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「青木氏の伝統 43」-「青木氏の歴史観-16」 

[No.362] Re:「青木氏の伝統 43」-「青木氏の歴史観-16」 
投稿者:副管理人 投稿日:2018/09/16(Sun) 14:11:16
> > 「青木氏の伝統 42」-「青木氏の歴史観-15日」 末尾
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不思議な事ではあるが、「大化期から平安期の縁戚族」の「近江佐々木氏の研究記録」が「青木氏族」の証明と成りよりの大きな証拠と成っている。
>
> さて、これらの上記に論じた「血縁関係のシステム」が「四六の概念」に依って論理的な基準づけられている。それは次のように成る。
>
> これが、概要的に観て、「時代の変化」で、当初の平安期末期までは「官位族」9>「郷士衆」1であったが、江戸期前後頃には「官位族」1<「郷士衆」9と変化して行った事に成るだろう。
> 前段でも何度も論じたが、下剋上戦国時代の乱世に於いての「室町期中期頃」の「数式のバランス」では、「官位族」5><「郷士衆」5の関係性が成立していたことが判る。
> 「青木氏族」が「巨万の富」を獲得し、これを使って925年頃から正式に始まったより「殖産」を拡大させ始めたころと成り、その理屈は「官位族」5><「郷士衆」5の関係性からもよく解る。
> 矢張り、「殖産」の主軸は「氏族」と成っていた「郷士衆」である事が明々白々である。
> 上記で論じている「殖産」が拡大するにつれて「官位族」5><「郷士衆」5の関係性は急激に右辺寄りに変わっていった事に成る。
> 「時代の変化」と共に、「青木氏族の概念」も「妻嫁制度」を盛んに使って変化した事が解る。
>
> (注釈 前段でも論じたが、江戸末期に於いて「筆者の父方祖母」は京公家からであるので、「官位族」の1は未だ成り立っていた事が解り、筆者の母方祖父は「伊勢郷士衆」である。
> 筆者父方の縁戚筋は全て「伊勢郷士衆」であり、明治期直前まで「郷士衆」の9は成り立っていた事でも解る。明治9年でこの関係性は中断し、明治35年で終了し、大正14年で解消し、平成10年で「福家」は「宗家」に戻る。「四家20家」は各地に分散して商いは続くが詳細不詳。)
>
>
>

「青木氏の伝統 43」-「青木氏の歴史観-16」
「女系族」の「四六の古式の概念の続き」

さて、この「絆の関係」を構築しているのが、これ即ち、「四六の古式の概念」や「四掟等の掟」は、この「絆の関係構築」の為の「一つの方法」ではあった。
依って、この事の「血縁」等の「弊害」を充分に見定めた上で、「譲れない氏族」としての「四掟等の掟」と成っていた事なのであって、これは重要な「青木氏の歴史観」であった事に成る。

(注釈 前段の「孝謙天皇」の「青木氏」に対しての「白羽の矢」は、この「(A)(B)(C)の条件的な血縁」を前提として点てられた事を意味した。
本来であれば「入りと出も男系と云う前提」で「天皇家の血筋」は成り立つ前提であろう。
然し、「青木氏族」は「入りと出」は、基本的に「入りと出」の「男系」では無く、全て「女系」で成り立っていたのである。
然し、未だ「氏族の構成」があまり進んでいない時期ではあったが、「孝謙天皇」の放った「白羽の矢」が不幸にして当たったのであった。況してや「妾子族」であったのに。
前段でも論じたが、「白羽の矢」の当たった「伊勢青木氏の嗣子」等の夫々は、「公的な史実」として、“飲んだくれ”等を装い避けた事が書かれている。
「氏是」に従い懸命に「氏人を含む青木氏族」を守ろうとした事が判る。)

故に、今後、この様な事が起こらない様にする為に、これが前段で論じた基本の「四六の古式の概念」をより強化して改善を加えて持ち込み、その為に独自の「四掟」等の制度が定められた所以でもある。

(注釈 「后の入り」を執らなかった唯一の理由はここにあったと考えられる。)

然し、唯単に、「四六の概念」に基づいた上記の(A)(B)(C)は、「氏族保持」と「家柄保持」と云う事だけではなく、上記で論じた”「殖産」”などを含めた「広範な体制保持」に欠かす事の出来ない「絶対的な概念」であった。
従って、これは、「殖産」=(A)(B)(C)の関係が成り立たなければ、不可能だと観ていた事に成ろうし、これが”「青木氏の強味」”でもあると認識していた事に成る。
この「青木氏の強味」を生かさない手はないだろう。

(注釈 しつこい様だが、上記の「大岡裁定」の「三河者の大岡」は、言い換えればこの“「青木氏の強味」”を必要以上に意識し過ぎたと云う事にも成ろう。)

又、「市場放出の余剰品」の「和紙と墨」を「殖産」と「商い」として成立させた時期の925年頃には、「青木氏部」と共にこれを成す事に「力を貸した郷士」とは、既に、この「(A)(B)(C)の条件的な血縁の関係」が一重くらいには出来上がっていたと考えられる。
少なくとも、この頃から衰退を極めて行った「近江」、「美濃」、「甲斐」を除いては、出来上がって行った事に成る。

(注釈 故に、前段でも論じたが、「平家に圧迫」をうけて「近江、美濃、甲斐の衰退」を見た「円融天皇」は、憂慮して「平の将門の乱」を利用して功績のあった「俵源太」に「青木氏」を補完賜姓し、960年頃からの「秀郷流青木氏の補完役」の「出現」を成したと観られる。)

筆者の感覚は、「奈良期」から始め「江戸期」までの「殖産」に於いては、この「絆の関係氏との保持」の為の「青木氏の概念」が、上記の制度を構築した「四六の概念」に基づいたものであった。
依って、その「主流の概念」であったと観ている。

従って、奈良期から続けられ江戸期まで続いた上記の「女系の入りと出の振り分け具合」が、どの様な程度と成っていたのかが気に成る。
然し、探すが資料にはそこまでは物語るものが見つからない。
「商記録」は別に、上記した様に「入りと出の情報源」を掴んでいたところにあり、それは主なものは「青木氏の執事等のあらゆる事務」の執事を司っていた「菩提寺や神明社」に遺されている資料と成るが、上記した「江戸初期の令(後段で論じる)」で消滅している。

下記にも論じるが、結論的に云うと、「四六の概念」を敷く以上は、「入りのキャパシティー」と「出のキャパシティー」の差から生まれると判断できる。
これは「奈良期からの時代性」と「青木氏族の繁栄力」に大きく左右される。
仮に、筆者が執事に成ったとして、とすると、これは明らかに「答え」は次の様に出る。
上記や前段でも論じた様に、次の数式が生まれる。

「入りのキャパシティー」<「出のキャパシティー」

つまり、この「青木氏のキャパシティー」の5=5の数式は成立しない。

故に、これが要するに「青木氏」では、”「4:6の比(四六の古式概念)”」という事に成り得る。

では、仮に、これが「3:7の比」であったとして、「福家と四家20家」を補う為の「「嗣子」と、「出」になる「女(むすめ)」は賄えない。
そこで、「四六の古式概念」に依って「福家と四家20家」を賄う為に「妻嫁制度の妻」は、要するに「四段階(后、妃、嬪、妾」)」に成っている。
但し、この「掟」により課せられていた事は、「妃、嬪、妾」は、「后」は無く、且つ、各々が原則1人であるとしている。
従って、「3の比の妻」から生まれる子供は、標準二人としても「四家20家の合計」は40人である。

(注釈 当時は死亡する比率が疫病等により高かく、平均寿命の短命55歳であった事を勘案する。)

この内、「男女の差」が「現在の標準比」から考えると「5:5」である事から、「嗣子の20人」と「女(むすめ)の20人」と成る。
標準的に「嗣子20人」としては何とか賄えるが、一度に「全四家」に跡目が起こる訳では無く、「四家20家」には必ず「代変わり」がある。
この「代かわり」が、最大で「四家20家の半分」の5:5で起こるとする。(長寿系であった。)
「20の最大」でも賄えるが、現実には、種々の理由で5:5とは成り得ない事が起こる。
それが仮に「嗣子と女」の「比」が2~「4」:8~「6」と成った場合は、最低でも2・5=10と成るので、5:5であっても何とか賄える事に成る。
従って、検証では「男系の継承の嗣子」には問題は無い。

さて、そうすると、この場合の「女の比」は、最低で6・5=30 最高で8・5=40と成り充分と成り得る。
「伊勢」に於いては、「出の先」が「郷士衆」は50であるとすると、最大で30~50は成り立つ。
「郷士衆」、つまり、「氏人」に対しては一斉にしても成り立つが、この様な事は先ずは起こらない。
即ち、余裕が起こる。
「郷士衆・氏人」の50の半分としても25であり、「女(むすめ)」の「出の嫁家数」としては成立する。

充分成立するとしてでは、次に、この「女(むすめ)」」の「余裕分」を放置できない。
当然に、後の「妃、嬪、妾」の「入り」の「三つの血縁源」、つまり、上記の通り「京等の位階の血縁源」と「秀郷一門と秀郷流青木氏」と「信濃、甲斐、越前、伊豆等の血縁源」に、最低でも5、最大でも25が振り向け戻せられる。

(注釈 「后」は「特例扱い」で現実には採用されていない。
そもそも、「后」があると、この「三つの血縁源」を嫁家先を差別化する事に成り、「三つの血縁源」が同列としている概念の「四六の概念」には問題が起こり好ましくない。)

そうすると、考慮しなければならない事は、生まれる「嗣子と女(むすめ)」の比が、上記の3:7の3から生まれるとすると、このパラメータには、当然に「バイアス」が含まれるが、これをどう見るかである。
即ち、常に、この「数字のバランス」が続くとは限らない事に成る。
これを何かで補わなくてはならない。
時には、「入り妻」に「子」が生まれない事、或いは、男ばかりであったりする事、又、逆の事も起こる。
この事も配慮を要する。
それを「バイアス」として1と見做せば、3+1とすると、矢張り、「4の概念」が生まれる。

では、「4の概念」のこの1を加える事を「バイアス」として持っておく必要がある。
そもそも、他氏の様に、“「入りの妻」の「人数」”を「一人ずつ」とする事を止めて、“複数化すればよい”とする考えもある。
然し、「青木氏」はこれを執らなかった。

何故ならば、上記で論じた「入りの妻」に課せていた「掟」、所謂、「女(むすめ)」への干渉」や「入り妻同士の争い」が起こり、「統制」を執れなくなる事を懸念したからに他ならない。
前段でも論じたが、この「制度の模範」は、そもそも「中国」にあって、”中国の「国の短命」(専門家の定説)はここにあった”とする事を「貿易」を通じて情報として持っていた。
従って、複数化は「青木氏」としては採れない。
では、“どうするのか”と云う事に成る。

この「複数化」を抑えるには、これが、「バイアスの採用」と成ったのが、”「女(むすめ)」”の「定義の変更」であった。
つまり、上記で論じた「郷士衆、氏人」との間で結んだ「伝統の決まり事」、況や、上記した「定書き」の経緯と成った事であった。
況や、「孫から玄孫」までを取り敢えずは、「区別、差別、位階、格式」の無い“「女(むすめ)」とする制度”としたのである。
こうすれば、「何らかの変化」に依って「不測の事態」が起こっても、何時、「女(むすめ)」が不足しても、「バイアス」には対応できる事と成る。
この「掟」を以て「孫から玄孫」を「バイアスの1」としたという事に成る。

然し、ここで云える事は、この「1のバイアス」を「三つの血縁源」に求められる事は不可能である。
そこまで、「青木氏族」とは云えども、つまり「族の関係」にあっても「氏人と同じ関係」には無かったであろう。
唯、「信濃」とは、「商いの関係」もあり、大化期からの血縁を繰り返して来た「同族の生遺り」でもあって、「バイアスの融通」は利いた筈で記録には遺る。

この「バイアス」を常態化すると、普通は、取り分け、「玄孫」の「女(むすめ)」と成れば、「氏人の嫁家先」は別としても、他の「三つの嫁家先」と成れば、場合に依っては「嫁家先の信頼」を失う事に成りかねない。
三つのその一つである「京などの位階先への嫁家(「入りの妃の家」の関係族)」は、100%無理で信頼は確実に失う。

では、この「バイアス」を作る場合は、次の様に考えていたと思われる。
「福家と四家20家」の「女(むすめ)」の「孫」は、「入りの嬪」で、「曾孫」と「玄孫」は「入りの妾」の「二つの原則」が生まれる。
それは、そもそも、社会は「氏家制度の仕来り」に依って成り立っていた。
従って、取り分け、「血縁(婚姻)」ともなれば、勝手に自由は効かない。
「青木氏」が「氏族」を唯一形成する族もと成れば、それも「伝統ある氏族」である。
依って、”ある程度に従うと云う事”にはならない。
「青木氏族」は冠たる「氏家制度の見本」以外には何物も無く、「異様」ともみられる「家の制度」を大化期から敷いていた。
故に、これは「氏家制度の以前の問題」である。
何はともあれ”「妃、嬪、妾」の「妻嫁制度」を導いていた事”はその最たる所以と成る。

そこで、この「玄孫」を含む以外の「女(むすめ)」の、前段で論じた(5)~(7)」(下記)は、この「バイアス」が無くなり、「氏家制度」の中とは云え、数理的に考えれば“「特例」”と成り得ていた事に成るだろう。
然し、詳しい記録が消滅しているので確たるところが云えないが、バイアス=0とは成り得ていたとは到底に考え難い。

1 子、
2 孫
3 曽孫(ひまご)
4 玄孫(やしゃご)
5 来孫(らいそん)
6 昆孫(こんそん)
7 じゃく孫(じゃくそん)

それは次の資料から読み取れる。

これは室町期末期頃に掛けてのやや風化した資料である。
「青木氏部の差配頭」の「郷士衆の家(家人)・(A)」に「遺された手紙」の「福家とのやり取り」の資料の一文節には、(5)の「女(むすめ)」としての「養育」を願い出ている文節がある。

これは、「この家人の郷士の家・(イ)」と「他の氏人の郷士との家・(ロ)」の「縁組」を、“「何らかの理由(ハ)」”があって、これを解決する為に“「(5)の養育願い」”を出したものであるらしい。
この「家人の差配頭・(イ)」の縁続きの差配下の別の「氏人の郷士の家・(ロ)」」との(5)に当たる「女(むすめ)」を、「他の氏人の郷士の家・(ハ)」に嫁がせると云うものの様である。
その為に「福家」の「女(むすめ)」として養育して、それぞれ、「(イ)の家」を中心にて「(ロ)の家」と「(ハ)の家」を「血縁と云う方法」でより結び、「青木氏」の「女(むすめ)」として嫁して、(ロ)と(ハ)の間に“「ある問題」”を「氏としての血縁」で深くして解決しようとしたと考えられる。

この“「ある問題」”とは、何なのかはこの文節には書かれていない。
(イ)も(ロ)も(ハ)も何れも「氏人」である。
「福家」はこの「ある問題」を既に承知していた事が“文節中に無い“と云う事で分かる。

筆者は、「殖産化と商業組合を推し進めた時期」で、世情は「混乱期」で、且つ、「伊賀郷士との絡み」と観ている。
そもそも、「伊賀郷士(ハ)」は、普通は「郷士」とは呼ばれず、“「原士」”と呼ばれた。
この「原士」と呼ばれる所以は、「農民」であり、「郷士」であり、「技能士」であり、「契約戦士」であり、「万能職」を熟す人の事であった。
要するに、今で云う「忍者の事」で、その「定まった姿」を明かさないのがこの“「原士」”であった。
この「伊賀郷士の(ハ)」は、奈良期の古来より「青木氏の氏人(郷士)」と成っていて、「青木氏部にも職人(技能士」」として加わり、時には「伊勢シンジケート(戦士)」として加わり、「田畑を耕す農民」でもあった。
室町期末期は、「織田氏」の「伊勢への侵攻」で、取り分け、「織田氏」には、「原士の礎情(支配関係を排除)」があって“「権力」に立ち向かうこの「伊賀の人」”に対しては、敵意を示していて、前段でも詳細に論じ、下記にも論じるが、「織田軍苦戦の伊賀の戦い」が起こった。

この時期には、同時に「青木氏族」は「殖産」を拡大していた。
その時、「信長への敵対」は、「伊賀郷士の存亡」に関わる重大事であり、何とか思いとどまらせる様に、「伊賀郷士(ハ)」(伊賀の差配頭か)に対して、この「殖産」に加わる様に説得をするよう試みていた。

さて、ここで、前段でも一部論じたが、「青木氏族」とどのような関係にあったかをもう一度解説する。
ここでは、上記の「妻嫁制度での繋がり」がどの様に動いたかを証明する事が出来る。

「織田と伊賀の勝負」は「多勢に無勢」で勝敗は決まっている。
「青木氏族」の全てが、何とか「伊賀の原士の氏人(11士/18士/24士)」を何とか救うべき説得を繰り返していたと考えられる。
それには、「職能」でより繋がっていた「青木氏部の差配頭(イ)」が適任で、「血縁の氏人」である以上は、「青木氏の懐」の中に誘い込み「保護する戦略」を「福家」と内々に打ち合わせていた。
勿論、「青木氏族」にも直接、危険は迫っていた。
「伊賀の一角」が潰されれば、「青木氏族の抑止力」は低下し、「青木氏族」を興す「殖産」のみならず「商業組合」は崩れる。
これは「青木氏族の衰退化」を意味する。
筆者は、「莫大な経済力と強力な抑止力」を持った者には、信長は敵意を示し天下取りに邪魔と観ていた筈で、その手始めが「北畠や伊賀等への侵略」であったと観ている。

公的に史実と成っている事を時系列で並べて考察すると、この「青木氏族の強さ」が観える。

「信雄の田丸城攻め(改修)と松ヶ島城(仮城」」の二つでは、「青木氏族の軍事物資買い占め」と「伊勢信濃シンジケート」で、築城を遅らせ、最後にはやっと完成した城を燃やした。
その後の「松ヶ島城の仮城」でも「青木氏族」は同じ手を使った。

「伊勢秀郷流青木氏」も「秀郷一門」を動かして全国的に織田氏に牽制を掛けようとして、一門を率いる「青木氏族の結城永嶋氏」に話を通していた。
「結城永嶋氏」は動いて「織田」と敵対し始めていた。
秀吉による「陸奥結城永嶋攻め」では、「結城の本家」が「秀吉の陸奥攻めの背後」を攻め立て、「伊勢秀郷流青木氏」は、伊勢から陸奥に向けて背後を突き、「結城本家」を助け、「秀吉の戦歴」に遺る3000人の死者を出す大敗北で、自らも東北道の商山道を逃げて大阪にやつと辿り着くと云う事に成った。

「伊勢長嶋攻め」でも、「青木氏族の集結」と「伊勢信濃シンジケート」に抵抗され軍事物資が調達できない「枯渇の戦い」と成った。
「信濃青木氏」も、「平家との戦い」で「近江、美濃の滅亡の失敗」を繰り返さない様に、勿論、側面から「陽動作戦」を展開し「信濃シンジケート」を伊勢に差し向けた。

そこで、伊勢での「妻嫁制度」では、事前にとった「伊賀」の為に執った「強力に推し進めた血縁」は整ったが、然し、現実は歴史に残る「有名な戦い」と成った。
「信雄の4つの伊勢攻め」の内、この「伊賀の総攻撃」の前夜で餓死寸前であった「11原士とその一族」を「伊勢青木氏の平城館」の「名張館」と「清蓮寺館」に仲間の「伊勢信濃シンジケート」を使って救い出したとある。

(注釈 参考の為に、多説の中で公開されている「一般説の記録」では、矛盾が多く、“「柏原城」(名張・伊賀)に投げ込んだ“とあるが、この説は「伊賀の平城の柏原」であれば「織田軍の攻め先」を変えればよい筈でそもそも「逃げ込み先」とはならない。
又、簡単に逃げ込めるのであれば始めから四方を囲まれていて「餓死寸前の籠城」等する事は無い。織田軍に抵抗する事も又無い。
そうであるのなら当初より抵抗などすることもそもそも無い。

(注釈 但し、「掟の考え方」の違いで「伊賀の別れ」となったので、この「甲賀掟」であればその様にすることも「掟破り」ではない。
そもそも「伊賀掟」とはそう云うものでは無かった。
取り分け、“「裏切り」”は「最大の掟」で身内でも処罰される厳しい掟である。)

これに依り「青木氏の説得」にも関わらず「全滅覚悟」で臨んでいた筈で、「餓死寸前の体力状況」では幾ら織田軍が油断していたとは云え、簡単に体力の低下した状況では「四方堅め」では逃げられない。
先ずは、「絶対条件」としては“「誰かの救い」”があって、且つ、“家族を含む「逃げ込む先」”が事前に確保され、“「身の安全」”を保障される場所で無くてはならない。
そして、その場所が、「一族も住める近くの広い生活の出来る場所」である事で、「織田軍の敵対場所では無い相手」である事、且つ、氏郷が絶対に敵対して「責められない相手」である事に成る。
筆者は、これらの「絶対条件」を満たし、家族も含めて長期に匿う事が出来て、今まで通りの「原士」であって「今後の生活」も成り立ち、救い出した後の殖産等の「史実の事」も整っている事と成れば「血縁」で繋がっている事が必要であり、それ故に「先祖の説」を採っている。
この余談からも「上記の手紙」は当にそれを物語る証拠である。
一般説は甲賀側の伊賀者では無かったかと思われる。

下記でも詳しく論じるが、一般説の論処11士は、「青木氏」が保護した11士とは別の、全24士(青木氏説)とされる内の「裏切りの3士」を除く、「不明の3士」と、「18士」の内の「7士の事」に成ると観られる。
これであれば、一般説は矛盾なく成立し「青木氏説」と一致し齟齬は無い事に成る。
一般説の「名張の柏原城」もその意味で、近くの「青木氏」の「名張館と西連寺館」で逃亡先も一致し、一般説の「平城柏原城」の「開城和解説」にも一致する。
筆者は、「近江秀郷流蒲生氏郷」は、「伊勢秀郷流青木氏」のと「嫁家制度」の近い親戚で、当然に、「秀郷流伊勢青木氏」とも「嫁家制度の血縁関係」にあれば、「氏郷」は故意に演じたと考えている。
つまり、「青木氏」と繋がりのある「伊賀者の救出」に裏で「青木氏の説得」に応じて密かに参加していたと考えられる。
「信長の軍師」でもあった「頭の良かった氏郷」がこの様なミスをする事は先ず考え難い。
直前の「田丸城と松ヶ島城」の築城に影で「ゲリラ作戦」で邪魔をして置きながら、肝心な餓死で落城寸前の「伊賀郷士」を救い出さない訳が無く、直前まで説得作戦を継続していたのに、“駄目だった”として諦める「青木氏」ではない。
既に、「青木氏(「松阪の福家と摂津伊勢屋が商いで介在)」も信雄に「ゲリラ作戦」で抵抗している「攻撃されない仲間」でもある。
「残された手」は、「氏郷」を「氏郷の立場」を立つ様に「秘密裏に説得する事」に成ろう。
そもそも、「氏郷」と、攻撃する「伊賀郷士」と「伊勢秀郷流青木氏」と「伊勢青木氏」の「青木氏族の関係」は、「信雄」も「充分に知り得る範囲の事」であつた筈である。
むしろ、「周知の事実」である。
その「氏郷」を「伊賀二次の攻撃の主将」にする事、そのものがおかしく、この「結末」は始めからの「計算済みの事」であったと考える方が正しい。
故に、前段でも論じた様に「演じた説」を採っている。


この文脈より「氏人の郷士(ロ)」は(伊賀郷士と関係の深い)「伊勢郷士の氏人」であったらしい。
これらの「時系列の史実」から観ても、「伊勢の事」は「青木氏の資料を基にした歴史観」から観ると変わる。
これは、「重厚な一つの血縁族」でなければ果たし得ない「結束力」が証明でき、これらの事は前段から何度も色々な視点から論じてはいるが、この「妻嫁制度」から観ても、有効的に働き、「戦いの氏族」では無かった「青木氏族を守った事」の大きな証明となる。
以上は、「公的な史実」と成っている事であり、「四六の古式概念」に基づく「氏族の独自の制度」が「青木氏の歴史観」をここでも構築している。

さて要するに、この「バイアス」は、臨機応変に主にこの様な場合に使われていた事が「歴史的な史実」により判る。
「青木氏族の血縁族」は「足利氏の南北朝期の戦い(「伊勢シンジケートの一員の楠木正成)」で有名なゲリラ戦で2万人の餓死者を出す程の結束力を示している。

この「4つの伊勢攻め(大河内城、田丸城、松ヶ島城2、丸山城)」の「信雄の行動」の「信長の叱責」は、「独断」と公的に決めつけられているが、筆者は、「青木氏の歴史観」で論じている様に、上記の「過去の青木氏族の戦歴」の「抑止力」を重く見ている。
この様に「姓族」から観ると、「四六の古式概念」による“「異様」”とも観えるこの「固い完成した血縁制度」に結ばれた「唯一の遺された氏族」を相手に、“下手に動くと失敗する“と判断して叱責したと考えている。

現実に、その後の史実では、「雑賀攻め」や「根来攻め」や「紀州攻め」でも、勝利はしたものの何れも、「経済的支援」と、「青木氏族のシンジケート」で、邪魔をして最後には「青木氏族」が救出して、歴史上は「完全勝利」には成ってはいないのである。
前段でも論じたが、「伊勢の騒乱」や「伊勢と信濃」で起こった「三つの宗教一揆」にも加担して犠牲は出たが一揆を成功裏に導いている。
これは何故か、疑問と成ろうが、答えは、「四六の古式概念」に基づいた「血縁組織」とそれを「支える制度」がこれらの「結束力」を増し、「姓族」には想像もし得ない完成した「一揆への影の力」を発揮した事の所以である。

注釈として、「伊賀」と「甲賀」は同族である。
「伊賀」は支配を避けて「契約傭兵族」で生き、「甲賀」は支配の「契約傭兵族」で生きようとした。
この為に一つ山を越えた地域で分裂した「原士」であり、この「考え方の違い」や「統制の違い」が表に出て1540年代~1550年代頃に分裂したと云われている。
唯、前段でも論じたがその前の「前兆」は既に前からあった。

そこで前段でも何度も論じている事ではあるが、認識を新たにして頂く為に次に概要を期す。

そもそも、「伊賀半国」は、「青木氏の始祖施基皇子」が守護を務める「伊勢の国」から割譲して出来た。
この半国は、九州全土を後漢滅亡で200万人を引き連れて渡来し、無戦制圧し、渡来人の「阿多倍王」が薩摩の阿多や大隅地区にその一団は住み着いた。
朝廷よりの呼び出しで、この「伊勢の伊賀半国」を授かり、「伊賀」に定住し、「敏達天皇の孫の芽淳王の女」を娶り「准大臣」と成り、その三人の子らは「朝廷の政治組織」の「三蔵の内、大蔵、内蔵と征夷大将軍」を務め繁栄した。
その付き従って来た「技能集団の一団」は、「高度な技能を持つ官僚族」(日本書紀にも記載)と成った。
これより、「阿多倍王の孫」の「高野新笠」が「施基皇子の四男白壁王の妃」と成り、「白壁王」は「光仁天皇」と成り、子の「山部王の桓武天皇」が「伊賀の阿多倍王の子孫」に“「たいら族」”として賜姓し、「平望王、高望王、高尊王等」の「日本の王位」を「桓武天皇」より母方に追尊で与えた。
この「平家(たいら族)」が誕生し、ここより「平清盛」が誕生したのだ。
その後、「太政大臣平清盛」は政治的な理由で「伊賀」より「播磨国」に移る。
多くは付き従ったが、渡来人であった「伊賀に残された一団」はそれより「原士」として生き延びた。
「青木氏族」が興す「殖産」や「商い」や「シンジケート」とに大きく関わって生き延びた。
この「伊賀半国に遺された一団」が「伊賀の郷士」の基と成った。
この事からも「伊賀郷士」と「伊勢青木氏」との「繋がり」は「絆以上」を超え、「奈良期から繋がる血縁族」と成り得たは説明に及ばすとも「自明の理」であろう。

(注釈 前段でも論じたが、この「伊賀の郷」のはずれの「上田郷の原士」の一部が上田を離れ、滋賀に渡り、盗賊などで土豪と成り、平家に討伐された「近江青木氏の」(傍系)は、滋賀に移った。
「近江青木氏傍系の滋賀青木氏」が後に再び「近江」に戻り、「近江青木氏の本家」を興し名乗るが、この「跡目の絶えた分家の一部の母娘」が残り、この「跡目の絶えた家の跡目」に「伊賀上田郷の原士」が先ず「上田姓」を名乗り、その後、勢力を拡大して「略奪」で強引に入り「滋賀青木氏」を名乗った。
その末に、「近江青木氏の本家」を興した「傍系の近江青木氏」との「本家争い」に成るが、これも「伊賀での青木氏との繋がり」を主張して「滋賀青木氏の分家」を奪った事件でもある。
参考として、この「滋賀青木氏」は、後に、兄弟系による「主家の相続争い」が起こり衰退し、静岡に移動定住し「駿河青木氏」を名乗る、又、一部は更に千葉に移り「下総青木氏」を名乗った。
何れも「やくざ並みの青木氏」であった。
中には、「青木氏」である事から、上手く利用して地元の「駿河、下総の秀郷流青木氏」を名乗り、「国衆」を装いとして幕府に旗本として仕官した者もいた事が判っている。
こと程左様に、この「滋賀青木氏」も必ずしも「青木氏」とは無縁でも無く、「伊賀での女系での繋がり」と「滋賀での青木氏での強引な繋がり」もあって、「近江と伊勢の青木氏の繋がり」からも必ずしも「無縁」とは云い難いものがある。
「滋賀」から「近江」に帰った「近江青木氏傍系」が「近江青木氏本家」を名乗り、「秀吉」に訴えを起こし、秀吉提案でその面前で「戦い」に敗れる始末。
注釈として、これが「公的な史実」と成っているが、「略奪の滋賀青木氏」だけであれば、上記の様な「戦いの裁定」は秀吉は出さないであろう。
それには最低限にそれなりの「青木氏の根拠」があったからこその裁定であった事が考えられる。
それが上記の根拠と成る。)

この「滋賀青木氏分家」を略奪し名乗った「滋賀青木氏」(伊賀上田郷の元上田姓)とは、秀吉の面前で戦い、勝った者が「滋賀青木氏」を名乗ると裁定が下り、現実の史実として戦い、結局、「滋賀青木氏」が勝利して正式に名乗る事が許された経緯がある。(公的な史実)
百々の詰まりは、筆者は、上記の逃亡の「中立の3士」はここに繋がっていると考えている。

その「根拠」は、この「中立3士の上田郷の原士」は、戦い前に、“何故、「滋賀」に逃亡したのか”と云う疑問である。

それは、以下の事で解ける。

「滋賀」には「源平の戦い」で滅亡した「近江青木氏」の僅かな傍系が「滋賀」に逃れて「滋賀青木氏」を興している事(a)。
そして、近江に帰り「近江青木氏」を再興した事(b)。
その結果、滋賀には残された跡目の無い衰退を極めた母娘の分家らが残っている事(c)。
先ず、ここに目を付けたと考えられ、この「中立3士」も、「11士の氏人」とは別に、「何らかの形」で「伊勢青木氏の女系の血縁(d)」である事。
この事を受けているとすれば、この「滋賀」に逃げ込みを弱体した「滋賀青木氏(e)」の事。
これを略奪すれば、同じ「青木氏」としての「所縁の者(f)」の事。
以上の事として扱われれば、「伊賀11士」からの「裏切り者の追及(g)」の事。
からも逃れられる。
「四掟に基づく妻嫁制度」では、「近江青木氏」とは「源平戦の以前」は盛んに「青木氏族」として血縁を結んでいる事(h)。
この事から、「滋賀青木氏」を略奪すれば、「伊勢青木氏の自らの女系血縁」でも、共に正統に「伊賀の原士」にも「青木氏族」を主張できる事(i)
この事にも成る。
「近江」に戻って「近江青木氏」を再興した「青木氏の主張」にも対抗する事(k)。
この事が出来る。
つまり、最も、「最善の方法の生き残り策}を執った事(l)。
以上の事にも成る。

この(a)から(l)に至る事は記録に明確に遺されている「史実」であり、明確に解ける。

この「伊賀」に関しての「青木氏の資料」によると、もう一つ疑問がある。
それは、何故に、「中立3士」に対して(不詳)として記し、詳細に遺さなかったのかという事である。

別の資料関係を組み立てれば、上記の様に解るのには、この「中立3士」の「滋賀での行為」が粗暴で、多くの略奪を繰り返し、現地の山賊や盗賊等を糾合して勢力を拡大させた経緯があり、且つ、伊勢に関わる「青木氏族の経緯」に「不必要な傷」が着き「他の青木氏」にも迷惑等の影響を及ぼすと考えての配慮であろう事が判る。

「伊賀別れ」の「甲賀」は別にしても、この時、「伊賀」は全体で「24士」が存在したとあり、この内、「伊賀」より「3士」が裏切り、信長に味方、更に「3士」が中立し逃亡飛散(?)、「11士」は「青木氏族」に関連する「氏人の伊賀郷士(救出)」であり、「7士(救出)」は逃亡飛散し、戦後、伊賀に戻り、「殖産」に参加としたと読み取れる。
但し、「中立の3士の行方」は、資料から充分に読み取れないので判らないとしながらも、「上記の疑問」には、その経緯を時系列的に並べれば読み取れる事があってほぼ解明はできている。

そもそも、“「伊賀の掟」”から「中立」は許されないので、「裏切り3士」と同じに観られたと判断されるが、実は、これにはこの「中立3士と目される原士」には、「上記の注釈」の様な「生き残りを果たせる方法」、つまり、「追及を逃れられる方法」があって、それを示す経緯が「上記の注釈」であったのだ。
敢えて、「経緯の時系列で判らせる方法」であった事から、「不肖の事」は伏せたと考えられる。

(注釈 実は、「伊賀別れ」の「甲賀」にも「甲賀青木氏」が存在する。
この「甲賀原士の者」は、「女系の青木氏血縁の所縁」を以って「武士」に成るに及び、「青木氏」を名乗り「武田氏」に仕え、その女は「武田氏の妾」と成る。
この「妾」は子を孕み、その後、「近江」に移動して子を産み、「近江甲賀青木氏」を発祥させ、その後にその子は「秀吉」に仕えている。)

この注釈の「公的な史実」には、「青木氏」に執って「妻嫁制度の範囲」に「大きな意味」を持っている。
つまり、「伊賀11士」のみならず、「青木氏の血縁」は「甲賀域」にも及んでいた事に成る。
「伊賀別れ」の時代は1540年代~1560年代に起こった事件である事から、その事件の相当前の「青木氏との妻嫁制度に依る血縁」と観られる。

何故、伊賀の北の甲賀の里に戻らずに、近江国の滋賀の湖東の伊賀上田郷の元上田姓の「滋賀青木氏(中立3士)」の勢力圏に移動したかは疑問の点である。
筆者は、その素行は別にして救ってくれるのは、「中立3士」であったからではないかと観ている。
或いは、この「中立3士」とは、「伊賀の血縁族」か「青木氏の血縁族」であった可能性があるが、確定は出来ないが、筆者は、「青木氏を名乗った経緯」と「滋賀青木氏のいる地域に移動した経緯」から観て、移動できるのは“何れにも血縁していた”と考えている。

という事は、この「中立3士」とは、“「青木氏と血縁族」であった“とする新説が成り立つ。
つまり、「青木氏血縁族」の「11士」+「中立3士」=14士と成り得る。
故に、「上記の説」の江戸初期以降の「7士」を加えると、「青木氏血縁族」は「21士」と成る。
「裏切り3士」は血縁族として決める未だ資料は見つからない。
唯、「裏切り3士」の中の「首謀の山下姓」は、「伊勢郷士」の中に観られるので、「青木氏血縁族」であった事も考えられる。

この様に、「後勘の者」が紐解けば解る事、即ち、例えば、歴史に明確に反映する「伊賀の事」等からも、「歴史に残る史実」にも観られる様に、一朝一夕では出来ない長い間の「期間と経験」をかけて「適切な改善」を加えて、「四六の古式概念」を基本とする「青木氏族」を維持させた制度である事が判る。
これは、「論理的に成り立つ固い制度」と成り得た事に成った。

(注釈 故に、上記に論じる事にした「伊賀の事」もこの「適切な改善の過程」の中にあって、敢えて後勘で知らしめるとしたと観られる。
研究していると、この傾向が「青木氏族の歴史」には多い。
これは「青木氏の氏是の影響」であろう。
要するに、事を殊更に表にせず、「後勘の者」に必要事項を網羅し知らしめ解かせると云う手法であろう。
「青木氏族の研究」に大きく影響した「近江佐々木氏の研究記録」もその様に見える。
始祖を質せば同じとする事から、矢張り、「佐々木氏の氏是」の様な「掟」が当初はあった様に考察し得る。
言わずもがな、勿論、本論の「妻嫁制度等の血縁制度」では、明治期までは「近江佐々木氏系青木氏」で繋がってはいるが。)

故に、稀に見る「唯一の氏族」として現在に生き遺れたとする説が成り立つ。
それも、確かに、潰された仲間もいたが、これ程に数量でも「自由な血縁制度を持つ他の姓族」にも劣らない「氏族」は他に無く、大化期から始まって明治期まで「歴史上の事象」に関わった族も少ない。

この様に、取り分け、「青木氏族」が「四六の古式概念」を敷くにより、「女系に基づく妻嫁制度」を敷くに及び、史実にもその状況が語れる程により血縁は深く成り得たのも「自然の利」であろう。


筆者には、前段や上記の事を含めて史実に大きく関わっているこれ程の族を論じない方がどうかしているとも云え、本サイトとも成っている所以でもあると考えている。
それ故に、「遺される資料」の殆どは、搾取性の疑い高い「姓族の資料」を中心としたものに関わるものであって、「自力の研究」に頼らざるを得ない状況にあった。
前段からも詳細に論じている様に、「四六の古式概念」を基本とする「妻嫁制度」で繋がる幸い「稀に見る氏族」であったからこそ、「資料」も多く確実に遺されている所以が「掘り起こし」に付いて良い方に大きく左右したと考えられる。

> 「青木氏の伝統 43」-「青木氏の歴史観-16」に続く。
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「青木氏の伝統 42」-「青木氏の歴史観-15」


◆ [No.361] Re:「青木氏の伝統 42」-「青木氏の歴史観-15」 
投稿者:副管理人 投稿日:2018/07/31(Tue) 10:36:01
> 「青木氏の伝統 41」-「青木氏の歴史観-14日」 末尾


> 上記の「権威の話」に戻して、「武士の媒臣の末端」まで求めた「真偽は別としての偏纂」に等しい根拠ある「黒印状の発行」を求めた。
> 殆どは「系譜の搾取偏纂」である。
> つまりは、前記はこの論に入る為の説明であったが、さて、そこで次に続ける。
>
> さて、「青木氏の歴史観」を更に高める「史観」が更に他にもある。
> それは、「青木氏族の個人情報」に関わる事であり、この資料を表には出せない。
> そこで、他の「青木氏族「」もほぼ同じ経緯にある事を前提に、筆者の「伊勢青木氏」を例に以って考察してみると、上記した様な」「殖産「」に纏わる事件などには「伊賀郷士を含む伊勢郷士との絆」が「青木氏の存在」を大きく左右させていたのである。
>
> 従って、それがどの程度のものであったかをこれを「論理的な歴史観」で考察して置きたい。
>
> この「地元郷士との絆」が、どこの「青木氏族」にも働いていて、「青木氏族」のみならず「近江佐々木氏族」にも働いていた事が「近江佐々木氏の研究資料」からも解り興味深くい。
> 矢張り、「近江佐々木氏」も「氏存続の為」には「絶対条件の歴史観」としてこの点に着目していて研究されている。
>
> 余談ではあるが、興味深いのは、前段でも何度も論じているが、その「絆の関係氏」として「青木氏族」を広範に研究されている点である。
> これは「施基皇子」の弟の「川島皇子」、つまり、「近江佐々木氏の始祖」で「妾子(忍海造古娘)」であり、共に「大化期の賜姓族で臣下朝臣族」で、同じ役務など「氏存続のシステム」を共にすると云う事も「初期の段階」ではあった。
> 然し、何はともあれ、平安末期に平家に討伐されるまでは存在した「近江青木氏」と血縁した「近江佐々木氏系青木氏」が存在した。
>
> この関係から「青木氏族の詳細な研究」に至ったと考えられるが、「四掟の範囲」として「出の嫁」から「女系」でも平安期から江戸期初期まで「近江佐々木氏」や「佐々木氏系青木氏」と何度も繋がっていた事が考えられる。
> これは史実にもある。


「青木氏の伝統 42」-「青木氏の歴史観-15」
「女系族」の「四六の古式の概念の続き」

上記の「権威の話」に戻して、「武士の媒臣の末端」まで求めた「真偽は別としての偏纂」に等しく根拠ある「黒印状の発行」を求めた。諡号の持たない姓族(第二姓族)は、結局は殆どは「系譜の搾取偏纂」である。
つまりは、前記はこの論に入る為の説明であったが、さて、次に続ける。

さて、「青木氏の歴史観」を更に高める「史観」が更に他にもある。
それは、「青木氏族の個人情報」に関わる事であり、この資料を表には出せない。
そこで、他の「青木氏族」もほぼ同じ経緯にある事を前提に、筆者の「伊勢青木氏」を例にして考察してみる。
そうすると、上記した様な「殖産に纏わる事件」などには「伊賀郷士を含む伊勢郷士との絆」が「、「青木氏の存在」を大きく左右させていたのである。
従って、それがどの程度のものであったかをこれを「論理的な歴史観」で考察して置きたい。
この「地元郷士との絆」が、どこの「青木氏族」にも働いていて、「青木氏族」のみならず「近江佐々木氏族」にも働いていた事が「近江佐々木氏の研究資料」からも解り興味深くい。
矢張り、「近江佐々木氏」も「氏存続の為」には「絶対条件の歴史観」としてこの点に着目していて研究されている。

余談ではあるが、興味深いのは、前段でも何度も論じているが、その「絆の関係氏」として「青木氏族」を広範に研究されている点である。
これは「施基皇子」の、異母弟の「川島皇子」、つまり、「近江佐々木氏の始祖」で「妾子」であり、共に「大化期の賜姓族で臣下朝臣族」で、同じ役務など「氏存続のシステム」を共にすると云う事も「初期の段階」ではあった。
然し、何はともあれ、平安末期に平家に討伐されるまでは存在した「近江青木氏」と血縁した「近江佐々木氏系青木氏」が存在した。
この関係から「青木氏族の詳細な研究」に至ったと考えられるが、「四掟の範囲」として「出の嫁」から「女系」でも平安期から江戸期初期まで「近江佐々木氏」や「佐々木氏系青木氏」と何度も繋がっていた事が考えられる。

(注釈 前段でも論じたが、{近江佐々木氏」は、近江蒲生郡安土佐々木荘 沙沙貴の地名を天智天皇の賜姓、 「近江青木氏」は近江犬上郡青木村、「近江佐々木氏系青木氏」は近江の南近江甲賀郡青木村、「滋賀青木氏」は滋賀の右京区大秦、「伊賀分裂の甲賀青木氏」は「甲賀郡青木村」の伊賀寄りを出自の地とし在所であった。)

前段でも論じたが、「伊勢秀郷流青木氏」と「跡目縁戚の関係(叔父)」にある「蒲生氏郷」が「近江商人」を松阪に呼び寄せたが、この中には「近江佐々木氏系青木氏族」の「商人」は居なかった事が「佐々木氏の記録」や「青木氏の記録」からも解る。
「女系で血縁関係があった事」は解っているが、「近江佐々木氏」が「研究記録の青木氏族」として定義する関係にあったかは、江戸期前の「近江商人」の中に「近江佐々木氏系青木氏の商人」が居なかったという事から疑問でもある。
「松阪」に差し向けると云う事からすれば、まず最初に「松阪の青木氏と伊勢秀郷流青木氏」がいると成れば、最初に優先して選ばれる筈だと考えられ、戦略的にはその方が上手く行く筈である。
現実に前段で論じた様に、「伊勢の青木氏族」の「二つの青木氏」とは「犬猿の仲に近い状況」であった。
つまり、「近江商人の近江佐々木氏系青木氏」は居なかった事に成る。

「近江佐々木氏の研究資料」の中に「近江佐々木氏系青木氏の商人」は灘域に「酒蔵商人」がいた事は書かれている。
要するにこの事は「氏郷の呼び込み」に参加しなかった事に成ろう。
それは、「伊勢の二つの青木氏族」との「不必要な競合」が起こる事への配慮かとも考えられる。
現実に、前段で論じた様に、「信濃と福井と越前」から「青木氏の酒蔵の杜人」を呼び寄せて「酒米と松阪酒」を造っている。
従って、「近江佐々木氏」が「青木氏族」として記録として遺している以上は、上記で定義する「氏族の関係」までは至っていなかった事が考えられるが、「別の形」では繋がっていた事は大いにある。
筆者の考えとして、確定は出来ないが、上記する「嫁の出の女系」も然る事ながら、「四家の中」から「嫡子外の嗣子」が出て、「近江佐々木氏」はもとより「近江佐々木氏系青木氏」の跡目に何度か入るという事があったのではと推測している。

(注釈 「四家20家」に男子20家の男子の嫡子を切れ目なくそれぞれに世代交代をしながら宛がう事は可成り難しい事で、「近江佐々木氏族」まで跡目を入れる契機を持ち得ていたかは疑問である。)

それは、平安末期に「近江佐々木氏」と「摂津源氏(伊勢の京綱、信濃の国友とも青木氏の跡目)」とも同時に繋がりがあった事から起こり得る事ではないかと考えられる。
確かに親密な関係にあった事は下記の事でも解る。


唯、江戸時代に「近江佐々木氏」とは「伊勢青木氏」の「江戸屋敷」が近隣であった事、脩行系を含む「近江秀郷流一族」と「伊勢秀郷流青木氏」とは同門同族にあった事、この「伊勢秀郷流青木氏」とは「四家」の「四日市殿」とは縁戚関係にあった事、などを含めて少なくとも「近江佐々木氏」や「近江佐々木氏系青木氏」は本家に於いては「四家制度や妻嫁制度」を敷き「氏存続」を図っていた。
この事からも「近江佐々木氏」の「研究幅」が「青木氏族」にまで広がったと考えられる。
「近江佐々木氏」の「青木氏族の定義」は、補完役の「秀郷流青木氏116氏」までとしている。
問題は、「近江佐々木」は「傍系族」が拡大し、「姓族」を広げて「氏族としての存続」に失敗している。
全国的に広がったのは、矢張り、「補完役の宇多佐々木氏(近江蒲生郡西湖面より出自元)」である。
ところが、この「青木氏族」の「五家五流の青木氏」は、「五氏」から「三氏」には成ったが「姓族」は出してはいない。
当然に、「補完役の秀郷流青木氏」は、確かには「皇族系」では無く諡号が「「朝臣族」にある為に縛られないので、「姓族」を出してはいるが、「24地域に116氏の子孫」を広げている。
違うところは、この遺った「三氏」は互いに連携を執り、取り分け、甲斐を除く「伊勢と信濃と伊豆」は、飽く迄も「氏族の範囲の血縁関係」を保持し貫いている事にある。
つまり、基本的には「氏族」とは、「新撰姓氏禄」にある様に「朝廷が認めた族」となるが、認める以上は当然に“「ある範囲にある事」”を前提とする。
無暗には認定はしない。この課せられた「血縁的な条件」が「氏族の定義」にある。

これを守ってきた「伊勢や信濃や伊豆」で云えば、上記、下記で論じるように「郷士衆との血縁の関係性」にあり、上記した様に、「単なる血縁関係」には無く「一定のルール」、つまりは「血縁的な条件」に従っている。
「女系」と云えども前段の“「四六の古式概念」”に依って「妻嫁制度と四家制度と四掟」の範囲で、この“「条件的な血縁」”を結び、決してその血縁は「傍系の縁戚範囲」のものでは決して無い。
確かに一見して“「女系という範囲」”という傾向にはあるが、“「条件的な血縁」”は「出と入りの範囲」で「両軸」で「相互」に繋がっていて「単なる女系」ではない。
「青木氏」の「福家と四家20家」は、先ず「嗣子の男子」で繋げ、前段でも論じたこの「三つの血縁の源流」を「両軸相互の血縁範囲」で繋がる族なのである。

先ずはこれが「条件的な血縁」の一つ(A)である。

当然に、「青木氏」に務める「家人」も単なる「無縁の家人(家臣)」では無く、「家の中の人」、即ち、「族人」(「氏人」)であり、要するに「臣」ではない。
つまり、これを支えるのが「妻嫁制度と四家制度と四掟」の範囲で、「条件的な血縁(B)」をした族を「氏」と云う。

つまり、「出と入の両軸相互の血縁関係(C)」にある「一族」で構成されているものが「氏」なのである。

論理的に云えば、(A)は(B)に依って支えられ、(B)は(C)に依って支えられ、(C)は(A)に依って支えられ、「氏族」は構築されると云う事に成る。

要するに、片方だけでは「氏」としての「条件的な血縁」として成り立たず、上記の「(A)-(B)-(C)-(A)」が成り立たない血縁では、「氏の定義」の中に無い。

その時、「出と入の両軸相互の血縁関係」の「血縁」の「時間的間隔」には問題はない事に成ろう。

「青木氏」との間に何時か「入り」があって、何時か「出」がある事で成り立つ事で「氏」が成り立つ事を意味する。

「四掟」の説明の中に、「氏」とはこれを”「両軸相互の血縁関係にある事」”と定義されている。
それが、要するに下記にも論じる”「四定以成異性不養之固掟也」”の意味するところと成ろう。
「両軸相互の血縁関係にある事」が”「絆の関係」を構築する事”と成りこれを指すだろう。

問題と成る”「時間的間隔(a)」”は、「青木氏」に於いては「大化期」からと成り、一重二重にも「出と入の両軸相互の血縁関係(C)」が成立していた事に成ろう。

この「氏」を構成する以上は、短時間では難しく、且つ、「妻嫁先」が血縁的にある程度安定している必要がある。
(短期間でない方が好ましいだろう。)
つまり、「出の嫁家先」が「豪族」であるかどうかは別として、小さくてもある程度の”「族としての力(b)」”を保持している事が必要に成る。
簡単に云えば、「力」は持っていても「武力」を持たない「名主や庄屋や豪農」などを含む「郷士程度」も含むという事に成るだろう。
そして、無くなったり飛散したりする事なく、”「定まった地域(c)」”に長く定住している環境にある事が必要であろう。

「氏」としての「血縁の(構成)条件」の(A)(B)(C)が成立させるには、この「(a)(b)(c)の条件」が成立している事が必要と成る。
この「血縁の条件」、即ち、「氏の構成条件」の「(A)(B)(C)」と「(a)(b)(c)」が成立するとなると、この条件を成り立っている地域は限られて来る。
考察すると、「京、伊勢、信濃、伊豆」だけと成るだろう。

(平安末期に美濃と甲斐は「青木氏の氏是」を破った事からこの例から漏れる事と成った。)

何故ならば、この「地域以外」は「郷士衆の数」が250から400と云う地域ばかりで、且つ、その「郷士」には“「国衆」”と云って、占有割拠にて移動し「力」によって日和見的に一時的にその一部の地域を占有して存在し、更には「郷士の数(姓族)」が多いと生存競争により「戦い」が起こり地域は安定はしない。
従って、到底、「(A)(B)(C)」と「(a)(b)(c)」の関係は成立しないし、根本的にはつまりは「姓族」である。

故に、この視点から観ると、「大化期」は勿論ではあるが「平安期末期前」と、「鎌倉期中期」までは対象とする「氏族」がそれなりに存在し得た事にも成る。
それ以外の時代は、唯単に「戦乱で滅びたという事」のみならず、そもそもこの「血縁の条件」の「(A)(B)(C)」と「(a)(b)(c)」とを構築できる環境下には無かった事が云える。
然し、これが江戸期の末期までは「青木氏族」は「氏族」を「奇跡的に続けられた由縁」でもあり、これを「力(「青木氏の強味)」にして「殖産」と云うものが成し得たと云えるのだ。
当に「奇跡の氏」であろう。
この「奇跡の氏」の下には、(A)(B)(C)と(a)(b)(c)を構成する古式豊かでありながらも前段や上記に論じた“「合理的な改善」”を加えた“「青木氏の制度」”が続けられていたと云う事だ。

(注釈 この概念的と云うか「精神的な歯止め」は「青木氏の氏是」にあった事は云うまでも無い。)

そこで、上記のこの(A)(B)(C)と(a)(b)(c)を更に詳しく論じるとして、故に、多くの位階の保持者が存在する「近江」を始めとして次の様に成る。

「近江、伊勢、信濃、美濃、甲斐」などの“古くから土地に住するこの「氏人の郷士衆」(イ)”
その土地には常に定住でき得る能力を備えていて、且つ、その「官位官職の程度」は別として、土地の“「官位族」(ロ)”

以上が、「妻嫁制度」の「入りの相手」と成り得る事に成るだろう。
況や、簡単に云えば、これは「妻嫁制度」の“「妻」、即ち「入り」”は原則としては「官位族(ロ)」であって、“「嫁」、即ち「出」の先は、「郷士衆(イ)」と成っているのだ。

注釈として、唯、「郷士衆(イ)」は、“「出の先」”となるが、“「入の先」”とも成り得ていた。
上記で論じた様に、(A)(B)(C)と(a)(b)(c)とで成り立つも、兎も角も「土地の官位族(ロ)」と云っても、室町期の「下剋上と戦国状態」のこの状態の中で、地方で「官位を持つ族」は激減し衰退し、殆ど「入り妻」としての「形態」は無くなっていた事は事実である。

ここに行き成りそもそも「女系の妻嫁制度」の「入りの先」を求めたかの「疑問」が残る。

然し、現実には求めているのである。
では、“どのようにして「入」を求めたのか”という事である。

そこで、この疑問解決に執ったのが、その「位階」は低いが「官位を持つ家人と氏人」からの「入り」とする以外に、主には「入りの先」は室町期全般には概して無くなっていた筈である。
然し、「家人や氏人」にだけ求めたとしても「四掟の条件」を満たす「低い官位」を元から持っていたとは考え難い。

そこで、研究すると「家人の家の資料(尾鷲の家人)」の中の文節によると、“「従六位下」”と云う文節が出て来る。

そこで、左右の大臣などの「政治にかかわる特別職」(4段階で正従で8位階)を除き、当時の官職に関わるこの「朝臣族の武家」に与えられる「官位の位階」は「10位階」あって、それを上下に分け、一番下は「従八位下の位階」である。
「家人」に与えられた“「従六位下」”は下から三番目と云う事に成る。
「青木氏族の氏人・家人」の位階は、朝廷が認めた範囲は相当に高かった事を意味する。
これは、 「(A)(B)(C)と(a)(b)(c)」の関係を朝廷は認めていた事を示す。

(注釈 ここで云うこの「武家」とは、「公家」に対しての「武家の呼称」であって、「江戸期の姓族」に与えた武家は、「本来は武家の呼称」では無く「武士の呼称」と成り、且つ、安易に朝廷の財政保持の為にそれに与えたその「安易な位階」でもない。)

とすると、この「資料の家人」に与えられていたのは「従六位下」であるので、つまりは、「青木氏族の家人」に与えられる「位階」としては「妥当な位階」である。
氏人と成る」「家人、又は、差配頭」が何かの理由で授与されたと成るのだが、果たして、何人が授与されていたかであろう。

「家人」が「六人居た」とする一部の資料があるが、「差配頭」は「青木氏部等(詳細後談)」も入るので少なくとも「朝廷貢献」と云う事から勘案すると「15人程度」は居たであろう事が判る。
然し、これら全てが授与されたとはならないし、時代の経過もあるし、授与される理由の有無も伴うので特定は難しいが、「10人程度の家人や差配頭」が常時に授与されていた事は考えられる。
時代的には、「身分格式や和紙等の殖産の貢献(詳細は前段と後段)」から、嵯峨期を除いて「光仁期から仁明期・円融期」までが最も多く、そして、「室町期から江戸初期」では「献納金(前段)」で助けた事の理由が考えられる。

(注釈 これらの関係の資料は三度の松阪大火の消失で遺されていない。)

参考として、「伊勢王の施基皇子」に与えられた「宗家の青木氏の位階」は大化期に与えられたのは「天皇」に継ぐ身分を示す「冠位」は、「永代浄大一位」で、位階は「永代正二位」で最上級である。
因みに「清和摂津源氏四家の頼政」は「正三位」である。
従って、この事から勘案すると、「青木氏族の家人」に与える「位階」としては相当なもので、与えられた理由と云うかその背景には“「相当な実質の評価」”があった事を示す。

そもそも、江戸期の様に「金で買える位階」では無く、つまり、唯単に与える評価では無かった事を意味する。

そこで、「高級官僚」や「公家の末端」の「貴族」として扱われる為には、最低限に「従四位下」から上位が基準と成るので、これから考えると妥当である。
この「従四位下」の「位階」を持たない限りは「上級官僚」には成れない。
その意味で、「官僚的貢献」ではなく、「社会的貢献(朝廷の財源)」であった事が云える。

従って、何で「青木氏の家人」が、「青木氏家人と云う格式」も含めて、この「位階」を持っているかの理由は、前段でも論じたが、恐らくは、「格式・殖産・献納での貢献」のこの三つにより与えられたものであろう。

そうすると、何で「青木氏の福家」が授与されなかったのかと云う疑問が起こるが、それは無い。
それは、既に、「冠位と位階」等は永代としての最高位を持ち得ている。
従って、「貢献」に寄与した場合は、「氏族の氏人」の「青木氏の家人や差配頭」と云う事に成る。

という事は、「献納」は「和紙墨等の余剰品」を裁いた時期の奈良期の末から始まり、明治9年までの期間を持続的に続けていた事から考察すると、これを理由とするならば「相当な人数」が居た事に成る。
取り分け、「余剰品」から始まった「献納」であるとするならば、天皇家に執って一番苦しい時期の「室町期の乱世」の中で、「巨万の富」を築けたその「恩義」からは「巨額の献納」を続けていた。
その事からすると、「相当数の家人の位階者」は居た事に成ろう。
「従六位下の位階」は兎も角も一人では無かった筈であり、「家人」は時代、世代ごとに代わるとすると、この260年間に「家人の数(5人程度・5)」やそれに「相当する氏人の数(3人程度・5)」としてこれを鑑みると、最低でも、“「15人から25人」”は居た事に成ろう。
「永代」であるかは「従六位下の献納」とすると「永代」を授かるは普通ではあろう。

「青木氏族」に中の「家人」にこの「従六位下程度の位階」を持っていた者が何人居たかは残念ながらポイントで在り乍らも「資料」が見つからないので史実としての研究は前に進まない。
従って、「女系の妻嫁制度」の対象としては、鎌倉期頃迄にはこの関係は崩れていないので、「近江」を始めとする「五地域」からの「出と入」の「四掟の条件を持った血縁の関係」は相当成り立っていたと考えられる。
つまり、室町期は上記の論理性からも「伊勢の郷士衆」との「出と入りの関係」はそう問題は無かったと成る。

今では推論は着くが、それが「永代での官位の位階」であったかも、確実にする事は、最早、できない。
だとすると、この論理的な考察から、江戸初期までは少なくとも乱世を超えて”「家人」”を含む「伊勢郷士衆」の「氏人」との「氏」としての「出と入」の「血縁条件」は成り立っていた事に成る。
故に、「伊勢と信濃」は、当然の事として「三つの源流説」は成立する。

そうすると、そこで戻って「四掟の範囲」で「入り」をどの様に求めたのかが疑問と成る。
「京や近江や信濃や甲斐」などに「四掟の範囲」で持っていた「氏族」や、都で「政治的な問題」で行き詰まり、この「三つの地域」に「逃亡や避難した真人族」や「高位の公家族・貴族」が居て、生き残りの為にも、彼らの「貴族」から多少は「入り」として入った事は充分に考えられ否定はできないし、一部記録に残るところもある。
その「国是」に近い形で保障されていた「安定した地域」の一つが「伊勢」であった事は云うまでも無い。

「時の政権」が「伊勢」には公然と権力を振りかざして捜索が出来なかった事が「入りの形」を偶然にも保全したのである。
これは前段や上記した様に、「大化期の不入不倫の権」から始まり「江戸期末期」まで引き継がれ、「家康発行」の“伊勢の事 お構いなしの「お定め書」”でも解る。

ところが、何度も論じるがもう一つ「同じ地域」があった。
「伊勢」も然る事ながら、「青木氏」が定住する「信濃の一部(唯一の天領地)」と、「西諏訪(諏訪大社 大化期に保障された)」もこれに近いものがあった。
江戸期中期までは少なくとも保障された。

(注釈 前段の殖産でも論じたが、「江戸期」には「幕府」がこの「天領地」を「幕府領」として奪い「優秀な殖産地」として取った。)

故に、「四掟の範囲」の「位階を持つ者」が、平安期までにはここに逃げ込んだのではあるが、この末裔が「血縁条件の対象」と成り得たのである。(後段記載)
従って、「信濃の一部(唯一の天領地)」と、「西諏訪(諏訪大社 大化期に保障された)」は「伊勢」とほぼ同じ環境にあったのである。

残るは、「青木氏の逃避地の越前(神明社が保護)」がある。
ここは前段でも何度も論じたところであるが、要するに、何らかの問題を起こし「青木氏族の逃げ込む場所」で江戸期初期まで「神明社の質」で維持されていた。
前段で論じた「神明社」が、江戸幕府に引き渡すまでの江戸初期まで、「神明社組織」が保護して「質」を施す地域であった。
依って、室町期全般は「四掟の範囲にある末裔」が「現地孫」を作り「血縁条件の対象」と成り得ていた。
この「越前青木氏の末裔(酒造商人)」が成功して、「青木氏族の入り」と成って戻ると云う事とが起こっていたのである。

前段でも論じたが、「越前」は「信濃」と共に、「伊勢」の「酒米と酒造りの杜師」として働き「入り末裔」を遺している。
これは一度のみならずこの地域との「同じ族」のこの「入」の「血縁の証拠」である。
元より新たに成った訳ではない「家人、氏人の氏族」にあった。

次は思い掛けないところの“「善光寺」”がある。
ここは、元来、天台宗のここは「門跡や皇位継承に外れた高位の官位位階」を持つ「真人族や貴族」が僧侶と成って入山し、或いは、その貴族の門外嗣子が入山するところでもあった。
そこから、この「善光寺」に移籍する「還俗僧侶の定留地」と成っていた。
又、同じく「浄土宗密教」に帰依する「高位の位階を持つ皇位の門外嗣子」がこの「善光寺」に入山した。
この「善光寺」は、史実にある通り、従って「天台宗密教派」と「浄土宗密教派」に分かれ「別院」を作り「勢力争い」を繰り返していたところでもある。
この「二つの派」の「高位の位階を持つ僧侶」が再び還俗して信濃に子孫を遺して根付いた。
この中の「浄土宗密教の子孫」が「四掟の対象」と成り得ていた事は解っている。

現実に、前段でも論じた様に、「伊勢青木氏」の「六人の嗣子(実質には9人と女子は7人)」には「京の貴族」から入っている。
現実に前段で論じた様に、「白壁王、光仁天皇」の后は「井上内親王」である。
少なくとも「850年頃の仁明天皇期頃迄」は「直系の青木氏族」であった事から「四掟の範囲」で「入り」は最低限で保てていたと考えられる。

「福家と四家20家」を保つ為には、「京や近江や信濃や甲斐」の「四掟の範囲」を満たす最低の「官位を持つ青木氏族」が、その縁戚関係と成っていた事は否めない。
とすると、この「氏族」が現実に存在したのは、「摂津源氏四家の頼政」による「以仁王の乱」の以前の”「1100年前頃(詳細後段)」”までと先ずは大まかに絞れる。
そして、流石に「平家の専横時代」を除くと、「女系の妻嫁制度」の「高位の血縁(四掟)」という事では「1050年頃まで」と成るだろう。

論理的には、最も「青木氏族」と「四掟の範囲」で近いのは各地に分散していた「源氏族の直系尊属」と成るのだが、この「氏族」が、然し、「源氏族」の殆どは「傍系尊属で姓化した姓族」であったとすると、「四掟の範囲」の対象から外れる。
だから、「摂津源氏の四家」以外は「姓族化していた事」から、「11流の源氏族」とは「男系継承が禁じ手」と成り得ていたが、その「摂津源氏の頼光系四家で頼政の孫(仲綱の子)京綱」を除いて、故に「入りの女系」で「源氏族」とは血縁を示すものが無いのであろう。

結局は、「入り」の「四掟の範囲」を満たす「氏族」は、位階の多くを持つ「秀郷一門一族」であって、その「目的の為」に「補完役」として任命された「賜姓族の秀郷流青木氏」が「血縁の源流」と成って引き継がれた事に成る。
当にその象徴が「四日市殿」である。

故に、「近江佐々木氏の研究記録」の「青木氏族の定義」が、前段でも論じた様に「秀郷流青木氏」とその一門一族の「永嶋氏、長沼氏」と「長谷川氏と進藤氏」までと定義されているのである。
残念ながら、「伊勢」では永嶋氏の一門の「長嶋氏」と繋がっている資料があるとしても、「伊勢」では「長沼氏と長谷川氏と進藤氏」との資料は見つからない。
筆者の持つ「青木氏族の資料」の中には無いが、「近江佐々木氏の研究記録」に詳しく論じられている以上は、「佐々木氏の持つ資料」の中にはあったと考えられる。

従って、明治期までは「入りの源流」は勿論の事で、「出の源流」も絶えなかったとする結論に成る。

そこで「入り」は、主に「三つ」と成るが、それは次の通りと成る。

一つは、「京」を始めとする「四つの地域」の「位階の保持家」
二つは、「秀郷流青木氏」を始めとする「秀郷一門の青木氏族の五氏」
三つは、「位階を持つ家人衆」で、「嫁ぎ先の地元郷士衆の氏人」

以上の「三つの入り先」と成る。

これを「女系の妻嫁制度」では、「四つの地域からの位階保持者」と「秀郷流青木氏族」を中心に、その位階を基準に次の様に成っていた。

先ず一つは「妃」である。
そして、「位階を持つ氏人の家人衆」を「(嬪、妾の中の「嬪」)としていた。
最後には「氏人の無階の地元郷士衆」から「入り」と成れば「妾」としていた。

以上の「入り」の「三つの妻の立場・階級」に成るだろう。
(下記の「女墓」にその例がある)

そこで問題なのは、「后」は基本的に室町期以降には資料からは見つからない。
これは、室町期には「四掟」に叶う「入りの対象者」が無かったという事では無く、「青木氏族側」からの「入り」を執らなかったという事が正しいだろう。

何故ならば、次の事が云える。
「下剋上の混乱期」の世情の中で「皇位から入りを執る事」は政治的に好ましくない事。
つまりは、「政敵」とみなされる事もあり得る事。
「青木氏族」としては、兎も角も、奈良期から「御用商人的商い」を避け「均等性」を堅持してきた「商い」に影響する事。
「四掟」に基づき「四家制度や妻嫁制度」を執る以上は、「后」に相当する「入りの先」は他の「入りの先」との「身分や冠位や位階」に基づく官位等が、他の「三つの入りの先」とはその差があり過ぎる事。

以上四つのこれが「妻嫁制度を崩す事」に成り得て、結果として”「四家制度の争い」”を招いて成立しないと判断したのである。

そもそも、前段や上記で論じた様に、「中国の歴史」を見ても「独自の改善」を加えてこの制度が成り立っているのだ。
つまり、后を入れた形の其の侭では成り立たなかったという事である。
中国は次々と政権が代わるがその「政権の寿命」は50年程度と短いのである。これが所以であると中国は説いている。
これが最も、その「知識」から編み出した”「入り」”で起こる”避けなければならない「氏の最大の戒め」”であるという事に成る。

「白壁王の井上内親王」の様に、「特別枠とする考え方」の為にあった事も考えられるが、「皇親族」や「令外官」から外れた「青木氏族」には、最早、その「機会」は起こり得ない。

では何故、この「妃、嬪、妾」の「入りの三階級」を定めたかと云う疑問が湧く。

それは、「入りの階級」を無くす制度とする事は、当時としては無理であっただろう事は疑う余地はない。
それは、未だ、全ては「階級社会」で決められる「封建的な氏家制度」の中にあったからである。

上記の「三つの入りの先」では、言わずもがな、”この掟を求める事”は必定と成る。
況してや、「婚姻」である。
「世間の目」はあり、今後の事を考えれば無視する事は絶対に出来ない。
だとすると、最も合理的な方法は、「官位に基づく官職の如何」は別として”「朝廷が授与する位階」”であろう。
その「家の官職」の「有り無し」に関わらず、持つ「位階」に応じて「入り」の「受け側」も対応する事で収まる。

然し、「入りの受け側」、つまり、「青木氏族」では、人の世情の常、あまりの身分格式の差のある「后の差」の様に、”「階級による見栄の争い」”が起こるは必定である。
そこで、「青木氏族」が考えたのが、前段で論じたような制度を敷いた。

「青木氏族の女(むすめ)養育制度」
「福家の統制」
「寺での養育所」
「違反による罰則掟」
「出から入りに戻す制度」

以上の制度(掟)で、この階級による差を削除させたのである。

この事から、ほかの「入り先」が決して持ち得ない「后の冠位を持つ特別差」は、当然の事として避けられる事に成るだろう。

そもそも戦略的に観て、「冠位の入り先」は恣意的に絶対に避けれるべきものであった事に成る。
この「冠位の差」は「上記の掟」では無理と成るだろう。

それは推して知るべしで、前段から論じた様に、「孝謙天皇期」の「白壁王の井上内親王の経緯(期待しない白羽の矢)」に繋がる事に成り得るからだ。
つまり、この事で「青木氏族」は「青木氏族で無くなる所以」とも成る。

そもそも、唯一の「最高位の冠位と位階」と、「職務の官位」と、「賜姓と志紀真人族、朝臣族」などの全てを持つ「氏族の青木氏族」である。
「高位族」は「孝謙天皇」の様に「入り」の「白羽の矢」を立てたい相手である。
況してや、「孝謙天皇」でなくても「朝廷」を安定させるには、「巨万の富を持つ青木氏族」(15地域の青木氏族)ともなれば喉から手が出る程であったろう事が解る。
これは何も「入りの位階の相手」だけではない。いずれの「豪商等(武家)」も婚姻の相手としては同じであったろう。

然し、「青木氏族」はこれに絶対に載れないのである。
従って、「后」は元より、他の「三つの差」も「入り」を受けた後は制度と掟に依って無くす事が「絶対的な戦略」と成っていたと云う事である。

但し、この「出と入り」から生まれる「嗣子の出入り」は、兎も角も、「福家と四家20家」に全て入り、「嗣子の出」は「禁じ手」と成っていたし、当然に、「入りの養子(養嗣)」は当然の事として、「義子(義嗣)」は厳禁の手であった。

従って、「男系の禁じ手の原則」が守られれば、「四掟」によって入る「妻」の「妃、嬪、妾」には、下記の「良い一族性」、即ち、「血縁性の連携」が永続的に生まれる。
「出」の「娘、孫,玄孫」などの要するに「青木氏族」で云う”「女(むすめ)」”は、「妃、嬪、妾」の「福家」で養育を受けた「実の女(むすめ)の概念」である事から、そこから再び、「福家」に戻される「実の女(むすめ)」の二代目、或いは三代目の「女(むすめ)」は、「愛児」として繋がる完全な血縁下にある。(ここで疑問(女)がある。)

それは「妻」を「妃、嬪、妾」に分けている以上は、それぞれの「女(むすめ)」の「立場の差」等の「関係性の差」が左右するが、これを「福家で養育する事」の「女(むすめ)」の「掟」にその差は一切削除され、全て「女(むすめ)」である以上は“「平等とする掟」”に成る。
「妃、嬪、妾」の子は、勿論の事、「長女次女」などの区別する差さえない掟であった。
依ってこの「関係性の差」は解消されていた。

これには「福家の威厳」と、「寺などに隣接した養育所」に、「幼児より入れる事」で、この「養育所」に余計な「差し出口を入れる事」などの「行為の弊害」を防ぎ、この「関係性の差」を排除していた事が解っている。
一切、「親の手」を離れた事を意味し、この「掟」を破った妻は処罰されることに成っていたらしい。
飽く迄も、「青木氏の女(むすめ)」であって、最早、「妃、嬪、妾」の「子や孫や玄孫」ではない事に成っていた。
簡単に云えば「青木氏の支配権」を持つ「福家の女(むすめ)」であった。
同様に、「四家を引き継ぐ嗣子」にもこの掟は採用されていた。

そこで、上記の疑問の「女(むすめ)」である。
その疑問は「嫁家先の娘」を強引に戻すと云う訳には行かないだろう。
ではどんな「方法」と云うか「掟」と云うか、何か問題を起こさない様な方法でなくてはならない。
いくら「家人」であろうと「氏人」であろうと「嫁家先」にも事情があり無視できない。

この解明に時間がかかり難しかった。
「郷士衆の差配頭」に遺された「手紙の一節」にこの事が書かれていた。
それによると、「我が尾鷲小林の幣家・・の方の娘の妃児・・は三歳にして優秀賢美にて育ち・・に依存無く・・・に依れば福家のお定めによりこの娘を‥寺の養育所にお預け致しく候故御差配宜しくお願い申し上げ・・・云々」とある。

この経緯から読み取れる事は次の事に成る。
「福家のお定め」である。
 これに依れば「要領書」の様な「定書き」を配布していた事に成るが、果たして、「定書き」が出ていたかは他に調査したが明確ではない。
恐らくは、嫁いで来た「女(むすめ)」は「福家」でその「嫁としての教育」を受けているから、その必要性はあったかは甚だ疑問で、「氏人の家」がこの要領を「既成の事」として周知して“「定書き」”として捉えて書き込んだものと読み取れる。

 「優秀にて賢く美しい児」である事が条件の様に成っていた事を意味する。
福家から「氏人の愛児」に対して三歳の誕生日祝いが出た。
これは「福家が行う慣例」で準備を寺の執事が行い「福家」が「氏族」に出していた事は解っている。
この事は「福家の女(むすめ)」として如何であるかを暗に問い質している事を意味する。
そして、「相手の意思」を尊重している事に成る。強制は無い。
要は、「嫁家の判断」に委ね、「福家との繋がり」を重んじて「女(むすめ)」として入れた方が得策と判断した場合は「入り」と成り、「嫁家の存続の事情」も鑑みて「嫁家」が判断していた事に成るだろう。
「福家の女(むすめ)」の事情が貧し急務を要した場合は、後は「嫁家と福家の話し合い」であったらしい。
それが、現代感覚では、「福家」側では、「女(むすめ)」を「孫」までは解るが、「玄孫」までに「女(むすめ)」として求めている史実は、明らかに「出」に対して貧し急務と成っていた時期があった事を示す。
故に、依って、「話し合い」が原則であった事に成る。
更には、「玄孫」とすれば「嫁家側」でも他家に嫁がせていた事が判るし、娘が多ければ「優秀賢美の娘」を「福家」に入れて、他は嫁がせる事と成り、嫡子が居なければ養子を執る成りした事は解る。
「養子」という事に成れば、二代続きで「氏人」からは離れる事に成り、其の侭では保護などは受け難く成る事から、是非にも「福家」に優先的に入れて置こうと云う計算が嫁家側に生まれるは必定である。
そうすれば、男子を「氏内の郷士」の家から迎えれば離れる事は無くなる。
その手筈も安易に成り立つ。
彼らには、氏外の「他家からの養子」は「氏存続」のみならず、前段でも論じた様に殖産などの枠から外されて「生活の糧」を失いかねない問題でもある。
上記の「三つの入り」から入る中で、「家人と氏人」はこの逃れざるを得ない「絶対的な宿命」を負っていたのである。
「秀郷流青木氏一門」からの「出と入り」にしても、「青木氏族」の「青木氏の氏」を別に構成している。
「四掟」に適合した「京」などからの「高位の位階を持つ貴族」からの「出と入り」も単族の「族」を持ち得ている。
小さく成ったが「近江の氏」や「甲斐の氏」、「伊勢の氏」、「信濃の氏」、伊勢と信濃の融合族の「伊豆の氏」、越前の「全青木氏融合族の氏」は、それぞれに再び結合して「青木氏の氏」を構成しながらも、且つ、これらの「五氏の連合体の青木氏族」と、「秀郷一門と秀郷流青木氏の氏」の、これら全てを「女系」で血縁し合した「青木氏族連合体」を形成しているのである。
従って、例えば「伊勢の氏」からは出る事は出来ない前提に成り、当然に「氏存続」として安全は全く保障され得ない事に成る。
「乱世の中」でそんな選択は絶対にできない事は自明の事実である。
前段でも論じたが、「諏訪族青木氏」が「神奈川横浜の秀郷流青木氏」の中に逃げ込んだのも、この「女系の血縁の関係」が奈良期から深く続いていた所以でもある。
越後も同然である。

故にも、手紙の中の一節の「定書き」の「発想の概念」が染みついているのである。

従って、「定書きの有無」に関わらず「子孫存続」とも成れば、先ずは「嫁家の事情」を優先する事が必要に成り、「定書き」に拘る事は「氏存続」という点で好ましくない。
故に、「定書き」は先ずは無かったと云う判断に成ろう。
大化期からの「嫁家制度の長い仕来り」の結果から、重ねて「氏人全員の自然の概念」と成っていたと観ている。

何れ在ったとしても、「福家」に無いからこそ「氏人や家人」が「重大な間違い」を起こさない様に「家の掟」(氏人の掟)としてこの「定書き」を子孫に伝える為に遺したとも論理づけられる。
然し、実は、下記に記すが、可能性が高いとして「執事を務めた菩提寺」の「養育時の指導書的なもの」としては必ず遺されているとして調べたが、資料は「三度の消失」と、最終は「江戸期初期の顕教令の撤収」で「伊勢松阪の菩提寺」には遺されていず発見は出来ていない。

さて、続けて論理的に考えれば、「嫁家」側としては、結果として「福家」に「女(むすめ)」として入れて「出」の「嫁ぎ先」が定まれば同じ事であって「損得」で云えば「得」はあっても「損」はない事に成る。
「福家の女(むすめ)」である以上は、「出」の婚姻に関する準備一切は「福家」で持つ事に成るのであるから、後は「心情の問題」だけと成ろう。
然し、これさえも元を質せば「出自先の実家」であるし、他家から「氏」に入った者でもない。
この「心情」は「掟」にて大きく表に出せないが、何れにしてもその範囲を弁えれば其れなりの事は認められる状況ではなかつたかと考えられる。

後の「嫁家の判断」は、抜き差し成らぬ「嫁家と他家との事情」と成ろう。
それ以外は寧ろ「嫁家の嗣子」に重点を置いた存続方法が、「氏人」として維持して行く上で優先的に嫁家側には求められよう。

「福家」から「女(むすめ)」の「出(嫁ぐ)」の際には、古来より「元の血筋」と重らない様に「執事」を住職が務め、且つ、「養育所」を寺で管理していた「菩提寺の管理下」に置かれていた様で、遺された資料の一部から読み取れる。
当然に、「女墓」を管理していた事からもこの事は頷ける。故に「女墓」が創れるのであろう。
更には、合わせて上記の「妻嫁制度」を敷いているからこそ、前段で論じたが、その「青木氏族の住職」の「執事の役目」も「最も重要な要」と成っていた事に成る。

では、この「出と入りの血縁先」を「適時」、「適格」に「選出してくる仕組み」はどの様なものであったのかが疑問(仕組み)と成る。

これは、この「執事の役目」(身内の青木氏の住職)に大方はあったと観ていて、確かには、「福家と四家20家」の多くの「付き合い」と「紙問屋の伊勢屋」から情報もある事は解っているが、各「近江や信濃や伊豆や甲斐や越前」の地に存在する「青木氏独自の菩提寺からの情報」、24地域の「秀郷流青木氏の菩提寺からの情報」の相互交換、5百数社に上る「守護神の神明社からの相互の情報」を互いにやり取りしていた事が解る。
これを基に「出と入りの妻嫁制度」を網の目の様に構築していたのである。
これが無くては「青木氏族の子孫存続」はそもそも論理的に無理であったろう。
これらは「完全な詳細な情報源」であり、誰が考えてもこれを維持するには「経済的な裏付け」が無くては出来ない事は明白である。

論理を敢えてひっくり返す様ではあるが、「出と入りの四掟などの概念」や「無形の権威や位階」やそんなものでは決して得られない。
故に源氏族の様に衰退し滅亡する所以となっていた。
注釈として、然し、この情報の二つが抹消された時期があった。

それは上記にも記したが、前段でも論じた江戸初期に出された「宗教に関わる事柄の独自保有の禁止令」である。
つまり、「神明社の幕府帰属令」と「菩提寺の顕教令」である。
そして、幕府は財政難からこれらを放置し荒廃させた。

この「二つの令」は上記の通り「絶対的な情報源」である故に。「青木氏族」に執って片手をもぎ取られたものであった。
この時、「遺されている情報源」は唯一「紙問屋の伊勢屋」の情報源だけであった。
「青木氏の情報源」は上記の「二つの令」で論理的には消えている。
この儘では、「源氏族」に成り得る。

ところが、そこで、より「青木氏族の力」をつけたのが「殖産」であって、室町期末期から始めて江戸初期に完成させた「15地域の商いの組合での構築」であった。
これに依って、「殖産」「商い」は元より「青木氏族存続」に絶対的に関わる「重要な情報源」も再構築され戻ったのである。

それでも上記した様に「青木氏族の存続」に関わる事である事からは「氏」を纏めて行く上で、「菩提寺」は絶対的に必要不可欠である。
そこで、何をしたかという事である。
それは規模を縮小して目立たない様に密かに建立した。
「神明社」は、内部の内容は同じにして幕府令に違えない様に一般性を装い、守護神を表す「社」から「神社」にして「神明神社」と変名する事と、「青木神社」として何れも密かに「小さな山祠」を建立して守ったし、元の位置からずらして「大鳥居」をそのままに遺した。。
これらは現在も遺されて「青木氏族の氏人」らに依って祭られている。
ところが不思議に幕府はこれを黙認した。

(注釈 「神明社」はそもそも「伊勢神宮の皇祖神」の「子神の祖先神の社」である。
全国に五百数社もある「民の社」でもあった。民からは「道祖神」と同じに親しまれ信仰されていた。更には、「紀州藩との繋がりの事」も含めて、「朝廷への献納の事」もあり、厳しく当たれなかった事が考えられる。)

(注釈 「残りの神明社の荒廃」については流石に見かねた元甲斐の青木氏族の柳沢吉保は、武蔵深谷に「民の反発」も恐れて古来より存在した歴史ある「神明社と寺」を自費で公然と再建した。
そしてその周囲には青木氏族の神職や住職が現在手も定住している。
如何にその「荒廃の影響」は大きかったかを物語る。
従って、上記で論じた様に本来は菩提寺と神明社に資料と成るものが遺されている筈なのであるが、結果として無い。)


さて、話を基に戻して、これらの「入り」の「伊勢」での「青木氏の証明」となるのは、残るは「女墓」と「菩提寺の曼陀羅帳」等に成る。又、「家人や氏人」や「庄屋、豪農、名主、村主」の資料の中に読み取れる範囲のものでしかない。
これには、「俗名と戒名」があり、「俗名」にはその大まかな「出自元」、又は、「系譜、戒名」には「四段階の戒名」があって「生前身分と位階程度」が判別できる。
恐らくは、「信濃」にしても「伊豆」にしても「甲斐」にしても、将又、「秀郷一門の主要八氏」は判別できる。
彼らの密教であるので゜菩提寺」は統一していて、「信濃、伊豆、甲斐」などと「秀郷一門と秀郷流青木氏」の「菩提寺」はその定住地の主要地に必ず「同一名の菩提寺」で存在する。
(注釈 「二つの青木氏」のそれぞれの二つの統一した菩提寺名は匿名とする。)
比較的簡単にその「血縁元の内容分析」が可能である。

後は「青木氏の福家と四家の資料」、「家人と主要の郷士の氏人の資料」の中に求められ、これらを紐解いて行けば年月が掛かるが判明する。
どの様に繋がっているかも分かってくる。

不思議な事ではあるが、「大化期から平安期の縁戚族」の「近江佐々木氏の研究記録」が「青木氏族」の証明と成りよりの大きな証拠と成っている。

さて、これらの上記に論じた「血縁関係のシステム」が「四六の概念」に依って論理的な基準づけられている。それは次のように成る。

これが、概要的に観て、「時代の変化」で、当初の平安期末期までは「官位族」9>「郷士衆」1であったが、江戸期前後頃には「官位族」1<「郷士衆」9と変化して行った事に成るだろう。
前段でも何度も論じたが、下剋上戦国時代の乱世に於いての「室町期中期頃」の「数式のバランス」では、「官位族」5><「郷士衆」5の関係性が成立していたことが判る。
「青木氏族」が「巨万の富」を獲得し、これを使って925年頃から正式に始まったより「殖産」を拡大させ始めたころと成り、その理屈は「官位族」5><「郷士衆」5の関係性からもよく解る。
矢張り、「殖産」は「氏族」と成っていた「郷士衆」である事が明々白々である。
上記で論じている「殖産」が拡大するにつれて「官位族」5><「郷士衆」5の関係性は急激に右辺寄りに変わっていった事に成る。
「時代の変化」と共に、「青木氏族の概念」も「妻嫁制度」を盛んに使って変化した事が解る。

(注釈 前段でも論じたが、江戸末期に於いて「筆者の父方祖母」は京公家からであるので、「官位族」の1は未だ成り立っていた事が解り、筆者の母方祖父は「伊勢郷士衆」である。
筆者父方の縁戚筋は全て「伊勢郷士衆」であり、明治期直前まで「郷士衆」の9は成り立っていた事でも解る。明治9年でこの関係性は中断し、明治35年で終了し、大正14年で解消し、平成10年で「福家」は「宗家」に戻る。「四家20家」は各地に分散して商いは続くが詳細不詳。)



> 「青木氏の伝統 43」-「青木氏の歴史観-16」に続く。


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Re:「青木氏の伝統 41」-「青木氏の歴史観-14」

[No.360] Re:「青木氏の伝統 41」-「青木氏の歴史観-14」 
投稿者:副管理人 投稿日:2018/06/10(Sun) 14:18:49

「青木氏の伝統 40」-「青木氏の歴史観-13」の末尾
>(注釈 近江佐々木氏の「青木氏族の段」でもその様に定義され「青木氏族」として認めて論じている。と云う事は同じ「青木氏族」も然る事ながら「天智天皇」の「賜姓臣下族」の「川島皇子」を始祖とする「近江佐々木氏」もその「掟」を大方で採用していた事を意味する。)


「青木氏の伝統 41」-「青木氏の歴史観-14」
「女系族」の「四六の古式の概念の続き」

では、本論の続きの問題であるが、上記の注釈を前提とすると、室町期に成ってこの「掟」を何時緩めたのか、どこまでを緩めたのか、何で緩めたのか、等の「理由目的手段」、と「人時場所」を明確にしなければ前段の「江戸初期の殖産」の論は不充分になるだろう。

(注釈 これが本段の江戸期前から江戸中期までの殖産を進める上での後に於ける採った手段であった。
そろそろ、その務めとしては「有名無実の状況」とは成り得ていた事は解り、自己満足の「青木氏の独自のステイタス」に近いものと成り得ていたであろう。
これが”「伝統」”というものの本質であろう。
つまりは、「賜姓五役」としての「務めの転換期」と成っていた。)

しかし、現実には、「天皇家への献納金」の形で明治初期まで密かに、或いは、「幕府黙認」の形で貢献していた事は事実である。
ここでも「青木氏の歴史観」として認識して置く事がある。

これは、前段でも論じたが、「家康」が「伊勢青木氏」に執った ”伊勢の事お構いなし”の「お定め書」でも理解は出来る。
つまり、「家康」は、「表向き」には、”宮廷の外壁が崩れても放置する程”に「天皇家」を締め付けたが、裏では行き過ぎて「信長」の」様に「民の反発」を招かない様に「青木氏族」に遣らせていたという事でもある。
これも「青木氏族」にしか判り得ないてい「重要な歴史観」である。

その前に一言、この「青木氏の歴史観」を以ってして更に悪く云えば、この為にも江戸初期には「商いの面」で本論と成っている”「殖産」”を進めなければならない破目に陥っていた事にもなり得るだろう。
この事から云えば、この時代に成っても未だ、形は変わっていただろうが、”「賜姓五役」”は明らかに存在していた事にも成る。
否、社会的にさせられていた事もあり得る。

更には、江戸幕府は、「権威の象徴である天皇家」に「圧力」を掛けながらも、一方では「権威」を重視し「天皇家」を体よく利用し、”「二極両面」”を利用する態度を執っていた事に成る。
結局は、その「幕府の矛盾」を「青木氏族」で補っていた事にも成る。

「室町期の紙文化」のおかげで、「青木氏族」が、「紙文化の遺産」と「殖産」で「巨万の財」を成していたから良かったが、これを「青木氏の歴史観」から観れば、仮に無かったら如何していただろうかと、場合に依っては「天皇家の存在」も危うかった可能性もある。
つまり、「青木氏」に執っては、この期待もしない「時代ずれ」のある”「賜姓五役」”を都合よく使われたと云う事も云える。
唯、云える事は、「青木氏族」のその「殖産を含む商い」は、、何時の時代にも”「幕府の御用商人」”では無かったという事である。

だからこそ”「伊勢の事 お構いなし」”の「お定め書」を公に「家康」が出せたという事でもあろう。

「青木氏の歴史感」を想像しているこの「お定め書」が、果たしてどれ程に「青木氏族」に執って効いていたかは甚だ疑問ではある。
前段で論じたが、「江戸初期の殖産」では、確かに効いていた事は確かであるが、「前段の殖産」を進める為に「紀州藩」が「山田奉行所」に申請した件では、つまり、「七割株」を持つ「伊勢水軍」による「伊勢紀伊周り」の「瀬戸内廻船の認可の件」では、「山田奉行所」の奉行時代の「大岡忠相」には、これを否定された事は有名である。

この事に付いて一族内や関係族の内に「遺されている書物」を読み取るには、その「存在」は認めているが、その「お定め書の効能」を大きく特記する記述は特に目立たない。
故に、この事では「青木氏族」の内には、取り分け”「影響」”はなかった事になるだろう。

これは大化期からの「永代不入不倫の権の存在」を族内で代々認識していた事を物語るものとして判断できるし、その「認識」と云うか「概念化した知識」と云うものが、「お定め書」を当然の事として捉えていた事に成ろう。
判りやすく云えば、”何を今更”であったのであろう。
「青木氏」に執っては、この「概念「」と云う意識と云うものが無いにしても、合ったとしても”表には出せない”が、周囲はそうでは無かった筈である。
つまり、「青木氏」に執っては、故に「時代のずれ」を感じながらも、更にはこれも「時代のずれ」のある「永代不入不倫の権」の出処の「賜姓五役」であり、且つ、それを表す一つとして「献納」を続けていた事になるのではないかと考えられる。

はっきり云えば、「伊勢郷氏」であっても、、傍らで「商いや殖産」を生業とする以上は「永代不入不倫の権」も今と成っては「青木氏」には「何の効能」も無かったであろう。
「商いや殖産」は、「権威や象徴」に頼っていては成り立つ話ではないのは当然であろう。
唯、何度も云うが、上記の資料からも左程に記述が無いし、「青木氏の氏是」もあり、「権威や象徴」を振りかざす程の「氏のすさみ」も無く、「青木氏側」にはその「意識」はそれほどでも無かったであろう事が解る。
要は、、”周囲の目が違った”という事に成ろう。
この事に就いては、確かに読み取れる。

つまり、故に、これも「青木氏の歴史観」から観れば、「山田奉行所」は意固地に「青木氏族」に対して「意地(妬嫉に似たもの)」に成っていた可能性もある。
「下剋上」は進み「下級武士の、姓の時代」に成ったこの江戸の初期に未だ「青木氏族」のような「氏族」が残されている事の事態が気宇であったので、その様に観られるのも不思議では無かった。
むしろ、「意地(妬嫉に似たもの)」は「普通の事」であったであろう。

何故ならば、況してや、この時期は「将軍吉宗」と「伊勢青木氏」は、江戸では「江戸伊勢屋」を置いて「享保の改革」を推し進め初めていた時期でもあり、前段でも論じたが、、養育元として幼少期より「吉宗とは蜜月の関係」を維持していた筈であり、「家臣」ではないが「重臣」か、「仲間」「かそれ以上の”「布衣着用の身分」”でもあった。
「大岡忠相」は、「高石の旗本の身分」とは云え、不必要に強い「本旗本の武士意地」の”「三河者の大岡」”に執っては、”目の上のタンコブ”、”何するものぞ”の「裏の感覚」は持っていた筈である。
唯、表に出さない程度の事であったであろうと推測する。

大化期から平安期にかけて「志紀真人族」であり、「直系の四人の天皇」を出した「郷氏」でもあり、その果ては「家康」も「お定め書」で一目を置き、「吉宗育ての親」で、裏で経済的な支えとして「将軍」に仕立てたのも、「享保の改革」を進めたのも、江戸市中で200店舗以上の「伊勢屋」を営み、永代の「お定め書」を持ち、紀州藩を「勘定方指導」で経済的に支えているその「伊勢青木氏」に対しては、これほどの自然が創り上げた「権威を持つ氏族」に対して、人間である以上は表に出せない「屈折心」も否定はできないであろう。
兎に角、「大岡」の様な「有名な人物」にはありがちな「作られた評価」、つまり「公的な記録」では「美化」されているが、「青木氏の歴史観」からすると、この「美化」を取り除くと「上記の事」や「下記の事」はこの様に観えてしまう。

(注釈 前段でも論じたが、ここで「青木氏の歴史観」の一つである」世間で云う「質屋」は、そもそも、「皇祖神の子神」の「祖先神の神明社」が庶民に対して、生活に困る者に「施し」をし、そして「職」を紹介」し、「厚生の道」に導く功徳を行っていた。
これを奈良期から「質」と呼んでいた。
中国の金山寺が行っていた習慣を持ち込み「朝廷」に代わって全国500社に及ぶ「神明社「」が行った。
これが、江戸享保期のこの「伊勢屋200店舗」でも行った。
そして、それが「無償の施し」から「低利の施し」として「享保の経済」を活性化させた。
これが、「質屋」の呼称として広まった。
享保末期に「江戸伊勢屋と青木氏」は、「吉宗との不調和」が起こり、200店舗の権利を放棄して店子に譲って伊勢に引き上げた。
これが、「質屋」の始まりで、江戸に「伊勢屋の質屋」が多いのはこの事から来ている。)

そもそも、この筆者は研究を進める中で分かってきた事で、この”「美化」で固められた歴史”等には、”何の値打ちも無い”と信じている。
故に、「青木氏の歴史観」として当然にこの説を採っている。
恐らくは、「青木氏族」に執っては、幕臣の家臣ではないが「布衣着用の身分」には、彼らには「相当な軋轢」が「人の世」である以上はこの時期からあった事が伺える。
これは「人の世の常」であり無い方がおかしい。
どこでも起こる事ではあるが、”伊勢者 何するものぞ”であろう。

前段でも論じたが、それが「享保期末」に周囲から強く噴出して仕舞い「吉宗との折り合い」も着かなくなって、”「伊勢」に帰るという結末に成った事”でも解るし、そもそも、この時代に成っても、これだけの事の「権威性」を未だ持っていたとすれば、世の中は利用し放って置く事はないから、だから未だ「青木氏の氏是」にも成っている事でも解る。
普通は何れに於いても意味の無い「氏是」は消えるは必定である。
然し、明治九年まで消えていなかったのである。

後勘から観れば、“「伊勢水軍」による「伊勢紀伊周り」の「瀬戸内廻船の認可の件」”は、特段に「当たり前の申請」であろうし、況してや、”誰もできない「紀州藩の殖産」を推し進めていたのに”である。
そもそも「否定される謂れ」は無かった筈である。
あるとすれば前段でも論じたが、「青木氏の資料」より読み取れる「讃岐青木氏」の「瀬戸内の廻船問屋の利権」に重なる事だけであろう。
或いは、当時、綱吉が執っていた「御三家への牽制策」から引き継がれて、享保に成っても吉宗の出自元の「紀州藩」を富ませる事への「幕臣の反発」とも執れる。
「二万両の借財体質」を維持させる事で「政治的な圧力」を掛けていた事からも分る事である。

末梢とすれば、この「伊勢水軍」を始めとして「熊野水軍」「紀伊水軍」「鳴門水軍」に「瀬戸内水軍」と海域を分け合ってバランスよくその利権を守っていた。
何れも共通する事は、保守的に成ってこの「利権を壊す事への不安感」が否めない。
「伊勢水軍」に、「青木氏族」に、つまり、「紀州藩に認可の裁定」を下せば、「利権域」は乱れるは必定であり、紀州藩を富ませる事が起こり、「政治的な圧力策」は霧消する。
筆者は、「山田奉行所」は、つまり、「乱れる事への責任」を問われ、「大岡」は裏では「保身」を狙ったと観ている。

そもそも、”「廻船」”と云う点から観れば、「紀州藩」は「熊野水軍」や「紀伊水軍」でも良かった筈で、でもそうしなかった。
それは、何故かである。

そもそも、「紀州藩」には常態的に前段でも論じた様に「毎年二万両の借金体質」があり、其の侭だと潰れる。
それを解決するには何かを興さねばならない。
それには「殖産」とその「資金」の課題があり、然し、それを興させるには「熊野水軍との軋轢」「紀伊水軍の素行」が問題と成っていて出来なかったからでもある。
又、「七割株の青木氏の伊勢水軍」と「讃岐青木氏の瀬戸内水軍」には、「古来より強い絆」がある。
当然に、「松阪経由で瀬戸内」までの「廻船」ができ得れば、「松阪」で「四日市殿」と「秀郷流青木氏」と縁戚関係にある「駿河水軍」と繋げれば、関東、中部から中国域先端までの「大プロジェクトの廻船路」が出来る。
筆者は、「青木氏の進言」で「吉宗」は初代からのこの「計画の推進」を進めようとしていたと考えられる。
これは「紀州藩と青木氏族」に執っては「経済的波及効果」は測り知れなかった筈であった。
(幕府御蔵金は300両しかなかった。)
況して、「紀州藩の家臣団」は「伊勢秀郷流青木氏」である。
これを当初から「初代からの殖産」をより大きくする為に狙っていた事は間違いはないだろう。
「紀州家臣団」としては計画を進めない方がおかしい。

そもそも、「讃岐青木氏(伊勢水軍)」と「瀬戸内水軍」を単独として見做しているが、「伊勢水軍の廻船」と繋ぐとする思惑があれば、横浜から防府の先まで一廻船が成立するのである。
こんな「大廻船」が出来れば「大岡」が警戒するのは当然であろう。
将軍と成った「吉宗」は承知していたというよりは密かに「目論んでいた事」であろう。

その証拠として、そもそも後に、「讃岐青木氏の瀬戸内廻船」は、「三陸より駿河」までの「東周り廻船」が認可されている。
そこで、吉宗は「大岡」に否定されたので、この「当初の計画」を示現する為に、何の関係も無い圏外の遠い「瀬戸内廻船」に態々これを認めたと観られる。

そもそも、「圏外の廻船問屋」に認可するというのは不思議で恣意的としか考えられない。
そこで、つまり、否定された「切れたルート」の「伊勢水軍の域」を「青木氏族の大船四隻」と足りない便域を「伊勢水軍域」で繋ぎ完成させたと観られる。
否定された以上は、そこでそれをいきなり繋ぐと違反と取られかねない。
そこで、飽く迄も,”「青木氏族単独の商船」”であるかの様に見せかける必要があった。
その為に、密かに執ったのが「摂津港」に「大船二隻」を係留して松阪まで「ピストン配船」させ、松阪からも矢張り、「大船二隻」を同じく「ピストン配船」させ、それをカモフラージュに「伊勢水軍」を「摂津」までの「往復回路」を作れば、「完全な廻船」は出来上がる。
「紀州藩」はこれで「関わり」が無くなる。
解ったとしても「山田奉行所」は文句の着けようがない。

筆者説はこれに基づいているが、これほどに「史実としての戦略」が出来上がっている事そのものが不思議で、恣意的であるとしか考えられない。
明らかに「神奈川」から「讃岐」までの「青木氏族」が力を合わせて”一致して仕組んだ事だ”と観ている。
思い思いにはこれだけ「統一した戦略」は出来ないだろう。
そもそも、この「戦略」には「日本の経済の発展」と云う「次元の高い思惑」が課せられていた。
「大岡の否定」は、”次元は低すぎる”と観ていて、筆者説のみならず「青木氏族の共通の認識」であった様に資料から読み取れ、故に「青木氏族の戦略」と成り得ているのだ。
故に、「大岡」に次元低く否定された以上は、「讃岐青木氏の瀬戸内廻船」を態々持ってこなければならない事に成ったと成る。

江戸に出た「伊勢屋の伊勢青木氏」を始めとする「青木氏族」は、前段でも論じたが、これらの「対応策」を幕臣を交えずに密かに”「吉宗と談合した」”と考えられる

(注釈 「佐々木氏族の江戸下屋敷」の直ぐ近隣に幕府より屋敷を与えられていた事は解っていて、ここで吉宗と談合を重ねた事が解っている。
「伊勢屋の屋敷」と「青木氏の自邸の屋敷」は前段でも論じたが、主な伊勢屋の屋敷は「問屋街の小伝馬町」と「日本橋界隈」や「横山馬喰町等」にも複数あった。
「江戸伊勢屋店舗」は200か所以上に上る)

確かに何れも其れは云えるが、然し、この「否定された案件」には、細かく観るとそもそも「往路廻船と復路廻船の違い差」が出ているだろう。
それは、「伊勢水軍」は別として、「熊野水軍」には「熊野宮司六氏」が背景として絡み「通行」には「利権」を主張する「海賊的水軍」であったとされる。
これを守らないものには容赦なく鉄拳を加えたとする資料もあり、その「海賊の村」とされる所の資料説もある位である。
然し、どちらかと云うと”「海族」”と云うところかと考えられる。

又、次に「紀伊水軍」は、平安期から”「海賊」”そのもので、「利権」がどうのこうのでは無く、海を荒らす純然たる要は”「海賊」”なのであって、その記録は「義経の壇ノ浦の戦い」の時にこの「海賊の存在」が最強を誇った「平家水軍」との「海戦の勝敗」を決めるとして、義経は執拗にコンタクトをとった記録が遺されている。
つまり、この背景には「雑賀一族」と「根来一族」の「海の族説」があって、それを「背景」に勢力を持っていた”「海賊」”でもあった。

「鳴門の荒波」を制する「鳴門水軍」は、淡路島を根拠地とする「海洋民族」と、その「土豪」であった「淡路島の鳴門族(後の蜂須賀族)」を背景としてその勢力を張っていた。
この様に何れも一癖のある単なる水軍では無かった。

(注釈 「義経の海戦」の時に”「摂津水軍」”と書かれている資料がある。
この「摂津水軍」は源氏方であったと書かれている事から、「嵯峨源氏」を含む「摂津清和源氏」を主体とした「青木氏族」や「近江佐々木氏族」等の「混合隊の水軍」で「小水軍」であったと書かれていて、「義経の海戦」が始まった段階で直ぐに「摂津港」に引き上げた事が書かれている。
恐らくは、「荷駄を搬送する役目」と戦略上の「船団のダミー的役割」を負っていて事であったらしい。)

兎も角も、当時の「暗黙のルール」は、この「三つの海域」を通行する廻船は「通行料」を払い”「堺会所」”で認可を取らなければならなかったとある。
“「堺会所」”には「支配頭」がいてこれらの「全水軍」に渡りをつけての事であって、「山田奉行所」とは云え、「実質の実力的差配権」はこの「堺会所」にあって、「山田奉行所支配」の「自由横行の運航」ではそもそも無かった。
従って、然しながら「紀州藩」としては「幕府の支配下」にある以上は「山田奉行所」であって、且つ、紀州海域にあるとは云え、「一種海賊的水軍」を「紀州藩」としては使う事は出来ない状況でもあった。
飽く迄も「政治的な支配権」でのその様な「山田奉行所」であって、それに基づいた申請であったと云える。

本音を云うと、故に「上記の低次元の裁定」と成ったのである。
だから、「青木氏族」は”馬鹿らしい”と云う感覚に成っていたのであり、「紀州藩」から出された申請である限りはこれに従わざるを得ない事に成る。
当初から「青木氏族」にとっては、大化期から定住する「氏族」で「摂津」に店舗を持っていた関係からも「堺会所」は知っていたし、「宋貿易」をしていた事からもこの「堺会所との付き合い」は当然にあつた。
又、「伊勢屋」で「伊勢水軍」を統括していた事から考えても、この事は事前に間違いなく”計算済みの想定内”にあったと考えられる。
故に、時間の掛かる”「大船建造」”を事前に進めて「殖産計画」に間に合わしたのである。
それで無くては「運搬問題」が発生し前段で論じた「殖産計画」は成功しなかった筈である。
大掛かりな「船の建造」を伴う時間の掛かる「讃岐青木氏の東周り廻船の設定」も間に合わなかった筈でもある。

江戸初期の紀州藩初代から始まったこの「江戸殖産(創業平安期より)」は、当初は伊勢域は「伊勢水軍」で行い、「商品」を売り裁く為の摂津大阪などへの搬送は主に陸路に頼っていた。
ところが、この「殖産」は大きく進み、「墨と硯」、「和紙と製品」、「綿と布」、「漆と漆器類」、「海産物と加工品」、「菜種油」、「海産物加工」、「白粉」等々の「殖産」は発展し、「陸路の量的な搬送」は無理と成った。
この間、「搬送先」、つまり、「販売先」は拡大し、「大量」で「遠距離輸送」は日本全国と成っていった。
この時期が、丁度、100年後の享保期初期に当たり、「殖産」は、紀州藩初代頼信から吉宗まで「勘定方指導」で「紀州藩の借財体質」を改革し、最終的に上記するこの輸送問題が勃発したのである。

そこで「将軍と成った吉宗」は、紀州藩のみならず「三陸」から始まり、「防府」までの「一廻船体制」を確立して「経済の発展」を支え様として、この為に上記の「旧態依然の利権体質」を改善すべく途切れている「松阪から摂津」までの「統一廻船」を作ろうとしたのである。
つまり、「駿河と瀬戸内」は何れも「青木氏族との絆」のある廻船である。
そして、「三陸部」から駿河までに「瀬戸内廻船」を持ってくれば、「一つの絆廻船」が出来上がれば「利権」に振り回されない「安定した廻船」が出来上がる算段であった。
100年目にして仕上げる「頼信ー吉宗」の”「思い」”であったのである。
然し、低次元の「大岡の裁定」を無視してまでも「幕府命」で「押し通すべき算段」では無かったかと思われてならない。
恐らくは、「幕府命」と「幕府機関」の裁定が異なる事は、「権威の低下」を招く為に執れなかった事は解る。
そして、「将軍」に成りたての頃である以上は未だそこまでは「幕臣」を統括出来ていなかったであろうし、次元が低いが出自元でもあり裁定に口を出せば「要らぬ誤解」を招く事にも成り兼ねず、遠慮した事も考えられる。

江戸に「吉宗」に同行して「江戸出向」していた「青木六兵衛等や青木氏族等」には、「江戸屋敷での談合」では「大岡裁定」には「吉宗」は「猛反発」を受けていた事が伺える。

(注釈 「青木六兵衛とその息子一族」は、「吉宗」と享保期末には「折り合い」が悪くなり、「江戸商い」は「店子」に譲り「江戸伊勢屋・青木氏」を「伊勢(伊勢秀郷流青木氏や信濃等の青木氏族関係者含む)に引き上げるが、この時の始末に「青木六兵衛とその息子」は、「六兵衛は病死」でその「息子は江戸で跡目が絶えた」と成っているが、「青木氏の資料」では確実に引き上げている。
「兄の長兵衛」の「四家の福家の跡」を継ぎ、「享保期の重責」を全うしたことが判っていて、逸話まで遺されている。
この事に付いて、「近江佐々木氏の資料」にも記載があり、江戸での「六兵衛とその息子の所在」は不詳としている。
これには「吉宗と幕府」に警戒されない様に仕組む位に「関係悪化」があった事が伺える。)

注釈の通り、これは「吉宗との関係悪化」は否定できない「青木氏の歴史観」ではあるが、「大岡裁定」に観られる様に「江戸の幕臣の反発」は間違いなく、この「青木氏族」や「江戸伊勢屋」に向けられてあった事は間違いはない。
それは「江戸屋敷」を隣接する「近江佐々木氏」の「青木氏族の研究記録」にも確認出来る事で、目に見えてあった事に成るだろう。
記録に遺す程であるから、「享保の改革」を裏で支えてきただけにその落差は大きく映り、相当のものがあった事は「間違い」は無い。

つまり、この「一つの絆廻船」を「青木氏の戦略」で押し切った事が、「幕臣の執拗な反発」を増幅させていって、「吉宗」も「最大の味方」との「蜜月の関係」を続ける事は出来なく成ったと考えられる。

さて結局は、「青木氏族」から観ると「最悪のシナリオ」の「切欠」と成った「大岡裁定」だが、この「一事不再理の原則」から「吉宗」も動かしに難く成ったが、この様な「事前承知の背景」から「青木氏族」は力を合わせて「摂津」に「千石大船二隻、松阪に大船一隻」を追加建造して名目は”「商船」”として、自ら「四隻の運用態勢」を整えて対処した事にある。
虚を突かれた幕臣側は色々と裏で画策を試みた事であろう。
それは、「陸路運送」と「江戸販売の認可」にあったと観ている。
(「陸路運送」は「伊勢シンジケート」が秘密裏に「横の関係」を使って安全に輸送した。)

「青木氏の伊勢屋」の「商い」の細部に普通ではない「事件記録」が遺されている。
この「陸路運送」では、「青木氏の資料や商い記録」に遺されている事件としては、一例として前段でも論じたが「鈴鹿峠部の通過事件」がある。
ここは「四日市殿の地権域」にあったが、「支配権」は鈴鹿関所として幕府に統治され、「京、大阪、摂津」に出るルートを地元地権者でありながら「関所の大義」を理由に厳しく抑えられたとあり、これで、「陸路搬送の輸送量」が遅退したとある。

「大船建造」は「上記の経緯」と「輸送利用の増大」からもあるが、この「鈴鹿通過事件の件」も大きく影響していたと考えられる。
故に「資料から読み取る史実」や「商記録」に、放念できずに態々記載されているのであろう。

享保の時代中には、「江戸販売の認可」の件では、「菜種油」と「海産物加工品」と「海産物を利用した飼料」を殖産していたが、これを江戸に卸そうとしたが、すぐには認可が下りなかったとある。
中には他の「商人」には下りても、「早出しの伊勢屋」には「認可」そのものが下りなかったものがあったとある。
当時、「害虫被害」が関西で起こったが、これに効く薬が無い事から、「菜種油」を薄めて散布したところ被害が納まった。
ところが、この被害が関東にも及び急拠関東にこの菜種油を送ろうとしたが「認可」は下りなかったとされる商記録もある。

「海の干物、(ほしか)」を粉状にして畑に蒔く事でみかん畑や綿畑などで大収穫が得られた。
当初は使用の出来なくなった「乾物」をみかん畑に廃棄したが、この「廃棄」が効いたか旨くて大収穫が得られたとある。
そこで粉状にして蒔いたところ効果覿面で、それ以後、畑にも蒔いたとあり、商品として関西域に販売して好評を得たとある。
そこで、、江戸伊勢屋にて販売しようとしたが認可はすぐに下ろさなかったらしいことが書かれている。
認可後も、「伊勢の殖産」が広がり各地の漁場の「ほしか」を買おうとしても嫌がらせを受けてなかなか要求量が入らなかったと記載されている。
又、それまでは食物として使用されなかった海藻類を煮出してその液を凝固させて作る寒天などを開発し、これが関西で大流行と成り関東にも送ろうとした。
ところが、これも認可が直ぐには下りなかったとあり、50年以上も後に成ったとある。
事程左様に、「伊勢の射和殖産」も含めて「江戸を含む伊勢屋」には厳しかったとある。

これらには、「圧力という表現」は流石に使ってはいないが、恐らくは、「大岡裁定後の幕臣圧力」であろう。
このような事が積み重なり「青木氏族側」では、「莫大な資金」を投じて「享保の改革資金」を調達しながら「吉宗の優柔不断さ」に対しての「「不満」が沸々と募って行ったと観られる。

さて、上記の事から”「伊勢屋」”を使っての「関東への陸路販売」は流石に難しかった事は否めない。
然し、それでも前段でも論じた様に「質屋」を含む200店舗以上」(チェーンストア)で営業を営んでいた。
「江戸」への「海路の運送」は、「伊勢水軍」を使っていたかは資料が無いので定かではない。
恐らくは、享保期の「伊勢水軍の規模」から考えて「関西域で海路輸送」が限界で難しかった事が充分に予想できる。

然し、依って「江戸の伊勢屋」では、「商品の入荷」は「伊勢シンジケートの陸路運送」で行っていた事から充分では無かった事が予想できる。
然し、一方、享保期前後の「伊勢の伊勢屋」の「殖産」の「製品の販売体制」を瀬戸内までの間を三日毎の「四隻態勢往路復路の入れ替え方式」で行った事は解っている。
中には「人の運搬」も影では行っていたと読み取れる。
史実として”「商船」”としての実績を証明するものとして「浅野家取り潰し」の「蔵出し買い取り」をこの「商船」で一手(大船三隻)に引き受けた事が書かれている。
関西域での「伊勢水軍と四隻態勢」が暫くは続いていた事が解る。(船数は増加)

享保期前後には「駿河水軍との連携」は未だ成立していなかった事が解るし、これからも「伊勢水軍」は「関西域の専用廻船」であった事が証明出来て「江戸」に廻していなかった事に成る。
「陸路運送」は、「陸路の縄張り」と云うか「権域」と云うか海路と同じくグレーの体質があって、これを「シンジケートで通す場合」はその「縄張り」に「渡り」をつけて搬送する必要があった。

結局は「伊勢シンジケート」に執っては適任であり、その「警備と運輸と渡り」に全面的に頼っていた事に成る。
「青木氏族」に執っては、「海路運送」の「伊勢水軍」も「七割株の契約関係(血縁関係もあった)」にあり、「陸路運送」の「伊勢シンジケート(信濃含む)」の「経済の契約関係」にあり、何れも「警備力と渡り力」を持った「運輸力」にあった。
「他の商人」にこれほどの「運輸力」を持った「古い関係」を持ち続けている「犯しがたい氏」での「商人」は全く無いであろう。

これの事実を知れば恐れられる程の「脅威に近い運輸力」に「幕臣」には観えた筈である。

一度、事が起これば「戦力にも成り得る運輸力」である。
室町期までは現実にそうであった。
そこに、「郷氏としての象徴力や権威」があり、「一絆廻船の戦略」を敷かれ、「大船四隻」を持たれれば、最早、「幕臣の政治的権力」の及ぶ範囲には無かった筈である。
そして、況して、幕臣が裏の手を使って「脅迫」などを「伊勢屋や青木氏族」にするものなら逆襲を受ける。

つまり、「伊賀者」には”「郷士の縁戚者」がいる”と成り、室町期初期に「二万の軍」を餓死させた戦績を持つ「関西中部域」に及ぶ「シンジケートの力」と、関東北陸までその勢力を保持する旗本御家人の「秀郷流青木氏の縁戚族」の存在ともなれば、「山田奉行所等の幕臣」には既に「危険域」を超えていた事になろう。
下手に幕府の中で口を開けば、情報は洩れる事に成り、気の休まるところはなかったであろう。
そうすれば、後は「世は必定」で”嫌がらせ”しかない事に成る。

従って、上記の背景から観ても、そもそも、「三日毎の四隻態勢の往路復路の入れ替え方式」で行うのであれば、初めから何も上記の「紀州藩の案件」は煩い「山田奉行所」に出さなかった筈であろう。
決まって「嫌がらせの裁定」が下りる事は必定なのであって、然し、「青木氏族」として出していなく「紀州藩」としては出したのである。
「紀州藩」として出したから「山田奉行の否定の大岡裁定」が出せたと観ている。
それも「御三家」と「将軍吉宗」に対してである。
普通に考えれば「認可」と成ろう。
従って、普通に考えれば、上記した様に、「紀州藩」「御三家」「将軍吉宗」でありながらも、裏には”「三河者」”に執っては、「家康のお定め書」も然る事乍ら、”腹に据えかねる「羨望嫉妬の青木氏族」”が居た事に成ろう。
何度も云うが、「青木氏族」であり乍らも大化期からの「伊勢屋の商人」である以上、上記の様な「高飛車な意識」は毛頭無かったのであって、そもそも其れであれば「商い」は出来ないだろうし、「相手方の持つ否定できない自然の意識」と成ろうし、問題はその「意識の大小」と成るだろう。

従って、「青木氏族=伊勢屋」が執るべき手順としては、戦略上、先ずは、”「紀州藩の申請(ダミー策)」”~”「大船建造(事前建造)」”~”「東周り廻船の申請(事前交渉)」”の過程を踏んだと観られる。
この「戦略の手順と過程の差配」を違える事は、「幕臣の反発」をより喰らい「殖産計画全体」が成り立ち難く成り得ていたとも考えている。
何故ならば、この「大岡裁定」は、「殖産」に執ってはそれなりの影響は否定できないが、「次元の低い裁定」と観ているからで、その「低い思考能力」からすると、「船の建造」を進めていたとしても「影響」だけではなく「運搬」で円滑に全体を動かせなくなる可能性があった。

依って、筆者は奉行所が「案件」を否定したのは、上記の「周囲の意識説」は間違いは無いと観ている。
“伊勢の事 お構いなし"の”「お定め書の事」を気にせず「正しい裁定」を「山田奉行所の大岡」が下した”とあるは大いなる疑問である。

「伊勢のお定め書」の原型は、元々は、「伊勢の国の守護王」であった「施基皇子」に対してもので、「日本書紀」にも記載のある「不入不倫の件」の「伊勢」に下した「大化期のお墨付き」のコピーでもある。
つまりは、「美化の典型」の「大岡裁定」を左右させなかったとある”「お定め書」”は、恐らくは「献納」に対する「見返りの追認」ではないかと考えられる。

これは「家康」が、“バランスをとった”云う事であって、記録めいたものが事更にないと云う事は、「青木氏族」に執っては、”「今更の件でもない」”の程度であっただろう。
つまり、これを「根拠としての裁定」とは、「青木氏の歴史観」からすると、当時としては”何をか況や で馬鹿らしい”であっただろう。

この様に「大岡の一件」を捉えても、「青木氏の歴史観」から観ればこの様に変わり、そもそも、先ずはこの様な事は、普通は「一氏」からの”「史観」”で見る事はしない。
故に、少なくとも「青木氏族」の周囲に起こっていて、或いは関わっていて、「公の史実」と成っている「史観」にはこの様に大きく変わる為に、一度、「遺された史実」を調べ疑問を持つ必要があるのだ。

そもそも、「青木氏族」と云うのは、その様な「特異な立場」(青木氏の歴史観)にあったと云う事である。
少なく遺されている「氏族」の中でも「史実、史観」として掴んでいるのは、「青木氏族と近江佐々木氏族」くらいではないだろうか。
この「二氏に関わる事の歴史観」は大きく変わる事を知る必要があるが、「藤原氏の場合」は各所に遺されている資料が多すぎて、その結果、他説が多すぎて散在し過ぎている気がする。
「氏族」のみならず、「下剋上」で勃興した「姓族」のこれをうまく使われて、それには「搾取偏纂」が多すぎて又論じ難い。
それはそれなりに楽しめば良いとされる論法もあろうが、「姓族の場合」は「氏族」の様な「歴史観」は無い事でもあるが、「最低限の歴史観の辻褄」を合わしてもらいたい。
筆者はあまり採用したくない論法でもある。


上記の「権威の話」に戻して、「武士の媒臣の末端」まで求めた「真偽は別としての偏纂」に等しい根拠ある「黒印状の発行」を求めた。
殆どは「系譜の搾取偏纂」である。
つまりは、前記はこの論に入る為の説明であったが、さて、そこで次に続ける。

さて、「青木氏の歴史観」を更に高める「史観」が更に他にもある。
それは、「青木氏族の個人情報」に関わる事であり、この資料を表には出せない。
そこで、他の「青木氏族「」もほぼ同じ経緯にある事を前提に、筆者の「伊勢青木氏」を例に以って考察してみると、上記した様な」「殖産「」に纏わる事件などには「伊賀郷士を含む伊勢郷士との絆」が「青木氏の存在」を大きく左右させていたのである。

従って、それがどの程度のものであったかをこれを「論理的な歴史観」で考察して置きたい。

この「地元郷士との絆」が、どこの「青木氏族」にも働いていて、「青木氏族」のみならず「近江佐々木氏族」にも働いていた事が「近江佐々木氏の研究資料」からも解り興味深くい。
矢張り、「近江佐々木氏」も「氏存続の為」には「絶対条件の歴史観」としてこの点に着目していて研究されている。

余談ではあるが、興味深いのは、前段でも何度も論じているが、その「絆の関係氏」として「青木氏族」を広範に研究されている点である。
これは「施基皇子」の弟の「川島皇子」、つまり、「近江佐々木氏の始祖」で「妾子(忍海造古娘)」であり、共に「大化期の賜姓族で臣下朝臣族」で、同じ役務など「氏存続のシステム」を共にすると云う事も「初期の段階」ではあった。
然し、何はともあれ、平安末期に平家に討伐されるまでは存在した「近江青木氏」と血縁した「近江佐々木氏系青木氏」が存在した。

この関係から「青木氏族の詳細な研究」に至ったと考えられるが、「四掟の範囲」として「出の嫁」から「女系」でも平安期から江戸期初期まで「近江佐々木氏」や「佐々木氏系青木氏」と何度も繋がっていた事が考えられる。
これは史実にもある。



> 「青木氏の伝統 42」-「青木氏の歴史観-1え4日」に続く。
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