧し、「地域の五豪族」(紀族、巨勢族、葛城族、物部族、)を先ずは血縁で結び、上記したこの「儀式化」で「家臣化」して「応仁王」から「応仁大王」による「初の正式な国家」、況や「飛鳥王朝」が出来た。

これは、経済的とか精力的とかは無関係の“「子孫を増やす」”と云う「単純な人間の原理」からの発意であった。
如何なる世であっても、補完役の「雄」が多くても「妻」(人の基礎の雌)が少なければ、尚更、危険の多い原始の自然界では子孫は増えない。
「道義的な感覚」よりこの「集団」を維持する為には、“「子孫」を増やす“と云う命題の方が優先され、その事からの「国家形式」を保つ上でも「一夫多妻の原理」の方が良しとしてこれに従っていたのである。
「雄」が補完役である以上は、「人の類」の「論理的呼称」とすれば、「多妻一夫の原理」が正しいだろう。
何故、この様に逆転したかは別の論として、当然に、「国家」を形成する「臣下の族」も同様の形式に従っていた。

ところが、この「仕組み」(「一夫多妻の原理」)に依って「子孫」は確かに増え多くの「集団」(初期の国形態)が形成されたが、ここで別の“ある思わぬ出来事”が起こった。
そして、その“ある思わぬ出来事”で、「人類」には「捕食」とは新たな別の危機が起こり、“「滅亡に近い事」“が起こったのである。
各大陸全体にこれが蔓延し地球規模で起こって仕舞った。

そこで「人間」(人の類)は、再び色々な「子孫拡大の仕組みの模索」を試みたが、駄目であった。
この“ある思わぬ出来事”とは、それは何と“「菌」”であった。
それは「補完役の雄」を出す事に依り起こった危機であった。
「雄」を造り上げる事に依って、造り上げた生殖の「繁殖の仕組み」に原因があった。
「雄雌」に依る「人類の生殖反応」に依って、この「菌」が「菌」に依る「性病」を蔓延させ「良い子孫」を遺す事のみならず、「子孫拡大」どころか「滅亡の方向」に動いた。

この滅亡過程で、この時、次ぎの「二つの事」が起こった。

一つは、「無制限な生殖」に依る「菌の繁殖拡大」である。
二つは、「同族間血縁の弊害」であった。

然し、この時、「人類」は、この「二つの事」が、これは「生殖反応」に依るものとは到底解っていなかった。
”「神の成せる技」”としか考えなかった。

先ず一つの「菌の繁殖拡大」では、「人類」が住むジャングルに存在するこの「菌」は「人の類」にのみに影響した。
ところが、そこで「人の類」は、これを「場所的な原因」として観て、世界的に大きく大陸移動を開始した。
そこでも、一時、「人類の子孫」は拡大を再び興すが、再びこの「菌」が拡がり、移動先でも滅亡する事も起こった。

ところが、この「人の類」の中でもある大陸に移動して進化させて「知恵」を発達させた「新たな人類」が生まれ、この「菌の発生原因」が「人」に依るものだと云う事を考え着いた。
そこで、”「神の成せる技」”として「知恵の進化」に依って生まれた「原始の神の宗教的概念」を興して、これに基づいて「戒律」を造り、この「戒律」を利用して「一夫多妻」を禁じたところ、この「新たな人の類」は滅亡から徐々に増大へと進んだのである。
この「菌」が「生殖の行為」に依って爆発的に蔓延する事を知ったのである。

このある「人の類の種」は、「原始の宗教的概念」に依っては、次ぎの様な行為を採った。

A 「一夫多妻」を止めた地域、
B 「女系家族制」を採用した地域、
C 場所を決めて「集団生殖行為制」を採用した地域、
D 村で管理する「通夫制度」を採用した地域

以上の様な工夫をした。

どれも「効果」は認められて「菌に依る弊害」の危機は無く成り「子孫拡大」へと繋がった。
これらの制度に「共通する点」は、次ぎの事であった。

“「管理に置く事」”と、“「女系にする事」”であった。

以上の二つであった事を人類は初めて知ったと云う事である。

「国家の集団化」と「原始の宗教的概念」とを合わせて「管理する事」で、「菌」を強制的に除く事が出来て、且つ、「保菌者」を排除できる事となった。

元の「女系にする事」で、「菌」を排除できると同時に「生まれる子供の保菌者」の「排除と奇形」とを除く事が出来た。
「奇形」は「人の類」を危機に追いやる事から逃れ得た。

「無菌の女系」で纏まれば「人の類」は爆発的に拡大できる事となった。

後は、この「二つの管理」、つまり“「管理に置く事」”と、“「女系にする事」”によって「男子の保菌者」を排除出来ればこの「菌」に打ち勝てる事を知ったのである。

結局は、「女系にする事」で「人の類の危機」から逃れられる事を知った事から、ここで「神は雌として崇める原始の宗教概念」が生まれたのである。

ところが、ここで、中には、次ぎの様な制度を採った「国」と云う形式には至らない「集団」があった。
それは、「男子を集団で生活させる事」で、次ぎの方法を採った集団があった。

「女系家族制」
「集団生殖行為制」
「通夫制度」

以上の「三つの制度」を同時に敷いた地域も起こった。
これは、“神は雌として崇める原始の宗教概念”を徹底した事からのもので、「局部の地域(ジャングル居城地域・発生地)」に不思議に終わった。
恐らくは、この制度では大きく集団化が起こらず、「奇形による危機」が起こり、「国」にまで発展せず「混血に依る知恵の進化」は起こらず、「人の類」は「劣化」を興し「村レベル」で終わる結果と成ったのであろう。

少し進んで「島国の日本列島」に於いてもこの上記の「二つの危険性」(菌と奇形)はあった。
海を渡る「移動浮遊族」に依って持ち込まれる「菌に依る問題」もあって、況して、「7つの民族の融合民族」であった事から、島国でありながらも「持ち込まれる」と云う事が起こった。
(注釈 菌には、主に「梅毒と結核菌」の二つがあって「遺跡の骨」からその証拠が発見されている。)
つまり、未だこの頃は「同一融合民族」で無くその過程であった事から、「女系家族制」「集団生殖行為制」「通夫制度」の「三つの制度」は採れてはおらず、結局は、「村単位で管理を強化する」と云う事で徹底的な隔離を含む「排除主義」を採っていた。

ところが、少し進んで「飛鳥期の前期頃」からは、融合しながらこれ、即ち、「村単位の排除主義」(集団も含む)で「国と云う概念」が生まれながらも「純血性」とか「子孫を増やす」とか云う宿命を持った「力のある融合族」は出来なく成っていた。


「人の類」の初期の頃には、次ぎの滅亡の危機があった。
イ 「捕食に耐えうる事」
ロ 「菌に耐えうる事」
ハ 「奇形に耐える事」

以上に耐え得た「人の類」は、「子孫」を増やし、「属」が出来、そして遂には、その「属」で上記の通り「国」と云うものを形成した。
この「国」と云うものを護る為には、その中で今度は国を構成する「属」では困難と成り、更に細分化して、「族」を形成させて「国の形態の正当性(血縁性)」を護る為に生まれた。

「真人族」とそれを「補完する臣下族と成った賜姓族」の二つで「特別な慣習仕来り掟」を創造して定め、「国の正当性」を護った事に成る。

然し、ここで、「国家」と成った事に依っての「国」の「王(後に天皇の呼称に成る。)の権威」を保つ意味から「高い純潔性」を求め継承しようとする形態が生まれた。
これが、「飛鳥王権」「飛鳥王朝」「奈良王朝」と変化し、遂には「奈良朝廷」に成り、「八色の姓」や「冠位十二階制度」(後に天武天皇が四十八階にする)等を定めて「継承族の立場と役目」とその「慣習仕来り掟」等について定めてその「権威性」を確立させた。
然し、この時は「ロとハのリスク」は未だ充分には解決には至っていなかった。

そこで、ロ 「菌に耐えうる事」と、ハ 「奇形に耐える事」に付いて「国レベル」で「見直し」が行われた。

「ロとハのリスク」の面から観ると、次ぎの様に成る。

「ロのリスク」は、「属」では出来ない事から「族」の中で、「生殖の範囲」を限定して、「族」を細分化して制度化してブロック化したのである。
然し、これには「ハのリスク」が伴う。
「ハのリスク」は、「ロのリスク」に依って生まれる「ハのリスク」を「排除主義」を取り入れて制度化して、況や「廃嫡制度」を敷いた。

これを制度化した事で、「人の善悪を越えた思考」が生まれ、リスクに対する「ブロック制度」と「排除制度」は正統化させてその事に依って徹底した。
この事が資料からも判っている。

その根拠は「国と云う概念」の下にあった。
この「国と云う概念」を護る「上位の族」に執っては大きく課せられた「ブロック制度」と「排除制度」は「族の宿命」と成った。
これが、飛鳥期の「国の成立過程」を経て奈良期から敷かれた「確定した国の制度」(骨格)であった。

「聖徳太子」が採った制度は、「政治の構成」と離れて、「族で構成する国」が起こす「ロとハのリスク」と云う別の面からのもので、その面から観た検証の結果であったと云える。
つまり、「冠位十二階制度」は「属」を超えたその「族の縛り」であると観える。
その意味で飛鳥期では、未だ「属」による「ロとハのリスク」を持つ「不完全な国の構成」とも云えるのだ。

この「幾つかの制度」を更に見直した事に依って「初めての国家」と見做されたもので、それが「大化改新」であろう。
その「大化期の終息期」(647年)に生まれたのが、所謂、我等の「青木氏族」であるが、それなりにこの「ロとハのリスク」の期に所以があるのである。

従って「初めての国家」の期に出自した「国家の族」を構成する「賜姓臣下族で朝臣族」の「血筋と云う視点」では見逃す事の出来ない論点であるのだ。

故に、そもそも前段より論じている様に、「冠位十二階制」から始まった「冠位十八階制度」と「八色姓制度」であり、この時に生まれたのが「真人族」から離れ「朝臣族」の「賜姓臣下族の五家五流青木氏」であり、同じく「近江佐々木氏」であった事に成る。

論理的に場合に依っては、「天皇家」を始めとして「青木氏族等」の「王族の朝臣族」の様に「ロとハのリスクの侵入」を周囲に「壁」を張って「血筋を中に閉じ込める政策」では無く、むしろ外に放出して「ロのリスク」は兎も角も「ハのリスク」をも無くすものとして観れば、「第七世族」である「坂東八平氏」も「ロとハのリスク」を大きく開放した制度であった事も云える。
「ハのリスク」はこの「壁」が無い為に「新しい血筋」が入るが、反面では「ロのリスク」は、「第七世族に任す事」に成り得る。

從って、その意味では「青木氏族や佐々木氏族等の第四世族」は、「ロとハのリスク」を責任を以って「リスクの壁」を「制度や慣習仕来り掟」と云うもので造り護ったという事に成り得る。
つまりは、見方を「人の類と云う視点」に変えれば、これが「両氏族に課せられた賜姓五役」であった事にも成る。

然れども、「天皇家」は、「ロとハのリスク」は、あまりの「純潔性」を「権威を保つ手段」に特化したが、これを「国家」と云う事に使った事で、「ロのリスク」は防げたとしても「ハのリスク」が逆に大きく成った。
そして、この「ハのリスク」を何とか除く為に止む無く「廃嫡制度」を「系譜に載らない形」で密かに採らざるを得なくなったのである。

(注釈 この「廃嫡制度」では、「ロとハのリスク」の記録上では、多くは「出自不祥」等と云う形でも処理されている。)

従って、この「天皇家の廃嫡」が進むと、これを緊急時に補完する為に、この両者(「青木氏族」と「近江佐々木氏族」)には「朝臣族」でありながらも、「最低限に準継承族」としての「条件」が求められていた事に成る。
この「準継承族」は、「最悪の場合の事に対処する族」と成るのだが、これも原則的には「令外官」と「皇親族」の時までの事で、「形式上の族」に成り得ていたのである。(嵯峨期には正式に外れた)
この「条件」が、「ロとハのリスク」を持たない族として、最低限に於いて「賜姓五役の役目」を維持する「男系嗣子」に限られた「純潔性の保持」であった。

さて、ところが、これが思いの他で問題を起こしたのである。
そして、それが、当時では理解できない思いがけないところに起こった。
これが「三つ目」に起こった「存亡の危機の事」には成った。

これが大和に出来た「初の国家形態」を揺るがす “「ハの遺伝障害の事」”であった。
つまり、突然に表れる「純潔性の悪弊」(同族血縁に依る弊害)であった。
当時では、この原因が殆ど理解されていなかった。

「天皇家族の系譜の記録」を読み解くと、この時(改新後)は、飛鳥初期頃に比べて既にこの「遺伝障害の事」の原因は、“「神の成せる業」”として理解されある程度に認識されていた様である。
その証拠が、「伝統の論」の前段でも論じた様に、「嗣子」だけであれば数的に「后妃嬪の妻」の「制度の範囲」でも「継承」は成立する。

これに対して、態々、“「妾」”が組み入れられている事が、「政治的な事」のみならず間違いなくそれに当たるだろう。

ここで、“「神の成せる業」”としての認識が、この“「妾を組み入れる事」”にどう繋がり、“何故に「神」に関わる事に成るのか”と云う疑問がある。
それは、“「純潔族(四世族)」”の中に持ち込まれた「人の悪行」が、“「因果」”として「神が指し示す行為」と見做され、「神殿」に於いて「御払い」をする事のみならず、現実的にこの「因果」を「薄める行為」として持ち込まれた「神義」に近いものであった。
故に必ず、「后妃嬪の妻」の正式な制度に「妾」を加えて大化期からは「后妃嬪妾の妻」とする制度としたのである。
「后妃嬪妾の妻」は、正式に「身分制度」にも用いられたが、その「皇位継承者」はこの順に従うものとして、「后妃嬪の妻」までに「継承者」がある場合は、「皇子族」から外れ「賜姓臣下族」として「天皇」の「近衛族役や皇親族役」を新設して「下俗する事」になったものである。

これが「前段までの論調」であり、これには上記する「血筋に関わるリスク」と云う視点からの「国家形成過程」に関わる経緯があった。
つまり、「青木氏族」は、当にこの「国家形成期の出自」に当たり、必然的に「氏族の意思」に拘わらずこの「ロとハのリスク」を持ち込んだ事に成るである。

そもそも、「青木氏族」は、当にその「神の成せる業」の「因果の解消策」の最初の「妾の出自族」に当たる。
「準継承族」の「賜姓臣下族の朝臣族」として「準継承氏の立場」にある二氏も、「施基皇子」(青木氏 越道伊羅都売 越は福井山形域)も、「川島皇子」(近江佐々木氏 忍海造小竜の女色夫古娘 四国域)も何れも「地方の豪族の女」のこの「妾子」である。
「青木氏族の歴史的価値」はここにもあるのだ。

(注釈 但し、「妾子族」には「ロとハのリスク」を持ち込む恐れは充分にあったが、何れもよく調べた上での「妾」であれば“問題はなかろう“と云う事に成る。
「ロのリスク」は目で直ぐに判るが、「ハのリスク」は目では判らず「隔世遺伝的に持ち込まれる事」はあり得る。
「地方の豪族」であるので、何とか系譜などで調べれば判るが、密かに廃嫡をしている事から、当時としては、廃嫡以外に確実などの様な調査方法があったのかは分からない。
恐らくは、「隔世遺伝のリスク」そのものが理解されていなかったと考える。
「何時か出ると云う感覚」では諦めていた事で、その為の「廃嫡制度」は是非に持っていなければ成らない事でもあった。
そもそも、「七つの民族」が融合し1400年経てもこの「隔世遺伝のリスク」だけはあるだろう。
ところが、「青木氏族」は前段でも論じている「四家制度と云うシステム」、つまり「福家で養育する制度」で、この「隔世遺伝のリスク」(男系女系に拘わらず)も見抜く事が出来ていたのである。)

(注釈 記録に見れば、「唖子」は別として「優秀でない嗣子」は廃嫡せずに傍系に出して外している。)

況や、この「天皇家」を含む「賜姓臣下族の朝臣族」の「后妃嬪妾の仕来り定義」が無ければ、この「同族血縁の弊害」は、“「隔世遺伝的に起こり得る大弊害」”の可能性が有った。
恐らくは、もっと云えばこの「妾子」に依る「優性保護の仕来り」が無ければ、「国家」を維持する「主の権威」を保つ上での「劣性嗣子」が頻繁に起こり、結局は、「国主の権威」は保て無く成り、「国家」は失墜し混乱に陥り維持は出来なかった事が起こった筈であった。

現実には、飛鳥から奈良期に於いて「皇子」と成っているにも関わらずその「皇子の半数」は少なくとも「国家の権威」を維持するに値する「優性嗣子」では無かったとする説もあり、現実には「日本書紀」などにも「天智天皇の皇子」の「建皇子の劣性の記」等が認められる。
本来は、「唖子」の場合は、「帝紀と上古諸事」に見られる様に「廃嫡制度」によりそもそも「皇子」には成れない筈であり、然し、「建皇子」の様に「皇子」に成っている。
これには、「唖子や廃嫡」の場合は、系譜の中に入らないが、現実にその一例が「天皇家の系譜」に出た。
この理由には「日本書紀」に書かれていて、「建皇子の祖母」が「皇位」を主張して「皇子」とは一時は成ったものの、直ぐに廃嫡死亡した例がある。

そして、この「四世族内の血縁」における「劣性遺伝」を防ぐ為に「嵯峨天皇」が慌てて態々、未完の「新撰姓氏禄」を世に出した目的にもこれを防ぐ基準としたと観ている。

筆者は、前段で論じた「天皇家のルーツを確定させる」という事よりこの「目的の方」が強かったと観ている。
その意味では、況や、「青木氏族」に執っては厳しい仕打ちともとれるが、この「ロとハのリスク」を断ち切ったと云う視点から観ると、これのは「嵯峨天皇の功績」とも云える。

ここで、この「ロとハのリスク」を排除した視点から、「青木氏族の事」を理解する為に前段でも論じている事ではあるが念の為に「注釈論」を論じる。

(注釈 そもそも、「四世族の基準」は、それまでの「第六世族」を変更して「天智天皇の大化改新」で「王位」とすると決めた。
この「四世族基準」からすると、平安期中期以降は原則として「青木氏族」は本来は「王位」は持たない。
つまり、「聖武天皇」からは「第七世族外」であり本来は「王位」は無い。
この「聖武天皇期」のこの時には、「天皇家の真人族」には「四世族」は元より「六世族」までも含めても、「唖子と廃嫡族」を除いて「皇子」も含めて「王位」に成り得る「嫡嗣」は無かったし、「義嗣」も無かった。
「永代浄大一位の身分」を持つ「施基皇子」の「四男・六男説もある」が、「聖武天皇の皇女」の「二人の姉」がいて長女が「女系天皇(孝謙天皇)」と成ったが、「女系天皇」と成らなかった三女の「井上内親王」との血縁で、「天皇」と成った事(下記に論じる)で、「施基皇子の男子」はその時点で「個人の意思」に拘わらず「王位」を獲得した事を意味する。
更に「施基皇子」が「追尊・後付け」の「春日宮天皇」と成った事も「王位」と成った理由でもある。)

(注釈 論理的には、「施基皇子の男子」であった時には、「天智天皇期」、「天武天皇期」では「第三世族」、「第四世族内」にあって、「王位」にあった事に成り、「持統天皇期」でも「天智天皇の第二皇女」で「天武天皇の皇后」であるので、「四世族内」にあって「王位の座」は保たれていた事に成る。
然し、「文武天皇期」に「第五世族」と成った事で「王位」はこの時点で外れた事に成り得る。)

(注釈 一説によれば「施基皇子の六人の男子継承者・四人説もある」は、現実に「父の生き方」を見習い「王位」を好まなかった事が内資料も含めて書かれた資料があり、取り分け、「湯原王」と「榎井王」は敢えて「無冠」と成り、「冠位」も含めて嫌った事とが判っている。
従って、論理的にはこの二人は「王位」には成っていない筈である。
そもそも、「王」としての「冠位」が無く、「冠位」の無い「王」は、そもそも存在しない。
「相当の冠位」(第二品 従四位下以上)があるから「王」であり、「王」であるから「相当の冠位」があるのであるとすると、「本人の意思如何」を問わず「湯原王」と「榎井王」は「王」では無かった筈である。
つまり、これも「後付けの追尊王」である事が判る。
「光仁天皇」と「後付け天皇」の追尊の「春日宮天皇」の「権威の辻褄合わせ」で、「後付け王」と成った事が判る。
これは「施基皇子の生き方」であってそれは「青木氏の氏是」に表れている。
恐らくは、「白壁王」を除いて他の五人の子供は、この「青木氏の氏是」を護った事がよく判る事に成る。
強い圧力の上で「白壁王」も止む無く応じるしか無かったと考えられる。)

(注釈 つまり、最も純潔の血縁性の深い一族から止む無く、「帝紀や上古諸事」外に成るが例外として「中国の古典」に見習って「白壁王」として条件を整え「義嗣方式」を採ったという事にも形上はした事に成る。)

(注釈 「青木氏族」の 「・湯原王、・春日王、・榎井王、白壁王、桑原王、壱志王」で王位を追尊で得た事が判る。 
「榎井王、桑原王、壱志王」の三人は「妾子」で、四人の女子の内三人は光仁天皇期には内親王と成る。
そして、更に、「光仁天皇期」の「二世族」、つまり、「施基皇子」からは「第三世族」としても、「*壱志濃王、市師王、 安貴王、高田王、香久王、 神王、榎本王、鴨王、*桑原王二世」がそれぞれに「王位」に着いた。
ところが、「賜姓臣下族の朝臣族」に課せられた「慣習仕来り掟」に従わず「姓」を「・印の二世王の*印の後裔」が興したとする説がある。
然し、「桑原王・妾子」と「壱志王・妾子」等の「二世族」は「青木氏族」を護り拒んだ。
「桑原王は二世族の子」で、然し、「三世族」では「・印の二世族」を親とする「*印の三世族」の後裔に「姓」を興したとされるが定かではないし、その「後裔」を興した時期も判らない。
唯、「・印」と「*印」には矛盾が多くあり「江戸期の搾取偏纂」ではと観られる。)

(注釈 世間に出ている「一般説」では、この「後裔」としているが、殆どは、「江戸期初期の諸版説」を論処として論じているので総合的に見た歴史観から見れば「搾取偏纂の矛盾」が生まれる。
唯、その内の「*印」の「一つの姓族」に付いては、「傍系卑属の末裔」の可能性があるが、これもその主張は「施基皇子」を始祖とする「川島皇子」とすると成っていて矛盾し疑問がある。
確かに、「新選姓氏禄」や「他の二大歴史書・三大累代格」から観ると、平安初期にその「姓の名」を持つ「臣連の朝臣族」は存在した事は認められるが、「・・朝臣族」の「・・名」を「姓名」にするは「朝臣族」として課せられていた「慣習仕来り掟」から観ても疑問でもある。
そもそも、本来は、「皇別の真人族の朝臣族」の課せられた「掟」から観て、「・・朝臣族」の「・・」は「氏名」に成るものであって、「姓名」にするものではない。(嵯峨期で禁じられている)
但し、「新撰姓氏禄」には、これを明確にする為に全体を「皇別」と「神別」(地方豪族)と「諸審」(渡来人)に先ず分けられ、その「皇別」には「真人族」(高位)の他に「真人族}ではない特別に「縁戚関係族」、つまり「傍系尊属 傍系卑属」を主体とした「皇親別」(低位・縁戚)に分けられている。
この「皇別の朝臣族」の「皇親族」だけは「姓」を持つことが出来る事に成っている。
従って、上記の「*印」の「一つの姓族」とは、この「朝臣族の皇親族」に成り、つまり、「傍系卑属」と成る。
「傍系尊属」からは「姓」を興すと成ると、「傍系」とは云え「氏家制度」の中で課せられている「慣習仕来り掟」を護らせる立場にありながら、自らがその立場を失う様な事をするは先ずあり得ない。
又、仮に「姓」を発祥させたとすると、「氏家制度」から「宗家」から「慣習仕来り」に反したとして「氏族」より外される事は「尊属の立場」である以上必定である。
その点から観ても、条件的に観て「後裔の可能性」が強いとするならばそれに縛られない「傍系卑属」である事は頷けるが、「施基皇子」と「川島皇子」の「絶対的な矛盾点」だけは解明できない。
その「姓」の「近江の出自」から「近江佐々木氏」の「始祖の川島皇子の後裔」と云う点が取られ、どこかで「系譜作成」で間違えてしまった可能性もある。)

(注釈 その「姓の始祖」とする「施基皇子」の「ある第二世王の在所」は近江に関係していないので、だとすると、この「第二世王の後裔青木氏」の「女系」が血縁で、「青木氏側」には記録は無いが、「第四世族内血縁」を「賜姓五役の前提」としている事から、又、「・・朝臣族」の「・・」を「姓名」とする事から観ると、「佐々木氏系青木氏」に嫁いだ可能性があると観られこの視点から観ればこの「矛盾点」は解消出来る。
この「・・朝臣族」は「新選姓氏禄」から観て確かに「四世族内」にはある。
然し、この時期は、「近江佐々木氏系青木氏」の「傍系卑属」までを含む一族一門は、「二つの源平合戦」で敗退し平家に依る厳しい掃討作戦に依って滅亡しているので、平安末期直前の事と考えられ本来は「後裔の姓」は生まれない筈である。
その為に、江戸期初期に作成した「系譜作成」が錯綜したと観られる。
恐らくは、検証をすると、その「姓族の在所」からも一部に密かに生き延びた末孫の「佐々木氏系近江青木氏の傍系卑属」の説の可能性もあるが生き延びたとする確定検証は出来ない。)

(注釈 残りの「一つの姓」は、典型的な拭い切れない矛盾の疑問が残り、論じるに値しない「江戸期初期の搾取偏纂」と観られる。
更に、上記した様に「賜姓五役」の「青木氏族の慣習仕来り掟」に合致せず「姓」を持ったとする説の「・印の二世族」は三人いるが、「*印」の「もう一つの姓」は「・湯原王、・春日王、・榎井王」には確認できないが、恐らくは、「・湯原王、・春日王、・榎井王」の「無冠位」を主張した「・湯原王、・春日王、・榎井王」の「三人の内」の「春日王の姓族」としている事にも成り、「矛盾の姓」に成る。
つまり、明らかに、この「二つの姓の件」に付いては、「嵯峨期の詔勅と禁令」がありながら、この様な間隙を狙って、江戸期初期に矛盾する「姓」をねじ込んで来た事を意味する。
従って、「重要な歴史観」として矢張り「青木氏族」は、「賜姓五役」を保持するが故に、結局は「江戸期初期の前後頃」までは少なくとも「姓」を持たない「原則四世族内」の「青木氏族内」にあった事を意味している。
唯、「優性の後裔を遺す」という点では、鎌倉末期から江戸初期前後頃まで「四家制度」等を敷きながらも、次第に難しい状況に陥って行った事は事実であり頷ける。
取り分け、室町期には「下克上や戦国時代」と成り、歴史書に記載されている「朝臣族の氏族」は「姓族」に依って悉く一掃され潰され、又、「下克上」により「傍系卑属」に乗っ取られたりして「数氏」にまで落ち込んだ歴史的経緯を持つ。)

(注釈 幸いにして、「紙文化の発展」に依って「巨万の富」を獲得し、それを以って先ずは「抑止力」を高め、「女系族」を推進して「周囲の姓族との絆作戦」を展開して生き延びてきた。
此処が、「第二の分岐点・ターニングポイント」であろう。
室町期初期からじわじわと始まる「危機」がこの分岐点で、これでは拙いとして大きく「四家制度の考え方」について舵を切った時期と考えられる。)

以上、「注釈論」を前提に次に「血筋の論」を進める。

「直系尊属と直系卑属」は、「賜姓臣下族の慣習仕来り」を護りながらも「四世族血縁」を貫いた。恐らくは、この事から「室町期初期」からは、「四家制度」に依って上記した「玄孫までの女系族」にシフトし始めた事が判る。
この鎌倉末期から室町期初期が「第一の分岐点・ターニングポイント」であると考えられる。

本論のテーマである「江戸初期の殖産」に依る「体制造りの主眼」は、「玄孫までに依る女系族」に徹底して切り替えたと考えられる。
この江戸初期前後頃が「第三の分岐点・ターニングポイント」であると考えられる。
それが、「女墓」(伊勢・信濃)に表れているし、「甲斐青木氏と信濃青木氏の動き」にも出ている。

先ず、そこで生き残った室町期初期の「甲斐青木氏」では、「賜姓臣下族の正統族」の「源光系甲斐青木氏」と、「源光」の兄の「時光」が「傍系の源氏族」であるとして「嵯峨期の詔勅」で「時光系青木氏」を発祥させた。
ところが、この「時光系青木氏」には内部抗争が起こった。
この為に、「武田氏系」の「時光系青木氏」は弱体化し、結局、生き残るために武田氏に組した為に「第三の分岐点・ターニングポイント」では、「慣習仕来り掟」を全て金ぎり捨てて完全に姓化した。
そして、「傍系源氏族の武田氏」が滅びると共に、掃討作戦にも何とか生き残り一族郎党全て「武蔵鉢形」に移封され「徳川氏の家臣化」をした。

(注釈 この時、この武田氏を滅ぼした勝者の信長は出迎える為に列の中に「白馬に乗った者」がいてその侭に信長を出迎えたとして,引きずり降ろし滅多打ちにした。
これは古来からの「賜姓臣下族の朝臣族」の「高位の者」の儀礼の「立場の仕来り」であるとして迎えたのであるが、信長はこれを否定する行動に出た。
信長はこの「仕来り」を知らなかったとする説もあるが、「平家傍系の末裔」でもあり伊勢信濃に近く、且つ、足利将軍などとも謁見している事から知らなかったという事は無いだろう。
恐らくは、「賜姓臣下族の朝臣族と云う立場」を自分の「覇者の権威」を保つ為には認めたくなかった事を意味する。
この「白馬の者」は中立を保った甲斐の「源光系青木氏の後裔」であると云われている。
現実に、この「白馬の者・源光系青木氏」は信長より所領の剥奪等の圧迫を受け滅亡に近い衰退をし行方は分からなくなったとされている。
然し、「傍系卑属の後裔」とされる一族は江戸期にも生き残ったと成っている。
そして、武田氏に味方した「武田氏族の時光系青木氏」は、家康に救われて潰れる事無く、「信長の圧迫」を受けない様に家康は即座に一族郎党を鉢形に移した。
この一人が「柳沢吉保」の父である。)

元々、源氏傍系の「時光系青木氏」は、そもそも、傍系族(傍系卑属の可能性)であって、「賜姓族」では無い為に「慣習仕来り掟」には大きくは縛られず姓化に成れた経緯もある。
弟の「賜姓臣下族の源光系青木氏」は、「郷氏」を続けながら「和紙」等を殖産生産して、「賜姓族」としての「慣習仕来り掟」を護りながらも、より「女系化」を採用して後裔に「姓」を置き「姓化の絆」で一部が「商人」として何とか生き延びたとされいる。
その「存亡の有無」も判らないほどに「子孫力」は三氏(伊勢、信濃、甲斐)の中で最も低下した。
甲斐」に於いては「時光系」のみならず「本流の源光系」も「直系族の甲斐青木氏」は遺されていないのである。

次に、そこで気に成るのは周囲が多くの国衆で囲まれている「信濃青木氏」であるが同じ道を採らず、「甲斐」とは別の選択を採った。

それは、前段でも何度も論じたが、”「伊勢青木氏との絆」”を徹底して強化して一体化を目指す”「同化戦略」”を採った。

伊勢と同様に「四家制度等の各種の制度」を採りつつも、且つ、「伊勢との同化」の為に「女系」のみならず、「男系の同化」も図った事が判っている。
「信濃」は「伊勢からの優性の血筋」、「伊勢」は「信濃からの優性の血筋」を入れて共に「劣性の弊害」を排除し「四世族態勢」を堅持した。
これは、「氏族堅持」の為に「血筋」に関わらず「商い」に関しても「同化戦略」を採ったのである。
唯一つ信濃は「違う筋道」を採った事があった。

それは、「伊勢との同化」を進める中で、それは「四世族系」の「直系族」のみの範囲に留め、「尊属と卑属」に拘わらずある程度に「傍系族」には「姓化」を認めている。
故に、現在に於いても「直系族の宗家」の「信濃青木氏」が存続し、伊勢、信濃共に「直系族の宗家」は明治期(明治9年)まで存続した事が確認できる。
現在も「笹竜胆紋の後裔」は、その「ある程度の伝統」と共に遺されている事が判っている。
この様に一定の規律、つまり、「慣習仕来り掟」を「直系族」が柔軟にして護りながらも「姓化の弊害」を乗り越えて生き遺った「青木氏族」もいた事にも成る。

唯、「伊勢と信濃」に於いては血縁に於いて更に「面白い事」があるので追記する。
それは平安期末期に京にて遥任していた「源頼政」が朝廷より得ていた「領国」の「警備」として「伊勢青木氏と信濃青木氏」を合体させて「伊豆」に送り込んだ。
これは「賜姓の氏族の血縁」と云う視点では「面白い戦略」である。

本来であれば、「領国の伊豆」に警備として送るのであれば、普通は「源氏族」であろう。
何故なんだろうか。それは何か「血縁を含む氏存続」に関わる何があって、この様な「不思議な戦略」を執った事は先ず判る。

そもそも、「摂津源氏の頼光系の四家一族」は、前段や上段でも何度も論じたが「武家貴族」と云う立場を護る為に「武力」を大きくは持たなかった。
「武力」を持つ事で「武家貴族」として「祖父満仲」の様に朝廷から疎まれたが、その事では「摂津四家」の「頼政」は三位まで登り詰める事は出来なかった筈である。
当然に、「直系族の宗家」として「じり貧の運命」を辿り「賜姓源氏族の生き残り策」を果たせなかった筈である。
然し、「満仲の作った武力集団」を引き継いだ「頼信系」は一時は伸長したが、然し、この結果は逆に平家に敵対され衰退化を招いた。


そこで、「頼政」が目を付けたのが同じ「皇族系賜姓臣下族」の「伊勢と信濃の青木氏族」が持つ”「影の勢力の抑止力」”であった。
「武力集団」として公に成っていないこの「影の勢力の抑止力」を「平家の勢力拡大」の中で「伊豆」に送り込んで何とか「領国」を護る事に着目したと考えられる。
そうすれば、朝廷より武家貴族としての非難は免れる。

そもそも、「頼信系」と同じく「武力集団」を形成して送り込めば、一族の”「血筋」”は乱れ、且つ、”「姓化」”が起こり、何もしなければ「ロとハのリスク」を抱え「族の形成」は危うくなる。
「朝廷が認めた領国」である以上は、そう簡単に「武力」が無ければ手を出せないし、従って、最大勢力の「平家」に潰される事が先ず起こらない。

(注釈 「伊勢青木氏」は「平家の始祖の阿多倍王(孫の高野新笠・光仁天皇の后)」とは古来より隣国として繋がっている。)

そこで、「武力集団」に相当する「影の勢力の抑止力(経済的繋がり)」をこの「伊豆」に成すには「伊勢と信濃」を「合体させる手」を打つ事が必要であった。
そうでなければ「ロとハのリスク」が起こると共に衰退し「賜姓源氏族」を遺せ無い筈で、そこで「伊勢」には血縁的に「妾子の京綱」と、「信濃」には「妾子の国友」に跡目として送り込み、そして、この「融合した合体一族」を「伊豆」に送り込む「奇策の戦略」を執ったのである。
これでいずれも「宗家」の「源氏族の血筋」と「青木氏族の血筋」の合体で、「血筋リスク」はより解消され圧迫を受けている「摂津の宗家の源氏族」を安定して遺せると考えた筈である。

そもそも、「青木氏族」の「直系血筋の四世族」は「仁明天皇」までであり、「ロとハのリスク」は系譜上は無い。
「摂津源氏族」は、他説が多いが、「貞純親王説」としては「7世族」に当たり「姓族の外子王」である。
「四世族」までとすれば完全にルーツを変えた「賜姓族」であるが、そもそも、「貞純親王説」は「傍系尊属」に相当するので、好ましくないと観たのではないか。
然し、「親王」ではないが「陽成天皇説」であれば、この「天皇」は「ロとハのリスク」を持った記録に残る程の「暴君」として有名であった事からも、この「二つの説」からも「清和源氏」にはこの「血縁のリスクの危険性」を持っていた。

これを当然に認識にしていた「頼政」は、「青木氏族と賜姓源氏族との血縁戦略」とすれば「ロとハノリスク」は解消されると考えたと観られる。
「清和天皇」は、上記の通り何れの説も「皇子」ではない孫(王位)であり、例外であり、且つ、「ロとハのリスク」を引き継いだ王を賜姓する事に成り、これを頑として拒んだ。
本来は、「清和源氏」では無く、「賜姓源氏族」と成るには「陽成源氏」と成るが、「ロとハのリスク」を持つ「天皇」としては「賜姓」は困難と扱われていた。
そこで、止む無く、「純友の乱」を「経基王」は企て「祖父(清和上皇)」に頼んでその勲功で「賜姓」を願い出たは経緯を持っていたのである。

つまり、これらの「三つの汚名」を払拭し「正統な源氏族」として遺す為には、「跡目」を両氏に入れる事は血縁上は問題はまずなく「ロとハのリスク」は殆どない「賜姓族」と成り得る。
これは、当に、下記に論じる「政争」とも成った「孝謙天皇の正統説」と全く同じである。
筆者は、重要な事は、「青木氏の歴史観」に執ってみれば、「孝謙天皇期の政争」も「清和源氏頼政の戦略」も要は「施基皇子のルーツ原理説」に起因していると捉えている。

(注釈 「親王」と「皇子」の違いは、「大宝律令」を境に漠然としていた「四世族内の皇子」の「皇子の位階」が正式に決まり、呼称が「皇子」から「親王」と成り、宣下を受けた者は「親王」に、受けなかった者の四世族までの者を「王」と呼称する事に成った。
但し、平安期の初期当時は「外子王」の場合には、未だ「皇子の呼称」が残り、宣下を受けた「外子王」を「親王」とする区別する呼称が一時期続いた。
当時としては、「貞純親王の母」は「妾」であり、「貞純親王」は「妾子」となり、「親王」とあるが「母の経緯」から「傍系族尊属」に相当する「外子王」に成る。
この使い方に付いての説には「歴史的経緯の間違い」が多い。)

そして、「跡目を入れた融合合体族」と「女系で繋がる抑止力団」で周囲を固め、更にこの血筋は隣国に存在する「補完族の秀郷流青木氏」とも血縁関係を持ち、その「秀郷流青木氏の勢力」を以って「伊豆の入り口」を防御しすれば、「完全無傷の形」で源氏族は正常に遺せる。
(その後に、「以仁王の乱」を起こす。現在も「青木村」を形成し生き残っている。伊勢と信濃以上であろう。)
本来であれば、「伊豆」には「血縁の劣性の弊害」が起こっている筈であるが、資料によれば何某かのそれと思しき内容は元々出て来るものであるがそれも発見できない。

更にこれは、何故であろうか疑問である。

これは、矢張り、「青木氏族以外」からの「源氏族」の「頼光の生き残り戦略」の通りに、この中に116氏に及ぶ「秀郷流青木氏との繋がり」を持つ事で「血縁の劣性の弊害」は消されていった事以外に無いだろう。
「青木氏の歴史観」から観れば、これが、「血縁」に依る「補完役としての役割」として「頼光の戦略」は考えていた事に成る。
これは同時に、つまり、このこれに依る”「姓化」”が入れば、「源氏族」では「正統な血筋の範囲」では最早遺せ無いと観ていた事にも成る。
この「焦り」が「頼政」にはあったと観ている。
故に、「劣性の弊害」が出る可能性の高い「同族血縁性の高い融合族」の中でも「四世族制」を護り、「賜姓臣下族としての慣習仕来り掟」と「血縁の弊害」を無く現在まで護り通し得た戦略であったと考えられる。
その意味では、「伊勢や信濃」を凌ぐものが「伊豆」にはあったと考えられ、現在に於いても現実に目の当たりにして、その「慣習仕来り掟や祭祀」等の「伝統」は遥かに凌いでいる。
この侭では、「融合族と云う定義」はそもそもおかしいが、「融合族の伊豆青木氏」が最後までその「伝統」とその「血縁性」をより高く護り通す可能性が高いと観ている。
その意味で、「冠位官職」を同じくする「補完役」で、且つ、「賜姓族(藤原朝臣族)」で当初は「四世族」では無かった「秀郷流青木氏の存在」は実に大きい。

これは”「血縁」と云う事”のみならず、「姓族勃興」に依って「慣習仕来り掟」が護れなくなり「衰退逃亡」に追いやられた四地域の「賜姓臣下族の青木氏族」を救った事も見逃せない事である。

そこで、その「秀郷流青木氏」を「劣性の弊害を無くす血縁」と云う意味で検証する事に成るのだか、それは次ぎの様に成るだろう。
更に、平安期の「青木氏族の補完役」、つまり、「第二の宗家」と呼ばれた「藤原秀郷流青木氏」は武蔵域を始めとして「全国24の地域」に根を下ろし、何と116氏まで広げたが、「劣性に依る弊害」は「青木氏の中」では最も生まれなかった。

注釈として、唯、「秀郷流一門」の中での「青木氏族」の中に入る「主要五氏の進藤氏」だけには、「秀郷流一門」のこの「劣性の弊害」は出ていた様で、それは「一族一門を取りまとめる立場」にあった事から、「一門の血縁性」で固め「発言力」を保持していた事に依るのであろう。

この事に付いては、「秀郷流一門」の資料にも遺され、更には、「進藤氏」と親密な関係のあった「近江佐々木氏の資料」の中にも垣間見られ、「武蔵北部域」を護っていた「進藤氏直系の系譜」を観ても「継承者の事」で苦労している様子がよく判る。
それを観ると、「血縁の弊害」が強く出て、実に「廃嫡性」が高く、「嫡嗣と義嗣の入れ替わり」が激しいのが判る。
宗家分家に拘わらず、「秀郷流青木氏族の秀郷流進藤氏」は、「義嗣」が多い事から「血縁の弊害防止」に先ず「廃嫡」をしてその上で「義嗣」に入れ替えて何とか「血縁の弊害」を無くそうとしたと観られる。
これは「直系嫡嗣」に恵まれなかったという事では無く、家筋を保つに堪え得ない「唖子や劣子」が多かった事を示していて、それ故に「系譜に観る内紛」が起こっているのである。

この様に「秀郷一門の青木氏族」の中でも、「血縁戦略」を一つ間違うとこの様な「宿命的な運命の道を辿る事」に成る事を意味している。
実に狭い道筋と云える。

その中で取り分け、「伊勢の秀郷流青木氏」は、「伊勢と信濃の賜姓臣下族」の「青木氏との女系」を基本とする血縁を積極的に進め、「青木氏族の氏族」を形成し、殆どは「同化に近い状況」と成り得ていた。
その象徴は、「賜姓臣下族の一員」として認められていた「四日市殿」である。
つまり、前段でも論じた事ではあるが、「女系」で繋がりを強化して、その子の「二世族の嗣子一人」に「実家の青木氏」を「嫁ぎ先」で一つ先ず興させて、「嫡嗣の男子」を「実家の四家制度」の中に組み込ませ、且つ、「女子の二世族の範囲」では、実家の「四家制度の養育の娘」として送り込んだのである。
これを室町期から明治初期まで相互にこの制度を推し進め強固なこの基盤を作り上げたのである。

(注釈 「四日市殿」は「青木氏族」と「伊勢籐氏」と「徳川氏」とも直接に血縁関係を持った「パイプ役」を果たした。)

当然に、複合的にも「伊勢籐氏の血筋」も「伊勢秀郷流青木氏」を経由して融合される事にも成り、何れに於いてもその「結果の絆」は相互に高まり、それは前段でも論じた様に室町期末期の混乱期の「信定と忠貞の連携」にも表れている。
元より、前段でも、「射和商人の段」でも論じた様に、「伊勢秀郷流青木氏」は「伊勢籐氏」と共に「紀州藩」にそっくり抱えられ家臣(姓化)と成り、「青木氏族」を側面から護った。

武蔵域に於いても「秀郷流青木氏」のみならず「秀郷流一門」は、そっくり「御家人や旗本」として「家臣化」し、「幕府の官僚族」を席巻したのである。
この事で、全国に散在する「現地孫」や「傍系族」を含む「秀郷流一門」の「横の血縁の連絡」は充分に取れ、それが「血流」と成って「伊勢や信濃」にも及んで居た事にも成り得る。
つまりは、これは「血筋の源流の大きさ」を物語る。
これ程に「血縁の大きい源流」は日本には無い。
「血縁と云う正統な伝統」に護られた形の上では日本最大と考えられる。
「宗家」は「四家制度」を採りながらも「秀郷一族一門の361氏」と云う途方もない「勢力」と、それを使った「吸い上げた血縁性」により、「血縁性に関する弊害」は認められなかったのである。

「姓化」は「青木氏族」に執っては、一面では「氏族存続の弊害」とも成り得るが、全国に分布する「傍系尊属卑属」までの「姓族」を含めれば、ここからの「血筋」の無限に出続ける「源流」と成り得て、且つ、その「源流の流れ」からその「血筋の流れ」を引き込む事は、「無限の新鮮な血筋の井戸」を示す様なもので、「血筋の劣性弊害」は無く成る事は必定である。
「青木氏族」に執っては、この”「源流制度論」”であれば、最早、この事では「血縁弊害」は秀郷一門に関する事ではこの論外であろうと考える。

そこで戻って、「伊勢」は、「四世族制」に関わらずに「伊勢郷士」との間にも幅広く徹底した「女系族造り」に切り替えた。
そして、地元に根付いた「絆造り」に切れ変えた事が示されている。
であり、重要な事は”その本質に戻した”という事に成り得る。

(注釈 江戸期前後に於いて、上記した様に「女系族論」は、そもそも「人の類」の「本筋論」であり、これに依り、「劣性遺伝の弊害」を無くした事のみならず、「信濃」を含み「青木氏族存続の輪」を広げたと考えられる。
この事は遺伝学的にも補完役として裏付けられている事である。
これは、現在に於いては「特別な事」では無く、「孝謙天皇期の政争」と「頼政の戦略」も「江戸初期の女系族化策」も本筋を得た先祖の行為であると論評している。)

これに関わった「秀郷流青木氏の116氏一門」は、「子孫繁栄の補完役」を完全にを果たした事に成り、「実務上の補完役」に拘わらず「氏の根底の補完役」をも先を見据えて戦略した「円融天皇の判断」は実に正しかった事に成る。
秀郷一門の「宗家の第三子」を「補完役の秀郷流青木氏」を断絶する事無く「継承を義務付けた事」がこの「天皇の決意」を物語るものであるとされる。
そうでなければ、「実務の補完役」で終わっていただろうし、「天皇」は赴任地を多く与えて116氏まで広げなかった事に成る。

上記の論調に関して言えば、この「土台作りの影響」が「前段の射和郷士の件」に表れていると云う事なのである。
つまり、「直系族の男系」は、論理的には「四世族制」を保ちながらも、「女系族」から「優性遺伝の血筋」を入れていた事に成る。
これでの「重要な事」は「男系に依る血筋源」では無く、「女系の血筋源」とした事を意味する。
よく似た対策としの「優性対策」として「平安期に採った妾子制度」と違って、江戸期初期の「女系の血筋源」の方が幅を持つ事ではむしろ「優性遺伝」に繋がる事に成った。
「混血に依る優性遺伝」は、「劣性遺伝による弊害の防止」のみならず「特別に優秀な嫡嗣」を生み出すという特徴をも持っている。
江戸期の第三の分岐点・ターニングポイントはここに決定的な違いがあった。


そこで、上記の事を認識したとして、話を戻して、「奈良期の後半」に入り、この原則的な対応策(賜姓五役の宿命)を採っていた「志紀真人族」には、「劣性遺伝の弊害」のこれが「四家」の「四家20家」の何処かに出ると認識し、「賜姓臣下族の朝臣族」を保つ上では、つまり、「青木氏族」を保つ上では、「四家制度」と「家人制度」では防ぎ切れない事に成っていた事を認識していた。

(注釈 「志紀真人族」とは、「施基皇子族」で後の「春日宮御宇天皇」の後裔の事であるが、つまり、「皇族真人族」に「男子後継者」が不在と成り、結局、「聖武天皇」の内親王の「井上内親王」と「準継承族の賜姓臣下族で朝臣族」と成った「施基皇子」の「四男の白壁王」との婚姻をして「皇位」を継承した「光仁天皇」と成る。
依って、その父である「施基皇子」を後付けで天皇としたが、「施基皇子の崩御後」の54年後に出来たこの「四世族までの一族」を云う。
つまり、「敏達天皇の春日真人族」の「四世族の施基皇子」の「青木氏族」を云う。)

上記の注釈の通り、この事を読みこめば、「聖武天皇期」は「別の意味」で当にこの危機に入っていた事を示す。
「続日本紀」にもある様に「皇子族」(真人族の親王)が無い為に「皇族内部」に「後継者」をめぐり「抗争」が起こり、結局は、「外子王」までを持ち込み「勢力争い(藤原氏や橘氏)」が起こった。
「聖武天皇の真人族」の「四世族内」にも、「皇位継承族に値する優性の男系の継承者」が無く成り、唯一、「真人族」の「二人の内親王」の一人が「孝謙天皇」と成りその後上皇と成るが、“「外子王」“の「純仁天皇」が皇位を続けが、「上皇」との軋轢から廃位されて止む無く「上皇」自ら「天皇」に戻り、「称徳天皇」として戻り二代続きの「女系天皇」と成った。
然し、結局は、「正統な男系継承者」は無く成り、一説では「潔癖性の強い嫉質」(原理主義・正統主義と観る)があったとされるが、それ故に「時間稼ぎ」をした事に成るのだろう。
遂には、その妹の「天皇」と成る事を拒んだ「井上内親王」(天皇に成る事避けていた白壁王)を持ち出し、周囲が掃討されたその結果で、「苦肉の策」として「準継承族(敏達天皇より9世族)」の「賜姓臣下族で朝臣族」と成っていた「施基皇子族(青木氏族)」までに手を伸ばして来た事に成る。

結局は、「孝謙上皇」は「純潔性」を守る為に、「原理主義・正統主義」に基づいて一度、「天智・天武期の状況の血筋」に戻して、その「準継承族」として遺っていた「志紀真人族」に「白羽の矢」を立てて納めたのが本事件であった。
つまりは、「施基皇子」や「川島皇子」が自らが編纂した「天皇家の慣習仕来り掟の規則」を定めた「帝紀」や「上古諸事」を持ち出して、無理に「皇位継承者」を造り、それに「天皇の継続性」のある「井上内親王」と血縁させて辻褄を合わせたと云う事に成る。

この「二つの根拠」には、「外子王」(四世族の傍系卑属)を入れて「皇族の血筋」を外すよりは、「原理主義・正統主義」に基づいて戻す事の方が「より良し」とする判断には、「外縁」(傍系卑属・中には四世族を外れる外子王をも持ち出した)は抗する事が出来なく成った。
これは、つまりは、「孝謙上皇」は候補と成る「四世族内」の「傍系卑属の外子王の人格」、況や「劣性の弊害」等を認め悉くクレームをつけた。
この「劣性の外子王」を操り「天皇家」を乗っ取らんとする企てにも気付いていた事にも成る。

(注釈 一説ではこの事が誤解されて孝謙天皇の「嫉質説」が生まれた。)

更に、この「四世族内」に「男系」が無く成ったという事だけでは無く、有ったとしても廃嫡せざるを得ない状況が強かった事に成り、想起外の「志紀真人族」に「白羽の矢」を向けた。
この決定は普通ではあり得ず、明らかにこの「天皇家」は「ロとハのリスク」のこの危機に入っていた事を示す。

さて、ここで一つ疑問なのは、何故、同じ立場にあった「近江佐々木氏」や「四家四流青木氏族」にも向けられる可能性はあった筈であるが、然し向けられなかった。
資料は全くないが、その理由として次の事が挙げられる。

短所
「朝臣の近江川島族」は争いの下に成る政争であった「天武期の吉野盟約」に参加した事。
「近江佐々木氏」は「青木氏族」より「四世族制」を充分な制度化をして護らなかった事。
「賜姓臣下族の朝臣族」としての「務め」に比較的に疎かった事。
「施基皇子の二世族」に比べて「良き男系継承者」が少なかった事。
「近江佐々木氏」や「近江青木氏」は「政争の元」と成る「公家族との繋がり」が強かった事。
以上のリスクが考えられる。

長所
1 「志紀真人族」には「高野新笠(渡来人の後漢阿多倍王の孫)の背景」があった事。
2 「施基皇子」は「敏達天皇の四世族」であり「正統性」があった事。
3 「青木氏族」は、既にそれまでの「皇族血筋」(継承外と成った真人族王)を頻繁に入れて「五家五流族」を形成していた事。

幾つかの「遺されている資料」を咀嚼すると、つまりは「孝謙上皇」は、「周囲の強力な反発」を振り切ってこの「長短の比較」をした結果と考えられる。

その「決め手」は「長所重視」に及んだ事と考えられ、取り分け、“「天皇家の本筋」に戻す”という事から考えると明らかに「長所の3」であったと考えられる。

そうと成れば、上記した厳密な計算された「規則や制度」に依って「外部血筋」を入れて徹底して「姓化」を敷かなかった「伊勢青木氏」を選ぶ事に成る。
例え、「臣連族」であったとしても「姓化のリスク」は、より「外部勢力」を呼び込んで仕舞い、女性である「孝謙上皇」が嫌った、“「政争」”が朝廷内に蔓延る危険性が大いにあった。
そもそも、この「皇位継承の縁組」を申し渡された時でも、「白壁王」を始めとして女子を入れた「十人の子供」等は、「施基皇子の遺言」の「青木氏の氏是」があったとしても、徹底して個人で「無冠を主張した事」でも歴史上の事実として判る。

(注釈 然し、現実には最後は「無冠」であったのは「男子の二人」と「女子の一人」と成った。)

この時期は未だ表向きは「皇親族」であった。
つまり、前段でも論じたが、天皇に困った事が起こった場合に、天皇の前で意見を述べられる立場で、且つ、場合によっては「天皇の秘意」の有無の事も含めて、その困った「懸案事項の解決」に直接務めるという役目の「令外官役」を負っていた。

(注釈 この「皇親族」の「令外官の役目」は、「嵯峨期の詔勅」で外された事のみならず「賜姓族の対象」からも外された。
そして「賜姓」は、「令外官の役」の持たない「無役の源氏族」と変名して賜姓した。
源氏族には財政的にも保障しなかった。)

筆者は恐らくは、「孝謙上皇」は、「和紙」などの「二足の草鞋策」の「豪商も兼ねた令外官」の「世間に明るい伊勢青木氏」に密かに諮問していたと観ている。
結局は、それが「孝謙天皇の信頼」の元と成って「白羽の矢」を立てたと考えられる。
この説で観ると、「青木氏の二世族」は、何で「無冠」を主張したのかと云う事に辿り着く。
この事で、表沙汰に成れば、「世間の批判」を受けかねない事にも成り得て、「青木氏の氏是」の事もあり、敢えて「無冠」を主張した事に成る。
この根拠は、その後の「青木氏族の執った姿勢」、又は、その「立場」にあったと観ている。

つまり、次ぎの事である。
「二足の草鞋策」を通じて朝廷に対して明治初期まで「献納」を行っている事。
「嵯峨期の詔勅」で無く成った筈の「賜姓五役の立場」を堅持し、江戸初期まで堅持した事。

つまり、この事は「諮問に対する答えの責任」を執ったという事であろう。

それでなければ、鎌倉期からその「役目の意味」が殆ど亡くなっているのに、更には「準継承族」では全く無く成っているのに「賜姓五役の役目」を依然として続けた事に疑問が残る。

既に、上記した様に「青木氏族」から光仁期に「天皇」を出した以上は、最早、「準継承族」では無く成っている筈である。
その「天皇」は、「青木氏族の直系族」としては、血縁的に考えても、丁度、「第四世族」の「54代 仁明天皇」までである。
その後は、「高見王」は、即ち、「桓武平氏」: 「阿多倍王・高望王・平望王」の「後裔の血筋」が入る結果と成るのであるが、この祖と成る「光仁天皇の后」の「高野新笠」はこの「阿多倍の孫」でもある。
従って、この「青木氏族」と傍系で繋がる血縁を持つ「高見王」に、「賜姓源氏族(賜姓でない源氏も多い)」と「藤原氏系族」がこの血筋に組み込まれた。
然し、この状況は「後一条天皇」の直前まで続いて、「外縁」と成る「賜姓源氏や藤原氏」等の血筋の範囲は一端この時では終わっている。

はっきり云うと、本来であれば、理屈上は「賜姓五役の役」は、三世族の「嵯峨天皇期の詔勅」で正式に終わっているが、伸ばしたとしてどう考えても最早、四世族の「仁明天皇」のここまであろう。

ここからは、論理的には「純潔性を含む賜姓五役の責任」は完全に無く成っていて、後は「青木氏の勝手」という事に成る。
取り分け、「純潔性」に付いては「賜姓源氏族に渡っている事」にも成る。
然し、実態は違っている。

つまり、「第一の分岐点・ターニングポイント」の前に、平安期末期にも「ある種の分岐点」があった事に成る。

筆者は、これがそもそも”「基点」”であったと考えていて、直ぐに「第一の分岐点」には成らなかったのであり、敢えて云うならば、「仁明天皇期」が「0の分岐点」と成ろう。
ここから「青木氏族のエネルギー」を貯めて徐々に変化していって「第一の分岐点」に達した事に成ると考えている。

況や、直ぐに「仁明天皇期」に「分岐点」として成らなかったのには、それには「分岐点」には成らない「(-)のエネルギー」が働いたからである。

それは前段でも論じている960年頃に令外官的な「補完役」としての「秀郷流青木氏の出現」であった。
この「補完役」を作り出さなければ、世の中に「政治的に困った事」が起こっていたと云う事に成る。
「補完役」のこれは「藤原秀郷一門」がそもそも自発的に求めたものではない。
「朝廷(円融天皇)」が「社会情勢の乱れ(青木氏族が皇親族から引いた事)」から「令外官」としての意味も込めて「秀郷一門宗家の組織」に「宗家から第三子」をこの「補完役の青木氏」を名乗らせる事を命じた。


(注釈 これは「令外官」としての「実務と血縁」の「補完役」でもあって、この始祖が「千国」と成ったのだが、その後は二流に分流し秀郷一門の「主要五氏」として「青木氏族」を形成するまでに成った。
この結果として、秀郷一門361氏の内、116氏を占め「第二の宗家」と呼ばれるに至った。
ここでは、そもそも「青木氏の歴史観」として観れば、「全国24地域と116氏」と云う要素には大きな意味を持っていると考えられる。
平安期中期から室町期中期までの間にどんなに考えても、「時の政権」が「実務的」には桁外れの「24地域」にまで「補完役」として赴任させる事は先ずは無い。
更に、「血縁的」には「116氏」と云う膨大な子孫拡大を認める事は無い。
これは明らかに「実務と血筋」の「補完役の令外官」としての「恣意的意味合い」を持たせたと考えられる。
他の「氏族」にこれだけの事をさせる事は「政治的に好ましい事」ではない。
「藤原氏北家族」の「秀郷一門の勢力」の土台の上に更にこれだけの勢力を持たす事は「政治的発言力」は強大と成り得て警戒される。
現実に、瀬戸内で勢力を伸ばしていた「讃岐藤氏の一豪族」でさえ「純友の乱」としてこの「警戒心」から潰された経緯を持っている。
この逆の政策を執っているのである。
「純友の乱」と「秀郷流青木氏」とは根本的には違うが、「純友」は「一族の単なる勢力拡大」で、「青木氏」は「実務と血筋の補完役」であり、根本的に「立場の有利性」は違う。
「実務と血筋と云う令外官の補完役」は、「実務」は「血筋」無くして成し得ないし、「血筋」は「実務」無くして成し得ない「相関の関係」にある。
故に、時の政権は「実務の24地域と血筋の116氏」と云う拡大を認めたのであり、ここからは「政治への発言権の拡大」はあり得ない。)

そこで、上記の「政治的に困った事」とは、「賜姓五役」として手を曳いた事に依って「民の安寧」を願う「祖先神の神明社の荒廃」と「献納」が途絶えて「財政的な困窮」にあった事である。

(注釈 「政治的に困った事」は政治的に二度あった。一つ目は、この平安期から室町期で、二つ目はと前段での江戸初期である。)

これで観ると、一つ目は明らかに、「準継承族」としての「純潔性の義務の保持」は外れたとしても、「民の安寧」を願う「祖先神の神明社の役目」までを放棄した事に成る。
これは「青木氏族」としては「相当な覚悟であった事」に成る。

ところが、この「秀郷一門」に「青木氏族」と成って「令外官の補完役」を命じる前に、一つの大きな出来事があった。

それは、朝廷は「賜姓臣下族の青木氏族」に代わった「賜姓源氏」にこの「神明社の修復」を命じている。
これは、「嵯峨期の詔勅の文言」の”賜姓してやる代わりに財政的に保障しないから自由に生きよ”に反する。
その「賜姓源氏」に「青木氏の守護神」の”「皇祖神の子神の祖先神の神明社」を修復せよ”はどう考えても不合理である。

然し、元々、「嵯峨期の詔勅」に明記されている様に、「財政的能力のない武家貴族の源氏」にこれを成す能力は無かった。
そこで中でも、「武家貴族の清和源氏」が各地に飛散している「源氏族の有力な傍系族」を集めて「武家」に課せられていた「禁じ手の武力集団」を構築し、各地の荘園を奪い勢力を蓄えた。
然し、そもそも「修復」はその「勢力下での財政的裏付け」にあるにも関わらず、これにも「朝廷から非難」を受けた。
確かに理不尽そのものである事は否めない。

(注釈 「清和源氏の二代目満仲」は「武力集団の創設」のこれを行ったが、この「路線争い」で三代目で意見が分かれ、「嫡子の頼光派・官僚族派・摂津源氏」と、「三男の頼信派・武力集団派・河内源氏」に分かれた。
「摂津源氏(頼光派)」は「四家制度」を敷き「青木氏族」と同じ務めを引き継ごうとしていた。)

「朝廷」は、以上での経緯があるにも拘らず「財政的な補償」をしなかった「宗家の摂津源氏」にこの「修復命」を出したのである。
ところが、「摂津源氏」には元より全ての源氏には、「神明社を修復する財力」は元より、技術技能を司る「青木氏部」の様な「技能部の力」は持ち得ていなかった。
そこで「朝廷の命」の「体面」を保つ為に「摂津源氏宗家」は一社のみを修復して、後は言い逃れて「引延策」を演じた。
業を煮やした「天皇」は、遂には、直ぐに「将門の乱」にて功績が認められ「貴族と位冠と武蔵国」の三つを与えられ発祥した直後の「藤原秀郷」に、上記の「補完役命(秀郷三男の千国)」を出したという事に成った。

余談として、以上の事でも”如何に「青木氏族」が「嵯峨期の詔勅」に対して反抗したか”の例として考察され、この「政治的に困った事の経緯」とはこの様な事であった。

話を戻して、注釈として、「四世族の範囲」での独自の血縁制度で「純潔性」を保ち、且つ「天皇家の権威」を保つ上で「帝紀」等を運用して「大義」を造り上げた。
「純潔性の血縁制度」に依って出る「唖子や劣子に対する誕生」に対しては早期に済ます系譜には出ない「廃嫡制度」を採用して、記録にも出ない制度を敷いていた。

この様に上記の経緯は、何時、又、「準継承族としての立場」を課せられるかも知れない「掟」があって、「四世族の血縁を婚姻の前提(四掟)」としていたが、この事がそれは何時か一挙に「青木氏の滅亡」をも意味するか認識していた証でもあり、戦々恐々としていた事を物語る。

それが「孝謙天皇期」に遂に再び訪れたという事に成ったのであろう。
故に、「志紀真人族」の「第二世族」は全員が「無冠」を主張し、「施基皇子」が定めた「青木氏族の氏是」を「第二世族」に依ってより強化されたものと理解する。

恐らくは、そもそも、多くの皇子の中で「施基皇子」だけが「天武期の吉野盟約」にも、「あらゆる政争」にもただ一人だけ参加しなかった事から観ても判り、従って、この「青木氏の氏是」は「施基皇子の生き様」を示す「施基皇子の遺言」と捉えてられている。
これは、「撰善言司」に成っていた事でも云える。
つまり、筆者は、当初から、つまり、「施基皇子の代」から持っていた「戦々恐々論説」であり、「準継承族」としての「名誉的な自惚れ」は無かったと観ている。
だから、「嵯峨期」には一族の出自元・実家先でありながら、この様な場合に依っては潰される可能性もある「反抗態度」に出たと考えている。

故に、裏を返せば、「天武天皇期」には、「草壁皇太子」や「高市皇太子」より三段階も上位にある程に信頼され、「天武天皇崩御」の「葬儀人」にも選ばれた所以でもあろう。
更には、「葬儀人」に相当する「持統天皇の造御陵長官」、「文武天皇の嬪宮」も務めた人物でもある。
この様に全ての人からその「人格や品格」を信頼されていたからこそ「法律の骨格」と成る調査をも任され「撰善言司」にも成っている。
「吉野盟約の不参加」が指し示している。
ところが、この様に「立場」を不安定にしない為にも執っていた”「準継承族」としての「四世族の血縁を婚姻の前提(四掟)」”が逆に痣と成ったのである。

これは、「孝謙天皇の行為」や「続日本紀の編集の経緯」にも表れている。

その事に付いて「血筋」、即ち、「血筋が起こす悲劇」として論じる。

そこでそもそも、この「続日本紀」とは、「六国史」の内の一つ「日本書紀」に続く「史書」でもあり、文武期の697年間から始まり最後は791年までの事を編纂したもので、その多くは「桓武天皇期」に完成されたものであるが、「撰善言収書」はこの「編集の資料」にも成ったとされ、且つ、「日本初の完全法令書」の「大宝律令(701年)の参考書」にも成ったとされている。


さて、ここ迄の議論で、何で「伊勢青木氏」が「天皇家」も含むどの「氏族」よりも早く完全に近い形で「劣性遺伝による弊害の防止」の「血縁制度」を驚く速さで敷けたのかと云う“「疑問A」”がある。

そもそも、これは「賜姓族」であった為に「慣習仕来り掟」に縛られた中ではそう簡単に進む話ではない。
そして、もう一つの「疑問」は、何で「信濃青木氏」は血縁を含む「伊勢との繋がり」を迷うことなく即座に強く持ったかと云う“「疑問B」”のこの事である。

筆者は、この上記の「二つの疑問AB」は連動していたと観ている。

それには、つまり、上記の通り「史書」や「律令」に影響を与えたくらいのものであったとすれば“「撰善言司」“が大きく関わっていたと観ているのである。

全国地方を歩き廻り得た「善治」の中には、「家族を構成する血縁の事」も含まれていて、「天武天皇」を含む「三人の葬儀人」を務めたとする驚くべき「長寿と名誉」を得た「施基皇子」と、その全ての「二世族」は、この「施基皇子の知識」と「考え方」を反故にする事は先ず無かったと観ている。
その上で或いは、その「撰善言司の資料」は、或いは、「撰善言収書」の「写し」が後々まで遺されていた可能性があって、それを「二世族」が観てよいところを引き出し採用し、骨格化して作り上げたものであると観る。
それが「短期で反映された根拠」であって、且つ「血縁組織制度」であったと観ている。

(注釈 口伝に依れば、古書の殆どは「消失」としているので、自宅か菩提寺の何れかに保管されていて、これらの関係する資料は二度の火災の何れかで焼失したと観られる。
本来は、「青木氏族」に関わる執事役は「菩提寺」・「撰善言収書」の「写し」か、神明社の「守護神」・「撰善言収書」の「本書」の保管であるから何れかにあったと観られるが、「本書」は可能性が低いと観られる。)

故に、「施基皇子」の「白壁王(光仁天皇)」の子供の「山部王(桓武天皇)」、つまり、「孫」がその環境に育った事もあって、この「祖父の事」と「祖父の青木氏の事」を書いた「日本書紀」に続く歴史書の「続日本紀」を強い熱意を以って完全に仕上げたと観ている。

そもそも、「青木氏の歴史観」に関わるこの「続日本紀の編集経緯の件」ではあるが、これは、年数にすれば約95年も掛かったものであり、この経緯からすると放置していれば完成は出来ない事でもあった。
敢えて“仕上げた”とするからには、“それなりの強い意”があった事を示す。
何故ならば、この「続日本紀」は、当初は、「文武期以降の事から孝謙天皇期までの事」を偏纂しようとしたものである。

然し、編纂開始の時期の「第一期」は、「淳仁天皇(760年頃)」からでその間に政争等色々な出来事などに依って「中止」と成る等の経緯と成った。
この「外部勢力」を巻き込んだ「天皇家内部の政争」は、「外子王の淳仁天皇の正統性」を作り上げる事への「孝謙上皇(称徳天皇)の反発」にあったと観られる。
然し、この「反発」がその事に依る「中止の原因」と成った。

ところが、「第二期」としては、「光仁天皇」が「続日本紀の編集」を再度に命じたが、ところが、更には「編集者の反抗」を受け、更には「編集した資料」が「編者らの懐疑的な行為」により「紛失する等の事」が起こり、矢張り、未だ「孝謙天皇期の事」を引きずる論調が強く編集途中で有耶無耶にされ「停止」してしまった。

然し、「第三期」としては、「桓武天皇」が「父の意」を受けて「桓武期の途中までの内容」として再編纂する様に命じ、それも在位中の「天皇の権威」を背景に、遂には、「編集」に対する「紆余曲折」の末に完成させたものである。

最早、この段階では「血筋の正統性」の議論は霧消し、編集は加速したのである。

これらの「三つの期」を観ても、一つには明らかに「光仁天皇と桓武天皇」は「施基皇子族の天皇期」の「孝謙天皇の真意」を継承して「歴史的な証明」を成し遂げようとしたと観ている。

第一期は、「外子王の淳仁天皇」の「文武期からの正統性」を「歴史書」にして遺そうとした事でもある。
然し、「青木氏族」としても、且つ後勘としても、「四世族の傍系の外子王」である限りは「血縁の正統性」には無理があった事は否めないと考える。

「第二期」と「第三期」は、「孝謙天皇の意」を得て「血筋」を「天智期からの施基皇子族」の原点に戻して「天皇の正統性」を主張とした「歴史書の編纂」でもあった。

当時は、急激に100年程度も戻った「正統な血筋に戻す事」への「抵抗」があったと観られる。
それが「賜姓臣下族」で「朝臣族」の最高位にあった「施基皇子」でありながらも、「四世族外」の「王位」を持たない「二世族の血筋への疑問」にあったと観られ、その「抵抗」を大きく受けたと観える。

然し、「別の視点」では、「孝謙天皇期」に於いては、他に正統な後継者の皇子が居ない限りは“「外子王」(四世族)”である限りに於いては、「四世族」は「大化期の王位の条件」である以上は、最早、「最高の正統性」を持っていた事も否めない。
「大化改新」の「四世族王位制」からの論調とすれば、「外子王の淳仁天皇」としては「正統性」があるとの主張である。

それは、「四世族制の王位」の論調にあった。
然し、“「外子王」”は、「直系族」では無い「四世族内の傍系族」であるとすると、「血筋論」としては「直系族」では無い事から外れる。

この”「四世族の定義」”が明確では無かった事から起こった問題であって、原則論からすると先ずは「直系族論」であろう。
然し、この時は、最早、この「直系族」は全く無かったのであるから、「四世族王位論」を以って主張される事にも一理はある。
(「青木氏の氏是」がある限りは「青木氏族」としてはそうで合って欲しかった。現実に一族は皆その様に動いた。)

そうすると、「孝謙天皇」は、この「直系族論」を採ったとすると、そうすれば「天智・天武期」に戻す以外には無く成る。
故に、「施基皇子の族 青木氏族」か「川島皇子の族 佐々木氏族」かと云う事に成り、「井上内親王の嫁ぎ先」に「白羽の矢」が立て優先するは必然の事と成る。
況してや、何れの派にも属さない「天下の人格者」でもあった「施基皇子族」を選ぶであろう事は間違いはない。
この事を事前に察知していた「施基皇子族の二世族」は、この「醜い政争」に巻き込まれない様に警戒して「無冠」を望んでいた事は判る。

(注釈 氏是の説明と共に口伝でも伝わる事である。)

それが、「施基皇子」と「井上内親王」と云う「キーワード」に左右されたのである。
これが、その中でも「井上内親王」を「后」とした「四男の白壁王」は、「歴史書や書物」でも見られる様に「無能者」を装う程に、この「血筋の正統性の政争」に巻き込まれる事を大いに嫌っていた。
然し、「彼らの意」に反してこれが「最高手段」とした「孝謙天皇の主張」であった。

第三期は、当然に「光仁天皇の意」を下に「桓武期までの歴史書」にする事で「天皇の正統性」を完成させたものである。
「多くの説」があるにしても、当の「青木氏族」からの論調としては、「孝謙天皇の意」を完成さる事で「正統な天皇制」と云う「国体の有様」を完成させたという事であろう。
それは、況や、百々の詰りは本論のこの「血筋という事」に成り得る。
更に況や、「血筋優先論」であり、「直系族論」であった。

故に、何れも「天皇の正統性の主張」であり、「日本書紀の文武期までの歴史書」に繋いで、「続日本紀」とした事でも判る。
「孝謙天皇」は、この事に拘り「男系継承者」が無く成った事から、最早、「外子王の系統」にせずに「施基皇子」のところまでの「正統な処に戻そうとする葛藤行為」であった事が判る。

そこで、初めて、“何で「直近の文武期」には敢えて戻さなかったか”という事でも理解できる。
通常的には考えれば、正統な「血筋優先論」であり、「直系族論」であれば戻せた筈であろう。
然し、直ぐには「抵抗」を受け戻せなかったのである。

それは、次ぎの事に関わる。
一つ目は、本書の「編纂目的」は「日本書紀」に書かれた内容に繋ぐ「歴史書の編纂」にあり文武期からの編纂と成る事
二つ目は、「四世族」ではあるが「文武天皇」は、「天皇の子」ではなく「草壁皇子の子」で「王位」である事

(注釈 「草壁皇太子」は早没である事から「王位」であるが「持統天皇の引上げ」で「天皇」と成る。
第二皇太子の高市皇子も続けて没する。)

以上とすると、この論理からすると、文武期に戻す事は、「皇子の子」でない「外子王」の「舎人親王の子」の「淳仁天皇系」でも好いという事にも成り得る。

これでは、論理的に矛盾して「孝謙天皇の主張」に反する事に成る。
故に、その「施基皇子の志紀真人族」と云われる「氏族の経緯」を「歴史文書」に仕上げ「正統性の証」を建てたかったと観ている。

況や、「施基皇子族」に戻す事で「二つの懸案事項」は解消される事に成り得るし、「聖武天皇の皇女」の「井上内親王」と云う「切り札」でより「継承性」は成立する事に成る。
これにて、「孝謙天皇の主張」を押し通したと観ているのである。

(注釈 平安期は全ての天皇には自分の皇子としての「出自の正統性の確立」を成すその傾向があった。)

そもそも、「続日本紀の編集」を始めたのは「淳仁天皇」(47代)の本人であったが、「中止」と成った原因は「論争を含む政争」のここにあって、それを「書紀化する事」で成立する。
注釈としてつまりは、「自らの正統性」を御世に作り上げようとした「淳仁天皇」はこの行為は「背任行為」と観られ犯罪と捉えられて、何と「廃帝」と成り、「子孫」を一切を遺させずに「淡路配流罪の刑」を受ける事と成り失敗する。

この事でも「外子王の四世族制」は排除し抹殺し、「直系族性の四世族制」を成立させた事にも成る。
つまりは、”基本は直系族である”と云う合わせて「定義の成立劇」でもあった。

そもそも、「二世族」は「青木氏の氏是」を護り通し、「無冠」でなければ、「天皇家の醜い政争」に巻き込まれ「氏の滅亡」を覚悟しなければ成らなくなり、遂にはその為には“「厳しい廃嫡」”を常に実行しなければならなく成る。
そうすると、この事、即ち「純潔」だけを護り通す事を避けねばならない事に成る。
簡単に云えば、そこで、「表向き」は「四世族」に縛られながらも何とかして「常に外の血を入れる事の制度」が「青木氏族」の中に絶対的に必要に成り求められた事に成る。
そうでなければ、「優性の血縁維持」は成し得ない。
(但し、本論の意味合いは敢えて「優生」としない。)

「続日本紀の編纂」に依って、この結果、「青木氏族に課せられた事」と云えば、「直系族性の四世族制」を成立した以上は、その「基盤と成った青木氏族(所謂、氏元)」は、「青木氏族の氏是」(施基皇子の遺言説)に反しても、体面上でもその「血縁性を確立させる必要に迫られた事」に成る。
それが、上記した「純潔性の血縁に関する論調」であった。
嫌々ながらも今まで以上にその「責任」に攻め立てられた事に成った。
これは当に、「二律背反」であった。
「青木氏の氏是の順守」と「天皇家の氏元の責任」は背反する。

そこで「逃れ得ない背反」にどの様に対処するかに掛かっていた。
「青木氏族」に執っては「有史来の極めて苦しい立場」に置かれていた事が判る。

況してや、この時期は、「二足の草鞋策」で自ら「和紙」を開発し「部制度」による「余剰品の市場放出の役務」を朝廷より請負い「商いの基礎」が始まった時期でもありながら、「財政的負担」もより起こった。
「天皇家の氏元の責任」としても「賜姓五役」もより課せられた事に成った。

「青木氏族の存続」としては是非に逃れたい時期ではあった筈で、「天皇家の氏元の責任」だけでは「氏の存続」は成し得ず何の利益にもならない。
あるは「名誉と権威」であろうが、「氏存続」と「商いの基礎」には邪魔であろう。

つまりは、そもそも、「商い」無くしては次の事は成し得ない事が起こった。
「青木氏の氏是の順守」
「天皇家の氏元の責任」
「賜姓五役の遂行」

以上のこの三つは何事も成し得ないのである。
これが「唯一の解決策」であった事に成る。
況してや、上記した様に、更にこの後に一族の「嵯峨期」に於いては「皇親族や賜姓族」も外されたのであるから、「唯一の解決策」があったとしても、「天皇家の氏元の責任」と「賜姓五役の遂行」は、「氏族存続」の為には「放棄する事」以外には無く成る。

その結果、「青木氏族の財力」を背景とした「天皇家の財政的能力」は低下し、「直系族」としての「四世族の仁明天皇」で終わる結果と成ったのであろう。

余談ではあるが、論じておく必要がここである。
これは一面では「嵯峨天皇の失敗」とも観える。
筆者は、この説を採っているが、何故に、「二足の草鞋策」を採っていた事は、「嵯峨天皇」は子供頃から観ていた筈でありながら、且つ、「権威」は「天皇」にそもそもあり、残るは「権威を強める財源の裏打ち」で、成せるものであると判らなかったのかである。

筆者は、戦略的に観てこれを「嵯峨天皇」は見落とした事と観ている。
何時の世も「権威」は「権威」だけで保てるものではない。
「朝廷」より敢えて「二足の草鞋策」が、「部制度の処理」として「天智天武期」から「青木氏族」だけに許されている事を鑑みれば、何故にこの「特権」を認可したかは容易に判る。
「嵯峨天皇」はこんな「簡単な事」を理解できなかったのかと云う疑問である。
これは特別に利発な者でなくても誰でも判る事であろう。

「桓武天皇と平城天皇」に対抗して「政治路線」の「政争」をしてまで「青木氏族」を外した事は理解が出来ない。

注釈として、他面で見れば、「青木氏の氏是の順守」と「天皇家の氏元の責任」と「賜姓五役の遂行」のこの三つに苦しんでいるのを観て、外した事も考えられるが、そうだとするとこの「判断」は感情的で論理性に欠ける。
結果として、「財政力」が無く成り、「朝廷の財政的な負担」から、「皇子族」は「真人族四人」まで残して、後は「賜姓源氏族」にして「権威も財政も武力」も無しに世に放り出したのかであり、あるのは「真人族であったとする名誉」のみに成って仕舞った。
これでは「賜姓源氏族」は生きて行くことは到底に無理であり、「賜姓源氏族」は全国に飛散して「傍系族」に成って「不祥な姓族」を多く作って仕舞った原因と成った。
つまり、「青木氏族や佐々木氏族」の様には成らず子孫を全く遺せ無かった原因とも成ったのである。
遺せていれば「外縁族」に左右されずに、「天皇家の裾野」は強く成り、「継承者を廻る争い」を興さずに「繁栄の道」を辿っていた筈であると観る。

(注釈 その結果、何が起こったかと云うと、「11家11流の賜姓源氏」の内、四氏(嵯峨源氏、清和源氏、宇多源氏、村上源氏)を除いて地方に散り、又、僧侶に成るなどして家を興して子孫を遺す事は出来なかった。
主に、彼らは天智期の「坂東八平氏」を頼ったし、各地の「門跡院」や「比叡山]や「善光寺」に入山してしまった。
主に何とか遺された近江の土豪と成っていた「嵯峨源氏」は「清和源氏」に吸収され、「宇多源氏」は東北域にて「佐々木氏(神職住職系)」を名乗り、「村上源氏」は平家に吸収されるに至る。)


「青木氏の氏是の順守」と「天皇家の氏元の責任」と「賜姓五役の遂行」のこの三つに確かに苦しんだが、然し、これを糧に「仁明天皇期」では、「二足の草鞋策」に完全に傾倒して「生き残り策」を推進し、「氏存続を目的」として朝廷より一時手を引いた。

この事に付いて「青木氏の資料」によれば、「嵯峨天皇期(809-823年頃)」には「余剰品払い出し業」の「商い」より離反し独立し、「仁明天皇期(833-850年頃)」には、「五家五流の青木氏族」と共に「和紙殖産」で何とか「氏族」を更に強化して興したとある。
そして、950年頃には、「和紙以外」にも「商い」を成立させ拡げ、「補完族の青木氏」の助けも受けて1025年頃には「総合商社」にて「宋貿易」を行う等して拡大を続けている。
遂には、「青木氏族の安定期」の「鎌倉期」を経て、「室町期(1360年頃以降)」には、戦乱期の中でも「紙文化の発展」で「巨万の富」を「二つの青木氏族」は獲得し、遂には、これを元手に「各種の殖産」による「商い」を本格化させて前段の江戸期に入る。

この「商いの経緯の事」から、70年-100年位で何度かの「商いの変革期」を迎えている。
筆者は、この「商いの変革期」は同時に「青木氏族の変革期」にも重複し、合わせて「血縁性の変革期」にも符合していると「青木氏の歴史観」として観ている。

結局は、「大きな変革期」の「嵯峨天皇」の「青木氏に対する仕打ち」が逆に「青木氏族」を奮い立たせ成功裏に導いていたとも解く。

故に、「上記の事の経緯」を敢えて論じたのには,「血縁の道筋」が「単なる優劣の弊害」だけでの事で収まると云うものでは無いと解いている。
これが同時に、「血縁の筋道」を作ったと考えているのである。
幾ら「血縁の筋道」と唱えても、上記の経緯に示す様に「財政的裏打ち」が無ければ成し得なかった筈であるし、将又、逆の事も云える。

上記の論説の通り、つまりは、この「商いの変革期」を無くしては「青木氏の氏是の順守」と「天皇家の氏元の責任」と「賜姓五役の遂行」のこの「三つの事」は何事も成し得なかったのである。
つまり、少なくとも「前段の論説」の「江戸初期前の前後」までは、最低限に於いてこの「三つの事」は成し得ていた事に成る。

ところが、前段の江戸初期の前後の「商業組合の創設」や「地産の殖産」が始まると、その「血縁性」や「優性の血筋」の課題は、上記の「三つの事」の目的では最早無く成っていたと云う事である。

それは、この「三つの事」、即ち、「青木氏の氏是の順守」と「天皇家の氏元の責任」と「賜姓五役の遂行」の目的は薄らいでいたという事にも成っていたのである。
これは当然と云えば当然ではあるが、取り分け、残るは「青木氏の氏是の順守」だけであった。
これは「青木氏の先祖からの口伝や遺資料」等をある程度伝え遺していた「曽祖父(江戸期)」や、これを受け継いだ「祖父の忘備録」等にも書かれている事でもある。
この「先祖の口伝や忘備録や遺資料」等に依れば、後は、「家柄を示す事」だけであって、それを使い分けていた事が良く判る。

(注釈 「祖父の忘備録」は明治35年の火災で多くの先祖を物語る資料関係を焼失して、それを何とか再現せんとして記録に残した資料で、次いで筆者が歴史好きの幼少の頃から再現を試みてここまで遺せた。70年以上は所要した。
そもそも、「伊勢青木氏」には、古来からの「青木氏族に関する古書」等を所蔵する「専用の蔵」があって、この蔵の事を「かせ蔵・架世蔵」と呼んでいたらしい。
奈良期からの「商い等に関わる古書」は「かせ蔵」に、「青木氏族に関わる古書や遺品」は「菩提寺蔵」に、「青木氏の伝統に関する古書」は「神明社蔵」に夫々分けて保管されていた事が判っている。)

唯、周囲が「商いの伊勢屋」><「郷氏の青木氏族」の関係をどの様に観るか、どう扱うかに依るとしていると「先祖の口伝を伝える祖父」等は云う。
“事を殊更に拘るな。粛々と青木氏の中で行えばよい”としている。
つまりは、唯一つの「伝統の先祖の遺言」の“「青木氏族の氏是」に従え“であろう。

それ等の意味からすると、“時代に従い、「商い」に重点が移りつつある事から「商いの伊勢屋」と「郷氏の青木氏族」との「使い分け」”に代わって行った事らしい。
それだけに、「青木氏の氏是の順守」と「天皇家の氏元の責任」と「賜姓五役の遂行」の「役柄」の「三つの課せられた事」も次第に色あせて来たらしい。

(注釈 唯、“「朝廷への献納金」をどの様に評価するか“は、「青木氏族」に関わる事であって、「朝廷の献納金」は「明治3年」に終わった事が判る。
これの完全終結は「伊勢騒乱」終了後であったらしい。
始まりは、「江戸初期」と「室町期中期」と「鎌倉期末期」で、「平安期」は末期に中止している。
この「四つの期」がどのくらいの期間続いたかは「商記録」には無いが、「開始した期の意味」は判る。

江戸期初期は、朝廷が幕府に締め上げられていた時期と享保の改革期までの範囲
室町期中期は、紙文化と朝廷の荒廃時期までの範囲
鎌倉期末期は、元寇の役の朝廷の荒廃期までの範囲
平安期末期は、頼政の朝廷に関わった時期までの範囲

そもそも、「青木氏族」に執っては、最早、継続的に献納する意味が無く、その都度に献納するという体制を敷いていた事が判る。
恐らくは、最早、嵯峨期からは、「青木氏族の認識」は下記の理由に従っていた事から、「天皇家の氏元の責任」と「賜姓五役の遂行」の昔の「役柄」等を持ち出され頼ってきて、密かに「献納」を依頼されたと観られる。故に断続的であったのであろう。
「頼政の乱」と「明治期の伊勢騒乱」ではこの「献納の効果」は確かにあった。)

その上に、江戸初期に「祖先神の神明社」も「密教の菩提寺」も江戸幕府に引き渡した事からも「権威性」は更に低下し、最早、「名誉」のみのものと成っていた事からも判る。
残るは、上記の“この名誉も周りが認めるものであって「青木氏族」自らが認めるものではない”とし、何度も云うがあくまでも“「青木氏族の氏是」に従え“が物語るものであって、依って「商い」が江戸期前後には、「名誉に頼らない体質」が、最早、大きく占めていた事に成る。
前段で論じた「享保の改革」の「伊勢屋の貢献の経緯」からも、「青木氏族」と云うよりは実質は“「伊勢屋」”であったろう。

つまりは、それまでは、それなりに「商いの伊勢屋」<「郷氏の青木氏族」の関係を維持していたが、室町期中期頃からは、「商いの伊勢屋」>「郷氏の青木氏族」の関係に変わって行った事の経緯に成る。
大概は「紙文化の発展」を起点に依って「変革」を遂げていったのであろう。

「殖産」を、況や、「巨万の富」を獲得した上で、これをどの様に使うかの問いに対して「商いで答える方法」を模索し拡大させる方法を導き出したのである。
それを基盤として「今後を作る事」が「青木氏族」に求められていたのである。

それは、「四世族制」、つまり「四掟」(「ロとハのリスク」を無くす血縁の掟)を護りながらも、それから離れた「女系族」に重点を置いて江戸前後期には、「地元と信濃」との「郷士衆との繋がり」に重点を置いたのである。
これで、「大殖産」を進める「青木氏族の地盤」が、「伊勢秀郷流一門の力」を借りて「伊勢全域」は元より「信濃域」までに広げて固めたという事に成る。
これで上段の「姓制」を置かずとも「清らかな血縁性」は「源流の如し」に成ったのである。

云わずと知れた同じ課題、即ち、「三つの事」を抱えていた「信濃青木氏族」が「殖産の商い」と共に「伊勢青木氏族」との「血縁の繋がり」を無制限にして一体化したという事に成る所以である。

当然に、室町期末期の「商業組合」の「15地域の青木氏族」との相互に「女系族」で繋がったは必然の事であろう。
云うまでも無いが、この「女系族の血縁の繋がり」を無くして「商業組合も殖産」も、江戸期の「氏家制度と封建制度」の「閉鎖的社会」の中では成し得なかった事であって、その事があって「商業組合の15地域」には「秀郷流青木氏族の商人」も含んでいる所以と成っているのである。
これにて「何らかの女系族の血縁」に依って「商業組合と殖産」は成し得たと観ている。
そして、それが、上段で論じた「女系を基本とする人の類」に従った事にあって、況や、「二つの青木氏族」の「生き残り策」は“「女系族策」”であったと説いている。

(注釈 「秀郷流青木氏」はこの「女系族策と姓族策」で生き残り、「賜姓臣下族青木氏」は「女系族策」だけにあった事が云え、それだけに「直系族」は伊勢と信濃だけ、「傍系族」は近江と甲斐と成って仕舞ったと云える。
「姓族策」は幕府や御三家の家臣化に依る。
「賜姓臣下族」は「姓族策」を採らない以上は「郷氏」を継続した。)

その最たる見本が、前段で論じた「射和商人の殖産」であったのである。
逆に言えば、「射和商人の殖産」は「女系族」を完成させたという事にも成る。

(注釈 その「女系族」を物語るものとして、「四家制度の女墓」(20家)がある。
これに依ると、ある程度、主流としては「秀郷流青木氏」と「地元郷士」と「信濃青木氏」との「女系の入」が判る。
「女系の出」は、「菩提寺の資料消失」で判り難いが、この女墓の「女系の入」があると云う事は、同じ範囲で「女系の出」があったと云う事を示す。
後は、「女墓や関係族の手紙や遺資料」から読み取ると、「伊勢近域の国」を中心に摂津、近江、駿河、伊豆、越前、越後、武蔵、常陸、下総などの「女系の入」が判る。
唯、どの様な理由なのか「甲斐と美濃」だけが「女系の出入」がよく判っていない。
「美濃」は早期に滅亡した事、「甲斐」は「独自性」が強く「付き合い」が少なかった事かも知れない。)


奈良期の施基皇子期から何度も紆余曲折しながら「四家制度の範囲」で「相互に女系の出入」が頻繁にあった事は概にして判る。
殆ど、「出入の女系血縁」に於いては「一体化に近い形」にあったと観られる「秀郷流青木氏」の「遺産伝の伝統資料」が多く世に出ていれば更に判るとも考えられるが、最早、無理であろう。)

(注釈 「近江佐々木氏」は早い段階で「秀郷流青木氏の血縁関係の事(青木氏族)」を研究されていて、この資料が非常に参考に成った。
と云う事は、「近江佐々木氏」の「賜姓臣下族青木氏と賜姓秀郷流青木氏」との「血縁関係」も把握していた事に成る。
個人情報に関わるので現存する「近江佐々木氏関係の血縁関係」からのものはここで網羅できない。
「近江佐々木氏の古書の研究書」が当家にある事は「女系に於いて充分な血縁関係」があった事を裏付ける。)

次の段では論じるが、この「女系族」を完成させた“「四六の古式の概念」”と云うものが「青木氏族」にあった。
「記録と関係族の口伝」でこの概要があった事を知り、これを時間をかけて解明した。
これに付いて次段で論じる。


> 「伝統シリーズ 40」に続く
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名前 名字 苗字 由来 ルーツ 家系 家紋 歴史ブログ⇒

「青木氏の伝統 38」-「青木氏の歴史観-11」

[No.357] Re:「青木氏の伝統 38」-「青木氏の歴史観-11」 
投稿者:福管理人 投稿日:2017/10/13(Fri) 12:10:57
> 「伝統シリーズ-37」の末尾


>さて、この「青木氏の概念」で以って、「殖産の射和」を観た場合、どのような役割を果たしていたのかが疑問に成る。
>そして、この「殖産」で、上記の「生産力」は兎も角も、”その「松阪の販売力」(経営力)は足りていたのか”と云う疑問が沸くが、これが射和と青木氏の経済的な関係で大きく影響していたので「射和と殖産の関係」で次ぎに先に論じる。
>実は大いに影響していたのである。


> 「伝統シリーズ 38」に続く

そもそも、「射和」と云う松阪の一部の地域には、商いを前提とする地域では無かった。
前段でも論じたが「伊勢郷士」、取り分け、「松阪郷士」(A)が住む普通の土地柄であった。
ところが、この「射和郷士」は、「青木氏の女系」の「縁者関係の郷士」であった為に無力であった。
そこで室町末期に織田氏の支配下に入り、次ぎに秀吉の豊臣氏の支配下に入った。
この時、織田氏から伊勢制圧に功績のあった事から、ここを「近江の秀郷流藤原氏」の「蒲生氏郷」に任せ、彼らは「信長の楽市楽座の思想」を受け継ぎ「ヨーロッパ風の商業都市」を構築した。
この「商業都市の構築」に倣って「近江武士」から転身した「近江商人」(B)を呼び寄せて「伊勢商人」と共に発展させようとした
然し、織田氏が倒れ秀吉の代に成ると「浄土真宗の顕如一派」が秀吉に反抗し、「紀州征伐」として、この「門徒宗」を徹底掃討した。
追われた紀州の「門徒衆の下級武士」の一部が「不入の権」に守られた「伊勢」に逃げ込んできた。
見かねた「青木氏と松阪郷士(A)」は紀州の「異教の彼ら門徒衆(C)」を密かに「射和地域」に匿った。
そして、彼らに生きて行く為に“「商い」”を教え「青木氏の仏施」で導いた。

然し、ここには「青木氏の苦労」があった。
ところが、その最中、「日野城主」から「松阪城」を築城しその藩主に成った「蒲生氏郷」は、再び秀郷一族一門の多い事を背景に「陸奥黒川藩藩主」として秀吉に依って「北の固め」を強化する為に移封された。
この事で「蒲生氏郷の故郷」の「近江」から呼び寄せた「伊勢の近江商人(B)」は「強い背景」を失い困窮を極めた。
そこで、困窮の中で無謀にも江戸期に入り「江戸」に出て一旗を挙げようとした。
ところが、享保期前は相続く飢饉や震災などで経済は著しく疲弊し最悪と成り、彼ら「伊勢の近江商人(B)」は、再び故郷の援護の得られる「近江」には戻らずに不思議(1 下記)に「松阪」に戻った。
この間の約60年後には、その結果、彼らは多くは衰退したが、その一部は「名と意地」を捨て「青木氏X)」と「射和郷士(A)」等の庇護の下で何とか息を繋ぎ、「射和地域」の中で「住み分け」(2)をして「商い」(近江商人(B))に関わった。

享保期に入り「享保の改革」に依って「江戸の景気」は回復したところで、「青木氏の庇護(江戸の伊勢屋)」の中で、貧困に喘いでいた「資本力(財力)」の無い彼ら「近江商人(B)」は、「江戸の伊勢屋」を辿って再挑戦のために「射和」から「江戸」に出た。

(注釈 その「松阪」での「貧困の状況」が資料として遺されていて、代表する資料として最初に江戸に出て失敗した親は老いて病気と成り、「その日暮らしの事」が書かれている。
多くはこの様であった様である。)

又、「射和」で保護された「紀州門徒衆(C)」は江戸期には解放され、「商い」を覚えた彼らも同じく一部は「伊勢」の「近江商人(B)」の「商人」と共に江戸に出た。
(注釈 結果は成功しなかった。「射和」に戻ったかは判らない。)

これら(A)と(B)と(C)の「射和郷士(A」)の「商人」は、室町期に築いた巨万のその財力で伊勢全体を「殖産と商業組合」で固めた「青木氏(X)」の庇護の下にあった。
そして、二度目には江戸での「近江商人(B)」の「子供等の成功」で“「松阪商人」”と享保期以降に呼ばれる様に成った。

(注釈 吉宗の「享保の改革」に完全補完した「青木氏(X) (伊勢屋)」が下地と成り「松阪商人」(AとBとC)がこの様な経緯で生まれた。
「江戸での仏施」の「質の江戸伊勢屋(青木氏の商業組合組織)」が低利で「彼らの出店」を促した。)

つまり、「伊勢商人」の中の一つの“「松阪商人」”とは、「松阪商人(青木氏)」と「射和商人」と更に区分けされているが、そのルーツは、享保期末期以降に「江戸」で「商い」に成功したその他の商人も含めて「伊勢商人(享保期の後半期)」と「松阪商人(享保期の前半期)」と区分けして呼ばれる様に成った。

ところが、この状況の中で「青木氏」に執って「近江商人(B)の反目(意地と誇り)」と共に、更に次の様な困った事があった。

そもそも、「紀州門徒衆の(C)」は、その元は「紀州の郷士武士」でもあり、「商人」として必要な「柔軟性」に欠け、「肩肘」を張った者等であった。
又、その「心情の元」と成る「彼らの宗派」の影響もあって、考え方にも異なる事もあったが、実に反目に近い形で閉鎖的で「松阪郷士・射和郷士の(A)」と「近江商人の(B)」とも融合しようとしなかった。
勿論、「松阪」を仕切っている「青木氏(X)」とも大きく距離を置いた。
又、「近江商人(B)」も「紀州門徒衆(C)(異教と異郷)」程ではないが閉鎖的で、取り分け、「青木氏(X)」とは「彼らの家柄の誇り」もあるのか、「紀州門徒宗(C)(異教と異郷)」との距離感と違って、殆ど、「親しみの無い冷めた距離観」を取っていた。

注釈として そもそも、「松阪」に来た「近江商人」のそのルーツは、「近江佐々木氏(始祖 川島皇子)」や「近江の藤原氏北家秀郷一門」の傍系ではあるが、その“「末裔」”とも云われ、かなりの高い「誇り」は持っていた。
この「北伊勢」には、「北家近江藤原秀郷一門」の血筋と、「藤原氏北家宗家の血筋」もを引く「伊勢秀郷流青木氏」が存在していた。
この近江の「出自の氏郷」の「蒲生氏の血筋」が、「伊勢秀郷流青木氏の跡目」に入る等の事もあって、「青木氏(X)」は勿論の事、同じ家柄家筋を持つ「射和郷士(A)」、つまり、「青木氏の女系族」にも肩を活からせた「誇り」を持っていたのではないかと考えられる。
今は「商人」と成り得ていたとしても、“武士は食わねど爪楊枝”であったのであろう。

(注釈 「紀州門徒衆(C)」も紀州郷士として貧困の中で生きて行く為に、紀州城下門前町の装飾や漆職人としても働いていた。)

「青木氏(X)」として援護するにしても何れも「難しい相手」であった筈である。
何か「適格な対応」が必要であった。
現実に、彼ら「近江商人(B)」は、「江戸」で成功後は、「青木氏(X)」の「殖産の商い」を物語る資料関係には「近江の一字」も全く出て来ない。

この事から検証すると、最初の「江戸での失敗」で「近江に帰らなかった理由」(不思議 1)は読み取れる。
それは、次ぎの心理(計算された維持)が働いたのではないか。

近江に帰れば、「氏家制度」の中で家柄家筋の良い「二足の草鞋策」を敷く「本家筋の庇護」を受けて生活を余儀なくされる。
恐らくは、彼らの下である程度の生活は維持されたとしも次ぎのチャンスは最早ない。
彼らの天下に誇る「宗家筋」、或いは、「本家筋」は、世間に対して「その立場」を失うとして絶対認めないであろう。
それよりは「貧困」を得ても「青木氏(X)の庇護下」の中でも「自由の利く松阪」で生き残りを選んだ事に成るだろ。
だから、より「青木氏(X)」に対して「意地を張った誇り」の為にも縛られることのない範囲の「距離感」を置くことで「自由度」を高めようとしたのではないか。
況や、故に、「二度目の成功裏」には、「武士」でありながらも「商人」であるとし、「道理や仁義」の欠くこの「不思議な距離感」を「最大限」にしたと考えられ、この「諸行無常の道」を選んだのであろう。


さて、「近江商人」は兎も角も、「松阪商人の本題」に戻るが、この「松阪商人」の(AとBとC)に前段の「殖産に依って増えて行く販売(営業力)」を担わしたのである。
そして、この「難しい環境」の中で「青木氏(X)」は、それぞれに適した「殖産の販売力の役割」を与えようとした。(適格な対応)

当然に「近江商人(B)」の「意地と誇り」と「紀州門徒宗(C)の「異教と異郷」にあった「営業の役割」を考えて割り振らねばならない事に成った。

その役割は、次ぎの通りであった。

「伊勢和紙(松阪紙型含む)」
「松阪木綿(綿油含む)」
「松阪絹布(松阪紬)」

以上の三つであった。

ところが、更には彼らはこの時期は未だ「商い」に充分に馴染んでいなかった。
貧困に喘いでいた近江から来た「近江商人(B)」を除いては、「青木氏」と繋がりのある「(A)の射和郷士衆」も、又、救った「門徒衆の郷士(C)」の「紀州の下級武士」にも「商い」のそのものには無縁であった。

唯、「(A)の射和郷士衆」には、江戸期前からの「青木氏部の関係」もあって生産する事に対する経験は深く持っていた。
唯、生産は作業場などを作り「人」を雇いする事で可能であったが「販売」はどうかとするとそこまではそもそも「身分家柄上」は無理であった。
取り分け、奈良期より伊勢の「楮和紙の生産」には開発段階から「青木氏(X)」と共に関わっていた何事にも変え難い経緯を持っている。
どちらかと云うと、今で云う「生産技術者」であった。

当然に、彼らに、「殖産」の「伊勢和紙(松阪紙型含む)」、「松阪木綿(綿油含む)」、「松阪絹布(松阪紬)」の販売に携わらせたという事に成るが、必然的に「伊勢和紙」の主は「(A)の射和郷士衆」と成る。
でも、“それで済むか”と云う話には成る。
「(A)の射和郷士衆」は、「青木氏(X)」が「近江商人(B)」の「意地と誇り」と「紀州門徒宗(C)の「異教と異郷」を支援をする以上は、「青木氏(X)」に代わってかなり「難しい事」ではあるが、「近江商人(B)」と「紀州門徒衆(C)」の面倒も看る事にも成る。

従って、後勘からの観ても、他の二つの「松阪木綿(綿油含む)」、「松阪絹布(松阪紬)」も観ていただろう事は当然に解る。

取り分け、「紀州門徒衆(C)」には、その「難しい性格や信条」から「商い」は疎か、将又、「生産のイロハ」から教える必要に迫られた筈で、説得から始まり教える事は「苦難の技」であったろう事は判る。
助けられたとは云え「松阪郷士(A)」や「近江商人(B)」とは、当時の封建社会の社会慣習からして三者ともに同じ「郷士の身分」(「松阪郷士、近江郷士、紀州郷士」)であったとしても、そのルーツの「家柄家筋」には違いがあり過ぎる。
「彼らの立場」からすると、これは全て「負い目」であり、委縮して僻んでも至し方は無いであろう。
この事は逃れ得ない事であり間違いは無いであろう。

そこで、兎も角も(A)と(B)と(C)の「商人」と成った彼らには「商記録等の内容」や「松阪に遺された資料」からも「状況証拠」として判る。

では、問題はこの「三つの役割」をどの様に彼らに割り振ったに掛かってくる。
無茶に割り振る事は出来なかった筈で、その「性格や信条」と「射和地域」の「住み分けの地域」や「地理条件」や「水利条件」などが働いた筈である。
余り資料には成っていないのだが、大方は判る。

そもそも、「松阪の射和地域」は次の様に極めて良好な位置にあった。
当然にそれは「殖産と云う点」でも云える事でもある。

先ず、資料関係から読み取ると、次ぎの様に成っていた。

そもそも、「射和地域」は東の海側より「12Kmの位置(3里)」に存在する。
「射和地区の範囲」は南北左右の「2Kmの範囲」である。
「櫛田川」の川沿いの北側に位置し、櫛田川の入口よりも「12Kmの位置」にある。
東側の港の荷上場や漁村から「西の位置」に存在する。
南側に位置し、「宮川」とに接する「青木氏の生産の殖産地」の「玉城地域」とは、丁度、櫛田川と宮川を挟んで隣接する「南北の位置」に存在する。
西隣には「名張地区」、その上の北側には「伊賀地区」の「生産線状」にあり、当然に、この「射和」の北隣は「司令塔」の「松阪地区」である。
つまり、地形上は「鶴翼の陣形」で、鶴の翼に囲まれた中央には「射和」の「販売地区」が「三つの範囲」で存在する。
これは「青木氏の殖産」の「コンビナート」であったと云える。

既に、江戸初期には、「殖産の商いの戦略」として「近代的な体系」が「青木氏」等に依って確立していた事を示す。

その「射和地域」は、「櫛田川の川洲」より「北側の平地」のほぼ中央(イとハの左右に村)には低い山があり、東西に伸びていて、そこから盆地の様に東西に横切る様に「平地の畑地」がある。
そこから、北に山が東西に続く。
この「山地の谷部」の「左右2か所」に明らかに「開発されたと観られる平地」が山際に存在し、そこに「村(ニ)」がある。
そして、欠かせない「交通運輸の道」として南北のほぼ中央右寄りを縦に「熊野古道」が横切る。
「住み分け」のみならず「交通の便」も含み「販売拠点」としては申し分ない位置にある。

明らかに「鶴翼の陣形」にして「地形と水利」を利用して「殖産の販売拠点」として開発されたものである事が容易に判る。

そこで、「鶴翼の販売拠点」の「射和地域」の「住み分け」は次の様に成っていた。

(イ) 「松阪郷士(A)」は、左右、つまり、「東西2Kmの東側」に定住していた。
(ハ) 「近江商人(B)」は、「東西2Kmの西側」に定住していた。
(ニ) 「紀州門徒衆(C)」は、「西側の上の地域(山間地)」を東に向きに配置されていた。

“「住み分け」”には、その地区には「菩提寺」、或いは「檀家寺」が伴う。

この点で観てみると次の様に成る。

(イ)の「松阪郷士(C)」は、古来より「松阪出自」であり「浄土宗」で密教の「菩提寺」
(ロ)の「近江商人(B)」は、「近江出自の郷士」であり「天台宗」で密教の「菩提寺」
(ハ)の「紀州門徒衆(C)」は、「紀州出自の郷士」で「浄土真宗」で顕教の「檀家寺」

(イ)には、江戸期には「射和」の直ぐ東側に「青木氏の分寺」と「浄土宗寺」が存在している。

恐らくは、ここが「青木氏系に近い縁戚関係」の「氏人」の「松阪郷士」がこの「分寺」に、その「他の郷士衆」は「浄土宗(A)」に帰依したと考えられる。

(ロ)には、「松阪の南 射和寄り」には珍しく「天台宗の寺」が数寺存在していた。

「明治期の寺分布」で観てみると、「天台宗」は松阪地区南には「数寺(四寺か)」が存在している。
そもそも、江戸期以前の「松阪」は、古来より「密教浄土宗の聖域」で「不入の権」と共に「不可侵の地域」とされた。
「伊勢神宮」が存在する為に混乱を避けるためにも「宗教的」にも保護され「浄土宗密教」のみが許されていた地域であった。

(注釈 ここで「歴史観イ」として重要なのは、「浄土宗密教」とは、「古来の浄土観念」を「密教」として引き継いだ「古来宗教」であり、「神仏融合」の「宗教的概念」を指す。
これを「法然」が「神仏」を分離し仏教の「浄土宗」として概念を「密教」としながらも一般化した。
その前身とも云える。
「五家五流の青木氏」や「近江系佐々木氏」がこれを引き継いだ。
故に、両氏には「氏内の者」で「神職と住職」が共に多い所以でもある。
従って、この「概念」で「伊勢神宮域」は少なくとも護られていた為に「伊勢松坂」には他宗派は原則は存在し得えない事に成る。)

(注釈 「歴史観ロ」として重要なのは、唯、「朝廷の学問処」を務めていた武家貴族の「北畠氏」が室町期の世の乱れに乗じて「不入不倫の権」の禁令を破り、無防備な「伊勢」に侵入した。
「北畠氏」にしてみれば、「侵入の大義」は表向きにはあった。
それは、「戦国の世」に成り、流石に「伊勢」も「不入と不可侵の権」だけの名目では弱体化した「朝廷の威信」では守り切れなくなった。
流石、「伊勢」を護る「青木氏」は「シンジケート」を「抑止力」として待ちながらも、この衰退の“勢いに勝ち得るのか”と云う事を心配に成った「北畠氏」は「伊勢(四日市の左域に御所設置)」に入ったと主張した。
そして、建前上、伊勢に“「御所」”と銘打って支配して伊勢以外にも勢力を拡大した。)

(注釈 「歴史観ハ」として重要なのは、この「北畠氏」は、戦国で敗れた武田氏の浪人等や秀郷一門の傍系の溢れた武士等を雇い家臣として「強固な武力集団」を構築した。
その財源を平安末期からの各地の「名義貸しの荘園」に置き、その「名義荘園」を武力で奪い取った。
全国各地で主な「武家貴族」のこの現象が起こった。
この時、存立をかけて止む無く「青木氏」は「北畠氏」に合力したが本意ではなかった。
ところが、流石、「信長」はこの現象を見逃さなかった。
武力を背景に「信雄」を養子にして「北畠氏」を奪い、挙句は「北畠氏」を乗っ取った上で武力で伊勢等を攻め取った。
建前上、「青木氏」は「北畠氏」に合力したと見せかけ、裏で「伊勢信濃シンジケート」と近隣の「今井氏の支配下」にある「神社系シンジケート」を使って「織田信雄」を敗戦に追い込んだ。
「織田氏」は、この後に「信雄」に代わって「青木氏」と関わりのある「蒲生氏郷」が入り「伊勢」は「酷い戦乱」とはならず穏便に収まりを見せた。
そして「青木氏」は「シンジケート」を引いた。)


所謂、この「歴史観イ、歴史観ロ、歴史観ハ」があってこそ、ここに他の「密教の天台宗寺」が少なくとも「松阪」に存在する事は本来は難しい事と成ったのである。
然し、「織田信長」はこの禁を無視した事になるのだが、その倣いに従い「蒲生氏郷」が上記した様に“「近江商人」”を呼び寄せた。
この結果、彼らの「天台宗の菩提寺」を「松阪の南」、つまり、「射和の北」に建立したが、「蒲生氏郷」が「陸奥」に移封と成った事で、最早、余りにも遠い「陸奥」までに同行せずにいた事でその「勢い」は落ち「松阪」に残った事に成った。

ところが、結果として当然に「勢い」を失い「射和の北」(松阪の南)で定住していた地域は、その「地権」を放棄して、この地域の「本来の地権者」の「青木氏(X)」に譲り、その後の「住み分け」が進み、上記した「射和の西側」に「近江商人(B)」は移った。

この為に、本来は「射和地域」にも後に幾つも建立した筈の「天台宗の寺」が「一寺」しかなく無いのである。
逆に「元の定住地」には、「菩提寺」は維持が出来なく成り、海側より西の山手に向かって「顕教の檀家寺」と成った「天台宗の寺」が数寺が存在する所以でもある。

(注釈 彼らの「天台宗寺」は「松阪の南」、つまり、「射和の北側」には天台種の寺は三寺「一寺は派が異なる」があったが、江戸期初期には、その派流から「菩提寺」はこの海側にある一つであると観られ、その他は明治期に建立されたものと考えられる。(寺名は秘匿)
「天台宗」は、本来は「密教」であるが、{平安期の宗教論争}で「顕教」も並立させて「武家貴族の信者」を獲得させた。これが派流の生まれた原因である。)

注釈として、「歴史観ニ」として重要な事は、彼らの「地権の放棄」には、次ぎの経緯があった事が伺える。

上記の「殖産の販売力」を拡大させるには、絶対に彼らの持つ高い優れた近江からの伝統に基づく「商い術」は見逃せない。
又、「青木氏(X)」に執っては、上記の「維持と誇り」を適え、且つ、進んで積極的に取り組んで貰うためには、彼らにもう一度の「再起力」を与える必要があった。
それは「再起の資金力」であった。
それが、上記の「地権の買戻し」であり、その条件として「青木氏(X)の地権」の多く持つ「射和郷士(A)」の定住地であった「射和の西」に土地を与えた。
当然、「地権売却の資金 近江商人(B)」だけではジリ貧で、「殖産の販売の仕事」を与える事で生き続ける事が可能と成る。

況や、「青木氏の逃避地」の「越前の神明社」にて大いに行っていた「仏施」を、当に伊勢松坂でも行った「歴史的な青木氏の大仏施」であった。

(注釈 この「仏施」は彼らの享保後の江戸出店までに続いた。)

さて、これで「近江商人(B)」の関りは述べたが、次は「紀州門徒衆(C)」の事に成る。

上記した様に、次ぎの問題があった。

何はともあれ政権や仲間の門徒衆から暫くは匿う必要があった事
当時、世間を騒がして警戒されていた「門徒宗」である事
彼らの「異教と異郷」、更には彼らの持つ「頑な性質」がある事

いくら何でも、これだけの事があれば、「射和郷士(A)」「近江商人(B)」と同調させて生活させる事は至難の業である。
何か「緩衝材の策」が必要であろう。

「縁戚の氏人衆」の「射和郷士(A)」にそれを任すとしても「何らかの手」を打たねば、それこそ縁者関係の「射和郷士(A)」からは「青木氏(X)」は完全に信頼を失うは必至である。

当然に、事前に充分に打ち合わせはした。
一つは、それを証明するのが彼らが定住していた「地域の地形」(a)から判る。
もう一つは、「彼等の衆徒」には「寺」を建立するに必要な「財力」は未だ当然に全く無かった。

そこで、「青木氏(X)」と「射和郷士(A)」は、落ち着いて定住させる為にも”「信心する寺の建立」”を一寺(浄土真宗 東本願寺)を匿っている居住区に敢えて建てて「手(b)」を打っている。

これは、「地権」を持ち、「縁戚の松阪郷士」の「伝統ある定住地」に勝手に他宗の寺を建立する事は許す事は無い。(あ)
又、「氏人」を含む「青木氏等の浄土宗密教の地」に「常識や慣習仕来り掟」から観ても100%あり得ない事であったし、これは世間からも蔑視される危険性もあった。(い)
況してや、当時の閉鎖的で不審者を排除する「村体制」の中の世間から危険性を以って視られていた「門徒衆」でもある。(う)
紀州や関西域で大騒動を起こした「門徒衆」が「村」に入り、又、同じ事を起こされるのではないかと云う恐怖心もあった。(え)

この(あ)から(え)までの事があっても「異教の寺」を射和に建てるという事は相当な決断が居る。

建てれば匿った紀州郷士衆の存在が公に成る。
密かに匿ったとした「青木氏(X)」と「松阪郷士(A)」は、紀州藩は敢えて殖産の為に黙認していても事も水の泡と成り公に匿ったと成って仕舞う。
その事を覚悟で建てるのである。

そこまでして「青木氏(X)」と「松阪郷士(A)」には、「販売力の強化」以外に他に得るべきメリットがあったのであろうか疑問である。
後から紀州で肩身の狭い思いをして生きていた門徒衆と彼らの家族は押し寄せてくる事も予想出来た。
匿うだけでその侭にしていても好かった筈である。
唯、困る事があった。それは「紀州門徒衆(C)」が、「紀州の門徒衆」が押し寄せてくる事は販売力強化の点でも好い事ではある。
然し、彼らが「射和」に居つくにしても恥を我慢しなければならない。
その結果、紀州にじわじわと逃げ帰る事だけは、紀州藩が期待する「丸投げの殖産」の意味からも、避けねばならない事であった。
それには、“「彼らの心の拠り所」”を作り上げる事であった。
そうすれば、「紀州門徒衆」が押し寄せる事も更に起こり、当然に逃げ帰る事も防げる。

後は、結局は、前段でも論じた様に最も「伝統」を重んじて来た、むしろ、「伝統の氏族」の様な「青木氏(X)と松阪郷士(A)の伝統」がこれをどの様に扱うかに係る重要な事に成る。
当然に「紀州藩」は「殖産に依る税の利益」を先んじて、それは「青木氏族」に任せば良いとして完全に黙認している。

結局は、奈良期からの一度も破らなかった「禁断の伝統」の一部を「浄土真宗寺」を建てる事に踏み切り破る事にしたのである。
同時に「伊賀郷士の全国から呼び寄せ」も行っている時期でもあり、「議論百質」であった事は充分に判る。

(注釈 伊賀には縁戚筋関係のつながりはあったとしても「青木氏の地権」は多く及んで居ないことから「内部の治世」には深く組み込めなかった。)

注釈として、「浄土真宗寺の建立時期」は異宗である事と、「伝統を破った事」からも資料的なものは見つからず「寺の由来」も記録には無い。恣意的に不記載とした可能性もある。
「彼らの財力」では、「江戸期後半の成功期」にしても遺されたあらゆる資料からはそれほどの財力は無かった事が伺い知れる。
彼らの財力有り無しに関わらず、結局は「青木氏(X)と松阪郷士(A)」の「地権のある射和」では、況して「他宗禁令の松阪」では無理な事であり、「定住地の開拓開墾」を含めて「青木氏(X)と松阪郷士(A)」の「財力に頼る事」以外には無かった事に成る。
状況証拠から割と早期の1630年から1650年頃に「浄土真宗寺の建立」に踏み切ったと考えられる。



例えば、上記した様に先ず「地形」であるが、櫛田川の中州の後ろの小高い山続きの中ほどに山に囲まれて「開拓された畑地」が現在もあり、その後ろ側の山の角の様に山に囲まれた谷部に開発された狭い居住用の様な「窪地」が二つ存在する。
明らかに、これは“「作られた地形」”であって恣意的には周囲からは判らない様にしての開拓と成っている。
そして、その「居住用の窪地」の前に開拓されたと観られる「生活用の畑地」が存在する。
明らかに「造られた秘境」である。
中州からは全く見えない小山の中に存在する造られた「天然の隠家」の様である。
近くを「熊野古道」が縦断するが、ここからも見えない山手の奥方の隠れた地形にある。
然し、「熊野古道」には山伝に1Km強程度で簡単に出られる。
この「居住地の窪み」の「西寄り」にこの「問題の寺」が存在する。
「戦略的な位置関係」にあり、且つ、「恣意的な位置関係」にあり、“いざ”と云う時には「防御の拠点」とも成り得る。
山を越えれば櫛田川であり「生活用品の調達」は容易である。

ここに「門徒衆(C)」を匿って、「殖産の仕事」を与えた。

では、問題は上記した「三つの営業力(販売力)」をどの様に配分したかに関わってくる。

その「配分の内容」は、次ぎの通りである。

「伊勢和紙(松阪紙型含む)」
「松阪木綿(綿油含む)」
「松阪絹布(松阪紬)」

以上の三つであった。

「松阪郷士(A)」は、「和紙の開発から生産」まで朝廷の命で「紙屋院」として日本最初に手掛けた「青木氏の氏人」である事は云うまでも無い。
そして、それを「近江と信濃と甲斐の青木氏」に広め、「志紀真人族」の彼らの「生きて行く基盤」を作り上げた。
「松阪郷士」、取り分け、「射和郷士」はこの「第一の貢献者」でもあった。
従って、「射和郷士(A)」は、当然に「伊勢和紙(松阪紙型含む)」を担当した。
然し、他の「近江商人(B)」と「紀州門徒衆(C)」の「殖産に関わる事」に「青木氏(X)」に代わって面倒を見なければならない。
他の二つの「松阪木綿(綿油含む)」と「松阪絹布(松阪紬)」の面倒は知らないという行為はあり得え無い。
「商記録」に依れば、どのような形かは明確ではないが、全体の状況証拠から観て、「監視や管理」も含めて「販売状況の把握」と「工程管理の進捗」を観ていた事が判る。
何故ならば、「工程管理」では、所詮、彼らは「外者」であり、「生産工程」まで「督促などの発言力」を持ち得ていなかった。
故に、「発言力」のある誰かがこの「パイプ役の実務」を演じなければならない。
必然的にそうなれば、「松阪郷士」の「射和郷士(A)」と成る。

商記録には、「・・射和・・・・入り」とあり、「玉城」から「松阪木綿の製品」が入った事を記したと考えられる。

注釈として、 ・・・は虫食いで充分に読み取れず、・・・は、“射和・・木綿入り”と記されていた事が判る。
ここで云う「射和」と「木綿」との間の「・・の欠損部」には、「・反」とし「数字」が、「射和の地名」の前の「・・の欠損部」には販売全体を取り仕切る「射和郷士(A)」の総称を“射和”としていた事が判る。

これで、「綿布」は「射和郷士(A)」の「差配頭」に届けられ、それが「青木氏(X)の商記録」に「情報」として伝えられていた事に成る。

この事から「差配頭」から「松阪木綿」は「近江商人(B)」の各店に分配されていた事に成る。
上記した様に、「監視や管理」も含めて「販売状況の把握」と「工程管理の進捗」を観ていた事に成る。
「商記録全体」を通して観るとこの事がよく判る。

これでも「射和郷士(A)」が関わっていたと成ると、「松阪木綿」が「販売営業力」に経験のある「近江商人(B)」の「専属の販売担当」であった事が判る。
「江戸出店」して成功した「近江商人(B)の事」に付いて書かれた内容を読むとこの事は明らかで“「木綿商人」”と表現するまでにあり、これを扱っていた事は明白なのだ。
唯、彼らが江戸にて成功を遂げたのは「享保期の後半以降」であり、この時は既に“「伊勢木綿」”も津域で生産されていて、これも“「木綿商人の表現」“の中に入っていたと考えられる。
故に、最終は、「近江商人(B)」は、温情を受けた「青木氏(X)」と「射和郷士(A)」とを裏切り「反目する態度」を取ったと考えられる。

彼らから観れば、「温情」という考え方より「根っからの近江商人」である事から、「運用資金」を「借金」で調達し返したとし、「原資」は「地権売却」であったとすれば、「青木氏(X)」等には“恩義はさらさらない”とする考え方が成立する。
「射和郷士の差配頭」の手紙の中を観ると、更には、江戸で成功を納めた「近江商人(B)」は、中には「吉宗の享保の改革」に貢献した「青木氏(X)」の「江戸の伊勢屋」の名を使って喧伝し「商い」を有利に導いた事があったと記されている。
合わせて、「青木氏の名」を上手く使った事も併記されている。
この手紙は「射和」がこの情報を掴み「福家」に報告した事への返信であろう。
然し、「青木氏の氏是」から“取り立てて騒がない事”が書かれている。

「歴史の後勘」から観ると、「彼らの立場」からすると、そうなるのかも知れない。
「射和」で「殖産の販売力」として「青木氏(X):青木氏と伊勢屋」の中で「松阪木綿」を扱い働いた。
そして「松阪木綿」で独立したとすると、それを紀州藩を背後に「殖産」として一手に扱った事は、まさしく「伊勢屋」であり「青木氏」である事を広義的に意味する。
“我々は、「江戸の伊勢屋」の出店だ”と主張しても「著作権」など無い時代におかしくは無いであろう。

この享保期後半の時期は、吉宗との路線の行き違いから「青木氏(X):青木氏と伊勢屋」は松阪に引き上げている。
故に、この事件は、尚更らの事であって、「氏是の事」もあり騒ぐことは得策ではないとして「射和郷士(A)」を宥めたと考えられる。

従って、彼らの精神は、彼らに執ってみれば「射和」は、“その一時の話”と成ろう。
故に、「射和」には一寺の「檀家寺」(顕教寺)があったとしても「菩提寺」がない事に成る。
つまり、“敢えて作る必要はなかった事”等が読み解ける事に成るし、更には「射和郷士(A)」も「寺」は許さなかったであろうことが判る。
この両方が一致すれば、「寺」を潰す事も充分にあったと考えられ、事を納めるには潰すしかなかったとし、「青木氏(X)」も「射和郷士(A)」の意見を入れて許して丸く納めたと観る。
筆者はこの「潰した説」を採っている。

これで、「射和郷士(A)」と「近江商人(B)」の担当領域は読み解けたが、難しいのは「紀州門徒衆(C)」の事であり、且つ、「松阪絹布・松阪紬」の事である。
何せ参考と成る資料が殆ど残っていないのである。
これには次の理由があった。

「絹」は古来からの物で、朝廷に部制度に依って納められる「朝廷の専売品」で、「余剰品」を除いて「絹物」は一般市場に出回らない。
これが高貴族に“「松阪紬」”と呼ばれた所以である。
当時は、「伊勢和紙」も「信濃和紙」も「甲斐和紙」も「近江和紙」も同じく「部制度」による「専売品」で、これを「四家四流の青木氏」が「青木氏部」を持ち「朝廷」に収めていた。
しかし、「青木氏部の努力」により「余剰品」が出て925年頃に市場に卸す事を許され、直ぐ後に「商い」をする事で朝廷の大きい財源と成る事から、特別に「四家四流の青木氏」に対して「朝廷」より「賜姓五役」以外に「氏族の商い」を「二足の草鞋策」を前提に特別に慣例を破って許された。

(注釈 この時から「武家貴族の青木氏」と「商人の青木氏」の「二面性を持つ青木氏」が生まれた。)

ところが、細々と「絹物」を「朝廷用」として生産していたが、江戸期に入り「徳川氏の後押し」もあり「殖産品」として「松阪紬」を生産し始めた。

これには注釈として、 「5千石以上の幕臣武士」を対象として許可を得て「絹衣着用」を許された為にその需要が増したが、貴重な「絹紬」は幕府が身分に応じてその着用を禁じた。
そして、「商人」などの「裕福な庶民」が使う「絹物」と、「高級武士」など身分の高い身分の者が着用する「絹物」との「品質」に差をつけた。
更に、「質素倹約令」に基づき「城」で着用する「紋付羽織や袴や裃」の絹物の使用は将軍からの特別な許可が必要と成っていた。
これを「絹衣着用のお定め」としていた。

(注釈 「青木氏(X)」は、この姿で享保期に将軍御座の前面で意見を述べる権利を所有していた。本来は格式か上座にある。)

厳しい「身分仕様の絹物」には、更に厳しい「括り」があり、取り分け、その中でも“「松阪紬」”は「古来からの超高級品」である事から「徳川氏の専売品」として納める事に成っていた。

(注釈 「秀郷一門の結城地区」で生産される「結城紬」も「松阪紬」と同じ立場に置かれ同じ事であった。)

(注釈 「青木氏(X)」が手掛けていた「古来からの藤白墨」も「朝廷の専売品」から時の「政権の専売品」と成り、一部は「朝廷」に流され、取り分け、明治期まで「徳川氏の専売品」(紀州藩総括)で市場には出回らなかった。)

注釈のこれと同じく「松阪紬」は殖産する事で何とか市場に出回るほどの「生産力」を保持し高めたが、「超高級品」として「紀州藩の専売品」と成っていた。
つまり、「青木氏(X)の殖産」により労せずして入る「紀州藩の超財源」と成った事に成る。
故に、前期した様に「本領安堵並みの地権」を「青木氏(X)」に惜しみなく与えたのである。

注釈として、徳川氏の幕府は、「紀州藩の成功」に真似て、「青木氏の定住地」にも「幕府領(「信濃 36村・甲斐 315村」)を確保して一部に「地権」を与え「二家二流青木氏」にも「和紙の殖産」と「養蚕の殖産」を命じた。

この様な背景があって、「絹の扱い」には「木綿」などとは雲泥の差にあった。

この差の面倒な「仕分け作業」を「紀州門徒衆(C)」に担当させたのである。

では、問題は、“どのような作業であったのか”である。この時代では不思議な作業であった。

それは、「検品、仕分け、仕立て、荷造り、搬送」とあり、これを“「五仕業」”と記されている。

つまり、上記の通り、「販売拡充の努力」は不必要で、「五つの定められた仕事」をすればよい事に成っていたのであり、むしろ、してはならない「仕業」であった。
「伝統ある松阪紬の殖産」には、「特別な伝統」と云う事に縛られて目的は「販売」には無く、主に「増産」そのものにあったのである。
当然に必然的に、「伝統に基づく増産」には、完全に近い「五仕業」が要求された。
粗製乱造では済まされない宿命が「松阪紬」にはあった。

つまり、これが”「五仕業」”と書かれている所以であっては、現在で云う「トレサビリティー」の事を表現しているのである。

「検品、仕分け、仕立て、荷造り、搬送」とは、「殖産の製造」を除いて、この「絹物の松阪紬」の「五つの工程」の間に起こるあらゆる問題を治めながら最終の「松阪紬」まで持ち込む作業なのである。
そして、「紀州門徒衆(C)」はこの「松阪紬を保証する役務」を負っていたという事に成る。
唯、最早、これは単に「松阪紬」を作れば良いと云う事では無く成っていた。
つまり、「権威」の“「保証と云う事の責任」”が伴っていたのである。

この時代の事であるので、この「トレサビリティー」には、首がかかる事もあった。
これを「青木氏(X)」と「射和郷士(A)」に代わって「紀州門徒衆(C)」が務めるのである。
つまりは、「和紙」や「木綿」などと違い「絹衣を着用する相手」が先ずは違っていた。

彼等には、上記する様に「生産量」は兎も角も、主に“「禁令」”と云うものが大きく左右し、その結果、何せこの「絹衣」には「武士や貴族」の「名誉や地位や格式や家柄」と云うものが絡んでいたのである。
「青木氏も同じ立場」にありながらも、これは「絹衣殖産」に依って生まれた「厄介な事」ではあった。
記録を観ると、「五仕業」の文字が出てくるのは、この「殖産」が始まって暫く経った頃(1635年前半の頃)の事である。

この事から、当初、室町期では、この仕業は「荷造り」、「搬送」程度であった様で、「直接販売」は無いので「納所」に届ける程度の事であったらしい。
ところが、「殖産「を始めた事が、「江戸期の禁令」に合った様に「検品の品質」に強い要求が高まりる様に成った。
暫くして「仕分け」の「絵柄や色合いや染め具合の要望」が増え、遂には、事前に「金糸銀糸」等の柄入れ、挙句は「絵柄」や「紋入れ」の特注等を含めた「着衣の仕立てまでの要望」が出されて来た様である。

これは、「絹衣着用」が「名誉な許可制」に成った事で、「許可」を獲得した「高位の武士間」の「ファション競争」に火が付いたと考えられ、金に糸目も付けずに高額なものと成って行った事を示す。
これは、古来から朝廷に納めていた”「松阪紬」”と云う「超高級品」を着ける事で「ステイタス」を示したかったのであろう。

(注釈 この意味で細かく規制した「節約禁止令」は「絹物」では逆に成って行った。)

この「厄介な作業」の「検品、仕分け、仕立て、荷造り、搬送」を、反元として「紀州門徒衆(C)」は熟さねばならない事に成った。
元々、「紀州武士」であるし、今も武士は捨てていない。
相当な抵抗があったと思われるが、「紀州郷士」と云えど「武士のステイタス」は理解されている範疇であったであろう。
彼らは懸命に取り組んだ事が手紙資料の中で報告としての形で書かれている。

そこで、先ずこの「五仕業」はどの様なものであったのかを書くと、次のようなもので簡単な「要領書」の様な形で書かれている。

そもそも、「検品」とは、名張や伊賀から届けられた「素地の反物」を先ず「禁令」に合わせて「上中下」の「品格」に目視で検品して分ける。

その「検品項目」は、「傷、巻込、不揃、色別」で判定した。

「傷」は、「傷・噛込み」が入っている事
「巻込」は、「塵・誇り・汚れ」が巻き込んでいる事
「不揃」は、紡ぎ悪い事
「色別」は、「光沢や色合]が悪い事

以上の「四項目」であった。

この「四項目」に全て合格した反物を「上格」であった。
「上格」の中で「色別と不揃い」が格落ちした反物が「中格」であった。
「傷」「巻込」が強く、「四項目」に格落ちした反物が「下格」として分けられていた。

(注釈 但し、「検品制度」を高めればより収入が得られるし、「検品情報」を提供して「伊賀や名張」の「紡ぎの段階の品質」を上げられれば、「紀州藩」、「青木氏(X)」を始めとして「松阪紬全体の工程」は潤う。)

こころから「仕分け」に廻される
「仕分け」とは、「上格」は禁令に基づき先ず「朝廷」や「絹衣着用」を認められた「1万石以上の大名格」の上級武士用に振り向けられる反物である。
「下格」とは、「老舗の絹物大問屋」に、「豪商などの商人用」、或いは、禁令に従い5千石以下の「中級の武士用」としても卸されるのが基本である。
最後に、「中格」とは、「5千石程度の中級武士」の「旗本や御家人」で、何らかのお墨付き(黒印状)のある「格式の家」に充てられる。
この「品格」にして「紀州藩納所」に納められる。(朝廷用は「上格」)

原則は媒臣等は禁止である。唯、原則として、「松阪紬」はその「朝廷品の伝統」であった事から「下格」の品は「商人用」には実質は廻らない事に成るが、密かに「納所」より高額を得る為に廻されていた様である。
これは、「高額な賂を獲得できる手段」として、「納所の紀州藩」は知るか知らぬか「市場」に流されていた事が追筆されている。

(注釈 長い間の話であり、「家臣の私的賄賂」であれば「青木氏との帳簿突合せ」から見つかる事は必定なので知っていたと考えられる。
そうでなければ「青木氏(X)」は「名誉回復の名目」にから指摘していた筈でその記録は無い。)

従って、「青木氏(X)」と「紀州門徒衆(C)」の「元締め」は次の様な事が起こらない様に差配した。

この「仕分け 1」として、次ぎの「仕業」をした。
上記の様な事が起こらない様に「仕分役」は帳簿を確認しながら慎重に行う。

次に「仕分け 2」として、次ぎの「仕業」をした。
「松阪紬」が「殖産」で増産され特定の市場に出ると成ると、より要望が必然的に出てステイタスを高めようと買い手側から「松阪紬」を扱う「役所の納所(なんしょ)」に「家紋」に合わせた「柄、色合」などの要望が「上格」の「買手」から事前に出されてくる様に成った。
又、「青木氏(X)」と「付き合い関係」のある「朝廷や大大名」からは、「ステイタス」の一つであった事から「贈り物」としてのこの様な特別注文が出るし、この為の「特別の仕分け」が必要と成る。

「仕分けの要望内容」に依って、「振り分け」の「仕業」をした。

「仕分け 3」としては、次ぎの「仕業」をした。
何処の「染物屋」に回すかの難しい「仕分け」もあり、その「要望の如何」に依って「仕分けの技量」と合わせて「染め物師の技量」をにらんで振り向けなければならない。
大変な作業で「検品」などの合わせた「総合的な目の技量の経験」が伴う。

これらの「仕分け」(1から3)は、「検品の影響」を大きく受け、相互の工程の「連携」が必要で、これらの「要望(情報)」を前工程に伝えておくなどの手配も必要と成る。
この連携無くして「仕分け」は成り立たない。

この中間工程、つまり、「仕分け」は「五仕業」の中核(主)を占めていた。

次は、「仕立て」は「上格の反物」に対して行ったものである。
「朝廷」が「幕府」を始め大大名の「引出物」、「冠婚祭の祝品」等として、「最高権威」としての名の下に「超最高品」の「絹物」を送るが、多くは古来からの「部制度」による「朝廷専売品」のこの「松阪紬」が用いられた。
これを「受ける者」は「最高の誉れ」(ステイタス)として受け取った事に成る。
取り分け、「婚姻や世継ぎ誕生」などには「仕立て」をして送る事が、「受ける側」には「朝廷の祭事の供納品」でもある「松阪紬」を送られる事は、これ以外に最高の比べ物の無い未来永劫に伝わる栄誉として捉えられていた。

この「伝統のある仕立て」を「青木氏(X)」外の氏素性の判らない「仕立屋」に出すのではなく、全て「青木氏(X)」の中で「完全ステイタス」を作り上げて“「賜物の松阪紬」”として贈られるものであった。
これらの「限られた依頼者」は、「賜姓五役」で勤めていた「朝廷」、「殖産籍」の中にある「紀州藩」、公家と繋がりのある「縁戚の伊勢秀郷流青木氏」、「青木氏同族の信濃青木氏」に限られている。

(注釈 「信濃青木氏」(小県郡)と「甲斐青木氏」(巨摩郡)は、後に強引に「幕府領」とされ「幕府の殖産地の地」とした。
この「江戸期初期前の養蚕地」は、関西中部域では、「伊勢」を始めとして、「信濃、甲斐、美濃、越前、越後、丹後」が記録としてある。
但し、これらは全て「青木氏の居住地」であり、その「青木氏財力」で進められていたが青木氏の滅亡した「美濃」は衰退した。)

この「松阪紬の配分」は、次ぎの通りであった事が書かれている。

「古来からの朝廷分(1割) イ」
「殖産主の紀州藩分(8割) ロ」
「青木氏の割当分(1割程度) ハ」

以上の割り当てに指定されていたらしい。

そもそも、「朝廷の分(1割)」には、江戸期に於いても「青木氏(X)」は、「朝廷の役職」の「紙屋院」と共に、「絵画院の絵処預」を務めていた事もあって、「幕府の目」があっても「手」を抜くことは出来なかった。
この「絵画の絹物分」もあって、「朝廷」は「伊勢和紙」も含めこれを「絵処預の絵師」の「土佐光信派等の絵塾」に「絹絵」を書かせ、これを“「最高賜物品」”として「絹衣や反物」と共に高位族に送っていたのである。

この様な傾向から、「青木氏(X)」は、その「元からの務め」であった立場から「朝廷への納品 イ」は、実際にはこの「1割」とは行かず、「出る限りの割合」を当てたいところであったらしい。
これは資料からも読み取れる。
然し、「青木氏(X)の殖産」であったとしても、今は「紀州藩の専売品 ロ」と成った現状では相当無理であったらしい。
「青木氏(X)」の「自らへの割り当て分(1割程度) ハ」と、少ないが「伊勢秀郷流青木氏等」への「割り当て分 ニ」、つまり、「青木氏(X)」の「割り当て分 イ」からの充当をして「裏の割り当て分 ニ」として調整していた。

その内から秘密裏に殆ど儲けの無い「朝廷分 イ」として工面して廻す事があったらしい。

(注釈 「朝廷分 イ」には朝廷の勢力の拡大を恐れて「幕府の目」が厳しい。)

恐らくは、「古来からの伝統品」という事もあり、且つ、薄利ではあったが、「権威の供納品」とする事で「衰退する朝廷への密かな肩入れ」であった事が容易に判る。
これで「朝廷」への「供納品のお返し」として高位族からの密かな「朝廷への見返り分」が大きく成り、強いては内々に「朝廷援助」が出来たからであろう。
「青木氏(X)」は江戸期に成っても「その務め」は続け、「賜姓五役」としてこれを期待して支えていた。
「紀州藩」はこれを黙認していた模様ではあるが、「朝廷の財力」が高まる事も含めて「幕府の目」もあり気にしていた様である。

この手紙の資料には、事の次第が「幕府の目」もあり明確に書けない様であって、この「松阪紬の状況」を報告した文章がある。
それには急に文章の中に意味不明な、「四家の長」の“「福家様の御仕儀」“の文字が出て来て、”何か“を匂わせている文面であり読んでいても判らない。
これは“何か”を知っていなければ解らないのであろう事が判る。

注釈として、筆者は、「朝廷分 イ」の「割り当て分」に対する「福家の指示」を「射和郷士(A)」の「差配頭」に密かに伝えていたと観ている。
この「福家の指示」とは次の経緯にあった。

そもそも、「殖産前」は、「朝廷と青木氏(伊勢神宮の供物」を含む)」の中で割り当てられていた。
これは、「朝廷と伊勢神宮の財源」に成っていた。
つまり、判り易く言えば、当初は「紀州藩(「伊勢籐氏の家臣団」)」との「打ち合わせ」では、「藩の借財」を返す「最高の手段」として、そもそも「青木氏(X)」と共に、「松阪紬」の「朝廷への献納の利」のここに目を付けていたものであった。

つまり、「松阪紬」を「権威の象徴の産物」として「政策的」に仕立てれば、“これ程の「見返り」は先ず無い”と読んでいたのである。
後は、これに「政策的な禁令」や「質素倹約令」等を添えれば成立する。
その為の「殖産」を「青木氏(X)」に任すとすれば、「紀州藩」は濡れ手で粟である。

これは、注釈として云うならば、今で云う「地域興し」の「松阪紬ブームのプロジェクト」である。

「権威の氏の青木氏(X)」の下で作られる奈良期よりの「伝統の朝廷専売品」を増産して「権威」で固められる「松阪紬」を先ずは世に出す事である。
それも、人が羨む「限定の範囲」での販売とすれば、権威に憧れていた江戸初期に「高級武士」には火が付く事は必定で、金目に糸目を付けない事と成ると観たのである。
「節約の禁令」の「裏の目的」はこれに火をつける「点火材」であったと観られる。
大名格は「黒印状」を授けられたとする「伝統の氏姓の素性の裏打ち」にも成る。
(殆どは詐称であった。)

然し、ここで疑問が残る。
「松阪紬の殖産」を続ける以上は、例え「伝統の物」であったとしても「殖産」である以上は、「利益」を上げる必要がある。
これ無くしては続けられない。
「朝廷の割り当て分(1割) イ」は、もとより続けていた関係上は伝統の「薄利」である。

そもそも、「朝廷」に執っては「殖産」は何の意味も持たないし、「殖産」だからと云って衰退する中で「値上げ」はあり得ない。
そうすると、「殖産の利益」を何処で取って「帳尻を合わすかの戦略」が「青木氏(X)」に必要になる。
当然に、に求める事は「畑方免令による殖産税」である以上は無理である。

恐らくは、この事で「紀州家臣団の伊勢籐氏」との間で、上記の資料の通り“「福家様の御仕儀」“の文字の意味する事から「検討」を繰り返したと読み取れる。
これが、この時の「会議の決定事項」を“「福家様の御仕儀」“と表現したと考えられる。

つまり、「秀郷流青木氏」等に廻す「青木氏(X)の(1割程度)の分 ロ」の「内訳とその内容」であった事が判る。
何故ならば、「秀郷流青木氏」は、この「殖産」に於いて“何の必然性もない”のに文中に書かれているのはこの「戦略の内容」であったと読み取れる。

“どう云う「戦略の戦術」か”と云うと恐らくは次の様に成る。
「秀郷流青木氏(伊勢籐氏含む)」の「広い付き合い関係」(幕府の家臣団も含む)から「高位族の者」が、“密かに「権威と伝統の松阪紬」を何とか獲得しよう“とすると、この「ルーツ」を通じて「依頼」があった筈と観る。
これを相手の「要求や身分」を観て、先ずは「下格」(中格を含む)を密かに振り当てる。
この「名目」を「伊勢神宮(遷宮地の関係諸社含む)」の「献納品」に置く。
「名目」としている「伊勢神宮」は、もとより「春日神社(藤原氏の守護神)」と「古来より関係性」を強く持っている。
つまり、「北家の最大勢力の藤原秀郷一門」とは、「守護神」である以上は疑う余地は完全に無くなり、「紀州藩」や「幕府」に対し「言い訳」(神宮献納品)に成る。

(注釈 「紀州藩」は当然に黙認する。紀州藩の「幕府目付家老」も仮にも知り得ても「幕府官僚集団」も同族の「武蔵藤氏」である。
「幕府目付家老」も紀州に赴任される以上は、恐らくは「藤氏の末裔」である。
そうすれば黙認はするし、「紀州藩の借財」が解消すれば「目付」としての「自らの立場」も成り立つ。
要は“「名目」”さえ成り立っていれば先ず文句をつける事はない。)

この“「名目」”を生かしながら、この「ルーツ」から「莫大な利益」を獲得すれば成り立つ事に成る。
この事前に承知していた「戦略戦術」を「名目」として“「福家様の御仕儀」”として表現したと云う事が判る。

注釈 その後の事として、上記した「信濃と甲斐と近江と越後と越前の幕府領」は、「米の生産石高」が安定して増えた「享保期」(12-16年頃)に「養蚕の殖殖産」が起こっている。
これは、「吉宗」が厳しく採った政策の恐れられた彼の有名な“「無継嗣断絶策」”に依る「公収化策」で、上記の「青木氏の定住地」が何と「幕府領」と成った。
“成った”と云うよりは、“した”である。
ここは「伊勢」と同じく「古来からの養蚕地」で、「青木氏の定住地」で、「青木氏の商業組合の組織」で、「資力」を蓄えたところを「幕府領」として、「地権」を安堵し与え、「養蚕の増産」を命じている事に成る。
これも見事に濡れ手で粟である。

この条件は、「吉宗」が「親代わりの膝元(青木氏)」で直に経験して観て来た権威性を持った「殖産の絹紬」がどれだけの「莫利」を得られるかを詳細に知っていたからの事であろう。
そして、この紀州の「権威と伝統」の「戦略と戦術」を使えば、「300両」しかなくなった当時の「幕府の御蔵埋金」を一挙に埋める事が出来る。
それには、何はともあれ「賜姓臣下族」で「志紀真人族の末裔族の青木氏一族」を利用する事に成る。
実績は紀州で作っていると成れば事は早い。

「信濃紬」、「甲斐紬」、「近江紬」、「越前紬」と「越後紬(「秀郷流青木氏と信濃青木氏))」等の「絹物」の「権威名」を着ければそれで済む。

(注釈 ここは「青木氏」が始めた「15商業組合」の「主要5地域」でもある。
この「無継嗣断絶策」は所領を持つ旗本・御家人までも含む「大小の武士階級」にまで適用され、「無継嗣」と見做された場合は問答無用で没収され「幕府領」とした。
「青木氏の定住地」には、恐らくは難曲を着ける、挙句は「土地の振り替え」で領主を追い出し、そこを「幕府領」とし、本領並みの「青木氏に地権」(元の天領地)を与えた。
然し、上記した様にその「領域の村域」が大きいのはこの理由による。
この為にも「青木氏の権威と資力」を見逃さずこの元の「天領地」を「幕府領」とした上で保護した。)

何せ「幕府領の養蚕の仕掛け人」は、当然に「吉宗と江戸の伊勢屋(青木氏)」とすれば何の問題もない。
つまり、「松阪」から人を送りこめば済む事であるし、呼び寄せればよい事に成る。
「権威と価格」に問題が出れば、「松阪紬」とすれば済む事である。
ある研究の資料には、”「御領紬」の呼称”が出てくるが、これがその事ではないかと考えている。
つまり、どう云う事かと云えば、上記の「幕府領」(徳川氏)は、「伊勢松坂」を含めて、元は天皇家の「天領地」(天皇家)と呼ばれた地域である。

(注釈 「幕府領」は別に「幕領」とも呼ばれ、これを間違えた明治期の研究資料が「幕府領」を「天領地」と呼んだ事から誤解が生まれた。
現在は、過去の資料より学問的にこれを正式に訂正されていて、「幕府領」と「天領地」とは区別されている。
「青木氏」に於いても「近江、松阪、信濃、甲斐」については「天領地」とした資料に成っている。
唯、「近江と甲斐」はその「天領地の範囲」が狭い事から「天領地」と「幕領地」の重複部がある事が観られる。
例えば、「源頼光」が派遣された「信濃国」は「天領地の守護」としてであったとする明確な学問的な資料もある。
当然に、「青木氏の始祖の施基皇子」が「伊勢天領地守護」として「三宅連岩床」を国司代として派遣した事も正式に資料として遺されている。)

この意味でも、”「御領地」”は本来の「天領地の総称」であって、その呼称を使って、江戸期中期には「「松阪紬」も含む「御領紬」として「権威」を持たせる為に意図的に呼称させたと観ている。
この呼称は、一般に出回る事も無く、且つ、「禁令の事」もあって憚って「高級武士の間での呼称」であったとされている。
況や、この呼称は、”「松阪紬」”の「伝統」に基づく「名誉と権威」として利用したと観ている。

これが、「青木氏の松阪紬」が基盤と成った大切な「青木氏」しか知り得ない「歴史観」である。

さて、この歴史観を前提に、この話は「五仕業」に続く。
ここで次ぎの事で、何故、この殖産工程が「仕事」では無く“「仕業」”としたのかが判る。

そして、その「仕業の呼称」から「松阪紬」を”どの様に仕向けるのか”、将又、位置づけるのかの判断をしたのかも判る。


そこで次は、「検品、仕分け、仕立て、荷造り、搬送」の“「荷造り」”の工程である。

普通なら、この「荷造り」は「技職の業」では無いであろう。
ところが資料を読むと単なる工程では無かった。
相当に、「前行程の仕立て」までの「権威性」を計算した恣意的に利用した「技職の業」である。

上記の朝廷の「供納品」や「賜物品」に、「より権威性を持たす方法」が下記の通り二つあった。

一つは、「反物」、或いは「仕立物」の「宝飾荷造り」である。
二つは、「宝飾荷造り」に「権威の影」を染み込ます事である。
この(一)と(二)で一対として、「伊勢神宮」に「神の御霊入れ」を祈願して「御朱印」を授かる事にある。

この作業を一手に引き受ける事に成り、この為に「装飾技能」や「反物、仕立物の漆箱等の技能」が要求された。

そもそも、この「装飾技能」と「漆箱の技能」は、「紀州郷士」の彼らの「元からの特技」であり全く心配はいらない「彼らの本職」(「技職の業))であった。
「装飾技能」と「漆箱の技能」を「技職の業」でないという人はまさか居ないであろう。

それは何故かと云うと、次ぎの様な経緯があった。

注釈 そもそも「紀州」は「南紀」には「熊野神社」と、「北紀」には「伊勢神宮の最後の遷宮地」で多くの「伊勢神宮系の遷宮神社」(4社)が存在する。
この「熊野神社」や「遷宮地」の門前町には「祭祀に関係する技能」が古くから多く広まって集まっていた。

その一つが「装飾技能と漆技能」であり、現在もその伝統は継承されている。

(注釈 「紀州漆器」は、「三大漆器」の「輪島塗」と共に有名で「紀州漆塗」は「古来からの伝統芸能」であった。
現在はこの「漆器伝統」が、江戸中期に分流し二流、つまり、「黒江塗」と「根来塗」に分かれて遺されている。
分流した原因はよくは判らないが、そのきっかけは平安期末期と室町期末期の混乱で「近江の木地師」”が紀州に移り住んで「木地物」を広めた事から、これを「椀物」と「塗」とを組み合わせた事に成っている。
時期的に観ると、「紀州郷士」の「紀州の北紀殖産」を導いた「名手氏や玉置氏の保護」を受けていて、何か「射和との関係性」を持っているかも知れない。)

(注釈 そもそも、「近江木地師」は、「近江関係氏の資料」の「近江の佐々木氏系青木氏」の項の論文によれば、「近江木地師」は「近江佐々木氏系の青木氏部」に所属していた筈である。
ここには、平安末期の「近江の源平戦」で敗退し、更に「美濃の源平戦」でも敗退し、「佐々木氏系青木氏の滅亡」にて分散したとある。
そして、「近江佐々木氏」が一部を囲い、一部は伊勢等に移動したとある。
この時の「木地部」が、「近江佐々木氏」が室町期末期に衰退して「木地師」は「紀州」に移動し、平安末期には「伊勢」に飛散したと読み取れる。
そもそも、「木地師」とは、「仏像」を始めとして「木地に関わる生活用品」を幅広く作る「職人」であり、平安期には「賜姓族」であった「青木氏」には無くてはならない「青木氏部の職人」であった。)

(注釈 論外ではあるが、ここで「二つの疑問」が残る。先ず一つは、「近江木地師」は何故、、紀州紀北に移動したのか。二つは、何故、「紀州漆器」が二つに分流したのか。この「二つに疑問」が残る。
そして、この「二つの疑問」が「射和との関り」にあるのではと考えた。
一つ目は、現在の地元の定説は単に移り住んだとある。当時の掟では許可なく理由なき移動は認められていない。確かに「近江佐々木」は衰退を続けたが、それでは「移動できる条件」にはならない。
ただ「紀州」は、「木の国」であり、「漆の最大産地」でもある。「木地師」に執っては「絶好の定住地」と成るだろう。しかし、それだけで「移動できる事」にはならない。
これには「伊勢の青木氏部」に組み込まれた同族の「一団の木地師」との関係が出ていたのではないかと考えていて、それが「射和」と結びついてると考えている。
これには何か「歴史的キーワード」がある筈である。その「歴史的キーワード」が「分流した原因」でもあると観ている。)

(注釈 この「歴史的キーワード」を解く鍵は、「江戸中期前後」と「秀吉による根来寺荒廃」にあったと観ていて、「秀吉」に依って徹底的に潰された「根来寺」を江戸中期前後に「吉宗」と「紀州藩」が庇護して伽藍を修復したとある。
つまり、「紀州」と「江戸中期前後」とは、”「吉宗に関わる事」”に成る。
「青木氏部」に組み込まれた「近江木地師」を、「漆器職人」を生業としていた「紀州門徒衆(C)」を「射和」に呼び寄せて「養蚕の殖産」を成功させた。
ところが、「吉宗」が引いた後の紀州藩は放漫な藩政に依って再び「借財態勢」に成った。
そこで、「射和の成功体験」をもとに「吉宗」は、「射和の経緯」もあり「青木氏(X)」と相談の上で、「伊勢の青木氏部の近江木地師」を「紀州藩の財政立て直し」と「根来寺の再建」を図る為には逆に「伊勢」より「根来」に差し向けたと考えられる。)

(注釈 「青木氏(X)」は、江戸中期前後、つまり「享保期末期(1751年没)」の直前に表向き理由として「吉宗との意見の違い」にて江戸を引き上げているので、その直前にこの「木地師の配置」を決めたと観られる。
これで、現実に奈良の国境の「根来」は息を吹き返した。
そもそも、「吉宗後の紀州藩」は「借財体質」に再び戻った事からも莫大な金額を要する「根来寺伽藍修復」は「吉宗と青木氏の援護」なくして出来る事で無かった。
この仮説が「上記の疑問条件」を解決する。)

(注釈 「根来寺」は高野山の麓の真言宗寺であり、忍者の里でもある。「雑賀集団」と共に反抗集団として恐れられ五月蠅がられた。
「吉宗」はこの「根来衆」を鎮める為にも「伽藍修復」と根来発展」と云う上記の手を打った。
この「二つの地域」には「木地と云う姓」が多い所以でもある。
これが江戸期に二度行っている「青木氏」の「紀州藩勘定方指導」と云う事に発展していったのではと考えられる。)

その「古来からの伝統ある技能」を家内工業的に彼らの「唯一の収入源」として「紀州郷士」等が継承していたのである。

この「荷造り工程」の前の「三つの工程(検品、仕分け、仕立て)」は、何とこの「荷造り工程」に付き物の工程なのであった。

彼等には身寄りもないこの「伊勢松坂射和」であったが、この難しい「五仕業」は当に“水を得た鯉“であった。
だから、「門徒狩り」のほとぼりが冷めた後も彼らは「射和」を飛び出さなかったのである。
これは「青木氏(X)」と「松阪郷士(B)」の判断であったが、より「松阪紬の権威性」を高められる手段を模索する中で、確かに「扱いに問題」はあったが「天の巡り合わせの様な出来事」であった事が判る。


さて、その「彼らの行動」は、それどころでは終わらなかった様だ。
「天の巡り合わせ」と云っても、そもそも、この「五仕業」には「人手」が多くかかる。
この事は、「青木氏(X)」から高度な仕事(仕業)を与えられた瞬間から判る事であった。
合わせてこの事は、この「五仕業」が「高度な職能」である限りは「射和郷士(A)の手」を、借りられない事は直ぐに判る。
当然に、「青木氏(X)」と「射和郷士(A)」との間で相談に入った筈(手紙の一説)で、「解決策」は当然に直ぐに提案された事に成る。

それは、「唯一の策」として、“紀州から彼らの縁者一族を呼び寄せる事”にあった。
これには、「国抜けの禁令」が障害に成る。一族郎党の斬首の重刑である。
彼等自身(紀州門徒衆)にはこの事は何とも仕難い事である。

そこで、「青木氏(X)」は動いた。
「紀州藩(伊勢籐氏家臣団)」に隠密裏に掛け合う事であった。
「紀州藩」はこの事を許可しなければ「借財」は疎か「税の収入」も激減する。
それどころかこれらを解消させる「殖産」が成功しない。
況してや、「絹衣」は「他の殖産品の木綿等」と比べても比べ物にならない「高額収入源」であり、「紀州藩」としても「権威の象徴」として広範に利用できる。
更には、藩としての「借財」は返せて、且つ、「権威と名誉」は保て幕府に大きい顔が出来る。
この最大の問題の鍵はこの「国抜け罪」である。

然し、「見事な殖産」を「青木氏(X)」と共に仕立てた「賢明な藩主」は、要は、「国抜け罪」<「殖産」=「借財」と間違いなく考える筈である。
後は、「伊勢」には「南勢と北勢」に幕府の「四つの代官所」を置いているが、この「幕府の目」をどの様に反らし「国抜け罪」をどう繰りぬけるかにあった。

然し、積極的で賢明な「藩主」は、「遷宮神社」の「門前町の職能者」の「彼らの一族一門の郎党」を「射和」に送りこむ事を決定した。
それには、「門前町職能の現能力」を下げずに「門前町職能者」の郷士の「次男三男の部屋住み」を密かに「射和」に送りこむ事にして、そして、彼らに秘密裏に「通過鑑札」を与えた。

(注釈 この「遷宮地門前町」は、城下の直ぐ東側に繋がる様な位置にある。
そして、この紀州藩城下にある「遷宮地」は、真東の奈良五条を経由して、そして、「名張」-「射和」に通ずる「一本道の位置上」にある。
つまり、距離は「射和」まで約130Kmであり、容易にこの計画は、無理なく、即座に、且つ、円滑に、極めて早く実行できる可能性がある。
急がねばならない。人の歩く速度約10Km、一日12時間として昼夜のほぼ一日で着く。
関所は五条の一か所、地形は殆ど平坦で名張まで来れば迎えが入る事で、荷駄と人は早くなり最早安全である。
戦略は当然に「風林火山」である。
「紀州藩の家臣団」は目立たぬ様にそれとなく護衛している事と、一団を「カモフラージュ」する役を演じる事にも成る。

(注釈 実は、呼び寄せの「別の証拠」として、「紀州北紀の郷士」で「射和」に来ている一門の「玉置氏」がある。
この「玉置氏」は、「筆者の母方」の「江戸期の出自先」で、「醤油と酒」を製造し、「搬送業」も兼ねていた。
この「搬送業」での口伝では、「松阪射和」まで運んでいた事が伝わっている。
何を運んでいたかは明らかではないが、恐らくは、当然に「射和の一族」に「醤油と酒」を運んでいた事は判る。)

実は、この彼らの一族郎党を呼び寄せた証拠が記録として二つ残っている。

先ず一つは、「射和地区の北側」は開発をして定住した地域なので「紀州郷士の姓」は多いが、ところが、「西側の近江商人(B)」の定住地域には「紀州郷士の姓」(前段でも論じた)が「住み分け」をしている筈の中でこれまた多いのである。
これは何故かである。
この時代は「争い」を避ける為に「住み分け」を原則としている以上は、西側には無い筈で、「松阪郷士(A)の土地」でもあり、「自由な住み分け」は殖産工程上も当時としては先ず起こらない。

ところが「時系列的」に観ると、「近江商人(B)」が江戸に出始めた享保期後半に集中している。
これは、この時期に「紀州門徒衆(C)の開発定住地」の「射和北側」から「櫛田川の川洲域」の「西側」に向けて降りて来たという事に成る。

これには、記録上で二つ理由がある。(呼び寄せた「二つ目の証拠」)
一つが、「射和北側」では「五仕業」の工程が山間部である為に手狭になった事。
これを解消する為に、その「工程の流れ」を「射和北側」の定住地の中での「横の流れ」から、「射和川洲向き」の「縦の流れ」に変えれば「最終の搬送工程」は直ちに「舟」に乗せての「便利な工程」の流れに成る。
幸い「近江商人(B)」は江戸に出て空き地と成りは始めた。
工程を熟す「住まい」をその方向に建て替えてゆけば成立する。

(注釈 彼等にも「五仕業」の御蔭で「資力」は出来た。「青木氏(X))も援助する。)

二つは、「近江商人(B)」が担っていた「松阪木綿」を扱う者が居なくなった事。
「近江商人(B)」は、結局は、「青木氏(X)」と「射和郷士(A)」等と反目して一族を「射和」に遺す事は到底出来なく成った。
この結果、「松阪木綿」の「販売」を誰かに委ねなければならない。
そこで、「射和郷士(A)」は、「青木氏(X)」の了解を得て、子孫拡大する「紀州門徒衆(C)」に依頼し、その条件として「西側の使用権利」(地権も含む)を援助の形としても譲った事に成った。

紀州から逃避して来て、「青木氏(X)」に保護された「紀州門徒衆C)」と、その呼び寄せられた一族は、「五仕業」に依って生活は一度に裕福になった。
「子孫」も養えるし、彼らの名誉を回復して郷里にも顔が立った。
この経緯が「紀州郷士の姓」が多くなった理由である。

さて、次は、「搬送」である。
この「搬送」は、”単なる前工程の絹物を特定先(上記)に運べばよい”という事では無かった。

先ず、「一つ目の搬送先」は、松阪にある「紀州藩納所」である。
搬送には領内であるので問題はない。

次ぎの「二つ目の搬送先」は、「朝廷」で京まである。
「高額品」であるのでこれは慎重にしなければならない。
「護衛」を着ける必要があり、「伊勢シンジケート」に「射和郷士(A)差配頭」を通じて手配が必要である。

最後は、「三つ目の搬送先」は、「青木氏の割り当て分(1割相当)」からの「伊勢神宮献納品」である。
これも問題はない。

先ず「搬送品」を筵で包むような事は出来ない。それなりに装飾を加えての「御届け物」に成る。
「朝廷」には、「天皇家」に納めるのではなく、「朝廷の式典」の「供納品」として納める事に成る。
従って、「荷駄」には「式紋の五三の桐紋」の敷物が古来から使用された。
荷駄には旗が立られて運ばれるが、周囲は荷駄に対して最敬礼であった事が書かれている。

「紀州藩」の納所には、徳川氏の「式紋の立葵紋」の敷物が使用されたと書かれているが、これも朝廷荷駄ほどではないが、邪魔や追い越すなどの無礼は無かったらしい。
何れもそれだけに、「搬送」は「権威」を落とさない様に周囲を固めて運んでいたらしい。

後は、「青木氏分の割り当て分(1割相当)」より充当した「秀郷一門への搬送先」は松阪北側の湾寄りの四日市と津の中間位置にあった事から、直納した事が書かれている。
これには余り荷駄を公には出来ず、速やか密かに屋敷に届けた事が判っている。
その内容を書いた「要領書」の様なものがあってそこに書かれていたらしい。

(注釈 「青木氏分の割り当て分(1割相当)」とは、一定の生産計画分より「増えた分」を「青木氏の割り当て分」としてプールし、それを「秀郷流青木氏」を通じて密かに廻していた事に成る。
紀州藩には表向きは「秘密の分」であったらしい。黙認されていたと観られる。
「増えた分の差配」は「青木氏(X)」と「射和郷士(A)」と「紀州門徒衆(C)」の三者で密かに決めていたと観られる。
この三者に対してその増分から得られる「利の配分(利得分・割り増し分)」もあったからだと観られる。)

何れも、四者に届ける「搬送役の要領書」が独自にあったらしいが見つからない。(消失か)

そして、この「要領書」の様な中に、彼らの「搬送の本領」が書かれていた様で、それは、つまり、「実質の営業」であった事らしい。

つまり、「状況証拠」から、先ずは、次ぎの手順を踏んだらしい。

「届け先」に着くと「届けの確認」と、「次ぎの要望」等を取りまとめて聞いてくる事。
場合によって「発注量(納品量)」と詳細な「要望の把握」と「納品期の要望」にあった事。
時には、「厳しい交渉」(苦情含む)が丁々発止で行われていた事

以上の様な事であったらしい。

「松阪紬の殖産」の南勢から始まる桑から始まり「玉城-名張-伊賀-射和」の「すべての状況」を把握していなければ務まる役目ではない事が判るし、相当に「知恵と経験のある者」の「重要な役目」であった事が判る。

筆者は、この「重要な役目」は、「紀州門徒衆(C)」の「総元締め」が務めていたと考えている。

これで、「松阪紬の殖産化」での「五仕業」の事は論じたが、上記した様に、後発の天領地の「青木氏定住地の養蚕(御領紬)」もほぼ同じ経緯の歴史観を保有していた事は間違いはない。
元々、何れも「朝廷の天領地」であった処を、豪族に剥奪され、それを「吉宗」がここを「幕府領」として強引に取り戻し、「地権」を与えて取り組ませた。
全く「伊勢青木氏の経緯」(「青木氏X」)とは変わらない「共有する歴史観」が起こっていたのである。

本段は、著作権と個人情報の縛りの中で「伊勢の事」を少ない資料の分析を以ってそのつもりで論じた。



> 「伝統シリーズ 39」に続く
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