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「青木氏の伝統 56-1」-「青木氏の歴史観-29-1」

「青木氏の伝統 55」-「青木氏の歴史観-28」の末尾

> これ等の好機に付いては次の「裏の段取り」が在ったと考えられる。
> 「地元と松平氏への裏の交渉・情報の取得など」が在った事に依るだろう。
> 「地元の土豪郷士・4土豪」に執っても安全は保たれる事にも成る。
> これは「地元の郷士と松平氏と額田青木氏」の「三方両得の策」であっただろう。
> 「松平氏」に執っては「豊橋の東三河の不安定地域」を安定化させる一つの拠点と成った。
>
> (注釈 「伊勢青木氏」から「軍資金等の協力金名目・冥加金」での「三河」に対してそれなりの処置は在ったと考えられる。
> 何故か「名目」を替えての其れらしきものがこの期間内には「商記録」には見つけられない。)
>
> つまり、「水路の戦略(1540年~1545年)・第1期」と「陸路(1560年~1568年)・第2期」とは「ある期間・15年・第1期の準備と第2期の南下の重複」を置いて同時並行して続行していた事になるのだ。
> それでも「伊豆-美濃」の関係性から「戦闘的な復興戦略」を実行した。
>
> (注釈 この「戦闘的な復興戦略」を「後段の伝統 56-1」で詳細に論じる。
> 「三河と伊勢」に「青木氏に関わる多くの資料と記録」が遺るので詳細に再現してみる。)
>
> その前に、前段でも実戦状況に就いて詳細に論じたが、別の面から「予備知識」を次の段に論じて置く。

「青木氏の伝統 56-1」-「青木氏の歴史観-29-1」

さて、「戦闘的な復興戦略」を論じる前に、その背景を前段に続き少し論じて置く。
その事で「準備期間の戦略」の実行(第1期・第2期)も含めてこの「戦闘的な復興戦略」が大変なものであったかが判る。

「額田青木氏の存在経緯」に大きく関わるこの「一色の検証」は、「足利氏傍系の者(斯波氏)」が「三河の西域(西尾・上杉氏)」の「地頭守護」と成り、約通算80年の期間、ここに住み、「地名の一色・本貫名」を、“「格式の印象」”を挙げる為に名乗ったと云う結果と成る。

現実には「縛り」を護らなかった「河内源氏系の傍系族」で、且つ、その「傍系支流」が、元は「皇族系であると云う事」だけで如何にも「伊勢の青木氏族との所縁」であるかの様に「見せかけ」を以て“「一色」”を名乗ったと云う事なのである。
それを基準に「上記の検証」と成っている。

ところが、もう一つ「一色の地名・伊勢の本貫名」が、現在の豊田市の「真南の14kの位置」の「岡崎地区」に「一色・額田一色系の青木氏」の地名があるのだ。
これには上記の「西尾一色(権威利用)」と「端浪の一色(本命)」の「二つ以外」にこの様に「もう一つの一色」があるのだ。

これを先に上記の“「二つの一色」”と誤解を招かぬ様に解明して置く事が必要だ。
これから論じる「国衆南下」の後の「青木氏」に大きく関わって来る事なのだ。

さて、この「岡崎の一色(額田一色・青木氏)・本貫」が「戦闘的復興戦略の論」に関わるので更に検証を続けて置く。

そもそも、前段でも論じているこの「額田の一色」は、「伊勢の施基皇子の所縁・追尊春日宮天皇」・「追尊50年後」にこれを由縁に着けられた地名であるのだが、それは「伊勢の二世族・額田裔系」の「浄橋と飽浪」が嫁いだ「美濃青木氏の本庄」に嫁いだ所縁から「伊勢の本貫名」を付けられたものである。

ここ「岡崎の一色」の地名は「額田―蒲郡」の「間」の「丘陵・山沿い」の直線上にあり、真南の湾間地域の「蒲郡」とは直線で「20キロの位置」にある。
「額田」から真南14kで「蒲郡」から真北の位置にある。
要するに、この「一色」は「額田と蒲郡」の真南の線状の丁度、「中間の位置」にある。
これは余りにも恣意的である。
これは何なのかである。
答えから先に云う。

それは前段でも論じた「渥美湾から信濃までの縦の陸路」の跡なのである。
つまり、「中継地とした所」であろう。
「国衆」として「南下を果たして跡」のその「縦の南下陸路・陵道」であり、「信濃」を護る為に「一つの固定ルート」の「中間点」に「人」を置いて、そこを「一色」と名付け造った「山際の陵の拠点」である。
そして、「渥美」からも「豊橋-豊川-豊田」から「R1」で北に上ればこの「山稜線」に交差し、これを辿れば、後は「旧中仙道・R19」を「塩尻」まで上れば「信濃青木村」に達するのである。
現地調査でも現在も可能であった。
このルート上に入れば前段でも論じた様に、「土地開発(伊勢秀郷流青木氏)」と「殖産開発(伊勢裔系の青木氏)」とで入った「開発地域の真中」を通れる事に成る。
ここが「信濃」までの「縦の陸路」として造り上げた「固定ルート」なのである。
その為の「中継点」である。

さて、そこで「西尾の一色」とは、「岡崎の一色」へ斜線で東に30キロの位置にあり、「岡崎の一色・額田一色系」から知多湾に向けて「真西に18キロの位置」にある。
「西尾の一色」と「岡崎の一色」と「額田の一色・端浪一色」は、真西に10キロ、真南に21キロ、斜線で30キロの“「直角三角形の位置」”にある。

この「土岐域」から直線で「真東に45キロ」の「丘陵・山沿いの位置」にある“「岡崎の一色」”は、「圷の問題」は全くない地域である。
上記した「土岐―大垣―揖斐」の「三角洲の野」に“「三野王」”の「本庄」はあったとする「古書の記録」からは、可成り距離的に近い事が云える。
直ぐにでも「岡崎の一色」の「伊勢本貫名の地名」を着けられる位置にあった事が云える。

そうすると、愛知県の「西尾の一色(本巣郡)」と、同じ愛知県の「岡崎の一色(額田郡)」とには、“どんな違いがあるのか”である。
「斯波氏系足利氏の地頭」の「一色」との明らかな違いがあるとしても、他にもこれを知って於く必要がある。

北部の「土岐」から直線で真南に愛知県境まで7キロ、この県境から「岡崎一色」まで33キロ、 合わせて「40キロ(10里)」と成る。
「当時の生活圏」としては「丁度良い位置にある事」に成る。

先ず、地理的に観れば、次の様に成る。
「岡崎の一色(額田郡)」は、39キロから40キロの「丘陵山沿いの域」にあり、「三野の土岐―大垣のライン」から「40キロ」として「10里の真南の位置」に在る。
要するに、ここは「古書記録の三野王の本庄」があったとする位置には「古来の生活圏内」に在った事に成る。

「古来の生活圏」は、「9里(36キロ)から10里半(46キロ)」がその限界であって、この範囲で「宿」を取るのが普通であった。
これに合わして宿場があった。
従って、「三野王の本庄・美濃青木氏」と「額田青木氏・端浪一色」との「ずれ問題」は「許容の範囲」では問題は無かった事に成る。
「本庄の位置」と「端浪一色」は嫁いだ直ぐ後から、“丁度良い位置”に離れて生活をしていた事を暗示している。
この“丁度良い位置”に意味を持っているのだ。

(注釈 古来はこの「10里・40k」が「生活環境」における「考え方の基準」であった。)

つまり、ここの二か所に滅亡する前の「美濃青木氏」が「隣合わせ」に定住していた事に成る。
「伊勢の二世族」の「浄橋と飽浪」の嫁いだ地であるが、この「隣合わせ・距離観」の持つ意味は、「浄橋と飽波の源氏化での抵抗」の「距離観」であり、「源平戦の前」に既に「別行動」を起こしていた事を意味する。

そして、「40k東の離れた位置」のここに「伊勢の本貫名の一色と名付けた事」に成ると前段でも論じたが、この様な説が生まれた所以である。

次に「西尾の一色(本巣郡)」は、「三野の土岐―大垣のライン」から「71キロの位置」にあって、「18里の位置」にあって、ほぼ「二倍の生活圏の位置」にあった。

これは「古来の生活圏」としては、「この距離」は「円滑な意思疎通」は絶対に無理であり、「三野王の本庄・美濃青木氏」の可能性は無い事に成る。
当然に、この「二つの一色」では、「圷の有無の問題」があって、「西尾の一色(本巣郡)」には決定的な「圷のハンディ」があり、「古書記録」の「三野王の本庄の一色」では更にない事にも成る。

従って、鎌倉期の「西尾の一色(本巣郡)」は以後、前段でも論じた様に論外とする。

歴史的に観れば、この「圷の検証」から、ここには、「三野王の時代」から最低でも「150年~200年後」までは“「本庄」”と云えるものは、この「西尾の一色(本巣郡)の地域」には無かった事が云える。

「三河の事」を書いた遺る「古書」には、「西尾の一色(本巣郡)」の「圷の野」を埋め立てたとする記録が見える事から、鎌倉幕府の正式な「地頭職設置令(1195年~1232年)」までの間に、「荘園の埋立権」が「地頭のみ」に許されていて、盛んに行われ「地頭荘園の呼称」の「圏域」を当に広げていた事に成る。
つまり、それが「西尾の一色(本巣郡)」と云う事に成る。
そもそも、「西尾の一色」と「時代性」が「額田一色・岡崎の一色」とは異なるのだ。

これの「圷野の埋立」を行ったのが、記録から当時の「初代地頭」と成った「西尾一色の祖」の「足利公深」である事が判っている。

(注釈 室町幕府の時代には遂には、「嵯峨期の縛り」が無視され外れて、この「一色」を姓にして名乗る家臣まで出て来た事が起こった。注意する必要がある。)

其の内にこれ等は先ず全て共通して「清和河内源氏支流」にその系を求め搾取して、その上で「6つ」の「伊勢の施基皇子の本貫名」の「一色」を何と「姓」としているのだ。
そして、その「本人」では無く、「要領」を得て上手く「搾取者の裔系」が名乗っているのだ。

前段でも論じたが、調べ上げれば「主種の記録」から以下の通りである。

「斉藤義龍の裔」 「土岐頼栄の裔」 「吉良有義の裔」 「吉良定監の裔」 「上杉教朝の裔」 「唐橋左通の裔」
名乗ったのは全てこの裔系の以上の6姓である。

「本人」は世に憚るが「裔系」は信じて仕舞うであろう。

(注釈 但し、この姓を「明治3年の苗字令」でも名乗ったのだが、これは「第三の姓」と観られる姓は除く。
これだけに「伊勢」に無関係のそれも「第二の姓」が使うまでに「嵯峨期の仕来り・9つの縛り」が「室町期」では最早無視されて護られなく成っていた。
誰も彼もが例外なくこの「9つの縛り」を護らなかった源氏姓を名乗った。
名乗っている数だけに、「皇族」としての「縛り」を護れなかった「源氏族」にはそれ程に「子孫」を遺してはいないのだが。)

さて、「西尾の一色(“本巣郡”)」は、「30キロ以上」も離れた「岡崎の一色(額田郡)」の地名を使ったのだが、「三野王の本庄」、又は、「額田端浪の一色」の「権威と象徴」を連想させるこの「一色名」の「地名」を、勝手に「地頭所在地」のここに移した事に成るのかである。
或いは、「斯波氏系足利氏の目的」は、「地頭の所在地」に「統治」の為に「権威と象徴の一色名」を「本巣一色・鎌倉期初期」と、「額田端浪一色・平安期初期」との二つに態々分けたのか何れかである。
要は当時の呼称がどうであったかであるが、郷土史などでは、“西尾の一色”と記されている。
恐らくは、分けて読んでいた事を示すものである。
然し、「額田端浪一色・平安期初期」には無い。
「岡田一色」は室町期の中期後であるので別枠である。

余計な事かも知れないが、前段でも各所で論じたが、改めて「青木氏の歴史観」として釈然としないので、これを検証としては先に解決しなければならないだろう。

実は、この「疑問」を解決するものがある。

それは、「権威と象徴の一色名」を判別する「西尾の一色(本巣郡・鎌倉期初期)」と「岡崎の一色(額田郡・室町期末期)」には、それぞれ、「古来の状況」の物語を遺す“「字」”を持っているのだ。
前段でも詳しく論じた「字・あざ」が持つ意味からすると、“「地名」が全てを物語る”と云う事である。

当時は、「字の使い方」に於いてこれを「見抜く慣習」を庶民は知っていて何方が「本庄」とするかは知っていた筈である。

「岡崎の一色(額田郡)」には、「27の字・あざ」があって、「字名・あざな」は、例えば、「池神(1)、大神田(3)、神谷、奥添、入洞(各2)」等の全て“「神」”に纏わる「字名・あざの名」が殆どである。
「神に纏わる字名」は、当然に美濃では「始祖の三野王」を指す事に成る。

ところが、「西尾の一色(本巣郡)」には、「26の字」があって、「字名・あざな」は、例えば、「新田(3)、船入(1)、塩浜(2)、浜田(1)」等の全て“「圷野の埋立」”に関わる「字名・あざな」が殆どである。

これは「初代の地頭」がここを「荘園」とする為に「圷」を「野」にする為に埋め立てた所以でもある。

従って、この「字名・あざな」が遺る状況は、「岡崎の一色」と「端浪の一色」と、「西尾の一色(本巣郡)」の「三つの地名」を遺した事に成る。
間違い無く「古来より在る名」は「本巣一色・鎌倉期」よりは「端浪一色・平安初期」の方を「本当の本貫名一色」と“地元民”は字の存在で使い分けの呼称をしていたと考えられる。

そもそも、つまり、「平安期の頃」では庶民は、未だ「語源の意」が遺り、この「語源」からでも判別出来ていたと考えられ字名で意味合いを充分に知っていたと事に成る。
従って、「西尾の一色」には左程の興味を示さなかった状況であったと考えれ、故に足利氏も平気で使ったのではないか。
つまり、何を云わんかと云うと、“民に「守護の在所」を慣習として「権威付け」の為に「一色」とするものだ”と思い込ませた可能性があると云う事だ。

それは、先ず「額田端浪の一色」はその様な「守護的な高位の者」が居る処を民は「一色」とすると思い込んでいた事にも成る。
見方に依れば、「伊勢の一色も志紀も色も一志」の「字」も間違いなくそうであったし、「美濃の額田端浪の一色」もそうであったからであろう。

(注釈 前段や上記で検証した様に、「三野王の在所」から「浄橋飽波の在所・額田端浪一色」までは「40k真東の位置・10里」にあって、この「位置」は源平戦後は「当然の事」として「室町期の1560年の南下」までは厳然とここに定住しているのである。
年数にすれば、「800年近く」にこの「高位の立場」にあった「浄橋・飽波」の「在所・額田端浪一色」は、「守護的な高位の者が居る処」を指すものと成っていた事を考えると、寧ろ、それが自然であろう。)


さて、ここでこの「美濃や三河」に関わらず、そもそも「本巣」とは、“「元は洲」”と云う言葉から「新田開発の代表の言葉」とされて来た経緯があるのだ。
この「呼称」でも証明できる。

平安時代より各地の荘園等の「河洲の圷」を埋め立て、そして「野」にした「新田開発」の地には、必ず「‥洲」や「‥巣」とか使われている。
この“「巣」”も「洲」に繋がり「小鳥の住処・巣」の意味も含まれて使われていた。
「本」は「元」と同意である事から、「元の巣(元洲)」や「本の巣(本洲)」等の多くの形で「もとす」と各地では呼称されていた。

そこで次に「額田一色」に付いてでも証明できる。
「岡崎の一色(額田郡)」が「伊勢の裔系の室町期中期の本庄」とする「決定的根拠」が未だ他にも在るのだ。

(注釈 「三野王の本所」は前段でも上記でも検証した様に、「西尾の一色」の斜め右北側に在り、其処より東に「端浪の一色」の西側の「額田の40kの位置」にあった。)

実は、「伊勢の桑名」に「額田」の「大字の地名」が奈良期中期の古来より在るのだ。
これは「平安末期の美濃青木氏」が滅亡するまでに「桑名の額田大字」があった事は「伊勢青木氏の資料」でも判っている。

これは、然し、これはどちらが先かで変わって来る。
「三野王の本庄の額田」が先か
「桑名の額田」が先か
実は以上を決定づけるものがある。

その前に、「呼称の語源」として導き出した証が在る事を知って置く事がある。
古来より「額田の語源」は、「ぬかるんだ田(額るんだ田)」、又は、米の「糠の田」と云う意味で、要するに当時は“水利の良い土壌の良い「肥沃な田」”と云う意味を以て使われていた。

そこで、先ず「桑名の額田」は、「揖斐川の入江口」の直ぐ西(6.6キロ)に位置し、「員弁川(0.3キロ)」に沿い、その「揖斐川沿い」の「桑名(0.3キロ)」の直ぐ西に位置する。
前段でも論じたが奈良時代よりこの「額田の名」が遺す通り元から「良好な圷の野」であったのだ。
要するに「額田の意味」としては「良い意味」を持っていたのだ。

そこで、どちらが先かの問題を解決する為にこの“「額田」”を更に掘り下げる。

この「額田の諱号」を使っていた歴史的人物の「額田王」は、「鏡王の女」で、「天武天皇」の寵愛を受け、その子は「十市皇女」、この「十市皇女」は「天智天皇の後宮」である。
そして、更にその子は「大友皇子の妃」と成る。
「有名な歌人」でもある。

この地には「額田王」を祭る「額田神社」がある。
この「額田神社」は、一説では「額田部氏の祭神」(五世紀・允恭天皇期創建)であるとしているのだ。

そもそも、この「額田王生誕とその地」には諸説があるが、一概に「桑名」がその「生誕地」とは決められないのだ。

実は、「新撰姓氏禄」によれば、「彼女」を始祖とするこの「額田部氏の子孫」とは、この地の「桑名額田」の「守護社」とするとある。

唯、そもそもこの「額田の地名」は、“「額田王」に関係するか”は奈良期初期である為に古すぎてそれを証明する記録がない。(後付け説)

この為に、「史実」は別として、この「桑名王」の「伊勢青木氏」との「額田部氏との血縁」は否定できないのだ。

つまり、どういう事かと云えば、上記の通り「施基皇子」と「額田王の孫大友皇子」とは「異母兄弟」にあって、歴史的史実では“「吉野盟約」”で関係があった。
この事から、「額田王」と「桑名王」の関係性が見つかれば”「同門の高位族」”である事から関係性は否定は出来ない。
そうすれば、「額田神社」が「額田部氏の祭神」とする事には論理的道筋が生まれる。
前段でも論じたが、施基皇子との関係があって平安遷都に同行しなかった事から罰せられ、特別しゅせの与えられた「平群の額田神社」は廃社とされる。
そこから平群村から「伊勢青木氏の手配」で「桑名の額田」に匿った。
この時の廃社の額田神社は一時、御神体を桑名の鎮守社で嫁していた。
こういう経緯がある。

要するに、従って、この「額田」の「額田神社」が「桑名」の「額田部氏の額田神社」と「同神」と成れば、大きく「青木氏」と繋がって来る事に成り、美濃の額田青木氏と繋がる。
つまり、「青木氏の始祖」の「施基皇子」も同時代に生きた「同じ都の高位の歌人」でもある事からも、この「伊勢の桑名」は「美濃の額田」とこの経緯の下で重複的に繋がる事に成る。

では、そこで、検証の一つとして「桑名の額田神社」の他に、もう一つ「額田神社」がある。
「桑名の額田」、「美濃の額田」、「岡崎の額田」が在る事に成り、各々、「額田神社」が存在する。
この「三つの額田」には「伊勢青木氏」が深く関わっている。
これを検証して観る。

つまり、「岡崎地域一色近く」にもこの「額田神社」があるのだ。
この事で「古来の慣習」から鑑みれば大方は解決する。

そこで、この“存在の有無の問題”であるが、実は答えは、「桑名の額田」は別として、「両方の額田神社」には、後勘から観て、形の上では“「歴史的なズレ」”があって無かった事に成るのである。

とすると、この「岡崎の額田」の「一色」は奈良期から平安期に架けて、その「所縁」が存在していた事に成る。

そもそも、前段でも論じている様に、仮に「青木氏の重要な歴史的年代」である“「800年頃」”を設定して観て、この「岡崎」に既に何らかの形で“「一色の地名」”があったとすれば、当然に「古来の慣習」に依って「額田の地名」も同時に着いていた筈である。

「施基皇子の没年」が716年であるので、何らかの所縁が在れば「本貫名」の“「一色の地名」”を「岡崎」でも使え得る。
問題は、「岡崎」にその「所縁の有無」にある。
「浄橋や飽波」の様に「端浪一色」と「額田一色」の様に「根拠」が見つかれば問題はないが、現在はその「所縁」は室町期中期依然のもの依然とし見つかっていない。
「額田」の「額田神社」が「桑名」の「額田部氏の額田神社」と「同神」あるとして、それは「伊勢側」からのものか、「額田や端浪」のものかである事に成る。

現在の筆者の推測では、“あった”としてその可能性から「伊勢側」では無いかと考えている。

当時、古来より肥沃の地でここは藤原氏が治めていた。
ここを元に「藤原氏」は「勢力」を拡大したとする程に、“藤原荘園”とも呼ばれ、「藤原氏の土地」で奈良期以前からの「古墳群地」で、ここに「一色」なる「地名や名乗り」をする事は普通では出来ない。
出来るとすれば、ここの「藤原氏」に嫁して、その裔系が「一色、一志、色、志紀」の「4字名」の何れかを名乗る事以外にはない。

そして、それが「伊勢」とすると、「桑名殿の裔系」か、「員弁殿の裔系」かに成る。
「肥沃な美濃域」には「浄橋と飽波」が「美濃青木氏」に嫁した。
当然に、「肥沃な岡崎域」にも青木氏が無いがあり得る事であろう。
当時としては、未だ「四掟の範囲」で定まるので、嫁家先は「藤原氏」である。
其の後、「美濃の様」には成らず、「伊勢本貫名」が「岡崎」に遺らず「子孫の滅亡の憂き目」を受けたと考える事が出来る。

(注釈 当時の「四掟」は前段でも論じた様に、「妻嫁制度と嫁家先制度の掟」により嫁家先で優秀な者がいれば「青木氏」を興し「家人」として務める事が出来る。
それだけの格式を「女(むすめ)」には持つていた。)

然し、何らかの形で地元岡崎に記憶されていて、それを室町期に呼び興したとも考える事も出来る。
然し、それを物語る資料が見つからない。
従って、前段と本段では「下記注釈の後者のロ」として論じているが、最早、室町期中期に幾ら何でも「格式」を誇示して「額田青木氏」が、態々、”一色の地名”を着けるかにある。
無いであろうし、仮に着けるとしたら“元あった事からの所縁”に依るだろう。

その「所縁」とは次の通りである。
この「岡崎の一色」には、その町の中央には“「神明社」”が現在もあり、元は「額田郡」に所属し、この“「一色町・3里」”より「真西の13kの位置」に岩津地区の“「青木町」”があるのだ。
そして、上記で論じた“「額田の額田神社」”もあるのだ。
これで室町期や江戸期のものでない事は良く判る。
恐らくは、「神明社関係」で「神職青木氏の関係」が「一色の地名」を遺した「所縁」では無いかとし、ここが後の室町期に「地名」を引き興したものでは無いかと観ている。

(注釈 「額田」は、「額田部氏の額田」と、「額田王の額田」と、「青木氏の所縁の額田」のあり、「青木氏の所縁の額田」を仲介して他の二つと関係性が認められる。
但し、「額田部氏の額田」と、「額田王の額田」の間の直接的な関係性が、現在では「状況証拠」でしか証明できない。古来にはあってねそれが両者ともに子孫拡大が大きくなかった事で消えたと観ている。)

(注釈 三河東端の「山稜沿いの縦の陸路 イ」と、三河中央の「岡崎一色を中心に結ぶ縦の陸路 ロ」を論じている。
「前者のイ」は、「初期段階」、「後者のロ」は、「後期段階」と成る。
それは前段や上記でも論じている様に、「戦況の変化」により切り替えざるを得なかった。
前者は、第一次の武田氏の攻撃と第二次の攻撃で奪われ使えなくなった。
後者は、「陸運業」に転向してからの「縦の陸路」と成る。
最終は、両方を使った事が記されている。)

そもそも、この「額田端浪一色の地名」は「追尊春日宮天皇・施基皇子の二世族」の「桑名王の子」の「浄橋と飽浪」とが嫁いだ「美濃青木氏の本庄の地」から「10里東の位置」にあった。
それが「830年頃」に既に名付けられている。

従って、“何らかの所縁”があったとして、これが歴史的に消えたとすれば「鎌倉期までの事」に成るだろう。
「額田」には、少なくとも「天智期むからの「額田王、額田部氏、青木氏との三者関係性」があった事が読み取れる。

そもそも、「額田部氏」は飛鳥時代に遡るほどの「伊勢青木氏」より「古い職能族で官僚族・当時は連」であった。
そうすると、時代は異なるが、“共に何で「額田の地名(桑名と岡崎)」が着いたか”である。

考えられる事として、次の「三つの事」が考えられる。
イ 「伊勢青木氏(桑名殿)」(「一志・一色の地名」)との所縁。
ロ 「額田の語源」の「肥沃な土地(ぬかるんだ地・湿んだ土地)」から呼称されただけ。
ハ 「職能集団の連」の「額田部氏末裔」が額田に移住した。

先ず、判り易いので「ハ」に付いて解決する。
彼らは次の様な経緯を持っている。

「穂積氏の臣」と「額田部氏の連」を祖とした同族である事
「穂積の語源」は、「額田の語源」と同じである事
「額田部の連(後に破格の昇格・宿禰に成る)」は、その「額田の役目」、つまり、「米」を作る為の「技能」を専門とした事
そして、共にその「役目」を負う「官僚族」であった事
同じく「穂積氏(額田部氏の分家)」は「部」が無い事から「米」の収穫と、その一切の管理を任された「事務官僚族」であった事
以上と成る。

(注釈 「穂積」が有っても「穂積部」は無いのだ。これは穂積氏が「連」の「姓・かばね」として認められていなかった事を意味する。)

つまり、「額田部氏」の許に共に、一族の「一連の米収穫の為の官僚族(本家分家の関係)」であった事と成る。
故に、史実は、これを以て“「祖」として「同族」である”としている所以でもあろう。
つまり、これは「額田部氏」からの末裔が「穂積氏」が出自したと考えられる。
要するに、「分家」である「穂積氏」も「連族」であったのだ。
後に、その功績を認められて、この「額田部氏一族一門」は「朝臣族」に継ぐ「宿禰族」に破格の昇格するのだ。

故に、「宿禰・連」としての「高い役目の官僚族であった事」から「額田部氏」は、その「役目の神社を持つ事」を「朝廷(天武天皇)」から特別に許された「唯一の高位の官僚族」であったと考えられる。

「桑名」の「額田神社」が「豊作を願う神社」として「最高格式の国幣社」として許可され、それ故に、それを「伊勢神宮」の「伊勢・桑名」に平群(廃社)から置く事を許可した事が考えられる。
これは歴史的に観れば見逃す事の出来ない歴史的な「相当な所以」である。

「伊勢神宮外宮」の「豊受大御神」(五穀豊穣の神)と共に「伊勢桑名」に設置を許され、それも古来より最も「肥沃な土地」の「現地」に置いた事に成る。

従って、この論理から、これ程の「高い神格のある神社・額田神社」が「三野域」に二か所に建立される事は先ず無かった筈である。
それは「伊勢」であるからこそ認められたのである。

ここで「重要な事」で、当時の慣習から「不思議な事」は、“「額田部神社では無い事」”であり、“「社格では無く神社格」”である事だ。
「個人の村格式」と成る「額田部氏の神社」で在り乍ら、「公的な額田神社」の扱いに成っている事であるのだ。

そして、その結果、「額田部神社」は「額田部氏の分家」の「穂積氏」に依って「美濃西域」に「村格式の神社」として相当後に建設された事に成るのだ。

要するに、「額田部氏」は「格式の高い特例の国幣社」を名誉高く与えられ事の由縁を以て村格式社の「額田部神社」は掟上で最早、建てられない事に成るのだ。
故に、分家の「穂積氏」が「氏神社」の「額田部神社」を建てたと云う事に成る。

(注釈 「穂積氏の身分格式」が低いので、恐らくは、この「縛り」が緩んだ室町期では無いかと考えられる。)

(注釈 「朝臣族」か少なくとも「宿禰族」までの高位でなくては「氏神社」でも許可なく建てられない。)

「額田神社の額田部氏」は、「神明社の青木氏」にも劣らない各式を有する事を意味したのである。
この「違い差」は「社格式」と「神社格式」の差だけと成り得えたのである。

(注釈 その後、事件が起こった。
実はこの「額田神社」は当初から「桑名」に建立されたものでは無かったのである。
これは後段で記述する。)

次はロである。
「額田の語源」の「肥沃な土地(ぬかるんだ地・湿んだ土地)」は、各地にこの意を持つ「古地名」では、殆どは“「糠田」”としている。
つまり、これは「宿禰・連」としての「高い役目の官僚族であった事」であった事から「額田」を使っていないのである。
つまり、「奈良期の禁令の範疇」にあった。

この事も重要である。
そもそも、「糠」は「米糠」で「糠」が良く出る事は「豊作」を意味し肥沃な土地である事をする。
つまり、「糠の良く出る田」として余りにも「格式の高い額田」に替えて「糠田」としたのである。
これには、理由があって奈良期からの「慣習仕来り掟」で、前段でも論じたが、「神、天皇、神社,高尊族」等の「高位の品格を持つ名」を勝手に使用する事を禁じていた。
「嵯峨期の詔勅」でもこれを追認して徹底させた。

従って、前段と上記で論じている「一色」と同様に、この「額田」そのものも勝手には使えないのである。
そこで「同意の糠田」として使用したとされ、全国に多いのである。
そもそも、そこでこの「高位の格式」を持つ「額田の地名」があるのは、「桑名」と「岡崎」と「美濃」を除いて、次の通りである。

「奈良平群郡」
「近江野洲郡」
「出雲一意宇郡」

以上の「三地域」である。

これには「歴史的な意味」があるのだ。

これには「ある事件」が含んでいたのだ。
極めて限定されている。
そして、この「事件」の関わりで、「伊勢青木氏との深い繋がり」に成り、強いては「美濃の事」にも関わってくるのだ。
避けて通れない事件なのである。

上記の「三つの郡」は何れも「高位の格式」の何物でもない。
この何れもが合わせて「額田部氏の末裔の分布域」でもある。
且つ、「伊勢神宮」に関わる「神の品格の地」でもあるのだ。

これで、「額田の地名」の「存在有無」はこれで「決め手」に成るのだ。
そもそも、「桑名」は、上記の通り当然の事として、取り分け「岡崎の額田」は「三野王の地」として、又、「天武天皇」の「五都計画の朝廷の天領地」でもあった。
従って、「三野の米」の「五穀豊穣の管理」が必要であり、「豊穣の祭司」が伴う場所でもあった筈である。
これで、「額田の地名の存在有無」は、この「官僚族の額田部氏と穂積氏」が派遣されて、そこに「現地孫」を少なくとも遺したと考える事が出来るのだ。

唯、「特別高位の宿禰族」である限り「青木氏」と同じく「額田部氏」は「現地孫を遺す事」は許されなかった。
遺したのは故に「穂積の形」で遺したのである。

故に、ここに「額田神社」が無いのは、「五穀豊穣の祭司」を「伊勢神宮の子神」として「桑名」に古くから建立されている以上は、「二つもの同格式の神社」を「三野の天領地」と云えども創建は出来ない事に成る。

(注釈として、後は「呼称」を変えているので「嵯峨期の禁令」から「後付け」である事が判る。
ところが、実は歴史的にその様な時期があったのだ。
元禄期に神社経営を良くする策として盛んに禁令を無視して命名した史実がある。
「神明社」も「神明神社」として、又、神明社の前に地名を着けたもの等のものが出た。
これ等の「社格式」は「国幣社」では無く、何れも最低の「無資格社」である。
正式なものでは無く、商い的な格式でのものである。)

では、そこで最終的に検証して置かなれればならない事は、他の主要な「信濃と甲斐の天領地」にはどうなのかである。
答えは“無い。”である。

唯、何か「額田神社」に「替わる神格の持つ神社」が存在するかの疑問がある。
結論から云えば、答えは簡単である。

「五都」の二つの「信濃と甲斐」の「二つの天領地」には「額田の地名」と「額田神社」は“無い”である。

有りそうなものであるが無いのだ。
然し、ところが「五都」の一つ「美濃」には、「額田の地名」と「額田神社(額田地区 額田杜 本命」)」があったのだ。
この事は意味が大きい。
この事は「古書」より判っている。

その現在では、ここは「西美濃」」に当たるが、「平安期」までは「三重桑名の近接地区」にも、「本命の他」にも「額田神社(増田地区 員弁川沿い・「後付け」)」があるので問題は無いのだ。
これは古来は美濃と伊勢の線引きの位置が西側に寄っていたのだ。

「伊勢桑名」と現在名の「美濃増田」にと二つ並んで在るのだ。

この「美濃増田」が上記した「ある事件」を解決してくれるのだ。

(注釈 この「後付けの神社」に付いては「江戸初期の神社経営難期」があったが、この時、「増田」のある「村格式の神社」が、この「額田の格式権威」を使って呼称を変更した可能性がある。
これはある程度の何らかの「地名などの所縁」があっての事ではないかと考えられる。
これは後に解明する。
現在は「三重県の桑名」域であるが、古来は「美濃の西端域」であった。
その為に、この「額田地区と増田地区」の「二つの神社」の間は、“「1km程度 真南北の位置」”にある。
然し、愛知県に「三河額田地名」があるが、ここには「氏格と神格を示す神社」は一切無いのだ。)

唯、「美濃と甲斐」には、前段でも論じた様に、「石橋山の戦い」と「富士川の戦い」で巻き込まれて「額田部氏の子孫・穂積氏」は壊滅したとも考えられる。(源氏方に味方した。)

「美濃」はその意味で、後の「増田地区の額田神社」が「圷野の干拓灌漑」の感謝から祭司した「鎮守神社」であろう。
その意味で「古来の慣習」に従った「神社の位置づけ・北側」に「杜」を祭祀し、その麓に「社」を構えた形式に適合している。

そもそも、本来であれば「員弁川」から北の「128mの圷野」に「社」を構える事は先ずは無い。
従って、「額田神社(額田地区・桑名)」にある「額田の杜」にある「社」が「古書記載」の通り「本命」と目される。

(注釈 「増田地区の額田神社」との関係については後述する。ある事件の解明の処で論じる。)

然し、そこで「信濃と甲斐」に「額田の地名」と「額田神社」が無いのは不思議である。

これは、この「五都」の二つに「額田部氏が関与しなかった事」を示す事に成る。

然し、「信濃」には、「南佐久郡」に「額田部氏の子孫」である“「穂積村」”が存在しているのだ。
この“「穂積村」”は、「青木村」とは、直線で北西に「40キロの位置」にある事は、「額田部氏」に代わる「穂積氏」の「官僚族・米の管理」が明らかに配置されていた事が判る史実である。

但し、「役務」を“マンツーマンで行う同僚族”で、尚且つ、「穂積氏」は「額田部氏」とは「分家の同族」であるので、従って、次の様な分布を示している。

「伊勢の額田と穂積」
「近江の額田と穂積」
「美濃・三河の額田と穂積」

「信濃の穂積」(額田部氏無し)
「甲斐の穂積」(額田部氏無し)

以上である。

依って、「五都計画の天領地」は、結果として「伊勢、近江、美濃」を除いて、当時は「信濃と甲斐」(盆地)は「穂積氏」だけで管理されていたと云う事に成る。

では、そうすると「伊勢の額田と穂積」、「近江の額田と穂積」は当然の事として考えられる。
然し乍ら、「美濃・三河の額田と穂積」に、「額田部氏と穂積氏の同族官僚」の両氏が存在していたかと云うと疑問である。

それは、上記でも論じた様に、「四つの河(揖斐、長良、木曽、土岐)」に恵まれた無限に近い「圷の野」にあった。

上記の検証で論じた様に、この「四つの河」に依って「圷・あくつ」はどんどんと広がる。
当然に、この「圷」が出来てそれを「埋め立て」て行けば「四つの河」から運ばれる栄養のある「肥沃な五穀豊穣の野」が出来る。

従って、「圷」の「埋立」と、これを適切な「野」にして、「田」にする「灌漑技術」と、「豊穣の田」にする「経験と技術」、土壌に適合した「米種の選定」等をするには、当時としてはどうしても「総合的な専門技術」を持つ“「額田部氏」”が無くてはならい「絶対的要件」と成る。

そして、これだけでは未だ「米」には成らない。
「額田部氏が創った野田」から「稲穂」を収穫して、それを「米糠」を取り、使える様に「保存庫」に納め、「収穫量の管理」と、これを管理して「農民の分配とその手配」と、それを「都に搬送する手配と管理」の一切等も、これ又、「穂積氏の官僚の力」が試され無くてはならない存在と成る。
両者相まって成し得る「大事業」と成るのだ。

当時は、「職能部の者」が成り得ない「宿禰族」に「破格の昇格」を果たした事は、「額田部氏」では無くては無し得ない環境にあった事を示すものである。(後にこれが崩れる。)
「墳墓増築」や「干拓開墾」に関しては「独占的な部」であった事を示している。

其れも短期間ではない。上記で検証した様に、「100年―20キロ」として「揖斐川西域」までの「圷」は、東西90キロ、南北70キロの範囲が「圷」で次第に広がる。
計算では縦の南北で350年、横の東西で450年と云う年月を要する。

然し、これは、「100年―20キロ」としての「干拓灌漑事業」であって、「縦横の面積」が絡んでくる計算と成ると、そう簡単ではない。

この事は「額田部氏と穂積氏」が同時進行と成ると、「800年頃」から始めたとして、「干拓灌漑」が終わるには、「1250年頃以上」と成り得るのだ。(この時期が重要である。)

現実に、上記した様に、「本巣の一色氏」は、その後、地頭として鎌倉幕府に命じられて「圷の灌漑の埋め立て・鎌倉期・結城氏が開墾」をしたとある。
「足利氏系斯波氏・西尾氏・一色氏」が「地頭」として派遣され、ここに住み着いた(80年間)が、上記した様に「鎌倉期初期に地頭」を任じられた事から考えると、ほぼ一致している。

「朝廷の守護制度」とは別に「地頭制度」を朝廷に認めさせての「初めての地頭(「圷の干拓灌漑」の)」であった事が書かれている。
それだけにこの地は「重要な地」であった事を示していて、この時でもまだ「圷の干拓灌漑」はより進めていた事に成る。

参照
80年/縦の南北で350年、横の東西で450年≒1/(4~6)
「100年―20キロ」/80年≒16キロ

故に、「額田氏部と穂積氏」の末裔を、「桑名」から近く「圷」に繋がる「美濃・三河」のこの地に子孫は遺した所以であり、「地名」の「額田」(一色)も同然でもある。

上記した様に、何れの「額田の地名」と「一色の地名」の「遺る位置」も、「北の土岐域」から「東の額田」の「丘陵線」にあるのも充分に頷ける事である。
つまり、「東の丘陵・山沿い」のここに「管理施設の事務所の館」を設けていた事に成る。

これで「干拓灌漑」は、「東の額田域」から「桑名の西」に向かって進行した事が伺える。

ここで重要なのは、上記で記した様に、「額田の地名」と「一色の地名」と“「飽波の名」と「端浪の一色」(端浪は飽浪の変意語)”も含めて史実を観るように検証される。

「伊勢桑名側の干拓灌漑」は、5世紀頃に「揖斐川沿いの300mの域」に「額田神社」が建立されている事から、「縦の干拓灌漑」では無く、「揖斐川沿い」から「員弁の北側の圷」を横方向に「青木氏の財力」と「額田部氏の技術」で「野」にして行ったと考えられる。

「五都計画の天領地」が拡大する事は、「朝廷」に執っては都合は良かった事から許可は出たのであろうし、当時としては「賜姓五役しての役務」から「当然の事」と考えていた筈である。
当然に、ここは現在の「濃尾平野の西域」である。

「額田前域」の「木曽川河岸の丘陵体」
「各務原」等の「三野の扇状体」
「圷野の本巣域」の「中央原地」
「伊勢湾三角州」

以上の「四つ圷野」で出来ているのだが、「伊勢の三角洲側」は「木曽川丘陵体」の域よりは「高い位置」にある。

従って、この「地理的要素」としての「伊勢三角州の野」は、「干拓灌漑」が容易で「氾濫性」が低く、「肥沃性の濃度」が高く、「東の圷」より古来より見込まれていた事が「史実の通り・額田神社の存在の所以」と成り得るのである。
ここは共に「桑名」から近く「圷で繋がる地域帯」であった。

それ故に、ここには、「額田部氏と穂積氏」が早くから配置されていた所以なのである。

更に、伊勢の「不入不倫の権」で安定して居た事から、安定して職務に取り組める環境があった。
これらは「伊勢神宮の遷宮地」である事も含めて、「額田神社」が「存在する大きな所以」とも成っていたのである。

然し、「穂積氏」も、「額田部氏の“額田神社”」と共に、古来より“「穂積神社(伊勢四日市・桑名南近隣・村格社)」”が祭司され、且つ、「額田神社」の真西の「16キロ(4里)」の「近隣の地(三重郡菰野 現在社跡)」に在る事も見逃す事の出来ない所以でもある。

但し、記録から“「穂積神社(村郷社格)」”に付いては「相当後の時代」に創建されたものであろう事に成る。
「1250年頃の干拓灌漑」が終わった後の室町期に「穂積氏の子孫」がこの「所縁の地」に創建したのであろう。

(注釈 「穂積氏」は「額田部氏」と違って「分家格」である為に、「朝廷」から正式に「氏神の神社建設」を認められる「管理族の格式」を有していない。
これは上記の検証の通りで、ここは「長期間の工事」の為に必要とする「館等の事務所」であった可能性が高いのだ。)

当時の「生活圏10里」とすると、「連絡の範囲(4里)」として「穂積氏と額田部氏」の間の同族が「事業の連絡の距離感」としては「社跡位置」は充分に納得できる。

この時期は、ここを「差配の基点」にして「天領地等の事業」を朝廷に代わって差配をしていたと考えられる。
それにはこの「距離感」は遠くも無く近くも無く絶対に必要であっただろう。

以上で、「額田部氏」が関わった「史実経緯」と「三つの額田神社」、「青木氏」と繋がる「額田王」との関わりが青木氏を経由して「状況証拠」では間接的には繋がる。

(注釈 一説にある上記で説明した様に、“「額田王」”が“美濃の「額田神社」で祭司される”と云う説があるが、それほどの「尊厳と権威」を持ち得ていたかは疑問である。
そもそも、「額田神社」とは、「伊勢神宮」の「外宮・大豊受神・五穀豊穣」の祭祀する「額田の神社」であって、これを、大きく「務め」としてなす「額田部氏」に「祭司」を専門に任したとする考え方であろう。
故に「宿禰族扱い」であって、それを成した五都の内の「伊勢と美濃と近江」に存在する故である。
「信濃と甲斐」には無い所以である。
「額田神社」は「額田部氏」であると云う事に成る。
丁度、「青木氏の神明社」に同義する事と成ろう。
又、「伊勢神宮の外宮の祭司」の経緯と成った「庶民」が淀川で祭祀する「稲荷明神社」も子神としては同義である。
その役目を果たす「額田神社」と「稲荷明神社」であって「奈良期初期からの時代性」も変わらないのだ。)


さて、「伊勢の計画の許」で進められている「額田部氏と穂積氏」が関わる中で、ここから、次にこの「美濃」の「浄橋・飽波の時期」に入り、「美濃青木氏の源氏化」で「浄橋・飽波の裔」は「別行動」を執って、その「拠点」を要するに前段で論じた様に、「額田部氏」に依って新たに「開拓された土地」”を「一色」”と名付け、「三野王の本庄」から真東に「10里の位置」に“「拠点・一色」”を置いた事を論じた。

(注釈 「出自元の伊勢」の「開拓地」である事から「一色」としたとも執れる。
新しい土地とすれば、これでは「三野王系」も文句は付けられないであろう。)

然し、ここで一つ解決して置かなければならない事がある。
それは、当時、ここは未だ「圷」であった史実である。
この「拠点」とするには、「干拓灌漑」をしなければ住む事は出来ないし「野」にする事も出来ない。
そんな「財力と技術」は「浄橋・飽波の裔」には当然に無い。
先ず、この事を解決しなければ「浄橋・飽波の裔」の”「別行動」”は出来ない筈である。

そこは、「伊勢の裔系」である以上、「桑名の東横」の「圷」を「干拓灌漑」した様に、「伊勢の力」を借りる以外には無い。
又、源氏化が進む以上は「伊勢」もそうするであろう事は判る。
上記した様に、この「伊勢」と深く関わっていたのが「額田部氏」である。

つまり、上記でも論じた様に「額田の地名」と「穂積の地名」が物語る様に「額田部氏と穂積氏」がここに入った事に成るのだ。
これは「穂積氏の裔」と「穂積神社」がこの地域に遺った事で示しているのだ。

更に、「室町期」に入り「額田青木氏の国衆」が南下して戦い、そして「三河国衆」から離れ、後に「陸運業」を始め、且つ、その後に子孫は「豊田・岡田の開拓業」と「豊川と豊橋の殖産業」を始めた。

未だ、この域も、「河川の圷」を埋め立て「野」にして全て「本格的な干拓灌漑工事」が伴うのだ。
然し、これにも「額田部氏」が関わらないと成し得る事ではないのだ。
故に、室町期末期迄には、「信濃までの縦の陸路 1と2」を確立させる為も含めて、ここには「伊勢の裔系」と血縁族である「伊勢秀郷流青木氏」の子孫が多く定住している由縁でもあるのだ。

「信濃の青木村」と同様に、「縦の陸路 2」に「青木氏の諸条件」を揃えて「三河の青木町・青木村」がその中間地点に現在でもあるのだ。
「神明社、一色、青木村、山神、額田等の諸条件」である。
現在も山間部で過疎地であり、此処に「古来の由緒」を求めて室町期に改めて「拠点」として住み着いたと考えられる。

「端浪と岡田の二つの一色」の持つ意味には、この「額田部氏の所縁」が含んでいるのだ。
この事を逃して決して語れないのである。

この「三野王・美濃」に関する「予備知識」を前提に、「準備期間」と「予備戦」が終わり、遂に前段でも論じた様に「本戦」と成って行ったのだ。

「額田部氏の詳細」は前段でも論じたが後段でも詳しく論じるが、この時期でも活躍していた事に成るのだ。
「国衆南下」に対して「額田部氏」がどの様に動いたかは未だ詳しくは解っていない。
恐らくは、「蒲郡と伊川津の埋め立て」に移動した可能性がある。
現実に、多くの移動に伴う糧確保の為に「記録」からも「蒲郡も渥美の伊川津」も干拓灌漑されている。
「伊勢の裔系」が住み着くのに額田部氏以外に頼む事は無いだろう。
其れも前段で論じた様に、移動の前では無いかと考えている。
それは「家族・1500人」が伊勢に移動した後に船で渥美伊川津に移動したと成れば、筆者ならそうする。
現実に埋め立てしているのである。



注釈として、ここで敢えて「額田と端浪の一色の地名」の「そもそもの成り行き」を論じる。

果たして、先ず「額田」や「一色」と名付けた「本貫名の字の大きさ」はどの様なものであつたかを記して置く。
「施基皇子」は「古書」に依れば、最終的に、その功績の大きさは「500戸」であった。

この「500戸の基準」は、次の基準で「税と格式」は計算される。

7世紀中の「口分田・班田収綬法」では「一里―50戸の基準」であった。
「6年1造戸籍」から、その後、申請方式の「1年1計帳戸籍」に替わった。
1戸は「15~20人」とし、「3~5人の男子」の基準であった。
そうすると、「500戸」は、「10里で40k」と成り、「民は1万人」居た事に成る。
そうすると、「一色の字」は「10里四方・40k四方」の面積と成る。
これを「伊勢」には、「一色」に相当する大字を「志紀、壱志、色、一色」の四つを待っていた事に成る。
つまり、{「10里四方・40k四方」の面積}・4倍と成る。
これに依って、凡そ「青木氏の地積」は「1616162反」・4=「6464648反」である。

そこで「伊勢の全面積」は古書の記録では「6034875反」である。
「6464648反」≒「6034875反」で明らかに「伊勢国一国相当」を示している。
故に奈良期には「伊勢守護王」であった事に成る。

奈良時代の「伊勢国の人口」は「幾つかの古書」の集積から研究計算された人口は「37300人」であったとされ、725年頃には「103200人」や「92600人」と成っていたとされる記録もある。

ここでも「伊勢人口」が「圷の干拓灌漑埋立工事の成果・額田部氏と青木氏」の貢献で、徐々に人口を増やしていた事がこれでも物語る。

故に、「額田部氏」は前段から論じている「宿禰の特別昇格を授かった事」がここでも判る。
逆に、「11100人」とした記録もあるが、「志摩域と熊野域を除く・青木氏の旧領地」とあるので、問題視しなくても良いであろう。

そうすると、上記から「一色の大字」の「500戸・1万人」で「伊勢」では「4つの大字」を持つていた事から、「4万人近い民」を有していた事に成る。
「40000人/37300人」は正しい事に成る。

(注釈 「伊勢の人口」が少ない理由は「不入不倫の権」で抑制されていた事から来ている。
然し、平安末期にはこれが緩み「約92600人」と増加させている。
前段で論じた様に、「伊勢青木氏と額田部氏による連携」で「桑名域の干拓灌漑開墾」によって「米策の生産量」と「殖産」とで「糧」がより生まれ増えた事に依る。)

因みに、「美濃」は725年頃には「163900人」で、奈良期初期は「103400人」で、次第に「115000人」から「126900人」と増加している。
そうすると、約100年で50000人増加した事に成る。

明らかに、これは「圷の干拓灌漑埋立工事の成果・額田部氏と青木氏」を「和紙殖産」から始まり、「源氏化阻止の対策」に切り替えて「伊勢一国並みの人口」を増やすだけの事をした事の証明に成る。
つまり、上記で論じた「500戸・1万人」で「大字の4つ分」に相当する。

故に、「美濃」の「伊勢の裔系」の頃、つまり、「伊勢青木氏と額田部氏の連携」に依って、「50年後頃の奈良期末期」には「25000人の人口」を増やし、「188900人」に迄に増やしていた事に成る。

これは、「糧=人口の自然摂理」から「圷の干拓灌漑埋立工事の成果・額田部氏と青木氏」以外には成しえず考えられない事を意味する。

さて、参考に「近江」であるが、前段でも論じた様に、当然に「額田部氏」を入れて難しい「真砂」の「圷の干拓灌漑の工事」を期間を架けて行って、「和紙の楮対策」を苦労して成功させたと論じた。
然し、その後に離反して源氏化に邁進して行った。
当然に、この「人口」は増加している筈であるが、実は増加していないのだ。

奈良期初期には比較的多い「112800人」であったが、平安期直前には「85700人」に次第に減少させているのだ。
何と「100年」で「27100人」もである。

この原因は、折角、「額田部氏の管理の手」が引き上げて「手入れ」を施さないままで「時間経過」と共に進む「真砂土壌の悪化」で「圷土壌」が悪化したのである。
そして、これは「米生産」では無く、「楮生産」での「和紙の生産と販売」であったからであった。

然し、これでも依然として「源氏化」を中止せず、何と「同族に近い血縁関係」で在り乍らも恩義を忘れ「伊勢」とは一線を企して仕舞ったのである。

逆に、この事が原因で「源氏化に走った事」もあり得る。
この事での「和紙の専売権」は当初より一手に“「紙屋院の称号」”を得ている「伊勢青木氏」だけにあった。
又、「造部支配・穀物等の販売権」と共に、「朝廷の商社権」をも授かっている「伊勢青木氏」から離反すれば「糧を失う破目」と成るは必定であった。
これが「人口」を減らす原因と成ったのである。

(注釈 前段でも論じた様に「屋の称号」と「院の称号」を与えられたのは「伊勢青木氏」が歴史上始めてであったし、歴史上無い。)

「美濃」は「浄橋・飽波の伊勢の裔系・桑名殿」の存在があった。
恐らくは、「三野王系」も「近江と同じ憂き目」を直接に受けていた可能性があるのだ。

故に、前段でも論じたが、「美濃西域(米原東域の隣接域)」で和紙生産されていた。
然し、矢張り、「源氏化」を中止しなかった事から、必然的に「近江」と同じ様に販売権を持たない以上は「生産」を中止せざるを得なかった。

そして、その「源氏化」が完全瓦解した事から、前段から論じて来た経緯から、室町期中期頃の後に「美濃北域の山間部」の”「長尾の域」”で「和紙生産」が再び起こった事もこの事から来ている。
これは「準備段階の経済的裏打ち」の「伊勢の策」であったと考えられる。
この直前に、この事にも乗じて「美濃の伊勢の裔系家族」を「額田」から下ろして「渥美」に移したと考えられる。

そもそも、「美濃人口」が増やせたのは、「前期・伊勢裔系」と「後期・国衆」の「額田部氏の干拓灌漑の長期間の結果」に及ぶのだ。
「東山間部の開墾」は、「楮生産」で、「西南の圷の干拓」は「穂積氏の存在」が示す様に「米策」であった事が記されている。
「信濃までの縦の陸路・初期路・1」に沿って「東西の地形」に合わせて「干拓灌漑開墾」が進められた事が判る。

これから判断すると、「額田端浪の一色の地積」は、「本貫名の字名」が「地名」と成った事から考えると、凡そ、これに「近い地積」を有していて、「一色」の一つの「字名」であるので、この約1/4程度であった事に成る。
上記の系さんの通り如何に大きかったかを示している。

然し、これが「元からあった野」を「一色の地積」としたのでは無く、当然にこれだけの大きさの地積を生み出すには「圷の干拓灌漑開墾の面積」で生み出したものである事が良く解る。

「源氏化の方針の違い」から「別行動」を執った訳であるから、これだけの「地積の分部」を「三野王の本裔」から貰える事は無い。
寧ろ逆であったろう。
それを「浄橋・飽波」が無し得る「力も技術」も無いとすれば、「出自元の伊勢」にして貰う事以外に無いし、そもそも「出自元伊勢」も当初より「源氏化阻止」を目論んでの嫁家であった事から「充分な計画」を準備していた可能性が高い。

恐らくは、その「名目」は「持参金」成らずとも「持参地」として「圷の干拓灌漑開墾」を手掛けていた可能性がある。
この「名目」には「持参地」のみならず「和紙生産の楮生産地」としていた可能性がある。
(然し、美濃西域の米沢東の楮生産地は別行動で消える。)

この時期、矢張り、「源氏化阻止」を目論んで「近江」にも「圷の干拓灌漑開墾」を進めていた事を考えれば、「美濃」だけの「圷の干拓灌漑開墾」では無かった事に成る。
これの為に「伊勢」から「額田部氏」を指し向けたと考えるのが普通であろう。
故に、「地名」だけが記録に遺ったのである。(現在は消えている。)

「上記検証」での「圷野」にする為の「圷の干拓灌漑開墾」は年数が掛かる事は論じたが、故に「工事中の額田」と「工事後の一色」の地名が遺され、所縁のある象徴の「神社」と「本貫名」が遺された所以とも成る。

古代の「額田の地名」には、「額田部神社と穂積神社・室町期」があって、「一色の地名」には「清光院と神明社」という事であったと云う事は史実であるのでこの事に成ろう。
「当時の慣習仕来り」からすれば「地名と神社」は同時に遺すのが「普通の習わし」であった。

「地名」では無く、現在の愛知県の「額田郡・字・50戸1里・4k」は、「岡崎」から真南に3k、「蒲郡」から真西に2kの位置にある。

ここは「歴史的な経緯」から考察すれば、「昔の圷の地域」であった地域を室町期末期に「干拓灌漑を行った地域」である。
それ故に、それが前段でも論じた「国衆南下独立後」の「圷の干拓灌漑開墾」を行った事から古来の由来を以て名付けられた「額田の郡域の広さ」である。

因みに、この「額田郡域の地積」は「約57平方キロメートル・(57500石・50000人/1年)である。
これで「100年50000人の理屈」は成り立つ。

上記の経緯より、この事から「端浪や岡崎の一色」は「伊勢の出自元」が「当初よりの計画」により「額田部氏」に依って「圷の干拓灌漑開墾」が先に並行して行われていた事が判る。


注釈として、更に追論すれば、この「額田部氏」が“何故に「美濃伊勢近江」の「三つの地域」に関わる事に成った”かには、「朝廷内の職能部官僚族の勢力争い」があったのだ。

そもそも、奈良期と平安期には「土木職能部の官僚族」には「3氏」があった。
先ず初期は、最も古い族としては「天智天皇」に重用された「結城族」で、「道路や築城」を専門としていた。
ところが、「天武天皇」には「額田部氏」が重用された。
「墳墓や干拓灌漑」を専門としていた。
そして、「桓武天皇」に重用されたのが「和気氏」である。
「水利事業」を専門としていた。

この三氏相まって「一つの土木事業」が成り立つ事に成っていた。

ところが、此処で衝撃的な「ある事件」が起こった。
それまで重用されていた「額田部氏」が、この「勢力争い」の中で「飛鳥」からの「遷都」に同行して行かなかったのだ。

この為に、「朝廷」より厳しく罰せられて「平群の里」にあった「額田神社」を廃社された。
管理していた額田部氏を罰して管理手が無くなり、朝廷は結局見せしめの為に廃社したのだ。
つまり、“額田部氏を認めない”と云う「厳しい罰」を受けて仕舞ったのだ。
この結果、「結城氏と和気氏」が遷都事業を熟す事と成って伸びた。

これを観ていた「伊勢青木氏」は、「皇親族」と「賜姓五役」と「令外官」の役目を名目にして、この「額田部氏」を救い上げた。
天武天皇と持統天皇期の葬儀に合わせて額田部氏は墳墓を創建したが、この時の「葬儀」で“「施基皇子」と「額田部氏」が会った”とする記録が「日本書紀」や帝紀や他の古書一冊に遺されている。

この結果、飛鳥の「平群の里」を追い出された「額田部氏一族」と密かに「平群の額田神社の御神体」を持ち出し、共に「桑名」に移して「伊勢青木氏」は擁護した。
そして、この「御神体」を「桑名の地元」の「鎮守社」に隠したのである。(後に判った史実)
そして、「伊勢青木氏の職能部」の「青木氏部」に「額田部氏」を組み込んで護った。

その「五都の干拓灌漑の働き」が上記の論であるが、その後、この働きの「伊勢青木氏との連携」が高く評価を受けて、「伊勢青木氏」を出自元とする「仁明天皇」に依り「額田部氏」に与えられていた「社格式」が戻されると云う事に成った。
つまり、「額田部氏の存在」が復帰し、「額田神社」は「桑名の鎮守社」から戻して「桑名の額田」に建立祭祀する事が認められたのである。
この事から大手を振って「伊勢青木氏」と共に働いた。
ただ、この時には最早朝廷には戻らず「伊勢青木氏」と連携して「民間の土建業」として独立した。

「官僚族の和気氏や結城氏」と違って、この時に正式に日本の初代の「造部の民間の土木業者」として独立したのだ。
「伊勢青木氏」と「同じ生き方」を選んだ事に成る。

そもそも、「造部」は「朝廷の中」にあり、「伊勢青木氏の統括(造・伴の二つの諱の号を持つ)」で「青木氏の殖産事業」と共に働いたのである。
この関係は明治期35年まで続いたとされる。

其の後の栄枯盛衰は、「和気氏」に付いては鎌倉期に衰退し、結局、「藤原秀郷流の永嶋一族」としての「結城氏」が残り「民間事業者」としても明治政府まで続いた。

尚、前段でも論じたが「伊勢青木氏」は、「鎌倉幕府期」には「旧領地の部分と北勢域」は「本領安堵」され、残りは「地権域」として獲得している。
ところが、「室町幕府期」には「本領安堵域」は「旧領地の多い南勢域」に限られ、「大字のある北勢域」は「全て地権域」と成っている。
これで「額田部氏」も「民間の土建業」の地位も確立する事に成った。
「信濃」は前段で論じた通り「伊勢青木氏」と共に生きたのである。

何れにしても、この「青木氏の在様」を示している「地権域」に付いては、「幕府の政治的施策」に依り「金銭の支払い」で「地権域を買い取った形」を示した事を意味する。
江戸期は殆どが「地権域」と成っている。
江戸期には「尾鷲の旧領地」だけが遺されていたと伝わる。

その意味で、「額田部氏」は「信濃」も含む「総合商社の形態」を執り、その三氏の内の「構成氏」と成って生き残ったのだ。

余談とは成るが、余り「額田部氏の活動」に対して意外に「子孫」を増やしていないのはこの変の事が影響してると考えられる。
且つ、「遷都時の行動」にも観られる様に「天皇家より古い格式伝統」を重んじ過ぎた所以では無いかとも考えられる。
当然に、「宿禰族」でもあり「四掟」としては問題は無いし、「青木氏部」に組していたとすれば「伊勢や信濃や額田」との間には、「嫁家制度に基づく女系に依る血縁関係」があったと考えられる。
然し、何故か「表」には出て来ないのだ。
「氏人の伊勢衆の郷士衆」との間にも確認は出来ないのだ。
「子孫」を大きく拡大させられなかったと云う事もあるが、「戦国時代下剋上」も「青木氏」と同様に組していないし、「抑止力」で護られていた事なので、”表に出ないと云う事に何かがある”様に思える。

「額田神社の神道・神職」に関わる「宗教」なのかも一つの疑問で研究を続けている。
それだけにその「伊勢信濃の青木氏」と共にする「行動」は徹底していたと云う事でもあるだろう。
その「伝統に類する氏」は「天皇家」までも含んで周囲には居なかった事に左右したのであろうか。
それだけに上記で論じた事は「五都に関わる地域」の「美濃域や三河域」への関わりは頷ける。

(注釈 尚、「施基皇子と額田部氏との付き合い」に付いては、「天武天皇崩御の葬儀祭司総裁に「施基皇子」が選ばれた時からの事である。
この時、「額田部氏」は「臣の造の身分」から本来は昇格は「造部・みやつこ」は「臣」まである。
この「仕来り」からあり得ない「三階級昇格で、且つ特別計らい」で「宿禰族・朝臣族相当」に引き上げて貰った「天武天皇へのその恩義と寵愛」から「墳墓築造一切」を任された。
この事を観ていた「二人天皇の葬儀主宰」の「施基皇子」から特別に命じられて、そこからの「付き合い」と成ったと書記にある。
「編者の舎人親王」がこの事を態々特筆しているのだし、「帝紀」にも記載がある。
「天武天皇墓」は「野口王墓 明日香村」である。)

「額田部氏」が「遷都」に同行しなかったのは、「天武天皇への恩義」と、それへの「墳墓の護り」にあって、「明日香の平群」から離れたくなかったとされる説もあり、更には、その「平群」には「彼等の守護神」とも云える唯一の「額田神社」が別に在ったとする「合体説」があるのだ。
「後付け説」であろう。

恐らくは、「額田部氏の伝統や格式」から考えて「付き合い」の深かった「伊勢青木氏」も確定資料も無いが、この「合体説」が正しいと考えている様だ。
唯一つ、前段でも論じたが、「桑名額田」には、現存するが「宮大工の会社」が二つあり、幾つかの土木業の会社を「額田」で営んでいたとする史実が「伊勢青木氏側」にもある。
“「青木氏部」も明治35年に解体したが、その後、員弁や桑名で「宮大工業」を営んでいた”とする「確実な言い伝え」が「口伝」で遺されている。祖父からも聞かされていた。
然し、「額田の姓名」は何故か「額田部氏」ではない。

「穂積氏」は大きく子孫を各地に遺したが、この事から考えると、その差は主家と分家の掟の差と云う事に成る。
「額田神社」は格式は高いが対象神社が三つとする範囲であり、最終は「江戸期の統制」の対象外と成って「額田部氏が護るべき神社」と成った。
従って、つまり、“「額田神社」を永久に主家が護る”と云う義務があり、これに「縛られての差」であって、「神道の宗教・神職・神道」に関わる事と成った。
それ故に、「子孫」は本家分家共に「姓違い」で遺せたが、「主家の神職」としての「由緒ある筋目の額田部氏」は正統に遺せなかったと云う説が生まれる。

「青木氏」と同様に、主家が「神職族」であると云う格式から、つまり、高い「宿禰族」であると云う格式から、本来は「姓」は広げられない。
従って、「額田部氏」だけを何とか護ろうとしたが、結果として「神社」は遺せたが「氏名」は遺す事は出来なかったと云う説が頷ける。
「青木氏」は、「神明社」が有りながらも「由緒ある柏紋の神職・青木氏」を別に作り、これを徹底して「女系の四家制度」で切り抜けたのだ。
故に「神職青木氏」は各地で遺ったのである。

恐らくは「神職と云う事」から長い年代を「男系」だけでは難しかったと考えられる。
ここに差が出たのではと考えられる。
筆者は全国に広がる“穂積氏で繋ぐ”と云う選択肢もあった筈なのに其れもしていない。
それだけに「伝統を重んじた氏」であった事に成る。

(注釈 江戸初期の「神社の統制令」の内に入り「で500社程度を有する神明社」を幕府に引き渡した。
江戸幕府は財政的にも管理し切れず荒廃は極端に進んだ。
但し、「伊勢と信濃と美濃と伊豆」では密かに「祠」で隠して護り通した。)

「額田部氏の系譜」の中まで入れないので、この「推測論」に成るが恐らくは間違いは無いだろう。
それの遍歴が、現在は姓名が違うが「伝統」を護った「額田の宮大工」として遺ったとしているのだ。

だから「施基皇子の裔の青木氏」には,当に、“「墳墓からの付き合い」”と記されているのは、“この事を察して護った”とする暗示の「青木氏の説」があるのだ。


> 「青木氏の伝統 56-2」-「青木氏の歴史観-29-2」に続く。
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「青木氏の伝統 55」-「青木氏の歴史観-28」

> 「青木氏の伝統 54」-「青木氏の歴史観-27」の末尾

> (注釈 当初、「近江」と「伊勢」は前段でも論じたが、「川島皇子」と「施基皇子」の異母兄弟の時代は女系での血縁は完全な同族血縁の一族であったほどに相互に行き来していた。
> 中の良い関係を続けていた。
> 然し、「嵯峨天皇の源氏化が起こる事」に依って「決定的な溝」がうまれ、疎遠と成ったのである。
> 余談であるが、「川島皇子の裔」系の「近江佐々木氏」に引きずられた縁戚の「二つの青木氏」は「真砂不毛の地」で「財力の無さ」と「天武期の「反抗行動」から「朝廷の中」で立場を失って行った。
> その為に源氏化で生き残ろうとした。)
>
>
> 敢えて、追加して上記を論じた様に、「信濃」は「伊勢」と共に「女系」で「青木氏族の体制」を確立していた為に、これには是非に「美濃の源氏化」を進めない様にする事が戦略的に必要であった。
> この為にも「信濃」には同族並みに充分であった為に「伊勢の一色での格式」は必要が無かった事に成る。
>
> 然し、「美濃」にこの「生命線を壊す事」が起こって仕舞ったのだ。
> 恐らくは、この時までは“「伊勢と美濃と信濃のライン(神明社で繋がる族)」”は、戦略的に「青木氏族の生命線」と判断していたと観ての事であったと考えられる。
>
> それには二つあった。(前段でも論じている。)
> 第一段の「皇子」を引き入れる事に依る「源氏化」が多少起こっていたのである。
> 第二段がその「源氏化」が引き起こした「姓族勃興」の危険性で既にあったのである。
> この二つにより「神明社の情報と物流の遮断化(本論)」が齎す危険性であった。
>

「青木氏の伝統 55」-「青木氏の歴史観-28」


さて、前段から「信濃」には「一色の格式」は必要無かったと云う結論に成る。
そうするとここで先に論じて置かなくてはならないのは“「近江の事」”である。
その前にもう一度、お浚いをして置く。
前段でも何度も論じたが「近江」には、抑々、何度も論じているが「近江青木氏」と「近江佐々木氏系青木氏」に「近江佐々木氏」の三氏が「同族の血縁族」として存在していた。
最初は始祖の川島皇子の裔の近江佐々木氏が発祥し、そこから皇子族が近江に移り「伊勢の施基皇子の賜姓」に倣って「青木氏」を名乗り「近江青木氏」が発祥した。
そして、この両氏が血縁して「近江佐々木氏系青木氏」が発祥した。
「近江佐々木氏」は「青木氏族の一員」としても考えられる。
「近江佐々木氏」もその様に考えていたし、異母兄弟の「伊勢の施基皇子」の裔と相互血縁した様に「奈良末期の血縁」では間違いなくそうなる。

(注釈 「近江佐々木氏」の「青木氏の研究記録」に詳細に記されている。)

そもそも、「近江青木氏」はその所以を以て発祥している。

概要は次の通りである。
前段でも「血縁弊害の処」で論じている様に、奈良期の「伊勢青木氏からの血縁」で嗣子の一人に「近江の青木氏」を興させた。
これが「近江青木氏」で、この「近江青木氏」と「近江佐々木氏」との重血縁で「近江佐々木氏系青木氏」が発祥して子孫を拡大させた。
この三つは「近江佐々木氏」が主縁(リード)と成っている。
「近江三氏族」と云われていた。

この「三つの族」は地理的要因でその存続の「経済的な裏付け」が弱く、従って、「伊勢」は「額田部氏や穂積氏」を投入して「干拓灌漑の工事」をして「和紙の殖産」を促した。
ところが、史実としてこれが「逆の効果」を生んだ。
「近江佐々木氏」にリードされた和紙で経済力が着いた所以を以て「二つの青木氏族」は「伊勢と信濃」から離れて「甲斐」と同様に「自立の道」を選んだ。

「近江佐々木氏」にリードされた事から「伊勢」とは疎遠と成って仕舞った。
ところが、更に「嵯峨期」に入っても「縛り」の外れた「嵯峨源氏」が当に近江の地元で起こった。
当然に、その傾向にあった「三つの族」は更に「源氏化」が極端に進んだ。
「近江佐々木氏」に全て引っ張られていたと云う事である。
これが経緯である。

「近江」には源氏化で最早当然に「伊勢の権威と支援」は必要なかった。
要するに「近江族」には、「信濃」と「甲斐」と共に“「一色の格式」”に付いて「別の意味」を持っていた。
「近江佐々木氏」にも「源氏化」が起こった事に依って相反する意味を持つ「一色」を拒絶するそれを「他の近江二氏」と共に成し得ていたのである。
これが「近江」に「一色の地名」の無い所以である。

従って、この「三つの青木氏族」は「経緯と云う過程」で「一色の地名」に於ける「権威」は必要とはしなかったのである。
況や、近江族に執っては当に論外であった。

(注釈 近江でこの「一色」を必要としなく成った事が「神明社の情報紋の遮断の主原因」と成ったのである。
近江は「佐々木氏と経済力」が主因であった。)


「一色の論」から「美濃の論」の元に戻して。
然し、「美濃」は要するに、これ等の事と比較すれば、前段でも詳細に論じた様に主因は次の為の事であった事が判る。

前段で論じた事を「別の視点」からこれを観て観る。
「面白い経緯」が見えて来る来るのだ。

第一段は「皇子」を引き入れる事に依る「源氏化」が起こったのである。
第二段がその「源氏化」が引き起こした「姓族勃興」の「神明社の情報と物流の遮断化」であった。

「第二段の事」はそもそも「青木氏」である限りは「神明社族」であり、然しながら「源氏化」に依って「八幡社族」と成って仕舞った。
結局は「神明社」と「八幡社」は「密教と顕教の差」にあり、その「教義」は相反するものと成ったのである。
故に、「神明社の存在否定する結果」と成ったと云う事である。

(注釈 「密教と顕教の差」は前段で論じた。
「9つの縛り」と「原理主義の白旗派・律宗」の意味する差である。
端的に判り易く云えば「水と油」であるだろう。)

これが「美濃域」には「神明社」が少なく成った所以であって、それが「源氏化と姓化」に合って、それが「源平戦」と成って「神明社」が無くなり、上記した“「第一段の遮断」”が起こったのである。

これが当然に「伊勢と信濃」に大きく影響した。
「源平戦」で敗戦し生き遺った「一色族」は前段でも論じた様に「信濃までの山間部」に逃げ込んだと云う形である。
然し、此処で彼らの一部は「生遺路線」を選択して「源氏族」から逃れ「一色の青木氏」を旗印に「伊勢信濃のシンジケート」と成ったと云う経緯である。
この時、「青木氏の財力」を使って彼等を保護し「美濃-信濃間域」に「神明社の再興・情報網(第1期)」を成し遂げた。

(注釈 この時の「神明社再興」には“「神明造祠社」”が多かった事が「桑名の資料」には記されているし、現在も「桑名と美濃の西地域一帯」にはこの「神明造の祠社の神明社」は遺されている。
管理は「青木氏神官族」で成されていたが、「社」というよりは寧ろ此処に「青木一族」が集合して「情報交換・中継点形式」をしていた事が記され、その内容が判っている。
「室町期の御師制度」の「情報交換の中継拠点化」と成っていた事をも示す。
「全国から集めた情報」をこの「桑名域に集めていた事」にも成る。
つまり、「桑名殿」が「情報交換の係」を担当していた事にも成る。
これは「商いの情報」と「戦況の情報」であった事にも成る。
「美濃伊豆の戦況」も然る事乍ら「商い」も大きく成っていた所以であろう。
これは前段でも論じた様に「伊勢」では「桑名」に全て「神明社・9社」が一括集中させていた事でも判る。
それ故に、前段の「御師」から集めた情報から「移動時期」を見据えて「伊勢の裔系の集団移動」はここに辿り着けば安全であって、元より「桑名殿の裔系」であった事にも依る。
此処に美濃の「伊勢の裔系」の「二つ目の清光院」と「二つ目の清光寺」を木曽川長良川を隔てて戦略的意味合いで右に隣接する様に建立しているのである。
前段でも論じた様に「額田端浪の一色」から現在のR19で全く直線的に最短で移動した事に成る。)

前段で論じた「移動経緯」から水路では一時それなりに回復する「第2期」が起こった。「伊勢-渥美-駿河-伊豆」と繋がった事に成ったのである。
次はこれを起点に「国衆の南下策」を促進させる為に「陸路」の縦の「伊勢-三河-美濃-信濃の情報網」を造る事にあった。
ところが室町幕府との「白旗派の浄土宗承認」や「伊勢神宮信仰」に合わせた「神明社の庶民信仰」等の「政治的策謀」や「御師制度」等の策で「空白地」「空白期」では「伊勢-美濃-信濃の情報網・R19」で一時的に繋がったかに見えた。
然し、これも「15年程度の短期間」で「空白地」「空白期」は崩れたのである。

これで再び、「室町期の戦乱」で「信長勢力」に依って恣意的に「神明社の情報網・中継点形式」が遮断される結果と成ったのである。
要するにこれが「第3期」である。
これで再び「伊豆との連絡網の遮断」と成った。

然し、「平安末期の伊豆の結論」は、それぞれ違う経緯で「近江と美濃と甲斐」が敗退したのである。
その「時系列の経緯」は、この事から上記の通り「1159年」から「伊豆入り」し、「1221年の直前」までの「約60年間程度」でそれなりに「神明社の情報網・中継点形式」は回復させた事(第3期)が「人と神明社の構え」から判る。

いよいよ「国衆の南下策」を急いで動かそうとしていたその時に、然し、再び、記録から観てみると“「鎌倉時代」の「伊豆内部の混乱」”で「第3期の神明社焼失」の事と成っている。
要するに今度は「鎌倉幕府の滅亡の混乱」に巻き込まれて「伊豆の神明社の焼失」が起こって仕舞ったのである。
滅亡寸前であった事に成る。
これらの「室町期前期」の「3期の経緯」を経て、結論は「1540年以降の室町期後期」に再度、前段で論じた様に「国衆の南下策」で回復させた事(第4期の経緯)に成っている。

そこで、この時「3期の経緯」は、「室町幕府」が「法然浄土宗14派中」の「最小派」の「白旗派の密教浄土宗・原理主義」を「本貫本宗」として強引な決定を下した。
同時に「原理主義一体」のものとして「神明社(青木氏の守護神)」も認める等の決定を下し「青木氏」を擁護した。
これがこの際の「幕府と青木氏の政治的策謀」であったと観ている。
これで、「神明社の情報網・中継点形式・水路」は「藤枝・富士宮・三島と駿河」までの再建立(第3期)が成し遂げられたのである。
「浄土宗」が「白旗派の原理主義の律宗族」と成った以上は、つまり、「伊勢と信濃の青木氏」の「政治的立場」が公に認められたも同然と成った。
これで「1560年期の松平氏・三河で独立」が「三河国衆」として認めより「国衆の南下策」が容易と成ったと考えられる。
当然に「国衆」に成るには南下策だけでは成立しない。
「足利氏との政治的策謀・裏工作」と同様に「松平氏との政治的策謀・裏工作」は否定できない。

(注釈 この第4期の「藤枝の四つの神明社」にはその「第4期なりの特徴」が出ているのである。
それは「神明社の構え」であるのだが、この中に「特徴」を顕著に表している「神明社」がある。
それは「呼称」の一つだけに表れているその「社名の構え」が“「伊勢神明社」”と云う「神明社の情報網・中継点形式」を適格に表現しているものであるのだ。
実はこの「伊勢神明社の命名」は「信濃と美濃」にもあるのだ。
敢えて、「第4期」の混乱期であるが故に、「足利氏背景」と「律宗族・遺された皇族系族」であるとする「其れなりの意味・誇示」を持たして名付けたと考えられる。)

「伊勢と云う呼称」のその背後に「伊勢の抑止力」を「伊豆」にも宛がえたと観られる。
将又、同時に「仏教の象徴族」の「律宗族」であって、且つ、明らかに全国庶民信仰と成った「神明社」の「神明社族」であるとしてその族の「神明社の情報網・中継点形式」の「拠点である事」をも周囲に誇示している事に成る。

これは同時に、「神明社」を分散させるのではなく「伊豆」から離して「藤枝、三島地域、富士宮地域」の三カ所と隣の「駿河市東町」の「一地域」に集中させているのだ。
本来であれば「庶民信仰」であれば平等に「分散」させるのが常道である筈だ。
ところが極めて一か所に集中させているのだ。
明らかに「伊勢の呼称」と共に「ある種の目的」があっての事である。

この上記の「計四ケ所の神明社の創建期」と「伊豆内部の神明社の創建期・平安期」が現地調査に依ればその「構えの内容・平安期の様式変化」から判断して大きくずれていて前者が「室町期初期」である事が判る。
「伊勢-美濃-三河-駿河-伊豆」の経路を再興して「伊豆」を護ろうとした場合は、「伊豆の人」が先ず移動してそこに「守護神社・神明社」を建てると云う経緯を辿るだろう。
「室町幕府の擁護」もあってそれなりに補完出来た「第4期」でこれを実行したと云う事に成る。
それ故に、「伊勢の呼称」は「室町幕府の擁護」があった事も相まってあってその「格式」を誇示しての事もその一つであったであろう。
「室町幕府の擁護・白旗原理主義」が「全国の神明社」をも護った事もあったと考えられる。
つまり、普通ではあり得ない「菩提寺」が「守護神」を護ったと云う事である。
これは、特定される「律宗の氏族」であるが故であろう。

この様に「室町幕府の権威」が失墜し始めた室町期末期までは兎にも角にも「神明社の情報網・中継点形式」は何とか維持出来た。
これが上記した様に「特別な変化」である。

(注釈 そもそも「神明社の建設」は、「社格」は「官幣社」で在り乍らも「賜姓五役・令外官」であるとしてその「財源と建設と維持管理」は「青木氏部」で江戸初期まで行われていた。)

さて、これで「伊豆側」の「神明社の情報網・中継点形式」は回復した様に観えた。
唯、ところが「伊勢-美濃-三河-駿河-伊豆」の経路は、「伊勢-美濃-三河」の間で上記した様に再び断絶したのである。

「戦乱期の信長」で「尾張域の神明社」は再び「神明社の情報網・中継点形式」の「神明社」が今度は「信長勢」に敵視され遮断される結果と成ったのである。
「室町期中期」には遂には「情報交換・中継点形式」は、又もや「伊豆」には届かなく成って仕舞ったのである。

今度は「青木氏の対処」は違った。
再び、渥美への裔系の移動は前段の通り成功した。
そして次の段階として「1540年頃」から「ある行動」に移したが、今度はその戦略は氏是を破り「戦闘的」であった。

そもそも、この行為は奈良期からの「青木氏の氏是」に反する。
然し、何故この「青木氏の氏是」に反する行為を執ったかである。

その理由は実は「伊勢から伊豆」までの「情報交換(中継点形式)」には「大きな欠点」を持っていた。
この「欠点」が「戦乱と云う状況」の中で「氏全体の致命傷」に成る欠点であったからである。
それまでは問題では無かった。

「伊勢-美濃-三河-駿河-伊豆」の経路を観ればすぐ判る。
それが「-三河-駿河-」には「青木氏」は存在しない。
要するに「定住地」では無いのだ。
然し、それでもそれまでは「人間の血管」に当たる“「神明社」”と云うものがあって生きて行く事が出来た。

(注釈 歴史的にはこの域を支配する「今井神社系のシンジケートの連携」で何とか助けられて繋がっていた。)

ところが「戦乱と云う状況」では“これを絶たれると云う事”が起こった。
“「人間の血管」だけでは駄目”に成ったと云う事である。
要するに「体」を造らなくては成らなく成った。
その「体」が「氏の人」のものであって、其処に置かなければ効果は出ないと云う事である。
「神明社」が「血管」であって「心」であり「体」と一体にしなければ成らなくなったと云う事である。
この「-三河-駿河-伊豆」の間に何らかな方法で「体」を置かねばならない。

そして、それだけでは無かった。
「伊勢-美濃-信濃」が「信長」に壊されようとしていたのである。
現実に「体のあった美濃」が小さく成って「山間部」に逃げ込んだ事で空いた隙間を見事に壊された。
「神明社の血管の破壊」と「美濃氏の体の破壊」も興り形が無い事に成って仕舞ったのである。
「伊勢-(美濃)-信濃」でも「信濃シンジケートと云う形」で繋いでいたが無理と成っていた。
それは「伊豆」が成り立たなく成っていた事を示すものであった。
この「空いた隙間」を埋めていた「伊勢秀郷流青木氏族」も補完して「美濃」まで張り出していたが、その「頼みの勢力」の一つと成っていた「永嶋氏」も衰退し「結城」に引き始めていたのである。

そこで「伊勢と信濃」は「戦闘的復興戦略」(下段で論じる)を採った。
つまり、此処に「陸路と水路」の「神明社に依る情報交換点(中継点形式)」を構築しなければ「廃墟と復興の第5期」が必ず起こる。
「伊豆の背後」の「頼みの綱」の「秀郷流青木氏」に「助太刀」を頼むとしても「神明社に依る情報交換点(中継点形式)」が欠けていれば「即戦力」には成らず間に合わなく成っていた。

では、どうするかであった。
簡単な事である。
「美濃」をもう一度興して「美濃」から「三河の湾岸域」に引き出して「青木氏の拠点を新たに作る事」と、破壊された「神明社に依る情報交換点(中継点形式)」を造りなおす事以外に無い筈である。
これで「血管と体と心」が「伊勢-美濃-信濃」と「-三河-駿河-伊豆」を造る事が出来る。
「伊勢-美濃-信濃-三河-駿河-伊豆」(駿河には第4期で構築した)は完成する。
これで「伊豆」は護れる。
前段でも論じた様に、問題は上記の“「美濃・額田一色」を「三河」に下ろして来る事が出来るか”である。
つまり、「信濃シンジケート」と成っている「美濃の額田青木氏」を「シンジケート」では無い「三河の青木氏」にする事である。
これは「山岳民」を「湾岸民」にする事に成る。
これは「人,時、場所」の「三要素」が揃わなくては成り立つ戦略では無い。

それには「陸路と水路の両面のルート」を構築しなければならない。
「縦の陸路」は“「美濃」を「三河」に下ろして来る事で出来る。
そうして、これが出来れば「三河の港」を確保すれば伊勢と三河までの「水路」は「伊勢水軍」で成り立つ。
「水路」は「伊勢-(美濃-信濃)-三河-駿河-伊豆」の上記で論じた様に「駿河」には「第4期」で構築したので「駿河・駿河湾」と「内浦湾」では出来ている。
後は「三河と駿河間の水路の構築」にあった。

そもそも、「水路」はその「圏域・海域権」が「水運組合と海運奉行」に依って昔から決められていて変わっていない。
要するに「伊勢水軍」が勝手に入る事は出来ないのである。

ではどうするかであった。
「伊勢の尾鷲」の「伊勢水軍の差配」の家に資料が遺されていて、この一節にこの事に付いての「行」がある。
要約すると、「摂津会所の・・・駿河殿の件の御差配に付いて承知致し候故に御安堵下される様に・・・御手配お頼み申し候・・・」とある。
恐らくは「福家からの指示」があって「水軍」が何かをしたと考えられる。
この時期は準備段階に入った5年後の「1545年」と成っている。

同時に前段でも論じたが、伊勢が「千石船の大船」を更に一艘を持ち、「熊野水軍」と「摂津の寄合組合」に「海路の水利権」を申し出て獲得している。
「商記録」にもこの「支払添書」の一行事があり一致している。
これは恐らく「組合員の会員権の取得費」であろう。
「摂津」までの四艘目の「海路の水利権」を持った事が判る。


さて、そこで、「駿河水軍の事」ではあるが、「駿河水軍」には「平家水軍」に対抗する為に「駿河源氏」に頼まれて参戦するが滅亡する。
この「駿河水軍」と「伊勢青木氏」と「伊勢水軍」は相互に血縁関係を持っていた事を前段で論じたがこの「源平戦」で「美濃族」等と共に滅亡する。

この「駿河水軍」は其の後も「海路の水利権」だけは持っていたと考えられる。
筆者の分析では、「伊勢の福家」はこの時の「差配」を「伊勢水軍の差配頭」に考えを述べたのでは無いかと観ていて、上記の資料はその時の打診であったと観ている。

そして、「1540年の準備段階」の五年後から「伊勢水軍」に「駿河水軍の支流末裔の者(血縁族の駿河青木氏滅亡)」を呼び出して訓練し、其の後に「伊勢」が建造した「船一艘」を与えて、「血縁族の駿河水軍」を復興させようとする考え方を述べたのでは無いかと考える。
その為に取り敢えず、経済的に成り立ちさせる為に「摂津会所(堺)」に先ずは「海路水利権」を申し込んだのでは無いかと観ている。
「駿河水軍」としての申請では無く「伊勢の申請」として扱った。
「伊勢の仕事」を彼らに与え「摂津支店」までの「荷駄の搬送」に従事させて経験を着けさせたと観ている。
この事を「血縁族」でもあった「伊勢水軍の差配頭」にこの事を相談し伝えて了解を得たという事ではないかと観ている。

さて、その後の事ではある。
「駿河域の会所(府中)」に「駿河水軍」が組み入れられるかであろう。
唯、「組合の株券」は保持している筈である。
「源平戦」で負けただけで既に幕府は室町期にあるとすれば、「出自を証明」できれば「復権」は出来る筈で、後は「商人」である以上は「組合の株券」を買うと云う名目の裏の手で解決は可能である。
この「証拠」と成るものは無いが、「状況証拠」である。

(注釈 この「状況証拠」に付いて現実に「其の後の事」ではあるが、「駿河湾」と「内浦湾」に「伊勢からの荷駄・商記録に四か所の記載有」が入り「藤枝、三島」を始めとする「地域・八カ所の青木氏」の「青木氏の商い」が復活しているし、「下田」と「稲取」にもである。
当然に、「神明社に依る情報交換点(中継点形式)」を構築も復活しているのである。
これが何よりの証拠である。)


先ずそうすれば「水路」では「三河・渥美湾」から「伊豆・駿河湾」まで成り立つ。
後は「陸路の創設」が「戦い」を伴ったもので大変であった事が「松平氏の戦記等」の複数の記録で詳細に判っている。
この様な「多くの死者」を出した「実戦事」は「伊勢」と「信濃」の「青木氏の歴史」の中では初めてである。
それまでは全て「抑止力」で済んでいる。
ところがこの時の記録に依れば「額田青木氏の差配頭」等が「激しい銃弾戦」で戦死しているのである。

尚、注釈として、「伊豆の現地調査」の印象の一つは「イ地域からリ地域」までの「青木の地名」の「青木氏」には現在も「何らかの商い」を営む「青木さん」が実に多い事であった。
この事に意味があって、1159年に「伊豆」に入ったが当然に其れまでには「伊豆の土地への繋がり」は全く無かった。
「伊豆」は実質は「頼政の所領地の守護の警備」としてではなく、「山岳地の伊豆」を豊かにする「管理人的な目的」で「頼政」に頼まれて入った経緯である。(清盛の圧力)
従って、「伊勢や信濃」の様に「土地の郷士との繋がり」で「氏族」を形成していた訳では全く無かった。

「伊勢信濃の融合族」として「管理人的な目的」では「商い」が主体で管理するだろう。
「頼政」は遙任であって実質の格式は「守護代」である。
「地域の治安」と「地域を豊かにする事」の「二つが目的」であって「武力的に統治する形態」ではそもそもなかった。

故に、「伊勢や信濃との繋がり」の中で「殖産を含む商い・伊豆楮や海産物」を興して統治する事が主眼であった。
伊勢に送っていた形態であった事が記録に遺る。
それだけに、「伊豆の商い」は「独自路線での伊豆」では無く、飽く迄も「伊勢や信濃との繋がり」が切れれば滅亡するのである。

当然に「伊勢や信濃」はこの「命の繋がり・血管」を切る事は見殺しに成る事は充分に承知の上である。
必死に成って「神明社に依る情報交換点(中継点形式)」を構築してこれを護ろうとしたのである。

「管理人」として入った当初は「土地との繋がり」の無い地域である。
故に「国友」を「信濃青木国友」として入って管理している者等に配慮し、且つ、「地元の者」には実は「頼政の孫」を隠して「信濃の青木国友の事」を誇示して上手くバランスを保ったとも考えられている。
その経緯が現在に成っても“「何らかの商い」を営む「青木さん」”の形に成って表れていると考えられるのだ。

(注釈 実は、前段でも論じたが、「伊勢」に、この時、「伊勢秀郷流青木氏」の出自元の「秀郷流蒲生氏郷」が入り、「近江商人」を呼び寄せて「管理方式」で「国を富ませ統治」に替えるとする考え方を採用した。
この方式が平安末期から鎌倉期芽を吹きだしていた。
「清盛」も同様の形式で九州の北部域太宰府などを統治しようとした。)

当の「青木氏」から観れば約300年後の「宿敵の信長」も「楽市楽座・自由市場」の方針を示している。
つまり、「伊豆」は既に1159年にはその考え方を実行したその「先駆け」であった筈である。
「伊豆」に執つては300年経ってもこの環境下にあってこれまで上記した様に「四度の復興」で生き延びて来た。
この「管理方式の立場にあった事」が「一種の欠点」でもあったのだ。
「伊勢と信濃」は「商いをしている事」からもこの「一種の欠点」を「神明社に依る情報交換点(中継点形式)」で必死に補い救おうとした構図と考えられる。

然し、それが「四度の再興」で何とか逃げ延びられたが今度は簡単では無く成ったのである。
それが皮肉にも同じ考え方を持ちもっと進んだ考えの「信長」であったのだ。
唯、「彼の考え方」には「伊勢信濃の律宗族」に執っては「相容れない勢力」があった。
それが「青木氏」が「補完の手段」としている「神明社に依る情報交換点・シンジケート」の「寺や神社などの勢力」も含む「影の勢力」であった。
「伊勢」でも「影の勢力」として観られ、同時期(1568年~1576年)の8年間に渡って「信長勢力(秀吉含む)」とも争っているのである。
然し、緊迫していたのは「伊豆」だけではなかったのだ。

当然に「伊勢」も対象として観られていたが、「伊勢シンジケート」で対処して「伊勢の五つの戦い」で勝っているのだ。
ところが不思議な事にこの「勝った背景」には、前段でも論じたが「信長」から派遣されていた「血縁族である信長の家臣の蒲生氏郷」があったからだ。
彼は「伊勢秀郷流青木氏の出自元・氏郷の曾祖父の兄弟」であり、故に彼は上手く立ち回ったのである。
それ故に「伊勢の背景」が出来た事から早期でも「美濃」に手を出す事が出来たのである。

前段でも論じたが、一説には、“「1540年頃」には動き出した”とする記録があり、これには「美濃」で起こった「斉藤氏等の争い(美濃尾張を制する)」に「シンジケート」が多少は何らかの形で関わったとする説では無いかと観る事も出来る。
然し、上記の時期では「伊勢」では「駿河水軍」を興す為に「船の調達」に関わる「伊勢水軍」との「やり取り」が「1545年頃」であった。
そうすると、この説ではこの5年間で並行して何か既に「美濃域」で動いていたのでは無いかとも考えられる。

実際には「初期の戦闘行動」があったのは「1545年~1575年代」であったので、この間の「30年程度」は時系列的に“準備期間であった”と云う事にも成る。
準備期間は当然に斉藤氏に疑われる。
然し、記録から斎藤氏との間での争いに関するものは発見できない。
先ず、南下の為の「三河の松平氏との調整」の前に、手順としては現場でのこの「斎藤氏との調整」を果たさなければならないであろう。

斉藤氏は「1432年」から始まり1542年の最盛期を経て最終は「1573年以降」は衰退し、そして江戸期には「米沢藩の平侍」までに落ちる事に成るが、「国衆」が南下して「一言坂の戦いの1年前」と成る。
そうすると、少なくとも南下に入り「三河松平氏の国衆」と成った時期の「1560年以前」では美濃では未だ「斎藤氏の影響・1567年」を受けていた時期である事は間違いは無い。
「超近代銃の集団」を訓練しているのに何も無かった訳では無いだろう。

その為には二つ考えられる。
一つ目の策は、一時的に「美濃国衆(斉藤氏の国衆)」に入っていた事
二つ目の策は、斎藤氏に「裏の策(金策)」を使った事
この「美濃国衆(斉藤氏の国衆)」は公的な記録に遺されているので現実である。

国衆として「美濃」を離れて「三河国衆」として南下するには斉藤氏に対してそれなりの策を講じる必要がある。
無事に南下するにはそれが「二つ目の策」であった筈である。
故に経過としては南下出来たと考えられる。
「1567年」に「稲葉城」を「信長」に依って滅ぼされ「1573年」に逃亡した。

(注釈 この「時系列の結果」から観ても、犬猿の仲の「信長が入る前の時期」に「上記二つの策」で南下している事(1560年説)の資料は間違いはない事に成る。)

「本戦の戦闘行動」は前段でも詳しく論じた様に「一言坂の戦い(1572年)」で、続いて「三方ヶ原(1573年)」であった。
実はここまでは関わったのである。

実はこの時期は上記した様に「伊勢」でも「激しい戦い(1568年~1576年 実質は1578年)」に成っていた。
ところが、記録を観ると、「ある事(詳細は後段)」で「其れ成りの目的」を完成してか「1574年以降」は「三河」から手を引いている形に成っているのだ。

唯、この「資料説」が史実とすると、“「1540年~1560年の行動(準備期間)・(準備戦)」と「1568年~1578年の戦い・(本戦)」がどんなものであったのか”は「詳細」は判らないが気になる事である。
後者は前段で論じた様に、記録の通り当に「戦い」のそのものであった。
問題は「前者の期間の行動」である。

“「ある事(詳細は後段)」”が「伊豆」に関わる事であるとすると、この「シンジケートの元」が「第4期の再興の事」と成り得る。
然し、この時の少し後には、既に「美濃」では「神明社の情報網」は切れていたので、「戦闘的復興戦略の作戦行動」の本戦とは別に、要するに“「初期作戦」”が取られていた可能性は否定できない。
伊勢(前半はゲリラ作戦・後半は本戦)でも戦っている時期である。
この環境の中で「後者の戦い」にいきなり突入する事は無いと考えられる。

そうすると、「前半と後半」とには「8年間の差の期間」があるが、「1560年~1568年」の「準備期間の後半」である。
この期間が“「初期作戦」”説としは正しい事に成る。

では「どんな作戦」で「戦い」は繰り広げられたのかではある。
ところがこれには詳しい記録はない。

そこでこれを読み解くには「戦闘的な復興戦略の作戦行動」には何が考えられるのかである。
つまり、「シンジケートの額田青木氏」を「国衆」として「蒲郡」まで引き出して「土壌」を作るには「美濃」と三河」にどのような行動を取らす必要があるのかである。

それを一応、次の様に考えて観た。

イ 「準備の財源」には問題は無い事を保障している事。
ロ 「伊勢と信濃」が説得に掛かっている事。
ハ 「一族の生活保障」を約束している事。

ではこの「三つの事」に就いてどの様に手配するかであろう。

0 シンジケートの目的と説得 (神明社復興 伊豆救出)
1 シンジケートの内部の意思統一 (「a族とb族」の利害統一)
2 シンジケートの「差配頭」をどうするか (美濃青木氏の末裔)
3 この「組織」をどの様に分けるかの決定 (「a族とb族」の二つに分けた)
4 その「組織の形」を何にするか (「国衆」として結束)
5 「戦略の提示」とその「作戦会議」 (最大の課題)
6 「軍師の決定」 (伊勢秀郷流青木氏)
7 「作戦実行」を何時に開始するか (美濃を出る時期)
8 「合力相手との関係性」の決定 (松平氏)
9 「松平氏(国衆)」との調整 (伊勢が担当)
10 「戦略実行後の処置」 (伊勢信濃が補完)
11 「土地の郷士との説得」 (国衆として入る地元説得 蒲郡と吉田)
12 「駿河青木氏」の復興 (駿河水軍の再興)
13 「駿河水軍と美濃族との関係性」の復活 (平安末期決別 水陸の経済的繋がり)
14 「渥美湾の利権」の取得 (美濃の陸運と水運の融合)
15 「駿河水軍」との結合 (伊勢湾-渥美湾-駿河湾の航路)
16 「神明社」の建設開始 (桑名-渥美-駿河-伊豆)

筆者ならば少なくともこれだけの事は事前に決めて係る必要があると考える。
その「問題の決め手」は「戦い」を前提とすれば主要な事は「5と6の事」であろう。
これを“1590年程度で「最終目的・南下定着」に到達させる”とすると長くは無い。
何せ「伊勢」も「戦い」に入っているのだ。

「伊勢と信濃」が「実戦力」を持っていないと成れば、「伊勢のシンジケート」の「抑止力」をフルに使って牽制して、且つ、「財力」で抑え込む以外には無い。

前段でも論じたが、現実に「伊勢の松ヶ島戦い」の「二戦」では幾つかの記録には完全にこの「伊勢のシンジケート」の「抑止力」だけで勝利して「最小限の負担」に軽減している。
これに「秀吉の長島の戦い」を入れれば「伊勢五戦」である。
全てこの策で伊勢はとりあえず勝利している。
後は、「三河」に全力を投入すると云う事に成る。

現実には作戦通りに「伊勢信濃が出来る事」は、上記の通り見事に「伊勢のシンジケート」の「抑止力」を派遣してフルに使って牽制して、且つ、「財力」で抑え込んだ事に成った。
片方の伊勢で戦い、片方の美濃では国衆南下をさせたのである。
実戦に近い「伊勢シンジケート」を使って先ず「三河の山間部」を獲得する事であった。

「戦略物資の輸送路の遮断」
「戦闘物資や食料調達の買い占め」
「周辺域のゲリラ作戦の展開」

「伊勢」と全く同じ作戦」を「三河」にも採った事が「商記録の添書・商取引・時系列」で読み取れる。
これが“「初期作戦」”説の根拠に成っている。
「1560年~1568年」の「準備期間の後半」の事である。

その「国衆南下のルート」は「本庄の額田」から「蒲郡」までの「真南に60k」の「圷と山間部の境目」を降りて来る事に成る。
この“「初期作戦」”の目的は改めて次の二つにあった。

「国衆」と成って南下して「渥美湾域」を抑え此処に「陸路水路の拠点」を築く事
「伊勢の信長勢力」に絡み乍ら「三河」での「信長勢力への牽制」である事

この「初期作戦の二つの目的の達成」であった。
この「二つの目的達成」は「信長」に執って「戦略上好ましくない事」であったと考えられる。
然し、「松平氏」にはやっと「三河」を「今川」から取れたもので、これを「信長」に取られる危険性はあって、それを三河に執っては「国衆の立場」から側面から牽制してくれるのには都合はよかった。
誰も入手できない超近代銃を持つ事で「単なる国衆」とは見ていなかったのであろう。
それは「歴史的な史実」として「雑賀衆」に入手を断られそれだけに困難さは知られていた筈である。


(注釈 「雑賀衆と根来三千の銃傭兵」で取り敢えず解決した史実が在る。
そこで「信長の松平氏への牽制」は、歴史的にもこれは「現実の事」として激しく動いていた事はこれは史実である。)

何しろ「ゲリラ作戦の国衆」で、且つ、“「超近代銃300丁(下記)」”で「武装する国衆」であり、後ろに「財力の青木氏」が控えていると成るとうっかり手は出せない。
既に少し前に「伊勢の事(伊勢五戦)」で「痛い目」にあっている。
抑々、「額田青木氏」と云えど「普通の国衆」では無い。
何せ背後に「伊勢」と「秀郷一門」が控えている。
信長に執つては直近に「武田氏との決戦」を控えている中では「三河の国衆側」から動かなければ取り敢えずは「黙視」が常套手段であろう。
現実に松平氏は国衆を使って西には動かなかった。

「戦い」も無く「蒲郡域と吉田域」を「今川氏衰退(1560年・岡崎城敗退)」のすれすれ(「1560年~1568年」の「準備期間の後半」の記載)に手に入れる事が出来たのは、この「強力な背景」があった事に間違いはない。

恐らくは、この「信長」は「岡崎城奪取のチャンス」を狙っていたと考えられる。
単独での「蒲郡と吉田の奪取」は目立ちすぎる事から得策ではない筈で、従って「松平国衆」として「蒲郡と吉田の奪取」であれば、「信長」を含む「衆目の理解」が得られた筈であった。
これ等の好機に付いては次の「裏の段取り」が在ったと考えられる。
「地元と松平氏への裏の交渉・情報の取得など」が在った事に依るだろう。
「地元の土豪郷士」に執っても安全は保たれる事にも成る。
これは「地元の郷士と松平氏と額田青木氏」の「三方両得の策」であっただろう。

(注釈 「伊勢青木氏」から「軍資金等の協力金名目」での「三河」に対してそれなりの処置は在ったと考えられる。
何故か「名目」を替えての其れらしきものがこの期間内には「商記録」には見つけられない。)

つまり、「水路の戦略(1540年~1545年)・第1期」と「陸路(1560年~1568年)・第2期」とは「ある期間・15年・第1期の準備と第2期の南下の重複」を置いて同時並行して続行していた事になるのだ。
それでも「戦闘的な復興戦略」を実行した。

(注釈 この「戦闘的な復興戦略」を「後段の伝統 56-1」で詳細に論じる。
「三河と伊勢」に「青木氏に関わる多くの資料と記録」が遺るので詳細に再現してみる。)

その前に、「予備知識」を次の段に論じて置く。


「青木氏の伝統 56-1」-「青木氏の歴史観-29-1」に続く。
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「青木氏の伝統 53」-「青木氏の歴史観-26」

「青木氏の伝統 52」-「青木氏の歴史観-25」の末尾
>
> (注釈 興味深いのは、中に“「今井影」”とあるが、これは「美濃」で活躍し信長を「影の組織」で苦しめた有名な「今井神社の影の組織」との「やり取り」を匂わせている。
> これら「青木氏」が持つ「資料の全て」、「地名や代名詞」等をプロットとすると、「南勢」から「美濃加茂郡」を経由して「信濃」に「縦の線」(美濃ではR41、R62、R19の山間域)で繋がるのだ。
> 取り分け、平安期末期の当時としては、「美濃」の「土岐氏系青木氏・滅亡衰退」の存在が大きく左右して、「土岐」から当時の路の「R19線」を経由して「信濃」に繋がっていて、逃亡時は、ここを通じて「信濃」に逃げ延びたし、この「山間部」に逃げ込んだと考えられる。)
>
> (注釈 又、「三野王の末裔」の「美濃青木氏」に嫁いだ「伊勢の浄橋と飽波」で生まれた゜伊勢の裔系」は、平安末期の平家との戦闘でこの「シンジケート」を頼りに「R41-R62の線上」を「信濃」に向かって逃げたと考えられ、この山間部に逃げ込んだと考えられる。
> 結局は、「伊勢桑名の出自の浄橋と飽波の裔系」がこの「信濃シンジケートの一員」と成ったのである。
> 「伊勢桑名の出自の浄橋と飽波の裔系」の彼らは「額田一色」にその拠点を置いて伊勢と信濃の支援を得ていた。
> 「伊勢桑名の出自の浄橋と飽波の裔系」に従ったこの「二つのルート」(「(a-1)(a-2)の原士」)には「氏族の氏人」と成った「元高位の官僚族bとc」は、「神明社」を介して「信濃シンジケート」と成って生き延びたと観ている。
> 故に彼等も「神明社」を守護神とする族に成ったのである。
> そもそも考え方として、“「伊勢」に向かって逃げ込む理屈”もあるが、これは“火に入る夏の虫”と成り得る。
> 目立ちすぎて無理であろう事は明白でこのルートに入って支援を待つ事を選んだのである。)


「青木氏の伝統 53」-「青木氏の歴史観-26」

さて、そこで「伊豆の国友の件」に戻す。
丁度、この上記の時期の直前に、即ち「以仁王の乱」の前に「頼政の件」が起こった。
上記の「前知識の説明」で、「国友」は先ず「信濃」に入り、そこで「信濃の青木国友」と成ったとある。

この「青木国友」は「国衆」の多い「信濃」では危険であった。
そこで、「融合族の伊豆」に入り、「伊豆の青木国友」と成った。
これで「信濃青木氏と頼政の策」は「平家の追及」から逃れられ「危機」は無く成り成功する事に成る。

「皇族臣下族」としての護るべき「9つの縛り」を護らず、且つ、「四掟の範囲」を逸脱した源氏族に対して「信濃」はこの「迷惑な話」に対して上記の様に目論んで臨んだが、幸い現実にそう成った。

そもそも、そこで「頼政の所領」の「平安末期の伊豆」はどの様に成っていたかである。

この”「所領」”であるとされる「伊豆の青木氏」は現在では次の「通りである。

「所領」と成ったとして「頼政」に頼まれて「伊勢と信濃の青木氏」が「伊豆」に入った。
当初の大義は「所領の守護」であって入ったが、現実には少し「本来の所領」では無かった。

「頼政の所領」の「名目」の前は「藤原一族の守護代」が4~5年毎に入れ替わって務めていた国であった。
「清盛」に「正三位」に推薦された事から、その位に相応しく「名目上の所領」を、急遽、「藤原氏の守護代」で治めていた国を与えられたものである。

そこに「伊勢と信濃」は「守備を名目として入った事」に成る。
ところが「名目守護であった事」から「伊勢と信濃の青木氏」は「商い」で”「融合して住み着いた」”と云う経緯であった。

(注釈 この時代は伊勢と信濃の連携で「宋貿易」も営んでいた。この「商いの拠点」の一つとして生きた。伊豆の地形上、湾が良く商いに向いていた。)

その結果として、「伊豆」には次の様な「青木氏の分布」が出来た。
この定住地は「商い」を前提とした定住地と成った。


イ地域
静岡県三島市青木 
静岡県富士宮市青木

以上の「二つの青木村落地」から「南部域(下記)」までに架けて存在したのであった。

そして、そこには記録から観てみると上記の「青木氏の条件」が存在する。
第二の「菩提寺の来迎寺館」は「沼津市」に存在していた。(現存する)

ロ地域
静岡県沼津市内浦青木 (来迎寺・分寺存在)

第一の「菩提寺の本寺A(清光寺から後に清光院)」は「賀茂郡の湾際」に存在していた。
(一度消失し室町期中期に清光院として再建した。)

ハ地域
静岡県賀茂郡東伊豆青木

その後、この「伊豆青木氏」は子孫を拡大し、次の通り駿河湾沿いに「東海道の西域」に定住地を広げている。

ニ地域
静岡県藤枝市青木
静岡県静岡市駿河区青木
静岡県藤枝市東町青木

以上の「三つの青木の村落地」は何れも「陸路の東海道の要衝地」である。

ホ地域
静岡県三島市青木 
静岡県富士宮市青木

以上の「二つの青木の村落地」は何れも北部域の「陸路の東海道の要衝地」である。

ヘ地域
静岡県伊豆市土肥
静岡県伊豆市八木沢

以上の「二つの青木の村落地」は何れも東部域の「水路の湾岸要衝地」である。

ト地域
静岡県賀茂郡河津
静岡県賀茂郡東伊豆(菩提寺・本寺・稲取湾)

以上の「二つの青木の村落地」は何れも「伊豆中央部域東の地」である。

チ地域
静岡県下田市青木
静岡県下田市吉佐美青木
静岡県南伊豆町青木

以上の「三つの青木の村落地」は何れも南部域の「湾岸水路の中継要衝地」である。

唯、「古書」では「南部域の三村落・下記 リ地域」にも「青木村」があった事が記されていて、その痕跡は確認できている。

(注釈 そもそも、何故この様な分布域に成ったかと云えばそれには次の様な理由があった。
そもそも「伊豆」は山間部を殆どを占める為に過疎化か最近の市町村合併で消えているのでは無いかと思われる。
筆者の若い時の訪問調査では、この「南部域の二村落」に限らず「北部域の六村域」や「中部域の四村域」や「東部域の二村落」の全てに「墓所や祠」や「館痕跡」等が「聞き取り」でも確認出来ていて、取り分け、判るのは全てに共通して「墓所の笹竜胆の家紋」で、「墓所全体」が「笹竜胆紋の青木氏」の墓所であった。
この「集落の大きさ」とその「村落の在り様・一族性」が「伊勢と信濃」を遥かに超えていて、「伊豆の国全体」が「青木氏の分布域」に成っている。
筆者の印象では、“笹竜胆紋の青木氏”が伊豆全体に存在したと云う印象であった。
「土地名」は勿論の事、「店名、宿名、会社名・・・」等、当たりを見渡せば「…青木」であった。
「伊勢」ではここまではないし、徹底していた。
守護神の「神明社」までもが、“「伊勢神明社の名」”が着けられている。
如何に結合性の高い伊勢と信濃の融合族であった事がこの事で判る。)

さて、そこで「伊豆」の「菩提寺の本寺A・清光院」も含めて何れも「商い」が出来る「沿岸の港町」に集中している。
此の湾港は「相模の秀郷流青木氏の拠点」と、三河の「額田青木氏の蒲郡青木氏」と「伊川津青木氏の吉田青木氏」のほぼ中間点に位置している。(両者の血縁族も存在か、商いで定着か)
「墓所」や「家」や「祭」や「祠」等には何れも「神明社と笹竜胆と白旗」を象徴としているのが確認できる。

然し、「伊豆」の「上記の地域・イ~リ」には「頼政の象徴」を示す「八幡神社(神道)」と「八幡菩薩(仏道)」と「官位と位階(三位)」を示すものは何もない。
「伊豆」の全ての「八幡」は、鎌倉期以降のもので、且つ、殆どは「村社格」で格式低いのである。つまり「神明社」の様な「官弊社」は全くない。

要するに、「青木氏」が運営する「官弊社」の「神明社(賜姓五役)」では無く、況してや、「頼政」が経営する「源氏運営の八幡社」でもないのである。
青木氏以外に存在を示す最大の要素は無いと云う事である。

(注釈 そもそも「神社」には前段でも論じたが「社格」と云うものがあって、これは「延喜式目」で決められていて「三社格」に分けられている。この事を知って置くと研究は進む。
この「社格式」を分ければ、「官弊社・国」は次の三社類と成る。
官幣大社>国幣大社>官幣中社」
以上と成る。
一段下の「社格式」の「国幣社・地方」は更に観つつに分けられ次の様に成る。
国幣中社>官幣小社>国幣小社に成る。
最後は「無資格幣社」と成る。
そこで、「村格社」は「鎮守杜社(民間社)」等であり、殆どは「無資格幣社」に近く、その運営の「神幣料」は「民間の供進」に基づくものである。)

これで「伊豆」が「頼政の所領地」とされているが、現実には矢張り「守護代での遙任」であった事が判る。
つまり、当時よく使われた「名目守護」であった事が判る。

そこで、この「伊豆」に「国友」が「信濃青木氏」としても1178年頃に「潜り込んだと云う事」である。
この「所領地」であって「所領地」では無い「伊豆」に“「青木国友を入れる事」”は大いに「頼政の望む所」で「隠す事が出来る場所」であったと考えられる。

さて、一方そうすると伊勢の「幼い京綱」を「青木京綱」として「伊勢福家」に入れたが、問題はこの「母親の後家」の始末と成ろう。
「伊勢」にその「存在の形跡」が何処にも無いという事は、残る「最高の策」は「国友」の様に「伊豆に隠す事」であろう。
上記の通り「伊豆全体」が最早、「青木氏の村」である。

「経済的な問題」や「護衛の問題」も「住み方」も何の問題もない。
そうなると「後家」である以上は「菩提寺の二社に入る事」か「神明社に入る事」であろう。

そうすると、「隠す」と成ると伊豆の何処かの「神明社か清光院」と云う事に成る。
「神明社」は「伊豆」には現在は「四社」あるが、「伊豆の青木氏」の分布状況から次の様に成る。

1 静岡県伊豆市梅木   神明社 総社格
2 静岡県静岡市駿河区  伊勢神明社 分社格
3 静岡県静岡市清水区  神明社    分社格
4 静岡県富士市       神明社    分社格

「伊豆青木氏」が「イ地域」から「リ地域」の「9地域」に分布し住み分けていたとすると、「官弊社」の「神明社」、「賜姓五役・実質は「青木氏の財源で運営」は、この「四つ」に限らず少なくとも「9地域毎」に存在していた可能性があったと考えられる。

「伊豆」には「伊勢信濃」と共に「陸路と水路」で連携して「商い」を大々的に行い続けた事から江戸期直前まで荒廃する様な事は無かった筈である。
但し、調査しても「融合族」であるので「伊勢信濃の区分け」は出来ない状態であった。
筆者は「来迎寺等の分寺」と「本寺の菩提寺」もこれに沿っていたと考えていのである。
「祠の痕跡」等が確認できるが何故に亡くなったかは良く判らない。
恐らくは、主に江戸期の「顕教令」と「神明社の引き渡し」で荒廃したと考えられる。

そうすると、「引き渡し」と「顕教」で「伊勢以上の事(表と裏の事)」が伊豆にもあった筈である。
答えは何れも減少しているので資料の公開は無い。
「神明社や来迎寺(菩提寺)との資料」は室町期後期以降しか遺されていない。

この様な良好な環境を見逃す事は無い。
寧ろ、「伊勢以上」であったであろう。
「後家」を周囲の目に付かずに、且つ、早く運ぶには「水路」で運びここに匿ったと成る。
そうすると、「静岡県伊豆市梅木・中央部域」の「神明社」か、遺された「稲取湾」の近くの「賀茂郡東伊豆の本寺」という事に成る。
安全を期するとすれば「稲取湾」から「賀茂郡東伊豆の本寺」から「静岡県伊豆市梅木・中央部域」の「神明社」に運ぶとする手がある。

資料が無いので判らないが、この「本寺」が室町期中期に「寺」から「院」に変更している。
この「意味」は前段でも説明したが、その「格式」は同じとしてもその寺の持つ「特徴範囲を限定した事」を意味する。
取り分け、「院」は「天皇家の様な高位格」に繋がる「ある種の特徴」を前面に押し出す時に使う「号」である。
「天皇」が譲位して門跡僧に成るとその「寺格式」は「門跡の院」と成る。
この「院の格式」は「特別の者」に与えられる格式の呼称である。通常は「院格」と云う。
この「元寺」であった「清光寺」が室町期に「清光院」と成る事はある意味で限定して「寺の格式」が挙げられた事を意味する。

そうすると、この「伊豆」のこの「本寺・清光院」では室町期にこの「伊勢の総宗家」の「京綱の母」の「後家の比丘尼僧」が住んでいた事を以て「院」に変更したとも執れる。
院に変更する事は単に変更したのでは何かがあっての事と成り得る。

「イ地域」から「リ地域」の「9カ所」に「神明社が四社」で、且つ、「東部の本寺と北部の分寺」が二つとすると、「融合族」である以上は尚更に「伊豆族全体」が、元来の「神明社の神道」を貫いていた事も充分に考えられる。

この説を証明するには「墓所」には「寺か院」が在る筈である。
筆者の「イ地域からリ地域」の当地の調査から「笹竜胆紋の青木氏の墓所群」は多く確認できるが、
「寺院」は確認できなかった。
つまり、その意味する処は伊豆全体の青木氏族は「原理主義」の「神明社神道」であった事に成り得る。

そこでこの「神明社の神道」に付いて「神道の墓所」には仏教より前に「ある習慣」が古来よりあった。
それを観る事で「神道」であった事が判るのだ。

それを先ず解説して置くとこの「神道の事」が解明できる。

仏教の「墓所」に対しては「奥津城(おくつき)」
仏教の「戒名」に対しては「諡号(おくりな)」
仏教の「位牌」に対しては「霊璽(れいじ)」

以上と成る。

「神明社の神道」は「仏教の前」からの「習慣仕来り」であった。

この刻まれる「諡号(おくりな)」は次の通りである。

大人の場合は、「・・・・大人・おきな」(男性)、「・・・・刀自・とじ」(女性)
子供の場合は、「‥‥彦命」(男)」、「・・・・比売命」(女)

この「諡号」では年齢に依って異なる。

男で幼児では「稚郎子(いらつこ)」 女では「稚郎女(いらつめ)」
男で少年では「郎子(いらつこ)」 女では「郎女(いらつめ)」
男で青年では「彦(ひこ)」 女では「比売(ひい)」
男で大人では「大人(うし)」 女では「刀自(とじ)」
男で老人では「翁(おきな)」 女では「媼(おうな)」

これ等は伝統の前段でも論じたが場合にはよく使っていた。
この事を知っていなければ現地調査では役に立たない。

「二つの青木氏族(五家五流青木氏と秀郷流青木氏)」にはそもそも「神明社と春日社」を「守護神」としているので「神道」が多く「青木氏の歴史観」にはこの知識が是非必要である。

前段でも論じたが、「皇祖神の神木の神紋」である「柏紋の使用」を許されたと云う「最高格式の神明社」の「神職青木氏・神道」の「氏族」である。

「神明社」だけではなく「浄土密教」の「清光寺(五家五流青木氏)と西光寺(秀郷流青木氏)と来迎寺」の「柏紋の使用」も許された最高格式の「二つの氏族」である。

結論は、現地調査では、紛れもなく「神道」であった。
故に、「伊豆」では「密教系の菩提寺」はこの「二社・清光院と来迎寺」しかないのである。

「神明社」は「伊豆」では、1の「一社」しかないのである。(江戸期には荒廃している)
子孫拡大に依って東海道沿の「2、3、4の神明社」がこれを物語っている。
「2の伊勢神明社」はそれの証拠である。

さて、「伊豆に入った時期」である。
「伊豆」に「融合族」を形成したのは「頼政(1180年没)の所以である事」からすると、「従三位昇進期(正三位)」に成った事(1174年頃)で上記で論じた所領(形式上)を持てた事からである。
それまでの「遙任の守護代」の“「伊豆」を所領とした”(1159年)とあるので、この時の直前に「伊勢と信濃」は「伊豆」に入ったと考えられる。

そうすると、「守護代」とはそもそも3年から5年程度を「一期」として、一期ごとに一族の者に代わって9~15年の「三期」務めるものと成っている。
そして「5年毎」に一度都に戻る制度である。
「頼政」の「伊豆国」の「摂津源氏族の初代の守護代」は「1159年」からで、その後に一時「仲綱」に引き継がれた。

少なくとも、その少し前は頼政は「従五位」であって、「1158年頃・平家守護」のこの時には未だ入っていない。
「1159年」に「従三位・正三位」の「伊豆の守護代」に成った事に成っているので、「伊勢と信濃」の「青木氏族」はその時に「伊豆」に入った事に成る。
そこから、そうすると「京綱の母の後家」は「1178年頃・仲綱遙任守護期」には、既に「伊豆稲取の清光院」に入っていた事に成る。

伊豆の青木氏が「神明社の神道」であるとすると、「東伊豆の稲取」の「清光寺(清光寺-清光院)」に一度は入り、其の後に「神明社の神道」の上記の「静岡県伊豆市(梅木)」にある「神明社 総社」の「1の神明社」に入った事に成ろう。(境内と跡地ありね現在は「廃社跡」である)

ここが「現地調査」で分かった事として、この付近が過去は「伊豆の青木氏の勢力中心地」であったからだ。

(注釈 「神明社の設置条件」は「皇祖神の子神」の「神の社」なので「杜」として中心の南の山間部際に存在する事に成る。)

「伊豆の青木論」を更に展開する。

室町期に「伊豆」の「菩提寺清光寺」から「清光院」に変更した理由は、周囲が「八幡菩薩」と「八幡神社」を兼ねる「低格の村格社(14)」が多く「伊豆」に創建されて、「青木氏の菩提寺の清光寺」の権威が低下した事に依ると考えられる。
その「根拠」は「伊勢(賜姓五役の青木氏の権威・格式・象徴)」から「京綱の母の後家」が平安期末期に「比丘尼」として入った事を以て「権威・格式・象徴の差の特徴」を前面に押し出したと考えられる。
前段でも論じたが「美濃や信濃」でも全く同じ事が起こっている。
例えば、それは「光仁期」に「伊勢」から「追尊王の飽浪王女」が「美濃清光寺」に入り、その後に「清光院」に変更している。

この例に持つ意味が「伊豆」にもあった。
それは、危険な「下剋上と戦乱」の「室町期中期」に成ってもまだ依然として「伊勢の青木氏」が「仁明天皇期までの出自元」であり、「新撰姓氏禄で示す志紀真人族」で、「賜姓五役の数少ない氏族」であったと云う「認識」が未だ「民衆の記憶」の中に漠然として僅かに遺っていた事を物語るものである。
然し、これが後に「白旗派の原理主義」に対して「世情から攻撃」を受ける結果と成っていた。

これは「村格供進の源氏社」で創建して居た伊豆の中でも、未だ「清光院」にする事でその「権威と格式」を保たれた云う事に成る。
都に近い伊勢や信濃に比べて「伊豆」には最低限タイムラグがあった事に成る。
これは何を意味する事なのであろう。

これは“「伊豆」にも「権威・格式・象徴の青木氏」が存在しているのだ”と「危険な誇示」をしたと云うことであろう。
それは「伊勢や信濃」の様に元からいた族では無く、1159年に突然に入って来た族で、それも「高位族」と云う立場の族である。
その様に受け取った「伊豆」であったからだ。それまでは鎌倉期の源氏族に関わった伊豆であったのに源氏が滅亡すると、其れより「院の号」を誇示できる「格式高い族」が来た事に驚いたのではないか。

その庶民のこの「驚き」が「排斥の様な形」へと向いたと考えられる。
その証拠に「村各社の八幡神社」が「室町期」に成っても実に多いと云う事で証明できる。
判り易く云えば、周囲は「源氏贔屓」で一辺倒であった事に依る。
「村格社」と云う事は、それには大きく「利害関係が働いていた事」を示すものであるからだ。
平安末期1159年に入り、応仁の乱で頼政は平等院の別院で死亡し、この事で1178年には定住根拠が無くなり戸惑った。
然し、鎌倉期の「頼朝保護」を受けて安泰であったが、それも「室町期の1340年頃」までには要所要所に「官幣社の神明社」が建立され、「清光寺・清光院」が建立されて来てた。
「幡万社」と「神明社」、「八幡宮と清光寺」の「攻めぎ合い」が激しく起こったと観られる。

然し、「神明社と清光寺」は勝利を得た。
それは格式が「八幡社と八幡宮」の上に居たからであった。
その証拠に、「八幡社関係」は全て「伊豆の最東部域」に移動集中し、又は、東部域を除いて「神明社域」と成っている。

この様に、「室町期」には「周囲との絆」は「190年後」であっても充分に形成されていたとは思えないのである。

そもそも、古来から”「伊豆族」”と云われる族は「海洋族」で占めていた地域であった。
「伊豆」は古来より「山岳部」が中央部に多く、「平地定住族」では少な無い。
「紀州熊野地区」と同様に地形も類似し、その「先住族」は長い間「海洋族」であった。
その意味で、此処に入った平安中期・800年代からの「国司・守護」は、その時の「都の勢力図」に従っていて,「統治」は難しく独立性の強い海洋族であったと云われている。
その為に守護代は「頼政」まで「約30の低位の官僚族」から成り立っている。

歴史の変異を観ると、「初代期の国司・800年」から「頼政」までの「約350年間」は、平均11年間/国司が務めていた事に成り、この「約30の低位の官僚族」の子孫・現地孫は「頼政」と同様にこの「伊豆」には大きくは遺し得ていない事に成るのだ。

丁度、「伊豆」は「紀州熊野神社の海洋族」と土地の支配年代も全く同じである。
「熊野一帯」は「神官族・海洋族の六氏」から成り立っている。
これから観ると「伊豆」も「現地族」は「六氏程度」と成っている。
都に近い「紀伊半島」と都から遠い「伊豆半島」の差を考えれば現地族が少ない事は当然に考えられる。

「他の伊豆研究」を観ると、「現地族」は「太平洋族」で、その基は「台湾族」であるとしていて、台湾語の古い言語が遺されている地域である。
つまり「伊豆」にはこれと云った土豪が勢力を張っていなかった事が云える。
これは「権威・格式・象徴の青木氏」が存在しているのだ”と「危険な誇示」は周囲に対して可能であった事に成る。
熊野では成り立たなかった。隣の尾鷲で留まつた。
この事は寧ろ、「伊豆」の「伊勢信濃融合族」が「190年間の子孫拡大」で「一大勢力」と成り得ていたのでは無いかと考えられる。

但し、「伊豆」では「源氏の利害」と「海洋族の絆勢力」であった事から、「武力」では無く、「権威と商い」であったと考えられる。
それが「商いと云う手段」と「元皇親族と云う名声」の様なものがあって、「世情から攻撃」は相当遅れていた可能性が高い。

現実に、「イからリ地域」に観られるように「伊豆の上下、左右、中央域」とその前線域を「青木氏の定住地」としているのは何よりの証拠では無いか。
「武力」を持っていないにも拘わらずである。

従って、この様に「危険な誇示」を敢えてすると云う事は、「武力」に依る「危険に冒されない力」が地元にも背後にもあった事に成る。
その一つが「相模の秀郷流青木氏の抑止力」と「伊勢信濃との連携の商い力」が彼等を「後押し」していたという事であろう。
こけが大きい要素であった事は理解できる。

然し、この中でも室町期に建立された「源氏の八幡社寺」は上記した通り「村格式・民間」ではあるが全て東域に入り込んでいる。
それだけにこの時期はまだ「世情」は、源氏が1221年に滅亡したのに”「源氏」と云うもの”に人気があった事を意味している。

そこでこの難しい族の「伊豆海洋族」はこの「頼朝の源氏」に対して鎌倉期前期は従順に従っていたのかである。
この「東部域の村格式の八幡社」はこの「海洋族の末裔・六氏」が寄進供進元とするものでは無いのであり、「一財を持つ者」の営に基づく「村格社」である。
要するに、「利を観た個人経営」である。
それだけに、”八幡は利になるものであった事”を意味し、滅亡後でも世情には「人気があった事」が云えるのだ。

逆に、矢張り、「伊豆」でも「原理主義の青木氏・神明社」は人気が無かった事を意味する。
「世情の人気」は無かったが、「象徴権威の尊敬」は未だ潜んでいた事に成る。

それは源氏族等に無い上記で論じた関係式の「商いの力」に他ならないであろう。
「象徴権威の尊敬」よりは「商いの力の恩恵」が伊豆には及んでいた事に成る。
前段でも何度も論じている様に「紙文化」で室町中期は「巨万の富」を「青木氏族」は獲得しているのである。

(注釈 これで以て「伊豆との連携」を維持していたのである。
ところが実は後にこれを壊されそうになるが。)

これは「伊勢青木氏」が「天皇家」への「影の賜姓五役の献納」が「莫大であった事」の「裏返し」である。
幾ら1221年に完全滅亡した「縛り」も護らなかった「源氏力・八幡社寺」を「伊豆」に誇示建立した処で、最早、何物でも無かった。
「源氏族」では無い民間が「儲け主義」から世情に滅亡したとは云え人気のある「八幡社寺」を建立したのである。
「嵯峨期からの源氏」に「庶民の人気」があったからとしても“「天皇家・朝廷」から「高い格式」が得られるものは何もない。”
だから「認可」も何も得られない「民間の無資格社に近い村格社」なのである。

多少は伊豆でも「商いの青木氏」>「賜姓五役の青木氏」=「権威・格式・象徴の青木氏」の数式論が庶民の中に働いていた可能性は否定できない。
だから思い起こさせるように“「院に変更したという事」”にも成る。


そうすると、この「伊豆の背景」の中で、次に「伊豆の入り口・沼津市内浦」にある「北部域」の“「来迎寺の分寺の館」は何であったのか”という事に結び付く。

その「答え」は、その「氏の館」としての目的から「伊勢氏族の信濃融合族」の「家人館」であった事に成る。

(注釈 来迎寺論は依然少し論じたが、後段でも論じる。)

現地調査では、その証拠と成る「笹竜胆紋を主とする墓所・家人墓」が上記の各地にあった。

「伊豆」も「福家」を始めとして「四家」で構成していた事から、「福家(主家)」は「神道」、「家人」は「来迎寺館」としていた可能性があったが、現地調査でも矢張りこれを現実にしていた。

前段でも論じたが、そもそも、「福家」とは元は「古来密教系浄土宗の氏墓」の「差配頭の名称」であった。
それが後に四家の主家と成って行った。
その主家が「守護神の神明社」と「氏寺」を差配する事から必然的に「氏族全体の差配頭」と成って行ったのである。

それだけに共通する「神仏の概念」で結び付いていた事に成る。
「福家を務める者」は四家の中から選ばれる為に相当に「氏族全体を統制する能力」に長けていた者が成った事が判る。
青木氏の守護神の「神明社」は「社形式」の「神仏同源とする古来の信仰体」であったが故に、私的仏教伝来後もこれを融合させる氏族としての組織形態を執っていた。
これが「福家形式」である。
つまり「福家形式」を中間にして「神仏の同源」を維持した形式である。
これが後に「氏の組織形態」と成ったのである。

この形態は「藤原秀郷流青木氏」を含む「青木氏族」だけである。
もっと云うと、前段で論じた「来迎寺館の形式」」もそれを明確にした「神仏同源の会所」としていた“「組織館」”であったのだ。

つまり、これは「青木氏族」に執ってはその立場から「氏の寺・分寺」であって、「氏の館(平城・家)」であって、「氏の社」であって、「氏の会所」の「四つの意味合い」を持たせた「建築物・城」とした云う事である。
これは周囲から観れば「古来の歴史」を持つ「特異・特殊な形態」であった筈である。
従って、「青木氏の存在する所」には「来迎寺」と云うこれらの「連携した形態」が必ず存在するのである。
伊豆の「来迎寺」もその証である。

そこで、「伊豆の現地調査」ではこの「福家の存在した位置関係」を調査した。
これで「伊豆の青木氏」の「存在の環境」を芋づる的に網羅できる事に成る。

これを検証して観た。
その結果、次の様に成った。
「福家」は北部域の「静岡県沼津市内浦青木(来迎寺館・分寺・内浦湾近郊)」から「静岡県伊豆市(梅木)」にある「神明社 総社」の「西よりの位置」にあった事が確認できた。

「沼津市内浦の来迎寺」より東南の「梅木の神明社」までは「約11k・2里の位置」にある。
此処から「稲取の清光院」までは「約20k・5里の位置」にある。
この位置から「福家の位置・湯ケ島」までは北西に「約20k・5里の位置」にあった。
この「福家の位置・湯ケ島」より「沼津市内浦の来迎寺」までは「約11k・2里の位置」にある。

丁度、この4点を線で結ぶと、「西北-東南」に長く「菱形の形」をしていて「便利な位置」にある。
約2里半から5里である。充分な「1日の生活圏」の中にあった事が判るし、計算されている。
「道路」は「静岡県沼津市内浦青木(来迎寺館・分寺・内浦湾近郊・170m)」まで通っていて地理的には「最高の位置」にあった。
伊豆観光名所の「浄蓮の滝の近く」であった。

「福家の館・湯ケ島」は、平安期には「約1万坪以上の土地」でこの隣に「元神明社(鳥居の形式)」と観られる「杜と祠社と鳥居と石垣」の「址」がある。

この東の後ろの「杜(約2万7千坪程度」(聖域)も含めて「域全体(約4万坪)」が「福家の館・湯ヶ島」であったと考えられる。
「聖域」がある事が神明社が在って、且つ、「福家存在地」の“「構え」”の一つである。

この「福家の館の湯ヶ島周辺」には「八幡社(半径10k圏内)」は全く無く、逆に「元神明社」と観られる「無名の神社(山を祭祀する神社)」が何と「六つ」も周囲を円状で「半径5k圏」で囲んでいる。

「山を祭祀する社」は、古来より“「山神」”と称して「神明社の存在」を証するものであり、且つ、この「六つの山神」が囲む範囲を「聖域とする証」でもあるのだ。
その様に陰陽で六つの方向の位置に存在させるものと決められていた。
従って、「神明社の聖域」が在る所には「山神社」は必ず存在する。
ところが源氏族の拡大で平安末期からは「伊勢と信濃」に「山神社の存在むが減少しているのだ。

(注釈 然し、「美濃」にもその「形式の址」が確認できるが現在は聖域の痕跡は無い。
「近江」にも「青木氏」の存在した「二つの地域」には夫々に「二つの神明社・祠社」が存在する。
山は約750k平方メートルの面積を有していて、「山神社」は一つである。
現在では「聖域の形跡」は見られないが六方向にあった事は「神明社」とその「面積」とその「位置」から確かであろう。
「甲斐」は信濃国境の北部域・北杜市に「五つの神明社」が集中して存在し、「一社の山神社」の社のみである。
これは実は「甲斐の聖域」は「信濃論の処」でも詳細に論じるが「信濃の大聖域の末端」でもあるのだ。
この「北部域の北杜市域」は古来、元々「甲斐青木氏の定住地」では無かったので判らない。
ここは信濃域の南部末端域であった。)

そこでこの事等を念頭に「伊豆」の「村格社、或いは無資格社」の「八幡神社」は上記した様に「北東部」に集中している。
この事は「室町期中期の混乱期」に成っても依然として「伊豆」には「伊豆青木氏」が「商業的な勢力」を保持していて、前段でも論じたが、どんな勢力も入り込めなかった事を示している。

この伊豆の「無名の神社(山を祭祀する神社)」の示す処はここは“「聖域」”であった事を示しているのだが。
更に、「福家の館の位置」を「拠点(0番地)」に「現在の番地」が周りに広がつているのだ。
明らかにここが「伊豆青木族の統治」の中心地の「福家の館跡」であった事を証明している。

(注釈 当然に伊豆は上記で論じた様に「武力的では無かった事」である。
「武力」で抑えるのでは無くて、その出来る方法は「伊勢」で証明している。
つまり、「商いの自由概念」+「氏の原理主義の概念」=「共生共存共栄の概念」 である。
この「青木氏族」に執って「重要な関係式」が「伊勢と信濃」のこの「矛盾を解ける鍵」であったのだから当然に、「融合一族末裔」の「伊豆」もこの関係式を維持していた事に成る。
「武力」で「伊豆の9カ所の土地」を獲得したのでは無く、「経済力」、即ち、「地権」で時の幕府から獲得した事に成る。)

要するに「商いの地・地権」であり、「家人の館(青木氏の情報館)」である「来迎寺館・分寺・内浦湾近郊・170m」の境内は、南東に54mで、北東に41mの「長方形の敷地」にあり、後ろを「広大な社領の杜」が控えている。

さて、そこで問題に成るのは次の「二つの所在地」である。

「内浦湾 170m東の来迎寺館の所在地」
「稲取湾 166mの西の清光寺院の所在地」

この「二つの湾」に近い「二つの最高の位置」から観ても、“船で伊勢と繋がる「商い」”が成されていた事に成り、「福家の差配」は「伊豆の湯ケ島」から行われていた事に成る。

(注釈 参考 「修禅寺(頼朝の子の二代将軍が北条氏に依って幽閉誅殺された寺)」は、「静岡県伊豆市(梅木)」にある「神明社 総社」よりの「南西の位置」にあり、「R12に沿い7k」で、「R18 南西方向の1.5kの位置」にあり近隣である。
「神明社」からも近いし「福家の館」からも北西に直線で11k 路で17kであり「1日の範囲」にあり近い。
無視できる範囲では無いので「青木氏との関係」が無かったのか気に成る所である。
記録は無いが、「国友の存在した位置」が判らないので議論が発展しない。
唯、筆者は「国友」は「来迎寺館付近」に住んでいたと想像している。
何時でも船で移動させて隠す事が出来るし、「商い」をさせて移動させて晒さない様に出来る。
その意味でも「頼朝の子頼家」とは関係を持たない方が「摂津源氏であった事」から「鎌倉幕府との関係・北条氏」も含めて都合は良い筈であった。

「京綱」の様に「福家に入る事や四家」に入れる事は、最早、年齢的にも無理であり、「青木氏族」はそんな簡単な組織体では無く、簡単に「人」を「福家に入る事や四家」に「引気入れる事」は出来ない筈であった。
恐らくは「商い」を学び「船や陸路」で頻繁に移動する身元を隠した「営業マン(家人)」と成ったと考えられる。
「伊豆」に入ったとする「二つの記録」があるが、“その後の事が判らないという事“は「信濃青木氏・伊豆青木氏」に成りきっていたと云う事では無いか。)

伊豆の「福家の館」は「浄蓮の滝の東側」の「約390mの位置域」にある。
この「福家の館」から「修禅寺」まで通路を経由して「16.5k・4里の南西の位置」にある。

「清和源氏の分家」の「河内源氏の鎌倉幕府」と「伊豆青木氏」との関係である。
「本家の摂津源氏」の「妾子の国友」が「信濃青木氏」と成って上記の経緯で「伊豆」に入った。
これが「1178年頃」の事であった。
「頼朝の子頼家の没」は1204年であるとすると、「26年後の事」に成る。
「国友」が「伊豆福家」に成ったかは記録が無いので判らない。
唯、「青木氏の仕来り掟」からは「女系制度と四家制度等」を敷いていた事から無かったと考えられる。
「頼朝の子頼家」の幽閉没は1年間である。
「1203年修禅寺入り」であるので、「坂東八平氏との関係」は「福家の館」からの極力接触は避けたと考えられる。

(注釈 そこで「各地の青木氏」が存在する「現地調査」では、「事前調査」に伴って知っていなければ成らない「青木氏の歴史観」がある。
これで調べて行けば紐解けて行くのであり、また「資料や記録」では判り得ない「本当の意味の調査」は出来ないのである。
それは「時代の変異」が大きく変えてしまっているからだ。
それを基に歴史観を戻す事に意味がある。
上記の様な確率の高いと考えられる推理も成り立つ。
そもそも、この「頼政」の後に「仲綱(長男)」が「伊豆守護代」を引き継ぎ、「1180年」の直前まで「摂津源氏族(「頼兼(次男)」までが「遙任」で務めている。
従って、「信濃青木国友」も入り易く成り、「同時期(「1179年頃前」)」には既に入っていなければならない事に成る。この前後は無理であろう。
この様に現地を観て確率の高い推論が出て来て資料が無いか調べる。)

(注釈 実質、記録では「伊豆の守護」は「鎌倉の河内源氏(頼朝系)」がその後の「1185年直前」まで勤めている。その後は一般の守護に成っている。)

唯、これには一つ疑問があった。
確かに、「伊豆」は観ても明らかに「地域全体が地形防御の要衝地」である。
「相模の秀郷流青木氏の背景」はあったがそれが他家で済んだのかである。
「伊勢信濃の様な抑止力」の「シンジケート」が必要では無かったかと云う疑問である。
「商い」をする場合はこれは取り分け必要である。
此処を解決しなければならない「現地調査の疑問点」であった。
これには何かあった筈である。

それは何かである。
それが平安末期から室町期末期までの長期間必要なものであった筈である。
これは行く前からの疑問でもあった。
答えは現地調査の一寸とした事から見つかった。
それは「水軍」である。
その「水軍」は「伊勢水軍(7割株)」を持っているが「伊豆」には常駐は当然に無い。
然し、前段でも論じたが縁戚関係にあった「駿河水軍」が「駿河湾」を拠点としている。
上記している様に、陸は「天然の要害」であるとすると、少なくとも「伊豆半島の入り口を護る事」が戦略上で肝心な事に成る。それは湾湊である。

上記の「9つの地域」に「伊豆青木氏」は分布している。
これは仮に攻められたとしても一族は滅亡しない。
「イ地域の青木氏」が攻められても「内部の青木氏」が攻められていなければ時間稼ぎが出来、「秀郷流青木氏の援護」が背後から来る。
「背後」を攻められれば敵は殆どは全滅するは「戦略の常道」である。
「イ地域からリ地域」まで「要害の地」でありながらそれでも一族を「要所に分布させている事」が「答えの元」であった。
一か所に集中させても良い筈である。

一族を分布させている以上は、それは“「四家」が何処なのか”と云う疑問の調査が必要であった。
それは次の通りであった。

「福家」は「伊豆市湯ヶ島の聖地」
「四家1」は「内浦湾 170m東の来迎寺館の所在地」
「四家2」は「稲取湾 166mの西の清光寺院の所在地」
「四家3」は「静岡県伊豆市(梅木)」にある「神明社 総社」
「四家4」は「静岡県下田市青木の港湾地」

以上であった。

これ等の「発見のポイント」は要するに「青木氏の伝統」で生まれた“「伝統の構え」”である。

「青木氏族」と「神明社」は守護神とは前段でも論じてきたが切っても切れない関係があって、これから生み出される「特徴」、所謂、何事にも他氏と異なる“「構え」”と云うものがあった。
「青木氏の歴史観」から滲み出る「特異な形や現象の事」である。
この“「構え」”で見極める事に在る。

例えば、上記の「福家の所在の確定」である。

「福家の構え」

「所在地」にはある「面積(2万坪程度以上・長方形)」がある事
それが何らかの「囲い(石垣や土塁)」で回りを保護していて「館様式(痕跡の有無)」である事
「場所的」に「移動の良い処」にある事
周囲が「歴史的な風格」がある過去からの「土地柄(奈良期からの歴史性がある)」である事
必ず「背後」に必ず「神明社の聖域」が在る事

「神明社の構え」

その「神明社」には独特の“「神明造り」”の「鳥居や祠、社殿」等のものが存在する事
必ず「古びた石段・砂岩造り」があり、「平地」には「神明造」から無い事
この特徴ある「神明鳥居」は「社領の入り口(仮鳥居)」と「本殿の入り口(本鳥居)」の二つある事。
「祠、或いは本殿(神明造り)」の「南側」には「広大な杜(聖地・神が坐杜)」が位置する事。
この「聖地」を護るために「杜の六方向所」に「山」を護る通称、「山神の社」を配置している事。

現地調査には

この「福家の構え」や「神明社の構え」の「二つの構え」が備わっている地域で確定できる。
時代が変化しているので「風化」していてもこの「二つの構え」は遺されているもので、それを「見抜く力(直観力)・歴史的知識」が必要である。

注釈として、 前段でも論じたが「神明造」は、「三大造」の一つで他に「大社造(出雲)」、「住吉造(住吉)」が古来からある。
奈良期より一切この「三大造」に真似て造る事を禁じられていて明治期まで完全に護られた。
中でも「神明造」は「皇祖神の子神の祖先神」である為に、「時の政権」に厳しく管理されていた。
故に、「神明社」を守護神として管理していた「青木氏族」に執っては上記の様にその痕跡を調査する事で「判明の構え」が執れるのである。
「八幡神社との区別」が完全に現在でも就くのである。

取り分け、「上記の注釈」に従って、“「社格式」”でも異なって来るので如何に搾取してても判別できる。
「伊豆」はその意味で「伊勢の不入不倫の権」で保護されていたものと違って、「自然の要害」と「水運路」で保護されていたのである。

従って、上記の「2~4の四家」の「区域の判別」も「福家の判別」に従うものが大きいのである。
そこには追加として、「福家の構え」と「神明社の構え」に「商いの構え」と「古代密教の構え」の二つを加えれば間違う事は無い。

上記の「伊豆」の「福家と四家」の「信濃や美濃との違い」の「凡その生活環境」が蘇させる事が出来るのである。


> 「青木氏の伝統 54」-「青木氏の歴史観-27」に続く
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